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オラディア (Oradea/RUM)

城郭(要塞) 平城 1598
 オラデアが最初にラテン語文献に現れるのは1113年であり、このときはヴァラディヌム (Varadinum) という名で言及された。現在は廃墟として残っているオラデア城砦は、1241年にモンゴル帝国の来襲に備えるため修復と強化が始まったという記事が最古の記録である。
 ハンガリー王カーロイ1世とその息子ラヨシュ1世の時代には、オラデアはカトリックの司教の所在地となった。 16世紀、トランシルヴァニアはオスマン帝国宗主下の自治権を持つ半独立国家トランシルヴァニア公国となり、その範囲の中にはオラデアのあるビホル地方も含まれた。1598年に要塞はオスマン帝国軍によって包囲され、1660年、オスマンはオラデアを占拠し、ハプスブルク帝国軍が侵攻して来る1692年9月まで支配下に置いた。1703年には、ラーコーツィ・フェレンツ2世に率いられた反ハプスブルク運動が起こり、オラデア要塞の周囲の市場も、砦の中の帝国の駐屯部隊とラーコーツィの反乱軍との戦場になった。その時の帝国の駐屯部隊の支援においてのオラデア市民たちの功績は、1712年11月27日に、神聖ローマ皇帝カール6世によって公式に認められている。 またそのころ、オラデア市民たちの経済的生活においては、手工業と商業が盛んになった事が特徴として挙げられる。
 
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