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2019.04.27 水田幹久  向陽プレスクラブ2019年度総会議事録
2019.04.28 坪田順昭  高校時代の思い出と内科専門医試験
2019.04.15 二宮 健  地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4
2019.04.11 北村章彦  4月27日KPC総会案内
2019.04.04 水田幹久  向陽プレスクラブ幹事会議事録
2019.03.31 二宮 健  地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その3
2019.03.31 中城正堯  <版画万華鏡・5-2>「布袋と美女、おんぶ文化」について
2019.03.31 冨田八千代  <版画万華鏡5>ありがとうございました
2019.03.23 中城正堯  <版画万華鏡・5>布袋と美女のそっくり版画から“おんぶ文化”再考
2019.03.20 二宮 健  地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その2
2019.03.10 冨田八千代  <版画万華鏡・4 >はすぐに拝読しました。
2019.03.01 二宮 健  地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その1
2019.02.17 中城正堯  <版画万華鏡・4>和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子ども
2019.02.10 山本嘉博  1月24日・25日開催 第187回市民映画会
2019.02.06 冨田八千代  「日本の城、ヨーロッパの城」を拝読しました。
2019.02.03 藤宗俊一  「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較
2019.01.20 中城正堯  <版画万華鏡・3>美しき養蚕神に秘められた少女たちの哀話
2019.01.10 中城正堯  <町田市立美術館>福を呼ぶ「金のなる木」や「七福神」
2019.01.10 野町和嘉 写真展  World Heritage Journey
2018.12.25 中城正堯  石の宝殿への反響---高砂市教育委員会より
2018.12.25 冨田八千代  浮世絵万華鏡1・2拝読しました。
2018.12.23 中城正堯  <版画万華鏡・2>なぞの名所絵版画「播州石宝殿」と巨石文化
2018.11.25 中城正堯  <版画万華鏡・1>土佐中での出会いから生まれた浮世絵コレクション

2010/04/01-2010/07/25設立総会まで 2010/07/26-2011/04/10第2回総会まで
2011/04/11-2012/03/31第3回総会まで 2012/04/01-2013/03/31第4回総会まで
2013/04/01-2014/03/31第5回総会まで 2014/04/01-2015/03/31第6回総会まで
2015/04/01-2016/03/31第7回総会まで 2016/04/01-2017/03/31第8回総会まで
2017/04/01-2018/03/31第9回総会まで 2018/04/01-2019/03/31第10回総会まで
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向陽プレスクラブ2019年度総会議事録

書記 水田 幹久(48回) 2019.04.27
1.日時 2019年4月27日(土)17:00〜18:00
2.場所 「酒菜浪漫亭 東京新橋店」
3.出席者 濱崎洸一(32回)、公文敏雄(35回)、岡林哲夫(40回)、藤宗俊一(42回)、中井興一(45回)、水田幹久(48回)、北村章彦(49回) 計7名
4.公文会長が、議決権を有する出席者は7名、委任が7名であり、議決権を有する会員数23名中14名参加で過半数に達しており総会は成立と報告。
5.公文会長が議長代行に北村(49)回を書記に水田(48回)を指名し、以下、総会議案に従って北村(49回)が進行。
総会決議
1)2018年度事業報告
 北村幹事長から「平成30年度向陽プレスクラブ事業報告」に基づき報告。全員一致で承認。
なお、次年度からは年の表記を西暦に統一することとした。
2)2018年度会計報告
 中井会計担当幹事から「向陽プレスクラブ2018年度会計報告」に沿って報告。全員一致で承認。
3)2019年度事業計画案
「平成31年度向陽プレスクラブ事業案」を審議し、原案に次の修正を加えて承認。
 ・年度標記を「2019年度」に修正。以下、議案書の年の表記を西暦に統一する。
 ・項目Dに記載されている以下の文を削除する。
  「新年度の役員改選について協議した。」
4)2019年度予算案
 前年度と同様とすることを承認。
5)次年度以降の役員選出
・本総会終了時で役員全員任期満了のため、次年度以降の役員を以下の通り選出した。
会長 公文敏雄(35回)
会計担当幹事 中井興一(45回)
幹事 岡林哲夫(40回)、藤宗俊一(42回)、井上晶博(44回)、水田幹久(48回)、北村章彦(49回)、山本嘉博(51回)、坂本孝弘(52回)
以上

なお、本総会終了後に開催された幹事会にて、幹事互選により北村章彦(49回)が幹事長に選出された。

*決議事項の詳細と会費納入状況(中井氏作成)は会員のページに掲載してあります。ご確認下さい。
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高校時代の思い出と内科専門医試験

坪田 順昭(35回) 2019.04.28

筆者近影
 私は1960年卒業の坪田です。卒業は今から60年くらい前のことであるから、はるかかなたのこととなります。
 最近総合内科専門医(日本内科学会)の資格を取ることができました。本来ならば、医学部卒業から10年から20年の間に研修医、レジデントなどを経過し普通に勉強して認定されるべき資格であります。その当時は認定内科専門医と言われ、内科のsubspecialityとしての位置付けで、消化器専門医や循環器専門医などと同格であり、必ずしも必須の資格と認識されていなかったようです。しかし時代は変わり内科専門医は新しい専門医制度の中で、基本的・中核的な位置付けとなり内科系の医師にとっては最初の必須の資格となり、それをとることにより、内科医として総合的に診療し色々な医療のシチュエーションで、指導的かついしずえとなるべきと内科系学会では主張されている。
 私自身の立場から言うと、1980-1998年の間は総合病院(公立学校共済組合九州中央病院)に勤務し、内科医長、検査科部長、第一内科部長などを歴任し、研修指導医、研修責任者としての職責を果たしていた。その間認定内科医、消化器専門医、肝臓専門医などは修得したが、内科専門医の資格は受験までの手続きが煩雑であったので、準備の時間がとれずにいた。かっての研修医や部下の先生方はそれぞれ研鑽をつみ、総合内科専門医やsubspecialityの専門医となり大学や病院その他で活躍されています。その後15年間(1998-2013)は大分県で地域医療に従事し、そのうち11年間は開業して診療所を運営していました。従って70歳になるまでは病院や地域の診療に没頭し内科専門医資格試験を受験するのに必要な勉強時間を確保したり、体力を保持することが出来ませんでした。2013年に福岡の自宅に帰りつき、内科専門医資格認定試験の受験資格が措置的に緩和されて病歴要約など提出免除されたので受験の機会に恵まれました。その頃より精神科病院の内科医に採用されて(週4日間の勤務)、受験勉強をする時間的余裕ができました。内科合併症の診療以外に、内科学会講演会・教育講演会、医師会その他の生涯教育講演会への出席、2,3の内科学教科書、イヤーノート等の通読をし、試験問題集で知識の確認と記憶を実行し、自分なりに猛勉しました。その結果5回目の受験で、あしかけ6年間の勉強のはてにやっと合格し、晴れて総合内科専門医に2018.12.10たどり着きました。
 そのことによって私は何を得たのでと考えたとき自分としては非常に大きいものを感じている。まず現在私は77歳であるが、認知症ではないと信じている。さらにこれからの10年間はup-to-dateの医療を実施できる能力があり、実行できるであろうと希望している。内科専門医である医師は大学、病院などの医療組織で幹部として活躍しているであろうが、これからの私はそのような立場にはならないであろうが、ほっとして九大医学部入学試験に合格したころの幸福感に浸っている。
 振り返れば土佐高校に入学したころの自分と縁あって向陽新聞部に入部したころを思い出します。懐かしい思い出と共に、色々な逆境を乗り越えて解決していける能力や経験が得られました。また忘れえぬ友人や先生方を思い出します。その時の私は大阪市の公立中学を卒業して、いわゆる編入で土佐高校に入学しました。最初にびっくりしたのは;中学校より進学した同級生は既に高校1年の授業は終了していたことです。従って高校2年のレベルで高校の生活がスタートしたことです。強烈なカルチャーショックでありました。例えば;ax2+bx+c=0を因数分解せよが最初の実力試験に出題されました。今までは自分は優等生であるとうぬぼれていたことがいっぺんに劣等生であることを自覚させられて、しばらくはぼーとしていました。その時同じ編入生である岡林(邦夫)君とは話が合いました。彼は色々なクラブに入部して友人を作り、知己を増やしておりました。私も彼に金魚の糞のように行動していたので、新聞部に入部させてもらいました。私は実力はなかったので新聞の記事を書かせてもらうことはありませんでしたが、一度公文(敏雄)君がほとんど書いた一面の下書きをしたくらいでした。新聞部に入部して、部員の方々男も女も自分の意見や取材したことなどを、討論しながら、主張して紙面に反映していくすがたにほんとうに感銘しました。私にとってその後の人生において、ポジティブに生きて、世の中に対処していく原動力を得られたように思います。その時の友人たちで今も思い出にのこるのは、岡林君、公文君、中西(降敏)君の諸氏である。岡林君と中西君は若くして故人となられて、非常に残念なことに思っている、岡林君については彼の追悼文集“四万十川”に少し触れているのでご参照ください。その後、公文君とは、私が米国留学(ローズウェルパーク記念ガン研究所でポストドックをした)とき、東京銀行のニューヨーク支店に勤めていた彼に色々お世話になり、その縁で、今も交流が続いています。
 その後、私は勉強法を根本的に改めました。英数国の三教科は中学1年の教科書の復習から始め、教科書の丸写し、丸暗記を実行し、自分の決めたカリキュラムを着実にやれることができました。学校の成績はいい点数は取れませんでしたが、高校3年の最終学期ではほぼ東大入試合格レベルまで達することが出来て、一年浪人して大学医学部(九大医、京都府立医大、三重県立医大etc)に合格しました。土佐高校の3年間、浪人中の1年間は生涯で一番勉強して、人生の基礎ができたように思います。向陽新聞で色々な卒業生の名前がでるとなつかしい気持ちになります。
 思い出すエピソード一つは、私が高校の1-2年の頃父の診療所が南国市久礼田にあったので、当時母の贔屓の倉橋歯科医院(土佐山田町)に母にいわれてむし歯の治療に通院していた時、倉橋由美子様がおられて、ご尊父の倉橋先生の手伝いをされていました。今でも思い出すのはやさしい微笑と佳人であった倉橋由美子様の面影です。当時の歯の治療は大変苦痛を伴うものでしたが、ご令嬢のお陰で無事に治療を終えています。
 同窓生各位のこれからの発展と健康を祈念し、土佐中・高校が発展し、継続することを希望します。
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地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4

二宮 健(35回) 2019.04.15

シチリア地図
 さて、最近タオルミーナが世界の注目を集めたのは、2017年(平成29年)の5月に行われたタオルミーナG7サミットであろう。(写真@)

写真@2017年タオルミーナでのG7サミット
日本からは安倍首相が6回目の首脳会談としてG7に臨んだ会議である。
 旅の6日目、12月6日(金)、今日も快晴である。タオルミーナの街は世界中でも最も魅力のある街として知られている。人口は1万2千人位の小さな街であるが、この街のことをこの章では語ってゆきたい。

写真Aタオルミーナの街
 極言すれば、この街は徒歩で1時間も散歩すれば、その中に古代、中世、現代が混在している世界中でも稀有な街の一つである。街はタウロ山の中腹、標高約200メートル位の所に位置している。(写真A)眼前には、紺碧のイオニア海とシチリア島のシンボルである雄大なエトナ山を見ることができる。
 前日宿泊の際、チェックインが遅くて、ホテル周囲の景色が定かではなかったが、宿泊したホテルのエクセルシオールホテル(四ツ星)(写真B)の前庭には先月のエトナ山噴火での火山灰がまだ残っており、その庭から前面に雄大なエトナ山の噴煙と山容が、晴天の下、くっきりと望まれた。(写真C)

写真Bエクセルシオールホテル

写真Cエトナ火山

写真Dタオルミーナの小さな商店
 タオルミーナには、「カターニア門」、「中央門」、「メッシーナ門」という三つの門があり、これらの門はすべてが目抜通りの「ウンベルト1世通り」にある。目抜き通りとは言っても、約1キロの一本道で、車が通れるのはこの通りへ荷物を運ぶ車のみが朝9時半まで許されているだけであり、一日中ほぼ歩行者天国である。この通りは、世界中の人々が訪れる有名な通りである一方、通りから一歩横道に入ると、店のインテリアも美しい小さな商店がひっそりと佇んでいる美しい通りである。(写真D)
 先ず我々は最初に、「ギリシャ劇場」を訪ねた。劇場跡であり、周囲に広がるパノラマが素晴らしい。紀元前3世紀の創建と言われ、やはりシチリア島のシラクーサにある。ギリシャ劇場跡に次ぐ第2の規模を誇る歴史遺産である。その景色の雄大さから(周囲に広がる大パノラマ)、平成29年に開かれたG7のタオルミーナサミットで各国首脳が一堂に会して記念撮影もされた場所である。(写真E)

写真Eタオルミーナのギリシャ劇場跡

写真Fタオルミーナウンベルト1世通り

写真Gサント・アゴスティーノ教会
 約40分間、記念撮影やガイドの説明を受けた後に、次に街の中にある、ガリバルディのタオルミーナ来訪を記念する、「4月9日広場」へ向った。この広場は、メッシーナ門から、カターニア門へ向うメイン通りの「ウンベルト1世通り」の中央に位置する展望の大変良い広場となっている為に、いつも観光客や地元の人で賑わっている。(写真F)この広場の名前の由来は、イタリア統一戦争中の1860年(日本では安政7年)4月9日、ガリバルディ―がシチリアに上陸したということを記念して、命名された(実際の上陸は5月9日)。この広場からは、広場の正面に1448年に創建されたサント・アゴスティーノ教会や、広場の側面のサン・ジュゼッペ教会(17世紀創建)などがあり、(写真Gサント・アゴスティーノ教会)又、時計台のある中央門がある。

写真Hタウロ山よりのタオルミーナの眺望
 この広場からは、エトナ火山や眼下にはシチリア島タオルミーナの海岸線が見渡せ、観光に疲れたら、広場のカフェでゆっくりと休憩も出来る。何ともいえない絶好の場所となっている。この広場から、タウロ山の頂上(標高397m)にある城塞まで階段で登れ、約1時間の道のりの途中には、聖マリア岩窟教会があり、素晴らしい市街の展望が楽しめる。(写真H)

写真Iサンドメニコパレスホテル
 又、忘れてはならないのが、ホテルサンドメニコパレスホテルである。タオルミーナの丘の上に建ち、眼下に海岸を望む素晴らしいホテルである。14世紀に建てられた元修道院で、19世紀後半に建てられた2つの宿泊棟から出来ており、各国元首や、要人、そしてまたシシリー島への映画撮影できた映画人やトップスター等が宿泊する、タオルミーナの迎賓館的なホテルである。私も自由時間に、

写真Jタオルミーナ大聖堂前の“ドゥオーモ広場”
約2時間程見学に訪れ、ホテル関係者に案内をしてもらったが、快く迎えてくれ親切に案内をしてくれた。本来なら宿泊する人しか入れない部屋も、J.T.B OBと身分証を見せると、いつも貴社より良いお客様を送客いただいており、ありがとうという言葉と共に、接客のプロとしての接しかたをしていただいた。(写真I)
 又、タオルミーナのウンベルト1世通りの西の端、カターニア門近くの大聖堂とすぐその前にあるドゥオーモ前広場も散策のついでに立寄りたい場所である。シチリアらしい風景を楽しむことが出来、安くておいしいカフェやレストランが近くに散在している。(写真J)
 さて少し話題は変わるが、シチリア島は映画の舞台となったことが何回もあって、私を含めて映画ファンには見逃せない場所でもある。又、マフィアでも有名な島である。これ等について少し述べてみたい。
シチリアを舞台にした映画を思いつくままに記してみても、
 ●「シシリーの黒い霧」:1962年製作・監督フランチェスコ・ロージでベルリン国際映画祭銀熊賞最優秀監督賞、原題は主人公の名前の「サルバトーレ・ジュリアーノ」(写真K)
 ●「シシリアン」:1969年フランス映画、シシリアマフィアを題材にした、ジャン・ギャバン、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ主演の映画(写真L)
 ●「山猫」:1963年のイタリア・フランス合作映画、ルキノ・ヴィスコンティ監督、第16回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞作(写真M)

写真K「シシリーの黒い霧」

写真L「シシリアン」

写真M「山猫」
 ●「ゴッドファーザー」:1972年アメリカ映画、1972年アカデミー賞作品賞、主演男優賞、脚本賞を受賞(「ゴッドファーザー2」、「ゴッドファーザー3」と続編がある)(写真N)
 ●「ニュー・シネマパラダイス」:1988年イタリア映画、1989年カンヌ国際映画祭審査員特別賞、1989年アカデミー外国語映画賞受賞(写真O)
 ●「グラン・ブルー」:1988年フランス・イタリア合作、フランスでのアカデミー賞にあたるセザール賞に多部門でノミネートされた(写真P)

写真N「ゴッドファーザー

   写真O「ニュー・シネマパラダイス」   

写真P「グラン・ブルー」
などなど、どれを見ても良い作品であり、帰国後にビデオで鑑賞し、旅の楽しみである旅行後の余韻に浸った。特に私は、「ニュー・シネマパラダイス」が好きである。又、「山猫」も、ガリバルディの活躍した時代背景を、豪華な配役とその時代風景を映画に反映させた秀作であった。是非皆さんもこれ等の映画で、シチリアの匂いを嗅ぎとって欲しいと思います。
 さてもう一方の、マフィアの件であるが、硬軟色々の著作があり、概要は御存知の方も多いと思うが、今でもイタリアに大きな影響を与えているようだ。この旅行中の12月5日付のイタリア紙には、シチリア島で、マフィア関連の難しい公判を指揮する主任検事へのインタビュー記事が掲載されていた。それによると、「マフィアは盗聴や諜報を駆使しており、1992年〜93年のようなテロが急増するかも知れないという。マフィアは今も、イタリア社会に強い影響力を持っている。かつて捜査・司法と全面対決し、判事の暗殺も相次いだ。マフィア『コーザ・ノストラ』の元ボス、トト・リーナは獄中から検事を脅迫する。アルファーノ内務相は、『最も深刻な課題。南部の発展を遅らせ、経済的自由への脅威だ』と述べた。」 〜イタリア紙ジアンニ・デルベッキオ編集長〜
 しかし、日本の暴力団のようにそれぞれが自他共にわかるような服装などは、一切マフィアはしていなくて、又、それを誇示し市民を脅迫するようなことは多くなく、もっと深部に潜み、一般住民の如く暮らしていると、現地の人は私に語ってくれた。それが実態かも知れない。
 シチリアの旅は色々と私に感動を与えてくれた。この旅は、12月9日(月)日本帰国をもって終了した。
 〜終わり〜
≪編集人より≫懐かしいシチリア紀行ありがとうございました。40年前、2度目のクリスマス休暇、一緒に過ごす相手もいなく、ヒッチハイク(国鉄の運転席も含め)で島内を駆け巡ったことを思い出しました。いいところです。それ以来訪れていませんが、まるで変っていない気がします。
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4月27日KPC総会案内

幹事長・北村 章彦(49回) 2019.04.11
会員各位
 名残の桜もありながら、新緑の美しい季節になりましたが、会員の皆様にはますますご清祥のことと存じます。
 さて、3月8日の幹事会で承認いただきました本年度の向陽プレスクラブ総会を以下の日程、場所、会費で行いたいと存じます。
 なお、出席、欠席および議事委任のご連絡を4月20日までに返信にてお知らせ願います。
 遅ればせながら総会資料を添付してお送りいたします。よろしくお願いいたします。

日時:2019年4月27日(土)17:00〜17:30 総会  17:30〜19:30 懇親会
場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」(昨年と同じ会場)
    東京都港区新橋4-14-7  TEL:03-3432-5666
    URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
懇親会会費: 5000円
議案 ……詳しくは会員のページで2019年度総会決議事項(PDF版)をクリックしてご覧下さい。(pdf版)
 議事1    本年度(平成30年4月〜平成31年3月)事業報告    
 議事2    向陽プレスクラブ2018年度会計報告    
 議事3  平成31年度 向陽プレスクラブ事業計画    
 議事4  平成31年度 向陽プレスクラブ予算案    
 議事5  役員選挙    
 議事6  その他の審議事項    
   ・100周年記念事業への参加について    
   ・「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について    
※また、本年度の会費2000円の納入をお願いいたします。
総会に持参あるいは向陽プレスクラブの口座への振り込みでお願いいたします。
振込口座:?みずほ銀行 渋谷支店(210) 普通預金 8094113 向陽プレスクラブ
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向陽プレスクラブ幹事会議事録

水田 幹久(48回) 2019.04.04
議長 北村章彦幹事長(49回)  書記 水田 幹久
1.日時 2019年3月8日(土)  18時30分〜21時
2.場所 ビッグエコー東京八重洲店
3.出席者 公文敏雄(35回) 岡林哲夫(40回) 藤宗俊一(42回)中井興一(45回) 
      水田幹久(48回) 北村章彦(49回)坂本孝弘(52回)  以上7名
  委任状 山本嘉博(51回)
4.北村章彦幹事長が議長となり、配布資料を使用して、以下の通り議事進行した。
なお、本幹事会は出席者7名、委任状提出者1名 の8名の参加があり、構成員(10名)の過半数に達しているので成立したことを確認した。

 1.2017年度総会について、下記の要領で実施することに決定した。
   日時:2019年4月27日(土)
   場所:「酒菜浪漫亭 東京新橋店」 港区新橋4-14-7 TEL:03-3432-5666
   URL: http://syusai-romantei.jp/index_to.html
    
 2.総会議案について
   1) 2018年度活動報告 : 幹事長配布資料の通り報告することに決定した。
(年会費納入状況、高知支部懇親会等一部訂正あり)
   2) 2018年度会計報告 : 中井会計配布資料の内容を確認した。
    本幹事会から期末までの間に入出金がある場合には、これを追加して、総会に報告する。
   3) 2019年度活動計画案、予算案 : 幹事長配布資料に以下の修正を加えて、総会
   に諮ることに決定した。
   ・2019年度9月、3月の幹事会は会員交流の場となるよう、拡大幹事会とする。
   ・高知支部懇談会は11月(予定)で実施する。
   ・予算案は配布資料を参考に総会までに作成する。
   
 3.その他の審議事項
    1)100周年記念事業への参加について
     クラブとしての参加はしないが、会員各々が個人として協力する。
   2)「土佐中学を創った人々」の増刷と全校生徒・職員等への配布について
    公文会長よりの提案(提案資料に基づく)について審議した結果、以下の通り決した。
    ・増刷し(2000部予定)、在学生・職員等に配布すること(来春予定)、並びに関係送料を当会が負担することは了承。
    ・増刷費用の一部(提案では40万円)を当会から支出することは採択しない。
    ・本配布活動は、会員有志による活動とし、当会による活動とはしない。
   3)母校100周年記念誌企画への協力呼びかけについて
    公文会長からの提案があり、同事業へ有志による参加・協力を会員に呼びかける
ことについて了承。
   4)新年度の役員改選について協議した。
以上
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地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その3

二宮 健(35回) 2019.03.31

シチリア地図
 カルタジローネは標高600メートルの高地にある。古代から現在まで陶器の産業で有名である。1693年にこの地方を襲った大震災後に、バロック様式にて再建をされた街である。後期バロック都市として2002年に世界遺産にも登録されている。人口は約4万人であり、マヨルカ焼やテラコッタの陶器産業が有名である。(写真@)
 この街での最大の見どころは、現地ではスカーラ(階段)と呼ばれている陶器の街を象徴する142段の色も美しい階段である。
 我々、グループのバスは、道が狭いのと環境保全の為、他のバスの乗客と同様に、遊園地を走るような小型の電気バスに乗り換えて(写真A)街を見物しながら(写真B)スカーラの下まで案内をしてくれる。

写真@カルタジローネの街

写真Aカルタジローネの電気バス

写真B市内の市民
庭園も壁も陶器
 スカーラは、市庁前広場から、サンタ・マリア・デル・モンテ教会まで一直線に延びている。階段の蹴上には、種々の絵がマヨルカ焼の陶板で飾られており壮観である。(写真C)
 142段を昇るのには中々体力が要る。段の高さがかなり高く、腰掛けになるほどに段差がある。我々の行程はスカーラを見物した後、更に約55キロメートルの所にあるラグーザ迄行かなければならない為に、限られた見物時間を使い、私自身は息をはずませながら最上段まで昇った。そこからの展望は天気の良かった為に息をのむ程の美しさであった。又、そこに有ったサンタ・マリア・デル・モンテ寺院も美しかった。(写真E・F)

写真C美しい陶板
142段ある“スカーラ”

写真Eサンタ・マリア・デル
・モンテ広場からの眺望

写真F同寺院の外観
 寺院内部も見学したかったが、時間の余裕もなく、又142段を下っていかなければならない為に断念をした。見物を終え、バスに帰ったら、私の膝頭は、スカーラの昇り降りで完全に笑っていた。
 カルタジローネから道を南東にとって約1時間30分で、旅行4日目の宿泊地ラグーザに着いた。今日は、アグリジェントを出発して、ピアッツァアルメリーナ、カルタジローネ等々を見物した、ハードなバス旅であった。ホテルへ到着したのは、午後7時前であった。

写真Gセント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂
 ホテルはメディテラネオパレスホテルという名の四ツ星クラスのホテルだが、ロビーも狭く、私の使用したシングルルームも狭かったが、水と風呂のお湯が充分に出たので良しとしよう。セント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂のすぐ近くにある。(写真G)
 今夜の夕食のシチリア名物のカジキマグロ料理を楽しんで、その後グループの仲間はバスの長旅の疲れで、就寝は早い目であった。
 今日旅の4日目、12月4日(水)は、シチリア島は終日、晴の良い天気だった。
 いよいよ旅も12月5日(木)、5日目を迎えたが、朝から素晴らしい好天である。気温は13℃である。今日のコースは、午前中、世界遺産のラグーザを見物して、約83キロメートル東へ、バスで1時間30分移動して、これも世界遺産の街シラクーサを見物して、約125キロメートル北上し、今夜の宿泊地タオルミーナへと移動する、又々胸おどる観光地巡りである。
 最初の観光は、ラグーザの街である。この街はイブレイ山地の南に位置する渓谷の間に高低差のある高台の街ラグーザ・スーペリオーレと、下方の地にあるイブラという街が一つの街をなしている。我々は、ラグーザとイブラ地区をガイドの案内で手短く徒歩で観光をした。何故かと言えば、バスの通らない2つの街を眺望できる階段からの素晴らしい景色を楽しむ為である。ノート渓谷のバロック都市として世界遺産に登録されているこの街は1693年1月に発生した大地震により崩壊し、それ以降再建されたバロック様式の街として有名である。
 1693年1月の大震災は、シチリア島では史上最大の震災といわれ、島の南東部にあるカターニャ、シラクーサ、ラグーザなどが壊滅的な被害を受け、死者数万人を数えたと言われている。その被害から復興するに当たって、街の最も古い地区のイブラでは、東と西の地区が対立して、20世紀初頭まで、市を二分する機能のまま存立をしていた。
 さて、ラグーザのスペリオーレ地区から、メインストリートを南に進んで坂道を下ってゆくと、美しい旧市街のラグーザ・イブラ地区が見えてくる。(写真H)絶景である。細い坂道からは、中世そのままに、新市街と旧市街の両方を見ることが出来る。バスを旧市街に先に廻しておき、イブラの街を見学した。
 先ずイブラ地区のシンボルである、サンジョルジョ大聖堂(写真I)へ向った。ロザリオ・ガリアルディ設計の後期バロック様式の代表的建造物の世界遺産である。また、イブラの街には、奇怪な面相を持つ貴族の館(写真J)が建ち並んでいるが、魔除けと言われている。短時間の見物であったが、時間をかけてゆっくりと見て廻りたい街である。

写真Hラグーザの“イブラ地区”の眺望

写真Iラグーザのイブラ地区
サンジョルジョ大聖堂

写真Jエブラの街の魔除けの奇妙な面
 さて見物後、ラグーザからシチリア東海岸のシラクーサへと移動する。バスで83キロメートル、約1時間半かけて街へ着いた。昼食のピッツァを済した後、これも世界遺産に登録をされているシラクーサの見物である。この街は後述するタオルミーナの街と並び称されて、シチリア島では、最も美しい街の一つに数えられている。シラクーサもまた世界遺産の街である。
 古代ギリシャから3000年以上に亘る遺跡があり、現在は周辺地域を含めると12万人余りの街である。沢山の遺跡で観光スポットも沢山あるが、我々の巡った場所を、順を追って説明してみよう。あのアルキメデスの生れた所であり、余談かもしれないが、小説家太宰治が、昭和15年に発表した“走れメロス”に出てくる街である(但し太宰はこの街をシラクスとしている。)古代のシラクーサは人口40万人をこす大都市であったが、アラブに征服されて衰徴した。

写真Kパラディーゾの石切り場の
“ディオニュシオスの耳”

写真Lシラクーサの“ギリシャ劇場跡”

写真M古代ローマの円形闘技場跡
 この街の見どころは、古代ネアポリスと呼ばれた市北部一帯(新市街)にある考古学公園内の、パラディーゾの石切り場である。深さ50メートル弱のものもあるが、特に有名で必見なのが、“ディオニュシオスの耳”(写真K)と呼ばれる高さ36メートルの耳の形をした洞のような岩である。この岩の掘り跡の名前はカラヴァッジョが1603年に名付けたという。又、このすぐ近くには、紀元前3世紀に着工した1万5千人収容の“ギリシャ劇場”(写真L)があり、現在でも古代劇が2年ごとに行われ、使用されている。又、ギリシャ劇場のすぐ近くに、紀元前3世紀から4世紀にかけて使われた“古代ローマの円形闘技場”(写真M)があり、これもシラクーサでは見逃せない観光場所の一つである。

写真Nシラクーサの“アポロン神殿跡”

写真Oシラクーサの“アレトゥーザの泉”
 もう一方、シラクーサの本島側とは別に、この街の発祥の地と言われている、オルティージャ島がある。この島には、世界最古の石造神殿と考えられる、“アポロン神殿”(紀元前575年頃の建立か?)(写真N)があり、ギリシャ人入植以前から、シクリススの聖地とされていた場所である。またこの島には海岸のすぐ近くにありながら、真水を湧出する“アレトゥーザの泉”があり、これもシラクーサの観光名所の一つとなっている。(写真O)
 我々一行は、シラクーサを観光した後、島を北上して、距離にして125キロメートル、時間にして約2時間をかけて、カターニャの街を経由して、最後に2泊するタオルミーナの街に到着した。すっかり夜になった午後の7時半頃に、宿泊するエクセルシオールパレスホテルへ到着をした。5日目の12月5日の旅は終日晴天でシチリア島の各地を堪能した。ホテルのロビーでは、南アフリカの独立の英雄、ネルソン・マンデラの死去がテレビ速報で大きく報じられていた(2013年12月5日死去)。到着が夜の7時半頃であったために、ホテル周辺の景色が今一つ定かでなかった。
 旅の5日目の12月5日は晴天であった。気温も15度位で見物箇所も多くて素晴らしい一日であった。宿泊するホテルはタオルミーナのエクセルシオール・パレスホテル(四ツ星ホテル)である。
 一夜明けた12月6日(金)、旅の6日目は、朝から絶好の晴天である。昨夜は定かでなかったが、眼前のエトナ火山の雄姿(写真P)が望めるタオルミーナでも有数のホテルである。(写真Q)
 展望デッキからは、薄煙りをはくエトナ火山が紫色にも見える雄大かつ優美な姿を見せていた。ホテルの前庭には、我々の出発前とその後に噴火した火山灰がまだ大量に残っていた、荒い砂のような黒色の火山灰である。しかし、ホテルの展望室から眺める、シチリア島のシンボル、エトナ火山は美しかった。(写真R)

写真Pエトナ火山の雄姿

写真Qエクセルシオールパレスホテル
タオルミーナの外観

写真Rホテル展望室から見たエトナ火山
 今日は旅の6日目、12月6日(金)であり、天候は朝から晴天の行楽日和である。世界中でも最も美しい街の一つと言われていて、又、世界中のセレブ達がこぞって集まるタオルミーナに、我々は前日に到着して、今日一日をかけてこの街を見物する。
 この街は人口約1万1千人で、シチリア島の他の都市と同じく古代ギリシャやローマ帝国の遺跡を数多く残している。シチリア島東北部に位置する街である。楽しみにしていたシチリア島での最後の観光地であるタオルミーナを、次号で語ろう。
以下、次号へ続く。
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<版画万華鏡・5-2>
「布袋と美女、おんぶ文化」について

中城 正堯(30回) 2019.03.31
 見慣れぬ布袋様とおんぶ文化について、冨田さんはじめ何人かの方から、早速感想をいただき、感謝致します。浮世絵がヨーロッパのみならず、アシアでも模倣されたのは、浮世絵美術の素晴らしさとともに、江戸の町人文化の素晴らしさでもあります。  おんぶ及び子育てについて、図版での補足を少しさせていただきます。まず、ヨーロッパでのおんぶについてです。図1は、19世紀中頃のイギリス版画「山に住む人」(P・ポール画)で、スイス・アルプスの母子です。図2は、1884年頃のドイツ印象派F・ウーデの油彩画「姉妹」です。図3は、歌川広重の「木曽海道(ママ)六十九次之内 宮ノ越」(1837年頃・部分)で、祭りから夜道を帰る親子連れで、おんぶの父・だっこの母に姉が続き、名作とされています。広重は、風景画の中に子ども風俗を巧に織り込んでいます。

図1.スイス・アルプスの母子
P・ポール画

図2.「姉妹」
F・ウーデの油彩画

図3.「木曽海道(ママ)六十九次之内
  宮ノ越」歌川広重


図4.育児書『やしなひ草』
『児童教訓伊呂波歌絵抄』
 最後に図4は版本のさし絵で、2点紹介します。育児書『やしなひ草』(1784年)には夫婦揃っての育児場面に「何がそだてて た(誰)が養ふて いきているぞと もとさがしや」の歌が添えてあります。もう一つは『児童教訓伊呂波歌絵抄』(1775年)で、「月花もめでて 家をもおさめつつ 雪や蛍の学びをもせよ」とあり、花見を楽しむ老婆・母・娘、三代の女性に、家を治めつつも季節毎に風流を楽しみ、蛍雪の学び(読み書き歌の道)も励むように呼びかけています。
 明治維新後は武家風の男尊女卑が強調され、女性は家庭に閉じ込められますが、江戸時代、町人の女性は多忙な家事家業に従事しながら、風流も楽しんだようです。
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<版画万華鏡5>ありがとうございました

冨田 八千代(36回) 2019.03.31

筆者旧影
 今回は、初めから仰天でした。宝船の布袋様とはうってかわったお姿。ネパール版画に続いて、「図3.西村重長『布袋と美女の川渡り』筆者蔵」にうつりましたので、ほっとしました。おんぶ文化の入り口に、ネパール版画だったのは、中城さんの粋なはからいなのでしょう。
 おんぶ姿は直接、肌のぬくもりを感じさせ、やはり、今回も江戸時代の子どもたちの幸せが伝わってきます。北山修教授の強調されているように母親のまなざしが語っています。喜多川歌麿「児戯意之三笑」は水鏡に親子を写す場面をとらえた、歌麿の心の細やかさ、母親の心のゆとりと子へのいとしさの表現に感動しました。
 ちょうど、中村真一郎さんの事から、図書館の浮世絵の書架に行き「母子絵百景」を見つけ借りてきていました。この<版画万華鏡5>のおかげで、より詳しく味わうことができました。本当に、母と子の様々な情景に心が和みました。喜多川歌麿の「授乳」の場景は4点もあり、「風流子宝船」にも、中央で大黒様がお乳をのんでいるとは面白い。「雪のあした」(歌川国貞)3枚続も目に留まりました。「図12」はその中央部分なのですね。「浮世絵風俗子宝合 渓斎英泉」の水鏡は心憎いのですが、これは歌麿にヒントをえたのでしょうか。
 この画集「母子絵百景」は「江戸子ども百景」と姉妹編だと思います。これにも中城さんのお名前が明記されてもいいのではないでしょうか。執筆・図番解説・作品解説と尽力されていますので。背表紙にお名前がないのでずっと、この本は気がつきませんでした。たまたま、私は今回借りて好都合でした。
 ちょっと、それますが、この時に、ついでに気楽に読めそうと「知識ゼロからの浮世絵入門」を借りました。著者は稲垣進一さん。「浮世絵に見る 江戸の子どもたち」に執筆されたのを覚えていたので借りましたが、紹介された作品の中で子供が登場するのは極わずかです。くもん子ども研究所の「子ども浮世絵」の収集は貴重なことをこの本からも受けとめました。
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<版画万華鏡・5>
布袋と美女のそっくり版画から“おんぶ文化”再考

中城 正堯(30回) 2019.03.23
ネパールの布袋が背負うは女神か遊女か

図1.ネパール版画
「布袋と美女の川渡り」筆者蔵

図2.ネパール版画
「ヒンドゥー教の女神」部分 筆者蔵
 ネパールで布袋様と出会ったのは、1990年であった。首都カトマンズの古い街並みを散策し、版画店でヒンドゥー教のシヴァ神、カーリー女神、さらには象頭神ガネーシャ、日本で弁才天となったサラスヴァティーなどの楽しい版画を購入した。浮世絵と同じ木版画だが多くは墨摺で、彩り豊かな作品は手彩色を加えたもの、いずれも安価だ。
 そこでなんと「布袋と美女の川渡り」(図1)を見付けたのだ。美女を背に川を渡るのは、髭面で太鼓腹の紛れもない布袋様だ。仏陀(釈迦牟尼)はネパールでもよく見かけるが、布袋とは珍しい。背中の美女が異様で、まげを結い、波千鳥文の着物に大きな帯を結び、一見江戸時代の遊女風だが、上半身裸で乳房を見せており、彫りが深い目鼻立ちはヒンドゥー教の女神(図2)を連想させられる。布袋の川渡り自体は、浮世絵画集で見た記憶があり、何はともあれ購入した。

図3.西村重長
「布袋と美女の川渡り」筆者蔵
 帰国してほどなく、神田の浮世絵店の目録に西村重長「布袋と美女の川渡り」(図3)を見付けた。店に駆けつけて入手する。重長は多色摺の錦絵が誕生する直前、1750年前後に数色のみ使った紅摺絵の代表的絵師であり、ネパール版画の数百倍の値が付いていた。布袋と美女の構図も、布袋の法衣の宝珠模様も、足もとの流水もまったく同じで、前者は明らかに西村作品をそっくり模写している。ただ背中の女性は、ネパール版は赤や黄色の派手な衣装をまとったアーリア系美女だが、重長の浮世絵では細目おちょぼ口の楚々とした江戸娘である。

図4.室町期狩野派
「布袋図」ボストン美術館蔵
 重長は背景に柳を描き、「袋より恋のおも荷ややなぎ哉」の句を添えてある。いつもかついでいる大きな袋より、さらに重い恋情を背負っても“柳に風”の姿であろうか。布袋は、唐末の中国に実在した僧で、肥大した腹を出し、大きな袋を背負って喜捨を求めては袋に投げ入れたので布袋の名がつき、子どもたちに愛された。中国絵画でも、室町時代の狩野派の絵(図4)でも、子どもと戯れる福々しい姿が見られる。浮世絵では、布袋の容貌は狩野派を受け継いでいる。しかし重長だけでなく、初期錦絵の鈴木春信も酔狂な布袋を描いており、うたた寝する女性に床の間の画軸から抜け出た布袋が忍び寄っている。

図5.コッヘム城壁画
「キリストを背負う聖人」筆者撮影
 本来、おんぶとだっこは親密な親子関係の象徴であり、子どもにとっては最も甘美な思い出である。ドイツではモーゼル河岸コッヘム城の塔壁で、幼児を背負って川を渡る男のモザイク画(図5)を見付けた。聞くと、これは聖人クリストフォルスと少年キリストであり、増水した川で少年キリストの背負う全世界の重さを告げられた男が、入信する場面だという。似た神話はインドにもあり、宗教画になっている。それは、クリシュナの誕生譚で、父ヴァースデーヴァはこの子が神の子であることと、命を狙われていることを悟り、頭上にかついでヤムナー川を渡って落ち延びるという場面だ。
印象派の女性画家が歌麿母子絵に感動
 聖人が重荷を背負って川を渡る姿もよいが、おんぶといえばやはり母の背の我が子であろう。その最高傑作とされる絵画が、喜多川歌麿の母子絵である。フランスの作家ゴンクールは『歌麿』(1891年パリ刊、2005年平凡社刊)で、「遊郭の女を描くこの画家の興味深い一面は、母性のテーマ」と述べ、授乳・行水・おしっこなど、幼児を優しく世話する母親の表現を絶賛、こう記している。
「母子群像の内で最も幸福な場面の一つが、子供を背負った母親と母の肩から身を乗り出した子供が、手水鉢に入れた水を二人してのぞき込んでいる図である。溜水は自然の鏡となって、くっつき一体化し、抱き合っているような母子の姿を映し出している」

図6.喜多川歌麿「児戯意之三笑」
大英博物館蔵

図7.喜多川歌麿「当世風俗通 女房風」
公文教育研究会蔵
 歌麿による水鏡をのぞく母子の一つが、「児戯意之三笑(こけいのさんしょう)」(図6)である。この題は、中国の陶淵明たちの故事「虎渓の三笑」のこじつけだが、絵は母子がまさに一体化して、水に映る顔をともに見つめている姿だ。歌麿は遊女の妖艶な美人画で知られるが、画業の初期から晩年まで、庶民の生活に根差した母子絵を終生描き続けており、筆者の調査では全作品の20%前後におよぶ。小野忠重は、出生地も父母も不明とされる歌麿の胸に、幼き日に別離した母への恋慕が刻まれていたからだと『浮世絵』(東海大学出版会)で述べている。歌麿の描く授乳場面「当世風俗通 女房風」(図7)で分かるように、母はまゆを剃り、歯を黒く染め、庶民の母の風俗・表情をリアルに描写してある。当時のヨーロッパ絵画では、授乳場面はほぼ聖母子に限られていた。
 歌麿亡き後も、浮世絵の母子絵は歌川国貞や歌川国芳などによって受け継がれ、子どもの遊び学ぶ日常生活を描いた子ども絵とともに、浮世絵風俗画の重要な分野になる。これは平和な時代になり、家の継続が重視され、子どもを大切にする子宝思想が広がるとともに、人々がこれらの浮世絵を競って購入した結果である。こうした背景を持つ歌麿の母子絵に感動し、追随したのは浮世絵師にとどまらない。

図8.喜多川歌麿「行水」
MOA美術館蔵

図9.M・カサット「湯あみ」
『メアリー・カサット展』横浜美術館より
 ゴンクールの『歌麿』出版の前年1890年に、パリの国立美術学校で大規模な浮世絵展が開かれ、歌麿の作品も86点展示された。これを見た印象派の女性画家メアリー・カサットは、母子の日常生活を描いた歌麿の浮世絵に感動、友人のベルト・モリゾに「絶対に見おとしてはいけません」と、手紙を書いている。カサットたちは銅版画・石版画など版画にも興味を持ち始めた時期で、巧みな線描と繊細な色調の木版浮世絵に魅了されるとともに、母子という題材に女流画家として新しいジャンル開拓の霊感を得たのだ。
 当時の女流画家は、裸体デッサン会には参加を許されず、キャバレーやカフェなどにも出入りできず、題材には大きな制約があった。また、子どもを里子に出す風習や、赤ん坊を布でぐるぐる巻きにするスワッドリングも見直され、家庭での新しい育児への移行期であった。アメリカ人のカサットは帰国後、母子がともに手鏡を見る姿や、歌麿の「行水」(図8)と同じ構図の「湯あみ」(図9)など、母子絵を多数描いて高い評価を得る。
江戸“おんぶ文化”のゆくへ
 ネパールで、なぜ「布袋と美女の川渡り」のそっくりさんが版行されたか。まず、インドに接し、仏陀生誕国でもあり、ヒンドゥー教とともに仏教も信仰されてきた。中国生まれの布袋も、インドの弥勒菩薩の生まれ変わりとされ、違和感がなかったようだ。男女の合体神も、シヴァ・シャクティなど多々祀られていた。さらに、おんぶがネパールのみならず、ヒマラヤ南麓はじめアジア各国で広く見られる子育て風俗であることが大きい。
 筆者が撮影した写真から、4点紹介しよう。ブータンの若い母子、シッキムの籠おんぶ、タイ北部のパラウン族(首長族)の横おんぶ、インドネシア・スマトラ島バタック族の姉弟(図10)である。おんぶ用具も、背負い方もさまざまであるが、家事や家業に従事しながらの育児に、また山道の移動に、おんぶが最適であったと思われる。

図10.アジアのおんぶ文化、筆者撮影。
ブータン 

シッキム

タイ・パラウン族

インドネシア
バタック族
 おんぶはアジアのみならず世界各国、特にアンデス、アルプスなど山岳地帯で見られた。しかし、ヨーロッパでは育児文化としては否定され、心身を整えるためとして赤ん坊は手足を伸したまま、布でぐるぐる巻きにされて育てられた。抱き癖も子どもを甘やかすとされた。

図11.F・クルーエ「浴槽のディアーヌ
・ド・ボワチエ」シャンティ城蔵
16世紀のフランス貴族の育児風景が「浴槽のディアーヌ・ド・ボワチエ」(クルーエ画・図11)で、入浴する母の背後に乳母から授乳されるスワッドリングの赤子がいる。パリ警視庁の1780年の記録に、21.000人の出生児のうち母親・乳母に家で育てられたのは2.000人、あとは里子に出されたとある。離乳期まで、他人にゆだねられたのだ。

図12.歌川国貞「雪のあした」
公文教育研究会蔵
 浮世絵では歌川国貞「雪のあした」(1823年・図12)に、子をおぶって水を汲む母や子守娘、そしてだっこの子がいる。母も子守娘も、綿入りの“ねんねこ半てん”で保温には万全である。育児に人手が足りない家では、子守娘をやとって家で育てた。同じ国貞(豊国三代)の「江戸名所百人美女」(図13)には、裸の子をふところに抱く母と、火鉢のはいった干し籠で子ども着を温める様子が描写され、その背中には背守(せまも)りの“くくり猿”が付けてある。歌麿の図6でも、子の背には“結び文”の背守りがある。当時、子どもは背中の首の付け根から、魂(命)や病魔が出入りするとされ、背守りが用いられた。特におんぶの際には、背後から忍び寄る病魔撃退に背守りが必須であっただろう。

図13.歌川豊国三代(国貞)「江戸名所
百人美女」 公文教育研究会蔵
 1878年(明治11年)に日本に来て『日本奥地紀行』(平凡社)を書いたイギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、「これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり・・・」と、愛情細やかな育児に感心している。しかし、明治時代には西洋式育児がしだいに普及、おんぶは排斥され、昭和期には消えていった。ところが、1998年に「浮世絵の子どもたち展」でイギリスやフランスに行って驚いた。

図14.現代イギリスのおんぶ 
エジンバラで筆者撮影
背負い具で子どもをおんぶして通勤する母(図14)や、美術館に来る母親が結構いるのだ。聞くと、ヨーロッパの新しい育児書には、おんぶでの母子接触や語りかけが、子どもの情緒安定や健全な成長に大切とあるというのだ。育児書には、背負い具も紹介されていた。
 精神分析学の北山修九州大学名誉教授は、『浮世絵のなかの子どもたち』(1993年 くもん出版)で浮世絵の母子絵を見て以来、精力的に日欧の母子絵の画像を収集分析し、学会で発表してきた。そこで強調しているのは、浮世絵には「共に眺める〈共視〉」「みつめ合う〈対面〉」、そして「母子の身体的接触」が、西洋絵画よりはるかに多いことである。共視・対面・身体的接触、そして語り掛けからも、おんぶは乳幼児にとって最良の育児環境であっただろう。夫婦共稼ぎ、託児所保育の時代を迎え、これからの子育てをどう再構築するか、子ども好きだった布袋さんにチエを貸して欲しいものだ。
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地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その2

二宮 健(35回) 2019.03.20

シチリア地図
 昨日は、晴れたり、曇ったり、又一時雨が降ったりと変幻極まりない天候だったが、今日平成25年12月3日(火)のパレルモは、日の出が午前6時50分で、天候は晴れであり、これから見物する、モンレアーレやセリヌンテ、アグリジェントも晴れであって欲しいと思い朝9時半にホテルを出発した。
 今日のバスの行程は先ず約10キロメートル位パレルモの郊外内陸部のモンレアーレを見物した後、再び南下して約2時間で106キロメートルを走り、セリヌンテのギリシャ神殿群を見物し、東へ約2時間をかけアグリジェントへ至るコースである。どれもシチリアを代表する観光ポイントであり、楽しみである。現地在住の日本人女性ガイドO女史は、何度もこのコースを巡っているのか、格別の感情を持っていないようで淡々と自分の仕事をこなしている。余談になるが、私の現役J.T.B時代は旅行に随行して添乗する場合は、私にとっては何回目の場所であっても、参加の皆さんは、多分一生に一度の訪問先であろうからと、清新に仕事をしたものだがと考えながら、何か不真面目な点があれば言っておこうとおもっていたが、初日の出迎えから、淡々としており、これは性格かなと考えながら説明を聞いているが、過不足なく仕事をこなしている。

写真@モンレアーレ大聖堂

写真Dモンレアーレ展望台から
 さて、バスはモンレアーレに到着し、アラブ・ノルマン様式の美しいモザイクでおおわれているモンレアーレ大聖堂(ドゥオモ)見物である。昨日訪ねたチェファルー大聖堂(カテドラーレ)と同じく2015年7月にアラブ・ノルマン遺産として世界遺産に新しく指定された名建築である。このドゥオモは1174年から1182年にかけて、グリエルモ2世によって建造された華麗で重厚な建造物である。(写真@)内部では有名な全能のキリスト像を描いたモザイクが世界的に有名である。(写真A)又、堂内には多数のモザイク画が描かれており(写真B)、又、回廊も美しく(写真C)時間がもっと欲しいと思われてならない。見物を終え、ドゥオモを出ると、何と豪雨になっており、天気であれば美しく見える筈の海とコンカ・ドーロとパレルモの街のパノラマは、残念ながら見えなかった。(写真D)

写真Aモンレアーレ大聖堂
キリスト像

写真Bモンレアーレ大聖堂内
モザイク像

写真Cモンアーレ大聖堂内の廻廊


写真Eシチリア料理“アランチーニ”

写真Fシチリア料理“インポルティーニ”
 さて、今回の旅行では昼食も地方色豊かで、昨日のパレルモでの昼食はシチリア料理のアランチーニ(ライスコロッケ)であり(写真E)、今日のモンレアーレの昼食はこれもシチリア料理のインポルティーニ(シチリア風の肉のロール巻)である。(写真F)日本ではシチリア料理専門店でしかお目にかかれない料理である。イタリアを訪ねたこともないイタリア料理人が多い日本のイタリア料理店では、メニューに無い料理である。昼食後、モンレアーレから南下して約106キロメートルにある次の目的地、セリヌンテへ向かう。昼食後も少し雨模様で、セリヌンテでのギリシャ神殿群の見物に影響しないかと一寸心配である。

写真Gシチリア島の高速道路アウトストラーダ
 シチリア島の、アウトストラーダ(高速道路)を淡々と南下するも、道はよく整備され(写真G)、約2時間弱でセリヌンテに到着した。紀元前650年頃に島の東海岸から来たギリシャ人によってギリシャ神殿の数々が築かれて、紀元前409年のカルタゴ襲来で破壊された約240年の夢の跡のような大遺跡群である。写真と共に見てみよう。
 雲に切れ目が出て、少し太陽が顔をのぞかせて、心配していた雨も上り、ラッキーな気分で見物を始める。セリヌンテは、カルタゴの来襲と、その後の大きな地震によって破壊されているが、それでも残った建物群は素晴らしく、交通不便であるが、是非訪ねたい遺跡である。入口に近い東神殿群の中で一番美しいのが、紀元前480年頃のドーリス式の神殿で女神ヘラに捧げられたE神殿である。(写真H・I)又神殿群のG神殿は紀元前550年頃に着工されたが今は、大円柱だけが残っている。(写真J)

写真HセリヌンテのE神殿

写真IセリヌンテのE神殿

写真JセリヌンテG神殿跡


写真Kライトアップされたヘラクレス神殿
 セリヌンテ遺跡は、東神殿群と約1キロメートル西のアクロポリスに分かれており、海を左に見て進むと、アクロポリスに到る。ここには、A、B、C、D、O、と呼ばれる遺跡があるが、形を残しているのはC神殿だけである。バスは、セリヌンテを出て東に向かい約105キロメートルを2時間かけて、アグリジェントに着いた。到着時間が夕方遅くになっているので、前後するが、ライトアップされた、エルコレ(ヘラクレス)神殿の見物に向かった。(写真K)アグリジェントのドリアヌ式の神殿の中で最も古い紀元前520年の建造とのことだ。夜なので遺跡の中での位置関係が良くわからない。明日はこの大規模な、世界遺産に1997年に登録された大神殿群を巡ると思うと大変楽しみである。
 アーモンドソースをかけた夕食を楽しんだ後に、今夜の宿泊ホテルのディオスクリベイパレスホテルへチェックインした。(写真L・M)清潔で四ツ星クラスのホテルである。客室数は102室である。

写真L・Mアグリジェントの

ディオスクリベイパレスホテル

写真Nアグリジェント宿泊ホテルの食堂
 旅行の4日目、ホテルの小綺麗なレストラン(写真N)にて朝食をとり、シチリア大好き人間の我々14名はいよいよアグリジェントの世界遺産の神殿群見物に、朝8時にホテルを出発した。絶好の晴天である。今日のコースはアグリジェントを見物後、古代ローマのモザイクが残る、ピアッツァアルメリーナへ向かい、更に世界遺産のカルタジローネへ向い、その後、ラグーザで宿泊する、なかなかハードなコースである。
 順を追って、写真も交えながら、見物をしてみよう。
 紀元前5世紀に人口30万人の大都市であったアグリジェントで有名なのが、“神殿の谷”と呼ばれる区域に点在するギリシャ神殿の数々である。先ず我々は、ジュノーネ神殿(写真O)を見物した。紀元前470年に建造された別名ヘラの神殿である。25本の柱と柱の上に横に渡した石材(アーキトレーヴ)が残っており、紀元前406年にカルタゴ来襲によって炎上した焼けただれた赤く変色した石の色が内部に見られる。神殿の谷地区の東端に位置する名建築遺跡である。

写真Oアグリジェントのヘラの神殿

写真Pコンコルディアの神殿

写真Qコンコルディアの神殿
 次に見物したのが、やはり神殿の谷にある、これもまた有名なコンコルディア神殿である。海を背景に美しいドーリス式神殿である。コンコルディアは平和を表すローマの女神の意味とのこと。この神殿は前面6柱、側面13柱の完璧な美を見せる神殿で紀元前450年頃の建築と推定されている。(写真P・Q)

写真Rヘラクレス神殿
さらに我々は、エルコレ神殿を見物した。別名ヘラクレス神殿とも呼ばれている。紀元前520年の建築と伝えられている。(写真R)
 余談になるが、この神殿の谷から、谷を少しへだてて、現在のアグリジェント市(人口約6万人弱)の現代建築のコンクリートの高層建物がたくさん目視でき、なんだか興をそがれるが、これらの建物は、 1980年代のイタリア、特にシチリアの政財界が混乱を極めた頃、シチリア経済を牛耳っていたマフィアが建築業界への投資で、雨後のタケノコのように建ったビル群だと言われており、現在も麻薬のフレンチコネクションが崩壊した後の、麻薬シンジゲートがこのアグリジェントにあると信じている人が多いとも言われている。

写真A:カザーレ荘の
モザイクを巡る建物
 午前中、神殿の谷の有名建築物を見物した後、歩を先に進めて、アグリジェントから東北約100キロメートルにある、ピアッツァアルメリーナへ向かう。約1時間半のバスの旅である。そこからさらに進むと近郊の森にローマ時代の豪華なモザイク様式のある、カザーレ荘がある。1997年にアグリジェントの神殿の谷と共に世界遺産に登録されている。3世紀のローマ時代の貴族の別荘である。
 ローマ時代こそ繁華な市街の近郊だったといわれる別荘は、今ではピアッツァアルメリーナより約6キロメートルも小さな道を進まなければいけない。50部屋程ある全ての部屋や、それらを結ぶ回廊に、ビキニ姿で踊る10代の少女とか、狩猟を描いたモザイクとかが、この館の公的空間、私的居住空間とかにこれでもかと言う程に描かれている。何故こんな田舎にかくも豪華な「ローマ離宮」と呼ばれる建物、それも現在は世界遺産に指定されたような建物が残されたのであろうか。疑問に答えて、次のような説がある。一つは炎熱のシチリアでの避暑地として、ローマ貴族が使用したのではないかという説。今一つは飲料水を含めて、水の便が良かったのではないかと、当代の歴史家は推測をしているようだ。(写真B-D)

写真B-D:カザーレ荘のモザイク画


 旅行4日目の12月4日(水)の遅い目の昼食は、アグリツーリズモとイタリア語で言われているレストランでとった。アグリツーリズモとは、農場滞在型観光を意味し、日本での“道の駅”のイタリア版である。しかし規模と歴史は雲泥の差があり、私達の利用したレストランは、中世の14世紀から続く建物を中心に、周囲を自前の広大な畑が囲み、そこでとれたものを自給自足する地産地消で経営されている。レストラン以外に宿泊施設を持ち、小高い丘陵地にある大規模施設である。日本の安直な食堂とは、

写真E:アグリツーリズモのレストラン

写真F:レストランにて
規模も施設内容も、提供される食材も何もかも違いびっくりする程の内容であり、提供されるワインも自家製であった。www.gigliotto.com +37°17’25.66 +14°23’16.63に位置している。場所はアグリジェントとラグーザのほぼ中間に位置している。農家に泊まって、農業を体験するアグリツーリズモで、こんな周囲に何も無い静かな空間で数日間、読書とワインと散策で過ごしたらどんなに素晴らしかろうと思った。日本でもアグリツーリズモの動きは小規模ながら信州などで取組みが始まっている。(写真E,F)
 さて、昼食をゆっくりと済ませ、約35キロ南下して、車で1時間ほどのカルタジローネの街を訪ねることとする。
以下、次号へ続く。
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<版画万華鏡・4 >はすぐに拝読しました。

冨田 八千代(36回) 2019.03.10

筆者旧影
 名古屋市博物館で開催されている「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」での神谷浩氏の講演「国芳と芳年の快感」をきいてからお返事しようと思っていました。講演会は2月24日、もう1週間以上もたってしまいました。
 「和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子どもたち」では、子ども浮世絵の世界とその世界から色々な物事に広げていただきました。
  ・武士の子どもの様子の登場
  ・米将軍吉宗の事
  ・葛飾北斎の事
  ・打毬の発祥の起源地
 ポロと同じとは。だんだんとその地域の自然環境や文化や慣習によって変わってきた、長い歴史を持つものであること。私は題を見た時に、中城さんが「和製ポロ」と表現されたのだと思っていました。
  ・ずっと生きている「打毬」のこと 写真が素敵です。
  ・「千代田之御表 打毬上覧」楊洲周延 明治28年頃(筆者蔵)の立派な事
 明治28年頃が気に留まりました。先日行った名古屋の展覧会にも明治時代の作品がかなりありましたが、10年代がほとんど、23年作が1点で、それ以後の作品はありませんでした。
 私が最も胸を打たれたのは、中野真一郎さんの評でした。「これら版画のなかの母親も、子供たちも、何と人生を信頼し、親子の断絶だの、登校拒否だの・・・知らずに、愉しく寄りそって生きている・・・。彼らは自分の身のまわりの物から遊び道具を工夫して、次つぎと珍しい遊戯を発明し、お互いの心の交流を習得していっている」(中城さんの文章からコピー)なんといい環境の中に子ども達がいるのかと感激に自然に涙があふれました。現職中、家庭の崩壊など子どもにとって不幸な状況を目のあたりにし一人の教員の無力さを痛感してきました。子どもには自分の生きる環境は選べません。どの子も安心して生きられるようにと願うこのごろです。
 さっそく、図書館で「眼の快楽」を借りて読みました。その中に、中城さんの著書に執筆をされたような文章がありましたので、図書館の「浮世絵」の書架の所に行きました。そこで新たに「母子絵百景 よみがえる江戸の子育て」を見つけました。中城さんも執筆されていますので、後日、読みたいと思います。
 名古屋の展覧会は150点もの浮世絵が展示されていました。展示構成は5部。1、ヒーローに挑む 国芳がもっとも劇的に深化させたのは武者絵 2、怪異に挑む ヒーローを際立たせる 3、美人画・役者絵 浮世絵の王道 4、話題に挑む 人々の関心事、楽しみを伝えると言う浮世絵の本質部分 5 「芳」ファミリー(の作品)神谷浩さんの講演もこれにそって、作品を映し出しながら浮世絵の魅力を精力的に話されました。ご自身が「浮世絵」をとても慈しんでいらっしゃることが伝わってきました。
 今回の展覧会は中城さんの著述がなかったら全く目にも止まらなっかたことです。しかし、この展覧会は、「浮世絵」に俄か興味・好奇心の域の私にとっては意表を突かれた感も否めません。それだけ「浮世絵」は広くて深いということでしょう。今回の展覧会には明治時代は?という関心は持っていきました。明治時代に急激に衰退(といっていいでしょうか)という印象でした。残念に思います。
 次回「浮世絵そっくりさん」を楽しみにしています。
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冨田様
 浮世絵に関心を寄せてくださり、また「打毬」の記事を丁寧に読んでいただき、有難う。
 国芳に関しては、以前「浮世絵戦国絵巻」展の図録に、小論「黒船来航と城郭炎上図」を書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した浮世絵を制作、南町奉行所から始末書を取られた話にも触れました。彼らは、出島経由で西洋の画集も入手、遠近法を街並み描写に活用しており、なかなかの知識人でした。
 幕末から明治にかけて、北斎・歌麿などの浮世絵が、新しい絵画表現を模索していた印象派の画家に大きな影響を与えます。中でも、母子の日常生活を描いた作品は、メアリー・カサットなど、女性画家に身近な家庭にも題材があることに気付かせ、元気づけます。浮世絵は、近代西洋絵画にも大きな影響をあたえ、欧米で高く評価されました。しかし、日本のアカデミズムからは、戦後まで無視され、名作も海外に流失しました。
 中村真一郎(中野ではなく)さんも、すごい教養人でおもしろい作家でした。東京の御家で加藤周一、堀田善衛という近寄りがたい碩学を紹介されたり、熱海のマンションで画家たちと飲み明かして泊めていただいたり、思い出がつきません。
中城 正堯(30回)
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地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その1

二宮 健(35回) 2019.03.01

シチリア地図

筆者近影(シチリア島にて)
 シチリア島と呼ぶ方が、シシリー島と言うより、私にはすっきり腑に落ちる語感がする。そのシチリア島には長年にわたって行ってみたいと思っていた。イタリア半島の観光を含めヨーロッパ諸国へは何十回も訪れているが、この場を訪れる機会が今迄になかった。それだけに期待も多かったし期待以上に得るものが多かった平成25年の私の紀行である。これはシチリア好きの仲間が集まって企画したツアーである。

出発前、エトナ火山噴火の様子
ところが訪ねる日程も決まった平成25年12月直前になって11月23日にエトナ火山が噴火をして火山灰が降りそそぎ、火山周辺の街や村に大きな被害をもたらした。このヨーロッパ最大の活火山はシチリア島東部にあり、標高は3329mあって過去にも紀元前からの大噴火をくり返している有名な山である。我々の出発4日後の12月4日には噴煙が約7000mにまで昇った大きな爆発であった(写真@)。日程も全て決まりあとは出発するだけとなっていた旅行直前なので、企画して、自分も参加して楽しもうと思っていた旅行でもあったが、なにより安全第一であり、参加中止も同行仲間と検討したうえで、予約をしているアリタリア航空に確認したところ、航空機の運航に支障は無く、現地の人は、世界中の報道機関が驚いて報道するほどに騒いではいなく、数十年に一回の比較的大きな噴火と理解しており、特に旅行全般に関して言えば、エトナ火山の観光(エトナ山観光はシチリア島でも有名)さえ無ければ、影響は先ず無いとのことなので出発することに決めた。
 シチリア島へは、日本からの直行便はない。その為に今回の旅行には、アリタリア航空を利用して、ローマ経由で、シチリア島の州都パレルモ市へ向かった。(写真A・B・C)

写真Aアリタリア航空A330型機

写真Bアリタリア航空A330型機内
2列、4列、2列のエコノミークラスの座席

写真Cシベリア上空より望む
 関西空港を12月1日の日曜日午後2時30分に出発したアリタリア航空エアバス330型機は、出発して8時間を経過した時点で高度1万1千メートル、飛行速度850キロメートルでロシア上空を、外気温マイナス56度、関空から6000キロメートルの距離を順調に飛行し、ローマまであと5時間の距離である。

写真Dシチリアパレルモ空港到着時
州旗の三本脚紋
 機は現地ローマ時間午後9時30分にレオナルドダビンチ空港に到着をした。冬時間で日本とイタリアの間には、8時間の時差があり、飛行時間に13時間を要したことになる。ローマで乗り継いで、シチリア州の州都パレルモまでは空路約1時間で着く。パレルモには午後11時30分に到着した。時差の関係もあるが、関空を午後に出発して、同日深夜にはパレルモに到着したことになる。ロシア上空飛行が解禁されて随分時が経過したが、そのおかげで日欧間の飛行時間が随分と短縮されたことになる。(写真D)

写真Eアストリア・パレスホテルの外観
 入国手続き後、専用のバスにてパレルモ市内のホテル、アストリア・パレスホテルに到着した。日付は12月2日に変わっていた。(写真E)部屋は9階でツインルームを1人で使用した。少し古い感じのホテルだが、一応は四ツ星クラスのホテルである。私自身は、ホテルは先ず第一に防火面での安全であり、清潔であり、浴室・洗面所のお湯や水が満足に出たら、どの国でも合格点を出している。ふり返って日本の大都市のホテルは余りにも華美に過ぎると思うことがよくある。

写真Fシラクーサのアポロン神殿跡
 さてシチリア島の歴史は、紀元前1300年ころのシクリ族の入植から始まり、カルタゴ、前756年のギリシャ人の入植、ローマ、ビザンティン帝国、アラブ人、ノルマン王国、ドイツ神聖ローマ帝国、フランスアンジュ一家、アラゴン王国、オーストリアハプスブルク家、統一イタリア王国と支配者は変遷を極めている。地政学的に見ても地中海の要衝であるために民族も多様に混淆している。イタリア王国に統一されてわずか114年しかたっていない(2013年現在)。まだ日本が神話の時代、神武天皇が没されたと日本書紀に記されている紀元前585年の10年ほど前の紀元前575年頃には、シラクーサにギリシャ世界最古の

写真Gシチリア州旗トリスケレス
石造神殿といわれるアポロンの神殿が建設されている程にシチリアの歴史は古いのである。(写真F)地中海世界のまん中にあり、地中海内の最大の島である。シチリア島は約2万5千7百平方キロで、九州の約70パーセントの面積を持つ島である。島の形が三角形に近い形から「トリナクリア」と言われる三つの岬の名を持つ島である。それに由来するシチリア州旗はトリスケレス(三本脚紋)として島を象徴している。(写真G)
 2013年現在、イタリア共和国の総人口は約5800万人でシチリア島の人口は約504万人であり、総人口の約9パーセント弱を占めている。 我々は、一夜をパレルモのホテルで過ごし、いよいよ2013年12月2日(月)から、シチリア島の観光と歴史の旅が始まった。
 先ず、ホテルを9時に出発した我々の専用小型バスは(シチリア大好き人間様14名用)、パレルモより東約67キロメートルのチェファルーへ約1時間30分を要して到着した。チェファルーの村は2011年にイタリアで最も美しい村々の一つに選ばれた村である。(写真H)
 ここでは、大聖堂や中世から海岸沿にある今も現役で使用されている洗濯場が有名である。大聖堂は1131年アマルフィを制してパレルモへ帰還する際に、ルッジェーロ2世の部隊が嵐の中無事に帰還できたことを神に感謝してここに建てられた、ノルマン時代のシチリアの代表建築であり、2015年に世界遺産に登録されている。(写真I)山から流れてきた水が洗濯場を通り、すぐ目の前の海へそそいでいる。(写真J)

写真Hチェファルーの町並みと大きな岩山のラ・ロッカ

写真Iチェファルー大聖堂の外観

写真J中世の洗濯場は今も現役
 さて、この日の午後は、チェファルーからパレルモへとって返しパレルモ市内の観光である。パレルモ市内見物だけでも3泊か4泊したいところだが、9日間の(それでも日本から9日間のシチリア島のみの観光は珍しい中で)

写真Kパレルモ大聖堂

写真Lパレルモ大聖堂の塔
日程では、半日観光が精一杯である。それも代表的な有名スポットを回ったにすぎなかったが、記述してみる。
 先ず大聖堂(カテドラーレ)を訪ねた。7世紀に創建され、その後モスクとして使用され、たびたび改修されておりこの島の複雑な支配者の建築の歴史の積み重なった、悪く言えば“ごった煮”の複合建築である。(写真K・L) とにかく時間が欲しい。見るものが多くて歴史的な流れが、短時間ではつながらないというのが、印象であった。

写真Mパレルモのマッシモ劇場
 次にマッシモ劇場を見学した。ネオ・クラシック様式の劇場で外観も内部も豪華であり、こんな小さな島に不釣り合いとも思える建物であり、創建当時の1897年には、ヨーロッパ最大級の劇場であり、現在でも収容人員1380余のヨーロッパでも有数の劇場である(オペラ劇場)。(写真M)

写真Nノルマン王宮の
入り口の案内板
 次いでノルマン王宮へ向かった。現在はシチリア州議会場として使われているが、11世紀にアラブ人が築いた城壁の上に、12世紀になってノルマン人が拡張した典型的なアラブ・ノルマン形式の代表的な建築物である。その後もホーフェンシュタウフェン家、アラゴン家等の変遷を経ているが、歴代の王の住居でもあった。(写真N)
 このノルマン王宮の2階には、パレルモ市を代表するアラブ・ノルマン様式の礼拝堂がある、歴史的に見ても、その華麗さからしてもパレルモの至宝とも言われる、パラティーナ礼拝堂(宮廷付属礼拝堂)がある。その内容を写真で見てみよう。

パラティーナ礼拝堂入口2階
にあるマグエダの中庭に面した回廊

パラティーナ礼拝堂のクーポラには
キリストが描かれている

床にはイスラムとビザンティン
文化の融合したモザイク模様が美しい
 ノルマン王朝のルッジェーロ2世によって聖ペテロに献堂されたこの礼拝堂はシチリア島で必見の美しさであろう。

写真Rクアットロ・カンティ壁面
 さて我々は、限られた時間の中で、パレルモ旧市街の中心、クアットロ・カンティに向かった。17世紀に造られた「四ツ辻」である。
 広場に面した4つの建物の各壁面には、一番下段に四季が表現された噴水、二段目には歴代スペイン総督、三段目に町の守護聖女が彫刻されている。(写真R)超多忙なパレルモの午後の観光を終わって、前日と同じ、アストリア・パレスホテルに帰館したのは、午後8時を過ぎていた。何と充実した1日であったことか。
以下、次号へ続く。
筆者プロフィール
昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、J.T.B OB会員、神戸市在住
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<版画万華鏡・4>
和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子ども

中城 正堯(30回) 2019.02.17
将軍吉宗が復活させた騎馬打毬

(図1)「子供あそび〈打毬〉」歌川貞房
天保頃(公文教育研究会蔵)
 東京の古書店で、馬に乗った二人の少年が網竿を手に紅白の球をすくい合う場面を目にして驚いたのは、平成3年(1991年)の春であった。子どもを描いた浮世絵の収集を始めて5年ほどたっていたが、これまで目にした作品には町人の子どもしか見当たらなかった。この絵の子どもは腰に刀を差し、立派な鞍を付けた馬にまたがっており、どう見ても武家の少年である。(図1
 この珍品を会社へ持ち帰って調べると、絵師は歌川貞房で天保(1830〜44年)頃の作品、遊びの名称は“打毬”(だきゅう)と判明した。打毬とはどんな遊びか、『広辞苑』には、「二組の騎馬の一定人数が庭上にある紅白の毬(まり)を毬杖(ぎっちょう)ですくい取り、自分の組の毬門(きゅうもん)に早く投げ入れた方を勝ちとする競技。ポロの一種」とあり、平安時代には宮廷行事になっていたが衰え、江戸時代に復活とある。中国から伝わり、古くは『万葉集』巻六に727年正月に王子たちが楽しんだ記録があることや、八代将軍徳川吉宗(在位1716〜45)が武芸奨励の一環として復活させたことが分かった。吉宗は流鏑馬(やぶさめ)などの騎馬弓術とともに、打毬も武術として武士に取り組ませたのだ。もともと騎馬武士の活躍は、源平合戦での源義経による一の谷鵯越(ひよどりごえ)の奇襲や、宇治川の先陣争いが江戸時代にも広く知られ、騎馬武士や名馬は江戸の子どもたちのあこがれの的であり、浮世絵にも多い。武士の子どもの乗馬訓練も広重の戯画にあるが、打毬遊びは例がなく「子供あそび〈打毬〉」と名付けた。

(図2)「風流見立狂言 しどう方角」勝川春朗
(葛飾北斎)寛政頃(公文教育研究会蔵)
 馬と子どもの浮世絵では、もう一つの珍品を翌年に入手した。それは、勝川春烽フ「風流見立狂言 しどう方角」(図2)である。この狂言は、主人にしかられた太郎冠者が、咳をすると暴れ、「止動方角」ととなえると止まる馬に主人を乗せ、落馬させる話である。子どもたちが、その見立(まね)遊びをしている場面で、馬には棒の先に馬頭をつけた遊具・春駒(はるごま)を使っている。
 これが珍品であるのは、まず作者・春烽ェ若き日の葛飾北斎であることだ。彼は北斎以前に春烽竢@理などと名乗った時代があり、その頃は子ども絵も手がけている。しかし北斎になってからはほとんどなく、『北斎漫画』にも、子どもの姿はわずかしか描いてない。

(図3)「新製馬乗づくし」中央に打毬
歌川重宣 安政元年(公文教育研究会蔵)
この作品を見た北斎研究の第一人者・永田生慈は、「これは貴重だ。この見立狂言シリーズは数点見つかっているが“しどう方角”は新発見で、おそらく世界でこの一枚だけだろう」と述べていた。残念ながら、平成30年2月に永田は亡くなったが、その生涯をかけて収集した北斎作品による「新・北斎展」が本年新春から東京六本木の森アーツセンターで開催中であり、ご冥福を祈りつつ見学してきた。
 春駒を使った子どもの馬遊びの浮世絵には、春烽フ少し前に北尾重政の「やつし八景 勢田夕照」もあり、春駒にまたがった子どもが大名気分で近江・瀬田の大橋を渡っている。江戸後期の嘉永・安政になると、子どもが遊びに使った“おもちゃ絵”に馬が多くなる。一つは「源平打毬合戦双六」(歌川国郷)などの双六で、紅白の駒を毬門(ゴール)まで競って進めた。もう一つは、馬の用途・毛色による種類や歴史的名馬を図示した「馬づくし」の豆図館で、「新製馬乗づくし」(図3・歌川重宣)など各種あった。これらの流行は、江戸の子どもにとって歴史的名馬や騎士の姿が、あこがれの的であったことを示している。
インパールで続くポロと消えた土佐の打毬

(図4)インド、マニプルのポロ試合ポスター(筆者撮影)
 平成5年末、食生態学者の西丸震哉夫妻とインド・マニプル州インパールを訪ねた。第二次世界大戦末期に日本軍の悲惨な死の行進で知られる土地だが、民族文化の知られざる宝庫であり、特別入国許可をとって入った。ここで、思いがけず打毬の原型ともいうべきポロと出会った。街中でポロのポスター(図4)を見付けたのだ。残念ながら、滞在中に試合はなかったが、競技場を訪問し、球を打つマレット(木槌)など遊具を見せてもらった。
 江戸の打毬は狭い馬場で、網の付いた毬杖で毬をすくって毬門に投げ込むが、ここは広いグランドでの競技であり、硬い木の球をマレットで相手のゴールに打ち込んで勝敗を競う。ゴールはグランドの両端に設けてあり、馬場の片側にゴール(毬門)を設ける打毬とは異なる。馬は小型馬ポロポニーだが、江戸時代の日本馬よりはだいぶ大きいようだ。
 帰国して調べると、ポロは古代ペルシャの遊牧民世界で始まり、やがてチベット経由で中国へも伝わって唐の王朝で盛んになり、この中国式打毬が奈良王朝にもたらされる。いっぽう、ペルシャからインドへも伝わり、マニプルでは藩王たちに楽しまれてきた。1850年代にイギリスで紅茶ブームが起こり、アッサム紅茶を求めてこの地にイギリス人が押し寄せ、英国軍も駐屯した。やがて騎馬隊をはじめ軍人たちがポロに夢中になり、本国にも持ち帰って競技を楽しみ、ヨーロッパに広がる。さらにイギリスの世界進出にともなって、米国・濠州・南米へと広がったのである。こうして、ペルシャで生まれたこの競技は、中国・日本型の打毬と、インド・イギリス型のポロに分かれていった。

(図5)「千代田之御表 打毬上覧」楊洲周延
明治28年頃(筆者蔵)
 将軍吉宗は、動物好きでペルシャ馬や唐馬を輸入、オランダ人馬術師ケイゼルを招いて洋式馬術の導入も企てている。しかし、この時代にはまだヨーロッパにポロ競技は伝わっておらず、吉宗は平安王朝の打毬遊びを武芸としての馬術に改良、広めたのだった。明治になって江戸城の暮らしを回顧した浮世絵「千代田之御表」シリーズに“打毬上覧”(図5)があり、将軍臨席での打毬合戦が描かれている。中央の奥に、丸い毬門(ゴール)が見える。各藩でも次々と打毬を導入しており、山内一豊の妻による名馬購入で知られる土佐藩でも、江戸中期から柳原の南馬場で毎年春に挙行していた。明治維新後も昭和十年頃までは名物行事として続き、当時の絵はがき「土佐独特の打毬」(図6)が残っている。

(図6)「土佐独特の打毬」絵はがき
昭和初期(『絵葉書 明治・大正・昭和』より)
 インドから帰った一年半後に、公文コレクションによる「浮世絵の子どもたち」展が東京東武美術館で始まった。江戸文化に精通する作家・中村真一郎は、雑誌でこの展示を取り上げ、こう述べてくれた。「まことに得がたい幸福な時間だった。これら版画のなかの母親も、子供たちも、何と人生を信頼し、親子の断絶だの、登校拒否だの・・・知らずに、愉しく寄りそって生きている・・・。彼らは自分の身のまわりの物から遊び道具を工夫して、次つぎと珍しい遊戯を発明し、お互いの心の交流を習得していっている」。さらに、印象深い一枚として「子供あそび〈打毬〉」をあげ、「軍事訓練と公卿風の優雅さを組み合わせたと思われる、独自の打毬という遊戯は、江戸文明の思いがけない深い重層性をうかがわせるものである」と記している。(後に『眼の快楽』NTT出版に収録)

(図7)「金太良三人兄弟」鴨をさばく次男
喜多川歌麿 寛政末(公文教育研究会蔵)
 この展覧会は好評で、平成6年から6年間にわたって国内10、ヨーロッパ4、計14の美術館で展示された。ヨーロッパ展では、江戸の親密な母子関係や豊かな子ども文化への称賛とともに「江戸の人も鴨料理やポロが好きだったのか」との感想が聞かれた。鴨料理は、歌麿が描いた金太郎母子が鴨をさばく絵(図7)を指し、ポロは「子供あそび〈打毬〉」である。だが、欧米のポロよりも日本の打毬の歴史がずっと古いことまでは知らなかった。
八戸に生きていた江戸の騎馬打毬
 平成7年9月「愛馬の日」に、東京世田谷の馬事公苑で記念事業として、宮内庁主馬班による打毬試合(図8)があると聞き、生きた打毬を初観戦した。

(図8)馬事公苑での打毬試合
平成7年(筆者撮影)
武者姿の10人が紅白に分かれて騎乗し、毬杖で毬をすくっては板壁に開けられた丸い穴のゴールに投げ込み、早く自軍の毬を入れ終えた方が勝ちであった。敵軍への妨害行為もありで、馬を突進、急停止、さらに急旋回させながらの戦いは、たしかに騎馬訓練に最適と思われた。この打毬は、徳川将軍家の流儀を宮内庁が受け継いだもので、浮世絵「千代田之御表 打毬上覧」が甦って動き出した感じであった。

(図9)加賀美流騎馬打毬で毬を奪い合う騎士
平成9年(筆者撮影)
 2年後には、岩手県八戸市新羅神社で8月恒例の三社大祭の行事として開催される加賀美流騎馬打毬の見学に出かけた。八戸藩ではおよそ200年前の八代藩主南部信真の時代から加賀美流馬術の一つとして打毬(図9)が始まり、今も八戸騎馬打毬会によって伝統が受け継がれている。会場は新羅神社境内で、土手にかこまれた長さ100メートルほどの細長い馬場だ。ゴールの毬門は、馬場の端に中門を挟んで紅白左右に分け、柱を立てて作られている。馬場の反対側に紅白各4個の毬が毬童子によって並べられ、毬門横から紅白4騎ずつが入場、鳴り渡る鐘・太鼓とともに試合が始まった。騎士・毬童子・役員、すべて古式に則った礼装を着用しての奉納試合である。
 ここでも、相手の妨害を防ぎつつ毬を毬杖ですくっては毬門に近づき、投げる。左手で手綱を握り、右手で長い毬杖をふるって毬を投げ込む技が見所だ。主審の見定(みさだめ)奉行がゴールの判定をしており、毬門からはずれた毬は投げ返される。

(図10)力一杯毬を投げた騎士、右後方が
上覧席 平成14年(筆者撮影)
自軍に4個の毬を早く入れ終えた方が勝ちで、3回戦ほどおこなって勝負を決める。勝ち軍は凱歌をあげて上覧所に進み、褒美を頂戴する(図10)。上覧所の主は、十四代南部公であった。
 この周辺は、古くから南部駒で知られた馬産地であり、馬を飼育する農家や愛好家が中心になって八戸騎馬打毬会を結成、伝統の馬術を守り続けている。平成14年にも再訪した。騎手の中に中学生がいたのは頼もしい限りだった。現在打毬は、この加賀美流と宮内庁流の二種が受け継がれ、山形市豊烈神社でも宮内庁流の打毬がおこなわれている。  
 海外のポロは英・米そしてアルゼンチンが三大帝国だと『ポロ その歴史と精神』(森美香 朝日新聞社)にあるが、持病で海外渡航ができなくなり、見学はかなわなかった。今はポロに由来するポロシャツを着て、広いグランドを駿馬で激しく駆け回るスポーツとしてのポロを夢想するのみだ。
 打毬では礼節が尊ばれ、かつて初ゴールは上級武将に譲る慣例もあったと聞く。軍人・貴族・富裕層のスポーツとなったポロの試合では、貴族相手でも遠慮なく、激しく馬体をぶつけ合って球を撃ち、怪我も恐れず勝敗を競う。古代ペルシャ以来の壮大な馬術文化の潮流は、東西で違った様相を見せている。
 浮世絵「子供あそび〈打毬〉」の発掘は、江戸文化のなごりを求めて各地をめぐる楽しさを与えてくれ、今に生きる〈打毬〉にも出会えた。同一文化が伝播しても、受容地によって大きく変化する面白さも体験できた。次回は、「浮世絵そっくりさん」を紹介しよう。
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1月24日・25日開催 第187回市民映画会

山本 嘉博(51回) 2019.02.10
『ロング、ロングバケーション』(The Leisure Seeker) 監督 パオロ・ヴィルズィ

筆者近影
 今回のラインナップは、いかにも高齢者層に向けたような二作品が並んでいるが、実際に高齢になってから観るのでは遅いよという内容だ。奇しくも『ロング、ロングバケーション』のオープニングに、キャロル・キングの歌う♪イッツ・トゥ・レイト♪が設えられているのは、そういう意味合いがあってのことなのかもしれない。
 同作は、認知症が進行しつつある老夫ジョン(ドナルド・サザーランド)を抱え、末期癌に見舞われている老妻エラ(ヘレン・ミレン)が、夫に運転させるキャンピングカーで、文学の教師だった彼の敬愛するヘミングウェイの家を訪ねる物語だ。ボストンにある自宅からアメリカ最南端、フロリダのキーウェストへと旅するロードムービーだが、なぜかイタリア映画なのだ。
 劇中早々に流れ、エンディングでも流れるジャニス・ジョプリンの歌う♪ミー・アンド・ボビー・マギー♪のなかの「Freedom's just anotherword for nothin' left to lose(自由とは、失うものが何もないってこと―)」という歌詞がしみじみと伝わってくる終活映画だった。
 キャロル・キングもジャニス・ジョプリンも時代を象徴するシンガーで、エラと歳の頃を同じくする女性たちなのだろう。彼女たちの生き方に共通するのが自己決定権の行使であり、常識に囚われない行動力の発揮なのだというのが作り手の想いなのだろう。味わい深い選曲だ。

『ロング、ロングバケーション』ポスター
 老いた男というのは押し並べてそうなのだろうが、いかにもお気楽で手のかかる子供のような存在だ。子供ならしでかさないような不埒もうっかり晒したりする点に、他人事ならぬ危惧を抱く御仁もいるのではないだろうか。そういった事々に苛立ったり憤慨したりしながらも全て呑み込んでいける度量をエラにもたらしているのが、喜怒哀楽を共にした五十年だけではなくて、この“失うものが何もない”という状況でもあるわけだ。そのことがしみじみと伝わってきて、得も言われぬ感慨をもたらしてくれる。若く元気なうちは、なかなかこの境地に至れるものではない。さればこそ、エラとジョンが味わっている自由を、観る側もじっくり噛み締めたいところだ。
 映画を観ているうちに次第にフロリダ行きの目的は、単にヘミングウェイの家を訪ねることだけにあるのではないはずだと誰しもが思うように進んでいくのだが、フロリダで待っていたものに驚かされた。そして、そういった運びのなかに込められている作り手の人生観に、大いなる好感を覚えた。意表を突く場面の連続とも言える脚本が秀逸で、奇を衒っているようには映ってこないところが素敵だ。人生とは、悲喜こもごもを抱えつつ、余暇を求めて旅することなのだ。それゆえに、二人が乗り込んで旅するポンコツ車の呼び名“レジャー・シーカー(余暇捜索者)”が、本作の原題にもなっているのだろう。そして、その先に待っているのが邦題となっている“長い、長い休暇”なのだろう。どちらとも、なかなか良い題名だ。
 バーガーを食べたいとやおら言い出す夫に付き合いながらも、自らは一口齧るだけでいいと水しか注文しないのは、病状の重篤さによる食欲減退もあろうが、常々倹約を心掛けていることが偲ばれた。その一方で、「たまにはきちんとしたベッドで寝たい」とキャンピングカーを降りたものの、「500ドルのスイートルームしか空いていない」との応えに怯みつつ、四割近い値引きとなる「320ドルにまける」と言われると、「少し高いけれども」とすぐさま釣られる庶民感覚が微笑ましい。ささやかなスペシャルナイトを楽しんでいた彼らの味わい深い道中を堪能させてもらったように思う。イタリア映画らしいポジティヴ感が本当に気持ちよく心に沁みてきた。
『輝ける人生』(Finding Your Feet) 監督 リチャード・ロンクレイン
 もう一方の作品『輝ける人生』もまた、物語の背景には認知症と癌があった。一見すると、対照的な結末のようでいて、実は大いに通じるところのあるイギリス映画だ。

『輝ける人生』ポスター
 仲睦まじく暮らしてきたはずなのに、夫である自分を認知できなくなった妻に涙していた愛妻家のチャーリー(ティモシー・スポール)と、『ロング、ロングバケーション』のエラとはキャラクターが被るようなところのあるビフ(セリア・イムリー)の導きによって、彼女の妹サンドラ(イメルダ・スタウントン)が人生の歩み直しを始める物語だ。サンドラは、警察本部長にまで栄達した夫のキャリアにぶら下がっているだけの生き方を、お高く取り澄ました生活態度で過ごしてきている女性だ。今だにマリファナを吸っているような自由気ままな姉とは疎遠にしていたのだが、夫が顔見知りの女性と浮気していたことに憤り家を出たものの、行き場がなくて姉の元を訪ねる。
 かつてプロを目指したこともあるダンスからもすっかり遠ざかっていたサンドラが、姉に誘われた高齢者ダンス教室で、得意としていた足さばきを少しずつ取り戻し、見つけ出していく姿が原題の直接的に意味するところなのだろう。だが、同時にそれは「(大地を踏みしめるようにして地に足の着いた人生を歩むための)あなたの足を見つけること」でもあったようだ。本来の自分が立つべき足をサンドラが見つけ出していくエンディングの待っている本作の主題を確かに表してもいた。
 そういう意味では、どちらの作品も“自己決定権の行使と常識に囚われない行動力”を称揚していたように思われるが、イタリア映画のほうがややシニカルで、イギリス映画のほうがより楽天的だというところが、双方のお国柄の反対をいくようで興味深い。
 ビフが妹に言っていた「死ぬことを恐れているからって、生きることまで恐れないで!」との言葉は、エラにも通じていて、たとえ死期が間近に迫ろうとも、残された生を果敢なチャレンジ精神で臨む天晴れな終活が見事だった。両作ともに、'60年代の政治の季節を過ごし、反体制的で、性差別や人種的偏見を乗り越えようとして生きてきた時代のタフな女性たちの映画であると同時に、大いなる観応えと示唆を次代に与えてくれるエンターテインメントになっていた。ある種の辛辣さを笑いで包み、歳が幾つになろうとも、人には為すべきことがあることを教えてくれる。
19. 1. 1.発行 高知市文化振興事業団「文化高知」No.207「1月開催第187回市民映画会」
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ (『間借り人の映画日誌』)
http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html  (『ヤマさんのライブ備忘録』)
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「日本の城、ヨーロッパの城」を拝読しました。

冨田 八千代(36回) 2019.02.06

筆者旧影
 今晩は、藤宗俊一さん。
 開いて、ぱっと、「淑徳大学公開講座」が目に入り名古屋市のあの大学でと、興味がわき、読み始めました。まずは「お城」ではなく。
 お城をまとめて分かりやすく論じていらっしゃるし、お城は余り訪ねていないようで、案外見ているのだと思い出しながら、楽しく拝読しました。
 日頃はあまり気にしてはいない、「お城」の事にこうして触れられるのは、HPのおかげです。藤宗さん、ありがとうございました。
 最初の方の「惣構え」は、珍しい言葉だったので意味を調べてみました。お城の中で、一番好きなお城はやはり「高知城」です。
 日頃、なんとなく興味を持っているのは、「山城」です。ここ豊田市は広大な山間部のある所で、「山城」や「山城の跡」があちこちにあるからです。なかでも、豊田市が観光地として重きを置いているのは旧足助町にある「足助(あすけ)城」です。紅葉の名所、香嵐渓の近くにあり、自然をうまく使って、山頂にある小さなお城は矢作(やはぎ)川筋の街道が眼下に小さく見え、一目瞭然です。

岩村城(霞ヶ城…日本100名城)1575-1600:山城
丹波氏、松平(大給分家)氏:本丸の6段の石垣
何度かいきましたが、昔の人はいい所を見つけたものだと思いました。また、旧稲武町にある「武節城跡」も地域の方々が、研究され整備されています。詳しい説明をきいたことがあります。ここは、全体が山でその平たい所に、お城があったので、山城とはいわないかもしれません。また、再建されないままに残っているところも、興味深かったことを思い出しました。私の住んでいる豊田市隣の恵那市にある「岩村城」です。「安土城」も再建前に行きました。
 「残存天守は12城」には、そんなに少ないのかと驚きました。その中に、四国のお城が4つもあるのですね。私は高知城以外の3つのお城には行ったことがないので、インターネットで見てみました。どれも美しい姿ですね。丸亀城が日本一石垣の高い城ということも初めて知りました。四国に4城も残っていることは、四国が平穏だったということでしょうか。というのは、私の近所に住む方が、「私が学童疎開をした日は、(アジア太平洋戦争名古屋大空襲で)名古屋城が炎上した日。だから、日にちをはっきり記憶している。昭和20年5月14日。」と、時々話されるからです。それから、ついでに、その金の鯱が再建されたのは、1959(昭和34)年。この時、故人となられた大野令子さんと私は、落成式(というのか?)直前の屋根に置かれた鯱を見たのです。第10回高新連大会に参加した後、名古屋の私の伯父の所により、名古屋城へ連れて行ってもらったのです。
 おもいつくままに、いろいろ書かせていただきました。
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淑徳大学公開講座『日本の名城、その魅力と見方』
「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較

藤宗 俊一 (42回) 2019.02.03
T.日本の城とヨーロッパの城との相違点
1.成立過程の違い

日本の城(長野・松本城)とヨーロッパの城(独・ホーエンツォレルン城)
 日本は同じ言語を話す単一民族で構成され、生産の担い手である農民は農地と結びついており、争いは単に支配権をめぐる争いです。住民は、争いがあれば避難していて、終わればまた元の場所に戻って生活を再開すれば良いのですから、城は支配者層の安全と戦略的な考えだけで作れば良かったのです。このため、自然の要害の地にできるだけコンパクトに作られました。城下町は言葉の表すとおり麓に発達し、平時は城主も館を持ってそこで生活をすることが多かったようです。只、近世になると、貨幣経済の発展により都市生活者が増大し、町人街を取り込んだ「惣構え」といわれる縄張りが行われるようになりました。

武士の館復原模型12C(歴史民族博物館) と
モット・ベイリー (ENGLAND)11C
 一方、ヨーロッパはもともと多民族で遊牧民が陸続きで住んでいた上、4世紀以降、ゲルマン族やノルマン族、マジャール族、アラブ族などが侵入してきます。彼らは略奪目的ではなく、定着しようという目的でやって来るのですから、はじめのうちは空いている土地でおとなしく狩猟や放牧などを行っていて共存できていたのですが、そのうち仲間を呼び寄せるようになり、いわゆる民族大移動がおこります。その結果、当然土地をめぐって争いがおこります。この争いの結末は悲惨で、負ければ追い出されるか、奴隷にされるか、虐殺されるかで、守る方は必死で城を作ります。勝った方も逆襲や他の民族の侵入を恐れて、城を作ります。そして、住民全員を守らなければなりませんでした。このため、城の中に住民が避難できる空間を作ったり、町全体を壁で囲む城壁都市ができました。
2.構造の違い

カステル・デル・モンテのリヴ・ヴォールト1240-50  と
   熊本城 模型1601(慶長6) 加藤清正 
 日本では、土塁と堀で周囲を囲み、豊富な木材を使い櫓と柵が作られていましたが、切岸に石がはられ石垣ができ、大黒柱を中心に大規模な木組みが行われその外部を漆喰で塗り固め、屋根を瓦で葺いた、防火構造と柔構造を兼ね備えた天守ができ、それを取り囲む曲輪で防御するいわゆる縄張りで城が作られるようになりました。特に、戦国時代後期なって、城が平地に下りてくると石垣と堀の役割は増大し、石垣を作る技術が飛躍的に発展しました。また鉄砲伝来と共に、砲眼を持った築地塀や多聞櫓が漆喰で石垣の上に作られるようになり、天守を中心とした美しい城の姿が出現するようになりました。今日、お集まりの皆さんも多分この美しさにひかれてお城に興味をもたれたのではないかと思います。
 ヨーロッパでは民族移動後初めのうちは堀と土塁や潅木の柵で作られたモット・アンド・ベイリーという簡単な城が沢山作られていました。その後時を経て、12世紀頃から、ローマ時代の遺産であるレンガとセメントの技術を習得し、また、十字軍やサラセン人によりもたらされた石造技術により、厚い壁で城壁や塔が作られるようになりました。この壁の厚さが構造上でも、また戦略上でもヨーロッパの城の一番大きな特徴になっています。この壁はそれ自体でも自立でき、

ソアヴェ・スカリジェロ砦城壁(Soave/ITA)1369  と
七尾城 家臣団屋敷(石川県) 畠山氏 曲輪縄張り
はじめのうちはそれに木製の梁をかけ、板を敷き、穴あきレンガを並べる方法で階を作っていましたが、アーチ型の壁梁や石造技術の発展でリブ・ヴォールトが考え出され、内部空間が巨大化してきました。ロマネスク、ゴシックの教会堂を見るとその技術の発展がよくわかります。
3.形態の違い
 形態上からみれば、ヨーロッパの城が長い壁とそれを守る塔や砦といった線と点で構成されているのに対し、日本の城は石垣や曲輪といった平面構成で成り立っていると言えます。また、戦略上で考え出された縄張りによる空間構成は意外性に富み、見え隠れ、流れと溜まり、導きと展開など設計方法論上、多くのヒントを与えてくれます。皆さんも知らず知らずのうちに体験されていることでしょう。

   ヨーロッパの城  日本の城  
  民族  異民族  単一民族  
  自然  乾燥  多雨  
  生活  狩猟を中心とした遊牧型  農耕を中心とした定住型  
  目的  住民全員を守る  支配階級を守る  
  材料  石、レンガ、セメント  土、木、漆喰  
  構造  壁の量、剛構造  材木(大黒柱)のしなり、柔構造  
  形態  壁と塔で守る。線と点。  ラインディフェンス  縄張り(石垣と曲輪)平面。  ゾーンディフェンス  

メーデン・キャッスル ヒルフォート(丘の砦)
BC3000-AC43 新石器・ケルト人
大塚・歳勝土遺跡 (環壕)
弥生時代  
イリオス(トロイ)遺跡
BC3000-AC100
吉野ヶ里遺跡 環濠集落 (佐賀県)
弥生時代後期
サンジミニアーノ (San Gimignano/ITA)
13C城壁都市
観音寺城16C 六角氏 山城と城館
U.城に関連する言葉で比較
1.城(郭) と Castello

Castello:フェッラーラ・エステンセ城 1385 ニコロV世 と
   城:姫路城 天守  1609(慶長14) 池田輝政
 日本では城というと天守のことを言っている場合が多いのですが、本来城という字の表すとおり「土より成る」であって、土を掘って囲った防衛施設全般を表します。日本城郭協会では平成17年に『日本100名城』を選定した際にはたとえ天守が無くても、@優れた文化財・史跡であることA著名な歴史の舞台であることB時代、地域の代表であることの三つの基準を設けて全国各地の防衛施設の中から選定しました。美しい形をした天守が作られるようになったのは信長の安土城以降で、権威の象徴と領主の生活空間を兼ねるようになってからです。
 イタリアでも城を表す言葉はCastelloですが、日本と同じように『領主とその一族が住み、守備隊がいる防御施設』という狭義の意味で使われる場合が多いようです。勿論、例外もあり、ローマの聖天使城や南イタリアのカステル・デル・モンテなど歴史的にその呼び名が定着してしまったものです。また、ワインのラベルで『カルテッロ・ソアベ』とか『カステッロ・モンテリッジニオーニ』果ては『カステッロ・ロマーノ』などお目にかかったことがあると思いますが、これらは単なる商標で、単に地域とか地方とかを表しているだけで、

山城:サンマリノ グアイタ砦  1253
    山城:備中松山城 山城・石垣1642(寛永19) 水谷勝俊
フランスのシャトウも同じようなものだと思って下さい。実際に天守があるのはソアベくらいのものですが、現地では『スカリジェロ(スカラ家の)砦』と呼ばれています。特に最後のローマなどは誇大広告ですので絶対だまされないで下さい。
 また日本では、普通お城は『山城』『平山城』『平城』に分類されています。堀や曲輪の配置が地形に影響されるからでしょう。『海城』『河城』『湖城』は『平城』の一部として考えられています。一方イタリアでは使用形態によって分類されることが多いようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Castello  一般名称。狭義では領主の  城(しろ)  一般名称。狭義では天守を持つ防禦施設
   居住空間と防御施設。    山城、平山城、平城、海城
 Rocca  城砦・防衛施設(兵士の駐屯)  支城  出城、曲輪
 Forte,Fortezza  要塞・防衛施設(有事)  砦、台場  砲台、稜堡

Rocca:カステル・デル・モンテ
1240-50 フリードリッヒ2世   
出城:杉山城(埼玉県比企郡)16C 山内上杉氏
古宮城(愛知県1570) 武田・馬場美濃守
Forte:ローマ聖天使城
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要塞
隅櫓:江戸城 富士見櫓
高松城 隅櫓
山城:サンマリノ グアイタ砦
1253
山城:備中松山城 山城・石垣
1642(寛永19) 水谷勝俊
山城:サン・レオ コスタンツァ砦
15C Francesco g.Martini
山城:近江八幡城 豊臣秀吉、豊臣秀次1585
平山城:ソアヴェ スカリジェロ砦
1369 スカラ家  
平山城:彦根城
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
平城:イモラ スフォルツェスコ砦
1259-1500 ダヴィンチ他  
平城:大阪城
1583(天正11) 豊臣秀吉
海城:シルミオーネ 平城(湖城)     海城:高松城 平城
1634(寛永11) 松平頼重、頼常

2.壁 と Mura

壁:ハドリアヌス長城とアントニウスの長城とリーメス1C
壁:大宰府、大野城、水城(みずき) 古代664 天智天皇
 日本では城を「き」と読んで壁を表します。大宰府の「みずき」が有名ですが、日本書紀には「稲城」というのが載っています。稲束を積んで壁を作ったのでしょうか。残っていないのが残念です。「城柵(きかき)」というのは土塁の上に柵を組んだ壁で戦国時代まで最も一般的な防御施設でした。また、動詞的に「きづく」と読まれます。両側を板で押さえて中に土を入れて押し固める「版築」や「石垣」、「土塁」を作る時にもこの言葉が使われます。土が成るという字自体の意味から言えば本来の使い方かもしれません。沖縄では「ぐすく」と読まれます。
 イタリアで壁を表す言葉は『Mura』です。イギリスの『ハドリアヌスの長城』もドイツの『リーメス』から、街の城壁、家の壁までこの言葉が使われます。ある時案内をしていて「城の壁をシミーズと言うのはなぜですか?」という質問をされて、一瞬どぎまぎしてしまいました。落ちそうで落ちない難攻不落の美女を連想したのでしょうか。それとも「あんなスケスケのシミーズみたいな壁、一気に破ってしまえ。」と激を飛ばしたのでしょうか。皆さんはどちらをとられますか?調べてみると、胴壁や幕壁を表すイタリア語『Cortine』が先にあり、後からカーテン、シミーズが作られると、まとわりつくイメージが一致するのでこの言葉を使っただけのことで、翻訳者が辞書を見て戯れにシミーズという言葉を選んだようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Mura
 
  壁・城壁・市壁
  ハドリアヌスの長城、リーメス
  城
 (き)
  壁、水城、稲城、城柵(きかき)、
  環壕、版築
     城
 (きづく)
  石垣(野積、打込みはぎ、切込みはぎ)
 Cortine
 
  幕壁、カーテン、シュミーズ、
  2重肌着、狭間胸壁
  城
 (ぐすく)
  沖縄の土塁、石塁
   突出狭間、廊堡、矢狭間、鉄砲狭間、
  石落、砲台
  城塀
 
  石垣、築地塀、忍び返し
  石落し、矢狭間、鉄砲狭間、砲眼

壁:ローマ セルヴィウス(内)アウレリアヌス(外)の城壁壁:多賀城 政庁版築、東南部土手(修復)  
高松城 壕と石垣・野積(石垣)1634(寛永11) 松平頼重、頼常  ぐすく:沖縄・中城(なかぐすく)            
石垣:江戸城 石垣・切込はぎ  1636(寛永13) 徳川家光二条城 隅櫓・打込はぎ(石垣)
1601(慶長6) 徳川家康  

3.その他の城に関する用語

土手、城壁、出入口、跳ね橋
 お城にとって最も大切な所はヨーロッパでも日本でも門の部分のようで、防御ラインがそこで切れる為、いろんな工夫がされています。枡形、馬出、虎口といった平面的な防御ラインだけでなく櫓門、廊下門など立体的な構造もとられ二重、三重の備えをしています。ヨーロッパでは城門(キープ)が発達し、落し格子戸、石落し、砲門などの工夫が施され、特に跳ね橋は大掛かりで梃子の原理を応用し様々なものがあります。
 また、籠城のための井戸のシステムは雨の少ないイタリアの城にとって必要欠くべからずのもので、雨水を集めて地下に貯めておくなどいろんな工夫がなされています。川や地下水の多い日本では考えられない大掛かりな装置がローマの時代から培われてきました。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Torre  塔、キープ、ドンジョン、隅櫓  櫓  天守、二の丸、隅櫓、多聞櫓
 Porta  城門、楼門、落し格子戸、石落し、砲門  城門  枡形、馬出、虎口、櫓門、廊下門
 Corte  中庭、コート、練兵場  曲輪  庭園、白洲、馬出
 Ponte  跳ね橋、堀  橋、掘  天秤橋
 Cisterna  井戸  井戸  
 Fontana  泉、噴水、ガーゴイル  池、水落し  

Torre:ミラノ・スフォルツァ城
1450-66フィラレーテ設計
天守:姫路城 築地塀と鉄砲狭間
1609(慶長14) 池田輝政
Porta:フェッラーラ・エステンセ城 城門と堀
 1385 ニコロV世  
門:高知城 廊下門  
1610(慶長16) 山内一豊
ponte:フェッラーラ・エステンセ城
 吊り橋  1385 ニコロV世  
門:彦根城 天秤櫓と橋  
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
Cortine:イモラ スフォルツェスコ砦
 1259-1500 ダヴィンチ他  
多門櫓:彦根城 隅櫓と多門櫓  
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
石落し:イモラ
張出狭間と石落  1259-1500  
石落し:高知城 石落しと忍返し  
1610(慶長16) 山内一豊
ガーゴイル:ヴュー城 Vieux城
 15C ロワールの城  
水落し:高知城 水落し  
1610(慶長16) 山内一豊
V.城と都市

ポンペイ遺跡 1C ローマ と  清洲城下町総構 織田氏
 惣構(そうがまえ)の城や城壁都市は都市施設の整備を伴いました。限られた範囲の中で共住して生活するためには防御施設や住居だけでなく、道路、上下水道、街路、広場や公園、集会場といった共同の施設が必要です。それ以上に必要だったのが共住意識とそれに基づく都市計画が不可欠です。日本の惣構えの縄張りは支配者層の戦略的な都市計画であって、街路は曲がりくねって行き止まり、橋は最小限に限られ、集会施設である寺社が防御施設として周辺部に追いやられ、広場や公園は敵の大軍の利用を恐れて作られず、住民から言えば住みにくい計画だったようです。現代の日本の都市計画を見てもだいたいが経済効率第一のお上主導で、庭付き1戸住宅が郊外に限りなくスプロールして、都市施設が追いつかなく、共住意識が育たない東京などはメガロポリスというより巨大な農村といえるかもしれませんね。
 そういえば、かつて北京から日本に都市計画を学びに来ていた友人がいますが、彼の所属するセクションは城市計画局といいます。この言葉からも分かるように、お城と街は切っても切れない関係にあります。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Citta Murale  城壁都市  城下町  城市、惣構             
 Palazzo  宮殿、庁舎  城館、館  城閣、御殿
 Villa  別荘、離宮  別邸、寮  下屋敷
 Chiesa,Duomo  教会(司教座、教区、司祭、修道院、礼拝堂)  社寺仏閣  
 Piazza,Giardino  広場、公園、庭園    境内、庭園
 Loggia,Portico  柱楼 柱廊    辻
 Mercato  市場    縁日、朝市
 Fontana  泉    水は敷地内
 Aquadotti  水道、コンドッティ  上水  玉川上水

Palazzo:フィレンツェ ヴェッキオ宮殿1299-1500代 Cambio他    御殿:二条城 二の丸御殿(御殿造り)  1601(慶長6) 徳川家康
Villa:ロトンダ Villa Almerico  1566 Palladio  別荘:姫路城 好古園  1609(慶長14) 池田輝政
Chiesa:アッシジ・サンフランチェスコ寺院 13C  社寺仏閣:鎌倉鶴岡八幡宮 13C 源氏
Mercato:ヴェロナ・エルベ広場 1531 Sammicheli  楽座楽市:安土城下町 惣構えCGI   織田氏
Piazza:ポンペイ遺跡 Il Foro  -200ac-0079 ローマ時代  惣構え:小田原城   北条氏
Fontana:シエナ・カンポの広場 ガイア(歓喜)の泉1297-1342福知山城井戸(豊磐井)
Piazza:シエナ・カンポの広場  1297-1342 庭園:西芳寺(苔寺)
Aquadooti:ルッカ 水道橋 庭園:龍安寺(石庭)
W.城郭都市、城下町

日本各地の城
 最初の相違点の章でお話しましたが、近世になるまで日本では城によって住民全員を守るという発想がありませんでした。その為、城といえば戦略上の砦とか館(やかた)と呼ばれる堀で囲まれた武士の住居が点在していました。戦国時代には戦略上作られた山城の麓に武士を相手に商売をする町人集落ができ、城下町が自然発生しました。戦国末期になって、信長が岐阜や安土に新しい城を作る時、楽市楽座の町人街を含む縄張り(都市計画)で城下町を作ります(惣構え)が、城郭都市と呼べるものでわありませんでした。その後、小田原の北条氏は秀吉の関東攻めに対抗するために城下町を含めて総延長9kmに及ぶ堀(空堀)で取り囲んだ城郭都市を作りました。

惣構え:金沢、高知
 その後、貨幣経済の定着とともに都市住民が急激に増えて、前田氏の金沢や山内氏の高知など全国各地で惣構えの縄張りによる城下町が作られました。その中心部には権威の象徴としての天守をいだき、政務を行う御殿や支配者一族の住居もとりこんだ城郭があり、それを囲むように職業によって区割りされた町人町が広がっている今日城下町といわれる町が形成されました。
 しかし、徳川幕府によって1615年「一国一城令」が発布され築城の歴史に終止符が打たれ、250年の間新しい城はつくられませんでしたが、幕末になって海防強化のために西洋の築城様式である稜堡形式の五稜郭が作られました。
 ヨーロッパでは最初から住民全体の保護を目的としているため、防御の範囲をできるだけ小さくして城壁で囲む方法で街が作られました。その内側で協力して生活する必要があり、住居はアパートメント(多層共住)で、広場や公園を作り、上下水道や水呑場を完備させ、教会や柱楼といった集会施設を作り、いわゆる都市施設の整備が行われました。

フェッラーラの街と城壁
 特にイタリアでは19世紀末まで中央集権国家が成立せずに、それぞれの都市が市民共同体(コムーネ)や僭主(シニョーレ)を戴いて都市国家を作り、お互い争いあっていたので城壁都市が沢山発達しました。エトルスクの集落から発展した都市(ヴォルテッラ、ペルージア、アレッツォ等)ローマ時代に軍の駐屯した場所から発展した都市(フィレンツェ、サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノ、イモラ、ヴェローナ等)交通の要所や市場から発展した都市(サンジミニアーノ、シエナ、ミラノ、トリノ等)、地中海の海上貿易の拠点として発展した都市(ヴェネチア、ピサ、ジェノヴァ等)、司教座教会や聖地寺院の門前町として発展した都市(アッシジ、ボローニャ等)、戦略的な砦のもとに発展した町(ソアベ、モンテリッジオーニ等)、農産物の集散地としての町(ルチニャーノ等)、

パルマノーヴァ・理想の都市(スカモッツィ)
そして近世になって封建領主が整備した城下町(フェッラーラ、マントヴァ、ヴェローナ等)など、多くの特色ある城郭都市があります。
 その後、16世紀になって大砲の出現により、城壁の形が大きく変化します。中世は弓や鉄砲で応戦するための塔と胴壁の矢狭間で作られた城壁で町を囲っていましたが、大砲の破壊力に対抗するために厚い土手と堀で街を囲み、星型の砲台(稜堡)が作られるようになりました。最初に作ったのは大砲の製造で富を得たフェッラーラの町で、その後ヨーロッパ各地の都市(ルッカ、トリノ、ウィーン、アムステルダム等)に伝播していきました。またルネサンス期末にはスカモッティによる正九画形の美しい城郭都市が北イタリアのパルマーノーヴァに作られました。
V.天守、宮殿
残存12天守 震災や空襲で明治以前の天守は以下の12城しか残っていません。

左から 弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城

左から 松江城、備中松山城、丸亀城、宇和島城、松山城、高知城
京都・二条城

二条城の庭園
 日本では建物構造の関係から宮殿と呼ばれるお城が生まれませんでした。しいてそれに類するものといえば二条城の御殿建築かもしれません。また、近世以降の天守もそれに準ずるものかもしれませんね。
ヨーロッパの宮殿と庭園
 イタリアでは中世以降、都市生活者が増大して、その中で対立が生まれ派閥(有名な皇帝党と教皇党)ができ、抗争しあうようになります。街の中の有力者や貴族階級は私邸や政庁舎の外壁を堅固にし、外部の窓を小さくし、1階は倉庫や作業場にして、生活空間を2階以上にもってきて(ピアノ・ノービレ)、物見と防御のために塔を作り要塞化します。また、中庭を作り採光や通風を確保した大きな邸宅が作られるようになります。堀や、城壁がなくても立派なお城で、宮殿(plazzo)と呼ばれています。フィレンツェのヴェッキオ宮殿やシエナのプブリコ宮殿、ヴェネチアのヅカーレ宮殿はその代表例です。

パリ ベルサイユ宮殿(Paris/FRA)
 その後、近世になって世の中が安定してくると、宮殿は権威の象徴や外交の舞台として使われるようになり、美しい形や、内装が求められ、お城としての機能は失われてしまいました。またヴィッラと呼ばれる別荘が郊外や領地に作られ、都市生活に倦んだ貴族や王族の静養先となりました。ヴェルサイユ宮殿(パリ)、シェーンブルグ宮殿(ウィーン)、レアール宮殿(ナポリ)などはその中でも特に大掛かりなもので、庭園式宮殿と呼ばれ王の離宮でした。パックの観光旅行で案内してもらえる場所はそのほんの一部分です。


<事例>
フィレンツェの都市施設
 フィレンツェの中で建築史上から見て重要な都市施設を画像付で載せてあります。多分、この部分はお話して、スライドをお見せする時間がとれないと思います。御旅行に行かれる場合、美術館巡りを加えると、最低でも1週間滞在しないとここに記載された施設を見ることができないと思いますが、参考にして下さい。
マウスを置くと画像が出ます。
B.C.59@カストウルム(Castra) ローマの駐屯地(約500mx400m四方)として。カッシア街道のアルノ川の渡し場の守り。現在の共和国広場周辺。
10CAカロリング時代の市域 アルノ側に少し拡張。人口約5000。
11CB洗礼堂(S.Giovanni)、Cサン・レパラータ教会(S.Reparata大聖堂地下) 東北の隅に。
12CDサンミニアート・アル・モンテ教会(S.Miniato al Monte)、アルノ河畔にE聖アポストリ教会(SS.Apostoli 最も古い教会)Fヴェッキオ橋(Ponte Vecchio 1178) 人口約20000
13C
ゴシック
Gミケランジェロの丘からの眺望 3つの橋、第二の城壁、Hカッラーイア橋(1218)I聖トリニタ橋(1252Jグラツィエ橋(1237))。人口100000。
Kアルノ(Arno)川、Lサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(S.Maria Novella 1221) 1456-71アルベルティ正面改修
Mカピターノ・デル・ポポロ Bargello(Capitano del Popolo))宮殿(1255)、塔 171塔(比較:サンジミニアーノ72塔>現存15塔)
13C末Nサンタ・クローチェ教会(S.Croce 1226)Oアヌンツィアータ教会(SS.Annunziata 1248)Pサン・スピリト教会(S.Spirito 1250)Qカルミネ教会(S.M.Carmineルネサンス絵画発祥の教会 1771) アルノルフォ・ディ・カンビオ(建築家)
R大聖堂(Duomo 1296)、Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio1299-1500代) カンビオ関与(大聖堂広場、シニョーリア広場、聖トリニタ教会、ビガッロ柱楼等)
14C21シニョーリア(Signoria)広場、22トリニタ(S.Trinita)教会、23ビガッロ(Bigallo)柱廊、街区の構成、24ダヴァンザーティ(Davanzati)宮殿 cf. 京都の町屋構成
25バディア教会再建(Badia 1285) 26オルサンミケーレ教会(Orsan Michele1290) 27サンタクローチェ(S.Croce 1294) ペストの流行、皇帝党と教皇党の争い。発展がにぶる。
15C
ルネサンス 
R大聖堂のクーポラ(1426) 27サンタマリア・デリ・アンジェリ(S.Maria degli Angeli集中形式の教会1433) ブルネレスキ(建築家)
28インノチェンチ救護院(Spedale Innocenti 1426) ブルネレスキ
29聖ロレンツォ教会(S.Lorenzo 1442-1524) ブルネレスキ
P聖スピリト教会(S.Spirito 1444-87) ブルネレスキ
30パッツィ礼拝堂(Capella Patti 1443-46) ブルネレスキ
31サン・マルコ修道院(S.Marco 1444-16C) 図書館・ミケロッツォ
32メディチ宮殿(Medici Riccardi 1444-64) ミケロッツォ
33ルッチェライ宮殿(Ruccellai 1446-51)、34ストロッツィ宮殿(Storozzi 1466-1504) 外観・美しいオーダー。アルベルティ、ダミアーノ
35メディチ家礼拝堂(Capella Medicei 1521-24)、ラウレンツィアーナ図書館(Laurenziana 1524) ミケランジェロ
16C
バロック
36新市場柱楼(Mercato Nuovo 1551) 37ベルベデーレ要塞(BelVedere 1590) 38フィレンツェ城壁都市1871,現代1975 タッソ,ブォンタレンティ
Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio -1500代) ヴァザーリ他。大公国の政庁舎
39ウフィッツィ宮殿(Uffizi 1560-80) ヴァザーリi他。大公国の事務棟
40ピッチ宮殿(Pitti 1458-1549) ヴァザーリi他。メディチ家の宮殿
41ローマ門(Porta Romana) 42城壁(Murra) 43塔(Torre) 大公国の城壁



<参考>城に関係する歴史
 年代順にお城に関する事項をまとめてみましたので参考にしてください。 この色をクリックするとヨーロッパ100名城選定に使用した画像(約1200枚)がご覧になれます。また国別城郭画像もご覧になれます。

ヨーロッパの城

日本の城

オリエント(BC1728ハムラビ王BC1358ツタンカーメンBC1004ダヴィデ)
BC25C-メソポタミア(ウル、ニネヴェ、バビロニア)
エジプト(テーベ、カルナクの神殿)
ギリシア(BC1200トロイ戦争BC800ホロメスBC500ペルシア戦争
BC431ペロポネソス戦争BC336アレクサンドル大王)
BC17C-12Cエーゲ(トロイ、クレタ、ミケーネ)
ミュケーナイ、チンリス遺跡
BC8C-4Cアテネ、アクロポリス、アゴラ、ピレウス
ポリス(デルフィ、ミレトス、リンドス、オリンピア)
植民地(パエスツム・アグリジェrント)
ローマ前期(BC753ローマ建国BC578セルヴィウスBC509共和制縄文期
BC8C-4CBC272イタリア統一BC218ハンニバルBC60シーザー)ーBC4C戦争はない
イタリア・エトルスクの山上都市弥生時代(239卑弥呼)
ヴォルテッラ、ペルージアBC3C-AC3C倭国大乱(魏志倭人伝)
BC4Cローマ・セルヴィウス(6代王)の城壁(土塁・柵)環堀集落
アルク(城塞)・ガリア人の侵入後石塁(BC378)那珂遺跡(福岡)
BC4Cヒル・フォート(丘の砦)土塁・避難大塚遺跡(横浜市)
MaidenCastel(英・ケルト人)板付遺跡(福岡)
ローマ後期(BC27オクダヴィアヌス117ハドリアヌス293ディオクレティアヌス
306コンスタンティヌス395ホノリウス476オドアケル)
BC1C-2Cローマのカストウルム(Castra/要塞・駐屯地)
ハドリアヌスの長城(英)
リーメス・ゲルマニクス(ザール・ブルグ・独)
サクソン人のブルグ(城市)・街の防衛古墳時代(413仁徳)
ポンペイ遺跡3C-7C豪族居館
3Cディオクレチアヌスの宮殿(スプリト/クロアチア)三ツ寺遺跡(群馬)
271ローマ・アウレリアヌス城壁(d4mh10m)原之城遺跡(群馬)
381の塔(30m毎)・城門吉野ヶ里遺跡(佐賀)
サンタンジェロ城(ハドリアヌス廟)
402ホノリウス改修(h15m)
サンセバスティアーノ門・サンパオロ門日本・古代
408西ゴート(アラリック)・455ヴァンダル(ガイセリック)古代(593聖徳太子630遣唐使661天智663白好江の戦
(481フランク王国493東ゴート王国527ユスティニアヌス7C-10C649藤原京710平城京743墾田私有794平安京)
568ランゴバルド800カール829イングランド962オットー)防衛ライン
山城(神籠石列石)
永納山山城(東予市)
前キリスト期東ローマ・ベルサリウス朝鮮式山城
6Cチュニジアのアイン・トンガ(石塁と隅塔)大野城跡(大宰府)水城
サラセンの街(グラナダ、トレド)城柵(きかき)
864シャルル2世(禿頭王)・ピートルの告示(築城権)多賀城柵(宮城県)
対ノルマン、マジャール政策。教会領(異民族説得)都城(山河池で防衛ライン+居館+寺)
モット(土塁)・アンド・ベイリー(木囲い地)
平安・鎌倉近江京、平城京、平安京
ロマネスク(1077カノッサの屈辱1122ウォルムス協約1130シチリア王国)(1017藤原道長1083源義家1167平清盛
1066ノルマン・コンクエスト>ロンドン塔>ホワイト・タワー(石)11C-15C1192鎌倉幕府1274,81元寇1338室町幕府)
領地を分け与え城を作らした。荘園の発生、防御施設9C班田制の崩壊、荘園制と武士
知行制(給与から土地)と家士制。武士の館と城
チェプストー城(ウェールズ)(石の矩形のキープ)安堵(所領)と奉公(従軍)・守護地頭
ウィンザー城>1170ラウンド・タワー(ヘンリー2世)堀の内、土居(土塁と堀)、侍廊
12C十字軍(1096-)による石造技術の取り入れ・巨大化田畠、牧場、矢場、氏神、氏寺
シェル・キ-プ(貝殻囲壁・城壁)武士の館(国立歴史民族博物館)
キープやドンジョン(天守・塔・砦)根城(青森県)
地下道と死角の欠点を補正
(1215マグナカルタ1223フランチェスコ教団1241ハンザ同盟
1271マルコポーロ1309アヴィニオン幽囚1350ペスト流行)
築城家ジェームズ・オブ・セント・ジョ-ジ
縄張り、塔と城壁。主塔は不要。中庭、居住区
キャフェリー城(ウェールズ・ド・クレア家)
コンセントリック(同心円)
キープ・ゲイトハウス(城門)
城砦
ガイヤール城・シノン城・プロヴァン(仏)
アンジュー城・ブロア城(仏)
エグモール・フーゼール(仏)
カステル・デル・モンテ、ナポリ新城
ラインの関税徴収城(64)・ねずみの塔(独)
エーレンフェルス、ラインシュタイン(独)
ライヒェンシュタイン、ゾーネック、ザイン(独)
ゴシック城壁都市
13C交通の要地・渡渉点・市場>都市
ローテンブルグ(独)
旅商人・巡礼者の宿泊地(ウィク)
ヴェネツィア
城塞教会・修道院
アヴィニヨン(仏)
モンサンミッシェル(仏)
アッシジ
モンテカッシーノ
クリュニー
領主都市(城下町)
カルカッソンヌ(仏)
中世・イタリアヴェロナ、ソアベ、フェッラーラ、マントヴァ
ウルビーノ、サンレオ(伊)
司教座都市
ローマ時代からの諸都市
サンマリノ(世界最古の共和国)
ローマ(中世)
トスカーナの城壁都市
フィレンツェ(カストルム・渡渉点・金融業)
シエナ(カストルム・市場・金融業)
モテリッジオーニ(戦略砦)
サンジミニアーノ(塔の街)
ヴォルテッラ(エトルスクの街)
ルチニャーノ(農村の中心)
ルネサンス(1304ダンテ1431ジャンヌダルク1434コジモ1446ブルネレスキ戦国時代(1467-77応仁、文明の乱1543鉄砲伝来
15C-16C1453百年戦争終結、東ローマ帝国滅亡1478ロレンツォ148115C-16C1547信玄の民政55ヶ条1573室町亡)
イル・モーロ1479スペイン王国1492コロンブス1519ダヴィンチ戦国大名と城郭、縄張り
1517ルター1527ローマ簒奪1541カルヴィン1547フランソワ1世曲輪(郭)、掘切、切岸、竪堀、土塁
1564ミケランジェロ)鉄砲・大砲の時代古宮城(愛知県)、杉山城(埼玉県)
バロック領主館グスク(沖縄県)
中庭・要塞・鉄砲狭間・ピアノノービレ(積層)
ミラノ・スフォルツェスコ城、イモラ砦
近世城砦砲台・保塁近世(1582本能寺1592朝鮮出兵1603江戸幕府
フェッラーラ16C後期-1637島原の乱39鎖国1854安政和親条約)
パルマノーヴァ織豊系城郭
ルッカ天守、館、城門、石垣、堀
サンタンジェロ城の基壇瓦、鉄砲狭間(漆喰壁)、枡形、馬出
トリノ、ウィーン、アムステルダム城下町(楽市・楽座)
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要債17C-安土城(滋賀県)伏見城(京都府)
(1569トスカナ大公国1603エリザベス1世1610アンリ4世幕藩城郭……権威の象徴、大名の住居
42清教徒革命49クロムウェル43-15ルイ14世1701プロシア)
近世城館居住重視、ヴィッラ江戸時代の天守(残存12城)
17C-18Cピッチ宮殿、ヴィッラ・ジュリア弘前城、松本城、丸岡城
ロトンダ、ヴィッラ・バルバロ、ヴィッラ・ランテ犬山城、彦根城、姫路城
ファルネーゼ、テ宮殿松江城、備中松山城、松山城
庭園付城館高知城、丸亀城、宇和島城
ヴィッラ・ピサーニ(ヴェネト)その他の天守(再築)
パラッツォ・レアーレ(ナポリ)江戸城、大阪城、名古屋城
ヴェルサイユ・パリ郊外二条城、会津若松城、小田原城
ロワール河・シュノンソー、シャンボール(仏)岡崎城、福山城、高松城
ホエーンツオレルン(独)中津城、熊本城、宇土城
平和な時代
近代(1776独立宣言1789フランス革命1804ナポレオン帝政近代(1869明治維新)
19C1848二月革命1870普仏戦争)19C砲台
ノイシュヴァンシュタイン城(独)懐古趣味五稜郭(函館)


<謝辞、出典>
 このホームページは公益財団法人・日本城郭協会主催の公開講座や市民講座の講演(淑徳大学、武蔵野大学、目黒区、府中市等)に集めた資料を基に作成したもので、以下の皆様のご協力いただいています。また、出典の分からない画像も使用させて頂きましたが、削除のお申し出がありましたら即座に消去致します。
 最後になりましたが改めて皆様に感謝致します。(平成31年2月)

1.画像提供 公益財団法人・日本城郭協会(井上宗和、中城正堯、東伸宏、山中和正、西内一)
2.引用、参考文献 Touring Club Italiano編『Nuova Guida Rapida ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Castelli e Fortificazioni d'ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Guida EUROPA FRANCIA,GERMANIA,GRECIA』
 E.Detti著『Citta Murale e Sviluppo Contemporaneo』Edizioni C.I.S.C.U
 L.Benevolo著『Corso di Disegno』EDITORI LATERZA
 P.Pierotti著『Urbanistica:Storia e Prassi』MARCHI & BERTOLLI EDITORI
 井上宗和『ヨーロッパ古城ガイド』グラフィック社
 紅山雪夫著『ヨーロッパの旅・城と城壁都市』創元社
 太田静六著『ヨーロッパの古城・城郭の発達とフランスの城』吉川弘文館
 野崎直治著『ヨーロッパ中世の城』中公新書
 ジョセフ・ギース、フランシス・ギース『中世ヨーロッパの城の生活』講談社学術文庫
 ハインリヒ・ブレティヒャ著『中世への旅・騎士と城』白水社
 同明社発行『ビジュアル博物館・城』
 日本城郭協会監修『日本百名城公式ガイドブック』研究社
 朝日新聞社編『城の語る日本史』
 千田嘉博著『戦国の城を歩く』筑摩書房
 石松好雄・桑原滋郎著『大宰府と多賀城』岩波書店


 お城に興味のある皆様、イタリアに行かれることがあれば、お城だけではなく街のバールに飛び込んで是非、市民意識を味わってきてください。
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<版画万華鏡・3>
美しき養蚕神に秘められた少女たちの哀話

中城正堯(30回) 2019.01.20
天竺から流れ着いた美少女“金色姫”

図1.「衣襲明神」浮世絵 歌川芳員 嘉永安政頃 筆者蔵
 前回の「石の宝殿」は、加工された巨石が御神体だった。今回は、江戸・明治にわたって広く信仰された美しい女神像二点を紹介しよう。その名は「衣襲明神(きぬがさみょうじん)」である。まずは幕末の浮世絵師・歌川芳員(よしかず)が描いた衣襲明神の立像(図1)で、周囲には賛を書き連ねてあるが無題。芳員は歌川国芳の弟子で美人画も得意だっただけに、気品ある女神像に仕上げてある。では、画像・賛の詳細からさぐろう。
 立像の女神は、吉祥天のような衣服を着て、頭に鳳凰の冠と絹の反物を載せ、沓(くつ)をはいている。右手には蚕の種紙を、左手には桑の小枝を持つ。衣装の胸には、なぜかうずくまった馬の図がある。画面下部に落款「一寿齊芳員画」と版元印「藤慶」があり、幕末の歌川派絵師・芳員が、江戸通油町・藤岡慶次カの店から版行したとわかる。女神の周りを埋める賛には、およそこんなことが書いてある。
<かけまくもおそれおおくも、これは養蚕の祖神、常陸国日向川(ひなたがわ)村、蚕霊山(さんれいざん)聖福寺の衣襲明神である。この神を祭れば、養蚕をする家は蚕がよく育ち、蚕屋のネズミを防ぎ、蚕はすべて繭となり、万倍の利益を得る。一般の男女がこの神を信心すれば、衣食住とも恵まれること疑いなし>
 江戸後期の養蚕ブームで、常陸国日向川村(現茨城県神栖市日川)聖福寺の養蚕護符「衣襲明神」が評判になり、数多く作られた。この錦絵護符は、嘉永安政(1848〜60)頃に出た一枚だ。当時、この衣襲明神は聖福寺境内に祀られていた。由来は、こう語られている。
<孝霊天皇(紀元前285年)の春3月。豊浦浜(日川)の漁師権太夫が、沖に漂う小舟を引き上げてみると、世にも稀な美女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国の金色姫で、国一番の美女だったが継母に憎まれ、桑の木で造ったうつぼ舟に乗せられ海に流された。豊浦浜に漂着、権太夫に愛育されるが病死して蚕となり、養蚕をこの地に伝えた。金色姫と権太夫に感謝して、村人は蚕霊神社を造営した>
江戸のコピーライター馬琴が生んだ衣襲明神

図2.「衣襲明神之像」富山版画 明治時代 筆者蔵
 天竺からの金色姫漂着による養蚕伝来説話は、室町時代の写本『蚕の草子』(慶應義塾蔵)にすでにあり、つくば市蚕影山神社にも伝わる。しかし、なぜ衣襲明神と呼ぶのか、胸の馬は何を意味するのかなど不明であり、関連史料をさぐってみた。古くからの編集仲間で歴史家の関口一郎氏から近江礼子氏(民俗学研究者)を紹介いただき、論文「茨城県神栖市の聖福寺と蚕霊神社の養蚕信仰」を入手した。さらに、町田市博物館刊『養蚕機織図』に各種の養蚕護符図と「蚕の神仏」と題する畠山豊氏の論考があり、わが書庫にも『蠶神考』(村島渚著 明文堂 昭和8年)・『売薬版画』(根塚伊三松著 巧玄出版 昭和54年)などが眠っていた。これらによって、衣襲明神誕生の意外な経緯や拡散ぶりが判明した。
 江戸後期から明治にかけての養蚕ブームを反映して、『養蚕機織図』には30種類を超える養蚕の神仏護符が掲載されていた。その最古の作品が、文政10年(1827)に鶴屋喜右衛門版行の「衣襲明神」であり、絵師名の落款はないが撰文は「曲亭陳人」とある。『南総里見八犬伝』で知られる曲亭こと滝沢馬琴が、八犬伝を執筆中に書いたものだ。彼の日記には、「文政10年1月20日に鶴屋から依頼あり、鹿島の千手院聖福寺などで調査させる。3月19日に稿を終える」などと、経緯がきちんと記されている。
 筆者所蔵の芳員作品の賛は、ごく一部の表現を変えただけで馬琴の撰文をいわば流用している。この流用は、明治時代の各種「衣襲明神」まで続く。養蚕農家にとって、蚕の種紙を購入したあと、無事に繭に育て上げるまでには、桑の栽培やネズミの害防止などさまざまな課題があり、神頼みをせざるを得なかったようだ。その心理を巧に汲み取り、さらに一般民衆に対しても、この護符の御利益を説いてある。
 養蚕の祖神「衣襲明神」の名称も馬琴の創作であり、古事記や日本書紀、さらには現在の神名辞典にも登場しない。「衣笠・絹傘」をもじっての造語であろう。神道の古典的な養蚕守護神・稚産霊神(わかむすびのかみ)などに代わって、民間信仰として興った衣襲明神が農民の信頼を得たのだ。馬琴は江戸を代表する戯作者だけに、コピーライターとしても見事な筆力で、平賀源内がうなぎ屋におくった「土用うしの日」と並ぶ名作だ。ただ画像は、女神の容姿・表情・色調とも芳員の浮世絵が最も優れている。明治時代の女神は、化学染料によるどぎつい彩色が多い。胸の馬も馬琴にちなむともいうが、根拠不明だ。
 ではここで、同じ衣襲明神ながら女神立像でなく、騎馬像のタイプを見てみよう。「衣襲明神之像」(図2)と神名が大書してあり、「富山市袋町高見喜平版」とある。薄墨の馬にまたがった女神の装束は立像とほぼ同様だが、宝冠をかぶり、帯状の天衣をひらめかせ、右手に種紙を左手に手綱を持ち、馬の足元にはまっ白の繭が散らばる。
オシラサマが伝える馬と少女の悲恋

図3.「オシラサマ」左が馬頭 北上市博物館 筆者撮影
 富山市の高見喜平は、富山版画とか売薬版画と呼ばれる錦絵の版元であり、この神像画も越中富山の置き薬行商人が、薬のおまけに付けて喜ばれた錦絵護符である。幕末明治には生糸が輸出の花形商品となり、養蚕ブームとなる。そこで養蚕農家への薬のおまけとして、名の知られた衣襲明神が登場する。富山では江戸時代から養蚕の種紙も作られ、やはり行商人が販売を担当、これも養蚕神錦絵制作につながったようだ。
 富山版画の衣襲明神にも、馬琴の撰文を簡略化して付けたものがあり、女神の姿・所持品も類似しているが、なぜか女神が馬に寄り添った像や、騎馬像が現れる。『売薬版画』は、三種類の「衣襲明神」を載せ、「関東・東北地方の養蚕地帯へ持っていき、配ったもの」と述べ、さらに岩手県遠野の伝説が生んだ信仰の中に「オシラサマ」(図3)という悲話があるとして、柳田国男の『遠野物語』から、こう紹介してある。
<昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪(にく)みて斧をもって後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり>
二つの養蚕神の習合拡散、そして退場

図4.「蠶女」『中国~仙画像集』
(上海古籍出版社)より
 遠野では昇天した娘が蚕となって現れたという伝説から、馬と娘の顔を桑の木に刻み、養蚕神オシラサマが誕生したとする。馬産地ならではの伝説でもある。柳田は「オシラ神の話」(『柳田國男全集15』)で、津軽のイタコ(巫女)の語りにも昇天した馬と姫二つの霊が桑の木に降りて虫になり、養蚕が始まったとあることを述べ、この話が二千年前の中国『捜神記』「馬の恋」とほぼ同一であることに触れている。『中国~仙画像集』には「蠶女」として、『捜神記』の神話が画像(図4)とともに紹介してある。 二十数年前に、岩手県遠野市、北上市、青森県恐山などを駆け巡った。その際、遠野で見かけた白馬にまたがる娘の絵馬(図5)が、強く印象に残っている。桑の木に馬頭や男女の顔などを刻んで布切れを着せたオシラサマは、各地で見かけた。しかし、養蚕神にとどまらず農家の守護神であり、

図5.「馬と娘」絵馬 遠野市 現代 筆者撮影
イタコが神の託宣や死者の口寄せをする際の祭具でもあると聞かされた。オシラサマの伝説には、貧乏な百姓の娘ではなく長者の娘とか尊い姫など異説がある。遠野には、<馬を殺された娘が、馬の皮を小舟に張り、海に出てある海岸に漂着、亡きがらからわきだした虫が蚕になった>という話も伝わることを、今野円輔が「オシラ神に関する諸問題」(『民俗―馬の文化史』馬事文化事業団)で論じている。

図6.「多賀大社像」画幅(部分)
木版手彩色 筆者蔵
 遠野のオシラサマは馬と娘の異類婚姻譚(いるいこんいんたん)であるが、そこには常陸の金色姫漂着譚の混在も見られる。江戸後期から、常陸聖福寺では金色姫に由来する蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)の出開帳を養蚕地帯で行い、護符も配布したという。おそらく遠野へも、富山へも足をのばしたであろう。富山の薬行商人も、当然関東から東北にかけて広く得意先を抱えていた。こうして、養蚕神の画像や由来譚は、いつしか「金色姫漂着譚」系と「馬と娘婚姻譚」系が習合、騎馬女神像も立像の胸の馬も誕生したと思われる。騎馬神像自体は、延命長寿で知られる近江の多賀大社像(図6)などと同じ形状だ。 厳しい農作業に明け暮れた各地の農民は、農閑期に常陸の巡礼僧が背負ってきた蚕霊尊を拝みつつ哀れな金色姫の説話を聞くのも、越中富山の薬売りから美しい色摺の衣襲明神像をもらって馬と娘の悲恋物語を教えられるのも、なによりの楽しみであっただろう。土地の神社・寺院に勧請され、定着する養蚕の神仏も増えたのだ。

図7.「蚕家織子之図 第壹」浮世絵
歌川国芳 天保頃 公文教育研究会蔵
 江戸の町民も養蚕への関心は高かったようだ。浮世絵には、美人画で知られる勝川春章・北尾重政による「かゐこやしなひ草」、喜多川歌麿の「女織蚕手業草」、さらには歌川国芳が人物を子どもに置きかえて描いた「蚕家織子之図」(図7)など、数多くの養蚕浮世絵が版行されている。いずれも、種紙の掻きたて、採桑飼育、繭煮、糸繰り、機織りまでの作業が、図解されており、美人画・子ども絵であるとともに、養蚕の手引図になっている。
 明治になると神仏分離が強行され、常陸聖福寺では衣襲明神を祀る蚕霊神社が独立、寺は馬鳴菩薩を祀る。養蚕業の大ブームもあって、衣襲明神・金色姫・馬鳴菩薩など、さまざまな養蚕神仏像がもてはやされた。だが、養蚕産業の衰退とともに、養蚕神は急速に退場、艶やかな絹糸の輝きの背後にあった守護神・金色姫たちも姿を消す。だが、残された浮世絵の養蚕護符や子どもの養蚕絵からは、当時の養蚕への人々の熱い想いが伝わってくる。次回は、戦前高知でも見られたが、今や全国的にも消滅寸前の打毬(和製ポロ)の画像をお見せしたい。
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<町田市立美術館へのご案内>
福を呼ぶ「金のなる木」や「七福神」

中城正堯(30回) 2019.01.10
町田市立国際版画美術館で「中城コレクション」など展示

筆者近影
 正月から2月17日まで、町田市の国際版画美術館では「新収蔵作品展」を開催している。昨年に続き、今年も「中城コレクション」が16点展示されているのでご案内したい。多くは、新年にふさわしい江戸時代の吉祥画である。
 同美術館の案内状には、「本コレクションの特徴は、吉祥画題を描いた版画が多数含まれていることです。なかでも中城氏は、豊作や商売繁盛、勤倹貯蓄を表す「金のなる木」の図像が、多数の浮世絵、引札、民間版画に見出せることに注目し、収集しています。もとは中国版画にみられる「揺樹銭」のモチーフから発展したもので・・・」等とある。写真は寄贈コレクションより二点。
・交通 JR横浜線・小田急「町田駅」下車徒歩15分****入場無料
・電話042―726―2771


「金之成木」渓斎英泉
天保弘化頃 

「七福神宝船」作者未詳 天保頃 回文
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野町和嘉 写真展
World Heritage Journey

 

2019/1/7(月)〜2/4(月)キャノンオープンギャラリー1:キャノンSタワー2F


案内図

2019年のCANONカレンダーに掲載された作品(世界遺産を訪ねて)を展示しています。郷土出身の偉大な写真家(土門拳賞、紫綬褒章受章)の世界を堪能されて下さい。
    入場無料



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石の宝殿への反響---高砂市教育委員会より

中城正堯(30回) 2018.12.25
 「石の宝殿」面倒をかけましたが、冨田さんに続いて、高砂市からも下記の反響がありましたので、お知らせします。
 では、よいお正月を!
************************************
中城 様
 ご連絡いただき、有難うございます。ホームページ拝見させていただきました。図の画質が良く拡大もでき、とても見やすかったです。現地の写真も豊富で、石の宝殿を含め、実際の遺跡に行ってみたくなる印象を受けました。
 この度は、石の宝殿を取り上げていただき、有難うございました。また今後とも、高砂市の文化財行政にご協力の程、よろしくお願いします。
-------------------- ∴ ------------------
高砂市教育委員会 生涯学習課 文化財係 奥山 貴
〒676-0823 兵庫県高砂市阿弥陀町生石61-1
Tel 079-448-8255 FAX 079-490-5975
E-Mail : tact7610@city.takasago.lg.jp
-------------------- ∵ ------------------
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浮世絵万華鏡1・2拝読しました。

冨田 八千代(36回) 2018.12.25

筆者旧影
 1では、くもん子ども研究所・こども浮世絵による江戸子ども文化研究・くもん浮世絵コレクションと中城さんの果たされた功績と役割、役割を担われるのに相応しいたくさんの背景などがよくわかりました。
 写真で紹介された著書の中で「浮世絵の中の子ども達」はまだ読んでなかったので、すぐに豊田市図書館に借りに行きました。閉架図書となり、しかも、閉架図書の整理中で、やっと12月5日に貸し出しとなりました。 (注:豊田市大きな「市」ですが、中心部に1館あるのみです。分館もありません。)
 手にして、立派さに驚きました。先の3冊を拝読していたから、私は読みすすめられたと思います。読み終えたら、メールをとおもっていましたが、そのままになりました。写真の中の右下の 「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は図書館で検索してもありませんでした。
 本の中のそれぞれの方の著述から、又、新しいことをたくさん知りました。単純なことでは、毬杖から左利きをいう「ぎっちょう」が、なるほどと思いました。江戸時代の子どもの存在を士農工商の階層からの視点は、目新しいことでした。
 中城さんの「子ども絵のなかの中国年画」も興味深いものでした。昔話も中国の大昔とつながりがあるのですね。感想の一端で失礼します。
 版画万華鏡2は、話題が広がり、また、興味深い物でした。訪れたこともある場所でも、全く気がつかない事でした。「無知」はもったいないですね。
 それから、余分なことです。先日、豊田市図書館の子ども図書室で見かけた本の事です。全体として、この本を評しているのではないことをお断りして「浮世絵」に関しての所で、気になったことを書かせてもらいます。
「人物・テーマ・ごとに深堀り!河合先生の歴史でござる」 河合敦著(著だったかどうか?) 朝日学生新聞社発行。発行年は昨年か今年です。
 「浮世絵が版画になって大流行」という項目があります。(p164〜165 これは記録してきました。この2分の1位が浮世絵に関してです)。浮世絵とあったので、ちょっとわくわくしながら、そのページを開きました。
・作品として 見返り美人・(まとめて)大首絵・(まとめて)美人画・(まとめて)錦絵富嶽三十六景・東海道五十三次
・人物として 菱川師宣・鈴木晴信・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重
・写真 喜多川歌麿「難波屋おきた」
 児童図書なのに、中城さんの紹介のように浮世絵には子どもがたくさん登場することを述べられていないのは残念です。写真でも、1枚それをのせたら、子どもはもっと興味を持ち身近に感じることでしょう。私もこの本のような知識で過ごしてきましたが、新しい本なのに、内容が変わっていないのです。子ども浮世絵は、まだまだ、世に知られていないのでしょうか。
 中城さん 版画万華鏡3を楽しみにしています。よろしくお願いします。
************************************
冨田様
 HP丁寧に読んでいただき、また「浮世絵の中の子どもたち」まで取り寄せ、恐縮です。この本では、黒田先生はじめ各分野を代表する研究者に参画いただき、「子ども浮世絵」を分析いただきました。多くの先生方と、今も交流しています。
 先日、國學院大学でも若い大学院生を中心に、「子ども浮世絵」の研究会があり、徐々に研究者が広がりつつあります。ただ、浮世絵ましてや、「子ども浮世絵」の理解者は、歴史家・美術家でも、まだまだです。この席でも日本女子大名誉教授・及川茂さんが、欧米では日本美術で浮世絵が庶民の風俗や風景を独自の描法で描いたとして最も高い評価を受け、粉本模写中心だった狩野派など日本画はほとんど評価されないのに、国内ではおかしいと嘆いていました。
 河合先生のような日本史だけでなく、美術史の先生でも、浮世絵や子ども史への新しい視線を持っていません。江戸の教育史などもイギリス人ドーア氏が『江戸時代の教育』(岩波書店)で正統に評価、アメリカ人ハンレーさん『江戸時代の遺産』(中央公論社)も同様です。日本は明治政府による極端な江戸文化・庶民文化否定、欧風貴族文化尊重が、長く残っていました。
「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は、展覧会の図録なので、図書館には入ってないです。残された時間・体力と相談しながら、若手研究者との交流、資料の引継ぎをしています。そして、浮世絵を使った子ども絵本の企画も進めたいと思っています。
 中国年画では、名古屋大の川瀬千春さんが30年ほどまえに博士論文「戦争と年画」を書いた際に、資料提供した事があります。浮世絵では、名古屋市美術館の神谷浩さんがいます。
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<版画万華鏡・2>
なぞの名所絵版画「播州石宝殿」と巨石文化

中城正堯(30回) 2018.12.23
水に浮かぶ巨石がご神体  昭和61年(1986年)から、くもん子ども研究所の「子ども浮世絵による江戸子ども文化研究」の担当となり、早速浮世絵収集を始めた。主な収集対象は、遊びや学びなど子どもの生活風俗を描いた子ども絵、そして母子絵、さらに子どもが紙工作や豆本・豆図鑑として楽しんだおもちゃ絵である。収集先は、神田の古書店、そして古書会館で毎週末に開かれる業界の即売会、またデパートの催事場で当時はよく開催されていた「古本市」などであった。むろん、大阪出張の際には梅田阪急の古書店街や京都の老舗古書店・浮世絵店にも立ち寄った。

図1.「帝釈天像」町田市立
国際版画美術館「中城コレクション」
 やがて、「子ども浮世絵」収集者のいることが業界に伝わり、眠っていた子ども関連の作品が続々市場に現われ、作品収集は予想以上に進展した。その過程で多彩な分野の版画作品に出会い、江戸時代の豊かな出版文化に触れることができた。子ども絵以外でも興味深い作品に出会った。その一つが「帝釈天像」(図1)など、江戸庶民の神仏への信仰心をうかがうことができる護符や、社寺参拝案内の名所絵である。渥美清の映画「寅さんシリーズ」の舞台として知られる柴又帝釈天には、日蓮自らが刻んだと伝わる板本尊がある。安永8年(1779年)に本堂修理の際に見つかり、護符として流布した。これら個性的で愛らしい神仏像・護符の類は個人で購入して楽しんだが、順次美術館などに寄贈している。

図3.「播州石宝殿図」筆者蔵
 さらに不思議なご神体図に出会った。ここに掲げた「播州石宝殿図」(図2)である。上部に松の生えた巨石と拝殿が描かれ、「東・西」の方位と「四方三間半むね(棟)へ貮丈六尺、高峯岩」の文字、そして万葉集第三から「大汝小彦名乃將坐(おほなむち すくなひこなの おハします)志都乃石室者幾代將経(しつのいはやハ いくよへぬらん)」の歌を添えてある。どうやら播磨国(兵庫県)の神社・御神体を描いた社寺名所絵の一種だ。絵の筆致や紙質から、明和安永頃(18世紀中葉)の作品と思われる。
 続いて「播州国石宝殿」(図3)の題で、水辺に浮かぶような巨石を描いた縦長の版画を見付けた。画幅に仕立てるための版画で、やはり万葉集の歌が添えてある。制作年代は、幕末か明治初年だろう。もう一点は、「播州石宝殿」の朱印を押し、「はりま いしのはうでん」と題した袋入りで、絵図二枚と神社縁起一枚がはいっていた。絵の一つが「播磨国石宝殿真景」(図4)で、明治中期の石版刷りだ。神社縁起には、「神代の昔に大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受けて一夜で石の宮殿造営を始めたが、賊神鎮圧のために宮殿を正面に起こす前に夜明けを迎え、未完成となった。だが、二神の霊はこの岩に永劫に籠り、国土を鎮めると仰せになった。よって、石の宝殿、鎭の石室と称する」などとある。

図2.「播州国石宝殿」筆者蔵

図4.「播州国石宝殿真景」筆者蔵
 これらの版画は、石の宝殿を御神体として祀る生石(おうしこ)神社(兵庫県高砂市)が発行した宗教版画であるが、社寺巡りのための名所案内絵でもある。なお、石宝殿は、「いしのほうでん」と読むので、以下本文では「の」を入れて「石の宝殿」と表記する。
シーボルトも見学した「日本三奇」の一つ

図5.シーボルトの見た石の宝殿 『Nippon』より
 短期間で三種類の版画が入手できたことから、この「石の宝殿」が江戸後半には人気が高く、数多くの作品が摺られただろうと推測できた。古い文献で少しさがすと、司馬江漢『西遊旅譚』(寛政6年)や渕上旭江『山水奇観拾遺』(文化10年)に絵入りで紹介されていた。さらに、シーボルトも文政9年(1826年)の江戸参府の際に立ち寄り、写実的な絵図(図5)を残している。江戸の人々は何事でも番付に表わしたが、「大日本国中 不思儀競」(発行年未詳)にもあり、東が「天之逆鉾」「天之橋立」…、西が「高間ヶ原」「石之宝殿」…と続く。霧島の天之逆鉾は、慶應2年に坂本龍馬がお龍と訪ね、逆鉾を抜いたことでも知られる。合計186の不思議の中から、石の宝殿は堂々西の2位だ。また、霧島神社の「天之逆鉾」、塩竃神社の鉄製「塩竃」とともに、「日本三奇」とも呼ばれていた。

写真@ 石の宝殿、左側面
 筆者撮影

写真A 上から見た左側面
 筆者撮影
 これほど著名な名所だったのに、昭和の時代、特に戦後は忘れられた存在になっていた。だが研究書では、『日本の謎・石宝殿』(間壁忠彦/葭子、六興出版、昭和53年)、『古代巨石文化の研究』(吉原博見、白帝社、昭和57年)などで詳細に論じてあった。『角川日本地名大辞典』(角川書店、昭和63年)高砂市の項に、「竜山の中腹に、生石神社の神体となっている石の宝殿がある。幅6.5m・高さ5.7m・奥行5.6mの直方体背面に、角状の突起をつけ、奥行の全長が約7mある巨大な石造物…」と記載、7世紀に造られた火葬場ではないか、とも述べてあるが謎だらけだ。あとは、現地を探訪してさぐるのみだ。
 平成11年(1999年)、姫路城からの帰途に、ようやく石の宝殿を探訪することができた。山陽本線姫路駅から各停で三駅、神戸方向にもどると「宝殿駅」がある。タクシーで生石神社門前まで行き、高い石段を登ると立派な社殿が現われる。これが拝殿で、中央を抜けると御神体の巨石が鎮座している。岩山をくり抜き、奥の突起を屋根として、家を横倒しにした形状だが、周りの岩壁との間隔が狭く、標準レンズでは納まりきらない。ワイドレンズを待たずに来たのを悔やみつつ撮った写真が@〜Bである。

写真B 右後部からの石の宝殿と景観 筆者撮影
 写真@は左の側面だが、下部も中心部を除いて削られ、確かに石全体が水たまりに浮かんでいるように見える。ここから「浮き石」の名称もついている。Aは同じ側面を上から見下ろした写真で、上部にはかなり大きい常緑樹が茂り、拝殿とも間近に接している。Bは、反対側の上から見た景観で、柵に囲まれて御神体上部の茂み、拝殿の屋根、そして背後に古代から現代まで続く竜山の石切場が連なり、左奥には遙かに高砂の工業地帯が望める。古代には、竜山のすぐ麓まで海岸が迫り、竜山の石棺は海路畿内へも運ばれていた。高砂の港は古代から九州と畿内を結ぶ舟路の中継地で、謡曲『高砂』の舞台でもある。
 巨石を宮殿形に加工した古代石工の技術に驚き、江戸の人々が神わざと感じて「日本三奇」にあげたのも理解できた。社殿に「算額」を掲げてあったのも、幕末のこの神社の人気ぶりを示している。算額は和算の難題に挑んだ数学者が、解答を額にして名のある神社に奉納したもので、この算額は三角関数を駆使して解いた幾何の難問であった。宮司からお話を伺い、「生石神社略記」などをいただいて、神社を後にした。
巨石信仰の系譜を追って高知、エジプトへ

写真C 姫路城備前門の
左右石垣に使われた石棺 筆者撮影
 石の宝殿は、いつ、だれが、なんのために、どんな形状に造ろうとしたのか、拝観したことから疑問を解く糸口がいくらか思い浮かんできた。まず、直前に訪ねた姫路城の本丸備前門の石垣で見かけた竜山石の石棺(写真C)である。今に残る姫路城は池田輝政の築城であるが、羽柴秀吉が中国攻めの際に大急ぎで造った際の石垣から石材をかなり流用しており、この石棺も秀吉時代の石垣から再利用した可能性が高い。いずれにしろ、播磨国一帯は古墳が多々あり、くりぬき式の石棺が出土しているのは、古代石工文化の豊かな発達を示している。その背景には、663年白村江の戦いで唐・新羅軍に日本・百済軍が敗れた際、日本に渡ってきた百済の石工によって伝えられた石垣造りの技術伝承があるのではないだろうか。これらの石垣は神護石(こうごいし)と呼ばれ、北九州から山陽道各地にかけての古代山城遺構に残る。岡山県の山城「鬼の城」もその一つである。

写真D 明日香村の「益田の岩船」筆者撮影
 古代石造文化でこの石の宮殿に類似のものに、奈良県明日香村の「益田の岩船」(写真D)がある。石の宝殿同様の家形で、屋根を手前に横倒しになっており、側面(現状では上部)には四角い切り込みがある。約715トンの日本最大級の石造物だが、起こせば7世紀頃の終末期古墳の石室と同じ構造の、壮大な横口式石槨である。石の宝殿も、同じ家形の横口式石槨と思われるが約500トンあり、さすがに起こせなかったようだ。上部に岩船同様の切り込みが想定されるが、御神体のため上部樹木の部分を発掘調査できず、現在も確認できないとのことであった。石の宝殿の製作時期も、万葉集に出てくる石室とこの巨石とは必ずしも結びつかないが、『播磨国風土記』にある「家の形の大石」は、記載された寸法・場所から明らかに石の宝殿を指しており、竜山の石棺工人が最も活躍した時期でもある7世紀の製作と推定される。古墳時代の強大な豪族が製作を命じたのであり、貴人の遺骸を収めた石棺を安置し、祀るための石槨だったと考えられる。この不思議な巨石自体を御神体として祀ったのは中世以降であろう。

写真E ウルルでの筆者 1965年 矢島康次撮影
 巨石文化は国内各地に残り、高知県では足摺岬の唐人駄馬遺跡が知られる。この巨石群は一部岩面に線刻が見られる程度で、自然石である。ただ、巨石周辺から縄文・弥生の石器や土器が出土しており、巨石信仰の祭事空間であったと推定される。海外では、オーストラリア原住民の聖なる岩山ウルル(エアーズロック、写真E)が、同様の位置付けだ。
 巨石に加工を施した巨石記念物も世界各地に残っている。筆者が訪ねたのは、アブシンベルとギザ、チリのイースター島、インドネシアの二アス島とスマトラ島だが、エジプトでは製作を中断したオベリスク(写真F)も訪ねた。さらに、国際的写真家・野町和嘉氏からいただいたエチオピア写真集『ETHIOPIA 伝説の聖櫃』を開き、ラリベラの岩窟教会(写真G 世界遺産)を見て驚いた。

写真F 製作を中断した
エジプトのオベリスク 筆者撮影

写真G エチオピアの岩窟教会 
野町和嘉『ETHIOPIA 伝説の聖櫃』より
巨大な岩盤を十字の形を残して掘り下げ、教会を造ってあるのだ。古代からの洞窟信仰とキリスト教が習合、6〜13世紀に造られたとある。播磨での石の宝殿誕生とも時期が重なり、篤き信仰心が生んだ偉大な石造技術に驚嘆した。
 石の宝殿は平成26年に国の史跡指定を受けた。高砂市教育委員会文化財係によると、最近「石の宝殿研究会」が誕生、パワースポットとしても話題になり、次第に見学者が増加しつつあるという。次回「版画万華鏡・3」では、美しい蚕神様の浮世絵を紹介したい。
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<版画万華鏡・1>
土佐中での出会いから生まれた浮世絵コレクション

中城正堯(30回) 2018.11.25
巡航船で通ったバラック校舎で戦後民主教育

筆者近影
 敗戦から間もない昭和24年(1949年)に、土佐中学に入学した。ここでの3年間が、その後の人生を決めたと言っても過言ではない。編集・出版の世界に進んだのも、浮世絵の収集研究を始めたのも、この3年間があったからである。
 まだ、学校にも街中にも高知大空襲の傷跡が残り、校舎は高知市池にあった海軍航空隊兵舎の払い下げを受けたバラックだった。兵舎を解体、先生・生徒一体となって潮江(塩屋崎町)まで運んで建てた汗の結晶だった。

昭和27年2月に、校舎玄関前に勢ぞろいした新聞部員。
 戦災で灰燼に帰した校舎の復旧と、教育改革によって新制中学・高校となった土佐中高の新たなスタートの先頭に立って奮闘したのは、昭和20年3月に第3代校長に就任した大嶋光次先生であった。校舎焼失ばかりか、宇田・川ア両家からの基金も消失したなか、少数精鋭の教育から、生徒増員によって自前での経営基盤確立を目指すとともに、男女共学をいち早く取り入れ、自治会やクラブ活動を奨励、戦後体制への衣替えを計った。いっぽう、建学理念である人材育成・大学進学にも注力、さらに報恩感謝を強調した。

版画で制作した年賀状
「坊さんかんざし人形」
 入学当時の学校の雰囲気は、『新聞向陽』(後に『向陽新聞』)で思い出すことができる。昭和24年7月発行の第3号トップ記事は「われらの新校舎遂に落成」で、木造二階建て新校舎の第一期工事が完成、落成式典の様子を報じている。二面には、「苦い経験 ストの理由とその反省」とある。これは、国立大学設置法案に学園の自治をないがしろにする条文があるとして、大学生のみならず高校生も巻き込んでの反対運動が、学園ストにまで発展した記事だ。

中高時代の自作版画。「女性像」
中一の教室にも、高校生の活動家がアジ演説に来たのを覚えている。さらに、「各部便り」には、生物班「中山先生の指導でヘビの飼育場も作る」とか、野球部「土佐中県下大会に出場」とある。中学野球部は、市予選を勝ち抜いて県大会への出場権を得たのだ。野球ブームで、休み時間にも手作りのボールを持って校庭に出て遊んだ。
 肝心の授業など学校生活はどうだったか、とにかく素晴らしい先生が揃っていた。海辺の田舎(種崎)育ちで、焼玉エンジンの巡航船で30分かけて高知桟橋に着き、さらに土電で梅ヶ辻へ出て通学した。校舎はオンボロながら、先生方は数学の公文公、生物の中山俊馬、漢文の吉本泰喜など碩学揃いで、充実したユニークな授業に引き込まれた。オンカンこと中山先生は、来高した天皇陛下に高知産貝類のご説明役を仰せつかるかと思えば、試験問題は高知新聞連載の時代小説から貧乏浪人の長屋暮らしを引用、「この小説に出て来る動物を分類せよ」であった。その動物とは、ムカデ、ゲジゲジ、ナメクジ・ゴキブリ・ノミなどだ。
 他にも、各教科に山下芳雄(理科)、伊賀千人(社会)など後に大学教授になる研究心旺盛な先生や、タコ、カマスなどの愛称で呼ばれ、独自の授業展開で生徒を魅了するベテラン教師など、多彩であった。
公文先生・版画・新聞部、中学3年間で3つの出会い

平成5年、高知で講演する公文公先生
演題は「土佐から世界へ」。
 入学した280名4クラスへの組分けで、たまたま公文公先生のB組になった。先生は土佐中の7回生で、大阪帝国大学の数学科1期生、戦争中は海軍の数学教授であった。戦後は帰郷し、高知商業を経て母校の教諭となり、初めてクラス担任となったのだ。毎年組替えがあったが、幸い大町玄君と筆者は3年間ずっと公文クラスに在籍した。
 公文先生は、戦後の文部省カリキュラムに添った教科書による一斉授業だけでは、生徒の学力を十分伸ばすことはできないと考え、知寄町の自宅での指導も開始した。後に、「生徒のために旧制土佐中のように学年より先へ進める授業をしたかったが、学校に理解してもらえなかった。そこで、家へ生徒を呼び、代数の問題集と英文講読を始めた。個人別自学自習でどんどん先へ進んでもらった」と、語っている。当時の教室では、公文俊平・川村克彦両先輩(28回生)が、助手をしてくれていた。今や世界中で428万人が学ぶKUMON式の源流は、旧制土佐中教育と公文先生の高知での私塾であった。
 筆者にとって楽しかった授業は美術で、洋画家の鎮西忠行先生が水彩画を、彫刻家の横田富之助先生が彫刻や版画を指導してくださった。特に高知女子大から教えに来ていた横田先生の、木版画制作に魅せられた。参考資料にあった北斎や広重の版画を真似て、「富士山」の多色摺年賀状(2018年7月、このHPに掲載ずみ)を制作、その後もロダンの彫像や「坊さんかんざし人形」などを版木に刻み、刷り上げた。坂本龍馬も見たという我が家の襖の絵「田原藤太百足退治」が、江戸後期の木版浮世絵であることにも気付かされた。

実家にあった浮世絵 「田原藤太百足退治」(歌川国麿、弘化・嘉永頃)
 クラブ活動は、同級の大町君にさそわれ中2から新聞部に入部した。戦後の学園民主化にとって、自治会とともに校内の自由な報道言論機関として、重要な役割を担っていた。同学年では、浅井伴泰、千原宏、武市功、横山禎夫、大原譲が、1年上には中山剛吉、下には島崎(森下)睦美などがいた。そして、なにより熱心に指導してくれたのは27回生の岩谷清水先輩であった。また、戦災からの復興再建をリードした大嶋校長も、授業編成から授業料値上げ、入試のあり方、教師・生徒双方の問題行動まで、学校運営に関する新聞部取材にきちんと対応いただけた。ただ、晩年は校内規律が緩み、某教諭が部活動の積立て金を私的に流用、退職金で穴埋めして転校するという事件もあった。この取材に対し、校長は率直に事実を認めたが、記事にはできなかった。高校卒業直後の昭和30年4月には、高知新聞によって教師による中学入試問題の漏洩がスクープされた。学校の対応が遅れ、ついに生徒は同盟休校に突入、ようやく事件の解明と校内刷新が進展した。
 土佐中で出会ったこの公文先生、版画、そして新聞部が40年後に結びつき、「子ども浮世絵」の収集・研究が後半生の大仕事になるとは、思いがけないことであった。
子ども浮世絵研究とヨーロッパ巡回展

子ども絵「風流をさなあそび」 (歌川広重、天保初期,公文教育研究会蔵)。
 中学から高校進学にあたっては、あらかじめ4名の担任が発表され、生徒にクラス選定がゆだねられた。中学でのB組を中心に我々は公文クラスを希望していたが、突然公文先生の大阪の高校への転任が知らされ、呆然となった。しかし、大学を出て就職するとともに恩師との交流が次第に復活した。特に、公文式教育が昭和37年に大阪数学研究会として会社組織になると、岩谷清水(27回生、後・取締役教育主幹)が東京教室の第一号を開設、やがて林(梅原)三洋子はじめ土佐中での公文クラスの女子教え子や、男子教え子の夫人が続々公文式教室を開いた。公文先生が独自に開発した数・英・国の教材による、個人別自学自習の指導法や学習効果に共感でき、収入にもつながったからだ。
 しかし、会社創設初期には教材開発、指導者養成以外に、資金調達、労働争議、教材の流出・模倣といった難題が次々に降りかかった。禎子夫人をはじめ、その実弟長井淳三、公文先生の長男公文毅、甥国澤建紀(36回生)など親族が事業に参画、さらに土佐中B組だった武市功(30回生、後副社長)、浅岡建三(中卒で転校、顧問弁護士・鑑査役)も経営中枢を支え、次第に体制が整った。昭和49年(1974年)には、海外最初の教室がニューヨークに開設され、見城徹(現幻冬舎社長)が企画した公文公著『公文式算数の秘密』(廣済堂出版)がベストセラーとなり、一挙に全国で生徒が急増した。

ヨーロッパ巡回展モスクワ会場
左はロシアの文化大臣、右奥筆者。
 この間筆者は、新聞部での企画・取材・執筆の楽しさや、記事の手応えが忘れられず、大学卒業に際しては新聞・出版に絞って就活を続けた。マスコミ大手はどこもダメだったが、なんとか新興の学研に入社できた。雑誌や書籍の編集を担当し、公文公編『愛の算数教室』も刊行した。最後は美術部所属となったが、ここでは『在外秘宝』と銘打って、北斎や歌麿の浮世絵名作を収めた豪華画集を刊行中であった。浮世絵の名作は、多くが海外に流失していることに気付かされた。
 この頃、公文教育研究会では経営も軌道に乗り、出版活動にも着手、武市功君から「公文公会長、公文毅社長が、出版担当で来て欲しいといっている。ぜひ来い。」との呼びかけがあった。こうして、昭和56年に公文に移籍、出版部(後にくもん出版として独立)の責任者に就任。その5年後に、くもん子ども研究所が設立され、兼務として理事になった。研究テーマを求められ、前例のない「浮世絵を絵画史料として活用した江戸子ども文化研究」を提案、自ら子どもに関する浮世絵など絵画史料の収集と研究に着手した。

浮世絵に関する筆者の編著書
 浮世絵による子ども文化研究の直接的な経緯や成果は、冨田八千代さん(36回生)の問いかけに応え、このHP(2018.9.2)で「回想 浮世絵との出会いと子ども文化研究」として発表のとおりである。土佐中での版画制作と、実家の浮世絵、出版界での浮世絵との再会、そして公文先生からのお誘い、これらの背景があって子ども浮世絵では世界一の「くもん浮世絵コレクション」が誕生した。展示活用では、国際交流基金による平成10年から翌年にかけての「ヨーロッパ4か国巡回展」が忘れられない。まず「ロシア日本祭」での日本を代表する美術品としてモスクワ東洋美術館で展示、パリ、エディンバラ、ケルンと巡回し、好評を得た。研究成果は、数々の編著にまとめたので、その写真をあげておこう。

 <版画万華鏡>と題したこの随想では、既刊の編著書からこぼれ落ちている版画に関するさまざまな思い出や、調査研究の断片を拾い集めて順次映し出したい。次回は兵庫県高砂市にあるなぞの巨石神殿「石宝殿(いしのほうでん)」の、護符版画を紹介しよう。
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