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オルレアン (Orleans/FRA)

城郭都市(城塞) 平城 ロワール川 1428
 ケナブム(Cenabum)はガリアの要塞で、ドルイド僧が毎年集会を開くカルヌト族の主要な町の一つであった。紀元前52年、ユリウス・カエサルによって町は征服・破壊され、ローマ帝国の元で再建された。ローマ皇帝アウレリアヌスはこの町を再建し、アウレリアーヌムすなわちアウレリアヌスの都市(スィテ・ドーレリャンcite d'Aurelien)と名付けた。これが変化してオルレアンとなった。
 メロヴィング朝時代、市はクロヴィス1世の王国分割に伴って生まれたオルレアン王国の首都であった。カペー朝の元では王家の占有財産としてオルレアン伯、次いでオルレアン公領の首都となった。ヴァロワ家の分枝であるヴァロワ=オルレアン家からはルイ12世、ついでフランソワ1世がフランス王位を継承している。ランスで聖別を行うのが常であったフランス君主が、オルレアンで聖別を行った希な例がある。1108年、ルイ6世はオルレアン大聖堂でサンス大司教ダンベールによって聖別を受けた。
 1428年9月のオルレアン。オルレアン包囲戦の最中であるオルレアンは常にロワール流域の戦略的要所であった。川が最も北側に曲がる地点で、パリに近接していたからである。ロワール川は危険な川であり、橋はわずかしかなかった。そのひとつがあったため、オルレアンはパリ、ルーアンとともに中世フランスでもっとも豊かな都市となった。 南岸にあるトゥーレル要塞は、敵が橋に近づくのを防いでいた。この場所は、1429年5月8日にオルレアン包囲戦の際、王家の将軍ジャン・ド・デュノワとフロラン・イリエールの助けを得てジャンヌ・ダルクがオルレアンに入り、この町を解放した場所である。オルレアン市民はジャンヌ・ダルクを『オルレアンの乙女』("la pucelle d'Orleans")と呼び、市内に中程度の家を提供した。市民はジャンヌが捕らえられた時には身代金を寄付している(この身代金はフランス王シャルル7世が没収したため、ジャンヌは釈放されなかった)。オルレアン市民は今日までジャンヌ・ダルクに対し誠意と謝意を持ち続けている。
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