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このページは2016.3.31までの過去の記事を掲載しています。
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2016.03.31 堀内稔久  「憂い」を秘めた顔
2016.03.31 濱ア洸一  岡林敏眞君を偲んで
2016.03.30 鍋島高明  『相場の世界』 昔と今と
2016.03.27 向陽プレスクラブ  3月20日 岡林会長ご逝去
2016.03.12 吉川順三  新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
2016.02.28 中城正堯  20世紀美術の先端を駆け抜けたアーティスト
2016.01.18 北村章彦  『土佐中學創立基本資料集』HP版
2016.01.15 藤宗俊一  野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
2015.10.23 坂本孝弘  平成27年度向陽プレスクラブ高知支部懇親会のご案内
2015.08.15 中城正堯  校歌の謎1への回答
2015.08.01 公文敏雄  今更訊けないこと…母校校歌の三つの謎
2015.06.27 藤宗俊一  二つのご案内
2015.06.14 藤宗俊一  敗北宣言
2015.05.28 中城正堯  龍馬最後の帰郷と種崎潜伏
2015.05.24 藤宗俊一  渡辺真弓著 『イタリア建築紀行』
2015.05.21 中城正堯  身辺整理に専念します
2015.05.20 水田幹久  向陽プレスクラブ2015年度総会議事録
2015.05.20 岡林敏眞  苫野一徳著 『勉強するのは何のため?』
2015.05.12 岡林敏眞  画柳会展のご案内
2015.04.16 水田幹久  地球の裏側(アルゼンチン)で感じたこと
2010/04/01-2010/07/25設立総会まで
2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで
2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで
2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで
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堀内 稔久(32回) 2016.03.31「憂い」を秘めた顔


筆者近影
 岡林敏眞君の訃報を知らされた。彼のいつも憂いを深く秘めたような顔を思い出した。
 晩年の彼は、公文教室を経営する良き配偶者に恵まれて、京都に落ち着いて「画柳会」の世話役となって夫婦睦まじく絵画に打ち込み、画題を求めて国内外をふたりで旅して歩き幸せそうであった。
 彼の本領が発揮されたのは母校土佐中での入試不正を切っ掛けとする同盟休校のときであった。高校生の彼が学校経営陣に対する攻撃の先陣に立っていたとのことである。私のような高知でも片田舎から通学していた生徒にとって、丸で別世界の登場人物のように遠くから彼の活躍を眺めるばかりであった。
 彼は、幕藩体制の地侍のように、不遇を深く秘めて能力一杯に羽ばたくことが許されない環境のもと、土佐高新聞部だけが彼の安住できる住み処であった。
 土佐の地侍が幕末期に能力を発揮したように同盟休校に能力を発揮しながら、その後は、いろいろな企業、団体などで事務方、裏方に徹することで組織運営の中でなくてはならない人間に育っていった。彼の能力を認めて、組織運営に不可欠な人間に育て上げたのは新聞部の先輩、特に岩谷・中城氏らであり、彼が一生にわたって師事することになり、世話になりつづけた。新聞部(現プレスクラブ)こそは、彼が帰ることができる「実家」でありつづけた。彼が後輩の面倒をよく見たのは、後輩イコール実家の弟妹のような心情だからであった。大学時代の彼は、中野区「野方村」(漫画家手塚治のトキワ荘のような存在)が新聞部に代わった。そこには彼の兄(先輩)が居り、「(腹違いのような)兄弟」(同級生)が居り、「弟」(後輩)がいた。試験のときには、同じ学部で司法試験の受験勉強に専念していた私に何回か教わりに来た。彼はアルバイトにかなりの時間を取られていた。 野方村も、彼の逝去によって村民の1人が減り、限界集落のように段々寂しくなった。
 彼は、天国で、戦死されたお父様にようやく面会されて「憂い」が解けているであろう。ご冥福を祈るばかりである。
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濱ア 洸一(32回) 2016.03.31岡林敏眞君を偲んで


筆者近影
 岡林君の訃報を聞き、それも急逝だったことを知り、まことに残念、衷心よりお悔み申し上げます。
 昨年6月いつもの銀座の画廊で逢ったときには、顔色も良かったし、口では、「もう今年が最後かもしれん」とは言っていたが・・。今年から彼の独特の絵が見られないと思うとさびしい限りである。
 思い起こせば、彼との出会いは、土佐中学1年同じクラスとなり、学級新聞を作ろうとの話から、新任担当の中沢先生に伺ったところ、当校には新聞部があるから、そこで勉強しなさいとのことであった、そもそもそこからである、仲間数名が部室に行ってそのまま新聞部の部員となってしまったのである。 そして彼は森木君・示野君らと部活を続けることになった、小生はというと、水泳部に入り、名前だけの新聞部部員?記事を書いたことは無い。
 大学も同じ中央大学に進み、新聞部のOB会が時々神田すずらん通りのそばやの二階で、岩谷さんの落語を聞きながら、中城さん杉本さんらと食事をしたものである。 そして、社会人になり、岡林君は学習研究社入社、そして2.3年目くらいで社内結婚、 その披露パーティが会社の中で開催され、なぜか小生が招かれた、出席者には、新聞部のOBたちが参集していた。なぜか、必ず彼からお声がかかったのです。
 彼の絵画は一種独特のもので、いつも小生の素人批評に対し、彼の制作の意図を十二分に聞かされたものである。
 彼の新世界での進路を想像しながら・・・、ご冥福を祈ります。合掌
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鍋島 高明(30回) 2016.03.30『相場の世界』 昔と今と


筆者近影
謹啓
 皆様にはますますご健勝のこととお喜び申し上げます。小生も相変わらず原稿執筆を続けております。このたび「相場の世界 昔と今と」を上梓しました。ご高覧、ご高評を頂ければ幸甚です。
 ここに収めた原稿の多くは「merit」など各種媒体に執筆してきたもので出版を機に加筆しました。中心となるのは「相場取引古語辞典」で今では古語、ないし死語になっている取引用語を根掘り葉掘り掘り返しながら読み物風に仕立てたものです。ここに取り上げたのは取引用語のご<一部でいずれ補強して単行本にまとめたいと思っています。

米穀新聞社 B6版362頁 定価1,500円(税別)

 「先物寸言」は先物ジャーナル紙に月一回執筆しているコラム集です。昔の資料をあさりながら、現在、未来につながる話をと考えているのですが、なかなかうまくいきません。昔話で終わってしまうことがほとんどです。
 巻末に掲げた取引員資産番付(講談社発行の講談倶楽部の昭和9年新年号付録から取引員を抽出)は書き下ろしと云うか、初めて公開される資料です。昭和初めの産業界において取引員(証券業者、商品先物業者)のウェートが想像以上に高いように思われます。
                              敬具 
平成28年3月
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向陽プレスクラブ 2016.03.273月20日 岡林会長ご逝去


故岡林敏眞会長
Sun, 20 Mar 2016 13:38:11:公文敏雄(35回生)
 向陽プレスクラブ会長岡林敏眞氏(土佐高32回生、元学習研究社、元公文教育研究会編集部)が本日(20日)早朝、入院先病院で逝去されたむね、奥様よりお電話がありました。
 死因は進行性内臓癌でした。前夜式は本日18時より、ご葬儀は明21日13時より、下記のとおりキリスト教会にて執り行われます。
 なお、供花・お花料等はご辞退なさっておいでです。
 7年前に胃癌の手術をされ快癒したのですが、最近再発した模様で、体調急変により18日に緊急入院してからはあっという間のことだったそうです。
 現役ご引退後は奥様ともども「画柳会」に属して力作を次々と発表なさる一方、向陽プレスクラブ設立に関わり、幹事長、更に会長として種々お骨折りくださったことは皆さま御承知のことと存じます。

 謹んでお悔やみ申し上げたいと存じます。

 会場:
 〒612-8034京都市伏見区桃山町泰長老(たいちょうろう)175 シャルム世光7階
 日本基督教団世光(せこう)教会
 TEL:075-622-0409 FAX:075-622-9804
 喪主:岡林拓美様(おかばやしたくみ=令夫人)
 以上取り急ぎお知らせ申し上げます。

 岡林哲夫幹事長 殿
 当会会則(弔意内規)に従い、「向陽プレスクラブ会員一同」よりの弔電をお手配願えますと幸甚です。
 私は明日のご葬儀に参列の予定です。

Sunday, March 20, 2016 3:24 PM:岡林哲夫(40回生・幹事長)

故岡林敏眞会長 自画像

 急な訃報に驚いております。
 3月2日に四条の駅で倒れられたとのことで心配でしたが、胃がんの再発は無いとのメールで甘く考えていました。
 心よりお悔やみ申しあげます。
 下記の電報を手配しました。
 *********************************************************
 喪主
 岡林拓美 様
 岡林敏眞会長のご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申しあげます。
 岡林敏眞会長は向陽プレスクラブの設立及び運営において最も重要
な役割を果たされました、向陽プレスクラブ会員一同衷心よりご冥福を
お祈りいたします。
 向陽プレスクラブ会員一同
 *********************************************************
 明日は当方は法事があるため京都には行けませんが、公文様よろしくお願いいたします。



Sun, 20 Mar 2016 :中城正堯(30回生) 弔電
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 「突然のご逝去のお知らせに、呆然としております。高校以来、大学、
出版社と二年後から同じ道を歩んでくれた同志だっただけに、残念でな
りません。心からご冥福をお祈り申しあげます。」
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2016/3/21, Mon 17:20:森本浩志(36回生)
 本日、岡林敏眞氏の告別式に参列させて頂きました。京都伏見の教会にて厳粛かつ何か温かみのある式典でした。
 奥様のご挨拶の中に、短い闘病の話と趣味の絵画の話があり式場に飾られた「ピンピンコロリ」と言う画題の絵のメッセージは人生いつまでも「夢」を持て、と言うこととの紹介がありました。その通り、天に召されたように思えます。
 昨年の「画柳会」にて、自作の絵に託した思いを熱っぽくお話し頂いたのを、思いだします。
 心から、ご冥福をお祈りして参りました。

Tuesday, March 22, 2016 10:17 AM:公文敏雄(35回生)
 ご報告有難うございます。
 昨日は私も東京から日帰りで参列させていただきました。折角の機会だったのに、貴兄に気付かず失礼いたしました。
 奥様が通っておられた地元の教会だけあって、家族的な雰囲気でしたね。ご夫妻の結婚式もここで挙げられと聞きました。
 もう手の施しようがないと医師から告げられたあと、先輩は痛み止め措置だけで延命医療を断られ、最期はお子様、お孫さんを含めご家族に看取られながら安らかに目を閉じられたとの奥様のお話でした。
 勝手ながら貴兄からのメールを含めてKPC幹事諸兄に送信させていただきます。
 中城さん、岡林幹事長殿、幹事各位
 弔電の披露が有り、中城さんのお心のこもった弔辞、そしてKPC幹事一同の弔文も読み上げられました。有難うございました。


2013年総会で中城前会長と
2016/3/22, Tue 11:02:中城正堯(30回生)
 岡林敏眞さんの葬儀参列とご報告をありがとう。
 私の弔電では触れることが出来ませんでしたが、彼は公文教育研究会に来てから、今の奥様と出会い、そのお陰で穏やかな良い晩年を過ごせたと思います。
 公文を定年退社後も、奥様の公文教室を手伝いながら、好きな絵画に取組み、癌も克服、絵画グループ画柳会・新聞部・マンションの世話役も務め、多くの人たちから頼りにされていました。
 奥様並びに友人の皆様に感謝です。

Tuesday, March 22, 2016 1:54 PM: 吉川順三(34回生)
 ご連絡ありがとうございます。伊豆の吉川です。メールを開けて、驚きました。
 岡林敏眞さんは新聞部の先輩でも最も親しい存在でした。大学受験で上京した際には東中野の下宿に布団と着替えだけを送り込んで居候したものです。
 社会に出てからはご無沙汰の期間が長かったのですが、岡林さんにKPC幹事を命じらてからは楽しく盃を交わす機会もけっこう多くなっていました。
 下田の写生会では伊豆高原で途中下車して、わがわび住まいにも立ち寄ってくれました。
 すべてが去年、昨日のような気がします。
 遅ればせながら、ご冥福をお祈りし ます。
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新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
吉川 順三(34回) 2016.03.12


筆者近影
 合田佐和子さんの多彩な活躍はご存知の通りだと思う。訃報が新聞に載った夕刻のツウィッターは彼女のことが目白押しだった。それはともかく、彼女の土佐高新聞部時代を振り返ってみると、才能、感性が多彩に芽生えていた。
 われわれの時代は1年生の後半から3年生の前半まで新聞製作と部の運営に責任を持っていた。彼女は放課後になると、ほぼ毎日のように部室に現れた。新聞は多くても年に3回発行だったから、いつも忙しいわけではない。駄弁りや部活とは関係のない議論をすることが多かったが、たいがいは彼女が主役だった。 とにかく彼女はアタマの回転が速い。目のつけどころが独特、しかも変幻自在で既存の形に縛られるのを嫌った。おまけに感性は鋭い。先生、先輩、同輩についても批判に遠慮はなかった。皮肉を込めたあだ名をつけるのも上手かった。 私もあるとき「ドンジュン」と呼ばれた。もちろん「ドンファン」のもじりでもなければ、たまたま部長だったために名前に「ドン」を冠したものでもない。「鈍」な順三というわけだ。高速回転の彼女とはあまりにも異質な“鈍感力”を鋭敏な彼女の頭脳が感じ取ってくれたのかどうか、これは幸いなことにその場限りになった。とにかく彼女と同じ軸でやりあうと、私をはじめ仲間はみんな、いつの間にか彼女の思うつぼにはまって逆転され、情けない思いを味わった。
 新聞作りでは紙面レイアウトについて先輩から「“S字型”か“X字型”の配置で構成するのが基本」「”腹切り”は避ける」と教えられていた。 その原則に沿って記事の行数を計算して写真の寸法をはかり、模擬 紙面に切り貼りするなど試行錯誤していると彼女が割り込んで瞬く 間に解決したことが記憶に残っている。全体をひと眺めすると色鉛 筆をにぎり「この写真はもっと大きく」「これは横見出しに」などと つぶやきながら実に細密で正確な絵コンテを描いた。 そのうえ「このコラム、もう少しおしゃれで、鋭かったら紙面配置 の基本などにかまわないで最上段に置いてやったのに」とのたまう。 筆者がそこにいてもまったく気にしない。筆者も「う〜ん」と、う なりながら同意したものだ。
 また最終段階の作業は印刷所が現場になる。コストの関係から印刷 はいつも夜間で、活字拾い、組版などの職人さんの残業に頼っていた。 夜遅くなる場合が多いので男子部員だけが現場に出かけ、早く仕事 を終えて帰りたい職人さんの機嫌をとりながら作業した。 ちょうど“濡れ紙”の小ゲラをチェックして、いよいよ大ゲラが出る ころ「家が近いから」と彼女が突然現れたことがあった。 例によって周りの雰囲気などおかまいなしに「この見出しは変えた 方がよい」「凸版の地紋はもっと明るく」と笑顔でテキパキと指示す る。はじめ渋面だった職人さんは、そのうち文句もいわず、彼女のペ ースに乗せられて、組み直しや作り直しを繰り返した。ただただ呆然 としたのは、われわれ男子部員だった。そして「これ以上遅くなった ら家から迎えが来るから先に帰る」と、ポケットのキャラメルを一箱 置いてさっと消えた。
 次の号で印刷所に行ったとき職人さんから「あのオカッパはまだ来 んかよ」と期待のこもったように問われて驚いたことを思い出す。 こように、普通なら相手を困らせるようなことを、あっけらかんと主 張して思いを遂げ、しかも相手から親しみを感じてもらうという不 思議な能力を持っていた。
 彼女は「これ以上憎まれたくない」としばしば言ったが、だれも憎ん だりはしなかった。彼女の毒舌の標的になれば、そのたびに脳細胞が 刺激され、それぞれが成長したように思う。
 彼女の訃報に関連して同期の久永(山崎)洋子さんから手紙をいた だいた。「ひらめき、才能、シャープ、独特のセンス。毒舌とユーモアの混じった会話が得意な人でした。ともに新聞部を楽しませてもらいました」と。同期のみんなも気持ちは同じだろう。 しかしその同期の主要メンバーだった浜田晋介、秦洋一、国見昭郎 の各氏がすでに故人になっており、今回は合田佐和子さんが他界した。そもそも土佐高の「向陽新聞」は廃刊、冥土入りして久しい。そのすべてに------------合掌。    
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<合田佐和子さんの思い出>
20世紀美術の先端を駆け抜けたアーティスト
中城 正堯(30回) 2016.02.28


筆者近影
 2月23日の新聞で合田さん(34回)の訃報を目にした。19日に心不全で亡くなったとのこと。昨年の日本橋での個展にも本人は姿を見せず、療養中と聞いていたので心配していたが、残念でならない。彼女は絵画だけでなく、寺山修司「天井桟敷」・唐十郎「状況劇場」の舞台美術やポスター、超現実的な人形、ポラロイド写真にも取り組んできた。
 土佐高新聞部の仲間として、また同時代の編集者として見てきた、20世紀美術界での彼女の先鋭的なアーティストとしての活躍ぶりが、脳裏に刻まれている。かつて書いた戯文に、本人および関係芸術家の文章なども引用し、しばし追憶に浸りたい。

<新聞部の仲間から>
美術界の異才、合田佐和子/中城正堯『一つの流れ』第8号 1985年刊

新聞部の千松公園キャンプ、前列左端が合田さん。1956年

 合田は新聞部だったので、中学時代からのつき合いになる。やせて眼のギョロッとした文学少女タイプだったが、芯は強い。ガラクタを集めたオブジェから始り、状況劇場や天上桟敷の舞台美術、怪奇幻想画、ポロライドカメラによる顔シリーズ、油彩のスーパーリアリズムと、とどまるところを知らない。 (彼女が武蔵野美術大卒業の際に作品を持って学研にきて以来、時折連絡を取っていた。)舞台で使うプラスチック人形の成型を教えてくれと、ひょっこり訪ねてきたりする。たえず新しいものにチャレンジし、美術界の話題を集めてきた。その才媛ぶりは、瀧口修造や東野芳明から高く評価されている。・・・昨年は、現代女流十人展の一人にも選ばれ、仕事は活発に続けている。
 今年正月には銅版画集『銀幕』(美術出版社)を刊行した。手彩オリジナル版画入りの豪華本は、定価30万円である。その出版記念会には、根津甚八、四谷シモン、江波杏子、白石かずこなど、異色の東京ヤクザがかけつけていた。合田はエジプトが気に入り、安い家を買ったとかで、これからは日本と半々でくらすと、いたずらっぽい表情でいっていた。
(これは、土佐高30回Kホームのクラス誌に「東京ヤクザ交友録」として、同窓生の活躍ぶりをカタギとヤクザに分けて紹介した戯文で、芸術家は当然ヤクザとして扱った。)

<合田さんご本人の回想>
『パンドラ』序文/合田佐和子作品集 PARUKO出版 1983年

「合田佐和子 影像」掲載ポートレート(松濤美術館)

焼け跡 高校3年の夏休みに、四国山脈をかきわけて上京して以来、もう25年という年月が流れていったらしい。・・・美術界の西も東も分からなかった24才の6月に、はじめて開いた個展での作品は、今にして思えば、戦後の焼け跡の光景そのものだった。それも、近視眼的な子供の眼にうつった、災害のオブジェである。(夏休みに上京、以来東京の叔父の元で過ごし、卒業式だけ帰高出席したという。)
油彩 ニューヨークの裏通りで一枚の写真を拾った。二人の老婆と一人の老人が写っている小さな銀板写真だった。アレ、これはすでに二次元ではないか、これをそのままキャンバスに写しかえれば問題は、一方的に一時的に解決する。(立体オブジェにこだわり、立体を平面に写す油彩を躊躇していた合田は、拾った写真にインスピレーションを得て独創的なスター肖像画を生み出す。美大で商業デザイン科だった合田は、油絵の実技教育を受けておらず、独学で修得したと述べている。)
エジプト 1978年秋の個展作品を、肩から包帯をつるした腕で仕上げると、息もたえだえ子供二人を連れて半ばやけ気味でエジプトへ発った。(彼女はアスワンの村でくらし、「全部の病気を砂に返し、暖かいぬくもりだけを全身に吸い込んで東京に戻る」と、古代エジプトの守護神ホルスに惹かれたのか、目玉をモチーフに立体も平面も制作、『眼玉のハーレム』(PARUKO出版)を刊行する。後に中上健次の朝日新聞連載「軽蔑」では、毎回眼だけの挿絵を描いた。)

<仲間の賛辞>
恋のミイラ/唐十郎 合田佐和子個展カタログ 1975年
 これらは、初めて仮面舞踏会につれてこられた少女の、ほのかなためらいと頬の紅潮を画布に移行させたものだろうか。・・・これらはドリームにドリームを塗りつぶした暗い恋のタブローである。こんな絵に囲まれながら、そこで、誰かと誰かの恋が結ばれたらどうしよう。
ぼくらのマドンナ/『銀幕』出版記念会案内状/四谷シモン 1985年
 当代きっての才媛、ぼくらのマドンナ、佐和子が、突如、この夏の猛暑のさなか、銅版画の制作にのめりこみ、レンブラント、デューラーもものかは、銅と腐蝕液の異臭のなかから電光石火の早技で「月光写真」の如き「銀幕のスターたち」を誕生させました。・・・ぼくらのマドンナを囲み、歓談に花を咲かせたいと思います。
焼け跡に舞い降りた死の使者/坂東眞砂子(51回)『合田佐和子』高知県立美術館 2001年
 八十年代に入り、合田佐和子は初期の焼け跡を連想させるオブジェと、人骨を組み合わせた作品を創りはじめる。ここにおいて、敗戦、焼け跡と、死が作品上で、明白に重ねあわされていく。・・・合田佐和子が描いてきた銀幕スターたちとは、戦後の日本に死をもたらした、死の使者たちだったのだ。彼らは大鎌の代わりに、セックス・アピールという武器を手にして、日本社会に乗りこんできた。その青ざめた皮膚の下にあるのは、骨。銀幕スターのきらめきの下に隠されているのは、骸骨であったのだ。

作品集・展覧会図録・著書など

絵はがきなど

<わが追憶>
 合田さんと思いがけず出会ったのは、1992年2月小松空港行きの機中であった。前の席に座った男女が楽しげにはしゃいでいる。ベルト着用のサインが消え、身を乗り出してみると、二人の若い男性助手を連れた合田さんだった。聞けば翌日から金沢のMROホールで公開制作をするという。仕事の合間をぬって会場に駆けつけると、詰めかけたファンに囲まれ、あざやかな筆さばきで大キャンバスに銀幕のスターを描いていた。
 2001年の高知県立美術館「森村泰昌と合田佐和子」展、2003年の東京・渋谷区立松濤美術館「合田佐和子 影像」展でも、オープニングで元気な姿を見せていた。しかし、近年の鎌倉や日本橋の個展会場では、本人と会うことができなかった。5年ほど前に電話で近況を尋ねると、心臓の病をかかえ、思うように制作ができないといいながら、わたしの病気を気遣って、類似の病気を克服した友人・栗本慎一郎(経済人類学者)の治療法を薦めてくれた。
 彼女は様々な病気を抱えながら、絶えず新しいテーマと技法にチャレンジし、現代アートの世界で先鋭的な作品を発表し続けてきた。その鋭利な感性に肉体がついて行けず、悲鳴を上げていたのであろう。高知県立美術館での合田展に寄稿をしてくれていた作家・坂東眞砂子さん(51回)に続いての合田さん訃報であり、土佐高で学んだ異能の女流芸術家が相次いで亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。

<追記>いずれ「お別れの会」を開く予定で、「天井桟敷」関係者が準備中とのこと。
      (作品自体は著作権者の了解が必要なので、印刷物からの画像引用の範囲にした)
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 2016.01.18『土佐中學創立基本資料集』HP版

 平成26年4月に発行された基本資料集を、より多くの方々にお読みいただけるよう、昨年来HP版(電子版)作成作業にとりかかっておりましたが、このほど漸く完成、掲 載の運びとなりました。ご高覧いただければ幸いです。
編集委員 北村 章彦(49回)

発刊にあたって・目次 ……向陽プレスクラブ会長 岡林敏眞・32回生
 東京オリンピックが開催される二〇二〇年に、母校である土佐中学校・高等学校は創立百周年を迎える。一九二〇年(大正九年)の創立時には母校を含めて高知県下の私立中学校は四校であった。それ以来九〇余年を経た二〇一四年現在では、中高一貫の私立学校が七校を数えるまでになっている。
 私立校の数が増えたばかりでなく、土佐中高そのものも大きく変化してきた。創立時には男子生徒二五名のみの入学であったが、二〇一四年度の中学校の入学定員数は二五〇名であり、一九四七年(昭和二二年)からは男女共学制となり、二〇一三年現在で中高合わせて一六七〇余名が在校している。男子生徒のみの少数英才教育から、今や男女共学の大規模校となった変遷を「土佐中学校・高等学校創立百周年史」(以下、「百周年史」と表記)として編纂・発行されることになっている。
 近年、教育をめぐる社会環境が激変している。少子高齢化、日本国内だけでなく世界で役立つ人材を育成するというグローバル化、情報伝達技術の急速な進歩、地球温暖化などなど。親や社会が学校教育に求める要望も様変わりしてきている。このような変化に伴って、土佐中学校・高等学校も単に大学への進学率だけでなく、その存在意義をますます問われるようになっていくであろう。土佐中高ならではの「教育変革」が必要なのだ。そう考えると、創立百周年という節目の年に、創立以来の歴史を振り返る「百周年史」を編纂するのは非常に有意義なことである。「温故知新」と言われるように歴史に学んでこそ将来のビジョンが構築できるのである。そこで、二〇二〇年の「百周年史」の発刊に向けて、ビジョン構築の参考資料として向陽プレスクラブでは、二〇一一年に「向陽新聞バックナンバーCD」を編纂発行し、関係各位に寄贈した。
 土佐中高ならではの「教育変革」を進めるためには「初心に帰る」ことも大切である。つまり、「土佐中学校の創立の原点を見直す」ことが不可欠なのだ。そうしないと、足元が定まらない変革になってしまう。創立の精神を生かしてこその変革が肝心である。そこで、土佐中高教育の原点を確認するための資料として、ここに『土佐中學校創立基本資料集』を編纂発行することになった。
 この資料集では、母校創立のいきさつ、特に創立者である宇田友四郎・川崎幾三郎両氏の建学趣旨と、その意向を汲んだ三根圓次郎初代校長の教育方針・教育内容を当時の資料の再録で明らかにしている。これら資料は、母校の存在意義と今後の発展への方向を検討する基本資料であるが、一般には閲覧困難であり、この小冊子によって広く普及をはかる。創立百周年を迎えるにあたって、理事・振興会役員・教職員ばかりでなく、卒業生や在校生にもこの資料に目を通していただくことが、私立校としての発展につながると思考する次第である。併せて「百周年史」編纂に活用をいただければ幸いである。

現代語訳編
  1)土佐中学校の設立(『宇田友四郎翁』昭和十四年より)
  2)幾三郎翁と秀才教育土佐中学校(『川崎幾三郎翁傳』昭和十七年より)
  3)三根圓次郎先生略伝(「三根先生追悼誌」昭和十八年より)
  4)土佐中学校要覧(昭和五年十一月より抜粋)
原文編
  5)土佐中學校の設立(『宇田友四郎翁』昭和十四年より)
  6)幾三郎翁と秀才ヘ育土佐中學校(『川崎幾三郎翁傳』昭和十七年より)
  7)三根圓次郎先生略傳(「三根先生追悼誌」昭和十八年より)
  8)土佐中學校要覧(昭和五年十一月より抜粋)

土佐中學校創立基本資料集解説 ……中城正堯・30回生

編集後記 ……土佐中學校創立基本資料集編集委員
 本誌の編纂作業に着手したのは昨年春のことです。往時の新聞部OB・OG有志の集まりである「向陽プレスクラブ」の総会で「編集委員会」の立ち上げが決まり、先ずは創立基本資料4点セット(「宇田友四郎翁」、「川崎幾三郎翁 傳」、「三根先生追悼誌」、「土佐中學校要覧」)の復刻準備に取りかかりました。原資料の提供・複写或いは貴重な ご助言などをもってご協力くださった宇田耕也、川崎康正両氏と母校土佐中学・高等学校に深謝申し上げます。
 読みやすい形で原文を再現するためには、原資料をデジタル化するという作業が必要でしたが、当クラブのシステム担当幹事藤宗俊一氏(四二回生)の敏腕をもってこれを乗り切りました。ワード版原文については読み取りソフトのバグによる誤字の補正、更に現代文訳の作成と校正、写真(原文に極力忠実に採録)を含めた段組み、そして最終校正と印刷……昔取った杵柄というか新聞部現役時代を想起しながら編集委員一同力を合わせての長丁場が終わると一年が経っていました。
 本誌の発行は、平素「向陽プレスクラブ」を応援してくださる会員並びに同袍各位の支えあってのものであり、末筆ながら厚く御礼申し上げます。
平成二十六年四月二十六日
  土佐中學校創立基本資料集編集委員
  岡林 敏眞(向陽プレスクラブ会長 32回生)
  公文 敏雄(同 幹事 35回生)
  岡林 哲夫(同 幹事長 40回生)
  井上 晶博(同 幹事 土佐女子中学高等学校教頭 44回生)
  北村 章彦(同 幹事 穎明館中学高等学校教諭 49回生)
      平成二十六年四月十六日印刷
      平成二十六年四月二十六日発行 (非売品)
      発行者 向陽プレスクラブ
      代表者 岡林 敏眞
      印刷所 クラフト・コア(株)
土佐中学校創立基本資料集 完成版(WORD)

●本文は膨大すぎてホームページ画面に掲載できませんでした。緑色のホットジャンプでpdfファイルを呼び出し閲覧して下さい。ダウンロードも可能です。またデータ(文章のみ)としてご使用なされたい方はWORD文(.rtf)をダウンロードして下さい。その際はメニューのMailBoxからご一報下さるとともにクレジット(引用:向陽プレスクラブ)をつけていただけるとありがたく存じます。
●基本資料集は、母校、創立者川ア・宇田ご両家、当会会員とご希望する同窓生に、全てを配布致しました。その際、川崎康正氏をはじめとして多くの方々からご寄附を頂きました。会員一同、心より感謝致しますとともに、ご浄財は今後母校の発展のために有効に使わせて頂きたいと思っています。
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野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
藤宗俊一 2016.01.15


 遅くなりましたが、年頭のご挨拶を申し上げます。穏やかな新しい年を迎えられてたこととお慶び申し上げます。


撮影:荒川豊氏
 郷里出身の写真家野町和嘉氏から写真展の案内をもらい、オープニングに行ってきました(会場でお元気そうな中城さんにもお会いしました)。『構図にこだわっている』などという次元ではありません。 殆どの写真が畳の大きさ以上に焼き付けられていて、本とはまるで違った迫力がありました。会場は倉庫を改装した大空間で、そこに50枚以上の素晴らしい作品が並べられていました。是非、足をお運び下さい。



野町和嘉写真展 『天空の渚』 01/15-02/14
港区海岸1-14-24  03-5403-9161
鈴江第三ビル6F 『GALLERY916』
入場無料  月曜休館

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 2015.10.23平成27年度向陽プレスクラブ高知支部懇親会のご案内
幹事 井上 晶博(44回生)・山本 嘉博(51回生)・坂本 孝弘(52回生)
向陽プレスクラブ会員の皆様

 秋冷の候 皆様には益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
 標記の会を下記の通り準備いたしましたので、会員の皆様には奮ってご出席頂くよう、ご案内申し上げます。


土佐のいごっそう亀次 案内図
日時:平成27年11月21日(土)午後6時
会場:土佐のいごっそう亀次(かつおのタタキで人気の明神水産の直営店です)
住所:高知市帯屋町2−1−13、おびさんロード北側です。
   (大橋通と中ノ橋通の間で、電車通と帯屋町商店街の間の通。帯屋町公園の少し西)
会場電話:(088)821−9814
徴収会費:3千5百円(飲み放題)。本部会計から、別途2千円の補助を頂いております。

※なお、メール登録の会員の方にはメールで、未登録の方には往復はがきでご案内しています。
(はがき発送は、10月25日頃の予定です)
※ご都合を、11月13日までにご連絡ください。当日・前日等の急な連絡先(幹事携帯電話番号)は、
 会員個人宛のメール、または、連絡ハガキでご確認ください。
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中城 正堯(30回) 2015.08.15校歌の謎1への回答

公文敏雄様、皆様


筆者近影
 よい質問をいただきました。猛暑の中でも、母校への思いを抱き続けているようで、なによりです。

謎1,の「向陽」の由来のみ、小生の理解するところをお知らせ致します。  「向陽」の出典は、中国古代の漢詩です。諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館)に よると、<向陽 陽に向かう。日に向かう。潘岳(247〜300 西晋の文学者)の 「閑居賦」、謝霊運(385〜433 六朝時代 宋の詩人)の「山居賦」・・・>等の詩 に使われた用例をあげてあります。

 土佐中では、校歌より先に「向陽会」(自治修養会)に使われており、これは三根 校長の命名かと思われます。三根校長が東京帝国大学哲学科在学中の哲学教 授は井上哲次郎でドイツ観念論哲学のみならず、漢学・東洋哲学にも精通していました。

 また国文の物集高見教授も漢学に通じていました。江戸時代の公文書は漢文で あり、三根の一年先輩で国史科だった中城直正(高知県立図書館初代館長)も、 漢文・漢詩に強く、桃圃と号して漢詩を詠んでいます。土佐に来た三根校長とも 交流しています。目下、『土佐史談』に依頼され、史談会創立100周年記念号に、 中城直正(遠い親戚)の略伝を執筆中です。


1990年頃の筆山会による「三根校長墓参会」
 その他の謎についても調べたいところですが、土佐中関連の文献・資料はすべて 土佐校図書室と公文公教育研究所に寄贈し、手元にありません。これらに手掛か りがあるかどうかも不明です。是まで収集した資料は、順次寄贈先を選んで進呈 しています。満州版画は京大人文研が大変喜んでくれました。

 公文さんの質問に対して、まず調査担当すべきは土佐校の同窓会担当者かと思 います。三浦先生の後任は、だれでしょうか。母校100年史編纂も進んでいること でもあり、母校の体制を確認下さい。

 なお、「向陽高校」は和歌山・京都などいくつかあるようですが、いずれも戦後の 学校統合などで生まれた校名のようです。三根校長には、自治会にいい名称を 付けていただいたと思います。
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今更訊けないこと…母校校歌の三つの謎
 公文 敏雄(35回) 2015.08.01


筆者近影
 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」といわれますが、今更恥ずかしくて訊けないことを思い切って先賢にお尋ねいたします。
 関東支部ホームページに踊る「1915ホームカミングデー」案内の文字を眺めていると、母校の校歌の謎(私にとっての)がまたまた頭をよぎりました。

 謎1.最初の言葉「向陽の空」の「向陽」の由来は何か? 向陽寮、向陽新聞等々、母校の別名のようなのですが・・・

 謎2.明治天皇は1904年日露戦争開戦の年に、有名な「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」など多くの和歌を詠まれましたが、ほかに「あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな」があります。母校の校歌1番「向陽の空淺緑 広きぞ己が心なる・・・」によく似ています。作詞者が後輩に伝えたかった思いはとは?

 謎3.創立期の「土佐中學校要覧」では、「大正11年5月教諭越田三郎作歌」とされています。その後、「作曲弘田龍太郎」が加わりました。さて、越田先生はどんな方だったでしょう?

 どなたか教えていただけますと幸いです。
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藤宗 俊一(42回) 2015.06.27二つのご案内

野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』

野町和嘉写真展『地平線の彼方から』
 昨日、郷土出身の写真家・野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』に行ってきました。場所はオシャレな街『六本木』のオシャレなビル『東京ミッドタウン』1階フジフィルム・スクエアで7月15日まで(10:00〜19:00入場無料・撮影自由)やっています。お近くに来られたら是非覗いてみて下さい。
 スゴイとしか言いようが無く、写真がここまで発言する媒体なのか改めて思い知らされました。カメラや印刷方法の違いだけで済まされません。撮るのを止めたくなりました。

野町和嘉写真集・新刊3点のご紹介
●「極限高地――チベット・アンデス・エチオピアに生きる」
 7月6日発売予定。日経ナショナル・ジオグラフィック社
●「地平線の彼方から――人と大地のドキュメント」
 6月26日 発売予定。クレヴィス
●「Le vie dell anima」
 イタリアのモンツァ社

最初のサハラ(宿営地の小学校の庭から撮影)の前で説明する野町さん   撮影:荒川豊氏


パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』
 ついでと言っては失礼になりますが、同じく郷土出身のトルコ評論家(翻訳家・慶応大講師)野中恵子さんからのご案内です。

 こんにちわ、野中恵子です。
 梅雨の隙間に入り込んだ、強い日差しの一日です、夏も間近ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
 さて、昨年のカンヌ国際映画祭で、ついにパルムドールを受賞したヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の「雪の轍」が、この週末から公開されます。
 それに併せて草月ホールでも、上記を記念して、7月にジェイラン監督の初期作品の特別上映会が行われます。なお、9月にも特別イベントが計画中です。
 どうぞお出かけくださいませ。
 パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』公式サイト
 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作品の上映/レクチャー/トーク
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藤宗 俊一(42回) 2015.06.14敗北宣言


筆者近影
 このところ、仕事が無くて、数独というパズル作りにはまりこんでいます。毎日新聞で連載が始まったころ、「こんなめんどくさいことよくやるなあ。コンピューターにまかせたら……」と週末1日がかりでソフトをつくりました。3次元マトリックスで串刺し計算をやらせば簡単でした。それをきれいに画面表示さすのと、リアルタイムで途中経過を確認できるようにするのが少し時間がかかりましたが。

 それで止めとけば良かったのですが、「じゃあ、どうせなら問題を作ってみようか……」と出来心をもったのが間違い。試行錯誤の末、やっと一年掛かりでできあがりました。自分だけの楽しみにしておけば良かったのですが、最近になって一回り以上高齢の恩人の電話で『ボケ防止のために、数独に熱中している』との話があり、『それでは問題をお送りしましょう。本を買うのはもったいないし……』と、仏心(自慢心)をもったのが、2つ目の間違い。印刷しなくてはならないし、問題の形もきれいにしたいし、できれば美しい順序にしたいし……、結構完成 されたものができました。
その手順は、
  @まず解答(縦横、小枠(3x3)で重複しないように)テーブルを作る。
  Aどのような形に作るか型枠を作り、@のデータから抜きとって問題を作る。(点対称が一般的)
  Bそれを解析プログラムにかける。初級や中級問題は仮入力や2選択がないので簡単にできますが、
   上級問題は複数解が出てくる(初めはそれが分からなかった)問題があるので、その問題を除く。

 コンピュターがなかったらとてもできません!!!しかし、苦難(欲望)はこれで終わりませんでした。途中であきらめていた『いかに表示数字個数を少なくするか』という命題にいどんでいます。当初は、解答の過程で出来たテーブル(約20万個)をファイルに保存して、それを読み込んで問題を作っていましたが、表示個数が少なくなるとテーブルが足らなくなって問題を作ることができません。

 再挑戦の初めに、お馬鹿な工事屋の灰色の細胞の能力の範囲での理論最大値1,679,616個(6の8乗)のテーブルを作るソフトを作り、挑戦。23個まで達成。ところが、超お馬鹿な数学者2人の説では54億7273万0538個になるそうで(ウィキペディア)、後は理論無しのパソコンの力まかせで4時間12分かかって600億5233万9110個のテーブルを作るソフトを作りました。重複や誤謬(正解率90%以上)があって理論の10倍以上ですが、少なくともこれで全てをカバーしていると善意に判断して、17個(理論上の最少表示個数)を目指しています。退役したパソコン(XP)が隣の部屋でただ ひたすら戦っています。ちなみに、1日の解析能力は600〜1000万個で、単純計算すると全てチェックするのに6000日かかることになります。尚、解答は問題を入力しKEYを押すと瞬時にでてきます。

 数独   (wikipediaより抜粋)
 数独の初期配置の最少個数は、17個である。2012年1月6日、アイルランドの数学者ゲイリー・マクガイア(英語版)は「数独においてヒントが16個以下のものは解法を持ちえない」ということを証明した。証明にあたっては「ヒッティング・セット・アルゴリズム[5]」を用いて単純化し、2年間で700万CPU時間をかけ、答えにたどり着いた[6]。 以前は、問題として成立する初期配置の数字の最少個数は結論が出ていなかったが、点対称の問題では18個(初出・パズル通信ニコリ31号、1990年)、線対称(対角線)・非対称の物では17個(後者の初出・パズラ ー187号、1997年)のものが確認されていた。 また、どの初期配置の数字もそれが無かったら唯一解でなくなる問題の初期配置の数字の最多個数は、今のところ35個のものが確認されている[7]。
 なお、複数の解が存在する初期配置の数字の最多個数は77個である[8]。
 前記のウェイン・グールドがタイムズ紙に問題を提供していた例のように、コンピュータを用いて数独の問題を解答したり作成したりすることも広く行われている。日本でも、インフォレストが2004年1月から(外注のプログラマが作成した)プログラムで生成された問題を誌面に掲載しているなど、コンピュータによって作成された問題が商業誌に使用されるも例も多い。
 ルールの単純さから多くの解答プログラムが作られており、フリーウェアとして公開されているものも多い。多くのプログラムは9×9の標準の形式の解答しかできないが、大きいサイズの問題や対角線の条件が加わったものなども解けるプログラムもある。
 問題作成プログラムは、解の存在をチェックするために解答プログラムを内包することになるため、解答プログラムよりも数は少ない。コンピューターで問題を作成する利点としては、短時間で多くの問題が作れることや、「盤面に17個しかない」などのより限定された条件の問題を作ることができることがあげられる。
 ただし、コンピュータで面白い問題が作れるかどうかは別の話である。パズル通信ニコリの編集部及び読者や、西尾徹也のように日本で専門の雑誌が刊行されるよりも前から数独を作っている作家の中には、「コンピュータ作成の問題より人間が手で作った問題の方が解いて面白い」という意見が存在している。
 数独の組み合わせパターン数は、回転や反射や順列や名前を変更することなどの左右対称を考慮に入れると、54億7273万0538になるとエド・ラッセルとフレーザージャービスによって示されている。

 その後、22、21までは順調に問題を作り出してくれましたが、20になった途端、急に難しくなって12日目にやっと問題を見つけ出してくれました。表示個数27(標準−1/3の表示個数)の問題作成では1分間で100個以上作成してくれます。
 これは大変なことになると思い、型枠を作るソフトをつくり、理論無しで兵力を増員(1000型枠)して表示個数19の問題作りに取り組んでいましたが、その分処理能力が落ち(100万テーブル/日)、退役パソコンが5月の連休前から1か月以上昼夜休まず老骨にムチ打って計算を続けていましたが、とうとうカタカタという悲鳴を上げ始め、このまま続けていくと火を噴く恐れも出てきたので、大本営は撤退やむなしの判断を致しました。促成兵士1000名は約4000万(理論の150分の一)の荒野(テーブル)で戦いましたが、一つの問題も見つけ出 すこともできず、今後増々難しくなる18、17(理論最低個数)方面に作戦展開するのは国力から言って不可能と判断せざるを得ません。娘のパソコンが退役したら再び挑戦するつもりですが、とりあえず敗北宣言です。
 一番の敗因は、力任せに質の悪い兵士を養成したのせいかもしれませんが、もしかすると根本的な解法ソフトに問題があるかもしれません。下宿時代からの友人(数学者・関数論)に話したら、『最近の数学と同じで、命題を決めたら、あとはコンピューターの力任せで解決するのは理論ではない』とニベもない回答。物置の退役パソコンに最後の活躍の場を与えてあげたいという願いもむなしく、八方ふさがりです。

 ちなみにルールはいたって簡単で、81の桝目の空いているところに、縦、横、小枠(3x3)で重複しないように(対角線は重複可)1〜9の数字を入れるというだけです。もし興味のおありの方は文末に問題(全1200問)を置いてありますのでダウンロードして挑戦してみてください(それ以上はMailでご注文下さい)。尚、初級はif構文1万回程度、上級は仮入力や2選択があり3万回以上の判断が必要になります(あくまでパソコンの上での)。また表示個数20個の問題(下載)はif通過回数は21,325回で、作るのに時間がかか ったわりにたよりない問題でした。必ずしも個数が少なくなると解答が難しくなる訳ではありません。

数独問題ダウンロード(pdf版 各300題)

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中城 正堯(30回) 2015.05.28龍馬最後の帰郷と種崎潜伏


筆者近影
 慶応三年(一八六七)九月、坂本龍馬が最後の帰郷をした際に高知市種崎に潜伏したことは、昭和七年三里尋常高等小学校刊の『村のことども』で紹介されているが、郷土の記録を綿密に掘り起こしたのは山田一郎であった。本稿ではその成果を活用しつつ、高知市民図書館「中城文庫」に収録された中城直守・直楯親子の原史料を極力提示し、龍馬の種崎での行動の意義とその時代的背景を明らかにしたい。ここに示した「龍馬役者絵」は、明治二○年に高知座で初めて上演された「坂本龍馬一代記」の役者絵である。なお、文中で古文書引用の際には、読み下し文に直してある。

車輪船沖遠く来たり

「龍馬役者絵」藤原信一画 明治二○年
 坂本龍馬の乗った芸州藩震天丸が慶応三年九月二三日、種崎沖に現われたのをいち早く発見したのは、中城直守(助蔵)であった。彼は文政十年(一八二七)以来、『随筆』と題する筆録を死の前年明治十年まで五十年にわたって書き続けてきた。その慶応三年の項に、「九月二十五日早朝、車輪船沖遠く来たり。而して碇を下ろす。午時(正午)に袙渡合に入る。而して碇泊。芸州船の由」とある。
 直守は四年前の文久三年に、御軍艦奉行の旧格切り替えによる江戸雇いの車輪船乗員と旧来の御船手方のあまりの待遇格差に反発、種崎の松原に同志を糾合、先頭に立って連判状をつくり、反対運動を展開した。このために格禄を召上げられたが、慶応元年に長男・直楯による大廻御船頭継承が許された。隠居ながら、早朝には沖(太平洋)を見に家を出る習慣だったようで、舷側の車輪を回して走る蒸気船を発見したのだ。船が港外にいったん投錨後、浦戸湾に入って種崎の対岸にある御畳瀬の袙に碇泊するまでを見届けている。山田一郎は当日の月齢を調べ、港外で投錨したのは満潮を待つためであり、二五日としてある震天丸の来航は実は二三日であったと『坂本龍馬―隠された肖像―』で述べている。なお大廻御船頭とは、土佐から江戸へ直行する五百石ほどの帆走藩船の船長格であり、大坂までの小廻御船頭と区別していた。ともに下級武士・下士である。
 直守の『随筆』には、震天丸発見当時の様子に続けて、「才谷梅次郎・中島作太郎・小沢庄次等三人、使者の趣をもって上陸、夜に入り梅次郎(空白)二人吸江の亭に行く、渡辺弥久馬と対談あるの由なるを、弥久馬故ありて来ず、金子平十郎来たれる由也、すこぶる皇国に関係するところの大儀なる趣のよし、梅次郎は実は坂本龍馬なり。今この人、皇国周旋の事件に付きすこぶる名誉ありて海内の英雄ととなう」とある。『随筆』には数日間の出来事をいちいち日を追わずに記載してあり、この部分も龍馬たちの入港当日の動きだけではない。文中人物の中島は海援隊士、小沢は三条実美の家臣・戸田雅楽、渡辺は土佐藩仕置役、金子は山内容堂側用役であった。
 最も注目すべきは、「皇国周旋の事件」に触れていることだ。これは、慶応三年六月に「夕顔」船上で龍馬が後藤象二郎に説いてまとめ、長岡謙吉に執筆させた大政奉還の建議で、後に「船中八策」と呼ばれる。後藤はこれを山内容堂に示し、同意を得た上で九月一日から京に上っていた。「土佐藩政録」には、「九月、山内豊信(藩主)天下の形勢日にせまるを見て、後藤象二郎をして上京せしめ、書を幕府に上り、土地兵馬の大権を朝廷に奉還し、王政を復古し、ひろく衆議を採り、富国強兵の鴻基(天皇の大事業の基礎)を建て、万国と信義を以て交際を結ばんことを請う」とある。九月に入り、薩長は大政奉還を幕府が拒んだ場合にそなえて兵を上京させ、武力蜂起の準備をしていた。土佐藩にも建白書提出にとどまらず、武装強化・兵員上京という武力行使の準備を促すための帰国であった。

才谷は色黒、満面よみあざ
 直守は全く触れていないが、龍馬が帰郷したこの日、中城家には龍馬から震天丸に迎えに来て欲しいとの知らせが届いたようで、直楯は小舟をこぎ寄せ、密かに龍馬一行を中城家に案内していた。その記録は、直楯の長男・中城直正(初代高知県立図書館長)が、残した『随聞随録』(明治四○年筆記)にある。母・早苗からの聞書である。
「坂本龍馬 才谷梅太郎。母二二の時、直正出生の前年来宅(母妊娠五ヶ月の時)、一絃琴を玩べり。坂本は権平の弟にして郷士御用人、本丁に住す。才谷は色黒、満面よみあざ(そばかす)あり。惣髪にて駐重紋付羽織袴。[白き絽なる縞の小倉袴]梨地大小(打刀と脇差)、髪うすく、柔和の姿なり」。続いて小沢・中島などの姿・容貌にも触れ、「氏神神事の日(旧九月二三日)に来宅。旧浴室にて入浴。いずれも言語少なし」とある。
「当時坂本は小銃を芸州藩の船に積込み、佐々木(高行)に面会のために土佐へ来たれり。本船は(袙にある)袂石のところに着く。父上(直楯)、その朝召に応じて出で行かれしが、能勢作太郎(後・楠左衛門、平田為七の甥)と共に一行を案内して薮の方より宅に導きしなり」。
 これが聞き書きの前半である。氏神とあるのは、仁井田神社(高知市仁井田)であり、神事とはその秋祭りの日であった。「その朝召に応じて」とあるが、だれから呼ばれたのかは記載がない。おそらく、才谷(坂本)からと記した依頼状が届いたのであろう。では、なぜ直楯が呼ばれ、またすぐ迎えに向かったのだろう。それは安政地震まで中城家の六、七軒東にあった御船倉御用商人・川島家と、坂本家との繋がりによると山田一郎は述べている。
 この三家(坂本・川島・中城)の当主は和歌で結ばれており、川島に残る『六百番歌合』には、種崎の歌人として知られる杉本清陰・川島春麿(春満・通称猪三郎)、そして中城直守とともに、龍馬の父・坂本直足(郷士)の名が記されている。坂本家と川島家は歌で結ばれていただけでなく、妻を亡くした八平の後添いに、やはり川島家に嫁入りしたが未亡人になっていた北代伊与が迎えられた。龍馬十二歳の時である。「故に龍馬は幼時その姉(おとめ)とともに、たびたび川島家に遊びたり」と、『村のことども』で川島家の親戚・木岡一は語っている。直楯は龍馬より六歳下であるが、川島家の子どもたちとともに、龍馬に遊んでもらった仲と思われる。
 今回の龍馬帰郷は、後藤象二郎の斡旋で二月に脱藩罪が許され、四月には土佐海援隊長に任命された後とはいえ、藩内には反勤王・反後藤の根強い勢力もあった。ライフル銃千挺を運んで、幕府が大政奉還に応じない場合は土佐藩に決起するよう奮起をうながすのは、危険な交渉であった。しかも同志・後藤は京におり、まずは城下から離れた種崎に潜伏、使いを出して打診せざるを得なかった。本来なら身を隠すには川島家に頼るところだが、安政元年の大地震で種崎は津波の被害を受け、川島家は安全な仁井田へ移転していた。そこで、幼なじみの直楯を頼ったのであろう。この時、直楯は二五歳、前年に村内の医師・浜田井作(収吾)の娘・早苗と結婚したばかりであった。井作は直守の実弟だが浜田に婿養子で迎えられた身で、直楯・早苗はいとこ同士の結婚であった。

土藩論を奮起せしめんと帰国

 直楯は龍馬たちを乗せた小舟を種崎の〈中の桟橋〉に着けると、裏の竹やぶの方から中城家に案内した(地図参照)。中の桟橋は、仁井田から桂浜に向かって浦戸湾口に突き出た砂嘴・種崎の中ほど浦戸湾側にあり、安政地震まではすぐ側に川島家の屋敷があった。龍馬にとってはおなじみの土地だ。桟橋からの道はやがて大道りと交差、左折してしばらく行くと左側に中城家の表門がある。しかし、この日は仁井田神社の秋祭りで表通りは人の行き来が多いため、浦戸湾沿いの裏通りを進み、竹やぶの小道を抜けて中城家の離れに案内している。この竹やぶは、筆者の少年時代まであったが、藩政時代に仁井田浦の土佐藩御船倉と種崎の民家をさえぎるために植えられたと聞いていた。では、『随聞随録』にもどろう。
「父上先に入り、坂本、中島が、まだ湯は沸いておるかと云いしに、皆入浴せし後なりしが再び沸かせり。坂本は、(当時、時勢切迫の時期を気遣い)土藩論を奮起せしめんとて帰国せしなり。祖父(直守)に叔父(直顕)のブッサキ羽織を着せたり。 宴会の席にて御歩行・松原長次、しきりにしゃべりおりたり。一同茶の間にて食事、小沢は自ら井戸をくむ。中島は津野へ、坂本は小島へ寄り、舟へ帰るとて宅を出たり。小沢の宿は紺屋広次方なり。浜田祖父(医師・早苗の父)診察す。
 二、三日間、母は湯の加減等をなせり。坂本氏より鏡をもらいしと云う。坂本は入浴後、裏の部屋に休息 [雑踏を避けしなるべし]、襖の張付けを見居りたり。母火鉢をもち行しに〈誠に図らずも御世話になります〉といえり」。
 この聞書からは、当初言葉も少なかった一行が、入浴後の食事の席では、幾分くつろぐ様子がうかがえる。ただ饒舌な松原に対し、寡黙だった龍馬の姿には内に秘めた決意の重さが感じられる。山田一郎は、「早苗はこの年二二歳で、妊娠五ヶ月、直正をみごもっていたが、その記憶力はすばらしい。彼女は龍馬をはじめ全員の風貌、服装まで鮮やかに再現して語っている。特に龍馬の言葉やものごしまで、これほどリアルに伝えている文章を読んだことがない」と観察眼を評価している。早苗にとって、天下の国事に奔走する龍馬の姿には、強く惹かれるものが感じられたのであろう。 直楯は、神事(神祭)で来客の多い表座敷は避け、裏の離れに案内している。

龍馬が潜伏した中城家離れの座敷 筆者撮影
この離れは今に残っている(写真参照)。龍馬が見た浮世絵を張付けた襖二枚も、昭和末まで使ってきたが高知市民図書館に寄贈、「中城文庫」に納まっている。浮世絵は、江戸後期の人気絵師であった国貞(豊国三代)や国芳の美しい源氏絵(三枚続)が中心であり、直守や直楯の江戸土産であった。龍馬が浮世絵好きであったことは、明治二九年刊『坂本龍馬』(弘松宣枝著)や昭和十二年刊『土佐を語る』(重松実男編著)でも述べられている。母・早苗がもらった鏡は失われたが、同じ鏡の図が『村のことども』にある。直経六a弱の円形で、裏面は月桂樹の小枝の中央にPARISの文字を刻んである。フランスからの輸入品であろう。
 中城家では表座敷を避けただけでなく、かなり用心した様子が、直守にブッサキ羽織を着せたことで読み取れる。打裂羽織とは、帯刀に便利なように背縫いの下半分を縫い合わせていない武士の羽織である。「時勢切迫・土藩論を奮起」の文面には、大政奉還建議をひかえ、武装蜂起の決断がいまだ出来ない土佐藩への、龍馬の苛立ちが読み取れる。 聞書に「坂本は小島へ寄り、舟へ帰るとて宅を出たり」とある。当時、中の桟橋の川島家屋敷跡に住んでいた小島家の様子は『村のことども』にあり、九歳だった木岡一の談話として記されている。「外祖父・土居楠五郎氏(日根野氏門における龍馬の兄弟子)とともに、種崎神祭小島氏宅へ行きしに夕刻突然龍馬来たりしなり、・・・その夜土居氏との対面実に劇的シーンなりしも、少年一は偉丈夫なんぞ涙するや、と思いしという。・・・少年一がギヤマンの鏡を土産としてもらいしは、この夜なり」。
 当時の小島家当主・亀次郎は山内容堂の秘書役をしており、妻の千蘇は川島家の出、嫡男・玄吉の妻・田鶴もまた川島家から迎えていた。田鶴は、幼い頃から龍馬を慕っていたとされるが、この時は結婚して二年目、まだ十九歳であった。二人の再会の様子は伝わっていない。また、亀次郎の妹・直は、医師・今井幸純と結婚、その子が龍馬の秘書役を務めた海援隊士・長岡謙吉(今井純正)であった。(小島家については、田鶴の曾孫・小島八千代さんから平成十四年にいただいた「小島家系図」による。)

湯かげんや小舟こぎで支えた夫妻

龍馬潜伏を助けた中城直楯・早苗夫妻 
 龍馬は種崎に潜伏し、土佐藩との交渉を進める。九月二四日に潜伏先から仕置役・渡辺弥久馬(後の斎藤利行)に出した手紙が残っている。「・・・手銃一千挺、芸州蒸汽船に積込み候て、浦戸の相廻し申し候。参りがけ下関に立ち寄り申し候所、京師の急報これあり候所、中々さしせまり候勢い、一変動これあり候も、今月末より来月初めのよう相聞こえ申し候、二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、その節長洲人数も上坂(是も三大隊ばかりとも存ぜられ候)との約定相成り申し候。小弟、下関に居の日、薩・大久保一蔵、長に使者に来たり、同国の蒸汽船を以て本国に帰り申し候。御国(土佐)の勢いはいかに御座候や、また後藤参政はいかが候や、(京師の周旋駆馳、下関にてうけたまわり、実に苦心に御座候)。乾氏(板垣退助)はいかがに候や、早々拝顔の上、万情申し述べたく一刻を争いて急報奉り候。謹言 坂本龍馬 渡辺先生」。(『坂本龍馬関係文書』)
 こうして龍馬は種崎から小舟で使者を出し、土佐藩の首脳と交渉、数度にわたる会見の末、ついに二七日の土佐藩評定によって、大政奉還の確認と武力討伐に備えてのライフル銃千挺の買い上げが決定した。『随聞随録』に、「二、三日間、母は湯の加減等をなせり」とあり、中城家には二、三回来たようだ。土佐藩との交渉は初めは吸江(五台山)や松の鼻(常盤町)の茶店で隠密に行われたが、やがて城下の役宅に席を移す。この間、袙の震天丸・種崎の中城家・吸江や松の鼻、さらに高知城下の土佐藩役宅を結ぶのは、浦戸湾と江の口川・鏡川などの河川であり、御船頭の中城直楯とその配下が小舟をあやつり、上げ潮・引き潮の流れを読みながら、巧にこぎ渡ったと思われる。 龍馬は念願の交渉をまとめ、本町の坂本家にも帰って家族と再会したが、十月一日には慌ただしく震天丸で大坂をめざして浦戸を出港する。中城直守の『随筆』には、「朔日朝、右艦(震天丸)浦戸を出つ」とあり、種崎の浜では、中城直守たちが見送ったことであろう。荒天のなか室戸沖まで進んだが、荒れ狂う波浪に翻弄されて船体を破損、いったん須崎に避難、五日土佐藩差し回しの蒸汽船胡蝶で再度出港する。
 龍馬は十月九日に京都に到着、その四日後の十三日に徳川慶喜が二条城で大政奉還を表明する。この日、建白書受諾の知らせが届く以前に龍馬が後藤象二郎に出した手紙には、「建白の儀、万一行われざれば、もとより必死の御覚悟ゆえ、(先生が二条城から)御下城無の時は、海援隊一手を以て、大樹(将軍が御所へ)参内の道路に待ち受け、社稷(国家)のため不(倶)載天の讐を報じ、事の正否に論なく先生に地下に御面会仕り候」とある。建白書が受諾されない場合は、「後藤は二条城で切腹するだろうから、自分は海援隊を率いて御所参内の将軍に報復、あの世で会おう」と、決死の覚悟を記したものだ。
 ところが大政奉還受諾のこの日、朝廷は薩長に倒幕の密勅を下す。徳川慶喜の決断に感激したとされる龍馬は、密勅など知らぬまま十一月二日には福井に三岡八郎(由利公正)をたずね、国の財政策を授かる。新政府の実現に懸命に働くが、十五日に京都近江屋で中岡慎太郎と面談中、刺客に襲われ横死する。 中城直守には十一月末に知らせが届く。『随筆』に「坂本龍馬、先だって御国に来たり。密かに周旋の意趣あり候後、京師に登り旅宿に居るある夜、国元より書状来たれりとて旅宿をたたく者あり。この宿の召使いの者、出てすなわち書状を受取り来たり龍馬に渡す。龍馬何心もなく披見するところに、外より忽然として五、六人入り来たるや否や抜打ちに一同無二無三に切付ける。無刀にてあしらう内、深手処々に負いて死す。・・・この来る者は関東よりの業にして、さるべき壮勇の浪士を雇いてかく切害せしとも、いずれ確かならず。今、海内に名を轟かし、殊に御国のため力を尽くせし龍馬なる者を、ああ惜しむべし惜しむべし。なお詳しき事聞きたし」と記し、慨嘆している。 直楯の『随筆』には、吉村虎太郎たち天誅組の大和での壊滅、武市半平太の獄死などについては、無念の思いは秘めて淡々と記録してあるが、龍馬殺害の知らせにだけは、「ああ惜しむべし惜しむべし」と、心情を率直に吐露している。

大政奉還へ!龍馬奮戦の足跡
 龍馬最後の帰郷は、大政奉還による近代日本誕生への最後の布石のためであった。幕府への土佐藩からの建白書提出には、拒否されないよう薩長とともに武装蜂起も辞さない軍事態勢の誇示も必要だった。これは単なる土佐藩びいきの提案ではなく、薩長のみでの倒幕への暴走を防ぎ、王政復古をとなえつつ、平和裏に近代国家建設を成し遂げるための妙案でもあった。
「日本を今一度せんたくいたし申し候・・・」(文久三年)と考えた龍馬が、その最後の施策として、土佐藩による大政奉還を迫った舞台が、少年時代から慣れ親しんだ浦戸湾であり、種崎であった。その現状を簡単に報告して稿を終えたい。
 種崎の太平洋に面した海岸は、今に松林が広がり千松公園となっているが、黒船に備えて造られた台場(砲台)のあとは砂に埋もれて消えた。龍馬の乗った震天丸が通った湾口には、浦戸大橋がかかり、桂浜と結ばれている。種崎の先端は、昭和四一年からの航路拡張工事で切り取られ、御畳瀬の名勝・狭島も除去された。しかし、震天丸が碇泊した袙の海岸は幕末の風情を今にとどめており、袂石も健在である。
 袂石から龍馬たちが小舟で渡って上陸した中の桟橋は、昭和三十年代からの自動車の発達によって役割を終え、地名のみ残った。龍馬が歩いた湾岸の景観も、中洲の埋め立て、竹やぶ・桃畑・空き地の宅地化などによって、すっかり変貌した。わずかに龍馬が潜伏した中城家の離れのみは、老朽化したが残っており、平成二二年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』でも、「龍馬伝紀行」の中で紹介された。龍馬がその志の実現に向けて、決死の行動をとった土佐での最後の舞台であり、三里史談会有志の協力もいただいて保存に努めている。
 龍馬潜伏にかかわった中城直楯は、その後陸軍築城掛となり、和歌を楽しみつつ東京・広島・新潟などで勤務し、明治二二年陸軍歩兵大尉で退任、明治二七年に種崎に帰郷する。長男直正に母・早苗が龍馬潜伏の状況を語ったのは同四○年、写真はその頃の夫妻である。

主要参考文献
 『中城文庫 目録・索引編』『中城文庫 図版・解説編』高知市教育委員会 二○○二、二○○三年刊
 『村のことども』三里尋常高等小学校編・発行 一九三二年刊
 『坂本龍馬関係文書一、二』北泉社 一九九六年刊
 『坂本龍馬―隠された肖像―』山田一郎著 新潮社 一九八七年刊
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ゲーテと旅する7つの都市
渡辺真弓著 『イタリア建築紀行』のオススメ
藤宗 俊一(42回) 2015.05.24


ゲーテと旅する7つの都市 『イタリア建築紀行』 四六版448頁
 40年近く前の1976年度イタリア政府給費留学生の仲間だった渡辺真弓さん(工学博士。東京造形大名誉教授)の最新作です。今回はちょっと力を抜いて、18世紀末のドイツの文豪ゲーテの作品『イタリア紀行』を参考に、『あまり専門的に片寄らず、できるかぎり人間的にイタリアの都市の面白さを語る(序章)』気持ちになったのは、昨年長く続いた学究的な生活から離れ、ダンナの運転でシチリアの都市を巡り、イタリア旅行を楽しんできた(きっと、罪滅ぼし!)結果とも言えなくもなさそうです。 それが証拠に平凡社などという大衆出版社から発刊しているし、値段も2,600円(税別)と学術書に比べて格安です。きっと、多くの読者に手にとってもらい、イタリアの都市の良さを知ってもらいたいからではなかろうかと思っています。

 本を紹介する前に彼女のひととなりを私の知っているかぎりで紹介します。彼女はチャキチャキの東京っ子で、大学の一学年上のマドンナ(当時は女子学生は学年で100名足らずしかおらず、工学部では数える程、しかも美人であった。)であり、卒業してそのまま建築史の研究室に残り、イタリアに行ったのは博士課程の最中でした。語学も堪能で4ケ国語を理解し(多分その後増えたと思う)、性格はきつく、生真面目で、田舎出の青年にとってはちょっと近寄り難いオネエさんでした。 モチロン彼女もイモ兄ちゃんの思惑などを歯牙にもかけていなかったことは確かです。
 イタリアでは給費留学生仲間(建築、彫刻、音楽、演劇、文学、歴史、法律、化学、数学等)の結束が強く(多分同じ飛行機(アリタリア南回り20時間の旅)で送られ、外務省への挨拶と手続きのためローマで同じ宿(元修道院)に押しこめられたため)、各地に別れた後も、お互いの街を訪れては専門的な知識をもとに案内しあうようになり、今でもつきあいが続いています。 彼女は、パドヴァ大学でパラーディオを、私はフィレンツェ大学で城壁都市(私の場合はイタリアに行くための便宜的テーマ)を学び、むこうで何度か会いました。

38年前の著者と筆者(VICENZA)
パラーディオ研究センターの前で
最後になって二人とも国策のドロボー被害に会い(彼女はローマ、私はミラノ)、『イタリア人の顔を2度と見たくない!』と言っていましたが、結局あれはイタリアに慣れ、慢心していたことへの神の思し召しだと解釈できるようになって、二人ともイタリア大好き人間です。 帰国してからも彼女はパラーディオ研究を続け、造形大の講師になり、助教授、教授とすすみ、最後は日本のパラーディオ研究の第一人者と言われるまでになりました。また、帰ってから暫くして、小学校時代の同級生(建築家)と結婚し、家が事務所の近く(渋谷)にあったので何度か訪ねたり、街中で買い物途中や保育園への送り迎えの途中に出会ったりして、親交が続きました。


パラーディオの肖像画
 ところで、皆さんパラーディオってご存知ですか。パラーディオは16世紀後半のイタリアヴェネト地方の建築家で、ローマで活躍したヴィニョーラ等と共に、美術史の上ではルネサンスとバロックの間にあるマニエリズムの建築家に位置づけられています。マニエリズムは技法主義、模倣主義と訳されることもあり、あまり良い印象を与えてくれませんが、ある大きな潮流と次の潮流の間に必ず起きる現象で、それに反発しながらも、偉大な先人の技法(マニエラ)をしっかり習得し、自分流に解釈し表現する芸術活動で新しい潮流の萌芽ともいえます。

パラーディオの代表作の ラ・ロトンダ
Villa Almerico (la Rotonda)(Vicenza)1566
 イタリア北部の辺鄙な田舎町(ヴィチェンツァ)の石工の彼が、世界に認知されたのは18世紀になってからで、この地方を旅行した人たちの目にとまり(他に比べるものがないので)、建築様式上未開のイギリスやアメリカに紹介され、『パラディアン・スタイル』としてもてはやされました。多くの邸宅建築に取り入れられ、セント・ピーター寺院(ロンドン)やホワイトハウス(ワシントン)などもパラディアン・モチーフを用いて建設されています。 ルネサンス自体、ギリシア・ローマの古典主義のマニエラを用いて達成されたことを考えると人間はたいして進歩していないのではないかと思ったりします。パラーディオについては、本文中に第一人者によって詳しく解説されていますので是非お読みください。 パラーディオの作品


ポストモダンの建物
AT & T Building (56thNewYork)1984
Philip Johnson and John Burgee
 そのパラーディオに彼女が興味を抱いたのは、多分、丁度私たちがイタリアへ行った40年前頃、ポストモダンといった言葉が流行っていたことによると思います。それまでの、コルビジェ、サーリネン、ミース・ファンデル・ローエ、丹下健三等の建築家たちが合理主義、機能主義、構造主義などのお題目を唱えながら、コンクリートと鉄とガラスでできたシンプルで無駄のない、使いやすい建物(『レス イズ モア(少ないことはすてきなこと)』)を計画していったモダニズムへの反動の狼煙が上がっていました。ロバート・ヴェンチューリはそ の著作『建築の多様性と対立性』(1966)においてポストモダニズムの理論を展開し、ミースの言葉を皮肉る『レス イズ ボア(少ないことはつまんない)』の言葉を掲げ、 歴史主義的なデザイン、土着的なデザイン、象徴的なデザイン、装飾的なデザインなど建物の表情の多様性を唱え、日本では建築家の黒川紀章や磯崎新などがもてはやされていて、建築を志したばかりの私たちにも大きな影響を与え、マニエリズムという言葉も随分一般 的に使われていました。その本家本元のマニエリストに歴史家として興味を抱いたとしても当然といえば当然のことだったのでしょう。

 前置きが随分長くなりましたので、本の紹介は手抜きをして、以下に目次をコピーしました。
をクリックすると役所工事のサイト(画像中心)にジャンプします。
序 章 君知るや南の国
    ゲーテと旅を  ゲーテの生い立ち  『ヴェルテル』の作家
    ヴァイマールのゲーテ  イタリアヘ
ヴィチェンツァ 第一章 ヴィチェンツァ 建築家パラーディオを育てた都市
    北緯50度から45度への旅  アレーナ・ディ・ヴェローナ
    ヴェローナ今昔  都市と丘陵地帯  ヴィチェンツァとパラーディオ
    ヴィチェンツァの都市建築  バジリカ・パラディアーナ  ラ・ロトンダ
    ミニョンの歌とラ・ロトンダ  テアトロ・オリンピコ  ニ人のスカモッツィ
    ヴィチェンツァの作家  ヴィチェンツァのイメージ
パドヴァ 第二章 パドヴァ 聖人も祀る豊かな北の大学都市
    パドヴァの都市形成  中世の町おこし  パドヴァの聖アントニオ  サントの舌
    解剖学教室と植物園  ポルティコのある町  プラート・デッラ・ヴァッレ
    カフェ・ペドロッキ  ニ十世紀のパドヴァ  中心部の三つの広場  ゲーテとパドヴァ
ヴェネツィア 第三章 ヴェネツィア 海に浮かぶ国際文化都市
    ブレンタ河の舵旅  ヴィラ・フォスカリ  海の都ヴェネツィア
    ヴェネツィァの表玄関  迷路と水辺の道  大運河と橋  ヴェネツィァ観察
    ポンテ.デッレ・テッテを探して  ヴェネッィァのパラーディオ  慈善と隔離の思想
    アルセナーレとゲットー  ヴェネツィァ演劇事情  街中が劇場
    美術品の居場所  大運河沿いのパラッツォ  生き続けるヴェネツィア
アッシージ 第四章 アッシージ 自然に囲まれた聖なる都市
    フェッラーラとボローニャ  アペニン山中の旅  丘上都市アッシージ
    フランチェスコの足跡  聖フランチェスコゆかりの場所
    ミネルヴァ神殿  一路ローマヘ
ローマ 第五章 ローマ 歴史の重層する世界の首都
    コルソ通りの住人  古代ローマの残照, ローマ建築の特徴
    アウグストゥス時代の建築  コロッセウム前後  建築皇帝ハドリアヌス
    混乱の時代の大建築  初期キリスト教のバジリカ  中世という休止期
    教皇に仕えた芸術家たち  グロテスク装飾  都市改造計画
    バロック都市ローマ  ローマの地形  永遠の都ローマ
ナポリ 第六章 ナポリ 陰翳深い南国の都市
    ローマからナポリヘ  ナポリの成り立ち  中世のナポリ
    スペイン支配時代  カルロ・ディ・ボルボーネの時代
    国際的文化都市ナポリ  レディー・ハミルトン
    十九世紀のナポリ  明暗のナポリ
パレルモ 第七章 パレルモ 文明の交差した異国情緒の都市
    ナポリからシチリアヘ  パレルモ略史 -アラブ・ノルマン建築
    楽園のイメージ  バロックの都市改造  奇怪さへの傾倒
    十九世紀以降のパレルモ  パレルモにも来たスカルパ  シチリアの中のギリシア
    穀倉地帯と丘上都市  東海岸の都市と火山  シチリアの地震
終 章 旅の余韻
    その後のゲーテ  旅することの意味
 あとがき
 主要参考文献/図版クレジット

 以上の目次からも分かるように、7つの都市の紹介と序章と終章で成り立っています。内容は古代から現代まで多岐にわたり、彼女の専門分野のみならずその造詣の深さに驚かされます。またふんだんに研究資料として集めた図版を用い、その都市の形態や成り立ちを女性ならではの優しい語り口でひも解いてくれます。同時に『ゲーテほどのすぐれた鑑識眼を備えた人物であっても、時代の影響から自由であったわけではない(第4章)』というような、歴史家ならではの文明批評にドキッとさせられることが屡々あります。とにかく素晴らしい本です。
 ただ、残念なことは、私が第二の故郷と思っているフィレンツェについて、ゲーテが『イタリア紀行』で触れていない(行きはローマに急ぐあまり3時間しか滞在しなかったが、帰りは10日間以上滞在している)のを良いことに、彼女もたった3時間分くらいしか言及していないことです。多分、フィレンツェについて書き始めたらもう1冊以上書かなければ収拾がつかなかっただろうと善意に解釈しています。
 よく、ヨーロッパの街角で分厚い観光案内書を片手に右往左往している外国人旅行者の姿を見かけますが(悲しいことに日本には『地球の歩き方』程度の低俗な案内書しかない!)、是非、イタリア旅行の際はこの本を片手にその都市を味わって来てください。ただ、一度に7つの都市を巡るのは難しいと思いますので、2冊買って、1冊はカッターでバラバラにして該当する都市の部分だけ持って行くようにすれば、彼女も2冊分の印税が入り、喜ぶと思います。

 最後は、彼女の真似をして、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の中の詩『ミニヨンの歌(Lieder Mignons/森鴎外訳)』で終わります。

 君知るや南の国
 レモンの木は花咲き くらき林の中に
 こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
 青き晴れたる空より しづやかに風吹き
 ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
 雲にそびえて立てる国や 彼方へ
 君とともに ゆかまし
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中城 正堯(30回) 2015.05.21身辺整理に専念します

皆様へ

筆者近影
 今朝8時過ぎにテレ朝を付けたら、堀内稔久弁護士(KPC会員・32回生)の顔が映っていてビックリしました。先月バイクに乗っていて事故死した萩原流行さんの死因に関し、警察対応に不信の念を抱いた奥様と、真相究明にあたっているそうです。
 萩原さんは、昨年亡くなった竹邑類さん(35回生)が若き日に立ち上げた劇団ザ・スーパー・カムパ二イの看板俳優で、招待いただいてよく舞台を楽しみました。
 竹邑さんは、ミュージカルなど舞台芸術の改革者でしたが、昨年『呵呵大将 我が友、三島由紀夫』を置き土産に、旅立ちました。才能あふれる芸術家であり、自由人でした。
 堀内弁護士はじめ、みなさまの活躍を願っています。

 先月の総会は、滋賀県立近代美術館での講演と重なり失礼しました。体力が衰え、浮世絵関連のおしゃべりも今月末の「東洋思想・・・」研究会での発表を最後に辞め、お迎えに備えての身辺整理に専念します。今日が七十代最後の誕生日です。
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 2015.05.20向陽プレスクラブ2015年度総会議事録
議長 岡林敏眞会長  書記 水田 幹久

1.日時 4月25日(土)  17:00〜17:30
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 岡林敏眞(32回) 濱崎洸一(32回) 吉川順三(34回) 岡林哲夫(40回)
      藤宗俊一(42回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回) 
    
4.岡林哲夫幹事長が、開会時出席者7名、委任26名であり、会員44名中33名参加で総会は成立と報告。
5.岡林敏眞会長が開会の挨拶、本総会の議長を務める。
6.以下、総会議案に従って進行

総会議案

 1)2014年度活動報告
     岡林幹事長から総会議案−1「2014年度活動報告」に基づき報告・承認
 2)2014年度会計報告
     中井会計担当幹事が総会議案−2「向陽プレスクラブ2014年度会計報告」に
     沿って報告・承認
 3)2015年度活動計画案・予算案
   以下の活動計画(総会議案−3)を原案通り承認   
<活動計画>
 1.総会・幹事会
    総会
     2015年4月25日(土)に東京にて開催
     総会終了後に懇親会
     (2016年度は4月23日(土)に東京にて開催予定)
    幹事会
     ・9月頃 「活動状況中間検討」
     ・3月頃 「年度総括、総会議案検討」
     ・高知・関西からの幹事会出席者に旅費を定額補助
    高知支部
     ・秋に高知支部懇親会
     ・東京、関西からの出席者に旅費を定額補助
 2.ホームページの充実
    ・「向陽新聞に見る土佐中高の歩み(続)」を引き続き掲載
    ・「読書室」充実
 3.百年史編纂協力活動
    ・「土佐中學校創立基本資料集」をホームページに掲載する
    ・同資料集を同窓会各支部に送付する
 4.その他
    ・会員の拡充を図る
    ・向陽新聞バックナンバーCDの頒布を行う

  審議中の主な議事は以下の通り
   ・「向陽新聞に見る土佐中高の歩み(続)」の執筆候補者の目途は立っているか?
    →水田(48回)が最終の掲載であるので、それ以降の卒業者に依頼する。
   ・ホームページは3月にトラブルが発生し、原因究明、復旧に時間を要した。
    →ホームページを安定化させることが、ホームページ充実の先決課題と捉える。
   ・同窓会各支部への「土佐中學校創立基本資料集」送付は、完了済み。


<予算案> 
  (総会議案−3)を原案通り承認。予算案は会員のページに掲載
  旅費補助、予備費以外は2014年度実績見込み(暫定版)を基とした。
  旅費は会長(関西-関東3回、関西-高知1回),幹事(関東-高知1回)で算出。
  予備費は事業費の1割弱とした。

  審議中の主な議事は以下の通り
  ・HP運営費が増加している理由は?
    →HPを安定化させるために、現在のドメイン名を継続保持する必要があり、
    10年間のドメイン確保費用を予算化した。
  ・次期繰越金296,642円は、2014年度の前期繰越金が293,788円であったこと
    から、健全な水準であると判断できる。

4)会則変更案
 岡林幹事長より、以下の会則変更案が提案され、承認された。

現会則
(総会)
第11条 当会の総会は、会員総員で構成する。
  1) 会長は、総会を1年に1度招集しなければならない。
  2) 会長は、会員の十分の一の要求があったときは、臨時総会を招集しなければならない。
  3) 会長は、必要と認める場合には、幹事会の決議を経て臨時総会を招集することができる。
  4) 総会は書面、ホームページ等で決議事項、又は承認事項を公告し、書面又は所定のフォームから入力したメイルによって公告事項に限り議決、承認することができる。
  5) 総会の議長は会長とする。
  6) 議決権数は出席者、及び書面又は所定のフォームから入力したメイルによって提出された委任状、議決書又は承認書の総数とし、総会の成立は総会員数の過半数の議決権数を必要とする。

改定案
会則第11条の5)の後に
  6) 総会の議決権は総会当日までに、1)の総会については前年度の、2)及び3)の総会については当年度のそれぞれ年会費を納入した会員が有するものとする。
  と定め、
    6)を7)とし、「総会の成立は総会員数の過半数の」とあるを
    「総会の成立は議決権を有する会員の過半数の」と改定する。

<参考 新規定>
(総会)
第11条 当会の総会は、会員総員で構成する。
  1) 会長は、総会を1年に1度招集しなければならない。
  2) 会長は、会員の十分の一の要求があったときは、臨時総会を招集しなければならない。
  3) 会長は、必要と認める場合には、幹事会の決議を経て臨時総会を招集することができる。
  4) 総会は書面、ホームページ等で決議事項、又は承認事項を公告し、書面又は所定のフォームから入力したメイルによって公告事項に限り議決、承認することができる。
  5) 総会の議長は会長とする。
  6) 総会の議決権は総会当日までに、1)の総会については前年度の、2)及び3)の総会については当年度のそれぞれ年会費を納入した会員が有するものとする。
  7) 議決権数は出席者、及び書面又は所定のフォームから入力したメイルによって提出された委任状、議決書又は承認書の総数とし、総会の成立は議決権を有する会員の過半数の議決権数を必要とする。

  審議中の主な議事は以下の通り
   ・会費未納の会員の扱いは?
    →会員としての扱いは会費を納入した会員と変わらないが、総会での議決権を
    有さないという扱いになる。
   ・7)に規定されている「書面」は紙媒体に限るのか?
    →メイルによる提出も「書面」に含まれるものと解釈する。理由はメイルの受け
    手がプリントすることで紙にすることが可能であるため。

以上を以て2015年度総会を終了し、総会会場にて懇親会を行った。
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本のすすめ
苫野一徳著 『勉強するのは何のため?』
岡林 敏眞(32回) 2015.05.18

  『勉強するのは何のため?』
   =僕らの「答え」のつくり方


  著者:苫野一徳(とまの いっとく)
       1980年生まれ。早稲田大学大学院
  教育学科博士課程修了。博士(教育学)。
  早稲田大学非常勤講師。専攻は哲学・教育学。

       発行所:株式会社日本評論社
       定価:本体1400円+税


筆者近影
「豊かになろう。豊かになれば幸せになれる。」
 これが、第二次大戦後の日本のスローガンでした。私が土佐中高校に在学していた昭和20年代から30年代は、日本中の最大の課題は経済成長でした。大人たちは、豊かな生活を目指して必死に働いていました。そして、我が子には自分たち以上に豊かな生活を勝ち取ってもらいたいと願い、学校に行かせていました。
 だから、当然のように、土佐中高生は「大学に入り、いい仕事につく」ために勉強していました。いい仕事が、いい会社だったり、弁護士や医者だったりではありましたが・・つまり、当時の土佐中高生のほとんどは、「大学に入りいい仕事について、豊かになるために自分は勉強をするんだ」と信じていたのだと思います。
 ところが、1990年初頭にバブルがはじけて以来、不況が続いています。勉強して、いい大学に入っていい会社に入れば幸せになれるという図式は、今では成り立たなくなってしまいました。大企業ですらいつ潰れるかもわからないし、いつリストラされてしまうかもしれません。大学を卒業しても、正社員になれずに派遣社員として低賃金の日々を送っている人も珍しくないのです。
 ですから現在では、「なんで勉強なんかしなきゃいけないの」という問いに「大学に入っていい仕事につくため』という絶対的で唯一の答えは成り立たないのです。それでもなお、勉強に意味を見つけていこうとしたのが本書です。哲学者である著者は次のように述べています。
 =「なんで勉強しなきゃいけないの?」というような「正解」のない、でも何らかの「答え」がほしい問題の数々を、とにかくひたすら考えつづけてきたのが、「哲学者」と呼ばれる人たち。哲学は、「正解」のないさまざまな問いに「なるほど。こう考えればすっきりするな」という「納得解」を与えてきたものなのだ。=
 ニーチェやデカルトなどの哲学者が、正解のない問題に答えを与えようとしてきた思索を引き合いに出しながら、勉強の意味に「納得解」を見出そうと試みたのが本書です。「哲学」と聞けば、難解な言語を使いめんどくさい論理を展開する学問だと思っている人は多いでしょう。ところが、本書はとても読みやすく、分かりやすく、しかも味わい深い、中・高生に向けて書かれた本なのです。「なんで勉強しなきゃいけないの?」という問いに、絶対的な「正解」はたぶんないと著者は言っています。
 =「いい大学に入るため」とか、「記憶力を磨くため」「論理的思考力をはぐくむため」とか、いろいろ答えは返ってくるだろうけれど、どれが「正解」というわけじゃない。どれもある程度正しいように思えるけど、どれもちょっと違う気もしてしまう。「答え」は一つではない。人によって、時と場合によって、勉強する意味はさまざまに変わるし、またいくつもあっていい。だからこの問いは、「正解」というより「納得解」を求める問題だ。=
 このように、勉強する意味に絶対の正解はない。それでも、おそらくほとんどだれにも共通すると言っていい、最も根本的な勉強する意味つまり、「なんで勉強するのか」に対する「納得解」を見いだせると著者は主張しています。以下に著者が述べていることを要約しておきます。
 =勉強するのは〈自由〉になるため。ここでいう〈自由〉とは、「生きたいように生きられる」ということ。「できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、生きたいように生きられているという実感のこと。これが〈自由〉という言葉の意味。
 だれでも〈自由〉に生きたいと思っている。でも、〈自由〉に生きるためには、必ず何らかの『力』がいる。電車に乗ったり、買い物をしたり、日常の生活のためには読み書き計算などの基礎的な「力」が必要。必要なのは、基礎的な「力」だけではない。スポーツ選手になりたいのであれば、そのための「力」がいる。学者になりたいのなら膨大な「知識」がいる。世界で活躍するビジネスマンになりたいのなら、外国語力や世界についての「教養」がいる。私たちは、〈自由〉に生きるためには、必ずなんらかの「力」を必要とする。そして、それを 自ら学びとらなければならない。勉強しているのは、〈自由〉になる「力」を身に着けるためなのだ。=
 こう述べた後で、著者は読者に問いかけます。勉強するのは〈自由〉になる力を手に入れるためだというのはなんとなくわかる。でも、なんでその勉強を、わざわざ「学校」でやらなきゃいけないの? 将来役に立つかどうかもわからないような勉強を、学校で無理やりやらされる。だから、それが〈自由〉になる力を手に入れるためだといわれても、そんなふうにはどうしても思えない人もいるだろう。それだけじゃない。学校を舞台に、さまざまな問題に行き当っている。人間関係のいざこざに悩んだり、試験や受験勉強に苦しまされたりする。いじ めや体罰といった、耐えがたいほどの苦しい経験をすることもある。なんでこんな思いまでして学校に行く必要があるのだろう? 一度や二度はそう思った読者は多いことだろう。
 読者の「なんで学校に行かなきゃいけないの?」更には、「いじめは、なくせるの?」という問いに哲学的な思考をしながら「納得解」を出していく。著者が「あとがき」で述べているように〔中・高・大学生が、「哲学的な考え方」を学びながら、教育の根本的な問題を解き明かしていけるような本]として執筆したものである。学生だけでなく、教育に携わるすべての人に読んでもらいたい著書である。(向陽プレスクラブ会長・岡林敏眞)
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岡林 敏眞(32回) 2015.05.12画柳会展のご案内

第27回 画柳会展  2015/06/15〜06/21 於:銀座アートホール 東京都中央区銀座8-110 TEL:03-3571-5170
期間中食事時を除いてずっといます。

出展作品(一部)


「明日があるさ」   F50号


「勇気」  F50号


「会いたかった」  F30号

 会場に足をお運びできない方のために岡林さんにお願いして掲載させていただきました。(編集人)
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地球の裏側(アルゼンチン)で感じたこと
水田 幹久(48回)  2015.04.16


筆者近影
 一昨年(2013年)の9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われたIOC総会において、2020年オリンピックの開催地が東京に決定した。オリンピック東京開催は、日本経済再生の起爆剤として歓迎され、それ以来、景気回復への期待感が増しているように感じる。2020年までの長いようで短いこの準備期間、景気浮揚に繋がる政策が展開されるに違いない。
 東京のライバルであった候補都市のイスタンブールとマドリッドについて関心があった方は多いと思うが、IOC総会が行われたブエノスアイレスについて詳しい方は少ないであろう。小生はこの南米の都市にすこし縁があり、2回ほど訪れているので、その時に感じたことなどを記してみたい。


ブエノスアイレス郊外に広がるパンパ
地平線の彼方まで牛の放牧地になっている
 東京から見るとブエノスアイレスは地球のちょうど裏側(正確にはブエノスアイレス東方沖合1,000Kmの大西洋上が対蹠点=正反対の地点のこと)にある。という事は、飛行機が完全に直線的に運行できれば、東京からどの方角に飛び立っても同じ距離という事になる。事実、ブエノスアイレスへのフライトは北米経由、欧州経由、中東経由など真逆に飛び出すルートの中から選択することになる。首都ブエノスアイレスがあるアルゼンチンは南米の大国(国土面積2,780千ku=世界第8位・日本の7.4倍)で、しかも温暖な気候帯の平地面積が大きく、農畜産業に適した国土を有している(パンパと呼ばれる広大な草原が牧草地として広がっている)。反面、人口は4,100万人、GDP4750億US$(世界26位)。日本の人口1億2700万人、GDP5兆9630億US$と比べると大きく見劣りがする。
 しかし、この国は建国以来ずっとこの地位にあった訳ではない。19世紀の終わりから20世紀の初頭、日本が明治維新を経て富国強兵に励んでいた頃、日本とアルゼンチンの立場は、全く逆であった。アルゼンチンは恵まれた国土を生かした農畜産業により、南米で最も豊かな国であったばかりか、ヨーロッパの列強の次に位置する立場にあった。1910年には、アルゼンチンの輸出額は小麦・牛肉で世界一、トウモロコシ・羊毛は2位になっており、インフラ面では3万キロの鉄道網を有していた。この時期のブエノスアイレスは、南米のパリと呼ばれるほど、ヨーロッパ風の建物・公園が整備された文化都市であった。この頃(日露戦争開戦直前)、日本はイタリアで建造中であった2隻の巡洋艦(春日と日進)を注文主のアルゼンチンから譲り受け、主力艦隊への編入に間に合わせている。その後、日本海海戦でのこの2隻の活躍を見れば、ついアルゼンチン贔屓になってしまう。

ブエノスアイレス中心地にあるコロン劇場
パリのオペラ座、ミラノのスカラ座とならぶ世界3大劇場の一つ。
ブエノスアイレスの文化の象徴。手前の道幅は16車線ある。
 この豊かなアルゼンチンが、恵まれた資源、高い教養レベルの国民など発展の条件を備えていながら、その後低迷していく最大の理由は、長く続く政治の混迷と、歳入を安易に国債に頼るなど経済政策の失政にあったと言える。度重なるインフレ、私利私欲を追及する政府によって経済は停滞し、国民の政治家に対する信頼感は極めて低くなっている。ハイパーインフレの挙句とうとう2001年には対外債務の返済不履行(デフォルト)に追い込まれ、国の信用力は失墜した。この影響は現在も残っており、通貨アルゼンチンペソへの信頼は薄く、国民には米ドルの方が信頼されている。現在でも対ドル公式レートの他に実勢レート(闇レート)が存在し、その差は2倍ほどにもなっている。闇レートと言えば聞こえが悪いが、そのレートは新聞・TVで毎日報道されており、オープンな存在である。


ジャングルを開墾した茶畑(ミシオネス州)
50ヘクタールの茶畑の一部分
 このアルゼンチンとの縁は、小生の叔父2家族が、戦後、国際協力事業団(JICA)の事業に応じてアルゼンチンに移住しており、その家族が住んでいることである。都合2回、この地を訪問する機会があった。その際にアルゼンチンの日系社会にも触れることができ、考えさせられることが多々あったので、その一部を披露したい。直近の訪問は、老親が年齢的にみて最後の機会になると思われたので(86歳)、初めての海外旅行であったが、両親を連れて行くことにした。
 現地には1世世代2家族(叔父2人=父の弟)、その子供達(2世世代)5家族がおり、2世家族にはその子供達(3世世代)が計11人いる。1世世代はミシオネス州(ブラジル、パラグァイの国境付近、イグアス滝に近い)のジャングルを開墾し、そこに生活基盤を築いた。開墾された後の姿(茶畑や果樹園)を目の当たりにすると彼らが味わった辛苦が容易に想像でき、思わず目頭が熱くなる。一般的に、2世世代は、新たな分野に進展した者、農場を引き継いだ者、まちまちであるが、日系人は教育熱心なので高等教育を受けて専門職になった者、事業を起こしている者も目立つ。そして農場を引き継ぐ者も、他の事業に転進した2世達の土地を譲り受けたり、借りたりして農場の規模を拡大している。

従弟が経営する農場にあるビニールハウス内部
育苗施設の一部。一般の農場から苗の注文を受けて出荷する。
 彼らがこの地に託した希望、そのフロンティア精神を支えてきたのが、日系人達の相互協力であったと思われる。日本人入植地には必ず日本人会が存在し、今でも助け合いの関係が続いている。小生が訪問した時もポサーダス(ミシオネス州都)の日本人会で、ある子供の誕生日会があるというので参加させてもらった。小型の体育館の様な日本人会館に総勢70〜80人が集まり、盛大な会(手弁当が基本、子供も多いので酒はあまり飲まない)を行っていた。皆大変親しげに振舞っており、飛び入りの小生にも親しく接してくれる。誕生日会に限らず色々な名目で頻繁に交流の場を持ち、なにかと助け合っている。
 この協力関係を基盤に日系人達はアルゼンチン社会に信用を築いていった。どこに行ってもハポネ(スペイン語でジャパニーズ)と言えば信用される。アルゼンチンは移民の国で、特にヨーロッパ系(白人)が目立つ。人口では圧倒的に多い白人に混じって、自治会長や事業の協同組合長を任されている日系人も多い。農場から他の事業へ転進する際にも、日系人に対する信用が大きく寄与していることと思われる。小生の親戚2世(いとこ5世帯)も、3世帯は他の事業に転進し、2世帯は農場を拡大させていた。従弟の一人が嘆いていたことに、せっかく築いた日系人の信用を、近年アルゼンチンにも増えた中国人が自らをハポネと詐称して、落としてしまうということであった。
 アルゼンチン日系社会を垣間見て、長い年月を掛けて誠実に努力して得た信用は、何にも変えがたい財産になるという、当たり前のことを教えられた気がする。昨今、ジャパンパッシングと言われる現象があったり、製造業で韓国、中国に追い越される製品があったり、人口減少がもたらす将来負担の増加懸念があるなど、日本の将来に悲観的な見方が目立つようになっている。

イグアスの滝見物
叔父達の入植地から日帰りで訪れることができる。
これらの課題を克服することは容易ではないが、日本・日本人への信用は大きな財産として健在であるので、日本ブランドを今後もブラッシュアップし、それを活用することで、日本人が自信を取り戻す道筋が見えてくるのではないかと、アルゼンチンの日系人達に教えてもらった思いがする。
 今回のアルゼンチン訪問は、細やかながら、思いがけないプラス効果もあった。それは、出発前には、老化により衰えを感じさせていた両親が、現地で弟たちの努力の結果を目の当たりにして、触発されたのか、帰国後には見違えるほど元気になり、活動的になったことである。
 小生も元気をもらいに、時々アルゼンチンを訪問するのも悪くないな、と思ってしまう。
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