タイトルをクリックするとサイトマップメニュー
このページは2010.07.10までの過去の記事を掲載しています。
前頁前頁 NEWS 次頁次頁
2010.07.10 設立準備会  総会への出欠、コメント
2010/JUL. 中城正堯  学校再建と民主化への熱気伝える
2010.06.15 設立準備会  新生『向陽プレスクラブ』結成へのご案内
2010.06.15 設立準備会  総会・懇親会開催要領
2010.06.12 永森裕子  向陽プレスクラブ設立準備会議事録
2010.04.20 岡林敏眞  メメントモリで絵を描く
2010.04.08 岡林敏眞  土佐向陽プレスクラブ活動報告(高知)
2010.04.08 中城正堯  なんで今ごろ報恩感謝
2010.03.31 永森裕子  向陽プレスクラブ再結成準備委員会 議事録
2010/04/01-2010/07/25設立総会まで
2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで
2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで
2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで

総会への出欠、コメント 設立準備会 2010.07.10
WANTED 次の方たちの住所が不明です。新しい連絡先を御存知の方は、連絡してあげて下さい。できれば準備会の方へも御連絡下さい。
33T島村(梶)真智子 ?(旧住所)
33?小川 ?(旧住所)
35K森岡 謙輔 ?(旧住所)
36T森本 浩志 2010/06/23(Wed)返送 葛城市兵家(旧住所)
38K坂本(杉本)緑 2010/06/23(Wed)返送 八王子市めじろ台(旧住所)
38加藤 楯文 ?(旧住所)
39H西沢(白木)則子 2010/06/23(Wed)返送 高知市枡形(旧住所)
39H森田 公 ?(旧住所)
39O丁野 加寿代 ?(旧住所)
43T門田 壮 2010/06/23(Wed)返送 文京区小石川(旧住所)
43H上村 公志 在アメリカ?(旧住所)
44H掘 元治 ?(旧住所)
48K俵(加藤)正治 ?(旧住所)
48S岡林 健次 ?(旧住所)
50T樋口 豪 ?(旧住所)
56H市吉 健一郎 ?(旧住所)

水田 幹久 (48N)入会・出席***日本重化学工業株式会社***

中井 興一 (45K)入会・出席******

北村 章彦 (49H)入会・欠席***穎明館中学高等学校***
7月24日は午後まで仕事のため午後1時の総会には出席できません。午後4時には市ヶ谷に到着することができますが、と迷っているうちに総会2日前になりました。参加したい気持ちは山々なのですが。

吉川 順三 (34O)入会・欠席******

杉本 健一郎 (32O)入会・欠席******

岡西 滋夫 (35S)入会・出席(懇親会のみ)******

森木 光司 (32O)入会・欠席******

市原 真仁 (30T)入会・欠席***ふれあい町田ホスピタル***
連絡が遅くなり申し訳ありません。どうしても今度の総会には出席できません。皆様によろしくお伝えください。

加賀野井 秀一 (44K)入会・出席***中央大学理工学部***
締め切りを遅れてしまいましたが、懇親会への参加はまだ可能でしょうか。

佐野(山之内)玲子 (52O)入会・欠席******
現在子供の結婚式と主人の転勤のため。松山と高松をウロウロですので。後ほどゆっくり会則など見ます、会員近況で坂本君のコメントをみて。懐かしく思いました。あの当時のかたがたはどうしてるんでしょう。新聞活動は皆無でしたが、新聞部の後援で文化祭にした人形劇はよい想いで出す。創立50年同窓会で初めて子供達に土佐や部室をるみせことができました。設立総会のご盛会をお祈りしています。世話役の先輩の皆様いろいろ電話やてがみ 有り難うございました。

久永(山崎)洋子 (34T)入会・欠席******

山岡 伸一 (45S)入会・欠席***農業(自営)***

農地・水・環境保全会ニュース.PDF

川野(中村)恵子 (44K)退会・欠席******


浅井 伴泰 (30O)入会・欠席***元 ガーナ在住***
 暑中お見舞い申し上げます。と言ってもニューヨークよりは10度涼しいので我慢するしかないけんど。暑い盛りの24日の会合には、生憎出席出来ませんが、入会はしますのでよろしくお取り計らい下さい。
 Wカップでのアフリカ勢初のベスト4を逃したガーナのPKショックが未だに癒えません。あそこでPKを外すのはガーナ人の人の良さで相手のウルガイ人の執念、したたかさに負けた訳ですが、あのような悪質なウルガイの反則には今大会のPK成功率6割からして、PKを二度蹴る権利を与えるべきだと昨日の日経に載ってました。まさに我が意を得たりですが、試合を見てなかったらちんぷんかんぷんで、何を言いゆうがぜよでしょうが……

山岸 きみ (42S)退会・欠席***王国社***
せっかくのお誘いですのにお断りしますことお許し下さい。 出版界の片隅で建築文化ジャンルでどっこい!生きております。最近の出版物、三浦展編著「奇跡の団地 阿佐ヶ谷住宅」は話題になりました。五台山に佇む「牧野富太郎記念館」や新高知駅の設計に関わられた内藤廣氏、香北町「アンパンマンミュージアム」の設計者古谷誠章氏の著書も出しております。王国社と申します。どうぞお見知りおきを...長々と宣伝になって申し訳ありません。 最後になりましたがクラブのご発展を心よりお祈り申し上げております。

細木 大麓 (27H)入会・欠席***元 富士重工業***
初代新聞部長とおだてられて発起人を引き受けましたがいきなり欠席となってしまいました。動きの悪い大先輩が足手まといにならないように努めますが、公私ともに忙しくしている証とご理解いただければ幸いです。 なるべく若く見える写真を…と探しましたが、これなんと昨年の金婚旅行の写真です。


辻 正子 (35H)入会・欠席***善通寺前田病院***

大町 玄 (30O)入会・出席***元 富士電機HD***
原弘道君、松木鷹志君、梅木栄純君が退会とは!事情があることとは思いますがまことに残念。 ずいぶん長いこと逢っていませんから、授業をサボってまで新聞を作ったあの頃の仲間と久しぶりに一献酌み交わしたかったのですが。 プレスクラブ以外に彼らに逢えるチャンスもなさそうですし。 浜崎洸一君が欠席で逢えないのも残念ですが、入会登録はしているようなのでそのうち逢えるだろうとタノシミにしています。 卒業以来多忙を言い訳に、向陽新聞のことは中城君に任せっぱなしでしたが、(そのために自分が新聞作りにどっぷり使っていた頃があったことを忘れかけていましたが、)今回呼びかけていただいたことを公文さんほか世話役の方々に深く感謝しております。 ありがとうございました。

牧内 操 (42H)入会・欠席******
今年1月、たまたま新校舎を見学した折、新聞部が消滅したことに初めて気付き、 少々ショックを受けました。 25日は残念ながら出席できません。ご盛会をお祈りしています。 会費払込方法をお知らせください。 なお、写真は「前科何犯?」と思われそうなので、遠慮させていただきました。

冨田 八千代 (36K)入会・欠席***元愛知県公立小学校教員。現在お手伝いとしてパート勤務***
再度の連絡をいただきありがとうございます。36回生の冨田(堀)八千代です。7月に入って思い出し「向陽プレスクラブ総会・懇親会出欠、及び会員登録フォーム」に入力しましたが、メールアドレスとメールアドレス2のエラーと出て送信できません。何度か試みましたが、エラーばかりです。私はアドレス2はありませんおで、未記入です。私の知識、技能不足だと思います。それで、郵送にしようと思いつつ今に至っています。メールを開いたら、このお便りが届いていました。お手数ですが、ここに必要事項を書かせていただきますので、手続きをよろしくお願いできませんでしょうか。


近藤 雅彦 (41N)入会・欠席******
近藤@41回生です。お返事が遅れ、ご迷惑をおかけしております。せっかくのお誘いでしたが、今回は都合により遠慮させて頂きます。設立総会のご盛会をお祈りしております。勝手ながら、後日、都合がつくようになりましたなら参加させていただきます。有り難うございました。

笹岡 峰夫 (43K)入会・欠席******
会員登録します。総会は欠席しますので、年会費は振込できる口座をお知らせ下さい。

示野 貞夫 (32O)入会・欠席***高知大学名誉教授(元高知大学農学部教授)***
達筆なので画像をクリックして拡大画像でお読みください。(管理人)


岡林 幹雄 (27)入会・出席***元石川島播磨重工業***
達筆なので画像をクリックして拡大画像でお読みください。(管理人)


井上 晶博 (44S)入会・欠席***土佐女子中・高等学校***
44回永森裕子(旧姓松本)様に議決を委任いたします。 ご案内の封書の差出人の名前に、藤宗さんの名前を見つけ懐かしさで一杯になりました。この中には、大原さんの名前も・・・・。高校からの入部にもかかわらず諸先輩方には可愛がっていただいたのに、まともな仕事もせず、みんなとだべってばかりだったように思えます。覚えていただいているか不安ですが、会に参加させていただきます。 大学を卒業後、大阪で20年近く教員をし、平成4年に高知に帰ってきました。現在は土佐女子で教鞭をとっております。授業のかたわら、企画広報部というところで生徒募集関係の仕事をしており、何かと忙しい毎日です。 設立総会、懇親会の日は、インターハイ出発の前日ということで高知を離れられません(何故か、教員になってからずっとバドミントン部の顧問をしています)。残念ながら欠席させていただきますが、この集まりが盛会になるよう願っております。

【写真右】左から中村恵子さん(高校入学の生徒です)松本裕子(現永森)さん加賀野井秀一君(現中央大教授)堀元治君右の端が私です。このときの顧問の先生は、左が田村尚子先生(この時結婚されて、姓が矢野に変わられたのでは?)、小松先生です。

原 弘道 (30K)退会・欠席******

梅木 栄純 (32K)退会・欠席******
折角ですが当方週3日人工透析の体調ですので、会員登録とも遠慮申し上げます。皆々様のご発展をお祈りいたします。普段は外に出て百姓ごとをしております。

国見 昭郎 (34S)退会・欠席******

山ア 和孝 (26A)入会・欠席******


坂本 孝弘 (52K)入会・欠席***土佐塾中学高等学校***
諸先輩方、ご連絡頂き、また、様々な準備にお骨折り頂き、誠にありがとうございます。 東京へ伺うことはなかなかできませんので、高知で開催する機会もあるのではと願っております。 自分が関わった100号前後の向陽新聞は家のどこかにあるはずですが、引っ越しを重ねるうちに分からなくなっています。休みに探してみようとは思っているのですが…。

岩口(川田)智賀子 (45K)入会・欠席******
 ご無沙汰しています。川田薬局の隣の智賀ちゃんです。結婚して長崎に住んでいましたが、23年前に岩口が病没してしまったので、高知に帰ってきました。シミ、シワ、タルミ、老眼、高血圧、ビール腹(ん?)以外は、昔の智賀ちゃんです。今でも力すくで可愛い智賀ちゃんと、呼ばています。
 2学年上の濱下三輪(旧姓岡本和子)さんとチンなので、彼女が帰高した際(彼女は現在広島に住んでいます。)には、たまに43回生の大原さんや中東さんと集まっています。高知での懇親会の話、いいですねえ。万難を排して出席したいと思いますので、その時お会いできるのを楽しみにしています。
 P、Sその時は、岡本さんも出席したいと言っていますので、旧盆位がありがたいです。
 写真は姉の坂本信子(40回)と一緒です。


横山 禎夫 (30K)入会・出席***潟pブリックサービス***

丁野 貢一 (42K)退会・欠席***高陽開発***

濱崎 洸一 (32K)入会・欠席******

安部 弥太郎 (28M)退会・欠席******
設立準備会の皆様のご努力に水を差すようで申し訳ありません。 後期高齢者の仲間入りをして寄る年波に勝てません。

田内 敏夫 (31K)入会・欠席***元、新日本電気株式会社***
ご案内ありがとうございました。設立準備会の皆さんのご努力に感謝いたします。 日頃大変ご無沙汰しております中城様、それから本当に懐かしい岡林様その他当時お世話になった方々には 是非ご挨拶したいところですが、当日はどうしても都合がつきませんので欠席いたします。(私事ですが、 毎週日曜日の午後は外せない用事がありますので) なお、お手数ですが 年会費の振込み先をご連絡くださるようお願いいたします。 田内 敏夫

高橋 侃 (39K)入会・欠席***高橋クリニック***

大原 悟 (43H)退会・欠席******
お誘いありがとうございます。 懐かしいお名前を拝見して、今はなき部室に入り浸っていた中高時代を思い出しました。 6年前、早めにリタイアして隠居生活中です。 世をはかなんで引きこもりをしているわけではないのですが、ここのところ、何らかの団体に関わることが億劫になっていますので、今のところ加入は見合わさせていただきたいと思います。 ホームページは時々のぞかせていただきます。 諸兄のますますのご健勝とご活躍をお祈りしております。

宮川 隆彦 (46O)入会・出席***株式会社フロムハート***



松木 鷹志 (30H)退会・欠席******
長年、OB会員であるということで、何も貢献もしておりませんのに、各種の情報をお送りいただき、感謝いたします。近年、とみに体調を悪くしており、会に名前だけ登録するのも心苦しいかぎりですので、この際、退会させていただきます。会の発展を祈っております。

黒木 健司・出席 (37S)入会***環境プランニング株式会社***
現在、私は東京を拠点に動いています。高知の住所(高知市三園町231)、事務所は存在します。配達物などは「東京住所」へお願いしたいのですが、二重住所は無理なら登録住所まで自宅で結構です。

鶴和 千秋 (41S)入会・出席***六本木司法書士合同事務所***
写真ですが、携帯で撮ってパソコンのデスクトップに保存してあった奴をクリックしたら上記のようなファイル名でした。これで写真が見えるのですか・・・分っからんなあ〜



岡林 哲夫 (40H)入会・出席***日本アルコール産業株式会社***
新聞部員としては中身が無かったですが、お手伝い出来ればと思っています。



中城 正堯 (30O)入会・出席***江戸子ども文化研究会・元くもん出版***



公文 敏雄 (35S)入会・欠席***コンビ株式会社 監査役***
世話役の皆様のお働きに深謝いたします。当日は出られませんが、盛会を祈っております。



岡林 敏眞 (32O)入会・出席***元学習研究社、元公文教育研究会編集部***



永森 裕子 (44K)入会・出席******
何とか会員登録しました。アップは耐え難いので、後ろに大きな助っ人、シカゴにいるスーを付き添いにしました。



藤宗 俊一 (42K)入会・出席***藤宗俊一・建築都市研究所***
ホームページの会員登録を総会用フォームに変更しました。みなさんも出欠を登録して下さい。今回は写真は必須ではありません。上手くいくことを期待して送信ボタンを押します。


  ページTOPに戻る

向陽新聞に見る土佐中高の歩み@
学校再建と民主化への熱気伝える 中城正堯(30回) 2010/JUL.
『新聞向陽』の名で学校新聞が創刊されたのは、戦後の新学制により昭和22年に新制土佐中、翌年に新制土佐高校がスタートして間もない24年3月であった。翌25年には早くも第6号を刊行、紙面も従来のタプロイド版から一般紙のサイズとなり、第9号から『向陽新聞』と改題する。当時、旧制土佐中は戦火で校舎を焼失、川崎・宇田ご両家からの多額の拠金も戦後インフレで価値をなくし、廃校の危機に立たされながら、三代校長・大嶋光次のもとで人材育成という建学の精神を日本再建に結びつけようと、懸命の努力を続けていた。この連載では、戦後の母校発展の跡を『向陽新聞』の紙面からさぐってみたい。(文中敬称省略)
創刊のいきさつと紙面
 戦前は教育も国家統制のもとで皇民教育や軍事教練が強制されたが、戦後は米軍の占領下で教育の民主化がはかられた。六三制で中学までが義務教育になり、男女共学が打ち出された。大嶋校長は他の私学にさきがけてこの潮流を読み取り、中高一貫の男女共学に転換、定員も大増員に踏み切った。学園民主化の柱としては生徒会の設置と、生徒の自由参加によるクラブ活動(部活)の奨励があった。部活の中でも新聞部は、生徒の自主的な報道言論機関として学園民主化の重要な役割を担うこととなった。
 敗戦時の土佐中生は県内各地で集団生活をしており、山崎和孝(26回)など1年生は高岡郡尾川村にいた。やがて高知市池の浦戸航空隊跡(現・高知女子大や高知医療センター)から兵舎の払い下げを受け、生徒一同も協力して運び、なんとか仮校舎を建てた。それと同時に部活が始まり、野球部・園芸部・文芸部・絵画部など続々誕生した。高1になった山崎が同級の西原道夫たちと新聞部創設を考えていた頃、中3の細木大麓・岩谷清水・岡林幹雄(27回)も同じ思いであることが分かり、一緒になって結成した。
 創刊号のトップ記事は「創刊に際して 大嶋光次」である。校長は日本再建に教育の民主化が重要なことや、個人の自由・学徒の意志反映による学園の明朗化、自治会の強化に触れつつ、「新聞向陽の発行の議が起り全生徒から自由に責任ある投稿を募って一般に紹介…せんとする事は確かに学園民主化の一方法であると信じて疑わないが、新聞は社会の報道機関であるとともに其の属する社会の指導機関でもあるという責任を忘れてはならない」と述べている。隣に「救い難い敗戦気分」の記事があるのも時代の反映である。
 論説は「学校生活に活気をもたせよ」で中3細木大麓、コラム「ひとりごと」は高1山崎で「高知女高(現丸の内高)と高知高(現追手前高)の自治会が二校合併を陳情」などの秘話が出ている。中2酒井芳美のエッセイ「小さきもの」には、早熟ぶりがうかがえる。高1山村泰造は「プロ野球展望」を堂々と論じている。「詩と俳句」から「笑話」まで掲載され、報道論説と文芸の総合紙であり、イリキ眼鏡店や哲学の店・田所文具店など、広告もしっかり集めてある。
 昭和24年7月発行・第3号のトップは、「苦心の結晶われらの新校舎遂に落成」である。木造二階建新校舎落成式から、感銘深い挨拶として「時代の波にのれ そしておぼれるな」という、阿部孝旧制高知高校長の言葉を紹介している。落成式で表彰された町田義隆氏(工務店主)は「バラックを兵営跡から持ってくるのに走り回り、木材を手に入れるために大栃の営林署に校長と行った」と、さらっと語っている。後に掛水俊彦(24回)は、「大工の棟梁の姿で連日采配をふるった町田さんこそ隠れた功労者」と述べている。阿部の名言や隠れた功労者をきちんと取上げたのは、当時の編集者の見識であろう。また、国立大学設置法案反対の風潮に流されてストに突入した生徒会の「苦い経験」への反省記事もある。筆者も入学間もない頃、教室に先輩が来てアジ演説をした光景を覚えている。
学校ジャーナリズムの開花
 昭和25年頃に新聞部で大活躍をしたのが岩谷清水であり、山崎は「彼はジャーナリズムのセンスに充ち、校内の事件を拾ってきてはジャーナリスティックに取り上げた。生徒会と学校が対立したときに大記事を書いてきたが、大議論の末に少し控えめに紙面を割付けた。これが高知新聞記者の目にとまり、<この小さい扱いは何事だ。学校新聞は学校の問題を掘り下げるのが使命だ>と厳しく指導をうけた」と、述懐している。この指摘は、次第に新聞部のバックボーンとして受け継がれていく。
 創立者たちに続き、安部弥太郎(28回)や中山剛吉(29回)、さらに30回の多彩な部員が伝統を引き継ぐ。第8号からは林寛(28回・通称リンカーン)作の連載マンガ「向陽君」も始まる。安部が編集人の第11号トップは「伸びゆく本校女性徒たち」で、女子高生151名への新聞部調査から「受験先は薬学・医学が多数、将来結婚しない者26名、本校男子は不親切で利己的」など、女生徒のホンネを引き出している。「主張」(論説)も「女生徒の自覚と男生徒」と題して、5年目を迎えた男女共学を成功させる道をさぐり、さらに校外から婦人少年局高知職員室森沢女史の談話取材も行っている。二面トップの「上位を占める全面講和」は、社研部による講和問題への高校生の意識調査で、政治問題にも果敢にいどんでいる。愛称パン子ちゃんで親しまれた英語・池田起巳子先生のアメリカ招待留学決定も報じられ、やがて「アメリカだより」が登場する。
 中山編集人の第12号トップは「座談会 生徒のための生徒会」だが、「生徒会活動は民主生活の第一歩」と論じ、別項の中学生徒会の活動では通称「オンカン道路」(梅ヶ辻から学校まで、中山駸馬先生の愛称)の交通整理に取り組むことなどが報告されている。美術部と新聞部共催の「校内展」開催と入賞者を東京に派遣する企画もあり、鎮西忠行先生の「東京へはだれがゆく?」を掲載している。県下を制覇した中学野球部の富田俊夫先生は「栄光への道をうち進まん」と檄文を執筆している。この頃、文化部・運動部とも大躍進をとげつつあった。堀詰座や高知中央公民館で開催された芸能発表会では、高塚準一郎の「俊寛」、西内総一郎(北村総一朗)の「煩悩無安(平維盛)」などが市民の間でも話題になった。北村が後に大活躍する素地は、この頃から培われていた。
 大町玄編集人(30回)の第15号は、「新生日本の出発に当たって」がトップ記事で、昭和27年4月の講和条約発効に当たっての大嶋校長メッセージを掲載している。この号には、山崎・岩谷など新聞部先輩による東京支局開設が報じられ、早速「先輩訪問記」で東京同窓会の世話役を務めてきた同学社近藤久寿治社長の探訪記が載っており、独力で出版社を起こした経緯や後輩への期待が述べられている。千原宏編集人(30回)の同年11月第17号は、トップに「全校舎ついに完成 これから内容の充実だ」の文字が踊っている。開校33周年・本館落成に合わせて、「開校記念碑文」の再評価を呼びかける記事も出ている。
学校・新聞の躍進と課題
 昭和20年代後半の新聞部にとっては、文化事業の展開も忘れることが出来ない。27年には応援歌を募集、河野伴香先生の詩が入選し平井康三郎(5回)の作曲で、後に甲子園にも響き渡る「青春、わかき、血潮はたぎる…」が誕生した。これに戦前からの校歌・向陽寮歌、創立三十周年記念歌を加えた「土佐中高 歌のアルバム」も29年の講堂落成記念に刊行した。同年「四国四県高等学校弁論大会」を開き、30年からは「先輩大学生に聞く会」を開始、31年には「小学館全国児童生徒図画作品展」を中央公民館で開催した。
 昭和27年にはスポーツ新聞『向陽スポーツ』も刊行、28年には前年に続く春のセンバツ野球出場に取材記者を特派、夏には甲子園準優勝で湧く。翌29年には軟式テニスも全国優勝をとげた。向陽新聞も高い評価をいただき、29年7月には第4回高校新聞指導教官講習会で、「高二Sホーム 生徒会廃止案提出」「英語に化けたホームルーム」を扱った第22号が全国優秀五紙の一つに選ばれた。新聞部出身者と、新聞出版関係に従事する卒業生によって「向陽プレスクラブ」も結成された。33年の大嶋校長逝去の際には号外も発行された。
 しかし校舎が完成し、進学での名声が定着、野球などクラブ活動が全盛を迎えるとともに、校内にはさまざまな「ゆるみ・ゆがみ」が生じ始めていた。やがて中学入試問題の漏洩と同盟休校という大事件が発生し、新聞部も真価が問われることになる。(以下次号)

<補記>創刊当時の事情については山崎和孝さんからメモをいただいたが、字数に限度があって十分には活用できなかった。いずれ、山崎・細木の両先輩から、このHPに寄稿いただきたい。また、占領下ならではの記事としては、第11号に「総司令部新聞出版課長インポデン中佐と安部新聞部長が懇談」とあるが、これも割愛した。昭和20年代の向陽新聞には、占領から独立への時代に揺れ動く戦後社会を反映した貴重な学園生活の記録が残されている。向陽プレスクラブの準備会によって向陽新聞バックナンバーの電子化が進んでいるので、ぜひこれらの記事を活用いただきたい。また、記事に出来ず胸の奥にしまい込んだままの事件も、いずれ紙面の背後から浮かび上がらせたい。(中城記)
  ページTOPに戻る

新生『向陽プレスクラブ』結成へのご案内 設立準備会 
土佐高新聞部OB・OGの皆様へ
夏の気配が間近に迫ってきているこの頃ですが、皆様にはご健勝でお暮らしのことと拝察いたします。
 さて、昨年、土佐高新聞部OB・OGの会である「向陽プレスクラブ」の再結成の提案があり、有志が集まって会則案の作成、名簿やメイル網の整備、ホームページの開設、向陽新聞のバックナンバー電子化などの準備を進めてまいりました。
 思い起こせば、「向陽プレスクラブ」は、昭和32年4月に「会員の親睦と母校の報道出版活動に貢献するため」に土佐高新聞部OB・OGによって創設されました。結成当時の土佐高3年生は、東京や大阪などの大学に在校する先輩の下宿に泊まらせてもらって、大学受験をするのが普通でした。東京で暮らす社会人や大学生である新聞部の先輩が、大学受験で上京する新聞部員の面倒を見て、大学に連れていったり都内見学をさせたりしました。大学へ入学してからは、下宿の世話をしたり親睦の飲み会を開いたりして交流を深めました。さらには、夏休みや冬休みには先輩が高知に帰った機会をとらえて、新聞部員と共にキャンプや新年会を催したりもしました。
 しかし、新聞部の先輩・後輩間の交流・親睦を柱とする「向陽プレスクラブ」の活動は、日本が高度成長期に入り、大学受験生がホテルに宿泊して受験するようになるに連れて下火になっていきました。2002年(平成14年)4月には、東京・新宿で久しぶりに会合が開かれ、新聞部出身者が25名集まり、今後は親睦・交流活動を活発に行うことを確認しましたが、その後、会としての活動はほとんど行われず現在に至っています。また、母校では昨年11月に新校舎が完成し、新しい歩みを始めているにもかかわらず、向陽新聞の発行は、昭和59年(1984)12月7日発行の第111号を最後に30年近く途絶えたままで、現在の母校には新聞部も文芸部も存在していません。このような現状を目の当たりにして、新聞部出身者の一人として、再び会員相互の親睦と交流を深める同時に、「母校の発展」と「情報関連部活動の復活」を願い、少しでも力添えできたら…と、新生「向陽プレスクラブ」の結成の呼びかけをさせていただきます。
【会の目的】
  @ 会員相互の親睦・交流
    ● 親睦・交流会の開催
    ● 名簿、連絡網の整備
    ● 会報の発行
    ● ホームページの運営
    ● 「向陽新聞に見る土佐中高の歩み」を制作
  A 母校発展への貢献
    ● マスコミ関連など各界で活躍する会員の活動報告やメッセージを在校生に発信
    ● 資料の保存・電子化(向陽新聞バックナンバー他)とホームページ掲載
    ● 土佐中・高の学校史編纂の働きかけ
      など、さまざまな活動が考えられるが、当面は親睦・交流会を通じて企画を練っていく予定です。
  発起人:
     細木大麓(27回)、中山剛吉(29回)、中城正堯(30回)、岡林敏眞(32回)、杉本健一郎(32回)、
     吉川順三(34回)、公文敏雄(35回)、丸山智子(35回)、森田隆博(37回)、黒木健司(37回)、
     岡林哲夫(40回)、藤宗俊一(42回)、永森裕子(44回)、中井興一(45回)、水田幹久(48回)、
     久保寛雄(51回)
 以下に記載の新生「向陽プレスクラブ」結成のための「総会・懇親会開催要領」をご覧くださって、是非ご出席下さるようお願い申し上げます。
  ページTOPに戻る

総会・懇親会開催要領 設立準備会 2010.06.15
1.開催日時等
 *日時・・・平成22年7月25日(日)
 *時刻・・・午後1時〜2時30分・・・・総会 (受付は12時30分より)
       2時30分〜4時30分・・・懇親会
 *懇親会会費・・・6,000円  年会費・・・2,000円(予定) 当日にご持参ください。
 *会場・・・アルカディア市ヶ谷(私学会館) 7階・妙高の間
       〒102-0073 東京都千代田区九段北4-2-25(市ヶ谷駅より徒歩5分) 電話03-3261-9921
2.議事
  1)設立準備会からの挨拶
  2)議長、書記の選出
  3)向陽プレスクラブ会則の制定(詳しくはここをクリックして提出案をご覧下さい。1〜2ページ)
   ・会の目的、会員、役員、総会・幹事会等について
  4)会長の選出
  5)役員の承認
  6)向陽プレスクラブ細則の制定(詳しくはここをクリックして提出案をご覧下さい。2ページ目最後)
   ・会の行う事業、会費の額、並びに会費徴収方法等について
  7)設立準備会よりの資産引継ぎ報告、初年度事業計画、予算計画
  8)その他
 
●会員登録、総会・懇親会への出欠はメニューの『会員登録』ボタンを押してフォームに御入力の上、自動送信してください。締め切りは7月10日です。
●経費節減、事務作業省力化のために、今後、連絡はできるだけメイル網、ホームページを使用して行いたいと思っていますので、連絡がつくメイル・アドレス(会社、携帯、御家族も可)をお知らせ下さい。また多くの仲間に参加、登録をお薦め下さい。
●お問い合わせはメイルポストから設立準備会まで。                  
  ページTOPに戻る

向陽プレスクラブ設立準備会議事録  2010.06.12
議長 岡林敏眞 書記 永森裕子
出席者 中城正堯(30回) 岡林敏眞(32回) 吉川順三(34回) 公文敏雄(35回)
岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 永森裕子(44回) 中井興一(45回)

1,会員名簿の現在の人数確認。現在約120名。名簿に、元の職業を入れるか等は本人に聞くことにする。 

2,会の方向性をどうするかについて。
 まず中城さんよりの話、土佐高への提言等は、行いたい者が行う。
 岡林さん、自由に参加、自由に意見を言う場である。
 公文さん、向陽プレスクラブ全体は、あくまでも言論の自由な発信、受信の場所である。場合によっては、向陽プレスクラブ有志、と言う発言もありうるが、今の所親睦と言論の自由な発信と受信の場との解釈で一致。

3,会則についての検討。
 当初、会則はもっと簡単で良いのでは(吉川)、会則に最低必要な物は名称、目的、会員、資格、役員、役員の選任方法、会則の改廃方法である(中井)等の意見が出たが、現会則案に沿って検討を行う。
 すべての「事業」という文言を「活動」に変更する。
 第7条をカットして、第20条7)会員の退会に関すること、とする。
 第12条1) 会長は通常総会を一年に一度招集しなければならない、とする。
 3)に、総会の案内は電子メール等によって行う、を挿入する。
 以下、第12条の小項目の順番が一つ増える。
 第13条と第14条は重複が多い、それをまとめる。
以上の案件は、すべて藤宗がまとめて訂正し皆に送る事とする。

4,会計
 中井興一氏担当。藤宗氏より、向陽プレスクラブの通帳を預かることとする。
 この通帳には、数年前に催した懇親会の残金、および先輩方よりの預かり金が残高として現在入っている。
5,総会、懇親会の要項の確認。
 懇親会費を6000円とする。
 年会費は、総会で決定するが(2000円予定)、懇親会費と共に徴収する。
 7月25日総会、懇親会の当日は、受付時間12時30分前に集合する。
  ページTOPに戻る

メメントモリで絵を描く 岡林敏眞 2010.04.20
自然との対話
 「さあて、今日はどこへ行こうかな」毎朝の散歩コースのことである。
 コースは三つほど決めてある。第一のコースは、桃山御陵を通るコース。桃山御陵には、明治天皇と昭憲皇太后(明治天皇の奥さん)の墓と、京都に都を遷した桓武天皇の墓がある。赤松や杉や檜などが生い茂っているので、真夏でも比較的涼しく歩ける。参道の砂利道は足の裏を刺激して健康に良い。砂利を踏みしめて歩き、帰りは乃木神社の脇を通る。第二のコースは、宇治川の土手を歩く。我が家から北へ五分も行けば宇治川に突き当たる。義経と義仲が戦った宇治川の合戦場から五〜六キロ下流の土手を歩いて一時間ほどで帰る。
 第三のコースは、JR奈良線に沿った遊歩道や竹林などをふらふらする道。結局は、その朝の気分でどのコースにするかを決めるのであるが、沿道の風物を頭に描いてそれを絵の参考にする。
 小川博工画伯の指導のもと絵を描きはじめて十八年になるが、季節の移り変わりに敏感になってきた。土手にスイセンが咲き始めた、もうすぐ春になるな、コスモスの茎が伸びてきたぞ、秋も近いなどと思いながら町中を歩く。家々の庭の花も日々移り変わる。しばしば花に目を近づけて、花びらの数や並び具合い、めしべのつきかたなどを子細に観察する。手で花びらの感触を確かめる。
 空を見る。地面に近い空は薄い青、だんだんと濃くなり、真上あたりは紺色になる。雲の様子も毎日違う表情を見せる。ついこの間は本当にまん丸い雲を見た。絵を描き始めるまでは、空をじっと眺めるなどは皆無に近かった。地面を何となく見ながら歩き、「雨が降りそうかな」と思うときの み、ちらっと空を見る程度。自然にほとんど関心を払わない日常が、キャンバスに向かうようになって、知らず知らずに変わってきた。花の群生を見ても、以前は「花が咲いてる。コスモスだな」 で終わり。直ぐさま別のことに目を逸らしていたが、群がって咲いている同じ種類の花々でも決して同じ表情をしていないことに気づくようになった。ピンクの色あいも微妙に違い、花びらの縁が欠けていたり、いなかったり、おまけに花顔がそれぞれに違う方向に向いている。自然の風物はそれぞれが個性的でありながら協調している。
 絵を描き始めて良かったな、と思うことは他にもある。それは旅行に出ても歩くことが多くなったことだ。スケッチをしたり自分の感性にあった風景を写真にとるには、ゆったりと歩くに限る。 どこへ行くにしても、一時間や二時間は歩くように心がける。これが健康にもプラスになる。観光や行楽に人が来るところではなく、じっくりと風物と向き合って、「自然との対話」がスケッチしながらできるところに身を置く。山の緑にしても同一の色合いをしていない。黙って見つめていると、木々はさまざまなことを語りかけてくれる。
 私は絵で「元気」「輝き」「希望」などを表現していこうという内的欲求をもっている。そういう内的欲求を満たすフォルムを見付けようと、散歩をしたりスケッチに出かけたりして自然と対話をする。これが、絵を描くようになって得ることができた「楽しみ」の一つである。
職場の枠を超えた仲間
 自然との対話という楽しみに加えて、描画自体を楽しむことができるようになったのは、10年以上も描画活動を継続でき、描画技術が向上した からである。「継続はカなり」というが、続けることで絵を描くために必要な技術面での上達がはかれる。技術面である程度高いレベルに達してはじめて、自分の心の内をキャンバスに描き表すことができ、「楽しみ」を感じるようになる。
 その点で、定年になってから「00でも始めようか」と一人で何かの趣味を持とうとしても、一つのことに注力して継続することはなかなか難しいのではないか。「今日は気分が乗らないから、明日からやろう」と、毎日が日曜日の生活では、やることを先延ばしにしてしまう。これでは技術的な面が伸びないので、やっても面白くない。楽しくないから他の趣味に切り替えて、また同じことの繰り返し。趣味のハシゴをすることになるのではないだろうか。
 私が趣味のハシゴをするのではなく、描画一筋を定年後に楽しんでいられるのは、描くことを楽しいと感じることのできる技術を定年前の10年間で身につけることができたからだとつくづくと思う。そして、それができたのは『画柳会』という仲間の存在があったからである。
 私が50歳になったとき、ある作家の出版記念会で出会った小川博工画伯に師事。有志を募って画柳会を結成した。会員は20名ほどであるが、半数以上は、いわゆる「第二の人生」を送っている人たちだ。現役時代の仕事はさまざまである。
 「画柳(がりゅう)」には「我流」という意味が込められている。自分流の描き方でよいから、コツコツと柳のようにしなやかに絵を描き続けることで、描画技術の向上と人生の充実を図っていこうという「志」をもった仲間たち、そして、この仲間たちが月一回の勉強会に集まり、お互いの描 画活動を率直に批評しあったり励まし合ったりして今までやってきた。職場の枠を超えた仲間との交流ができるようになったこと、これも絵を描き始めて新しく得た大きな「楽しみ」の一つである。
精神の開放
 このように絵を描くことで新しい楽しみを得ることができたが、何よりも「良かったな」とつくづく思うのは、ある種の「精神開放」ができたことと「今を充実して生きる」手段を獲得できたことである。
 精神開放とは何か?その一つは、絵の本質は上手か下手かで決まるものではないことが感得できたこと。須田寿画伯は次のように語っている。
 「美術に上下の区別はない、上手下手、いい感じかどうかはあるにしても、絵を描こうという志に上下の区別はない」
 また、「対象の外形が絵画にとっては本質的な要素ではなく、色彩そのものが心を揺り動かすものである」と述べているのはカンディンスキー。
 炎の画家ゴッホは弟への手紙で「ぼくが絵にかきたいのは、永遠に心にうったえかける色です」と書き送っている。こういう偉大な画家たちの言葉を発見して、私は非常に勇気づけられた。デッサンカがなく、対象物の形を精確に描写できない私には、とても絵なんか描けるものではないとずうっと思い込んでいた。しかし、この画家たちの言葉に接して、「絵は自分が感動したこと、愛情を持ったものを表に現したものなんだ。物の形をきちんと描けなくても、感動や愛情を色で表せばいい」と思えるようになってきた。「形をそっくりに描かないと絵でないのであれば、写真を撮ればいいじゃないか」と、開き直る気持ちになった。 他人に上手ねとほめてもらおうという気持ちを捨てて、自分に素直に向き合って自分の気持ちを表現するには絵は最適で楽しい手段であると思えるようになった。これが精神開放の一つ目である。
 二つ目の精神開放は、絵は「解る」ものではなく「感じる」ものであるということが感得できたこと。どんなに有名な画家の描いた絵であっても、自分が好きでなかったら素直に口に出していい。
 「有名な絵だから解らなくてはいけない。自分には絵こころがない」と恥じることはさらさらないと納得できて、絵を描くことも絵を観ることものびのびと楽しむことができるようになった。花の絵を見て「これは何の花をかいたのか」と質問し、風景の絵を見て「どこをかいたの」と聞く人は多い。それは、描かれた花の名前、風景の場所名を「解る」ことが絵を見ることだと思っているためではないのか。「絵が解るとは、いったいどういうことなのか」と悩んでいたときに、小林秀雄の『美を求める心』という講演録に出会った。小林は「絵が解るというのは、絵を感じることです。 愛することです」と大学生相手に講演している。
以下はこの講演の要約である。
 『諸君が野原を歩いていて、一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それはスミレの花だとわかる。何だ、スミレの花か、と思った瞬間に諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。スミレの花という言葉が諸君の心の内にはいってくれば、諸君は、もう眼を閉じるのです。
 スミレの花だと解るということは、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えてしまうことです。
 言葉の邪魔のはいらぬ花の美しい感じを、そのまま持ち続け、花を黙って見続けていけば、花は、 かつて見たことのもなかったような美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。絵は、画家が黙って見た美しい花の感じを現しているのです。花の名前なぞを現しているのではありません。美しい自然を眺め、或は美しい絵を眺めて感動したときその感動はとても言葉で言い表せないと思った経験は誰にでもあるでしょう。諸君は、何とも言えず美しいと言うでしょう。この何とも言えないものこそ、絵かきが諸君に伝えたいと願っているものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させるカがあるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵が本当に解るということは、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味わうことに他なりません。ですから、絵について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵が解った人とは限りません。絵が解るというのは、絵を感じることです。』
 この小林秀雄の評論を読んで、私は「これだ」 と胸をたたいた。絵を観ることは描いた画家の心を感じることなんだ。感じ方は人によってさまざま。だから、その画家の心に共感すれば、「私はこの絵が好き」だと口にすればいい。絵を描くということも、対象を上手にかくことではなく、対象を通じて感じたことを現すこと。私は、その感情を色で現すようにしよう。
 「絵は感じるものである」という、大げさに言えば悟りを得ることができたことが二つ目の精神開放である。自分の気持ちを素直に現す、それを見て人が何かを感じてくれる、それが絵なんだと思えるようになって、絵を描く楽しみがぐんと増し、生きがいにもなってきた。
死を想うから今が充実
 「生きがい」という言葉をよく耳にし目にもする。
 男は現役を退いてからの長い人生を生きていかねばならない。仕事一途の生き方しか知らないのに、これからは何を「生きがい」にしたらいいのだろうかという男たちの悲鳴が満ちている。一方妻たちは、仕事がなくなって抜け殻のようになった夫の面倒を見て一生を終わりたくない。「生きがい」 をもってこれからを暮らしたいと思う。2007年には団塊世代の定年退職が始まる。それと同時に、年金分割制度が始まる。定年とともに妻から離婚を申し渡される夫が増えるのは必至である。
 そもそも、男は定年とともに自分の過去を振り返る。自分のこれまでにやってきたことについて、いろいろと思いめぐらせる。そして、たいていの場合は後悔する。「あんなことをするんじゃなかった」「もっと他の生き方があったのではなかったのか」と、うじうじと思いめぐらす。あげくの果てには朝から酒を食らって速やかに廃人への道をまっしぐらということに……。
 私はそんな行き方をしたくなかった。しかし、私の人生には後悔ばかり。私が子ども時代に、戦争で夫を亡くした母が再婚をして、義父と母の間に挟まれていやな思いをさんざんさせられた。「こんな境遇からいっか抜け出したい。でも、なかなか抜け出せない」という不満をずっと抱えて生きてきた。「もっと良い人生があるはずだ」という、満たされない欲求を抱き続けていた故もあって、二度も離婚を経験。四人の子どもたちを捨てたという胸の痛み。私が定年を向かえて振り返った人生は後悔だらけ。しかし、後悔をしながら生きる定年後の人生はどうなるのかを考えたとき、未来 には何の実りもない。人生には後悔は無駄だ、と自分に言い聞かせたとき、ある言葉に出会った。
「メメントモリ」(MementoMori)、「死を想え」
 という意味のラテン語の格言だ。過去の歴史には、人間たちが元気だった時代とそうではなかった時代がある。十三世紀から十六世紀にかけてのイタリアは、すこぶる元気な時代だった。レオナルド・ダ・ヴィンチや、ミケランジェロなど美の巨人たちが活躍した。そのルネサンス時代の人たちは、書斎の机の上に大理石や骨で作った物を置いた。
 その置物には、「メメント・モリ」という言葉が刻まれていた。「死を想え」という言葉である。
 人間は死を想い描くことによって、いっそう強烈に「いま生きている」という実感を確認できるものなのだ。人生の真実はただ一つ。それは人間は必ず死ぬということ。しかも、その死はいつ訪れるかは誰にも解らない。いま健康であっても、つぎの瞬間には脳梗塞か狭心症で倒れるかも知れない。自分がいかに気を付けていても、明日には交通事故であの世へ行くかも知れない。一寸先は闇。
 そう想えば、今のこの瞬間を大事に過ごしたいという気持ちになってくる。後を振り返って落ち込むよりも、いつ終わるかも知れないこれからの人生を前向きに生きようという気持ちになる。 後悔の多かった人生だったからこそ、いつ死が来るかが分からないからこそ、これからの一日一日を充実して生きていこう。そう思うことで、私は元気になれる。その「元気」をキャンバスにぶっつけて、私は絵を描く。「元気」という火を死ぬまで燃やし続けて今を充実して生きるために、私は絵を描いている。
(おわり)2006年5月  ページTOPに戻る
土佐向陽プレスクラブ活動報告(高知) 岡林敏眞 2010.04.08
1)4月3日。10時土佐高にて三浦浩二教頭(45回生)に会う。新聞部OGの門田美和さん(38回生、今年3月まで土佐高の教師)も駆けつけて来てくれ、彼女とともに図書館に保存の向陽新聞を調査した。
 *保存新聞のリストは別紙。96紙が保存されていたが、劣化が進み紙面は茶色に変色。
 *三浦教頭の紹介で、池商店の専務・池 啓伸さん(49回生)が来校。池商店は土佐高に文房具などを納入している業者。彼が新聞などの電子化業者に連絡を取り、試験的に1紙を電子化すると共に、値段を調べてくれることになった。
2)4月5日。11時に小村(こむら)彰(49回生)教頭に面会すると共に、事務室で電子化した向陽新聞をパソコンで見る。写真撮影したものより、スキャナーで作成したものが鮮明であった。
 事務部の千頭(ちかみ)裕(58回生)さんがパソコンを操作してくれた。
 *電子化料金はスキャナーで1面で300円(税別)
 *ガラスの上に紙面を載せて、汚れを除去しながら25分〜30分の時間がかかる。
 *96紙の2面を電子化すると、96×2=192面×300円=57,600円
 4面の新聞もあるから,65,000円程度(税込)の経費がかかる。
3)4月3日午後、門田さんの車で土佐山田に行き、山崎和幸先輩に会う。新居に転居中で多忙だったがお元気であった。
4)4月1日、32回生の示野貞夫、森木光司に会う。両人とも向陽新聞は保存していないが、高知支部には極力協力をする。
5)4月2日に33回生の板原正伸に会う。高知市町内連合会、朝倉地区社会福祉協議会、朝倉まちづくりの会など、地域活動に取り組んでいる。向陽プレスクラブの高知支部の活動には積極的に協力するとのこと。
6)門田美和さんは、同じく38回生の岡本健治君に声をかけて、いろいろと活動をしてくれるとのこと。
【向陽新聞の電子化について】
 少々経費がかかるが、この際電子化したらと思う。会員全員が自由に閲覧できるし、土佐高にも永久保存に便利。費用は、とりあえず、準備委員(中城、岡林、杉本、吉川、公文、森田、黒木、藤宗、永森、中井鶴和)の11名が1万円ずつ出しておいたらどうか。会員への連絡費やHPの開設費用、総会会場の予約金など、いわゆる開点資金がかかると思う。中井君が開設した口座に振り込む。
 電子化をすることになれば、門田美和さんに動いてもらって進めることにする。
以上  ページTOPに戻る
なんで今ごろ報恩感謝 中城正堯 2010.04.08
 昨年(2000年)6月に『土佐中・高創立80周年記念誌』に、在校当時の思い出やこれからの土佐のあり方に関して何か書くよう浅井伴泰君から電話があり、学校の編集委員会からも依頼状が届いた。そこで「世界へ人材送る学校に」という題で、建学の精神が人材育成から報恩感謝にすり変わっている問題を指摘するとともに、海外の大学へ進学できるコースの新設をよびかけた。ここでは、建学の精神にしぼって、設立当時の資料をもとに私見を述べておきたい。

建学の精神は何だったのか
 2001年版の土佐中・高「学校案内」を見ると、相変わらず大きな文字で「報恩感謝の理念のもと社会に貢献する人材を育成することを建学の精神として創立されました」とある。また、80周年記念の高知新聞広告特集の「企画書」には「開校以来、報恩感謝の校是と文武両道の教育方員を掲げ」とある。幸い上村浩君が司会してくれたこの特集の座談会では「土佐中・高は学業もスポーツも、そして文化活動もという『文武両道』の校風のもと、個性豊かな人材を育て上げてきた」と述べてあり、報恩感謝など出てこない。文武両道は、校歌四番「それ右文と尚武こそ」に由来し、問題ない。
 では、そもそも土佐中の創設の理念、建学の精神は、どう謳われてきただろう。いつから「報恩感謝」などという矮小化が始まったのだろう。
 最も古い記録として、大正8年11月2日の『土陽新聞』記事がある。「土佐中学校創立目論見」の見出しで、「予科として小学五六年級を添附し七学級を置く」「一学年二十五人を限度とし俊秀者を集め無資力者は之に給費す」「学校全体を家庭的とし寄宿舎を設け成るべく全生徒を寄宿せしめ生徒をして田園生活に趣味を起さしむ」「職員以下小使に至る迄都て俊秀教育に趣味を有するものを選抜起用」とある。これは、初代校長三根円次郎着任以前だが、俊秀教育すなわち英才教育をめざし、その賛同者しか雇用しないと述べている。「生徒をして田園生活に趣味」というのも、時代を先取りしており、校舎・寄宿舎とも実際梅が辻の田圃のなかに建てられた。さらに、創立者である宇田友四郎、川崎幾三郎の伝記にも「国家有為の人材を養成することが其の目的」と明記してある。人材教育、英才教育という言葉も使われているが、報恩感謝は出てこない。『近代高知県教育史』にも、「英才教育を目的として大正九年二月に設立」とある。

初代三根校長の教育理念
 では、初代校長三根円次郎の掲げた教育理念と教育方針をみてみよう。昭和五年の学校要覧には、設立趣意書が載せてあり「高等教育ヲ受クルニ十分ナル基礎教育二力ヲ致シ修業後ハ進デ上級学校二向ヒ他日国家ノ翅望スル人士ノ輩出ヲ期スルモノナリ」とある。やはり建学の目的は「国家有為の人材育成」であり、教育方針は「個人指導」「自発的修養」「自学自習」「自治」等となっている。生徒一人ひとりの個性と自律性を尊重しつつ入材の育成をめざす、画期的な教育であった。これは、当時東京府立一中校長川田正徴とともに、大正デモクラシー時代の全国中学教育をリードした三根校長ならではの方針だ。報恩感謝の言葉などはここにもない。わずかに、美文で知られた大町桂月が父兄の依頼で選文した「開校記念碑文」の中に、宇田・川崎二氏をたたえて「国家に尽すは二氏の恩に報ずる也」とあるにすぎない。
 川田校長をちょっと紹介しておくと、高知県出身で府立一中校長として中等教育界に君臨し、宇田・川崎二氏への三根校長紹介者でもあった。大正二年四月から、一年二か月にわたって欧米の教育事情視察に出かけ、イギリスのイートン校、ハーロー校に感銘をうけ、府立一中を「生徒が自分の行動に責任を持ち、生活に責任をもち、しかも紳士的で、未来を背負う人材をつくる学校にしよう」(『日比谷高校百年史』)とした。一中から日比谷高へ続く自由闊達な校風を築いた名校長であった。
 この川田校長の最良の同志が、帝国大学(東大)哲学科出身で「有志全国中学校長会」会長の任にあった山形中学校長三根円次郎であった。三根が会長として起案した「中学教育上(第一次)大戦後特に注意すべき事項」には、すでに「自学自習の気風を馴致すること」「個性教育に重きを置くこと」がうたってある(『山形東高等学校百年史』)。三根の教育者としての信念を示すエピソードは、大正七年に赴任した新潟中学でのスト事件である。赴任直後に新潟高校の新設が決まり、三根は進学準備の特別授業を始める。ところが反発した生徒が同盟休校をおこし、退学者が出る。その後、大正九年に人望を回復しないまま、土佐へ行く。ところが後になって、「実はこの退学生徒の転学先について、何日もかけて県内各地の中学を回り、熱心に奔走したのは三根校長自身だった」ことが判明する(『新潟高校百年史』)。土佐中時代も、失明しながらも卒業生の大学での学業、就職先から左翼運動とのかかわりまで案じ、さまざまな救いの手をそっとさし伸べている。生徒達に「報恩感謝」の念を強要するような姿勢は、微塵もない。
 三根校長の先見性や、グローバルな感性は制服でも見られる。一回生の森岡清三郎先輩は、こう述べている。「制服が出来るということになり、東京府立一中の型、ネクタイ折襟のものを中沢に着せた。これはよいと喜んでいたが、きめられた制服はつめ襟で、皆がっかりした」(『創立五十周年記念誌』)。背広は値段が学生服の倍かかるため、やむをえず断念、霜降りの詰め襟学生服になった。日本の学校での制服は、明治12年に学習院が海軍士官型の制服を導入したのに始まり、軍国主義とともに広く普及した。襟の白線も軍の階級章をまねたものだ。土佐中では、二代青木勘校長が前任校の愛知一中にならい、他校との差別化のために導入した。挙手の礼など軍事教錬の強化に反対、配属将校との激論がもとで急逝したと伝えられる三根校長なら考えられないことだ。国際化時代のいま、黒い学生服に白線は全く陳腐だ。三根校長の当初の意図どおりの背広に、早急に変更すべきではないだろうか。

21世紀を迎え活発な議論を
 話を戻すと、土佐中・高の歩みの中で「報恩感謝」を強調したのは、われわれが在籍した三代大嶋光次校長時代である。クラス名のHOKSも、報恩感謝に由来する。しかし、宇田・川崎両家や、父母の恩への感謝を説いても、建学の精神が報恩感謝とはいっていない。四代曽我部清澄、五代松浦勲両校長はともに母校出身だけに、きちんと建学の精神はおさえていた。曽我部校長は、創立五十周年の式典で「本校教育の基底をなす〈人材育成〉とい う根本理念は創立以来今も変わりございません」と述べている。もとより、建学の精神が時代に合わなくなれば、新しく校是や教育理念を制定するのは可能であり、非難すべきではない。しかし、建学の精神は勝手に変更できるものでないし、土佐中に関してはその必要もない。それに、今ごろ「報恩感謝」を持ち出すセンスが理解できない。この言葉にあこがれて生徒が応募するとは、とうてい考えられない。現在の校長は大嶋校長同様に母校出身ではないが、教頭以下母校出身の教職員は数多くいる。理事会や同窓会ともども、なぜ問題提起しないのか、不思議である。私学をめぐる経営環境が厳しさを増すなか、魅力ある教育理念を社会にきちんとアピールし、学内が一致してその実践に当たらねば生き残れないことは、いうまでもない。今一度、大正八年の「土佐中学校創立目録見」はじめ、設立当時の文献を全職員で読み返してほしい。また、報恩感謝がそんなに重要なら、学校が範を示し、学校案内や同窓会名簿などで、広く創立者・初代校長の人柄、教育理念を知らすべきだろう。御遺族との連絡も密にすべきだ。ところが名簿一つとっても、初代校長の御遺族すら空欄のままである。御次男は健在であり、80周年式典には当然御招待すべきであった。公文先生の御遺族も記載がない。恩師の御名前のミスも目立つ。これで報恩が校是などといえるだろうか。  最後に、建学の精神がきちんと伝わってない主要な原因に、創立八十周年を迎えながら、いまだに学校史が編纂されていないことがあげられる。これでは、母校への誇りを確かなものにすることも、大正自由教育における母校の素晴らしい実践例を教育史にとどめることもできない。学校当局が早急に対応するとともに、このような問題に関しての校内職員の積極的な議論を期待したい。
2001年6月1日発行『うきぐも』18号(30回生Oホームクラス誌)より  ページTOPに戻る
向陽プレスクラブ再結成準備会 議事録  2010.03.31
議長 岡林敏眞     書記 永森裕子
1.日時 平成22年3月19日(金) 12時―16時
場所 ホテル青葉台フォーラム レストラン ラ.ポワール
2.出席者 
 中城正堯、岡林敏眞、杉本健一郎、吉川順三、公文敏雄、森田隆博、
 黒木健司、藤宗俊一、永森裕子
3.中城より発足の趣旨等挨拶。
その後、今後に向けての議論。
将来、向陽新聞史を作成する。学校にも働きかける。まずは中城より80周年の際つきあわせた向陽新聞の資料の件を池上校長に問い合わせる。
四月に、岡林、黒木がその件で土佐高を訪問。その際38回門田美和氏の協力を仰げるか永森が連絡。
 会費を3000円徴収する。
年二回位会報を発行してはどうか。
 親睦会を年一回開催する。
 関東支部会報誌の筆山に、「向陽新聞にみる土佐中・高の歩み」を連載できるよう筆山に依頼。永森担当。
4.向陽プレスクラブ役員について
  代表 30回 中城正堯  
  顧問 27回 岡林幹雄、 29回 中山剛吉
  運営委員 32回 岡林敏眞、32回 杉本健一郎、34回 吉川順三
       35回 公文敏雄、35回 丸山智子、37回 森田隆博
       37回 黒木健司(高知担当)、38回 柘 万利子、
       40回 岡林哲夫、41回 鶴和千秋 43回 笹岡峰夫
  運営委員兼事務局
       42回 藤宗俊一(ホームページ担当)
       44回 永森裕子 書記担当
       45回 中井興一 会計担当
  ページTOPに戻る
記事募集中

過去の記事

2010/04/01-2010/07/25設立総会まで
2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで
2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで
2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで

土佐向陽プレスクラブ