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このページは2012.3.31までの過去の記事を掲載しています。
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2012.03.26 岡林哲夫  2012年度総会・懇親会のご案内
2012.04.03 永森裕子  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2011.12.18 久永洋子  女子部員から見た新聞部
2011.12.16 藤宗俊一  曽我部校長と櫓
2011.11.03 笹岡峰夫  「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
2011.10.16 藤宗俊一  向陽新聞バックナンバーCD誕生のいきさつ
2011.10.12 山本嘉博  内閣府政策統括官 村木厚子講演会
2011.10.10 永森裕子  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2011.10.01 冨田八千代他  CD落掌御礼
2011.09.23 森田隆博  文系前期高齢者、CD作成奮戦記
2011.09.05 岡林哲夫  向陽新聞バックナンバーCD送付のお知らせ
2011.08.16 細木大麓  東都高校とびあるき
2011.08.10 永森裕子  高知支部懇親会のご案内
2011.08.10 中城正堯  展覧会と講座のご案内
2011.08.05 吉川順三  居心地のよい新聞部
2011.05.20 藤戸啓朗  会費はどのように
2011.05.10 濱ア洸一  土佐高校・中学水泳部の古き時代の活動
2011.04.29 永森裕子  2011年度総会及び懇親会議事録
2011.04.22 中城正堯  山田一郎先生追悼文
2010/04/01-2010/07/25設立総会まで
2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで
2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで
2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで

2012年度総会・懇親会のご案内
岡林哲夫(40回) 2012.03.26

向陽プレスクラブ会員の皆様
☆総会の日時・場所は
 2012年4月21日(土) 17:00〜
 「シェ マシオ(chez MACIO)」(店名は変わりましたが前回と同じ場所です)
   東京都中央区八重洲1‐2‐6 パールホテル2階
   03-3246-8087
 懇親会費は約5千円です。

☆総会に欠席の方は年会費(2千円/年)の振込をよろしくお願いいたします。
 (過年度分が未納の方は併せてお振り込み下さい。)
 振込口座:みずほ銀行 渋谷支店(210) 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ

総会資料  2011年度活動報告  2012年度活動計画  2012年度総会「その他」議案
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永森 裕子(44回) 2012.04.03向陽プレスクラブ幹事会議事録
司会岡林哲夫幹事長書記永森裕子

1. 日時:2012年3月20日13:20-17:00
2. 場所:中央区立「京橋区民館」5号室
3. 出席者8名:中城正尭(30回)公文敏雄(35回)森田隆博(37回)岡林哲夫(40回)
      藤宗俊一(42回)永森裕子(44回)中井興一(45回)水田幹久(48回)
 会長及び会計、幹事9名、計11名での幹事会により、以下討議事項の項目は承認となる。
4. 中城会長より
 二年目を終えての感想。岡林敏眞を中心に向陽新聞のバックナンバー集めがほぼできた。
 それをもとに藤宗俊一がCD化、そして岡林哲夫、森田隆博が協力しCDの作成を行い、会計の中井興一やその他皆の協力で向陽新聞のバックナンバーを皆に知らしめることができた。今後は、インデックスをつけ、母校100年史につながるよう、写真.資料共、積極的に集めたい。バックナンバーと資料写真をタイアップし、インデックスを今とつながるようにしていきたい。
5. 懸案事項の検討
@ 次期会長の検討
 以下、主な議論。
 中城:健康上の都合で、家族より反対されている。後一年の任期で、やめるのではなく任期切れで静かに消えゆきたい。岡林敏眞さん、吉川順三さんに打診したが住まいが遠いこと等で固持された。
 森田;中城さんは万年会長と考えていた。今もそう考えているので残って欲しい、代行をおけばよい。
 藤宗:会合に出るのが大変そうだし、ご家族の強い希望、そして本人からの意向なのでどうしょうもない。公文さんにして頂いたらどうか。
 中城:公文さんはよく高知に行っているので高知支部とのつながりからもそれはいい。
 公文:本人にその意志がない。ゆっくり考えることにしたらどうか。
 中井:会長は任期はあるが再任を妨げないとなっている。会長に次の会長候補を考えて
 もらうのが望ましい。
 水田:会長をおかない組織もある。
 森田:この件は、まだ一年あるのでその間に考えることにしてはどうか。中城さんに負担のかからないように全員でカバーして会の運営をしていくことを提案する。
 一年後までに検討することになる。総会の議案として「会長代行を置く」ことを提出する事とする。
A 幹事の増員の件
 鶴和千秋(42回)、高知の井上晶博(44回)、山岡伸一(45回)に依頼。
 鶴和さんには、岡林幹事長が打診ずみ。井上、山岡両氏に関しては永森が打診する。
 三人が了承なら、総会の時に、皆の承認を得る。
 また、途中からの幹事も、任期はその期の最初からの幹事と同じ期間と、期限を限る事にする。
B 弔意の内規について
 本人のみに、向陽プレスクラブ一同、と弔電を送る。
 第一報から翌日正午を経過しても幹事長から弔電を送ったとの連絡がない場合、又は葬儀の時刻が切迫している場合は気がついた幹事が送り、その旨を他の幹事に知らせる。
 無論個人で送るのは自由。
 標準的な金額の電報とする。
 請求書は、メールで幹事全員に電報打った旨と金額を知らせ、会計はそれを支払う。
C 年会費について
 総会の案内の際、欠席者、今までの未納者には幹事の文章力で支払って頂けるよう頑張る。
 
6. 総会議案について
 岡林幹事長が作成してきた資料をもとに検討。
1)  2011年度活動報告岡林幹事長
2) 2011年度会計報告会計中井より。
 CD頒布状況の説明。いずれ礼状か報告書を出すことの可能性があるので、協力者の名前の記録を残しておいて欲しい。(森田)
3) 2012年活動計画
@ 会議.懇親会の開催
 総会.懇親会2012年4月21日(土)17:00-
 2013年度は4月20日(土)
 幹事会2012年9月及び2013年3月、他に案件あれば随時開催
 高知支部懇親会2012年秋開催
A 向陽新聞バックナンバーの広報と普及に関して
 向陽新聞バックナンバーにより土佐中高の歴史を伝える意義を考えて、皆で頑張りたい。CDの普及活動はこれから。(森田)
 .6月2日の関東支部総会の際に入り口にスペースをもらえるか、担当学年の藤宗が交渉する。
 .8月の母校ホームカミングデーにてPR井上、山岡とともに永森普及を考える。
 .母校図書館に貸し出し用20枚を置いてもらう。厚手のカバーと背表紙を付ける。土佐校の歴史を知ってもらうべく先生にも配る。岡林担当、森田作成
 生徒への無償配布の検討を今年のテーマとして提案。(提案)
B 母校百年史編纂への協力
 .向陽新聞バックナンバーの使いやすさの向上をはかる。
 インデックスを作成。インデックス作業のイメージ作りは幹事長が行う。
 .写真等資料の提供呼びかけ
 .学校との窓口は、新幹事に就任の暁には、東京からは鶴和、高知は井上、山岡に依頼する。
 土佐校の設立趣意書は、人材育成、自学自習、個人指導。報恩感謝は建学の理念とは違う。宇田、川崎の恩を忘れてはいけない、という意味。また、演芸会を高知公民館で市民に一般公開で行っていた。そのような各時代の最前線の情報や基礎知識を100年史の為に向陽新聞は提供できる。(中城)
C ホームページ関係等
 .一幹事一記事の徹底(原稿依頼も可)
 .筆山の「向陽新聞に見る土佐高の歩み」への次回の寄稿は、公文敏雄(35回)が行う。
D 体制強化について
 規約の変更。
 新幹事の承認。
E その他
 .弔意内規の件
 .その他
4) W2012年度予算案会計中井より
 
7. 7.総会開催
 2012年4月21日(土)17:00-
 前回と同じ場所「シェ.マシオ」パールホテル二階
 総会、高知支部の懇親会には、会場費を補助する。
 
8. 最後に、中城会長より
 バックナンバーの補強、インデックス活用を行うと共に、母校100年史につながる写真や資料を積極的に集める。バックナンバーと資料、写真をタイアップしていくようにする。
 インデックスを今とつながるように活用していく。
 100年史の編纂委員会で10分話すとかバックナンバーを活かす方法を考える。
 
 中城さんの資料をもとに中城文庫、または向陽文庫を造ったらどうか。(森田)
以上
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向陽新聞に見る土佐中高の歩みC
久永洋子(34回) 2011.12.18女子部員から見た新聞部

文芸部のころ
 女子部員から見た当時の新聞部について何かを書くようにとのご指名を受けまして五十数年前の思い出を手探りに書かせていただきます。はじめに少し脱線しまして、文芸部のことを書かせていただきます。
 私は中学、高校ずっと文芸部に、高校一年の時に新聞部に入部しました。二つの部は部室も近く仲良くやっていたように思います。文芸部は女子部員が殆どでした。中学の頃は先輩の言いつけに従って学校の近くの文房具店や父兄の店に広告をお願いに行くのが仕事でした。おずおずと門をくぐる学生に皆さんがやさしく応援して下さったものでした。
 高校二年の時先輩からバトンタッチされて文芸誌「筆山」を発行した時は大変でした。広告集め、原稿依頼、編集、割付、校正を少数の女子部員で行いました。経費を少しでも安くするために先輩からの申し送りで、印刷は高知刑務所に依頼していました。
 高知城の西北、すべり山のそばにあった刑務所の門をくぐり、静かな小部屋で係官の人と原稿の受け渡しをしたものでした。なかでも一番困ったことは原稿が足りないことでした。その頁を埋めるために私も生まれて初めて創作を書きました。淡い恋心がテーマだったと思います。「筆山」が出来上がって各クラスに配られた時、私の拙文を読んで皆さんが笑っているようで恥ずかしくて廊下が歩けなかったことを思い出します。
新聞部入部
 そして新聞部には、先輩が「入ってみない」と誘って下さったように思います。
 校舎の正面から入ると左は事務室、応接室、校長室、職員室と続き、右は生徒会、文芸部、新聞部、放送部と並んでいました。あの頃は一クラスに生徒七二名も居て、私はヤマサキで七二番でしたから、いつも後ろの壁にくっついて座っていました。通行できるのは前だけ、それでも授業中は物音一つなく静かに勉強したものでした。休み時間には白線をつけた生徒が廊下も階段も溢れていました。学校が大好きだった私は、卒業間近な頃、ああこの渦の中で死んでしまいたいとか思ったものでした。
 新聞部は大勢で面白い集団でした。高校三年生は勉強優先のため引退し、高二と高一ですべてを運営していました。毎日授業が終わると部室に直行して、色々なことを相談したものでした。すぐに紙面をまかされ、色々な原稿を書きました。「先生のお宅訪問」記事を書くため、久保田先生、片岡先生、熊野先生のお宅に伺ったことなど懐かしい思い出です。原稿を書きながらも、半分はお喋りと掛け合い漫才のような、楽しい毎日でした。
素晴らしい先輩方
 今回向陽プレスクラブの素晴らしいご努力によって向陽新聞が全号蘇りました。それを拝見しまして、当時の向陽新聞のレベルの高さと面白さに驚きました。あの雰囲気の中から皆でこの紙面を作り上げたのだと感動しました。しかしそれはその時の部員だけの力ではなく、大いに先輩の励ましがあったからだと思います。高三の先輩達も足繁く部室をのぞいては新聞の作り方について教えてくれました。
 また岩谷大先輩、中城さんを始め大学生の先輩達が休みになると真っ先に部室を訪ねて下さいました。東京の風、大学の風とともに。
 新聞部には先輩と後輩の強い絆があり、高校生だけではとても対処できないところまで盛り上げていたのだと思います。大島校長先生も新聞部には一目置いておられて、先輩も交えての会議を持つこともありました。生徒からの突っ込みに本気で激高されたり、やさしく教えて下さったり、人間味溢れる方でした。
 昭和三十三年春、大島校長先生はお亡くなりになりました。思えば、先生と身近にお話しして、学校を思う先生のご意志の一端をお聞きすることができたことは、本当に貴重なことでした。あの時私達は高校三年生でした。
 女子部員は勝手に喋ってばかりいて、広告、編集、印刷等の大変な仕事は男子部員が夜遅くまで部室に残ってやっていたようです。
 私達は夕暮れになると、にぎやかに下校しました。喋り疲れ、笑い疲れて、鏡川の橋に来ますと、西の空に鮮やかな夕陽が今にも沈もうとしていて、静かな川面に青のりを採る舟が一艘、二艘、船尾に尾を曳きながら浮かんでいました。心静まる風景でした。
 平成まで続くことなく、今母校には新聞部も文芸部もないということを私は最近知りました。何故?と驚きました。
育まれた友情
 あの薄暗い廊下の隅、階段のそばの小さな部室で育まれた友情、そして34回生は、国見さんNHK、吉川さん毎日新聞、秦さん朝日新聞、と巣立っていきました。陰ながら、これは私の自慢だったのですが。
 時は過ぎ、秦さんと浜田さんは帰らぬ人となりました。あんなに新聞部を愛していたおふたりに向陽プレスクラブが出来たことを報告したいと思います。
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藤宗 俊一(42回) 2011.12.16曽我部校長と櫓

1.曽我部清澄先生
 同窓会の席でいつも話題になるのは初代三根校長と戦後の混乱期に母校を立て直した三代大嶋校長ばかりで、四代目の曽我部校長が話題になることが少ない。確かに、草創期や復興期の苦労と比べれば、その業績はかすんでしまうかもしれないが、どうも語る人たち(長老)の年齢層によるところが多大である。私たち昭和33年以降の入学生にとっては、三根校長や大嶋校長は単なる校史上の人物であって、実際お目にかかったこともないので親近感がまるでない。かと言って、曽我部校長に親近感を抱いていたかというとそれもまるでなくて、校長というと始業式や終業式で眠くなるような挨拶を聞かしてくれる存在でしかなかった。どこか、洗練された紳士(印象深い蝶ネクタイのせい)といった感じで、アクの強い名物教師(カマス、タヌキ、ナオサン、マンタロウ、パンツ、タコ、サカイ族、ガンキチ、アヒル、オンカン、ヒラリン等々)の陰に隠れてしまっていたという印象である。
 曽我部校長は明治40年(1907)に吾川郡八川村(後に吾北村、現在はいの町)に生まれ、母校の第1回卒業生で、昭和2年(1927)旧制高知高等学校、昭和5年(1930)東京帝国大学理学部物理学科を卒業。その後全国の中学校で教鞭をとられた後、高知高等学校に教諭として迎えられ、昭和24年(1949)戦後の学制改革 で高知大学教授となり、文理学部の礎を築かれるとともに、放射線物理学の研究を続けられた。昭和33年(1958)、大嶋校長の急逝のあと、2学期途中から文理学部長の職を辞して母校の校長に就任された。向陽新聞44号では『本校のありかたを今までの予備校的存在からはなして人間形成の一過程とし、校内全員の“親和”をのぞむ』と語り、長髪禁止令の廃止、遠足の年2回の実施、ホームルームの充実、暴力や盗難の排除など“明るい学園建設”を目標とした。22年間の在任中(歴代最長……大嶋校長は13年)、その自由闊達な校風の中、生徒たちはもてる力を伸ばし、甲子園準優勝(昭和41年春)や東大合格者数18名(42回生)など、“文武両道”で活躍し、"私学の名門"としての評価を定着させた。昭和48年(1973)には創立50周年にあわせ、全校舎の改築を成し遂げる。また、高知県県私立中高連合会長、私立学校審議会委員、県高校野球連盟会長などを歴任し、昭和56年(1981)逝去。行年75歳。
2.釘をさす
 こうして見ると曽我部校長は前述した二人の校長以上の業績を残されているが、実を言うと、曽我部のオンチャンは小さい時から知っていた。高知大学の官舎(入明町)が大伯父の蒲原のオンチャン(稔治・呑海。魚貝類学者、1901〜1972。)と隣同士で頻繁に行き来していて、米や野菜を届けに行った折や宴会の席で何度か顔を会わせたことがあって、土佐中の合格発表の後、土佐校に隣接する校長宿舎に挨拶に連れて行かれた。その席で『校長室に呼ばれるようなことだけはしないでくれ。どんな顔をしていいか困るきに。』と釘をさされて、入学してからはできるだけ顔を会わさないように心がけていたし、校長室の前を通る時は廊下の端を歩いていた。
3.糠に釘
 ところが、最後になって、この釘が糠に打ったものだと校長に思い知らしめた事件を起こしてしまった。
 昭和38年ごろから櫓の廃止案が@費用が非常にかかることA建築ブームでやぐらに使用するパネルの入手が困難なことB杉の葉をとりよせる際や、その他の用具、材料運搬の際の生徒の災害C設立の際の生徒のエスケープD応援の不徹定E危険性F後始末Gファイアーストームの乱れ等、の理由を挙げて学校から提示され(向陽新聞60号 63号)、42回生が高3になった時もぶり返された。
 勿論、大反対である。高校生活最後のイベントから櫓とファイアーストームが取りあげられるなんて納得がいかない。結局、学年の代表が学校側と話し合い、一番危険と言われていた杉や檜の小枝を須崎の奥の山で共同購入して、運搬を業者に委託するということで合意してきた。ところがKホームでは既に、近くの久礼田の裏山で檜の小枝を無料で手配済みで、もう運び込むだけになっていた。連絡会の席で理由を話して『共同購入には参加しない』と表明し、1週間前には軽トラックやオートバイで学校に運びこんで、教員室と用水路の間の窓下に隠した。隠したという以上、悪いことをしているという自覚は多少あったであろう。
 しかし、翌日にはもう露見し、『責任者は校長室に来るように』と言われ、同級生と二人でお白洲に向かった。恐る恐るドアを開け、頭を下げたまま入り、神妙にしていると、『顔を上げて、名前をいいなさい。』と言われ、応えると一瞬『やっぱり来たか』という表情をされたが、何事もなかったように懇々とお説教をされた。 曰く『学校の決めたことがまもれないのか?(後になって学校が勝手に決めたことなのに)』『こともあろうに教員室の窓下に隠すのは先生方を愚弄しているのか?(多少あります)』『一番いけないのは他のクラスが守っているのに抜け駆けするのは恥知らずではないのか?(ちゃんと報告済みです)』。淡々と諭すようにされて、ただ黙って聞くしかなかった。……()内は胸のうち。
 『それで、Kホームは櫓をどうするのか?』と訊かれ、二人で相談した結果『運び込んだ檜は使いません。他のホームで使って下さい。櫓は作ります。』と意地を張って答えてしまった。それからが大変で、クラスに帰って報告し、放課後リヤカーを引いて家具屋や土建屋を廻りベニヤの切れ端や廃材を分けてもらい、ペンキを塗って装飾に使い、それでもみすぼらしいので、グリーンスタンプの小旗を『宣伝になるから』といって多量に借りてきて櫓に巻きつけることにした。出発点が遅れたせいもあって、前日の夕方になっても完成せず、最後は校長宅から電気を借りて(さすができた校長で快く貸してくれた)頑張ったが、9時までかかっても完成せず、翌早朝、泊り込んだ友人宅から5時過ぎには現場に来て、まあまあ見られる格好にして、なんとか本番には間に合わせた。尚、この件について、タヌキの『甚田先生裸日記(2版)』に、実名を挙げられ警察から不審尋問を受けたなどと根も葉もない話が報告されているが、全くのデタラメで、どうも高2の時の仮装行列準備の時、夕方学校を追い出され城山公園で練習していた事件が一緒になっているようで、この場を借りて訂正しておく。
 その夜のファイアーストームはもう疲れきって、校庭の片隅で座り込んで居眠りをしていたし、2次会も参加する元気もなくて散々な運動会になってしまったが、良い思い出として残っている。その後の向陽新聞には櫓問題は出ていないのでずっと続いてると思うが、今思うに、櫓は単なる運動会の思い出作りではなかったような気がしている。企画・設計、規制への対処、予算、購入、交渉、人間関係、資材調達、安全管理、危機管理、労務、納期、完成の喜び等、一般社会の活動を体験させてもらえる場ではなかっただろうか。授業やクラブ活動では学べないことを経験させてもらった気がする。どうか、授業のさまたげになるとか、危険だから、費用がかかるなどと管理面からだけで廃止を言い出すようなことはしないで欲しいと願っている。
4.抜け釘
 その後、釘が抜けてしまったのか、卒業までの短い間に二度も校長室に呼ばれた。「下級生下駄殴打事件」「冬の金沢、逃避行事件」で二つとも親しくしていた同級生が起こしたもので、説明と経過報告に呼び出された。どうも担任のタヌキは諸悪の根源は私にあると考えていたようで、ことある毎に私に振ってきた。最後には、あろうことか、進学父兄面談で『御子息は学校に遊びに来ているようです。 このままではどこの大学も通りません(実際そのとおりになった)。』とやってくれたので、家に帰ってきた父親にこっぴどく叱られた。後年(20年以上たって)、自宅にお伺いした際に『一番ひどいと思っていたクラスが一番良かった。なんせ理Vを含め5人も東大に入った(現役はたった1人)のだから、ナオサンやパンツに対しても鼻が高かったぜよ。』と自慢げに話していた。別にタヌキの鼻のために頑張った訳ではなく、各自勝手に高校時代を謳歌させてもらい、その代償として予備校で頑張らざるを得なかったのだと思っている。
 勿論、同級生全てがワルばかりではなかった。エース(準優勝投手)のために、寮に行って勉強を一緒にした同級生もいるし、ずっと委員長と呼ばれ続けられた同級生もいるし、多士済々の顔ぶれが集まり、お互い切磋琢磨して成長していく自由闊達な場を与えてくれた土佐校に感謝するとともに、それを作り出した曽我部校長に改めて畏敬の念を感じざるを得ない。くしくも、今年、曽我部校長にとっては最初の入学生である山本氏(40回)が母校の校長に迎えられたという。学校は管理・経営の場ではなく、生徒の個性を伸ばす場であるとことを肝に銘じて、再び"私学の名門"として復活させてくれるよう切に望んでいる。個人的には、とりあえず甲子園に早く連れて行って下さい。
5.最後に
 曽我部のオンチャン、30年忌を迎えたというのに墓参にも出向かない不肖の教え子の戯言に苦笑いしていることでしょう。合掌。
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「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
笹岡 峰夫(43回) 2011.11.03
前 略
 去る9月26日から、慌ただしく新事務所での業務を開始しました。
 東、南及び西の三面が大きなガラス面になっていて、ブラインドを開けると眩しい程に明るい事務所で、東正面にはスカイツリーがはっきりと見えます。
 24〜25日の引越しに際し、延べ幅270cm(高さ220cm)の書棚が事務所に運び込めなかったなどのハプニングもあって、ダンボール箱があふれていた事務所も、次第に落ち着いた状態になりました。
 そんな中、朝から雨の降り続く大安の10月5日は笹岡の誕生日でした。
 事務所内には、ゴミ箱などを隠す目的も兼ねて、バーカウンターも設置しました。勿論、打合せも出来ますが、カフェにも、バーにもなりそうで、皆様が気軽に立ち寄って下さることを楽しみにしています。
 なお、「けやき法律事務所」名を使用していなかった間に、同名の事務所が都内に出来ているとのことで、「新けやき法律事務所」と改称しましたが、この名称の方が今の心境には相応しいように感じています。
草々
 新けやき法律事務所
 〒164−0001東京都中野区中野5−68−1 高山ビル4階
 TEL 03−5318−4161  FAX 03−5318−4162
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向陽新聞バックナンバーCD誕生のいきさつ
藤宗 俊一(42回) 2011.10.16
 CD発送が終わって一息ついていたら『会としてはCD誕生のいきさつはきちんと残すべきと考えますので、よろしく』という、中城会長からのMailがあり、この事業全般にかかわってきた以上書かざるを得なくなって、HP初投稿になりました。私は一応理系なので拙文で、とても文系前期高齢者の方のようには上手に書くことは難しく、この事業に携わった方々のご指導、ご助言を受けながら、なんとかまとめました。このところアルコハイマー性認知症がすすみ、記憶違いや失礼な表記が多々ありますが、CDに免じてお許し下さるようお願い申し上げます。
 
1.発端
  平成22年3月19日、第1回向陽プレスクラブ再結成準備会の席上、岡林敏眞氏(32回)から『校舎改築の際廃棄処分にされそうになった向陽新聞のバックナンバーを、母校教員で新聞部OGの門田美和さん(38回)が見つけ図書館に保管してあるそうです。』と報告があり、『4月の帰高の際、母校を訪問して確かめてくる』ということになった。

2.調査、電子化発注
 平成22年4月8日のホームページ記載の報告書抜粋(下記)のとおり、岡林敏眞氏から調査と提案が行われた。
1)4月3日。10時土佐高にて三浦浩二教頭(45回)に会う。新聞部OGの門田美和さん(38回、今年3月まで土佐高の教師)も駆けつけて来てくれ、彼女とともに図書館に保存の向陽新聞を調査した。
*保存新聞のリストは別紙。96紙が保存されていたが、劣化が進み紙面は茶色に変色。
*三浦教頭の紹介で、池商店の専務・池 啓伸さん(49回)が来校。池商店は土佐高に文房具などを納入している業者。彼が新聞などの電子化業者に連絡を取り、試験的に1紙を電子化すると共に、値段を調べてくれることになった。
2)4月5日。11時に小村(こむら)彰(49回)教頭に面会すると共に、事務室で電子化した向陽新聞をパソコンで見る。写真撮影したものより、スキャナーで作成したものが鮮明であった。
*事務部の千頭(ちかみ)裕(58回)さんがパソコンを操作してくれた。
*電子化料金はスキャナーで1面で300円(税別)
*ガラスの上に紙面を載せて、汚れを除去しながら25分〜30分の時間がかかる。
【向陽新聞の電子化について】
 少々経費がかかるが、この際電子化したらと思う。会員全員が自由に閲覧できるし、土佐高にも永久保存に便利。費用は、とりあえず、準備委員(中城、岡林、杉本、吉川、公文、森田、黒木、藤宗、永森、中井、鶴和)の11名が1万円ずつ出しておいたらどうか。会員への連絡費やHPの開設費用、総会会場の予約金など、いわゆる開点資金がかかると思う。中井君が開設した口座に振り込む。
 電子化をすることになれば、門田美和さんに動いてもらって進めることにする。
  
3)これ以上の散逸を防ぐために、電子化は急務であるという認識で一致、岡林氏に一任。池商店に発注された。
4)資金については、とりあえず中城正堯氏(30回)、岡林敏眞氏、杉本健一郎氏(32回)が合計7万円を拠出し、それに藤宗保管の旧プレスクラブ通帳の残金約3万円(うち1万円は島崎(森下)睦美さん(31回)よりのカンパ)をあてることになった。

3.第1次電子化画像到着
 平成22年4月下旬、池商店よりスキャンされた画像(283面分)が届き、岡林氏から『電子化が終わったので、池商店に支払いをするように。』との指示を受ける。
1)画像を精査すると以下の問題点が浮かび上がる。
*500MG近い一つのファイルにまとめてあるので、インターネット上では多分誰も読み取ることが出来ない。
*順番がでたらめで目的の号数を捜すのがまず無理。
*落訂や二重の画像(約40枚)もあり、283枚の根拠がデタラメ。
*画像がナナメになったり、横向きになたりして画面上では読めない。
*ごみ取りをしていなく醜い上、見本では1面2.5MBあったのだが、半分くらいが1MBもなく非常に粗く、印刷には不向き。
*少なくとも、データを撮る段階で新聞を見ながらファイル名に号数と紙面の番号で入れて、処理しておけば簡単だが、このデータから編集するのは大変な労力がかる。
2)以上の問題点を指摘し、『金は払えない』と岡林氏に伝える。折り返し池氏から電話があり、その旨をつたえると、『指示通りに母校から古新聞の山を受け取り、上から順番にスキャンしていっただけです。確かにこちらのミスもありますので、取り直し致します。下請に渡す指示をお聞かせください。ただ、合間をみての作業になりますので時間を下さい。』との返事。母校のためとはいえ、快く再スキャンを引き受けてくださった池氏には頭の下がる思いがした。
3)今後の進め方
*とりあえず、受け取ったデータを分割し、新しい名前をつけてホームページに仮アップする。
*向陽新聞のデータは500MBもあるので、メイルでは誰も受け取れない。DVDかCDで送るしかない。「総会に参加した人たちに手渡すのが最善なのだが、まだ、電子化は終わっていない。未収録のデータもあるし、少し時間がかかる」と報告。

4.未収録バックナンバーの収集とリストの作成
1)母校に残されていたバックナンバーは92号分(翌桧、号外を除く)で残りの19号分の行方探しを、メイルやHPを通じてお願いした。その結果下記の方々から提供の申し出があり、スキャンした画像が送られてきた。
*細木 大麓氏(27回)、谷村 峰雄氏(27回元文芸部):4,6,8,10号
*中城 正堯氏(30回):創刊号,12,13,14,16,17,18,26,52,53号,スポーツ号(ガリバン製)
……公文 敏雄氏(35回)を通して
*山本 嘉博氏(51回):101,103号……同じく公文氏を通して
以上の御提供のおかげで、未収集のバックナンバーは5号、82号、107号だけになった。
2)以上の資料と学校に残されていた号外、翌桧号(生徒会発行)、復刊号(有志発行)、高知新聞(広告等)をまとめてリストを作成することにしたが、前述のようにファイルの名前がランダムの上、1面1面を開きそのデータ(号数、発行年月日、編集人、発行人)をエクセルに書き込んで行く大変な作業となった。また顧問の先生方の名前を入れたらという提案があり、HPで協力を呼びかける。ただ、記憶が曖昧になっている方が多く、自分の時の先生は分かるがいつからいつまで顧問であったかは定かではないというと返事が届く。

5.第2次電子化画像到着、編集、ホームページへの掲載
 平成22年8月上旬、池商店よりスキャンされた画像(252面分)が届き、会計の中井興一氏(45回)が池商店に支払いをする。既に設立総会も終わり、会員の手元に渡すことが出来なくなっていたが、総会でHPに載せることが決定していたので、「何故私がやらなければならないの?」と思いながら編集作業が始まる。
1)全ての画像(292枚)を号数毎に分け、横転している画像を回転させ、紙面順に結合し、新しいファイル名で保存する。
2)リストに主要記事内容を付け加え、ジャンプできるようにHTMLのタグをつける。
 出来た分からホームページに載せる。実際は1)2)を並行しながらすすめるが、うんざりする作業である。仕事の合間をみてはの作業で結局3ヶ月あまりかかり121枚のPDFファイルを作り年内に完成し、ホームページの会員のページに掲載。

6.CD化
 平成23年4月、第2回総会にて事業計画でCD化が決定される。協力を求めても誰も手を上げない。文系が大半のクラブの弱点をさらけだす結果となった。
1)HP掲載の総容量が720メガ程度なので、700メガにまとめればDVDではなくCDに収録できる。CDにすれば、値段も安いし、誰でも見る事が出来るし、大量生産も手伝ってもらえると思い、また分解して画像を少し圧縮をかけて、再び結合させる。ところが、実際CDに焼き付けてみると700メガは書き込めない(失敗)。再び680メガに圧縮してマスターCDを作り、ホームページに仮掲載をして、幹事の意見を訊く。
*あろうことか、文系前期高齢者の方などは『あれはホームページと同じですね。』とのたまう。文系の人は出来上がったものでしか判断しない。
*『土佐向陽クラブは正式名称ではなく会則どおり向陽プレスクラブに。』画像なんてお飾りだというのに。修正。CD2枚没。
*『日付けを入れた方が良い。』全てのファイルの日付けを強制的に2011/09/01 00:00:00で統一する。また1枚没。
2)岡林 哲夫氏(40回)から『ラベルを付けた方が良い。私が作ります。CDコピーも手伝います。』最後になって、やっと救いの手が差し伸べられた。
3)森田 隆博氏(37回)から『パソコンは文系理系は関係ない』と向こう見ずな申し出があり、多少疑問を抱きながらコピーをお願いした。
(既報CD作成奮戦記を参照してください。)

7.コピーと発送
 平成23年9月、完成したマスターCDを会員の宛名ラベルとともに森田、岡林両氏に送る。中旬、コピー及び発送が完了。9月22日、岡林氏と永森裕子さん(44回)が高知支部懇親会に参加し出席者に手渡し、同時に母校や高知新聞社にも届ける。多くの方々からお礼のMailや葉書が沢山寄せられ、1年半にわたる事業は完了した。

8.最後に
 多くの方々のご協力を得て、無事『向陽新聞バックナンバーCD』を皆様にお届けできたことを深く感謝いたします。

9.追記:フリーソフト、シェアソフト
 森田氏が初めて使用されたと言われるフリーソフトやシェアソフト(○印)をこのCD作成にあたり使用させていただきました。開発及び提供者(社)の方々に感謝致します。安心できるソフトですので皆様も是非お試し下さい。(全て日本語版あり)
1)WinFD ○:ファイル管理ソフト:copyright(c)高橋直人 Naoto Takahashi
MS-DOS時代(FD)から続くファイル管理ソフトで、属性変更、更新日変更、最新更新日同名ファイルのみコピーができる(一番使う。何故エクスプローラにこの機能がないのか?多分100枚以上、他のパソコンに同時にコピーすることを考えていない)、定評あるソフトです。
2)FFFTP :FTPクライアント:Copyright(C)Sota. All rights reserved.
ホームページにサイトアップするソフトです。
3)GIMP :画像処理ソフト:Copyright(C)Spencer Kimball, Peter Mattis and The GIMP Development Team
日本語の解説書(市販)まで在るソフトで個人的にはPhotoShop(高価)より使いやすい。
4)PrimoPDF :PDF作成ソフト:Copyright(C)activePDF, Inc. ("ACTIVEPDF")
全てのソフトからPDF打ち出しができる。編集はできない。
5)ComPDF ○:PDF結合ソフト:Copyright(C)森 秀樹 foresth
6)SepPDF :PDF分割ソフト:Copyright(C)森 秀樹 foresth
7)その他、パソコンや製品に付属する多くのフリーソフト(Adobe Reader,Roxio Creator,Roxio burn,エレコムらくちんプリント等々)を使用させて頂きました。
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2011ホーム カミング デー 内閣府政策統括官 村木厚子講演会
『私を支えてくれたもの-郵便不正事件の経験を通じて-』
山本 嘉博(51回) 2011.10.12を聴講して
 高校の2学年先輩の村木さんの講演は、満席立ち見の出る盛況ぶりだったが、録音 録画禁止との事前説明のあった母校での話には、おそらく他では見せないと思われる 親しみが宿っていて、生々しい話も多く、その肉声で語られる言葉とユーモアの随所 に重みと人柄が窺えて大いに感銘を受けた。
 ちょうど特捜部による捜査の是非が問われ、大きく揺れていた頃、最高検には村木 さんの2年後輩となる僕らの同窓生が検事として職務に就いていたりもして、今回の 事件は非常に身近に感じてもいた。だから、大いに関心を寄せていた講演だったが、 予想以上のものがあって、貴重な機会を得られて良かったと改めて思った。
 村木さんが、どうして折れずに持ちこたえることができたのか、と問われるなか で、振り返ってみて感じた5つのこととして挙げた第一が“好奇心の強さ”だったこ とにとても感心させられたことが印象深い。以下、
 2番目:支えてくれる人々の存在
 (とりわけ両親の残っている郷里にて支援の声をあげてくれた同窓生。本当にあり がたかったそうだ。)
 3番目:好きなものがあること(推理小説。寸暇を惜しんで読み耽ったそう だ。)、
 4番目:子ども達のためにも折れるわけにはいかないとの思い、
 5番目:きちんと食べて寝ることができたこと、だったのだが、
 最初に挙げた好奇心とは即ち、能動性であり、逮捕による取調べに対し、受身一方に 身を置かずに済んだことを指していたように思う。  2番目の要点は、やはり「一人じゃないと思える心強さ」であり、逆に言えば、孤 独に追いやられると持ちこたえられないということなのだろう。3番目の要点は、気 持ちの切り替えが出来ることの大きさで、4番目は、我が事に留まらない目的意識を 持てることの強みだろうと思った。ご本人自ら、最後に挙げたけれども実は一番の基 礎になる部分だと思うと話していた5番目のことは、精神力を形成する根幹なのだと 改めて感じた。
 たぶん皆さんは、検察の取調べを受けることは概ねなかろうから、それに持ちこた える術など身につける必要もないだろうけど、検察の取調べに対してということに限 らない要点だと思えるし、こういうことは普通、改まって考えたりもしないことだか らとの前振りの元で話してくれた5つの要点は、成程の納得感と含蓄に富んでいた。
 もう一つ話してくれた、弁護団から教わったとの“無実を勝ち取る5条件”という のも、なかなか面白く、1.タマがいいこと、2.スジがいいこと、3.検事がバカ であること、4.弁護士が利口であること、そして、5.裁判官が利口であること、 なのだそうだ。この5つが揃うことはなかなかないらしいのだが、それよりも問題な のは、この5つが揃っていても、運に恵まれなければ、無実は勝ち取れない現実だそ うだ。それを聞いて、いくらなんでもそんな現行制度のままであってはならないと 思ったと話していた。
写真提供:土佐中・高等学校同窓会関東支部

《近況報告》
 三人の子供たちの就職結婚も終え、私的には余生に入りました。映画観て、芝居観て、コンサート行って、バドミントンに汗流して…。健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を行使中。 鑑賞日誌などの個人サイトを開設しています。
 (『間借り人の映画日誌』)http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/
 (『ヤマさんのライブ備忘録』)http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html            
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永森 裕子(44回) 2011.10.10向陽プレスクラブ幹事会議事録
司会 岡林哲夫幹事長   書記 永森裕子 
1.日時 2011年10月2日 12:30−15:00
2.東京駅丸の内南口「龍福小籠堂」
3.出席者 7名:中城正尭(30回) 森田隆博(37回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 永森裕子(44回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回)
委任状 吉川順三(34回)
会長及び会計、幹事9名、計11名での幹事会により、以下討議事項の項目は承認となる。
  
4.報告
@永森、岡林より高知での9月22日、第一回会合、及び土佐高訪問の報告。
製作されたCDを持参して、岡林、永森で9月22日15時土佐高訪問。
山本芳夫校長、三浦浩二教頭、小村彰教頭、高知新聞記者大野耕一郎氏、とCD製作過程や土佐高の100年史の話を懇談。
A向陽プレスクラブ高知支部の第一回会合の報告
井上晶博(44回) 山岡伸一(45回)宮川隆彦(46回)の尽力のもと、
9月22日19時−21時 「柳憲」にて開催。
出席者15名。山崎和孝(26回) 森木光司(32回) 板原正伸(33回)
山下功智(36回) 宮地正隆(36回) 門田美和(38回) 西内正氣(42回) 大原悟(43回) 井上晶博(44回) 山岡伸一(45回) 宮川隆彦(46回) 岩田理道(47回) 山本嘉博(51回)
岡林哲夫(40回 幹事長) 永森裕子(44回)
井上晶博氏、司会。岡林幹事長の挨拶の後、簡単な自己紹介をしつつ
和気藹々の二時間であった。
岡林幹事長持参のCDには皆いたく感激。
板原正伸、山下功智、門田美和、西内正氣、岩田理道、山本義博の6名、向陽プレスクラブに入会。
B中城会長より
土佐高三浦教頭より、土佐高100年史の編纂に関して、教育史の専門家にお願いすることになった、向陽プレスクラブにもいずれ御協力を御願いしたいとの連絡があったとの報告。
  
5.討議事項
@請求書の件
複数でのプロジェクト作業にかかった経費は、代表請求と代表支払いを認める。請求者はメールで全幹事に報告、一週間以内に異議かなかったもの、及び幹事長の許可が出たものを会計が支払う事とする。
ACD販売の件。
製作、協力費として1枚3000円のカンパをお願いすることとする。その際生じる諸事項は、今後メールで案を提出、討議、意見噴出の場合の最終決定は幹事長とする。(以後、その他の諸事項も同様。)
  
6.その他
@関東支部機関誌「筆山」に連載の「向陽新聞に見る土佐中高の歩み」の次回執筆は、34回久永洋子氏に永森が依頼。
A次会総会は4月21日土曜日、午後5時より。
今年はCDを製作したが来年度はどんな活動をするか総会までに各自考慮のこと。
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冨田八千代(36回)他 2011.10.01CD落掌御礼

 CD発送に際し、沢山のお礼のMailが届きましたので掲載します。(到着順)
 画像をクリックすると大きな画像を見ることができます。

濱崎 洸一(32K) Sent: Sunday, September 18, 2011 2:27 PM
 向陽新聞バックナンバーCD受け取りました、なんとか自分の在学時代を読んでおります、関係されたみなさんありがとう、取り急ぎ受領報告です。

鶴和 千秋(41S) Sent: Sunday, September 18, 2011 11:01 PM
 本日DVD届きました。
 たとえご本業に多少の時間的ゆとりがおありになったとしても、大変な労作です。 ご苦労をかけました。感謝します。 有難うございます。

公文 敏雄(35S) Sent: Monday, September 19, 2011 10:43 AM
 ご労作昨日落手いたしました。
 お骨折り有難うございました。

永森 裕子(44K) Sent: Saturday, September 17, 2011 11:36 PM
 CD到着しました。幹事長、森田さん、藤宗さん、有難うございました。お手伝いできなくて申し訳ありませんでした。

吉川 順三(34O) Sent: Monday, September 19, 2011 11:21 AM
 DVDありがたく受け取りました。
 伊豆の吉川

浅井 伴泰(30O) Sent: Tuesday, September 20, 2011 8:57 AM
 DVDありがとうございました。パソコンの調子が悪く、買い替え検討中、金策が上手くいったら、ゆっくり見ます。残暑もピリオドのようです。
 益々のご活躍を祈ります。発送の方にもよろしくお伝え下さい。
 野球追伸
 中学 18年ぶり優勝
 高校 新人戦 1−0で明徳を破り準優勝、秋の大会第二シードとなる

牧内 操(42H) Sent: Tuesday, September 20, 2011 10:57 AM
 お骨折りの賜物をありがとうございます。少しばかり家を空けていまして、お礼が遅くなりました。一気に半世紀遡り、10代に戻れそう(?)ですね。
 お疲れさまでした。

辻 正子(35H) Sent: Wednesday, September 21, 2011 10:20 AM
 向陽新聞バックナンバーCDを送って戴き、有難うございました。御苦労なさったことと思います。
 懐かしく読んでおります。   香川にて

横山 禎夫(30K) Sent: Wednesday, September 21, 2011 10:28 AM
 向陽新聞バックナンバーのCD拝受しました。土佐高にとって貴重なだけでなく、私個人にとっても青春時代の記録です。
 有り難うございました。取りあえず、メールで御礼申し上げます。

加賀野井 秀一(44K) Sent: Thursday, September 22, 2011 2:06 PM
 このたびは、実になつかしき資料たまわりまして、まことにありがとうございました。
 第72号を眺めていて、ふと中平達男さんこと秋山左楽さんを難波「花月」にまで訪ねていって文章を書いたことなど思い出し、感無量でした。
 来週の月曜から、私の大学での講座「情報・メディア論」が始まりますが、今年はメディアの基礎論を縮小して、福島原発報道についての我国メディアのひどさを告発せねばなりません。いずれそんなことについても、色々と諸先輩後輩方のご意見をうかがいたいと思っております。

濱崎 洸一(32K) Sent: Friday, September 23, 2011 11:23 PM
 32回濱アです、先日回答しましたが、ちゃんと見ることができました、改めて、 皆々様のご苦労に深謝いたします、ありがとうございました。

細木 大麓(27回) Sent: Friday, September 23, 2011 11:49 PM
 森田さんからの封書でしたが中の手紙は中城さんの名前だったので、面識のある中城さんには受領通知を送りました。折り返し、高知支部への参加を誘われましたが、帰高の日程が合わないので辞退しました。
 森田さんをすぐ名簿で探しました。前期高齢者などと貴君は相変わらず失礼だが、なかなか若々しいとお見受けしました。またいつかお目にかかりますがよろしくお伝え下さい。
 谷村君に送ってもらったのはありがたかった。よく気が付いてくださいました。口は悪くてもさすがです。小生が、ROKIO CREATERでコピーを作って送らなけらばならないかと思っていました。昨年から四苦八苦しているFUJITSUのWindows7にプレインストールされており、使ったことがあります。

中井 興一(45K) Sent: Friday, September 23, 2011 9:19 PM
 バックナンバーのCDが届きました。 ありがとうございます。大変ご苦労様でした。
 早速同期何人かに話した所、是非欲しいとの声がありました。 幹事会にてご報告、ご相談します。

田内 敏夫(31K) Sent: Saturday, September 24, 2011 9:34 AM
 CD確かに受け取りました。品質も良好です。 お礼のご返事が大変遅くなり申し訳ありませんでした。 製作にあたってのご苦労に感謝いたしております。 本当にありがとうございました。

山ア 和孝(26A) Sent: Sunday, September 25, 2011 1:31 AM
 22日の高知OB会で岡林幹事長からCDを頂きました。
 今夜メールを拝見してCDを開いたところ、生徒会の会報や高知新聞が入っていて驚きましたが、学校で刃傷沙汰があったことをこの高新の記事で初めて知りました。生徒会が「向陽新聞」の復活を試みてくれたらしいこともわかり、流石は情報通の新聞部OBだと感服しています。
 1〜3号では、私の記憶の不正確さを思い知らされましたが、記事不足の埋め草に書いた ”USO通信”を読んだ先生が「あれはどこから入ったニュースぞね?」と聞いてきて大笑いしたことを思い出しました。USOを”うそ”と発音しなかったんでしょうね。
 一昨日お話のあった卒業アルバムには創立当時の新聞部の写真があるはずですが、去年の引っ越しでアルバムが行方不明になったので、近く開かれる26回生の傘寿記念同期会で誰か持っていないか聞いてみます。そのアルバムと一緒に、1949年に開催した高知県高等学校新聞連名主催の県下高校連合音楽会世話役の集合写真もお送りします。当時の各校新聞部員が30〜40人集まっています。
 何れにしても、大変な労作を有り難うございました。これに拘わった皆様に厚く御礼申し上げます。

冨田 八千代(36K) Sent: Monday, September 26, 2011 8:16 AM
 こんばんは、36回生の冨田(堀)八千代です。CDありがとうございました。完璧です。感激!感激!!
 今ごろのお返事になって申し訳ありません。実は気ぜわしいことが続きまだCDを開いていませんでした。でも、23日のメールで、これではいけないとまず森田さんのを読ませていただきました。細心の注意を払われたことなど、ご苦労ご奮闘振りに頭がさがりました。森田さんとは、第10回高新連大会(1959年8月)に東京へごいっしょしましたね。
 そして、初めてCDを開きました。こんなにきちんと収録されたご努力に敬意と感謝の気持ちでいっぱいになりました。それなのに、そのままにしてと自戒することしきりです。
 いろいろと懐かしい思い出が蘇ってきました。40号から50号までは他より念入りに見ました。私は中心的な部員ではありませんでしたので、編集の検討とか思い出しませんし、たいした記事も書いていません。 まず、浮かんでくることは、印刷やさんでゲラ刷りが出来上がるのを待ったときのことです。
 記事に関して一番印象に残っているのは、第42号「ちょっと失礼 高崎先生の巻」です。読みましたが、「いやあ、絵を描くが絵を書くになっている」とまた、恥ずかしくなりました。書いたつもりですが、このときは、私は高1。果たして記事を書いたのかと今は心配になってきました。伺ったことは確かです。見出しをどう表現しようかと悩んだことも思い出します。
 中谷さんのお宅にも伺いました。外交官としてのご活躍を知った時、懐かしく思い出したことがありました。肝心なことより「アメリカではコーラという飲み物が流行っている」と詳しく説明されましたが、いったいどんな飲み物だろうと不思議に思ったことです。
 余談です。私が土佐中1年生の時(確か1年生だったと思います)新聞部から1号から5号までの向陽新聞を捜していると呼びかけがありました。兄の高校卒業と入れ替わりに私は入学しました。兄が持っていた3回分を部室まで届けました。まさか自分が新聞部に入るとはそのときは思ってもみませんでした。高校生になって部室の棚に保管されている新聞を見て、これは兄のだろうかと思ったことも思い出しました。実際に兄のが役立ったかどうかは分かりません。
 何かとあやふやです。その後、アルバムを開いてみました。高1の夏に大穴にキャンプに出かけています。先輩では中城さんがいらっしゃいます。この頃も後輩のお世話をしてくださっていたのですね。
 メールを開いたのが23日の夜、アルバムを見終わったのは24日の未明でした。新聞部にいたことは高校生活の大事な部分を占めていたことを再確認したひとときでした。大野令子さんが故人となられたのはさびしく残念です。
 そして、今、やっとお返事をお送りしています。いつもお世話になりありがとうございます。

森田 隆博(37H) Sent: Monday, September 26, 2011 5:48 PM
 メール転送ありがとう。
 奮戦記のおかげで長らくご無沙汰の36回堀さんのメール拝見。 懐かしい昔を思い出させていただき、私にとっては奮戦記の最大の成果です。
 大岡林(27回)、中岡林(32回)両大御所からお礼の葉書が届きました。

岡林 哲夫(40H) Sent: Monday, September 26, 2011 9:05 PM
 谷村、示野両氏からCDの礼状が私の自宅宛に届いていますのでPDFを添付します。
 


三浦 浩二(母校教頭・45回生) Sent: Monday, September 26, 2011 9:49 AM
中城 正堯 様
 ご無沙汰をしております。土佐高・三浦です。 向陽プレスクラブの皆様が高知で集まられた9月22日午後に、 岡林哲夫様・永森裕子様が校長室にお見えになり、向陽新聞バ ックナンバーCD2枚を学校に寄贈してくださいました。岡林 様は山本芳夫校長と同じ40回生で、皆様ずいぶんと話が弾んで おりました。夕方のOB会も、きっとご盛会だったことと思い ます。
 早速CDを見せていただきましたが、向陽新聞は5号、82号、 107号の3つだけが欠けているだけでした。学校には十分に残っ ておりませんので、よくぞここまで残していただけたと、心よ り感謝申し上げます。本当に有難うございました。百年史編集 の強力な資料として大いに利用させていただきます。
 その百年史ですが、9月10日に第1回準備委員会を開き、百年 史の大きな方針を相談しました。いろいろな意見が出されまし たが、百年の節目だからこそ、「百年史」として一度きちんと 学術的な内容の学校史の決定版をまとめておくべきだとの意見 でまとまりました。執筆については、教育史を専門にしている 大学関係者にお願いをすることになり、現在その準備を進めて おります。年末までには執筆者の目処をたて、連携してどのよ うな資料が必要かを相談し、資料収集の態勢を整えようと考え ております。中城様をはじめ向陽プレスクラブの皆様にも何か とご協力をお願いすることになりますが、どうぞよろしくお願 い申し上げます。
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文系前期高齢者、CD作成奮戦記
森田隆博(37回) 2011.09.23
1、パソコンと文系理系
 岡林幹事長と藤宗編集長の御尽力で「向陽新聞バックナンバー」のCDの完成のメール到着。ホームページに次ぐ再生向陽プレスクラブの目に見える成果の二つ目です。おめでとうとあわせて「ラベルに制作年月を記載したらいかが」と提案した手前「何かお手伝いをしたい」とメールを返した。
 まもなく編集長からのメール到着。
件名  お手伝いしていただけるとありがたいです
差出人:藤宗編集長    送信日時:11年9月3日
 「結局、どなたも協力を申し出てくれませんでした。文系のメンバーが大半のクラブの弱点をさらけ出した結果のようです。幹事長(一応理系卒)と二人で出来る範囲で進めようと思っています。もしCDの複製を作った経験がおありでしたら(実は私も初めてで、今回試行したのですが一回目はどういうわけか頭の良すぎるコンピュターがいうことを聞いてくれませんでした。)お手伝いしていただけるとありがたいです。・・・・。」

 このメールを見て、CDの複製を作った経験も無いので断ろうと一旦は考えた。ところが、「文系が大半のクラブの弱点」との刺激的な文言に拘ってしまい、スグに返事のメールを送った。私は一応文系卒でしたので。編集長の巧妙な挑発に乗ってしまったと思ったが後の祭りであった。
件名  RE;お手伝いしていただけるとありがたいです
送信日時  11年9月3日
 藤宗編集長  様
 パソコンは文系理系関係ないと思い、その気になりました。可能であればお手伝いいたします。幸い、最近ヒマとなりましたので。ただし、
 (1)4日から11日まで高知に帰ります、12日以降の作業となります。
 (2)CDのコピーの経験はありません。作業の仕様または手順を教えてください。パソコンの能力等はわかりません、・・・・
 (3)CDのコピーが無理であれば発送の作業やラベル貼りでもやりましょう。 

 お手伝いするとメールした後、私の実力に心配となったか「少し疑問ですが・・・」と遠慮がちに編集長からメールが入る。編集長も気がかりになったようです。
 「コピーソフトRoxioBurnが機械に入っているか?」との質問がきた。全く知らないソフトだったが、パソコンのスタートメニューに似た名前のソフトRoxioCreatorがあった。これを編集長に伝えると「コピーソフトだと思います。」との返事。当方は全く未知の世界、編集長の返事も頼りなく思え、心配になりパソコンの説明書を張り出したが、CDのコピーとかコピーソフトの説明などは全くのっていない。いよいよ本気に悩む。翌日からは高知の田舎である。もちろん高知にパソコンは持参しない。
              
2、手順書が到着   9月9日
 何もできないまま数日経過した後、編集長からCD発送作業の手順が携帯メールに到着。編集長も翌日から御両親のためにしばらく高知に帰るので連絡の取れるのは当日22時までと。急いで質問をしなくてはとメールを読み返す。
件名   CD発送の手順
差出人:藤宗編集長    送信日時:11年9月9日
 「・・・既にマスターCDとラベルはメール便でお宅に届いていると思います。
 @CDR700MB(ケース付き。白色無地・できれば薄型5oケース,安い)10枚パック(失敗しないという前提)と一枚分が入る封筒(角型6号)10枚を買ってくる。
 Aパソコンのスタートメニユ−からRoxio Creatorを立ち上げ、デイスクをコピーを選び、送られたマスターCDをドライブにいれてデータを読み込む。終了したらマスターCDが出てくる。
 B@の新しいCDを入れて、書きこむ。(最初の一枚が出来た時にちゃんと動くか試用して下さい。Aから始める。)
 C出てきたCDを取り出しマジックで森田さんのサインを入れる。(未使用CDと区別するため)
 D@の新しいCDを入れてBを繰り返す。
 E同封のCDラベル(岡林氏作成。予備を含め12枚同封)を貼り付ける。半分だけ台紙から剥いでヘリに同心円になるように端だけ貼り付け、全てを台紙をはがし貼り付ける。
 F添付ファイルの送付分を10枚打ち出す(コピーでも可)
 G封筒に同封の宛名ラベル(大御所10人)を貼り、発送者住所氏名を書いてEFを入れる。個人的な挨拶文はお好みで・・・・(郵便法違反)。
 Hコンビニでメイル便で発送する。
 I@FHの費用をMailで中井幹事に請求する。振込先口座番号が必要。(CDは失敗枚数を含めて)
 Jホームページに「文系前期高齢者、CD作成奮戦記」を投稿する。昔取った杵柄をひっぱり出して、楽しい文章を期待しています。画像付きだと尚結構です。「勤労奉仕をしたうえに、記事まで書かされる。」とぼやかないでください。新聞部の悪しき伝統ですので・・・・。

(1)文献を求めて   9月9日
 高知から西に約10キロ離れた私の田舎でもさいわいTUTAYAという本屋が近所にある。文献など無いと思いながら一応見てみようとでかけて見ると、「DVD&CDバックアップ事典」(日経BP社刊)が目に付いた。立ち読みもしづらいので、その場で買い求めた。11年9月12日発行の新刊で今時珍しく安い640円。早速読むとCD/DVD/BDの基礎知識からデータ、音楽、写真、映画を書きこみ利用などのマニュアル本であった。ただ、CDのコピーについての記載は唯の2ページだけで、それに編集長の手順にあるソフトの記載はない。コピーのソフトにはフリーソフトを取り寄せるようとのこと。フリーソフトとは初体験、さらに悩ましいこととなった。 
(2)CDRの購入   9月10日
 CDRを求めて、ケーズデンキ高知店に行く。自分でCDRを買うのは初体験。量販店の中でCD等の売り場を探すのが大変、最初はビデオや音楽のCDの売り場で探すが見つからない。最後は編集長のメール「CDR(ケース付き、白色無地、薄型5oケース、安いもの)」を店員さんに見せて探して貰った。白色無地と言われてもなにが白色かもわからなかったわけだから情けない話である。どのメーカーのものを選びますかと言われ、大御所向けに送るCDと言われていたので値段の一番高いものを買った。
 
3、CDの複製・発送
(1)CDコピーソフトの取り込み 9月12日
 自宅に帰った翌日の12日、いよいよ難関のCDコピーに挑戦。編集長の手順Aにある、パソコンのスタートメニューからコピーソフト「Roxio Creator」を立ち上げようとして、ソフトのメニューをクリックして驚く。メニューに名前は入っているがソフトはインターネットで取り込まないと使えないソフトであった。先日読んだ事典にあるフリーソフトである。こんなことは編集長からの手順にはまったく書いていない。Roxio社にインターネットを取り込むまでは日本語の案内で繋がったが、その後は英語の世界。あわてて英語の辞書を手元に置き悪戦苦闘が始まった。大事な仕事と思い、最初は一語一句読み進んでいたが一時間も経過すると、厭になりいつものやり方に変更。適当にメニューを進め、行き詰るとやり直すという試行錯誤を繰り返す。やっと二時間後Roxio Creatorの取り込み終了らしくなったところで精魂尽きた。取り入れたコピーソフトは日本語の表示、なぜアメリカのソフトメーカーに英語でアクセスしたんだろうと悩む。次回藤宗編集長に教えてもらおうとあきらめた。編集長の手順書Jにある「CD作成奮戦記」を投稿せよとの意味と編集長の遠謀がはじめて理解できたような気がする。
(2)CDの複製 9月14日
 いよいよメインの作業。Roxio Creatorを起動させコピーを始める。手順の案内がないため何度か試行錯誤を繰り返したところやっとコピー終了の表示がでた。コピーしたCDをかけて読んでみると見事に向陽新聞のバックナンバーが現れた。コピーなんて簡単なものだとまずは安心。
 次からは一枚読み込み、それを元に9枚コピーした。コピーには一枚当たり約8分かかったが、パソコンに表示された最速コピー時間7分からすれば大差ない時間だ、手順に間違いないと思った。
 次はコピーしたCDにキチンとコピーされているかの検査である。編集長からの指示どおり検査すると10枚中2枚はコピーされていなかった。失敗作には別のなにかがデータとして入っており、新品のCDRとして使えなくなっていた(ブランクでないからと表示がでた)。その原因はわからない、もう一度CDRを買いに走り、再度二枚コピーして、やっとノルマの10枚のCDが完成。およそ半日がかりであった。
(3)ラベル貼りと発送  9月15日
 今回もっとも気を使ったのはCDへのラベル貼りである。
 買い求めた「DVD&CDバックアップ事典」やCDRのパッケージに記載されている正しいデイスクの扱い方には「ホコリや歪みが原因で正常な読み取りが出来ない」とあり、さらに「デイスクにラベルを貼るのはトラブルの元」と注意書きがある。恐ろしいことをやることとなったと心配となったが、編集長の手順書にはラベルの貼り方が親切に書かれておりありがたかった。また暑い中での作業で手汗がつくことを恐れて、CDのハンドリングとラベル貼りの際には手袋を着用し、十分な注意を払ったつもり。もし万に一つCDに不具合がありましたらご連絡を願います。再度複製のうえ送らせていただきます。
 ラベル貼りと封筒入れを終え、郵便局に出かけ発送手続きをして全てを終えた。沢山のCDのコピーと発送を担当した藤宗編集長のご苦労はいかほどかと思いやる余裕が出た瞬間である。
 
4、完了報告     9月15日
 早速、岡林幹事長、藤宗編集長、中井幹事さんに発送完了の報告のメールを発送。     
 日頃なにもお手伝いできない向陽プレスクラブでやっとささやかにお役に立てたこと、しかも御大という先輩方(編集長は後期高齢者ともいう方)への発送作業を分担出来たことを御礼した。悪戦苦闘であったが、新しいチャレンジの出来た御礼を書き忘れていた。
 報告の最後には藤宗編集長の手順Iに掛った費用の明細を報告請求することとの指示があったので、費用明細を記した。そのうえで、振込の手間と振込料を節約するために、掛った費用は些少ですが会に寄付か藤宗編集長口座にまとめて振込むようにお願いした。これはいつもの遊び心がつい出てしまったもの。これがまた中井幹事さんに大変なご迷惑とご心配をおかけしてしまいました。最後まで皆さんに迷惑をかけた作業でした。
 
5、最後の手順
 藤宗編集長には発送報告とあわせて御指導に感謝しながらも、手順書Jの「文系後期高齢者CD作成奮戦記」の投稿には逡巡していると伝えた。手順書に編集長が「勤労奉仕をした上に記事まで書かされる」とメールに書いており、理解いただけると思った。これに対して早速カウンターを喰らう。前期高齢者を後期高齢者と間違ってメールしていたことを指摘するメールが返ってきた。さらに、向陽プレスクラブホームページの「向陽新聞バックナンバーCD送付のお知らせ」には「文系前期高齢者CD作成中・・・」との記事が掲載されており、またメンバー向けメールの「向陽新聞バックナンバーCDの作成、発送・・・」のなかでも「CD作成奮戦記投稿予定…」とある。編集長は私の退路を完全に断ったのです。
 そんな次第でこのような拙い文章で向陽プレスクラブのホームページを汚してしまいました、ご理解とご容赦をお願いします。
* * * * * * * * * * 
《編集人より》森田先輩、本当にご苦労さまでした。しかしRoxio Creatorの件については私も預かり知らぬことで(私もCDコピーは初めて)、fujitsuパソコンが手抜きをしたとしか言いようがありません。
 しかし、原稿の方は手早かったですね。こんな素晴らしい玉稿をたった1日で送って下さるとは。さすが文系!。
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向陽新聞バックナンバーCD送付のお知らせ
岡林哲夫(40回) 2011.09.05
各位
 土佐中高新聞部OB・OGの会である向陽プレスクラブ(以下、KPC)では、昭和24年以来発刊した「向陽新聞」のバックナンバーを電子化しホームページに掲載する作業を進めてまいりましたが、この度ほぼ全号の電子化が完成いたしましたので閲覧の利便性を考えCD化いたしました。
 この「向陽新聞」バックナンバーには日本が終戦後の混乱から復興し発展していく過程を四国の片隅で体験した高校生・中学生の『想い』が掲載されています。戦後日本及び皆様方の青春の思い出を感じていただければ幸いです。
 また、このCDが土佐校の歴史の貴重な資料として、編纂予定の「土佐校百年史」や価値観の大きな変革期における学校運営にも活用されることを期待しています。
 本CDは27回卒業の細木大麓氏をはじめとするKPC会員並びに紙面を保存していただいた母校の関係者及び電子化作業に携わった方々のご協力の賜物であり、深く感謝いたします。
 2001年 9月
向陽プレスクラブ 
 会 長 中城 正堯(30回)
 幹事長 岡林 哲夫(40回)
 企 画 岡林 敏真(32回)
 編集人・CD制作 藤宗 俊一(42回)
(備  考):本CDは非売品であり複製は禁止といたしますが、複製を希望される方は左下のメイルボックスからKPC事務局までお申し込み下さい。その際には1枚当たり約3千円の寄付をお願いすることがあります。
* * * * * * * * * * 
現在、文系前期高齢者の手まで借りて、CDを作成中です。会員の皆様には今月中にはお届けできると思いますので、今しばらくお待ち下さい。
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1950.12.14『筆山4号』より転載
細木大麓(27回) 2011.08.16東都高校とびあるき
 筆山編集部から東京の印象記を書くようにいわれた。四國のすみで勉強している自分にとつて、都會の學生の生活、學力は以前からかなり氣懸りだつた。實はそのために、同じ氣持だつた中屋君と視察族行とでもいうべきものをしてきたのである。戰時中に父の郷里土佐へ疎開して以來はじめての上京で、すつかりきもをぬかれてしまつた。東京の印象記だからといつてこれを一々書いていては、ひとりよがりのものになつてしまいそうだ。東京行の目的だった向うの學生の見たまゝ、聞いたまゝを書いてみようと思う。學校訪問は日比谷、武藏、小石川の三高校である。
(授業)
 日比谷は百分授業隔週五日制、小石川は九十分授業五日制、こんな高校が東京にはかなりあるらしい。英語、數學では授業形式はこちらと殆ど同じ、たゞちがうのは生徒の積極的な受講ぶりである。自分で調べて來てすゝんで発表する。もちろんピントはずれもあるし、もういいといわれてもやめないで余計なことをいうのもいる。しかし熱心である。このためか、いつも靜かな?授業を受けている自分と比較した場合、實力の差が目立つた。
 日比谷で參観している時である。生徒にdictationをやらすついでに、この假新入生達も用紙を配られた。辭退する暇もない。恥はかき捨てとカンネンした。ところが運よく間違いがなかつた。先生が滿点の人はありますかという。得意になつて手をあげた。ところが何のことはない周圍の者も皆手をあげた。出來るのはあたりまえなのである。少々恥ずかしかつた。
 國語の授業は全く型がちがう。目比谷の場合ヘ科書は使用しない。三人の先生がそれぞれ單元を定める。「近代文學をいかに讀むべきか」「古文をいかにして讀みこなすか」等である。前者の先生はちようど漱石の草枕と藤村の破戒についてやつていた。まずプリントにして文章を讀ませる。次に、(1)それぞれ何を書こうとしているか(2)それぞれの作者の文藝観(3)文章上のちがい(4)それらの由來する点……等の題で生徒の討論がはじまる。すさまじい討論である。皆考えを原稿紙にまとめてある。先生がことばをはさんでどんどん進行する。古文をやつている先生は吾々にこう話してくれた。「現代文は精讀なり多讀なりとにかくよく讀書することですね。古文は文法と單語を勉強して、何か一さつ詳しく讀んだらいいでしよう。それと文學史も簡單にやる必要がある。」なるぼど學校の授業もその方針で進んでいるようだ。しかしこれは百分授業でないとうまくできないと思う。
 授業參観も職員室の親切な世話でとても愉快だつた。皆集まつてきて話をしてくれる。日比谷では、そばもおごつてもらつた。實に家庭的だ。生徒は本校の中學をあわせたぐらいの人數なのに先生は少い。これも百分授業の功得だろう。
 因に体育はどこも保健衛生の講義が主である。
(生徒各自の勉強)
 これは先生の見たところと生徒數名のことばを整理して得た結果である。(1)學校の豫習復習を相當重要視している。毎日時間數が少いので重点的にできるそうだ(2)自分の勉強をかくす傾向があるが、非常に勉強していることはたしかだ(3)東京名物である各種の塾や研究會へはあまり行つていない。自習が主である(4)參考書勉強が盛である。一人の生徒は、英語についてこういつた。「津田を出て數年米國にいた女の先生がいますが、結局hearingの練習ぐらいにしかならないので山崎貞や小野圭の參考書で自分の勉強が殆どです」。(5)定期試驗が少く、しばられることなしに勉強できるのでよいという聲も聞いた。
(生徒會)
 日比谷高はなかなか盛である。先生の努力ともあいまつて発達したものらしい。立法、行政の機關に分れており司法は途中からなくなつた。總理大臣を選擧して組閣を行う形式である。總理大臣は行政委員長。二人の候補が華かな選擧戰を展開したとか、頼もしいかぎりである。但し三年生は引退している。小石川高は澤登校長のことばどおり、「貧弱な不明瞭な存在」らしい。武藏高にははじめからない。「あんなものはつまりませんよ。結局こつちがやるようになりますからね。」と高校主事はいわれた。
(服装)
 中山先生にもいわれていたので注意して見てきた。男生徒……黒の詰襟が殆どだが、小石川高の場合は制服である背廣樣のものと本當の背廣が大部分。坊主頭は少い。ノーキヤツプも多い。同行の中屋君は帽子がぬぎにくかつたらしく「帰つてきてホツとした。」といつている。彼は坊主だから……。女生徒……色とりどりの服である。パーマネントも大分ある。男女とも下駄ばきは絶対になく、皮靴が多い。
 先生に服装問題について聞いてみた。「全然考えていません。たゞ下駄で廊下を歩かれるとやかましいのではかないようにいつています」とのこと。
 
 學校訪問の際強く感じたことは日比谷の生徒と小石川の生徒の性格がちがつていたことである。日比谷の方は紳士的な印象を與える。小石川の方は少々粗野ではあるがなかなかがつちりした印象を與える。思うにこれは校長先生の性格の反映ではないだろうか。日比谷の菊地校長は全く温厚な紳士であつた。小石川の澤登校長は風彩などには拘泥しない肚の人という感じだつた。
 東京の學校は靜かである。授業中も話聲が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえていてつまらない雑談がないし休時間などはよく勉強している。それから中學がないのが大きな原因である。併設中のある武藏高校は他と大分雰圍氣がちがつていた。自分自身反省するとともに中學の諸君にはもつと靜かにしてもらうよう希望する。
 東京で大いに意を強くしたことは〃土佐中"という名が非常に売れてれていることである。菊地校長や、少し古い先生は皆いわれに。「いい學校でしたね。うらやましかつた。その後どうですか。復興していますか。えらいものだ。校長先生の腕かな。上級學校の合格率は?……」、痛いところだ。大學へさえ入れないとは情ない話だ。どうしても頑張らなくてはと思つた。(向陽新聞部々長)
* * * * * * * * * * 
《あとがき》「新聞部創設の頃について参考になるものを」という編集人からの依頼で送ったいくつかの古い記事の一つです。読んでみて懐かしいような気持ちとともに、数日の「飛び歩き」で、よくも生意気なことを書いたものと恥ずかしい気がしますが、校舎もない状態で立ち直ることでいっぱいだった当時の土佐高から東京へ出掛けてすべてが驚きだったのが率直なところです。何かの参考になればと思って、そのままの掲載を応諾しました。
* * * * * * * * * * 
《編集人より》『昔を知るための何かの参考にと、父の書いたものまで含めていろいろ集めて送った古い記事が「細木オンパレード」で、そのまま続けて掲載されるのが少々気が引けて……』という細木先輩を拝み倒して掲載させていただくことになりました。昔の土佐校生の意気の高さに驚かされるとともに、今の在校生たちの目にとまってくれればと思っています。
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永森裕子(44回) 2011.08.10高知支部懇親会のご案内
皆様
 残暑お見舞い申し上げます。お元気でお過ごしの事と存じます。

 
 こちらは、8月6日から9月8日までの予定で高知は野市に滞在中です。主人の母が、昨年に引き続き人工関節の脱臼で入院中ですが、一日おきに高知の病院に洗濯物を取りに行くだけなので、姑には悪いのですが三食食事を作らなくて良いし、高知にも昼間友人に会いに行きやすく、気分的には楽です。
 昨日、44回同期の井上さんに9月の詳細を伺いました。彼の職場の土佐女子高校もチラッと見学しました。
 先月初めに、山岡さん、宮川さんと集まって9月の打ち合わせ。早速井上さんが往復はがきで出欠を募り、はや多くの方からお返事、お忙しいのに動きの早さに感謝、脱帽、です。お店は、宮川さんの知り合いのようで、三人の絶妙な連携プレーでのこの運びとなったようです。
向陽プレスクラブ 高知支部
 9月22日 午後6時 活魚いけす料理 柳憲(やなけん) 高知市はりまや町1-3-8 088-823-8997
 連絡先 090-1574-9566 または aki1223ochi@hotmail.com 井上 
 出席の方は、今現在
 26回山崎和孝、30回池田昭一郎、32回森木光司、33回板原正伸、36回山下功智、38回岡本健治、38回門田美和、42回西内正気、47回岩田理道、そして44回井上晶博、43回山岡伸一、46回宮川隆彦(出張が入らなければ出席)
 関東からは、岡林哲夫(40回)幹事長、そして永森(44回)が参加予定です。
 皆様、ご都合の許す方、その時期高知にいらっしゃる方は、井上さんに連絡の上、是非ご出席を!
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中城正堯(30回) 2011.08.10展覧会と講座のご案内

 
 残暑お見舞い申上げます。
 
 今回、城郭浮世絵に関する展覧会と講座を開くことに成りましたので、ご案内申上げます。
 
 右の画像をクリックすると案内状と講座申込書(pdf文書)が出てきます。
 
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向陽新聞に見る土佐中高の歩みB
吉川 順三(34回) 2011.08.05居心地のよい新聞部
 新聞部の創生期や入試漏洩問題など、前号までのくわしい記述で昭和三〇年以前の向陽新聞と母校のかかわり、歴史的な資料が明らかにされた。今回はこの欄のタイトルにはそぐわないが、半世紀以上も昔の一時期の追憶随想おゆるし願いたい。(敬称略)
 
新聞部VS大嶋校長
 同盟休校問題などの後遺症もなくなり、平穏な日々がもどっていた。そんな昭和三一年春、われわれ三四回生の仲間は新聞部に入った。そして問題がなくても「記事になる事柄はヤマほどある」と先輩から教えられた。しかし漠然と空回りしたまま、新入部員の一学期が終わろうとしていた。
 そこに東京で開かれる高校新聞大会への招待状が届いた。向陽新聞が全国の「優秀新聞」に選ばれた実績があったからだ。しかし、活動の中心だった当時の二年生部員は出席を辞退した。「受験勉強のため辞めたい」とのことだった。
 その相談を受けた三年生部員は実質的な部活からは卒業していたが、部室にはしばしば出入りしていた。そして“有事”追求取材の経験をもとに「記事は足で書け。頭だけで書くな」などと後輩にハッパをかける怖い存在だった。
 そこでの結論は「吉川と秦洋一(故人)を派遣する。二人には二学期から部長、編集長をやらせる」だった。拒否できないまま、くちばしの黄色い一年生部員が重荷を背負い込み、四苦八苦することになった。
 大会から帰ったある日、二人は報告のため校長室に呼ばれた。大会そのものよりも、他校代表との交流会で大きなショックを受けたことを報告した。
 何がショックだったのか。それは他校の代表が三年生中心で自分たちと発言や会話のレベルが違っていたこと、ほとんどの新聞が無料配布で部費は何倍か多いことだった。
 とくにグループ別の交流会ではトインビー史論やサルトルの実存主義が話題になったが、土佐高には受験勉強があるだけで、そうした議論にはさっぱりついていけなかった。学齢の差だけでないものを感じて、その悔しい状況などを報告した。
 純白のカバーのかかった椅子に痩身を沈めて聞いていた大嶋校長から「それで何か注文はあるかね」と問われた。つい「土佐高は受験に閉じ込め過ぎだと思う。せめて全校集会のたびに校長先生が“一期校の試験まであと何日”と繰り返すのはやめてほしい」といってしまった。
 しばらくの沈黙のあと「新聞部の諸君は“土佐高生の頭をたたいてみればサインコサイン、イットザットの音がする”と批判しているようだが、進学第一の方針は変えない。運動部も文化部も活発にやれている」「新聞部費については無料配布にするなら増額を考えよう」と、きっぱり言いわたされた。+
 無料配布と部費の件は部内で議論した。そして結論は「一部一〇円で売る。部費も増額を求めない」だった。
 理由は「大多数の生徒が買って読んでくれるような新聞をつくる」「部費の配分は生徒会が決めるもので、校長の一存というのはスジが通らない。費用の不足は広告でまかなう」というもの。意地っ張りで、意気込みだけは盛んな一年生部員たちの理由づけだった。
 それを率直に報告したら大嶋校長は大きくうなずき「やっぱり伝統だなあ。かなり前に、諸君の先輩からも同じようなことをいわれた。がんばりたまえ」と励ましてくれた。そして「あの“試験まであと何日”は年に一回だけにするよ」と笑顔で、校長室から送り出された。熱い慈愛にうたれた記憶は忘れられない。
救護室に泊まった
 さて紙面だが、自分たちの取材力とは別に平穏な時期にはやはり、当たり障りのない平凡なものになる。印象深いのは先生へのぶっつけインタビュー「ちょっと失礼」に部員同士がしのぎを削って取り組んだことくらいだ。これは楽しく取材し、大いに失礼なことを書いて、各回とも好評だった。
 新規の広告開拓にも苦しんだが、難物は制作だった。
 実物大の紙にレイアウトを何通りも描き、一つに絞り込む。それが完成したら、原稿、写真とともに印刷所に持ち込む。しかし、そこで終わりとは参らない。
 当時は活版印刷で印刷所の大まかな工程は職人による活字拾い、写真製版、小組、大組、試刷り、本印刷のスケジュールだった。この工程というのが曲者で、制作費を安く値切っているため、印刷所は通常の業務が終わったあとの夜間を利用したアルバイト残業になっていた。
 そのため「今日はこれまで。明日は忙しいので次ぎは明後日」といった調子で一週間前後かかるのが当たり前だった。そして部員二、三人が毎回、現場につきあわされた。最後の大組が完成すると、ぬれた紙に刷った大ゲラをチェック、試刷りして持ち帰る。翌日はみんなで再チェックして印刷所にゴーサインを出して完了する。
 私も秦もかなり遠距離の自転車通学だった。しかも要領が悪いため夜遅くまで部室に滞留することが多かった。つい疲れてゴロ寝しているところを当直の先生にみつかって「救護室でしばらく休め」と連れて行かれ、朝まで寝たこともあった。
 印刷所から新聞が届くと、出来映えよりもインクのにおいを、みんなで喜んだ。
 一〇円の新聞はいつも約八割が売れた。それが高いか安いか。学校近くで老夫婦が営む「一心」のキツネうどんが、たしか一杯二〇円の時代だった。
  一年先輩の“早すぎる引退”で、われわれ三四回生は新聞部の活動をたっぷり味わうことができた。
 その間、多少の出入りはあったが、部員はつねに一〇人を超えていた。その半数近くを才気あふれる女子たちが占め、彼女たちは積極的に記事を書いたうえ、友人を引き連れてにぎやかに部室に出入りした。女生徒の少ない土佐高では画期的なことで、男子部員は記事よりも雑用に追われていた。
 それでも私が毎日新聞、秦が朝日新聞、国見昭郎がNHKと三人の部員が、のちにマスコミの職業を選んでしまった。これは新聞部でも異例の現象だった。たぶん高校時代の「居心地のよい新聞部」が影響したものだと思う。
    *  *  *
 ついでに私のことに触れると経済記者として「安宅産業の崩壊」「三光汽船の倒産」などのスクープ取材にかかわった。「リクルート、ダイエーの傘下に」では新聞、通信、放送界で一九九二年度の最優秀スクープとされる新聞協会賞を受けた。
 記事は学説や理論ではない。記者の基本はあくまで取材対象に直接ぶつかり真相に迫ることだ。新聞部の先輩たちから教わった、あの「記事は足で書け」をいつも思いおこしていた。
    *  *  *
 近年、東京の「三四回生同窓会」に出席するようになった。かつて受験勉強に取り組んだもの、野球、体操、グライダーや美術、演劇、映画、放送など部活と格闘したものたちが毎回五〇人前後集まる。そして「みんな土佐中・高生の自負を持っていた」「厳しいが自由な校風だった」と半世紀以上も昔を懐かしんでいる。
 いまの土佐中・高も、それぞれの現役関係者たちが新しい伝統と校風をつくりだしていることだろう。
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藤戸啓朗(46回) 2011.05.20会費はどのように
 46回の藤戸です。先輩諸氏の熱心な活動に敬意を表します。ところで、私は会費なるものをお払いした覚えがございませんが、いかがしたらよろしいでしょうか。ご指示ください。現在は高知市在住・須崎市勤務ですので、在京の先輩がたとはあまりお会いすることもできませんが、こうしてネットでお会いできるとは、いい時代になったものです。それにしても、懇親会の画像に写っている永森裕子さまは本当にあの松本裕子さまなのでしょうか。
(2011.5.10掲示板へ投稿)
《永森裕子さんよりのお返事》
藤戸様
 はい、私はあの松本裕子です。これで何人目でしょうかねえ、この様に言われるのは、、、。ダンナに二人の奥さんもらったと思えば良いきエイネエ、と言った人もおりましたっけ。(笑)
 藤戸君、切に入会をお待ちしています!是非、高知支部の為に活躍して下さいね。
《事務局より》
 無事、登録が終わり会費も納入されたということです。会員の輪が広がるのは嬉しいことです。
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100周年記念誌発刊の準備に当たり
土佐高校・中学水泳部の古き時代の活動について思いつ
濱ア洸一(32回)(財)日本水泳連盟顧問 2011.05.10くまま
 昭和26年4月雨漏りのするバラック校舎の中で、入学式が挙行され、袖に白線の入った制服に胸を膨らませて大嶋校長の祝辞を聞いていた。戦災で焼失した校舎の復興には諸先輩たちがあちこちから機材を集めて、どうにか学校らしくなりつつある時代である、ただ一つ残ったものがプールである。プールの隣には製材工場があり、盛んに電気のこぎりが製材している音をバックグラウンドに授業に集中し勉学に励んだ諸先輩たち(我々を含み)。今から思えば大変なことである。プールを取り囲むようにつぎはぎの校舎がだんだんと改築されていった。
 ところでこのプールは1935年9月に竣工・落成式のとき初泳ぎは、かの有名な北村久寿雄さん(ロス五輪金メダリスト)が泳がれたそうである。当時としては、このプールは最先端を行くものであつた。当時 高知商業の生徒であった北村さんは三高受験のため聴講生として土佐に勉強に来ていたとのことである。これは昭和59年6月都内五反田で、土佐中・高水泳部と高知商業水泳部の関係者の集いが開催されその時に伺った話である、参加者の土佐の、関係者は13回生 秦親憲・15回生 西村富博・16回生 浜田博之・20回生 久保内貞行 24回生 浜田憲三郎の諸先輩と32回生の小生てした。
活動状況 
 昭和26年当時水泳部部員は、28回生吉本功・田井敦夫・林寛・久松憲二諸先輩たちをトップに和気藹々と練習していたが、高知水泳連盟の役員の一部の方が、あまりぱっとしない成績を心配し、また自分たちの練習会場として利用するために当校にきて、我々を鍛えはじめたのである。コーチに来てたのは、西野恭正・片岡寅二郎・宮田さん、安岡信夫さん、みなさんそれぞれオリンピック選手選手達でした。成果はすぐに出始め、28年度の日本水泳ランキング、中学の部では、浜田成亮(32回生)100m・200m自由形でともに2位、小生 濱ア洸一400m自由形で13位、200mリレー(メンバー浜田・濱ア・谷淵・高橋)も2位にランクされた。30年度ランキング、高校の部 浜田成亮100m10位、200m2位(日本ランキング13位)同年高校選手権大会、浜田100m10位、800mリレー10位(メンバー田岡・濱ア・谷淵・浜田)。また28年まで開催されていた浦戸湾遠泳大会(約5Km)でも小生トップ争いをしながら1時間11分で2位の成績であった。
 最近の活動はプールも新しくなり、楠目博之顧問の下全国大会目指して活躍しており、Dolphinの題目で通信誌が発行されている。
 
 32回生・浜田成亮君は現在高知県難病団体連絡協議会・筋力無力症友の会役員として活躍中で、ボランティアで介護の仕事もしている。
 <エピソード>彼の娘さんが小学校時代。運動会で「父と走った」という作文がありこれがテレビでドラマ化されて放映された。ちょうど彼は無筋力症で動作が何もできない時代であった、13年の入院生活ののちヤット病名もわかり、それなりの治療といえる状態ではないが治療生活にあつた。小学6年生最後の運動会で親子での競争があることをしった彼は、娘のためと、一生懸命に練習をして、やっと運動会で走った、というものである。その後彼はマスターズ水泳大会に参加できるほどに、運動機能が回復したのである。
 同期としてまことに、彼の生命力に感心するとともに、健康第一に目的をもって、長生きしたいものである。
画像をクリックすると大きな画像が現れます。
(関連記事は1994.7筆山・28回生同人誌『くろしお』にもあります)  ページTOPに戻る

2011年度総会及び懇親会議事録
永森裕子 2011.04.29

1. 日時 平成23年4月23日(土)
   総会17時−17時40分 懇親会17時40分−19時 
2. 場所 「シェ.ダイゴ八重洲」八重洲パールホテル2階
3. 出席者 13名 (会員総数39名 委任15名)
  中城正尭(30回)  岡林敏眞(32回)  濱崎洸一(32回) 吉川順三(34回) 公文敏雄(35回) 森田隆博(37回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 永森裕子(44回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回) 北村章彦(49回) 
4. 中城会長の挨拶
   昨年7月に結成大会を開いて以来、各担当及び皆の協力で順調に進んでいて喜ばしい。
   来期も、この調子でいって欲しい。  
   健康上の都合があるので、幹事を中心に次期会長を検討して欲しい。       
 以下、5,6は岡林哲夫幹事長を議長代理とし、幹事長及び会計作成の総会議案書に沿って報告、検討がなされた。
5. 第1号議案
 1−1 2010年度収支決算
   中井会計担当が作成資料に沿って報告。  
 1−2 幹事会活動について
   岡林哲夫幹事長が作成資料に沿って報告。
6. 第2号議案
 2−1 2011年度活動計画案 
 (1)2011年度活動について、岡林幹事長より。
   今年度の幹事会を、9月に行う。日程は未定。
   2012年4月21日に次回の総会を行う。
 (2)高知支部について。永森より現状報告の後、新たに井上晶博(44回) 山岡伸一(55回)に中心メンバーに加わってもらい、10月、11月頃の開催をめざしてもらう。日程は7月頃までに決定してもらい、東京からのメンバーも参加できるものは参加し協力する。
   以上の件、永森より、井上、山岡に連絡。
 (3) ホームページについて
   担当の藤宗より報告と提案。
   創設期と49回当たりのものを含めあと4紙ほど向陽新聞電子化のデーターが不足しているがそろそろデーターの電子化を締め切りたい。そしてDVDを作成し会員全員に配布。
   DVDは、50部作成。メール便で送付。土佐高の図書館にも寄贈する。DVD作成の時期等は藤宗に一任することで以上の件を決定。
   ホームページに掲載するために、新聞部時代の写真を少なくとも二枚送って欲しい。
 (4)百年史編纂の件
   中城会長より報告。10年後の母校百年行事の目玉として母校百年史編纂を母校にかねてより進言していたが、それを立ち上げる編集部会が母校に発足し、内容については未定だが向陽プレスクラブにも協力依頼が三浦教頭よりあった。新聞部OBとして協力できることはすると返答。向陽プレスクラブでは、いずれ窓口担当を決めたい。(10年後に元気でいる人。) 個人的には、創設期、戦後の経緯教育方針、教育内容をふまえた学校の歴史を作成して欲しいと思っている。
 (5) その他
   次回、筆山の「向陽新聞に見る土佐高の歩み」は、吉川順三(34回)が担当。
 2−2 2011年度収支予算案
   岡林幹事長より、2011年度収支予算案の電子化費用を通信費と訂正あり。
 その後、中井会計担当より。
   正当なかかった費用は、KPC幹事全員にメールでその旨を伝える。
   振り込みの口座番号は、中井のみに伝える。
 以上、総会終了。
 引き続き岡林敏眞幹事の乾杯の後、各自近況報告をしながら懇親会。
 濱崎洸一(32回)、北村章彦会員(49回) 初参加。
 7時過ぎ散会。


総会、懇親会の映像
 今年も、長老の皆様方のお元気なお姿を拝見し、まだまだ頑張らなくてはと思ったひと時でした。画像をクリックして新しいウィンドウを開くと印刷用画面(A4-300dpi)が現れますのでダウンロードしてください。
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<山田一郎先生追悼文>
中城正堯(30回) 2011.04.22海辺から龍馬の実像を発掘

 山田先生は高知出身のジャーナリスト・評論家で、昭和から平成にかけて活躍、寺田寅彦や坂本龍馬の研究で知られます。高知市三里で昭和7年に生まれ、平成22年1月に90歳で亡くなられました。三里史談会発行の『大平山』37号に追悼文を寄稿いたしましたが、生前には土佐高出身者とも交流が深く、そのことにも触れましたのでここに転載させていただきます。文中の土佐高出身者は太字で表記し、カッコに卒業回を付記いたしました。
 
ジャーナリストの大先輩
 山田一郎さんのお名前は、出版社(学研)に入社した頃から種崎に帰郷するたびに父母から聞かされ、訪ねるように言われていた。父・中城惇一郎は若い頃は新聞記者志望であったが、祖父・中城直顕の養子となって大正14年に東京から帰郷、三里村長などについた。晩年になっても、村内出身の言論人である中島及・田中貢太郎のお二人に対しては、敬愛を込めて「きゅうさん」「田中のこうさん」と呼んでいた。この後に続く三里生まれのジャーナリストが、中島暁(10)・山田一郎・中山操の皆さんであった。
 昭和30年代から40年代にかけて、山田さんは共同通信の文化部長・科学部長・常務理事などの要職を重ね、私も雑誌編集の仕事に追われ、ご挨拶をする機会を持てないままであった。昭和55年に退社した山田さんは、ジャーナリストとしてめざましい活躍を開始した。57年に『寺田寅彦覚書』で芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞、翌58年の正月からは高知新聞で「南風対談」を始めた。高知出身の「十二名家・巡礼の旅」の聞き手として、この対談で有光次郎・大原富枝に続き、三人目に公文式教育を考案した公文公(7)を選んでいただいた。当時私は、くもん出版から公文側の一員として取材に立ち会い、ようやく山田さんともご挨拶をすることができた。
 山田さんと公文先生との出会いには前段がある。高知出身の近藤久寿治(6)が創業した出版社・同学社の新ビル落成記念パーティーで、昭和57年に山田さんは公文教育研究会役員の岩谷清水(27・高知市常盤町出身)と出会って公文先生の活躍ぶりを聞き、師弟の文通が始まっていたのだ。この経緯を山田さんは、高知新聞『南風帖』に書いておられる。さらに遡れば、公文先生が大阪帝大理学部数学科を卒業して最初に赴任した海南中学で教えた生徒の一人が、山田さんであった。「南風対談」では、この師弟がクラスの席順や同級生の消息、さらには当時の高知の教育事情まで克明に記憶しているのに驚かされた。実は私も公文先生の教え子で、戦時中には海軍予科練教授だった公文先生が帰郷、昭和24年に母校土佐中高の教諭になって初めてクラスを持った際の生徒であった。山田さんは、私にとって三里小学校の先輩であり、また公文先生の門下生でありながら数学の不得手な不肖の兄弟弟子でもあった。
 平成7年7月に恩師公文公が永眠した際には、追悼文集に伝記執筆をお願いした。刊行まで限られた時間しかなかったが、公文禎子夫人などご遺族・関係者から丁寧な取材を重ね、心のこもった評伝を書き上げてくださった。公文式教育誕生の背景には、旧制土佐中で受けた、個人別・自学自習教育があることも指摘いただいた。
 
多士済々の東京「みさと会」
 「南風対談」が契機で、海南時代の教え子である山本一男(デザイナー山本寛斎の父)も、革のジャンパーでオートバイに乗り、颯爽と千代田区市ヶ谷の公文東京本部にやってきた。「若い女性に追っかけられたが、赤信号で止った際に顔をのぞき込まれて老人であることがバレタ」などと、恩師に笑顔で話していた。三里組も、山田さんを囲む会をやろうということになり、平成初年に東京で「みさと会」を始めた。メンバーは竹村秀博(オリンパス)・小平〈中城〉久(家裁調停員)・池川富子(29・三枝商事)・平田喜信(30・中学で転校・横浜国大教授)・奴田原〈池〉訂(31・高知銀行)・秦洋一(34・朝日新聞)・小松勢津子(35・旺文社)・丸山〈早川〉智子(35・産経新聞)・中島朗(43・電通)など多士済々で、なぜかマスコミ関係者が圧倒的に多く、山田さんにも喜んでいただけた。会場は赤坂の「土佐」などであったが、下戸にもかかわれず最後まで若い酔っぱらいに付き合ってくださった。いかにも潮風にさらされて育ったような風貌と、ふるさとの人と風俗を回想しての鮮明な語り口に一同魅了された。郷土出身の作家・文化人の生い立ちや消息にも精通しておられ、驚かされた。
 二回目の「みさと会」の案内状が手元にある。「今回は、高知県東京事務所次長として活躍中の池永昭文(36)さんが、高知新港や橋本県政など三里と高知の最新情報をお話くださいます」と記されている。同学社近藤社長夫人(旧姓・野町初甲)も、母の野町久喜が種崎の桟橋近くに住み、その妹が近くの釣り宿「橋本」のおかみであり、メンバーだった。平田君は私と小学の同級で、父上・平田信男は海上保安庁を経て東海大学教授を務めた航海工学の専門家であった。「みさと会」が縁で山田さんは信男をたずね、坂本龍馬「いろは丸事件」の詳細な資料を提供、現在の海難審判ではどちらに非があるのか審理を求め、真相に肉薄している。
 平田君も先祖は土佐藩御船方だが、本人は王朝文学を専攻していた。「源氏物語」や「土佐日記」の研究で知られ、横浜国大の教授であった。国際交流基金からサンパウロ大の大学院生指導に派遣され、帰国すると副学長に就任、次いで図書館長としてその改築を指揮し、市民参加型の新しい大学図書館を開館するなど多忙を極めていた。定年1年前の平成12年に急逝、山田さんの要望を受けて晩年は高知で後身育成に当たると言ってくれていたが、かなわなかった。秦君も医療ジャーナリストとして注目されていたが、自分が病に倒れてしまった。小松さんは種崎にあった高芝医院の姻戚で、トフラー『第三の波』などの翻訳でも活躍した。丸山さんの父上は、市役所の種崎支所長であった。「みさと会」は、山田さんが横浜市から高知市に転居したこともあって、数年で活動を休止してしまったが、三里出身のジャーナリストにとって山田さんは生きたお手本であり、その綿密な取材ぶりと権威を恐れぬ執筆姿勢に、後輩は勇気を与えられてきた。
 
寅彦と龍馬の研究が双璧
 山田さんが残された多くの功績の中で、寺田寅彦研究と坂本龍馬研究が双璧であり、粘り強い史料渉猟と関係者への根気強いアプローチで、次々と新事実を掘り起こしていった。
 寅彦関連では、『寺田寅彦覚書』刊行後も寅彦の次女・関弥生など一族と交誼を重ねて信頼を得、さまざまな風評のあった三人の妻たちと寅彦との暖かい交情の実態を、前著の20年後に刊行した続刊『寺田寅彦 妻たちの歳月』で明らかにした。最初の妻・夏子の出生の秘密や、種崎・桂浜での療養生活、帰郷する寅彦の船を浜辺で迎える夏子の姿など、新資料を使って描写、山田さんならではの地を這うような粘り強い取材と人物への肉薄が感じられる好著であった。幕末土佐で起こった「井口刃傷事件」では、寅彦の父が果たした不幸な役割も初めて公にしている。
 くもん出版で『父・寺田寅彦』(寺田東一他著・寺田寅彦記念賞受賞)を刊行したこともあって、この間の事情は山田さんからも寺田家・関家からもお聞きすることができた。平成5年に帰郷した際、寺田寅彦旧邸を御案内いただいたことも忘れられない。できればこの旧邸とは別途に寺田寅彦記念館を建て、原稿・絵画・著書・愛用の楽器など遺品や関係資料を展示したいと語っておられた。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館が、文学者・科学者としての賢治を堪能できる見事な展示場になっているのを参考に、構想を描いていたようだ。寺田家が守ってきた貴重な遺品千数百点は山田さんに託されたが、寺田寅彦記念館は実現せず高知県立文学館に寄贈されることになった。
 坂本龍馬に関しても、従来高知の史家が『汗血千里の駒』を「史実追及を堅実に行い」などと解説し、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が史実を離れていても国民文学としてもてはやされるのに対し、山田さんは新史料を発掘して昭和61年から高知新聞に新しい龍馬像の連載を開始した。これは翌年に、新潮社から『坂本龍馬―隠された肖像―』として刊行されたが、まさに隠されてきた龍馬像の出現であった。龍馬の父・八平の実家である山本家の系譜と沢辺琢磨波乱の生涯から、少年龍馬「案愚説」への反論まで、眼からウロコの連続であった。司馬がエッセイで「龍馬はなによりも海がすきであった」と述べたのに賛同しつつも、龍馬と海洋との関わりを少年時代の地縁から説き起こして実証的に解明したのはこの著書であった。なかでも三里関連の事項は、その風土と歴史を知り尽くした上で、関係者への取材を重ね、新事実を見事に掘り起こしている。
 
伊与・田鶴など三里人脈を発掘
 特筆すべきは、龍馬の継母・伊与の素性を解明したことだ。北代家から川島家に嫁し、寡婦となって父・坂本八平の後妻に迎えられた女性の名前が、「伊与」であることを突き止めたのである。川島家は土佐藩御船倉の御用商人で当時は種崎に住み、御船方の中城家から四、五軒西にあった。当主の川島春麿(猪三郎)と中城直守は、歌人仲間で親しかった。川島家に継母とともに舟でやってきた龍馬が春麿の子どもたちと仲良くなり、特に次女・田鶴を可愛がったことを山田さんは聞き出している。中城直守の子・直楯や直顕とも当然出会っており、最後の帰郷での潜伏につながったとする。安政地震の津波で被害を受け、川島家は仁井田に移転したが、中城家は種崎から動かず直楯が当主となっていた。
 慶応3年9月、龍馬最後の帰郷で震天丸にライフル銃一千挺を積んで浦戸湾に入港した際に、大政奉還への藩論が未だ定まっておらず、龍馬の一行はまず隠密裡に中城家にはいったのである。山田さんは、中城直守の筆録『年々随筆』と、中城直正(種崎小学校卒・初代高知県立図書館長)が父・直楯と母・早苗から聞き取った『随文随録』を史料として高く評価し、特に早苗が述べた龍馬の風貌描写を絶賛している。『随文随録』には、中城家で風呂に入り襖絵を眺めた後に、龍馬は「小島ヘ寄リ、舟ヘ帰ルトテ家ヲ出タリ」とある。
 この小島家が龍馬を慕っていた川島家の次女・田鶴の嫁ぎ先であり、種崎川島家の跡地に家を建てて住んでいたことも、山田さんは調べ上げている。龍馬帰郷の際に小島家には、十市村の郷士で龍馬の剣道の師でもあった土居楠五郎が、孫の木岡一を連れてきており、木岡はギヤマンの鏡を龍馬に貰ったと『村のことども』(三里尋常高等学校 昭和7年刊)にある。この本では、「坂本龍馬の潜伏」と題して、まず郷土史家・松山秀美の中城家潜伏説を、次いで古老となった木岡の回想を紹介してある。これは、どちらかが真実ではなく、山田さんが解明したように龍馬は双方を順次訪問したのである。
 田鶴への山田さんの思い入れはかなりのもので、仁井田浜の小島田鶴の墓前に立ち、「妙音観世音 梵音海潮音」と観音経をつぶやいたという。私の手元に残る色紙にも、これにちなんで「梵音海潮音 龍馬観世音 和平を願うて眠り居り申候 龍馬 山田一郎」と記されている。この小島家から城下浦戸町の今井家に嫁に入った直の子・今井純正が改名して長岡謙吉となり、海援隊に加わって「藩論」「船中八策」の起草者として活躍する。これも、山田さんの『海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉―』で、詳述されている。
 龍馬と海を結びつけるきっかけとなった継母・伊与と川島家に関しては、再三川島文夫を訪問し、言い伝えを聞き取るとともに龍馬も見たとされる世界地図から古文書まで関連史料を調査されている。我が家では母・中城冨美とともに、信清悠久・美衛夫妻と昵懇であった。信清は戦前に反戦運動をした後、満州に渡って満映で脚本・監督を務め、戦後は映画のシナリオ作家として東京で活躍、帰高後はテレビ番組「はらたいらのおらんく風土記」の台本を執筆し、三里史談会の会員でもあった。山田さんとは、若い頃にともに満州で活躍し、また反骨精神旺盛な物書きとしても気があったようだ。満州時代になじんだのか、ともにコーヒー好きで、特に山田さんは東京・調布市の居室を訪ねても、まず自ら薫り高いコーヒーを入れてもてなしてくださった。
 美衛は私の長姉で、若い時分には東京で婦人誌の記者をし、一時期は大原富枝の秘書をしていた。山田さんはこの大原富枝をはじめ、安岡章太郎・宮尾登美子・倉橋由美子(29)など錚々たる作家から信頼され、高知との折衝でも頼りにされていた。見識に裏付けされた率直な発言が好まれたからだ。しかし、歯に衣着せぬ言動は高知の文学関係者とは齟齬を来すこともあり、困惑の言葉を漏らすことがあった。自ら館長を務めた県立土佐山内家宝物資料館では学芸員の公募制を貫徹し、研究体制の充実にも取り組んで優秀な研究者を育成しておられた。山内家の信頼も厚く、国宝「古今和歌集高野切本」など山内家資料の、県への移管を実現した功績も大きい。
 山田さんが龍馬研究に取り組んでいた頃、新人物往来社主催の龍馬研究会が東京であり、お誘いいただいて山田講師のお供をした。少人数の会だったが、坂本家一族の土居晴夫さんも来会、作家で後に直木賞を受賞した北原亞以子さんも出席しておられた。当時私は龍馬のことも中城家史料のこともほとんど知らず、恥ずかしい思いをしつつ少しは龍馬を調べようと思い立った。今にして思えばそれが山田さんのねらいでもあったようだ。おかげで後の「龍馬役者絵発見」に結びついた。
 
「中城文庫」の推進役
  坂本龍馬が最後の帰郷で中城家に立ち寄ったことは、東京帝大国史科卒の歴史家・中城直正が、龍馬の接待に当たった父母からの鮮明な聞き書として記録している。これらを元に、郷土史家・松山秀美は『村のことども』で、歴史家・平尾道雄は『龍馬のすべて』で、きちんと触れている。しかし、大正14年に直正が東京で交通事故のため急逝してからは、聞き書『随文随録』の存在自体が次第に忘れ去られていった。
 この記録が再び注目されるきっかけは、昭和55年の三里小学校開校百年記念誌『三里のことども』刊行である。中城家を調査された坂本一定、中山操の眼にとまり、山田一郎・宮地佐一郎のお二人にも龍馬に関する部分のコピーが渡された。この頃に私の義兄・信清悠久が龍馬生誕百五十年にちなんで『土佐史談』に「龍馬の足跡―種崎・中城家」と題して発表、龍馬が眺めた浮世絵貼り付けの襖が現存することも明らかにした。山田さんは昭和57年に、高知新聞連載「南風帳」で「種崎の龍馬」として紹介、宮地は『坂本龍馬全集』に採録してくださった。後者には、私の祖母・中城仲(旧姓千屋・海援隊士菅野覚兵衛の姪)が龍馬の妻・お龍さんに可愛がられ、ピストルで雀を撃って遊び、別れの記念に帯締めをもらった回想談(昭和16年の高知新聞記事)も納められている。
 中城家の古文書などの史料が次第に注目され、高知市民図書館に寄託されるいきさつは、『大平山』第30号に「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊」として書かせていただいた。寄託が決まったのは、日本史、特に地方史研究の権威である林英夫立教大名誉教授の評価や、武市瑞山の子孫である武市盾夫(18)中央大教授の口添えもあったが、なにより高知での山田一郎・橋井昭六(元高知新聞社長)のお二人による当時の松尾徹人高知市長への推薦が決め手となった。
 寄託が決まると、史料受け入れの担当となった市民図書館・安岡憲彦さんの大奮闘があり、6年目に立派な目録も出来て、平成20年2月1日には寄託から寄贈へ移行し、<「中城文庫」開設記念展・海から世界へ>も開催する運びとなった。ところが、その直前になって、展覧会はするが「中城文庫」は返還すると、図書館長からいってきた。ここでも面倒な仲介を、山田さんにお願いせざるを得なかった。そして岡ア市長・吉川教育長と折衝いただき、とりあえず展覧会は開会、寄贈式はずれたものの2月13日に行われた。 
 私は寄贈式の日は、昭和大で肺血栓塞栓症の定期精密検診に当たっており、出席出来なかった。この病気は亡くなった山田さんのトミ夫人と同じ病気で、私も肺の動脈にアンブレラ・フィルターを入れており、この検診での胸部断層写真にもはっきりフィルターが映し出され、機能していることが確認出来た。山田夫人の主治医は後の宇宙飛行士・向井千秋さんである。その医療経過と山田さんの奥様への思いやりあふれる看病ぶりは著書『いのちなりけり』に詳しい。文中には患者が外出中に事故にあった場合に備えてのイエローカード(病名・薬・連絡先を記載)を紹介してあるが、私にもカードを用意するよう薦めてくださった。さっそく同様のカードを作り、いまも名刺入れに入れてある。
 話を「中城文庫」にもどせば、問題は個人情報保護に即した利用規程の改定と、史料寄贈者への利用状況の告知を、中城家からお願いしたことにあった。寄贈後に高知県立歴史民俗資料館「絵葉書のなかの土佐」や、県立坂本龍馬記念館「坂本龍馬と戊辰戦争」などの企画展で「中城文庫」史料が活用されたが、市民図書館からは寄贈者に対し、まったく連絡がなかった。幸い歴民館からは図録を贈呈いただき、龍馬記念館からは出品リストを後日いただいた。山田さんも図書館の対応を残念がっておられたが、全国の公立博物館・文書館・美術館・図書館と比べ、利用者へのサービスも協力者への対応も遅れを取っているように思える。かつては高知市民図書館と言えば、文化人を館長に招聘し、出版活動から移動図書館・特設文庫・研究者への協力まで日本の最先端であったが、現在の高知市文化行政にその面影はない。県と高知市で新しく歴史資料館建設の構想があると聞くが、貴重な収蔵史料が多いだけに、その利用サービスでも全国の模範となっていただきたい。
 
生涯一ジャーナリスト
 「中城文庫」とともに山田さんにご迷惑をかけたのは、中城家「離れ」の文化財指定調査である。高知市教育委員会から平成18年に、龍馬ゆかりの「離れ」につき、文化財指定を視野に入れて調査したいとの申し出があり、喜んで同意した。教育委員会の指定で建築物としての調査は伝統的建造物の修築で定評のある上田建築事務所が、歴史的位置付けは山田一郎・栗田健雄両氏が担当くださった。平成19年に『中城家「離れ」調査報告書』が出来上がり、高知市文化財保護審議会に諮問された。委員からは「川島家にしても中城家にしても資料が少ない」「市史跡として保存しなければならない程のものではない」との意見が出て、指定は見送りとなった。山田さんは長年の調査研究をふまえて、歴史的意義を説いてくださっただけに、私には「離れ」自体の文化財指定の可否はともかく、山田さんのこれまでの精密な研究成果が否定されたようで申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 山田さんは、「審議内容にはいくらでも反論できるよ」とおっしゃり、委員の文化財についての研究姿勢や歴史認識を残念がっておられた。ただ評価できるのは、審議会の討議「要旨」を教育委員会が当家に示してくれたことである。ぜひ、このような情報開示の姿勢は継続していただきたい。
 平成22年正月からNHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まったこともあって、この「離れ」もいくらか注目されている。毎回ドラマ後にその舞台を紹介する「龍馬紀行」でも取上げたいとの連絡があり、三里史談会事務局の久保田昭賢(理科・久保田伸雄先生の令弟)さんに取材斑の案内をお願いした。6月末の撮影日はあいにくの大雨で、座敷に雨漏りがしており、撮影スタッフも驚いたようだ。久保田さんから現状を報告いただき、兄・中城達雄の即断で台風シーズンにそなえ、急ぎ屋根の修理を行った。地元業者には上田建築事務所とも打ち合せの上で、伝統的建造物にふさわしい修理をしていただいた。ただ、家屋は使用しないと痛みが早く、今後の活用法が課題である。山田さんは、いくつか腹案をもっておられたようだが、地元でなにかいい案があれば、当家としては山田さんへの感謝を込めて協力したいと考えている。なお、種崎の母屋には平成23年春から兄の孫・田副一家が住んでいる。
 近年は、山田さんの調布市のお部屋を年に一度くらいはお訪ねしていた。満州時代の思い出話もうかがったが、終戦時に「ソ連機新京を爆撃」の大スクープを打電した話は口にせず、満州巡業に来ていて敗戦で帰国できなくなった落語家・古今亭志ん生との、糊口をしのぐための興行生活を楽しげに語ってくれた。最後の著書として
志ん生(本名・美濃部孝蔵)の一代記を書くべくその先祖を探り、「甲賀の忍者から徳川家康に取り立てられ、旗本となった美濃部家の末裔だった」とも言っていた。高知で倒れたのは、資料を漁り尽くし、敗戦後の大連での生活ぶりや、聞き取った秘話を元に執筆を始めたところであった。岩波書店での刊行も決まっていたが、原稿はご本人とともに泉下に運ばれてしまった。 
 平成21年の暮れには、上京する安岡憲彦さんと久しぶりに山田さんを訪問することになり、電話をかけたが本人も同じマンションの別室に住むご次男もご不在で、不安にかられた。高知で探っていただくと、入院中とのことであった。そして、年を越して訃報が届いた。3月4日に「生涯一ジャーナリスト」という山田さんにふさわしい名称で「偲ぶ会」が開かれると聞き、高知市城西館の会場に駆けつけ、遺影に最後のお別れをさせていただいた。そこには仁井田の浜に立つ老松のように、吹き寄せる時代の烈風に耐え、温顔のなかにも鋭い視線をたたえて真実を追い続けた希有な文人ジャーナリストの姿があった。合掌
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