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マン (Le Mans/FRA)


 トゥールのグレゴリウスは、フランク族の副王リゴメルが、フランク族領の統合のため遠征したクロヴィス1世によって殺害されたと記載を残している。キリスト教化はフランク王国の時代に行われた。865年、町はヴァイキングの襲撃を受けた。
 16世紀のル・マンメーヌ第一の都市として、ル・マンは11世紀にはアンジュー伯とノルマンディー公の抗争の舞台となった。ノルマンディー公がメーヌを手中に収めると、ギヨーム公(のちのイングランド王ウィリアム1世)は、イングランドへ侵攻し成功した。しかし、1069年に市民の反乱が起こりノルマン人が追放され、エステ辺境伯アルベルト・アッツォ2世・デステの子ユーグが、メーヌ伯ユーグ5世を自称した。事実上のメーヌ伯位を持つのはイングランド王であったが、長年敵対してきたアンジュー伯家がイングランド王家と縁戚関係を結んだことで、フールク・ダンジューがメーヌ伯となった。ヘンリー2世とその王子たちとの内戦時代に、ル・マンは攻撃され火を放たれた。
 
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