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2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで

2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで    2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで
 
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2020.04.10 竹本修文(37回)  ヨーロッパとイギリスの最新事情
2020.04.12 公文敏雄(35回)  総会延期のお知らせ
2020.04.14 中城正堯(30回)  庭のエビネが咲きました
2020.04.27 公文敏雄(35回)  「リバプールと奴隷産業」を読んで
2020.04.27 竹本修文(37回)  リバプールと奴隷産業
2020.04.29 中城正堯(30回)  「リバプールと奴隷産業」を読んで--2
2020.05.08 藤宗俊一(42回)  ワインの貯蔵と飲み頃
2020.05.13 竹本修文(37回)  古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
2020.05.30 竹本修文(37回)  ノルマン様式城郭の始まり
2020.06.06 竹本修文(37回)  ノルマン様式の城郭巡り
2020.06.09 竹本修文(37回)  米国黒人差別事件のイギリス版
2020.06.13 鍋島高明(30回)  「奇才・土佐・啄木…」の発刊について
2020.07.02 竹本修文(37回)  ボルドーの「残酷な歴史の回想」
2020.07.02 西内一(30回)  ボルドーの「残酷な歴史の回想」を読んで思い出すこと
2020.07.16 中城正堯(30回)  『綴る女』をめぐる変奏曲
2020.07.16 中城正堯(30回)  「大江戸もののけ物語」の不思議な寺子屋
2020.07.30 公文敏雄(35回)  予告記事「土佐中高100年人物伝」
2020.08.14 中城正堯(30回)  土佐藩御船頭の資料を展示
2020.08.16 鍋島高明(30回)  『介良のえらいて』第2次増補版について
2020.08.27 竹本修文(37回)  日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある
2020.08.27 竹本修文(37回)  ウイスキーにも造詣が・・
2020.08.27 中城正堯(30回)  「ジョニ黒」ことはじめ
2020.08.27 竹本修文(37回)  
2020.09.06 冨田八千代(36回)  いろいろと、ありがとうございました
2020.09.10 竹本修文(37回)  ペスト
2020.09.10 中城正堯(30回)  高知でのコレラに関する歴史
2020.09.10 竹本修文(37回)  ヨーロッパ中世のペスト
2020.09.24 中城正堯(30回)  「日曜美術館」 画家・田島征三さん
2020.10.08 竹本修文(37回)  ビールの話 
2020.10.08 中城正堯(30回)  ハチ公とボビー、忠犬たちを仲介して
2020.10.08 竹本修文(37回)  スコットランドのハチ公
2020.10.10 公文敏雄(35回)、中城正堯(30回)  「土佐中高100年人物伝」発刊のお知らせ
2020.11.13 公文敏雄(35回)  森の中の「のいち動物公園」
2020.11.19 公文敏雄(35回)  百周年記念式典への参列
2020.11.21 冨田八千代(36回)  詳しい報告をありがとうございました
2020.11.21 山岡伸一(45回)  「土佐校100年展」
2020.12.08 公文敏雄(35回)  母校校歌「向陽の空」の歌詞を深読みする(改訂版)
2021.01.15 中城正堯(30回)  コロナ禍乗り越えベストセラーに
2021.01.15 中城正堯(30回)  −親しめる『土佐中高100年の歩み』を創ろう−
2021.01.21 冨田八千代(36回)  『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を読んで
2021.01.22 冨田八千代(36回)  小村彰校長先生に感謝と感銘
2021.01.25 竹本修文(37回)  ガロ・ローマン時代のパリ  
2021.02.07 竹本修文(37回)  〜 フランク王国メロヴィング朝まで
2021.02.07 西内一(30回)  トウルネの橋や大聖堂
2021.02.07 竹本修文(37回)  リール 〜 トウルネー
2021.02.18 竹本修文(37回)  フランク王国からフランス王国の始まり
2021.02.18 竹本修文(37回)  飛行機故障の経験
2021.02.23 鍋島高明(30回)  著名人の投資歴
2021.02.26 植野文隆(42回)  ぶんちゃんの世界オモシロ随想録
2021.03.01 公文敏雄(35回)  土佐高生の地震避難研究
2021.03.02 竹本修文(37回)  シャルル5世の市壁
2021.03.13 竹本修文(37回)  城は歴史の語り部
2021.03.13 西内一(30回)  ロアールの城とサンテミリオン城郭
2021.03.15 中城正堯(30回)  田島征彦展のお知らせ
2021.03.15 竹本修文、西内一、中城正堯  カルカッソンヌ・馬出し他
2021.03.20 尾池和夫(34回生)  地震火山庁の設置と地震火山予報士の制度化
2021.03.28 竹本修文(37回)  ルイ13世の城壁

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
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最後のイギリス旅行−その1
ヨーロッパとイギリスの最新事情
竹本修文(37回) 2020.04.10

筆者近影
 2019年9月に久しぶりにイギリスを旅行した。成田空港開港の前年の1977年にヨーロッパ各地を訪問して以来イギリスには3年間のロンドン駐在を入れて25回目の訪問であった。回数だけならフランスの35回に次いで2番目となるが小中学生の子供達と過ごした国であり、会いたい知人やもう一度見ておきたい所が沢山あり、またイギリスが欧州連合EUから離脱(BREXIT)する事になり、自分の目で確かめておきたい事も沢山あったので、妻と二人で3週間旅行した。
最近までの20年間は個人的旅行で十数回行った。いつもレンタカーを妻と交代で運転したが、70歳でイギリスの免許も切れ、後期高齢者になって国内免許も返納したので、初めて鉄道・地下鉄・バス・タクシー・徒歩で通した。
 8年前のロンドン・オリンピック&パラリンピック前にバリアフリーが進んだと言うが、155年前に世界で初めて地下鉄を開通させて以来次々と既存のビルの下を深く掘って作った地下鉄が多くて、乗換駅などでバリアフリー化出来ない所が多くあり、非常に疲れた。地下鉄ではベビーカー(=和製英語、英:push-chair、米:stroller)と一緒には乗れない。帰国後の夫婦の感想は、「イギリス旅行はこれで最後にしよう」と、なり投稿の表題にした。今回から4回投稿を考えており、各副題は以下の@〜Cです。
@ シリーズの第1回目は、「ヨーロッパとイギリスの最新事情」の副題で、戦後のヨーロッパの歴史を概説した上で、ヨーロッパの中のイギリスとイギリス国内の事情を説明し、今回気づいた事や、今後の予測や課題を報告する。
A 次回は「リバプールと奴隷産業」という副題で、リバプール奴隷博物館を訪問し、西アフリカ・アメリカ・ヨーロッパを結んだ三角貿易と奴隷貿易産業の首都がリバプールだった事をリバプール大学の出版物などで調べたので紹介する。古代・中世の歴史に全く登場しない街リバプールだったが、ダークサイドの歴史であり、国としても表にはしたくなかった事がよくわかった。
B 30回生の中城正堯氏、西内一氏のご推薦で昨年度から公益財団法人日本城郭協会の評議員に就任しているので、2000年前のローマ軍の城郭都市ロンデイニウム(ロンドンのラテン語名)の古代地図を片手にそのカケラをさがして歩いてきたので紹介する。仮の副題は「古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン」。
C これも城郭です。1066年に現在のフランスのノルマンデイーに定住していた北欧ヴァイキング出身のノルマン人がイギリス南東部のセイステイングから上陸し、建設したイギリス中世の城郭を見てきた。仮の副題は「ノルマン様式城郭のはじまり」です。
ヨーロッパとイギリスの最新事情

はじめに 1.イギリスという国

2.イギリスを取り巻くヨーロッパの現状と課題

ヨーロッパの現状と課題

3.イギリスの事情 スコットランドの現状と将来

アイルランドの現状と将来 イギリスの東アジアとの関係

英語は強みだが弱みにもなりうる

4.イギリスに個人旅行をする方々への助言

ヨーロッパとイギリスの最新事情
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新型コロナウィルスによる
総会延期のお知らせ
公文敏雄(35回) 2020.04.12
向陽プレスクラブ会員の皆様
 コロナショックでに日本列島が大揺れですが、いかがお過ごしでしょうか?
 さて、このところ感染の拡大が止まらなくなくなった様相が顕著ですので、4月25日開催予定としてご案内申し上げていたKPC総会は、情勢が落ち着くまで(見通しは立ちませんが)延期とさせていただきます。
 ご諒承のほどお願い申し上げます。
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<季節便り>
庭のエビネが咲きました
中城正堯(30回) 2020.04.14

筆者近影
 3月早々に実生から育てた桃の花をご紹介しましたが、その根元で地エビネが可憐な花を咲かせました。これも桃同様に、45年前に横浜市青葉台に移住したさいに、近所の丘陵を散策中に雑木林の中で見かけたラン科の野草です。庭に移植したものは家の建て替えでいったん枯れ、これは隣家から分けてもらった二代目です。
 今では回りの雑木林もすっかり宅地化され、エビネも、アゲハチョウも、カブトムシも、シマヘビも、すっかり姿を消してしまいました。わずかに恩田川沿いにツクシやイタドリが春を告げ、口に含んでは少年時代の野生の味と香りを思い起こしています。もう一つアケビも、熟れた実を持ち帰って食べた種からいつのまにかツルが伸び、この時期に紫の花を咲かせます。秋には、今でも口に含んでは種を飛ばしつつ、甘い果肉を味わいます。
 戦時下の少年時代は食糧難で、特に甘い物は欠乏、クワの実やアケビを見付けてはむさぼっていました。今や洋菓子店にはパティシエが腕を振るった豪華ケーキがならび、花屋には遺伝子操作で生まれたのか色鮮やかな大輪のランが妍を競っています。コロナ騒動で、近代文明が脆さを露呈しつつあるなか、素朴な地エビネに慰められるこの頃です。


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最後のイギリス旅行−その2
「リバプールと奴隷産業」を読んで
公文敏雄(35回) 2020.04.27

筆者近影

竹本さん
 ヨーロッパ事情のレポートシリーズ2で奴隷貿易が登場したのに驚きました。 恥ずかしながら「知らなかった」ことばかりで、興味深く読ませていただきました。 翻訳作業を含めたご労作に頭が下がります。
 いま思い出したのですが、私が「ガーナよさこい交流」でガーナ高校生と十数年 関わってきた間に気づいて、気の毒に思ったことが二つあります。
その1.「ガーナの高校には過去の歴史の授業が無いらしい」こと、そして「背景に奴隷貿易(奴隷狩り)があるらしい」ということ
 貴兄のレポートのセネガル訪問の箇所に奴隷狩りの様子の記述がありますね。 白人が原住民部落を襲って奴隷狩りをしたと思われがちですが、そう単純ではなく、 白人は単なる買い手であり、実は有力な部族が近隣部落を襲って狩って白人に売ったわけで (会津と長州ではないが)今では面倒な国内問題です。教科書つくりも歴史博物館つくりも 容易でないでしょう(実際どちらも無いらしい)。ガーナ政府(有力部族の継承者)が アフリカ系米国人に対して、「先祖があなた方のご先祖に過酷な運命を強いて済みません」 と謝罪したなんて信じられますか?
その2.なくならない人種差別と奴隷貿易のトラウマ
 ここから下は2015年夏に来日ガーナ高校生20人を連れて福島県に滞在した時の記録です。

 <猪苗代滞在中、AFS奨学金で来日したガーナ人高校生が留学しているという会津の高校を 訪ねた時の体験を、ガーナ高校生の一人が次のように感想文に書いている。
 「正直に言うと、この時僕は、唯一人の黒人マイケルが日本人生徒たちから人種差別を受け、 のけものにされているのではないか?可哀そうにと思っていた。しかし、ここで会った日本人 生徒たちが我々一行に手を振り、歓声をあげ、しかも近寄ってきて抱擁までするのを見て、 僕の考えが完全に間違っていたことを知った。感動すると同時に、日本人全体に対する大いなる 尊敬の念が湧いてきた」。
 ほかの感想文にも、「当初私は、ガーナにいる一部のヨーロッパ人のように、日本人も私たち アフリカ人を差別しているのではないかと考えていた。しかしそれは大きな間違いであった」 というような記述がある。ふだんはめったに口に出さない彼らのコンプレックスを垣間見て、 我々がガーナ遠征の際見学した奴隷収容・積み出し基地―世界遺産エルミナ城やケープ・コースト城 の姿が思い浮かんだ。
 16世紀のポルトガルに始まりオランダ、英国が引き継いだ奴隷貿易では、性温厚なガーナ諸部族が 「奴隷狩り」の格好の標的とされ、毎年数千人とも数万人ともいわれる犠牲者がここから積み出されて 新大陸へ送られた。父祖たちの恐ろしい体験に加え、未だに地上から消えることがない人種差別。 我われにはうかがい知れないトラウマが、陽気に見える若者たちの心底に潜んでいるとしたら、 語りかけるべき言葉が見つからない。
 
竹本修文(37回) 2020.04.27

筆者近影
公文さま
 ご丁寧な読後感を頂きまして大変嬉しく思います。
 KPCの投稿を見ると、結構旅行記がありますね〜?シチリアの記事は私と同じ所を旅行されていて面白かったです。自分の資料整理を兼ねて投稿サイトを使わせてもらおうと考えたのです。したがって、読者の興味とかけ外れていないか?気にしていました。
 昨年の旅行で、重要な目的は6月に娘の三回忌を終えたので、娘の小学校時代、大学時代の知人や学校の学生寮などを訪問する事でした。しかし、これは全く個人の事で投稿できないので、これを外して時間をかけて訪問したり、帰国後翻訳した事を4件投稿しようと決めました。やれるかな〜?と心配しましたが、コロナのお陰で休校になった孫も来なくなり、時間がいっぱいできて、パソコンに向かっています。腰痛持ちで、マッサージに通っていましたが、コロナが心配で休み、30分以上はパソコンに向かわないようにしてやっています。
 ガーナの件、中村さんとよく話をしました。私は行ったことはありません。浅井先輩がガーナ大使をされて以来表参道でスーパーヨサコイをやっていて、3回ほど見に行った事です。猪苗代の野口秀雄英世記念館へガーナの高校生が訪問されたDVDを中村さんから頂き、公文先輩たちがご活躍の様子を拝見しました。中村さんの形見として大事に保管しております。引用した貴重な本Liverpool and the Slave Tradeは、amazonでも扱っているようですが、いつも在庫なし。再入荷未定になっています。リバプールの奴隷博物館は新しくて世界一の規模なので、沢山の黒人が見学に来ています。イギリスは全国の国立・公立の博物館、美術館などは入場無料なので安上がりです。
 初期の奴隷貿易はポルトガルとスペインが中心ですが、彼らは自分のダークヒストリーの詳細な記録を公開しないのでよく分かりません。ポルトガルがアジアとの交易を始めた頃にナイジェリアの真南の赤道直下の無人のサオトメ島に食料や水の補給基地を作り、アジア原産のサトウキビ栽培を始める為にアフリカ大陸から人を入れたのが奴隷貿易の起源ですが、イギリスが横取りして農園と奴隷をジャマイカ方向に移したようですが。引用した本は、リバプーの知識人が自分たちのダークヒストリーを先ずリバプール市民に明らかにする目的なので記載がありません。公文さんがご指摘の通り、奴隷狩りには直接関わらず、Cape Coast Castleなど安全な処から指示・商売をしていたようです。この本にはこの城(要塞)が3か所に出ています。投稿したのは約10%分なので、あと90%残っています。
 アラブ人は、7世紀に北アフリカに移動し、711年にスペインを征服、南は現在のモロッコ、西サハラ、モーリタニアまで行っています。モーリタニアはセネガルと同じアフリカ人だったのデスが、アラブ人に支配されて、奴隷(アフリカ人)の売買が20世紀末まで続いていました。アラブ人が西アフリカの黒人に金と武器を渡して奴隷狩りをしていたが、その裏には西洋人がいたのです。
 フランス人は北アフリカのアルジェリアやチュニジアに進出していたが、彼らは家族で移住しました。だから引き上げるときは、アルジェの戦いのように血みどろになるのですが、イギリスはインドやアフリカでも現地人を使って植民地経営をして自ら手を汚さないのです。
 今回紹介した範囲には、イギリスが国会で奴隷廃止を決議しても、リバプールの奴隷商人は過去のコネを活用して、イギリスに住みながら、現地人に出資して奴隷貿易で利益を得ていた所まで、反省している所が他の資料と違います。「さすが、リバプール大学だ!」と賛辞を送りたいきもちです。
 南北戦争でリンカーンの北軍が勝利して奴隷制を廃止したが、開放奴隷の処遇の仕方にも興味があります。調べる資料がありません。元の国へ帰すやり方;教育もせずに、「ただ解放すればいい」いいのか?
  @ アメリカはリベリアを建国して送り込み内戦だらけ
  A イギリスはシエラ・レオーネを作ってアメリカから送り込み血みどろの内戦
  B フランスはカリブ海のハイチで開放してほったらかして未だに極貧国
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最後のイギリス旅行−その2
リバプールと奴隷産業
竹本修文(37回) 2020.04.27

筆者近影
 「リバプールと奴隷産業」の原稿を送ります。一般受けしない内容なので心配ですが、私にとっては長年の課題だったので、コロナのお陰で時間ができたので、一気に書きました。

1.はじめに 2.リバプール

港町リバプール

離れて56年経ってもビートルズの街 奴隷貿易の衝撃


3. 西洋史の勉強 4. 大西洋航路の三角貿易

5. 「リバプールと奴隷貿易」

奴隷貿易の起源

イギリスの奴隷貿易参入

リバプールと奴隷貿易

奴隷船

奴隷船

リバプール最初の奴隷貿易商人 奴隷貿易は何をもたらしたか?

奴隷制廃止とその後

リバプールと奴隷産業
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「リバプールと奴隷産業」を読んで--2
中城正堯(30回) 2020.04.29

筆者近影
竹本様
 リパブールに始まる奴隷産業の紹介、竹本さんの綿密でしつこい文献渉猟ぶりにただただ脱帽です。リパブール繁栄の裏事情から、奴隷貿易の過酷な実態まで教えられることばかりでした。あとは、KPCのメンバーが、読んでくれるのを願うばかりです。
 私の海外探訪では、奴隷制度の残滓が目に触れることはあまり有りませんでしたが、奴隷貿易に続く植民地制度の末期はいくらか実見しました。
 1965年に初めての海外訪問で訪ねたオーストラリアのアリス・スプリングスのアボリジニー保護区では、原住民の子どもを親から隔離しての教育が最盛期で、原野に住み、昔ながらの暮らしを続ける親と、分離されて施設で英語での近代的学校教育を受ける子どもが引き裂かれていました。後に、これでは親子の会話も、伝統文化の継承も出来ないとして、改められました。オーストラリアの保護領だったパプアニューギニアでは、戦前同様に原住民を使って大農園を経営する英国系オーストラリア人を訪ねました。ホテルのレストランもモーニングティーから、暑い中盛装しての夕食に閉口しました。このうち、アボリジニーの史料は、後に国立民族学博物館の小山教授に進呈しました。
 インドネシアのニューギニアに近い香料列島バンダネイラでは、16世紀頃オランダとポルトガルとの争奪戦に使役されたサムライの絵にビックリでした。日本の戦国時代の敗残兵の中には、西欧諸国の奴隷となった日本人も居たのではないでしょうか。さらには、日本が統治した時代の台湾・韓国と、西欧による新大陸植民地との比較など、我が国の歴史認識にも引き戻されました。
 せっかくの力作ですので、次回以降もぜひ挿図・写真を多用し、竹本さんの行動や感じたことを交え、親しみやすく読みやすい紙面・文章を期待します。 (2020/04/29)

エアーズロックにセスナで到着

先住民の子どもが描いた風景画

ニューギニアのコーヒー大農場
中城

竹本様
 今朝、朝刊(朝日新聞)を開いて驚きました。「国際」面で「クック上陸250年豪 先住民と保守派 異なる歴史観」の見出しで、昨日紹介した先住民教育のことも、悲劇として紹介してあります。また、クック上陸後、英国の流刑地となった事から、先住民は「文化の消滅」が始まったのか、「科学と民主主義」を得たのか、と問いかけています。
 なお、クックが1768年にエンデバ号で出航したのは、リパブール港ではなく、プリマス港で、オーストラリア到着は1770年、250年前のことでした。
 私が訪ねた1965年は、中央部の先住民聖地ウルル(エアーズロック)訪問にはセスナをチャーターするしかなく、むろん飛行場もなく、乾燥した草原に着陸したことを思い出します。その写真と、先住民の子どもに描いてもらった風景画を添付します。先住民は、絵の才能が素晴らしく、ロックアート(岩面画)や樹皮画(カンガルーの骨格まで描くレントゲン画)が知られ、この風景画でも、うねるような独自のタッチで、岩山や巨木を表現しています。 (2020/04/30)
中城

中城さま
 メールをありがとうございました。
1.ニュージーランドのマオリの事は早くから知っていたし、海洋民族で文化も進んでいたが、アボリジニの事はシドニーオリンピックの時の開会式に登場するまで知りませんでした。ウルル(Uluru)周辺のアボリジニの宗教上の聖地と言うことで、以前のような観光地でなくなった記事を見ました。
2.シドニーに滞在していた時に、支社に東京から鉱山の大型掘削システムの点検に来ていた技術者がいて、「東京から9時間で来たが、現場まで大型ジープで片道30時間・・・一泊二日とか言っていた事を思い出しました。
3.翌日、ジャカルタへ移動したのですが、クリントン大統領の特別機が来るので、いつもと違うコースで遠回りするとアナウンスがあり、メルボルンまで南下してから北北西に旋回しました。そうしたら、大分経ってからアナウンスがあり、ウルル(Uluru)が下に見えました。ウルル(Uluru)は最初で最後です。
4.将来、イギリスの城郭の投稿をする時に説明しようと思っていた事ですが。リバプールの時に、干満の差が大きくて、大型船が停泊するためにはドックが必要と言いました。西内さまにもCCで送ります。プリマスは古くからヨーロッパ大陸との交易の港で、自然の入り江があって、海賊ドレイクの拠点でした。地図を添付します。ロンドンは、イギリス一番の港ですが、テムズ川岸の陸地に沢山のドックがあるのが分かると思います。ユーロトンネルの開通で暇になりました。リバプールはアメリカ大陸が植民地になってからの港です。最大の港は、史上最大の作戦で連合軍艦隊が出撃した、ポーツマスです。巨大なドックが沢山あります。

イギリス周辺地図 

プリマス地図

ロンドン港

 失礼します。 (2020/04/30)
竹本 修文

竹本様
 日本人は港と言えば海港を思い浮かべますが、ヨーロッパは河川港が古くから重要だったこと、ドックで干満差に備えたことなど、あらためて気付かされました。ロンドン港周辺がドックだらけの様子もはじめて知りました。
 そういえば、知人のグリンデルワルト在住・中島正晃さんは20年ほど前にスイスからボートで地中海まで、河川と運河を漕ぎ下り、冒険家大賞を取りました。
 イギリス人が大好きなボルドーワインも、ボルドーの河川港から、ロンドンに運ばれたわけですね。 (2020/04/30)
中城

中城さま
1.スイスのお話は日本では珍しいと思いますね〜?.森健一先輩がお得意の30年戦争のあとのウエストファリア(独:ヴェストファーレン)条約で出来た国々の一つですが、正式名が「スイス連邦共和国」で30の国(カントン)で出来ていて、大統領は毎年交代するので覚える必要はない、何年か前に国連にやっと加盟したが190番目だったことだけ覚えています。
2.国連加盟前の独自防衛時代のスイスのチューリッヒの水道局の浄水場を見学しました。貯水池のチューリッヒ湖に毒薬をいれられた事を想定したリスク・マネージメント・システムとチュ-リッヒ上空で東西軍の核兵器がさく裂した場合を想定した、クライシス・マネージメントの概要を聞きました。
3.チューリッヒ湖から出た水は、オランダのロッテルダムに出ていくまでに、人間の体を4回通るといっていました。ライン川周辺のヨーロッパの国々では、常に戦争があり、子孫に土地などを残す習慣がないので、井戸を掘らないのです。ライン川の水を調理に使い、そこそこの処理をしょて、またライン川に戻す。秩序を守らないと戦争だった。「井戸を掘らない、植林をしない」・・・ヨーロッパ共通の常識でした。
4.ボルドーは今度投稿する積りのノルマン朝時代にフランス語しか話せないイギリス王の時代にボルドーなどの地域を領有し、ローマ軍が持ち込んだワインを育てて、自分たちの好きな味にしました。ワインの行き先は当時はブドーが育たなかったイギリス、そしてオランダで、濃厚なフル・ボデイーでした。そのうちに、フランスの親戚同士の戦い百年戦争でジャンヌダルクが出てきて、フランス王シャルル7世を助けて勝利し、イギリスはポルトガルのポルトでワインの生産を始めたのでした。百年戦争の後半、イギリス王ヘンリー五世がフランス王を継承する事になていたが急死した。その息子のイギリス王ヘンリー六世がパリでフランス王を継承宣言したが、ジャンヌダルクが現れてフランス軍を鼓舞してオルレアンでイギリス軍に勝利し、フランス王家のシャルルを連れてシャンパーニュのランス大聖堂でフランス王シャルル七世として戴冠した。イギリス王家は即位も葬式もウエストミンスター寺院で式を行うが、フランスは即位はランスで戴冠式を行い、葬式はパリの北側のサンドニ大聖堂と決まっていた。なお、ランスの綴りはReims またはRheimsだが、初めてだとランスとは読めない
5.ボルドーからパリへは、セーヌ川を遡りしねければならず、輸送しませんでした。ブルゴーニュ地方からは、運河・ヨンヌ川・セーヌ川で容易に運べました。今でも、フランス人はブルゴーニュ、イギリス人はボルドーと言われています。
6.太陽王ルイ14世の軍事技術者ヴォーバンがボルドーから地中海への世界遺産ミデイー運河を建設して、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなどのワインが地中海に入りました。
7.温暖化のお陰で、イギリス南部には800以上のワイナリーがあり、白ワインと発泡酒は90点です。イングランドは樺太、スコットランドはカムチャッカですからね〜

ヨーロッパの河川

フランスの主要河川

ドイツの河川

 おやすみなさい (2020/05/01)
竹本 修文

竹本様
 早速にヨーロッパの河川地図が各種添付され、感謝です。
 昔読んだ「家なき子」で、舟で運河を行く旅芸人一行の姿を思い出しました。鉄道誕生までは、内陸の水運が輸送の大動脈だった様子が、よく分かります。
 スイスでは、1971年の初訪問の際ジュネーブのホテルがどこも満杯、郊外の民宿を取りました。やっとたどり着き、玄関を開けると銃が立ててあるのにビックリでした。国連にも入らず、独立を守るため国民皆兵などと聞かされた事でした。現在は、どうでしょうか。
 あと一つワイン・造船に詳しい竹本さんに、教えていただきたいのは、船台式進水式のシャンパン割りです。インターネットの情報では、生け贄→赤ワイン→白ワイン→シャンパンと、なっています。どこの国で始まり、シャンパンになったのは何時どこか、造船大国英国と、ワイン大国フランスがどう絡んでいるかなど、興味があります。
 シャンパンは、ランスの蔵元を訪ね、地下の洞窟で瓶を回転させてはオリを抜く作業を見学、この酒の高価なわけを納得した次第でした。ボルドーでは、有名画家のラベルで知られるシャトー・ムートン・ロートシルトの博物館を訪ねました。残念ながら十五年前の発病で、禁酒生活です。
 KPCホームページと竹本さんのお陰で、昔話が楽しめます。 (2020/05/01)
中城

中城さま
★スイスは技術交流だ何回も行きましたが、国連にはやっと加盟しても、EUは絶対に加盟しない、と言っていたのが、昨年から理解できました。ノルウェーも加盟しなくて良かった。
★スイス兵は自国とバチカンを護っていますね。私が付き合っていた技術者も数年おきに短期間兵役について国境を護っていました。銃を背負ってスキーで、オリンピックのノルデイックみたいな軍隊でした。
★ローマ帝国の北の国境であるライン川とドナウ川を船で短距離ですがロックを通りました。イギリスには小さなロックが5000か所もあり、内陸の水運が非常に発達しています。
 ロック(Lock)とは「閘門(こうもん)」と訳されていますが余りなじみはないと思います。今上天皇がオックスフォード・マートンカレッジに留学されていた時に研究されたのが、イギリスの水運システムでご著書The Thames and Iが出版されています。イギリス中に5000もあるロックと書いたのはこの事で、写真を見ればよく分かるので、ウキペデイアを引用します。URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/閘門 
★そうですか、ランスでシャンパン・・・いいですね〜!私は、ランスの街はノートルダム大聖堂とサン・レミ聖堂をじっくり見ました。そして隣のエペルネでドン・ペリニヨンで有名なモエ・エ・シャンドンの地下セラーを見ました。
★進水式とシャンペイン(=英語、仏語では:地名も酒もシャンパーニュ)の事。知っているウンチクを以下に並べてみました。回答にはなっていませんが、なにかお役にたてれば幸いです。
1.進水式は建造した船を水面に移動する過程のセレモニーで、数千年前に遡る海軍の伝統行事で沢山の種類の文化が混じりあっている。例えば、古代バビロニアでは牡牛を生贄にして、儀式を行ったと言われている。古代ギリシア・ローマ・エジプトでは、新しい船と船員の安全を神々に祈願するためにワインを飲み、ある種の水を船体にかけたと伝えられている。
2.船に名前を付ける命名式はカトリックの国で始まり、それは司祭が子供の洗礼式を行うのと同じようであったとされている。聖餐に使うワインはイエスの血と言うことになっているので、かつて調べたら新約聖書作成時代の書物には何も書かれていない。初期のキリスト教の聖餐を色濃く残していると言われる東方正教では普通は赤ワインが使われている。西ヨーロッパのカトリックはギリシア語で書かれた新約聖書をラテン語に翻訳して使っているし、布教活動も気温の低い北ヨーロッパに向かったので、赤ワインの生産が困難なドイツでは白ワイン、ベルギーではビールも使われている。
3.プロテスタントでは進水式は宗教行事ではなく、俗社会の行事であり、沢山の記録が残っている。紹介するのは、1610年にイギリスのロンドン港東側のWoolwich(ウリッジ)の造船所での進水式である。船は64門の砲を装備したガンシップPrince Royal(何処かで聞いた名前ですね〜?)で主教は出席せず、著名な造船技師、造船所長と共に皇太子が出席した。船尾のデッキには皇太子、海軍卿及び大勢の貴族が並び、そばにはワインがなみなみと注がれた金ぴかの大きなカップが立っていた。 船の誕生と幸運を祈る事はカトリックの場合と同じである。トランペットのファンファーレで皇太子がワインを船外に注ぎ、厳かに、船の名前を「プリンス・ロイヤル」と呼び、船が斜路を滑り降り始めたら担当役人がカップからワインを一口すすり、残りのワインを船の舳先から海に注ぐ。普通は、カップも海に投げ込まれ、拾い上げた人にあげていた。しかし、海軍が大きくなって建造が増えると、網でカップを拾い上げて次の浸水に再利用するようになった。
4.初期のアメリカの船はイギリス製だったので、宗教と無関係であり、自国で建造するようになっても、儀式の決め事はない。ポルトガルの強化ワインであるマデイラ酒が使われた例もある。ダイアナ妃が生前にイギリスの造船所で進水式に参加して、シャンペインをロープに付けた滑車にぶら下げて、合図で細い紐をナタでカットしてボトルを船の舳先に向けて滑らせたまでは良かったが、舳先に衝突してもボトルが割れなくて、係員が走って行って、ハンマーでたたき割ったテレビニュースを見ました。
★1995年5月、スコットランドのウイスキー街道を中心にドライブした。北端のインバネスにはカロードンの古戦場(1746年、スコットランドがイングランドに最終的に敗戦した戦い)の貴族の館跡のホテルを事前にインターネットで予約していた。12室だが豪華なホテルだったが、チェックインの時に「初めての日本からのお客様なのでCrown Prince (皇太子)がオックスフォード大学に在学中にお泊りになった部屋をお取りしておきました」との事でビックリしました。同じベッドとお風呂を使わせて頂きました。当時はデジカメはなくて、ビデオカメラの時代だったから撮りまくった事でした。 (2020/05/01)
竹本 修文

≪編集人より≫

KENZO TANGE & URTEC 1981より
 『リバプールと奴隷産業』の話題で盛り上がっています。コロナ騒動で足止めをくらって皆さん暇をもてあまして昔話がはずんでいますね。実は1979年(約40年前)に、奴隷海岸のあるナイジェリアにいったことがあり、私も昔を思い出しています。勤めていた丹下事務所に首都移転計画のマスタープラン作成を委託され、その調査を兼ねて、東京〜パリ〜ラゴスと飛行機を乗り継いで現在の首都アブジャ(Abuja)のあるジャングル地帯までの長い道のり(最後は軍のセスナ機とジープ)でした(多分、死んでも悲しむ人のいない独身だったのが選ばれた理由)。 途中、2時間以上、果てしなく広がる砂漠(サハラ)を窓から見おろしながらワイングラスを傾け(カップではない!!!しかも麗しいスチュワーデスがボトルから直接に注いでくれる!!!後にも先にもFirstClassはこの時だけ。)、『果たして無事帰ってこれるだろうか?』と心配していたことを思い出します。首都は1991年に移転し、現在は300万人以上の大都市に発展しているそうです。参考に当時作成したマスタープランの模型写真を添付します。
 尚、当時は奴隷海岸という地名は知っていましたが、ビアフラ戦争での「ハウサ族」「ヨルバ族」「イボ族」の対立が根本に奴隷貿易に起因しているとは知りませんでした。単に、民族間の融和を図るために3つの地域の中間に新しい首都を計画するという話を聞いていましたが……。 (2020/05/01)
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ワインの貯蔵と飲み頃
藤宗俊一(42回) 2020.05.08

筆者近影
 ムートンの話題で思い出し、たった1本冷蔵庫の野菜庫の奥に眠っているラフィット(1980…結婚した年)を開栓する時をいつにするか悩んでワイン通の竹本さんに相談したら、沢山のAdviceを頂きました。
 もともと私のワイン遍歴は、小学生の時祖母が密造していた岡山ブドウのポートワイン(砂糖漬でとてもあまい)をこっそり舐めていたのが始まりです。その後、助教授が研究室でふるまってくれたラベル無しの一升瓶ワイン(多分山梨出身の元教え子が送ってくれたもの……甘くないのは初体験)をガブ呑し、ワインが好きになりました。そして、フィレンツェにいる時は、キャンティの丘のブドウ畑の片隅でフィアスコーネ(2L大瓶)に詰めてくれるものを買ってきて、アルノ川の畔で友人と飲んだくれていました(水より安い)。そんな訳で、ソムリエを目指した先輩と違って正統派の呑み方は知りません。

シャンパン産地の
Eperneでの竹本氏

ワイン入門

ワインを貯蔵する

ワイン・セラーの管理

ワイン入門(一部)
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●1980年もの:手持ちのヒュージョンソンの本では、1984年には四つ星(****)にランクされていますが、1991年以降2020年までには、ランク外になっている。
●17度一定のワインセラーで保存しても今よりは良くなる事はありません。もし、一度でも日本の真夏にワインセラーに入れずにおくと、30度にもなり、かなりやられています。
●冷蔵庫の野菜庫はワインセラーの適温範囲の最低レベルではないでしょうか?暗いし、適当な湿度はあるし、数年なら最適と思うのですが、生き物ですのでそんなに長くて大丈夫か?知識がありません。日本でよくあるのは、部屋に放置して真夏の高温で劣化する事です。
●経験的に、高温と太陽光で劣化するか、乾燥しすぎてコルクがスポンジになるか?で対策をしてきた歴史があるので、冷やしすぎのデータはあまり聞いたことがありません。
●デカンタして5時間くらいして飲まれては如何でしょうか?赤ワインはサングラスのような色ガラス瓶で紫外線の心配はないし、飲む前には常温で1日くらい放置して、朝コルクを抜いて立てて夕方飲めば窒息状態から生き返り、素晴らしい記念になると思います。コルクを抜いてから1時間では短すぎるかな〜?経験がありません。ま〜お昼に抜いて、時々瓶に鼻を近づけるのは如何でしょうか?
●ヨーロッパではアララト山の麓付近でワインが作られた時代から、アンフォラに入れて土中で保存とかしていたし、ローマ軍は石灰岩を切り出して砦を作ったので岩穴がワインセラーになっていました。
●フランスのブルゴーニュのBeauneボーヌのCaves Patriarche Pere & Fils とシャンパーニュのエペルネのMoet-et-Chandonの、

Beauneのカーヴ
フランスだから英語のセラーではなくてCaveカーヴですね、を見学した時に家族の特別なボトルの保存の事を聞くと、ちゃんとやっていました。写真を添付します。普通のワインボトルが横に寝ているのがボーヌですが、私が生まれた1943年を探したら、1942年がありました。第二次大戦ではシャンパーニュはドイツ軍に略奪されたが、ボーヌは残ったからですね。生まれて70年経っている人はいるでしょうが、問題は、70年も保存している現実がある事を紹介したかったのです。ただし、冷房はしていないので冷蔵庫ほど冷たくなくて適当にカビが生えている状態です。
●出典は、1977年から出版されているヒュー・ジョンソンのポケット・ワインブックで、彼はイギリスの評論家でアメリカのロバート・パーカーと並ぶワインの第一人者。私は1984年版と1991年から2020年版まで約30年分持っています。これだけ揃っていると高く売れるかも〜?
 ヒュー・ジョンソンの「ワインを貯蔵する」の一部をコピーし、添付します。「はちきん会」の浜田会長はシニア・ソムリエなので相談されるといいですね。40年保存の経験はないと思いますが。
●40年よりは金婚式がふさわしいですね〜!そのためにコロナに負けずに頑張りましょう!!

 ワインは新しいうちに(10年以内?)呑むものだという感覚はありませんでした。古いのを持っていると話題になるのでしっかり隠して保存しています。一番古いのは私が留学していた帰りに持ってきた1975年(当時はVintage)のキャンティクラシコ(Greveの安物、現地価格で2000Lire程度……それでも学生食堂のワイン付フルコースが430Lireで食べられ、2Lのテーブルワインが500Lire程度で買える時代だったので奮発した!3Lire--1円)ですが、最初2〜3年押入れの奥にしまい込んでいたので完全に死んでいることでしょう。結論はラフィットはどうせダメなら、話題のために10年後の金婚式まで置いてみようかと思っています。それまで夫婦がもつか心配ですが……。もたなかったら半分は墓に撒いて欲しいと遺言しておきます。
 Stay Home Weekは良い勉強になりました。竹本先輩、ヨタ話につきあって下さってありがとうございました。
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最後のイギリス旅行−その3
古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
竹本修文(37回) 2020.05.13

筆者近影
 昨年、13世紀のウエールズの城郭を投稿し、これから、11世紀のイングランド・ノルマン朝の城郭を書くつもりなので、ロンドンの駐在時代の会社の周りにあって、いつか記録を纏めてみようと思ったのでしたが、手を付けてみての感想は;
@ローマ史に興味がある方々には、帝国の1%にも満たない属領ブリタニア(イギリス)の首都でもなかったロンデイニウムの遺跡のかけら、は面白くないよね〜?
A北のヨークは、ローマが勝てなかったピクト人のスコットランドに対する防衛上重要だったのでブリタニアの首都だったし、次回予定の初代イギリス王・ウイリアム征服王が全国に建設した、モット&ベイリーの城郭もあるし、これなら、興味を持ってもらえるかな〜?
Bそれじゃ〜ロンドンの「ローマのかけら」はなんなのか?最後のイギリス旅行だから、気になっていた所を見ておこう、というだけなんだ〜?

古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン

1.はじめに 2. ローマのガリア征服

3.ブリタニアへ侵攻 4. ローマ帝国のブリタニア征服

5. ローマ人のブリタニア Roman Britain

6. ハドリアヌスの長城 Hadrian’s Wall
7. ロンドン London(ラテン語Londinium)

8. Roman London 城壁のかけらを探して


9. 皇帝デイオクレチアヌスの四分割統治、12管区
ローマ軍がブリタニアから引き上げる当時のローマ帝国地図 

古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
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最後のイギリス旅行−その4
ノルマン様式城郭の始まり
竹本修文(37回) 2020.05.30

筆者近影
1.  最後のイギリス旅行4「ノルマン様式城郭の始まり」を投稿します。前回の「古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン」から、ローマ人から見れば「野蛮人」の各種ゲルマン人が入り乱れる600年間を飛び越して、イギリス文化大革命時代の話なので、物語を少なく図・写真を多くしようとしたら、伝送量が大きすぎるので、2回に分けて投稿します。

2.  今回は、近代の城郭に繋がる「土と木」で出来た砦・城の始まりまでにします。この近代の城郭の原型となる様式には近代になってMotte and Baileyという名前が付けられたのですが、この辺の写真は最後のページに、アランデル城とウインザー城の写真を載せて余韻を残し、詳しくは次回、最後のイギリス旅行5「ノルマン様式の城郭巡り」に回します。アランデル城はウイリアム公が、イギリス遠征中にノルマンディー公国の留守を守った貴族ロジャー・ド・モンゴメリーに、褒美としてアランデル伯爵の称号と共に授けた城であった。ウインザー城は東のロンドン塔とテムズ川で繋がった重要な王家の城であり、次回には説明します。

3.  今回の5ページの「Castle Building by 1086(1086年までの城郭建設)」と言う地図は、Historical Atlas of Britainと言う本から引用したものですが、昨年の初めごろに西内先輩にお見せした時に、「20年間にこんなに沢山城を造ったの?」と聞かれて、何もお答えできなかったのですが、今ご返事します。

4.  お答えになっているでしょうか?
@ 1066年のイギリスは、ローマ人から野蛮人と言われたゲルマン人の中でも、北の端に住んでいたアングロ・サクソン人の国、彼らの言語は、今では通じない古英語、一方、ノルマン人は遥かに進んだフランス語を話す文明人。
A ノルマンデイーから2万人規模で侵攻したが、王や貴族は寒くてまともな農産物が出来ず、ワインもないイギリスには住みたがらず、半分は帰国し1万人で200万人のイギリス人を統治しなければならない。イギリス側は王と貴族の殆どが戦闘の始まりで殺されており、4000家(manor)あった貴族の所領は200家(manor)のノルマン人貴族に分け与えられた。
B ウイリアムはローマ教皇公認のイギリス王だが、フランス王に臣従するノルマンデイー公であり、ノルマンデイーの首都カーンに住んでいる。イギリスを征服はしたが、王が住む首都が無い、言葉が通じない、いつ誰に襲われるか分からない、中央集権はありえなくて、分散統治なので広域の防衛システムが必要になり、有事の時には1日で応援に駆け付けられる距離に城を配置する必要があった。
C イギリス史を勉強していた2008年に、ノルマン朝の首都は何処にあるか確かめにノルマンデイーを散策した。ウイリアムの墓所もカーンにあった。ノルマン朝の歴代の王がどこに住んでいたか、まだ調べが終わっていない。第6代のリチャード王は在位10年間にイギリスには7か月しか住んでいない。

ノルマン様式城郭の始まり

1. ローマ軍撤退からノルマン軍侵攻開始

2. ノルマン軍の準備からイングランド征服 

3. モット&ベイリー城郭(motte-and-bailey castle)
4. 1066年9月上陸〜12月イギリス王位戴冠

5. 10〜12月の南イングランドでのノルマン軍の行軍

6. 征服後20年間に建設されたイングランドの城郭

7. ヨーク城 York Castle
8. アランデル城 Arundel Castle

ノルマン様式城郭の始まり
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皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

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最後のイギリス旅行−その5
ノルマン様式の城郭巡り
竹本修文(37回) 2020.06.06

筆者近影
 何方からも反応が無いのに、第5弾を投稿します。
 ウンチクを少なくして、絵や写真を多くしたので、添付が5MBになりました。Word をpdf に変換するソフトをケチって購入してないので、一回の伝送の限界と思います。
 ウイリアム征服王の墓はノルマンデイーで見てきたが、今回、手持ちの資料を見ていたら、彼はイギリスの首都をウインチェスターにしようとして、城と宮殿の建設を指示していたが、完成まじかに火災で焼失したらしい、記事を見つけたので、そのうちにまた投稿するかも知れません。ロンドン塔を城にしなかった理由もこの辺にあるのかも知れません。

ノルマン様式の城郭巡り

1. ウインザー城 Windsor Castle

2. ノルマン人が伝えた英語のCastleと
イギリス南東部海岸沿いのノルマン様式の城郭

3. アランデル城 Arundel Castle  
4. ペヴェンジー城 Pevensey Castle

5. ヘイステイングズ城 Hastings Castle

6. ドーヴァー城 Dover Castle 7. ルーイス城 Lewes Castle 
8. ノッテインガム城

9. ロンドン塔 Tower of London

ノルマン様式の城郭巡り
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皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

終わり

≪追記≫  『最後のイギリス旅行1〜5』の掲載が終わりました。竹本さん本当にありがとうございました。知らないことが多く、改めてイギリスの奥の深さを思い知らされました。
 竹本さんには2年前、入会された際、『世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」』を執筆して頂きました。今回、そのPDF版も添付しました。改めてご覧になって頂ければ……と思っています。(編集人)
世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
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最後のイギリス旅行−番外版
米国黒人差別事件のイギリス版
竹本修文(37回) 2020.06.09
 以前、リバプールの奴隷産業の投稿をしましたが、その時に引用したブリストルの奴隷産業のリーダーの銅像破壊事件が起きた記事を見たので、急遽投稿しました。
 KPCの皆様にどれだけ意義があるかは分かりませんが、リバプールより数十年早く王家とつるんで稼ぎまくってきたブリストルの奴隷商人の銅像が市民の反対を無視して立ってきたのも驚きです。

米国黒人差別事件のイギリス版

米国黒人差別事件のイギリス版 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)

竹本さん
 実にタイムリーな寄稿です。4月に読ませていただいた「リバプールと奴隷産業」の衝撃が薄れていないので、銅像破壊事件に関する原稿を興味深く読ませてもらいました。
 昨今は、上から下まで「金だけ、イマだけ、自分だけ」 にしか興味が無い「3だけ族」だらけですが、幕末の巨人たちは違いましたね。危機感・緊張感を持っていましたから。
 坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、吉田松陰、佐久間象山、横井小楠・・・ご存じのように、みんな金儲けとは無縁で、先を憂い、視野が広くて世界に目が開いていた愛国者でした。もし、彼らが志半ばで憤死していなかったら(海舟だけ長生き)、明治以後の歴史はずいぶん違ったコースをたどっていたでしょうね。
 麻布学園には課外授業(選択)でアフリカ学講座がありますので、担任の先生(ガーナ高校生交流にも熱心)にKPCホームページの奴隷産業記事を紹介したいと思っています。
公文敏雄(35回)(2020.06.09)

竹本修文様
 この事件、朝日新聞では昨日(6月8日)の夕刊で、写真入りで報じていました。竹本さんの奴隷貿易の歴史レポートを思い出しながら、記事を切り抜きました。
 新聞部時代以来の、興味ある記事の切抜きは、ほぼ70年近く細々と続いています。
 ご参考までに、記事を添付します。(記事の無断転載はできません)
中城正堯(30回)(2020.06.09)

中城さま
 早速のレスポンスに感謝します。娘の命日で家族が密かに3蜜状態で、朝日の夕刊を見落としました。はい、確認しました。
 ブリストルの事は日本では余り関心がないと思っていたから昨日は見なかったかもしれません。今日は、New York Times には出ていませんがJapan Times には出ていましたので添付します。賛否両論あるようですね〜?
 リバプールの市議会で2006年に通りの名前をPenny Laneから他の名前に変える議案が出されたが、「恥だから・・・・とかでなくて、歴史の事実だから」という理由で廃案になった事を冒頭に書いたと思いますが、ブリストルでも同じ議論があったようです。
公文さま
 麻布学園の事は昼食会で伺った事を思い出しました。先生に是非ご紹介ください。
竹本修文(37回)(2020.06.09)
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「奇才・土佐・啄木…」の発刊について
鍋島高明(30回) 2020.06.13

筆者近影
謹啓

 日ごろは大変ご無沙汰しております。皆様にはお変わりないことと拝察いたします。新型コロナウイルスの猛威はようやくピークアウトしたようですが、80歳超の持病もちは格好の標的のようで油断も隙もありません。私が半世紀以上にわたって住む東京都東村山市を代表する有名人、志村けん氏(名誉市民説も)がコロナで発れたことで一層その恐ろしさを実感していた次第です。この本の出版もしばらく凍結していたのですが、少なくとも第一波は退潮に向かったようで愁眉を開き出版に踏み切った次第です。御笑覧いただければ幸甚です。

「奇才・土佐・啄木…」
 地震に余震があるように津波には余波がある。そして疫病はぶり返す。蟄居中に読んだカミュの「ペスト」も疫病が収束して町中が鉦や太鼓の大賑わいとなるが、最終章でネズミの逆襲、ペストの再発を予告、不気味さを漂わせています。毎日夕刻のニュースで登場する発症者の推移を物語る罫線を眺めながら一喜一憂したものです。かつて職業柄相場の罫線はよく眺めたものですが、先のことは一向に読めませんでした。ましてコロナに感染する人数の罫線は全く読めません。罫線はあくまで過去の実績を表すもので将来展望の小道具ではないことを改めて知りました。
 私は今年7回目の年男となるわけですが、前途多難を痛切に感じております。八十路の坂を上りきるのは容易でないことを日々感じつつ、終活の一環として発刊したのが本書です。「米穀新聞」に6年余執筆したエッセイ風のもの、約160編に、「熟年ニュース」に執筆の2編をもって1冊としました。雑誌「やまいも」に執筆の「啄木紀行」は迷った末に入れることにしました。50年前の文章で「タクボキアンJを名乗っていたころの紀行文です。文章は生硬で恥ずかしい次第ですが、その時盛岡市郊外の啄木のふるさと渋民村でお会いした啄木の教え子、秋浜三郎さん(当時啄木記念館館長)の写真が出てきたのでぜひご覧ください。
 表紙カバーと章扉の絵は妻ウタ子の作品です。盛んに描き直していましたが思うようにはいかなかったようです。御笑覧ください。
敬具
 令和2年初夏
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最後のイギリス旅行−番外版
ボルドーの「残酷な歴史の回想」
竹本修文(37回) 2020.07.02

筆者近影
 筆者は、本年4月27日に「リバプールと奴隷産業」を投稿し、アメリカのミネアポリスでの白人警官による黒人の殺害事件をきっかけに始まった#Black Lives Matter運動と同様の運動がイギリスのブリストール市でも起きた事に関して、6月9日に「米国黒人差別事件のイギリス版」を投稿した。
 ハッシュタグ#Black Lives Matterは、2013年にフロリダで起きた、黒人少年のトレイボン・マーティンが白人警官のジョージ・ジマーマンに射殺された事件でSNSに発信されて以来、2014年、2015年と何度も同様の事件の度にSNSで発信されてきたが、今回は世界中に拡散しており、ニューヨークタイムズ国際版(The New York Times, International Edition)は6月27日付で,イギリスの保険会社ロイドLloid’s of Londonなどの企業名と共に奴隷貿易に関わった記事を掲載し、ロイドが初めて海上保険(marine insurance)業務を始めたのは奴隷貿易だった事を公表すると共に、奴隷の子孫たちに何らかの償いを考えている、としているが、金をいくら出すとか、具体的な事は何も公表しておらず、中身がないので、投稿しなかった。
 続く6月28日には、同じニューヨークタイムズ国際版が、フランス・ボルドーの「残酷な歴史の回想」(Remembering a brutal history )の表題で、2面に亘って特集しているので、KPCに紹介する。ボルドーの奴隷貿易の事は「リバプールと奴隷産業」でも触れたし、KPC編集人の藤宗さんの5月8日の投稿「ワインの貯蔵と飲み頃」の中で、彼が所蔵している「ボルドー1855特級格付けのワイン」の飲み頃に関して、私がウンチクと共にアドヴァイスした事が記載されている。ワインとワイナリーで世界に知られた中世以来の城郭都市ボルドーの繁栄の裏には、奴隷貿易が支えていた事実があまり知られていないので、紹介したくて新聞に書かれた記事から離れた感想なども加えて投稿する。イギリスの城郭の話も未完ですが、これも後日に残します。

 今日の新聞には、新たな#Black Lives Matter の記事は見当たりません。ただし、ニューヨークタイムズは、過去10年間に黒人が白人警官に同様な窒息する逮捕で、本人が「息ができない!」と叫びながら死んだケースが少なくとも70件ある。と報じている。

New York Times (Thursday,JULY 2,2020)
 昨年の夏Byron William 氏は、ラスベガスで無灯火の自転車を運転していて、複数の白人警官に手と膝で道路に押さえつけられ、「息ができない!、I can’t breathe」、と17回叫びながら死んだ。
 2014年には、Eric Garner氏は、ニューヨークの歩道で税金を払ってない闇のタバコを売っていて、警官に背後から首を絞められ死亡した。そして先日のジョージ・フロイド氏もI can’t breathe!と叫びながらしんだ。
 写真は、Eric Garner氏の母親のGwen Carr 女史で、テキサス州ヒューストンで行われたジョージ・フロイド氏の葬式に出席し、黒字に白文字で「息ができない!、I can’t breathe」と書いたマスクをしていた。


ボルドーの「残酷な歴史の回想」

第1章 ボルドーの「残酷な歴史の回想」

(Remembering a brutal history )

第2章  その他ボルドーの情報
1. アキテーヌ州立博物館

図2 ボルドー地方のワイン産地
図3.中世の城郭都市ボルドー

3. 図3 ボルドーの市街地図

ボルドーの「残酷な歴史の回想」
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ボルドーの「残酷な歴史の回想」を読んで思い出すこと
西内一(30回) 2020.07.02

筆者近影(文科大臣表彰時)
竹本大兄
 平成18年のフランス「ヨーロッパ100名城」探訪では、ナポレオン・ボナパルトの建設によるピエール橋を渡ってガロンヌ川対岸の世界遺産:サンテミリオン城を訪れた。
 サンテミリオン城郭では、ヘンリー3世が築城したシンボル「王の塔」にイギリス国旗がはためいていたのが印象的であった。
 ヘンリー3世後もボルドー、ナントのギエンヌ公国は、100年戦争、ばら戦争などを通してギエンヌ公はイギリス王であり、その後16世紀になってもナヴェル王ヘンリーの領国と、大航海時代に至るまでイギリスの支配下にあった。
 ポルトガルのポルトを探訪した折、当初ポートワインの輸出先はイギリスで、イギリスの船が出入りして、イギリス資本によるワイン畑もあったとの説明をうけた。
 ボルドーはイギリス領であったから、当然のこととしてイギリス船が出入りしてワインの積出を行っていたのではなかろうか。
 この流れは、大航海時代にも受け継がれ、極めて自然に積み荷が奴隷であってもリバプール同様に行われていたのではなかろうか。旅行者の感想に過ぎませんけれども。
 サンテミリオン城郭探訪ではありましたが、ボルドーに投宿して、中世の城門や城壁がオスマン流の都市整備の中に見事に調和して今なお息づいている有様を見学して、夜はローマの直路を受け継ぐ繁華街を散策したことでした。

ディオクレティアヌス宮殿
(クロアチア/スプリト)

レパント沖(ギリシア/コリント湾口)

ヘラクレスの塔(スペイン/ア・コルーニャ)

西内さま
 ヨーロッパにも随分沢山行かれていますね〜?
 イギリスに関するKPCへの投稿記事の中で、フランスの西海岸の干満の差が大きくて港の建設に苦労している話を書きましたように、ボルドーも大西洋に出る部分はジロンド川で大きな船が通れますが、港はありません。ジロンド川から少し上流へ行くと、サン・テ・ミリオン方向からドルドーニュ川が合流します。合流点から更に少し上流へ行くと、川が急に曲がる処にボルドー市街があり、ドックがあります。ここまで来ると干満の差が少なくて調整しやすいと思います。ロンドン市街が大西洋からテムズ川を約60qほど上流にいった所に作られたのと同じ理由です。
 2000年のゴールデンウィークに家内とボルドー、カルカッソンヌ、ナルボンヌ、バルセロナを鉄道旅行しました。ボルドーは3泊して周辺をドライブするつもりでしたが、レンタ・カー屋でMedocなどのブドー畑は排ガス規制が厳しくて借りれなあく、運転手付きのハイヤーを雇って高くつきました。
 郊外へは、市役所手配のバスツアーがあり、ブレアー城や東の端の百年戦争終結地カステイリヤなどへ行きました。サン・テ・ミリオンへ行けなかったのが未だに後悔です。あの辺こそ、普通のレンタ・カーが規制されています。
 ポルトへは、ロンドン駐在中に仕事で4回ほど行きました。当時は、スペイン・ポルトガルはEUの前のECの更に前のEECに加盟する資格がないほど貧しい国で、肢体不自由者が路上でゴロゴロし、物乞いの浮浪者がアチコチにいる時代でした。
 ポルト酒の発明は、イギリス人の本には、百年戦争に敗北したイギリスはポルトに進出して、リバプールの商人がイギリスに運んでいたが、当時の船は帆船で冷房はなくて、ワインが劣化した。劣化を防ぐために、樽から1/3ほどワインを抜いて、代わりにブランデーを入れる強化方法を考え付いた。
 現在でも日本語のワインの本はこの説明です、英語版はポルトガルで自ら開発したような表現になっている。隷貿易に参入した時期と重なるな〜?とか、考えています。ナポレオン戦争時代末期に外輪の蒸気船ができたが、商戦や戦艦としては実用化されていなかったし、ポルトはリバプールと西アフリカの航路の途中にあるしね〜?
 佐々木会長もご存知のSusan Matkin さんの所では、ワインクラブがあり、私も時々講師をしました、フランスワインとポルト酒・マデイラ酒は得意でした。
失礼します。   竹本 修文
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―宮尾登美子・公文公・倉橋由美子たちの回想―
『綴る女』をめぐる変奏曲
中城正堯(30回) 2020.07.16
「宮尾ワールド」と倉橋との浅からぬ因縁

筆者近影
 新聞で『綴る女―評伝・宮尾登美子―』の広告を見付けて講読したのは、この6月であった。そこには、<日本中を熱狂させた「宮尾ワールド」は、本当に存在したのか?><「宮尾登美子のミステリアスな生涯を・・・林真理子が克明に描き出す!>とある。2月刊であるが、うかつにも土佐高人物伝編纂とコロナ騒動に紛れ、発行時点では見落としていた。
 一晩で一気に読んだ。林は宮尾の生前に評伝を書く許可を本人から得ていたものの、そのためのインタビュー前に宮尾が亡くなったとある。高知での取材も重ねての執筆とあるが、大筋はほとんど知っていたことだ。第一章で、「大御所女流作家宮尾登美子の盛大な誕生会が開催。朝日の中江や文春の田中に混じり小泉純一郎出席」(『噂の真相』1998年6月号)を引用、権力の象徴(大新聞・出版社の社長)から「有名政治家まで従える大振袖の老女」と紹介。「多くの読者にとっては、全く知らない宮尾登美子の一面であろう」とある。

宮尾登美子
 実は、この朝日新聞中江利忠社長が筆者への宮尾の紹介者であり、そのキッカケは公文教育研究会・公文公会長(7回生)が、「宮尾さんと会いたい」といったことである。『綴る女』で林は、「純文学のスターであった倉橋由美子と宮尾に、浅からぬ因縁がある」ことを最近知ったと述べ、宮尾がまだ前田とみ子の時代に純文学雑誌『新潮』に書いた「倉橋由美子の結婚」に触れている。これが、衝撃的な内容なのだ。
 ここでは、宮尾と倉橋の「浅からぬ因縁」を中心に、『綴る女』では触れられていない公文先生と宮尾の交流、そして公文先生と倉橋たち教え子に迫りたい。なお、公文先生と書くのは、筆者が土佐中に入学した1949(昭24)年から中学時代の三年間、幸運にもずっと公文クラスだったからである。朝日の中江とのお付き合いも長い。筆者が学研でビジネス雑誌担当だった頃、経済関連の企画立案に毎月助言をいただいて以来で、ほぼ半世紀におよぶ。当時、中江は朝日の情報技術改革への遅れを嘆き、こちらは学研の保守的経営体質に辟易していた。やがて、中江は朝日の首脳となって飛躍させ、筆者は公文先生のお誘いで公文に移籍、先生の元でくもん出版を興す。(以下敬称省略)

『綴る女』林真理子著と『櫂』
布装の自費出版本、および宮尾の著書。
 『綴る女』の筆者林真理子とは特に面識はない。ただ、20年ほど前に林たちが始めた「エンジン01文化会議」に興味を惹かれ、有楽町泰明小学校での公開授業に出席、「教育の原点は教室」の考えにもとづく、「100マス計算」の陰山英男、「よのなか科」の藤原和博などによる名人芸の授業を見せていただいた。この会は現在も林真理子幹事長によって続けられている。林はコピーライターから作家になり、『ルンルンを買っておうちに帰ろう』で作家になる。直木賞を取っても異端視されていたが、作品で実力を発揮し続け、今では六十代にして日本文藝家協会理事長である。
「宮尾さんは約束を破った」倉橋の発言
 林が『綴る女』で「かなり奇妙な文章」という、宮尾が前田とみ子の名前で書いた記事の掲載誌『新潮』(1965年4月号)を、早速取り寄せた。「倉橋由美子の結婚」は、<文壇>という純文学作家の動静を伝えるコラムにあり、ほかに阪田寛夫が高知高校・東大以来の友人・野島良治の死を悼む文などが並んでいる。野島は「新思潮」同人で、危篤の病床には瀬戸内晴美(寂聴)や曽根綾子などが駆けつけて再起を願ったがかなわなかった。坂田とは、かつて新宿ゴールデン街の「よさこい」で、飲んだことなどが思い出された。

倉橋由美子 
 宮尾は、倉橋の土佐からの「脱出」願望による三翠園での結婚式の「不甲斐ない結婚世話人」と称し、「結婚相手のT・K君という放送マンについては、由美子女史よりも私のほうが因縁は深い」と述べている。さらに、内幕をこう披瀝する。
 「皮肉なことに、式の準備が進むに従い、T・K君の過去の女性関係があばかれてきたことで彼の性格とその生活が次第に浮彫りされてきた。・・・・・・将来彼女の精神的なお荷物になるであろうことが疑えなくなったとき、式はもう明日・・・・・・この結婚を思いとどまるよういく度も彼女に懇願したが、気丈な彼女は・・・・・・ついに全部の予定を成しおおせた」
 倉橋の結婚は1964年12月、仲人の内幕暴露の記事が『新潮』に掲載されたのは、それから半年も経たない翌春であった。いくら文芸雑誌とはいえ、仲人が書く内輪話ではない。後年、1987年に筆者が同窓会誌『筆山』で倉橋をインタビューした際、結婚につき「宮尾さんの紹介でお見合いをした。『ものを書くなら結婚した方がいい。食べさせてやる』という言葉に、あまりの感激で、ただ『はい』と言ってしまった」「結婚のいきさつは話さない約束だったのに、宮尾さんが破って書いた」など、あっけらかんと語ってくれた。今回『新潮』を取り寄せて読むまで、こんな内容とは思いもよらなかった。これでは、まるで「残酷童話」の世界で、魔女が若いお姫様に嫉妬、不幸な結婚を予言するかのようだ。

『パルタイ』初版と倉橋の著書
 倉橋の結婚当時、宮尾(前田)は1962年に『連』で婦人公論新人賞を受賞したものの、後続作品執筆が難航していた。倉橋は『パルタイ』が1960年に芥川賞候補になり、その後も『暗い川』で評論家・江藤淳と論争を展開、鋭く反論して一躍注目されていた。父の急逝で、やむなく帰郷した高知では、宮尾が若い文化人の姐御的存在であり、NHKのT・Kのほか、朝日新聞のY、地元芸術家H(30回生)なども仲間であった。当時、新聞・テレビの高知支局に勤務する独身者は、カメラ店のKが建てたアパートの住人が多く、そのあたりがたまり場になっていたという。かなり奔放な生活ぶりだったようで、後々宮尾が「ヨネちゃん」と呼んでいたYは、奈良に転勤後、高知の女性が追っかけてきて結婚したと聞く。東京朝日にもどってからは美術記者として大活躍で、筆者もお世話になった。だが、記事の模倣疑惑などで退社、美術評論家になっていたが亡くなった。これら、大作家以前の宮尾や倉橋を取り巻く、高知在住の若きジャーナリストや文化人の青春をテーマに、どなたか作品に書き上げて欲しいものである。
 おそらく宮尾は、編集者にふと漏らした新人作家倉橋の秘話を書くように迫られ、とかく中央での文章発表の場を求めていた時期だけに、友情よりも仕事を選んだのだろう。
公文公先生と倉橋の再会、そして宮尾ブーム
 1987年に筆者が倉橋にインタビューする際、彼女は娘の入学した玉川学園の学園誌に、「昔、土佐高校で公文公といふ、まことにユニークな先生に數学を教わった・・・・・プロに徹した教師であった」などと書いていたことを思い出した。そこで、大阪在住の公文が東京本部に上京する日を選び、師弟の対面もあわせて実現した。公文は倉橋の園芸部活動や片地の歯医者だった倉橋の父に触れ、倉橋は「今になり公文の授業こそ教師の原型」と思えることや、クマテン(吉本泰吉)の漢学への博識と大人(たいじん)ぶりに魅せられたと回想。また、自分が土佐中高で蓄えたものを執筆に使うだけでなく、娘の英語の先生も土佐高出身の谷敦雄(34回生)で、親子で縁が切れないとも語っていた。
 公文は、1983年から高知新聞で始まった南風対談の第3回目に登場する。これは、評論家山田一郎が、高知出身の知名人を毎月一人ずつ選び「十二名家・巡礼の旅」を続ける連載対談だった。好評のため結局三年間に延長、36名が名を連ねる。この連載で、公文式が高知の公文先生創案と知れ渡り、かつての教え子たちから声が掛るようになる。ファッションデザイナー山本寛斎の父もその一人で、山田一郎と同時期の海南中学での教え子だったが、関西で洋装店を開き、服飾デザインも手がけながら、妻子を顧みず自由奔放な生活をおくる。晩年、息子が著名になるなか、東京でひっそりと暮らしていた。先生にお会いしたいとの電話があり、筆者も同席した。もう還暦は過ぎているのに、皮ジャン姿で大型バイクにまたがり、颯爽と市ヶ谷のビルにやって来た。しかし、先生の前では朴訥純真な中学時代にもどった表情になり、教室の座席の位置から、数学は成績順のクラス編成でビリのガンマー組だったこと、さらに戦死した同級生のことなど、話は尽きなかった。後に、NHKファミリーヒストリーで山本寛斎が取り上げられ、既に逝去された公文に代わって、その師弟対面の場をお話しした。
 公文は、教え子の学校での様子だけでなく、家庭の事情までよくご存知で、記憶していた。それを、嫌みのない表現で語りかける。今は初老となってなにかと悩みを抱える教え子たちも、いつしか純朴な中学時代にもどり、偉大な老師の優しい懐に癒やされ、元気を取りもどして帰っていった。
 教え子ではないが、公文から「お会いしたい。出来れば公文の新年研究大会の講師をお願いしたい」と話があった相手は、宮尾登美子である。宮尾は、1964年に高知新聞記者だった宮尾雅夫と再婚、2年後には土佐を脱出、上京する。生活苦の中で、自らの出自を丹念に綴った『櫂』を、縞織物の装丁で自費出版する。これが筑摩書房の編集者の目にとまり、太宰治文学賞を受賞する。さらに書き足して同社から上下2巻で刊行、ここから、宮尾文学の破竹の勢いでの創作が始まり、1979年には『一絃の琴』で直木賞を受賞する。『鬼龍院花子の生涯』は夏目雅子主演で映画化、「なめたらいかんぜよ」の名台詞が話題になって大ヒット、映画・舞台もからめて「宮尾ブーム」が巻き起こっていた。
造酒屋の息子と娼妓紹介業の娘

公文の新年研究大会で講師の宮尾を囲む
左から公文・岩谷・筆者、1990年
 早速、朝日の中江に宮尾の連絡先を教えていただき、ご本人と相談した。「公文が、宮尾先生と同じ緑町界隈の育ちであり、足の速かったお兄さんと小学が同じ。ぜひお会いし、公文の指導者への講演もお願いしたい」と伝えると、超多忙ななか快諾くださった。まず、1989年1月の公文新年研究大会(有楽町よみうりホール)での講演「私が出会った人たち」が実現、公文式教室の女性指導者は着物姿で登壇した人気作家に大喜びだった。あまりの好評に、翌年も講演をお願いした。
 最初の講演後、そのお礼を兼ねての食事会を4月に開くことになった。その段取りで、場所を吉兆か辻留・・・と問うと、「吉兆」と即答であった。こうして、公文、宮尾、それに、朝日の中江専務(当時)、岩谷清水(公文の役員・27回生)、筆者の5人での会食となった。この席で印象に残っているのは、まず中江が座に着くと、公文は初対面の挨拶もそこそこに早速公文式教育の説明を始めたことだ。次ぎに公文と二度目の宮尾が来場、軽く会釈を交わすと床の間に向って正座、丁寧に掛け軸や花入れを鑑賞、作法通りの「床の拝見」を行なったことだ。両者の話題はもっぱら高知市緑町の戦前のたたずまいで、宮尾は白壁造りの公文の酒蔵をよく覚えていた。公文は宮尾の兄・岸田英太郎と同じ小学校の下級生で、岸田のかけっこの速かったことを鮮明に記憶していた。

公文公を訪ねた倉橋(中央)と、
浅井伴泰(左30回生)、筆者(右)、1987年。
 宮尾は、高知市内でも庶民的な下町に生まれ、生家が芸妓娼妓紹介業であったこともあり、生誕地の思い出話を心置きなく話せる相手がいなかったようだ。この席では、教育者や作家を離れ、造酒屋の息子と娼妓紹介業の娘として、存分に昔話を楽しんでいた。なお、緑町は正式の地名ではなく、知寄町の南側、現在の二葉町・稲荷町あたりをさした。公文の酒蔵は常盤町(現二葉町)で、岩谷の実家もこの町の麹屋であった。今では、土佐稲荷神社がわずかに昔の名残を留めている。中江は、この2ヶ月後に朝日新聞社長に就任する。その後も宮尾は益々多忙な中で、公文での講演や会食を楽しんだ。
 一方、倉橋からは『大人のための残酷童話』『アマノン国往還記』『交歓』など毎年新著をいただき、電話でおしゃべりをしていた。宮尾と吉兆で食事会をした報告の直後には、下重曉子の話になり、ともに作品のファンで紙上では互いにラブコールを贈ってきた仲だが、まだ会ってないという。下重もぜひ会いたいとのことで、1989年6月に神楽坂の「おく瀬」に設営した。会うと互いに意気投合、ともに連れ合いがテレビマンであり、体験的結婚談義・男性論も出た。途中から、ちょうど上京中だった倉橋と同級の福島清三(29回生)も加わり、一段とにぎやかになった。

赤岡の「絵金祭り」を取材する下重曉子、1999年。
 下重は筆者と同年の生まれで、学研以来のお付き合い。仕事以外に旅仲間であり、海外から土佐路までよくご一緒した。JKA(ケイリン)会長時代には、「日本100名城」事業に多大の支援をいただいた。2007年には、松ア郷輔(30回生)の企画による高知新聞主催の文化講演会にL&Vの秦郷次郎(31回生)と登壇、下重は越後生まれの祖母が恵まれた才能故に地主の嫁に迎えられ、自身の夢は子どもに託さざるを得なかった家族史を語り、感銘を与えた。講演のあとには、同じNHK出身ながら面識がないという当時の橋本大二郎知事との面談も設営した。2015年『家族という病』がベストセラーとなり、斉藤茂太や兼高かおるに続いて日本旅行作家協会の会長についた。日本ペンクラブの副会長でもある。絵金や佐喜浜の俄(にわか)など、土佐の伝統文化にも早くから関心を寄せてくれている。
それぞれの終曲、歓喜か悲愴か
 振り返れば、1995年に公文が、2005年に倉橋が、2014年に宮尾が、次ぎ次ぎと去って行った。この秋に刊行される『筆山の麓−土佐中高100年人物伝』に、公文と倉橋の略伝を担当執筆したので、いずれ併せてお読みいただきたい。また、宮尾や倉橋の代表作の背景には、宮尾のリアリズム、倉橋の反リアリズムと真逆ながら、若き日の高知でのさまざまな体験が自ずと反映されており、改めてこれらをさぐるのも再読の楽しみだ。
 公文は、奈良で出会った禎子夫人に支えられ、世界的な教育事業を大成した。禎子夫人は奈良女子師範附属出身で、「のびてゆく教育」で知られる木下竹次の教え子であり、安部忠三(NHK高知放送局長)や前川佐美雄に学んだ歌人であったことは、数学者公文公の教育を英語・国語へと発展拡大させる上でも、主婦を教室の指導者に活用する上でも、大きな力となった。

名城見学会で高知城を訪ねた下重曉子と
公文敏雄などスタッフ、2009年。
 宮尾は亭主関白だった前夫と違い、宮尾雅夫には影で支えられ、作家として大成する。この宮尾と夫婦ぐるみで付き合ってきた中江は、近年奥様を亡くしたが、本人は90を過ぎたいまなお元気だ。
 下重も、かつてパートナーの海外支局駐在に同行、ベイルートで暮らしたり、急病の知らせでハワイまで看護に駆けつけたり、互いに自立しつつも助け合って暮らし、話題作を生み続けている。新春には「木枯にミイラの夢の覚めにけり」の賀状が届いた。
 『綴る女』たちの、パートナー(夫・妻)とのあり方もさまざまだ。それにしても残念なのは倉橋である。創造力を駆使して虚構の世界を構築し続けてきたが、前衛的な作品に似合わず、我々の前では平凡な主婦にしか見えない穏やかな家庭的女性だった。パートナーは結婚後にNHKから独立、映像プロデューサーになっていた。晩年の倉橋は、難病と闘いつつ、つれあいの仕事ぶりも心配だったようで、密かに四国遍路を始めていたが、69歳で亡くなった。結婚式直後に、仲人宮尾が新郎について語った「将来彼女の精神的なお荷物になるであろう」の言葉が、なぜか魔女の予言のように甦り、耳に残っている。ただただ、安眠を願っている。(写真は、筆者撮影及び提供)
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<NHKテレビの時代考証>
「大江戸もののけ物語」の不思議な寺子屋
中城正堯(30回) 2020.07.16
 コロナ禍で、家に籠ってもっぱらテレビを見ていますが、再放送ばかりの中、時代劇の大型番組の予告があり、その寺子屋場面にビックリです。
 よろしかったら、メンバーの方々にもお知らせください。

「大江戸もののけ物語」の不思議な寺子屋

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予告記事「土佐中高100年人物伝」
公文敏雄(35回) 2020.07.30

筆者近影
 関東支部報「筆山」最新号に載った近刊予告記事「土佐中高100年人物伝」を、同編集部のお許しを得て、ホームページに転載させていただきます。PRだけでなく、応援してくださった方々(特に関東外の)への感謝の気持ちもこめて。
 なお、制作費用は卒業生ご有志からのご厚志で賄いますが、幸いにも余剰金が出ましたら母校に寄付させていただくことになっております。
●人物伝の紹介、感謝です。
 いずれ、刊行の際にも読後感など、kpc会員の反響を集めていただきたいです。なお、人物伝の「大嶋校長」では、向陽新聞からの引用が沢山活用掲載されています。また、新聞部出身の合田佐和子さんが紹介されているほか、編集執筆に公文/中城のほか、堀内・加賀野井・富田のKPCメンバーが参画しています。   中城正堯(30回)

予告記事「土佐中高100年人物伝」

予告記事「土佐中高100年人物伝」 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
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オーテピア高知で「中城文庫展」
土佐藩御船頭の資料を展示
中城正堯(30回) 2020.08.14

筆者近影
 8月3日に高知の同級生から、「高知新聞夕刊に、中城家資料展の記事が出ている。知っているか」との電話があった。「高知市民図書館に寄贈した資料の展示だろうが、全く聞いてない。新聞を頼む」と答えた。
 送られてきた新聞には、「土佐藩船頭(ふながしら) 中城家資料70点・・・」とあり、記事には「坂本龍馬も暗殺される前に立ち寄った中城家は、土佐藩主らを乗せる船の運航を任された・・・今回は高知藩が発行した鯨の藩札や、本居宣長や鹿持雅澄の短冊など約70点を並べた」とある。全く狐につままれた様な話で、寄贈主には一切連絡なしだ。
 2008年の寄贈当時から図書館長も担当学芸員も変わり、今も健在なのは岡ア市長のみだ。市長室に電話すると、秘書は連絡不十分を平謝りで、すぐ案内書を送付するとのことだった。今日8月13日、ようやくオーテピア高知図書館の担当者からここに掲載のチラシ等が、送られてきた。同封の毎日新聞(8月1日)には、「時代伝える中城文庫 和歌・紙幣など40点」「コレラが明治期に流行した際に感染拡大防止策を議会に求めた嘆願書など」とあり、時代に合わせた展示を心がけてくれたようだ。
 2000年から必死で資料整理を行ない、なんとか2008年に収め、企画展「海から世界へ〜土佐・種崎浦一族の船出〜」が開かれた。それ以来、種々活用されてきたようだが、こうして再度展示会が開かれたことには、大いに感謝したい。ただ、事前連絡がなかったことは「中城文庫」のみならず、さまざまな高知関連資料の県市施設への寄贈に協力してきただけに誠に残念だ。
 筆者は呼吸器系の疾患を抱え、コロナ禍の移動は厳禁状態だ。9月22日まで開催なので、高知在住の方は、ご興味があればぜひ御覧いただきたい。

中城文庫展:9月22まで    オーテピア高知図書館
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『介良のえらいて』第2次増補版について
鍋島高明(30回) 2020.08.16
謹啓

筆者近影
 コロナの襲来再びの昨今、皆様にはいかがお過ごしですか。小生は相変わらず本づくりに明け暮れております。同封しました「介良のえらいて」第2次増補版をご笑覧いただければ幸甚です。
 「介良のえらいて」の初版が出たのが6年前。この時は72名でしたが、のちに17名追加して増補版(第1次)としました。今回13名追加した第2次増補版(102名)は別称「段々よく鳴る法華の太鼓号」と自画自賛しています。今回追加するのは、幸徳秋水ゆかりの池三春1、戦後高知歌壇の第一人者岩村とよき4、体操界四国制覇の指導者大久保明子5、竹村一族の俊才・茂義44、数少ない専業農家の中島敏雄54、漢詩を詠む四電支店長鍋島峯雄66、健康寿命延伸に取り組むスポーツ医鍋島和夫68、「立つ」ことに意義、市長選出馬の鍋島康夫78、政権に媚びない政治学者野中尚人82、右手に教科書、左手に歌集の平田雅83、警察医45年の溝渕豊水88、人権問題と取り組む山野内明道91、館長・校長にして俳人の横山和雄93の面々です。

『介良のえらいて』第2次増補版
五台山書房 定価1300円(税別)
 既存の人物も補強しました。たとえば中谷健の項では「東京介良会」を旗揚げした次弟仁、心根優しい末弟明のことなど。千谷小介先生の項になぜシンガーソングライター井上陽水とのツーショット写真が入ったか。
 また「介良自慢」のコーナーを増強しました。誰からも嫌がられ、しかし誰かが引き受けねばならぬ尿尿処理施設、名付けて「白鷺苑」は介良の義侠心を表しているようでもあります。
 介良を一躍全国区に押し上げた「UFO事件」。狐狸庵先生こと遠藤周作が介良を突撃取材に訪れ介良の名はいやがうえにも高まる。そして高知大の教授陣が介良に多く拠点を構えたことから「歌詠みと学者の森」の一章を加えました。巻末に、初版、増補版の時戴いた葉書や、手紙、メールを掲載するにあたっては葛藤がありました。私が生きていく上でのエネルギー源ともいうべき反響の数々を公開させていただいた。そのきっかけは昨年2月に上梓した「玉の葉一恩師からの手紙」に戴いた励ましの言葉の数々が逡巡する私の背中を押してくれました。ただ、これが戴いた反響のすべてではありません。筐底の奥深く潜り込んで出てこない手紙の数々。書簡類の整理は上手なようで底が割れていて困ります。
 これで「介良のえらいて」は決定版となるのか、あるいはもう一周となるのか。それは神のみぞ知るところと申せましょう。    
 敬具
 令和2年 初秋
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日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある
竹本修文(37回) 2020.08.27

筆者近影
 2020年6月12日付のNew York Times International Editionに、「Some Japanese whiskies are’t from Japan(日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある)」というショッキングな見出しの記事があり、切り抜いてあった。日本酒とワインの生活に変わったが、スコットランドのウイスキー街道をドライブしながら蒸留所を訪ね歩いた事もあり、また、日本のウイスキーがバカ高くて買えない程になり最近の事情を知りたくて投稿する気になりました。New York Timesの記事原文は、次のURLを訪問してください。 https://www.nytimes.com/2020/05/29/dining/japanese-whisky.html

日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある

記事の執筆者:クレイ・ライゼン
記事に登場するウイスキー評論家:土屋 守

日本ウイスキーとは一体何なの〜?

日本で消費せずに、Japanese Whiskyとして瓶詰

日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)




 ≪編集人より≫Batchによる変換過程で原文の4ページが3ページになりました。お詫び致します。

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お酒談義−1
ウイスキーにも造詣が・・
竹本修文(37回) 2020.08.27

筆者近影
「ウイスキーにも造詣が・・」と言われると恥ずかしいが、煽てられるとすぐに、その気になるので、ウンチクや思い出話を書いてみます。
1.ウイスキーの歴史
@ 蒸留技術は、紀元前に現在のイラク・シリアを含むメソポタミア地方で始まったもので、元々は香水など香料を作る時に使われていました。西暦100年頃のギリシアの哲学者が、海水を飲料用の真水にするために蒸留技術を使った事が記録されているが、アルコール飲料については記載がありません。
A 中世(500-1500)前期になると、北アフリカのムーア人(土着のベルベル人とアラブ人の混血)が蒸留技術をヨーロッパに伝え、キリスト教徒が儀式で使う液体や子供の腹痛や天然痘の治療薬として活用したそうです。イタリアで修道士がブドー液を蒸留して麻酔薬を作っています。
B 中世後期1250年にイタリアの修道士が、ブドー液を蒸留したアルコール飲料を作り、ヨーロッパ各地に伝えました。現在のイタリアのグラッパみたいでしょうか?若しかして、ブランデーの元祖かもしれません。ブランデーはフランス語ではEau de vie(オードヴィー)即ち、「命の水」です。
 修道士はアイルランドとスコットランドの修道院にも持ち込みましたが、アイルランドもスコットランドも緯度が高くてブドウが育たず、代わりに穀類を原料にした蒸留酒を作りました。ウイスキーの誕生です。アイルランドもスコットランドも種族は異なるが、ケルト人が作った国であり、ゲール語の種類の言語を話している。そして、アイルランドのゲール語ではウイスキーの事をWhiskeyの原語であるUisce Beatha,(Usquebaughウスケボー)と言う、これも「命の水」という意味である。
C 16世紀以降の近代に、イングランドの400年間植民地にされたアイルランドは、大勢がアメリカに移住しウイスキーを製造したが、1920〜30年の禁酒法で衰退した。19世紀末に30か所あった蒸留所は現在3か所だけである。スコットランドはケルト系ピクト人とアイルランドから移住してきたスコット人の国で、ピート(泥炭)に恵まれてシングルモルトで現在まで栄えている。イングランドは北ドイツから移住してきたアングロ・サクソン人が中心で作られた国で、ビールが中心である。正式な食事では、食前酒としてウイスキーを飲むが、食事ではワインである。アメリカはピューリタン(清教徒)が中心になって作った国で、禁酒法も経験したが、バーモンと共にウイスキーは飲まれている。
2.思い出話
@  ハイボール
 小学校時代には、テレビ放送はなくて、ラジオを聞いていましたが、親が聞いているラジオ・ドラマで、ハイ・ボールを格好よくオーダーし、飲み干すシーンが印象的でした。あれは何だろうと思って聞いていましたが、その20年後位から頻繁にアメリカへ出張するようになり、ヒューストンの東芝の工場で現地人に、「High Ballという飲み物は何か?」と聞いたら、知っている人がいて、「禁酒法以前の蒸気機関車時代の給水所にあった高いポールに赤い大きなボール玉がぶら下がった信号機が語源」,「中身は、ウイスキーやバーボンをソーダで割ったカクテル」だったそうだが、「信号のボールが高く上がった状態をみて、係員が飲んでいたカクテルを一気に飲んで給水所へ行った」とか?良くわからなかった。イギリスでは、whisky and sodaと呼んでいる。
A 水割りScotch and water
 食事と一緒にウイスキーを飲むのはスコットランド人と日本人のようで、ヨーロッパでは、食事の時は食前酒として飲まれている。 ウイスキーの飲み方は、ストレート、オン・ザ・ロック、ウイスキーと水だけの「水割り」で、日本の氷と水で割った水割りは、日本でしか飲めない。ロンドンのオランダパークという公園内にベルベデーレ(The Belvedere)というレストランがあり、食前酒のリストの中にスコッチウイスキーを120種類そろえ、水割りを希望すると120か所の蒸留所の水を用意していて、客がお好みで水で割る仕組みだった。日本からウイスキーフアンが来ると、夕食はここと決めていた。 https://www.timeout.com/london/restaurants/belvedere
B 小説家 山田風太郎
 親戚でロンドン駐在中に1か月我が家で生活した。
 サントリーの佐治敬三が執念で作った個性あるシングルモルト・ウイスキー「山崎」を作ったのが1980年代だったと思うが、山田氏は1983年にロンドンに来た時に山崎を持参してきた。スコッチウイスキーの種類もよく知らない頃だったので、私は初めて見た日本製シングルモルトウイスキーをありがたくご馳走になった事でした。
 外で食事をすると、食前酒には、珍しいシェリー、ベルモット、ジントニック・・・と各種飲みましたが、食事中は料理が何であってもウイスキーを好み、オン・ザ・ロックと水差しで水道水(tap water)をオーダーした事でした。
 その数年後、山田氏は有名雑誌の対談に出て、司会者から「ウイスキーがお好きだそうですね〜?」と聞かれて、「私は、家と車以外で日本企業に一番金を払ったのは、サントリーです。ダルマ(サントリー・オールド)を三日に一本飲んでいます。」と答えたら、サントリー広報部からダルマが1ダース送られてきた事でした。
C 私は;
 高校時代はマジメだったので、酒を初めて飲んだのは、大学1年のコンパでした。この頃にビールの自動販売機が登場したが、あまり普及していなかったと思う。
 高知と東京の列車では、ポケットサイズのウイスキーをチビチビやっていた事でした。東京オリンピックの頃にワンカップ大関が発売されて日本酒になりました。
 結婚した頃に家でウイスキーをチビチビ始めたが、ダルマは高くてブラック・ニッカか角瓶でした。自宅で日本酒の晩酌を始めたのは、貧しかったので30歳以降だったと思います。
 切りがないので、今日はこれまでです
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お酒談義−2
「ジョニ黒」ことはじめ
中城正堯(30回) 2020.08.27

筆者近影
 またもや竹本さんが、新事実を知らせてくれましたので、おもわず関連の駄文を綴りました。皆様で、チェックのうえ、よかったら掲載下さい。
「ジョニ黒」ことはじめ
 竹本さんの「日本産ウイスキーの裏話」、私たちがウイスキーを飲み始めた昭和三十年代後半とは隔世の感があり、驚きつつ拝読しました。国産ウイスキーの国際的評価が上がっていることは聞いていましたが、それに便乗してスコットランドやカナダから樽を輸入、日本で瓶に詰めて日本産として輸出とは、ただただ絶句です。老人の「ジョニ黒ことはじめ」を記してみました。
 私が初めて海外に出たのが1965(昭和40)年で、オーストラリアでした。シドニーの領事館で後に通産官僚として大活躍する天谷直弘さんからジョニ黒を1カートンもらい、同行のカメラマンと驚喜して車に積み込み、一月半の取材に出かけました。当時、日本ではもっぱらトリスの水割りで、ジョニ赤にも手が出ない時代です。取材で訪ねた戦前からのウールバイヤー・飯田さんからは、「スコッチはストレートで飲め。ただし水を飲みながら。炭酸割りなどとんでもない」と指導されました。当時、シドニーのレストランではワインを置いてなく、酒屋で買って持ち込まないと飲めない状況でした。海外旅行の土産では、ロイヤル・サルートやジョニ黒が人気でした。
 その後、日本旅行作家協会や日本城郭協会に入りましたが、旅にも城にも酒はつきもので、ボルドーのワイナリーや、ランスのシャンパンの地下蔵はじめ、国内ではサントリーの山崎・白州などを訪ねました。サントリーでは私と同級の北岡明君が山崎の工場長、ニッカでは武田勝君(31回生)が副社長と、この世界でも同窓生の活躍が見られました。
 都内での試飲会も、礼装で出席のブルゴーニュ騎士会などに呼ばれました。ただ酒音痴で、ウイスキー、ワインとも味や香りがよく分からず、がぶ飲みするのみです。バーボンだけはダメで、ウイスキーはもっぱら飲み慣れたスコッチ、ときどきシングルモルトを楽しんできました。

「うすけぼー」に集まったメンバー
 写真は、酒と旅の楽しみ方を仕込んでくれた先輩たちで、ニッカ直営のスコッチ・レストラン「うすけぼー」に集まったメンバーです。左から、八代修二(慶大教授・西洋美術史・城郭協会)、井上宗和(城郭協会理事長)、長谷川洋子(英国政府観光局)、斉藤茂太(旅行作家協会会長)、竹鶴威(ニッカウヰスキー社長)、紅山雪夫(旅行作家)、西尾忠久(コピーライター)、伊藤清(キリンビール)で、撮影が中城です。格調高い英国風個室でニッカ自慢の年代ものウヰスキーをご馳走になりました。このほか、サントリーの柳原良平さんも仲間でしたが、メンバーのほとんどが別世界に旅立ち、筆者も酒はドクター・ストップの身で、最期の旅を待つばかりです。
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お酒談義−3
竹本修文(37回) 2020.08.27

筆者近影
中城さま
 コメントを頂きまして、感謝申し上げます。
●ジョニ黒:中城先輩の海外旅行は、ジョニクロ10本とか、兼高かおると一緒とか、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世に接見するとか、すごいですね〜! 
 私は、1966年入社時の初任給が24,008円でした、高度成長で毎年15%昇給し、入社5年目で2倍になり、それでも48,000円の時代ですが、ジョニクロは1万円でした。海外出張から帰った先輩から、飲みかけのボトルをありがたく頂いた事でした。学生時代に友人と飲んだのは、トリスでした。赤玉ポートワインと同じ会社が売っていたと思います。懐かしいですね〜?
●1981年にロンドンに駐在した時は、イギリスに4回目の訪問でしたが、「ウイスキーの国と思っていたイギリスには、England, Scotland, Wales, 北Irelandと、四つのNationがあり、イギリス或いは英国と言っている国は、民族・言語・宗教等ではなくて歴史を勉強しなければ理解できない、日本で教わった国とはかなり違う」と感じた事でした。
●会社の近所に歴史的にも有名なパブPUB(Public Bar)があって、現地従業員の若者を連れておごった事でしたが、ウイスキーもワインもあるのに、周囲は全員がエール・ビールを飲んでいる。女性はワインと決まっていた。
 エール・ビールは最近では日本では、クラフト・ビールとか称している。
 日本には、チェコや隣のバイエルンのラガーと称する「冷やして飲むビール」が一般的ですが、ドイツ連邦共和国では構成する16の国(ドイツ語でLand,ラント)毎に全ての法律が定められていて、今でも例えばドイツの文部省は無くて、16のラントごとに教科書も授業時間も夏休みも違っています。
 我々には、「16もの国があって大変だ」と思うが、元々神聖ローマ帝国で、ナポレオンに負けて解体した時には、320ほどの国(?)に分かれていたので、320から16に減ったと思えば理解できます。
●そうですか、東京のアチコチデ行ったウスケボー(ゲーリック語で命の水)という店はニッカですか。
●Scotlandは駐在中には仕事でしか行かなかったのですが、娘がイギリスの国立大学に入り、ロンドンの教養課程のあとスコットランドのグラスゴー大学のインテリアデザインのマッキントッシュにはいり、レンタカーでハイランドウイスキーの聖地、ハイランド・ウイスキー・街道を巡りました。スぺイ川の水がピートで褐色でした。
 安倍さんが退陣して大騒ぎなので、今日はこれで終わります。
 何方か、酒に関してチャレンジして頂ければ、嬉しく思います。
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いろいろと、ありがとうございました
冨田八千代(36回) 2020.09.06

筆者近影
はじめに 今頃このようなメールをすみません。北斎の未公開の素描103点を大英博物館が来年にも展示ということを知り、中城さんが浮かびました。「浮世絵」即「中城さん」です。そして、お礼のメールの未送信に気づいた次第です。

*『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を楽しみにしています。
 『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』では、私も書かせていただきありがとうございました。KPCの一員として、何もしていない私にこのような機会をくださったことを申し訳なく恥ずかしく思っています。公文さんの「予告記事」で、ますますその思いを強くしました。刊行委員会の皆さんのご尽力など全く関せずにぽっと文章を書かせていただきました。また、中城さんのメールではKPC会員の執筆者は私の予想より少しでした。力量もないのに我が身を忘れて、簡単にお引き受けしたことは自分でも不思議なぐらいです。やはり母校が好き、新聞部がよかったからです。そして、「ほん」創りの大変さを知らなかったからです。これを通して、今までの人生では考えられなかったような、またとない体験をたくさんしました。たくさんのことを知り、学びました。大袈裟ですが、長生きをしてよかったと喜んでいます。何とか責めを果たせたのは、ひとえに一から十、中城さんのお力添えのおかげです。お世話になったこと感謝してもしきれません。本当にお手を煩わせたこと、(いい言葉がうかばず)お詫び申し上げます。表紙を見て、中城さんが『太平山』や「桂浜たより」に紹介された浮世絵「土佐海上松魚釣」を思い出しました。
 この刊行で、母校の創立百周年がより身近に感じられるようになりました。
 4月の総会には、今年こそ、お礼を兼ねて初めて出席しようと待っていました。ところが、このコロナ禍では叶わず、残念でした。最後にお会いしたのは、いつだったかしらと思い出してみました。お二人とも、1960年、私が高校2年生の時です。写真2枚を紹介します。

1960年1月3日新聞部新年会
後ろ 中央が中城さん

偉大な先輩たちの卒業の日 
左端:公文さん 女性左:大野さん 右:筆者
主役の皆さんを気にせずの失敗作でしょう。
だから、私の手元にあるのでしょう。

*佐川の寺子屋教育から土佐沖の鰹釣りまで
@「大江戸もののけ物語」の不思議な寺子屋
 物ごとをあいまいにされない姿勢に敬服しました。テレビの画面には中城さんの指摘の通りの寺子屋風景が何度も登場しました。視聴者の脳裏にこの誤った情景が残っていくのかと、考えさせられました。テレビ視聴中は、すぐにNHKに抗議をと意気込んでいましたが、実行はしていません。周りの友人には、時代考証がきちんとされていないことを話しました。
 その後、中城さんが紹介されている『「勉強」時代の幕開け』(江森一郎著)を読みました。NHKの寺子屋の情景が間違っていることは明白です。この書から、寺子屋教育の良さを学びました。そして、植物学者牧野富太郎の幼少時代の寺子屋教育についてもより理解することができました。それは、私が自然観察会で同郷だからと牧野富太郎についてレポーとすることになった時に、中城さんから佐川町の研究誌に執筆された「寺子屋と郷学が育てた佐川の人材―田中光顕や牧野富太郎を生んだ教育風土をさぐるー」をいただいていましたから。同時に紹介していただいた本『花と恋して 牧野富太郎伝』(上村登著 高知新聞社)は本人の実像に迫り、富太郎に関して読んだ数冊の中では一番読み応えのあるものでした。
注:突然、牧野富太郎登場のわけを書きます。私は20年ほど前から近くの公園で、観察会の一員として自然観察を続けています。昨年、ヒルガオを見ながら、植物のつるの巻き方が話題になりました。日本で、定義づけたのは植物学者牧野富太郎です。そんなことから、同じ高知県出身ということで私が牧野富太郎についてレポートをすることになりました。その時に中城さんにお世話になりました。飛躍しますが、それを通して寺子屋教育の良さを知りました。また、紹介していただいた本『花と恋して 牧野富太郎伝』(上村登著 高知新聞社)は本人の実像に迫り、この時読んだ数冊の中では一番読み応えのあるものでした。
A「綴る女」をめぐる変奏曲
 登場される方々はみな著名人で私とは遠い別世界の人です。その方々をつなぐことで中城さんは奔走されていたのですね。これまた、別世界の物語の様ですが、興味深く拝読しました。
 豊田在住の友人が高知大学で学んだことをきっかけに宮尾登美子の大ファンです。その影響でたくさんの作品を読みました。宮尾登美子と私は、住でいた所が仁淀川の左岸(現いの町)と右岸(現日高村)という近さなのです。それで書かれたことが肌で感じられる『仁淀川』が印象深い作品です。今回、また読んでみて、自分の大間違いに気づきました。場所が特定できる有名な「八田堰」を読み落としていたのです。今まで、私は、宮尾登美子が若い頃暮らしたのは仁淀川の対岸だと捉えていました。ところが「八田堰」と出てくるので、伊野の大橋を中心に彼女は左岸南東、私は右岸北西なのです。「八田堰」を意識しなかったいい加減な読み方に気づかせてもらいました。
 公文公先生との交流があったことは、宮尾登美子への親しさが増しました。
B土佐藩御船頭(おふながしら)の資料を展示
 中城文庫の展示に当り、贈り主にお話がなかったとは驚きました。展示の解説の一番ふさわしい方は中城さんご本人です。ご健康上のことなどで、直接行かれなくても監修はしかるべきです。いろいろな執筆から、「土佐藩御船頭」のことやその資料を高知県立図書館に寄贈されたことを伺っていましたから、帰郷の際にはオーテピア高知図書館を訪ねてみたいと思っています。今回の展示は、新聞報道にあるように、やはり今のコロナ禍と関連があるのでしょうか。そうだとすれば、時宜を得ています。最近、明治期のコレラ感染の話題がよく出てきますが、いつ頃のことだとはピンときませんでした。具体的なお話がでると現実的にいつのことだったかリアルになります。
中城 <伝染病関連の文書は、明治一二年のコレラ流行のさいの文書が当文庫に3点あり、そのうちの1点「虎列刺予防法ノ願」が出展されています。他に仁井田村(三里村・現高知市)予防委員から祖父(直顕)への書簡「村境の見張り番所を廃す」もあります。現在のコロナ禍による移動制限を連想させられます。大正八年の「土陽新聞」には、「伝染病も随分多い、最も恐るべきは虎列刺、黒死病であるが、虎列刺は土佐では安政年間に大いに流行して、幾多の人を殺した・・・、次ぎに流行したのは明治十二年と十九年であらふ」とあります。幕末に、いち早くオランダ医学を学び、土佐で種痘を行なった豊永快蔵のような医師もいます。>
 中城文庫展のチラシは、一目見るだけでは中城文庫に関心のある人でなければ出かけようとする気は起らないと感じます。(失礼ですね!)すると、中央の絵がチラシの引きつけ役なのでしょうか。この絵がよくわかりません。中城さん。この絵はどういう絵なのですか。なぜ、たくさんの資料の中からこの絵が選ばれたのだとお考えですか。チラシの裏面も見たいと思います。展示内容の説明を知りたいのです。
中城 <なぜ、こんなくだらない噂話の浮世絵新聞「東京日日新聞 三眼の妖僧」(1873年)を選んだのか不明です。この展示の企画意図がよく分かりません。7000点を超す「中城文庫」の中から、今回はどのような観点から約70点を選んだのかが問題です。裏面は白紙です。>
C予告記事『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』から
 公文さんの記事には、間もなく出版される『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』の表紙、田島征三さん画の「舟を漕ぐ男たち」が出ています。その表紙の連想で、南国土佐ならではの一場面として広重の「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」が、心のアルバムから甦ってきました。中城さんは「桂浜たより」などにその浮世絵のことを書かれています。皆さんにも紹介していただきたいと思います。
中城 <これは土佐沖でのカツオの勇壮な一本釣りを見事に描いています。さすがに風景画で知られる歌川広重ならではの作品です。船中の大桶から生きたイワシを取り出して撒き餌にする様子まで、リアルに描いてあります。この浮世絵は、「坂本龍馬役者絵」等とともに、県立高知城歴史博物館に寄贈しました。>
中城さん いつも知的刺激をありがとうございます。

富田さん

歌川広重「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」
高知県立高知城歴史博物館蔵(中城正堯旧蔵)
浮世絵の話題を有難う。
 土佐高人物伝、お陰様で校了になりましたが、販促対応など仕事が続き、返事も出来ず、失礼しました。勝手に、あちこち権威筋の不勉強や誤解にかみついているだけで、酒を禁じられた老人のストレス発散です。ご丁寧に褒めていただくと、こそばゆい感じですが、みなさまの反響は素直に有難いです。
 初鰹関連の浮世絵では、歌川広重の「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」が欠かせません。個人で所持していましたが、先年高知関連浮世絵とも、県立高知城歴史博物館に寄贈しました。写真を添付しますので、ご覧下さい。場面は既刊の名所図会などから取ったと思われますが、船中の大桶から生き餌を撒きながらの勇壮な一本釣り風景をリアルに描いています。
 この他、公文所蔵に、「江戸自慢三十六興 日本橋 初鰹」(歌川豊国三代・広重二代の合作)があり、高価な初鰹を持つ美人とたが回しで遊ぶ子どもの図で、バックには日本橋と富士山が描かれています。初鰹は江戸っ子の大好物で、浮世絵の素材にもなっています。
 北脇昇さんは存じませんが、歌川芳藤は幕末から明治にかけて活躍し、特に「子ども絵芳藤」と呼ばれたように、子どものための楽しい絵をたくさん残してます。北脇が参考にした絵は不明ですが、芳藤の「五拾三次之内猫之回怪」は、猫が集まって恐ろ化け猫の顔ができています。公文でも所蔵しています。
 土佐校人物伝も、そろそろ校了です。
中城正堯(2020.09.07)
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ペスト
竹本修文(37回) 2020.09.10

筆者近影
●濱崎先輩のお誘いで、「お酒を飲む目的」で3年前にKPCに入会した37回の竹本修文です。コロナのお陰で何もかも中止になり、目的が未達でモヤモヤしている毎日です。
●コレラ騒ぎは北里柴三郎の活躍記事で知った事ですが、「中国などを航海していたドイツやオランダの船が長崎などの大きな港に運んできた」ような事を覚えています。
●これとは別に、ヨーロッパ史を勉強するとペスト(=ドイツ語、英語ではPlagueですが、一般にはBlack-death黒死病と呼ばれている) がまん延してウイーンのペスト記念柱のようなモニュメントが各地にあります。
 ロンドンのSaint Bride 教会に隣接した(正式名は忘れました、17世紀の死体捨て場)集団遺骨集積所は17世紀のペストのパンデミックの死者の遺骨をガラス張りの部屋にゴロゴロ放置しています。Black Death と言うカラー写真と絵入りの優しい英語の(気持ちの悪い)本を持っていますので、興味がおありの方にはお貸しします。
●ペストは、黒海から船で移動したネズミが媒介した事で、ヨーロッパの港町では猫を大事にしました。NHKの「岩合さんの猫歩き」を見ているとペストの話が出てきます。
 ところが、ある時に高知県の歴史(山川出版)の年表を眺めていたら、1910年(明治43年)10月に、「県下にペストが流行する」と記載があり、
@ どこから、どうやって入ってきたのか?、
A 高知県のどこで被害があったのか?、
B 香南市を通っている国道55号に沿った平井山の海側に、「昔、疫病がまん延して、まだ息があっても焼いた」と言う場所があって近寄るな、と教えられました。
C あれは、どんな病気だったか?多分、コレラかペストだろうと思います。
D あの場所は何処だったか?知りたかったのですが、数年前に知人の葬式に行ったら、その場所と思われる場所に近代的な火葬場がありました。

 このような話は高知県の他の所にはないでしょうか?
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高知でのコレラに関する歴史
中城正堯(30回) 2020.09.10

筆者近影
竹本様、富田様
 「中城文庫」展に関連し、高知でのコレラに関する歴史を、手元史料でお知らせします。
 「中城文庫」には、今回展示してある「虎列刺予防法ノ願」(1879年)の他にも、書簡「虎列刺予防、村界見張番所相廃」があります。村の予防委員が祖父宛に出したものです。
 「土佐事物史」(土陽新聞 大正八年六月)には、「伝染病も随分多い、最も恐るべきは虎列刺、黒死病であるが、虎列刺は土佐では安政年間に大いに流行して、幾多の人を殺した・・・、次に大流行は明治十二年と十九年であらふ」とあります。
 現代の文献では、『高知市史 中巻』(昭和四十六年刊 高知市)の、「伝染病と対策」に5ページにわたって記載してあります。
 また、「土佐種痘の元祖」としては、豊永快蔵が知られ、嘉永二年に大坂に出て蘭学医から牛痘接種法を学び、帰国して高岡郡各地で種痘を行ない、効果を上げています。
 どなたか、土佐医学史、特に伝染病との闘いを世界的視野で調べてくれると有難いです。高知県に医師・病院が多い事や、幕末の寺子屋師匠に土佐では医者が非常に多かった背景も解明できそうです。
 土佐高からは、日本史や郷土史の学者が少なく、ぜひ呼びかけて下さい。
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ヨーロッパ中世のペスト
竹本修文(37回) 2020.09.10

ヨーロッパ中世のペスト
●先ず始めに、前回のメールの記述に補足をさせていただきます。
 添付した「ヨーロッパ中世のペスト」をご覧ください。「Black Death と言う、カラー写真と絵入りの優しい英語の(気持ちの悪い)本を持っていますので、興味がおありの方にはお貸しします。」と記載しましたが、どなたからもご要望がありませんので、気持ちが悪くならない部分をコピーして貼り付けてあります。
 ウイーンのシュテファン寺院近くのペスト・モニュメントの写真も貼り付けました。
●「中城文庫」の事は以前からお伺いしていましたが、改めて高知市民図書館の特設文庫のところを眺めてみました。素晴らしいですね〜?展示は9月22日までですね〜?
 竹本家のお墓は香南市霊園公社が管理する香南市役所近くの公園墓地の中にあり、毎年お彼岸の頃に公社主催の無宗教の墓前祭が行われますが、今年はコロナで中止になりました。親戚もみんないなくなり、高知は遠くなりました。
 3年前に墓前祭に行ったときに、山形県出身の家内をお城へ連れて行き、大学入試前に通った市民図書館へ行ってみようと思ったら、移転して近代的になっていて驚いた事でした。

ジェンナーの銅像の前で
Gloucester聖堂にて
●コレラもペストも記載があるのですね〜!ただ、ペストの発症に関しては、図書館を訪問してじっくり調べる必要がありそうですね。ま〜そこまでは今はむりですが。
●土佐種痘の元祖がいるのには驚きました。
 2010年にアーサー王の伝説のゆかりの地や、中世の城や、温暖化のお陰で栄えているワイナリー巡りでイギリス南部をドライブしました。その時に、バークレー城の隣に天然痘のワクチンを開発したエドワード・ジェンナーの博物館があって訪問しました。この辺の農場で乳しぼりの女性に天然痘の患者がいない事に気が付いて、研究してワクチンを開発したのでしたので添付します。
●近くのグロースター聖堂にノルマン朝のウイリアム征服王の長男が埋葬されているので、見に行ったら、ジェンナーの大きな銅像があって、記念写真を撮りました。
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<テレビ番組のご案内>
「日曜美術館」 画家・田島征三さん
中城正堯(30回) 2020.09.24

筆者近影
皆様へ
 「筆山の麓 土佐中高人物伝」は、お陰様で、10月10日発刊されます。この表紙画家・田島征三さんが、10月4日(日)NHK Eテレ「日曜美術館」で特集されます。ちょうど発刊および、母校100周年記念日の直前で、大変タイミングのよい話題です。
 「日曜美術館」で現代画家を取り上げることはまれで、どう紹介されるか見逃せない番組です。添付の<ご案内>では、番組紹介を兼ねて、人物伝表紙と本文での田島兄弟、さらにこの本に登場するアーティストにも触れておきました。同窓生・在学生にもぜひ番組を見ていただきたく、この情報の伝達へのご協力をお願い致します。添付の<ご案内>は、加工修正いただいても結構です。
 なお、田島さんの新刊絵本原画を中心にした作品展、および高知での少年時代を映画化した『絵の中のぼくの村』(ベルリン映画祭銀熊賞)の上映も高知県立美術館に呼び掛けているそうです。昨年は瀬戸内海国際美術展2019の大島会場にも意欲作を出展、現在も展示されており、ぜひ見て欲しいとの事です。

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お酒談義−9
ビールの話 
竹本修文(37回) 2020.10.08

ビールの話 

1. ラガービール発祥の地ピルゼン 2.チェコの歴史をチョッピリ

3.ビールの歴史をチョッピリ 4.エールビール

5.ラガービール  6. ピルスナービール 
7. 銀座のビアホール・ピルゼン 

8. 横浜のビール物語 キリンビール横浜工場

9. その他雑談 イギリスの国会議事堂の中
What the Dickens!  トルコの実態

フランス・ロマネスク建築の15日間

ビールの話 
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ハチ公とボビー、忠犬たちを仲介して
中城正堯(30回) 2020.10.08

筆者近影
 竹本修文さんの呼びかけに応え、20年ほど前にスコットランドのエディンバラで出合った忠犬ボビーの話をお伝えした。掲載した『毎日小学生新聞』の記事にあるように、このボビーと渋谷駅前の忠犬ハチ公との交流を手伝っただけだ。その経緯と、もう一つの忠犬『フランダースの犬』との関わりを紹介しよう。

丘の上にそびえるエディンバラ城。
 くもん子ども研究所で収集した「子ども浮世絵」が、国際交流基金の目に留まり1999年からヨーロッパ巡回展が始まった。その会場の一つがスコットランド国立博物館で、公費で派遣された。展示会場の設営は申し分なく、入り口に歌川広重「風流おさな遊び」ののれんが掛けられ、出口には「江戸体験コーナー」を設けてあった。お稲荷さんにお参りしておみくじを引き、絵馬に願い事を書き、駄菓子を試食、さらに着物の試着まで、至れり尽くせりであった。

浮世絵展会場入口の
“広重のれん”。
 仕事の合間に街を散策していると、石柱上に犬の銅像があり、少女が眺めている。側に小さな売店があり、聞くと「忠犬ボビー」の像だという。店主が絵葉書や小冊子を取り出し、由来の説明を始める。「日本人が来ては“忠犬ハチ公”と同じといって興味を示す。ぜひ、交流したい」とのこと。こうして、近くの教会墓地にある飼い主の墓へも案内され、メッセージや資料を託された。帰国後に、ハチ公像の前で銅像維持会会長とJR渋谷駅長に無事お渡しして、浮世絵に続き、忠犬の国際交流も終えた。
 一週間ほどの滞在であったが、スコットランド人の自国への誇りと、日本への好意を強く感じた。展覧会オープニングの晩餐会は、マンモスなどの骨格標本がならぶ展示室に、特別に設営されていた。「江戸体験コーナー」は、大学生の日本文化研究会が運営してくれていた。併設された子ども博物館のコーナーには、スコットランド出身の偉人展示があり、蒸気機関のワット、電話のベル、文豪スティーヴンソンなど著名人物の肖像画が並び、最後は鏡だ。自分の顔が映る鏡の上には、「次は君だ!」とあり、子どもたち一人ひとりに奮起を呼び掛けている。イングランドへの対抗心が、展示からもうかがえた。

3.忠犬ボビーを訪ねてきた少女。

4.『Greyfriars Bobby』の表紙。ボビーとその記念碑(左)、
後方はエディンバラ城。

5.渋谷ハチ公前での、メッセージ伝達式。
 『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』の著者として、日本でも著名なスティーヴンソンだが、彼が吉田松陰の伝記を日本に先駆けて、明治13年頃に執筆したことはあまり知られていない。エディンバラ大学に留学した吉田松陰の弟子・正木退蔵に出会い、その話から松蔭に惹かれ、2年後に『ヨシダ・トラジロウ』を書き上げる。トラジロウは、松蔭の幼名である。このことは『烈々たる日本人』(よしだみどり 祥伝社)に、詳述されている。
 イギリス人女性作家ヴィーダの『フランダースの犬』にも触れておこう。日本では名作児童文学として知られ、アニメでも大人気だったが、物語の舞台であるフランドル(ベルギー)や、作者の出身地イングランドでは、忘れられた存在だった。しかし、その舞台を探して日本人観光客が押し寄せ、地元観光局は「ネロとパトラッシュの像」と風車小屋を建て、日本人の期待に応える。1988年にここを訪ねていたので、ボビーにも興味を持った。だが、アントワープ聖母大教会で、あこがれの名画ルーベンスの『キリスト降架』を仰ぎ見ながら、愛犬パトラッシュを抱いて凍死した薄幸の少年ネロは、銅像になっても安泰ではなかったようだ。今、この銅像は撤去され、後には中国人によって作られた石像が横たわっているとのことだ。(写真は全て筆者撮影)

6.アントワープ郊外にあった「ネロとパトラッシュの像」。

7.復元された風車小屋と子どもたち。

8.ネロ少年あこがれの巨匠ルーベンスの「キリスト降架」。
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スコットランドのハチ公
竹本修文(37回) 2020.10.08
中城 様
 貴重な情報をありがとうございます。
 スコットランドの情報は少ない中で、「スコットランドのハチ公」とは珍しいですね〜!娘がいたらさぞ喜んだ事と思います。
 イギリスの資料は特に検索しやすく整理してファイルしていますので、頂いた資料を多少読みやすいサイズに編集してみました。先方から日本へ送ってきたのだから、英語のサイトに何か掲載されていないか、検索したら、両国のハチ公の記事は沢山でております。
 渋谷のハチ公の銅像にはずいぶん前から外人旅行者撮影の為に行列していましたが、英語の情報力ですね〜?URLを貼り付けておきました。御覧ください。

毎日小学生新聞

スコットランドのハチ公

スコットランドのハチ公
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「土佐中高100年人物伝」発刊のお知らせ
公文敏雄(35回)、中城正堯(30回) 2020.10.10


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 日付:2020年10月10日
 
 タイトル:本日販売開始!土佐中高100年人物伝
 
 7月30日の予告記事でご案内した人物伝が、いよいよ本日発売となりました。
 
 会員有志も一役買っておりますので、多くの皆様にご購入いただけますと幸いです。
 
 詳しくは添付のチラシをご覧ください。 (公文)



 8日朝までにメールと電話で届いた感想の要旨です。刊行予告への返事も含みます。刊行委員全員への北村さん・千頭さんは省略します。<一般><同窓生>に分け、順序不動です。(中城
<一般>
 平井丈太朗(平井康三郎長男・世界的チェリスト) 「母校の100周年記念誌に父を取り上げていただき感謝」
 森上 展安(森上教育研究所所長・教育評論家) 「100年の人物伝とは気宇壮大、如何にも土佐高、読むのが楽しみ」
 安岡 憲彦(元高知市民図書館司書・学芸出身) 「学芸高校の上海列車事故での学校の対応を調査中、政治家群像での田村・谷川の活躍を引用紹介したい」
 新庄真帆子(公文公長女・公文公記念館長) 「父の業績をきちんと紹介いただき感謝、関係者に配布したい。30部程度購入したい」
<同窓生>
 小村 彰校長(49回生) 「皆様のご苦労に心からの敬意と感謝」
 横山 禎夫(30回生、下村幸雄の資料提供者) 「予想以上に立派な本で、装丁内容ともよい。本文構成に工夫がみられ、写真・人物群像などの配置・レイアウトがよく出来ており、読みやすそう。下村だけ読んだが、さすが堀内弁護士が書いただけに裁判官としての業績をきちんと捉えてある」
 冨田八千代(36回生、川村・須藤筆者) 「3時過ぎに届き、夢中で読み始めた。頭も心も思うこと、感じることがはち切れそう。とりあえずのお知らせ」
 妹尾 加代(35回生、『サハラの歳月』翻訳家) 「『筆山の麓』と田島征三さんの案内に感謝。田島氏の番組に深く心を打たれた。『筆山の麓』も早速注文する」
 門田 充代(60回、中澤氏家薬業) 「本が届くのが楽しみ、11月の記念展示会には行く予定」(会社での購入を依頼中)
 松ア 郷輔(30回、宮脇書店会長) 「本はよくできている。しかし発売時点での告知が問題。例えば、タウン情報誌などミニコミにも新刊情報を出すなど、工夫が必要。高新印刷とも相談したら」
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森の中の「のいち動物公園」
公文敏雄(35回) 2020.11.13


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会員の皆様  コロナでまたまた騒々しくなった世間をよそに一息つかれていますか?こんな時期にのどかなふるさとの記事を送ります。
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百周年記念式典への参列
公文敏雄(35回) 2020.11.19

筆者近影
向陽プレスクラブ会員の皆様 (CC:人物伝刊行委員各位)
「向陽プレスクラブ(KPC)会長」ということで11月18日、土佐中・高創立百周年記念式典に招かれて参列しました。
 10年前のKPC再発足以来、母校百周年をも見据えて進めた企画、すなわち
?向陽新聞バックナンバー収集と電子化、同CD制作と頒布、
A創立基本資料集「土佐中学を創った人々」の刊行と母校全校生への寄贈、
?「筆山の麓 土佐中高100年人物伝」刊行参加(KPC会員5名が編集・執筆に関わる)など、 KPC会員の長年にわたる母校支援にかんがみての招待と聞き及びました。
 会員各位に厚くお礼申し上げます。
 なかんずく、百周年の学校事業の中核である全935ページの大作「創立百年史」は、「向陽新聞バックナンバー無しでは完成しなかった」(小村校長述懐)そうであります。
 KPC会員諸兄姉が汗を流して集めた昭和24年の創刊号から平成19年まで、欠号わずか4部の原本 全百十余部は、表装して綴じられ、カルポートで今般催された土佐校100年記念資料展会場に 陳列されて多数の注目を集めました。「展示の中で一番良かった」という生徒もいました。
 (添付の高知新聞記事=11月12日付ご参照)
 記念式典の概要は早くも母校ホームページに掲載されており、 (https://www.tosa.ed.jp/news/2020/2/2020_11_18/2020_11_18.html) 今朝の高知新聞記事も報じておりますので(ここもと添付)ご覧ください。

高知新聞(2020.11.19)

高知新聞(2020.11.12)
 午前10時から1時間少々の式典、のあと、村木厚子さんの記念講演(約1時間)という組み合わせ。 体育館に全校生徒・教職員、来賓が集まり、父兄席無しという設営でした。
 濱田県知事、岡崎市長ら来賓による祝辞に先立って、小村校長の式辞がありました。 開口一番、「今朝見知らぬ主婦の方から感謝のメールをいただきました。幼児を抱いてのスーパー での買い物に難儀しているところ、腕に白線の男子生徒2人に助けをいただいて大変有難かった という主旨のお礼で、100周年朝、本当に嬉しかった」という意表を突く切り出し。
 知徳体を鍛え自主・自立の気風を養っての人材育成という建学の精神、第3代大嶋校長が説いた、 戦災による校舎焼失などの苦難に立ち向かった諸先輩のご苦労に思いを馳せるなど「お蔭様・報恩感謝」、 そして、現代に求められる多様性。色んな生き方があってよい。名は知られずとも各々がその場所を 照らすように。そのためには他者のために尽くしなさい・・・こんな内容を平易に話されました。 伝統は健在です。

11月18日付向陽新聞全画面
(高知新聞土佐100周年記念広告特集より)

11月18日付向陽新聞主要部
(高知新聞土佐100周年記念広告特集より)

ちょっと気づいたこと
 開会直後に「物故者慰霊の黙祷(1分間)」があり、これは新鮮でした。
 来賓祝辞終了後「川崎・宇田両家顕彰」があり、両家代表川崎敦子さんに感謝状献呈。ほんわかしました。
 壇上向かって右側に母校校旗が置かれていましたが、通常左側にあるべき国旗がありません。 これに気づいた人はマレでしょうが、国内外でいろんな晴れの式典を見てきた筆者は??と感じました。 世界で活躍する国際派人材を送り出す学校が、まさか国旗アレルギーに罹患しているとは思いませんが・・・
 走り書きの駄文をご容赦ください。
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詳しい報告をありがとうございました
冨田八千代(36回) 2020.11.21

筆者近影
公文様
 百周年記念式典への参列、お疲れさまでした。詳しい報告をありがとうございました。
 KPC再発足以来の先輩の皆様の様々な努力が認められていることが分かり、安堵しました。『創立百年史』の編纂には、KPCのどなたかが入られるものと予想していました。(携わられた方々の詳しいことは分かっていませんが。)向陽新聞のことやその後のまとめは、反映されるだろうかと危惧していました。
 校長先生のお話も伝えて下さりありがとうございました。公文さんがまとめてくださった内容からも『筆山の麓』の小村先生の「土佐中高100年人物伝に寄せて」と同じように、感銘を受けました。
 私の感銘とは別のことです。
 校長先生は「建学の精神」と「報恩感謝」とを区別して述べられていることが目に留まりました。これは、中城さんが『創立八十周年記念誌』で指摘されていることです。
 今回、『筆山の麓』の刊行を通して、『創立八十周年記念誌 冠する土佐の名に叶へ』を久しぶりに開きました。確かめたいことがあって、原稿をまとめるときにも刊行されてからも読みました。、記念誌の「特集…これからの土佐」の項で中城さんが登場されています。「『自由と規律』をモットーに、世界へ人材送る学校に」と題してた記述で、「報恩感謝」のことについて触れられています。
 それで、自分自身のことを振り返ってみました。私の在校中は「報恩感謝」が強調されいました。大嶋校長先生のお話は、必ず「報恩感謝」のことがあり、耳に胼胝ができるほど聞かされたと いう印象です。校長先生以外の先生が話された記憶はありません。
 クラス名も土佐 報 恩 感 謝の頭文字ということも常に意識していました。クラス名、T・H・O・K・Sも「土佐報恩感謝」を復唱して出てくるぐらいでした。当時、私はそれが学校の理念だと受けとめていました。しかし、これらのことは生徒、それぞれの印象は違うようです。「建学の精神」についてどう受けうけとめたかは印象に残っていません。そんなに度々話されたという記憶はない、という同級生もいます。こんなことを思い出し考えていた時なので、目に留まったのだと思います。
 高知新聞の添付、ありがとうございました。
 それから、「向陽新聞」のことで思いだしたことがあります。私が中学校1年生の時のことです。新聞部から1号から5号までの新聞を探しているから協力をという呼びかけがありました。我が家に兄(30回生 堀正和)が残していたものがありましたので、新聞部まで届けました。確か4号はなかったと思います。そのころは自分が新聞部に入るなどとは全く思っていませんでした。
                 では、失礼します。 
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「土佐校100年展」
山岡伸一(45回) 2020.11.21

筆者旧影
 45回生の山岡伸一です。
 先頃11日から15日まで高知市文化プラザかるぽーとで開催された「土佐校100年展」を初日の11日に早速見に行って来ました。
 小村校長の挨拶の後創立家代表(川崎氏)、同窓会長(岡内氏)、振興会長(浜田氏)、同窓会代表幹事(浜田氏/21回生)の4名の方々によるテープカットで開幕。
 展示品の数々に懐かしさを募らせ、膨大な資料に説明を付す作業への 関係者のご苦労に思いを馳せつつも、こと自分達の年次に関わる展示品には懐かしさだけに留まらず説明の誤りに目聡く気付き、幾つかスタッフの方にダメ出しをさせて貰いました。
 「写真撮影禁止場所での撮影はお控え下さい」との掲示は目にしつつもそこが禁止場所であるとの明確な表示は無かったのでいい気で撮っていたらスタッフの方に「済みません、ここは−」と注意される一幕も。要は導入部の通路部分と櫓関連の展示ルームだけが撮影可と言うことで。それに向陽プレスクラブのホームページで公開している向陽新聞のバックナンバー(実物)を撮影禁止と言われても(-_-;)。
 運動会名物の櫓の展示ルームでは、現在の鉄製の組み立て足場による櫓の制作手順を細かく指導する図入りの「やぐら制作説明資料」なるものの展示に、設計から資材の調達まで全て自分達でやり、足場の組み方などは先輩や建築業者の人たちに直々に教わり、およそ先生方から教わるなどということは無かった自分達からすれば嘆かわしいような、時代の変化を感じさせられました。
 しかし、後輩の皆さんの自分達を上回る活躍の展示の数々には、我が身を省みての気恥ずかしさと頼もしさを感じさせられました。
 入ってすぐのアプローチ部の壁面に我々45回生の櫓の写真を使ったパネルが掲げられていたのは嬉しかったのですが、櫓の説明が44年を45年とされていたほか、44年のことと45年のことをごっちゃにした説明になっていたのががっかり。しかしこれはまあこの時限りの展示なので、知らない人には気付かれもしなかったでしょうし、目をつぶるとしても、校史を年度毎に辿ったパネルの展示で見つけた誤りは、この部分は「百年史」の記述を流用するようにとの学校からの指示で作成したとのことに、それなら「百年史」自体が間違っているのか(-_-;)、誤った記述が「正史」とされるのは看過できぬ、との気分に。向陽新聞に記録されている事だけに憤慨したのでした。
 1968年度、「6月24日 全国高等学校生徒弁論大会。高3加賀野井秀一、第8位入賞。」との記述がありますが、向陽新聞(79号)の記事では「11月16日」となっています。また、食堂で生徒がうどんなどをすすっている写真が添えられていましたが、この写真は45回生の卒業アルバムのために自分の3Sのクラスの連中に集まって貰って、いわばやらせで撮った写真で、1969年撮影のものです。
 1969年度のパネルでは「8月 AFS奨学生として一柳延広、葛目正子 1年留学。」とありますが、この年の出来事として記載するのなら正しくは「1年の留学から帰国。」で、出発は1968年の事です。これも向陽新聞(77号)に記事が掲載されています。お二人は69年に帰国して我々45回生の学年に編入(特に葛目さんは自分の3Sへ)されたので、間違いの無いことです。
 他の年度のことは分からないので何とも言いようがありませんが、これらの例を見ると、どうも正確さに疑念を抱いてしまいます。
 ところで、11月18日の高知新聞に土佐校創立100年を記念しての8頁の特別紙面が折り込まれていて、最後の頁は向陽新聞の体のものでした。初め見た時、かつての向陽新聞を意識して高知新聞が特別編集してくれたものと受け止めて気にしていなかったのですが、今日改めてよく見ると、向陽新聞の題字下に「企画協力 土佐中・高校新聞部」とあり、その下に「新聞部は100周年の今年長い休部を経て復活、慣れない取材、撮影も担当してくれました。」と有るではありませんか! 本当でしょうか! 本当ならこんな嬉しい事はありません。
 なお、写真を多数添えさせて頂きたいのですが、どうやって送信すればよろしいでしょう?メールに添付では容量オーバーで送れませんが。
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― 創立100周年に寄せて ―
母校校歌「向陽の空」の歌詞を深読みする(改訂版)
公文敏雄(35回) 2020.12.08

筆者近影
 学校創立後間もない1922(大正11)年5月に誕生し、去る11月18日の創立100周年記念式典でも斉唱された校歌「向陽の空」の歌詞の由来については、1920(大正9)年の開校からわずか2年ほどしか在籍されなかった作詞者越田三郎教諭(漢文国語担当)のプロフィールを含めて、過去あまり記録が残されていないようです。そこで、歌詞を読み込むことによって手探りながら背景を追ってみました。至らないものであるが、少しでもご参考になれば嬉しい。
 まず、原作一〜四番全体を俯瞰してみる。ただ、紙面の制約もあって、本稿での解釈は今日歌われている原作一番と三番とに限定した。
一、(現 校歌一番)
 向陽の空淺緑 廣きぞ己が心なる
 大洋の岸 物榮ゆ 伸ぶるは我の力なり
 嗚呼(ああ)幸多き天(あめ)と地(つち) 
 自然の啓示(さとし)かしこしや
二、
 誠忠剛武並びなく 靈夢(れいむ)に入るか護国の士 
 達識睿(えい)知類(たぐい)なく 自由を唄ふ不死の人
 嗚呼先賢に績(いさお=業績)あり 三才秀で尊(とうと)しや 
三、(現 校歌二番)
 孕灣頭(はらみわんとう)軒高く 兼山碑下(けんざんひか)に庭清し
 協力一致誓ひして 集ふ同袍(どうほう)意氣強し
 鳴呼勉(つと)めよや竭(つく)せよや 冠する土佐の名に叶(かな)へ
四、
 それ右文(ゆうぶん)と尚武こそ 強者の競う榮冠ぞ
 人道正義の理想こそ 王者の擔(にな)ふ使命なれ
 嗚呼吾れ享(う)けん不朽の名 奮へや土州健男児 
  (「土佐中學校要覧」昭和5年版より。原文は旧仮名遣い・正字体)

第一章 校歌一番
〇「向陽の空淺緑 廣きぞ己が心なる」
  拙訳: 陽光あふれる澄み渡った大空のような広い心・大きな志を持とう。  
 「向陽」の意味については、「新潟県立新潟向陽高等学校」(新潟市、設立1973年)のホームページに記された「校名の由来」が役立つので引用させていただく。
 〈「向陽」という校名は、「向」は「向かう」「向く」「面する」である。「陽」は「太陽」の「陽」であり、「日光がさすところ」「南面」「あたたか」「あきらか」などの意味を持ち、「生き生き躍動」「積極性」をも表す。したがって、「向陽」で「太陽に向かって立つ」「暖かい日光の下にある」など文字通りの意味から「生き生き躍動する」「積極的に転ずる」などの意味をも含むものとなる。また、「新潟市の南の方向」という地理的な位置をも示すものである…(後略)〉。 なお、同校校名の由来は地名「向陽町」とのこと(同県教育委員会説明)。
 では、重要な冒頭に、越田教諭が「向陽」を持ってきたいきさつから探ってみたい。
 「向陽」は、中国や日本ともども、人名(号)、地名、社名、校名などに多く使われてきた。例えば、「向陽」の号を持つ著名人には終戦時、首席全権として戦艦ミズーリ艦上で降伏文書に署名した、当時の外務大臣重光葵(まもる)がいる。「葵(あおい)は中国で向日葵(ひまわり)を意味するので、向陽と号した」よし(憲政記念館ホームページより)。江戸時代に遡れば、越田教諭も詳しかったと思われる儒学の泰斗林羅山(はやし らざん)の跡継ぎ 林鵞峰(はやし がほう)は「向陽軒」を名乗った。漢籍では、「天子は南面す(陽に向かう)」という故実が伝わっている。これらをもって、「向陽」がリーダーの「積極性」、「強さ」、「大志」を象徴するとすれば、中学校創建の壮大な理想と結びつく。しかし、残念ながら、この漢語が本校の校歌に採用されたわけを伝える資料が見当たらないので、とりあえず次に進む。
 ガーナ高校生とのよさこい国際交流の目玉「明治神宮奉納原宿表参道元氣祭スーパーよさこい」(下の写真ご参照)の舞台として土佐校生とも縁の深い明治神宮が11月1日に「鎮座百年祭」を執り行った。たまたま本校と創建年月が同じなのだ。その御祭神であり、史上屈指の大歌人でもあった明治天皇(注1)が1904(明治37)年に詠まれた和歌(「御製=ぎょせい」という)をご紹介する。 
あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのがこころともがな
 歌意:「あさみどり色に晴れて澄み渡った大空のように、広い大きな心を、お互いの心として、日々の生活に励みたいものです。」(1980年明治神宮発行『大御心』より) 校歌一番の冒頭とこの御製とを較べてみると驚くほど似通っているのに気づく。
 では、校歌の作詞者と明治天皇の御製とがいつどこで出逢ったのか? 記録が見当たらないので以下は筆者による推理を含むことをお許し願いたい。
 母校創立の直前1919(大正8)年に宮内省が歌集「明治天皇御集」を刊行した。和歌にも親しんだことであろう国漢教師が、何かの機会に歌集をめくり、この御製を知ったということが想像できる。歌集が出る前にも、側近の手で多くが「漏れ伝わり」、たびたび新聞などに掲載されたそうだから(注2:ウィキペディア「明治天皇御集」)、それが教諭の目にとまった可能性もあろう。教室で講じることがあったかもしれない。
 もう一つは時代背景である。1920(大正9)年の明治神宮創建は、10万本以上の木が全国津々浦々から献ぜられ、全国青年団員らの数多の人々が勤労奉仕した、大正前半の国民的大事業であった(明治神宮・同外苑ホームページ)。かように当時の人々が讃仰(さんぎょう)した明治天皇の御製をお借りすることに、おそらく何の躊躇(ちゅうちょ)も無かったであろう。ちなみに、本校と同じ1920(大正9)年創立の名門甲南女子学園(神戸市)の校歌にも明治天皇の御製「まこと…」と皇后(昭憲皇太后)の御歌が使われている(同校ホームページより)。

明治神宮原宿口で踊る学生よさこいチーム「ロッテ・ガーナよさこい連」
(2018年8月には本校生徒14名、教員2名が上京して参加した。)

〇「大洋の岸物榮ゆ 伸ぶるは我の力なり」
 拙訳:土佐は黒潮洗う太平洋に接してあらゆるものが育ち栄えるが、われわれの進歩成長はほかならぬ自らの努力によるのだ。
〇「嗚呼幸多き天(あめ)と地(つち) 自然の啓示(さとし)かしこしや」
 拙訳:(それにしても)天地(宇宙)の恵みの何とすばらしいことよ。自然から授かる教えは実に畏れ多い。
 「天と地」は古事記冒頭「天地(あめつち)初めて発(ひら)けし時…」からの引用で、宇宙を示す。「啓示」とは、「さとししめす」ことで、それが「かしこし」(畏れ多い)としたのは、わが国では古来、自然の中に人知を超えた存在を感じているがゆえの表現であろう(参考=広辞苑)。
 近・現代にかけて、地球環境や多種多様な生命が人類繁栄の犠牲となっていることへの問題意識が高まっている。自然の、そして自然と共に生きることの意味合いをその一番において提起する校歌が、若者によって歌い継がれていくことの重みをかみしめたい。 

第二章 校歌二番(原作三番)
〇「孕湾頭(はらみわんとう)軒高く 兼山碑下(けんざんひか)に庭清し」
 拙訳:孕湾(浦戸湾北部の潮江沖一帯)を臨んで軒高くそびえ、藩政時代の著名な政治家野中兼山の墓がある筆山の麓に位置する我らが学び舎は、清らかで明かるい。
 校舎が建った潮江村(当時)はもともと水田地帯であり、校舎(下の写真)から孕湾や筆山を見晴らすことができたであろう。中国発祥の運気占い(「風水」)で理想とされ、わが国でも庭園や建造物の造営に際して念頭に置かれた「背山臨水(はいざんりんすい)」の構図が目に浮かんでくる。「湾頭」は「巌頭」などと同じく漢文調で、歌詞の格調を高めている。また、「筆山の麓」を表現するのに野中兼山(1615〜1663)の史蹟を配したことで深みが加わった。
 (下の高知市南部の写真=Googleマップをご参照)

兼山とその一族の墓は筆山東南側の高見山にある。(高知市ホームページより)

 「兼山碑下」に続く「庭清し」は、文脈からみて、ただ校庭がきれいだというのではなさそうである。神聖な場所、古代から伝わる「清庭」(さやにわ)すなわち「斎(い)み清めた場所で、神霊を招き降ろして、その託宣を聞く所」(『日本大百科全書』)を思い浮べてもよいのではなかろうか。神道の美意識「清明」(清く明き心)は、勤勉と同じく日本人の根っこに横たわる精神文化である。

創立当時の校舎
(向陽プレスクラブ刊『土佐中學校創立基本資料集』より)

兼山とその一族の墓
(高知市ホームページより)

〇「協力一致誓ひして 集ふ同袍(どうほう)意気強し」
 「同袍」は「同胞」(「はらから、兄弟=広辞苑)とほぼ同義。「袍」は糸偏が示すように綿入れの衣服であり、困窮のときには衣服を貸し合うほどの親しい間柄を言う(『精選版日本国語大辞典』)。人は独りでは生きていけない。他の存在を認めて助け合い、共に成長することが出来たならばこんな愉快なことはなく、処(ところ)を得て活き活きとした者たちが集まれば大きなエネルギーを生むであろう。外部の多くの方々から「土佐校生・卒業生の繋がり、愛校心がすごい」との評をいただくところをみると、全寮制学園として発足した本校の校風は、運動会のやぐらづくりとともに健在といえよう。
〇「嗚呼勉(つと)めよや竭(つく)せよや冠する土佐の名に叶(かな)へ」
  拙訳:(土州健児児たちよ)励もう、おのれの最善を尽くそう。多くの立派な人物を生んだ土佐の、栄(は)えある名に恥じぬように。 
  建学の精神が伺える名文である。原作三番のこの一節は、原作二番を受けて四番につなぐ役割を果たしている、ということを踏まえて解するほうがよい。創立100周年記念誌『筆山の麓 土佐中・高100年人物伝』登場者の一人が「外科医一筋を貫いた人生の根底にあったのは、(患者のためという使命感と)校歌の最後の一節、冠する土佐の名に叶へ、の矜恃(きょうじ=誇り)であった」と述懐しているように、この呼びかけを励みとした卒業生が少なくないであろう。
 「勉める」は「努める」、「務める」とも書き、励んで行うこと(広辞苑)。「竭す」は「尽くす」と同義。ある限りを出すこと(広辞苑)であり、全力を尽くすこと。
 「冠する土佐」という言葉の趣意は原作二番が物語るとおりであって、「開校記念碑」に刻まれた「維新の際薩長土と並称せられて土佐より人材多く輩出した」栄光を表したものと解したい。「叶(かな)へ」は叶ふ(ちょうどよくあう=広辞苑)の命令形。 
 
 最後に、母校の生徒たちが自分たちの校歌をよりよく理解し、澄みわたった大空のもと、校旗・国旗を仰ぎ見ながら胸を張って歌ってくれたら、この上ない幸いである。
 
注1:歌人明治天皇
 御心を常に「清く、直く、明く」とご自省なされた明治天皇は、お勤めの合間合間に和歌を詠まれ、ご生涯中のご詠草は9万3千32首におよんだ(国民文化研究会刊『歴代天皇の御歌』)。中世以来宮廷内の行事であった新年「歌会始」を、広く一般に開いて特に優れた詠進歌を選歌として披露する今日の姿に大改革されたのは明治天皇である(宮内庁ホームページ)。また、衰微していた歌道奨励のための定例歌会(初期は華族中心)「向陽會」を京都に設け、御手許金で補助された(恒川平一著『御歌所の研究』)。1888(明治21)年に設立されたこの会の名「向陽」は、昭憲皇后(当時)によるご命名とされている(霞会館京都支所)。ただ、校歌「向陽の空」とのつながりまでは分からなかった。
注2:日露戦争時代(1904=明治37年〜1905年)の御製
 校歌一番の元となった「あさみどり…」が詠まれたのは日露開戦の年である。開戦(2月)直前に世に伝わった有名な御製「よも(四方)の海みなはらから(同胞)と思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」については、東京帝国大学英語教師アーサー・ロイド(ラフカディオ・ハーンの後任、英国人)による英訳を米国大統領?セオドール・ルーズベルトが読んで共鳴し、のちの日露講和あっせんの契機になったという逸話がある(美和信夫『明治天皇の道徳思想に関する一考察』)。
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−高齢者パワーで『筆山の麓』編纂−
コロナ禍乗り越えベストセラーに
中城正堯(30回) 2021.01.15

筆者近影
 この2年間ほどは、創立百周年記念の人物伝『筆山の麓』の企画・編集に追われ、新聞部HPにもあまり寄稿できなかった。昨年(2020年)の10月に無事刊行にこぎ着けたが、同窓生の反響もよく、高知での書店販売は年末まで12週にわたって週間売り上げベスト10に入り(うち5回1位、3回2位。金高堂書店調べ)、安堵しつつ新年を迎えた。

「筆山の麓」表紙。
 では、2021年の初荷として、『筆山の麓』刊行にまつわる新聞部出身者の関わりと、刊行委員の活躍ぶり、刊行委員の一人としての反省点をお知らせしよう。なお、読者の反響は、2月末刊行の関東支部『筆山』に掲載される。(文中敬称省略)
新聞部出身者と7人のサムライ
 この企画は、向陽プレスクラブ(KPC)で刊行した『土佐中學を創った人々−土佐中學校創立基本資料集』(2014年刊)、『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』(2017年刊)の後続企画として、個人的にあたためていた。創立百周年が近づき、KPCでも同窓会本部でも検討いただいたが、「企画自体は評価するが、人選など内容に責任を負えない」とのことで、両者での制作・刊行は見送られた。しかし、創立記念の人物伝だけに個人で刊行できる本ではなく、残るは有志による刊行委員会形式しかなかった。これにいち早く賛意を表わしてくれたのが、KPCの公文敏雄(35回)、筆山会の佐々木泰子(33回)・前田憲一(37回)、前校長の山本芳夫(40回)、ジャーナリストの鍋島高明(30回)であった。年齢的には74〜84歳の後期高齢者だが、いつまでも若々しい心の持ち主ばかりだった。

刊行直後の2020年10月末に
集まった7人のサムライ(刊行委員)。
 こうして筆者を含めて6人で刊行委員会を結成、刊行委員長も編集長も置かずに、人選や内容も全員で協議・合意しながら制作することになった。むろん卒業年次による先輩後輩の序列も、過去の経歴も関係なく、全員平等で作業に参画、責任を分かちあった。この刊行委員会発足を聞き、「執筆には参加出来ないが、あとは何でも協力する」と名乗り出てくれたのが同窓会関東支部元幹事長の溝渕真清(32回)で、強力な援軍であった。こうして、いわば“7人のサムライ”で企画制作が始まった。経歴も持ち味もまったく異なり、初対面も含めての7人だったが、母校への熱い思いで全員の息が合った。在校生全員への献本申し出もあり、これら善意のカタマリから本書は誕生した。
 人物伝として取り上げたい候補は30人を超し、刊行委員だけではとても担当出来ず、さらに同窓生有志の協力を仰ぐことになった。ここでも新聞部出身者が競って執筆陣に加わってくれた。堀内稔久(32回)、冨田八千代(36回)、加賀野井秀一(44回)であり、公文敏雄と筆者を加えると、登場人物のほぼ半数ほどをこの5人が担当して、執筆や原稿依頼に当った。また、久永洋子(34回)、山本嘉博(51回)からも情報をいただいた。

1958年の新聞部新年会
前列左から旧姓で森下(31回)早川(35回)
浜口(35回)大野(36回)合田山崎(34回)。
 本書の人物伝に登場する新聞部出身者は合田佐和子(34回)のみだが、人物群像や本文には岩谷清水(27回)、中山剛吉(29回)、浅井伴泰・横山禎夫(30回)、國見昭カ・秦洋一・吉川順三(34回)、森本浩志(36回)、川口清史(39回)などが名前を連ね、多士済々である。何人かには近況確認の電話を入れたが、川口は在学中に全国高校新聞大会で上京して筆者たちに会った記憶を、鮮明に思い出して語ってくれた。闘病中だった吉川順三からは、小学生時代以来の同級生・田島兄弟の情報を提供いただいた。
 写真は1958(昭和33)年、これらの人物が在学中の新聞部新年会である。前列には左から、旧姓で森下睦美(31回・卒業生)、早川智子・浜口正子(35回)、大野令子(36回)、合田佐和子・山崎洋子(34回)が並び、後ろに刊行委員・公文敏雄のほか、卒業生の岩谷清水・横山禎夫・筆者・田内敏夫(31回)、岡林敏眞(32回)などもいる。
すごい先輩の息吹に触れて

ブラジルで農業に取り組んだ
中沢源一郎(1回)。
 人物の選択に当っては、刊行委員全員で知られざる人材発掘にも務めた。1回生の中沢源一郎は、旧約聖書研究で知られる中澤洽樹(9回)を『高知県人名事典』で調べた際に、同じページに記載があってその存在を知った。『香我美町人物史』などにも出てくるが、ブラジルでの活躍ぶりが今ひとつ分からない。そこで、かつての編集者仲間で、のちにラテンアメリカ研究者になって早大や東京農大で教えていた山本厚子に協力を依頼した。たちどころに、「JICA横浜海外移住資料館に史料があり、所属する松田潤治郎氏が詳しい」とのこと。松田に会うと、「中沢さんとはサンパウロ駐在時代にお目に掛った。素晴らしい人格者」など、ようやく人物像も業績も具体的につかめ、土佐中同期だった曽我部清澄校長との交流ぶりを示す手紙も見つかり、執筆が進んだ。
 このように隠れた存在の人物では、堀内稔久弁護士が発掘執筆してくれた下村幸雄(23回)もおり、下村の義弟に当る横山禎夫が取材に協力してくれた。また、公文公(7回生)の公文式が土佐中の個人別自学自習を元に生まれた学習法であり、初期には岩谷清水など多くの教え子たちがその事業を支えたことも明らかにできた。哲学者・加賀野井秀一は、異端の評論家・高山宏(42回)の百学連環ぶりを論じ、冨田八千代は世界最先端の宇宙物理学者・川村静児と須藤靖(52回)に体当たりで迫ってくれた。
 むろん新聞部以外でも、元新聞記者の鍋島高明、鍋島康夫(40回)の両氏は、経済人やノンフィクション作家の活躍ぶりを見事な筆力で描写、元土佐中野球部監督の坂本隆(47回)は、大嶋光次校長、籠尾良雄監督(27回)、岡村甫投手(32回)、三者三様の野球への情熱ぶりを克明に再現、感激の場面を蘇らせてくれた。
 刊行委員の佐々木泰子は、宮地貫一(21回)の文科省での業績につき、日本テレビ幹部だったご主人ともども同省の図書館へ行って調査くださった。ほかの委員にも、慣れぬ編集制作作業に、終盤はコロナ禍のなか家族ぐるみで協力いただいた。
 本書誕生の背景には、母校ならではの師弟関係や同窓生の絆がある。筆者は上京以来、先輩たちが初代三根校長を敬愛してやまず、府中市多磨霊園に毎年墓参を続ける様子を見て過ごし、就職でも先輩に大変お世話になった。刊行委員には、それぞれ母校・先輩へのこうした思いがあり、手弁当での協力体制が出来あがった。
まだまだ多い隠れた人材
 編集に当り最も苦労したのは、取り上げる人物の絞り込みであった。著名な科学者であるが、きちんと紹介出来なかった人物もいる。例えば木原博(4回)は東大で造船工学を確立、非破壊検査の先駆的研究で知られる。森下正明(6回)は京大での動物生態学の草分けで、梅棹忠夫などを育て、旧宅が森下正明研究記念館になっている。筆者のような文系には科学的業績がとてもとらえきれず、人物群像での紹介にとどまった。
 新聞部員で残念だったのは、島崎(森下)睦美(31回)や、永森(松本)裕子(43回)だ。島崎は母校の国語教諭となり、新聞部顧問でもあった。結婚後はおもに横浜市に住み、子育てを終えると、保育士の資格を取った。保育園勤務後、横浜市の乳幼児子育て相談員になり、10年近く地域社会のためにボランティア活動を続けていた。永森はロンドン滞在の経験を生かし、海外からの帰国児童が日本でも各国の原書絵本を読み続け、言語も文化も忘れぬように国際児童図書文庫の運営に当った。またフィレンツエ滞在で出会ったフレスコ画研究に打ち込んで哲学美学修士を取得、研究や講演に活躍、『筆山』編集やKPCの活動再開にも先頭に立って貢献してくれていた。だが、お二人とも突然病に倒れ、多くの活動仲間に惜しまれつつ亡くなった。ほかに、埼玉県で社会活動家として奮闘していた山川(大野)令子もいた。

1985年夏の三根校長墓参会
前列右から三人目が世話人の近藤久寿治(6回)。
 このように、刊行委員全員が、まだまだ多くの素晴らしい同窓生を抱えていた。公文も、「世界で活躍する人物としては、水産大学を卒業後、38年にわたり40ヵ国で養殖支援を続けるお魚コンサルタント土居正典(50回)なども掲載したかった」と残念がる。そこで本書の<凡例>で、「人物群像」には「各分野の多彩な人材からその一端を例示紹介した」と、お断りをした。いずれ、後年本書が増補再版される際には、その後に活躍した人物を含め、大いに補充していただきたい。これは、「土佐が育んだ人材集」の序章に過ぎない。
 編集が大詰めとなった昨年2月にコロナ禍が拡大、毎月の編集会議が出来なくなり、校正など仕上げの作業が全てメールでやらざるを得なくなった。しかし、比較的若い前田・山本のお二人が印刷所や同窓会などとの連絡を含めて、制作管理の面倒なとりまとめ役を買って出てくれた。昨年のメールを開くと、毎日のように校正紙をめぐるやりとりが続いている。一字一句疎かにせず、疑問点は指摘し合った。しかし、筆者のような老齢者はうっかりミスが多く、この校正でどれだけ救われたか分からない。こうして、何とか予定どおり2020年10月10日の発行にこぎ着けた。
 むろん刊行後も、チラシ制作から同窓会誌での新刊紹介、さらに知人への購入呼びかけまで、コロナ禍のなかでも販促広報活動が続いた。高知での「土佐校百年展」(2020年11月10〜15日)には、前田、公文、冨田などのみなさんが帰高して駆けつけ、本書とチラシを手に購読を呼びかけてくれた。高知新聞は11月12日に<「筆山の麓」出版 多くの出身者たちの紹介を通し、同校の教育をうかびあがらせている>と述べ、朝日新聞高知版は12月7日に<「卒業生の32人土佐中高語る」 有志が母校の人材育成の歴史を振り返ろうと企画・・・自主性を重んじる自由な校風を築いた初代校長らを紹介>と報じた。
 どうかみなさんも、7人のサムライとその仲間が、せいいっぱい頑張って描いた母校の誇るべき人物たちの歩みに、ぜひ思いを寄せていただきたい。
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念願の『創立百年史』を読んで
−親しめる『土佐中高100年の歩み』を創ろう−
中城正堯(30回) 2021.01.15
豪華な『創立百年史』に驚く

筆者所蔵の高知県教育史関連図書。左端が、
ようやく加わった土佐中高の『創立百年史』。
 学校から刊行された『創立百年史』は、待望の土佐中高校「学校史」であり、11月に届くと臙脂色のケースに収まった豪華な造本・体裁に驚きつつ、<通史>から読み始めた。教育学者の執筆と聞き、開校時の大正リベラリズムを反映した三根圓次郎校長の自由・自主の教育方針による、少数精鋭の個人別自学自習、英国人による英語、美術や音楽、自治会(向陽会)などが、専門家によってどう分析・評価されるか、楽しみであった。さらに戦後の新制中学・高校への切り替えに際しての、大嶋光次校長による男女共学や生徒増員、自治会・部活の活発化、そして校舎の再建など大改革の評価についても同様だ。
 通史は、学校百年史の基本的な部分だが、導入の章では明治の自由民権運動がらみで「私学の黄金期」を、戦時中の章では「四国の学徒動員」を詳細に論じており、教育学・学校史の専門家ならではの斬新さを感じた。特に、「建学の精神」に関しては、土佐中の「設立趣意書」や「開校記念碑」から、それは「国家が望む人材の育成」であり、「報恩感謝」ではないことを明確に述べてあり、大いに評価できた。また、新制土佐中高になってからは『向陽新聞』の記事をよく活用、学校生活を分析してあるのもありがたかった。
なぜか無視された基本資料
 いっぽう、明治黄金期の私学として海南中学や土佐女学校に紙数を割く一方、それらと土佐中誕生がつながらず、違和感も覚えた。向陽プレスクラブで平成26(2014)年に刊行した旧制土佐中学時代の基本資料『土佐中學を創った人々』も、ほとんど活用されてない。専門家ならではの特論とも言うべき個別テーマでの掘り下げは見られても、私立中高の100年史としての時代区分も、学校史としての柱である教育方針や教育内容、そして学校文化の変遷も、記述に基準や統一性がとれてなく、100年の曲折に富んだ歩みがよく読み取れない。学校文化とは、校舎・制服・校歌・運動会・自治会(向陽会)・部活などだ。制服・校歌を扱ったのはよいが、創立時の“制服は背広”という構想に触れてないなど、掘り下げが不足だ。

学内の寄宿舎にあった寮の学習室。
 特に創立者や初代校長が意欲的に取り組んだ土佐中の先駆的な教育実践が、ほとんど取り上げられていない。現存する昭和5年の『土佐中學校要覧』には、留意点「個人指導」「自発的修養」から、学年編成・授業・体育・向陽会など詳細に述べてある。成績考課(試験)は「随時行なう」であり、学資なき者への「学費給与制度」も整っていた。職員名簿もついているが、『創立百年史』には青木校長の時代しか記載してない。開校当初から、3名の英国夫人を英語教授に迎えたことにも触れてない。この學校要覧とともに、初期卒業生による三根校長と学校への想いが満載された『三根先生追悼誌』(昭和18年 土佐中學校同窓会)が、なぜかこの学校史ではまったく活用されてない。おもに創立40周年や50周年の記念誌に頼っている。したがって、教室に辞書を豊富に揃えての個人別自学自習や、学内寮の学習室での自習ぶりも紹介されてない。むろん、厳しい落第制度などの問題点もあったが、その指摘もない。また、戦時下を「基礎確立の時代」としているが、学徒動員と戦災中心で、教練や上級生によるしごきなど当時の学校生活にも、授業内容にも触れてなく、生徒の進路動向などはあるが、何を確立したのか不明だ。
 さらに、残念なのは誤植や引用ミスが研究書にしてはとても多いことで、執筆者や校閲者の『土佐中高学校史』というテーマへの強い意欲や愛着が感じられない。本書の筆者がよく引用している『近代高知県教育史』(高知県教育研究所 昭和39年刊)に、土佐中はわずか9行しか割かれていない。これは土佐中高の通史としての学校史が未刊のためでもあり、研究者から無視をされても文句が言えなかった。今後は是正を迫ることが出来ると考えたが、このような内容と表記ミスでは心許ない。
教員・同窓生一体で伝統に迫ろう!

『創立百年史』と『三根先生追悼誌』。
後者は、1997年に宮地貫一同窓会関東支部長
が復刻した際に使用した原本の一部。
 旧年(令和2年)末に発行された同窓会誌『向陽』では、教頭が「本書は学校教育の研究者にとっても貴重なものとなるであろう。・・・麻布、神戸高校2誌に匹敵する評価を得ることを期待している」と述べている。本書は一般書でなく、研究者にウエイトを置いた研究書かとも思われる。しかし、待望の『創立百年史』であり、今後はこの本が教育研究者や識者・マスコミによる土佐中高校考察の基本資料となるだけに、なんとか対応が必要だ。学校にはすでに指摘した。すぐに返事があり、まずは正誤表を作成し、追って補完策を立てたいとのことであった。
 学校任せや研究者任せでなく、同窓会も乗り出すべきで、これを機会に一般卒業生や県民にも親しめるみんなの学校史『土佐中高100年の歩み』(仮題)を、別途学校と同窓会が共同で企画編集するのも一案だ。学校長だけでなく、各時代の名物教諭や学芸・スポーツで活躍した生徒など、人物を登場させるといった工夫もしたい。さらに、若い人々が自ら調査執筆することによって、教職員も卒業生も、母校の伝統をより会得することができ、伝承が可能となる。じつは『三根先生追悼誌』も、平成9(1997)年に「建学の精神」が忘れられつつあるのを憂い、宮地貫一同窓会関東支部長が自費での復刻を企画、筆者は印刷所の手配などそのお手伝いをした。この時、はじめて全文を読み、三根校長の人物とその教育姿勢に感服した。
 『創立百年史』の配布は限られているようだが、手元に届いた新聞部出身者は、豪華な本書を書棚の飾りとせずに、ぜひ熟読して欲しい。そして対応策を協議・具体化し、学校の歴史を我々の手に取りもどしたい。母校・同窓会に、みんなで具体案を提案し、3年後をメドに「私たちの学校史」をまとめていただきたい。

三根圓次郎初代校長の写真と同窓会が建設した胸像(本山白雲作)。
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『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を読んで
冨田八千代(36回) 2021.01.21
「土佐高等学校 土佐中学校」にも土佐にも関係のない人達の感想を記す。        
*「もう年だと退かないで前向きな気持ちで生きようとしてもらった。それは思いがけない経験をさせてもらったから。」と私。その理由は『筆案の麓』の筆者になったこと。 完成した本を手にした時は関わられた方々とは大違いと恥ずかしかった。が、だんだんと自分自身への励ましに変わっていった。この理由に行きつくまでがややこしいが、とにかく話した。
 ・Aさん 80代  あなたの出身高校の人だなんて全然意識しないで読んでいった。いろいろな人が登場して面白い。その人その人がどんな生き方をしたかとか、どんな仕事をしていたかとかがよく分かる。自分のことをふと思い出すこともある。読み返したいから、もうちょっと貸して。 (ちょうど、1ヶ月後に会った時。はじめは「あんたのお奨めのところだけ読ませてもらうわ。どれ?」だった。私は校長先生の「土佐中高100年人物伝によせて」だけをあげた。サークル活動で月1回しか会わないのに、この1編だけに長く貸すのはもったいないと思った。が、購入した10冊のうちの1冊は遊ばせようと貸すことにした。)
 ・Bさん 80代  読みだしたら面白くて、少しずつ読んでいる。読みやすい。一つのまとまりが短いからいい。ずっと置いておきたいから、買いたい。 (電話で。「重い物を持ったら、腰痛再発。お金を払いに行けない。」と言う。「お金を貸したかしら」と私。彼女にはお礼のつもりでプレゼントしたかったが、この本を蔵書にしても仕方がないだろうと思った。それで、「いつまででもいいから」と、新品を手渡した。この二人はあまり読書をしない。失礼ながら、熱心に読んでいることに驚くとともに嬉しかった。
 ・Cさん 70代 土佐高の校長先生の一文から、あなたが南国の暖かい風土・校風の中であなたの良い性格が熟成され育てられたと改めて感じました。「なぜ自分がそれをしてはいけないのか」「だったら自分が」の言葉は、問題を避けて通ろうとしてきた私には痛い言葉です。…以下自己分析が続いている。(手紙の一部。私へのことは彼女の主観なので別として、校長先生の文章に注目したことに感激した。私と同じ。)
 ・Dさん 60代 校長先生の刊行への文章のように、みんなそれぞれに自信を持ちたいね。お互いに認めあいたいね。田島征三も同窓生なの。(少ししか読んでいないと思う。そのほか、「これにあなたの名前が出ているってすごいじゃん。」「最後の所に名前が出て、よう頑張ったねえ。」のような感想も。そんなことより内容のことを聞きたいのに。見たことは確かだが。)
 *冗談っぽく、「私はこの歳にして、同窓生から初めて先輩と呼ばれたんだよ。しかも大学教授からだよ。」に「すごいね。仕事かなんかの関係なの?」に事の顛末を話す。取材後、川村教授に確かめのメールを何度も送った。川村教授は誠実に応じてくださった。メールの書き出しはいつも「冨田先輩」だった。読みたいとは言わなかったけど、実物を出したら持ち帰った
 ・Eさん 50代 この本面白いね。人に歴史ありだね。同じ時代を生きてるって感じることもすばらしい。(しばらくしてからのショートメールで。彼女の感想はもう少し詳しくききたい。)

「土佐校百年展」の会場にて 小村彰校長先生と私
 校長先生がこの前でと場所を決められました。
*10冊の行き先の1人として、近況報告にと郵送した。
 ・Fさん 70代  読みやすくて面白い。もうほとんど読んだよ。特に印象に残ったのは、田島征三・村木厚子・公文公。あなたの書いたところはイラストがいい。(読まないだろうと予想していたが読んだとは本当に驚き。もう、2ヵ月も過ぎたのに何の返事もなかった。つい数日前に電話がかかってきた。ためらいながらもこちらから本のことを出した。) 
 感想に挙げた人達、みんな、最初は自分から読もうとは思っていません。冨田が言うから、どれ読んでみるかといった感じ。最初は興味がなかったけれど開いてみると面白いということだろう。伝記だけれど短篇で完結、肩がこらない、次々にいろいろな人が出てくる、知っている人もいる、面白い。という具合だろう。私の周りの人は関心を示さないだろうと決め込んでいたが、『筆山の麓』の新たな「良さ」を知った。
 なお、筆山を「ヒツザン」と読むのは難しいようで、「何と読むの」とよく問われた。「ふでやま」というモニュメントのようなものかと想像した人もいた。読み方だけでなく、ついつい思い出も話した。
<つけたし> 36回生の感想
 ・Gさん 私たちはもう古い部に入ると実感した。私たちは建学の頃のことをよく聞いたけど、今の在校生はどうかしら。在校生にはこの本の第1章は是非読んでほしい。
 ・H(私) 感想の一端(表紙について)
 表紙を見たとたん、どうして男性ばかりなのと不満。勇壮、海、出発とすばらしい絵だけど、私学で戦後逸早く男女共学にした学校なのに女性が登場しないとは。だが、 完成品だから口外しないと決めた。ところが、描いた田島征三さん(34回生)はお見通しだった。「表紙のことば」〈9ページ〉で述べている。「男しか描いてなくて ごめんなさい。女性のみなさんもこの中で漕ぎゆうと思うてください。」脱帽。ほっとした。                             
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 −『筆山の麓』の刊行を通してー
小村彰校長先生に感謝と感銘
冨田八千代(36回) 2021.01.22

筆者近影
 『筆山の麓』の刊行では筆者の1人となるありがたい機会を頂きました。この時に、現在の土佐中・高等学校の小村彰校長に3回助けていただきました。それは間接的なことからです。
 紹介することになった川村静児名古屋大学教授の原稿の書き出しに困っていました。 その時に、名古屋市でちょうど「土佐中・高等学校同窓会東海支部令和元年総会」が開かれました。(2019年5月11日)原稿の種がきっと見つかるだろうと期待して出かけました。この会に校長先生は「百周年記念歌」をお土産にお越しくださいました。会場に在校生の歌声が響きました。そのうちに、川村教授がその歌声の生徒の一員となってしまったのです。この歌は作詞・作曲ともに在校生です。歌詞1番♪先行く人の声がきこえる 自由であれ  諦めるな  自分を信じろ…♪  2番 ♪どんな時も 自立した心と 自由の精神を もち続けていたい 自分を磨いていこう…♪ 土佐校の建学の精神は「人材の育成」であり、そこには「自由・自立」が貫かれています。「百周年記念歌」も自立した心と自由の精神を謳歌しています。川村教授への取材でわかったことは、教授の人生は責任を持った「自由」がずっと貫抜かれていることです。歌詞通りの土佐校の生徒であったし、また、現在のお姿そのものです。書き出しは「百周年記念歌」と決まりました。種探しどころか花が咲きました。名古屋までお越しくださったことを感謝しました。
 あとの二回は、『筆山の麓』の本を受け取ってからです。これは、校長先生の『筆山の麓』での「土佐中高100年人物伝によせて」の文章からですので、まず、その全文を紹介します。
      *******        ******       ******
「土佐中高100年人物伝によせて」  土佐中高校長 小村 彰(49回生) 
 22,151名。創立百周年を迎える2020年3月に卒業した95回生を加えた、旧制土佐中学校を含む本校卒業生の総数です。その、お一人お一人に人生の物語があります。ある分野で大きな功績をあげ、後世に名を残された方もいます。名は知られなくとも、身近な人たちにたくさんの笑顔をもたらして、愛に包まれて逝った方もいます。せっかくの才能を花開かせる前に、戦場で倒れ、あるいは不慮の事故や病に冒されて、志半ばで世を去った方もけっして少なくありません。そして今現在、毎日の生活の中でさまざまな重荷を背負いながらも、精一杯それぞれの人生を生きていられる卒業生たち。亡くなった方も含め、22,151通りの人生が営まれ、そのひとつひとつが意味ある大切なものであることは、私が言うまでもありません。
 その多様な人生の中で、後輩たちがその生き方を知ることで、元気がもらえる、夢を広げられる、そんな人生を有志の方が選んで編まれたのがこの人物伝です。この「選ぶ」作業もたいへんでしたでしょうし、文章にまとめられることもたいへんな取材力・筆力を要する困難な作業だったはずです。それでも、あえてこの本の刊行に関わったみなさんこそ、後輩たちに土佐の卒業生のお手本を示してくれていると私は思っています。
 まだクラス担任をしていた頃、グラウンドに落ちている紙くずを拾うように、そばにいた生徒に言ったとき、「ぼくが落としたがやないも」との反応に激怒したことがあります。それをいわば反面教師として、次のように考えるようになりました。自分にとって負担になるような仕事や義務を課せられそうになったとき、人はしばしば「なぜそれを自分がしないといけないのか」と避けるけれど、「なぜ自分がそれをしてはいけないのか」と問い、否定の答えが出ないなら、自分からやってみるようにする、ということです。
 誰がやってもかまわないことを、「なんで自分が」と考えるか、「だったら自分が」と考えるか。そのちがいに思い当たり、土佐の校風として脈々と受け継がれている「自主性・主体性」というものの根っことはそんなものではないかと考えるようになりました。部活動、運動会や文化祭などの学校行事、必ず前をきる人間が出てきます。「同調圧力」が強いと言われる日本の文化、とりわけ昨今のネットを通じたバッシングの嵐の中で、こうした生き方をするのはたいへんですが、たしかに今もそんな生徒が本校を支えてくれています。
 この本に取り上げられた方、そしてその編集・執筆に携わった方々は、こうした「なんで自分がやったらいかんが?」を根本にもっている方々であると思います。それを支えるエネルギーは並大抵のものではありません。そのエネルギーを後輩たちはしっかりと吸収し、自分のエネルギーにしていってほしいと思います。
 今年の卒業生のテーマは「万華鏡」で、卒業記念品として自ら万華鏡を作りました。小さなかけらを集め、それを容器の中に入れ、鏡を組み合わせてできあがります。ひとつひとつのかけらは、それぞれの形と色を保ちつつ、他と混ざることで、いろいろな見え方を生み出していきます。ひとつひとつからは思いも寄らない、そしてひとときも同じ姿にとどまらない、まさに千変万化の模様が織りなされていきます。この本に描かれた先輩たちは、とりわけ大きく輝くかけらです。一方で、小さく目立たないかけらでも、万華鏡の彩りを豊かに鮮やかにする役割を果たしていることもまた事実です。そんなことにも思いを馳せながら、この本を読んで生徒の皆さんがエネルギーを得るとともに、自分を大切に磨いていってくれたらと願ってやみません。
 最後に執筆・編集に当たられた皆さまに心からの感謝の意を捧げます。
      *******        ******       ******
 昨年10月6日に『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』が届きました。ずっしりと重く立派な本です。本を手に、ある時の中部高知県人会でお会いしたAさん(何回生か不明)はこの本を読んでくださるだろうかとの思いがよぎりました。同窓会への参加の有無をお聞きすると、次のようなお話をされました。
 若い時に1回だけ行った。その後は行きたくないから行かない。土佐校にはいい思い出がない。中学校入学の時は、はっきりとした目標があったし、周りからも大きな期待があったけど…。
 そのお話を聞きながら、自分自身の中学1年生の5月頃のことを思い出しました。数学の時間です。カマス(吉本要)先生が、突然 「トウダイに行きたいもん、手えをあげてみい。」と、おっしゃいました。私は6年生の遠足で行った桂浜の灯台以外は知らないけれど灯台にはさほど行きたくもないと戸惑っていました。ところがクラスの三分の二ぐらいだったと思いますが、元気よく手を挙げています。そんなにどうして灯台に行きたいのだろうかと不思議でした。後日、母に話して分かりました。トウダイは灯台ならぬ東大、東京大学のことでした。クラスの大部分の生徒は将来の大学進学やその先までも大きな志を持って入学していたのです。私は小学校を卒業したら次は中学校進学、その学校は土佐中学校と両親が敷いたレールに乗って入学しました。両親は自立した大人にするために大学進学を、それにはまず土佐中学校へと考えていたそうです。
 私のAさんによぎった心配は、校長先生の『筆山の麓』への「土佐中高100年人物伝によせて」を拝読して、拭い去ることができました。全員の卒業生をすっぽりと包んで、「22151通りの人生が営まれ、そのひとつ一つが意味のある大切なものである…」と述べられています。このお話を受けて、Aさんが気軽にこの本を開いたら、自分の中に眠っている土佐校当時のいい思い出が表れるに違いないと思いました。60歳代とお見受けしたAさんは意気軒高で堂々とした態度です。きっと、現在のお姿の中には土佐校時代の幸せも入っていることでしょう。「幸福な人生というのは、幸せな思い出の積み重ねだと思う」と大原健士郎氏は述べられています。(『筆山の麓』116頁) Aさんに「読みましょう。」と声をかけたくなりました。
 さて、3つ目は私のことです。こんな立派な本の中に私の原稿が載っていると思っただけで、とても恥ずかしくなりました。刊行の過程のほんの一部分、一つの原稿だけしか参加していません。その原稿も、刊行委員会の私の担当者の懇切丁寧な支えでやっと出来上がりました。
 本を手にしてから、毎日のように本を開きました。手にすればするほど恥ずかしくなりました。極めつけは、最後のページの「筆者・編集者紹介」です。あいうえお順に皆さんと同じ大きさで私の名前も並んでいます。まさかと驚きました。いいのだろうかと心配になりました。声をかけてくださった時に、先のことや自分の力など何も考えずにお受けしました。それは土佐校が好き、新聞部がよかったとの思いからでした。「紹介」では刊行委員会のみなさんは名前の後ろに小さくマークが付いているだけと謙虚なのにも、恐れ入りました。『筆山の麓』を開くたびに、必ず、校長先生の「土佐中高100年人物伝によせて」は拝読していました。とても惹かれたのです。1週間以上たってから、先生の言われる「何で自分がやったらいかんが?」を無意識のうちに自分に当てはめていました。すると、「私が書いてはいけなかったのか、いけなかったら、先輩は声をかけて下さらなかったのでは」という気持ちになりました。そして、校長先生は今年の卒業生のテーマの「万華鏡」からすべての生徒さんを温かく包み込まれています。そこで私は落ち着きました。私は万華鏡の小さな一粒に決まっている、その自分の身の丈でできる事をすれば許されるのでは、それならば私も筆者の一人にしていただいてもいいのかと安心しました。そして、やっと、心から刊行委員会の皆様にお礼が言えました。

 日々、このようなお気持ちで、学校運営にあたられ生徒たちに接していらっしゃるだろうと思い巡らせていたら、感謝は感銘へと変わりました。この頃、再び、同窓会から送られた、創立百周年行事の案内の冊子『土佐中・高等学校』を開きました。この中で校長先生は「今が輝き未来を拓く」からも、在校生に伝統を受け継ぎ新たな海に漕ぎ出そうと温かく語りかけています。ますます感銘は深まりました。ちょっと脇道にそれますが、このお話にぴったりだと『筆山の麓』の表紙が浮かびました。 
 一連のことから、私も22,151名の1人であり、同窓生としてつながっていると感じるようになりました。母校が身近なことになりました。創立百周年記念行事は素通りするところでしたが、その意義も以前よりは受けとめました。同窓生が土佐中高等学校の発展を願うこと、それはこの学校で学んだという矜持の一つではないかと考えるようになりました。今後、ささやかながら母校を応援していこうと思っています。
 私がこのような心境になれた源は、『筆山の麓』の筆者の一人にしていただいたことです。あらためて刊行委員会・7人のサムライの皆様に心からお礼申し上げます。

付記
 「土佐校百年展」の会場で、「百周年記念歌」の作詞者藤本理子さんのお爺さんに遭遇しました。興奮した私は、『筆山の麓』を開いて「私はここに理子さんのことを書きました。」と、話しました。お爺さんには通じなかったと思います。それでも、とても幸せそうな笑顔で「理子は私の自慢の孫です。」とおっしゃいました。せっかくだからと、校長先生のいらっしゃる所まで案内しました。
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フランスの城郭シリーズ 1
ガロ・ローマン時代のパリ  
竹本修文(37回) 2021.01.25

筆者近影
  2019年9月は7年ぶりにイギリスを約1か月旅行し、「最後のイギリス旅行その1〜5」の5本を投稿した。それらを書きながら、イギリスよりはフランスに多く行ったので、20年はフランスに最後の長期フランス旅行をして、KPCにシリーズで投稿しよう」と、秘かに考えていたが、旅行そのものが不可能になり、77才の今では数年先にコロナが終息する、と言われても個人旅行はむりかな〜? 08年のフランス旅行が35回目で最後になる可能性が確実になりそうである。


ガロ・ローマン時代のパリ  

パリ2000年の歴史地図

1.?はじめに

2. ガロ・ローマ時代のパリ Gallo-Roman Lutetia

パリシー人の町

シテ島

3. クリュニー浴場 Cluny Bath
4. ローマの円形競技場

ガロ・ローマン時代のパリ  
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フランスの城郭シリーズ 2
〜 フランク王国メロヴィング朝まで
竹本修文(37回) 2021.02.07

筆者近影
 1月に投稿した、フランスの城郭シリーズ 1 「ガロ・ローマン時代のパリ」の最後の予告に従えば、フランスの城郭シリーズ2は 「ゲルマン人一派のフランク人中心の城郭都市パリ」 となるが、城郭の話は、建物だけでなく、時代背景や物語が重要なので、今回は、その辺の歴史を少し詳しく説明する。東方からのフン族の侵攻、ゲルマン人の大移動、西ローマ帝国の崩壊、アラブ人の侵入、などを経て、ゲルマン人の一派のフランク人がガリアでフランク王国のメロヴィング朝を建国する約400年の話です。
 コロナと戦っている皆さんが、1000年以上前のヨーロッパの歴史の記事に興味を持ってくれるのか?大いに疑問ですが、これまでの自分の勉強の復習を兼ねて、あと何回か投稿しようかと思っています。

フランク王国メロヴィング朝まで

はじめに 1. 「ガロ・ローマン時代のパリ」以降のガリア(フランス)  @ゲルマン人の大移動

A キリスト教

B フン族の侵入
Cアラブ人の侵攻

2.メロヴィング朝(481~751) 
@クローヴィスの生誕地 トウルネ

Aメロヴィング朝時代のフランク王国

DランスReims

Eパリ

徴税請負人の壁(Farmers-General Wall)

フランク王国メロヴィング朝まで
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トウルネの橋や大聖堂
西内一(30回) 2021.02.07

筆者近影
竹本大兄
ご苦労様です。
 城郭探訪も概ね同じような処を見学するものですよね。
トウルネの橋や大聖堂も写真を眺めながら往時を思い出しています。
橋の写真と大聖堂前の中世のお祭りの少女達を添付しました。
そして、これは余計ですが、女性陣に囲まれてご満悦の1葉も。
フィリップ・オーギュストも期待しております。

トウルネの橋

トウルネの橋

大聖堂前の少女達

女性陣に囲まれてご満悦の筆者
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リール 〜 トウルネー
竹本修文(37回) 2021.02.07
西内さま
 素晴らしい美女に囲まれた写真が一番良いですね〜!私はほとんど一人旅です。
 Tournaiの時は、電車が踏切で車と衝突して、バス輸送されて予定が狂いました。家内と南仏を旅行した時も、交通ストでマルセイユの歴史地区を歩き回ったり、大変でした。
 トウルネの時の写真、重いので、アルバムから何枚か外して7MBにしましたが届くかな〜?昼間から一人で宴会をしている写真です。

トウルネー

6日 リール 〜 トウルネー

リール郊外、トウルネー

白アスパラの卵料理、フィレステーキ

ノートルダム大聖堂

トウルネー
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フランスの城郭シリーズ 3
フランク王国からフランス王国の始まり
竹本修文(37回) 2021.02.18

筆者近影
 「フランスの城郭シリーズ1」を投稿する前には、パリにある、ローマの要塞と5つつの市壁で、「城郭都市パリシリーズ」でやろうと思ったのですが、建設のステージごとに数十年〜数百年間隔があり、時代背景の説明が必要なので、「フランスの城郭シリーズ」に表題を変えて、パリ以外の周辺の事情を入れることにしました。
 読者にとっては良い事ですが、始めて見ると、フランス史に興味がない会員もいる筈で、努力はしていますが、苦労しています。
 西内さまから、貴重な写真をいただきましたので、原稿の第7項Aに2枚使わせていただきました。

フランク王国からフランス王国の始まり

1. フランク王国メロヴィング朝とクローヴィス死後の分割

2. フランク王国カロリング朝

3. イギリス・プランタジネット朝
4. イギリス・プランタジネット朝のフランス側の城郭

アンジェAngers、 ル・マンLe Mans

5. フランス王権の回復

6.フィリップU世オーギュスト(尊厳王)

7. フィリップ・オーギュストの市壁の周辺を訪ねた

8. フィリップU世オーギュストの(尊厳王)の事、
9. 雑談

フランク王国からフランス王国の始まり
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竹本大兄
 素敵な奥様で一向に邪魔なことはありませんが、表示プレート入りの写真もあります。
 ご一緒で羨ましい限りです。小生は何時も乍ら連れの連中がムーランルージュに出掛けている合間での探訪です。
 パリは7度に亘って城郭が拡大していますので、城門もあちこちにあって退屈しませんね。
 次回は世界遺産の城郭が並ぶロアールでしょうか。

フィリップ・オーグストの市壁
(Village St-Paul)

表示プレートが写っていて,
Reste de L’Enceinte Philippe Auguste Xll Siecle
(12世紀のフィリップ・オーギュストの城壁の残骸)


サンマルタン門 (Porte Saint-Martin)

サンドニ門 (Porte Saint-Denis)
西内(30回)

竹本さん
 いやー健筆ますます振うですね。歴史年表を座右において読むほどに、
 フランクからフランスへの流れの中で、王朝の目まぐるしい変遷に驚かされます。
 史蹟もたくさん残っているようで、パリはいろいろ勉強してから観光すべきでした。
 ご労作に敬意を表します。
公文(35回)

公文さま
 ありがたい、コメントを嬉しく思います。
 元々パリの城壁/市壁だけを調べようと思いついたのですが、ローマ時代から始まるので、パリに限定したら、何のための市壁なの?敵はだれ?市壁の中の市民迄変わるのだから難しい。
 深みにはまったな〜?と感じています。
 シリーズ4は百年戦争時代になって面白いけど、フィリップ・オーギュストと言えば、イギリスの欠地王とあだ名され、マグナカルタにサインさせられた王ジョンに勝ってフランスが領土を回復した、ブービーヌの戦いの話を忘れている事に気づいたので、まだまだ時間がかかりそうです。
 イギリスにいる時に息子が中学に上がり、歴史の授業が難しくなって、色々聞かれたが、「何も答えられなかった」ことが原因で勉強し始めて、生涯学習のグループに請われて講師をしたりしたのですが、今回の内容は経験があなく、コロナのお陰で時間があるからできるのでした。
 ま〜?どこまでやれるか?お楽しみです。
竹本 修文

西内様、竹本様
 フランスの城郭都市、思いがけない街中の城壁遺構など楽しく拝見しています。ヨーロッパの歴史・城郭に疎い人間として、基本的なことも理解出来てないので、
 例えば、城門と凱旋門との違い(目的・歴史・構造)や、なぜヨーロッパでは城壁都市・凱旋門が発達したか、時代による特色は(以前藤宗先生に聞いた気はするが)など、遺構の見方にも、触れていただけると有難いです。
 このところ、協会の会報に「首里城大龍柱」の原稿を書くよう依頼され、それにかかり切りだったので、竹本さんのフランス城郭シリーズも読む間がありませんでした。協会の会報も、西洋城郭の記事が少ないので、いずれ発表ください。
中城(30回)

城郭関連用語
中城さま
 面白いコメントをありがとうございます。
1.城郭、城郭都市、凱旋門、市壁、城壁、城門、王宮、
@ 広辞苑
   ・城郭   :城とくるわ、城の廓 特定の地域を外敵の侵攻から守るために施した防御施設
   ・城郭都市:周囲を城壁や土塁で囲んだ都市。
   ・凱旋門 :軍隊の凱旋を歓迎し、戦勝を記念するために公園や主要な道路に設けた門
   ・市壁:なし
   ・城壁: 城の周囲の壁・塀・石垣
   ・城門:城の門、城の出入り口
   ・王宮:帝王の住む宮殿
A ブリタニカ国際大百科事典
   ・城郭 : なし
   ・城郭都市:なし
   ・凱旋門: Triumphal arch, 古代ローマ時代に戦勝の皇帝または将軍をたたえるため、
          あるいは政治的事件を記念するため建造されたアーチ門の建造物。
   ・市壁:なし
   ・城壁: なし
   ・城門:なし
   ・王宮:なし
B ジーニアス和英
   ・城郭 : castle (日本城郭協会はJapan Castle Foundation)
   ・城郭都市:なし
   ・凱旋門 : triumphal arch, arch of triumph
   ・市壁:なし? (英語ではcity wall があるので市壁は使われる)
   ・城壁: rampart , castle wall
    Oxford の英英辞典にはRampart= a high wide wall of stone?or earth
    with a path on top, built around a castle, town, etc.to defend it
   ・城門:castle gate
   ・王宮:royal palace

2.凱旋門
@ エトワールの凱旋門
 大きな道路が環状交差点で交わっており、上空から見ると「お星さまetoileエトワール」みたいだから、エトワールの凱旋門と呼ばれているが、ナポレオンの凱旋門ともいう。
 1805年にナポレオンがオステルリッツの戦いに出発する時に、「凱旋門を通って帰還させる」約束して、軍隊を鼓舞した、が帰還までに完成しなかった。1840年にナポレオンの葬列がくぐった。第1次世界大戦終結時に連合軍がくぐった。
A 凱旋門の始まりは、古代ローマ帝国。
 数えきれないほど沢山ある。私が好きなものは、ローマ・フォロロマーノのコンスタンティヌスの凱旋門が史跡として貴重である。凱旋「門」となってはいるが、古代ローマでは都市城壁や城門とは独立して建てられた記念碑的建造物であった。

3.ヨーロッパ史に関しては、調べたい事が山ほどありますが、最近は、ロイターで東京のデスクになっている愚息が、色々聞いてきて、ただで協力していて、もう時間が足りなくなりました。とりあえずは、フランスの城郭か城郭もどきをしあげます。
竹本 修文
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飛行機故障の経験
竹本修文(37回) 2021.02.18

 頻繁に飛行機に乗ると危険な事も多々経験しました。
 1970年代に沖縄返還関連事業で何回も沖縄に行きました。ある時に、台風が接近しているときに、JALのジャンボが那覇空港に着陸時に尻餅着陸になり、シートベルトが緩かった乗客が天井に頭をぶつけたり、手荷物が散乱したり、悲鳴声が響きました。その5〜6年ごろだったか、JALのジャンボが御巣鷹山に衝突しました。
 原因が「ボーイングが尻餅事故の修理をした時のミス」と分かったとき、いや〜な予感がしたが、思い出したくなかったので何年も黙っていましたが、ある時に部下の一人と飲んでいた時に、「あれは俺が乗った飛行機のような気がする」と漏らしたら、どこかで調べてきて、「その通りでした」と言われました。やはり、いや〜な気がしました。確かめる気にもなりません。
 同じマンションで、JALのパイロットと家族付き合いをしていますが、この話だけはしません。
 飛行機が故障して緊急着陸したことも2回あります。
 二回目はロサンゼルスからヒューストンへの一人旅の時で、カメラで撮影したので添付します。
 1982年だったか、トルコのアンカラ空港乱射事件の直前に、小銃を持った兵隊に追い立てられるようにして、飛行機にのった時も緊張で震えました。

緊急着陸
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発刊の御挨拶
著名人の投資歴
鍋島高明(30回) 2021.02.23

筆者近影
各位
 謹啓コロナ禍、寒中お変わりございませんか。小生は相変わらず本づくりに明け暮れております。新しい本の書き下ろしは時間的にも難しく、かつてどこかに書いたものを一冊にまとめるという作業ですが、昔を振り返りつつ、体力、知力、以上に、集中力の衰えを感じないわけにはいきません。
 しばしば飛び込んでくる旧友の言卜報に、「あんなに元気だったのに」と驚かされながら、寄贈者リストにまた1行、斜線を引くのは寂しいことです。本書「著名人の投資歴」は上下、2巻を予定しているものの、短編読み切り人物伝で、興味を覚えた人物のページをめくっていただければありがたい。

有名人の投資歴 
且s場経済研究所 定価1,500円+税
 モーニングスター株式新聞で「アマチュア相場師列伝」のタイトルで.月1回の連載が始まって14年になります。同紙の論説委員赤間憲明氏のお勧めで書かしてもらって、170人くらいを書くことができました。
 スタートした当時は「株式ニッポン」という投資情報誌があって、そこでも同じようなタイトルで連載企画が進んでおり、お互いにライバルとして張り合っていましたが、10年ほど前か、その雑誌を見なくなり、以来、当方の一人旅となって今日に至っております。
 いつの間にやら八十路の坂も半ばに差し掛かり、今まとめておかないと、何時なんどき、という思いが募り、2冊本の前半分を上梓することができてほっとしているところです。
 「株式ニッポン」が文豪バルザックを取り上げたことがあります。その話はバルザックから愛人のハンスカ夫人にあてた手紙が肝になっており、その手紙を何とか見つけたいと躍起になったものです。
 ある時、JR中央線高円寺駅北口の西部古本市であったと思うが、バルザック全集(東京創元社版)の第26巻・書簡集をバラで入手できたときのうれしさは今も忘れられません。古書通の某氏が必要な1冊のために全20数巻の個人全集を買い込んで、その1冊を除き売り放ったという経験談を聞いたことがあります。それに比べればなんという幸運であったことよ。
 高円寺の古本市のあとでは、古本ファンのT氏と"高円寺純情商店街"のイタリアンの店で軽く一杯やるのが楽しみでもありますが、コロナのあおりで高円寺も遠くなりにけりか。
   令和3年2月
敬具
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《 新著のご案内 》
ぶんちゃんの世界オモシロ随想録
植野文隆(42回) 2021.02.26

筆者近影
 土佐高同窓の皆様 植野文隆です。

リーブル出版(1200円+消費税)
 未曾有のパンデミックが未だ世界を覆っていますが皆様方にはお変わりなく、お元気のことと思います…
 私の新著が発売されました。ぶんちゃんシリーズ3冊目になります。
  『ぶんちゃんの世界オモシロ随想録』
 長い海外生活と訪れた国75ヵ国で体験した抱腹エピソードと世界から日本を視る至極のエッセイ43編!(高知のエピソードも少し含まれています。)
 土佐中学・高校の創立百年史を担当した高知の出版社から出版されました。アマゾンや全国有名書店でお求めになれます。(1200円+消費税)
 ステイホームの気分転換にお読みいただければ幸いです…



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「日本学生科学賞」文部科学大臣賞受賞
土佐高生の地震避難研究
公文敏雄(35回) 2021.03.01

筆者近影
土佐高生の地震避難研究をNHKテレビが全国に報道
 今年の3月11日は東日本大震災から10年ということで、最近は地震・津波・原発事故に関するニュースが増えてきた気がします。
 そんな中、今朝(3月1日)のNHKテレビ全国放送で、土佐高校2年生高橋孝弥さんの潮江地区における地震避難所要時間に関する研究(本年1月に「日本学生科学賞」文部科学大臣賞受賞)が数分間にわたり詳しく放映されました。
 放送では、文字通り足を使って実地を丹念にまわり、各種公開データにもあたり、自作を含む高度の数式を駆使して、安全な場所への避難に要する実際の時間が訓練でのそれの数倍かかるという結論に至るプロセスを、本人へのインタビューをまじえて克明に放映しました。
 放送の再現はできませんが、ご存じなかった方々のために1月17日付高知新聞過去記事をご紹介いたします。
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高知新聞ニュース 2021.01.17 08:34
土佐高生が世界科学コンテストへ 地震避難研究で文科大臣賞受賞

地震避難の研究で世界大会に出場する
高橋孝弥さん(高知市の高知みらい科学館)
 地震避難の在り方について研究している土佐高校2年の高橋孝弥さん(17)がこのほど、日本最大級の科学コンクール「日本学生科学賞」で文部科学大臣賞を受賞した。5月には米国で開かれる世界最大の学生科学コンテスト「ISEF(アイセフ)」に、日本代表として出場する。高橋さんは「防災大国の代表として、災害の悲惨さや対策を発信したい」と意気込んでいる。
 小学1年の時にテレビ中継で見た、東日本大震災の津波の映像が目に焼き付いているという高橋さん。「自分が役に立てることはないか」を考えてきた。
 注目したのは、避難訓練の在り方。「津波到達予想時間内に避難することを訓練の目標としているが、地盤の液状化や建物の倒壊といった実際に起こりうる被害が十分に考慮されていない」
 そこで2019年9月から、より現実的な避難行動について考えるための研究を開始。県が想定する最大クラスの南海トラフ地震が起きた場合、学校のある潮江地区で(1)地盤の液状化(2)建築物の倒壊(3)急斜面の崩落―が、どのような影響を与えるかを調べた。
 最も時間を割いたのは、建築物の倒壊。周辺を1人で約2カ月かけて歩き、目視で木造が1009棟、非木造が202棟あると判断。各地点の予想震度や東日本大震災での倒壊データなどを基に建物の倒壊率を算出し、地域内のすべての道路について、通行不能になる確率をはじき出した。
 その結果、4分の1の道路が50%以上の確率で通行不能になると試算。最寄りの避難場所に向かうにも迂回(うかい)路を通る必要があるため、避難に要する時間が訓練時の最大1・5倍に増加。住民の約4割は、迂回路がなく避難できなくなるとした。
 さらに建物倒壊、液状化、急斜面の崩落が同時に発生したとシミュレーションすると、避難に必要な時間は訓練時の最大で3・73倍となり、高齢者では最大5・1倍にまで増加。津波到達予測時間(40分)以内に避難できない人が全体の3割に上るとした。
 高橋さんは「複数の避難路を確保することが必要。どの地域でも同じ状況が予想される。研究の結果を多くの人に知ってもらい、防災意識が高まればうれしい」。今後も火災や天候、時間帯によって避難にどのような影響が出るか研究を続けるという。
 日本学生科学賞は中高生が対象で、今回は全国から約3万2千点の作品が寄せられた。文部科学大臣賞は、内閣総理大臣賞に次ぐ位置付け。
 研究成果は、高知みらい科学館(高知市追手筋2丁目)で、1月末までパネル展示している。(石丸静香)
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フランスの城郭シリーズ 4
シャルル5世の市壁
竹本修文(37回) 2021.03.02

筆者近影
 今回は、シャルル5世の城壁に集中できると期待したのですが、WORD文書と写真でe-mailで送るのは、5MB〜8MBと思いますので、出来るだけウンチクよりは写真を多くと思って作ったのですが、中身が完結していないのに、既に7.3MBです。
 パリの城郭ではないので、止めたが、気になるのは、十字軍のこの時代に、カルカッソンヌを舞台に、カタリ派を狙ったアルビジョア十字軍と、アヴィニヨンを舞台にローマ教皇をフランスに取り込もうとした事件などがあり、どうするか考えてみます。
公文さま
 何分にも、英国史の中でイギリスの教科書もシェークスピアも書きたがらない百年戦争の真実を知りたくて、一人で百年戦争のゆかりの地を鉄道旅行した時に、ついでに訪問した写真を使っているので、十分ではありませんが、「自分の整理の為にKPC投稿サイトを使わせていただいている」のが正直なところです。脱帽しないでください。
 所で、私はテキサス・ヒューストンには東芝の子会社があって、頻繁に行った事ですが、隣のルイジアナ州・ニューオリンズとミズーリ―州・セントルイスに行くたびに、両州とも元々はフランス領だったので、ニューオリンズは綴りではNew Orleansから想像すると、フランスのオルレアンと関係がある人たちが作った町かな〜?セントルイスはSaint Louisフランス王ルイ9世と何か関係があるのかな〜?とか思ったことです。何かご存じありませんか?

シャルル5世の市壁

1. 仏王フィリップU世オーギュストの領土回復戦争

フィリップUオーギュストの領土政策

イングランド王ウイリアム征服王の居城 カン城(Caen Castle)

2. 聖王ルイ9世(b1214-a1226-d1270)

3. 百年戦争  イングランド側の拠点カレーCalais

イングランド王ヘンリー五世 (b1387-a1413-d1422)

4. シャルル5世の市壁 

三つの門(モンマルトル、サンドニ、サンマルタン)

サン・ドニ門から南西に向かう市壁の部分

シャルル5世の市壁
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竹本さん
 えー なぜ小生に?
 御下問に関してはまったく知識がありませんが、ネットで検索すれば答えがみつかりますよね。
 せっかくですから試みてみました。ワードを添付します。
公文 (2021/03/02)
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 About St. Louis | History (stlouis-mo.gov)
 A Brief History of the City of St. Louis
 Indigenous People Early History: pre-1764
 The area that would become St. Louis is located on the traditional, ancestral, and unceded territory of the?Illini Confederacy?[en.wikipedia.org],?a group of 12?13 Native American tribes in the upper Mississippi River valley of North America. The tribes were the Kaskaskia, Cahokia, Peoria, Tamaroa, Moingwena, Michigamea, Chepoussa, Chinkoa, Coiracoentanon, Espeminkia, Maroa, and Tapouara. At the time of European contact in the 17th century, they were believed to number in the tens of thousands of people, with the Grand Village of the Illinois alone having a population of about 20,000.? By the mid-18th century, only five principal tribes remained: the Cahokia, Kaskaskia, Michigamea, Peoria, and Tamaroa. [see reference?[en.wikipedia.org]]
 The indigenous people in the area built numerous temple and residential earthwork mounds on both sides of the Mississippi River.? Cahokia Mounds being the regional center.? The many major earthworks within St. Louis boundaries earned the the city the nickname "Mound City". These mounds were mostly demolished during the city's development.
 European Settlement: 1764-1803
 Pierre Laclede Liguest, recipient of a land grant from the King of France, and his 13-year-old scout, Auguste Chouteau, selected the site of St. Louis in 1764 as a fur trading post. Laclede and Chouteau chose the location because it was not subject to flooding and was near the confluence of the Mississippi and Missouri Rivers. Construction of a village, named for Louis IX of France, began the following year. Most of the early settlers were French; many were associated with the fur trade. St. Louis transferred to the Spanish in 1770, returned to France under a secret treaty with Napoleon and, following the Louisiana Purchase of 1803, became part of the United States. According to legend, on the day of transfer of the territory to the United States in 1803, St. Louis flew under three flags in one day--French, Spanish, and American.
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 New Orleans - History | Britannica
 History of New Orleans
 Foundation and early settlement
 The decision to found New Orleans, or Nouvelle-Orleans, was made in Paris in 1717 by?John Law’s?Company of the West, which had taken control of?Louisiana?that year. The colony’s new proprietors?envisioned?New Orleans (named for the French regent,?Philippe II, duc d’Orleans) as a “port of deposit,” or transshipment centre, for future trade from upriver in the Mississippi River valley.?Jean-Baptiste le Moyne de Bienville, the man who suggested the site, was entrusted with the actual foundation of the city. Clearing of underbrush for the new city probably began in March 1718. The engineers charged with this task met with problems arising from uncooperative convict labour, a shortage of supplies, two severe hurricanes (in 1721 and 1722), and the unpleasant physical conditions of mosquito-infested swamps as they set up the first crude dwellings covered with bark and reeds. An engineer,?Adrien de Pauger, drafted the first plan for the town,?encompassing?what is now the Vieux Carre and consisting of 66 squares forming a parallelogram.
 
竹本大兄
 町田先生の世界史で記憶に残っているのは、フォルケルバンデルング、レコンギスタ、アンシャンレジームの耳新しい言葉でした。
 昨年は、コロナで休校の高2の孫の世界史の面倒をみたことでしたが、課題のメインは大航海時代と宗教改革でした。
 このような次第ですから、大兄の城郭シリーズは、小生のヨーロッパ史の空白を埋める上で大変興味深いのです。特に、城は歴史の語り部なのですから。
 
 ェグモルトの写真と平面図を添付させて頂きます。城郭の右手は港で、ヨットが並んでいます。前方は塩田になっていて、その先はカマルグです。

エグモール 城壁都市

(Aigue Mortes/FRA)1246 ルイ9世

Aigue Mortes/FRA PLAN

 聖王ルイは、第7、8回十字軍を先導しましたが、ヨーロッパ城郭史でも十字軍は貴重な役割を果たしていると言われております。
 それは、ゲルマンはローマの城郭を継承しなかったため、十字軍がアラブに遠征することによってローマの城郭を里帰りさせたということです。
 城郭を辿られるときには、この点にも留意されてはとお願いする次第です。
 フランスでは、カルカソンヌを見ずして死ぬこと勿れと言われる城郭ですから、また、アビニョンも「アヴィニョンの幽囚」と称されるように、7代69年の長きに亘り教皇を留めた城郭なので、パリ城郭に劣後することはありませんので、是非とも。
西内一(30回) (2021/03/02)
 
公文さま
●北米でお仕事をされていたので、何かご存じかもしれない、と思いました。何分にも、フランスは中世までしか勉強していないのです。
●ニューオルリンズの件、お陰さまで理解できました。オルレアンからの移民が多く集まったのかな〜?とか思っていました。百年戦争でイギリス軍に包囲されたオルレアンでしたが、ジャンヌ・ダルクの活躍で勝利し、以後、オルレアン公は表舞台にでたのですね〜?
●頂いた記事を参考にして調べたら、フランス王はルイ14世時代に最強になり、パリの宮殿に住まず、郊外のヴェルサイズに大宮殿を作ったのですが、1715年に76歳で逝去。晩年には子や孫に次々と先立たれ、後継者ルイ15世は5歳の子供だった。そこで、彼が未成年だった1723年までオルレアン公フィリップが摂政として政治の実権を握った。
●フィリップは、太陽王ルイ14世の独裁的政治の反動で、貴族政治の復活をはかり、国王と国王に忠実な少数の重臣によってすべてが取り仕切られるていた体制に変えて、摂政時代は王もヴェルサイユに住まず、パリに戻った。
●ルイジアナに移住したフランス人が王に代わって実験を握って政治を取り仕切るオルレアン公にあやかって港町の名前にオルレアンを入れたのですね〜?ニューオルリンズから北へはミシシッピ川でジャズなどの文化がシカゴに向けて運ばれていった。セントルイスも川の途中でフランス文化が感じられますね?サンドイッチのパンがフランスパン(バケット)ですね〜?
 ありがとうございました
竹本 (2021/03/02)
 
竹本さん
 少しお手伝いできましたかな・・・ 
 「オルレアン」はフランス人にとっては忘れてはならない語だとわかりました。
 バケットパン、大好きでずっと愛食?しています。
公文 (2021/03/02)
 
西内さま
 お城EXPOでお会いしたお孫さんですね〜?非常に良い印象が強く残っており、羨ましく思います。エグモルト周辺の地図を添付します。
 南仏の地中海沿岸の都市はローマ時代にできたものが多いのですが、今ではそのほとんどが機能しなくなっています。マルセイユの新港くらいです。私が頻繁に行ったモンペリエも海岸から遠くなっています。

エグモルト周辺の地図

 お尋ねしたいことがあります。
 フランス城郭シリーズ1の図1ですが、出典を記したとおり、白水社のクセジュ「パリの歴史」から引用したのですが、引用する時から疑問でした。
 「ルイ13世の市壁」と書かれていますが、パリをウロチョロした私には、市壁跡など見た事が無い、のです。
 当時の絵をめくってみても堀らしき様子があるだけです。
 同じ原稿の参考図2の英語版には壁とも堀ともかいていません。
 ご存じないでしょうか?
 現在はブールヴァードを呼ぶ大通りで、堀なら分かります
竹本 修文 (2021/03/02)
 
竹本大兄
 お手数お掛けして済みません。
 カマルグとは潟を意味する普通名詞と思いましたが、固有名詞なのですね。
 そのカマルグも遠望したことでしたが、数頭の白馬が観られましたよ。
 小生のパリ探訪は、お話ししましたように他の連中がムーランルージュに繰り出した間の僅かな時間でありましたので、大兄の探訪には及びも付きません。
西内 (2021/03/02)
 
西内さま
●Camargueの件、フランス語辞典で確認しました。大文字で始まるし、辞書にも、[固有]と書かれており、「フランス南部、ローヌ川下流のデルタ地域」と書かれています。
●ブリタニカ国際大百科事典には、英語で「lagoon=潟、砂州によって外海から隔離された海岸の湖」もあります。
●イタリア語では, lagunaが同じ意味ですが、スペイン語では同じつづりで、沼となるようです。全部ラテン語のlacusが語源でした。英語のlakeもスコットランド語のloch・・・・水が溜まっているところは全部そうらしいです。受験生のお孫さんが見るかもしれないので、キチンと確かめました。
●ルイ13世のパリ生活の場所は、家内の写真が写っていた、サンポール教会とフィリップオーギュストの壁の残骸がある所から近い所にあり、次回の投稿に入れると思います。
竹本 修文 (2021/03/02)
 
公文さま
●オルレアン公爵が未成年のルイ15世の摂政時代は良い時代だったようです。
●次回はルイ13世の壁か堀ですが、そこへ行くまでにパリを離れて「アルビジョア十字軍とカルカッソン」、アヴィニヨンをやります。なかなか、ルイ13世、14世に届きませんね〜?
●ヒューストンの話
 現地人労働者は日本がどこにあるか知らない、小学校の歴史は、「アラモの戦いなどでメキシコに対してヒューストンさんが勝利して初代のテキサス共和国大統領になった」とか、日本の事は大学へ行かないと教えてもらえない。
 食事はメキシコ料理の味、パンは隣のフランス領から来たのか、バケット
 昼飯は現地人とレストランに出かけてメキシコ味を付き合うが、夜は、日本食屋でししゃもで一杯やってキツネそばなどが上等
 帰りにサンフランシスコの支社により、中華。
 それでは失礼します
竹本 修文 (2021/03/02)
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フランスの城郭シリーズ  番外編 その1
城は歴史の語り部
竹本修文(37回) 2021.03.13

筆者近影
●フランスの城郭シリーズは、次回はシリーズ5で「ルイ13世の市壁」の予定ですが、本当に市壁だったのか?堀ではなかったのか?結論がでず、苦戦中です。
●一方、西内先輩から、「城は歴史の語り部」と教わり、パリの市壁・城壁と関係なくても重要だった城は他にもあるので、添付の「フランスの城郭シリーズ  番外編 その1」を作ってみました。ご検討ください
●「その1」としたのは、気が付くと、ヴォーバンの城が抜けているので、いずれ投稿する気持ちです。
●フランスの城郭シリーズ5 「ルイ13世の市壁」も諦めていません。大して資料がありませんのでルイ13世からテイエールまで全部まとめると思います。
城は歴史の語り部

歴史地図

1. 城郭都市ブーローニュ Boulogne

2. ロワール川の古城巡り  3. サンマロSaint-Malo

4. モン・サン・ミッシェルMont-Saint-Michel

5. 中世商業都市プロヴァン Provins

中世商業都市プロヴァン Provins

6. ローマ教皇宮殿アヴィニヨンAvignon

アヴィニヨンAvignon

7. カルカッソン Carcassonne

カルカッソン Carcassonne

カルカッソン Carcassonne

カルカッソン Carcassonne

城は歴史の語り部
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。
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ロアールの城とサンテミリオン城郭
西内一(30回) 2021.03.13

筆者近影
ブロア城

 ロアール川に突き出た高台にあり、後ろを深い空堀で仕切っている。
 本丸広場へと登ると、ここで勢揃いして初陣に出発したジャンヌダルクのレリーフが迎えてくれる。
 郭内は、城郭建築の博物館と称されるとおり、ロマネスク、ゴシック、ルネッサンス、クラシック各様式の城館が連担して、夫々の時代の表舞台となった歴史の跡を物語って呉れる。
 イタリアからアンリ4世に嫁して、ルイ13世の母として権勢を振るったマリア・ド・メディチが宰相リッシュリューに幽閉されるが、命懸けで脱出したと言われる塔から下を見ると彼女の胆力に感嘆させられる。なお、彼女はイタリアから初めてナイフ&フォークの食事作法を持ち込んだとも言われている。
シャンポール城

左下の人物は中城君の義兄:小平氏
 フランソア1世がイタリア遠征から持ち帰ったと言われるルネッサンス様式を取り入れたおびただしい様々な円塔を持つ城館で、イタリアから帯同したレオナルド・ダ・ビンチも建築に係わったと言われているが、内部にダ・ビンチのアイデアと言われる二重螺旋階段があり、登ってみても下り階段があることも分からない構造となっている。主に狩猟時の居館であったが世界遺産。
アンボアーズ城

 アンボアーズ城の城壁は、ブロア城に勝るとも劣らぬ堅固な高石垣で見事である。城壁に沿った急坂を登り城門を入ると、聖ユベール礼拝堂があり、堂内にレオナルド・ダ・ビンチの墓もあって、15世紀末から16世紀へかけての築城往時の壮麗さが偲ばれる。眼下に望むロアール川のパノラマは実に美しい。



サンテミリオン城郭
 以前、「ボルドーの回顧」の投稿の際に、ボルドーやサンテミリオンは長年に亘ってイギリス領であったことから、ヘンリー3世が築城のシンボル「王の塔」には今もイギリス国旗がはためいていると報告したが、その写真もお届けする。
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≪編集人より≫
 お城の話で盛り上がっていますが、10年前に編集人が『ヨーロッパ100名城』選定の際に集めた資料をpdfにまとめたものが残っていましたので添付します。全てで60MB(70ページ約400城)もあって果たしてダウンロードできるか心配ですが、とりあえず皆様に提供致します。サーヴァーが限界近くなったら削除します。
 尚、殆どの画像やコメントはインターネットや日本城郭協会からの無断転載で一切版権がありませんので、取扱いにくれぐれもご注意下さい。
 ヨーロッパの城  PDF版(全頁・印刷・拡大)
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個展の案内状
田島征彦展のお知らせ
中城正堯(30回) 2021.03.15
 『筆山の麓』でも紹介した絵本作家・田島兄弟(34回生)の兄、田島征彦さん(淡路島在住)から2つの個展案内状が届きました。いずれも、関西での開催です。お近くの方は、ぜひご覧下さい。
 

「気骨の作家 田島征彦が染め上げる! −絵本原画と型染めの世界−展
  会場 大阪府守口市大日町2-14−10 守口市立図書館 06−6115−5475
  交通 地下鉄谷町線「大日駅」、大阪モノレール「大日駅」より徒歩5分
  会期 4月3日〜29日
  ・守口市立図書館一周年記念の記念行事としての展覧会で、4月24日(土)14時〜15時30分には、田島さんの講演会(予約制・無料)も開かれます。








「たじまゆきひこ展」―新作絵本『せきれい丸』原画と型染め絵−
  会場 ギャラリー ヒルゲート 京都市中京区寺町通三条上ル天性寺前町
  交通 地下鉄東西線「市役所前」より徒歩3分 075−231−3702
  会期 3月16日〜28日
  ・3月20日(土)18時30分〜20時には田島さんによる講座「せきれい丸のことなど」が開催されます(要予約、参加費1.000円)。
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フランスの城郭シリーズ  番外編 その2
カルカッソンヌ・馬出し他
竹本修文、西内一、中城正堯 2021.03.15

 ルイ13世の城壁で悩んでいましたが、参考にしていた本などが間違っていた事を発見しましたので、城郭シリーズを再開しようと思っています。
 カルカッソンヌのコメントは「馬出し」とはなにか?調べなければご質問も分からない程度でして、添付資料に記載しました。何かお教えいただければと思います。
竹本修文
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竹本大兄
 「カルカソンヌにも馬出しがあったよ」と申した馬出しは、今回の地図で城からFOSSEを付きぬいて通路がBARBACANEに延びていますね。この構造を馬出しと呼んでいます。東日本では騎馬戦が多かったので武田流や北条流の馬出しが見られます。土佐などは騎馬戦は余り想定されていませんでしたので高知城は枡形でした。
 フランスの都市も殆どが城郭都市ですから、数が多く大変ですね。
 番外編も其の1とありましたので、機会がありましたら、拾って頂けたらと探訪した数城の写真とコメントをお届けさせて頂きます。
 なお、カルカソンヌの今回の地図には、この前は見付からなかった城の馬出しが見えますね。
 カルカソンヌの城壁は下部が中世のもので、上部はローマの城壁と異例の構造となっていますが、これの解説は藤宗先生にお願いしましょう。
西内一
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西内さま
なるほどー目的からして、馬出しですね〜!
 ここは、ルイ9世聖王が建設した部分だから十字軍最後の時代ですね〜?
 エグモルトは敵は海の向こうだから、馬出しは不要でしょうね
 勉強になりました。ありがとうございます。
竹本 修文
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竹本様、西内様
 カルカソンヌの「馬出」については、図面のみで写真が表示されないままだと、多くのKPCメンバーには理解出来ないかと思います。私は、1995年に一度訪ねただけですが、その際に購入したEB BONECHIの日本語版ガイドブック「カルカッソンヌ」に、「外堡」の訳語で分かりよい写真が掲載してありますので、参考までに添付致します。

写真1.

写真2.
写真1.城の東面を馬出から撮影したものです。馬出から石橋で結ばれた城門は堅固な二つの塔に囲まれています。塔屋の狭間や城壁上部の張出し回廊から、眼下の敵兵を射撃できる仕組みです。
写真2.城郭都市の街中に突き出た半円形の馬出です。敵兵がここまで攻め込んでも、城内の高所から一斉射撃を受けます。(出典のEB? BONECHI社のEは正しくは左向きです)
中城正堯
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中城 大兄
 とっても良い写真がありましたね。此れこそ一目瞭然。竹本君もご満足のことでしょう。
 小生も往時、同行の皆さんに「これは日本でいう馬出しですよ」と我が意を得たりと案内したことでしたが、何方も聴いておりませんでした。
西内一
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中城さま、西内さま
 馬出しの言葉は、小和田理事長の講演で初めて知りました。カルカッソンヌにもあるというのが分からなくて、質問したのですが、大勢を巻き込んでお時間を頂き、感謝に堪えません。
 私も、多分6回行ったと思いますが、資料は散らばっており、資料をじっくり見たのは初めてです。添付ファイルに討議の事を記載しましたので、お読みいただきたくお願いします。
 まだ問題がありましたら、コメントをお願いします。すっかり、ガッテンしましたので、以上で終了します。
カルカッソンヌ








カルカッソンヌ
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)


竹本 修文
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竹本様
 同じガイドブックを持っていたようで、了解です。
 小生も、最初にフランスに行った1970年に、パリで空撮写真家アラン・パーシバル氏を訪ね、彼からいただいた空撮写真集を引っ張り出してみました。カルカソンヌの見事な全景が出ており、馬出しもよく分かります。
 なお、樺山紘一監修『ヨーロッパ100名城』公式ガイドブックの前見返しにカルカソンヌの平面図が出ており「馬出し」も記載してあります。
 ぜひ『城郭ニュース』でも、ヨーロッパの城郭巡りを企画下さい。
中城正堯
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竹本大兄
 ガッテン、終了との連絡ですけれども、先に小生がご連絡した下記の「城からFOSSEを付きぬいて通路がBARBACANEに延びています」はまさに奥さんの写真であり、ナルボンヌ門ではありません。
 あるいは、「城から」との表記が分かりにくかったのではと思い、「城郭」の解説を添付しました。
 カルカソンヌは、「郭主城従型」と云えましょうか。
 これらは改めましてディスカッション。
西内一
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城郭
 城郭は漢字なので、中国での変遷から見てみよう。
 城は土を盛って成すの文字通りであるが、郭は人々の居るところを囲むとの会意文字である。
 新石器時代末期(夏)になると、それ迄もっぱら丘陵上に柵や濠で囲むといった簡単な防御から土壁で囲驍するものも登場するようになっている。
 次いで殷代になると、丘陵最後部の首長の居所や宗廟祭祀の場を囲驍する城壁が強化されるとともに城下の民居区も簡単な土壁で囲まれた防御機能を持つものとなってくる。
 さらに、西周から春秋になると、民居区を囲む外壁が従前より強化され、外壁を郭と称し、内壁を城と言った。このように、城とは内城、郭とは外郭であり、内外の異なる城壁の呼称であった。この「内城外郭式」は「城主郭従式」から漸次、外郭が強化されて内城を凌ぐ構造の「城従郭主式」へと移行していく。

城Chateau,Fosse堀,Barbacane外堡

 やがて、戦国時代になると、専ら外郭の強化が図られ内城は事実上無きに等しいようになる。非常時における防御の拠り所であった内城に代わって、外郭を強化することで外敵に対抗することとなり、内なる城と外の郭の区分も消滅する「城郭一致式」。
 この結果、城郭という語は、一つの熟語として通用されているが、本来は、別々の字義であった。これよりはるか以降に漢字文化を受け入れた我国では「シロ」の意として城郭の字が当てられている。
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西内さま
 今度こそ、ガッテンしました。
 原因は、城とは城壁で囲まれた全体と考えていたので、ナルッボンヌ門と早とちりして、Fosse = 堀 とBarbacane = 外堡の文字をさがして、「そうだ!そうだ!」とガッテンしたのでした。城郭(総構え)の中に城ChateauもFosse堀も Barbacane外堡もあったのに気が付きませんでした。結局ご両人は同じ所をお話されていたのですね。ありがとうございました。
竹本 修文
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関西サイエンスフォーラムからの提言
地震火山庁の設置と地震火山予報士の制度化
尾池和夫(34回生) 2021.03.20

筆者近影
 関西サイエンスフォーラムでは、地震予知研究会を数回にわたり開催し、その結論として、地震火山庁の設置と地震火山予報士の制度化を提言することにしました。
 すでにこの提言は各界に届けられていますが、その理解を深めていただくために、地震火山庁と地震火山予報士の制度ができた未来をアニメーションで見ていただくことにしました。ご批判賜りますようよろしくお願いします。
 アニメーションはYouTubeでご覧ください。【動画のリンクです】https://youtu.be/P1MTNmto2MA
 なお、資料として提言の内容、解説のための漫画を添付します。
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関西サイエンスフォーラムからの提言
地震火山庁の設置と地震火山予報十制度の確立と地震予知実用化への取り組み

漫画ダウンロード(pdf版)
(趣旨)
 地震予知の実用化は人類の悲願であり、その実現に向けて努力することが科学者の使命であると信じます。
 また、地震、火山噴火による被害を最小限にとどめることはやはり人類共通の願望です。そのような目標に向けて、私たちは地震火山庁の設置と地震火山予報十制度の確立、さらに地震予知実用化に向けて、取り組むことを提言いたします。
A現状認識
 地震、火山の観測、研究、通報、防災の仕組みは、国内においては、国レベルの内閣府(中央防災会議、地震調査委員会)、国土交通省(気象庁、国土地理院、海上保安庁)、文部科学省(大学、海洋研究開発機構、防災科学技術研究所、宇宙航空研究開発機構)、総務省(情報通信研究機構)、経済産業省(産業技術総合研究所)のほか、民間レベルでは幾つかの観測情報機関がある。
 また、グローバルに見ると、アメリカのNASAが人工衛星群を用いて各国と共同観測する研究グループや、フランスを中心とする欧州のグループ、そのほか、ロシア、中国なども人工衛星を用いて地震観測を行っている。
 一方、東海地震に関しては地震学研究者が予知可能な地震であるとして大規模地震対策特別措置法(大震法)制定時に予知と予報の発令を行う事例と決めたが、2017年に東南海、南海地震へ適用領域を拡大する際に、現時点では地震予知は困難だとして予知を外した。
B課題
 国レベルにおける地震、火山の観測、予報の仕組みが防災等を含めた地震、火山の発生から一次被害、二次被害対策などへ体系的に整っていない部分がある。
 民間レベルにおける地震、火山の観測、予報は、観測、分析、公表基準等にばらつきがあり、それらが科学的に、一定の水準を満たしているか、観測評価の標準化、情報の確率度、費用などが各人の判断に委ねられている。そのため、利用者が納得できない事例が生じた場合、地震、火山の予報に対する社会的信頼を損なう懸念が残されている。
 地震学の研究領域が旧来の範囲に絞られ、また研究の手法、しきたりの伝統が厳しく継承されている。そのため、地震先行現象の有無、大気圏、電離圏における先行現象の否定など、新しい地震予知活動への取り組みを阻む例も懸念される。
C提言

小学校2年から「なまず」がニックネームです

1.地震火山庁の設置
 地震、火山の事前活動、発生、防災、復興までをラ・fフサイクルとして全体的に観測、通報、対応、それらの合理的、包括的な対応を可能とする一元管理システムをとることが求められる。そのため、地震と火山に関する観測、通報、防災、復興、研究を統合的に担う地震火山庁を設置することを提言する。
2.地震火山予報十制度の確立
 地震、火山の発生を予測し、避難、減災、防災体制を実現するためには、地震、火山に関する科学知識、防災工学知識、緊急看護知識、技能を備えた人材の育成、技能水準の評価、認定等を制度化することを提言する。
3.地震予知実用化への取り組み
 地震、火山の発生理論について先行現象、シミュレーションを含めた学際的研究を促進し、とりわけ重要なビッグデータ処理、深層学習といった人工知能理論や品質工学の成果の導入など、学際的な予知研究を行うことを提言する。
D関西サイエンス・フォーラムのこれまでの取り組み
 国内外で地震による悲惨な被害の発生があとを絶ちません。世界人類の願いは、地震の直前予知の実現です。関西サイエンス・フォーラムは、1996年から地震の前兆現象と地震予知に関する第三専門部会を設置し、これまで20年以上にわたり調査研究を続けてきました。我々が目指したものは、地震の前兆ではないかとされるさまざまな地震直前の異常現象、例えば異常な雑音電波の発生、電磁波の伝搬特性の異常変化、大気中のイオン濃度の変化、地下水の変化、地電流の発生などの物理現象や、家畜や魚類、昆虫、植物の異常な行動、閃光その他異常気象などに関する宏観情報を収集蓄積して、それらに従来の地震学の知見、地震観測データなどを重ね合わせて、リアルタイムに処理し、各専門家が適切な評価、判断を行うことによって地震発生を予知できないかという試みでした。
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フランスの城郭シリーズ 6
ルイ13世の城壁
竹本修文(37回) 2021.03.28

ルイ13世の城壁

はじめに

1. 14世紀半ばから15世紀半ばまでの100年間
2. 中世から近代へ   3. ルイ13世の城壁とは何か? 

4. 1615年に完成した鳥瞰図(図9)

5. ルイ13世の市壁→城壁とすべき

ヴォージュ広場のルイ13世像  マリー・アントワネットとルイ16世の墓所

シャルル5世/ルイ13世の壁、ルイ12世の堀


ルイ13世の城壁
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)


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竹本さん
 早速、見て頂きましてありがとうございます。はい、大変苦労しました。
公文
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公文さま
 早速、見て頂きましてありがとうございます。はい、大変苦労しました。
 元々フランス人が書いた書物の添付資料に間違いは無かろうと信じていたので、随分時間を浪費しました。しかし、「ルイ13世の城壁」というちゃんとした資料は未だに発見できません。多分、私の想像は正しいと思います。
 これで城郭都市パリらしく見えますね〜?
竹本修文
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竹本大兄
 ご苦労さまです。

バスチーユ要塞の遺構
 お陰で、高1の世界史で今でも耳に残る町田先生のアンシャンレジームの1端が少し分かった気分です。また、ルイ13世の城郭の全容が掴めました。
 その中で、小生が探訪したのは添付写真のバスチーユ要塞の遺構とルーブル美術館地下のルーブル城遺構です。現在のバスチーユ広場には7月革命記念柱が輝いており往時を偲ぶことが出来ませんが、大分離れたsquare henri galli という小公園に塔の基底遺構がひっそりと残っていました。
 それにしましても、本稿は城郭協会報には最適ですが、向陽プレスクラブの皆さんも興味をお持ち頂けましょうか。出来れば何卒ご高覧の程。
西内一
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西内さま
お褒め頂きまして嬉しく思います。
●バスチーユの牢獄の跡地は、1830年の7月革命の記念塔が立っており、その写真を撮りに行きました。その写真はデジカメになってからと思い探していますが、今のところ見つかりません。
●添付頂きました写真の事は20年ほど前にフランスの新幹線を作っているアルストムという重電会社の人から、「100年前に地下鉄工事をしていて、偶然に基礎部分が見つかってどこかに移設保存している」という話を聞きました。その写真だと思います。よくもま〜見に行ったものですね〜!驚きました。 
●ルーブル要塞はフィリップ・オーギュストの市壁を作るときに、西からの守りの為に作ったのですが、今回の投稿に書いた通り、シャルル5世がシテ島の王宮を捨てて、要塞を改修して新しい王宮にしたのですが、ここも捨てられて、地上部を壊して改築した。ミッテラン大統領の大改修でピラミッドの入り口を作ったりした時に、地下部分が出てきて一般に公開されてものです。改修直後に行った時に見て、びっくりしました。
●ルーブルでは、ナポレオンの戴冠などダヴィッドの大きな絵が並んでいる部屋に展示されているドラクロワの7月革命の「民衆を導く女神」の大きな絵を見るのが好きで、ある時バスチーユ広場へ行った事でした。
●今、写真が見つかりましたのでドラクロワの絵と共に添付します。フランス革命は1789年から約10年間ですが、7月革命は、その約30年後の1830年7月までは覚えていますが、台座の写真には27日、28日、29日と3日間が記載されています。
●バスチーユ要塞は百年戦争でイギリスと戦う為に東側の守りが弱い事に気づいたシャルル5世が城壁を作るときに城壁の一部として同時に建設したもので、立派な城郭の一部として「フランス城郭シリーズ4」で入れたかったのですが、情報量が7MBになった事と、将来フランス革命時期のパリを書く時があるかもしれないと思って止めたのでした。使おうとしていた資料があるので、後日番外で書くかもしれません。
 失礼します   

7月革命の記念塔-1

7月革命の記念塔-2

7月革命の記念塔-3

7月革命の記念塔-4

7月革命の記念塔-5

ドラクロワの7月革命の
「民衆を導く女神」
竹本修文
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土佐向陽プレスクラブ