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 このページは皆様の投稿でなりたっています。左下のメイルボックスから記事(TXTファイル)と写真(JPEG、PDF、GIFファイル)をお寄せ下さい。容量、写真枚数(多い方が良い)に制限はありません。月に一度は編集して最新のものから順に掲載します。
 会員であるなしを問いませんので、多くの皆様のご投稿をお待ちしています。

2020.07.02 竹本修文(37回)  ボルドーの「残酷な歴史の回想」
2020.07.02 西内一(30回)  ボルドーの「残酷な歴史の回想」を読んで思い出すこと
2020.06.13 鍋島高明(30回)  「奇才・土佐・啄木…」の発刊について
2020.06.09 竹本修文(37回)  米国黒人差別事件のイギリス版
2020.06.06 竹本修文(37回)  ノルマン様式の城郭巡り
2020.05.30 竹本修文(37回)  ノルマン様式城郭の始まり
2020.05.13 竹本修文(37回)  古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
2020.05.08 藤宗俊一(42回)  ワインの貯蔵と飲み頃
2020.04.29 中城正堯(30回)  「リバプールと奴隷産業」を読んで--2
2020.04.27 竹本修文(37回)  リバプールと奴隷産業
2020.04.27 公文敏雄(35回)  「リバプールと奴隷産業」を読んで
2020.04.14 中城正堯(30回)  庭のエビネが咲きました
2020.04.12 公文敏雄(35回)  総会延期のお知らせ
2020.04.10 竹本修文(37回)  ヨーロッパとイギリスの最新事情
2020.03.22 中城正堯(30回)  「破天荒・感涙のサハラ!」と話題
2020.03.15 公文敏雄(35回)  「土佐中学を創った人々」2000部増刷
2020.03.10 北村章彦(49回)  4月25日KPC総会案内
2020.03.09 水田幹久(48回)  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2020.03.07 中城正堯(30回)  花だより
2020.02.03 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その5〜
2019.12.23 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その3〜
2019.12.23 公文敏雄(35回)  有難い先輩でした
2019.12.23 中城正堯(30回)  ジャーナリスト魂を貫き新聞協会賞
2019.12.23 久永洋子(34回)  また会う日まで
2019.12.23 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その3〜
2019.12.09 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その2〜
2019.11.21 二宮健(35回)  往時茫々、中国の旅  〜その1〜

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで      
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最後のイギリス旅行−番外版
ボルドーの「残酷な歴史の回想」

竹本修文(37回) 2020.07.02

筆者近影
 筆者は、本年4月27日に「リバプールと奴隷産業」を投稿し、アメリカのミネアポリスでの白人警官による黒人の殺害事件をきっかけに始まった#Black Lives Matter運動と同様の運動がイギリスのブリストール市でも起きた事に関して、6月9日に「米国黒人差別事件のイギリス版」を投稿した。
 ハッシュタグ#Black Lives Matterは、2013年にフロリダで起きた、黒人少年のトレイボン・マーティンが白人警官のジョージ・ジマーマンに射殺された事件でSNSに発信されて以来、2014年、2015年と何度も同様の事件の度にSNSで発信されてきたが、今回は世界中に拡散しており、ニューヨークタイムズ国際版(The New York Times, International Edition)は6月27日付で,イギリスの保険会社ロイドLloid’s of Londonなどの企業名と共に奴隷貿易に関わった記事を掲載し、ロイドが初めて海上保険(marine insurance)業務を始めたのは奴隷貿易だった事を公表すると共に、奴隷の子孫たちに何らかの償いを考えている、としているが、金をいくら出すとか、具体的な事は何も公表しておらず、中身がないので、投稿しなかった。
 続く6月28日には、同じニューヨークタイムズ国際版が、フランス・ボルドーの「残酷な歴史の回想」(Remembering a brutal history )の表題で、2面に亘って特集しているので、KPCに紹介する。ボルドーの奴隷貿易の事は「リバプールと奴隷産業」でも触れたし、KPC編集人の藤宗さんの5月8日の投稿「ワインの貯蔵と飲み頃」の中で、彼が所蔵している「ボルドー1855特級格付けのワイン」の飲み頃に関して、私がウンチクと共にアドヴァイスした事が記載されている。ワインとワイナリーで世界に知られた中世以来の城郭都市ボルドーの繁栄の裏には、奴隷貿易が支えていた事実があまり知られていないので、紹介したくて新聞に書かれた記事から離れた感想なども加えて投稿する。イギリスの城郭の話も未完ですが、これも後日に残します。

 今日の新聞には、新たな#Black Lives Matter の記事は見当たりません。ただし、ニューヨークタイムズは、過去10年間に黒人が白人警官に同様な窒息する逮捕で、本人が「息ができない!」と叫びながら死んだケースが少なくとも70件ある。と報じている。

New York Times (Thursday,JULY 2,2020)
 昨年の夏Byron William 氏は、ラスベガスで無灯火の自転車を運転していて、複数の白人警官に手と膝で道路に押さえつけられ、「息ができない!、I can’t breathe」、と17回叫びながら死んだ。
 2014年には、Eric Garner氏は、ニューヨークの歩道で税金を払ってない闇のタバコを売っていて、警官に背後から首を絞められ死亡した。そして先日のジョージ・フロイド氏もI can’t breathe!と叫びながらしんだ。
 写真は、Eric Garner氏の母親のGwen Carr 女史で、テキサス州ヒューストンで行われたジョージ・フロイド氏の葬式に出席し、黒字に白文字で「息ができない!、I can’t breathe」と書いたマスクをしていた。


ボルドーの「残酷な歴史の回想」

第1章 ボルドーの「残酷な歴史の回想」

(Remembering a brutal history )

第2章  その他ボルドーの情報
1. アキテーヌ州立博物館

図2 ボルドー地方のワイン産地
図3.中世の城郭都市ボルドー

3. 図3 ボルドーの市街地図

ボルドーの「残酷な歴史の回想」
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ボルドーの「残酷な歴史の回想」を読んで思い出すこと

西内一(30回) 2020.07.02

筆者近影(文科大臣表彰時)
竹本大兄
 平成18年のフランス「ヨーロッパ100名城」探訪では、ナポレオン・ボナパルトの建設によるピエール橋を渡ってガロンヌ川対岸の世界遺産:サンテミリオン城を訪れた。
 サンテミリオン城郭では、ヘンリー3世が築城したシンボル「王の塔」にイギリス国旗がはためいていたのが印象的であった。
 ヘンリー3世後もボルドー、ナントのギエンヌ公国は、100年戦争、ばら戦争などを通してギエンヌ公はイギリス王であり、その後16世紀になってもナヴェル王ヘンリーの領国と、大航海時代に至るまでイギリスの支配下にあった。
 ポルトガルのポルトを探訪した折、当初ポートワインの輸出先はイギリスで、イギリスの船が出入りして、イギリス資本によるワイン畑もあったとの説明をうけた。
 ボルドーはイギリス領であったから、当然のこととしてイギリス船が出入りしてワインの積出を行っていたのではなかろうか。
 この流れは、大航海時代にも受け継がれ、極めて自然に積み荷が奴隷であってもリバプール同様に行われていたのではなかろうか。旅行者の感想に過ぎませんけれども。
 サンテミリオン城郭探訪ではありましたが、ボルドーに投宿して、中世の城門や城壁がオスマン流の都市整備の中に見事に調和して今なお息づいている有様を見学して、夜はローマの直路を受け継ぐ繁華街を散策したことでした。

ディオクレティアヌス宮殿
(クロアチア/スプリト)

レパント沖(ギリシア/コリント湾口)

ヘラクレスの塔(スペイン/ア・コルーニャ)

西内さま
 ヨーロッパにも随分沢山行かれていますね〜?
 イギリスに関するKPCへの投稿記事の中で、フランスの西海岸の干満の差が大きくて港の建設に苦労している話を書きましたように、ボルドーも大西洋に出る部分はジロンド川で大きな船が通れますが、港はありません。ジロンド川から少し上流へ行くと、サン・テ・ミリオン方向からドルドーニュ川が合流します。合流点から更に少し上流へ行くと、川が急に曲がる処にボルドー市街があり、ドックがあります。ここまで来ると干満の差が少なくて調整しやすいと思います。ロンドン市街が大西洋からテムズ川を約60qほど上流にいった所に作られたのと同じ理由です。
 2000年のゴールデンウィークに家内とボルドー、カルカッソンヌ、ナルボンヌ、バルセロナを鉄道旅行しました。ボルドーは3泊して周辺をドライブするつもりでしたが、レンタ・カー屋でMedocなどのブドー畑は排ガス規制が厳しくて借りれなあく、運転手付きのハイヤーを雇って高くつきました。
 郊外へは、市役所手配のバスツアーがあり、ブレアー城や東の端の百年戦争終結地カステイリヤなどへ行きました。サン・テ・ミリオンへ行けなかったのが未だに後悔です。あの辺こそ、普通のレンタ・カーが規制されています。
 ポルトへは、ロンドン駐在中に仕事で4回ほど行きました。当時は、スペイン・ポルトガルはEUの前のECの更に前のEECに加盟する資格がないほど貧しい国で、肢体不自由者が路上でゴロゴロし、物乞いの浮浪者がアチコチにいる時代でした。
 ポルト酒の発明は、イギリス人の本には、百年戦争に敗北したイギリスはポルトに進出して、リバプールの商人がイギリスに運んでいたが、当時の船は帆船で冷房はなくて、ワインが劣化した。劣化を防ぐために、樽から1/3ほどワインを抜いて、代わりにブランデーを入れる強化方法を考え付いた。
 現在でも日本語のワインの本はこの説明です、英語版はポルトガルで自ら開発したような表現になっている。隷貿易に参入した時期と重なるな〜?とか、考えています。ナポレオン戦争時代末期に外輪の蒸気船ができたが、商戦や戦艦としては実用化されていなかったし、ポルトはリバプールと西アフリカの航路の途中にあるしね〜?
 佐々木会長もご存知のSusan Matkin さんの所では、ワインクラブがあり、私も時々講師をしました、フランスワインとポルト酒・マデイラ酒は得意でした。
失礼します。   竹本 修文

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「奇才・土佐・啄木…」の発刊について

鍋島高明(30回) 2020.06.13

筆者近影
謹啓

 日ごろは大変ご無沙汰しております。皆様にはお変わりないことと拝察いたします。新型コロナウイルスの猛威はようやくピークアウトしたようですが、80歳超の持病もちは格好の標的のようで油断も隙もありません。私が半世紀以上にわたって住む東京都東村山市を代表する有名人、志村けん氏(名誉市民説も)がコロナで発れたことで一層その恐ろしさを実感していた次第です。この本の出版もしばらく凍結していたのですが、少なくとも第一波は退潮に向かったようで愁眉を開き出版に踏み切った次第です。御笑覧いただければ幸甚です。

「奇才・土佐・啄木…」
 地震に余震があるように津波には余波がある。そして疫病はぶり返す。蟄居中に読んだカミュの「ペスト」も疫病が収束して町中が鉦や太鼓の大賑わいとなるが、最終章でネズミの逆襲、ペストの再発を予告、不気味さを漂わせています。毎日夕刻のニュースで登場する発症者の推移を物語る罫線を眺めながら一喜一憂したものです。かつて職業柄相場の罫線はよく眺めたものですが、先のことは一向に読めませんでした。ましてコロナに感染する人数の罫線は全く読めません。罫線はあくまで過去の実績を表すもので将来展望の小道具ではないことを改めて知りました。
 私は今年7回目の年男となるわけですが、前途多難を痛切に感じております。八十路の坂を上りきるのは容易でないことを日々感じつつ、終活の一環として発刊したのが本書です。「米穀新聞」に6年余執筆したエッセイ風のもの、約160編に、「熟年ニュース」に執筆の2編をもって1冊としました。雑誌「やまいも」に執筆の「啄木紀行」は迷った末に入れることにしました。50年前の文章で「タクボキアンJを名乗っていたころの紀行文です。文章は生硬で恥ずかしい次第ですが、その時盛岡市郊外の啄木のふるさと渋民村でお会いした啄木の教え子、秋浜三郎さん(当時啄木記念館館長)の写真が出てきたのでぜひご覧ください。
 表紙カバーと章扉の絵は妻ウタ子の作品です。盛んに描き直していましたが思うようにはいかなかったようです。御笑覧ください。
敬具
 令和2年初夏
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最後のイギリス旅行−番外版
米国黒人差別事件のイギリス版

竹本修文(37回) 2020.06.09
 以前、リバプールの奴隷産業の投稿をしましたが、その時に引用したブリストルの奴隷産業のリーダーの銅像破壊事件が起きた記事を見たので、急遽投稿しました。
 KPCの皆様にどれだけ意義があるかは分かりませんが、リバプールより数十年早く王家とつるんで稼ぎまくってきたブリストルの奴隷商人の銅像が市民の反対を無視して立ってきたのも驚きです。

米国黒人差別事件のイギリス版

米国黒人差別事件のイギリス版 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)

竹本さん
 実にタイムリーな寄稿です。4月に読ませていただいた「リバプールと奴隷産業」の衝撃が薄れていないので、銅像破壊事件に関する原稿を興味深く読ませてもらいました。
 昨今は、上から下まで「金だけ、イマだけ、自分だけ」 にしか興味が無い「3だけ族」だらけですが、幕末の巨人たちは違いましたね。危機感・緊張感を持っていましたから。
 坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、吉田松陰、佐久間象山、横井小楠・・・ご存じのように、みんな金儲けとは無縁で、先を憂い、視野が広くて世界に目が開いていた愛国者でした。もし、彼らが志半ばで憤死していなかったら(海舟だけ長生き)、明治以後の歴史はずいぶん違ったコースをたどっていたでしょうね。
 麻布学園には課外授業(選択)でアフリカ学講座がありますので、担任の先生(ガーナ高校生交流にも熱心)にKPCホームページの奴隷産業記事を紹介したいと思っています。
公文敏雄(35回)(2020.06.09)

竹本修文様
 この事件、朝日新聞では昨日(6月8日)の夕刊で、写真入りで報じていました。竹本さんの奴隷貿易の歴史レポートを思い出しながら、記事を切り抜きました。
 新聞部時代以来の、興味ある記事の切抜きは、ほぼ70年近く細々と続いています。
 ご参考までに、記事を添付します。(記事の無断転載はできません)
中城正堯(30回)(2020.06.09)

中城さま
 早速のレスポンスに感謝します。娘の命日で家族が密かに3蜜状態で、朝日の夕刊を見落としました。はい、確認しました。
 ブリストルの事は日本では余り関心がないと思っていたから昨日は見なかったかもしれません。今日は、New York Times には出ていませんがJapan Times には出ていましたので添付します。賛否両論あるようですね〜?
 リバプールの市議会で2006年に通りの名前をPenny Laneから他の名前に変える議案が出されたが、「恥だから・・・・とかでなくて、歴史の事実だから」という理由で廃案になった事を冒頭に書いたと思いますが、ブリストルでも同じ議論があったようです。
公文さま
 麻布学園の事は昼食会で伺った事を思い出しました。先生に是非ご紹介ください。
竹本修文(37回)(2020.06.09)

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最後のイギリス旅行−その5
ノルマン様式の城郭巡り

竹本修文(37回) 2020.06.06

筆者近影
 何方からも反応が無いのに、第5弾を投稿します。
 ウンチクを少なくして、絵や写真を多くしたので、添付が5MBになりました。Word をpdf に変換するソフトをケチって購入してないので、一回の伝送の限界と思います。
 ウイリアム征服王の墓はノルマンデイーで見てきたが、今回、手持ちの資料を見ていたら、彼はイギリスの首都をウインチェスターにしようとして、城と宮殿の建設を指示していたが、完成まじかに火災で焼失したらしい、記事を見つけたので、そのうちにまた投稿するかも知れません。ロンドン塔を城にしなかった理由もこの辺にあるのかも知れません。

ノルマン様式の城郭巡り

1. ウインザー城 Windsor Castle

2. ノルマン人が伝えた英語のCastleと
イギリス南東部海岸沿いのノルマン様式の城郭

3. アランデル城 Arundel Castle  
4. ペヴェンジー城 Pevensey Castle

5. ヘイステイングズ城 Hastings Castle

6. ドーヴァー城 Dover Castle 7. ルーイス城 Lewes Castle 
8. ノッテインガム城

9. ロンドン塔 Tower of London

ノルマン様式の城郭巡り
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皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

終わり

≪追記≫  『最後のイギリス旅行1〜5』の掲載が終わりました。竹本さん本当にありがとうございました。知らないことが多く、改めてイギリスの奥の深さを思い知らされました。
 竹本さんには2年前、入会された際、『世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」』を執筆して頂きました。今回、そのPDF版も添付しました。改めてご覧になって頂ければ……と思っています。(編集人)
世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
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最後のイギリス旅行−その4
ノルマン様式城郭の始まり

竹本修文(37回) 2020.05.30

筆者近影
1.  最後のイギリス旅行4「ノルマン様式城郭の始まり」を投稿します。前回の「古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン」から、ローマ人から見れば「野蛮人」の各種ゲルマン人が入り乱れる600年間を飛び越して、イギリス文化大革命時代の話なので、物語を少なく図・写真を多くしようとしたら、伝送量が大きすぎるので、2回に分けて投稿します。

2.  今回は、近代の城郭に繋がる「土と木」で出来た砦・城の始まりまでにします。この近代の城郭の原型となる様式には近代になってMotte and Baileyという名前が付けられたのですが、この辺の写真は最後のページに、アランデル城とウインザー城の写真を載せて余韻を残し、詳しくは次回、最後のイギリス旅行5「ノルマン様式の城郭巡り」に回します。アランデル城はウイリアム公が、イギリス遠征中にノルマンディー公国の留守を守った貴族ロジャー・ド・モンゴメリーに、褒美としてアランデル伯爵の称号と共に授けた城であった。ウインザー城は東のロンドン塔とテムズ川で繋がった重要な王家の城であり、次回には説明します。

3.  今回の5ページの「Castle Building by 1086(1086年までの城郭建設)」と言う地図は、Historical Atlas of Britainと言う本から引用したものですが、昨年の初めごろに西内先輩にお見せした時に、「20年間にこんなに沢山城を造ったの?」と聞かれて、何もお答えできなかったのですが、今ご返事します。

4.  お答えになっているでしょうか?
@ 1066年のイギリスは、ローマ人から野蛮人と言われたゲルマン人の中でも、北の端に住んでいたアングロ・サクソン人の国、彼らの言語は、今では通じない古英語、一方、ノルマン人は遥かに進んだフランス語を話す文明人。
A ノルマンデイーから2万人規模で侵攻したが、王や貴族は寒くてまともな農産物が出来ず、ワインもないイギリスには住みたがらず、半分は帰国し1万人で200万人のイギリス人を統治しなければならない。イギリス側は王と貴族の殆どが戦闘の始まりで殺されており、4000家(manor)あった貴族の所領は200家(manor)のノルマン人貴族に分け与えられた。
B ウイリアムはローマ教皇公認のイギリス王だが、フランス王に臣従するノルマンデイー公であり、ノルマンデイーの首都カーンに住んでいる。イギリスを征服はしたが、王が住む首都が無い、言葉が通じない、いつ誰に襲われるか分からない、中央集権はありえなくて、分散統治なので広域の防衛システムが必要になり、有事の時には1日で応援に駆け付けられる距離に城を配置する必要があった。
C イギリス史を勉強していた2008年に、ノルマン朝の首都は何処にあるか確かめにノルマンデイーを散策した。ウイリアムの墓所もカーンにあった。ノルマン朝の歴代の王がどこに住んでいたか、まだ調べが終わっていない。第6代のリチャード王は在位10年間にイギリスには7か月しか住んでいない。

ノルマン様式城郭の始まり

1. ローマ軍撤退からノルマン軍侵攻開始

2. ノルマン軍の準備からイングランド征服 

3. モット&ベイリー城郭(motte-and-bailey castle)
4. 1066年9月上陸〜12月イギリス王位戴冠

5. 10〜12月の南イングランドでのノルマン軍の行軍

6. 征服後20年間に建設されたイングランドの城郭

7. ヨーク城 York Castle
8. アランデル城 Arundel Castle

ノルマン様式城郭の始まり
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最後のイギリス旅行−その3
古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン

竹本修文(37回) 2020.05.13

筆者近影
 昨年、13世紀のウエールズの城郭を投稿し、これから、11世紀のイングランド・ノルマン朝の城郭を書くつもりなので、ロンドンの駐在時代の会社の周りにあって、いつか記録を纏めてみようと思ったのでしたが、手を付けてみての感想は;
@ローマ史に興味がある方々には、帝国の1%にも満たない属領ブリタニア(イギリス)の首都でもなかったロンデイニウムの遺跡のかけら、は面白くないよね〜?
A北のヨークは、ローマが勝てなかったピクト人のスコットランドに対する防衛上重要だったのでブリタニアの首都だったし、次回予定の初代イギリス王・ウイリアム征服王が全国に建設した、モット&ベイリーの城郭もあるし、これなら、興味を持ってもらえるかな〜?
Bそれじゃ〜ロンドンの「ローマのかけら」はなんなのか?最後のイギリス旅行だから、気になっていた所を見ておこう、というだけなんだ〜?

古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン

1.はじめに 2. ローマのガリア征服

3.ブリタニアへ侵攻 4. ローマ帝国のブリタニア征服

5. ローマ人のブリタニア Roman Britain

6. ハドリアヌスの長城 Hadrian’s Wall
7. ロンドン London(ラテン語Londinium)

8. Roman London 城壁のかけらを探して


9. 皇帝デイオクレチアヌスの四分割統治、12管区
ローマ軍がブリタニアから引き上げる当時のローマ帝国地図 

古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
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以下次号へ続く
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ワインの貯蔵と飲み頃

藤宗俊一(42回) 2020.05.08

筆者近影
 ムートンの話題で思い出し、たった1本冷蔵庫の野菜庫の奥に眠っているラフィット(1980…結婚した年)を開栓する時をいつにするか悩んでワイン通の竹本さんに相談したら、沢山のAdviceを頂きました。
 もともと私のワイン遍歴は、小学生の時祖母が密造していた岡山ブドウのポートワイン(砂糖漬でとてもあまい)をこっそり舐めていたのが始まりです。その後、助教授が研究室でふるまってくれたラベル無しの一升瓶ワイン(多分山梨出身の元教え子が送ってくれたもの……甘くないのは初体験)をガブ呑し、ワインが好きになりました。そして、フィレンツェにいる時は、キャンティの丘のブドウ畑の片隅でフィアスコーネ(2L大瓶)に詰めてくれるものを買ってきて、アルノ川の畔で友人と飲んだくれていました(水より安い)。そんな訳で、ソムリエを目指した先輩と違って正統派の呑み方は知りません。

シャンパン産地の
Eperneでの竹本氏

ワイン入門

ワインを貯蔵する

ワイン・セラーの管理

ワイン入門(一部)
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●1980年もの:手持ちのヒュージョンソンの本では、1984年には四つ星(****)にランクされていますが、1991年以降2020年までには、ランク外になっている。
●17度一定のワインセラーで保存しても今よりは良くなる事はありません。もし、一度でも日本の真夏にワインセラーに入れずにおくと、30度にもなり、かなりやられています。
●冷蔵庫の野菜庫はワインセラーの適温範囲の最低レベルではないでしょうか?暗いし、適当な湿度はあるし、数年なら最適と思うのですが、生き物ですのでそんなに長くて大丈夫か?知識がありません。日本でよくあるのは、部屋に放置して真夏の高温で劣化する事です。
●経験的に、高温と太陽光で劣化するか、乾燥しすぎてコルクがスポンジになるか?で対策をしてきた歴史があるので、冷やしすぎのデータはあまり聞いたことがありません。
●デカンタして5時間くらいして飲まれては如何でしょうか?赤ワインはサングラスのような色ガラス瓶で紫外線の心配はないし、飲む前には常温で1日くらい放置して、朝コルクを抜いて立てて夕方飲めば窒息状態から生き返り、素晴らしい記念になると思います。コルクを抜いてから1時間では短すぎるかな〜?経験がありません。ま〜お昼に抜いて、時々瓶に鼻を近づけるのは如何でしょうか?
●ヨーロッパではアララト山の麓付近でワインが作られた時代から、アンフォラに入れて土中で保存とかしていたし、ローマ軍は石灰岩を切り出して砦を作ったので岩穴がワインセラーになっていました。
●フランスのブルゴーニュのBeauneボーヌのCaves Patriarche Pere & Fils とシャンパーニュのエペルネのMoet-et-Chandonの、

Beauneのカーヴ
フランスだから英語のセラーではなくてCaveカーヴですね、を見学した時に家族の特別なボトルの保存の事を聞くと、ちゃんとやっていました。写真を添付します。普通のワインボトルが横に寝ているのがボーヌですが、私が生まれた1943年を探したら、1942年がありました。第二次大戦ではシャンパーニュはドイツ軍に略奪されたが、ボーヌは残ったからですね。生まれて70年経っている人はいるでしょうが、問題は、70年も保存している現実がある事を紹介したかったのです。ただし、冷房はしていないので冷蔵庫ほど冷たくなくて適当にカビが生えている状態です。
●出典は、1977年から出版されているヒュー・ジョンソンのポケット・ワインブックで、彼はイギリスの評論家でアメリカのロバート・パーカーと並ぶワインの第一人者。私は1984年版と1991年から2020年版まで約30年分持っています。これだけ揃っていると高く売れるかも〜?
 ヒュー・ジョンソンの「ワインを貯蔵する」の一部をコピーし、添付します。「はちきん会」の浜田会長はシニア・ソムリエなので相談されるといいですね。40年保存の経験はないと思いますが。
●40年よりは金婚式がふさわしいですね〜!そのためにコロナに負けずに頑張りましょう!!

 ワインは新しいうちに(10年以内?)呑むものだという感覚はありませんでした。古いのを持っていると話題になるのでしっかり隠して保存しています。一番古いのは私が留学していた帰りに持ってきた1975年(当時はVintage)のキャンティクラシコ(Greveの安物、現地価格で2000Lire程度……それでも学生食堂のワイン付フルコースが430Lireで食べられ、2Lのテーブルワインが500Lire程度で買える時代だったので奮発した!3Lire--1円)ですが、最初2〜3年押入れの奥にしまい込んでいたので完全に死んでいることでしょう。結論はラフィットはどうせダメなら、話題のために10年後の金婚式まで置いてみようかと思っています。それまで夫婦がもつか心配ですが……。もたなかったら半分は墓に撒いて欲しいと遺言しておきます。
 Stay Home Weekは良い勉強になりました。竹本先輩、ヨタ話につきあって下さってありがとうございました。
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「リバプールと奴隷産業」を読んで--2

中城正堯(30回) 2020.04.29

筆者近影
竹本様
 リパブールに始まる奴隷産業の紹介、竹本さんの綿密でしつこい文献渉猟ぶりにただただ脱帽です。リパブール繁栄の裏事情から、奴隷貿易の過酷な実態まで教えられることばかりでした。あとは、KPCのメンバーが、読んでくれるのを願うばかりです。
 私の海外探訪では、奴隷制度の残滓が目に触れることはあまり有りませんでしたが、奴隷貿易に続く植民地制度の末期はいくらか実見しました。
 1965年に初めての海外訪問で訪ねたオーストラリアのアリス・スプリングスのアボリジニー保護区では、原住民の子どもを親から隔離しての教育が最盛期で、原野に住み、昔ながらの暮らしを続ける親と、分離されて施設で英語での近代的学校教育を受ける子どもが引き裂かれていました。後に、これでは親子の会話も、伝統文化の継承も出来ないとして、改められました。オーストラリアの保護領だったパプアニューギニアでは、戦前同様に原住民を使って大農園を経営する英国系オーストラリア人を訪ねました。ホテルのレストランもモーニングティーから、暑い中盛装しての夕食に閉口しました。このうち、アボリジニーの史料は、後に国立民族学博物館の小山教授に進呈しました。
 インドネシアのニューギニアに近い香料列島バンダネイラでは、16世紀頃オランダとポルトガルとの争奪戦に使役されたサムライの絵にビックリでした。日本の戦国時代の敗残兵の中には、西欧諸国の奴隷となった日本人も居たのではないでしょうか。さらには、日本が統治した時代の台湾・韓国と、西欧による新大陸植民地との比較など、我が国の歴史認識にも引き戻されました。
 せっかくの力作ですので、次回以降もぜひ挿図・写真を多用し、竹本さんの行動や感じたことを交え、親しみやすく読みやすい紙面・文章を期待します。 (2020/04/29)

エアーズロックにセスナで到着

先住民の子どもが描いた風景画

ニューギニアのコーヒー大農場
中城

竹本様
 今朝、朝刊(朝日新聞)を開いて驚きました。「国際」面で「クック上陸250年豪 先住民と保守派 異なる歴史観」の見出しで、昨日紹介した先住民教育のことも、悲劇として紹介してあります。また、クック上陸後、英国の流刑地となった事から、先住民は「文化の消滅」が始まったのか、「科学と民主主義」を得たのか、と問いかけています。
 なお、クックが1768年にエンデバ号で出航したのは、リパブール港ではなく、プリマス港で、オーストラリア到着は1770年、250年前のことでした。
 私が訪ねた1965年は、中央部の先住民聖地ウルル(エアーズロック)訪問にはセスナをチャーターするしかなく、むろん飛行場もなく、乾燥した草原に着陸したことを思い出します。その写真と、先住民の子どもに描いてもらった風景画を添付します。先住民は、絵の才能が素晴らしく、ロックアート(岩面画)や樹皮画(カンガルーの骨格まで描くレントゲン画)が知られ、この風景画でも、うねるような独自のタッチで、岩山や巨木を表現しています。 (2020/04/30)
中城

中城さま
 メールをありがとうございました。
1.ニュージーランドのマオリの事は早くから知っていたし、海洋民族で文化も進んでいたが、アボリジニの事はシドニーオリンピックの時の開会式に登場するまで知りませんでした。ウルル(Uluru)周辺のアボリジニの宗教上の聖地と言うことで、以前のような観光地でなくなった記事を見ました。
2.シドニーに滞在していた時に、支社に東京から鉱山の大型掘削システムの点検に来ていた技術者がいて、「東京から9時間で来たが、現場まで大型ジープで片道30時間・・・一泊二日とか言っていた事を思い出しました。
3.翌日、ジャカルタへ移動したのですが、クリントン大統領の特別機が来るので、いつもと違うコースで遠回りするとアナウンスがあり、メルボルンまで南下してから北北西に旋回しました。そうしたら、大分経ってからアナウンスがあり、ウルル(Uluru)が下に見えました。ウルル(Uluru)は最初で最後です。
4.将来、イギリスの城郭の投稿をする時に説明しようと思っていた事ですが。リバプールの時に、干満の差が大きくて、大型船が停泊するためにはドックが必要と言いました。西内さまにもCCで送ります。プリマスは古くからヨーロッパ大陸との交易の港で、自然の入り江があって、海賊ドレイクの拠点でした。地図を添付します。ロンドンは、イギリス一番の港ですが、テムズ川岸の陸地に沢山のドックがあるのが分かると思います。ユーロトンネルの開通で暇になりました。リバプールはアメリカ大陸が植民地になってからの港です。最大の港は、史上最大の作戦で連合軍艦隊が出撃した、ポーツマスです。巨大なドックが沢山あります。

イギリス周辺地図 

プリマス地図

ロンドン港

 失礼します。 (2020/04/30)
竹本 修文

竹本様
 日本人は港と言えば海港を思い浮かべますが、ヨーロッパは河川港が古くから重要だったこと、ドックで干満差に備えたことなど、あらためて気付かされました。ロンドン港周辺がドックだらけの様子もはじめて知りました。
 そういえば、知人のグリンデルワルト在住・中島正晃さんは20年ほど前にスイスからボートで地中海まで、河川と運河を漕ぎ下り、冒険家大賞を取りました。
 イギリス人が大好きなボルドーワインも、ボルドーの河川港から、ロンドンに運ばれたわけですね。 (2020/04/30)
中城

中城さま
1.スイスのお話は日本では珍しいと思いますね〜?.森健一先輩がお得意の30年戦争のあとのウエストファリア(独:ヴェストファーレン)条約で出来た国々の一つですが、正式名が「スイス連邦共和国」で30の国(カントン)で出来ていて、大統領は毎年交代するので覚える必要はない、何年か前に国連にやっと加盟したが190番目だったことだけ覚えています。
2.国連加盟前の独自防衛時代のスイスのチューリッヒの水道局の浄水場を見学しました。貯水池のチューリッヒ湖に毒薬をいれられた事を想定したリスク・マネージメント・システムとチュ-リッヒ上空で東西軍の核兵器がさく裂した場合を想定した、クライシス・マネージメントの概要を聞きました。
3.チューリッヒ湖から出た水は、オランダのロッテルダムに出ていくまでに、人間の体を4回通るといっていました。ライン川周辺のヨーロッパの国々では、常に戦争があり、子孫に土地などを残す習慣がないので、井戸を掘らないのです。ライン川の水を調理に使い、そこそこの処理をしょて、またライン川に戻す。秩序を守らないと戦争だった。「井戸を掘らない、植林をしない」・・・ヨーロッパ共通の常識でした。
4.ボルドーは今度投稿する積りのノルマン朝時代にフランス語しか話せないイギリス王の時代にボルドーなどの地域を領有し、ローマ軍が持ち込んだワインを育てて、自分たちの好きな味にしました。ワインの行き先は当時はブドーが育たなかったイギリス、そしてオランダで、濃厚なフル・ボデイーでした。そのうちに、フランスの親戚同士の戦い百年戦争でジャンヌダルクが出てきて、フランス王シャルル7世を助けて勝利し、イギリスはポルトガルのポルトでワインの生産を始めたのでした。百年戦争の後半、イギリス王ヘンリー五世がフランス王を継承する事になていたが急死した。その息子のイギリス王ヘンリー六世がパリでフランス王を継承宣言したが、ジャンヌダルクが現れてフランス軍を鼓舞してオルレアンでイギリス軍に勝利し、フランス王家のシャルルを連れてシャンパーニュのランス大聖堂でフランス王シャルル七世として戴冠した。イギリス王家は即位も葬式もウエストミンスター寺院で式を行うが、フランスは即位はランスで戴冠式を行い、葬式はパリの北側のサンドニ大聖堂と決まっていた。なお、ランスの綴りはReims またはRheimsだが、初めてだとランスとは読めない
5.ボルドーからパリへは、セーヌ川を遡りしねければならず、輸送しませんでした。ブルゴーニュ地方からは、運河・ヨンヌ川・セーヌ川で容易に運べました。今でも、フランス人はブルゴーニュ、イギリス人はボルドーと言われています。
6.太陽王ルイ14世の軍事技術者ヴォーバンがボルドーから地中海への世界遺産ミデイー運河を建設して、カベルネ・ソーヴィニヨン、メルローなどのワインが地中海に入りました。
7.温暖化のお陰で、イギリス南部には800以上のワイナリーがあり、白ワインと発泡酒は90点です。イングランドは樺太、スコットランドはカムチャッカですからね〜

ヨーロッパの河川

フランスの主要河川

ドイツの河川

 おやすみなさい (2020/05/01)
竹本 修文

竹本様
 早速にヨーロッパの河川地図が各種添付され、感謝です。
 昔読んだ「家なき子」で、舟で運河を行く旅芸人一行の姿を思い出しました。鉄道誕生までは、内陸の水運が輸送の大動脈だった様子が、よく分かります。
 スイスでは、1971年の初訪問の際ジュネーブのホテルがどこも満杯、郊外の民宿を取りました。やっとたどり着き、玄関を開けると銃が立ててあるのにビックリでした。国連にも入らず、独立を守るため国民皆兵などと聞かされた事でした。現在は、どうでしょうか。
 あと一つワイン・造船に詳しい竹本さんに、教えていただきたいのは、船台式進水式のシャンパン割りです。インターネットの情報では、生け贄→赤ワイン→白ワイン→シャンパンと、なっています。どこの国で始まり、シャンパンになったのは何時どこか、造船大国英国と、ワイン大国フランスがどう絡んでいるかなど、興味があります。
 シャンパンは、ランスの蔵元を訪ね、地下の洞窟で瓶を回転させてはオリを抜く作業を見学、この酒の高価なわけを納得した次第でした。ボルドーでは、有名画家のラベルで知られるシャトー・ムートン・ロートシルトの博物館を訪ねました。残念ながら十五年前の発病で、禁酒生活です。
 KPCホームページと竹本さんのお陰で、昔話が楽しめます。 (2020/05/01)
中城

中城さま
★スイスは技術交流だ何回も行きましたが、国連にはやっと加盟しても、EUは絶対に加盟しない、と言っていたのが、昨年から理解できました。ノルウェーも加盟しなくて良かった。
★スイス兵は自国とバチカンを護っていますね。私が付き合っていた技術者も数年おきに短期間兵役について国境を護っていました。銃を背負ってスキーで、オリンピックのノルデイックみたいな軍隊でした。
★ローマ帝国の北の国境であるライン川とドナウ川を船で短距離ですがロックを通りました。イギリスには小さなロックが5000か所もあり、内陸の水運が非常に発達しています。
 ロック(Lock)とは「閘門(こうもん)」と訳されていますが余りなじみはないと思います。今上天皇がオックスフォード・マートンカレッジに留学されていた時に研究されたのが、イギリスの水運システムでご著書The Thames and Iが出版されています。イギリス中に5000もあるロックと書いたのはこの事で、写真を見ればよく分かるので、ウキペデイアを引用します。URL:https://ja.wikipedia.org/wiki/閘門 
★そうですか、ランスでシャンパン・・・いいですね〜!私は、ランスの街はノートルダム大聖堂とサン・レミ聖堂をじっくり見ました。そして隣のエペルネでドン・ペリニヨンで有名なモエ・エ・シャンドンの地下セラーを見ました。
★進水式とシャンペイン(=英語、仏語では:地名も酒もシャンパーニュ)の事。知っているウンチクを以下に並べてみました。回答にはなっていませんが、なにかお役にたてれば幸いです。
1.進水式は建造した船を水面に移動する過程のセレモニーで、数千年前に遡る海軍の伝統行事で沢山の種類の文化が混じりあっている。例えば、古代バビロニアでは牡牛を生贄にして、儀式を行ったと言われている。古代ギリシア・ローマ・エジプトでは、新しい船と船員の安全を神々に祈願するためにワインを飲み、ある種の水を船体にかけたと伝えられている。
2.船に名前を付ける命名式はカトリックの国で始まり、それは司祭が子供の洗礼式を行うのと同じようであったとされている。聖餐に使うワインはイエスの血と言うことになっているので、かつて調べたら新約聖書作成時代の書物には何も書かれていない。初期のキリスト教の聖餐を色濃く残していると言われる東方正教では普通は赤ワインが使われている。西ヨーロッパのカトリックはギリシア語で書かれた新約聖書をラテン語に翻訳して使っているし、布教活動も気温の低い北ヨーロッパに向かったので、赤ワインの生産が困難なドイツでは白ワイン、ベルギーではビールも使われている。
3.プロテスタントでは進水式は宗教行事ではなく、俗社会の行事であり、沢山の記録が残っている。紹介するのは、1610年にイギリスのロンドン港東側のWoolwich(ウリッジ)の造船所での進水式である。船は64門の砲を装備したガンシップPrince Royal(何処かで聞いた名前ですね〜?)で主教は出席せず、著名な造船技師、造船所長と共に皇太子が出席した。船尾のデッキには皇太子、海軍卿及び大勢の貴族が並び、そばにはワインがなみなみと注がれた金ぴかの大きなカップが立っていた。 船の誕生と幸運を祈る事はカトリックの場合と同じである。トランペットのファンファーレで皇太子がワインを船外に注ぎ、厳かに、船の名前を「プリンス・ロイヤル」と呼び、船が斜路を滑り降り始めたら担当役人がカップからワインを一口すすり、残りのワインを船の舳先から海に注ぐ。普通は、カップも海に投げ込まれ、拾い上げた人にあげていた。しかし、海軍が大きくなって建造が増えると、網でカップを拾い上げて次の浸水に再利用するようになった。
4.初期のアメリカの船はイギリス製だったので、宗教と無関係であり、自国で建造するようになっても、儀式の決め事はない。ポルトガルの強化ワインであるマデイラ酒が使われた例もある。ダイアナ妃が生前にイギリスの造船所で進水式に参加して、シャンペインをロープに付けた滑車にぶら下げて、合図で細い紐をナタでカットしてボトルを船の舳先に向けて滑らせたまでは良かったが、舳先に衝突してもボトルが割れなくて、係員が走って行って、ハンマーでたたき割ったテレビニュースを見ました。
★1995年5月、スコットランドのウイスキー街道を中心にドライブした。北端のインバネスにはカロードンの古戦場(1746年、スコットランドがイングランドに最終的に敗戦した戦い)の貴族の館跡のホテルを事前にインターネットで予約していた。12室だが豪華なホテルだったが、チェックインの時に「初めての日本からのお客様なのでCrown Prince (皇太子)がオックスフォード大学に在学中にお泊りになった部屋をお取りしておきました」との事でビックリしました。同じベッドとお風呂を使わせて頂きました。当時はデジカメはなくて、ビデオカメラの時代だったから撮りまくった事でした。 (2020/05/01)
竹本 修文

≪編集人より≫

KENZO TANGE & URTEC 1981より
 『リバプールと奴隷産業』の話題で盛り上がっています。コロナ騒動で足止めをくらって皆さん暇をもてあまして昔話がはずんでいますね。実は1979年(約40年前)に、奴隷海岸のあるナイジェリアにいったことがあり、私も昔を思い出しています。勤めていた丹下事務所に首都移転計画のマスタープラン作成を委託され、その調査を兼ねて、東京〜パリ〜ラゴスと飛行機を乗り継いで現在の首都アブジャ(Abuja)のあるジャングル地帯までの長い道のり(最後は軍のセスナ機とジープ)でした(多分、死んでも悲しむ人のいない独身だったのが選ばれた理由)。 途中、2時間以上、果てしなく広がる砂漠(サハラ)を窓から見おろしながらワイングラスを傾け(カップではない!!!しかも麗しいスチュワーデスがボトルから直接に注いでくれる!!!後にも先にもFirstClassはこの時だけ。)、『果たして無事帰ってこれるだろうか?』と心配していたことを思い出します。首都は1991年に移転し、現在は300万人以上の大都市に発展しているそうです。参考に当時作成したマスタープランの模型写真を添付します。
 尚、当時は奴隷海岸という地名は知っていましたが、ビアフラ戦争での「ハウサ族」「ヨルバ族」「イボ族」の対立が根本に奴隷貿易に起因しているとは知りませんでした。単に、民族間の融和を図るために3つの地域の中間に新しい首都を計画するという話を聞いていましたが……。 (2020/05/01)
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最後のイギリス旅行−その2
リバプールと奴隷産業

竹本修文(37回) 2020.04.27

筆者近影
 「リバプールと奴隷産業」の原稿を送ります。一般受けしない内容なので心配ですが、私にとっては長年の課題だったので、コロナのお陰で時間ができたので、一気に書きました。

1.はじめに 2.リバプール

港町リバプール

離れて56年経ってもビートルズの街 奴隷貿易の衝撃


3. 西洋史の勉強 4. 大西洋航路の三角貿易

5. 「リバプールと奴隷貿易」

奴隷貿易の起源

イギリスの奴隷貿易参入

リバプールと奴隷貿易

奴隷船

奴隷船

リバプール最初の奴隷貿易商人 奴隷貿易は何をもたらしたか?

奴隷制廃止とその後

リバプールと奴隷産業
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以下次号へ続く
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最後のイギリス旅行−その2
「リバプールと奴隷産業」を読んで

公文敏雄(35回) 2020.04.27

筆者近影

竹本さん
 ヨーロッパ事情のレポートシリーズ2で奴隷貿易が登場したのに驚きました。 恥ずかしながら「知らなかった」ことばかりで、興味深く読ませていただきました。 翻訳作業を含めたご労作に頭が下がります。
 いま思い出したのですが、私が「ガーナよさこい交流」でガーナ高校生と十数年 関わってきた間に気づいて、気の毒に思ったことが二つあります。
その1.「ガーナの高校には過去の歴史の授業が無いらしい」こと、そして「背景に奴隷貿易(奴隷狩り)があるらしい」ということ
 貴兄のレポートのセネガル訪問の箇所に奴隷狩りの様子の記述がありますね。 白人が原住民部落を襲って奴隷狩りをしたと思われがちですが、そう単純ではなく、 白人は単なる買い手であり、実は有力な部族が近隣部落を襲って狩って白人に売ったわけで (会津と長州ではないが)今では面倒な国内問題です。教科書つくりも歴史博物館つくりも 容易でないでしょう(実際どちらも無いらしい)。ガーナ政府(有力部族の継承者)が アフリカ系米国人に対して、「先祖があなた方のご先祖に過酷な運命を強いて済みません」 と謝罪したなんて信じられますか?
その2.なくならない人種差別と奴隷貿易のトラウマ
 ここから下は2015年夏に来日ガーナ高校生20人を連れて福島県に滞在した時の記録です。

 <猪苗代滞在中、AFS奨学金で来日したガーナ人高校生が留学しているという会津の高校を 訪ねた時の体験を、ガーナ高校生の一人が次のように感想文に書いている。
 「正直に言うと、この時僕は、唯一人の黒人マイケルが日本人生徒たちから人種差別を受け、 のけものにされているのではないか?可哀そうにと思っていた。しかし、ここで会った日本人 生徒たちが我々一行に手を振り、歓声をあげ、しかも近寄ってきて抱擁までするのを見て、 僕の考えが完全に間違っていたことを知った。感動すると同時に、日本人全体に対する大いなる 尊敬の念が湧いてきた」。
 ほかの感想文にも、「当初私は、ガーナにいる一部のヨーロッパ人のように、日本人も私たち アフリカ人を差別しているのではないかと考えていた。しかしそれは大きな間違いであった」 というような記述がある。ふだんはめったに口に出さない彼らのコンプレックスを垣間見て、 我々がガーナ遠征の際見学した奴隷収容・積み出し基地―世界遺産エルミナ城やケープ・コースト城 の姿が思い浮かんだ。
 16世紀のポルトガルに始まりオランダ、英国が引き継いだ奴隷貿易では、性温厚なガーナ諸部族が 「奴隷狩り」の格好の標的とされ、毎年数千人とも数万人ともいわれる犠牲者がここから積み出されて 新大陸へ送られた。父祖たちの恐ろしい体験に加え、未だに地上から消えることがない人種差別。 我われにはうかがい知れないトラウマが、陽気に見える若者たちの心底に潜んでいるとしたら、 語りかけるべき言葉が見つからない。
 
竹本修文(37回) 2020.04.27

筆者近影
公文さま
 ご丁寧な読後感を頂きまして大変嬉しく思います。
 KPCの投稿を見ると、結構旅行記がありますね〜?シチリアの記事は私と同じ所を旅行されていて面白かったです。自分の資料整理を兼ねて投稿サイトを使わせてもらおうと考えたのです。したがって、読者の興味とかけ外れていないか?気にしていました。
 昨年の旅行で、重要な目的は6月に娘の三回忌を終えたので、娘の小学校時代、大学時代の知人や学校の学生寮などを訪問する事でした。しかし、これは全く個人の事で投稿できないので、これを外して時間をかけて訪問したり、帰国後翻訳した事を4件投稿しようと決めました。やれるかな〜?と心配しましたが、コロナのお陰で休校になった孫も来なくなり、時間がいっぱいできて、パソコンに向かっています。腰痛持ちで、マッサージに通っていましたが、コロナが心配で休み、30分以上はパソコンに向かわないようにしてやっています。
 ガーナの件、中村さんとよく話をしました。私は行ったことはありません。浅井先輩がガーナ大使をされて以来表参道でスーパーヨサコイをやっていて、3回ほど見に行った事です。猪苗代の野口秀雄英世記念館へガーナの高校生が訪問されたDVDを中村さんから頂き、公文先輩たちがご活躍の様子を拝見しました。中村さんの形見として大事に保管しております。引用した貴重な本Liverpool and the Slave Tradeは、amazonでも扱っているようですが、いつも在庫なし。再入荷未定になっています。リバプールの奴隷博物館は新しくて世界一の規模なので、沢山の黒人が見学に来ています。イギリスは全国の国立・公立の博物館、美術館などは入場無料なので安上がりです。
 初期の奴隷貿易はポルトガルとスペインが中心ですが、彼らは自分のダークヒストリーの詳細な記録を公開しないのでよく分かりません。ポルトガルがアジアとの交易を始めた頃にナイジェリアの真南の赤道直下の無人のサオトメ島に食料や水の補給基地を作り、アジア原産のサトウキビ栽培を始める為にアフリカ大陸から人を入れたのが奴隷貿易の起源ですが、イギリスが横取りして農園と奴隷をジャマイカ方向に移したようですが。引用した本は、リバプーの知識人が自分たちのダークヒストリーを先ずリバプール市民に明らかにする目的なので記載がありません。公文さんがご指摘の通り、奴隷狩りには直接関わらず、Cape Coast Castleなど安全な処から指示・商売をしていたようです。この本にはこの城(要塞)が3か所に出ています。投稿したのは約10%分なので、あと90%残っています。
 アラブ人は、7世紀に北アフリカに移動し、711年にスペインを征服、南は現在のモロッコ、西サハラ、モーリタニアまで行っています。モーリタニアはセネガルと同じアフリカ人だったのデスが、アラブ人に支配されて、奴隷(アフリカ人)の売買が20世紀末まで続いていました。アラブ人が西アフリカの黒人に金と武器を渡して奴隷狩りをしていたが、その裏には西洋人がいたのです。
 フランス人は北アフリカのアルジェリアやチュニジアに進出していたが、彼らは家族で移住しました。だから引き上げるときは、アルジェの戦いのように血みどろになるのですが、イギリスはインドやアフリカでも現地人を使って植民地経営をして自ら手を汚さないのです。
 今回紹介した範囲には、イギリスが国会で奴隷廃止を決議しても、リバプールの奴隷商人は過去のコネを活用して、イギリスに住みながら、現地人に出資して奴隷貿易で利益を得ていた所まで、反省している所が他の資料と違います。「さすが、リバプール大学だ!」と賛辞を送りたいきもちです。
 南北戦争でリンカーンの北軍が勝利して奴隷制を廃止したが、開放奴隷の処遇の仕方にも興味があります。調べる資料がありません。元の国へ帰すやり方;教育もせずに、「ただ解放すればいい」いいのか?
  @ アメリカはリベリアを建国して送り込み内戦だらけ
  A イギリスはシエラ・レオーネを作ってアメリカから送り込み血みどろの内戦
  B フランスはカリブ海のハイチで開放してほったらかして未だに極貧国
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<季節便り>
庭のエビネが咲きました

中城正堯(30回) 2020.04.14

筆者近影
 3月早々に実生から育てた桃の花をご紹介しましたが、その根元で地エビネが可憐な花を咲かせました。これも桃同様に、45年前に横浜市青葉台に移住したさいに、近所の丘陵を散策中に雑木林の中で見かけたラン科の野草です。庭に移植したものは家の建て替えでいったん枯れ、これは隣家から分けてもらった二代目です。
 今では回りの雑木林もすっかり宅地化され、エビネも、アゲハチョウも、カブトムシも、シマヘビも、すっかり姿を消してしまいました。わずかに恩田川沿いにツクシやイタドリが春を告げ、口に含んでは少年時代の野生の味と香りを思い起こしています。もう一つアケビも、熟れた実を持ち帰って食べた種からいつのまにかツルが伸び、この時期に紫の花を咲かせます。秋には、今でも口に含んでは種を飛ばしつつ、甘い果肉を味わいます。
 戦時下の少年時代は食糧難で、特に甘い物は欠乏、クワの実やアケビを見付けてはむさぼっていました。今や洋菓子店にはパティシエが腕を振るった豪華ケーキがならび、花屋には遺伝子操作で生まれたのか色鮮やかな大輪のランが妍を競っています。コロナ騒動で、近代文明が脆さを露呈しつつあるなか、素朴な地エビネに慰められるこの頃です。



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新型コロナウィルスによる
総会延期のお知らせ

公文敏雄(35回) 2020.04.12
向陽プレスクラブ会員の皆様
 コロナショックでに日本列島が大揺れですが、いかがお過ごしでしょうか?
 さて、このところ感染の拡大が止まらなくなくなった様相が顕著ですので、4月25日開催予定としてご案内申し上げていたKPC総会は、情勢が落ち着くまで(見通しは立ちませんが)延期とさせていただきます。
 ご諒承のほどお願い申し上げます。
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最後のイギリス旅行−その1
ヨーロッパとイギリスの最新事情

竹本修文(37回) 2020.04.10

筆者近影
 2019年9月に久しぶりにイギリスを旅行した。成田空港開港の前年の1977年にヨーロッパ各地を訪問して以来イギリスには3年間のロンドン駐在を入れて25回目の訪問であった。回数だけならフランスの35回に次いで2番目となるが小中学生の子供達と過ごした国であり、会いたい知人やもう一度見ておきたい所が沢山あり、またイギリスが欧州連合EUから離脱(BREXIT)する事になり、自分の目で確かめておきたい事も沢山あったので、妻と二人で3週間旅行した。
最近までの20年間は個人的旅行で十数回行った。いつもレンタカーを妻と交代で運転したが、70歳でイギリスの免許も切れ、後期高齢者になって国内免許も返納したので、初めて鉄道・地下鉄・バス・タクシー・徒歩で通した。
 8年前のロンドン・オリンピック&パラリンピック前にバリアフリーが進んだと言うが、155年前に世界で初めて地下鉄を開通させて以来次々と既存のビルの下を深く掘って作った地下鉄が多くて、乗換駅などでバリアフリー化出来ない所が多くあり、非常に疲れた。地下鉄ではベビーカー(=和製英語、英:push-chair、米:stroller)と一緒には乗れない。帰国後の夫婦の感想は、「イギリス旅行はこれで最後にしよう」と、なり投稿の表題にした。今回から4回投稿を考えており、各副題は以下の@〜Cです。
@ シリーズの第1回目は、「ヨーロッパとイギリスの最新事情」の副題で、戦後のヨーロッパの歴史を概説した上で、ヨーロッパの中のイギリスとイギリス国内の事情を説明し、今回気づいた事や、今後の予測や課題を報告する。
A 次回は「リバプールと奴隷産業」という副題で、リバプール奴隷博物館を訪問し、西アフリカ・アメリカ・ヨーロッパを結んだ三角貿易と奴隷貿易産業の首都がリバプールだった事をリバプール大学の出版物などで調べたので紹介する。古代・中世の歴史に全く登場しない街リバプールだったが、ダークサイドの歴史であり、国としても表にはしたくなかった事がよくわかった。
B 30回生の中城正堯氏、西内一氏のご推薦で昨年度から公益財団法人日本城郭協会の評議員に就任しているので、2000年前のローマ軍の城郭都市ロンデイニウム(ロンドンのラテン語名)の古代地図を片手にそのカケラをさがして歩いてきたので紹介する。仮の副題は「古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン」。
C これも城郭です。1066年に現在のフランスのノルマンデイーに定住していた北欧ヴァイキング出身のノルマン人がイギリス南東部のセイステイングから上陸し、建設したイギリス中世の城郭を見てきた。仮の副題は「ノルマン様式城郭のはじまり」です。
ヨーロッパとイギリスの最新事情

はじめに 1.イギリスという国

2.イギリスを取り巻くヨーロッパの現状と課題

ヨーロッパの現状と課題

3.イギリスの事情 スコットランドの現状と将来

アイルランドの現状と将来 イギリスの東アジアとの関係

英語は強みだが弱みにもなりうる

4.イギリスに個人旅行をする方々への助言

ヨーロッパとイギリスの最新事情
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以下次号へ続く
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<新刊『サハラの歳月』のご案内>妹尾加代(35回生)さんが翻訳出版
「破天荒・感涙のサハラ!」と話題

中城正堯(30回) 2020.03.22

『サハラの歳月』
(三毛著・妹尾加代訳)
 2月末に新聞の書籍広告で『サハラの歳月』(石風社)を見付け、サハラの表題と三毛(サンマウ)という奇妙な著者名に惹かれて横浜市立図書館に購入依頼・閲覧予約の手続きをした。サハラは、1977年に筆者が編集した梅棹忠夫監修『民族探検の旅』(学研)で、高知出身の野町和嘉(現日本写真家協会会長)さん撮影の広大な砂の造形美と、ラクダとともに生きるトゥアレグ族の姿に魅了されてきた場所だった。予約直後に、小松勢津子(35回生)さんから、「セノオさんが素晴らしい本を翻訳したので、読んで!」と、連絡があった。
 やがて図書館から受け取ったのは、サハラ砂漠の写真で装丁された分厚い本で、そのボリュームにたじろいだが、読み始めると「数億の読者を熱狂させた破天荒・感涙のサハラの輝きと闇」という、キャッチフレーズ通りの面白さで、一気に読み終えた。訳者あとがきで妹尾さんは、「その途轍もない面白さと深い愛に感動し、台湾に住む作者・三毛に連絡を取り、翻訳にとりかかった」と記している。普通なら、海外の話題書は出版社や翻訳エージェントの人間が見付けて翻訳者に依頼するが、妹尾さんは自ら発掘翻訳したのだ。

著者の三毛(同書より)
 著者の三毛は中国重慶の生まれで台湾育ち、サハラの景観に憧れて移住、スペイン人と結婚してスペイン領西サハラで新婚生活をおくる。好奇心旺盛で、西洋人が近づかないサハラの現地人集落に住み、にわか医者になって危険も顧みず奥地を訪れるなど、天真爛漫な行動をユーモラスな筆致で綴っていく。このあたりは、画家・合田佐和子さん(34回生)が『ナイルのほとりで』(朝日新聞社 1987年)に書いた、エジプト・ヌビア砂漠での「ヌビア人の村での面白くて切ないオドロキ日記」と同類の楽しい異文化体験記であった。だが、最後章「哀哭のラクダ」では、スペインからの独立運動と隣国の軍事干渉のなか、仲良し女性の凄惨な最期を目撃、自らも身の危機を迎える。
 妹尾さんの訳文は、中国の教養豊かな女性によるサハラの牧畜民探訪という、日本人読者にとっては二重に理解困難な世界へ、違和感なくいざなってくれる。20数年前に「中国年画と満州」という小論をまとめる際、小松さんに紹介いただいて中国文献の翻訳に大変御世話になった。これは『季刊民族学』に発表、お陰で好評だった。妹尾さんとはその後失礼していたが、同窓会広島支部幹事長として活躍とのことを洩れ聞いていた。この素晴らしい翻訳書を、皆さまにも楽しんでいただきたい。
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母校が創立100周年を迎えるのを祝し
「土佐中学を創った人々」2000部増刷

公文敏雄(35回) 2020.03.15

筆者近影
向陽プレスクラブ会員の皆様
 拝啓 新型コロナの流行で何かとご不自由な日々を送っておられるのではないかとお見舞い申し上げます。

 さて、本日ホームページに掲載の「向陽プレスクラブ幹事会議事録」に記載のとおり、平成26年(2014年)4月に当クラブの事業として発行した「土佐中学を創った人々」を今般2000部増刷いたしました。昨年4月の総会決議に拠るものです。
 うち1900冊は、本年秋に母校が創立100周年を迎えるのを祝し、先週土佐中学・高校に贈呈いたしました。新学期早々に全校生徒・役職員に配られることになっています。(残りの100冊は小生宅で保管しております。)
 会員の中でご希望の方がおられましたら、在庫の中から進呈(無償)いたしますので、メールでお申し越しください。会員名簿に登録のご住所あて郵送させていただきます。ご参考までに、本誌の表紙、発刊の挨拶、目次のコピーをここもと添付しました。

 時節柄ご自愛のほどお願い申し上げます。

表紙

発刊の挨拶

目次

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4月25日KPC総会案内

北村章彦(49回) 2020.03.10
会員各位

 この春は新型コロナウィルスに翻弄されていますが、会員の皆様にはますますご清祥のことと存じます。
 さて、2月21日の幹事会で承認いただきました令和2年度の向陽プレスクラブ総会を以下の日程、場所、会費で行いたいと存じます。
 なお、出席、欠席および議事委任のご連絡を4月17日(金)までに返信メールにてお知らせ願います。なにとぞよろしくお願いいたします。

日時:2020年4月25日(土)17:00〜17:30 総会
              17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年度と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7
TEL:  03-3432-5666 http://syusai-romantei.jp/index_to.html
  懇親会会費 5000円
※総会議案について
   1) 2019年度活動報告 
   2) 2019年度会計報告 
   3) 2020年度活動計画案 
   4)2020年度予算案
   5)その他
    @100周年記念事業への参加について
    A「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について
    B土佐中高人物伝「「筆山の麓」から−夢を追ったあの人この人(仮題)」について

※また、令和2年度の会費2000円の納入をお願いいたします。
総会に持参あるいは向陽プレスクラブの口座への振り込みでお願いいたします。

会費の納入は下記口座までお願い致します。
> みずほ銀行渋谷支店 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ
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向陽プレスクラブ幹事会議事録

水田幹久(48回) 2020.03.09
議長 北村章彦幹事長(49回)  書記 水田 幹久
1.日時 2020年2月21日(金)  18時〜20時30分
2.場所 ビッグエコー東京八重洲本店
3.出席者 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回) 中井興一(45回) 
  水田幹久(48回) 北村章彦(49回)  以上6名
  委任状 山本嘉博(51回)

4.北村章彦幹事長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
 なお、本幹事会は出席者6名、委任状提出者1名 の7名の参加があり、構成員(9名)の過半数に達しているので成立したことを確認した。
 1.2020年度総会について、下記の要領で実施することに決定した。
   日時:2020年4月25日(土)
   場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
   港区新橋4-14-7
   TEL:03-3432-5666
   URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
 2.総会議案について
   1) 2019年度活動報告 : 幹事長配布資料の通り報告することに決定した。
   2) 2019年度会計報告 : 中井会計配布資料(会計報告暫定版)の内容を確認した。
    本幹事会から期末までの間に入出金がある場合には、これを追加して、総会に報告する。
   3) 2020年度活動計画案 : 幹事長配布資料に基づき、以下の事業を行う案を総会に諮ることに決定した。
    ・2020年4月25日 総会
    ・2020年度の幹事会は、9月、3月に拡大幹事会として実施する。
    ・高知支部懇談会を実施する。
    ・ホームページによる発信を継続する。
    ・その他。
   4)2020年度予算案
    2019年度決算案に準ずる予算案とする。
 3.その他の議事内容
    1)100周年記念事業への参加について
     前年度方針を継続し、クラブとしての参加はしないが、会員各々が個人として協力する。
    2)「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について
     公文会長より実施状況について報告があった。
    ・増刷数は2000部。1900部を在学生・職員等に配布することとし、3/11に
     土佐校へ発送する予定。増刷の費用は有志負担。
    ・送料は95,000円の予定。送料はクラブ負担とし、2019年度の支出とする。
    3)公文会長より、会員が刊行にかかわっている書籍の紹介があった
     土佐中高人物伝「「筆山の麓」から−夢を追ったあの人この人(仮題)」
     2020年9月刊行予定、1800部を母校寄贈、1200部を市販。
     クラブとしてはホームページで紹介する。
以上
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花だより

中城正堯(30回) 2020.03.07




筆者近影
 コロナウイルス騒動のなかで、蟄居の老人を慰めてくれる桃の花をお届けします。45年前に横浜市青葉台に転居した際、近所で見付けた桃の実生を育てたものです。果実は実りませんが、老木になった今も、真っ先に春の到来を知らせてくれます。
 生まれ故郷の高知市種崎は、戦争までは桃の名所で、小学に入学しB25が姿を見せ始めた戦時下も、遊び仲間と実生の桃を拾ってきては育てていました。
 狭い庭で我が物顔に咲き誇っている桃は、中国では邪気を払い、長寿のシンボルでもあります。同じく中国から渡来したコロナウイルスの邪気払いにつながることを願いつつ、眺めています。
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往時茫々、中国の旅  〜その5〜

二宮健(35回) 2020.02.03

筆者近影
 我々の中国旅行も第12日目を迎え、1979年12月8日(土)中国東北部撫順市より一旦、瀋陽市へ出て空路上海へ向う予定である。当初予定は瀋陽空港を午前10時に出発して上海へ向う予定であったが、使用する機材が未着とのことで午後2時35分発の中国民航651便に振り替えられた。
 その時間つぶしに急拠、瀋陽市遼寧工業展覧館見学になった。日本の工業技術から見ると格別何も感心する機器類は無かったが、広い大きな展示場にモーター類を中心に展示してあった。
 瀋陽発の651便は中国としては当時新鋭機の英国製ジェット機トライデント(中国名、三戟機)を使用していた。(写真@)(写真A)(写真B)

@1979年当時の中国民航トライデント機
A1979年12月8日瀋陽・上海間の中国民航651便の機長署名

二宮作成のものに署名してもらった

B同機の機内預けの荷物タッグ


C現在の上海虹橋国際空港待合室
 機は午後4時15分定時に上海虹橋空港へ到着した。現在では浦東と虹橋と二つの国際空港を持つ上海だが当時1979年の虹橋は国際空港とはいっても、うらぶれたローカル空港であった。(写真C)

D1979年当時の静安賓館のシール
 いつものように空港には中国国際旅行総社上海分社の沈天麟さん、通訳の梅恵良さんが出迎えてくれた。あいさつをした後、上海市内へ小型の貸切バスで向った。空港から市内まではそんなに遠くなかったが、夕暮れ時のうす暗い道路を通って市内に入り華山路にある静安賓館にチェックインをした。(写真D)

E毛沢東語録
 このホテルは開放前は、大金持の邸宅だったとのことで、改装してホテルになっていたが、上品で落ち着いた雰囲気があって旅行中で一番良い印象のホテルであった。上海も現在のように五つ星クラスのホテルから、ビジネスクラスのホテルまで何百とある沢山のホテルは当時には無く静安賓館などは当時1979年頃は外客用の一流ホテルであった。上海は文化大革命当時江青をはじめとする四人組の拠点、本拠であり、それだけに奪権斗争も激しかった場所であり、まだその疲れが都市に澱んでいた。(写真E)

F訪中時1979年の上海大履と
外灘の外白渡橋

G現在の外白渡橋と
ブロードウェイマンション
 戦前から日本でも有名であった上海大履(ブロードウェイマンション)や外灘(バンド)には、戦前の上海租界の建物が建ち並んでいたが、建物の外壁は洗われることもなく、年数が経っておりくすんでいた。(写真F)と、現在の同場所(写真G)

H1979年当時の上海の人々の服装
 勿論、現在のように浦東地区はまだ開発建設されておらず浦東空港も無かった。当時の上海の庶民の服装もまだまだ画一的な服装であった。(写真H)
 旅の13日目、1979年12月9日(日)の上海見学は午前中、上海市揚浦区少年宮を訪ね責任者の施佩珍さんという女性から説明を受けた。少年宮とは人口25万人以上の都市に設けられる施設で上海市には13の少年宮があり、揚浦区少年宮は1959年の設立で対象は7才から15才までの少年少女が学校以外で行う課外活動で午後3時から5時まで開放され日曜日は全日開放され、全額少年宮の経費は国費で運営されており、1日に約1,000名の子供が活動に参加するとのことであった。

I揚浦少年宮で床運動の指導を受ける少年達
 建物は3棟あり、科学技術、工芸技術、文芸(音楽・舞踊)3部門から成り、職員は54人で他に定年退職者10人、学校教育者10人がボランティアで協力援助してくれているとの話しだった。(写真I)
 この日の午後は上海市上海県(中国では市の下に県が行政機関としてある)の荘人民公社を見学した。人民公社の革命委員会副主任沈長鑑さん、政治委員陳倍先さん、弁公室趙永明さんや公社員の説明で午後ずっと見学をした。
 少し長くなるが、当時の人民公社の内容を記してみる。人民公社とは何かも理解いただけると思う。(写真J)(写真K)
 荘人民公社は長江(揚子江)のデルタ地帯にあり、漁米の宝庫といわれている。解放前には8,000人の農民が従事していたが、自給自足ができず、広範な農家は食うや食わずの生活をよぎなくされていたそうだ。解放後は、中国共産党の指導で集団生産を開始し、特に人民公社が成立してから17年間連続して増産に成功し、副業もかなり発展をして、都市部に農作物を供給して、労農団結に役立っているとの政治委員からの説明があった。

J1979年12月9日(日)に訪れた
上海市上海県荘人民公社の正門

K1979年12月9日(日)
上海市内の商店街
他に公社員は1969年からの合作医療制度の発足で1人15元を前払いすることで、病気の際は無償で治療が受けられること、また公社員には1人50uの自留地制度があり、使用権は農民、所有権は組織にあるなどの説明を受けた。また欠点として機械化が進んでおらずまだ手作業に負うところが多いとも言っていた。
 また人民公社の施設の@衛生院(鍼灸の治療状況)A灌漑用電力操作場B農機具工場C牧牛・養豚場Dマッシュルーム栽培場E飼料・肥料工場F公社員住宅などの案内と説明を受けた。
 この人民公社は1958年9月に成立し、1979年で21年の歴史があって、公社は3段階に分れ、生産8大隊、生産81隊からなっており、他に育種場、養魚大隊がある。農家戸数3,825戸、14,481人、敷地18?、耕作面積1,131haで作物は、主に米、綿、菜種、野菜、西瓜の他に漢方薬草などだと説明があった。公社成立後は、経済力を集中し、七つの工場を設けた。農機具工場、農産物加工々場、電気部品生産工場、木型工場、器具修理工場、服飾・家具工場、機械修理工場を直接管理しており、このほか生産大隊も小さな工場を経営しており、それ以外にも運輸グループ、建築グループなどがあると広範な説明を受けた。

Lケ小平

M1979年12月の
上海歌劇院のパンフレット

N当時の上海?酒
(ビール)のラベル
 後日、歴史的に見てみると、人民公社や革命委員会はケ小平(写真L)がすすめつつあった政策により、段々とそれらの組織が無くなりつつある時代で、我々訪中団はその変革期のまっただ中を旅行していたのが、良く後日になって理解出来た。まだケ小平は華国鋒の権力を全面的に奪権する直前の時期であった。
 その夜は、上海歌劇院舞踊団神話舞劇を見物した。(写真M)(写真N)

 旅の14日目、1979年12月10日(月)はいよいよ中国旅行の最終日となった。

O上海鳳城工人新村
 午前中は上海市揚浦区鳳城工人新村の訪問見学である。同工人新村の幼稚園と工人家庭を訪問した。案内をしてくれたのは、同工人新村街道婦人連合会の馬初伏さんという婦人であった。日本で言えば町内連合婦人会長とでも言う肩書であるが、共産党の党員でもあって街の目付役もしているらしい。この新村は解放後1952年に建設され、揚浦区には16の新村があり、都市市民の住宅団地であり、2階建から6階建まで800棟あって、電気、水道、ガスの設備が整っており、面積は367,000u、世帯数11,000戸、人口48,000人で産業労働者が主で、医師、教員、科学技術関係者、商店員などが住民であり、商業センター、郵便局、銀行、書店、市場(4ヶ所)、公園、文化施設、グランド(2ヶ所)、託児所4、幼稚園5、小学校6、中学校3などがあり、病院(小さい街道病院)などがあると説明を受けた。又、定年退職年令は肉体労働で男60才、女50才、頭脳労働者は男、女共に55才であり、退職金(年金に当る)給付は、退職時の70〜80%相当が受給出来ると説明を受けた。日本では、公団住宅のような大規模な団地であり、当時1979年における中国が自慢できる集団住宅であったように思う。(写真O) 

P表敬訪問をした上海市人民政府と
中国共産党上海市委員会
 午後には、最後の公式訪問となる、上海市革命委員会を表敬訪問した。
 同委員会外事弁公室副主任斉維礼さん、旅遊局副局長徐唯宝さん等の幹部が出迎えてくれた。上海市は文革当時四人組の拠点であり、中国共産党はこの時期上海での政治革新を命題としており、訪問時には、既に革命委員会の名前を上海市人民政府と変えており、中国共産党上海市委員会の2枚の看板が建物には掛けられていた。(写真P)
 同日夕刻、中国での全行程を病人や事故もなく終えて上海工芸美術品服務部や友誼商店で帰国の土産を購入した。(写真Q)(写真R)

Q上海工芸美術品服務部のシール

R1979年当時の中国訪問客の
外貨兌換証明書類

S上海発長崎行788便の荷物タッグ

友好訪中団の団員名簿と表紙
 我々一行は1979年12月11日(火)に上海空港発午後2時発日本航空788便(中国民航と共同運航)で長崎へ午後4時43分(時差1時間、中国時間午後3時43分)に到着し、国内線にのりかえ長崎発午後7時35分発全日空170便にて大阪伊丹空港へ午後8時40分に到着した。(写真S)(写真

追記


初訪日したケ小平の一行

大平正芳首相と大平首相夫人は12月
9日訪問先の西安で“温古(故)知新”と 
揮毫をした。同日付の人民日報紙。  
我々一行が上海滞在中のことであった。
 往時茫々たる1979年の訪中記であるが、私達の訪中1年前の1978年に日中平和友好条約の批准書交換のため、当時はケ小平副総理だったが事実上の中国首脳として10月22日に来日して(ケ小平の初訪日)昭和天皇とも会談した。(写真
 またこの答礼として1979年12月5日から12月9日まで中国を訪問した大平首相。我々一行が訪中をしているまさにその時期に当り、我々一行も各地で盛んに一行の動静と比較して日中友好のもてなしを受けた。(写真

2014年9月30日日中航空路開設40周年式典
 なお、日中間の定期航空路線が中国民航と日本航空の相互乗り入れを開始されたのが1974年9月29日のことである。(写真
 ここに政経不分離といわれるが、ケ小平が実権を握り、我々が訪中した頃(1979年)の中国の一人当りの国内総生産額は、当年価格で1979年が423人民元、米ドルで272ドル、それが2017年には、59,660人民元、米ドルで8,833ドル(米ドル表示は各年平均レートで算出)いかに37年間に経済が成長し、中国が経済面でも発展したかが理解できる。
資料2018年版「中国統計」摘用
 私が約4年に1回程、この初訪中時より生業の関係で(定年退職後はプライベートで)中国を訪れてきたが、その成長のスピードには驚くべきものがあった。1979年筆者37才の初中国旅行は、令和元年の現在から見ると、往時茫々の感がしてならない。

〜 終 〜


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往時茫々、中国の旅  〜その3〜

二宮健(35回) 2019.12.23

@訪中時1979年の遼寧賓館のシール

A現在の遼寧賓館
 夜行寝台列車は窓の外には、ほとんど灯の見えないまま、翌朝1979年12月4日(火)の午前7時に瀋陽駅(旧奉天駅)に到着した。古い駅舎であり、何となく淋しい感じのする駅であった。中国東北部の主要都市である。日本出発前から、満州という言葉には注意することと、言われており、使うなら偽満州国と呼ぶようにと注意されていた。 旧奉天市であり、日本が中国へ軍事的侵略をしていた際、張作霖が根拠にしていた地である。日本人にも古い世代にはよく知られていた地である。駅頭には、中国旅行総社瀋陽分社副社長王棟さんと通訳の張鳳翔さんが出迎えており、あいさつを受けて、着後すぐに駅近くの天津市紅旗広場にある、遼寧賓館(戦前の満鉄ヤマトホテル)で旅装をといた。(写真@)(写真A)

B訪中時、紅旗広場の毛沢東像

C中山広場と名を変えた場所の現在の毛沢東像
 良く言えばロマンチックなホテルであり、このホテルを中心に戦前の満州での権謀術数が行われていたことを思うと感無量であった。それも、訪問時から30数年前のことである。数々の満州の歴史に登場するホテルである。又ホテル前の紅旗広場には巨大な毛沢東の全身像が台座の上から手を上げて広場を見下ろしていた。中国共産党の象徴である。(写真B)(写真C)

D瀋陽市革命委員会を表敬訪問
 我々はホテルに荷物を預けチェックインをした後すぐに瀋陽市革命委員会を表敬訪問して革命委員会副主任田光氏、外事弁公室副主任張国端氏、同処長費宝民氏、工作員鄭雲起氏その他の人々より歓迎あいさつを受けた。(写真D)
 そして瀋陽市の概要の説明を受けた。ここは清朝発祥の地であること、北京・上海・天津につぐ中国第四の人口を持ち、重機・軽機の工場が沢山ある大工業都市であって東北3省を統括する行政・経済の要の都市であり、芦屋市民の代表団を熱烈に歓迎するとのあいさつを受けた。

E瀋陽羽毛工場の羽毛画製作
 ホテルへ戻り、昼食の後、午後は瀋陽市羽毛工場を見学した。羽毛の工芸品は古墳からも発掘されており、二千年の歴史を持ち、孔雀や鴎など約30種類の鳥の羽毛から羽毛画をつくり、日本やアメリカなどに輸出をしており、従業員は350人で70%が女性だと羽毛工場の接待員の女性の張さんより説明を受けた。(写真E)

F瀋陽市玉石工場の製作現場
 そしてひきつづき瀋陽市玉石工場を見学した。ここは瑪瑙(メノウ)の一種の「緑石」を磨いて、鳥や動物などの装飾品を作っており、約630人の従業員で70%が女性であり、輸出向けの芸術品を製作していると、工場長の王氏より説明があった。(写真F)

G1979年派遣された神戸天津友好の船
 今迄巡ってきた北京・天津・瀋陽と本当にこまやかな接待を受けてきた。この年に(1979年)神戸天津友好の船を派遣しており、数百名が参加した大型の訪中団であったが、(写真G)それに比較して我々は、少人数の17名であり、なおかつ、市民代表団ということで心のこもった接待が受けられたのかもしれない。
 この夜、夕食を終えて、入浴をして、タオルを持ってホテルの外へ出てみると、そんなに寒いとは思わなかったが、タオルの水分がわずか15分位でパリパリに氷結したのには驚かされた。外気温はマイナス20℃とのフロントの係員の話しであった。このホテルでは、日本植民地時代の旧満州の話しを聞きたくて、中高年の戦前を知っているであろう従業員に通訳を交えて聞いてみたが、誰も通訳を気にしてか、その話しには応じてくれなかった。
 旅行も八日目が終ろうとしていたが、この日の夕食にはお粥が提供されて団員の皆が大変喜んだ。と言うのも初日から我々に対しては朝・昼・夕食ともに豪華な中国料理を提供してもらっていたが、さすがに腹にこたえてきた。特に油が多いのがこたえた。そこで団員から何かさっぱりした料理が欲しいと申し出があり、全行程随行の張氏へ申し入れた。食事の差配は、彼が現地の中国国際旅行社の現地分社にしているからだ。何のことはないお粥であったが、皆さんはおかわりまでして喜んで食べていた。久しぶりにホッとした夕食であったようだ。日本から持参した梅干や佃煮などが、各人から持ち出されて分け合って口にしていた。やはり和食が懐かしいのである。
 スチーム暖房がチンチンと鳴ってなかなか寝つけなかったが旅の9日目、1979年12月5日(水)は瀋陽市内の参観である。

H歓迎をしてくれる小学生達
 午前中は市内鉄西区啓工街第2小学校(校長占栄さん女性)を訪ねた。
 小学校は日本と同じく6年間であり、校舎が狭くて学校数も少ないので午前、午後の2部制であり、「知・徳・体」調和の教育を貫き文革10年の遅れを取り戻すために教師も生徒も頑張っているとの説明であった。日本と違い「政治」の時間があり、マルクス・レーニン主義や毛主義を教育しており、体育の時間には近視をなくするための目の体操があり、成績優秀な生徒には飛び級制度もあるとのことだった。鉄西区は新中国建国後は、有名な重工業地帯であり、工人達の子弟のための小学校のようであった。子供達は歓迎のために京劇風の化粧をして踊りで我々を迎えてくれた。(写真H)

I瀋陽故宮1979年12月5日(水)

J現在の瀋陽故宮太政殿
 持参したポラロイドカメラで撮影して渡すと我も我もと欲しがり、高価な印画紙がなくなりかけて嬉しい悲鳴であった。小学生は中国でも日本でも無邪気である。この日の午後には、瀋陽故宮を見学した。清朝は1644年に北京に入城する迄は、ここ瀋陽故宮に本拠を置いた満州族の王朝である。ここが王宮であり、太祖ヌルハチと第二代太宗ホンタイジはここに住み、後代の清朝皇帝もたびたび故地であるここを訪れている。

K瀋陽雑技団のパンフレット
1979年12月5日(水)
後になるが2004年に瀋陽故宮は北京故宮と共に世界文化遺産に登録された。(写真I)(写真J)
 広い故宮ではないがそれでも午後いっぱい瀋陽故宮の見物に費した。
 そしてその夜は瀋陽雑技団(サーカス)を見物して宿舎の遼寧賓館へ夜遅くに帰館した。(写真K)
 旅も10日目を迎えた1979年12月6日(木)は午前中、瀋陽の北陵を見学した。正式名は昭陵と言う。(瀋陽市の北方にあることから通称北陵と呼ばれている)330万平方メートルの広さを持つ。清朝2代皇帝ホンタイジ(太宗)の墳墓である。8年の歳月をかけて造営されたと言う。
 我々が訪れた1979年は、現在のように公園として整備されておらず、少し荒れた感じがして、前日に訪れた、瀋陽故宮も同様の感じで、まだ発展途上にあった中国としては、そこまでまだ手が廻っていなかったのかも知れない。この昭陵も明の十三陵と共に2004年に世界文化遺産に登録をされている。午後は瀋陽市内の参観であった。ここに2枚の写真を提示してみる。1979年当時の瀋陽市の繁華街(写真L)と現在の瀋陽市の繁華街(写真M)である。

L1979年の瀋陽の繁華街

M現在の瀋陽市の繁華街
 2枚の写真を見ると隔世の感を覚えるのは、筆者だけではないと思う。約40年前の中国からは想像も出来ない発展ぶりである。
 さて、旅の11日目、1979年12月7日(金)は、宿泊していた遼寧賓館に約50キロの距離を約1時間かけて撫順市のマイクロバスが出迎えに来てくれた。朝食後、午前8時30分にホテルを出発して撫順市へ向った。中国旅行総社撫順支社長の林躍森さん、通訳の陳意祥さんが工人服姿で乗っており、

N1979年12月の撫順市

O現在の撫順市繁華街
車内であいさつを交した。瀋陽の東約50キロの撫順市へは約1時間40分位で到着した。バスの中で東洋一の大炭砿を持つ人口100万人の大都市であると説明を受け、到着してすぐに撫順賓館に旅装をといた。そして午前中に撫順市彫刻庁を見学した。副工場長の張振友さんから、特産の石炭を使った彫刻の説明を受けた。ここにも2枚の写真を提示してみる。1979年12月7日(金)の撫順市の繁華街(写真N)と現在の撫順市の繁華街である。(写真O)
 約40年経過しているとは言え、昔日の中国東北部撫順市の変貌には驚かされる。
 昼食を撫順賓館でとり、(写真P)午後は撫順炭砿と平頂山洵難同胞遺骨館への献花へ向った。

P宿泊した撫順賓館の部屋割

Q1979年12月7日撫順西露天掘炭砿

R現在の撫順炭砿
 戦前から満鉄が経営していた有名な撫順市西露天掘炭砿工場である。長さ6.6km、幅2km、砿底まで260m、巨大なヒョウタンをタテに二つに切り開き中味を取って地中にはめこんだような形で大きな「水の無い湖」といった型で、労働者1万8千人、内女性が2,400人で1914年から本格的に採掘し始めたと副礦場長の李さんから説明を受けた。(写真Q)(写真R)

S我々訪中団の捧げた花輪

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨
 更に我々は平頂山事件で知られる現場へと向い献花を行い慰霊を行った。

旧満州撫順炭鉱の地図

1979年12月7日(金)撫順賓館
手書きの夕食メニュー
 1932年の夏、平頂山という名の600戸、3,000人のこの村落に日本軍が攻め入り、村民全員を惨殺し焼き払ったと中国の歴史に残る犯罪行為をした場所で、発掘し安置されている800余柱に花輪を捧げ冥福を祈った。(写真S)(写真)(写真
 その後撫順賓館に帰り、一泊した。
 いよいよ旅も最終行程に入り、明日は上海へと空路向う。(写真)(写真
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吉川 順三さん(34回)追悼文
有難い先輩でした

公文敏雄(35回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者近影
 重篤な病とは人づてに伺っていたが、早すぎるお別れとなった。

 伊豆の高原にお住まいで、「温泉もあるから遊びに来いよ」とお元気なころおっしゃっておられたのに、つい行きそびれてしまったのがいたく悔やまれる。最後にお会いしたのは昨年4月のKPC総会であった。
 吉川先輩は、昭和31年(1956年)高校1年の春に入部するやいなや、上級生の早い引退で部活動の第一線に立たされたという。まもなく中3の私も入部したから、ご指導いただいたのはそれ以来である。文章の書き方(「体言止め」などは後々まで使わせていただいた)、ヘソ、腹切りなど技術的なことを教わっただけでなく、「学説や理論ではない、記事は足で書くもの」という言葉を常々聞かされたものである。
 この厳しい現場主義は、紙面の独走、跳ね上がりを防いだだけでなく、筆者が社会人になってからのキャリアにも多々影響をおよぼしたのではないかと今になって思う。


 向陽新聞バックナンバーで、吉川先輩が活躍されたころの紙面をこのたびあらためて見ると、文字通り「足で書いた」報道記事の多さが目立つ。昭和31年12月発行の34号3面トップ(当時は4面)に写真入りで「大さわぎの修学旅行ー女生徒も酔っぱらう」という衝撃的な記事を載せて波紋を呼んだが、明けて32年2月の35号ではさっそく大嶋校長の苦言「あれは君よほど慎重を期する問題だよ。新聞部の諸君が真に学校を愛してくれたとは思えんね。あれが世間に及ぼす影響を考えてみたまえ。・・・扱い方が問題だ。今後はよく勉強してくれたまえ」を伝えるとともに、旅行のあるべき在り方に焦点を転じて特集を組み、改善のための幅広い声を集めている。
 ある時は、「何か注文があるかね」と校長に訊かれたので、「土佐高は受験に閉じ込め過ぎだと思う。せめて全校集会のたびに校長先生が“一期校の試験まであと何日”と繰り返すのはやめてほしい」と言上した。校長は「進学第一の方針は変えない。運動部も文化部も活発にやれている。・・・あの“あと何日”は年に1回だけにするよ」と答えたそうである。(KPCホームページに平成23年8月吉川先輩が寄せられた回想文「居心地のよい新聞部」より)謹厳で普通の生徒には近寄りがたかった大嶋校長との師弟らしいやりとりが興味深い。

平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて
左から故吉川、筆者、濱崎の各氏
 吉川先輩には卒業後久しく御無沙汰していたが、2010年3月のKPC(再発足)設立準備委員会の場で再会、以来、幹事会・総会でたびたびお目にかかって高顔に接することができた。先輩の毎日新聞記者時代のご活躍ぶり、特に関西木材業界の雄だった安宅産業の崩壊、海運業界の暴れん坊三光汽船の倒産、リクルートの破たんなど、並の記者なら一生に一度あるかなしかという大スクープにまつわるお話には、たまたま前2社が小生の銀行勤務時代(融資担当)の直の取引先であったこともあり、引き込まれていった。
 語る吉川先輩のお顔を拝すると、温かいまなざしの中に独立不羈の気をしのばせて、坂本龍馬の風貌を彷彿とさせたとするは、弟子たる筆者の贔屓目だろうか。

吉川順三さん投稿記事:  2011.08.05居心地のよい新聞部  2016.03.12新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
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吉川 順三さん(34回)追悼文
ジャーナリスト魂を貫き新聞協会賞

中城正堯(30回) 2019.12.23
肺癌抱え田島兄弟の活躍を注目

故 吉川 順三さん
(毎日新聞大阪本社時代)

筆者近影
 11月末に思いがけない知らせが届いた。吉川順三君(34回生)の奥様からの喪中ご挨拶状で、「夫 順三は肺癌の為、この四月七日、七十九歳の誕生日を前に亡くなりました。昨年夏の初めに診断され、余命十か月を淡々と朗らかに過ごしました。<楽しく幸せな生涯だった>と、書き遺しております。・・・>
 実は、昨年夏の終りに「土佐中高100年人物伝」の企画を相談したくて伊豆大室高原の自宅に電話すると、本人が出て明るい声で、「肺癌で検査入院からい今日帰ったところ」とのこと。「これからは療養に専念するので、申し訳ないが執筆などのお手伝いも、向陽プレスクラブ(KPC)への出席もできない」と言う。余命十か月と告げられていたとは、いつもどおりの口調から全く気付かず、また元気になったら頼むとお願いして電話を切った。
 昨年5月には、KPCのHPで連載中だった「素顔のアーティスト」で田島征彦・征三兄弟を書くため、同級だった吉川君に情報提供をお願いした。メールでの返事には、「田島兄弟とはすぐ近くの隣り村で育ち、小学校のころから画の教室で一緒でした。中学・高校も同級、征三君は偶然にもまた伊豆で近くに住んでいます。私は閑居していますが、彼は痩身をものともせず、国内外を飛び回って大活躍です。特に今年は新しい分野の新聞広告デザイン(スポンサー伊藤忠)で日経賞大賞を受け、各紙の全面を飾ったことで注目されました。恒例になっている新潟十日町の地域を巻き込んだ国際芸術祭でも幹事役をつとめ・・・」とあった。この知らせのお陰で、6月に「大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟」をまとめることができた。
 吉川君がマスコミ界から引退しても、同級生など仲間の活躍を暖かく追っていたことに気付かされた。小生の拙文も、よく読んでくれていた。『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』もいち早く読み、「ケーべル博士のことなどよく調査取材して、知られてなかった校長の人物像を浮き上がらせている」と、言ってくれた。筆者は作家などに原稿を依頼する編集育ちで、取材執筆の訓練は新聞部以外では受けてないだけに、練達の取材記者からの反響は先輩へのお世辞混じりでもうれしかった。以後、「版画万華鏡シリーズ」でも、彼のような読者がいることを肝に銘じて執筆してきた。
リクルートで世紀のスクープ

平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて
左から故岡林、筆者、森田、故吉川の各氏
 今回も藤宗編集長から依頼を受け、かつて毎日新聞の大阪本社経済部長時代にリクルート関連のスクープで新聞協会賞を受賞したことや、民博梅棹忠夫館長の会合で彼と出会い、経済界だけでなく学術・文化の識者とも幅広いネットワークを築いていたことを思い出した。しかし、記憶だけで手元になにも資料がないので、失礼を顧みず、奥様に資料提供をお願いした。快く送付くださった資料と、添えてあったお手紙から、記者活動の一端を紹介させていただこう。
 経済記者のみならず、新聞記者としての最高の栄誉の一つが、毎年日本新聞協会が発表する新聞協会賞である。これには第一部門(ニュース)、第二部門(連載企画)など六部門に分かれて授賞作品が選定される。なかでも、社会・政治・経済・学芸などの分野を超えて、過去一年間で最も価値ある報道ニュースとして選定される第一部門が、注目される。平成4(1992)年度、この賞に見事輝いたのは、毎日新聞大阪本社経済部長・吉川順三を代表とする<「リクルート ダイエーの傘下に」江副前会長の持ち株を譲渡のスクープと一連の続報>であった。
 協会賞を発表した『新聞研究』1992年10月号には、「情報を棄てずに可能性を探る」と題して吉川部長の、大スクープの発端から綿密な裏付け取材、さらに記事掲載のタイミングまで、見事なチームプレーが明かされている。この記事が出た直後、ダイエー中内・リクルート江副の両トップが記者会見でこの報道を認め、各社が後追い記事を書く。しかし、長期間にわたって取材を重ね、この出来事の背景から両トップの関係、さらにはこの買収劇の経済史的意味付や、体質の異なる企業の合体が及ぼす影響などをしっかりおさえた毎日の記事は、他社の追従を許さない圧勝だった。まさに、経済界が迎える大型合併の時代と問題点を先取りした世紀のスクープであった。

2010年、向陽プレスクラブ設立総会にて
左から横山、故吉川、故岡林の各氏
 吉川君は高校時代、中学入試漏洩問題の余震が続くなか、「向陽新聞」31号32号の「主張」やコラム「ひとこと」を担当、校長・生徒双方に信頼回復を呼びかけている。毎日時代にもコラム「憂楽帳」で、さまざまな経済世相にやんわりと注意を促し、コラムニストとして天性の才能を発揮してきた。さらに、高松支局長時代に瀬戸大橋の開通、大阪経済部で関西新国際空港の開設など、巨大プロジェクトの報道を担当、関西の政財界人から信頼されていた。いっぽう経済記者ながら関西文化人とも親しく、梅棹館長たちとの酒席では、小松左京、石毛直道、小山修三などの先生方とも昵懇な様子を見かけて驚かされ、また嬉しくなった。こうした人柄を見込まれ、関経連の会長はじめ財界人、大阪府知事・市長、高知県知事などを発起人に誕生した「大阪ジョン万の会」の事務長も長く引き受けていた。ただ、高知市長選にまで担ぎ出されたのは、気の毒であった。
「見るべきものは見た」

土佐高新聞部の種崎海水浴キャンプ。後列左から:3人目が故吉川、
麦わら帽が筆者、その右で顔を隠しておどける故秦洋一。
中列:故岡林、公文 前列:左端故合田、?人目が久永の各氏。 1956年
 退職後は大阪から伊豆に転居し、やがて東京での向陽プレスクラブ総会にも、よく顔を出してくれた。奥様もお手紙で、「順三は懐かしい土佐中・高時代の、中でも新聞部での思出は深く大切にしていた」と記している。筆者は、大学時代に帰省した際に、大嶋校長を囲む座談会(34号掲載)に引っ張り出されたのと、新聞部の夏休みキャンプ・新年会で会った程度だ。だが、吉川君の時代は新聞部の黄金期で、朝日新聞で医療ジャーナリストとして活躍した秦洋一、NHK高知支局で「清流四万十川」を制作して全国に印象づけ、本社に戻って運動部長だった國見昭カ、それに画家合田佐和子、これら個性派をうまくまとめる浜田晋介・山崎(久永)洋子など多士済々で、在学中も社会に出てからも、注目してきた。
 吉川君の長男が、ふと父に「マスコミに進みたい」と漏らしたとき、彼は「この世界で見るべきものは見た。別の道をめざせ」と、諭すのを奥様は耳にしている。厳しいマスコミの世界で、先頭を駆け抜けた彼ならではの想いだろう。長男は経済界で、次男は学界で活躍中と聞く。晩年の年賀状には、「伊豆閑居 妻の傍らで熱燗を飲む」と記してあった。ここで拙文は終え、奥様のお手紙の一端をご紹介しよう。
 「お尋ねの〈新聞協会賞〉の頃は、順三の記者としての仕事の中でも最も充実していた時代だったと思います。・・・お電話でお話しました梅棹忠夫さん、小松左京さんを囲む国立民族学博物館の先生方との飲み会は、毎月一回何年か通い、楽しみにしておりました。社外に広くネットワークを持つことをこころがけ、大阪ジョン万の会を頼まれたのも、その人脈の延長上であったと思います。五十三歳で新聞社をやめたとき、驚くほど大勢の社外の皆様が会をして下さり、サントリーの佐治敬三さんがお得意の〈ローハイド〉を歌って下さったのも思い出となりました。高校時代の助走から本人が〈見るべきものは見た〉と言えるまで、志を実現できたのは本当に幸せだったと思います。」
合掌
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吉川 順三さん(34回)追悼文
また会う日まで

久永洋子(34回) 2019.12.23

故 吉川 順三さん

筆者旧影
 吉川順三さんが御病気だということを知ったのは昨年11月でした。お電話をすると、明るいお元気な声で「余命いくらと言われているし、脳にも転移していると言われているけれど、人間はどうせ皆死ぬんだから、なるだけ元気に明るく生きようと思ってるよ。明日はゴルフに行くよ。」と言っていました。そして、「来年春の新聞部の会に行かない?」と言いましたので「吉川君が行くなら、ご一緒にいくわ。」と答えました。
 春になり、新聞部の会はいつかしらと思っている頃、34回生の友達から「吉川が亡くなったよ。」と電話がありました。合田さんが亡くなった時、追悼の文を書かれる時、「何か思い出すことある?」と何度もお電話をいただいたのですが、まさか、こんなことになろうとは。まだ、信じられない気持でいます。
 思えば、新聞部で毎日のように賑やかに活動していた頃からの長いお付き合いでした。新聞部では論客で、理屈っぽく、信念の人でした。土佐のイゴッソウでもあり、しかし、やさしい人でした。卒業後は、就職してずっと高知に居る私をよく尋ねて下さいました。新聞部の人は皆さんそうでしたが、大学の香り、会社の香り、都会の香りを伝えてくれました。吉川君毎日新聞、秦君朝日新聞、国見君NHKとマスコミに羽ばたき、陰ながら私の自慢のお友達でした。いつか、小さなお嬢さんの手をひいて尋ねてこられて、3人で桂浜に行ったこともありました。

1961年 母校新年会での筆者(中列の美女)
 毎日新聞で御活躍の頃、突然、高知市長選に出馬された時、驚いた人達がいましたが、何となく私は彼らしいと思いました。まっすぐな太い道を進みながら、その道を進むことに一寸照れて、ふと道を変えてしまうシャイなところのある人でした。
 市長選の後、高知の同窓会にサラッとした顔で出席されました。きちんとスーツを着ておられたので、「ステキになったね。」と言いますと、「今頃気がついたか」と言われました。そしてある時も私の家にお電話下さって、私は留守で夫がお名前を聞いていました。あとでお電話すると、「むつかしそうな旦那だね。」と言われました。確かに!何となく慰められたような気がしました。
 あの吉川君と冗談を言い合い、何となく笑ってしまう日がもうないのでしょうか。でも、私の年齢になりますと、またお会いできる日は遠くないように思ってしまいます。私のまだ知らないところに行かれても、どうかお元気で明るく過ごされますように……。
 頂いた年賀状を眺めて、吉川君をしのんでいます。

   同老同閑同趣の輩
   長棹短竿魚信を待つ
   鏡海は白雲碧空を映し
   猶願う潮満ち銀鱗多かれと
     (戯順2018年)
   忖度は「毛頭なし」とカミ告げる
   余命知り時に及んで釣りゴルフ
   批判したこの世に今やただ感謝
     (戯順2019年)

 私の拙い歌を書かせて頂きます。

   また会おうねと 書き添えくれし 年賀状
   いきいきと 太い字は残されて

   令和を見ず 旅立ちし友よ いつか逢う
   日には伝えむ 楽しきことを

   階段の 廊下の隅の 小さき部屋
   新聞部の皆と も一度会いたい

 吉川さん、本当にまたお会いしましょうね。
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往時茫々、中国の旅  〜その3〜

二宮健(35回) 2019.12.23

@文化大革命

A文化大革命
 北京滞在中に私はほんの数年前まで(1966年?1976年)続いた文化大革命という未曾有の混乱について、色々な人に聞いてみたが、 荒波にのみこまれたであろう、北京の人達は、こちらの顔をじっとみつめながら、何も答えずさも迷惑そうな顔をするのが、印象的であった。文化大革命への評価が定まったのは、1981年(昭和56年)6月の中国共産党第11期6中全会であり、ずっと後のことである。まだ一般の人には、文革に対する評価など出来る時期ではなかったのであろう。昨日迄正義と信じこまされていた文革が突然終りまだ何がなんだかわからないということであったと思う。それは第2次大戦敗戦後の日本国民のとまどいと同様であった。正義だと信じていた社会感が崩れ去ったのである。(写真@)(写真A)

B訪中当時の「兌換」中国元
 ここで現在と昭和54年当時の様子を比較してみよう。平成17年(2005年)11月30日にIMF(国際通貨基金)理事会は、人民元を世界の主要通貨と位置づけ、ドル、ユーロに次ぐ第三の通貨に位置づけて第4位の通貨となった日本の円を抜いて国際的な通貨システムの中でも、中国の存在感が強くなっている。しかし我々が訪中した昭和54年(1979年)当時の人民元はまだ弱い存在でしかなかった。(写真B)昭和54年1月には、米・中の間で国交が樹立され、2月には、ベトナムと戦端を開いている。

C若き日の習近平
 また、昭和54年4月には、現国家主席の習近平が、清華大学を卒業して、中国軍事委員会弁公室に入り、当時の国防相の秘書として官僚の道を歩み出している。(写真C)そんな時代に我々訪中団は中国を訪れたのである。

D天津友誼賓館のシール
 北京を後にして我々一行は11月30日(金)北京駅を午後5時47分発の列車で次の訪問地、天津市へ向い午後7時47分に天津駅に到着した。駅頭で中国旅行総社天津分社副社長李疾風氏、日本課々長で通訳の徐錦康氏、女性通訳の張文紅氏、燕氏の男性2名、女性2名の出迎えを受け歓迎のあいさつを受け出迎えのバスにて宿泊する天津友誼賓館(写真D)へ向った。
 当時このホテルは天津を代表するホテルであり、神戸市と天津市が友好都市である関係からか、同じ兵庫県の芦屋市ということで大変良いホテルを受入先にしてもらったのかも知れない。(ホテルや受入先は全て当時は中国側から指定される情況にあった)

E退休職工養老院
 旅行も第5日目を迎えた12月1日(土)は午前中に天津市退休職工養老院を訪ねた。退職をした老人達の養老院である。(写真E)
 話しを聞くと、我々老人を大切にしてくれる共産党には心から感謝をしている。昔の古い中国では考えられない待遇であり、年金も支給されていて、幸福だと模範的な答えであった。ずっと養老院長の熊さんと幹部の楊さん、王さん3名が我々との質疑応答に立ち会って、訪中団が毎回訪ねてきている感じがして応接の問答も慣れた感じがした。年金は月60元〜70元とのことであった。当時の天津市は中国での商業ならびに重・軽工業の都市で、北京・上海とともに中国の三つの特別市(中央直轄市)の一つであり、先年、天津に近い唐山を震源地とする大地震があり、その震災の後遺症がまだ残っており、避難小屋と名付けたレンガ造りの仮設小屋が点在しており、その復旧と住宅建設に全力をあげている最中であった。

F平山道中学と平山道高校
 午後からは、天津市内の平山道中学と併設の平山道高校を見学した。(写真F)
 校長の李莉さん(女性)と歴史教師趙氏、国文教師の尹氏の3名が“熱烈歓迎日本兵庫県芦屋市訪華団”と書いた学校入口で生徒達と共に迎えてくれた。そして解放前は貧しく進学も容易でなかったことや、現在は男女共学で生徒数が1,500人、教師が90人で「四つの近代化」を実現する教育に努力していること、また学制は当初6・3・3・4制で発足したが文革により5・3・2・3制に変えました。しかし世界の情勢にてらして来年の1980年から元の6・3・3・4制に戻すと決めたと説明があり、英語も中1から高校まで会話を採り入れているなどの説明があり、生徒には「自分の一生はなにか」、「何のために勉強するのか」などを討議させている、これも革命教育の一つとの説明を受けた。李校長は教育向上視察のために、団員の一人として兵庫県にこられたと言って、熱心にこの日の午後我々と生徒の交流につきそってくれた。団員一同中国の教育現場をじっくりと見学が出来た。
 同日夜は宿泊をした天津友誼賓館にて天津市革命委員会の招待宴があり、天津市革命委副主任王恩恵氏や外事弁公室主任王屏氏など市の幹部出席のもと交歓会が行われた。今年(1979年)に訪中する日本の大平首相を熱烈に歓迎することや、そして7年前に田中首相と共に訪中して大平氏は当時中日両国人民待望の中日国交樹立の大きな功績等や天津と神戸市の友好都市関係の発展を祈念する等の話しをされた。なお、この招待宴に先立って、天津市革命委員会への表敬訪問を行っており、上記2氏の他に、中国対外友好協会天津分会長、天津市遊覧観光局長、外事弁公室接待所幹部など多数の人達と接見をした。(写真G)(写真H)(写真I)

G天津市革命委員会副主任
王恩恵氏よりのプレゼントされる軸

H天津市王恩恵氏歓迎あいさつと

訪中団を代表してあいさつをする
芦屋市松永市長
 この歓迎宴は、宴の始まる前に、中国旅行総社の全行程随行の張氏より、式での天津市側と芦屋市側のあいさつ文のすり合せがあり、何か不都合な文言がないかのチェックがあった。また宴会ではお酒の飲めない人は最初から断っておくのが礼儀であると言われた。
 予算の関係からか、まずまずの料理と、お酒は最高級の中国酒“貴州茅台酒”などが沢山提供された。乾杯、乾杯の応酬で招宴は楽しく行われたが、中国側からは政治関係の話しは出なかったと記憶している。しかし、中国側の出席者の要人達は酒に強い人が多かった。

J天津第一じゅうたん工場にて
 旅の第6日目、1979年12月2日(日)は、中国じゅうたんで有名な天津第一じゅうたん工場を工場長の蔡さんの案内で見学した。(写真J)高価なじゅうたんは全部手作業でつくられていたが、労働環境はあまり良くなく、ほこりが沢山工場内に舞っていた。

K天津の切り絵
 そして、天津の友誼商店でショッピンングをして天津市芸術博物館を見学した。弁公室主任の周学謙さんの案内で天津の有名な切り絵(剪紙)を見物した。(写真K)
 そしてその後、この日の圧巻の天津水上公園のパンダ見物であった。既に日本の上野動物園に1972年にパンダの“ランラン”ともう一頭“カンカン”(写真L)が中国政府より贈られていて、ブームを呼んでいたが、私をはじめ、団員の大多数の人達が、現物の“大熊猫”と中国で呼ばれているパンダを見るのは初めてであった。

L上野動物園のカンカン(右)
とランラン(左)の写真

M天津水上公園のパンダ
日本のようにV.I.P.待遇の園舎ではなく、自然のままに、土にまみれて、放し飼いに近い状態で、見物客に対しているのには、いささかびっくりした。(写真M)
 パンダを間近に何の仕切等で隔離されていない姿を見て大満足であった。この夜は天津市文化局の主催する雑技つまり曲芸を見物してホテルへ夜遅く帰館した。

N天津医院を訪問し質疑を行う団長並びに副団長
 旅行第7日目の1979年12月3日(月)は天津を離れて東北地方(旧満州)へ向う日であるが、その前に午前中、天津第一を誇る天津医院を訪問し見学をした。(写真N)院長が二人居て王春和氏、陶甫氏、骨科(整形外科)主任尚天裕氏、主治医生李漢民氏、弁公室主任方信氏など多数の医師が出席して説明をしてくれた。
 当方は団長松永市長は医師であり、副団長も医師であった関係か専門的な意見交換が通訳を介して行われた。一緒した私には医療用機器は日本の医療現場の方が随分進んでいるように見えた。午後は天津市でも大きい天津市第一幼稚園を見学した。副園長の馬恵敏さんや保健員、教師など全員女性の職員が案内をしてくれた。団員の女性達が遊戯に加わり、親の年令や職業などを聞いて楽しい2時間程を過した。(写真O)

O天津市第一幼稚園で園児達と
 そしてこの日の夕食は前日の天津市の招待宴に対する芦屋市側の返礼の答礼宴で(これが通常行われていた)、出発する前に旅行コースと共に綿密に日中双方で打合せをして、双方の宴に格差が出ないよう、料理の品数、酒の等級、出される本数、出席者の人数、肩書、交換する文書の文言までチェックをした用意万端の答礼宴を行った後、同日夜午後10時15分発の夜行寝台列車(軟座寝台)の客となって東北地方(旧満州)の瀋陽(旧奉天)へ向った。この列車は我々の寝台は上・下・二段ベッドであって当時の日本の“ハネ”と専門用語で呼ばれていた二等寝台車によく似た寝台車であった。
以下次号へ続く

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往時茫々、中国の旅  〜その2〜

二宮健(35回) 2019.12.09

@1979年当時ホテルから見た民家
 一夜明けた1979年(昭和54年)11月28日、水曜日の早朝、前門飯店で夜明けを迎えた。初めての中国での朝である。前日は夜遅く、ホテルへ到着のために、北京の街の様子はわからなかった。午前7時前に5階(だったと思うが)の自室の部屋から市街を眺めると煙に曇った風景である。現今、炭素硝酸塩、金属を主な成分とする粒子で径2.5μm以下の微粒子状物質のPM2.5が空気中に飛散して、平成27年12月9日には、最悪警報「赤色警報」が発令されて学校等が休校になる事態になっているが、その原因の一つが、冬の暖房のための石炭を燃やすことといわれている。当日の11月28日もかなり冷えこんでおり、石炭を燃やして北京市民は暖をとっていたのであろう。窓をあけると、石炭の臭いが鼻に入り、このスモッグは石炭のせいだとはっきりわかった。当時北京では、乗用車もあまり走っておらず、それがスモッグの原因になるはずもなかった。自室の窓から見る窓外の民家は貧し気で、現在の北京とは全然違った風景であった。(写真@)

A北京市内を走る高級車“紅旗”

B1979年11月、筆者と乗用車

C乗用車を整備する服務員

D1979年11月26日付人民日報
 この頃の乗用車といえば、要人用の高級車の“紅旗”か“上海”などが走っており、現在のように輸入車をはじめ、車道を埋めるような混雑は想像も出来なかった。(写真A)(写真B)(写真C)
 訪中団の二日目、1979年(昭和54年)11月28日(水曜日)は終日、北京市内観光を行った。まだ外国からの観光客は少なく、行く先々で逆に我々一行が、北京の人々に物珍しげに囲まれた。(写真D)
 午前8時に前門飯店を出発した専用バスは中国旅行総社北京分社日本処(日本課)の通訳3名と共に先づ天安門広場へと向った。40万平方メートルもあり、一度に50万人を収容できると説明を受けた。広場を散策したが、現在のように内外の観光客はなく、大広場には我々のグループと少しの人々しか居なかった。(写真E)(写真F)(写真G)

E訪問した1979年(昭和54年)の
天安門広場

F訪問した1979年(昭和54年)
天安門広場の筆者

G団長の松永芦屋市長と中国国際
旅行総社北京分社日本課の日本語通訳
 天安門散策の後、72万平方メートルの敷地の中に、9,000室も部屋があるという、故宮博物院を見学した。(写真H)

H1979年の故宮

I北京市内の天壇
 整美された現在とは程遠い若干荒れた印象であった。しかし、天安門を含めてその規模の大きさには度肝をぬかれた。午前8時半頃に天安門の見学を始めて徒歩で午前中をかけて見学をしたが、それでも時間が足らない位であった。中国はユネスコの世界文化遺産登録の最も多い国の一つだが、故宮は勿論登録をされている。(我々が訪問した頃にはまだこの登録制度は無かった。)歩き疲れた感じですぐ近くの前門飯店に帰り、昼食をとった。当時は、昼食を観光する場所の近くでというようなレストランは皆無に近く、外国人観光客は原則的に全行程宿泊したホテルに戻って昼食をとり、再び出発をした。これは、トイレ事情にもあった。厠所(便所)は、余りにも設備がひどくて、観光客には、使用するには、勇気のいることであった。特に大便所はひどかった。一度ホテルへ戻った後、午後は北京市内の天壇、つまり明代、清代の皇帝が天に対して祭祀を行った場所を見学した。この場所は、1918年迄は、一般人は立入禁止となっていたそうだ。(写真I)

J頤和園の石船

K頤和園にて若き日の筆者
 その後、これも後日に世界遺産として登録された頤和園を見学した。(写真J)
 荒廃していた頤和園を再建したのは、有名な西太后であり、離宮とし、避暑に利用された。この再建費に莫大な国費を使用したために日清戦争の敗因の一つとされている。
 1900年には義和団の乱で破壊されたが、1902年に修復された。(写真K)
 この日は午後7時頃にホテルへ戻った。

L訪中当時の「兌換」中国元

と普通の人民元
 ところでこの頃の中国を訪れる外国人観光客は、我々を含めて、使用する中国元は「兌換券」制度が導入されていて、人民元の価値で表示されていた。一般人民元は外貨とは交換出来なかった。持参した米ドルを、中国元の「兌換券」に両替をし使用した。余った「兌換中国元」は両替した領収証と、使用した(つまり買物等で使用した)領収証を提出して、最後に米国ドルに再度両替をしたと記憶している。(写真L)
 とにかく買う物も少ししかなく、余りお金は使わなかった。旅行費には、滞在中の食事、朝食、昼食、夕食等が全て含まれていたからだ。当時、一米ドルは1.55中国元であった。(令和元年4月現在で1米ドルが約6.73人民元である)
 さて、旅行3日目の1979年(昭和54年)11月29日(木曜日)は、午前中に万里の長城の見学と午後に明の十三陵(定陵公園)を見学した。(写真M)

M訪問当時の荒廃した万里の長城

N当日の北京・八達嶺駅往復の列車切符

O万里の長城訪問の証明書
 現在では、北京を訪れる観光客の一日観光の定番コースであるが、昭和54年(1979年)当時は中国が外人観光客に対して開放していた、世界に誇れる観光資源であった。勿論後年に中国を代表するものとして、世界文化遺産に登録された。この日は、朝7時頃にホテルを出発して、北京駅より鉄道を利用して八達嶺駅まで乗車した。北京駅午前8時5分発で八達嶺駅に午前10時9分に到着している。(写真N)(写真O)

Pあまり人のいない長城

Q1979年当時発行の長城切手
 八達嶺駅からマイクロバスで長城(八達嶺の長城)へ向った。最も早い時期に公開された長城でかなりの人で賑っていたが、現在の各地の公開されている長城の混雑とは雲泥の差でゆっくりと長城壁上を見物できた。(写真P)(写真Q)
 限られた時間の中で、日本人が名付けた“男坂”“女坂”の両方を見物するのは、当時まだ若かった私でさえかなり疲れた。

R明14代皇帝
万暦帝の肖像

S1979年11月29日(木)明の
十三陵、定陵地下宮殿の中国民衆
 八達嶺駅から列車で南口駅まで引き返して、そこからまたマイクロバスで明の十三陵へ向った。十三陵は、明の成祖永楽帝以後の皇帝13代の陵墓があるために、この名称がある。勿論これも世界遺産に登録されているが、我々の訪ねた1979年当時はこの14代皇帝の「万暦帝」の陵墓である、地下宮殿の発掘からまだ間もない頃であり、(発掘は1956年から1年かけて行われた。考古学技術の未熟な中での発掘のため、大量の文物が破壊され、1966年には文化大革命の時期、紅衛兵により文物が破壊されている。)地下宮殿は未整理のまま我々にも公開された。壮大な地下宮殿であった。(写真R)(写真S)
 皇帝の棺や椅子等が公開展示されていた。現在では、北京市からの一日観光の定番観光地として、ひきもきらぬ観光客で一杯であるが、その当時は、北京市から北方50キロメートルに位置していながら、中国人を中心としたわずかな人達しか訪れていなかった。

北京鴨店
の当時のパンフレット

ボーイの持つ北京ダック
 見学後、南口駅まで戻って列車で北京市内へ帰った。この日の夕食はホテルでとる予定になっていたが、(全行程3食込の旅程であったが)急拠キャンセルをしてせっかく北京へ来たのだから、名物の北京ダックを賞味したいと、北京分社に申し入れをして、自費負担承知で手配をしてもらった。現在では、日本にも支店を持つ全聚徳(ぜんしゅうとく)鴨店である。それも前門総本店で手配してもらった。1979年当時は、全聚徳の店名は文化大革命の影響で消されており、単に北京鴨店の名前で営業をしていた。古びた料理店の風情であったが、出てきた北京ダックは本当に美味であり、グループ全員がこれこそ、本場の北京料理と感心をした。正確な料金は忘れたが、結構高価だったと記憶に残っている。(写真)(写真

北京市革命委員会を訪問。芦屋市長と
北京市革命委員会外事弁公室副主任
 旅の4日目、1979年(昭和54年)11月30日(金曜日)を迎えた。今日は北京市革命委員会を午前中に訪問した。団長以下全員服装を整えて訪問をした。北京市革命委員会外事弁公室副主任仁先さんが迎えてくれて歓迎のあいさつを受けた。北京市民の沢山の人々とふれあって日中友好の実績を積み上げて下さいとの主旨であった。芦屋市からの記念品を贈って約1時間懇談をした。(写真
 革命委員会とは、文化大革命中の政治権力組織であり、主任、副主任、常務委員などで構成されていて、軍区司令官、地方幹部、労働者、農民、学生などで構成されていた。
 我々が訪中した頃には、革命委員会は各地で機能しなくなっており、順次各地で市民政府などに名前が変り、実務的な機能を持つ機構に再編されている時期に当っていた。
 表敬訪問を終えた我々グループは、市内の工芸品と友誼商店を見物して各々、買物を楽しんだ。北京一般市民のための、ショッピングセンターではなく、あくまで外貨である米ドルを中国元に交換した外国観光客向けの商店である。特に北京、上海などの大都市の友誼商店は、百貨店のような型になっており、中国の文物が、そこで何でも揃っており、又そこにしか良い品がなくて、外国観光客は、そこでの買物を強いられていた。一般市民の買物客は入れず、専ら中国駐在の外交官や、その家族と訪中団等の特殊な人々のショッピングゾーンであった。店員達は全く、サービスの何たるかを理解しておらず、買物客など度外視するかのように、仲間同士でおしゃべりをしていた。これには我々も恐れ入ってしまった。
以下次号へ続く

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往時茫々、中国の旅  〜その1〜

二宮健(35回) 2019.11.21

筆者近影
はじめに
 なぜ今、「41年前の中国紀行」なのか
 名実ともに世界有数の強国となった中国だが解放後、未曾有の国難といわれた「文化大革命」が終息したのが44年前の1976年である。2019年には建国70年を迎えた。(2019年10月1日)
 ケ小平の所謂、「四つの近代化」が緒に就いたばかりの1979年(昭和54年)に(令和元年から40年前)筆者、二宮健が見た当時の中国の姿を紀行文と写真で紹介してみる。二宮訪中10数回の最初の訪中である。題して「往時茫々、中国の旅 その1〜その5」として記述してみた。         令和元年11月
筆者 二宮健氏
昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年間在籍した準35回生。
旅行評論家・JTB OB会員。神戸市在住。


@毛沢東死亡を伝える号外
 1976年(昭和51年)10月に、張春橋、姚文元、王洪文、江青の四人組が逮捕された。その前月9月9日には、毛沢東が北京で死去している。(写真@)
 1978年(昭和53年)12月16日に米中が共同声明を発表して、1979年(昭和54年)1月1日から国交樹立を発表した。

A文化大革命中の壁新聞
 同じ1979年(昭和54年)12月6日に北京市革命委員会は、北京市「西単の壁」および他の場所への壁新聞を貼ることを禁止した。(写真A)
 さしもの文化大革命(1966年?1976年)の10年間の未曾有の政治的混乱が終束して、中国が「改革・解放政策」へ舵を切り始めた頃の1979年(昭和54年)、2019年(令和元年)からふり返ると40年も昔となる。筆者二宮にとっても“往時茫々”たる想い出が深い、まだ日本人の訪問観光客のほとんどいなかった時代の旅行記とその記録と写真である。

B1978年(昭和53年)
中国共産党第11期3中全会

C芦屋市友好訪中団
訪問・参観先
 この年1979年(昭和54年)私は兵庫県芦屋市友好訪中団を企画・立案して中国へ渡った。文化大革命が終息して、江青反革命集団が粉砕された後、中国中央党組織は、ケ小平の職務を回復し、1978年(昭和53年)末に中国共産党第11期3中全会を経て、改革・開放(写真B)政策の実行と四つの基本原則の堅持を確認した。現在の中国へと出発する転換期の時代であった。そんな時に訪中団の企画を立て、芦屋市に打診をしたところ、当時の市長松永精一郎さんや、芦屋市議会代表、任意参加の市民など16名の“芦屋市民友好訪中団”が結成された。令和元年(2019年)から40年前のことである。現在78才の私が37才の時である。代表団の大多数の方が、鬼籍に入り、帰幽されている。(写真C)の訪中団旅程図と訪問先、観光先の地図を見ながら、論を進めてゆきたいと思う。私は企画・立案者として、この15日間の旅行の公式随行員として、日本交通公社より派遣された。
 1979年(昭和54年)11月27日(火)から12月11日(火)迄の当時の中国各地での旅行の記録である。その頃は、中国を自由に旅行することは、日中共に許されてはおらず、日本側で企画・立案した旅行日程を、中国側に提示し、その後、中国側から招請状(インビテーションレター)なるものが発給されて、初めて訪中が許されていた。

D文革中の「紅衛兵」
のポスター

E華国鋒
 それも何度かに亘り、日本交通公社本社(東京)を通じて、中国側の当時の国営中国国際旅行総社(北京)と、旅程の調整を行い、中国側から提示された旅程に概略同意せざるを得ない情況であった。
 まだまだ当時発展途上国であった中国では沿岸部の大都市を除いた内陸地方では、ホテルは勿論、外来の賓客を迎えるための招待所(ゲストハウス)も無いのが、実情のようであった。現在の中国は習近平体制の下で経済大国としても発展し、GDPで世界第2位の実績を誇っているが、私が訪中した1979年(昭和54年)当時はケ小平が何回も文化大革命の中で(写真D)失脚と復活をくり返した後に、確固たる実権を握ろうとする時でもあった。我々の友好訪中団はその寸前の華国鋒が党主席の1979年(昭和54年)12月である。(写真E)
 時系列でみてみると、中国の指導体制は第一世代が毛沢東(写真F)、第二世代がケ小平(写真G)、第三世代が江沢民(写真H)、第四世代が胡錦濤(写真I)そして現在は習近平(写真J)の第五世代指導部と言われている。

F毛沢東中国共産党指導者(第一世代)

Gケ小平中国共産党指導者(第二世代)

H江沢民中国共産党指導者(第三世代)

I胡錦濤中国共産党指導者(第四世代)

J習近平中国共産党指導者(第五世代)
 丁度、第一世代と第二世代の交替期に訪問したのであった。まだまだ四人組の影響が残っていた華国鋒体制の下では、決して物見遊山の旅は許されず、後述するように文革の余波の残る各都市の、革命委員会への表敬訪問や、人民公社の見学等が旅行のコースには、必ず組み込まれていた。旅行を実施した1979年(昭和54年)には、流行歌手渥美二郎の“夢追い酒”や山口百恵の“いい日旅立ち”などが大流行した年でもあった。

K筆者手製の渡航記念証1979年11
月29日CA922便機長副機長署名入り

L成田?北京間の中国民航
B-707型の機内

M中国民航1979年当時のロゴ
 この年、中国側の統計によると、中国を訪れた日本人は、業務での渡航を含めても推定5万4千人にすぎなかった。(現今の中国旅行ブームとは隔世の感じがする)。そんな情況の中で我々一行は、1979年(昭和54年)11月27日(火曜日)に夕刻の中国民航922便にて北京へ向けて出発をした。(写真K)機種は、ボーイング707型機であった。(写真L)(写真M)
 機は午後9時15分に北京首都空港に到着した。機中での服務員(スチュワーデス)は紺色の上下服で、華やかな雰囲気はなく、乗客に提供する茶も魔法瓶から注いでいたと記憶をしている。当時の自由主義諸国の日・米・欧の航空機のサービスからは、随分異なった印象を受けた。さて到着した首都空港は、現在の世界を代表する近代的な大空港ではなく、何回も拡張される前の現在からは、想像も出来ない質素な、そして薄暗い空港であった。(写真N)(写真O)(写真P)

N1979年当時の北京首都空港

O到着時の北京空港内部

P北京首都空港より北京市内へ
向う道路(1979年当時)
 薄暗くて人影も少ない雰囲気で淋し気な空港であった。
 空港には、受入側の中国国際旅行総社日本処(日本課)の張乃驍ニいう、この日から最終日まで随行する男性通訳と北京分社の日本課副課長胡金樹、同趙登霞、同李艶という北京地区を担当する男性1名、女性2名の計4名(通訳を含めて)が出迎えてくれた。
 張氏は、エリートであろう、灰色の人民服にポケットが四つついた制服を着用していた。
 当時は上着のポケットの数で大体エリートかどうか判断出来た。張氏は我々訪中団の中国側のお目付役と団の動向をそれとなく観察する役目をもっていたと旅行が消化されていく中で確信するように団員誰もが思うようになった。観光ガイド、通訳というより、公安員としての側面が強かった。

Q芦屋市友好訪中団:成田空港にて (筆者後列左より2人目)
 それは、彼が各地の現地分社の通訳やガイドに示した態度が同業というよりもっと尊大な態度からもうかがい知れた。またこの時に出迎えてくれた日本処(日本課)副課長胡金樹氏は、その後、中国要人が日本訪問する際に度々、日本語通訳として来日し、そのフルネームを新聞紙上でよく見かけた。(写真Q)
 我々が中国を訪れた1979年(昭和54年)の日中の動向を見ておこう。この年の1月1日に米中の外交関係が樹立され、2月17日には、ベトナムと中国は戦争を始めている。また2月には、後の日本国総理となる麻生太郎氏が39才で、日本青年会議所会頭として代表団を率いて訪中をしている。同年に衆議院議員に初当選している。
 一方、中国では、現在の国家主席習近平氏が24才で清華大学(北京)を卒業して、中国軍事委員会弁公室へ勤務を始めており、中国共産党官僚として出発をした年でもある。
 1979年(昭和54年)11月の時点で、1米ドルが1.55中国元であった。当時1米ドルは日本円で246円前後であったので、換算すると1中国元は約158円前後であった。(2019年4月現在1中国元は日本円で約17円)
 我々が訪中した当時は、万元戸(1万元)が富農・富豪の目標とされており、つまり日本円で年収160万前後のお金を持つ人々が中国に於ては少数の富農・富豪と見なされた。昨今の中国経済とは雲泥の差である。
 当時、1979年(昭和54年)頃の中国人の平均月収は、都市部の勤労者が良くて、(家族持で)70元〜80元(日本円で約11,000円〜12,600円)位であり、日本では大卒の初任給が大体、手当を除いて約100,000円前後の頃である。まだ中国は経済的に見ても発展途上国であった。

R1979年(昭和54年)当時の
前門飯店のシール

S現在の前門建国大飯店
 さて、到着日は夜も遅い為、空港での歓迎の言葉もそこそこに、北京市内のホテルへ向った。市内まで約20キロメートルの道は、薄暗くて、これから首都へ向うのかと思うほど淋しい道であった。それでもポッと灯る街灯の明りが増えてきて、首都北京中央部永安路にある、前門ホテルへ到着した。現在の前門建国大飯店である。(写真R)(写真S)
 薄暗くて、やけに広いロビーで部屋割を済ませて、真夜中過ぎにそれぞれの部屋に入った。現在のように超一流ホテルが乱立する北京のホテル事情とは異なり、前門ホテルは、芦屋市という友好訪中団を受け入れるに足る、当時では、北京の一流ホテルだったのである。本音で言えば、薄暗くて、うらぶれた感じがしたが、芦屋市という都市の内容と特色は間違いなく、国の機関である、国家旅遊管理総局を通じて、中国国際旅行総社に伝えられている筈である。
 団員一行も一寸とまどった感じであったが、後日、この国の実情が徐々にわかってくることになる。
以下次号へ続く
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