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ヴェリコ・タルノーヴォ Fortress at Veliko Tarnovo(Veliko Tarnovo/BUR)

城郭(要塞) 平山城 東欧の山城 12世紀
 12世紀から14世紀にかけてブルガリアで最も強固な要塞として成長し、ブルガリア帝国の首都としてその政治、経済、文化、宗教の最重要拠点となった。14世紀に東ローマ帝国が弱体化すると、タルノヴォは、そのバルカン半島およびスラヴ系正教会圏に対する重要性から、第3のローマを称した。
 町は二百年にわたって繁栄と発展を続けた。町の政治的・精神的な発展は1393年、オスマン帝国による3箇月にわたる包囲の後の陥落によって停止し、ブルガリア帝国全土は侵入したオスマン帝国の征服者によって荒廃した。中世のブルガリアで、町や村、教会や修道院の多くが焼かれ、灰と化した。ヴェリコ・タルノヴォは中世にはブルガリア語でトゥルノヴグラト(Tarnovgrad)と呼ばれ、1598年(第一次タルノヴォ蜂起)と1686年(第二次タルノヴォ蜂起)の2回の対オスマン帝国武装蜂起の場となったが、いずれもブルガリア解放を実現することはできなかった。
 トゥルノヴグラトはその後も19世紀までオスマン帝国支配下に置かれ続けた。19世紀にはブルガリア民族復興運動によって民族意識が喚起され、強力な抵抗運動へとつながっていった。ブルガリアの独立国家と独立教会たるブルガリア正教会を復活させる考えは、1875年と1876年の蜂起へと結びついた。1876年4月23日の4月蜂起はオスマン帝国によるブルガリア支配の終焉の始まりであった。これは後の露土戦争へとつながっていった。
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