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2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで

2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで    2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 
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2019.04.04 水田幹久(48回)  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2019.04.11 北村章彦(49回)  4月27日KPC総会案内
2019.04.15 二宮健(35回)  地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4
2019.04.27 水田幹久(48回)  向陽プレスクラブ2019年度総会議事録
2019.04.28 坪田順昭(35回)  高校時代の思い出と内科専門医試験
2019.07.02 公文敏雄(35回)   「鬼の霍乱」
2019.07.02 中城正堯(30回)  惜しまれるフレスコ画研究の中断
2019.07.02 山本厚子(作家)  6人組のカラオケ・リーダー
2019.07.02 藤宗俊一(42回)  Ciao Bella(さよなら美人)!
2019.07.02 井上晶博(44回)  松本(旧姓)さんの思い出
2019.07.15 中城正堯(30回)  合田佐和子展 -友人とともに-
2019.07.31 竹本修文(37回)  世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」
2019.08.29 鍋島高明(30回)  「相場の神々」について
2019.11.21 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その1〜
2019.12.09 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その2〜
2019.12.23 公文敏雄(35回)  有難い先輩でした
2019.12.23 中城正堯(30回)  ジャーナリスト魂を貫き新聞協会賞
2019.12.23 久永洋子(34回)  また会う日まで
2019.12.23 河野剛久(34回)  伊豆・大室山の麓での三日間
2019.12.23 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その3〜
2019.12.23 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その3〜
2020.02.03 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その5〜
2020.03.07 中城正堯(30回)  花だより
2020.03.09 水田幹久(48回)  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2020.03.10 北村章彦(49回)  4月25日KPC総会案内
2020.03.15 公文敏雄(35回)  「土佐中学を創った人々」2000部増刷
2020.03.22 中城正堯(30回)  「破天荒・感涙のサハラ!」と話題

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
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向陽プレスクラブ幹事会議事録
水田幹久(48回) 2019.04.04
議長 北村章彦幹事長(49回)  書記 水田 幹久
1.日時 2019年3月8日(土)  18時30分〜21時
2.場所 ビッグエコー東京八重洲店
3.出席者 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回)中井興一(45回) 
      水田幹久(48回) 北村章彦(49回)坂本孝弘(52回)  以上7名
  委任状 山本嘉博(51回)
4.北村章彦幹事長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
なお、本幹事会は出席者7名、委任状提出者1名 の8名の参加があり、構成員(10名)の過半数に達しているので成立したことを確認した。

 1.2017年度総会について、下記の要領で実施することに決定した。
   日時:2019年4月27日(土)
   場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」 港区新橋4-14-7 TEL:03-3432-5666
   URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
    
 2.総会議案について
   1) 2018年度活動報告 : 幹事長配布資料の通り報告することに決定した。
(年会費納入状況、高知支部懇親会等一部訂正あり)
   2) 2018年度会計報告 : 中井会計配布資料の内容を確認した。
    本幹事会から期末までの間に入出金がある場合には、これを追加して、総会に報告する。
   3) 2019年度活動計画案、予算案 : 幹事長配布資料に以下の修正を加えて、総会
   に諮ることに決定した。
   ・2019年度9月、3月の幹事会は会員交流の場となるよう、拡大幹事会とする。
   ・高知支部懇談会は11月(予定)で実施する。
   ・予算案は配布資料を参考に総会までに作成する。
   
 3.その他の審議事項
    1)100周年記念事業への参加について
     クラブとしての参加はしないが、会員各々が個人として協力する。
   2)「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について
    公文会長よりの提案(提案資料に基づく)について審議した結果、以下の通り決した。
    ・増刷し(2000部予定)、在学生・職員等に配布すること(来春予定)、並びに関係送料を当会が負担することは了承。
    ・増刷費用の一部(提案では40万円)を当会から支出することは採択しない。
    ・本配布活動は、会員有志による活動とし、当会による活動とはしない。
   3)母校100周年記念誌企画への協力呼びかけについて
    公文会長からの提案があり、同事業へ有志による参加・協力を会員に呼びかける
ことについて了承。
   4)新年度の役員改選について協議した。
以上
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4月27日KPC総会案内
北村章彦(49回) 2019.04.11
会員各位
 名残の桜もありながら、新緑の美しい季節になりましたが、会員の皆様にはますますご清祥のことと存じます。
 さて、3月8日の幹事会で承認いただきました本年度の向陽プレスクラブ総会を以下の日程、場所、会費で行いたいと存じます。
 なお、出席、欠席および議事委任のご連絡を4月20日までに返信にてお知らせ願います。
 遅ればせながら総会資料を添付してお送りいたします。よろしくお願いいたします。

日時:2019年4月27日(土)17:00〜17:30 総会  17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7  TEL:03-3432-5666
    URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
懇親会会費: 5000円

議案 ……詳しくは会員のページで2019年度総会決議事項(PDF版)をクリックしてご覧下さい。(pdf版)
 議事1  本年度(平成30年4月〜平成31年3月)事業報告    
 議事2  向陽プレスクラブ2018年度会計報告    
 議事3  平成31年度 向陽プレスクラブ事業計画    
 議事4  平成31年度 向陽プレスクラブ予算案    
 議事5  役員選挙    
 議事6  その他の審議事項    
   ・100周年記念事業への参加について    
   ・「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について    
※また、本年度の会費2000円の納入をお願いいたします。
総会に持参あるいは向陽プレスクラブの口座への振り込みでお願いいたします。
振込口座:?みずほ銀行 渋谷支店(210) 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ
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地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4
二宮健(35回) 2019.04.15


シチリア地図
 さて、最近タオルミーナが世界の注目を集めたのは、2017年(平成29年)の5月に行われたタオルミーナG7サミットであろう。(写真@)

写真@2017年タオルミーナでのG7サミット
日本からは安倍首相が6回目の首脳会談としてG7に臨んだ会議である。
 旅の6日目、12月6日(金)、今日も快晴である。タオルミーナの街は世界中でも最も魅力のある街として知られている。人口は1万2千人位の小さな街であるが、この街のことをこの章では語ってゆきたい。

写真Aタオルミーナの街
 極言すれば、この街は徒歩で1時間も散歩すれば、その中に古代、中世、現代が混在している世界中でも稀有な街の一つである。街はタウロ山の中腹、標高約200メートル位の所に位置している。(写真A)眼前には、紺碧のイオニア海とシチリア島のシンボルである雄大なエトナ山を見ることができる。
 前日宿泊の際、チェックインが遅くて、ホテル周囲の景色が定かではなかったが、宿泊したホテルのエクセルシオールホテル(四ツ星)(写真B)の前庭には先月のエトナ山噴火での火山灰がまだ残っており、その庭から前面に雄大なエトナ山の噴煙と山容が、晴天の下、くっきりと望まれた。(写真C)

写真Bエクセルシオールホテル

写真Cエトナ火山

写真Dタオルミーナの小さな商店
 タオルミーナには、「カターニア門」、「中央門」、「メッシーナ門」という三つの門があり、これらの門はすべてが目抜通りの「ウンベルト1世通り」にある。目抜き通りとは言っても、約1キロの一本道で、車が通れるのはこの通りへ荷物を運ぶ車のみが朝9時半まで許されているだけであり、一日中ほぼ歩行者天国である。この通りは、世界中の人々が訪れる有名な通りである一方、通りから一歩横道に入ると、店のインテリアも美しい小さな商店がひっそりと佇んでいる美しい通りである。(写真D)
 先ず我々は最初に、「ギリシャ劇場」を訪ねた。劇場跡であり、周囲に広がるパノラマが素晴らしい。紀元前3世紀の創建と言われ、やはりシチリア島のシラクーサにある。ギリシャ劇場跡に次ぐ第2の規模を誇る歴史遺産である。その景色の雄大さから(周囲に広がる大パノラマ)、平成29年に開かれたG7のタオルミーナサミットで各国首脳が一堂に会して記念撮影もされた場所である。(写真E)

写真Eタオルミーナのギリシャ劇場跡

写真Fタオルミーナウンベルト1世通り

写真Gサント・アゴスティーノ教会
 約40分間、記念撮影やガイドの説明を受けた後に、次に街の中にある、ガリバルディのタオルミーナ来訪を記念する、「4月9日広場」へ向った。この広場は、メッシーナ門から、カターニア門へ向うメイン通りの「ウンベルト1世通り」の中央に位置する展望の大変良い広場となっている為に、いつも観光客や地元の人で賑わっている。(写真F)この広場の名前の由来は、イタリア統一戦争中の1860年(日本では安政7年)4月9日、ガリバルディ―がシチリアに上陸したということを記念して、命名された(実際の上陸は5月9日)。この広場からは、広場の正面に1448年に創建されたサント・アゴスティーノ教会や、広場の側面のサン・ジュゼッペ教会(17世紀創建)などがあり、(写真Gサント・アゴスティーノ教会)又、時計台のある中央門がある。

写真Hタウロ山よりのタオルミーナの眺望
 この広場からは、エトナ火山や眼下にはシチリア島タオルミーナの海岸線が見渡せ、観光に疲れたら、広場のカフェでゆっくりと休憩も出来る。何ともいえない絶好の場所となっている。この広場から、タウロ山の頂上(標高397m)にある城塞まで階段で登れ、約1時間の道のりの途中には、聖マリア岩窟教会があり、素晴らしい市街の展望が楽しめる。(写真H)

写真Iサンドメニコパレスホテル
 又、忘れてはならないのが、ホテルサンドメニコパレスホテルである。タオルミーナの丘の上に建ち、眼下に海岸を望む素晴らしいホテルである。14世紀に建てられた元修道院で、19世紀後半に建てられた2つの宿泊棟から出来ており、各国元首や、要人、そしてまたシシリー島への映画撮影できた映画人やトップスター等が宿泊する、タオルミーナの迎賓館的なホテルである。私も自由時間に、

写真Jタオルミーナ大聖堂前の“ドゥオーモ広場”
約2時間程見学に訪れ、ホテル関係者に案内をしてもらったが、快く迎えてくれ親切に案内をしてくれた。本来なら宿泊する人しか入れない部屋も、J.T.B OBと身分証を見せると、いつも貴社より良いお客様を送客いただいており、ありがとうという言葉と共に、接客のプロとしての接しかたをしていただいた。(写真I)
 又、タオルミーナのウンベルト1世通りの西の端、カターニア門近くの大聖堂とすぐその前にあるドゥオーモ前広場も散策のついでに立寄りたい場所である。シチリアらしい風景を楽しむことが出来、安くておいしいカフェやレストランが近くに散在している。(写真J)
 さて少し話題は変わるが、シチリア島は映画の舞台となったことが何回もあって、私を含めて映画ファンには見逃せない場所でもある。又、マフィアでも有名な島である。これ等について少し述べてみたい。
シチリアを舞台にした映画を思いつくままに記してみても、
 ●「シシリーの黒い霧」:1962年製作・監督フランチェスコ・ロージでベルリン国際映画祭銀熊賞最優秀監督賞、原題は主人公の名前の「サルバトーレ・ジュリアーノ」(写真K)
 ●「シシリアン」:1969年フランス映画、シシリアマフィアを題材にした、ジャン・ギャバン、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ主演の映画(写真L)
 ●「山猫」:1963年のイタリア・フランス合作映画、ルキノ・ヴィスコンティ監督、第16回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞作(写真M)

写真K「シシリーの黒い霧」

写真L「シシリアン」

写真M「山猫」
 ●「ゴッドファーザー」:1972年アメリカ映画、1972年アカデミー賞作品賞、主演男優賞、脚本賞を受賞(「ゴッドファーザー2」、「ゴッドファーザー3」と続編がある)(写真N)
 ●「ニュー・シネマパラダイス」:1988年イタリア映画、1989年カンヌ国際映画祭審査員特別賞、1989年アカデミー外国語映画賞受賞(写真O)
 ●「グラン・ブルー」:1988年フランス・イタリア合作、フランスでのアカデミー賞にあたるセザール賞に多部門でノミネートされた(写真P)

写真N「ゴッドファーザー

   写真O「ニュー・シネマパラダイス」   

写真P「グラン・ブルー」
などなど、どれを見ても良い作品であり、帰国後にビデオで鑑賞し、旅の楽しみである旅行後の余韻に浸った。特に私は、「ニュー・シネマパラダイス」が好きである。又、「山猫」も、ガリバルディの活躍した時代背景を、豪華な配役とその時代風景を映画に反映させた秀作であった。是非皆さんもこれ等の映画で、シチリアの匂いを嗅ぎとって欲しいと思います。
 さてもう一方の、マフィアの件であるが、硬軟色々の著作があり、概要は御存知の方も多いと思うが、今でもイタリアに大きな影響を与えているようだ。この旅行中の12月5日付のイタリア紙には、シチリア島で、マフィア関連の難しい公判を指揮する主任検事へのインタビュー記事が掲載されていた。それによると、「マフィアは盗聴や諜報を駆使しており、1992年〜93年のようなテロが急増するかも知れないという。マフィアは今も、イタリア社会に強い影響力を持っている。かつて捜査・司法と全面対決し、判事の暗殺も相次いだ。マフィア『コーザ・ノストラ』の元ボス、トト・リーナは獄中から検事を脅迫する。アルファーノ内務相は、『最も深刻な課題。南部の発展を遅らせ、経済的自由への脅威だ』と述べた。」 〜イタリア紙ジアンニ・デルベッキオ編集長〜
 しかし、日本の暴力団のようにそれぞれが自他共にわかるような服装などは、一切マフィアはしていなくて、又、それを誇示し市民を脅迫するようなことは多くなく、もっと深部に潜み、一般住民の如く暮らしていると、現地の人は私に語ってくれた。それが実態かも知れない。
 シチリアの旅は色々と私に感動を与えてくれた。この旅は、12月9日(月)日本帰国をもって終了した。
 〜終わり〜
≪編集人より≫懐かしいシチリア紀行ありがとうございました。40年前、2度目のクリスマス休暇、一緒に過ごす相手もいなく、ヒッチハイク(国鉄の運転席も含め)で島内を駆け巡ったことを思い出しました。いいところです。それ以来訪れていませんが、まるで変っていない気がします。
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向陽プレスクラブ2019年度総会議事録
水田幹久(48回) 2019.04.27
1.日時 2019年4月27日(土)17:00〜18:00
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 濱崎洸一(32回)、公文敏雄(35回)、岡林哲夫(40回)、藤宗俊一(42回)、中井興一(45回)、水田幹久(48回)、北村章彦(49回) 計7名
4.公文会長が、議決権を有する出席者は7名、委任が7名であり、議決権を有する会員数23名中14名参加で過半数に達しており総会は成立と報告。
5.公文会長が議長代行に北村(49)回を書記に水田(48回)を指名し、以下、総会議案に従って北村(49回)が進行。
総会決議
1)2018年度事業報告
 北村幹事長から「平成30年度向陽プレスクラブ事業報告」に基づき報告。全員一致で承認。
なお、次年度からは年の表記を西暦に統一することとした。
2)2018年度会計報告
 中井会計担当幹事から「向陽プレスクラブ2018年度会計報告」に沿って報告。全員一致で承認。
3)2019年度事業計画案
「平成31年度向陽プレスクラブ事業案」を審議し、原案に次の修正を加えて承認。
 ・年度標記を「2019年度」に修正。以下、議案書の年の表記を西暦に統一する。
 ・項目Dに記載されている以下の文を削除する。
  「新年度の役員改選について協議した。」
4)2019年度予算案
 前年度と同様とすることを承認。
5)次年度以降の役員選出
・本総会終了時で役員全員任期満了のため、次年度以降の役員を以下の通り選出した。
会長 公文敏雄(35回)
会計担当幹事 中井興一(45回)
幹事 岡林哲夫(40回)、藤宗俊一(42回)、井上晶博(44回)、水田幹久(48回)、北村章彦(49回)、山本嘉博(51回)、坂本孝弘(52回)
以上

なお、本総会終了後に開催された幹事会にて、幹事互選により北村章彦(49回)が幹事長に選出された。

*決議事項の詳細と会費納入状況(中井氏作成)は会員のページに掲載してあります。ご確認下さい。
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高校時代の思い出と内科専門医試験
坪田順昭(35回) 2019.04.28

筆者近影
 私は1960年卒業の坪田です。卒業は今から60年くらい前のことであるから、はるかかなたのこととなります。
 最近総合内科専門医(日本内科学会)の資格を取ることができました。本来ならば、医学部卒業から10年から20年の間に研修医、レジデントなどを経過し普通に勉強して認定されるべき資格であります。その当時は認定内科専門医と言われ、内科のsubspecialityとしての位置付けで、消化器専門医や循環器専門医などと同格であり、必ずしも必須の資格と認識されていなかったようです。しかし時代は変わり内科専門医は新しい専門医制度の中で、基本的・中核的な位置付けとなり内科系の医師にとっては最初の必須の資格となり、それをとることにより、内科医として総合的に診療し色々な医療のシチュエーションで、指導的かついしずえとなるべきと内科系学会では主張されている。
 私自身の立場から言うと、1980-1998年の間は総合病院(公立学校共済組合九州中央病院)に勤務し、内科医長、検査科部長、第一内科部長などを歴任し、研修指導医、研修責任者としての職責を果たしていた。その間認定内科医、消化器専門医、肝臓専門医などは修得したが、内科専門医の資格は受験までの手続きが煩雑であったので、準備の時間がとれずにいた。かっての研修医や部下の先生方はそれぞれ研鑽をつみ、総合内科専門医やsubspecialityの専門医となり大学や病院その他で活躍されています。その後15年間(1998-2013)は大分県で地域医療に従事し、そのうち11年間は開業して診療所を運営していました。従って70歳になるまでは病院や地域の診療に没頭し内科専門医資格試験を受験するのに必要な勉強時間を確保したり、体力を保持することが出来ませんでした。2013年に福岡の自宅に帰りつき、内科専門医資格認定試験の受験資格が措置的に緩和されて病歴要約など提出免除されたので受験の機会に恵まれました。その頃より精神科病院の内科医に採用されて(週4日間の勤務)、受験勉強をする時間的余裕ができました。内科合併症の診療以外に、内科学会講演会・教育講演会、医師会その他の生涯教育講演会への出席、2,3の内科学教科書、イヤーノート等の通読をし、試験問題集で知識の確認と記憶を実行し、自分なりに猛勉しました。その結果5回目の受験で、あしかけ6年間の勉強のはてにやっと合格し、晴れて総合内科専門医に2018.12.10たどり着きました。
 そのことによって私は何を得たのでと考えたとき自分としては非常に大きいものを感じている。まず現在私は77歳であるが、認知症ではないと信じている。さらにこれからの10年間はup-to-dateの医療を実施できる能力があり、実行できるであろうと希望している。内科専門医である医師は大学、病院などの医療組織で幹部として活躍しているであろうが、これからの私はそのような立場にはならないであろうが、ほっとして九大医学部入学試験に合格したころの幸福感に浸っている。
 振り返れば土佐高校に入学したころの自分と縁あって向陽新聞部に入部したころを思い出します。懐かしい思い出と共に、色々な逆境を乗り越えて解決していける能力や経験が得られました。また忘れえぬ友人や先生方を思い出します。その時の私は大阪市の公立中学を卒業して、いわゆる編入で土佐高校に入学しました。最初にびっくりしたのは;中学校より進学した同級生は既に高校1年の授業は終了していたことです。従って高校2年のレベルで高校の生活がスタートしたことです。強烈なカルチャーショックでありました。例えば;ax2+bx+c=0を因数分解せよが最初の実力試験に出題されました。今までは自分は優等生であるとうぬぼれていたことがいっぺんに劣等生であることを自覚させられて、しばらくはぼーとしていました。その時同じ編入生である岡林(邦夫)君とは話が合いました。彼は色々なクラブに入部して友人を作り、知己を増やしておりました。私も彼に金魚の糞のように行動していたので、新聞部に入部させてもらいました。私は実力はなかったので新聞の記事を書かせてもらうことはありませんでしたが、一度公文(敏雄)君がほとんど書いた一面の下書きをしたくらいでした。新聞部に入部して、部員の方々男も女も自分の意見や取材したことなどを、討論しながら、主張して紙面に反映していくすがたにほんとうに感銘しました。私にとってその後の人生において、ポジティブに生きて、世の中に対処していく原動力を得られたように思います。その時の友人たちで今も思い出にのこるのは、岡林君、公文君、中西(降敏)君の諸氏である。岡林君と中西君は若くして故人となられて、非常に残念なことに思っている、岡林君については彼の追悼文集“四万十川”に少し触れているのでご参照ください。その後、公文君とは、私が米国留学(ローズウェルパーク記念ガン研究所でポストドックをした)とき、東京銀行のニューヨーク支店に勤めていた彼に色々お世話になり、その縁で、今も交流が続いています。
 その後、私は勉強法を根本的に改めました。英数国の三教科は中学1年の教科書の復習から始め、教科書の丸写し、丸暗記を実行し、自分の決めたカリキュラムを着実にやれることができました。学校の成績はいい点数は取れませんでしたが、高校3年の最終学期ではほぼ東大入試合格レベルまで達することが出来て、一年浪人して大学医学部(九大医、京都府立医大、三重県立医大etc)に合格しました。土佐高校の3年間、浪人中の1年間は生涯で一番勉強して、人生の基礎ができたように思います。向陽新聞で色々な卒業生の名前がでるとなつかしい気持ちになります。
 思い出すエピソード一つは、私が高校の1-2年の頃父の診療所が南国市久礼田にあったので、当時母の贔屓の倉橋歯科医院(土佐山田町)に母にいわれてむし歯の治療に通院していた時、倉橋由美子様がおられて、ご尊父の倉橋先生の手伝いをされていました。今でも思い出すのはやさしい微笑と佳人であった倉橋由美子様の面影です。当時の歯の治療は大変苦痛を伴うものでしたが、ご令嬢のお陰で無事に治療を終えています。
 同窓生各位のこれからの発展と健康を祈念し、土佐中・高校が発展し、継続することを希望します。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
 「鬼の霍乱」
公文敏雄(35回) 2019.07.02

故 永森 裕子 さん

筆者近影
 5年間にわたる病気療養の後、平成最後の月に永眠された故永森裕子さん(元KPC幹事・書記 44回生)について想い起こすままに書き記します。
 44回生の永森さんと9年も歳が隔たった私は、土佐校時代の彼女の様子には疎いが、彼女の存在感を彷彿とさせるKPCホームページの記事が印象に残っている。2014年7月31日付で44回同期の加賀野井秀一さんが執筆された『向陽新聞に見る土佐中・高の歩みH昭和41年(70号)〜44年(80号)』の序文である。
<錚々たる先輩方が執筆されているこの欄に、私ごときが起用されるなぞ思いもよらぬことであり、本来ならば即座にお断りするところ、他ならぬゴッド・マザーたる永森さんからのご命令。その上彼女が『鬼の霍乱』ときており・・・>とても抗えなかったと述懐している。
 「鬼の霍乱」とは、エネルギーの塊のようだった永森さんが突然病を患ったことであろう。実際、この直前の4月26日に行われたKPCの2014年度総会に、遅刻しながらも文字通り駆けつけてくれたのが、彼女を見る最後の機会となってしまったのは痛恨きわまりない。

2010年KPC設立総会にて
 ここに掲載の写真は、今から9年前、2010年7月25日に市ヶ谷の私学会館で行われた新生KPC設立総会の受付で働く永森さんのお元気な姿である。彼女は最初からKPC設立準備委員として活躍、何度か帰省して高知支部の立ち上げに一役買ってくれたし、向陽新聞バックナンバーCDの頒布にも汗をかいてくれた。毎年の総会・幹事会の書記まで快く引き受け、優に男8人分の仕事ぶりを見せてくれていた。
 紅一点の彼女がいない総会・幹事会となって久しいが、「遅くなってごめんごめん」と言いながら汗だくで会場に現れる彼女の姿が、つい先日のことのように瞼に浮かんでくる。今は、安らかに眠られんことを祈るばかりである。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
惜しまれるフレスコ画研究の中断
中城正堯(30回) 2019.07.02

2012年5月に加賀野井さんと
拙宅に来てくれた永森さん
 私とは、土佐高新聞部の先輩後輩の関係です。年令は十数歳離れていますが、永森さんが高校生の頃に新聞部の全国大会で上京してきたのが、最初の出会いかと思います。
 彼女がロンドンから帰国後、東京で国際児童図書文庫協会の活動を始めた時期に、新聞部OBOG会があり、再開してトータスにもお誘いしました。この頃、土佐高同窓会関東支部の会報「筆山」の編集長としても活躍しており、彼女の原稿依頼で駄文を提供したことでした。

2010年Frankfrtにて
(永森氏撮影)

 2006年秋から、1年半ほどイタリア・フィレンツェに滞在するので、しばらくトータスに出席できないとの話があり、それなら何かテーマを見付けて現地で調査し、帰国後に報告するようお願いしました。永森さんは、哲学美学修士を取得していただけに、イタリア各地のフレスコ画を探訪調査、2009年のトータスで見事な発表をしてくれました。これらの研究成果を論文にまとめる途中で発病したのは、大変悔やまれます。
 心からご冥福をお祈り致します。
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=永森裕子さんを偲んで=
6人組のカラオケ・リーダー
山本厚子(作家) 2019.07.02

筆者と故永森さん(2014年・清水由江氏撮影)
 平成最後の春は、寒い日が続き、近年になく美しい桜を見ることが出来た。6人組の和子さん、由江さん、そして私は四谷から市ヶ谷に抜ける土手を散策し、満開の桜が窓の外に広がる市ヶ谷のホテルでランチをした。「裕子さんがいたらね・・・」と、話題はもっぱら裕子さんのことであった。「花見」は寂しいものであった。
 その週末、私は京都で開かれる会合を利用して、絢爛豪華な古都の桜を堪能した。高瀬川沿いの桜並木は、私に森鴎外の作品を思い出させた。足は清水の二年坂の香木屋で止まり、桜香のうちで華やかな「八重桜」を買い、帰宅後毎日それを炊いていた。
 「平成31年4月2日、永森裕子さん永眠、享年68」という訃報が私の手元に届いたのは、街角の樹木の緑が濃さを増した日で、元号は令和になっていた。裕子さんは、天国への旅の途中で私たちのところに立ち寄ってくれたような気がした。仲良し6人組で過ごした日々の思い出をきっと天国にもっていったにちがいない。「大阪マンボ」でも口ずさみながら「ひと足お先にね・・・」と愛くるしい笑みをうかべて言った気がする。
 永森裕子さんと私が出会ったのは、「トータス21」という会であった。「21世紀、陸亀のように力強く地球を歩きまわる・・・」という趣旨の会で、国際的に活躍する会員が次つぎと発表する。懇親会がとても楽しく、ひとり、またひとりと仲良しの輪が広がっていった。この会の主宰者は土佐高校出身の中城正尭氏で、裕子さんの先輩であった。会には土佐出身の会員が数名いた。裕子さんはロンドンで子育てをし、イタリアのフィレンツェに滞在して古い教会のフレスコ画に興味を持ったようである。また、子供の言語に関心を示し、国際児童文庫協会に所属し、会長も務めていた。
 「トータス21」は2010年10月、36回目の発表をもって閉会した。その前年の10月、「フレスコ画のある街」=イタリア滞在記=というタイトルで彼女は沢山の写真を使って発表した。トスカーナ地方の古い教会のフレスコ画が次つぎとスクリーンに写し出され、大変興味深い発表であった。「ルネッサンス期のフレスコ画の再評価、保存状態の悪い教会・絵画の修復が行われている・・・」という発表を聞き、「まとめたら面白い本になるだろう・・・」と、思った。そして、彼女の背中を押してみた。
 やっと重い腰をあげて、「補足の取材をしてくる」と、裕子さんがイタリアのトスカーナに旅行したのは、発病する半年前であった。大学で日本文学を専攻し、「哲学美術」で修士課程を取得している、裕子の「フレスコ画研究」は突然中止となってしまった。取材報告を聞く前に闘病生活に入り、ついにまとまった形にならなかったことが、今、残念でしかたがない。

2011年・野町氏写真展の後のトータス21懇親会(右下筆者)
 「トータス21」の会の懇親会の後には、2次会、3次会があった。自然発生的に6人の女性が集まり、仲良しになった。年齢も仕事もまちまち、既婚者3名、独身者3名というグループが出来た。「6人組」と呼ぶようになった。共通点と言えば、グルメで美酒家、そしてカラオケで歌うのが大好きということだろうか。しかし、飲まない者1名、歌わない者1名がいたが、グループの調和には何の支障もなかった。
 和子さんは映像・舞台関係の仕事、歌うジャンルはシャンソン。由江さんはトルコの文化研究に夢中で連絡係り、そして中島みゆきのそっくりさん。裕美さんは中近東・シルクロードの旅人で聞き上手。一番歳下の恵子さんはトルコの専門家で、次つぎと演歌を熱唱。私はラテン・ナンバーを踊りながら歌う・・・という具合で、なんとも陽気で面白い仲間であった。頻繁に東京の夜の街に繰り出したものである。
 6人組の中で、裕子さんはカカオケ・リーダーであった。楽しいお店を探してくるのはいつも彼女であった。由江さんから「集合」の知らせが届くと、「はーい!と、全員が集まった。時間の経つのを忘れて、さわいだ。トスカーナ仕込みのワイン通で、イタリアの料理、ファッションにも詳しかった。時々は、話題はイタリア、トルコからスペイン、南米へと飛んで、比較文化論のような展開になった。彼女が故郷・高知で発病するまでの4年あまり、6人組はよく集まり、楽しい時間を過した。
 一番に思い出すのは、六本木の「フェスタ飯倉」での会だった。個室で懐石料理を食べながら歌える店だった。長い廊下に衣装とかつらが備えられ、歌の雰囲気に合わせて、各人仮装姿で歌い、最後は6人の合唱で締めくくった。あまりの楽しさに時間の過ぎるのを忘れ、最終電車やタクシーで帰宅したことが、昨日のことのように鮮やかに思いだされる。
 また、四谷・荒木町のカラオケ・バーでは、貸切りで、ママの手料理と各人が一品を持ち寄るという、ホーム・パティーであった。私は大きなスペイン・オムレツを持参した。のぶ子ママは、裕子さんの友人で、美声を披露した。
 2013年夏、裕子さんは高知で脳腫瘍が見つかり、すぐに高知医大で手術した。術後の経過がよく、翌年の1月には東京で会うことが出来た。6人組は裕子さんの住まいの近く、玉川上水沿いのレストランに集合した。全員が集合し、カレー・ランチであった。「6人組」の集まりは、これが最後となった。彼女は始終にこにこして、みんなの話を聞いていた。高知での治療と東京という「飛行機での通院」を実行し、「70歳までは生きたい!」と言い、病気には負けていなかった。

2014年カレーランチにて(右端が清水由江さん)
 由江さんがまめに裕子さんと連絡を取ってくれ、私とは高円寺でお茶したり、渋谷のホテルでランチもした。高知と東京を往復する闘病生活なのに、その行動力には驚かされ、感動した。渋谷の学生専用のようなカラオケ・ボックスで「島田のぶんぶん」、「大阪マンボ」、「渋谷のネコ」など、裕子さんの十八番を聞いたのが、最後のカラオケとなった。「今、天城越えを練習中よ」、天使のような笑みを浮かべて言った。
 その後、東京のご自宅で転んで足を骨折して、近くの病院に入院してしまった。やっと退院したのに、また家で捻挫し、ついに車椅子の生活となってしまった。由江さんと和子さんがお見舞いしてくれた。裕子さんとの交信は途絶え、故郷のケア・ハウスに入所したことが伝えられたのは翌年であった。自然豊かな故郷での闘病生活、「幼な馴染みの方がたのお見舞いがあるでしょう・・・」と、遠くから祈るしか出来なかった。その後4年余り、裕子さんは病気と闘い、お孫さんふたりの誕生も見届け、静かに天国へと旅立ってしまった。

2018岡豊川の畔で(永森氏撮影)
 元号が令和に移った6月、涙雨のようにどしゃぶりの夜、6人組は新宿の居酒屋に集合した。ささやかな「偲ぶ会」であった。お店の設定や連絡は、いつものように由江さんの係りだった。裕子さんの夫の永森誠一氏と土佐校の先輩の藤宗俊一氏も参加してくださった。永森氏が「遺影」として持参した写真は、満開の桜の木の前でお澄まし顔の裕子さんであった。大好きなワイン、ゴディバのチョコ、お菓子などが供えられた。お酒を飲みながら、裕子さんとの思い出話は尽きなかった。「きっと天国から降りて来てくれているわね・・・」と、誰もが思っていた。
 帰宅後、私は桜香「八重桜」を炊いて、妹分のようだった永森裕子さんのご冥福を心から祈った。「いろいろありがとう。安らかに!」  
合掌。

≪筆者プロフィール≫ 作家・元早稲田大学講師。著書に「野口英世 知られざる軌跡」「メキシコに生きる日系移民たち」「パナマから消えた日本人」「野口英世は眠らない」等。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
Ciao Bella(さよなら美人)!
藤宗俊一(42回) 2019.07.02

筆者近影
 たしか高一の頃(1963)だったと思うが、放課後部室で仲間とくだらないおしゃべりをしていた時、部室のガラス戸を引いて、小さな女の子二人が恐る恐る『あのう、新聞部に入りたいのですが……』と尋ねてきたのがなれそめだった。とても初々しくて、『かわいい子だなあ』と思ったように記憶している。即座に入部が決まり、先ずは見習いで先輩記者に同行して取材をしたり、原稿の清書など雑用をしてくれた。部長が面倒をよく見ていた気がするが、私は一緒に仕事をしたことが無く、しかも、すぐに引退したので、当時の記憶は定かではない。
 その後、三十年ちかくたった関東支部同窓会の懇親会の席上、背中をたたかれ『編集長、あたし覚えてる?』と声をかけられた。振り返ると、そこにはイタリアの下宿のおばちゃん(モナリザ)と見間違えんばかりの女性が微笑みかけていた。『え〜と……』。名札を見ると永森裕子と書いてある。『永森は同期の卒業生代表だった奴だけど、新聞部とは……』『永森の妻です。新聞部でお世話になった松本裕子です。』『え〜っ!』。変われば変わるもんだ!。訊けば、ダンナと一緒に英国留学中、淋しくて大食いしてしまった結果だそうだ。『酒呑童女と呼ばれるくらいお酒が好きで、そのせいでちっとも痩せないの』。むべなるかな。

1992年当時の『筆山』編集部……筆山14号より
 早速、当時編集長をしていた『筆山』に引き込んで手伝ってもらうことにした。なにせ、当時の編集員は戸田、岩村、鶴和、佐々木、内川、大和田等といった錚錚たる先輩方ばかりで、渋谷の事務所で編集会議をしても、『藤宗くん、後は頼んだぜよ』の一言でさっさと道玄坂の裏店へ消えていく。その状態が少しは改善されると思っていたのに……。
 彼女は、私が本業が忙しくなって24号を最後に編集長を辞めた後も編集委員にとどまり、52号(2012)〜55号(2013)の編集長も務めた。彼女の顔の広さは多岐に渡り、出版関係、美術関係、旅行関係等々いろんな飲み会に連れまわされた。そんな、忙しい合間をぬって社会人大学院にかよい西洋(イタリア)美術史で学位をとった頑張り屋さんでもある。その後、ダンナが法学部長を努めた御褒美に海外研究留学(2006〜2008)が認められイタリアへ行くのにくっついていった。

イサクの犠牲(Uffizi /Firenze) Caravaggio1603
しかし、なんでダンナ(政治学)と直接関係のないイタリアなの?しかもよりによってフィレンツェ大学なの?1976年以来、血のにじむような努力を重ねて高めた日本人の評価が一瞬のうちに崩壊してしまう恐れがあった。幸いにして、街が炎上しただの、通ったあとがグチャグチャだのと言った情報は届かなかったのでホッとしている。一年くらいして『工事先輩、あたしルネサンスを卒業してバロックに夢中なの。今、カラヴァッジョの絵を追ってローマにきているの。あのハラワタをえぐり出して絵の具にして、血のしたたるような筆遣いがたまらないの!』と絵葉書が届いた。相変わらず精力的に活動しているなと感心した。

2007年Londonにて(永森氏撮影)
 『Ciao Bella(よう美人)!』 『Ciao Maestro(あら巨匠)!』の挨拶で再び親交が始まり、一緒に楽しいお酒を飲んでいたが、2012年秋頃から頭痛を時々訴えていた(ダンナの弁では『いろいろ能力以上のことをやりすぎて、脳も体もついていけなくなっているか、くらいに思っていた。それから、「頭痛がひどくなった」ということではなくて、もっと単純にね歩けなくなった、動けなくなった、話ができない、というような症状だった』)。
 2014年夏、帰高した際に同期の高知医大の元院長に助言を受け、総合診療科で検査を受けたら、ソフトボール大の脳腫瘍がみつかり、そのまま入院、摘出に至り、『Stage4で余命半年』と言われたそうだ。退院後も川向かいのケアハウス『たんぽぽ』に入所し、最後は終末期病棟に移り今年4月2日まで頑張った。その間に初孫にも出会えたのは、ひとえにダンナの献身的な看病のおかげだと感じ、ただひたすら頭が下がる。きっと彼女も感謝しているだろうし、幸せな最期だったことと思う。入所先でお孫さんの写真に囲まれて穏やかに微笑んでいた姿が目に浮かぶ。
最後の状況はダンナのMailによると
 ………… 4月2日昼過ぎまでは、それまでと変わった感じはなかったんだが、夕刻に容体が急変して、そのままだった。最後の1時間だけ、ちょっと苦しそうで、かわいそうだった。
 これから東京に戻って、役所の手続をします。住民票は、まだ小平でね。   永森誠一
とのこと。

 あんなに好きだった東京に帰れなかったことを思うと切なくなる。心よりご冥福を祈っています。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
松本(旧姓)さんの思い出
井上晶博(44回) 2019.07.02

筆者近影
 何から書いていいのか、永森裕子さん・・・・私にとっては松本(旧姓)さんと言った方がしっくりきます。以下は追悼文にもならない、頭の片隅に残るあいまいな思い出になります。
 体調を崩し、それでもまだ元気な時に2度ほどお見舞いに行きました。その時は比較的元気で、持参したお菓子を一緒に食べてくだらないことを話したりしました。その後の闘病生活も同級生から聞いていましたが、迷っているうちにとうとう見舞いに行けませんでした。逝去の知らせを友人から聞いたのは亡くなってから数日後です。新聞で確認して茫然として「松本さんが亡くなったんだ」と独り言を言ったようです。妻が「何が」と聞いてきたので、事情を話しました。妻は彼女の妹さんと小学校の同級生で大変仲の良い友人でもあり、松本さんの事も知っていたのでショックだったようです。訃報を聞いたその日は親友ともいえる同級生が亡くなった日でもありました。今年に入って5人目の同級生が旅立った日でもあります。

44回生新聞部:左から中村恵子さん(高校入学の生徒です)
松本裕子(現永森)さん、加賀野井秀一君(現中央大教授)、
堀元治君、右の端が私です。このときの顧問の先生は、左が
田村尚子先生(この時結婚されて、姓が矢野に変わられたの
では?)、小松先生です。
 私自身の事を先に話すと、新聞部入部が高校1年になってからと遅くて、右も左もわからない落ちこぼれ部員でした。何とか部員としてやっていけたのは、諸先輩方や出来の良い後輩の助けがあったことは当然として、同じ学年の仲間である加賀野井君や中村さんそして松本さんたちがいてくれたからだとしみじみ思います。今になって、当時の向陽新聞を再読すると、記事の内容を見る前に発行人のところにある自分の名前に目が行き、いたたまれない思いになります。今考えると、もう少しましな割り付けができなかったのか、もう少し何とかなったのでは、との思いがあります。その当時、何とか曲がりなりにも新聞が発行できたのは他の部員たちの助けがあったから、という至極当たり前のことに気づきます。そんな時に思い浮かべる仲間の中に彼女がいました。
 松本さんについて考える時、具体的な思い出がない事に驚いています。例えば、新聞部で合宿に行ったこと。もう半世紀以上前の事で、記憶も定かでないところもあるのですが、1年の夏休みに新聞部で、「合宿」という名の「キャンプ」に行ったことがありました。2年の植田先輩か誰かが「新聞記事の書き方のイロハを教える」という名目での「合宿」と言われたような記憶がありますが、本当のところはどうだったのでしょうか。この時の高校1年生は松本さんを除いて全て1年になって入部したばかり新入部員。何かと迷惑を掛け、色々なフォローをしてもらったはずなのに、今思い出すのは彼女の色白な顔と明るく元気な笑い声だけです。考えれば考えるほど、記憶が定かでなくなります。彼女は本当に「合宿」に参加していたのか。新聞作成の編集会議、その他の打ち合わせ、印刷所での校正作業、いろんなことを一緒に経験したはずだし、東京で開催された高新連(全国高等学校新聞連盟)の総会にも一緒に参加したのに。改めて思い出してみると、彼女の記憶が少しあるのは新聞部を引退(何かえらそうな物言いですけど)した後、部外の同級生と一緒にどうでもいいような事や、大学の事、東京の事、等々の話をした時や卒業後居酒屋で飲んだ時の断片的な出来事の思い出です。そこには新聞部で一緒に過ごしてきた彼女とはほんの少しだけ違う彼女がいました。

2007年Londonにて(永森氏撮影)
 ずいぶん経ってから同窓会で再開した時の驚きは今でも憶えています。色白な顔は変わらないものの、豪快な笑い声と迫力ある容姿にしばらく声が出ませんでした(失礼)。ある同級生は淡い思いを持っていた彼女に向かい「これは詐欺や」と叫び、それに対してまた彼女が笑い転げる、という再会でした。次に彼女から連絡があったのは「向陽プレスクラブの高知支部を立ち上げるから、井上君やって」という電話でした。参加するとか、参加して欲しいとか、ではなく「やって」です。これが松本さんなんだ、と妙に納得したのを憶えています。申し訳ないことに、彼女に言われた支部の事は後輩に任せっぱなしになっています。 
 今年の同窓会は「卒業50年(本当は51年目に突入してますが)」と言う事で、華々しく開催するそうです。転校等で一緒に卒業できなかった同級生や中学1年から高校3年までの担任の先生にも声をかけているようです。
「松本さん、今年の同窓会はサンライズホテルで9月28日に開催です。みんなを誘って是非会場に来てください(合掌)。」
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合田佐和子展 -友人とともに-
中城正堯(30回) 2019.07.15
 合田さんの個展案内が届きました。
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 みうらじろうギャラリーより展覧会のご案内をさせていただきます。

「ニジンスキー、バラの精」
合田佐和子 2011
   合田佐和子展 -友人とともに-
   会期:2019年7月13日(土)〜28日(日)
   12:00〜19:00 月曜・火曜休(15日はオープン)

 みうらじろうギャラリーでは8回目となります今回の個展では、合田佐和子と交流のあった作家の方々にご出品いただき、合田作品とともに展示いたします。この機会に、より広く多くの方に合田作品をご覧いただくとともに、その奥深い魅力を再発見していただければと存じます。
 関連展示として、3階のみうらじろうギャラリーbisでは、1980年代のポラロイド作品を展示しております。

特別出品作家(五十音順、敬称略)
大西信之、桑原弘明、篠原勝之、建石修志、種田陽平、横山宏、四谷シモン
特別出品作品
 それぞれの作家の皆さんが、合田さんとの思い出や合田さんへの想いを作品に込めてくださいました。
詳しくは右記サイトでご覧下さい。 http://jiromiuragallery.com
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世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」
竹本修文(37回) 2019.07.31

筆者近影

第1章 序文 「何故ウエールズの城郭」なんだろう?

――向陽プレスクラブのNEWSに、「何故ウエールズの城郭」なんだろう?と思われる方々も大勢いるだろうと思うので、第2章の本題に入る前に関係する記事を二件紹介します。――

1.1  「コンウイ城と日本の姫路城が姉妹城になる」
                (英国放送BBCのニュース2018年6月17日 筆者翻訳 )

コンウイ城(Richard Hoare氏撮影)
 北ウエールズの城と日本の城が「姉妹城twinned castles」になる、英国にとってこのような関係を持つのは初めての事である。ユネスコ世界遺産に登録されているコンウイ城と姫路城は2018年7月6日にウエールズのコンウイ町で姉妹城になる覚書式典を開催する。
 北ウエールズ観光局の局長、ジム・ジョーンズ氏は、「姫路城はウワ〜ット驚くほど素晴らしい!!」と絶賛し、更に「姫路とコンウイの城はほぼ同時期に建設が開始されており、ほぼ年齢が同じなので姉妹関係を持つことにより相乗効果も期待できる。城が姉妹関係を持つことはウエールズでは初めての事だし、多分イギリスでも初めてだと思う」と述べた。
 北ウエールズ観光局によると、姉妹城の関係を築く事によって日本の観光産業と親密な連携を保ち、日本からより多くの観光客を北ウエールズに呼び込める、との事でウエールズ政府の支援もある。

姫路城(KANDA NORIYOSHI氏撮影)
 姫路城はジェイムス・ボンドの映画「007は二度死ぬYou Only Live Twice」の中で特殊部隊の訓練場として使われたそうである。
 姫路市長、石見 利勝氏がコンウイに来訪し、コンウエイ町の町会議員のサム・コットン氏と町役場で特別な式典を催し、MOU(Memorandum of Understanding)に署名する。
 姫路市長御一行は2019 National Eisteddfod(アイステズバド:ウェールズで毎年開かれるウエールズ語による詩人と音楽家の集い)に合わせてコンウイに四日間滞在し、コンウイ城を訪問して姉妹城祝賀パレードに参加し、学校を訪問したり交流を深める予定である。両者は教育や文化の面での活動も目指しており、素晴らしい友好関係の始まりであり、大きな機会である。

1.2  「英国ウエールズ ヨーロッパ100名城の旅」
                (城郭ニュース 2019年5月1日の抜粋紹介)
 公益財団法人 日本城郭協会では、前述1.1項の関連行事として、本年10月初旬にウエールズの7カ所の城を巡る旅行を計画しており参加者を募集している。筆者は日本城郭協会の会員で、評議員でもあり、英国は駐在を含め経験が多いので、訪問する城郭の情報を纏めてKPCの皆様にご紹介するものです。
 公益財団法人日本城郭協会は、〒141-0031 東京都品川区西五反田8-2-10-302、電話03-6417-9703
追記:日本側でも、姉妹城の締結式が姫路城で10月23日に行われます。是非多くの方のご参加をお待ちしています。

第2章 北ウエールズの城郭

――ウエールズ人はアイルランド人等と同じで先史時代に大陸から移住してきた文字を持たないケルト人の末裔であり、ラテン語のアルファベットを採用しているが綴りや発音は英語とは非常に異なる事を記しておきます――

2.1 北ウエールズの城郭
     世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」の概要 
――イングランド王家プランタジネット朝がケルト系ウエールズ人を破り、イングランドに併合した城郭群――
 世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」はウエールズ北部のグウイネッズ(Gwynedd)地方にあり、ボーマリス城(Beaumaris Castle)、ハーリク城(Harlech Castle)、カーナーヴォンの城と市壁(Castle and town wall of Caernarfon )、コンウイの城と市壁(Castle and town wall of Conwy )の四か所で構成されている。これらの城郭は、イングランド王エドワード1世が率いるイングランド軍が1282年に北ウエールズに侵攻し、グウイネッズの諸王に勝利して植民化して建設したものである。彼は新しい要塞としての城と共に壁で囲った街を建設し、イングランド人の移住者を住まわせ、征服した領地を統治させた。この征服・建設・統治の大プロジェクトはイングランドの財政を狂わせるほどだった。
 1294年には、メドック・アプ・ルウェリン(Madog ap Llywelyn) の指揮の下で反乱がおきた。コンウイ城とハーリク城は沿岸にあり、物資の補給が可能で持ちこたえたが、カーナーヴォン城は建設中で未完状態だったので襲撃された。その後、エドワードは建設作業を早め、更にボーマリス城の建設に取り掛かった。然しながら、エドワードは同時並行でスコットランドでも数々の戦争をしており、王家の財源を使いつくし工事のスピードが鈍化した。そして、カーナーヴォンとボーマリスが完成しないままで1330年までにすべての城郭都市群の建設は中止になった。

ウエールズ北部のグウイネッズ(Gwynedd)地方
 その後、15世紀初頭のグリンドゥールの反乱(Glynd?r Rising)や、15世紀末のバラ戦争(Wars of Roses)など数世紀に亘って内乱が起こった。1485年にプランタジネット朝が崩壊してばら戦争が終結し、チューダー朝になると、軍事中心ではなくなったが、17世紀になると英国王チャールズ1世の王党派とオリバー・クロムウエルの議会派の内戦が始まって、城郭都市は再び活用された。内戦の余波の中で英国議会はコンウイ城とハーリク城の破壊を指示したが、スコットランドの王党派支持者が侵入してくるようになって、カーナーヴォン城とボーマリス城は必要になり無傷のまま残った。
 17世紀末までに内乱は終結し城郭は荒廃したが、18世紀末から19世紀初めには芸術家達に人気になり、19世紀後半のヴィクトリア女王の時代にはこれらの城郭へのアクセスが改善されて訪問者の数が増えた。20世紀には英国政府は城と市壁の保護の為の投資を増化し、中世の文化資産を修復した。1986年には四か所の城と市壁を一括して、13世紀に建設された傑出した要塞と軍事建築としてユネスコ世界文化遺産として宣言し、現在はCADW(ウエールズ語で「ウエールズ文化庁文化遺産保護機構」の意味の略号)によって観光資源として運営されている。

2.2 カーナーヴォンの城と市壁(Castle and town wall of Caernarfon ) (EU100名城)
 ウェールズ語での発音は、「カイルナーヴォン」に近い。エドワード1世はイングランド王家の住まいとウエールズの抵抗を封じ込めるための本拠地として築いた。ウエールズ人は紀元前からいるケルト人の末えいで、イギリス中に広くいたが、ローマ軍に追われ、その後アングロ人などのゲルマン人、ノルマン人、そしてアングロ・ノルマンのイングランド人に攻撃され続けている。

カーナーヴォンの城と市壁(Castle and town wall of Caernarfon ) 

右端が要塞で左側に壁で囲まれた町があり、イングランド人を住まわせて北ウエールズを統治させた。

ウエールズ大公(Prince of Wales)

1958年カーナーヴォン城で
@ウエールズ人の王ルウエリン・アプ・グリフィズ(在位1246-82)はウエールズ大公(Prince of Wales)を自ら名乗った。
Aイングランド王ヘンリー3世時代にイングランド王の下にウエールズ人のルウエリン・アプ・グリフィズをウエールズ大公と認めたが、ルウエリンはイングランド王を過少評価した行動に出てヘンリー3世と息子のエドワード(後の1世)を激怒させ、攻撃を受ける事となった。
B制圧後ルウエリンは1282年に再蜂起したがエドワード1世に敗北し処刑(絞首刑・内臓えぐり・四つ裂き)された。エドワード1世はPrince of Walesの称号を息子(後のエドワード2世)に与える事でイングランドがウエールズを支配する事を明確にした。 四頭の馬を四肢につないで引き裂く事をQuartering[ 四つ裂き」と言うが、日本語では「八つ裂き]が正しいかな〜?
C以後700年間イングランド王大子(次期国王)がPrince of Walesである。写真右は1958年に現在のチャールズ皇太子がカーナーヴォン城で女王エリザベス2世から称号を与えられる儀式

<参考> 城郭技術の特徴・・・多角形の塔

カーナーヴォンの城……城壁を構成する塔が円形や四角でなく、
多角形であるのが特徴でエドワード1世が第8次十字軍時代に学んできたと言う

城壁の南西端のイエデイクレの要塞
 多角形の塔はエドワードが最後の十字軍に参加した時にコンスタンチノープルのテオドシウス2世の城壁の塔を見て参考にした、との記事があるが、城壁の塔は四角しか見たことがない。
 城壁の南西端のイエデイクレの要塞には多角形の塔がある。中を歩いたときは円形と思っていた。八角形(Octagonal Tower)はイタリアのカステル・デル・モンテや多くの教会にあるが・・多角形の塔は何角形だろうか?16角だろうか?

2000年前の古代ローマ時代の北ウエールズの地図ラテン語
現在のカナーヴォーンにはローマ軍の要塞がある?。

2.3 ハーリク城(Harlech Castle) (EU100名城)

ハーリク城(Harlech Castle)
 1282年〜1289年にカーデイガン湾に面した岩山の上にエドワード1世によって建設された。1294年には、メドック・アプ・ルウェリン(Madog ap Llywelyn) の指揮の下で反乱がおきたが、ハーリク城は沿岸に近く、物資の補給が可能で持ちこたえた。しかし、ヘンリー4世の時代の1404年に起きたオワイン・グリンドゥール( Owain Glynd?r)の反乱で落城し1409年にイングランド軍に再征服されるまでグリンドゥール軍の本陣となった。15世紀のバラ戦争では1468年にヨーク家軍が奪還するまでの7年間はランカスター家軍に占領されていた。また、17世紀のピューリタン革命戦争(English Civil War)ではチャールズ1世の国王軍が占拠したが、1647年にクロムウエル率いる議会派の攻撃に降伏し国王軍の最後の要塞となった。 <参考> ここカーデイガン地方の軍の指揮官がクリミア戦争で軍服の上に羽織った上着をカーデガンと呼んだ

ハーリク城鳥瞰

ハーリク城平面図

2.4 コンウイの城と市壁(Castle and town wall of Conwy )

コンウイの城(Conwy Castle )
 1283-1289年のウエールズ征服戦争の一環として、イングランド王エドワード1世が建設した市壁で囲まれた街とこれを防衛しつつ更なる侵攻の拠点とする要塞である。続く数百年の間数回の戦争で重要な役割を果たしてきた。1294-95年の冬メドック・アプ・ルウェリン(Madog ap Llywelyn)の指揮の下で反乱が起きてウエールズ兵に包囲されたがこれに耐えた。ハーリク城と同様に1404年に起きたオワイン・グリンドゥール( Owain Glynd?r)の反乱で落城した。1642年のピューリタン革命ではチャールズ1世の国王軍が占拠したが1646年にクロムウエル率いる議会派軍に敗北した。戦争の余波として議会派はコンウエイ城が更なる反乱軍の拠点に利用されない様に破壊した。最終的には、1665年に議会派軍は城郭に残っていた鉄や鉛を剥がして売り飛ばした。

コンウイの城と市壁(Castle and town wall of Conwy )

コンウイの城(Conwy Castle )平面図

コンウイの城(Conwy Castle )城壁

2.5 ボーマリス城(Beaumaris Castle)

ボーマリス城(Beaumaris Castle)と市街地
 ウエールズ本土からはメナン海峡で隔たったアングレーシー島で古代からドルイド教徒が住み着いていたが、ローマ軍に破壊され、その後もヴァイキング、サクソン人、ノルマン人と次々に侵略された。城があるところは、元々はヴァイキングの港だった。
 城の北約1マイルのLlanfaesという小さな集落がアングロ・サクソンに占領され、その後ウエールズ人が奪還していて拡大していたので、このままではウエールズ人が反乱を起こす可能性があった。
 イングランド王エドワード1世がウエールズ征服を進めている1295年に、北ウエールズ周辺にカナーボン、ハーリク、コンウエイなど一連の城塞群の一つとしてボーマリス城の建設を計画し町の開発が始まった。重要な事は本土と島の間のメナン海峡のコントロールであり湿地であっても海峡近くの平地が条件だった。当時のイングランドの貴族も建設技術者もノルマン・フレンチ人で、フランス語を話していたので、フランス語でbeaux marais即ち「美しい湿地」と呼んだことから、ボーマリス城と名付けられた。

ボーマリス城(Beaumaris Castle)平面図

ボーマリス城(Beaumaris Castle)鳥瞰

ボーマリス城(Beaumaris Castle)と市街地

<参考> 14〜15世紀の百年戦争は、アングロ・ノルマン人のイギリス王と、フランス王の争いで両者の指揮官はフランス語を話していたが、イギリス側は長い間フランスと戦っているうちにイギリスの兵士の言葉・・・古英語を話すようになり17世紀にシェークスピアが英語で戯曲を書いて大評判になり現在の英語に発展した。

第2章  ウエールズ南東部の城郭

――11世紀にイングランドを征服したイングランド王家ノルマン朝がウエールズに侵攻して領土拡大を狙った城郭――
2.1 チェプストウ城(Chepstow Castle)
 ウエールズのモンマスMonmouth州を流れるワイ川River Wye沿いの崖の上にあり、ローマ時代以降(AD400年〜)のイギリスで最も古い現存する城郭である。ノルマン軍が1066年にイングランドを征服した翌年の1067年にイングランドから更に西のウエールズに領地を拡大する目的でウエールズとの国境のウエールズ辺境地に沿って建設した一連の城郭群の最南端の城であり、ノルマン貴族のウイリアム・フィッツオズバーンが建設したものである。12世紀にこの城郭は、当時ウエールズにいくつかあった独立王国の内で南東部旧・州のグエントGwentを征服するにあたり活用された。そしてアングロ・ノルマンの最も強力な二人の貴族のウイリアム・マーシャルとリチャード デ・クレアーに所有された。しかし、16世紀までにはチェプストウ城の軍事上の重要性は衰え城郭の構造物は貴族の住居などに転用された。17世紀の(日本では)「清教徒革命」と呼ばれるEnglish Civil War の時には軍が駐留したが1700年代までには城は朽ち果てていた。後年の観光ブームで城は人気の観光スポットになった。

チェプストウ城(Chepstow Castle)鳥瞰

チェプストウ城(Chepstow Castle)外観

チェプストウ城(Chepstow Castle)平面図

2.2 カーデイフ城(Cardiff Castle)
 ウエールズの首都カーデイフ市の中心部に建てられた中世の城で、コッフォ城と同様のゴシック・リヴァイヴァル建築様式である。
 オリジナルはモット・アンド・ベイリー(Motte-and-bailey)様式の城で3世紀のローマ軍の駐屯地の中の要塞の上に11世紀にフランスから侵略してきたノルマン人が建設したものである。ノルマンの征服王ウイリアム自身か部下のRobert Fitzhamonが監督指揮し、中世の街カーデイフの征服拠点としたと言われている。
 12世紀には土盛りの上に石造りの円形の塔と重要な城壁を供えた城郭に作り替えている。その後の工事は13世紀後半にイングランド西端の6代グロースター伯が行ったものである。
 カーデイフ城はその後イングランドから侵略してきたアングロ・ノルマン軍とウエールズ人の戦いに巻き込まれ、12世紀には数回襲撃されている。また、1404年のウエールズ人のグリンドゥールの反乱(Glynd?r Rising)でも襲撃された。
 17世紀の(日本では)「清教徒革命」と呼ばれるEnglish Civil War の時には当初は議会派軍に占領されたが1645年王党派支持者に奪還された。

カーデイフ城(Cardiff Castle)鳥瞰

カーデイフ城(Cardiff Castle)鳥瞰

カーデイフ城(Cardiff Castle)外観

カーデイフ城(Cardiff Castle)鳥瞰

カーデイフ城(Cardiff Castle)外観

2.3 コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)
 19世紀に南ウエールズのTongwynlais村(カーデイフ中心部から北西に10.6km)に建設されたゴシック・リヴァイヴァル建築様式の城である。ゴシック・リヴァイヴァル建築様式は18世紀後半から19世紀にかけてイギリスで興ったゴシック建築の復興運動による様式で英国国会議事堂が代表的な例である。ネオ・ゴシック様式とも呼ばれる。
 最初の城は1081年以降にフランスから侵略してきたノルマン人によって新たに征服したカーデイフの街とそこから内陸に侵攻する為の街道の防御の為に建設された。その後は放置されていたが、13世紀に新しく征服した領地を護る為に城を強化する事になり、最初の城の塔の土盛りの基礎部(motte)を再利用して石造りの城郭として拡張された。しかし、1314年にウエールズ人反乱が起きて城は破壊された。
 その後約450年後にイギリスの第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート(John Stuart, 3rd Earl of Bute)が結婚を通して広大な領地を獲得した。今では結婚式などに使われている。ウエールズの首都に泊まるので観光協会のお勧めかな

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)遠景

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)外観

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)内部

コッフォ城内庭

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)遠景

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)鳥瞰

≪編集人より≫ 竹本さんが送って下さった原稿をHTMLに変換する際に、少し編集させて頂きました。印刷する際には 原稿を直接ダウンロードしてお使い下さい。
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発刊のご挨拶
「相場の神々」について
鍋島高明(30回) 2019.08.29

筆者近影
各位
長梅雨が明けたと思ったら、途端に酷暑到来で老躯にはこたえますが、皆様方にはご健勝 のことと拝察いたします。私は83歳を迎え腰痛に悩まされながらも人物史の発掘に明け 暮れております。土佐のいごっそうと全国に蝿鋸する相場師たちの足跡探しです。本書では 相場師を取り上げました。
獅子文六「大番」の主人公"牛ちゃん"(モデルは佐藤和三郎合同証券社長)が「もはや 相場師の時代ではない」といって兜町を去って早くも60年になります。過去の遺物ともい える相場師に拘り続けるのはなぜだろうか。
相場師たちは社会から冷たい視線を浴びながらも一撰千金を狙って繍(勝負)を競った。 彼らは儲けたい一心で市場に没入したが、その儲けを社会還元することを忘れなかった。私 腹を肥やすことに専念した連中は終わりがよくなかった。儲けた金を生かして使うか、どう かによって評価は定まる。
昨今の経済社会ではリスクを避けることが至上命題のように言われるが、リスクを冒し て利益を追い求めた男たちに限りない敬愛の念を禁じ得ない。

「相場の神々」  鍋島高明著 PanRolling社刊 B6版310頁
 本書に登場する相場師は8人、明治を代表するのは福沢桃介。福沢諭吉の婿養子で、ここ ぞという時を狙って出陣、巨利を占めて悠々と引き揚げる。勝負師とは勝った時に止められ る人のことである。勝った時、もっと勝ちたいという我欲を制御できるかどうかにかかって いる。桃介は利子配当を不労所得として忌み嫌い、相場による儲けを最も価値ある所得とし て大事にする。
大正時代を代表するのは田附将軍・田附政次郎。「知ったらしまい」「あまりものに値なし」 など数々の名言を残した。田附は北浜の相場師岩本栄之助の100万円寄付(中之島公会堂) に刺激されて京大に北野病院を寄贈、野村徳七に伝播し、彼は大阪市大に経済研究所を寄付 する。田附は相場師と呼ばれることに何の抵抗感もなかった。
昭和を代表する相場師はヤマタネ・山崎種二。「鞘種」とも呼ばれ「市場のごみ」と投機 師たちから"ゴミ"のように軽視される鞘を追い求め財を成した。まさに鞘も積もれば山と なる。ヤマタネはケチ種とも呼ばれたが、相場の儲けをどれだけ社会還元したか計り知れな い。熱海の海岸にある2代目「お宮の松」もヤマタネが寄贈したものだ。
天下の金貸・乾新兵衛、「ツケロ買い」の文次郎、"浪華のドンファン"小田末造は相場に 大勝、名妓照葉と外遊へ。理性と品格の栗田嘉記。r発明王」寺町博は相場をこよなく愛し 鎧橋周辺に惜しげもなく散財した。市場関係者にはまさに神様のような存在であった。
「先物寸言」には先物市場をよぎる多彩な顔ぶれが登場する。郷誠之助、鈴木一、上田弥兵 衛、永野護、益田克徳らの足跡を顕彰した小文である。東京商品取引所がJPXと統合する のを機に商品先物市場が再生への道を歩むことを願ってやまない。「先人に学ぶ」は日経新 聞に連載され好評をいただいた戦陣訓を収録した。
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往時茫々、中国の旅  〜その1〜
二宮健(35回) 2019.11.21

筆者近影
はじめに
 なぜ今、「41年前の中国紀行」なのか
 名実ともに世界有数の強国となった中国だが解放後、未曾有の国難といわれた「文化大革命」が終息したのが44年前の1976年である。2019年には建国70年を迎えた。(2019年10月1日)
 ケ小平の所謂、「四つの近代化」が緒に就いたばかりの1979年(昭和54年)に(令和元年から40年前)筆者、二宮健が見た当時の中国の姿を紀行文と写真で紹介してみる。二宮訪中10数回の最初の訪中である。題して「往時茫々、中国の旅 その1〜その5」として記述してみた。         令和元年11月
筆者 二宮健氏
昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年間在籍した準35回生。
旅行評論家・JTB OB会員。神戸市在住。


@毛沢東死亡を伝える号外
 1976年(昭和51年)10月に、張春橋、姚文元、王洪文、江青の四人組が逮捕された。その前月9月9日には、毛沢東が北京で死去している。(写真@)
 1978年(昭和53年)12月16日に米中が共同声明を発表して、1979年(昭和54年)1月1日から国交樹立を発表した。

A文化大革命中の壁新聞
 同じ1979年(昭和54年)12月6日に北京市革命委員会は、北京市「西単の壁」および他の場所への壁新聞を貼ることを禁止した。(写真A)
 さしもの文化大革命(1966年?1976年)の10年間の未曾有の政治的混乱が終束して、中国が「改革・解放政策」へ舵を切り始めた頃の1979年(昭和54年)、2019年(令和元年)からふり返ると40年も昔となる。筆者二宮にとっても“往時茫々”たる想い出が深い、まだ日本人の訪問観光客のほとんどいなかった時代の旅行記とその記録と写真である。

B1978年(昭和53年)
中国共産党第11期3中全会

C芦屋市友好訪中団
訪問・参観先
 この年1979年(昭和54年)私は兵庫県芦屋市友好訪中団を企画・立案して中国へ渡った。文化大革命が終息して、江青反革命集団が粉砕された後、中国中央党組織は、ケ小平の職務を回復し、1978年(昭和53年)末に中国共産党第11期3中全会を経て、改革・開放(写真B)政策の実行と四つの基本原則の堅持を確認した。現在の中国へと出発する転換期の時代であった。そんな時に訪中団の企画を立て、芦屋市に打診をしたところ、当時の市長松永精一郎さんや、芦屋市議会代表、任意参加の市民など16名の“芦屋市民友好訪中団”が結成された。令和元年(2019年)から40年前のことである。現在78才の私が37才の時である。代表団の大多数の方が、鬼籍に入り、帰幽されている。(写真C)の訪中団旅程図と訪問先、観光先の地図を見ながら、論を進めてゆきたいと思う。私は企画・立案者として、この15日間の旅行の公式随行員として、日本交通公社より派遣された。
 1979年(昭和54年)11月27日(火)から12月11日(火)迄の当時の中国各地での旅行の記録である。その頃は、中国を自由に旅行することは、日中共に許されてはおらず、日本側で企画・立案した旅行日程を、中国側に提示し、その後、中国側から招請状(インビテーションレター)なるものが発給されて、初めて訪中が許されていた。

D文革中の「紅衛兵」
のポスター

E華国鋒
 それも何度かに亘り、日本交通公社本社(東京)を通じて、中国側の当時の国営中国国際旅行総社(北京)と、旅程の調整を行い、中国側から提示された旅程に概略同意せざるを得ない情況であった。
 まだまだ当時発展途上国であった中国では沿岸部の大都市を除いた内陸地方では、ホテルは勿論、外来の賓客を迎えるための招待所(ゲストハウス)も無いのが、実情のようであった。現在の中国は習近平体制の下で経済大国としても発展し、GDPで世界第2位の実績を誇っているが、私が訪中した1979年(昭和54年)当時はケ小平が何回も文化大革命の中で(写真D)失脚と復活をくり返した後に、確固たる実権を握ろうとする時でもあった。我々の友好訪中団はその寸前の華国鋒が党主席の1979年(昭和54年)12月である。(写真E)
 時系列でみてみると、中国の指導体制は第一世代が毛沢東(写真F)、第二世代がケ小平(写真G)、第三世代が江沢民(写真H)、第四世代が胡錦濤(写真I)そして現在は習近平(写真J)の第五世代指導部と言われている。

F毛沢東中国共産党指導者(第一世代)

Gケ小平中国共産党指導者(第二世代)

H江沢民中国共産党指導者(第三世代)

I胡錦濤中国共産党指導者(第四世代)

J習近平中国共産党指導者(第五世代)
 丁度、第一世代と第二世代の交替期に訪問したのであった。まだまだ四人組の影響が残っていた華国鋒体制の下では、決して物見遊山の旅は許されず、後述するように文革の余波の残る各都市の、革命委員会への表敬訪問や、人民公社の見学等が旅行のコースには、必ず組み込まれていた。旅行を実施した1979年(昭和54年)には、流行歌手渥美二郎の“夢追い酒”や山口百恵の“いい日旅立ち”などが大流行した年でもあった。

K筆者手製の渡航記念証1979年11
月29日CA922便機長副機長署名入り

L成田?北京間の中国民航
B-707型の機内

M中国民航1979年当時のロゴ
 この年、中国側の統計によると、中国を訪れた日本人は、業務での渡航を含めても推定5万4千人にすぎなかった。(現今の中国旅行ブームとは隔世の感じがする)。そんな情況の中で我々一行は、1979年(昭和54年)11月27日(火曜日)に夕刻の中国民航922便にて北京へ向けて出発をした。(写真K)機種は、ボーイング707型機であった。(写真L)(写真M)
 機は午後9時15分に北京首都空港に到着した。機中での服務員(スチュワーデス)は紺色の上下服で、華やかな雰囲気はなく、乗客に提供する茶も魔法瓶から注いでいたと記憶をしている。当時の自由主義諸国の日・米・欧の航空機のサービスからは、随分異なった印象を受けた。さて到着した首都空港は、現在の世界を代表する近代的な大空港ではなく、何回も拡張される前の現在からは、想像も出来ない質素な、そして薄暗い空港であった。(写真N)(写真O)(写真P)

N1979年当時の北京首都空港

O到着時の北京空港内部

P北京首都空港より北京市内へ
向う道路(1979年当時)
 薄暗くて人影も少ない雰囲気で淋し気な空港であった。
 空港には、受入側の中国国際旅行総社日本処(日本課)の張乃驍ニいう、この日から最終日まで随行する男性通訳と北京分社の日本課副課長胡金樹、同趙登霞、同李艶という北京地区を担当する男性1名、女性2名の計4名(通訳を含めて)が出迎えてくれた。
 張氏は、エリートであろう、灰色の人民服にポケットが四つついた制服を着用していた。
 当時は上着のポケットの数で大体エリートかどうか判断出来た。張氏は我々訪中団の中国側のお目付役と団の動向をそれとなく観察する役目をもっていたと旅行が消化されていく中で確信するように団員誰もが思うようになった。観光ガイド、通訳というより、公安員としての側面が強かった。

Q芦屋市友好訪中団:成田空港にて (筆者後列左より2人目)
 それは、彼が各地の現地分社の通訳やガイドに示した態度が同業というよりもっと尊大な態度からもうかがい知れた。またこの時に出迎えてくれた日本処(日本課)副課長胡金樹氏は、その後、中国要人が日本訪問する際に度々、日本語通訳として来日し、そのフルネームを新聞紙上でよく見かけた。(写真Q)
 我々が中国を訪れた1979年(昭和54年)の日中の動向を見ておこう。この年の1月1日に米中の外交関係が樹立され、2月17日には、ベトナムと中国は戦争を始めている。また2月には、後の日本国総理となる麻生太郎氏が39才で、日本青年会議所会頭として代表団を率いて訪中をしている。同年に衆議院議員に初当選している。
 一方、中国では、現在の国家主席習近平氏が24才で清華大学(北京)を卒業して、中国軍事委員会弁公室へ勤務を始めており、中国共産党官僚として出発をした年でもある。
 1979年(昭和54年)11月の時点で、1米ドルが1.55中国元であった。当時1米ドルは日本円で246円前後であったので、換算すると1中国元は約158円前後であった。(2019年4月現在1中国元は日本円で約17円)
 我々が訪中した当時は、万元戸(1万元)が富農・富豪の目標とされており、つまり日本円で年収160万前後のお金を持つ人々が中国に於ては少数の富農・富豪と見なされた。昨今の中国経済とは雲泥の差である。
 当時、1979年(昭和54年)頃の中国人の平均月収は、都市部の勤労者が良くて、(家族持で)70元〜80元(日本円で約11,000円〜12,600円)位であり、日本では大卒の初任給が大体、手当を除いて約100,000円前後の頃である。まだ中国は経済的に見ても発展途上国であった。

R1979年(昭和54年)当時の
前門飯店のシール

S現在の前門建国大飯店
 さて、到着日は夜も遅い為、空港での歓迎の言葉もそこそこに、北京市内のホテルへ向った。市内まで約20キロメートルの道は、薄暗くて、これから首都へ向うのかと思うほど淋しい道であった。それでもポッと灯る街灯の明りが増えてきて、首都北京中央部永安路にある、前門ホテルへ到着した。現在の前門建国大飯店である。(写真R)(写真S)
 薄暗くて、やけに広いロビーで部屋割を済ませて、真夜中過ぎにそれぞれの部屋に入った。現在のように超一流ホテルが乱立する北京のホテル事情とは異なり、前門ホテルは、芦屋市という友好訪中団を受け入れるに足る、当時では、北京の一流ホテルだったのである。本音で言えば、薄暗くて、うらぶれた感じがしたが、芦屋市という都市の内容と特色は間違いなく、国の機関である、国家旅遊管理総局を通じて、中国国際旅行総社に伝えられている筈である。
 団員一行も一寸とまどった感じであったが、後日、この国の実情が徐々にわかってくることになる。
以下次号へ続く
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往時茫々、中国の旅  〜その2〜
二宮健(35回) 2019.12.09

@1979年当時ホテルから見た民家
 一夜明けた1979年(昭和54年)11月28日、水曜日の早朝、前門飯店で夜明けを迎えた。初めての中国での朝である。前日は夜遅く、ホテルへ到着のために、北京の街の様子はわからなかった。午前7時前に5階(だったと思うが)の自室の部屋から市街を眺めると煙に曇った風景である。現今、炭素硝酸塩、金属を主な成分とする粒子で径2.5μm以下の微粒子状物質のPM2.5が空気中に飛散して、平成27年12月9日には、最悪警報「赤色警報」が発令されて学校等が休校になる事態になっているが、その原因の一つが、冬の暖房のための石炭を燃やすことといわれている。当日の11月28日もかなり冷えこんでおり、石炭を燃やして北京市民は暖をとっていたのであろう。窓をあけると、石炭の臭いが鼻に入り、このスモッグは石炭のせいだとはっきりわかった。当時北京では、乗用車もあまり走っておらず、それがスモッグの原因になるはずもなかった。自室の窓から見る窓外の民家は貧し気で、現在の北京とは全然違った風景であった。(写真@)

A北京市内を走る高級車“紅旗”

B1979年11月、筆者と乗用車

C乗用車を整備する服務員

D1979年11月26日付人民日報
 この頃の乗用車といえば、要人用の高級車の“紅旗”か“上海”などが走っており、現在のように輸入車をはじめ、車道を埋めるような混雑は想像も出来なかった。(写真A)(写真B)(写真C)
 訪中団の二日目、1979年(昭和54年)11月28日(水曜日)は終日、北京市内観光を行った。まだ外国からの観光客は少なく、行く先々で逆に我々一行が、北京の人々に物珍しげに囲まれた。(写真D)
 午前8時に前門飯店を出発した専用バスは中国旅行総社北京分社日本処(日本課)の通訳3名と共に先づ天安門広場へと向った。40万平方メートルもあり、一度に50万人を収容できると説明を受けた。広場を散策したが、現在のように内外の観光客はなく、大広場には我々のグループと少しの人々しか居なかった。(写真E)(写真F)(写真G)

E訪問した1979年(昭和54年)の
天安門広場

F訪問した1979年(昭和54年)
天安門広場の筆者

G団長の松永芦屋市長と中国国際
旅行総社北京分社日本課の日本語通訳
 天安門散策の後、72万平方メートルの敷地の中に、9,000室も部屋があるという、故宮博物院を見学した。(写真H)

H1979年の故宮

I北京市内の天壇
 整美された現在とは程遠い若干荒れた印象であった。しかし、天安門を含めてその規模の大きさには度肝をぬかれた。午前8時半頃に天安門の見学を始めて徒歩で午前中をかけて見学をしたが、それでも時間が足らない位であった。中国はユネスコの世界文化遺産登録の最も多い国の一つだが、故宮は勿論登録をされている。(我々が訪問した頃にはまだこの登録制度は無かった。)歩き疲れた感じですぐ近くの前門飯店に帰り、昼食をとった。当時は、昼食を観光する場所の近くでというようなレストランは皆無に近く、外国人観光客は原則的に全行程宿泊したホテルに戻って昼食をとり、再び出発をした。これは、トイレ事情にもあった。厠所(便所)は、余りにも設備がひどくて、観光客には、使用するには、勇気のいることであった。特に大便所はひどかった。一度ホテルへ戻った後、午後は北京市内の天壇、つまり明代、清代の皇帝が天に対して祭祀を行った場所を見学した。この場所は、1918年迄は、一般人は立入禁止となっていたそうだ。(写真I)

J頤和園の石船

K頤和園にて若き日の筆者
 その後、これも後日に世界遺産として登録された頤和園を見学した。(写真J)
 荒廃していた頤和園を再建したのは、有名な西太后であり、離宮とし、避暑に利用された。この再建費に莫大な国費を使用したために日清戦争の敗因の一つとされている。
 1900年には義和団の乱で破壊されたが、1902年に修復された。(写真K)
 この日は午後7時頃にホテルへ戻った。

L訪中当時の「兌換」中国元

と普通の人民元
 ところでこの頃の中国を訪れる外国人観光客は、我々を含めて、使用する中国元は「兌換券」制度が導入されていて、人民元の価値で表示されていた。一般人民元は外貨とは交換出来なかった。持参した米ドルを、中国元の「兌換券」に両替をし使用した。余った「兌換中国元」は両替した領収証と、使用した(つまり買物等で使用した)領収証を提出して、最後に米国ドルに再度両替をしたと記憶している。(写真L)
 とにかく買う物も少ししかなく、余りお金は使わなかった。旅行費には、滞在中の食事、朝食、昼食、夕食等が全て含まれていたからだ。当時、一米ドルは1.55中国元であった。(令和元年4月現在で1米ドルが約6.73人民元である)
 さて、旅行3日目の1979年(昭和54年)11月29日(木曜日)は、午前中に万里の長城の見学と午後に明の十三陵(定陵公園)を見学した。(写真M)

M訪問当時の荒廃した万里の長城

N当日の北京・八達嶺駅往復の列車切符

O万里の長城訪問の証明書
 現在では、北京を訪れる観光客の一日観光の定番コースであるが、昭和54年(1979年)当時は中国が外人観光客に対して開放していた、世界に誇れる観光資源であった。勿論後年に中国を代表するものとして、世界文化遺産に登録された。この日は、朝7時頃にホテルを出発して、北京駅より鉄道を利用して八達嶺駅まで乗車した。北京駅午前8時5分発で八達嶺駅に午前10時9分に到着している。(写真N)(写真O)

Pあまり人のいない長城

Q1979年当時発行の長城切手
 八達嶺駅からマイクロバスで長城(八達嶺の長城)へ向った。最も早い時期に公開された長城でかなりの人で賑っていたが、現在の各地の公開されている長城の混雑とは雲泥の差でゆっくりと長城壁上を見物できた。(写真P)(写真Q)
 限られた時間の中で、日本人が名付けた“男坂”“女坂”の両方を見物するのは、当時まだ若かった私でさえかなり疲れた。

R明14代皇帝
万暦帝の肖像

S1979年11月29日(木)明の
十三陵、定陵地下宮殿の中国民衆
 八達嶺駅から列車で南口駅まで引き返して、そこからまたマイクロバスで明の十三陵へ向った。十三陵は、明の成祖永楽帝以後の皇帝13代の陵墓があるために、この名称がある。勿論これも世界遺産に登録されているが、我々の訪ねた1979年当時はこの14代皇帝の「万暦帝」の陵墓である、地下宮殿の発掘からまだ間もない頃であり、(発掘は1956年から1年かけて行われた。考古学技術の未熟な中での発掘のため、大量の文物が破壊され、1966年には文化大革命の時期、紅衛兵により文物が破壊されている。)地下宮殿は未整理のまま我々にも公開された。壮大な地下宮殿であった。(写真R)(写真S)
 皇帝の棺や椅子等が公開展示されていた。現在では、北京市からの一日観光の定番観光地として、ひきもきらぬ観光客で一杯であるが、その当時は、北京市から北方50キロメートルに位置していながら、中国人を中心としたわずかな人達しか訪れていなかった。

北京鴨店
の当時のパンフレット

ボーイの持つ北京ダック
 見学後、南口駅まで戻って列車で北京市内へ帰った。この日の夕食はホテルでとる予定になっていたが、(全行程3食込の旅程であったが)急拠キャンセルをしてせっかく北京へ来たのだから、名物の北京ダックを賞味したいと、北京分社に申し入れをして、自費負担承知で手配をしてもらった。現在では、日本にも支店を持つ全聚徳(ぜんしゅうとく)鴨店である。それも前門総本店で手配してもらった。1979年当時は、全聚徳の店名は文化大革命の影響で消されており、単に北京鴨店の名前で営業をしていた。古びた料理店の風情であったが、出てきた北京ダックは本当に美味であり、グループ全員がこれこそ、本場の北京料理と感心をした。正確な料金は忘れたが、結構高価だったと記憶に残っている。(写真)(写真

北京市革命委員会を訪問。芦屋市長と
北京市革命委員会外事弁公室副主任
 旅の4日目、1979年(昭和54年)11月30日(金曜日)を迎えた。今日は北京市革命委員会を午前中に訪問した。団長以下全員服装を整えて訪問をした。北京市革命委員会外事弁公室副主任仁先さんが迎えてくれて歓迎のあいさつを受けた。北京市民の沢山の人々とふれあって日中友好の実績を積み上げて下さいとの主旨であった。芦屋市からの記念品を贈って約1時間懇談をした。(写真
 革命委員会とは、文化大革命中の政治権力組織であり、主任、副主任、常務委員などで構成されていて、軍区司令官、地方幹部、労働者、農民、学生などで構成されていた。
 我々が訪中した頃には、革命委員会は各地で機能しなくなっており、順次各地で市民政府などに名前が変り、実務的な機能を持つ機構に再編されている時期に当っていた。
 表敬訪問を終えた我々グループは、市内の工芸品と友誼商店を見物して各々、買物を楽しんだ。北京一般市民のための、ショッピングセンターではなく、あくまで外貨である米ドルを中国元に交換した外国観光客向けの商店である。特に北京、上海などの大都市の友誼商店は、百貨店のような型になっており、中国の文物が、そこで何でも揃っており、又そこにしか良い品がなくて、外国観光客は、そこでの買物を強いられていた。一般市民の買物客は入れず、専ら中国駐在の外交官や、その家族と訪中団等の特殊な人々のショッピングゾーンであった。店員達は全く、サービスの何たるかを理解しておらず、買物客など度外視するかのように、仲間同士でおしゃべりをしていた。これには我々も恐れ入ってしまった。
以下次号へ続く
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吉川 順三さん(34回)追悼文
有難い先輩でした
公文敏雄(35回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者近影
 重篤な病とは人づてに伺っていたが、早すぎるお別れとなった。

 伊豆の高原にお住まいで、「温泉もあるから遊びに来いよ」とお元気なころおっしゃっておられたのに、つい行きそびれてしまったのがいたく悔やまれる。最後にお会いしたのは昨年4月のKPC総会であった。
 吉川先輩は、昭和31年(1956年)高校1年の春に入部するやいなや、上級生の早い引退で部活動の第一線に立たされたという。まもなく中3の私も入部したから、ご指導いただいたのはそれ以来である。文章の書き方(「体言止め」などは後々まで使わせていただいた)、ヘソ、腹切りなど技術的なことを教わっただけでなく、「学説や理論ではない、記事は足で書くもの」という言葉を常々聞かされたものである。
 この厳しい現場主義は、紙面の独走、跳ね上がりを防いだだけでなく、筆者が社会人になってからのキャリアにも多々影響をおよぼしたのではないかと今になって思う。


 向陽新聞バックナンバーで、吉川先輩が活躍されたころの紙面をこのたびあらためて見ると、文字通り「足で書いた」報道記事の多さが目立つ。昭和31年12月発行の34号3面トップ(当時は4面)に写真入りで「大さわぎの修学旅行ー女生徒も酔っぱらう」という衝撃的な記事を載せて波紋を呼んだが、明けて32年2月の35号ではさっそく大嶋校長の苦言「あれは君よほど慎重を期する問題だよ。新聞部の諸君が真に学校を愛してくれたとは思えんね。あれが世間に及ぼす影響を考えてみたまえ。・・・扱い方が問題だ。今後はよく勉強してくれたまえ」を伝えるとともに、旅行のあるべき在り方に焦点を転じて特集を組み、改善のための幅広い声を集めている。
 ある時は、「何か注文があるかね」と校長に訊かれたので、「土佐高は受験に閉じ込め過ぎだと思う。せめて全校集会のたびに校長先生が“一期校の試験まであと何日”と繰り返すのはやめてほしい」と言上した。校長は「進学第一の方針は変えない。運動部も文化部も活発にやれている。・・・あの“あと何日”は年に1回だけにするよ」と答えたそうである。(KPCホームページに平成23年8月吉川先輩が寄せられた回想文「居心地のよい新聞部」より)謹厳で普通の生徒には近寄りがたかった大嶋校長との師弟らしいやりとりが興味深い。

平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて
左から故吉川、筆者、濱崎の各氏
 吉川先輩には卒業後久しく御無沙汰していたが、2010年3月のKPC(再発足)設立準備委員会の場で再会、以来、幹事会・総会でたびたびお目にかかって高顔に接することができた。先輩の毎日新聞記者時代のご活躍ぶり、特に関西木材業界の雄だった安宅産業の崩壊、海運業界の暴れん坊三光汽船の倒産、リクルートの破たんなど、並の記者なら一生に一度あるかなしかという大スクープにまつわるお話には、たまたま前2社が小生の銀行勤務時代(融資担当)の直の取引先であったこともあり、引き込まれていった。
 語る吉川先輩のお顔を拝すると、温かいまなざしの中に独立不羈の気をしのばせて、坂本龍馬の風貌を彷彿とさせたとするは、弟子たる筆者の贔屓目だろうか。

吉川順三さん投稿記事:  2011.08.05居心地のよい新聞部
 2016.03.12新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
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吉川 順三さん(34回)追悼文
ジャーナリスト魂を貫き新聞協会賞
中城正堯(30回) 2019.12.23
肺癌抱え田島兄弟の活躍を注目

故 吉川 順三さん
(毎日新聞大阪本社時代)

筆者近影
 11月末に思いがけない知らせが届いた。吉川順三君(34回生)の奥様からの喪中ご挨拶状で、「夫 順三は肺癌の為、この四月七日、七十九歳の誕生日を前に亡くなりました。昨年夏の初めに診断され、余命十か月を淡々と朗らかに過ごしました。<楽しく幸せな生涯だった>と、書き遺しております。・・・>
 実は、昨年夏の終りに「土佐中高100年人物伝」の企画を相談したくて伊豆大室高原の自宅に電話すると、本人が出て明るい声で、「肺癌で検査入院からい今日帰ったところ」とのこと。「これからは療養に専念するので、申し訳ないが執筆などのお手伝いも、向陽プレスクラブ(KPC)への出席もできない」と言う。余命十か月と告げられていたとは、いつもどおりの口調から全く気付かず、また元気になったら頼むとお願いして電話を切った。
 昨年5月には、KPCのHPで連載中だった「素顔のアーティスト」で田島征彦・征三兄弟を書くため、同級だった吉川君に情報提供をお願いした。メールでの返事には、「田島兄弟とはすぐ近くの隣り村で育ち、小学校のころから画の教室で一緒でした。中学・高校も同級、征三君は偶然にもまた伊豆で近くに住んでいます。私は閑居していますが、彼は痩身をものともせず、国内外を飛び回って大活躍です。特に今年は新しい分野の新聞広告デザイン(スポンサー伊藤忠)で日経賞大賞を受け、各紙の全面を飾ったことで注目されました。恒例になっている新潟十日町の地域を巻き込んだ国際芸術祭でも幹事役をつとめ・・・」とあった。この知らせのお陰で、6月に「大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟」をまとめることができた。
 吉川君がマスコミ界から引退しても、同級生など仲間の活躍を暖かく追っていたことに気付かされた。小生の拙文も、よく読んでくれていた。『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』もいち早く読み、「ケーべル博士のことなどよく調査取材して、知られてなかった校長の人物像を浮き上がらせている」と、言ってくれた。筆者は作家などに原稿を依頼する編集育ちで、取材執筆の訓練は新聞部以外では受けてないだけに、練達の取材記者からの反響は先輩へのお世辞混じりでもうれしかった。以後、「版画万華鏡シリーズ」でも、彼のような読者がいることを肝に銘じて執筆してきた。
リクルートで世紀のスクープ

平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて
左から故岡林、筆者、森田、故吉川の各氏
 今回も藤宗編集長から依頼を受け、かつて毎日新聞の大阪本社経済部長時代にリクルート関連のスクープで新聞協会賞を受賞したことや、民博梅棹忠夫館長の会合で彼と出会い、経済界だけでなく学術・文化の識者とも幅広いネットワークを築いていたことを思い出した。しかし、記憶だけで手元になにも資料がないので、失礼を顧みず、奥様に資料提供をお願いした。快く送付くださった資料と、添えてあったお手紙から、記者活動の一端を紹介させていただこう。
 経済記者のみならず、新聞記者としての最高の栄誉の一つが、毎年日本新聞協会が発表する新聞協会賞である。これには第一部門(ニュース)、第二部門(連載企画)など六部門に分かれて授賞作品が選定される。なかでも、社会・政治・経済・学芸などの分野を超えて、過去一年間で最も価値ある報道ニュースとして選定される第一部門が、注目される。平成4(1992)年度、この賞に見事輝いたのは、毎日新聞大阪本社経済部長・吉川順三を代表とする<「リクルート ダイエーの傘下に」江副前会長の持ち株を譲渡のスクープと一連の続報>であった。
 協会賞を発表した『新聞研究』1992年10月号には、「情報を棄てずに可能性を探る」と題して吉川部長の、大スクープの発端から綿密な裏付け取材、さらに記事掲載のタイミングまで、見事なチームプレーが明かされている。この記事が出た直後、ダイエー中内・リクルート江副の両トップが記者会見でこの報道を認め、各社が後追い記事を書く。しかし、長期間にわたって取材を重ね、この出来事の背景から両トップの関係、さらにはこの買収劇の経済史的意味付や、体質の異なる企業の合体が及ぼす影響などをしっかりおさえた毎日の記事は、他社の追従を許さない圧勝だった。まさに、経済界が迎える大型合併の時代と問題点を先取りした世紀のスクープであった。

2010年、向陽プレスクラブ設立総会にて
左から横山、故吉川、故岡林の各氏
 吉川君は高校時代、中学入試漏洩問題の余震が続くなか、「向陽新聞」31号32号の「主張」やコラム「ひとこと」を担当、校長・生徒双方に信頼回復を呼びかけている。毎日時代にもコラム「憂楽帳」で、さまざまな経済世相にやんわりと注意を促し、コラムニストとして天性の才能を発揮してきた。さらに、高松支局長時代に瀬戸大橋の開通、大阪経済部で関西新国際空港の開設など、巨大プロジェクトの報道を担当、関西の政財界人から信頼されていた。いっぽう経済記者ながら関西文化人とも親しく、梅棹館長たちとの酒席では、小松左京、石毛直道、小山修三などの先生方とも昵懇な様子を見かけて驚かされ、また嬉しくなった。こうした人柄を見込まれ、関経連の会長はじめ財界人、大阪府知事・市長、高知県知事などを発起人に誕生した「大阪ジョン万の会」の事務長も長く引き受けていた。ただ、高知市長選にまで担ぎ出されたのは、気の毒であった。
「見るべきものは見た」

土佐高新聞部の種崎海水浴キャンプ。後列左から:3人目が故吉川、
麦わら帽が筆者、その右で顔を隠しておどける故秦洋一。
中列:故岡林、公文 前列:左端故合田、?人目が久永の各氏。 1956年
 退職後は大阪から伊豆に転居し、やがて東京での向陽プレスクラブ総会にも、よく顔を出してくれた。奥様もお手紙で、「順三は懐かしい土佐中・高時代の、中でも新聞部での思出は深く大切にしていた」と記している。筆者は、大学時代に帰省した際に、大嶋校長を囲む座談会(34号掲載)に引っ張り出されたのと、新聞部の夏休みキャンプ・新年会で会った程度だ。だが、吉川君の時代は新聞部の黄金期で、朝日新聞で医療ジャーナリストとして活躍した秦洋一、NHK高知支局で「清流四万十川」を制作して全国に印象づけ、本社に戻って運動部長だった國見昭カ、それに画家合田佐和子、これら個性派をうまくまとめる浜田晋介・山崎(久永)洋子など多士済々で、在学中も社会に出てからも、注目してきた。
 吉川君の長男が、ふと父に「マスコミに進みたい」と漏らしたとき、彼は「この世界で見るべきものは見た。別の道をめざせ」と、諭すのを奥様は耳にしている。厳しいマスコミの世界で、先頭を駆け抜けた彼ならではの想いだろう。長男は経済界で、次男は学界で活躍中と聞く。晩年の年賀状には、「伊豆閑居 妻の傍らで熱燗を飲む」と記してあった。ここで拙文は終え、奥様のお手紙の一端をご紹介しよう。
 「お尋ねの〈新聞協会賞〉の頃は、順三の記者としての仕事の中でも最も充実していた時代だったと思います。・・・お電話でお話しました梅棹忠夫さん、小松左京さんを囲む国立民族学博物館の先生方との飲み会は、毎月一回何年か通い、楽しみにしておりました。社外に広くネットワークを持つことをこころがけ、大阪ジョン万の会を頼まれたのも、その人脈の延長上であったと思います。五十三歳で新聞社をやめたとき、驚くほど大勢の社外の皆様が会をして下さり、サントリーの佐治敬三さんがお得意の〈ローハイド〉を歌って下さったのも思い出となりました。高校時代の助走から本人が〈見るべきものは見た〉と言えるまで、志を実現できたのは本当に幸せだったと思います。」
合掌
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吉川 順三さん(34回)追悼文
また会う日まで
久永洋子(34回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者旧影
 吉川順三さんが御病気だということを知ったのは昨年11月でした。お電話をすると、明るいお元気な声で「余命いくらと言われているし、脳にも転移していると言われているけれど、人間はどうせ皆死ぬんだから、なるだけ元気に明るく生きようと思ってるよ。明日はゴルフに行くよ。」と言っていました。そして、「来年春の新聞部の会に行かない?」と言いましたので「吉川君が行くなら、ご一緒にいくわ。」と答えました。
 春になり、新聞部の会はいつかしらと思っている頃、34回生の友達から「吉川が亡くなったよ。」と電話がありました。合田さんが亡くなった時、追悼の文を書かれる時、「何か思い出すことある?」と何度もお電話をいただいたのですが、まさか、こんなことになろうとは。まだ、信じられない気持でいます。
 思えば、新聞部で毎日のように賑やかに活動していた頃からの長いお付き合いでした。新聞部では論客で、理屈っぽく、信念の人でした。土佐のイゴッソウでもあり、しかし、やさしい人でした。卒業後は、就職してずっと高知に居る私をよく尋ねて下さいました。新聞部の人は皆さんそうでしたが、大学の香り、会社の香り、都会の香りを伝えてくれました。吉川君毎日新聞、秦君朝日新聞、国見君NHKとマスコミに羽ばたき、陰ながら私の自慢のお友達でした。いつか、小さなお嬢さんの手をひいて尋ねてこられて、3人で桂浜に行ったこともありました。

1961年 母校新年会での筆者(中列の美女)
 毎日新聞で御活躍の頃、突然、高知市長選に出馬された時、驚いた人達がいましたが、何となく私は彼らしいと思いました。まっすぐな太い道を進みながら、その道を進むことに一寸照れて、ふと道を変えてしまうシャイなところのある人でした。
 市長選の後、高知の同窓会にサラッとした顔で出席されました。きちんとスーツを着ておられたので、「ステキになったね。」と言いますと、「今頃気がついたか」と言われました。そしてある時も私の家にお電話下さって、私は留守で夫がお名前を聞いていました。あとでお電話すると、「むつかしそうな旦那だね。」と言われました。確かに!何となく慰められたような気がしました。
 あの吉川君と冗談を言い合い、何となく笑ってしまう日がもうないのでしょうか。でも、私の年齢になりますと、またお会いできる日は遠くないように思ってしまいます。私のまだ知らないところに行かれても、どうかお元気で明るく過ごされますように……。


34回生ゴルフコンペ  河野剛久氏提供
 頂いた年賀状を眺めて、吉川君をしのんでいます。

   同老同閑同趣の輩
   長棹短竿魚信を待つ
   鏡海は白雲碧空を映し
   猶願う潮満ち銀鱗多かれと
     (戯順2018年)
   忖度は「毛頭なし」とカミ告げる
   余命知り時に及んで釣りゴルフ
   批判したこの世に今やただ感謝
     (戯順2019年)

 私の拙い歌を書かせて頂きます。

   また会おうねと 書き添えくれし 年賀状
   いきいきと 太い字は残されて

   令和を見ず 旅立ちし友よ いつか逢う
   日には伝えむ 楽しきことを

   階段の 廊下の隅の 小さき部屋
   新聞部の皆と も一度会いたい

 吉川さん、本当にまたお会いしましょうね。
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吉川 順三さん(34回)追悼文
伊豆・大室山の麓での三日間
河野剛久(34回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者近影
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往時茫々、中国の旅  〜その3〜
二宮健(35回) 2019.12.23


@文化大革命

A文化大革命
 北京滞在中に私はほんの数年前まで(1966年?1976年)続いた文化大革命という未曾有の混乱について、色々な人に聞いてみたが、 荒波にのみこまれたであろう、北京の人達は、こちらの顔をじっとみつめながら、何も答えずさも迷惑そうな顔をするのが、印象的であった。文化大革命への評価が定まったのは、1981年(昭和56年)6月の中国共産党第11期6中全会であり、ずっと後のことである。まだ一般の人には、文革に対する評価など出来る時期ではなかったのであろう。昨日迄正義と信じこまされていた文革が突然終りまだ何がなんだかわからないということであったと思う。それは第2次大戦敗戦後の日本国民のとまどいと同様であった。正義だと信じていた社会感が崩れ去ったのである。(写真@)(写真A)

B訪中当時の「兌換」中国元
 ここで現在と昭和54年当時の様子を比較してみよう。平成17年(2005年)11月30日にIMF(国際通貨基金)理事会は、人民元を世界の主要通貨と位置づけ、ドル、ユーロに次ぐ第三の通貨に位置づけて第4位の通貨となった日本の円を抜いて国際的な通貨システムの中でも、中国の存在感が強くなっている。しかし我々が訪中した昭和54年(1979年)当時の人民元はまだ弱い存在でしかなかった。(写真B)昭和54年1月には、米・中の間で国交が樹立され、2月には、ベトナムと戦端を開いている。

C若き日の習近平
 また、昭和54年4月には、現国家主席の習近平が、清華大学を卒業して、中国軍事委員会弁公室に入り、当時の国防相の秘書として官僚の道を歩み出している。(写真C)そんな時代に我々訪中団は中国を訪れたのである。

D天津友誼賓館のシール
 北京を後にして我々一行は11月30日(金)北京駅を午後5時47分発の列車で次の訪問地、天津市へ向い午後7時47分に天津駅に到着した。駅頭で中国旅行総社天津分社副社長李疾風氏、日本課々長で通訳の徐錦康氏、女性通訳の張文紅氏、燕氏の男性2名、女性2名の出迎えを受け歓迎のあいさつを受け出迎えのバスにて宿泊する天津友誼賓館(写真D)へ向った。
 当時このホテルは天津を代表するホテルであり、神戸市と天津市が友好都市である関係からか、同じ兵庫県の芦屋市ということで大変良いホテルを受入先にしてもらったのかも知れない。(ホテルや受入先は全て当時は中国側から指定される情況にあった)

E退休職工養老院
 旅行も第5日目を迎えた12月1日(土)は午前中に天津市退休職工養老院を訪ねた。退職をした老人達の養老院である。(写真E)
 話しを聞くと、我々老人を大切にしてくれる共産党には心から感謝をしている。昔の古い中国では考えられない待遇であり、年金も支給されていて、幸福だと模範的な答えであった。ずっと養老院長の熊さんと幹部の楊さん、王さん3名が我々との質疑応答に立ち会って、訪中団が毎回訪ねてきている感じがして応接の問答も慣れた感じがした。年金は月60元〜70元とのことであった。当時の天津市は中国での商業ならびに重・軽工業の都市で、北京・上海とともに中国の三つの特別市(中央直轄市)の一つであり、先年、天津に近い唐山を震源地とする大地震があり、その震災の後遺症がまだ残っており、避難小屋と名付けたレンガ造りの仮設小屋が点在しており、その復旧と住宅建設に全力をあげている最中であった。

F平山道中学と平山道高校
 午後からは、天津市内の平山道中学と併設の平山道高校を見学した。(写真F)
 校長の李莉さん(女性)と歴史教師趙氏、国文教師の尹氏の3名が“熱烈歓迎日本兵庫県芦屋市訪華団”と書いた学校入口で生徒達と共に迎えてくれた。そして解放前は貧しく進学も容易でなかったことや、現在は男女共学で生徒数が1,500人、教師が90人で「四つの近代化」を実現する教育に努力していること、また学制は当初6・3・3・4制で発足したが文革により5・3・2・3制に変えました。しかし世界の情勢にてらして来年の1980年から元の6・3・3・4制に戻すと決めたと説明があり、英語も中1から高校まで会話を採り入れているなどの説明があり、生徒には「自分の一生はなにか」、「何のために勉強するのか」などを討議させている、これも革命教育の一つとの説明を受けた。李校長は教育向上視察のために、団員の一人として兵庫県にこられたと言って、熱心にこの日の午後我々と生徒の交流につきそってくれた。団員一同中国の教育現場をじっくりと見学が出来た。
 同日夜は宿泊をした天津友誼賓館にて天津市革命委員会の招待宴があり、天津市革命委副主任王恩恵氏や外事弁公室主任王屏氏など市の幹部出席のもと交歓会が行われた。今年(1979年)に訪中する日本の大平首相を熱烈に歓迎することや、そして7年前に田中首相と共に訪中して大平氏は当時中日両国人民待望の中日国交樹立の大きな功績等や天津と神戸市の友好都市関係の発展を祈念する等の話しをされた。なお、この招待宴に先立って、天津市革命委員会への表敬訪問を行っており、上記2氏の他に、中国対外友好協会天津分会長、天津市遊覧観光局長、外事弁公室接待所幹部など多数の人達と接見をした。(写真G)(写真H)(写真I)

G天津市革命委員会副主任
王恩恵氏よりのプレゼントされる軸

H天津市王恩恵氏歓迎あいさつと

訪中団を代表してあいさつをする
芦屋市松永市長
 この歓迎宴は、宴の始まる前に、中国旅行総社の全行程随行の張氏より、式での天津市側と芦屋市側のあいさつ文のすり合せがあり、何か不都合な文言がないかのチェックがあった。また宴会ではお酒の飲めない人は最初から断っておくのが礼儀であると言われた。
 予算の関係からか、まずまずの料理と、お酒は最高級の中国酒“貴州茅台酒”などが沢山提供された。乾杯、乾杯の応酬で招宴は楽しく行われたが、中国側からは政治関係の話しは出なかったと記憶している。しかし、中国側の出席者の要人達は酒に強い人が多かった。

J天津第一じゅうたん工場にて
 旅の第6日目、1979年12月2日(日)は、中国じゅうたんで有名な天津第一じゅうたん工場を工場長の蔡さんの案内で見学した。(写真J)高価なじゅうたんは全部手作業でつくられていたが、労働環境はあまり良くなく、ほこりが沢山工場内に舞っていた。

K天津の切り絵
 そして、天津の友誼商店でショッピンングをして天津市芸術博物館を見学した。弁公室主任の周学謙さんの案内で天津の有名な切り絵(剪紙)を見物した。(写真K)
 そしてその後、この日の圧巻の天津水上公園のパンダ見物であった。既に日本の上野動物園に1972年にパンダの“ランラン”ともう一頭“カンカン”(写真L)が中国政府より贈られていて、ブームを呼んでいたが、私をはじめ、団員の大多数の人達が、現物の“大熊猫”と中国で呼ばれているパンダを見るのは初めてであった。

L上野動物園のカンカン(右)
とランラン(左)の写真

M天津水上公園のパンダ
日本のようにV.I.P.待遇の園舎ではなく、自然のままに、土にまみれて、放し飼いに近い状態で、見物客に対しているのには、いささかびっくりした。(写真M)
 パンダを間近に何の仕切等で隔離されていない姿を見て大満足であった。この夜は天津市文化局の主催する雑技つまり曲芸を見物してホテルへ夜遅く帰館した。

N天津医院を訪問し質疑を行う団長並びに副団長
 旅行第7日目の1979年12月3日(月)は天津を離れて東北地方(旧満州)へ向う日であるが、その前に午前中、天津第一を誇る天津医院を訪問し見学をした。(写真N)院長が二人居て王春和氏、陶甫氏、骨科(整形外科)主任尚天裕氏、主治医生李漢民氏、弁公室主任方信氏など多数の医師が出席して説明をしてくれた。
 当方は団長松永市長は医師であり、副団長も医師であった関係か専門的な意見交換が通訳を介して行われた。一緒した私には医療用機器は日本の医療現場の方が随分進んでいるように見えた。午後は天津市でも大きい天津市第一幼稚園を見学した。副園長の馬恵敏さんや保健員、教師など全員女性の職員が案内をしてくれた。団員の女性達が遊戯に加わり、親の年令や職業などを聞いて楽しい2時間程を過した。(写真O)

O天津市第一幼稚園で園児達と
 そしてこの日の夕食は前日の天津市の招待宴に対する芦屋市側の返礼の答礼宴で(これが通常行われていた)、出発する前に旅行コースと共に綿密に日中双方で打合せをして、双方の宴に格差が出ないよう、料理の品数、酒の等級、出される本数、出席者の人数、肩書、交換する文書の文言までチェックをした用意万端の答礼宴を行った後、同日夜午後10時15分発の夜行寝台列車(軟座寝台)の客となって東北地方(旧満州)の瀋陽(旧奉天)へ向った。この列車は我々の寝台は上・下・二段ベッドであって当時の日本の“ハネ”と専門用語で呼ばれていた二等寝台車によく似た寝台車であった。
以下次号へ続く
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往時茫々、中国の旅  〜その3〜
二宮健(35回) 2019.12.23

@訪中時1979年の遼寧賓館のシール

A現在の遼寧賓館
 夜行寝台列車は窓の外には、ほとんど灯の見えないまま、翌朝1979年12月4日(火)の午前7時に瀋陽駅(旧奉天駅)に到着した。古い駅舎であり、何となく淋しい感じのする駅であった。中国東北部の主要都市である。日本出発前から、満州という言葉には注意することと、言われており、使うなら偽満州国と呼ぶようにと注意されていた。 旧奉天市であり、日本が中国へ軍事的侵略をしていた際、張作霖が根拠にしていた地である。日本人にも古い世代にはよく知られていた地である。駅頭には、中国旅行総社瀋陽分社副社長王棟さんと通訳の張鳳翔さんが出迎えており、あいさつを受けて、着後すぐに駅近くの天津市紅旗広場にある、遼寧賓館(戦前の満鉄ヤマトホテル)で旅装をといた。(写真@)(写真A)

B訪中時、紅旗広場の毛沢東像

C中山広場と名を変えた場所の現在の毛沢東像
 良く言えばロマンチックなホテルであり、このホテルを中心に戦前の満州での権謀術数が行われていたことを思うと感無量であった。それも、訪問時から30数年前のことである。数々の満州の歴史に登場するホテルである。又ホテル前の紅旗広場には巨大な毛沢東の全身像が台座の上から手を上げて広場を見下ろしていた。中国共産党の象徴である。(写真B)(写真C)

D瀋陽市革命委員会を表敬訪問
 我々はホテルに荷物を預けチェックインをした後すぐに瀋陽市革命委員会を表敬訪問して革命委員会副主任田光氏、外事弁公室副主任張国端氏、同処長費宝民氏、工作員鄭雲起氏その他の人々より歓迎あいさつを受けた。(写真D)
 そして瀋陽市の概要の説明を受けた。ここは清朝発祥の地であること、北京・上海・天津につぐ中国第四の人口を持ち、重機・軽機の工場が沢山ある大工業都市であって東北3省を統括する行政・経済の要の都市であり、芦屋市民の代表団を熱烈に歓迎するとのあいさつを受けた。

E瀋陽羽毛工場の羽毛画製作
 ホテルへ戻り、昼食の後、午後は瀋陽市羽毛工場を見学した。羽毛の工芸品は古墳からも発掘されており、二千年の歴史を持ち、孔雀や鴎など約30種類の鳥の羽毛から羽毛画をつくり、日本やアメリカなどに輸出をしており、従業員は350人で70%が女性だと羽毛工場の接待員の女性の張さんより説明を受けた。(写真E)

F瀋陽市玉石工場の製作現場
 そしてひきつづき瀋陽市玉石工場を見学した。ここは瑪瑙(メノウ)の一種の「緑石」を磨いて、鳥や動物などの装飾品を作っており、約630人の従業員で70%が女性であり、輸出向けの芸術品を製作していると、工場長の王氏より説明があった。(写真F)

G1979年派遣された神戸天津友好の船
 今迄巡ってきた北京・天津・瀋陽と本当にこまやかな接待を受けてきた。この年に(1979年)神戸天津友好の船を派遣しており、数百名が参加した大型の訪中団であったが、(写真G)それに比較して我々は、少人数の17名であり、なおかつ、市民代表団ということで心のこもった接待が受けられたのかもしれない。
 この夜、夕食を終えて、入浴をして、タオルを持ってホテルの外へ出てみると、そんなに寒いとは思わなかったが、タオルの水分がわずか15分位でパリパリに氷結したのには驚かされた。外気温はマイナス20℃とのフロントの係員の話しであった。このホテルでは、日本植民地時代の旧満州の話しを聞きたくて、中高年の戦前を知っているであろう従業員に通訳を交えて聞いてみたが、誰も通訳を気にしてか、その話しには応じてくれなかった。
 旅行も八日目が終ろうとしていたが、この日の夕食にはお粥が提供されて団員の皆が大変喜んだ。と言うのも初日から我々に対しては朝・昼・夕食ともに豪華な中国料理を提供してもらっていたが、さすがに腹にこたえてきた。特に油が多いのがこたえた。そこで団員から何かさっぱりした料理が欲しいと申し出があり、全行程随行の張氏へ申し入れた。食事の差配は、彼が現地の中国国際旅行社の現地分社にしているからだ。何のことはないお粥であったが、皆さんはおかわりまでして喜んで食べていた。久しぶりにホッとした夕食であったようだ。日本から持参した梅干や佃煮などが、各人から持ち出されて分け合って口にしていた。やはり和食が懐かしいのである。
 スチーム暖房がチンチンと鳴ってなかなか寝つけなかったが旅の9日目、1979年12月5日(水)は瀋陽市内の参観である。

H歓迎をしてくれる小学生達
 午前中は市内鉄西区啓工街第2小学校(校長占栄さん女性)を訪ねた。
 小学校は日本と同じく6年間であり、校舎が狭くて学校数も少ないので午前、午後の2部制であり、「知・徳・体」調和の教育を貫き文革10年の遅れを取り戻すために教師も生徒も頑張っているとの説明であった。日本と違い「政治」の時間があり、マルクス・レーニン主義や毛主義を教育しており、体育の時間には近視をなくするための目の体操があり、成績優秀な生徒には飛び級制度もあるとのことだった。鉄西区は新中国建国後は、有名な重工業地帯であり、工人達の子弟のための小学校のようであった。子供達は歓迎のために京劇風の化粧をして踊りで我々を迎えてくれた。(写真H)

I瀋陽故宮1979年12月5日(水)

J現在の瀋陽故宮太政殿
 持参したポラロイドカメラで撮影して渡すと我も我もと欲しがり、高価な印画紙がなくなりかけて嬉しい悲鳴であった。小学生は中国でも日本でも無邪気である。この日の午後には、瀋陽故宮を見学した。清朝は1644年に北京に入城する迄は、ここ瀋陽故宮に本拠を置いた満州族の王朝である。ここが王宮であり、太祖ヌルハチと第二代太宗ホンタイジはここに住み、後代の清朝皇帝もたびたび故地であるここを訪れている。 後になるが2004年に瀋陽故宮は北京故宮と共に世界文化遺産に登録された。(写真I)(写真J)
 広い故宮ではないがそれでも午後いっぱい瀋陽故宮の見物に費した。
 そしてその夜は瀋陽雑技団(サーカス)を見物して宿舎の遼寧賓館へ夜遅くに帰館した。(写真K)
 旅も10日目を迎えた1979年12月6日(木)は午前中、瀋陽の北陵を見学した。正式名は昭陵と言う。(瀋陽市の北方にあることから通称北陵と呼ばれている)330万平方メートルの広さを持つ。清朝2代皇帝ホンタイジ(太宗)の墳墓である。8年の歳月をかけて造営されたと言う。
 我々が訪れた1979年は、現在のように公園として整備されておらず、少し荒れた感じがして、前日に訪れた、瀋陽故宮も同様の感じで、まだ発展途上にあった中国としては、そこまでまだ手が廻っていなかったのかも知れない。この昭陵も明の十三陵と共に2004年に世界文化遺産に登録をされている。午後は瀋陽市内の参観であった。ここに2枚の写真を提示してみる。1979年当時の瀋陽市の繁華街(写真L)と現在の瀋陽市の繁華街(写真M)である。

K瀋陽雑技団のパンフレット
1979年12月5日(水)

L1979年の瀋陽の繁華街

M現在の瀋陽市の繁華街
 2枚の写真を見ると隔世の感を覚えるのは、筆者だけではないと思う。約40年前の中国からは想像も出来ない発展ぶりである。
 さて、旅の11日目、1979年12月7日(金)は、宿泊していた遼寧賓館に約50キロの距離を約1時間かけて撫順市のマイクロバスが出迎えに来てくれた。朝食後、午前8時30分にホテルを出発して撫順市へ向った。中国旅行総社撫順支社長の林躍森さん、通訳の陳意祥さんが工人服姿で乗っており、

N1979年12月の撫順市

O現在の撫順市繁華街
車内であいさつを交した。瀋陽の東約50キロの撫順市へは約1時間40分位で到着した。バスの中で東洋一の大炭砿を持つ人口100万人の大都市であると説明を受け、到着してすぐに撫順賓館に旅装をといた。そして午前中に撫順市彫刻庁を見学した。副工場長の張振友さんから、特産の石炭を使った彫刻の説明を受けた。ここにも2枚の写真を提示してみる。1979年12月7日(金)の撫順市の繁華街(写真N)と現在の撫順市の繁華街である。(写真O)
 約40年経過しているとは言え、昔日の中国東北部撫順市の変貌には驚かされる。
 昼食を撫順賓館でとり、(写真P)午後は撫順炭砿と平頂山洵難同胞遺骨館への献花へ向った。

P宿泊した撫順賓館の部屋割

Q1979年12月7日撫順西露天掘炭砿

R現在の撫順炭砿
 戦前から満鉄が経営していた有名な撫順市西露天掘炭砿工場である。長さ6.6km、幅2km、砿底まで260m、巨大なヒョウタンをタテに二つに切り開き中味を取って地中にはめこんだような形で大きな「水の無い湖」といった型で、労働者1万8千人、内女性が2,400人で1914年から本格的に採掘し始めたと副礦場長の李さんから説明を受けた。(写真Q)(写真R)

S我々訪中団の捧げた花輪

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨
 更に我々は平頂山事件で知られる現場へと向い献花を行い慰霊を行った。

旧満州撫順炭鉱の地図

1979年12月7日(金)撫順賓館
手書きの夕食メニュー
 1932年の夏、平頂山という名の600戸、3,000人のこの村落に日本軍が攻め入り、村民全員を惨殺し焼き払ったと中国の歴史に残る犯罪行為をした場所で、発掘し安置されている800余柱に花輪を捧げ冥福を祈った。(写真S)(写真)(写真
 その後撫順賓館に帰り、一泊した。
 いよいよ旅も最終行程に入り、明日は上海へと空路向う。(写真)(写真
以下次号へ続く
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往時茫々、中国の旅  〜その5〜
二宮健(35回) 2020.02.03

筆者近影
 我々の中国旅行も第12日目を迎え、1979年12月8日(土)中国東北部撫順市より一旦、瀋陽市へ出て空路上海へ向う予定である。当初予定は瀋陽空港を午前10時に出発して上海へ向う予定であったが、使用する機材が未着とのことで午後2時35分発の中国民航651便に振り替えられた。
 その時間つぶしに急拠、瀋陽市遼寧工業展覧館見学になった。日本の工業技術から見ると格別何も感心する機器類は無かったが、広い大きな展示場にモーター類を中心に展示してあった。
 瀋陽発の651便は中国としては当時新鋭機の英国製ジェット機トライデント(中国名、三戟機)を使用していた。(写真@)(写真A)(写真B)

@1979年当時の中国民航トライデント機

A1979年12月8日瀋陽・上海間の中国民航651便の機長署名 二宮作成のものに署名してもらった

B同機の機内預けの荷物タッグ

C現在の上海虹橋国際空港待合室
 機は午後4時15分定時に上海虹橋空港へ到着した。現在では浦東と虹橋と二つの国際空港を持つ上海だが当時1979年の虹橋は国際空港とはいっても、うらぶれたローカル空港であった。(写真C)

D1979年当時の静安賓館のシール
 いつものように空港には中国国際旅行総社上海分社の沈天麟さん、通訳の梅恵良さんが出迎えてくれた。あいさつをした後、上海市内へ小型の貸切バスで向った。空港から市内まではそんなに遠くなかったが、夕暮れ時のうす暗い道路を通って市内に入り華山路にある静安賓館にチェックインをした。(写真D)

E毛沢東語録
 このホテルは開放前は、大金持の邸宅だったとのことで、改装してホテルになっていたが、上品で落ち着いた雰囲気があって旅行中で一番良い印象のホテルであった。上海も現在のように五つ星クラスのホテルから、ビジネスクラスのホテルまで何百とある沢山のホテルは当時には無く静安賓館などは当時1979年頃は外客用の一流ホテルであった。上海は文化大革命当時江青をはじめとする四人組の拠点、本拠であり、それだけに奪権斗争も激しかった場所であり、まだその疲れが都市に澱んでいた。(写真E)

F訪中時1979年の上海大履と
外灘の外白渡橋

G現在の外白渡橋と
ブロードウェイマンション
 戦前から日本でも有名であった上海大履(ブロードウェイマンション)や外灘(バンド)には、戦前の上海租界の建物が建ち並んでいたが、建物の外壁は洗われることもなく、年数が経っておりくすんでいた。(写真F)と、現在の同場所(写真G)

H1979年当時の上海の人々の服装
 勿論、現在のように浦東地区はまだ開発建設されておらず浦東空港も無かった。当時の上海の庶民の服装もまだまだ画一的な服装であった。(写真H)
 旅の13日目、1979年12月9日(日)の上海見学は午前中、上海市揚浦区少年宮を訪ね責任者の施佩珍さんという女性から説明を受けた。少年宮とは人口25万人以上の都市に設けられる施設で上海市には13の少年宮があり、揚浦区少年宮は1959年の設立で対象は7才から15才までの少年少女が学校以外で行う課外活動で午後3時から5時まで開放され日曜日は全日開放され、全額少年宮の経費は国費で運営されており、1日に約1,000名の子供が活動に参加するとのことであった。

I揚浦少年宮で床運動の指導を受ける少年達
 建物は3棟あり、科学技術、工芸技術、文芸(音楽・舞踊)3部門から成り、職員は54人で他に定年退職者10人、学校教育者10人がボランティアで協力援助してくれているとの話しだった。(写真I)
 この日の午後は上海市上海県(中国では市の下に県が行政機関としてある)の荘人民公社を見学した。人民公社の革命委員会副主任沈長鑑さん、政治委員陳倍先さん、弁公室趙永明さんや公社員の説明で午後ずっと見学をした。
 少し長くなるが、当時の人民公社の内容を記してみる。人民公社とは何かも理解いただけると思う。(写真J)(写真K)
 荘人民公社は長江(揚子江)のデルタ地帯にあり、漁米の宝庫といわれている。解放前には8,000人の農民が従事していたが、自給自足ができず、広範な農家は食うや食わずの生活をよぎなくされていたそうだ。解放後は、中国共産党の指導で集団生産を開始し、特に人民公社が成立してから17年間連続して増産に成功し、副業もかなり発展をして、都市部に農作物を供給して、労農団結に役立っているとの政治委員からの説明があった。

J1979年12月9日(日)に訪れた
上海市上海県荘人民公社の正門

K1979年12月9日(日)
上海市内の商店街
他に公社員は1969年からの合作医療制度の発足で1人15元を前払いすることで、病気の際は無償で治療が受けられること、また公社員には1人50uの自留地制度があり、使用権は農民、所有権は組織にあるなどの説明を受けた。また欠点として機械化が進んでおらずまだ手作業に負うところが多いとも言っていた。
 また人民公社の施設の@衛生院(鍼灸の治療状況)A灌漑用電力操作場B農機具工場C牧牛・養豚場Dマッシュルーム栽培場E飼料・肥料工場F公社員住宅などの案内と説明を受けた。
 この人民公社は1958年9月に成立し、1979年で21年の歴史があって、公社は3段階に分れ、生産8大隊、生産81隊からなっており、他に育種場、養魚大隊がある。農家戸数3,825戸、14,481人、敷地18?、耕作面積1,131haで作物は、主に米、綿、菜種、野菜、西瓜の他に漢方薬草などだと説明があった。公社成立後は、経済力を集中し、七つの工場を設けた。農機具工場、農産物加工々場、電気部品生産工場、木型工場、器具修理工場、服飾・家具工場、機械修理工場を直接管理しており、このほか生産大隊も小さな工場を経営しており、それ以外にも運輸グループ、建築グループなどがあると広範な説明を受けた。

Lケ小平

M1979年12月の
上海歌劇院のパンフレット

N当時の上海?酒
(ビール)のラベル
 後日、歴史的に見てみると、人民公社や革命委員会はケ小平(写真L)がすすめつつあった政策により、段々とそれらの組織が無くなりつつある時代で、我々訪中団はその変革期のまっただ中を旅行していたのが、良く後日になって理解出来た。まだケ小平は華国鋒の権力を全面的に奪権する直前の時期であった。
 その夜は、上海歌劇院舞踊団神話舞劇を見物した。(写真M)(写真N)

 旅の14日目、1979年12月10日(月)はいよいよ中国旅行の最終日となった。

O上海鳳城工人新村
 午前中は上海市揚浦区鳳城工人新村の訪問見学である。同工人新村の幼稚園と工人家庭を訪問した。案内をしてくれたのは、同工人新村街道婦人連合会の馬初伏さんという婦人であった。日本で言えば町内連合婦人会長とでも言う肩書であるが、共産党の党員でもあって街の目付役もしているらしい。この新村は解放後1952年に建設され、揚浦区には16の新村があり、都市市民の住宅団地であり、2階建から6階建まで800棟あって、電気、水道、ガスの設備が整っており、面積は367,000u、世帯数11,000戸、人口48,000人で産業労働者が主で、医師、教員、科学技術関係者、商店員などが住民であり、商業センター、郵便局、銀行、書店、市場(4ヶ所)、公園、文化施設、グランド(2ヶ所)、託児所4、幼稚園5、小学校6、中学校3などがあり、病院(小さい街道病院)などがあると説明を受けた。又、定年退職年令は肉体労働で男60才、女50才、頭脳労働者は男、女共に55才であり、退職金(年金に当る)給付は、退職時の70〜80%相当が受給出来ると説明を受けた。日本では、公団住宅のような大規模な団地であり、当時1979年における中国が自慢できる集団住宅であったように思う。(写真O) 
 午後には、最後の公式訪問となる、上海市革命委員会を表敬訪問した。

P表敬訪問をした上海市人民政府と
中国共産党上海市委員会
 同委員会外事弁公室副主任斉維礼さん、旅遊局副局長徐唯宝さん等の幹部が出迎えてくれた。上海市は文革当時四人組の拠点であり、中国共産党はこの時期上海での政治革新を命題としており、訪問時には、既に革命委員会の名前を上海市人民政府と変えており、中国共産党上海市委員会の2枚の看板が建物には掛けられていた。(写真P)
 同日夕刻、中国での全行程を病人や事故もなく終えて上海工芸美術品服務部や友誼商店で帰国の土産を購入した。(写真Q)(写真R)

Q上海工芸美術品服務部のシール

R1979年当時の中国訪問客の
外貨兌換証明書類

S上海発長崎行788便の荷物タッグ

友好訪中団の団員名簿と表紙
 我々一行は1979年12月11日(火)に上海空港発午後2時発日本航空788便(中国民航と共同運航)で長崎へ午後4時43分(時差1時間、中国時間午後3時43分)に到着し、国内線にのりかえ長崎発午後7時35分発全日空170便にて大阪伊丹空港へ午後8時40分に到着した。(写真S)(写真

追記



初訪日したケ小平の一行

大平正芳首相と大平首相夫人は12月
9日訪問先の西安で“温古(故)知新”と 
揮毫をした。同日付の人民日報紙。  
我々一行が上海滞在中のことであった。
 往時茫々たる1979年の訪中記であるが、私達の訪中1年前の1978年に日中平和友好条約の批准書交換のため、当時はケ小平副総理だったが事実上の中国首脳として10月22日に来日して(ケ小平の初訪日)昭和天皇とも会談した。(写真
 またこの答礼として1979年12月5日から12月9日まで中国を訪問した大平首相。我々一行が訪中をしているまさにその時期に当り、我々一行も各地で盛んに一行の動静と比較して日中友好のもてなしを受けた。(写真

2014年9月30日日中航空路開設40周年式典
 なお、日中間の定期航空路線が中国民航と日本航空の相互乗り入れを開始されたのが1974年9月29日のことである。(写真
 ここに政経不分離といわれるが、ケ小平が実権を握り、我々が訪中した頃(1979年)の中国の一人当りの国内総生産額は、当年価格で1979年が423人民元、米ドルで272ドル、それが2017年には、59,660人民元、米ドルで8,833ドル(米ドル表示は各年平均レートで算出)いかに37年間に経済が成長し、中国が経済面でも発展したかが理解できる。
資料2018年版「中国統計」摘用
 私が約4年に1回程、この初訪中時より生業の関係で(定年退職後はプライベートで)中国を訪れてきたが、その成長のスピードには驚くべきものがあった。1979年筆者37才の初中国旅行は、令和元年の現在から見ると、往時茫々の感がしてならない。

〜 終 〜

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花だより
中城正堯(30回) 2020.03.07




筆者近影
 コロナウイルス騒動のなかで、蟄居の老人を慰めてくれる桃の花をお届けします。45年前に横浜市青葉台に転居した際、近所で見付けた桃の実生を育てたものです。果実は実りませんが、老木になった今も、真っ先に春の到来を知らせてくれます。
 生まれ故郷の高知市種崎は、戦争までは桃の名所で、小学に入学しB25が姿を見せ始めた戦時下も、遊び仲間と実生の桃を拾ってきては育てていました。
 狭い庭で我が物顔に咲き誇っている桃は、中国では邪気を払い、長寿のシンボルでもあります。同じく中国から渡来したコロナウイルスの邪気払いにつながることを願いつつ、眺めています。
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向陽プレスクラブ幹事会議事録
水田幹久(48回) 2020.03.09
議長 北村章彦幹事長(49回)  書記 水田 幹久
1.日時 2020年2月21日(金)  18時〜20時30分
2.場所 ビッグエコー東京八重洲本店
3.出席者 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 中井興一(45回) 
  水田幹久(48回) 北村章彦(49回)  以上6名
  委任状 山本嘉博(51回)

4.北村章彦幹事長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
 なお、本幹事会は出席者6名、委任状提出者1名 の7名の参加があり、構成員(9名)の過半数に達しているので成立したことを確認した。
 1.2020年度総会について、下記の要領で実施することに決定した。
   日時:2020年4月25日(土)
   場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
   港区新橋4-14-7
   TEL:03-3432-5666
   URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
 2.総会議案について
   1) 2019年度活動報告 : 幹事長配布資料の通り報告することに決定した。
   2) 2019年度会計報告 : 中井会計配布資料(会計報告暫定版)の内容を確認した。
    本幹事会から期末までの間に入出金がある場合には、これを追加して、総会に報告する。
   3) 2020年度活動計画案 : 幹事長配布資料に基づき、以下の事業を行う案を総会に諮ることに決定した。
    ・2020年4月25日 総会
    ・2020年度の幹事会は、9月、3月に拡大幹事会として実施する。
    ・高知支部懇談会を実施する。
    ・ホームページによる発信を継続する。
    ・その他。
   4)2020年度予算案
    2019年度決算案に準ずる予算案とする。
 3.その他の議事内容
    1)100周年記念事業への参加について
     前年度方針を継続し、クラブとしての参加はしないが、会員各々が個人として協力する。
    2)「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について
     公文会長より実施状況について報告があった。
    ・増刷数は2000部。1900部を在学生・職員等に配布することとし、3/11に
     土佐校へ発送する予定。増刷の費用は有志負担。
    ・送料は95,000円の予定。送料はクラブ負担とし、2019年度の支出とする。
    3)公文会長より、会員が刊行にかかわっている書籍の紹介があった
     土佐中高人物伝「「筆山の麓」から−夢を追ったあの人この人(仮題)」
     2020年9月刊行予定、1800部を母校寄贈、1200部を市販。
     クラブとしてはホームページで紹介する。
以上
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4月25日KPC総会案内
北村章彦(49回) 2020.03.10
会員各位

 この春は新型コロナウィルスに翻弄されていますが、会員の皆様にはますますご清祥のことと存じます。
 さて、2月21日の幹事会で承認いただきました令和2年度の向陽プレスクラブ総会を以下の日程、場所、会費で行いたいと存じます。
 なお、出席、欠席および議事委任のご連絡を4月17日(金)までに返信メールにてお知らせ願います。なにとぞよろしくお願いいたします。

日時:2020年4月25日(土)17:00〜17:30 総会
              17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年度と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7
TEL:  03-3432-5666 http://syusai-romantei.jp/index_to.html

  懇親会会費 5000円
※総会議案について
   1) 2019年度活動報告 
   2) 2019年度会計報告 
   3) 2020年度活動計画案 
   4)2020年度予算案
   5)その他
    @100周年記念事業への参加について
    A「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について
    B土佐中高人物伝「「筆山の麓」から−夢を追ったあの人この人(仮題)」について

※また、令和2年度の会費2000円の納入をお願いいたします。
総会に持参あるいは向陽プレスクラブの口座への振り込みでお願いいたします。

会費の納入は下記口座までお願い致します。
みずほ銀行渋谷支店 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ
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母校が創立100周年を迎えるのを祝し
「土佐中学を創った人々」2000部増刷
公文敏雄(35回) 2020.03.15

筆者近影
向陽プレスクラブ会員の皆様
 拝啓 新型コロナの流行で何かとご不自由な日々を送っておられるのではないかとお見舞い申し上げます。

 さて、本日ホームページに掲載の「向陽プレスクラブ幹事会議事録」に記載のとおり、平成26年(2014年)4月に当クラブの事業として発行した「土佐中学を創った人々」を今般2000部増刷いたしました。昨年4月の総会決議に拠るものです。
 うち1900冊は、本年秋に母校が創立100周年を迎えるのを祝し、先週土佐中学・高校に贈呈いたしました。新学期早々に全校生徒・役職員に配られることになっています。(残りの100冊は小生宅で保管しております。)
 会員の中でご希望の方がおられましたら、在庫の中から進呈(無償)いたしますので、メールでお申し越しください。会員名簿に登録のご住所あて郵送させていただきます。ご参考までに、本誌の表紙、発刊の挨拶、目次のコピーをここもと添付しました。

 時節柄ご自愛のほどお願い申し上げます。

表紙

発刊の挨拶

目次
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<新刊『サハラの歳月』のご案内>妹尾加代(35回生)さんが翻訳出版
「破天荒・感涙のサハラ!」と話題
中城正堯(30回) 2020.03.22

『サハラの歳月』
(三毛著・妹尾加代訳)
 2月末に新聞の書籍広告で『サハラの歳月』(石風社)を見付け、サハラの表題と三毛(サンマウ)という奇妙な著者名に惹かれて横浜市立図書館に購入依頼・閲覧予約の手続きをした。サハラは、1977年に筆者が編集した梅棹忠夫監修『民族探検の旅』(学研)で、高知出身の野町和嘉(現日本写真家協会会長)さん撮影の広大な砂の造形美と、ラクダとともに生きるトゥアレグ族の姿に魅了されてきた場所だった。予約直後に、小松勢津子(35回生)さんから、「セノオさんが素晴らしい本を翻訳したので、読んで!」と、連絡があった。
 やがて図書館から受け取ったのは、サハラ砂漠の写真で装丁された分厚い本で、そのボリュームにたじろいだが、読み始めると「数億の読者を熱狂させた破天荒・感涙のサハラの輝きと闇」という、キャッチフレーズ通りの面白さで、一気に読み終えた。訳者あとがきで妹尾さんは、「その途轍もない面白さと深い愛に感動し、台湾に住む作者・三毛に連絡を取り、翻訳にとりかかった」と記している。普通なら、海外の話題書は出版社や翻訳エージェントの人間が見付けて翻訳者に依頼するが、妹尾さんは自ら発掘翻訳したのだ。

著者の三毛(同書より)
 著者の三毛は中国重慶の生まれで台湾育ち、サハラの景観に憧れて移住、スペイン人と結婚してスペイン領西サハラで新婚生活をおくる。好奇心旺盛で、西洋人が近づかないサハラの現地人集落に住み、にわか医者になって危険も顧みず奥地を訪れるなど、天真爛漫な行動をユーモラスな筆致で綴っていく。このあたりは、画家・合田佐和子さん(34回生)が『ナイルのほとりで』(朝日新聞社 1987年)に書いた、エジプト・ヌビア砂漠での「ヌビア人の村での面白くて切ないオドロキ日記」と同類の楽しい異文化体験記であった。だが、最後章「哀哭のラクダ」では、スペインからの独立運動と隣国の軍事干渉のなか、仲良し女性の凄惨な最期を目撃、自らも身の危機を迎える。
 妹尾さんの訳文は、中国の教養豊かな女性によるサハラの牧畜民探訪という、日本人読者にとっては二重に理解困難な世界へ、違和感なくいざなってくれる。20数年前に「中国年画と満州」という小論をまとめる際、小松さんに紹介いただいて中国文献の翻訳に大変御世話になった。これは『季刊民族学』に発表、お陰で好評だった。妹尾さんとはその後失礼していたが、同窓会広島支部幹事長として活躍とのことを洩れ聞いていた。この素晴らしい翻訳書を、皆さまにも楽しんでいただきたい。
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土佐向陽プレスクラブ