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2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで

2016.04.08 公文敏雄(35回)  「保育園落ちた日本死ね」騒動が示すもの―
2016.04.11 岡林哲夫(40回)  総会のご案内
2016.04.16 中城正堯(30回)  『新聞とネット、主役交代が鮮明に』への感想
2016.04.29 水田幹久(48回)  幹事会(2016年度第1回)議事録
2016.04.29 水田幹久(48回)  2016年度総会議事録
2016.04.29 公文敏雄(35回)  新会長ごあいさつ
2016.05.09 公文敏雄(35回)  『羊と鋼の森』の風景
2016.06.07 公文敏雄(35回)  教育ビジョンとは何か?
2016.08.25 鍋島高明(30回)  「高知経済人列伝」の発刊について
2016.08.25 中城正堯(30回)  浦戸城趾に"元親やぐら"を
2016.09.23 中城正堯(30回)  「公文禎子先生お別れ会」のご報告
2016.10.13 坂本孝弘(52回)  高知支部懇親会の日程について
2016.10.15 藤宗俊一(42回)  笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去
2016.10.31 笠井賢一(42回)  新作能『鎮魂』公演のご案内
2016.11.08 坂本孝弘(52回)  平成28年度高知支部懇親会ご案内
2016.11.25 公文敏雄(35回)  続・教育ビジョンとは何か?
2016.12.03 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1)
2016.12.26 坪井美香(俳優)  『死者の書』公演のご案内
2016.12.31 坂本孝弘(52回)  平成28年度高知支部懇親会
2017.01.04 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2)
2017.02.01 公文敏雄(35回)  狭い場所に建設工事が目白押し
2017.02.03 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)
2017.02.25 公文敏雄(35回)  小村彰次期校長訪問記
2017.03.03 二宮健(35回)  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4)
2017.03.20 公文敏雄(35回)  「龍馬・元親に土佐人の原点をみる」中城正堯(30回)著
2017.03.20 竹本修文(37回)  向陽プレスクラブに入会します。
2017.03.25 中城正堯(30回)  三根圓次郎校長とチャイコフスキー
2017.03.25 北村章彦(49回)  4月22日KPC総会案内
2017.03.29 水田幹久(48回)  向陽プレスクラブ幹事会議事録
 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで
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新聞とネット、主役交代が鮮明に
「保育園落ちた日本死ね」騒動が示すもの―
公文敏雄(35回) 2016.04.08

筆者近影
 今年の2月15日、ひとりの子育て主婦がネット掲示板に匿名で投稿した五百字ほどの記事「保育園落ちた日本死ね」(子供が保育園に入れなかった。働けないよ、どうする。国会議員を半減してでも保育園を作れ!という訴え*(注)が、またたく間にフェイスブックなどネット口コミで拡がり、ヤフーなどのネットニュース、更に朝日、NHKを含む主要テレビが報道、29日には衆院予算委員会で取り上げられた。 
 野党議員の質問に安部首相や関係閣僚がバタバタする場面や、取ってつけたような保育園増設促進・保育士給与引き上げなどの諸策の発表をテレビ・新聞がフォローしたので、ご記憶の方も多いであろう。
 (注=原文は、「はてな匿名ダイアリー」 に掲載されています)
 私がこの騒ぎの発端を知ったのは投稿の2〜3日後にネットで見たヤフー・ニュースだった。テレビ・新聞はまだ触れていない。「日本死ね」は過激だし、趣旨も目新しくは無さそうだと読み流してしまい、その後の波紋の拡がりを想像できなかった。 
 旬日のうちに思い知らされたのは、ソーシャルメディア(ネット掲示板、ブログ、SNS=フェイスブック・ツイッター等)やネットニュースサービスなどを媒体として大衆の間でネズミ算的に爆発する口コミ(良かれ悪しかれ)の脅威であり、(政治のお粗末さはさて置くとして、)表舞台に上がり損ねた新聞の頼りなさであった。
 前世紀半ば過ぎまで数百年にわたりメディア(情報媒体)の王者として君臨してきた新聞だが、戦後普及したテレビとの棲みわけが一段落したと思ったら、近年は難敵インターネット(ネット)に襲われ、今や中原を追われかねない様相である。スマートフォンを操作する乗客だらけの通勤電車に乗れば事態は一目瞭然とはいえ、念のため直近の統計を調べてみた。
 ネットの利用者は昨年1億人を突破(総務省)、広告費収入(5,615億円=経産省)も新聞広告費収入(3,580億円=同)を大幅に凌駕して増え続けている。一方、新聞発行部数は落ち込む一方で1990年代のピークから1千万部減らして昨年は44百万部(日本新聞協会)、頼みの新聞広告費収入も同期間に半減(経産省統計)している。「新聞離れ」は蔽い難い事実だということがわかる。
 さて、新聞は、この不都合な真実=「パラダイム・シフト」に対処して種々の策を講じていると考えたいが、統計を見る限りでは、時代に取り残されつつあると言わざるを得ない。そこで、長年の忠実なる読者の目から見た「ここがおかしいのでは?」を幾つか挙げてみよう。
1.経営理念
 「公正な報道」を掲げるならば、右に偏らず左に偏らず、米英側に非ず中ソ側に非ず、この国を愛するという基本を踏まえてほしいが、紙面を見る限りでは、必ずしも看板どおりではないようだ。経営理念(社是)が不鮮明だったり揺らいでいたりすると間違いや迷走が起こり、衰退していくのは、業種を問わない真理ではないだろうか。
 例えば「権力を監視する、暴走を防ぐ」までは頷けるとして、某紙のように「反権力」(権力=悪)を唱え出すとおかしくなる。勢い余って「反日」となると、とてもお付き合いできない。また、昔ながらに政府・資本家(悪)対市民・労働者(善)と社会を二つに割り切るあまり、現実から遠ざかっているのではと感じることもある。
 「社会の木鐸」(世人を覚醒させ、教え導く人=広辞苑)の役割も崩れかけているようだ。メディアと大衆との間に大きな知識・情報格差があった時代ならともかく、今の世ではいかがなものだろうか?人間としても立派なプロ中のプロたる記者・編集者を揃えたうえでの話ならば別であるが、エリート意識が歩いているような新聞人が少なくないのが気がかりである。
2.報道商品の品質
 ネットの弱みである「報道の正確性、信頼性」はどうだろうか。偏見に基づいたねつ造や誤報が記憶に新しい。或いは、政府や、政党、企業、団体の伝声管・拡声器に堕していないだろうか。情報が溢れかえっている時代だからこそ、「取材力・判断力」に加えて「編集力」(加工ではない)が期待されているのではないだろうか。(かつての社説や新聞小説に代わって、今や書評欄が最も読まれかつ影響力が有ると聞き及ぶ。)
3.販売ルート
 新聞販売店を通じた宅配は、紙面広告と違って、ヒモの付かない貴重な収入源だといわれる。しかし、運営方法次第で、これが資産にも負債にもなりそうである。流通業界の激しい変動を見るにつけ、経営資源の投入が不可欠だと思われるが、古臭いままに放置されてはいないだろうか?
4.時代への適応(IT化、少子高齢化、グローバル化)
 上に挙げた根本問題に加えて、時代変化への機敏な対応・適応が求められているのは言うまでもない。似たりよったりの電子版が答えなのか?たとえば有力ブロッガーのコラムを設けるとか、若者、子育てママ、介護者、外国人ジャーナリストなど外部に紙面編集や執筆を託してみるなど、色んな試みがもっと出てきてよいのではないか?新聞が変わるのは無理で、恐竜のように死に絶えてしまうしかないのだろうか?就職人気企業ランキング上位に有力紙が名を連ねた時代を知る者として、哀惜に堪えない。
 恥ずかしながら管見を連ねましたが、皆様のご教示・ご意見が頂けますと幸いです。
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総会のご案内
岡林哲夫(40回) 2016.04.11
向陽プレスクラブ会員の皆様
 添付のご案内の通り、下記会場で向陽プレスクラブ総会を開催いたしますので、是非ともご参加下さい。
 出欠はメールでの返信でお願いします。欠席の方は、議案に関する賛否又は出席者への委任をお願いします。
 日時:2016年4月23日(土)17:00〜17:30 総会 17:30〜19:30 懇親会
 場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年と同じ会場) 東京都港区新橋4-14-7
 TEL:03-3432-5666    URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html

 なお、会費未納の方は
 「みずほ銀行 渋谷支店(210) 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ」宛にお振り込み下さい。
 会費納入状況については「会員のページ」の名簿を見て下さい。最右列の会費期限が29以降になっている方は納入不要です。それ以外の方は最低今年度分の納入をお願いします(遡り分の納入も歓迎です)。
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『新聞とネット、主役交代が鮮明に』への感想
中城正堯(30回) 2016.04.16
公文敏雄様
 最近の「新聞報道」へのご意見、報道のあり方を真剣に考えているようで、感心しました。小生の感想をお伝えします。

筆者近影
 まず、山尾志桜里議員の首相への質問、たまたまテレビ中継を見ていまし た。さすが元公文の優秀児らしい、追及ぶりで感心しました。首相の答弁は かなりおざなりでした。横浜のS先生の教室出身で、生徒の頃の勉強ぶりを 思い出しました。 翌日の新聞ではあまり取上げられていませんでしたが、ネットで火がついて、 新聞は後追いになっていました。
 新聞報道のあり方、1.経営理念としての「公正な報道」、2.報道商品の品質 「報道の正確さ」・・・、これらよりも大切なことは、「真実の追及」ではないでしょ うか。「なにが公正か」は立場によって異なり、新聞報道は公正より「真実」を 大事にすべきです。真実の追及なら、反体制も反権力も関係ありません。また 新聞が、体制にどんな姿勢をとるか、各社に違いがあって当然です。
 ただ、ミスリードのあった場合は率直に読者に謝る必要があります。かつて事実 に反し、民主党のひどい提灯持ちをした評論家が、今もテレビでしゃべっている のを見るとがっかりです。新聞社も記者も、そして政治家も「けじめ」が必要です。 山尾さんも、タクシーカードについて、真実を明らかにする必要があり、報道 機関には、保育問題の実態と共に、この追及も必要です。
 マスコミは、新聞もテレビも花形職業になりすぎ、高学力か有力なコネがないと 入社できず、「真実の追及・報道」に命をかける人材が社内に少なくなりました。 今では活字の世界では週刊誌、それも外注のフリーランス記者の執念によって 特ダネが生まれている実情です。あとは、活字媒体でないネットの世界の活性化 がたよりです。
 なお、公文の優秀児とは、在籍学年より先に進んで教材を解く力を付けた生徒で、 山尾さんは小学6年で高校程度に進み、トップグループにいました。同時に、中学 ではミュージカル「アニー」の主役も務め、東大法学部に進みました。
 吉川さんはじめ、マスコミ関係者のご意見もお聞きしたいです。
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幹事会(2016年度第1回)議事録
水田幹久(48回) 2016.04.29
議長 岡林哲夫前幹事長(出席者互選により決定)  書記 水田 幹久
1.日時 4月23日(土)  17:30〜17:45
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 吉川順三(34回) 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 
      中井興一(45回) 水田幹久(48回) 北村章彦(49回)  以上7名
4.岡林哲夫前幹事長が議長となり、以下の通り議事進行した。
  1)幹事長の選出
     岡林前幹事長より2016年度の幹事長選出を要する旨、説明があり、幹事長候補者と
    して北村章彦(49回)を推薦する提案があった。
     出席者から異議なく、全員これを承認した。
  2)幹事の担当変更
    岡林前幹事長より、2016年度の幹事担当を以下の通り変更する旨、提案があり、
    全員異議なくこれを承認した。
     北村章彦(49回) 幹事長
     岡林哲夫(40回) 幹事長補佐
   上記以外の幹事 前年度の担当を継続
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2016年度総会議事録
水田幹久(48回) 2016.04.29
議長 岡林哲夫幹事長(岡林敏眞会長不在のため代行)  書記 水田 幹久
1.日時 4月23日(土)  17:00〜17:30
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 濱崎洸一(32回) 吉川順三(34回) 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回)
       藤宗俊一(42回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回) 北村章彦(49回)
4.岡林哲夫幹事長が、開会時出席者8名、議決権行使5名、委任7名であり、議決権を有する会員28名中20名参加で総会は成立と報告。
5.岡林敏眞会長が急逝、不在のため、会長に代わって岡林哲夫幹事長が本総会の議長を務めることを出席者全員一致で決定。
6.以下、総会議案に従って進行
総会議案
 1)2015年度活動報告
   岡林幹事長から「2015年度活動報告」に基づき報告。全員一致で承認。
   「2015年度活動報告」の内容は当会ホームページの「会員のページ」に掲載。
 2)2015年度会計報告
   中井会計担当幹事から「向陽プレスクラブ2015年度会計報告」に沿って報告。全員一致で承認。
   「向陽プレスクラブ2015年度会計報告」の内容は当会ホームページの「会員のページ」に掲載。
 3)2016年度活動計画案・予算案
   2016年度活動計画案・予算案を原案通り、全員一致で承認。
   「2016年度活動計画案・予算案」の内容は当会ホームページの「会員のページ」に掲載。
 4)会長の選挙、会計・幹事の承認
   2015年度で役員全員任期満了のため、新役員を以下の通り決定した。
   ・会長の選挙
    岡林哲夫幹事長から、幹事会として「公文敏雄(35回)」を会長に推薦する旨提案があり、
   本総会に諮ったところ、全員異議なく承認された。
    また、公文会員から会長就任受諾のご挨拶があった。
   ・会計・幹事の承認
     会長の委託により、幹事会で選出された候補者を本総会に諮ったところ、全員異議なく
    承認された。承認された会計・幹事は以下の通り。
    会計:中井興一(45回) 留任
    幹事:吉川順三(34回)、岡林哲夫(40回)、藤宗俊一(42回)、井上晶博(44回)、
       水田幹久(48回)、北村章彦(49回)、山本嘉博(51回)、坂本孝弘(52回)
                                      以上留任
 以上を以て2016年度総会を終了し、総会会場にて、濱崎会員ご発声による岡林敏眞会長への献杯を始めに、懇親会を行った。
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新会長ごあいさつ
公文敏雄(35回) 2016.04.29

新会長近影
 来月には後期高齢者と呼ばれるようになる老樹ですが、今般、向陽プレスクラブの存続と発展に少しでもお役に立てればと、先月急逝された岡林敏眞前会長の後を継がせていただくこととなりました。
 当クラブの役割につきましては、土佐高校新聞部のOB・OGに加えて、報道・情報に関心をお持ちの諸兄姉が、あの懐かしい母校の部室での集いのように、世代を超えて楽しく語らい刺激し合う場であり続けてほしいと願っております。母校の創立百周年まであと4年、後進のお役にたてるような具体的な活動につきましても役員・会員の皆様とご一緒に考えて参りたく、お力添えのほどよろしくお願い申し上げます。
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【本屋大賞2016】 宮下奈都著 
『羊と鋼の森』の風景
公文敏雄(35回) 2016.05.09
小説の舞台

宮下奈都著 『羊と鋼の森』 文藝春秋刊 1,620円(税込)
 この小説は、「森の匂いがした。秋の夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の森の匂い」という暗示的な文章で始まる。
 「(北海道の)山の中の辺鄙な集落で生まれ育った」僕、「このままなんとか高校を卒業して、なんとか就職口を見つけて、生きていければいい」くらいに考えていた十七才の主人公が、「突然、殴られたみたい」な、「あっと叫び声を上げたくなった」出来ごとに遭遇する。あの時、放課後の体育館で。
 「忘れもしない高二の二学期」、先生のいいつけで体育館まで案内した来客が「調律師 板鳥宗一郎」だった。案内を果たし、やがて立ち去ろうとする僕の背中のほうから、ピアノの音がした。「ひどく懐かしい何かを表わすもののような、正体はわからないけれども、何かとてもいいもの」が聴こえ、僕はピアノの場所に戻った。「欲しかったのはこれだと一瞬にしてわかった」。「森の匂いがした。秋の、夜の。僕は自分の鞄を床に置き、ピアノの音がすこしずつ変わっていくのをそばで見ていた。たぶん二時間余り、時が経つのも忘れて」。
 この時、「調律という森に出会ってしまった」主人公は、将来を板鳥に相談、高校を卒業してから調律の専門学校に二年間学んだ後、達人板鳥が主任を務める田舎町の楽器店に就職を果たした。
 (題名に出てくる「羊」は、ピアノの中のハンマーのフェルトの素材であり、「鋼」はワイヤーの材料だということを、私はこの本を読んで初めて知りました。)
小説の中味

筆者近影
 この小説は、調律の世界に身を投じた主人公の生々しい修行物語である。ほかに、社長、個性的な先輩調律師たち、ピアノを弾く人々(様々なお客様)、聴く人々などが多彩なエピソードとともに登場し、交わされる会話、心の動きなどが、丁寧にそして生き生きと描写されて読者を森の世界に引き込んでいく。とりわけ紙数を費やしているのが、美しいふたごの高校生姉妹のピアノである。そこが圧巻だが、詳しくは読まれてのお楽しみ。
 田舎出の朴訥な青年は、音楽の素養すらない。それでも、「時間さえあれば僕はピアノの前に立ち、屋根を開けて内側を覗いた」し、「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです」という板鳥の教えに従って、「こつこつ調律の練習を繰り返すほかは、こつこつピアノ曲集を聴いた」。
 あるとき大失敗をやらかした。「初めて、怖いと思った。鬱蒼とした森へ足を踏み入れてしまった怖さ」だった。すっかり落ち込んでいる主人公に対して「もしよかったら」と板鳥がチューニングハンマーを差し出した。チューニングピンを締めたり緩めたりするときに使うハンマーだ。「なんとなく外村君(主人公)の顔を見ていたらね。きっとここから始まるんですよ。お祝いしてもいいでしょう」。森の入口に立った僕に、そこから歩いてくればいいと言ってくれているのだ。
 このあとも、主人公は新人思いの先輩たちに見守られつつ、こつこつと、そして丁寧に修練と経験を重ねて行く。「外村って、無欲の皮をかぶったとんでもない強欲野郎じゃないか」などと言われながら、「目指す場所ははるか遠いあの森だ」との大欲を抱いてただひたすら。
著者「宮下奈都」の思い
 主人公が尊敬してやまない板鳥が理想とする音、主人公が魅せられたその音は、「明るく静かに澄んで懐かしい」、「少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている」、「夢のように美しいが現実のようにたしかな」ものだという。詩人で小説家原民喜の文章から引用されたこの形容は、そのまま著者が目指す文体でもあろうか。だとすれば、的は外れていない。
 「懐かしい」といえば、「山」や「森」や「田舎」(主人公の原風景)をいとおしく思う表現が小説に満ち満ちていることにすぐ気づく。また、主人公が口にする「こつこつ」、「丁寧」、「あきらめない」、「一所懸命」*などの言葉・価値観には、効率最優先でゆがんだ現代社会へのきびしい批判が湛えられている。(*「一生懸命」などというご語源不明の俗語を使わないのが嬉しい)
 「でもやっぱり、無駄なことって、実は、ないような気がするんです」や、主人公の気づき「山と町。都会と田舎。大きい小さい。価値とは何の関係もない基準に、いつのまにか囚われていた」なども同様である。
 「綿羊牧場を身近に見て育った僕も、無意識のうちに家畜を貨幣価値に照らして見ている部分があるかもしれない。でも、今こうして羊のことを考えながら思い出すのは、風の通る緑の原で羊たちがのんびりと草を食(は)んでいる風景だ。いい羊がいい音をつくる。それを僕は豊かだと感じる。同じ時代の同じ国に暮らしていても、豊かさといえば高層ビルが聳え立つ街の景色を思い浮かべる人もきっといるのだろう」と主人公が思うくだりも、心に残る場面である。
 それらはともかく、この「静かに澄んだ」小説本を手に取った、不条理な社会の中で働く若者たちは、題材の目新しさやストーリーの面白さだけではなく、登場人物たちがかもしだす懐かしさ優しさに惹かれ、心を癒されたのではないだろうか。
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教育ビジョンとは何か?
公文敏雄(35回) 2016.06.07

筆者近影
 いわば第二の建学が期待されている母校の創立100周年が目前です。それに呼応する動きとして、山本校長によれば、新たな寄付制度「土佐中高・新世紀募金会」の内容が近々発表されるよし(「向陽」2015年11月号)ですが、どんな学校を目指しているのかという教育ビジョンを含めた、募金の「趣意」を先ずは示していただきたいと思います。
 たまたま、九州に新しい小中一貫私立学校が出来るという下記(末尾)のような報道記事を見て、「設立趣意書」を取り寄せてみました。なかなか立派な内容なのでここもとご紹介させてください。参考になるのではないでしょうか?              
「志明館小中学校」設立趣意書のPDFファイル添付
・・・・・・・・・・・・・・記・・・・・・・・・・・・・・・・・

「志明館小中学校」設立趣意書の一部
 小・中一貫校設立で調印 立地、福岡・宗像の市有地に福岡の経済界や教育界の有志が設立を目指す小・中一貫校の立地場所が福岡県宗像市の市有地に決まり、同市役所で19日、谷井博美市長と発起人会幹事会代表の橋田紘一氏(九電工相談役)らが基本協定書に調印した。校名を「志明館小中学校」(仮称)とし、平成30年春の開校に向け本格始動する。 
 予定地は宗像市河東にある森林丘陵地の市有地約5万平方メートルで、今後市議会に提案し、貸借か売却かなどを決定する。総事業費は40億〜50億円とみられ、経済界、教育界で作る発起人会を中心に、賛同者からの寄付金でまかなう。
 志明館は、戦後教育が子供の自主性や権利を過度に重視してきた反省に立ち、かつての「武士道」的教育と、学力向上によるリーダー輩出を目指して、経済界を中心に構想が浮上した。発起人会が、宗像市と立地について協議を重ねてきた。
 宗像市は、福岡、北九州都市圏の中間で交通の利便性が高く、自然環境が豊かなこともあり、新設校の立地に適切と判断した。市内にある福岡教育大などとの連携も望めるという。
 男女共学の1クラス35人で、1学年3クラスを想定する。教育理念は「知・徳・体の総合力を培い、使命感と志にあふれた明るくたくましい人材を育成する」ことを掲げた。週6日制で授業を実施し、福岡県トップレベルの高校進学も目指す。(以下略)
以上 (2015年1月20日 産経ニュースより)
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「高知経済人列伝」の発刊について
鍋島高明(30回) 2016.08.25

筆者近影
謹啓。 酷暑の候、皆様にはお変わりないことと存じます。私は八十路の坂に差しかかりましたが、執筆を続けています。このたび「高知経済人列伝」を発刊いたしました。ご高覧、ご高評頂ければ幸甚です。
 ここには明治から今日に至る日本の近現代において県内外で活躍した経済人330人の足跡を収めています。明治時代には岩崎弥太郎という巨人が日本経済の近代化の先頭に立ち、三菱財閥の礎を築き、大正時代に入ると鈴木商店の大番頭金子直吉が岩崎にも劣らぬ破天荒な躍動ぶりで日本列島を震憾させます。昭和、平成に入っても数多くの俊才が輩出、日本経済の一角を構成します。
 土佐の若者たちは先輩を慕って三菱グループや鈴木商店関連企業に進みます。この二大勢力に次ぐのが間組、大阪ガス、日本発条、淀川製鋼所など高知とゆかりの深い企業。そして大樹のかげに寄ることを潔しとしないいごっそうたちは蒼き狼となって独自の戦いで新天地を切り開く。たとえば太陽石油の青木繁吉、和田製糖の和田久義らは既成の枠を突破すべく行政に立ち向かいます。流通業界に風雲を呼んだ中内功には土佐人の血が流れており、家電の安売りチェーンの先駆け英弘商会の秦泉寺信喜。カメラのキタムラ、旭食品も流通界で存在感を高めています。'

高知新聞社 A4版372頁 定価2,000円(税別)
 一方、高知に根を張る企業集団野村組、入交グループ、西山合名などには多彩な人材が集結しました。昭和の初めに大阪毎日新聞社から出版された「経済風土記」(四国の巻)には「高知は人材が多くてうんざりする」との記述が出てくるほどです。
 業界の暴れん坊とけむたがれる反骨商人の半面でモノつくりにいそしむ土佐のエジソンたち。釣針の広瀬丹吉、猟銃の弥勒武吉、五藤光学の五藤斎三から樫尾4兄弟、サイレントパイラー(無公害打抜き機)を生み出した垣内保夫・北村精男コンビ、農機具の楠瀬慶吉、鈴江登志治、久松潤一郎、生コン事件で勇名をはせた山崎技研の山崎圭次は反骨のエンジニア。コンデンサ用絶縁紙の世界シェア70%を誇るニッポン高度紙を創業した関頼次。
 年間200億円の富を生み出す稀代の勝負師山本正男。難病と闘いながら東証1部上場を果たしたダイヤモンドダイニングの創業社長松村厚久はまだ40歳代の若さ。多士済々、土佐は人材の宝庫であることを改めて知らされました。
 書きもらした人物も少なくない。昨今話題の水素水の開発で一代を築いた日本トリムの森沢紳勝、山本貴金属の山本裕久、保育社の今井龍雄、日本発条の浜田庄平、富士重工業の森郁夫、「はちきん母さん一代記」の岩崎玲子…遠からず増訂版を出し、完成度を高めたいと念じております。「こんな偉い手が抜けているゾ」といったご指摘をお待ち申しています。(文中敬称略)
 平成28年盛夏
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2016年(平成28年)8月22日(月曜日)一高知新聞『所感雑感』
浦戸城趾に"元親やぐら"を
中城正堯(30回) 2016.08.25

筆者近影
 桂浜を訪ねる度に大変残念に思うのは、観光開発の陰で素晴らしい自然景観と史跡が損なわれていることだ。特に、史跡として重要な長宗我部元親の居城「浦戸城」の本丸(詰の段)周辺が、観光道路・国民宿舎・駐車場によって破壊されている。
 かつて山内一豊の入国と高知城築城にともない、浦戸城の三重天守は三の丸の櫓となり、石垣はすべて運び出されたとされていた。しかし、山内家「御城築記」に「苦しからざる所はこわし取り」とあるとおり、本丸周辺の石垣はかなり残してあったことが、1991年からの浦戸城址発掘調査で判明した。当時の高知新聞には、「南北総延長約百mにわたる石垣群を発見」とある。石垣は裏込石を使った高石垣であり、瓦や鯱などの出土品もあつて、浦戸城が四国で最も早く「土の城」から脱皮し、天守と高石垣を備えた先駆的「石の城」であつたことを示していた。

浦戸城本丸址からの眺望
 ところが、地元民の保存運動にもかかわらず、石垣は調査後に埋め戻され、本丸跡はかえって見苦しい状況となった。しかし、太平洋に突き出た半島の地形を巧みに利用して縄張りされた浦戸城の各曲輪の跡や、堀切・竪堀などはまだ残っている。水軍の基地であった浦戸の漁港や、城下町に組み込まれていた 種崎を含め、浦戸城の遺構を保存しつつ、貴重な高石垣など城址の復元にむかっての長期的取り組みが望まれる。
 そして、早急に着手して欲しいのは、本丸跡への"元親やぐら"の建造である。元親にとって浦戸城は、初陣で長浜城に続いて勝ち取った思い出深い城であり、周辺の地形も熟知していた。後に浦戸湾口を本拠地にしたのは、秀吉による朝鮮出兵だけでなく、国内交易にも、堺や薩摩にならっての南蛮貿易にも、造船・海運・水軍が不可欠と考えたからだ。この雄大な構想を育んだのは、城山からの360度の大眺望であろう。南には大空と大海原が果てしなく広がり、北には浦戸湾の彼方に四国山脈がそびえ立つ。

樹林におおわれた天守台址
ここに建てた天守は単に湾口の監視塔ではなく、壮大な夢の発想基地であった。
 桂浜の魅力は箱庭的海浜ではなく、城山に立って初めて味わえる自然と歴史が織りなす壮大な景観美だ。だが今に残る天守台は、樹林に覆われて展望がきかない。そこで、天守台の隣接地に、丸太組みで浦戸城三重天守と同じ高さの望楼"元親やぐら"を建てることを提案したい。中世から土佐の特産品であった材木を、伝統の技で組み上げ、元親と同じ目線で絶景を楽しみ、潮風や海鳴りを五感で味わって感性を呼び起こし、自らの生き方に思いを馳せる思索の場とするのだ。
(財団法人日本城郭協会顧問)

高知新聞『所感雑感』
<追記>
 新聞に掲載後、早速地元の方々から電話をいただきました。その中で気になるのは、従来通りの観光開発がすでに二つも立案されていることです。それは、県立坂本龍馬記念館の新館増設と、高知市による「道の駅」新設で、ともに自然環境・史跡への保護がどれだけ配慮されているか疑問です。今回の原稿が、桂浜および浦戸湾口の自然と史跡の保護活用に役立つ事を願っています。
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「公文禎子先生お別れ会」のご報告
中城正堯(30回) 2016.09.23

弔辞を述べる武市功君
 土佐中6回生で、戦後土佐高教諭から、大阪に出て公文教育研究会を設立した公文公先生の奥様が逝去された。公文先生は、土佐中での個人別・能力別の自学自習を活かして公文式教育を考案、世界中に公文式教育を広めたが、二人三脚でこの教育法を育てたのが、禎子夫人であった。
 禎子夫人の高知での新婚生活は、昭和20年からの1年と、22年からの5年間であったが、その間のエピソードを紹介し、加えて同級生(土佐高30回Oホーム)へのお別れ会報告文を添付する。
高知での公文禎子様
 奈良で生まれ育った長井禎子様が、お見合いで公文先生と結婚されたのは、終戦間近の昭和20年3月で、先生は浦戸海軍航空隊教授であった。慣れない高知での新婚生活は、父と兄を亡くして一家の柱となっていた公文先生以外は女ばかりの家族との同居であった。しかも、先生は池(高知市)の航空隊に別居で、訪ねて行こうとしては道に迷って大変だったという。さらに7月には米軍の空襲にあい、たまたま帰省中だった先生と雨のように降りそそぐ焼夷弾の下を逃げまどい、衣笠(公文先生の母の実家・稲生)をめざした。住んでいた家は全焼であった。恐怖にさらされ、一首のうたもつくれなかったと述べている。

沖縄竹富島でのご夫妻(1990年11月)
 戦後、先生はいったん奈良の天理中に勤務、昭和22年に高知に戻り、高知商業を経て、24年に母校土佐中・高教諭となり、3年後に大阪に出る。この間、禎子夫人には高知で思いがけない人物との再会があった。樟蔭女子専門学校時代に、短歌を教わった安部忠三先生が、22年にNHK高知放送局長として着任されたのだ。高知歌人会にも入会、短歌を再開される。この安部局長の長男・弥太郎さんが土佐中28回生で、新聞部の中心となって我々30回生を指導してくださった。後に、京大からNHK記者となって活躍された。
 公文夫妻が大阪に出た同年に、安部局長も奈良局長に転任、そのお薦めで前川佐美雄先生が主宰する日本歌人社に入会、うたに励まれ昭和44年には日本歌人賞を受賞する。以来、パリやシルクロードを訪ねてはうたを詠み、平成10年には歌集『パステルカラー』を出版された。
 禎子夫人は、短歌以外に美術への造詣も深く、自ら油絵もお描きになった。また読書家で、我々は土佐中時代にご夫妻が所蔵されていた『岩波文庫』などによって、本の世界に導いていただいた。秀才として知られた公文俊平・竹内靖雄両先輩も「公文文庫」を大いに活用しておられた。
3Oホームの皆様へ

ご挨拶される新庄真帆子様
 6月21日に96歳でお亡くなりになった公文禎子先生「お別れの会」が、9月21日に大阪の公文教育会館で行われ、土佐中1年B組の浅岡建三、武市功両君と共に参列してきたので、その様子をご報告する。
 公文式の生徒は、現在世界各国428万人に及ぶが、禎子夫人は公文教育研究会の創始者・公文公先生のご夫人にとどまらず、公文式教室の最初の指導者であり、教材開発・教室運営にともにたずさわってこられた。昭和42年から10年間は公文教育研究会の前身である大阪数学研究会社長、さらに「のびてゆく幼稚園」開園、公文会長亡き後は50回を越える講座を全国で開催し、公文の教育理念を伝えきた。「公文禎子先生 お別れの会」は、公文教育研究会の関係者のみに限定されたが、全国から元指導者・社員、現役指導者・社員あわせて500人を越える方々が集い、献花をしてお別れを惜しんだ。
 花祭壇の御遺影に向かって、元社員代表として武市功君(元副社長)が、弔辞を述べた。「禎子様に最初にお目にかかったのは今から67年前、高知市内の御自宅でした。土佐中学で教え子だった私は、数学を習うため御自宅にお邪魔していました。」という出会いから、会社を設立したものの十年余は赤字で、「主人と二人で荷車を引いて参りました。主人が引いて私が押して、やっと坂を上がって参りました」という禎子夫人の回想談をまじえ、追悼した。
 最後に、ご親族を代表してお嬢様の新庄真帆子様のご挨拶があった。強く印象に残っているのは、初期のご苦労「父の教材がご近所でも評判になり、母が指導者になって教室を開いた。私たち幼い三人の子どもを育てながらであり、買い物や食事の準備もそこそこに、一人ひとりにちょうどの教材を用意するのは大変だった。なにしろ当時は教材も全て手書きだったから」、であった。
 新庄真帆子様には、3O一同これまでの公文先生ご夫妻の御恩が忘れられないことをお伝えした。2000年の大阪同窓会の際に久武慶蔵君が公文公記念館で倒れたが、奥様の看病のお陰で大事に至らなかった事や、「うきぐも」発刊へのご協力に感謝していることを申上げた。また、今後一周忌の墓参など、教え子も参加出来る法事があれば、クラス代表が参列したいとの希望をお伝えした。真帆子様からは、高野(野口)さんか小生に連絡するとのお返事をいただいた。
 帰りの新幹線で、公文先生亡き後に禎子夫人がはにかんだ表情で漏らされた、若きお二人のいわばデート時代の思い出話が甦った。「奈良での見合いで婚約が決まりました。私は阪大工学部の研究室に勤務していましたが、ときおり夕方に公文が訪ねて来て、私が出て来るのを、外でじっと待ってくれていました」。
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高知支部懇親会の日程について
坂本孝弘(52回) 2016.10.13
向陽プレスクラブ会員の皆さまへ
高知支部幹事(井上、山本、坂本)
皆さま、益々ご清栄のこととお喜び申し上げまず。
 本年度の高知支部懇親会は、12月3日(土)に開催いたします。
 午後6時頃から、高知市内での開催、個人負担は4千円程度の見込です。
 詳細はあらためてご案内します。多数の皆さまのご参加をお願いいたします。
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笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去
藤宗俊一(42回) 2016.10.15

故 笹岡峰夫氏
2016.06.04
 既にMail網でご報告致しましたが、本会会員で弁護士の笹岡峰夫氏が、去る9月21日、ご自宅で急逝されました。前夜まで飲み歩いていて、翌朝、脳内出血を起こし、そのまま御他界されたとのことです。心より哀悼の意を表しますとともに、残されたご家族の皆様方にはお悔やみを申し上げます。
 通夜、葬儀は9月27日、28日、上落合の最勝寺壇信徒会館で行われ、交友の広さを表すかのように、会場に入りきれないほどの大勢の参列者が集まり、生前の彼の仁徳を偲びました。尚、式は無宗教で、親友の能演出家・笠井賢一氏(42回生)のプロデュースで執り行われ、能管の音と朗読で始まり、最後は全員が遺影の前に花を手向けて終わりました。とても厳粛で美しい式でした。心よりご冥福を祈ります。
****************
以上が報告です。ついでに追悼文も済ましておきます。
 実を言うと、彼が途中で一年留年したこともあって、土佐校時代はあまり親しくはありませんでした。私が高1で受験勉強に専念???するために編集長を辞めた後、生徒会活動仲間の西内正氣氏(42回生)と(二人とも会長経験者)隣の新聞部部室に転がり込んで来て大きな顔をしていたのを、丁稚(中学)からたたき上げた苦労人としては、苦々しく思っていました。 しかも、こともあろうに新聞部の商売敵のような生徒会広報誌『翌桧』を発刊するなど(幸いにして彼が会長であった間の2号ノミ)言語道断な行為をしてのけて、もはや天敵以外の何者でもありませんでした。そんな訳?で、部室にも寄り付かなくなり、2年間はマドンナの尻を追っかけるのに忙しく彼と話す機会は殆どありませんでした。

同じ日の筆者近影
 再び、彼と交友が始まったのは事務所を開いて仕事欲しさに関東支部同窓会に出席し始めた頃、宴席で『お前のヨメサン知ってるよ』と声をかけてきたのがキッカケです。当時、彼は弁護士になって『旬報法律事務所』という労働問題専門の事務所に所属していて、訟務検事(国の法廷代理人)をしていた連れ合いを知っているということでした。「そんな左系の活動をしているとは、昔の正義感はちっとも変っていないなあ」と感心したものです。 後に、独立して『けやき法律事務所』を開設してからは『悪徳弁護士の笹岡です』とうそぶいていましたが、一種の照れ隠しだったと思います。本質は変わっていないと思いました。
 その後、42回の同期会に必ずと言っていいほど出席するようになり、2次会、3次会と盃を交わして(二人とも升々いける口)終電に間に合わないことも何度かありました。とにかく、明るい酒でこちらを楽しくさせてくれました。また、律儀に年賀状と暑中見舞いをくれて、時折々の話題やら思い出を長々書いて来てくれました。とても文章が上手で、論点もしっかりしていて、さすが文系の元新聞部と見直しました。こちらが理系に進み、ちゃんとした文章が書けなくなって機械に頼って写真で済ましているのを恥ずかしく感じていました。
 お通夜のなおらいではナンテン(皿鉢料理で最後に残るもの)になり、土佐から取り寄せた皿鉢料理とお酒(土佐鶴)を堪能させてもらいました。ありがとう。本当は2次会に連れ出したかったのですが……。合掌。
●次は我が身と感じるようになって、香典の損得勘定をしています。悪い奴ほど長生きすると言われているので、取り返せないかもしれません。みなさん、どうか長生きして黒字化にご協力下さい。
****************
 葬儀で朗読をして下さった坪井美香さん(俳優)から次のご案内をいただきました。おっかけをしていた彼に何度か誘われて公演に行って、打ち上げ会にも参加させてもらいました。彼を偲んで、是非ご覧になってください。



11月23日 求道会館
『言葉の海へ』
¥3,500
 雨続き、災害続きの九月が過ぎ、太陽の恵みが戻ってくれますよう、月の美しい秋となりますよう、願うばかりの今日この頃です。みなさまお元気でいらつしやいますか?
 秋の公演のお知らせをさせていただきます。1011年より作家高田宏の作品を語るシリーズを続けて参りましたが、昨年11月14日、最後の旅立ちをなさいました。還ることのない片道の旅の空は、どんなでしょうか。
 名編集者から作家へ。気骨ある生き様を貫いた人々の評伝や、自然、災害、旅、猫などをテーマに綴るエッセイ、小説。忘れられてはならない作品を数多く残された高田先生の一周忌追悼に、『言葉の海へ』を上演致します。
 幕末から明治にかけ、鎖国からいきなり世界と対峙せざるを得なくなった日本にとって、それまでになかった国語辞書は独立を保って生き抜くための必然であり、辞書作りは国作りでもありました。明確で誤解のない「言葉」や「文法」

10月28日 青蛾ギャラリー
『語りと笛の会』
\3,000
を確立することは急務で、外国の言葉や概念を理解するためにも、こちらから何かを主張するにも、以心伝心、などと言ってはいられません。にもかかわらず、国家プロジェクトとして始めた辞書作りは、結局、苦難を極めた17年という歳月をかけて『言海』を出版した大槻文彦に丸投げされました。今も昔も、国家というもの、かくありき!
 仙台在住の俳優・茅根利安さんと共に、作品ゆかりの東京と仙台で上演します。音楽は、ピアノと語りで一緒に楽しい試みを続けてきた黒田京子さんです。初演を見てくださったお客様もたくさんいらっしゃると思いますが、台本も演出も練り上げて大幅に改定、さらに、会場である求道会館の建築がまさに文彦の活躍した時代と重なり、新たな作品世界を楽しんでいただけると思います。
 是非ご覧ください。心よりお待ちしております。
 11月15日までにご予約、お振込頂いた方にはチケットを送らせていただきますので、よろしくお願いいたします。
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新作能『鎮魂』公演のご案内
笠井賢一(42回) 2016.10.31

産経新聞 2016.10.23
 此度、私たちは新作能『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』を本年11月にポーランドと日本で上演いたします。
 2011年にショパン生誕250年を記念して日本ポーランド国際共同企画として新作能『調律師−ショパンの能』が上演されました。私たちはその上演のためにたびたびポーランドを訪れました。前々から関心をもっていました、アウシュヴィッツ博物館を作者のヤドヴィガ・ロドヴィッチさんに案内していただきました。そのとき、鎮魂の芸能といわれる「能」でこそ「アウシュヴィッツ」の死者への鎮魂がなされるべきだという思いを深くしました。当時取り組んでいた『調律師−ショパンの能』がショパンの生涯への鎮魂の祈りの能であったことも影響しています。そのことをヤドヴィガさんにお話しすると、彼女にはアチュウという名の叔父さんで、1942年にアウシュヴィッツで政治犯として獄死された方がいらっしたのです。それで一気にこの新作能が構想され書きあげられました。それに加え、日本で2011年2月に「調律師−ショパンの能」が上演された直後の3月11日、あの未曾有の東日本大震災が起き、津波の被害に加え原発事故の被害も発生、世界に衝撃を与えました。 当時ヤドヴガ・ロドヴィッチさんは駐日全権ポーランド大使として在任中で、ポーランドと日本との歴史的に長い民間レベルでの友好関係をふまえ、東北の子供を夏休みに受け入れたり、被災地を訪れ支援に力を尽くされました。

『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』
 そして翌年の2012年の皇居の「歌会始め」に大使として招かれ、そこで天皇皇后両陛下の御詠「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」と「帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず」の和歌に深く心動かされ、『鎮魂』にこの和歌を取り入れ、新作能を完成させたのでした。
 万葉集以来、和歌が生きとし生けるものの命を慈しみ癒すという伝統の上に立ち、両陛下が新しい時代の象徴天皇制のなかで努められた数々の慰霊の行動と、培われてきたお人柄が余すことなく表現された鎮魂の和歌です。この和歌を能『鎮魂』の芯としてテーマをになう歌として取り入れたヤドヴガ・ロドヴィッチさんの意を汲み、節付・作舞も演出も、ともにこの優れた和歌を、鎮魂の芸能である能の要として創っています。こうした私たちの思いをこめて両陛下に日本公演へのご招待状をお送りし、ご高覧頂く事になりました。

2016.11.14(月)18:30
渋谷区千駄ヶ谷『国立能楽堂』
A:\10,000 B:\8,000 C:\6,000
 11月1日のアウシュヴィッツの教会で奉納、さらに11月4日、5日にEU文化首都ブロツワフでのシアター・オリンピックでの公演、そしてこの日本公演によって、世界に向けて和歌の力が発揮され、能が鎮魂の芸能であることを感動とともに理解してもらえると確信しています。これは誇るべきことだと思っています。
 私たちは2年前にはポーランドのクラクフのマンガセンターとカトヴィッチの劇場で能の一部を上演し、数年にわたって新作能『鎮魂』を育んできました。それがいよいよ公演の時を迎えます。日本を代表する芸能である能が、現代の課題、アウシュヴィッツとフクシマという今日の私たちの世界が抱える課題に取り組みます。是非ご高覧頂きたくご案内致します。
 この公演の収益の一部はポーランド公演の経費に当てられます。できるだけ多くの方にご覧いただき、日本とポーランドの文化交流の長い歴史を土壌に実を結んだ、さらには作者のヤドヴィガさんが日本に留学し能の実技を先代銕之丞に学んだ、長い文化交流の歴史の結晶であるこの公演を成功させていただけるようにお願い申し上げます。                                   
シテ 節付・作舞 観世銕之丞 
演出 笠井 賢一
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平成28年度高知支部懇親会ご案内
坂本孝弘(52回) 2016.11.08
向陽プレスクラブ会員の皆様へ
幹事 井上晶博(44回生)・山本嘉博(51回生)・坂本孝弘(52回生)

拝啓 時下、皆様には益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
 標記の会を下記の通り準備いたしましたので、多くの方にご出席頂くよう、ご案内申し上げます。向寒の折、皆様くれぐれもお体ご自愛ください。
敬具
日時:平成28年12月3日(土)、午後6時
会場:土佐ノ國 二十四万石
住所:高知市帯屋町1丁目2−2(高知大丸東館・北向かい)
電話:(088)822−2459
予約名:向陽プレスクラブ
徴収会費:3千円(飲み放題)。別途本部会計から2千円を補助頂きます。
※ご都合を、11月26日(土)までにご連絡ください。
 各会員宛発送します、メール、往復葉書(メールアドレス未登録の方)にて返信ください。当日・前日等の急なご連絡は、メール、葉書に記載の電話番号までお願いします。
以上
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続・教育ビジョンとは何か?
公文敏雄(35回) 2016.11.25

筆者近影
 本年6月7日、向陽プレスクラブHP主張・論評欄で、平成30年春開校予定の小中一貫校「志明館小中学校」が掲げる教育ビジョンを紹介させていただきましたが、このほど建学構想の詳細が同校ホームページ(http://shimeikan.education/)で発表されました。
 「設立目的」(ビジョン)、「教育方針」(戦略)、「教育内容」(具体的施策)という経営計画3原則を踏まえた、丁寧で解りやすい内容になっています。地元の政・経・教育界有志が注ぐ熱い思いの顕れという点で、土佐中學校創立時のいわゆる「建学の精神」(向陽プレスクラブ編の冊子「土佐中學を創った人々−土佐中學校創立基本資料集」に詳述)を髣髴とさせ、かつ21世紀の時代環境に即した新しい私学教育の一つのモデルケースとして、経年劣化の危機に瀕するいわゆる伝統校再生へのヒントを含んでいるのではないかと考えます。その骨子は以下のとおりです。
一、設立目的
「誇りと志のある」日本人の輩出
○世界に誇るべき日本人の長所である、「和・誠・礼・勇」の4要素を備えた人間を育成。
○幕末、明治維新の主力を担った多くの逸材を輩出した江戸の私塾教育、日本経済の礎を築いた明治・大正の大実業家、これら大いなる先達の生き方や残した言葉を手本として学び、その魂、熱意、大望をいま再び思い起こし、現代の日本で復活させる。
二、教育方針
「知・徳・体・志」を合一する初等教育。目指す人間像とは
○自国の歴史・伝統を正しく学び、美しき母国語を語る闊達な児童
○自己の意思を臆せず表明し、相手の意見にも耳を傾ける情操豊かな生徒
○健全な身体に鍛え上げ、万物と共生しつつ公に向かう使命感溢れる青年
○卓越した学力・識見を基盤とし、異文化への理解と敬意を湛える国際派日本人
三、教育内容
1.新教科の設置(国学に親しみ、国史を展き、現代を知る)
○新教科「国学」の設置
・神話・偉人伝に学ぶ…先人の生き方を手本にしながら、志を定める。
・古典素読…論語・十七条憲法・実語教等などに親しみ、生き方の芯を創る。
・美しい日本語…名作・名文を体系的に吸収し、和歌を詠み、敬語を伴う簡素な日本語の表現方法を学ぶ。
○新教科「総合日本史」の設置
・「国史」を中軸に据えつつ、自国と相関する世界史を合わせて学ぶ。
・世界と日本を形作った人間の営みを学び、人類愛と愛国心を涵養する。
○新教科「グローバル(現代世界)」の設置
・現代日本及び世界における社会現象や国民心理の淵源・経緯を遡及し学ぶ。
・自らの志とリーダーシップをもって、国際的に活動できる実践力を涵養する。
2.学力向上の取り組み(実学を深め、実践を重ねる)
○効率的学習メソッドの開発・導入
・民間教材メーカー・学習塾等と共同し、短時間・高効率の独自カリキュラムを開発・実践する。
・母国語や英語を駆使し、発表・討論・交渉活動を豊富に体験し、実践的コミュニケーション能力の育成を行なう。
○修学スケジュール及び制度の合理化
・低学年より教科担任制を導入、中学校二年一学期までには文科省指定授業全内容の修了(教科・習熟度別クラス分け)
○学外学力評価制度の導入
・校内定期考査(中間・期末テスト)を廃止し、代わりに全国統一模試・漢字検定・数学検定・TOEIC等の学外学力評価制度を採用しながら、分析的・客体的な習熟度を高める。
3.総合的な学習(自然に触れあい、伝統に遊ぶ)
○体験・実践型カリキュラムの導入
・和文化体験…「道」と名のつく茶道・華道・剣道・空手道などを早期から体験し、自国の伝統精神を学ぶ。
・放課後裏山遊び(小学校低学年)…自然に触れ友情を養いつつ、様々な遊びを創意工夫し日々心身を錬磨する。
・寄宿教育(小学校高学年より中学校卒業)…生活の基礎となる自律・礼儀・協調・切磋琢磨・5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)を、共同生活を通じて学ぶ。
・指定図書500冊読破・スピーチ大会出場・海外語学使節団…読書を通じ自ずと学ぶ姿勢を身に着けながら、得た学びや志を臆せず表明し他者へ伝達し得る言語力(日本語・英語)を学ぶ。また海外提携校へ語学選抜チームを派遣し、語学の練磨と文化交流から学びを得る。
○身心一如(肉体・精神不可分)教育の実践
・クラブ活動・部活動…積極的競争主義を基盤に優劣を明示し、高い目標設定と勝利へ向かう不屈の精神を学ぶ。
・毎月登山(夏は遠泳・冬は寒稽古)…大自然の中で規律と忍耐を養い、頑健な身体を作る。
・校内農園・食育…農作業を通じ、生かされている事、「いのち」をいただく万物への感謝、和食の高度な文明性を学ぶ。
○その他
・地域学習…地元宗像大社の諸行事に奉仕し、温故知新の精神を学ぶ。
・ジョブシャドー・インターンシップ…親の職場体験・地域の企業見学を通じ、家族の絆を確かめ、経済活動の現場を垣間見る。
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1)
二宮健(35回) 2016.12.03

モロッコ地図(「旅のともZenTech」より)

筆者近影
 深夜に関西国際空港を出発したエミレーツ航空317便(ボーイング777-300型)は、約11時間10分の飛行で、現地時間午前5時45分にドバイ国際空港に到着した。2時間後の午前7時45分にエミレール航空751便に乗り継ぎ、更に8時間45分を飛行して、現地時間(モロッコ)で昼の12時30分にカザブランカのムハンマド5世国際空港に到着した。待ち合わせの時間を入れると、日本出発後22時間もの時間を要してモロッコに着いたことになる。これがヨーロッパ経由の便、例えばパリ経由などだと大幅に早くモロッコへは到着出来るが、エミレーツ航空にして往復利用をすると、格段に安い割引にて旅行が出来る。安いとは言え、機内サービス、機内食、安全性は、日系、欧州系航空会社に勝るとも劣ることはない。機材も最新のものを導入しており、安かろう悪かろうでないことは、カタール航空なども同様であり、私の数多い海外渡航経験からしても誇張でなはない内容を伴う会社である。ただ、少し難点があるとすれば、日本とモロッコには直行便が無いので辛抱するしか致し方がない。長時間の移動となるわけである。(写真@=エミレーツ航空)
 今回の旅の目的は、モロッコのすべての世界遺産を見学することと、モロッコ各地の幻想的な都市の見物である。今回は2回目のモロッコ訪問で、前回は前述のカタール航空を利用してモロッコへ入ったが、経由地がドーハであること以外に飛行時間は大差がない。さて、マグレブとは、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国の呼称であって、アラビア語で「日の没するところ」を意味する。そのため、ムスリムの義務である1日5回の拝礼のうちの日没時の礼拝を指す言葉でもある。
 作家の四方田犬彦さんの著作に「モロッコ流謫」というモロッコ紀行の名著があるが、他国の作家や映画人、文化人などを引きつけてやまぬ幻想の世界の色彩をこの国は古くから持っているように思うのは、私一人ではなかろう。モロッコの世界遺産としては、ユネスコへの登録順に、@フェズ旧市街(1981年、)Aマラケシュ旧市街(1985年)、Bアイット・ベン・ハドゥの集落(1987年)、C古都メクネス(1996年)、Dヴォルビリスの遺跡(1997年)、Eティトゥアン旧市街(1997年)、Fエッサウィラのメディナ(2001年)、Gアルジャジーダのポルトガル都市(2004年)、H近代と歴史的都市の両面を持つラバト(2012年)がある。どれをみても魅力あふれる文化遺産と自然遺産である。これらの場所を巡る旅に参加をした紀行である。
 カサブランカに到着したのは、2011年12月2日のことであった。入国手続きを終えると、昼食を市内のレストランで済ませ、その後、大西洋沿いに道を北東に取り、約90キロ走って、1時間30分程度で午後4時過ぎに首都ラバトのホテルに到着した。12月1日深夜に日本を出発して、12月2日にラバトに到着したのである。日本とモロッコの時差は9時間あるので、日本時間では12月3日午前1時である。まるまる24時間以上もかかって日本から到着したわけだ。宿泊するホテルはベレールホテル・ラバトで、4つ星クラスとはいえ、立地の良さが売り物の、中クラスのホテルである。ラバトは、カサブランカには商業や人口で大きく劣っているが、行政上では首都であり、「庭園都市」の名の如くしっとりと落ち着いた街である。日本の大使館もこの街に在り、人口約65万人、都市圏を含めると185万人である。ラバトとは「城壁都市」の意味であり、2012年に世界遺産に登録されている。
 今回の旅行の目的の一つは、滞在する都市の超一流ホテルの視察である。旅行評論家として、これは私のどの旅でも目的の一つである。(ちなみに、私はほぼ全世界にわたり約500回の海外渡航をしている)。さっそく夕食後、ラバトの超一流ホテルの一つであるラトゥルアッサンを訪ね、部屋やレストランをホテルの係員の案内で見せてもらった。素晴らしいホテルである。(写真A=ホテル・ラトゥルアッサン)
 12月のラバトは雨が多いらしく、今日は最高気温が17度、最低気温は7度であった。到着したカサブランカの空港から終日、雨が降ったり止んだりの天気であった。
 旅行3日目、12月3日は、昨日と打って変って朝から晴天となった。この日以後ずっと旅行中の天気は良かった。今日の予定は、午前中にラバトを代表する「モハメッド5世廟」(写真B=ムハンマド5世廟ともいう)を見物し、その後、ムーア様式の代表的建築である「ハッサンの塔」を予定通りに見学した。約300キロを5時間ほどバスで北東方向に走り、世界遺産のティトゥアンを観光、更に約60キロ北へ向かい、ジブラルタル海峡とイベリア半島を望む街タンジェを目指した。バスでかなりハードな旅であった。順を追って見物箇所を列記すると、午前8時にラバトのホテルを出発するために、午前6時に呼び起こしの電話が鳴り、午前7時には定番のアメリカン・ブレックファストをとり、定刻8時に出発して、ラバトの世界遺産であるムハンマド5世霊廟(モロッコをフランスからの独立に導き1961年に没した前国王ムハンマド5世の廟で、1973年に完成)を見学した。廟の内部は撮影が可能である。これを終えて、道をはさんですぐにある、これも世界遺産ハッサンの塔を見学した。これは未完の尖塔(ミナレット)で、ヤークブ・マンスール王によって12世紀末に建築された。高さが44メートルもあるが、彼の死によって中断された。モロッコにおけるムーア形式の代表的な建造物である(写真4)。
 午前中に見学を終え、早めに昼食をとって次の目的地ティトゥアンへ向い、約4時間30分位で到着した。この街もモロッコの世界遺産に登録されている。ざっと説明をすれば、街の中心に在るハッサン2世広場から、西に新市街、東にはメディナがあって、かつてはスペイン領になったこともあり南スペインの雰囲気が強く、人口約46万人の街である。着いてすぐに新市街のムーレイ・メフディ広場を中心に見学、続いて旧市街にある王宮とスーク(=市場。貴金属のスーク、陶器のスーク、食料品のスーク、衣料や革製品のスークなど狭い地域の旧市街の中でそれぞれ独立したスークがある)を見物した。カリファ王宮は17世紀に建てられた歴史的建物であり、イベリア半島のアルハンブラ宮殿に代表されるムーア風の、モロッコにおける最も顕著な建造物として有名である。
 ティトゥアンを見物した後、西北約60キロにあるタンジェの街に向かい、夕方遅くまでかけてタンジェの街を見物した。日本ではタンジールとも呼ばれている街だ。人口は100万人近く、ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインからのフェリーも多く入港している。前15世紀にはフェニキアの交易港として既に栄え、カルタゴやローマ、ビザンチンなど、その時々に支配者が変わった非常に歴史の古い街である。
 次回はタンジェの街の説明から始めよう。(第二回に続く)
 (註)筆者プロフィール:昭和29年土佐中入学、高二の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、JTBOB会員、神戸市在住。

写真1 エミレーツ航空B777-300(最新鋭) 

写真2 ラバトのラトゥルアッサンホテル

写真3 ラバトのモハメッド5世廟入口

写真4 ラバトのハッサンの塔
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『死者の書』公演のご案内
坪井美香(俳優) 2016.12.26
 2016年ももう過ぎ行こうとしています。皆様いかがお過ごしでしょうか。 先月末に『言葉の海へ』の東京・仙台公演を無事終え、上演を重ねて作品を育 てていきたいとの思いが深まりました。ご観劇くださったみなさま、本当にあ りがとうございました。

2017/01/26,27 19:00開演
(開場18:30) \4,500

銕仙会能楽研修所
(港区南青山4-21-9)03-3401-2285
 引き続いて『死者の書』公演のご案内をさせていただきます。2014年の 初演以来、再演を目指して試行錯誤を続け、今春には原作の全文を語るという 暴挙(?)にも出ました。まったく、なんともやっかいでしかも底知れぬ魅力 を秘めた小説です。創作意欲をそそる圧倒的な力に引きずり込まれるように、 映画、人形、舞踏など、これまでに数多くの才能たちによる試みがなされてき ています。では、私たちならではの表現は一体どこに向かうのか。
 この度、能舞台で、しかも初演は声のみの出演であった観世銕之丞氏の出演 を得て、上演させていただく運びとなりました。折口信夫の不可思議な物語世 界が、橘政愛氏、設楽瞬山氏の奏でる音楽と共に、語り部によって仕組まれ、 立ち現れる銕之丞氏と我ら語り部三人の声、言葉、身体を交錯させつつ、 生も死も、夢もうつつも、時も空間も自在に行き来する、独自の『死者の書』 を創り出します。
 ぜひ、お立会いください。お待ちしております。     
お申込み・お問い合わせ:すずしろ 090-7847-2670
●演出は42回生の笠井賢一氏です。
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平成28年度高知支部懇親会
坂本孝弘(52回) 2016.12.31
 12月3日(土)、午後6時から、平成28年度の高知支部懇親会を開催しました。
 今年の参加者は、次の皆さんです。敬称略。
   森木 光司(32回生、いの町)
   公文 敏雄(35回生、中野区)
   井上 晶博(44回生、高知市、支部幹事)
   山岡 伸一(45回生、南国市)
   山本 嘉博(51回生、高知市、支部幹事)
   坂本 孝弘(52回生、土佐市、支部幹事)
   福田  仁(「まさし」さん、65回生、高知市)
 昨年は、幹事3人と山岡先輩の4人で楽しく過ごしましたが、人数が少なく内輪の会という感じだったので、うっかりホームページへの掲載を忘れてしまいました。すみませんでした。
 今年は、会長の公文先輩にわざわざ東京から出席していただき、昨年からほぼ倍増となり、賑やかな楽しい会になりました。
 森木先輩は、25年度、26年度と、途中で急患の呼び出しがあり、今年も急な来客がおありということで、私が幹事を仰せつかってから、お開きまでおられたことがありません。
 森木先輩は、4月6日付でホームページへ掲載された追悼文「我が友岡林敏眞君を悼んで」と、その中に登場する、森木先輩のご自宅に飾られている岡林前会長が描かれた油絵(F20号、イタリア、アッシジの街並を描いた絵で画柳会特別賞受賞)の写真を印刷して持参されました。森木先輩と相談して、その画像を掲載させていただきます。

故岡林敏眞氏作 『古都アッシジの街並』
 福田さんは、公文先輩のお知り合いということで、今回、初めて参加していただきました。現在高知新聞社で編集部にお勤めということです。朝刊の編集は、当然ながら夜勤になるそうで、結構ハードなお仕事のようです。福田さんの土佐高時代には、新聞部自体が活動していませんでしたので、山岡先輩がスマートフォンで出された、向陽プレスクラブのホームページのバックナンバーを見て、こんな学校新聞が発行されていたということに驚いておられました。
 今の土佐高では、図書館でバックナンバーに接することができるようですが、福田さんのような世代の方にどのようにして向陽新聞を知ってもらうかも課題のようです。
 昨年だったと思いますが、私の職場の男性と高知新聞社の記者の方の結婚披露宴があり、私が乾杯を仰せつかったのですが、その宴に福田さんも出席されていたそうで、やはり高知はいろいろな所でつながりがあるなと思いました。
 本会会則第4条(会員)の会員規定第2号には、「(向陽新聞部OBでなくても)出版報道事業並びに情報通信事業に従事経験のある母校出身者で入会を希望するもの。」とあります。福田さんは、まさに現役の従事者でいらっしゃいます。今後、福田さんのようなお若い方の入会も増やしたいですね。
 当夜の会の中で一番盛り上がった話題は、意外と思われるかもしれませんが、高知の街路樹の剪定がやり過ぎだというものでした。
 その話題になったのは、公文先輩の、高知空港へ降りてみると、空港前の街路樹の丸坊主に近い(?)姿に驚いたという話からだったでしょうか。あるいは、山岡先輩が、県から委託を受けて、空港近くの公園を地域の人々で管理しているという話からだったでしょうか。いずれにせよ、井上先輩も加わって、追手筋や土佐道路も同じ状態だというような指摘が相次ぎました。
 私は、お恥ずかしいことですが、土佐道路はよく自動車を運転して通るのに、そういったことには全く無頓着なのです。皆さんの熱弁を感心しながら聞き入っていました。
 原因としては、剪定を担当している団体に行政が機械的に毎年発注しているからで、山岡先輩からは、行政が地域住民と上手く協力できれば、費用の節約にもなり、管理も行き届き、地域も少しは潤って防災活動の足しにもなるという指摘もありました。
 行政の立場からか、重たかった口を最後に開いた山本先輩が、お得意の映画評論(高知新聞などに寄稿多数。著書もあり。)ばりに見事にまとめられました。終盤でかなり酔いが回っていたので、その結論をここへはよう書きません。山本先輩、ごめんなさい。
 土佐校の新聞部時代、新聞の大会などで東京へ行ったという先輩達の話には、いつもうらやましく思います。当然、新聞や新聞部の話にも花が咲きました。
 土佐校に新聞部の復活を期待するのは、我々OBとしては当然のことと思います。話の中では、新聞部が復活するなら、紙媒体だけという形態は現在ではありえず、校内放送やインターネットなども活用した、マスコミ部などといったものになるのではないかとか、勝手に想像を膨らませていました。
 福田さんを交えて、新聞紙面の割り付けの話になったときのことです。私が、11年間の県外生活から帰郷した時、それまで県外で読んでいた全国紙や地方紙とは違って、高知新聞の割り付けが高知印刷さんで手ほどきをしていただいた向陽新聞の割り付けにそっくりだと感じた(厳密には、向陽新聞が高知新聞に似ていたというべきでしょうが)という指摘をしましたが、おられた先輩方には納得していただいたと勝手に思い込んでいます。皆さん、どう思われますか?
 公文先輩からは、先輩が幹事をされている「ガーナよさこい支援会」が受け入れ母体となって、平成28年8月24日から9月4日まで実施された「ガーナ高校生日本研修・交流プログラム」について、「土佐中・高校との交流記録」を配付いただきました。母校の後輩達のたくましい姿が描かれています。
 そんなこんな話題で、あっというまに楽しく過ぎた2時間でした。
 最後に、諸般の事情で掲載が遅れましてご迷惑をお掛けいたしました。誠に申し訳ありません。
 来年以降も引き続き高知支部懇親会を開催していくのは当然ですが、何とか、2桁の参加を目指したいです。皆さま、奮ってご参加お願いいたします。良いお年をお迎えください。
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2)
二宮健(35回) 2017.01.04

モロッコ地図
 タンジェでは、メディナの中にあるプチソッコ(小さな広場の意)を訪れ、そこから歩いてグラン・モスクの外観を見(ムスリム以外は入れないので)、更に進み展望台へ出てタンジェ湾とジブラルタル海峡とイベリア半島を望見した。ヨーロッパ大陸が目前にあることが不思議に思える場所である。

タンジェよりイベリア半島を望む
 一旦、宿泊するホテル「タンジェ・インターコンチネンタルホテル」へ戻った。御大層な名前で四つ星クラスにランクされているが、日本でのビジネスクラスのようなホテルであり、街の中での交通の便が良いのが利点のホテルであった。ホテルで夕食をとり、これも目的である、タンジェ一番と言われる有名ホテル「ホテル・エル・ミンザ」を訪れた。1930年に建造されたスペイン様式とムーア様式の混合インテリアで、係員から部屋を見せてもらったが、素晴らしいインテリアの数々であった。普通の部屋(ダブルベッド)で約2300から2500ディルハム(DH、1DHは約12円)くらいとのことであった。2時間ほどホテルのバーで過ごしたが、こちらも居心地の良いバーであった。

ホテル・エル・ミンザ内部

同じホテルのバーにて
 旅行4日目の12月4日は、朝8時にタンジェのホテルを出発して約3時間をかけて南下、シャウエンに到着した。山に囲まれた小さな街で人口も約4万人弱と少ないが、家々の外壁や屋根瓦を青い色で塗って、街全体がまるで幻想的な絵のようである。タンジェからは内陸に入った、リーフ地方の山中の街である。1920年にスペインはこの街をスペイン領モロッコとしたが、1956年モロッコの独立によりモロッコに復した。従ってスペイン語を話す人も多い。まだまだ日本人観光客も少なく(2011年現在)、専らヨーロッパからの観光客が多い。人工の割にはホテルも多くある。この日の昼食は街を見おろす山上の「レストラン・アントス・シャウエン」でたべたが、料理は何のことはなかったものの、その絶景に目を奪われた。昼食を含めて約3時間、シャウエンの旧市街の青い街並みを見物した。まるで青の世界の眺望であった。
 この日は、次の目的地ヴォルビリスへ向った。午後に、リフ山脈を越えて、ヴォルビリス遺跡とメクネスの2か所の世界遺産を見物、宿泊地のフェズへ向った。このコースは超ハードなバスの旅であり、上記2か所の世界遺産をゆっくり見るには少しきつかった。(帰国後、スケジュールを作成した旅行会社には旅程の変更を助言しておいた。)メクネスの北方30キロメートルにあるヴォルビリスの遺跡はモロッコを代表する古代ローマ遺跡であり、約2時間しか時間がなかったが、夕日に輝くカラカラ帝の凱旋門とフォーラム、ベシリカ礼拝堂その他を見学した。古代ローマ帝国の西端に位置するモロッコに現存する遺跡として、保存状態が極めて良いことで知られている。これも世界遺産に登録されている。

青の街シャウエンの街角

ヴォルビリスの古代ローマ遺跡
 次にメクネスに入ったのは午後6時近くになっており、この世界遺産登録の街ではマンスール門しか見ることができなかった。これは非常に残念なことであり、前回訪問時にマンスールをゆっくり見ていた私にとってはよかったが、この旅程作成は失敗である。マンスールの街には、これ以外にも素晴らしい見学箇所が沢山あるからである。この門は王都へのメインゲートとして有名な門であり、メクネスの象徴として、この街のランドマークである。ムーレイ・イスマイル王が手がけた最後の建造物としても有名である。
 4日目の宿泊地フェズまで約60キロメートルを約1時間で走破してフェズ・インというホテルに夕刻遅くに到着した。このホテルは、まったく三ツ星クラスにも届かぬ位のホテルで、旧市街にも遠くあまり交通の便も良くなかったし、新市街の外れに位置していた。部屋の浴室の湯が出ず、暖房もきかない散々なホテルであった。(これも旅行後に、もう少し良いホテルを確保すべきであろうと旅行会社に助言した。)但し、このホテルのフロントデスクの女性スタッフは親切で、こちらの問いにも適切な助言を与えてくれてありがたかった。このホテルで夕食を済ませて、街で最高のホテルと宣伝されている「パレジャメイホテル」を見学に出かけた。超一流ホテルを各地で訪ねる訳で、失礼にならない程度に服装を整えるのは一寸だけ面倒である。ホテルにもピンからキリまであるので、宿泊しているホテルに比較すれば本当に雲泥の差がある。豪勢なホテルである。フェズ・エル・バリの北端に立地し、夜遅く訪ねたにもかかわらず、目的を告げると係員が親切に対応してくれて、ホテル内の各所を案内してくれた。時間とお金に余裕のある方には絶対におすすめできるホテルだ。高台にあり、フェズの街を見おろす眺望が素晴らしいホテルである。

メクネスの象徴マンスール門

フェズのパレジャメイホテルにて
 旅の5日目は、フェズで連泊をする為、身軽な服装と持ち物で、終日世界遺産の街フェズを観光した。フェズ市内定番の1日観光のコースである。午前中に王宮(フェズでの国王の滞在王宮)から、ユダヤ人街のメッラー、フェズジャディド通りを歩いて観光した。土産物品や日用品などを売る小さな店が密集している場所をくぐりぬけるように通ってバスに戻り、フェズで最大の庭園で噴水池などがあり2011年にリニューアルした美しい庭園を見物後、すぐ近くにあるレストランで、これも定番料理のチキンレモンのタジンを食した。その後、午後のコースは、楽しみにしていたマリーン朝の墓地を見物した後、ブーシェルード門へ向い、世界一の迷路と言われる、フェズのメディナへ入った。ガイドが居ないとどこをどう歩いたかもわからない小路や街路を、ゆっくりと2時間ほど散策した。カラウィンのモスクや、又、タンネリ、スーク、ダッバーギーンも楽しみ、パプーシュという名物の履物を購入した。パプーシュは、所謂、先端が尖ったスリッパであり、土産品として喜ばれる。皮なめし工場はフェズで有名であり、見物をしたが、その強烈な臭気と、そこで働いている人の、劣悪であろう労働ぶりにびっくりした。

世界遺産フェズ市街を俯瞰

フェズの皮なめし工場
 旅の6日目は、フェズを出発して、モロッコを東西に走るアトラス山脈を越え、雄大な山並みや、荒涼とした砂漠、点在する緑豊かなオアシスなどを眺めながら、約450キロメートルを南下して、約8時間半をかけ6日目の宿泊地エルフードに向かうコースである。先ず、アズルーの街へ向かった。現地人ベルベル人の居住する街で、アズルーはベルベル語で岩を意味する。ここは岩山が多く、又、街のランドマークは、市庁舎近くのグラン・モスクである。バスの車窓から風景を楽しみながら、ミテルドの街へと進む。この街はモロッコでも高山に位置づけられている。雪におおわれたアヤシ山の麓にあって、都市部であるフェズや、エルフードなどの砂漠部の中間に位置している。朝9時頃にフェズのホテルを出発して、特に見物する場所もなく、モロッコの大自然を車窓より楽しみながら、午後5時半頃、メルズーカ大砂漠への入り口の街エルフードに到着した。エルフードのホテルは「リアドサラーム」というこの辺では中級のホテルで、早朝にメルズーカの砂漠の朝日を鑑賞するために宿泊するホテルと考えれば、辛抱出来るクラスのホテルである。日本人をはじめグループのツアー客が多く、それなりに客扱いには慣れているが、建物が古くて広く、自分の部屋にたどりつくまで時間がかかり、備品も古く、食事もあまりよくなかった。(以下次号)
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―このままでよいのか高知市の桂浜公園整備案
狭い場所に建設工事が目白押し
公文敏雄(35回) 2017.02.01

筆者近影
 街づくりのボランティアグループ「森の中の高知駅」ホームページに「高知の観光名所」(桂浜)というスペースを新設した機会に、高知市ホームページに公表されている「桂浜公園整備基本構想」をじっくり読んでみました。その感想は、「いったん白紙に戻して出直すのがベストでは?」というものです。
理由をいくつか挙げてみます。
○狭い場所にあらゆる整備計画をてんこ盛り
 大小の駐車場、土産物売店、飲食店、宿泊休憩施設、催し物賑わい施設、複数の展望台、遊歩道と案内板、エレベーターやエスカレーター、遊覧船発着係留施設、親水テラスなどの整備・新設、龍馬記念館増設、樹木の剪定と伐採などなど、方々から出たアイデアを全部取り込んだような感じです。これではまるで博覧会場です。
 基本構想の「理念」としてうたう自然景観の保全とどう折り合いをつけるのでしょうか? この整備案には「景観評価」が完全に欠落しています。
○今ある施設をまず全部取り去ることから始めよう
 駐車場は桂浜公園内に無ければいけませんか? 水族館は浦戸湾岸に移設して日本一の「こども水族・水遊館」に衣替えすれば、遠足や家族連れで賑わうでしょう。龍馬記念館も桂浜公園を離れたらずっと立派なものができるでしょう。土産物屋や飲食店、宿泊施設、賑わい施設、展望台、船の発着場なども同様です。 
 移設先候補は近隣地区の遊休地・空き家などです。龍馬像など「絶対桂浜に置かなければならないもの」だけの整備に絞り込むことで、白砂青松の広大な自然、月の名所とうたわれた景勝地が復活し、周辺地区の潜在価値掘り起こし(活性化)にもつながるのではないでしょうか?
○種崎、長浜、御畳瀬、浦戸湾を外して「歴史」を語れますか?
 もうひとつの基本理念は「歴史」ですが、これを桂浜公園という狭い地域だけで表現するのは無理があり、かつ勿体ない話です。かつての漁師町長浜・御畳瀬、交易と水軍の里かつ龍馬ゆかりの種崎・浦戸湾などは貴重な文化遺産です。過去千年にわたる人々の営みと歴史ロマンに事欠かない周辺地域を含めた歴史公園化を目指して、龍馬を生んだ土佐らしい壮大なデザインを描いたほうがよいのではないでしょうか? 
○住民、都市景観専門家、行政で徹底的に議論を重ねよう
 長年にわたってみんなに愛され親しまれてきた桂浜です。無理な急ぎばたらきはよして、各地のプロジェクト事例に学び、近年発達が著しい景観デザイン、都市デザインの専門家の知見も取り入れ、お互いに議論を戦わせてベストな計画を作り上げたいものです。
(「森の中の高知駅」幹事)
****************
種崎の御船頭の末裔で浦戸湾に造詣の深い中城正堯(30回)さんから次のご意見が寄せられました
 公文敏雄さんの「桂浜整備計画」への意見に、全面的に賛成です。今後の観光開発は、自然景観と歴史的遺産の保存・活用を抜きにしては語れません。
 戦後の高知の行政は、浦戸湾関連に限っても、浦戸城趾の破壊による国民宿舎・龍馬記念館の建設、狭島の爆破、種崎中洲の埋め立てなど、貴重な史跡・自然の破壊が目に余ります。
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)
二宮健(35回) 2017.02.03

モロッコ地図
 エルフードのホテルの周囲にはショッピングエリアなども無く、とにかく寝るだけのホテルであったが、地域柄仕方がないと思う。この辺は、安宿は治安が悪く、我々の宿泊したホテルは安全で安心なホテルだと、現地ガイドは言っていた。
 旅の7日目は、早朝4時半に呼び起こしの電話が鳴り、メルズーカ大砂漠の朝日の昇るのを砂漠の中で見るツアーに、朝食抜きで、朝5時に出発した。まだ外は暗闇である。舗装がされていない悪路を約50キロメートルを4WD車で走り、6時前に駐車場に着き、大砂漠を見物した(写真@)。メルズーカ砂漠は、アフリカ大陸北部に広がるサハラ砂漠地帯の一つで、サハラとは「荒れた土地」の意味とのことだ。到着した6時頃も周囲はまだ闇であった。現地ガイドの案内でラクダや砂漠案内人の屯する場所へ移動した。
 有料のラクダに乗って観光するか、歩いて砂漠の日の出の見える場所まで行くか聞かれたので、徒歩での時間を聞くと、片道約30分とのことなので歩くことにした。ラクダを先頭に一行が歩いた。すぐに砂漠に入る。驚くほど、砂漠は眼前から始まっていた。足首までつかるような細い砂を歩くこと約30分、うっすらと夜が明け始めた。ここから朝日を眺めるとガイドが言って、焚火をもやし始めた。少し寒いので暖を取っていると朝焼けが起こり、一斉に周囲が見えてきた。見渡す限り砂の波のような重なりの彼方より、日が昇ってきた。本当に感動的な風景で(写真A)、皆が一斉にシャッターを切っていた。鳥取砂丘も美しいが、比較が出来ない程の砂丘の大きさと途方もない迫力である。これもごくサハラ砂漠の一部でしかないと聞かされると、感動するしかない風景であった。

写真@ 夜明け前のメルズーカ大砂漠にて

写真A 大砂漠の日の出
 見物を終え、同じ道をホテル迄引き返し、朝食をすませて、今日はワルザザートへ向う。西へ約360キロメートル、バスで約6時間30分の行程である。今日の車窓からも、モロッコを代表する景色が展開すると、現地ガイドがお国自慢をする。余談になるが、早朝の砂漠観光で、デジカメで写真撮影の際にシャッターに微小な砂漠の砂が入り、写真撮影が出来なくなったが、予備で持参したもう一台のデジカメに切り換えた。この辺は、私自身の経験から生みだした知恵である。すぐにカメラや予備の電池は手に入らない。海外旅行の際には予備が全てに必要である。  

写真B トドラ峡谷の断崖
 7日目はワルザザードへ向かう旅であるが、先ずバスはティネリールへと向かう。人口は4万人弱の小さな街である。ベルベル人の街である。今日のコースは変化に富んだコースで、「カスバ街道」と呼ばれ、土レンガで造られた大小のカスバを見ることが出来る。カスバとは城壁で囲まれた要塞のことである。そしてまた、途中のトドラ川の水を利用した街道一の美しい緑の映える、トドラ峡谷のオアシスがあり、土色のカスバと緑のオアシスとのコントラストが誠に美しい。このコースの途中には200メートルの切り立つ断崖が続く。モロッコのグランドキャニオンと呼ばれるトドラ峡谷(写真B)へ立ち寄り、ここで昼食をとった。ティネリールの街から、トドラ川の方へ向かいトドラ峡谷に入る。この峡谷はカスバ街道一の景勝地でもある。峡谷に立つ絶壁は、ヨーロッパのロッククライマーの聖地の一つに数えられている。絶壁にへばりつくように、レストランとホテルマンスールという安宿があり、このホテルで昼食をとった。料理は名物のクスクスであった。絶景をバックに写真を撮るのだが、とても岩山全体は人物を小さくとらないと撮れない途方もない大きさである。ホテルの前は美しい川が流れていて、景色が非常に美しい。昼食後、ダデス谷の村々の中で有名なエル・ゲル・ムグナの村を訪ねた。バラで有名な村で、バラ水(ローズ・ウォーター)を買ったが、バラの花自体は春で無いと見られないとのこと。花の時期にはバラ祭り(5月の第1週目の週末)が開かれ、その為に貸切バスが沢山訪れるとのことであった。
 タデス川沿いにバスは更に西へ走り、ワルザザートのホテルに午後5時半頃に到着した。宿泊したホテルは、フアラージャノブホテルであった。四ツ星に登録されているが、実際には三ツ星クラスの程度で、安心して宿泊できるのが売り物の、ビジネスクラスのホテルである。ワルザザートは、アトラス山脈の南に位置し、ドアラ川のオアシス都市であり、モロッコでのサハラ砂漠観光の入口でもある。標高千百メートル位に位置し、人口は約6万弱である。今日7日目のコースは、早朝から大変きつい行程であった。
 7日目の夕食を済ませ、今夜もワルザザートの超一流ホテルの探訪に出かけた。いわずと知れた、ベルベルパレスホテルである。5ツ星クラスとして有名であり、ワルザザート近郊で撮影された映画の出演スターは全てがこのホテルに宿泊しており、その主演映画のポスター等がホテル内に展示されていた。親切なスタッフによって館内を案内されたが、南モロッコ地方で随一のホテルだと自慢をしていた。プロの私の眼からもそれが理解できた。しかし常時、こんな場所でも宿泊客があり、高い料金を支払って宿泊する客は欧米系の客であろう。

写真C アイド・ベン・ハッドウの要塞
 旅の8日目は、ワルザザートを朝の9時に出発して、世界遺産のアイド・ベン・ハッドウを観光した後、北へ向かい、オートアトラス山脈を越えて170キロメートル、約4時間をかけて、マラケシュへ向かうバス旅である。順を追って訪ねた場所を述べてみよう。今日も天気が良く、見物場所も大変特長のある場所だった。
 アイド・ベン・ハッドウは、ワルザザードの西方約32キロメートルにあり、バスだと約30分で到着する。(写真C)古いクサル(要塞化した村)であり、世界遺産に登録された日干しレンガの建物群である(写真D)。ここは映画のロケ地としても過去何作にも使用された場所で、「アラビアのロレンス」や「ソドムとゴモラ」等々の他沢山の映画に使われている。今日の観光地の中でも圧巻の地である。1時間半程度徒歩で見て回り、いよいよオートアトラス山脈を進みマラケシュへ向かったが、途中まだ雪の残った山道を行き、標高2260メートルのティシュカ峠(写真E)を越えた。砂漠側のワルザザートと内陸南部の都市マラケシュとのオートアトラス山脈の分水嶺の峠である。ワルザザートからマラケシュへの道は人気のあるルートで道も舗装されており、車も多くはないが、そこそこの通行量はある。とにかく景色が雄大である。峠を下ると、タデルトの村に入り、休憩をとった。小集落であるが、難路を越えた旅人がやっと一息つける村である。朝9時にホテルを出発して、午後の3時過にマラケシュのホテルに旅装を解いた。マラケシュのホテルはアミンホテルという三ツ星クラスの大型ホテルで、新市街に位置し、日本人旅行者もよく利用するホテルである。マラケシュでは2連泊をする。部屋は古めかしい部屋であるが、浴室の湯が十分に出るのが、疲れた体には何よりである。

写真D 日干しレンガの建物群

写真E ティシュカ峠の標識

写真F 騎馬軍団のショー(マラケシュ)
 マラケシュの旧市街は、多くの街と違って、地元の赤土を使った建物が多く、建物を薄い赤色に塗ることが条例で定められており、複雑に入り組んだメディナの路地は、ピンク色の迷路である。人はマラケシュ旧市街を「ピンクシティ」と呼ぶほどである。1985年に世界遺産に登録された街を巡ることになる。到着した夕刻に、夕食を兼ねて、この街で有名な騎馬軍団によるファンタジアショーの見物をした。有名なショーで、世界各国からの観光客が、夕食をした後に、ショーを行う広場を囲み勇壮な騎馬軍団のショーを見物した。(写真F)
(以下次号)
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小村彰次期校長訪問記
公文敏雄(35回) 2017.02.25
小村 彰 先生より

ご注文の写真ですが、元がよくないので
あんまり写真を撮られたくない方で、手
持ちもありません。教職員プロフィール
をスキャンしたもので、ご容赦下さい。
 多くの皆さまから本校へのご協力をいただけるよう、精一杯努力してまいりますので、何かできることがございましたら、ご遠慮なくお声かけをいただければと思っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。
略歴
 土佐中時代  野球部    
 土佐高時代  バドミントン部
(2年連続団体・個人単複インターハイ出場)
    
 1974  土佐高校卒業(49回生)    
 1978  大阪大学人間科学部卒業
土佐中学高校教諭(社会、公民)
    
 1979-2003  クラス担任(24年連続)    
 1978-1991  中学野球部顧問    
 1992-2001  バドミントン部顧問    
 2004-2009  広報担当・広報部長    
 2010-  教頭     
****************

筆者近影
 2月16日に母校を訪問、小村彰教頭(社会科)に表敬・面談いたしました。 高知支部幹事井上晶博さん(44回)がアポイントを取ったうえ同行してくれました。 井上さんは土佐女子中・高教頭を経て現在高知県私学団体総合事務局長として 多忙を極めており、小村教頭とも長らくご昵懇ゆえ和やかな雰囲気で30分ほど 懇談できました(深謝)。一部をご披露いたします。
1.第二次百年委員会答申に対して
 小村教頭は答申起案に参画されたよしで、ある意味「責任がある」とのことです。 当然ながら重く受け止めておられ、先生方の声を反映させるというボトムアップの 校風に留意しながら、時間はかかるが、ひとつひとつ対処するお考えです。 答申冒頭で「人材輩出という建学の目的と目的実現のための基本方針」を総括して いますが、これに沿うことに尽きると思われます。
2.100周年(2020年)に向けて
 母校100年誌の制作方針については学識経験者に検討を依頼中で、3月中には 概要が発表される見通しだそうです。皆さまもご意見をよせられては如何でしょう。
 KPCから寄贈を受けた「土佐中学創立基本資料集」は貴重な存在で、関係者はじめ 理事、教員、図書館などに配り、活用していただいているよし。
 同窓生・父兄の協力を仰いでいる「新世紀募金」に関連して、最近1億円という大口の 寄附があったことが話題になりました。「先生方の海外派遣に使ってほしい」という条件が 付いているそうです。グローバル化は21世紀の流れであり、ガーナ高校生との交流行事 なども含めて(小生の名刺は「ガーナよさこい支援会幹事」)、今後注力せねばならない とのご認識です。私のほうからは、例えば甲子園出場支援という目に見える目的があって こそお金が集まるわけだから、資金活動には目的の具体性・透明性が肝要という点を お考えになってほしいというお願いをいたしました。
3.抱負について
 ずばり「土佐校らしい学校」というお答えでした。 その心は?「今夏の関東支部同窓会への出席を楽しみにしている」そうですので、 その折直接同窓生諸兄姉に語りかけらることでしょう。お楽しみに! (蛇足ですが、せっかくトップをお招きするのですから、大学進学統計と寄附のお話で 終わるのは何たること・・・喝!というのが小生の本音です。)
追伸: 井上さんは長年教職に携わられたキャリアと現職を通じて経験と人脈を拡げ、県内外の 学校教育事情に通じておられます。土佐高からの帰途、中心街まで一緒に歩きながら その一端を伺いました。筆山会やKPCの集まりなどで表裏いろいろお話していただき たいな、出来る事なら 百周年にも関わってほしいなと思ったものです。
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4)
二宮健(35回) 2017.03.03

モロッコ地図
 旅の9日目はマラケシュの終日観光である。最初メラナ庭園を訪れた。広い庭と大きな池を有する庭園で12世紀のムワッヒド朝につくられた。庭に植えられた草花や樹々が美しい。その後、バヒア宮殿を見物した。部屋の豪華さと、各部屋を仕切るアーチの形にもこだわりがあって、19世紀後半の、当時の大宰相の私邸から往時の豪華さが想像出来る建物である。その後、サアード朝の墳墓群を見学した。第一、第二、第三の部屋に分かれており、サアード朝(1549年−1659年)の代々のスルタンが葬られている(写真1)。
 9日目の午後は、モロッコらしさが凝縮した、ジャマ・エル・フナ広場を訪ねた。夕刻まで自由時間の為に、広場を中心に周辺のスーパーマーケットも見物した。現地の人が「ジャマ」と呼ぶ広場には、ありとあらゆる屋台が集まり、熱気の渦が巻いている(写真2)。広場は旧市街にあり、11世紀後半にマラケシュに首都があった頃にも、すでに街の中心であったし、古くからモロッコの観光名所として有名である。2009年9月に世界遺産に遅まきながら指定されている。私は、自由時間に広場に面したレストランで昼食をとり、ゆっくりと広場を観察した。又、屋台でしぼりたてのジュースを飲んだり大道芸の雑芸(チップを要求されるので、小銭を用意しておいたが)を楽しんだり、十分に広場の雰囲気を楽しんだ。その後、ホテルへ一度戻った後、マラケシュで有名なホテル・マ・ラマムーニアを訪ねた(写真3)。宮殿ホテルであり、18世紀の建築で、これこそ五ツ星にふさわしい超一流ホテルである(写真4)。日本の近代的ホテルと違って、モロッコの伝統的建築様式である。この日も遅く宿泊先のホテルに帰り、マラケシュの2日間を終了した。

写真1 サアード朝の墳墓群

写真2 夜のジャマ・エル・フナ広場

写真3、写真4 マラケシュの五ッ星

「ホテル・マ・ラマムーニア」内部
 旅も10日目を迎えたが、到着日に降雨があって以来ずっと晴天が続いている。旅の空は晴天が何よりのプレゼントと言える。マラケシュのホテルを午前8時に出発して、エッサ・ウィラへ向かう。マラケシュから西へ約174キロメートル、時間にして約3時間半のバス旅である。訪ねた街エッサ・ウィラも世界遺産に登録されている。紀元前800年ごろのフェニキア時代には既に港町として栄えており、歴史が古く、世界中から観光客が訪れるモロッコを代表する観光地の一つである。ポルトガル時代の城壁が旧市街のメディナを囲んでいて、私はスカラの北稜堡の展望台へ行き、この街のメディナとカスバと海を眺めた。スカラは絶壁に突き出した城壁であり見張り台となっていて、ずらりと大砲が並んでいる(写真5)。見物後、ムーレイ・エル・ハッサン広場に戻り、この街一番のにぎやかな広場のレストランで昼食をとった。この街はモロッコ人が国内で一番訪れたい街だということである。この街で有名な土産物は、アルガンオイルである。その後、エッサ・ウィラから、北東へ286キロメートル、バスで約4時間半をかけて、アルジャディーダへ向かった。この街もポルトガル都市の殘跡として世界遺産に登録されている街である(写真6)。ホテルには午後7時頃に着いた。

写真5 ポルトガル時代の城壁

写真6 アルジャディーダのポルトガル都市標識
 今日も強行軍であった。宿泊したホテルは、ムッサフィールという名のホテルで、イビスホテルのチェーンホテルであった。清潔ではあるが、世界的に同規格のホテルで、何の装飾もない。安価だけを売物にするビジネスホテルである。100室規模で海岸に建っていた。但しこの夜は満月で、雲一つない中天に輝く月にひとときの旅愁を感じた。
 旅も11日目といよいよ終盤となった日は、アルジャディーダのポルトガル支配時代に造られた城壁に囲まれた旧市街のメディナを見物した。16世紀初頭、ポルトガル人によって造られたメディナである。メディナの中に世界遺産がある。アルジャディーダのポルトガル都市、ポルトガルの貯水槽、ポルトガル支配時代の教会、稜堡の展望台が残っている。この街は、1502年から1769年の間、ポルトガルの支配下にあったため文物共にその影響が色濃く残っており、貯水槽は特に有名で、内部は30メートル程の正方形であり、1542年に倉庫として使われていたものを、水を断たれた時の為に貯水槽に改造したものである。入口は小さいが、地下は巨大な空間となっており、天窓から明かりをとっている。今は水溜りしかないが、昔はこの巨大な空間に人間の腰あたりまで水を溜めていたそうだ。地下空間に残された建物の柱も美しい。この街のメディナはそんなに大きくはなく、純白の建物の多いスークを見物した。その後東約100キロメートルにある、この国一番の大都市カサブランカへ約1時間半かけてバスで走り、午後早い時間に市内に入り、すぐにカサブランカ市内を観光した。

写真7 ハッサン2世モスク
 先ず国内最大のモスクであるハッサン2世モスクを参拝した(写真7)。比較的新しく、1,986年から8年かけて建造し、1993年に完成をした。大きさでは世界第7位のモスクであるそうだ。とにかく巨大であり、日本の宗教建築でも比較できる大きさはないと思った。内部は新しいために、きらびやかで豪華である。カサブランカは人口が約415万人、カサブランカとは「白い家」の意味であり、モロッコの経済の中心地である。市の中央にある、ムハンマド5世広場を見物した。市庁舎や裁判所、中央郵便局などが集まる大きな広場で、市の活気が漲っていた。午後4時半頃にカサブランカのリボリホテルに着き、小憩をとった。立地の良いだけの四ツ星ホテルで、1泊するだけのホテルという感じである。総じて今回のツアーで利用したホテルは、三ツ星か四ツ星クラスで、宿泊するには安全で合格点であるが、訪ねた一流ホテルと比較すれば随分と見劣りがした。これは料金的なことであり、日本とて同じことが言える。しかし、それはそれとして、モロッコの世界遺産の数々や、各地の文物、風景は心に残る印象を私に与えてくれた。

写真8 リックス・カフェ内部
 第11日目の夜、モロッコ最後の夜は、旅の土産話に、前回は訪ねなかった、米映画「カザブランカ」の舞台を模倣して造られた観光地、映画と同名の「RICK’S CAFE」 (リックス・カフェ)を訪ねた。日本人のモロッコに対するイメージは、1931年日本公開の映画「モロッコ」や、1946年日本公開の(製作は1942年)「カサブランカ」によるものが大きいと思う。ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演の「モロッコ」もそうだが、ハンフリー・ボガード(リック・ブレイン役)、イングリッド・バーグマン(イルザ・ラント役)が演じる「カサブランカ」は、ラブロマンス映画として大ヒットしている。その映画の中で、リックの経営する酒場「リックス・カフェ・アメリカン」で二人が偶然再会する場所である。パリでの思い出の曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が流れる酒場である。映画のストーリーは御存知であろうが、何とこの映画はカサブランカはおろかモロッコですら撮影されておらず、全てハリウッドの製作である。酒場のセットをそのまま再現して、カサブランカで観光用に建設して、その名も同じく、リックス・カフェとして世界中から観光客を集めている(写真8)。そんなことを知ってか知らずか、嬉々として写真撮影をしている。料理と酒はまあまあだが、凝った内装で、ピアノ演奏も同じように弾かれて、料金は結構高かったが、映画ファンや、又話のたねにしたい人には、市内で夜の観光にはもってこいであろう。(一応予約を取って訪ねたほうが良い。)ほろ酔い気分でモロッコ最後の夜を過ごし、夜遅くホテルへ帰った。
 帰路は往路の逆コースで第12日目にカサブランカを出発して、13日目に予定通り関空に帰着した。仲々に印象の強い、モロッコ一周の旅であった。(終)
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新刊のお知らせ
「龍馬・元親に土佐人の原点をみる」中城正堯(30回)著
公文敏雄(35回) 2017.03.20

筆者近影
 「まえがき」によると、著者中城氏の実家は種崎に住んで「代々土佐藩御船頭をしており、幕末の当主中城直守や長男・直楯夫妻は坂本家および龍馬とも交流」したという。これらを記録した文書(高知市民図書館「中城文庫」)を活用、かつ多くの史料を渉猟して著された労作である。歴史好きを自認する方々も、内容の斬新さに瞠目されることと思う。


13cm x 19cm版241ページ
轄rm新聞総合印刷 1,389円+税
第一章 土佐の坂本龍馬・お龍 
 「龍馬は最後の帰郷で、なぜ種崎に潜伏したのか」「龍馬未亡人のお龍さんは、なぜ坂本家を飛び出したのか」「龍馬は本当に愚童だったのか」など、第一章は、土佐での龍馬・お龍に絞って、その真相に迫る。

第二章 長宗我部水軍と浦戸城・高知城 
 第二章は一転、近年人気が高まっている戦国武将長宗我部元親の「飛躍の原動力となった『長宗我部水軍』には研究が及んでいない」として、忘れられた彼ら「海の一領具足」の実像に光を当てる。あわせて、これも知る人ぞ知る、元親が夢を託した「四国では先駆的な『石の城』」浦戸城の在りし日を考証し、貴重な文化遺産の再評価と保全を訴えている。

第三章 土佐藩御船頭の幕末明治 
 第三章では、「幕末に名もなき足軽として戊辰戦争に従軍、『三度死に損なった』中城直顕」を主役に据えて、維新史に顕れない生々しいドラマを綴り、あわせて、「近代高知県史学の開拓者とされる中城直正」を紹介している。

****************
 ≪著者より≫高知の書店しか並びませんので、読みたい人には謹呈します。4月の総会に持参しますので、人数をお知らせください。

書評: 高知新聞 2017.04.05
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向陽プレスクラブに入会します。
竹本修文(37回) 2017.03.20

筆者近影
 回 生 = 37K
 name = 竹本 修文
 住所・電話・Mailは総会後、名簿に登載します。
 勤務先 = すべて元の職場、鞄月ナ、東芝電機サービス、北芝電機、独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)
 ハンドルネーム = オブー・スパデイー
 メッセージ = 趣味は、以前はワインだったが、ここ10年はローマ史、ヨーロッパ中世史&近代史の勉強に熱中している・・・・誰か一緒にやらないかな〜?
<事務局より>
 久しぶりの新規入会です。是非次の総会(4月22日)にご参加ください。
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―平井康三郎、ディック・ミネ、ケーベル博士をめぐって―
三根圓次郎校長とチャイコフスキー
中城正堯(30回) 2017.03.25
はじめに:クラシックを愛した教育者・三根

筆者近影
 2020年には、土佐中学校創立100周年を迎える。大正9(1920)年の開校にあたっては、発案者の藤崎朋之高知市長や、出資者の川ア幾三郎・宇田友四郎両氏とともに、「人材育成」という建学の精神に則した学校を創出し、見事な教育実践をおこなった初代・三根圓次郎校長を忘れるわけにはいかない。

三根圓次郎(土佐中高校提供)
 三根校長は明治6年長崎県の生まれ、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学文学部)の哲学科を出て教職に就き、若くしてすでに佐賀・徳島・山形・新潟の県立中学校長を歴任、東京府立一中(現日比谷高校)の川田正澂(まさずみ)校長(高知県出身)とともに、全国中等教育のリーダーとなっていた。土佐中校長に就任時は47歳であり、帝大で哲学を学んだ謹厳な教育者も、年輪を経て温和な慈父のまなざしを併せ持ち、やがて生徒たちから敬愛をこめて「おとう」と呼ばれる存在になった。
 土佐中創立は、第一次世界大戦後の国際化と大正デモクラシーの時代を迎え、国家の期待する新しい「人材育成」を目指すものであった。教育方針には「個人指導」「自学自習」など、時代の先端をゆく斬新な理念が掲げられていた。この理念に基づくカリキュラムの編成や授業展開は、すでに『土佐中學を創った人々』で紹介したので、ここでは割愛する。ただ、創立100周年を迎えるに当たって強調したいのは、「人材育成」「自学自習」などの基本方針も、予科(小学5,6年生)からの英国人講師による英語教育も、時代を先取りしており、グローバル時代を迎えた1世紀後の今日でも、誇りを持って掲げることができる点だ。

チャイコフスキー
(『ミリオーネ全世界事典』)
 今回は三根校長について、新しい観点「音楽を愛した教育哲学者」としての特色を、音楽をめぐる人物模様から紹介したい。土佐中に着任以来、先生は次第に視力を失い、「おとう」と親しまれた晩年には失明状態であった。しかし、この老校長の胸中には、少年の頃手にした横笛の音とともに、チャイコフスキーの音楽が絶えず鳴り響いていたように感じられる。あるときは、「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」の軽やかな旋律が、あるときは交響曲第六番「悲愴」の荘厳な調べが、響き渡っていたのではないだろうか。
 土佐中初期の卒業生による50周年の座談会で、こんなやりとりが紹介されている。<浜田麟一(6回生)「弁論会をやろうというと、校長はこの学校としては音楽をやろうといった。これはディック・ミネが音楽をやることになったので、自分も関心が音楽の方へ傾いて行ったのでしょうか」。伊野部重一郎(5回生)「校長はクラシックがかなり分かったので、息子が流行歌をやるのをなげいていたのでしょう」。鍋島友亀(3回生)「平井はハーモニカのバンドを作って、公会堂で土佐中公開演奏会をやった。配属将校(軍事教練のために配置された陸軍将校)がなぜ音楽をやるかと問うと、校長は生徒が将来政治家になった時、演説をするために声をきたえるのだと言ったという」>(『創立五十周年記念誌』)
 伊野部の発言で、三根校長がクラシック音楽を好んでいたことがうかがえる。なかでもチャイコフスキーに惹かれていたように思われる。それはなぜか、三根校長の周辺に多い、素晴らしい音楽家の探訪からさぐりたい。まずは、平井康三郎(5回生)に代表される教え子たちであり、ついでご子息のディック・ミネである。それぞれ昭和期を代表する作曲家であり流行歌手であったが、今では知る人が少なくなった。この二人の音楽家としての歩みと三根校長の影響、そしてさかのぼって三根が帝大哲学科時代にケーベル教授から受けた哲学・美学の教えをさぐってみたい。この教授は、実はモスクワ音楽院でピアノを修得した名演奏家でもあった。
  目 次
mok1<第一章>“作曲家平井康三郎”生みの親 mok2<第二章>歌う社長や歌う文部次官も誕生 mok3<第三章>息子ディック・ミネはトップ歌手 mok4<第四章>哲学と音楽を育んだケーベル博士

<第一章>“作曲家平井康三郎”生みの親
土佐中のピアノやマンドリンにびっくり

平井康三郎
(平井家提供)
 明治43年に高知県伊野町で生まれた平井康三郎(保喜・5回生)は、伊野小学校から大正12年に土佐中入学、昭和4年に東京音楽学校へ進学、ヴァイオリン科を終えた後に新設された研究科作曲部へ進んでプリングスハイム氏に師事、在学中の昭和11年には交声曲(カンタータ)「不盡山(ふじやま)をみて」が第5回音楽コンクールで1位に入賞する。代表作に「大いなる哉」「大仏開眼」があり、日本の歌曲「平城山(ひらやま)」「ゆりかご」「スキー(山は白銀)」でも親しまれた。校歌の作曲も多く、甲子園では毎年のように平井の曲が、勝利校を祝して流れた。作曲数は五千におよぶ。東京芸術大学や大阪音楽大学で教授を歴任、この間に文部省音楽教科書の編纂、『作曲指導』の執筆、『日本わらべ歌全集』の監修にもあたった。紫綬褒章など受章し、平成14年に逝去した。 長男丈一朗(たけいちろう)は巨匠カザルスに師事したチェリスト、次男丈二郎はピアニストであり、孫でニューヨーク祝祭管弦楽団音楽監督を務める指揮者の秀明、ロンドンを拠点とするピアニストの元喜ともども国際的に活躍している。康三郎が始めた「詩と音楽の会」も、丈一朗会長のもとで受け継がれている。平成27年には故郷「いの町」の新庁舎に平井康三郎記念ギャラリーがオープンし、寄贈されたグランドピアノなどゆかりの品々が展示され、「いのホール」で丈一朗や元喜による記念コンサートが開かれた。

いの町庁舎・平井康三郎記念ギャラリー(森木光司撮影)
 平井の父は高知商業の国語教諭から実業界に転進したが、音楽好きで商業の壮大な校歌「鵬程万里はてもなく・・・」を作曲、家にはオルガンや蓄音機があった。音楽的に恵まれた家庭で育ち、ハーモニカが得意だった平井少年も、土佐中に入った驚きをこう語っている。
 「グランドピアノはあるし、マンドリン・クラブはあるし、びっくりしました。レコードもベートーベンの第九をはじめ、名曲がたくさんある。蓄音機もビクターの最高級品です。ただ、残念ながらピアノを弾ける先生も、レコードを聴く生徒もいない。岡村弘(竹内・1回生)さんと私だけが弾いたり、聴いたりするだけだった」(『南風対談』)
 教材・教具の整っていたのは楽器ばかりではない。青山学院を卒業と同時に英語教師として赴任した長谷川正夫は絵画も担当、「校長は画架、石膏像、額縁など私の要求するがままに買ってくれた。絵の時間には潮江山(筆山)に登ってスケッチさせたり、自然を眺めながら絵の講義をしたりして、全く自由にできた。・・・公会堂でマンドリン合奏会を開いたことがあったが、これが(高知での)この種の最初のコンサートであったとか聞いた。私と同期の常盤(正彦、音楽)先生がハーモニカの独奏会を開いたこともあった」(『創立五十周年記念誌』)。本格的な楽器・画材をそろえ、教室にとどまらずに野外授業や校外活動もおこなった。また、男子中学では厳禁だった女学校のバザーや運動会の見物に行くことも許されていた。
 三根校長は、これから世界で活躍する人材には、文学や歴史だけでなく音楽や絵画の教養も大切だと考え、その素養がある新卒の長谷川・常盤両先生を採用、設備や教材も整えたのだ。イギリスのパブリックスクールにならって学校内に寄宿舎を用意し、運営は寄宿生の自治にゆだねた。そこでの平井少年の活躍を、五藤政美(4回生)は、昭和16年の「三根先生を偲ぶ座談会」でこう述べている。
「寄宿舎で茶話会をやる。そうすると皆一芸を出すわけで、平井君はハーモニカをやるわけだ、カルメンをやる。平井君はカルメンが巧いので、無論拍手喝采だ。校長先生は、大野(倉之助、数学)先生を顧みて、おれもカルメンなら知っているといっておりましたがねえ」。それを受け、片岡義信(1回生)が「平井君で思い出したが、ぼくらはマンドリンを買ってね、やったのだけれども上手になれなかった。・・・やはり校長も音楽を取り入れなければならんというのでね」と話す。都築宏明(3回生)は、三根校長のお宅(東京都大森)で奥さまに見せていただいた錦の袋に入れた横笛について、「若い時分に吹いたものだというのですね。それから推して考えて見ると、音楽の素養があったわけですね。趣味がないと思ったら多少あったのです」と、語っている。(『三根先生追悼誌』)
校長が父を説得、音楽学校へ
 平井は得意のハーモニカで人気者になるとともに、三根校長の指示で1年生の時に早くも「向陽寮歌」の作曲をしている。作詞は岡村弘先輩であった。「向陽の空」で始まる校歌は、すでに越田三郎作詞・弘田龍太郎作曲でできていた。寄宿舎名・寮歌にも、「向陽」が用いられている。これは漢籍に通じていた三根校長が好んだ言葉と思われる。

土佐中時代の平井(左)と
二人の弟子(平井家提供)
普通の漢和辞典には登場しないが、諸橋轍次の『大漢和辞典』には「向陽 陽に向かう」とあり、潘岳や謝霊運の詩文を例示してある。「高い望みを抱く」といった意味だ。中学4年生になった平井は、ヴァイオリンをはじめる。自己流ながら腕を上げ、5年生になった昭和3年には、昭和天皇の即位を祝う御大礼奉祝音楽会に、学内の二人の弟子とともに出演している。その写真で分かるように、この時代の制服には白線などない。 平井は、高知県各地から集まった学友を相手に、方言調査もおこなう。音楽とともに言語学に興味を持っており、中学4年生の時には、二百あまりの方言を分類、語源の考証・活用例などを記した「土佐方言辞典」をまとめている。才気あふれる平井の方言研究からは、次のような漢詩の土佐弁による名訳も生まれる。
   俺も思わくがあって都(かみ)へ出たきに (男子志を立てて郷関を出ず)
   成功者(もの)に成らざったら死んだち帰(い)なんぜよ (学若し成らずんば死すとも帰らず)
   ナンチャー どこで死んだち構(かま)んじゃないかよ (骨を埋む豈(あに)墳墓の地のみならんや)
   どこへ行ったち おまん 墓地ゃ多いもんじゃ (人間到る処青山あり)
 これを引用した山田一郎(評論家)は、「平井さんによると、この名訳に<詩吟のフシをつけて得意になって高唱し、三根圓次郎校長を呆然とさせたこともあった>」と書いている(『南風帖』)。平井は言語学でも早熟ぶりを発揮、作曲家になった後も、趣味は言語学・方言研究と述べ、全国の伝承わらべ歌を収録した大著『日本わらべ歌全集』全39冊にも監修者の一人として参画している。 言語学に興味を持った平井は英語も得意で、東京外国語学校に行くつもりで5年生に進んだ。当時の中学生は4年修了で旧制高校に進学できたため、土佐中5年生はほとんどいなかった。しかし、外国語学校や音楽学校・商船学校は5年卒業でないと受験できなかったため、平井は残っていたが、兄の薦めもあって東京音楽学校を目指したくなる。だが父親は医者か弁護士にしたくて大反対で、三根校長に「家の息子は音楽家にさせる心づもりはない」と怒鳴り込んだという。「三根先生を偲ぶ座談会」で、平井はこう述べている。

平井康三郎(平井家提供)
 「(父は)先生から反対にしかられ、<それは以ての外の不心得であって、将来音楽がどういう役目をするか知らんか>といわれてね、<ただ政治家や役人になったらそれが偉いと思ったらあてが違うぞ>と大分しかられて、それから家に帰って来て大の音楽ファンに親父がなりましてね。<お前もその決心して行かにやぁいかんぞ>と。それまでは語学の方をやる心算であったので、校長もしみじみ生徒の行く先のことについて本当に親身になって考えてくれたと思います。<語学はありふれた学問だからぜひ音楽をやれ>、こう言ってくれました」(『三根先生追悼誌』)。平井は息子の丈一朗にも、「三根校長はクラシックが好きだった」と語っている。
 音楽学校に進んだ後も手紙でよく激励を受けたが、なかでも印象的だったのは1年生の時の年賀状に記されていた「凡庸に堕するなかれ」であった。「この葉書は今でも持っており、時々出しては非常に発奮の資にした。これが、土佐中学の教育の真骨頂ではなかったかと思う」と、同じ座談会で語っている。日本情緒あふれる歌曲を生んだ昭和を代表する大作曲家・平井康三郎の誕生には、恩師・三根校長の存在が不可欠であった。(引用文献・図版の出典は最終章末尾に記載する)
<第二章>歌う社長や歌う文部次官も誕生
生伴奏で歌いまくった三菱の進藤
 平井康三郎(5回生)は母校や同窓会への想いも強く、筆者が在学中の昭和28年に土佐高委員会(自治会)と新聞部で応援歌を創った際には、快く作曲してくださった。作詞は校内から公募だったが、入選作は中学主事・河野伴香の「青春若き・・・」であった。同窓会関東支部では、昭和63年の総会に講師として登壇いただいた。

平井の土佐校応援歌が流れる甲子園
2016年春(藤宗俊一撮影)
「音楽と生活」をテーマに、ピアノ演奏をまじえての軽妙洒脱な音楽談義が忘れられない。平成4年には、土佐中柔道部の後輩・公文公(7回生)の依頼を快諾、公文教育研究会で特別講演会「音楽と人生」をおこなった。なお、著書『作曲指導』は、1年後輩の近藤久寿治が興した同学社から出版している。
 初期の土佐中からは、平井のような音楽家だけでなく、数々の音楽愛好家が育っている。その筆頭が進藤(旧姓宮地)貞和(2回生)である。昭和45年に三菱電機社長になると、重電中心で殿様体質だった企業を見事に変身させ、大躍進を遂げた。特にクリーンヒーターなど家電のヒット商品開発と販売網整備には、目を見張らされるものがあった。その原動力は、飾らない豪快な人柄と、「歌う社長」と呼ばれた得意の歌声であり、技術者や販売店をたちまちやる気にさせた。筆者の『筆山』第3号でのインタビューで、「中学時代には、軟式テニスやハーモニカに熱中し、自己流でヴァイオリンもやった。

ダークダックスと歌う進藤(土佐中高提供)
戦後は、オランダで「長崎物語」、ドイツで「野ばら」と歌いまくり、国際親善にも大いに役立てた」と語ってくれた。ギターやアコーデオンの生伴奏で歌い、ダークダックスとも共演した。その縁で平成7年には「ダークダックス阪神大震災救援チャリティーコンサート」が、進藤の協力を得て佐々木泰子(33回生)などによって開催された。
 柔道部で平井から鍛えられたという公文公も、高知高校に進んでからレコード鑑賞に熱中した。堀詰・細井レコード店でのバッハ「ブランデンブルク協奏曲」観賞会にも行ったことを、友人の久武盛真が平成9年の『文化高知』に書いている。公文は、クラシックのレコードをかなり愛蔵していたが、昭和20年4月の高知大空襲で常盤町の実家が全焼、蔵に入れてあったレコードは溶けて黒い塊になっていたと、後日口惜しがっていた。平井の影響を受けたのか、公文式教育を始めてからは、音楽と言語の関連に注目、やがて乳幼児教育にわらべ歌を取り入れ、標語「生まれたら ただちに歌を 聞かせましょう」を唱え、母親に呼びかけていた。筆者は、平成5年にパリの国立小児病院を見学したが、新生児室で副院長から「心身の健全な発達には音楽が欠かせない。ここの医師は全員、取り上げた赤ん坊に母に代わってわらべ歌をうたってやる。入院中の子どものためには楽器をそろえてあり、演奏を楽しめる」と語ってくれた。音楽の意義に、改めて気付かされた。
 宮地貫一(21回生)は三根校長亡き後の入学だが、「歌う文部事務次官」と称された。演歌の新曲が出ると即座に譜面を手に入れ、赤坂の「いしかわ」などでコップ酒を豪快に飲んでは、ピアノの生伴奏で歌っていた。二人の宮地先輩は、仕事も酒も歌も「こじゃんと」楽しんだ。なお、三根校長も酒は大好きで、飲むと「よさこい節」を歌うこともあったと聞く。
邦楽には長唄の佐藤、謡の近藤

謡に励んだ近藤久寿治…中央(近藤家提供)
 三根校長の横笛とは関係ないが、邦楽の愛好家も多かった。佐藤秀樹(1回生)は、謡や長唄を修得、昭和58年には銀座ガスホールで長唄の大曲「船弁慶」を演じている。近藤久寿治(6回生)は、『新修ドイツ語辞典』で知られる教育出版社・同学社を興したが、多忙な中で同窓会の世話役をする一方、観世流の謡を五十数年にわたって修め、神楽坂の矢来能楽堂などでの発表を続けていた。大酒豪であったが、土佐中・三根校長への想いには並々ならぬものがあった。
 余談になるが、昭和33年に三代・大嶋光次校長が逝去した際に、近藤は「次の校長は絶対に母校出身だ」との信念のもと、関東同窓会の先頭に立って曽我部清澄先輩(1回生・高知大学教授)を強力に推薦した。大学生だった筆者は、帰郷の際に親書を託されて高知の同窓会会長・米沢善左衛門(2回生)に届けた思い出がある。近藤たちが母校出身者にこだわったのは、戦時色の強くなった二代・青木勘校長(愛知県立第一中学校長から赴任)の時代に、

三根校長時代の旧校舎(『三根校長追悼誌』)
寄宿舎での上級生によるしごきや、制服に軍服同様の白い袖章(白線)採用などがあったからと思われる。青木校長は、東京帝国大学哲学科出身で三根の後輩であったが、時代のせいか三根校長時代にはあり得ない事態が発生、進学も奮わなくなり、校長の排斥運動が起こった。母校の教諭や高知高校在学中の同窓生を代表して、吉澤信一・曾和純一(16回生)が上京、排斥を近藤に相談したが、いさめられ実現しなかった(『筆山』第3号)。以来近藤は「三根精神の復興」を念じていた。『三根先生追悼誌』発行も、三根校長の「胸像レリーフ」校内設置も、その想いによる企画で、実務を裏で支えたのは近藤であった。
 それにしても、三根校長はなぜ音楽や美術の教育にこれほど力を入れ、平井の才能を見抜いて音楽学校への進学を薦めたのだろう。進学校として、単に有名高校(旧制高校)・有名大学への進学率向上を目指すだけでなく、生徒一人ひとりの個性や才能を見抜いて進路指導にあたるとともに、芸術活動へのなみなみならぬ意欲が感じられる。これは、どこから来たのだろう。
<第三章>息子ディック・ミネはトップ歌手
立教大で相撲部からジャズ・バンドへ
 三根校長の長男・徳一は、芸名ディック・ミネで知られる流行歌手で、第二次世界大戦前後の歌謡界で大活躍だった。モダンな歌とダンディーな容姿で実力・人気を併せ持ち、ジャズ・歌謡曲のトップ歌手となった。しかし、三根校長が健在のころは、息子が流行歌手というのははばかる雰囲気があったようで、戦時色の濃くなった昭和18年刊行の『三根先生追悼誌』には、息子のことはほとんど出てこない。近藤久寿治(6回生)は、大学在学中に平井康三郎(5回生)たちと東京で校長を囲んだ際に、平井のことを冗談交じりに「本郷の裏町で、はやり歌をうたっています」というと、校長は「そうか。実は、わしの息子もそのはやり歌をやっている」といわれた、とある。(『続続南風対談』)

歌うディック・ミネ(三根家提供)
 ところが戦後になると立場が逆転、三根校長は世間から忘れられ、「ディック・ミネの父」として紹介されるようになった。ディック・ミネは平成3年に82歳で亡くなったが、朝日新聞は3段抜きの見出しでこう報じた。
 <1934年、ビング・クロスビーが歌っていた「ダイナ」を自分で訳詩してデビューし、一躍人気歌手に。学生時代のアダ名からとった芸名「ディック・ミネ」は日本の洋風芸名のハシリとなった。タンゴ調の「黒い瞳」や、「上海帰りのリル」「二人は若い」・・・などの曲も次々とヒットして、折からのジャズブームに乗り、日本の男性ジャズ歌手の草分けとなった。古賀政男のすすめで歌謡曲にもレパートリーを広げ、「人生の並木道」「旅姿三人男」をはじめ、「夜霧のブルース」などでも成功した。・・・1979年から88年まで社団法人日本歌手協会会長。82年には「反核・日本の音楽家たち」結成の呼びかけ人にも名を連ねた。アムネスティ運動やフィリピンの子供たちへの学費援助などにも協力を惜しまなかった>
 単なる流行歌手ではなく、社会性や反骨精神も持った「凡庸」ならざる親分肌のリーダーであった。では、その生い立ちからさぐってみよう。父が徳島中学校長だった明治41年に生まれ、徳一と命名された。父の転勤で、小学校は山形・新潟で過ごした。大正9年に土佐中に招かれた父は、母・敬(よし)が体調を崩したので家族を東京に残して単身赴任となった。徳一は日体大付属荏原中学に進んだが、相撲部で活躍したのが目立ち、立教大学に相撲部推薦で入学する。だが、「帝大だけが学校と思っていたおやじは怒った」という。学生時代におこなった不良相手の痛快な武勇伝の数々は、

『八方破れ言いたい放題』表紙
写真はディック・ミネ
著書『八方破れ言いたい放題』(政界往来社)に詳しい。体もなにもかもデカかったので、ディックと呼ばれるようになる。相撲から音楽への転向は、この本でこう述べてある。
 「おやじは堅物一方の人だったけど、母親が話のわかる人でね。なにしろ日光東照宮宮司の娘だから、琴が抜群だった。西洋音楽にも理解があったし、音楽に親しませることが教育上もよろしいということを知っていた・・・電蓄が家にあり、シンフォニックジャズなんか、よく聞かされた」。
 そのシンフォニーが大学で聞こえてきたことから立教大学交響楽団に入るが、さらにジャズ・バンドに転進する。自らリーダーとなった学生バンドは、母の紹介によって日光金谷ホテルでデビュー。卒業して逓信省の役人になるが、すぐ辞めてバンド活動に専念、さらにテイチクの専属歌手になる。平成元年の『筆山』に寄せたエッセイ「父」には、<「このごろ変な歌を歌っているディック・ミネというのはおまえか」と父に聞かれ、怒られるのを覚悟で「はい」というと、「世の中、どんな商売もある。やる以上は恥ずかしくないようにやれ、トップになれ」であった。父は息子に対しては自由放任であったが、自分の学校の生徒に対しては、実に細やかに、一人一人の個性を見抜いていた>と、書いている。
軍部にも動じなかった父を尊敬
 昭和11年に三根校長が急逝した際には、母と高知に駆けつけたが、父の思い出を『筆山』第9号にこう記してある。
 <自分の教育方針を頑として通した父は、文部省であれ軍人であれ、岩のごとく動じなかった。父は学校で「おはよう」と、だれにも帽子をとって挨拶するのが常だった。死の前日のこと、軍部の将校(土佐中への配属将校)がこれを敬礼にせよと迫ったが、父は教育方針は変えぬと言い通した。腹を立てた将校は酒に酔って自宅に乗り込んできて、父と言い争った。この出来事が引き金となって、脳内出血を起こしたのであろう。父の教育は今の時代にも立派に通用すると、私は父を誇りに思います>。三根校長に、秘書のように寄り添っていた芝純(7回生)は、『向陽』3号に「一夜、配属将校と激論せられ、翌日脳溢血で殉職された」と述べている。

三根家の人々
中央の次男忠雄を挟んで校長ご夫妻
前列左端が徳一(三根家提供)
 やがて日本の大陸進出とともに、ディック・ミネたち歌手も上海から満州・樺太まで、軍の慰問演奏に動員される。昭和12年に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が公布され、“敵性語排除”で芸名は三根耕一に変えられる。やがてジャズやダンスも禁止となる。しかし、ハルピンや上海には弾圧がおよばず、前線兵士の要望でディック・ミネを通すが、傷病兵の惨状には涙したという。東京大空襲が始まった頃は防空壕に入り、隠し持っていた短波受信機で米軍放送を聞き、大本営発表との違いをちゃんと知っていた。“立教”仕込みの英語は、戦後になってルイ・アームストロングが来たときにも重宝がられ、一週間つきっきりで案内している。永遠の「モダンボーイ」で、レコードの通算売り上げは4.000万枚以上におよぶ。著書には、豪快な女遊びもあけすけに述べてあるが、4人の奥さんを迎え、男女9人の子どもを育てている。昭和60年には9人の子ども一同の呼びかけで、喜寿を迎えた「父を祝う会」が、永田町のホテルで盛大に開かれた。
 ディック・ミネは晩年になって、父について「熊本の旧制五高から帝大を出た偉い人で、五高の後輩に故・佐藤栄作元首相がいる。そんな関係で佐藤首相に可愛がってもらった」と、語っている。また、昭和54年に勲四等旭日小綬賞をもらった際には、「僕のおやじも、おじいさんももらった」と喜ぶとともに、「親孝行したいときには親はなし」と、嘆いている。親子はまったく別の分野で人生を歩みながらも、お互いに心を通わせていた。
 こうして、徳一(ディック・ミネ)が流行歌手として大成した背景には、音楽好きの母・敬の影響が大きかったが、父・圓次郎も温かいまなざしを注ぎ続けていた。徳一も、三根が平井に与えた「凡庸に堕すなかれ」を実践したのだ。昭和60年の関東同窓会にゲストとして出席した際のスピーチでは、「オヤジは偉大だった」と述べていた。今は、父と並んで多摩霊園に眠っている。

多摩霊園に眠る三根校長と徳一
(中平公美子撮影)

三根校長の胸像
本山白雲作(筆者撮影)
 三根校長には次男・結城忠雄がおり、筆者は父・圓次郎の思い出話をお聞きしたくて、昭和62年頃に杉並の御自宅を訪ねた。成人後に結城家に養子として迎えられ、会社を定年で退いた温厚な紳士で、こう語っていた。「子どもの頃、父は高知に単身赴任で、遊んでもらった覚えはあまりない。休みに大森の自宅に帰ってきても、東京の大学に進んだ教え子たちの勉強ぶりや就職が心配で、眼が悪いのもかまわずに東大などによく出かけていた。また、教え子も次々と家に訪ねてきた。昭和17年だったか、土佐中に父の胸像ができた除幕式に招待されて母と参加したが、父が皆さんに深く敬愛されていたことに、改めて気付かされた」 三根家では、ディック・ミネの三男・三根信宏が音楽の道に進み、「ギターの貴公子」と称されるギタリストになっている。
<第四章>哲学と音楽を育んだケーベル博士
哲学教授はチャイコフスキーの直弟子

ケーベル(『ケーベル博士随筆集』)
 偉大な教育者・三根圓次郎は、どのようにして誕生しただろうか。また、音楽など芸術の人生における意義についてどこで学び、クラシック音楽を好むようになったのであろうか。三根の実家は大村藩(長崎県)の大庄屋であり、大村中学から熊本の第五高等学校に進み、明治27年に帝国大学文科大学哲学科へ入学する。大学時代には、家庭教師などで自ら学資を稼いでいた。哲学は、前年にお雇い外国人として赴任したばかりのラファエル・フォン・ケーベル博士から教えを受ける。博士は異色の哲学者であり、素晴らしい教育者であった。
 ケーベルは、1848年ロシアの生まれ。父はドイツ系ロシア人で国籍はロシアだったが、本人はドイツが祖国と言っていたという。幼少の頃からピアノを習い、19歳でモスクワ音楽院に入学、作曲家チャイコフスキーや名ピアニストのニコライ・ルービンシュタインに師事する。5年後に優秀な成績で卒業するものの、内気な性格から演奏家への道をあきらめ、哲学研究に転進する。ドイツのハイデルベルク大学で、ショーペンハウエルの研究によって学位を取る。ミュンヘンに移って哲学や宗教の歴史を学びつつ、音楽学校で音楽史や音楽美学の講義もおこなっていたところに、突然東京の大学からの招聘状が届く。恩師フォン・ハルトマンの推薦であり、チャイコフスキーからは反対されたが赴任を決断、明治26年6月に日本へ着任する。
 当時の帝国大学文科大学は、多くを外国人教授に頼っており、ベルリン大学から招いた史学のルードヴィッヒ・リースのほか、独・英・仏の語学兼文学の教授は、いずれもそれぞれの国から招聘していた。哲学の日本人教授にはドイツ留学帰りの井上哲次郎もいたが、ドイツ観念哲学から東洋哲学、さらに国家主義へと進んだ人物だった。日本人によるアカデミックな哲学者の誕生は、哲学科で三根の少し先輩だった西田幾多郎が京大、桑木厳翼が東大の教授に就任する大正時代まで、待たねばならなかった。なお、外国人教授は、原則として英語で講義をおこなった。

ケーベルや三根がくぐった東大赤門(藤宗俊一撮影)
 哲学科でケーベルが担当した講義は、『帝国大学』(丸善 明治29年刊)によると1年で哲学概論・西洋哲学史、2年で西洋哲学史・論理学および知識論、3年で美学および美術史・哲学演習であった。一学年各科とも生徒は十数人で、講座によっては他の科の生徒とも合同であり、大変親しくなっていた。高知県出身では国文科に大町芳衛(桂月・作家)が、国史科に中城直正(初代高知県立図書館長)がいた。後に、大町によって土佐中開校記念碑文が記されるのは、三根と学友であったからだ。史学科には、幸田露伴の弟で日本経済史の開拓者となる幸田成友もいた。国史科の黒板勝美は東大教授となって日本の近代史学を牽引するが、昭和8年、東京での三根先生還暦祝賀会には駆けつけて「三根はまれに見る風格ある教育者」と称えた。三根が帝大を卒業した二年後に、寺田寅彦が五高から東京帝国大学理科大学物理学科に入学する。三根は、後に五高の後輩・寺田とも交流する。やがて、寺田もケーベルのもとに出入りするようになる。

ケーベルがチャイコフスキーからピアノを学んだモスクワ
モスクワ川とクレムリン(筆者撮影)

ケーベルが哲学を学んだハイデルベルク
ネッカー川と古城(筆者撮影)
日本人よ、偉大な芸術家・詩人に学べ
 では、ケーベル博士が来日当時に、日本の音楽界に抱いた率直な感想を『ケーベル博士随筆集』から見てみよう。まず「音楽雑感」で、「日本へ来て、音楽らしい音楽というものを聴くことができないようになって以来、私は大音楽家の作品(楽譜)を読むことにしている。これによって私はこれらの作品の拙劣なる演奏から受けるよりも遙に大いなる楽を享けるのである」と述べている。こうして、最初は日本人の洋楽演奏に失望するが、明治31年から東京音楽学校(現東京芸術大学)のピアノ教師も務めるようになる。
 音楽学校では、ボストン、ウィーンで6年間学んだ幸田延が、明治28年に帰国して母校の教授になっていた。延は、ケーベルからピアノを学ぶうちに腕前を認められピアノ科教授に就く。ケーベルも日本人の演奏をようやく評価、明治36年に日本初のオペラとして「オルフェイス」が音楽学校の奏楽堂で上演された際のピアノ伴奏をはじめ、度々ピアノを演奏している。この年には、幸田延の妹・幸もドイツ留学から帰り、音楽学校ヴァイオリン科教授となる。同年5月の第8回定期演奏会では、幸田姉妹・ケーベルがそれぞれピアノ・ヴァイオリンを披露して喝采を浴びている。幸もピアノや音楽史については、ケーベルから学ぶことが多かったと思われる。

平井康三郎・丈一朗夫妻(平井家提供)
 こうして幸田延・幸の姉妹は、ケーベルから多々指導を受けることになるが、姉妹の間で生まれた幸田成友は、文科大学史学科でケーベルから西洋哲学史を学んで、経済史学者となる。幸田家では、三人揃ってケーベルの恩恵をうけていた。妹は結婚して安藤幸となるが、そのヴァイオリンの弟子に疋田友美子がいた。後の平井康三郎夫人である。
 ケーベルは文科大学哲学科の教育について、大変手厳しい指摘をしている。「日本人の精神ならびに性格をはなはだしく醜くするところの傷所は、虚栄心と自己認識の欠乏と、および批判的能力のさらにそれ以上の欠如せることである。これらの悪性の精神的ならびに道義的欠点は、西洋の学術や芸術の杯から少しばかり啜ったような日本人においてとくに目立つ」「日本の学校当局者らは、・・・理知的ならびに倫理的教養には全然無価値なる、否、むしろ有害と言うべき・・・生徒の記憶を一杯に塞ぎ、疲労せしめ・・・試験のためにのみ学ばれるところの学課をもって、その生徒をいじめるのである」

ケーベル(手前右)と東京音楽学校管弦楽団、左は幸田姉妹
(『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』)
 卒業する哲学科の学生への挨拶では、こう述べている。「諸君は本日をもって諸君の自由――実生活ならびに学修における自由――の門出を祝さるる次第である。・・・およそ真に自由なる人とは法則に服従する人である、もっともその法則とは理性が正当として命ずるところのものである」「諸君に対して望むところは、諸君が偉大なる芸術家、詩人および文学者の作品をば、大思想家の著作と同様に、勤勉かつ厳密に研究せられんことである」(『ケーベル博士随筆集』)
 三根たちは、これらの教えを「干天に慈雨」の思いで吸収していったと思われる。当時の帝大文科大学生は卒業すると、研究者の道に進むか当時の各県の最高学府である県立中学校の教諭になるかであった。「教師になっても、生徒に一方的に教え込む職人ではなく、生徒とともに学ぶ研究者でもあれ」が文科大学のモットーだったと、中野実(東京大学・大学史史料室)は語ってくれた。ケーベルの哲学や美学から、教師としてのバックボーンを得て、また音楽や美術の意義をよく理解し、三根たちは各地の学校に赴任していったのだ。
 このケーベルのピアノに魅了された人物に、寺田寅彦がいる。五高時代にヴァイオリンを始めた寺田は、明治34年、東京帝国大学1年の時に夏子夫人が病気療養で高知に帰郷した孤独から逃れるため、東京音楽学校の慈善演奏会に行き、「橘(糸重)嬢のピアノ、幸田(延)嬢のヴァイオリン、ケーベル博士のピアノ・・・」を聴く。とくにケーベルの演奏に魅せられ、無性に会いたくなって自宅を訪問する。以来、夏目漱石を誘ってたびたびケーベルの出演するコンサートに出かけている。

寺田寅彦「自画像A」
(『高知の文学』高知県立文学館)
 寺田は、後にケーベルを悼んで随筆「二十四年前」を書いているが、そこには最初の演奏会での感動を「まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした」と記している。この随筆には、ケーベルを自宅に初訪問した様子も書き留めてある。寺田がヴァイオリンを独習していると話したときに、ヴァイオリンの値段を聞かれ、「9円」というと、「突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った」とある。五高時代に、月額11円の仕送りから無理に工面して購入した安物であった。笑われても別に不愉快でなく、「私もわけもなく笑ってしまった」と、述べている。(『寺田寅彦随筆集第二巻』)。
 明治38年1月3日の寺田の日記には、「阪井へ行き、琴三絃ヴァイオリンにて六段など合す」とある。阪井とは、夏子夫人の父・阪井重季(陸軍中将)であり、亡き妻の異母妹・美嘉子の琴などとの合奏に、ヴァイオリンで参加したのだ。肺病のため桂浜で、明治35年に亡くなった妻を偲んだのであろうか。夏子も美嘉子も、美人で評判だった。この頃から寺田は音響学を研究、明治41年には東京帝国大学理科大学から、理学博士の学位を授与される。主論文は「尺八の音響学的研究」であった。寅彦の孫・関直彦によると、一時ヴァイオリンを中断していたが、大正11年にアインシュタインが来日した際に、歓迎晩餐会で同氏が余興にヴァイオリンでベートーベンのクロイツェル・ソナタを弾いたのに触発され、高知出身の作曲家で土佐中校歌を作曲した弘田龍太郎からヴァイオリンの個人レッスンを受けることになったという。
 寺田の五高以来の恩師・夏目漱石も、帝国大学文化大学の大学院で、来日したばかりのケーベルから美学の講義を受けている。漱石は寺田とともに、ケーベルの演奏会に何度か足を運び、自宅も訪問、随筆「ケーベル先生」を書いた。そこには、「文科大学へ行って、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人迄は、数ある日本の教授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだろう」とある。文芸評論家の唐木順三は、「ケーベルと漱石」でケーベルの生活ぶりを、「読書と自分の耳にきかせるピアノと執筆の生活。自分の立場を〈哲学と詩との間〉において、詩と哲学を享受し観賞する生活。・・・生活即芸術であった」と書いている。(『現代日本文学大系 夏目漱石』)
ケーベル先生の遺産

三根圓次郎(『三根先生追悼誌』)
 土佐中校長に決まった三根は、大正9年3月、寺田を東京本郷に訪ね、寺田家が所有する高知市江ノ口の土地を学校用地に譲って欲しいと交渉している。五高の先輩、そしてケーベル先生の教え子からの依頼であったが、すでに先約があって成立しなかった。寺田は日記にこう記している。「三月四日 土佐中学校長三根圓次郎氏川田正澂氏の紹介で来た。中学敷地予定地に宅の地所ある故安く売ってくれといふ。先日来の江ノ口地所の買手は此れを知って買いだめに掛かったに相違ない」(『寺田寅彦全集 第二十一巻』)。土佐中の動きを察した業者が、手付け金を支払って、押さえてあったのだ。
 同年に、県庁に提出した「土佐中学校設立認可願」の添付地図には、江ノ口小学校の北側に「新設校地」との記入がある。申し訳なく思ったからか、寺田寅彦は立派な柱時計を土佐中に寄贈、潮江村に完成した新校舎に飾ってあった。寺田が演奏を楽しみ、また音響学の研究材料にも使ったヴァイオリンやチェロは、自作の油彩画「蓄音機を聞く」とともに「高知県立文学館・寺田寅彦記念室」で見ることができる。ヴァイオリンは1814年にボヘミヤで製作された名器アマティのコピーで、孫の関直彦が譲り受けていたもの。

「蓄音機を聞く」(『寺田寅彦画集』より)
 ケーベル博士は、独身のまま文科大学で21年間教えた後に引退し、ドイツに帰国しようとしたが、大正3年に横浜港で帰国船・香取丸に乗る直前に第一次世界大戦が勃発、帰国できなくなる。大正12年まで横浜のロシア領事館の一室で過ごして生涯を終え、東京雑司ヶ谷霊園に葬られた。夏目漱石や大町桂月も、ここに眠っている。
 ケーベルたちによって音楽の才能を開花させた幸田姉妹は、旧幕臣の家に生まれたが、祖父や母が音曲好きで幼少期から箏曲や長唄の稽古を積んでいた。やがて東京女子師範学校付属小学校で西洋音楽に触れ、その音楽的才能を見いだされ、ピアノやヴァイオリンの道に進んだ。三根も横笛を手にしていたが、江戸時代には公家の世界では雅楽が、武家や町人では能楽や箏曲・長唄が好まれた。欧米の上流家庭で室内楽が好まれたのと同様に、日本の家庭にも邦楽を楽しむ伝統があり、西洋音楽の受容にもつながった。平井の「平城山」、山田耕筰の「からたちの花」、滝廉太郎の「荒城の月」などには、日本の風土色が色濃く漂い、日欧の融合から生まれた調べと言えよう。

寄宿舎生に囲まれた三根校長
昭和10年(『三根先生追悼誌』)
 昭和4年に東京音楽学校へ進んだ平井康三郎は、ケーベルに接することはかなわなかったが、疋田友美子と出会う。疋田は幸田延の妹・安藤幸教授の指導を受け、ヴァイオリン科を首席で卒業し、平井と結婚する。ケーベルから三根を挟んだ平井と、安藤幸を挟んだ友美子と、いわば孫弟子同士が結婚、そこから世界的なチェリスト・平井丈一朗が誕生した。ケーベルがチャイコフスキーから受け継いだ音楽の流れは、ロシアからドイツ経由で日本に到来、幸田姉妹そして三根や平井によって見事に根付き、さらに独自の音色を加えて世界へと流れていったのである。
 三根校長たちは、ケーベル博士から哲学や美学の知識とともに、豊かな人生には音楽や美術を欠かすことができないという「生活即芸術」の教えを学んだ。さらに、内面から湧き出る教育者としての豊かな人間性を感じ取って巣立っていったのだ。三根校長にとどまらず、漱石や寅彦をも魅了した“ケーベルの教え”が、母校土佐中高の学園生活に受け継がれ、凡庸ならざる人材の育成に活かされることを願っている。
(本稿執筆に当たっては、三根圓次郎の孫・信宏氏、平井康三郎の長男・丈一朗氏、近藤久寿治の長男・孝夫氏、寺田寅彦の孫・関直彦氏、筆山会および向陽プレスクラブの皆様にご協力いただいた。感謝申し上げたい。なお、本文では敬称を省略させていただいた。)
三根圓次郎(『三根先生追悼誌』)

熊本第五高等学校時代
(明治28年)

東京帝大文科大学哲学科
卒業の翌年(明治31年)

県立徳島中学校長時代
(明治42年)

土佐中学校長就任4年後
(大正13年)
<主要参考文献・図版出典>
『土佐中學を創った人々』向陽プレスクラブ 平成26年/『三根先生追悼誌』土佐中学校同窓会編集発行 昭和18年/『創立五十周年記念誌』創立五十周年記念誌編集委員会 昭和51年/『ミリオーネ全世界事典』5 学研 昭和55年/『南風対談』『続続南風対談』山田一郎 高知新聞社 昭和59・61年/『南風帖』山田一郎 高知新聞社 昭和58年/『八方破れ言いたい放題』ディック・ミネ 政界往来社 1985年/『筆山』土佐中・高同窓会 関東支部会報 各号/『ケーベル博士随筆集』久保勉訳編 岩波書店 1928年/『幸田姉妹』萩谷由喜子 ショパン 2003年/『東京芸術大学百年史演奏会篇第一巻』『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』音楽之友社 1990年・昭和62年/『寺田寅彦随筆集第二巻』小宮豊隆編 岩波書店 1947年/『寺田寅彦全集 第二十一巻(日記)』岩波書店 1998年/『現代日本文学大系 夏目漱石(一)(二)』筑摩書房 昭和43年・45年/『文化高知』(財)高知市文化振興財団 平成9年/『寺田寅彦画集』中央公論美術出版 寺田東一 昭和60年/『高知の文学』高知県立文学館 平成9年
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4月22日KPC総会案内
北村章彦(49回) 2017.03.25
向陽プレスクラブ会員の皆様
陽春の候、会員の皆様にはご清祥のことと存じます。
さて、本年度は下記会場、時刻で向陽プレスクラブ総会を開催いた
しますので、是非ともご参加下さい。
出欠の回答は4月15日までに、左のMailBoxからお願いします。
また、欠席の方は、議案に関する賛否又は出席者への委任をお願いします。

日時:2017年4月22日(土)17:00〜17:30 総会
             17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7
TEL:  03-3432-5666
URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html

年会費の納入に関しては、29年度の会費につき、総会に出席し納入予定の方及び前納にて納入済の方を除き,
「みずほ銀行 渋谷支店(210) 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ」
宛にお振り込み下さい。
尚、総会議案は会員のページに掲載してあります。
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向陽プレスクラブ幹事会議事録
水田幹久(48回) 2017.03.29
議長 北村章彦幹事長  書記 水田 幹久
1.日時 2017年3月23日(木)  18時30分〜21時
2.場所 完全個室居酒屋 小次郎 東京八重洲店
3.出席者 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回)
 北村章彦(49回)
以上5名
4.北村章彦幹事長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
なお、本幹事会は出席者5名、委任状提出者2名 の7名の参加があり、
  構成員の過半数に達しているので成立したことを確認した。
 1.? 2017年度総会について、下記の要領で実施することに決定した。
   日時:2017年4月22日(土) 17:00〜17:30 総会  17:30〜19:30 懇親会
   場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
   港区新橋4-14-7  TEL:03-3432-5666
   URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
 2.総会議案について
   1) 2016年度活動報告 : 幹事長配布資料の通り報告することに決定した。
   2) 2016年度会計報告 : 中井会計配布資料の内容を確認した。(会員のページに改定版)
    本幹事会から期末までの間に入出金がある場合には、これを追加して、
    総会に報告することに決定した。
   3) 2016年度活動計画案、予算案 : 幹事長配布資料に以下の修正を加えて、
    総会に諮ることに決定した。
・役員交流を促すために交通費補助の金額を増額する。
 改定後 東京⇔高知 30,000円 東京⇔関西 15,000円 関西⇔高知 15,000円
・HPを活用して「生徒の声、卒業生の声」を募る。
・入退会会員動向を報告する。
・予算案の支出として、旅費補助を50,000円増額する。(増額後金額 60,000円)
   以上
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土佐向陽プレスクラブ