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2018.03.25 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト1”倉橋由美子(29回)
2018.03.18 北村章彦  4月21日KPC総会案内
2018.03.18 竹本修文  カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
2018.03.02 鍋島高明  土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』について
2018.02.25 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4
2018.01.21 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3
2018.01.02 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2
2018.01.02 中城正堯  中国版画・中城コレクション
2017.11.18 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1
2017.11.12 山本嘉博  遅ればせながら読みました
2017.11.05 冨田八千代  高崎先生の事
2017.11.02 山本嘉博  追伸
2017.10.20 坂本孝弘  11月25日(土)高知支部懇親会
2017.10.20 水田幹久  2017年9月 向陽プレスクラブ幹事会議事録
2017.10.20 中城正堯  『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』刊行
2017.10.12 山本嘉博  高崎元尚先生逝く
2017.10.12 山本嘉博  中澤節子先生逝く
2017.10.10 中城正堯  展覧会「浮世絵にみる 子どもたちの文明開化」
2017.10.03 中城正堯  書評「“上方わらべ歌絵本”の研究」
2017.08.26 藤宗俊一  終結宣言
2017.08.20 中城正堯  「“上方わらべ歌絵本”の研究」
2017.07.12 棚野正士  ディック・ミネさんの思い出
2017.07.10 中城正堯  「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介
2017.06.26 公文敏雄  「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」発送のお知らせ
2017.05.24 鍋島高明  『介良のえらいて』増補版の発刊について
2017.05.22 中城正堯  生首を化粧した武士の娘
2017.04.28 水田幹久  向陽プレスクラブ2017年度総会議事録
2017.04.28 水田幹久  雑感 「地域コミュニティ」
2017.04.18 竹本修文  ヨーロッパ・パーティ事情

2010/04/01-2010/07/25設立総会まで 2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで 2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで 2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで 2016/04/01-2017/03/31第8回総会まで
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母校出身“素顔のアーティスト”
中城 正堯(30回) 2018.03.25

−倉橋由美子、合田佐和子、田島征彦・征三兄弟、坂東眞砂子−


著者近影………背景は拙宅の桃で、
43年前に「こばえ」から育てたもの。
 土佐高出身の関東在住者有志による筆山会(会長佐々木ひろこ33回)3月例会で、表題の卓話を仰せつかった。母校出身の文芸家・芸術家は、まだまだ多士済々であるが、時間の制約もあり、筆者と直接交流のあったこの5人に絞って報告をおこなった。“素顔の”と題したように、作家論や芸術論ではなく、あくまで筆者がふれた個性豊かなこれらアーティストの思い出話にすぎなかった。当日、23〜83回生まで14名の出席者があったものの、これら同窓生の作品を愛読ないし鑑賞した経験のあるメンバーはごくわずかであった。
 ここでは、筆山会での発表内容に出席者の反響も加えて順次ご報告したい。拙文が、現代日本を代表する各分野のアーティストとして輝くこれら同窓生の作品を、あらためて愛読・鑑賞する機会になるとともに、皆様が知る別の素顔を回想してお知らせいただけると、大変幸いである。残念ながら女性3人はすべて鬼籍に入ってしまったが、作品は多くのファンに愛され続けている。では、倉橋由美子さんから始めよう。(本文では、敬称を省略させていただく)

母校出身“素顔のアーティスト” (T)
『パルタイ』で文壇に衝撃のデビュー 倉橋由美子(29回)

お茶の水での再会、帰郷・結婚・留学

倉橋由美子
(明治大学「倉橋由美子展」目録より)
 昭和33年頃の春、中大生だった筆者は、東京お茶の水駅の近くで連れだって歩く竹内靖雄と倉橋由美子両先輩(29回)にぱったり出会った。竹内は28回の公文俊平と並んで当時の土佐中高きっての秀才として知られ、新聞部員として交流もあったのですぐ分かった。倉橋は園芸部員で、学校の花壇の世話をする姿を見かけ、また各部責任者が出席してクラブ活動の予算を検討する予算会議で顔を合わせ、見覚えがあった。
 相手は二人連れであり、とっさに黙礼を交わしただけですれ違った。東大の竹内は三年になって本郷に来ていたし、倉橋は日本女子衛生短大を経て明治大学に入ったので、同級生として久しぶりに再会したのだろうと単純に思っていた。ところが、夏休みになって帰郷、高知市街に出て喫茶店プリンスに入ると、ここでもお二人に出会った。ようやくその親密さに気付き、今度は「またお会いしましたね」と声をかけた。
 それから2年後、筆者が学研で編集者のスタートをきって間もない昭和35年に、明大4年生の倉橋は、『パルタイ』で文壇へ衝撃的な登場をとげた。明治大学新聞に発表直後から話題となって文芸誌に転載、さらに同年末には文藝春秋社から単行本として刊行された。この本の帯に推薦文を遠藤周作とともに寄せた倉橋の恩師で評論家・平野謙は、「革命運動の根ぶかい純粋性と観念性を一学生に具現した作品」であり、「大江健三郎の処女作をみつけたときに似た興奮をおぼえる」と、斬新なこの作品に出会った感激を吐露していた。
 筆者も一読し、抽象的・寓話的な独自の作風とされながらも、当時の革新政党による学生を巻き込んでの労働者へのオルグ活動の世界が鮮やかに捉えられているのに驚嘆した。知識だけで描ける文章ではなく、実態を把握したうえでの創作と読み取れた。竹内の協力も相まって倉橋の才能が開花したであろうと推測した。竹内は東大経済学部大学院を終えると成蹊大学教授となり、経済思想史・経済倫理学で業績を挙げるとともに、経済エッセイでも数々の名文を残したが、平成23年に逝去した。
 後に聞くと、倉橋は土佐中高時代には受験勉強そっちのけで文学全集の作品を破読、「“くまてん”(吉本泰喜先生)のお陰で漢文・漢詩が好きになり、母親の反対を押し切って文学部に入学、仏文を専攻してカフカ、カミュ、サルトルに親しんだという。大学では欧米の新しい文学の潮流と、学生運動の先端に触れ、鮮烈な倉橋文学が誕生、純文学の新鋭として出版各社から追いかけられることとなる。
 『パルタイ』は35年度上期芥川賞候補になったが、最終審査で北杜夫の『夜と霧の隅で』と競い、二作同時選定の意見も出たが結局北のみが選ばれる。倉橋の作品は、テーマも文体もあまりにも斬新だっただけに拒否反応を示す評論家もいたのだろう。翌年度も『暗い旅』が候補に挙がるが選にもれる。この時の受賞者は、後に夕刊紙・週刊誌でポルノ小説を乱作する宇能鴻一郎であった。時を経て池袋の場末の居酒屋で、ひと仕事を終え、黙々と杯を傾ける宇能を何度か見かけたが、受賞時の面影はなかった。選考委員の先見性が疑われる選考だった。『パルタイ』は、36年に第12回女流文学賞を受賞する。
 昭和37年、明大大学院に進んでいた倉橋は歯科医だった父の急逝で退学し、土佐山田町の自宅に帰る。この際に、同年婦人公論女流新人賞を受賞したものの次作の執筆に苦慮していた宮尾登美子や、高知支局にいたNHKの熊谷冨裕、朝日新聞の米倉守(後に美術記者として活躍)と出会う。旧知の西岡瑠璃子先輩(28回)とも再会する。そして39年には、宮尾の仲人で急遽熊谷と結婚する。後に関東同窓会の『筆山』4号での筆者のインタビューに応え、結婚のいきさつをこう語ってくれた。「宮尾さんの紹介で、熊谷と生まれて初めてのお見合いをしたのです。『ものを書くなら結婚した方がいい。食べさせてやる』という言葉に、あまりの感激で、ただ『はい』と、いってしまいました」。 見合いの直後に伊藤整などの推薦で、フルブライト委員会からアメリカ留学の話が来たため、急遽三翠園で挙式をしている。「結婚のいきさつは秘密の約束だったのに、宮尾さんが書いた」とも、語っていた。結婚後に二人はアイオワ州立大で1年間の留学生活を過ごす。熊谷はNHKを退職して独立、映像プロデューサーとなる。

旺盛な執筆活動、旧友とも交流
 アメリカから帰国後、旺盛な執筆活動を再開するが、二人のお嬢さんにも恵まれ、主婦としての役割も楽しむ。昭和47年末から半年ほどは、一家でポルトガルへ渡って暮らしている。昭和50年には、早くも『倉橋由美子全作品集』(全8巻)が新潮社から出る。

右から倉橋、公文公、浅井伴泰(筆者撮影)
 ここに載せた写真は、昭和62年に市ヶ谷にあった公文教育研究会に公文公先生(7回)を訪ねた倉橋であり、同席した浅井伴泰(30回)である。師弟再会のキッカケは、倉橋がお嬢さんの入学した玉川学園の雑誌に「ソフィスト繁昌」と題したエッセイを書き、公文が当代の代表的なソフィスト、すなわちプロに徹した教師であると称えたからだ。倉橋は、教師の原型は知識を与えるソフィストであり、労働者でも聖職者でもないと説いている。同窓会幹事長として長く接した浅井は、「われわれには高名な純文学作家とは感じさせない気さくな主婦そのもので、同窓会にもよく協力してくれた」と語る。
 インタビューを掲載した『筆山』が届いたと電話をくださったとき、印象に残っているのは、「あれは書かなかったねえ」である。「あれ」とは、学生時代のお茶の水・高知での出会いだ。続けて、「彼の奥さんも高知の人なので気にするといけないので・・・」と、気配りをみせていた。竹内は、昭和52年に『イソップ経済学』、その後『世界名作の経済倫理学』で、古典物語を素材に登場人物の思想と行動を分析、軽妙なエッセイを残している。つい、倉橋が昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』や、続く『老人のための残酷童話』を連想する。竹内は、ギリシャ悲劇からカミュ『異邦人』まで取上げているが、各名作の末尾には「教訓」を添えてあり、これは倉橋の『残酷童話』でも同様である。
 竹内もまた、「公文先生の蔵書」というエッセイで、公文の思い出を「それこそハレー彗星級の知的巨人だった」「私は物に憑かれたように“公文図書館”の本を読んだ」と記している。手にした本は、数学者デデキントの『連続数と無理数』から、自然科学、歴史、文学におんでおり、イソップ物語も土佐中時代にこの図書館で見付けたようだ。

奇想天外な創作と忍び寄る病魔
 倉橋は著名になっても文壇で群を作ることはなかったが、芥川賞で競った北杜夫、そして重鎮・中村真一郎とは仲がよかったようだ。筆者も中村にはお世話になり、いつだったか熱海の別荘に銅版画家・木原康行とまねかれ、中村夫人(詩人・佐岐えりぬ)ともども飲み明かした。その際に倉橋の話になって、「素晴らしい作家だが、男女の愛情描写やエロスがまだ不足。もっと遊ぶように言ってくれ」と、告げられた。後日、倉橋に話すと、「私も“小説に艶がない、もっと遊べ”と直接言われた」とのことだった。神宮前の中村宅では、たまたま親友・加藤周一、堀田善衛との座に同席した。二人は中村をからかうように「彼は昔から我々が政治談義に熱中すると居眠りを始めるが、女の話になるとむっくり起きてくる」と打ち明けてくれた。小説家にとって、エロスは不可欠のようだった。
 後に、坂東眞砂子(51回)が『山妣(やまはは)』で直木賞をとった勢いからか「いまの日本の小説は面白くない。倉橋さんも・・・」と広言していた。倉橋と会った際に、このことにも話が及んだが、「元気があっていいねえ」と受け流していた。すでに昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』の「あとがき」で、「近頃の小説は面白くないという説があります」と書き、その原因を解明しつつ、「大人に喜ばれる残酷で超現実の世界やエロチックに傾く大人の童話に手を付けた」と述べている。 

『アマノン国往還記』(新潮社)表紙
大人の童話だけでなく、後期の長編小説では奇想天外な創作世界が展開、男女の恋愛にはエロチックな場面が織り込んであり、思わず引き込まれる。その代表が、未来の女権国家を描いた『アマノン国往還記』(泉鏡花文学賞受賞)である。ここでは、アマノン国(土佐方言「あまのん」に由来)へ潜入した宣教師が、女たちの失ったセックス復活に大活躍をする。もう一つが桂子さんシリーズで、『シンポシオン』では核戦争を前に、教養豊かな人物が源氏物語からギリシャ悲劇・漢詩まで飛び交う大人の会話と恋愛を繰り広げる。サティのピアノ曲が流れ、シェリーやワインが注がれる優雅なシンポシオン(酒宴)で、なぜか思いがけず沈下橋・皿鉢料理・いたどりなど郷土色に遭遇、頬がゆるむのも後輩読者の特権である。くまてん仕込みの漢詩の古典も巧に配してある。
 平成7年には、同学年の福島清三から「月刊『文芸春秋』の「同級生交歓」に、泉谷良彦・中山剛吉・大脇順和・倉橋などと出たい。交渉をたのむ」と話があった。同社の知人に相談すると、「編集部は倉橋さんから申し込んで欲しいといっている」との返事。早速本人にお願いしたが、「私から頼むと編集部に借りを作る」と、最初は躊躇していた。出版界では、借りを作ると書きたくない仕事も断われなくなるのだ。しかし、クラスメートの願いを聞き入れて、話をまとめてくださった。大脇にとっては「中学時代の懐かしい少女」、福島にとっては「在学中から主婦型」だった倉橋との久しぶりの再会だった。
 やがて平成10年頃になると、電話で体調不良をこぼすようになり、「耳鳴りがひどく、仕事にならない。あちこち耳鼻科の名医を訪ねたが原因不明なの」とのことだった。そして、「耳でなく心臓に問題があると、やっと分かった。しかし治療は困難みたい。気晴らしに体調の良いときに四国遍路を始めた」と伝えてきた。参考までに「高群逸枝の『お遍路』が面白い」と伝えると、「読む読む」といっていた。 病とともに、倉橋が珍しく愚痴をこぼしたのは、夫君の熊谷がかつて沖縄海洋博の仕事で赤字を背負った話だった。プロポーズの言葉と違ってフリーの映像作家はさまざまな不安要素を抱え込んでおり、夫の仕事ぶりは心配のタネだったようだ。晩年の長編『アマノン国往還記』の付録には、「もし女性(私)が育児と男性から解放される時代がきたら、という“仮定”に立って書いてみた(笑)」とある。ぜひ倉橋の切なる願望を、この作品からさぐって欲しい。
 平成17年3月に筆者は肺血栓塞栓症で突然倒れた。一月半の入院で命拾いをして自宅療養中だった6月、「倉橋由美子、拡張型心筋症で永眠、享年69歳」の知らせが届いた。

望まれる作品誕生の背景研究

『パルタイ』(文藝春秋)をはじめ著書の数々
 逝去の翌年6月に、明治大学中央図書館で同大学特別功労賞受賞記念「倉橋由美子展」が開催され、なんとか見学にかけつけた。この展示で認識を新たにしたのは、倉橋文学の国際性である。イギリスに飛んで作品の舞台を探訪したうえで翻訳した『嵐が丘』の続編『嵐が丘にかえる』はじめ、最新の『新訳 星の王子様』まで22点が展示してあった。『パルタイ』『アマノン国往還記』など著書の翻訳出版も、英語・仏語・独語・ポルトガル語・中国語など27点におよぶ。さらに、カルフォルニア大バークレー校などの大学院生による「倉橋文学」を取り上げた博士論文5点がならべてあった。
 当時、近代文学を専攻した大学生の論文テーマとして、倉橋人気の高いことは聞いていたが、海外でもこれほど評価が高いとは気付かなかった。この倉橋文学誕生には、明治大学でのフランス文学専攻とともに、土佐中高での読書や学び、そして学友・教師との交流 が欠かせない要素であった。西岡瑠璃子たちの協力で、高知県文学館に倉橋コーナーができていると聞くが、母校でもさらなる資料収集と、倉橋文学誕生の背景研究が望まれる。

筆者より:次回以降の合田・田島兄弟・坂東の同期で、写真を提供下さる方がいましたら、お知らせください。
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幹事長・北村 章彦(49回) 2018.03.184月21日KPC総会案内
会員各位
春の訪れが実感できる候となりましたが、会員の皆様にはますますご清祥のことと存じます。
さて、3月9日の幹事会で承認いただきました平成30年度の向陽プレスクラブ総会を以下の日程、場所、
会費で行いたいと存じます。
 なお、出席、欠席および議事委任のご連絡を4月14日までに返信にてお知らせ願います。
なにとぞよろしくお願いいたします。

日時:2018年4月21日(土)17:00〜17:30 総会
             17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7
TEL:  03-3432-5666
URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
   
  懇親会会費 5000円
※総会の議題
1.過年度活動報告
2.会計報告
3.新年度活動計画案
(幹事会・総会・高知支部懇親会予定)
(関東・高知の交流促進と旅費補助)
(会員基盤の強化)
(ホームページに在校生、教職員、卒業生の声を反映するページの活発化)
4.母校への応援
(母校との対話)
「母校の群像」紹介
(有名無名を問わず各方面で頑張っている卒業生を紹介する小文を
会員各位に募りホームページに掲載)
5.予算案
6.入退会状況報告


※また、2018年度の会費2000円の納入をお願いいたします。
以上
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カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
竹本 修文(37回) 2018.03.18


筆者近影
 カズオ・イシグロが2017年ノーベル文学賞受賞に先立って、12月7日にストックホルムのスエーデン・アカデミーでノーベル・レクチャーを行いました。
 約50分のレクチャーは下記に引用したURLで動画と英語・仏語・独語・スペイン語・スエーデン語で全文が公開されており、近日中に日本語の翻訳冊子が出版されるようですが、素人ですが翻訳してみましたので投稿します。電気技術者の私は文学の世界の知識はありませんが家族がイシグロのフアンなのに私がいつまでも無知ではいられないと思って挑戦してみました。KPC公文委員長にお見せしたら、「ホームページに投稿しなさい」と勧められてその気になりました。解釈の間違いなどがあると思うのでどなたかご指摘・ご指導を頂きたく思います。
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2017/ishiguro-lecture.html
私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍(印刷用docx版)

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私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍


Kazuo ISHIGURO
 もし皆さん方が1979年の秋に私に出会っていたら、皆さんにはそれが私だと気付くのはかなり難しかったかも知れません・・・どんな社会の人間か・・或いはどんな人種なのか。
 当時私は24歳でした。私の風貌は日本人のように見えたでしょう、しかしその当時イギリスで見かける大方の日本人とは違って、私は長い髪を肩まで垂らし、口ひげは盗賊のようにだらりと垂らしていました。喋る時の変わったアクセントは、イングランド南部の州で育った人たちのように語尾に抑揚があり、ヒッピー時代には時代遅れの地方の元気の無いけだるいものでした。もし私たちが話し始めたら、オランダの全員攻守型サッカーの選手とか、ボブ・デイランの最新アルバムとか、または多分ロンドンでホームレスと一緒に働いた年の事を議論したかもしれません。もし皆さんが日本の事を話題にし、日本の文化に関して私に質問したら、「私は5歳で日本を離れて以来、長い休暇であっても日本には行った事が無い」との理由で「私は日本の事は何も知りません」と答えて、皆さんは私の説明の中にちょっとしたもどかしさがある事に気づかれる事でしょう。
 その年の秋、私はリュックサック、ギター、可搬型タイプライターを持ってノーフォーク州のバクストン(Buxton)に到着しました。その村には古い水車が1台回っており、広い平らな農地が広がっているイングランドの小さな農村です。ここに来たのは、イーストアングリア大学大学院創作科に1年間の在籍が許されたからでした。その大学はバクストンから10マイル(16km)はなれた英国国教の主教座聖堂のあるノリッジ市にありました、私には車がなくて、通学手段は朝に1便、昼食時に1便、夕方に1便運行されていた路線バスだけでした。 しかし、それは大して問題にならない事にすぐに気付きました。何故なら、毎週2回以上通学する事を要求されることは殆ど無かったからです。私は、妻に出て行かれた30代の独り者が所有する小さな家の小さな部屋を借りていました。きっと、彼にとってはこの家は夢破れた忌まわしい記憶で満ちていて 、彼は私に近寄って欲しくないと思っているように感じて、終わりの頃には私は何日も目を合わさないようにしました。別の表現をすると、ロンドンでの非常に活発な生活を経験してきた私には、ここの生活は異常なまでに静かで孤独なものでした、そのお蔭で自分自身を作家に変えてしまったのでした。本当のところ、私の小さな部屋は作家がよく住む典型的な屋根裏部屋そのものだったのです。爪先立って窓の外を眺めると、耕された農地が遠くまで広がって見えますが、部屋の天井は傾斜して迫っており閉所恐怖症になりそうでした。机はありましたが小さくて、タイプライターと卓上電気スタンドを載せるとスペースがないくらいでした。床には、ベッドの代わりに大きな長方形の合成ゴム・スポンジのシートがあり、寒さが厳しいノーフォークの夜でさえ眠ると汗をかくほどでした。
 この部屋で夏の間に二つの短編小説を書き、クラスメイトに配布して、評価意見を求めるに値するか事前に吟味した事でした。クラスには6人の学生がいて、2週間に一度会っていました。私が散文小説の形式で他の分野に挑戦し始めたのはこの頃でした。それはラジオドラマ用でしたがBBCからは受け入れてくれませんでした。元々は20歳までにロック・スターになろうと決めていたのですが、実際には文筆業への野心が芽生えてきたのでした。その二つの短編小説は、今思えば、イーストアングリア大学の創作科に受かった事で有頂天気味の気持ちで書いたものでした。一つは自殺の約束をするぞっとするする話で、もう一つは私が福祉活動をしていたスコットランドでの路上喧嘩の話でした。どれも大して良い作品ではありませんでした。小説をもう一つ書き始めました。他の小説と同様に現在のイギリスを舞台にしたもので、自分の猫を毒殺する話です。
 そして、この小部屋に住んで3~4週間たったある夜、気が付いてみると、私は何かに駆り立てられるように日本の事を書いていました・・・・・それは第二次世界大戦末期の、私が生まれた長崎の事でした。
 特に強調しますが、これは何か驚くべき事が私に向かって来ていたのです。今日では、異文化の背景の中で育った意欲的な若い作家が自分の作品の中で自分のルーツを辿ろうとする衝動に駆られるのは現実的な事と広く理解されています。しかし、あの時の私の場合はこれとは大きく異なっていました。我々の国イギリスにおいては、多民族・多文化文学が急増していくには未だ数年はかかる状態でした。インド生まれのイギリス人作家のサルマン・ラシュデイーは自身の名前で出版した小説(悪魔の詩)がイラン革命の指導者の逆鱗に触れ,絶版にされて忘れ去られてしまいました。
 今日著名な若い作家の名前を挙げろと言われれば、人々はマーガレット・ドラブルの名を出すでしょう、もっと年上の作家ならアイリス・マードック、キングリーエイミス、サー・ウイリアム・ゴールデイング、アンソニー・バージェス、ジョン・ファウルズ達を挙げるかも知れません。コロンビア人のノーベル賞作家ガルシア・マルケスやチェコ生れのミラン・クンデラ等外国人は僅かな人達にしか読まれていません。彼らの名前は読書が好きな人たちにとっても重要ではないのです。
 私が初めての日本の物語を完成した時代のイギリス文学界はこのような状況でした。そういう訳ですから、私が新しい重要な方向を見出したと自覚するとすぐに、このまま進める事は独りよがりと思われないか、もっと一般受けする主題に戻るべきかどうか自問しました。かなり躊躇はしましたが、私は作品を周囲に紹介し始めました、そして、今日まで仲間の学生たち、指導教員のマルコム・ブラッドベリー氏そしてアンジェラ・カーター女史・・・その年は学内に居住していた著述家でした・・・に多大な評価を頂いて今日まで励まされ続けています。彼らがそれほど後押しをしてくれなかったら多分私は二度と日本の事は書かなかったでしょう。
 実際は、何時ものように自室に戻り書き続けました。
 

イーストアングリア大学:ロンドンの北北東ノリッジ市にあり、彼が大学院に
1年間在籍を許されて小説家になる事になった重要な大学
 1979-80年の冬を通して春の盛りまで、クラスの5人の仲間、生きていくための朝食のシリアルや羊の腎臓を買う村の食料店主、そしてガールフレンドのローナ・・・本日同席の妻・・・以外には誰とも話をしませんでした。彼女は毎月第二週の週末に来ていました。平穏な生活ではなかったのですが、その4〜5か月で最初の小説「遠い山なみの光(A Pale View of Hills)」の前半を何とか完成しました。長崎を舞台にしたもので、原爆投下から復興していく数年の事です。この時期に日本が舞台ではありませんが、短編小説を書こうと考えを巡らせましたが急速に興味が衰えていき、時間を浪費した事を時々思い出します。
 ともあれ、この数か月は私にとっては極めて重要でした。これが無かったら多分私は小説家にはなっていなかったでしょう。その時以来、私はしばしば振り返り、「私に何が起きていたのだろう」と自問しました。 この時期独特の気合はどこからきたのでしょうか?私の結論は、私の人生のあの時に、私は何かを失わないように急いで何かをしなければならない気持ちになっていた、という事です。このことを説明する為には少し過去に戻る必要があります。
 
 私は1960年に5歳で両親と妹と一緒にサリーSurrey州都のギルフォードGuildfordに来ました・・・ロンドンから西南西約50qの裕福な高級住宅地でした。私の父は海洋研究科学者でイギリス政府の為に働きに来ていました。本題から離れますが、父が発明に関わった機械がロンドンの科学博物館の常設展示品の一部になっています。
 我々がイギリスに来てから撮った写真を見ると戦後の荒廃した時代以来のイギリスの様子が分かります。男はウールのVネックセータにネクタイを締め、乗用車のドア部の床には乗降用踏み台があり、背後にはスペアタイヤが付いていました。ビートルズが現れ、性解放運動や学生運動が起き、多民族・多文化主義はそこらあたりに見受けられました。しかし、我々が初めて出会ったイギリスがこのような変化に疑いを持っていたとは信じがたいのです。フランスやイタリアから来る外人に会うのも珍しかった時代・・・日本人に会うなんて事は考えられませんでした。我々は、舗装道路が終わり、農耕地が始まる行き止まりの道路に沿った12軒並びの家の一つに住んでいました。5分もかからずに農地に行き、小道を通ると乳牛の群れがのろのろ歩き回っている牧草地がありました。イギリスに来たばかりの頃よく見た景色ではっきりと覚えているはハリネズミです、かわいくて針状の毛でおおわれている夜行性動物で、イギリス各地に沢山いるのですが、夜間に自動車にペシャンコに轢れて朝露の中に置き去られ、道路わきに寄せられ清掃員が集めに来るのを待っている・・・・そんな景色です。
 近所の人達はみんな教会に行っていました、そして彼らの子供達と遊びに行った時に気づいたのですが、彼らは食べる前に簡単なお祈りをしていました。私は日曜学校に出席し、そのうちに教会の聖歌隊で歌い始めました。10歳になった時にはギルフォードでは初めての日本人の聖歌隊headになりました。私は地元の小学校へ行きました、そこでは私はただ一人の非イギリス人でした、多分その学校の全体の歴史でもそうだったと思いますが、そして11歳になると近隣の町へ列車で通って公立中学校(グラマースクール)に行きました。毎朝細縞の背広に山高帽をかぶってロンドンの事務所に通う紳士たちと一緒の客車に乗りました。
 この頃までに、私は当時のイギリスの中流家庭の子供としてのマナーをしっかりと身につけました。友達の家を訪問した時は、大人が部屋に入ってきたら「気を付けの姿勢」をしなければならない事を知っていたし、食事の途中で席を離れる時は許可を得なければならない事を学んでいました。近隣でただ一人の外国人だったので、この辺ではちょっと知られていました。他の子供達に初めて会った時でも彼らは私が誰なのか知っていました。全く初めて会う大人たちなのに、路上や近所の店で私はしばしば名前で呼ばれました。
 この頃の事を振り返ると、日本が彼らの敵国だった第二次世界大戦の終結から20年も経っていなかったと覚えていますが、私達の家族は普通のイギリスの社会に受け入れられていて、彼らの心の広さや寛容さに驚いています。第二次世界大戦を乗り越えて世代を超えて素晴らしい福祉国家を築いてきたイギリス人に対して、その当時以来の私の個人的経験から、私は今日まで好意・尊敬・好奇心を持ち続けています。
 しかし、私はこの間ずっと家庭では日本人の両親ともう一つの人生を過ごしてきました。家庭には違った習慣、違った希望、そして違った言葉がありました。私の両親の元々の目標は、我々は1年、多分2年経てば日本に帰る事でした。事実、イギリスでの最初の11年間は、「来年には帰る」 「来年には帰る」の繰り返し状態でした。その結果として、両親の見通しは、「我々は移住者ではなくて訪問者」のままでした。両親はイギリス社会に適応しなければならないと言う重荷を感じる事は無いまま、イギリス人の物珍しい習慣を観察し意見を交わしていました。
 そして、長い間私は日本で成人としての人生を送るという前提のままであり、その為の日本を向いた勉強も努力しました。毎月、日本から先月号の漫画、雑誌、学習教材などが入った小包が届き、それらを貪るように読みました。これらの小包は私が十代のいつか・・・多分祖父の死後・・・に届かなくなりました、しかし、私の両親の昔の友達、親戚、彼らと日本で付き合っていた時の思い出話 、これらが私の中に日本のイメージや印象を形成していきました。そして、その当時私はいつも自分自身の様々な記憶をしまっていました・・・驚くほど広範で明瞭に、例えば祖父母の事、日本に残してきた愛用のおもちゃ、住んでいた伝統的な日本家屋・・・その家の事は今でも頭の中で部屋ごとの様子を再現できます・・・、幼稚園、近くの路面電車の停留所、橋の傍に住みついていた怖い野良犬、床屋の椅子、それは男の子用に特製されたもので自動車のハンドルが付いていて大きな鏡の前に固定されていました。
 以上の事がどのような結果になったかと言えば、私が散文体で小説の世界を創造しようと思いつくよりずっと前に, 成長するにしたがって、私は頭の中で日本と呼ばれる場所を豊かに、しかも詳細に創っていました。 そこはある部分では私が所属していた所であり、そこから私は自分のアイデンテイテイーや信用を築いてきました。その時代には私は実際には日本へ帰った事は無かったという事は事実であり、見ないままで私は自分自身の日本の姿をより鮮明に創り上げました。したがって、その記憶を保存・維持していく必要があるのです。その当時ははっきりという事はなかったのですが、20代半ばまでにある重要な事を悟るようになりました。
 私は、「私の」日本は多分飛行機で行けるどこの場所にも対応しないという事を受け入れ始めました;両親が話してくれた日本での生活や小さい子供時代の記憶は、1960年代から70年代には殆ど消滅していました。いずれにしても私の頭の中に存在していた日本は常に子供の記憶、想像、憶測によって作られた感情的なものだったかも知れません。そして、多分最もはっきりとしたことは、年々年をとり私の日本・・・共に成長してきた貴重な所ですが・・・だんだんと記憶から遠くなっていくのが分かりました。そして、今では確かにこのような感じです、即ち、「私の」日本はユニークで、同時に恐ろしく壊れやすい・・・外部からは立証しようのない何か・・・で、それが私をノーフォークのあの小さな部屋で作品を書くように駆り立てたという事です。私がしている事は、その場所に関してかつて思っていた世界の特別な色彩、風習、作法、尊厳、短所など全てを私の心から永遠に消えていく前に紙に書きつけていく事でした。私の日本を小説の中で再構築する事、記憶を失わないように安全に残し、後年になってこの本を指さして、「ええ、中に書かれているのは私の日本です」という事が私の願いでした。

カズオ・イシグロが現在住んでいる所は
ロンドン北部のGolders Green という住宅
地で、私が家族と81年〜83年の3年間過
ごした街ですが、彼の自宅周辺で受賞決
定時に押しかけたメデイアとベンチに腰か
けて会見した添付した写真がどの辺りか
分かりません。上の写真は、ロンドン・オ
リンピックが開催された6年前に私が住ん
だ家を訪ねた時の写真です。(訳者注)
 3年半経ち1983年春です、妻ローナと私はロンドンにいました、狭くて背が高い建物の最上階の二部屋の家に住んでいました。そこはロンドンで最も高い丘の一つに建っていました。< 私が住んでいたGolders Greenの隣のハムステッドHampstead付近かな?竹本 >近くに(強い電波を送信している)放送局のアンテナが建っていました。レコードプレヤーにレコードデイスクを載せて聞いていたら、ステレオのスピーカーから(誘導電波ノイズとしてステレオのアンプに紛れ込んできた)放送の音声が聞こえてきました。私たちの居間にはソファーや肘掛け椅子は無くで床の上には二組のクッションで包まれたマットレスがありました。大きなテーブルが一つあり、その上で昼間は私が小説を書き、夜は夕食を食べました。豪華ではないが、私たちはそこに住むのが好きでした。
 私は前の年に最初の小説を出版していました。更に、イギリスのテレビで近いうちに放送予定の短編テレビドラマを書き上げていました。最初の小説はかなり誇りを持っていました。しかし、その年の春までに多少不満な事が気になりだし、問題となりました。私の最初の小説と最初のテレビドラマは余りにも似通っていたのです。主題・テーマの事では無くて、物語の展開やスタイルの点の事です。その点に注目すればするほど、私の小説がテレビドラマとより似て見えるのです・・・登場人物の会話と物語の進行面での事です。それはある程度はいいでしょう、しかし私は今では、紙面の上でのみ適切に表現される物語を書く事にしています。小説を書くのに、もし小説家が、テレビを見る事によって得られるものと同じ経験を提供する小説を書くとすれば、小説を書く意味があるでしょうか?もし書かれた小説がユニークなものでなく、他の方法で表現出来ないものでなければ、どうして映画やテレビの勢力に対抗して生き残っていけるでしょうか?
 この頃私はウイルスで倒れ2~3日ベッドで過ごしました。最悪状態から脱し、ずっと寝ていたいと思わなくなった時、私は布団の上のど真ん中に何か重々しい物があるように感じましたが、それはフランスの小説家プルーストの小説 「失われた時を求めて」第一巻でした。そこで早速読み始めました。まだ熱がある状態でしたが序章を読んだだけで完全に釘づけになりました。私は繰り返して読みました。書かれている独特の美しい文節とは別に、私はプルーストが一つのエピソードから次のエピソードに展開していく手法にわくわくさせられました。出来事や場面の順序は通常の時系列にも、また一本の線で繋がっているような筋にもなっていませんでした。その代わりに、本筋に無関係な考えを絡めたり、或いは、記憶の予測しがたい変化が筋を一つの話から次の話へ移動させていると思われるのです。時々私は、何故これらの二つの無関係と思われる話が語り手(小説の「私narrator」か?)の心の中で隣り合わせて同居しているのだろうかと不思議に思う事があるのです。
 突如として、私はわくわくしながら、より自由に二番目の小説を書いている事に気が付きました。それは紙面だからこそ豊かさを創作でき、スクリーンの上では内面の動きを表現できない方法でした。もし私が語り手の考えている事に従って一つの場面から次の場面に記憶を漂わせながら進行させる事が出来るならば、私は抽象画家がキャンバスの上で形や色を選定していくのに似た方法で創作できるでしょう。私は場面を二日前から20年前の場面の付近に設定しうるし、二つの場面の関係を読者に考えさせる事もできるでしょう。このような方法で私は人間の自己や過去を覆い隠そうとする何層にも重なった自己欺瞞や自己否定を暗示できるかも知れないと考え始めていました。
 1988年3月、私は33歳になっていました。今ではソファーもあり、その上に寝転んでトム・ウエイツのアルバムを聞いていました。その前の年にローナと私は南ロンドンの時代遅れだが住み心地の良い一画に我々の家を買いました。この家で初めて自分の勉強部屋を持ちました。その部屋は小さくてドアはありませんでしたが、私は毎日書類を散らかし放題で一日の終わりにも片づける必要が無い事にわくわくしていました。そして、その勉強部屋で・・・私はそう思っているのですが・・・私は三番目の小説を完成しました。それは初めて日本・・・以前小説を書いて壊れにくくなっていた私個人の日本を舞台にしたものではありませんでした。
 事実、私の新しい本は、後に「日の名残り」と呼ばれるもので、私は年配の英国作家の作風とは思わないのですが、極端にイギリス的と見られました。私は、私の読者は皆イギリス人であり、生まれながらにイギリス的なニュアンスやイギリス的な好みに精通している、とは想定しないように注意してきました・・・実は多くの人はその様に思っているらしい事を私は感じているのですが。これまでは、インド生まれのイギリス人作家サルマン・ラシュデイーやトリニダード・トバゴ生まれのイギリス人作家ナイポールは、英国にとって中心的役割とか必然的に重要だとかに拘らず、もっと国際的で自国より外を見たイギリス文学の方向性を案出してきました。彼らの作品は広義には植民地が独立を成し遂げた後の時代のものです。彼らのように私は、作品の物語が英語世界特有であっても、例え文化や言語の境界を容易に超える事が出来る「国際的な」小説を書きたいのです。「私」のイギリスは一種の架空のものかも知れませんが、大まかな姿はイギリスに行った事も無い人々をふくむ世界中の人々が抱いているイギリスの姿の中に既に存在していると信じています。今完成したその小説は間違った価値観を持って人生を送り、既に遅すぎると悟っているイギリスの執事に関するものです。彼は彼の最も大事な時期をナチ・シンパに捧げてきて、自分の人生の為に道徳的・政治的責任を果たすことに失敗し、人生を無駄に過ごしてきたと深く悟っているのです。そして更に、完全な執事になる努力をするに当たり、彼が好きな一人の女性を愛し愛される事を自ら禁じてきました。
 私は原稿を数回通読して、そこそこ 満足しました。それでも・・・何かが抜けている・・・と、ひっかかるものがありました。
 ある晩、家でソファーに座ってトム・ウエイツのピアノの弾き語りを聞いていました。すると、トム・ウエイツは'Ruby's Arms'.という歌を歌い始めました。多分皆さんの中のどなたかはご存知でしょう。・・・私はここで皆さんにそれを歌ってお聞かせしようと考えていたのですが、気が変わりました・・・それはある男、多分兵士がベッドで眠っている恋人を残して出ていく・・・バラードです。早朝の事で、彼は道路を通り、列車に乗る・・・何も変な事ではない。しかし歌はしわがれ声のアメリカ人浮浪者が深い感情を押し殺しているような調子でした。やがて、歌の半ばで歌手は我々に彼は失恋しつつあると教えている瞬間があります。その瞬間は失恋の感傷その事とそれを克服したと言い切る事への大きな抵抗の間の感情的落差故に殆ど耐えられないほど哀れを感じさせます。
 トム・ウエイツは一連のメロデイーを心が洗われるように壮麗で美しく歌い、そして聞く者は大変な悲しみの中で崩れていく屈強な若者の人生を感じているのです。
 トム・ウエイツの歌を聞きながら私は未だやらなければならない事に気づくのです。私は物語の筋をうかつに決めたようだ、どの辺まで後戻りすべきか、私のイギリス人執事は感情的に弁明をし続けている、彼は自分自身と読者から最後の最後まで何とかうまく隠し続けている。そうして、私は決めていた事をひっくり返さなければならない事に気づくのです。物語の終わりに向かってほんの一瞬だが、慎重に決めなければならない瞬間です、私は彼の自己防衛の鎧を壊さなければならなかったのです。私は非常に大きく悲劇的な事が鎧の下からちらっと見えるようにしたのです。
 私は敢えて言いますが、他の事でも沢山の機会に歌手の歌声から極めて重要な教訓を学んできました。歌われている歌詞そのものより実際に歌っている事に注目したいと思います。ご承知のように人間の歌声は計り知れないほど複雑に混じり合った感情を表現する事ができるのです。何年もの間、私の書き物の具体的な場面は、とりわけボブ・デイラン、ニナ・シモーン、エミルー・ハリス、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジリアン・ウエルチ、そして友人で共著者のステイシー・ケント等に影響を受けてきました。彼らの歌声から何かを見つけると、私は「あ〜そう、これだ。これこそ、あの場面に必要なものだ。何かそれに非常に近いものだ」と自分につぶやいたものです。しばしばそれは言葉で表現できない情緒、しかし歌手の歌声の中に確かにある、そして、私は目指すべき事が分かったと思いました。


A Pale View of Hills(1982)The Remains of the Day(1989)Never Let Me Go(2005)
 1999年の10月に私はドイツの詩人であるクリストフ・ホイブナーに国際アウシュビッツ委員会の代表として招かれ、以前の強制収容所を訪問し数日間すごしました。私の宿舎は第一アウシュビッツ収容所と2マイル離れたビルケナウ絶滅収容所の間の道路沿いのアウシュビッツ若者集会所にありました。このあたりを案内されていた時に非公式に三人の生存者に会いました。私の世代の人間が生きてきた社会の陰の暗い力の源へ少なくとも地理的には近づいたと感じました。
 ある小雨が降る日の午後、私はビルケナウ絶滅収容所の瓦礫と帰したガス室の前に立っていました、不思議な事に今では忘れ去られて無人状態ですが、これはドイツ軍が爆破して迫ってくるソ連の赤軍から逃げて残していったものです。これらの残骸は湿っぽく、骨組みは壊れ、厳しいポーランドの気候にさらされており、年と共に劣化しているのです。招待してくれたクリストフ・ホイブナーさんは、ジレンマについて語ってくれました。これらの残骸は保存すべきだろうか?将来の世代の人々に見てもらうために透明なアクリル樹脂のドームで覆って保存すべきだろうか?それとも自然のままでゆっくりと腐って無くなるにまかせるべきだろうか?これは私には大きなジレンマへの強いメタファのように思われる。そのような記憶はどのようにして保存されるべきだろうか?ガラスのドームで覆えば悪事の遺物や苦難を退屈な博物館の展示品にしてしまわないだろうか?記憶を思い出す為には我々は何を選ぶべきだろうか?忘れて次の段階にすすむ時期はいつが適当だろうか?
 私は44歳になりました。これまで第二次大戦とその悲惨さや勝利などは両親の世代の事と考えてきました。しかし今や、そのような大事件を直接目撃した多くの人々は間もなく亡くなってしまうという事が私には分かっています。ではこれからどうするか?思い出す(記憶する)という重責が私自身の世代の肩に降りかかってきているのでしょうか、我々は戦争の時代を経験していない。しかし、我々は少なくとも戦争の経験によって消し去ることが出来ないような人生を歩んできた両親に育てられてきたのです。それじゃ、私には社会の語り手としてこれまで意識してこなかった義務があるのでしょうか?我々の両親の世代から我々の世代以降にできる限り引き継いでいく義務が・・・。
 少し後に、私は東京で講演をしていた時に、よくあることですが、聴衆の一人から次はどんな作品を書くか質問がありました。
 質問者は次のようにもっと具体的に指摘されました、私の小説はしばしば大きな社会的・政治的激動の時代を生きてきて、後からその人生を振り返り、もがきながら暗くて恥ずかしい記憶をあきらめて受け入れるような個人に関するものです、と。彼女は更に、今後の小説も同じような領域を続けるのでしょうか?と質問しました。私は全く予想していなかった回答をしました。はい、私はしばしば忘れようとする事と、忘れないようにする事の間でもがいているような個人の事を書いてきました。しかし、これからは、私が本当に願っている事は同様の問題に対して国家や地域社会は如何にして向かっていくかという作品を書きたいという事です。
 国家は個人のように記憶したり忘れたりできるでしょうか?或いは、重大な違いがあるのでしょうか?国家にとっての記憶とは厳密にはどういう事でしょうか?どこにしまっておくのでしょうか?どのように形作り、活用していくのでしょうか?忘れていく事は暴力が繰り返される事を止め、社会が崩壊して無秩序になったり戦争になったりするのを止める唯一の方法という時はあるのでしょうか?
 他方では、意図的に忘れて必ずしも公正ではない基盤の上に安定した自由な国家を建設する事は可能でしょうか?
 私は質問者に、私はこういう事について書く方法を見つけたいと答えている自分の声を聴きましたが、残念ながらどのようにすればよいか考え付かないのです。
 2001年のある晩、その頃まで住んでいたロンドン北部の自宅の居間を暗くして、ローナと私は、そこそこの画質のVHSビデオでアメリカのホークス監督の1934年の「20世紀」という映画を見始めました。映画の題名はすぐに判ったのですが、我々が過ごしてきたばかりの前世紀の事では無くて、ニューヨークとシカゴを結ぶ有名な豪華列車の事でした。ご存知の方もおありでしょうが、この映画は殆ど列車の中が舞台でして、ペースの速いコメデイーで、ブロードウエイのプロデューサーが、主演女優がハリウッドへ行って映画スターになろうとするのを必死になって止めさせようとするものです。当時の偉大な俳優の一人であるジョン・バリモアの愉快な演技を中心に構成されています。彼の顔の表情、身振り手振り、彼がしゃべる殆どのセリフは自己中心と自己劇化主義に満ち溢れた男の皮肉さ、矛盾、怪奇さが重なり合っていて多くの点で素晴らしい演技です。それでも映画が進行すると共に、私は不思議にも自分が引き込まれていかないのです。これには初め戸惑いました。私はいつもバリモアを好きだし、ハワード・ホークス監督のこの時代の他の映画、例えばHis Girl Friday やOnly Angels Have Wingsも大好きでした。
 映画が約1時間ほど進んだ時、簡単ですがとてもはっきりした考えが頭に浮かびました。小説の中ではまともな登場人物である事は言うまでもありませんが、沢山の生き生きとした映画や演劇が私を感動させない事がある理由は、これらの役者が興味ある人間関係の点では他の役者と関わっていない事にあります。そしてすぐさま、私自身の作品に関して次の考えが浮かびました、もし私が自分の登場人物に気を遣う事を止めて、代わりに自分の人間関係を心配したらどうなるでしょうか?列車が更に西に向かってガタゴト走り、ジョン・バリモアは益々ヒステリックになるにつれて、私は英国の小説家エドワード・モルガン・フォスターの有名な三次元的人物と二次元的人物の違いに関して考えました。彼は、物語の人物は「我々をなるほどと思わせるように驚かす」という事実で三次元的になると言いました。そうする事で彼らは成熟していきます。しかし、ある人物が三次元的ならば、彼または彼女の人間関係は三次元的ではないのでしょうか?
 他のどこかで同じ講演をした時フォスターは、ある小説から筋を抽出するのにグニャグニャ動く虫をピンセットで挟み電灯の下で観察するように持ち上げる、という愉快な描写を用いました。私も似たように何かの小説と交差する様々な人間関係を引用して光に照らす事は出来ないでしょうか?こういう事を既に完成している自分の作品と計画中の作品でできるでしょうか?教師と生徒の関係と見る事ができるでしょう。何か洞察力があり新鮮であると言えるでしょうか?或いは、私はそれをじっと見つめて、それが使い古された紋切型で何百もある二流小説の中の表現と同じであることが明らかになるでしょうか?それは感情的に共鳴するでしょうか?それは徐々に進化するでしょうか?それは「我々をなるほどと思わせるように驚かすでしょうか?三次元でしょうか?
 私は突然感じた事ですが、私の過去の作品の色々な局面で必死の努力にも拘わらず何故うまくいかなかったか良く理解できました。引き続きジョン・バリモアをじっと見続けていると、喋り方が過激であろうが普通であろうが、全ての良い物語は我々にとって重要な関係、即ち我々を感動させたり、喜ばせたり、怒らせたり、驚かせたりするものを含んでいなければならない、という考えが浮かんできました。多分将来、私がもっと登場人物相互の関係に注意を払えば、彼らは自分自身に気を配る事でしょう。私が言っているようにそれが起きているのです、私はここであなた方にはいつも明らかに判り切った事を述べているかも知れません。しかし、私が今言えるすべての事は、私の作家人生で驚くほど遅く気づいた考えなのです、そして私は今ではその時が今日皆さんに説明してきた他の事と同様に転換点と見ています。その時以来私は作品を違ったやり方で構築し始めました。例えば小説「私を離さないで」を書く時には私は先ず中心となる三人の人物の関係を考える事から出発し、そして他の人間関係に広げていきました。多分他の職業の人生でも同じでしょうが、作家の生涯で重要な転換点とはこんな事です。時にはそれらは小さく、取るに足りない瞬間です。それらは、静かで思いがけない私的なひらめきです。そんなに度々はひらめきません、そしてひらめく時にはファンファーレもなく、先生や仲間達にも支持されずに来るのです。それらはしばしば声高に、もっと急いでと言わんばかりに注目を引こうと競い合うのです。時には広く行き渡っている分別にも反するような本性を現します。しかし、それらが閃いてきた時にはそのまま認知する事が重要です。そうしなければ手からこぼれてしまうのです。
 私は小さくて個人的な事を力説してきました、何故ならつまるところ、私が行こうとする仕事の事だからです。静かな部屋である人が書き、もう一人の人と繋がりを持たせようとし、もう一つの静かな、又はそう静かでない部屋で読む。物語は他人を楽しませることができます、時には重要な事柄を教えたり論じたりします。しかし、私にとって重要な事は、感情を伝える事です。それらは我々が人類として国境や境界線を越えて分かち合う事に訴えてきます。物語の周囲には書籍産業、映画産業、テレビ放送産業、演劇業など大きな魅力的な産業があります。最後に、物語とは一人の人間がもう一人に語りかける事であり、私が感じる方法です。私が言っている事を理解出来ますか?是もまたあなた方に感じさせる方法でしょうか?
 さて私たちは現在に戻ってきました。私は最近になって現実に目覚めました、私は何年か(現実からはなれた)泡の中(のような所に)に住んでいたのです。そこでは、私の周辺の人々のフラストテーションや心配事に私が気が付く事が出来なかったのです。私は文化が発達し、皮肉で心が大きい人々で満ちた刺激的な私の世界は実際には私が嘗て心に描いたものよりずっと小さい事が良くわかりました。驚きの年2016年、私にとっては気の重い年でした、ヨーロッパとアメリカにおける政治問題や世界中の吐き気を催させるテロ事件は子供の頃から抱いてきた、心の広い人道主義者の価値は留まる事なく発展していくと言う事が幻想だったかも知れないと認めさせられました。
 私は楽観主義寄りの世代の一人です、ええそうです。我々は祖先が全体主義で組織的殺戮や歴史的に前例のない大虐殺を行った政治体制を、国境を越えた友好関係の中に存続している非常に羨ましがられている自由民主主義の地域に成功裏に変革してきた事を見てきました。我々は世界中で古い植民地帝国が植民主義を支持してきた非難されるべき抗弁と共に崩壊していくのを見てきました。我々は女性解放運動、同性愛者の権利、人種差別主義との戦いで著しい進展を見てきました。我々はまた資本主義と共産主義の間のイデオロギーや軍事的な大衝突の背景に反対して成長してきました、そして私たちの多くが幸せな結果になったと信じてきた事を目撃してきました。
 しかし今振り返ってみると、ベルリンの壁が崩壊して以来の時代は失われた機会に対して満足しているように思えます。富と機会の非常に大きな不平等が国家間および国内で拡大していくに任されています。特に、2003年の破滅的なイラク進攻と2008年に起きたスキャンダラスな経済破綻(「サブプライマリーローンからリーマンショック」の事か?竹本)に続いて一般市民に何年もの間課せられた緊縮政策は、我々を極右翼思想と民族国家主義が拡大する現在の状況に引き込みました。形態は昔ながらな形、近代的な形さらに地域社会に合った形で人種差別主義が、文化の発達した通りの下で埋もれていた怪獣が目を覚ましてうごめくように再びはびこり始めています。
 さしあたり、我々を結束させる前進的な方策は見当たりません。そうではなくて、西側の豊かな民主国家の中でさえ我々は資源やエネルギーを求めて激しく競い合う敵対する陣営に分断しつつあります。科学、技術や医学における驚くべき大成功による新たな挑戦はもうその角まで来ているのでしょうか、それとも既に角を曲がって行ったのでしょうか? 遺伝子編集技術CRISPRのような新しい遺伝子技術や人工知能(AI)やロボットの進歩は我々に人命救助の恩恵をもたらします。しかし、同時にアパルトヘイトにも似た過酷な能力主義社会をもたらし、現在のプロのエリートにもひどい失業者を生み出します。
(訳者注)CRISPRとはClustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeatsの略で、近年原核生物でファージやプラスミドに対する獲得免疫機構として機能していることが判明したDNA領域のことを指す。
 

 私、60歳代の男ですが、目を擦りながら昨日まで存在していて疑わなかったこの世の中の概略を見てみましょう。私は知的側面について言えば陳腐な世代の想像力に欠けた作家ですが、このよく知らない所を見るエネルギーを発見する事が出来るでしょうか?私には、感情の段階を大きな変革に順応すべく社会が揺れ動いている時に来る論争や戦いや戦争に向ける総体的な見方を示す為に役に立つ何かが残っているでしょうか?私は前進しなければならないし、出来る限りの最善を尽くします。なぜならば、文学は重要であり、特にこの難局を切り抜ける為に重要と信じているからです。しかし、私は若い世代の作家の皆さんに、私達に希望を与え導いて頂きたいと注目していきます。これからは彼らの時代です、彼らは私にない知識と生まれながらの才能があります。書籍、映画、テレビそして演劇の世界で、私は今日冒険的でわくわくするような有能な人材を知っています、40代、30代、20代の女性や男性達です。だから私は楽観しています。楽観しない筈はないでしょう?
 しかし、心を込めてお願いさせて頂きます・・・御望みでしたら「私のノーベル賞受賞アピール」として締めくくりたいと思います。
 全世界を本来あるべき状態に移す事は困難な事ですが、少なくとも我々自身の部門だけでも如何に準備をする事が可能か考えさせて欲しい、我々が読み、書き、出版し、推奨し、非難し、そして作品に賞を与えている「文学」という部門です。もし、我々がこの先が読めない時代に何か重要な役割を分担できれば、もし我々が今日、明日の作家達から最良のものを得る事が出来るなら、我々はもっと多様化していくに違いないと信じます。
私が言いたいのは次の二つの意味です。
 第一は、私達が文学と定義する範囲を一般的に受け入れられているエリートに期待をする文化の範囲を超えて、もっと多くの人々の声を取り入れるように広げなければなりません。私達は今日まだ世に知られていない我々自身の作品から新しい萌芽を見つけ出すべく、その作家が遠くの国々に住んでいようが我々の地域社会に住んでいようが、もっとエネルギッシュに探さなければなりません。
 第二は、私達は良い文学作品の定義を余りにも狭く、或いは控えめにしないように注意を払わなければなりません。
 新しい世代は全てに新しく、時には重要で素晴らしい物語が戸惑わせるような方法で到来するでしょう。私達はそれらに心を開き続けなければなりません、それらを育み最高の物を祝福できるように、特に物語のジャンルと表現の形態に注目しなければなりません。今日の危険なまでに分断が進んでいる時代においては、我々は耳を傾けなくてはなりません。優れた作品を書く事とそれをよく読む事は、その分断の障壁を打ち壊すでしょう。我々は、新しいアイデイア、立派な人間としての展望を見出し、それに結集できるかもしれません。
 スエーデン国立アカデミー、ノーベル財団,そしてノーベル賞を私達人類がより良くしようと努力する事の輝かしいシンボルとして長い年月に亘って継承されてきたスエーデンの国民の皆様に私は感謝申し上げます。 
カズオ・イシグロの昨年12月のノーベル文学賞受賞スピーチの筆者翻訳
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土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』について
鍋島 高明(30回) 2018.03.02

筆者近影
謹啓 今年の冬は格別の寒さで八十路の坂を登り始めた身にはこたえますが、皆様にはご健勝のこととお慶び申し上げます。土佐文雄(本名藤本幹吉)氏の単行本未収録作品群の中から坂本龍馬関係の文書を一冊にまとめたのが本書です。ご高覧、ご高評頂ければ幸甚です。
 土佐氏は高知市介良の出身で第二次大戦後の土佐文壇では第一人者であったことはよく知られています。土佐文雄というペンネームに対しては先輩たちから「土佐を代表するかのような名前ではないか」と嫌味を言われたこともあるそうです。だがその名に負けず次々と話題作を世に問います。
 「熱い河一小説植木枝盛」(椋庵文学賞)、「同行二人一四国霊場へんろ記」(高知県出版文化賞)、「得月楼今昔」、詩人愼村浩の生涯を描いた「人間の骨」、オペラにもなった「純信お馬」、「土佐一条家の秘宝」、「下司凍月の生涯」…高知の戦後文学史を彩る数々の名作、労作を残していますが、すべてが単行本になっているわけではありません。新聞、雑誌に連載したまま、あるいは講演録の形で残っているもの等さまざまですが、ここでは坂本龍馬に絞りました。
 歴史の教科書から龍馬を抹消するなどという発想は「痴の沙汰」です。

『正調土佐弁で龍馬を語る』
高知新聞社刊 定価1,400円(税別)
 わたしは土佐文雄氏を直接には知りません。同郷ということで、もちろん名前は先刻承知で「熱い河」などは昔読んではいましたが、近年「介良のえらいて」と題する人物録を書くに当たり、土佐文雄という人と作品をもっと知りたいと、高知県立図書館や国会図書館で資料を集めるようになりました。
 中で昭和63年に高知県高岡郡葉山村(現津野町)で行った「坂本龍馬と明治維新」と題する講演の速記録が見つかったことです。葉山村といえば、大阪財界の巨人片岡直輝・大蔵大臣片岡直温兄弟の出身地として知られていますが、この村の青年たちが土佐氏を招いて講演会を開き、その内容が「葉山史談」に掲載されていたのです。それも土佐弁でしゃべったままの速記録です。
 近年伝統的土佐弁がだんだん聞かれなくなる折から、また土佐文雄氏の名前も次第に遠のいていくのを感じるにつけ、ぜひ本にしておきたいと考えました。昭和63年に土佐氏は高知新聞に「逸話でつづる龍馬言行録」を連載していました。これらを骨格にして編集しました。出版に当たっては猪野睦、岡林登志郎両氏のおカを借りました。著作権の継承者である藤本剛氏には快諾をいただきました。そして高知新聞総合印刷の山本和佳さんには辛抱強く、修正に修正を重ねていただきました。
 また巻末に収録した土佐文雄氏追悼文の執筆関係者からは転載をご承諾いた.だき深謝申し上げます。
平成30年2月  敬具
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4
二宮 健(35回) 2018.02.25

筆者近影・アユタヤクルーズ船のデッキにて
 グループの仲間は旅にも慣れ、北部タイの商品の値段にも慣れて、マーケットでの土産品選びに余念がない。衣料品、靴、装身具など品物が山積みされている。

写真@ パックブンビンの店(ピッサヌロークの夜市)
グループの中に貴石類を使用したブレスレット(腕輪)の専門家がいたので、日本円に換算して3千円位の品を私自身用に買ったが、日本では1万円位で取引されていると聞いて、ちょっと得をした感じである。このバザール(ピッサヌロークの夜市)で有名なのは「空飛ぶ空芯菜(くうしんさい)炒め」の店「パックブンビン」である(写真@)。
 

タイ王国主要部
 12月24日、旅も8日目を迎えた。天気予報は晴れで、気温は30度との予報である。真夏の気温での南国タイでのクリスマスイブである。いつものとおり、ピッサヌロークのホテルを朝8時に出発したバスは、約300キロメートル南下してアユタヤへと向かう。先ずナコーン・サワンを経由して、ロップリーへ向かった。ロップリーはアユタヤからすると北に位置する街で、アユタヤからバスで約1時間半ばかりの所にある。アユタヤ時代にはナーライ王により王国第二の都市とされた。現在は人口約3万人の地方都市である。ロップリーには、クメール、スコータイ、アユタヤ様式の遺跡があり、サン・プラ・カーンの遺跡を見学したが、ここは猿に占拠された感じのする寺であり(写真A)、街の中にも猿が横行している。「猿寺」としても知られており、ラテラート(紅土)の山のような土塁はクメール時代のものである。昼食後、プラ・ナーライ・ラチャニウェート宮殿(現国立博物館・キングナーライパレス)を見学した。1665年から13年をかけて、タイ・クメール・ヨーロッパの折衷様式で建築された宮殿であり(写真B)、中心にあるのが、ラーマ4世が1856年に建てたピマーン・モンクット宮殿である。アユタヤ王朝時代の仏像やクメールの美術品、ラーマ4世の遺品などを展示した博物館として使用されている。

写真A ロップリーのサン・プラ・カーン遺跡(通称「猿寺」)

写真B キングナーラーイパレス(ロップリー)

 

写真C クルンシーリバーホテル(アユタヤ)
 昼食をはさんだ短時間のロップリー見学を終え、バスは更に南下してアユタヤへと向かった。もうバスは最終地バンコックまであとわずかな地点まで進んでいる。ロップリーからアユタヤまではバスで約2時間かかり、午後4時過ぎに、アユタヤの一流ホテルであるクルンシーリバーホテルに到着した(写真C)。このホテルは築20年であるが、その割には手入れが良く、ホテルスタッフも親切である。今日12月24日はクリスマスイブ。ヨーロッパ各地の雪のクリスマスマーケットは、

写真D 真夏のサンタクロース(アユタヤ)
広い範囲に何回も訪れた経験があるが、気温32度の暑い国でのクリスマスイブは初めてである。それでもホテルでは、雪の降り積もったクリスマスツリーで演出をしていた。また、サンタクロースも登場して(写真D)、賑やかにクリスマスイブを祝っていた。この日の夕食はタイスキであり、久し振りに鍋を囲んで、グループ全員が舌鼓をうった。
 

写真E ライトアップされたアユタヤ遺跡の一部
 夕食後に、このツアーでは3番目となる世界遺産「アユタヤ遺跡」のライトアップを見物に出かけた(写真E)。我々グループの他には、地元の人がチラホラと遺跡公園には居たが貸切り状態で、ライトアップされた寺院群を鑑賞した。日本から持参した小さなLEDの懐中電灯と電池式の蚊退治機が役に立った。ホテル帰着後は、グループから別れて、有料のクリスマスイブパーティに深夜まで参加した(写真F)。

写真F クリスマスパーティー会場


 いよいよ旅も終盤を迎えた9日目の12月25日は、午前中に世界遺産アユタヤを見学して、午後にはアユタヤクルーズ船にてチャオプラヤ河をバンコックへ向かう。 アユタヤはバンコックの北87キロメートルにあり、三つの川に囲まれた中州の島に1350年に建てられた。絶頂期にはカンボジアからビルマまでを領土としたが、1776年にビルマ軍の侵攻によって崩壊した。北のスコータイと共にタイの遺跡都市として有名である。


写真G ワット・プラ・シー・サンペットの仏塔群
 我々は先ず、ワット・プラ・シー・サンペットへ向かった。アユタヤ王朝の守護寺院である。3基のチューディ(仏塔)は、ビルマに侵攻された際に破壊されたが、現在のものは15世紀に建てられた(写真G)。次にワット・マハタートへ向かった。ワット・プラ・シー・サンペットと並び称される重要寺院である。14世紀に建立されたが、ビルマ軍侵攻によって破壊され、木の根に取り込まれた仏像の頭部(写真H)とレンガ積の仏塔が残されている。この仏像の頭部像はアユタヤ遺跡を代表するものとして有名である。1956年にワット・マハタートを発掘した際に多数の仏像と宝飾品が出てきて、

写真H ワット・マハタート寺院の
仏像の頭部(木の根に注目)
当時の栄華がうかがわれたそうだ。発掘品はアユタヤのチャオ・サームプラヤー国立博物館に展示されている。その後、ワット・ラーチャプラナートを見学した。この寺院は、1958年修復の際に、8代王が兄の為に収めた宝物が発見されている。王位継承に敗れた2人の兄を火葬した場所に、1424年に建立されたと伝えられている。陸路のバスでの見学はここで終わり、このコースで初日の12月17日から9日目の25日までの走行距離は約1500キロメートルに達していた。
 
 代表的なアユタヤ遺跡を見学した後、午後にアユタヤ近郊のワット乗船場よりアユタヤクルーズ船に乗った。バンコックへ向かう観光船である。船内でビュッフェ形式の昼食をとる。洋食、中華、フルーツと共に寿司などもあって、観光船の食事としては質量と共に豊富である。唯一の日本人グループの我々と同船していた欧米や北欧の人々も満足をしていた。船室の冷房のきいた部屋からも見物できるし、船首と船尾部分に椅子を備えたデッキ展望部もあり、天気の良い日には、チャオプラヤ河の風に吹かれて、両岸、上流、下流の風景が満喫できる構造となっている(写真I)。チャオプラヤ河を下り、ワット・マハタート、ワット・プラケオ、王宮、ワット・アルン(写真J)など、バンコック市内の有名な寺院等を左右に見ながら、バンンコック市内の観光船の終点に到着した。

写真I アユタヤクルーズ船のデッキにて

写真J ワット・アルン(暁の寺)

 その夜グループは、夕食をとった後、市内の歓楽街ハッポンのナイトバザールを見物して、宿舎のホテル(最初の日に宿泊したホテル)へ午後10時半頃帰る予定であった。私は、バンコック市内は従前から何回となく訪れているので、グループを離れて、世界中に知られている、ニューハーフショーで有名なショーシアター「マンボ」を見物に行った(写真K)。

写真K ニューハーフショーで有名な「マンボ」(バンコック)
最近郊外に移転して舞台も大きくなっており、ショーダンサーも一流の芸を披露する有名店である。1200バーツ(約4500円〜5000円)で見物でき、旅行社のオプショナルツアーのVIP席料金より安いので、自分個人で見物に行ったが、初めての旅行客には、安全で送迎付きのツアーに、旅行社か宿泊ホテルを通じて申し込むことをおすすめする。私もショー終了後すぐホテルへ帰ったが、午後11時半ごろになっていた。

 グループの9名は、旅行中に病気やトラブルもなく、旅行最終日の10日目に、連日30度前後の暑い国タイから、気温6度の日本の関空に無事帰国した。ありきたりの観光コースではなく、遺跡と寺院を中心にした内容に全員が満足した旅行であった。行く先々で神像や仏像がおだやかに微笑んでいた。
(終わり)
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3
二宮 健(35回) 2018.01.21


筆者近影・写真Eプールアリゾートにて
 この日の午後は、ウドーン・ターニー北西約64キロメートルにある、プー・プラ・バードの見学に行った。奇岩・奇石の並ぶ風景(写真@、A)に圧倒される。ここでも先史時代から人が住んでいたと、現地の英語ガイドが説明をしてくれた。その根拠として、岩に描かれた絵(写真B)は先史時代のものだと説明してくれた。ここはゆっくり見て回れば優に半日は要する公園で、次から次へと奇岩が現れてくる。洞穴を含む主な場所は、ここ歴史公園専属のガイドが必須である。我々グループも英語ガイド付きで手際よく、主要な場所を約2時間かけて、トレッキングをするように公園内の広い範囲を歩いた。この公園には、日本人が訪れることが少ないために、米、独、仏語を話すガイドは居ても日本語ガイドは居ないということであった。

写真@

写真A プー・プラ・バードの奇岩

写真B プー・プラ・バードの岩絵
 今日も気温約29度の晴天の中での見学を終わり、連泊2日目のウドーン・ターニーのホテルへ帰着したのは午後6時頃であった。

 旅も6日目を迎えた12月22日、今日はバスで西方へ向かう。ドンパャージェン山脈を越えて、ウドーン・ターニーの西南約260キロメートルのピッサヌロークへ向かうのだ。朝の8時にホテルを出発したバスは、タイの最北部を西へ進むのだが、山間部の景色がバスの左右に展開してゆく(写真C)。大きな街もなく、小集落がバスの車窓を過ぎてゆく。目的地ピッサヌロークまでは、山道をウドーン・ターニーからバスで約6時間の道のりである。途中、プールアリゾートという場所に昼前に到着した。(写真D)。ここで昼食の予定である。

写真C タイ最北部の山間部の風景

写真D プールアリゾート

 我々のバスは高原を登るほどに、車内でも段々と冷気を感じてはいたが、昼食のため車外に出ると風が少し強く、これが南国タイかと思う程に寒くて、グループ全員とガイドは、持参した服の中で一番暖かいセーターなどを着用する寒さであった(写真E)。気温は、ウドーン・ターニーの29度から、17度にまで下がっている。一気に12度も気温が下がると体感的には寒さを感じてしまう。
 この辺りは、プールアナショナルパークに指定されていて、ハイキング、トレッキング、登山などでタイ国内では有名な場所らしい。高原の保養地として、ホテルやコテージが点在していて、暑熱のタイの平地とは別天地の場所である。日本の避暑地のような混雑は全くなく、自然そのままの風情がある。ホテルの野外テラスにあるレストランで、余りおいしくはなかったが、山地独特の料理を味わった。峠のレストランからバスは一気に山を下り、今夜から2連泊するピッサヌロークの街へ入った。この街はナーン川に沿って広がっており、スコータイ王朝時代の首都であった。現在は人口約8万5千人で、スコータイ遺跡を訪れる人々の宿泊地の街となっている。

写真F チンナラート仏
(タイ一番の美しい仏像)

写真G アマリン・ラグーンホテル
 我々は、ピッサヌローク到着後すぐに、ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート(ワット・ヤイ)を訪ねた。タイで最も美しい仏像として有名で(高さ3メートル50センチ)、ピッサヌローク地域の公式なシンボルである、チンナラート仏を見物するためである。(写真F)。参拝をする人達がひきもきらずに堂内をうめている。この寺は1357年に、スコータイ王朝のリタイ王によって造られた。ピッサヌの意味は、ヒンドゥ教の神である「ビシュヌ神の天国」とのことだ。また、ロークとは、地球又は世界を意味しているとのことだ。この街はスコータイ時代もアユタヤー王朝時代にも重要都市であり、街の人々も誇り高い人達だと聞いた。寺院見学後に、午後6時頃、市内のアマリン・ラグーンホテル(五ッ星クラス、写真G)に到着した。
 今日は気温29度のウドーン・ターニーから17度のプールア、そして再び29度のピッサヌロークと、気温差の激しい1日であった。宿泊したアマリン・ラグーンホテルは、ピッサヌロークでも最高級のホテルであり、敷地も広くゆったりとしたホテルである。6日目も終わり、グループの仲間も疲れもあって夕食後早い時間に就寝したようだ。


写真H ピッサヌローク郊外
の黄金大仏

写真I シー・サッチャナーライ歴史公園の遠足園児
 旅の7日目、12月23日、今日も快晴である。朝食後8時にホテルを出発し、郊外にある有名な黄金仏(写真H)を見学した後、スコータイ時代の重要な遺跡シー・サッチャナーライ歴史公園の見学である。公園は広大であり、遺跡数が2百以上あるから、いかに大規模かがわかる。従って園内は専用車で巡る。我々が訪ねた日には、幼稚園児が遠足に来ていた(写真I)。
 先ず、ワット・チャン・ロームとワット・チェディー・チェット・テーオを巡った。

写真J ワット・チャン・ローム
の仏教寺院

写真K ワット・チェディー・チェット・テーオ寺院
ワット・チャン・ロームは13世紀の仏教寺院で、象によって囲まれ、ベル型の仏塔が38頭の象で支えられている(写真J)。ワット・チェディー・チェット・テーオはワット・チャン・ロームの向かいに建つ寺院で仏塔が7列に連なっている。そのことから、この名が付けられた。ここは、ヒンドゥ・仏教・ラーンナータイ様式などと頭が混乱するほどに仏塔が建っている(写真K)。中央にはスコータイ様式といわれる、蓮のつぼみ型のチューディ(仏塔)がある。

写真L ワット・マハタートの
大きな仏像
 午前のコースを終わって、昼食後は、このツアーで2番目となる世界遺産スコータイ遺跡を見学した。スコータイはピッサヌロークの西北約56キロメートル、バスで1時間ほどの場所にある。スコータイとは「幸福の夜明け」を意味するとのことで、その名の通り、1238年ここにタイ族最初の王朝が建てられ、140年間と短期間ではあるが、この王朝時代に築かれた寺院遺跡が数多く残されている。このスコータイ歴史公園(ムアン・カオ)に向かい、最初にワット・マハ・タート(写真L)を見学した。14世紀の重要な寺院であり、仏陀の遺骨を埋葬する為に、1374年にラチャシラット1世が建立したと言われている。ビルマ軍の侵攻により破壊されたが、1956年に遺跡の発掘調査が行われ、貴重な文物が発掘された。ビルマ軍に切り落とされた仏頭が長い年月に生い茂る木に持ち上げられ、「神聖木・トンポに眠る仏頭」としてスコータイ遺跡の中でも特に有名である。
 次にワット・スラシー(写真M)を見学した。池に浮かぶ小島にあるチューディー(仏塔)は、スリランカ(セイロン)様式の釣鐘型である。

写真M ワット・スラシーの仏像

 次にワット・トラバン・ングンを見学した。遊行仏の彫刻の見られるワット・マハタートの西側の「銀の池」の西側に、ワット・トラバン・ングンのチューディーがある。 

写真N ワット・シーチェムの仏像
 スコータイ遺跡の見学の最後に、ワット・シーチェムを見学した。この遺跡もスコータイを象徴する寺院である。屋根の無い、32メートル四方、高さ15メートル、そして壁の厚さが3メートルもある本堂内に大きな手で降魔印を結ぶ座仏像(写真N)は、スコータイ遺跡を紹介する際によく掲出される写真である。この仏像は、ラームカムヘーン大王の碑文の中で、「おそれない者」という意味の「アチャナイム」と呼ばれている。
 スコータイ歴史公園は総面積70平方キロもあり、他にも沢山のワットがあるが、今日旅行7日目の午後は、スコータイ遺跡の有名な4か所の遺跡を巡った。かけ足で巡ったが、よく整理をしないと、どれがどの遺跡か分からなくなりそうで、この原稿を記するにあたっても、訪問時刻と写真を照らし合わせながら書いている。
 7日目の夜は、グループ仲間と話し合って、夕食後に全員で行きたいと言うので、バスとガイドを手配して、ピッサヌロークのナイトバザール(夜市)へ行った。ナーン川沿いに広がるマーケットは、ウドーン・ターニーほど大きくはないが、それでもかなり大きくて賑わっていた。
(次号へ続く)
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2
二宮 健(35回) 2018.01.02


筆者近影 ウドーン・ターニーの露天食堂にて
 パノム・ルン遺跡はカンボジア国境付近にあり(写真@)、ピーマイ遺跡や、カンボジアのアンコール遺跡と共に、アンコール王朝時代に建てられた、クメール王国の神殿跡である。この遺跡は2005年に17年にわたる修復を終えて、大神殿がかつての威容をしのばせる姿に復活した。(写真A)
 パノムとは「丘」を意味しており、この神殿から眺める風景はタイの農村風景であり、その先には、カンボジアとタイの国境である、ドンラック山脈があり、山を越えるとそこはカンボジアである。寺院は402メートルの死火山の丘の上に建造されている。この神殿のレイアウトは、入口を入ると長さ160メートル、幅7メートルの石畳の参道があり、道の両側には70基の灯籠があり、進むとナーガ(蛇神)に護られた橋がある。

写真@パノム・ルン遺跡

写真Aパノム・ルン神殿群の一部
ここから急な坂道の参道を丘に登ってゆくと神殿の前に着く。神殿正面入口上部に飾られた「水上で眠るナーラーイ神」のレリーフがある。縦66メートル、横88メートルの回廊に囲まれた神殿は壮大で、内部にはヒンドゥ教の神、シヴァの乗り物の牛が祀られている。外壁には多数のクメール様式の宗教装飾がほどこされていて、壮麗である。
 

写真Bムアン・タム神殿内の人工池
 グループは、続いて、パノム・ルン遺跡より5キロメートルほど南東にある、ムアン・タム遺跡を見学した。10世紀から11世紀頃に建立されたヒンドゥ寺院である。120メートルと170メートルのラテライトの塀に囲まれた中には大型の塔が並んでおり、遺跡公園の中には大きな人工池があって(写真B)、ここから見る遺跡も美しい。言い伝えによると、往時には、ムアン・タムの神殿に詣でた後に、パノム・ルンの大神殿を参詣したとも伝えられている。

写真Cパノム・ワン遺跡の大仏塔
 遅い昼食の後に、ナコーン・ラーチャシーマーの市内から北東約20キロメートルにあるクメール様式の寺院、パノム・ワン遺跡を訪ねた。創建時はヒンドゥヘ寺院であったが、後に仏教寺院になったようである(写真C)。ナコーン・ラーチャシーマー県にあるクメール遺跡の中でも、規模も大きくて修復もされていて見ごたえがある。但し個人旅行で行く場合は足の便が悪いようだ。
 前述したパノム・ルン遺跡とムアン・タム遺跡はブリーラム県に属している。この県の主要なクメール遺跡である。この日も日本人や日本人グループに出会うことはなかった。ナコーン・ラーチャシーマーのホテルには午後6時半頃に帰りついた。
 

タイ王国主要部
 旅の4日目、12月20日、今日はナコーン・ラーチャシーマーより、コンケーンを経由して、東北部のラオス国境に近いウドーン・ターニーの街へと北上する。ナコーン・ラーチャシーマーよりコンケーンまで約188キロメートル、コンケーンよりウドーン・ターニーまで約122キロメートルで、計310キロメートルをバスで走行するコースである。午前8時にナコーン・ラーチャシーマーのホテルを出発したバスは、気温30度、快晴の国道2号を右手にコラート高原を見ながら北上してゆく。もうこの辺までくると行きかう車はトラックや小型貨物車が多く、めったにバスには出会うことがない。圧倒的に多いのがトヨタ製の車である。タイ主都圏にくらべると、人々の顔や服装もずっと素朴になってくる。北上すること約4時間でコンケーンの県都、コンケーン市に着いた。人口約17万人である。
 

写真Dコンケーン国立博物館内部
 我々は、ここでコンケーン国立博物館を見学した。あまり聞いたことのない街であったが、この国立博物館(写真D)は大変素晴らしかった。1階と2階には、手に取るような近さに、コンケーン周辺で出土した仏像、クメール様式のレリーフ、土器などが陳列されていて、ここも貸切のように誰もいない中で充分に見学出来た。館に接する庭には、バイ・セーマーと呼ばれている聖域を示した石板が目の前すぐに多数展示されており、日本の神社の神域のようであった。この博物館を見学出来たことは、望外の幸せという感がした。昼食をコンケーンでし、更に北上して、ウドーン・ターニーの大型ホテル(三ツ星クラス)バーン・チアンホテルに午後6時半頃に到着した。このホテルで連泊して近郊を見学する予定である。旅行中でこのホテルが一番悪かった。良いホテル(つまり高額なホテル)の中に、良くない低額のホテルを入れて、旅行会社は価格のバランスを計っているのだろう。とは言っても当地では指折りの良いホテルらしい。
 
 この日の夕食は欠席して、ウドーン・ターニーの有名なナイトマーケット(夜市)を見物に行った。この街は市内で人口約16万、広域市域で人口が約40万人と言われており、ラオスの首都ビエンチャンと指呼の距離であり、定期バスもビエンチャンとの間で1日に7本も出ている。マーケットは、ウドーン・ターニーの駅のすぐ近くにあり、大きな夜店街となっており、街の人々や欧米等からの観光客で賑わっていた(写真E、F)。

写真Eウドーン・ターニーの夜市

写真Fウドーン・ターニーの夜市写真
衣料品、民芸品、運動品店、装身具、漢方薬品店、食料品店、青果店、食堂等々、アーケードには数百軒もの店が密集しており、神戸でいえば、三宮駅から元町駅までの高架下商店街を数十倍したようなナイトマーケットである。イーサーン地方では最大の夜市である。ホテルでの夕食を欠席していたので、夜市の中の食堂ばかりが集まっている大きな屋台街で、現地の麺を使用した汁ソバを食べてみたが、ラーメンのような味で美味であった。
 3時間近く夜市を見物して、小型オート三輪車(トゥクトゥクというタイの代表的な庶民の乗り物)にてホテルに戻った。その帰り道、トゥクトゥクの後方すぐの所で何やら黒い大きいものの気配がするので、ふり返って見ると、大きな象が歩いている。象を使う人も見えないのに、象がゆっくりと街の夜更けの大通りを歩いている。人通りは少なくなっているとはいえ、誰もそれには驚かない。こちらがびっくりしてしまった。
 この街はかつてのベトナム戦争の時に、アメリカ空軍駐留の街として発展し、ベトナム空爆の基地として有名であり、ある意味での、タイの“負の部分”を背負う街でもある。しかし、その関係から街は拡大し大きく発展もした。
 

写真Kウドーン・ターニー市内のNo.1ホテル“センタラホテル”
 旅行5日目は12月21日、今日も晴天だ。ウドーン・ターニーでもう1泊するため、軽装で出発。いつものことながら、連泊すると旅は楽である。同行をしているタイ人のガイドとも、グループの人々は打ちとけてきて、日本語で冗談もとびかっている。バスは午前8時にホテルを出発して、このコースで初めての世界遺産「バーン・チアン遺跡」の見学に向かう。ウドーン・ターニーの東約45キロメートルにあり、1992年に世界遺産に登録されている。この遺跡が発見されたのは1966年のことである。発見当初は紀元前7千年から3千年前の遺跡とされ、世界最古の文明の一つとされたが、ラジオカーボンデータによって紀元前2千百年頃から紀元2百年頃の遺跡と推定されるようになった。

写真Hバーン・チアン国立博物館
 発掘現場は、バーン・チアン国立博物館から徒歩10分位にある、ワット・ポー・シーナイ境内である。ここで発掘された土器や、タイ各地で出土した遺物が、国立博物館(写真H)に展示されている。この博物館は2012年に拡張されており、館内には、ジオラマで展示された発掘現場も再現されている(写真I)。館内では、紀元前に製作された、バーン・チアンの独得模様のあるやきもの(写真J)など、タイの貴重な文物が展示されており、ここでも目前に展示物を見ることが出来て、至福の時間を過ごせた。また、近くの村では土産物用の、大きなものから小さなものまで、バーン・チアン独得の絵付けをした焼き物が売られており、私もスーツケースに入れられる小さい焼物を買った。遺跡見学後、ウドーン・ターニー市内に帰り、市内で一番と言われている、センタラホテルのレストランで豪華な昼食(写真K)をとって、午後の見学に向かった。

写真Iバーン・チアン国立博物館内のジオラマ

写真Jバーン・チアン国立博物館の展示品
(以下次号へ続く)
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町田市立国際版画美術館:新収蔵展
中城 正堯(30回) 2018.01.02中国版画・中城コレクション


筆者近影
 町田市立国際版画美術館では、2018年1月5日から2月18日まで2017年度新収蔵作品展「Present for you」が開催される。今回は葛飾北斎などの浮世絵作品34点とともに、中城正堯旧蔵の中国民間版画16点が展示の中心となっている。
 

「李文忠掃北」(蘇州・清朝中期)
 町田市に寄贈した中城コレクションは、中国清朝中期から中華民国にいたる木版彩色の吉祥画・歴史画・~仙画など99点におよぶ。主な製作地は、天津楊柳青と蘇州。これらの作品は、2014年に横浜ユーラシア文化館主催「福を呼ぶ中国版画の世界―富貴・長寿への日中夢くらべ―」に出品され、2011年に中国国家プロジェクトとして編纂刊行された『中国木版年画集成 日本蔵品巻』(中華書局)にも30点ほど収録されている。
 

「宋王観景楊八姐遊春」(天津楊柳青・中華民国)
 ここに掲載した「李文忠掃北」(蘇州・清朝中期)は明王朝建国の歴史合戦画。「宋王観景楊八姐遊春」(天津楊柳青・中華民国)は、北宋の皇帝仁宋が柳八姐に出会って魅せられる戯曲の名場面。
 
 町田市立国際版画美術館:町田市原町田4-28-1(小田急・JR横浜線町田駅より徒歩15分)042-726−2771
 
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1
二宮 健(35回) 2017.11.18


筆者近影 アンコールワット遺跡にて(カンボジア)
 タイの東北部のことを、現地タイではイーサーン地方と呼ぶ。比較的タイ国内でも、経済的に貧しい地域である。今回は、そのイーサーン地方や、北部タイ、中部タイの遺跡巡り紀行である。北部でもチェンマイなどは観光地としても有名であるが、今回訪ねた地方には、まだ日本人観光客は少なく、これからの観光客誘致にタイ政府、タイ国際航空も熱心である。さて、そのタイ国際航空(以下タイ航空と記す)が、日本へ就航して50周年になることを記念して、平成26年に、JTBと共同企画で特別コースを設定した。「タイランド3大王朝物語10日間の旅」である。コースは玄人好みであり、一般受けのコースでなくタイ北部、タイ東北部、タイ中部の有名な遺跡を巡る旅である。案じた通り、リピーター向の、またタイ大好き人間向のツアーに特化したツアーの為に、3ヶ月間に3本設定されたツアーの内の1本は集客不良でキャンセルとなり、あとの2本も10名と9名の参加者であった。それでも、筆者は内容を吟味して勇躍参加した。これは、その旅行紀行である。
 

写真@タイ航空就航当時のカラベルジェット
 タイ航空が日本に就航した当時は、SAS(スカンディナビア航空)の子会社のような会社であり、機体も、プロペラ機のDC4やシュド・エスト社製の尾部にジェットエンジン2基を配した88人乗りの小型機(写真@)が、台北と香港を経由して、バンコックまで飛行していた。 飛行時間も短縮されていった。ただ、旧国際空港のドンムアンは、タイ航空のハブ空港として、また東南アジアの主要空港としては狭くなり、

写真Aバンコック・スワンナプーム空港
混雑もひどく、2006年にスワンナプーム新空港を開港した。(写真A) 私も仕事や視察、招待などで、昭和40年代後半頃から何回となくタイへ渡航したが、そのたびに航空機は大型化を繰り返し、今回の旅行で関空とバンコック間の往復に使用した機材は、現時点(平成26年現在)で世界最大の航空機エアバス380型機(A380)であった。ターボファン4発の超大型機であり、仕様により異なるが、600席という座席の多さである。(写真B)
 

写真B超大型A380型機内

 平成26年12月17日水曜日の午前11時定刻に関空を離陸したタイ航空623便は、巡航高度12300メートル、時速785キロメートルで順調に飛行を続け、午後3時半(現地時間)にスワンナプーム空港に到着した。日本とタイの時差は2時間あるので、従って日本時間では午後5時半に到着したことになる。飛行時間6時間半である。先に述べたように、主都バンコックは何回も訪ねており、グループの仲間とは離れ、ホテルへ直行し、翌日から12月26日迄続く長期間のバス旅行に備えて、早めに就寝して休養した。今回の旅行は、タイ北部、タイ東北部(イーサーン地方と呼ばれている)、タイ中部の全行程をバスで巡り、そこに栄えたタイ3大王朝に点在する遺跡を見学するのが主目的である。世界遺産に登録されている3ヶ所の遺跡や、その他に、考古学的には有名であっても日本人観光客には馴染みの薄い遺跡、それ故に、我々のようなタイの歴史が大好き人間には、このコースが好ましく思えて参加をしたのであった。実際、後日この旅行のコースを振り返ってみると、旅の途中、日本人や日本人のグループには一度も出会ったことがなかった。これは私の数百回を数える世界各地への海外旅行経験からしても、稀有のことであった。この旅行で述べるタイ3大王朝とは、スコータイ王朝(1240年頃−1438年)、アユタヤー王朝(1351年−1767年)、トンブリー王朝をはさんで、チャクリー王朝(1782年?−現在まで)の王朝を述べている。
 

写真C我々9人が利用したJTBの2階建てバス
 旅行2日目の12月18日、早朝7時に宿泊したザ・スコーソンホテル(四ッ星ホテル)を出発した我々グループ9名と現地タイ人の日本語ガイド、運転手の11名が旅に出発した。JTBバンコック支店の2階建ての最新のバスである。(写真C)それぞれ好きな席に座っても、余席が随分ある。他人事ながら、これで収益が出るだろうかと心配をしたくなる。多分、特別設定の、日・タイ有好の為に採算は度外視しているのかも知れない。

写真D幹線道路のドライブイン風景
バスは一路北東に進路をとり、約5時間をかけて、ナコーン・ラーチャシーマーの街へ向かった。なお、全行程にわたって、トイレ休憩は幹線道路沿いにあるガソリンスタンドを中心にして、コーヒーショップ、コンビニエンスストア、ファストフード店などがある。清潔で気持良く休憩できる小広場となっていた。(写真D)ナコーン・ラーチャシーマーは、バンコックより東北255キロメートルにあって、別名、コラートとも呼ばれている。イーサーン地方への入口となる大きな街である。ナコーン・ラーチャシーマーは、タイでは、バンコックに次ぐ2番目に大きな街である。(写真E)

写真Eナコーン・ラーチャシーマー市街
街中のレストランで、ミー・コラート(コラート風焼きそば)などの名物料理を中心にしたタイ料理で昼食をとり、観光を始めることとした。この旅行中の昼食は、大部分がレストランでのタイ料理であったが、中華風の味付けで意外にグループには好評であった。利用したのは、訪れた各都市の大きなレストランであり、多分衛生面でも問題がなく、JTBとしては、安価で手配できたのであろう。ちなみに日本では2000円はすると思うタイ料理が、現地タイの地方都市のレストランでは500円位で食べられるし、屋台でなら、30−50バーツ(1バーツは約4円弱)もあれば食べられる料理も沢山ある。地方へ行けば行くほどに単価は安くなると思えた(2017年4月現在では1バーツ約3円40銭位)。
 

写真Fターオ・スラナリー像
 タイ北部や東北部は例年10月下旬から翌年2月中旬頃までは乾期に入り、雨道具が心配ない程に晴天が続くといわれている。今日、12月18日も抜けるような晴天で、ナコーン・ラーチャシーマーの気温は摂氏30度である。昼食後、ターオ・スラナリー像(ヤー・モー像)を見物した。(写真F)市の中心部にあり、街の象徴でもある。1826年にラオス軍が街に侵入した際、副領主の妻として、この街を襲撃から守った女傑の像である。見物後に、ターオ・スナラリー夫人が1827年に創建した、ワット・サーラ・ローイも見物した。同女史の遺骨が安置されている。

写真Gタイ北部で有名なピーマイ遺跡
今日、2日目のスケジュールはなかなかハードである。午後にはタイのアンコールワットとも言われるタイ北部でも有数の遺跡のピーマイ遺跡を見学した。クメール様式の美しいスタイルで、約1000年程前に建てられたものである。(写真G)この地までアンコール朝(カンボジア)は勢力を延ばしており、素晴らしいクメール帝国の建造物を残したのである。この遺跡は1901年にフランス人の学者によって発見され、1989年4月に前国王の娘、シリントーン内親王を迎えて、一般に公開された。

写真Hシーマ・ターニホテル夕食時の歓迎会
遺跡内にはピーマイ国立博物館があり(1992年新築)、周辺から出土した美術品や立像等が陳列されている。陳列物は何の制限もなくすぐ近くで見ることが出来た。2日目はこうして終わり、ナコーン・ラーチャシーマー市の新市街入口近くにある、高級ホテルのシーマ・ターニホテル(四ッ星クラス)に入った。夕食はホテルで古典舞踊を見ながら(写真H)であったが、何と私達とガイド、運転手11名だけの為に、踊り子、楽団、ウエイトレスなど約30名のスタッフで歓迎をしてくれた。屋外でのステージでのショーは1時間半も続き、その間に食事をしたが、タイ人のホスピタリティーにグループ全員が感激をした。
 
 旅の3日目、12月19日も晴天であり、最低気温18度、最高気温30度の予報である。湿度が高くなく、そんなに暑くは感じない。ナコーン・ラーチャシーマーで連泊をする為に、軽装備で出発した。連泊をすると楽に見学できる利点がある。今日は、前述のピーマイ遺跡とほぼ同時期に建立されたとみられる、近郊のパーム・ルン遺跡公園、ムアンタム遺跡公園、パノム・ワン遺跡を終日見学することになっている。これらの遺跡群は、日本人でも好事家か、考古学の専門家などが訪れることがあっても、日本人観光客が訪れることは少ない遺跡群だが、タイでは、ピーマイ遺跡などと同時期のアンコール朝の大遺跡として有名である。沢山のタイ人観光客がこの日も訪れて見学を楽しんでいたが、日本人や日本人の観光グループには、一度も出会わなかった。
(以下次号へ続く)

 筆者プロフィール:
 昭和29年土佐中入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家・JTBOB会員。神戸市在住。
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中城正堯著「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
山本 嘉博(51回) 2017.11.12遅ればせながら読みました


筆者旧影
 送っていただいた、中城先輩による『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』、遅ればせながら読みました。曽我部校長が就任されたとの昭和三十三年に生を受けた僕は、前任の大嶋校長のこともよく知らず、殆ど名のみぞ知るに等しい初代校長だったので、たいへん興味深く、また感じ入りながら読みました。

 末尾に記された「凡庸ならざる人材」には及ばずとも、僕自身の生活信条はまさに“生活即芸術”であります。凡庸なるがゆえに楽器絵筆の一つも持たず専ら鑑賞に専念していますが、三根校長たちがケーベル博士から教わったとの「豊かな人生には音楽や美術を欠かすことができない」との思いは、僕のなかにも根付いているように感じます。今まで一度も意識したことがありませんでしたが、それは「漱石や寅彦をも魅了した<ケーベルの教え>が、土佐中高の学園生活に受け継がれ」ていたことから育まれたものなのかもしれないなぁ、と思ったりしました。

 心に残った逸話は、三根校長が平井康三郎の父親を説得して音楽学校へ進ませた件でした。奇しくも昨夜、土佐校の卒業生で、佐渡裕率いるスーパーキッズ・オーケストラの元首席奏者だという藝大器楽科3年在学中のチェリスト山根風仁による室内楽を聴いてきたところです。生徒の進路に対して、昭和一桁の時代からかような見識を以て臨んでおられた校長に敬服しました。

 また、われらが“向陽”にかかる中城先輩の見解に感心しつつ、高校の文芸部に在籍した時分に僕も二編だけものした事のある漢詩に関連して、言語学に興味を持っていたとの平井康三郎らが行った方言研究から生まれたという“月性の将東遊題壁の土佐弁訳”を教えていただき、大いに愉しみました。

 どうもありがとうございました。
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冨田 八千代(36回) 2017.11.05高崎先生の事


筆者旧影
山本さん、中城さん
 高崎元尚先生のご逝去や作品をお知らせくださりありがとうございました。36回冨田です。帰宅してから、ホームページを読みましたので、その時はご逝去されたことを知りませんでした。その同窓会で、高崎先生のことを思い出していました。
 
 今回、中城さんのご著書「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を持参しました。 みなさんに紹介する機会はありませんでしたが、お話できる方には紹介しました。 2次会Kホームだけの集まりではみなさんに紹介しました。
 
 あくる日、バスで室戸岬や中岡慎太郎記念館などを訪れる観光に出かけました。そのバスの中でのことです。Kホームだったお隣の席の方が「あんた、新聞部に入いっちょったが?」と聞かれました。
 私は、話の中で、少しは記事も書いた、例えば@ガーナ大使になられた中谷さんがアメリカ留学からかえられたときの訪問記Aなんか文化祭の記事B高崎先生訪問記とかと言っていました。
 すると、前の座席の方が急に後ろを向かれ「その時に僕も行ったよ。」と言われました。なんと、宮地正隆さんだったのです。「そうだったの。」と私。何人かでお邪魔したのですがどなたといっしょだったか思い出せませんでした。でも、光る眼は遠くをみつめながら手振りを交え、情熱的に芸術について美について語られたお姿は、はっきりと思い出されました。記事は「朱と緑と」とかいう見出しだったと思います。バスの中では、その若き先生のことだけを思いだしていました。新作を拝見すると、当時の「朱と緑」では全くなく、表現もどんどん進化、深化なさったのですね。
 高崎先生は、94歳で新作展を開催されたとか、ずっと、芸術を追究され制作を続けられたのですね。情熱をずっと持ち続けられたのですね。
 
 いろいろと詳しいお知らせをありがとうございました。なお、この同窓会には森本浩志さんもいらっしゃいました。
 失礼します。
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山本 嘉博(51回) 2017.11.02追伸


筆者旧影
 中城先輩から、もう少し作品紹介を、と言われていた標記について、先生の息子で僕と同窓となる51回生の元宏くんに照会していたところ、こちらを使ってもらうといいとの連絡がありました。 遺作展の全作品が映っています。 http://takasaki.kochi.jp/collapse2017/

 また、中澤先生の追悼記事に掲載した僕が映っている写真は、同じく51回生の八木勝二くんの提供によるものなので、そのことも併せて掲載していただけるとありがたいです。

≪編集人より≫わざわざのご連絡ありがとうございました。本文にも追記しました。

高崎先生の作品、どうも有難う。
 モノクロでかえって先生の研ぎ澄まされた感覚と、見事な緊張感ある作品構成が感じられます。
 それにしても、美術界の大物がマンネリの作品を惰性で描き続けるのに対し、高崎先生も合田佐和子さんも、最期まで新境地に挑み続け、見事な創作者生涯でした。
中城正堯
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11月25日(土)高知支部懇親会
坂本 孝弘(52回) 2017.10.20
向陽プレスクラブ会員の皆様
幹事 井上晶博(44回生)・山本嘉博(51回生)・坂本孝弘(52回生)

 拝啓 時下、皆様には益々ご清祥のこととお喜び申し上げます。
 標記の会を下記の通り準備いたしましたので、多くの方にご出席頂くよう、ご案内申し上げます。
敬具
日時:平成29年11月25日(土)、午後6時
会場:「土佐の一風」
住所:高知市はりまや町1−6−1
   はりまや橋商店街(電車高知駅・桟橋線の東側)
   ほぼ中央北側、「葉山」の東隣(葉山と同経営です)
電話:(088)885−9640
予約名:向陽プレスクラブ
徴収会費:3千円(飲み放題)。別途本部会計から2千円を補助頂きます。

※ご都合を、11月17日(金)までにご連絡ください。
 各会員宛発送します、メール、往復葉書(メールアドレス未登録の方)にて返信ください。当日・前日等の急なご連絡は、メール、葉書に記載の電話番号までお願いします。
以上
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2017年9月 向陽プレスクラブ幹事会議事録
水田 幹久(48回) 2017.10.20
議長 北村章彦幹事長  書記 水田 幹久
1.日時 2017年9月29日(金)  18時〜21時
2.場所 ビックエコー八重洲本店
3.出席者 公文敏雄(35回) 藤宗俊一(42回) 水田幹久(48回) 北村章彦(49回)  以上4名
4.北村章彦幹事長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
なお、本幹事会は出席者4名、委任状提出者3名 の7名の参加があり、構成員の過半数に達しているので成立したことを確認した。
1.2017年度事業の進捗について(4月〜9月)
@  ホームページ作成
   8件の投稿があり、掲載した。
A  母校との対話 100周年企画応援 進捗状況の報告があった。
B  本年度、高知での懇親会参加について
   東京から参加する中井幹事の交通費補助を規定に則り支給することとした。
2.2017年度会計報告(暫定版)
   中井会計担当からの配布資料(4月1日〜8月31日の収支報告、8月31日時点の
   資産・負債状況)内容を確認した。出席者からの異議はなかった。
3.その他
   会員を増やすための方策について、アイデアを出し合い、検討した。
以上
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合田佐和子さん関連のお知らせ
『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』刊行
中城 正堯(30回) 2017.10.20

 昨年2月に亡くなった合田佐和子さん(34回)は、現代アートの旗手として、画家の枠を超えたさまざまな分野で活動をしてきただけに、逝去を惜しむ声が多く、唐十郎氏などを発起人とする「お見送りする会」はじめ、数多くの追悼展や出版記念展が開かれてきた。
 このほど、平凡社コロナ・ブックスとして『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』が刊行されたので、ご紹介する。帯に「少女の夢を、呼び醒ます―。没後初の作品集」とあり、油彩・オブジェ・写真など多彩な作品と、親交のあった巌谷國士・吉本ばなな等の各氏がエッセイを寄せている。(定価:本体2,000円)
 また、お嬢様の合田ノブヨさんも、新作コラージュの作品集「箱庭の娘たち」を出版、その出版記念展が、東京・恵比寿の「Galerie LIBRAIRIE6」(地下鉄・JR恵比寿駅西口より徒歩2分、03−6452−3345)で、11月4日〜26日まで開催される。

『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』の表紙

合田ノブヨ「箱庭の娘たち」出版記念展の案内状より
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山本 嘉博(51回) 2017.10.12高崎元尚先生逝く


筆者旧影(2011)
 去る六月二十四日、古くからの友人の親父さんで、中学時分に技術工芸の授業を受けたこともある先生の通夜に妻と一緒に参じてきた。つい二ヶ月前に撮った写真が遺影として飾られるほど、ごく最近まで矍鑠としておいでで、ちょうど先週から県立美術館で“新作展”が開催されるほど元気だった晩年は、ニューヨークのグッゲンハイム美術館でも作品展示がされるなど、このうえないものだった。
 三、四年前だと思うが、先生のお好きな碁を久しぶりに打ったとき、「また勉強しちょくきね」とおっしゃった弁に感銘を受けた覚えがある。この御歳になって尚もまだ「勉強しちょく」と口にされる前向きな姿勢に本当に畏れ入った。
 でも、喪主を務める友人によれば、前年の香美市美術館での企画展のときには既に相当に弱っていて、県美の展覧会は無理ではないかと思っていたそうだ。でも、開展初日には相変わらずの自由闊達な語り口で香美市美術館に集った聴衆を楽しませるギャラリートークを披露していたから、先週からの展覧会の開展式に出席できなくなっていることのほうに驚いたくらいだった。この遺作となった展覧会については、NHKの日曜美術館のアートシーンでも紹介されたようだ。
 ご遺体との対面をさせてもらえた通夜で拝したご尊顔は、さすがに頬もこけていたが、為すべきことを成し得た、まさに成仏と言える風格に満ちていて流石だと思った。まったく見事な人生だ。翌日、もう一度、出棺のお見送りに行ってきた。 https://www.kochinews.co.jp/sp/article/107360/
合掌

“高ア元尚新作展 ‐破壊 COLLAPSE‐” 会場:高知県立美術館('17. 7.16. )
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/contents/exhibition/exhibition/2017/collapse/collapse.html
高ア先生の作品(提供:高ア元宏氏(51回生))http://takasaki.kochi.jp/collapse2017/
 御歳94歳で新作展を開催し、その新作を引き連れるがごとく会期中に天寿を全うして大往生を遂げるという、まさに“誰もやらないことをやる”を貫いた旧知の先生の展覧会を観覧して来た。入院中で開展式に出席できないと伺っていたので、会期中盤まで観覧するに至らなかったが、先ず第一展示室に入室して度肝を抜かれた。
 前年の香美市立美術館での展覧会備忘録にも記したように、中学校時分に技術工芸の授業を受けた高ア先生は旧友の親父さんであるばかりか、僕が社会人となって帰高してからは、たまの囲碁を楽しんだりもしていたから、お通夜にも告別式にも参列した後で観覧するうえでは、ある種の感慨もあったのだが、これまでに幾度か観たことのある“密着シリーズ”は、せいぜいで2m四方程度の大きさだったから、その破格のスケールに仰天したのだ。高崎先生個人での制作では到底叶わないような展示室一室丸ごと密着させた威容に、これを連れて昇天されたのなら、先生もさぞかし満足だろうと感じ入らずにはいられなかった。
 一年前の展覧会備忘録には「先生の作品で最初に僕の目を惹いたのは、高校時分に、現在の県立文学館がまだ郷土文化会館として県展会場になっていたなかで、屋外に出展されていた大きな鉄板を巻き延ばして腐食というか錆びさせた立体作品と、代表作の『装置』だった。美しい鉄板の一部分をわざと錆びさせたり、『装置』では、正方形に切り取ったキャンバス片を正方形(だったと思う)に幾つも並べ、自然と反り返って湾曲したフォルムを見せたりしていることに対して、先生は“時間というものの視覚化”をコンセプトにしているのではないかと得心した覚えがある。」と記したが、今回の新作展では、敢えてその『装置』は展示せずに、“破壊の10年”に焦点を当ててスケールアップした制作を果たしていた。

高ア元尚作  ‐破壊 COLLAPSE‐
 1階講義室での都築房子香美市立美術館長の「高崎元尚の生徒としての私」と題する講演のなかでも話のあった「いろいろやってみたけれど、私の代表作はやはり『装置』だから、これからは『装置』をとことん追求していくことにした。」というのは僕も聞き覚えのある言葉だったので、最後の新作展において『装置』を展示しない構成というものに大いに感心させられた。四年前に久しぶりに打った囲碁の後で「また勉強しちょくきね」と仰って、卒寿を過ぎてなお“勉強”と口にする前向きさに恐れ入らされた先生だけのことはあると思わずにいられなかった。
 今回の新作展で破壊された素材は、過去の作品とも同じく、スレート建材であったり、赤レンガであったり、コンクリートブロックであったりしたわけだが、『密着』ほどではないにしても、いずれもスケールアップしていたように思う。そのなかでは、『装置』のフォルムに“さざなみ”を見立てていた先生が鏡をあしらって横に置いた『鏡を使った装置』に凝らしていた趣向を“破壊”にも施していた作品が目を惹いた。
 コンクリートブロックを破壊した作品は、本展のポスターに使用されていた '95年の“クールの時代”展や '78年の兵庫県立近代美術館での同作に比べると、破壊の程度が非常に大人しくて、第2展示室入口に組まれた足場の高みから眺めると、破壊というよりもダメージ文様の印象を残す意匠となっていたことが興味深かった。先生が入院せずに製作現場に立ち会っていたら、四十年前の作品と同じくらいの強度の破壊を求めたのか、『装置』においてもキャンバス片からアクリル板に素材を替えて洗練を図ったように、21世紀の“破壊 COLLAPSE”なれば、四十年前とは違ってこれでいいと仰るのか、叶わぬことながら訊ねてみたい気がした。
 講演を行った作家でもある都築館長は、土佐中学に入学した時から美術部に籍を置き、高知大学でも教えを受けた後に高崎先生から声を掛けられて、同僚の美術教師、作家仲間としてもずっと近くで活動を共にしてきた方だけに、たくさんのスライドを使った紹介と共に披露してくれたエピソードがとても愉快で、先生の人となりがありありと浮かんで来て、大いに納得感があった。「良き師は自分のスタイルを決して押し付けない」というのは、まさしくそのとおりだと思う。そして、常に並々ならぬ助力者を得ていた先生の幸運についても言及していたが、講演の後で言葉を交わした先生の奥さんもまさにそのことを繰り返していた。

“高ア元尚展 ‐誰もやらないことをやる‐” 会場:香美市立美術館('16. 4. 9. )
http://www.city.kami.kochi.jp/site/bijutukan/kikaku63.html
 中学校時分に技術工芸の授業を受けた高ア先生は旧友の親父さんであるばかりか、僕が社会人となって帰高してからは、たまの囲碁を楽しんだりしていたから、三年前にニューヨークのグッゲンハイム美術館で、戦後日本の前衛美術グループ具体美術協会の活動を紹介する企画展が開催された際に作品展示がされるとともに、90歳でレセプションに出席することになったのを嬉しく感じていたのだが、今回展示されていた油彩『ゴッホになりたい』['47]や写真『うらめしあ』['58]などの初期の作品は観たことがなく、とても興味深かった。
 先生の作品で最初に僕の目を惹いたのは、高校時分に、現在の県立文学館がまだ郷土文化会館として県展会場になっていたなかで、屋外に出展されていた大きな鉄板を巻き延ばして腐食というか錆びさせた立体作品と、代表作の『装置』だった。
 美しい鉄板の一部分をわざと錆びさせたり、『装置』では、正方形に切り取ったキャンバス片を正方形(だったと思う)に幾つも並べ、自然と反り返って湾曲したフォルムを見せたりしていることに対して、先生は“時間というものの視覚化”をコンセプトにしているのではないかと得心した覚えがある。だから、後年(今世紀に入ってからではないかという気がするが)、キャンバス片ではなく、アクリル板で『装置』を制作するようになったとき、これでは経年変化が損なわれるではないか!と、軽い衝撃をくらった記憶がある。?
 そのあたりの話を都築館長にしたら、先生は、経年変化ではなく出来栄えの美しさに拘るところがあって、むしろフォルムの変化や変色の少ないアクリル板に変えたのだという気がするとのことだった。確かに、今日のオープニングセレモニーのあとの先生によるギャラリートークのなかでも、貼り付けた正方形のキャンバスが反って出来上がった形状による効果を“さざなみ”に見立てて繰り返し表現していたから、館長の言うとおりなのだろう。白木谷国際現代美術館所蔵の『装置』を今回の展示作品のなかで最も出来がいいと先生自身が言っていたのも、そういう観点からであることは、その反り具合の美しさから歴然としていて、館長の話と実に符合しているように感じた。
 でも、時間の視覚化を失ったアクリル板による『装置』に対して、これでは僕の愛好した『装置』ではなくなると思ったという僕の話を、観賞する人それぞれにとっての作品があっていいのだと面白がってくれていた。
 とても印象深かったのは、ギャラリートークでの先生の話にもあったが、ゴッホのみならず、モンドリアンやアンフォルメルを真似ながら続けたなかで、具体に出会って、『モダンジャズ』['62頃]のようなアクションペインティングを意識したようなものも試みながら、吉原治良に示された「誰もやらないことをやる」を模索しているうちに、自身の生み出した『装置』に出会えた喜びを噛み締めているような姿だった。
 代表作『装置』に至るうえでの重要な作品が『作品』['62頃]だとの、御自身の言葉によるキャプションが添えられていたカラー作品も初めて観た気がする。
 そんな『装置』のバリエーションとして僕が最も好きで感心したのは、最初に県展で観た覚えのある、鏡を使った『装置94'S』なのだが、先生が繰り返し言葉にしていた“さざなみ”という点からは、立てるのではなく横にした『鏡を使った装置』のほうが“さざなみ”らしいように思った。
 先生ご夫妻とも歓談した帰りに買い物をしてから、呼ばれていた娘宅に寄り、手巻き寿司を三世代で楽しんで帰宅。少々疲れたけど、なかなか気分の良い休日であった。
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山本 嘉博(51回) 2017.10.12中澤節子先生逝く

 去る七月三十日、五年前の母校のホームカミングデーにおいて、御年92歳で講じてくださった特別授業の備忘録の末尾に、「ちょうど僕らがみな還暦を迎え終えた年に、先生は白寿を迎える年に差し掛かることになる。両方の祝いを併せて行なう祝賀会がきっと催されることだろう。」と記した“なかばぁ”こと中澤節子先生の告別式に参列してきた。
 形に囚われない自由な精神と共に、けじめといったことをとても大切にされた先生らしい御遺志をいろいろな形で偲ばせてもらった気がしている。喪主御挨拶でマイクを手にしたお孫さんの話では、前もって終活をおこなっていて自分は二つのことを頼まれたそうで、一つは喪主を務めること、もう一つは葬儀に際して『地上<ここ>より永遠<とわ>に』でモンゴメリー・クリフトが奏した葬送のトランペットを吹くこと、だったそうだ。反戦映画の傑作として名高い同作は、戦争未亡人として戦後を生き抜いた先生にとって、きっと特別な思いのある映画だったのだろう。

『地上<ここ>より永遠<とわ>に』のバート・ランカスター
モンゴメリー・クリフトの演奏
https://www.youtube.com/watch?v=9fxH-2LnRkc
 会葬に際しては供花、香典を辞退するよう言い残し、モンゴメリー・クリフトが涙しながら万感の思いと共に奏でる葬送曲をお孫さんに吹かせたことに、ハイカラで明るく、大きな声でよく笑っていた先生を思い出し、沁み入るものがあった。
 中学高校六年間、思えば一度も担任になったことがないのに、何がきっかけで親しんでいたのかも思い出せないのだが、中学入学時からの僕の渾名で「ぶーちゃん、ぶーちゃん」と声掛けていただき、鏡川の傍のご自宅を訪ねたこともあるし、大学時分には小田急線沿線の柿生の家にもお訪ねしたことがあるようなないような朧げな記憶がある。
 一ケ月前には、94歳でお亡くなりになった高崎先生を見送ったばかりで、まぁ、お二方とも卒寿を過ぎてのことだから、致し方ないのは道理なのだが、なんともさびしい今年の夏だと改めて思った。

ちなみに五年前の特別授業の備忘録を以下に。
 土曜日に新聞部の出店当番に借り出され、午前中から出向いていたのだが、今や休部状態になっている我らが“向陽新聞”の創刊号(昭和24年)からのバックナンバーのほとんどを揃えたCDを昨年末に先輩が作成したので、その頒布(寄附金3000円)を受付の隣に机を構えてしていたら、思いのほか高率で、寄付金に応じてくれる人がいて驚いた。
 しかし、最も驚いたのは、当日の午後、もう特別授業のほうは御勘弁という御年卆寿を越え、あと2ヶ月もすれば93歳になるという恩師を囲む会を卒業生2クラスのために設けてもらっていた機会に、先生が赴任された当時の向陽新聞のコピーをお見せしたときのことだ。
 1951年昭和26年の学内新聞に書かれた記事の一節を覚えておいでて、その部分を諳んじてくださったのを、今や老眼が来て少々見えにくくなっている僕の目で確認したところ、そのとおりだったのである。新聞部に在籍し記事を書きつつも、どれ一つ自分の記事の復唱も出来ない僕と、僕の生まれるまだ前の学内新聞に記された一節を即座に復唱する92歳!

ホームカミングデーでの先生と筆者(左端),
撮影:八木勝二氏(51回生)
 この日の教室に先生を担ぎ出した学友の話によれば、特別授業を辞した理由というのがふるっていて、もう既に何度もやっていることと、半年くらい前から認知症が来始め、顔は判るのに名前の思い出せない教え子が出始めて申し訳ないから授業は出来ないというものだったとのこと。驚愕した学友は、自分を認知症だという認知症者はいないとしたものだけれど、先生のその基準で言うなら、集まる生徒の側が全員認知症なので全く問題ないと。まさに、そのとおり(笑)。
 当日、なんだか上手く言いくるめられてここに来たとおっしゃる先生は、もう授業は出来ないので、私の半生をお話しすることにしましたと、これまでそういう機会はなかなかなかったしね、と始められたのだが、もう授業のように話す順番を頭で覚えておくことができなくなっているから、失礼ながら読ませていただきますねと手書きの便箋を広げたのにまたびっくり。
 今にして尚この姿勢で臨まれる方が、現役時代の授業に際して事前準備を怠ったことはゆめゆめあるまいと、在学中はそれに見合うだけの受講態度で臨んだことが一度もない我が身を恥じた。
 そして語られた先生の半生は、自らの生年である大正8年(1919年)について、私は生まれながらにエッチだと言われたイクイク年なんですという軽妙さで始まったのだが、太平洋戦争を二十代で過ごした戦争未亡人という苦難の世代ながら、教職に就くことのできた幸運を生涯にわたって噛み締めておいでる様子に心打たれた。
 しかし、最も感銘を受けたのは、先生と同じ志で教壇に立ったものの、離れた地で夭折した親友との“ぶーちゃん”に打ち明けた恋愛にまつわる話で、当時、十五歳も下だからということで、親友にもたしなめられ、自重したけれども、四十年ほど前に不思議なご縁で変わらぬ想いを再び告げられ、その後、十年余り幸せな時間を過ごしたという秘話だった。その頃って、ちょうど僕らが在学していた時期で、また今の僕らがちょうどその当時の先生の年頃になっているわけで、なおさら感慨深い。
 一連のお話を伺った後で先の学友が真っ先に発した、これまでの授業で最も感銘を受けましたとの弁は、まさに同感だった。いま娘さんと暮らすなかで、今なお時おり消息見舞いの電話交換をしているとの話を伺いながら、本当に幾つになっても、いつまでも、新たなことをタイムリーに教えてくださる得がたい先生だと改めて思った。
 ちょうど僕らがみな還暦を迎え終えた年に、先生は白寿を迎える年に差し掛かることになる。両方の祝いを併せて行なう祝賀会がきっと催されることだろう。
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浮世絵展のお知らせ……町田市立国際版画美術館で開催中、11月23日まで
「浮世絵にみる 子どもたちの文明開化」
中城 正堯(30回) 2017.10.10


筆者近影
 来年が明治維新から150年目に当たるのを記念しての、浮世絵展です。明治の浮世絵には、文明開化の時代を迎え、陸蒸気や学校・英語・洋服に戸惑いながらも、元気いっぱいに遊び学ぶ子どもたちの姿が、しっかり捉えられています。これら明治の子ども関連浮世絵を、初めて総集したものがこの展覧会で、教材錦絵やおもちゃ絵も豊富です。明治を代表する絵師の一人、南国市後免生まれの山本昇雲も、見事な作品を残しています。
 本展は中城(国際浮世絵学会理事)が監修、図録に「文明開化と学校で激変した“子どもの天国”」を執筆しています。同美術館は、小田急・JR横浜線「町田」より徒歩15分、042−724−5656です。

山本昇雲
「いま姿 おすずみ」

同展覧会チラシ
画は楊洲周延  
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高知新聞で紹介
中城 正堯(30回) 2017.10.03「“上方わらべ歌絵本”の研究」

皆様へ
 高知新聞9月26日付の学芸欄に、拙論「〈上方わらべ歌絵本〉の研究」の紹介記事が掲載されましたので、添付致します。
 この論文は、国際浮世絵学会の研究誌「浮世絵芸術」第174号に発表したものです。
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藤宗 俊一(42回) 2017.08.26終結宣言


筆者近影
 処暑も過ぎたというのに相変わらず暑い日が続いていますが、お変わりございませんか?初めは冷夏とばかりと思っていたのに、秋になって残暑が厳しくなりました。3年後のオリンピックはどうなることでしょう。
 その暑い盛りに、ご迷惑でしょうが残暑見舞い代わりに、『数独』 14,000題送らせて頂きます。お暇な折に挑戦してみて下さい。実はこの春、娘が結婚して出て行った後に、部屋(机周りだけ)とパソコンが残り、一昨年『敗北宣言』をして撤退した問題作りに挑戦していました。解析方法を改良しIF通過回数が半分近くに減りましたが、精度があがり仮入力のある問題(上級)では複数解のある問題が多出し(遊ぶのには問題ないですが作者の意地の問題)ちっとも早くなりません。同時に、兵力を増員し(前回の10倍…1万テーブル)多方面に作戦を展開していますが、まだ表示個数19個のままで止まった状態で、隣の部屋でパソコンがひたすら唸っています。ただ表示個数以外の点では、これ以上は工事屋の灰色の細胞ではほぼ限界だと思われるので、『終結宣言』を致します。
 もったいないので、その作成過程でできた20万題以上の問題からランダムに選んで整理し(難易度別と表示個数別)、遊び用ソフト(Excelとマクロ…2010以降のxlsmデータ)を作りました。下記に添付してありますのでダウンロードしてExcelで読みこみ、マクロを有効にして挑戦してみて下さい。これも印刷するのがもったいないというけちくさい理由です。Excelが使えないという方のために印刷用pdf版も添付してあります。万が一、全てを制覇してもっと欲しいという方がいらっしゃいましたらご遠慮なくお知らせ下さい。新しく作ってMailでお送り致します。簡単な使用方法は問題の下に書いてあります。
 それでは、ご奮戦を祈ります。もしかすると暑さを忘れられるかもしれません。ご自愛の程。

数独問題ダウンロード
 多分、同じ問題は一つもない(美形を除いて)と思います。
難易度別ゲーム(xlsm版…7000題)   表示個数別ゲーム(xlsm版…7000題)  
印刷用データ(pdf版…40頁560題)  

追伸:先日稲刈りに帰高した際、童女様(永森女史)を見舞ってきました。だんだん記憶力が衰えてきているそうですが(私も同じ!)、お元気でした。ベット脇には、かわいいお孫さんの写真がいっぱい貼り付けられていました。早く回復して、また一杯やれる日を心待ちにしています。
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『浮世絵芸術』174号に発表
中城 正堯(30回) 2017.08.20「“上方わらべ歌絵本”の研究」


筆者近影
 8年前に上方の子ども遊びを描いた多色摺の絵本を、いかにもやんちゃな子どもたちの遊ぶ姿に魅せられて入手した。しかし、題名も絵師も不明で、文章ならびに描かれた遊びの内容も、簡単には解読できなかった。近年やや暇になったので再チャレンジして調査すると、安永・天明期(1772〜88)の合羽摺(かっぱずり)「上方わらべ歌絵本」であることが分かり、国際浮世絵学会の研究誌にこのほど発表した。合羽摺とは、型紙の切り抜いた部分に、刷毛で色を塗る技法であり、上方で発達した。
 この絵本は、テーマが「わらべ歌遊び」、印刷技法が「全ページ合羽摺」であり、この両面から類書のない貴重な子ども本であることが判明した。約250年前の上方いたずらっ子たちを、無事現代に甦らせることができ、ほっとしている。
 6場面からなるこの絵本は、いずれも画面いっぱいに子どもたちの遊び戯れる姿が描かれ、上部にわらべ歌が添えてある。では、2場面を紹介しよう。

1.お万どこ行った

 歌は、「お万どこ行った、油買いに」で始まり、雨降ってすべって、油一升こぼして、犬がねぶって・・・、と続く。絵は、奉公人のお万が転んだ瞬間と、嬉し気に駆け寄る子どもや犬を巧に捉えている。のれんの影に、三井紋の樽が見えている。

2.子買を子買を

 「子買を子買を」「どの子が欲しいぞ」と、買い手と売り手が交互に歌い、対価にくれる御馳走はなにか、問答を楽しむ演劇的遊戯だ。絵は左が売り手で、右側のお膳・蒲鉾・饅頭を持つ子たちが買い手。

*なお、全文閲覧をご希望の方はお知らせください。抜刷を進呈致します。
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棚野 正士(31回) 2017.07.12ディック・ミネさんの思い出


筆者近影
 中城先輩、高知新聞書評ありがとうございました。「三根校長とチャイコフスキー」は名著です。「音楽を愛した教育哲学者」を初代校長とする土佐中・土佐高は、中城先輩のご著書で新たな教育理念を探れると思います。
 わたくしは永年歴代土佐高校長が母校を語るとき、「今年は東大に何人入ったか」「甲子園に出場できるか」しか言わないので、怒りと絶望感を覚えていました。しかし、中城先輩のご活躍を知り、もっと土佐高の文化的側面に校長は気付くべきだと考えておりました。その中城先輩が名著を書かれ、三根校長の思想が新たな土佐高・土佐中の理念になっていくことを願います。


故ディック・ミネ氏
 ディック・ミネさんとは、ミネさんが日本歌手協会会長の時に親しくなりました。当時わたくしは社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)専務理事でした。時々仕事の関係で会食をしました。食事をしながら三根先生(ディックさんは”ぼくのお父さん”と呼んでいました)のことを聞きました。こんな話をしていました。「自分は不良と思われているが本来不良ではない。ぼくのお父さんも不良をしたいが教育者なので出来ないから、代わって自分が不良を勤めている。父は教育者で母は日光東照宮の宮司の娘で、自分は本来不良ではない」などです。
 あるとき、三根先生とデイックさんが二人で汽車に乗っているとき、不良が二人絡んできたので、ディックさんは二人を汽車が停車したとき、外に連れ出し殴り倒したそうです。車内に戻ったとき、三根校長がどうしたと聞くので。「殴り倒した」と言ったら、三根校長は「そりゃよかった」とひと言ったそうです。
 中城先輩の名著がきっかけとなり、土佐高が新たな「光」、新たな「希望」を求めることを望みます。
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「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」その後の反響
「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介
中城 正堯(30回) 2017.07.10


筆者近影
 向陽プレスクラブで発行した表記の小冊子につき、公文敏雄会長から報告いただいた発行直後の反響に続き、筆者の手元にもさまざまな感想が届いたので、お知らせしたい。
 まずマスコミ関係では、高知新聞の7月7日朝刊学芸欄に、「土佐中初代校長の音楽愛」との見出しで、片岡編集委員による添付の紹介記事が掲載された。ディック・ミネが大好きという同新聞社元会長のH様からは「三根校長はもっと知られねばと思っていた。この冊子は素晴らしい役割。隠れた話がたくさんです」と、便りが届いた。

高知新聞学芸欄での紹介記事
2017/07/07
 「もり・かけ問題」で超多忙の朝日新聞東京本社編集委員(教育担当)U氏は「ひと・教育・そして時代が見えてきます。教育斑の仲間とも共有したい」とのことだった。ヴェトナムの枯葉剤障害児のその後を追っている写真家O氏の手紙には、「土佐中がいかにおもしろい人材を輩出しているか、知りませんでした。三根校長の息子がディック・ミネで、お母さんが日光東照宮の宮司の娘にも、びっくり」とあった。U・O氏とも高知とは無関係な友人だ。
 高知出身で元集英社編集担当役員のI氏は、「和辻哲郎の本でケーベルには関心を持っていたが、三根校長が教え子で、寺田寅彦や平井康三郎など高知の人物につながるとは、思いがけないことだった」と、喜んでくれた。高知在住の編集者Yさんは、「すばらしい人物を輩出した土佐中高は、やはり素晴らしい理念を持った教育者によって創られたのですね」といい、高知の大学講師(福祉問題専攻)Y氏は「ケーベル博士は、明治31年に音楽学校で開かれた慈善音楽会の収益金を貧困家庭の子女のための二葉幼稚園に寄付している」と、博士の知られざる慈善行為を教えてくれた。

「開校したばかりの土佐中が漢字筆記で日本一の記録を示した」とある。
土陽新聞大正9年5月27日。右の飛行機が時代を示している。
 同窓生では、森健(23回)・門脇稔(25回生)・公文俊平(28回)などの先輩から、「面白くて一気に読んだ。知らなかった話ばかりで、よく取材してある」などの連絡をいただいた。母校には、教職員及び学校・振興会・同窓会の役員用に、向陽プレスクラブから60部謹呈してある。小村彰校長からの礼状をいただいたが、これらの人々がどう受け止め、今後の教育方針や学校100年史に生かしていただけるか、見守りたい。なお、ありがたい反響は、向陽プレスクラブが発行元を引き受けてくれたお陰であり、皆様に感謝したい。
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中城正堯著「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
公文 敏雄(35回) 2017.06.26発送のお知らせ

向陽プレスクラブの皆様

「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
中城正堯著 発行:向陽プレスクラブ

筆者近影
 過日会員各位あてメールでご案内申し上げましたとおり、中城正堯氏(30回)ご執筆の冊子「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」全31ページを会員の皆様にお送り申し上げましたがお手元に届いたころでしょうか。

 さっそくお読み下さった横山禎夫氏(30回)他多くの方々から下記のご感想をお寄せ下さいましたので、ご諒承のもと、ここにご紹介させていただきます。(到着順)

 なお、この冊子をお読みくださって思いだすことやご感想がございましたらご遠慮なく左のMailBox(post@tosakpc.net)からご投稿ください。
向陽プレスクラブ 会長 公文敏雄(35回)


横山 禎夫(30回) 2017.06.24


筆者旧影
中城君著の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました。
 知らなかった土佐中・高の昔のことがいろいろ書いてあって、興味深く読みました。制服の袖の白線のことも初めて知りました。
 謹厳実直だった三根校長の息子が人気歌手になったり、帝国大学進学校から平井康三郎のような作曲家が出たり、面白いですね。
 確かに、卒業してから考えると、土佐高はかなり自由な学校でした。新聞部時代も、学校側から検閲を受けたこともなく、思うことを遠慮なく書くことができました。
 戦後はマスプロ学校になり、一クラスが70数名と生徒数がめちゃくちゃに多かったので、あるとき新聞に1学年を現行の4クラスから5クラスにせよ、と書いたら、翌年から5クラスになったのには驚きました。まあ、その前からその計画だったのでしょうが、新聞部に一言挨拶があるべきだ、と思ったことです。それまで報恩感謝でH、O、K、Sホームだったのですが、急遽土佐のイニシアルをとってTホームができました。
 本書発行については武市功氏(30回)の支援をいただいた、とありますが、有難いことです。
 皆様のご健勝、ご発展を祈ります。
 
岡林 幹雄(27回) 2017.06.24


筆者旧影
拝復
 本日貴兄より中城兄ご執筆の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を
 ご送付賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。早速読ませていただきます。
 暑さ厳しい折柄、ご健勝の程願上げます 。取急ぎ拝受お知らせまで。
  不一 
                           (ハガキ本文)
 
冨田 八千代(36回) 2017.06.26


筆者旧影
「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」の冊子ありがとうございました。
  23日に届きました。すぐに、我が家から喫茶店に移動し拝読しました。
      (ホームページではきちんと読んでいませんでした。すみません。)
  すぐにお返事をが、今になりました。
  多少は知っていたこと、全く土佐中学校とは関係なく個々に知っていた偉人の方々が
  土佐中学校と三根圓次郎校長を中心につながっていることに驚きました。
  
三根圓次郎校長の理念が時代をさきがけ、深遠なことを少しは受けとめたつもりです。
  あらためて、土佐中・土佐高校で学べたことを嬉しく幸せに思います。
  同窓生や在校生にもぜひ、読んでもらいたいと思います。
  
  このように、著述してくださった中城さんに敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。
  また、冊子を送っていただきありがとうございました。
  私には冊子の方がずっとずっと読み易く本当にありがたく思いました。
  ありがとうございました。
  
≪編集部より≫御老体に鞭打って青息吐息で沢山の執筆に励んでおられる中城先生に激励のエールをお願いします!!!
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『介良のえらいて』増補版の発刊について
鍋島 高明(30回) 2017.05.24
謹啓

筆者近影
 「介良のえらいて」の初版が出たのが平成26年の10月のことです。ご好評を戴き、翌27年1月に増刷する幸運に恵まれました。増補版は当初からぜひやりたい、いや、やらなければ見落とした先輩たちに申し開きができないと思い、資料を集めておりました。今回新たに17人が加わり、89人を収録した時点で増補版を発行することにしました。
 名物酒場「とんちゃん」のオーナー吉本健児さんが介良の出身で、国文学の大家竹村義一さんと小学校の同級生だとわかって増補版の目玉になると考えました。「とんちゃん」の常連客が同じく介良出身の酒豪横山三男、土佐文雄のご両人であり、反骨の心理学者鍋島友亀・道子夫妻もよく通っていたというし、横山和雄県立図書館長も夕方5時になると土佐文雄(当時図書館によく出入りしていた)に「とんちゃんに行こう」と誘われたそうです。

『介良のえらいて』増補版
五台山書房刊 1,200円(税別)
 高知を代表する前衛女流造形作家入交京子さんの取材を通じて今井良榮少将の資料が見つかったのは思わぬ収穫でした。将軍が戦後早々介良の村長をやっていたこと、その選挙運動を手伝ったという中島正五郎さんの少年期の証言は目からうろこでした。歌を詠み、絵を描き、壼を焼いて90年の篠原律子さんの逞しい生き方には元気と勇気を戴きました。山官と呼ばれる営林署の役人鍋島健一さんは山を愛し、文を愛し、介良を愛した。
 戦前の高知教育界に大きな足跡を残した土佐梁山泊。ゆかりの100人の若き学徒の中に介良から鍋島牧忠、鍋島一郎、岡崎福太郎の3同人が含まれていたことを知り、これは顕彰しなければと思いました。中島隆、澤本健男、横山猛ら派手ではないがリスクを冒し起業した面々の登場で本書に厚みが加わりました。農業人の代表として中島覚さんに入って貰いましたが、本の完成をみないで亡くなったのは残念でなりません。
 また地域官僚としては最高位の県副知事を務めた十河清さん、知事選に出馬していれば当選確実と言われながら、「その任に非ず」と固辞したという。そんな人材が加わって「介良のえらいて」(増補版)は頁数の増加(80ページ増)以上に中身が濃くなったように思います。四国の流通王から西日本の流通王へと駒を進める旭食品

「介良のえらいもん」全員集合89人
(トモシアホールディングス)、その竹内寿明初代社長、竹内明義2代目社長の登載で陣立てが整いました。
 初版から登場しているえらいてたちに就いてもかなり充実させることができました。たとえば中谷貞頼さん。日活専務時代、のちに永田ラッパの異名をとる永田雅一大映社長が中谷に私淑、中谷社長の実現に大きな働きをしたという事実は特筆していいでしょう。
敬具
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中城 正堯(30回) 2017.05.22生首を化粧した武士の娘
   ―戦乱を逃れ、土佐に来た「おあん」その後―

筆者近影


 郷土誌『大平山』(高知市三里史談会発行)第43号に発表した、『おあん物語』の論考です。関ヶ原の合戦を逃れ、土佐に落ち延びた娘の体験記ですが、菊池ェは女性による「戦国時代のたった一つの自伝小説」と称賛しています。ここでは臨場感が出るように、戦国時代の合戦を描いた浮世絵や屏風から物語と類似の場面を選び、原本の挿絵に加えました。

子どもに語った戦国の実態
 江戸初期の土佐の女性といえば、思い浮かぶのはだれであろう。まず、内助の功で知られる初代藩主・山内一豊(かつとよ)の妻がいるだろう。一豊亡き後、見性院(けんしょういん)の法号を受けるが、名前は「千代」とも「まつ」とも伝わり、明らかでない。へそくりで名馬を買った伝説はともかく、関ヶ原の直前に人質となっていた大坂から東国の一豊に送った「笠の緒の密書」は、徳川家康にも高く評価された実話だ。もう一人は、野中婉(えん)であろう。奉行職だった父野中兼山が失脚すると、44歳まで宿毛に幽閉された。その孤高の生涯は、大原富枝の名作『婉という女』に描かれている。

『おあん物語』
(天保版 喜多武清画 筆者蔵)

 ここで紹介するのは、関ヶ原の大決戦のさなか、佐和山城で敵兵の生首に化粧を施すなど、悲惨な篭城を経験した「おあん」である。落城寸前に父山田去暦(きょれき)とともに城を抜け出し、土佐に落ち延びたおあんは雨森氏と結婚、夫亡き後は甥に養われ、八十余歳まで長生きしている。この老婆が「おあんさま」と呼ばれたのは、夫に先だたれて出家し、老尼の尊称「お庵様」が用いられたからであろうとされる。
 『おあん物語』は、「子どもあつまりて、おあん様むかし物語なさりませといえば」から始まっており、近所の子どもたちにせがまれて、十数歳で体験した篭城戦の凄惨な光景を語った物語だ。さらに後半には、彦根城下での貧しい少女時代の生活体験が記されている。この話を、だれか分からないが筆記した者がおり、写本が流布した後、享保15(1730)年に土佐の谷垣守(かきもり)が本にまとめている。筆者は十年ほど前に神田の古書店で、朝川善庵が谷垣守本に挿絵を付けて天保8(1837)年に刊行した天保版を見付けて入手した。題簽(だいせん)に『おあんものがたり おきくものがたり』とあり、大坂夏の陣で大坂城から脱出した「お菊」の物語と合本にした大判(257×180ミリ)の和本だった。
 こうして江戸時代から広く読み継がれてきた『おあん物語』であり、現代も国文学者や歴史学者から大いに注目されている。しかし、見性院や婉と違って高知では忘れ去られているようなので、この本の誕生のいきさつと内容、さらに各分野の研究者や文学者による論評と活用を紹介したい。なお、翻刻は、岩波文庫『雑兵物語 おあむ物語』(昭和18年)によったが、読みやすくするため現代文に直し、主人公「おあむ」は、「おあん」と表記した。文末の「おじゃった」などは活かしてある。では、本文(一部省略)に入ろう。

篭城し、生首にお歯黒を施す
 「おあん」には、「おれが親父は、山田去暦といい、石田治部少輔(じぶしょう・三成)殿に奉公し、近江の国彦根に居られたが、その後、治部どの御謀反の時、美濃の国大垣の城へこもって、我々みなみな一所に、お城にいて、おじゃった」と、大垣城にこもったいきさつが出てくる。やがて、「家康様より、せめ衆、大勢城へむかわれて、戦が夜ひるおじゃったの。その寄せ手の大将は、田中兵部殿と申すでおじゃる」とある。攻め手の大将・田中吉政(兵部)は、豊臣秀次・秀吉に仕えたが、関ヶ原では東軍について石田三成を捕虜にする武勲をあげ、柳川藩主に取り立てられた人物だ。秀次に宿老(重臣)として仕えた際には、山内一豊も同じ宿老であった。ただ、石田は関ヶ原へ大垣城(岐阜県)から出陣しているが、田中が攻めたのは石田の本拠・佐和山城(滋賀県)である。したがって、『おあん物語』の舞台も実は佐和山城で、おあんの記憶違いで大垣城となったようだ。
 戦が始まると、「石火矢(大砲)をうてば、櫓(やぐら)もゆるゆるうごき、地もさけるように、すさまじいので、気のよわい婦人なぞは、即時に目をまはして、難儀した」「はじめは、生きた心地もなく、ただ恐ろしや、こわやとばかり、われも人も思うたが、後々は、なんともおじゃる物じゃない」と変わる。恐ろしい砲撃を受けながらも、次第に慣れていく。
 城中で女性は、どんな役割を担っていたか。「我々は母も、そのほか家中の内儀、娘たちも、みなみな天守に居て、鉄砲玉を鋳ました」女たちは、鉛を溶かして鋳型に流し込んでは、火縄銃の鉄砲玉を作った。

挿絵@ 生首にお歯黒を施す女性

 続けて、「取った首を天守へ集め、それぞれに札をつけて覚えおき、首にお歯黒を付ておじゃる。それはなぜなりや。昔は、お歯黒首はよき人とて賞翫した。それ故、白歯の首は、お歯黒を付て欲しいと、頼まれておじゃったが、首も怖いものでは、あらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった」とある。切り取った敵兵の生首に、お歯黒を施していたのだ。戦国時代の「賤ヶ岳(しずがたけ)合戦図屏風」などには、敵兵の首を持って凱旋する兵士の姿が描かれている。当時、首は戦場で手柄を上げた大事な証拠であり、それも白歯の雑兵よりもお歯黒をした身分の高い武将の首が評価され、恩賞につながったのだ。誰が捕った首か名札をつけ、お歯黒首への偽装工作までおこなっていた。挿絵@は、生首にお歯黒を施す場面で、右手前にはお歯黒の液(鉄漿(かね))を入れた角盥(つのだらい)がある。名札を付けた首も見える。左手前には火縄銃が置いてあり、背後の杭には首がずらりと掛けてある。
 やがて、「寄せ手より鉄砲打掛け、もはや今日は城も落ちるだろうという」状態となる。そこへ「鉄砲玉が飛んで来て、われら弟、14歳になった者に当り、そのまま、ひりひりとして死んでおじゃった。さてさて、むごい事を見ておじゃったのう」と、歎いている。

たらいで脱出、土佐に来た「彦根ばば」

挿絵A たらいで堀を渡って脱出
 落城が迫ったある日、「わが親父(しんぷ)の持ち口(持場)へ、矢文が来て、<去暦は、家康様御手習いの御師匠であった。わけのある者なので、城から逃げたければ御助けできる。どこへなりとも、落ちなさい。旅費の心配もないよう、諸々に伝えておいた>との御事で、おじゃった」。家康様の師匠だったので、旅費も含め、脱出の手配をしたとの知らせだ。密かに天守へ行き、北の塀脇から梯子をかけて降り、たらいに乗って堀を渡った。人数は、両親とおあん、それに大人四人ばかりであった。挿絵Aは、たらいで堀を渡る場面であり、右の藤文様の着物を着た娘がおあんで、16、7歳と思われる。

挿絵B 道ばたで出産した母子をかついで逃避行

 城をあとに落ち延びてゆくが、「五六町ほど、北へ行った時、母人(ははびと)、にわかに腹がいたみ、娘を産みなされた。大人はそのまま田の水で産湯をつかい、引上げて着物の裾でつつみ、母を父が肩へかけて、あお野が原へ落ちておじゃった。怖い事でおじゃったのう。むかしまっかう、南無阿弥陀、南無阿弥陀」。ここまでが、篭城から脱出までの経緯である。
 さらに、土佐の子どもたちに、「彦根の話、なされよ」と言われ、こう語っている。「父親(山田去暦)は知行三百石取りであったが、戦が多く、何事も不自由であった。朝夕雑炊を食べておじゃった。おれが兄さまは、時々山へ鉄砲打ちに参られた。その時は朝菜飯(なめし)を炊き、我等も菜飯をもらえるので、うれしかった。衣類もなく、13の時、手織りの花染めの帷子(かたびら…ひとえの着物)一つよりなかった。その帷子を17の年まで着たので、すねが出て難儀であった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ欲しやと思うた。このように、昔は物事が不自由な事であった。昼飯など食う事は、夢にもない事。夜に入り、夜食という事もなかった。今時の若い衆は、衣類の物好き、心をつくし、金を費やし、食物にいろいろ好みをいい、沙汰の限りなきこと(言語同断)である」。
 こうして、彦根の時代を思い出しては、子どもをしかったので、後には「彦根ばば」のしこ名(綽名)をつけられたとある。さらに、今も老人が昔話を引用して、当世を戒(いまし)めることを「彦根」というが、この言葉は俗説では「おあん様」に始まったことで、土佐以外では通じないと、筆記者は付記してある。

谷垣守がまとめて出版、広く流布
 土佐に来たことについては、「去暦、土佐の親類方へ下り、浪人。おあんは、雨森(あめのもり)儀右衛門(土佐藩士)と結婚。夫の亡き後は、甥の山田喜助(後に蛹也(ようや))に養育して貰う。寛文(1661〜72)何年かに、八十余で死す」と、簡単に触れている。
 聞書の筆者は、物語を終えた後に「おあんの物語」を残した経緯をこう述べている。「おあんの話を聞いたのは8、9歳の頃で、折々に聞き覚えた。誠に光陰矢の如し。正徳(1711〜15)の頃、孫どもを集めてこの物語に、自分の昔のことも合わせて、世の中の苦しみを示すと、小賢しい孫どもが、『昔のおあんは彦根ばば、今のじい様は彦根じじ。今さら何をいうやら、世は変わった』と、鼻であしらうゆえ、腹を立てども後世おそるべし、どうなるだろう。今の孫たちも、また自分の孫たちに、このようにいわれるのだろうかと、勝手に想像、後はただ南無阿弥陀仏と繰り返すほかに、いうべき事はない」。

生首をかかげての凱旋(成瀬家蔵「小牧長久手合戦図屏風」より
『戦国合戦絵屏風集成 第二巻』中央公論社)

 この本を編纂した谷垣守は、末尾に「真実の優れた記録である。誰が記録したのか分からないが、おそらく山田氏の覚書であろう。山田文左衛門所蔵のものを借りだして写した。享保15年3月」と記してある。
 さらに、天保8年に『おあんものがたり おきくものがたり』として出版した江戸後期の儒学者・朝川善庵は、跋文(あとがき)で「狂言師・倉谷岱左衛門の門人某が安永年間に、大坂からこの本を持ってきた。御庵(おあん)とは、老尼の尊称である」と述べている。この本には、挿絵三枚が加えてある。朝川善庵は天明元年、江戸の生まれ、嘉永2年没である。挿絵には「武清」の落款(らっかん)があり、絵師は喜多武清だ。江戸後期の画家で、八丁堀に住み、谷文晁に師事した。渡辺崋山とも交流があり、崋山は「その臨写(写生)には、ほとんど真物に迫る貴重な物が多かった」と、語ったという。山東京伝『優曇華(うどんげ)物語』の挿絵も描いている。安政3(1856)年没。
 『おあん物語』は、谷垣守本が原本であるとされ、写本が高知県立図書館にある。垣守(1698〜1752)は谷秦山(じんざん)の息子で、儒学者・国学者。京や江戸にしばしば行き、諸家と交わり研鑽した。その子・真潮(ましお)ともども家学を深め、土佐を代表する学者となって、政治にも参与した。垣守がまとめた『おあん物語』は、天保8年版によって広く流布し、戦国時代の貴重な記録として、今に各地の図書館や大学に残っている。
 では、明治から現代まで、識者や研究者によって、この物語がどのように受け止められてきたか、さぐってみよう。

岩崎鏡川による「おかあ武勇伝」

生首を持ち帰る兵(「賤ヶ岳合戦図屏風」より
『戦国合戦絵屏風集成 第二巻』中央公論社)
 明治になると郷土史家・寺石正路が注目し、この物語を紹介するとともに、登場人物の墓地をさぐるなど考証にも取り組んだ。それらの成果を活かして、『おあん物語』に触れながら坂本龍馬の先祖を論じたのが、明治七年土佐山村生まれの維新史研究家・岩崎鏡川(きょうせん・英重)である。「坂本龍馬先祖美談」(『坂本龍馬関係文書一』大正15年)で、「土佐の国に昔、御案(おあん)物語といえる書あり、彼の帯屋町故山田平左衛門君の先祖・山田去暦の娘・御案といえる女丈夫の物語・・・江州佐和山籠城の時に血なまぐさき敵首を天守に運び・・・」と、まず「おあん」を紹介。続けて、坂本家本家の系図にあった「おかあ殿事績」から、こう述べている。「大和国吉野の須藤加賀守の娘・おかあ殿が、戦乱の中を落ちる際に敵六人に追いかけられて薄手(軽い傷)を負うが、敵に待てと言って小袖を引きちぎって鉢巻きにあてると、六人を切りとめ、土佐の豊永に落ち延びた。おかあ殿は小笠原佐兵に嫁ぎ、その妹が坂本家の先祖で才谷村に住む太良五良(ママ)の妻になった」。
 龍馬の縁戚に当る土居晴夫は、「おか阿の武勇談」(『坂本龍馬の系譜』)でやはりこの話を紹介しているが、おか阿の妹は坂本家初代太郎五郎の妻ではなく、その子・彦三郎の妻とする。南国市三畠(さんぱく)には、小笠原佐兵・おか阿の墓と顕彰碑があるという。
 岩崎鏡川は、おか阿は忘れられたのに「おあんの物語は、久しく世上に流伝し、今や歴史研究家としてその名を知らざるなし」と述べている。昭和にはいると歴史家だけでなく、多くの文学者がこの物語に注目し、さまざまな形で作品化する。まずは、岩崎鏡川の次男に生まれ、母・斉(ひとし)の実家・田中家にはいった作家・田中英光(ひでみつ)から取り上げよう。
 田中英光の母方の祖父・田中福馬は種崎村の商家に生まれたが、宝永町に出て市場の仲買人として成功する。しかし自由民権運動で家産を傾け、東京に出た。英光は大正2年、東京赤坂で生まれたが、土佐人に囲まれて育ち、高知を故郷としていた。早大在学中の昭和7年には、ロサンゼルス・オリンピックにボート選手として参加。その後作家となり、『オリンパスの果実』などで知られる。昭和24年に太宰治の墓前で自殺する。この英光が昭和18、9年頃執筆したと推定される遺稿「土佐 2」(『田中英光全集8』芳賀書店)に、「おあん物語」がある。

虐げられた女性への追憶
 この文章の最初に、「寺石正路氏の考証のついた、土佐協会誌第66号の付録があるので参考にさせて貰い、感想を述べながら意訳する」とある。おそらく父・鏡川の文章で「おあん物語」に注目し、寺石の文書も入手したのであろう。英光は、まず菊池ェの「わが愛読文章」から、次の部分を引用している。
「戦国時代に於ては、個人の私生活、ないし日常生活についての文献なぞは全然見当たらない。ことに女性の私生活については何も伝わっていない。その間にこのおあん物語だけが、一つの真珠のように光っている。これは戦国時代に於けるたった一つの自伝小説と云っても好いものだ」。このあと、現代文に意訳して物語を紹介、前半を終えたところで、こう感想を挟んである。「ここまでが、関ヶ原当時の思い出話だ。戦時中、女子供がどんなに惨めであったか、ただ虫のように生き、虫のように死んで行ったに過ぎない。ところが今度の戦争中におあん物語を時局に有意義な物語として取り上げ、昔でも女子供はこんなに苦しんだのだから、今の女子供は幸福だ。すべからく今の配給生活に感謝せよなぞ言っている人もいたが、これは反対で、三百年前の女子供の暗い生活と少しも変わらぬ、あるいはもっと酷い生活を強いられている現代の矛盾と欠陥をむしろ批判的に考えなければならないと思う」。

落城して炎上する城(「大内合戦之図」橋本貞秀 松ア郷輔所蔵)
 まことに的確な感想であり、言論統制の行われていた第二次世界大戦中には、絶対に発表できない内容である。昭和18年発行の岩波文庫版「おあむ物語」にも、並べて収められた「雑兵物語」の解説には、「戦闘に於ける果敢不屈の精神をうたって士気の高揚に資せんとしたもの」とある。当時の、新聞・出版は戦意高揚・耐乏生活一色であった。この昭和18年に高知市立三里国民学校に入学、空襲と空腹の中で小学生生活を過ごした筆者も、体験ずみのことであった。
 英光は物語の後半を記した後、寺石の次のような考証を転記している。「山田去暦の墓は、高知城南潮江山字(あざ)高見にありと聞く。阿庵(おあん)の墓は同じ清水庵の傍らにあり。わが父は子供の頃、潮江村に住み、童遊の際、阿庵の墓に行き、木太刀を取り帰ったことがある。阿庵の墓は、なぜか知らないが木太刀の奉納がおびただしかった。昔から土佐では歯の痛む人は小溝に行き、お庵様といって祈願をして、平癒すればお歯黒を上げる習いがあった」。
 英光は最後に、「この平凡な女性が、どうしてこのような俗信の対象となるまで、有名になったであろうか。同様な方言を生むまでに有名な荒武者・福富隼人と対照してみる時は面白い」と、問いかける。福富隼人は、長宗我部元親に仕えた伝説的な豪傑で、英光は隼人の孫で惨めな流浪の生涯を送った「福富半右衛門」を主人公に歴史小説を書いている。この二人を対比しつつ、こう記して「おあん物語」を終えている。
「隼人は生粋の土佐人であったが、その子孫は他国に流浪し、おあんは他国人であったが、その子孫は土佐に止まることになった。この点でもまた、対蹠(たいしょ)的であり、かつ私は土佐を限定した土佐と見る愚劣さを思う。そして軽々しく独断は出来ないが、こうして隼人が有名になった原因には、他国人の抑圧の下に苦しんだ土佐人が前代の自国人の英雄に対する敬愛の念を感じ、おあんが有名になった原因には、抑圧された民衆が、虐げられた女性の追憶にある真実さを、限りなく愛慕するの情を感じることができる」。

「おあん」に見る男女の生と性
 「おあん物語」に関心を示した作家には、谷崎潤一郎、そして土佐出身の大原富枝がいる。二人の取上げ方を紹介しよう。
 谷崎が「武州公秘話」を雑誌『新青年』に発表したのは、昭和6年である。後に谷崎全集に寄せた文章で、圓地文子は、「小説のはじめの方で城中の女達が首を化粧する前後の描写はこの作品中、白眉の部分」とし、「恐らく作者はこれらの場面を〈おあん物語〉や〈おきく物語〉などによって構想されたのでしょう」と述べている。
 この物語の序で作者は、主人公・武州公を「一代の梟雄(きょうゆう…残忍で猛々しい人)、また被虐性的変態性欲者なり」と述べ、その由来となった事件に入っていく。13歳の秋、幼名・法師丸は、人質となっていた牡鹿(おじか)城が敵兵に囲まれ、篭城を余儀なくされる。ある夜半、五人の女たちが敵の生首に化粧を施す部屋に忍び込み、女たちの作業ぶりに恍惚感を抱く。なかでも、生首の髪を洗う16、7の若い女の、首に視入る時のほのかな微笑に陶酔を覚え、「殺されて首になって、醜い、苦しげな表情を浮かべて、そうして彼女の手に扱われたいのであった」と書く。伊藤整は、「武州公秘話」のモチーフは、「残虐性と美との観念の連絡と交錯」であり、古文書から得た物語に見事に生かされている。「作者一代の傑作」「世界諸国の文学の中にも類を求め得ない特異な作品」と、絶賛している。

落城で逃げまどう民衆(「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵)
 戦後の作品では、大原富枝が昭和40年『中央公論』に発表した「おあんさま」がある。老いさらばえた「おあん」の回想から始まるが、城から落ち延びる際に、不破の山中で三人の落武者に襲われる場面を付け加えてある。土佐に落ち着き、結婚した新床でも、「夫のつめたい手が肌にふれたとき、・・・突然に、あの不破の山の三人の男たちを思い出した」とある。忌まわしい悪夢に悩まされながらも、いつしか仲の良い夫婦となっていた。
 学問の世界では、昭和18年の岩波文庫版で、戦時教訓的なねらいを隠し、国語学者湯澤幸吉郎が「口語史上注意すべき事」として、語尾の「あらない」「おぢやる」などを指摘している。戦後は、民俗学者の柳田国男が、「民衆の生活」「口語資料」にかかわる「清新な教材」として、東京書籍の高校国語教科書に採用したことを、井出幸男が『宮本常一と土佐源氏の真実』で述べている。国語の古典教材に、庶民の生活誌が登場するのは画期的なことであったが、採択が広がらず、この教科書は消えていった。井出は、宮本の『土佐源氏』も「おあん物語」の語り口調の影響を受けており、また単に乞食から聞き取った民俗誌の資料ではなく、創作が入った文学作品だとする。筆者は、梅棹忠夫監修『民族探検の旅』(全8集・学研 昭和52年刊)に続き、宮本常一監修『日本文化の源流』をまとめるべく宮本を囲んで企画会議を開始していたが、昭和56年に逝去され、実現しなかった。「土佐源氏」(「土佐乞食のいろざんげ」)誕生のいきさつも聞き逃してしまった。宮本は柳田と親しく、田中英光には強い共感を寄せていた。
 歴史家の受け止め方も述べておこう。磯田道史は、「女たちが見た関ヶ原の合戦」(『江戸の備忘録』文春文庫)で、「現在の長い平和は江戸時代以来のことだ。実は江戸の初めにも、日本人は今の平成時代と同じように〈戦争を知らない世代の到来〉を経験している。・・・江戸人が聞き耳を立てた〈戦争体験談〉」だとして、おあん物語を紹介している。小和田哲男は、『城と女と武将たち』(NHK出版)で、「おあん物語」から〈鉄砲玉の鋳造〉と〈敵の首へのお歯黒付け〉をあげ、篭城中の女たちの仕事であったことを実証している。

老人と子どもの新しい絆を!

高知城、おあんはこの城下で穏やかな
晩年を過ごした。(筆者撮影)
 こうして土佐の谷垣守が江戸初期にまとめた「おあん物語」は、その壮絶な戦争体験と、口語体の親しまれやすい文章から、広く読み継がれ、研究や創作の素材にもなってきた。まとめとして、これまで研究者に取り上げられなかった、「老人と子ども」という観点から、この物語の意義に触れておきたい。
 「おあん物語」は、子どもが集まって「おあん」に昔話をせがむところから始まる。平和になった江戸時代の文献には、隠居の身となった老人たちが、子どもたちと過ごす様子が、よく現われてくる。越後の良寛は、「霞(かすみ)立つ永き春日(はるひ)を子供らと 手毬つきつゝこの日暮らしつ 子供らと手毬つきつゝ此のさとに 遊ぶ春日はくれずともよし」と歌を詠んでいる。江戸の山東京山は天保3年刊『五節供稚童講釈』で、「隠居とおぼしき剃髪の姿賤(いや)しからず、女小(ママ)供を集めて、五節供の講釈をするなり」と述べ、『菅江真澄全集』には仙台領徳岡の村上家で浄瑠璃を披露しようとした座頭(ざとう)に、子どもが「むかしむかし語れ」と催促した場面がある。これらは、いずれも江戸後期の事例だ。
 テレビやスマホのない時代の子どもたちにとって、老人と遊び、昔話や体験談を聞くのは、なによりの楽しみであった。さらに、老人が地域の子どもの教育に積極的にかかわった記録もある。乙竹岩造が、『日本庶民教育史』で紹介した「あやまり役」である。寺子屋では、いたずらや怠慢で破門の罰を受けると、あやまり役の老人に知らせがあり、子どもを諭(さと)した上で、一緒に寺子屋の師匠におわびに行ってくれた。母親よりも、年の功で上手にとりなす老人が適任で、あやまり役は各地で見られた。
 だが、老人の話も説教くさくなると、とたんに子どもに嫌われる。話を受け継いだおあんの孫も、やがて子どもたちに鼻であしらわれる。『女重宝記(ちょうほうき)』には、「上代の女はその心素直にして邪(よこしま)ならず。世の末、今の世におよびては、女の心日々に悪しくなり、人をそねみ妬(ねた)み、身を慢(まん)じ、色ふかく、偽りかざりて欲心多く、やさしき心なくして情けを知らず」とある。現代にも通用しそうだが、元禄5年(1692)に出た女子用教訓書の教えである。いつの世も、世代間ギャップは簡単には埋まらない。
 だが、老人と子どもを上手に結びつけている例は現在もある。1999年にパリで出会った中学校の国語教師が、移民の子どもにとっている対応で、「正しいフランス語修得には古典的な詩文の暗誦が欠かせない。宿題に出すが、移民は親も教えることができない。そこで老人の家庭を訪問させ、教えてもらった。孤独な老人にも、話し相手ができたと喜ばれた」という。
 現代の日本では、増大する高齢者は老人施設などに囲い込まれて別居、地域の子どもはおろか孫と接する機会も少ない。子どもも学校と塾に囲い込まれ、老人の体験談や昔話・わらべ歌を聞き、ともに遊ぶ機会は失われてしまった。おあんは土佐の子どもたちに囲まれ、昔話をせがまれつつ幸せな晩年を過ごした。その生涯を記録した、谷垣守のような人物にも恵まれた。老人と子どもが直(じか)に触れ合い、遊び、語り合う、新しい絆の構築が望まれる。
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向陽プレスクラブ2017年度総会議事録
水田 幹久(48回) 2017.04.28
議長 公文敏雄会長    書記 水田 幹久


出席者集合写真(竹本氏提供)
1.日時 4月22日(土)  17:00〜18:00
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 中条正堯(32回) 公文敏雄(35回) 竹本修文(37回)岡林哲夫(40回)
  藤宗俊一(42回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回) 北村章彦(49回)
4.公文会長が、議決権を有する出席者7名、委任状8名であり、議決権を有する会員数
  27名中15名参加で過半数に達しており総会は成立と報告。
5.公文会長議長となり、以下、総会議案に従って進行。
総会決議
 1)2016年度事業報告
   北村幹事長から「平成28年度向陽プレスクラブ事業報告」に基づき報告。
   平成28年度総会の出席者は7名を8名に訂正。出席者に濱崎氏が欠落。
 2)2016年度会計報告
   中井会計担当幹事から「向陽プレスクラブ2016年度会計報告」に沿って報告。全員一致で承認。
 3)2017年度事業計画案
   「平成29年度向陽プレスクラブ事業案」を審議し、原案に次の修正を加えて承認。
  ・平成29年度総会
   2018年4月21日(土)予定
  ・関東・高知の交流の促進 の項に下記の一文を追加する。
   次の場合は幹事長の要請があったものとする。
    @高知支部を代表する役員が総会及び幹事会に出席する場合
    A会長又は幹事長が高知支部の会に参加する場合
    B会長又は幹事長が当会及び母校に対する活動を行う場合
  ・交通費補助について、旅費補助内規を改定する。
  ・定額補助の基準を改定する。
 4)2017年度予算案
   平成29年度予算案を審議し、原案に修正を加えて承認。
 5)母校への応援
   母校との対話
   100周年企画応援
 6)入退会
     入会 竹本修文(37)   退会 笹岡峰夫(43)
 7)当会ホームページに在校生、教職員、卒業生の声を反映するページを新設し、意見を募る。
 8)会員基盤の強化を図る。
 9)その他

酒菜浪漫亭 東京新橋店(竹本氏提供)

  ・100周年企画応援事業の一環として、次の活動を当会として支援する。
  中条会員が発行を計画している小冊子「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を向陽プレスクラブ発行とする。小冊子製作費用は中条会員負担とする。郵送費等の経費を当会で負担する。当会の支出費目はその他支出の予算とする。

 以上、2017年度向陽プレスクラブ総会決議事項の詳細は当会ホームページの「会員のページ」に記載しました。

 以上を以て2017年度総会を終了し、引き続き総会会場にて、懇親会を行った。
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水田 幹久(48回) 2017.04.28雑感 「地域コミュニティ」

筆者近影
 4月は満開の桜の下で、新入園、新入学、新入社の人達の姿を見て、元気を分けてもらえる季節であり、前向きな気持ちも湧いてくる。それに比べて年末は、寒く、暗い天候でもあり、その年を振り返り反省するなど、どこか後ろ向きな気持ちに覆われる。
 毎年年末に、日本漢字能力検定協会は、その年の世相を表す漢字1字を発表する。昨年は「金」であったが、過去にどんな字が選ばれてきたか、ほとんど記憶に残っていない。そんな中で東日本大震災があった2011年に選定された「絆(きずな)」は、今でもよく覚えている。おそらく他の年の文字には感じられない納得感があるのだろう。大震災で、家族や仲間の尊い命を失うことや、また連絡が取れず不安な日々を過ごした体験は、あらためて家族・友達・恋人・地域の人々との「絆」の大切さを知り、希薄になっていると言われる人間関係の大切さに気づくきっかけとなったようだ。
 最近、この「絆」の大切さをじわじわ感じることが多くなってきた。そのような年齢(高齢)に近づいてきたと言われればそれまでの話であるが、具体的な体験が伴ってくると、否が応でも「絆」の重要性を認識させられる。
 小生は高校卒業と同時に故郷の高知を離れ、就学、就職、結婚、子育てと、転居を伴いながら過ごしてきた。典型的な核家族所帯である。そして、今となっては子供たちもそれぞれ親元を離れ、核家族として別所帯を持っている。
 昨年、九州在住であった義父が他界して、葬儀のこと、残された義母のサポートのことなど、地域の方や近くに住んでいる親戚の方の助けを借りなければならないことが多々あった。これを機に親戚や地域との繋がりの大切さを再認識した。
 そして、今度は高知在住の両親から舞い込んだ依頼が、さらにその認識を深めることになった。両親の住んでいる南国市では、現在でも「ご荒神様」を祭屏風習が残っている。荒神(こうじん)とは土着の神で、人々を災いから救うと信じられている。主に西日本各地の農村に根強く残っている。高知出身者ならほとんどの人がそ屏風習に影響されていることであろうし、小生も子供の頃には「竃様(家庭に祭られている荒神様)」に毎朝供え物をし、粗末に扱うときつい罰(バチ)が当たると脅されて育った。この信仰屏風習?は根強いようで、今でも、年に1回(勤労感謝の日前後)に自治会をあげての祭事が行われている。今年は自分たちが当番だから手伝いに来て欲しいというのが両親の依頼であった。両親とも80歳をとうに超えており、その様な役目を引き受けているとは思いもよらないし、高齢ゆえ行事への参加も控えているのではないかと勝手に思い込んでいた。やむなく妻(女手の方が男手よりはるかに重要)と二人で出かけて行った。
 祭事の裏方を手伝いながら感じたことは、地縁と言うべきか、濃厚な近所づきあいがそこに存在しているという事であった。祭壇を設けて神事を執り行うだけでなく、仮設の土俵を作って子供相撲大会(これも奉納のひとつ)を行う。地域によっては神楽も舞う。子供から老人まで参加できるイベントになっている。そしてこの機会を逃さないように、市の防災担当による防災講習も行われた。近い将来、南海地震が起きることが想定されているため、参加者も皆真剣であった。地域の高齢化が進んでいるとはいえ、いざという時に頼りになる人たちの存在を感じた次第であった。それと同時に、老齢の両親が、今でもこの地域との絆を大切に、普通に付き合いを続けてきているということも実感した。
 そう言えば、両親が我が家に1週間ほど滞在したことがあった。両親が来て数日たった頃、弟から、近所の人が両親の姿が見えないことを心配して連絡があった、との電話があった。親元を離れて暮らす者にとって、老齢の両親の安否を気遣ってくれている近所の人達の存在は大変ありがたいことである。
 翻って、自分たちの地域はどうだろう。東京郊外のベッドタウン住宅地で、あまり近所付き合いがないまま、ここまで過ごしてきた。ひょっとしたら両親よりも自分たちの孤立の方が心配である。最近、団地内もリタイヤ組が多くなってきて、皆一抹の不安を感じるのか、有志によるウォーキング大会などの呼びかけも増えてきた。新興住宅街なりの「絆」作りの動きとも思える。煩わしいと避けてきた近所づきあいを見直して、前向きに関わっていくべき時が来ているようである。
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