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クルージュ・ナポカ Banffy Castle(Cluj-Napoca/RUM)

平城 15世紀
 クルージュ=ナポカへの人間の居住は先史時代にさかのぼる。2世紀初めローマ帝国がダキアを征服すると、トラヤヌス帝はローマ軍の宿営地をおき、ナポカ(Napoca)と命名した。ナポカには軍人以外も多く定住するようになり、ハドリアヌス帝のとき、自由都市(municipium)に格上げされ、ムニキピウム・アエリウム・ハドリアヌム・ナポカと命名された。のちにおそらくマルクス・アウレリウス帝のとき、植民市に格上げされた。ポロリッセンシス属州の首都とされ、行政の中心となった。しかし民族大移動の時期に征服され、荒廃した。
 1316年、クルージュは都市としての特許をカーロイ1世から得た。街は急速に発展し、ジギスムント(ジグモンド)王のとき、聖ミカエル大聖堂が建てられた。15世紀にザクセン人とハンガリー人の住民の数が等しくなると、ハンガリー王マーチャーシュ(1440年クルージュ生まれ)は、首席判事がザクセン人とハンガリー人から交互に出されるよう命令を出した。
 
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