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在校生、教職員等母校の皆様のページです。部活、近況、感想、詩歌などなど題材は自由です。
(できれば新聞部復活の足掛かりになればと願っています。)
2017.02.25 公文敏雄(35回)  小村彰次期校長訪問記
2017.10.12 山本嘉博(51回)  中澤節子先生逝く
2017.10.12 山本嘉博(51回)  高崎元尚先生逝く
2017.11.02 山本嘉博(51回)  追伸
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小村彰次期校長訪問記
公文敏雄(35回) 2017.02.25
小村 彰 先生より

ご注文の写真ですが、元がよくないので
あんまり写真を撮られたくない方で、手
持ちもありません。教職員プロフィール
をスキャンしたもので、ご容赦下さい。
 多くの皆さまから本校へのご協力をいただけるよう、精一杯努力してまいりますので、何かできることがございましたら、ご遠慮なくお声かけをいただければと思っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。
略歴
 土佐中時代  野球部    
 土佐高時代  バドミントン部
(2年連続団体・個人単複インターハイ出場)
    
 1974  土佐高校卒業(49回生)    
 1978  大阪大学人間科学部卒業
土佐中学高校教諭(社会、公民)
    
 1979-2003  クラス担任(24年連続)    
 1978-1991  中学野球部顧問    
 1992-2001  バドミントン部顧問    
 2004-2009  広報担当・広報部長    
 2010-  教頭     
****************

筆者近影
 2月16日に母校を訪問、小村彰教頭(社会科)に表敬・面談いたしました。 高知支部幹事井上晶博さん(44回)がアポイントを取ったうえ同行してくれました。 井上さんは土佐女子中・高教頭を経て現在高知県私学団体総合事務局長として 多忙を極めており、小村教頭とも長らくご昵懇ゆえ和やかな雰囲気で30分ほど 懇談できました(深謝)。一部をご披露いたします。
1.第二次百年委員会答申に対して
 小村教頭は答申起案に参画されたよしで、ある意味「責任がある」とのことです。 当然ながら重く受け止めておられ、先生方の声を反映させるというボトムアップの 校風に留意しながら、時間はかかるが、ひとつひとつ対処するお考えです。 答申冒頭で「人材輩出という建学の目的と目的実現のための基本方針」を総括して いますが、これに沿うことに尽きると思われます。
2.100周年(2020年)に向けて
 母校100年誌の制作方針については学識経験者に検討を依頼中で、3月中には 概要が発表される見通しだそうです。皆さまもご意見をよせられては如何でしょう。
 KPCから寄贈を受けた「土佐中学創立基本資料集」は貴重な存在で、関係者はじめ 理事、教員、図書館などに配り、活用していただいているよし。
 同窓生・父兄の協力を仰いでいる「新世紀募金」に関連して、最近1億円という大口の 寄附があったことが話題になりました。「先生方の海外派遣に使ってほしい」という条件が 付いているそうです。グローバル化は21世紀の流れであり、ガーナ高校生との交流行事 なども含めて(小生の名刺は「ガーナよさこい支援会幹事」)、今後注力せねばならない とのご認識です。私のほうからは、例えば甲子園出場支援という目に見える目的があって こそお金が集まるわけだから、資金活動には目的の具体性・透明性が肝要という点を お考えになってほしいというお願いをいたしました。
3.抱負について
 ずばり「土佐校らしい学校」というお答えでした。 その心は?「今夏の関東支部同窓会への出席を楽しみにしている」そうですので、 その折直接同窓生諸兄姉に語りかけらることでしょう。お楽しみに! (蛇足ですが、せっかくトップをお招きするのですから、大学進学統計と寄附のお話で 終わるのは何たること・・・喝!というのが小生の本音です。)
追伸: 井上さんは長年教職に携わられたキャリアと現職を通じて経験と人脈を拡げ、県内外の 学校教育事情に通じておられます。土佐高からの帰途、中心街まで一緒に歩きながら その一端を伺いました。筆山会やKPCの集まりなどで表裏いろいろお話していただき たいな、出来る事なら 百周年にも関わってほしいなと思ったものです。
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中澤節子先生逝く
山本嘉博(51回) 2017.10.12
 去る七月三十日、五年前の母校のホームカミングデーにおいて、御年92歳で講じてくださった特別授業の備忘録の末尾に、「ちょうど僕らがみな還暦を迎え終えた年に、先生は白寿を迎える年に差し掛かることになる。両方の祝いを併せて行なう祝賀会がきっと催されることだろう。」と記した“なかばぁ”こと中澤節子先生の告別式に参列してきた。  形に囚われない自由な精神と共に、けじめといったことをとても大切にされた先生らしい御遺志をいろいろな形で偲ばせてもらった気がしている。喪主御挨拶でマイクを手にしたお孫さんの話では、前もって終活をおこなっていて自分は二つのことを頼まれたそうで、一つは喪主を務めること、もう一つは葬儀に際して『地上<ここ>より永遠<とわ>に』でモンゴメリー・クリフトが奏した葬送のトランペットを吹くこと、だったそうだ。反戦映画の傑作として名高い同作は、戦争未亡人として戦後を生き抜いた先生にとって、きっと特別な思いのある映画だったのだろう。

『地上<ここ>より永遠<とわ>に』のバート・ランカスター
モンゴメリー・クリフトの演奏
https://www.youtube.com/watch?v=9fxH-2LnRkc
 会葬に際しては供花、香典を辞退するよう言い残し、モンゴメリー・クリフトが涙しながら万感の思いと共に奏でる葬送曲をお孫さんに吹かせたことに、ハイカラで明るく、大きな声でよく笑っていた先生を思い出し、沁み入るものがあった。
 中学高校六年間、思えば一度も担任になったことがないのに、何がきっかけで親しんでいたのかも思い出せないのだが、中学入学時からの僕の渾名で「ぶーちゃん、ぶーちゃん」と声掛けていただき、鏡川の傍のご自宅を訪ねたこともあるし、大学時分には小田急線沿線の柿生の家にもお訪ねしたことがあるようなないような朧げな記憶がある。
 一ケ月前には、94歳でお亡くなりになった高崎先生を見送ったばかりで、まぁ、お二方とも卒寿を過ぎてのことだから、致し方ないのは道理なのだが、なんともさびしい今年の夏だと改めて思った。
ちなみに五年前の特別授業の備忘録を以下に。
 土曜日に新聞部の出店当番に借り出され、午前中から出向いていたのだが、今や休部状態になっている我らが“向陽新聞”の創刊号(昭和24年)からのバックナンバーのほとんどを揃えたCDを昨年末に先輩が作成したので、その頒布(寄附金3000円)を受付の隣に机を構えてしていたら、思いのほか高率で、寄付金に応じてくれる人がいて驚いた。
 しかし、最も驚いたのは、当日の午後、もう特別授業のほうは御勘弁という御年卆寿を越え、あと2ヶ月もすれば93歳になるという恩師を囲む会を卒業生2クラスのために設けてもらっていた機会に、先生が赴任された当時の向陽新聞のコピーをお見せしたときのことだ。
 1951年昭和26年の学内新聞に書かれた記事の一節を覚えておいでて、その部分を諳んじてくださったのを、今や老眼が来て少々見えにくくなっている僕の目で確認したところ、そのとおりだったのである。新聞部に在籍し記事を書きつつも、どれ一つ自分の記事の復唱も出来ない僕と、僕の生まれるまだ前の学内新聞に記された一節を即座に復唱する92歳!

ホームカミングデーでの先生と筆者(左端),
撮影:八木勝二氏(51回生)
 この日の教室に先生を担ぎ出した学友の話によれば、特別授業を辞した理由というのがふるっていて、もう既に何度もやっていることと、半年くらい前から認知症が来始め、顔は判るのに名前の思い出せない教え子が出始めて申し訳ないから授業は出来ないというものだったとのこと。驚愕した学友は、自分を認知症だという認知症者はいないとしたものだけれど、先生のその基準で言うなら、集まる生徒の側が全員認知症なので全く問題ないと。まさに、そのとおり(笑)。
 当日、なんだか上手く言いくるめられてここに来たとおっしゃる先生は、もう授業は出来ないので、私の半生をお話しすることにしましたと、これまでそういう機会はなかなかなかったしね、と始められたのだが、もう授業のように話す順番を頭で覚えておくことができなくなっているから、失礼ながら読ませていただきますねと手書きの便箋を広げたのにまたびっくり。
 今にして尚この姿勢で臨まれる方が、現役時代の授業に際して事前準備を怠ったことはゆめゆめあるまいと、在学中はそれに見合うだけの受講態度で臨んだことが一度もない我が身を恥じた。
 そして語られた先生の半生は、自らの生年である大正8年(1919年)について、私は生まれながらにエッチだと言われたイクイク年なんですという軽妙さで始まったのだが、太平洋戦争を二十代で過ごした戦争未亡人という苦難の世代ながら、教職に就くことのできた幸運を生涯にわたって噛み締めておいでる様子に心打たれた。
 しかし、最も感銘を受けたのは、先生と同じ志で教壇に立ったものの、離れた地で夭折した親友との“ぶーちゃん”に打ち明けた恋愛にまつわる話で、当時、十五歳も下だからということで、親友にもたしなめられ、自重したけれども、四十年ほど前に不思議なご縁で変わらぬ想いを再び告げられ、その後、十年余り幸せな時間を過ごしたという秘話だった。その頃って、ちょうど僕らが在学していた時期で、また今の僕らがちょうどその当時の先生の年頃になっているわけで、なおさら感慨深い。
 一連のお話を伺った後で先の学友が真っ先に発した、これまでの授業で最も感銘を受けましたとの弁は、まさに同感だった。いま娘さんと暮らすなかで、今なお時おり消息見舞いの電話交換をしているとの話を伺いながら、本当に幾つになっても、いつまでも、新たなことをタイムリーに教えてくださる得がたい先生だと改めて思った。
 ちょうど僕らがみな還暦を迎え終えた年に、先生は白寿を迎える年に差し掛かることになる。両方の祝いを併せて行なう祝賀会がきっと催されることだろう。
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高崎元尚先生逝く
山本嘉博(51回) 2017.10.12

筆者旧影(2011)
 去る六月二十四日、古くからの友人の親父さんで、中学時分に技術工芸の授業を受けたこともある先生の通夜に妻と一緒に参じてきた。つい二ヶ月前に撮った写真が遺影として飾られるほど、ごく最近まで矍鑠としておいでで、ちょうど先週から県立美術館で“新作展”が開催されるほど元気だった晩年は、ニューヨークのグッゲンハイム美術館でも作品展示がされるなど、このうえないものだった。
 三、四年前だと思うが、先生のお好きな碁を久しぶりに打ったとき、「また勉強しちょくきね」とおっしゃった弁に感銘を受けた覚えがある。この御歳になって尚もまだ「勉強しちょく」と口にされる前向きな姿勢に本当に畏れ入った。
 でも、喪主を務める友人によれば、前年の香美市美術館での企画展のときには既に相当に弱っていて、県美の展覧会は無理ではないかと思っていたそうだ。でも、開展初日には相変わらずの自由闊達な語り口で香美市美術館に集った聴衆を楽しませるギャラリートークを披露していたから、先週からの展覧会の開展式に出席できなくなっていることのほうに驚いたくらいだった。この遺作となった展覧会については、NHKの日曜美術館のアートシーンでも紹介されたようだ。
 ご遺体との対面をさせてもらえた通夜で拝したご尊顔は、さすがに頬もこけていたが、為すべきことを成し得た、まさに成仏と言える風格に満ちていて流石だと思った。まったく見事な人生だ。翌日、もう一度、出棺のお見送りに行ってきた。 https://www.kochinews.co.jp/sp/article/107360/
合掌
“高ア元尚新作展 ‐破壊 COLLAPSE‐” 会場:高知県立美術館('17. 7.16. )
http://www.kochi-bunkazaidan.or.jp/~museum/contents/exhibition/exhibition/2017/collapse/collapse.html
高ア先生の作品(提供:高ア元宏氏(51回生))http://takasaki.kochi.jp/collapse2017/
 御歳94歳で新作展を開催し、その新作を引き連れるがごとく会期中に天寿を全うして大往生を遂げるという、まさに“誰もやらないことをやる”を貫いた旧知の先生の展覧会を観覧して来た。入院中で開展式に出席できないと伺っていたので、会期中盤まで観覧するに至らなかったが、先ず第一展示室に入室して度肝を抜かれた。
 前年の香美市立美術館での展覧会備忘録にも記したように、中学校時分に技術工芸の授業を受けた高ア先生は旧友の親父さんであるばかりか、僕が社会人となって帰高してからは、たまの囲碁を楽しんだりもしていたから、お通夜にも告別式にも参列した後で観覧するうえでは、ある種の感慨もあったのだが、これまでに幾度か観たことのある“密着シリーズ”は、せいぜいで2m四方程度の大きさだったから、その破格のスケールに仰天したのだ。高崎先生個人での制作では到底叶わないような展示室一室丸ごと密着させた威容に、これを連れて昇天されたのなら、先生もさぞかし満足だろうと感じ入らずにはいられなかった。
 一年前の展覧会備忘録には「先生の作品で最初に僕の目を惹いたのは、高校時分に、現在の県立文学館がまだ郷土文化会館として県展会場になっていたなかで、屋外に出展されていた大きな鉄板を巻き延ばして腐食というか錆びさせた立体作品と、代表作の『装置』だった。美しい鉄板の一部分をわざと錆びさせたり、『装置』では、正方形に切り取ったキャンバス片を正方形(だったと思う)に幾つも並べ、自然と反り返って湾曲したフォルムを見せたりしていることに対して、先生は“時間というものの視覚化”をコンセプトにしているのではないかと得心した覚えがある。」と記したが、今回の新作展では、敢えてその『装置』は展示せずに、“破壊の10年”に焦点を当ててスケールアップした制作を果たしていた。

高ア元尚作  ‐破壊 COLLAPSE‐
 1階講義室での都築房子香美市立美術館長の「高崎元尚の生徒としての私」と題する講演のなかでも話のあった「いろいろやってみたけれど、私の代表作はやはり『装置』だから、これからは『装置』をとことん追求していくことにした。」というのは僕も聞き覚えのある言葉だったので、最後の新作展において『装置』を展示しない構成というものに大いに感心させられた。四年前に久しぶりに打った囲碁の後で「また勉強しちょくきね」と仰って、卒寿を過ぎてなお“勉強”と口にする前向きさに恐れ入らされた先生だけのことはあると思わずにいられなかった。
 今回の新作展で破壊された素材は、過去の作品とも同じく、スレート建材であったり、赤レンガであったり、コンクリートブロックであったりしたわけだが、『密着』ほどではないにしても、いずれもスケールアップしていたように思う。そのなかでは、『装置』のフォルムに“さざなみ”を見立てていた先生が鏡をあしらって横に置いた『鏡を使った装置』に凝らしていた趣向を“破壊”にも施していた作品が目を惹いた。
 コンクリートブロックを破壊した作品は、本展のポスターに使用されていた '95年の“クールの時代”展や '78年の兵庫県立近代美術館での同作に比べると、破壊の程度が非常に大人しくて、第2展示室入口に組まれた足場の高みから眺めると、破壊というよりもダメージ文様の印象を残す意匠となっていたことが興味深かった。先生が入院せずに製作現場に立ち会っていたら、四十年前の作品と同じくらいの強度の破壊を求めたのか、『装置』においてもキャンバス片からアクリル板に素材を替えて洗練を図ったように、21世紀の“破壊 COLLAPSE”なれば、四十年前とは違ってこれでいいと仰るのか、叶わぬことながら訊ねてみたい気がした。
 講演を行った作家でもある都築館長は、土佐中学に入学した時から美術部に籍を置き、高知大学でも教えを受けた後に高崎先生から声を掛けられて、同僚の美術教師、作家仲間としてもずっと近くで活動を共にしてきた方だけに、たくさんのスライドを使った紹介と共に披露してくれたエピソードがとても愉快で、先生の人となりがありありと浮かんで来て、大いに納得感があった。「良き師は自分のスタイルを決して押し付けない」というのは、まさしくそのとおりだと思う。そして、常に並々ならぬ助力者を得ていた先生の幸運についても言及していたが、講演の後で言葉を交わした先生の奥さんもまさにそのことを繰り返していた。
“高ア元尚展 ‐誰もやらないことをやる‐” 会場:香美市立美術館('16. 4. 9. )
http://www.city.kami.kochi.jp/site/bijutukan/kikaku63.html
 中学校時分に技術工芸の授業を受けた高ア先生は旧友の親父さんであるばかりか、僕が社会人となって帰高してからは、たまの囲碁を楽しんだりしていたから、三年前にニューヨークのグッゲンハイム美術館で、戦後日本の前衛美術グループ具体美術協会の活動を紹介する企画展が開催された際に作品展示がされるとともに、90歳でレセプションに出席することになったのを嬉しく感じていたのだが、今回展示されていた油彩『ゴッホになりたい』['47]や写真『うらめしあ』['58]などの初期の作品は観たことがなく、とても興味深かった。
 先生の作品で最初に僕の目を惹いたのは、高校時分に、現在の県立文学館がまだ郷土文化会館として県展会場になっていたなかで、屋外に出展されていた大きな鉄板を巻き延ばして腐食というか錆びさせた立体作品と、代表作の『装置』だった。
 美しい鉄板の一部分をわざと錆びさせたり、『装置』では、正方形に切り取ったキャンバス片を正方形(だったと思う)に幾つも並べ、自然と反り返って湾曲したフォルムを見せたりしていることに対して、先生は“時間というものの視覚化”をコンセプトにしているのではないかと得心した覚えがある。だから、後年(今世紀に入ってからではないかという気がするが)、キャンバス片ではなく、アクリル板で『装置』を制作するようになったとき、これでは経年変化が損なわれるではないか!と、軽い衝撃をくらった記憶がある。?
 そのあたりの話を都築館長にしたら、先生は、経年変化ではなく出来栄えの美しさに拘るところがあって、むしろフォルムの変化や変色の少ないアクリル板に変えたのだという気がするとのことだった。確かに、今日のオープニングセレモニーのあとの先生によるギャラリートークのなかでも、貼り付けた正方形のキャンバスが反って出来上がった形状による効果を“さざなみ”に見立てて繰り返し表現していたから、館長の言うとおりなのだろう。白木谷国際現代美術館所蔵の『装置』を今回の展示作品のなかで最も出来がいいと先生自身が言っていたのも、そういう観点からであることは、その反り具合の美しさから歴然としていて、館長の話と実に符合しているように感じた。
 でも、時間の視覚化を失ったアクリル板による『装置』に対して、これでは僕の愛好した『装置』ではなくなると思ったという僕の話を、観賞する人それぞれにとっての作品があっていいのだと面白がってくれていた。
 とても印象深かったのは、ギャラリートークでの先生の話にもあったが、ゴッホのみならず、モンドリアンやアンフォルメルを真似ながら続けたなかで、具体に出会って、『モダンジャズ』['62頃]のようなアクションペインティングを意識したようなものも試みながら、吉原治良に示された「誰もやらないことをやる」を模索しているうちに、自身の生み出した『装置』に出会えた喜びを噛み締めているような姿だった。
 代表作『装置』に至るうえでの重要な作品が『作品』['62頃]だとの、御自身の言葉によるキャプションが添えられていたカラー作品も初めて観た気がする。
 そんな『装置』のバリエーションとして僕が最も好きで感心したのは、最初に県展で観た覚えのある、鏡を使った『装置94'S』なのだが、先生が繰り返し言葉にしていた“さざなみ”という点からは、立てるのではなく横にした『鏡を使った装置』のほうが“さざなみ”らしいように思った。
 先生ご夫妻とも歓談した帰りに買い物をしてから、呼ばれていた娘宅に寄り、手巻き寿司を三世代で楽しんで帰宅。少々疲れたけど、なかなか気分の良い休日であった。
https://www.youtube.com/watch?v=9fxH-2LnRkc
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追伸
山本嘉博(51回) 2017.11.02

筆者旧影
 中城先輩から、もう少し作品紹介を、と言われていた標記について、先生の息子で僕と同窓となる51回生の元宏くんに照会していたところ、こちらを使ってもらうといいとの連絡がありました。 遺作展の全作品が映っています。 http://takasaki.kochi.jp/collapse2017/
 また、中澤先生の追悼記事に掲載した僕が映っている写真は、同じく51回生の八木勝二くんの提供によるものなので、そのことも併せて掲載していただけるとありがたいです。
≪編集人より≫わざわざのご連絡ありがとうございました。本文にも追記しました。
高崎先生の作品、どうも有難う。
 モノクロでかえって先生の研ぎ澄まされた感覚と、見事な緊張感ある作品構成が感じられます。
 それにしても、美術界の大物がマンネリの作品を惰性で描き続けるのに対し、高崎先生も合田佐和子さんも、最期まで新境地に挑み続け、見事な創作者生涯でした。
中城正堯
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土佐向陽プレスクラブ