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ナミュール城塞 (Namur/BER)

城郭(城塞) 平山城 実践的な砦 1692
 町はアルデンヌを横切る東西、南北の交易ルートの中継地として、ケルト時代から人が定住していた。古代ローマ人も、ユリウス・カエサルが地元のアドゥアトゥキ族を打ち負かした後に定住した。ナミュールは中世初期に、2本の川が交わる場所の、町を見下ろす岩の懸崖上にメロヴィング朝の城が築かれてから有名になった。10世紀に、町単体として県となった。ナミュール伯がムーズ川北岸にのみ町を建て、南岸はリエージュ枢機卿の所領であったために町はいくぶん不揃いに発展した。そしてジャンブの町もさらにゆっくりと発展した。1262年、ナミュールはフランドル伯の手に落ち、1421年にブルゴーニュ公フィリップ3世 によって買い上げられた。
 1640年代に入ってナミュールはスペイン領ネーデルラントの一部となり、城塞が強化された。フランス王ルイ14世は1692年に侵入し町を攻略、フランスへ併合した。彼の軍事技術者ヴォーバンが要塞を再建した。フランス支配は短期で終わり、それからわずか3年後の1695年に大同盟戦争の最中にオラニエ公ヴィレム(のちのイングランド王ウィリアム3世)によって奪われた。1715年のユトレヒト条約以前の、1709年の和平でオランダはナミュールの要塞権を獲得した。しかし町を支配したのはオーストリアのハプスブルク家で、要塞はオランダ管理下にあった。彼らの共同保有の元再び再建がされた。
 第一次世界大戦中の1914年、フランスへ至るルートとしてムーズ谷を通過できるナミュールはベルギーへ侵攻したドイツ軍の標的であった。事実上難攻不落であるといわれていたにもかかわらず、わずか3日で要塞は陥落し町はドイツ軍に占領された。それでも第二次世界大戦中の方よりまだましであった。1940年のアルデンヌの戦い、1944年のバルジの戦いでは前線地帯となった。町はどちらの戦闘でもひどい被害を受けた。1977年まで、ナミュールはベルギー軍落下傘部隊の本拠地であった。
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