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 このページは皆様の投稿でなりたっています。左下のメイルボックスから記事(TXTファイル)と写真(JPEG、PDF、GIFファイル)をお寄せ下さい。容量、写真枚数(多い方が良い)に制限はありません。月に一度は編集して最新のものから順に掲載します。また、他人の文章を引用する場合は、投稿者の責任で必ず著作権者の了解を得て、必ずクレジットを付けて下さい。クレジットのないものは掲載できません。
 会員であるなしを問いませんので、多くの皆様のご投稿と書き込みをお待ちしています。
2017.08.26 藤宗俊一  終結宣言
2017.08.20 中城正堯  「“上方わらべ歌絵本”の研究」
2017.07.12 棚野正士  ディック・ミネさんの思い出
2017.07.10 中城正堯  「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介
2017.06.26 公文敏雄  「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」発送のお知らせ
2017.05.24 鍋島高明  『介良のえらいて』増補版の発刊について
2017.05.22 中城正堯  生首を化粧した武士の娘
2017.04.28 水田幹久  向陽プレスクラブ2017年度総会議事録
2017.04.28 水田幹久  雑感 「地域コミュニティ」
2017.04.18 竹本修文  ヨーロッパ・パーティ事情
2017.03.29 水田幹久  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2017.03.25 北村章彦  4月22日KPC総会案内
2017.03.25 中城正堯  三根圓次郎校長とチャイコフスキー
2017.03.20 竹本修文  向陽プレスクラブに入会します。
2017.03.20 公文敏雄  「龍馬・元親に土佐人の原点をみる」中城正堯(30回)著
2017.02.25 公文敏雄  小村彰次期校長訪問記

2010/04/01-2010/07/25設立総会まで 2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで 2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで 2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで 2016/04/01-2017/03/31第8回総会まで
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藤宗 俊一(42回) 2017.08.26終結宣言


筆者近影
 処暑も過ぎたというのに相変わらず暑い日が続いていますが、お変わりございませんか?初めは冷夏とばかりと思っていたのに、秋になって残暑が厳しくなりました。3年後のオリンピックはどうなることでしょう。
 その暑い盛りに、ご迷惑でしょうが残暑見舞い代わりに、『数独』 14,000題送らせて頂きます。お暇な折に挑戦してみて下さい。実はこの春、娘が結婚して出て行った後に、部屋(机周りだけ)とパソコンが残り、一昨年『敗北宣言』をして撤退した問題作りに挑戦していました。解析方法を改良しIF通過回数が半分近くに減りましたが、精度があがり仮入力のある問題(上級)では複数解のある問題が多出し(遊ぶのには問題ないですが作者の意地の問題)ちっとも早くなりません。同時に、兵力を増員し(前回の10倍…1万テーブル)多方面に作戦を展開していますが、まだ表示個数19個のままで止まった状態で、隣の部屋でパソコンがひたすら唸っています。ただ表示個数以外の点では、これ以上は工事屋の灰色の細胞ではほぼ限界だと思われるので、『終結宣言』を致します。
 もったいないので、その作成過程でできた20万題以上の問題からランダムに選んで整理し(難易度別と表示個数別)、遊び用ソフト(Excelとマクロ…2010以降のxlsmデータ)を作りました。下記に添付してありますのでダウンロードしてExcelで読みこみ、マクロを有効にして挑戦してみて下さい。これも印刷するのがもったいないというけちくさい理由です。Excelが使えないという方のために印刷用pdf版も添付してあります。万が一、全てを制覇してもっと欲しいという方がいらっしゃいましたらご遠慮なくお知らせ下さい。新しく作ってMailでお送り致します。簡単な使用方法は問題の下に書いてあります。
 それでは、ご奮戦を祈ります。もしかすると暑さを忘れられるかもしれません。ご自愛の程。

数独問題ダウンロード
 多分、同じ問題は一つもない(美形を除いて)と思います。
難易度別ゲーム(xlsm版…7000題)   表示個数別ゲーム(xlsm版…7000題)  
印刷用データ(pdf版…40頁560題)  

追伸:先日稲刈りに帰高した際、童女様(永森女史)を見舞ってきました。だんだん記憶力が衰えてきているそうですが(私も同じ!)、お元気でした。ベット脇には、かわいいお孫さんの写真がいっぱい貼り付けられていました。早く回復して、また一杯やれる日を心待ちにしています。
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『浮世絵芸術』174号に発表
中城 正堯(30回) 2017.08.20「“上方わらべ歌絵本”の研究」


筆者近影
 8年前に上方の子ども遊びを描いた多色摺の絵本を、いかにもやんちゃな子どもたちの遊ぶ姿に魅せられて入手した。しかし、題名も絵師も不明で、文章ならびに描かれた遊びの内容も、簡単には解読できなかった。近年やや暇になったので再チャレンジして調査すると、安永・天明期(1772〜88)の合羽摺(かっぱずり)「上方わらべ歌絵本」であることが分かり、国際浮世絵学会の研究誌にこのほど発表した。合羽摺とは、型紙の切り抜いた部分に、刷毛で色を塗る技法であり、上方で発達した。
 この絵本は、テーマが「わらべ歌遊び」、印刷技法が「全ページ合羽摺」であり、この両面から類書のない貴重な子ども本であることが判明した。約250年前の上方いたずらっ子たちを、無事現代に甦らせることができ、ほっとしている。
 6場面からなるこの絵本は、いずれも画面いっぱいに子どもたちの遊び戯れる姿が描かれ、上部にわらべ歌が添えてある。では、2場面を紹介しよう。

1.お万どこ行った

 歌は、「お万どこ行った、油買いに」で始まり、雨降ってすべって、油一升こぼして、犬がねぶって・・・、と続く。絵は、奉公人のお万が転んだ瞬間と、嬉し気に駆け寄る子どもや犬を巧に捉えている。のれんの影に、三井紋の樽が見えている。

2.子買を子買を

 「子買を子買を」「どの子が欲しいぞ」と、買い手と売り手が交互に歌い、対価にくれる御馳走はなにか、問答を楽しむ演劇的遊戯だ。絵は左が売り手で、右側のお膳・蒲鉾・饅頭を持つ子たちが買い手。

*なお、全文閲覧をご希望の方はお知らせください。抜刷を進呈致します。
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棚野 正士(31回) 2017.07.12ディック・ミネさんの思い出


筆者近影
 中城先輩、高知新聞書評ありがとうございました。「三根校長とチャイコフスキー」は名著です。「音楽を愛した教育哲学者」を初代校長とする土佐中・土佐高は、中城先輩のご著書で新たな教育理念を探れると思います。
 わたくしは永年歴代土佐高校長が母校を語るとき、「今年は東大に何人入ったか」「甲子園に出場できるか」しか言わないので、怒りと絶望感を覚えていました。しかし、中城先輩のご活躍を知り、もっと土佐高の文化的側面に校長は気付くべきだと考えておりました。その中城先輩が名著を書かれ、三根校長の思想が新たな土佐高・土佐中の理念になっていくことを願います。


故ディック・ミネ氏
 ディック・ミネさんとは、ミネさんが日本歌手協会会長の時に親しくなりました。当時わたくしは社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)専務理事でした。時々仕事の関係で会食をしました。食事をしながら三根先生(ディックさんは”ぼくのお父さん”と呼んでいました)のことを聞きました。こんな話をしていました。「自分は不良と思われているが本来不良ではない。ぼくのお父さんも不良をしたいが教育者なので出来ないから、代わって自分が不良を勤めている。父は教育者で母は日光東照宮の宮司の娘で、自分は本来不良ではない」などです。
 あるとき、三根先生とデイックさんが二人で汽車に乗っているとき、不良が二人絡んできたので、ディックさんは二人を汽車が停車したとき、外に連れ出し殴り倒したそうです。車内に戻ったとき、三根校長がどうしたと聞くので。「殴り倒した」と言ったら、三根校長は「そりゃよかった」とひと言ったそうです。
 中城先輩の名著がきっかけとなり、土佐高が新たな「光」、新たな「希望」を求めることを望みます。
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「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」その後の反響
「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介
中城 正堯(30回) 2017.07.10


筆者近影
 向陽プレスクラブで発行した表記の小冊子につき、公文敏雄会長から報告いただいた発行直後の反響に続き、筆者の手元にもさまざまな感想が届いたので、お知らせしたい。
 まずマスコミ関係では、高知新聞の7月7日朝刊学芸欄に、「土佐中初代校長の音楽愛」との見出しで、片岡編集委員による添付の紹介記事が掲載された。ディック・ミネが大好きという同新聞社元会長のH様からは「三根校長はもっと知られねばと思っていた。この冊子は素晴らしい役割。隠れた話がたくさんです」と、便りが届いた。

高知新聞学芸欄での紹介記事
2017/07/07
 「もり・かけ問題」で超多忙の朝日新聞東京本社編集委員(教育担当)U氏は「ひと・教育・そして時代が見えてきます。教育斑の仲間とも共有したい」とのことだった。ヴェトナムの枯葉剤障害児のその後を追っている写真家O氏の手紙には、「土佐中がいかにおもしろい人材を輩出しているか、知りませんでした。三根校長の息子がディック・ミネで、お母さんが日光東照宮の宮司の娘にも、びっくり」とあった。U・O氏とも高知とは無関係な友人だ。
 高知出身で元集英社編集担当役員のI氏は、「和辻哲郎の本でケーベルには関心を持っていたが、三根校長が教え子で、寺田寅彦や平井康三郎など高知の人物につながるとは、思いがけないことだった」と、喜んでくれた。高知在住の編集者Yさんは、「すばらしい人物を輩出した土佐中高は、やはり素晴らしい理念を持った教育者によって創られたのですね」といい、高知の大学講師(福祉問題専攻)Y氏は「ケーベル博士は、明治31年に音楽学校で開かれた慈善音楽会の収益金を貧困家庭の子女のための二葉幼稚園に寄付している」と、博士の知られざる慈善行為を教えてくれた。

「開校したばかりの土佐中が漢字筆記で日本一の記録を示した」とある。
土陽新聞大正9年5月27日。右の飛行機が時代を示している。
 同窓生では、森健(23回)・門脇稔(25回生)・公文俊平(28回)などの先輩から、「面白くて一気に読んだ。知らなかった話ばかりで、よく取材してある」などの連絡をいただいた。母校には、教職員及び学校・振興会・同窓会の役員用に、向陽プレスクラブから60部謹呈してある。小村彰校長からの礼状をいただいたが、これらの人々がどう受け止め、今後の教育方針や学校100年史に生かしていただけるか、見守りたい。なお、ありがたい反響は、向陽プレスクラブが発行元を引き受けてくれたお陰であり、皆様に感謝したい。
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中城正堯著「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
公文 敏雄(35回) 2017.06.26発送のお知らせ

向陽プレスクラブの皆様

「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
中城正堯著 発行:向陽プレスクラブ

筆者近影
 過日会員各位あてメールでご案内申し上げましたとおり、中城正堯氏(30回)ご執筆の冊子「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」全31ページを会員の皆様にお送り申し上げましたがお手元に届いたころでしょうか。

 さっそくお読み下さった横山禎夫氏(30回)他多くの方々から下記のご感想をお寄せ下さいましたので、ご諒承のもと、ここにご紹介させていただきます。(到着順)

 なお、この冊子をお読みくださって思いだすことやご感想がございましたらご遠慮なく左のMailBox(post@tosakpc.net)からご投稿ください。
向陽プレスクラブ 会長 公文敏雄(35回)


横山 禎夫(30回) 2017.06.24


筆者旧影
中城君著の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました。
 知らなかった土佐中・高の昔のことがいろいろ書いてあって、興味深く読みました。制服の袖の白線のことも初めて知りました。
 謹厳実直だった三根校長の息子が人気歌手になったり、帝国大学進学校から平井康三郎のような作曲家が出たり、面白いですね。
 確かに、卒業してから考えると、土佐高はかなり自由な学校でした。新聞部時代も、学校側から検閲を受けたこともなく、思うことを遠慮なく書くことができました。
 戦後はマスプロ学校になり、一クラスが70数名と生徒数がめちゃくちゃに多かったので、あるとき新聞に1学年を現行の4クラスから5クラスにせよ、と書いたら、翌年から5クラスになったのには驚きました。まあ、その前からその計画だったのでしょうが、新聞部に一言挨拶があるべきだ、と思ったことです。それまで報恩感謝でH、O、K、Sホームだったのですが、急遽土佐のイニシアルをとってTホームができました。
 本書発行については武市功氏(30回)の支援をいただいた、とありますが、有難いことです。
 皆様のご健勝、ご発展を祈ります。
 
岡林 幹雄(27回) 2017.06.24


筆者旧影
拝復
 本日貴兄より中城兄ご執筆の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を
 ご送付賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。早速読ませていただきます。
 暑さ厳しい折柄、ご健勝の程願上げます 。取急ぎ拝受お知らせまで。
  不一 
                           (ハガキ本文)
 
冨田 八千代(36回) 2017.06.26


筆者旧影
「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」の冊子ありがとうございました。
  23日に届きました。すぐに、我が家から喫茶店に移動し拝読しました。
      (ホームページではきちんと読んでいませんでした。すみません。)
  すぐにお返事をが、今になりました。
  多少は知っていたこと、全く土佐中学校とは関係なく個々に知っていた偉人の方々が
  土佐中学校と三根圓次郎校長を中心につながっていることに驚きました。
  
三根圓次郎校長の理念が時代をさきがけ、深遠なことを少しは受けとめたつもりです。
  あらためて、土佐中・土佐高校で学べたことを嬉しく幸せに思います。
  同窓生や在校生にもぜひ、読んでもらいたいと思います。
  
  このように、著述してくださった中城さんに敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。
  また、冊子を送っていただきありがとうございました。
  私には冊子の方がずっとずっと読み易く本当にありがたく思いました。
  ありがとうございました。
  
≪編集部より≫御老体に鞭打って青息吐息で沢山の執筆に励んでおられる中城先生に激励のエールをお願いします!!!
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『介良のえらいて』増補版の発刊について
鍋島 高明(30回) 2017.05.24
謹啓

筆者近影
 「介良のえらいて」の初版が出たのが平成26年の10月のことです。ご好評を戴き、翌27年1月に増刷する幸運に恵まれました。増補版は当初からぜひやりたい、いや、やらなければ見落とした先輩たちに申し開きができないと思い、資料を集めておりました。今回新たに17人が加わり、89人を収録した時点で増補版を発行することにしました。
 名物酒場「とんちゃん」のオーナー吉本健児さんが介良の出身で、国文学の大家竹村義一さんと小学校の同級生だとわかって増補版の目玉になると考えました。「とんちゃん」の常連客が同じく介良出身の酒豪横山三男、土佐文雄のご両人であり、反骨の心理学者鍋島友亀・道子夫妻もよく通っていたというし、横山和雄県立図書館長も夕方5時になると土佐文雄(当時図書館によく出入りしていた)に「とんちゃんに行こう」と誘われたそうです。

『介良のえらいて』増補版
五台山書房刊 1,200円(税別)
 高知を代表する前衛女流造形作家入交京子さんの取材を通じて今井良榮少将の資料が見つかったのは思わぬ収穫でした。将軍が戦後早々介良の村長をやっていたこと、その選挙運動を手伝ったという中島正五郎さんの少年期の証言は目からうろこでした。歌を詠み、絵を描き、壼を焼いて90年の篠原律子さんの逞しい生き方には元気と勇気を戴きました。山官と呼ばれる営林署の役人鍋島健一さんは山を愛し、文を愛し、介良を愛した。
 戦前の高知教育界に大きな足跡を残した土佐梁山泊。ゆかりの100人の若き学徒の中に介良から鍋島牧忠、鍋島一郎、岡崎福太郎の3同人が含まれていたことを知り、これは顕彰しなければと思いました。中島隆、澤本健男、横山猛ら派手ではないがリスクを冒し起業した面々の登場で本書に厚みが加わりました。農業人の代表として中島覚さんに入って貰いましたが、本の完成をみないで亡くなったのは残念でなりません。
 また地域官僚としては最高位の県副知事を務めた十河清さん、知事選に出馬していれば当選確実と言われながら、「その任に非ず」と固辞したという。そんな人材が加わって「介良のえらいて」(増補版)は頁数の増加(80ページ増)以上に中身が濃くなったように思います。四国の流通王から西日本の流通王へと駒を進める旭食品

「介良のえらいもん」全員集合89人
(トモシアホールディングス)、その竹内寿明初代社長、竹内明義2代目社長の登載で陣立てが整いました。
 初版から登場しているえらいてたちに就いてもかなり充実させることができました。たとえば中谷貞頼さん。日活専務時代、のちに永田ラッパの異名をとる永田雅一大映社長が中谷に私淑、中谷社長の実現に大きな働きをしたという事実は特筆していいでしょう。
敬具
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中城 正堯(30回) 2017.05.22生首を化粧した武士の娘
   ―戦乱を逃れ、土佐に来た「おあん」その後―

筆者近影


 郷土誌『大平山』(高知市三里史談会発行)第43号に発表した、『おあん物語』の論考です。関ヶ原の合戦を逃れ、土佐に落ち延びた娘の体験記ですが、菊池ェは女性による「戦国時代のたった一つの自伝小説」と称賛しています。ここでは臨場感が出るように、戦国時代の合戦を描いた浮世絵や屏風から物語と類似の場面を選び、原本の挿絵に加えました。

子どもに語った戦国の実態
 江戸初期の土佐の女性といえば、思い浮かぶのはだれであろう。まず、内助の功で知られる初代藩主・山内一豊(かつとよ)の妻がいるだろう。一豊亡き後、見性院(けんしょういん)の法号を受けるが、名前は「千代」とも「まつ」とも伝わり、明らかでない。へそくりで名馬を買った伝説はともかく、関ヶ原の直前に人質となっていた大坂から東国の一豊に送った「笠の緒の密書」は、徳川家康にも高く評価された実話だ。もう一人は、野中婉(えん)であろう。奉行職だった父野中兼山が失脚すると、44歳まで宿毛に幽閉された。その孤高の生涯は、大原富枝の名作『婉という女』に描かれている。

『おあん物語』
(天保版 喜多武清画 筆者蔵)

 ここで紹介するのは、関ヶ原の大決戦のさなか、佐和山城で敵兵の生首に化粧を施すなど、悲惨な篭城を経験した「おあん」である。落城寸前に父山田去暦(きょれき)とともに城を抜け出し、土佐に落ち延びたおあんは雨森氏と結婚、夫亡き後は甥に養われ、八十余歳まで長生きしている。この老婆が「おあんさま」と呼ばれたのは、夫に先だたれて出家し、老尼の尊称「お庵様」が用いられたからであろうとされる。
 『おあん物語』は、「子どもあつまりて、おあん様むかし物語なさりませといえば」から始まっており、近所の子どもたちにせがまれて、十数歳で体験した篭城戦の凄惨な光景を語った物語だ。さらに後半には、彦根城下での貧しい少女時代の生活体験が記されている。この話を、だれか分からないが筆記した者がおり、写本が流布した後、享保15(1730)年に土佐の谷垣守(かきもり)が本にまとめている。筆者は十年ほど前に神田の古書店で、朝川善庵が谷垣守本に挿絵を付けて天保8(1837)年に刊行した天保版を見付けて入手した。題簽(だいせん)に『おあんものがたり おきくものがたり』とあり、大坂夏の陣で大坂城から脱出した「お菊」の物語と合本にした大判(257×180ミリ)の和本だった。
 こうして江戸時代から広く読み継がれてきた『おあん物語』であり、現代も国文学者や歴史学者から大いに注目されている。しかし、見性院や婉と違って高知では忘れ去られているようなので、この本の誕生のいきさつと内容、さらに各分野の研究者や文学者による論評と活用を紹介したい。なお、翻刻は、岩波文庫『雑兵物語 おあむ物語』(昭和18年)によったが、読みやすくするため現代文に直し、主人公「おあむ」は、「おあん」と表記した。文末の「おじゃった」などは活かしてある。では、本文(一部省略)に入ろう。

篭城し、生首にお歯黒を施す
 「おあん」には、「おれが親父は、山田去暦といい、石田治部少輔(じぶしょう・三成)殿に奉公し、近江の国彦根に居られたが、その後、治部どの御謀反の時、美濃の国大垣の城へこもって、我々みなみな一所に、お城にいて、おじゃった」と、大垣城にこもったいきさつが出てくる。やがて、「家康様より、せめ衆、大勢城へむかわれて、戦が夜ひるおじゃったの。その寄せ手の大将は、田中兵部殿と申すでおじゃる」とある。攻め手の大将・田中吉政(兵部)は、豊臣秀次・秀吉に仕えたが、関ヶ原では東軍について石田三成を捕虜にする武勲をあげ、柳川藩主に取り立てられた人物だ。秀次に宿老(重臣)として仕えた際には、山内一豊も同じ宿老であった。ただ、石田は関ヶ原へ大垣城(岐阜県)から出陣しているが、田中が攻めたのは石田の本拠・佐和山城(滋賀県)である。したがって、『おあん物語』の舞台も実は佐和山城で、おあんの記憶違いで大垣城となったようだ。
 戦が始まると、「石火矢(大砲)をうてば、櫓(やぐら)もゆるゆるうごき、地もさけるように、すさまじいので、気のよわい婦人なぞは、即時に目をまはして、難儀した」「はじめは、生きた心地もなく、ただ恐ろしや、こわやとばかり、われも人も思うたが、後々は、なんともおじゃる物じゃない」と変わる。恐ろしい砲撃を受けながらも、次第に慣れていく。
 城中で女性は、どんな役割を担っていたか。「我々は母も、そのほか家中の内儀、娘たちも、みなみな天守に居て、鉄砲玉を鋳ました」女たちは、鉛を溶かして鋳型に流し込んでは、火縄銃の鉄砲玉を作った。

挿絵@ 生首にお歯黒を施す女性

 続けて、「取った首を天守へ集め、それぞれに札をつけて覚えおき、首にお歯黒を付ておじゃる。それはなぜなりや。昔は、お歯黒首はよき人とて賞翫した。それ故、白歯の首は、お歯黒を付て欲しいと、頼まれておじゃったが、首も怖いものでは、あらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった」とある。切り取った敵兵の生首に、お歯黒を施していたのだ。戦国時代の「賤ヶ岳(しずがたけ)合戦図屏風」などには、敵兵の首を持って凱旋する兵士の姿が描かれている。当時、首は戦場で手柄を上げた大事な証拠であり、それも白歯の雑兵よりもお歯黒をした身分の高い武将の首が評価され、恩賞につながったのだ。誰が捕った首か名札をつけ、お歯黒首への偽装工作までおこなっていた。挿絵@は、生首にお歯黒を施す場面で、右手前にはお歯黒の液(鉄漿(かね))を入れた角盥(つのだらい)がある。名札を付けた首も見える。左手前には火縄銃が置いてあり、背後の杭には首がずらりと掛けてある。
 やがて、「寄せ手より鉄砲打掛け、もはや今日は城も落ちるだろうという」状態となる。そこへ「鉄砲玉が飛んで来て、われら弟、14歳になった者に当り、そのまま、ひりひりとして死んでおじゃった。さてさて、むごい事を見ておじゃったのう」と、歎いている。

たらいで脱出、土佐に来た「彦根ばば」

挿絵A たらいで堀を渡って脱出
 落城が迫ったある日、「わが親父(しんぷ)の持ち口(持場)へ、矢文が来て、<去暦は、家康様御手習いの御師匠であった。わけのある者なので、城から逃げたければ御助けできる。どこへなりとも、落ちなさい。旅費の心配もないよう、諸々に伝えておいた>との御事で、おじゃった」。家康様の師匠だったので、旅費も含め、脱出の手配をしたとの知らせだ。密かに天守へ行き、北の塀脇から梯子をかけて降り、たらいに乗って堀を渡った。人数は、両親とおあん、それに大人四人ばかりであった。挿絵Aは、たらいで堀を渡る場面であり、右の藤文様の着物を着た娘がおあんで、16、7歳と思われる。

挿絵B 道ばたで出産した母子をかついで逃避行

 城をあとに落ち延びてゆくが、「五六町ほど、北へ行った時、母人(ははびと)、にわかに腹がいたみ、娘を産みなされた。大人はそのまま田の水で産湯をつかい、引上げて着物の裾でつつみ、母を父が肩へかけて、あお野が原へ落ちておじゃった。怖い事でおじゃったのう。むかしまっかう、南無阿弥陀、南無阿弥陀」。ここまでが、篭城から脱出までの経緯である。
 さらに、土佐の子どもたちに、「彦根の話、なされよ」と言われ、こう語っている。「父親(山田去暦)は知行三百石取りであったが、戦が多く、何事も不自由であった。朝夕雑炊を食べておじゃった。おれが兄さまは、時々山へ鉄砲打ちに参られた。その時は朝菜飯(なめし)を炊き、我等も菜飯をもらえるので、うれしかった。衣類もなく、13の時、手織りの花染めの帷子(かたびら…ひとえの着物)一つよりなかった。その帷子を17の年まで着たので、すねが出て難儀であった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ欲しやと思うた。このように、昔は物事が不自由な事であった。昼飯など食う事は、夢にもない事。夜に入り、夜食という事もなかった。今時の若い衆は、衣類の物好き、心をつくし、金を費やし、食物にいろいろ好みをいい、沙汰の限りなきこと(言語同断)である」。
 こうして、彦根の時代を思い出しては、子どもをしかったので、後には「彦根ばば」のしこ名(綽名)をつけられたとある。さらに、今も老人が昔話を引用して、当世を戒(いまし)めることを「彦根」というが、この言葉は俗説では「おあん様」に始まったことで、土佐以外では通じないと、筆記者は付記してある。

谷垣守がまとめて出版、広く流布
 土佐に来たことについては、「去暦、土佐の親類方へ下り、浪人。おあんは、雨森(あめのもり)儀右衛門(土佐藩士)と結婚。夫の亡き後は、甥の山田喜助(後に蛹也(ようや))に養育して貰う。寛文(1661〜72)何年かに、八十余で死す」と、簡単に触れている。
 聞書の筆者は、物語を終えた後に「おあんの物語」を残した経緯をこう述べている。「おあんの話を聞いたのは8、9歳の頃で、折々に聞き覚えた。誠に光陰矢の如し。正徳(1711〜15)の頃、孫どもを集めてこの物語に、自分の昔のことも合わせて、世の中の苦しみを示すと、小賢しい孫どもが、『昔のおあんは彦根ばば、今のじい様は彦根じじ。今さら何をいうやら、世は変わった』と、鼻であしらうゆえ、腹を立てども後世おそるべし、どうなるだろう。今の孫たちも、また自分の孫たちに、このようにいわれるのだろうかと、勝手に想像、後はただ南無阿弥陀仏と繰り返すほかに、いうべき事はない」。

生首をかかげての凱旋(成瀬家蔵「小牧長久手合戦図屏風」より
『戦国合戦絵屏風集成 第二巻』中央公論社)

 この本を編纂した谷垣守は、末尾に「真実の優れた記録である。誰が記録したのか分からないが、おそらく山田氏の覚書であろう。山田文左衛門所蔵のものを借りだして写した。享保15年3月」と記してある。
 さらに、天保8年に『おあんものがたり おきくものがたり』として出版した江戸後期の儒学者・朝川善庵は、跋文(あとがき)で「狂言師・倉谷岱左衛門の門人某が安永年間に、大坂からこの本を持ってきた。御庵(おあん)とは、老尼の尊称である」と述べている。この本には、挿絵三枚が加えてある。朝川善庵は天明元年、江戸の生まれ、嘉永2年没である。挿絵には「武清」の落款(らっかん)があり、絵師は喜多武清だ。江戸後期の画家で、八丁堀に住み、谷文晁に師事した。渡辺崋山とも交流があり、崋山は「その臨写(写生)には、ほとんど真物に迫る貴重な物が多かった」と、語ったという。山東京伝『優曇華(うどんげ)物語』の挿絵も描いている。安政3(1856)年没。
 『おあん物語』は、谷垣守本が原本であるとされ、写本が高知県立図書館にある。垣守(1698〜1752)は谷秦山(じんざん)の息子で、儒学者・国学者。京や江戸にしばしば行き、諸家と交わり研鑽した。その子・真潮(ましお)ともども家学を深め、土佐を代表する学者となって、政治にも参与した。垣守がまとめた『おあん物語』は、天保8年版によって広く流布し、戦国時代の貴重な記録として、今に各地の図書館や大学に残っている。
 では、明治から現代まで、識者や研究者によって、この物語がどのように受け止められてきたか、さぐってみよう。

岩崎鏡川による「おかあ武勇伝」

生首を持ち帰る兵(「賤ヶ岳合戦図屏風」より
『戦国合戦絵屏風集成 第二巻』中央公論社)
 明治になると郷土史家・寺石正路が注目し、この物語を紹介するとともに、登場人物の墓地をさぐるなど考証にも取り組んだ。それらの成果を活かして、『おあん物語』に触れながら坂本龍馬の先祖を論じたのが、明治七年土佐山村生まれの維新史研究家・岩崎鏡川(きょうせん・英重)である。「坂本龍馬先祖美談」(『坂本龍馬関係文書一』大正15年)で、「土佐の国に昔、御案(おあん)物語といえる書あり、彼の帯屋町故山田平左衛門君の先祖・山田去暦の娘・御案といえる女丈夫の物語・・・江州佐和山籠城の時に血なまぐさき敵首を天守に運び・・・」と、まず「おあん」を紹介。続けて、坂本家本家の系図にあった「おかあ殿事績」から、こう述べている。「大和国吉野の須藤加賀守の娘・おかあ殿が、戦乱の中を落ちる際に敵六人に追いかけられて薄手(軽い傷)を負うが、敵に待てと言って小袖を引きちぎって鉢巻きにあてると、六人を切りとめ、土佐の豊永に落ち延びた。おかあ殿は小笠原佐兵に嫁ぎ、その妹が坂本家の先祖で才谷村に住む太良五良(ママ)の妻になった」。
 龍馬の縁戚に当る土居晴夫は、「おか阿の武勇談」(『坂本龍馬の系譜』)でやはりこの話を紹介しているが、おか阿の妹は坂本家初代太郎五郎の妻ではなく、その子・彦三郎の妻とする。南国市三畠(さんぱく)には、小笠原佐兵・おか阿の墓と顕彰碑があるという。
 岩崎鏡川は、おか阿は忘れられたのに「おあんの物語は、久しく世上に流伝し、今や歴史研究家としてその名を知らざるなし」と述べている。昭和にはいると歴史家だけでなく、多くの文学者がこの物語に注目し、さまざまな形で作品化する。まずは、岩崎鏡川の次男に生まれ、母・斉(ひとし)の実家・田中家にはいった作家・田中英光(ひでみつ)から取り上げよう。
 田中英光の母方の祖父・田中福馬は種崎村の商家に生まれたが、宝永町に出て市場の仲買人として成功する。しかし自由民権運動で家産を傾け、東京に出た。英光は大正2年、東京赤坂で生まれたが、土佐人に囲まれて育ち、高知を故郷としていた。早大在学中の昭和7年には、ロサンゼルス・オリンピックにボート選手として参加。その後作家となり、『オリンパスの果実』などで知られる。昭和24年に太宰治の墓前で自殺する。この英光が昭和18、9年頃執筆したと推定される遺稿「土佐 2」(『田中英光全集8』芳賀書店)に、「おあん物語」がある。

虐げられた女性への追憶
 この文章の最初に、「寺石正路氏の考証のついた、土佐協会誌第66号の付録があるので参考にさせて貰い、感想を述べながら意訳する」とある。おそらく父・鏡川の文章で「おあん物語」に注目し、寺石の文書も入手したのであろう。英光は、まず菊池ェの「わが愛読文章」から、次の部分を引用している。
「戦国時代に於ては、個人の私生活、ないし日常生活についての文献なぞは全然見当たらない。ことに女性の私生活については何も伝わっていない。その間にこのおあん物語だけが、一つの真珠のように光っている。これは戦国時代に於けるたった一つの自伝小説と云っても好いものだ」。このあと、現代文に意訳して物語を紹介、前半を終えたところで、こう感想を挟んである。「ここまでが、関ヶ原当時の思い出話だ。戦時中、女子供がどんなに惨めであったか、ただ虫のように生き、虫のように死んで行ったに過ぎない。ところが今度の戦争中におあん物語を時局に有意義な物語として取り上げ、昔でも女子供はこんなに苦しんだのだから、今の女子供は幸福だ。すべからく今の配給生活に感謝せよなぞ言っている人もいたが、これは反対で、三百年前の女子供の暗い生活と少しも変わらぬ、あるいはもっと酷い生活を強いられている現代の矛盾と欠陥をむしろ批判的に考えなければならないと思う」。

落城して炎上する城(「大内合戦之図」橋本貞秀 松ア郷輔所蔵)
 まことに的確な感想であり、言論統制の行われていた第二次世界大戦中には、絶対に発表できない内容である。昭和18年発行の岩波文庫版「おあむ物語」にも、並べて収められた「雑兵物語」の解説には、「戦闘に於ける果敢不屈の精神をうたって士気の高揚に資せんとしたもの」とある。当時の、新聞・出版は戦意高揚・耐乏生活一色であった。この昭和18年に高知市立三里国民学校に入学、空襲と空腹の中で小学生生活を過ごした筆者も、体験ずみのことであった。
 英光は物語の後半を記した後、寺石の次のような考証を転記している。「山田去暦の墓は、高知城南潮江山字(あざ)高見にありと聞く。阿庵(おあん)の墓は同じ清水庵の傍らにあり。わが父は子供の頃、潮江村に住み、童遊の際、阿庵の墓に行き、木太刀を取り帰ったことがある。阿庵の墓は、なぜか知らないが木太刀の奉納がおびただしかった。昔から土佐では歯の痛む人は小溝に行き、お庵様といって祈願をして、平癒すればお歯黒を上げる習いがあった」。
 英光は最後に、「この平凡な女性が、どうしてこのような俗信の対象となるまで、有名になったであろうか。同様な方言を生むまでに有名な荒武者・福富隼人と対照してみる時は面白い」と、問いかける。福富隼人は、長宗我部元親に仕えた伝説的な豪傑で、英光は隼人の孫で惨めな流浪の生涯を送った「福富半右衛門」を主人公に歴史小説を書いている。この二人を対比しつつ、こう記して「おあん物語」を終えている。
「隼人は生粋の土佐人であったが、その子孫は他国に流浪し、おあんは他国人であったが、その子孫は土佐に止まることになった。この点でもまた、対蹠(たいしょ)的であり、かつ私は土佐を限定した土佐と見る愚劣さを思う。そして軽々しく独断は出来ないが、こうして隼人が有名になった原因には、他国人の抑圧の下に苦しんだ土佐人が前代の自国人の英雄に対する敬愛の念を感じ、おあんが有名になった原因には、抑圧された民衆が、虐げられた女性の追憶にある真実さを、限りなく愛慕するの情を感じることができる」。

「おあん」に見る男女の生と性
 「おあん物語」に関心を示した作家には、谷崎潤一郎、そして土佐出身の大原富枝がいる。二人の取上げ方を紹介しよう。
 谷崎が「武州公秘話」を雑誌『新青年』に発表したのは、昭和6年である。後に谷崎全集に寄せた文章で、圓地文子は、「小説のはじめの方で城中の女達が首を化粧する前後の描写はこの作品中、白眉の部分」とし、「恐らく作者はこれらの場面を〈おあん物語〉や〈おきく物語〉などによって構想されたのでしょう」と述べている。
 この物語の序で作者は、主人公・武州公を「一代の梟雄(きょうゆう…残忍で猛々しい人)、また被虐性的変態性欲者なり」と述べ、その由来となった事件に入っていく。13歳の秋、幼名・法師丸は、人質となっていた牡鹿(おじか)城が敵兵に囲まれ、篭城を余儀なくされる。ある夜半、五人の女たちが敵の生首に化粧を施す部屋に忍び込み、女たちの作業ぶりに恍惚感を抱く。なかでも、生首の髪を洗う16、7の若い女の、首に視入る時のほのかな微笑に陶酔を覚え、「殺されて首になって、醜い、苦しげな表情を浮かべて、そうして彼女の手に扱われたいのであった」と書く。伊藤整は、「武州公秘話」のモチーフは、「残虐性と美との観念の連絡と交錯」であり、古文書から得た物語に見事に生かされている。「作者一代の傑作」「世界諸国の文学の中にも類を求め得ない特異な作品」と、絶賛している。

落城で逃げまどう民衆(「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵)
 戦後の作品では、大原富枝が昭和40年『中央公論』に発表した「おあんさま」がある。老いさらばえた「おあん」の回想から始まるが、城から落ち延びる際に、不破の山中で三人の落武者に襲われる場面を付け加えてある。土佐に落ち着き、結婚した新床でも、「夫のつめたい手が肌にふれたとき、・・・突然に、あの不破の山の三人の男たちを思い出した」とある。忌まわしい悪夢に悩まされながらも、いつしか仲の良い夫婦となっていた。
 学問の世界では、昭和18年の岩波文庫版で、戦時教訓的なねらいを隠し、国語学者湯澤幸吉郎が「口語史上注意すべき事」として、語尾の「あらない」「おぢやる」などを指摘している。戦後は、民俗学者の柳田国男が、「民衆の生活」「口語資料」にかかわる「清新な教材」として、東京書籍の高校国語教科書に採用したことを、井出幸男が『宮本常一と土佐源氏の真実』で述べている。国語の古典教材に、庶民の生活誌が登場するのは画期的なことであったが、採択が広がらず、この教科書は消えていった。井出は、宮本の『土佐源氏』も「おあん物語」の語り口調の影響を受けており、また単に乞食から聞き取った民俗誌の資料ではなく、創作が入った文学作品だとする。筆者は、梅棹忠夫監修『民族探検の旅』(全8集・学研 昭和52年刊)に続き、宮本常一監修『日本文化の源流』をまとめるべく宮本を囲んで企画会議を開始していたが、昭和56年に逝去され、実現しなかった。「土佐源氏」(「土佐乞食のいろざんげ」)誕生のいきさつも聞き逃してしまった。宮本は柳田と親しく、田中英光には強い共感を寄せていた。
 歴史家の受け止め方も述べておこう。磯田道史は、「女たちが見た関ヶ原の合戦」(『江戸の備忘録』文春文庫)で、「現在の長い平和は江戸時代以来のことだ。実は江戸の初めにも、日本人は今の平成時代と同じように〈戦争を知らない世代の到来〉を経験している。・・・江戸人が聞き耳を立てた〈戦争体験談〉」だとして、おあん物語を紹介している。小和田哲男は、『城と女と武将たち』(NHK出版)で、「おあん物語」から〈鉄砲玉の鋳造〉と〈敵の首へのお歯黒付け〉をあげ、篭城中の女たちの仕事であったことを実証している。

老人と子どもの新しい絆を!

高知城、おあんはこの城下で穏やかな
晩年を過ごした。(筆者撮影)
 こうして土佐の谷垣守が江戸初期にまとめた「おあん物語」は、その壮絶な戦争体験と、口語体の親しまれやすい文章から、広く読み継がれ、研究や創作の素材にもなってきた。まとめとして、これまで研究者に取り上げられなかった、「老人と子ども」という観点から、この物語の意義に触れておきたい。
 「おあん物語」は、子どもが集まって「おあん」に昔話をせがむところから始まる。平和になった江戸時代の文献には、隠居の身となった老人たちが、子どもたちと過ごす様子が、よく現われてくる。越後の良寛は、「霞(かすみ)立つ永き春日(はるひ)を子供らと 手毬つきつゝこの日暮らしつ 子供らと手毬つきつゝ此のさとに 遊ぶ春日はくれずともよし」と歌を詠んでいる。江戸の山東京山は天保3年刊『五節供稚童講釈』で、「隠居とおぼしき剃髪の姿賤(いや)しからず、女小(ママ)供を集めて、五節供の講釈をするなり」と述べ、『菅江真澄全集』には仙台領徳岡の村上家で浄瑠璃を披露しようとした座頭(ざとう)に、子どもが「むかしむかし語れ」と催促した場面がある。これらは、いずれも江戸後期の事例だ。
 テレビやスマホのない時代の子どもたちにとって、老人と遊び、昔話や体験談を聞くのは、なによりの楽しみであった。さらに、老人が地域の子どもの教育に積極的にかかわった記録もある。乙竹岩造が、『日本庶民教育史』で紹介した「あやまり役」である。寺子屋では、いたずらや怠慢で破門の罰を受けると、あやまり役の老人に知らせがあり、子どもを諭(さと)した上で、一緒に寺子屋の師匠におわびに行ってくれた。母親よりも、年の功で上手にとりなす老人が適任で、あやまり役は各地で見られた。
 だが、老人の話も説教くさくなると、とたんに子どもに嫌われる。話を受け継いだおあんの孫も、やがて子どもたちに鼻であしらわれる。『女重宝記(ちょうほうき)』には、「上代の女はその心素直にして邪(よこしま)ならず。世の末、今の世におよびては、女の心日々に悪しくなり、人をそねみ妬(ねた)み、身を慢(まん)じ、色ふかく、偽りかざりて欲心多く、やさしき心なくして情けを知らず」とある。現代にも通用しそうだが、元禄5年(1692)に出た女子用教訓書の教えである。いつの世も、世代間ギャップは簡単には埋まらない。
 だが、老人と子どもを上手に結びつけている例は現在もある。1999年にパリで出会った中学校の国語教師が、移民の子どもにとっている対応で、「正しいフランス語修得には古典的な詩文の暗誦が欠かせない。宿題に出すが、移民は親も教えることができない。そこで老人の家庭を訪問させ、教えてもらった。孤独な老人にも、話し相手ができたと喜ばれた」という。
 現代の日本では、増大する高齢者は老人施設などに囲い込まれて別居、地域の子どもはおろか孫と接する機会も少ない。子どもも学校と塾に囲い込まれ、老人の体験談や昔話・わらべ歌を聞き、ともに遊ぶ機会は失われてしまった。おあんは土佐の子どもたちに囲まれ、昔話をせがまれつつ幸せな晩年を過ごした。その生涯を記録した、谷垣守のような人物にも恵まれた。老人と子どもが直(じか)に触れ合い、遊び、語り合う、新しい絆の構築が望まれる。
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向陽プレスクラブ2017年度総会議事録
水田 幹久(48回) 2017.04.28
議長 公文敏雄会長    書記 水田 幹久


出席者集合写真(竹本氏提供)
1.日時 4月22日(土)  17:00〜18:00
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 中条正堯(32回) 公文敏雄(35回) 竹本修文(37回)岡林哲夫(40回)
  藤宗俊一(42回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回) 北村章彦(49回)
4.公文会長が、議決権を有する出席者7名、委任状8名であり、議決権を有する会員数
  27名中15名参加で過半数に達しており総会は成立と報告。
5.公文会長議長となり、以下、総会議案に従って進行。
総会決議
 1)2016年度事業報告
   北村幹事長から「平成28年度向陽プレスクラブ事業報告」に基づき報告。
   平成28年度総会の出席者は7名を8名に訂正。出席者に濱崎氏が欠落。
 2)2016年度会計報告
   中井会計担当幹事から「向陽プレスクラブ2016年度会計報告」に沿って報告。全員一致で承認。
 3)2017年度事業計画案
   「平成29年度向陽プレスクラブ事業案」を審議し、原案に次の修正を加えて承認。
  ・平成29年度総会
   2018年4月21日(土)予定
  ・関東・高知の交流の促進 の項に下記の一文を追加する。
   次の場合は幹事長の要請があったものとする。
    @高知支部を代表する役員が総会及び幹事会に出席する場合
    A会長又は幹事長が高知支部の会に参加する場合
    B会長又は幹事長が当会及び母校に対する活動を行う場合
  ・交通費補助について、旅費補助内規を改定する。
  ・定額補助の基準を改定する。
 4)2017年度予算案
   平成29年度予算案を審議し、原案に修正を加えて承認。
 5)母校への応援
   母校との対話
   100周年企画応援
 6)入退会
     入会 竹本修文(37)   退会 笹岡峰夫(43)
 7)当会ホームページに在校生、教職員、卒業生の声を反映するページを新設し、意見を募る。
 8)会員基盤の強化を図る。
 9)その他

酒菜浪漫亭 東京新橋店(竹本氏提供)

  ・100周年企画応援事業の一環として、次の活動を当会として支援する。
  中条会員が発行を計画している小冊子「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を向陽プレスクラブ発行とする。小冊子製作費用は中条会員負担とする。郵送費等の経費を当会で負担する。当会の支出費目はその他支出の予算とする。

 以上、2017年度向陽プレスクラブ総会決議事項の詳細は当会ホームページの「会員のページ」に記載しました。

 以上を以て2017年度総会を終了し、引き続き総会会場にて、懇親会を行った。
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水田 幹久(48回) 2017.04.28雑感 「地域コミュニティ」

筆者近影
 4月は満開の桜の下で、新入園、新入学、新入社の人達の姿を見て、元気を分けてもらえる季節であり、前向きな気持ちも湧いてくる。それに比べて年末は、寒く、暗い天候でもあり、その年を振り返り反省するなど、どこか後ろ向きな気持ちに覆われる。
 毎年年末に、日本漢字能力検定協会は、その年の世相を表す漢字1字を発表する。昨年は「金」であったが、過去にどんな字が選ばれてきたか、ほとんど記憶に残っていない。そんな中で東日本大震災があった2011年に選定された「絆(きずな)」は、今でもよく覚えている。おそらく他の年の文字には感じられない納得感があるのだろう。大震災で、家族や仲間の尊い命を失うことや、また連絡が取れず不安な日々を過ごした体験は、あらためて家族・友達・恋人・地域の人々との「絆」の大切さを知り、希薄になっていると言われる人間関係の大切さに気づくきっかけとなったようだ。
 最近、この「絆」の大切さをじわじわ感じることが多くなってきた。そのような年齢(高齢)に近づいてきたと言われればそれまでの話であるが、具体的な体験が伴ってくると、否が応でも「絆」の重要性を認識させられる。
 小生は高校卒業と同時に故郷の高知を離れ、就学、就職、結婚、子育てと、転居を伴いながら過ごしてきた。典型的な核家族所帯である。そして、今となっては子供たちもそれぞれ親元を離れ、核家族として別所帯を持っている。
 昨年、九州在住であった義父が他界して、葬儀のこと、残された義母のサポートのことなど、地域の方や近くに住んでいる親戚の方の助けを借りなければならないことが多々あった。これを機に親戚や地域との繋がりの大切さを再認識した。
 そして、今度は高知在住の両親から舞い込んだ依頼が、さらにその認識を深めることになった。両親の住んでいる南国市では、現在でも「ご荒神様」を祭屏風習が残っている。荒神(こうじん)とは土着の神で、人々を災いから救うと信じられている。主に西日本各地の農村に根強く残っている。高知出身者ならほとんどの人がそ屏風習に影響されていることであろうし、小生も子供の頃には「竃様(家庭に祭られている荒神様)」に毎朝供え物をし、粗末に扱うときつい罰(バチ)が当たると脅されて育った。この信仰屏風習?は根強いようで、今でも、年に1回(勤労感謝の日前後)に自治会をあげての祭事が行われている。今年は自分たちが当番だから手伝いに来て欲しいというのが両親の依頼であった。両親とも80歳をとうに超えており、その様な役目を引き受けているとは思いもよらないし、高齢ゆえ行事への参加も控えているのではないかと勝手に思い込んでいた。やむなく妻(女手の方が男手よりはるかに重要)と二人で出かけて行った。
 祭事の裏方を手伝いながら感じたことは、地縁と言うべきか、濃厚な近所づきあいがそこに存在しているという事であった。祭壇を設けて神事を執り行うだけでなく、仮設の土俵を作って子供相撲大会(これも奉納のひとつ)を行う。地域によっては神楽も舞う。子供から老人まで参加できるイベントになっている。そしてこの機会を逃さないように、市の防災担当による防災講習も行われた。近い将来、南海地震が起きることが想定されているため、参加者も皆真剣であった。地域の高齢化が進んでいるとはいえ、いざという時に頼りになる人たちの存在を感じた次第であった。それと同時に、老齢の両親が、今でもこの地域との絆を大切に、普通に付き合いを続けてきているということも実感した。
 そう言えば、両親が我が家に1週間ほど滞在したことがあった。両親が来て数日たった頃、弟から、近所の人が両親の姿が見えないことを心配して連絡があった、との電話があった。親元を離れて暮らす者にとって、老齢の両親の安否を気遣ってくれている近所の人達の存在は大変ありがたいことである。
 翻って、自分たちの地域はどうだろう。東京郊外のベッドタウン住宅地で、あまり近所付き合いがないまま、ここまで過ごしてきた。ひょっとしたら両親よりも自分たちの孤立の方が心配である。最近、団地内もリタイヤ組が多くなってきて、皆一抹の不安を感じるのか、有志によるウォーキング大会などの呼びかけも増えてきた。新興住宅街なりの「絆」作りの動きとも思える。煩わしいと避けてきた近所づきあいを見直して、前向きに関わっていくべき時が来ているようである。
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竹本 修文(37回) 2017.04.18ヨーロッパ・パーティ事情


筆者近影
 ヨーロッパへは1977年に羽田から行った時から37年間は毎年1〜3回は行きましたが、ここ2〜3年は計画しても身内の不幸が続き間際にキャンセルが続きました。今年も9〜10月にイギリス在住の友人と東欧を鉄道旅行する計画ですが、友人が景色が二重に見える病気になりキャンセルの気配濃厚です。鉄道旅行はニューヨークの9/11テロ以来駅の荷物預り所の閉鎖が続いて、駅のトイレとロッカーへ行くのにX線検査などの空港並みの設備工事が完成するまでは旅行しにくくなり、レンタカーは家内が反対するようになり、個人旅行はやりにくくなりました。
 私はイギリス・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・スペインはかなりの田舎まで何回も訪問しましたが、アイルランド・ポルトガル・イタリア・オーストリア・ハンガリー・チェコは5〜10回程度、モスクワ・スエーデン・スロバキア・スロヴェニア・クロアチア・ボスニア・モンテネグロなどは1〜3回です。
・・・・・・・
 ロンドン駐在時代は商売には関わらず、技術交流の名目で、正式のパーテイーを何回も取り仕切ったり、招待されたりした経験が豊富です。日本でも半蔵門の英国大使館のパーテイーに参加したし、フランスの経団連みたいな団体が東京でフランス式パーテイーを開催した時にも夫婦で招待された事もあるので、特に日本と違う所を書きます。
1.アペリティーフ(食前酒)
・イギリスでは一般的には招待状に、「カクテル 18時」などと表現する事が多い。アペリテイーフというフランス語を嫌って19世紀にアメリカ人が作ったとされるカクテルという言葉を使うのだろうか?
・パーテイー会場の受付を通過すると、テーブルも椅子もないBarに通されて食前酒を頂く、高級な所ではWelcome・Champagne、一般にはイギリスはジン&トニック、シェリー、ベルモット、キール、カンパリ・ソーダ。ウイスキーはスコットランドと日本以外では食事中には飲まないが、食前酒として食事の前のカクテルの時間帯に飲める。但し、ストレートか氷の無い水割りかオンザ・ロックで、氷が入った水割りは日本にしか無い。ビールは飲めない。アルコールが飲めない人はオレンジジュースやジンジャーエールなど。招待客が一斉に到着する事は無いので、来た人から飲み始める。立って自由に動き回れるので初対面どうしでも知り合える。大勢の時はホスト&ホステスまたは委託されたレストランのフロア・マネージャーが座席票を配布する。
・招待客が揃ったら、ホスト&ホステスがDining・Roomの入り口立って招待客一人ひとりに握手しながら歓迎する。人数が30人程度なら座席を指さしして教える。座席はどうぞご自由に・・・・という事は、割り勘や会費制の場合以外は無い。
2.料理

1983年ロンドン駐在員時代
秘書Yvonne嬢とワイン
・料理のコースは5コース,7コース,9コースで、ヴェルサイユ宮殿のルイ十四世の食事に倣ったウイーンの神聖ローマ皇帝は昼食でも9コースだったそうで、英仏でも豪華版は9コース。前菜and/orスープ、魚料理+白ワインから始まり、シャーベット(寿司屋の生姜みたいなもの)で口直ししてから肉料理などのメインコース+赤ワインになる。メインコースが終わると、チーズ+ワイン、デザートまたはソーテルヌ等の甘いデザートワイン、ポルト酒、ブランデーと続き、コーヒーで終わる。
・スピーチは、メインコースが終わった頃から、ホストから始める。食って飲んで満足した後なので、客も静かに耳を傾ける・・・・そしてスピーチが終わるたびに乾杯する。日本の皇室主催の宮中晩さん会もメインが終わったあとで、天皇がスピーチを始め、終わったら乾杯する、そして招待客が同様に・・・。ヨーロッパの民間のパーテイーでは、招待客の中で一番偉そうな人が立ち上がってホスト&ホステスに感謝のあいさつをして、彼らを褒め称えるスピーチをする。これは事前に予定されている。しかし、予定していなかった方々が素晴らしいスピーチをして盛り上げる・・・・これは日本にはなさそうだ。
・日本の一般のパーテイーでは、例えば結婚式の披露宴では乾杯までにスピーチがあり、新郎・新婦の友人などのスピーチは後で食べながらやることが多くて、やかましくて聞こえなかったり・・・・「乾杯したら無礼講」が普通なのでスピーチは早くやっておかないと誰も聞かなくなる・・・・・「日本人は酔うまで飲む」のだから仕方ない?高知県はこの傾向が最も強い所のように思います・・・・・土佐弁が分からない人には喧嘩しているように聞こえるらしい・・・・。
・日本ではパンにはバターが付いてくるが、フランス、イギリスでは朝食時のみバターがつくが、昼食・夕食には付かない、パンに付けるならご馳走のソース。イタリアではフランスに隣接するピエモンテ州はフランス式、その他は朝食だけでなくパンにはエキストラヴァージンオイルが一般的なように思う、特にトスカーナから南はオリーブオイルだと思います。
・日本人が食事中に嫌がられるのは、口から発する音、飲み物をすする(Sucking)音、スパゲッテイーなどをズルズルと吸い込む(Sucking)音。Suckingは非常に嫌がられる。イタリアの中を日本のツアーで行った事があるが、食事は日本人だけの個室だった、スパゲッテイーをSuckingして他の客に迷惑をかけるからだそうだ。「スパッゲッテイーはお蕎麦ではない!」
3.ワイン

1807年ロマネコンティの丘訪問
・イングランドはビールの国であり、日頃はビールで食事をする人も多いが、正式のパーテイーとなればワインだけである。
・日本人がよくやる間違いは、ワイングラスをゆすぶってTastingをする事、ホスト&ホステスは予算と相談して選んでいるし、レストランは飲み頃にしてサーブしているのに客が何か不満なのか?心配になる。Tastingは金を払った人がやるものであり、会費制でない限りやってはならない。
・ヨーロッパのパーテイーでのマナーは、ワインのサービスはホスト・ホステスまたは委託されている店の人だけで、客同士が注ぎあう事はないので、あちらの人たちは、「日本人を招くときは、彼らの前にボトルを置くな・・・彼らは勝手に酔う迄のむ・・・!」とこぼしていました。
・パーテイーに招待された立場のテーブルマナーの第一は、男は近くの女性のグラスには常に注意を払い、少なくなったら「もう少し如何ですか?」と声をかけて、必要ならサービス係に合図する。女性は控えめな人が多くてグラスを空にして欲しがる事をせず1/3とか1/4とか残すように躾けられている。客同士が注ぎ合う事はやってはならないし、日本でよく見かける、女性が男性に注ぐのはもってのほかです。
・日本では、自分のグラスは空になっても手酌は出来ないので隣の人に「一杯いかがですか〜?」と勧める、そうすれば注いでくれる。つまり、「飲みたいときは他人に注ぐ」
・食前酒と食後酒は別として、食事中のワインは食事を美味しく頂く為に選んで戴くが、日本人は酒が主役で食事は「酒の肴」になる傾向がある。割烹などでは、さんざん飲んだ後で、「お食事は、お茶漬け、茶そば・・・がございます」とか言われて・・・・「それじゃ〜今まで食べたのは食事じゃ〜ないのか〜」と思う。外人客を招待した時に通訳していたら・・・「お食事」は何と訳すのか?一人で噴出した事があります。
4.ディジェスティーフ(食後酒)等
・コーヒーは「寿司屋のあがり」と同じでお開き。コーヒーの代わりに紅茶というオプションは紅茶の国イギリスでも無い。西洋料理の先進国イタリア、フランスに従うので、紅茶はありえない。
・コーヒーにミルクを入れるのは朝食時のみで、その他の時間帯や昼食・夕食のご馳走の時はミルクは入れない。砂糖は入れる人もいる。
・日本では前菜にチーズが出る事があるが、ヨーロッパでは料理に使うチーズではなくて、単品で食べるのは濃厚なチーズ+濃厚なワインで、メインコースの後と決まっているようだ。「メインコース料理とワイン」が中心であり、これより濃厚な食べ物とワインはメインコースの味に悪影響があるので、前には出てこない。
・爪楊枝はヨーロッパにもあるが、人前での使用はダメ、トイレで使う。
5.その他
・イタリアはガリバルデイが統一したと言うが、文化的統一は考えた事も無いと思いますね〜文化的には大先進国の集合体ですよね〜?ワインのブドウでも世界800種の中の300種がイタリアだから・・・覚えられない。日本も酒は各地の地酒があるが、最近ではどこへ行っても山田錦志向かな〜?
・日本のホテルのテーブルマナーはイギリ屏風が始まりのようだが、ヨーロッパではメデイチ家のカトリーヌ・ド・メデイシスCatherine・de・Medicisがフランス王アンリ二世に嫁いだ時がフランス料理の基本の始まりで、イタリアで発明されたテーブル・フォークがフランスやイギリスに伝わってきたのもこの時だったような気がします。
・11世紀に元ヴァイキングでフランスのノルマンデイー地方に定住したノルマンデイー公国のウイリアム征服王がイギリス王になってから、イギリス王家の食事のマナーになり現在まで続いている。しかし、庶民のイギリス料理はまずいまま20世紀まで続いた。イギリス皇室は15世紀に百年戦争に負けるまでフランス語を話していたし、言葉も牛(ox/cow)、羊(sheep)、豚(pig)と英語はあるのに、食べるときはビーフ、マトン、ポークとフランス語で呼んでいる。フランスもイタリアもテーブルマナーは緩やかだが、イギリスは真面目に守っている。フォークを使うのが更に遅れたのが野蛮人ゲルマンでドイツの伝統料理店では今でもナイフで食事をしている。

JAXA時代の記念写真
・ヨーロッパはパーテイーの最後はダンスをする、若い頃は社交ダンスをやった事はあるが、苦手だった。30年ほど前から社交ダンスよりはデイスコが流行っていて、会社のパーテイーでも従業員は別人のように踊る・・・・
・JAXAは、種子島や鹿児島からロケットを打ち上げる予定が決まると近隣6県の漁業団体に操業休止のお願いに訪問するが、高知県は特別で大量の酒を飲まなければ話が進まないらしい・・・・
****************
《編集人より》愚娘の結婚披露宴のワインの自慢をしたら、1801年に日本ソムリエ協会の一次試験を合格した新会員の竹本さんより、きつ〜いダメ出しが届きました。ワインを抱え込んで離さない工事屋の認識とあまりにもかけ離れていたので、ご本人の了解を得て掲載させていただきます。皆さんも反省してください。
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水田 幹久(48回) 2017.03.29向陽プレスクラブ幹事会議事録
議長 北村章彦幹事長  書記 水田 幹久

1.日時 2017年3月23日(木)  18時30分〜21時
2.場所 完全個室居酒屋 小次郎 東京八重洲店
3.出席者 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 中井興一(45回) 水田幹久(48回)
 北村章彦(49回)
以上5名
4.北村章彦幹事長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
なお、本幹事会は出席者5名、委任状提出者2名 の7名の参加があり、
  構成員の過半数に達しているので成立したことを確認した。
 1.? 2017年度総会について、下記の要領で実施することに決定した。
   日時:2017年4月22日(土) 17:00〜17:30 総会  17:30〜19:30 懇親会
   場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
   港区新橋4-14-7  TEL:03-3432-5666
   URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
    
 2.総会議案について
   1) 2016年度活動報告 : 幹事長配布資料の通り報告することに決定した。
   2) 2016年度会計報告 : 中井会計配布資料の内容を確認した。(会員のページに改定版)
    本幹事会から期末までの間に入出金がある場合には、これを追加して、
    総会に報告することに決定した。
   3) 2016年度活動計画案、予算案 : 幹事長配布資料に以下の修正を加えて、
    総会に諮ることに決定した。
・役員交流を促すために交通費補助の金額を増額する。
 改定後 東京⇔高知 30,000円 東京⇔関西 15,000円 関西⇔高知 15,000円
・HPを活用して「生徒の声、卒業生の声」を募る。
・入退会会員動向を報告する。
・予算案の支出として、旅費補助を50,000円増額する。(増額後金額 60,000円)
   以上
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幹事長・北村 章彦(49回) 2017.03.254月22日KPC総会案内
向陽プレスクラブ会員の皆様

陽春の候、会員の皆様にはご清祥のことと存じます。
さて、本年度は下記会場、時刻で向陽プレスクラブ総会を開催いた
しますので、是非ともご参加下さい。

出欠の回答は4月15日までに、左のMailBoxからお願いします。
また、欠席の方は、議案に関する賛否又は出席者への委任をお願いします。

日時:2017年4月22日(土)17:00〜17:30 総会
             17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7
TEL:  03-3432-5666
URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html

年会費の納入に関しては、29年度の会費につき、総会に出席し納入予定の方及び前納にて納入済の方を除き,
「みずほ銀行 渋谷支店(210) 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ」
宛にお振り込み下さい。

尚、総会議案は会員のページに掲載してあります。
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三根圓次郎校長とチャイコフスキー
      ―平井康三郎、ディック・ミネ、ケーベル博士をめぐって―
中城 正堯(30回) 2017.03.25
はじめに:クラシックを愛した教育者・三根

筆者近影
 2020年には、土佐中学校創立100周年を迎える。大正9(1920)年の開校にあたっては、発案者の藤崎朋之高知市長や、出資者の川ア幾三郎・宇田友四郎両氏とともに、「人材育成」という建学の精神に則した学校を創出し、見事な教育実践をおこなった初代・三根圓次郎校長を忘れるわけにはいかない。

三根圓次郎(土佐中高校提供)
 三根校長は明治6年長崎県の生まれ、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学文学部)の哲学科を出て教職に就き、若くしてすでに佐賀・徳島・山形・新潟の県立中学校長を歴任、東京府立一中(現日比谷高校)の川田正澂(まさずみ)校長(高知県出身)とともに、全国中等教育のリーダーとなっていた。土佐中校長に就任時は47歳であり、帝大で哲学を学んだ謹厳な教育者も、年輪を経て温和な慈父のまなざしを併せ持ち、やがて生徒たちから敬愛をこめて「おとう」と呼ばれる存在になった。
 土佐中創立は、第一次世界大戦後の国際化と大正デモクラシーの時代を迎え、国家の期待する新しい「人材育成」を目指すものであった。教育方針には「個人指導」「自学自習」など、時代の先端をゆく斬新な理念が掲げられていた。この理念に基づくカリキュラムの編成や授業展開は、すでに『土佐中學を創った人々』で紹介したので、ここでは割愛する。ただ、創立100周年を迎えるに当たって強調したいのは、「人材育成」「自学自習」などの基本方針も、予科(小学5,6年生)からの英国人講師による英語教育も、時代を先取りしており、グローバル時代を迎えた1世紀後の今日でも、誇りを持って掲げることができる点だ。

チャイコフスキー
(『ミリオーネ全世界事典』)
 今回は三根校長について、新しい観点「音楽を愛した教育哲学者」としての特色を、音楽をめぐる人物模様から紹介したい。土佐中に着任以来、先生は次第に視力を失い、「おとう」と親しまれた晩年には失明状態であった。しかし、この老校長の胸中には、少年の頃手にした横笛の音とともに、チャイコフスキーの音楽が絶えず鳴り響いていたように感じられる。あるときは、「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」の軽やかな旋律が、あるときは交響曲第六番「悲愴」の荘厳な調べが、響き渡っていたのではないだろうか。
 土佐中初期の卒業生による50周年の座談会で、こんなやりとりが紹介されている。<浜田麟一(6回生)「弁論会をやろうというと、校長はこの学校としては音楽をやろうといった。これはディック・ミネが音楽をやることになったので、自分も関心が音楽の方へ傾いて行ったのでしょうか」。伊野部重一郎(5回生)「校長はクラシックがかなり分かったので、息子が流行歌をやるのをなげいていたのでしょう」。鍋島友亀(3回生)「平井はハーモニカのバンドを作って、公会堂で土佐中公開演奏会をやった。配属将校(軍事教練のために配置された陸軍将校)がなぜ音楽をやるかと問うと、校長は生徒が将来政治家になった時、演説をするために声をきたえるのだと言ったという」>(『創立五十周年記念誌』)
 伊野部の発言で、三根校長がクラシック音楽を好んでいたことがうかがえる。なかでもチャイコフスキーに惹かれていたように思われる。それはなぜか、三根校長の周辺に多い、素晴らしい音楽家の探訪からさぐりたい。まずは、平井康三郎(5回生)に代表される教え子たちであり、ついでご子息のディック・ミネである。それぞれ昭和期を代表する作曲家であり流行歌手であったが、今では知る人が少なくなった。この二人の音楽家としての歩みと三根校長の影響、そしてさかのぼって三根が帝大哲学科時代にケーベル教授から受けた哲学・美学の教えをさぐってみたい。この教授は、実はモスクワ音楽院でピアノを修得した名演奏家でもあった。
  目 次
<第一章>“作曲家平井康三郎”生みの親
土佐中のピアノやマンドリンにびっくり

平井康三郎
(平井家提供)
 明治43年に高知県伊野町で生まれた平井康三郎(保喜・5回生)は、伊野小学校から大正12年に土佐中入学、昭和4年に東京音楽学校へ進学、ヴァイオリン科を終えた後に新設された研究科作曲部へ進んでプリングスハイム氏に師事、在学中の昭和11年には交声曲(カンタータ)「不盡山(ふじやま)をみて」が第5回音楽コンクールで1位に入賞する。代表作に「大いなる哉」「大仏開眼」があり、日本の歌曲「平城山(ひらやま)」「ゆりかご」「スキー(山は白銀)」でも親しまれた。校歌の作曲も多く、甲子園では毎年のように平井の曲が、勝利校を祝して流れた。作曲数は五千におよぶ。東京芸術大学や大阪音楽大学で教授を歴任、この間に文部省音楽教科書の編纂、『作曲指導』の執筆、『日本わらべ歌全集』の監修にもあたった。紫綬褒章など受章し、平成14年に逝去した。 長男丈一朗(たけいちろう)は巨匠カザルスに師事したチェリスト、次男丈二郎はピアニストであり、孫でニューヨーク祝祭管弦楽団音楽監督を務める指揮者の秀明、ロンドンを拠点とするピアニストの元喜ともども国際的に活躍している。康三郎が始めた「詩と音楽の会」も、丈一朗会長のもとで受け継がれている。平成27年には故郷「いの町」の新庁舎に平井康三郎記念ギャラリーがオープンし、寄贈されたグランドピアノなどゆかりの品々が展示され、「いのホール」で丈一朗や元喜による記念コンサートが開かれた。

いの町庁舎・平井康三郎記念ギャラリー(森木光司撮影)
 平井の父は高知商業の国語教諭から実業界に転進したが、音楽好きで商業の壮大な校歌「鵬程万里はてもなく・・・」を作曲、家にはオルガンや蓄音機があった。音楽的に恵まれた家庭で育ち、ハーモニカが得意だった平井少年も、土佐中に入った驚きをこう語っている。
 「グランドピアノはあるし、マンドリン・クラブはあるし、びっくりしました。レコードもベートーベンの第九をはじめ、名曲がたくさんある。蓄音機もビクターの最高級品です。ただ、残念ながらピアノを弾ける先生も、レコードを聴く生徒もいない。岡村弘(竹内・1回生)さんと私だけが弾いたり、聴いたりするだけだった」(『屏風対談』)
 教材・教具の整っていたのは楽器ばかりではない。青山学院を卒業と同時に英語教師として赴任した長谷川正夫は絵画も担当、「校長は画架、石膏像、額縁など私の要求するがままに買ってくれた。絵の時間には潮江山(筆山)に登ってスケッチさせたり、自然を眺めながら絵の講義をしたりして、全く自由にできた。・・・公会堂でマンドリン合奏会を開いたことがあったが、これが(高知での)この種の最初のコンサートであったとか聞いた。私と同期の常盤(正彦、音楽)先生がハーモニカの独奏会を開いたこともあった」(『創立五十周年記念誌』)。本格的な楽器・画材をそろえ、教室にとどまらずに野外授業や校外活動もおこなった。また、男子中学では厳禁だった女学校のバザーや運動会の見物に行くことも許されていた。
 三根校長は、これから世界で活躍する人材には、文学や歴史だけでなく音楽や絵画の教養も大切だと考え、その素養がある新卒の長谷川・常盤両先生を採用、設備や教材も整えたのだ。イギリスのパブリックスクールにならって学校内に寄宿舎を用意し、運営は寄宿生の自治にゆだねた。そこでの平井少年の活躍を、五藤政美(4回生)は、昭和16年の「三根先生を偲ぶ座談会」でこう述べている。
「寄宿舎で茶話会をやる。そうすると皆一芸を出すわけで、平井君はハーモニカをやるわけだ、カルメンをやる。平井君はカルメンが巧いので、無論拍手喝采だ。校長先生は、大野(倉之助、数学)先生を顧みて、おれもカルメンなら知っているといっておりましたがねえ」。それを受け、片岡義信(1回生)が「平井君で思い出したが、ぼくらはマンドリンを買ってね、やったのだけれども上手になれなかった。・・・やはり校長も音楽を取り入れなければならんというのでね」と話す。都築宏明(3回生)は、三根校長のお宅(東京都大森)で奥さまに見せていただいた錦の袋に入れた横笛について、「若い時分に吹いたものだというのですね。それから推して考えて見ると、音楽の素養があったわけですね。趣味がないと思ったら多少あったのです」と、語っている。(『三根先生追悼誌』)
校長が父を説得、音楽学校へ
 平井は得意のハーモニカで人気者になるとともに、三根校長の指示で1年生の時に早くも「向陽寮歌」の作曲をしている。作詞は岡村弘先輩であった。「向陽の空」で始まる校歌は、すでに越田三郎作詞・弘田龍太郎作曲でできていた。寄宿舎名・寮歌にも、「向陽」が用いられている。これは漢籍に通じていた三根校長が好んだ言葉と思われる。

土佐中時代の平井(左)と
二人の弟子(平井家提供)
普通の漢和辞典には登場しないが、諸橋轍次の『大漢和辞典』には「向陽 陽に向かう」とあり、潘岳や謝霊運の詩文を例示してある。「高い望みを抱く」といった意味だ。中学4年生になった平井は、ヴァイオリンをはじめる。自己流ながら腕を上げ、5年生になった昭和3年には、昭和天皇の即位を祝う御大礼奉祝音楽会に、学内の二人の弟子とともに出演している。その写真で分かるように、この時代の制服には白線などない。 平井は、高知県各地から集まった学友を相手に、方言調査もおこなう。音楽とともに言語学に興味を持っており、中学4年生の時には、二百あまりの方言を分類、語源の考証・活用例などを記した「土佐方言辞典」をまとめている。才気あふれる平井の方言研究からは、次のような漢詩の土佐弁による名訳も生まれる。
   俺も思わくがあって都(かみ)へ出たきに (男子志を立てて郷関を出ず)
   成功者(もの)に成らざったら死んだち帰(い)なんぜよ (学若し成らずんば死すとも帰らず)
   ナンチャー どこで死んだち構(かま)んじゃないかよ (骨を埋む豈(あに)墳墓の地のみならんや)
   どこへ行ったち おまん 墓地ゃ多いもんじゃ (人間到る処青山あり)
 これを引用した山田一郎(評論家)は、「平井さんによると、この名訳に<詩吟のフシをつけて得意になって高唱し、三根圓次郎校長を呆然とさせたこともあった>」と書いている(『屏風帖』)。平井は言語学でも早熟ぶりを発揮、作曲家になった後も、趣味は言語学・方言研究と述べ、全国の伝承わらべ歌を収録した大著『日本わらべ歌全集』全39冊にも監修者の一人として参画している。 言語学に興味を持った平井は英語も得意で、東京外国語学校に行くつもりで5年生に進んだ。当時の中学生は4年修了で旧制高校に進学できたため、土佐中5年生はほとんどいなかった。しかし、外国語学校や音楽学校・商船学校は5年卒業でないと受験できなかったため、平井は残っていたが、兄の薦めもあって東京音楽学校を目指したくなる。だが父親は医者か弁護士にしたくて大反対で、三根校長に「家の息子は音楽家にさせる心づもりはない」と怒鳴り込んだという。「三根先生を偲ぶ座談会」で、平井はこう述べている。

平井康三郎
(平井家提供)
 「(父は)先生から反対にしかられ、<それは以ての外の不心得であって、将来音楽がどういう役目をするか知らんか>といわれてね、<ただ政治家や役人になったらそれが偉いと思ったらあてが違うぞ>と大分しかられて、それから家に帰って来て大の音楽ファンに親父がなりましてね。<お前もその決心して行かにやぁいかんぞ>と。それまでは語学の方をやる心算であったので、校長もしみじみ生徒の行く先のことについて本当に親身になって考えてくれたと思います。<語学はありふれた学問だからぜひ音楽をやれ>、こう言ってくれました」(『三根先生追悼誌』)。平井は息子の丈一朗にも、「三根校長はクラシックが好きだった」と語っている。
 音楽学校に進んだ後も手紙でよく激励を受けたが、なかでも印象的だったのは1年生の時の年賀状に記されていた「凡庸に堕するなかれ」であった。「この葉書は今でも持っており、時々出しては非常に発奮の資にした。これが、土佐中学の教育の真骨頂ではなかったかと思う」と、同じ座談会で語っている。日本情緒あふれる歌曲を生んだ昭和を代表する大作曲家・平井康三郎の誕生には、恩師・三根校長の存在が不可欠であった。(引用文献・図版の出典は最終章末尾に記載する)
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<第二章>歌う社長や歌う文部次官も誕生
生伴奏で歌いまくった三菱の進藤
 平井康三郎(5回生)は母校や同窓会への想いも強く、筆者が在学中の昭和28年に土佐高委員会(自治会)と新聞部で応援歌を創った際には、快く作曲してくださった。作詞は校内から公募だったが、入選作は中学主事・河野伴香の「青春若き・・・」であった。同窓会関東支部では、昭和63年の総会に講師として登壇いただいた。

平井の土佐校応援歌が流れる甲子園
2016年春(藤宗俊一撮影)
「音楽と生活」をテーマに、ピアノ演奏をまじえての軽妙洒脱な音楽談義が忘れられない。平成4年には、土佐中柔道部の後輩・公文公(7回生)の依頼を快諾、公文教育研究会で特別講演会「音楽と人生」をおこなった。なお、著書『作曲指導』は、1年後輩の近藤久寿治が興した同学社から出版している。
 初期の土佐中からは、平井のような音楽家だけでなく、数々の音楽愛好家が育っている。その筆頭が進藤(旧姓宮地)貞和(2回生)である。昭和45年に三菱電機社長になると、重電中心で殿様体質だった企業を見事に変身させ、大躍進を遂げた。特にクリーンヒーターなど家電のヒット商品開発と販売網整備には、目を見張らされるものがあった。その原動力は、飾らない豪快な人柄と、「歌う社長」と呼ばれた得意の歌声であり、技術者や販売店をたちまちやる気にさせた。筆者の『筆山』第3号でのインタビューで、「中学時代には、軟式テニスやハーモニカに熱中し、自己流でヴァイオリンもやった。

ダークダックスと歌う進藤(土佐中高提供)
戦後は、オランダで「長崎物語」、ドイツで「野ばら」と歌いまくり、国際親善にも大いに役立てた」と語ってくれた。ギターやアコーデオンの生伴奏で歌い、ダークダックスとも共演した。その縁で平成7年には「ダークダックス阪神大震災救援チャリティーコンサート」が、進藤の協力を得て佐々木泰子(33回生)などによって開催された。
 柔道部で平井から鍛えられたという公文公も、高知高校に進んでからレコード鑑賞に熱中した。堀詰・細井レコード店でのバッハ「ブランデンブルク協奏曲」観賞会にも行ったことを、友人の久武盛真が平成9年の『文化高知』に書いている。公文は、クラシックのレコードをかなり愛蔵していたが、昭和20年4月の高知大空襲で常盤町の実家が全焼、蔵に入れてあったレコードは溶けて黒い塊になっていたと、後日口惜しがっていた。平井の影響を受けたのか、公文式教育を始めてからは、音楽と言語の関連に注目、やがて乳幼児教育にわらべ歌を取り入れ、標語「生まれたら ただちに歌を 聞かせましょう」を唱え、母親に呼びかけていた。筆者は、平成5年にパリの国立小児病院を見学したが、新生児室で副院長から「心身の健全な発達には音楽が欠かせない。ここの医師は全員、取り上げた赤ん坊に母に代わってわらべ歌をうたってやる。入院中の子どものためには楽器をそろえてあり、演奏を楽しめる」と語ってくれた。音楽の意義に、改めて気付かされた。
 宮地貫一(21回生)は三根校長亡き後の入学だが、「歌う文部事務次官」と称された。演歌の新曲が出ると即座に譜面を手に入れ、赤坂の「いしかわ」などでコップ酒を豪快に飲んでは、ピアノの生伴奏で歌っていた。二人の宮地先輩は、仕事も酒も歌も「こじゃんと」楽しんだ。なお、三根校長も酒は大好きで、飲むと「よさこい節」を歌うこともあったと聞く。
邦楽には長唄の佐藤、謡の近藤

謡に励んだ近藤久寿治…中央(近藤家提供)
 三根校長の横笛とは関係ないが、邦楽の愛好家も多かった。佐藤秀樹(1回生)は、謡や長唄を修得、昭和58年には銀座ガスホールで長唄の大曲「船弁慶」を演じている。近藤久寿治(6回生)は、『新修ドイツ語辞典』で知られる教育出版社・同学社を興したが、多忙な中で同窓会の世話役をする一方、観世流の謡を五十数年にわたって修め、神楽坂の矢来能楽堂などでの発表を続けていた。大酒豪であったが、土佐中・三根校長への想いには並々ならぬものがあった。
 余談になるが、昭和33年に三代・大嶋光次校長が逝去した際に、近藤は「次の校長は絶対に母校出身だ」との信念のもと、関東同窓会の先頭に立って曽我部清澄先輩(1回生・高知大学教授)を強力に推薦した。大学生だった筆者は、帰郷の際に親書を託されて高知の同窓会会長・米沢善左衛門(2回生)に届けた思い出がある。近藤たちが母校出身者にこだわったのは、戦時色の強くなった二代・青木勘校長(愛知県立第一中学校長から赴任)の時代に、

三根校長時代の旧校舎(『三根校長追悼誌』)
寄宿舎での上級生によるしごきや、制服に軍服同様の白い袖章(白線)採用などがあったからと思われる。青木校長は、東京帝国大学哲学科出身で三根の後輩であったが、時代のせいか三根校長時代にはあり得ない事態が発生、進学も奮わなくなり、校長の排斥運動が起こった。母校の教諭や高知高校在学中の同窓生を代表して、吉澤信一・曾和純一(16回生)が上京、排斥を近藤に相談したが、いさめられ実現しなかった(『筆山』第3号)。以来近藤は「三根精神の復興」を念じていた。『三根先生追悼誌』発行も、三根校長の「胸像レリーフ」校内設置も、その想いによる企画で、実務を裏で支えたのは近藤であった。
 それにしても、三根校長はなぜ音楽や美術の教育にこれほど力を入れ、平井の才能を見抜いて音楽学校への進学を薦めたのだろう。進学校として、単に有名高校(旧制高校)・有名大学への進学率向上を目指すだけでなく、生徒一人ひとりの個性や才能を見抜いて進路指導にあたるとともに、芸術活動へのなみなみならぬ意欲が感じられる。これは、どこから来たのだろう。
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<第三章>息子ディック・ミネはトップ歌手
立教大で相撲部からジャズ・バンドへ
 三根校長の長男・徳一は、芸名ディック・ミネで知られる流行歌手で、第二次世界大戦前後の歌謡界で大活躍だった。モダンな歌とダンディーな容姿で実力・人気を併せ持ち、ジャズ・歌謡曲のトップ歌手となった。しかし、三根校長が健在のころは、息子が流行歌手というのははばかる雰囲気があったようで、戦時色の濃くなった昭和18年刊行の『三根先生追悼誌』には、息子のことはほとんど出てこない。近藤久寿治(6回生)は、大学在学中に平井康三郎(5回生)たちと東京で校長を囲んだ際に、平井のことを冗談交じりに「本郷の裏町で、はやり歌をうたっています」というと、校長は「そうか。実は、わしの息子もそのはやり歌をやっている」といわれた、とある。(『続続屏風対談』)

歌うディック・ミネ(三根家提供)
 ところが戦後になると立場が逆転、三根校長は世間から忘れられ、「ディック・ミネの父」として紹介されるようになった。ディック・ミネは平成3年に82歳で亡くなったが、朝日新聞は3段抜きの見出しでこう報じた。
 <1934年、ビング・クロスビーが歌っていた「ダイナ」を自分で訳詩してデビューし、一躍人気歌手に。学生時代のアダ名からとった芸名「ディック・ミネ」は日本の屏風芸名のハシリとなった。タンゴ調の「黒い瞳」や、「上海帰りのリル」「二人は若い」・・・などの曲も次々とヒットして、折からのジャズブームに乗り、日本の男性ジャズ歌手の草分けとなった。古賀政男のすすめで歌謡曲にもレパートリーを広げ、「人生の並木道」「旅姿三人男」をはじめ、「夜霧のブルース」などでも成功した。・・・1979年から88年まで社団法人日本歌手協会会長。82年には「反核・日本の音楽家たち」結成の呼びかけ人にも名を連ねた。アムネスティ運動やフィリピンの子供たちへの学費援助などにも協力を惜しまなかった>
 単なる流行歌手ではなく、社会性や反骨精神も持った「凡庸」ならざる親分肌のリーダーであった。では、その生い立ちからさぐってみよう。父が徳島中学校長だった明治41年に生まれ、徳一と命名された。父の転勤で、小学校は山形・新潟で過ごした。大正9年に土佐中に招かれた父は、母・敬(よし)が体調を崩したので家族を東京に残して単身赴任となった。徳一は日体大付属荏原中学に進んだが、相撲部で活躍したのが目立ち、立教大学に相撲部推薦で入学する。だが、「帝大だけが学校と思っていたおやじは怒った」という。学生時代におこなった不良相手の痛快な武勇伝の数々は、

『八方破れ言いたい放題』表紙
写真はディック・ミネ
著書『八方破れ言いたい放題』(政界往来社)に詳しい。体もなにもかもデカかったので、ディックと呼ばれるようになる。相撲から音楽への転向は、この本でこう述べてある。
 「おやじは堅物一方の人だったけど、母親が話のわかる人でね。なにしろ日光東照宮宮司の娘だから、琴が抜群だった。西洋音楽にも理解があったし、音楽に親しませることが教育上もよろしいということを知っていた・・・電蓄が家にあり、シンフォニックジャズなんか、よく聞かされた」。
 そのシンフォニーが大学で聞こえてきたことから立教大学交響楽団に入るが、さらにジャズ・バンドに転進する。自らリーダーとなった学生バンドは、母の紹介によって日光金谷ホテルでデビュー。卒業して逓信省の役人になるが、すぐ辞めてバンド活動に専念、さらにテイチクの専属歌手になる。平成元年の『筆山』に寄せたエッセイ「父」には、<「このごろ変な歌を歌っているディック・ミネというのはおまえか」と父に聞かれ、怒られるのを覚悟で「はい」というと、「世の中、どんな商売もある。やる以上は恥ずかしくないようにやれ、トップになれ」であった。父は息子に対しては自由放任であったが、自分の学校の生徒に対しては、実に細やかに、一人一人の個性を見抜いていた>と、書いている。
軍部にも動じなかった父を尊敬
 昭和11年に三根校長が急逝した際には、母と高知に駆けつけたが、父の思い出を『筆山』第9号にこう記してある。
 <自分の教育方針を頑として通した父は、文部省であれ軍人であれ、岩のごとく動じなかった。父は学校で「おはよう」と、だれにも帽子をとって挨拶するのが常だった。死の前日のこと、軍部の将校(土佐中への配属将校)がこれを敬礼にせよと迫ったが、父は教育方針は変えぬと言い通した。腹を立てた将校は酒に酔って自宅に乗り込んできて、父と言い争った。この出来事が引き金となって、脳内出血を起こしたのであろう。父の教育は今の時代にも立派に通用すると、私は父を誇りに思います>。三根校長に、秘書のように寄り添っていた芝純(7回生)は、『向陽』3号に「一夜、配属将校と激論せられ、翌日脳溢血で殉職された」と述べている。

三根家の人々
中央の次男忠雄を挟んで校長ご夫妻
前列左端が徳一(三根家提供)
 やがて日本の大陸進出とともに、ディック・ミネたち歌手も上海から満州・樺太まで、軍の慰問演奏に動員される。昭和12年に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が公布され、“敵性語排除”で芸名は三根耕一に変えられる。やがてジャズやダンスも禁止となる。しかし、ハルピンや上海には弾圧がおよばず、前線兵士の要望でディック・ミネを通すが、傷病兵の惨状には涙したという。東京大空襲が始まった頃は防空壕に入り、隠し持っていた短波受信機で米軍放送を聞き、大本営発表との違いをちゃんと知っていた。“立教”仕込みの英語は、戦後になってルイ・アームストロングが来たときにも重宝がられ、一週間つきっきりで案内している。永遠の「モダンボーイ」で、レコードの通算売り上げは4.000万枚以上におよぶ。著書には、豪快な女遊びもあけすけに述べてあるが、4人の奥さんを迎え、男女9人の子どもを育てている。昭和60年には9人の子ども一同の呼びかけで、喜寿を迎えた「父を祝う会」が、永田町のホテルで盛大に開かれた。
 ディック・ミネは晩年になって、父について「熊本の旧制五高から帝大を出た偉い人で、五高の後輩に故・佐藤栄作元首相がいる。そんな関係で佐藤首相に可愛がってもらった」と、語っている。また、昭和54年に勲四等旭日小綬賞をもらった際には、「僕のおやじも、おじいさんももらった」と喜ぶとともに、「親孝行したいときには親はなし」と、嘆いている。親子はまったく別の分野で人生を歩みながらも、お互いに心を通わせていた。
 こうして、徳一(ディック・ミネ)が流行歌手として大成した背景には、音楽好きの母・敬の影響が大きかったが、父・圓次郎も温かいまなざしを注ぎ続けていた。徳一も、三根が平井に与えた「凡庸に堕すなかれ」を実践したのだ。昭和60年の関東同窓会にゲストとして出席した際のスピーチでは、「オヤジは偉大だった」と述べていた。今は、父と並んで多摩霊園に眠っている。

多摩霊園に眠る三根校長と徳一
(中平公美子撮影)

三根校長の胸像
本山白雲作(筆者撮影)
 三根校長には次男・結城忠雄がおり、筆者は父・圓次郎の思い出話をお聞きしたくて、昭和62年頃に杉並の御自宅を訪ねた。成人後に結城家に養子として迎えられ、会社を定年で退いた温厚な紳士で、こう語っていた。「子どもの頃、父は高知に単身赴任で、遊んでもらった覚えはあまりない。休みに大森の自宅に帰ってきても、東京の大学に進んだ教え子たちの勉強ぶりや就職が心配で、眼が悪いのもかまわずに東大などによく出かけていた。また、教え子も次々と家に訪ねてきた。昭和17年だったか、土佐中に父の胸像ができた除幕式に招待されて母と参加したが、父が皆さんに深く敬愛されていたことに、改めて気付かされた」 三根家では、ディック・ミネの三男・三根信宏が音楽の道に進み、「ギターの貴公子」と称されるギタリストになっている。
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<第四章>哲学と音楽を育んだケーベル博士
哲学教授はチャイコフスキーの直弟子

ケーベル(『ケーベル博士随筆集』)
 偉大な教育者・三根圓次郎は、どのようにして誕生しただろうか。また、音楽など芸術の人生における意義についてどこで学び、クラシック音楽を好むようになったのであろうか。三根の実家は大村藩(長崎県)の大庄屋であり、大村中学から熊本の第五高等学校に進み、明治27年に帝国大学文科大学哲学科へ入学する。大学時代には、家庭教師などで自ら学資を稼いでいた。哲学は、前年にお雇い外国人として赴任したばかりのラファエル・フォン・ケーベル博士から教えを受ける。博士は異色の哲学者であり、素晴らしい教育者であった。
 ケーベルは、1848年ロシアの生まれ。父はドイツ系ロシア人で国籍はロシアだったが、本人はドイツが祖国と言っていたという。幼少の頃からピアノを習い、19歳でモスクワ音楽院に入学、作曲家チャイコフスキーや名ピアニストのニコライ・ルービンシュタインに師事する。5年後に優秀な成績で卒業するものの、内気な性格から演奏家への道をあきらめ、哲学研究に転進する。ドイツのハイデルベルク大学で、ショーペンハウエルの研究によって学位を取る。ミュンヘンに移って哲学や宗教の歴史を学びつつ、音楽学校で音楽史や音楽美学の講義もおこなっていたところに、突然東京の大学からの招聘状が届く。恩師フォン・ハルトマンの推薦であり、チャイコフスキーからは反対されたが赴任を決断、明治26年6月に日本へ着任する。
 当時の帝国大学文科大学は、多くを外国人教授に頼っており、ベルリン大学から招いた史学のルードヴィッヒ・リースのほか、独・英・仏の語学兼文学の教授は、いずれもそれぞれの国から招聘していた。哲学の日本人教授にはドイツ留学帰りの井上哲次郎もいたが、ドイツ観念哲学から東洋哲学、さらに国家主義へと進んだ人物だった。日本人によるアカデミックな哲学者の誕生は、哲学科で三根の少し先輩だった西田幾多郎が京大、桑木厳翼が東大の教授に就任する大正時代まで、待たねばならなかった。なお、外国人教授は、原則として英語で講義をおこなった。

ケーベルや三根がくぐった東大赤門(藤宗俊一撮影)
 哲学科でケーベルが担当した講義は、『帝国大学』(丸善 明治29年刊)によると1年で哲学概論・西洋哲学史、2年で西洋哲学史・論理学および知識論、3年で美学および美術史・哲学演習であった。一学年各科とも生徒は十数人で、講座によっては他の科の生徒とも合同であり、大変親しくなっていた。高知県出身では国文科に大町芳衛(桂月・作家)が、国史科に中城直正(初代高知県立図書館長)がいた。後に、大町によって土佐中開校記念碑文が記されるのは、三根と学友であったからだ。史学科には、幸田露伴の弟で日本経済史の開拓者となる幸田成友もいた。国史科の黒板勝美は東大教授となって日本の近代史学を牽引するが、昭和8年、東京での三根先生還暦祝賀会には駆けつけて「三根はまれに見屏風格ある教育者」と称えた。三根が帝大を卒業した二年後に、寺田寅彦が五高から東京帝国大学理科大学物理学科に入学する。三根は、後に五高の後輩・寺田とも交流する。やがて、寺田もケーベルのもとに出入りするようになる。

ケーベルがチャイコフスキーからピアノを学んだモスクワ
モスクワ川とクレムリン(筆者撮影)

ケーベルが哲学を学んだハイデルベルク
ネッカー川と古城(筆者撮影)
日本人よ、偉大な芸術家・詩人に学べ
 では、ケーベル博士が来日当時に、日本の音楽界に抱いた率直な感想を『ケーベル博士随筆集』から見てみよう。まず「音楽雑感」で、「日本へ来て、音楽らしい音楽というものを聴くことができないようになって以来、私は大音楽家の作品(楽譜)を読むことにしている。これによって私はこれらの作品の拙劣なる演奏から受けるよりも遙に大いなる楽を享けるのである」と述べている。こうして、最初は日本人の洋楽演奏に失望するが、明治31年から東京音楽学校(現東京芸術大学)のピアノ教師も務めるようになる。
 音楽学校では、ボストン、ウィーンで6年間学んだ幸田延が、明治28年に帰国して母校の教授になっていた。延は、ケーベルからピアノを学ぶうちに腕前を認められピアノ科教授に就く。ケーベルも日本人の演奏をようやく評価、明治36年に日本初のオペラとして「オルフェイス」が音楽学校の奏楽堂で上演された際のピアノ伴奏をはじめ、度々ピアノを演奏している。この年には、幸田延の妹・幸もドイツ留学から帰り、音楽学校ヴァイオリン科教授となる。同年5月の第8回定期演奏会では、幸田姉妹・ケーベルがそれぞれピアノ・ヴァイオリンを披露して喝采を浴びている。幸もピアノや音楽史については、ケーベルから学ぶことが多かったと思われる。

平井康三郎・丈一朗夫妻(平井家提供)
 こうして幸田延・幸の姉妹は、ケーベルから多々指導を受けることになるが、姉妹の間で生まれた幸田成友は、文科大学史学科でケーベルから西洋哲学史を学んで、経済史学者となる。幸田家では、三人揃ってケーベルの恩恵をうけていた。妹は結婚して安藤幸となるが、そのヴァイオリンの弟子に疋田友美子がいた。後の平井康三郎夫人である。
 ケーベルは文科大学哲学科の教育について、大変手厳しい指摘をしている。「日本人の精神ならびに性格をはなはだしく醜くするところの傷所は、虚栄心と自己認識の欠乏と、および批判的能力のさらにそれ以上の欠如せることである。これらの悪性の精神的ならびに道義的欠点は、西洋の学術や芸術の杯から少しばかり啜ったような日本人においてとくに目立つ」「日本の学校当局者らは、・・・理知的ならびに倫理的教養には全然無価値なる、否、むしろ有害と言うべき・・・生徒の記憶を一杯に塞ぎ、疲労せしめ・・・試験のためにのみ学ばれるところの学課をもって、その生徒をいじめるのである」

ケーベル(手前右)と東京音楽学校管弦楽団、左は幸田姉妹
(『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』)
 卒業する哲学科の学生への挨拶では、こう述べている。「諸君は本日をもって諸君の自由――実生活ならびに学修における自由――の門出を祝さるる次第である。・・・およそ真に自由なる人とは法則に服従する人である、もっともその法則とは理性が正当として命ずるところのものである」「諸君に対して望むところは、諸君が偉大なる芸術家、詩人および文学者の作品をば、大思想家の著作と同様に、勤勉かつ厳密に研究せられんことである」(『ケーベル博士随筆集』)
 三根たちは、これらの教えを「干天に慈雨」の思いで吸収していったと思われる。当時の帝大文科大学生は卒業すると、研究者の道に進むか当時の各県の最高学府である県立中学校の教諭になるかであった。「教師になっても、生徒に一方的に教え込む職人ではなく、生徒とともに学ぶ研究者でもあれ」が文科大学のモットーだったと、中野実(東京大学・大学史史料室)は語ってくれた。ケーベルの哲学や美学から、教師としてのバックボーンを得て、また音楽や美術の意義をよく理解し、三根たちは各地の学校に赴任していったのだ。
 このケーベルのピアノに魅了された人物に、寺田寅彦がいる。五高時代にヴァイオリンを始めた寺田は、明治34年、東京帝国大学1年の時に夏子夫人が病気療養で高知に帰郷した孤独から逃れるため、東京音楽学校の慈善演奏会に行き、「橘(糸重)嬢のピアノ、幸田(延)嬢のヴァイオリン、ケーベル博士のピアノ・・・」を聴く。とくにケーベルの演奏に魅せられ、無性に会いたくなって自宅を訪問する。以来、夏目漱石を誘ってたびたびケーベルの出演するコンサートに出かけている。

寺田寅彦「自画像A」
(『高知の文学』高知県立文学館)
 寺田は、後にケーベルを悼んで随筆「二十四年前」を書いているが、そこには最初の演奏会での感動を「まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした」と記している。この随筆には、ケーベルを自宅に初訪問した様子も書き留めてある。寺田がヴァイオリンを独習していると話したときに、ヴァイオリンの値段を聞かれ、「9円」というと、「突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った」とある。五高時代に、月額11円の仕送りから無理に工面して購入した安物であった。笑われても別に不愉快でなく、「私もわけもなく笑ってしまった」と、述べている。(『寺田寅彦随筆集第二巻』)。
 明治38年1月3日の寺田の日記には、「阪井へ行き、琴三絃ヴァイオリンにて六段など合す」とある。阪井とは、夏子夫人の父・阪井重季(陸軍中将)であり、亡き妻の異母妹・美嘉子の琴などとの合奏に、ヴァイオリンで参加したのだ。肺病のため桂浜で、明治35年に亡くなった妻を偲んだのであろうか。夏子も美嘉子も、美人で評判だった。この頃から寺田は音響学を研究、明治41年には東京帝国大学理科大学から、理学博士の学位を授与される。主論文は「尺八の音響学的研究」であった。寅彦の孫・関直彦によると、一時ヴァイオリンを中断していたが、大正11年にアインシュタインが来日した際に、歓迎晩餐会で同氏が余興にヴァイオリンでベートーベンのクロイツェル・ソナタを弾いたのに触発され、高知出身の作曲家で土佐中校歌を作曲した弘田龍太郎からヴァイオリンの個人レッスンを受けることになったという。
 寺田の五高以来の恩師・夏目漱石も、帝国大学文化大学の大学院で、来日したばかりのケーベルから美学の講義を受けている。漱石は寺田とともに、ケーベルの演奏会に何度か足を運び、自宅も訪問、随筆「ケーベル先生」を書いた。そこには、「文科大学へ行って、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人迄は、数ある日本の教授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだろう」とある。文芸評論家の唐木順三は、「ケーベルと漱石」でケーベルの生活ぶりを、「読書と自分の耳にきかせるピアノと執筆の生活。自分の立場を〈哲学と詩との間〉において、詩と哲学を享受し観賞する生活。・・・生活即芸術であった」と書いている。(『現代日本文学大系 夏目漱石』)
ケーベル先生の遺産

三根圓次郎(『三根先生追悼誌』)
 土佐中校長に決まった三根は、大正9年3月、寺田を東京本郷に訪ね、寺田家が所有する高知市江ノ口の土地を学校用地に譲って欲しいと交渉している。五高の先輩、そしてケーベル先生の教え子からの依頼であったが、すでに先約があって成立しなかった。寺田は日記にこう記している。「三月四日 土佐中学校長三根圓次郎氏川田正澂氏の紹介で来た。中学敷地予定地に宅の地所ある故安く売ってくれといふ。先日来の江ノ口地所の買手は此れを知って買いだめに掛かったに相違ない」(『寺田寅彦全集 第二十一巻』)。土佐中の動きを察した業者が、手付け金を支払って、押さえてあったのだ。
 同年に、県庁に提出した「土佐中学校設立認可願」の添付地図には、江ノ口小学校の北側に「新設校地」との記入がある。申し訳なく思ったからか、寺田寅彦は立派な柱時計を土佐中に寄贈、潮江村に完成した新校舎に飾ってあった。寺田が演奏を楽しみ、また音響学の研究材料にも使ったヴァイオリンやチェロは、自作の油彩画「蓄音機を聞く」とともに「高知県立文学館・寺田寅彦記念室」で見ることができる。ヴァイオリンは1814年にボヘミヤで製作された名器アマティのコピーで、孫の関直彦が譲り受けていたもの。

「蓄音機を聞く」(『寺田寅彦画集』より)
 ケーベル博士は、独身のまま文科大学で21年間教えた後に引退し、ドイツに帰国しようとしたが、大正3年に横浜港で帰国船・香取丸に乗る直前に第一次世界大戦が勃発、帰国できなくなる。大正12年まで横浜のロシア領事館の一室で過ごして生涯を終え、東京雑司ヶ谷霊園に葬られた。夏目漱石や大町桂月も、ここに眠っている。
 ケーベルたちによって音楽の才能を開花させた幸田姉妹は、旧幕臣の家に生まれたが、祖父や母が音曲好きで幼少期から箏曲や長唄の稽古を積んでいた。やがて東京女子師範学校付属小学校で西洋音楽に触れ、その音楽的才能を見いだされ、ピアノやヴァイオリンの道に進んだ。三根も横笛を手にしていたが、江戸時代には公家の世界では雅楽が、武家や町人では能楽や箏曲・長唄が好まれた。欧米の上流家庭で室内楽が好まれたのと同様に、日本の家庭にも邦楽を楽しむ伝統があり、西洋音楽の受容にもつながった。平井の「平城山」、山田耕筰の「からたちの花」、滝廉太郎の「荒城の月」などには、日本屏風土色が色濃く漂い、日欧の融合から生まれた調べと言えよう。

寄宿舎生に囲まれた三根校長
昭和10年(『三根先生追悼誌』)
 昭和4年に東京音楽学校へ進んだ平井康三郎は、ケーベルに接することはかなわなかったが、疋田友美子と出会う。疋田は幸田延の妹・安藤幸教授の指導を受け、ヴァイオリン科を首席で卒業し、平井と結婚する。ケーベルから三根を挟んだ平井と、安藤幸を挟んだ友美子と、いわば孫弟子同士が結婚、そこから世界的なチェリスト・平井丈一朗が誕生した。ケーベルがチャイコフスキーから受け継いだ音楽の流れは、ロシアからドイツ経由で日本に到来、幸田姉妹そして三根や平井によって見事に根付き、さらに独自の音色を加えて世界へと流れていったのである。
 三根校長たちは、ケーベル博士から哲学や美学の知識とともに、豊かな人生には音楽や美術を欠かすことができないという「生活即芸術」の教えを学んだ。さらに、内面から湧き出る教育者としての豊かな人間性を感じ取って巣立っていったのだ。三根校長にとどまらず、漱石や寅彦をも魅了した“ケーベルの教え”が、母校土佐中高の学園生活に受け継がれ、凡庸ならざる人材の育成に活かされることを願っている。
(本稿執筆に当たっては、三根圓次郎の孫・信宏氏、平井康三郎の長男・丈一朗氏、近藤久寿治の長男・孝夫氏、寺田寅彦の孫・関直彦氏、筆山会および向陽プレスクラブの皆様にご協力いただいた。感謝申し上げたい。なお、本文では敬称を省略させていただいた。)
三根圓次郎(『三根先生追悼誌』)

熊本第五高等学校時代
(明治28年)

東京帝大文科大学哲学科
卒業の翌年(明治31年)

県立徳島中学校長時代
(明治42年)

土佐中学校長就任4年後
(大正13年)
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<主要参考文献・図版出典>
『土佐中學を創った人々』向陽プレスクラブ 平成26年/『三根先生追悼誌』土佐中学校同窓会編集発行 昭和18年/『創立五十周年記念誌』創立五十周年記念誌編集委員会 昭和51年/『ミリオーネ全世界事典』5 学研 昭和55年/『屏風対談』『続続屏風対談』山田一郎 高知新聞社 昭和59・61年/『屏風帖』山田一郎 高知新聞社 昭和58年/『八方破れ言いたい放題』ディック・ミネ 政界往来社 1985年/『筆山』土佐中・高同窓会 関東支部会報 各号/『ケーベル博士随筆集』久保勉訳編 岩波書店 1928年/『幸田姉妹』萩谷由喜子 ショパン 1803年/『東京芸術大学百年史演奏会篇第一巻』『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』音楽之友社 1990年・昭和62年/『寺田寅彦随筆集第二巻』小宮豊隆編 岩波書店 1947年/『寺田寅彦全集 第二十一巻(日記)』岩波書店 1998年/『現代日本文学大系 夏目漱石(一)(二)』筑摩書房 昭和43年・45年/『文化高知』(財)高知市文化振興財団 平成9年/『寺田寅彦画集』中央公論美術出版 寺田東一 昭和60年/『高知の文学』高知県立文学館 平成9年
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向陽プレスクラブに入会します。
竹本 修文(37回) 2017.03.20

筆者近影
 回 生 = 37K
 name = 竹本 修文
 住所・電話・Mailは総会後、名簿に登載します。
 勤務先 = すべて元の職場、鞄月ナ、東芝電機サービス、北芝電機、独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)
 ハンドルネーム = オブー・スパデイー
 メッセージ = 趣味は、以前はワインだったが、ここ10年はローマ史、ヨーロッパ中世史&近代史の勉強に熱中している・・・・誰か一緒にやらないかな〜?
<事務局より>
 久しぶりの新規入会です。是非次の総会(4月22日)にご参加ください。
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新刊のお知らせ
「龍馬・元親に土佐人の原点をみる」中城正堯(30回)著
公文 敏雄(35回) 2017.03.20

筆者近影
 「まえがき」によると、著者中城氏の実家は種崎に住んで「代々土佐藩御船頭をしており、幕末の当主中城直守や長男・直楯夫妻は坂本家および龍馬とも交流」したという。これらを記録した文書(高知市民図書館「中城文庫」)を活用、かつ多くの史料を渉猟して著された労作である。歴史好きを自認する方々も、内容の斬新さに瞠目されることと思う。


13cm x 19cm版241ページ
轄rm新聞総合印刷 1,389円+税
第一章 土佐の坂本龍馬・お龍 
 「龍馬は最後の帰郷で、なぜ種崎に潜伏したのか」「龍馬未亡人のお龍さんは、なぜ坂本家を飛び出したのか」「龍馬は本当に愚童だったのか」など、第一章は、土佐での龍馬・お龍に絞って、その真相に迫る。

第二章 長宗我部水軍と浦戸城・高知城 
 第二章は一転、近年人気が高まっている戦国武将長宗我部元親の「飛躍の原動力となった『長宗我部水軍』には研究が及んでいない」として、忘れられた彼ら「海の一領具足」の実像に光を当てる。あわせて、これも知る人ぞ知る、元親が夢を託した「四国では先駆的な『石の城』」浦戸城の在りし日を考証し、貴重な文化遺産の再評価と保全を訴えている。

第三章 土佐藩御船頭の幕末明治 
 第三章では、「幕末に名もなき足軽として戊辰戦争に従軍、『三度死に損なった』中城直顕」を主役に据えて、維新史に顕れない生々しいドラマを綴り、あわせて、「近代高知県史学の開拓者とされる中城直正」を紹介している。

****************
 ≪著者より≫高知の書店しか並びませんので、読みたい人には謹呈します。4月の総会に持参しますので、人数をお知らせください。

書評: 高知新聞 2017.04.05
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公文 敏雄(35回) 2017.02.25小村彰次期校長訪問記

小村 彰 先生より

ご注文の写真ですが、元がよくないので
あんまり写真を撮られたくない方で、手
持ちもありません。教職員プロフィール
をスキャンしたもので、ご容赦下さい。
 多くの皆さまから本校へのご協力をいただけるよう、精一杯努力してまいりますので、何かできることがございましたら、ご遠慮なくお声かけをいただければと思っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。
略歴
土佐中時代野球部
土佐高時代バドミントン部
(2年連続団体・個人単複インターハイ出場)
1974土佐高校卒業(49回生)
1978大阪大学人間科学部卒業
土佐中学高校教諭(社会、公民)
1979-1803クラス担任(24年連続)
1978-1991中学野球部顧問
1992-1801バドミントン部顧問
1804-1809広報担当・広報部長
2010-教頭 
****************


筆者近影
 2月16日に母校を訪問、小村彰教頭(社会科)に表敬・面談いたしました。 高知支部幹事井上晶博さん(44回)がアポイントを取ったうえ同行してくれました。 井上さんは土佐女子中・高教頭を経て現在高知県私学団体総合事務局長として 多忙を極めており、小村教頭とも長らくご昵懇ゆえ和やかな雰囲気で30分ほど 懇談できました(深謝)。一部をご披露いたします。

1.第二次百年委員会答申に対して
 小村教頭は答申起案に参画されたよしで、ある意味「責任がある」とのことです。 当然ながら重く受け止めておられ、先生方の声を反映させるというボトムアップの 屏風に留意しながら、時間はかかるが、ひとつひとつ対処するお考えです。 答申冒頭で「人材輩出という建学の目的と目的実現のための基本方針」を総括して いますが、これに沿うことに尽きると思われます。

2.100周年(2020年)に向けて
 母校100年誌の制作方針については学識経験者に検討を依頼中で、3月中には 概要が発表される見通しだそうです。皆さまもご意見をよせられては如何でしょう。
 KPCから寄贈を受けた「土佐中学創立基本資料集」は貴重な存在で、関係者はじめ 理事、教員、図書館などに配り、活用していただいているよし。
 同窓生・父兄の協力を仰いでいる「新世紀募金」に関連して、最近1億円という大口の 寄附があったことが話題になりました。「先生方の海外派遣に使ってほしい」という条件が 付いているそうです。グローバル化は21世紀の流れであり、ガーナ高校生との交流行事 なども含めて(小生の名刺は「ガーナよさこい支援会幹事」)、今後注力せねばならない とのご認識です。私のほうからは、例えば甲子園出場支援という目に見える目的があって こそお金が集まるわけだから、資金活動には目的の具体性・透明性が肝要という点を お考えになってほしいというお願いをいたしました。

3.抱負について
 ずばり「土佐校らしい学校」というお答えでした。 その心は?「今夏の関東支部同窓会への出席を楽しみにしている」そうですので、 その折直接同窓生諸兄姉に語りかけらることでしょう。お楽しみに! (蛇足ですが、せっかくトップをお招きするのですから、大学進学統計と寄附のお話で 終わるのは何たること・・・喝!というのが小生の本音です。)
 
追伸: 井上さんは長年教職に携わられたキャリアと現職を通じて経験と人脈を拡げ、県内外の 学校教育事情に通じておられます。土佐高からの帰途、中心街まで一緒に歩きながら その一端を伺いました。筆山会やKPCの集まりなどで表裏いろいろお話していただき たいな、出来る事なら 百周年にも関わってほしいなと思ったものです。
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