<同窓生アーティストの近況>中城正堯(30回) 2022.05.15
 筆者近影 |
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5年ほど前に、このHPに「母校出身“素顔のアーティスト”」を連載しましたが、今年も活発な活動が見られます。その一端を紹介いたします。
田島征彦さんが沖縄戦の絵本
 『なきむし せいとく』の表紙 |
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まず、田島征彦さん(34回生)の新しい絵本『なきむし せいとく』(沖縄戦にまきこまれた少年の物語)が、4月末に童心社から刊行されました。1945年にアメリカ軍の空爆と、上陸しての猛攻撃の中を逃げまどう母と子の絵本です。作者のことばとして、「悲惨な戦争を子どもたちに見せて怖がらせる絵本を創るのではない。平和の大切さを願う心を伝えるために、沖縄戦を絵本にする取り組みを続けているのだ」とあります。40年前に沖縄の自然に魅せられて以来取り組んできた『てっぽうをもったキムジナー』など、沖縄絵本の最新作です。
筆者のような高知大空襲を知る世代は、空襲・艦砲射撃の場面からあの日の恐怖がよみがえり、大きなガマ(洞窟)に逃げ込んだ村人の姿から、ウクライナ戦争で製鉄所地下室にこもってロシア軍の卑劣な攻撃にさらされる現代の戦場を思い浮かべます。悲惨な戦場も、作者は穏やかな色調と柔らかいタッチで描いてあり、本を閉じたあとに現実の恐ろしい場面がじわっと胸に響きます。子どもや孫たちとともに、今に続く戦争を考える「現代の戦争絵本」です。(定価税込 1.760円)
 空襲と艦砲射撃から逃げまどう村人 |
 大きなガマに逃げ込んで、しばし安堵の人々 |
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「合田佐和子展」を高知と三鷹で開催
 合田佐和子さん (『筆山の麓』より) |
 油彩画「マリリンの海」 (『合田佐和子 影像』より) |
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いまだに人気の衰えない合田佐和子さん(34回生)の業績を回顧する展覧会が、年末から高知と東京で開かれます。高知の会場は高知県立美術館で、11月3日から1月15日まで、東京は三鷹市美術ギャラリーで、1月28日から3月26日までの予定です。「前衛アートの女神」として、若き芸術家たちの注目を浴び続け、絵画から舞台美術、オブジェ、写真まで多彩な作品でファンを魅了した作品群を、この機会にぜひお楽しみください。
「向陽の空とは?…校歌の歌詞を深読みする」補講
三根精神の源流をたどる公文敏雄(35回) 2022.05.17
 筆者近影 |
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土佐中・高等学校同窓会報『向陽』第22号(令和3年11月)の誌上で <「向陽の空とは?」校歌の歌詞を深読みする> と題して校歌の解説を試みた。
ただ、補足したい点もあったので、本年4月21日開催の同窓会関東支部昼食会『筆山会』の場をお借りして補講させていただいた。その講話の内容を文章にし、時間の都合で語り残したことを書き加えたのが本稿である。
(敬称・敬語は原則として省かせていただきました。)
三根精神の源流をたどる
「広き心」の土佐人 谷干城公文敏雄(35回) 2022.05.24
 筆者近影 |
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土佐中学・高校の校歌一番に明治天皇の御製が登場する。
あさみどり澄みわたりたる大空の 廣きをおのがこころともがな(1904年)
拙稿『向陽の空とは?校歌の歌詞を深読みする』(同窓会報『向陽』22号令和3年11月)の中で、「広き心」を「小事にこだわらず、いたずらに争わない、おおらかな心」とし、「平らかな世を希う(明治天皇の)憶念が潜んでいる」と説明した。
そんな心の持ち主の1人として、土佐(窪川)出身の軍人で政治家谷干城(かんじょう・1837〜1911年)を筆者は思い浮べる。ご興味のある方には、伝記『谷干城―憂国の明治人』(小林和幸著、中公新書2011年)をお薦めしたい。本の内容を小生が要約するより、ある読者の感想文(Amazonのカスタマーレビュー欄より)が参考になると思われる。
「明治にもこんな考えを持つ政治家がいたのかと驚かされた。もっと広く知られるべき人だろう。
 谷干城 (ウィキペディアより) |
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谷干城(1837ー1911)に対する近年の評価は「健全な保守主義者」というあたりらしい。しかし、日清・日露戦争時に非戦を主張し、渡瀬(足尾)鉱毒事件で被災民の救済を訴え、新聞検閲の非を唱え、あくまでも国民の自由と平和を追求した姿勢は革新的だ。こういう人が貴族院にいたのだから面白い。
干城がそういう主張を行って迫害を受けなかったのは、熊本鎮台司令官として西南戦争に決定的な役割を果たした軍功、またその直前の台湾出兵に参謀長として参加した実績などがあり、明治天皇の信頼を得ていたからだ。
そのころの干城は単純な膨張論者だった。考えを大きく変える契機は、1886年3月から1年3ヶ月にわたる欧米視察(初代農商務大臣の立場での視察と思われる)。フランスでは民権の意義を確認し、特にスイスを「開化世界の桃源」と称賛し、中立・国防のあり方に感動している。その自治のあり方を「共和政府の最上」と見た。
干城も例のウィーン大学行政学教授、フォン・シュタインに教えを受けている。「日本には朝鮮に干渉する権利がある」と説くフォン・シュタインの利益線論に干城は頷かなかった。
翌年1月には視察先から書簡を送り「真正の開化を望まば真正の立憲政体に基づかざるべからず。言論の自由、著述の自由を与え・・・ 頑夫(干城)もこのたびは大いに旧見を一新いたし候」と書いている。
帰朝後、条約改正案で伊藤、井上と対立、農商務相を罷免される。この頃、天皇の政治関与を危険とし「政権の外の存在とすべし」と指摘したのは凄い慧眼だ。帝国憲法発布に際しても干城は天皇と政府の関係に注目している。
この本で知った干城の言動でいちばん驚いたのは、日清・日露の戦後処理で、多額の賠償金や領土割譲を要求すべきではないと主張したこと。二国間の融和と戦争再発を防ぐ真に有効な方策を干城は理解していた。
1903年、孫に宛てた手紙で日露開戦論を唱えた東大七博士を“腐儒”と痛罵し、「・・・ いわんや、満州を取り日本の植民地となさんなど公言するに至りては暴の又暴」と述べた。干城のレベルに達した人間が4、5人でも明治の指導者にいたら、日本近代の歴史はかなり違ったものになったのではないか。」
谷干城と三根圓次郎校長(1873〜1935年)との接点は無い。強いて言えば谷干城は明治10年の西南戦争の際熊本城で戦い、三根先生はその12年後に熊本(第五高等学校)で学んだということだけである。ただし、共通点がいくつもある。明治天皇を崇敬し、徳を重んじ、民(部下・生徒)を愛し、視野も心も広く(脱 井の中の蛙)、自由を唱え、信念に忠実な明治人だった。
谷干城は「保守の人」で「革新的」、三根先生は「国士的」で「自由教育論者」であった。黒か白か、右か左か、という「二元論」では理解しにくい大きな人物といえよう。
国際浮世絵学会の学会賞
受賞 おめでとうございます冨田八千代(36回) 2022.06.27
 筆者近影 |
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「子ども浮世絵」のジャンル樹立
中城正堯氏〈30回生〉の栄えある受賞の朗報は、梅雨の晴れ間に愛知県豊田市の井の中まで届きました。このKPCのHPから、「子ども浮世絵」に魅せられるようになりました。HPがなかったら、そこへ中城さんが浮世絵のことを投稿されなかったら、「子ども浮世絵」を知ることができませんでした。その感謝ともにお喜びを申し上げたい気持ちでいっぱいになりました。そして、賞状の文面も知りたくなりました。図々しく中城さん(ここからは、中城さんで失礼します。)に、直接お尋ねしました。
表彰状
 表彰状
 中城編著など子ども浮世絵関連図書 |
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あなたは 長年にわたり公文教育研究会子ども浮世絵コレクションの充実に尽力されるとともに その研究に優れた実績を積まれました
早々にデータベース化されたコレクションをインターネット上で公開「江戸子ども文化研究会」を主宰し 多くの著作物や展覧会を通して浮世絵における「子ども浮世絵」というジャンルを確立 その啓蒙と普及に大いに貢献されました
また当国際浮世絵学会においても 理事として長年にわたり学会活動に寄与されました
よって学会選考委員会の推薦と常任理事会の承認を受け ここに第十六回国際浮世絵学会賞賞状と副賞を贈呈して 永くその栄誉を称えます
令和四年六月五日
国際浮世絵学会 会長 淺野秀剛
中城さんは、HPに子ども浮世絵のことを度々投稿されています。これは、業績のほんの一端でしょうが、その執筆と著書『絵画史料による 江戸子ども文化論集』などから、「子ども浮世絵」研究の功績をうかがい知りました。受賞の理由には、中城さんの功績が凝縮されています。
中城さんの「子ども浮世絵」の研究は、「江戸子ども文化」を取り上げられたことが、まず、抜群の千里眼です。その後、史料としての子ども浮世絵の収集・解読の成果は、中城さんの一貫した情熱あふれる姿勢と飽くなき開拓者精神と豊かな能力のトライアングルが響き合って創り出されたものと拝察いたします。凡人には達成できることではありません。
「子ども浮世絵」のジャンル樹立、唯一無二の研究への受賞おめでとうございます。
子ども浮世絵と公文式教育のつながりは如何に
表彰状の文面から、今までぼんやりしていた点に気がつきました。表彰状には、最初に「公文教育研究会子ども浮世絵コレクションの充実」と書かれています。研究は公文教育研究会を抜きにしては考えられないということです。「子ども浮世絵」研究の背景に公文教育研究会の存在があることは、公文公先生とともに意識しつつも、このテーマの内容との結びつきについては考えてきませんでした。「子ども浮世絵」の読解から、江戸時代の寺子屋教育に注目されました。子どもの学びを自学自習と言及されています。テーマ設定の時から、教育にまで至ると展望をもっていらっしゃったのでしょうか。これはまた、現在の公文教育研究会の公文式教育とつながりがあるのではと気になりました。[KUMON]の看板のある学習塾は、自学自習に徹していますから。
それで、テーマについてHPを読み返してみました。テーマ設定の動機を次のように説明されています。(KPCのHP 2018年9月2日の「回想浮世絵との出会いと子ども文化研究」より抜粋します。)
<…「浮世絵による江戸子ども文化研究」の直接のキッカケは1986年(昭和61年)のくもん子ども研究所設立である。その理事に就任し、研究テーマの提案を求められた。そこで「子どもに関する浮世絵の収集と、その解読による江戸子ども文化研究」を提案、当時の公文毅社長が「だれもやってないテーマならやろう」と決断、多額の予算を任されてスタートした。では、なぜこのテーマだったのか、当時話題になっていたフランスの歴史学者フィリップ・アリエス著『<子供>の誕生』(みすず書房)でもちいられた、絵画を史料とし活用する子ども史研究手法に共感を覚えたからである。>
ここでは、大きく「江戸子ども文化の研究」と示されているだけです。きっと、中城さんは、「子ども浮世絵」を通して、江戸時代の寺子屋教育は公文教育研究会の公文式教育と通じるとの展望をテーマ設定の時にお持ちだったのでしょう。
中城さんにお願いします
このHPへ、受賞の晴れ姿と表彰状と受賞記念の講演内容をご披露ください。
京都 高瀬川周辺散歩竹本修文(37回) 2022.06.29
 筆者近影 |
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京都に関しては、2019年に伏見を散策して、十石舟・三十石船の旅の表題でKPCに今年1月に投稿し、瀬戸内海から京都への海運ルートの中継地としての伏見の重要さに触れ、伏見で物資を小さな高瀬舟に積み替えて、高瀬川に入り京都中心部に配送する水運システムを報告した。また伏見は寺田屋があり龍馬とお龍の銅像や龍馬通り商店街などを紹介し、更に筆者が住む横浜市の神奈川宿跡を神奈川の宿・田中家の表題でお龍が働いたと言われている田中家の事も紹介した。今年は、高瀬舟が物資を配送した京都五条から二条の間の高瀬川とその周辺を6月に散策したので、報告する。今回もまた、龍馬とお龍が登場する。
京都 高瀬川周辺散歩
竹本様
高瀬川散歩、昔学習雑誌で角倉了以のことを取り上げたことがあり、高瀬川改修も朱印船貿易も、懐かしく拝読しました。
図五に歌川広重の有名な「東海道五拾三次大尾 京師 広重」を掲載していますが、なぜか絵師が竹内孫八になっています。竹内は、この浮世絵の版元で、絵師は無論歌川広重です。なお、これは五拾三次の「大尾」で、五十五図目の「上がり」です。広重など江戸から京に上る人々にとっては、起点でなく終点でした。
中城正堯
中城さま
ご指摘頂きましてありがとうございます。
実は、三条大橋の西詰に立て看板があり、室町時代からあった橋を秀吉が修復した時は石柱にした、
「東詰部分に現在も残っている」と書かれているので橋を東に戻って石柱を確認しまっした。
広重の55枚の絵を思い出して、岡崎と京都に橋が描かれているのをよく見ると、石柱ではなくて木材のように見えます。
それで、没にしようかと思ったが、三条大橋は東海道の終点だから、残そうと思って入れました。
ご指摘頂いた画とはんの件は、55枚を纏めて販売した時の袋(添付写真2枚)をよく見ると、「真景 東海道五十三駅 続画 保永堂 一立斎広重」ともう一枚には「広重画 東海道五十三駅 続画 保永堂 はん 竹内孫八」とあります。
電力余裕率が5%・・・昔の仕事用語がテレビから聞こえますが、エアコンを聞かせてどのように訂正するか考えてみます。
ありがとうございました。
 真景 東海道五十三駅 続画 保永堂 一立斎広重 |
 広重画 東海道五十三駅 続画 保永堂 はん 竹内孫八 |
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竹本修文
竹本様
今日も日中は病院で検査、ちょっと前にやっと帰って来ました。
江戸時代の浮世絵師も版元も、かなりいい加減で、絵師名もシリーズの作品名も途中で違っていました。ただ、それでは混乱が起こるので、浮世絵学会ではできるだけ統一を図り、教科書などもそれに従っています。広重も、武家としての姓は安藤で、ひところ安藤広重もよく使われましたが、安藤家を譲って絵師になり、歌川豊広に入門、「歌川広重」の絵師名をゆるされます。そこで、現在は歌川広重に統一しています。一方、一立斎広重は斎号といって絵師が作品に署名する際に適宜用いた名称で、広重も数種類の斎号を使っています。また、作品の題名にも食い違いが見られますが、初版の多くが「東海道五拾三次之内 ○○」で出されております。保永堂(もう1つの版元と協同だったが途中で降りた)から出たこれが大評判となり、別の版元から「東海道五十三次之内 ○○」も出たので、保永堂版のみに「東海道五拾三次之内」と「拾」を使って区別しています。橋が石柱か、木材かの問題も含め、このシリーズにはあり得ない場面がいくつか指摘されています。雪など滅多に降らない静岡県「蒲原」が豪雪地帯のように描かれているのが典型です。写実よりも人々の旅情と絵心を満足させる画面構成に徹したようで、そこから人々を感動させる名品が生れています。ご参考までです。
中城正堯
公文さま、藤宗さま
皆さんのご意見に従って修正しました。いかがでしょうか?
表題は高瀬川中心の予定が、鴨川も高瀬川の周辺とは?いかがでしょうか?
「広重 東海道五十三次」は10年ほど前に、「東海道 かわさき宿 交流館」が開館した時に訪問して買ったが、今年始めにKPCに神奈川宿の投稿をする時に開いたのが最初でした。
三条大橋の立て札の「石柱橋」に驚いて、若しかして広重はどんなに書いたのか? 「浮世絵で調べよう」との動機が不純ですね〜?いつも設計図を見ていた癖ですね〜?
浮世絵は設計図ではないですよね〜?
浮世絵の世界的権威者にこんな話をするのも失礼な事ですね〜?
このまま掲載OKにしてください
竹本修文
竹本様
修正原稿、拝見しました。竹本さんの投稿原稿ですので、あくまで私からは、参考意見です。判断は、お任せします。
今回の浮世絵関係では、図8の浮世絵下の文字が気になります。一般的には、この作品のように画面に「画題」や絵師の記載がある場合は、それをキャプションでも表記します。この絵には「東海道五拾三次大尾 京師 広重画」とあります。普通<「東海道五拾三次大尾 京師」歌川広重画 天保四年頃>などとなります。題は「東海道五拾三次之内 京師」もありです。そして絵師名は、歌川広重か広重です。絵師名がなく、版元名、それも主人名のみというのは、まず見かけません。一般の人は、<はん 竹内孫八>とは何者か、この絵とどんな関わりがあるか途惑いそうです。
中城正堯
中城さま
ご丁寧なadviceに感謝します。私も最初は戸惑いました。
竹本修文
パリ日本文化会館から
「文明開化の子どもたち」展中城正堯(30回) 2022.07.05
 筆者近影 |
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皆様へ
パリ日本文化会館から、「文明開化の子どもたち」展の報告書が届きましたので、ご参考までにその一部を添付します。コロナ禍下でしたが、40日で6.784人の入場者があったとのことで、そのアンケートの一端と、会場風景です。以下のメールは、この展覧会の責任者とのやりとりです。
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中城先生
お世話になっております。報告書と日本語抜き刷りが無事お手元に届いたとのこと、ご連絡をありがとうございました。温かいコメントも頂き、恐縮の限りです。
日本語版抜き刷りは当地での成果を日本の方に還元するという意味でも重要であると考え、完成は事後となってしまいましたが作成をいたしました。
展覧会を御覧頂いたお客様やメディアからは軒並み良い評価を得て、当地のお客様に「明治の子ども浮世絵」を知って頂く素晴らしい機会になり、当館としても誇りに思っております。先生のご研究があってこそのことであり、心から敬意と感謝を表明申し上げます。
日本は暑い日々が続いているのではないかと存じます。どうぞご自愛ください。
今後とも何卒宜しくお願い申し上げます。
パリ日本文化会館 大角友子
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大角様
昨日、報告書並びに日本語版抜刷りを拝受しました。パリ文化会館のご丁寧な対応に、いつもながら感謝申し上げます。特に、日本語版抜刷りは執筆者として大変有難いです。日本では、頻繁に海外美術展の日本展が開かれていますが、本国関係の鑑賞者や筆者には、一部論文の原文掲載のみで済ませています。コロナ禍での開催に、ご苦労も多かったと思いますが、鑑賞者・メディアともよい反響だったようでなによりです。
中城正堯

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 「文明開化の子どもたち」展 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大) |
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。 |
横浜の英連邦戦没者墓地竹本修文(37回) 2022.07.20
 筆者近影 |
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筆者が住む横浜に関する紹介は、2020年の表題「ビールの話」の中で横浜ビール物語と、2022年の表題神奈川の宿と田中家 だが、これに続く横浜deep第3弾として、横浜の英連邦戦没者墓地を投稿する。
筆者が1981年に東芝ロンドン事務所に赴任した年に、英チャールズ皇太子とダイアナ妃が結婚した。帰国2年後の1986年には皇太子ご夫妻は初めて日本を訪れ、東京の青山通りをパレードし、後日、横浜の英連邦戦没者墓地を参拝した。
横浜の英連邦戦没者墓地
竹本様
英連邦軍の墓地が日本にこれほどあるとは、驚きました。見事な発見で、研究です。
私は、インドネシアのバンダ海に浮かぶバンダ海のアンボン郊外で、太平洋戦争中に日本軍と戦った英連邦軍の墓地を訪ねました。ほぼ同じスタイルで、墓石がずらりと並んでいました。また、カトリックの世界では、第一次大戦の仏・独の激戦地ヴェルダンの丘を埋め尽くす墓標と記念館を、第二次大戦で従軍医として戦地を体験した斉藤茂太さん夫妻と見学しました。皇太子時代の昭和天皇も訪ね、戦争の悲惨な実態を実感したとされる地です。いずれにしろ、キリスト教では死者は死亡した現地に土葬し、魂はそこから昇天、復活を待つのかと勝手に納得しました。日本人や中国人は、外国・都会で死亡しても遺骨は先祖と同じ墓地に納めないと、祖霊の仲間に入れないと考えるのか、故郷での埋葬への願望が強いようです。遺骨収集に予算を費やしています。近年の田舎の墓仕舞や、都心の納骨アパート的な施設がどのように定着するか、僧侶や神官がなんと説明するかも気になるところです。いろいろ、考えさせられる報告でした。我々の年代には、身近な大問題です。
私自身も、消化器は完治しましたが、別途の病で当分治療が必要となり、活動がかなり制限されます。我が身の始末を控え、片付けておきたい事項がありすぎて困惑しながら取組んでいます。桂浜の県立龍馬記念館から秋に講演の依頼がありましたが、残念ながら辞退です。御元気で、今後も研究下さい。
中城正堯
中城様
 中城様-1 |
 中城様-2 |
竹本修文
竹本さん
帰省していて今晩帰京しました。実家の古家が残っており(売りに出しているがなかなか・・・)、空気入れ替え、庭の手入れなどのため毎月帰省しております。
さて、「英連邦戦没者墓地」の記事拝読、知のポケットの多さに感嘆しています。外地での戦没者の遺骨を収集して(現地埋葬ではなく)故国に返す活動を米国政府などは長年熱心に続けているそうですので(例えば硫黄島、朝鮮戦争の戦死・行方不明者探索)、戦没地に建てるとすれば追悼碑かなと思っていました。
横浜の事例はちょっと変わっていて興味深いですね。健筆に敬意を表します。
公文
公文さま
ありがとうございます
☆我々は、「日本でなければ外国」と思いがちですが、現在では国家ではなくて、海外団体などと国際交流の契約が普通になっています。
☆戦後は、国際連合ができたし、イギリス帝国(コモンウエルス)は国連に次ぐ2番目に大きな国際組織でしたが、敗戦国日本は戦勝国に物申す事は出来なかった事だと思います。
☆イギリスを見ていますが、ヴィクトリア女王がインド帝国の女帝になって、インド国民を奴隷として「やしべて」未だに貧しくしたのが頂点だった。植民地経営&奴隷家在で稼いでその金で産業革命を起こしたのでした。国名ではないが、「大英帝国」と言われた時代は、貧しい植民地を経済的にも支えた事だった。
☆ 2度の世界大戦でアメリカに巨額の借金をするなど、貧乏になり、コモンウエルスでは、「加盟国は皆自由で平等」と表面は美しいが、国力が弱くなったイギリスは、本音では「支援する金がない、自分で生きていきなさい」と言って突き放しているのです。
☆イギリスがEUの前のECに加盟した時に、オーストラリアやニューランドは、本気で自力で生きていくために日本との交流を始めたのでした。これが、現在に繋がっていると思います。
☆ジョンソン首相のリードでEUから離脱したが、隠されていた課題が露呈して退任、将来は「もう一度入れてくれ」とも言えず、技術も経済力の低いままで、昔いじめたインド人が首相になり、パキスタン系のロンドン市長と一緒に、嘗てのインド帝国が復活するのか?
☆イギリスから目が話せられないです。
竹本 修文
竹本様
アンボン、ヴェルダンの墓地、写真入りでの説明、どうも有難う。写真で思い出しましたが、アンボンは平たい墓石の、ヴェルダンは十字架の墓標の行列が印象に残っています。カトリックとプロテスタントで、集団墓地も様式が違いますね。いろいろ有難う。
中城正堯
<同窓生アーティストの近況>
「田島征三アートのぼうけん展」
「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」
「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」中城正堯(30回) 2022.09.05
 筆者近影 |
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皆様へ
土佐校同窓生の美術・文芸などアーティストの活動を、折に触れてお知らせしてきましたが、その最終回です。
田島征三さん(34回生)と、
高山宏さん(42回生)関連の展覧会が、下記の通り開催中です。お二人とも
『筆山の麓』に登場いただいており、それぞれの分野で日本を代表する人物として活躍中です。
 田島征三アートのぼうけん展 |
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「田島征三アートのぼうけん展」 新潟市新津美術館 2022年9月25日まで 0250ー25ー1300 学生時代の作品から『ちからたろう』『とべバッタ』などの代表的な絵本原画に、リトグラフなども加えて、田島征三の全貌に迫る展覧会。(添付のパンフレット参照)
「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」 鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館(新潟県十日町市)2022年11月13日まで 025ー752ー0066 越後妻有アート トリエンナーレ「大地の芸術祭」の参加作品。田島征三の構成で、鉄の作品による水中生物へのオマージュ。
「特別展アリス へんてこりん、へんてこりんな世界」翻訳監修・高山宏 森アーツセンターギャラリー(東京・六本木)2022年10月10日まで 050ー5541ー8600 アリスの世界に精通する高山宏が翻訳監修した<好奇心くすぐる大博覧会>。
小生は、同窓生アーティストの活躍ぶりを折に触れて紹介してきました。狭い知見からの発信でしたが、「こんな素晴らしい同窓生がいたとは」とか、「おかげであの作者のナマの作品に触れることができた」、といった感想をいただきました。しかし、体調に問題を抱え、終了させていただきます。できれば、向陽プレスクラブか筆山会(同窓会)で、どなたか自分なりの発信者が現われることを期待します。
田島征三展
恩恵をいただいています。冨田八千代(36回) 2022.09.13
 筆者近影 |
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中城さま
たびたび、お知らせをありがとうございます。
今回は、珍しく、もう、田島征三さんの二つの展覧会に行ってきました。
友人のおかげで行けましたが、大元は、中城さんのKPCのHPでの案内や『筆山の麓』のおかげです。
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まず、「田島征三アートのぼうけん展」は刈谷市美術館(4月23日〜6月12日開催)に行きました。
友人Aさん(田島征三も『筆山の麓』のこともよく知っている)から、「もう、知ってると思うけど」と前置きをして、5月の下旬に知らせがきました。知りませんでした。この直後に、たまたま、この美術館の近くで開かれている別の展覧会に誘ってくれた知人Bさんに話したら、それも行こうと便乗させてくれました。刈谷市は我が豊田市の近隣ですので、会場まで自家用車なら30分足らずで行けます。でも、運転免許返納の身には大変な所です。
会場に入って驚きました。中城さんのご案内に<田島征三の全貌に迫る>とあるように、芸術家歴図示版といえるものでした。270点余りの作品が、アーチストとしてのスタートから細かく順を追って、丁寧な説明も加えて展示されていました。絵本からはうかがい知れない表現の数々、多彩です。ゆっくり鑑賞したかったけれど、残念ながら誘われた身、無理は言えません。彼女とは、田島征三のことは話したことはありませんでしたが、まんざらでもなかったようです。作品をスマホにたくさん記録していましたし、出口では絵本も買いました。
この美樹館では、田島征三の作品を所蔵していることも印象に残りました。ところが、中城さんが添付してくださったチラシの最後に、<企画協力:刈谷市美術館 ―このもっと下にーとべばった 1988年 刈谷市美術館蔵 ちからたろう 1967年 刈谷市美術館寄託>と出ています。この美術館にいっそう、親近感がわきました。
私が出かけたことを知ったCさん(『筆山の麓』を貸したら買った。田島征三のファンになった。テレビ番組「日曜美術館」の事などをすぐに知らせてくれる。でも、いつも中城さんより後。)は、すぐに、友人と出かけました。
 「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」の入口で |
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次に、「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」 鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館には、6月5日に行きました。これも、友人たちのお膳立てにすっかり乗っかりました。この一行私以外の5人のメインは、飯山市や津南町でした。この時、初めて、この「美術館」のある十日町市が津南町の隣と知ったぐらいの極楽とんぼの私です。美術館を希望していたCさんは都合が悪く不参加。私以外の人達の田島征三への関心度は不明です。一泊旅行の二日目の予定でしたので、宿で刈谷市美術館の展覧会のチラシを渡しました。展覧会に行った時に何枚も持ち帰ってきていました。贔屓の引き倒しになってはいけないと、言葉少なにしておきました。
さて、当日。美術館は木に囲まれた山の中を想像していました。ところが、空が明るく広がっています。この辺りは河岸段丘の広がりと段数が日本最大規模の雄大な自然の中にあるということも初めて知りました。ここでは無言を通しました。「五人」は展示に集中し退屈そうではなかったので、ほっとしました。
帰宅後、一行に送ったメールです。「津南町の隣にあり、運転手さんに大きな迷惑をかけなかったことをまず、ほっとしました。そして、学校が生き続けている息づかいを感じ、何だか、ほっとしました。よくある、実はここは昔は校舎でしたという様変わりした再生利用の形ではありませんでした。この地域(鉢)の方々と田島征三さんの心の寛さ、優しさ、豊かさを感じました。現地に行けた事、感謝、感謝!」
子ども達が使った楽器が作品の中でそのままに。校歌の額や閉校前日の黒板の字なども残されています。周りの自然から集めた木の実などが作品になっています。
ここでも、もっと時間が欲しいと思いましたが無理は言えません。Dさんは、「運動場の山羊小屋にも行きたかったのに時間が足りなかった」と残念がっていました。彼女は、その後、刈谷市美術館に出かけ、とても感動したとメールがきました。
「恩恵をいただきました」と過去形にはしません。体調とスケジュールの隙間が晴れ間でしたら、ご無理のない所でまた、ぜひお願いをします。
訃報
武市功君(30回生)逝去のお知らせ中城正堯(30回) 2022.09.30
新聞部出身で同期の武市功君逝去の知らせが、このほど輝夫人から届きました。「1月29日に心不全で永眠」とのことです。
同君は、土佐中高時代に新聞部・放送部で活躍、社会に出てからはおもに大阪に住み、公文教育研究会副社長として同社を牽引、アメリカ進出などに大きな功績を挙げました。
一人旅を好み、引退後はもっぱら四国八十八か所巡りや、天然記念物巡りを楽しんでいました。
写真は高1時代の新聞部。中列左が武市功、その右・森下睦美(31回)、前列左松木鷹志(30回)、示野貞夫(32回)、後列中城、横山禎夫(30回)。
野町和嘉写真展のご案内
シベリア収容所1992野町和嘉(写真家) 2022.10.08
 OM SYSTEM GALLERY 2022.10.13〜10.24 |
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これらの写真は、ソビエト連邦の消滅(1991年12月26Ll)から問もない1992年3月に極東シベリア・ハバロフスク近郊にある2箇所の収容所(矯:1E労働収容所)を生な舞台として撮影されたものである。
それまで"鉄のカーテン"に仕切られ、厳格に管理されていた体制の崩壊によってあらゆる統制が緩み、国家の内実、内幕が白Ilのもとに晒された希有の機会であった。
未開の地シベリアは、帝政ロシアの時代から犯罪者や戦争捕虜などに強制労働を課す抑留の地でもあった、,ソビエトの時代、囚人を使役する収容所産業が、国家建設に欠くことのできない基幹那業として位置づけられていた。第2次大戦後に多くのH本兵や民問人が抑留され、過酷な労働を強いられた苦い記憶もある。
ペレストロイカが浸透しつつあったソビエト連邦の末期、政治犯はほぽいなくなっていたが、おびただしい数の刑事犯を収容し、労働力として使役する収容所産業は絶えることなく稼働していた。そこでは、強権政治がもたらす世相から脱落した弱者でもある受刑者たちの、重苦しくも、淡々と過ぎゆく日常を垣間見ることができた,,
このたび世界は、ロシアによるウクライナ侵攻という凄惨な現実を突きつけられた。ウクライナから連れ去られた人々の一一部は極東シベリアにまで強制移送される、とも報じられている。それが事実であるなら、私が30年前に垣間見た光景に、新たな要素が上審きされることになるのだろうか。
野町和嘉作品解説※予約不要・参加無料
10月15日(土)14:00〜15:00スペシャルゲスト佐伯剛氏(風の旅人)
10月22日(土)14::00〜15:00野町和嘉による作品解説
「土佐ジャーナリスト列伝」出版のご挨拶鍋島ウタ子 2022.10.08
 故 鍋島高明氏 |
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謹啓
初秋の候、皆様におかれましてはお変わりなくご健勝のことと心よりお慶び申し上げます。
此の度、鍋島の遺作『土佐ジャーナリスト列伝』が高知新聞社から出版されることになりました。
生前には全文初校を終えていました。ゲラ刷りのチェックに最後まで余念のなかった鍋島が旅立ちまして早くも一周忌を迎えました。この間、出版関係の方々には大変お世話いただきましてお礼申し上げます。
 鍋島高明編 『土佐ジャーナリスト列伝』 高知新聞社 定価2,300円(税込) |
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鍋島は高知新聞総合印刷の山本和佳様に編集・制作すべてを依頼、畏友池田昭一郎様と鍋島実家ご近所の間柄の鍋島康夫様にもスタッフに加わっていただきました。特に池田様は初校から関わり、鍋島自身が亡くなる少し前、「後仕上げを頼む」と全面的にお願いしていました。
鍋島の健康状態があまりにも急な事態の中、出版に当たり不十分な点も多々あった事と存じます。山本様、校閲作業の田村靖様はじめ携わって下さった皆様方には大変なご面倒をおかけいたしました。
スタッフご一同発案により鍋島康夫さまの「あとがき」という形で鍋島高明自身も土佐ジャーナリストのお仲間に入れてくださいました。
「オイ、オイ!!」と照れながらお礼を言っている主人が眼に浮かびます。
お陰様で鍋島亡き後、このように皆様のご厚情と大きなおカをいただき本書の上梓に至りました事に心から感謝しお礼を申し上げます。
ここにいつもながらご迷惑をも顧みず遺作をお送りさせていただきます。ご高覧いただけましたら主人もどんなにか喜ぶことと存じます。どうかよろしくお願い申し上げます。
末筆ながら皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げまして出版のご挨拶とさせていただきます。
謹白
令和四年九月 鍋島ウタ子
弥生さんの夏休み(コロナ下の上海旅行記)浅井和子(35回) 2022.10.09
<成田空港までが遠かった>
 上海にて(筆者) |
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2022年7月中旬、次女と孫(15歳男子)の住む上海へ行ってみよう、と思い立った。コロナ感染対策の到着時ホテル隔離も1週間に短縮されている。早速、ビサの申請を問い合わせたところ、「親族訪問」なら可能という。戸籍謄本等の書類を整え、業者を通じて無事に7月下旬にはビザを取得した。
出発は8月11日なので、それに合わせて、娘から要望の土産品の数々を整えていたところ、中国へ出国するには、コロナ感染対策の「健康コード」を申請せねばならないという。それは、出発の2日前と24時間以内の2度のPCR検査の結果を添えて申請する。
Wechat(中国でのLINEのようなもの)を通じての会話:
私:「何処へ申請するの?」
娘:「中国大使館」
私:「え〜! 自分で中国大使館まで行くの?!」
娘:「あ〜あ、石器時代の人と話しているみたい。ネット申請よ。」
さあ、それからが、大変! 2日前のPCR検査は8月9日午前中に済ませ、夕方には結果表を取得したが、24時間以内のPCR検査は、出発が8月11日、午後4時55分なので、前日10日の午後5時に中国大使館指定の病院に予約し、検査を受けた。娘からは結果表は紙でもらうように、とのことであったが、午後5時に受けた検査は、夜9時ごろにメール(PDF)で届くという。翌日の出発日は、祝日なので、紙でもらうことは出来ない。これは申請の不安材料の一つとなった。
健康コードの申請は、中国大使館所定のネット上のフォーマットにパスポート情報等と共に、PCR検査表をUploadする、という。 Upload ??? Down load の反対だろうと思うのだが、具体的にどうするのか、全く不明。しかも、パソコンからでなく、スマホからの申請が絶対良い、との次女からのアドバイス。スマホからの申請となると、老眼の私には細かい字や小さな機器の操作はお手上げ。 隣に住む、長女夫婦を頼らざるを得ない。長女夫婦は、私を成田まで見送ってくれることになっているが、健康コードの申請までお願いすることになる。
10日午後9時ごろ、約束どおり、私の携帯に24時間以内PCR検査陰性の結果表がPDFで送付されてきた。
さあ〜、健康コードの申請開始。私の携帯を使って、長女の夫が操作するも、自分の機種と違うため、操作が上手くいかない。結局、誰の携帯を使って操作しても良いとわかるまでに、2時間余りを要し、それからは彼が自分の携帯を操作して、健康コード申請を完了したのは、夜中1時過ぎになっていた。最後の夕食の為と、用意していたカツオのタタキなどもすっかり味が落ち、3人とも無口で、翌日の出発を午後2時と決めて、解散したのは、夜中2時半を回っていた。
翌朝、出発当日、健康コードの申請は成功したことが分り、午後2時過ぎに成田に向かった。成田でも携帯でQRコードを読み取り、そこにパスポート情報等を入力せねばならない。ここでも長女の夫の助けが無ければ、飛行機にも乗れない有様であった。
何とか無事に搭乗した上海直行の中国国際航空便は満席で、客室乗務員は、白い宇宙服様の防御服にゴーグルを着けており、これでは、久しぶりの国際線もenjoyする気分にはなれなかった。
<上海空港に到着>
飛行機は定刻の30分前、現地時間午後6時30分に上海浦東国際空港に到着した。わずか2時間30分の飛行である。北京から上海への飛行時間も2時間10分から20分だそうだから、あまり変わらない。同じ中国内の都市からと日本の都市からとの距離があまり違わないとは。中国の広大さと同時に日本と中国の至近さに改めて驚く。
飛行場ではPCR検査や入国手続きに時間を要する、と事前に聞いていたので、その覚悟はしていた。が、ここでもQRコードの読み取りと、情報の入力である。現地の住所なども入力せねばならず、私にはとうてい出来ない。「中国人は親切だから、助けて下さい、という中国語だけを覚えておけばよい」との次女のアドバイスを思い出し、私の後ろで列に並んでいた若い男性にお願いした。
彼は、日本の大学に留学中で、夏休みで帰国したとのこと。日本人と言われてもおかしくない流暢な日本語を話し、大学卒業後は日本で就職したい、と言う。理由を尋ねると、中国は所得格差が大き過ぎるから、とのこと。
<上海の隔離ホテルで>
さて、隔離ホテルは、自分の住所地区によって指定されていたので、親切な大学生とは別れた。次女の住所は、上海の旧市街で、飛行場のある浦東(黄浦江という川の東)から離れた浦西の長寧区にあり、そこの一流ホテルの一つと言われるホテルに隔離されることになった。8月11日、午後6時半に浦東国際飛行場に到着後、専用のバスで長寧区のホテルに到着したのは夜10時半を回っていた。ホテルに到着した、と言っても、当たりは真っ暗で、大きな建物の裏口。ここで、再び、列をつくり小1時間、順番を待った。いやしくも、ホテルの客に、こんな処遇はないだろう、と腹が立ったが、どうしようもない。建物の入り口や内部の壁や通路は、全面、工事用のビニールシートで覆われ、防御服にゴーグル姿の担当官が、このホテルで隔離される客、一人一人に部屋を割り宛てている。私は12階、1229号を割り当てられた。一人でその部屋に行くのかと思い、エレベーターの前まで行ったところ、エレベーターのドアに「汚染電梯」(汚染エレベーター)と書いてある。まさか、このエレベーターではなく、別のエレベーターがあるのだろうと、部屋を割当てた担当官のところに戻ってきたら、「ちょっと待って。今案内する」と言われた。別の担当官が来て、何と汚染エレベーターに乗せられるではないか。エレベーターの中は勿論、工事用ビニールシートで覆われている。
 隔離ホテル1229号室 |
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12階まで上がった。エレベーターを降りると、部屋に続く通路のカーペットの上もビニールシート。1229号室に入った。これまた、床のカーペットも工事用ビニールシートで覆われているではないか! 椅子やテーブルなどの家具は、一流ホテルらしくアンティーク調で高級。あっけに取られていると、黄色の大きなビニール袋10枚ぐらいと、消毒用のスプレー等が配られてきた。毎朝、ビニール袋にゴミを入れ消毒し、きつく縛って、廊下に出すようにとのこと。やっと、理解した! 我々、外国からの入国者は、ホテルの客ではなく、余計な汚染物、汚物なのだと。だから、担当者は、汚染物から自分の身を守る為の防御服を着ているのだ。飛行機の客室乗務員から始まり、飛行場に居た全スタッフ、バスの添乗員、ホテルの担当者等々、我々と接した全員は防御服を着て、ゴーグルを付けていた。今日はlong dayだった。バスタブにたっぷりお湯を入れ、冷房で冷えた体を温めた。丁度、午前零時。
翌朝、7時半にドアをノックされ、目を覚ました。ドアの外に朝食が配られたのだ。窓のカーテンを開けると、眼下には両側に街路樹が茂った大通りが見え、まだ早朝なのか、車が数台とオートバイが走っていた。右側通行のようである。いよいよ今日から、1週間の隔離生活。床のビニールを除けば、部屋はデラックスだし、見晴らしも良い。3度の食事は付いている。中国語を勉強するのが、今回の主たる目的だから、中国語の勉強と称して、テレビも見放題。本来、ぐーたらな私にとって、こんなハッピーな時間を過ごせるなんて、と嬉しくなった。
そう言えば、昨夜は、夕食を取っていない。ホテルの裏口で順番を待っていた時、日式と書いた大きなカップラーメンが配られたが。ホテルの朝食のお弁当は、お粥と大きな肉まん風の万頭だった。完食した。パソコンを机の上に出したり、部屋を整えたりしていると、防御服の担当官が検温をしにやってきた。これからは毎日の検温と2日に一度のPCR検査を受けることになる。そうこうしていると昼食が届いた。そこで、気が付いた。3度の食事を完食してはいけない。部屋から1歩も出てはいけないので、運動不足になる。これ以上、体重を増やしてはいけないのだ。昼食を半分ぐらい残して、さて、午後はどうしようか。中国語の勉強とは言え、(つまらない習性か)昼からテレビドラマを見るわけにもいかないので、ホテルに入る時に貰ったチラシ、「ホテル隔離中の注意」らしき文章の漢字の発音を、持参した電子辞書で一つ一つ調べることにした。直ぐにノート一杯になるのだが、同じ漢字を何度も調べたり、何度発音してもどうしても覚えられなかったりで、岩盤のようになった私の脳ミソは、新しい記憶のミゾを彫ってくれない。辞書引きに飽きると、窓から遠くのビル群を見ながら、
「最後に上海に来たのは何時だったかな〜。20年前か? その後、随分発展したのだろうな〜。最初に中国に来た時は、まだ皆、人民服を着ていたな〜」等と思い出したりしていた。「中国人は個人主義だから、各自が自己の利益を求めて、しのぎを削っている。まさに競争社会。従って、社会は発展する。競争が苦手な人もいるわけだから、必然的に格差社会になる。格差社会は元気な社会とも言えるかもしれない。飛行場であった学生さんによると、中国は日本より格差が大きいとのこと。中国社会で生きていくのは、しんどいだろうな〜。自我の強い国民を束ねるには強権が必要なのかもしれない。」などと思ったりした。
また、日中は40度を超す暑さだそうだが、このホテルの中は24時間冷房が効いて寒いくらい。目の前のビルは夜になると、綺麗なネオンが点灯するし、この広い国土の電力を賄うのは大変なことだな…と思った。調べてみると火力発電が70%近い。これは石炭が豊富な由である。その次は三峡ダムを筆頭とする水力発電が18.6%を賄っている。自然エネルギーは2010年代より少しずつ開発されており、原子力発電所については、現在、運転中や建設中の原子力発電所は合計77基とのことで、この数は世界2位の数だそうだ。やはり原子力発電に頼らざるを得ないのだろう。
上海に着いた日は8月11日木曜日夜で、初日は金曜日。そして初めての週末を迎えた。ホテルでは、通常サイズのタオル1枚と湯上げタオル1枚しか備え付けがなく、1週間の隔離中、部屋の掃除等のサービスは一切無い。忽ち、タオルが不足して、娘に差入れを頼んだ。真昼の暑さを避けて、夜9時ごろにホテルの下の広場から、「今、届けた〜」とWeChatの電話が入り、2人の影が手を振っている。「早く、ここを出たいな〜」と思う。
月曜日になり、パソコンを開くとメールが沢山入っているようだが、スムーズに受信できない。ホテルのWIFIが弱いのかと午前中一杯、辛抱強く接続を繰りかえしていたが、一向に進展しない。ホテルの担当者に、「ネットが繋がらないので、仕事が出来ない」とクレームをつけた。そしたら、何とその答えが、「我々のホテルは、外国のネットワークに対応していない」という。「ホテルでしょ! 外国のお客に対応しないの?!」と、私は思わず叫びそうになったが、そこは一息ついて電話を切った。「そうなんだ。ホテルは、外国の客など必要無いのだ。中国国内の14億人の人々を相手にすればビジネスは成り立つのだ」と、思った。 日本とのメールのやり取りは、WIFIのご機嫌従いで、時々、送受信出来る。日本のクライアントには、木曜日にこのホテルを脱出するので、それまではご迷惑をお掛けします、と送信しておいた(このメッセージは送信されたようだ)。
このホテルに5泊したころ、毎食、プラスティックの弁当箱に入った脂っこい中華料理に飽きてきた。2日後の木曜日にホテルを出るので、その晩は、娘のうちで生野菜が食べられるよう、「生野菜が食べたいので、よろしく」というメッセージを娘のWeChatに送った。火曜日の朝10時ごろのことである。私としては、娘は会社勤めで忙しいし、何か予定があるかもしれない。前もって伝えないと、彼女の買物の時間がないだろう、と思ったのだ。そしたら、何と1時間後に、サラダがホテルの部屋に配達されてきた!
「もうサラダが届いたよ〜。木曜までに野菜を買ってと頼んだつもりだったのに」と娘にWeChatでメッセージを流したら、電話が掛かってきて、と言われてしまった。「へ〜! それでは生産性があがるはずだー。」 娘は私がサラダが食べたいというWeChatのメッセージを見て、即時にスマホから注文、サラダはホテル近くの店からすぐ配達されたという訳である。「弥生さんかー。まあ、縄文さんと呼ばれるよりは、マシか」と、弥生さんと呼ばれるのを受諾した。
「お母様、食事も食材も何でも携帯でその場で注文するのが当たり前。誰も、ここでは、そんな先の日の食材を考える人はいません。普段の夕食の食材も、会社帰りの地下鉄の中で、スマホで註文すれば、私が帰宅するより前に、ちゃんと部屋の前にデリバリーされています。買物なんて行かなくていいんです、弥生さん。」進化した都市に住む上海人は、必要なものは、その時点で、直ぐに注文する。スマホひと押しで入手する。2日後の事を考え、前もって買物を依頼する発想の弥生人にビックリした、とは娘の弁。
<隔離ホテルからの解放>
ホテルから解放される日の8月18日木曜日は、午前中に予定どおりPCR検査があり、夕方には検査結果がホテルに到着し、解放される予定だった。が、午後6時過ぎても、解放される兆しが無い。ホテルのフロントに問い合わせても、PCR検査結果が届かない、というばかり。そのうち、また夕食が配達されてきた。PCR検査が陽性だったら、直ぐに結果が来るだろうに等と思いながら、夕食を食べずに、待っていたら、8時ごろ、PCR検査の結果が来たという。それでは自宅(娘のウチ)に帰れると、喜んでいたら、今度は、車の手配が出来ないので、明朝になる、と告げられた。「あ〜あ、仕方がないなー」と諦め、もう一晩ホテル泊となった。
翌朝は、体温を測り、抗原検査を受けて目出度くパスし、今度は私自身が青色の紙製の防御服を着せられ、荷物をまとめて、到着した時のエレベーターとは違うエレベーターを使って、外に出た。(到着時のエレベーターに乗ると、また1週間の隔離のやり直し、だとか。) 外では隔離者用に設置されたプレハブ事務所の窓口でホテル代(サービス料、税込み)1日850元、今は円安で1元20円として、17,000円、7日分合計5,950元(約12万円)をクレジット・カードで支払い、待っていたミニバスに乗せられ、自宅マンションのある門迄送られ、無事、娘と対面した。後から帰ってきた孫とも久しぶりの感激の対面をした。
<自宅隔離と健康コード>
自宅では、私と接する家族も3日間、自宅隔離となる。金、土、日の3日間、これから過ごす私の2週間の予定表を作った。月曜日午後から毎日、中国語の学校、月曜日夜は私の歓迎会のデイナー、火曜日はサーカス見物、土曜日は京劇の見物等々。しかし、その行動の前提として、健康コードを私の携帯に登録せねばならない。どこの建物、コンビニに入るにも、地下鉄に乗るにもPCR検査の陰性を表示する健康コードを見せねばならないからである。
不思議なことに、私企業であるAlipay(支払宝)のネットワークを利用して、健康コードを作成するのである。次女は、自宅隔離中、私の携帯に健康コードを入力すべく奮闘していたが、私の携帯番号が日本の番号のせいか、登録できない。自宅隔離中である為、外に聞きにいくわけにもいかない。隔離が解けた月曜日の朝一番、娘はマンションのサービス・ステーションに助けを求めに行った。しかし、そこでも解決せず、マンションを管轄する町の出張所に相談するようにアドバイスされたようである。その出張所は、近所に在って、私はパスポートを持って同行した。幸い出張所は空いていて、担当官が私のパスポートを見たり、娘に質問したりして、携帯を操作していたが、10分ぐらいで、無事に登録された。「助かった〜! ヤレヤレこれで外出が出来る。」 出張所の担当官はとても親切だった。その時、上海に渡航する前に、渋谷区役所にワクチン証明を貰いに行った時、若い女性の担当官の態度があまりにも横柄だったので、思わず声を荒げた事を思いだし、渋谷区の担当官との違いに感心させられた。更に、私をびっくりさせたことは、各担当官の受付の前に、 ipadぐらいのパネルが置いてあり、担当官の行政サービスに対し、町民が評価する仕組みになっていたことである。
国レベルかどうか、大袈裟かもしれないが、習政権は、国民に対する善政に本気だな、と思った。
<PCR検査のこと>
上海では、毎日、少なくとも3日に一度は、PCR検査を受ける。無論、無料である。当初、昼休み時に街中の緑地帯に出来ている人の列を見て、宝くじでも売っているのかと思ったら、PCR検査を受ける人の列だった。その他にも、地下鉄の駅近くの建物の一角など、あちこちで検査をしている。PCR検査を受けた結果は、携帯にある各自の健康コードに表示される。緑の陰性表示は、24時間以内、48時間以内、72時間以内の検査で陰性であれば表示されるが、場所によっては48時間以内の陰性表示を求めるところもあるから、私は、隔日に検査を受けるようにしていた。
上海の人口は約2500万人。幼児や病人など一人で外出しない人を除く約2000万人が携帯を所持しており、その各自の携帯にPCR検査の結果が接続されているのである。そのシステムの凄さに驚嘆する。(日本で接触アプリCOCOAを開発しよとして、うやむやになったのとは大違い!)
なお、日系物流会社のニュースによると、8月30日現在、上海には1名の新規感染者が見つかり、1名の無症状感染者がいるとのことであった。感染者が見つかると、その者が居住するマンション1棟が封鎖され、マンション住民全員が外出禁止となる。
<やっと外出自由に 地下鉄、バスのこと>
解禁された最初の月曜日の午後、早速、中国語の学校(パンダ・スクール)へ行った。最初の日ということで、娘がバスの乗り方、降りる場所、学校のあるビルへの入り方(携帯の健康コードのスキャンボタンを押し、ビルのQRコードをスキャンし、そのQRコードが緑になれば入れる。ビルのQRコードをスキャンすることで、私がそのビルに入った行動が記録される。)を教えてくれた。 私の授業中、娘は近所の喫茶店で仕事をしながら私を待ってくれ、その後は、地下鉄の乗り方を教えてくれるために、地下鉄で布市場に行った。
地下鉄でも、まず、携帯で駅のQRコードをスキャンし(駅に私が入ったことが記録される)、そのQRコードが緑になったことを駅員に示し、大きな荷物は手荷物検査をとおして、それから乗車賃を支払ってプラットホームに更に降りていく。乗車賃は、ほとんどの人が、携帯で支払っていくが、私の場合は、中国の銀行口座と連動していなかったので、携帯で支払えず、スイカのようなカードを買って支払った。地下鉄は、上海市内に18路線も開通し、市内の地下を縦横に張り巡らし、しかも、一つ一つの駅は、マイナーな駅でも地下に大きな構内を持っており、シェルターの役目を果たしていそうである。電車のプラットホームは、その地下の構内をさらに一段降りたところに在る。
上海市内のバス路線もよく整備されていて、高速道路の下にはトロリー・バスも走っている。地下鉄も同様であるが、携帯アプリで行先を入力すれば、何番のバスに乗ればよいか、何分にバスが来るのかなどがわかる。
次の日から、私は、パンダ・スクールへ一人で通学した。行きはバス、帰りは地下鉄を使った。一人でQRコードをスキャンし、緑の健康コードを示して、スクールの建物に入ったり、地下鉄に乗ったりして、あたかも長年住んでいる上海人の振りをした(弥生さんが、飛鳥さんぐらいまで進化したか?)。
ちなみに、QRコードを読み込んだり健康コードが緑色になったりするのは、全てネットの接続が必要である。突然、私の携帯のネット接続が出来なくなった。パニックになった。その時は、パンダ・スクールの建物へ入る時であったため、私が中国語の分らない日本人だとわかると、近所のお巡りさんがやってきて、(本来なら建物に入れないのに)18階のパンダ・スクールまで一緒に来てくれて、パンダ・スクールのWIFIを使って、私の緑の健康コードを確認してくれた。とても親切な優しいお巡りさんだった。その日以来、私は、常に携帯の充電式WIFIを持ち歩くようにした。
<布市場で>
パンダ・スクールの後に行った布市場は、30店舗以上あると思われる小さな店がそれぞれに既製服や布をぶらさげ、客待ちしていた。私は、早速、娘が選んだ店で夏のワンピース2着をオーダーした。値段の交渉は、これまた一プロセスあり、店主の女性が娘に、3着なら1300元にするとか、言っている。結局、娘も1着作ることにして、めでたく商談は成立。手付金らしきものを、娘は店のQRコードを読み取り、それに携帯で送金していた。(1元20円として、3着で26,000円となり、夏服とは言え、オーダーとしては安い!)
帰りは、当初計画の外灘での私の歓迎会は変更され、他のレストランで食事することにして、タクシーで行く。
<上海のタクシー>
携帯の「百度」や「滴々」のアプリで、現在地を示し、行先を入力すると、候補のタクシーが料金と共にいくつか表示され、そのうち適当なのを選ぶと、そのタクシーがやってくる。タクシーの番号や車体の写真、来るルート、来るまでの所要時間も表示される。料金は途中、どんなに混雑していようと当初に約束した金額である。このように呼び出して来るタクシーは、普通の乗用車であり、当局に登録しているであろうが、副業でやっている者も多いという。勿論、車体の上にタクシーと書いた流しのタクシーも走っていて、呼び止めて乗ることもある。タクシー代はアプリで呼ぶ場合は、1キロ3.5元ぐらいから、距離やその時の需要と供給により決まり、流しのタクシーは初乗り16元で、走行距離による。いずれにしても、タクシーは運転する方も利用する方もシステムが便利で、実に合理的。価格も安く、正に市民の足と言える。
解禁日初日に行ったレストランは、しゃれた街並みにあるイタリアンだった。孫も自宅から、自分でタクシーを呼んで、やってきて、まずは解禁の乾杯となった。
<外灘での食事>
 外灘(ワイタン)の夜景 |
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解禁日初日の私の歓迎会は、外灘(黄浦江の西岸、旧市街側で租界地時代の建物が並んでいる)で対岸に見える高層ビルのネオンのショーを見ながら食事することになっていたが、やはりと言うべきか、今年の猛暑による電力不足で、月・火の両日は、初めてと言われるネオン中止となり、外灘での食事は、水曜日となった。
水曜日に行った外灘から見える対岸の浦東、陸家嘴地区は金融機関はじめ、世界各国から有名企業が集まるビジネス街。高さ500~600メートルのビルが建ち並ぶ。東京で建っている高層ビルは高くても250メートルぐらいだから、如何に上海のビルが高いのかがわかる。また、それら高層ビルは形が様々で、上海世界金融センターの栓抜き形、真ん中に真っ赤な球をつけたおでん型、中でも中国一、世界でも第2の高さ(632メートル)を誇る上海タワーは登り龍の形状をしている。夜になると、光の波が下から、ビルに沿って龍が登るように上がっていく。様々な光のショーは、いつまで見ても見飽きない。改めて中国のスケールの大きな建造物や発想に驚かされた。昔から白髪3千丈と言うが、これもひとえに、中国の領土の大きさに由来するものであろうか。日本の領土の26倍余り、上海だけでも東京の面積の約3倍はある。(人口密度:日本全土345人/1km2, 中国146/1km2, 東京6,309/km2, 上海3,926/km2)
ある晩、その中国一の上海タワーの118階と119階(546メートル)にある展望台に上った。両脇に他のビルを従えながら、直ぐ眼下には、曲がりくねった黄浦江とその西岸(外灘)にライトアップされた租界地時代の古い建物が見え、その先はどこまでも広い上海市があった。
この展望台には、地下2階からエレベーターで上がるが、エレベーターの入口に取り付けられたスピード計の秒速スピードがめまぐるしく動いている。119階まで1分足らずで到着した。帰りにみたら、このエレベーターは三菱電機製であった。さすがに三菱電機と嬉しかった。後で調べたら、地下2階から119階まで552メートルあり、上り分速1080メートルを出したことがあり、世界最速のエレベーターと認定されているそうである。
<街の様子>
娘のマンションのある街は住宅街で、道路は3車線の上下と両脇の歩道には街路樹が茂っていて、落ち着いた街並みである。3車線の一番端は、自転車とオートバイ専用で、そのオートバイは音を出さない。スーと走っていくので、街には騒音がない。電気自動車も普通に走っている。歩道の曲がり角には、レンタルの自転車が10台ぐらい停車しており、自転車に乗りたい人は、自転車に貼ってあるQRコードを携帯で読み込み、好きなところまで乗って行く。地下鉄の駅まで徒歩で10分ほどなので、娘はよく自転車で駅まで行くそうである。
街の中心地には、大きなデパートなどがあり、デパ地下が賑わい、高級ファッション店が在るのは東京と同じ、或いは、それ以上かもしれない。中国の女性はスラリとスタイルが良く、肌も綺麗で、思い思いのおシャレを楽しんでいる。昔なら楊貴妃かな〜と思われる女性が一杯。おしゃれな高級店がならぶ一方で、私が初日に行った一般市民がバーゲンして買う布市場がある。またデパ地下だけではなく、一般的なスーパー・マーケットもある。そのスーパーでは天井に部品工場のようなレールが張られており、時々、買物かごがレールにぶら下げられ、走っていた。このようなスーパーから、娘のような現役世代の者は携帯でデリバリーを頼むのであろう。これとは別に食品市場があり、ここでは新鮮な魚や野菜、果物を売っており、年配者は昔ながらの生活も出来る。
上海は、意外であったが、中山公園をはじめ多くの公園があり、また街のあちこちには緑地帯があって、緑の多い都会である。私は豫園には2〜3度行った。広い豫園の一角にある古典的な建物の中で売っている景徳鎮で作られた陶器を日本へのお土産にしようと、色々物色するのが楽しかった。
<困ったこと>
ホテルでは、海外とのネットワークに対応していないと言われ、接続に苦労したが、自宅(娘のうち)に帰れば、解消するものと思っていた。ところが、マンションのWIFIに接続しても、事態は一向に改善しない。 通信を良くするVPNというソフトを付けてもダメである。やはり、噂どおり外国とのメールは、政府がチェックしているのであろう。中国のアドレスは難なく通じるので、私のような外国のメールアドレスはチェックされるようである。丁度、日本のクライアントからの仕事が入り、娘の中国アドレスに送信してもらい、また、娘に返信してもらうなど日本とのメールのやり取りには本当に困った。ある土曜日、メールがスルーと送信されたので、「あら、土曜日はチェック、お休みかしら?」と、つぶやいたら、側に居た娘に「やっぱり弥生さんね〜、お母様は。人間がチェックしていると思っているでしょう。みんなAIよ」と、またも言われてしまった。
<上海ロックダウンのこと>
次女は昨年より上海に赴任しているが、日本の中学を卒業した息子を上海に引き取るため日本へ一時帰国していた。上海の赴任地に戻るに当たり、日本を3月23日に出発し、3週間のホテル隔離を大連で過ごしていた。大連で解放された時は、既に、上海ロックダウンが始まり街が封鎖されていた為、幸いにも上海ロックダウンを経験せずに済んだ。その間、彼等は北京の民宿で避難生活をしていたが、それはそれでユニークな経験をしたようである。3月末から約2か月続いたロックダウンを経験した上海人は、口々に「もう二度と、あんな経験はしたくない。」という。最初は、食料などが不足して困ったが、それが解消しても、何時解除されるかわからないという、先の見えない不安が一番、きつかったという。
上海での暮らしは、東京より快適で、何の不自由も感じないが、ロックダウンのように、何時なんどき、行政の強権が下されるかわからないことが、最も大きなリスクだと娘は言っていた。
<中国語学校、パンダ・スクールにて>
パンダ・スクールには、解禁日の初日の月曜日から2週間、土曜日・日曜日を省く10日間通った。が、テキストに沿って中国語を勉強したのは、最後の二日間だけになった。自己紹介に始まり、専ら中国事情を若い講師と日本語或いは英語でお喋りすることになってしまった。
彼ら、彼女らは外国人に教えている者だけあって、外国に興味をもっている若者である。大半の国民はそうではないので、今の経済発展した中国の現状に何の不満もなく、生活にさして困ることもなく、平穏に過ごしているようである。しかし、パンダ・スクールの講師達の中には、「1990年代から、外国のテレビ番組が制限されるようになった。」「ネットフリックスやユーチューブが見れない」「face bookやgoogleが使えない」と不平を言っていた。 どうしているの?と聞くと、どうしても見たい者は、お金を支払ってVPNを取り付けて見ている、と言っていた。
VPNをつけて、外国の情報を取ることは、法的には禁止されているが、政府はそれを厳しく取り締まっているふうではなく、ある程度大目に見ているようでもある。また、彼等が外国の企業に就職することも、外国に旅行することも、外国に住むことも禁じられているわけではない。かといって、容易く外国企業に就職もできず、また外国に住むことも出来ない彼らは、今後、このような不自由な外国からの情報取得に、いつまで、或いは、どこまで我慢できるのであろうか。いつかは暴発するのではないかと、気がかりである。
一方、政府が、その政策に反する外国情報を制限するのは、止むをえない、と是認するのは、日本にある会計事務所と提携している大手会計・コンサルタント会社のシニア・パートナーである。
また、ある日、女性講師に、「ウイグルで人権侵害があると言って、欧米では非難しているけど知ってる?」と聞いてみた。そしたら、「どこの国でも報道機関は外国の悪いところばかりを報道する。少数民族の人には、学校の入学などで特典を与えたり補助もしている。収容所に入れたという映像もGPSからであり、学校の教室に生徒を入れたものかもしれない」と言っていた。確かに、どこの国のジャーナリストも他国の欠点を吹聴するのが好きであり、また、その情報を受取る者は、直ぐにその情報を信じ、非難したり、優越感に浸たるのも事実。この点では彼女と同意見になった。
また、別の講師は「中国には90%の自由がある。10%とは、公式のテレビインタビューを受けたら、習政権はOKと言う」ことだそうだ。私には、「2度の共産党主席はOKだけど、3度目はNOね。」「彼は威張ってるからキライ」「なんでも自分の手柄にするからキライ」といった本音を言う。
考えてみたら、中国人は、今まで、自分たちの手で政府を選んだ経験がない。中国5000年の歴史は、一人の或いはそれに続く皇帝の専制王朝国家であった。また、戦後は、毛沢東をはじめとする共産党支配であり、いわば共産党王朝とも言うべきである。中国人にとって、その王朝、支配者に従うのみで、その支配者を自分たちで選ぼうという発想はでてこない。支配者が堕落し崩壊すると、別の者が天下を取るという歴史を繰り返してきた。要するに西欧とは歴史が違うのである。
それはそれで良いではないか。何も西洋式がベストということはない。民主主義が人類普遍の価値というのはおかしい。ある価値観を普遍的なものとして、他に押し付けたり、他の考えを排除することにより争いは起こる。それぞれの国がその歴史、国情に合わせて、その国を統治していることに他国がとやかく言うことはおかしい、と思う。
コロナ禍で国民の2〜300万人が死亡したアメリカ政府がある一方で、中国政府が「人の命は取返しがつかないけれど、経済は後退しても、また回復させることが出来る」として、都市封鎖に踏み切ったという話は、<政府とは> <国を治めるとは> という命題を改めて考えさせられるものである。
<終わりに>
今回の上海旅行ほど、「百聞は一見に如かず」と感じたことはなかった。
あんなに進化した街が、すぐ隣に存在しているとは。 上海は、もはや20年前の上海ではないのだ。私が「弥生さん」と呼ばれるように、日本よりずっとIT化し、進化した上海であった。生活は合理的で、それでいて緑あふれる街はきれいで、整然としている。発展したのは、上海だけではない。娘達が夏休みに行った湖南省張家界という山奥の観光地までも良く整備されていたそうである。 そこは、上海から飛行機で西方に2時間ばかり行った山岳地帯で、そこには渓谷にガラス張りのつり橋が掛けられ、多くの観光客で賑わっていたそうである。
日本がぼんやりと20年、30年過ごしている間に、隣の中国は大いに発展していた。Made in Chinaはどこか粗悪で劣悪なもの、というイメージであったが、今ではとんでもない。いつまでも昔の古い考えをもって処していたら、大間違いとなる。
コロナ禍という事もあって、外国に出向くことをためらっていたが、いつまでも自国に留まっていてはダメである。井戸の中の蛙になってしまう。心して、外の社会を見分し、視野を広げ、常に外の世界を知ることの大切さを痛感した。特に、学生や若い人には、大いに外に出向いて欲しい。中国が、今後も今までのペースで発展するわけではないにしても、日本の26倍という広大な領土を有し、14億人の国民のいる大国である。しかも、その国民は頭脳明晰で、ビジネス・マインドに溢れている者が多い。
原油以外の鉱物は何でも存在するという中國。他国に頼らずとも、中国国内だけで十分立派な経済圏を確立し、独自の社会システムや文化を構築できる。現に、ゼロ・コロナ政策を推進するため、その政策の是非はともかく、健康コードという途方もないシステムを独自に開発済であり、現実にそれを運用している。
中国には、日本企業が1300社ばかり進出しており、17万人余りの日本人が駐在しているという。地理的に至近距離にあり、また、このように人的にも経済的にもコミットしている中国に対して、日本はどうして対峙することができようか。日本の防衛力はしっかりと堅持しつつも、なんとしても中国と平和的に共存せねばならない。
(了)
エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報竹本修文(37回) 2022.10.08
 筆者近影 |
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女王の崩御から一か月経ちました。
テレビで放映された場所はバルモラル城以外は行ったことがあり、このような国葬はもう見られないと思うので、気づいた事を纏めてみました。
96歳なので、数年前から「ロンドン橋作戦Operation London Bridge」と名付けて準備をして来た結果は見事でした。
この計画に、スコットランドのバルモラル城で女王専任のバグ・パイパーがウエストミンスター寺院でバグ・パイプ演奏をしたのにも感動しましたが、女王のアイデアでした。
女王は公務で乗る車はロールス・ロイスのソヴレインでしたが、普段はスポーツカーのジャギュアーでした。今回の霊柩車も女王が設計に加わってジャギュアーをベースに特注したそうです。
イギリスの国葬は国家元首が対象で、それ以外は万有引力のアイザック・ニュートンとチャーチル元首相だけだそうです。
エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報
 第1章.イギリス王国の概要 1.1 王国の中の国々 |
 1.2 王室について若干の補足 |
 1.3 エリザベス2世後の王室 1.4 Royal Standard 王旗 |
 第2章. スコットランド 第1日 9月8日 第2日 9月9日 |
 第3日 9月10日 第4日 9月11日(スコットランド内の移動) |
 第5日 9月12日 |
 第3章 イングランド 3.1 ロンドン |
 3.2 ロンドンでの葬儀の補足 時系列説明 9月13日 |
 葬儀の中心となる地域の地図 |
 9月14日 バッキンガム宮殿からウエストミンスター・ホールへ棺の移動 9月15日 9月16日 |
 女王と血の繋がりのあるblood family によるお通夜 9月17日 9月18日 9月19日 国葬 |
 葬儀に続いて、棺はウインザー城に運ばれ、セント・ジョージ礼拝堂の女王の夫君の棺と並んで埋葬された |
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合田佐和子展 会場:高知県立美術館
帰る途(みち)もつもりもない山本嘉博(51回) 2022.11.10
 筆者旧影 |
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開館記念日につき全館無料ということで開展初日に観覧。たいへんなボリュームでかなりの時間を要したが、なかなか面白かった。
六年前に亡くなった当地出身の合田佐和子の生涯を大きく二期に分け、「T 1940-1984」「U1986-2016」とした二部構成による展示で、キャプションによれば、1985年のエジプト移住の前後において大きな変化があるのだとしていた。確かにTとUの違いはとても大きな形で示されていたが、僕はそこにエジプト移住よりも日本が見舞われたバブル経済景気の時代到来のほうを強く感じた。そして、今回の展示を観て改めて、時代の潮流の尖がった部分によく感応した作家だったのだと思った。
だが、その時代の捉え方は理知的な内省や思索あるいは感性によるものではなく、もっと身体的な気によるものだという気がしたのは、アニメーション作家でもある久里洋二の撮った「芸術と生活と意見 合田佐和子」['73](25分20秒)での構えも気取りもない彼女の語りにおける明け透けなまでに率直に語られた言葉の数々からだったように思う。高校の新聞部の大先輩でもある合田佐和子は、まさに「ヨウキの作家」だという気がした。
 合田佐和子展|イベント|高知県立美術館 2022.11.03〜2023.01.15 |
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Tの時代におけるヨウキは、言わずと知れた妖と奇なのだが、妖奇の人では決してなく妖奇に魅せられる人として立ち現れ、Uの時代におけるヨウキは陽と気だと思った。単にモノクロトーンからカラフルになったことでの陽以上に、タナトゥスの影が色濃く窺えたTの時代と違って、死の影が殆ど感じられず、タナトゥスの対となるようなエロスの色合いが明るく描き出されていた気がする。時にあからさまに映し出される「秘めたる官能性」は、両時代通じて一貫している彼女の作品の魅力の根源にあるものだという気がするけれども、Uの時代に至ってそれが陽性に転じていたのは、まさにバブル景気が誘い出したもののように思う。そして、その「時代の気の乱れ」のようなものが、彼女が一時執心したらしいオートマティズムへと繋がっているように感じた。
数々の見覚えのある再見作品を交えた観覧のなか、そのような妙味のある気付きを与えてくれた今回の展示作品で特に目を惹いたのは、「T 1940-1984」の「01 焼け跡からの出発」では、『Watch-Angels』['64]、『イトルビ(女の顔)』['68]、『開花するトルソ』['69-70]といった立体作品。「02 妖しき絵姿」からは、『寝台』['71]、『フランケンシュタイン博士のモンスター』['74]、『ルー・リード』['77]らの油彩画。「03 演劇・映画の仕事−唐十郎と寺山修司とのコラボレーション・ワーク」では、『中国の不思議な役人』['77]、『青ひげ公の城』['79]らのポスター原画(油彩)。「04 変化、模索−ポラロイド写真、スケルトン・ボックスを中心に」からは、皮にパステルで描いたサロメの眼に大いに惹かれた『サロメ』['84]といった作品群。
「U1986-2016」の「01 「12進法(シュールレアリスム)」時代の幕開け」には特になく、「02 レンズ効果」では、陰ある印象の強いヘレナ・ボナム・カーターを明るく描いていた『ラ・マスケラ(ヘレナ・ボナム・カーター)』['92]、明るい緑のモノトーンで描かれた『ディートリッヒの青い眼』['94]、伏目のヴェロニカ・レイクを描いた『ベロニカの夢B』['94]、バルドーの背面が目を惹く『波打ち際のB.B.』['95]、『殺意の夏 イザベル・アジャーニー』['11]、そして「芸術と生活と意見 合田佐和子」で「日本人は、いい意味で絵にならない」と語っていた合田が原節子と思しき女優を描いたと思われる『尋ね人』['77]だった。
併せて ARTIST FOCUS #03「角田和夫 土佐深夜日記−うつせみ」も観覧したが、作家自身が会場で作品解説をしているタイミングと重なり、多くの聴衆が溜まっていて落ち着いて観覧できなかったのが残念だった。
加えて、コレクション展から、シャガール・コレクション展《死せる魂B》、石元泰博・コレクション展「水と人のながれ」も観覧してきた。
合田佐和子展|イベント|高知県立美術館
もう帰る途(みち)もつもりもなかった──晩年の手稿に残した言葉のとおり、立ち止まることなく作風を変化させ、激しくも華やかな生涯を駆け抜けた美術家・合田佐和子( 1940 ? 2016 、高知 ...
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 高知県の「県政だより」 |
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高知県の「県政だより」に、合田佐和子展と、当家関連の展覧会案内が掲載されていましたので、お知らせします。
来春まで開催ですので、帰県の際にはぜひご覧下さい。もし、この間にHPを更新する事がありましたら、末尾に添付紹介下さい。
合田展を鑑賞した山本さんの立派な評論が届きましたので、本人に少し作品画像を付けてHPに投稿するように、依頼しておきました。
また、龍馬最後の帰郷展のチラシもデータが届きましたので添付します。
中城正堯
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 向陽新聞35号(昭和32年) |
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いい機会ですから、合田さんの新聞部時代のご活躍の一端をご紹介いたしたく、添付の画像をご覧ください。
タコこと片岡敏先生(国語)のお宅訪問・インタビュー記事です。高校一年生とは思えない文章です。合田さんは、プロになってから、絵画だけでなく「ナイルのほとりで」(朝日新聞出版刊)、「90度のまなざし」(港の人社刊)などを著していますが、文才の萌芽がうかがわれますね。
公文敏雄
モンマルトルからパリを考える竹本修文(37回) 2022.11.12
 筆者近影 |
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3年前に「最後のイギリス旅行」をして、シリーズでKPCに投稿をしながら、密かに「最後のフランス旅行」を考えていましたが、コロナで断念して自宅軟禁状態でいるうちに、体力が衰えました。
フランスに関しては、城郭シリーズで投稿しましたが、10月11日にサクレ・クール寺院がフランスの重要な歴史的モニュメントとして正式に登録された事を10月15日付のNew York Times国際版で知り、「今頃になって、一体何が起きたのか?」 疑問をもち、過去の疑念や周辺の歴史的な事を含めて調べたので余談を含めて報告しようと思いました。
明治政府はイギリスとフランスから教わろうと決めて準備してきたが、普仏戦争でフランスが敗れ、フランスに代えてドイツから教わる事になり、混乱した事は勉強しましたが、それでフランスがどうなったか、勉強した事がありませんでした。
また、パリ・コミューンも勉強した事が無く、「世界初の労働者自治政府であり、ヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。」重要な事件だった事を知りました。
カール・マルクスがロンドンの大英図書館で勉強して資本論を書いた事は有名で、ロンドン駐在時の自宅近くのハイゲート墓地に彼のお墓があり日本からの訪問者を案内した事でしたが、苦手な分野なので、忌憚のないコメントを賜りたくお願いします。
モンマルトルからパリを考える
 1.はしがき 2. パリの中のモンマルトルの位置 |
 3. サン・ドニ Saint Denis |
 A サン・ドニ・バシリカ(大聖堂) |
 サン・ドニ・バシリカ |
 サン・ドニ・バシリカ |
 5. サクレ・クール寺院 ( Basilique du Sacre-C?ur de Montmartre) |
 5.2022年10月15日付 New York Timesの記事の要点 |
 補足 |
 参考図 パリ市内北東部 |
 参考図 ペール・ラシェーズ墓地 |
 モンマルトルからパリを考える PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大) |
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竹本様
サクレ・クール界隈の歴史探訪記、さっと拝見しましたが、写真が豊富で楽しめます。
ただ、今は最後の本の最終入稿と、最初の部分の校正戻しで、全く余裕がありません。いずれゆっくり拝読します。
何度かあのあたりは散策しましたが、墓地と少し残っいるぶどう畑から、昔はパリ郊外の畑と墓地の村だったのが、安くて暮らしやすく、若い芸術家が住み付きさらに歓楽街に・・・等と夢想していました。
中城正堯
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皆様の貴重なコメントに従い、主題に関する所は大きくは変えず、参考資料を増やしました。
私は、コロナで最後のフランス旅行が出来なかったので、過去の資料で自分の整理に役立ちましたが、KPCの皆さんに、「これを参考にパリへ行ってください」とは言いにくい環境ですね=?
明治初期に、カンパニーの英語に対する日本語を会社にするまでに大変な議論があり、江戸時代の組のままの大林組とかありますよね〜?
最も難しかったのが、社会と言う言葉だったそうですが、パリ・コミューンこそが当時の世界で初めて実践したのですね=? 社会主義の始まりですね〜〜?
勉強になりました。 まだまだ、ご意見があればお伺いしたく思います。
ノンポリの 竹本修文
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サンドニとは懐かしい地名が話題になっています。もう50年近く前のことですが、フィレンツェに留学していた時代の最初のクリスマス休暇の時、ユーレイルパス(乗り放題の列車が宿泊所)を使ってヨーロッパ各地を回っての貧乏旅行をした際、最後にたどりついたのが、サンドニ通り(娼婦街)にあった友人のアパートでした。勿論、お金のない高潔な青年とは縁のない世界で、建築史上ゴシック建築の初期の傑作と言われるサンドニ修道院の聖堂を見るために訪れた街です。朝のバケット(フランスパン)を手に入れるために出かける度に足を運びました。もうすっかり変わってしまったことでしょう。また訪れてみたい地区です。
遠い昔を思い出しました。ゴシックで建築史上有名な聖堂を3つ上げるとすれば、サンドニ(仏)、ケルン(独)、ミラノ(伊)だと勝手に考えています。皆さんは行かれましたか?そのうちの一つが取り上げられています。
藤宗俊一
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 Duomo大聖堂 正面外観(Milano)1386-500 ゴシック |
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はい、3聖堂に行きました。
@ ミラノは1981年に初めてコモ湖畔のヴィラ・デステHOTELで一週間会議があり、仲間と修繕中の最後の晩餐を見に行って、ドーモの屋根の上まで登りました。フィレンツエを中心に北フランスから始まった新しい建築を、イタリアを襲った野蛮なゴート族のような建築だ!と笑って、ゴシックと名付けた徒いうのは本当でしょうか?フィレンツエは敵対していたミラノが採用した事で動揺したと聞いた事があります。
 Dom 鳥瞰(Koln)1248-1560 ゴシック |
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A ケルンは翌1982年に家族でロンドンから船・鉄道でウイーンまで旅行した時に聖堂の中に入りました。その後はベルギーからアーヘン、ヂュッセルドルフ、ボン付近を頻繁に列車で行き、聖堂は車窓から良く見えましたが、中へは家族旅行の時だけです。
 Abbey Church 身廊(Paris,St.Denis)1140 |
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B サンドニが一番後ですが、デイープに見ました。
西ゴート族は北イタリアから、5世紀にバルセロナに移動し、ローマ人の後で住み着きました。
サン・ドニへ初めて行ったのは、仕事が終わり一日余裕ができた時に、ホテルで有名なマルシェを聞いたら、スンニ・バシリクを勧めてくれたが地ミスボラシイ車両もボロだが、乗客がぼろ?と言わないが、ミスボラシイ人達ばかりで若干恐ろしさを感じた事でした。
小塚原の処刑場跡を観ようと山谷を歩いて居たら、歩いて居る人も路上生活者も恐ろしく感じて速足になった事だったがサン・ドニの教会とマルシェ以外の狭い路地は汚かった。最後は08年だったがきれいになっていた。
長話しました。失礼します
竹本修文
タウンレポート
城址公園・足助城(豊田市)冨田八千代(36回) 2022.11.29
 筆者近影 |
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KPCのHPから、数年前から少し近辺の「お城」や「お城址」に興味を持つようになりました。直接、西内さんにお話を伺ってから、初めて『日本100名城公式ガイドブック』をはじめ4冊を手にしました。(こんな有様です。)
以前よりも、市内の「お城址」を意識をしています。今まで何度も通り過ぎていた所に城址をみつける(気づく)こともあります。10月に行った「市場城」もその一つです。
道端の小高い丘の中に立派な城址が広がっていて驚きました。もっと山奥に知人宅があり、50年も前から、すぐ側の道を車で通ていたのに、お城のことは思ったこともありませんでした。看板も見過ごしていました。地域の方々の手できれいに整れされていました。初めて「竪堀」を知りました。
また、11月には中津川市の苗木城に行きました。これは偶然です。紅葉を見に連れて行ってくださる方が、とちゅうで今日は曇って来たからと、急遽、行先をかえられたのでした。確か本に出ていたと、帰ってすぐに開きました。続日本100名城に選ばれていました。
以下は皆様とは関係がありませんが、添付文書をお贈りします。専門家の皆様にお送りするのは、冷や汗物です。とにかく、お城について書いています。
豊田市の広報誌に私の足助城紹介の文章が出たのです。2011年のことです。これに応募したのは、合併前の旧町村にそれぞれ歴史資料館(のような物)があるのでそれを紹介したかったのです。そうしたら、「足助城」を指定されました。城の知識もないままに書いたものです。
ぱっと見ても「天守閣」は間違いです。これは中城さんの著述の中に「天守閣」ではなく「天守」とありその時に、初めて気づきました。(「天守閣」は大阪城だけ)それから、「発掘調査によって……全国でも初めて」と断定して書いたのは何を根拠に書いたかも記憶にはありません。
 豊田市広報タウンレポート『城址公園・足助城』 |
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いつもながら、素晴らしい行動力と、そのレポートに感心するばかりです。
それほど年齢は変わらないのに、驚きです。
中城正堯
文筆活動で一隅を照らす。いいですね。
公文
「中城家の離れ」を史跡指定に
龍馬 最後の帰郷展」を見て冨田八千代(36回) 2022.12.11
 筆者近影 |
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この企画展「龍馬 最後の帰郷―坂本家と川島家・中城家―展」は『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』(中城正堯著 2017年発行)の第1章に関する部分なので、ぜひ見たくなりました。見るなら学芸員の解説の聞きける日にと注目すると、11月26日と来年の1月14日しかありません。今回の企画展はどうしても解説を聞きたいことと1月は寒くなるからと、まわりに強調して一人で出かけました。
龍馬 最後の帰郷展」を見て