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特集−5:風のたより(報告・出来事・お知らせ・案内等)

特集−4:いまこんなことをしています    特集−6:母校だより(在校生、教職員のページ)
 

 このページはいわゆる社会面です。報告・出来事・お知らせ・案内・コラム等その他の記事を掲載しています。

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2010.08.26 岡林敏眞(32回)  「画柳会」展覧会への御案内
2010.09.05 岩口智賀子(45回)  改名届け
2010.09.06 濱崎洸一(32回)  近況報告
2010.10.05 高新連HP、斉藤  拝読しました。
2010.10.12 藤宗俊一(42回)  土佐、6年ぶり四国大会へ
2011.05.20 藤戸啓朗(46回)  会費はどのように
2011.08.10 中城正堯(30回)  展覧会と講座のご案内
2011.11.03 笹岡峰夫(43回)  「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
2012.04.04 笹岡峰夫(43回)  新作能「無明の井」の公演のお知らせ
2013.04.09 森本浩志(36回)  よろしくお願いします
2014.04.15 笹岡峰夫(43回)  笠井賢一(42回)演出「死者の書」案内
2015.01.09 藤宗俊一(42回)  あけましておめでとうございます
2015.04.16 水田幹久(48回)  地球の裏側(アルゼンチン)で感じたこと
2015.05.21 中城正堯(30回)  身辺整理に専念します
2015.06.27 藤宗俊一(42回)  二つのご案内
2015.08.01 公文敏雄(35回)  今更訊けないこと…母校校歌の三つの謎
2015.08.15 中城正堯(30回)  校歌の謎1への回答
2016.01.15 藤宗俊一(42回)  野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
2016.02.28 中城正堯(30回)  20世紀美術の先端を駆け抜けたアーティスト
2016.03.12 吉川順三(34回)  新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
2016.03.31 濱ア洸一(32回)  岡林敏眞君を偲んで
2016.03.31 堀内稔久(32回)  「憂い」を秘めた顔
2016.04.06 森木光司(32回)  我が友岡林敏眞君を悼んで
2016.09.23 中城正堯(30回)  「公文禎子先生お別れ会」のご報告
2016.10.15 藤宗俊一(42回)  笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去
2016.10.31 笠井賢一(42回)  新作能『鎮魂』公演のご案内
2016.12.03 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1)
2016.12.26 坪井美香(俳優)  『死者の書』公演のご案内
2017.01.04 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2)
2017.02.03 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)
2017.03.03 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4)
2017.04.18 竹本修文(37回)  ヨーロッパ・パーティ事情
2017.04.28 水田幹久(48回)  雑感「地域コミュニティ」
2017.11.18 二宮健(35回)  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1
2018.01.02 二宮健(35回)  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2
2018.01.21 二宮健(35回)  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3
2018.02.25 二宮健(35回)  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4
2018.06.28 藤宗俊一(42回)  寛容の精神溢れる玄さん
2018.06.28 中城正堯(30回)  名編集長:大町“玄ちゃん”(30回)を偲んで
2018.06.28 公文敏雄(35回)  大町玄先輩(30回)のご葬儀
2018.09.12 二宮健(35回)  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その1〜
2018.09.25 二宮健(35回)  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その2〜
2018.10.10 二宮健(35回)  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その3〜
2018.10.25 二宮健(35回)  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その4〜
2018.12.25 冨田八千代(36回)  浮世絵万華鏡1・2拝読しました。
2018.12.25 中城正堯(30回)  石の宝殿への反響---高砂市教育委員会より
2018.12.25 藤宗俊一(42回)  WorldHeritageJourney
2019.01.10 中城正堯(30回)  福を呼ぶ「金のなる木」や「七福神」
2019.02.06 冨田八千代(36回)  「日本の城、ヨーロッパの城」を拝読しました。
2019.02.10 山本嘉博(51回)  1月24日・25日開催第187回市民映画会
2019.03.01 二宮健(35回)  地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その1
2019.03.10 冨田八千代(36回)  <版画万華鏡・4>はすぐに拝読しました。
2019.03.20 二宮健(35回)  地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その2
2019.03.31 冨田八千代(36回)  <版画万華鏡5>ありがとうございました
2019.03.31 二宮健(35回)  地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その3
2019.04.15 二宮健(35回)  地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4
2019.07.02 公文敏雄(35回)   「鬼の霍乱」
2019.07.02 中城正堯(30回)  惜しまれるフレスコ画研究の中断
2019.07.02 山本厚子(作家)  6人組のカラオケ・リーダー
2019.07.02 藤宗俊一(42回)  Ciao Bella(さよなら美人)!
2019.07.02 井上晶博(44回)  松本(旧姓)さんの思い出
2019.07.15 中城正堯(30回)  合田佐和子展 -友人とともに-
2019.11.21 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その1〜
2019.12.09 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その2〜
2019.12.23 公文敏雄(35回)  有難い先輩でした
2019.12.23 中城正堯(30回)  ジャーナリスト魂を貫き新聞協会賞
2019.12.23 久永洋子(34回)  また会う日まで
2019.12.23 河野剛久(34回)  伊豆・大室山の麓での三日間
2019.12.23 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その3〜
2019.12.23 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その3〜
2020.02.03 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その5〜
2020.03.07 中城正堯(30回)  花だより
2020.04.14 中城正堯(30回)  庭のエビネが咲きました
2020.08.14 中城正堯(30回)  土佐藩御船頭の資料を展示
2020.08.27 中城正堯(30回)  「ジョニ黒」ことはじめ
2020.09.06 冨田八千代(36回)  いろいろと、ありがとうございました
2020.09.10 中城正堯(30回)  高知でのコレラに関する歴史
2020.09.24 中城正堯(30回)  「日曜美術館」 画家・田島征三さん
2020.10.08 中城正堯(30回)  ハチ公とボビー、忠犬たちを仲介して
2020.11.21 冨田八千代(36回)  詳しい報告をありがとうございました
2020.11.21 山岡伸一(45回)  「土佐校100年展」
2021.01.15 中城正堯(30回)  コロナ禍乗り越えベストセラーに
2020.11.28 井上晶博(44回)  「向陽新聞」を久し振りに見つけて
2021.01.15 中城正堯(30回)  −親しめる『土佐中高100年の歩み』を創ろう−
2021.01.21 冨田八千代(36回)  『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を読んで
2021.01.22 冨田八千代(36回)  小村彰校長先生に感謝と感銘
2021.03.15 中城正堯(30回)  田島征彦展のお知らせ
2021.04.30 会長 公文敏雄(35回)  浅井伴泰さん(30回)御逝去
2021.05.10 中城正堯(30回)  母校を熱愛した新聞部の“野球記者”
2021.05.10 西内一(30回)  浅井伴泰君を偲んで
2021.05.10 筆山会会長 佐々木泰子(ひろこ 33回)  心から感謝しております
2021.05.10 竹本修文(37回)  三根校長のお墓参り
2021.05.10 藤宗俊一(42回)  本当にお世話になりました
2021.05.15 浅井和子(35回)  長い間のご厚誼、誠にありがとうございました
2021.08.09 中城正堯(30回)  サンペイさん追憶!出会いと土佐の旅
2021.08.09 冨田八千代(36回)  高知で遭遇した浮世絵展
2021.08.18 冨田八千代(36回)  土佐と浮世絵   序曲
2021.09.10 冨田八千代(36回)  次は「ぽんびん」を吹く中城さん
2021.09.10 加賀野井秀一(44回)・中央大学名誉教授  中城正堯さんの「子供の天国」
2021.09.10 中城正堯(30回)  江戸子ども文化論集への反響
2021.09.19 中城正堯(30回)  香料列島モルッカ諸島
2021.09.26 冨田八千代(36回)  「青」は深まり、「青」で深まる
2021.10.15 中城正堯(30回)  ヒマラヤ南麓の愛しき稲作民
2021.10.23 中城正堯(30回)  「ヨーロッパの木造建築」を楽しむ
2021.11.04 中城正堯(30回)  ナポレオン3世皇妃と幕末狩野派
2021.11.26 中城正堯(30回)  巨大な木造“王の家”そびえ立つニアス島
2021.12.15 中城正堯(30回)  ―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か―    
2021.12.25 冨田八千代(36回)  お龍さんが近づいてきました
2022.02.22 中城正堯(30回)  ―写真と挿絵が語りかけるもの―            
2022.04.18 冨田八千代(36回)  きっと、凛としていただろう  お龍さん
2022.05.15 中城正堯(30回)  <同窓生アーティストの近況>
2022.06.27 冨田八千代(36回)  受賞 おめでとうございます
2022.07.05 中城正堯(30回)  「文明開化の子どもたち」展
2022.09.05 中城正堯(30回)  「田島征三アートのぼうけん展」
  「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」
    「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」
2022.09.13 冨田八千代(36回)  恩恵をいただいています。
2022.09.30 中城正堯(30回)  武市功君(30回生)逝去のお知らせ
2022.10.08 竹本修文(37回)  エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報
2022.11.29 冨田八千代(36回)  城址公園・足助城(豊田市)

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
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「画柳会」展覧会への御案内
岡林敏眞(32回) 2010.08.26
向陽プレスクラブ会員の皆さんへ
 土佐高32回生の岡林敏眞です。新聞部のOBです。 
 毎日、猛暑が続きます。9月になってもまだまだ厳しい暑さが続くと予想されているのに、こんなご案内をするのは大変恐縮ですが、私が所属している「画柳会」(がりゅうかい)という絵画同人会の展覧会のご案内をさせていただきます。画柳会は私が小川博工画伯と立ち上げた会でして、もう20年以上続いている会です。毎年、銀座で同人展を開催し、今年も下記要領で開催することになり、私も油彩を7点ばかり出品しています。
 私は、毎日会場にいますので、ご都合がつけばご来場ください。
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改名届け
岩口智賀子(45回) 2010.09.05
 かわいい(?かった)チカちゃんから力ずくのお手紙が届きました。怖いので一字一句変えずに掲載します。下の写真をクリックして下さい。

心優しいチカちゃん
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近況報告
濱崎洸一(32回) 2010.09.06

 32回生濱アです、山岡さんの記事、楽しく読まさせていただきました、懐かしい名前がたくさん出て感慨ひとしおです。
 小生相変わらず日本水泳連盟に関係しており、シーズンは(昔は夏だけ)ほとんど年中大会か゛あり9月9日からは千葉で国体が始まります。
 設立総会には出席できませんでしたが、大町さん!小生元気にしてますから。極力会には出席しますので…。
 本会のますますの発展を祈ります。編集室のみなさんご苦労様です、これからもよろしくお願いします。
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拝読しました。
高新連HP、斉藤 2010.10.05
 「高新連のこと」山岡論文を拝読させてもらいました。第18回では僕は山岡さん達を迎える立場にありました。というのもたまたま僕の学校が本部役員校でしたので、高一だった僕は総会準備のため夏休みのほとんどを費やしました。
 今思えば、とにかく忙しかった。無我夢中で飛び回ったという感慨があります。写真にある「〜総会」という模造紙でかかれた文字もその一つですし、宿舎の部屋割りも仕事の一部でした。文章に「女性達は別」(当たり前ですが)と書かれていましたが、最初に宿舎の良い部屋を女生徒に割り振り、男子はその他大勢という形で大部屋に雑魚寝してもらいました。
 でも大部屋での交流の方が昼間の会議より「楽しかった」「多くを学んだ」という実感があります。全国高等学校新聞連盟は、一九七二.三年頃自然消滅しました。
 あるHPにリンクしてもらう際に「学校での言論の自由は社会の態度の試金石。 高校での新聞部活動が民主主義の基本という、そんな活動の歴史です。」とコメントして頂きましたが、その通りだと思っています。
投稿日:2010/09/19(Sun)掲示板へ
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秋の高校野球:県予選
土佐、6年ぶり四国大会へ
藤宗俊一(42回) 2010.10.12
 去る10月11日、県営春野球場で行われた『秋季高校野球県大会・3位決定戦』で、母校は宿敵・高知商業を延長戦で5対2で降し、23日高松市のレクザムスタジアムで行われる四国大会に駒を進めた。 尚、1位は高知、2位は明徳で、このところ出ては負けていた母校の不甲斐なさに諦めかけていた甲子園出場がもう少しのところまでたどりつきました。フレー!フレー!土佐高!
土佐高校  00200000000003=5   バッテリー:森岡稜、三谷−生田
高知商業  00010001000000=2

●実を言いますと、毎日新聞のホームページから、記事を流用しようとして問い合わせたところ、ナント¥10,5000の使用料が必要だと言われ、仮掲載していた流用記事(ちゃんとクレジットをつけて)をあわてて抹消しました。逆にこちらが宣伝料を要求したいくらいなのに、こんな私的なホームページでも容赦しないのですね。毎日新聞が特殊だという訳ではないのでしょうが、四国大会の応援に行く気が失せました。いい経験をしましたが、世知辛い世の中になりましたね。
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会費はどのように
藤戸啓朗(46回) 2011.05.20

(2011.5.10掲示板へ投稿)
《永森裕子さんよりのお返事》
藤戸様
 はい、私はあの松本裕子です。これで何人目でしょうかねえ、この様に言われるのは、、、。ダンナに二人の奥さんもらったと思えば良いきエイネエ、と言った人もおりましたっけ。(笑)
 藤戸君、切に入会をお待ちしています!是非、高知支部の為に活躍して下さいね。
《事務局より》
 無事、登録が終わり会費も納入されたということです。会員の輪が広がるのは嬉しいことです。
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展覧会と講座のご案内
中城正堯(30回) 2011.08.10

 
 残暑お見舞い申上げます。
 
 今回、城郭浮世絵に関する展覧会と講座を開くことに成りましたので、ご案内申上げます。
 
 右の画像をクリックすると案内状と講座申込書(pdf文書)が出てきます。
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「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
笹岡峰夫(43回) 2011.11.03
前 略
 去る9月26日から、慌ただしく新事務所での業務を開始しました。
 東、南及び西の三面が大きなガラス面になっていて、ブラインドを開けると眩しい程に明るい事務所で、東正面にはスカイツリーがはっきりと見えます。
 24〜25日の引越しに際し、延べ幅270cm(高さ220cm)の書棚が事務所に運び込めなかったなどのハプニングもあって、ダンボール箱があふれていた事務所も、次第に落ち着いた状態になりました。
 そんな中、朝から雨の降り続く大安の10月5日は笹岡の誕生日でした。
 事務所内には、ゴミ箱などを隠す目的も兼ねて、バーカウンターも設置しました。勿論、打合せも出来ますが、カフェにも、バーにもなりそうで、皆様が気軽に立ち寄って下さることを楽しみにしています。
 なお、「けやき法律事務所」名を使用していなかった間に、同名の事務所が都内に出来ているとのことで、「新けやき法律事務所」と改称しましたが、この名称の方が今の心境には相応しいように感じています。 草々  新けやき法律事務所
 〒164−0001東京都中野区中野5−68−1 高山ビル4階
 TEL 03−5318−4161  FAX 03−5318−4162
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新作能「無明の井」の公演のお知らせ
笹岡峰夫(43回) 2012.04.04
1. 事務所前から新井薬師にかけての中野通りの桜が漸く開き始め、深川周辺散策企画も小名木川の桜堤の開花が間に合って盛会が楽しみですね。
 ところで、隅田川と四万十川とが姉妹川であることを誰か知っていますか。東京で開かれる四万十町の郷土会に、吉祥寺在住者が隅田川関係の来賓として出席されていて驚いたことがありますが、「神田川は隅田川の支流」とのことでした。小名木川も隅田川の支流です。行徳の塩を運ぶため江戸初期に掘削され、その後、波の荒い房総沖を避けるため、東北の米等の産物も利根川や小名木川を経由して江戸に運ばれるようになったと言われています。
 伊賀生まれの芭蕉は31歳の時江戸に下り、神田川改修工事の請負人をした後、小名木川河口傍の所詮「芭蕉庵」や門人杉風の別宅で暮らし、46歳の春に門人曽良と共に小名木川近くの仙台堀に浮かぶ舟で「奥の細道」の旅に出たとされています。
 しかし、千住を経て1日で到着可能な最初の宿場粕壁(春日部)までに7日を費やしていることに始まり、杉風や曽良以外にも「門人」には得体の知れない者や「悪党」が多くいる等、「俳聖」のイメージとは程遠い謎が多く、「隠密説」は十分に根拠のあるものだと思います。
2.またまた、笠井賢一君(42回)の演出企画を紹介します。多田富雄の新作能「無明の井」(国立能楽堂、4月21日午後2時30分開演)です。
 少年時代に江藤淳らと同人誌を発行し、晩年脳梗塞に倒れた後も詩や新作能等の創作を続けた高名な免疫学者である多田富雄氏には生前から信頼され、同氏の新作能の演出を手掛けてきた同君にとっても、今回の作者三回忌追悼公演は極めて重要な、言わば渾身の演習であろうと想像します。是非、多くの方に観劇して欲しい。
 申込は同君主宰の「アトリエ花習」(090-9676-3798、03-5988-2810)
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よろしくお願いします
森本浩志(36回) 2013.04.09
 卒業以来、大学、会社(関西電力)は関西でしたが、4年前から東京在住。いずれ関西に帰りますが、こちらでは土佐高関東36会の皆さんにお世話になっています。
 新聞部員としては、熱心でなかったこともあり、あまり関心がありませんでしたが、今回、プレスクラブでお作り頂いた向陽新聞のバックナンバーを読ませて頂き、懐かしく青春時代を思い出している次第。クラブ再設立頂きました皆さんのご努力に敬服しますと共に、感謝いたします。お役に立てることは何もありませんが、よろしくお願いします。
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笠井賢一(42回)演出「死者の書」案内
笹岡峰夫(43回) 2014.04.15
 笠井賢一君の企画に多く出演している「大女優」坪井美香さんから、下記の悲鳴が聞こえてきました。
 何と、あの怪しい折口信夫の奇書「死者の書」に基づく能舞台での企画に出演するばかりか、可哀相に、「昨年十二月から 七転八倒」とのこと。
 ところで、小生は「死者の書」を読破したことがありません。自宅の書棚を探しましたが、古い単行本の「死者の書」が見つからず、中公文庫を買ってきましたが、やはり、すぐには没入出来る世界ではありません。川村二郎の「解説」から読みはじめたところ、大女優の紹介している奈良国立博物館の「當麻寺」展との関連が分かったのは、せめてもの収穫でした。

「言霊の芸能史」(高知新聞)
 笠井君は、今年からは執筆活動に重心を移したいとのことで、その環境を整えるべく転居作業を開始したものの、未だ転居が完了しないまま、高知新聞朝刊(木、金、土)の「言霊の芸能史」(「後編」で、「前篇」は7年程前に連載済)の連載が始まり、現在は近松門左衛門を連載中で、7月の美空ひばりを最後に連載完了予定とのこと。
 そんなこともあって、大女優の悲鳴となったもののようです。
 一体、どんな舞台になるのか?乞うご期待を??
 公演後、大女優ら出演者も同席しての「おきゃく」を、お楽しみに??
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 笹岡様
 案の定、笠井さんはまだどなたにも公演のお知らせをしていない! ショック!
 お手数ですが、このメールを同窓生のみなさまにお送りいただければ幸いです。必要であればチラシもおくらせていただきます。よろしくお願い致します。
 笠井さん、大分お疲れの御様子…!
 散る桜を想う春、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

公演チラシ

公演案内
 さて、公演のお知らせをさせていただきます。手取り足取り、語りを、芝居を、教えてくれた師・関弘子の七回忌に、折口信夫の代表作『死者の書』を舞台化します。
 演目を考えていた昨年の五月、ずっと見たいと思っていた「綴織當麻寺曼荼羅」が奈良国立博物館の「當麻寺」展で公開されると知り、思い切って行ってきました。展示は会期最初の一週間だけだったことが行ってみてわかり、交通費還せ!と思ったのではありましたが、気を取り直してみれば素晴らしい展覧会でした。「山越阿弥陀図」や「二十五菩薩像」など、夢中で展示物を眺めているうちに、あっ、「死者の書」じゃないか、と思い至りました。
 師の薦めで原作を読んだのは二十年程前、わからないなりに夢中で稽古してもらいました。源氏物語の原文CD化の大仕事を終えた後、どことなく気力が萎えていた師が、或る日、人形の川本喜三郎さんがアニメーション映画を作成中であるということを新聞で読み、川本さんに連絡してみるんだと大興奮。ですが、結局声のキャスティングも既に決まっていました。久々の生き生きとした表情と、落胆の様子と、今もよく覚えています。結局いつか演りたいという思いは果たされぬままでした。
 そのゆかりの作品を、ゆかりの銕仙会能楽堂で上演します。観世銕之丞さんに声の出演もご快諾いただきました。
 昨年十二月から脚本作りに七転八倒! 覚悟してはいたものの、改めて原作に打ちのめされそうになりながら、稽古の中で身体を通して折口の言葉と向き合っています。あの世とこの世とはそんなにかけ離れてはいないような、死者たちから現し身の私たちへ、智慧や知恵や、連綿と連なる何ものかが、降りそそがれているような、そんな気にもなってまいります。
 是非ご覧下さい。お待ちしております。
坪井美香
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あけましておめでとうございます
藤宗俊一(42回) 2015.01.09
 本年も宜しくお願い致します  年賀状を整理していたら、とても綺麗な作品があったのでこの場をかりて紹介させていただきますのでお楽しみ下さい。全て『家』と呼ばれる人たちからのもので、工事『屋』風情では太刀打ちできません。尚、最後のは、御存じの方もいらっしゃると思いますが、郷土出身で『土門拳賞』や『紫綬褒章』をもらった大家、野町和嘉さんのものです。今年もライフワークの『聖地巡礼』の個展を開くそうですので是非足をお運び下さい。

賀状1

賀状2

賀状3

写真展『聖地巡礼』あーすぷらざ(横浜市栄区小菅ヶ谷1-2-1)045-896-2121
第1期2015/3/13〜3/29 第2期2015/4/2〜4/19
http://www.earthplaza.jp
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地球の裏側(アルゼンチン)で感じたこと
水田幹久(48回) 2015.04.16

筆者近影
 一昨年(2013年)の9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われたIOC総会において、2020年オリンピックの開催地が東京に決定した。オリンピック東京開催は、日本経済再生の起爆剤として歓迎され、それ以来、景気回復への期待感が増しているように感じる。2020年までの長いようで短いこの準備期間、景気浮揚に繋がる政策が展開されるに違いない。
 東京のライバルであった候補都市のイスタンブールとマドリッドについて関心があった方は多いと思うが、IOC総会が行われたブエノスアイレスについて詳しい方は少ないであろう。小生はこの南米の都市にすこし縁があり、2回ほど訪れているので、その時に感じたことなどを記してみたい。

ブエノスアイレス郊外に広がるパンパ
地平線の彼方まで牛の放牧地になっている
 東京から見るとブエノスアイレスは地球のちょうど裏側(正確にはブエノスアイレス東方沖合1,000Kmの大西洋上が対蹠点=正反対の地点のこと)にある。という事は、飛行機が完全に直線的に運行できれば、東京からどの方角に飛び立っても同じ距離という事になる。事実、ブエノスアイレスへのフライトは北米経由、欧州経由、中東経由など真逆に飛び出すルートの中から選択することになる。首都ブエノスアイレスがあるアルゼンチンは南米の大国(国土面積2,780千ku=世界第8位・日本の7.4倍)で、しかも温暖な気候帯の平地面積が大きく、農畜産業に適した国土を有している(パンパと呼ばれる広大な草原が牧草地として広がっている)。反面、人口は4,100万人、GDP4750億US$(世界26位)。日本の人口1億2700万人、GDP5兆9630億US$と比べると大きく見劣りがする。
 しかし、この国は建国以来ずっとこの地位にあった訳ではない。19世紀の終わりから20世紀の初頭、日本が明治維新を経て富国強兵に励んでいた頃、日本とアルゼンチンの立場は、全く逆であった。アルゼンチンは恵まれた国土を生かした農畜産業により、南米で最も豊かな国であったばかりか、ヨーロッパの列強の次に位置する立場にあった。1910年には、アルゼンチンの輸出額は小麦・牛肉で世界一、トウモロコシ・羊毛は2位になっており、インフラ面では3万キロの鉄道網を有していた。この時期のブエノスアイレスは、南米のパリと呼ばれるほど、ヨーロッパ風の建物・公園が整備された文化都市であった。この頃(日露戦争開戦直前)、日本はイタリアで建造中であった2隻の巡洋艦(春日と日進)を注文主のアルゼンチンから譲り受け、主力艦隊への編入に間に合わせている。その後、日本海海戦でのこの2隻の活躍を見れば、ついアルゼンチン贔屓になってしまう。

ブエノスアイレス中心地にあるコロン劇場
パリのオペラ座、ミラノのスカラ座とならぶ世界3大劇場の一つ。
ブエノスアイレスの文化の象徴。手前の道幅は16車線ある。
 この豊かなアルゼンチンが、恵まれた資源、高い教養レベルの国民など発展の条件を備えていながら、その後低迷していく最大の理由は、長く続く政治の混迷と、歳入を安易に国債に頼るなど経済政策の失政にあったと言える。度重なるインフレ、私利私欲を追及する政府によって経済は停滞し、国民の政治家に対する信頼感は極めて低くなっている。ハイパーインフレの挙句とうとう2001年には対外債務の返済不履行(デフォルト)に追い込まれ、国の信用力は失墜した。この影響は現在も残っており、通貨アルゼンチンペソへの信頼は薄く、国民には米ドルの方が信頼されている。現在でも対ドル公式レートの他に実勢レート(闇レート)が存在し、その差は2倍ほどにもなっている。闇レートと言えば聞こえが悪いが、そのレートは新聞・TVで毎日報道されており、オープンな存在である。

ジャングルを開墾した茶畑(ミシオネス州)
50ヘクタールの茶畑の一部分
 このアルゼンチンとの縁は、小生の叔父2家族が、戦後、国際協力事業団(JICA)の事業に応じてアルゼンチンに移住しており、その家族が住んでいることである。都合2回、この地を訪問する機会があった。その際にアルゼンチンの日系社会にも触れることができ、考えさせられることが多々あったので、その一部を披露したい。直近の訪問は、老親が年齢的にみて最後の機会になると思われたので(86歳)、初めての海外旅行であったが、両親を連れて行くことにした。
 現地には1世世代2家族(叔父2人=父の弟)、その子供達(2世世代)5家族がおり、2世家族にはその子供達(3世世代)が計11人いる。1世世代はミシオネス州(ブラジル、パラグァイの国境付近、イグアス滝に近い)のジャングルを開墾し、そこに生活基盤を築いた。開墾された後の姿(茶畑や果樹園)を目の当たりにすると彼らが味わった辛苦が容易に想像でき、思わず目頭が熱くなる。一般的に、2世世代は、新たな分野に進展した者、農場を引き継いだ者、まちまちであるが、日系人は教育熱心なので高等教育を受けて専門職になった者、事業を起こしている者も目立つ。そして農場を引き継ぐ者も、他の事業に転進した2世達の土地を譲り受けたり、借りたりして農場の規模を拡大している。

従弟が経営する農場にあるビニールハウス内部
育苗施設の一部。一般の農場から苗の注文を受けて出荷する。
 彼らがこの地に託した希望、そのフロンティア精神を支えてきたのが、日系人達の相互協力であったと思われる。日本人入植地には必ず日本人会が存在し、今でも助け合いの関係が続いている。小生が訪問した時もポサーダス(ミシオネス州都)の日本人会で、ある子供の誕生日会があるというので参加させてもらった。小型の体育館の様な日本人会館に総勢70〜80人が集まり、盛大な会(手弁当が基本、子供も多いので酒はあまり飲まない)を行っていた。皆大変親しげに振舞っており、飛び入りの小生にも親しく接してくれる。誕生日会に限らず色々な名目で頻繁に交流の場を持ち、なにかと助け合っている。
 この協力関係を基盤に日系人達はアルゼンチン社会に信用を築いていった。どこに行ってもハポネ(スペイン語でジャパニーズ)と言えば信用される。アルゼンチンは移民の国で、特にヨーロッパ系(白人)が目立つ。人口では圧倒的に多い白人に混じって、自治会長や事業の協同組合長を任されている日系人も多い。農場から他の事業へ転進する際にも、日系人に対する信用が大きく寄与していることと思われる。小生の親戚2世(いとこ5世帯)も、3世帯は他の事業に転進し、2世帯は農場を拡大させていた。従弟の一人が嘆いていたことに、せっかく築いた日系人の信用を、近年アルゼンチンにも増えた中国人が自らをハポネと詐称して、落としてしまうということであった。
 アルゼンチン日系社会を垣間見て、長い年月を掛けて誠実に努力して得た信用は、何にも変えがたい財産になるという、当たり前のことを教えられた気がする。昨今、ジャパンパッシングと言われる現象があったり、製造業で韓国、中国に追い越される製品があったり、人口減少がもたらす将来負担の増加懸念があるなど、日本の将来に悲観的な見方が目立つようになっている。

イグアスの滝見物
叔父達の入植地から日帰りで訪れることができる。
 これらの課題を克服することは容易ではないが、日本・日本人への信用は大きな財産として健在であるので、日本ブランドを今後もブラッシュアップし、それを活用することで、日本人が自信を取り戻す道筋が見えてくるのではないかと、アルゼンチンの日系人達に教えてもらった思いがする。
 今回のアルゼンチン訪問は、細やかながら、思いがけないプラス効果もあった。それは、出発前には、老化により衰えを感じさせていた両親が、現地で弟たちの努力の結果を目の当たりにして、触発されたのか、帰国後には見違えるほど元気になり、活動的になったことである。
 小生も元気をもらいに、時々アルゼンチンを訪問するのも悪くないな、と思ってしまう。
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身辺整理に専念します
中城正堯(30回) 2015.05.21
皆様へ

筆者近影
 今朝8時過ぎにテレ朝を付けたら、堀内稔久弁護士(KPC会員・32回生)の顔が映っていてビックリしました。先月バイクに乗っていて事故死した萩原流行さんの死因に関し、警察対応に不信の念を抱いた奥様と、真相究明にあたっているそうです。
 萩原さんは、昨年亡くなった竹邑類さん(35回生)が若き日に立ち上げた劇団ザ・スーパー・カムパ二イの看板俳優で、招待いただいてよく舞台を楽しみました。
 竹邑さんは、ミュージカルなど舞台芸術の改革者でしたが、昨年『呵呵大将 我が友、三島由紀夫』を置き土産に、旅立ちました。才能あふれる芸術家であり、自由人でした。
 堀内弁護士はじめ、みなさまの活躍を願っています。
 先月の総会は、滋賀県立近代美術館での講演と重なり失礼しました。体力が衰え、浮世絵関連のおしゃべりも今月末の「東洋思想・・・」研究会での発表を最後に辞め、お迎えに備えての身辺整理に専念します。今日が七十代最後の誕生日です。
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二つのご案内
藤宗俊一(42回) 2015.06.27
野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』

野町和嘉写真展『地平線の彼方から』
 昨日、郷土出身の写真家・野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』に行ってきました。場所はオシャレな街『六本木』のオシャレなビル『東京ミッドタウン』1階フジフィルム・スクエアで7月15日まで(10:00〜19:00入場無料・撮影自由)やっています。お近くに来られたら是非覗いてみて下さい。
 スゴイとしか言いようが無く、写真がここまで発言する媒体なのか改めて思い知らされました。カメラや印刷方法の違いだけで済まされません。撮るのを止めたくなりました。
野町和嘉写真集・新刊3点のご紹介
●「極限高地――チベット・アンデス・エチオピアに生きる」
 7月6日発売予定。日経ナショナル・ジオグラフィック社
●「地平線の彼方から――人と大地のドキュメント」
 6月26日 発売予定。クレヴィス
●「Le vie dell anima」
 イタリアのモンツァ社

最初のサハラ(宿営地の小学校の庭から撮影)の前で説明する野町さん   撮影:荒川豊氏
パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』
 ついでと言っては失礼になりますが、同じく郷土出身のトルコ評論家(翻訳家・慶応大講師)野中恵子さんからのご案内です。
 こんにちわ、野中恵子です。
 梅雨の隙間に入り込んだ、強い日差しの一日です、夏も間近ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
 さて、昨年のカンヌ国際映画祭で、ついにパルムドールを受賞したヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の「雪の轍」が、この週末から公開されます。
 それに併せて草月ホールでも、上記を記念して、7月にジェイラン監督の初期作品の特別上映会が行われます。なお、9月にも特別イベントが計画中です。
 どうぞお出かけくださいませ。
 パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』公式サイト
 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作品の上映/レクチャー/トーク
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今更訊けないこと…母校校歌の三つの謎
公文敏雄(35回) 2015.08.01

筆者近影
 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」といわれますが、今更恥ずかしくて訊けないことを思い切って先賢にお尋ねいたします。
 関東支部ホームページに踊る「1915ホームカミングデー」案内の文字を眺めていると、母校の校歌の謎(私にとっての)がまたまた頭をよぎりました。
 謎1.最初の言葉「向陽の空」の「向陽」の由来は何か? 向陽寮、向陽新聞等々、母校の別名のようなのですが・・・
 謎2.明治天皇は1904年日露戦争開戦の年に、有名な「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」など多くの和歌を詠まれましたが、ほかに「あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな」があります。母校の校歌1番「向陽の空淺緑 広きぞ己が心なる・・・」によく似ています。作詞者が後輩に伝えたかった思いはとは?
 謎3.創立期の「土佐中學校要覧」では、「大正11年5月教諭越田三郎作歌」とされています。その後、「作曲弘田龍太郎」が加わりました。さて、越田先生はどんな方だったでしょう?
 どなたか教えていただけますと幸いです。
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校歌の謎1への回答
中城正堯(30回) 2015.08.15
公文敏雄様、皆様

筆者近影
 よい質問をいただきました。猛暑の中でも、母校への思いを抱き続けているようで、なによりです。
謎1,の「向陽」の由来のみ、小生の理解するところをお知らせ致します。
 「向陽」の出典は、中国古代の漢詩です。諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館)に よると、<向陽 陽に向かう。日に向かう。潘岳(247〜300 西晋の文学者)の 「閑居賦」、謝霊運(385〜433 六朝時代 宋の詩人)の「山居賦」・・・>等の詩 に使われた用例をあげてあります。
 土佐中では、校歌より先に「向陽会」(自治修養会)に使われており、これは三根 校長の命名かと思われます。三根校長が東京帝国大学哲学科在学中の哲学教 授は井上哲次郎でドイツ観念論哲学のみならず、漢学・東洋哲学にも精通していました。

1990年頃の筆山会による「三根校長墓参会」
 また国文の物集高見教授も漢学に通じていました。江戸時代の公文書は漢文で あり、三根の一年先輩で国史科だった中城直正(高知県立図書館初代館長)も、 漢文・漢詩に強く、桃圃と号して漢詩を詠んでいます。土佐に来た三根校長とも 交流しています。目下、『土佐史談』に依頼され、史談会創立100周年記念号に、 中城直正(遠い親戚)の略伝を執筆中です。
 その他の謎についても調べたいところですが、土佐中関連の文献・資料はすべて 土佐校図書室と公文公教育研究所に寄贈し、手元にありません。これらに手掛か りがあるかどうかも不明です。是まで収集した資料は、順次寄贈先を選んで進呈 しています。満州版画は京大人文研が大変喜んでくれました。
 公文さんの質問に対して、まず調査担当すべきは土佐校の同窓会担当者かと思 います。三浦先生の後任は、だれでしょうか。母校100年史編纂も進んでいること でもあり、母校の体制を確認下さい。
 なお、「向陽高校」は和歌山・京都などいくつかあるようですが、いずれも戦後の 学校統合などで生まれた校名のようです。三根校長には、自治会にいい名称を 付けていただいたと思います。
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野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
藤宗俊一(42回) 2016.01.15

 遅くなりましたが、年頭のご挨拶を申し上げます。穏やかな新しい年を迎えられてたこととお慶び申し上げます。

撮影:荒川豊氏
 郷里出身の写真家野町和嘉氏から写真展の案内をもらい、オープニングに行ってきました(会場でお元気そうな中城さんにもお会いしました)。『構図にこだわっている』などという次元ではありません。 殆どの写真が畳の大きさ以上に焼き付けられていて、本とはまるで違った迫力がありました。会場は倉庫を改装した大空間で、そこに50枚以上の素晴らしい作品が並べられていました。是非、足をお運び下さい。

野町和嘉写真展 『天空の渚』 01/15-02/14 港区海岸1-14-24  03-5403-9161
鈴江第三ビル6F 『GALLERY916』 入場無料  月曜休館
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<合田佐和子さんの思い出>
20世紀美術の先端を駆け抜けたアーティスト
中城正堯(30回) 2016.02.28

筆者近影
 2月23日の新聞で合田さん(34回)の訃報を目にした。19日に心不全で亡くなったとのこと。昨年の日本橋での個展にも本人は姿を見せず、療養中と聞いていたので心配していたが、残念でならない。彼女は絵画だけでなく、寺山修司「天井桟敷」・唐十郎「状況劇場」の舞台美術やポスター、超現実的な人形、ポラロイド写真にも取り組んできた。
 土佐高新聞部の仲間として、また同時代の編集者として見てきた、20世紀美術界での彼女の先鋭的なアーティストとしての活躍ぶりが、脳裏に刻まれている。かつて書いた戯文に、本人および関係芸術家の文章なども引用し、しばし追憶に浸りたい。
<新聞部の仲間から> 美術界の異才、合田佐和子/中城正堯『一つの流れ』第8号 1985年刊

新聞部の千松公園キャンプ、前列左端が合田さん。1956年
 合田は新聞部だったので、中学時代からのつき合いになる。やせて眼のギョロッとした文学少女タイプだったが、芯は強い。ガラクタを集めたオブジェから始り、状況劇場や天上桟敷の舞台美術、怪奇幻想画、ポロライドカメラによる顔シリーズ、油彩のスーパーリアリズムと、とどまるところを知らない。 (彼女が武蔵野美術大卒業の際に作品を持って学研にきて以来、時折連絡を取っていた。)舞台で使うプラスチック人形の成型を教えてくれと、ひょっこり訪ねてきたりする。たえず新しいものにチャレンジし、美術界の話題を集めてきた。その才媛ぶりは、瀧口修造や東野芳明から高く評価されている。・・・昨年は、現代女流十人展の一人にも選ばれ、仕事は活発に続けている。
 今年正月には銅版画集『銀幕』(美術出版社)を刊行した。手彩オリジナル版画入りの豪華本は、定価30万円である。その出版記念会には、根津甚八、四谷シモン、江波杏子、白石かずこなど、異色の東京ヤクザがかけつけていた。合田はエジプトが気に入り、安い家を買ったとかで、これからは日本と半々でくらすと、いたずらっぽい表情でいっていた。
(これは、土佐高30回Kホームのクラス誌に「東京ヤクザ交友録」として、同窓生の活躍ぶりをカタギとヤクザに分けて紹介した戯文で、芸術家は当然ヤクザとして扱った。)
<合田さんご本人の回想>
『パンドラ』序文/合田佐和子作品集 PARUKO出版 1983年

「合田佐和子 影像」掲載ポートレート(松濤美術館)
焼け跡 高校3年の夏休みに、四国山脈をかきわけて上京して以来、もう25年という年月が流れていったらしい。・・・美術界の西も東も分からなかった24才の6月に、はじめて開いた個展での作品は、今にして思えば、戦後の焼け跡の光景そのものだった。それも、近視眼的な子供の眼にうつった、災害のオブジェである。(夏休みに上京、以来東京の叔父の元で過ごし、卒業式だけ帰高出席したという。)
油彩 ニューヨークの裏通りで一枚の写真を拾った。二人の老婆と一人の老人が写っている小さな銀板写真だった。アレ、これはすでに二次元ではないか、これをそのままキャンバスに写しかえれば問題は、一方的に一時的に解決する。(立体オブジェにこだわり、立体を平面に写す油彩を躊躇していた合田は、拾った写真にインスピレーションを得て独創的なスター肖像画を生み出す。美大で商業デザイン科だった合田は、油絵の実技教育を受けておらず、独学で修得したと述べている。)
エジプト 1978年秋の個展作品を、肩から包帯をつるした腕で仕上げると、息もたえだえ子供二人を連れて半ばやけ気味でエジプトへ発った。(彼女はアスワンの村でくらし、「全部の病気を砂に返し、暖かいぬくもりだけを全身に吸い込んで東京に戻る」と、古代エジプトの守護神ホルスに惹かれたのか、目玉をモチーフに立体も平面も制作、『眼玉のハーレム』(PARUKO出版)を刊行する。後に中上健次の朝日新聞連載「軽蔑」では、毎回眼だけの挿絵を描いた。)
<仲間の賛辞>
恋のミイラ/唐十郎 合田佐和子個展カタログ 1975年
 これらは、初めて仮面舞踏会につれてこられた少女の、ほのかなためらいと頬の紅潮を画布に移行させたものだろうか。・・・これらはドリームにドリームを塗りつぶした暗い恋のタブローである。こんな絵に囲まれながら、そこで、誰かと誰かの恋が結ばれたらどうしよう。
ぼくらのマドンナ/『銀幕』出版記念会案内状/四谷シモン 1985年
 当代きっての才媛、ぼくらのマドンナ、佐和子が、突如、この夏の猛暑のさなか、銅版画の制作にのめりこみ、レンブラント、デューラーもものかは、銅と腐蝕液の異臭のなかから電光石火の早技で「月光写真」の如き「銀幕のスターたち」を誕生させました。・・・ぼくらのマドンナを囲み、歓談に花を咲かせたいと思います。
焼け跡に舞い降りた死の使者/坂東眞砂子(51回)『合田佐和子』高知県立美術館 2001年
 八十年代に入り、合田佐和子は初期の焼け跡を連想させるオブジェと、人骨を組み合わせた作品を創りはじめる。ここにおいて、敗戦、焼け跡と、死が作品上で、明白に重ねあわされていく。・・・合田佐和子が描いてきた銀幕スターたちとは、戦後の日本に死をもたらした、死の使者たちだったのだ。彼らは大鎌の代わりに、セックス・アピールという武器を手にして、日本社会に乗りこんできた。その青ざめた皮膚の下にあるのは、骨。銀幕スターのきらめきの下に隠されているのは、骸骨であったのだ。

作品集・展覧会図録・著書など

絵はがきなど
<わが追憶>
 合田さんと思いがけず出会ったのは、1992年2月小松空港行きの機中であった。前の席に座った男女が楽しげにはしゃいでいる。ベルト着用のサインが消え、身を乗り出してみると、二人の若い男性助手を連れた合田さんだった。聞けば翌日から金沢のMROホールで公開制作をするという。仕事の合間をぬって会場に駆けつけると、詰めかけたファンに囲まれ、あざやかな筆さばきで大キャンバスに銀幕のスターを描いていた。
 2001年の高知県立美術館「森村泰昌と合田佐和子」展、2003年の東京・渋谷区立松濤美術館「合田佐和子 影像」展でも、オープニングで元気な姿を見せていた。しかし、近年の鎌倉や日本橋の個展会場では、本人と会うことができなかった。5年ほど前に電話で近況を尋ねると、心臓の病をかかえ、思うように制作ができないといいながら、わたしの病気を気遣って、類似の病気を克服した友人・栗本慎一郎(経済人類学者)の治療法を薦めてくれた。
 彼女は様々な病気を抱えながら、絶えず新しいテーマと技法にチャレンジし、現代アートの世界で先鋭的な作品を発表し続けてきた。その鋭利な感性に肉体がついて行けず、悲鳴を上げていたのであろう。高知県立美術館での合田展に寄稿をしてくれていた作家・坂東眞砂子さん(51回)に続いての合田さん訃報であり、土佐高で学んだ異能の女流芸術家が相次いで亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。
<追記>いずれ「お別れの会」を開く予定で、「天井桟敷」関係者が準備中とのこと。
      (作品自体は著作権者の了解が必要なので、印刷物からの画像引用の範囲にした)
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新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
吉川順三(34回) 2016.03.12

筆者近影
 合田佐和子さんの多彩な活躍はご存知の通りだと思う。訃報が新聞に載った夕刻のツウィッターは彼女のことが目白押しだった。それはともかく、彼女の土佐高新聞部時代を振り返ってみると、才能、感性が多彩に芽生えていた。
 われわれの時代は1年生の後半から3年生の前半まで新聞製作と部の運営に責任を持っていた。彼女は放課後になると、ほぼ毎日のように部室に現れた。新聞は多くても年に3回発行だったから、いつも忙しいわけではない。駄弁りや部活とは関係のない議論をすることが多かったが、たいがいは彼女が主役だった。 とにかく彼女はアタマの回転が速い。目のつけどころが独特、しかも変幻自在で既存の形に縛られるのを嫌った。おまけに感性は鋭い。先生、先輩、同輩についても批判に遠慮はなかった。皮肉を込めたあだ名をつけるのも上手かった。 私もあるとき「ドンジュン」と呼ばれた。もちろん「ドンファン」のもじりでもなければ、たまたま部長だったために名前に「ドン」を冠したものでもない。「鈍」な順三というわけだ。高速回転の彼女とはあまりにも異質な“鈍感力”を鋭敏な彼女の頭脳が感じ取ってくれたのかどうか、これは幸いなことにその場限りになった。とにかく彼女と同じ軸でやりあうと、私をはじめ仲間はみんな、いつの間にか彼女の思うつぼにはまって逆転され、情けない思いを味わった。
 新聞作りでは紙面レイアウトについて先輩から「“S字型”か“X字型”の配置で構成するのが基本」「”腹切り”は避ける」と教えられていた。 その原則に沿って記事の行数を計算して写真の寸法をはかり、模擬 紙面に切り貼りするなど試行錯誤していると彼女が割り込んで瞬く 間に解決したことが記憶に残っている。全体をひと眺めすると色鉛 筆をにぎり「この写真はもっと大きく」「これは横見出しに」などと つぶやきながら実に細密で正確な絵コンテを描いた。 そのうえ「このコラム、もう少しおしゃれで、鋭かったら紙面配置 の基本などにかまわないで最上段に置いてやったのに」とのたまう。 筆者がそこにいてもまったく気にしない。筆者も「う〜ん」と、う なりながら同意したものだ。
 また最終段階の作業は印刷所が現場になる。コストの関係から印刷 はいつも夜間で、活字拾い、組版などの職人さんの残業に頼っていた。 夜遅くなる場合が多いので男子部員だけが現場に出かけ、早く仕事 を終えて帰りたい職人さんの機嫌をとりながら作業した。 ちょうど“濡れ紙”の小ゲラをチェックして、いよいよ大ゲラが出る ころ「家が近いから」と彼女が突然現れたことがあった。 例によって周りの雰囲気などおかまいなしに「この見出しは変えた 方がよい」「凸版の地紋はもっと明るく」と笑顔でテキパキと指示す る。はじめ渋面だった職人さんは、そのうち文句もいわず、彼女のペ ースに乗せられて、組み直しや作り直しを繰り返した。ただただ呆然 としたのは、われわれ男子部員だった。そして「これ以上遅くなった ら家から迎えが来るから先に帰る」と、ポケットのキャラメルを一箱 置いてさっと消えた。
 次の号で印刷所に行ったとき職人さんから「あのオカッパはまだ来 んかよ」と期待のこもったように問われて驚いたことを思い出す。 こように、普通なら相手を困らせるようなことを、あっけらかんと主 張して思いを遂げ、しかも相手から親しみを感じてもらうという不 思議な能力を持っていた。
 彼女は「これ以上憎まれたくない」としばしば言ったが、だれも憎ん だりはしなかった。彼女の毒舌の標的になれば、そのたびに脳細胞が 刺激され、それぞれが成長したように思う。
 彼女の訃報に関連して同期の久永(山崎)洋子さんから手紙をいた だいた。「ひらめき、才能、シャープ、独特のセンス。毒舌とユーモアの混じった会話が得意な人でした。ともに新聞部を楽しませてもらいました」と。同期のみんなも気持ちは同じだろう。 しかしその同期の主要メンバーだった浜田晋介、秦洋一、国見昭郎 の各氏がすでに故人になっており、今回は合田佐和子さんが他界した。そもそも土佐高の「向陽新聞」は廃刊、冥土入りして久しい。そのすべてに------------合掌。    
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岡林敏眞君を偲んで
濱ア洸一(32回) 2016.03.31

筆者近影
 岡林君の訃報を聞き、それも急逝だったことを知り、まことに残念、衷心よりお悔み申し上げます。
 昨年6月いつもの銀座の画廊で逢ったときには、顔色も良かったし、口では、「もう今年が最後かもしれん」とは言っていたが・・。今年から彼の独特の絵が見られないと思うとさびしい限りである。
 思い起こせば、彼との出会いは、土佐中学1年同じクラスとなり、学級新聞を作ろうとの話から、新任担当の中沢先生に伺ったところ、当校には新聞部があるから、そこで勉強しなさいとのことであった、そもそもそこからである、仲間数名が部室に行ってそのまま新聞部の部員となってしまったのである。 そして彼は森木君・示野君らと部活を続けることになった、小生はというと、水泳部に入り、名前だけの新聞部部員?記事を書いたことは無い。
 大学も同じ中央大学に進み、新聞部のOB会が時々神田すずらん通りのそばやの二階で、岩谷さんの落語を聞きながら、中城さん杉本さんらと食事をしたものである。 そして、社会人になり、岡林君は学習研究社入社、そして2.3年目くらいで社内結婚、 その披露パーティが会社の中で開催され、なぜか小生が招かれた、出席者には、新聞部のOBたちが参集していた。なぜか、必ず彼からお声がかかったのです。
 彼の絵画は一種独特のもので、いつも小生の素人批評に対し、彼の制作の意図を十二分に聞かされたものである。
 彼の新世界での進路を想像しながら・・・、ご冥福を祈ります。合掌
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「憂い」を秘めた顔
堀内稔久(32回) 2016.03.31

筆者近影
 岡林敏眞君の訃報を知らされた。彼のいつも憂いを深く秘めたような顔を思い出した。
 晩年の彼は、公文教室を経営する良き配偶者に恵まれて、京都に落ち着いて「画柳会」の世話役となって夫婦睦まじく絵画に打ち込み、画題を求めて国内外をふたりで旅して歩き幸せそうであった。
 彼の本領が発揮されたのは母校土佐中での入試不正を切っ掛けとする同盟休校のときであった。高校生の彼が学校経営陣に対する攻撃の先陣に立っていたとのことである。私のような高知でも片田舎から通学していた生徒にとって、丸で別世界の登場人物のように遠くから彼の活躍を眺めるばかりであった。
 彼は、幕藩体制の地侍のように、不遇を深く秘めて能力一杯に羽ばたくことが許されない環境のもと、土佐高新聞部だけが彼の安住できる住み処であった。
 土佐の地侍が幕末期に能力を発揮したように同盟休校に能力を発揮しながら、その後は、いろいろな企業、団体などで事務方、裏方に徹することで組織運営の中でなくてはならない人間に育っていった。彼の能力を認めて、組織運営に不可欠な人間に育て上げたのは新聞部の先輩、特に岩谷・中城氏らであり、彼が一生にわたって師事することになり、世話になりつづけた。新聞部(現プレスクラブ)こそは、彼が帰ることができる「実家」でありつづけた。彼が後輩の面倒をよく見たのは、後輩イコール実家の弟妹のような心情だからであった。大学時代の彼は、中野区「野方村」(漫画家手塚治のトキワ荘のような存在)が新聞部に代わった。そこには彼の兄(先輩)が居り、「(腹違いのような)兄弟」(同級生)が居り、「弟」(後輩)がいた。試験のときには、同じ学部で司法試験の受験勉強に専念していた私に何回か教わりに来た。彼はアルバイトにかなりの時間を取られていた。 野方村も、彼の逝去によって村民の1人が減り、限界集落のように段々寂しくなった。
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我が友岡林敏眞君を悼んで
森木光司(32回) 2016.04.06

筆者近影
 我が友の岡林敏眞君、普段は「オカバ」と呼んでいた君の突然の訃報を聞いてまだ間もないが、どれほど哀しんだことか。また君がそのような危険な状態だったことに気が付かずにいたと思うと恥ずかしくもある。
 数日前、親友の一人濱崎洸一君から向陽プレスクラブのインターネット用の「追悼文」を書いてほしいと言われて一応承諾したものの、あまり真面目に向陽プレスクラブの参加していない自分がこれも恥ずかしくなる。
 私の手元に向陽新聞の資料はほとんど皆無で、数枚の写真と卒業アルバム中のクラブ写真があるだけである。最も古いものが中学1年の時(1952年2月)のバラック建て校舎の正門付近で撮った写真で、諸先輩と一緒にオカバ、示野貞夫君、濱崎洸一君、浪越健夫君、池洌君、梅木栄純君たちと写っている写真、もう一枚は新聞部新年会のもので、学校の懇談室で西野歩先生を囲んだものである(1955年1月)。どの写真も古いものだが、これらの先輩、同輩と一緒に向陽新聞を発行しえたのは、君の大きな力があったことも思い出すことが出来るよ。
 また、高校2年の頃だったと思うけれど、全国の高校新聞のコンテストで向陽新聞が優秀5校の1つに選ばれ、示野君と一緒に日光東照宮で表彰されたことも思い出のひとつである。
 新聞の編集発行には、今は亡き岩谷清水大先輩、中城正堯先輩、横山禎夫先輩方々のご指導のもとで、君と楽しい新聞部生活を送らせてもらったことが懐かしく思い出される。
 卒業後向陽プレスクラブを創設して会長として、長く後輩の指導にもあたってくれたことはクラブ全員の賞賛に値するものと思っている。
 また、君が画家としても、素晴らしい才能があり、そのうちの一枚の油絵(F20号、イタリア、アッシジの街並を描いた絵で画柳会特別賞受賞)をわけてもらったものを我が家に飾ってあるが、改めてこれを眺めながら君を髣髴として思い出している。
 思い出は尽きないが、そのうちに君に追いついて、蓮の台で語り合えることを夢見ているよ。それまで待っていてほしい。
※(アッシジはイタリア中部の都市で聖フランシスコの生誕地。名高い教会などがある美しい街という。)
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「公文禎子先生お別れ会」のご報告
中城正堯(30回) 2016.09.23

弔辞を述べる武市功君
 土佐中6回生で、戦後土佐高教諭から、大阪に出て公文教育研究会を設立した公文公先生の奥様が逝去された。公文先生は、土佐中での個人別・能力別の自学自習を活かして公文式教育を考案、世界中に公文式教育を広めたが、二人三脚でこの教育法を育てたのが、禎子夫人であった。
 禎子夫人の高知での新婚生活は、昭和20年からの1年と、22年からの5年間であったが、その間のエピソードを紹介し、加えて同級生(土佐高30回Oホーム)へのお別れ会報告文を添付する。
高知での公文禎子様
 奈良で生まれ育った長井禎子様が、お見合いで公文先生と結婚されたのは、終戦間近の昭和20年3月で、先生は浦戸海軍航空隊教授であった。慣れない高知での新婚生活は、父と兄を亡くして一家の柱となっていた公文先生以外は女ばかりの家族との同居であった。しかも、先生は池(高知市)の航空隊に別居で、訪ねて行こうとしては道に迷って大変だったという。さらに7月には米軍の空襲にあい、たまたま帰省中だった先生と雨のように降りそそぐ焼夷弾の下を逃げまどい、衣笠(公文先生の母の実家・稲生)をめざした。住んでいた家は全焼であった。恐怖にさらされ、一首のうたもつくれなかったと述べている。

沖縄竹富島でのご夫妻(1990年11月)
 戦後、先生はいったん奈良の天理中に勤務、昭和22年に高知に戻り、高知商業を経て、24年に母校土佐中・高教諭となり、3年後に大阪に出る。この間、禎子夫人には高知で思いがけない人物との再会があった。樟蔭女子専門学校時代に、短歌を教わった安部忠三先生が、22年にNHK高知放送局長として着任されたのだ。高知歌人会にも入会、短歌を再開される。この安部局長の長男・弥太郎さんが土佐中28回生で、新聞部の中心となって我々30回生を指導してくださった。後に、京大からNHK記者となって活躍された。
 公文夫妻が大阪に出た同年に、安部局長も奈良局長に転任、そのお薦めで前川佐美雄先生が主宰する日本歌人社に入会、うたに励まれ昭和44年には日本歌人賞を受賞する。以来、パリやシルクロードを訪ねてはうたを詠み、平成10年には歌集『パステルカラー』を出版された。
 禎子夫人は、短歌以外に美術への造詣も深く、自ら油絵もお描きになった。また読書家で、我々は土佐中時代にご夫妻が所蔵されていた『岩波文庫』などによって、本の世界に導いていただいた。秀才として知られた公文俊平・竹内靖雄両先輩も「公文文庫」を大いに活用しておられた。
3Oホームの皆様へ

ご挨拶される新庄真帆子様
 6月21日に96歳でお亡くなりになった公文禎子先生「お別れの会」が、9月21日に大阪の公文教育会館で行われ、土佐中1年B組の浅岡建三、武市功両君と共に参列してきたので、その様子をご報告する。
 公文式の生徒は、現在世界各国428万人に及ぶが、禎子夫人は公文教育研究会の創始者・公文公先生のご夫人にとどまらず、公文式教室の最初の指導者であり、教材開発・教室運営にともにたずさわってこられた。昭和42年から10年間は公文教育研究会の前身である大阪数学研究会社長、さらに「のびてゆく幼稚園」開園、公文会長亡き後は50回を越える講座を全国で開催し、公文の教育理念を伝えきた。「公文禎子先生 お別れの会」は、公文教育研究会の関係者のみに限定されたが、全国から元指導者・社員、現役指導者・社員あわせて500人を越える方々が集い、献花をしてお別れを惜しんだ。
 花祭壇の御遺影に向かって、元社員代表として武市功君(元副社長)が、弔辞を述べた。「禎子様に最初にお目にかかったのは今から67年前、高知市内の御自宅でした。土佐中学で教え子だった私は、数学を習うため御自宅にお邪魔していました。」という出会いから、会社を設立したものの十年余は赤字で、「主人と二人で荷車を引いて参りました。主人が引いて私が押して、やっと坂を上がって参りました」という禎子夫人の回想談をまじえ、追悼した。
 最後に、ご親族を代表してお嬢様の新庄真帆子様のご挨拶があった。強く印象に残っているのは、初期のご苦労「父の教材がご近所でも評判になり、母が指導者になって教室を開いた。私たち幼い三人の子どもを育てながらであり、買い物や食事の準備もそこそこに、一人ひとりにちょうどの教材を用意するのは大変だった。なにしろ当時は教材も全て手書きだったから」、であった。
 新庄真帆子様には、3O一同これまでの公文先生ご夫妻の御恩が忘れられないことをお伝えした。2000年の大阪同窓会の際に久武慶蔵君が公文公記念館で倒れたが、奥様の看病のお陰で大事に至らなかった事や、「うきぐも」発刊へのご協力に感謝していることを申上げた。また、今後一周忌の墓参など、教え子も参加出来る法事があれば、クラス代表が参列したいとの希望をお伝えした。真帆子様からは、高野(野口)さんか小生に連絡するとのお返事をいただいた。
 帰りの新幹線で、公文先生亡き後に禎子夫人がはにかんだ表情で漏らされた、若きお二人のいわばデート時代の思い出話が甦った。「奈良での見合いで婚約が決まりました。私は阪大工学部の研究室に勤務していましたが、ときおり夕方に公文が訪ねて来て、私が出て来るのを、外でじっと待ってくれていました」。
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笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去
藤宗俊一(42回) 2016.10.15

故 笹岡峰夫氏
2016.06.04
 既にMail網でご報告致しましたが、本会会員で弁護士の笹岡峰夫氏が、去る9月21日、ご自宅で急逝されました。前夜まで飲み歩いていて、翌朝、脳内出血を起こし、そのまま御他界されたとのことです。心より哀悼の意を表しますとともに、残されたご家族の皆様方にはお悔やみを申し上げます。
 通夜、葬儀は9月27日、28日、上落合の最勝寺壇信徒会館で行われ、交友の広さを表すかのように、会場に入りきれないほどの大勢の参列者が集まり、生前の彼の仁徳を偲びました。尚、式は無宗教で、親友の能演出家・笠井賢一氏(42回生)のプロデュースで執り行われ、能管の音と朗読で始まり、最後は全員が遺影の前に花を手向けて終わりました。とても厳粛で美しい式でした。心よりご冥福を祈ります。
****************
以上が報告です。ついでに追悼文も済ましておきます。
 実を言うと、彼が途中で一年留年したこともあって、土佐校時代はあまり親しくはありませんでした。私が高1で受験勉強に専念???するために編集長を辞めた後、生徒会活動仲間の西内正氣氏(42回生)と(二人とも会長経験者)隣の新聞部部室に転がり込んで来て大きな顔をしていたのを、丁稚(中学)からたたき上げた苦労人としては、苦々しく思っていました。 しかも、こともあろうに新聞部の商売敵のような生徒会広報誌『翌桧』を発刊するなど(幸いにして彼が会長であった間の2号ノミ)言語道断な行為をしてのけて、もはや天敵以外の何者でもありませんでした。そんな訳?で、部室にも寄り付かなくなり、2年間はマドンナの尻を追っかけるのに忙しく彼と話す機会は殆どありませんでした。

同じ日の筆者近影
 再び、彼と交友が始まったのは事務所を開いて仕事欲しさに関東支部同窓会に出席し始めた頃、宴席で『お前のヨメサン知ってるよ』と声をかけてきたのがキッカケです。当時、彼は弁護士になって『旬報法律事務所』という労働問題専門の事務所に所属していて、訟務検事(国の法廷代理人)をしていた連れ合いを知っているということでした。「そんな左系の活動をしているとは、昔の正義感はちっとも変っていないなあ」と感心したものです。 後に、独立して『けやき法律事務所』を開設してからは『悪徳弁護士の笹岡です』とうそぶいていましたが、一種の照れ隠しだったと思います。本質は変わっていないと思いました。
 その後、42回の同期会に必ずと言っていいほど出席するようになり、2次会、3次会と盃を交わして(二人とも升々いける口)終電に間に合わないことも何度かありました。とにかく、明るい酒でこちらを楽しくさせてくれました。また、律儀に年賀状と暑中見舞いをくれて、時折々の話題やら思い出を長々書いて来てくれました。とても文章が上手で、論点もしっかりしていて、さすが文系の元新聞部と見直しました。こちらが理系に進み、ちゃんとした文章が書けなくなって機械に頼って写真で済ましているのを恥ずかしく感じていました。
 お通夜のなおらいではナンテン(皿鉢料理で最後に残るもの)になり、土佐から取り寄せた皿鉢料理とお酒(土佐鶴)を堪能させてもらいました。ありがとう。本当は2次会に連れ出したかったのですが……。合掌。
●次は我が身と感じるようになって、香典の損得勘定をしています。悪い奴ほど長生きすると言われているので、取り返せないかもしれません。みなさん、どうか長生きして黒字化にご協力下さい。
****************
 葬儀で朗読をして下さった坪井美香さん(俳優)から次のご案内をいただきました。おっかけをしていた彼に何度か誘われて公演に行って、打ち上げ会にも参加させてもらいました。彼を偲んで、是非ご覧になってください。



11月23日 求道会館
『言葉の海へ』
¥3,500
 雨続き、災害続きの九月が過ぎ、太陽の恵みが戻ってくれますよう、月の美しい秋となりますよう、願うばかりの今日この頃です。みなさまお元気でいらつしやいますか?
 秋の公演のお知らせをさせていただきます。1011年より作家高田宏の作品を語るシリーズを続けて参りましたが、昨年11月14日、最後の旅立ちをなさいました。還ることのない片道の旅の空は、どんなでしょうか。
 名編集者から作家へ。気骨ある生き様を貫いた人々の評伝や、自然、災害、旅、猫などをテーマに綴るエッセイ、小説。忘れられてはならない作品を数多く残された高田先生の一周忌追悼に、『言葉の海へ』を上演致します。
 幕末から明治にかけ、鎖国からいきなり世界と対峙せざるを得なくなった日本にとって、それまでになかった国語辞書は独立を保って生き抜くための必然であり、辞書作りは国作りでもありました。明確で誤解のない「言葉」や「文法」

10月28日 青蛾ギャラリー
『語りと笛の会』
\3,000
を確立することは急務で、外国の言葉や概念を理解するためにも、こちらから何かを主張するにも、以心伝心、などと言ってはいられません。にもかかわらず、国家プロジェクトとして始めた辞書作りは、結局、苦難を極めた17年という歳月をかけて『言海』を出版した大槻文彦に丸投げされました。今も昔も、国家というもの、かくありき!
 仙台在住の俳優・茅根利安さんと共に、作品ゆかりの東京と仙台で上演します。音楽は、ピアノと語りで一緒に楽しい試みを続けてきた黒田京子さんです。初演を見てくださったお客様もたくさんいらっしゃると思いますが、台本も演出も練り上げて大幅に改定、さらに、会場である求道会館の建築がまさに文彦の活躍した時代と重なり、新たな作品世界を楽しんでいただけると思います。
 是非ご覧ください。心よりお待ちしております。
 11月15日までにご予約、お振込頂いた方にはチケットを送らせていただきますので、よろしくお願いいたします。
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新作能『鎮魂』公演のご案内
笠井賢一(42回) 2016.10.31

産経新聞 2016.10.23
 此度、私たちは新作能『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』を本年11月にポーランドと日本で上演いたします。
 2011年にショパン生誕250年を記念して日本ポーランド国際共同企画として新作能『調律師−ショパンの能』が上演されました。私たちはその上演のためにたびたびポーランドを訪れました。前々から関心をもっていました、アウシュヴィッツ博物館を作者のヤドヴィガ・ロドヴィッチさんに案内していただきました。そのとき、鎮魂の芸能といわれる「能」でこそ「アウシュヴィッツ」の死者への鎮魂がなされるべきだという思いを深くしました。当時取り組んでいた『調律師−ショパンの能』がショパンの生涯への鎮魂の祈りの能であったことも影響しています。そのことをヤドヴィガさんにお話しすると、彼女にはアチュウという名の叔父さんで、1942年にアウシュヴィッツで政治犯として獄死された方がいらっしたのです。それで一気にこの新作能が構想され書きあげられました。それに加え、日本で2011年2月に「調律師−ショパンの能」が上演された直後の3月11日、あの未曾有の東日本大震災が起き、津波の被害に加え原発事故の被害も発生、世界に衝撃を与えました。 当時ヤドヴガ・ロドヴィッチさんは駐日全権ポーランド大使として在任中で、ポーランドと日本との歴史的に長い民間レベルでの友好関係をふまえ、東北の子供を夏休みに受け入れたり、被災地を訪れ支援に力を尽くされました。

『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』
 そして翌年の2012年の皇居の「歌会始め」に大使として招かれ、そこで天皇皇后両陛下の御詠「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」と「帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず」の和歌に深く心動かされ、『鎮魂』にこの和歌を取り入れ、新作能を完成させたのでした。
 万葉集以来、和歌が生きとし生けるものの命を慈しみ癒すという伝統の上に立ち、両陛下が新しい時代の象徴天皇制のなかで努められた数々の慰霊の行動と、培われてきたお人柄が余すことなく表現された鎮魂の和歌です。この和歌を能『鎮魂』の芯としてテーマをになう歌として取り入れたヤドヴガ・ロドヴィッチさんの意を汲み、節付・作舞も演出も、ともにこの優れた和歌を、鎮魂の芸能である能の要として創っています。こうした私たちの思いをこめて両陛下に日本公演へのご招待状をお送りし、ご高覧頂く事になりました。

2016.11.14(月)18:30
渋谷区千駄ヶ谷『国立能楽堂』
A:\10,000 B:\8,000 C:\6,000
 11月1日のアウシュヴィッツの教会で奉納、さらに11月4日、5日にEU文化首都ブロツワフでのシアター・オリンピックでの公演、そしてこの日本公演によって、世界に向けて和歌の力が発揮され、能が鎮魂の芸能であることを感動とともに理解してもらえると確信しています。これは誇るべきことだと思っています。
 私たちは2年前にはポーランドのクラクフのマンガセンターとカトヴィッチの劇場で能の一部を上演し、数年にわたって新作能『鎮魂』を育んできました。それがいよいよ公演の時を迎えます。日本を代表する芸能である能が、現代の課題、アウシュヴィッツとフクシマという今日の私たちの世界が抱える課題に取り組みます。是非ご高覧頂きたくご案内致します。
 この公演の収益の一部はポーランド公演の経費に当てられます。できるだけ多くの方にご覧いただき、日本とポーランドの文化交流の長い歴史を土壌に実を結んだ、さらには作者のヤドヴィガさんが日本に留学し能の実技を先代銕之丞に学んだ、長い文化交流の歴史の結晶であるこの公演を成功させていただけるようにお願い申し上げます。                                   
シテ 節付・作舞 観世銕之丞 
演出 笠井 賢一
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1)
二宮健(35回) 2016.12.03

モロッコ地図(「旅のともZenTech」より)

筆者近影
 深夜に関西国際空港を出発したエミレーツ航空317便(ボーイング777-300型)は、約11時間10分の飛行で、現地時間午前5時45分にドバイ国際空港に到着した。2時間後の午前7時45分にエミレール航空751便に乗り継ぎ、更に8時間45分を飛行して、現地時間(モロッコ)で昼の12時30分にカザブランカのムハンマド5世国際空港に到着した。待ち合わせの時間を入れると、日本出発後22時間もの時間を要してモロッコに着いたことになる。これがヨーロッパ経由の便、例えばパリ経由などだと大幅に早くモロッコへは到着出来るが、エミレーツ航空にして往復利用をすると、格段に安い割引にて旅行が出来る。安いとは言え、機内サービス、機内食、安全性は、日系、欧州系航空会社に勝るとも劣ることはない。機材も最新のものを導入しており、安かろう悪かろうでないことは、カタール航空なども同様であり、私の数多い海外渡航経験からしても誇張でなはない内容を伴う会社である。ただ、少し難点があるとすれば、日本とモロッコには直行便が無いので辛抱するしか致し方がない。長時間の移動となるわけである。(写真@=エミレーツ航空)
 今回の旅の目的は、モロッコのすべての世界遺産を見学することと、モロッコ各地の幻想的な都市の見物である。今回は2回目のモロッコ訪問で、前回は前述のカタール航空を利用してモロッコへ入ったが、経由地がドーハであること以外に飛行時間は大差がない。さて、マグレブとは、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国の呼称であって、アラビア語で「日の没するところ」を意味する。そのため、ムスリムの義務である1日5回の拝礼のうちの日没時の礼拝を指す言葉でもある。
 作家の四方田犬彦さんの著作に「モロッコ流謫」というモロッコ紀行の名著があるが、他国の作家や映画人、文化人などを引きつけてやまぬ幻想の世界の色彩をこの国は古くから持っているように思うのは、私一人ではなかろう。モロッコの世界遺産としては、ユネスコへの登録順に、@フェズ旧市街(1981年、)Aマラケシュ旧市街(1985年)、Bアイット・ベン・ハドゥの集落(1987年)、C古都メクネス(1996年)、Dヴォルビリスの遺跡(1997年)、Eティトゥアン旧市街(1997年)、Fエッサウィラのメディナ(2001年)、Gアルジャジーダのポルトガル都市(2004年)、H近代と歴史的都市の両面を持つラバト(2012年)がある。どれをみても魅力あふれる文化遺産と自然遺産である。これらの場所を巡る旅に参加をした紀行である。
 カサブランカに到着したのは、2011年12月2日のことであった。入国手続きを終えると、昼食を市内のレストランで済ませ、その後、大西洋沿いに道を北東に取り、約90キロ走って、1時間30分程度で午後4時過ぎに首都ラバトのホテルに到着した。12月1日深夜に日本を出発して、12月2日にラバトに到着したのである。日本とモロッコの時差は9時間あるので、日本時間では12月3日午前1時である。まるまる24時間以上もかかって日本から到着したわけだ。宿泊するホテルはベレールホテル・ラバトで、4つ星クラスとはいえ、立地の良さが売り物の、中クラスのホテルである。ラバトは、カサブランカには商業や人口で大きく劣っているが、行政上では首都であり、「庭園都市」の名の如くしっとりと落ち着いた街である。日本の大使館もこの街に在り、人口約65万人、都市圏を含めると185万人である。ラバトとは「城壁都市」の意味であり、2012年に世界遺産に登録されている。
 今回の旅行の目的の一つは、滞在する都市の超一流ホテルの視察である。旅行評論家として、これは私のどの旅でも目的の一つである。(ちなみに、私はほぼ全世界にわたり約500回の海外渡航をしている)。さっそく夕食後、ラバトの超一流ホテルの一つであるラトゥルアッサンを訪ね、部屋やレストランをホテルの係員の案内で見せてもらった。素晴らしいホテルである。(写真A=ホテル・ラトゥルアッサン)
 12月のラバトは雨が多いらしく、今日は最高気温が17度、最低気温は7度であった。到着したカサブランカの空港から終日、雨が降ったり止んだりの天気であった。
 旅行3日目、12月3日は、昨日と打って変って朝から晴天となった。この日以後ずっと旅行中の天気は良かった。今日の予定は、午前中にラバトを代表する「モハメッド5世廟」(写真B=ムハンマド5世廟ともいう)を見物し、その後、ムーア様式の代表的建築である「ハッサンの塔」を予定通りに見学した。約300キロを5時間ほどバスで北東方向に走り、世界遺産のティトゥアンを観光、更に約60キロ北へ向かい、ジブラルタル海峡とイベリア半島を望む街タンジェを目指した。バスでかなりハードな旅であった。順を追って見物箇所を列記すると、午前8時にラバトのホテルを出発するために、午前6時に呼び起こしの電話が鳴り、午前7時には定番のアメリカン・ブレックファストをとり、定刻8時に出発して、ラバトの世界遺産であるムハンマド5世霊廟(モロッコをフランスからの独立に導き1961年に没した前国王ムハンマド5世の廟で、1973年に完成)を見学した。廟の内部は撮影が可能である。これを終えて、道をはさんですぐにある、これも世界遺産ハッサンの塔を見学した。これは未完の尖塔(ミナレット)で、ヤークブ・マンスール王によって12世紀末に建築された。高さが44メートルもあるが、彼の死によって中断された。モロッコにおけるムーア形式の代表的な建造物である(写真4)。
 午前中に見学を終え、早めに昼食をとって次の目的地ティトゥアンへ向い、約4時間30分位で到着した。この街もモロッコの世界遺産に登録されている。ざっと説明をすれば、街の中心に在るハッサン2世広場から、西に新市街、東にはメディナがあって、かつてはスペイン領になったこともあり南スペインの雰囲気が強く、人口約46万人の街である。着いてすぐに新市街のムーレイ・メフディ広場を中心に見学、続いて旧市街にある王宮とスーク(=市場。貴金属のスーク、陶器のスーク、食料品のスーク、衣料や革製品のスークなど狭い地域の旧市街の中でそれぞれ独立したスークがある)を見物した。カリファ王宮は17世紀に建てられた歴史的建物であり、イベリア半島のアルハンブラ宮殿に代表されるムーア風の、モロッコにおける最も顕著な建造物として有名である。
 ティトゥアンを見物した後、西北約60キロにあるタンジェの街に向かい、夕方遅くまでかけてタンジェの街を見物した。日本ではタンジールとも呼ばれている街だ。人口は100万人近く、ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインからのフェリーも多く入港している。前15世紀にはフェニキアの交易港として既に栄え、カルタゴやローマ、ビザンチンなど、その時々に支配者が変わった非常に歴史の古い街である。
 次回はタンジェの街の説明から始めよう。(第二回に続く)
 (註)筆者プロフィール:昭和29年土佐中入学、高二の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、JTBOB会員、神戸市在住。

写真1 エミレーツ航空B777-300(最新鋭) 

写真2 ラバトのラトゥルアッサンホテル

写真3 ラバトのモハメッド5世廟入口

写真4 ラバトのハッサンの塔
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『死者の書』公演のご案内
坪井美香(俳優) 2016.12.26
 2016年ももう過ぎ行こうとしています。皆様いかがお過ごしでしょうか。 先月末に『言葉の海へ』の東京・仙台公演を無事終え、上演を重ねて作品を育 てていきたいとの思いが深まりました。ご観劇くださったみなさま、本当にあ りがとうございました。

2017/01/26,27 19:00開演
(開場18:30) \4,500

銕仙会能楽研修所
(港区南青山4-21-9)03-3401-2285
 引き続いて『死者の書』公演のご案内をさせていただきます。2014年の 初演以来、再演を目指して試行錯誤を続け、今春には原作の全文を語るという 暴挙(?)にも出ました。まったく、なんともやっかいでしかも底知れぬ魅力 を秘めた小説です。創作意欲をそそる圧倒的な力に引きずり込まれるように、 映画、人形、舞踏など、これまでに数多くの才能たちによる試みがなされてき ています。では、私たちならではの表現は一体どこに向かうのか。
 この度、能舞台で、しかも初演は声のみの出演であった観世銕之丞氏の出演 を得て、上演させていただく運びとなりました。折口信夫の不可思議な物語世 界が、橘政愛氏、設楽瞬山氏の奏でる音楽と共に、語り部によって仕組まれ、 立ち現れる銕之丞氏と我ら語り部三人の声、言葉、身体を交錯させつつ、 生も死も、夢もうつつも、時も空間も自在に行き来する、独自の『死者の書』 を創り出します。
 ぜひ、お立会いください。お待ちしております。     
お申込み・お問い合わせ:すずしろ 090-7847-2670
●演出は42回生の笠井賢一氏です。
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2)
二宮健(35回) 2017.01.04

モロッコ地図
 タンジェでは、メディナの中にあるプチソッコ(小さな広場の意)を訪れ、そこから歩いてグラン・モスクの外観を見(ムスリム以外は入れないので)、更に進み展望台へ出てタンジェ湾とジブラルタル海峡とイベリア半島を望見した。ヨーロッパ大陸が目前にあることが不思議に思える場所である。

タンジェよりイベリア半島を望む
 一旦、宿泊するホテル「タンジェ・インターコンチネンタルホテル」へ戻った。御大層な名前で四つ星クラスにランクされているが、日本でのビジネスクラスのようなホテルであり、街の中での交通の便が良いのが利点のホテルであった。ホテルで夕食をとり、これも目的である、タンジェ一番と言われる有名ホテル「ホテル・エル・ミンザ」を訪れた。1930年に建造されたスペイン様式とムーア様式の混合インテリアで、係員から部屋を見せてもらったが、素晴らしいインテリアの数々であった。普通の部屋(ダブルベッド)で約2300から2500ディルハム(DH、1DHは約12円)くらいとのことであった。2時間ほどホテルのバーで過ごしたが、こちらも居心地の良いバーであった。

ホテル・エル・ミンザ内部

同じホテルのバーにて
 旅行4日目の12月4日は、朝8時にタンジェのホテルを出発して約3時間をかけて南下、シャウエンに到着した。山に囲まれた小さな街で人口も約4万人弱と少ないが、家々の外壁や屋根瓦を青い色で塗って、街全体がまるで幻想的な絵のようである。タンジェからは内陸に入った、リーフ地方の山中の街である。1920年にスペインはこの街をスペイン領モロッコとしたが、1956年モロッコの独立によりモロッコに復した。従ってスペイン語を話す人も多い。まだまだ日本人観光客も少なく(2011年現在)、専らヨーロッパからの観光客が多い。人工の割にはホテルも多くある。この日の昼食は街を見おろす山上の「レストラン・アントス・シャウエン」でたべたが、料理は何のことはなかったものの、その絶景に目を奪われた。昼食を含めて約3時間、シャウエンの旧市街の青い街並みを見物した。まるで青の世界の眺望であった。
 この日は、次の目的地ヴォルビリスへ向った。午後に、リフ山脈を越えて、ヴォルビリス遺跡とメクネスの2か所の世界遺産を見物、宿泊地のフェズへ向った。このコースは超ハードなバスの旅であり、上記2か所の世界遺産をゆっくり見るには少しきつかった。(帰国後、スケジュールを作成した旅行会社には旅程の変更を助言しておいた。)メクネスの北方30キロメートルにあるヴォルビリスの遺跡はモロッコを代表する古代ローマ遺跡であり、約2時間しか時間がなかったが、夕日に輝くカラカラ帝の凱旋門とフォーラム、ベシリカ礼拝堂その他を見学した。古代ローマ帝国の西端に位置するモロッコに現存する遺跡として、保存状態が極めて良いことで知られている。これも世界遺産に登録されている。

青の街シャウエンの街角

ヴォルビリスの古代ローマ遺跡
 次にメクネスに入ったのは午後6時近くになっており、この世界遺産登録の街ではマンスール門しか見ることができなかった。これは非常に残念なことであり、前回訪問時にマンスールをゆっくり見ていた私にとってはよかったが、この旅程作成は失敗である。マンスールの街には、これ以外にも素晴らしい見学箇所が沢山あるからである。この門は王都へのメインゲートとして有名な門であり、メクネスの象徴として、この街のランドマークである。ムーレイ・イスマイル王が手がけた最後の建造物としても有名である。
 4日目の宿泊地フェズまで約60キロメートルを約1時間で走破してフェズ・インというホテルに夕刻遅くに到着した。このホテルは、まったく三ツ星クラスにも届かぬ位のホテルで、旧市街にも遠くあまり交通の便も良くなかったし、新市街の外れに位置していた。部屋の浴室の湯が出ず、暖房もきかない散々なホテルであった。(これも旅行後に、もう少し良いホテルを確保すべきであろうと旅行会社に助言した。)但し、このホテルのフロントデスクの女性スタッフは親切で、こちらの問いにも適切な助言を与えてくれてありがたかった。このホテルで夕食を済ませて、街で最高のホテルと宣伝されている「パレジャメイホテル」を見学に出かけた。超一流ホテルを各地で訪ねる訳で、失礼にならない程度に服装を整えるのは一寸だけ面倒である。ホテルにもピンからキリまであるので、宿泊しているホテルに比較すれば本当に雲泥の差がある。豪勢なホテルである。フェズ・エル・バリの北端に立地し、夜遅く訪ねたにもかかわらず、目的を告げると係員が親切に対応してくれて、ホテル内の各所を案内してくれた。時間とお金に余裕のある方には絶対におすすめできるホテルだ。高台にあり、フェズの街を見おろす眺望が素晴らしいホテルである。

メクネスの象徴マンスール門

フェズのパレジャメイホテルにて
 旅の5日目は、フェズで連泊をする為、身軽な服装と持ち物で、終日世界遺産の街フェズを観光した。フェズ市内定番の1日観光のコースである。午前中に王宮(フェズでの国王の滞在王宮)から、ユダヤ人街のメッラー、フェズジャディド通りを歩いて観光した。土産物品や日用品などを売る小さな店が密集している場所をくぐりぬけるように通ってバスに戻り、フェズで最大の庭園で噴水池などがあり2011年にリニューアルした美しい庭園を見物後、すぐ近くにあるレストランで、これも定番料理のチキンレモンのタジンを食した。その後、午後のコースは、楽しみにしていたマリーン朝の墓地を見物した後、ブーシェルード門へ向い、世界一の迷路と言われる、フェズのメディナへ入った。ガイドが居ないとどこをどう歩いたかもわからない小路や街路を、ゆっくりと2時間ほど散策した。カラウィンのモスクや、又、タンネリ、スーク、ダッバーギーンも楽しみ、パプーシュという名物の履物を購入した。パプーシュは、所謂、先端が尖ったスリッパであり、土産品として喜ばれる。皮なめし工場はフェズで有名であり、見物をしたが、その強烈な臭気と、そこで働いている人の、劣悪であろう労働ぶりにびっくりした。

世界遺産フェズ市街を俯瞰

フェズの皮なめし工場
 旅の6日目は、フェズを出発して、モロッコを東西に走るアトラス山脈を越え、雄大な山並みや、荒涼とした砂漠、点在する緑豊かなオアシスなどを眺めながら、約450キロメートルを南下して、約8時間半をかけ6日目の宿泊地エルフードに向かうコースである。先ず、アズルーの街へ向かった。現地人ベルベル人の居住する街で、アズルーはベルベル語で岩を意味する。ここは岩山が多く、又、街のランドマークは、市庁舎近くのグラン・モスクである。バスの車窓から風景を楽しみながら、ミテルドの街へと進む。この街はモロッコでも高山に位置づけられている。雪におおわれたアヤシ山の麓にあって、都市部であるフェズや、エルフードなどの砂漠部の中間に位置している。朝9時頃にフェズのホテルを出発して、特に見物する場所もなく、モロッコの大自然を車窓より楽しみながら、午後5時半頃、メルズーカ大砂漠への入り口の街エルフードに到着した。エルフードのホテルは「リアドサラーム」というこの辺では中級のホテルで、早朝にメルズーカの砂漠の朝日を鑑賞するために宿泊するホテルと考えれば、辛抱出来るクラスのホテルである。日本人をはじめグループのツアー客が多く、それなりに客扱いには慣れているが、建物が古くて広く、自分の部屋にたどりつくまで時間がかかり、備品も古く、食事もあまりよくなかった。(以下次号)
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)
二宮健(35回) 2017.02.03

モロッコ地図
 エルフードのホテルの周囲にはショッピングエリアなども無く、とにかく寝るだけのホテルであったが、地域柄仕方がないと思う。この辺は、安宿は治安が悪く、我々の宿泊したホテルは安全で安心なホテルだと、現地ガイドは言っていた。
 旅の7日目は、早朝4時半に呼び起こしの電話が鳴り、メルズーカ大砂漠の朝日の昇るのを砂漠の中で見るツアーに、朝食抜きで、朝5時に出発した。まだ外は暗闇である。舗装がされていない悪路を約50キロメートルを4WD車で走り、6時前に駐車場に着き、大砂漠を見物した(写真@)。メルズーカ砂漠は、アフリカ大陸北部に広がるサハラ砂漠地帯の一つで、サハラとは「荒れた土地」の意味とのことだ。到着した6時頃も周囲はまだ闇であった。現地ガイドの案内でラクダや砂漠案内人の屯する場所へ移動した。
 有料のラクダに乗って観光するか、歩いて砂漠の日の出の見える場所まで行くか聞かれたので、徒歩での時間を聞くと、片道約30分とのことなので歩くことにした。ラクダを先頭に一行が歩いた。すぐに砂漠に入る。驚くほど、砂漠は眼前から始まっていた。足首までつかるような細い砂を歩くこと約30分、うっすらと夜が明け始めた。ここから朝日を眺めるとガイドが言って、焚火をもやし始めた。少し寒いので暖を取っていると朝焼けが起こり、一斉に周囲が見えてきた。見渡す限り砂の波のような重なりの彼方より、日が昇ってきた。本当に感動的な風景で(写真A)、皆が一斉にシャッターを切っていた。鳥取砂丘も美しいが、比較が出来ない程の砂丘の大きさと途方もない迫力である。これもごくサハラ砂漠の一部でしかないと聞かされると、感動するしかない風景であった。

写真@ 夜明け前のメルズーカ大砂漠にて

写真A 大砂漠の日の出
 見物を終え、同じ道をホテル迄引き返し、朝食をすませて、今日はワルザザートへ向う。西へ約360キロメートル、バスで約6時間30分の行程である。今日の車窓からも、モロッコを代表する景色が展開すると、現地ガイドがお国自慢をする。余談になるが、早朝の砂漠観光で、デジカメで写真撮影の際にシャッターに微小な砂漠の砂が入り、写真撮影が出来なくなったが、予備で持参したもう一台のデジカメに切り換えた。この辺は、私自身の経験から生みだした知恵である。すぐにカメラや予備の電池は手に入らない。海外旅行の際には予備が全てに必要である。  

写真B トドラ峡谷の断崖
 7日目はワルザザードへ向かう旅であるが、先ずバスはティネリールへと向かう。人口は4万人弱の小さな街である。ベルベル人の街である。今日のコースは変化に富んだコースで、「カスバ街道」と呼ばれ、土レンガで造られた大小のカスバを見ることが出来る。カスバとは城壁で囲まれた要塞のことである。そしてまた、途中のトドラ川の水を利用した街道一の美しい緑の映える、トドラ峡谷のオアシスがあり、土色のカスバと緑のオアシスとのコントラストが誠に美しい。このコースの途中には200メートルの切り立つ断崖が続く。モロッコのグランドキャニオンと呼ばれるトドラ峡谷(写真B)へ立ち寄り、ここで昼食をとった。ティネリールの街から、トドラ川の方へ向かいトドラ峡谷に入る。この峡谷はカスバ街道一の景勝地でもある。峡谷に立つ絶壁は、ヨーロッパのロッククライマーの聖地の一つに数えられている。絶壁にへばりつくように、レストランとホテルマンスールという安宿があり、このホテルで昼食をとった。料理は名物のクスクスであった。絶景をバックに写真を撮るのだが、とても岩山全体は人物を小さくとらないと撮れない途方もない大きさである。ホテルの前は美しい川が流れていて、景色が非常に美しい。昼食後、ダデス谷の村々の中で有名なエル・ゲル・ムグナの村を訪ねた。バラで有名な村で、バラ水(ローズ・ウォーター)を買ったが、バラの花自体は春で無いと見られないとのこと。花の時期にはバラ祭り(5月の第1週目の週末)が開かれ、その為に貸切バスが沢山訪れるとのことであった。
 タデス川沿いにバスは更に西へ走り、ワルザザートのホテルに午後5時半頃に到着した。宿泊したホテルは、フアラージャノブホテルであった。四ツ星に登録されているが、実際には三ツ星クラスの程度で、安心して宿泊できるのが売り物の、ビジネスクラスのホテルである。ワルザザートは、アトラス山脈の南に位置し、ドアラ川のオアシス都市であり、モロッコでのサハラ砂漠観光の入口でもある。標高千百メートル位に位置し、人口は約6万弱である。今日7日目のコースは、早朝から大変きつい行程であった。
 7日目の夕食を済ませ、今夜もワルザザートの超一流ホテルの探訪に出かけた。いわずと知れた、ベルベルパレスホテルである。5ツ星クラスとして有名であり、ワルザザート近郊で撮影された映画の出演スターは全てがこのホテルに宿泊しており、その主演映画のポスター等がホテル内に展示されていた。親切なスタッフによって館内を案内されたが、南モロッコ地方で随一のホテルだと自慢をしていた。プロの私の眼からもそれが理解できた。しかし常時、こんな場所でも宿泊客があり、高い料金を支払って宿泊する客は欧米系の客であろう。

写真C アイド・ベン・ハッドウの要塞
 旅の8日目は、ワルザザートを朝の9時に出発して、世界遺産のアイド・ベン・ハッドウを観光した後、北へ向かい、オートアトラス山脈を越えて170キロメートル、約4時間をかけて、マラケシュへ向かうバス旅である。順を追って訪ねた場所を述べてみよう。今日も天気が良く、見物場所も大変特長のある場所だった。
 アイド・ベン・ハッドウは、ワルザザードの西方約32キロメートルにあり、バスだと約30分で到着する。(写真C)古いクサル(要塞化した村)であり、世界遺産に登録された日干しレンガの建物群である(写真D)。ここは映画のロケ地としても過去何作にも使用された場所で、「アラビアのロレンス」や「ソドムとゴモラ」等々の他沢山の映画に使われている。今日の観光地の中でも圧巻の地である。1時間半程度徒歩で見て回り、いよいよオートアトラス山脈を進みマラケシュへ向かったが、途中まだ雪の残った山道を行き、標高2260メートルのティシュカ峠(写真E)を越えた。砂漠側のワルザザートと内陸南部の都市マラケシュとのオートアトラス山脈の分水嶺の峠である。ワルザザートからマラケシュへの道は人気のあるルートで道も舗装されており、車も多くはないが、そこそこの通行量はある。とにかく景色が雄大である。峠を下ると、タデルトの村に入り、休憩をとった。小集落であるが、難路を越えた旅人がやっと一息つける村である。朝9時にホテルを出発して、午後の3時過にマラケシュのホテルに旅装を解いた。マラケシュのホテルはアミンホテルという三ツ星クラスの大型ホテルで、新市街に位置し、日本人旅行者もよく利用するホテルである。マラケシュでは2連泊をする。部屋は古めかしい部屋であるが、浴室の湯が十分に出るのが、疲れた体には何よりである。

写真D 日干しレンガの建物群

写真E ティシュカ峠の標識

写真F 騎馬軍団のショー(マラケシュ)
 マラケシュの旧市街は、多くの街と違って、地元の赤土を使った建物が多く、建物を薄い赤色に塗ることが条例で定められており、複雑に入り組んだメディナの路地は、ピンク色の迷路である。人はマラケシュ旧市街を「ピンクシティ」と呼ぶほどである。1985年に世界遺産に登録された街を巡ることになる。到着した夕刻に、夕食を兼ねて、この街で有名な騎馬軍団によるファンタジアショーの見物をした。有名なショーで、世界各国からの観光客が、夕食をした後に、ショーを行う広場を囲み勇壮な騎馬軍団のショーを見物した。(写真F)
(以下次号)
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4)
二宮健(35回) 2017.03.03

モロッコ地図
 旅の9日目はマラケシュの終日観光である。最初メラナ庭園を訪れた。広い庭と大きな池を有する庭園で12世紀のムワッヒド朝につくられた。庭に植えられた草花や樹々が美しい。その後、バヒア宮殿を見物した。部屋の豪華さと、各部屋を仕切るアーチの形にもこだわりがあって、19世紀後半の、当時の大宰相の私邸から往時の豪華さが想像出来る建物である。その後、サアード朝の墳墓群を見学した。第一、第二、第三の部屋に分かれており、サアード朝(1549年−1659年)の代々のスルタンが葬られている(写真1)。
 9日目の午後は、モロッコらしさが凝縮した、ジャマ・エル・フナ広場を訪ねた。夕刻まで自由時間の為に、広場を中心に周辺のスーパーマーケットも見物した。現地の人が「ジャマ」と呼ぶ広場には、ありとあらゆる屋台が集まり、熱気の渦が巻いている(写真2)。広場は旧市街にあり、11世紀後半にマラケシュに首都があった頃にも、すでに街の中心であったし、古くからモロッコの観光名所として有名である。2009年9月に世界遺産に遅まきながら指定されている。私は、自由時間に広場に面したレストランで昼食をとり、ゆっくりと広場を観察した。又、屋台でしぼりたてのジュースを飲んだり大道芸の雑芸(チップを要求されるので、小銭を用意しておいたが)を楽しんだり、十分に広場の雰囲気を楽しんだ。その後、ホテルへ一度戻った後、マラケシュで有名なホテル・マ・ラマムーニアを訪ねた(写真3)。宮殿ホテルであり、18世紀の建築で、これこそ五ツ星にふさわしい超一流ホテルである(写真4)。日本の近代的ホテルと違って、モロッコの伝統的建築様式である。この日も遅く宿泊先のホテルに帰り、マラケシュの2日間を終了した。

写真1 サアード朝の墳墓群

写真2 夜のジャマ・エル・フナ広場

写真3、写真4 マラケシュの五ッ星

「ホテル・マ・ラマムーニア」内部
 旅も10日目を迎えたが、到着日に降雨があって以来ずっと晴天が続いている。旅の空は晴天が何よりのプレゼントと言える。マラケシュのホテルを午前8時に出発して、エッサ・ウィラへ向かう。マラケシュから西へ約174キロメートル、時間にして約3時間半のバス旅である。訪ねた街エッサ・ウィラも世界遺産に登録されている。紀元前800年ごろのフェニキア時代には既に港町として栄えており、歴史が古く、世界中から観光客が訪れるモロッコを代表する観光地の一つである。ポルトガル時代の城壁が旧市街のメディナを囲んでいて、私はスカラの北稜堡の展望台へ行き、この街のメディナとカスバと海を眺めた。スカラは絶壁に突き出した城壁であり見張り台となっていて、ずらりと大砲が並んでいる(写真5)。見物後、ムーレイ・エル・ハッサン広場に戻り、この街一番のにぎやかな広場のレストランで昼食をとった。この街はモロッコ人が国内で一番訪れたい街だということである。この街で有名な土産物は、アルガンオイルである。その後、エッサ・ウィラから、北東へ286キロメートル、バスで約4時間半をかけて、アルジャディーダへ向かった。この街もポルトガル都市の殘跡として世界遺産に登録されている街である(写真6)。ホテルには午後7時頃に着いた。

写真5 ポルトガル時代の城壁

写真6 アルジャディーダのポルトガル都市標識
 今日も強行軍であった。宿泊したホテルは、ムッサフィールという名のホテルで、イビスホテルのチェーンホテルであった。清潔ではあるが、世界的に同規格のホテルで、何の装飾もない。安価だけを売物にするビジネスホテルである。100室規模で海岸に建っていた。但しこの夜は満月で、雲一つない中天に輝く月にひとときの旅愁を感じた。
 旅も11日目といよいよ終盤となった日は、アルジャディーダのポルトガル支配時代に造られた城壁に囲まれた旧市街のメディナを見物した。16世紀初頭、ポルトガル人によって造られたメディナである。メディナの中に世界遺産がある。アルジャディーダのポルトガル都市、ポルトガルの貯水槽、ポルトガル支配時代の教会、稜堡の展望台が残っている。この街は、1502年から1769年の間、ポルトガルの支配下にあったため文物共にその影響が色濃く残っており、貯水槽は特に有名で、内部は30メートル程の正方形であり、1542年に倉庫として使われていたものを、水を断たれた時の為に貯水槽に改造したものである。入口は小さいが、地下は巨大な空間となっており、天窓から明かりをとっている。今は水溜りしかないが、昔はこの巨大な空間に人間の腰あたりまで水を溜めていたそうだ。地下空間に残された建物の柱も美しい。この街のメディナはそんなに大きくはなく、純白の建物の多いスークを見物した。その後東約100キロメートルにある、この国一番の大都市カサブランカへ約1時間半かけてバスで走り、午後早い時間に市内に入り、すぐにカサブランカ市内を観光した。

写真7 ハッサン2世モスク
 先ず国内最大のモスクであるハッサン2世モスクを参拝した(写真7)。比較的新しく、1,986年から8年かけて建造し、1993年に完成をした。大きさでは世界第7位のモスクであるそうだ。とにかく巨大であり、日本の宗教建築でも比較できる大きさはないと思った。内部は新しいために、きらびやかで豪華である。カサブランカは人口が約415万人、カサブランカとは「白い家」の意味であり、モロッコの経済の中心地である。市の中央にある、ムハンマド5世広場を見物した。市庁舎や裁判所、中央郵便局などが集まる大きな広場で、市の活気が漲っていた。午後4時半頃にカサブランカのリボリホテルに着き、小憩をとった。立地の良いだけの四ツ星ホテルで、1泊するだけのホテルという感じである。総じて今回のツアーで利用したホテルは、三ツ星か四ツ星クラスで、宿泊するには安全で合格点であるが、訪ねた一流ホテルと比較すれば随分と見劣りがした。これは料金的なことであり、日本とて同じことが言える。しかし、それはそれとして、モロッコの世界遺産の数々や、各地の文物、風景は心に残る印象を私に与えてくれた。

写真8 リックス・カフェ内部
 第11日目の夜、モロッコ最後の夜は、旅の土産話に、前回は訪ねなかった、米映画「カザブランカ」の舞台を模倣して造られた観光地、映画と同名の「RICK’S CAFE」 (リックス・カフェ)を訪ねた。日本人のモロッコに対するイメージは、1931年日本公開の映画「モロッコ」や、1946年日本公開の(製作は1942年)「カサブランカ」によるものが大きいと思う。ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演の「モロッコ」もそうだが、ハンフリー・ボガード(リック・ブレイン役)、イングリッド・バーグマン(イルザ・ラント役)が演じる「カサブランカ」は、ラブロマンス映画として大ヒットしている。その映画の中で、リックの経営する酒場「リックス・カフェ・アメリカン」で二人が偶然再会する場所である。パリでの思い出の曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が流れる酒場である。映画のストーリーは御存知であろうが、何とこの映画はカサブランカはおろかモロッコですら撮影されておらず、全てハリウッドの製作である。酒場のセットをそのまま再現して、カサブランカで観光用に建設して、その名も同じく、リックス・カフェとして世界中から観光客を集めている(写真8)。そんなことを知ってか知らずか、嬉々として写真撮影をしている。料理と酒はまあまあだが、凝った内装で、ピアノ演奏も同じように弾かれて、料金は結構高かったが、映画ファンや、又話のたねにしたい人には、市内で夜の観光にはもってこいであろう。(一応予約を取って訪ねたほうが良い。)ほろ酔い気分でモロッコ最後の夜を過ごし、夜遅くホテルへ帰った。
 帰路は往路の逆コースで第12日目にカサブランカを出発して、13日目に予定通り関空に帰着した。仲々に印象の強い、モロッコ一周の旅であった。(終)
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ヨーロッパ・パーティ事情
竹本修文(37回) 2017.04.18

筆者近影
 ヨーロッパへは1977年に羽田から行った時から37年間は毎年1〜3回は行きましたが、ここ2〜3年は計画しても身内の不幸が続き間際にキャンセルが続きました。今年も9〜10月にイギリス在住の友人と東欧を鉄道旅行する計画ですが、友人が景色が二重に見える病気になりキャンセルの気配濃厚です。鉄道旅行はニューヨークの9/11テロ以来駅の荷物預り所の閉鎖が続いて、駅のトイレとロッカーへ行くのにX線検査などの空港並みの設備工事が完成するまでは旅行しにくくなり、レンタカーは家内が反対するようになり、個人旅行はやりにくくなりました。
 私はイギリス・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・スペインはかなりの田舎まで何回も訪問しましたが、アイルランド・ポルトガル・イタリア・オーストリア・ハンガリー・チェコは5〜10回程度、モスクワ・スエーデン・スロバキア・スロヴェニア・クロアチア・ボスニア・モンテネグロなどは1〜3回です。
…………
 ロンドン駐在時代は商売には関わらず、技術交流の名目で、正式のパーテイーを何回も取り仕切ったり、招待されたりした経験が豊富です。日本でも半蔵門の英国大使館のパーテイーに参加したし、フランスの経団連みたいな団体が東京でフランス式パーテイーを開催した時にも夫婦で招待された事もあるので、特に日本と違う所を書きます。
1.アペリティーフ(食前酒)
 ・イギリスでは一般的には招待状に、「カクテル 18時」などと表現する事が多い。アペリテイーフというフランス語を嫌って19世紀にアメリカ人が作ったとされるカクテルという言葉を使うのだろうか?
 ・パーテイー会場の受付を通過すると、テーブルも椅子もないBarに通されて食前酒を頂く、高級な所ではWelcome・Champagne、一般にはイギリスはジン&トニック、シェリー、ベルモット、キール、カンパリ ・ソーダ。ウイスキーはスコットランドと日本以外では食事中には飲まないが、食前酒として食事の前のカクテルの時間帯に飲める。但し、ストレートか氷の無い水割りかオンザ・ロックで、氷が入った水割りは日本にしか無い。ビールは飲めない。アルコールが飲めない人はオレンジジュースやジンジャーエールなど。招待客が一斉に到着する事は無いので、来た人から飲み始める。立って自由に動き回れるので初対面どうしでも知り合える。大勢の時はホスト&ホステスまたは委託されたレストランのフロア・マネージャーが座席票を配布する。
 ・招待客が揃ったら、ホスト&ホステスがDining・Roomの入り口立って招待客一人ひとりに握手しながら歓迎する。人数が30人程度なら座席を指さしして教える。座席はどうぞご自由に……という事は、割り勘や会費制の場合以外は無い。
2.料理

1983年ロンドン駐在員時代
秘書Yvonne嬢とワイン
 ・料理のコースは5コース,7コース,9コースで、ヴェルサイユ宮殿のルイ十四世の食事に倣ったウイーンの神聖ローマ皇帝は昼食でも9コースだったそうで、英仏でも豪華版は9コース。前菜and/orスープ、魚料理+白ワインから始まり、シャーベット(寿司屋の生姜みたいなもの)で口直ししてから肉料理などのメインコース+赤ワインになる。メインコースが終わると、チーズ+ワイン、デザートまたはソーテルヌ等の甘いデザートワイン、ポルト酒、ブランデーと続き、コーヒーで終わる。
 ・スピーチは、メインコースが終わった頃から、ホストから始める。食って飲んで満足した後なので、客も静かに耳を傾ける……そしてスピーチが終わるたびに乾杯する。日本の皇室主催の宮中晩さん会もメインが終わったあとで、天皇がスピーチを始め、終わったら乾杯する、そして招待客が同様に……。ヨーロッパの民間のパーテイーでは、招待客の中で一番偉そうな人が立ち上がってホスト&ホステスに感謝のあいさつをして、彼らを褒め称えるスピーチをする。これは事前に予定されている。しかし、予定していなかった方々が素晴らしいスピーチをして盛り上げる……これは日本にはなさそうだ。
 ・日本の一般のパーテイーでは、例えば結婚式の披露宴では乾杯までにスピーチがあり、新郎 ・新婦の友人などのスピーチは後で食べながらやることが多くて、やかましくて聞こえなかったり……「乾杯したら無礼講」が普通なのでスピーチは早くやっておかないと誰も聞かなくなる……「日本人は酔うまで飲む」のだから仕方ない?高知県はこの傾向が最も強い所のように思います……土佐弁が分からない人には喧嘩しているように聞こえるらしい……。
 ・日本ではパンにはバターが付いてくるが、フランス、イギリスでは朝食時のみバターがつくが、昼食 ・夕食には付かない、パンに付けるならご馳走のソース。イタリアではフランスに隣接するピエモンテ州はフランス式、その他は朝食だけでなくパンにはエキストラヴァージンオイルが一般的なように思う、特にトスカーナから南はオリーブオイルだと思います。
 ・日本人が食事中に嫌がられるのは、口から発する音、飲み物をすする(Sucking)音、スパゲッテイーなどをズルズルと吸い込む(Sucking)音。Suckingは非常に嫌がられる。イタリアの中を日本のツアーで行った事があるが、食事は日本人だけの個室だった、スパゲッテイーをSuckingして他の客に迷惑をかけるからだそうだ。「スパッゲッテイーはお蕎麦ではない!」
3.ワイン

1807年ロマネコンティの丘訪問
 ・イングランドはビールの国であり、日頃はビールで食事をする人も多いが、正式のパーテイーとなればワインだけである。
 ・日本人がよくやる間違いは、ワイングラスをゆすぶってTastingをする事、ホスト&ホステスは予算と相談して選んでいるし、レストランは飲み頃にしてサーブしているのに客が何か不満なのか?心配になる。Tastingは金を払った人がやるものであり、会費制でない限りやってはならない。
 ・ヨーロッパのパーテイーでのマナーは、ワインのサービスはホスト ・ホステスまたは委託されている店の人だけで、客同士が注ぎあう事はないので、あちらの人たちは、「日本人を招くときは、彼らの前にボトルを置くな……彼らは勝手に酔う迄のむ……!」とこぼしていました。
 ・パーテイーに招待された立場のテーブルマナーの第一は、男は近くの女性のグラスには常に注意を払い、少なくなったら「もう少し如何ですか?」と声をかけて、必要ならサービス係に合図する。女性は控えめな人が多くてグラスを空にして欲しがる事をせず1/3とか1/4とか残すように躾けられている。客同士が注ぎ合う事はやってはならないし、日本でよく見かける、女性が男性に注ぐのはもってのほかです。
 ・日本では、自分のグラスは空になっても手酌は出来ないので隣の人に「一杯いかがですか〜?」と勧める、そうすれば注いでくれる。つまり、「飲みたいときは他人に注ぐ」
 ・食前酒と食後酒は別として、食事中のワインは食事を美味しく頂く為に選んで戴くが、日本人は酒が主役で食事は「酒の肴」になる傾向がある。割烹などでは、さんざん飲んだ後で、「お食事は、お茶漬け、茶そば……がございます」とか言われて……「それじゃ〜今まで食べたのは食事じゃ〜ないのか〜」と思う。外人客を招待した時に通訳していたら……お食事」は何と訳すのか?一人で噴出した事があります。
4.ディジェスティーフ(食後酒)等
 ・コーヒーは「寿司屋のあがり」と同じでお開き。コーヒーの代わりに紅茶というオプションは紅茶の国イギリスでも無い。西洋料理の先進国イタリア、フランスに従うので、紅茶はありえない。
 ・コーヒーにミルクを入れるのは朝食時のみで、その他の時間帯や昼食 ・夕食のご馳走の時はミルクは入れない。砂糖は入れる人もいる。
 ・日本では前菜にチーズが出る事があるが、ヨーロッパでは料理に使うチーズではなくて、単品で食べるのは濃厚なチーズ+濃厚なワインで、メインコースの後と決まっているようだ。「メインコース料理とワイン」が中心であり、これより濃厚な食べ物とワインはメインコースの味に悪影響があるので、前には出てこない。
 ・爪楊枝はヨーロッパにもあるが、人前での使用はダメ、トイレで使う。
5.その他
 ・イタリアはガリバルデイが統一したと言うが、文化的統一は考えた事も無いと思いますね〜文化的には大先進国の集合体ですよね〜?ワインのブドウでも世界800種の中の300種がイタリアだから……覚えられない。日本も酒は各地の地酒があるが、最近ではどこへ行っても山田錦志向かな〜?
 ・日本のホテルのテーブルマナーはイギリ屏風が始まりのようだが、ヨーロッパではメデイチ家のカトリーヌ ・ド ・メデイシスCatherine ・de ・Medicisがフランス王アンリ二世に嫁いだ時がフランス料理の基本の始まりで、イタリアで発明されたテーブル ・フォークがフランスやイギリスに伝わってきたのもこの時だったような気がします。
 ・11世紀に元ヴァイキングでフランスのノルマンデイー地方に定住したノルマンデイー公国のウイリアム征服王がイギリス王になってから、イギリス王家の食事のマナーになり現在まで続いている。しかし、庶民のイギリス料理はまずいまま20世紀まで続いた。イギリス皇室は15世紀に百年戦争に負けるまでフランス語を話していたし、言葉も牛(ox/cow)、羊(sheep)、豚(pig)と英語はあるのに、食べるときはビーフ、マトン、ポークとフランス語で呼んでいる。フランスもイタリアもテーブルマナーは緩やかだが、イギリスは真面目に守っている。フォークを使うのが更に遅れたのが野蛮人ゲルマンでドイツの伝統料理店では今でもナイフで食事をしている。

JAXA時代の記念写真
 ・ヨーロッパはパーテイーの最後はダンスをする、若い頃は社交ダンスをやった事はあるが、苦手だった。30年ほど前から社交ダンスよりはデイスコが流行っていて、会社のパーテイーでも従業員は別人のように踊る……
 ・JAXAは、種子島や鹿児島からロケットを打ち上げる予定が決まると近隣6県の漁業団体に操業休止のお願いに訪問するが、高知県は特別で大量の酒を飲まなければ話が進まないらしい ……
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《編集人より》愚娘の結婚披露宴のワインの自慢をしたら、1801年に日本ソムリエ協会の一次試験を合格した新会員の竹本さんより、きつ〜いダメ出しが届きました。ワインを抱え込んで離さない工事屋の認識とあまりにもかけ離れていたので、ご本人の了解を得て掲載させていただきます。皆さんも反省してください。
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雑感「地域コミュニティ」
水田幹久(48回) 2017.04.28

 4月は満開の桜の下で、新入園、新入学、新入社の人達の姿を見て、元気を分けてもらえる季節であり、前向きな気持ちも湧いてくる。それに比べて年末は、寒く、暗い天候でもあり、その年を振り返り反省するなど、どこか後ろ向きな気持ちに覆われる。
 毎年年末に、日本漢字能力検定協会は、その年の世相を表す漢字1字を発表する。昨年は「金」であったが、過去にどんな字が選ばれてきたか、ほとんど記憶に残っていない。そんな中で東日本大震災があった2011年に選定された「絆(きずな)」は、今でもよく覚えている。おそらく他の年の文字には感じられない納得感があるのだろう。大震災で、家族や仲間の尊い命を失うことや、また連絡が取れず不安な日々を過ごした体験は、あらためて家族・友達・恋人・地域の人々との「絆」の大切さを知り、希薄になっていると言われる人間関係の大切さに気づくきっかけとなったようだ。
 最近、この「絆」の大切さをじわじわ感じることが多くなってきた。そのような年齢(高齢)に近づいてきたと言われればそれまでの話であるが、具体的な体験が伴ってくると、否が応でも「絆」の重要性を認識させられる。
 小生は高校卒業と同時に故郷の高知を離れ、就学、就職、結婚、子育てと、転居を伴いながら過ごしてきた。典型的な核家族所帯である。そして、今となっては子供たちもそれぞれ親元を離れ、核家族として別所帯を持っている。
 昨年、九州在住であった義父が他界して、葬儀のこと、残された義母のサポートのことなど、地域の方や近くに住んでいる親戚の方の助けを借りなければならないことが多々あった。これを機に親戚や地域との繋がりの大切さを再認識した。
 そして、今度は高知在住の両親から舞い込んだ依頼が、さらにその認識を深めることになった。両親の住んでいる南国市では、現在でも「ご荒神様」を祭屏風習が残っている。荒神(こうじん)とは土着の神で、人々を災いから救うと信じられている。主に西日本各地の農村に根強く残っている。高知出身者ならほとんどの人がそ屏風習に影響されていることであろうし、小生も子供の頃には「竃様(家庭に祭られている荒神様)」に毎朝供え物をし、粗末に扱うときつい罰(バチ)が当たると脅されて育った。この信仰屏風習?は根強いようで、今でも、年に1回(勤労感謝の日前後)に自治会をあげての祭事が行われている。今年は自分たちが当番だから手伝いに来て欲しいというのが両親の依頼であった。両親とも80歳をとうに超えており、その様な役目を引き受けているとは思いもよらないし、高齢ゆえ行事への参加も控えているのではないかと勝手に思い込んでいた。やむなく妻(女手の方が男手よりはるかに重要)と二人で出かけて行った。
 祭事の裏方を手伝いながら感じたことは、地縁と言うべきか、濃厚な近所づきあいがそこに存在しているという事であった。祭壇を設けて神事を執り行うだけでなく、仮設の土俵を作って子供相撲大会(これも奉納のひとつ)を行う。地域によっては神楽も舞う。子供から老人まで参加できるイベントになっている。そしてこの機会を逃さないように、市の防災担当による防災講習も行われた。近い将来、南海地震が起きることが想定されているため、参加者も皆真剣であった。地域の高齢化が進んでいるとはいえ、いざという時に頼りになる人たちの存在を感じた次第であった。それと同時に、老齢の両親が、今でもこの地域との絆を大切に、普通に付き合いを続けてきているということも実感した。
 そう言えば、両親が我が家に1週間ほど滞在したことがあった。両親が来て数日たった頃、弟から、近所の人が両親の姿が見えないことを心配して連絡があった、との電話があった。親元を離れて暮らす者にとって、老齢の両親の安否を気遣ってくれている近所の人達の存在は大変ありがたいことである。
 翻って、自分たちの地域はどうだろう。東京郊外のベッドタウン住宅地で、あまり近所付き合いがないまま、ここまで過ごしてきた。ひょっとしたら両親よりも自分たちの孤立の方が心配である。最近、団地内もリタイヤ組が多くなってきて、皆一抹の不安を感じるのか、有志によるウォーキング大会などの呼びかけも増えてきた。新興住宅街なりの「絆」作りの動きとも思える。煩わしいと避けてきた近所づきあいを見直して、前向きに関わっていくべき時が来ているようである。
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1
二宮健(35回) 2017.11.18

筆者近影 アンコールワット遺跡にて(カンボジア)
 タイの東北部のことを、現地タイではイーサーン地方と呼ぶ。比較的タイ国内でも、経済的に貧しい地域である。今回は、そのイーサーン地方や、北部タイ、中部タイの遺跡巡り紀行である。北部でもチェンマイなどは観光地としても有名であるが、今回訪ねた地方には、まだ日本人観光客は少なく、これからの観光客誘致にタイ政府、タイ国際航空も熱心である。さて、そのタイ国際航空(以下タイ航空と記す)が、日本へ就航して50周年になることを記念して、平成26年に、JTBと共同企画で特別コースを設定した。「タイランド3大王朝物語10日間の旅」である。コースは玄人好みであり、一般受けのコースでなくタイ北部、タイ東北部、タイ中部の有名な遺跡を巡る旅である。案じた通り、リピーター向の、またタイ大好き人間向のツアーに特化したツアーの為に、3ヶ月間に3本設定されたツアーの内の1本は集客不良でキャンセルとなり、あとの2本も10名と9名の参加者であった。それでも、筆者は内容を吟味して勇躍参加した。これは、その旅行紀行である。

写真@タイ航空就航当時のカラベルジェット
 タイ航空が日本に就航した当時は、SAS(スカンディナビア航空)の子会社のような会社であり、機体も、プロペラ機のDC4やシュド・エスト社製の尾部にジェットエンジン2基を配した88人乗りの小型機(写真@)が、台北と香港を経由して、バンコックまで飛行していた。 飛行時間も短縮されていった。ただ、旧国際空港のドンムアンは、タイ航空のハブ空港として、また東南アジアの主要空港としては狭くなり、

写真Aバンコック・スワンナプーム空港
混雑もひどく、2006年にスワンナプーム新空港を開港した。(写真A) 私も仕事や視察、招待などで、昭和40年代後半頃から何回となくタイへ渡航したが、そのたびに航空機は大型化を繰り返し、今回の旅行で関空とバンコック間の往復に使用した機材は、現時点(平成26年現在)で世界最大の航空機エアバス380型機(A380)であった。ターボファン4発の超大型機であり、仕様により異なるが、600席という座席の多さである。(写真B)

写真B超大型A380型機内
 平成26年12月17日水曜日の午前11時定刻に関空を離陸したタイ航空623便は、巡航高度12300メートル、時速785キロメートルで順調に飛行を続け、午後3時半(現地時間)にスワンナプーム空港に到着した。日本とタイの時差は2時間あるので、従って日本時間では午後5時半に到着したことになる。飛行時間6時間半である。先に述べたように、主都バンコックは何回も訪ねており、グループの仲間とは離れ、ホテルへ直行し、翌日から12月26日迄続く長期間のバス旅行に備えて、早めに就寝して休養した。今回の旅行は、タイ北部、タイ東北部(イーサーン地方と呼ばれている)、タイ中部の全行程をバスで巡り、そこに栄えたタイ3大王朝に点在する遺跡を見学するのが主目的である。世界遺産に登録されている3ヶ所の遺跡や、その他に、考古学的には有名であっても日本人観光客には馴染みの薄い遺跡、それ故に、我々のようなタイの歴史が大好き人間には、このコースが好ましく思えて参加をしたのであった。実際、後日この旅行のコースを振り返ってみると、旅の途中、日本人や日本人のグループには一度も出会ったことがなかった。これは私の数百回を数える世界各地への海外旅行経験からしても、稀有のことであった。この旅行で述べるタイ3大王朝とは、スコータイ王朝(1240年頃−1438年)、アユタヤー王朝(1351年−1767年)、トンブリー王朝をはさんで、チャクリー王朝(1782年?−現在まで)の王朝を述べている。

写真C我々9人が利用したJTBの2階建てバス
 旅行2日目の12月18日、早朝7時に宿泊したザ・スコーソンホテル(四ッ星ホテル)を出発した我々グループ9名と現地タイ人の日本語ガイド、運転手の11名が旅に出発した。JTBバンコック支店の2階建ての最新のバスである。(写真C)それぞれ好きな席に座っても、余席が随分ある。他人事ながら、これで収益が出るだろうかと心配をしたくなる。多分、特別設定の、日・タイ有好の為に採算は度外視しているのかも知れない。

写真D幹線道路のドライブイン風景
バスは一路北東に進路をとり、約5時間をかけて、ナコーン・ラーチャシーマーの街へ向かった。なお、全行程にわたって、トイレ休憩は幹線道路沿いにあるガソリンスタンドを中心にして、コーヒーショップ、コンビニエンスストア、ファストフード店などがある。清潔で気持良く休憩できる小広場となっていた。(写真D)ナコーン・ラーチャシーマーは、バンコックより東北255キロメートルにあって、別名、コラートとも呼ばれている。イーサーン地方への入口となる大きな街である。ナコーン・ラーチャシーマーは、タイでは、バンコックに次ぐ2番目に大きな街である。(写真E)

写真Eナコーン・ラーチャシーマー市街
街中のレストランで、ミー・コラート(コラート風焼きそば)などの名物料理を中心にしたタイ料理で昼食をとり、観光を始めることとした。この旅行中の昼食は、大部分がレストランでのタイ料理であったが、中華風の味付けで意外にグループには好評であった。利用したのは、訪れた各都市の大きなレストランであり、多分衛生面でも問題がなく、JTBとしては、安価で手配できたのであろう。ちなみに日本では2000円はすると思うタイ料理が、現地タイの地方都市のレストランでは500円位で食べられるし、屋台でなら、30−50バーツ(1バーツは約4円弱)もあれば食べられる料理も沢山ある。地方へ行けば行くほどに単価は安くなると思えた(2017年4月現在では1バーツ約3円40銭位)。

写真Fターオ・スラナリー像
 タイ北部や東北部は例年10月下旬から翌年2月中旬頃までは乾期に入り、雨道具が心配ない程に晴天が続くといわれている。今日、12月18日も抜けるような晴天で、ナコーン・ラーチャシーマーの気温は摂氏30度である。昼食後、ターオ・スラナリー像(ヤー・モー像)を見物した。(写真F)市の中心部にあり、街の象徴でもある。1826年にラオス軍が街に侵入した際、副領主の妻として、この街を襲撃から守った女傑の像である。見物後に、ターオ・スナラリー夫人が1827年に創建した、ワット・サーラ・ローイも見物した。同女史の遺骨が安置されている。

写真Gタイ北部で有名なピーマイ遺跡
今日、2日目のスケジュールはなかなかハードである。午後にはタイのアンコールワットとも言われるタイ北部でも有数の遺跡のピーマイ遺跡を見学した。クメール様式の美しいスタイルで、約1000年程前に建てられたものである。(写真G)この地までアンコール朝(カンボジア)は勢力を延ばしており、素晴らしいクメール帝国の建造物を残したのである。この遺跡は1901年にフランス人の学者によって発見され、1989年4月に前国王の娘、シリントーン内親王を迎えて、一般に公開された。

写真Hシーマ・ターニホテル夕食時の歓迎会
遺跡内にはピーマイ国立博物館があり(1992年新築)、周辺から出土した美術品や立像等が陳列されている。陳列物は何の制限もなくすぐ近くで見ることが出来た。2日目はこうして終わり、ナコーン・ラーチャシーマー市の新市街入口近くにある、高級ホテルのシーマ・ターニホテル(四ッ星クラス)に入った。夕食はホテルで古典舞踊を見ながら(写真H)であったが、何と私達とガイド、運転手11名だけの為に、踊り子、楽団、ウエイトレスなど約30名のスタッフで歓迎をしてくれた。屋外でのステージでのショーは1時間半も続き、その間に食事をしたが、タイ人のホスピタリティーにグループ全員が感激をした。
 旅の3日目、12月19日も晴天であり、最低気温18度、最高気温30度の予報である。湿度が高くなく、そんなに暑くは感じない。ナコーン・ラーチャシーマーで連泊をする為に、軽装備で出発した。連泊をすると楽に見学できる利点がある。今日は、前述のピーマイ遺跡とほぼ同時期に建立されたとみられる、近郊のパーム・ルン遺跡公園、ムアンタム遺跡公園、パノム・ワン遺跡を終日見学することになっている。これらの遺跡群は、日本人でも好事家か、考古学の専門家などが訪れることがあっても、日本人観光客が訪れることは少ない遺跡群だが、タイでは、ピーマイ遺跡などと同時期のアンコール朝の大遺跡として有名である。沢山のタイ人観光客がこの日も訪れて見学を楽しんでいたが、日本人や日本人の観光グループには、一度も出会わなかった。
(以下次号へ続く)
筆者プロフィール:
 昭和29年土佐中入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家・JTBOB会員。神戸市在住。
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2
二宮健(35回) 2018.01.02

筆者近影 ウドーン・ターニーの露天食堂にて
 パノム・ルン遺跡はカンボジア国境付近にあり(写真@)、ピーマイ遺跡や、カンボジアのアンコール遺跡と共に、アンコール王朝時代に建てられた、クメール王国の神殿跡である。この遺跡は2005年に17年にわたる修復を終えて、大神殿がかつての威容をしのばせる姿に復活した。(写真A)
 パノムとは「丘」を意味しており、この神殿から眺める風景はタイの農村風景であり、その先には、カンボジアとタイの国境である、ドンラック山脈があり、山を越えるとそこはカンボジアである。寺院は402メートルの死火山の丘の上に建造されている。この神殿のレイアウトは、入口を入ると長さ160メートル、幅7メートルの石畳の参道があり、道の両側には70基の灯籠があり、進むとナーガ(蛇神)に護られた橋がある。

写真@パノム・ルン遺跡

写真Aパノム・ルン神殿群の一部
ここから急な坂道の参道を丘に登ってゆくと神殿の前に着く。神殿正面入口上部に飾られた「水上で眠るナーラーイ神」のレリーフがある。縦66メートル、横88メートルの回廊に囲まれた神殿は壮大で、内部にはヒンドゥ教の神、シヴァの乗り物の牛が祀られている。外壁には多数のクメール様式の宗教装飾がほどこされていて、壮麗である。

写真Bムアン・タム神殿内の人工池
 グループは、続いて、パノム・ルン遺跡より5キロメートルほど南東にある、ムアン・タム遺跡を見学した。10世紀から11世紀頃に建立されたヒンドゥ寺院である。120メートルと170メートルのラテライトの塀に囲まれた中には大型の塔が並んでおり、遺跡公園の中には大きな人工池があって(写真B)、ここから見る遺跡も美しい。言い伝えによると、往時には、ムアン・タムの神殿に詣でた後に、パノム・ルンの大神殿を参詣したとも伝えられている。

写真Cパノム・ワン遺跡の大仏塔
 遅い昼食の後に、ナコーン・ラーチャシーマーの市内から北東約20キロメートルにあるクメール様式の寺院、パノム・ワン遺跡を訪ねた。創建時はヒンドゥヘ寺院であったが、後に仏教寺院になったようである(写真C)。ナコーン・ラーチャシーマー県にあるクメール遺跡の中でも、規模も大きくて修復もされていて見ごたえがある。但し個人旅行で行く場合は足の便が悪いようだ。
 前述したパノム・ルン遺跡とムアン・タム遺跡はブリーラム県に属している。この県の主要なクメール遺跡である。この日も日本人や日本人グループに出会うことはなかった。ナコーン・ラーチャシーマーのホテルには午後6時半頃に帰りついた。

タイ王国主要部
 旅の4日目、12月20日、今日はナコーン・ラーチャシーマーより、コンケーンを経由して、東北部のラオス国境に近いウドーン・ターニーの街へと北上する。ナコーン・ラーチャシーマーよりコンケーンまで約188キロメートル、コンケーンよりウドーン・ターニーまで約122キロメートルで、計310キロメートルをバスで走行するコースである。午前8時にナコーン・ラーチャシーマーのホテルを出発したバスは、気温30度、快晴の国道2号を右手にコラート高原を見ながら北上してゆく。もうこの辺までくると行きかう車はトラックや小型貨物車が多く、めったにバスには出会うことがない。圧倒的に多いのがトヨタ製の車である。タイ主都圏にくらべると、人々の顔や服装もずっと素朴になってくる。北上すること約4時間でコンケーンの県都、コンケーン市に着いた。人口約17万人である。

写真Dコンケーン国立博物館内部
 我々は、ここでコンケーン国立博物館を見学した。あまり聞いたことのない街であったが、この国立博物館(写真D)は大変素晴らしかった。1階と2階には、手に取るような近さに、コンケーン周辺で出土した仏像、クメール様式のレリーフ、土器などが陳列されていて、ここも貸切のように誰もいない中で充分に見学出来た。館に接する庭には、バイ・セーマーと呼ばれている聖域を示した石板が目の前すぐに多数展示されており、日本の神社の神域のようであった。この博物館を見学出来たことは、望外の幸せという感がした。昼食をコンケーンでし、更に北上して、ウドーン・ターニーの大型ホテル(三ツ星クラス)バーン・チアンホテルに午後6時半頃に到着した。このホテルで連泊して近郊を見学する予定である。旅行中でこのホテルが一番悪かった。良いホテル(つまり高額なホテル)の中に、良くない低額のホテルを入れて、旅行会社は価格のバランスを計っているのだろう。とは言っても当地では指折りの良いホテルらしい。
 この日の夕食は欠席して、ウドーン・ターニーの有名なナイトマーケット(夜市)を見物に行った。この街は市内で人口約16万、広域市域で人口が約40万人と言われており、ラオスの首都ビエンチャンと指呼の距離であり、定期バスもビエンチャンとの間で1日に7本も出ている。マーケットは、ウドーン・ターニーの駅のすぐ近くにあり、大きな夜店街となっており、街の人々や欧米等からの観光客で賑わっていた(写真E、F)。

写真Eウドーン・ターニーの夜市

写真Fウドーン・ターニーの夜市写真
衣料品、民芸品、運動品店、装身具、漢方薬品店、食料品店、青果店、食堂等々、アーケードには数百軒もの店が密集しており、神戸でいえば、三宮駅から元町駅までの高架下商店街を数十倍したようなナイトマーケットである。イーサーン地方では最大の夜市である。ホテルでの夕食を欠席していたので、夜市の中の食堂ばかりが集まっている大きな屋台街で、現地の麺を使用した汁ソバを食べてみたが、ラーメンのような味で美味であった。
 3時間近く夜市を見物して、小型オート三輪車(トゥクトゥクというタイの代表的な庶民の乗り物)にてホテルに戻った。その帰り道、トゥクトゥクの後方すぐの所で何やら黒い大きいものの気配がするので、ふり返って見ると、大きな象が歩いている。象を使う人も見えないのに、象がゆっくりと街の夜更けの大通りを歩いている。人通りは少なくなっているとはいえ、誰もそれには驚かない。こちらがびっくりしてしまった。
 この街はかつてのベトナム戦争の時に、アメリカ空軍駐留の街として発展し、ベトナム空爆の基地として有名であり、ある意味での、タイの“負の部分”を背負う街でもある。しかし、その関係から街は拡大し大きく発展もした。

写真Kウドーン・ターニー市内のNo.1ホテル“センタラホテル”
 旅行5日目は12月21日、今日も晴天だ。ウドーン・ターニーでもう1泊するため、軽装で出発。いつものことながら、連泊すると旅は楽である。同行をしているタイ人のガイドとも、グループの人々は打ちとけてきて、日本語で冗談もとびかっている。バスは午前8時にホテルを出発して、このコースで初めての世界遺産「バーン・チアン遺跡」の見学に向かう。ウドーン・ターニーの東約45キロメートルにあり、1992年に世界遺産に登録されている。この遺跡が発見されたのは1966年のことである。発見当初は紀元前7千年から3千年前の遺跡とされ、世界最古の文明の一つとされたが、ラジオカーボンデータによって紀元前2千百年頃から紀元2百年頃の遺跡と推定されるようになった。

写真Hバーン・チアン国立博物館
 発掘現場は、バーン・チアン国立博物館から徒歩10分位にある、ワット・ポー・シーナイ境内である。ここで発掘された土器や、タイ各地で出土した遺物が、国立博物館(写真H)に展示されている。この博物館は2012年に拡張されており、館内には、ジオラマで展示された発掘現場も再現されている(写真I)。館内では、紀元前に製作された、バーン・チアンの独得模様のあるやきもの(写真J)など、タイの貴重な文物が展示されており、ここでも目前に展示物を見ることが出来て、至福の時間を過ごせた。また、近くの村では土産物用の、大きなものから小さなものまで、バーン・チアン独得の絵付けをした焼き物が売られており、私もスーツケースに入れられる小さい焼物を買った。遺跡見学後、ウドーン・ターニー市内に帰り、市内で一番と言われている、センタラホテルのレストランで豪華な昼食(写真K)をとって、午後の見学に向かった。

写真Iバーン・チアン国立博物館内のジオラマ

写真Jバーン・チアン国立博物館の展示品
(以下次号へ続く)
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3
二宮健(35回) 2018.01.21

筆者近影・写真Eプールアリゾートにて
 この日の午後は、ウドーン・ターニー北西約64キロメートルにある、プー・プラ・バードの見学に行った。奇岩・奇石の並ぶ風景(写真@、A)に圧倒される。ここでも先史時代から人が住んでいたと、現地の英語ガイドが説明をしてくれた。その根拠として、岩に描かれた絵(写真B)は先史時代のものだと説明してくれた。ここはゆっくり見て回れば優に半日は要する公園で、次から次へと奇岩が現れてくる。洞穴を含む主な場所は、ここ歴史公園専属のガイドが必須である。我々グループも英語ガイド付きで手際よく、主要な場所を約2時間かけて、トレッキングをするように公園内の広い範囲を歩いた。この公園には、日本人が訪れることが少ないために、米、独、仏語を話すガイドは居ても日本語ガイドは居ないということであった。

写真@

写真A プー・プラ・バードの奇岩

写真B プー・プラ・バードの岩絵
 今日も気温約29度の晴天の中での見学を終わり、連泊2日目のウドーン・ターニーのホテルへ帰着したのは午後6時頃であった。
 旅も6日目を迎えた12月22日、今日はバスで西方へ向かう。ドンパャージェン山脈を越えて、ウドーン・ターニーの西南約260キロメートルのピッサヌロークへ向かうのだ。朝の8時にホテルを出発したバスは、タイの最北部を西へ進むのだが、山間部の景色がバスの左右に展開してゆく(写真C)。大きな街もなく、小集落がバスの車窓を過ぎてゆく。目的地ピッサヌロークまでは、山道をウドーン・ターニーからバスで約6時間の道のりである。途中、プールアリゾートという場所に昼前に到着した。(写真D)。ここで昼食の予定である。

写真C タイ最北部の山間部の風景

写真D プールアリゾート
 我々のバスは高原を登るほどに、車内でも段々と冷気を感じてはいたが、昼食のため車外に出ると風が少し強く、これが南国タイかと思う程に寒くて、グループ全員とガイドは、持参した服の中で一番暖かいセーターなどを着用する寒さであった(写真E)。気温は、ウドーン・ターニーの29度から、17度にまで下がっている。一気に12度も気温が下がると体感的には寒さを感じてしまう。
 この辺りは、プールアナショナルパークに指定されていて、ハイキング、トレッキング、登山などでタイ国内では有名な場所らしい。高原の保養地として、ホテルやコテージが点在していて、暑熱のタイの平地とは別天地の場所である。日本の避暑地のような混雑は全くなく、自然そのままの風情がある。ホテルの野外テラスにあるレストランで、余りおいしくはなかったが、山地独特の料理を味わった。峠のレストランからバスは一気に山を下り、今夜から2連泊するピッサヌロークの街へ入った。この街はナーン川に沿って広がっており、スコータイ王朝時代の首都であった。現在は人口約8万5千人で、スコータイ遺跡を訪れる人々の宿泊地の街となっている。

写真F チンナラート仏
(タイ一番の美しい仏像)

写真G アマリン・ラグーンホテル
 我々は、ピッサヌローク到着後すぐに、ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート(ワット・ヤイ)を訪ねた。タイで最も美しい仏像として有名で(高さ3メートル50センチ)、ピッサヌローク地域の公式なシンボルである、チンナラート仏を見物するためである。(写真F)。参拝をする人達がひきもきらずに堂内をうめている。この寺は1357年に、スコータイ王朝のリタイ王によって造られた。ピッサヌの意味は、ヒンドゥ教の神である「ビシュヌ神の天国」とのことだ。また、ロークとは、地球又は世界を意味しているとのことだ。この街はスコータイ時代もアユタヤー王朝時代にも重要都市であり、街の人々も誇り高い人達だと聞いた。寺院見学後に、午後6時頃、市内のアマリン・ラグーンホテル(五ッ星クラス、写真G)に到着した。
 今日は気温29度のウドーン・ターニーから17度のプールア、そして再び29度のピッサヌロークと、気温差の激しい1日であった。宿泊したアマリン・ラグーンホテルは、ピッサヌロークでも最高級のホテルであり、敷地も広くゆったりとしたホテルである。6日目も終わり、グループの仲間も疲れもあって夕食後早い時間に就寝したようだ。

写真H ピッサヌローク郊外
の黄金大仏

写真I シー・サッチャナーライ歴史公園の遠足園児
 旅の7日目、12月23日、今日も快晴である。朝食後8時にホテルを出発し、郊外にある有名な黄金仏(写真H)を見学した後、スコータイ時代の重要な遺跡シー・サッチャナーライ歴史公園の見学である。公園は広大であり、遺跡数が2百以上あるから、いかに大規模かがわかる。従って園内は専用車で巡る。我々が訪ねた日には、幼稚園児が遠足に来ていた(写真I)。
 先ず、ワット・チャン・ロームとワット・チェディー・チェット・テーオを巡った。

写真J ワット・チャン・ローム
の仏教寺院

写真K ワット・チェディー・チェット・テーオ寺院
ワット・チャン・ロームは13世紀の仏教寺院で、象によって囲まれ、ベル型の仏塔が38頭の象で支えられている(写真J)。ワット・チェディー・チェット・テーオはワット・チャン・ロームの向かいに建つ寺院で仏塔が7列に連なっている。そのことから、この名が付けられた。ここは、ヒンドゥ・仏教・ラーンナータイ様式などと頭が混乱するほどに仏塔が建っている(写真K)。中央にはスコータイ様式といわれる、蓮のつぼみ型のチューディ(仏塔)がある。

写真L ワット・マハタートの
大きな仏像
 午前のコースを終わって、昼食後は、このツアーで2番目となる世界遺産スコータイ遺跡を見学した。スコータイはピッサヌロークの西北約56キロメートル、バスで1時間ほどの場所にある。スコータイとは「幸福の夜明け」を意味するとのことで、その名の通り、1238年ここにタイ族最初の王朝が建てられ、140年間と短期間ではあるが、この王朝時代に築かれた寺院遺跡が数多く残されている。このスコータイ歴史公園(ムアン・カオ)に向かい、最初にワット・マハ・タート(写真L)を見学した。14世紀の重要な寺院であり、仏陀の遺骨を埋葬する為に、1374年にラチャシラット1世が建立したと言われている。ビルマ軍の侵攻により破壊されたが、1956年に遺跡の発掘調査が行われ、貴重な文物が発掘された。ビルマ軍に切り落とされた仏頭が長い年月に生い茂る木に持ち上げられ、「神聖木・トンポに眠る仏頭」としてスコータイ遺跡の中でも特に有名である。
 次にワット・スラシー(写真M)を見学した。池に浮かぶ小島にあるチューディー(仏塔)は、スリランカ(セイロン)様式の釣鐘型である。

写真M ワット・スラシーの仏像
 次にワット・トラバン・ングンを見学した。遊行仏の彫刻の見られるワット・マハタートの西側の「銀の池」の西側に、ワット・トラバン・ングンのチューディーがある。 

写真N ワット・シーチェムの仏像
 スコータイ遺跡の見学の最後に、ワット・シーチェムを見学した。この遺跡もスコータイを象徴する寺院である。屋根の無い、32メートル四方、高さ15メートル、そして壁の厚さが3メートルもある本堂内に大きな手で降魔印を結ぶ座仏像(写真N)は、スコータイ遺跡を紹介する際によく掲出される写真である。この仏像は、ラームカムヘーン大王の碑文の中で、「おそれない者」という意味の「アチャナイム」と呼ばれている。
 スコータイ歴史公園は総面積70平方キロもあり、他にも沢山のワットがあるが、今日旅行7日目の午後は、スコータイ遺跡の有名な4か所の遺跡を巡った。かけ足で巡ったが、よく整理をしないと、どれがどの遺跡か分からなくなりそうで、この原稿を記するにあたっても、訪問時刻と写真を照らし合わせながら書いている。
 7日目の夜は、グループ仲間と話し合って、夕食後に全員で行きたいと言うので、バスとガイドを手配して、ピッサヌロークのナイトバザール(夜市)へ行った。ナーン川沿いに広がるマーケットは、ウドーン・ターニーほど大きくはないが、それでもかなり大きくて賑わっていた。
(次号へ続く)
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4
二宮健(35回) 2018.02.25

筆者近影・アユタヤクルーズ船のデッキにて
 グループの仲間は旅にも慣れ、北部タイの商品の値段にも慣れて、マーケットでの土産品選びに余念がない。衣料品、靴、装身具など品物が山積みされている。

写真@ パックブンビンの店(ピッサヌロークの夜市)
グループの中に貴石類を使用したブレスレット(腕輪)の専門家がいたので、日本円に換算して3千円位の品を私自身用に買ったが、日本では1万円位で取引されていると聞いて、ちょっと得をした感じである。このバザール(ピッサヌロークの夜市)で有名なのは「空飛ぶ空芯菜(くうしんさい)炒め」の店「パックブンビン」である(写真@)。

タイ王国主要部
 12月24日、旅も8日目を迎えた。天気予報は晴れで、気温は30度との予報である。真夏の気温での南国タイでのクリスマスイブである。いつものとおり、ピッサヌロークのホテルを朝8時に出発したバスは、約300キロメートル南下してアユタヤへと向かう。先ずナコーン・サワンを経由して、ロップリーへ向かった。ロップリーはアユタヤからすると北に位置する街で、アユタヤからバスで約1時間半ばかりの所にある。アユタヤ時代にはナーライ王により王国第二の都市とされた。現在は人口約3万人の地方都市である。ロップリーには、クメール、スコータイ、アユタヤ様式の遺跡があり、サン・プラ・カーンの遺跡を見学したが、ここは猿に占拠された感じのする寺であり(写真A)、街の中にも猿が横行している。「猿寺」としても知られており、ラテラート(紅土)の山のような土塁はクメール時代のものである。昼食後、プラ・ナーライ・ラチャニウェート宮殿(現国立博物館・キングナーライパレス)を見学した。1665年から13年をかけて、タイ・クメール・ヨーロッパの折衷様式で建築された宮殿であり(写真B)、中心にあるのが、ラーマ4世が1856年に建てたピマーン・モンクット宮殿である。アユタヤ王朝時代の仏像やクメールの美術品、ラーマ4世の遺品などを展示した博物館として使用されている。

写真A ロップリーの
サン・プラ・カーン遺跡(通称「猿寺」)

写真B キングナーラーイパレス(ロップリー)

写真C クルンシーリバーホテル(アユタヤ)
 昼食をはさんだ短時間のロップリー見学を終え、バスは更に南下してアユタヤへと向かった。もうバスは最終地バンコックまであとわずかな地点まで進んでいる。ロップリーからアユタヤまではバスで約2時間かかり、午後4時過ぎに、アユタヤの一流ホテルであるクルンシーリバーホテルに到着した(写真C)。

写真D 真夏のサンタクロース(アユタヤ)

写真E ライトアップされた
アユタヤ遺跡の一部
このホテルは築20年であるが、その割には手入れが良く、ホテルスタッフも親切である。今日12月24日はクリスマスイブ。ヨーロッパ各地の雪のクリスマスマーケットは、広い範囲に何回も訪れた経験があるが、気温32度の暑い国でのクリスマスイブは初めてである。それでもホテルでは、雪の降り積もったクリスマスツリーで演出をしていた。また、サンタクロースも登場して(写真D)、賑やかにクリスマスイブを祝っていた。この日の夕食はタイスキであり、久し振りに鍋を囲んで、グループ全員が舌鼓をうった。

写真F クリスマスパーティー会場
夕食後に、このツアーでは3番目となる世界遺産「アユタヤ遺跡」のライトアップを見物に出かけた(写真E)。我々グループの他には、地元の人がチラホラと遺跡公園には居たが貸切り状態で、ライトアップされた寺院群を鑑賞した。日本から持参した小さなLEDの懐中電灯と電池式の蚊退治機が役に立った。ホテル帰着後は、グループから別れて、有料のクリスマスイブパーティに深夜まで参加した(写真F)。
 いよいよ旅も終盤を迎えた9日目の12月25日は、午前中に世界遺産アユタヤを見学して、午後にはアユタヤクルーズ船にてチャオプラヤ河をバンコックへ向かう。 アユタヤはバンコックの北87キロメートルにあり、三つの川に囲まれた中州の島に1350年に建てられた。絶頂期にはカンボジアからビルマまでを領土としたが、1776年にビルマ軍の侵攻によって崩壊した。北のスコータイと共にタイの遺跡都市として有名である。

写真G ワット・プラ・シー・サンペットの仏塔群
 我々は先ず、ワット・プラ・シー・サンペットへ向かった。アユタヤ王朝の守護寺院である。3基のチューディ(仏塔)は、ビルマに侵攻された際に破壊されたが、現在のものは15世紀に建てられた(写真G)。次にワット・マハタートへ向かった。ワット・プラ・シー・サンペットと並び称される重要寺院である。14世紀に建立されたが、ビルマ軍侵攻によって破壊され、木の根に取り込まれた仏像の頭部(写真H)とレンガ積の仏塔が残されている。この仏像の頭部像はアユタヤ遺跡を代表するものとして有名である。1956年にワット・マハタートを発掘した際に多数の仏像と宝飾品が出てきて、当時の栄華がうかがわれたそうだ。発掘品はアユタヤのチャオ・サームプラヤー国立博物館に展示されている。

写真H ワット・マハタート寺院の
仏像の頭部(木の根に注目)
 その後、ワット・ラーチャプラナートを見学した。この寺院は、1958年修復の際に、8代王が兄の為に収めた宝物が発見されている。王位継承に敗れた2人の兄を火葬した場所に、1424年に建立されたと伝えられている。陸路のバスでの見学はここで終わり、このコースで初日の12月17日から9日目の25日までの走行距離は約1500キロメートルに達していた。
 代表的なアユタヤ遺跡を見学した後、午後にアユタヤ近郊のワット乗船場よりアユタヤクルーズ船に乗った。バンコックへ向かう観光船である。船内でビュッフェ形式の昼食をとる。洋食、中華、フルーツと共に寿司などもあって、観光船の食事としては質量と共に豊富である。唯一の日本人グループの我々と同船していた欧米や北欧の人々も満足をしていた。船室の冷房のきいた部屋からも見物できるし、船首と船尾部分に椅子を備えたデッキ展望部もあり、天気の良い日には、チャオプラヤ河の風に吹かれて、両岸、上流、下流の風景が満喫できる構造となっている(写真I)。チャオプラヤ河を下り、ワット・マハタート、ワット・プラケオ、王宮、ワット・アルン(写真J)など、バンコック市内の有名な寺院等を左右に見ながら、バンンコック市内の観光船の終点に到着した。

写真I アユタヤクルーズ船のデッキにて

写真J ワット・アルン(暁の寺)
その夜グループは、夕食をとった後、市内の歓楽街ハッポンのナイトバザールを見物して、宿舎のホテル(最初の日に宿泊したホテル)へ午後10時半頃帰る予定であった。私は、バンコック市内は従前から何回となく訪れているので、グループを離れて、世界中に知られている、ニューハーフショーで有名なショーシアター「マンボ」を見物に行った(写真K)。

写真K ニューハーフショーで有名な「マンボ」(バンコック)
最近郊外に移転して舞台も大きくなっており、ショーダンサーも一流の芸を披露する有名店である。1200バーツ(約4500円〜5000円)で見物でき、旅行社のオプショナルツアーのVIP席料金より安いので、自分個人で見物に行ったが、初めての旅行客には、安全で送迎付きのツアーに、旅行社か宿泊ホテルを通じて申し込むことをおすすめする。私もショー終了後すぐホテルへ帰ったが、午後11時半ごろになっていた。
 グループの9名は、旅行中に病気やトラブルもなく、旅行最終日の10日目に、連日30度前後の暑い国タイから、気温6度の日本の関空に無事帰国した。ありきたりの観光コースではなく、遺跡と寺院を中心にした内容に全員が満足した旅行であった。行く先々で神像や仏像がおだやかに微笑んでいた。
(終わり)
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寛容の精神溢れる玄さん
藤宗俊一(42回) 2018.06.28

Roma サンピエトロ教会

Roma サンタンジェロ城

Roma カンピドリオの丘

Roma (フラスカーティ)

Siena (ブルネッロ)

Monteriggioni 城壁都市

Volterra ヌォーヴォ砦

Firenze (キャンティ)

San Leo コスタンツァ砦
カリオストロの城

Ravenna (ディ・ロマーニャ)

Ferrara エステンセ城

Verona ティンクエッチの丘

Verona (バルドリーノ)

Milanoスフォルツェスコ城(バローロ)
 大町玄さんのご逝去を悼むとともに、ご冥福をお祈りいたします。ご家族の皆様には心より哀悼の意を表します。
 玄さんとのなれそめは50年以上も前になります。1967年大学受験で同じクラスの彼の甥の門脇康裕とともに夜行列車『瀬戸』で上京し、初めて東京に降り立った時、駅のホームに出迎えに来てくれていました。その時は私にも隣家出身の故岡部隆穂(旧姓澤村・35回生)氏が出迎えに来ていたので、挨拶を交わしたくらいで、彼らは代々木上原、我々は早稲田に向かいました。その時、初めてわが学年のあこがれのマドンナ(放送部、夕鶴のつう役)ふみさん(楠目)の長兄(玄兄ちゃん)で、隣村出身だということを知りました。どうも門脇が伯母・甥の関係をひた隠しにしていたようです。
 それから30年以上、殆ど接点がなく、同窓会でお会いしても目礼を交わす程度でしたが、2003年日本城郭協会のイタリア視察旅行の案内人(実際は30回生のパシリ役)として、ワインの名産地巡りで一週間以上同じ釜の飯をくらって、親しくしていただくことになりました。この時の写真を貼り付けてあります。(写真一部は中城氏提供。()書きはワイン名)
 その後、2010年には『向陽プレスクラブ』が再結成され、自称『名編集長(14,15号)』だった玄さんも当然参加してくださり、総会の度にお会いして酒を酌み交わす機会が増えました。ちょっと控えめで(まわりが目立ちたがり屋ばかり)、温和な笑みを浮かべてお酒を口に運ぶ姿には、感銘を覚えざるを得ませんでした。それが、この2、3年体調不良を理由に総会を欠席されるようになり、とても心配をしていましたが、とうとう帰らぬ人となりました。残念なことは『中城や浅井よりうまい』と豪語していた文章をホームページに一度も寄稿して頂けなかったことです。
 玄さんの、あらゆる迫害に耐え最後までタバコを離さなかった生き方は文化を守る殉教者そのもので、本人に寛容さがなければ貫けない生き方です。たった一度の手術で右往左往している出来損ないの後輩をきっと嘲笑っていることでしょう。お世話になりっぱなしでありながら、術後半年検査のため13日の葬儀に参列できず本当に申し訳ありませんでした。きっと、寛容の精神溢れる先輩でしたので、『しょうがないやっちゃ』と苦笑いしながら許して下さることと思います。まだまだ教えていただきたいこともあったのに、理想の先輩を失って本当に残念です。
 最後になりましたが、改めて、大町玄さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
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名編集長:大町“玄ちゃん”(30回)を偲んで
中城正堯(30回) 2018.06.28

2003年 サン・レオ城で故人と筆者
 級友から「6月9日、大町玄君逝去」の知らせをうけ、晴子夫人に次の弔電を差し上げた。

   「突然のご逝去の知らせを受け悲しみに堪えません
    昭和二四年 土佐中学・公文公先生のクラスで同級になって以来
    中高六年間 同じクラス 同じ新聞部でした 
    以来 玄ちゃんは我々の永遠の級長さんでした
    心からご冥福をお祈り申しあげます」


1955年2月、新聞部送別会。前列右から、
横山、大町、西野顧問、中城、千原。
 中学入学当初から“玄ちゃん”は勉学・遊び、そして統率力とも抜きん出た存在で、だれもが認めるクラスのリーダーであった。その才能を磨くため、公文先生に呼ばれた数人が、自宅で数学・英語の指導を受けるようになり、筆者も玄ちゃんから声が掛かり、後からなんとか加えてもらった。そして、新聞部にもさそわれ、中2から入部、企画・取材から、記事の書き方、紙面の割付まで見習った。彼は、放送部にも席を置いていた。
 2015年、高知での卒業60周年の学年同窓会のあと、ひろめ市場の二次会で昔話になり、「中学2年の後期だったか、おんしに応援演説をされて中学生徒会長選挙に出た。番狂わせになり、3年の福島さんを破って当選。中3でもやった」と、話しかけてきた。確かに新聞部だけでなく、生徒会でも、そして遊びでもリーダーだった。中学生徒会では、大町会長・中城議長のこともあった。
 遊びの中心は草野球。ビー玉にゴムひもや毛糸を巻き付けて布で縫った手作りボールで、昼休みなどに夢中で遊んだ。次第に軟式ボール、バット、グローブが普及すると、大町キャプテン以下、潮江や三里に出かけて他流試合も行った。いい加減な審判をすると、相手から「メヒカリ食ってこい!」などと、ヤジられたものだ。

30回生の「卒業記念アルバム」より、
新聞部の写真。(左端に坐る大町)
 高校進学は、公文先生の提案で4クラスの担任を事前に発表、生徒が自由に選択できた。大町・浅井・千原など新聞部一同は多くが公文先生を慕ってそのクラスを希望した。ところが、一大事が発生した。公文先生が突如大阪に転勤することになったのだ。後任は英語の織谷馨先生だったが、まだ若くて包容力が未熟だったために、たちまち生徒とぶつかった。以来、授業内容でもクラス運営でも、衝突の連続だった。
 そのような中で、高1になると大町は向陽新聞編集長となり、1952年5月発行第15号には、格調高く「新生日本の出発に当って」と題する大嶋校長のメッセージをトップに掲げた。ようやく日本独立がかなったのだ。この紙面には「人文科学部生る」の記事もあり、部長は公文俊平(28回)、指導教師は社会思想史・町田守正、日本史・古谷俊夫などとある。当時、社会も学内も活気にあふれており、生徒会と新聞部による「応援歌募集」や、「先輩大学生に聞く会」「四国高校弁論大会」などが次々と企画、開催された。

1960年の関東同窓会記念写真。
後列左から、大町、山岸先生、西内、
前列左から、横山、田所、中城。先生以外は30回生。
 だが、わがクラスの混乱は続き、卒業後も浪人の大学受験内申書が間に合わないなど、問題が続発、学校にも訴えたが打開できなかった。人望の厚かった英語のH先生に相談すると、「私の教え子であり、公にするのはひかえて欲しい。収める」とのことだったが、効果はなかった。当時の大町からの憤懣やるかたない速達が、2通手元に残されている。
 部活にもどすと、従来通り高1で大町たち多くの新聞部員は退部、受験勉強に軸足を移したが、筆者と横山禎夫は高3まで部活を続けた。特に筆者は、部活やクラスの混乱をいいことに、勉強そっちのけで過ごした。向陽新聞は全国優秀五紙にも選ばれたが、受験勉強には全く身がはいらず、私大に進んだ。
 わがクラスからは、結局7名が東大に進み、ちょうど70名クラスの1割を占めたが、担任との軋轢もあって現役入学ばかりでなかったのはやむを得ない。それよりも、東大経済を出た大町が、新聞部や大学での演劇活動をふまえてマスコミをめざし、NHKの内定を得ていたのに、あるこだわりから最後に製造業に転じたのは残念だった。放送界には適材であり、経営管理部門でも、番組制作部門でも、リーダーとなる人物だった。

2003年、イタリア城郭視察旅行で
コモ湖に遊ぶ。

ヴェローナ、ロミオとジュリエットの
舞台で演劇活動を回想。
 富士電機の要職を降りてからは、級友とのお遊びにもよく付き合ってくれた。日本城郭協会主催の、2003年イタリア城郭視察旅行にも加わり、旧知の後輩・藤宗俊一(42回、フィレンツェ大建築学部)の名解説を楽しんでいた。同年秋の沖縄城跡巡りにもご夫婦で参加し、向陽プレスクラブ総会も健康の許す限り参加してくれていた。
 老いても級長さんの役割は途切れず、20号まで出たクラス誌「うきぐも」発行や、クラス会開催の主役であった。また、草野球以来の虎キチで、神宮球場の阪神×ヤクルト戦はよく級友と観戦していた。肺がんと分かってもタバコを手放さず、悠々囲碁を楽しんでいた。今年の年賀状には、達筆で「告知された余命期限を過ぎて三ヶ月経ちました。期限切れの余命を楽しむが如く、慈しむが如く、ゆっくりと面白がって生きております」とあった。達観した心境のようだった。
 告別式の行われた6月13日は、あいにく日本城郭協会総会に当り、筆者の体力では浦安市斎場との掛け持ちは無理だったが、浅井・西内・松アなどの同級生、さらに向陽プレスクラブの公文敏雄会長が参列し、お別れを告げてくれた。城郭協会総会の開かれた神田・学士会館は、奇しくも50年前の晴子夫人との婚礼の場であり、5月には高知からの親族も含めてここに集い、元気な玄ちゃんを囲んで、盛大に金婚式を祝ったばかりだという。50年前、筆者は悪友にそそのかされてクラス代表の拙い祝辞を述べた思い出が蘇ってきた。          合掌。
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大町玄先輩(30回)のご葬儀
公文敏雄(35回) 2018.06.28

故 大町 玄 氏(享年81歳)

筆者近影
 故大町玄先輩(30回)のご葬儀は6月13日午前10時からお住まい近くの浦安市斎場でしめやかにとり行われました。お元気なころの穏やかなお顔の写真が祭壇から参列の人々を見下ろす中、読経、焼香と型どおりに進みます。中城正堯さん(30回)はじめ土佐高校ご同期の方々の心のこもったかなり長文の弔電が紹介され、新聞部が学校生活の中心だったことがわかりました。
 喪主のご挨拶に先立ち、マイクの前に立った愛らしいお孫さんが、「爺じではなく玄ちゃん、これからもずっと見守ってくださいね」と呼びかけると、静かだった式場内にすすり泣きの声が漏れはじめました。故人が「葬儀はごくごく質素に」と言い残されたそうですが、若い方を含めかつての勤務先会社関係者が多数来られていたことはご高齢の方の葬儀としては珍しく、故人の人徳を伺い知ることができました。出棺の時が来ると梅雨空の雲が切れて陽が射しはじめ、彼岸へのよき旅立ちの日となりました。
 今から8年ほど前、新向陽プレスクラブの発足をめざして、諸OB/OGに入会と総会への出席を呼びかけましたが、大町さんからのお返事がホームページに残されていますので改めてご紹介いたします。大町さんはその後2012年、13年、14年と立ちあげ期の総会に連続してご出席、一同を温かく励ましてくださいましたのでご記憶の方もおありかと思います。

大町 玄 (30O)入会・出席***元 富士電機HD***
 原弘道君、松木鷹志君、梅木栄純君が退会とは!事情があることとは思いますがまことに残念。 ずいぶん長いこと逢っていませんから、授業をサボってまで新聞を作ったあの頃の仲間と久しぶりに一献酌み交わしたかったのですが。 プレスクラブ以外に彼らに逢えるチャンスもなさそうですし。 浜崎洸一君が欠席で逢えないのも残念ですが、入会登録はしているようなのでそのうち逢えるだろうとタノシミにしています。 卒業以来多忙を言い訳に、向陽新聞のことは中城君に任せっぱなしでしたが、(そのために自分が新聞作りにどっぷり使っていた頃があったことを忘れかけていましたが、)今回呼びかけていただいたことを公文さんほか世話役の方々に深く感謝しております。 ありがとうございました。」
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その1〜
二宮健(35回) 2018.09.12

著者近影(シチリア島にて)
 2015年にバリ島を訪れた外国人観光客は395万人で、その内の日本人観光客は、約23万人とのことである(州政府観光局)。
 さて、唐突であるが、今迄にバリを訪ねたことのある人の中で、ヨハン・ルドルフ・ポネという1896年にオランダのアムステルダムに生れ、バリ島に長い間住み、バリ芸術、特に美術発展に功績を残して、1978年にオランダで死去した人とか、グスティ・ニョマン・レンバットという名前で1862年にバリ島で誕生して、1978年に116才で死んだ、日本で言えば、文久年間に生れ昭和年代に死去したバリの画家を御存知だろうか?本題から外れるので詳伝は割愛するが、彼等を含む沢山の先達が、今のバリ島の観光の先鞭をつけたことに、異論は無いことと思う。そこまで思いを致して、バリ島を観光する人は皆無に近いかもしれない。私が、初めてバリ島を訪れたのは、1978年(昭和53年)であった。それ以降20回近く訪ねたバリ島の今昔を書いてみた。

1978年当時の
インドネシア入国の査証
 丁度初めてバリ島を訪ねた1978年は、現在76才の私が36才の年齢であり、その年にリリースされた山口百恵の「プレイバックPart2」というシングル版が大ヒットした年でもあった。ちなみに山口百恵は当時19才であった。そんなことから、表題を「プレイバック・バリ」とした。そしてその頃からのバリ島を振り返ってみたい。
 約40年前のバリ島は、未だまだのどかな観光地であった。観光訪問が目的でもインドネシア入国の査証(VISA)が必要で神戸のインドネシア総領事館を訪ねて査証申請をした。
 1978年当時は、バリ島のデンパサール空港へ向うのには、大阪伊丹空港の国際線を出発して、香港で乗り換へて、デンパサールへ向うキャセイ航空利用か、もしくは、同じく伊丹発でシンガポールへ向いそこで乗り換へてデンパサールへ向うシンガポール航空を利用するのが、関西からは便利であった。両航空の使用機材は、今ではほとんどが退役をしているが、当時は新鋭機種の一つであるB-707(ボーイング707型)機であった。

キャセイ航空の
当時のB-707型機

シンガポール航空の
当時のB-707型機
 伊丹と香港間は、所要約4時間30分、香港とデンパサール間は約6時間で計約10時間30分、また伊丹とシンガポール間は約7時間30分、シンガポールとデンパサール間は約3時間で計約10時間30分と、いずれのコースを取っても乗り換へ時間を加えると約12時間を要して、伊丹から、バリ島のデンパサール国際空港へ到着した。ちなみに現在は、関西国際空港から、3274マイルの距離を約7時間20分で飛行している(直行便の場合の飛行時間)。それだけ約40年前からすると、バリ島は関西から近くなったと言える。私自身は1978年から、1979年の二年間に計3回バリ島を訪れた記録が、旅券の出入国欄に残されているが、特に1979年には、「エカ・ダサ・ルドラ」と呼ばれる、バリヒンドゥ教の、100年に一度の盛大な儀式があり、これはバリヒンドゥ教の総本山であるブサキ寺院で行われた。同寺院はアグン火山の中腹に位置し、バリヒンドゥ教の崇拝の頂点に立つ寺院である。当時大統領であったスハルトや多数の要人が参加して、世紀の祭典を祝った。

バリヒンドゥ教の総本山ブサキ寺院
 インドネシアは人口約2億3500万人の中でムスリムが約87%、ヒンドゥ教は1%未満であるが、バリ島ではほとんどが、ヒンドゥ教徒であり、バリヒンドゥ教徒と呼ばれている。現今、ムスリムの島内への浸透も多い。さて、この1970年代の末頃から、観光客が増えてきたように思える。アグン山とブサキ寺院は、バリヒンドゥ教徒にとっては、宇宙の中心と考えられており、私もアグン山に登り、同寺院を外側より拝見をした。ブサキ寺院の背後には、バリ島最高峰アグン火山があって、景色も非常に美しい。さてそのブサキ寺院は、三十数ヶ寺の集合体寺院であり、それぞれの寺院に由緒があるのは日本の神社とも似かよっている。全ての寺院に神が降ってくる一年に一度の大祭はその年によって異る。そのブサキ寺院で100年に一度の大祭が1979年に行われたのだ。さて当時のバリの空港は、バリの英雄ヌラライからとってその名をヌラライ空港と呼ばれていたが、現在の小さいながら機能的な国際空港からは、想像も出来ないバラックのような空港施設であった。

ヌラライ(バリ島)空港旧空港施設
国際空港と呼ばれるには、程遠い空港であった。また当時は、入国管理官は少しでも問題があれば(それも一寸したミス)、当然の如く、袖の下(賄賂)を要求するような施設であった。また航空機に預けた荷物を引き取るターンテーブルでも、ポーターが荷物を奪い合って、チップを要求するような、無秩序な状況であった。このヌラライ国際空港は1969年に、ジャカルタについでインドネシアで二番目に国際空港として開港した。私が初めて訪ねた頃は、空港からホテル迄、暗闇の中を、小型チャーターバスで、ツアーの客は運ばれた(大型バスはまだ運用されていなかった)。
 1978年頃は団体ツアーと言ってもバリ島へのツアーは一団体にせいぜい15名から20名未満であり、新婚のカップルも二組から三組位参加をしていた。私が初めてツアーを引率した時の参加カップル(高松市と加古川市から参加)に既に孫が誕生されている。当時私は36才であり、彼等は25才位であった。毎年年賀状をいただいて、近況を知らせていただいている。いかに時間が過ぎるのが早いかを思い知らされている。その頃のバリ島のホテル事情は、一流ホテルと言われたものは、日本が太平洋戦争の戦後賠償金で支払ったお金で建築された、サヌールビーチにあるバリビーチホテルしか無かった。今も営業をしているが、当時の最高級ホテルの面影はなく、何回もの改築の後、一応五ツ星クラスにランクはされているが普通の変哲のないホテルになっている。しかし当時は欧米を含めてバリを訪れるお金持の観光客や日本からの団体客は、ほとんどがこのバリビーチホテルに宿泊をした。

現在のバリビーチホテル
 バリで忘れられない思い出の一つは、最初にバリを訪ね、バリビーチホテルに宿泊した翌朝、ホテルの前のサヌールビーチに立った時である。朝日が昇り、朝日にまぶしく輝く長大なビーチに椰子の木と、その下に現地の人がまばらに居て、観光客にヨットの客を引いている姿であった。余り商売熱心でなく、本当にゆったりと時が流れており、自然そのままの砂浜であった。浜は海水浴には向いていないとのことで、海水浴客もなく、キラキラと輝く海と砂浜と朝日がそこにあって、何とも言い難い美しい風景であった。今のバリにはのぞむべくもない、自然がまだ残っていた。
 その、一流ホテルと言われた、バリビーチホテルも規模が大きいのに、娯楽施設と言えば、卓球台と雑貨店のような売店と、ゴルフをする人の為に九ホールのプライベイトゴルフ場があるのみであった。それでも、夜を迎へて夕食時には戸外の舞台で演じられるレゴンダンスなどが華やかに演じられて、これも初めて観る私には、大変魅力的であった。その後も20回近くのバリ島訪問では、バロンダンスやケチャ、チャロンアラン、トペンやガンブーなどの踊りに接するようになった。
(以下次号)
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その2〜
二宮健(35回) 2018.09.25

著者近影(シチリア島にて)
 当時は、バリ島の受け入れ旅行社は通称ナトラブ(ナショナル・トラベル・ビューローの略称)というインドネシアの半国営に近い旅行社のバリ事務所が、島内のバスやガイド、ホテルなどを手配しており全てにゆったりとした気風であった。
 その後、日本人観光客が沢山バリを訪れるようになると、あっという間の短期間に日本資本の大小の旅行会社がバリ島を席捲した。なんとなくあの当時のゆったりしたバリを知る筆者には淋しさが残る。つまり旅本来の持つ、余裕が旅には無くなったように思える。何回かバリを訪ねるうちに、上流のカーストである、僧侶階級のカーストの出身であるガイドと親しくなり、このガイドの通称ヌラーさんから、観光のあいまに、例えばケチャダンスの鑑賞を旅行客が楽しんでいる間とかに、バリヒンドゥの概略を教えてもらった。

写真@ 神々へのお供へ
 彼は現地人の旅行ガイドであったが、知識人であった。その後も、沢山のガイドと仕事を一緒にしたが(後述のガイドなどと)、彼のバリヒンドゥ教に関する知識は、私にとって大変バリを知る上に参考になった。最近出版されるバリの案内書にも、彼から聞いたバリヒンドゥ教の教えの一端が述べられている。バリヒンドゥ教には、沢山の神々がいて、多神教と思われているが、そうではないと彼は言ってサンヒャン・ウィディ・ワサのことを教えてくれた。バリには多くの神々がいるが、その中で、ブラフマ(創造神)、ヴィシュヌ(維持する神)、シヴァ(破壊する神)の三つの神と、それぞれ各神の妻である、サラスワティ(知恵と献身の神)、スリ(稲の神)、ドゥルガ(魔女ランダ)の六大神が特に大切な神とされているが、これ等の神々は唯一無二の神、サンヒャン・ウィディ・ワサに属し、バリ島におられる神々は全てこのサンヒャン・ウィディ・ワサの化身であるから、バリヒンドゥ教は多神教ではないと彼は述べた。最初私は、なかなか理解できなかったが、バリ人はそれを信じていることがわかり、そんなものかと思ったが、インドネシア共和国の宗教政策にも沿った考えのようだ(建国五原則パンチャシラの中の唯一神への信仰)。しかし、それぞれの寺院や神々へ供える供物は美しい花やきれいな果物が多くカラフルである。(写真@)

写真A チュルクの銀細工店

写真B バリ木彫の中心地マスの工房
 さて観光の面からみると、今日のようにホテルや見物個所もそんなに多くはなく、私が訪ねた最初の頃(1978年頃)は、観光の定番コースとして、貸切バスでホテルを出発し、キンタマーニへ向った。途中の村のバトゥブランの村で地元の青年団などが演じる、バロンダンスを30分程度見物して、その後北上してチュルクの村に散在する金銀細工(主に銀製品が多かった)に立ち寄り(写真A)、ちなみに値段は交渉次第で約四割〜五割値切れる品もあった。その後更に北上して、バリ木彫の中心地(写真B)、マスの集落の木彫工房でショッピングを楽しんだ。我が家にも当時買った木彫の作品が数点あるが、拙宅を訪ねる友人は、本当に良い作品だとほめてくれる。帰国時に重くて苦労したが、昨今、百貨店で行われているバリ商品の卸売り会のように、アレンジをした木彫ではなく、堂々たるそして素朴な木彫品が当時のバリには多かった。銀細工にしても木彫品にしても、職人が精一杯の仕事をして制作した品が多かったように思う(これ等の店も押し寄せる観光客に段々と品格を落としていったのが寂しい気持がする)。

写真C ウブドの遺跡“象の洞窟”
 そしてその後、今をときめく、ウブドの集落を訪ねたが、その頃はウブドには観光案内所も無く、電気が引かれて四年か五年しか経ていないまだ田舎の村であった。今はバリ島内でも最高級クラスのホテルが内容と値段を誇り、日本の星野リゾートの“星のやバリ”が2017年1月に開業し、一泊九万円前後のルームチャージでオープンをしているが、当時はひなびた山村であった。 
 ウブドの村はずれに、1923年に発見された、ゴア・ガジャという“象の洞窟”があり、その遺跡を40分程見物した。(写真C)その後、一路キンタマーニへと向った。キンタマーニ高原は、バリ島でも著名な観光地として知られ、中心部にはカルデラ湖のバトゥル湖(キンタマーニ湖)がある。この湖は、2012年に世界遺産に指定されている。またここから眺望する、バトゥル山は、1717米の標高で1917年と1926年に大噴火をした活火山である。眺望を楽しみながら、キンタマーニのレストランで昼食のバイキング料理を食べるのが定番コースであった。何回目かの訪問時に大砲のような音を立てて噴煙を上げて噴火した時は肝を冷やしたが、レストランの従業員は、よくあることだと平気な顔であった。

写真D バトゥル湖よりバトゥル火山を望む
 湖をへだてたこの火山は、バリヒンドゥ教徒が「地球の第一チャクラ」と呼んでいる。このレストランのあるペネロカンの集落から見るバトウル火山は素晴らしく眺めが良い。しかしこの地の土産物売りの押売りは、今でも有名だがそのしつこさは当時もひどかった。観光バスが食堂の駐車場に着くやいなや、あっという間に数十人とも思える土産物売りがバスを取り囲んでしまい、それを無視してレストランへ入らないとずっと買う迄くっついてくる。それなのでバス到着前に注意しておいても、御夫人方の中には、子供の物売りに対して同情心からか、語で何かを語りかけると、もう何か買うまで離れてくれない。

写真E 当時の500ルピアインドネシア・ルピア
そんな態度や日本バス運転手やガイドも地元民であり、毎日のように顔をあわすので、取り扱いも無難になり、そうするとそれを止めるのはツアーガイドとしての我々の役目となり、レストラン迄の数十メートルの道を確保するのに必死であった。(写真D)当時の両替レート(1980年頃)は一米ドルが620インドネシア・ルピア、また日本円の千円で2400インドネシア・ルピア位で両替がされたと記憶している(写真E)
 ウブドからキンタマーニへの上り道はかなりの急坂で、上るに従って気温が下るのがよくわかったし、未舗装の道の脇には、バリ島名物の稲の棚田が窓から見える。それはのどかな風景で、日本の喧噪とは別天地の世界が広がっていた。そうして、キンタマーニでバトゥル湖を見物し、

写真F ティルタ・ウンブル寺院の聖水の池
昼食と休憩をした後に、宿泊するホテルへ帰った。帰路にはタンパクシリンに立ち寄り、ティルタ・ウンブル寺院を訪れた。この寺院も世界遺産に後年指定された。962年に発見されて以来、千年以上も湧き出る聖水の池(写真F)や、その水を引いた寺院内の沐浴場や神殿を礼拝して、一時間半程度見学をしてホテルへ夕刻に帰るのが、何年たっても観光の定番コースであった。一日目の観光はそれで終り、二日目の午前中は州都デンパサールの街へ向い、午前中、立派な資料や絵画・彫刻等を所蔵するバリ博物館(写真G)を見学し、その後、すぐ近くにある熱気と現地産品の溢れるバドゥン市場を訪ねて、午後は自由行動というコースだった。三日目、四日目は自由行動という三泊四日又は四泊五日のバリ滞在のコースが多く、その自由行動日にジャワ島へ航空機で日帰り往復をして、ジョグジャカルタ市とボロブドールのこれも、世界遺産に指定された遺跡を見学するという自由参加のオプショナル・ツアーが催行されていた。
 私がよく訪ねた1980年のバリ島への観光客は、全世界からでも、約15万人弱であり、十年後の1990年ではそれが約49万人、その内日本人が約7万1千人で、世界からバリ島を訪れる観光客の第二位となり、更に十年後の2000年には、

写真G 州都デンパサールのバリ博物館
全世界よりの観光客は約141万人、日本人が約36万2千人でついに来島者の世界一になっている。それが2014年には約375万人、内日本人は約20万人と減り、オーストラリア人が約99万人で一位、中国人が約58万人で二位、マレーシア人が約22万人で三位となって、日本観光客のバリ島離れがすすんでいる。これは2002年の、バリ島南部のクタで起こった、外国人観光客202人の死亡と209人の負傷者を出した、ディスコの外国人観光客を標的にした、過激派のジェマ・イスラミアの自爆と自動車爆発テロと、2005年の、クタとシンバランの自爆テロによる23人の死者と、196人の負傷者(三軒の飲食店で三人が自爆した事件)、容疑者はこれもジェマ・イスラミアであった。共にこの場所は最近のバリ島を代表する娯楽地であり、ビーチであった。
 この影響が、日本人観光客の激減につながったと考えられており、その後も日本人観光客数の伸びが鈍化した。それでは、ふり返って、バリ島が観光地として大きく変化をした要因は何であったかを、時代を、私がよくバリ島を訪問した1978年、1979年から1980年代の前半に戻って探ってみよう。
 バリ島にとっては、観光は開発の手段であり、1969年にスハルト政権の早い時期に第一次五ヶ年開発計画で観光が経済開発の一つと位置づけられ、バリ島はその代表的な候補地となった。
(以下次号)
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その3〜
二宮健(35回) 2018.10.10

著者近影(シチリア島にて)
 その、第一次五ヶ年開発計画によって、バリ島の高級ホテルの所在地は、それまでのサヌール・ビーチから、1983年にバドウン半島に位置するヌサドゥア地区に移って、ヌサドゥアビーチホテルがオープンし、その後、計画的にゲートに囲まれた究極のリゾート地として沢山の高級ホテルがオープンをした。インドネシア政府の政策として、ホテルが立ち並ぶ一大造成地区が出現した。(写真@)又、1980年代半ばには、ヌサドゥアから続いて、ホテルの建築が、クタ地区にも移ったが、これ等が加わったことによって、それ迄は年間十数万人しか訪ねる観光客しかいなかったバリ島への観光客が急増をした。俗に謂われる、“観光地バリの世俗化”が始まった時代である。

写真@ ヌサドゥアビーチホテル
今野裕昭博士は、その論文で、バリ島の観光客の推移を、次の四期に分けている。1985年迄の観光助走期(T期)、1986年から1991年迄の、観光客漸増期(U期)、1992年から2000年迄の観光客急増増大期(V期)、2001年から現在迄の観光客縮小期(W期)、これはバリ現地に於て私が経験したことに照らしても、第W期を現在までとした観点を除いて(つまり、現在は観光客縮小期は脱していると私は理解しているので)正しい分析だと考えている。

写真A 初代インドネシア共和国スカルノ大統領
 更にもう少し歴史をふり返って、日本との関係でバリ島を見てみると、1942年(昭和17年)2月には、日本軍が、第二次世界大戦でオランダ軍に勝利して、バリ島の統治が始まった。そして、1945年(昭和20年)8月17日にはスカルノがインドネシア共和国の成立を宣言したが、1946年3月(昭和21年)、旧宗主国オランダが、バリ島に上陸した。(写真A)

写真B ングラ・ライの5万ルピアの肖像
 1946年11月20日、ングラ・ライ中佐が率いるバリ義勇軍(ゲリラ軍)が全滅した。その際、第二次大戦の敗戦後も、インドネシアに残留した、旧日本軍兵士もこの戦斗に加わっている。ングラ・ライはインドネシアの英雄として、バリ国際空港の正式名称としてングラ・ライ(又の名を、ヌラライ空港)として残され、五万ルピアのインドネシア紙幣に肖像として、使用されている。(写真B)
 そんな簡略な、歴史すら知らない若い人達で、地上の楽園と言われて賑わっているのが、現状である。

写真C 現在のクタビーチ
 クタについて、若干述べてみる。若人に人気のクタも私が初めて訪れた、1979年頃のクタとは、全く違う様相の町となっている。バリ島南部で国際空港にも近く、オーストラリア人が多く住んでいるが、1979年当時は、観光客も少なく、商店も少なかった。今では、海岸に隣接する商店街も大変多くなり、当時に比較すると格段の差である。(写真C)昔の海側から、すぐに道路となっていた場所も、海側からの砂防の為に壁が造られて、昔日の、一部の海を愛する人達の為の、のんびりとしたバリの風情は、ひとかけらも今は残っていない。残念なことである。
 さて、バリ島に関する間違った認識を持っている方から、よく質問をされたことがある。それは、バリハイ島が、バリ島と勘違いをされてのことであろう。ブロードウェイミュージカル“南太平洋”(サウスパシフィック)の舞台となった場所がバリ島であると思っている旅行者が少なからずいるが、映画化された時の撮影場所は、ハワイ諸島の一つ、カウアイ島であり、確かに、バリ島には、バリハイクールズという観光用の船が運航しているが、これはあくまでも、ネーミングであり、バリハイという名前の由来は、バリ島には無い。しかしバリハイ山という有名な山は南太平洋タヒチの有名なモーレア島に実在していて、正式には、モウアロア山が正式な名前であるが、一般的にバリハイ山として、タヒチ観光では、有名な場所である。それでは実際に米兵が、“南太平洋”の劇中で滞在をしたのは、現在のバヌアツ共和国となっている、ニューヘブリディーズ諸島というのが、定説のようです。

写真D 現在のスエントラ氏
 もう少し、私自身の経験した、バリでの話しをしてみよう。今では、世界的に有名になったバリの音楽ジェゴクを普及させた、スアール・アグン芸術団長のイ・クトゥット・スエントラ氏は、1971年にスアール・アグンを結成したが、私が初めてバリを訪ねた頃は、まだ有名ではなく、現地の観光ガイドのアルバイトをしており、何回か仕事を一緒にした。その後、この巨大な竹の楽器を使うジェゴグは、徐々に有名になり、1984年から日本公演や、フランス・ドイツ・スイスなど欧州でも成功をして、インドネシア政府からも文化貢献賞を授与された。バリ島やインドネシアでは、有名な音楽人であるが、彼も若い時には、バリの現地ツアーガイドとしての苦節の時があったのである。その後、何回か現地で出会ったが、気さくな人柄は、昔と変っていない。(写真D)
 もう一つ、我々に考えさせられる、日本の高度成長が現地の若者に与えた精神的な汚染を私の体験から語ってみたい。読者の方は、クリスをご存知だろうか。インドネシアのクリスは、2005年ユネスコの無形文化遺産(工芸)に登録されている。クリスは、その家にとっては、先祖伝来の家宝として継承されている精神性を持つ折れ曲がった非対称の刃物である。武器であると同時に、霊性が宿ると考えられている。それ故、クリスは聖剣とも呼ばれる。(写真E)この独得の剣、クリスについて私には思い出がある。それは、日本のバブル期に(1980年代後半の頃)、バリがお金の面で汚染されていった過程を思い出すのである。バリ島への高額なV・I・Pツアーを案内した時のことである。全国から募集したツアーの為、いろいろの地方から職業も種々の方、年齢は比較的高年齢の方が多かった。V・I・Pツアーの為に、バリ島での現地ガイドも、それまで何回も仕事を一緒にした真面目な日本語を話す好青年で、将来日本へ渡って勉強したいと考えているインドネシアバリ島の現地ガイドであった(〜その2〜で述べたガイドとは別人である。念のために記しておく)。そんな時に、V・I・Pツアーのガイドとして私と仕事をした時に起ったことである。

写真E インドネシアの“聖剣”クリス
 参加者の中で、東京より参加をした、七〇才代の老人で刀剣蒐集の趣味のある人が、添乗をしていた私に是非、バリ島のクリスを見たいので、相談に乗って欲しいと言われた。クリスそのものに当時、知識のなかった私は、このガイドに相談を持ちかけた。彼の実家は、バリヒンドウ教でのカーストも上位であるということで、それでは二宮さんの為に、クリスをその方にお見せしましょうと言ってホテルへ持参してくれた。その刀剣蒐集家は驚き、これほどのクリスの名剣は恐らく、日本には存在していないと言った。そう言われてよく見ると、くねくねと折れ曲がった四十センチから50センチの短剣は把手から刀身の先まで、素人の私でさえぞくぞくし、日本刀の名剣を博物館で見るような感じであった。刀身は、日本刀のように、白く光ってはおらず、くすんだ灰色のように見えた。
 彼の家に何百年か伝わったものであろう。冗談のように、蒐集家は、いくらなら売ってくれるかと単刀直入にガイドに聞いた。彼も冗談っぽく、日本円で、6万円ではと言った。彼の当時の現地ガイドとしての年収の額である(月収ではなく)。すると、蒐集家は、今現金で30万円で買い取ろうと提案をした。彼はびっくりしたようだ。彼の年収の約5年分にも相当する金額である。心が動いた様子であった。先祖伝来の聖剣を売るという心の動きが、私には悲しかった。老人に私は聞いた。何故それだけの金を出すのかと。彼は、この剣は、重文級に匹敵すると言い、30万円出しても良いと言った。私は、ガイドと彼の先祖の為に、この商談(?)は成立させたく無かった。そこで私は蒐集家に言った。日本の入国時に見つかれば、税関で法律違反に問われ、又、インドネシア出国時の検査にひっかかれば、これまたただではすまないことになると、必死に説得をした。蒐集家は未練たっぷりに、そのクリスを見ていたが、眼福させてもらったと、多額の心付を彼に渡した。あの聖剣クリスは、その後どうなったのであろうか。彼の家で大事にされて、家宝として、あがめられているだろうか。そう祈るしかない。そんなバブル期の厭な思い出がある。
 その後、そのガイドはガイドをやめたのか、消息を以後しらないし、ほかのガイドに消息を聞いても、余り良い噂は私の耳に入らなかった。聖剣クリスを家から持ち出して、大金を見せられて、売却に心が一瞬動いたことに、聖剣クリスが怒った結果かもしれない。
(以下次号)
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その4〜
二宮健(35回) 2018.10.25

著者近影(シチリア島にて)
 さて、最終章の今回は、昔も今も変わらずに、バリ島発着で日本人観光客にとても人気のある、ジャワ島にある世界遺産のボロブドゥール寺院遺跡と、プランバナン寺院遺跡への、バリからの日帰りツアーについて述べてみたい。欧米等からの観光客にとっては、この日帰りツアーは、びっくりするほどに超過密なスケジュールらしい。バリ島で三泊乃至四泊する日本人観光客には、是非、おすすめをしたいコースである。

 先ず、ページ初めのコースを参照して欲しい。これはJTBバリ支店が催行する“マイバス・バリ”のバリ島から日帰りのコースの旅程である(注:デラックスコース約四万二千円・一人当たり代金・最少催行人員二名。旅費に含まれるサービス:日本語ガイド・ホテル送迎サービス・朝食・昼食(ホテルアマンジオにて)・各施設入場料・航空代金・空港税)。予約さえすれば安心・安全にバリ島よりジョグジャカルタへ飛び旅程通りの日程で観光が出来る。
 私が始めてバリ島を訪れ、このコースを利用した時には(1972年)、既にバリ島の空港とジャワ中部のジョグジャカルタ間には、ガルーダインドネシア航空の国内線ジェット機が就航しており、飛行距離にも変更はないので、昔も今も約一時間十分で両空港を結んでいる。

写真@ ボロブドゥール寺院遺跡(世界遺産)
 このコースで訪れる、ボロブドゥール寺院遺跡は、ジャワ島中のケドゥ盆地にある世界的に有名な大乗仏教遺跡であり、無論、世界遺産にも登録されている(1991年に登録)。ジョグジャカルタの東南約40キロメートルの所にあり、紀元790年頃完成したと見られ、その後に増築がされている。(写真@)八世紀後半から、九世紀にかけて栄えた、ジャイレーンドラ王朝によって造られたと考えられているこの遺跡には、おびただしい仏像やレリーフなどが飾られている。(写真A)高さは当初は42メートルあったが、現在は破損をして、33メートル50センチなっており、九層のピラミッド状の構造で最下段に一辺115メートルの基壇がある。この形状から、世界最大級のストゥーバである。この遺跡の詳細は、紙数の問題もあり、この章では語りつくせないが、沢山の著作物があるので興味のある方は、それらを読んで旅行をすれば、ただ漠然とツアーに参加するより、はるかに得る物が多いと私は考える。

写真A ボロブドゥール寺院遺跡のレリーフ
 この遺跡は、地盤沈下や近くにあるムラビ火山の噴火により、1960年代には崩壊の危機があったが、1973年から10ヶ年計画で、ユネスコ主導で二千万ドルをかけて修復工事が行われ、1982年に完成をした。私はこの修復時期にも何回か現地を訪れたが、いったい何時この工事は終わるのだろうかという程に、遅々として工事は進捗しなかったが、例えてみれば姫路城のように、長い年月をかけて本当に立派に綺麗に修復をされた。この修復工事には資金の拠出や工事協力に日本が多大の貢献を行ったことも忘れてはならない。

写真B ムンドット寺院(世界遺産)
 次に訪れる、ボロブドゥール寺院の東三キロメートルにあるムンドット寺院(写真B)は、1834年に密林の中から発見された仏教寺院で、内部には大変美しい釈迦三尊像が安置されており、その他、美しい鬼子母神のレリーフ等がある有名な寺院であるが、このオプショナルツアーではわずか20分弱しか時間がとられていない。この寺院も1991年にボロブドゥール寺院遺跡群として世界遺産に登録されている。その後、このデラックスコースはボロブドゥール寺院の近くのアマンジウォホテルで昼食をとり(写真C)、午前中のコースは終了する。

写真C アマンジオホテルの食堂
 デラックスコースとスタンダードコースの料金の差は、主に昼食に利用するレストランの雰囲気や料理内容の違いが多い。又、それよりも更に安い格安のバリ島からの日帰りの、ボロブドゥールとプランバナン寺院日帰りツアーとの差は、格安航空機(LCC)を利用している。デラックスコースと格安ツアーとの差は概略一人当り日本円に換算して約一万円であるが、どれを選ぶかは、各人の自由であるがやはり相対的にツアー代金はそれなりに設定をされており、私は経験上、内容に比例していると考えている。

写真D ジョグジャカルタ独特のバティックの模様
 約一時間余り昼食(アジアン料理)を楽しみ、午後はバティック工房を訪ね、制作現場とショッピングを楽しむ、ジョグジャカルタはバティックが有名であり、是非良い作品を買うことをおすすめする。私も行く度に買い求めたバティックのシャツを何年たっても夏の季節に着用しており、機械でプリントした製品ではなく、手仕事のバティックは色あせすることもなく、一寸高いが(それでも日本円に換算すれば、決して高額ではない)、自由時間があればバティックの商店が集まる地域を見て回るのも楽しいが、日帰りツアーでは訪ねる店が限られている。(写真D)前後するが、この日の朝食はバリ発が早朝の為に、ジョグジャカルタ空港に着いて、空港近くのホテルでブッフェスタイルの朝食の場合が多い。

写真E サンビサリ寺院
 昼食をとった後、サンビサリ寺院を短時間見物する。西暦812年から838年頃にかけて建設されたと考えられており、仏教王国のシャイレンドラからヒンドゥ王国のサンジャヤへ勢力が移った頃の建造だと思われている。ヒンドゥ教の寺院であり、シバ神を祭っている。1966年に農民が偶然に耕作中に地中から発見した。中央の寺院中には男根(リンガ)が祭られている。(写真E)

写真F プランバナン寺院遺跡
 その後、プランバナン寺院へ向う。世界遺跡としてのプランバナン寺院遺跡群の中の中心的寺院であるヒンドゥ教の遺跡として、前述のボロブドゥール寺院と共に、インドネシアが世界に誇る文化遺産として有名である。(写真F)建造年代は、九世紀末から十世紀初頭といわれているが、例にもれず中世の1549年の大地震でほとんどが崩壊して、1937年から修復工事がされていたが、2006年5月のジャワ島中部地震でまたまた壊滅的な破壊をうけた。それでも、修復作業が翌2007年から始まり、現在観光客を受け入れてはいるが、全体の修復の目途は立っていない。周辺の中小の寺院群を含めて世界遺産への登録であるが、その中のプランバナン寺院を中心に、ツアーは一時間程度で見物を終えて、ジョグジャカルタ空港へ戻り、航空機でバリ島に帰り宿泊するホテルへ送ってくれる。日帰り約19時間のコースである。旅行日程に余裕があれば、ジョグジャカルタに二日ないし三日程宿泊してこの古都ジョグジャカルタもゆっくり観光をしたいものである。
 さて、プレイバック・バリ(バリ島の今昔)として、その概略を記してきたが、バリ島はインドネシア共和国に属して、面積が5632平方キロメートルある島で、日本の東京都の約二倍の広さ、人口は約420万人でバリ人が90%を占めており、インドネシア全体ではイスラム教徒が87%を占める中で、バリではヒンドゥ教徒が約90%を占めている。乾季と雨季があって五月から十月が乾季、十一月から四月が雨季の目安である。また、インドネシアの中でバリ島とジャワ島のジョグジャカルタの間には時差が一時間あるので注意して欲しい。
 いずれにしても私の76年(1942年生れ)の中でバリ島の長い間の変遷はめまぐるしく、素朴な楽園の島から、現在の姿を考えると、なんともいえない懐古の情が胸にうずくように浮んでくる。
 (終)
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浮世絵万華鏡1・2拝読しました。
冨田八千代(36回) 2018.12.25

筆者旧影
 1では、くもん子ども研究所・こども浮世絵による江戸子ども文化研究・くもん浮世絵コレクションと中城さんの果たされた功績と役割、役割を担われるのに相応しいたくさんの背景などがよくわかりました。
 写真で紹介された著書の中で「浮世絵の中の子ども達」はまだ読んでなかったので、すぐに豊田市図書館に借りに行きました。閉架図書となり、しかも、閉架図書の整理中で、やっと12月5日に貸し出しとなりました。 (注:豊田市大きな「市」ですが、中心部に1館あるのみです。分館もありません。)
 手にして、立派さに驚きました。先の3冊を拝読していたから、私は読みすすめられたと思います。読み終えたら、メールをとおもっていましたが、そのままになりました。写真の中の右下の 「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は図書館で検索してもありませんでした。
 本の中のそれぞれの方の著述から、又、新しいことをたくさん知りました。単純なことでは、毬杖から左利きをいう「ぎっちょう」が、なるほどと思いました。江戸時代の子どもの存在を士農工商の階層からの視点は、目新しいことでした。
 中城さんの「子ども絵のなかの中国年画」も興味深いものでした。昔話も中国の大昔とつながりがあるのですね。感想の一端で失礼します。

 版画万華鏡2は、話題が広がり、また、興味深い物でした。訪れたこともある場所でも、全く気がつかない事でした。「無知」はもったいないですね。
 それから、余分なことです。先日、豊田市図書館の子ども図書室で見かけた本の事です。全体として、この本を評しているのではないことをお断りして「浮世絵」に関しての所で、気になったことを書かせてもらいます。
「人物・テーマ・ごとに深堀り!河合先生の歴史でござる」 河合敦著(著だったかどうか?) 朝日学生新聞社発行。発行年は昨年か今年です。
 「浮世絵が版画になって大流行」という項目があります。(p164〜165 これは記録してきました。この2分の1位が浮世絵に関してです)。浮世絵とあったので、ちょっとわくわくしながら、そのページを開きました。
・作品として 見返り美人・(まとめて)大首絵・(まとめて)美人画・(まとめて)錦絵富嶽三十六景・東海道五十三次
・人物として 菱川師宣・鈴木晴信・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重
・写真 喜多川歌麿「難波屋おきた」

 児童図書なのに、中城さんの紹介のように浮世絵には子どもがたくさん登場することを述べられていないのは残念です。写真でも、1枚それをのせたら、子どもはもっと興味を持ち身近に感じることでしょう。私もこの本のような知識で過ごしてきましたが、新しい本なのに、内容が変わっていないのです。子ども浮世絵は、まだまだ、世に知られていないのでしょうか。
 中城さん 版画万華鏡3を楽しみにしています。よろしくお願いします。
************************************

冨田様
 HP丁寧に読んでいただき、また「浮世絵の中の子どもたち」まで取り寄せ、恐縮です。この本では、黒田先生はじめ各分野を代表する研究者に参画いただき、「子ども浮世絵」を分析いただきました。多くの先生方と、今も交流しています。
 先日、國學院大学でも若い大学院生を中心に、「子ども浮世絵」の研究会があり、徐々に研究者が広がりつつあります。ただ、浮世絵ましてや、「子ども浮世絵」の理解者は、歴史家・美術家でも、まだまだです。この席でも日本女子大名誉教授・及川茂さんが、欧米では日本美術で浮世絵が庶民の風俗や風景を独自の描法で描いたとして最も高い評価を受け、粉本模写中心だった狩野派など日本画はほとんど評価されないのに、国内ではおかしいと嘆いていました。
 河合先生のような日本史だけでなく、美術史の先生でも、浮世絵や子ども史への新しい視線を持っていません。江戸の教育史などもイギリス人ドーア氏が『江戸時代の教育』(岩波書店)で正統に評価、アメリカ人ハンレーさん『江戸時代の遺産』(中央公論社)も同様です。日本は明治政府による極端な江戸文化・庶民文化否定、欧風貴族文化尊重が、長く残っていました。
「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は、展覧会の図録なので、図書館には入ってないです。残された時間・体力と相談しながら、若手研究者との交流、資料の引継ぎをしています。そして、浮世絵を使った子ども絵本の企画も進めたいと思っています。
 中国年画では、名古屋大の川瀬千春さんが30年ほどまえに博士論文「戦争と年画」を書いた際に、資料提供した事があります。浮世絵では、名古屋市美術館の神谷浩さんがいます。
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石の宝殿への反響---高砂市教育委員会より
中城正堯(30回) 2018.12.25
 「石の宝殿」面倒をかけましたが、冨田さんに続いて、高砂市からも下記の反響がありましたので、お知らせします。
 では、よいお正月を!
************************************

中城 様

 ご連絡いただき、有難うございます。ホームページ拝見させていただきました。図の画質が良く拡大もでき、とても見やすかったです。現地の写真も豊富で、石の宝殿を含め、実際の遺跡に行ってみたくなる印象を受けました。
 この度は、石の宝殿を取り上げていただき、有難うございました。また今後とも、高砂市の文化財行政にご協力の程、よろしくお願いします。
-------------------- ∴ ------------------
高砂市教育委員会 生涯学習課 文化財係 奥山 貴
〒676-0823 兵庫県高砂市阿弥陀町生石61-1
Tel 079-448-8255 FAX 079-490-5975
E-Mail : tact7610@city.takasago.lg.jp
-------------------- ∵ ------------------
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野町和嘉 写真展
WorldHeritageJourney
藤宗俊一(42回) 2018.12.25

2019/1/7(月)〜2/4(月)キャノンオープンギャラリー1:キャノンSタワー2F

案内図



2019年のCANONカレンダーに掲載された作品(世界遺産を訪ねて)を展示しています。郷土出身の偉大な写真家(土門拳賞、紫綬褒章受章)の世界を堪能されて下さい。
    入場無料



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<町田市立美術館へのご案内>
福を呼ぶ「金のなる木」や「七福神」
中城正堯(30回) 2019.01.10
町田市立国際版画美術館で「中城コレクション」など展示

筆者近影
 正月から2月17日まで、町田市の国際版画美術館では「新収蔵作品展」を開催している。昨年に続き、今年も「中城コレクション」が16点展示されているのでご案内したい。多くは、新年にふさわしい江戸時代の吉祥画である。
 同美術館の案内状には、「本コレクションの特徴は、吉祥画題を描いた版画が多数含まれていることです。なかでも中城氏は、豊作や商売繁盛、勤倹貯蓄を表す「金のなる木」の図像が、多数の浮世絵、引札、民間版画に見出せることに注目し、収集しています。もとは中国版画にみられる「揺樹銭」のモチーフから発展したもので・・・」等とある。写真は寄贈コレクションより二点。
・交通 JR横浜線・小田急「町田駅」下車徒歩15分****入場無料
・電話042―726―2771


「金之成木」渓斎英泉
天保弘化頃 

「七福神宝船」作者未詳 天保頃 回文
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「日本の城、ヨーロッパの城」を拝読しました。
冨田八千代(36回) 2019.02.06

筆者旧影
 今晩は、藤宗俊一さん。
 開いて、ぱっと、「淑徳大学公開講座」が目に入り名古屋市のあの大学でと、興味がわき、読み始めました。まずは「お城」ではなく。
 お城をまとめて分かりやすく論じていらっしゃるし、お城は余り訪ねていないようで、案外見ているのだと思い出しながら、楽しく拝読しました。
 日頃はあまり気にしてはいない、「お城」の事にこうして触れられるのは、HPのおかげです。藤宗さん、ありがとうございました。
 最初の方の「惣構え」は、珍しい言葉だったので意味を調べてみました。お城の中で、一番好きなお城はやはり「高知城」です。
 日頃、なんとなく興味を持っているのは、「山城」です。ここ豊田市は広大な山間部のある所で、「山城」や「山城の跡」があちこちにあるからです。なかでも、豊田市が観光地として重きを置いているのは旧足助町にある「足助(あすけ)城」です。紅葉の名所、香嵐渓の近くにあり、自然をうまく使って、山頂にある小さなお城は矢作(やはぎ)川筋の街道が眼下に小さく見え、一目瞭然です。

岩村城(霞ヶ城…日本100名城)1575-1600:山城
丹波氏、松平(大給分家)氏:本丸の6段の石垣
何度かいきましたが、昔の人はいい所を見つけたものだと思いました。また、旧稲武町にある「武節城跡」も地域の方々が、研究され整備されています。詳しい説明をきいたことがあります。ここは、全体が山でその平たい所に、お城があったので、山城とはいわないかもしれません。また、再建されないままに残っているところも、興味深かったことを思い出しました。私の住んでいる豊田市隣の恵那市にある「岩村城」です。「安土城」も再建前に行きました。
 「残存天守は12城」には、そんなに少ないのかと驚きました。その中に、四国のお城が4つもあるのですね。私は高知城以外の3つのお城には行ったことがないので、インターネットで見てみました。どれも美しい姿ですね。丸亀城が日本一石垣の高い城ということも初めて知りました。四国に4城も残っていることは、四国が平穏だったということでしょうか。というのは、私の近所に住む方が、「私が学童疎開をした日は、(アジア太平洋戦争名古屋大空襲で)名古屋城が炎上した日。だから、日にちをはっきり記憶している。昭和20年5月14日。」と、時々話されるからです。それから、ついでに、その金の鯱が再建されたのは、1959(昭和34)年。この時、故人となられた大野令子さんと私は、落成式(というのか?)直前の屋根に置かれた鯱を見たのです。第10回高新連大会に参加した後、名古屋の私の伯父の所により、名古屋城へ連れて行ってもらったのです。
 おもいつくままに、いろいろ書かせていただきました。
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1月24日・25日開催第187回市民映画会
山本嘉博(51回) 2019.02.10
『ロング、ロングバケーション』(The Leisure Seeker) 監督 パオロ・ヴィルズィ

筆者近影
 今回のラインナップは、いかにも高齢者層に向けたような二作品が並んでいるが、実際に高齢になってから観るのでは遅いよという内容だ。奇しくも『ロング、ロングバケーション』のオープニングに、キャロル・キングの歌う♪イッツ・トゥ・レイト♪が設えられているのは、そういう意味合いがあってのことなのかもしれない。
 同作は、認知症が進行しつつある老夫ジョン(ドナルド・サザーランド)を抱え、末期癌に見舞われている老妻エラ(ヘレン・ミレン)が、夫に運転させるキャンピングカーで、文学の教師だった彼の敬愛するヘミングウェイの家を訪ねる物語だ。ボストンにある自宅からアメリカ最南端、フロリダのキーウェストへと旅するロードムービーだが、なぜかイタリア映画なのだ。
 劇中早々に流れ、エンディングでも流れるジャニス・ジョプリンの歌う♪ミー・アンド・ボビー・マギー♪のなかの「Freedom's just anotherword for nothin' left to lose(自由とは、失うものが何もないってこと―)」という歌詞がしみじみと伝わってくる終活映画だった。
 キャロル・キングもジャニス・ジョプリンも時代を象徴するシンガーで、エラと歳の頃を同じくする女性たちなのだろう。彼女たちの生き方に共通するのが自己決定権の行使であり、常識に囚われない行動力の発揮なのだというのが作り手の想いなのだろう。味わい深い選曲だ。

『ロング、ロングバケーション』ポスター
 老いた男というのは押し並べてそうなのだろうが、いかにもお気楽で手のかかる子供のような存在だ。子供ならしでかさないような不埒もうっかり晒したりする点に、他人事ならぬ危惧を抱く御仁もいるのではないだろうか。そういった事々に苛立ったり憤慨したりしながらも全て呑み込んでいける度量をエラにもたらしているのが、喜怒哀楽を共にした五十年だけではなくて、この“失うものが何もない”という状況でもあるわけだ。そのことがしみじみと伝わってきて、得も言われぬ感慨をもたらしてくれる。若く元気なうちは、なかなかこの境地に至れるものではない。さればこそ、エラとジョンが味わっている自由を、観る側もじっくり噛み締めたいところだ。
 映画を観ているうちに次第にフロリダ行きの目的は、単にヘミングウェイの家を訪ねることだけにあるのではないはずだと誰しもが思うように進んでいくのだが、フロリダで待っていたものに驚かされた。そして、そういった運びのなかに込められている作り手の人生観に、大いなる好感を覚えた。意表を突く場面の連続とも言える脚本が秀逸で、奇を衒っているようには映ってこないところが素敵だ。人生とは、悲喜こもごもを抱えつつ、余暇を求めて旅することなのだ。それゆえに、二人が乗り込んで旅するポンコツ車の呼び名“レジャー・シーカー(余暇捜索者)”が、本作の原題にもなっているのだろう。そして、その先に待っているのが邦題となっている“長い、長い休暇”なのだろう。どちらとも、なかなか良い題名だ。
 バーガーを食べたいとやおら言い出す夫に付き合いながらも、自らは一口齧るだけでいいと水しか注文しないのは、病状の重篤さによる食欲減退もあろうが、常々倹約を心掛けていることが偲ばれた。その一方で、「たまにはきちんとしたベッドで寝たい」とキャンピングカーを降りたものの、「500ドルのスイートルームしか空いていない」との応えに怯みつつ、四割近い値引きとなる「320ドルにまける」と言われると、「少し高いけれども」とすぐさま釣られる庶民感覚が微笑ましい。ささやかなスペシャルナイトを楽しんでいた彼らの味わい深い道中を堪能させてもらったように思う。イタリア映画らしいポジティヴ感が本当に気持ちよく心に沁みてきた。
『輝ける人生』(Finding Your Feet) 監督 リチャード・ロンクレイン
 もう一方の作品『輝ける人生』もまた、物語の背景には認知症と癌があった。一見すると、対照的な結末のようでいて、実は大いに通じるところのあるイギリス映画だ。

『輝ける人生』ポスター
 仲睦まじく暮らしてきたはずなのに、夫である自分を認知できなくなった妻に涙していた愛妻家のチャーリー(ティモシー・スポール)と、『ロング、ロングバケーション』のエラとはキャラクターが被るようなところのあるビフ(セリア・イムリー)の導きによって、彼女の妹サンドラ(イメルダ・スタウントン)が人生の歩み直しを始める物語だ。サンドラは、警察本部長にまで栄達した夫のキャリアにぶら下がっているだけの生き方を、お高く取り澄ました生活態度で過ごしてきている女性だ。今だにマリファナを吸っているような自由気ままな姉とは疎遠にしていたのだが、夫が顔見知りの女性と浮気していたことに憤り家を出たものの、行き場がなくて姉の元を訪ねる。
 かつてプロを目指したこともあるダンスからもすっかり遠ざかっていたサンドラが、姉に誘われた高齢者ダンス教室で、得意としていた足さばきを少しずつ取り戻し、見つけ出していく姿が原題の直接的に意味するところなのだろう。だが、同時にそれは「(大地を踏みしめるようにして地に足の着いた人生を歩むための)あなたの足を見つけること」でもあったようだ。本来の自分が立つべき足をサンドラが見つけ出していくエンディングの待っている本作の主題を確かに表してもいた。
 そういう意味では、どちらの作品も“自己決定権の行使と常識に囚われない行動力”を称揚していたように思われるが、イタリア映画のほうがややシニカルで、イギリス映画のほうがより楽天的だというところが、双方のお国柄の反対をいくようで興味深い。
 ビフが妹に言っていた「死ぬことを恐れているからって、生きることまで恐れないで!」との言葉は、エラにも通じていて、たとえ死期が間近に迫ろうとも、残された生を果敢なチャレンジ精神で臨む天晴れな終活が見事だった。両作ともに、'60年代の政治の季節を過ごし、反体制的で、性差別や人種的偏見を乗り越えようとして生きてきた時代のタフな女性たちの映画であると同時に、大いなる観応えと示唆を次代に与えてくれるエンターテインメントになっていた。ある種の辛辣さを笑いで包み、歳が幾つになろうとも、人には為すべきことがあることを教えてくれる。
19. 1. 1.発行 高知市文化振興事業団「文化高知」No.207「1月開催第187回市民映画会」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ (『間借り人の映画日誌』)
http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html  (『ヤマさんのライブ備忘録』)
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地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その1
二宮健(35回) 2019.03.01

シチリア地図

筆者近影(シチリア島にて)
 シチリア島と呼ぶ方が、シシリー島と言うより、私にはすっきり腑に落ちる語感がする。そのシチリア島には長年にわたって行ってみたいと思っていた。イタリア半島の観光を含めヨーロッパ諸国へは何十回も訪れているが、この場を訪れる機会が今迄になかった。それだけに期待も多かったし期待以上に得るものが多かった平成25年の私の紀行である。これはシチリア好きの仲間が集まって企画したツアーである。

出発前、エトナ火山噴火の様子
ところが訪ねる日程も決まった平成25年12月直前になって11月23日にエトナ火山が噴火をして火山灰が降りそそぎ、火山周辺の街や村に大きな被害をもたらした。このヨーロッパ最大の活火山はシチリア島東部にあり、標高は3329mあって過去にも紀元前からの大噴火をくり返している有名な山である。我々の出発4日後の12月4日には噴煙が約7000mにまで昇った大きな爆発であった(写真@)。日程も全て決まりあとは出発するだけとなっていた旅行直前なので、企画して、自分も参加して楽しもうと思っていた旅行でもあったが、なにより安全第一であり、参加中止も同行仲間と検討したうえで、予約をしているアリタリア航空に確認したところ、航空機の運航に支障は無く、現地の人は、世界中の報道機関が驚いて報道するほどに騒いではいなく、数十年に一回の比較的大きな噴火と理解しており、特に旅行全般に関して言えば、エトナ火山の観光(エトナ山観光はシチリア島でも有名)さえ無ければ、影響は先ず無いとのことなので出発することに決めた。
 シチリア島へは、日本からの直行便はない。その為に今回の旅行には、アリタリア航空を利用して、ローマ経由で、シチリア島の州都パレルモ市へ向かった。(写真A・B・C)

写真Aアリタリア航空A330型機

写真Bアリタリア航空A330型機内
2列、4列、2列のエコノミークラスの座席

写真Cシベリア上空より望む
 関西空港を12月1日の日曜日午後2時30分に出発したアリタリア航空エアバス330型機は、出発して8時間を経過した時点で高度1万1千メートル、飛行速度850キロメートルでロシア上空を、外気温マイナス56度、関空から6000キロメートルの距離を順調に飛行し、ローマまであと5時間の距離である。

写真Dシチリアパレルモ空港到着時
州旗の三本脚紋
 機は現地ローマ時間午後9時30分にレオナルドダビンチ空港に到着をした。冬時間で日本とイタリアの間には、8時間の時差があり、飛行時間に13時間を要したことになる。ローマで乗り継いで、シチリア州の州都パレルモまでは空路約1時間で着く。パレルモには午後11時30分に到着した。時差の関係もあるが、関空を午後に出発して、同日深夜にはパレルモに到着したことになる。ロシア上空飛行が解禁されて随分時が経過したが、そのおかげで日欧間の飛行時間が随分と短縮されたことになる。(写真D)

写真Eアストリア・パレスホテルの外観
 入国手続き後、専用のバスにてパレルモ市内のホテル、アストリア・パレスホテルに到着した。日付は12月2日に変わっていた。(写真E)部屋は9階でツインルームを1人で使用した。少し古い感じのホテルだが、一応は四ツ星クラスのホテルである。私自身は、ホテルは先ず第一に防火面での安全であり、清潔であり、浴室・洗面所のお湯や水が満足に出たら、どの国でも合格点を出している。ふり返って日本の大都市のホテルは余りにも華美に過ぎると思うことがよくある。

写真Fシラクーサのアポロン神殿跡
 さてシチリア島の歴史は、紀元前1300年ころのシクリ族の入植から始まり、カルタゴ、前756年のギリシャ人の入植、ローマ、ビザンティン帝国、アラブ人、ノルマン王国、ドイツ神聖ローマ帝国、フランスアンジュ一家、アラゴン王国、オーストリアハプスブルク家、統一イタリア王国と支配者は変遷を極めている。地政学的に見ても地中海の要衝であるために民族も多様に混淆している。イタリア王国に統一されてわずか114年しかたっていない(2013年現在)。まだ日本が神話の時代、神武天皇が没されたと日本書紀に記されている紀元前585年の10年ほど前の紀元前575年頃には、シラクーサにギリシャ世界最古の

写真Gシチリア州旗トリスケレス
石造神殿といわれるアポロンの神殿が建設されている程にシチリアの歴史は古いのである。(写真F)地中海世界のまん中にあり、地中海内の最大の島である。シチリア島は約2万5千7百平方キロで、九州の約70パーセントの面積を持つ島である。島の形が三角形に近い形から「トリナクリア」と言われる三つの岬の名を持つ島である。それに由来するシチリア州旗はトリスケレス(三本脚紋)として島を象徴している。(写真G)  2013年現在、イタリア共和国の総人口は約5800万人でシチリア島の人口は約504万人であり、総人口の約9パーセント弱を占めている。 我々は、一夜をパレルモのホテルで過ごし、いよいよ2013年12月2日(月)から、シチリア島の観光と歴史の旅が始まった。
 先ず、ホテルを9時に出発した我々の専用小型バスは(シチリア大好き人間様14名用)、パレルモより東約67キロメートルのチェファルーへ約1時間30分を要して到着した。チェファルーの村は2011年にイタリアで最も美しい村々の一つに選ばれた村である。(写真H)
 ここでは、大聖堂や中世から海岸沿にある今も現役で使用されている洗濯場が有名である。大聖堂は1131年アマルフィを制してパレルモへ帰還する際に、ルッジェーロ2世の部隊が嵐の中無事に帰還できたことを神に感謝してここに建てられた、ノルマン時代のシチリアの代表建築であり、2015年に世界遺産に登録されている。(写真I)山から流れてきた水が洗濯場を通り、すぐ目の前の海へそそいでいる。(写真J)

写真Hチェファルーの町並みと大きな岩山のラ・ロッカ

写真Iチェファルー大聖堂の外観

写真J中世の洗濯場は今も現役
 さて、この日の午後は、チェファルーからパレルモへとって返しパレルモ市内の観光である。パレルモ市内見物だけでも3泊か4泊したいところだが、9日間の(それでも日本から9日間のシチリア島のみの観光は珍しい中で)

写真Kパレルモ大聖堂

写真Lパレルモ大聖堂の塔
日程では、半日観光が精一杯である。それも代表的な有名スポットを回ったにすぎなかったが、記述してみる。
 先ず大聖堂(カテドラーレ)を訪ねた。7世紀に創建され、その後モスクとして使用され、たびたび改修されておりこの島の複雑な支配者の建築の歴史の積み重なった、悪く言えば“ごった煮”の複合建築である。(写真K・L) とにかく時間が欲しい。見るものが多くて歴史的な流れが、短時間ではつながらないというのが、印象であった。

写真Mパレルモのマッシモ劇場
 次にマッシモ劇場を見学した。ネオ・クラシック様式の劇場で外観も内部も豪華であり、こんな小さな島に不釣り合いとも思える建物であり、創建当時の1897年には、ヨーロッパ最大級の劇場であり、現在でも収容人員1380余のヨーロッパでも有数の劇場である(オペラ劇場)。(写真M)

写真Nノルマン王宮の
入り口の案内板
 次いでノルマン王宮へ向かった。現在はシチリア州議会場として使われているが、11世紀にアラブ人が築いた城壁の上に、12世紀になってノルマン人が拡張した典型的なアラブ・ノルマン形式の代表的な建築物である。その後もホーフェンシュタウフェン家、アラゴン家等の変遷を経ているが、歴代の王の住居でもあった。(写真N)
 このノルマン王宮の2階には、パレルモ市を代表するアラブ・ノルマン様式の礼拝堂がある、歴史的に見ても、その華麗さからしてもパレルモの至宝とも言われる、パラティーナ礼拝堂(宮廷付属礼拝堂)がある。その内容を写真で見てみよう。

パラティーナ礼拝堂入口2階
にあるマグエダの中庭に面した回廊

パラティーナ礼拝堂のクーポラには
キリストが描かれている

床にはイスラムとビザンティン
文化の融合したモザイク模様が美しい
 ノルマン王朝のルッジェーロ2世によって聖ペテロに献堂されたこの礼拝堂はシチリア島で必見の美しさであろう。

写真Rクアットロ・カンティ壁面
 さて我々は、限られた時間の中で、パレルモ旧市街の中心、クアットロ・カンティに向かった。17世紀に造られた「四ツ辻」である。
 広場に面した4つの建物の各壁面には、一番下段に四季が表現された噴水、二段目には歴代スペイン総督、三段目に町の守護聖女が彫刻されている。(写真R)超多忙なパレルモの午後の観光を終わって、前日と同じ、アストリア・パレスホテルに帰館したのは、午後8時を過ぎていた。何と充実した1日であったことか。
以下、次号へ続く。
筆者プロフィール
昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、J.T.B OB会員、神戸市在住
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<版画万華鏡・4>はすぐに拝読しました。
冨田八千代(36回) 2019.03.10

筆者旧影
 名古屋市博物館で開催されている「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」での神谷浩氏の講演「国芳と芳年の快感」をきいてからお返事しようと思っていました。講演会は2月24日、もう1週間以上もたってしまいました。
 「和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子どもたち」では、子ども浮世絵の世界とその世界から色々な物事に広げていただきました。
  ・武士の子どもの様子の登場
  ・米将軍吉宗の事
  ・葛飾北斎の事
  ・打毬の発祥の起源地
 ポロと同じとは。だんだんとその地域の自然環境や文化や慣習によって変わってきた、長い歴史を持つものであること。私は題を見た時に、中城さんが「和製ポロ」と表現されたのだと思っていました。
  ・ずっと生きている「打毬」のこと 写真が素敵です。
  ・「千代田之御表 打毬上覧」楊洲周延 明治28年頃(筆者蔵)の立派な事
 明治28年頃が気に留まりました。先日行った名古屋の展覧会にも明治時代の作品がかなりありましたが、10年代がほとんど、23年作が1点で、それ以後の作品はありませんでした。
 私が最も胸を打たれたのは、中野真一郎さんの評でした。「これら版画のなかの母親も、子供たちも、何と人生を信頼し、親子の断絶だの、登校拒否だの・・・知らずに、愉しく寄りそって生きている・・・。彼らは自分の身のまわりの物から遊び道具を工夫して、次つぎと珍しい遊戯を発明し、お互いの心の交流を習得していっている」(中城さんの文章からコピー)なんといい環境の中に子ども達がいるのかと感激に自然に涙があふれました。現職中、家庭の崩壊など子どもにとって不幸な状況を目のあたりにし一人の教員の無力さを痛感してきました。子どもには自分の生きる環境は選べません。どの子も安心して生きられるようにと願うこのごろです。
 さっそく、図書館で「眼の快楽」を借りて読みました。その中に、中城さんの著書に執筆をされたような文章がありましたので、図書館の「浮世絵」の書架の所に行きました。そこで新たに「母子絵百景 よみがえる江戸の子育て」を見つけました。中城さんも執筆されていますので、後日、読みたいと思います。
 名古屋の展覧会は150点もの浮世絵が展示されていました。展示構成は5部。1、ヒーローに挑む 国芳がもっとも劇的に深化させたのは武者絵 2、怪異に挑む ヒーローを際立たせる 3、美人画・役者絵 浮世絵の王道 4、話題に挑む 人々の関心事、楽しみを伝えると言う浮世絵の本質部分 5 「芳」ファミリー(の作品)神谷浩さんの講演もこれにそって、作品を映し出しながら浮世絵の魅力を精力的に話されました。ご自身が「浮世絵」をとても慈しんでいらっしゃることが伝わってきました。
 今回の展覧会は中城さんの著述がなかったら全く目にも止まらなっかたことです。しかし、この展覧会は、「浮世絵」に俄か興味・好奇心の域の私にとっては意表を突かれた感も否めません。それだけ「浮世絵」は広くて深いということでしょう。今回の展覧会には明治時代は?という関心は持っていきました。明治時代に急激に衰退(といっていいでしょうか)という印象でした。残念に思います。
 次回「浮世絵そっくりさん」を楽しみにしています。
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冨田様
 浮世絵に関心を寄せてくださり、また「打毬」の記事を丁寧に読んでいただき、有難う。
 国芳に関しては、以前「浮世絵戦国絵巻」展の図録に、小論「黒船来航と城郭炎上図」を書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した浮世絵を制作、南町奉行所から始末書を取られた話にも触れました。彼らは、出島経由で西洋の画集も入手、遠近法を街並み描写に活用しており、なかなかの知識人でした。
 幕末から明治にかけて、北斎・歌麿などの浮世絵が、新しい絵画表現を模索していた印象派の画家に大きな影響を与えます。中でも、母子の日常生活を描いた作品は、メアリー・カサットなど、女性画家に身近な家庭にも題材があることに気付かせ、元気づけます。浮世絵は、近代西洋絵画にも大きな影響をあたえ、欧米で高く評価されました。しかし、日本のアカデミズムからは、戦後まで無視され、名作も海外に流失しました。
 中村真一郎(中野ではなく)さんも、すごい教養人でおもしろい作家でした。東京の御家で加藤周一、堀田善衛という近寄りがたい碩学を紹介されたり、熱海のマンションで画家たちと飲み明かして泊めていただいたり、思い出がつきません。
中城 正堯(30回)
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地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その2
二宮健(35回) 2019.03.20

シチリア地図
 昨日は、晴れたり、曇ったり、又一時雨が降ったりと変幻極まりない天候だったが、今日平成25年12月3日(火)のパレルモは、日の出が午前6時50分で、天候は晴れであり、これから見物する、モンレアーレやセリヌンテ、アグリジェントも晴れであって欲しいと思い朝9時半にホテルを出発した。
 今日のバスの行程は先ず約10キロメートル位パレルモの郊外内陸部のモンレアーレを見物した後、再び南下して約2時間で106キロメートルを走り、セリヌンテのギリシャ神殿群を見物し、東へ約2時間をかけアグリジェントへ至るコースである。どれもシチリアを代表する観光ポイントであり、楽しみである。現地在住の日本人女性ガイドO女史は、何度もこのコースを巡っているのか、格別の感情を持っていないようで淡々と自分の仕事をこなしている。余談になるが、私の現役J.T.B時代は旅行に随行して添乗する場合は、私にとっては何回目の場所であっても、参加の皆さんは、多分一生に一度の訪問先であろうからと、清新に仕事をしたものだがと考えながら、何か不真面目な点があれば言っておこうとおもっていたが、初日の出迎えから、淡々としており、これは性格かなと考えながら説明を聞いているが、過不足なく仕事をこなしている。

写真@モンレアーレ大聖堂

写真Dモンレアーレ展望台から
 さて、バスはモンレアーレに到着し、アラブ・ノルマン様式の美しいモザイクでおおわれているモンレアーレ大聖堂(ドゥオモ)見物である。昨日訪ねたチェファルー大聖堂(カテドラーレ)と同じく2015年7月にアラブ・ノルマン遺産として世界遺産に新しく指定された名建築である。このドゥオモは1174年から1182年にかけて、グリエルモ2世によって建造された華麗で重厚な建造物である。(写真@)内部では有名な全能のキリスト像を描いたモザイクが世界的に有名である。(写真A)又、堂内には多数のモザイク画が描かれており(写真B)、又、回廊も美しく(写真C)時間がもっと欲しいと思われてならない。見物を終え、ドゥオモを出ると、何と豪雨になっており、天気であれば美しく見える筈の海とコンカ・ドーロとパレルモの街のパノラマは、残念ながら見えなかった。(写真D)

写真Aモンレアーレ大聖堂
キリスト像

写真Bモンレアーレ大聖堂内
モザイク像

写真Cモンアーレ大聖堂内の廻廊

写真Eシチリア料理“アランチーニ”

写真Fシチリア料理“インポルティーニ”
 さて、今回の旅行では昼食も地方色豊かで、昨日のパレルモでの昼食はシチリア料理のアランチーニ(ライスコロッケ)であり(写真E)、今日のモンレアーレの昼食はこれもシチリア料理のインポルティーニ(シチリア風の肉のロール巻)である。(写真F)日本ではシチリア料理専門店でしかお目にかかれない料理である。イタリアを訪ねたこともないイタリア料理人が多い日本のイタリア料理店では、メニューに無い料理である。昼食後、モンレアーレから南下して約106キロメートルにある次の目的地、セリヌンテへ向かう。昼食後も少し雨模様で、セリヌンテでのギリシャ神殿群の見物に影響しないかと一寸心配である。

写真Gシチリア島の高速道路アウトストラーダ
 シチリア島の、アウトストラーダ(高速道路)を淡々と南下するも、道はよく整備され(写真G)、約2時間弱でセリヌンテに到着した。紀元前650年頃に島の東海岸から来たギリシャ人によってギリシャ神殿の数々が築かれて、紀元前409年のカルタゴ襲来で破壊された約240年の夢の跡のような大遺跡群である。写真と共に見てみよう。
 雲に切れ目が出て、少し太陽が顔をのぞかせて、心配していた雨も上り、ラッキーな気分で見物を始める。セリヌンテは、カルタゴの来襲と、その後の大きな地震によって破壊されているが、それでも残った建物群は素晴らしく、交通不便であるが、是非訪ねたい遺跡である。入口に近い東神殿群の中で一番美しいのが、紀元前480年頃のドーリス式の神殿で女神ヘラに捧げられたE神殿である。(写真H・I)又神殿群のG神殿は紀元前550年頃に着工されたが今は、大円柱だけが残っている。(写真J)

写真HセリヌンテのE神殿

写真IセリヌンテのE神殿

写真JセリヌンテG神殿跡

写真Kライトアップされたヘラクレス神殿
 セリヌンテ遺跡は、東神殿群と約1キロメートル西のアクロポリスに分かれており、海を左に見て進むと、アクロポリスに到る。ここには、A、B、C、D、O、と呼ばれる遺跡があるが、形を残しているのはC神殿だけである。バスは、セリヌンテを出て東に向かい約105キロメートルを2時間かけて、アグリジェントに着いた。到着時間が夕方遅くになっているので、前後するが、ライトアップされた、エルコレ(ヘラクレス)神殿の見物に向かった。(写真K)アグリジェントのドリアヌ式の神殿の中で最も古い紀元前520年の建造とのことだ。夜なので遺跡の中での位置関係が良くわからない。明日はこの大規模な、世界遺産に1997年に登録された大神殿群を巡ると思うと大変楽しみである。
 アーモンドソースをかけた夕食を楽しんだ後に、今夜の宿泊ホテルのディオスクリベイパレスホテルへチェックインした。(写真L・M)清潔で四ツ星クラスのホテルである。客室数は102室である。

写真L・Mアグリジェントの

ディオスクリベイパレスホテル

写真Nアグリジェント宿泊ホテルの食堂
 旅行の4日目、ホテルの小綺麗なレストラン(写真N)にて朝食をとり、シチリア大好き人間の我々14名はいよいよアグリジェントの世界遺産の神殿群見物に、朝8時にホテルを出発した。絶好の晴天である。今日のコースはアグリジェントを見物後、古代ローマのモザイクが残る、ピアッツァアルメリーナへ向かい、更に世界遺産のカルタジローネへ向い、その後、ラグーザで宿泊する、なかなかハードなコースである。
 順を追って、写真も交えながら、見物をしてみよう。
 紀元前5世紀に人口30万人の大都市であったアグリジェントで有名なのが、“神殿の谷”と呼ばれる区域に点在するギリシャ神殿の数々である。先ず我々は、ジュノーネ神殿(写真O)を見物した。紀元前470年に建造された別名ヘラの神殿である。25本の柱と柱の上に横に渡した石材(アーキトレーヴ)が残っており、紀元前406年にカルタゴ来襲によって炎上した焼けただれた赤く変色した石の色が内部に見られる。神殿の谷地区の東端に位置する名建築遺跡である。

写真Oアグリジェントのヘラの神殿

写真Pコンコルディアの神殿

写真Qコンコルディアの神殿
 次に見物したのが、やはり神殿の谷にある、これもまた有名なコンコルディア神殿である。海を背景に美しいドーリス式神殿である。コンコルディアは平和を表すローマの女神の意味とのこと。この神殿は前面6柱、側面13柱の完璧な美を見せる神殿で紀元前450年頃の建築と推定されている。(写真P・Q)

写真Rヘラクレス神殿
さらに我々は、エルコレ神殿を見物した。別名ヘラクレス神殿とも呼ばれている。紀元前520年の建築と伝えられている。(写真R)
 余談になるが、この神殿の谷から、谷を少しへだてて、現在のアグリジェント市(人口約6万人弱)の現代建築のコンクリートの高層建物がたくさん目視でき、なんだか興をそがれるが、これらの建物は、 1980年代のイタリア、特にシチリアの政財界が混乱を極めた頃、シチリア経済を牛耳っていたマフィアが建築業界への投資で、雨後のタケノコのように建ったビル群だと言われており、現在も麻薬のフレンチコネクションが崩壊した後の、麻薬シンジゲートがこのアグリジェントにあると信じている人が多いとも言われている。

写真A:カザーレ荘の
モザイクを巡る建物
 午前中、神殿の谷の有名建築物を見物した後、歩を先に進めて、アグリジェントから東北約100キロメートルにある、ピアッツァアルメリーナへ向かう。約1時間半のバスの旅である。そこからさらに進むと近郊の森にローマ時代の豪華なモザイク様式のある、カザーレ荘がある。1997年にアグリジェントの神殿の谷と共に世界遺産に登録されている。3世紀のローマ時代の貴族の別荘である。
 ローマ時代こそ繁華な市街の近郊だったといわれる別荘は、今ではピアッツァアルメリーナより約6キロメートルも小さな道を進まなければいけない。50部屋程ある全ての部屋や、それらを結ぶ回廊に、ビキニ姿で踊る10代の少女とか、狩猟を描いたモザイクとかが、この館の公的空間、私的居住空間とかにこれでもかと言う程に描かれている。何故こんな田舎にかくも豪華な「ローマ離宮」と呼ばれる建物、それも現在は世界遺産に指定されたような建物が残されたのであろうか。疑問に答えて、次のような説がある。一つは炎熱のシチリアでの避暑地として、ローマ貴族が使用したのではないかという説。今一つは飲料水を含めて、水の便が良かったのではないかと、当代の歴史家は推測をしているようだ。(写真B-D)

写真B-D:カザーレ荘のモザイク画


 旅行4日目の12月4日(水)の遅い目の昼食は、アグリツーリズモとイタリア語で言われているレストランでとった。アグリツーリズモとは、農場滞在型観光を意味し、日本での“道の駅”のイタリア版である。しかし規模と歴史は雲泥の差があり、私達の利用したレストランは、中世の14世紀から続く建物を中心に、周囲を自前の広大な畑が囲み、そこでとれたものを自給自足する地産地消で経営されている。レストラン以外に宿泊施設を持ち、小高い丘陵地にある大規模施設である。日本の安直な食堂とは、

写真E:アグリツーリズモのレストラン

写真F:レストランにて
規模も施設内容も、提供される食材も何もかも違いびっくりする程の内容であり、提供されるワインも自家製であった。www.gigliotto.com +37°17’25.66 +14°23’16.63に位置している。場所はアグリジェントとラグーザのほぼ中間に位置している。農家に泊まって、農業を体験するアグリツーリズモで、こんな周囲に何も無い静かな空間で数日間、読書とワインと散策で過ごしたらどんなに素晴らしかろうと思った。日本でもアグリツーリズモの動きは小規模ながら信州などで取組みが始まっている。(写真E,F)
 さて、昼食をゆっくりと済ませ、約35キロ南下して、車で1時間ほどのカルタジローネの街を訪ねることとする。
以下、次号へ続く。
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<版画万華鏡5>ありがとうございました
冨田八千代(36回) 2019.03.31

筆者旧影
 今回は、初めから仰天でした。宝船の布袋様とはうってかわったお姿。ネパール版画に続いて、「図3.西村重長『布袋と美女の川渡り』筆者蔵」にうつりましたので、ほっとしました。おんぶ文化の入り口に、ネパール版画だったのは、中城さんの粋なはからいなのでしょう。
 おんぶ姿は直接、肌のぬくもりを感じさせ、やはり、今回も江戸時代の子どもたちの幸せが伝わってきます。北山修教授の強調されているように母親のまなざしが語っています。喜多川歌麿「児戯意之三笑」は水鏡に親子を写す場面をとらえた、歌麿の心の細やかさ、母親の心のゆとりと子へのいとしさの表現に感動しました。
 ちょうど、中村真一郎さんの事から、図書館の浮世絵の書架に行き「母子絵百景」を見つけ借りてきていました。この<版画万華鏡5>のおかげで、より詳しく味わうことができました。本当に、母と子の様々な情景に心が和みました。喜多川歌麿の「授乳」の場景は4点もあり、「風流子宝船」にも、中央で大黒様がお乳をのんでいるとは面白い。「雪のあした」(歌川国貞)3枚続も目に留まりました。「図12」はその中央部分なのですね。「浮世絵風俗子宝合 渓斎英泉」の水鏡は心憎いのですが、これは歌麿にヒントをえたのでしょうか。
 この画集「母子絵百景」は「江戸子ども百景」と姉妹編だと思います。これにも中城さんのお名前が明記されてもいいのではないでしょうか。執筆・図番解説・作品解説と尽力されていますので。背表紙にお名前がないのでずっと、この本は気がつきませんでした。たまたま、私は今回借りて好都合でした。
 ちょっと、それますが、この時に、ついでに気楽に読めそうと「知識ゼロからの浮世絵入門」を借りました。著者は稲垣進一さん。「浮世絵に見る 江戸の子どもたち」に執筆されたのを覚えていたので借りましたが、紹介された作品の中で子供が登場するのは極わずかです。くもん子ども研究所の「子ども浮世絵」の収集は貴重なことをこの本からも受けとめました。
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地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その3
二宮健(35回) 2019.03.31

シチリア地図
 カルタジローネは標高600メートルの高地にある。古代から現在まで陶器の産業で有名である。1693年にこの地方を襲った大震災後に、バロック様式にて再建をされた街である。後期バロック都市として2002年に世界遺産にも登録されている。人口は約4万人であり、マヨルカ焼やテラコッタの陶器産業が有名である。(写真@)
 この街での最大の見どころは、現地ではスカーラ(階段)と呼ばれている陶器の街を象徴する142段の色も美しい階段である。
 我々、グループのバスは、道が狭いのと環境保全の為、他のバスの乗客と同様に、遊園地を走るような小型の電気バスに乗り換えて(写真A)街を見物しながら(写真B)スカーラの下まで案内をしてくれる。

写真@カルタジローネの街

写真Aカルタジローネの電気バス

写真B市内の市民
庭園も壁も陶器
 スカーラは、市庁前広場から、サンタ・マリア・デル・モンテ教会まで一直線に延びている。階段の蹴上には、種々の絵がマヨルカ焼の陶板で飾られており壮観である。(写真C)
 142段を昇るのには中々体力が要る。段の高さがかなり高く、腰掛けになるほどに段差がある。我々の行程はスカーラを見物した後、更に約55キロメートルの所にあるラグーザ迄行かなければならない為に、限られた見物時間を使い、私自身は息をはずませながら最上段まで昇った。そこからの展望は天気の良かった為に息をのむ程の美しさであった。又、そこに有ったサンタ・マリア・デル・モンテ寺院も美しかった。(写真E・F)

写真C美しい陶板
142段ある“スカーラ”

写真Eサンタ・マリア・デル
・モンテ広場からの眺望

写真F同寺院の外観
 寺院内部も見学したかったが、時間の余裕もなく、又142段を下っていかなければならない為に断念をした。見物を終え、バスに帰ったら、私の膝頭は、スカーラの昇り降りで完全に笑っていた。
 カルタジローネから道を南東にとって約1時間30分で、旅行4日目の宿泊地ラグーザに着いた。今日は、アグリジェントを出発して、ピアッツァアルメリーナ、カルタジローネ等々を見物した、ハードなバス旅であった。ホテルへ到着したのは、午後7時前であった。

写真Gセント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂
 ホテルはメディテラネオパレスホテルという名の四ツ星クラスのホテルだが、ロビーも狭く、私の使用したシングルルームも狭かったが、水と風呂のお湯が充分に出たので良しとしよう。セント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂のすぐ近くにある。(写真G)
 今夜の夕食のシチリア名物のカジキマグロ料理を楽しんで、その後グループの仲間はバスの長旅の疲れで、就寝は早い目であった。
 今日旅の4日目、12月4日(水)は、シチリア島は終日、晴の良い天気だった。
 いよいよ旅も12月5日(木)、5日目を迎えたが、朝から素晴らしい好天である。気温は13℃である。今日のコースは、午前中、世界遺産のラグーザを見物して、約83キロメートル東へ、バスで1時間30分移動して、これも世界遺産の街シラクーサを見物して、約125キロメートル北上し、今夜の宿泊地タオルミーナへと移動する、又々胸おどる観光地巡りである。
 最初の観光は、ラグーザの街である。この街はイブレイ山地の南に位置する渓谷の間に高低差のある高台の街ラグーザ・スーペリオーレと、下方の地にあるイブラという街が一つの街をなしている。我々は、ラグーザとイブラ地区をガイドの案内で手短く徒歩で観光をした。何故かと言えば、バスの通らない2つの街を眺望できる階段からの素晴らしい景色を楽しむ為である。ノート渓谷のバロック都市として世界遺産に登録されているこの街は1693年1月に発生した大地震により崩壊し、それ以降再建されたバロック様式の街として有名である。
 1693年1月の大震災は、シチリア島では史上最大の震災といわれ、島の南東部にあるカターニャ、シラクーサ、ラグーザなどが壊滅的な被害を受け、死者数万人を数えたと言われている。その被害から復興するに当たって、街の最も古い地区のイブラでは、東と西の地区が対立して、20世紀初頭まで、市を二分する機能のまま存立をしていた。
 さて、ラグーザのスペリオーレ地区から、メインストリートを南に進んで坂道を下ってゆくと、美しい旧市街のラグーザ・イブラ地区が見えてくる。(写真H)絶景である。細い坂道からは、中世そのままに、新市街と旧市街の両方を見ることが出来る。バスを旧市街に先に廻しておき、イブラの街を見学した。
 先ずイブラ地区のシンボルである、サンジョルジョ大聖堂(写真I)へ向った。ロザリオ・ガリアルディ設計の後期バロック様式の代表的建造物の世界遺産である。また、イブラの街には、奇怪な面相を持つ貴族の館(写真J)が建ち並んでいるが、魔除けと言われている。短時間の見物であったが、時間をかけてゆっくりと見て廻りたい街である。

写真Hラグーザの“イブラ地区”の眺望

写真Iラグーザのイブラ地区
サンジョルジョ大聖堂

写真Jエブラの街の魔除けの奇妙な面
 さて見物後、ラグーザからシチリア東海岸のシラクーサへと移動する。バスで83キロメートル、約1時間半かけて街へ着いた。昼食のピッツァを済した後、これも世界遺産に登録をされているシラクーサの見物である。この街は後述するタオルミーナの街と並び称されて、シチリア島では、最も美しい街の一つに数えられている。シラクーサもまた世界遺産の街である。
 古代ギリシャから3000年以上に亘る遺跡があり、現在は周辺地域を含めると12万人余りの街である。沢山の遺跡で観光スポットも沢山あるが、我々の巡った場所を、順を追って説明してみよう。あのアルキメデスの生れた所であり、余談かもしれないが、小説家太宰治が、昭和15年に発表した“走れメロス”に出てくる街である(但し太宰はこの街をシラクスとしている。)古代のシラクーサは人口40万人をこす大都市であったが、アラブに征服されて衰徴した。

写真Kパラディーゾの石切り場の
“ディオニュシオスの耳”

写真Lシラクーサの“ギリシャ劇場跡”

写真M古代ローマの円形闘技場跡
 この街の見どころは、古代ネアポリスと呼ばれた市北部一帯(新市街)にある考古学公園内の、パラディーゾの石切り場である。深さ50メートル弱のものもあるが、特に有名で必見なのが、“ディオニュシオスの耳”(写真K)と呼ばれる高さ36メートルの耳の形をした洞のような岩である。この岩の掘り跡の名前はカラヴァッジョが1603年に名付けたという。又、このすぐ近くには、紀元前3世紀に着工した1万5千人収容の“ギリシャ劇場”(写真L)があり、現在でも古代劇が2年ごとに行われ、使用されている。又、ギリシャ劇場のすぐ近くに、紀元前3世紀から4世紀にかけて使われた“古代ローマの円形闘技場”(写真M)があり、これもシラクーサでは見逃せない観光場所の一つである。

写真Nシラクーサの“アポロン神殿跡”

写真Oシラクーサの“アレトゥーザの泉”
 もう一方、シラクーサの本島側とは別に、この街の発祥の地と言われている、オルティージャ島がある。この島には、世界最古の石造神殿と考えられる、“アポロン神殿”(紀元前575年頃の建立か?)(写真N)があり、ギリシャ人入植以前から、シクリススの聖地とされていた場所である。またこの島には海岸のすぐ近くにありながら、真水を湧出する“アレトゥーザの泉”があり、これもシラクーサの観光名所の一つとなっている。(写真O)
 我々一行は、シラクーサを観光した後、島を北上して、距離にして125キロメートル、時間にして約2時間をかけて、カターニャの街を経由して、最後に2泊するタオルミーナの街に到着した。すっかり夜になった午後の7時半頃に、宿泊するエクセルシオールパレスホテルへ到着をした。5日目の12月5日の旅は終日晴天でシチリア島の各地を堪能した。ホテルのロビーでは、南アフリカの独立の英雄、ネルソン・マンデラの死去がテレビ速報で大きく報じられていた(2013年12月5日死去)。到着が夜の7時半頃であったために、ホテル周辺の景色が今一つ定かでなかった。
 旅の5日目の12月5日は晴天であった。気温も15度位で見物箇所も多くて素晴らしい一日であった。宿泊するホテルはタオルミーナのエクセルシオール・パレスホテル(四ツ星ホテル)である。
 一夜明けた12月6日(金)、旅の6日目は、朝から絶好の晴天である。昨夜は定かでなかったが、眼前のエトナ火山の雄姿(写真P)が望めるタオルミーナでも有数のホテルである。(写真Q)
 展望デッキからは、薄煙りをはくエトナ火山が紫色にも見える雄大かつ優美な姿を見せていた。ホテルの前庭には、我々の出発前とその後に噴火した火山灰がまだ大量に残っていた、荒い砂のような黒色の火山灰である。しかし、ホテルの展望室から眺める、シチリア島のシンボル、エトナ火山は美しかった。(写真R)

写真Pエトナ火山の雄姿

写真Qエクセルシオールパレスホテル
タオルミーナの外観

写真Rホテル展望室から見たエトナ火山
 今日は旅の6日目、12月6日(金)であり、天候は朝から晴天の行楽日和である。世界中でも最も美しい街の一つと言われていて、又、世界中のセレブ達がこぞって集まるタオルミーナに、我々は前日に到着して、今日一日をかけてこの街を見物する。
 この街は人口約1万1千人で、シチリア島の他の都市と同じく古代ギリシャやローマ帝国の遺跡を数多く残している。シチリア島東北部に位置する街である。楽しみにしていたシチリア島での最後の観光地であるタオルミーナを、次号で語ろう。
以下、次号へ続く。
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地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4
二宮健(35回) 2019.04.15


シチリア地図
 さて、最近タオルミーナが世界の注目を集めたのは、2017年(平成29年)の5月に行われたタオルミーナG7サミットであろう。(写真@)

写真@2017年タオルミーナでのG7サミット
日本からは安倍首相が6回目の首脳会談としてG7に臨んだ会議である。
 旅の6日目、12月6日(金)、今日も快晴である。タオルミーナの街は世界中でも最も魅力のある街として知られている。人口は1万2千人位の小さな街であるが、この街のことをこの章では語ってゆきたい。

写真Aタオルミーナの街
 極言すれば、この街は徒歩で1時間も散歩すれば、その中に古代、中世、現代が混在している世界中でも稀有な街の一つである。街はタウロ山の中腹、標高約200メートル位の所に位置している。(写真A)眼前には、紺碧のイオニア海とシチリア島のシンボルである雄大なエトナ山を見ることができる。
 前日宿泊の際、チェックインが遅くて、ホテル周囲の景色が定かではなかったが、宿泊したホテルのエクセルシオールホテル(四ツ星)(写真B)の前庭には先月のエトナ山噴火での火山灰がまだ残っており、その庭から前面に雄大なエトナ山の噴煙と山容が、晴天の下、くっきりと望まれた。(写真C)

写真Bエクセルシオールホテル

写真Cエトナ火山

写真Dタオルミーナの小さな商店
 タオルミーナには、「カターニア門」、「中央門」、「メッシーナ門」という三つの門があり、これらの門はすべてが目抜通りの「ウンベルト1世通り」にある。目抜き通りとは言っても、約1キロの一本道で、車が通れるのはこの通りへ荷物を運ぶ車のみが朝9時半まで許されているだけであり、一日中ほぼ歩行者天国である。この通りは、世界中の人々が訪れる有名な通りである一方、通りから一歩横道に入ると、店のインテリアも美しい小さな商店がひっそりと佇んでいる美しい通りである。(写真D)
 先ず我々は最初に、「ギリシャ劇場」を訪ねた。劇場跡であり、周囲に広がるパノラマが素晴らしい。紀元前3世紀の創建と言われ、やはりシチリア島のシラクーサにある。ギリシャ劇場跡に次ぐ第2の規模を誇る歴史遺産である。その景色の雄大さから(周囲に広がる大パノラマ)、平成29年に開かれたG7のタオルミーナサミットで各国首脳が一堂に会して記念撮影もされた場所である。(写真E)

写真Eタオルミーナのギリシャ劇場跡

写真Fタオルミーナウンベルト1世通り

写真Gサント・アゴスティーノ教会
 約40分間、記念撮影やガイドの説明を受けた後に、次に街の中にある、ガリバルディのタオルミーナ来訪を記念する、「4月9日広場」へ向った。この広場は、メッシーナ門から、カターニア門へ向うメイン通りの「ウンベルト1世通り」の中央に位置する展望の大変良い広場となっている為に、いつも観光客や地元の人で賑わっている。(写真F)この広場の名前の由来は、イタリア統一戦争中の1860年(日本では安政7年)4月9日、ガリバルディ―がシチリアに上陸したということを記念して、命名された(実際の上陸は5月9日)。この広場からは、広場の正面に1448年に創建されたサント・アゴスティーノ教会や、広場の側面のサン・ジュゼッペ教会(17世紀創建)などがあり、(写真Gサント・アゴスティーノ教会)又、時計台のある中央門がある。

写真Hタウロ山よりのタオルミーナの眺望
 この広場からは、エトナ火山や眼下にはシチリア島タオルミーナの海岸線が見渡せ、観光に疲れたら、広場のカフェでゆっくりと休憩も出来る。何ともいえない絶好の場所となっている。この広場から、タウロ山の頂上(標高397m)にある城塞まで階段で登れ、約1時間の道のりの途中には、聖マリア岩窟教会があり、素晴らしい市街の展望が楽しめる。(写真H)

写真Iサンドメニコパレスホテル
 又、忘れてはならないのが、ホテルサンドメニコパレスホテルである。タオルミーナの丘の上に建ち、眼下に海岸を望む素晴らしいホテルである。14世紀に建てられた元修道院で、19世紀後半に建てられた2つの宿泊棟から出来ており、各国元首や、要人、そしてまたシシリー島への映画撮影できた映画人やトップスター等が宿泊する、タオルミーナの迎賓館的なホテルである。私も自由時間に、

写真Jタオルミーナ大聖堂前の“ドゥオーモ広場”
約2時間程見学に訪れ、ホテル関係者に案内をしてもらったが、快く迎えてくれ親切に案内をしてくれた。本来なら宿泊する人しか入れない部屋も、J.T.B OBと身分証を見せると、いつも貴社より良いお客様を送客いただいており、ありがとうという言葉と共に、接客のプロとしての接しかたをしていただいた。(写真I)
 又、タオルミーナのウンベルト1世通りの西の端、カターニア門近くの大聖堂とすぐその前にあるドゥオーモ前広場も散策のついでに立寄りたい場所である。シチリアらしい風景を楽しむことが出来、安くておいしいカフェやレストランが近くに散在している。(写真J)
 さて少し話題は変わるが、シチリア島は映画の舞台となったことが何回もあって、私を含めて映画ファンには見逃せない場所でもある。又、マフィアでも有名な島である。これ等について少し述べてみたい。
シチリアを舞台にした映画を思いつくままに記してみても、
 ●「シシリーの黒い霧」:1962年製作・監督フランチェスコ・ロージでベルリン国際映画祭銀熊賞最優秀監督賞、原題は主人公の名前の「サルバトーレ・ジュリアーノ」(写真K)
 ●「シシリアン」:1969年フランス映画、シシリアマフィアを題材にした、ジャン・ギャバン、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ主演の映画(写真L)
 ●「山猫」:1963年のイタリア・フランス合作映画、ルキノ・ヴィスコンティ監督、第16回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞作(写真M)

写真K「シシリーの黒い霧」

写真L「シシリアン」

写真M「山猫」
 ●「ゴッドファーザー」:1972年アメリカ映画、1972年アカデミー賞作品賞、主演男優賞、脚本賞を受賞(「ゴッドファーザー2」、「ゴッドファーザー3」と続編がある)(写真N)
 ●「ニュー・シネマパラダイス」:1988年イタリア映画、1989年カンヌ国際映画祭審査員特別賞、1989年アカデミー外国語映画賞受賞(写真O)
 ●「グラン・ブルー」:1988年フランス・イタリア合作、フランスでのアカデミー賞にあたるセザール賞に多部門でノミネートされた(写真P)

写真N「ゴッドファーザー

   写真O「ニュー・シネマパラダイス」   

写真P「グラン・ブルー」
などなど、どれを見ても良い作品であり、帰国後にビデオで鑑賞し、旅の楽しみである旅行後の余韻に浸った。特に私は、「ニュー・シネマパラダイス」が好きである。又、「山猫」も、ガリバルディの活躍した時代背景を、豪華な配役とその時代風景を映画に反映させた秀作であった。是非皆さんもこれ等の映画で、シチリアの匂いを嗅ぎとって欲しいと思います。
 さてもう一方の、マフィアの件であるが、硬軟色々の著作があり、概要は御存知の方も多いと思うが、今でもイタリアに大きな影響を与えているようだ。この旅行中の12月5日付のイタリア紙には、シチリア島で、マフィア関連の難しい公判を指揮する主任検事へのインタビュー記事が掲載されていた。それによると、「マフィアは盗聴や諜報を駆使しており、1992年〜93年のようなテロが急増するかも知れないという。マフィアは今も、イタリア社会に強い影響力を持っている。かつて捜査・司法と全面対決し、判事の暗殺も相次いだ。マフィア『コーザ・ノストラ』の元ボス、トト・リーナは獄中から検事を脅迫する。アルファーノ内務相は、『最も深刻な課題。南部の発展を遅らせ、経済的自由への脅威だ』と述べた。」 〜イタリア紙ジアンニ・デルベッキオ編集長〜
 しかし、日本の暴力団のようにそれぞれが自他共にわかるような服装などは、一切マフィアはしていなくて、又、それを誇示し市民を脅迫するようなことは多くなく、もっと深部に潜み、一般住民の如く暮らしていると、現地の人は私に語ってくれた。それが実態かも知れない。
 シチリアの旅は色々と私に感動を与えてくれた。この旅は、12月9日(月)日本帰国をもって終了した。
 〜終わり〜
≪編集人より≫懐かしいシチリア紀行ありがとうございました。40年前、2度目のクリスマス休暇、一緒に過ごす相手もいなく、ヒッチハイク(国鉄の運転席も含め)で島内を駆け巡ったことを思い出しました。いいところです。それ以来訪れていませんが、まるで変っていない気がします。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
 「鬼の霍乱」
公文敏雄(35回) 2019.07.02

故 永森 裕子 さん

筆者近影
 5年間にわたる病気療養の後、平成最後の月に永眠された故永森裕子さん(元KPC幹事・書記 44回生)について想い起こすままに書き記します。
 44回生の永森さんと9年も歳が隔たった私は、土佐校時代の彼女の様子には疎いが、彼女の存在感を彷彿とさせるKPCホームページの記事が印象に残っている。2014年7月31日付で44回同期の加賀野井秀一さんが執筆された『向陽新聞に見る土佐中・高の歩みH昭和41年(70号)〜44年(80号)』の序文である。
<錚々たる先輩方が執筆されているこの欄に、私ごときが起用されるなぞ思いもよらぬことであり、本来ならば即座にお断りするところ、他ならぬゴッド・マザーたる永森さんからのご命令。その上彼女が『鬼の霍乱』ときており・・・>とても抗えなかったと述懐している。
 「鬼の霍乱」とは、エネルギーの塊のようだった永森さんが突然病を患ったことであろう。実際、この直前の4月26日に行われたKPCの2014年度総会に、遅刻しながらも文字通り駆けつけてくれたのが、彼女を見る最後の機会となってしまったのは痛恨きわまりない。

2010年KPC設立総会にて
 ここに掲載の写真は、今から9年前、2010年7月25日に市ヶ谷の私学会館で行われた新生KPC設立総会の受付で働く永森さんのお元気な姿である。彼女は最初からKPC設立準備委員として活躍、何度か帰省して高知支部の立ち上げに一役買ってくれたし、向陽新聞バックナンバーCDの頒布にも汗をかいてくれた。毎年の総会・幹事会の書記まで快く引き受け、優に男8人分の仕事ぶりを見せてくれていた。
 紅一点の彼女がいない総会・幹事会となって久しいが、「遅くなってごめんごめん」と言いながら汗だくで会場に現れる彼女の姿が、つい先日のことのように瞼に浮かんでくる。今は、安らかに眠られんことを祈るばかりである。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
惜しまれるフレスコ画研究の中断
中城正堯(30回) 2019.07.02

2012年5月に加賀野井さんと
拙宅に来てくれた永森さん
 私とは、土佐高新聞部の先輩後輩の関係です。年令は十数歳離れていますが、永森さんが高校生の頃に新聞部の全国大会で上京してきたのが、最初の出会いかと思います。
 彼女がロンドンから帰国後、東京で国際児童図書文庫協会の活動を始めた時期に、新聞部OBOG会があり、再開してトータスにもお誘いしました。この頃、土佐高同窓会関東支部の会報「筆山」の編集長としても活躍しており、彼女の原稿依頼で駄文を提供したことでした。

2010年Frankfrtにて
(永森氏撮影)

 2006年秋から、1年半ほどイタリア・フィレンツェに滞在するので、しばらくトータスに出席できないとの話があり、それなら何かテーマを見付けて現地で調査し、帰国後に報告するようお願いしました。永森さんは、哲学美学修士を取得していただけに、イタリア各地のフレスコ画を探訪調査、2009年のトータスで見事な発表をしてくれました。これらの研究成果を論文にまとめる途中で発病したのは、大変悔やまれます。
 心からご冥福をお祈り致します。
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=永森裕子さんを偲んで=
6人組のカラオケ・リーダー
山本厚子(作家) 2019.07.02

筆者と故永森さん(2014年・清水由江氏撮影)
 平成最後の春は、寒い日が続き、近年になく美しい桜を見ることが出来た。6人組の和子さん、由江さん、そして私は四谷から市ヶ谷に抜ける土手を散策し、満開の桜が窓の外に広がる市ヶ谷のホテルでランチをした。「裕子さんがいたらね・・・」と、話題はもっぱら裕子さんのことであった。「花見」は寂しいものであった。
 その週末、私は京都で開かれる会合を利用して、絢爛豪華な古都の桜を堪能した。高瀬川沿いの桜並木は、私に森鴎外の作品を思い出させた。足は清水の二年坂の香木屋で止まり、桜香のうちで華やかな「八重桜」を買い、帰宅後毎日それを炊いていた。
 「平成31年4月2日、永森裕子さん永眠、享年68」という訃報が私の手元に届いたのは、街角の樹木の緑が濃さを増した日で、元号は令和になっていた。裕子さんは、天国への旅の途中で私たちのところに立ち寄ってくれたような気がした。仲良し6人組で過ごした日々の思い出をきっと天国にもっていったにちがいない。「大阪マンボ」でも口ずさみながら「ひと足お先にね・・・」と愛くるしい笑みをうかべて言った気がする。
 永森裕子さんと私が出会ったのは、「トータス21」という会であった。「21世紀、陸亀のように力強く地球を歩きまわる・・・」という趣旨の会で、国際的に活躍する会員が次つぎと発表する。懇親会がとても楽しく、ひとり、またひとりと仲良しの輪が広がっていった。この会の主宰者は土佐高校出身の中城正尭氏で、裕子さんの先輩であった。会には土佐出身の会員が数名いた。裕子さんはロンドンで子育てをし、イタリアのフィレンツェに滞在して古い教会のフレスコ画に興味を持ったようである。また、子供の言語に関心を示し、国際児童文庫協会に所属し、会長も務めていた。
 「トータス21」は2010年10月、36回目の発表をもって閉会した。その前年の10月、「フレスコ画のある街」=イタリア滞在記=というタイトルで彼女は沢山の写真を使って発表した。トスカーナ地方の古い教会のフレスコ画が次つぎとスクリーンに写し出され、大変興味深い発表であった。「ルネッサンス期のフレスコ画の再評価、保存状態の悪い教会・絵画の修復が行われている・・・」という発表を聞き、「まとめたら面白い本になるだろう・・・」と、思った。そして、彼女の背中を押してみた。
 やっと重い腰をあげて、「補足の取材をしてくる」と、裕子さんがイタリアのトスカーナに旅行したのは、発病する半年前であった。大学で日本文学を専攻し、「哲学美術」で修士課程を取得している、裕子の「フレスコ画研究」は突然中止となってしまった。取材報告を聞く前に闘病生活に入り、ついにまとまった形にならなかったことが、今、残念でしかたがない。

2011年・野町氏写真展の後のトータス21懇親会(右下筆者)
 「トータス21」の会の懇親会の後には、2次会、3次会があった。自然発生的に6人の女性が集まり、仲良しになった。年齢も仕事もまちまち、既婚者3名、独身者3名というグループが出来た。「6人組」と呼ぶようになった。共通点と言えば、グルメで美酒家、そしてカラオケで歌うのが大好きということだろうか。しかし、飲まない者1名、歌わない者1名がいたが、グループの調和には何の支障もなかった。
 和子さんは映像・舞台関係の仕事、歌うジャンルはシャンソン。由江さんはトルコの文化研究に夢中で連絡係り、そして中島みゆきのそっくりさん。裕美さんは中近東・シルクロードの旅人で聞き上手。一番歳下の恵子さんはトルコの専門家で、次つぎと演歌を熱唱。私はラテン・ナンバーを踊りながら歌う・・・という具合で、なんとも陽気で面白い仲間であった。頻繁に東京の夜の街に繰り出したものである。
 6人組の中で、裕子さんはカカオケ・リーダーであった。楽しいお店を探してくるのはいつも彼女であった。由江さんから「集合」の知らせが届くと、「はーい!と、全員が集まった。時間の経つのを忘れて、さわいだ。トスカーナ仕込みのワイン通で、イタリアの料理、ファッションにも詳しかった。時々は、話題はイタリア、トルコからスペイン、南米へと飛んで、比較文化論のような展開になった。彼女が故郷・高知で発病するまでの4年あまり、6人組はよく集まり、楽しい時間を過した。
 一番に思い出すのは、六本木の「フェスタ飯倉」での会だった。個室で懐石料理を食べながら歌える店だった。長い廊下に衣装とかつらが備えられ、歌の雰囲気に合わせて、各人仮装姿で歌い、最後は6人の合唱で締めくくった。あまりの楽しさに時間の過ぎるのを忘れ、最終電車やタクシーで帰宅したことが、昨日のことのように鮮やかに思いだされる。
 また、四谷・荒木町のカラオケ・バーでは、貸切りで、ママの手料理と各人が一品を持ち寄るという、ホーム・パティーであった。私は大きなスペイン・オムレツを持参した。のぶ子ママは、裕子さんの友人で、美声を披露した。
 2013年夏、裕子さんは高知で脳腫瘍が見つかり、すぐに高知医大で手術した。術後の経過がよく、翌年の1月には東京で会うことが出来た。6人組は裕子さんの住まいの近く、玉川上水沿いのレストランに集合した。全員が集合し、カレー・ランチであった。「6人組」の集まりは、これが最後となった。彼女は始終にこにこして、みんなの話を聞いていた。高知での治療と東京という「飛行機での通院」を実行し、「70歳までは生きたい!」と言い、病気には負けていなかった。

2014年カレーランチにて(右端が清水由江さん)
 由江さんがまめに裕子さんと連絡を取ってくれ、私とは高円寺でお茶したり、渋谷のホテルでランチもした。高知と東京を往復する闘病生活なのに、その行動力には驚かされ、感動した。渋谷の学生専用のようなカラオケ・ボックスで「島田のぶんぶん」、「大阪マンボ」、「渋谷のネコ」など、裕子さんの十八番を聞いたのが、最後のカラオケとなった。「今、天城越えを練習中よ」、天使のような笑みを浮かべて言った。
 その後、東京のご自宅で転んで足を骨折して、近くの病院に入院してしまった。やっと退院したのに、また家で捻挫し、ついに車椅子の生活となってしまった。由江さんと和子さんがお見舞いしてくれた。裕子さんとの交信は途絶え、故郷のケア・ハウスに入所したことが伝えられたのは翌年であった。自然豊かな故郷での闘病生活、「幼な馴染みの方がたのお見舞いがあるでしょう・・・」と、遠くから祈るしか出来なかった。その後4年余り、裕子さんは病気と闘い、お孫さんふたりの誕生も見届け、静かに天国へと旅立ってしまった。

2018岡豊川の畔で(永森氏撮影)
 元号が令和に移った6月、涙雨のようにどしゃぶりの夜、6人組は新宿の居酒屋に集合した。ささやかな「偲ぶ会」であった。お店の設定や連絡は、いつものように由江さんの係りだった。裕子さんの夫の永森誠一氏と土佐校の先輩の藤宗俊一氏も参加してくださった。永森氏が「遺影」として持参した写真は、満開の桜の木の前でお澄まし顔の裕子さんであった。大好きなワイン、ゴディバのチョコ、お菓子などが供えられた。お酒を飲みながら、裕子さんとの思い出話は尽きなかった。「きっと天国から降りて来てくれているわね・・・」と、誰もが思っていた。
 帰宅後、私は桜香「八重桜」を炊いて、妹分のようだった永森裕子さんのご冥福を心から祈った。「いろいろありがとう。安らかに!」  
合掌。

≪筆者プロフィール≫ 作家・元早稲田大学講師。著書に「野口英世 知られざる軌跡」「メキシコに生きる日系移民たち」「パナマから消えた日本人」「野口英世は眠らない」等。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
Ciao Bella(さよなら美人)!
藤宗俊一(42回) 2019.07.02

筆者近影
 たしか高一の頃(1963)だったと思うが、放課後部室で仲間とくだらないおしゃべりをしていた時、部室のガラス戸を引いて、小さな女の子二人が恐る恐る『あのう、新聞部に入りたいのですが……』と尋ねてきたのがなれそめだった。とても初々しくて、『かわいい子だなあ』と思ったように記憶している。即座に入部が決まり、先ずは見習いで先輩記者に同行して取材をしたり、原稿の清書など雑用をしてくれた。部長が面倒をよく見ていた気がするが、私は一緒に仕事をしたことが無く、しかも、すぐに引退したので、当時の記憶は定かではない。
 その後、三十年ちかくたった関東支部同窓会の懇親会の席上、背中をたたかれ『編集長、あたし覚えてる?』と声をかけられた。振り返ると、そこにはイタリアの下宿のおばちゃん(モナリザ)と見間違えんばかりの女性が微笑みかけていた。『え〜と……』。名札を見ると永森裕子と書いてある。『永森は同期の卒業生代表だった奴だけど、新聞部とは……』『永森の妻です。新聞部でお世話になった松本裕子です。』『え〜っ!』。変われば変わるもんだ!。訊けば、ダンナと一緒に英国留学中、淋しくて大食いしてしまった結果だそうだ。『酒呑童女と呼ばれるくらいお酒が好きで、そのせいでちっとも痩せないの』。むべなるかな。

1992年当時の『筆山』編集部……筆山14号より
 早速、当時編集長をしていた『筆山』に引き込んで手伝ってもらうことにした。なにせ、当時の編集員は戸田、岩村、鶴和、佐々木、内川、大和田等といった錚錚たる先輩方ばかりで、渋谷の事務所で編集会議をしても、『藤宗くん、後は頼んだぜよ』の一言でさっさと道玄坂の裏店へ消えていく。その状態が少しは改善されると思っていたのに……。
 彼女は、私が本業が忙しくなって24号を最後に編集長を辞めた後も編集委員にとどまり、52号(2012)〜55号(2013)の編集長も務めた。彼女の顔の広さは多岐に渡り、出版関係、美術関係、旅行関係等々いろんな飲み会に連れまわされた。そんな、忙しい合間をぬって社会人大学院にかよい西洋(イタリア)美術史で学位をとった頑張り屋さんでもある。その後、ダンナが法学部長を努めた御褒美に海外研究留学(2006〜2008)が認められイタリアへ行くのにくっついていった。

イサクの犠牲(Uffizi /Firenze) Caravaggio1603
しかし、なんでダンナ(政治学)と直接関係のないイタリアなの?しかもよりによってフィレンツェ大学なの?1976年以来、血のにじむような努力を重ねて高めた日本人の評価が一瞬のうちに崩壊してしまう恐れがあった。幸いにして、街が炎上しただの、通ったあとがグチャグチャだのと言った情報は届かなかったのでホッとしている。一年くらいして『工事先輩、あたしルネサンスを卒業してバロックに夢中なの。今、カラヴァッジョの絵を追ってローマにきているの。あのハラワタをえぐり出して絵の具にして、血のしたたるような筆遣いがたまらないの!』と絵葉書が届いた。相変わらず精力的に活動しているなと感心した。

2007年Londonにて(永森氏撮影)
 『Ciao Bella(よう美人)!』 『Ciao Maestro(あら巨匠)!』の挨拶で再び親交が始まり、一緒に楽しいお酒を飲んでいたが、2012年秋頃から頭痛を時々訴えていた(ダンナの弁では『いろいろ能力以上のことをやりすぎて、脳も体もついていけなくなっているか、くらいに思っていた。それから、「頭痛がひどくなった」ということではなくて、もっと単純にね歩けなくなった、動けなくなった、話ができない、というような症状だった』)。
 2014年夏、帰高した際に同期の高知医大の元院長に助言を受け、総合診療科で検査を受けたら、ソフトボール大の脳腫瘍がみつかり、そのまま入院、摘出に至り、『Stage4で余命半年』と言われたそうだ。退院後も川向かいのケアハウス『たんぽぽ』に入所し、最後は終末期病棟に移り今年4月2日まで頑張った。その間に初孫にも出会えたのは、ひとえにダンナの献身的な看病のおかげだと感じ、ただひたすら頭が下がる。きっと彼女も感謝しているだろうし、幸せな最期だったことと思う。入所先でお孫さんの写真に囲まれて穏やかに微笑んでいた姿が目に浮かぶ。
最後の状況はダンナのMailによると
 ………… 4月2日昼過ぎまでは、それまでと変わった感じはなかったんだが、夕刻に容体が急変して、そのままだった。最後の1時間だけ、ちょっと苦しそうで、かわいそうだった。
 これから東京に戻って、役所の手続をします。住民票は、まだ小平でね。   永森誠一
とのこと。

 あんなに好きだった東京に帰れなかったことを思うと切なくなる。心よりご冥福を祈っています。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
松本(旧姓)さんの思い出
井上晶博(44回) 2019.07.02

筆者近影
 何から書いていいのか、永森裕子さん・・・・私にとっては松本(旧姓)さんと言った方がしっくりきます。以下は追悼文にもならない、頭の片隅に残るあいまいな思い出になります。
 体調を崩し、それでもまだ元気な時に2度ほどお見舞いに行きました。その時は比較的元気で、持参したお菓子を一緒に食べてくだらないことを話したりしました。その後の闘病生活も同級生から聞いていましたが、迷っているうちにとうとう見舞いに行けませんでした。逝去の知らせを友人から聞いたのは亡くなってから数日後です。新聞で確認して茫然として「松本さんが亡くなったんだ」と独り言を言ったようです。妻が「何が」と聞いてきたので、事情を話しました。妻は彼女の妹さんと小学校の同級生で大変仲の良い友人でもあり、松本さんの事も知っていたのでショックだったようです。訃報を聞いたその日は親友ともいえる同級生が亡くなった日でもありました。今年に入って5人目の同級生が旅立った日でもあります。

44回生新聞部:左から中村恵子さん(高校入学の生徒です)
松本裕子(現永森)さん、加賀野井秀一君(現中央大教授)、
堀元治君、右の端が私です。このときの顧問の先生は、左が
田村尚子先生(この時結婚されて、姓が矢野に変わられたの
では?)、小松先生です。
 私自身の事を先に話すと、新聞部入部が高校1年になってからと遅くて、右も左もわからない落ちこぼれ部員でした。何とか部員としてやっていけたのは、諸先輩方や出来の良い後輩の助けがあったことは当然として、同じ学年の仲間である加賀野井君や中村さんそして松本さんたちがいてくれたからだとしみじみ思います。今になって、当時の向陽新聞を再読すると、記事の内容を見る前に発行人のところにある自分の名前に目が行き、いたたまれない思いになります。今考えると、もう少しましな割り付けができなかったのか、もう少し何とかなったのでは、との思いがあります。その当時、何とか曲がりなりにも新聞が発行できたのは他の部員たちの助けがあったから、という至極当たり前のことに気づきます。そんな時に思い浮かべる仲間の中に彼女がいました。
 松本さんについて考える時、具体的な思い出がない事に驚いています。例えば、新聞部で合宿に行ったこと。もう半世紀以上前の事で、記憶も定かでないところもあるのですが、1年の夏休みに新聞部で、「合宿」という名の「キャンプ」に行ったことがありました。2年の植田先輩か誰かが「新聞記事の書き方のイロハを教える」という名目での「合宿」と言われたような記憶がありますが、本当のところはどうだったのでしょうか。この時の高校1年生は松本さんを除いて全て1年になって入部したばかり新入部員。何かと迷惑を掛け、色々なフォローをしてもらったはずなのに、今思い出すのは彼女の色白な顔と明るく元気な笑い声だけです。考えれば考えるほど、記憶が定かでなくなります。彼女は本当に「合宿」に参加していたのか。新聞作成の編集会議、その他の打ち合わせ、印刷所での校正作業、いろんなことを一緒に経験したはずだし、東京で開催された高新連(全国高等学校新聞連盟)の総会にも一緒に参加したのに。改めて思い出してみると、彼女の記憶が少しあるのは新聞部を引退(何かえらそうな物言いですけど)した後、部外の同級生と一緒にどうでもいいような事や、大学の事、東京の事、等々の話をした時や卒業後居酒屋で飲んだ時の断片的な出来事の思い出です。そこには新聞部で一緒に過ごしてきた彼女とはほんの少しだけ違う彼女がいました。

2007年Londonにて(永森氏撮影)
 ずいぶん経ってから同窓会で再開した時の驚きは今でも憶えています。色白な顔は変わらないものの、豪快な笑い声と迫力ある容姿にしばらく声が出ませんでした(失礼)。ある同級生は淡い思いを持っていた彼女に向かい「これは詐欺や」と叫び、それに対してまた彼女が笑い転げる、という再会でした。次に彼女から連絡があったのは「向陽プレスクラブの高知支部を立ち上げるから、井上君やって」という電話でした。参加するとか、参加して欲しいとか、ではなく「やって」です。これが松本さんなんだ、と妙に納得したのを憶えています。申し訳ないことに、彼女に言われた支部の事は後輩に任せっぱなしになっています。 
 今年の同窓会は「卒業50年(本当は51年目に突入してますが)」と言う事で、華々しく開催するそうです。転校等で一緒に卒業できなかった同級生や中学1年から高校3年までの担任の先生にも声をかけているようです。
「松本さん、今年の同窓会はサンライズホテルで9月28日に開催です。みんなを誘って是非会場に来てください(合掌)。」
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合田佐和子展 -友人とともに-
中城正堯(30回) 2019.07.15
 合田さんの個展案内が届きました。
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 みうらじろうギャラリーより展覧会のご案内をさせていただきます。

「ニジンスキー、バラの精」
合田佐和子 2011
   合田佐和子展 -友人とともに-
   会期:2019年7月13日(土)〜28日(日)
   12:00〜19:00 月曜・火曜休(15日はオープン)

 みうらじろうギャラリーでは8回目となります今回の個展では、合田佐和子と交流のあった作家の方々にご出品いただき、合田作品とともに展示いたします。この機会に、より広く多くの方に合田作品をご覧いただくとともに、その奥深い魅力を再発見していただければと存じます。
 関連展示として、3階のみうらじろうギャラリーbisでは、1980年代のポラロイド作品を展示しております。

特別出品作家(五十音順、敬称略)
大西信之、桑原弘明、篠原勝之、建石修志、種田陽平、横山宏、四谷シモン
特別出品作品
 それぞれの作家の皆さんが、合田さんとの思い出や合田さんへの想いを作品に込めてくださいました。
詳しくは右記サイトでご覧下さい。 http://jiromiuragallery.com
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往時茫々、中国の旅  〜その1〜
二宮健(35回) 2019.11.21

筆者近影
はじめに
 なぜ今、「41年前の中国紀行」なのか
 名実ともに世界有数の強国となった中国だが解放後、未曾有の国難といわれた「文化大革命」が終息したのが44年前の1976年である。2019年には建国70年を迎えた。(2019年10月1日)
 ケ小平の所謂、「四つの近代化」が緒に就いたばかりの1979年(昭和54年)に(令和元年から40年前)筆者、二宮健が見た当時の中国の姿を紀行文と写真で紹介してみる。二宮訪中10数回の最初の訪中である。題して「往時茫々、中国の旅 その1〜その5」として記述してみた。         令和元年11月
筆者 二宮健氏
昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年間在籍した準35回生。
旅行評論家・JTB OB会員。神戸市在住。


@毛沢東死亡を伝える号外
 1976年(昭和51年)10月に、張春橋、姚文元、王洪文、江青の四人組が逮捕された。その前月9月9日には、毛沢東が北京で死去している。(写真@)
 1978年(昭和53年)12月16日に米中が共同声明を発表して、1979年(昭和54年)1月1日から国交樹立を発表した。

A文化大革命中の壁新聞
 同じ1979年(昭和54年)12月6日に北京市革命委員会は、北京市「西単の壁」および他の場所への壁新聞を貼ることを禁止した。(写真A)
 さしもの文化大革命(1966年?1976年)の10年間の未曾有の政治的混乱が終束して、中国が「改革・解放政策」へ舵を切り始めた頃の1979年(昭和54年)、2019年(令和元年)からふり返ると40年も昔となる。筆者二宮にとっても“往時茫々”たる想い出が深い、まだ日本人の訪問観光客のほとんどいなかった時代の旅行記とその記録と写真である。

B1978年(昭和53年)
中国共産党第11期3中全会

C芦屋市友好訪中団
訪問・参観先
 この年1979年(昭和54年)私は兵庫県芦屋市友好訪中団を企画・立案して中国へ渡った。文化大革命が終息して、江青反革命集団が粉砕された後、中国中央党組織は、ケ小平の職務を回復し、1978年(昭和53年)末に中国共産党第11期3中全会を経て、改革・開放(写真B)政策の実行と四つの基本原則の堅持を確認した。現在の中国へと出発する転換期の時代であった。そんな時に訪中団の企画を立て、芦屋市に打診をしたところ、当時の市長松永精一郎さんや、芦屋市議会代表、任意参加の市民など16名の“芦屋市民友好訪中団”が結成された。令和元年(2019年)から40年前のことである。現在78才の私が37才の時である。代表団の大多数の方が、鬼籍に入り、帰幽されている。(写真C)の訪中団旅程図と訪問先、観光先の地図を見ながら、論を進めてゆきたいと思う。私は企画・立案者として、この15日間の旅行の公式随行員として、日本交通公社より派遣された。
 1979年(昭和54年)11月27日(火)から12月11日(火)迄の当時の中国各地での旅行の記録である。その頃は、中国を自由に旅行することは、日中共に許されてはおらず、日本側で企画・立案した旅行日程を、中国側に提示し、その後、中国側から招請状(インビテーションレター)なるものが発給されて、初めて訪中が許されていた。

D文革中の「紅衛兵」
のポスター

E華国鋒
 それも何度かに亘り、日本交通公社本社(東京)を通じて、中国側の当時の国営中国国際旅行総社(北京)と、旅程の調整を行い、中国側から提示された旅程に概略同意せざるを得ない情況であった。
 まだまだ当時発展途上国であった中国では沿岸部の大都市を除いた内陸地方では、ホテルは勿論、外来の賓客を迎えるための招待所(ゲストハウス)も無いのが、実情のようであった。現在の中国は習近平体制の下で経済大国としても発展し、GDPで世界第2位の実績を誇っているが、私が訪中した1979年(昭和54年)当時はケ小平が何回も文化大革命の中で(写真D)失脚と復活をくり返した後に、確固たる実権を握ろうとする時でもあった。我々の友好訪中団はその寸前の華国鋒が党主席の1979年(昭和54年)12月である。(写真E)
 時系列でみてみると、中国の指導体制は第一世代が毛沢東(写真F)、第二世代がケ小平(写真G)、第三世代が江沢民(写真H)、第四世代が胡錦濤(写真I)そして現在は習近平(写真J)の第五世代指導部と言われている。

F毛沢東中国共産党指導者(第一世代)

Gケ小平中国共産党指導者(第二世代)

H江沢民中国共産党指導者(第三世代)

I胡錦濤中国共産党指導者(第四世代)

J習近平中国共産党指導者(第五世代)
 丁度、第一世代と第二世代の交替期に訪問したのであった。まだまだ四人組の影響が残っていた華国鋒体制の下では、決して物見遊山の旅は許されず、後述するように文革の余波の残る各都市の、革命委員会への表敬訪問や、人民公社の見学等が旅行のコースには、必ず組み込まれていた。旅行を実施した1979年(昭和54年)には、流行歌手渥美二郎の“夢追い酒”や山口百恵の“いい日旅立ち”などが大流行した年でもあった。

K筆者手製の渡航記念証1979年11
月29日CA922便機長副機長署名入り

L成田?北京間の中国民航
B-707型の機内

M中国民航1979年当時のロゴ
 この年、中国側の統計によると、中国を訪れた日本人は、業務での渡航を含めても推定5万4千人にすぎなかった。(現今の中国旅行ブームとは隔世の感じがする)。そんな情況の中で我々一行は、1979年(昭和54年)11月27日(火曜日)に夕刻の中国民航922便にて北京へ向けて出発をした。(写真K)機種は、ボーイング707型機であった。(写真L)(写真M)
 機は午後9時15分に北京首都空港に到着した。機中での服務員(スチュワーデス)は紺色の上下服で、華やかな雰囲気はなく、乗客に提供する茶も魔法瓶から注いでいたと記憶をしている。当時の自由主義諸国の日・米・欧の航空機のサービスからは、随分異なった印象を受けた。さて到着した首都空港は、現在の世界を代表する近代的な大空港ではなく、何回も拡張される前の現在からは、想像も出来ない質素な、そして薄暗い空港であった。(写真N)(写真O)(写真P)

N1979年当時の北京首都空港

O到着時の北京空港内部

P北京首都空港より北京市内へ
向う道路(1979年当時)
 薄暗くて人影も少ない雰囲気で淋し気な空港であった。
 空港には、受入側の中国国際旅行総社日本処(日本課)の張乃驍ニいう、この日から最終日まで随行する男性通訳と北京分社の日本課副課長胡金樹、同趙登霞、同李艶という北京地区を担当する男性1名、女性2名の計4名(通訳を含めて)が出迎えてくれた。
 張氏は、エリートであろう、灰色の人民服にポケットが四つついた制服を着用していた。
 当時は上着のポケットの数で大体エリートかどうか判断出来た。張氏は我々訪中団の中国側のお目付役と団の動向をそれとなく観察する役目をもっていたと旅行が消化されていく中で確信するように団員誰もが思うようになった。観光ガイド、通訳というより、公安員としての側面が強かった。

Q芦屋市友好訪中団:成田空港にて (筆者後列左より2人目)
 それは、彼が各地の現地分社の通訳やガイドに示した態度が同業というよりもっと尊大な態度からもうかがい知れた。またこの時に出迎えてくれた日本処(日本課)副課長胡金樹氏は、その後、中国要人が日本訪問する際に度々、日本語通訳として来日し、そのフルネームを新聞紙上でよく見かけた。(写真Q)
 我々が中国を訪れた1979年(昭和54年)の日中の動向を見ておこう。この年の1月1日に米中の外交関係が樹立され、2月17日には、ベトナムと中国は戦争を始めている。また2月には、後の日本国総理となる麻生太郎氏が39才で、日本青年会議所会頭として代表団を率いて訪中をしている。同年に衆議院議員に初当選している。
 一方、中国では、現在の国家主席習近平氏が24才で清華大学(北京)を卒業して、中国軍事委員会弁公室へ勤務を始めており、中国共産党官僚として出発をした年でもある。
 1979年(昭和54年)11月の時点で、1米ドルが1.55中国元であった。当時1米ドルは日本円で246円前後であったので、換算すると1中国元は約158円前後であった。(2019年4月現在1中国元は日本円で約17円)
 我々が訪中した当時は、万元戸(1万元)が富農・富豪の目標とされており、つまり日本円で年収160万前後のお金を持つ人々が中国に於ては少数の富農・富豪と見なされた。昨今の中国経済とは雲泥の差である。
 当時、1979年(昭和54年)頃の中国人の平均月収は、都市部の勤労者が良くて、(家族持で)70元〜80元(日本円で約11,000円〜12,600円)位であり、日本では大卒の初任給が大体、手当を除いて約100,000円前後の頃である。まだ中国は経済的に見ても発展途上国であった。

R1979年(昭和54年)当時の
前門飯店のシール

S現在の前門建国大飯店
 さて、到着日は夜も遅い為、空港での歓迎の言葉もそこそこに、北京市内のホテルへ向った。市内まで約20キロメートルの道は、薄暗くて、これから首都へ向うのかと思うほど淋しい道であった。それでもポッと灯る街灯の明りが増えてきて、首都北京中央部永安路にある、前門ホテルへ到着した。現在の前門建国大飯店である。(写真R)(写真S)
 薄暗くて、やけに広いロビーで部屋割を済ませて、真夜中過ぎにそれぞれの部屋に入った。現在のように超一流ホテルが乱立する北京のホテル事情とは異なり、前門ホテルは、芦屋市という友好訪中団を受け入れるに足る、当時では、北京の一流ホテルだったのである。本音で言えば、薄暗くて、うらぶれた感じがしたが、芦屋市という都市の内容と特色は間違いなく、国の機関である、国家旅遊管理総局を通じて、中国国際旅行総社に伝えられている筈である。
 団員一行も一寸とまどった感じであったが、後日、この国の実情が徐々にわかってくることになる。
以下次号へ続く
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往時茫々、中国の旅  〜その2〜
二宮健(35回) 2019.12.09

@1979年当時ホテルから見た民家
 一夜明けた1979年(昭和54年)11月28日、水曜日の早朝、前門飯店で夜明けを迎えた。初めての中国での朝である。前日は夜遅く、ホテルへ到着のために、北京の街の様子はわからなかった。午前7時前に5階(だったと思うが)の自室の部屋から市街を眺めると煙に曇った風景である。現今、炭素硝酸塩、金属を主な成分とする粒子で径2.5μm以下の微粒子状物質のPM2.5が空気中に飛散して、平成27年12月9日には、最悪警報「赤色警報」が発令されて学校等が休校になる事態になっているが、その原因の一つが、冬の暖房のための石炭を燃やすことといわれている。当日の11月28日もかなり冷えこんでおり、石炭を燃やして北京市民は暖をとっていたのであろう。窓をあけると、石炭の臭いが鼻に入り、このスモッグは石炭のせいだとはっきりわかった。当時北京では、乗用車もあまり走っておらず、それがスモッグの原因になるはずもなかった。自室の窓から見る窓外の民家は貧し気で、現在の北京とは全然違った風景であった。(写真@)

A北京市内を走る高級車“紅旗”

B1979年11月、筆者と乗用車

C乗用車を整備する服務員

D1979年11月26日付人民日報
 この頃の乗用車といえば、要人用の高級車の“紅旗”か“上海”などが走っており、現在のように輸入車をはじめ、車道を埋めるような混雑は想像も出来なかった。(写真A)(写真B)(写真C)
 訪中団の二日目、1979年(昭和54年)11月28日(水曜日)は終日、北京市内観光を行った。まだ外国からの観光客は少なく、行く先々で逆に我々一行が、北京の人々に物珍しげに囲まれた。(写真D)
 午前8時に前門飯店を出発した専用バスは中国旅行総社北京分社日本処(日本課)の通訳3名と共に先づ天安門広場へと向った。40万平方メートルもあり、一度に50万人を収容できると説明を受けた。広場を散策したが、現在のように内外の観光客はなく、大広場には我々のグループと少しの人々しか居なかった。(写真E)(写真F)(写真G)

E訪問した1979年(昭和54年)の
天安門広場

F訪問した1979年(昭和54年)
天安門広場の筆者

G団長の松永芦屋市長と中国国際
旅行総社北京分社日本課の日本語通訳
 天安門散策の後、72万平方メートルの敷地の中に、9,000室も部屋があるという、故宮博物院を見学した。(写真H)

H1979年の故宮

I北京市内の天壇
 整美された現在とは程遠い若干荒れた印象であった。しかし、天安門を含めてその規模の大きさには度肝をぬかれた。午前8時半頃に天安門の見学を始めて徒歩で午前中をかけて見学をしたが、それでも時間が足らない位であった。中国はユネスコの世界文化遺産登録の最も多い国の一つだが、故宮は勿論登録をされている。(我々が訪問した頃にはまだこの登録制度は無かった。)歩き疲れた感じですぐ近くの前門飯店に帰り、昼食をとった。当時は、昼食を観光する場所の近くでというようなレストランは皆無に近く、外国人観光客は原則的に全行程宿泊したホテルに戻って昼食をとり、再び出発をした。これは、トイレ事情にもあった。厠所(便所)は、余りにも設備がひどくて、観光客には、使用するには、勇気のいることであった。特に大便所はひどかった。一度ホテルへ戻った後、午後は北京市内の天壇、つまり明代、清代の皇帝が天に対して祭祀を行った場所を見学した。この場所は、1918年迄は、一般人は立入禁止となっていたそうだ。(写真I)

J頤和園の石船

K頤和園にて若き日の筆者
 その後、これも後日に世界遺産として登録された頤和園を見学した。(写真J)
 荒廃していた頤和園を再建したのは、有名な西太后であり、離宮とし、避暑に利用された。この再建費に莫大な国費を使用したために日清戦争の敗因の一つとされている。
 1900年には義和団の乱で破壊されたが、1902年に修復された。(写真K)
 この日は午後7時頃にホテルへ戻った。

L訪中当時の「兌換」中国元

と普通の人民元
 ところでこの頃の中国を訪れる外国人観光客は、我々を含めて、使用する中国元は「兌換券」制度が導入されていて、人民元の価値で表示されていた。一般人民元は外貨とは交換出来なかった。持参した米ドルを、中国元の「兌換券」に両替をし使用した。余った「兌換中国元」は両替した領収証と、使用した(つまり買物等で使用した)領収証を提出して、最後に米国ドルに再度両替をしたと記憶している。(写真L)
 とにかく買う物も少ししかなく、余りお金は使わなかった。旅行費には、滞在中の食事、朝食、昼食、夕食等が全て含まれていたからだ。当時、一米ドルは1.55中国元であった。(令和元年4月現在で1米ドルが約6.73人民元である)
 さて、旅行3日目の1979年(昭和54年)11月29日(木曜日)は、午前中に万里の長城の見学と午後に明の十三陵(定陵公園)を見学した。(写真M)

M訪問当時の荒廃した万里の長城

N当日の北京・八達嶺駅往復の列車切符

O万里の長城訪問の証明書
 現在では、北京を訪れる観光客の一日観光の定番コースであるが、昭和54年(1979年)当時は中国が外人観光客に対して開放していた、世界に誇れる観光資源であった。勿論後年に中国を代表するものとして、世界文化遺産に登録された。この日は、朝7時頃にホテルを出発して、北京駅より鉄道を利用して八達嶺駅まで乗車した。北京駅午前8時5分発で八達嶺駅に午前10時9分に到着している。(写真N)(写真O)

Pあまり人のいない長城

Q1979年当時発行の長城切手
 八達嶺駅からマイクロバスで長城(八達嶺の長城)へ向った。最も早い時期に公開された長城でかなりの人で賑っていたが、現在の各地の公開されている長城の混雑とは雲泥の差でゆっくりと長城壁上を見物できた。(写真P)(写真Q)
 限られた時間の中で、日本人が名付けた“男坂”“女坂”の両方を見物するのは、当時まだ若かった私でさえかなり疲れた。

R明14代皇帝
万暦帝の肖像

S1979年11月29日(木)明の
十三陵、定陵地下宮殿の中国民衆
 八達嶺駅から列車で南口駅まで引き返して、そこからまたマイクロバスで明の十三陵へ向った。十三陵は、明の成祖永楽帝以後の皇帝13代の陵墓があるために、この名称がある。勿論これも世界遺産に登録されているが、我々の訪ねた1979年当時はこの14代皇帝の「万暦帝」の陵墓である、地下宮殿の発掘からまだ間もない頃であり、(発掘は1956年から1年かけて行われた。考古学技術の未熟な中での発掘のため、大量の文物が破壊され、1966年には文化大革命の時期、紅衛兵により文物が破壊されている。)地下宮殿は未整理のまま我々にも公開された。壮大な地下宮殿であった。(写真R)(写真S)
 皇帝の棺や椅子等が公開展示されていた。現在では、北京市からの一日観光の定番観光地として、ひきもきらぬ観光客で一杯であるが、その当時は、北京市から北方50キロメートルに位置していながら、中国人を中心としたわずかな人達しか訪れていなかった。

北京鴨店
の当時のパンフレット

ボーイの持つ北京ダック
 見学後、南口駅まで戻って列車で北京市内へ帰った。この日の夕食はホテルでとる予定になっていたが、(全行程3食込の旅程であったが)急拠キャンセルをしてせっかく北京へ来たのだから、名物の北京ダックを賞味したいと、北京分社に申し入れをして、自費負担承知で手配をしてもらった。現在では、日本にも支店を持つ全聚徳(ぜんしゅうとく)鴨店である。それも前門総本店で手配してもらった。1979年当時は、全聚徳の店名は文化大革命の影響で消されており、単に北京鴨店の名前で営業をしていた。古びた料理店の風情であったが、出てきた北京ダックは本当に美味であり、グループ全員がこれこそ、本場の北京料理と感心をした。正確な料金は忘れたが、結構高価だったと記憶に残っている。(写真)(写真

北京市革命委員会を訪問。芦屋市長と
北京市革命委員会外事弁公室副主任
 旅の4日目、1979年(昭和54年)11月30日(金曜日)を迎えた。今日は北京市革命委員会を午前中に訪問した。団長以下全員服装を整えて訪問をした。北京市革命委員会外事弁公室副主任仁先さんが迎えてくれて歓迎のあいさつを受けた。北京市民の沢山の人々とふれあって日中友好の実績を積み上げて下さいとの主旨であった。芦屋市からの記念品を贈って約1時間懇談をした。(写真
 革命委員会とは、文化大革命中の政治権力組織であり、主任、副主任、常務委員などで構成されていて、軍区司令官、地方幹部、労働者、農民、学生などで構成されていた。
 我々が訪中した頃には、革命委員会は各地で機能しなくなっており、順次各地で市民政府などに名前が変り、実務的な機能を持つ機構に再編されている時期に当っていた。
 表敬訪問を終えた我々グループは、市内の工芸品と友誼商店を見物して各々、買物を楽しんだ。北京一般市民のための、ショッピングセンターではなく、あくまで外貨である米ドルを中国元に交換した外国観光客向けの商店である。特に北京、上海などの大都市の友誼商店は、百貨店のような型になっており、中国の文物が、そこで何でも揃っており、又そこにしか良い品がなくて、外国観光客は、そこでの買物を強いられていた。一般市民の買物客は入れず、専ら中国駐在の外交官や、その家族と訪中団等の特殊な人々のショッピングゾーンであった。店員達は全く、サービスの何たるかを理解しておらず、買物客など度外視するかのように、仲間同士でおしゃべりをしていた。これには我々も恐れ入ってしまった。
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吉川 順三さん(34回)追悼文
有難い先輩でした
公文敏雄(35回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者近影
 重篤な病とは人づてに伺っていたが、早すぎるお別れとなった。

 伊豆の高原にお住まいで、「温泉もあるから遊びに来いよ」とお元気なころおっしゃっておられたのに、つい行きそびれてしまったのがいたく悔やまれる。最後にお会いしたのは昨年4月のKPC総会であった。
 吉川先輩は、昭和31年(1956年)高校1年の春に入部するやいなや、上級生の早い引退で部活動の第一線に立たされたという。まもなく中3の私も入部したから、ご指導いただいたのはそれ以来である。文章の書き方(「体言止め」などは後々まで使わせていただいた)、ヘソ、腹切りなど技術的なことを教わっただけでなく、「学説や理論ではない、記事は足で書くもの」という言葉を常々聞かされたものである。
 この厳しい現場主義は、紙面の独走、跳ね上がりを防いだだけでなく、筆者が社会人になってからのキャリアにも多々影響をおよぼしたのではないかと今になって思う。


 向陽新聞バックナンバーで、吉川先輩が活躍されたころの紙面をこのたびあらためて見ると、文字通り「足で書いた」報道記事の多さが目立つ。昭和31年12月発行の34号3面トップ(当時は4面)に写真入りで「大さわぎの修学旅行ー女生徒も酔っぱらう」という衝撃的な記事を載せて波紋を呼んだが、明けて32年2月の35号ではさっそく大嶋校長の苦言「あれは君よほど慎重を期する問題だよ。新聞部の諸君が真に学校を愛してくれたとは思えんね。あれが世間に及ぼす影響を考えてみたまえ。・・・扱い方が問題だ。今後はよく勉強してくれたまえ」を伝えるとともに、旅行のあるべき在り方に焦点を転じて特集を組み、改善のための幅広い声を集めている。
 ある時は、「何か注文があるかね」と校長に訊かれたので、「土佐高は受験に閉じ込め過ぎだと思う。せめて全校集会のたびに校長先生が“一期校の試験まであと何日”と繰り返すのはやめてほしい」と言上した。校長は「進学第一の方針は変えない。運動部も文化部も活発にやれている。・・・あの“あと何日”は年に1回だけにするよ」と答えたそうである。(KPCホームページに平成23年8月吉川先輩が寄せられた回想文「居心地のよい新聞部」より)謹厳で普通の生徒には近寄りがたかった大嶋校長との師弟らしいやりとりが興味深い。

平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて
左から故吉川、筆者、濱崎の各氏
 吉川先輩には卒業後久しく御無沙汰していたが、2010年3月のKPC(再発足)設立準備委員会の場で再会、以来、幹事会・総会でたびたびお目にかかって高顔に接することができた。先輩の毎日新聞記者時代のご活躍ぶり、特に関西木材業界の雄だった安宅産業の崩壊、海運業界の暴れん坊三光汽船の倒産、リクルートの破たんなど、並の記者なら一生に一度あるかなしかという大スクープにまつわるお話には、たまたま前2社が小生の銀行勤務時代(融資担当)の直の取引先であったこともあり、引き込まれていった。
 語る吉川先輩のお顔を拝すると、温かいまなざしの中に独立不羈の気をしのばせて、坂本龍馬の風貌を彷彿とさせたとするは、弟子たる筆者の贔屓目だろうか。

吉川順三さん投稿記事:  2011.08.05居心地のよい新聞部
 2016.03.12新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
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吉川 順三さん(34回)追悼文
ジャーナリスト魂を貫き新聞協会賞
中城正堯(30回) 2019.12.23
肺癌抱え田島兄弟の活躍を注目

故 吉川 順三さん
(毎日新聞大阪本社時代)

筆者近影
 11月末に思いがけない知らせが届いた。吉川順三君(34回生)の奥様からの喪中ご挨拶状で、「夫 順三は肺癌の為、この四月七日、七十九歳の誕生日を前に亡くなりました。昨年夏の初めに診断され、余命十か月を淡々と朗らかに過ごしました。<楽しく幸せな生涯だった>と、書き遺しております。・・・>
 実は、昨年夏の終りに「土佐中高100年人物伝」の企画を相談したくて伊豆大室高原の自宅に電話すると、本人が出て明るい声で、「肺癌で検査入院からい今日帰ったところ」とのこと。「これからは療養に専念するので、申し訳ないが執筆などのお手伝いも、向陽プレスクラブ(KPC)への出席もできない」と言う。余命十か月と告げられていたとは、いつもどおりの口調から全く気付かず、また元気になったら頼むとお願いして電話を切った。
 昨年5月には、KPCのHPで連載中だった「素顔のアーティスト」で田島征彦・征三兄弟を書くため、同級だった吉川君に情報提供をお願いした。メールでの返事には、「田島兄弟とはすぐ近くの隣り村で育ち、小学校のころから画の教室で一緒でした。中学・高校も同級、征三君は偶然にもまた伊豆で近くに住んでいます。私は閑居していますが、彼は痩身をものともせず、国内外を飛び回って大活躍です。特に今年は新しい分野の新聞広告デザイン(スポンサー伊藤忠)で日経賞大賞を受け、各紙の全面を飾ったことで注目されました。恒例になっている新潟十日町の地域を巻き込んだ国際芸術祭でも幹事役をつとめ・・・」とあった。この知らせのお陰で、6月に「大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟」をまとめることができた。
 吉川君がマスコミ界から引退しても、同級生など仲間の活躍を暖かく追っていたことに気付かされた。小生の拙文も、よく読んでくれていた。『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』もいち早く読み、「ケーべル博士のことなどよく調査取材して、知られてなかった校長の人物像を浮き上がらせている」と、言ってくれた。筆者は作家などに原稿を依頼する編集育ちで、取材執筆の訓練は新聞部以外では受けてないだけに、練達の取材記者からの反響は先輩へのお世辞混じりでもうれしかった。以後、「版画万華鏡シリーズ」でも、彼のような読者がいることを肝に銘じて執筆してきた。
リクルートで世紀のスクープ

平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて
左から故岡林、筆者、森田、故吉川の各氏
 今回も藤宗編集長から依頼を受け、かつて毎日新聞の大阪本社経済部長時代にリクルート関連のスクープで新聞協会賞を受賞したことや、民博梅棹忠夫館長の会合で彼と出会い、経済界だけでなく学術・文化の識者とも幅広いネットワークを築いていたことを思い出した。しかし、記憶だけで手元になにも資料がないので、失礼を顧みず、奥様に資料提供をお願いした。快く送付くださった資料と、添えてあったお手紙から、記者活動の一端を紹介させていただこう。
 経済記者のみならず、新聞記者としての最高の栄誉の一つが、毎年日本新聞協会が発表する新聞協会賞である。これには第一部門(ニュース)、第二部門(連載企画)など六部門に分かれて授賞作品が選定される。なかでも、社会・政治・経済・学芸などの分野を超えて、過去一年間で最も価値ある報道ニュースとして選定される第一部門が、注目される。平成4(1992)年度、この賞に見事輝いたのは、毎日新聞大阪本社経済部長・吉川順三を代表とする<「リクルート ダイエーの傘下に」江副前会長の持ち株を譲渡のスクープと一連の続報>であった。
 協会賞を発表した『新聞研究』1992年10月号には、「情報を棄てずに可能性を探る」と題して吉川部長の、大スクープの発端から綿密な裏付け取材、さらに記事掲載のタイミングまで、見事なチームプレーが明かされている。この記事が出た直後、ダイエー中内・リクルート江副の両トップが記者会見でこの報道を認め、各社が後追い記事を書く。しかし、長期間にわたって取材を重ね、この出来事の背景から両トップの関係、さらにはこの買収劇の経済史的意味付や、体質の異なる企業の合体が及ぼす影響などをしっかりおさえた毎日の記事は、他社の追従を許さない圧勝だった。まさに、経済界が迎える大型合併の時代と問題点を先取りした世紀のスクープであった。

2010年、向陽プレスクラブ設立総会にて
左から横山、故吉川、故岡林の各氏
 吉川君は高校時代、中学入試漏洩問題の余震が続くなか、「向陽新聞」31号32号の「主張」やコラム「ひとこと」を担当、校長・生徒双方に信頼回復を呼びかけている。毎日時代にもコラム「憂楽帳」で、さまざまな経済世相にやんわりと注意を促し、コラムニストとして天性の才能を発揮してきた。さらに、高松支局長時代に瀬戸大橋の開通、大阪経済部で関西新国際空港の開設など、巨大プロジェクトの報道を担当、関西の政財界人から信頼されていた。いっぽう経済記者ながら関西文化人とも親しく、梅棹館長たちとの酒席では、小松左京、石毛直道、小山修三などの先生方とも昵懇な様子を見かけて驚かされ、また嬉しくなった。こうした人柄を見込まれ、関経連の会長はじめ財界人、大阪府知事・市長、高知県知事などを発起人に誕生した「大阪ジョン万の会」の事務長も長く引き受けていた。ただ、高知市長選にまで担ぎ出されたのは、気の毒であった。
「見るべきものは見た」

土佐高新聞部の種崎海水浴キャンプ。後列左から:3人目が故吉川、
麦わら帽が筆者、その右で顔を隠しておどける故秦洋一。
中列:故岡林、公文 前列:左端故合田、?人目が久永の各氏。 1956年
 退職後は大阪から伊豆に転居し、やがて東京での向陽プレスクラブ総会にも、よく顔を出してくれた。奥様もお手紙で、「順三は懐かしい土佐中・高時代の、中でも新聞部での思出は深く大切にしていた」と記している。筆者は、大学時代に帰省した際に、大嶋校長を囲む座談会(34号掲載)に引っ張り出されたのと、新聞部の夏休みキャンプ・新年会で会った程度だ。だが、吉川君の時代は新聞部の黄金期で、朝日新聞で医療ジャーナリストとして活躍した秦洋一、NHK高知支局で「清流四万十川」を制作して全国に印象づけ、本社に戻って運動部長だった國見昭カ、それに画家合田佐和子、これら個性派をうまくまとめる浜田晋介・山崎(久永)洋子など多士済々で、在学中も社会に出てからも、注目してきた。
 吉川君の長男が、ふと父に「マスコミに進みたい」と漏らしたとき、彼は「この世界で見るべきものは見た。別の道をめざせ」と、諭すのを奥様は耳にしている。厳しいマスコミの世界で、先頭を駆け抜けた彼ならではの想いだろう。長男は経済界で、次男は学界で活躍中と聞く。晩年の年賀状には、「伊豆閑居 妻の傍らで熱燗を飲む」と記してあった。ここで拙文は終え、奥様のお手紙の一端をご紹介しよう。
 「お尋ねの〈新聞協会賞〉の頃は、順三の記者としての仕事の中でも最も充実していた時代だったと思います。・・・お電話でお話しました梅棹忠夫さん、小松左京さんを囲む国立民族学博物館の先生方との飲み会は、毎月一回何年か通い、楽しみにしておりました。社外に広くネットワークを持つことをこころがけ、大阪ジョン万の会を頼まれたのも、その人脈の延長上であったと思います。五十三歳で新聞社をやめたとき、驚くほど大勢の社外の皆様が会をして下さり、サントリーの佐治敬三さんがお得意の〈ローハイド〉を歌って下さったのも思い出となりました。高校時代の助走から本人が〈見るべきものは見た〉と言えるまで、志を実現できたのは本当に幸せだったと思います。」
合掌
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吉川 順三さん(34回)追悼文
また会う日まで
久永洋子(34回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者旧影
 吉川順三さんが御病気だということを知ったのは昨年11月でした。お電話をすると、明るいお元気な声で「余命いくらと言われているし、脳にも転移していると言われているけれど、人間はどうせ皆死ぬんだから、なるだけ元気に明るく生きようと思ってるよ。明日はゴルフに行くよ。」と言っていました。そして、「来年春の新聞部の会に行かない?」と言いましたので「吉川君が行くなら、ご一緒にいくわ。」と答えました。
 春になり、新聞部の会はいつかしらと思っている頃、34回生の友達から「吉川が亡くなったよ。」と電話がありました。合田さんが亡くなった時、追悼の文を書かれる時、「何か思い出すことある?」と何度もお電話をいただいたのですが、まさか、こんなことになろうとは。まだ、信じられない気持でいます。
 思えば、新聞部で毎日のように賑やかに活動していた頃からの長いお付き合いでした。新聞部では論客で、理屈っぽく、信念の人でした。土佐のイゴッソウでもあり、しかし、やさしい人でした。卒業後は、就職してずっと高知に居る私をよく尋ねて下さいました。新聞部の人は皆さんそうでしたが、大学の香り、会社の香り、都会の香りを伝えてくれました。吉川君毎日新聞、秦君朝日新聞、国見君NHKとマスコミに羽ばたき、陰ながら私の自慢のお友達でした。いつか、小さなお嬢さんの手をひいて尋ねてこられて、3人で桂浜に行ったこともありました。

1961年 母校新年会での筆者(中列の美女)
 毎日新聞で御活躍の頃、突然、高知市長選に出馬された時、驚いた人達がいましたが、何となく私は彼らしいと思いました。まっすぐな太い道を進みながら、その道を進むことに一寸照れて、ふと道を変えてしまうシャイなところのある人でした。
 市長選の後、高知の同窓会にサラッとした顔で出席されました。きちんとスーツを着ておられたので、「ステキになったね。」と言いますと、「今頃気がついたか」と言われました。そしてある時も私の家にお電話下さって、私は留守で夫がお名前を聞いていました。あとでお電話すると、「むつかしそうな旦那だね。」と言われました。確かに!何となく慰められたような気がしました。
 あの吉川君と冗談を言い合い、何となく笑ってしまう日がもうないのでしょうか。でも、私の年齢になりますと、またお会いできる日は遠くないように思ってしまいます。私のまだ知らないところに行かれても、どうかお元気で明るく過ごされますように……。


34回生ゴルフコンペ  河野剛久氏提供
 頂いた年賀状を眺めて、吉川君をしのんでいます。

   同老同閑同趣の輩
   長棹短竿魚信を待つ
   鏡海は白雲碧空を映し
   猶願う潮満ち銀鱗多かれと
     (戯順2018年)
   忖度は「毛頭なし」とカミ告げる
   余命知り時に及んで釣りゴルフ
   批判したこの世に今やただ感謝
     (戯順2019年)

 私の拙い歌を書かせて頂きます。

   また会おうねと 書き添えくれし 年賀状
   いきいきと 太い字は残されて

   令和を見ず 旅立ちし友よ いつか逢う
   日には伝えむ 楽しきことを

   階段の 廊下の隅の 小さき部屋
   新聞部の皆と も一度会いたい

 吉川さん、本当にまたお会いしましょうね。
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吉川 順三さん(34回)追悼文
伊豆・大室山の麓での三日間
河野剛久(34回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者近影
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往時茫々、中国の旅  〜その3〜
二宮健(35回) 2019.12.23


@文化大革命

A文化大革命
 北京滞在中に私はほんの数年前まで(1966年?1976年)続いた文化大革命という未曾有の混乱について、色々な人に聞いてみたが、 荒波にのみこまれたであろう、北京の人達は、こちらの顔をじっとみつめながら、何も答えずさも迷惑そうな顔をするのが、印象的であった。文化大革命への評価が定まったのは、1981年(昭和56年)6月の中国共産党第11期6中全会であり、ずっと後のことである。まだ一般の人には、文革に対する評価など出来る時期ではなかったのであろう。昨日迄正義と信じこまされていた文革が突然終りまだ何がなんだかわからないということであったと思う。それは第2次大戦敗戦後の日本国民のとまどいと同様であった。正義だと信じていた社会感が崩れ去ったのである。(写真@)(写真A)

B訪中当時の「兌換」中国元
 ここで現在と昭和54年当時の様子を比較してみよう。平成17年(2005年)11月30日にIMF(国際通貨基金)理事会は、人民元を世界の主要通貨と位置づけ、ドル、ユーロに次ぐ第三の通貨に位置づけて第4位の通貨となった日本の円を抜いて国際的な通貨システムの中でも、中国の存在感が強くなっている。しかし我々が訪中した昭和54年(1979年)当時の人民元はまだ弱い存在でしかなかった。(写真B)昭和54年1月には、米・中の間で国交が樹立され、2月には、ベトナムと戦端を開いている。

C若き日の習近平
 また、昭和54年4月には、現国家主席の習近平が、清華大学を卒業して、中国軍事委員会弁公室に入り、当時の国防相の秘書として官僚の道を歩み出している。(写真C)そんな時代に我々訪中団は中国を訪れたのである。

D天津友誼賓館のシール
 北京を後にして我々一行は11月30日(金)北京駅を午後5時47分発の列車で次の訪問地、天津市へ向い午後7時47分に天津駅に到着した。駅頭で中国旅行総社天津分社副社長李疾風氏、日本課々長で通訳の徐錦康氏、女性通訳の張文紅氏、燕氏の男性2名、女性2名の出迎えを受け歓迎のあいさつを受け出迎えのバスにて宿泊する天津友誼賓館(写真D)へ向った。
 当時このホテルは天津を代表するホテルであり、神戸市と天津市が友好都市である関係からか、同じ兵庫県の芦屋市ということで大変良いホテルを受入先にしてもらったのかも知れない。(ホテルや受入先は全て当時は中国側から指定される情況にあった)

E退休職工養老院
 旅行も第5日目を迎えた12月1日(土)は午前中に天津市退休職工養老院を訪ねた。退職をした老人達の養老院である。(写真E)
 話しを聞くと、我々老人を大切にしてくれる共産党には心から感謝をしている。昔の古い中国では考えられない待遇であり、年金も支給されていて、幸福だと模範的な答えであった。ずっと養老院長の熊さんと幹部の楊さん、王さん3名が我々との質疑応答に立ち会って、訪中団が毎回訪ねてきている感じがして応接の問答も慣れた感じがした。年金は月60元〜70元とのことであった。当時の天津市は中国での商業ならびに重・軽工業の都市で、北京・上海とともに中国の三つの特別市(中央直轄市)の一つであり、先年、天津に近い唐山を震源地とする大地震があり、その震災の後遺症がまだ残っており、避難小屋と名付けたレンガ造りの仮設小屋が点在しており、その復旧と住宅建設に全力をあげている最中であった。

F平山道中学と平山道高校
 午後からは、天津市内の平山道中学と併設の平山道高校を見学した。(写真F)
 校長の李莉さん(女性)と歴史教師趙氏、国文教師の尹氏の3名が“熱烈歓迎日本兵庫県芦屋市訪華団”と書いた学校入口で生徒達と共に迎えてくれた。そして解放前は貧しく進学も容易でなかったことや、現在は男女共学で生徒数が1,500人、教師が90人で「四つの近代化」を実現する教育に努力していること、また学制は当初6・3・3・4制で発足したが文革により5・3・2・3制に変えました。しかし世界の情勢にてらして来年の1980年から元の6・3・3・4制に戻すと決めたと説明があり、英語も中1から高校まで会話を採り入れているなどの説明があり、生徒には「自分の一生はなにか」、「何のために勉強するのか」などを討議させている、これも革命教育の一つとの説明を受けた。李校長は教育向上視察のために、団員の一人として兵庫県にこられたと言って、熱心にこの日の午後我々と生徒の交流につきそってくれた。団員一同中国の教育現場をじっくりと見学が出来た。
 同日夜は宿泊をした天津友誼賓館にて天津市革命委員会の招待宴があり、天津市革命委副主任王恩恵氏や外事弁公室主任王屏氏など市の幹部出席のもと交歓会が行われた。今年(1979年)に訪中する日本の大平首相を熱烈に歓迎することや、そして7年前に田中首相と共に訪中して大平氏は当時中日両国人民待望の中日国交樹立の大きな功績等や天津と神戸市の友好都市関係の発展を祈念する等の話しをされた。なお、この招待宴に先立って、天津市革命委員会への表敬訪問を行っており、上記2氏の他に、中国対外友好協会天津分会長、天津市遊覧観光局長、外事弁公室接待所幹部など多数の人達と接見をした。(写真G)(写真H)(写真I)

G天津市革命委員会副主任
王恩恵氏よりのプレゼントされる軸

H天津市王恩恵氏歓迎あいさつと

訪中団を代表してあいさつをする
芦屋市松永市長
 この歓迎宴は、宴の始まる前に、中国旅行総社の全行程随行の張氏より、式での天津市側と芦屋市側のあいさつ文のすり合せがあり、何か不都合な文言がないかのチェックがあった。また宴会ではお酒の飲めない人は最初から断っておくのが礼儀であると言われた。
 予算の関係からか、まずまずの料理と、お酒は最高級の中国酒“貴州茅台酒”などが沢山提供された。乾杯、乾杯の応酬で招宴は楽しく行われたが、中国側からは政治関係の話しは出なかったと記憶している。しかし、中国側の出席者の要人達は酒に強い人が多かった。

J天津第一じゅうたん工場にて
 旅の第6日目、1979年12月2日(日)は、中国じゅうたんで有名な天津第一じゅうたん工場を工場長の蔡さんの案内で見学した。(写真J)高価なじゅうたんは全部手作業でつくられていたが、労働環境はあまり良くなく、ほこりが沢山工場内に舞っていた。

K天津の切り絵
 そして、天津の友誼商店でショッピンングをして天津市芸術博物館を見学した。弁公室主任の周学謙さんの案内で天津の有名な切り絵(剪紙)を見物した。(写真K)
 そしてその後、この日の圧巻の天津水上公園のパンダ見物であった。既に日本の上野動物園に1972年にパンダの“ランラン”ともう一頭“カンカン”(写真L)が中国政府より贈られていて、ブームを呼んでいたが、私をはじめ、団員の大多数の人達が、現物の“大熊猫”と中国で呼ばれているパンダを見るのは初めてであった。

L上野動物園のカンカン(右)
とランラン(左)の写真

M天津水上公園のパンダ
日本のようにV.I.P.待遇の園舎ではなく、自然のままに、土にまみれて、放し飼いに近い状態で、見物客に対しているのには、いささかびっくりした。(写真M)
 パンダを間近に何の仕切等で隔離されていない姿を見て大満足であった。この夜は天津市文化局の主催する雑技つまり曲芸を見物してホテルへ夜遅く帰館した。

N天津医院を訪問し質疑を行う団長並びに副団長
 旅行第7日目の1979年12月3日(月)は天津を離れて東北地方(旧満州)へ向う日であるが、その前に午前中、天津第一を誇る天津医院を訪問し見学をした。(写真N)院長が二人居て王春和氏、陶甫氏、骨科(整形外科)主任尚天裕氏、主治医生李漢民氏、弁公室主任方信氏など多数の医師が出席して説明をしてくれた。
 当方は団長松永市長は医師であり、副団長も医師であった関係か専門的な意見交換が通訳を介して行われた。一緒した私には医療用機器は日本の医療現場の方が随分進んでいるように見えた。午後は天津市でも大きい天津市第一幼稚園を見学した。副園長の馬恵敏さんや保健員、教師など全員女性の職員が案内をしてくれた。団員の女性達が遊戯に加わり、親の年令や職業などを聞いて楽しい2時間程を過した。(写真O)

O天津市第一幼稚園で園児達と
 そしてこの日の夕食は前日の天津市の招待宴に対する芦屋市側の返礼の答礼宴で(これが通常行われていた)、出発する前に旅行コースと共に綿密に日中双方で打合せをして、双方の宴に格差が出ないよう、料理の品数、酒の等級、出される本数、出席者の人数、肩書、交換する文書の文言までチェックをした用意万端の答礼宴を行った後、同日夜午後10時15分発の夜行寝台列車(軟座寝台)の客となって東北地方(旧満州)の瀋陽(旧奉天)へ向った。この列車は我々の寝台は上・下・二段ベッドであって当時の日本の“ハネ”と専門用語で呼ばれていた二等寝台車によく似た寝台車であった。
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往時茫々、中国の旅  〜その3〜
二宮健(35回) 2019.12.23

@訪中時1979年の遼寧賓館のシール

A現在の遼寧賓館
 夜行寝台列車は窓の外には、ほとんど灯の見えないまま、翌朝1979年12月4日(火)の午前7時に瀋陽駅(旧奉天駅)に到着した。古い駅舎であり、何となく淋しい感じのする駅であった。中国東北部の主要都市である。日本出発前から、満州という言葉には注意することと、言われており、使うなら偽満州国と呼ぶようにと注意されていた。 旧奉天市であり、日本が中国へ軍事的侵略をしていた際、張作霖が根拠にしていた地である。日本人にも古い世代にはよく知られていた地である。駅頭には、中国旅行総社瀋陽分社副社長王棟さんと通訳の張鳳翔さんが出迎えており、あいさつを受けて、着後すぐに駅近くの天津市紅旗広場にある、遼寧賓館(戦前の満鉄ヤマトホテル)で旅装をといた。(写真@)(写真A)

B訪中時、紅旗広場の毛沢東像

C中山広場と名を変えた場所の現在の毛沢東像
 良く言えばロマンチックなホテルであり、このホテルを中心に戦前の満州での権謀術数が行われていたことを思うと感無量であった。それも、訪問時から30数年前のことである。数々の満州の歴史に登場するホテルである。又ホテル前の紅旗広場には巨大な毛沢東の全身像が台座の上から手を上げて広場を見下ろしていた。中国共産党の象徴である。(写真B)(写真C)

D瀋陽市革命委員会を表敬訪問
 我々はホテルに荷物を預けチェックインをした後すぐに瀋陽市革命委員会を表敬訪問して革命委員会副主任田光氏、外事弁公室副主任張国端氏、同処長費宝民氏、工作員鄭雲起氏その他の人々より歓迎あいさつを受けた。(写真D)
 そして瀋陽市の概要の説明を受けた。ここは清朝発祥の地であること、北京・上海・天津につぐ中国第四の人口を持ち、重機・軽機の工場が沢山ある大工業都市であって東北3省を統括する行政・経済の要の都市であり、芦屋市民の代表団を熱烈に歓迎するとのあいさつを受けた。

E瀋陽羽毛工場の羽毛画製作
 ホテルへ戻り、昼食の後、午後は瀋陽市羽毛工場を見学した。羽毛の工芸品は古墳からも発掘されており、二千年の歴史を持ち、孔雀や鴎など約30種類の鳥の羽毛から羽毛画をつくり、日本やアメリカなどに輸出をしており、従業員は350人で70%が女性だと羽毛工場の接待員の女性の張さんより説明を受けた。(写真E)

F瀋陽市玉石工場の製作現場
 そしてひきつづき瀋陽市玉石工場を見学した。ここは瑪瑙(メノウ)の一種の「緑石」を磨いて、鳥や動物などの装飾品を作っており、約630人の従業員で70%が女性であり、輸出向けの芸術品を製作していると、工場長の王氏より説明があった。(写真F)

G1979年派遣された神戸天津友好の船
 今迄巡ってきた北京・天津・瀋陽と本当にこまやかな接待を受けてきた。この年に(1979年)神戸天津友好の船を派遣しており、数百名が参加した大型の訪中団であったが、(写真G)それに比較して我々は、少人数の17名であり、なおかつ、市民代表団ということで心のこもった接待が受けられたのかもしれない。
 この夜、夕食を終えて、入浴をして、タオルを持ってホテルの外へ出てみると、そんなに寒いとは思わなかったが、タオルの水分がわずか15分位でパリパリに氷結したのには驚かされた。外気温はマイナス20℃とのフロントの係員の話しであった。このホテルでは、日本植民地時代の旧満州の話しを聞きたくて、中高年の戦前を知っているであろう従業員に通訳を交えて聞いてみたが、誰も通訳を気にしてか、その話しには応じてくれなかった。
 旅行も八日目が終ろうとしていたが、この日の夕食にはお粥が提供されて団員の皆が大変喜んだ。と言うのも初日から我々に対しては朝・昼・夕食ともに豪華な中国料理を提供してもらっていたが、さすがに腹にこたえてきた。特に油が多いのがこたえた。そこで団員から何かさっぱりした料理が欲しいと申し出があり、全行程随行の張氏へ申し入れた。食事の差配は、彼が現地の中国国際旅行社の現地分社にしているからだ。何のことはないお粥であったが、皆さんはおかわりまでして喜んで食べていた。久しぶりにホッとした夕食であったようだ。日本から持参した梅干や佃煮などが、各人から持ち出されて分け合って口にしていた。やはり和食が懐かしいのである。
 スチーム暖房がチンチンと鳴ってなかなか寝つけなかったが旅の9日目、1979年12月5日(水)は瀋陽市内の参観である。

H歓迎をしてくれる小学生達
 午前中は市内鉄西区啓工街第2小学校(校長占栄さん女性)を訪ねた。
 小学校は日本と同じく6年間であり、校舎が狭くて学校数も少ないので午前、午後の2部制であり、「知・徳・体」調和の教育を貫き文革10年の遅れを取り戻すために教師も生徒も頑張っているとの説明であった。日本と違い「政治」の時間があり、マルクス・レーニン主義や毛主義を教育しており、体育の時間には近視をなくするための目の体操があり、成績優秀な生徒には飛び級制度もあるとのことだった。鉄西区は新中国建国後は、有名な重工業地帯であり、工人達の子弟のための小学校のようであった。子供達は歓迎のために京劇風の化粧をして踊りで我々を迎えてくれた。(写真H)

I瀋陽故宮1979年12月5日(水)

J現在の瀋陽故宮太政殿
 持参したポラロイドカメラで撮影して渡すと我も我もと欲しがり、高価な印画紙がなくなりかけて嬉しい悲鳴であった。小学生は中国でも日本でも無邪気である。この日の午後には、瀋陽故宮を見学した。清朝は1644年に北京に入城する迄は、ここ瀋陽故宮に本拠を置いた満州族の王朝である。ここが王宮であり、太祖ヌルハチと第二代太宗ホンタイジはここに住み、後代の清朝皇帝もたびたび故地であるここを訪れている。 後になるが2004年に瀋陽故宮は北京故宮と共に世界文化遺産に登録された。(写真I)(写真J)
 広い故宮ではないがそれでも午後いっぱい瀋陽故宮の見物に費した。
 そしてその夜は瀋陽雑技団(サーカス)を見物して宿舎の遼寧賓館へ夜遅くに帰館した。(写真K)
 旅も10日目を迎えた1979年12月6日(木)は午前中、瀋陽の北陵を見学した。正式名は昭陵と言う。(瀋陽市の北方にあることから通称北陵と呼ばれている)330万平方メートルの広さを持つ。清朝2代皇帝ホンタイジ(太宗)の墳墓である。8年の歳月をかけて造営されたと言う。
 我々が訪れた1979年は、現在のように公園として整備されておらず、少し荒れた感じがして、前日に訪れた、瀋陽故宮も同様の感じで、まだ発展途上にあった中国としては、そこまでまだ手が廻っていなかったのかも知れない。この昭陵も明の十三陵と共に2004年に世界文化遺産に登録をされている。午後は瀋陽市内の参観であった。ここに2枚の写真を提示してみる。1979年当時の瀋陽市の繁華街(写真L)と現在の瀋陽市の繁華街(写真M)である。

K瀋陽雑技団のパンフレット
1979年12月5日(水)

L1979年の瀋陽の繁華街

M現在の瀋陽市の繁華街
 2枚の写真を見ると隔世の感を覚えるのは、筆者だけではないと思う。約40年前の中国からは想像も出来ない発展ぶりである。
 さて、旅の11日目、1979年12月7日(金)は、宿泊していた遼寧賓館に約50キロの距離を約1時間かけて撫順市のマイクロバスが出迎えに来てくれた。朝食後、午前8時30分にホテルを出発して撫順市へ向った。中国旅行総社撫順支社長の林躍森さん、通訳の陳意祥さんが工人服姿で乗っており、

N1979年12月の撫順市

O現在の撫順市繁華街
車内であいさつを交した。瀋陽の東約50キロの撫順市へは約1時間40分位で到着した。バスの中で東洋一の大炭砿を持つ人口100万人の大都市であると説明を受け、到着してすぐに撫順賓館に旅装をといた。そして午前中に撫順市彫刻庁を見学した。副工場長の張振友さんから、特産の石炭を使った彫刻の説明を受けた。ここにも2枚の写真を提示してみる。1979年12月7日(金)の撫順市の繁華街(写真N)と現在の撫順市の繁華街である。(写真O)
 約40年経過しているとは言え、昔日の中国東北部撫順市の変貌には驚かされる。
 昼食を撫順賓館でとり、(写真P)午後は撫順炭砿と平頂山洵難同胞遺骨館への献花へ向った。

P宿泊した撫順賓館の部屋割

Q1979年12月7日撫順西露天掘炭砿

R現在の撫順炭砿
 戦前から満鉄が経営していた有名な撫順市西露天掘炭砿工場である。長さ6.6km、幅2km、砿底まで260m、巨大なヒョウタンをタテに二つに切り開き中味を取って地中にはめこんだような形で大きな「水の無い湖」といった型で、労働者1万8千人、内女性が2,400人で1914年から本格的に採掘し始めたと副礦場長の李さんから説明を受けた。(写真Q)(写真R)

S我々訪中団の捧げた花輪

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨
 更に我々は平頂山事件で知られる現場へと向い献花を行い慰霊を行った。

旧満州撫順炭鉱の地図

1979年12月7日(金)撫順賓館
手書きの夕食メニュー
 1932年の夏、平頂山という名の600戸、3,000人のこの村落に日本軍が攻め入り、村民全員を惨殺し焼き払ったと中国の歴史に残る犯罪行為をした場所で、発掘し安置されている800余柱に花輪を捧げ冥福を祈った。(写真S)(写真)(写真
 その後撫順賓館に帰り、一泊した。
 いよいよ旅も最終行程に入り、明日は上海へと空路向う。(写真)(写真
以下次号へ続く
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往時茫々、中国の旅  〜その5〜
二宮健(35回) 2020.02.03

筆者近影
 我々の中国旅行も第12日目を迎え、1979年12月8日(土)中国東北部撫順市より一旦、瀋陽市へ出て空路上海へ向う予定である。当初予定は瀋陽空港を午前10時に出発して上海へ向う予定であったが、使用する機材が未着とのことで午後2時35分発の中国民航651便に振り替えられた。
 その時間つぶしに急拠、瀋陽市遼寧工業展覧館見学になった。日本の工業技術から見ると格別何も感心する機器類は無かったが、広い大きな展示場にモーター類を中心に展示してあった。
 瀋陽発の651便は中国としては当時新鋭機の英国製ジェット機トライデント(中国名、三戟機)を使用していた。(写真@)(写真A)(写真B)

@1979年当時の中国民航トライデント機

A1979年12月8日瀋陽・上海間の中国民航651便の機長署名 二宮作成のものに署名してもらった

B同機の機内預けの荷物タッグ

C現在の上海虹橋国際空港待合室
 機は午後4時15分定時に上海虹橋空港へ到着した。現在では浦東と虹橋と二つの国際空港を持つ上海だが当時1979年の虹橋は国際空港とはいっても、うらぶれたローカル空港であった。(写真C)

D1979年当時の静安賓館のシール
 いつものように空港には中国国際旅行総社上海分社の沈天麟さん、通訳の梅恵良さんが出迎えてくれた。あいさつをした後、上海市内へ小型の貸切バスで向った。空港から市内まではそんなに遠くなかったが、夕暮れ時のうす暗い道路を通って市内に入り華山路にある静安賓館にチェックインをした。(写真D)

E毛沢東語録
 このホテルは開放前は、大金持の邸宅だったとのことで、改装してホテルになっていたが、上品で落ち着いた雰囲気があって旅行中で一番良い印象のホテルであった。上海も現在のように五つ星クラスのホテルから、ビジネスクラスのホテルまで何百とある沢山のホテルは当時には無く静安賓館などは当時1979年頃は外客用の一流ホテルであった。上海は文化大革命当時江青をはじめとする四人組の拠点、本拠であり、それだけに奪権斗争も激しかった場所であり、まだその疲れが都市に澱んでいた。(写真E)

F訪中時1979年の上海大履と
外灘の外白渡橋

G現在の外白渡橋と
ブロードウェイマンション
 戦前から日本でも有名であった上海大履(ブロードウェイマンション)や外灘(バンド)には、戦前の上海租界の建物が建ち並んでいたが、建物の外壁は洗われることもなく、年数が経っておりくすんでいた。(写真F)と、現在の同場所(写真G)

H1979年当時の上海の人々の服装
 勿論、現在のように浦東地区はまだ開発建設されておらず浦東空港も無かった。当時の上海の庶民の服装もまだまだ画一的な服装であった。(写真H)
 旅の13日目、1979年12月9日(日)の上海見学は午前中、上海市揚浦区少年宮を訪ね責任者の施佩珍さんという女性から説明を受けた。少年宮とは人口25万人以上の都市に設けられる施設で上海市には13の少年宮があり、揚浦区少年宮は1959年の設立で対象は7才から15才までの少年少女が学校以外で行う課外活動で午後3時から5時まで開放され日曜日は全日開放され、全額少年宮の経費は国費で運営されており、1日に約1,000名の子供が活動に参加するとのことであった。

I揚浦少年宮で床運動の指導を受ける少年達
 建物は3棟あり、科学技術、工芸技術、文芸(音楽・舞踊)3部門から成り、職員は54人で他に定年退職者10人、学校教育者10人がボランティアで協力援助してくれているとの話しだった。(写真I)
 この日の午後は上海市上海県(中国では市の下に県が行政機関としてある)の荘人民公社を見学した。人民公社の革命委員会副主任沈長鑑さん、政治委員陳倍先さん、弁公室趙永明さんや公社員の説明で午後ずっと見学をした。
 少し長くなるが、当時の人民公社の内容を記してみる。人民公社とは何かも理解いただけると思う。(写真J)(写真K)
 荘人民公社は長江(揚子江)のデルタ地帯にあり、漁米の宝庫といわれている。解放前には8,000人の農民が従事していたが、自給自足ができず、広範な農家は食うや食わずの生活をよぎなくされていたそうだ。解放後は、中国共産党の指導で集団生産を開始し、特に人民公社が成立してから17年間連続して増産に成功し、副業もかなり発展をして、都市部に農作物を供給して、労農団結に役立っているとの政治委員からの説明があった。

J1979年12月9日(日)に訪れた
上海市上海県荘人民公社の正門

K1979年12月9日(日)
上海市内の商店街
他に公社員は1969年からの合作医療制度の発足で1人15元を前払いすることで、病気の際は無償で治療が受けられること、また公社員には1人50uの自留地制度があり、使用権は農民、所有権は組織にあるなどの説明を受けた。また欠点として機械化が進んでおらずまだ手作業に負うところが多いとも言っていた。
 また人民公社の施設の@衛生院(鍼灸の治療状況)A灌漑用電力操作場B農機具工場C牧牛・養豚場Dマッシュルーム栽培場E飼料・肥料工場F公社員住宅などの案内と説明を受けた。
 この人民公社は1958年9月に成立し、1979年で21年の歴史があって、公社は3段階に分れ、生産8大隊、生産81隊からなっており、他に育種場、養魚大隊がある。農家戸数3,825戸、14,481人、敷地18?、耕作面積1,131haで作物は、主に米、綿、菜種、野菜、西瓜の他に漢方薬草などだと説明があった。公社成立後は、経済力を集中し、七つの工場を設けた。農機具工場、農産物加工々場、電気部品生産工場、木型工場、器具修理工場、服飾・家具工場、機械修理工場を直接管理しており、このほか生産大隊も小さな工場を経営しており、それ以外にも運輸グループ、建築グループなどがあると広範な説明を受けた。

Lケ小平

M1979年12月の
上海歌劇院のパンフレット

N当時の上海?酒
(ビール)のラベル
 後日、歴史的に見てみると、人民公社や革命委員会はケ小平(写真L)がすすめつつあった政策により、段々とそれらの組織が無くなりつつある時代で、我々訪中団はその変革期のまっただ中を旅行していたのが、良く後日になって理解出来た。まだケ小平は華国鋒の権力を全面的に奪権する直前の時期であった。
 その夜は、上海歌劇院舞踊団神話舞劇を見物した。(写真M)(写真N)

 旅の14日目、1979年12月10日(月)はいよいよ中国旅行の最終日となった。

O上海鳳城工人新村
 午前中は上海市揚浦区鳳城工人新村の訪問見学である。同工人新村の幼稚園と工人家庭を訪問した。案内をしてくれたのは、同工人新村街道婦人連合会の馬初伏さんという婦人であった。日本で言えば町内連合婦人会長とでも言う肩書であるが、共産党の党員でもあって街の目付役もしているらしい。この新村は解放後1952年に建設され、揚浦区には16の新村があり、都市市民の住宅団地であり、2階建から6階建まで800棟あって、電気、水道、ガスの設備が整っており、面積は367,000u、世帯数11,000戸、人口48,000人で産業労働者が主で、医師、教員、科学技術関係者、商店員などが住民であり、商業センター、郵便局、銀行、書店、市場(4ヶ所)、公園、文化施設、グランド(2ヶ所)、託児所4、幼稚園5、小学校6、中学校3などがあり、病院(小さい街道病院)などがあると説明を受けた。又、定年退職年令は肉体労働で男60才、女50才、頭脳労働者は男、女共に55才であり、退職金(年金に当る)給付は、退職時の70〜80%相当が受給出来ると説明を受けた。日本では、公団住宅のような大規模な団地であり、当時1979年における中国が自慢できる集団住宅であったように思う。(写真O) 
 午後には、最後の公式訪問となる、上海市革命委員会を表敬訪問した。

P表敬訪問をした上海市人民政府と
中国共産党上海市委員会
 同委員会外事弁公室副主任斉維礼さん、旅遊局副局長徐唯宝さん等の幹部が出迎えてくれた。上海市は文革当時四人組の拠点であり、中国共産党はこの時期上海での政治革新を命題としており、訪問時には、既に革命委員会の名前を上海市人民政府と変えており、中国共産党上海市委員会の2枚の看板が建物には掛けられていた。(写真P)
 同日夕刻、中国での全行程を病人や事故もなく終えて上海工芸美術品服務部や友誼商店で帰国の土産を購入した。(写真Q)(写真R)

Q上海工芸美術品服務部のシール

R1979年当時の中国訪問客の
外貨兌換証明書類

S上海発長崎行788便の荷物タッグ

友好訪中団の団員名簿と表紙
 我々一行は1979年12月11日(火)に上海空港発午後2時発日本航空788便(中国民航と共同運航)で長崎へ午後4時43分(時差1時間、中国時間午後3時43分)に到着し、国内線にのりかえ長崎発午後7時35分発全日空170便にて大阪伊丹空港へ午後8時40分に到着した。(写真S)(写真

追記



初訪日したケ小平の一行

大平正芳首相と大平首相夫人は12月
9日訪問先の西安で“温古(故)知新”と 
揮毫をした。同日付の人民日報紙。  
我々一行が上海滞在中のことであった。
 往時茫々たる1979年の訪中記であるが、私達の訪中1年前の1978年に日中平和友好条約の批准書交換のため、当時はケ小平副総理だったが事実上の中国首脳として10月22日に来日して(ケ小平の初訪日)昭和天皇とも会談した。(写真
 またこの答礼として1979年12月5日から12月9日まで中国を訪問した大平首相。我々一行が訪中をしているまさにその時期に当り、我々一行も各地で盛んに一行の動静と比較して日中友好のもてなしを受けた。(写真

2014年9月30日日中航空路開設40周年式典
 なお、日中間の定期航空路線が中国民航と日本航空の相互乗り入れを開始されたのが1974年9月29日のことである。(写真
 ここに政経不分離といわれるが、ケ小平が実権を握り、我々が訪中した頃(1979年)の中国の一人当りの国内総生産額は、当年価格で1979年が423人民元、米ドルで272ドル、それが2017年には、59,660人民元、米ドルで8,833ドル(米ドル表示は各年平均レートで算出)いかに37年間に経済が成長し、中国が経済面でも発展したかが理解できる。
資料2018年版「中国統計」摘用
 私が約4年に1回程、この初訪中時より生業の関係で(定年退職後はプライベートで)中国を訪れてきたが、その成長のスピードには驚くべきものがあった。1979年筆者37才の初中国旅行は、令和元年の現在から見ると、往時茫々の感がしてならない。

〜 終 〜

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花だより
中城正堯(30回) 2020.03.07




筆者近影
 コロナウイルス騒動のなかで、蟄居の老人を慰めてくれる桃の花をお届けします。45年前に横浜市青葉台に転居した際、近所で見付けた桃の実生を育てたものです。果実は実りませんが、老木になった今も、真っ先に春の到来を知らせてくれます。
 生まれ故郷の高知市種崎は、戦争までは桃の名所で、小学に入学しB25が姿を見せ始めた戦時下も、遊び仲間と実生の桃を拾ってきては育てていました。
 狭い庭で我が物顔に咲き誇っている桃は、中国では邪気を払い、長寿のシンボルでもあります。同じく中国から渡来したコロナウイルスの邪気払いにつながることを願いつつ、眺めています。
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<季節便り>
庭のエビネが咲きました
中城正堯(30回) 2020.04.14

筆者近影
 3月早々に実生から育てた桃の花をご紹介しましたが、その根元で地エビネが可憐な花を咲かせました。これも桃同様に、45年前に横浜市青葉台に移住したさいに、近所の丘陵を散策中に雑木林の中で見かけたラン科の野草です。庭に移植したものは家の建て替えでいったん枯れ、これは隣家から分けてもらった二代目です。
 今では回りの雑木林もすっかり宅地化され、エビネも、アゲハチョウも、カブトムシも、シマヘビも、すっかり姿を消してしまいました。わずかに恩田川沿いにツクシやイタドリが春を告げ、口に含んでは少年時代の野生の味と香りを思い起こしています。もう一つアケビも、熟れた実を持ち帰って食べた種からいつのまにかツルが伸び、この時期に紫の花を咲かせます。秋には、今でも口に含んでは種を飛ばしつつ、甘い果肉を味わいます。
 戦時下の少年時代は食糧難で、特に甘い物は欠乏、クワの実やアケビを見付けてはむさぼっていました。今や洋菓子店にはパティシエが腕を振るった豪華ケーキがならび、花屋には遺伝子操作で生まれたのか色鮮やかな大輪のランが妍を競っています。コロナ騒動で、近代文明が脆さを露呈しつつあるなか、素朴な地エビネに慰められるこの頃です。


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オーテピア高知で「中城文庫展」
土佐藩御船頭の資料を展示
中城正堯(30回) 2020.08.14

筆者近影
 8月3日に高知の同級生から、「高知新聞夕刊に、中城家資料展の記事が出ている。知っているか」との電話があった。「高知市民図書館に寄贈した資料の展示だろうが、全く聞いてない。新聞を頼む」と答えた。
 送られてきた新聞には、「土佐藩船頭(ふながしら) 中城家資料70点・・・」とあり、記事には「坂本龍馬も暗殺される前に立ち寄った中城家は、土佐藩主らを乗せる船の運航を任された・・・今回は高知藩が発行した鯨の藩札や、本居宣長や鹿持雅澄の短冊など約70点を並べた」とある。全く狐につままれた様な話で、寄贈主には一切連絡なしだ。
 2008年の寄贈当時から図書館長も担当学芸員も変わり、今も健在なのは岡ア市長のみだ。市長室に電話すると、秘書は連絡不十分を平謝りで、すぐ案内書を送付するとのことだった。今日8月13日、ようやくオーテピア高知図書館の担当者からここに掲載のチラシ等が、送られてきた。同封の毎日新聞(8月1日)には、「時代伝える中城文庫 和歌・紙幣など40点」「コレラが明治期に流行した際に感染拡大防止策を議会に求めた嘆願書など」とあり、時代に合わせた展示を心がけてくれたようだ。
 2000年から必死で資料整理を行ない、なんとか2008年に収め、企画展「海から世界へ〜土佐・種崎浦一族の船出〜」が開かれた。それ以来、種々活用されてきたようだが、こうして再度展示会が開かれたことには、大いに感謝したい。ただ、事前連絡がなかったことは「中城文庫」のみならず、さまざまな高知関連資料の県市施設への寄贈に協力してきただけに誠に残念だ。
 筆者は呼吸器系の疾患を抱え、コロナ禍の移動は厳禁状態だ。9月22日まで開催なので、高知在住の方は、ご興味があればぜひ御覧いただきたい。

中城文庫展:9月22まで    オーテピア高知図書館
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お酒談義−2
「ジョニ黒」ことはじめ
中城正堯(30回) 2020.08.27

筆者近影
 またもや竹本さんが、新事実を知らせてくれましたので、おもわず関連の駄文を綴りました。皆様で、チェックのうえ、よかったら掲載下さい。
「ジョニ黒」ことはじめ
 竹本さんの「日本産ウイスキーの裏話」、私たちがウイスキーを飲み始めた昭和三十年代後半とは隔世の感があり、驚きつつ拝読しました。国産ウイスキーの国際的評価が上がっていることは聞いていましたが、それに便乗してスコットランドやカナダから樽を輸入、日本で瓶に詰めて日本産として輸出とは、ただただ絶句です。老人の「ジョニ黒ことはじめ」を記してみました。
 私が初めて海外に出たのが1965(昭和40)年で、オーストラリアでした。シドニーの領事館で後に通産官僚として大活躍する天谷直弘さんからジョニ黒を1カートンもらい、同行のカメラマンと驚喜して車に積み込み、一月半の取材に出かけました。当時、日本ではもっぱらトリスの水割りで、ジョニ赤にも手が出ない時代です。取材で訪ねた戦前からのウールバイヤー・飯田さんからは、「スコッチはストレートで飲め。ただし水を飲みながら。炭酸割りなどとんでもない」と指導されました。当時、シドニーのレストランではワインを置いてなく、酒屋で買って持ち込まないと飲めない状況でした。海外旅行の土産では、ロイヤル・サルートやジョニ黒が人気でした。
 その後、日本旅行作家協会や日本城郭協会に入りましたが、旅にも城にも酒はつきもので、ボルドーのワイナリーや、ランスのシャンパンの地下蔵はじめ、国内ではサントリーの山崎・白州などを訪ねました。サントリーでは私と同級の北岡明君が山崎の工場長、ニッカでは武田勝君(31回生)が副社長と、この世界でも同窓生の活躍が見られました。
 都内での試飲会も、礼装で出席のブルゴーニュ騎士会などに呼ばれました。ただ酒音痴で、ウイスキー、ワインとも味や香りがよく分からず、がぶ飲みするのみです。バーボンだけはダメで、ウイスキーはもっぱら飲み慣れたスコッチ、ときどきシングルモルトを楽しんできました。

「うすけぼー」に集まったメンバー
 写真は、酒と旅の楽しみ方を仕込んでくれた先輩たちで、ニッカ直営のスコッチ・レストラン「うすけぼー」に集まったメンバーです。左から、八代修二(慶大教授・西洋美術史・城郭協会)、井上宗和(城郭協会理事長)、長谷川洋子(英国政府観光局)、斉藤茂太(旅行作家協会会長)、竹鶴威(ニッカウヰスキー社長)、紅山雪夫(旅行作家)、西尾忠久(コピーライター)、伊藤清(キリンビール)で、撮影が中城です。格調高い英国風個室でニッカ自慢の年代ものウヰスキーをご馳走になりました。このほか、サントリーの柳原良平さんも仲間でしたが、メンバーのほとんどが別世界に旅立ち、筆者も酒はドクター・ストップの身で、最期の旅を待つばかりです。
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いろいろと、ありがとうございました
冨田八千代(36回) 2020.09.06

筆者近影
はじめに 今頃このようなメールをすみません。北斎の未公開の素描103点を大英博物館が来年にも展示ということを知り、中城さんが浮かびました。「浮世絵」即「中城さん」です。そして、お礼のメールの未送信に気づいた次第です。

*『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を楽しみにしています。
 『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』では、私も書かせていただきありがとうございました。KPCの一員として、何もしていない私にこのような機会をくださったことを申し訳なく恥ずかしく思っています。公文さんの「予告記事」で、ますますその思いを強くしました。刊行委員会の皆さんのご尽力など全く関せずにぽっと文章を書かせていただきました。また、中城さんのメールではKPC会員の執筆者は私の予想より少しでした。力量もないのに我が身を忘れて、簡単にお引き受けしたことは自分でも不思議なぐらいです。やはり母校が好き、新聞部がよかったからです。そして、「ほん」創りの大変さを知らなかったからです。これを通して、今までの人生では考えられなかったような、またとない体験をたくさんしました。たくさんのことを知り、学びました。大袈裟ですが、長生きをしてよかったと喜んでいます。何とか責めを果たせたのは、ひとえに一から十、中城さんのお力添えのおかげです。お世話になったこと感謝してもしきれません。本当にお手を煩わせたこと、(いい言葉がうかばず)お詫び申し上げます。表紙を見て、中城さんが『太平山』や「桂浜たより」に紹介された浮世絵「土佐海上松魚釣」を思い出しました。
 この刊行で、母校の創立百周年がより身近に感じられるようになりました。
 4月の総会には、今年こそ、お礼を兼ねて初めて出席しようと待っていました。ところが、このコロナ禍では叶わず、残念でした。最後にお会いしたのは、いつだったかしらと思い出してみました。お二人とも、1960年、私が高校2年生の時です。写真2枚を紹介します。

1960年1月3日新聞部新年会
後ろ 中央が中城さん

偉大な先輩たちの卒業の日 
左端:公文さん 女性左:大野さん 右:筆者
主役の皆さんを気にせずの失敗作でしょう。
だから、私の手元にあるのでしょう。

*佐川の寺子屋教育から土佐沖の鰹釣りまで
@「大江戸もののけ物語」の不思議な寺子屋
 物ごとをあいまいにされない姿勢に敬服しました。テレビの画面には中城さんの指摘の通りの寺子屋風景が何度も登場しました。視聴者の脳裏にこの誤った情景が残っていくのかと、考えさせられました。テレビ視聴中は、すぐにNHKに抗議をと意気込んでいましたが、実行はしていません。周りの友人には、時代考証がきちんとされていないことを話しました。
 その後、中城さんが紹介されている『「勉強」時代の幕開け』(江森一郎著)を読みました。NHKの寺子屋の情景が間違っていることは明白です。この書から、寺子屋教育の良さを学びました。そして、植物学者牧野富太郎の幼少時代の寺子屋教育についてもより理解することができました。それは、私が自然観察会で同郷だからと牧野富太郎についてレポーとすることになった時に、中城さんから佐川町の研究誌に執筆された「寺子屋と郷学が育てた佐川の人材―田中光顕や牧野富太郎を生んだ教育風土をさぐるー」をいただいていましたから。同時に紹介していただいた本『花と恋して 牧野富太郎伝』(上村登著 高知新聞社)は本人の実像に迫り、富太郎に関して読んだ数冊の中では一番読み応えのあるものでした。
注:突然、牧野富太郎登場のわけを書きます。私は20年ほど前から近くの公園で、観察会の一員として自然観察を続けています。昨年、ヒルガオを見ながら、植物のつるの巻き方が話題になりました。日本で、定義づけたのは植物学者牧野富太郎です。そんなことから、同じ高知県出身ということで私が牧野富太郎についてレポートをすることになりました。その時に中城さんにお世話になりました。飛躍しますが、それを通して寺子屋教育の良さを知りました。また、紹介していただいた本『花と恋して 牧野富太郎伝』(上村登著 高知新聞社)は本人の実像に迫り、この時読んだ数冊の中では一番読み応えのあるものでした。
A「綴る女」をめぐる変奏曲
 登場される方々はみな著名人で私とは遠い別世界の人です。その方々をつなぐことで中城さんは奔走されていたのですね。これまた、別世界の物語の様ですが、興味深く拝読しました。
 豊田在住の友人が高知大学で学んだことをきっかけに宮尾登美子の大ファンです。その影響でたくさんの作品を読みました。宮尾登美子と私は、住でいた所が仁淀川の左岸(現いの町)と右岸(現日高村)という近さなのです。それで書かれたことが肌で感じられる『仁淀川』が印象深い作品です。今回、また読んでみて、自分の大間違いに気づきました。場所が特定できる有名な「八田堰」を読み落としていたのです。今まで、私は、宮尾登美子が若い頃暮らしたのは仁淀川の対岸だと捉えていました。ところが「八田堰」と出てくるので、伊野の大橋を中心に彼女は左岸南東、私は右岸北西なのです。「八田堰」を意識しなかったいい加減な読み方に気づかせてもらいました。
 公文公先生との交流があったことは、宮尾登美子への親しさが増しました。
B土佐藩御船頭(おふながしら)の資料を展示
 中城文庫の展示に当り、贈り主にお話がなかったとは驚きました。展示の解説の一番ふさわしい方は中城さんご本人です。ご健康上のことなどで、直接行かれなくても監修はしかるべきです。いろいろな執筆から、「土佐藩御船頭」のことやその資料を高知県立図書館に寄贈されたことを伺っていましたから、帰郷の際にはオーテピア高知図書館を訪ねてみたいと思っています。今回の展示は、新聞報道にあるように、やはり今のコロナ禍と関連があるのでしょうか。そうだとすれば、時宜を得ています。最近、明治期のコレラ感染の話題がよく出てきますが、いつ頃のことだとはピンときませんでした。具体的なお話がでると現実的にいつのことだったかリアルになります。
中城 <伝染病関連の文書は、明治一二年のコレラ流行のさいの文書が当文庫に3点あり、そのうちの1点「虎列刺予防法ノ願」が出展されています。他に仁井田村(三里村・現高知市)予防委員から祖父(直顕)への書簡「村境の見張り番所を廃す」もあります。現在のコロナ禍による移動制限を連想させられます。大正八年の「土陽新聞」には、「伝染病も随分多い、最も恐るべきは虎列刺、黒死病であるが、虎列刺は土佐では安政年間に大いに流行して、幾多の人を殺した・・・、次ぎに流行したのは明治十二年と十九年であらふ」とあります。幕末に、いち早くオランダ医学を学び、土佐で種痘を行なった豊永快蔵のような医師もいます。>
 中城文庫展のチラシは、一目見るだけでは中城文庫に関心のある人でなければ出かけようとする気は起らないと感じます。(失礼ですね!)すると、中央の絵がチラシの引きつけ役なのでしょうか。この絵がよくわかりません。中城さん。この絵はどういう絵なのですか。なぜ、たくさんの資料の中からこの絵が選ばれたのだとお考えですか。チラシの裏面も見たいと思います。展示内容の説明を知りたいのです。
中城 <なぜ、こんなくだらない噂話の浮世絵新聞「東京日日新聞 三眼の妖僧」(1873年)を選んだのか不明です。この展示の企画意図がよく分かりません。7000点を超す「中城文庫」の中から、今回はどのような観点から約70点を選んだのかが問題です。裏面は白紙です。>
C予告記事『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』から
 公文さんの記事には、間もなく出版される『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』の表紙、田島征三さん画の「舟を漕ぐ男たち」が出ています。その表紙の連想で、南国土佐ならではの一場面として広重の「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」が、心のアルバムから甦ってきました。中城さんは「桂浜たより」などにその浮世絵のことを書かれています。皆さんにも紹介していただきたいと思います。
中城 <これは土佐沖でのカツオの勇壮な一本釣りを見事に描いています。さすがに風景画で知られる歌川広重ならではの作品です。船中の大桶から生きたイワシを取り出して撒き餌にする様子まで、リアルに描いてあります。この浮世絵は、「坂本龍馬役者絵」等とともに、県立高知城歴史博物館に寄贈しました。>
中城さん いつも知的刺激をありがとうございます。

富田さん

歌川広重「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」
高知県立高知城歴史博物館蔵(中城正堯旧蔵)
浮世絵の話題を有難う。
 土佐高人物伝、お陰様で校了になりましたが、販促対応など仕事が続き、返事も出来ず、失礼しました。勝手に、あちこち権威筋の不勉強や誤解にかみついているだけで、酒を禁じられた老人のストレス発散です。ご丁寧に褒めていただくと、こそばゆい感じですが、みなさまの反響は素直に有難いです。
 初鰹関連の浮世絵では、歌川広重の「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」が欠かせません。個人で所持していましたが、先年高知関連浮世絵とも、県立高知城歴史博物館に寄贈しました。写真を添付しますので、ご覧下さい。場面は既刊の名所図会などから取ったと思われますが、船中の大桶から生き餌を撒きながらの勇壮な一本釣り風景をリアルに描いています。
 この他、公文所蔵に、「江戸自慢三十六興 日本橋 初鰹」(歌川豊国三代・広重二代の合作)があり、高価な初鰹を持つ美人とたが回しで遊ぶ子どもの図で、バックには日本橋と富士山が描かれています。初鰹は江戸っ子の大好物で、浮世絵の素材にもなっています。
 北脇昇さんは存じませんが、歌川芳藤は幕末から明治にかけて活躍し、特に「子ども絵芳藤」と呼ばれたように、子どものための楽しい絵をたくさん残してます。北脇が参考にした絵は不明ですが、芳藤の「五拾三次之内猫之回怪」は、猫が集まって恐ろ化け猫の顔ができています。公文でも所蔵しています。
 土佐校人物伝も、そろそろ校了です。
中城正堯(2020.09.07)
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高知でのコレラに関する歴史
中城正堯(30回) 2020.09.10

筆者近影
竹本様、富田様
 「中城文庫」展に関連し、高知でのコレラに関する歴史を、手元史料でお知らせします。
 「中城文庫」には、今回展示してある「虎列刺予防法ノ願」(1879年)の他にも、書簡「虎列刺予防、村界見張番所相廃」があります。村の予防委員が祖父宛に出したものです。
 「土佐事物史」(土陽新聞 大正八年六月)には、「伝染病も随分多い、最も恐るべきは虎列刺、黒死病であるが、虎列刺は土佐では安政年間に大いに流行して、幾多の人を殺した・・・、次に大流行は明治十二年と十九年であらふ」とあります。
 現代の文献では、『高知市史 中巻』(昭和四十六年刊 高知市)の、「伝染病と対策」に5ページにわたって記載してあります。
 また、「土佐種痘の元祖」としては、豊永快蔵が知られ、嘉永二年に大坂に出て蘭学医から牛痘接種法を学び、帰国して高岡郡各地で種痘を行ない、効果を上げています。
 どなたか、土佐医学史、特に伝染病との闘いを世界的視野で調べてくれると有難いです。高知県に医師・病院が多い事や、幕末の寺子屋師匠に土佐では医者が非常に多かった背景も解明できそうです。
 土佐高からは、日本史や郷土史の学者が少なく、ぜひ呼びかけて下さい。
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<テレビ番組のご案内>
「日曜美術館」 画家・田島征三さん
中城正堯(30回) 2020.09.24

筆者近影
皆様へ
 「筆山の麓 土佐中高人物伝」は、お陰様で、10月10日発刊されます。この表紙画家・田島征三さんが、10月4日(日)NHK Eテレ「日曜美術館」で特集されます。ちょうど発刊および、母校100周年記念日の直前で、大変タイミングのよい話題です。
 「日曜美術館」で現代画家を取り上げることはまれで、どう紹介されるか見逃せない番組です。添付の<ご案内>では、番組紹介を兼ねて、人物伝表紙と本文での田島兄弟、さらにこの本に登場するアーティストにも触れておきました。同窓生・在学生にもぜひ番組を見ていただきたく、この情報の伝達へのご協力をお願い致します。添付の<ご案内>は、加工修正いただいても結構です。
 なお、田島さんの新刊絵本原画を中心にした作品展、および高知での少年時代を映画化した『絵の中のぼくの村』(ベルリン映画祭銀熊賞)の上映も高知県立美術館に呼び掛けているそうです。昨年は瀬戸内海国際美術展2019の大島会場にも意欲作を出展、現在も展示されており、ぜひ見て欲しいとの事です。

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ハチ公とボビー、忠犬たちを仲介して
中城正堯(30回) 2020.10.08

筆者近影
 竹本修文さんの呼びかけに応え、20年ほど前にスコットランドのエディンバラで出合った忠犬ボビーの話をお伝えした。掲載した『毎日小学生新聞』の記事にあるように、このボビーと渋谷駅前の忠犬ハチ公との交流を手伝っただけだ。その経緯と、もう一つの忠犬『フランダースの犬』との関わりを紹介しよう。

丘の上にそびえるエディンバラ城。
 くもん子ども研究所で収集した「子ども浮世絵」が、国際交流基金の目に留まり1999年からヨーロッパ巡回展が始まった。その会場の一つがスコットランド国立博物館で、公費で派遣された。展示会場の設営は申し分なく、入り口に歌川広重「風流おさな遊び」ののれんが掛けられ、出口には「江戸体験コーナー」を設けてあった。お稲荷さんにお参りしておみくじを引き、絵馬に願い事を書き、駄菓子を試食、さらに着物の試着まで、至れり尽くせりであった。

浮世絵展会場入口の
“広重のれん”。
 仕事の合間に街を散策していると、石柱上に犬の銅像があり、少女が眺めている。側に小さな売店があり、聞くと「忠犬ボビー」の像だという。店主が絵葉書や小冊子を取り出し、由来の説明を始める。「日本人が来ては“忠犬ハチ公”と同じといって興味を示す。ぜひ、交流したい」とのこと。こうして、近くの教会墓地にある飼い主の墓へも案内され、メッセージや資料を託された。帰国後に、ハチ公像の前で銅像維持会会長とJR渋谷駅長に無事お渡しして、浮世絵に続き、忠犬の国際交流も終えた。
 一週間ほどの滞在であったが、スコットランド人の自国への誇りと、日本への好意を強く感じた。展覧会オープニングの晩餐会は、マンモスなどの骨格標本がならぶ展示室に、特別に設営されていた。「江戸体験コーナー」は、大学生の日本文化研究会が運営してくれていた。併設された子ども博物館のコーナーには、スコットランド出身の偉人展示があり、蒸気機関のワット、電話のベル、文豪スティーヴンソンなど著名人物の肖像画が並び、最後は鏡だ。自分の顔が映る鏡の上には、「次は君だ!」とあり、子どもたち一人ひとりに奮起を呼び掛けている。イングランドへの対抗心が、展示からもうかがえた。

3.忠犬ボビーを訪ねてきた少女。

4.『Greyfriars Bobby』の表紙。ボビーとその記念碑(左)、
後方はエディンバラ城。

5.渋谷ハチ公前での、メッセージ伝達式。
 『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の著者として、日本でも著名なスティーヴンソンだが、彼が吉田松陰の伝記を日本に先駆けて、明治13年頃に執筆したことはあまり知られていない。エディンバラ大学に留学した吉田松陰の弟子・正木退蔵に出会い、その話から松蔭に惹かれ、2年後に『ヨシダ・トラジロウ』を書き上げる。トラジロウは、松蔭の幼名である。このことは『烈々たる日本人』(よしだみどり 祥伝社)に、詳述されている。
 イギリス人女性作家ヴィーダの『フランダースの犬』にも触れておこう。日本では名作児童文学として知られ、アニメでも大人気だったが、物語の舞台であるフランドル(ベルギー)や、作者の出身地イングランドでは、忘れられた存在だった。しかし、その舞台を探して日本人観光客が押し寄せ、地元観光局は「ネロとパトラッシュの像」と風車小屋を建て、日本人の期待に応える。1988年にここを訪ねていたので、ボビーにも興味を持った。だが、アントワープ聖母大教会で、あこがれの名画ルーベンスの『キリスト降架』を仰ぎ見ながら、愛犬パトラッシュを抱いて凍死した薄幸の少年ネロは、銅像になっても安泰ではなかったようだ。今、この銅像は撤去され、後には中国人によって作られた石像が横たわっているとのことだ。(写真は全て筆者撮影)

6.アントワープ郊外にあった「ネロとパトラッシュの像」。

7.復元された風車小屋と子どもたち。

8.ネロ少年あこがれの巨匠ルーベンスの「キリスト降架」。
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詳しい報告をありがとうございました
冨田八千代(36回) 2020.11.21

筆者近影
公文様
 百周年記念式典への参列、お疲れさまでした。詳しい報告をありがとうございました。
 KPC再発足以来の先輩の皆様の様々な努力が認められていることが分かり、安堵しました。『創立百年史』の編纂には、KPCのどなたかが入られるものと予想していました。(携わられた方々の詳しいことは分かっていませんが。)向陽新聞のことやその後のまとめは、反映されるだろうかと危惧していました。
 校長先生のお話も伝えて下さりありがとうございました。公文さんがまとめてくださった内容からも『筆山の麓』の小村先生の「土佐中高100年人物伝に寄せて」と同じように、感銘を受けました。
 私の感銘とは別のことです。
 校長先生は「建学の精神」と「報恩感謝」とを区別して述べられていることが目に留まりました。これは、中城さんが『創立八十周年記念誌』で指摘されていることです。
 今回、『筆山の麓』の刊行を通して、『創立八十周年記念誌 冠する土佐の名に叶へ』を久しぶりに開きました。確かめたいことがあって、原稿をまとめるときにも刊行されてからも読みました。、記念誌の「特集…これからの土佐」の項で中城さんが登場されています。「『自由と規律』をモットーに、世界へ人材送る学校に」と題してた記述で、「報恩感謝」のことについて触れられています。
 それで、自分自身のことを振り返ってみました。私の在校中は「報恩感謝」が強調されいました。大嶋校長先生のお話は、必ず「報恩感謝」のことがあり、耳に胼胝ができるほど聞かされたと いう印象です。校長先生以外の先生が話された記憶はありません。
 クラス名も土佐 報 恩 感 謝の頭文字ということも常に意識していました。クラス名、T・H・O・K・Sも「土佐報恩感謝」を復唱して出てくるぐらいでした。当時、私はそれが学校の理念だと受けとめていました。しかし、これらのことは生徒、それぞれの印象は違うようです。「建学の精神」についてどう受けうけとめたかは印象に残っていません。そんなに度々話されたという記憶はない、という同級生もいます。こんなことを思い出し考えていた時なので、目に留まったのだと思います。
 高知新聞の添付、ありがとうございました。
 それから、「向陽新聞」のことで思いだしたことがあります。私が中学校1年生の時のことです。新聞部から1号から5号までの新聞を探しているから協力をという呼びかけがありました。我が家に兄(30回生 堀正和)が残していたものがありましたので、新聞部まで届けました。確か4号はなかったと思います。そのころは自分が新聞部に入るなどとは全く思っていませんでした。
                 では、失礼します。 
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「土佐校100年展」
山岡伸一(45回) 2020.11.21

筆者旧影
 45回生の山岡伸一です。
 先頃11日から15日まで高知市文化プラザかるぽーとで開催された「土佐校100年展」を初日の11日に早速見に行って来ました。
 小村校長の挨拶の後創立家代表(川崎氏)、同窓会長(岡内氏)、振興会長(浜田氏)、同窓会代表幹事(浜田氏/21回生)の4名の方々によるテープカットで開幕。
 展示品の数々に懐かしさを募らせ、膨大な資料に説明を付す作業への 関係者のご苦労に思いを馳せつつも、こと自分達の年次に関わる展示品には懐かしさだけに留まらず説明の誤りに目聡く気付き、幾つかスタッフの方にダメ出しをさせて貰いました。
 「写真撮影禁止場所での撮影はお控え下さい」との掲示は目にしつつもそこが禁止場所であるとの明確な表示は無かったのでいい気で撮っていたらスタッフの方に「済みません、ここは−」と注意される一幕も。要は導入部の通路部分と櫓関連の展示ルームだけが撮影可と言うことで。それに向陽プレスクラブのホームページで公開している向陽新聞のバックナンバー(実物)を撮影禁止と言われても(-_-;)。
 運動会名物の櫓の展示ルームでは、現在の鉄製の組み立て足場による櫓の制作手順を細かく指導する図入りの「やぐら制作説明資料」なるものの展示に、設計から資材の調達まで全て自分達でやり、足場の組み方などは先輩や建築業者の人たちに直々に教わり、およそ先生方から教わるなどということは無かった自分達からすれば嘆かわしいような、時代の変化を感じさせられました。
 しかし、後輩の皆さんの自分達を上回る活躍の展示の数々には、我が身を省みての気恥ずかしさと頼もしさを感じさせられました。
 入ってすぐのアプローチ部の壁面に我々45回生の櫓の写真を使ったパネルが掲げられていたのは嬉しかったのですが、櫓の説明が44年を45年とされていたほか、44年のことと45年のことをごっちゃにした説明になっていたのががっかり。しかしこれはまあこの時限りの展示なので、知らない人には気付かれもしなかったでしょうし、目をつぶるとしても、校史を年度毎に辿ったパネルの展示で見つけた誤りは、この部分は「百年史」の記述を流用するようにとの学校からの指示で作成したとのことに、それなら「百年史」自体が間違っているのか(-_-;)、誤った記述が「正史」とされるのは看過できぬ、との気分に。向陽新聞に記録されている事だけに憤慨したのでした。
 1968年度、「6月24日 全国高等学校生徒弁論大会。高3加賀野井秀一、第8位入賞。」との記述がありますが、向陽新聞(79号)の記事では「11月16日」となっています。また、食堂で生徒がうどんなどをすすっている写真が添えられていましたが、この写真は45回生の卒業アルバムのために自分の3Sのクラスの連中に集まって貰って、いわばやらせで撮った写真で、1969年撮影のものです。
 1969年度のパネルでは「8月 AFS奨学生として一柳延広、葛目正子 1年留学。」とありますが、この年の出来事として記載するのなら正しくは「1年の留学から帰国。」で、出発は1968年の事です。これも向陽新聞(77号)に記事が掲載されています。お二人は69年に帰国して我々45回生の学年に編入(特に葛目さんは自分の3Sへ)されたので、間違いの無いことです。
 他の年度のことは分からないので何とも言いようがありませんが、これらの例を見ると、どうも正確さに疑念を抱いてしまいます。
 ところで、11月18日の高知新聞に土佐校創立100年を記念しての8頁の特別紙面が折り込まれていて、最後の頁は向陽新聞の体のものでした。初め見た時、かつての向陽新聞を意識して高知新聞が特別編集してくれたものと受け止めて気にしていなかったのですが、今日改めてよく見ると、向陽新聞の題字下に「企画協力 土佐中・高校新聞部」とあり、その下に「新聞部は100周年の今年長い休部を経て復活、慣れない取材、撮影も担当してくれました。」と有るではありませんか! 本当でしょうか! 本当ならこんな嬉しい事はありません。
 なお、写真を多数添えさせて頂きたいのですが、どうやって送信すればよろしいでしょう?メールに添付では容量オーバーで送れませんが。
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−高齢者パワーで『筆山の麓』編纂−
コロナ禍乗り越えベストセラーに
中城正堯(30回) 2021.01.15

筆者近影
 この2年間ほどは、創立百周年記念の人物伝『筆山の麓』の企画・編集に追われ、新聞部HPにもあまり寄稿できなかった。昨年(2020年)の10月に無事刊行にこぎ着けたが、同窓生の反響もよく、高知での書店販売は年末まで12週にわたって週間売り上げベスト10に入り(うち5回1位、3回2位。金高堂書店調べ)、安堵しつつ新年を迎えた。

「筆山の麓」表紙。
 では、2021年の初荷として、『筆山の麓』刊行にまつわる新聞部出身者の関わりと、刊行委員の活躍ぶり、刊行委員の一人としての反省点をお知らせしよう。なお、読者の反響は、2月末刊行の関東支部『筆山』に掲載される。(文中敬称省略)
新聞部出身者と7人のサムライ
 この企画は、向陽プレスクラブ(KPC)で刊行した『土佐中學を創った人々−土佐中學校創立基本資料集』(2014年刊)、『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』(2017年刊)の後続企画として、個人的にあたためていた。創立百周年が近づき、KPCでも同窓会本部でも検討いただいたが、「企画自体は評価するが、人選など内容に責任を負えない」とのことで、両者での制作・刊行は見送られた。しかし、創立記念の人物伝だけに個人で刊行できる本ではなく、残るは有志による刊行委員会形式しかなかった。これにいち早く賛意を表わしてくれたのが、KPCの公文敏雄(35回)、筆山会の佐々木泰子(33回)・前田憲一(37回)、前校長の山本芳夫(40回)、ジャーナリストの鍋島高明(30回)であった。年齢的には74〜84歳の後期高齢者だが、いつまでも若々しい心の持ち主ばかりだった。

刊行直後の2020年10月末に
集まった7人のサムライ(刊行委員)。
 こうして筆者を含めて6人で刊行委員会を結成、刊行委員長も編集長も置かずに、人選や内容も全員で協議・合意しながら制作することになった。むろん卒業年次による先輩後輩の序列も、過去の経歴も関係なく、全員平等で作業に参画、責任を分かちあった。この刊行委員会発足を聞き、「執筆には参加出来ないが、あとは何でも協力する」と名乗り出てくれたのが同窓会関東支部元幹事長の溝渕真清(32回)で、強力な援軍であった。こうして、いわば“7人のサムライ”で企画制作が始まった。経歴も持ち味もまったく異なり、初対面も含めての7人だったが、母校への熱い思いで全員の息が合った。在校生全員への献本申し出もあり、これら善意のカタマリから本書は誕生した。
 人物伝として取り上げたい候補は30人を超し、刊行委員だけではとても担当出来ず、さらに同窓生有志の協力を仰ぐことになった。ここでも新聞部出身者が競って執筆陣に加わってくれた。堀内稔久(32回)、冨田八千代(36回)、加賀野井秀一(44回)であり、公文敏雄と筆者を加えると、登場人物のほぼ半数ほどをこの5人が担当して、執筆や原稿依頼に当った。また、久永洋子(34回)、山本嘉博(51回)からも情報をいただいた。

1958年の新聞部新年会
前列左から旧姓で森下(31回)早川(35回)
浜口(35回)大野(36回)合田山崎(34回)。
 本書の人物伝に登場する新聞部出身者は合田佐和子(34回)のみだが、人物群像や本文には岩谷清水(27回)、中山剛吉(29回)、浅井伴泰・横山禎夫(30回)、國見昭カ・秦洋一・吉川順三(34回)、森本浩志(36回)、川口清史(39回)などが名前を連ね、多士済々である。何人かには近況確認の電話を入れたが、川口は在学中に全国高校新聞大会で上京して筆者たちに会った記憶を、鮮明に思い出して語ってくれた。闘病中だった吉川順三からは、小学生時代以来の同級生・田島兄弟の情報を提供いただいた。
 写真は1958(昭和33)年、これらの人物が在学中の新聞部新年会である。前列には左から、旧姓で森下睦美(31回・卒業生)、早川智子・浜口正子(35回)、大野令子(36回)、合田佐和子・山崎洋子(34回)が並び、後ろに刊行委員・公文敏雄のほか、卒業生の岩谷清水・横山禎夫・筆者・田内敏夫(31回)、岡林敏眞(32回)などもいる。
すごい先輩の息吹に触れて

ブラジルで農業に取り組んだ
中沢源一郎(1回)。
 人物の選択に当っては、刊行委員全員で知られざる人材発掘にも務めた。1回生の中沢源一郎は、旧約聖書研究で知られる中澤洽樹(9回)を『高知県人名事典』で調べた際に、同じページに記載があってその存在を知った。『香我美町人物史』などにも出てくるが、ブラジルでの活躍ぶりが今ひとつ分からない。そこで、かつての編集者仲間で、のちにラテンアメリカ研究者になって早大や東京農大で教えていた山本厚子に協力を依頼した。たちどころに、「JICA横浜海外移住資料館に史料があり、所属する松田潤治郎氏が詳しい」とのこと。松田に会うと、「中沢さんとはサンパウロ駐在時代にお目に掛った。素晴らしい人格者」など、ようやく人物像も業績も具体的につかめ、土佐中同期だった曽我部清澄校長との交流ぶりを示す手紙も見つかり、執筆が進んだ。
 このように隠れた存在の人物では、堀内稔久弁護士が発掘執筆してくれた下村幸雄(23回)もおり、下村の義弟に当る横山禎夫が取材に協力してくれた。また、公文公(7回生)の公文式が土佐中の個人別自学自習を元に生まれた学習法であり、初期には岩谷清水など多くの教え子たちがその事業を支えたことも明らかにできた。哲学者・加賀野井秀一は、異端の評論家・高山宏(42回)の百学連環ぶりを論じ、冨田八千代は世界最先端の宇宙物理学者・川村静児と須藤靖(52回)に体当たりで迫ってくれた。
 むろん新聞部以外でも、元新聞記者の鍋島高明、鍋島康夫(40回)の両氏は、経済人やノンフィクション作家の活躍ぶりを見事な筆力で描写、元土佐中野球部監督の坂本隆(47回)は、大嶋光次校長、籠尾良雄監督(27回)、岡村甫投手(32回)、三者三様の野球への情熱ぶりを克明に再現、感激の場面を蘇らせてくれた。
 刊行委員の佐々木泰子は、宮地貫一(21回)の文科省での業績につき、日本テレビ幹部だったご主人ともども同省の図書館へ行って調査くださった。ほかの委員にも、慣れぬ編集制作作業に、終盤はコロナ禍のなか家族ぐるみで協力いただいた。
 本書誕生の背景には、母校ならではの師弟関係や同窓生の絆がある。筆者は上京以来、先輩たちが初代三根校長を敬愛してやまず、府中市多磨霊園に毎年墓参を続ける様子を見て過ごし、就職でも先輩に大変お世話になった。刊行委員には、それぞれ母校・先輩へのこうした思いがあり、手弁当での協力体制が出来あがった。
まだまだ多い隠れた人材
 編集に当り最も苦労したのは、取り上げる人物の絞り込みであった。著名な科学者であるが、きちんと紹介出来なかった人物もいる。例えば木原博(4回)は東大で造船工学を確立、非破壊検査の先駆的研究で知られる。森下正明(6回)は京大での動物生態学の草分けで、梅棹忠夫などを育て、旧宅が森下正明研究記念館になっている。筆者のような文系には科学的業績がとてもとらえきれず、人物群像での紹介にとどまった。
 新聞部員で残念だったのは、島崎(森下)睦美(31回)や、永森(松本)裕子(43回)だ。島崎は母校の国語教諭となり、新聞部顧問でもあった。結婚後はおもに横浜市に住み、子育てを終えると、保育士の資格を取った。保育園勤務後、横浜市の乳幼児子育て相談員になり、10年近く地域社会のためにボランティア活動を続けていた。永森はロンドン滞在の経験を生かし、海外からの帰国児童が日本でも各国の原書絵本を読み続け、言語も文化も忘れぬように国際児童図書文庫の運営に当った。またフィレンツエ滞在で出会ったフレスコ画研究に打ち込んで哲学美学修士を取得、研究や講演に活躍、『筆山』編集やKPCの活動再開にも先頭に立って貢献してくれていた。だが、お二人とも突然病に倒れ、多くの活動仲間に惜しまれつつ亡くなった。ほかに、埼玉県で社会活動家として奮闘していた山川(大野)令子もいた。

1985年夏の三根校長墓参会
前列右から三人目が世話人の近藤久寿治(6回)。
 このように、刊行委員全員が、まだまだ多くの素晴らしい同窓生を抱えていた。公文も、「世界で活躍する人物としては、水産大学を卒業後、38年にわたり40ヵ国で養殖支援を続けるお魚コンサルタント土居正典(50回)なども掲載したかった」と残念がる。そこで本書の<凡例>で、「人物群像」には「各分野の多彩な人材からその一端を例示紹介した」と、お断りをした。いずれ、後年本書が増補再版される際には、その後に活躍した人物を含め、大いに補充していただきたい。これは、「土佐が育んだ人材集」の序章に過ぎない。
 編集が大詰めとなった昨年2月にコロナ禍が拡大、毎月の編集会議が出来なくなり、校正など仕上げの作業が全てメールでやらざるを得なくなった。しかし、比較的若い前田・山本のお二人が印刷所や同窓会などとの連絡を含めて、制作管理の面倒なとりまとめ役を買って出てくれた。昨年のメールを開くと、毎日のように校正紙をめぐるやりとりが続いている。一字一句疎かにせず、疑問点は指摘し合った。しかし、筆者のような老齢者はうっかりミスが多く、この校正でどれだけ救われたか分からない。こうして、何とか予定どおり2020年10月10日の発行にこぎ着けた。
 むろん刊行後も、チラシ制作から同窓会誌での新刊紹介、さらに知人への購入呼びかけまで、コロナ禍のなかでも販促広報活動が続いた。高知での「土佐校百年展」(2020年11月10〜15日)には、前田、公文、冨田などのみなさんが帰高して駆けつけ、本書とチラシを手に購読を呼びかけてくれた。高知新聞は11月12日に<「筆山の麓」出版 多くの出身者たちの紹介を通し、同校の教育をうかびあがらせている>と述べ、朝日新聞高知版は12月7日に<「卒業生の32人土佐中高語る」 有志が母校の人材育成の歴史を振り返ろうと企画・・・自主性を重んじる自由な校風を築いた初代校長らを紹介>と報じた。
 どうかみなさんも、7人のサムライとその仲間が、せいいっぱい頑張って描いた母校の誇るべき人物たちの歩みに、ぜひ思いを寄せていただきたい。
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「向陽新聞」を久し振りに見つけて
井上晶博(44回) 2020.11.28

筆者近影
 先日、母校の「100周年記念式典」があり、出席させていただいたのですが、その100周年記念行事の一環として高知新聞に特別紙面が折込として入っていました。
 その最後の面の題字が懐かしい「向陽新聞」となっており、その下に「企画協力土佐中・高校新聞部」との記載、記事の中には「新聞部復活」の文字。現役時代は何の貢献もしていない部員でしたので、このときとばかりに公文先輩に報告し、復活が本当か学校に聞いてきました。(現在の仕事の関係で土佐をしばしば訪問しております)
 小村校長先生が色々と話を聞かせてくれましたので、簡単にご報告いたします。
 現在の部員は、高校2年生3名ということです。
 新聞部はずっと休部扱いですので、入部希望者があればその時点で部活動はできるとのことです。
 顧問の先生(新聞部に関しては素人ということです)も一人いらっしゃるようです。
 ただ、3名とも素人ですし活動に関しても、考え方に濃淡があるようです。
 当たり前のことですが、高知新聞の特別版「向陽新聞」も高新の記者が手取り足取りで完成させたようです。
 部員が高校2年生ということもあり、また人数が3名と少数でもあるので、来春新入部員が入って初めて復活といえるのではと思います。
 校長先生も、もう少しの間温かく見守っていただけたら、とおっしゃておりました。
 最後に、当然ですが学校(もちろん生徒からも)から協力要請があれば皆様にご連絡いたしますので、その時は宜しくお願いいたします。
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念願の『創立百年史』を読んで
−親しめる『土佐中高100年の歩み』を創ろう−
中城正堯(30回) 2021.01.15
豪華な『創立百年史』に驚く

筆者所蔵の高知県教育史関連図書。左端が、
ようやく加わった土佐中高の『創立百年史』。
 学校から刊行された『創立百年史』は、待望の土佐中高校「学校史」であり、11月に届くと臙脂色のケースに収まった豪華な造本・体裁に驚きつつ、<通史>から読み始めた。教育学者の執筆と聞き、開校時の大正リベラリズムを反映した三根圓次郎校長の自由・自主の教育方針による、少数精鋭の個人別自学自習、英国人による英語、美術や音楽、自治会(向陽会)などが、専門家によってどう分析・評価されるか、楽しみであった。さらに戦後の新制中学・高校への切り替えに際しての、大嶋光次校長による男女共学や生徒増員、自治会・部活の活発化、そして校舎の再建など大改革の評価についても同様だ。
 通史は、学校百年史の基本的な部分だが、導入の章では明治の自由民権運動がらみで「私学の黄金期」を、戦時中の章では「四国の学徒動員」を詳細に論じており、教育学・学校史の専門家ならではの斬新さを感じた。特に、「建学の精神」に関しては、土佐中の「設立趣意書」や「開校記念碑」から、それは「国家が望む人材の育成」であり、「報恩感謝」ではないことを明確に述べてあり、大いに評価できた。また、新制土佐中高になってからは『向陽新聞』の記事をよく活用、学校生活を分析してあるのもありがたかった。
なぜか無視された基本資料
 いっぽう、明治黄金期の私学として海南中学や土佐女学校に紙数を割く一方、それらと土佐中誕生がつながらず、違和感も覚えた。向陽プレスクラブで平成26(2014)年に刊行した旧制土佐中学時代の基本資料『土佐中學を創った人々』も、ほとんど活用されてない。専門家ならではの特論とも言うべき個別テーマでの掘り下げは見られても、私立中高の100年史としての時代区分も、学校史としての柱である教育方針や教育内容、そして学校文化の変遷も、記述に基準や統一性がとれてなく、100年の曲折に富んだ歩みがよく読み取れない。学校文化とは、校舎・制服・校歌・運動会・自治会(向陽会)・部活などだ。制服・校歌を扱ったのはよいが、創立時の“制服は背広”という構想に触れてないなど、掘り下げが不足だ。

学内の寄宿舎にあった寮の学習室。
 特に創立者や初代校長が意欲的に取り組んだ土佐中の先駆的な教育実践が、ほとんど取り上げられていない。現存する昭和5年の『土佐中學校要覧』には、留意点「個人指導」「自発的修養」から、学年編成・授業・体育・向陽会など詳細に述べてある。成績考課(試験)は「随時行なう」であり、学資なき者への「学費給与制度」も整っていた。職員名簿もついているが、『創立百年史』には青木校長の時代しか記載してない。開校当初から、3名の英国夫人を英語教授に迎えたことにも触れてない。この學校要覧とともに、初期卒業生による三根校長と学校への想いが満載された『三根先生追悼誌』(昭和18年 土佐中學校同窓会)が、なぜかこの学校史ではまったく活用されてない。おもに創立40周年や50周年の記念誌に頼っている。したがって、教室に辞書を豊富に揃えての個人別自学自習や、学内寮の学習室での自習ぶりも紹介されてない。むろん、厳しい落第制度などの問題点もあったが、その指摘もない。また、戦時下を「基礎確立の時代」としているが、学徒動員と戦災中心で、教練や上級生によるしごきなど当時の学校生活にも、授業内容にも触れてなく、生徒の進路動向などはあるが、何を確立したのか不明だ。
 さらに、残念なのは誤植や引用ミスが研究書にしてはとても多いことで、執筆者や校閲者の『土佐中高学校史』というテーマへの強い意欲や愛着が感じられない。本書の筆者がよく引用している『近代高知県教育史』(高知県教育研究所 昭和39年刊)に、土佐中はわずか9行しか割かれていない。これは土佐中高の通史としての学校史が未刊のためでもあり、研究者から無視をされても文句が言えなかった。今後は是正を迫ることが出来ると考えたが、このような内容と表記ミスでは心許ない。
教員・同窓生一体で伝統に迫ろう!

『創立百年史』と『三根先生追悼誌』。
後者は、1997年に宮地貫一同窓会関東支部長
が復刻した際に使用した原本の一部。
 旧年(令和2年)末に発行された同窓会誌『向陽』では、教頭が「本書は学校教育の研究者にとっても貴重なものとなるであろう。・・・麻布、神戸高校2誌に匹敵する評価を得ることを期待している」と述べている。本書は一般書でなく、研究者にウエイトを置いた研究書かとも思われる。しかし、待望の『創立百年史』であり、今後はこの本が教育研究者や識者・マスコミによる土佐中高校考察の基本資料となるだけに、なんとか対応が必要だ。学校にはすでに指摘した。すぐに返事があり、まずは正誤表を作成し、追って補完策を立てたいとのことであった。
 学校任せや研究者任せでなく、同窓会も乗り出すべきで、これを機会に一般卒業生や県民にも親しめるみんなの学校史『土佐中高100年の歩み』(仮題)を、別途学校と同窓会が共同で企画編集するのも一案だ。学校長だけでなく、各時代の名物教諭や学芸・スポーツで活躍した生徒など、人物を登場させるといった工夫もしたい。さらに、若い人々が自ら調査執筆することによって、教職員も卒業生も、母校の伝統をより会得することができ、伝承が可能となる。じつは『三根先生追悼誌』も、平成9(1997)年に「建学の精神」が忘れられつつあるのを憂い、宮地貫一同窓会関東支部長が自費での復刻を企画、筆者は印刷所の手配などそのお手伝いをした。この時、はじめて全文を読み、三根校長の人物とその教育姿勢に感服した。
 『創立百年史』の配布は限られているようだが、手元に届いた新聞部出身者は、豪華な本書を書棚の飾りとせずに、ぜひ熟読して欲しい。そして対応策を協議・具体化し、学校の歴史を我々の手に取りもどしたい。母校・同窓会に、みんなで具体案を提案し、3年後をメドに「私たちの学校史」をまとめていただきたい。

三根圓次郎初代校長の写真と同窓会が建設した胸像(本山白雲作)。
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『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を読んで
冨田八千代(36回) 2021.01.21
「土佐高等学校 土佐中学校」にも土佐にも関係のない人達の感想を記す。        
*「もう年だと退かないで前向きな気持ちで生きようとしてもらった。それは思いがけない経験をさせてもらったから。」と私。その理由は『筆案の麓』の筆者になったこと。 完成した本を手にした時は関わられた方々とは大違いと恥ずかしかった。が、だんだんと自分自身への励ましに変わっていった。この理由に行きつくまでがややこしいが、とにかく話した。
 ・Aさん 80代  あなたの出身高校の人だなんて全然意識しないで読んでいった。いろいろな人が登場して面白い。その人その人がどんな生き方をしたかとか、どんな仕事をしていたかとかがよく分かる。自分のことをふと思い出すこともある。読み返したいから、もうちょっと貸して。 (ちょうど、1ヶ月後に会った時。はじめは「あんたのお奨めのところだけ読ませてもらうわ。どれ?」だった。私は校長先生の「土佐中高100年人物伝によせて」だけをあげた。サークル活動で月1回しか会わないのに、この1編だけに長く貸すのはもったいないと思った。が、購入した10冊のうちの1冊は遊ばせようと貸すことにした。)
 ・Bさん 80代  読みだしたら面白くて、少しずつ読んでいる。読みやすい。一つのまとまりが短いからいい。ずっと置いておきたいから、買いたい。 (電話で。「重い物を持ったら、腰痛再発。お金を払いに行けない。」と言う。「お金を貸したかしら」と私。彼女にはお礼のつもりでプレゼントしたかったが、この本を蔵書にしても仕方がないだろうと思った。それで、「いつまででもいいから」と、新品を手渡した。この二人はあまり読書をしない。失礼ながら、熱心に読んでいることに驚くとともに嬉しかった。
 ・Cさん 70代 土佐高の校長先生の一文から、あなたが南国の暖かい風土・校風の中であなたの良い性格が熟成され育てられたと改めて感じました。「なぜ自分がそれをしてはいけないのか」「だったら自分が」の言葉は、問題を避けて通ろうとしてきた私には痛い言葉です。…以下自己分析が続いている。(手紙の一部。私へのことは彼女の主観なので別として、校長先生の文章に注目したことに感激した。私と同じ。)
 ・Dさん 60代 校長先生の刊行への文章のように、みんなそれぞれに自信を持ちたいね。お互いに認めあいたいね。田島征三も同窓生なの。(少ししか読んでいないと思う。そのほか、「これにあなたの名前が出ているってすごいじゃん。」「最後の所に名前が出て、よう頑張ったねえ。」のような感想も。そんなことより内容のことを聞きたいのに。見たことは確かだが。)
 *冗談っぽく、「私はこの歳にして、同窓生から初めて先輩と呼ばれたんだよ。しかも大学教授からだよ。」に「すごいね。仕事かなんかの関係なの?」に事の顛末を話す。取材後、川村教授に確かめのメールを何度も送った。川村教授は誠実に応じてくださった。メールの書き出しはいつも「冨田先輩」だった。読みたいとは言わなかったけど、実物を出したら持ち帰った
 ・Eさん 50代 この本面白いね。人に歴史ありだね。同じ時代を生きてるって感じることもすばらしい。(しばらくしてからのショートメールで。彼女の感想はもう少し詳しくききたい。)

「土佐校百年展」の会場にて 小村彰校長先生と私
 校長先生がこの前でと場所を決められました。
*10冊の行き先の1人として、近況報告にと郵送した。
 ・Fさん 70代  読みやすくて面白い。もうほとんど読んだよ。特に印象に残ったのは、田島征三・村木厚子・公文公。あなたの書いたところはイラストがいい。(読まないだろうと予想していたが読んだとは本当に驚き。もう、2ヵ月も過ぎたのに何の返事もなかった。つい数日前に電話がかかってきた。ためらいながらもこちらから本のことを出した。) 
 感想に挙げた人達、みんな、最初は自分から読もうとは思っていません。冨田が言うから、どれ読んでみるかといった感じ。最初は興味がなかったけれど開いてみると面白いということだろう。伝記だけれど短篇で完結、肩がこらない、次々にいろいろな人が出てくる、知っている人もいる、面白い。という具合だろう。私の周りの人は関心を示さないだろうと決め込んでいたが、『筆山の麓』の新たな「良さ」を知った。
 なお、筆山を「ヒツザン」と読むのは難しいようで、「何と読むの」とよく問われた。「ふでやま」というモニュメントのようなものかと想像した人もいた。読み方だけでなく、ついつい思い出も話した。
<つけたし> 36回生の感想
 ・Gさん 私たちはもう古い部に入ると実感した。私たちは建学の頃のことをよく聞いたけど、今の在校生はどうかしら。在校生にはこの本の第1章は是非読んでほしい。
 ・H(私) 感想の一端(表紙について)
 表紙を見たとたん、どうして男性ばかりなのと不満。勇壮、海、出発とすばらしい絵だけど、私学で戦後逸早く男女共学にした学校なのに女性が登場しないとは。だが、 完成品だから口外しないと決めた。ところが、描いた田島征三さん(34回生)はお見通しだった。「表紙のことば」〈9ページ〉で述べている。「男しか描いてなくて ごめんなさい。女性のみなさんもこの中で漕ぎゆうと思うてください。」脱帽。ほっとした。                             
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 −『筆山の麓』の刊行を通してー
小村彰校長先生に感謝と感銘
冨田八千代(36回) 2021.01.22

筆者近影
 『筆山の麓』の刊行では筆者の1人となるありがたい機会を頂きました。この時に、現在の土佐中・高等学校の小村彰校長に3回助けていただきました。それは間接的なことからです。
 紹介することになった川村静児名古屋大学教授の原稿の書き出しに困っていました。 その時に、名古屋市でちょうど「土佐中・高等学校同窓会東海支部令和元年総会」が開かれました。(2019年5月11日)原稿の種がきっと見つかるだろうと期待して出かけました。この会に校長先生は「百周年記念歌」をお土産にお越しくださいました。会場に在校生の歌声が響きました。そのうちに、川村教授がその歌声の生徒の一員となってしまったのです。この歌は作詞・作曲ともに在校生です。歌詞1番♪先行く人の声がきこえる 自由であれ  諦めるな  自分を信じろ…♪  2番 ♪どんな時も 自立した心と 自由の精神を もち続けていたい 自分を磨いていこう…♪ 土佐校の建学の精神は「人材の育成」であり、そこには「自由・自立」が貫かれています。「百周年記念歌」も自立した心と自由の精神を謳歌しています。川村教授への取材でわかったことは、教授の人生は責任を持った「自由」がずっと貫抜かれていることです。歌詞通りの土佐校の生徒であったし、また、現在のお姿そのものです。書き出しは「百周年記念歌」と決まりました。種探しどころか花が咲きました。名古屋までお越しくださったことを感謝しました。
 あとの二回は、『筆山の麓』の本を受け取ってからです。これは、校長先生の『筆山の麓』での「土佐中高100年人物伝によせて」の文章からですので、まず、その全文を紹介します。
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「土佐中高100年人物伝によせて」  土佐中高校長 小村 彰(49回生) 
 22,151名。創立百周年を迎える2020年3月に卒業した95回生を加えた、旧制土佐中学校を含む本校卒業生の総数です。その、お一人お一人に人生の物語があります。ある分野で大きな功績をあげ、後世に名を残された方もいます。名は知られなくとも、身近な人たちにたくさんの笑顔をもたらして、愛に包まれて逝った方もいます。せっかくの才能を花開かせる前に、戦場で倒れ、あるいは不慮の事故や病に冒されて、志半ばで世を去った方もけっして少なくありません。そして今現在、毎日の生活の中でさまざまな重荷を背負いながらも、精一杯それぞれの人生を生きていられる卒業生たち。亡くなった方も含め、22,151通りの人生が営まれ、そのひとつひとつが意味ある大切なものであることは、私が言うまでもありません。
 その多様な人生の中で、後輩たちがその生き方を知ることで、元気がもらえる、夢を広げられる、そんな人生を有志の方が選んで編まれたのがこの人物伝です。この「選ぶ」作業もたいへんでしたでしょうし、文章にまとめられることもたいへんな取材力・筆力を要する困難な作業だったはずです。それでも、あえてこの本の刊行に関わったみなさんこそ、後輩たちに土佐の卒業生のお手本を示してくれていると私は思っています。
 まだクラス担任をしていた頃、グラウンドに落ちている紙くずを拾うように、そばにいた生徒に言ったとき、「ぼくが落としたがやないも」との反応に激怒したことがあります。それをいわば反面教師として、次のように考えるようになりました。自分にとって負担になるような仕事や義務を課せられそうになったとき、人はしばしば「なぜそれを自分がしないといけないのか」と避けるけれど、「なぜ自分がそれをしてはいけないのか」と問い、否定の答えが出ないなら、自分からやってみるようにする、ということです。
 誰がやってもかまわないことを、「なんで自分が」と考えるか、「だったら自分が」と考えるか。そのちがいに思い当たり、土佐の校風として脈々と受け継がれている「自主性・主体性」というものの根っことはそんなものではないかと考えるようになりました。部活動、運動会や文化祭などの学校行事、必ず前をきる人間が出てきます。「同調圧力」が強いと言われる日本の文化、とりわけ昨今のネットを通じたバッシングの嵐の中で、こうした生き方をするのはたいへんですが、たしかに今もそんな生徒が本校を支えてくれています。
 この本に取り上げられた方、そしてその編集・執筆に携わった方々は、こうした「なんで自分がやったらいかんが?」を根本にもっている方々であると思います。それを支えるエネルギーは並大抵のものではありません。そのエネルギーを後輩たちはしっかりと吸収し、自分のエネルギーにしていってほしいと思います。
 今年の卒業生のテーマは「万華鏡」で、卒業記念品として自ら万華鏡を作りました。小さなかけらを集め、それを容器の中に入れ、鏡を組み合わせてできあがります。ひとつひとつのかけらは、それぞれの形と色を保ちつつ、他と混ざることで、いろいろな見え方を生み出していきます。ひとつひとつからは思いも寄らない、そしてひとときも同じ姿にとどまらない、まさに千変万化の模様が織りなされていきます。この本に描かれた先輩たちは、とりわけ大きく輝くかけらです。一方で、小さく目立たないかけらでも、万華鏡の彩りを豊かに鮮やかにする役割を果たしていることもまた事実です。そんなことにも思いを馳せながら、この本を読んで生徒の皆さんがエネルギーを得るとともに、自分を大切に磨いていってくれたらと願ってやみません。
 最後に執筆・編集に当たられた皆さまに心からの感謝の意を捧げます。
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 昨年10月6日に『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』が届きました。ずっしりと重く立派な本です。本を手に、ある時の中部高知県人会でお会いしたAさん(何回生か不明)はこの本を読んでくださるだろうかとの思いがよぎりました。同窓会への参加の有無をお聞きすると、次のようなお話をされました。
 若い時に1回だけ行った。その後は行きたくないから行かない。土佐校にはいい思い出がない。中学校入学の時は、はっきりとした目標があったし、周りからも大きな期待があったけど…。
 そのお話を聞きながら、自分自身の中学1年生の5月頃のことを思い出しました。数学の時間です。カマス(吉本要)先生が、突然 「トウダイに行きたいもん、手えをあげてみい。」と、おっしゃいました。私は6年生の遠足で行った桂浜の灯台以外は知らないけれど灯台にはさほど行きたくもないと戸惑っていました。ところがクラスの三分の二ぐらいだったと思いますが、元気よく手を挙げています。そんなにどうして灯台に行きたいのだろうかと不思議でした。後日、母に話して分かりました。トウダイは灯台ならぬ東大、東京大学のことでした。クラスの大部分の生徒は将来の大学進学やその先までも大きな志を持って入学していたのです。私は小学校を卒業したら次は中学校進学、その学校は土佐中学校と両親が敷いたレールに乗って入学しました。両親は自立した大人にするために大学進学を、それにはまず土佐中学校へと考えていたそうです。
 私のAさんによぎった心配は、校長先生の『筆山の麓』への「土佐中高100年人物伝によせて」を拝読して、拭い去ることができました。全員の卒業生をすっぽりと包んで、「22151通りの人生が営まれ、そのひとつ一つが意味のある大切なものである…」と述べられています。このお話を受けて、Aさんが気軽にこの本を開いたら、自分の中に眠っている土佐校当時のいい思い出が表れるに違いないと思いました。60歳代とお見受けしたAさんは意気軒高で堂々とした態度です。きっと、現在のお姿の中には土佐校時代の幸せも入っていることでしょう。「幸福な人生というのは、幸せな思い出の積み重ねだと思う」と大原健士郎氏は述べられています。(『筆山の麓』116頁) Aさんに「読みましょう。」と声をかけたくなりました。
 さて、3つ目は私のことです。こんな立派な本の中に私の原稿が載っていると思っただけで、とても恥ずかしくなりました。刊行の過程のほんの一部分、一つの原稿だけしか参加していません。その原稿も、刊行委員会の私の担当者の懇切丁寧な支えでやっと出来上がりました。
 本を手にしてから、毎日のように本を開きました。手にすればするほど恥ずかしくなりました。極めつけは、最後のページの「筆者・編集者紹介」です。あいうえお順に皆さんと同じ大きさで私の名前も並んでいます。まさかと驚きました。いいのだろうかと心配になりました。声をかけてくださった時に、先のことや自分の力など何も考えずにお受けしました。それは土佐校が好き、新聞部がよかったとの思いからでした。「紹介」では刊行委員会のみなさんは名前の後ろに小さくマークが付いているだけと謙虚なのにも、恐れ入りました。『筆山の麓』を開くたびに、必ず、校長先生の「土佐中高100年人物伝によせて」は拝読していました。とても惹かれたのです。1週間以上たってから、先生の言われる「何で自分がやったらいかんが?」を無意識のうちに自分に当てはめていました。すると、「私が書いてはいけなかったのか、いけなかったら、先輩は声をかけて下さらなかったのでは」という気持ちになりました。そして、校長先生は今年の卒業生のテーマの「万華鏡」からすべての生徒さんを温かく包み込まれています。そこで私は落ち着きました。私は万華鏡の小さな一粒に決まっている、その自分の身の丈でできる事をすれば許されるのでは、それならば私も筆者の一人にしていただいてもいいのかと安心しました。そして、やっと、心から刊行委員会の皆様にお礼が言えました。

 日々、このようなお気持ちで、学校運営にあたられ生徒たちに接していらっしゃるだろうと思い巡らせていたら、感謝は感銘へと変わりました。この頃、再び、同窓会から送られた、創立百周年行事の案内の冊子『土佐中・高等学校』を開きました。この中で校長先生は「今が輝き未来を拓く」からも、在校生に伝統を受け継ぎ新たな海に漕ぎ出そうと温かく語りかけています。ますます感銘は深まりました。ちょっと脇道にそれますが、このお話にぴったりだと『筆山の麓』の表紙が浮かびました。 
 一連のことから、私も22,151名の1人であり、同窓生としてつながっていると感じるようになりました。母校が身近なことになりました。創立百周年記念行事は素通りするところでしたが、その意義も以前よりは受けとめました。同窓生が土佐中高等学校の発展を願うこと、それはこの学校で学んだという矜持の一つではないかと考えるようになりました。今後、ささやかながら母校を応援していこうと思っています。
 私がこのような心境になれた源は、『筆山の麓』の筆者の一人にしていただいたことです。あらためて刊行委員会・7人のサムライの皆様に心からお礼申し上げます。

付記
 「土佐校百年展」の会場で、「百周年記念歌」の作詞者藤本理子さんのお爺さんに遭遇しました。興奮した私は、『筆山の麓』を開いて「私はここに理子さんのことを書きました。」と、話しました。お爺さんには通じなかったと思います。それでも、とても幸せそうな笑顔で「理子は私の自慢の孫です。」とおっしゃいました。せっかくだからと、校長先生のいらっしゃる所まで案内しました。
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個展の案内状
田島征彦展のお知らせ
中城正堯(30回) 2021.03.15
 『筆山の麓』でも紹介した絵本作家・田島兄弟(34回生)の兄、田島征彦さん(淡路島在住)から2つの個展案内状が届きました。いずれも、関西での開催です。お近くの方は、ぜひご覧下さい。
 

「気骨の作家 田島征彦が染め上げる! −絵本原画と型染めの世界−展
  会場 大阪府守口市大日町2-14−10 守口市立図書館 06−6115−5475
  交通 地下鉄谷町線「大日駅」、大阪モノレール「大日駅」より徒歩5分
  会期 4月3日〜29日
  ・守口市立図書館一周年記念の記念行事としての展覧会で、4月24日(土)14時〜15時30分には、田島さんの講演会(予約制・無料)も開かれます。








「たじまゆきひこ展」―新作絵本『せきれい丸』原画と型染め絵−
  会場 ギャラリー ヒルゲート 京都市中京区寺町通三条上ル天性寺前町
  交通 地下鉄東西線「市役所前」より徒歩3分 075−231−3702
  会期 3月16日〜28日
  ・3月20日(土)18時30分〜20時には田島さんによる講座「せきれい丸のことなど」が開催されます(要予約、参加費1.000円)。
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浅井伴泰さん(30回)追悼文
浅井伴泰さん(30回)御逝去
会長 公文敏雄(35回) 2021.04.30
プレスクラブ会員各位

故・浅井伴泰さん
(竹本氏提供)

筆者近影
 新聞部、野球部の大先輩浅井伴泰さん(30回)御逝去の報に接して、心からお悔やみ申し上げます。
 「土佐中高100年人物伝 筆山の麓」に掲載された素描をお借りすると、「早大商卒 東京エアゾル化学社長、同窓会本部副会長・関東支部幹事長、製缶業(北海製罐)から医療・殺虫剤のエアゾール会社のトップに、土佐高野球部が命」とあります。
 母校野球部をこよなく愛されたことは、皆さんご存じのとおりですが、ご生前最後の夜も贔屓のタイガース7連勝の試合(ヤクルト戦)をテレビ観戦してご機嫌だったよし、その翌朝は還らぬ人に。まさに大往生だったとのご家族のお話です。
 浅井先輩は向陽プレスクラブ再発足のころ、何度か集まりに足を運ばれ、貴重なご助言をいただきました。話がこんがらがってくると、満を持しておられたごとく的を射たご発言で引き締めてくださったことが思い出されます。寡言でしたが重みと存在感があり、風格が際立っておりました。
 余談ですが、和子夫人(35回)がガーナ大使となって赴任したことで、「鬚(当時)のパートナー」も折に触れ渡航なさいました。あちらで「リンカーン」とあだ名され丁重にもてなされたとの風聞も、むべなるかなです。ガーナ高校生との国際交流プログラムにも御熱心で、お元気だったころは支援会幹事として大いに応援してくださいました。
 多方面で活躍された大先輩の訃報に喪失感がつのるばかりです。ご冥福をお祈りいたします。
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浅井伴泰さん(30回)追悼文
母校を熱愛した新聞部の“野球記者”
中城正堯(30回) 2021.05.10
虫の知らせ

筆者近影
 4月15日、持病の検査入院を控え、浅井伴泰君の体調も気になっているところに、同級生で高知在住の松ア郷輔君から電話があった。「浅井は元気になっちゅうろうか。新堀小から野球を一緒にやって、野球をやりたくて土佐中に入った。俺は野球はせざったが、小学以来の親友じゃ。新婚旅行も浅井がおった小樽へ行って、料亭でこじゃんとご馳走になった。なんちゃあお礼をしてないき・・・」と、今になってしきりに気にしている。
 そこで、和子夫人にメールで「松アや西内など級友がみんな心配している・・・」と送信して入院した。3日間のカテーテル検査などを終えて21日に帰宅すると、公文敏雄・KPC会長から「浅井さん逝去」の知らせが届いていた。虫の知らせが、当ってしまったのだ。西内君から22日葬儀との連絡をもらったが、検査づめで疲れ果てており、残念ながらお見送りできなかった。そこで「・・・阪神大躍進と賢夫人和子様に見送られての安らかな旅立ちを迎え 心からご冥福をお祈り申し上げます」と、弔電を供えた。
公文クラスの新聞部三人組

昭和30年の土佐高卒業アルバムに掲載の新聞部記念写真。
後列左から3人目が浅井君
 浅井君との出会いは、土佐中1年B組公文クラスだ。彼は海村育ちの筆者と違い、いかにも都会っ子らしいスマートな風貌で、クラスで一番(名簿順)でもあり、目立った。学者風の公文先生が読み上げる、「浅井(あざい)、浅岡・・・」は、今でも耳に残っている。彼は野球部だったが、試合での活躍より昼休みになるのを待ちかね、弁当を掻き込んでは手作りのボールとバットで三角ベースを楽しむ姿や、春先に市営球場でキャンプを張るプロ野球見物が印象に残っている。何しろ、ラジオ実況しかない時代で、川上・藤村・別当などの本物を目にするのはオープン戦くらいしかない時代だった。何時しか、クラスの多くは阪神ファンになり、その中心に浅井君がいた。
 B組の級長は大町玄君で、彼に浅井君、千原宏君が加わって中一から新聞部に入っていた。筆者も誘われて入部したのは、中2になってからだ。浅井君は全てに早熟で、野球は中学で卒業、新聞部も高1でさっさと卒業した。酒は早く、いつからかは判然としないが実家が酒屋だった谷岡先生から年末に一升瓶をせしめ、母親の留守をねらって浅井家に悪友が集まっては酒盛りを開いたりした。二学期の終業式で、生活指導のオンカンが「正月に酒を飲んだら街中を出歩くな」と、白線が目立つのを諫めるだけの時代であった。

浅井記者によるセンバツ野球の記事。
クリックするとPDF版へ向陽新聞第18号昭和28年4月13日
 新聞部で浅井君が最も輝いたのは、やはり野球記者としてであった。「向陽新聞」の紙面だけでは書き足らず、ついに昭和27(1952)年にガリ版刷ながら「向陽スポーツ」創刊にこぎ着けた。高校新聞初の「スポーツ新聞」である。
 記者としての名文は、翌28年春のセンバツ野球観戦記だ。筆者が編集長で、選抜の記事を売り物に新年度開始早々に発行すべく準備を整え、千原君を特派記者として派遣していた。初戦で早稲田実業に6-0と快勝したが、二回戦は銚子商業に0-3で敗れた。翌日、原稿到着を待つ部室に千原君から電報が届いた。「ネツアリ キジカケヌ」とある。そこで、選手とともに帰高したばかりの浅井君にピンチヒッターを依頼、一晩で書いてもらった。「向陽新聞」二面トップに「お嬢さんと記念撮影 センバツ野球裏話」の見出しが躍っている。ところが、この記事の活字が組み上がったところに、ひょっこり千原君が記事を持って現れた。熱が引き、なんとか書いて駆けつけたという。そこで急遽、部数を二分し、浅井記事を第1版、千原記事を第2版とすることを決断した。こうして昭和28(1953)年4月11日発行の「向陽新聞」第18号は、これまた高校新聞では初めての2版二種類が実現した。これら、「向陽スポーツ」「向陽新聞18号」とも、KPCホームページのバックナンバーに収録されているので、ぜひ浅井記者を偲んでご覧いただきたい。
クラス誌「うきぐも」に注力

東京で公文先生(中央)と再会した浅井君(左)と、
倉橋由美子さん(29回生・右)。筆者撮影
 高一の頃に、浅井君が新聞部の岩谷清水先輩(27回生・当時早大在学中)からもらった手紙のコピーがある。そこには、「これからの新聞部のチーフは大町と思っていた。しかし、公文先生が大阪に発つ前に、君がメキメキとまじめさ熱心さを加えたと言われた、どうかしっかりやって欲しい」と、浅井君への期待を縷々綴ってある。
 しかし、大町・浅井・千原の三人組は、高二になると新聞部を辞める。やむなく、横山禎夫君と筆者がまとめ役を卒業まで続けることになる。この背景には、我々Oホームは“公文先生が主任”と信じて集まった者が中心で、高1になると若い新担任に落胆、以来主任との軋轢が絶えなかったことがある。そこで、この三人組を中心に文芸部の梶田広人君なども加わって、クラス誌として文芸色の強い「うきぐも」が創刊された。一般的に、文化部は高1で引退し、受験勉強に専念するならわしであったが、三人組はむしろクラス誌編集や、草野球など課外活動に熱中し、担任との抗争も続いた。「うきぐも」は卒業後も続き、平成23(2011)年に第20号を出したが、その企画・編集には、相変わらず三人組の名前が並んでいた。しかし、浅井君の逝去で、ついに三人とも消えてしまった。
 高校時代の思い出で印象深いのは、昭和29年秋、高3の運動会での仮装行列である。Oホームのテーマは「吉田神社の夏まつり」で、写真前列右が葉巻を加えた吉田茂首相と、寄り添う娘の麻生和子巫女である。細面の浅井君は、いかにも清楚な巫女になりすまして大好評であった。小生は、その他大勢の汚れ役・進駐軍で、顔を黒く塗りパンパンたちに囲まれている。当時の政治情勢への批判を込めた仮装で、間もなく吉田は引退し鳩山内閣となる。翌30年の「卒業アルバム」の寄せ書きに、「天皇を葬れ!!これが民主化の第一歩だ」とか、「保守反動を打ち破れ!」とあり、前者が浅井君、後者が筆者であった。

昭和29年の運動会Oホームの仮装行列
前列右端の美人巫女が浅井君

仮装行列での進駐軍
筆者(左端)と女性たち
 筆者は大学時代に「うきぐも」7号の発行を担当、経費節約のため高知刑務所に印刷をお願いした。刑務所の条件は、赤とピンクはダメだけであった。赤は過激思想、ピンクはお色気記事であり、活字を組む受刑者への配慮だ。当時60年安保が近づきつつあったが、もう高校時代の過激な言論はうすれ、これらの心配は無用であった。
「土佐高野球が命」そして夫婦旅行
 晩年の様子を簡単に報告しておこう。会社や同窓会の役員も勤め上げ、晩年はもっぱら趣味を楽しんでいたが、その熱中ぶりはやはり尋常でなかった。野球は、阪神ファンでいわゆるトラキチだが、それ以上に「土佐高野球が命」であった。春秋の県大会や四国大会が始まると、家業にかこつけて帰高しては観戦、戦績や有望選手情報を克明に知らせてくれた。たまに甲子園出場が決まると、現役のサラリーマン時代から級友は全試合応援に呼びつけられていたが、途中から筆者には声がかからなくなった。それは、高2の夏の決勝戦以来、連続4試合筆者が行く試合は、全て眼前で敗れたからだ。
 野球だけではない。相撲も幕下から高知出身の力士情報を教えてくれた。さらに競馬にも通っていたようだが、これは高知競馬より中央競馬の大レースを好んだようで、大穴を当てたことはずっと後から聞かされた。「浅井金持ち、川ア地持ち」と謳われた江戸以来の豪商の末裔だけに、力士や名馬のいわば「たにまち」のような存在に思えた。
 仕事から身を引いた後、同窓会関東支部幹事長や筆山会会長も早めに身を引き、後任に一切を託していた。ただ、同窓会本部の役員若返りが進まないことだけは、気にしていた。
 筆者が出版社を退いた際に、高知からも仕事の誘いがあったが、高知の情報に詳しいだけに、「それはやめたがよい」と賢明な助言をしてくれた。

和子夫人のガーナ大使離任で、
大統領に挨拶。2006年の年賀状より。
 毎年の年賀状で知ったことだが、晩年の楽しみはご夫婦での優雅な海外旅行のようだった。和子夫人のガーナ大使就任もあってアフリカが多く、セレンゲッテイ国立公園や南端の喜望峰、エジプトの巨大なアブシンベル神殿などを訪問。アジアでは意外にも、中国・タイ・ベトナム等の奥地少数民族の村が多く、ブータンでは筆者と交流のある知人も訪ねてくれた。厳冬のカムチャッカなど大自然、それに古代遺跡、民族文化の宝庫をよく探訪、日本でも秘境の露天風呂、高千穂、白神山地、四万十川源流などを足で訪ねている。はやりのテーマパークやツクリモノの外国村は無視しての本物志向は、さすがであった。
 こうして土佐高の同窓生同士の結婚でも、ともに独自の分野で働き、さらに夫妻助け合って日本ガーナの親善事業や、母校・同窓会の役員など社会的な活動を続け、模範的なカップルであった。最期も、珍しく阪神首位躍進のテレビを楽しみ、奥様に見守られての穏やかな旅立ちで、うらやましい限りである。ただ、松ア君に限らず級友一同、「もう一度アザイに会いたかった」の思いが消えない。合掌

夫妻が感動したという壮大な
アブシンベル神殿。筆者撮影

カンボジアのアンコールワットでの
夫妻と長男。1998年の年賀状より。

世界自然遺産・白神山地の原生林を散策
2008年の年賀状より

 追記:浅井家の歴史に興味のある方は、『高知経済人列伝』(鍋島高明編 高知新聞社)や、『高知県人名事典 新版』(高知新聞社)の〈浅井藤右衛門〉の項目をご覧いただきたい。同様に、和子夫人の実家・中谷家も中谷貞頼などが出ている。
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浅井伴泰さん(30回)追悼文
浅井伴泰君を偲んで
西内一(30回) 2021.05.10

筆者近影
 私共は中学からずっと、7回生の大先輩である公文先生が担任のホームで、伸び伸びとした親しみのあるご指導を頂いてきたことであった。
 ところが、高1に進む段階で急に公文先生が転校されるという事態になって、後任には若く教師なりたてで、自信に溢れた織谷馨先生が着任されることとなった。
 このため、公文先生を懐かしむ余りのことか、或いは織谷先生の高圧的で一方的な指導に反発したのか溝が出来て仕舞って、遂にある晩、先生宅に談判のため大勢で押し掛ける事態にまで至ったことであった。そして、その時の先導が浅井、大町、中城の新聞部の面々であったことは言うまでもない。
 このような出来事は、クラス一同の連帯感を高めて、その結果とも云えようか高2の夏にはクラス雑誌「うきぐも」が誕生する。 そして、当然のことながら、ここでも主たる執筆者は、これまた同様に新聞部の3人衆であった。
 浅井君のジャンルの第一は野球で、中学で入っていた野球部の応援は勿論、プロ野球は虎キチで、面目躍如たるものがあった。
 感心するのはこれまた新聞部のお陰か、この頃からすでに政治批判の眼が育ちつつあり、高3の運動会での仮装行列「吉田神社の夏祭り」の世相批判も彼の発案だ。後に、「中谷元を育てる会」を結成して中谷君を国会に送り出す下地ともなったのではあるまいか。
 他方でご多分に漏れず、自称の「三文青春小説」なるものも何本も綴っていて結構面白い。

 卒業して早稲田大学に進んだ後、就職の初任地は小樽の北海製缶であった。この間、「うきぐも」への寄稿も一休み気味であったけれども、母校の野球の応援は、後輩達の甲子園での目覚ましい活躍もあって連携を欠かせなかった。
 一方、帰京後は先輩たちが「筆山会」なる昼食会を始めるや否や直ちに参加して、当初の銀座の「ねぼけ」から日比谷の朝日生命ビル、そして現在のニューオータニ新館「ガンシップ」と先輩たちの謦咳に触れる機会を大切にした。
 取り分け、三根校長の墓参に当たっては、岩村(41回生)、鶴和(同左)両君を援けて極力、毎年続けることが出来るよう気を配っていたことが思い出される。墓参後の深大寺の蕎麦屋では、北岡龍海(5回生)、近藤久寿治(6回生)宮地貫一(21回生)などの先輩たちが思い出話に花を咲かせていたことであった。 なお、三根校長の墓所には、傍らにディク・ミネの「人生の並木道」の歌碑が立っていることに触れておく。


2016 新年会 (竹本氏提供)
 このような野球を通じての後輩や母校との繋がりに併せた筆山会などでの先輩方との交歓をベースにして、北岡龍海支部長の許で関東支部幹事長に推挙されるが、その就任に当たって「同窓会は卒業生と母校を繋ぐ橋である」と協力一致を呼び掛けたことは記憶に残る。
 余談になるが、併せて今一つ記憶に残っているのが昭和60年の産経ホールでの総会で、当時としては記録的とも云える350名を超える出席者があって、会場が熱気に包まれたことである。そして、ゲストとしてディク・ミネが登壇して、かの「人生の並木道」を披露してくれると万雷の拍手が鳴り止まなかった。さらに同道して頂いた渡辺はま子が「夜来香」を、アンコールの声に応えて「モンテルンパの夜は更けて」を熱唱してくれたのが今でも耳の奥に残っている。
 こののち、宮地支部長時代も幹事長を続けてくれて、同時に、同窓会本部の副会長を町田守正(16回生)会長の下で兼務し、岡村甫(32回生)会長に至るまで同窓会全般に亘って尽力を惜しまなかった。


2018 三根校長墓参会にて
(竹本氏提供)
 私事に亘って恐縮だが、このように多忙であったため筆山会の世話はお前やってくれと頼まれて仕舞い、吉澤信一(16回生)、岡崎昌生(23回生)、森健(同左)会長と3代に亘って世話役を務める羽目となった。
 その間、和子夫人のガーナ大使就任に伴う現地への同道、そして其の後のガーナよさこい、さらにはガーナの学生達の母校訪問、麻布高校そのほか企業訪問など、確かに多忙な貢献活動に暇が無かった。
 しかしながら、これらの活動が公文君たち後輩の協力によって軌道に乗った頃を見計らい、筆山会の会長に就任して頂いた。
 ただ、この頃から持病との闘いが始まり、あるいは先を見越されたのであろうか、早めのバトンタッチを考えて、佐々木現会長への路線を引かれたことは思慮深いことであったと感心させられている。


2016 三根校長墓参会にて (竹本氏提供)
 彼は、家庭については単に「うちは共稼ぎじゃ」とだけ話していたが、お二方のことは皆さんよくご存知のことと思うので、ここでは一つだけ彼が嬉しそうに語っていた話の紹介だけに留めさせて頂く。
 和子夫人がガーナ大使に就任されて、親任式など何度か宮中に一緒に参内したことであったけれども、一番印象に残ったのは帰任後に慰労のお茶会に、今度は初めて御所に招かれた時であったそうだ。
 両陛下に、ガーナで「よさこい」が定着しつつある旨を申し上げたところ両陛下は頷かれて、今度は皇后さまから「高知の方はお酒がお強いようですね」とのお言葉を頂戴したとのことである。 帰りの車中で、いろいろ二人で感想を語り合いながら、最後に「よい冥土の土産ができた」と珍しく意見が合ったそうである。


1989 甲子園にて(筆山9号より)
 最後になったが、一番好きだった野球観戦を一緒した思い出に触れておきたい。
 最近、と云っても随分と前になって仕舞ったが、17年振りの甲子園と云うことで大層盛り上がった平成15年の選抜出場は、浅井君始め市川幹事長などの尽力によって関東支部から300人の大応援団で乗り込み、近藤、北岡両先輩もお元気でアルプススタンドに陣取った。藤宗編集長も派手なイタリア帽を被っての応援でしたよ。
 25年春の浦和学院戦の応援は、浅井夫妻と共に「うきぐも」仲間の大町、松崎、三宮と小生が前日から球場隣のホテルヒューイットに投宿して気勢を挙げて臨んだけれども、守備力の差が出て惜敗してしまった。アルプススタンドでは、母校で初めて甲子園の土を踏まれた池上武雄先輩(元校長)ともご一緒出来たことが救いであった。
 他方、阪神タイガースの応援は、浅井君が神宮球場のネット裏席をとってくれて、虎キチ4人組で観戦するのが恒例であった。阪神勝利の時の飲み会が大いに盛り上がったことは言うまでもない。しかしながら、大町君が先に逝き、浅井君も後を追うと三宮君は腰痛なので神宮まで行くことも出来ず、専らパソコンで独りDAZN観戦となって仕舞った。


筆者と中城君(佐々木さん提供)
 先月21日に浅井君逝去の報が中城・公文君から届き、急ぎ和子夫人に架電したところ、18日夜は阪神7連勝にご満悦で、夕食も進み普段と変わりが無かったようだ。ところが翌朝起こしにいくと永い眠りに就いて安らかであったとのお話であった。
 三田の真宗本願寺派當光寺での家族葬に、「うきぐも」仲間として独り参列させて頂き、ご冥福を祈るとともに永年の友誼に御礼申し上げた。拝顔させて頂くと、少し老けたかなと思うぐらいで普段と変わらず穏やかな眠りであった。傍らには「うきぐも20号」、土佐高校野球部史、それと阪神大勝のデイリースポーツが添えられていた。和子夫人始めお子さん方、お孫さんに囲まれて、温かく和やかでとっても幸せそうだった。
 棺とご家族みな様方の車列をお見送りした後、1年半ぶりにニューオータニ・ガンシップに立ち寄って、72年の長きに亘る彼との思い出を想起しながら杯を傾けた。

 なお、彼の墓所は高知の浅井家廟所。戒名は圓徳院釈常伴居士。
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浅井伴泰さん(30回)追悼文
心から感謝しております
筆山会会長 佐々木泰子(ひろこ 33回) 2021.05.10

筆者近影

お悔やみ申し上げます(筆者 画)
 「お元気になられたかしら?」とお会いできる日を心待にしていた時に受けた西内一先輩からの浅井先輩の訃報は、大変な衝撃で言葉に表せませんでした。

 振り返ってみれば、浅井先輩には大変お世話になり、心から感謝しております。

 
土佐校同窓会関東支部、幹事長として大活躍
 ここに1988年10月の土佐校同窓会の関東支部学年幹事会の写真がありますが、若々しい浅井先輩は堂々とした幹事長として、皆に慕われていました。 
 同窓会活動全般にわたって、尽力を惜しまず、会を発展させ、貢献されたことは、皆さまご存知のとうりで、私も色々とご指導頂きました。
 「先輩から受け継いだ人の繋がりを大切にし、土佐校の伝統を後輩に繋げて行く」ことをいつも心がけ、私共後輩に教えてくださいました。引き継いだバトンは必ず先輩方のご期待にそえるものでありたいと願い、後輩を大切に繋げていきたいと思っております。

浅井幹事長を囲む学年幹事達
左端筆者、1988年10月1日

宮地支部長を囲む役員幹事達
2012年三金会

左から筆者、泉谷支部長、浅井幹事長、岩村事務局長

ダンディーなフェミニスト

若いはちきん(72回、宮崎晶子)から花束を受ける
浅井ナイト 1998年10月 第5回はちきん会にて

進藤先輩のお住まいを訪ねて
浅井ご夫妻、久保内、筆者
後列両端は進藤先輩のお嬢様達
 男性優位の時代に、常に女性の立場を考えてくださっていました。
 1996年に宮地貫一支部長(21回)の発案で「はちきん会」を立ち上げた時も、いち早くナイト役を引き受けてくださり、「普段女性が(特に主婦)が行くチャンスがないような所がええろう」と赤坂に会場を設定してくださり、とても愉快で楽しい会になったことも思い出されます。浅井先輩のなにげない思いやりを感謝したことでした。

いつもご一緒の浅井ご夫妻 
 浅井ご夫妻とは、色々とご一緒させていただき、楽しい時を過ごさせていただきました。
 同窓会総会のあとは、進藤貞和(3回)大先輩のお誘いを受け、よくご一緒に美味しいお食事をいただき、為になるお話も伺いました。又、大先輩のお住まをお訪ねしたり、歌のお好きな大先輩と一緒にカラオケで歌ったのも楽しい思い出です。又「中谷元を育てる会」「中谷元ー国政報告会」はもちろん、同窓会総会、「筆山会」、「はちきん会」、「三金会」等々、いつもご夫妻ご一緒の姿は、それぞれを大切に思う「夫婦のお手本」でした。

2017年B&A 美術展にて
作品の前で
 翻ってみるに、浅井先輩が一番最後になされた奥さまへのサポートが、大往生へと繋がると思われます。
 お仕事や同窓会幹部等様々なキャリアから離れて、ガーナ大使となられた愛する奥さまのため、国家のために、大変な努力をされ、又共に楽しまれたことと思います。
 一昨年は、「筆山会」昼食会(ホテル、ニューオータニ、第三木曜日)にもご出席され、あー、これからもお会いできそうでよかったわ、と喜んでいましたが、間もなく入院されてしまいました。クリスマス時、昼食会に出席していた皆で、お見舞いの寄せ書きをしたカードをお送りしましたら、喜んでくださり、早く元気になって出席しようとおっしゃっていたと和子夫人からお聞きし、その時を楽しみにしておりましたのに、、。残念でなりません。

闘病されていたご様子
 この度、和子夫人から頂いたお手紙により、闘病されていたご様子を知りました。
 「、、。実は、一昨年夏、大動脈剥離を起こし7ヶ月間入院しておりました。そのうち一ヶ月余り、集中治療室にいて「あと2週間ぐらい」と言われた時期もありましたが、担当医から「科学では説明つかないご本人の力です」
 と言われる奇跡的回復を果たし、昨年、丁度コロナが騒がれはじめた1月末に退院いたしました。その後は、ず~と自宅で療養していました。自宅では、長期間寝たきりだった為、歩行等のリハビリに励み、ゆっくりですが歩けるようになり、昨年夏には2~3時間のドライブも楽しみ、この春も車の中から千鳥ヶ淵や中目黒のお花見を満喫しました。先週の日曜日、夕食に、お酒こそ飲まなくなりましたが、高知から届いた鰹のタタキと焼き鳥を堪能し、例年にない快進撃をつづける阪神タイガースの7連勝を確認し、大ご満悦で、いつものとおり、12時ごろに就寝いたしました。翌朝、月曜日、7時頃目覚めないままの夫を見つけました。
 楽しい夢を見ながらの昇天のようでした。
 生前は、土佐校が大好きで、皆様方との交流を一番好み、楽しんでおりました。
 皆さま方には長い間、ご厚誼頂きまして、誠にありがとうございました。
 わたしも、コロナの為、専らリモートワークで家に居て、この1年余りは、ずっと側に居られたことは幸いでした。、、)

 最後まで最愛の奥様の介護を受けて、安らかに昇天された浅井先輩
 心からご冥福をお祈り申し上げます。
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浅井伴泰さん(30回)追悼文
三根校長のお墓参り
竹本修文(37回) 2021.05.10

筆者近影
 悲報は西内さま、公文さま、佐々木さま、中城さまと次々頂きましたが、和子夫人にはお悔やみのご挨拶もできず、もやもやしていたら、和子夫人が佐々木様宛のご挨拶状の写しを送って頂きまして、最後の大往生の様子を知りました。

2016 三根校長墓参会にて
 私のお付き合いは、筆山会の昼食会と新年会だけで、追悼集に掲載していただくようなお付き合いが出来ていませんので、三根校長のお墓参りに2016年と2018年の2回ご一緒させて頂いたので、その時のスナップ写真を添付しました。編集の都合でどこかに使えるものあれば幸いです。
 今思い出したのは、筆山会の昼食会では土佐と阪神の野球の事を沢山お話いただき、年末か新年会では阪神タイガースのカレンダーを頂きました。家族・親戚・友人には巨人フアンが多くて、私は隠れトラキチでした。
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浅井伴泰さん(30回)追悼文
本当にお世話になりました
藤宗俊一(42回) 2021.05.10

筆者旧影
2013 甲子園にて
 どういう訳か、ちょうど一回り年上の30回生とは縁が深く、可愛がって頂いた方は10指を超えています。前にも『うきぐも』(『一つの流れ』?)に書かせて頂きましたが、義弟の次兄だった故沢田良夫さんが最初でした。イタリアから帰国直後の1978年頃、職探しと部屋探しの為に、蒲田にあった実家の2階の6畳に転がり込んで2ヶ月くらい隣部屋の良夫兄さんと寝食を共にしました。お酒が好きで、その席で『土佐藩の家老や御船奉行の末裔がいて、俺たちのクラスはすごかった。』と、土佐校時代の思い出を自慢げに後輩に語ってくれました。まさかこんなにどっぷりと嵌って、2つも追悼文を書くハメになるとは思ってもみませんでした。

3金会(佐々木さん提供)
 1984年、独立して渋谷に小さな建築事務所を開いたのですが、仕事が無くて暇をもてあましていた時に、故宮地貫一さん(20回〉から鶴和千秋(41回)さんを通して、『どうせ、暇しているんだろう。同窓会関東支部を再立ち上げるので手伝え』とお声がかかり、あわよくば仕事にありつけたらと淡い期待を抱いて、毎月第三金曜日に赤坂の宮地さんの事務所での飲み会(3金会…参勤会)に出席するようになりました。その席で北海製缶時代の浅井さん(30回)とお目にかかりました。土佐人に似合わない、とてもハンサムで洒落た人だという印象を受けました。

『戦いすんで』(1992 筆山13号より)
 その後、浅井さんの幹事長のもとで、いつの間にか『関東支部同窓会誌・筆山』の編集長を押し付けられ、私の狭い事務所で編集会議が行われるようになり、246(青山通)を挟んだ桜ケ丘のご自宅に伺って指導を受けたり、情報を頂いたり、時には差し入れを持ってきて頂いたり、随分お世話になりました。ただ、私の本業の方が忙しくなり(同窓会とは無縁!!)編集長を返上してお付き合いがなくなりましたが、怖い?カミサンを持った不運を嘆き、慰めあっていたような気もします。
 『向陽プレスクラブ』再結成にあたっても、いろんなご指導をいただきましたが、一度もお酒を酌み交わすことができませんでした。きっと関東支部や野球部のことでお忙しかったと思われます。故大町玄さん(30回)と同じで、寄稿文も一つもありません。返す返す残念なことです。もう一つ、残念なことは、『巨人、大鵬、卵焼き』の世代の私にとって、なんであんなにトラキチだったなのかの釈明を聞けず仕舞いになってしまったことです。
 土佐の古い俗謡で「浅井金持ち、川崎地持ち、上の才谷道具持ち、下の才谷娘持ち」と 詠われた「浅井家」の末裔(ご当主?)にふさわしい鷹揚たたる立ち居振る舞いは、水飲み百姓の小倅にはとてもマネができそうにありませんが、今後、少しだけでも近づけるように頑張って生きたいと思っていますので草葉の陰から見守って下さい。
 最後になりましたが、改めて、浅井伴泰さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
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長い間のご厚誼、誠にありがとうございました
浅井和子(35回) 2021.05.15
土佐向陽プレスクラブの皆様

筆者近影
 この度は、夫伴泰の為に貴重なお時間を割いて、追悼集を作成いただきまして誠に有難うございました。
 皆さま方があのように夫を忍んで下さり、夫はさぞ、天国でテレながら皆様に感謝していることと思います。


 思えば、小さい頃は他の方と同様、空襲や終戦時の混乱で怖いことやお腹が空いたことなどあったでしょうが、土佐中に入学後の彼の人生は多くの友人に恵まれ、社会人になってからは、日本の高度成長期に当たり元気一杯で、日本の一番いい時代を過ごしたと思います。 家庭では、元気すぎる女房に不満でしたが、まあ〜、病弱よりはマシとあきらめ、最後はさっさと大往生できて、よかったよかった、と思っていることでしょう。
 長い間のご厚誼、誠にありがとうございました。
 まだ元気過ぎる女房が残っていますので、引き続き、よろしくお願い申し上げます。編集長様はじめ皆様方の慰労会に参加させていただける日がきますことを願っております。
 どうぞ、コロナにはお気をつけられ、お元気でお過ごし下さいませ。
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サンペイさん追憶!出会いと土佐の旅
中城正堯(30回) 2021.08.09
東京で初めての原稿依頼人

筆者近影

サンペイさんとファン。
檮原「雲の上のホテル」で。
 この夏は、古くからの友人・知人の訃報が次つぎに届く。7月だけでも18日に土佐中高の同級生でマスコミ仲間の鍋島高明君(享年85)、22日には「ずっこけ三人組」で知られる児童文学作家の那須正幹さん(享年79)、そして31日にはサラリーマン漫画「フジ三太郎」のサトウサンペイさん(享年91)である。
 那須さんは昨年春、筆者の「寺子屋と郷学が育てた佐川の人材」(佐川史談会誌掲載)を読んで、「寺子屋の話、興味深く拝読。(破門された子を諭して師匠に詫びる)あやまり役の老人が居たというのは面白いですね」と、感想を寄せてくれた。浮世絵に登場する江戸のいたずらっ子が、そのまま大人になったような作家で、作文審査や講演会で大変お世話になった。山口県防府市に住み続けていたが、肺気腫での急逝だった。サンペイさんも誤嚥性肺炎が原因で、筆者も肺の病気を抱えるだけに他人事ではない。
 サンペイさんは、小生の編集稼業のなかでも特に印象深い一人で、高知も絡んでのさまざまな交流があった。その一端を紹介しよう。漫画家をめざし大阪大丸の宣伝部をやめた際、関西ジャーナリストのドン小谷正一氏から「漫画家になるなら、漫画界の王様、横山隆一氏に会っておくがよい」と言われ、鎌倉の横山邸に連れて行かれる。自作の四コマ漫画を差し出すと、王様から「案はいい。漫画を描くんだったら東京へこなくちゃダメだよ」と云われ、東京へ引っ越す。

サンペイさんの挿絵。
『3年の学習』1962年10月号。
  上京直後のことが、サンペイさんの自著『見たり、描いたり。』(朝日新聞社)に、こう記してある。「東京に住んで一、二カ月したころ、初めての注文が学習研究社から来た。このときの知的で若い編集者が、現在くもん出版社長の中城正堯さんである」。知的より痴的だったかも知れないが、まだ入社3年目(1962年)、『3年の学習』担当だった。当時、週刊誌でサラリーマンの疲労回復に「コレコレ」と呼びかける藤沢薬品チオクタンの漫画広告が秀逸で、この漫画家を挿絵に起用すべく、東京の転居先をやっと探し出して訪ねたのだ。その作品が、10月号に掲載された生活指導「花子の遠足」で、サンペイさんのイラストは、明日の晴天を願って父の布団から綿を抜いて特大のてるてる坊主を作った3年生だ。これら漫画イラストや4コマ漫画が好評で、翌年からは4ページの連載漫画「あのーくん」をお願い、長いお付き合いが始まった。
漫画の王様・横山さんの導き
 サンペイさんを中央の漫画界に導いた横山隆一さんは、筆者にとっても編集者への道を開いて下さった恩人であった。1959年の中大卒業を間近にしながら、新聞社・出版社ともはねられ続け、やっと学習研究社の一次(筆記試験)に受かり、次は「出版企画を提出せよ」の課題が出た。当時、新しく小学校で道徳教育が登場するところで、横山さんの人気漫画「フクちゃん」を活用した道徳漫画の副読本を企画した。公立図書館の貸出しデータから、横山漫画が子どもにも人気なのを実証、さらに道徳の徳目ごとに適合した4コマ漫画を選んでページ見本も作成した。学力での劣勢を、企画力でカバーするのに必死だった。
 この様子を知った土佐高東京同窓会のドン近藤久寿治先輩(6回生・同学社社長)が、岡ア昌生先輩(24回生・外務省)を通して横山隆一氏を紹介して下さった。岡ア先輩は、横山夫人のご親戚であった。こうして、鎌倉の横山邸を訪問し、サンペイさん同様に助言をいただいたが、内容は思い出せない。

ビジネス雑誌『マイウェイ』
の漫画。1969年9月号。
 これらの支援のお陰で、編集役員等による二次試験、社長の最終面接とも無事合格、どうやら企画内容より、図書館・作者の訪問など、足で企画を固めたことが評価されたようだ。当時の学研の花形部署である学習編集部に配属になり、早速横山先生の担当となった。入社した夏の漫画集団箱根大宴会にも呼んでいただいた。ここでは、やなせたかしさんとも出会った。後に『アンパンマン』が出た際、人気が出ないと言って初版をもらった。以来、そのやましゅんじ、石森章太郎などの漫画家とも、よく仕事をすることとなった。
 サンペイさんは、筆者の次に人気週刊誌『漫画サンデー』の峯島正行編集長から声がかかり、出世作「アサカゼ君」が誕生、『暮らしの手帖』花森安治編集長にも認められる。朝日新聞の「フジ三太郎」は、ヒラ・サラリーマンの立場から、世相を風刺とユーモアを効かして切り取り、大人気を得て長期連載となる。筆者が学習雑誌からビジネス雑誌の部門に異動してからも、超多忙ななかで仕事を受けていただいた。ビジネス雑誌では、漫画以外にも、当時の人気芸能人との対談も始め、お好みに合わせて若手清純派歌手・森山良子から「恍惚のブルース」の青江三奈まで、毎月銀座の三笠会館に呼んでおしゃべりを楽しんだ。ビジネス雑誌の漫画では、ロケット発射台の模型を挟んで、元気な奥様としょんぼり亭主を描いている。
高知県の依頼で「雲の上のホテル」へ

御畳瀬でコップ酒を手に立ち
食いするサンペイ・下重のお二人。
 旅にも引っ張り出したが、1997年に高知県観光振興課から日本旅行作家協会役員をしていた筆者に、著名人を呼んで高知の見所を取材紹介して欲しいとの依頼があり、サンペイさんと下重曉子さんに行っていただいた。サンペイさんに同行し、紙の町・伊野から、酒と歴史の町・佐川、そして「雲の上のホテル」が出来たばかりの檮原町などを3泊4日で回った。下重さんは、遍路道を室戸へ向かってたどり、最御ア寺や吉良川の伝統的街並を訪問、なかでも室戸市佐喜浜の「俄(にわか)」が気に入ったようだった。最後に高知市で合流して一泊、御畳瀬の漁港でニロギやメヒカリの干物など立ち食いを楽しんでから空港へ向かった。サンペイさんは、大恩人・横山隆一さんの記念館完成を待っての再訪を誓っていた。
 この記事の最初に掲載した写真は、隈研吾氏設計の名建築「雲の上のホテル」レストランで、大阪から来たファンの女性に見つかりご満悦のサンペイさんだ。もう一枚、御畳瀬の干物に舌鼓を打つサンペイさんと下重さんを紹介しておこう。やがてお二人の筆になる、高知の知られざる伝統文化や、最新のホテルなど観光情報が、新聞雑誌に次々と掲載された。その一つには、女性に代わって筆者らしき人物との食事場面が描かれていた。サンペイさんは、新聞連載から身を引いた後も、運転免許取得、パソコン習得、海外旅行などへのチャレンジを楽しんでは、その奮闘記を出版し、賀状でも知らせてくれた。これは1998年の年賀状。

土佐の旅のエッセイ挿絵。
1979年3月「山陽新聞」他。

新聞連載を終えてからの
パソコン年賀状。1998年。
 作家や漫画家と編集者の関係は、著名な賞を取るなど売れっ子になってから新しく執筆をお願いする編集者と、無名時代からともに苦労を分かち合ってきてやがて世に認められた場合では、立場がまったく異なる。筆者は、たまたま若い頃出会った漫画家や学者・評論家・ジャーナリストが大成、その点では大変幸運な編集者生活であった。後者から例示すると、民族学者梅棹忠夫、朝日新聞社長中江利忠、経済評論家内橋克人、評論家・作家下重曉子、写真家野町和嘉・大石芳野などの皆様である。(写真は筆者撮影)
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「土佐校百年展」からのオクリモノ
高知で遭遇した浮世絵展
冨田八千代(36回) 2021.08.09

筆者近影
 はじめに   北斎の青色
 日ごろ、浮世絵の実物や話題に接することはほとんどない。ところが、久しぶりに、6月の自然観察の月例会で浮世絵の話題が出た。その日の観察会の主役はカワセミ。住居地の近くに、昔の灌漑用ため池を中心にした公園があり、そこが観察地。その池面をカワセミが横切る。光輝く背の青は飛べば残光で青色の一直線が描かれる。鳥で輝く青はカワセミのみ。カワセミが姿を消しても、ひとしきり「青」が話題になって童話『青い鳥』まで出てきた。が、私は池の杭に止まったウチワヤンマの方へと関心は移った。ところが、観察会のまとめには、カワセミに関して以下のことが書かれていた。=鉱物も輝く青は希少で古くはイスラム寺院のタイルが独占。これが外に出てフェルメールの「青いターバンの少女」が描かれ、北斎の「神奈川沖浪裏」の傑作も成立=。この3者が一直線でむすびつくとは、と疑問がわいた。調べてみようともせずに、浮世絵も生き字引の中城さんに矢を放った。すると、早速お返事を下さった。
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 お尋ねの件、浮世絵の着色剤は顔料と言って、植物か鉱物から取っていました。青は、植物の露草か藍が使われましたが、露草は褪色しやすく、藍が中心でした。ヨーロッパでも美しい透き通った青は、貴重な鉱物から作られていましたが、やがてベルリンで化学染料が製造されます。文政末期頃にその化学染料の青がオランダから長崎出島経由で輸入され、ベロリン藍(略してベロ藍)と呼ばれます。これを、効果的に使用した一人が、北斎です。「富嶽三十六景」はじめ、数々の名作を生み出します。墨とベロ藍の濃淡だけで描いた作品を「藍摺絵」と呼びます。フェルメールは、高価な鉱物顔料を使って独自の青を出しています。トルコのブルーモスクも訪ねましたが、イスラム教徒にとってブルーは最も純粋で神秘的な色彩のようでした。なお、浮世絵「ベロ藍」については、『浮世絵のことば案内』(田辺昌子 小学館)などが気楽に読めるかと思います。田辺さんは、千葉市美術館の学芸課長で友人です。 (以上 中城さんのメールより)
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 すぐに、図書館に出かけた。中城正堯と背表紙にある『江戸子ども百景』など、中城さんが関わられた『公文浮世絵コレクション』の背の高い3冊が並んでいるそのすぐ側に、おすすめの本『浮世絵のことば案内』はあった。
 ベロ藍については中城さんの説明で十分だった。続いて、ベロ藍は、薄く用いても濃く用いても素晴らしい発色の青を示す、当時の人々にとっては異国の魔法のような色であったと述べている。そして、北斎は通常であれば藍色にしないだろうというような箇所もベロ青を用いて、ベロ藍そのものの表現力を追及していると紹介している。
 とても読みやすい編集と内容で、小中学校の図書館にも是非備えて欲しいと思った。
 こんなことがあって、そういえばと、昨年の「土佐校百年展」(2020年11/11〜11/15日)の折にみた浮世絵展を思い出した。この「土佐校百年展」では『筆山の麓』PRの手伝いをした。
 山本昇雲展の開催中を知る

ギャラリーぽたにか 「山本昇雲展」
会場は昔の土蔵2軒のそれぞれ1階。
 「土佐校百年展」の2日目、11月12日の高知新聞には「土佐校百年展」と『筆山の麓』の記事が掲載された。(公文敏雄氏がこのHPに詳報)開場前の受付付近で、新聞を広げて話題になっていた。ところがそれだけでは終わらなかった。その新聞を北村恵美子さん(47回・同窓会副会長)が刊行委員のお一人と私にコンビニで買ってきてくださった。帰郷のいいお土産になるとその心づかいをありがたく思いながら、新聞はそのままバックにしまった。翌13日の朝、会場に出かけるには早すぎると、宿で前日いただいた高知新聞をぼんやりめくっていた。突然「浮世絵」の字が飛び込んできた。見出しは最後の浮世絵師 山本昇雲展 いの町。小見出しは、美人画など54点。写真は会場の一部。期日は15日まで。山本昇雲(1870〜1965)とあり長命な方で現南国市御免町生れ。会場、いの町土佐和紙工芸村は分かる。我が故郷と仁淀川を挟んだ向こう側、行ったこともある。高知市から会場まではそんなに時間はかからない。幸い当番は午前中。午後、展覧会に出かけても、今日中には豊田に帰り着ける。4月には、名古屋市で開催予定の浮世絵展もコロナ禍で中止された。めったにない本物に会えるチャンスを逃す手はないと、午後出かけることにした。
 北村さんのご好意が無ければ出合うことのなった浮世絵展。感謝とともに、「土佐校百年展」から私への贈り物だと思えた。
 会場での資料は、ここに添付したB4大の表面だけの印刷物とはがきの案内だけとつつましやかだ。浮世絵は代表作「今すがた」から数点。細かく優しい描写から、明治大正の風情が感じられた。意外で嬉しかったのは、子どもの情景のも数点あったこと。子どもの動きのその一一瞬を巧みにとらえている。静止した姿から今にも飛び出してきそうな生き生きとした息づかいを感じた。浮世絵に関心を持つようになったのは、このホームページを通してで、中でも、「子ども浮世絵」に魅かれている。来場してよかったとの思いをいっそう強くして、JR伊野駅から電車に乗った。
車中で思ったこと  土佐での浮世絵は?
 車中では、会ったばかりの本物の浮世絵が走馬灯のように頭の中をめぐっていた。数少ない資料と新聞を読み直してみた。新聞の「最後」とチラシの「土佐出身」の表現が気になった。わざわざ「出身」と断るのは「土佐の絵師」ではない。土佐の国では浮世絵はどんな存在だったのだろうかと、初めてよぎった。そして、文化としての存在は薄かったのではないかと思った。理由は二つ。まず、「中城文庫」には浮世絵が20点近くある(と思う。)が、土佐の地元の作品ではない。当時、土佐で浮世絵が盛んだったら土佐藩御船頭の中城様はお江戸から浮世絵を持って来こられなかったのではないだろうか。このHPでも紹介された「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」の絵師も土佐の人ではない。二つ目は、同じくこのHPに中城さんが書かれた「版画万華鏡3」の養蚕神の浮世絵から思うこと。ここ愛知の山間部は養蚕の盛んな地域だったので、気に留めているが、そのような浮世絵が見当たらない。この地方の養蚕の神々は中城さんが説かれた伝説と同じであっても、絵ばかりだ。だいたいこの地方には浮世絵がとても少ないようだ。浮世絵文化は全国津々浦々とは、いかなかったのではなかろうか。JRの車中では、中城さんにお尋ねしようかなと思ったが、忘れていたこともあって、そのまま現在に至る。
 今、また、中城さんにお尋ねしたくなった。浮世絵師の活躍や浮世絵文化は土佐ではどうだったかと。
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高知で遭遇した浮世絵展 続き
土佐と浮世絵   序曲
冨田八千代(36回) 2021.08.18

中城さんのおこたえ 山本昇雲

絵金(廣瀬洞意) 藤原信一

図版3枚から思うこと 付記

『土佐と浮世絵 序曲』
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)


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拝読の機会に浴したことを感謝しつつ
次は「ぽんびん」を吹く中城さん
冨田八千代(36回) 2021.09.10

筆者近影
 中城さんは2017年にこのホームページに「”上方わらべ歌絵本“の研究」や<浮世絵展のお知らせ>を執筆されました。そのときに、浮世絵に子どもがたくさん登場していることを初めて知りました。知らなかったことをとても悔いました。それは、美術界や美術史の中で、「浮世絵」の中の「子ども」が忘れられていたことも影響していたのです。
 そこに千里眼を働かせたのが中城さんです。公文教育研究会は「くもん子ども研究所」の設立に伴い、研究テーマの一つを「浮世絵を絵画史料として活用した江戸子ども文化の研究」と決めました。それを提案し、推進の先頭はご本人でした。
 テーマ決定は1987年のことです。気づかせてもらった30年も前のことです。作品の発掘から始まって、たゆまぬ追及を続けられます。その数3000点にも及びます。美人画の中にも、母と子の姿がたくさん描かれ、それを「母子絵」とまとめられたことは画期的です。

「村の学校」イギリス銅版画
 1860年頃 著者所蔵
 美人画の歌麿は、母子絵が全作品の2割に及び、生涯のテーマであったとは驚きです(第T章 浮世絵と子ども <母子絵の伝来と発展> 第V章 母子絵のまなざし <もう一つの美人画“母子絵”―歌麿の母性愛浮世絵―>に詳しく論述。 他)。
 風景画の広重もたくさん描いています(第U章 寺子屋の学びの文化―江戸社会を育てた庶民教育― <寺子屋戯画と「子ども絵」の広重>)。
 研究から、子どもの描かれている浮世絵を総称「子ども浮世絵」と提唱されました。その内容は@子ども絵(子どもの生活を描いた風俗画)A子ども物語絵(子どもの為の物語絵や武者絵)Bおもちゃ絵(子どもが実用的に使った実用的浮世絵)+美人画です(第T章 浮世絵と子ども 「子ども浮世絵」ことはじめー江戸子ども文化研究―<くもん子ども研究所と浮世絵>)。提唱されてからかなり立ちました。「子ども浮世絵」が美人画や風景画などと肩を並べる日が、早く来ることを願います。

「風流をさなあそび(男)」歌川広重
天保初期 公文教育研究会蔵
 「子ども浮世絵」の子どもたちの天真爛漫さには、根拠があります。それを浮世絵から読み取っておられます。ご本では「浮世絵を読む」の表現に感銘を受けました。「見る」「観る」ではないのです。その読み取り方は作品を実に多くの観点から吟味されているのです。(「子ども浮世絵」ことはじめ p8)その上に、外国の歴史や文化も視野に幅広く検討されています。その結果の「読む」の深さ広さは、はかり知れません。この「読む」を貫いて、江戸の子どもの文化を解明されています。
 子どもへは、親からご近所から世間から、大人みんなが愛情を注いでいたのです。日常生活そのものが子どもに細やかなのです。例えば髪型です。丸坊主から3歳の髪置き、奴(やっこ)、喝僧(がっそう)を経て、7.8歳で髷を結う(p61など)。衣服でも、一つ身では「背守り」や「背縫い」をつける風習(第V章 母子絵へのまなざし 子ども絵に見る魔除けファッションー病魔と闘った母性愛の表象―)。これは、小さい頃お年寄りから聞いたことがあります。おぼろげながら、幼児の普段着の着物についていた記憶もあり、昭和にも引き継がれていたといえそうです。折々の行事やお祭りは、「子ども浮世絵」に満載です。教育には熱心です(第U章 寺子屋の学びの文化―江戸社会を育てた庶民教育― )。

「当世好物八景 さわき好」喜多川歌麿
 享和頃 公文教育研究会蔵
 あらゆることで、子どもへの対応はきめ細かです。これは愛情が無ければできません。中でも深いのは母の愛です。それを「子ども浮世絵」では見事に、まなざしやしぐさで表現しています。
 「読む」から、江戸時代の子ども文化だけでなく、当時の様子も知ることができました。寺子屋の学びの論述は、私にとって興味深いことでした。寺子屋教育のすばらしさが「子ども浮世絵」を「読む」確かさから、ふんだんに述べられています。自ずと現代の子育てや教育の在り方と比較していました。
 表紙は手にする度に惹きつけられ、眺めます。色が渋い薄茶色(何色と言えばいいのでしょうか)と落ち着いています。そこに「さわき好」の母と子が静かに確かに定まっています。(「さわき好」→「当世好物八景 さわき好」歌麿 p24,第V章 母子絵へのまなざし 扉)。元の浮世絵から色をとり、この母子がより落ちついた気持ちにさせます。「さあ始まり、始まり!」と静かに表紙を開いてくれます。
 数ある「子ども浮世絵」の中からこの作品を表紙にされたのは、「子ども浮世絵」の良さが凝縮されているからと、僭越ながら思います。母と子の他には余分な物はありません。お母さんのやさしさに子どもが安心してぽんびんを吹き吸いして楽しんでいます。母子相思相愛がにじみ出ています。この姿から、自分自身の子どもの頃への郷愁もわいてきます。

[上方わらべ歌絵本]絵師不詳
 安永・天明期 著者所蔵
 「子ども浮世絵を読む」を通して、作品と対話を繰り返されたことでしょう。作品はどれも今では分身のようではないでしょうか。その慈しみは母子絵のお母さんのまなざしと、きっと同じでしょう。第V章の題は「母子絵へのまなざし」と、母子絵のまなざしではないのです。胸を打たれました。
 長年の研究の集大成を手作りで上梓されたことをお喜び申し上げます。くりかえし拝読します。このご本が書店に並ぶことを期待しています。
 次に、お待ちするのは、創設された国立「国際子ども博物館」で修学旅行生に「子ども浮世絵」を説明されるお姿です。手にはぽんびんを持たれています。江戸時代の母子絵のお母さんのまなざしと同じように、たくさんの浮世絵に注がれた中城さんのまなざしと同じように、修学旅行生へ優しいまなざしを注ぎながら、語られることでしょう。手にしたぽんびんを時には吹かれることでしょう。
 ご健康にはくれぐれも気をつけられて、長生きをしてくださいね。

注:ぽんびんについて
 「当世好物八景 さわき好」の子どもが吹いている玩具の名称は、『江戸時代 子ども遊び大事典』(中城正堯編著 東京書籍 2014年発行)によった。本書では以下のように説明されている。(一部抜粋)「ガラスの玩具で、管から息を吹き吸いすると、先端のフラスコ状の薄い底が振動し、ポッピンポッピンと鳴り、女性や子どもに好まれた。音色から、ポッピン、ポピン、ポッペンとも呼ぶ。オランダから伝来した珍しいガラス製の新玩具で、異国情緒豊かな音色を出し、人気を得た。」この玩具は、吹くだけでは鳴らず、吸ったときにガラスの底がへこんで音が出る仕掛けである。
付記
 <2017年8月20日KPCのホームページ>「”上方わらべ歌絵本“の研究」の最後に、「なお全文閲覧をご希望の方はお知らせください。抜刷を進呈致します。」とあります。その抜刷とは、このご本では18ページにも及んでいます。大研究、大論文です。当時はそのような論述と拝察する下地は全くありませんでした。
 今回、「第2章 子どもの遊びと学び <[上方わらべ歌絵本]の研究―合羽摺子ども絵本の書誌と解説―」から、多くのことを知りました。この絵本は、江戸時代から長い時を経て2009(平成21)年にやっと、来るべき人の所に到着しています。やっと、日の目を見ました。とても貴重で意義深いことです。ページを開いた時に、[上方わらべ歌絵本]と「」の表記でないのが疑問でした。原題は不明なので仮題にされたと文中にありました。それだけ手にして大事にされた絵本なのでしょう。<表紙中央に「下郷作太郎」とあるが、これは本文にも裏表紙にも書き入れられており、所有した少年の名前と思われる。」>とか<全体にかなり疲れ、虫食いがあり、長く愛読されたことがうかがえる>との記述があります。この本を愛読した作太郎少年は、「よう槍持った」では槍を持つ子、「子を取ろ子取ろ」では列の先頭の子、きっと、はつらつとした遊びに夢中になる子ではなかったかと、想像を楽しみました。
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書評 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
中城正堯さんの「子供の天国」
加賀野井秀一(44回)・中央大学名誉教授 2021.09.10

筆者近影
 テレビのニュース番組を見ていて、いつも不思議に思うことがある。盆暮れの帰省客がUターン・ラッシュで東京に帰ってくるころ、必ずといっていいほど、駅のプラットホームでリポーターが家族づれにマイクを向け、田舎はどうだったかと紋切り型の質問をする。それも決まって小さな子供に対して。当然これには、また決まって「おもしろかったあ!」といった言わずもがなの答えが返ってくるわけで、私はつねづね、こんな無意味なことはやめればいいのにと思いながらも、どことなく、やはりわが日本人同胞に特徴的な行動様式なのだなあ、と妙に納得したりするところもある。
 私が何度か住んでいたフランスなどでは、子供はそんなふうには遇されず、ほとんど半人前の大人と見なされ、無視される。また、子供は子供で、早く大人になり、人々に伍して、自由に行動したいものだという願望をどこかにちらつかせていたものだ。
 ことほどさように、たとえば西洋では、子供という存在の独自性は、ごく近年まで意識されてこなかったわけで、ここにはっきりと視線を向けたのが、あのアナール学派の一人、フィリップ・アリエスだったということになる。彼の『〈子供〉の誕生』と題する一書が、まさしく西洋人たちに、子供という存在の独自性を初めて意識させることになったのだ。邦訳はみすず書房から出ており、良書なので、興味のある方にはぜひともお読みいただきたいが、ここでは端折って、出版社のプロモーション用文言のみコピペしておこう。「この書は、ヨーロッパ中世から18世紀にいたる期間の、日々の生活への注視・観察から、子供と家族についての〈その時代の感情〉を描く。子供は長い歴史の流れのなかで、独自のモラル・固有の感情をもつ実在として見られたことはなかった。〈子供〉の発見は近代の出来事であり、新しい家族の感情は、そこから芽生えた。」

「父親による体罰」フランス写本 15世紀
フランス中央図書館蔵  アリエスの後継者による図録集より
 そう、私たちは通常、子供という概念の自明性を疑ってもみないのだが、西洋ではその発見が近代の出来事であったというわけだ。実は、こうしたことは、子供をめぐる場合だけにはとどまらず、「浜辺のリゾート」とか「登山の楽しみ」とかいったものの自明性にも同じように当てはまるということは、これまたアナール学派に属するアラン・コルバンの『浜辺の誕生 ― 海と人間の系譜学』あたりで語られている事実ではなかったか。つまるところ、それらはすべて、各文化が独自につくりあげる概念にすぎない、ということがわかるだろう。
 さて、いよいよ本題に入るのだが、ここでとりあげる中城正堯氏の『絵画史料による 江戸子ども文化論集』は、このような、およそ子供を無視するたぐいの西洋諸国のアンシャン・レジーム期のあり方に対し、とりわけわが国の江戸期における子供を珍重する風潮を、浮世絵を中心とする絵画史料を通して明らかにし、同時に、これまで「美人画」のジャンルに含めて考えられてきた「子ども絵」を、独立した興味深い一ジャンルとして確立しようとする試みであると言えるだろう。
 中城氏は、「くもん子ども研究所」で教育史料の収集に手を染めて以来35年。現在は国際浮世絵学会理事・日本城郭協会顧問を務め、江戸子ども文化研究会を主宰しておられるが、当初「筆者は出版界の人間であり、浮世絵はもとより美術史・日本史・教育史などの学術的素養は全くなかった」とのこと。つまり、35年間の収集と読解と考証、そして諸方面の学者・研究者との交流が、本書を、また今日の氏を、ともに形成しているというわけだ。
 全体は3章だてとなり、各章はそれぞれ4つの論文から成っている。

「子供遊び尽し」歌川芳虎 嘉永頃 公文教育研究会蔵
男女がともに楽しく 遊び戯れる場面に手習いもある
 第T章は「浮世絵と子ども」と総称され、いわば基礎論にあたる。第1論文「〈子ども浮世絵〉ことはじめ」では、江戸期の子供文化研究の歩みが描かれ、そこからは、徳川幕府の封建的な統治によって「江戸庶民の女性や子どもは悲惨な生活を強いられていた」とする従来の歴史観とはちがった「子ども世界」が開かれてくる。また、「美人画」から独立して考えられるようになった「子ども絵」も、さらに下位区分として「子ども絵」「子ども物語絵」「母子絵」「おもちゃ絵」に分かれることも説かれている。これをいっそう延長すれば、「見立絵」「やつし」なども論じられることになるだろう。
 後半部分では、寺子屋における師弟関係が描かれ、西洋的母子像との対比にも言及され、はては、授乳のあり方や、母子がともに同一物を眺める「共視」をめぐる愛情の問題圏が提示されている。
 第2論文は、「子ども絵・子ども物語絵・おもちゃ絵 ― 子ども浮世絵の分類」と題され、先ほどの下位区分のそれぞれが詳述されることになる。灯火と闇との関係はその後の「光線絵」との関係からも考えてみるべき主題だし、イギリス銅版画との比較など、興味深い指摘もなされている。

スワッドリング:生誕( Scrovegni礼拝堂/Padova)
ジォット Giotto1267-1337
 第3論文は、「浮世絵に描かれた子どもたち ― 江戸子ども文化をさぐる」として、先ほどの母子の「共視」、見つめ合う「対面」、抱きつ抱かれつの「密着」などを論じている。そこから、幼児を「布でぐるぐる巻き(スワッドリング)」にし、「育児は授乳も含めて乳母にまかせることが多かった」西洋社会との差異をきわだたせ、歌麿の母親追慕や江戸の「子宝思想」にも言及する。行間に「おぶられた」という物言いのあるのは、筆者の土佐弁がふと顔を出しているような気がしてほほえましい。
 第4論文は、「豊潤な江戸子ども世界に共感」という題で、1998年から翌年にかけて開かれた「浮世絵の子どもたち展」(国際交流基金・公文教育研究会主催)というヨーロッパ巡回展の報告となっている。モスクワ、パリ、エジンバラ、ケルンの各地で見られた反応の中でも、とりわけ正鵠を射ているのは、当時の日本で「育児になぜ父親が登場しないのか」というロシアの文化相が発した問いであるだろう。
 第U章は「子どもの遊びと学び」と題され、各論へと広がってゆく。第1論文は「[上方わらべ歌絵本]の研究」というタイトルどおり、中城氏自身が所蔵する「上方わらべ歌絵本」の紹介と、書誌的な検討、内容の解読などから成っている。

「夏姿 母と子」鈴木春信 明和5、6年頃
公文教育研究会蔵
江戸の母子の日常的な風景
 第2論文は、「和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子」という表題のもと、西洋のポロ競技にも似た打毬について、数々の図版をも交えながら解説がなされている。打毬が将軍家から宮内庁に受け継がれたというのは、おもしろい現象であるだろう。
 第3論文は「寺子屋の学びの文化 ― 江戸社会を支えた庶民教育」。ここでは、寺子屋隆盛の主な理由として、種々の社会条件とともにその「楽しさ」が挙げられ、まさしく今日の「くもん式」にも生かされているであろうような、教育上のさまざまなヒントが並べられている。幕末には寺子屋が5〜6万ほどもあったこと、またそこでは、盃で師弟の固めを行なっていたことなど、新鮮な事実も見いだされるにちがいない。
 第4論文では「文明開化で激変した〈子どもの天国〉」が語られ、近代化の光と影とが、学校制度の側面から、教材の側面から、縦横無尽に語られており、文明開化のために喪われてしまった「親和性に満ちた子供の世界」が活写されている。
 第3章は「母子絵へのまなざし」としてまとめられており、中城氏が首尾一貫して描き出したかったであろう「母性に包まれた子供の天国」が、第1論文の「もう一つの美人画“母子絵”」、第2論文の「子ども絵にみる魔除けファッション」、第3論文の「布袋と美女から“おんぶ文化”再考」を通じて展開され、補足として第4論文「〈百子図〉にみる清代中国の子ども観」が置かれている。これらを俯瞰してみると、再度、母子絵の重要性をくり返す必要はあるまいし、子宝を守るための魔除けも、「おんぶ文化」も、それがどれほどの母の想いからくるものなのか、さらなる贅言は、もはや不要であるだろう。

この文章にちなんで、八王子の
「子安神社」を訪ねてみた。
 残された課題は、中城氏みずからの手で「あとがき」に列挙されている。初期錦絵の北尾重政や石川豊雅の作、清長・広重・国芳から歌川芳藤までの作を研究しなければ・・・北斎と歌麿との比較もしたかった・・・浮世絵をめぐるさらなる国際交流も必要だ・・・学際的な対話を通して作品への理解を、さらに深めていくべきだ・・・云々。そしてそこには、次の一文が加えられている。
 「この分野での研究はいまだ半ばであるが、後続の優秀な若手研究者に後を託す時期が来たようだ。本書は、そのバトンタッチのためにまとめた論集である。」
 常に支離滅裂な好奇心に動かされてものを書いている評者からすれば、いつの日にか、こんなカッコいい言葉もしたためてみたいものだ。
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『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
江戸子ども文化論集への反響
中城正堯(30回) 2021.09.10

筆者近影
 謹呈した関係者から感想がいくらか届きましたので、参考までに数人の感想概要をお知らせします。

・辻本雅史(京都大学名誉教授・教育思想史)
 「子ども浮世絵」のコレクションは、比類なき素晴らしい限りで、ウェブ構築までまことに敬服するばかりです。公文の文化事業として社会的意義はとても大きいと存じます。その過程での論文の数々壮観です。「子ども浮世絵」「母子絵」と名付け分類した功績、西洋にない日本の特質で、学問的意義や大、ぜひ市販を期待しています。
・常光 徹(国立歴史民俗学博物館名誉教授・高知県出身)
 ご研究のなかでも、「子どもの魔除けファッション―病魔と闘った母性愛の表象―」は、とても興味深く多くのことを勉強させていただきました。私も浙江省の民俗調査をしたときに、赤い腹かけをした子どもを見かけたことを思い出しました。また、カニに関する伝承が浮世絵に描かれていることを知り、中国との交流の歴史の深さを改めて感じました。

「リッタの聖母」レオナルド・ダ・ヴィンチ
 1490年頃 エルミタージュ美術館蔵
・末吉雄二(慶應義塾大学名誉教授・西洋美術史)
 <「もう一つの美人画“母子絵”−歌麿の母性愛浮世絵−」につき、>西洋絵画、例えばネーデルランドの風俗画など、子供のいる場面はありますが、そこに愛情あふれた育児の場面は見当りません。日本独自の文化として誇るべきテーマかと思いました。日本の近代化を語る際、明治維新があまりにも重視され、江戸中期・末期からの文化の連続性が無視・軽視されてきたきらいがあるように思います。この御研究は、歌麿といえば花魁美人図といった先入観から脱し、江戸後期の庶民文化の真の姿を解明し、西洋になかった独自な美点を明瞭に示された、素晴らしいご研究と思います。
・中江利忠(朝日新聞社元社長)
 貴兄の数十年にわたる「子ども浮世絵」の発掘からスタートした日本と東洋・西欧の文化史論の集大成であり、画期的な大事業だと思います。特に最後に「日本にも『国際子ども博物館』を! 」と訴えられたことは極めて意義深いことであり、署名でしたら参加させて下さい。サンペイさんの追悼レターも記されていますが、付き合いの長さでは貴兄が十数年長く、あらためて見直しました。

〈風俗美人時計 子ノ刻」歌麿 
寛政11、12年頃 大英博物館蔵
・安村敏信(美術史家・小布施北斎美術館館長)
 永年の子ども文化研究の集大成として、大変参考になります。とりわけ「おんぶ文化再考」は、興味深く拝読。
・小林忠(学習院大学名誉教授・国際浮世絵学会名誉会長)
 御著書、座右に置いて、種々学ばせていただきます。私の近刊(『光琳、冨士を描く! 』をお届けします。
・小和田哲男(静岡大学名誉教授・日本城郭協会理事長)
 『江戸子ども文化論集』、後半の魔除けに関するあたりが、特に興味深かかったです。
・三山陵(中国民間美術研究家)
 「上方わらべ歌絵本」を大変興味深く拝読。合羽摺も美しいし、素晴らしい資料です。やはり、資料は解る人、必要な人のところに来るのだということも納得です。江戸の教育・文化程度の高さにも一段と感じ入りました。続くポロの話も面白く、八戸に騎馬打毬があることに興味津々です。

「当世風俗通 女房風」喜多川歌麿
 享和頃 公文教育研究会蔵
・野町和嘉(写真家・日本写真家協会会長・高知県出身)
 ライフワークを淡々とこなしておられる、その熱意と好奇心の持続に心より敬意を表します。昨年1月にミャンマーに行ったのを最後に、海外への旅行は遠い昔の話になってしまいました。私がサハラに行き始めて来年でちょうど50年になります。当時の暮らしは歴史記録となっており、また戦乱により、もう何年も立ち入れぬことから、この半世紀間の記録をまとめてみようかと整理を始めたところです。
・大石芳野(写真家)
 ご著書をお贈りくださいまして、誠にありがとございます。1986年からずっと〈子ども浮世絵〉の発掘研究をなされていらっしゃったとは・・・!さすが中城さんです。成果の程は、専門外ですがただただ唸らされる思いです。
・下村幸雄(裁判官・弁護士・23回生)
 この度のご本、隅々まで神経の行き届いた見事な造本で、感服いたしました。中城さんの面目躍如です。歌麿のエロティックな母子像には以前から見慣れていますが、それが西洋の聖母子像と影響し合っていることなど、露知らず、子ども群像に至っては、その存在さえ知りませんでした。

「浴槽のディアーヌ・ド・ヴワチエ」
フランソワ・クルーエ 16世紀
シャンティイ城美術館 筆者撮影
・浅井和子(弁護士・元ガーナ大使・35回生)
 子ども浮世絵を読む楽しさを御紹介下さり、私も子どもの頃を思い出し、楽しいひとときを過ごさせていただきました。それにしましても、寺子屋では女の子も手習いをしていたことを知り、びっくりいしました。その自由な伸び伸びとした雰囲気に江戸町民の自由闊達な生活があり、300年続いた江戸の平和を改めて知ることが出来ました。子どもの姿、表情にその社会が顕れています。歌麿の母子絵と比べ、クルーエの「浴槽の・・・」のなんとつめたいことか。
・公文敏雄(NPO法人役員・KPC会長・35回生)
 ご研究の成果がふんだんに盛り込まれて、長年のお働きが伺え、敬服いたしました。このごろ縄文文化が見直されていますが、江戸時代も、我々が教科書で読んだ階級差別、庶民の苦しみ、百姓一揆の頻発などの自虐的記述に虚偽・誇張が多いとの研究結果が発表されるようになりました。浮世絵は江戸の庶民の暮らしぶりの一端を伝えるアートかつ貴重な歴史資料でもありますね。

 (以上いずれも私信の一部であるが、著者にとって嬉しい反響であり、紹介させていただいた。中城)
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オランダ黄金時代の跡
香料列島モルッカ諸島
中城正堯(30回) 2021.09.19


筆者近影
 竹本さんの「オランダの黄金時代17世紀」に、オランダ東インド会社につき、「1665〜1667の第二次英蘭戦争でイギリスが勝利してマンハッタン島を獲得して、ニューヨークにかえた」と出てきます。このマンハッタン島は、多くの皆様が訪問したと思いますが、この島とオランダが交換で入手したとされるモルッカ諸島のバンダ諸島は、ほとんど知られていないので、筆者が訪問した1996年4月の写真を少しご紹介します。
 なお、香料列島のバンダ諸島をめぐっては、16、17世紀に貿易の主要商品であった香料の丁字(クローブ)やナツメグの獲得をめざし、現地先住民・英・蘭で激戦が繰り広げられます。しかも、17世紀初頭には、関ヶ原で敗れた西軍の残党兵がオランダ軍の傭兵となって、この離島まで動員されています。近年、日本の歴史家も研究しているようです。現地の小さな郷土博物館で、日本刀を振りかざして戦うサムライの油絵を薄暗い壁面で見かけ、撮影しましたはずですが、残念ながら見当たりません。
 手元にある、英・蘭・日・先住民4者入り乱れての強者たちの夢の跡をご覧いただきます。今は、真っ青な海に緑の小島が点在する別世界です。なお、バリ島から飛行機でモルッカの中心都市アンボンへ飛び、バンダ諸島へはここから客船で一泊の旅、もうニューギニア島に近いとびきりの離島でした。

勇猛な海洋先住民の伝統的なボートレース

古舟の図を持つ村人。今はイスラム教徒だ。

今も実るナツメグの実。
果肉のジャムも美味しかった。

ナツメグの種。
これが香辛料になる。

伝統的な武将の装束を付けた村人。
兜飾りに珍しい熱帯の鳥。
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「青」は深まり、「青」で深まる
冨田八千代(36回) 2021.09.26

筆者近影
 今日9月25日、自然観察会が開かれました。6月の観察会から、3か月が過ぎました。この間に、KPCのホームページでは、翡翠の青い直線が延びて北斎の「青」につながりイスラム寺院の「青」やフェルメールの「青」に広がりました。みなさんの認識と見聞の広さ深さ確かさの賜物です。古今東西の色々な様子が記述されました。青色の事にとどまらず、様々な事柄がとても深まりました。「青」を通していろいろなことを知りました。
 拝読を通して、自分の疑問を居ながらにして解決していただきました。博学さを分けていただきました。3つは魅力的な美しい青ということが共通点だと分かりました。強い結びつきはありません。寺院の建物の「青」なのに、イスラム教の「青」と思い込んで興味を持ちました。そうではありませんでした。今日、観察会の報告をした本人にきいたら、やはり、「イスラム教なんて言ってないよ。」でした。
 竹本さんをはじめ皆さんの記述が分かりやすく面白くて惹きつけられました。画像の美しさにも見入りました。画像は、単に図鑑や写真集からではなく、執筆者の写された物や選ばれた物ということで親近感がわきました。今まで難しそうだと素通りしていたお城や歴史などのお話も今後は拝読します。今後のHPが楽しみです。AOのOはIにも変えられると、勝手にわくわくしてしまいました。


(写真は全て友人の撮影)
 今朝の翡翠の姿をお送りします。今朝は飛んでくれませんでした。池の直径は120m位で公園の広さは東京ドームの半分ぐらいだと初めて知りました。思っていたよりとても広いのです。6月の翡翠の線も30mぐらいかと思っていましたが、もっと長かったのです。ここで観察会を始めてもう20年にもなるのに、自分の感覚の曖昧さを痛感した次第です。
 
 
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榎並悦子『APATANI STYLE』を読んで
ヒマラヤ南麓の愛しき稲作民
中城正堯(30回) 2021.10.15

筆者近影
 榎並さんの、インド北東部アルナチャール・プラデーシュ州アパタニ民族の暮らしと信仰をテーマに撮影した写真集、『APATANI STYLE』を手に取った。表紙にも、裏表紙にも、黒い鼻栓を付けてタトウーをしたふしぎな顔付きの老婆が登場している。日本人と同じモンゴロイド系の顔付きだが、初めて見る珍奇な鼻栓と優しげで親しみの持てる表情の取り合せに魅せられ、ページをめくる。

著者の榎並悦子氏と
アパタニのNibu(Priest/shaman)
 本文は、この知られざるアパタニ民族の四季の暮らしを、稲作などの生業、伝統的な信仰と宗教的行事、衣食住など生活文化からきちんととらえた、見事な映像民族誌になっている。ここは脇田道子氏が本書への寄稿で述べているように、中国との国境問題が未解決で、外国人の入域は制限され、文化人類学者などの本格的な調査もされていない。だが、厳しい地理的環境と政治的条件によって、外来文化の流入を遮られてきたこの地域も、次第に近代化の波に洗われている。若者たちの提案で、鼻栓やタトウーは禁止する一方、キリスト教の布教に対抗、太陽と月を崇める伝統的なドニ・ポロ信仰に、教典の編纂や日曜集会を取り入れ、独自の民族信仰強化にも取り組んでいる。伝統文化の、自分たちによる改良が進んでおり、古来の習俗が変容しつつあるこの時期(2017〜19年)に撮影された映像記録は、学術的にも大変貴重である。

鼻栓・タトウー・首飾りの老女
 小鼻の両側に穴をあけ、木栓をした鼻栓やタトウーは身体加工の一種だ。筆者が1994年にタイ北部山地で訪ねたミャンマーから移住したというバタウン族の女性には、首に真鍮の管を巻き、成長と共に管・首を伸ばす風習があり、首長族とも呼ばれる。これらは、かつては西洋文明人によって未開・野蛮のシンボルとされた。しかし、ヨーロッパ貴夫人のコルセットによる胴のくびれも、中国婦人の纏足も、まさに身体加工である。現在は美容整形から豊乳手術まで、むしろ“文明社会”で大流行だ。身体加工による未開と文明の概念は、再検討が迫られている。

祭りで正装の女性
穏やかで優しげな表情だ
 写真を眺めるうちに、民族誌としての記録を超えた魅力に取り憑かれていった。それは、村人たちの穏やかで優しい表情である。鼻栓やタトウーを超えて、村人は親しみの持てる人たちばかりで、画面からやさしく微笑みかけてくる。従来の民族写真集は、秘境の特種な風俗・習慣とその後進性を強調する傾向が見られた。このアパタニの人びとは、自分たちの伝統文化に自信を持って大自然の中で平和に穏やかに暮らしているようだ。日々の仕事に追われる文明社会のサラリーマンとことなり、四季折々の生活に満足して楽しく過ごす安らぎの表情を浮かべている。農繁期を終え農閑期を迎えると、祭りを楽しみつつのんびり過ごせるのだ。単なる民族写真集ではなく、この民族の魅力をしっかり表現、素晴らしい人間記録になっている。これは、既刊『Little People』などでも見られる榎並さんならではの、長期間ホームステイしてすっかり溶け込み、対象の信頼を得たうえでのカメラワークの賜であろう。

タイ北部のバダウン族。 少女 と

母子  …………  (中城撮影) 
 近年、あまり見られなくなった民族写真集の傑作であり、榎並さんの代表作にあげられる。近代人が科学文明発達にともなう、地球環境破壊や人間性喪失で苦しむなか、日本でもかつて見られた自然に寄り添って生きる本来の人間の姿を思い出させてくれる。  なお、このアルナチャール・プラデーシュの民族社会に、戦後いち早く目を付け、1953年から3年間にわたって、滞在研究したのが社会人類学者で東大教授・中根千枝であった。中根はカルカッタ(コルカタ)を基地に、インパール、ゴウハティ、ガントーク(シッキム)などに飛んでは単身でさらに奥地に分け入り調査を続けた。この旅で出会った人々との交流を中心に綴った『未開の顔・文明の顔』(中央公論社、1959年)が話題になり、筆者もこの地域の人びとにとりつかれた。

生後一週間の赤ちゃんを抱く、
アパタニ民族の若い夫婦
 1992年に、この地域が外国人にも開放され、許可を得れば入域が可能となり、早速申請した。当初は、中根も訪ねたインパールから民族文化の宝庫ナガランドへ入りたかったが、渡航直前にここは再び入域禁止になり、インパール近郊のロクタク湖浮島に住む湖上の漁民や、アッサムの竹材を扱う民族、世界一雨量が多いシロンを訪ねた。どこもモンゴロイド系の先住民と、アーリア系中央政府の対立があり、シロンでは到着した日に紛争が勃発、翌日軍の護衛で退去させられた。後に、シッキムやブータンも訪ねたが、親しみやすい人びとばかりで、民家にもよく招かれた。ただ、民族宗教は衰え、多くがチベット仏教に深く帰依していた。この間、アパタニ民族のことは、全く知らなかった。
 では、筆者の撮影したインパール近郊の浮島漁民などの様子が、1993年2月29日の『アサヒグラフ』に掲載されたので、その一部を紹介しよう。
<写真>(アパタニ民族の写真は、全て本書より)
 ≪注≫榎並さんは、高知出身の野町和嘉さん(世界的フォト・ジャーナリスト)と、写真家夫妻で、中城や藤宗もメンバーの、ジャーナリストや写真家による情報交換会「トータス(陸亀)21」の仲間です。
インパールの浮島漁民と山地民。(アサヒグラフ誌より)。






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「ヨーロッパの木造建築」を楽しむ
中城正堯(30回) 2021.10.23

筆者近影
藤宗様

ルーマニア、マラムレシュ村の
ルーマニア正教木造教会。
 関健一写真展「カルパチア山脈の木造建築」の紹介、どうもありがとう。写真展に足を運べぬ身にとっては、豊富な写真の転載で、居ながらにして見事な木造建築、特に独特の東方教会の造形が楽しめました。藤宗さんは、うかつにも榎並展の休館日に足を運び残念でしたが、珍しく美女二人に遭遇でき、なによりでした。
 関さんの写真に興味があったのは、小生も学研の若き編集者時代に豪華写真集『日本の民家 全8巻』を担当し、文化庁建造物課の鈴木嘉吉さん(藤宗さんの大学先輩・後の奈良文化財研究所所長)にしごかれながら日本全国の重文民家を取材したからです。
 これがキッカケでヨーロッパの木造建築にも興味を持ち、ルーマニア・ドイツ・スイスなどの木造民家や教会を訪ねました。要するに、伝統的な民家は土地に豊富にある建築資材を使って住居を建てており、アルプスなど森林地帯では木造家屋が多々見られ、日本と同様に炭焼き小屋もありました。

木造教会の板壁に描かれた
村人への戒めの地獄絵。
作物泥棒や不倫人間が裁かれる。

マラムレシュ村の
木造井戸小屋や穀物小屋。

この村の民家。木彫をほどこした
立派な門と、板葺き屋根の母屋。

村の道ばたに立つ
木彫のキリスト像。
 やはり藤宗さんの先輩、太田邦夫著『ヨーロッパの木造建築』(講談社)も蔵書の一つです。ただ、建築史の学者としてはともかく、建築写真家としては関さんの腕が上で、木造建築のある風景から、独特の建築様式、そのディテールまで見事に表現してあり、楽しめました。特に、生神女庇護聖堂教会の塔屋内部の天使像に驚かされました。我々が見慣れた天使は、背に翼を付けた童子か美女です。この天使は、鳥の姿で顔のみ人間というデザインで

ドイツ、ケルン郊外の民家園に
移築された茅葺き農家。壁は土壁。

この土壁には、日本
の民家同様に木の
骨組みが入っている。
、藤宗先生に解説をお願いすると、「四大天使聖ミカエル、 ガブリエル、 ユリエル、 ラファエルではないかと思います。内陣のクーポラ(塔)の4面に描かれているので……」と、即答いただきました。
 小生が撮影したヨーロッパの木造建築も、何点かお目に掛けます。まず、カルパチア山脈に近いルーマニア北部のマラムレシュ、次いでドイツのケルン郊外の民家園、そしてスイスの民家園で見かけたベルン州の山村農家です。

スイスの民家園。ベルン州の山村農家。
左が住居、右は倉庫。屋根は板葺き。

倉庫の屋根裏につるされた大量の
自家製ソーセージ。冬の保存食。

ベルン州の18世紀末建築の大農家。
合掌作りを連想させられる切妻造りで、
大家族のほか農夫も同居、屋根裏は倉庫。
 いずれ、藤宗さん撮影の厖大な建築写真からも、選りすぐりをお見せいただきたいです。


四大天使(ロマネスク期)
≪編集人より≫
 先生と呼ばれる程の……。ボソっとつぶやいたら、いつの間にか記事にされたので、あわてて確認しました(暇!)。左の画像はシチリアのチェファルー(Cefalu)の大聖堂の天井画で同じデザインの四大天使の画像ですので多分間違いないと思います。翼を持つ画像には、他に天子、四大福音者などがありよく間違えます。大天使の中で最も有名なのは受胎告知に登場するガブリエルです。ちなみに、天使、天子には性別はありません。
************************************************

藤宗さん
 芸術の秋といいますが、お蔭様でこのところ見ごたえ読みごたえのある投稿が続いて目を離せません。
 貴兄の大学写真部のご縁で目にすることができた、写真家?関健一さんの写真と記事「 カルパチア山脈の木造教会」はすごいですね。
 中城さんご紹介の『APATANI STYLE』(榎並悦子氏)もそうですが、「プロだから当然」のを越えて、被写体に関わる民族・歴史・風俗文化への切込みが深いのに常人の及ばぬわざと感じ入りました。さすが貴兄のお仲間。
 ヨーロッパの建築と聞いて石造りばかりを思い浮べてはだめで、木の建築は本家(らしき?)日本にひけをとらないことがよくわかります。歴史的建造物とはいえ、地域の風景と社会に溶け込んでいるのが写真から伺えてすばらしい。想えば、ドイツやオーストリアなども森林が豊かで、日本の林業、木造建築などの関係者が「先進国に学べ」と見学に行くといいます。
公文敏雄(35回)
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−NHK「幕末・日本美術の至宝」を見て−
ナポレオン3世皇妃と幕末狩野派
中城正堯(30回) 2021.11.04

筆者近影
 日曜日の朝は、NHK「日曜美術館」が楽しみだ。10月17日も、番組案内に「フランスの古城で発見!徳川将軍から皇帝への贈答品▽幕末・日本美術の至宝」とある。「古城とはどこか、どの徳川将軍か、どんな美術品か」など、興味をそそられテレビを付ける。画面には意外な人物と作品、そして由来が現われた。
皇妃ウージェニーの旧蔵品

ナポレオン3世と皇妃ウージェニー
(ホテル・デュ・パレ所蔵)
 フォンテーヌブロー宮殿で今年6月から開催する日本美術展のために、昨年6月に所蔵美術品を調査すると、豪華な日本画(屏風・掛軸)や蒔絵(料紙箱など)30点余りが新発見されたのだ。日仏共同で学術調査を行ない、文久2(1862)年に将軍徳川家茂が派遣した遣欧使節がフランス皇帝ナポレオン3世夫妻に謁見した際の献上品、および帰国後に贈った答礼品と判明した。日本画は、幕末狩野派の奧絵師たちが描いた色彩豊かな花鳥画や山水画で、これらは東洋美術を好んだ皇妃ウージェニーに愛蔵された。当時、皇帝夫妻はチュイルリー宮殿に住んでいたが、パリ北方のフォンテーヌブロー宮殿に東洋美術の部屋を設けて飾られていた。昨年160年の眠りから醒め、その宮殿倉庫から世に出たのだ。

ホテル・デュ・パレの空撮全景
(同ホテル絵葉書より)
 テレビで、“意外な人物”と感じたのは、皇妃ウージェニーの旧蔵品とあったからだ。彼女は、スペイン貴族の出であるが、美貌で知られフランスの名門貴族との結婚を夢見た母親とともにパリの社交界にデビュー、亡命先から帰国して第二帝政の皇帝となったナポレオン3世から見事に射止められたのである。結婚後、皇妃は生れ故郷スペインに近いバスク地方にある海浜リゾート地ビアリッツに建ててもらった離宮“ヴッラ・ウージェニー”を好み、夏は毎年のように皇帝とここで過ごした。

優雅なロビーで寛ぐ斎藤夫妻
(前列中央)、その左は筆者。
 現在はフランスきっての高級リゾートホテル「ホテル・デュ・パレ」となっており、世界の貴顕に愛好されている。筆者などとても出入り出来るホテルではないが、1998年に旅行作家・谷澤由起子さんの御世話で、このホテルを経営するホテル・クリヨン・グループから招待いただき、斉藤茂太夫妻ともども訪れた。フランスが経済的に大繁栄した時代の離宮だっただけに、豪華なロビーも優雅な雰囲気だ。二階に向かう中央階段の踊り場で出会ったのが、皇帝夫妻の肖像画だ。皇妃は、評判通りの美貌であり、帰国後にフランス文学者・窪田般彌著『皇妃ウージェニー』の求め、その波瀾万丈の生涯と、当時の貴族たちの奔放な男女関係に驚かされた。
 ビアリッツは、美しい海岸の景観だけでなく、新鮮な魚貝類の鉄板焼きやバスク風の肉料理も美味しく、バスクの民族衣装など独自のデザインや風俗も楽しめた。西に向かい、橋一つわたれば、スペインのサンセバスチャンで検問もなく自由に往き来できた。新発見の日本美術が、このホテルを生んだ皇妃の愛蔵品だったとは、実に意外な思いだった。
幕末狩野派の掛軸は日本の至宝か

チュイルリー公園で遊ぶ小学生
遊びはコラン・マヤール。
 皇妃が住んだチュイルリー宮殿は、1871年のパリ・コミューンの戦火で焼失したが、今回発見された美術品は、フォンテーヌブロー宮殿で保管され助かったのだ。チュイルリー宮殿は、セーヌ川の岸辺、ルーブル美術館の西側にあったが、現在は広大なチュイルリー公園になり、市民の憩いの場だ。筆者もパリ出張の合間には、樹木の茂るこの公園のベンチに座って、散策する人々をぼんやり眺め、仕事疲れを癒やした。午後には、先生に引率された学童保育の小学生も現われる。ある日、この子どもたちが、日本の“回りの回りの小仏”同様の、目隠しをした鬼を囲んで歌いながら回り、歌い終わると”後の正面だーれ”と鬼に当てさせる遊びを始めたのに、驚かされた。聞くと、フランスでは盲目の勇者コランにちなんで“コラン・マヤール”と呼ばれる伝統的な遊びであった。

狩野房信の見事な
「佐野の渡図」
(NHK画面より)

狩野友信の「紅葉に青鳩図」
と、住吉弘貫の「山水画」
(NHK画面より)
 では、皇妃愛蔵の日本美術とは、どんな作品か。テレビで紹介された中で、まず目をひくのは狩野房信の屏風「佐野の渡図」であった。藤原定家の和歌に題材をとり、金雲を背景に雪中駒を進める平安貴族の優美な姿が鮮やかな色調でえがかれ、豪華で優美な作品だ。掛軸に移ると、住吉弘貫の「山水画」と、狩野友信の花鳥画「紅葉に青鳩図」がセットになっている。山水画は中国の伝統的な墨の濃淡で遠景・中景・近景に描き分けた山水画の構図によりながら、山肌や樹木を緑や紅葉色で彩色、はなやかな画面だ。本来山水画が持っていた、静寂に包まれた深山の禅宗的精神性の高い空間とは全く異なる。花鳥画は、18歳で奧絵師に上り詰めた友信の「紅葉に青鳩図」である。テレビで解説されていたように、この鳩も宋時代の風流皇帝と呼ばれた徽宋の名画で日本に招来された「桃鳩図」の鳩を、向きをかえ2羽にしてある。鳩の描法も色調もほぼなぞりながら、止まり木を落ち着いた白い桃の花から紅葉にかえ、鮮やかな色彩を付けてある。本来、青い鳩は皇帝の象徴であり、桃も長寿の仙果であり、それをふまえてナポレオン皇帝への献上品の題材に選んだのであろう。しかし、徽宋が描いた品格ある雰囲気は全く失われ、華やかなだけの画面になっている。

中国、徽宋帝の「桃鳩図」
(『世界美術史』木村重信
朝日新聞社より)
 テレビの解説者によると、幕府に仕えた狩野派の絵師は、中国絵画に学びながらも、独自の工夫を凝らしてきた。これらはその最後の到達点を示す作品で、「これまでの狩野派は伝統的な作品を模倣することに終始し、活力を失ったとする通説を打破する作品群で、幕末の狩野派の再評価につながる」と、絶賛していた。この友信は、維新後は東京美術学校の日本画教授を務めた人物だが、作品は余り残ってないという。
 筆者は日本美術の素人だが、テレビ画面からの印象を述べよう。屏風は狩野派初期の狩野永徳「檜図屏風」の、金雲を背景に画面からはみ出す巨大な檜を描き、圧倒的な迫力で武家時代到来を象徴する作品群とは異なる。しかし、日本の王朝文化の雅な雰囲気を見事に表現している。一方、掛軸は将軍からの献上品らしく金箔をふんだんに使い、高価な顔料で色鮮やかに仕上げてあるが、その画面からは斬新な表現が感じられず、心に迫るものがない。先人の粉本模写に偏り、活力が失われ、また表装も西洋の宮殿にはそぐわない。
評価が高い暁斎・絵金・芳崖
 それに引き替え、江戸時代に町民に好まれ、育てられた浮世絵師たちは、庶民が好んだ芝居役者や美人で評判の遊女・茶屋娘を、その生活空間とともに生き生きと描き、大人気を得た。独自の木版多色摺の技法を磨くとともに、次第に動植物や風景画にも画題を広げ、さらに西洋絵画の人体描法や遠近法も取り入れ、安価な庶民芸術を発達させた。フランス印象派の画家たちにも、大きな影響を与える。
 無論、狩野派を学んだ絵師たちにも、中国絵画や狩野派先人の模写に飽き足らず、改革を志す絵師も現われた。辻惟雄(東大名誉教授)編『幕末・明治の画家たち』(ぺりかん社)の冒頭で紹介された三人の絵師、河鍋暁斎・絵金・狩野芳崖は、いずれも狩野派に学んでいる。暁斎は最初に浮世絵師・歌川国芳につくが、やがて狩野洞白に師事し、伝統的な狩野派の技法を身に付ける。辻によれば「粗野でいきいきとした時代の庶民の感情」を忠実に記録、「外国人にもてはやされた」とのべ、表現の活力と人間くささを高く評価している。

赤岡絵金祭りのポスター
(部分、絵は「蘆屋道満大内鑑
葛の葉子別れ」)

絵金の白描を印刷したハンカチ
(部分、原画は吉川登志之所蔵)
 次の絵金は、文化9年に高知城下で生れ、江戸に出てやはり狩野洞白に入門する。帰郷後は土佐藩のお抱え絵師となるが、狩野派名家の名で“にせ絵”を描いたとして追放される。流浪の末に土佐に戻ると、絵師金蔵、通称“絵金”として各地の夏祭りに飾る芝居絵?風や絵馬提灯を描くが、泥絵具による迫真の圧倒的描写力で民衆の心を掴み、肉筆浮世絵師として大人気を得る。明治9年の没後、次第に忘れられ、中央では全く無名であったが、昭和43年に高知出身の廣末保法政大学教授たちが『絵金=幕末土佐の芝居絵』(未来社)を出版し、ようやく中央でもその存在が知られるようになった。高知県赤岡では、昭和52年以来“赤岡絵金祭り”が7月に開催される。夕闇のなかに各商家が軒先に所蔵の屏風をならべ、昔ながらの雰囲気で灯火にゆらめく歌舞伎の名場面を、筆者も二度楽しんだ。今に残る白描からも、絵金のデッサン力の確かさがうかがえる。
 狩野芳崖はフェノロサに学び、西洋絵画の技法と狩野派の伝統的表現の折衷による明治日本画の改革をめざし「悲母観音」などの名作を残した。辻は、「東西美術のはざまに見出した安らぎの空間−静謐な象徴空間」を、高く評価している。
 今回は、NHKが新発見「日本美術の至宝」の発掘調査を追い続け、見応えがあった。旧蔵者にも驚かされた。しかし、中国絵画に小手先の日本情緒を加え、きらびやかに飾り立てたに過ぎない作品への評価は、やや残念であった。
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−知られざるインドネシア“もう一つの孤島”−
巨大な木造“王の家”そびえ立つニアス島
中城正堯(30回) 2021.11.26

筆者近影
 バンダ諸島の香料をめぐる英蘭の凄まじい植民地争奪戦と日本人傭兵の姿を、竹本さんがよく掘り起こしてくれた。それで思い出したのが、同じインドネシアの西端、スマトラ島西北のインド洋に浮かぶ二アス島だ。熱帯雨林におおわれ、70万人が住む大きな島といえ、荒波が押し寄せ天然の良港もないため渡航困難で、1967年に訪ねた故木村重信(大阪大学教授・民族芸術学会会長)は、インドネシア海軍の掃海艇に便乗してやっと調査をしたと聞く。今は、港が整備され、小さな空港も出来ている。1991年に、食生態学者の西丸震哉などと念願の探訪が実現した。

二アス島の位置図。
インドネシアの西端にある。
 この絶海の孤島の魅力は、巨石文化や巨大な木造家屋“王の家”、さらに独自の装飾的な美術様式といった豊かな民族文化である。しかも、オーストリアの民族学者ハイネ・ゲルデンが論文「東南アジアにおける若干の部族美術の様式」で、「アッサムのナガ族、セレベス島のトラジャ族、スマトラ島沖の二アス族などには、家屋の形式、巨石記念物、さらに装飾的な浮彫りなどの美術様式まで、明確に類似性が見られる。古代に東南アジアからこの美術様式を持った民族が拡散、伝播したのでは」と、強調しているのである。現代の文化人類学では否定的だが、論文に付けられた写真では確かに類似しており、ぜひ現地を訪ねてみたくなったのだ。

大屋根・高床の王の家オモ・セプアの前で、槍と楯を手に踊る戦士。

王の家の前に置かれたテーブル状の巨石。王の業績を称えて造られた勲功記念物。王の家屋を支える巨大な床柱も見事だ。

テーブル状の巨石の浮彫り。人物が持つのは、嗜好品キンマ入れの袋と、砕く道具。
 このうちトラジャ族は1987年に、ナガ族は渡航直前にナガランドが入域禁止になったが、1992年に、近隣のナガ族の村までは訪ねた。その前年が二アス族であった。成田から、クアラルンプール、メダンと乗り継ぎ、やっと二アス島北部の空港に着いた。近くの二アス県都グヌン・シトリで一泊、翌朝マイクロバスで、熱帯雨林の悪路を走り続け、途中で巨石人物像も見学、王の家がある南部のパウォマタルオ村にたどり着いたのは、夕暮れ時だった。 

王の家の部屋に飾られたブタの顎骨と、オランダの軍艦を描いた浮彫り。

成人式の石飛び。 2メートルの石積み跳躍台を飛び越せないと、男として認められない。

王の家の軒先正面に飾られた守護神ラサラ。古代中国南部の聖獣「辟邪(へきじゃ)」と類似している。
 王の家の集落は、元は平野部にあったが、19世紀にオランダ軍に襲われて焼失した。しかし、山上に堅固な城塞集落を再建したのだ。密林を抜けて高い石段を登り切ると、巨大な王の家がそびえ立つ。高さ22メートルで奈良の大仏殿の半分だが、住居では世界最大の木造建築とされる。やがて、手に手に槍と楯を持った戦士が現われ、まるで古代都市に迷い込んだかのような幻覚に襲われる。実は、観光客歓迎の戦士の踊り一行だった。王の家の前には、テーブル状の巨石が並んでいる。亡き王たちの業績を称えて造り、修羅で運び上げた勲功祭宴の記念品だ。室内の壁面には、祭宴に供されたブタの顎骨が飾られ、板壁には大砲を備えたオランダ艦船と、海中の怪魚やオオトカゲが浮彫りされている。島の住民はかつて貴族・平民・奴隷に別れていたとも聞くが、王の権力ぶりがうかがえる。

守護神ラサラは、村の入口の
石造階段にも刻まれている。
背後には、戦士の槍と楯。

村はずれの貴族の土葬新墓にも、
ラサラ像を祀ってあった。
 二アス島は交通が整備されて近代化が進むと、荒海の海岸がサーフィンの名所になり、観光客も増加、島民も急増した。かつての天上神・地下神にかわって、キリスト教なども次第に普及している。民家を訪ねるなかで、バスコントロール指導員の婦人にも出会った。政府の方針で、避妊具の普及による人口抑制に取り組んでいるという。
 では、島の魅力的な建築文化・巨石文化・浮き彫りといった伝統的な美術様式や、魔除けのシンボルなどを見ていただこう。バンダ諸島では、旅の半ばで初めての痛風を発病、右足の指に激痛が走って満足に歩けず、取材・撮影も途中であきらめたが、二アス島ではなんとかその見事な民族文化に迫ることが出来た。

敷石の広場に立つ正装の女性。背後の左右に、大屋根・高床の木造家屋が整然と並ぶ。屋根は、ヤシの葉で葺いてある。

広場は儀礼の場であり、農作物加工の作業場、そして子どもの遊び場でもある。女の子が騎馬戦のような遊びをしていた。

ハイネゲルデンが同一の美術様式というトラジャ族の舟形住居。屋根の前後は船の舳先を模ったとされる。正面は水牛と鳥の頭部が守護し、朱色と白黒の幾何模様で装飾されていた。(写真は全て筆者撮影)

<参考文献>
『東南アジア・太平洋の美術』R・ハイネゲルデン、M・バードナー著 弘文堂 1878年
『巨石人像を追って』木村重信著 日本放送協会 1986年
『民族探検の旅 第2集東南アジア』梅棹忠夫監修  学習研究社 1977年
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お龍さんの実像に写真と史料で迫る
―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か―    
中城正堯(30回) 2021.12.15

お龍の墓にお参りする筆者。
横須賀市信楽寺で。
 龍馬人気と安易なテレビ番組
 坂本龍馬も、その妻“おりょう”(お龍、お良)も、相変わらずテレビの人気者で、よく取り上げられる。先月(2021年11月)も、4日にNHK BSP 「ザ・プロファイラー」が「坂本龍馬の妻 お龍」をその流転の日々中心に「おもしろき女」として取り上げ、11日にBS11イレブン「偉人 素顔の履歴書」が「幕末を駆け抜けたヒーロー 坂本龍馬」を、その思想形成を軸に紹介していた。しかし、その内容は相変わらずで、ともに重要な視点を見落とし、また新史料の発掘活用も見られなかった。
 ここでは、まずNHK「坂本龍馬の妻 お龍」の問題点を指摘しておきたい。この番組は、タイトルのみならず内容も、鈴木かほる著『史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍』(新人物往来社 2007年)をほぼなぞったものだった。しかし、高知県和食村(わじき・現芸西村)千屋家や、横浜市の料亭田中家の時代にはあまり触れてなく、見るべき新史料もなかった。
 確かに鈴木のこの本は史料をよく調査し、執筆・収集してある。しかし、NHKはこの旧著に寄りかかりすぎで、その検証や追加取材への意欲が感じられない。特にお龍の写真が問題で、相変わらず芸妓風の媚びを売るような写真を、異論があると断わりながらも、再三大きく登場させていた。鈴木自身が著書でこの写真に触れ、東京浅草・内田九一堂写真館の撮影であるが、京都国立博物館博・宮川禎一などの研究からも、真影とはほど遠いと述べている。まともな図書・番組では使わない写真である。
お龍さんの面影伝える二枚の写真
 では、真実のお龍を伝える写真を二枚紹介しよう。まず、鈴木が著書に「たった一枚の真影」として掲載した晩年64歳の写真である。明治27年『東京二六新聞』の連載記事「阪本龍馬未亡人龍子」の第一回に添えられたもので、だれもが晩年のお龍と認めている。なお、この記事や横須賀市大津・信楽寺にある「阪本龍馬之妻龍子之墓」でも、「坂本」「阪本」は、混用されてきた。この墓石は、お龍(長女)の妹・起美(三女)が皇后からの龍馬への下賜金で大正3年に立てたが、背後には土佐出身の宮内大臣・田中光顕の働きがあった。
 もう一枚は、龍馬と死別後にお龍が土佐・京都・東京を経て一時仲居として働いていた横浜駅に近い旧神奈川宿・料亭田中家時代の写真だ。しかし、なぜかこの写真はほとんど知られていない。筆者は、漫画『坂本龍馬』の作者・黒鉄ヒロシ(41回生)さんから数年前にコピーをいただいた。最近、田中家五代目の女将平塚あけみさんに確認の電話をすると、こう説明してくれた。
 「この写真は、田中家にお龍さんがいた明治7年、大森海岸に従業員旅行で行った際に撮ったものです。お龍さんは、うちの制服は着ないでこんな着物で通し、目立つ存在でした。うちの仲居時代の写真に間違いありません」

お龍の真影。明治27年、64歳、東京二六新聞掲載。『坂本龍馬全集』より。

横浜の料亭田中家に埋もれていた写真。明治7年、44歳、田中家蔵。

若き日のお龍とされてきた“ニセ写真”。明治6〜8年頃、東京内田九一堂撮影。
 この女将は、歌川広重の浮世絵「東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」に描かれた茶屋のなかで唯一今に続く料亭田中家に生れ、祖父・晝間富長、父・孝之から、その由来を聞いて育ち、あとを継いだのだ。広重の絵に描かれた旅籠の奧から3番目「さくらや」が後の田中家で、明治期以降の変革期を生き残れたのはお龍さんのお陰と、こう続けてくれた。

「東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」歌川広重画
天保4年 川崎・砂子の里美術館蔵 『横浜錦絵 図録』より。
 「明治初期に料亭となった田中家を支えた恩人が、お龍さんだと伝わっています。彼女は龍馬とともに長崎でグラバーなどと接し、英語も多少話せたようです。物怖じしない女性でもあったので、横浜居留地の外国人接待に活躍、龍馬の仲間で明治政府の要職に就いた人たちもよく訪ねてくれました。お龍さんは<龍馬の志を実現するために、いずれアメリカに渡りたい>という夢を持ち、英語を覚えようとしたようです」
 この仲居時代に、かつて京都の寺田屋の泊まり客で、旧知の西村松兵衛と再会、やがて妹光枝(次女)・海軍兵曹中沢助蔵夫妻が住む神奈川県三浦郡大津村(現横須賀市大津町)で同居する。明治8年7月に西村に入籍し、西村鶴(ツル)となって三浦郡豊島村に住み、再婚後も横浜田中家での仲居はしばらく続けたという。これらの経緯は、神奈川新聞刊『よみがえる老舗料亭田中家』に記されている。鈴木の著書にも、「神奈川の料亭」として、田中家での仲居時代が紹介されているが、文献からの記述のみで、仲居時代の写真には全く触れてない。NHKでも肖像写真取材の努力をせず、ニセ写真ですませている。
 なお、鈴木からはこの著書出版前に取材依頼があった。当時、筆者は大病で一月半の入院生活を経てやっと退院したばかりで、とても史料を準備して対応出来る状態ではなかった。お龍と筆者の祖母・中城仲の交流を説明出来ず、残念だった。
お龍の武勇伝ばかり紹介
 写真に続いて番組で気になったのは、お龍の人物像のとらえ方である。相変わらず、お龍の母がだまされて妹二人が遊郭などへ売り飛ばされようとした際、金を工面したお龍が単身乗り込んで男たちから妹を救った武勇伝。さらに寺田屋で入浴中に、伏見奉行配下の襲来を察知、袷一枚引っかけただけで階段を駆け上って龍馬の命を危機一髪で救った寺田屋事件。その後、西郷の世話による傷治療を兼ねた薩摩への新婚旅行で、神話にもとづく「天の逆鉾」を引っこ抜いて笑い飛ばしたエピソード。そして、ピストルを好んだことなどから、相変わらず“無鉄砲な女”の印象ばかりを強調している。
 龍馬は、乙女への手紙で「まことにおもしろい女」と紹介、思うまま自由に発言・行動する個性的なお龍の人間性に惹かれたのであろう。だが、裁縫、料理などは得意でなく、良妻賢母・夫唱婦随を理想とする海援隊の若者はじめ龍馬の同志たちからも理解されず、“生意気な女”として嫌われたと伝わる。同志だった佐々木高行は、維新後に侯爵になったが、回顧談に「龍馬夫人は美人で有名だが、賢夫人かどうか知らない。善悪ともに為しかねないようだ」と記している。当時の男性の、一般的な女性観からの発言である。だが、現在も女性活動家へのこのような視線は、まだまだ残っているようだ。
 番組では自由な発言と行動をするお龍を、もっぱら“生意気な女”としてとらえ、時代に先駆けた近代的女性としての存在にはほとんど触れてない。お龍の優しさや近代的な女性ぶりは、龍馬亡き後の高知在住時代でも、横浜の料亭田中家時代でも発揮され、鮮烈な記憶が残されているが取り上げてない。
 お龍は龍馬の遺言で身を寄せた坂本家と不仲になり、実妹・起美のいた和食村の千屋家(起美の夫・菅野覚兵衛の実家)に転居する。その原因を、坂本家一族の弘松宣枝は著書『坂本龍馬』(明治29年 民友社)で、「彼の女、放恣にして土佐を出て、身を淫猥に沈む。乙女怒て彼の女を離姻す」と断じ、この説が広まる。しかし、全く別の思い出話も残っている。まず坂本家での様子を、龍馬の姉・乙女の長女・岡上菊枝は、幼い頃「母(乙女)はお龍さんが来ると、得意の一絃琴を教え・・・、お龍さんもとても優しい人で、母には姉さん姉さんとしきりに親しみ、うやまっていました」(貴司山治「妻お龍その後」『歴史読本』昭和42年1月号)。お龍自身も、「姉さんは親切にしてくれました。土佐を出るとき、船まで見送ってくれました」(「千里駒後日談」川田雪山聞書『土陽新聞』明治32年)と述べている。
洋書を抱える「高知城下のお龍」

「高知城下のお龍」藤原信一画
 『土陽新聞』明治16年8月30日高知県立図書館蔵。
 岡上菊枝は、医師・岡上新甫と離婚した母・乙女とともに坂本家にもどり、離れに住んでいた。だが、お龍に会ったのはまだ3歳のときであり、回りの女性からのその後の伝聞もまじえての回想と思われる。ただ、学識・体格とも勝れ“お仁王さま”と呼ばれた乙女をはじめ、お龍と接した女性は、多くが良い印象を持っており、坂本家の男性が男勝りの乙女もお龍も好まなかったのと好対照である。菊枝は、後に高知で初めての孤児院を運営、娘の岡上千代も祖母・乙女を尊敬、日本女子大を出てナザレ修道院に入り、国際的にも福祉家として活躍した。
 高知時代のお龍の写真は見当たらないが、そのモダンな風貌を見事に描いた新聞連載「汗血千里駒」の挿絵が残されている。「高知城下のお龍」(藤原信一画『土陽新聞』明治16年8月30日)で、右手に洋傘、左手に洋書、腰にピストル、面立ちのきりっとした知的女性である。背後には、高知城天守もそびえている。この洋書だけは、お龍に似合わないと思っていたが、田中家・平塚女将の「英語もはなせた」をお聞きして納得した。高知でも、龍馬にもらった英会話入門書を持っていたのではないだろうか。龍馬と海援隊士はいち早く英語の習得に取り組み、『和英通韻伊呂波便覧』の編纂にも着手、龍馬亡き後の慶応4年に土佐海援隊蔵版で刊行される。さらに、明治2年には『いろは丸沈没事件』で紀州藩から得た賠償金を使い、海援隊幹部だった菅野覚兵衛は新妻を置いて、白峰駿馬とアメリカに留学する。ニュージャージー州立ラトガース大学で造船学を学ぶが、この留学にお龍を加え、龍馬との渡米という夢の一端を実現させてやりたかった。

海援隊蔵版『和英通韻伊呂波便覧』(複刻版)と、
留学中の菅野(『ある海援隊士の生涯』口絵)。筆者蔵。
 高知のお龍にもどろう。千屋家の娘・仲は、龍馬の兄に嫌われて妹・起美の夫・菅野覚兵衛の実家千屋家に来たお龍に遊んでももらった12歳頃の思い出を、こう語っている。「毎日のように山をかけずり回っては、龍馬にもらった短銃で雀を打つのを楽しんでいた。土佐を去るとき、龍馬からの手紙は人に見せたくないと言って焼き捨てた。大阪行きの汽船まで見送った際には、身に付けていた龍馬にもらった帯留をはずして、あなたにあげると言って渡してくれた。あんな良い人は、またとない」(「土佐にいたお龍さん・・・」高知新聞 昭和16年5月25日 岡林亀記者)。千屋仲は、龍馬最後の帰郷で潜伏した種崎・中城家の次男・直顕の妻となり、筆者の祖母だ。この帯留は、当家の女性に代々受け継がれている。

中城仲が、お龍からもらった帯留。留具は龍馬の刀の目貫から。NHK『龍馬伝』図録より。
 土佐を離れ、京都を経て東京に来たお龍は、東京にいた坂本家の継嗣なども訪ねるが、出入りを断わられる。最後の頼りだった西郷隆盛に面会できた明治6年10月は、政府を離れた西郷が薩摩に帰る直前だった。「きっと御世話するから」の励ましと、当座のお金をもらったのが最後となった。明治7年、お龍は横浜の料亭田中家で仲居として働くことになる。しかし、この仲居時代はあまり調査検証されてなく、今度のNHKの番組でも、高知和食の千屋家時代とともに紹介されないままだ。
お龍の近代性に気付かぬマスコミ

千屋家に来た菅野起美
(お龍の妹)高知市民図書館
『中城文庫』蔵。

「坂本龍馬役者絵」明治20年高知座上演
高知城歴史博物館蔵(筆者より寄贈)。
 龍馬の人物像は明治以降も時代の風潮に応じて、自由民権運動の先駆者として民権芝居で主役、日露戦争中皇后の霊夢に現われた皇国守護神、土佐の若者に尊敬され巨大銅像建設、戦後日本再建の理想的リーダー・・・と次々に変貌、新しい役割を担ってきた。ところがお龍は、いつの時代も“常識のない生意気な女”としての虚像がふくらむばかりで、自己主張ができる近代的な女性としての一面に、マスコミはいつまでも目を向けない。
 お龍に直接接した高知坂本家や千屋家の女性の証言には注目せず、当時の封建的な男尊女卑の未亡人観を、いまだに脱皮できないのだ。龍馬暗殺を下関にいて知ったお龍へ、長府毛利家は扶助米を支給したが、土佐では坂本家への士族家禄だった。明治4年、明治政府太政官から高知県宛に、

明治4年、政府太政官より小野淳輔を
坂本家継嗣とする通達の書き出し。『中城文庫』蔵。
小野淳輔(龍馬の長姉の長男)を坂本家の継嗣とする特旨(「中城文庫」蔵)が出る。24年には正四位も追贈されるが、その恩恵を受け取るのは坂本家を継いだ男で、お龍には何の沙汰もなく、坂本家の男には邪魔者扱いをされたのだ。
 三浦夏樹・高知県立龍馬記念館学芸担当は、坂本家の当主権平(龍馬の兄)の立場を、「土佐では天保期に奉行所が出した通達に、結婚は身分の低い者でも双方の親が納得した縁組みで、庄屋に届け出がないと認めないとの項目があった。権平は、当人同士で決めて乙女に知らせただけの、この型破りな結婚を認めたくなかったのでは」と、述べている。

武市半平太の妻・冨、88歳。
大正6年逝去の3ヶ月前。『中城文庫』蔵。
 当時、後家になった女性は、夫の家に留まるか、実家に帰るか、再婚かであった。しかし江戸では、文化期には「後家の一人くらしは御法度の由承る。然るに近来は素人の町家、後家の方くらし能と見えて、多く町々にあり。女筆指南も多し」と、随筆『飛鳥川』(柴村盛方)にある。土佐では明治になっても一人暮らしは困難で、武市半平太の妻・冨も子がなく、弟が継ぐ実家に帰って惨めな暮らしをしていた。明治38年に田中光顕宮内大臣が帰高、冨の消息を尋ねたが知事も警察署長も知らず、「けしからん」としかられ、やっと探し出した。田中は東京に招いて手厚くもてなし、皇后にも拝謁する。その後、継嗣半太(医師)の住む檮原町で幸せな晩年を過ごす。その様子は、武市盾夫(18回生・中大教授)が「武市千賀覚書」に書き残し、晩年の穏やかな中にも凜とした表情の写真が残っている。冨・千賀は盾夫の祖母・母に当る。お龍の墓石建立と同様に、田中光顕の女性への配慮がここでも目立つ。詳細は、安岡憲彦「武市瑞山顕彰問題」(『大平山』41号)にある。
 明治の伝記作者は男性ばかりで、女性からの目で見た記録はほとんど伝わらない。その習わしが、現在の研究者・作家にも残存している。田中家の女将が、「お龍は当家の恩人。この写真がお龍本人」と言っても、証拠がないとして取り上げられない。貴重な史料が、調査も評価もされずに埋もれたままだ。幕末・明治の先駆的女性が自己主張をしながら、生きていくのは大変困難だった。現在それらの女性の生き方を実証するのにも、同様な困難が続いている。これが、最後の帰高で潜伏した龍馬を世話した女性や、お龍に遊んでもらった女性が語り継ぐ、龍馬・お龍の姿を聞いて育った筆者の実感である。

慶應3年9月、龍馬が最後の帰郷で潜伏した中城家
「離れ」座敷。筆者撮影。
 NHKなどマスコミの姿勢も問題だ。例えば、人気芸能人・タレントの先祖を追いかける「ファミリーヒストリー」では、見事な取材力を発揮して丹念に史料を掘り起こす。その仕事ぶりは、デザイナー山本寛斎の回に引っ張り出されてこれまた実感した。しかし、肝心の歴史番組や教養番組では、時折首をかしげる場面も多い。例えば寺子屋の場面は、ドラマも含めて机の配置が現在の学校と同じで、全て教壇を向いている。個人別自学自習の寺子屋では、こんな配置は皆無だったことが、教育史の研究者によって実証されている。
 田中家でいえば、幕末からの横浜発展とともに歴史を刻んできた史跡であり、神奈川県立歴史博物館や、地元研究機関、マスコミが協力して、きちんと調査すべきであろう。
<参考文献>
 宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』光風社出版 増補三訂版 1980年
 佐藤寿良『ある海援隊士の生涯』−菅野覚兵衛− 私家版 1984年
 鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍』新人物往来社 2007年
 中城正堯『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』高知新聞総合印刷 2017年
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―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か―を拝読して
お龍さんが近づいてきました
冨田八千代(36回) 2021.12.25

筆者近影
*自分の気持ちを大事にしたお龍さん
 この論考では、お龍さんについて女性の証言を取り上げています。研究者とか為政者ではなく、お龍さんと生活を共にしたことがある人やその人から聞いた話です。

「中城仲(直顕の妻、和食でお龍に
遊んでもらった少女の結婚後)
 龍馬の姉乙女の長女 岡上菊枝 ・千屋家の娘 仲さん(のちに中城仲さん。中城正堯さんの祖母)・田中家5代目女将 平塚あけみさん(中城さんが独自に取材)
 これらのお話からは、生身の人間のお龍さん像が窺えて、だんだん程遠い特殊な人物ではなくなってきました。親近感がわいてきました。一番惹かれたのは、田中屋の仲居として制服を着なかったというお話とその写真です。この着物が好きで着ていたかった、私にはこの方が似合うというおしゃれ心かもしれません。もしかしたら、龍馬との思い出の詰まった品かもしれないと、勝手な想像を広げたくなります。制服云々よりもこの着物を着たかった気持ちのままに行動したのではないでしょうか。当時、その理由を女将に話し、許してもらったのでしょう。田中家代々の方がとても好意的にお龍さんをみていますから。写真姿も普通の女性です。ぐんと、お龍さんを身近に感じました。ふっと、母を思い出しもしました。これは、間違いなくお龍さんだと言えます。並んだ64歳の時のお龍さんとそっくりです。
 仲居時代に英語が話せた、英語の勉強をしていたとは、自分の学びたい気持ちを大事にしていて自主的です。留学の夢も持っていたとか。自立心を持っています。そして、土佐を離れるぎりぎりの時に12歳の少女仲さんに帯留を贈ったことには感激しました。帯留はただの帯留ではなく、留め具は龍馬の刀の目貫からの物です。夫との大切な思い出の品です。家ではなく、港であげています。それまで、あげることを迷っていたのか、少しでも長くわが身に付けていたかったのでしょうか。贈った相手は、千屋家でいっしょに暮していた実妹(起美、管野覚兵衛の妻、千屋家は覚兵衛の実家)ではなく仲さんです。仲さんに自分の万感を託したのではないでしょうか。大人になったら一人の人間として自分の意思を大事にして、妻として平穏な結婚生活を長く続けて、母親として子育てもしっかりして……とか。仲さんは、お龍さんにとって信頼できる少女だったのでしょう。
*お龍さんにとってもキーパーソンの中城さん

『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』
(中城正堯著 2017年発行)
 『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』(中城正堯著 2017年発行 販売元高知新聞総合印刷)の「第一章 土佐の坂本龍馬・お龍」(p13〜103)を再読することにしました。お龍さんへの特殊という固定した捉え方から、印象が薄かったからです。むしろ、夫としての龍馬が印象に残っています。当時は男尊女卑の家父長制の世の中にもかかわらず、龍馬はお龍さんに押しつけがましい態度をとらず優しく、女性に対する男性の在り方も「海援隊約規」に明文化しています。中城さんの論考の表題を借りるなら、夫として近代男性の先駆けと言えそうです。
 さて、本を手にしました。第一章では1枚だけ54ページに付箋が入っていました。自分がしたことなのに全く忘れていました。その付箋には「仲さん 良い人」とメモ。このページの文章<わずかに土佐の千屋家の少女が「あんな良い人はいない」との想いを抱き続けたことは、なにより幸いであっただろう。>と記されていることへのほっとした気持ちとこの少女が中城仲さんだよという確かめの付箋でした。「抱き続けた」があらたな感慨です。

「中城家離れで龍馬を世話した
中城直楯(直顕の兄)・早苗夫妻の晩年」
 この章は冒頭、「龍馬最後の帰郷と種崎潜伏」の項で、中城直守が慶応3(1867)年、<「九月二十五日早朝、車輪船沖遠く来たり。而して碇を下ろす。午時(正午)、衵渡合に入る。而して碇泊。芸州船の由」>(「随筆」直守・手稿)で始まります。その長男直楯が小舟を漕ぎよせ、ひそかに龍馬一行を中城家の離れに案内しています。これは、「寺田屋事件後に新婚旅行」の項の33ページ<お龍のもとに龍馬が現われたのは九月二十日のこと、倒幕への風雲急を告げる中、二日後にはお龍との別れを惜しみつつも、慌ただしく土佐へ向かって出向する。>につながっていることを今回読み取ることができました。この船を直守が早朝に見つけているのです。坂本龍馬とお龍さんの二人にとってはそんな時だったのかと気づきました。感じ入りました。「随文随録」(中城直正・手稿。直正は直楯の長男)に、(裏の離れに)「母火鉢をもち行きしに<誠に図らずもお世話になります>と言えり」(19ページ)と書かれています。この時、早苗さんは22歳でお龍さんは27歳です。若い早苗さんに礼を言いながら、心では妻お龍さんを偲んでいたことでしょう。今まで、この潜伏中のできごとにお龍さんを登場させることはできませんでしたが、お龍さんは龍馬と共に居るという気がしてきました。
 このようにお龍さんが近づいてきたのは、今まで埋もれていた証言をとりあげられたからです。お龍さんに寄り添っています。今までの評伝はお龍さんと離れた立ち位置からの事が多いと受けとめています。田中家五代目の女将平塚あけみさんに確認をされ地道に実像に迫られる態度は研究者やマスコミ関係者が見習うべきことです。その上に、今回の論考は中城家の中城さんの実感であり取材だからいっそう重みがあります。お龍さんにとっても中城さんはキーパーソンです。今後もいっそうお龍さんを近づけていただけることを期待します。
 それから、仲さんも近代女性の先駆けの一人ではないでしょうか。
 テレビ番組で回答を挙手させる場面があります。それなら、「お龍さんは近代女性の先駆け」に、ためらわずに手をあげます。
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続「お龍さんの実像に写真と史料で迫る」
―写真と挿絵が語りかけるもの―            
中城正堯(30回) 2022.02.22

お龍の墓にお参りする筆者。
横須賀市信楽寺で。
 坂本龍馬の妻“おりょう”(お龍、お良)の人物像につき、昨年12月に問題提起をさせていただいた。従来は、幕末の武士や海援隊士など主に土佐の男性からの“生意気な女”との印象のみ伝わり、お龍とくらした土佐の女性による「自己主張と行動力を備えたいわば“近代女性の先駆け”」との評価が、忘れられていることに気付いたからだ。その際、明治になってのお龍の挿絵(高知坂本家滞在時代)と写真(横浜での仲居時代)とともに、当時お龍に接した女性や関係者が語るお龍像を紹介した。幸い、皆様から「お龍観がかわった」との反響をいただき、さらに調査を進めてきた。これは、その中間報告である。
ひときわ目立つ凜とした容姿
 まず、前回紹介した横浜の料亭田中家時代の人物写真につき、平塚あけみ女将にその写真全景の提供を受け、内容についてもいくつかお尋ねして回答を得た。その写真からご覧いただきたい。

1.田中家の従業員集合写真
 予想以上に大勢の集合写真で、数えると110人を超える。明治初期のこの様な写真は、お雇い外国人「ボードウィンの送別会」(東京・小石川薬園 明治3年)など、数点しか見かけない。撮影者・写真館とも記載はないが、長時間露光にもかかわらずブレが少なく鮮明だ。幕末から横浜で開業していた下岡蓮杖一門の撮影とも推測される。お龍晩年に唯一の真影とされる写真を撮影した内田九一も、横浜から浅草に進出した写真師だ。三本の巨大な幟が目をひき、中央の幟には「大森海岸」、右の幟には「田中家」の文字が読み取れ、前列の男性が被った手拭いにも「田中」の文字が見える。芸妓・仲居・女中・料理人、それに子どももおり、従業員にその家族まで参加しているようだ。女将のいう「大森海岸へ従業員旅行に行った際の記念写真」に間違いない。

2.集合写真のお龍
 問題は撮影年代と、中央右寄りの前列に立つ人物を「お龍」とする根拠である。女将によれば、「この写真はわが家の蔵で保存されてきた。撮影年代は明治6、7(1873、4)年頃と伝えられている。また、従業員はみな“襟かけ”をつけているが、お龍はいやがって付けなかったといわれており、分かる」と説明する。お龍が34歳になった明治7年頃に田中家で働いていたことは、いくつかの証言がある。特に鈴木漁龍の語った「回漕業で景気のよかった西村松兵衛が行く神奈川の茶屋(田中家)に、ひときわ秀れて美しい女中がおった。大柄な色白の姐御肌のいくらでも酒を飲む女で、意気投合して結婚」(実はお龍と西村は京都寺田屋で出会い、旧知だった)との話は、漁龍がお龍の墓碑建立賛助人の一人だけに捨て難いと、鈴木かほる(『史料が語る坂本龍馬の妻 お龍』著者)も述べている。確かに、集合写真のお龍とされる人物も、大柄で凜とした容姿であり、ひときわ目立つ。さらに、唯一の真影とされる64歳の顔と比較しても、骨格や容貌が類似している。
 では、この写真が明治7年頃の撮影と推定できるだろうか。人物の風俗に注目すると、男性はすでにすべて総髪かザンギリ頭である。ハンティングなど帽子姿も目立つ。明治4年に断髪令が出され、明治6年に天皇も断髪、一気にチョンマゲは消え、髷のない頭を寂しがって帽子を被る人が増えたという。さらに明るい色調の日傘“パラソル”も見える。幕末から英国商人によって洋傘の輸入が始まっているものの貴重品で、国産洋傘が誕生し、庶民にも普及し始めるのは明治16年鹿鳴館時代になってからだ。写真が明治7年撮影とすると、この持ち主は田中家の女将かお龍くらいだろう。明治7年頃に、100人もの従業員を抱える大旅館兼料亭になっていたのかや、幟の文字のさらなる解読も必要だ。
 この大団体を受入れた施設は大森海岸のどこで、名称は何というかも確認したい。大森海岸がよく知られるのは、明治10年のモースによる大森貝塚発見だ。今後、品川区立品川歴史博物館はじめ、現地での調査も欠かせない。なお品川は、龍馬が剣術修業のため初めて江戸に出た際、黒船来航で品川台場建設に動員され、黒船に目覚めた土地である。
「田中家」繁昌支えたお龍の英語

3.『金川砂子』に描かれた「さくらや」
 横浜市歴史博物館の企画展『東海道と神奈川宿』図録を開くと、江戸後期の『江戸名所図会』の「神奈川台」、及び文政7(1824)年の『金川(神奈川)砂子』という2冊の地誌に、「さくらや」が大きく描かれている。神奈川宿台町の茶屋街でも、「さくらや」のみが2階建てで、ひときわ大きく賑やかだ。後者の色摺り絵図をご覧に入れよう。
 神奈川宿が明治になって変貌する様子は、前回紹介した歌川広重「東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」と、ほぼ同じアングルで描いた歌川国輝二代「神奈川蒸気車鉄道之全図」(部分 明治3年 川崎・砂子の里資料館蔵)にある。新橋からの鉄道が出来るのは明治5年だが、錦絵ではすでに走っている。この頃、神奈川宿の海辺でも埋め立てが始まる。ペリー上陸で知られる横浜村の浜辺では、安政5(1858)年の日米修好通商条約によって埋め立てによる居留地建設が始まっていた。幕末に「さくらや」は高島嘉右衛門(高島易断の創始者)が買い取り、旅籠「下田屋」になっていたが、それを晝間弥兵衛が買い受け、旅籠料理屋「田中家」となる。幕末から明治にかけて、この旅籠には江戸へ向かう西郷隆盛・高杉晋作・伊藤博文なども立ち寄ったとされる。

4.「神奈川蒸気車鉄道之全図」部分

5.「増補再刻御開港横浜之全図」部分
左上部:横浜居留地、右:岬のあたりが神奈川宿
 慶応4(1868)年には、横浜居留地の馬車道と神奈川宿も、馬車の道で結ばれる。明治5年には、日本初の鉄道も新橋−横浜(現桜木町駅)間に開通する。田中家は、開港場を訪れる政府高官・役人・商人・外国人によって賑わう。特に近くにあったアメリカ領事館の人たちがよく利用、やがて田中家で仲居となったお龍は、物怖じすることなく外国人にも接する。晝間家には、「お龍は英語で外人接待に活躍した恩人」との話が伝わる。
 その後も、田中家は貿易港横浜とともに発展を続ける。特に明治29年に二代目当主となった晝間駒之助による和洋折衷料理や椅子席・英会話などが好評で、大正7年刊『横浜社会辞彙』には、料亭として唯一「田中家 青木町にあり名古家・丁子家と鼎立せる著名なる料理店にして、粋人間に知らるる主人(二代女将)を晝間ヌイ子という」とある。田中家の地名は、神奈川宿から横浜市神奈川区青木町、さらに同区台町となる。幕末以来の埋め立てで、周辺の山が削除され、地形・眺望も変貌するなか、関東大震災も乗り越え、昭和初期には3階建ての壮大な料亭に改築する。ただ、明治初期の従業員数は不明だ。
 神奈川宿周辺が開港で横浜に大変貌する様子は、明治の横浜浮世絵に詳細に描かれている。その一つ「増補再刻御開港横浜之全図」(歌川貞秀 慶応2年)の、画面右は東海道神奈川宿(半島のあたり)、左上部は埋立て地にできた横浜居留地である。
洋書を持つお龍を読み解く

6.挿絵「高知城下のお龍」
 写真・浮世絵に続き、龍馬を主人公とする最初の小説『汗血千里駒』(明治16年「土陽新聞」)の挿絵「高知城下のお龍」を確認しよう。これを詳細に検討した京都国立博物館・宮川禎一氏は、「“お龍と本とピストル”」(『坂本龍馬からの手紙』)で、こう記す。
「・・・お龍はロンドン製の(なんと傘骨の中心部にローマ字でそう記されています)のパラソルをさしています。長崎で龍馬に買ってもらったものでしょうか。・・・袴の紐にはピストルを挿して、左手には洋書を抱えています」。
 そして、龍馬の死を聞いたお龍は髪を自ら切ったが、その事情を知らないまま絵師は短髪で表現しており、これは高知の人々が鮮明に記憶していた姿で、絵の信頼性の高さを示すとする。なぜ洋書を抱えているかは、龍馬が乙女・おやべ宛の手紙で、「妻には時間があるようなら[本を読め]ともうしきかせています」とあることから、「左手の洋書は龍馬のいいつけを守っていると言うことなのでしょうか」と、推測している。
 お龍の持つパラソルの中心部を確認すると、逆さ文字になっているが確かに〈LONDON〉の文字が読み取れる。パラソルは、田中家の集合写真にも登場しており、不思議な繋がりだ。龍馬は、慶応3年に最後の帰郷をした際には、川島家・中城家の女性に、〈PARIS〉の文字が入ったコンパクトを土産に渡しており、現物は見当たらないものの図面が『村のことども』(三里尋常高等小学校 昭和7年)に掲載してある。龍馬は世話になった女性に珍しい舶来品を贈っており、妻にはパラソルも与えたのだろう。左手で抱えた英国上製本の洋書も、腰のピストル(龍馬旧蔵品でスミス&ウエッソン製)も精密に描写してある。

7.龍馬土産のコンパクト

8.龍馬旧蔵のピストル(複製)
 明治元(1868)年高知に来たお龍を描いたこの挿絵を、宮川氏は「彼女の姿を高知の人々が鮮明に記憶していたのでしょう。その印象を15年後に挿絵画家である藤原信一に語って描かせたもの」と記している。だが、それだけでなく、画家はパラソル・ピストル・洋書ともに、きちんと同類の実物をスケッチした上で仕上げたと思われる。
 さらに、龍馬・お龍夫妻がともにこれらの英国製舶来品や英語に親しんだのは、おもに慶応2年6月から翌年2月までの8ヶ月間、長崎の豪商・小曽根英四郎宅に身を寄せた際と思われる。当時、龍馬は亀山社中を土佐藩の海援隊に発展させ、小曽根家にその事務所をおき、グラバーやオールトなどの英国貿易商と頻繁に交渉、船舶や武器の購入に当っていた。このため英語は欠かせず、「海援隊約規」5カ条の一つに隊員の修業すべき科目として「政法、火技、航海、汽機、語学」をあげてある。語学は、オランダ語でなく英語であり、そのために前回紹介した英語入門書『和英通韻伊呂波便覧』の編纂にも着手していた。
 この長崎時代に、お龍は中国楽器の月琴を教わり、後に田中家でも客に披露して喜ばれたという。仲居名はツルを名乗ったが、これはグラバー夫人ツルから取ったという。おそらく、長崎時代に英語もある程度学び、龍馬とともに外国人に接することもあったと思われる。長崎での経験が、後に田中家での外国人接遇にも生きたのであろう。
 なお、幕末維新期の高知は、米国帰りのジョン万次郎やフランス帰りの中江兆民のみならず、五台山吸江病院に招いた西洋人医師や帰国留学生などの活躍、立志学舎の設立もあって、自由民権思想のみならず洋学や英語教育でも先進県の一つであった。
お龍の人物像探求のさらなる課題

9.坂本龍馬と海援隊士、中央龍馬、一人置いて右へ菅野・白峰
 今回は、田中家の証言を検証すべく写真・錦絵、・挿絵など、主に絵画史料から検討してきた。さらなる検証には、文献の渉猟検証とともに人物写真の鑑定ができる鑑識員や、維新史・地方史・風俗史など各分野の専門家による調査鑑定が必要である。お龍は、近代女性のさきがけとしての要素を持っており、ぜひ解明すべき人物との思いを強くしている。
 振り返れば江戸時代、女性には「三従の教え」(家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫亡き後は子に従い)が強調された。現実には、商家の女性は家事だけでなく店頭にも立って家業を支え、文芸音曲にも親しんだが、独立した人格など認められなかった。明治になっても、おしとやかな良妻賢母が理想とされた。お龍は医師の家に生まれたが、父を早く亡くし、充分な教育を受けないまま母子での自活を強いられた。龍馬は、この封建的な女性観にとらわれない「面白き女」を愛したのである。
 龍馬を失ったお龍は、東京に出たもののどこからも援助がなく、再婚した西村も没落、酒に溺れたのも事実だ。しかし調査を重ねると、龍馬と出会って以来、死別・再婚までの生き方は、いわゆる優等生ではないが“近代女性の先駆け”というべき姿が強く感じられる。徒手空拳の身で、幕末維新の世に夢を懐いて駆け抜け、素晴らしい出会いと挫折を味わった女性だ。ただ実証的な史料が少なく、コロナ禍もあって関係先や歴史博物館へ出向いての取材調査も困難で、自宅・図書館の蔵書と通信手段のみが頼りだった。その中間報告である。ぜひ、若き研究者がこの人物研究に挑戦することを期待したい。
<付記>幕末・明治の横浜と土佐
 お龍が田中家で働いた明治初期には、横浜開港で大発展をとげる横浜で土佐の人々も大きな貢献をしていた。その一端を付記しておきたい
*後藤象二郎 明治2年に横浜の下岡蓮杖が「成駒屋」を設立して東京と結ぶ鉄道馬車を始める際、後藤にも資金援助を仰いだと伝わる。鉄道馬車は鉄道開通の明治5年まで賑わう。
*山内侯爵家 横浜市神奈川区の山内町には、現在横浜市中央卸売市場があり、神奈川県民の台所をまかなっている。この町名は、明治2年に旧土佐藩主山内侯爵が認可を得て埋め立てを始めたことに由来する。
*白峰駿馬 越後生まれだが、勝海舟の神戸海軍操練所を経て海援隊幹部となり、維新後は菅野覚兵衛とともに渡米、ラトガ−ス大で造船学を学び、卒業後もニューヨーク海軍造船所で造船技術を習得して帰国。海軍省に勤務後、明治10年、神奈川区青木町に民間では日本初の西洋船専門の白峰造船所を設立。三菱・岩崎弥太郎の船舶修理も担当する。
<参考文献>『区政施行50周年記念神奈川区誌』編集発行・同誌編さん刊行委員会 昭和52年/『東海道と神奈川宿』横浜市歴史博物館 1996年/『よみがえった老舗料亭』編集発行・神奈川新聞社 2006年/『幕末・明治の写真』小沢健志 筑摩書房 1997年/『横浜浮世絵』川崎・砂子の里資料館 2009年
<図版出典>1.「田中家の従業員集合写真」田中家 2.「集合写真のお龍」田中家 3.『金川砂子』横浜市歴史博物館刊『東海道と神奈川宿』 4.「神奈川蒸気車鉄道之全図」川崎・砂子の里資料館刊『横浜浮世絵』 5.「増補再刻御開港横浜之全図」横浜市歴史博物館刊『東海道と神奈川宿』 6.「高知城下のお龍」高知県立図書館蔵 7.「龍馬土産のコンパクト」三里尋常高等小学校刊『村のことども』 8.「龍馬旧蔵のピストル」NHK刊『龍馬伝』図録 高知県立坂本龍馬記念館蔵 9.「龍馬と海援隊士」平尾道雄著 白竜社刊『坂本龍馬 海援隊始末記』 
<訂正>前回の原稿で、導入部分の鈴木かほる著書からの引用「京都国立博物館・宮川禎一」は「京都・霊山歴史館・木村幸比古」に、また『お龍の写真』キャプション「明治7年、44歳、田中家蔵」は「明治7年、34歳、田中家蔵」に、お詫びして訂正致します。
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きっと、凛としていただろう  お龍さん
冨田八千代(36回) 2022.04.18

筆者近影
公文敏雄先輩よりメール拝受                                  
龍馬の詠草
 公文敏雄先輩より、昨年末のHP拙文「お龍さんが近づいてきました」にメールをいただきました。
公文さんのメールの全文です。
 <中城さんのノート「お龍さん」への、女性ならではのご感想を楽しく読ませていただきました。
 国事に奔走する龍馬の、女性に対する思い遣りがあらわれた詠草が思い浮かびます。
    又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな
 龍馬の生家は歌道が盛んで、龍馬自身も和歌を嗜んだよし。二十数首が現在遺っているとして、宮地佐一郎著『龍馬の手紙』の中で紹介されている中の一首です。
 他では、桜も過ぎた晩春でしょうか、会席で桂小五郎の求めに応じて詠んだとされる即興の歌も、余韻がありまことに龍馬らしくて私は好きです。
    ゆく春も心やすげに見ゆるかな 花なき里の夕暮れの空
                               公文>

『龍馬の手紙』を開いて
 さっそく、『龍馬の手紙』(宮地佐一郎著・2013年発行・講談社)を図書館で借りました。閉架図書から取り出してもらい、手渡されて驚きました。文庫本にしては厚く627ページもあるのです。詠草は、最後の598ページから618ページまでとわずかです。詠草に関しては、公文さんの端的な説明に委ねます。
 龍馬の手紙にまともに向かうのは、初めてです。書面は毛筆の達筆な行書でとても読めません。墨絵を鑑賞するような気分で最後までページ繰りました。とても、読んだとは言えません。今の関心はお龍さんです。それで、女性宛への手紙だけ、活字になった手紙の文面を少し追ってみました。その中で、最多の姉乙女に注目してみました。
乙女への手紙から
 乙女宛は、姪春緒との連名4通を含めて16通です。姉として甘えたり親族の一人として頼ったりしています。そして、事細かに自分の行動を知らせ、日本の現状をどうしたらよいのかと姉と弟で意見を出しあい、乙女が堂々と自分の意見を書き送ったと思われる手紙もあります。残念ながら、乙女の返信は残っていません。龍馬は当時の封建的な三従の教えのような女性観ではありません。対等に人間として姉乙女を信頼しています。
 方言がよく出てきます。からかい半分の文もあります。手紙の後付けの宛名は、乙さま・乙大姉御本・おとめさまへ・大乙姉・乙あねさん・乙大姉 をにおふさま・姉上様・乙様など色々で、宛名の無いのもあります。筆さばきも他の人宛よりくつろいでのびのびとした感じです。手紙の様子から、その時の気分や内容の軽重が伝わってきます。一番気の置けない相手が乙女だったのでしょう。乙女も龍馬の期待に応え得る女性だったのでしょう。『婉という女?』を書いた頃の大原冨枝や、坂東眞砂子(51回生)が、小説『乙女』を書いたらどのような乙女像になったのかと、今更仕方のない興味も沸きました。
お龍さんのことを姉乙女に詳しく報告
 龍馬は、お龍さんを評して、はじめは「面白き女」といい、後には「げにもめづらしき人」と伝えています。龍馬とお龍さんは日本最初の新婚旅行と話題になりますが、これも乙女への手紙に詳しく書かれています。とても長文の絵入りの説明です。<慶應2(1866)年12月4日の手紙 本書p257〜p265>
 龍馬は、4月の新婚旅行に続いて、6月のことを以下のように知らせています。
 <6月4日より桜島と言、蒸気船にて長州へ遣いを頼まれ、出航ス。此時妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行たいとて同船したり。夫より長崎のしるべの所に頼ミて、私ハ長州ニ行けバはからず(以下略)>
 お龍さんの気持ちを尊重しています。お龍さんは、長崎へ月琴の稽古に行きました。他の手紙でも、『列女伝』(中国前漢、劉向の撰)を平仮名絵入りにして書き写させているとか、本を読ませたいから龍馬の蔵書の中から送ってほしいと頼んでいます。学ぶことを助けています。この手紙で、結婚後のお龍さんを妻と表現しているのは、龍馬らしいと受けとめました。
お龍さんへの手紙
 現存しているのは、1通<慶應3(1867)年5月28日  p364>だけです。そのわけは、『龍馬・元親に土佐の原点をみる』(中城正堯著・2017(平成29)年 高知新聞相互印刷)に書かれています。<龍馬からの手紙はことごとく保存、和喰の家では時々取り出していたが、土佐を去るとき「この手紙は人に見せたくないから焼いてくる」と言って焼き捨て、一通の影も形もないと仲は述べている。p42)>なお、本書では、もう1通、宛先、年月日、未詳(推定、慶應2年5月下旬、お龍あて。p552)を収録しています。それを著者宮地佐一郎は次のように説明しています。=(要約)竜馬の手紙はさきの旺文社文庫、昭和54(1979)年出版)に128通を編述したが、十余年後、新発見8通をPHP文庫に加えて136通を上梓した。=8通のうちの1通をお龍宛と推定しています。
 龍馬は、お龍さんと慶應3(1867)年5月8日に下関で別れてから20日後に手紙を書いています。その間のいろは丸沈没事件の折衝の様子や今後上方へ行くことなど自分の行動を事細かに知らせています。どうせ女に話しても仕方がないと思うなら、妻への手紙には書かない事柄でしょう。龍馬は、お龍さんを乙女と同じように対等な人間としてみています。
 龍馬の態度でお龍さんに対して乙女姉さんと違うのは、愛しさです。手紙では、愛しい妻への優しい心づかいをしています。「かならず かならず、(下)関に鳥渡(ちょっと)なりともかへり申候。御まち被成度候」と書いています。この手紙の宛名は、龍馬がお龍さんの身を守るために名づけた変名、鞆殿となっています。また、文末の「かしこかしこ」が本文よりもとても太く大きく書かれていることが目に入りました。他の人宛の「かしこかしこ」よりもずば抜けて大きいのです。手紙の最後のここに万感の愛しさを込めたのではないかと思いたいのです。
 『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』には、この手紙を書いた5月28日以後の龍馬の行動が書かれています。<お龍のもとに龍馬が現れたのは9月20日のこと、倒幕への風雲急を告げるなか、二日後にはお龍との別れを惜しみつつも、慌ただしく土佐へ向かって出向する。>手紙に書いた通りちょっと二日間だけお龍さんのもとへ帰っています。この二日間が、二人で過ごした最後となりました。
『龍馬は和歌で日本を変えた』(原口泉著 2010年発行 海竜社)の紹介をいただいて   
  これは中城正堯先輩の紹介です。本書の帯には、以下のように書かれています。<坂本龍馬は歌人だった!激動の時代を「歌」から読み解く斬新な幕末史観。和歌に込めた龍馬の大和心。第一章 人生に励みをつける歌力 第二章 大和心を奮い立たせる歌力(略)第六章 笑いを作り出す歌力> 
 お龍さんの事ではないので、初めは気が進みませんでしたが、せっかく紹介してくださったのだからと読み始めました。本文3ページ目「プロローグー龍馬をつくった和歌的環境 ◇龍馬が愛した和歌の道」の所に、すぐにお龍さんの和歌が龍馬より先に登場するのです。それに魅かれて、そのまま一気に読んでしまいました。
 最初に登場するお龍さんの歌は、龍馬暗殺後、長州藩の三吉慎蔵が伊藤博文、中島信之らと共に桜山の茶屋にお龍を誘い慰めた時に、詠んだものです。桜山には国に殉じた人の招魂社がありました。
       武士のかばねはここに桜山 花は散れども名こそ止まれ
  名前は永遠に消えないと龍馬を讃えています。夫を失った悲しさや寂しさはみられません。
  本書の中には、お龍さんが何度か登場します。
  暗殺された年の慶應3(1867)年の春に下関で開かれた歌会の様子を、お龍さんは語り、自分自身のことも語っています。明治32(1899)年、川田雪山が聞き書きをして、『千里駒後日譚拾遺』として土陽新聞に連載したものです。その中で、お龍さんは自分自身のことも語ったのを、著者原口泉が引用して書いています。本書31〜32ページを書き写します。
 <そしてお龍は、「私も退屈で堪らぬから」と言って自分の歌を披露している。
    薄墨の雲とみる間に筆の山 門司の浦はにそゝぐ夕立
  (薄墨色の雲かとみていたら、それは水に映って筆型になる筆山でした。その筆で文字を書くように門司の港に夕立が注いでいます。)原口注―(薄墨は薄墨紙、門司は文字に通じ、いずれも「筆」にかけられている。お龍は龍馬から、土佐の鏡川に映って筆の形になる筆山のことを聞いていたのだろうが、それが下関でつうじたかどうか一考を要す。) 恥ずかしかったのか、「これは歌でせうかと、差し出すと、皆な手を拍ってうまいうまいなんて笑ひました、オホホホ、、、、」といかにもお龍らしいが、たしかに歌の方もなかなかのものである。>
 それにしても、お龍さんが見たこともない筆山の様子を鮮明に歌に詠めるほど、龍馬は土佐の様子を語ったのでしょう。二人の親密さがうかがえます。
 『龍馬の手紙』と『龍馬は和歌で日本を変えた』は全くの粗読です。が、ここに登場するお龍さんは、龍馬にとても大切にされ、認められています。二人の結婚生活は、平凡、平坦ではなく、短かったのですが、二人はお互いを愛しく思いながら、心は充実していたことでしょう。「げにもめずらしき人」お龍さんは、龍馬を通して新しい知識や能力を体得しています。

中間報告、続「お龍さんの実像に写真と史料で迫る」を拝読
    田中家の従業員集合写真は圧巻、そして、集合写真の中の「お龍さん」も圧巻

1.田中家の従業員集合写真
 この集合写真を田中家はよくぞ、保存をされてきたものです。戦禍をはじめ自然災害にも合わずに生き延びてきて、中城さんに届きました。この写真がお龍さん(らしい女性)とともに日の目を見ました。子ども浮世絵と同じように、詳しく読み解かれています。服装や髪型、持ち物なども考証されています。当時の写真撮影の事情など豊富な知識をもとに述べられています。こんなに大勢を写せた写真の実物の大きさはどのくらいなのでしょう。
 先の論考のお龍さんの写真からは、こんな大勢の写真の中から抜き取られたとは想像もできませんでした。お龍さんがとてもはっきりと写っているからです。後ろの方の人達は顔も半分ぐらいしか写っていない人もいます。「お龍さん」は中央の前面に立ち、その前の列は座っているので姿のかなりの部分が写っています。右手は何かを握り持っているかのようです。もしかしたら、土佐にいた時に持っていたパラソルではと、想像したくなります。このように写真中央前面にいたから、抜き取って晩年のお龍さんの真影と並べられるようになったのでしょう。
 経験上、言えることです。大勢で集合写真を撮る時に、その集まりの中心的な存在でない人や引っ込み思案の人は、前の方には立ちません。「お龍さん」は、写真の中央といえる場所に気負っている感じではなく自然な感じで立っています。姿勢よく前を向いていて目立ちます。この「お龍さん」も圧巻です。論考のように、この「お龍さん」は凛としています。写真撮影の時だけ凛とするはずはありません。日ごろも凛としていたことでしょう。
中城さんは論考の中で以下のように述べられています。
 田中家で仲居となったお龍は、物怖じすることなく外国人にも接する。晝間家には、「お龍は英語で外人接待に活躍した恩人」との話が伝わる。
 長崎時代に、お龍は中国楽器の月琴を教わり、後に田中家でも客に披露して喜ばれたという。仲居名はツルを名乗ったが、これはグラバー夫人ツルから取ったという。おそらく、長崎時代に英語もある程度学び、龍馬とともに外国人に接することもあったと思われる。長崎での経験が、後に田中家での外国人接遇にも生きたのであろう。
 田中家での「お龍さん」のこの姿は、龍馬の姉乙女への手紙での月琴のこととつながるのではないでしょうか。
 <付記>として、幕末・明治の横浜と土佐を書かれたことで、その頃の土佐の海運の盛んな状況が分かります。中城さんが他の著述で述べられている「自由は土佐の海辺から」がうかがえます。そのような背景があったから、お龍さんもこの地で働くようになったのでしょうか。
龍馬の女性への贈り物について
 中城さんは論考で以下のようにふれられています。
 川島家・中城家の女性に、〈PARIS〉の文字が入ったコンパクトを土産に渡しており、現物は見当たらないものの図面が『村のことども』(三里尋常高等小学校 昭和7年)に掲載してある。龍馬は世話になった女性に珍しい舶来品を贈っており、妻にはパラソルも与えたのだろう。
 『龍馬の手紙』の姪の春猪宛の手紙から、おしろいについて書かれた部分を抜き書きします。
手紙 1 坂本春猪あて(推定 慶應2年秋、24日) (本書 559ページ)
 (手紙の書き出しから7行目まで 略)
  「此頃、外国のおしろいと申すもの御座候。近々の内、さしあげ申候間、したゝか御ぬり被成たく存候。御まちなさるべく候。 かしこ。廿四日。 龍馬
 春猪御前」
手紙 2 春猪あて (慶應3年1月20日)(本書284ページ)
 (手紙の最初から)
  「春猪どの、春猪どの
     春猪どのよ 春猪どのよ
    此頃ハあかみちやとおしろいにて、はけぬりこてぬり こてぬり つぶしもし、つまづいたら、よこまちの
 くハしやのばばあがついでかけ、こんぺいとうふのいがたに一日のあいだ御そふだんもふそふとい
 うくらいのことかへ。
  をばてきのやかんそうも(乙女の癇癪もと続く。以下最後まで20行 略)
                  正月廿日夜                          りよふより
  春猪様 足下」
 たくさんおしろいをぬり、さらに金平糖の鋳型の肌にごてごてと塗りつぶすことをすすめています。

 二つの手紙の数か月の間に外国のおしろいを春緒に贈っていると読み取れます。論考の写真のようなコンパクト入りだったのでしょうか。確かに、龍馬は舶来品を女性に贈っていると言えます。当然、お龍さんには論考の挿絵のように、真っ先に贈ったことでしょう。
写真の「お龍さん」に期待
 「お龍さん」が、田中家で仲居となったのは、34歳の頃、龍馬が暗殺された6,7年後です。龍馬との思い出を支えとし、龍馬の気遣いとお龍さんの努力で、身につけた能力を発揮して働いていたことでしょう。些細なことには動じることなく、きっと、凛としていたことでしょう。
 検証が深まり、仲居のツルさんがお龍さんであることを期待しています。
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<同窓生アーティストの近況>
中城正堯(30回) 2022.05.15

筆者近影
 5年ほど前に、このHPに「母校出身“素顔のアーティスト”」を連載しましたが、今年も活発な活動が見られます。その一端を紹介いたします。

田島征彦さんが沖縄戦の絵本

『なきむし せいとく』の表紙
 まず、田島征彦さん(34回生)の新しい絵本『なきむし せいとく』(沖縄戦にまきこまれた少年の物語)が、4月末に童心社から刊行されました。1945年にアメリカ軍の空爆と、上陸しての猛攻撃の中を逃げまどう母と子の絵本です。作者のことばとして、「悲惨な戦争を子どもたちに見せて怖がらせる絵本を創るのではない。平和の大切さを願う心を伝えるために、沖縄戦を絵本にする取り組みを続けているのだ」とあります。40年前に沖縄の自然に魅せられて以来取り組んできた『てっぽうをもったキムジナー』など、沖縄絵本の最新作です。
 筆者のような高知大空襲を知る世代は、空襲・艦砲射撃の場面からあの日の恐怖がよみがえり、大きなガマ(洞窟)に逃げ込んだ村人の姿から、ウクライナ戦争で製鉄所地下室にこもってロシア軍の卑劣な攻撃にさらされる現代の戦場を思い浮かべます。悲惨な戦場も、作者は穏やかな色調と柔らかいタッチで描いてあり、本を閉じたあとに現実の恐ろしい場面がじわっと胸に響きます。子どもや孫たちとともに、今に続く戦争を考える「現代の戦争絵本」です。(定価税込 1.760円)

空襲と艦砲射撃から逃げまどう村人

大きなガマに逃げ込んで、しばし安堵の人々


「合田佐和子展」を高知と三鷹で開催

合田佐和子さん
(『筆山の麓』より)

油彩画「マリリンの海」
(『合田佐和子 影像』より)
 いまだに人気の衰えない合田佐和子さん(34回生)の業績を回顧する展覧会が、年末から高知と東京で開かれます。高知の会場は高知県立美術館で、11月3日から1月15日まで、東京は三鷹市美術ギャラリーで、1月28日から3月26日までの予定です。「前衛アートの女神」として、若き芸術家たちの注目を浴び続け、絵画から舞台美術、オブジェ、写真まで多彩な作品でファンを魅了した作品群を、この機会にぜひお楽しみください。
 
 
 
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国際浮世絵学会の学会賞
受賞 おめでとうございます
冨田八千代(36回) 2022.06.27

筆者近影
「子ども浮世絵」のジャンル樹立
 中城正堯氏〈30回生〉の栄えある受賞の朗報は、梅雨の晴れ間に愛知県豊田市の井の中まで届きました。このKPCのHPから、「子ども浮世絵」に魅せられるようになりました。HPがなかったら、そこへ中城さんが浮世絵のことを投稿されなかったら、「子ども浮世絵」を知ることができませんでした。その感謝ともにお喜びを申し上げたい気持ちでいっぱいになりました。そして、賞状の文面も知りたくなりました。図々しく中城さん(ここからは、中城さんで失礼します。)に、直接お尋ねしました。

表彰状


表彰状

中城編著など子ども浮世絵関連図書
 あなたは 長年にわたり公文教育研究会子ども浮世絵コレクションの充実に尽力されるとともに その研究に優れた実績を積まれました
  早々にデータベース化されたコレクションをインターネット上で公開「江戸子ども文化研究会」を主宰し 多くの著作物や展覧会を通して浮世絵における「子ども浮世絵」というジャンルを確立 その啓蒙と普及に大いに貢献されました
  また当国際浮世絵学会においても 理事として長年にわたり学会活動に寄与されました
  よって学会選考委員会の推薦と常任理事会の承認を受け ここに第十六回国際浮世絵学会賞賞状と副賞を贈呈して 永くその栄誉を称えます
 
   令和四年六月五日
                    国際浮世絵学会 会長 淺野秀剛

 中城さんは、HPに子ども浮世絵のことを度々投稿されています。これは、業績のほんの一端でしょうが、その執筆と著書『絵画史料による 江戸子ども文化論集』などから、「子ども浮世絵」研究の功績をうかがい知りました。受賞の理由には、中城さんの功績が凝縮されています。
 中城さんの「子ども浮世絵」の研究は、「江戸子ども文化」を取り上げられたことが、まず、抜群の千里眼です。その後、史料としての子ども浮世絵の収集・解読の成果は、中城さんの一貫した情熱あふれる姿勢と飽くなき開拓者精神と豊かな能力のトライアングルが響き合って創り出されたものと拝察いたします。凡人には達成できることではありません。
 「子ども浮世絵」のジャンル樹立、唯一無二の研究への受賞おめでとうございます。
子ども浮世絵と公文式教育のつながりは如何に
 表彰状の文面から、今までぼんやりしていた点に気がつきました。表彰状には、最初に「公文教育研究会子ども浮世絵コレクションの充実」と書かれています。研究は公文教育研究会を抜きにしては考えられないということです。「子ども浮世絵」研究の背景に公文教育研究会の存在があることは、公文公先生とともに意識しつつも、このテーマの内容との結びつきについては考えてきませんでした。「子ども浮世絵」の読解から、江戸時代の寺子屋教育に注目されました。子どもの学びを自学自習と言及されています。テーマ設定の時から、教育にまで至ると展望をもっていらっしゃったのでしょうか。これはまた、現在の公文教育研究会の公文式教育とつながりがあるのではと気になりました。[KUMON]の看板のある学習塾は、自学自習に徹していますから。
 それで、テーマについてHPを読み返してみました。テーマ設定の動機を次のように説明されています。(KPCのHP 2018年9月2日の「回想浮世絵との出会いと子ども文化研究」より抜粋します。)
 <…「浮世絵による江戸子ども文化研究」の直接のキッカケは1986年(昭和61年)のくもん子ども研究所設立である。その理事に就任し、研究テーマの提案を求められた。そこで「子どもに関する浮世絵の収集と、その解読による江戸子ども文化研究」を提案、当時の公文毅社長が「だれもやってないテーマならやろう」と決断、多額の予算を任されてスタートした。では、なぜこのテーマだったのか、当時話題になっていたフランスの歴史学者フィリップ・アリエス著『<子供>の誕生』(みすず書房)でもちいられた、絵画を史料とし活用する子ども史研究手法に共感を覚えたからである。>
 ここでは、大きく「江戸子ども文化の研究」と示されているだけです。きっと、中城さんは、「子ども浮世絵」を通して、江戸時代の寺子屋教育は公文教育研究会の公文式教育と通じるとの展望をテーマ設定の時にお持ちだったのでしょう。

中城さんにお願いします
 このHPへ、受賞の晴れ姿と表彰状と受賞記念の講演内容をご披露ください。
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パリ日本文化会館から
「文明開化の子どもたち」展
中城正堯(30回) 2022.07.05

筆者近影

皆様へ
 パリ日本文化会館から、「文明開化の子どもたち」展の報告書が届きましたので、ご参考までにその一部を添付します。コロナ禍下でしたが、40日で6.784人の入場者があったとのことで、そのアンケートの一端と、会場風景です。以下のメールは、この展覧会の責任者とのやりとりです。
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中城先生
 お世話になっております。報告書と日本語抜き刷りが無事お手元に届いたとのこと、ご連絡をありがとうございました。温かいコメントも頂き、恐縮の限りです。
 日本語版抜き刷りは当地での成果を日本の方に還元するという意味でも重要であると考え、完成は事後となってしまいましたが作成をいたしました。
 展覧会を御覧頂いたお客様やメディアからは軒並み良い評価を得て、当地のお客様に「明治の子ども浮世絵」を知って頂く素晴らしい機会になり、当館としても誇りに思っております。先生のご研究があってこそのことであり、心から敬意と感謝を表明申し上げます。
 日本は暑い日々が続いているのではないかと存じます。どうぞご自愛ください。
 今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。

パリ日本文化会館   大角友子

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大角様
 昨日、報告書並びに日本語版抜刷りを拝受しました。パリ文化会館のご丁寧な対応に、いつもながら感謝申し上げます。特に、日本語版抜刷りは執筆者として大変有難いです。日本では、頻繁に海外美術展の日本展が開かれていますが、本国関係の鑑賞者や筆者には、一部論文の原文掲載のみで済ませています。コロナ禍での開催に、ご苦労も多かったと思いますが、鑑賞者・メディアともよい反響だったようでなによりです。

中城正堯




「文明開化の子どもたち」展
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

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<同窓生アーティストの近況>
「田島征三アートのぼうけん展」
  「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」
    「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」
中城正堯(30回) 2022.09.05

筆者近影

皆様へ
 土佐校同窓生の美術・文芸などアーティストの活動を、折に触れてお知らせしてきましたが、その最終回です。田島征三さん(34回生)と、高山宏さん(42回生)関連の展覧会が、下記の通り開催中です。お二人とも『筆山の麓』に登場いただいており、それぞれの分野で日本を代表する人物として活躍中です。

田島征三アートのぼうけん展
 「田島征三アートのぼうけん展」 新潟市新津美術館 2022年9月25日まで 0250ー25ー1300 学生時代の作品から『ちからたろう』『とべバッタ』などの代表的な絵本原画に、リトグラフなども加えて、田島征三の全貌に迫る展覧会。(添付のパンフレット参照)
 「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」 鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館(新潟県十日町市)2022年11月13日まで 025ー752ー0066 越後妻有アート トリエンナーレ「大地の芸術祭」の参加作品。田島征三の構成で、鉄の作品による水中生物へのオマージュ。
 「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」翻訳監修・高山宏 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)2022年10月10日まで 050ー5541ー8600 アリスの世界に精通する高山宏が翻訳監修した<好奇心くすぐる大博覧会>。
 小生は、同窓生アーティストの活躍ぶりを折に触れて紹介してきました。狭い知見からの発信でしたが、「こんな素晴らしい同窓生がいたとは」とか、「おかげであの作者のナマの作品に触れることができた」、といった感想をいただきました。しかし、体調に問題を抱え、終了させていただきます。できれば、向陽プレスクラブか筆山会(同窓会)で、どなたか自分なりの発信者が現われることを期待します。
 
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田島征三展
恩恵をいただいています。
冨田八千代(36回) 2022.09.13

筆者近影

中城さま
  たびたび、お知らせをありがとうございます。
  今回は、珍しく、もう、田島征三さんの二つの展覧会に行ってきました。
  友人のおかげで行けましたが、大元は、中城さんのKPCのHPでの案内や『筆山の麓』のおかげです。
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 まず、「田島征三アートのぼうけん展」は刈谷市美術館(4月23日〜6月12日開催)に行きました。
 友人Aさん(田島征三も『筆山の麓』のこともよく知っている)から、「もう、知ってると思うけど」と前置きをして、5月の下旬に知らせがきました。知りませんでした。この直後に、たまたま、この美術館の近くで開かれている別の展覧会に誘ってくれた知人Bさんに話したら、それも行こうと便乗させてくれました。刈谷市は我が豊田市の近隣ですので、会場まで自家用車なら30分足らずで行けます。でも、運転免許返納の身には大変な所です。
 会場に入って驚きました。中城さんのご案内に<田島征三の全貌に迫る>とあるように、芸術家歴図示版といえるものでした。270点余りの作品が、アーチストとしてのスタートから細かく順を追って、丁寧な説明も加えて展示されていました。絵本からはうかがい知れない表現の数々、多彩です。ゆっくり鑑賞したかったけれど、残念ながら誘われた身、無理は言えません。彼女とは、田島征三のことは話したことはありませんでしたが、まんざらでもなかったようです。作品をスマホにたくさん記録していましたし、出口では絵本も買いました。
 この美樹館では、田島征三の作品を所蔵していることも印象に残りました。ところが、中城さんが添付してくださったチラシの最後に、<企画協力:刈谷市美術館 ―このもっと下にーとべばった 1988年 刈谷市美術館蔵 ちからたろう 1967年 刈谷市美術館寄託>と出ています。この美術館にいっそう、親近感がわきました。
 私が出かけたことを知ったCさん(『筆山の麓』を貸したら買った。田島征三のファンになった。テレビ番組「日曜美術館」の事などをすぐに知らせてくれる。でも、いつも中城さんより後。)は、すぐに、友人と出かけました。
 

「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」の入口で
 次に、「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」 鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館には、6月5日に行きました。これも、友人たちのお膳立てにすっかり乗っかりました。この一行私以外の5人のメインは、飯山市や津南町でした。この時、初めて、この「美術館」のある十日町市が津南町の隣と知ったぐらいの極楽とんぼの私です。美術館を希望していたCさんは都合が悪く不参加。私以外の人達の田島征三への関心度は不明です。一泊旅行の二日目の予定でしたので、宿で刈谷市美術館の展覧会のチラシを渡しました。展覧会に行った時に何枚も持ち帰ってきていました。贔屓の引き倒しになってはいけないと、言葉少なにしておきました。
 さて、当日。美術館は木に囲まれた山の中を想像していました。ところが、空が明るく広がっています。この辺りは河岸段丘の広がりと段数が日本最大規模の雄大な自然の中にあるということも初めて知りました。ここでは無言を通しました。「五人」は展示に集中し退屈そうではなかったので、ほっとしました。
 帰宅後、一行に送ったメールです。「津南町の隣にあり、運転手さんに大きな迷惑をかけなかったことをまず、ほっとしました。そして、学校が生き続けている息づかいを感じ、何だか、ほっとしました。よくある、実はここは昔は校舎でしたという様変わりした再生利用の形ではありませんでした。この地域(鉢)の方々と田島征三さんの心の寛さ、優しさ、豊かさを感じました。現地に行けた事、感謝、感謝!」
 子ども達が使った楽器が作品の中でそのままに。校歌の額や閉校前日の黒板の字なども残されています。周りの自然から集めた木の実などが作品になっています。
 ここでも、もっと時間が欲しいと思いましたが無理は言えません。Dさんは、「運動場の山羊小屋にも行きたかったのに時間が足りなかった」と残念がっていました。彼女は、その後、刈谷市美術館に出かけ、とても感動したとメールがきました。
 
 「恩恵をいただきました」と過去形にはしません。体調とスケジュールの隙間が晴れ間でしたら、ご無理のない所でまた、ぜひお願いをします。
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訃報
武市功君(30回生)逝去のお知らせ
中城正堯(30回) 2022.09.30


 新聞部出身で同期の武市功君逝去の知らせが、このほど輝夫人から届きました。「1月29日に心不全で永眠」とのことです。
 同君は、土佐中高時代に新聞部・放送部で活躍、社会に出てからはおもに大阪に住み、公文教育研究会副社長として同社を牽引、アメリカ進出などに大きな功績を挙げました。
 一人旅を好み、引退後はもっぱら四国八十八か所巡りや、天然記念物巡りを楽しんでいました。
 写真は高1時代の新聞部。中列左が武市功、その右・森下睦美(31回)、前列左松木鷹志(30回)、示野貞夫(32回)、後列中城、横山禎夫(30回)。
 
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エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報
竹本修文(37回) 2022.10.08

筆者近影
 女王の崩御から一か月経ちました。
 テレビで放映された場所はバルモラル城以外は行ったことがあり、このような国葬はもう見られないと思うので、気づいた事を纏めてみました。
 96歳なので、数年前から「ロンドン橋作戦Operation London Bridge」と名付けて準備をして来た結果は見事でした。
 この計画に、スコットランドのバルモラル城で女王専任のバグ・パイパーがウエストミンスター寺院でバグ・パイプ演奏をしたのにも感動しましたが、女王のアイデアでした。
 女王は公務で乗る車はロールス・ロイスのソヴレインでしたが、普段はスポーツカーのジャギュアーでした。今回の霊柩車も女王が設計に加わってジャギュアーをベースに特注したそうです。
 イギリスの国葬は国家元首が対象で、それ以外は万有引力のアイザック・ニュートンとチャーチル元首相だけだそうです。
エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報

第1章.イギリス王国の概要 1.1 王国の中の国々

1.2 王室について若干の補足

1.3 エリザベス2世後の王室 1.4 Royal Standard 王旗

第2章. スコットランド 第1日 9月8日 第2日 9月9日

第3日 9月10日 第4日 9月11日(スコットランド内の移動)

第5日 9月12日

第3章 イングランド 3.1 ロンドン

3.2 ロンドンでの葬儀の補足  時系列説明 9月13日

葬儀の中心となる地域の地図

9月14日 バッキンガム宮殿からウエストミンスター・ホールへ棺の移動 9月15日 9月16日

女王と血の繋がりのあるblood family によるお通夜 9月17日 9月18日 9月19日 国葬

葬儀に続いて、棺はウインザー城に運ばれ、セント・ジョージ礼拝堂の女王の夫君の棺と並んで埋葬された

エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報
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タウンレポート
城址公園・足助城(豊田市)
冨田八千代(36回) 2022.11.29

筆者近影
 KPCのHPから、数年前から少し近辺の「お城」や「お城址」に興味を持つようになりました。直接、西内さんにお話を伺ってから、初めて『日本100名城公式ガイドブック』をはじめ4冊を手にしました。(こんな有様です。)
 以前よりも、市内の「お城址」を意識をしています。今まで何度も通り過ぎていた所に城址をみつける(気づく)こともあります。10月に行った「市場城」もその一つです。
 道端の小高い丘の中に立派な城址が広がっていて驚きました。もっと山奥に知人宅があり、50年も前から、すぐ側の道を車で通ていたのに、お城のことは思ったこともありませんでした。看板も見過ごしていました。地域の方々の手できれいに整れされていました。初めて「竪堀」を知りました。
 また、11月には中津川市の苗木城に行きました。これは偶然です。紅葉を見に連れて行ってくださる方が、とちゅうで今日は曇って来たからと、急遽、行先をかえられたのでした。確か本に出ていたと、帰ってすぐに開きました。続日本100名城に選ばれていました。
 以下は皆様とは関係がありませんが、添付文書をお贈りします。専門家の皆様にお送りするのは、冷や汗物です。とにかく、お城について書いています。
 豊田市の広報誌に私の足助城紹介の文章が出たのです。2011年のことです。これに応募したのは、合併前の旧町村にそれぞれ歴史資料館(のような物)があるのでそれを紹介したかったのです。そうしたら、「足助城」を指定されました。城の知識もないままに書いたものです。
 ぱっと見ても「天守閣」は間違いです。これは中城さんの著述の中に「天守閣」ではなく「天守」とありその時に、初めて気づきました。(「天守閣」は大阪城だけ)それから、「発掘調査によって……全国でも初めて」と断定して書いたのは何を根拠に書いたかも記憶にはありません。

豊田市広報タウンレポート『城址公園・足助城』
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 いつもながら、素晴らしい行動力と、そのレポートに感心するばかりです。
 それほど年齢は変わらないのに、驚きです。 中城正堯

 文筆活動で一隅を照らす。いいですね。 公文

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土佐向陽プレスクラブ