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2018.05.27 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト2”合田佐和子(34回)後編
2018.05.03 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト2”合田佐和子(34回)前篇
2018.04.25 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト”に嬉しい反響
2018.04.23 岡林哲夫  向陽プレスクラブ2018年度総会議事録
2018.04.20 冨田八千代  「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しました。
2018.04.19 水田幹久  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2018.04.01 冨田八千代  『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました
 中城、鍋島、冨田  龍馬談義
2018.03.25 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト1”倉橋由美子(29回)
2018.03.18 北村章彦  4月21日KPC総会案内
2018.03.18 竹本修文  カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
2018.03.02 鍋島高明  土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』について

2010/04/01-2010/07/25設立総会まで 2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで 2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで 2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで 2016/04/01-2017/03/31第8回総会まで
2017/04/01-2018/03/31第9回総会まで -
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母校出身“素顔のアーティスト”(U)−2(後編)
焼け跡で誕生した前衛アートの女神 合田佐和子(34回)
中城正堯(30回) 2018.05.27
東京での再会と奇怪な大判名刺

合田のオブジェ「Watch-Angels」。
1964年(『合田佐和子 影像』
渋谷区立松濤美術館より)
 大学を出て学研の学習雑誌編集部にいた筆者に、彼女から突然訪問したいと電話があったのは、たしか昭和37年(1962)であった。彼女は土佐高の同級生で多摩美術学校(現多摩美術大学)の田島征三を連れ、作品を抱えて現れた。二人は大学がちがっても同じ美術専攻で、上京してから意気投合、就職はせずに美術で食っていこうと思い立ち、見本の作品を持って出版社回りを始めたのだという。
 田島とは初対面だったが、すでに全国観光ポスター展で、土佐沖のかつお釣りを描いた躍動感あふれる作品が金賞を得ており、自信満々だった。力強いタッチの人物や生き物は小学生を読者対象とする学習雑誌にも向いており、興味を示す編集者がいて早速仕事に結びついた。合田はカットやオブジェの写真を見せてくれたが、ちょっと子ども向きではなかった。むろん出版社によっては、合田も歓迎されたようだ。

上京した新聞部員を迎えた合田たち。
前列左より宮地敦子、江沢憲子、竹内たみ(40回)、森下睦美(31回)
 昭和37年の夏休みには、母校の国語教師・新聞部顧問となった森下睦美が、全国高校新聞大会に出席のため、3人の女子部員をともなって上京した。その際の写真には、前列の4人の上京組を迎え、後列には左から岩谷清水(27回)・合田・横山禎夫(30回)・筆者が並んでいる。
 この頃合田はガラクタオブジェの制作に熱中、瀧口修造などから認められ、40年(1965)には銀座で初の個展を開く。土佐のやせた少女は、さなぎからチョウへと美しく変身し、個展の前年には同郷の画家・志賀健蔵と結婚、披露宴は高知のホテルで盛大におこなわれた。オブジェは次第に注目を浴び、澁澤龍彦、イサム・ノグチ、白石かずこ、池田満寿夫などからも評価されるようになった。41年1月に長女を出産するが、6月には離婚する。友人には、「経済的にも頼ろうとするばかりで、稼ごうとしない男に愛想を尽かした」と、漏らしている。当時、合田からもらった名刺が残っている。A3の用紙いっぱいに一つ目の妖怪やろくろ首の女などが乱舞しており、氏名・住所・電話は申し訳のように小さく添えてある。目玉への執着もうかがえる。

工夫をこらした新人画家合田のイラスト名刺。(筆者蔵)
 やがて四谷シモン、唐十郎と知り合い、昭和44年(1967)には唐が主宰する状況劇場「少女都市」で透明な仮面など小道具を制作する。空き地や神社の境内に、怪しげな紅テントを張って演じられる不思議な演劇空間にはまり、舞台美術や宣伝美術もまかされるようになる。この頃、突然電話をかけてきて、「プラスチックで仮面や手足を制作したい。どこかいい業者を知らないか」とのこと。当時、学習雑誌の付録としてプラスチック製の教具制作も手がけており、すぐに出入りの金型屋や成型加工業者を紹介した。
 こうして多忙となったなかで、46年1月には彫刻家三木冨雄と結婚、ロックフェラー財団の招聘を受けた三木とともにニューヨークに渡り、8月まで滞在する。ここでアンダーグラウンドの映像作家ジャックと出会い、夜ごと夫婦で廃墟のようなロフトに訪ねたという。
 ニューヨークで世界の先鋭美術に触れるとともに、古ぼけた写真を拾ったことが、アーティスト合田の大きな転機となる。油彩画に拒絶反応を示し、立体物のみを制作していた合田は、こう述べている。「N・Yの裏通りで一枚の写真を拾った。二人の老婆と一人の老人が写っている、小さな銀板写真だった。手に取って眺めているうち、ハタと気付いた。アレ、これはすでに二次元ではないか」(「INTRODUCTION」『合田佐和子作品集 パンドラ』PARCO出版)。8月東京に帰ると、経済生活を維持するためにも油彩に取り組む覚悟を決め、渋谷の画材店で店員に油絵の描き方をたずね、絵の具5本と百号のキャンバスを買う。高校時代に見た「甘く、背徳的な」女優たちのプロマイドも収集、こうして、後に代表作となるスター・シリーズが誕生する。

唐十郎に続き寺山修司の演劇に参入
 昭和55年(1980)3月には渋谷の西武百貨店美術画廊で「夢の回廊 合田佐和子[ポートレート]展」を開催、作品集「ポートレート」を刊行する。手元に残るこの作品集には、ローマ字のサインとともに1980.3.13と記されている。70年安保後の気怠い街角に、往年の退廃的スターが、エロスと妖気と死の影をまとって再登場、衝撃を与える。以来、生身の人間を描くことはなく、写真を素材に自己流の油彩で描き続ける。
 この間、米国から帰国後47年に三木と離婚するが、同年末に次女が誕生する。舞台美術の仕事も広がり、「状況劇場が好きだから、ダメ」と言い続けてきた唐のライバル・寺山修司の天井桟敷にも参画する。演劇「中国の不思議な役人」から、香港ロケによる映画「上海異人娼館」など、寺山作品に欠かせない存在となる。だが、最初に「演劇の世界は地獄だよ」とからかわれたとおり、その仕事は過酷だった。台本が遅れに遅れ、「青ひげ公の城」では、一週間で14景の舞台下絵を描かねばならず、「さび付いた頭をフル回転させ、狂ったように取り組んだ」と語っている。心身ともに消耗の激しい作業だったが、寺山のイメージに見事に応え、喜ばれる。唐組の仕事も終生継続する。

合田の絵画作品、作品集から。
 さらに合田は、写真の撮影から現像・コラージュの技法も習得する。米国から上陸したポラロイド写真にいちはやく挑戦、昭和56年には「合田佐和子ポラロイド写真展」を六本木アートセンターで開催する。59年には銅版画による豪華詩画集『銀幕』を刊行、その出版記念会案内状で四谷シモンは「当代きっての才媛、ぼくらのマドンナ、佐和子が・・・電光石火の早技で〈月光写真〉の如き〈銀幕のスターたち〉を誕生させました」と、讃えている。油彩・演劇・写真・銅版と、合田のとどまるところを知らない快進撃は、若者の支持を得て現代アートの女神かのような存在となっていく。
 昭和60年(1985)になり、娘二人とエジプト・アスワンに移住すると知らせがあったときは、筆者も訪ねた土地であり、あの砂漠と青空だけが広がる世界への脱出は理解できた。いっぽう、灼熱の村での暮らしに危惧も感じた。一家はヌビア人の村に住み込み、泥の家に居住する。合田は「サバコ、サバコ」と親しまれるが、頻繁に停電が発生、冷房もままならない生活に長女(当時19歳)は早々に帰国、次女(12歳)には「映画もTVもネオンも恋しいヨー!」と嘆かれ、1年足らずで滞在を打ち切る。
 滞在中、エジプト村日記を『朝日ジャーナル』に連載、後に『ナイルのほとりで』と題して朝日新聞社から刊行される。この頃、筆者は「船の目玉―海の魔除けの不思議な系譜」を執筆中で、ホルスの目に魅了された合田から、ナイル川の帆船ファルーカの目玉情報の提供を受けた(拙著『アジア魔除け曼荼羅』NTT出版に収録)。朝日新聞では、平成3年(1991)の連載小説「軽蔑」(中上健次)の挿絵を担当、目をテーマに描き続ける。

独自の目で幻想的世界を開拓

合田佐和子「マリリンの海」
2003年(『合田佐和子 影像』より)
 帰国後は、世田谷区から神奈川県葉山町、さらに鎌倉へと転居し、旺盛な制作活動を再開する。平成4年2月には、石川県小松行きの飛行機で偶然彼女と乗り合わせた。若い男性助手を連れており、金沢市で4日間にわたる公開制作をするとのことだった。仕事の日程をやりくりして会場に駆けつけ、二百号の大作に挑む現場に立ち会えたのは幸運だった。
 かつては、小さな個人画廊での個展が中心で異端の画家という存在だったが、次第に時代の先端を行くアーティストとして美術界からも注目されるようになり、民間・公営双方の著名美術館からも声がかかるようになった。特に平成13年(2001)の高知県立美術館<「森村泰昌と合田佐和子」展>と、15年の渋谷区松濤美術館<「合田佐和子 影像 絵画・オブジェ・写真」展>は、彼女の代表作を総集した展覧会で、異分野への果敢な挑戦と斬新な表現を求め続け、戦後の日本美術界に刻印した鮮やかな足跡が読み取れた。

若き日の「合田佐和子個展」
案内状(写真:沢渡朔) 1977年
 残念ながら平成20年代になると体調を崩すことが多くなり、鎌倉や日本橋の個展に足を運んでも本人の姿はなかった。本人の声を聞くことができたのは22年4月で、土佐高関東同窓会会報への寄稿を、新聞部出身の永森裕子(44回)から頼まれて電話した。元気な声で快諾してくれ、筆者の病状(肺血栓)を心配し、『脳梗塞糖尿病を救うミミズの酵素』をぜひ読むように薦めてくれた。親しい間柄の栗本慎一郎(経済人類学者)が、脳梗塞の治療回復の体験から綴った本で、合田の病にも効果があったという。しかし、個展の作品制作に追われて体調が悪化、結局原稿は書けず、堀内稔久(32回)が代わってくれた。
 かつて寺山修司は、「合田佐和子の怪奇幻想のだまし絵は、絵の具に毒薬を溶かして描くかと思われるほど、悪意と哄笑にあふれるものである。・・・だが、そうした絵を描く合田佐和子自身は、支那服の似合う絶世の美女である」(「密蝋画」)と賛辞を惜しまなかった。

合田佐和子展の各種案内状。
その合田の才気あふれる頭脳も、過酷な要求に応えての舞台美術制作から、油彩での意表をつく幻想的で奇怪なスターの描出、「目玉」への偏愛と創造に追われ、次第に機能障害をきたしたようだった。訃報は新聞で知った。焼け跡のガラクタから美に目覚め、マルチアーティストとして現代美術の先端を走り続けた75年の生涯であった。昨年11月には次女合田ノブヨの「箱庭の娘たち」作品集出版記念展が、渋谷区恵比寿の画廊であった。母親から受け継いだかのようなコラージュ作品が並び、熱心な若者ファンが会場を埋めていた。いずれ高知県立美術館で、合田佐和子回顧展ないし合田母子作品展の開催が望まれる。
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母校出身“素顔のアーティスト”(U)−1(前編)
焼け跡で誕生した前衛アートの女神 合田佐和子(34回)
中城正堯(30回) 2018.05.03
型破りのオブジェからスタート
 熱烈なファンのいた合田佐和子だが、残念ながら同窓生では同学年かよほどの美術好きでないと、その作品に触れたことがなく、名前も記憶に残ってないだろう。闘病の末に平成28年2月に亡くなると、4月には嵐山光三郎、巌谷國士、唐十郎などを発起人に、「お見送りする会」が品川プリンスホテルで開催され、交遊のあった前衛文化人や現代アートの女神とあがめたファンが多数つどい、マルチアーティストとしての合田の多彩な足跡を偲んだ。翌年1月には、遺稿集とも言うべき『90度のまなざし』(港の人)、8月には作品集『合田佐和子 光へ向かう旅』(平凡社)と、相次いで刊行されたのもその人気故である。追悼展も、日本橋「みうらじろうギャラリー」などで次々と開かれた。

絵筆を持つ合田佐和子(『90度のまなざし』より)
 では、『90度のまなざし』の著者紹介から、略歴を見てみよう。「1940年、高知市生まれ。武蔵野美術学校本科在学中より、廃物を使ったオブジェ制作を開始。1965年に瀧口修造の後押しにより初個展、以後、定期的に個展開催。70年代より油彩作品を制作、唐十郎の劇団状況劇場と寺山修司の演劇実験室天井桟敷の舞台美術や宣伝美術も多く手がける。映画スターたちのポートレイト、目玉、エジプト、バラや鉱物などをモチーフに多数の作品を発表、超現実へと誘う幻想的な世界を作りあげた」とある。
 略歴では触れられていないが戦争中は広島県呉市で過ごし、5歳で終戦を迎え、高知市へもどって焼け跡で遊んで育つ。後にこの頃を回想し「焼け跡の中で、色ガラスが溶けて土や石と合体した塊を発見、半狂乱になって集めたりした。後年、この原体験は、ガラス箱のオブジェなどとなって、くり返し現われてくる」(「現れては消えるあのシーン、あの俳優」『キネマ旬報』1995年4月下旬号)と記している。小学校ではプロマイド集めに熱中、嵐ェ寿郎の鞍馬天狗などを町はずれまでかけずり回って探し集めたという。
 父は広島で繊維メーカーの技術者として働いた経験を生かし、戦後の高知では衛生材料製造業を興して成功を収めていた。比較的裕福なインテリ一家で、高知市が始めた中央の文化人を招いての夏期市民大学を家族で受講するなど、文学や芸術にも関心が高かった。

土佐中高『会員名簿』2015年表紙
「クリスタルブルーなデートリヒ1」
 土佐中への入学は、昭和28年(1953)である。高校時代はもっぱら新聞部員として活躍していた。その様子は、「向陽プレスクラブ」ホームページ2016年3月12日付「新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ」で、印刷所での大組に立ち会って、美しい紙面の割付けに力量を発揮したことなど、吉川順三(34回)が心のこもった追憶をしている。
 彼女の略歴紹介で目をひくのは、画家では納まらない多彩な美術ジャンルでの活躍である。オブジェから油彩画、写真、舞台美術など自由自在に異種領域間をワープ、どの分野でも合田カラーで人々を魅了してきた。まずは、合田が制作中の写真と、母校の創立75周年記念『会員名簿』の表紙を飾った「クリスタルブルーなデートリヒ1」から、人と作品を思い起こしていただきたい。そして、彼女の土佐高新聞部時代から中央の美術界での活躍まで、ほぼ60年間の交流で接した素顔をつづり、手向けとしたい。

新聞部の毒舌記者、オンカンが補導
 合田は4年後輩であり、出会ったのは筆者が大学時代(昭和30〜34)に帰郷、新聞部の活動に参加した際であった。この時期はいわば新聞部の黄金時代で、合田の同期には吉川順三(毎日新聞)、秦洋一(朝日新聞)、国見昭郎(NHK)など、のちにマスコミで大活躍する人材が揃っていた。さらに、浜田晋介や山崎(久永)洋子も編集長として活躍していた。「向陽新聞」も彼らが編集制作の中心であった昭和31年度には、5回も発行している。筆者も夏休みの恒例事業になっていた「先輩大学生に聞く会」や、大嶋校長を囲む座談会などに、よく狩り出された。

種崎海水浴場での新聞部キャンプ。
前列左が合田、後列は横山・吉川。
 新聞制作以外の活動で、最も印象に残っているのは夏休みのキャンプと、新年会である。31年夏には種崎千松公園に、翌年は大田口の吉野川河原にテントを張った。新年会は、岡林敏眞(32回)の実家料亭などで毎年開いた。これら、お遊び会に必ず付き合ってくれたのが合田である。新聞部の部室では、毒舌で仲間をやり込め「恐ろしかった」という部員すらいるが、学校外では嬉々として活動、特に海水浴は好きなようだった。水着姿の彼女はすらりとした体形に日焼けした肌、なにより鋭いまなざしが強く印象に残っている。
 彼女は種崎の海水浴場で、「突然の大波をかぶって溺れそうになったとき、先輩に助けられた」と後に語っていたが、これは幻影かも知れない。荒波に立ち向かうのは中学時代から好きだったようで、台風の直後に祖父のスクーターで桂浜に駆けつけ、被害を受けた水族館をのぞいたあと、「決死のゲーム」に挑戦したという。それは、海に突き出た岬の先端に祀られた祠・竜宮への石段を、大波が引きあげて次に打ち寄せる40秒ばかりの間に全力で駆け上ることだった。岬のてっぺんに立って、絶壁にぶつかって落ちる波の「とろけるような奇怪なオブジェの大乱舞」をながめ、はしゃぐためだったと述べている。
 高校時代には映画館で補導を受け、強い印象を受ける。「学校帰りに映画館へ入り、“青い麦”を見て、出口で補導された。怒った時はライオンの如く、やさしい時はカンガルーの如し、と自らを“オンカン”と命名した中山(駿馬)先生が、ライオンになって待ちかまえていて、説教された」。

合田14歳の自画像。
(おかざき世界子ども美術博物館蔵)
すばらしい映画のどこがいけないのか、やっとの思いで聞くと「すばらしい映画だからこそ、見てはいけないのだ!」と言われ、「甘い、背徳的な、せつない気分は、今でも心に灼きついていて、今ごろになって、やはりオンカン先生は正しかったんだ、と思えるのである」(「現れては消えるあのシーン、あの俳優」前出)と回想している。
 土佐高でアーティスト合田誕生に結びつく大きな出来事は、1になった新学期から、美術教師に高崎元尚(16回)が赴任したことである。前任の鎮西忠行も画家だったが、静物や風景を写実的に描く正統派であった。新任の高崎は、東京美術学校(現東京芸大)を出てモダンアート協会や具体美術協会に属し、戦後日本の前衛美術界をリードしてきた人物であった。「生涯現役」を掲げて創作に挑み続け、高く評価されたが、昨年6月高知県立美術館で「高崎元尚新作展-破壊 COLLAPSE-」開催中、94歳で亡くなられた。
 高崎の赴任によって、再び絵画への興味を甦らせ、新聞部だけでなく美術部にも出入りするようになった。14歳で描いた自画像が、愛知県の「おかざき世界子ども美術博物館」に収蔵されている。

高3の新年会に、東京から帰郷して出席。
中列左より2人目が筆者
太いタッチで少女の真っ直ぐな内面まで表現している。高3になると、美術へと進路を定め、夏休みに上京して御茶の水美術学院へ通う。美術大学へ進学するためにはデッサンなど実技が必要で、二学期になっても東京にとどまり続け、年末にやっと帰高している。この時の新年会の写真には、すっかり垢抜けした合田の姿が見られる。前列の女性は右から旧姓で、34回の山崎洋子・合田佐和子、35回の大野令子・浜口正子・早川智子、31回の森下睦美(後の新聞部顧問)である。大学は、武蔵野美術学校本科(現武蔵野美術大学)商業デザイン科に入学する。
(後編に続く)
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母校出身“素顔のアーティスト”に嬉しい反響
中城 正堯(30回) 2018.04.25


筆者近影
 3月にこのホームページにアップされた「母校出身“素顔のアーティスト”(T)倉橋由美子(29回)」に、多くの嬉しい反響があったので、感謝してお知らせしたい。

 まず、最初の読者であった藤宗俊一編集長からで、<倉橋さんの記事を読んでいて、『山田に帰った』という言葉で、「たしか、当時の部長だった宮地さん(40回生)ら女性陣が山田のご自宅に取材に伺ったはずだけど……。」調べてみると60号に掲載されていましたのでpdfで添付します。当時、私は中学3年生で KURAHASHI Who???の世界にいました。それが、半年後には編集長に上り詰めるとは、新聞部も人材が不足していたのですね。>とのこと。
 さすがに名編集長で、病後の体でありながら、昔々の関連記事をきちんと思い出して送ってくれた。どうか、宮地(島崎)敦子記者のインタビュー記事「すぽっと ストーリーのない小説 倉橋由美子さん」をお読みいただきたい。

「すぽっと ストーリーのない小説 倉橋由美子さん」

 ついで、倉橋さんと同期の大脇順和(29回)さんが、拙文で触れた『文芸春秋』平成7年2月号の「同級生交歓」の誌面コピーに、6人の動静(倉橋・泉谷が他界、福島・岡本が闘病中、元気なのは中山・大脇)を添えて届けてくださった。ここに、その紙面を紹介する。なお、このなかの中山剛吉さんが新聞部、また大脇さんの弟・大脇恵二(31回)さんも新聞部だった。

『文芸春秋』平成7年2月号の「同級生交歓」の誌面コピー

 倉橋さんをよく知る先輩、28回生の公文俊平さんから「知らないことが少なくなく、興味深かった」、西岡瑠璃子さんからは「懐かしいことばっかり」との連絡をいただいた。
 久武慶蔵(30回)君は、「倉橋文学は実存主義文学の模倣にすぎないとの批判に対して、彼女は文学は本質的には模倣だと答え、ハチキンの気概を感じ、“土佐人の原点”をみました」とのメールを寄せてくれた。
 この記事をKPCのHPにアップしたことは、会員以外にもメールで知らせ、閲覧を呼びかけた。反響は、どうしても倉橋さんと近い世代に限られたが、向陽プレスクラブの存在告知にいくらかはつながったようだ、前田憲一(37回)さんのように、初めてこのHPを開き、多彩な情報にビックリした後輩もいた。
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向陽プレスクラブ2018年度総会議事録
 2018.04.23
書記代行 岡林 哲夫(40回)
1.日時 4月21日(土)  17:00〜18:00
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 中城正堯(30回)、濱崎洸一(32回)、吉川順三(34回)、公文敏雄(35回)、竹本修文(37回)、岡林哲夫(40回)、中井興一(45回)、北村章彦(49回)        計8名
4.公文会長が、議決権を有する出席者は8名、委任が5名であり、議決権を有する会員数23名中13名参加で過半数に達しており総会は成立と報告。
5.公文会長が議長代行に北村(49)回を書記代行に岡林(40回)を指名し、以下、総会議案に従って北村(49回)が進行。
総会決議
1)2017年度事業報告
 北村幹事長から「平成29年度向陽プレスクラブ事業報告」に基づき報告。
なお、ホームページへの投稿が増加していることから、長文の投稿については3月の竹本投稿のようにPDF又はword形式でもダウンロードができるように編集人にお願いしようとの要望があった。
2)2017年度会計報告
 中井会計担当幹事から「向陽プレスクラブ2017年度会計報告」に沿って報告。全員一致で承認。
3)2018年度事業計画案
「平成30年度向陽プレスクラブ事業案」を審議し、原案に次の修正を加えて承認。
 ・2019年度総会
  2019年4月20日(土)予定
4)2018年度予算案
 前年度と同様とすることを承認。
5)その他
・KPC活動の充実として、中城会員(30回)から母校100周年への協力事業としての「土佐校卒業生群像」(例)の様な記念誌を創ってはとの提案があり、当面ホームページへの投稿を会長から呼びかけ、応募・掲載状況によって記念誌にまとめるかどうか継続審議することになった。
・会費納入を促進するため、会費納入状況がホームページの「会員のページ・会員名簿」で閲覧可能なこと及び会費振込口座(みずほ銀行 渋谷支店(210) 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ)の周知徹底を図ることとした。
2018年度向陽プレスクラブ総会決議事項の詳細は当会ホームページの「会員のページ」に記載しました。
 以上を以て2018年度総会を終了し、引き続き総会会場にて、懇親会を行った。
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「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しまし
冨田 八千代(36回) 2018.04.20た。


筆者旧影
中城 正堯 様
 ご著書を「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しました。すぐにお礼をとおもいつつ、今になってしまいました。ありがとうございました。
 手にした時は、難しそうだと、私に読めるだろうかと心配になりました。が、すぐに引き付けられて、一気に読み通しました。

・まず、文体がとても親しみやすく読みやすいのです。素人にも内容の詳しさへの抵抗が少なくなったのです。
・そして、中城さんは「坂本龍馬」と対面されるのにとてもふさわしい方だと知りました。
 御家柄、ご先祖のさまざまなご活躍、それを受け継ぎつなぎ確かなものにする努力をされている中城さんだからです。たくさんの資料を検証し今も新たな資料の発掘に力を注いでいらっしゃることに敬服いたしました。いろいろなことを知らなくてすみません。
 昨年のブラタモリは見ました。お部屋も印象に残っていますが、そこは中城さんが小さい頃遊ばれたお部屋だったとか。ブラタモリで、改めさせられたのは「堀詰」付近のことです。中学生のころ、何かの機会にちょっと行ったことがありましたが、とてもなじめませんでした。以来、はりまや橋の側にありながら、避けていました。ここも、昨年、同窓会のついでに歩いてみました。ここにも歴史があることを受けとめました。
・それから、土佐さんの「正調龍馬を語る」を読んだから、その上に、メールをいただいたから読めました。私は、このご著書を読み終わるまで、公文さんが昨年、kpcのホームページに紹介されたいたことも忘れていました。今まで、私は坂本龍馬に関する書物、小説も読んだことがないのです。龍馬さんを知ったのは観光案内のパンフレットとか、人物紹介の欄とか、記念館の見学とかぐらいです。ついでに土佐さん(この作家も初めて知りました)がもっと長生きされたら、龍馬研究を進められ、ちがった文面もあらわれたのではないでしょうか。中城さんの文中に、文学的史書、大衆小説、歴史小説、政治小説、龍馬伝記とか出てきますが、読む側がそれらの種類のものと正史・史実との違いを、頭の片隅に置きながらうけとめるということですね。
次に私が今回、学んだことは以下のことです。
・坂本龍馬さんは、ポツンと一人の存在ではなく、周りの人々と歴史を受け継ぎ、創り、進めた人と言うことです。私はぼんやりと、一人だけの物語のように受けとめていたのではと気づかされました。坂本龍馬が暗殺された後、明治の自由民権運動に生かされたことは、新鮮な内容でした。上手く表現できませんが、よかったとほっとしました。ずっと前の人ですが、側に龍馬さんがひょっこり現れそうな、親近感がわきました。(ちょっと図々しいですね)
・お龍さんにもです。女性として共感がわき、仲おばあ様のように会ってみたかったと思います。
・ちょっと腑に落ちなかったのは、幼少時の龍馬像でした。青年時代とギャップがありすぎると思いました。ご著書では、環境や生育の様子が詳しく述べられ、分かりました。(土佐さんのは、文学的…ですから)龍馬さんは謙遜されたのですね。ついでに、中城惇五郎さんにもそういう場面がありますね。
 それから興味深かったのは、長宗我部水軍のことです。小さい頃、長宗我部さんという方が近所に住んでおられました。お殿様の子孫とは聞いていました。このお殿様は、この地域を治めた人で庄屋さんの上ぐらいの人かととらえていました。とんでもないことでした。
 最後に感銘を受けたのは、中城家ご一族のことです。その時代、時代に大活躍をされただけでなく、後世のことを考えられています。高知県で初めての通史「高知県史要」を刊行。そして、高知市民図書館「中城文庫」。もっと、中城家の方々のご活躍をしりたいと思います。それが、高知県、いや日本の歴史を深めることになりますので。中城 正堯さんが今生きておられることの意義は大きいです。(えらっそうにごめんなさい。)
 ちょっとご著書を読ませていただいただけで、僭越ながらいろいろ書かせていただきました。恥ずかしい限りです。
 これを機会に龍馬さんへの興味は続きそうです。ありがとうございました。今後とも、いろいろ学ばせて頂きたいと思います。 失礼します。
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水田 幹久(48回) 2018.4.19向陽プレスクラブ幹事会議事録
議長 公文敏雄  書記 水田 幹久

1.日時 2018年3月9日(金)  18時〜21時
2.場所 ビックエコー 八重洲本店
3.出席者 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回)
 北村章彦(49回) 山本嘉博(50回) 
 オブザーバー 竹本修文(37回) 松井正(56回非会員)
以上8名

4.公文敏雄会長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
なお、本幹事会は幹事の出席者6名、委任状提出者1名 の7名の参加があり、構成員の過半数に達しているので成立したことを確認した。

1.? 2018年度総会について、下記の要領で実施することに決定した。
   日時:2018年4月21日(土)17:00〜17:30 総会   17:30〜19:30 懇親会
   場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
      港区新橋4-14-7
   URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
    
2.総会議案について
   1) 2017年度活動報告 : 幹事長配布資料の通り報告することに決定した。
   2) 2017年度会計報告 : 中井会計配布資料(暫定版)の内容を確認した。
    本幹事会から期末までの間に入出金がある場合には、これを追加して、総会に報告することに決定した。
   3) 2018年度活動計画案、予算案 : 幹事長配布資料に基づき、総会に諮ることに決定した。
   4)中城会員(30回)からの提案を審議した。
    提案は、KPCとして100周年の協力事業として「土佐出身者列伝」(例)の様な記念誌を創るというもの。
    審議結果は、HPの充実の活動の中で、提案の様なコンテンツを募る。
    HPへの掲載の進捗を見ながら、記念誌にまとめるかどうか継続審議する。
   以上
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『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました
冨田 八千代(36回) 2018.04.01


筆者旧影
 公文さん、藤宗さん、入手の仕方のご配慮ありがとうございました。鍋島さん ご本の送付ありがとうございました。

 土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました。読後の第一声『げにまっこと面白いがやき!』です。
 まず、未収録作品群の中から坂本龍馬関係の文書をまとめたられたことに敬意を表します。葉山村の皆さんの丹念な記録にも頭が下がりますが、これをこのように世に出したことで、その努力も報われましたし、一層価値が増しました。書籍が出版に至るの経緯を良く知りませんが、まとめられた方は大きくは出ないのですね。鍋島さんがもっと前面にでられてもいいのではと思いました。
 引き込まれて一気に読み通しました。知らなかったことばかりで、とても興味深く、どんどん読み進みました。断片的に知っていたことがつながったこともあります。

 この書を、すぐに読みたかったのは、以下のことからです。
 昨年10月18日に、36回生の同窓会がありました。あくる日「中岡慎太郎館」や室戸岬に行ったからです。北川村にあのような立派な記念館を設けていることに、その地域の方々の思いがうかがえました。私は、中岡慎太郎のことをあまりしらなかったのです。生家は山に囲まれた谷底にあり、空は頭上に円を描いたように小さく見える所でした。こんな辺鄙なところから、大志を持ったことに感激しました。そして、あらためて坂本龍馬に関心が広がりました。
 室戸岬の中岡慎太郎の銅像の前にも行きました。ここに行ったのは2回目です。それほど、高知のあちこちには行っていないのです。1回目は、中学三年の春休みに友人3人で出かけました。その3人の一人が、新聞部で活躍された大野令子さんでした。(ちょっとそれますが、大野さんがいらっしゃったから、私は卒業まで新聞部ですごせたのです。本当にお世話になりました。すでに亡くなられたことは残念無念です。)その銅像の説明では「太平洋上で桂浜の坂本龍馬と目が交差している」と言っていました。
 この著書の中で、二人の銅像の製作者が同じということも初めて知りましたし、製作者についてのことは興味深く読みました。
 学校で、坂本龍馬を歴史上の人物として他の人たちと同列に学習した記憶しかありません。土佐のことですし、大きく日本の変えた人ですから、もっとクローズアップしてもよかったのではないか、それとも、私の受け止めが浅かったのでしょう。何しろ私は知らないことが多すぎると痛感しました。ですから、内容の感想は省きます。
 読み終えてから、顔見知りの檮原の出身の方に、本の紹介をしたら、開口一番「教科書に龍馬をのせなくするとは、おかしい。どうしてだろう」と言われました。この方は長年トヨタ自動車の労働者でした。やはり郷土のことなので関心を持っておられたのです。ここでも、私の知らなさをここでも痛感しました。私はホームページの鍋島さんから歴史教科書云々は知ったところでした。彼は、すぐにスマホで故郷を呼び出し「維新の門」などたくさん紹介をし、「ぜひ一度、檮原へ」と言いていました。さっそく、ご著書を貸しました。
 では、枝葉の感想で、恥ずかしいですが、本当にありがとうございました。
 ありがとうございました。
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鍋島高明様
 土佐弁龍馬、さっと拝読しました。
 葉山での漫談だけに楽しく読めましたが、土佐文雄本人は「たまるかあれが活字になった」と、驚いているような気がします。
 というのも、「江戸三大道場の一つ千葉周作の築いた千葉道場の塾頭」などと、口がすべりすぎているからです。実際は、周作の弟・定吉の道場で、長刀の免許をやっと貰っただけす。勝海舟との対面も、同様です。
 出来れば本のどこかで、この講演はサービス精神からか、史実を離れて龍馬の人物を強調した場面があることを註記して欲しかったです。土佐が無知と思われると残念です。
中城 正堯
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鍋島です。
 ご高読深謝。ご指摘の件、重版の際、修正したいと思いますので、その節はよろしくご教示ください。
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冨田八千代様
 KPCへの読後感を拝読しました。私が読んでから、鍋島君に送った感想を添付致します。
 面白いのは同感ですが、それだけでは終わらせることが出来ない点もあり、このまま流布するのは心配です。鍋島君も修正すると言ってくれています。
 史実をふまえた史家の書いた伝記と、作家による創作を交えた小説の区別をしないまま、さまざまな龍馬像が誕生しています。同郷の人間として、龍馬の素晴らしい実像にできるだけ迫りたいです。
中城 正堯
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中城様
 メールをありがとうございます。私がお礼のつもりで書いたものを、ホームページにということで恐縮しています。
 
 私自身、坂本龍馬について本当にいろいろなことを知りません。それで、内容についての感想は逃げています。
 私は、昨年同窓会で中岡慎太郎記念館に行きました。そこでは、中岡慎太郎サイドでまとめられていますので、龍馬の評価も違うということは感じました。
 今度、この書を読んで、どっちがどうなんだろうと思った点もあります。何しろ、浅学の身、うっかり文字にはできません。
 やはり、中城さんが指摘されている点は、その通りだと思います。読者は史家と作家の違いを意識するということですね。これが史実と鵜呑みにしてはいけないということですね。葉山でのお話も、聞く人へのサービス精神も入っていることでしょう。
 
 私は豊田市に住んでいて、豊田市政がトヨタの企業城下町として、歴史面でもトヨタを意識した「車」「ものづくり」に重点が置かれていることを危惧しています。豊田市は、周りの町村と合併合併を続け、面積では愛知県の6分の1を占めています。広大な「市」です。が、広大な農村部や山間部があります。米の生産量も愛知県1です。
 それぞれの地域で営み育んできた、文化や生活がなおざりにされそうな感じです。その意味で、葉山の方々が記録された物を世に出されたことに感激しています。
 浅学な私です。これを機会にいろいろな学びたいと思います。ありがとうございました。
冨田八千代
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鍋島です。
 『土佐弁龍馬』の反響が盛り上がっているのはまことに結構、HPアップ賛成です。
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 《編集人より》頭上をあまたの龍馬談義が飛び交いました。そのまま捨ててしまうのはもったいないので皆様のご了解を得て掲載させていただきました。今後ともご意見をお寄せ下さい。
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母校出身“素顔のアーティスト”
中城 正堯(30回) 2018.03.25

−倉橋由美子、合田佐和子、田島征彦・征三兄弟、坂東眞砂子−


著者近影………背景は拙宅の桃で、
43年前に「こばえ」から育てたもの。
 土佐高出身の関東在住者有志による筆山会(会長佐々木ひろこ33回)3月例会で、表題の卓話を仰せつかった。母校出身の文芸家・芸術家は、まだまだ多士済々であるが、時間の制約もあり、筆者と直接交流のあったこの5人に絞って報告をおこなった。“素顔の”と題したように、作家論や芸術論ではなく、あくまで筆者がふれた個性豊かなこれらアーティストの思い出話にすぎなかった。当日、23〜83回生まで14名の出席者があったものの、これら同窓生の作品を愛読ないし鑑賞した経験のあるメンバーはごくわずかであった。
 ここでは、筆山会での発表内容に出席者の反響も加えて順次ご報告したい。拙文が、現代日本を代表する各分野のアーティストとして輝くこれら同窓生の作品を、あらためて愛読・鑑賞する機会になるとともに、皆様が知る別の素顔を回想してお知らせいただけると、大変幸いである。残念ながら女性3人はすべて鬼籍に入ってしまったが、作品は多くのファンに愛され続けている。では、倉橋由美子さんから始めよう。(本文では、敬称を省略させていただく)

母校出身“素顔のアーティスト” (T)
『パルタイ』で文壇に衝撃のデビュー 倉橋由美子(29回)

お茶の水での再会、帰郷・結婚・留学

倉橋由美子
(明治大学「倉橋由美子展」目録より)
 昭和33年頃の春、中大生だった筆者は、東京お茶の水駅の近くで連れだって歩く竹内靖雄と倉橋由美子両先輩(29回)にぱったり出会った。竹内は28回の公文俊平と並んで当時の土佐中高きっての秀才として知られ、新聞部員として交流もあったのですぐ分かった。倉橋は園芸部員で、学校の花壇の世話をする姿を見かけ、また各部責任者が出席してクラブ活動の予算を検討する予算会議で顔を合わせ、見覚えがあった。
 相手は二人連れであり、とっさに黙礼を交わしただけですれ違った。東大の竹内は三年になって本郷に来ていたし、倉橋は日本女子衛生短大を経て明治大学に入ったので、同級生として久しぶりに再会したのだろうと単純に思っていた。ところが、夏休みになって帰郷、高知市街に出て喫茶店プリンスに入ると、ここでもお二人に出会った。ようやくその親密さに気付き、今度は「またお会いしましたね」と声をかけた。
 それから2年後、筆者が学研で編集者のスタートをきって間もない昭和35年に、明大4年生の倉橋は、『パルタイ』で文壇へ衝撃的な登場をとげた。明治大学新聞に発表直後から話題となって文芸誌に転載、さらに同年末には文藝春秋社から単行本として刊行された。この本の帯に推薦文を遠藤周作とともに寄せた倉橋の恩師で評論家・平野謙は、「革命運動の根ぶかい純粋性と観念性を一学生に具現した作品」であり、「大江健三郎の処女作をみつけたときに似た興奮をおぼえる」と、斬新なこの作品に出会った感激を吐露していた。
 筆者も一読し、抽象的・寓話的な独自の作風とされながらも、当時の革新政党による学生を巻き込んでの労働者へのオルグ活動の世界が鮮やかに捉えられているのに驚嘆した。知識だけで描ける文章ではなく、実態を把握したうえでの創作と読み取れた。竹内の協力も相まって倉橋の才能が開花したであろうと推測した。竹内は東大経済学部大学院を終えると成蹊大学教授となり、経済思想史・経済倫理学で業績を挙げるとともに、経済エッセイでも数々の名文を残したが、平成23年に逝去した。
 後に聞くと、倉橋は土佐中高時代には受験勉強そっちのけで文学全集の作品を破読、「“くまてん”(吉本泰喜先生)のお陰で漢文・漢詩が好きになり、母親の反対を押し切って文学部に入学、仏文を専攻してカフカ、カミュ、サルトルに親しんだという。大学では欧米の新しい文学の潮流と、学生運動の先端に触れ、鮮烈な倉橋文学が誕生、純文学の新鋭として出版各社から追いかけられることとなる。
 『パルタイ』は35年度上期芥川賞候補になったが、最終審査で北杜夫の『夜と霧の隅で』と競い、二作同時選定の意見も出たが結局北のみが選ばれる。倉橋の作品は、テーマも文体もあまりにも斬新だっただけに拒否反応を示す評論家もいたのだろう。翌年度も『暗い旅』が候補に挙がるが選にもれる。この時の受賞者は、後に夕刊紙・週刊誌でポルノ小説を乱作する宇能鴻一郎であった。時を経て池袋の場末の居酒屋で、ひと仕事を終え、黙々と杯を傾ける宇能を何度か見かけたが、受賞時の面影はなかった。選考委員の先見性が疑われる選考だった。『パルタイ』は、36年に第12回女流文学賞を受賞する。
 昭和37年、明大大学院に進んでいた倉橋は歯科医だった父の急逝で退学し、土佐山田町の自宅に帰る。この際に、同年婦人公論女流新人賞を受賞したものの次作の執筆に苦慮していた宮尾登美子や、高知支局にいたNHKの熊谷冨裕、朝日新聞の米倉守(後に美術記者として活躍)と出会う。旧知の西岡瑠璃子先輩(28回)とも再会する。そして39年には、宮尾の仲人で急遽熊谷と結婚する。後に関東同窓会の『筆山』4号での筆者のインタビューに応え、結婚のいきさつをこう語ってくれた。「宮尾さんの紹介で、熊谷と生まれて初めてのお見合いをしたのです。『ものを書くなら結婚した方がいい。食べさせてやる』という言葉に、あまりの感激で、ただ『はい』と、いってしまいました」。 見合いの直後に伊藤整などの推薦で、フルブライト委員会からアメリカ留学の話が来たため、急遽三翠園で挙式をしている。「結婚のいきさつは秘密の約束だったのに、宮尾さんが書いた」とも、語っていた。結婚後に二人はアイオワ州立大で1年間の留学生活を過ごす。熊谷はNHKを退職して独立、映像プロデューサーとなる。

旺盛な執筆活動、旧友とも交流
 アメリカから帰国後、旺盛な執筆活動を再開するが、二人のお嬢さんにも恵まれ、主婦としての役割も楽しむ。昭和47年末から半年ほどは、一家でポルトガルへ渡って暮らしている。昭和50年には、早くも『倉橋由美子全作品集』(全8巻)が新潮社から出る。

右から倉橋、公文公、浅井伴泰(筆者撮影)
 ここに載せた写真は、昭和62年に市ヶ谷にあった公文教育研究会に公文公先生(7回)を訪ねた倉橋であり、同席した浅井伴泰(30回)である。師弟再会のキッカケは、倉橋がお嬢さんの入学した玉川学園の雑誌に「ソフィスト繁昌」と題したエッセイを書き、公文が当代の代表的なソフィスト、すなわちプロに徹した教師であると称えたからだ。倉橋は、教師の原型は知識を与えるソフィストであり、労働者でも聖職者でもないと説いている。同窓会幹事長として長く接した浅井は、「われわれには高名な純文学作家とは感じさせない気さくな主婦そのもので、同窓会にもよく協力してくれた」と語る。
 インタビューを掲載した『筆山』が届いたと電話をくださったとき、印象に残っているのは、「あれは書かなかったねえ」である。「あれ」とは、学生時代のお茶の水・高知での出会いだ。続けて、「彼の奥さんも高知の人なので気にするといけないので・・・」と、気配りをみせていた。竹内は、昭和52年に『イソップ経済学』、その後『世界名作の経済倫理学』で、古典物語を素材に登場人物の思想と行動を分析、軽妙なエッセイを残している。つい、倉橋が昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』や、続く『老人のための残酷童話』を連想する。竹内は、ギリシャ悲劇からカミュ『異邦人』まで取上げているが、各名作の末尾には「教訓」を添えてあり、これは倉橋の『残酷童話』でも同様である。
 竹内もまた、「公文先生の蔵書」というエッセイで、公文の思い出を「それこそハレー彗星級の知的巨人だった」「私は物に憑かれたように“公文図書館”の本を読んだ」と記している。手にした本は、数学者デデキントの『連続数と無理数』から、自然科学、歴史、文学におんでおり、イソップ物語も土佐中時代にこの図書館で見付けたようだ。

奇想天外な創作と忍び寄る病魔
 倉橋は著名になっても文壇で群を作ることはなかったが、芥川賞で競った北杜夫、そして重鎮・中村真一郎とは仲がよかったようだ。筆者も中村にはお世話になり、いつだったか熱海の別荘に銅版画家・木原康行とまねかれ、中村夫人(詩人・佐岐えりぬ)ともども飲み明かした。その際に倉橋の話になって、「素晴らしい作家だが、男女の愛情描写やエロスがまだ不足。もっと遊ぶように言ってくれ」と、告げられた。後日、倉橋に話すと、「私も“小説に艶がない、もっと遊べ”と直接言われた」とのことだった。神宮前の中村宅では、たまたま親友・加藤周一、堀田善衛との座に同席した。二人は中村をからかうように「彼は昔から我々が政治談義に熱中すると居眠りを始めるが、女の話になるとむっくり起きてくる」と打ち明けてくれた。小説家にとって、エロスは不可欠のようだった。
 後に、坂東眞砂子(51回)が『山妣(やまはは)』で直木賞をとった勢いからか「いまの日本の小説は面白くない。倉橋さんも・・・」と広言していた。倉橋と会った際に、このことにも話が及んだが、「元気があっていいねえ」と受け流していた。すでに昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』の「あとがき」で、「近頃の小説は面白くないという説があります」と書き、その原因を解明しつつ、「大人に喜ばれる残酷で超現実の世界やエロチックに傾く大人の童話に手を付けた」と述べている。 

『アマノン国往還記』(新潮社)表紙
大人の童話だけでなく、後期の長編小説では奇想天外な創作世界が展開、男女の恋愛にはエロチックな場面が織り込んであり、思わず引き込まれる。その代表が、未来の女権国家を描いた『アマノン国往還記』(泉鏡花文学賞受賞)である。ここでは、アマノン国(土佐方言「あまのん」に由来)へ潜入した宣教師が、女たちの失ったセックス復活に大活躍をする。もう一つが桂子さんシリーズで、『シンポシオン』では核戦争を前に、教養豊かな人物が源氏物語からギリシャ悲劇・漢詩まで飛び交う大人の会話と恋愛を繰り広げる。サティのピアノ曲が流れ、シェリーやワインが注がれる優雅なシンポシオン(酒宴)で、なぜか思いがけず沈下橋・皿鉢料理・いたどりなど郷土色に遭遇、頬がゆるむのも後輩読者の特権である。くまてん仕込みの漢詩の古典も巧に配してある。
 平成7年には、同学年の福島清三から「月刊『文芸春秋』の「同級生交歓」に、泉谷良彦・中山剛吉・大脇順和・倉橋などと出たい。交渉をたのむ」と話があった。同社の知人に相談すると、「編集部は倉橋さんから申し込んで欲しいといっている」との返事。早速本人にお願いしたが、「私から頼むと編集部に借りを作る」と、最初は躊躇していた。出版界では、借りを作ると書きたくない仕事も断われなくなるのだ。しかし、クラスメートの願いを聞き入れて、話をまとめてくださった。大脇にとっては「中学時代の懐かしい少女」、福島にとっては「在学中から主婦型」だった倉橋との久しぶりの再会だった。
 やがて平成10年頃になると、電話で体調不良をこぼすようになり、「耳鳴りがひどく、仕事にならない。あちこち耳鼻科の名医を訪ねたが原因不明なの」とのことだった。そして、「耳でなく心臓に問題があると、やっと分かった。しかし治療は困難みたい。気晴らしに体調の良いときに四国遍路を始めた」と伝えてきた。参考までに「高群逸枝の『お遍路』が面白い」と伝えると、「読む読む」といっていた。 病とともに、倉橋が珍しく愚痴をこぼしたのは、夫君の熊谷がかつて沖縄海洋博の仕事で赤字を背負った話だった。プロポーズの言葉と違ってフリーの映像作家はさまざまな不安要素を抱え込んでおり、夫の仕事ぶりは心配のタネだったようだ。晩年の長編『アマノン国往還記』の付録には、「もし女性(私)が育児と男性から解放される時代がきたら、という“仮定”に立って書いてみた(笑)」とある。ぜひ倉橋の切なる願望を、この作品からさぐって欲しい。
 平成17年3月に筆者は肺血栓塞栓症で突然倒れた。一月半の入院で命拾いをして自宅療養中だった6月、「倉橋由美子、拡張型心筋症で永眠、享年69歳」の知らせが届いた。

望まれる作品誕生の背景研究

『パルタイ』(文藝春秋)をはじめ著書の数々
 逝去の翌年6月に、明治大学中央図書館で同大学特別功労賞受賞記念「倉橋由美子展」が開催され、なんとか見学にかけつけた。この展示で認識を新たにしたのは、倉橋文学の国際性である。イギリスに飛んで作品の舞台を探訪したうえで翻訳した『嵐が丘』の続編『嵐が丘にかえる』はじめ、最新の『新訳 星の王子様』まで22点が展示してあった。『パルタイ』『アマノン国往還記』など著書の翻訳出版も、英語・仏語・独語・ポルトガル語・中国語など27点におよぶ。さらに、カルフォルニア大バークレー校などの大学院生による「倉橋文学」を取り上げた博士論文5点がならべてあった。
 当時、近代文学を専攻した大学生の論文テーマとして、倉橋人気の高いことは聞いていたが、海外でもこれほど評価が高いとは気付かなかった。この倉橋文学誕生には、明治大学でのフランス文学専攻とともに、土佐中高での読書や学び、そして学友・教師との交流 が欠かせない要素であった。西岡瑠璃子たちの協力で、高知県文学館に倉橋コーナーができていると聞くが、母校でもさらなる資料収集と、倉橋文学誕生の背景研究が望まれる。

筆者より:次回以降の合田・田島兄弟・坂東の同期で、写真を提供下さる方がいましたら、お知らせください。
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幹事長・北村 章彦(49回) 2018.03.184月21日KPC総会案内
会員各位
春の訪れが実感できる候となりましたが、会員の皆様にはますますご清祥のことと存じます。
さて、3月9日の幹事会で承認いただきました平成30年度の向陽プレスクラブ総会を以下の日程、場所、
会費で行いたいと存じます。
 なお、出席、欠席および議事委任のご連絡を4月14日までに返信にてお知らせ願います。
なにとぞよろしくお願いいたします。

日時:2018年4月21日(土)17:00〜17:30 総会
             17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7
TEL:  03-3432-5666
URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
   
  懇親会会費 5000円
※総会の議題
1.過年度活動報告
2.会計報告
3.新年度活動計画案
(幹事会・総会・高知支部懇親会予定)
(関東・高知の交流促進と旅費補助)
(会員基盤の強化)
(ホームページに在校生、教職員、卒業生の声を反映するページの活発化)
4.母校への応援
(母校との対話)
「母校の群像」紹介
(有名無名を問わず各方面で頑張っている卒業生を紹介する小文を
会員各位に募りホームページに掲載)
5.予算案
6.入退会状況報告


※また、2018年度の会費2000円の納入をお願いいたします。
以上
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カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
竹本 修文(37回) 2018.03.18


筆者近影
 カズオ・イシグロが2017年ノーベル文学賞受賞に先立って、12月7日にストックホルムのスエーデン・アカデミーでノーベル・レクチャーを行いました。
 約50分のレクチャーは下記に引用したURLで動画と英語・仏語・独語・スペイン語・スエーデン語で全文が公開されており、近日中に日本語の翻訳冊子が出版されるようですが、素人ですが翻訳してみましたので投稿します。電気技術者の私は文学の世界の知識はありませんが家族がイシグロのフアンなのに私がいつまでも無知ではいられないと思って挑戦してみました。KPC公文委員長にお見せしたら、「ホームページに投稿しなさい」と勧められてその気になりました。解釈の間違いなどがあると思うのでどなたかご指摘・ご指導を頂きたく思います。
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2017/ishiguro-lecture.html
私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍(印刷用docx版)

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私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍


Kazuo ISHIGURO
 もし皆さん方が1979年の秋に私に出会っていたら、皆さんにはそれが私だと気付くのはかなり難しかったかも知れません・・・どんな社会の人間か・・或いはどんな人種なのか。
 当時私は24歳でした。私の風貌は日本人のように見えたでしょう、しかしその当時イギリスで見かける大方の日本人とは違って、私は長い髪を肩まで垂らし、口ひげは盗賊のようにだらりと垂らしていました。喋る時の変わったアクセントは、イングランド南部の州で育った人たちのように語尾に抑揚があり、ヒッピー時代には時代遅れの地方の元気の無いけだるいものでした。もし私たちが話し始めたら、オランダの全員攻守型サッカーの選手とか、ボブ・デイランの最新アルバムとか、または多分ロンドンでホームレスと一緒に働いた年の事を議論したかもしれません。もし皆さんが日本の事を話題にし、日本の文化に関して私に質問したら、「私は5歳で日本を離れて以来、長い休暇であっても日本には行った事が無い」との理由で「私は日本の事は何も知りません」と答えて、皆さんは私の説明の中にちょっとしたもどかしさがある事に気づかれる事でしょう。
 その年の秋、私はリュックサック、ギター、可搬型タイプライターを持ってノーフォーク州のバクストン(Buxton)に到着しました。その村には古い水車が1台回っており、広い平らな農地が広がっているイングランドの小さな農村です。ここに来たのは、イーストアングリア大学大学院創作科に1年間の在籍が許されたからでした。その大学はバクストンから10マイル(16km)はなれた英国国教の主教座聖堂のあるノリッジ市にありました、私には車がなくて、通学手段は朝に1便、昼食時に1便、夕方に1便運行されていた路線バスだけでした。 しかし、それは大して問題にならない事にすぐに気付きました。何故なら、毎週2回以上通学する事を要求されることは殆ど無かったからです。私は、妻に出て行かれた30代の独り者が所有する小さな家の小さな部屋を借りていました。きっと、彼にとってはこの家は夢破れた忌まわしい記憶で満ちていて 、彼は私に近寄って欲しくないと思っているように感じて、終わりの頃には私は何日も目を合わさないようにしました。別の表現をすると、ロンドンでの非常に活発な生活を経験してきた私には、ここの生活は異常なまでに静かで孤独なものでした、そのお蔭で自分自身を作家に変えてしまったのでした。本当のところ、私の小さな部屋は作家がよく住む典型的な屋根裏部屋そのものだったのです。爪先立って窓の外を眺めると、耕された農地が遠くまで広がって見えますが、部屋の天井は傾斜して迫っており閉所恐怖症になりそうでした。机はありましたが小さくて、タイプライターと卓上電気スタンドを載せるとスペースがないくらいでした。床には、ベッドの代わりに大きな長方形の合成ゴム・スポンジのシートがあり、寒さが厳しいノーフォークの夜でさえ眠ると汗をかくほどでした。
 この部屋で夏の間に二つの短編小説を書き、クラスメイトに配布して、評価意見を求めるに値するか事前に吟味した事でした。クラスには6人の学生がいて、2週間に一度会っていました。私が散文小説の形式で他の分野に挑戦し始めたのはこの頃でした。それはラジオドラマ用でしたがBBCからは受け入れてくれませんでした。元々は20歳までにロック・スターになろうと決めていたのですが、実際には文筆業への野心が芽生えてきたのでした。その二つの短編小説は、今思えば、イーストアングリア大学の創作科に受かった事で有頂天気味の気持ちで書いたものでした。一つは自殺の約束をするぞっとするする話で、もう一つは私が福祉活動をしていたスコットランドでの路上喧嘩の話でした。どれも大して良い作品ではありませんでした。小説をもう一つ書き始めました。他の小説と同様に現在のイギリスを舞台にしたもので、自分の猫を毒殺する話です。
 そして、この小部屋に住んで3~4週間たったある夜、気が付いてみると、私は何かに駆り立てられるように日本の事を書いていました・・・・・それは第二次世界大戦末期の、私が生まれた長崎の事でした。
 特に強調しますが、これは何か驚くべき事が私に向かって来ていたのです。今日では、異文化の背景の中で育った意欲的な若い作家が自分の作品の中で自分のルーツを辿ろうとする衝動に駆られるのは現実的な事と広く理解されています。しかし、あの時の私の場合はこれとは大きく異なっていました。我々の国イギリスにおいては、多民族・多文化文学が急増していくには未だ数年はかかる状態でした。インド生まれのイギリス人作家のサルマン・ラシュデイーは自身の名前で出版した小説(悪魔の詩)がイラン革命の指導者の逆鱗に触れ,絶版にされて忘れ去られてしまいました。
 今日著名な若い作家の名前を挙げろと言われれば、人々はマーガレット・ドラブルの名を出すでしょう、もっと年上の作家ならアイリス・マードック、キングリーエイミス、サー・ウイリアム・ゴールデイング、アンソニー・バージェス、ジョン・ファウルズ達を挙げるかも知れません。コロンビア人のノーベル賞作家ガルシア・マルケスやチェコ生れのミラン・クンデラ等外国人は僅かな人達にしか読まれていません。彼らの名前は読書が好きな人たちにとっても重要ではないのです。
 私が初めての日本の物語を完成した時代のイギリス文学界はこのような状況でした。そういう訳ですから、私が新しい重要な方向を見出したと自覚するとすぐに、このまま進める事は独りよがりと思われないか、もっと一般受けする主題に戻るべきかどうか自問しました。かなり躊躇はしましたが、私は作品を周囲に紹介し始めました、そして、今日まで仲間の学生たち、指導教員のマルコム・ブラッドベリー氏そしてアンジェラ・カーター女史・・・その年は学内に居住していた著述家でした・・・に多大な評価を頂いて今日まで励まされ続けています。彼らがそれほど後押しをしてくれなかったら多分私は二度と日本の事は書かなかったでしょう。
 実際は、何時ものように自室に戻り書き続けました。
 

イーストアングリア大学:ロンドンの北北東ノリッジ市にあり、彼が大学院に
1年間在籍を許されて小説家になる事になった重要な大学
 1979-80年の冬を通して春の盛りまで、クラスの5人の仲間、生きていくための朝食のシリアルや羊の腎臓を買う村の食料店主、そしてガールフレンドのローナ・・・本日同席の妻・・・以外には誰とも話をしませんでした。彼女は毎月第二週の週末に来ていました。平穏な生活ではなかったのですが、その4〜5か月で最初の小説「遠い山なみの光(A Pale View of Hills)」の前半を何とか完成しました。長崎を舞台にしたもので、原爆投下から復興していく数年の事です。この時期に日本が舞台ではありませんが、短編小説を書こうと考えを巡らせましたが急速に興味が衰えていき、時間を浪費した事を時々思い出します。
 ともあれ、この数か月は私にとっては極めて重要でした。これが無かったら多分私は小説家にはなっていなかったでしょう。その時以来、私はしばしば振り返り、「私に何が起きていたのだろう」と自問しました。 この時期独特の気合はどこからきたのでしょうか?私の結論は、私の人生のあの時に、私は何かを失わないように急いで何かをしなければならない気持ちになっていた、という事です。このことを説明する為には少し過去に戻る必要があります。
 
 私は1960年に5歳で両親と妹と一緒にサリーSurrey州都のギルフォードGuildfordに来ました・・・ロンドンから西南西約50qの裕福な高級住宅地でした。私の父は海洋研究科学者でイギリス政府の為に働きに来ていました。本題から離れますが、父が発明に関わった機械がロンドンの科学博物館の常設展示品の一部になっています。
 我々がイギリスに来てから撮った写真を見ると戦後の荒廃した時代以来のイギリスの様子が分かります。男はウールのVネックセータにネクタイを締め、乗用車のドア部の床には乗降用踏み台があり、背後にはスペアタイヤが付いていました。ビートルズが現れ、性解放運動や学生運動が起き、多民族・多文化主義はそこらあたりに見受けられました。しかし、我々が初めて出会ったイギリスがこのような変化に疑いを持っていたとは信じがたいのです。フランスやイタリアから来る外人に会うのも珍しかった時代・・・日本人に会うなんて事は考えられませんでした。我々は、舗装道路が終わり、農耕地が始まる行き止まりの道路に沿った12軒並びの家の一つに住んでいました。5分もかからずに農地に行き、小道を通ると乳牛の群れがのろのろ歩き回っている牧草地がありました。イギリスに来たばかりの頃よく見た景色ではっきりと覚えているはハリネズミです、かわいくて針状の毛でおおわれている夜行性動物で、イギリス各地に沢山いるのですが、夜間に自動車にペシャンコに轢れて朝露の中に置き去られ、道路わきに寄せられ清掃員が集めに来るのを待っている・・・・そんな景色です。
 近所の人達はみんな教会に行っていました、そして彼らの子供達と遊びに行った時に気づいたのですが、彼らは食べる前に簡単なお祈りをしていました。私は日曜学校に出席し、そのうちに教会の聖歌隊で歌い始めました。10歳になった時にはギルフォードでは初めての日本人の聖歌隊headになりました。私は地元の小学校へ行きました、そこでは私はただ一人の非イギリス人でした、多分その学校の全体の歴史でもそうだったと思いますが、そして11歳になると近隣の町へ列車で通って公立中学校(グラマースクール)に行きました。毎朝細縞の背広に山高帽をかぶってロンドンの事務所に通う紳士たちと一緒の客車に乗りました。
 この頃までに、私は当時のイギリスの中流家庭の子供としてのマナーをしっかりと身につけました。友達の家を訪問した時は、大人が部屋に入ってきたら「気を付けの姿勢」をしなければならない事を知っていたし、食事の途中で席を離れる時は許可を得なければならない事を学んでいました。近隣でただ一人の外国人だったので、この辺ではちょっと知られていました。他の子供達に初めて会った時でも彼らは私が誰なのか知っていました。全く初めて会う大人たちなのに、路上や近所の店で私はしばしば名前で呼ばれました。
 この頃の事を振り返ると、日本が彼らの敵国だった第二次世界大戦の終結から20年も経っていなかったと覚えていますが、私達の家族は普通のイギリスの社会に受け入れられていて、彼らの心の広さや寛容さに驚いています。第二次世界大戦を乗り越えて世代を超えて素晴らしい福祉国家を築いてきたイギリス人に対して、その当時以来の私の個人的経験から、私は今日まで好意・尊敬・好奇心を持ち続けています。
 しかし、私はこの間ずっと家庭では日本人の両親ともう一つの人生を過ごしてきました。家庭には違った習慣、違った希望、そして違った言葉がありました。私の両親の元々の目標は、我々は1年、多分2年経てば日本に帰る事でした。事実、イギリスでの最初の11年間は、「来年には帰る」 「来年には帰る」の繰り返し状態でした。その結果として、両親の見通しは、「我々は移住者ではなくて訪問者」のままでした。両親はイギリス社会に適応しなければならないと言う重荷を感じる事は無いまま、イギリス人の物珍しい習慣を観察し意見を交わしていました。
 そして、長い間私は日本で成人としての人生を送るという前提のままであり、その為の日本を向いた勉強も努力しました。毎月、日本から先月号の漫画、雑誌、学習教材などが入った小包が届き、それらを貪るように読みました。これらの小包は私が十代のいつか・・・多分祖父の死後・・・に届かなくなりました、しかし、私の両親の昔の友達、親戚、彼らと日本で付き合っていた時の思い出話 、これらが私の中に日本のイメージや印象を形成していきました。そして、その当時私はいつも自分自身の様々な記憶をしまっていました・・・驚くほど広範で明瞭に、例えば祖父母の事、日本に残してきた愛用のおもちゃ、住んでいた伝統的な日本家屋・・・その家の事は今でも頭の中で部屋ごとの様子を再現できます・・・、幼稚園、近くの路面電車の停留所、橋の傍に住みついていた怖い野良犬、床屋の椅子、それは男の子用に特製されたもので自動車のハンドルが付いていて大きな鏡の前に固定されていました。
 以上の事がどのような結果になったかと言えば、私が散文体で小説の世界を創造しようと思いつくよりずっと前に, 成長するにしたがって、私は頭の中で日本と呼ばれる場所を豊かに、しかも詳細に創っていました。 そこはある部分では私が所属していた所であり、そこから私は自分のアイデンテイテイーや信用を築いてきました。その時代には私は実際には日本へ帰った事は無かったという事は事実であり、見ないままで私は自分自身の日本の姿をより鮮明に創り上げました。したがって、その記憶を保存・維持していく必要があるのです。その当時ははっきりという事はなかったのですが、20代半ばまでにある重要な事を悟るようになりました。
 私は、「私の」日本は多分飛行機で行けるどこの場所にも対応しないという事を受け入れ始めました;両親が話してくれた日本での生活や小さい子供時代の記憶は、1960年代から70年代には殆ど消滅していました。いずれにしても私の頭の中に存在していた日本は常に子供の記憶、想像、憶測によって作られた感情的なものだったかも知れません。そして、多分最もはっきりとしたことは、年々年をとり私の日本・・・共に成長してきた貴重な所ですが・・・だんだんと記憶から遠くなっていくのが分かりました。そして、今では確かにこのような感じです、即ち、「私の」日本はユニークで、同時に恐ろしく壊れやすい・・・外部からは立証しようのない何か・・・で、それが私をノーフォークのあの小さな部屋で作品を書くように駆り立てたという事です。私がしている事は、その場所に関してかつて思っていた世界の特別な色彩、風習、作法、尊厳、短所など全てを私の心から永遠に消えていく前に紙に書きつけていく事でした。私の日本を小説の中で再構築する事、記憶を失わないように安全に残し、後年になってこの本を指さして、「ええ、中に書かれているのは私の日本です」という事が私の願いでした。

カズオ・イシグロが現在住んでいる所は
ロンドン北部のGolders Green という住宅
地で、私が家族と81年〜83年の3年間過
ごした街ですが、彼の自宅周辺で受賞決
定時に押しかけたメデイアとベンチに腰か
けて会見した添付した写真がどの辺りか
分かりません。上の写真は、ロンドン・オ
リンピックが開催された6年前に私が住ん
だ家を訪ねた時の写真です。(訳者注)
 3年半経ち1983年春です、妻ローナと私はロンドンにいました、狭くて背が高い建物の最上階の二部屋の家に住んでいました。そこはロンドンで最も高い丘の一つに建っていました。< 私が住んでいたGolders Greenの隣のハムステッドHampstead付近かな?竹本 >近くに(強い電波を送信している)放送局のアンテナが建っていました。レコードプレヤーにレコードデイスクを載せて聞いていたら、ステレオのスピーカーから(誘導電波ノイズとしてステレオのアンプに紛れ込んできた)放送の音声が聞こえてきました。私たちの居間にはソファーや肘掛け椅子は無くで床の上には二組のクッションで包まれたマットレスがありました。大きなテーブルが一つあり、その上で昼間は私が小説を書き、夜は夕食を食べました。豪華ではないが、私たちはそこに住むのが好きでした。
 私は前の年に最初の小説を出版していました。更に、イギリスのテレビで近いうちに放送予定の短編テレビドラマを書き上げていました。最初の小説はかなり誇りを持っていました。しかし、その年の春までに多少不満な事が気になりだし、問題となりました。私の最初の小説と最初のテレビドラマは余りにも似通っていたのです。主題・テーマの事では無くて、物語の展開やスタイルの点の事です。その点に注目すればするほど、私の小説がテレビドラマとより似て見えるのです・・・登場人物の会話と物語の進行面での事です。それはある程度はいいでしょう、しかし私は今では、紙面の上でのみ適切に表現される物語を書く事にしています。小説を書くのに、もし小説家が、テレビを見る事によって得られるものと同じ経験を提供する小説を書くとすれば、小説を書く意味があるでしょうか?もし書かれた小説がユニークなものでなく、他の方法で表現出来ないものでなければ、どうして映画やテレビの勢力に対抗して生き残っていけるでしょうか?
 この頃私はウイルスで倒れ2~3日ベッドで過ごしました。最悪状態から脱し、ずっと寝ていたいと思わなくなった時、私は布団の上のど真ん中に何か重々しい物があるように感じましたが、それはフランスの小説家プルーストの小説 「失われた時を求めて」第一巻でした。そこで早速読み始めました。まだ熱がある状態でしたが序章を読んだだけで完全に釘づけになりました。私は繰り返して読みました。書かれている独特の美しい文節とは別に、私はプルーストが一つのエピソードから次のエピソードに展開していく手法にわくわくさせられました。出来事や場面の順序は通常の時系列にも、また一本の線で繋がっているような筋にもなっていませんでした。その代わりに、本筋に無関係な考えを絡めたり、或いは、記憶の予測しがたい変化が筋を一つの話から次の話へ移動させていると思われるのです。時々私は、何故これらの二つの無関係と思われる話が語り手(小説の「私narrator」か?)の心の中で隣り合わせて同居しているのだろうかと不思議に思う事があるのです。
 突如として、私はわくわくしながら、より自由に二番目の小説を書いている事に気が付きました。それは紙面だからこそ豊かさを創作でき、スクリーンの上では内面の動きを表現できない方法でした。もし私が語り手の考えている事に従って一つの場面から次の場面に記憶を漂わせながら進行させる事が出来るならば、私は抽象画家がキャンバスの上で形や色を選定していくのに似た方法で創作できるでしょう。私は場面を二日前から20年前の場面の付近に設定しうるし、二つの場面の関係を読者に考えさせる事もできるでしょう。このような方法で私は人間の自己や過去を覆い隠そうとする何層にも重なった自己欺瞞や自己否定を暗示できるかも知れないと考え始めていました。
 1988年3月、私は33歳になっていました。今ではソファーもあり、その上に寝転んでトム・ウエイツのアルバムを聞いていました。その前の年にローナと私は南ロンドンの時代遅れだが住み心地の良い一画に我々の家を買いました。この家で初めて自分の勉強部屋を持ちました。その部屋は小さくてドアはありませんでしたが、私は毎日書類を散らかし放題で一日の終わりにも片づける必要が無い事にわくわくしていました。そして、その勉強部屋で・・・私はそう思っているのですが・・・私は三番目の小説を完成しました。それは初めて日本・・・以前小説を書いて壊れにくくなっていた私個人の日本を舞台にしたものではありませんでした。
 事実、私の新しい本は、後に「日の名残り」と呼ばれるもので、私は年配の英国作家の作風とは思わないのですが、極端にイギリス的と見られました。私は、私の読者は皆イギリス人であり、生まれながらにイギリス的なニュアンスやイギリス的な好みに精通している、とは想定しないように注意してきました・・・実は多くの人はその様に思っているらしい事を私は感じているのですが。これまでは、インド生まれのイギリス人作家サルマン・ラシュデイーやトリニダード・トバゴ生まれのイギリス人作家ナイポールは、英国にとって中心的役割とか必然的に重要だとかに拘らず、もっと国際的で自国より外を見たイギリス文学の方向性を案出してきました。彼らの作品は広義には植民地が独立を成し遂げた後の時代のものです。彼らのように私は、作品の物語が英語世界特有であっても、例え文化や言語の境界を容易に超える事が出来る「国際的な」小説を書きたいのです。「私」のイギリスは一種の架空のものかも知れませんが、大まかな姿はイギリスに行った事も無い人々をふくむ世界中の人々が抱いているイギリスの姿の中に既に存在していると信じています。今完成したその小説は間違った価値観を持って人生を送り、既に遅すぎると悟っているイギリスの執事に関するものです。彼は彼の最も大事な時期をナチ・シンパに捧げてきて、自分の人生の為に道徳的・政治的責任を果たすことに失敗し、人生を無駄に過ごしてきたと深く悟っているのです。そして更に、完全な執事になる努力をするに当たり、彼が好きな一人の女性を愛し愛される事を自ら禁じてきました。
 私は原稿を数回通読して、そこそこ 満足しました。それでも・・・何かが抜けている・・・と、ひっかかるものがありました。
 ある晩、家でソファーに座ってトム・ウエイツのピアノの弾き語りを聞いていました。すると、トム・ウエイツは'Ruby's Arms'.という歌を歌い始めました。多分皆さんの中のどなたかはご存知でしょう。・・・私はここで皆さんにそれを歌ってお聞かせしようと考えていたのですが、気が変わりました・・・それはある男、多分兵士がベッドで眠っている恋人を残して出ていく・・・バラードです。早朝の事で、彼は道路を通り、列車に乗る・・・何も変な事ではない。しかし歌はしわがれ声のアメリカ人浮浪者が深い感情を押し殺しているような調子でした。やがて、歌の半ばで歌手は我々に彼は失恋しつつあると教えている瞬間があります。その瞬間は失恋の感傷その事とそれを克服したと言い切る事への大きな抵抗の間の感情的落差故に殆ど耐えられないほど哀れを感じさせます。
 トム・ウエイツは一連のメロデイーを心が洗われるように壮麗で美しく歌い、そして聞く者は大変な悲しみの中で崩れていく屈強な若者の人生を感じているのです。
 トム・ウエイツの歌を聞きながら私は未だやらなければならない事に気づくのです。私は物語の筋をうかつに決めたようだ、どの辺まで後戻りすべきか、私のイギリス人執事は感情的に弁明をし続けている、彼は自分自身と読者から最後の最後まで何とかうまく隠し続けている。そうして、私は決めていた事をひっくり返さなければならない事に気づくのです。物語の終わりに向かってほんの一瞬だが、慎重に決めなければならない瞬間です、私は彼の自己防衛の鎧を壊さなければならなかったのです。私は非常に大きく悲劇的な事が鎧の下からちらっと見えるようにしたのです。
 私は敢えて言いますが、他の事でも沢山の機会に歌手の歌声から極めて重要な教訓を学んできました。歌われている歌詞そのものより実際に歌っている事に注目したいと思います。ご承知のように人間の歌声は計り知れないほど複雑に混じり合った感情を表現する事ができるのです。何年もの間、私の書き物の具体的な場面は、とりわけボブ・デイラン、ニナ・シモーン、エミルー・ハリス、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジリアン・ウエルチ、そして友人で共著者のステイシー・ケント等に影響を受けてきました。彼らの歌声から何かを見つけると、私は「あ〜そう、これだ。これこそ、あの場面に必要なものだ。何かそれに非常に近いものだ」と自分につぶやいたものです。しばしばそれは言葉で表現できない情緒、しかし歌手の歌声の中に確かにある、そして、私は目指すべき事が分かったと思いました。


A Pale View of Hills(1982)The Remains of the Day(1989)Never Let Me Go(2005)
 1999年の10月に私はドイツの詩人であるクリストフ・ホイブナーに国際アウシュビッツ委員会の代表として招かれ、以前の強制収容所を訪問し数日間すごしました。私の宿舎は第一アウシュビッツ収容所と2マイル離れたビルケナウ絶滅収容所の間の道路沿いのアウシュビッツ若者集会所にありました。このあたりを案内されていた時に非公式に三人の生存者に会いました。私の世代の人間が生きてきた社会の陰の暗い力の源へ少なくとも地理的には近づいたと感じました。
 ある小雨が降る日の午後、私はビルケナウ絶滅収容所の瓦礫と帰したガス室の前に立っていました、不思議な事に今では忘れ去られて無人状態ですが、これはドイツ軍が爆破して迫ってくるソ連の赤軍から逃げて残していったものです。これらの残骸は湿っぽく、骨組みは壊れ、厳しいポーランドの気候にさらされており、年と共に劣化しているのです。招待してくれたクリストフ・ホイブナーさんは、ジレンマについて語ってくれました。これらの残骸は保存すべきだろうか?将来の世代の人々に見てもらうために透明なアクリル樹脂のドームで覆って保存すべきだろうか?それとも自然のままでゆっくりと腐って無くなるにまかせるべきだろうか?これは私には大きなジレンマへの強いメタファのように思われる。そのような記憶はどのようにして保存されるべきだろうか?ガラスのドームで覆えば悪事の遺物や苦難を退屈な博物館の展示品にしてしまわないだろうか?記憶を思い出す為には我々は何を選ぶべきだろうか?忘れて次の段階にすすむ時期はいつが適当だろうか?
 私は44歳になりました。これまで第二次大戦とその悲惨さや勝利などは両親の世代の事と考えてきました。しかし今や、そのような大事件を直接目撃した多くの人々は間もなく亡くなってしまうという事が私には分かっています。ではこれからどうするか?思い出す(記憶する)という重責が私自身の世代の肩に降りかかってきているのでしょうか、我々は戦争の時代を経験していない。しかし、我々は少なくとも戦争の経験によって消し去ることが出来ないような人生を歩んできた両親に育てられてきたのです。それじゃ、私には社会の語り手としてこれまで意識してこなかった義務があるのでしょうか?我々の両親の世代から我々の世代以降にできる限り引き継いでいく義務が・・・。
 少し後に、私は東京で講演をしていた時に、よくあることですが、聴衆の一人から次はどんな作品を書くか質問がありました。
 質問者は次のようにもっと具体的に指摘されました、私の小説はしばしば大きな社会的・政治的激動の時代を生きてきて、後からその人生を振り返り、もがきながら暗くて恥ずかしい記憶をあきらめて受け入れるような個人に関するものです、と。彼女は更に、今後の小説も同じような領域を続けるのでしょうか?と質問しました。私は全く予想していなかった回答をしました。はい、私はしばしば忘れようとする事と、忘れないようにする事の間でもがいているような個人の事を書いてきました。しかし、これからは、私が本当に願っている事は同様の問題に対して国家や地域社会は如何にして向かっていくかという作品を書きたいという事です。
 国家は個人のように記憶したり忘れたりできるでしょうか?或いは、重大な違いがあるのでしょうか?国家にとっての記憶とは厳密にはどういう事でしょうか?どこにしまっておくのでしょうか?どのように形作り、活用していくのでしょうか?忘れていく事は暴力が繰り返される事を止め、社会が崩壊して無秩序になったり戦争になったりするのを止める唯一の方法という時はあるのでしょうか?
 他方では、意図的に忘れて必ずしも公正ではない基盤の上に安定した自由な国家を建設する事は可能でしょうか?
 私は質問者に、私はこういう事について書く方法を見つけたいと答えている自分の声を聴きましたが、残念ながらどのようにすればよいか考え付かないのです。
 2001年のある晩、その頃まで住んでいたロンドン北部の自宅の居間を暗くして、ローナと私は、そこそこの画質のVHSビデオでアメリカのホークス監督の1934年の「20世紀」という映画を見始めました。映画の題名はすぐに判ったのですが、我々が過ごしてきたばかりの前世紀の事では無くて、ニューヨークとシカゴを結ぶ有名な豪華列車の事でした。ご存知の方もおありでしょうが、この映画は殆ど列車の中が舞台でして、ペースの速いコメデイーで、ブロードウエイのプロデューサーが、主演女優がハリウッドへ行って映画スターになろうとするのを必死になって止めさせようとするものです。当時の偉大な俳優の一人であるジョン・バリモアの愉快な演技を中心に構成されています。彼の顔の表情、身振り手振り、彼がしゃべる殆どのセリフは自己中心と自己劇化主義に満ち溢れた男の皮肉さ、矛盾、怪奇さが重なり合っていて多くの点で素晴らしい演技です。それでも映画が進行すると共に、私は不思議にも自分が引き込まれていかないのです。これには初め戸惑いました。私はいつもバリモアを好きだし、ハワード・ホークス監督のこの時代の他の映画、例えばHis Girl Friday やOnly Angels Have Wingsも大好きでした。
 映画が約1時間ほど進んだ時、簡単ですがとてもはっきりした考えが頭に浮かびました。小説の中ではまともな登場人物である事は言うまでもありませんが、沢山の生き生きとした映画や演劇が私を感動させない事がある理由は、これらの役者が興味ある人間関係の点では他の役者と関わっていない事にあります。そしてすぐさま、私自身の作品に関して次の考えが浮かびました、もし私が自分の登場人物に気を遣う事を止めて、代わりに自分の人間関係を心配したらどうなるでしょうか?列車が更に西に向かってガタゴト走り、ジョン・バリモアは益々ヒステリックになるにつれて、私は英国の小説家エドワード・モルガン・フォスターの有名な三次元的人物と二次元的人物の違いに関して考えました。彼は、物語の人物は「我々をなるほどと思わせるように驚かす」という事実で三次元的になると言いました。そうする事で彼らは成熟していきます。しかし、ある人物が三次元的ならば、彼または彼女の人間関係は三次元的ではないのでしょうか?
 他のどこかで同じ講演をした時フォスターは、ある小説から筋を抽出するのにグニャグニャ動く虫をピンセットで挟み電灯の下で観察するように持ち上げる、という愉快な描写を用いました。私も似たように何かの小説と交差する様々な人間関係を引用して光に照らす事は出来ないでしょうか?こういう事を既に完成している自分の作品と計画中の作品でできるでしょうか?教師と生徒の関係と見る事ができるでしょう。何か洞察力があり新鮮であると言えるでしょうか?或いは、私はそれをじっと見つめて、それが使い古された紋切型で何百もある二流小説の中の表現と同じであることが明らかになるでしょうか?それは感情的に共鳴するでしょうか?それは徐々に進化するでしょうか?それは「我々をなるほどと思わせるように驚かすでしょうか?三次元でしょうか?
 私は突然感じた事ですが、私の過去の作品の色々な局面で必死の努力にも拘わらず何故うまくいかなかったか良く理解できました。引き続きジョン・バリモアをじっと見続けていると、喋り方が過激であろうが普通であろうが、全ての良い物語は我々にとって重要な関係、即ち我々を感動させたり、喜ばせたり、怒らせたり、驚かせたりするものを含んでいなければならない、という考えが浮かんできました。多分将来、私がもっと登場人物相互の関係に注意を払えば、彼らは自分自身に気を配る事でしょう。私が言っているようにそれが起きているのです、私はここであなた方にはいつも明らかに判り切った事を述べているかも知れません。しかし、私が今言えるすべての事は、私の作家人生で驚くほど遅く気づいた考えなのです、そして私は今ではその時が今日皆さんに説明してきた他の事と同様に転換点と見ています。その時以来私は作品を違ったやり方で構築し始めました。例えば小説「私を離さないで」を書く時には私は先ず中心となる三人の人物の関係を考える事から出発し、そして他の人間関係に広げていきました。多分他の職業の人生でも同じでしょうが、作家の生涯で重要な転換点とはこんな事です。時にはそれらは小さく、取るに足りない瞬間です。それらは、静かで思いがけない私的なひらめきです。そんなに度々はひらめきません、そしてひらめく時にはファンファーレもなく、先生や仲間達にも支持されずに来るのです。それらはしばしば声高に、もっと急いでと言わんばかりに注目を引こうと競い合うのです。時には広く行き渡っている分別にも反するような本性を現します。しかし、それらが閃いてきた時にはそのまま認知する事が重要です。そうしなければ手からこぼれてしまうのです。
 私は小さくて個人的な事を力説してきました、何故ならつまるところ、私が行こうとする仕事の事だからです。静かな部屋である人が書き、もう一人の人と繋がりを持たせようとし、もう一つの静かな、又はそう静かでない部屋で読む。物語は他人を楽しませることができます、時には重要な事柄を教えたり論じたりします。しかし、私にとって重要な事は、感情を伝える事です。それらは我々が人類として国境や境界線を越えて分かち合う事に訴えてきます。物語の周囲には書籍産業、映画産業、テレビ放送産業、演劇業など大きな魅力的な産業があります。最後に、物語とは一人の人間がもう一人に語りかける事であり、私が感じる方法です。私が言っている事を理解出来ますか?是もまたあなた方に感じさせる方法でしょうか?
 さて私たちは現在に戻ってきました。私は最近になって現実に目覚めました、私は何年か(現実からはなれた)泡の中(のような所に)に住んでいたのです。そこでは、私の周辺の人々のフラストテーションや心配事に私が気が付く事が出来なかったのです。私は文化が発達し、皮肉で心が大きい人々で満ちた刺激的な私の世界は実際には私が嘗て心に描いたものよりずっと小さい事が良くわかりました。驚きの年2016年、私にとっては気の重い年でした、ヨーロッパとアメリカにおける政治問題や世界中の吐き気を催させるテロ事件は子供の頃から抱いてきた、心の広い人道主義者の価値は留まる事なく発展していくと言う事が幻想だったかも知れないと認めさせられました。
 私は楽観主義寄りの世代の一人です、ええそうです。我々は祖先が全体主義で組織的殺戮や歴史的に前例のない大虐殺を行った政治体制を、国境を越えた友好関係の中に存続している非常に羨ましがられている自由民主主義の地域に成功裏に変革してきた事を見てきました。我々は世界中で古い植民地帝国が植民主義を支持してきた非難されるべき抗弁と共に崩壊していくのを見てきました。我々は女性解放運動、同性愛者の権利、人種差別主義との戦いで著しい進展を見てきました。我々はまた資本主義と共産主義の間のイデオロギーや軍事的な大衝突の背景に反対して成長してきました、そして私たちの多くが幸せな結果になったと信じてきた事を目撃してきました。
 しかし今振り返ってみると、ベルリンの壁が崩壊して以来の時代は失われた機会に対して満足しているように思えます。富と機会の非常に大きな不平等が国家間および国内で拡大していくに任されています。特に、2003年の破滅的なイラク進攻と2008年に起きたスキャンダラスな経済破綻(「サブプライマリーローンからリーマンショック」の事か?竹本)に続いて一般市民に何年もの間課せられた緊縮政策は、我々を極右翼思想と民族国家主義が拡大する現在の状況に引き込みました。形態は昔ながらな形、近代的な形さらに地域社会に合った形で人種差別主義が、文化の発達した通りの下で埋もれていた怪獣が目を覚ましてうごめくように再びはびこり始めています。
 さしあたり、我々を結束させる前進的な方策は見当たりません。そうではなくて、西側の豊かな民主国家の中でさえ我々は資源やエネルギーを求めて激しく競い合う敵対する陣営に分断しつつあります。科学、技術や医学における驚くべき大成功による新たな挑戦はもうその角まで来ているのでしょうか、それとも既に角を曲がって行ったのでしょうか? 遺伝子編集技術CRISPRのような新しい遺伝子技術や人工知能(AI)やロボットの進歩は我々に人命救助の恩恵をもたらします。しかし、同時にアパルトヘイトにも似た過酷な能力主義社会をもたらし、現在のプロのエリートにもひどい失業者を生み出します。
(訳者注)CRISPRとはClustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeatsの略で、近年原核生物でファージやプラスミドに対する獲得免疫機構として機能していることが判明したDNA領域のことを指す。
 

 私、60歳代の男ですが、目を擦りながら昨日まで存在していて疑わなかったこの世の中の概略を見てみましょう。私は知的側面について言えば陳腐な世代の想像力に欠けた作家ですが、このよく知らない所を見るエネルギーを発見する事が出来るでしょうか?私には、感情の段階を大きな変革に順応すべく社会が揺れ動いている時に来る論争や戦いや戦争に向ける総体的な見方を示す為に役に立つ何かが残っているでしょうか?私は前進しなければならないし、出来る限りの最善を尽くします。なぜならば、文学は重要であり、特にこの難局を切り抜ける為に重要と信じているからです。しかし、私は若い世代の作家の皆さんに、私達に希望を与え導いて頂きたいと注目していきます。これからは彼らの時代です、彼らは私にない知識と生まれながらの才能があります。書籍、映画、テレビそして演劇の世界で、私は今日冒険的でわくわくするような有能な人材を知っています、40代、30代、20代の女性や男性達です。だから私は楽観しています。楽観しない筈はないでしょう?
 しかし、心を込めてお願いさせて頂きます・・・御望みでしたら「私のノーベル賞受賞アピール」として締めくくりたいと思います。
 全世界を本来あるべき状態に移す事は困難な事ですが、少なくとも我々自身の部門だけでも如何に準備をする事が可能か考えさせて欲しい、我々が読み、書き、出版し、推奨し、非難し、そして作品に賞を与えている「文学」という部門です。もし、我々がこの先が読めない時代に何か重要な役割を分担できれば、もし我々が今日、明日の作家達から最良のものを得る事が出来るなら、我々はもっと多様化していくに違いないと信じます。
私が言いたいのは次の二つの意味です。
 第一は、私達が文学と定義する範囲を一般的に受け入れられているエリートに期待をする文化の範囲を超えて、もっと多くの人々の声を取り入れるように広げなければなりません。私達は今日まだ世に知られていない我々自身の作品から新しい萌芽を見つけ出すべく、その作家が遠くの国々に住んでいようが我々の地域社会に住んでいようが、もっとエネルギッシュに探さなければなりません。
 第二は、私達は良い文学作品の定義を余りにも狭く、或いは控えめにしないように注意を払わなければなりません。
 新しい世代は全てに新しく、時には重要で素晴らしい物語が戸惑わせるような方法で到来するでしょう。私達はそれらに心を開き続けなければなりません、それらを育み最高の物を祝福できるように、特に物語のジャンルと表現の形態に注目しなければなりません。今日の危険なまでに分断が進んでいる時代においては、我々は耳を傾けなくてはなりません。優れた作品を書く事とそれをよく読む事は、その分断の障壁を打ち壊すでしょう。我々は、新しいアイデイア、立派な人間としての展望を見出し、それに結集できるかもしれません。
 スエーデン国立アカデミー、ノーベル財団,そしてノーベル賞を私達人類がより良くしようと努力する事の輝かしいシンボルとして長い年月に亘って継承されてきたスエーデンの国民の皆様に私は感謝申し上げます。 
カズオ・イシグロの昨年12月のノーベル文学賞受賞スピーチの筆者翻訳
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土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』について
鍋島 高明(30回) 2018.03.02

筆者近影
謹啓 今年の冬は格別の寒さで八十路の坂を登り始めた身にはこたえますが、皆様にはご健勝のこととお慶び申し上げます。土佐文雄(本名藤本幹吉)氏の単行本未収録作品群の中から坂本龍馬関係の文書を一冊にまとめたのが本書です。ご高覧、ご高評頂ければ幸甚です。
 土佐氏は高知市介良の出身で第二次大戦後の土佐文壇では第一人者であったことはよく知られています。土佐文雄というペンネームに対しては先輩たちから「土佐を代表するかのような名前ではないか」と嫌味を言われたこともあるそうです。だがその名に負けず次々と話題作を世に問います。
 「熱い河一小説植木枝盛」(椋庵文学賞)、「同行二人一四国霊場へんろ記」(高知県出版文化賞)、「得月楼今昔」、詩人愼村浩の生涯を描いた「人間の骨」、オペラにもなった「純信お馬」、「土佐一条家の秘宝」、「下司凍月の生涯」…高知の戦後文学史を彩る数々の名作、労作を残していますが、すべてが単行本になっているわけではありません。新聞、雑誌に連載したまま、あるいは講演録の形で残っているもの等さまざまですが、ここでは坂本龍馬に絞りました。
 歴史の教科書から龍馬を抹消するなどという発想は「痴の沙汰」です。

『正調土佐弁で龍馬を語る』
高知新聞社刊 定価1,400円(税別)
 わたしは土佐文雄氏を直接には知りません。同郷ということで、もちろん名前は先刻承知で「熱い河」などは昔読んではいましたが、近年「介良のえらいて」と題する人物録を書くに当たり、土佐文雄という人と作品をもっと知りたいと、高知県立図書館や国会図書館で資料を集めるようになりました。
 中で昭和63年に高知県高岡郡葉山村(現津野町)で行った「坂本龍馬と明治維新」と題する講演の速記録が見つかったことです。葉山村といえば、大阪財界の巨人片岡直輝・大蔵大臣片岡直温兄弟の出身地として知られていますが、この村の青年たちが土佐氏を招いて講演会を開き、その内容が「葉山史談」に掲載されていたのです。それも土佐弁でしゃべったままの速記録です。
 近年伝統的土佐弁がだんだん聞かれなくなる折から、また土佐文雄氏の名前も次第に遠のいていくのを感じるにつけ、ぜひ本にしておきたいと考えました。昭和63年に土佐氏は高知新聞に「逸話でつづる龍馬言行録」を連載していました。これらを骨格にして編集しました。出版に当たっては猪野睦、岡林登志郎両氏のおカを借りました。著作権の継承者である藤本剛氏には快諾をいただきました。そして高知新聞総合印刷の山本和佳さんには辛抱強く、修正に修正を重ねていただきました。
 また巻末に収録した土佐文雄氏追悼文の執筆関係者からは転載をご承諾いた.だき深謝申し上げます。
平成30年2月  敬具
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