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2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで

2010.07.31 中城正堯(30回)  学校再建と民主化への熱気伝える
2010.07.31 永森裕子(44回)  総会・懇親会開催
2010.08.22 永森裕子(44回)  高知支部立ち上げ顔合わせ会
2010.08.26 岡林敏眞(32回)  「画柳会」展覧会への御案内
2010.09.05 岩口智賀子(45回)  改名届け
2010.09.05 山岡伸一(45回)  高新連のこと
2010.09.06 濱崎洸一(32回)  近況報告
2010.09.06 岡林幹雄(27回)  宇田耕一先生の大恩
2010.09.15 細木大麓(27回)  卒業秘話そして折々の恩師たち
2010.09.27 岡林哲夫(40回)  キンドルDXで「向陽新聞バックナンバー」を読む
2010.10.05 岡林哲夫(40回)  筆山へ新『向陽プレスクラブ結成』を掲載
2010.10.05 高新連HP、斉藤  拝読しました。
2010.10.10 細木大麓(27回)  向陽新聞創刊の頃(メモ)
2010.10.12 藤宗俊一(42回)  土佐、6年ぶり四国大会へ
2010.10.15 永森裕子(44回)  第二回幹事会議事録
2010.10.17 中城正堯(30回)  猫の皮事件とスト事件のなぞ
2010.10.25 細木志雄(2回)  苦言一束
2010.10.25 細木志雄(2回)  續苦言一束
2010.10.25 鍋島高明(30回)  『岩崎弥太郎−海坊主と恐れられた男』
2010.12.08 岡林敏眞(32回)  中学入試問題の漏洩と生徒の同盟休校

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで
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向陽新聞に見る土佐中高の歩み@
学校再建と民主化への熱気伝える
中城正堯(30回) 2010.07.31

筆者近影
 『新聞向陽』の名で学校新聞が創刊されたのは、戦後の新学制により昭和22年に新制土佐中、翌年に新制土佐高校がスタートして間もない24年3月であった。翌25年には早くも第6号を刊行、紙面も従来のタプロイド版から一般紙のサイズとなり、第9号から『向陽新聞』と改題する。当時、旧制土佐中は戦火で校舎を焼失、川崎・宇田ご両家からの多額の拠金も戦後インフレで価値をなくし、廃校の危機に立たされながら、三代校長・大嶋光次のもとで人材育成という建学の精神を日本再建に結びつけようと、懸命の努力を続けていた。この連載では、戦後の母校発展の跡を『向陽新聞』の紙面からさぐってみたい。(文中敬称省略)
創刊のいきさつと紙面
 戦前は教育も国家統制のもとで皇民教育や軍事教練が強制されたが、戦後は米軍の占領下で教育の民主化がはかられた。六三制で中学までが義務教育になり、男女共学が打ち出された。大嶋校長は他の私学にさきがけてこの潮流を読み取り、中高一貫の男女共学に転換、定員も大増員に踏み切った。学園民主化の柱としては生徒会の設置と、生徒の自由参加によるクラブ活動(部活)の奨励があった。部活の中でも新聞部は、生徒の自主的な報道言論機関として学園民主化の重要な役割を担うこととなった。
 敗戦時の土佐中生は県内各地で集団生活をしており、山崎和孝(26回)など1年生は高岡郡尾川村にいた。やがて高知市池の浦戸航空隊跡(現・高知女子大や高知医療センター)から兵舎の払い下げを受け、生徒一同も協力して運び、なんとか仮校舎を建てた。それと同時に部活が始まり、野球部・園芸部・文芸部・絵画部など続々誕生した。高1になった山崎が同級の西原道夫たちと新聞部創設を考えていた頃、中3の細木大麓・岩谷清水・岡林幹雄(27回)も同じ思いであることが分かり、一緒になって結成した。

 創刊号のトップ記事は「創刊に際して 大嶋光次」である。校長は日本再建に教育の民主化が重要なことや、個人の自由・学徒の意志反映による学園の明朗化、自治会の強化に触れつつ、「新聞向陽の発行の議が起り全生徒から自由に責任ある投稿を募って一般に紹介…せんとする事は確かに学園民主化の一方法であると信じて疑わないが、新聞は社会の報道機関であるとともに其の属する社会の指導機関でもあるという責任を忘れてはならない」と述べている。隣に「救い難い敗戦気分」の記事があるのも時代の反映である。
 論説は「学校生活に活気をもたせよ」で中3細木大麓、コラム「ひとりごと」は高1山崎で「高知女高(現丸の内高)と高知高(現追手前高)の自治会が二校合併を陳情」などの秘話が出ている。中2酒井芳美のエッセイ「小さきもの」には、早熟ぶりがうかがえる。高1山村泰造は「プロ野球展望」を堂々と論じている。「詩と俳句」から「笑話」まで掲載され、報道論説と文芸の総合紙であり、イリキ眼鏡店や哲学の店・田所文具店など、広告もしっかり集めてある。
 昭和24年7月発行・第3号のトップは、「苦心の結晶われらの新校舎遂に落成」である。木造二階建新校舎落成式から、感銘深い挨拶として「時代の波にのれ そしておぼれるな」という、阿部孝旧制高知高校長の言葉を紹介している。落成式で表彰された町田義隆氏(工務店主)は「バラックを兵営跡から持ってくるのに走り回り、木材を手に入れるために大栃の営林署に校長と行った」と、さらっと語っている。後に掛水俊彦(24回)は、「大工の棟梁の姿で連日采配をふるった町田さんこそ隠れた功労者」と述べている。阿部の名言や隠れた功労者をきちんと取上げたのは、当時の編集者の見識であろう。また、国立大学設置法案反対の風潮に流されてストに突入した生徒会の「苦い経験」への反省記事もある。筆者も入学間もない頃、教室に先輩が来てアジ演説をした光景を覚えている。
学校ジャーナリズムの開花
 昭和25年頃に新聞部で大活躍をしたのが岩谷清水であり、山崎は「彼はジャーナリズムのセンスに充ち、校内の事件を拾ってきてはジャーナリスティックに取り上げた。生徒会と学校が対立したときに大記事を書いてきたが、大議論の末に少し控えめに紙面を割付けた。これが高知新聞記者の目にとまり、<この小さい扱いは何事だ。学校新聞は学校の問題を掘り下げるのが使命だ>と厳しく指導をうけた」と、述懐している。この指摘は、次第に新聞部のバックボーンとして受け継がれていく。

 創立者たちに続き、安部弥太郎(28回)や中山剛吉(29回)、さらに30回の多彩な部員が伝統を引き継ぐ。第8号からは林寛(28回・通称リンカーン)作の連載マンガ「向陽君」も始まる。安部が編集人の第11号トップは「伸びゆく本校女性徒たち」で、女子高生151名への新聞部調査から「受験先は薬学・医学が多数、将来結婚しない者26名、本校男子は不親切で利己的」など、女生徒のホンネを引き出している。「主張」(論説)も「女生徒の自覚と男生徒」と題して、5年目を迎えた男女共学を成功させる道をさぐり、さらに校外から婦人少年局高知職員室森沢女史の談話取材も行っている。二面トップの「上位を占める全面講和」は、社研部による講和問題への高校生の意識調査で、政治問題にも果敢にいどんでいる。愛称パン子ちゃんで親しまれた英語・池田起巳子先生のアメリカ招待留学決定も報じられ、やがて「アメリカだより」が登場する。
 中山編集人の第12号トップは「座談会 生徒のための生徒会」だが、「生徒会活動は民主生活の第一歩」と論じ、別項の中学生徒会の活動では通称「オンカン道路」(梅ヶ辻から学校まで、中山駸馬先生の愛称)の交通整理に取り組むことなどが報告されている。美術部と新聞部共催の「校内展」開催と入賞者を東京に派遣する企画もあり、鎮西忠行先生の「東京へはだれがゆく?」を掲載している。県下を制覇した中学野球部の富田俊夫先生は「栄光への道をうち進まん」と檄文を執筆している。この頃、文化部・運動部とも大躍進をとげつつあった。堀詰座や高知中央公民館で開催された芸能発表会では、高塚準一郎の「俊寛」、西内総一郎(北村総一朗)の「煩悩無安(平維盛)」などが市民の間でも話題になった。北村が後に大活躍する素地は、この頃から培われていた。
 大町玄編集人(30回)の第15号は、「新生日本の出発に当たって」がトップ記事で、昭和27年4月の講和条約発効に当たっての大嶋校長メッセージを掲載している。この号には、山崎・岩谷など新聞部先輩による東京支局開設が報じられ、早速「先輩訪問記」で東京同窓会の世話役を務めてきた同学社近藤久寿治社長の探訪記が載っており、独力で出版社を起こした経緯や後輩への期待が述べられている。千原宏編集人(30回)の同年11月第17号は、トップに「全校舎ついに完成 これから内容の充実だ」の文字が踊っている。開校33周年・本館落成に合わせて、「開校記念碑文」の再評価を呼びかける記事も出ている。
学校・新聞の躍進と課題
 昭和20年代後半の新聞部にとっては、文化事業の展開も忘れることが出来ない。27年には応援歌を募集、河野伴香先生の詩が入選し平井康三郎(5回)の作曲で、後に甲子園にも響き渡る「青春、わかき、血潮はたぎる…」が誕生した。これに戦前からの校歌・向陽寮歌、創立三十周年記念歌を加えた「土佐中高 歌のアルバム」も29年の講堂落成記念に刊行した。同年「四国四県高等学校弁論大会」を開き、30年からは「先輩大学生に聞く会」を開始、31年には「小学館全国児童生徒図画作品展」を中央公民館で開催した。

 昭和27年にはスポーツ新聞『向陽スポーツ』も刊行、28年には前年に続く春のセンバツ野球出場に取材記者を特派、夏には甲子園準優勝で湧く。翌29年には軟式テニスも全国優勝をとげた。向陽新聞も高い評価をいただき、29年7月には第4回高校新聞指導教官講習会で、「高二Sホーム 生徒会廃止案提出」「英語に化けたホームルーム」を扱った第22号が全国優秀五紙の一つに選ばれた。新聞部出身者と、新聞出版関係に従事する卒業生によって「向陽プレスクラブ」も結成された。33年の大嶋校長逝去の際には号外も発行された。
 しかし校舎が完成し、進学での名声が定着、野球などクラブ活動が全盛を迎えるとともに、校内にはさまざまな「ゆるみ・ゆがみ」が生じ始めていた。やがて中学入試問題の漏洩と同盟休校という大事件が発生し、新聞部も真価が問われることになる。(以下次号)

<補記>創刊当時の事情については山崎和孝さんからメモをいただいたが、字数に限度があって十分には活用できなかった。いずれ、山崎・細木の両先輩から、このHPに寄稿いただきたい。また、占領下ならではの記事としては、第11号に「総司令部新聞出版課長インポデン中佐と安部新聞部長が懇談」とあるが、これも割愛した。昭和20年代の向陽新聞には、占領から独立への時代に揺れ動く戦後社会を反映した貴重な学園生活の記録が残されている。向陽プレスクラブの準備会によって向陽新聞バックナンバーの電子化が進んでいるので、ぜひこれらの記事を活用いただきたい。また、記事に出来ず胸の奥にしまい込んだままの事件も、いずれ紙面の背後から浮かび上がらせたい。(中城記)
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新生「向陽プレスクラブ」総会及び懇親会議事録
総会・懇親会開催
永森裕子(44回) 2010.07.31
司会進行:岡林敏眞 議長:中城正尭 書記:永森裕子
●(文中敬称略) 議論噴出の議事録詳細は別紙PDFファイルをご覧下さい。
1.日時 平成22年7月25日(日) 総会:午後1時−午後2時半 懇親会:午後2時半−4時半
2.場所 アルカディア市ヶ谷 7階 吉野の間
3.出席者  総会16名  懇親会17名
 岡林幹雄(26回) 大町玄(30回) 中城正尭(30回) 横山禎夫(30回) 岡林敏眞(32回) 吉川順三(34回) 岡西滋夫(35回、懇親会のみ) 森田隆博(37回) 黒木健司(37回) 岡林哲夫(40回) 鶴和千秋(41回) 藤宗俊一(42回) 加賀野井秀一(44回)永森裕子(44回) 中井興一(45回) 宮川隆彦(46回) 水田幹久(48回)
WANTED   懇親会の様子は下の画像をクリックして下さい。
土佐向陽プレスクラブ
時間がたつのが早く、全員撮影などすっかり忘れていました。藤宗(42回)
以下、4から7の事項は、岡林敏眞作成の総会議案書にそって検討された。
4.準備会からの経過報告
 岡林敏眞より報告。一年半以上前、活性化の話が再燃。35回公文敏雄尽力で元向陽新聞部員の名簿作りに着手。今年3月より、有志で2,3回準備会を行う。会の活動内容、会則、ホームペ−ジの立ち上げなど、を相談。また4月に岡林敏眞が土佐高を訪問。元土佐高教員の門田美和氏(38回)の協力の下、図書館に保存してあった向陽新聞を調査/確認。目下電子化保存の作業を高知の業者に依頼する同時に未保存の号を探索中。
5.議長選出 本日の議長として中城正尭を選出。
6.新生向陽クラブ入会者 41名(7月25日現在)、本日の総会出席者は16名、委任状数は25名。よって、会員の過半数の議決権数に達し総会は成立した。これにより、議案は出席者の賛成多数であれば可決されることになる。
7,議案審査
第1号議案 向陽プレスクラブ会則の制定
 会則の要旨を岡林敏眞が説明。以下の様に多岐に渡る活発な意見が続出した結果、改正案を全員一致で承認。
第2号議案 会長の選挙
 『準備会では、中城正尭氏を「新生向陽プレスクラブ」の会長に推薦したい』という岡林敏眞よりの提案があり、全員賛成。これにより、会長は中城正尭氏と決定。
第3号議案 役員の承認
 会計 中井興一(46回)
 幹事 岡林敏眞(32回) 吉川順三(34回) 公文敏雄(35回) 森田隆博(37回) 黒木健司(37回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 永森裕子(44回)  宮川隆彦(46回) 水田幹久(48回)
第4号議案 向陽プレスクラブ細則制定の件  
 「年会費は、2000円、5年分まで前払いは可能。途中入会であっても一年分を徴収。入会希望者は口座に振り込む事とする。会の活動に関しては、 向陽新聞の電子化作業やホームページの立ち上げ等を行っている。」との岡林敏眞よりの報告の後、以下の様な活発な意見の交換があった。全員拍手で、細則制定の可決。
第5号議案 平成22年度活動計画案及び予算案の承認
 藤宗より「ホームページの整備・運用」についての説明をする。その際「会員名簿には、入会登録した人のみを掲載。新聞部出身者名簿は公開しない。」という補足説明があった。           
 岡林敏眞より、年一回ホームページでの会報の発行を考えている事、予算案に関しての説明。会計年度は、4月1日より3月31日とする。
 岡林幹雄よりの、口座は誰の名義か、法人口座を作るのはむずかしいのではないか、との質問。口座は昔、向陽プレスクラブ名義で作ったものを使用する。第5号議案を承認。
 会長挨拶の後、午後2時45分に総会閉会。承認された向陽プレスクラブ会則・同細則はここをクリックしてご覧下さい。
懇親会
 引き続き吉野の間で、中華円卓を二台囲み懇親会。若手より自己 紹介。午後4時45分終了。
懇親会の様子
幹事会。
以下の件を決定、及び確認。
@顧問=岡林幹雄氏が細木大麓氏と相談の上、就任を承諾するかどうかを中城氏に連絡する。
 幹事長=岡林哲夫
 会計=中井 名簿担当=公文 ホームページ担当=藤宗 高知担当=森田、黒木、宮川 若手担当=水田 書記担当=永森
A筆山次号の「向陽新聞に見る土佐中、土佐高の歩み」の執筆者は岡林敏眞、その次は、吉川順一。
B東京で春、高知で秋に懇親会を開く。なるだけ早く案内をして参加者をふやすことに努める。今年秋に懇親会を高知で開く。
C懇親会の案内は、主としてメールで行う。
D会計中井よりの報告、本日の懇親会は7000円の赤字。
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高知支部立ち上げ顔合わせ会
永森裕子(44回) 2010.08.22
 暑い日が続きます。皆様お元気でお過ごしのことと思います。
 昨日、向陽プレスクラブの高知支部立ち上げ顔合わせ会が行われました。高知担当の宮川さんに変わりまして永森が簡単に御報告させて頂きます。
 日時 8月21日午後5時半より  
 場所 追手筋、うめ丸 (宮川さんがお知り合いの30歳を少し過ぎた大そう美しい女性がオーナー!)
 出席者:森田隆博(37回) 井上晶博(44回) 永森裕子(44回) 山岡伸一(45回) 岩口智賀子(45回) 宮川隆彦(46回)
 自己紹介の後、終始楽しく語らいました。特に、中城さん、岩谷さん、岡林敏眞さん等にお世話になった全国高校生新聞連盟で上京した時の話を、井上、山岡両氏が克明に記憶しており、当時を懐かしんだ次第です。
 また土佐高に残っていた向陽新聞の保存版は、部室に残されていた古いボロボロになりかけていた新聞を44回、45回生が井上氏の音頭のもとコピーし学校に残してきたものとの話題がでました。
 宮川氏より、46回生の同期も高知支部参加を表明しているとの話、森田先輩の良い仲間を大事にして頑張ろう、との話の後、今秋11月ごろを目安に、高知で向陽プレスクラブの集まりを開く事を誓い、散会しました。
 後、一部は二次会で44回生がこの春から始めた中央公園交番脇の道のつきあたりの店、BPに流れ、暑くて長い高知の夜を楽しみました。
 ちなみに、高知では44回生がこの他にも、グリーンロード角二階で「赤のれん本店」、電車通り沿い蓮池町界隈で「炭丸」と、お店を頑張っております。高知へ帰ってお店探しの際には是非参考になさって下さい。
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「画柳会」展覧会への御案内
岡林敏眞(32回) 2010.08.26
向陽プレスクラブ会員の皆さんへ
 土佐高32回生の岡林敏眞です。新聞部のOBです。 
 毎日、猛暑が続きます。9月になってもまだまだ厳しい暑さが続くと予想されているのに、こんなご案内をするのは大変恐縮ですが、私が所属している「画柳会」(がりゅうかい)という絵画同人会の展覧会のご案内をさせていただきます。画柳会は私が小川博工画伯と立ち上げた会でして、もう20年以上続いている会です。毎年、銀座で同人展を開催し、今年も下記要領で開催することになり、私も油彩を7点ばかり出品しています。
 私は、毎日会場にいますので、ご都合がつけばご来場ください。
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改名届け
岩口智賀子(45回) 2010.09.05
 かわいい(?かった)チカちゃんから力ずくのお手紙が届きました。怖いので一字一句変えずに掲載します。下の写真をクリックして下さい。

心優しいチカちゃん
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高新連のこと
山岡伸一(45回) 2010.09.05
その1(昭和42年)

 確か中三の時に同学年で同じ後免から土電で通っていた川田(現岩口)智賀子さんに誘われて、元々興味はあった新聞部に入部したのだったが、中二からやっていたバドミントン部との掛け持ちの身ではあり、大勢の先輩たちもみんなエラク見えてなんだか敷居が高く、中学時代はあんまり部室に出入りしていなかった。しまいに、このままでは中途半端だからバドミントンか(バドミントンも下手くそだったが)新聞部かどっちかに絞ったほうがよくはないか、やっぱり新聞部を辞めようと心を固めていたら、高一になってみると、川田智賀ちゃんはじめ奥田(現濱川)弘子さん、田中(現辻田)多恵さん、中井興一君、和田満子さんら、新聞部に先に入って大勢いた同級生らがみんな辞めてしまって自分一人になっているということだった。人を誘っておいて自分がさっさと辞めてしまうとはひどい話だが、それで一年上の井上晶博さんに、新聞部の命運はお前にかかっちゅうがやきお前を辞めさせるわけにはいかん、バドミントン部を辞めて新聞部に残れ、とかき口説かれて、結局新聞部に留まることにしたのだった。
 そしたら昭和四十二年、高一の夏、東京で開催される高新連(全国高校新聞連盟)の第十八回定期総会に行かせてもらえることになった。学校から認められたのは四名で、高二の井上晶博さん、松本(現永森)裕子さん、中村(現川野)恵子さんの三人に本来なら加賀野井秀一さんが行くところを、「僕は自分で行くき君が行きや」と譲ってくれ、高一の自分を行けるようにしてくれたのだ。初めての東京行きである。
 引率は副顧問の国語の田村(現矢野)尚子先生で、山陽新幹線はまだなかったので宇野から寝台特急で行ったと思う。宇高連絡船からの乗り換えの混雑の中で早速スリの洗礼に遭い、宇野で気が付くと腰のボケットに入れていた財布がなかった。

 東京に着いて国電に乗り替える時、電車の乗降口がみんなホームと対々なのを見て、わざわざ電車とホームの高さを合わせて作っているのかと、土電のよっこらしょと上がる電車しか知らない身には第一のカルチャー・ショックだった。
 宿舎の、御茶の水だったか水道橋だかの旺文社の日本学生会館に入ってから、みんなで散歩がてら東大の赤門を見に行こうということになって出かけた。加賀野井さんとはいつ合流したか記憶がないが、この時には一緒だったように思う。赤門をくぐって三四郎池の辺りまで散策してから、赤門の向かいの路地を入ったところにあった洋食屋(というかレストランというか)で食事をとり、この時食べたポークチャッブだかチキンソテーだかが、これまで食べた初めてのちゃんとした洋食だったような気がする。
 それからさらに歩いて忍ばずの池のほとりに出、茶店でかき氷を頼んだら、器の底に蜜があって、底のほうから突き崩しながら食べねばならず面倒で、東京のかき氷はこんなんかと、これが第二のカルチャー・ショックだった。

 総会の会場は早稲田大学だった。この頃はまだ学生運動に火がついておらず、構内はのどかなものだったが、大学で会ということでなんだか大人びた気分に感じられた。総会のほか分科会というのもあって、みんなと離ればなれになり、発言を求められたらどうしようとハラハラで、肝心の会の内容はさっぱり覚えていない。
 会の後の空き時間には大先輩の岩谷清水さん(二十七回生)がお世話下さった。高田馬場で落ち合って、有名人も来るというレストランでご馳走になって(サラダがとてもおいしかった)、松本さんたちのリクエストで、夜新宿の歌声喫茶に連れて行ってもらった。
 食べ物のことばかりよく覚えていて、この間(平成二十二年八月二十一日)の高知支部立ち上げ会でも川田智賀ちゃんに「ひもじかったがやろ」とちゃかされたが、ずっと後年赤門前と高田馬場の店を探してみたが、様変わりしている感じでわからなかった。

 さて、二学期の始業式で、夏休み中に学校の費用で「遠征」に行ったクラブはその報告をせねばならず、どうしてだか、どうも井上さんにうまく回されたに違いないのだが、新聞部は自分がやるはめになり、それで思わぬ大失敗をやってしまった。何構わず「高新連の総会に(加賀野井さんを含め)五人で行って来ました」と言ってしまったのだが、後で顧問の小松博行先生が部室に見え、学校が認めたのは四人のはずだが五人と言ったぞ、と職員会議で問題になり、田村先生が大変窮地に立たれたことだったので、お詫びを言っておくようにと言われ、青ざめた。(改めてお詫び申し上げます。大変ご迷惑をおかけしました。)
 写真はもっと一杯撮ったはずだが、アルバムには自分に関係したこの四枚を含め五枚しか張ってなく、他には残念ながら残ってない。実は、戻ってから先輩たちを撮った写真をそれぞれにあげた時、松本さんに「ネガをもらえない?」と言われ、なぜ?とは思ったものの、ほっそりした美人の先輩の魅力に眩まされてあっさり差し出してしまったのだ。そしたらこの間の立ち上げ会で、「あの時の、三四郎池の脇の木の横に立ってる写真だけしかアルバムに張ってなくて、それしか写真残ってないの。あれ、誰が撮ってくれたのかしらね?」と松本さん──「僕ですよ!」と言いつつ、「それならあのネガは一体…?」と、あっさりあげてしまったことを深く深く悔やんだ。
その2(昭和43年)

 昭和四十三年、高二の夏、また高新連の第十九回総会に行かせてもらうことになった。高二の自分と高一の藤戸啓朗君・宮川隆彦君の三人で、引率は新顧問の平岡竹彦先生だった。高一にはもう一人吉川寿子さんがいたが、三人しか認められなかったのか、女子一人ということで吉川さんが尻込みして辞退したからか覚えていない。この年のは、しかし、ネガは自分で保管してあるので、写真はたっぷりある。
 七月二十七日に出発して、前年と同じく高松から連絡船で宇野に渡って寝台特急で行ったと思うが、今度は宮川君が掏られたらしく、財布がなくなったと言って騒動になった。帰りは歩いて帰ると言い出して往生した。

 宿舎はこの年は九段会館で、さすがに女子は別室だったと思うが、男子は写真のように広間で事実上雑魚寝だった。窓から武道館が見えた。
 総会の会場はこの年も早稲田大学で、七月二十九日から三十一日まで開催された。この年は学生運動真っ盛りのはずだったが、構内の到る所に色々な立て看板が見られ、密かに興奮をおぼえたものの、構内は割と穏やかだった。考えてみれば、この年よく会場に早大が借りられたものと不思議に思うのだが。
 首都圏の高校生たちは相当進歩的な趣だったが、自分も少しは度胸ができていたので、総会でも分科会でも少しばかり発言もし、宮川君も発言した。ところが、前年同様会の内容については、自分が何を言ったかも、まるで覚えていない。

 会の前後の空き時間には、またもや大先輩の岩谷清水さんにお世話になった。ちゃっかり、何でも岩谷先輩を頼れという「伝統」ができていた。また、日大の芸術学部に入られていた四十三回生の山口俊二さんも駆けつけて下さった。
 到着した二十八日に早速山口さんと一緒に新宿で岩谷さんと落ち合い、西大久保の岩谷さんの仕事場に案内された。本棚には本がびっしりで、いかにも書斎といった趣で、興味津々だった。
 同じく新聞部の先輩で、中城正堯さんや岡林敏真さん・松木さんらが働いておられる「学研」こと学習研究社を見学させて下さるということで、翌々日三十日の会の後山口さんと落ち合って、一緒に大田区上池上の学研本社を訪ねた。この時の写真に岩谷さんは写ってないので、自分たちだけで行ったものらしい。またこの時、知り合いになっていた高松高校の樋口君が一緒に連れて行ってくれないかと言ったので同行した。

 着くと、中城さんが地下の社員食堂から写植室・写真資料室や企画資料室、「学習」や「科学」の編集室などを案内して下さった。中城さんは「四年の学習」、岡林さんは「三年の科学」、松木さんは「フェアレディ」の編集を担当しておられるということだった。松木さんのデスクへ行くと写真撮影のためにポーズを取って下さった。写真資料室では中城さんがオーストラリアへ取材旅行に行かれた時のカラーポジフィルムを見せて下さった。オーストラリアのどこへ何を取材に行かれたのか、など具体的な事を質問すべきだったが、ただもう夢中で、新聞部員の心得などすっ飛んでいた。「学研」という大出版社に土佐高新聞部の先輩が三人もいらっしゃるという

ことに感激し、誇らしかった。
 見学の後は大徳飯店という中華料理店でごちそうになった。
三十一日の会で閉会となり帰途につくことになったが、財布を無くした宮川君は、旅費は平岡先生が立て替えて下さることになったが、一人で帰りたいと言い張って別の経路で帰ることになり、藤戸君と先生と三人で予定の列車に乗った。
 岩谷さんには最終日の帰途につく前、新大久保あたりのガード脇の、熊の毛皮を飾ってある居酒屋みたいなところでまた御馳走になった記憶があるが、この年のことか前年のことかはっきりしない。

 高松高校の樋口君とは奇遇にも、自分が阪大に入ってから再会することになった。同じ法学部に高松高校から来ていた女の子がいたので、新聞部にいた樋口君という人と知り合ったが知らないかと聞いてみると、彼女の友達で、やはり阪大の文学部に入っていると教えてくれて、引き合わせてくれた。宮川君は静岡などに寄り道しながら帰ってきたそうで、その道中で知り合った人といまだに交流が続いていると、この前の高知支部立ち上げ会の時語っていた。
 さて、充実した体験だった「学研訪問記」を向陽新聞に掲載します、と約束して帰高したのだったが、見学の間メモも取ってないおそまつさで、具体的な細部がどうにも思い出せず、ペンが進まずに悶々としているうちに記事にできないまま終わってしまい、岩谷さんからきついお叱りの手紙をいただいた。ここにも掲載した数多くの写真を見るにつけ、記事にしていればきっといい紙面ができていたに違いないのに、と今もってほぞを噛む思いである。先輩方には改めてお詫び申し上げます。
 前の年といいこの年といい、お詫びで終わる情けない回想記である。








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近況報告
濱崎洸一(32回) 2010.09.06

 32回生濱アです、山岡さんの記事、楽しく読まさせていただきました、懐かしい名前がたくさん出て感慨ひとしおです。
 小生相変わらず日本水泳連盟に関係しており、シーズンは(昔は夏だけ)ほとんど年中大会か゛あり9月9日からは千葉で国体が始まります。
 設立総会には出席できませんでしたが、大町さん!小生元気にしてますから。極力会には出席しますので…。
 本会のますますの発展を祈ります。編集室のみなさんご苦労様です、これからもよろしくお願いします。
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宇田耕一先生の大恩
岡林幹雄(27回) 2010.09.06
「君は大学へ行きなさい」
 あれは、いつのことだったのか。高三(昭和26年)の何月の出来事だったのか。大事なことなのに思い出せない。

筆者近影
 ある日、私は電車通学の仲間と一緒に下校し、播磨屋橋の停留所で待っていた。後免行きの電車が来たが、停留所ではなく、高知駅方面への進入線路で停まり、車掌が「この中にスリが居るらしいので、警察の調べが終わるまで、誰も乗下車できない」と告げた。仕方なく次の電車を待っていると、級友の一人が息せき切ってやってきた。確か自転車を飛ばして来たように思う。「おい、おんしゃー何ぞ悪いことをしたろう。校長が、急いで探してこいと言いゆうぞ」とのこと。心当たりはないものの、急いで引き返し、学校の隣の大嶋校長宅へ伺った。
 玄関で案内を請うと、校長が出てこられ「少し待て」とのこと。暫くすると、宇田耕一先生が出てこられた。学校創立者のご令息ということは存じ上げていたが、先生とお会いするのは初めてで、むろんお話するのも初めてであった。「君が岡林君かね」「はい」「そうか。話は聞いた。君は大学へ行きなさい。僕が生活費も、学費も全部面倒を見るから、心配しないで大学へ行きなさい。合格したら、大阪の淀川製鋼所社長室へ連絡して下さい」とのお話。一瞬訳が分からなかったが、「有難うございます。よろしくお願いします」と言うのが、やっとだった。先生は「ちゃんと合格して下さい。連絡を待っているから」と言われると奥の方に入られた。その後校長から「もう帰ってよい」とのことで退出した。 (宇田先生が学校理事長に就任されたのは、昭和27年1月30日だから、それ以前の出来事である)
 私の家は、父が陸軍士官学校出身の職業軍人で、フィリッピン派遣(第14方面軍)の野戦補充司令部司令官代理として、昭和20年5月戦死したが、敗戦後の混乱と情報の遅れから、小学校卒業までには戦死の公報が届かず、父の死を知らぬまま、土佐中学(旧制)に入学した。もし母子家庭になっていたことを知っていたら、土佐中に入らず、県立の中学を受験していたかも知れない。戦死の公報が届いたのは、中一の2学期だったと思う。そういう事情だから、母の収入だけでは、都会の大学進学の可能性は非常に乏しかったと言わざるを得ない。(軍人遺族扶助料は、当時進駐軍の命令で停止されていて、復活したのは確か昭和28年頃からであったと思う)就職する場合のことも考え、選択科目で簿記や珠算もとったが、一方では大学進学したいとの思いもあり、他の学友同様受験を前提とした勉強にも取り組んでいた。
生活費・学費を全て支給

 そこへ前述の宇田先生のお言葉である。嬉しいと思うと同時に、絶対に浪人は出来ないと覚悟し、一橋大学を受験することに決めた。昭和27年は、どういう訳か一橋の経済学部は志願者が激増し、競争率25.5倍であったが、幸い合格することが出来、淀川製鋼所社長室へ合格した旨連絡したところ、今後のことを話したいから来てくれとのこと。伺うと「東京支社長と経理課長に全て話してあるから、毎月はじめに一ヶ月分の必要額を、生活費・書籍代・通学費というふうに項目別に整理して明細書を出して下さい。君が要るという分は、全て渡すようにと言ってあるので、心配しないように」とのご指示であった。
 そこで昭和27年4月入学直後、淀川製鋼所東京支社長に挨拶に伺ったところ「全て経理課長に任せてあるので、今後一々私の処へ挨拶に来る必要はない。直接経理課長の処へ行くように」とのこと。経理課長に、恐る恐る明細書を提出したところ「社長から、君が必要というものは全額渡すようにと言われているので、聞いたりしてはいけないが、君こんなに少なくてやってゆけるの。遠慮せずに必要なものは言うように」とのことで、その後4年間、学年が進むにつれ、原書の購入やゼミの参考書籍代等、金額が嵩むこともあったが、明細書について質問されたことは一度もなかった。
 当時、宇田先生は政治活動の個人事務所を、淀川製鋼所東京支社ビルの最上階に開設されていて、5〜6人のスタッフが勤務していたが、そこにも毎月お邪魔し、また議員会館の事務所にも時々伺って、近況報告するとともに、政治の動きを垣間見ることが出来た。時には先生の方から呼び出しがあり、伺うと学者や言論界の人を紹介されたり、対談を傍らで聞かされたりしたが、要は見聞を広めよ、とのお気持ちからであったと思う。
 大学4年生の夏頃「淀川製鋼所に来て貰いたい気持ちは山々だが、経営上の問題で、近く労働組合に人員整理を申し入れるつもりであり、社長が縁故の者を入れたとなると、組合がウンと言わない。君は自由に就職を決めて下さい。むろんどこにしろ、僕が身許保証人になるから」とのお話をいただいた。当時就職採用試験は大学4年の10月から解禁であったが、一橋では大学の方針として、最初に採用通知のあった所に行くようにと決められていたので、播磨造船所に入社した。
 このように大学4年間、筆舌に尽くせぬ大恩をいただいたが、謝意を表す方法も思いつかぬまま、卒業論文(一橋ではゼミも必修。卒論も必修。私のゼミの指導教官は、当時学長の井藤半弥先生であった)の序章の中で、宇田先生の大恩に対する感謝の言葉を綴ったことが精一杯であった。
親子で「人を育てる」理念を共有
 宇田先生はその後、石橋内閣・岸内閣で、国務大臣・経済企画庁長官兼科学技術庁長官を務められるとともに、その間何度か臨時首相代理としての重責も果たされたが、内閣改造で昭和32年7月10日退任された。実は、退任される前から、腹が痛いと病状を訴えられ、ご家族が病院に行くよう勧めていたが「大臣として公務を疎かには出来ん」とおっしゃって、痛いながらも大臣の職責を全うされていたとのこと。大臣退任後、病院で診て貰った時には、手遅れで腹膜炎が悪化しており、昭和32年12月30日、53歳の若さで逝去された。弔問に伺った際、ご令息耕也氏から「貴君のことは父から聞いていました。病気のことを知ったら、会社を休んでも必ず見舞いに来るだろう。そんなことをさせてはいかん。決して知らせるなと言うので、知らせなかった」と告げられ、ただ悲嘆に暮れるばかりであった。
 宇田耕一先生が、面倒を見て下さったのは、ご尊父宇田友四郎氏が私財を投じて、土佐中学を創立された『人を育てる』という理念と、同じお気持ちからではなかったかと思う。

 私は昭和35年26歳の時、石川島重工業と播磨造船所の極秘合併交渉に際し、播磨側の合併交渉委員として参加し、合併を実現した。宇田先生がご存命で、このことをご報告したら「そうか。仕事をしたか」と喜んで下さったことであろう。しかし、それも叶わなかった。海外子会社役員として赴任の時や、帰国後本社役員就任の時、その他先生の年回忌の折など、墓前に近況を報告申し上げてきているが、未だに何のご恩返しも出来ず、徒に馬齢を重ねていることは、お恥ずかしい限りである。
 先生のお墓は、香南市香我美町岸本の宝橦院にある。           (合掌)
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卒業秘話そして折々の恩師たち
細木大麓(27回) 2010.09.15
KPC事務局殿
 ご依頼の「向陽新聞創刊当時の経緯」についての原稿ですが、小生現在すぐ取り掛かれる状況にありません。取りあえず、いくつかの参考になりそうな材料をお送りしておきます。 その中の、「卒業秘話そして折々の恩師たち」は、2007年に大学のクラス会の「卒業50年記念誌」に載せたもので、土佐高のこと、伊賀先生のことなどに少し触れています。
 ご依頼の原稿にはできるだけ早く取り掛かるつもりです。   細木大麓拝
* * * * * * * * * *

筆者近影
 50年前の2月初旬、その朝、必須科目である辻清明教授の行政学の試験を最後に学生時代の苦労からはすべて解放されるはずだった。ぐっすり眠ってふと目が覚め、時計を見て驚いた。試験はあと10分で終了! 下宿から走れば10分で試験場まで行けるので、もう5分早かったら名前くらい書けたのだがもうそれも間に合わない。前夜勉強の後、行きつけのトリスバーで少し飲んで気が緩んだらしい。何時もの自分にしては早い決断で辻教授の研究室へ走った。どうしていいかわからなかったが、とにかく試験を受けさせてもらう方法がないかとお願いするためだったと思う。
 教授は「就職は決まっているのか」と聞かれるとすぐ、「学部長に相談してみよう。ついて来給え」と言われた。学部長室で岡義武教授は立って迎えて下さった。そして話を聞いた後しばらく考えた上で謹厳にしかし優しく言われた。「やはり特別な扱いはできないな。将来君が偉くなったりして、そんな話は笑い話として扱われることがあるかもしれない。それは東大の権威に関わることになる」と。本当にもっともなことで自分が恥ずかしかった。そして6月に追試験を受けることになった。
 辻教授はその後、研究室で親身に考えて下さった。幸いなことに富士重工の人事担当O取締役は辻教授の大学同期であり、しかも辻教授は三高の弓道部、O取締役は一高の弓道部で旧知の仲であることがわかった。しかし今度はO取締役が苦労される番だった。社内の役員会で、「卒業していない者を入社させることは前例がない」という反対の中で大変だった話を後に聞いた。この話は本邦初公開、僕の会社では誰も知らない話だ。
 退職後数年たったこの頃、この95歳でかくしゃくとしている大先輩とは月1回の麻雀卓を囲んでいる。頭は上がらないが小遣いを頂ける時は遠慮なく頂くことにしている。
 
 ところで、僕は小学校で一度落第している。父の仕事の関係でその頃は宮崎に居た。2年生の夏、父の東京への復帰が決まり、引越の荷造りが進んでいる最中に突然妹を疫痢で失った。その葬儀の最中に今度は僕が高熱で倒れジフテリアと診断された。何とか血清が間に合い一命を取り止めたが、もし一年以内に再発すると今度は血清が効かないので命はないと宣告された。夏休みが終わった頃東京へ移ったが、僕はそのまま休学させられ翌年2度目の2年生として阿佐ヶ谷の小学校へ入学した。
 ここで設楽先生という素晴らしい先生に出会った。僕はその年始めての試みとして作られた「男女組」という共学のクラスに入れられ、その担任が設楽先生だった。宮崎の師範学校付属の小学校の硬さとはがらりと変わった自由な雰囲気だった。先生はいつも宮崎弁丸出しの僕に皆の前で本を読ませ、いちいちアクセントを直した。宮沢賢治を好きな先生で、全員が「雨にも負けず」を暗唱させられた。先生の指導で僕たちは何回かラジオの子供劇に出演し、当時NHKがあった芝の愛宕山へ通った。「水筒」という教育映画にも出演した。勉強をうるさく言われた記憶はない。僕の父が、この先生の「どうでもいいところ」がいいといつも言っていたのを思い出すが、その頃の僕にはその意味がわからなかった。
 親友も出来、女の子たちともよく遊び、楽しい毎日だったが2度目の2年生が終わった頃僕はまた病気になった。今度は肺門リンパ腺炎と診断され、結局3年生は丸々休んでしまった。しかし、また落第かと覚悟していた時、設楽先生に助けられた。「一年遅れているし、成績の方は大丈夫だから進級させていいのではないか」と先生が熱心に主張して下さったとのことで、ルール違反の進級だったが、形にこだわらない融通無碍な設楽先生のおかげだった。
 
 戦争が激しくなり僕は高知市の叔父のもとに預けられたが、まもなく高知市も大空襲で一夜にして灰儘に帰し、僕はさらに山奥の、全校生徒合わせて50人という国民学校で終戦を迎えることになる。
 翌春、旧制土佐中学に入学した。これは英才教育を目指すとして大正末期に創立された特殊な私立学校で、昔は一学年15人、県下の小学校に推薦人員を割り当てて、一週間の缶詰試験で選考したといわれる。ほぼ全員が中学4年で旧制高等学校に入学した。 僕が入学したのは空襲で全焼して校舎もない状態の土佐中学で、経営難に苦しめられて昔の面影などなかったがそれでも3日間の試験があった。入学人員は経営難を緩和するため60人に増えていた。笑わないでほしいが僕はその入学式で新入生代表として宣誓文を読み、その後も数年は授業料免除の特待生だった。

 中高一貫の6年制学校だったのでそのまま高校に進学した。ここでまた僕は一人の先生に心酔した。 新しく入って来たこの伊賀先生は赤線地帯のど真ん中に下宿しているという噂があり、何時も同じよれよれの汚い洋服を着ていた。実は東大の経済学部を出てある銀行に入ったが、組合運動で首になり、縁もゆかりもない高知まで流れて来たらしかった。ある日突然真新しい背広を着て現れた先生があまり立派だったのに驚いた記憶がある。
 先生は新しい教育制度に反対で、さらに英才教育を標榜しているこの学校の教育方針にも批判的だった。そして旧制高校ののびのびした学生生活を我々に再現させようとしていたようだった。因みに、同じ考えで伊賀先生と意気投合していたのがその後今や世界的に有名な「くもん教室」を立ち上げた数学の公文公先生だった。僕たち数人は伊賀先生を囲んで何時も夜集まった。先生の推薦してくれた岩波文庫の本を沢山読んだ。また、英語の参考書を離れ、英語の時事評論や小説の講読会をやった。 小泉信三の「初学経済原論」などというのを一緒に読んだ。時々喫茶店で駄弁るのも大人になったようで楽しかった。学校の成績は下がり、最早特待生ではなかった。
 父はこの学校の先輩で、この学校を愛していた。だから少し心配だったに違いないと思う。しかしそのことについて父は何も言わなかった。父に一貫していたのは「公式的なものの考え方をしない、型にはまらない、いろいろの価値観があることを認める」というようなところだった。
 
 僕自身高校生活に悔いは全くない。充実していたと思う。しかし、本当に趣旨がわかっていたかどうかは疑問だ。楽で、楽しい方に流れていただけかもしれない。大学には今度こそ勉強するために入ったはずだった。それをそれまでの延長で、楽しく(?)過ごしてしまったのは大いに悔やまれる。ただ、いつも大事な時期に現れた、心酔できる先生たちのおかげで、そして後押しをしてくれた父のおかげで、「型にはまらない、柔らかい考え方をしよう。そしてその中で自分の軸だけは外さないでいよう」と心がけては来たと思っている。
以上
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キンドルDXで「向陽新聞バックナンバー」を読む
岡林哲夫(40回) 2010.09.27
はじめに

筆者近影
 2010年は日本での電子書籍元年だと言われている。電子書籍自体は数年前から発表されているが、アップル社のiPadの発売が5月末に日本で開始され、アマゾン社のキンドル(Kindle)の日本語表示対応版がKindle3として8月から発売され始めたことから、専門家以外からも電子書籍に注目が集まっている。
 筆者は、本を持ち歩くこと及び小さな活字を読むことが年齢的に辛くなってきたこともあり、iPadかキンドルを購入することを検討することにした。
iPadかキンドルか

 キンドルには、Kindle3(以下、3と表記)として8月から販売が開始されたものと1月から日本でも入手可能になった大画面の Kindle DX(以下、DXと表記) がある。まず、どちらのキンドルをiPadと比較するか検討した。画面の大きさは3が「6インチ、600×800ピクセル、16階調グレースケール」でDXが「9.7インチ、824×1200ピクセル、16階調グレースケール」とDX の方が画面で2.6倍、画素数で2倍、本体のサイズ・重量は「190×123×8.5mm・247g」でDX が「264×183×9.7mm・536g」でDX が2倍強となっている。内蔵バッテリーの駆動時間はともに1週間以上あるようであった。重さと画面の大きさのどちらを重視するか考えたが、立ったままキンドルを手に持って読む場面が少ないことから、画面=文字の大きさを重視しキンドルならDX と決めた。
 iPadは画面の大きさは「9.7インチ、768×1024ピクセル、IPS液晶」、本体のサイズ・重量は「242.8 ×189.7×13.4mm、730g」で内蔵バッテリーの駆動時間は約10時間となっていた。バッテリー以外は大きな違いはなさそうであるが、実はディスプレイが全く違っているためバッテリーに差がついてきている。iPadのディスプレイがLEDバックライトのIPS液晶であるため閲覧時には常時電気を必要とするのに対し、DX はイーインクという電子ペーパーをディスプレイに使っているため画面表示の切り替え(ページめくり)時以外は電気の必要はない。また、iPadがカラー表示であるのに対しDX はモノクロ表示である。
 このためカラーで雑誌や動画を見るならiPad、長時間の読書なら目に優しいDXということがインターネット上の評判であった。
 元新聞部員(元新聞部室員という方が正しいが)としてはモノクロ表示で充分なので画素数が多く、後述するが価格も安いDXを選ぶこととした。
キンドルの発注と到着

 iPadが国内のアップルストアで(現在は)簡単に入手できるのに対し、キンドルは9月末段階では日本のアマゾンでは注文ができず、米国のアマゾンに口座を開設し注文をしなければならない。全て英語での注文は面倒であり、英語に強くない筆者には抵抗感があったが、インターネット上で注文の方法が経験者によって紹介されているので、それに従って記載すれば何とかなった。
 9月9日(木)夕[日本時間、以下同じ]に注文し、翌10日(金)に米アマゾンから出荷したというメールが届いた。その中では請求額として
 Item Subtotal************$379.00
 Shipping and handling*****$13.48
 Import Fees Deposit******$19.62
 Total******************$412.10 (JPY 35,889)
と記載してあり、円ベースでの請求額が確定していた。単純に計算すると87.1\/$のレートであり、4万円を超えてはいなかった。iPadはこの価格では入手出来ない。このメールには“via UPS International (estimated delivery date: September 14, 2010)” とも書いてあり14日(火)又は時差を考えると翌15日の到着を期待していた。 UPSのサイトで配送状況をチェックすると11日(土)に成田に着いていた。しかし、UPSは土日は作業しないとの噂もあったので、やはり14日(火)が到着日かと思っていたら、意外にも12日(日)朝に届いた<写真1><写真2>。おかげでその日は充実した日曜日を過ごすことができた。
 思ったより簡単かつ迅速に入手できたのは驚きであった。
キンドルでの読書

 アマゾンのサイトからは多くの書籍・雑誌・新聞を入手することができるが、残念ながら著作権ビジネスの違いのためか日本語の書籍はほとんどない。しかしDX を買った以上は1冊くらいは購入してみようと思い、今年話題のハーバード大サンデル教授の「JUSTICE」<写真3>を9.99$+2$で購入(申し込むと米アマゾンから携帯通信網を利用して手持ちのキンドルに送ってくる)した。2$は米国以外の地域で購入した場合に付加される料金で通信費用なのか何なのかは不明だ。後日、カード会社からの請求書をみると11.99$が1,021円となっている、85.2\/$のレートであり、円高を享受できていた。
 米アマゾンから購入した書籍・雑誌・新聞に対しては文字のサイズを変更する機能や、英語での読み上げ機能もあるので語学勉強用にも良いかもしれないが、筆者は日本語作品を読むために購入したので日本語の文章をPDF化し読むことにした。
 まず、「青空文庫」(著作権が消滅した作品をボランティアの方が電子ファイル化し閲覧できるようにしている電子図書館。閲覧、ダウンロードともに無料)から、昔読み損なった作品をPDF化(「青空キンドル」という簡単にファイル変換をしてくれるサイトがある)し、パソコンを通じてDX に搭載している。現在搭載している作品は、南方熊楠(「十二支考・猪に関する民俗と伝説」等15点)<写真4><写真5>、泉鏡花(「高野聖」等16点)、森鴎外(「舞姫」等7点)、夏目漱石(「明暗」等12点)であり、通勤途上の電車の中で読むには充分すぎる量が簡単に持ち運べて読めるという状態になっている。



 また、電子書籍の世界では『自炊』という言葉がある、これは手持ちの書籍や文書をスキャナーでPDF化等電子ファイルにすることを指す用語である。筆者は、とりあえず昔読んだ経理の入門書や「マンガでわかる微分方程式」等を『自炊』しPDFファイルとして搭載している、これら本は職場や電車の中で開くには気恥ずかしい書籍であるがキンドルで読んでいる分には他人からは何を読んでいるかわからないというメリットがある。
キンドルで読む「向陽新聞バックナンバー」

 Kindle3は日本語表示が可能だが、KindleDXは日本語表示には対応していない。このため、DX では英語のホームページは表示できるが、「向陽プレスクラブ」のホームページにDXからアクセスしても表示ができない。
 また、日本でも近年は政府関係の文書や企業のIR文書の多くがPDFファイルとしてインターネット上に公開されているが、前述の理由でこれらの日本語ホームページにDX からアクセスしてDX に直接PDFファイルをダウンロードすることはできない(iPadやKindle3でどうかは不明)。このためパソコンにPDFファイルをダウンロードし、キンドルに移植するというプロセスが必要となる。面倒ではあるが、DXで閲覧可能となったこれらの文書は日常の業務でも役に立つ。
 インターネット上のPDFファイルと言えば「向陽新聞バックナンバー」がある。藤宗編集長ほかのご努力で第65号までが掲載されているので、パソコンを経由してキンドルに移植することが可能である。キンドルに搭載することで何時でも何処でも「向陽新聞バックナンバー」を読むことができる。搭載してある「向陽新聞バックナンバー」のPDFファイルを見るためには

ポインタでファイル名を指定すると、DX のディスプレイに当該号の向陽新聞一面が表示される<写真6>。しかし、大画面のDX といえども新聞の一面を活字単位で読むのは難しい、幸い見出しは読めるので当該部分周辺を拡大表示し読むこと<表示7>が可能となる。
 といっても、このプロセスは処理に時間を要し一面の表示や拡大画面での移動が滑らかではないといった不満点がある。一昔前のパソコンのスピードを知っている者にはまだ我慢ができるが、現在のパソコンのスピードに慣れている人は相当にイラッとするであろう。
むすび
 「向陽新聞バックナンバー」をDXを使って外出先で読むことは可能だが、ストレスを感じてしまうのでお薦めではない。 しかし、「青空文庫」や『自炊』で単行本サイズ以下の書籍を日本語PDFファイル化して読むのには(つまりPDFビューワーとしては)DX は高年齢者以上向けとしては優れものである。円高の現在「買い」と言える。
 これからの展開としては、DX の日本語表示対応、PDFファイル処理の高速化、電子ペーパーのカラー化等が想定できるので、若い人はそれらを「待つ」のも一案である。
 人生の残された時間と電子機器の進歩のスピードを比べながらモノを選ぶのも楽しいことだと思いたい。
<2010/09/26記>
追記
 本稿を提出した後で、インターネット上でDXの日本語表示化の方法が紹介されているのに気が付いたので、システムファイルに手を入れるという力技?で無事に日本語表示化ができるようになった。
 英和辞書が使用可能になったことやPDFファイルの表題が日本語表示になったことは利便性を増している。
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筆山へ新『向陽プレスクラブ結成』を掲載
岡林哲夫(40回) 2010.10.05
 昔のつてをたよりに、筆山の西岡編集長(41回)に掲載をお願いしたら、『記事がイッパイで250字以内ならええぜよ』とつれない返事。滔滔と設立主旨をまくしたてたたかったのだが、250字の制限はたった一文を書けただけ。かつて段組の場で、埋め記事を字数にあわせてでっち上げた経験が役にたったのだが、ちょっとなさけない記事になってしまった。
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拝読しました。
高新連HP、斉藤 2010.10.05
 「高新連のこと」山岡論文を拝読させてもらいました。第18回では僕は山岡さん達を迎える立場にありました。というのもたまたま僕の学校が本部役員校でしたので、高一だった僕は総会準備のため夏休みのほとんどを費やしました。
 今思えば、とにかく忙しかった。無我夢中で飛び回ったという感慨があります。写真にある「〜総会」という模造紙でかかれた文字もその一つですし、宿舎の部屋割りも仕事の一部でした。文章に「女性達は別」(当たり前ですが)と書かれていましたが、最初に宿舎の良い部屋を女生徒に割り振り、男子はその他大勢という形で大部屋に雑魚寝してもらいました。
 でも大部屋での交流の方が昼間の会議より「楽しかった」「多くを学んだ」という実感があります。全国高等学校新聞連盟は、一九七二.三年頃自然消滅しました。
 あるHPにリンクしてもらう際に「学校での言論の自由は社会の態度の試金石。 高校での新聞部活動が民主主義の基本という、そんな活動の歴史です。」とコメントして頂きましたが、その通りだと思っています。
投稿日:2010/09/19(Sun)掲示板へ
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向陽新聞に見る土佐中高の歩み
向陽新聞創刊の頃(メモ)
細木大麓(27回) 2010.10.10
時代背景

筆者近影
●私たち27回生は終戦の翌年、校舎もない旧制の土佐中学へ入学した。総員54人だったと聞いている。

●自分たちで古い材木や瓦など運んで校舎ができたという話は今や有名で誰でも知っている。入学試験は当時の城東商業の教室、入学式は高知商業の講堂、そして毎日の授業は汽車で山田の小学校へ通った。私は行川という鏡川の奥の辺鄙な山村から6キロの山道を自転車で朝倉に出て汽車に乗った。

●敗戦国として歴史も地理も塗り替えられたところなので、それらの授業はなく、河野伴香先生に東洋史を習った。英語、数学、国語なども教科書はなく、先生が手書きのプリントを配ったり、先輩から古い教科書を借りたりしているうちに、今でいう新聞の折り込みチラシのような印刷物が少しずつ国から配られるようになり、それを綴り合わせると一冊の教科書になった。

●入学試験の口頭試問で大嶋校長から「民主主義」ということばを知っているかと聞かれた。私は山奥の誰も中学へなど行かないような小学校で、「町の子は受験勉強をしているぞ」と脅かされて心配だったが、前日、ヤマをかけて百科事典で「民主主義」を暗記していた。「人民の、人民による、人民のための政治だと本に書いてありました」と言ったら、大嶋校長に「よく勉強しているね」と褒められた。そんな時代だった。

●校舎の建築その他で授業が遅れていたのを補うため1年の夏休みに昭和小学校を借りて補習授業が行われた。私はそこで自転車を盗まれた。以来、2年ほど山奥の村から片道12キロの道を歩いて潮江まで通うことになった。一度自転車を盗まれると、もう買い替えることなどできない物資不足の時代だった。雨の日など、暗いうちに家を出て学校に着いた時は下着までびっしょり濡れており、冬の日は泣き出したいほどだった。

●その後、町に移って江の口の家から潮江まで歩くようになったが、それが嬉しくてたまらなかった。向陽新聞に関わり始めたのはそれから間もなくだったのだろうと思われる。

●昔の写真を見ると、私は厚手の兵隊服の上着を着、兵隊靴を履いていたようだ。肩にズックの大きな四角い鞄を掛けて行川から歩いた。2年生修了の集合写真では、殆どが国防色(カーキ色)の同じ形の洋服を着ている。国から払い下げでもあったのかもしれない。高校に上がったころは、闇市ででも手に入れたのかと思うが、革靴を履いているのもある。一方で帯屋町を、手拭いを腰に高下駄で闊歩したりもしている。貧しい中で結構服装が気になってもいたようだ。

●リベラル、セントラル、モデルなど洋画の映画館があり、アメリカ映画をたくさん見た。若い男女が、緑の美しい街で、公園で、学校で…、様々なカラフルな服装で、ブックバンドと称したひもで縛った本をぶら下げて楽しそうに活発に動いている姿に目を見張った。

●高知公園で時々駐留米軍主催の野外レコードコンサートがあった。主としてクラシックだったが、間にジャズなど軽いものを挟んであり、夜の公園の涼風の中で夢のような一刻だった。

●ある日、何時もつるんで遊んでいた悪友のS君と髪を伸ばそうという話になり、散髪屋へ行って伸びかけの髪の裾を刈ってもらった。翌日、早速大嶋校長から校長室に呼び出された。どんな風に言われたか記憶がないが、とにかく「すぐ髪を切れ」ということだった。「学生がそんなことに気を取られていてどうする」ということだったと思う。誰も髪を伸ばしていない中で先頭を切るのは少し度胸が要ったことは確かだったが、割合軽い気持ちでやったことだったので叱られたのはすごく心外だった。ただ、それを押して抵抗するほどの話でもないと諦めた記憶がある。皆が伸ばし始めたのはそれから間もなくだったと思う。

●当時、何人かの先生について「戦争中に軍隊で自分の身の安全のために部下を犠牲にした」という種類の噂があった。私たちは数人でその先生を教室や放課後の芝生で問い詰めた。この話は覚えている学友がたくさんいる。しかし、これは今反省して心から恥ずかしく思うことの一つだ。そんなに悪辣な、先生に対するいじめのようなものではなかったと思う。しかし、はっきりした証拠もない、一方的な噂話に過ぎないことについてこの軽率で配慮のない行為は許せない気持ちだ。

●価値観の混乱した時代で、当時この種のことを自由や批判精神の履き違えと言った。余談ながら、その後60年もたった今、こういったことは反省されるどころかさらに別の形でもますますひどくなっているように感じられて仕方がないのは年寄りの僻目だろうか。
土佐高の状況

●校舎はない、先生はいない、学生数は少ないという経営難、そして混乱した世の中で早急に今後の方向を決めなければならない。相談相手もいない中で、大嶋校長のご苦労は想像に余りあるものだったと思う。

●そんな中で、私たちの一年下から大幅に人数が増え、男女共学になった。建学の精神ということについては中城KPC会長ほかいろいろの人が触れているが、これとこの一種の方向転換がどういう関係になるのかということは大嶋校長自身ずいぶん考えられたことと思う。その一方で日本全体の学校制度、教育制度自体にも大きな変化があったわけだった。

●男女共学ということについては、高知大学の阿部先生にお願いして「向陽新聞第4号」に書いていただいたことがある。文芸部発行の「筆山第4号」に私の父細木志雄がやはり書いている。大島校長からはこの問題について伺った記憶はない。これは経営難の問題とは関係のない何かお考えのあってのことだったと想像するが、当時としてはかなり突飛な発想だったのではなかろうか。もちろん結果は素晴らしいものだったと思う。

●建学の精神の話に戻るが、その後の土佐高校の様子につて私は申し訳ないが従いて行っていない。現在のポリシーというか、考え方について機会があったら知りたいと思うようになっている。

●入学翌年の昭和22年頃の先生方の写真がここにあるが、担任だったオンカンをはじめ本当に懐かしく、特に親しく教えをいただいた先生がたくさんおられる。と言っても、総員15名の少数精鋭だった。高校に上がるころ続々と先生が増えたが、伊賀先生もその中におられた。

●伊賀先生は社会科の担当だった。その頃文部省発行の「民主主義」という結構分厚く、上下巻に分かれた教科書があったが、先生はこれを使って授業をした。その中で修正資本主義とか、弁証法とか、アウフヘーベンなどという言葉を教わり私は妙に納得したのを思い出す。 東大の経済学部を出て銀行に入ったが、組合運動か何かでやめることになり、どういった縁かわからないが、土佐へ来たという噂があった。いつもよれよれの服装だったが、しばらく経ってからある日突然真新しい背広で現れた先生があまり立派で驚いたのを覚えている。

●私たち数人(岩谷、中屋、杉本、垣内など)は先生を囲んで勉強会を作った。勉強は学校の教科書などとは離れ、英語の時事評論や小説の講読会をやった。小泉信三の「初学経済原論」などというのも一緒に読んだ。私の家で先生はソファに寝転がり、その周りを我々が囲んで座った。先生の薦めてくれる岩波文庫などはそれぞれがたくさん読んだ。先生は新しい教育制度に反対だったし、当時の土佐高校の行き方についても批判的だったと思う。そして、昔の旧制高校ののびのびした生活を我々に再現させようとしていたようだった。
 受験勉強は横にやられていたが、私はその時代が忘れられない。伊賀先生と共鳴していたのが、公文先生であり、広田先生だった。その頃の想い出話を岩谷君らとできると素晴らしいと思うのだが…。
 ずっと後のこと、私の勤め先に仕事の関係で来訪してきたある人が、突然伊賀先生の話を始めた。「伊賀さんからあなたのことを聞いた」とのことで、先生はその頃広島で大学の先生をしているという話だった。間もなく亡くなったと聞いたが残念だった。
新聞部創設のこと
●これを書けと言われているのに、残念ながらまるで記憶がない。岩谷君に誘われて参加したことは間違いないと思っていたが、これも怪しい。彼から「今度、部長というものが必要になった。わしはどうしても編集長をやりたいきに、部長はおまんがやったとうせ」と祭り上げられたことを覚えている。私もその方が楽だと思って引き受けた。

●しかし、その前に山崎和孝さんがおられたらしい。第4号では山崎さんが発行人、私が編集人になっている。私には岩谷君と一緒に印刷屋で割り付けを工夫し、校正で徹夜をしたというような記憶しかないが、それはもう少し後のことだったかもしれない。岩谷君の名前は第6号から出て来る。創部の頃のことを何か書かなければと思って、先日、思い切って山崎和孝先輩に電話して60年ぶりに話をした。大学でも一年先輩だったし懐かしかった。

●山崎さんから聞いた話。私流の解釈で、山崎さんのチェックは受けていないがおよそ次のようなことだったと思う。

(1)新聞に関心もあり、問題意識もあり、西原さんらと新聞を発行することにした。文芸部の富岡さんの協力などあり俳句なども載せた。山崎正夫さんも編集には加わらなかったが協力してくれた。
(2)伊賀先生に部長を依頼したが、生徒たちが自分でやれということで創刊号では編集人という名を避け、先生には顧問になってもらった。第2号からは責任者ということで自分の名を出した。
(3)寛容な時代で高知印刷での校正に授業を抜け出して行くのを学校が許してくれたりしたが、そんな調子で何部か発行したと思う。
(4)そのうち山崎正夫さんが岩谷君を紹介してくれた。山崎和孝さんは文芸的、岩谷君はジャーナリスト的でいい組み合わせだった。
(5)京大新聞部を訪問した。その時高知の他の高校にも新聞部がたくさんあることを知り、横のつながりを作った。第一高女、追手前高校などで大会を開いたが、仕掛け人は山崎さんだった。

●よく整理がつかないが、私は一年上の山崎さんとは以前から美術部やコーラス部などでご一緒して親しくしていただいており、新聞部にも加わっていたのかもしれない。ただ、そう熱心ではなく山崎さんと印刷屋へ行ったような記憶もない。あの伊賀先生が、山崎さんの頃の顧問ということになっているが私自身は伊賀先生と新聞で関わった記憶が全くない。その後岩谷君が参加した頃から私も少しは活動するようになったということだろう。いろいろな人に原稿依頼に歩いたり、インタビューをしたり、広告を取りに回ったり結構忙しかった。他校との交流もずいぶんやったが、これも岩谷君と一緒だった。以後彼と編集人、発行人を交代でやっている。思えば彼とは徹夜のポーカー、公文先生の知寄町のお宅の天井裏での数学勉強、伊賀先生を囲んでの勉強会等々いつも行動を共にしていた。懐かしい。彼がいれば昔のことが何でも分かるのに…。
以上
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秋の高校野球:県予選
土佐、6年ぶり四国大会へ
藤宗俊一(42回) 2010.10.12
 去る10月11日、県営春野球場で行われた『秋季高校野球県大会・3位決定戦』で、母校は宿敵・高知商業を延長戦で5対2で降し、23日高松市のレクザムスタジアムで行われる四国大会に駒を進めた。 尚、1位は高知、2位は明徳で、このところ出ては負けていた母校の不甲斐なさに諦めかけていた甲子園出場がもう少しのところまでたどりつきました。フレー!フレー!土佐高!
土佐高校  00200000000003=5   バッテリー:森岡稜、三谷−生田
高知商業  00010001000000=2

●実を言いますと、毎日新聞のホームページから、記事を流用しようとして問い合わせたところ、ナント¥10,5000の使用料が必要だと言われ、仮掲載していた流用記事(ちゃんとクレジットをつけて)をあわてて抹消しました。逆にこちらが宣伝料を要求したいくらいなのに、こんな私的なホームページでも容赦しないのですね。毎日新聞が特殊だという訳ではないのでしょうが、四国大会の応援に行く気が失せました。いい経験をしましたが、世知辛い世の中になりましたね。
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第二回幹事会議事録
永森裕子(44回) 2010.10.15
議長 岡林哲夫幹事長  書記 永森裕子
 1)  日時 2010年10月10日 15時−16時45分    
 2)  場所 まるごと高知二階 「お客」    
 3)  出席 中城正尭(30回) 岡林敏眞(32回) 公文敏雄(35回) 森田隆博(37回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 永森裕子(44回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回)     
 4)  報告事項    
 *  中城会長の挨拶の後、岡林幹事長作成の資料に沿って以下の報告あり。    
 *  顧問就任の件、中城会長より、顧問就任は当面は無しとの報告。    
 *  会員の件、公文より、各自に名簿を配布後、7月以降会員申し込みが止まっている、今現在で41名との報告。    
 *  会計報告、資料配布後、中井より。年会費は現在22名分入金済み、19名未納。    
 *  2010年度の収支は赤字につき、会費納入について未納会員名を明示し、改めて会員全員にメールにて納入依頼を行う。メールアドレス登録のない会員は、中井からメール送信文を会員名簿及び総会議事録を同封の上郵送する。    
 *  8月の高知支部立ち上げ会の報告を森田、永森より。メンバーそれぞれがそれぞれの知己に声をかけてこの会の輪を広げていければ、場があれば集まる事が大切。(森田)     
 *  若手担当の水田からも、声をかける事とする。    
 5)  高知の活動について    
 *  4の報告と合わせて引き続き議論。人脈を使ってメンバ−を広げる、ゾーン別幹事を考えていく、年代別幹事は少し難しい、等の意見がでた後、以下の事を決定。    
 *  当面、高知支部という位置づけで活動を行っていく。    
 *  秋の高知での集まりの立ち上げは、宮川のケガもあり無理。回復を見つつ、正月ではどうか、永森から高知の担当宮川、及び井上、山岡に連絡。日程が決まったら名簿等で幅広く連絡する。    
 6)  次回の総会、懇親会について。    
 *  討議の結果、懇親会の型式で夕方より開催、懇親会の始めに報告をする事とする。    
 *  日時は2011年4月23日土曜日、17時より、と決定。場所は、岡林幹事長に一任。    
 7)  向陽プレスクラブのホームページに関して    
 *  土佐高へホームページのPRを行う。中城が校長に、岡林敏眞が三浦、小村両教頭に、藤宗が千頭先生(58回)に連絡をとる事とする。    
 *  ホームページへの原稿依頼を、井上晶博(44回)、加賀野井秀一(44回)に永森が行う。    
 *  ホームページへの山岡伸一(45回)が投稿した全国高校新聞連盟の記事を読み、当時東京で幹事として活躍した人?から連絡あり、この様に向陽プレスクラブのホームページの輪が外にも広がりつつある、と藤宗より報告。        
以上
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 ―三根校長のエピソードを探る―
猫の皮事件とスト事件のなぞ
中城正堯(30回) 2010.10.17
細木志雄大先輩の校長追憶

筆者近影
 二十年ほど前、くもん出版にいた時だが宮地貫一先輩(21回生・現土佐中高理事長)から、『三根先生追悼誌』(昭和18年 土佐中学校同窓会発行)を復刻したいとのお話があり、出入りの印刷社でやってもらった。この本は、三根円次郎校長の人物や教育方針を知るにとどまらず、土佐中創立当時の学校の実態や師弟関係を如実に示す貴重な記録でもある。この復刻作業を進めるなかで不思議に思ったのが、細木志雄大先輩(2回生)の追悼文「三根先生の追憶」に出てくる以下の事件である。
 「先生について私が最も嬉しくかつ力強く感じたのは山形中学校長時代の猫の皮事件、新潟中学校長時代のストライキ事件等に見られる先生の稜々たる気骨である。信ずる所に向って勇敢に突入される態度、威武を怖れず、権門に屈せず、かりそめにも阿諛迎合されない気概、さらに事に当たっていささかも動じない肚(はら)、そこに先生の偉大さを痛感した」
 この二つの事件については、追悼誌の中の「三根先生を偲ぶ座談会」でも細木大先輩がさらに詳しく語っているが、伝聞であり事実かどうか確認がされてないと注記してある。そこで、山形・新潟双方の知人に調査を依頼した。その結果は28回生が編集発行した『くろしお 第四集』に概要のみ報告したが、補足を加えて再度明らかにしておきたい。なお、問題提起された細木志雄大先輩は、向陽新聞創刊メンバーのお一人である細木大麓さん(27回生)の父上で、東京大学農学部を卒業、戦後は高知県出納長などの要職に就き、土佐中高同窓会副会長でもあった。筆者が新聞部当時には、何度かインタビューに応じてくださった。向陽新聞10号17号21号に登場いただいている。
山形中学での猫の皮事件

 まず、座談会(昭和16年に東京で開催)での細木大先輩の発言を、全文紹介しよう。
 「あの添田敬一郎氏ね、あの人が山形県の知事時代に先生は山形の中学の校長だったのですネ。その中学へは添田さん以前の知事は卒業式には金ピカの服を着て出たそうです。ところが添田さんは背広で、しかもチョッキは毛皮だったのですネ。それで生徒達は学校を馬鹿にしているというので憤慨して、終了後知事が帰ろうとして玄関に出てみると白い模造紙に漫画を書いて、それに『添田猫の皮』という註が書いてあったそうです。(笑声)それを見て知事が憤慨して誰がこういうものを書いたのか調べて処分しろというのだそうです。ところが校長自身も生徒の気持ちがよく判かるし、無理がないという気持ちがしたのでしょう、処分も別にしなかったのですネ。知事は怒って校長をとうとう九州のたしか佐賀県の中学と思いますが、そこへ追い出してしまったということを聴いたことがあります」
 「あの添田敬一郎…」とあるように、添田は当時著名な人物で、東大から内務省に進み、埼玉・山梨の知事を経て大正5年4月に山形県知事に就任、翌年12月に内務省地方局長に転じている。その後政治家となり、衆議院議員に当選7回、民政党政調会長を務め、第二次世界大戦の頃には産業報国運動や翼政会で活躍した。

 猫の皮事件については、山形大教育学部の石島康男教授に調査を依頼した。程なく、山形中の後身校が刊行した『山形東高等学校百年史』などの資料が送られてきた。それによると、三根円次郎の第16代山形中学校長就任は大正2年1月、辞任は大正7年3月であり、その任期中の業績は「大正デモクラシーの中に」と題して記述してある。まず、経歴を述べてあり、明治30年に帝国大学文科大学哲学科を卒業した直後に修身・英語教師として山形中学に赴任、その後佐賀中学・徳島中学の校長を経て、39歳で再度山形中に今度は校長として着任とある。教育方針は「質実剛健の気風の中に自由闊達の精神を生徒に教え」、大正期における山中の気風が確立したとする。また、上級学校への進学を推奨し、山形の山中から日本の山中への脱皮を計ったともある。同時に学年別にコース(距離)を設定した全校マラソンを導入した。生徒は、校長の風貌を「眼光鋭く長髪をたくわえ、フロックコート姿の短身」「厳粛そのもの」と語っている。
 ただ、猫の皮事件は公式の記録には見あたらない。勅任官待遇を受け、絶大な権力を持つ当時の知事への批判的事件を活字にする事ははばかられたのだろう。しかし状況は符合する。添田山形県知事は大正5年4月に着任しており、猫の皮事件は大正6年3月の卒業式での出来事だろう。同年12月には離任し、内務省地方局長に就任している。この翌年に、三根校長は九州ではなく新潟中学校長に転じている。知事の転任が先で、校長の転校も懲罰人事ではあるまい。ただ、表沙汰になる事はなかったものの、知事の教育軽視へ反発した生徒による風刺漫画が、知事の大人気ない態度と、三根校長の権威に屈しない姿勢を鮮明に対比させ、土佐中にまで語り伝えられたと思われる。
新潟中学ストライキ事件
 細木大先輩は、同じ座談会でさらにこう述べている。
 「新潟中学時代にストライキが起こって、それからしばらく校長が行方不明になったのですネ。どこへ行ったか判らんというので大騒ぎをしたのです。そうしたら新潟県の地方の中学を回ってストライキ騒ぎで処分した生徒の転校先について話をまとめてきたというのです。つまり校長はストライキを起こしたについて痛烈な訓辞をやって無期停学の処分をして置いてから、それから行方不明になったのだが、それはその処分された生徒の転校先について地方の中学へ交渉しに回っていたというのですネ。」
 これを受けて都築宏明先輩(3回)は、「そういう点は土佐中学でも随分ありましたねェ。少し成績の悪い生徒に落第させないように他の学校への面倒を見たり…、他所へ行って優秀になったのが大分ありましたョ」
 ストライキ事件については、新潟日報編集局の佐藤勝則氏の手をわずらわした。こちらは『新潟高校100年史』に、以下のようにきちんと記録されていた。大正7年4月に第11代校長として着任、「小柄で黒い髭をたくわえ、眼光鋭く、人を畏怖せしめる風貌を持ち、言辞も明晰で理路整然、修身の時間ともなれば、クラス全員緊張し、さすがの腕白どもも粛然として高遠な哲理を承った」とある。昼食には五年生を三名ずつ呼び、「一緒に弁当を食べつつ、生徒の身上・志望を聴取し、その志望に対しては適切な指導をするというきめ細かな一面を持っていた」が、近寄りがたい人物とも見られていた。それは、「眼病のためにほとんど失明寸前の状態にあったのだ。そのため、…生徒に挨拶されても気がつかず返礼を欠くことが多かった。だから生徒は、校長を<冷淡で傲慢な人物>と思い込んだのである」。眼病故の誤解が生じていたのだ。
 この大正7年5月に新潟高校(旧制高校)の設置が決まると、新潟中学では入試準備の特別授業や模擬試験に忙殺されることになった。このような中で、6月18日に同盟休校が起こり、四、五年生の大部分が欠席した。理由書には「運動会の応援旗禁止」「処罰厳に過ぎる」などとあったが、実際は運動会後に生徒のみで慰労会を開いたことが発覚したので、その処分に対して生徒たちが先手を打ったとされる。さらに「強まる受験体制への不満、英才教育を掲げる三根校長への反発」もあったが、生徒側の根拠薄弱と100年史には述べてある。そして、中心生徒2名退学、2名無期停学などの処分が決まった。
 三根校長は大正9年1月に新潟中を辞任し、土佐中学の初代校長に迎えられる。大正10年の新潟中学30周年には祝辞を寄せたが、100年史にはこう紹介してある。「<私は貴校歴代校長の中で最も不人望で生徒に嫌われ、ついに排斥のストライキを受けた>と語り、しかし<卒業生や県当局の斡旋によって多数の犠牲者を出さずに解決できた>として感謝の意を表している。実は退学生徒の転学先について、何日もかけて県内各地を回り、熱心に奔走したのは三根校長自身であった」。
三根校長の歩みと土佐中

 細木大先輩が伝え聞いてきた三根校長をめぐるなぞの事件は、山形中学からの転任先が九州でなく新潟だった以外は、ほぼ正しかった。特に新潟中学では、正当な理由のないストライキの首謀者を厳しく処分しながらも、影では自らが転校先をさがして救済したのである。人材育成をめざして川崎・宇田両家が土佐中創立の際、校長の人選に尽力したのは土佐出身で元新潟県知事の北川信従と東京府立第一中学校長の川田正澂であった。『三根先生追悼誌』には、土佐中設立の趣旨は「機械的多数画一教育の弊を矯(た)め少数英才の個性長所発揮をはかり、将来邦家各方面の指導者たるべき基礎教育をなし、もって郷土ならびに国家に報ぜんとするにあり」とある。北川・川田ともに、この趣旨と三根校長の山形、新潟での校長としての手腕を充分見極めた上で、推挙したと思われる。また、三根校長も県立中学でのストライキ事件など苦い経験を生かしつつ、新設土佐中学の校風樹立に邁進したのである。
 なお、三根校長は長崎県私立大村中学・第五高等中学校(旧制熊本高校)から帝国大学文科大学哲学科に進んでいる。卒業した明治30年には京都帝国大学が誕生し、従来の帝国大学は東京帝国大学となる。文科大学には、哲学・国文学・漢学・国史・史学があり、後の東京帝国大学文学部にあたる。当時の文科大学卒業生の進路について、『東京大学物語』(吉川弘文館 1999年刊)で中野実(東京大学・大学史史料室)は、「主な就職先は中等学校の教員にあった。その中から少しずつ文学者が登場してきていた」と述べている。筆者が研究室に訪ねた際には、「外山正一学長は、中学の教職に進んでも職人的教師ではなく、研究も続けて自ら生徒に範を示せと説いた。当時は、高等学校の数もまだ少なく、県立中学が各県の最高学府であり、国をあげてその充実をはかっていた。帝大卒の教員は尊敬される存在で、その待遇もよかった」と語ってくれた。
 三根校長の哲学科同期は比較的多くて16名、一年先輩には桑木巌翼(哲学者・東大教授)がいる。国文科の一年先輩には高知出身の文人・大町芳衛(桂月)がおり、後に土佐中の開校記念碑文を書いて名文と讃えられる。国史科には三根と同じ長崎出身の黒板勝美(歴史学者・東大教授)や高知出身の中城直正がおり、中城は後に高知県立図書館の初代館長となって三根校長と再会する。

 土佐中時代に三根校長はほとんど視力を失うが、全校生徒と親しく接し、敬愛を込めて「おとう」と呼ばれる。そして進学した大学での勉学ぶりから生活態度まで熟知され、気にかけて下さったと、多くの先輩が体験談を述べている。ご子息の三根徳一(歌手ディック・ミネ)、結城忠雄兄弟にもかつてお話をうかがったが、ご長男・徳一が語り、『筆山』にも執筆いただいた「貫いた教育方針」が忘れられない。そこには、「父は学校で<おはよう>と誰にも帽子をとって挨拶するのが常だった。死の前日のこと、軍部の将校がこれを敬礼にせよと迫ったが、父は教育方針は変えぬと、言い通した。腹をたてた将校は酒に酔って自宅に乗り込んできて、父と言い争った。この出来事が引き金になって、父は脳内出血を起こしたのであろう」とある。細木大先輩が述べたように、「権門に屈しない気骨」は、晩年になってもいささかも衰えてなかったのである。
 なお、制服の袖に軍服をまねて白線を巻くようになったのは、二代校長青木勘の時代からである。三根校長は背広を望んでおられた。それにつけても、あと十年後に迫った開校100年には、ぜひ『土佐中高100年史』を刊行し、川崎・宇田ご両家から歴代校長・教職員・生徒・同窓会・振興会が一体となっての激動の時代の歩みをみんなでたどり、今後の母校発展に生かせるようにしたいものである。
(引用文は現代表記に改めた)
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苦言一束
細木志雄(2回) 2010.10.25

細木志雄氏
 「向陽新聞」第九號の主張欄で、男女交際――男女共學の問題が論ぜられてゐる。其の要点は二つ、一つは何でもない男女學生の友達としての交際を、周圍がやたらに騒ぐのがいけないといふこと、今一つは交際をする當の男女が、分を守り、軌道に外れない樣注意しなくてはならないといふことである。其の論旨には全然同感である。
 一体男女共學の目標は何處にあるのであらうか。私の素人考を以てすれば、其の第一は女性にも知的に向上する機會を男性と同樣に與へること、第二は男性ヘ育に情操ヘ育を加味すること、第三は將來社會牲ある文化人となる爲に、又夫婦生活を從前の樣な偏ぱなものでなくする爲に必要な男女相互間の理解を深めておくこと等ではないかと思ふ。が此の目標は男女共學にさへすれば、直ちに達成されるとは限らない。
 戦後に於ては性に關する考へ方が極めて開放的になつてゐる。餘りにルーズ過ぎることが問題である。斯樣な環境が學園の内部に無關係であり得る筈はない。又家庭に於ける性ヘ育は全く幼稚、といふよりも寧ろ無爲と言つて然るべきであらう。さういふ客観的状況の中に於て男女共學を實施するとすれば、先づ目標をはつきり把握すると共に、其の目標を達成する爲の具体的な方法に付ての充分な研究、更に又他面に於て當然豫想される弊害に對する措置に付ての指導者の周到な心構が必要であらう。之等によって補強されない限り男女共學は甚だ危險なものであり、寧ろ幣害の方が多く現れて來る惧がある。
 私は嘗て此の問題に付て母校の先生數人と話合つたことがあるが、其の目標につき、或は指導者としての心構につき何等滿足すべき説明を聞き得なかつた。其の時某先生は、此の學校に來てからさういつた問題を語り合ふ機會がない、と慨嘆して居られた。私は或機會に恩師X先生の所見をうかがつて見た。流石に感覺の鋭い先生は相當明確な意見を述べられた上、果敢にスタートした土佐中の男女共學を衷心より心配して居られた。
 主張に取り上げられた樣に、單なる友達としての男女學生の交際を、騒ぎ立てることもあらうし、それによつて當の學生達が不愉快な思をすることも起るであらう。又充分注意はしても中には知らず知らずの間に深みへはまる場合、誤つた方向に進む者も皆無とは斷言出來まい。さういつた事態は當然豫想されることであり、從つて斯樣な事態が起らぬ樣萬般の注意が拂はるべきである。又起こつた場合の善處方に付ても充分の準備がなされてゐなくてはならない。特に間違つた場合之を適切に導びく理解あり而かも心の暖い指導者の存在が絶對に必要である。
 學生の方は主張欄に述べられてゐる樣な自覺を以て進むとすればそれで結構と思ふが、學校當局も、單に男女學生を同一ヘ室で同一條件でヘへるといふこと以上に、本當に共學の目的が達成される樣、色々と、配慮を拂つていたゞき度いと思ふ。
×   ×   ×
「本校の特殊性」といふ言葉がよく使はれる。所で此の「特殊性」を出發点として論議する場合、兩方の意見がおそろしく喰違ふことがある。そこで色々考へて見ると此の言葉は、人によつて意味する所が違ふ樣に思はれる。
 私達は、母校土佐中が縣下の秀才を集め、伸びられる限り伸ばし、有爲の人材として育てあげる…といふ目的の爲に生れたものであり、其のヘ育方針を堅持する所こそ本校の特殊性と考へてゐる。所で其の特殊性が現在の母校に充分発揮されてゐるかどうか、大學の入學率のみを以て判斷することは穏當であるまいが、東大への入學者一名も無かつたことは理由は如何にあらうとも、本校創立の趣旨に鑑みて諒承致しかねる。が問題は何故斯樣な状態に立到つたかにある。先づ學生の勉強が足りないこと、之は何と言つても致命的である。此の点は學生諸君によく考へて貰はなければならない。次には先生方にも注文申上げ度い。學生が勉強を怠ることは學生のみの罪ではない。學生をして勉強し度い意欲を起させること、或は勉強せずには居られない樣に持つていくこと、之は先生の腕に俟つ所である。其の腕とは學問上の實力と熟練と誠意の綜合されたものであると思ふ。
 右の樣な腕のある先生にしつかり頑張つていたゞくことが先決問題である。それから今一つは、勉強しない學生は遠慮して貰つて、中位以上を標準として授業を進めることが非常に大切ではないかと思ふ。K先生など學生に實力が認められないと、なかなか單位をやらないさうだが、私は大賛成である。
 子供(高校二年)の英語のヘ科書を見て、之なら一時間四頁位進まなければなるまい、と思つて聞いて見ると、僅かに一頁半位だといふ。而かも最近に至つて、大部分の學生が基礎が出來てゐないから當分文法の基本的部分からやり直すことになつたさうだ。母校が之でよいのか?と私は暗然とした。 私は嘗て英語の陣容の充實を當局に要望したことがある。それは、高校ともなれば大學で英文學を專攻した先生の一人位は居なくては可笑しい、又同時に多年の經驗を有する練達の先生がほしい、といふ意味は何も若い先生をけなす意味ではなく、若い先生にも勉強になり、全体的に授業効果をあげることが出來る、若い先生丈では不安だ…といふ氣持からであつたが、如何なる事情からか、最近まで實現しなかつた。所が私の心配が杞憂に終らず、上級學校進學率に、又實力の不充分といふ事實に、はつきり現はれて來たことは、寔に残念至極に思ふ。
 學生は勿論だが、先生方にもよく御考へいたゞき度い。
「本校の特殊性」の別の意味は、本校が私立學校である、經營といふ面からも考へなくてはならぬ、それが爲には政治的な考慮も拂はなくてはならぬ、當初の目標のみに拘はる譯にもいかぬ…といふ樣なことにあるらしい。此の考へ方も無理からぬと思ふ。で、學生の數を揩オたことも、女學生を入學させる樣にしたことも諒解出來る。併し、優秀な先生を確保する爲に絶對必要な、相當の優遇といふことが、經營面からの理由により不可能とすれば、之は正しく本末を誤るものであり絶對に承服し難い。
 母校本來の特殊性(ヘ育面に於ける特殊性)は經營面の特殊性に若干制約されることは己むを得ないとしても、それによつて破壊さるべきでは斷じてない。尤も思ひ切つてヘ育方針を百八十度轉換し、例へば自由學園等の如く、上級進學等のことを全然考へず、社會性ある實質本位の人物養成を目標とすれば問題は別である。但し其の場合に於ても、優秀な先生を確保することの重要なるは同樣といふよりもそれ以上であらう。
 校舎を建てることも大切であるが、私には、ヘ育の本義に照らし、優秀な先生を確保すること、其の先生に落着いてしつかり働らいて貰ふこと、その爲に相當の優遇が出來る方途を講ずること、之が飽迄先決問題と思はれる。 右の点については財團の財政、或は振興會の經理内容に付て知る由もない私であるので具休的な案は樹たないが、理事諸公に眞劍に考へていたゞき度いと思ふ。
 經營上の困難性の故に母校本來の特殊性も発揮出來ず、さりとて新時代に完全に順應し切る樣な思ひ切つた方向轉換も出來ずとすれば如何になるか?私の氣持を端的に表現する爲に極端な言ひ方が許されるならば、母校士佐中が平々凡々たる一私立中等、高等學校に堕するとすれば、私は寧ろ土佐中の名誉の爲廢校になることを希望する。創立者、川崎、宇田の兩先生も恐らく地下で同感の意を表されるのではなからうか。
×   ×   ×

1950.12.14『筆山4号』より
 學年始の振興會の席上だつたと思ふが、擔任の先生から、「今年はうんと學生の躾に力を入れ度いと思つてゐる」とのお話を承はつた。「是非お願ひします」といふお母さんも大分居られたし、私も大賛成だつた。がじつと考へて見て、一体どんな躾をするのがよいか、之は案外難かしいのではないかと思つた。
 形式に堕し過ぎない程度に長幼の序を保ち、師弟の禮をつくすこと、贅澤に亘らない程度の身だしなみ、明快な言語、動作、之等は何れもヘ養ある現代人として身につけて置かなければならない事柄である。殊に言語については、それが女の子であれば尚更のこと、あまり汚い言葉を使はぬ樣、又使はせぬ樣注意してほしい。
 躾と言つても劃一的な、形から入る躾、軍隊時代に見られた樣な方法は考へ直して貰はなくてはならないだらう。アロハシヤツや、リーゼントスタイルは避け度いが、だからと言つて、それが形の上に現れた点だけを捉へてやかましく言つて見たつて仕方あるまい。さういふ恰好をして見度いといふ心理が問題なので、之をうまく矯正し善導することがより肝腎であらうと思ふ。或は又あゝしろ、かうしてはいけないなどとやかましく言ふことが、青少年に納得出來ない…そんなにやかましく言はれる理由を発見し得ない…場合には効果は反つて逆になることが多いであらう。ヘ育の本質にはあまり關係のないつまらないこと……髪を長くするとか、服装がどうのかうのといふ樣な形の上のこと……にはあまり差出口しない方が賢明であらうと思ふが如何なものであらう。
×   ×   ×
 「筆山」の編集子から何か書けといふ注文を受けた。先輩に書かせる以上悪口を言はれるのは覺悟の上だらうと其の点は安心して筆を執つたが、結果は學校當局への注文が多くなつた樣だ。元來私といふ人間は學校當局にはあまり喜ばれない存在だといふことを最近仄聞してゐる。けれども、私はうるさ型だと人に言はれたこともあまりないし、私自身も決して左樣ではないと確信してゐる。其のうるさ型でないことに自信を持つ私が母校當局のみからさう思はれてゐるとすれば、それはさう思ふ側が悪いのであつて、私の言ふこと、考へてゐることに妥當性があるのだらうと思つてゐるのであるが如何なものであらうか。大方の御批判に俟ち度いと思ふ。
(土佐中學校第二回生 縣農林部長)
土佐向陽プレスクラブ
1950.12.14『筆山4号』より転載
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續苦言一束
細木志雄(2回) 2010.10.25
 前号に「苦言一束」を書いたが内容の大部分が當初の豫定に反して學校當局への注文になつてしまつた。今度は學生諸君への苦言乃至希望を書くことゝする。希望が多くなって標題には相應しくない内容になるかも知れないことを豫め斷つておく。

細木志雄氏
 現代の學生は如何にあるべきか。之は寔にむつかしい課題である。噴火山上にあるが如き日本の立場、左右入り乱れた現今の交通状況にも比すべき思想のてんやわんや、其の中で正しい人生観を持つということはなかなかむつかしいことである。正しい人生観、世界観を前提としてはじめて人生の意義が発見出来、我々日本人の在り方が解明されると思うが、此の根本問題は到底私の解き得る処ではない。私は問題をもつと卑近な所へ引き下げて考えて見ることにし度い。
 先づ最初に数個の事例を挙げよう。
 Kは學生時代出來るには出來たが、とび抜けた秀才ではなかつた。だが脇目もふらず勉強した。努力は彼に実力をつけ、大學在學中高文パス、卒業すると本省の役人になつた。それ迄世間を知らなかつた彼は、それ以後適当に社會人としての素養も身につけた。今後に於ける大成が期待されている。
 Yは秀才であつた。勉強もしたが道樂もした。大學時代よくカフェーを飲み歩いた。が其の間に社會の裏面に付ての認識も深まり新聞記者的なセンスも磨かれた。學問と社會人としての素養が併行的に進んだ。現在某報道機關の重要ポストにあり、不幸病臥中であるが、重大な外國電報は全部彼が目を通すことになつていると聞いている。
 I。之は私の高校時代の友人である。彼は植物學を研究していた。學校の方は各課目共に落第しない程度に勉強し暇さえあれば山野を跋渉して植物の採集をやつていた。牧野富太郎博士に師事し、今ヘ育大學の先生をやつている筈である。
 H。之は私の弟である。彼は學生時代劒道部に籍を置いた。そして在部中一度は必ず縣下で優勝しようとの悲願を立て、練習に專念した。部の氣分が常に一致しているとは限らない。部員が数える位に減つたこともある。が彼は黙々と練習した。學期或は學年試驗中でも欠かさなかつた。そして遂に優勝した。が其の爲學問の方が幾分犠牲になつたことは事実である。
 右に述べた四つの事例は何れも実在のものである。
 Kの行き方は当時の土佐中の代表的なものと見られたであろう。がYの樣な行き方の者も少くなかつた。Iに類した者もあつた。Hの樣なのは先ずなかつたと思うが、私は現在Hの行動を凝視していて、創道部の部員乃至主將としての鍛錬、特に心の錬磨が、如何に大きな影響を彼に與えているか、それが如何に尊い体驗であつたかをつくづく感じるのである。
 私は右の四つの行き方の何れにも賛成である。此の人達に敬意を表する。夫々自分の持前によつて學生時代を意義あらしめていると思うからである。
 意義ある生活とは、正しい目標を定め、之に向つて精魂を打ち込む生活―そうした充実感を伴う生活ではないかと思う。
×   ×   ×
 大學入學ということを目標として精魂を打ち込むことも土佐高校學生としての最も意義ある生き方の一つであると私は考へる。斯くいつたからとて私は土佐高校のヘ育方針が大學入學ということを唯一終極の目標として行はれるべしと考へている訳では決してない。ヘ育ということは、勿論、個人々格を完成し、將来社會文化の発達に貢献する人間を養成することを目標とすべきである。其の過程として方法手段として學校ヘ育があるのだ。此の点は昔も今も変りない。昔の土佐中と雖も決して例外ではなかつた。唯昔の土佐中は、右のヘ育を施こす対象が、將來上級學校の過程に迄進もうとする者のみであつたから、恰も予備學校であるが如き誤解を受けたに過ぎなかつた。 右の如き誤解を持つている人々は、現在の土佐高は昔のそれと違うという。予備校的な詰込ヘ育は反対だという。其の点は同感だが、それだからと言つて勉學を怠つていゝということにはならない。そこで私は斯樣なことを言う人々に逆問して見度い。大學入學の爲の勉學ということ以外の如何なる方法によつて、日々の生活を意義あらしめているか。前に述べたY、I、Hの何れの行き方にも徹し切れていないのではないか。結局、勉學しないことの、或はヘ育目標をしつかり把握し得ないことの逃口上を述べているに過ぎないのではないか。
 享樂以外に人生の意義を認め得ない人は論外である。
×   ×   ×
 今武蔵高校で英語のヘ授をしているD君の話「高等學校を出る頃は英語はチヨロイものだと思つた、が其の後勉強すればする程奥が深く、わからなくなつて、此頃は學生の前で.英語はむつかしい、自信がないということをよく話す、すると學生の半分位は、私の氣持がわかつてくれる」と。又私が土佐中の三年生頃だつたと思うが、Hという先生が斯う言はれた「試驗勉強の際、最初一通り勉強すると之で大丈夫だという感じがするものだが更に勉強していると、段々自信がなくなつて來る。それは進歩している証拠だ、更に突込んで行くと前より深く理解出來る、そのうち又自信がなくなる、そういう過程を辿つて學問は段々深く確実になつて來るものだ」と。
 右の言葉は長い學生々活或は學究生活の經驗をもつている人は、恐らく大概の者が首肯出來ると思う。同感でない人はとびぬけの秀才か、さもなくば、余程鈍感な人であろう。
 ヘ壇に立つて授業をする場合、実力に基づく本当の自信を持つて堂々と講義する場合は全然問題ない。中には、良心的には必ずしも自信はないが、そこを適当にごまかす場合もあろうし、又実力のないのに自信――実は自惚を持つて學生をなめてかゝる場合もないとは言えまい。所が此処で問題なのは、相当な実力を持ちながら、更に突込んで深く考える爲、授業は必ずしも明快でない感じを與える樣な場合である。むつかしくむつかしく考え悩む姿を正直に學生の前に晒す場合がある。そういう場合學生は其の先生に実力がないと速斷し勝ちだ。頭を傾ける医者が頼りなく思われ、出鱈目でもはつきり言う医者がもてるのと軌を一にする。だが、本当の力のない先生なら致方ないが、學生としては一應謙虚な氣持で先生の眞價を知る爲に努力することが大切ではないかと私は思う。斯樣なことを中學生に望むのは無理かも知れないが、苟も高校生ともなれば、そういつたゆとりというか寛容さというか、そういう氣持で先生を見てほしい、そしてD君の話が首肯出來る樣な感覺と理解とを持つてほしいと思う。
×   ×   ×

1951.3.15『筆山5号』より
 話は甚だ卑近になるが次は學習の態度である。
 東都學校視察者の報告にも「東京の學校は静かである。授業中も話声が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえてつまらない雑談がないし休時間などよく勉強している」とあつた。
 創立当時の學生は――古いことをいうと嫌われるかも知れないが――學習態度の悪い樣なものはついて行けなかつた。皆一生懸命に勉強して、それでついて行けない者は他に轉校するか落第するより他なかつた。
 所が現在の土佐高校學生の學習態度について某先生は言われた。「土佐高校よりも○○大學の學生の方が遥によい。○○高校でも土佐高よりましだ。眼の色が違う」と。又他の某先生が、不眞面目な學生の愚劣な、邪氣の籠つた野次に憤慨されて、涙を流して訓戒された話も聞いた。
 土佐高校の學生は學習に際して他校以上に眞剣であつて欲しい。且つ愚劣、低級でなくて欲しい。
×   ×   ×
 齋藤実という人が「自分は少尉の時は日本の海軍で一番立派な少尉になろうと努力した。中尉の時は又一番立派な中尉になろうと思つて勉強した。そういう氣持でやつているうちに何時の間にか大將になつてしまつた」と述懐しているのを何かで読んだことがある。それは常に自分の職場に眞劍であつたことである。學生には學生の任務がある、本分がある、それに向つて眞劍であること、かくて後から悔いない、張り切つた學生々活を送つて欲しい。
1951.3.15『筆山5号』より転載

《編集部より》上段掲載二文は、中城氏(30回)の『猫の皮事件とスト事件のなぞ』の資料収集の段階で細木氏(27回)から父君・故細木志雄氏(2回)の文芸部文集『筆山』に掲載された評論が提供されました。今日でも立派に通用する内容で、細木氏の御了解を得て掲載させていただきました。母校関係者や在校生にも是非目を通していただきたいと思います。
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『岩崎弥太郎−海坊主と恐れられた男』
鍋島高明(30回) 2010.10.25
謹啓

『岩崎弥太郎−海坊主と恐れられた男』
河出書房新社・1800円(税別)
 未曾有の暑い夏から一転、晩秋を思わせる昨今ですが、皆様にはお変わりないことと存じます。私も元気で執筆を続けております。今年は1月に『反骨のジャーナリスト中島及と幸徳秋水』(高知新闘ブックレット)、3月に『侠気の相場師マムシの本忠』(パンローリング)、8月に『語り継がれる名相場師たち』(日経ビジネス人文庫)を出版、このたび河出書房新社から『岩崎弥太郎』を出版することができました。70歳の手習いで始めたパソコン入力による2冊目の作品です。
 平成19年に高知新聞に『幸徳秋水と小泉三申−叛骨の友情譜』を連載していた当時、頻繁に帰省しましたが、そのころから郷土出身の魅力的人物として岩崎弥太郎を書いてみたいと、資料集めやゆかりの地を訪ねて取材を続けてきました。生誕の地高知県安芸市には4回出掛け、坂本竜馬と岩崎弥太郎の接点が生まれる長崎には『マムシの本忠』(主人公の本田忠氏は長崎市在住)の取材も兼ねて5回出掛ける等々するうちに、さばき切れない資料の山となり、悪戦苦闘の末にこの本となりました。
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあってか、昨年来岩崎弥太郎伝が次々と出版され、文字通り汗牛充棟の状態です。そこに割って入ろうというのですから、無鉄砲かもしれません。版元から売りは何だ」と聞かれて、モゴモゴと答えるしかできなかった体たらくですが、これまでの多くの弥太郎伝で書かれてこなかった場面も部分的にはあろうかなどと自己弁護している次第です。
 「棺を蓋いて事定まる」と言いますが、弥太郎が亡くなってから告別式を経て弟弥之助が第2代三菱社長に就任するころまでの新聞各紙には可能な限り目を通しました。会葬者が5万人に及び、大相撲も休場になり、日ごろ訃報など載せたことのない『中外物価新報』(現日本経済新聞)までが弥太郎の死を「誠に悲しむべきこと」と報じたことに弥太郎の存在感の大きさを知る思いでした。
 その時地元高知ではほとんど黙殺された点にも弥太郎という人物の多面的な生き方が覗かれます。時の政府も自由党も一緒になって「海坊主退治」に奔走するなか、がんに冒され、四面楚歌の状況に追い詰められたスーパーヒーローの遺志を継いだ弥之助の働きで三菱の礎は盤石になっていきます。
 岩崎弥太郎の神髄に触れるためには日記と書簡を読み解くことが必須の課題であると思いますが、漢文の素養のない身の悲しさ、長崎、大坂時代のごく短期間の日記を読むにとどまりました。多くは先人の労作に助けられました。『徒然草』の「先達はあらまほしけれ」を改めて痛感させられました。

 2010年9月
敬具
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向陽新聞に見る土佐中高の歩みA
中学入試問題の漏洩と生徒の同盟休校
岡林敏眞(32回) 2010.12.08

筆者近影
 昭和30年(1955年)の3月、土佐中学入試問題が外部に漏れるという事件が起きた。
 この事件をキッカケに、土佐中高の生徒たちは綱紀粛正と学園の明朗化を学校側に要求して立ち上がった。いわゆる同盟休校である。この同盟休校には、向陽新聞も大きな役割を果たす。以下は、事件発生から同盟休校の幕引きまでの記録である。

 「あこがれの土佐高に入ったとたんにこんなありさまで、まったくヒカンしてしまった」「今度の事件は先生の道義心の問題だが、愛校心の問題でもある」と、在校生と先輩の声を報じている。向陽新聞第26号(1955年5月9日)の紙面である。この号には、 『疑惑残る中学入試』『問題解決は困難・・事前に洩れた入試問題』という見出しを掲げ、土佐中の入試問題が事前に洩れていたことを特集している。

 事件の始まりは中学入試の第1日目の昭和30年(1955)3月26日の朝、一市民から「入試問題が洩れている」という電話が学校にかかってきたことによる。この電話を事務員から受け継いだ大嶋校長が「証拠は?」と聞くと、次の日に行われることになっていた口頭試験の問題を二、三あげ、筆記試験の問題についても少しほのめかした。そこで、学校は職員会議を開き、次の日の口頭試験の問題を作りかえて試験を行った。 そして、この問題は校内の問題として残るかに見えていた時に、4月23日の高知新聞に大々的に報道された。ちなみに、口頭と筆記を併用して中学入学試験を実施したのは、土佐中学が高知県下で初めてであった。
 高知新聞の報道内容を向陽新聞第26号では次のように要約・掲載している。
 「土佐中学の入試問題が事前に(校外へ)洩れており、学校はその対策に苦しんでいる。また父兄の一部でも疑惑の目をなげているものもある。県教組は近く進学対策委員会へ持ち込み検討をする準備をしている。」

 この高知新聞の記事を受け、県教組では4月27日に進学対策委員会を開いて検討した結果、大嶋土佐中学校長に対して「今後このような事のおこらぬよう善処されたい。なおこのような不正入学を一掃するために再試験を行ってもらいたい」との抗議文書を発送すると共に、この事件は県下教育界に汚点を残すものなので、同校において自主的かつ速やかに解決するように要望する意味の声明書を発表したことが、4月28日の高知新聞で報道されている。(試験は中止すべきであったという高知新聞報道も。)
 このような一連の報道を受けて学校はどのような対策を講じたのか。向陽新聞26号では「問題になってくるのは誰が洩らしたかということと、筆記試験の問題も洩れていたのではないかという事である」と論じ、これについて以下のように報じている。
1, どうして洩れたかという問題については、校長も「先生の誰かが洩らしたことはほとんど決定的」と見ており、職員会でも洩らしたものを追求しているが同僚間のこととて問題の解決は難しいようである。
2, 筆記試験の問題も洩れていたのではないかという疑いもあるが、校長にかかってきた電話では、口頭試験の問題だけを詳しく述べたが、筆記試験のほうは問題の題目だけをごくあいまいに言ったので、筆記試験の問題は洩れていないと判断して、既に配っていた問題を受験生徒にやらせた。
3, 5月6日には、中学高校の全生徒を集めて大嶋校長が「このような問題が起きたことは特に生徒諸君に対して誠に申訳なく、深くお詫びをする次第である。このような問題にひるまず大いに勉学に励んでほしい」というメッセージを伝えた。
4, このメッセージを受けて、向陽新聞第26号に『生徒諸君に告ぐ』と題した〈学校長声明〉を掲載している。その要旨は以下の通りである。
  「(入試問題漏洩という)不幸な出来事が、純真なる諸君の心情に暗影を投げかけたであろうことは誠に申し訳なく、茲に深く御詫びをする次第である。学校長以下全教職員はこの度の不幸を起死回生の絶好の機会として、強き自省自粛の下に再びかかる不詳を惹起しないよう最善の方途を講ずることは言うまでもなく、本校創立の精神を再認識し死力をつくして生徒指導の任に当り、各々その職責を完了することによって学園の明瞭化を図る。 (中略)
  諸君は本校生徒であると言う厳然たる態度を堅持し、不幸の出来事に対する一切の処理は学校を信頼して何物にも惑わされぬよう自重自愛を望んで止まない次第である。」
  要するに、「事件の解決は学校側に任せて、生徒は社会の風評に耳を傾けずに勉学に励め」というわけであるが、この学校側の態度が後に起こる生徒の「同盟休校」の原因となるのである。
5,この学校長声明を受けて、向陽新聞(第26号)の『主張』覧で「先生の自主的解決を望む」と題して、以下の要旨の論陣を展開している。
  教職員の不注意から事件が起きたことということであるが、我々は「先生はそんなことはしない」と信じたい。しかし、先生の潔白を信じたくても事情がゆるさない。試験問題の作成は校長の指示のもと三十名教職員の間でなされ、その印刷まで行われたのであるから、まず先生の自覚があれば洩れる心配はすこしもないはずである。しかるに、こんどのことが起こったのである。もう先生の間でも「知らぬ。存ぜぬ」ではすまされなくなり、毎日のように職員会を開いて、対策をねり校長のもとに情報をもちこんで責任者(問題を洩らした人)の発見に努めているようである。学校側は調査委員会を組織するとか聞いているが、ぜひ組織して活発に動いていただきたい。 (中略)
  我々は現在あらゆる面で試験のトリコとなっている。一年に五回、半期、学期末、学年と試験があり、また実力試験もよく行われる。これらに対する先生方の苦労はなみなみならぬものと思われるが、生徒としても試験でやっきとなっていることも事実であり、先生としてもよっぽどしっかりしていないと問題が洩れ、公正を欠く場合がおうおうにしてある。
  じっさいこれまでには半期、学期の試験などでたびたび問題が一部の生徒にわかっていたことがあるようであり、はなはだしきは試験前に問題とその解答が現れたクラスもあった。今度の問題にしても「今に始まったことではない。ただそれがとうとう明るみに出ただけである」と言っている在校生も多くいることに注意しなければならない。しかも、そんなことをする先生方もだいたい決まっているようで、日頃生徒のうれうるところとなっていた。
  そういうときに起こったこの事件は、また反面、先生のよき教訓となったともいえよう。現に教職員の間では相当、反省の色が濃いことは事実である。わざわい転じて福となるように、これを契機として教職員の中で、今後入学試験にかぎらず、学校内での普通の試験でも公正を欠くことがまったくなくなってこそ、先生としても生徒、ひいては社会全体にわたって申しわけがたつであろう。」

1955年(昭和30年)12月19日高知新聞 [記者の手帳]から
 3月25日、つまり試験の始まる前の夜、我々は既に問題が校外に洩れているという情報をつかんでいた。翌朝、学校に乗り込んで大嶋校長に面談したところ、 「ウン。実はそれでさすがのボクも弱っている。先生の中にも不謹慎なのがいて、誰かが口を滑らしたに違いない。」と、口を割ってしまった。明日の朝刊トップはおれがもらったと思っていると、「これはまだ内緒にしてくれ給え。ボクも思い当たるふしがある。近い内に校内で処分したいと思っているから、発表はそれからにしてくれないか」 という申し出があり、ことが重大な教育問題であるから、我々は焦らず、一応記事にするのを見合わせることにした。いたずらに学校を混乱に陥れるのが能じゃない。校長も近い内にケリを付けるという。こちらもその間に真相を探り当てて絶対的な確証を握ることにしよう。

 そこで我々は問題がどんなルートで流されたかの究明に全力をあげることになった。事件の報道が二十余日もおくれたのはそのため。いくつかのルートが浮かび上がってきた。その1,試験の前夜、ある集会所で土佐中の先生が問題を一受験生の父兄に洩らしそれを集会所の女中がかぎつけた。その2,土佐中の先生と親しい間柄で私塾を開いている人が、習いに来る生徒に教えた。その3,ブローカーが介在して問題を中継した等々。 しかし、いずれも曖昧至極。その間、ケリを付けるといった校長も一向に腰を上げそうにない。校内粛正に立ち上がらんとした一部血気の先生方も士気とみに阻喪。今はこれまでと4月23日の朝刊の報道となった。
 生徒の同盟休校もカタつき、夏休みが来た。この事件の責任を問われたZ先生は校長と宿直室で数回に渡って論争を重ねたあげく、とうとうツメ腹を切らされた形で、校長の紹介状をもらったうえ、県外の学校へと赴任することになった。
 この事件の本当の姿はとうとう表沙汰にはならなかった。問題が誰によってどうもらされたかーそれは今や知る人ぞ知るだ。」
昭和30年(1955)
3月26日(中学入試第1日)1市民から電話。
4月23日高知新聞に報道(前夜ラジオでも放送)
4月23日午後1時過ぎから校長を除く全職員が2時間あまりに渡って臨時職員会議を開き、責任者の究明に乗り出した。責任の所在を明らかにする第一段階として、教職員がもちあわせている情報を各人記名の上、25日の朝までに校長のもとに提出。必要とあれば、校長の指名を受けて調査委員会を作ろうということになる。
学校調査委員会設置を中止。自粛委員会設置
4月24日高知新聞報道「自粛の声高まる=大嶋校長ら対策に苦慮」
5月7日高知新聞報道「校内人事も刷新=土佐中、自粛の意表明」
これまで校長の指名により任命していた教務、指導、実務、生徒、体育など八つの部の職務責任者を公選制に切り替え、職員間の互選によって学園の明朗化をはかる。
学校長声明「まことに申しわけないというよりほかに言葉がない。こんな事件は二度とくり返さぬように職員一同が反省するとともに、校内人事もこれを機会に一新するつもりだ。もちろん問題を洩らした先生に対する調査は今後も続ける。」
5月16日同窓会東京支部会開催。高知から、大嶋校長、山岸先生、細木同窓会副会長が出席。「要望書」を母校当局に提出。
事件の直接責任者を速やかに調査し、これを厳重に処分する。
校内の綱紀粛正に努め、校内のあらゆる方面に渡って徹底な改革を行う。
6月17日新聞部・生徒の世論調査実施。結果を向陽新聞27号(1955/7/2発行)に掲載「不満な現在の処置」「辞職要求が圧倒的」と報道
――中高から各1クラスを選び、約4百名から解答を得る――
――入試漏洩から2か月余りたつが、教頭が岩井先生から西野先生に替わっただけで、責任者は不明のまま――
【大多数の生徒の意見】
問題を洩らしたのが先生であることは、ほとんど決定的で校長もそれを認めている以上、速やかにその先生を追求し辞職さすのがいい。ウヤムヤにもみ消されてしまうことを最も恐れる。
立派な真の教育は、先生を信頼することなくしてあり得ない。
未解決では講義など聞く気にならない。この問題の解決なくして真の教育はない。
現在どの先生にも反省の色は見えていない。事件前に比べて先生への信頼感がうすれた。
6月23日第1回校内弁論大会=生徒会、弁論部、新聞部主催
講堂に高校生全部が詰めかけ、各クラスからの8名の弁士。
審査委員長・町田先生以下、西野先生、河野先生。生徒側より6人が審査。
入試漏洩問題や生徒会活動の批判などにつき弁論。


6月25日(土)生徒委員会・・生徒会が解決に乗り出すことに決定。
6月28日ホームルームを開きクラスで討議。
同日生徒委員会・・生徒委員がクラスの要望、意見をもちよって、翌日の生徒総会の議題について討議。生徒総会の議題を決定。
@問題をもらした責任者は即刻名乗り出ることを望む。名乗って来ない場合は生徒側で対策を考慮。
A校長の責任を問う。
6月29日生徒総会(中高生全員出席)朝9時〜午後6時過ぎ
委員長より事件の経過報告と質疑応答
「責任者は校長のもとに2時間以内に届け出ることを教職員に要求する」ことを圧倒的多数で決定。職員会議に必要な時間を含め2時間待つ。
この間、定期試験の洩れることについて討議。某先生については証人も出る。
2時間後、名乗り出る者なし。今後の対策について協議。
3年Oホームから「休校によって先生方の両親に訴え、反省を促そうではないか」という意見が出され、無記名投票の結果
休校賛成………619票
反 対………… 200
中立・無効…… 28
総投票数の3分の2以上で、30日からの休校を決定。
振興会会長・入交太兵衛氏が「休校に対して反省を望む」と説得。
代表委員を残して一旦休会。
大嶋校長が教職員同席のもと、同盟休校反対、不承認の意向を発表。
総会再招集。教職員総退場。休校は再決議。生徒委員残し解散。
ZR9時高新ニュース、校長談として「生徒の責任者処分」
夜、生徒委員会招集。会則(生徒会会則?)、生徒処分問題など討議
RK10 時と11時ニュース「生徒が教職員11人の名を挙げ退職要求」と放送


6月30日朝から全生徒講堂に集合。町田先生「話し合いで解決しよう」と呼びかけ。
生徒総会に移り、学校側に再度解答を求めるが、明快な解答はなし。梅木委員長が休校宣言。生徒会4役(委員長・梅木栄純(2K)、副委員長・田中敦子(2K)、書記長・開徳倫子(2S)、進行係・岡林功(2O))および生徒代表70名を残し解散。
講堂で生徒代表と学校側(校長以下全職員)で話し合い。
学校提案の西野案(先生と生徒とで調査委員会を作る)を生徒側は別室で協議。同盟休校を続けても解決困難との意見が出て、55対6で3条件付きで休校打ち切りを仮決定。
条件@合同調査委員会は、あくまで責任者を追求する。
条件A校内の明朗化をはかる。
条件B生徒の発言権の強化・・会則を変更し、全委員の四分の三が特別と認めた生徒会の議決、
  行動には校長の承認を必要としないとする。
「休校打ち切り」を聞き、学校側の態度和らぐ。話し合い再会。学校側、3条件については明言せずだが、受け入れる。夜8時近く話しあい終了。
7月1日生徒総会。6月30日の代表委員の仮決定を625:194で承認。
授業ボイコット案なども出たが、同盟休校はうち切られ、問題の解決は合同調査委員会に持ち越された。総会以降は臨時休校。
校長は、30日の休校は同盟休校と認めず臨時休校とし、生徒責任者も処分せずと表明。
7月2日向陽新聞第27号発行。
『中学入試問題が原因の同盟休校解決す』と題したトップ記事。
6月25日の生徒総会から同盟休校終了までの動きを報道。
それと共に、「生徒の気持を生かせ=学校に責任自覚の要」とする先輩卒業生の意見や、生徒世論調査の結果を詳しく紹介すると共に、『主張』覧で「徹底的に責任者を追求せよ=ウヤムヤにするな入試問題」として論陣を張っている。この記事の中で注目すべきは以下のこと。
生徒の中に「XX先生ではないだろうか」という声の多いことに驚く。入試問題に限らず、普通の中間、学期試験などの定期試験の問題を教えている先生が決して少なくないことを、学校側は当然知るべきである。そしてそれが誰であるかということも確証を持っている生徒のいることも見逃せない事実である。この点についても学校側は生徒に対し協力を要求し、生徒は協力を惜しんではならないはずである。――
つまり、生徒はこの事実に基づいて「学園の明朗化や綱紀粛正」と合同調査委員会の必要性を主張しているのである。
7月3日産経高知版・・岩井談
7月4日第1回合同調査委員会・・先生と生徒計16人で構成
7月5日第2回合同調査委員会・・山岡、森本両君、委員会より脱退。
7月19日終業式。校長挨拶「確証がないため、はっきりした処置は取れないが、疑わしい人にはごく近い内にやめてもらう」
9月1日始業式。岩井先生を含む3先生の退職を発表。
9月2日合同調査委員会、[事件は一応解決した]として解散。
[依然,事件の真相は解決されないまま現在に至っている]=向陽新聞第50号/1960,12,16

(読売新聞学校版(週刊)昭和31年3月23日記事)

 同盟休校を主導してきた3年生たちが、近づく卒業を前にして「自分たちの卒業後のことが心配だ。いつまでも先生と対立していたのでは学園の再建はできない。下級生への置土産に、楽しく勉強できる学園を作るために、校長と生徒がひざを交えて話しあう場を設けよう」ということになった。 これに対し大嶋校長も「生徒と先生の交流のないところに教育はない。かねてから私も、学校側が生徒を律する古い行き方を捨て、生徒の希望や意見を聞いて民主的な学園経営を行いたいと念願していた」と、生徒の提案に全面的に賛成、卒業式寸前の2月中旬に、学園協議会が発足した。
 毎月1回、第1火曜日に開催。生徒会の4役員、各ホームルームの代表15名、新聞部代表2名、計21名が校長を囲んで茶果をほおばりながら会談。
 議題は学校生活全般。生徒からは学校に対する苦情や要求を出し、校長からは学校側の計画、先生の生徒に対する希望や意見を述べ、話し合いのついたことは直ちに実行に移されることになっている。
 更に、生徒会では新学年に備え、講堂の映写施設など39数項目にわたる校内改善を検討中。こうした活動は「受験亡者」といわれた土佐高生たちに、自治活動の尊さと楽しさを呼び覚ます効果ともなって、各ホームルームも力強い鼓動を始めている。
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