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★マーストリヒト Maastricht(Limburg/NER)

城郭都市(自由都市) 平城 自由都市 1229
 1204年にブラバント公国が領有権を奪還するとこの町に都市権を与、1229年には最初の城壁が完成し、14世紀には二重の城壁を持つ強固な要塞都市となった。1579年にはスペイン王の命を受けたアレッサンドロ・ファルネーゼによる攻略により、マーストリヒトを含む南部10州はゲント講和条約に基づきスペインの統治を受けることになる。その後、フランスと結んだオラニエ公が1632年に街を奪還したがマーストリヒトはネーデルラント連邦共和国の一部となることは無かった。その後のブラバント公国とリエージュ司教領の二重支配は、1794年のバタヴィア革命によるフランスの傀儡政府による支配を受けるようになるまで続いた。1830年にベルギー独立革命が起こり、周辺の都市がベルギー側に帰属するようになってもマーストリヒトはオランダ側に残ることを選択した。1831年に列強の合意によりリンブルフ州の東部がオランダに、残り全てがベルギーに帰属することが決定されたが一部でこの分割に反対する者が居たため最終的に1839年のロンドン条約にて帰属が確定した。
 地獄の門(Helpoort)1229年に構築されたかつての城門。その後、火薬庫や芸術家のアトリエとして使われていたこともあった。現在でも城壁を貫通する門として機能している。オランダに現存する最も古い城門でもある。
 マーストリヒトはオランダで最も古い町であるといわれているが、オランダで最初にローマ帝国から都市権を得たのはナイメーヘンである(西暦98年)。マーストリヒトはその500年前よりケルト人が造った町が存在していたが、ローマ帝国から都市権を得たことは無かった。マース川沿いの河港都市。ドイツとベルギーの国境線にも近く、EU(ヨーロッパ連合)に関する条約であるマーストリヒト条約はこの基礎自治体で締結された。名前の由来は、ラテン語のマース川の渡河地点(Trajectum ad Mosam)であると言われている。
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