タイトルをクリックするとサイトマップメニュー
 このページは一家言を持つ皆様のためのページです。正論、暴論、反論、私論、公論……何でも主張して下さい。匿名、変名は禁止します。できれば手配写真(お見合い写真も可)を添えて(一度お送りいただければ、再度利用させて頂きます)、左下ポストに投稿して下さい。掲示板から転載させて頂く場合もあります。一番、記事が集まる場所ではないか……と期待しています。
2010.04.10 中城正堯  なんで今ごろ報恩感謝
2010.10.25 細木志雄(2回)  苦言一束
2010.10.25 細木志雄(2回)  續 苦言一束
2011.04.22 中城正堯  海辺から龍馬の実像を発掘
2012.04.15 中城正堯  龍馬「愚童伝説」から 学びの原点をさぐる
2014.03.27 公文敏雄  改めて母校の経営・教育方針を問う
2015.02.08 公文敏雄  土佐中高理事会は機能しているか?
2015.05.28 中城正堯  龍馬最後の帰郷と種崎潜伏
2016.04.08 公文敏雄  ―「保育園落ちた日本死ね」騒動が示すもの―
2016.04.16 中城正堯  『新聞とネット、主役交代が鮮明に』への感想
2016.06.07 公文敏雄  教育ビジョンとは何か?
2016.08.25 中城正堯  浦戸城趾に"元親やぐら"を
2016.11.25 公文敏雄  続・教育ビジョンとは何か?
2017.02.01 公文敏雄  このままでよいのか高知市の桂浜公園整備案
2017.02.25 公文敏雄  小村彰次期校長訪問記
2017.03.25 中城正堯  三根圓次郎校長とチャイコフスキー
2017.07.10 中城正堯  「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介
2017.07.12 棚野正士  ディック・ミネさんの思い出
2018.03.25 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト1”倉橋由美子(29回)
2018.04.25 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト”に嬉しい反響
2018.05.03 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト2”合田佐和子(34回)
2018.05.27 中城正堯  焼け跡で誕生した前衛アートの女神 合田佐和子(34回)
2018.06.07 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト3”田島征彦・征三兄弟(34回)
2018.06.24 中城正堯  大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟(34回)
2018.07.08 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト4“坂東眞砂子(51回)
2018.07.22 中城正堯  凄絶なホラー作家にして酒豪、坂東眞砂子(51回)
2018.07.28 中城正堯  合田や田島兄弟が新聞で話題に
2018.08.11 中城正堯  音楽・演劇から前衛美術まで個性派揃い
2018.11.25 中城正堯  <版画万華鏡・1>土佐中での出会いから生まれた浮世絵コレクション
2018.12.23 中城正堯  <版画万華鏡・2>なぞの名所絵版画「播州石宝殿」と巨石文化
2019.01.20 中城正堯  <版画万華鏡・3>美しき養蚕神に秘められた少女たちの哀話
2019.02.03 藤宗俊一  「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較
2019.02.17 中城正堯  <版画万華鏡・4>和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子ども
2019.03.23 中城正堯  <版画万華鏡・5>布袋と美女のそっくり版画から“おんぶ文化”再考
2019.03.31 中城正堯  <版画万華鏡・5-2>「布袋と美女、おんぶ文化」について
注:2012年8月以降の記事は画像にマウスポインターを置くと画像が拡大されます。
全体像が見れない場合マウス中央のスクロールボタン(ホイール)か、マウスポイン
ターを画像に載せたまま方向キー(←→↓↑)を使ってスクロールしてください。
ページTOPに戻る

なんで今ごろ報恩感謝

中城正尭 2010.04.08

 昨年(2000年)6月に『土佐中・高創立80周年記念誌』に、在校当時の思い出やこれからの土佐のあり方に関して何か書くよう浅井伴泰君から電話があり、学校の編集委員会からも依頼状が届いた。そこで「世界へ人材送る学校に」という題で、建学の精神が人材育成から報恩感謝にすり変わっている問題を指摘するとともに、海外の大学へ進学できるコースの新設をよびかけた。ここでは、建学の精神にしぼって、設立当時の資料をもとに私見を述べておきたい。
建学の精神は何だったのか
 2001年版の土佐中・高「学校案内」を見ると、相変わらず大きな文字で「報恩感謝の理念のもと社会に貢献する人材を育成することを建学の精神として創立されました」とある。また、80周年記念の高知新聞広告特集の「企画書」には「開校以来、報恩感謝の校是と文武両道の教育方員を掲げ」とある。幸い上村浩君が司会してくれたこの特集の座談会では「土佐中・高は学業もスポーツも、そして文化活動もという『文武両道』の校風のもと、個性豊かな人材を育て上げてきた」と述べてあり、報恩感謝など出てこない。文武両道は、校歌四番「それ右文と尚武こそ」に由来し、問題ない。
 では、そもそも土佐中の創設の理念、建学の精神は、どう謳われてきただろう。いつから「報恩感謝」などという矮小化が始まったのだろう。
 最も古い記録として、大正8年11月2日の『土陽新聞』記事がある。「土佐中学校創立目論見」の見出しで、「予科として小学五六年級を添附し七学級を置く」「一学年二十五人を限度とし俊秀者を集め無資力者は之に給費す」「学校全体を家庭的とし寄宿舎を設け成るべく全生徒を寄宿せしめ生徒をして田園生活に趣味を起さしむ」「職員以下小使に至る迄都て俊秀教育に趣味を有するものを選抜起用」とある。これは、初代校長三根円次郎着任以前だが、俊秀教育すなわち英才教育をめざし、その賛同者しか雇用しないと述べている。「生徒をして田園生活に趣味」というのも、時代を先取りしており、校舎・寄宿舎とも実際梅が辻の田圃のなかに建てられた。さらに、創立者である宇田友四郎、川崎幾三郎の伝記にも「国家有為の人材を養成することが其の目的」と明記してある。人材教育、英才教育という言葉も使われているが、報恩感謝は出てこない。『近代高知県教育史』にも、「英才教育を目的として大正九年二月に設立」とある。
初代三根校長の教育理念
 では、初代校長三根円次郎の掲げた教育理念と教育方針をみてみよう。昭和五年の学校要覧には、設立趣意書が載せてあり「高等教育ヲ受クルニ十分ナル基礎教育二力ヲ致シ修業後ハ進デ上級学校二向ヒ他日国家ノ翅望スル人士ノ輩出ヲ期スルモノナリ」とある。やはり建学の目的は「国家有為の人材育成」であり、教育方針は「個人指導」「自発的修養」「自学自習」「自治」等となっている。生徒一人ひとりの個性と自律性を尊重しつつ入材の育成をめざす、画期的な教育であった。これは、当時東京府立一中校長川田正徴とともに、大正デモクラシー時代の全国中学教育をリードした三根校長ならではの方針だ。報恩感謝の言葉などはここにもない。わずかに、美文で知られた大町桂月が父兄の依頼で選文した「開校記念碑文」の中に、宇田・川崎二氏をたたえて「国家に尽すは二氏の恩に報ずる也」とあるにすぎない。
 川田校長をちょっと紹介しておくと、高知県出身で府立一中校長として中等教育界に君臨し、宇田・川崎二氏への三根校長紹介者でもあった。大正二年四月から、一年二か月にわたって欧米の教育事情視察に出かけ、イギリスのイートン校、ハーロー校に感銘をうけ、府立一中を「生徒が自分の行動に責任を持ち、生活に責任をもち、しかも紳士的で、未来を背負う人材をつくる学校にしよう」(『日比谷高校百年史』)とした。一中から日比谷高へ続く自由闊達な校風を築いた名校長であった。
 この川田校長の最良の同志が、帝国大学(東大)哲学科出身で「有志全国中学校長会」会長の任にあった山形中学校長三根円次郎であった。三根が会長として起案した「中学教育上(第一次)大戦後特に注意すべき事項」には、すでに「自学自習の気風を馴致すること」「個性教育に重きを置くこと」がうたってある(『山形東高等学校百年史』)。三根の教育者としての信念を示すエピソードは、大正七年に赴任した新潟中学でのスト事件である。赴任直後に新潟高校の新設が決まり、三根は進学準備の特別授業を始める。ところが反発した生徒が同盟休校をおこし、退学者が出る。その後、大正九年に人望を回復しないまま、土佐へ行く。ところが後になって、「実はこの退学生徒の転学先について、何日もかけて県内各地の中学を回り、熱心に奔走したのは三根校長自身だった」ことが判明する(『新潟高校百年史』)。土佐中時代も、失明しながらも卒業生の大学での学業、就職先から左翼運動とのかかわりまで案じ、さまざまな救いの手をそっとさし伸べている。生徒達に「報恩感謝」の念を強要するような姿勢は、微塵もない。
 三根校長の先見性や、グローバルな感性は制服でも見られる。一回生の森岡清三郎先輩は、こう述べている。「制服が出来るということになり、東京府立一中の型、ネクタイ折襟のものを中沢に着せた。これはよいと喜んでいたが、きめられた制服はつめ襟で、皆がっかりした」(『創立五十周年記念誌』)。背広は値段が学生服の倍かかるため、やむをえず断念、霜降りの詰め襟学生服になった。日本の学校での制服は、明治12年に学習院が海軍士官型の制服を導入したのに始まり、軍国主義とともに広く普及した。襟の白線も軍の階級章をまねたものだ。土佐中では、二代青木勘校長が前任校の愛知一中にならい、他校との差別化のために導入した。挙手の礼など軍事教錬の強化に反対、配属将校との激論がもとで急逝したと伝えられる三根校長なら考えられないことだ。国際化時代のいま、黒い学生服に白線は全く陳腐だ。三根校長の当初の意図どおりの背広に、早急に変更すべきではないだろうか。
21世紀を迎え活発な議論を
 話を戻すと、土佐中・高の歩みの中で「報恩感謝」を強調したのは、われわれが在籍した三代大嶋光次校長時代である。クラス名のHOKSも、報恩感謝に由来する。しかし、宇田・川崎両家や、父母の恩への感謝を説いても、建学の精神が報恩感謝とはいっていない。四代曽我部清澄、五代松浦勲両校長はともに母校出身だけに、きちんと建学の精神はおさえていた。曽我部校長は、創立五十周年の式典で「本校教育の基底をなす〈人材育成〉とい う根本理念は創立以来今も変わりございません」と述べている。もとより、建学の精神が時代に合わなくなれば、新しく校是や教育理念を制定するのは可能であり、非難すべきではない。しかし、建学の精神は勝手に変更できるものでないし、土佐中に関してはその必要もない。それに、今ごろ「報恩感謝」を持ち出すセンスが理解できない。この言葉にあこがれて生徒が応募するとは、とうてい考えられない。現在の校長は大嶋校長同様に母校出身ではないが、教頭以下母校出身の教職員は数多くいる。理事会や同窓会ともども、なぜ問題提起しないのか、不思議である。私学をめぐる経営環境が厳しさを増すなか、魅力ある教育理念を社会にきちんとアピールし、学内が一致してその実践に当たらねば生き残れないことは、いうまでもない。今一度、大正八年の「土佐中学校創立目録見」はじめ、設立当時の文献を全職員で読み返してほしい。また、報恩感謝がそんなに重要なら、学校が範を示し、学校案内や同窓会名簿などで、広く創立者・初代校長の人柄、教育理念を知らすべきだろう。御遺族との連絡も密にすべきだ。ところが名簿一つとっても、初代校長の御遺族すら空欄のままである。御次男は健在であり、80周年式典には当然御招待すべきであった。公文先生の御遺族も記載がない。恩師の御名前のミスも目立つ。これで報恩が校是などといえるだろうか。  最後に、建学の精神がきちんと伝わってない主要な原因に、創立八十周年を迎えながら、いまだに学校史が編纂されていないことがあげられる。これでは、母校への誇りを確かなものにすることも、大正自由教育における母校の素晴らしい実践例を教育史にとどめることもできない。学校当局が早急に対応するとともに、このような問題に関しての校内職員の積極的な議論を期待したい。
2001年6月1日発行『うきぐも』18号(30回生Oホームクラス誌)より
ページTOPに戻る

苦言一束

細木志雄(2回) 2010.10.25

細木志雄氏
 「向陽新聞」第九號の主張欄で、男女交際――男女共學の問題が論ぜられてゐる。其の要点は二つ、一つは何でもない男女學生の友達としての交際を、周圍がやたらに騒ぐのがいけないといふこと、今一つは交際をする當の男女が、分を守り、軌道に外れない樣注意しなくてはならないといふことである。其の論旨には全然同感である。
 一体男女共學の目標は何處にあるのであらうか。私の素人考を以てすれば、其の第一は女性にも知的に向上する機會を男性と同樣に與へること、第二は男性ヘ育に情操ヘ育を加味すること、第三は將來社會牲ある文化人となる爲に、又夫婦生活を從前の樣な偏ぱなものでなくする爲に必要な男女相互間の理解を深めておくこと等ではないかと思ふ。が此の目標は男女共學にさへすれば、直ちに達成されるとは限らない。
 戦後に於ては性に關する考へ方が極めて開放的になつてゐる。餘りにルーズ過ぎることが問題である。斯樣な環境が學園の内部に無關係であり得る筈はない。又家庭に於ける性ヘ育は全く幼稚、といふよりも寧ろ無爲と言つて然るべきであらう。さういふ客観的状況の中に於て男女共學を實施するとすれば、先づ目標をはつきり把握すると共に、其の目標を達成する爲の具体的な方法に付ての充分な研究、更に又他面に於て當然豫想される弊害に對する措置に付ての指導者の周到な心構が必要であらう。之等によって補強されない限り男女共學は甚だ危險なものであり、寧ろ幣害の方が多く現れて來る惧がある。
 私は嘗て此の問題に付て母校の先生數人と話合つたことがあるが、其の目標につき、或は指導者としての心構につき何等滿足すべき説明を聞き得なかつた。其の時某先生は、此の學校に來てからさういつた問題を語り合ふ機會がない、と慨嘆して居られた。私は或機會に恩師X先生の所見をうかがつて見た。流石に感覺の鋭い先生は相當明確な意見を述べられた上、果敢にスタートした土佐中の男女共學を衷心より心配して居られた。
 主張に取り上げられた樣に、單なる友達としての男女學生の交際を、騒ぎ立てることもあらうし、それによつて當の學生達が不愉快な思をすることも起るであらう。又充分注意はしても中には知らず知らずの間に深みへはまる場合、誤つた方向に進む者も皆無とは斷言出來まい。さういつた事態は當然豫想されることであり、從つて斯樣な事態が起らぬ樣萬般の注意が拂はるべきである。又起こつた場合の善處方に付ても充分の準備がなされてゐなくてはならない。特に間違つた場合之を適切に導びく理解あり而かも心の暖い指導者の存在が絶對に必要である。
 學生の方は主張欄に述べられてゐる樣な自覺を以て進むとすればそれで結構と思ふが、學校當局も、單に男女學生を同一ヘ室で同一條件でヘへるといふこと以上に、本當に共學の目的が達成される樣、色々と、配慮を拂つていたゞき度いと思ふ。
×   ×   ×
「本校の特殊性」といふ言葉がよく使はれる。所で此の「特殊性」を出發点として論議する場合、兩方の意見がおそろしく喰違ふことがある。そこで色々考へて見ると此の言葉は、人によつて意味する所が違ふ樣に思はれる。
 私達は、母校土佐中が縣下の秀才を集め、伸びられる限り伸ばし、有爲の人材として育てあげる…といふ目的の爲に生れたものであり、其のヘ育方針を堅持する所こそ本校の特殊性と考へてゐる。所で其の特殊性が現在の母校に充分発揮されてゐるかどうか、大學の入學率のみを以て判斷することは穏當であるまいが、東大への入學者一名も無かつたことは理由は如何にあらうとも、本校創立の趣旨に鑑みて諒承致しかねる。が問題は何故斯樣な状態に立到つたかにある。先づ學生の勉強が足りないこと、之は何と言つても致命的である。此の点は學生諸君によく考へて貰はなければならない。次には先生方にも注文申上げ度い。學生が勉強を怠ることは學生のみの罪ではない。學生をして勉強し度い意欲を起させること、或は勉強せずには居られない樣に持つていくこと、之は先生の腕に俟つ所である。其の腕とは學問上の實力と熟練と誠意の綜合されたものであると思ふ。
 右の樣な腕のある先生にしつかり頑張つていたゞくことが先決問題である。それから今一つは、勉強しない學生は遠慮して貰つて、中位以上を標準として授業を進めることが非常に大切ではないかと思ふ。K先生など學生に實力が認められないと、なかなか單位をやらないさうだが、私は大賛成である。
 子供(高校二年)の英語のヘ科書を見て、之なら一時間四頁位進まなければなるまい、と思つて聞いて見ると、僅かに一頁半位だといふ。而かも最近に至つて、大部分の學生が基礎が出來てゐないから當分文法の基本的部分からやり直すことになつたさうだ。母校が之でよいのか?と私は暗然とした。 私は嘗て英語の陣容の充實を當局に要望したことがある。それは、高校ともなれば大學で英文學を專攻した先生の一人位は居なくては可笑しい、又同時に多年の經驗を有する練達の先生がほしい、といふ意味は何も若い先生をけなす意味ではなく、若い先生にも勉強になり、全体的に授業効果をあげることが出來る、若い先生丈では不安だ…といふ氣持からであつたが、如何なる事情からか、最近まで實現しなかつた。所が私の心配が杞憂に終らず、上級學校進學率に、又實力の不充分といふ事實に、はつきり現はれて來たことは、寔に残念至極に思ふ。
 學生は勿論だが、先生方にもよく御考へいたゞき度い。
「本校の特殊性」の別の意味は、本校が私立學校である、經營といふ面からも考へなくてはならぬ、それが爲には政治的な考慮も拂はなくてはならぬ、當初の目標のみに拘はる譯にもいかぬ…といふ樣なことにあるらしい。此の考へ方も無理からぬと思ふ。で、學生の數を揩オたことも、女學生を入學させる樣にしたことも諒解出來る。併し、優秀な先生を確保する爲に絶對必要な、相當の優遇といふことが、經營面からの理由により不可能とすれば、之は正しく本末を誤るものであり絶對に承服し難い。
 母校本來の特殊性(ヘ育面に於ける特殊性)は經營面の特殊性に若干制約されることは己むを得ないとしても、それによつて破壊さるべきでは斷じてない。尤も思ひ切つてヘ育方針を百八十度轉換し、例へば自由學園等の如く、上級進學等のことを全然考へず、社會性ある實質本位の人物養成を目標とすれば問題は別である。但し其の場合に於ても、優秀な先生を確保することの重要なるは同樣といふよりもそれ以上であらう。
 校舎を建てることも大切であるが、私には、ヘ育の本義に照らし、優秀な先生を確保すること、其の先生に落着いてしつかり働らいて貰ふこと、その爲に相當の優遇が出來る方途を講ずること、之が飽迄先決問題と思はれる。 右の点については財團の財政、或は振興會の經理内容に付て知る由もない私であるので具休的な案は樹たないが、理事諸公に眞劍に考へていたゞき度いと思ふ。
 經營上の困難性の故に母校本來の特殊性も発揮出來ず、さりとて新時代に完全に順應し切る樣な思ひ切つた方向轉換も出來ずとすれば如何になるか?私の氣持を端的に表現する爲に極端な言ひ方が許されるならば、母校士佐中が平々凡々たる一私立中等、高等學校に堕するとすれば、私は寧ろ土佐中の名誉の爲廢校になることを希望する。創立者、川崎、宇田の兩先生も恐らく地下で同感の意を表されるのではなからうか。
×   ×   ×

1950.12.14『筆山4号』より
 學年始の振興會の席上だつたと思ふが、擔任の先生から、「今年はうんと學生の躾に力を入れ度いと思つてゐる」とのお話を承はつた。「是非お願ひします」といふお母さんも大分居られたし、私も大賛成だつた。がじつと考へて見て、一体どんな躾をするのがよいか、之は案外難かしいのではないかと思つた。
 形式に堕し過ぎない程度に長幼の序を保ち、師弟の禮をつくすこと、贅澤に亘らない程度の身だしなみ、明快な言語、動作、之等は何れもヘ養ある現代人として身につけて置かなければならない事柄である。殊に言語については、それが女の子であれば尚更のこと、あまり汚い言葉を使はぬ樣、又使はせぬ樣注意してほしい。
 躾と言つても劃一的な、形から入る躾、軍隊時代に見られた樣な方法は考へ直して貰はなくてはならないだらう。アロハシヤツや、リーゼントスタイルは避け度いが、だからと言つて、それが形の上に現れた点だけを捉へてやかましく言つて見たつて仕方あるまい。さういふ恰好をして見度いといふ心理が問題なので、之をうまく矯正し善導することがより肝腎であらうと思ふ。或は又あゝしろ、かうしてはいけないなどとやかましく言ふことが、青少年に納得出來ない…そんなにやかましく言はれる理由を発見し得ない…場合には効果は反つて逆になることが多いであらう。ヘ育の本質にはあまり關係のないつまらないこと……髪を長くするとか、服装がどうのかうのといふ樣な形の上のこと……にはあまり差出口しない方が賢明であらうと思ふが如何なものであらう。
×   ×   ×
 「筆山」の編集子から何か書けといふ注文を受けた。先輩に書かせる以上悪口を言はれるのは覺悟の上だらうと其の点は安心して筆を執つたが、結果は學校當局への注文が多くなつた樣だ。元來私といふ人間は學校當局にはあまり喜ばれない存在だといふことを最近仄聞してゐる。けれども、私はうるさ型だと人に言はれたこともあまりないし、私自身も決して左樣ではないと確信してゐる。其のうるさ型でないことに自信を持つ私が母校當局のみからさう思はれてゐるとすれば、それはさう思ふ側が悪いのであつて、私の言ふこと、考へてゐることに妥當性があるのだらうと思つてゐるのであるが如何なものであらうか。大方の御批判に俟ち度いと思ふ。
(土佐中學校第二回生 縣農林部長) 1950.12.14『筆山4号』より転載
ページTOPに戻る

續 苦言一束

細木志雄(2回) 2010.10.25
 前号に「苦言一束」を書いたが内容の大部分が當初の豫定に反して學校當局への注文になつてしまつた。今度は學生諸君への苦言乃至希望を書くことゝする。希望が多くなって標題には相應しくない内容になるかも知れないことを豫め斷つておく。

細木志雄氏
 現代の學生は如何にあるべきか。之は寔にむつかしい課題である。噴火山上にあるが如き日本の立場、左右入り乱れた現今の交通状況にも比すべき思想のてんやわんや、其の中で正しい人生観を持つということはなかなかむつかしいことである。正しい人生観、世界観を前提としてはじめて人生の意義が発見出来、我々日本人の在り方が解明されると思うが、此の根本問題は到底私の解き得る処ではない。私は問題をもつと卑近な所へ引き下げて考えて見ることにし度い。
 先づ最初に数個の事例を挙げよう。
 Kは學生時代出來るには出來たが、とび抜けた秀才ではなかつた。だが脇目もふらず勉強した。努力は彼に実力をつけ、大學在學中高文パス、卒業すると本省の役人になつた。それ迄世間を知らなかつた彼は、それ以後適当に社會人としての素養も身につけた。今後に於ける大成が期待されている。
 Yは秀才であつた。勉強もしたが道樂もした。大學時代よくカフェーを飲み歩いた。が其の間に社會の裏面に付ての認識も深まり新聞記者的なセンスも磨かれた。學問と社會人としての素養が併行的に進んだ。現在某報道機關の重要ポストにあり、不幸病臥中であるが、重大な外國電報は全部彼が目を通すことになつていると聞いている。
 I。之は私の高校時代の友人である。彼は植物學を研究していた。學校の方は各課目共に落第しない程度に勉強し暇さえあれば山野を跋渉して植物の採集をやつていた。牧野富太郎博士に師事し、今ヘ育大學の先生をやつている筈である。
 H。之は私の弟である。彼は學生時代劒道部に籍を置いた。そして在部中一度は必ず縣下で優勝しようとの悲願を立て、練習に專念した。部の氣分が常に一致しているとは限らない。部員が数える位に減つたこともある。が彼は黙々と練習した。學期或は學年試驗中でも欠かさなかつた。そして遂に優勝した。が其の爲學問の方が幾分犠牲になつたことは事実である。
 右に述べた四つの事例は何れも実在のものである。
 Kの行き方は当時の土佐中の代表的なものと見られたであろう。がYの樣な行き方の者も少くなかつた。Iに類した者もあつた。Hの樣なのは先ずなかつたと思うが、私は現在Hの行動を凝視していて、創道部の部員乃至主將としての鍛錬、特に心の錬磨が、如何に大きな影響を彼に與えているか、それが如何に尊い体驗であつたかをつくづく感じるのである。
 私は右の四つの行き方の何れにも賛成である。此の人達に敬意を表する。夫々自分の持前によつて學生時代を意義あらしめていると思うからである。
 意義ある生活とは、正しい目標を定め、之に向つて精魂を打ち込む生活―そうした充実感を伴う生活ではないかと思う。
×   ×   ×
 大學入學ということを目標として精魂を打ち込むことも土佐高校學生としての最も意義ある生き方の一つであると私は考へる。斯くいつたからとて私は土佐高校のヘ育方針が大學入學ということを唯一終極の目標として行はれるべしと考へている訳では決してない。ヘ育ということは、勿論、個人々格を完成し、將来社會文化の発達に貢献する人間を養成することを目標とすべきである。其の過程として方法手段として學校ヘ育があるのだ。此の点は昔も今も変りない。昔の土佐中と雖も決して例外ではなかつた。唯昔の土佐中は、右のヘ育を施こす対象が、將來上級學校の過程に迄進もうとする者のみであつたから、恰も予備學校であるが如き誤解を受けたに過ぎなかつた。 右の如き誤解を持つている人々は、現在の土佐高は昔のそれと違うという。予備校的な詰込ヘ育は反対だという。其の点は同感だが、それだからと言つて勉學を怠つていゝということにはならない。そこで私は斯樣なことを言う人々に逆問して見度い。大學入學の爲の勉學ということ以外の如何なる方法によつて、日々の生活を意義あらしめているか。前に述べたY、I、Hの何れの行き方にも徹し切れていないのではないか。結局、勉學しないことの、或はヘ育目標をしつかり把握し得ないことの逃口上を述べているに過ぎないのではないか。
 享樂以外に人生の意義を認め得ない人は論外である。
×   ×   ×
 今武蔵高校で英語のヘ授をしているD君の話「高等學校を出る頃は英語はチヨロイものだと思つた、が其の後勉強すればする程奥が深く、わからなくなつて、此頃は學生の前で.英語はむつかしい、自信がないということをよく話す、すると學生の半分位は、私の氣持がわかつてくれる」と。又私が土佐中の三年生頃だつたと思うが、Hという先生が斯う言はれた「試驗勉強の際、最初一通り勉強すると之で大丈夫だという感じがするものだが更に勉強していると、段々自信がなくなつて來る。それは進歩している証拠だ、更に突込んで行くと前より深く理解出來る、そのうち又自信がなくなる、そういう過程を辿つて學問は段々深く確実になつて來るものだ」と。
 右の言葉は長い學生々活或は學究生活の經驗をもつている人は、恐らく大概の者が首肯出來ると思う。同感でない人はとびぬけの秀才か、さもなくば、余程鈍感な人であろう。
 ヘ壇に立つて授業をする場合、実力に基づく本当の自信を持つて堂々と講義する場合は全然問題ない。中には、良心的には必ずしも自信はないが、そこを適当にごまかす場合もあろうし、又実力のないのに自信――実は自惚を持つて學生をなめてかゝる場合もないとは言えまい。所が此処で問題なのは、相当な実力を持ちながら、更に突込んで深く考える爲、授業は必ずしも明快でない感じを與える樣な場合である。むつかしくむつかしく考え悩む姿を正直に學生の前に晒す場合がある。そういう場合學生は其の先生に実力がないと速斷し勝ちだ。頭を傾ける医者が頼りなく思われ、出鱈目でもはつきり言う医者がもてるのと軌を一にする。だが、本当の力のない先生なら致方ないが、學生としては一應謙虚な氣持で先生の眞價を知る爲に努力することが大切ではないかと私は思う。斯樣なことを中學生に望むのは無理かも知れないが、苟も高校生ともなれば、そういつたゆとりというか寛容さというか、そういう氣持で先生を見てほしい、そしてD君の話が首肯出來る樣な感覺と理解とを持つてほしいと思う。
×   ×   ×

1951.3.15『筆山5号』より
 話は甚だ卑近になるが次は學習の態度である。
 東都學校視察者の報告にも「東京の學校は静かである。授業中も話声が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえてつまらない雑談がないし休時間などよく勉強している」とあつた。
 創立当時の學生は――古いことをいうと嫌われるかも知れないが――學習態度の悪い樣なものはついて行けなかつた。皆一生懸命に勉強して、それでついて行けない者は他に轉校するか落第するより他なかつた。
 所が現在の土佐高校學生の學習態度について某先生は言われた。「土佐高校よりも○○大學の學生の方が遥によい。○○高校でも土佐高よりましだ。眼の色が違う」と。又他の某先生が、不眞面目な學生の愚劣な、邪氣の籠つた野次に憤慨されて、涙を流して訓戒された話も聞いた。
 土佐高校の學生は學習に際して他校以上に眞剣であつて欲しい。且つ愚劣、低級でなくて欲しい。
×   ×   ×
 齋藤実という人が「自分は少尉の時は日本の海軍で一番立派な少尉になろうと努力した。中尉の時は又一番立派な中尉になろうと思つて勉強した。そういう氣持でやつているうちに何時の間にか大將になつてしまつた」と述懐しているのを何かで読んだことがある。それは常に自分の職場に眞劍であつたことである。學生には學生の任務がある、本分がある、それに向つて眞劍であること、かくて後から悔いない、張り切つた學生々活を送つて欲しい。
1951.3.15『筆山5号』より転載

《編集部より》上段掲載二文は、中城氏(30回)の『猫の皮事件とスト事件のなぞ』の資料収集の段階で細木氏(27回)から父君・故細木志雄氏(2回)の文芸部文集『筆山』に掲載された評論が提供されました。今日でも立派に通用する内容で、細木氏の御了解を得て掲載させていただきました。母校関係者や在校生にも是非目を通していただきたいと思います。
ページTOPに戻る

<山田一郎先生追悼文>
海辺から龍馬の実像を発掘

中城正堯(30回) 2011.04.22
 山田先生は高知出身のジャーナリスト・評論家で、昭和から平成にかけて活躍、寺田寅彦や坂本龍馬の研究で知られます。高知市三里で昭和7年に生まれ、平成22年1月に90歳で亡くなられました。三里史談会発行の『大平山』37号に追悼文を寄稿いたしましたが、生前には土佐高出身者とも交流が深く、そのことにも触れましたのでここに転載させていただきます。文中の土佐高出身者は太字で表記し、カッコに卒業回を付記いたしました。
ジャーナリストの大先輩

 山田一郎さんのお名前は、出版社(学研)に入社した頃から種崎に帰郷するたびに父母から聞かされ、訪ねるように言われていた。父・中城惇一郎は若い頃は新聞記者志望であったが、祖父・中城直顕の養子となって大正14年に東京から帰郷、三里村長などについた。晩年になっても、村内出身の言論人である中島及・田中貢太郎のお二人に対しては、敬愛を込めて「きゅうさん」「田中のこうさん」と呼んでいた。この後に続く三里生まれのジャーナリストが、中島暁(10)・山田一郎・中山操の皆さんであった。
 昭和30年代から40年代にかけて、山田さんは共同通信の文化部長・科学部長・常務理事などの要職を重ね、私も雑誌編集の仕事に追われ、ご挨拶をする機会を持てないままであった。昭和55年に退社した山田さんは、ジャーナリストとしてめざましい活躍を開始した。57年に『寺田寅彦覚書』で芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞、翌58年の正月からは高知新聞で「南風対談」を始めた。高知出身の「十二名家・巡礼の旅」の聞き手として、この対談で有光次郎・大原富枝に続き、三人目に公文式教育を考案した公文公(7)を選んでいただいた。当時私は、くもん出版から公文側の一員として取材に立ち会い、ようやく山田さんともご挨拶をすることができた。
 山田さんと公文先生との出会いには前段がある。高知出身の近藤久寿治(6)が創業した出版社・同学社の新ビル落成記念パーティーで、昭和57年に山田さんは公文教育研究会役員の岩谷清水(27・高知市常盤町出身)と出会って公文先生の活躍ぶりを聞き、師弟の文通が始まっていたのだ。この経緯を山田さんは、高知新聞『南風帖』に書いておられる。さらに遡れば、公文先生が大阪帝大理学部数学科を卒業して最初に赴任した海南中学で教えた生徒の一人が、山田さんであった。「南風対談」では、この師弟がクラスの席順や同級生の消息、さらには当時の高知の教育事情まで克明に記憶しているのに驚かされた。実は私も公文先生の教え子で、戦時中には海軍予科練教授だった公文先生が帰郷、昭和24年に母校土佐中高の教諭になって初めてクラスを持った際の生徒であった。山田さんは、私にとって三里小学校の先輩であり、また公文先生の門下生でありながら数学の不得手な不肖の兄弟弟子でもあった。
 平成7年7月に恩師公文公が永眠した際には、追悼文集に伝記執筆をお願いした。刊行まで限られた時間しかなかったが、公文禎子夫人などご遺族・関係者から丁寧な取材を重ね、心のこもった評伝を書き上げてくださった。公文式教育誕生の背景には、旧制土佐中で受けた、個人別・自学自習教育があることも指摘いただいた。
多士済々の東京「みさと会」
 「南風対談」が契機で、海南時代の教え子である山本一男(デザイナー山本寛斎の父)も、革のジャンパーでオートバイに乗り、颯爽と千代田区市ヶ谷の公文東京本部にやってきた。「若い女性に追っかけられたが、赤信号で止った際に顔をのぞき込まれて老人であることがバレタ」などと、恩師に笑顔で話していた。三里組も、山田さんを囲む会をやろうということになり、平成初年に東京で「みさと会」を始めた。メンバーは竹村秀博(オリンパス)・小平〈中城〉久(家裁調停員)・池川富子(29・三枝商事)・平田喜信(30・中学で転校・横浜国大教授)・奴田原〈池〉訂(31・高知銀行)・秦洋一(34・朝日新聞)・小松勢津子(35・旺文社)・丸山〈早川〉智子(35・産経新聞)・中島朗(43・電通)など多士済々で、なぜかマスコミ関係者が圧倒的に多く、山田さんにも喜んでいただけた。会場は赤坂の「土佐」などであったが、下戸にもかかわれず最後まで若い酔っぱらいに付き合ってくださった。いかにも潮風にさらされて育ったような風貌と、ふるさとの人と風俗を回想しての鮮明な語り口に一同魅了された。郷土出身の作家・文化人の生い立ちや消息にも精通しておられ、驚かされた。
 二回目の「みさと会」の案内状が手元にある。「今回は、高知県東京事務所次長として活躍中の池永昭文(36)さんが、高知新港や橋本県政など三里と高知の最新情報をお話くださいます」と記されている。同学社近藤社長夫人(旧姓・野町初甲)も、母の野町久喜が種崎の桟橋近くに住み、その妹が近くの釣り宿「橋本」のおかみであり、メンバーだった。平田君は私と小学の同級で、父上・平田信男は海上保安庁を経て東海大学教授を務めた航海工学の専門家であった。「みさと会」が縁で山田さんは信男をたずね、坂本龍馬「いろは丸事件」の詳細な資料を提供、現在の海難審判ではどちらに非があるのか審理を求め、真相に肉薄している。
 平田君も先祖は土佐藩御船方だが、本人は王朝文学を専攻していた。「源氏物語」や「土佐日記」の研究で知られ、横浜国大の教授であった。国際交流基金からサンパウロ大の大学院生指導に派遣され、帰国すると副学長に就任、次いで図書館長としてその改築を指揮し、市民参加型の新しい大学図書館を開館するなど多忙を極めていた。定年1年前の平成12年に急逝、山田さんの要望を受けて晩年は高知で後身育成に当たると言ってくれていたが、かなわなかった。秦君も医療ジャーナリストとして注目されていたが、自分が病に倒れてしまった。小松さんは種崎にあった高芝医院の姻戚で、トフラー『第三の波』などの翻訳でも活躍した。丸山さんの父上は、市役所の種崎支所長であった。「みさと会」は、山田さんが横浜市から高知市に転居したこともあって、数年で活動を休止してしまったが、三里出身のジャーナリストにとって山田さんは生きたお手本であり、その綿密な取材ぶりと権威を恐れぬ執筆姿勢に、後輩は勇気を与えられてきた。
寅彦と龍馬の研究が双璧

 山田さんが残された多くの功績の中で、寺田寅彦研究と坂本龍馬研究が双璧であり、粘り強い史料渉猟と関係者への根気強いアプローチで、次々と新事実を掘り起こしていった。
 寅彦関連では、『寺田寅彦覚書』刊行後も寅彦の次女・関弥生など一族と交誼を重ねて信頼を得、さまざまな風評のあった三人の妻たちと寅彦との暖かい交情の実態を、前著の20年後に刊行した続刊『寺田寅彦 妻たちの歳月』で明らかにした。最初の妻・夏子の出生の秘密や、種崎・桂浜での療養生活、帰郷する寅彦の船を浜辺で迎える夏子の姿など、新資料を使って描写、山田さんならではの地を這うような粘り強い取材と人物への肉薄が感じられる好著であった。幕末土佐で起こった「井口刃傷事件」では、寅彦の父が果たした不幸な役割も初めて公にしている。
 くもん出版で『父・寺田寅彦』(寺田東一他著・寺田寅彦記念賞受賞)を刊行したこともあって、この間の事情は山田さんからも寺田家・関家からもお聞きすることができた。平成5年に帰郷した際、寺田寅彦旧邸を御案内いただいたことも忘れられない。できればこの旧邸とは別途に寺田寅彦記念館を建て、原稿・絵画・著書・愛用の楽器など遺品や関係資料を展示したいと語っておられた。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館が、文学者・科学者としての賢治を堪能できる見事な展示場になっているのを参考に、構想を描いていたようだ。寺田家が守ってきた貴重な遺品千数百点は山田さんに託されたが、寺田寅彦記念館は実現せず高知県立文学館に寄贈されることになった。

 坂本龍馬に関しても、従来高知の史家が『汗血千里の駒』を「史実追及を堅実に行い」などと解説し、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が史実を離れていても国民文学としてもてはやされるのに対し、山田さんは新史料を発掘して昭和61年から高知新聞に新しい龍馬像の連載を開始した。これは翌年に、新潮社から『坂本龍馬―隠された肖像―』として刊行されたが、まさに隠されてきた龍馬像の出現であった。龍馬の父・八平の実家である山本家の系譜と沢辺琢磨波乱の生涯から、少年龍馬「案愚説」への反論まで、眼からウロコの連続であった。司馬がエッセイで「龍馬はなによりも海がすきであった」と述べたのに賛同しつつも、龍馬と海洋との関わりを少年時代の地縁から説き起こして実証的に解明したのはこの著書であった。なかでも三里関連の事項は、その風土と歴史を知り尽くした上で、関係者への取材を重ね、新事実を見事に掘り起こしている。
伊与・田鶴など三里人脈を発掘
 特筆すべきは、龍馬の継母・伊与の素性を解明したことだ。北代家から川島家に嫁し、寡婦となって父・坂本八平の後妻に迎えられた女性の名前が、「伊与」であることを突き止めたのである。川島家は土佐藩御船倉の御用商人で当時は種崎に住み、御船方の中城家から四、五軒西にあった。当主の川島春麿(猪三郎)と中城直守は、歌人仲間で親しかった。川島家に継母とともに舟でやってきた龍馬が春麿の子どもたちと仲良くなり、特に次女・田鶴を可愛がったことを山田さんは聞き出している。中城直守の子・直楯や直顕とも当然出会っており、最後の帰郷での潜伏につながったとする。安政地震の津波で被害を受け、川島家は仁井田に移転したが、中城家は種崎から動かず直楯が当主となっていた。
 慶応3年9月、龍馬最後の帰郷で震天丸にライフル銃一千挺を積んで浦戸湾に入港した際に、大政奉還への藩論が未だ定まっておらず、龍馬の一行はまず隠密裡に中城家にはいったのである。山田さんは、中城直守の筆録『年々随筆』と、中城直正(種崎小学校卒・初代高知県立図書館長)が父・直楯と母・早苗から聞き取った『随文随録』を史料として高く評価し、特に早苗が述べた龍馬の風貌描写を絶賛している。『随文随録』には、中城家で風呂に入り襖絵を眺めた後に、龍馬は「小島ヘ寄リ、舟ヘ帰ルトテ家ヲ出タリ」とある。
 この小島家が龍馬を慕っていた川島家の次女・田鶴の嫁ぎ先であり、種崎川島家の跡地に家を建てて住んでいたことも、山田さんは調べ上げている。龍馬帰郷の際に小島家には、十市村の郷士で龍馬の剣道の師でもあった土居楠五郎が、孫の木岡一を連れてきており、木岡はギヤマンの鏡を龍馬に貰ったと『村のことども』(三里尋常高等学校 昭和7年刊)にある。この本では、「坂本龍馬の潜伏」と題して、まず郷土史家・松山秀美の中城家潜伏説を、次いで古老となった木岡の回想を紹介してある。これは、どちらかが真実ではなく、山田さんが解明したように龍馬は双方を順次訪問したのである。
 田鶴への山田さんの思い入れはかなりのもので、仁井田浜の小島田鶴の墓前に立ち、「妙音観世音 梵音海潮音」と観音経をつぶやいたという。私の手元に残る色紙にも、これにちなんで「梵音海潮音 龍馬観世音 和平を願うて眠り居り申候 龍馬 山田一郎」と記されている。この小島家から城下浦戸町の今井家に嫁に入った直の子・今井純正が改名して長岡謙吉となり、海援隊に加わって「藩論」「船中八策」の起草者として活躍する。これも、山田さんの『海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉―』で、詳述されている。
 龍馬と海を結びつけるきっかけとなった継母・伊与と川島家に関しては、再三川島文夫を訪問し、言い伝えを聞き取るとともに龍馬も見たとされる世界地図から古文書まで関連史料を調査されている。我が家では母・中城冨美とともに、信清悠久・美衛夫妻と昵懇であった。信清は戦前に反戦運動をした後、満州に渡って満映で脚本・監督を務め、戦後は映画のシナリオ作家として東京で活躍、帰高後はテレビ番組「はらたいらのおらんく風土記」の台本を執筆し、三里史談会の会員でもあった。山田さんとは、若い頃にともに満州で活躍し、また反骨精神旺盛な物書きとしても気があったようだ。満州時代になじんだのか、ともにコーヒー好きで、特に山田さんは東京・調布市の居室を訪ねても、まず自ら薫り高いコーヒーを入れてもてなしてくださった。

 美衛は私の長姉で、若い時分には東京で婦人誌の記者をし、一時期は大原富枝の秘書をしていた。山田さんはこの大原富枝をはじめ、安岡章太郎・宮尾登美子・倉橋由美子(29)など錚々たる作家から信頼され、高知との折衝でも頼りにされていた。見識に裏付けされた率直な発言が好まれたからだ。しかし、歯に衣着せぬ言動は高知の文学関係者とは齟齬を来すこともあり、困惑の言葉を漏らすことがあった。自ら館長を務めた県立土佐山内家宝物資料館では学芸員の公募制を貫徹し、研究体制の充実にも取り組んで優秀な研究者を育成しておられた。山内家の信頼も厚く、国宝「古今和歌集高野切本」など山内家資料の、県への移管を実現した功績も大きい。
 山田さんが龍馬研究に取り組んでいた頃、新人物往来社主催の龍馬研究会が東京であり、お誘いいただいて山田講師のお供をした。少人数の会だったが、坂本家一族の土居晴夫さんも来会、作家で後に直木賞を受賞した北原亞以子さんも出席しておられた。当時私は龍馬のことも中城家史料のこともほとんど知らず、恥ずかしい思いをしつつ少しは龍馬を調べようと思い立った。今にして思えばそれが山田さんのねらいでもあったようだ。おかげで後の「龍馬役者絵発見」に結びついた。
「中城文庫」の推進役
  坂本龍馬が最後の帰郷で中城家に立ち寄ったことは、東京帝大国史科卒の歴史家・中城直正が、龍馬の接待に当たった父母からの鮮明な聞き書として記録している。これらを元に、郷土史家・松山秀美は『村のことども』で、歴史家・平尾道雄は『龍馬のすべて』で、きちんと触れている。しかし、大正14年に直正が東京で交通事故のため急逝してからは、聞き書『随文随録』の存在自体が次第に忘れ去られていった。
 この記録が再び注目されるきっかけは、昭和55年の三里小学校開校百年記念誌『三里のことども』刊行である。中城家を調査された坂本一定、中山操の眼にとまり、山田一郎・宮地佐一郎のお二人にも龍馬に関する部分のコピーが渡された。この頃に私の義兄・信清悠久が龍馬生誕百五十年にちなんで『土佐史談』に「龍馬の足跡―種崎・中城家」と題して発表、龍馬が眺めた浮世絵貼り付けの襖が現存することも明らかにした。山田さんは昭和57年に、高知新聞連載「南風帳」で「種崎の龍馬」として紹介、宮地は『坂本龍馬全集』に採録してくださった。後者には、私の祖母・中城仲(旧姓千屋・海援隊士菅野覚兵衛の姪)が龍馬の妻・お龍さんに可愛がられ、ピストルで雀を撃って遊び、別れの記念に帯締めをもらった回想談(昭和16年の高知新聞記事)も納められている。
 中城家の古文書などの史料が次第に注目され、高知市民図書館に寄託されるいきさつは、『大平山』第30号に「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊」として書かせていただいた。寄託が決まったのは、日本史、特に地方史研究の権威である林英夫立教大名誉教授の評価や、武市瑞山の子孫である武市盾夫(18)中央大教授の口添えもあったが、なにより高知での山田一郎・橋井昭六(元高知新聞社長)のお二人による当時の松尾徹人高知市長への推薦が決め手となった。
 寄託が決まると、史料受け入れの担当となった市民図書館・安岡憲彦さんの大奮闘があり、6年目に立派な目録も出来て、平成20年2月1日には寄託から寄贈へ移行し、<「中城文庫」開設記念展・海から世界へ>も開催する運びとなった。ところが、その直前になって、展覧会はするが「中城文庫」は返還すると、図書館長からいってきた。ここでも面倒な仲介を、山田さんにお願いせざるを得なかった。そして岡ア市長・吉川教育長と折衝いただき、とりあえず展覧会は開会、寄贈式はずれたものの2月13日に行われた。 

 私は寄贈式の日は、昭和大で肺血栓塞栓症の定期精密検診に当たっており、出席出来なかった。この病気は亡くなった山田さんのトミ夫人と同じ病気で、私も肺の動脈にアンブレラ・フィルターを入れており、この検診での胸部断層写真にもはっきりフィルターが映し出され、機能していることが確認出来た。山田夫人の主治医は後の宇宙飛行士・向井千秋さんである。その医療経過と山田さんの奥様への思いやりあふれる看病ぶりは著書『いのちなりけり』に詳しい。文中には患者が外出中に事故にあった場合に備えてのイエローカード(病名・薬・連絡先を記載)を紹介してあるが、私にもカードを用意するよう薦めてくださった。さっそく同様のカードを作り、いまも名刺入れに入れてある。
 話を「中城文庫」にもどせば、問題は個人情報保護に即した利用規程の改定と、史料寄贈者への利用状況の告知を、中城家からお願いしたことにあった。寄贈後に高知県立歴史民俗資料館「絵葉書のなかの土佐」や、県立坂本龍馬記念館「坂本龍馬と戊辰戦争」などの企画展で「中城文庫」史料が活用されたが、市民図書館からは寄贈者に対し、まったく連絡がなかった。幸い歴民館からは図録を贈呈いただき、龍馬記念館からは出品リストを後日いただいた。山田さんも図書館の対応を残念がっておられたが、全国の公立博物館・文書館・美術館・図書館と比べ、利用者へのサービスも協力者への対応も遅れを取っているように思える。かつては高知市民図書館と言えば、文化人を館長に招聘し、出版活動から移動図書館・特設文庫・研究者への協力まで日本の最先端であったが、現在の高知市文化行政にその面影はない。県と高知市で新しく歴史資料館建設の構想があると聞くが、貴重な収蔵史料が多いだけに、その利用サービスでも全国の模範となっていただきたい。
生涯一ジャーナリスト
 「中城文庫」とともに山田さんにご迷惑をかけたのは、中城家「離れ」の文化財指定調査である。高知市教育委員会から平成18年に、龍馬ゆかりの「離れ」につき、文化財指定を視野に入れて調査したいとの申し出があり、喜んで同意した。教育委員会の指定で建築物としての調査は伝統的建造物の修築で定評のある上田建築事務所が、歴史的位置付けは山田一郎・栗田健雄両氏が担当くださった。平成19年に『中城家「離れ」調査報告書』が出来上がり、高知市文化財保護審議会に諮問された。委員からは「川島家にしても中城家にしても資料が少ない」「市史跡として保存しなければならない程のものではない」との意見が出て、指定は見送りとなった。山田さんは長年の調査研究をふまえて、歴史的意義を説いてくださっただけに、私には「離れ」自体の文化財指定の可否はともかく、山田さんのこれまでの精密な研究成果が否定されたようで申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 山田さんは、「審議内容にはいくらでも反論できるよ」とおっしゃり、委員の文化財についての研究姿勢や歴史認識を残念がっておられた。ただ評価できるのは、審議会の討議「要旨」を教育委員会が当家に示してくれたことである。ぜひ、このような情報開示の姿勢は継続していただきたい。
 平成22年正月からNHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まったこともあって、この「離れ」もいくらか注目されている。毎回ドラマ後にその舞台を紹介する「龍馬紀行」でも取上げたいとの連絡があり、三里史談会事務局の久保田昭賢(理科・久保田伸雄先生の令弟)さんに取材斑の案内をお願いした。6月末の撮影日はあいにくの大雨で、座敷に雨漏りがしており、撮影スタッフも驚いたようだ。久保田さんから現状を報告いただき、兄・中城達雄の即断で台風シーズンにそなえ、急ぎ屋根の修理を行った。地元業者には上田建築事務所とも打ち合せの上で、伝統的建造物にふさわしい修理をしていただいた。ただ、家屋は使用しないと痛みが早く、今後の活用法が課題である。山田さんは、いくつか腹案をもっておられたようだが、地元でなにかいい案があれば、当家としては山田さんへの感謝を込めて協力したいと考えている。なお、種崎の母屋には平成23年春から兄の孫・田副一家が住んでいる。
 近年は、山田さんの調布市のお部屋を年に一度くらいはお訪ねしていた。満州時代の思い出話もうかがったが、終戦時に「ソ連機新京を爆撃」の大スクープを打電した話は口にせず、満州巡業に来ていて敗戦で帰国できなくなった落語家・古今亭志ん生との、糊口をしのぐための興行生活を楽しげに語ってくれた。最後の著書として

志ん生(本名・美濃部孝蔵)の一代記を書くべくその先祖を探り、「甲賀の忍者から徳川家康に取り立てられ、旗本となった美濃部家の末裔だった」とも言っていた。高知で倒れたのは、資料を漁り尽くし、敗戦後の大連での生活ぶりや、聞き取った秘話を元に執筆を始めたところであった。岩波書店での刊行も決まっていたが、原稿はご本人とともに泉下に運ばれてしまった。 
 平成21年の暮れには、上京する安岡憲彦さんと久しぶりに山田さんを訪問することになり、電話をかけたが本人も同じマンションの別室に住むご次男もご不在で、不安にかられた。高知で探っていただくと、入院中とのことであった。そして、年を越して訃報が届いた。3月4日に「生涯一ジャーナリスト」という山田さんにふさわしい名称で「偲ぶ会」が開かれると聞き、高知市城西館の会場に駆けつけ、遺影に最後のお別れをさせていただいた。そこには仁井田の浜に立つ老松のように、吹き寄せる時代の烈風に耐え、温顔のなかにも鋭い視線をたたえて真実を追い続けた希有な文人ジャーナリストの姿があった。合掌
ページTOPに戻る

龍馬「愚童伝説」から 学びの原点をさぐる

中城 正堯(30回) 2012.04.15
はじめに

筆者近影
 平成二二年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』終了から一年ほど経過し、放映中に出版されたおびただしい龍馬関連本もほぼ書店の店頭から消えた。この間、坂本龍馬に関する新史料の発掘や新しい観点からの評伝はほとんどなく、多くが既存の資料や伝説にもとづく再整理ないし焼き直しにすぎなかった。いまさらながら、山田一郎さんによる龍馬の継母・伊与の出自から、龍馬の父・八平の実家解明まで、丹念な資料の渉猟と歴史の舞台・関係者を訪ねての調査と論考に感心するばかりである。その著書『坂本龍馬―隠された肖像―』(昭和六二年 新潮社)、『海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉―』(平成三年 新潮社)を凌駕する作品に出会うことはなかった。
 大河ドラマ『龍馬伝』自体は、放映一年前にNHKの関係者から、「福山雅治を龍馬にしたてた〈劇画〉で、岩崎弥太郎の眼から見る」と聞かされていたので、超かっこよい福山・龍馬と汚れ役香川・弥太郎の極端な対比にも驚かなかった。しかし、高知の城下と安芸の井ノ口村がすぐ隣町にされ、路上で出会った二人がよく行き来し、寺子屋の机が現在の学校と同じ並べ方で、龍馬の愚童ぶりに対して弥太郎には『論語集註』を読ませるなど、興ざめな場面も多かった。
 放映でありがたかったのは、最終回の一つ前の「龍馬伝紀行」で我が家の種崎の「離れ」を、龍馬最後の帰郷で潜伏した家として取上げてくれたことだ。六月の撮影当日は帰郷できず、三里史談会の久保田昭賢さんに立ち会いをお願いした。あいにく大雨で、座敷は天井からの雨漏りで畳が濡れ、撮影場面の設定に苦労したとの電話をいただいた。関東在住の兄も私も、雨漏りしているとは思いもよらず、お陰ですぐ修理の手配をすることができた。以前、高知市教委が「文化財指定を視野」に上田建設に依頼して調査を行ってくれ、指定には該当しないとのことだったが、その調査を生かして三里の建築業者に幕末以来の屋根の保存修理をお願いした。NHKの撮影がなければ、雨漏りに気付かないところだった。
 本稿では、テレビや伝記物語などで増幅される誤った龍馬伝説が真実と混同されないよう、龍馬ゆかりの旧三里村種崎で生まれ育った者として、龍馬少年の教育と人間形成に関していくつかの指摘をしておきたい。多くはすでに山田さんが論考済みであるが、いくらか別の視点も交えて重ねて呼びかけたい。
大器晩成の流行と愚童説
 龍馬の最初の伝記小説は明治一六年に坂崎紫瀾が土陽新聞に連載した『汗血千里駒』であるが、大評判となり単行本としても数社から出版された。この復刻版は数種類あるが、高知では昭和五二年に土佐史談会から出た『汗血千里駒全』が版を重ね、平成五年には新しい「解題」をつけた新版が刊行された。平成二二年には岩波文庫で挿絵全六六点を収録した『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』が出て、入手しやすくなった。
 問題はこの伝記の位置付けである。坂崎は明治初期からの自由民権運動の激烈な活動家であり、その一環として政治小説を発表し、演説会を開催していた。しかし、明治一四年に高知警察署から政談演説禁止の処分を受ける。そこで、寄席芸人として鑑札をとり、馬鹿林鈍翁の芸名で講釈師となるが、たちまち逮捕される。この後で、龍馬の連載を始める。
 岩波文庫の校注を担当した神戸大学教授で日本近代文学史専攻の林原純生氏は、「明治一六年という早い時点でかくも見事に坂本龍馬の自由人としての個性が表現されたことは、一つの驚きである」「史書や正史に対して、むしろ、自由党員として自由民権の最先端にいた坂崎紫瀾の歴史意識と、読者と共有しようとした政治理念が、坂本龍馬の個性的な行動や行動空間に強く反映されている」と述べ、自由民権運動のさなかに書かれたこの作品は、幕末や明治維新を素材にした大衆小説・歴史小説の先駆的作品であり、原点であると、高く評価している。
 本来この作品は自由民権運動のための政治小説であり、冒頭には井口刃傷事件を持ってきて封建的身分制度のもとでの上士・下士の差別を見事に告発している。ついで、生い立ちに触れ、愚かにみえた少年が剣術や水練に励み、加持祈祷にかこつけて庶民の膏血を吸い取るニセ天狗を退治するまでに成長、十九歳で下士には許されなかった下駄を履いて江戸に出ると、千葉道場の娘・光子(佐那)とのロマンスが花咲く。興味尽きない場面展開の連続だが、政治的意図を持って書かれた小説であり、当然フィクションも多々含んでいる。確実な史料にのみ基づいた伝記や評伝ではない。特に坂崎は講釈師を演じていただけに、噂話を実話のように扱い、江戸の草双紙的な逸話を挿入、誇張した表現で場面を盛り上げている。まず、龍馬誕生にまつわるエピソードから検討してみよう。

 龍馬誕生につき、「いにしえより英雄豪傑の世に降誕するやあるいは種々の奇瑞をしめせし」と述べ、龍馬の背の「いと怪しき産毛」の由来を母が懐胎中に愛猫を腹に載せたせいとし、龍馬と名づけたのは出生の前夜母の夢に「蛟龍(こうりゅう)昇天してその口中より吹き出した炎、胎内に入りしと見たり」と説く。蛟龍とは、龍が雲や雨を得て天に昇って龍になる前の姿で、英雄が真価を発揮する前の姿を指す。ここには、伝聞のままに記すと断ってある。続けて、「龍馬は十二、三歳の頃まではあまりにその行いの沈着にして小児の如く思えず。あたかも愚人に等しく、わけて夜溺(よばり)の癖さえあればその友に凌(しの)ぎ侮らるる事あれども、あえてさからう色とてなく…これぞ龍馬が大器晩成のしるしとやいわん」と書く。これが、龍馬愚童説・大器晩成説の発端である。
 龍馬の背の産毛に関しては、後に妻のお龍や友人も触れており、生えていたのは事実であろうが、「母が常に猫を抱いていたから」はあり得ない。龍の炎が胎内に入って英雄豪傑が誕生するといった龍神伝説は、足柄山の山姥が夢で赤龍と交わって怪童金太郎が生まれたなど、江戸後期にはよく語られていた。英雄が少年期まで愚人であったが、やがて目覚めて大成するという大器晩成論も、うつけ者と呼ばれた織田信長、百姓の子で「手習い学問かつてなさず」と描かれた豊臣秀吉の事例など、幕末から明治まで枚挙にいとまがない。伝記物語の常套的な展開パターンであった。
 著者の坂崎自身も、明治三二年博文館刊『少年読本 坂本龍馬』(図1)の緒言で、近年『汗血千里駒』が広く伝播したため、内容を踏襲した伝記が見られることを悔やみ、こう述べている。「世人の仮を認めて真と為すに至る。これ余のひそかに慚悔するところたり。爾来余は龍馬その人の為に大書特書すべきの新事実を発見したること一にして足らず。ここに於て更に実伝を著わし、もって許多(あまた)の誤謬を正し、あわせてその真面目を発揮せんと欲し…少しく余の旧過を償うべきのみ」。しかし、この新著でも薩長連合や大政奉還に関しての誤りは直してあるが、伝聞による生誕伝説・大器晩成説は前著と同じであった。
『汗血千里駒』以降の龍馬像
 坂崎自身は、『汗血千里駒』の自序で「龍馬君の遺聞を得、すなわちもっぱら正史に考拠し」と記したが多々誤謬があり、伝聞によった部分もあることを自覚し、後のち訂正に努めていた。ところが、平成五年の土佐史談会版の解題で、岡林清水はこう論じた。「紫瀾はこの作品で、明治御一新を上士と下士・軽格との対立面から把握し、…軽格坂本龍馬を代表とする明治御一新へ向かっての大精神は、自由民権運動につながると考え、この自由党的思想性でもって、『汗血千里の駒』を支えようとした。だが、この作品は、単なる党派的理想宣伝の小説ではない。史実追及を堅実に行い、リアリティのあるものとなっている」。
 坂崎の作品は龍馬伝の第一号であり、龍馬研究の基本資料であるが、正史・史実とは言えない内容を織り込んだ政治小説であった。本人もそれを自覚していたのに、平成を迎えての岡林の解題では、「史実追及」「リアリティあるもの」が強調されていた。現在の作家・漫画家・脚本家から龍馬ファンまで、広く実伝と誤解される要因になったようだ。
 では、『汗血千里駒』以来、龍馬が実伝と小説の間でどう揺れ動き扱われてきたか、青少年期の描写を中心に筆者の管見から探ってみよう。
 明治二九年七月には、坂本家の遠戚になる弘松宣枝が『坂本龍馬』(民友社)を出版、好評で年内だけで五版を重ね、第三版からは龍馬の肖像写真が口絵として掲載される。後に日露戦争でバルチック艦隊との決戦をひかえた一夜、昭憲皇太后の枕辺に現われ、「微臣坂本龍馬でござります。力及ばずといえども、皇国の海軍を守護いたしまする」と告げてかき消えた話が出る。宮内大臣だった田中光顕(元陸援隊士)が人物確認のため皇太后に献上した肖像写真は、この口絵のものとされる。お龍も同じ写真を持っていたと『千里駒後日譚』にある。この弘松の作品も、少年龍馬の描写は坂崎を踏襲している。
 皇太后の夢に現われた龍馬の新伝説は、明治新政府で薩長に主導権を奪われた土佐派の閣僚・田中光顕が、挽回策に龍馬を担ぎ出したと言われる。この出来事は新聞が取り上げたため、世間に広まる。土佐出身の画家・公文菊僊は後に龍馬立像に「征露の年 皇后の玉夢に…」の漢詩を添えた画軸を制作、大当たりをとる。この話も、病で伏す唐の玄宗皇帝の夢に現われて小鬼を退治し、快癒させた鍾馗伝説と似ている。玄宗皇帝が夢で見た姿に似せて描かせた鍾馗像が魔除けとして好まれ、日本にも伝来、江戸時代には病魔除けとして版画が戸口に張り出され、軒先にも塑像が飾られた。
 しかし、龍馬はまず自由民権運動家にかつがれたためか、武市半平太は故郷・高知市吹井に瑞山神社が建立されたのに、幸い神にされることはなく、いつまでも自由人でいられた。ニセ天狗の祈祷師を退治した逸話や、慶応二年のお龍との霧島山登山で天のさかほこに天狗の面が付けてあるのを笑い飛ばし、引き抜いてみるなど、少年期から合理的な思考で行動しており、神がかった戦争勝利予言は似合わない。
幼年時代の疑わしき伝聞
 大正元年には『維新土佐勤王史』(冨山房)が瑞山会著述で刊行されるが、執筆を担当したのは坂崎紫瀾であった。平尾道雄はこの書を、坂崎特有の「文学的史書」と評している。ここでの龍馬少年の描写は、だいぶ平静を取りもどし、「彼の童時は物に臆して涕泣しやすく、故に群児の侮蔑を受くるも、あえてこれを怒らず」と述べ、後年兄・権平に出した手紙の「どうぞ昔の鼻垂れと御笑くだされまじく候」を紹介する。


 母・幸は龍馬が十二歳の時に亡くなる。「当時龍馬は小高坂村の楠山某家に就き、習字と四書の素読を始めしに、たまたま学友と衝突して切りかけられ、ために退学したり。父母は再び過ちあらんことを恐れて、他に通学なさしめざりしより、ついに文学の素養を有する期を失いたり」と書く。四書とは、儒学の基本図書である大学・中庸・論語・孟子で、文学は学問といった意味である。続いて「すでに十四歳を過ぐるも、時に夜溺(夜尿)の癖を絶たず」で、父もその遅鈍を嘆いていたが、「さらに長じて剣道を日根野弁治に学ぶや、不思議にも気質とみに一変して別人の如く、その技もまた儕輩(せいはい)をしのぐに至れり」と記す。大雨の日に水練に向うのを日根野に怪しまれ、「水に入れば常に湿(うるお)う。なんぞ風雨を辞せんや」と答えたエピソードをあげ、龍馬が自らの行動に自信を持った証とする。(図2)
 姉の乙女は龍馬の四歳(実は三歳)上で「女仁王」のあだなで呼ばれ、「短銃を好み、鷲尾山などの人なきところに上り…連発してその轟々たる反響にホホと打ち笑み」とか、「常に龍馬を励まして、これを奮励せしむる」と紹介してある。
 これら『維新土佐勤王史』にある少年龍馬の逸話は、大正三年刊『坂本龍馬』(千頭清臣著 博文館)や、昭和二年刊『雋傑(しゅんけつ)坂本龍馬』(坂本中岡両先生銅像建設会 編集発行)でも、ほぼ同様だ。ただ千頭の本では二版増補で「疑わしき話」の項を設け、はな垂れと言われたことで龍馬を真の馬鹿というのは大きな間違いと記してある。千頭は高知出身の英文学者・貴族院議員として知られた存在だったが、実際の筆者は山内家史編修係・維新史家の田岡正枝であった。後者は、京都円山公園にある坂本・中岡像建設のための刊行で、銅像は昭和九年に完成したが第二次大戦で供出、昭和三七に再建された。
岩崎鏡川の史料収集と重松実男の見識
 昭憲皇太后の夢に現われた龍馬は、日露戦争の勝利によって、自由民権の先駆者のみならず海軍の祖・皇国守護の英霊とされ、もてはやされるようになった。小説だけでなく、演劇や講談にも次々と取上げられた。これに対し、『汗血千里駒』以来の伝記と称する作品の内容を、「荒唐無稽の綺語でなければ、舌耕者流の延言」「正確な史料に憑拠(ひょうきょ)するものあるを見ない」と断じ、坂本龍馬の史料編纂に取り組だのが岩崎鏡川(英重)である。岩崎は山内家史編集係・維新史料編纂官を歴任、晩年は『坂本龍馬関係文書』編纂に心血をそそぎ、大正一五年五月に死亡したが、その一ヶ月後にまず私家版として刊行された。鏡川の次男が『オリンポスの果実』で知られる作家・田中英光である。
 中城家の本家・中城直正(初代高知県立図書館長)は、大正期にこの岩崎と綿密に連絡をとって、維新の志士たちの史料収集と顕彰を中心に、県下の史料・史跡の収集保存や記念碑建立などに取り組んでいた。例えば大正三年一月から二月にかけて上京した際の日記には、維新史料編纂所の岩崎とともに土佐出身の田中光顕伯や土方久元伯、さらに東京帝大史料編纂所にいた帝大同期の歴史学者・黒板勝美などを訪問した記録が残っている。岩崎からの手紙もあり、内容は武市瑞山先生記念碑・同遺跡保存・堺事件殉難者合祀・紀貫之邸跡建碑、それに維新関連の贈位申請・文書購入などである。これらの手紙や日記は全て、高知市民図書館「中城文庫」に収まっている。
 この『坂本龍馬関係文書』にも、龍馬の手紙の執筆年代などいくつかの誤りが後に指摘されたが、龍馬研究の画期的な史料集誕生であったことに間違いない。戯曲の傑作とされる真山青果『坂本龍馬』も、三里村出身の作家・田中貢太郎の『志士伝記』(改造社)も、この史料集刊行抜きには考えられないと、文芸評論家・尾崎秀樹氏は述べている。龍馬の史料発掘と編纂の仕事は岩崎亡き後も続き、郷土出身の研究者に受け継がれていく。その結実した刊行物が、平尾道雄著『海援隊始末記』『龍馬のすべて』・宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』・山田一郎著『坂本龍馬―隠された肖像―』他・松岡司著『定本坂本龍馬伝』であり、坂本家ご一族の土居晴夫氏も綿密な考証によって『坂本龍馬の系譜』をまとめておられる。
 これらの中で、少年龍馬の真実に最も迫っているのは、山田さんの著作である。そして、その先駆ともいうべき著述が、昭和一二年に重松実男編著で高知県教育会から刊行された『土佐を語る』の「坂本龍馬」であろう。あまり知られていない著述なので、少し長くなるが紹介しよう。
その出身 「坂本は天保六年に城下の本町筋一丁目の郷士の家に生まれた。幼少の頃遅鈍な劣等児であったように伝えられもするが、これは彼が後年兄権平への書翰に〈…どうぞ昔の鼻垂れとお笑い下されまじく候〉とある所などから誤り伝えられた話であろう。晩成の大器であったには相違ないが、遅鈍であったものとは思われぬ。…青年時代剣道の師日根野弁治が、大雨の中を水泳にでかける坂本に出会ってあやしむと、水へ入ったらどうせ濡れるから同じことだ。と答えた所も、一見間抜けたようで、その実中々才気煥発ではないか。」と書く。続けて十八、九歳で四万十川治水工事の監督を手伝い、精出す者に褒美を与えたことを、「すでに棟梁の器量をひらめかしておる」と評価する。さらに、「嘉永六年十九歳、剣道修業の志を立てて江戸へ上るとき、同行者の一行中坂本の姿が見えないので、見送り人が不審して集合所であった友人の宅へ立戻って見ると、彼は襖に貼った錦絵に見とれて〈たまるか義経の八艘跳じゃ〉などと太平楽をきめこんで、只今三百里外へ旅立つ者とも見えなかった」と紹介。当時の土佐から江戸は、今西洋へ旅するようなものなのに、坂本の「天衣無縫の大らかさがうかがわれる」と人柄にも触れている。
 江戸への初めての旅立ちの際に、最初に立ち寄った家で襖(壁ともいう)に貼ってある浮世絵に見入った場面は、前出の弘松の本にも、仁井田出身の作家・田中貢太郎著『志士伝奇』の坂本龍馬にもある。慶応三年九月、最後の帰郷で種崎・中城家に潜伏した際に、やはり襖に貼られた浮世絵を眺めており、後に高知での芝居「汗血千里の駒」上演で、龍馬自身の浮世絵(役者絵)が制作されたことも含めて、不思議な縁を感じる。
その学問 「彼ははやくから剣道に専念したので、学問の素養の薄いのを悔い、帰国してからはよく読書した。海軍通の河田小龍という画家の啓発を受けて、将来の海上発展を夢みたのもその一、また折りにふれて和歌をも詠んだ。彼の詠草は、〈げにも世に 似つつもあるか 大井川 下す筏の はやき年月〉(他に二首掲載)などと、卒直武骨な個性の発露する中にも、自ら格調の整うた才気を見せている。漢籍では、老子を愛読したというから、なかなか世人が思ったように無学ではない」と述べている。さらに、読書法が変わっていて、『資治通鑑』を読ませると字音も句読も返り点もいい加減だが、「大意がわかればよいじゃないか」と笑っていたという。後年英語も学んだ。ある蘭学者によるオランダ政体論の講義中に、「それじゃ条理が立ちません」と指摘、蘭学者が誤りを詫びた話も紹介している。
航海術研究 「その後江戸へ下って勝海舟の門に入り、一心に航海術の研究を始めた。この動機は、彼と小千葉の倅の重太郎とが開国論者の海舟を斬るつもりで押しかけ、海舟に説得せられたことになっておるけれども、これは疑わしい。当時彼は海外の事情に盲目でもなく、海上雄飛の素志を抱いていた…」。ここでは、海舟を斬りに押しかけたとの伝説を否定し、神戸海軍塾での研鑽や、第二次長州戦争で「習得した海軍術を以て桜島丸を操縦し、幕鑑に砲火を浴びせかけてあやしまなかった」事例をあげ、高所の見識と評価する。
 この重松の著書は、海援隊・薩長同盟・大政奉還・船中八策・遭難・逸話などの項目をたて、きちんと述べてある。学術書でないため、個々の出典を示してないのは残念だが、遅鈍ではなく、海舟を斬りに行った伝説は疑わしいと明記している。昭和初期の見識ある高知の知識人は、龍馬愚童説など信じていなかったのだ。
龍馬の手習いと寺子屋
 龍馬は乙女姉さんへの親しみとユーモアあふれる手紙から、志士たちへの情報伝達、政治構想まで、さまざまな文書を書き残している。個性的な口語体の文章表現と、伸びやかな筆遣いでその想いが率直に伝わってくる。この筆力は、少年期に習得したものである。ここで、その学習歴を振り返ってみよう。主として高知県立坂本龍馬記念館の「龍馬略年表」による。〈 〉内は、筆者の追加事項である。
一八三五(天保六) 一歳 十一月十五日、郷士・坂本長兵衛(八平)の次男として誕生 
一八四六(弘化三)十二歳 六月母幸没。この年小高坂の楠山塾に入門、間もなく退塾
一八四七(弘化四)十三歳 〈この頃父八平が種崎川島家から伊与を後妻に迎える〉
一八四八(嘉永一)十四歳 城下築屋敷の日根野弁治道場に入門し剣術を学ぶ
一八五三(嘉永六)十九歳 三月「小栗流和兵法事目録」を受ける。剣術修業のため江戸へ赴き、千葉定吉道場に入門。〈佐久間象山に入門、砲術の初学を学ぶ〉ペリー浦賀に来航。土佐藩臨時雇として品川海岸警護につく
一八五四(嘉永七)二〇歳 六月江戸より帰国。この頃河田小龍に会い、将来を啓発される
(安政一)
一八五五(安政二)二一歳 父八平没。〈九月十一月 徳弘孝蔵のもとで洋式砲術稽古〉
一八五六(安政三)二二歳 八月再び剣術砲術修業のため江戸へ向かう
一八五八(安政五)二四歳 千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」を受ける。九月帰国
一八五九(安政六)二五歳 砲術家徳弘孝蔵に入門し西洋砲術を学ぶ
一八六一(文久一)二七歳 〈井口村で上士・下士の刃傷事件起こる〉土佐勤王党に加盟
一八六二(文久二)二八歳 萩の久坂玄瑞を訪ねる。三月脱藩し勝海舟の門下生となる

 この年表で、まず注意いただきたいのは年齢で、江戸時代は数えであり生まれると一歳、龍馬は生後一月半で正月を迎えて二歳となる。現在の満年齢と二歳近くずれているのだ。母幸の亡くなったのは、今でいえば十歳ぐらいだ。この年に楠山塾に入門とあるが、『高知藩教育沿革取調』(明治二五年 冨山房刊)によれば、師匠は楠山荘助(庄助)、文政五年開業、安政四年廃業で、学科は読書習字、安政三年の生徒は男百人、女二十人となっている。龍馬が、すぐ退塾してもさほど問題なかったのは、入門前に家庭学習ですでにかなり読み書きを習得していたからだと思われる。
 江戸後期には全国で寺子屋が普及し、庶民の子弟も数えの七歳くらいから読み書き算盤を習うようになるが、武士や庄屋、裕福な町人の多くは手習いの手ほどきを家庭で行うのが習わしであった。自叙伝『蜑(あま)の焼く藻の記』を残した幕府御家人・森山孝盛は、十歳までの教育は母任せだったという。初めは家庭学習で、途中から寺子屋に行く者もいた。いずれにしろ十二歳前後になり手習いを終えると、家塾・私塾・藩校、あるいは剣道場などに入門する。寺子屋の師匠が医師や武士・僧侶・庄屋などの兼業であったのに対し、藩公認の儒官による家塾も、民間の私塾も、漢学者や国学者が自宅で開いた塾であった。
 坂本家の人々は代々和歌を楽しんだとされ、なかでも龍馬の祖母久は土佐では知られた歌人・井上好春の娘であり、その家風は龍馬の父八平・母幸にも受け継がれたようだ。山田さんが『海援隊遺文』で紹介したように、仁井田・川島家に残る『六百番歌合』には当時種崎にあった川島家で開かれた歌会の巻があり、そこには種崎の川島春麿・杉本清陰・中城直守などと並んで坂本直足(八平)の名が見られる。このような教養豊かな家庭では、手習いの手ほどきは父母が行い、親が読み書きの得意でない家庭では最初から寺子屋に通わせていた。
 土佐での事例は、下級武士で国学者の楠瀬大枝(一七七六〜一八三五)が残した日記『燧袋(ひうちぶくろ)』に記されている。この日記を分析した太田素子(和光大学教授)は『江戸の親子』(中公新書)で娘の教育について、「大枝は菊猪や笑の手習いをやはり自分で手がけている。…菊猪の記録では手習いの開始と初勘定を続けて記録しているが、手習いの開始は菊猪七歳」、「下級武士の息子たちが手習いはともかく、素読から講釈へ進む段階には私塾に通っていた」と述べている。
 江戸の家庭教育の事例は、幕末に蘭医桂川家に生まれた今泉みねの『名ごりの夢』(平凡社東洋文庫)にある。「私の生まれた家では、…手習いでもしているのを見つかると、御じい様が桂川のうちに手習いや歌を習う馬鹿がどこにあるか…そんなことは習わなくてもできるもんだ」、「いきなり思ったことを歌によんで、それを書くのが手習いでした。いろはを習わせると言うよりも、それを最初から使わせて思うように書かせる。つまり、生活がそのまま教育ですね」と、語っている。
 桂川家は極端な例だが、寺子屋でも家庭でも手習いは基本的に個人別自学自習であり、学びは学(まね)びから始った。多くが、まず「いろは」と数字を師匠・親が自ら書いた手本を真似て学び、次に往来物と呼ばれる木版摺りの教科書を使っての手習いへと進む。往来物の内容は、人名漢字、国名尽し、消息往来、さらに商売往来、風月往来などで、文字・単語・短文を習得し、日常生活の用語・知識・手紙文、そして職業知識や和歌風流へと続くカリキュラムがあった。
寺子屋の学習法と机の配置
 学習法は、新しいお手本に進むたびに師匠から読み書きの指導を受けるが、あとはひたすら手習いの反復練習である。そして、一人ずつ師匠の前に出てチェックを受け、読み書きともきちんと出来れば新しい教材に進む。何十人生徒(寺子)がいても、学習内容は進度に応じて一人ひとり違っていた。往来物は七千種類以上あり、『土佐往来』といった地方版も出版されていた。和歌では『百人一首往来』『七夕和歌集』等があった。
 家族で和歌を楽しんだ坂本家では、実母幸も継母伊与もそして三歳上の姉乙女も当然手習い指導の力を持っていた。中城直正の手稿『桃圃雑纂』にも「母幸ハ温厚貞節、ヨク八平ニ仕ヘ、子女ヲ教育セシガ」とある。龍馬には、病弱な母に代ってもっぱら乙女が指導、『古今和歌集』も教えたとされる。慶応元年九月の乙女・おやべに宛てた龍馬の手紙からは、『新葉和歌集』にも親しんでいたことがうかがえる。
 このような手習いを終えると、十二歳くらいから私塾や家塾で、さらに四書五経・史記・唐詩選・資治通鑑などの漢籍とも取り組み、専門的知識を持った師匠の元で儒学や漢詩・国学を身につける。また、武士は武術にも励むことになる。
 龍馬にとっては、寺子屋や私塾に行かずに、家庭で母幸や姉乙女からのびのびと自学自習で読み書き算盤、さらには歌の道を学んだことが、その後の人間形成にかえって役立ったように思われる。漢籍はさほど必要としなかったのだ。成人してからの手紙文や和歌から判断しても、読み書きの基礎学力はきちんと身につけていたし、砲術・航海術を学ぶために必要な数学力、例えば大砲の角度・火薬量から弾道と距離を計算する力も備えていた。英語にも挑戦している。
 それにしても、近年の寺子屋描写はひどすぎる。NHK「龍馬伝」でも第一回に寺子屋と私塾(岡本寧浦)の場面が登場したが、どちらも今の学校同様に教師と生徒が向き合う形で机が並べられていた。寺子屋では一斉授業を行わないので、生徒たちは入門の際に持参した机を自由に並べて学習した。師匠に向って整然と並べることはあり得ない。このことは、金沢大学(日本教育史)の江森一郎教授が『「勉強」時代の幕あけ』(平凡社)で、江戸時代の寺子屋絵図を列挙して論じておられる。


 ここでは、公文教育研究会所蔵の二点を紹介しよう。『孝経童子訓』所載の「書学之図」(図3)は行儀よい寺子屋で、右は男子席、左は女子席だ。師匠の前で個人指導を受ける生徒がいる。次の『絵本弄(もてあそび)』(図4)は、出かけていた師匠が帰ってみると、大騒ぎの場面である。龍馬もこんな騒動に巻き込まれたのだろうか。机はコの字型に並べてある。
 ところが高知でも、六年ほど前に高知城の丸の内緑地で開かれていた江戸時代の城下町展示を見学に行くと、寺子屋のセットがあり、やはり全て前向きに机を並べてあった。本町の「龍馬の生まれたまち記念館」にも寄ったが、ここに置いてあった寺子屋場面の絵も同じだった。双方の係りには間違いを指摘しておいた。さすがに山形県立教育博物館の寺子屋展示は、江戸時代の天神机から落書きだらけの雨戸まで本物を揃えており、並べ方もコの字型できちんと考証がされていた。平成一三年に京都国際会議場で開かれた「ユネスコ世界寺子屋会議」の展示企画を担当し、浮世絵寺子屋図とともに山形の実物をお借りして展示したが、海外の参加者から大変好評であった。なお、寺子屋で使う質素な机を、学問の神様・菅原道真にちなんで天神机と呼んだ。
 日本では明治五年の学制以降、ヨーロッパの小学校の一斉授業を取り入れたが、この授業法は十九世紀になってからイギリスの牧師が、植民地でのキリスト教普及のため考案したものである。二人の牧師の名前をとって、ベル・ランカスター・メソッドと呼ばれるが、少ない教師が効率よく大勢を指導するために助手を使い、同一教材で一斉授業を行った。
 この教授方法を、産業革命と列強による戦乱の時代を迎え、労働者や兵士の手っ取り早い養成に迫られた欧米各国が、小学校に採用したのである。貴族たちは相変わらず家庭教師の個人指導を受けていた。平成一六年にドイツ城郭協会会長のザイン侯爵をその居城に訪ねたが、ハプスブルク家出身の城主夫人が述べた言葉「小学校には行かず家庭教師が来てくれました。両親からは家の誇りを忘れず、将来どこに住んでも土地の社会に貢献することを心がけるようにと教えられました」が、印象に残っている。夫人は城の隣で、自ら「チョウの生態博物館」を運営しておられた。
和歌と砲術が結ぶ三里と坂本家
 さきに上げたように種崎の御船倉御用商人・川島春麿は楠瀬大枝に国学・和歌を学び、近所の杉本清陰や中城直守だけでなく、城下に住む龍馬の父坂本八平などとも歌人仲間であった。おそらく川島家と坂本家は廻漕業と商家として、業務上の繋がりも深かったと思われる。中城家も、大廻御船頭として土佐から江戸への藩船を操船、藩士やさまざまな物産を運んでいた。この三者は当然、仕事・和歌の双方で親しい仲だった。
 三里にはこの時代の歌人に坂本春樹などもおり、和歌のサロンが出来ていたように思われる。そして、川島家の記録にあるように、坂本八平など城下の和歌仲間とも交流していた。『万葉集古義』で知られる国学者・鹿持雅澄も妻菊が仁井田郷吹井の出であり、仁井田・種崎をたびたび訪ねてこれら歌人と歌を贈りあっている。
 中城直守は、この土佐の歌人仲間と江戸の歌人とを結ぶ役割もしていたようで、手稿『随筆』には国学者・齊藤彦麿を訪ねて教えを乞い歌を交わしたとある。藩船を運航して江戸に行っては歌人を訪ね、土佐への土産はもっぱら交換・購入した短冊と浮世絵だったと我が家には伝わっている。直守所蔵の短冊は三百人を越す歌人に及び、本居宣長・村田春海・野村望東尼から地元の谷真潮・中岡慎太郎に至る。
 このような交流の中で、坂本八平は川島家をしばしば訪ねて早くから伊与を知っており、「思われびと」だったのではないかと山田さんは推測している。いずれにしろ、二人の結婚によって龍馬少年も乙女姉さんとともに川島家をよく訪問したと伝わっており、和歌にも浮世絵にも親しんだのではなかろうか。そして、城下本町の自宅から小舟をこいで鏡川を下り、浦戸湾を種崎に向かうなかで、行き交う藩船や荷船への興味と、海の彼方へのあこがれが芽生えたと思われる。川島家では、村人から「ヨーロッパ」と呼ばれるほど西洋事情に詳しかった春麿から万国地図なども見せられ、胸をときめかした事であろう。
 和歌に続いて坂本家と三里を結ぶものに砲術がある。土佐藩では仁井田の浜を公設砲術稽古場としていたが、砲術指南に当たった一人が、徳弘孝蔵(董斎)で、『近世土佐の群像(4)鉄砲術の系譜』(渋谷雅之著)によると天保十二年(一八四一)に一三代藩主山内豊煕の命で下曽根金三郎に入門し、高島流砲術(西洋砲術)の免許皆伝を得ている。徳弘は下士で御持筒役に過ぎなかったが、上士の中には洋式砲術を嫌って藩命拒否の人物もいたなかで、いち早く西洋砲術を習得したのである。
 龍馬の父八平は、和式砲術の時代から徳弘孝蔵に入門していたが、龍馬の兄・権平も安政三年(一八五六)に奥義を授けられた記録が残っている。いっぽう龍馬は、従来安政六年徳弘孝蔵に入門とされてきたが、山田さんは『海援隊遺文』で「龍馬、鉄砲修行」の項を立て、詳細な調査から「安政二年洋式砲術稽古、同三年正式入門」とし、安政六年は免許に近い奥許しと見ている。続けて龍馬の成長過程を「嘉永六年十二月一日、十九歳で江戸で佐久間象山に入門、砲術の初学を受け、安政元年六月、二十歳で帰国、河田小龍に航海通商策を説かれ、翌二年十一月、二十一歳、徳弘董斎のもとで砲術稽古…」と、述べている。これに対し、十九歳で高名な佐久間象山にいきなり入門は無理で、それ以前から土佐で砲術の初歩は学んでいたであろうとの説もある。
 安政元年、河田小龍に会ったのは小龍が筒奉行池田歓蔵に随行して薩摩に赴き、大砲鋳造技術の視察から帰ったばかりであった。龍馬は江戸でペリーの黒船を見て帰国したところであり、大砲の威力も、外国の軍艦を迎えて攘夷の困難なことも、さらに外国船を購入しての旅客・物資の運輸とそのための人材育成の必要性も、よく理解できた。
 龍馬は嘉永六年に江戸修行に出かける二年ほど前から、父や兄に連れられ、仁井田の砲術稽古を見学していたのではないだろうか。そしてその往復には小舟を使い、継母が住んでいた川島家にも寄り、江戸や長崎の新しい情報を聞き、更に川島家の幼い姉妹(喜久と田鶴)や中城直守の長男亀太郎少年(直楯)とも遊んだであろう。
 坂本家は商家から郷士に転じただけに、古来の武士が剣術や槍術にこだわって銃砲術を蔑視したのに対し、早くから兵器としての威力を認め、その習得に取り組んできた。伝統的な和歌を好む反面、実利的合理的判断の出来る家庭で文明の利器にも敏感であった。この気質は、種崎・仁井田で古くから海運・造船に従事してきた人々とも共通するところが多かった。
 このような風土から有名な龍馬のエピソード、「太刀→短刀→ピストル→万国公法」が生まれた。時代の変化に即応した所持品の更新であり、思考の更新である。実践でも龍馬は寺田屋でピストルを使って捕手の襲撃を防ぎ、第二次長州戦争では桜島丸に乗船して幕府軍への砲撃を指揮、慶応三年の帰郷では新鋭のエンフィールド銃千挺を土佐藩にもたらしている。
 龍馬は、和歌で文章表現力とともに王朝人の雅や気概を、砲術で国内統一と欧米列強への軍事的対応策を、身に付けたのだ。
龍馬最後の帰郷と土佐のお龍
 慶応三年の龍馬最後の帰郷と三里の人々、そして土佐に来たお龍の姿に簡単に触れておこう。九月二三日に蒸気船震天丸で浦戸湾に入った龍馬は、袙(あこめ)の袂石(たもといし)に停泊させ、小舟で種崎・中の桟橋に上陸すると、裏の竹やぶをくぐって中城家にはいった。当日は仁井田神社の神事(じんじ)で、人の出入りが多い表門は避けたのだ。中城家では、直守が御軍艦奉行による旧格切り替えに御船方仲間を糾合して反対したため、格禄を召し上げられ、長男直楯(亀太郎)に家を継がせたところであった。
 城下の実家に直接入らなかったのは、土佐藩の政策が勤王か佐幕か明確になっておらず、持ち帰った最新式の銃千挺を土佐藩が倒幕に備えて受け入れるかどうか不安があったからだ。頼りの後藤象二郎は上京中であった。そこで、藩の方針が決まるまでは馴染みの多い種崎に潜伏した。川島家は、安政地震の津波で被害を受け、仁井田に転居していた。
 中城家では直楯が龍馬一行を「離れ」に案内し、妻の早苗が世話をした。滞在中の様子は、直楯の長男直正が後に両親から聞き出し、覚書『随聞随録』に記載してある。これも山田さんはじめ多くの研究者が引用している。
 龍馬はこの際に、川島家の屋敷跡にあった小島家も訪問している。小島家には少年時代に可愛がった川島家の妹娘・田鶴が嫁入っていたのだ。この家で、折良く来ていた土居楠五郎(日根野道場で指導を受けた師範代)とその孫・木岡一とも会っている。後に木岡が述べた回想が、『村のことども』(昭和七年 三里尋常高等小学校刊)にあり、土産にもらったギヤマンの図まで掲載してある。円形の鏡でPARISの文字を月桂樹の小枝が囲んでいる。このわずか二ヶ月足らず後に龍馬は不帰の人となっただけに、忘れ得ぬ思い出になったであろう。
 龍馬の妻お龍も夫の亡き後、その遺言に従って妹起美を海援隊幹部・菅野覚兵衛(千屋寅之助)と長崎で結婚させ、明治元年春には土佐の坂本家にはいる。しかし、権平とうまくいかなかったのか、夏には和喰村(現芸西村和食)に帰っていた菅野夫妻の実家・千屋に身を寄せる。ここでお龍に可愛がってもらったのが十一歳ごろだった仲(覚兵衛の兄富之助の長女)で、中城直顕(直守の三男、私の祖父)の後妻に来てからその思い出を高知新聞記者に語っている。
 そこには、龍馬遺愛の短銃でスズメを撃って遊び、人に見せたくないと龍馬からの手紙をすっかり焼き捨てたことから、お龍さんへの「あんな良い人はまたとない」という回想まである。日付は昭和一六年五月二五日で、記者は私の母冨美の弟岡林亀であった。この記事は、中城家から『坂本龍馬全集』にも提供した。菅野のアメリカ留学によって、明治二年お龍は土佐を去るが、別れに際し仲への記念に龍馬から贈られた帯留を譲っている。龍を刻んだ愛刀の目貫止めと下げ緒で作ってあり、中城家の娘の嫁ぎ先に代々受け継がれている。
 最後に、『汗血千里駒』の冒頭で扱われた井口村刃傷事件と龍馬の関係に触れておこう。多くの研究者はこの事件に龍馬は参加していないとしてきた。山田さんは、寺田寅彦の父寺田利正が事件の当時者である下士・宇賀喜久馬(十九歳)の兄であり、寺田家には喜久馬切腹の介錯をしたのは利正で、上士二人を斬った池田虎之進と宇賀の切腹で収拾を図ったのは龍馬だったとの話が、密かに伝えられてきた事を明らかにしている。切腹は、武士としての面目が立つ自死であった。龍馬が関与したとの説は、元高知県立図書館長・川村源七がかつて唱えており、山田さんがそれを立証している。
 坂崎が『汗血千里駒』を執筆した明治一六年には、城下を揺るがせたこの大事件の関係者も数多く生存しており、冒頭に持ってきたのは龍馬関与に自信があったからであろう。明治二○年高知座でのこの作品の上演でも、井口村刃傷事件が中心であり、大好評であった。坂崎の龍馬本の虚実と、政治小説としての正当な評価は今後も追及すべき課題である。
おわりに

 坂本龍馬は、恵まれた家庭環境で家族の指導のもと、読み書き計算を自学自習で学び、そこから自ら学ぶ意欲と新しい課題にチャレンジする喜びを身に付け、成長していった。学びの場は、日常生活を過ごす家庭・地域から、城下の剣道道場や鏡川での水練、さらに仁井田の砲術稽古、そして江戸の千葉道場・佐久間象山の塾、神戸・長崎へと広がっていった。この間、和歌を学び歌も詠んだが、現実とは遊離しがちな漢学・漢籍には深入りしなかった。
 代わりに川島春麿や河田小龍、江戸では佐久間象山や勝海舟など、当時の最新の情報と学識を持つ人々に接していった。また、種崎・仁井田の御船倉や砲術稽古の現場も訪ね、江戸では黒船警護の品川台場にも動員された。このような現場での見学や体験の積み重ねが、神戸での海軍操練所開設や長崎での亀山社中・海援隊結成で、花咲くことになる。
 なかでも青少年時代に、御船倉の周辺で見た活発な船の行き来や種崎・仁井田の沖に広がる太平洋の大海原は、大きな影響を与えたと思われる。船は江戸・上方はもとより、長崎・下関・薩摩などから、様々な物産と情報をもたらしてきた。情報の一端は中城直守が文政から明治期まで記した『随筆』でも知ることができる。龍馬は、長崎とも取引をしていた川島春麿からの異国情報を、目を輝かせて聞いたのであろう。
 寺子屋にはほとんど行かなくても、豊かな生活環境のなかで自学自習を行い、自ら学ぶ喜びに目覚めていったのである。後に愚童と呼ばれた「龍馬の学び」にこそ、教科書中心の一斉授業とテストに明け暮れる現代の教育病理を克服する鍵があるようだ。(註 引用文は現代用語に変えてある)

(本稿は『大平山』第三八号 平成二四年三月 三里史談会刊よりの転載である)
ページTOPに戻る

100周年も間近、改めて母校の経営・教育方針を問う

 公文 敏雄(35回) 2014.03.27

筆者近影
 少子化、グローバル化など教育環境の大きな変化の中で、我が国の中・高等教育機関は将来の発展・存続を賭けた変革を迫られており、様々な動きが報じられております。一方、創立100周年を6年後に控えた母校はどうでしょうか? 母校を愛する一卒業生の立場から過去1年あまり理事会に質問を投げかけましたが未だご応答をいただけず、危機感が伝わって参りません。そこで、向陽プレスクラブの有志と問題意識を共有出来ましたらと考え、ここに拙文をご披露させていただきます。
 なお、改正私立学校法に拠った母校の「寄付行為」(会社の定款に相当)は、
 「理事長は、この法人を代表し、その業務を総理する」と定め、更に理事会には「学校の基本方針・・・その他学校の経営に関する重要事項を決定する」責務を課しています。理事の構成は、川崎康正、山本芳夫(校長)、池上武雄(理事長)、岡村 甫、西山彰一、岡内紀雄、青木章泰、小島一久、浅井和子の9氏(敬称略)です。
(以下は質問状の写しです。付属添付物は紙面の都合上割愛いたしました)
土佐中学校・高等学校
理事長、理事各位 殿
 平成25年11月1日
拝啓
 相次ぐ台風の襲来でぐずついたお天気が続きましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
 さて、昨年12月にしたためた「質問状」の写しをここもと添付致します。ご多用中まことに恐縮ながら、ご検分のうえご回答をいただけますと幸いです。
 なお、創立100周年を7年後に控え、初心を振り返ってみようと、私も含めた土佐中・高新聞部OB有志の手で、「土佐中学創立基本資料集」の発刊準備を進めております。「宇田友四郎翁」、「川崎幾三郎翁伝」、「三根先生追悼誌」、「土佐中学校要覧」などから建学関係部分を採録し、現代文対訳を付ける計画です。来年完成のうえはご高覧に供したく、よろしくお願い申し上げます。
 「古人を模倣するのではなく、愛するのであればよい」(岡倉天心「茶の本」)
敬具
追伸:
 10月25日付の日本経済新聞夕刊9ページ「生徒とひと:学びのふるさと」欄に建築家伊東豊雄さんの談話が掲載されていました。ここで紹介されている伊東さんの中学時代の恩師菅沼先生(「放課後に自分の教育理念を生徒に聞かせ、感極まって泣いてしまう熱血漢」)のような先生がたが私の通った土佐中・高にもいらっしゃいました。あらためて学恩を有難く感じております。
土佐中学校・高等学校
理事  浅井 和子
 様
 平成24年12月1日
拝啓
 先般お問い合わせがございましたので、同窓会関東支部報「筆山」2012年7月号への寄稿記事(注1)で触れました、母校の現状に対する小生の懸念について敷衍ご説明させていただきます。
 注1:筆山第52号記事「向陽新聞に見る土佐中・高の歩みD」のあとがき部分の拙文
 「32年2月の(向陽新聞)第35掲載記事『中学受験調査結果まとまる』によれば、『よい学校に入るため』とほぼ並んで『立派な人間になるため』が本校志望理由第二位に入っていた。『中堅国民ノ養成ハ論ヲ待タズ…進ンデ上級学校ニ向カヒ他日国家ノ翹望スル人材ノ輩出ヲ期スル』(本校設立趣意書)という伝統を、読まずとも感じ得ていたようである。ちなみに、建学の目的を達成するための教育方針や具体的施策が、創立期の学校要覧では教授心得の形で体系的に明示されていた。しかし、いつの頃からか、かかる肝心のことが風化して久しい。」(該当記事=添付資料1)
知りたいこと其の1:  本校の存在意義は何か、目的・目指す姿は何か
 学校設立の目的は、少数英才教育により国家有為の人材を育てることでした(注2)。然るに、年月を経て環境が著しく変わったこともあって、今では文武両道を目指す進学校という大まかなイメージが、外部から見て、定着しているようです。
 本当にそうなのか、学校が目指す姿は実際どんなものかを知ろうと本校のホームページを読みましたが、どうも判然といたしません。たとえば、
「学校案内 校長挨拶」(注3)のタイトルが「報恩感謝の理念のもと社会に貢献する人材を育成する」となっておりますが、まず、「報恩感謝の理念」(注4)の意味がよく解りません。どういうことなのか、なぜそれが大切なのか教えていただきたいと思います。「社会に貢献する人材」も、これだけではイメージが湧きません。本文中に、卒業生が「国内外、各界を問わずめざましい活躍をしており」とあるだけで、踏み込んだ説明がありません。
 志(夢)を語れるような若者を育てるのであれば、まず学校が思いを熱く語ってほしいと思います。同窓会関東支部総会にご出席くださった歴代校長のご挨拶を過去何度か拝聴した限りでは、大学進学成績と運動部の活躍状況、そして寄付のお願いなどが主要な内容でした。
注2:本校の設立目的(建学の基本理念)
 土佐中設立の趣意書(添付資料2をご参照)にうたわれています。また、本校30回生中城正堯氏による労作「母校を貫く建学の精神―川崎・宇田両翁と三根校長を巡って」(昭和34年発行「向陽クラブ」第2号に掲載)が参考になります(添付資料3をご参照)。
注3:校長挨拶(ホームページより)
 キーワ−ドを拾って要約すれば、「誇り高い土佐の校風をよりいっそう発展させ」「本県私学の旗頭たる自覚を支えに」「男女共学や中高一貫制、生徒定員の大幅増等の施策を導入」「新しい時代に対応する進学校としての実績」「友愛の心を育みあい」「伝統である自主的学習」「ワンランクアップの学力水準到達を目指して」「土佐中卒業者以外にも高校の門戸を開き、競い合いによる学力レベルアップと学習意欲の向上」「文化面でも恵まれた指導者と施設」「国内外、各界を問わず活躍する卒業生の状況を伝えて在校生への励みと将来目標決定の指針に」「建学の基本理念を確かめつつ、学問を重んじ、礼節を尊び、スポーツを愛する学校生活を通じ人格の完成と社会に貢献できる人物の育成に全力を挙げて取り組む」ということになります。(原文は添付資料4をご参照ください)
注4:「報恩感謝の理念」?
 在学中に配られた「生徒必携」(注3)の冒頭に、「開校記念碑文=大正12年1月建立」が掲げられておりました。「維新の際は薩長土と並称されて土佐から人材が輩出したのに爾来教育が振るわず人材が凋落したのを憂い、川崎、宇田両氏が巨財を投じて土佐中学校を創立した功績をここに称え継ぐものである。子弟が心身を鍛え徳を高め智能を大にして国家に尽くすことが、二氏の恩に報じ、かつ国家の恩に報ずることとなる」がその大意です。ここで明らかなことは、「報恩感謝」は帰結であって、「励めよ」が趣意でありました。今読めば、大いに励んで志を果たすことで先人や国家のご恩に報いよ!との檄文の意味を込めて生徒に読ませたものと解されます。しかし、私の在学当時は、(国のために尽くすという言葉を否定的に受け止める風潮もあり)国家の恩は横に置いて、設立者への報恩をあたかも本旨であるかのように語る向きもあって首をかしげた記憶があります。今はどう解されておるのでしょうか?
 なお、「生徒必携 昭和32年4月」は全46ページの小冊子で、前述の碑文に続いて年度重点目標、生徒の生活・学習態度自己評価基準、校歌、応援歌、学校沿革、学則、生徒会会則、職員名簿などを内容としていました。(添付資料5をご参照ください)
知りたいこと其の2:  ゴールへの道筋(施策・教育方針)
 学校の基本理念に共感する先生・生徒が、ワクワクしながらゴールを目指しているのだと考えたいのですが、ゴールへの道筋(施策、教育方針など)が提示されない限り、将来を期待するすべがありません。
 理念を先生・生徒に活かしていただくために何をやっているのか、教育の基本方針は何か、何に重点を置き、各教科をどう進めるのかを知りたいのです。 
 実は、麻布学園、開成学園、武蔵高校などのホームページでは、完璧ではありませんが、方針や施策を極力知ってもらおうとする苦心が見受けられます。(添付資料6をご参照ください)
知りたいこと其の3:  人材は適切か
 もうひとつ、どんな企業、団体、そして学校でも、発展のカギは適切な人材(価値観、性格、情熱、能力)です。担い手たる先生の採用方針(本校の先生は殆どが土佐の同窓生、例えば麻布学園は正反対)や質の維持・向上策はどうなっているのでしょうか。
 以上は、卒業後半世紀以上も経った1人のOBによる、外部から見た勝手な印象に基づくもので、誤解があればご容赦ください。
敬具
ページTOPに戻る

―100周年を前に母校に再び問う―
土佐中高理事会は機能しているか?   

公文 敏雄(35回) 2015.02.08

筆者近影
 環境の変化に直面して変わらなければ衰亡するしかないと、幾多の経験を経たリーダーたちが語っており、これは否定しがたい真理だと思われる。では、今世紀に入って顕著となった「環境変化」とは何かを考えると、IT革命、グローバル化、少子化、失われた20年・・・枚挙にいとまがない。かかる環境変化の荒波を乗り切ろうと、学校教育の世界でも、小中学校から高校・大学にわたる広い分野で教育改革、学校法人改革の動きが伝えられていることは、井戸の中に身を潜めていれば別として、誰しもが認めざるをえないであろう。
 たまたま目にした2月8日付の日本経済新聞朝刊「読書」欄に、早稲田大学教授川本裕子氏の書評「取締役会の仕事」(ラム・チャランほか著 日経BP社)が掲載されていた。少々長くなるが、その骨子を紹介したい。
「取締役会が機能するためには、その会社の基本理念が確立され、取締役と経営陣に意義が浸透していることが最も重要だと本書は主張する。基本理念が明確でないと、取締役会が会社の戦略を正しく導く基盤があいまいになるからだ。・・・最高経営責任者(CEO)の人選はその中でも取締役会が明確に責任を負うべき事項であり、『CEOの承継』『CEOを解雇する』の章に多くのページを割いている。人選がうまくいった例、失敗して会社が低迷した事例の紹介もリアルだ。・・・取締役会が本来果たすべき機能は何か、そのための条件は何かという『実質論』がもっと議論されないと日本の企業統治が世界から遠い状況は変わらない。」
 お察しかと思うが、書評の「取締役会」を「理事会」に、「会社」を「学校」に、「CEO」を「学校長」に、「企業統治」を「学校経営」に置きかえて試しにもう一度お読みいただきたい。読み替えてもさほど違和感がないのは、ご高尚のとおり、旧態然とした組織の経営・運営のありかた(ガバナンス)が今世紀に入って大きく変わろうとしており、ほかならぬ学校法人もその渦中にあるからである。近年、法制面でも会社法、公益法人法に続いて学校教育法、大学法人法、私立学校法などの改正が相次ぎ、その中核が21世紀に望ましい「ガバナンス」改革であり、理事・理事会の役割と責任の重科・明確化である。このような「環境の変化」をどうとらえ、それにどう対処していくか、理事や理事会のかなえの軽重が問われているのではないだろうか?
ページTOPに戻る

龍馬最後の帰郷と種崎潜伏

中城 正堯(30回) 2015.05.28

筆者近影
 慶応三年(一八六七)九月、坂本龍馬が最後の帰郷をした際に高知市種崎に潜伏したことは、昭和七年三里尋常高等小学校刊の『村のことども』で紹介されているが、郷土の記録を綿密に掘り起こしたのは山田一郎であった。本稿ではその成果を活用しつつ、高知市民図書館「中城文庫」に収録された中城直守・直楯親子の原史料を極力提示し、龍馬の種崎での行動の意義とその時代的背景を明らかにしたい。ここに示した「龍馬役者絵」は、明治二○年に高知座で初めて上演された「坂本龍馬一代記」の役者絵である。なお、文中で古文書引用の際には、読み下し文に直してある。
車輪船沖遠く来たり

「龍馬役者絵」藤原信一画 明治二○年
 坂本龍馬の乗った芸州藩震天丸が慶応三年九月二三日、種崎沖に現われたのをいち早く発見したのは、中城直守(助蔵)であった。彼は文政十年(一八二七)以来、『随筆』と題する筆録を死の前年明治十年まで五十年にわたって書き続けてきた。その慶応三年の項に、「九月二十五日早朝、車輪船沖遠く来たり。而して碇を下ろす。午時(正午)に袙渡合に入る。而して碇泊。芸州船の由」とある。
 直守は四年前の文久三年に、御軍艦奉行の旧格切り替えによる江戸雇いの車輪船乗員と旧来の御船手方のあまりの待遇格差に反発、種崎の松原に同志を糾合、先頭に立って連判状をつくり、反対運動を展開した。このために格禄を召上げられたが、慶応元年に長男・直楯による大廻御船頭継承が許された。隠居ながら、早朝には沖(太平洋)を見に家を出る習慣だったようで、舷側の車輪を回して走る蒸気船を発見したのだ。船が港外にいったん投錨後、浦戸湾に入って種崎の対岸にある御畳瀬の袙に碇泊するまでを見届けている。山田一郎は当日の月齢を調べ、港外で投錨したのは満潮を待つためであり、二五日としてある震天丸の来航は実は二三日であったと『坂本龍馬―隠された肖像―』で述べている。なお大廻御船頭とは、土佐から江戸へ直行する五百石ほどの帆走藩船の船長格であり、大坂までの小廻御船頭と区別していた。ともに下級武士・下士である。
 直守の『随筆』には、震天丸発見当時の様子に続けて、「才谷梅次郎・中島作太郎・小沢庄次等三人、使者の趣をもって上陸、夜に入り梅次郎(空白)二人吸江の亭に行く、渡辺弥久馬と対談あるの由なるを、弥久馬故ありて来ず、金子平十郎来たれる由也、すこぶる皇国に関係するところの大儀なる趣のよし、梅次郎は実は坂本龍馬なり。今この人、皇国周旋の事件に付きすこぶる名誉ありて海内の英雄ととなう」とある。『随筆』には数日間の出来事をいちいち日を追わずに記載してあり、この部分も龍馬たちの入港当日の動きだけではない。文中人物の中島は海援隊士、小沢は三条実美の家臣・戸田雅楽、渡辺は土佐藩仕置役、金子は山内容堂側用役であった。
 最も注目すべきは、「皇国周旋の事件」に触れていることだ。これは、慶応三年六月に「夕顔」船上で龍馬が後藤象二郎に説いてまとめ、長岡謙吉に執筆させた大政奉還の建議で、後に「船中八策」と呼ばれる。後藤はこれを山内容堂に示し、同意を得た上で九月一日から京に上っていた。「土佐藩政録」には、「九月、山内豊信(藩主)天下の形勢日にせまるを見て、後藤象二郎をして上京せしめ、書を幕府に上り、土地兵馬の大権を朝廷に奉還し、王政を復古し、ひろく衆議を採り、富国強兵の鴻基(天皇の大事業の基礎)を建て、万国と信義を以て交際を結ばんことを請う」とある。九月に入り、薩長は大政奉還を幕府が拒んだ場合にそなえて兵を上京させ、武力蜂起の準備をしていた。土佐藩にも建白書提出にとどまらず、武装強化・兵員上京という武力行使の準備を促すための帰国であった。
才谷は色黒、満面よみあざ
 直守は全く触れていないが、龍馬が帰郷したこの日、中城家には龍馬から震天丸に迎えに来て欲しいとの知らせが届いたようで、直楯は小舟をこぎ寄せ、密かに龍馬一行を中城家に案内していた。その記録は、直楯の長男・中城直正(初代高知県立図書館長)が、残した『随聞随録』(明治四○年筆記)にある。母・早苗からの聞書である。
「坂本龍馬 才谷梅太郎。母二二の時、直正出生の前年来宅(母妊娠五ヶ月の時)、一絃琴を玩べり。坂本は権平の弟にして郷士御用人、本丁に住す。才谷は色黒、満面よみあざ(そばかす)あり。惣髪にて駐重紋付羽織袴。[白き絽なる縞の小倉袴]梨地大小(打刀と脇差)、髪うすく、柔和の姿なり」。続いて小沢・中島などの姿・容貌にも触れ、「氏神神事の日(旧九月二三日)に来宅。旧浴室にて入浴。いずれも言語少なし」とある。
「当時坂本は小銃を芸州藩の船に積込み、佐々木(高行)に面会のために土佐へ来たれり。本船は(袙にある)袂石のところに着く。父上(直楯)、その朝召に応じて出で行かれしが、能勢作太郎(後・楠左衛門、平田為七の甥)と共に一行を案内して薮の方より宅に導きしなり」。
 これが聞き書きの前半である。氏神とあるのは、仁井田神社(高知市仁井田)であり、神事とはその秋祭りの日であった。「その朝召に応じて」とあるが、だれから呼ばれたのかは記載がない。おそらく、才谷(坂本)からと記した依頼状が届いたのであろう。では、なぜ直楯が呼ばれ、またすぐ迎えに向かったのだろう。それは安政地震まで中城家の六、七軒東にあった御船倉御用商人・川島家と、坂本家との繋がりによると山田一郎は述べている。
 この三家(坂本・川島・中城)の当主は和歌で結ばれており、川島に残る『六百番歌合』には、種崎の歌人として知られる杉本清陰・川島春麿(春満・通称猪三郎)、そして中城直守とともに、龍馬の父・坂本直足(郷士)の名が記されている。坂本家と川島家は歌で結ばれていただけでなく、妻を亡くした八平の後添いに、やはり川島家に嫁入りしたが未亡人になっていた北代伊与が迎えられた。龍馬十二歳の時である。「故に龍馬は幼時その姉(おとめ)とともに、たびたび川島家に遊びたり」と、『村のことども』で川島家の親戚・木岡一は語っている。直楯は龍馬より六歳下であるが、川島家の子どもたちとともに、龍馬に遊んでもらった仲と思われる。
 今回の龍馬帰郷は、後藤象二郎の斡旋で二月に脱藩罪が許され、四月には土佐海援隊長に任命された後とはいえ、藩内には反勤王・反後藤の根強い勢力もあった。ライフル銃千挺を運んで、幕府が大政奉還に応じない場合は土佐藩に決起するよう奮起をうながすのは、危険な交渉であった。しかも同志・後藤は京におり、まずは城下から離れた種崎に潜伏、使いを出して打診せざるを得なかった。本来なら身を隠すには川島家に頼るところだが、安政元年の大地震で種崎は津波の被害を受け、川島家は安全な仁井田へ移転していた。そこで、幼なじみの直楯を頼ったのであろう。この時、直楯は二五歳、前年に村内の医師・浜田井作(収吾)の娘・早苗と結婚したばかりであった。井作は直守の実弟だが浜田に婿養子で迎えられた身で、直楯・早苗はいとこ同士の結婚であった。
土藩論を奮起せしめんと帰国

 直楯は龍馬たちを乗せた小舟を種崎の〈中の桟橋〉に着けると、裏の竹やぶの方から中城家に案内した(地図参照)。中の桟橋は、仁井田から桂浜に向かって浦戸湾口に突き出た砂嘴・種崎の中ほど浦戸湾側にあり、安政地震まではすぐ側に川島家の屋敷があった。龍馬にとってはおなじみの土地だ。桟橋からの道はやがて大道りと交差、左折してしばらく行くと左側に中城家の表門がある。しかし、この日は仁井田神社の秋祭りで表通りは人の行き来が多いため、浦戸湾沿いの裏通りを進み、竹やぶの小道を抜けて中城家の離れに案内している。この竹やぶは、筆者の少年時代まであったが、藩政時代に仁井田浦の土佐藩御船倉と種崎の民家をさえぎるために植えられたと聞いていた。では、『随聞随録』にもどろう。
「父上先に入り、坂本、中島が、まだ湯は沸いておるかと云いしに、皆入浴せし後なりしが再び沸かせり。坂本は、(当時、時勢切迫の時期を気遣い)土藩論を奮起せしめんとて帰国せしなり。祖父(直守)に叔父(直顕)のブッサキ羽織を着せたり。 宴会の席にて御歩行・松原長次、しきりにしゃべりおりたり。一同茶の間にて食事、小沢は自ら井戸をくむ。中島は津野へ、坂本は小島へ寄り、舟へ帰るとて宅を出たり。小沢の宿は紺屋広次方なり。浜田祖父(医師・早苗の父)診察す。
 二、三日間、母は湯の加減等をなせり。坂本氏より鏡をもらいしと云う。坂本は入浴後、裏の部屋に休息 [雑踏を避けしなるべし]、襖の張付けを見居りたり。母火鉢をもち行しに〈誠に図らずも御世話になります〉といえり」。
 この聞書からは、当初言葉も少なかった一行が、入浴後の食事の席では、幾分くつろぐ様子がうかがえる。ただ饒舌な松原に対し、寡黙だった龍馬の姿には内に秘めた決意の重さが感じられる。山田一郎は、「早苗はこの年二二歳で、妊娠五ヶ月、直正をみごもっていたが、その記憶力はすばらしい。彼女は龍馬をはじめ全員の風貌、服装まで鮮やかに再現して語っている。特に龍馬の言葉やものごしまで、これほどリアルに伝えている文章を読んだことがない」と観察眼を評価している。早苗にとって、天下の国事に奔走する龍馬の姿には、強く惹かれるものが感じられたのであろう。 直楯は、神事(神祭)で来客の多い表座敷は避け、裏の離れに案内している。

龍馬が潜伏した中城家離れの座敷 筆者撮影
この離れは今に残っている(写真参照)。龍馬が見た浮世絵を張付けた襖二枚も、昭和末まで使ってきたが高知市民図書館に寄贈、「中城文庫」に納まっている。浮世絵は、江戸後期の人気絵師であった国貞(豊国三代)や国芳の美しい源氏絵(三枚続)が中心であり、直守や直楯の江戸土産であった。龍馬が浮世絵好きであったことは、明治二九年刊『坂本龍馬』(弘松宣枝著)や昭和十二年刊『土佐を語る』(重松実男編著)でも述べられている。母・早苗がもらった鏡は失われたが、同じ鏡の図が『村のことども』にある。直経六a弱の円形で、裏面は月桂樹の小枝の中央にPARISの文字を刻んである。フランスからの輸入品であろう。
 中城家では表座敷を避けただけでなく、かなり用心した様子が、直守にブッサキ羽織を着せたことで読み取れる。打裂羽織とは、帯刀に便利なように背縫いの下半分を縫い合わせていない武士の羽織である。「時勢切迫・土藩論を奮起」の文面には、大政奉還建議をひかえ、武装蜂起の決断がいまだ出来ない土佐藩への、龍馬の苛立ちが読み取れる。 聞書に「坂本は小島へ寄り、舟へ帰るとて宅を出たり」とある。当時、中の桟橋の川島家屋敷跡に住んでいた小島家の様子は『村のことども』にあり、九歳だった木岡一の談話として記されている。「外祖父・土居楠五郎氏(日根野氏門における龍馬の兄弟子)とともに、種崎神祭小島氏宅へ行きしに夕刻突然龍馬来たりしなり、・・・その夜土居氏との対面実に劇的シーンなりしも、少年一は偉丈夫なんぞ涙するや、と思いしという。・・・少年一がギヤマンの鏡を土産としてもらいしは、この夜なり」。
 当時の小島家当主・亀次郎は山内容堂の秘書役をしており、妻の千蘇は川島家の出、嫡男・玄吉の妻・田鶴もまた川島家から迎えていた。田鶴は、幼い頃から龍馬を慕っていたとされるが、この時は結婚して二年目、まだ十九歳であった。二人の再会の様子は伝わっていない。また、亀次郎の妹・直は、医師・今井幸純と結婚、その子が龍馬の秘書役を務めた海援隊士・長岡謙吉(今井純正)であった。(小島家については、田鶴の曾孫・小島八千代さんから平成十四年にいただいた「小島家系図」による。)
湯かげんや小舟こぎで支えた夫妻

龍馬潜伏を助けた中城直楯・早苗夫妻 
 龍馬は種崎に潜伏し、土佐藩との交渉を進める。九月二四日に潜伏先から仕置役・渡辺弥久馬(後の斎藤利行)に出した手紙が残っている。「・・・手銃一千挺、芸州蒸汽船に積込み候て、浦戸の相廻し申し候。参りがけ下関に立ち寄り申し候所、京師の急報これあり候所、中々さしせまり候勢い、一変動これあり候も、今月末より来月初めのよう相聞こえ申し候、二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、その節長洲人数も上坂(是も三大隊ばかりとも存ぜられ候)との約定相成り申し候。小弟、下関に居の日、薩・大久保一蔵、長に使者に来たり、同国の蒸汽船を以て本国に帰り申し候。御国(土佐)の勢いはいかに御座候や、また後藤参政はいかが候や、(京師の周旋駆馳、下関にてうけたまわり、実に苦心に御座候)。乾氏(板垣退助)はいかがに候や、早々拝顔の上、万情申し述べたく一刻を争いて急報奉り候。謹言 坂本龍馬 渡辺先生」。(『坂本龍馬関係文書』)
 こうして龍馬は種崎から小舟で使者を出し、土佐藩の首脳と交渉、数度にわたる会見の末、ついに二七日の土佐藩評定によって、大政奉還の確認と武力討伐に備えてのライフル銃千挺の買い上げが決定した。『随聞随録』に、「二、三日間、母は湯の加減等をなせり」とあり、中城家には二、三回来たようだ。土佐藩との交渉は初めは吸江(五台山)や松の鼻(常盤町)の茶店で隠密に行われたが、やがて城下の役宅に席を移す。この間、袙の震天丸・種崎の中城家・吸江や松の鼻、さらに高知城下の土佐藩役宅を結ぶのは、浦戸湾と江の口川・鏡川などの河川であり、御船頭の中城直楯とその配下が小舟をあやつり、上げ潮・引き潮の流れを読みながら、巧にこぎ渡ったと思われる。 龍馬は念願の交渉をまとめ、本町の坂本家にも帰って家族と再会したが、十月一日には慌ただしく震天丸で大坂をめざして浦戸を出港する。中城直守の『随筆』には、「朔日朝、右艦(震天丸)浦戸を出つ」とあり、種崎の浜では、中城直守たちが見送ったことであろう。荒天のなか室戸沖まで進んだが、荒れ狂う波浪に翻弄されて船体を破損、いったん須崎に避難、五日土佐藩差し回しの蒸汽船胡蝶で再度出港する。
 龍馬は十月九日に京都に到着、その四日後の十三日に徳川慶喜が二条城で大政奉還を表明する。この日、建白書受諾の知らせが届く以前に龍馬が後藤象二郎に出した手紙には、「建白の儀、万一行われざれば、もとより必死の御覚悟ゆえ、(先生が二条城から)御下城無の時は、海援隊一手を以て、大樹(将軍が御所へ)参内の道路に待ち受け、社稷(国家)のため不(倶)載天の讐を報じ、事の正否に論なく先生に地下に御面会仕り候」とある。建白書が受諾されない場合は、「後藤は二条城で切腹するだろうから、自分は海援隊を率いて御所参内の将軍に報復、あの世で会おう」と、決死の覚悟を記したものだ。
 ところが大政奉還受諾のこの日、朝廷は薩長に倒幕の密勅を下す。徳川慶喜の決断に感激したとされる龍馬は、密勅など知らぬまま十一月二日には福井に三岡八郎(由利公正)をたずね、国の財政策を授かる。新政府の実現に懸命に働くが、十五日に京都近江屋で中岡慎太郎と面談中、刺客に襲われ横死する。 中城直守には十一月末に知らせが届く。『随筆』に「坂本龍馬、先だって御国に来たり。密かに周旋の意趣あり候後、京師に登り旅宿に居るある夜、国元より書状来たれりとて旅宿をたたく者あり。この宿の召使いの者、出てすなわち書状を受取り来たり龍馬に渡す。龍馬何心もなく披見するところに、外より忽然として五、六人入り来たるや否や抜打ちに一同無二無三に切付ける。無刀にてあしらう内、深手処々に負いて死す。・・・この来る者は関東よりの業にして、さるべき壮勇の浪士を雇いてかく切害せしとも、いずれ確かならず。今、海内に名を轟かし、殊に御国のため力を尽くせし龍馬なる者を、ああ惜しむべし惜しむべし。なお詳しき事聞きたし」と記し、慨嘆している。 直楯の『随筆』には、吉村虎太郎たち天誅組の大和での壊滅、武市半平太の獄死などについては、無念の思いは秘めて淡々と記録してあるが、龍馬殺害の知らせにだけは、「ああ惜しむべし惜しむべし」と、心情を率直に吐露している。
大政奉還へ!龍馬奮戦の足跡
 龍馬最後の帰郷は、大政奉還による近代日本誕生への最後の布石のためであった。幕府への土佐藩からの建白書提出には、拒否されないよう薩長とともに武装蜂起も辞さない軍事態勢の誇示も必要だった。これは単なる土佐藩びいきの提案ではなく、薩長のみでの倒幕への暴走を防ぎ、王政復古をとなえつつ、平和裏に近代国家建設を成し遂げるための妙案でもあった。
「日本を今一度せんたくいたし申し候・・・」(文久三年)と考えた龍馬が、その最後の施策として、土佐藩による大政奉還を迫った舞台が、少年時代から慣れ親しんだ浦戸湾であり、種崎であった。その現状を簡単に報告して稿を終えたい。
 種崎の太平洋に面した海岸は、今に松林が広がり千松公園となっているが、黒船に備えて造られた台場(砲台)のあとは砂に埋もれて消えた。龍馬の乗った震天丸が通った湾口には、浦戸大橋がかかり、桂浜と結ばれている。種崎の先端は、昭和四一年からの航路拡張工事で切り取られ、御畳瀬の名勝・狭島も除去された。しかし、震天丸が碇泊した袙の海岸は幕末の風情を今にとどめており、袂石も健在である。
 袂石から龍馬たちが小舟で渡って上陸した中の桟橋は、昭和三十年代からの自動車の発達によって役割を終え、地名のみ残った。龍馬が歩いた湾岸の景観も、中洲の埋め立て、竹やぶ・桃畑・空き地の宅地化などによって、すっかり変貌した。わずかに龍馬が潜伏した中城家の離れのみは、老朽化したが残っており、平成二二年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』でも、「龍馬伝紀行」の中で紹介された。龍馬がその志の実現に向けて、決死の行動をとった土佐での最後の舞台であり、三里史談会有志の協力もいただいて保存に努めている。
 龍馬潜伏にかかわった中城直楯は、その後陸軍築城掛となり、和歌を楽しみつつ東京・広島・新潟などで勤務し、明治二二年陸軍歩兵大尉で退任、明治二七年に種崎に帰郷する。長男直正に母・早苗が龍馬潜伏の状況を語ったのは同四○年、写真はその頃の夫妻である。
主要参考文献
 『中城文庫 目録・索引編』『中城文庫 図版・解説編』高知市教育委員会 二○○二、二○○三年刊
 『村のことども』三里尋常高等小学校編・発行 一九三二年刊
 『坂本龍馬関係文書一、二』北泉社 一九九六年刊
 『坂本龍馬―隠された肖像―』山田一郎著 新潮社 一九八七年刊
ページTOPに戻る

新聞とネット、主役交代が鮮明に
「保育園落ちた日本死ね」騒動が示すもの―

公文 敏雄(35回) 2016.04.08

筆者近影
 今年の2月15日、ひとりの子育て主婦がネット掲示板に匿名で投稿した五百字ほどの記事「保育園落ちた日本死ね」(子供が保育園に入れなかった。働けないよ、どうする。国会議員を半減してでも保育園を作れ!という訴え*(注)が、またたく間にフェイスブックなどネット口コミで拡がり、ヤフーなどのネットニュース、更に朝日、NHKを含む主要テレビが報道、29日には衆院予算委員会で取り上げられた。 
 野党議員の質問に安部首相や関係閣僚がバタバタする場面や、取ってつけたような保育園増設促進・保育士給与引き上げなどの諸策の発表をテレビ・新聞がフォローしたので、ご記憶の方も多いであろう。
 (注=原文は、「はてな匿名ダイアリー」 に掲載されています)
 私がこの騒ぎの発端を知ったのは投稿の2〜3日後にネットで見たヤフー・ニュースだった。テレビ・新聞はまだ触れていない。「日本死ね」は過激だし、趣旨も目新しくは無さそうだと読み流してしまい、その後の波紋の拡がりを想像できなかった。 
 旬日のうちに思い知らされたのは、ソーシャルメディア(ネット掲示板、ブログ、SNS=フェイスブック・ツイッター等)やネットニュースサービスなどを媒体として大衆の間でネズミ算的に爆発する口コミ(良かれ悪しかれ)の脅威であり、(政治のお粗末さはさて置くとして、)表舞台に上がり損ねた新聞の頼りなさであった。
 前世紀半ば過ぎまで数百年にわたりメディア(情報媒体)の王者として君臨してきた新聞だが、戦後普及したテレビとの棲みわけが一段落したと思ったら、近年は難敵インターネット(ネット)に襲われ、今や中原を追われかねない様相である。スマートフォンを操作する乗客だらけの通勤電車に乗れば事態は一目瞭然とはいえ、念のため直近の統計を調べてみた。
 ネットの利用者は昨年1億人を突破(総務省)、広告費収入(5,615億円=経産省)も新聞広告費収入(3,580億円=同)を大幅に凌駕して増え続けている。一方、新聞発行部数は落ち込む一方で1990年代のピークから1千万部減らして昨年は44百万部(日本新聞協会)、頼みの新聞広告費収入も同期間に半減(経産省統計)している。「新聞離れ」は蔽い難い事実だということがわかる。
 さて、新聞は、この不都合な真実=「パラダイム・シフト」に対処して種々の策を講じていると考えたいが、統計を見る限りでは、時代に取り残されつつあると言わざるを得ない。そこで、長年の忠実なる読者の目から見た「ここがおかしいのでは?」を幾つか挙げてみよう。
1.経営理念
 「公正な報道」を掲げるならば、右に偏らず左に偏らず、米英側に非ず中ソ側に非ず、この国を愛するという基本を踏まえてほしいが、紙面を見る限りでは、必ずしも看板どおりではないようだ。経営理念(社是)が不鮮明だったり揺らいでいたりすると間違いや迷走が起こり、衰退していくのは、業種を問わない真理ではないだろうか。
 例えば「権力を監視する、暴走を防ぐ」までは頷けるとして、某紙のように「反権力」(権力=悪)を唱え出すとおかしくなる。勢い余って「反日」となると、とてもお付き合いできない。また、昔ながらに政府・資本家(悪)対市民・労働者(善)と社会を二つに割り切るあまり、現実から遠ざかっているのではと感じることもある。
 「社会の木鐸」(世人を覚醒させ、教え導く人=広辞苑)の役割も崩れかけているようだ。メディアと大衆との間に大きな知識・情報格差があった時代ならともかく、今の世ではいかがなものだろうか?人間としても立派なプロ中のプロたる記者・編集者を揃えたうえでの話ならば別であるが、エリート意識が歩いているような新聞人が少なくないのが気がかりである。
2.報道商品の品質
 ネットの弱みである「報道の正確性、信頼性」はどうだろうか。偏見に基づいたねつ造や誤報が記憶に新しい。或いは、政府や、政党、企業、団体の伝声管・拡声器に堕していないだろうか。情報が溢れかえっている時代だからこそ、「取材力・判断力」に加えて「編集力」(加工ではない)が期待されているのではないだろうか。(かつての社説や新聞小説に代わって、今や書評欄が最も読まれかつ影響力が有ると聞き及ぶ。)
3.販売ルート
 新聞販売店を通じた宅配は、紙面広告と違って、ヒモの付かない貴重な収入源だといわれる。しかし、運営方法次第で、これが資産にも負債にもなりそうである。流通業界の激しい変動を見るにつけ、経営資源の投入が不可欠だと思われるが、古臭いままに放置されてはいないだろうか?
4.時代への適応(IT化、少子高齢化、グローバル化)
 上に挙げた根本問題に加えて、時代変化への機敏な対応・適応が求められているのは言うまでもない。似たりよったりの電子版が答えなのか?たとえば有力ブロッガーのコラムを設けるとか、若者、子育てママ、介護者、外国人ジャーナリストなど外部に紙面編集や執筆を託してみるなど、色んな試みがもっと出てきてよいのではないか?新聞が変わるのは無理で、恐竜のように死に絶えてしまうしかないのだろうか?就職人気企業ランキング上位に有力紙が名を連ねた時代を知る者として、哀惜に堪えない。
 恥ずかしながら管見を連ねましたが、皆様のご教示・ご意見が頂けますと幸いです。
ページTOPに戻る

『新聞とネット、主役交代が鮮明に』への感想

中城 正堯(30回) 2016.04.16
公文敏雄様
 最近の「新聞報道」へのご意見、報道のあり方を真剣に考えているようで、感心しました。小生の感想をお伝えします。

筆者近影
 まず、山尾志桜里議員の首相への質問、たまたまテレビ中継を見ていまし た。さすが元公文の優秀児らしい、追及ぶりで感心しました。首相の答弁は かなりおざなりでした。横浜のS先生の教室出身で、生徒の頃の勉強ぶりを 思い出しました。 翌日の新聞ではあまり取上げられていませんでしたが、ネットで火がついて、 新聞は後追いになっていました。
 新聞報道のあり方、1.経営理念としての「公正な報道」、2.報道商品の品質 「報道の正確さ」・・・、これらよりも大切なことは、「真実の追及」ではないでしょ うか。「なにが公正か」は立場によって異なり、新聞報道は公正より「真実」を 大事にすべきです。真実の追及なら、反体制も反権力も関係ありません。また 新聞が、体制にどんな姿勢をとるか、各社に違いがあって当然です。
 ただ、ミスリードのあった場合は率直に読者に謝る必要があります。かつて事実 に反し、民主党のひどい提灯持ちをした評論家が、今もテレビでしゃべっている のを見るとがっかりです。新聞社も記者も、そして政治家も「けじめ」が必要です。 山尾さんも、タクシーカードについて、真実を明らかにする必要があり、報道 機関には、保育問題の実態と共に、この追及も必要です。
 マスコミは、新聞もテレビも花形職業になりすぎ、高学力か有力なコネがないと 入社できず、「真実の追及・報道」に命をかける人材が社内に少なくなりました。 今では活字の世界では週刊誌、それも外注のフリーランス記者の執念によって 特ダネが生まれている実情です。あとは、活字媒体でないネットの世界の活性化 がたよりです。
 なお、公文の優秀児とは、在籍学年より先に進んで教材を解く力を付けた生徒で、 山尾さんは小学6年で高校程度に進み、トップグループにいました。同時に、中学 ではミュージカル「アニー」の主役も務め、東大法学部に進みました。
 吉川さんはじめ、マスコミ関係者のご意見もお聞きしたいです。
ページTOPに戻る

教育ビジョンとは何か?

公文 敏雄(35回) 2016.06.07

筆者近影
 いわば第二の建学が期待されている母校の創立100周年が目前です。それに呼応する動きとして、山本校長によれば、新たな寄付制度「土佐中高・新世紀募金会」の内容が近々発表されるよし(「向陽」2015年11月号)ですが、どんな学校を目指しているのかという教育ビジョンを含めた、募金の「趣意」を先ずは示していただきたいと思います。
 たまたま、九州に新しい小中一貫私立学校が出来るという下記(末尾)のような報道記事を見て、「設立趣意書」を取り寄せてみました。なかなか立派な内容なのでここもとご紹介させてください。参考になるのではないでしょうか?              
「志明館小中学校」設立趣意書のPDFファイル添付
・・・・・・・・・・・・・・記・・・・・・・・・・・・・・・・・

「志明館小中学校」設立趣意書の一部
 小・中一貫校設立で調印 立地、福岡・宗像の市有地に福岡の経済界や教育界の有志が設立を目指す小・中一貫校の立地場所が福岡県宗像市の市有地に決まり、同市役所で19日、谷井博美市長と発起人会幹事会代表の橋田紘一氏(九電工相談役)らが基本協定書に調印した。校名を「志明館小中学校」(仮称)とし、平成30年春の開校に向け本格始動する。 
 予定地は宗像市河東にある森林丘陵地の市有地約5万平方メートルで、今後市議会に提案し、貸借か売却かなどを決定する。総事業費は40億〜50億円とみられ、経済界、教育界で作る発起人会を中心に、賛同者からの寄付金でまかなう。
 志明館は、戦後教育が子供の自主性や権利を過度に重視してきた反省に立ち、かつての「武士道」的教育と、学力向上によるリーダー輩出を目指して、経済界を中心に構想が浮上した。発起人会が、宗像市と立地について協議を重ねてきた。
 宗像市は、福岡、北九州都市圏の中間で交通の利便性が高く、自然環境が豊かなこともあり、新設校の立地に適切と判断した。市内にある福岡教育大などとの連携も望めるという。
 男女共学の1クラス35人で、1学年3クラスを想定する。教育理念は「知・徳・体の総合力を培い、使命感と志にあふれた明るくたくましい人材を育成する」ことを掲げた。週6日制で授業を実施し、福岡県トップレベルの高校進学も目指す。(以下略)
以上 (2015年1月20日 産経ニュースより)
ページTOPに戻る

2016年(平成28年)8月22日(月曜日)一高知新聞『所感雑感』
浦戸城趾に"元親やぐら"を

中城 正堯(30回) 2016.08.25

筆者近影
 桂浜を訪ねる度に大変残念に思うのは、観光開発の陰で素晴らしい自然景観と史跡が損なわれていることだ。特に、史跡として重要な長宗我部元親の居城「浦戸城」の本丸(詰の段)周辺が、観光道路・国民宿舎・駐車場によって破壊されている。
 かつて山内一豊の入国と高知城築城にともない、浦戸城の三重天守は三の丸の櫓となり、石垣はすべて運び出されたとされていた。しかし、山内家「御城築記」に「苦しからざる所はこわし取り」とあるとおり、本丸周辺の石垣はかなり残してあったことが、1991年からの浦戸城址発掘調査で判明した。当時の高知新聞には、「南北総延長約百mにわたる石垣群を発見」とある。石垣は裏込石を使った高石垣であり、瓦や鯱などの出土品もあつて、浦戸城が四国で最も早く「土の城」から脱皮し、天守と高石垣を備えた先駆的「石の城」であつたことを示していた。

浦戸城本丸址からの眺望
 ところが、地元民の保存運動にもかかわらず、石垣は調査後に埋め戻され、本丸跡はかえって見苦しい状況となった。しかし、太平洋に突き出た半島の地形を巧みに利用して縄張りされた浦戸城の各曲輪の跡や、堀切・竪堀などはまだ残っている。水軍の基地であった浦戸の漁港や、城下町に組み込まれていた 種崎を含め、浦戸城の遺構を保存しつつ、貴重な高石垣など城址の復元にむかっての長期的取り組みが望まれる。
 そして、早急に着手して欲しいのは、本丸跡への"元親やぐら"の建造である。元親にとって浦戸城は、初陣で長浜城に続いて勝ち取った思い出深い城であり、周辺の地形も熟知していた。後に浦戸湾口を本拠地にしたのは、秀吉による朝鮮出兵だけでなく、国内交易にも、堺や薩摩にならっての南蛮貿易にも、造船・海運・水軍が不可欠と考えたからだ。この雄大な構想を育んだのは、城山からの360度の大眺望であろう。南には大空と大海原が果てしなく広がり、北には浦戸湾の彼方に四国山脈がそびえ立つ。

樹林におおわれた天守台址
ここに建てた天守は単に湾口の監視塔ではなく、壮大な夢の発想基地であった。
 桂浜の魅力は箱庭的海浜ではなく、城山に立って初めて味わえる自然と歴史が織りなす壮大な景観美だ。だが今に残る天守台は、樹林に覆われて展望がきかない。そこで、天守台の隣接地に、丸太組みで浦戸城三重天守と同じ高さの望楼"元親やぐら"を建てることを提案したい。中世から土佐の特産品であった材木を、伝統の技で組み上げ、元親と同じ目線で絶景を楽しみ、潮風や海鳴りを五感で味わって感性を呼び起こし、自らの生き方に思いを馳せる思索の場とするのだ。
(財団法人日本城郭協会顧問)

高知新聞『所感雑感』
<追記>
 新聞に掲載後、早速地元の方々から電話をいただきました。その中で気になるのは、従来通りの観光開発がすでに二つも立案されていることです。それは、県立坂本龍馬記念館の新館増設と、高知市による「道の駅」新設で、ともに自然環境・史跡への保護がどれだけ配慮されているか疑問です。今回の原稿が、桂浜および浦戸湾口の自然と史跡の保護活用に役立つ事を願っています。
ページTOPに戻る

続・教育ビジョンとは何か?

公文 敏雄(35回) 2016.11.25

筆者近影
 本年6月7日、向陽プレスクラブHP主張・論評欄で、平成30年春開校予定の小中一貫校「志明館小中学校」が掲げる教育ビジョンを紹介させていただきましたが、このほど建学構想の詳細が同校ホームページ(http://shimeikan.education/)で発表されました。
 「設立目的」(ビジョン)、「教育方針」(戦略)、「教育内容」(具体的施策)という経営計画3原則を踏まえた、丁寧で解りやすい内容になっています。地元の政・経・教育界有志が注ぐ熱い思いの顕れという点で、土佐中學校創立時のいわゆる「建学の精神」(向陽プレスクラブ編の冊子「土佐中學を創った人々−土佐中學校創立基本資料集」に詳述)を髣髴とさせ、かつ21世紀の時代環境に即した新しい私学教育の一つのモデルケースとして、経年劣化の危機に瀕するいわゆる伝統校再生へのヒントを含んでいるのではないかと考えます。その骨子は以下のとおりです。
一、設立目的
「誇りと志のある」日本人の輩出
○世界に誇るべき日本人の長所である、「和・誠・礼・勇」の4要素を備えた人間を育成。
○幕末、明治維新の主力を担った多くの逸材を輩出した江戸の私塾教育、日本経済の礎を築いた明治・大正の大実業家、これら大いなる先達の生き方や残した言葉を手本として学び、その魂、熱意、大望をいま再び思い起こし、現代の日本で復活させる。
二、教育方針
「知・徳・体・志」を合一する初等教育。目指す人間像とは
○自国の歴史・伝統を正しく学び、美しき母国語を語る闊達な児童
○自己の意思を臆せず表明し、相手の意見にも耳を傾ける情操豊かな生徒
○健全な身体に鍛え上げ、万物と共生しつつ公に向かう使命感溢れる青年
○卓越した学力・識見を基盤とし、異文化への理解と敬意を湛える国際派日本人
三、教育内容
1.新教科の設置(国学に親しみ、国史を展き、現代を知る)
○新教科「国学」の設置
・神話・偉人伝に学ぶ…先人の生き方を手本にしながら、志を定める。
・古典素読…論語・十七条憲法・実語教等などに親しみ、生き方の芯を創る。
・美しい日本語…名作・名文を体系的に吸収し、和歌を詠み、敬語を伴う簡素な日本語の表現方法を学ぶ。
○新教科「総合日本史」の設置
・「国史」を中軸に据えつつ、自国と相関する世界史を合わせて学ぶ。
・世界と日本を形作った人間の営みを学び、人類愛と愛国心を涵養する。
○新教科「グローバル(現代世界)」の設置
・現代日本及び世界における社会現象や国民心理の淵源・経緯を遡及し学ぶ。
・自らの志とリーダーシップをもって、国際的に活動できる実践力を涵養する。
2.学力向上の取り組み(実学を深め、実践を重ねる)
○効率的学習メソッドの開発・導入
・民間教材メーカー・学習塾等と共同し、短時間・高効率の独自カリキュラムを開発・実践する。
・母国語や英語を駆使し、発表・討論・交渉活動を豊富に体験し、実践的コミュニケーション能力の育成を行なう。
○修学スケジュール及び制度の合理化
・低学年より教科担任制を導入、中学校二年一学期までには文科省指定授業全内容の修了(教科・習熟度別クラス分け)
○学外学力評価制度の導入
・校内定期考査(中間・期末テスト)を廃止し、代わりに全国統一模試・漢字検定・数学検定・TOEIC等の学外学力評価制度を採用しながら、分析的・客体的な習熟度を高める。
3.総合的な学習(自然に触れあい、伝統に遊ぶ)
○体験・実践型カリキュラムの導入
・和文化体験…「道」と名のつく茶道・華道・剣道・空手道などを早期から体験し、自国の伝統精神を学ぶ。
・放課後裏山遊び(小学校低学年)…自然に触れ友情を養いつつ、様々な遊びを創意工夫し日々心身を錬磨する。
・寄宿教育(小学校高学年より中学校卒業)…生活の基礎となる自律・礼儀・協調・切磋琢磨・5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)を、共同生活を通じて学ぶ。
・指定図書500冊読破・スピーチ大会出場・海外語学使節団…読書を通じ自ずと学ぶ姿勢を身に着けながら、得た学びや志を臆せず表明し他者へ伝達し得る言語力(日本語・英語)を学ぶ。また海外提携校へ語学選抜チームを派遣し、語学の練磨と文化交流から学びを得る。
○身心一如(肉体・精神不可分)教育の実践
・クラブ活動・部活動…積極的競争主義を基盤に優劣を明示し、高い目標設定と勝利へ向かう不屈の精神を学ぶ。
・毎月登山(夏は遠泳・冬は寒稽古)…大自然の中で規律と忍耐を養い、頑健な身体を作る。
・校内農園・食育…農作業を通じ、生かされている事、「いのち」をいただく万物への感謝、和食の高度な文明性を学ぶ。
○その他
・地域学習…地元宗像大社の諸行事に奉仕し、温故知新の精神を学ぶ。
・ジョブシャドー・インターンシップ…親の職場体験・地域の企業見学を通じ、家族の絆を確かめ、経済活動の現場を垣間見る。
ページTOPに戻る

―このままでよいのか高知市の桂浜公園整備案
狭い場所に建設工事が目白押し

公文 敏雄(35回) 2017.02.01

筆者近影
 街づくりのボランティアグループ「森の中の高知駅」ホームページに「高知の観光名所」(桂浜)というスペースを新設した機会に、高知市ホームページに公表されている「桂浜公園整備基本構想」をじっくり読んでみました。その感想は、「いったん白紙に戻して出直すのがベストでは?」というものです。
理由をいくつか挙げてみます。
○狭い場所にあらゆる整備計画をてんこ盛り
 大小の駐車場、土産物売店、飲食店、宿泊休憩施設、催し物賑わい施設、複数の展望台、遊歩道と案内板、エレベーターやエスカレーター、遊覧船発着係留施設、親水テラスなどの整備・新設、龍馬記念館増設、樹木の剪定と伐採などなど、方々から出たアイデアを全部取り込んだような感じです。これではまるで博覧会場です。
 基本構想の「理念」としてうたう自然景観の保全とどう折り合いをつけるのでしょうか? この整備案には「景観評価」が完全に欠落しています。
○今ある施設をまず全部取り去ることから始めよう
 駐車場は桂浜公園内に無ければいけませんか? 水族館は浦戸湾岸に移設して日本一の「こども水族・水遊館」に衣替えすれば、遠足や家族連れで賑わうでしょう。龍馬記念館も桂浜公園を離れたらずっと立派なものができるでしょう。土産物屋や飲食店、宿泊施設、賑わい施設、展望台、船の発着場なども同様です。 
 移設先候補は近隣地区の遊休地・空き家などです。龍馬像など「絶対桂浜に置かなければならないもの」だけの整備に絞り込むことで、白砂青松の広大な自然、月の名所とうたわれた景勝地が復活し、周辺地区の潜在価値掘り起こし(活性化)にもつながるのではないでしょうか?
○種崎、長浜、御畳瀬、浦戸湾を外して「歴史」を語れますか?
 もうひとつの基本理念は「歴史」ですが、これを桂浜公園という狭い地域だけで表現するのは無理があり、かつ勿体ない話です。かつての漁師町長浜・御畳瀬、交易と水軍の里かつ龍馬ゆかりの種崎・浦戸湾などは貴重な文化遺産です。過去千年にわたる人々の営みと歴史ロマンに事欠かない周辺地域を含めた歴史公園化を目指して、龍馬を生んだ土佐らしい壮大なデザインを描いたほうがよいのではないでしょうか? 
○住民、都市景観専門家、行政で徹底的に議論を重ねよう
 長年にわたってみんなに愛され親しまれてきた桂浜です。無理な急ぎばたらきはよして、各地のプロジェクト事例に学び、近年発達が著しい景観デザイン、都市デザインの専門家の知見も取り入れ、お互いに議論を戦わせてベストな計画を作り上げたいものです。
(「森の中の高知駅」幹事)
****************
種崎の御船頭の末裔で浦戸湾に造詣の深い中城正堯(30回)さんから次のご意見が寄せられました
 公文敏雄さんの「桂浜整備計画」への意見に、全面的に賛成です。今後の観光開発は、自然景観と歴史的遺産の保存・活用を抜きにしては語れません。
 戦後の高知の行政は、浦戸湾関連に限っても、浦戸城趾の破壊による国民宿舎・龍馬記念館の建設、狭島の爆破、種崎中洲の埋め立てなど、貴重な史跡・自然の破壊が目に余ります。
ページTOPに戻る

小村彰次期校長訪問記

公文 敏雄(35回) 2017.02.25
小村 彰 先生より

ご注文の写真ですが、元がよくないので
あんまり写真を撮られたくない方で、手
持ちもありません。教職員プロフィール
をスキャンしたもので、ご容赦下さい。
 多くの皆さまから本校へのご協力をいただけるよう、精一杯努力してまいりますので、何かできることがございましたら、ご遠慮なくお声かけをいただければと思っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。
略歴
 土佐中時代  野球部    
 土佐高時代  バドミントン部
(2年連続団体・個人単複インターハイ出場)
    
 1974  土佐高校卒業(49回生)    
 1978  大阪大学人間科学部卒業
土佐中学高校教諭(社会、公民)
    
 1979-2003  クラス担任(24年連続)    
 1978-1991  中学野球部顧問    
 1992-2001  バドミントン部顧問    
 2004-2009  広報担当・広報部長    
 2010-  教頭     
****************

筆者近影
 2月16日に母校を訪問、小村彰教頭(社会科)に表敬・面談いたしました。 高知支部幹事井上晶博さん(44回)がアポイントを取ったうえ同行してくれました。 井上さんは土佐女子中・高教頭を経て現在高知県私学団体総合事務局長として 多忙を極めており、小村教頭とも長らくご昵懇ゆえ和やかな雰囲気で30分ほど 懇談できました(深謝)。一部をご披露いたします。
1.第二次百年委員会答申に対して
 小村教頭は答申起案に参画されたよしで、ある意味「責任がある」とのことです。 当然ながら重く受け止めておられ、先生方の声を反映させるというボトムアップの 校風に留意しながら、時間はかかるが、ひとつひとつ対処するお考えです。 答申冒頭で「人材輩出という建学の目的と目的実現のための基本方針」を総括して いますが、これに沿うことに尽きると思われます。
2.100周年(2020年)に向けて
 母校100年誌の制作方針については学識経験者に検討を依頼中で、3月中には 概要が発表される見通しだそうです。皆さまもご意見をよせられては如何でしょう。
 KPCから寄贈を受けた「土佐中学創立基本資料集」は貴重な存在で、関係者はじめ 理事、教員、図書館などに配り、活用していただいているよし。
 同窓生・父兄の協力を仰いでいる「新世紀募金」に関連して、最近1億円という大口の 寄附があったことが話題になりました。「先生方の海外派遣に使ってほしい」という条件が 付いているそうです。グローバル化は21世紀の流れであり、ガーナ高校生との交流行事 なども含めて(小生の名刺は「ガーナよさこい支援会幹事」)、今後注力せねばならない とのご認識です。私のほうからは、例えば甲子園出場支援という目に見える目的があって こそお金が集まるわけだから、資金活動には目的の具体性・透明性が肝要という点を お考えになってほしいというお願いをいたしました。
3.抱負について
 ずばり「土佐校らしい学校」というお答えでした。 その心は?「今夏の関東支部同窓会への出席を楽しみにしている」そうですので、 その折直接同窓生諸兄姉に語りかけらることでしょう。お楽しみに! (蛇足ですが、せっかくトップをお招きするのですから、大学進学統計と寄附のお話で 終わるのは何たること・・・喝!というのが小生の本音です。)
追伸: 井上さんは長年教職に携わられたキャリアと現職を通じて経験と人脈を拡げ、県内外の 学校教育事情に通じておられます。土佐高からの帰途、中心街まで一緒に歩きながら その一端を伺いました。筆山会やKPCの集まりなどで表裏いろいろお話していただき たいな、出来る事なら 百周年にも関わってほしいなと思ったものです。
ページTOPに戻る

―平井康三郎、ディック・ミネ、ケーベル博士をめぐって―
三根圓次郎校長とチャイコフスキー

中城 正堯(30回) 2017.03.25
はじめに:クラシックを愛した教育者・三根

筆者近影
 2020年には、土佐中学校創立100周年を迎える。大正9(1920)年の開校にあたっては、発案者の藤崎朋之高知市長や、出資者の川ア幾三郎・宇田友四郎両氏とともに、「人材育成」という建学の精神に則した学校を創出し、見事な教育実践をおこなった初代・三根圓次郎校長を忘れるわけにはいかない。

三根圓次郎(土佐中高校提供)
 三根校長は明治6年長崎県の生まれ、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学文学部)の哲学科を出て教職に就き、若くしてすでに佐賀・徳島・山形・新潟の県立中学校長を歴任、東京府立一中(現日比谷高校)の川田正澂(まさずみ)校長(高知県出身)とともに、全国中等教育のリーダーとなっていた。土佐中校長に就任時は47歳であり、帝大で哲学を学んだ謹厳な教育者も、年輪を経て温和な慈父のまなざしを併せ持ち、やがて生徒たちから敬愛をこめて「おとう」と呼ばれる存在になった。
 土佐中創立は、第一次世界大戦後の国際化と大正デモクラシーの時代を迎え、国家の期待する新しい「人材育成」を目指すものであった。教育方針には「個人指導」「自学自習」など、時代の先端をゆく斬新な理念が掲げられていた。この理念に基づくカリキュラムの編成や授業展開は、すでに『土佐中學を創った人々』で紹介したので、ここでは割愛する。ただ、創立100周年を迎えるに当たって強調したいのは、「人材育成」「自学自習」などの基本方針も、予科(小学5,6年生)からの英国人講師による英語教育も、時代を先取りしており、グローバル時代を迎えた1世紀後の今日でも、誇りを持って掲げることができる点だ。

チャイコフスキー
(『ミリオーネ全世界事典』)
 今回は三根校長について、新しい観点「音楽を愛した教育哲学者」としての特色を、音楽をめぐる人物模様から紹介したい。土佐中に着任以来、先生は次第に視力を失い、「おとう」と親しまれた晩年には失明状態であった。しかし、この老校長の胸中には、少年の頃手にした横笛の音とともに、チャイコフスキーの音楽が絶えず鳴り響いていたように感じられる。あるときは、「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」の軽やかな旋律が、あるときは交響曲第六番「悲愴」の荘厳な調べが、響き渡っていたのではないだろうか。
 土佐中初期の卒業生による50周年の座談会で、こんなやりとりが紹介されている。<浜田麟一(6回生)「弁論会をやろうというと、校長はこの学校としては音楽をやろうといった。これはディック・ミネが音楽をやることになったので、自分も関心が音楽の方へ傾いて行ったのでしょうか」。伊野部重一郎(5回生)「校長はクラシックがかなり分かったので、息子が流行歌をやるのをなげいていたのでしょう」。鍋島友亀(3回生)「平井はハーモニカのバンドを作って、公会堂で土佐中公開演奏会をやった。配属将校(軍事教練のために配置された陸軍将校)がなぜ音楽をやるかと問うと、校長は生徒が将来政治家になった時、演説をするために声をきたえるのだと言ったという」>(『創立五十周年記念誌』)
 伊野部の発言で、三根校長がクラシック音楽を好んでいたことがうかがえる。なかでもチャイコフスキーに惹かれていたように思われる。それはなぜか、三根校長の周辺に多い、素晴らしい音楽家の探訪からさぐりたい。まずは、平井康三郎(5回生)に代表される教え子たちであり、ついでご子息のディック・ミネである。それぞれ昭和期を代表する作曲家であり流行歌手であったが、今では知る人が少なくなった。この二人の音楽家としての歩みと三根校長の影響、そしてさかのぼって三根が帝大哲学科時代にケーベル教授から受けた哲学・美学の教えをさぐってみたい。この教授は、実はモスクワ音楽院でピアノを修得した名演奏家でもあった。
  目 次
mok1<第一章>“作曲家平井康三郎”生みの親 mok2<第二章>歌う社長や歌う文部次官も誕生 mok3<第三章>息子ディック・ミネはトップ歌手 mok4<第四章>哲学と音楽を育んだケーベル博士

<第一章>“作曲家平井康三郎”生みの親
土佐中のピアノやマンドリンにびっくり

平井康三郎
(平井家提供)
 明治43年に高知県伊野町で生まれた平井康三郎(保喜・5回生)は、伊野小学校から大正12年に土佐中入学、昭和4年に東京音楽学校へ進学、ヴァイオリン科を終えた後に新設された研究科作曲部へ進んでプリングスハイム氏に師事、在学中の昭和11年には交声曲(カンタータ)「不盡山(ふじやま)をみて」が第5回音楽コンクールで1位に入賞する。代表作に「大いなる哉」「大仏開眼」があり、日本の歌曲「平城山(ひらやま)」「ゆりかご」「スキー(山は白銀)」でも親しまれた。校歌の作曲も多く、甲子園では毎年のように平井の曲が、勝利校を祝して流れた。作曲数は五千におよぶ。東京芸術大学や大阪音楽大学で教授を歴任、この間に文部省音楽教科書の編纂、『作曲指導』の執筆、『日本わらべ歌全集』の監修にもあたった。紫綬褒章など受章し、平成14年に逝去した。 長男丈一朗(たけいちろう)は巨匠カザルスに師事したチェリスト、次男丈二郎はピアニストであり、孫でニューヨーク祝祭管弦楽団音楽監督を務める指揮者の秀明、ロンドンを拠点とするピアニストの元喜ともども国際的に活躍している。康三郎が始めた「詩と音楽の会」も、丈一朗会長のもとで受け継がれている。平成27年には故郷「いの町」の新庁舎に平井康三郎記念ギャラリーがオープンし、寄贈されたグランドピアノなどゆかりの品々が展示され、「いのホール」で丈一朗や元喜による記念コンサートが開かれた。

いの町庁舎・平井康三郎記念ギャラリー(森木光司撮影)
 平井の父は高知商業の国語教諭から実業界に転進したが、音楽好きで商業の壮大な校歌「鵬程万里はてもなく・・・」を作曲、家にはオルガンや蓄音機があった。音楽的に恵まれた家庭で育ち、ハーモニカが得意だった平井少年も、土佐中に入った驚きをこう語っている。
 「グランドピアノはあるし、マンドリン・クラブはあるし、びっくりしました。レコードもベートーベンの第九をはじめ、名曲がたくさんある。蓄音機もビクターの最高級品です。ただ、残念ながらピアノを弾ける先生も、レコードを聴く生徒もいない。岡村弘(竹内・1回生)さんと私だけが弾いたり、聴いたりするだけだった」(『南風対談』)
 教材・教具の整っていたのは楽器ばかりではない。青山学院を卒業と同時に英語教師として赴任した長谷川正夫は絵画も担当、「校長は画架、石膏像、額縁など私の要求するがままに買ってくれた。絵の時間には潮江山(筆山)に登ってスケッチさせたり、自然を眺めながら絵の講義をしたりして、全く自由にできた。・・・公会堂でマンドリン合奏会を開いたことがあったが、これが(高知での)この種の最初のコンサートであったとか聞いた。私と同期の常盤(正彦、音楽)先生がハーモニカの独奏会を開いたこともあった」(『創立五十周年記念誌』)。本格的な楽器・画材をそろえ、教室にとどまらずに野外授業や校外活動もおこなった。また、男子中学では厳禁だった女学校のバザーや運動会の見物に行くことも許されていた。
 三根校長は、これから世界で活躍する人材には、文学や歴史だけでなく音楽や絵画の教養も大切だと考え、その素養がある新卒の長谷川・常盤両先生を採用、設備や教材も整えたのだ。イギリスのパブリックスクールにならって学校内に寄宿舎を用意し、運営は寄宿生の自治にゆだねた。そこでの平井少年の活躍を、五藤政美(4回生)は、昭和16年の「三根先生を偲ぶ座談会」でこう述べている。
「寄宿舎で茶話会をやる。そうすると皆一芸を出すわけで、平井君はハーモニカをやるわけだ、カルメンをやる。平井君はカルメンが巧いので、無論拍手喝采だ。校長先生は、大野(倉之助、数学)先生を顧みて、おれもカルメンなら知っているといっておりましたがねえ」。それを受け、片岡義信(1回生)が「平井君で思い出したが、ぼくらはマンドリンを買ってね、やったのだけれども上手になれなかった。・・・やはり校長も音楽を取り入れなければならんというのでね」と話す。都築宏明(3回生)は、三根校長のお宅(東京都大森)で奥さまに見せていただいた錦の袋に入れた横笛について、「若い時分に吹いたものだというのですね。それから推して考えて見ると、音楽の素養があったわけですね。趣味がないと思ったら多少あったのです」と、語っている。(『三根先生追悼誌』)
校長が父を説得、音楽学校へ
 平井は得意のハーモニカで人気者になるとともに、三根校長の指示で1年生の時に早くも「向陽寮歌」の作曲をしている。作詞は岡村弘先輩であった。「向陽の空」で始まる校歌は、すでに越田三郎作詞・弘田龍太郎作曲でできていた。寄宿舎名・寮歌にも、「向陽」が用いられている。これは漢籍に通じていた三根校長が好んだ言葉と思われる。

土佐中時代の平井(左)と
二人の弟子(平井家提供)
普通の漢和辞典には登場しないが、諸橋轍次の『大漢和辞典』には「向陽 陽に向かう」とあり、潘岳や謝霊運の詩文を例示してある。「高い望みを抱く」といった意味だ。中学4年生になった平井は、ヴァイオリンをはじめる。自己流ながら腕を上げ、5年生になった昭和3年には、昭和天皇の即位を祝う御大礼奉祝音楽会に、学内の二人の弟子とともに出演している。その写真で分かるように、この時代の制服には白線などない。 平井は、高知県各地から集まった学友を相手に、方言調査もおこなう。音楽とともに言語学に興味を持っており、中学4年生の時には、二百あまりの方言を分類、語源の考証・活用例などを記した「土佐方言辞典」をまとめている。才気あふれる平井の方言研究からは、次のような漢詩の土佐弁による名訳も生まれる。
   俺も思わくがあって都(かみ)へ出たきに (男子志を立てて郷関を出ず)
   成功者(もの)に成らざったら死んだち帰(い)なんぜよ (学若し成らずんば死すとも帰らず)
   ナンチャー どこで死んだち構(かま)んじゃないかよ (骨を埋む豈(あに)墳墓の地のみならんや)
   どこへ行ったち おまん 墓地ゃ多いもんじゃ (人間到る処青山あり)
 これを引用した山田一郎(評論家)は、「平井さんによると、この名訳に<詩吟のフシをつけて得意になって高唱し、三根圓次郎校長を呆然とさせたこともあった>」と書いている(『南風帖』)。平井は言語学でも早熟ぶりを発揮、作曲家になった後も、趣味は言語学・方言研究と述べ、全国の伝承わらべ歌を収録した大著『日本わらべ歌全集』全39冊にも監修者の一人として参画している。 言語学に興味を持った平井は英語も得意で、東京外国語学校に行くつもりで5年生に進んだ。当時の中学生は4年修了で旧制高校に進学できたため、土佐中5年生はほとんどいなかった。しかし、外国語学校や音楽学校・商船学校は5年卒業でないと受験できなかったため、平井は残っていたが、兄の薦めもあって東京音楽学校を目指したくなる。だが父親は医者か弁護士にしたくて大反対で、三根校長に「家の息子は音楽家にさせる心づもりはない」と怒鳴り込んだという。「三根先生を偲ぶ座談会」で、平井はこう述べている。

平井康三郎(平井家提供)
 「(父は)先生から反対にしかられ、<それは以ての外の不心得であって、将来音楽がどういう役目をするか知らんか>といわれてね、<ただ政治家や役人になったらそれが偉いと思ったらあてが違うぞ>と大分しかられて、それから家に帰って来て大の音楽ファンに親父がなりましてね。<お前もその決心して行かにやぁいかんぞ>と。それまでは語学の方をやる心算であったので、校長もしみじみ生徒の行く先のことについて本当に親身になって考えてくれたと思います。<語学はありふれた学問だからぜひ音楽をやれ>、こう言ってくれました」(『三根先生追悼誌』)。平井は息子の丈一朗にも、「三根校長はクラシックが好きだった」と語っている。
 音楽学校に進んだ後も手紙でよく激励を受けたが、なかでも印象的だったのは1年生の時の年賀状に記されていた「凡庸に堕するなかれ」であった。「この葉書は今でも持っており、時々出しては非常に発奮の資にした。これが、土佐中学の教育の真骨頂ではなかったかと思う」と、同じ座談会で語っている。日本情緒あふれる歌曲を生んだ昭和を代表する大作曲家・平井康三郎の誕生には、恩師・三根校長の存在が不可欠であった。(引用文献・図版の出典は最終章末尾に記載する)
<第二章>歌う社長や歌う文部次官も誕生
生伴奏で歌いまくった三菱の進藤
 平井康三郎(5回生)は母校や同窓会への想いも強く、筆者が在学中の昭和28年に土佐高委員会(自治会)と新聞部で応援歌を創った際には、快く作曲してくださった。作詞は校内から公募だったが、入選作は中学主事・河野伴香の「青春若き・・・」であった。同窓会関東支部では、昭和63年の総会に講師として登壇いただいた。

平井の土佐校応援歌が流れる甲子園
2016年春(藤宗俊一撮影)
「音楽と生活」をテーマに、ピアノ演奏をまじえての軽妙洒脱な音楽談義が忘れられない。平成4年には、土佐中柔道部の後輩・公文公(7回生)の依頼を快諾、公文教育研究会で特別講演会「音楽と人生」をおこなった。なお、著書『作曲指導』は、1年後輩の近藤久寿治が興した同学社から出版している。
 初期の土佐中からは、平井のような音楽家だけでなく、数々の音楽愛好家が育っている。その筆頭が進藤(旧姓宮地)貞和(2回生)である。昭和45年に三菱電機社長になると、重電中心で殿様体質だった企業を見事に変身させ、大躍進を遂げた。特にクリーンヒーターなど家電のヒット商品開発と販売網整備には、目を見張らされるものがあった。その原動力は、飾らない豪快な人柄と、「歌う社長」と呼ばれた得意の歌声であり、技術者や販売店をたちまちやる気にさせた。筆者の『筆山』第3号でのインタビューで、「中学時代には、軟式テニスやハーモニカに熱中し、自己流でヴァイオリンもやった。

ダークダックスと歌う進藤(土佐中高提供)
戦後は、オランダで「長崎物語」、ドイツで「野ばら」と歌いまくり、国際親善にも大いに役立てた」と語ってくれた。ギターやアコーデオンの生伴奏で歌い、ダークダックスとも共演した。その縁で平成7年には「ダークダックス阪神大震災救援チャリティーコンサート」が、進藤の協力を得て佐々木泰子(33回生)などによって開催された。
 柔道部で平井から鍛えられたという公文公も、高知高校に進んでからレコード鑑賞に熱中した。堀詰・細井レコード店でのバッハ「ブランデンブルク協奏曲」観賞会にも行ったことを、友人の久武盛真が平成9年の『文化高知』に書いている。公文は、クラシックのレコードをかなり愛蔵していたが、昭和20年4月の高知大空襲で常盤町の実家が全焼、蔵に入れてあったレコードは溶けて黒い塊になっていたと、後日口惜しがっていた。平井の影響を受けたのか、公文式教育を始めてからは、音楽と言語の関連に注目、やがて乳幼児教育にわらべ歌を取り入れ、標語「生まれたら ただちに歌を 聞かせましょう」を唱え、母親に呼びかけていた。筆者は、平成5年にパリの国立小児病院を見学したが、新生児室で副院長から「心身の健全な発達には音楽が欠かせない。ここの医師は全員、取り上げた赤ん坊に母に代わってわらべ歌をうたってやる。入院中の子どものためには楽器をそろえてあり、演奏を楽しめる」と語ってくれた。音楽の意義に、改めて気付かされた。
 宮地貫一(21回生)は三根校長亡き後の入学だが、「歌う文部事務次官」と称された。演歌の新曲が出ると即座に譜面を手に入れ、赤坂の「いしかわ」などでコップ酒を豪快に飲んでは、ピアノの生伴奏で歌っていた。二人の宮地先輩は、仕事も酒も歌も「こじゃんと」楽しんだ。なお、三根校長も酒は大好きで、飲むと「よさこい節」を歌うこともあったと聞く。
邦楽には長唄の佐藤、謡の近藤

謡に励んだ近藤久寿治…中央(近藤家提供)
 三根校長の横笛とは関係ないが、邦楽の愛好家も多かった。佐藤秀樹(1回生)は、謡や長唄を修得、昭和58年には銀座ガスホールで長唄の大曲「船弁慶」を演じている。近藤久寿治(6回生)は、『新修ドイツ語辞典』で知られる教育出版社・同学社を興したが、多忙な中で同窓会の世話役をする一方、観世流の謡を五十数年にわたって修め、神楽坂の矢来能楽堂などでの発表を続けていた。大酒豪であったが、土佐中・三根校長への想いには並々ならぬものがあった。
 余談になるが、昭和33年に三代・大嶋光次校長が逝去した際に、近藤は「次の校長は絶対に母校出身だ」との信念のもと、関東同窓会の先頭に立って曽我部清澄先輩(1回生・高知大学教授)を強力に推薦した。大学生だった筆者は、帰郷の際に親書を託されて高知の同窓会会長・米沢善左衛門(2回生)に届けた思い出がある。近藤たちが母校出身者にこだわったのは、戦時色の強くなった二代・青木勘校長(愛知県立第一中学校長から赴任)の時代に、

三根校長時代の旧校舎(『三根校長追悼誌』)
寄宿舎での上級生によるしごきや、制服に軍服同様の白い袖章(白線)採用などがあったからと思われる。青木校長は、東京帝国大学哲学科出身で三根の後輩であったが、時代のせいか三根校長時代にはあり得ない事態が発生、進学も奮わなくなり、校長の排斥運動が起こった。母校の教諭や高知高校在学中の同窓生を代表して、吉澤信一・曾和純一(16回生)が上京、排斥を近藤に相談したが、いさめられ実現しなかった(『筆山』第3号)。以来近藤は「三根精神の復興」を念じていた。『三根先生追悼誌』発行も、三根校長の「胸像レリーフ」校内設置も、その想いによる企画で、実務を裏で支えたのは近藤であった。
 それにしても、三根校長はなぜ音楽や美術の教育にこれほど力を入れ、平井の才能を見抜いて音楽学校への進学を薦めたのだろう。進学校として、単に有名高校(旧制高校)・有名大学への進学率向上を目指すだけでなく、生徒一人ひとりの個性や才能を見抜いて進路指導にあたるとともに、芸術活動へのなみなみならぬ意欲が感じられる。これは、どこから来たのだろう。
<第三章>息子ディック・ミネはトップ歌手
立教大で相撲部からジャズ・バンドへ
 三根校長の長男・徳一は、芸名ディック・ミネで知られる流行歌手で、第二次世界大戦前後の歌謡界で大活躍だった。モダンな歌とダンディーな容姿で実力・人気を併せ持ち、ジャズ・歌謡曲のトップ歌手となった。しかし、三根校長が健在のころは、息子が流行歌手というのははばかる雰囲気があったようで、戦時色の濃くなった昭和18年刊行の『三根先生追悼誌』には、息子のことはほとんど出てこない。近藤久寿治(6回生)は、大学在学中に平井康三郎(5回生)たちと東京で校長を囲んだ際に、平井のことを冗談交じりに「本郷の裏町で、はやり歌をうたっています」というと、校長は「そうか。実は、わしの息子もそのはやり歌をやっている」といわれた、とある。(『続続南風対談』)

歌うディック・ミネ(三根家提供)
 ところが戦後になると立場が逆転、三根校長は世間から忘れられ、「ディック・ミネの父」として紹介されるようになった。ディック・ミネは平成3年に82歳で亡くなったが、朝日新聞は3段抜きの見出しでこう報じた。
 <1934年、ビング・クロスビーが歌っていた「ダイナ」を自分で訳詩してデビューし、一躍人気歌手に。学生時代のアダ名からとった芸名「ディック・ミネ」は日本の洋風芸名のハシリとなった。タンゴ調の「黒い瞳」や、「上海帰りのリル」「二人は若い」・・・などの曲も次々とヒットして、折からのジャズブームに乗り、日本の男性ジャズ歌手の草分けとなった。古賀政男のすすめで歌謡曲にもレパートリーを広げ、「人生の並木道」「旅姿三人男」をはじめ、「夜霧のブルース」などでも成功した。・・・1979年から88年まで社団法人日本歌手協会会長。82年には「反核・日本の音楽家たち」結成の呼びかけ人にも名を連ねた。アムネスティ運動やフィリピンの子供たちへの学費援助などにも協力を惜しまなかった>
 単なる流行歌手ではなく、社会性や反骨精神も持った「凡庸」ならざる親分肌のリーダーであった。では、その生い立ちからさぐってみよう。父が徳島中学校長だった明治41年に生まれ、徳一と命名された。父の転勤で、小学校は山形・新潟で過ごした。大正9年に土佐中に招かれた父は、母・敬(よし)が体調を崩したので家族を東京に残して単身赴任となった。徳一は日体大付属荏原中学に進んだが、相撲部で活躍したのが目立ち、立教大学に相撲部推薦で入学する。だが、「帝大だけが学校と思っていたおやじは怒った」という。学生時代におこなった不良相手の痛快な武勇伝の数々は、

『八方破れ言いたい放題』表紙
写真はディック・ミネ
著書『八方破れ言いたい放題』(政界往来社)に詳しい。体もなにもかもデカかったので、ディックと呼ばれるようになる。相撲から音楽への転向は、この本でこう述べてある。
 「おやじは堅物一方の人だったけど、母親が話のわかる人でね。なにしろ日光東照宮宮司の娘だから、琴が抜群だった。西洋音楽にも理解があったし、音楽に親しませることが教育上もよろしいということを知っていた・・・電蓄が家にあり、シンフォニックジャズなんか、よく聞かされた」。
 そのシンフォニーが大学で聞こえてきたことから立教大学交響楽団に入るが、さらにジャズ・バンドに転進する。自らリーダーとなった学生バンドは、母の紹介によって日光金谷ホテルでデビュー。卒業して逓信省の役人になるが、すぐ辞めてバンド活動に専念、さらにテイチクの専属歌手になる。平成元年の『筆山』に寄せたエッセイ「父」には、<「このごろ変な歌を歌っているディック・ミネというのはおまえか」と父に聞かれ、怒られるのを覚悟で「はい」というと、「世の中、どんな商売もある。やる以上は恥ずかしくないようにやれ、トップになれ」であった。父は息子に対しては自由放任であったが、自分の学校の生徒に対しては、実に細やかに、一人一人の個性を見抜いていた>と、書いている。
軍部にも動じなかった父を尊敬
 昭和11年に三根校長が急逝した際には、母と高知に駆けつけたが、父の思い出を『筆山』第9号にこう記してある。
 <自分の教育方針を頑として通した父は、文部省であれ軍人であれ、岩のごとく動じなかった。父は学校で「おはよう」と、だれにも帽子をとって挨拶するのが常だった。死の前日のこと、軍部の将校(土佐中への配属将校)がこれを敬礼にせよと迫ったが、父は教育方針は変えぬと言い通した。腹を立てた将校は酒に酔って自宅に乗り込んできて、父と言い争った。この出来事が引き金となって、脳内出血を起こしたのであろう。父の教育は今の時代にも立派に通用すると、私は父を誇りに思います>。三根校長に、秘書のように寄り添っていた芝純(7回生)は、『向陽』3号に「一夜、配属将校と激論せられ、翌日脳溢血で殉職された」と述べている。

三根家の人々
中央の次男忠雄を挟んで校長ご夫妻
前列左端が徳一(三根家提供)
 やがて日本の大陸進出とともに、ディック・ミネたち歌手も上海から満州・樺太まで、軍の慰問演奏に動員される。昭和12年に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が公布され、“敵性語排除”で芸名は三根耕一に変えられる。やがてジャズやダンスも禁止となる。しかし、ハルピンや上海には弾圧がおよばず、前線兵士の要望でディック・ミネを通すが、傷病兵の惨状には涙したという。東京大空襲が始まった頃は防空壕に入り、隠し持っていた短波受信機で米軍放送を聞き、大本営発表との違いをちゃんと知っていた。“立教”仕込みの英語は、戦後になってルイ・アームストロングが来たときにも重宝がられ、一週間つきっきりで案内している。永遠の「モダンボーイ」で、レコードの通算売り上げは4.000万枚以上におよぶ。著書には、豪快な女遊びもあけすけに述べてあるが、4人の奥さんを迎え、男女9人の子どもを育てている。昭和60年には9人の子ども一同の呼びかけで、喜寿を迎えた「父を祝う会」が、永田町のホテルで盛大に開かれた。
 ディック・ミネは晩年になって、父について「熊本の旧制五高から帝大を出た偉い人で、五高の後輩に故・佐藤栄作元首相がいる。そんな関係で佐藤首相に可愛がってもらった」と、語っている。また、昭和54年に勲四等旭日小綬賞をもらった際には、「僕のおやじも、おじいさんももらった」と喜ぶとともに、「親孝行したいときには親はなし」と、嘆いている。親子はまったく別の分野で人生を歩みながらも、お互いに心を通わせていた。
 こうして、徳一(ディック・ミネ)が流行歌手として大成した背景には、音楽好きの母・敬の影響が大きかったが、父・圓次郎も温かいまなざしを注ぎ続けていた。徳一も、三根が平井に与えた「凡庸に堕すなかれ」を実践したのだ。昭和60年の関東同窓会にゲストとして出席した際のスピーチでは、「オヤジは偉大だった」と述べていた。今は、父と並んで多摩霊園に眠っている。

多摩霊園に眠る三根校長と徳一
(中平公美子撮影)

三根校長の胸像
本山白雲作(筆者撮影)
 三根校長には次男・結城忠雄がおり、筆者は父・圓次郎の思い出話をお聞きしたくて、昭和62年頃に杉並の御自宅を訪ねた。成人後に結城家に養子として迎えられ、会社を定年で退いた温厚な紳士で、こう語っていた。「子どもの頃、父は高知に単身赴任で、遊んでもらった覚えはあまりない。休みに大森の自宅に帰ってきても、東京の大学に進んだ教え子たちの勉強ぶりや就職が心配で、眼が悪いのもかまわずに東大などによく出かけていた。また、教え子も次々と家に訪ねてきた。昭和17年だったか、土佐中に父の胸像ができた除幕式に招待されて母と参加したが、父が皆さんに深く敬愛されていたことに、改めて気付かされた」 三根家では、ディック・ミネの三男・三根信宏が音楽の道に進み、「ギターの貴公子」と称されるギタリストになっている。
<第四章>哲学と音楽を育んだケーベル博士
哲学教授はチャイコフスキーの直弟子

ケーベル(『ケーベル博士随筆集』)
 偉大な教育者・三根圓次郎は、どのようにして誕生しただろうか。また、音楽など芸術の人生における意義についてどこで学び、クラシック音楽を好むようになったのであろうか。三根の実家は大村藩(長崎県)の大庄屋であり、大村中学から熊本の第五高等学校に進み、明治27年に帝国大学文科大学哲学科へ入学する。大学時代には、家庭教師などで自ら学資を稼いでいた。哲学は、前年にお雇い外国人として赴任したばかりのラファエル・フォン・ケーベル博士から教えを受ける。博士は異色の哲学者であり、素晴らしい教育者であった。
 ケーベルは、1848年ロシアの生まれ。父はドイツ系ロシア人で国籍はロシアだったが、本人はドイツが祖国と言っていたという。幼少の頃からピアノを習い、19歳でモスクワ音楽院に入学、作曲家チャイコフスキーや名ピアニストのニコライ・ルービンシュタインに師事する。5年後に優秀な成績で卒業するものの、内気な性格から演奏家への道をあきらめ、哲学研究に転進する。ドイツのハイデルベルク大学で、ショーペンハウエルの研究によって学位を取る。ミュンヘンに移って哲学や宗教の歴史を学びつつ、音楽学校で音楽史や音楽美学の講義もおこなっていたところに、突然東京の大学からの招聘状が届く。恩師フォン・ハルトマンの推薦であり、チャイコフスキーからは反対されたが赴任を決断、明治26年6月に日本へ着任する。
 当時の帝国大学文科大学は、多くを外国人教授に頼っており、ベルリン大学から招いた史学のルードヴィッヒ・リースのほか、独・英・仏の語学兼文学の教授は、いずれもそれぞれの国から招聘していた。哲学の日本人教授にはドイツ留学帰りの井上哲次郎もいたが、ドイツ観念哲学から東洋哲学、さらに国家主義へと進んだ人物だった。日本人によるアカデミックな哲学者の誕生は、哲学科で三根の少し先輩だった西田幾多郎が京大、桑木厳翼が東大の教授に就任する大正時代まで、待たねばならなかった。なお、外国人教授は、原則として英語で講義をおこなった。

ケーベルや三根がくぐった東大赤門(藤宗俊一撮影)
 哲学科でケーベルが担当した講義は、『帝国大学』(丸善 明治29年刊)によると1年で哲学概論・西洋哲学史、2年で西洋哲学史・論理学および知識論、3年で美学および美術史・哲学演習であった。一学年各科とも生徒は十数人で、講座によっては他の科の生徒とも合同であり、大変親しくなっていた。高知県出身では国文科に大町芳衛(桂月・作家)が、国史科に中城直正(初代高知県立図書館長)がいた。後に、大町によって土佐中開校記念碑文が記されるのは、三根と学友であったからだ。史学科には、幸田露伴の弟で日本経済史の開拓者となる幸田成友もいた。国史科の黒板勝美は東大教授となって日本の近代史学を牽引するが、昭和8年、東京での三根先生還暦祝賀会には駆けつけて「三根はまれに見る風格ある教育者」と称えた。三根が帝大を卒業した二年後に、寺田寅彦が五高から東京帝国大学理科大学物理学科に入学する。三根は、後に五高の後輩・寺田とも交流する。やがて、寺田もケーベルのもとに出入りするようになる。

ケーベルがチャイコフスキーからピアノを学んだモスクワ
モスクワ川とクレムリン(筆者撮影)

ケーベルが哲学を学んだハイデルベルク
ネッカー川と古城(筆者撮影)
日本人よ、偉大な芸術家・詩人に学べ
 では、ケーベル博士が来日当時に、日本の音楽界に抱いた率直な感想を『ケーベル博士随筆集』から見てみよう。まず「音楽雑感」で、「日本へ来て、音楽らしい音楽というものを聴くことができないようになって以来、私は大音楽家の作品(楽譜)を読むことにしている。これによって私はこれらの作品の拙劣なる演奏から受けるよりも遙に大いなる楽を享けるのである」と述べている。こうして、最初は日本人の洋楽演奏に失望するが、明治31年から東京音楽学校(現東京芸術大学)のピアノ教師も務めるようになる。
 音楽学校では、ボストン、ウィーンで6年間学んだ幸田延が、明治28年に帰国して母校の教授になっていた。延は、ケーベルからピアノを学ぶうちに腕前を認められピアノ科教授に就く。ケーベルも日本人の演奏をようやく評価、明治36年に日本初のオペラとして「オルフェイス」が音楽学校の奏楽堂で上演された際のピアノ伴奏をはじめ、度々ピアノを演奏している。この年には、幸田延の妹・幸もドイツ留学から帰り、音楽学校ヴァイオリン科教授となる。同年5月の第8回定期演奏会では、幸田姉妹・ケーベルがそれぞれピアノ・ヴァイオリンを披露して喝采を浴びている。幸もピアノや音楽史については、ケーベルから学ぶことが多かったと思われる。

平井康三郎・丈一朗夫妻(平井家提供)
 こうして幸田延・幸の姉妹は、ケーベルから多々指導を受けることになるが、姉妹の間で生まれた幸田成友は、文科大学史学科でケーベルから西洋哲学史を学んで、経済史学者となる。幸田家では、三人揃ってケーベルの恩恵をうけていた。妹は結婚して安藤幸となるが、そのヴァイオリンの弟子に疋田友美子がいた。後の平井康三郎夫人である。
 ケーベルは文科大学哲学科の教育について、大変手厳しい指摘をしている。「日本人の精神ならびに性格をはなはだしく醜くするところの傷所は、虚栄心と自己認識の欠乏と、および批判的能力のさらにそれ以上の欠如せることである。これらの悪性の精神的ならびに道義的欠点は、西洋の学術や芸術の杯から少しばかり啜ったような日本人においてとくに目立つ」「日本の学校当局者らは、・・・理知的ならびに倫理的教養には全然無価値なる、否、むしろ有害と言うべき・・・生徒の記憶を一杯に塞ぎ、疲労せしめ・・・試験のためにのみ学ばれるところの学課をもって、その生徒をいじめるのである」

ケーベル(手前右)と東京音楽学校管弦楽団、左は幸田姉妹
(『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』)
 卒業する哲学科の学生への挨拶では、こう述べている。「諸君は本日をもって諸君の自由――実生活ならびに学修における自由――の門出を祝さるる次第である。・・・およそ真に自由なる人とは法則に服従する人である、もっともその法則とは理性が正当として命ずるところのものである」「諸君に対して望むところは、諸君が偉大なる芸術家、詩人および文学者の作品をば、大思想家の著作と同様に、勤勉かつ厳密に研究せられんことである」(『ケーベル博士随筆集』)
 三根たちは、これらの教えを「干天に慈雨」の思いで吸収していったと思われる。当時の帝大文科大学生は卒業すると、研究者の道に進むか当時の各県の最高学府である県立中学校の教諭になるかであった。「教師になっても、生徒に一方的に教え込む職人ではなく、生徒とともに学ぶ研究者でもあれ」が文科大学のモットーだったと、中野実(東京大学・大学史史料室)は語ってくれた。ケーベルの哲学や美学から、教師としてのバックボーンを得て、また音楽や美術の意義をよく理解し、三根たちは各地の学校に赴任していったのだ。
 このケーベルのピアノに魅了された人物に、寺田寅彦がいる。五高時代にヴァイオリンを始めた寺田は、明治34年、東京帝国大学1年の時に夏子夫人が病気療養で高知に帰郷した孤独から逃れるため、東京音楽学校の慈善演奏会に行き、「橘(糸重)嬢のピアノ、幸田(延)嬢のヴァイオリン、ケーベル博士のピアノ・・・」を聴く。とくにケーベルの演奏に魅せられ、無性に会いたくなって自宅を訪問する。以来、夏目漱石を誘ってたびたびケーベルの出演するコンサートに出かけている。

寺田寅彦「自画像A」
(『高知の文学』高知県立文学館)
 寺田は、後にケーベルを悼んで随筆「二十四年前」を書いているが、そこには最初の演奏会での感動を「まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした」と記している。この随筆には、ケーベルを自宅に初訪問した様子も書き留めてある。寺田がヴァイオリンを独習していると話したときに、ヴァイオリンの値段を聞かれ、「9円」というと、「突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った」とある。五高時代に、月額11円の仕送りから無理に工面して購入した安物であった。笑われても別に不愉快でなく、「私もわけもなく笑ってしまった」と、述べている。(『寺田寅彦随筆集第二巻』)。
 明治38年1月3日の寺田の日記には、「阪井へ行き、琴三絃ヴァイオリンにて六段など合す」とある。阪井とは、夏子夫人の父・阪井重季(陸軍中将)であり、亡き妻の異母妹・美嘉子の琴などとの合奏に、ヴァイオリンで参加したのだ。肺病のため桂浜で、明治35年に亡くなった妻を偲んだのであろうか。夏子も美嘉子も、美人で評判だった。この頃から寺田は音響学を研究、明治41年には東京帝国大学理科大学から、理学博士の学位を授与される。主論文は「尺八の音響学的研究」であった。寅彦の孫・関直彦によると、一時ヴァイオリンを中断していたが、大正11年にアインシュタインが来日した際に、歓迎晩餐会で同氏が余興にヴァイオリンでベートーベンのクロイツェル・ソナタを弾いたのに触発され、高知出身の作曲家で土佐中校歌を作曲した弘田龍太郎からヴァイオリンの個人レッスンを受けることになったという。
 寺田の五高以来の恩師・夏目漱石も、帝国大学文化大学の大学院で、来日したばかりのケーベルから美学の講義を受けている。漱石は寺田とともに、ケーベルの演奏会に何度か足を運び、自宅も訪問、随筆「ケーベル先生」を書いた。そこには、「文科大学へ行って、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人迄は、数ある日本の教授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだろう」とある。文芸評論家の唐木順三は、「ケーベルと漱石」でケーベルの生活ぶりを、「読書と自分の耳にきかせるピアノと執筆の生活。自分の立場を〈哲学と詩との間〉において、詩と哲学を享受し観賞する生活。・・・生活即芸術であった」と書いている。(『現代日本文学大系 夏目漱石』)
ケーベル先生の遺産

三根圓次郎(『三根先生追悼誌』)
 土佐中校長に決まった三根は、大正9年3月、寺田を東京本郷に訪ね、寺田家が所有する高知市江ノ口の土地を学校用地に譲って欲しいと交渉している。五高の先輩、そしてケーベル先生の教え子からの依頼であったが、すでに先約があって成立しなかった。寺田は日記にこう記している。「三月四日 土佐中学校長三根圓次郎氏川田正澂氏の紹介で来た。中学敷地予定地に宅の地所ある故安く売ってくれといふ。先日来の江ノ口地所の買手は此れを知って買いだめに掛かったに相違ない」(『寺田寅彦全集 第二十一巻』)。土佐中の動きを察した業者が、手付け金を支払って、押さえてあったのだ。
 同年に、県庁に提出した「土佐中学校設立認可願」の添付地図には、江ノ口小学校の北側に「新設校地」との記入がある。申し訳なく思ったからか、寺田寅彦は立派な柱時計を土佐中に寄贈、潮江村に完成した新校舎に飾ってあった。寺田が演奏を楽しみ、また音響学の研究材料にも使ったヴァイオリンやチェロは、自作の油彩画「蓄音機を聞く」とともに「高知県立文学館・寺田寅彦記念室」で見ることができる。ヴァイオリンは1814年にボヘミヤで製作された名器アマティのコピーで、孫の関直彦が譲り受けていたもの。

「蓄音機を聞く」(『寺田寅彦画集』より)
 ケーベル博士は、独身のまま文科大学で21年間教えた後に引退し、ドイツに帰国しようとしたが、大正3年に横浜港で帰国船・香取丸に乗る直前に第一次世界大戦が勃発、帰国できなくなる。大正12年まで横浜のロシア領事館の一室で過ごして生涯を終え、東京雑司ヶ谷霊園に葬られた。夏目漱石や大町桂月も、ここに眠っている。
 ケーベルたちによって音楽の才能を開花させた幸田姉妹は、旧幕臣の家に生まれたが、祖父や母が音曲好きで幼少期から箏曲や長唄の稽古を積んでいた。やがて東京女子師範学校付属小学校で西洋音楽に触れ、その音楽的才能を見いだされ、ピアノやヴァイオリンの道に進んだ。三根も横笛を手にしていたが、江戸時代には公家の世界では雅楽が、武家や町人では能楽や箏曲・長唄が好まれた。欧米の上流家庭で室内楽が好まれたのと同様に、日本の家庭にも邦楽を楽しむ伝統があり、西洋音楽の受容にもつながった。平井の「平城山」、山田耕筰の「からたちの花」、滝廉太郎の「荒城の月」などには、日本の風土色が色濃く漂い、日欧の融合から生まれた調べと言えよう。

寄宿舎生に囲まれた三根校長
昭和10年(『三根先生追悼誌』)
 昭和4年に東京音楽学校へ進んだ平井康三郎は、ケーベルに接することはかなわなかったが、疋田友美子と出会う。疋田は幸田延の妹・安藤幸教授の指導を受け、ヴァイオリン科を首席で卒業し、平井と結婚する。ケーベルから三根を挟んだ平井と、安藤幸を挟んだ友美子と、いわば孫弟子同士が結婚、そこから世界的なチェリスト・平井丈一朗が誕生した。ケーベルがチャイコフスキーから受け継いだ音楽の流れは、ロシアからドイツ経由で日本に到来、幸田姉妹そして三根や平井によって見事に根付き、さらに独自の音色を加えて世界へと流れていったのである。
 三根校長たちは、ケーベル博士から哲学や美学の知識とともに、豊かな人生には音楽や美術を欠かすことができないという「生活即芸術」の教えを学んだ。さらに、内面から湧き出る教育者としての豊かな人間性を感じ取って巣立っていったのだ。三根校長にとどまらず、漱石や寅彦をも魅了した“ケーベルの教え”が、母校土佐中高の学園生活に受け継がれ、凡庸ならざる人材の育成に活かされることを願っている。
(本稿執筆に当たっては、三根圓次郎の孫・信宏氏、平井康三郎の長男・丈一朗氏、近藤久寿治の長男・孝夫氏、寺田寅彦の孫・関直彦氏、筆山会および向陽プレスクラブの皆様にご協力いただいた。感謝申し上げたい。なお、本文では敬称を省略させていただいた。)
三根圓次郎(『三根先生追悼誌』)

熊本第五高等学校時代
(明治28年)

東京帝大文科大学哲学科
卒業の翌年(明治31年)

県立徳島中学校長時代
(明治42年)

土佐中学校長就任4年後
(大正13年)
<主要参考文献・図版出典>
『土佐中學を創った人々』向陽プレスクラブ 平成26年/『三根先生追悼誌』土佐中学校同窓会編集発行 昭和18年/『創立五十周年記念誌』創立五十周年記念誌編集委員会 昭和51年/『ミリオーネ全世界事典』5 学研 昭和55年/『南風対談』『続続南風対談』山田一郎 高知新聞社 昭和59・61年/『南風帖』山田一郎 高知新聞社 昭和58年/『八方破れ言いたい放題』ディック・ミネ 政界往来社 1985年/『筆山』土佐中・高同窓会 関東支部会報 各号/『ケーベル博士随筆集』久保勉訳編 岩波書店 1928年/『幸田姉妹』萩谷由喜子 ショパン 2003年/『東京芸術大学百年史演奏会篇第一巻』『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』音楽之友社 1990年・昭和62年/『寺田寅彦随筆集第二巻』小宮豊隆編 岩波書店 1947年/『寺田寅彦全集 第二十一巻(日記)』岩波書店 1998年/『現代日本文学大系 夏目漱石(一)(二)』筑摩書房 昭和43年・45年/『文化高知』(財)高知市文化振興財団 平成9年/『寺田寅彦画集』中央公論美術出版 寺田東一 昭和60年/『高知の文学』高知県立文学館 平成9年
ページTOPに戻る

「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」その後の反響
「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介

中城 正堯(30回) 2017.07.10

筆者近影
 向陽プレスクラブで発行した表記の小冊子につき、公文敏雄会長から報告いただいた発行直後の反響に続き、筆者の手元にもさまざまな感想が届いたので、お知らせしたい。
 まずマスコミ関係では、高知新聞の7月7日朝刊学芸欄に、「土佐中初代校長の音楽愛」との見出しで、片岡編集委員による添付の紹介記事が掲載された。ディック・ミネが大好きという同新聞社元会長のH様からは「三根校長はもっと知られねばと思っていた。この冊子は素晴らしい役割。隠れた話がたくさんです」と、便りが届いた。

高知新聞学芸欄での紹介記事
2017/07/07
 「もり・かけ問題」で超多忙の朝日新聞東京本社編集委員(教育担当)U氏は「ひと・教育・そして時代が見えてきます。教育斑の仲間とも共有したい」とのことだった。ヴェトナムの枯葉剤障害児のその後を追っている写真家O氏の手紙には、「土佐中がいかにおもしろい人材を輩出しているか、知りませんでした。三根校長の息子がディック・ミネで、お母さんが日光東照宮の宮司の娘にも、びっくり」とあった。U・O氏とも高知とは無関係な友人だ。
 高知出身で元集英社編集担当役員のI氏は、「和辻哲郎の本でケーベルには関心を持っていたが、三根校長が教え子で、寺田寅彦や平井康三郎など高知の人物につながるとは、思いがけないことだった」と、喜んでくれた。高知在住の編集者Yさんは、「すばらしい人物を輩出した土佐中高は、やはり素晴らしい理念を持った教育者によって創られたのですね」といい、高知の大学講師(福祉問題専攻)Y氏は「ケーベル博士は、明治31年に音楽学校で開かれた慈善音楽会の収益金を貧困家庭の子女のための二葉幼稚園に寄付している」と、博士の知られざる慈善行為を教えてくれた。

「開校したばかりの土佐中が漢字筆記で日本一の記録を示した」とある。
土陽新聞大正9年5月27日。右の飛行機が時代を示している。
 同窓生では、森健(23回)・門脇稔(25回生)・公文俊平(28回)などの先輩から、「面白くて一気に読んだ。知らなかった話ばかりで、よく取材してある」などの連絡をいただいた。母校には、教職員及び学校・振興会・同窓会の役員用に、向陽プレスクラブから60部謹呈してある。小村彰校長からの礼状をいただいたが、これらの人々がどう受け止め、今後の教育方針や学校100年史に生かしていただけるか、見守りたい。なお、ありがたい反響は、向陽プレスクラブが発行元を引き受けてくれたお陰であり、皆様に感謝したい。
ページTOPに戻る

ディック・ミネさんの思い出

棚野 正士(31回) 2017.07.12

筆者近影
 中城先輩、高知新聞書評ありがとうございました。「三根校長とチャイコフスキー」は名著です。「音楽を愛した教育哲学者」を初代校長とする土佐中・土佐高は、中城先輩のご著書で新たな教育理念を探れると思います。
 わたくしは永年歴代土佐高校長が母校を語るとき、「今年は東大に何人入ったか」「甲子園に出場できるか」しか言わないので、怒りと絶望感を覚えていました。しかし、中城先輩のご活躍を知り、もっと土佐高の文化的側面に校長は気付くべきだと考えておりました。その中城先輩が名著を書かれ、三根校長の思想が新たな土佐高・土佐中の理念になっていくことを願います。

故ディック・ミネ氏
 ディック・ミネさんとは、ミネさんが日本歌手協会会長の時に親しくなりました。当時わたくしは社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)専務理事でした。時々仕事の関係で会食をしました。食事をしながら三根先生(ディックさんは”ぼくのお父さん”と呼んでいました)のことを聞きました。こんな話をしていました。「自分は不良と思われているが本来不良ではない。ぼくのお父さんも不良をしたいが教育者なので出来ないから、代わって自分が不良を勤めている。父は教育者で母は日光東照宮の宮司の娘で、自分は本来不良ではない」などです。
 あるとき、三根先生とデイックさんが二人で汽車に乗っているとき、不良が二人絡んできたので、ディックさんは二人を汽車が停車したとき、外に連れ出し殴り倒したそうです。車内に戻ったとき、三根校長がどうしたと聞くので。「殴り倒した」と言ったら、三根校長は「そりゃよかった」とひと言ったそうです。
 中城先輩の名著がきっかけとなり、土佐高が新たな「光」、新たな「希望」を求めることを望みます。
ページTOPに戻る

−倉橋由美子、合田佐和子、田島征彦・征三兄弟、坂東眞砂子−
母校出身“素顔のアーティスト”

中城 正堯(30回) 2018.03.25

著者近影………背景は拙宅の桃で、
43年前に「こばえ」から育てたもの。
 土佐高出身の関東在住者有志による筆山会(会長佐々木ひろこ33回)3月例会で、表題の卓話を仰せつかった。母校出身の文芸家・芸術家は、まだまだ多士済々であるが、時間の制約もあり、筆者と直接交流のあったこの5人に絞って報告をおこなった。“素顔の”と題したように、作家論や芸術論ではなく、あくまで筆者がふれた個性豊かなこれらアーティストの思い出話にすぎなかった。当日、23〜83回生まで14名の出席者があったものの、これら同窓生の作品を愛読ないし鑑賞した経験のあるメンバーはごくわずかであった。
 ここでは、筆山会での発表内容に出席者の反響も加えて順次ご報告したい。拙文が、現代日本を代表する各分野のアーティストとして輝くこれら同窓生の作品を、あらためて愛読・鑑賞する機会になるとともに、皆様が知る別の素顔を回想してお知らせいただけると、大変幸いである。残念ながら女性3人はすべて鬼籍に入ってしまったが、作品は多くのファンに愛され続けている。では、倉橋由美子さんから始めよう。(本文では、敬称を省略させていただく)
母校出身“素顔のアーティスト” (T)
『パルタイ』で文壇に衝撃のデビュー 倉橋由美子(29回)
お茶の水での再会、帰郷・結婚・留学

倉橋由美子
(明治大学「倉橋由美子展」目録より)
 昭和33年頃の春、中大生だった筆者は、東京お茶の水駅の近くで連れだって歩く竹内靖雄と倉橋由美子両先輩(29回)にぱったり出会った。竹内は28回の公文俊平と並んで当時の土佐中高きっての秀才として知られ、新聞部員として交流もあったのですぐ分かった。倉橋は園芸部員で、学校の花壇の世話をする姿を見かけ、また各部責任者が出席してクラブ活動の予算を検討する予算会議で顔を合わせ、見覚えがあった。
 相手は二人連れであり、とっさに黙礼を交わしただけですれ違った。東大の竹内は三年になって本郷に来ていたし、倉橋は日本女子衛生短大を経て明治大学に入ったので、同級生として久しぶりに再会したのだろうと単純に思っていた。ところが、夏休みになって帰郷、高知市街に出て喫茶店プリンスに入ると、ここでもお二人に出会った。ようやくその親密さに気付き、今度は「またお会いしましたね」と声をかけた。
 それから2年後、筆者が学研で編集者のスタートをきって間もない昭和35年に、明大4年生の倉橋は、『パルタイ』で文壇へ衝撃的な登場をとげた。明治大学新聞に発表直後から話題となって文芸誌に転載、さらに同年末には文藝春秋社から単行本として刊行された。この本の帯に推薦文を遠藤周作とともに寄せた倉橋の恩師で評論家・平野謙は、「革命運動の根ぶかい純粋性と観念性を一学生に具現した作品」であり、「大江健三郎の処女作をみつけたときに似た興奮をおぼえる」と、斬新なこの作品に出会った感激を吐露していた。
 筆者も一読し、抽象的・寓話的な独自の作風とされながらも、当時の革新政党による学生を巻き込んでの労働者へのオルグ活動の世界が鮮やかに捉えられているのに驚嘆した。知識だけで描ける文章ではなく、実態を把握したうえでの創作と読み取れた。竹内の協力も相まって倉橋の才能が開花したであろうと推測した。竹内は東大経済学部大学院を終えると成蹊大学教授となり、経済思想史・経済倫理学で業績を挙げるとともに、経済エッセイでも数々の名文を残したが、平成23年に逝去した。
 後に聞くと、倉橋は土佐中高時代には受験勉強そっちのけで文学全集の作品を破読、「“くまてん”(吉本泰喜先生)のお陰で漢文・漢詩が好きになり、母親の反対を押し切って文学部に入学、仏文を専攻してカフカ、カミュ、サルトルに親しんだという。大学では欧米の新しい文学の潮流と、学生運動の先端に触れ、鮮烈な倉橋文学が誕生、純文学の新鋭として出版各社から追いかけられることとなる。
 『パルタイ』は35年度上期芥川賞候補になったが、最終審査で北杜夫の『夜と霧の隅で』と競い、二作同時選定の意見も出たが結局北のみが選ばれる。倉橋の作品は、テーマも文体もあまりにも斬新だっただけに拒否反応を示す評論家もいたのだろう。翌年度も『暗い旅』が候補に挙がるが選にもれる。この時の受賞者は、後に夕刊紙・週刊誌でポルノ小説を乱作する宇能鴻一郎であった。時を経て池袋の場末の居酒屋で、ひと仕事を終え、黙々と杯を傾ける宇能を何度か見かけたが、受賞時の面影はなかった。選考委員の先見性が疑われる選考だった。『パルタイ』は、36年に第12回女流文学賞を受賞する。
 昭和37年、明大大学院に進んでいた倉橋は歯科医だった父の急逝で退学し、土佐山田町の自宅に帰る。この際に、同年婦人公論女流新人賞を受賞したものの次作の執筆に苦慮していた宮尾登美子や、高知支局にいたNHKの熊谷冨裕、朝日新聞の米倉守(後に美術記者として活躍)と出会う。旧知の西岡瑠璃子先輩(28回)とも再会する。そして39年には、宮尾の仲人で急遽熊谷と結婚する。後に関東同窓会の『筆山』4号での筆者のインタビューに応え、結婚のいきさつをこう語ってくれた。「宮尾さんの紹介で、熊谷と生まれて初めてのお見合いをしたのです。『ものを書くなら結婚した方がいい。食べさせてやる』という言葉に、あまりの感激で、ただ『はい』と、いってしまいました」。 見合いの直後に伊藤整などの推薦で、フルブライト委員会からアメリカ留学の話が来たため、急遽三翠園で挙式をしている。「結婚のいきさつは秘密の約束だったのに、宮尾さんが書いた」とも、語っていた。結婚後に二人はアイオワ州立大で1年間の留学生活を過ごす。熊谷はNHKを退職して独立、映像プロデューサーとなる。
旺盛な執筆活動、旧友とも交流
 アメリカから帰国後、旺盛な執筆活動を再開するが、二人のお嬢さんにも恵まれ、主婦としての役割も楽しむ。昭和47年末から半年ほどは、一家でポルトガルへ渡って暮らしている。昭和50年には、早くも『倉橋由美子全作品集』(全8巻)が新潮社から出る。

右から倉橋、公文公、浅井伴泰(筆者撮影)
 ここに載せた写真は、昭和62年に市ヶ谷にあった公文教育研究会に公文公先生(7回)を訪ねた倉橋であり、同席した浅井伴泰(30回)である。師弟再会のキッカケは、倉橋がお嬢さんの入学した玉川学園の雑誌に「ソフィスト繁昌」と題したエッセイを書き、公文が当代の代表的なソフィスト、すなわちプロに徹した教師であると称えたからだ。倉橋は、教師の原型は知識を与えるソフィストであり、労働者でも聖職者でもないと説いている。同窓会幹事長として長く接した浅井は、「われわれには高名な純文学作家とは感じさせない気さくな主婦そのもので、同窓会にもよく協力してくれた」と語る。
 インタビューを掲載した『筆山』が届いたと電話をくださったとき、印象に残っているのは、「あれは書かなかったねえ」である。「あれ」とは、学生時代のお茶の水・高知での出会いだ。続けて、「彼の奥さんも高知の人なので気にするといけないので・・・」と、気配りをみせていた。竹内は、昭和52年に『イソップ経済学』、その後『世界名作の経済倫理学』で、古典物語を素材に登場人物の思想と行動を分析、軽妙なエッセイを残している。つい、倉橋が昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』や、続く『老人のための残酷童話』を連想する。竹内は、ギリシャ悲劇からカミュ『異邦人』まで取上げているが、各名作の末尾には「教訓」を添えてあり、これは倉橋の『残酷童話』でも同様である。
 竹内もまた、「公文先生の蔵書」というエッセイで、公文の思い出を「それこそハレー彗星級の知的巨人だった」「私は物に憑かれたように“公文図書館”の本を読んだ」と記している。手にした本は、数学者デデキントの『連続数と無理数』から、自然科学、歴史、文学におんでおり、イソップ物語も土佐中時代にこの図書館で見付けたようだ。
奇想天外な創作と忍び寄る病魔
 倉橋は著名になっても文壇で群を作ることはなかったが、芥川賞で競った北杜夫、そして重鎮・中村真一郎とは仲がよかったようだ。筆者も中村にはお世話になり、いつだったか熱海の別荘に銅版画家・木原康行とまねかれ、中村夫人(詩人・佐岐えりぬ)ともども飲み明かした。その際に倉橋の話になって、「素晴らしい作家だが、男女の愛情描写やエロスがまだ不足。もっと遊ぶように言ってくれ」と、告げられた。後日、倉橋に話すと、「私も“小説に艶がない、もっと遊べ”と直接言われた」とのことだった。神宮前の中村宅では、たまたま親友・加藤周一、堀田善衛との座に同席した。二人は中村をからかうように「彼は昔から我々が政治談義に熱中すると居眠りを始めるが、女の話になるとむっくり起きてくる」と打ち明けてくれた。小説家にとって、エロスは不可欠のようだった。
 後に、坂東眞砂子(51回)が『山妣(やまはは)』で直木賞をとった勢いからか「いまの日本の小説は面白くない。倉橋さんも・・・」と広言していた。倉橋と会った際に、このことにも話が及んだが、「元気があっていいねえ」と受け流していた。すでに昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』の「あとがき」で、「近頃の小説は面白くないという説があります」と書き、その原因を解明しつつ、「大人に喜ばれる残酷で超現実の世界やエロチックに傾く大人の童話に手を付けた」と述べている。 

『アマノン国往還記』(新潮社)表紙
大人の童話だけでなく、後期の長編小説では奇想天外な創作世界が展開、男女の恋愛にはエロチックな場面が織り込んであり、思わず引き込まれる。その代表が、未来の女権国家を描いた『アマノン国往還記』(泉鏡花文学賞受賞)である。ここでは、アマノン国(土佐方言「あまのん」に由来)へ潜入した宣教師が、女たちの失ったセックス復活に大活躍をする。もう一つが桂子さんシリーズで、『シンポシオン』では核戦争を前に、教養豊かな人物が源氏物語からギリシャ悲劇・漢詩まで飛び交う大人の会話と恋愛を繰り広げる。サティのピアノ曲が流れ、シェリーやワインが注がれる優雅なシンポシオン(酒宴)で、なぜか思いがけず沈下橋・皿鉢料理・いたどりなど郷土色に遭遇、頬がゆるむのも後輩読者の特権である。くまてん仕込みの漢詩の古典も巧に配してある。
 平成7年には、同学年の福島清三から「月刊『文芸春秋』の「同級生交歓」に、泉谷良彦・中山剛吉・大脇順和・倉橋などと出たい。交渉をたのむ」と話があった。同社の知人に相談すると、「編集部は倉橋さんから申し込んで欲しいといっている」との返事。早速本人にお願いしたが、「私から頼むと編集部に借りを作る」と、最初は躊躇していた。出版界では、借りを作ると書きたくない仕事も断われなくなるのだ。しかし、クラスメートの願いを聞き入れて、話をまとめてくださった。大脇にとっては「中学時代の懐かしい少女」、福島にとっては「在学中から主婦型」だった倉橋との久しぶりの再会だった。
 やがて平成10年頃になると、電話で体調不良をこぼすようになり、「耳鳴りがひどく、仕事にならない。あちこち耳鼻科の名医を訪ねたが原因不明なの」とのことだった。そして、「耳でなく心臓に問題があると、やっと分かった。しかし治療は困難みたい。気晴らしに体調の良いときに四国遍路を始めた」と伝えてきた。参考までに「高群逸枝の『お遍路』が面白い」と伝えると、「読む読む」といっていた。 病とともに、倉橋が珍しく愚痴をこぼしたのは、夫君の熊谷がかつて沖縄海洋博の仕事で赤字を背負った話だった。プロポーズの言葉と違ってフリーの映像作家はさまざまな不安要素を抱え込んでおり、夫の仕事ぶりは心配のタネだったようだ。晩年の長編『アマノン国往還記』の付録には、「もし女性(私)が育児と男性から解放される時代がきたら、という“仮定”に立って書いてみた(笑)」とある。ぜひ倉橋の切なる願望を、この作品からさぐって欲しい。
 平成17年3月に筆者は肺血栓塞栓症で突然倒れた。一月半の入院で命拾いをして自宅療養中だった6月、「倉橋由美子、拡張型心筋症で永眠、享年69歳」の知らせが届いた。
望まれる作品誕生の背景研究

『パルタイ』(文藝春秋)をはじめ著書の数々
 逝去の翌年6月に、明治大学中央図書館で同大学特別功労賞受賞記念「倉橋由美子展」が開催され、なんとか見学にかけつけた。この展示で認識を新たにしたのは、倉橋文学の国際性である。イギリスに飛んで作品の舞台を探訪したうえで翻訳した『嵐が丘』の続編『嵐が丘にかえる』はじめ、最新の『新訳 星の王子様』まで22点が展示してあった。『パルタイ』『アマノン国往還記』など著書の翻訳出版も、英語・仏語・独語・ポルトガル語・中国語など27点におよぶ。さらに、カルフォルニア大バークレー校などの大学院生による「倉橋文学」を取り上げた博士論文5点がならべてあった。
 当時、近代文学を専攻した大学生の論文テーマとして、倉橋人気の高いことは聞いていたが、海外でもこれほど評価が高いとは気付かなかった。この倉橋文学誕生には、明治大学でのフランス文学専攻とともに、土佐中高での読書や学び、そして学友・教師との交流 が欠かせない要素であった。西岡瑠璃子たちの協力で、高知県文学館に倉橋コーナーができていると聞くが、母校でもさらなる資料収集と、倉橋文学誕生の背景研究が望まれる。
筆者より:次回以降の合田・田島兄弟・坂東の同期で、写真を提供下さる方がいましたら、お知らせください。
ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”に嬉しい反響

中城 正堯(30回) 2018.04.25

筆者近影
 3月にこのホームページにアップされた「母校出身“素顔のアーティスト”(T)倉橋由美子(29回)」に、多くの嬉しい反響があったので、感謝してお知らせしたい。

 まず、最初の読者であった藤宗俊一編集長からで、<倉橋さんの記事を読んでいて、『山田に帰った』という言葉で、「たしか、当時の部長だった宮地さん(40回生)ら女性陣が山田のご自宅に取材に伺ったはずだけど……。」調べてみると60号に掲載されていましたのでpdfで添付します。当時、私は中学3年生で KURAHASHI Who???の世界にいました。それが、半年後には編集長に上り詰めるとは、新聞部も人材が不足していたのですね。>とのこと。
 さすがに名編集長で、病後の体でありながら、昔々の関連記事をきちんと思い出して送ってくれた。どうか、宮地(島崎)敦子記者のインタビュー記事「すぽっと ストーリーのない小説 倉橋由美子さん」をお読みいただきたい。

「すぽっと ストーリーのない小説 倉橋由美子さん」
 ついで、倉橋さんと同期の大脇順和(29回)さんが、拙文で触れた『文芸春秋』平成7年2月号の「同級生交歓」の誌面コピーに、6人の動静(倉橋・泉谷が他界、福島・岡本が闘病中、元気なのは中山・大脇)を添えて届けてくださった。ここに、その紙面を紹介する。なお、このなかの中山剛吉さんが新聞部、また大脇さんの弟・大脇恵二(31回)さんも新聞部だった。

『文芸春秋』平成7年2月号の「同級生交歓」の誌面コピー
 倉橋さんをよく知る先輩、28回生の公文俊平さんから「知らないことが少なくなく、興味深かった」、西岡瑠璃子さんからは「懐かしいことばっかり」との連絡をいただいた。
 久武慶蔵(30回)君は、「倉橋文学は実存主義文学の模倣にすぎないとの批判に対して、彼女は文学は本質的には模倣だと答え、ハチキンの気概を感じ、“土佐人の原点”をみました」とのメールを寄せてくれた。
 この記事をKPCのHPにアップしたことは、会員以外にもメールで知らせ、閲覧を呼びかけた。反響は、どうしても倉橋さんと近い世代に限られたが、向陽プレスクラブの存在告知にいくらかはつながったようだ、前田憲一(37回)さんのように、初めてこのHPを開き、多彩な情報にビックリした後輩もいた。
ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(U)−1(前編)
焼け跡で誕生した前衛アートの女神 合田佐和子(34回)

中城正堯(30回) 2018.05.03
型破りのオブジェからスタート
 熱烈なファンのいた合田佐和子だが、残念ながら同窓生では同学年かよほどの美術好きでないと、その作品に触れたことがなく、名前も記憶に残ってないだろう。闘病の末に平成28年2月に亡くなると、4月には嵐山光三郎、巌谷國士、唐十郎などを発起人に、「お見送りする会」が品川プリンスホテルで開催され、交遊のあった前衛文化人や現代アートの女神とあがめたファンが多数つどい、マルチアーティストとしての合田の多彩な足跡を偲んだ。翌年1月には、遺稿集とも言うべき『90度のまなざし』(港の人)、8月には作品集『合田佐和子 光へ向かう旅』(平凡社)と、相次いで刊行されたのもその人気故である。追悼展も、日本橋「みうらじろうギャラリー」などで次々と開かれた。

絵筆を持つ合田佐和子(『90度のまなざし』より)
 では、『90度のまなざし』の著者紹介から、略歴を見てみよう。「1940年、高知市生まれ。武蔵野美術学校本科在学中より、廃物を使ったオブジェ制作を開始。1965年に瀧口修造の後押しにより初個展、以後、定期的に個展開催。70年代より油彩作品を制作、唐十郎の劇団状況劇場と寺山修司の演劇実験室天井桟敷の舞台美術や宣伝美術も多く手がける。映画スターたちのポートレイト、目玉、エジプト、バラや鉱物などをモチーフに多数の作品を発表、超現実へと誘う幻想的な世界を作りあげた」とある。
 略歴では触れられていないが戦争中は広島県呉市で過ごし、5歳で終戦を迎え、高知市へもどって焼け跡で遊んで育つ。後にこの頃を回想し「焼け跡の中で、色ガラスが溶けて土や石と合体した塊を発見、半狂乱になって集めたりした。後年、この原体験は、ガラス箱のオブジェなどとなって、くり返し現われてくる」(「現れては消えるあのシーン、あの俳優」『キネマ旬報』1995年4月下旬号)と記している。小学校ではプロマイド集めに熱中、嵐ェ寿郎の鞍馬天狗などを町はずれまでかけずり回って探し集めたという。
 父は広島で繊維メーカーの技術者として働いた経験を生かし、戦後の高知では衛生材料製造業を興して成功を収めていた。比較的裕福なインテリ一家で、高知市が始めた中央の文化人を招いての夏期市民大学を家族で受講するなど、文学や芸術にも関心が高かった。

土佐中高『会員名簿』2015年表紙
「クリスタルブルーなデートリヒ1」
 土佐中への入学は、昭和28年(1953)である。高校時代はもっぱら新聞部員として活躍していた。その様子は、「向陽プレスクラブ」ホームページ2016年3月12日付「新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ」で、印刷所での大組に立ち会って、美しい紙面の割付けに力量を発揮したことなど、吉川順三(34回)が心のこもった追憶をしている。
 彼女の略歴紹介で目をひくのは、画家では納まらない多彩な美術ジャンルでの活躍である。オブジェから油彩画、写真、舞台美術など自由自在に異種領域間をワープ、どの分野でも合田カラーで人々を魅了してきた。まずは、合田が制作中の写真と、母校の創立75周年記念『会員名簿』の表紙を飾った「クリスタルブルーなデートリヒ1」から、人と作品を思い起こしていただきたい。そして、彼女の土佐高新聞部時代から中央の美術界での活躍まで、ほぼ60年間の交流で接した素顔をつづり、手向けとしたい。
新聞部の毒舌記者、オンカンが補導
 合田は4年後輩であり、出会ったのは筆者が大学時代(昭和30〜34)に帰郷、新聞部の活動に参加した際であった。この時期はいわば新聞部の黄金時代で、合田の同期には吉川順三(毎日新聞)、秦洋一(朝日新聞)、国見昭郎(NHK)など、のちにマスコミで大活躍する人材が揃っていた。さらに、浜田晋介や山崎(久永)洋子も編集長として活躍していた。「向陽新聞」も彼らが編集制作の中心であった昭和31年度には、5回も発行している。筆者も夏休みの恒例事業になっていた「先輩大学生に聞く会」や、大嶋校長を囲む座談会などに、よく狩り出された。

種崎海水浴場での新聞部キャンプ。
前列左が合田、後列は横山・吉川。
 新聞制作以外の活動で、最も印象に残っているのは夏休みのキャンプと、新年会である。31年夏には種崎千松公園に、翌年は大田口の吉野川河原にテントを張った。新年会は、岡林敏眞(32回)の実家料亭などで毎年開いた。これら、お遊び会に必ず付き合ってくれたのが合田である。新聞部の部室では、毒舌で仲間をやり込め「恐ろしかった」という部員すらいるが、学校外では嬉々として活動、特に海水浴は好きなようだった。水着姿の彼女はすらりとした体形に日焼けした肌、なにより鋭いまなざしが強く印象に残っている。
 彼女は種崎の海水浴場で、「突然の大波をかぶって溺れそうになったとき、先輩に助けられた」と後に語っていたが、これは幻影かも知れない。荒波に立ち向かうのは中学時代から好きだったようで、台風の直後に祖父のスクーターで桂浜に駆けつけ、被害を受けた水族館をのぞいたあと、「決死のゲーム」に挑戦したという。それは、海に突き出た岬の先端に祀られた祠・竜宮への石段を、大波が引きあげて次に打ち寄せる40秒ばかりの間に全力で駆け上ることだった。岬のてっぺんに立って、絶壁にぶつかって落ちる波の「とろけるような奇怪なオブジェの大乱舞」をながめ、はしゃぐためだったと述べている。
 高校時代には映画館で補導を受け、強い印象を受ける。「学校帰りに映画館へ入り、“青い麦”を見て、出口で補導された。怒った時はライオンの如く、やさしい時はカンガルーの如し、と自らを“オンカン”と命名した中山(駿馬)先生が、ライオンになって待ちかまえていて、説教された」。

合田14歳の自画像。
(おかざき世界子ども美術博物館蔵)
 すばらしい映画のどこがいけないのか、やっとの思いで聞くと「すばらしい映画だからこそ、見てはいけないのだ!」と言われ、「甘い、背徳的な、せつない気分は、今でも心に灼きついていて、今ごろになって、やはりオンカン先生は正しかったんだ、と思えるのである」(「現れては消えるあのシーン、あの俳優」前出)と回想している。
 土佐高でアーティスト合田誕生に結びつく大きな出来事は、1になった新学期から、美術教師に高崎元尚(16回)が赴任したことである。前任の鎮西忠行も画家だったが、静物や風景を写実的に描く正統派であった。新任の高崎は、東京美術学校(現東京芸大)を出てモダンアート協会や具体美術協会に属し、戦後日本の前衛美術界をリードしてきた人物であった。「生涯現役」を掲げて創作に挑み続け、高く評価されたが、昨年6月高知県立美術館で「高崎元尚新作展-破壊 COLLAPSE-」開催中、94歳で亡くなられた。
 高崎の赴任によって、再び絵画への興味を甦らせ、新聞部だけでなく美術部にも出入りするようになった。14歳で描いた自画像が、愛知県の「おかざき世界子ども美術博物館」に収蔵されている。

高3の新年会に、東京から帰郷して出席。
中列左より2人目が筆者
太いタッチで少女の真っ直ぐな内面まで表現している。高3になると、美術へと進路を定め、夏休みに上京して御茶の水美術学院へ通う。美術大学へ進学するためにはデッサンなど実技が必要で、二学期になっても東京にとどまり続け、年末にやっと帰高している。この時の新年会の写真には、すっかり垢抜けした合田の姿が見られる。前列の女性は右から旧姓で、34回の山崎洋子・合田佐和子、35回の大野令子・浜口正子・早川智子、31回の森下睦美(後の新聞部顧問)である。大学は、武蔵野美術学校本科(現武蔵野美術大学)商業デザイン科に入学する。
(後編に続く)
ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(U)−2(後編)
焼け跡で誕生した前衛アートの女神 合田佐和子(34回)

中城正堯(30回) 2018.05.27
東京での再会と奇怪な大判名刺

合田のオブジェ「Watch-Angels」。
1964年(『合田佐和子 影像』
渋谷区立松濤美術館より)
 大学を出て学研の学習雑誌編集部にいた筆者に、彼女から突然訪問したいと電話があったのは、たしか昭和37年(1962)であった。彼女は土佐高の同級生で多摩美術学校(現多摩美術大学)の田島征三を連れ、作品を抱えて現れた。二人は大学がちがっても同じ美術専攻で、上京してから意気投合、就職はせずに美術で食っていこうと思い立ち、見本の作品を持って出版社回りを始めたのだという。
 田島とは初対面だったが、すでに全国観光ポスター展で、土佐沖のかつお釣りを描いた躍動感あふれる作品が金賞を得ており、自信満々だった。力強いタッチの人物や生き物は小学生を読者対象とする学習雑誌にも向いており、興味を示す編集者がいて早速仕事に結びついた。合田はカットやオブジェの写真を見せてくれたが、ちょっと子ども向きではなかった。むろん出版社によっては、合田も歓迎されたようだ。

上京した新聞部員を迎えた合田たち。
前列左より宮地敦子、江沢憲子、竹内たみ(40回)、森下睦美(31回)
 昭和37年の夏休みには、母校の国語教師・新聞部顧問となった森下睦美が、全国高校新聞大会に出席のため、3人の女子部員をともなって上京した。その際の写真には、前列の4人の上京組を迎え、後列には左から岩谷清水(27回)・合田・横山禎夫(30回)・筆者が並んでいる。
 この頃合田はガラクタオブジェの制作に熱中、瀧口修造などから認められ、40年(1965)には銀座で初の個展を開く。土佐のやせた少女は、さなぎからチョウへと美しく変身し、個展の前年には同郷の画家・志賀健蔵と結婚、披露宴は高知のホテルで盛大におこなわれた。オブジェは次第に注目を浴び、澁澤龍彦、イサム・ノグチ、白石かずこ、池田満寿夫などからも評価されるようになった。41年1月に長女を出産するが、6月には離婚する。友人には、「経済的にも頼ろうとするばかりで、稼ごうとしない男に愛想を尽かした」と、漏らしている。当時、合田からもらった名刺が残っている。A3の用紙いっぱいに一つ目の妖怪やろくろ首の女などが乱舞しており、氏名・住所・電話は申し訳のように小さく添えてある。目玉への執着もうかがえる。

工夫をこらした新人画家合田のイラスト名刺。(筆者蔵)
 やがて四谷シモン、唐十郎と知り合い、昭和44年(1967)には唐が主宰する状況劇場「少女都市」で透明な仮面など小道具を制作する。空き地や神社の境内に、怪しげな紅テントを張って演じられる不思議な演劇空間にはまり、舞台美術や宣伝美術もまかされるようになる。この頃、突然電話をかけてきて、「プラスチックで仮面や手足を制作したい。どこかいい業者を知らないか」とのこと。当時、学習雑誌の付録としてプラスチック製の教具制作も手がけており、すぐに出入りの金型屋や成型加工業者を紹介した。
 こうして多忙となったなかで、46年1月には彫刻家三木冨雄と結婚、ロックフェラー財団の招聘を受けた三木とともにニューヨークに渡り、8月まで滞在する。ここでアンダーグラウンドの映像作家ジャックと出会い、夜ごと夫婦で廃墟のようなロフトに訪ねたという。
 ニューヨークで世界の先鋭美術に触れるとともに、古ぼけた写真を拾ったことが、アーティスト合田の大きな転機となる。油彩画に拒絶反応を示し、立体物のみを制作していた合田は、こう述べている。「N・Yの裏通りで一枚の写真を拾った。二人の老婆と一人の老人が写っている、小さな銀板写真だった。手に取って眺めているうち、ハタと気付いた。アレ、これはすでに二次元ではないか」(「INTRODUCTION」『合田佐和子作品集 パンドラ』PARCO出版)。8月東京に帰ると、経済生活を維持するためにも油彩に取り組む覚悟を決め、渋谷の画材店で店員に油絵の描き方をたずね、絵の具5本と百号のキャンバスを買う。高校時代に見た「甘く、背徳的な」女優たちのプロマイドも収集、こうして、後に代表作となるスター・シリーズが誕生する。
唐十郎に続き寺山修司の演劇に参入
 昭和55年(1980)3月には渋谷の西武百貨店美術画廊で「夢の回廊 合田佐和子[ポートレート]展」を開催、作品集「ポートレート」を刊行する。手元に残るこの作品集には、ローマ字のサインとともに1980.3.13と記されている。70年安保後の気怠い街角に、往年の退廃的スターが、エロスと妖気と死の影をまとって再登場、衝撃を与える。以来、生身の人間を描くことはなく、写真を素材に自己流の油彩で描き続ける。
 この間、米国から帰国後47年に三木と離婚するが、同年末に次女が誕生する。舞台美術の仕事も広がり、「状況劇場が好きだから、ダメ」と言い続けてきた唐のライバル・寺山修司の天井桟敷にも参画する。演劇「中国の不思議な役人」から、香港ロケによる映画「上海異人娼館」など、寺山作品に欠かせない存在となる。だが、最初に「演劇の世界は地獄だよ」とからかわれたとおり、その仕事は過酷だった。台本が遅れに遅れ、「青ひげ公の城」では、一週間で14景の舞台下絵を描かねばならず、「さび付いた頭をフル回転させ、狂ったように取り組んだ」と語っている。心身ともに消耗の激しい作業だったが、寺山のイメージに見事に応え、喜ばれる。唐組の仕事も終生継続する。

合田の絵画作品、作品集から。
 さらに合田は、写真の撮影から現像・コラージュの技法も習得する。米国から上陸したポラロイド写真にいちはやく挑戦、昭和56年には「合田佐和子ポラロイド写真展」を六本木アートセンターで開催する。59年には銅版画による豪華詩画集『銀幕』を刊行、その出版記念会案内状で四谷シモンは「当代きっての才媛、ぼくらのマドンナ、佐和子が・・・電光石火の早技で〈月光写真〉の如き〈銀幕のスターたち〉を誕生させました」と、讃えている。油彩・演劇・写真・銅版と、合田のとどまるところを知らない快進撃は、若者の支持を得て現代アートの女神かのような存在となっていく。
 昭和60年(1985)になり、娘二人とエジプト・アスワンに移住すると知らせがあったときは、筆者も訪ねた土地であり、あの砂漠と青空だけが広がる世界への脱出は理解できた。いっぽう、灼熱の村での暮らしに危惧も感じた。一家はヌビア人の村に住み込み、泥の家に居住する。合田は「サバコ、サバコ」と親しまれるが、頻繁に停電が発生、冷房もままならない生活に長女(当時19歳)は早々に帰国、次女(12歳)には「映画もTVもネオンも恋しいヨー!」と嘆かれ、1年足らずで滞在を打ち切る。
 滞在中、エジプト村日記を『朝日ジャーナル』に連載、後に『ナイルのほとりで』と題して朝日新聞社から刊行される。この頃、筆者は「船の目玉―海の魔除けの不思議な系譜」を執筆中で、ホルスの目に魅了された合田から、ナイル川の帆船ファルーカの目玉情報の提供を受けた(拙著『アジア魔除け曼荼羅』NTT出版に収録)。朝日新聞では、平成3年(1991)の連載小説「軽蔑」(中上健次)の挿絵を担当、目をテーマに描き続ける。
独自の目で幻想的世界を開拓

合田佐和子「マリリンの海」
2003年(『合田佐和子 影像』より)

若き日の「合田佐和子個展」
案内状(写真:沢渡朔) 1977年
 帰国後は、世田谷区から神奈川県葉山町、さらに鎌倉へと転居し、旺盛な制作活動を再開する。平成4年2月には、石川県小松行きの飛行機で偶然彼女と乗り合わせた。若い男性助手を連れており、金沢市で4日間にわたる公開制作をするとのことだった。仕事の日程をやりくりして会場に駆けつけ、二百号の大作に挑む現場に立ち会えたのは幸運だった。
 かつては、小さな個人画廊での個展が中心で異端の画家という存在だったが、次第に時代の先端を行くアーティストとして美術界からも注目されるようになり、民間・公営双方の著名美術館からも声がかかるようになった。特に平成13年(2001)の高知県立美術館<「森村泰昌と合田佐和子」展>と、15年の渋谷区松濤美術館<「合田佐和子 影像 絵画・オブジェ・写真」展>は、彼女の代表作を総集した展覧会で、異分野への果敢な挑戦と斬新な表現を求め続け、戦後の日本美術界に刻印した鮮やかな足跡が読み取れた。
 残念ながら平成20年代になると体調を崩すことが多くなり、鎌倉や日本橋の個展に足を運んでも本人の姿はなかった。本人の声を聞くことができたのは22年4月で、土佐高関東同窓会会報への寄稿を、新聞部出身の永森裕子(44回)から頼まれて電話した。元気な声で快諾してくれ、筆者の病状(肺血栓)を心配し、『脳梗塞糖尿病を救うミミズの酵素』をぜひ読むように薦めてくれた。親しい間柄の栗本慎一郎(経済人類学者)が、脳梗塞の治療回復の体験から綴った本で、合田の病にも効果があったという。しかし、個展の作品制作に追われて体調が悪化、結局原稿は書けず、堀内稔久(32回)が代わってくれた。
 かつて寺山修司は、「合田佐和子の怪奇幻想のだまし絵は、絵の具に毒薬を溶かして描くかと思われるほど、悪意と哄笑にあふれるものである。・・・だが、そうした絵を描く合田佐和子自身は、支那服の似合う絶世の美女である」(「密蝋画」)と賛辞を惜しまなかった。

合田佐和子展の各種案内状。
 その合田の才気あふれる頭脳も、過酷な要求に応えての舞台美術制作から、油彩での意表をつく幻想的で奇怪なスターの描出、「目玉」への偏愛と創造に追われ、次第に機能障害をきたしたようだった。訃報は新聞で知った。焼け跡のガラクタから美に目覚め、マルチアーティストとして現代美術の先端を走り続けた75年の生涯であった。昨年11月には次女合田ノブヨの「箱庭の娘たち」作品集出版記念展が、渋谷区恵比寿の画廊であった。母親から受け継いだかのようなコラージュ作品が並び、熱心な若者ファンが会場を埋めていた。いずれ高知県立美術館で、合田佐和子回顧展ないし合田母子作品展の開催が望まれる。
ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(V)−1(前編)
大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟(34回)

中城正堯(30回) 2018.06.07
「働く人」と「のら犬」へのまなざし

田島征三の近影(本人提供)
 今年(2018年)の正月4日、朝日新聞を開いて驚いた。一頁丸ごと使ったカラー広告があり、両手を広げたハダカの子どもを頭上高く掲げた父が、大地を踏ん張って立っている。泥絵具の荒々しいタッチは、まぎれもなく“あの田島征三”の作品だ。「働く人みな、ずーっと健康」(伊藤忠)とある。まっとうな労働に誇りを持つ商社のイメージ広告で、小さくSeizoのサインがある。しかし、日本を代表する商社の“征三”起用に、不思議な想いにかられた。それは20年前、彼が住んでいた東京都日の出村(現日の出町)での広域ごみ処分場建設反対運動に立ち上がったものの、工事が強行される中で胃がんを発病、手術後に見舞った際のやつれた姿が、いまだ目に焼き付いていたからである。

今年正月の伊藤忠商事広告、絵・田島征三。
 今は伊東市に住む本人から、電話で経緯を聞いた。伊藤忠商事とは昨年(2017年)からの付き合いで、6月を皮切りに3回にわたって日本経済新聞で、見開き二面を使っての大広告に起用され、それが同年度の日経広告大賞に輝き、今年の正月広告につながったという。広告代理店があげたいくつかの候補イラストから、田島征三の絵本に見覚えのあった伊藤忠・岡藤正広社長(現会長)が即決したのだ。昨年は、「懸命に〈稼ぐ〉」、「無駄を〈削る〉」、「損を〈防ぐ〉」がテーマだった。〈稼ぐ〉では、荷車に満載した魚や野菜を全力で運ぶ夫妻が描かれている。骨太の経営理念を見事に表現したとして、大賞受賞となった。
 筆者のとまどいを察したのか、「日の出村のごみ闘争では、豊かな自然をぶちこわす行政と戦ったが、別に何でも反対じゃない。いま、廃校を丸ごと作品にした〈絵本と木の実の美術館〉のある新潟県十日町市では、市長をはじめ行政とも仲ようやりゆう」とのこと。なお、伊藤忠では元厚生労働省事務次官の村木厚子(49回)が社外取締役を務めている。
 こうして昨年、田島征三は大学時代の高知県観光ポスターでの金賞以来、再度広告の世界で脚光を浴びた。それにとどまらずに新作絵本でも、大がかりな野外展示(インスタレーション)でも、新たな挑戦を始めている。

アトリエの田島征彦(くもん出版提供)

『のら犬ボン』扉絵、田島征彦。
 いっぽう田島征彦にとっても、昨年は絵本作家としての新境地を確立する記念すべき年であった。2015年に障害者と健常者がともに生きる姿を描いて日本絵本大賞を受賞した『ふしぎなともだち』(くもん出版)に続き、2年の取材と推考を経て生まれた『のら犬ボン』(くもん出版)が、人と動物の関係を問いかける創作絵本として社会的反響を呼んだのだ。この絵本は、移住した淡路島で出会った三匹の野良犬から発想を得て、動物愛護センターなど関係者の取材を重ねてかき上げたもの。刊行直後から「ペット思う心 絵本で訴える、島の捨て犬問題取材し創作」(神戸新聞)、「捨てられる側の悲しみ」(高知新聞)など、各紙が社会面で大きく取り上げた。この絵本は、従来の型染絵ではなく、太い絵筆を使った大胆なタッチの描画ながら、人や犬の表情を巧みに表現している。
 なお、征三は「たしませいぞう」、征彦は「たじまゆきひこ」と、姓の読み方を変えている。混同を避けるためだが、若い頃はしばしば同一視や取り違えがあった。
兄弟で日本・世界の絵本賞を総なめ
 この一卵性双生児と筆者との出会いは、合田佐和子(34回)の項で書いたように1962年(昭和37)で、まず弟征三であった。当時、征三は多摩美術学校(現多摩美術大学)図案科在学中で、学習誌にいくらかカットを描いてもらった。やがて京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)染織図案科を出た兄・征彦も紹介された。ただ、1970年頃から筆者は大人ものの編集部に異動したので、二人から個展などの案内状をもらっても、仕事での付き合いは途絶えていた。征三が個展で「作品の大小にかかわらず一点一万円、“早い者勝ち”としたら、大きい方からどんどん売れた」などの話は洩れ聞いた。
 田島征三は、1965年(昭和40)に彼の作品のファンだった喜代恵と結婚、2年後に『ちからたろう』(今江祥智・文、ポプラ社)がブラティスヴァ世界絵本原画展(スロバキア)で金のりんご賞を受賞、4年後にはこの絵本賞の審査員に招かれる。1969年に東京都西多摩の日の出村に移住し、農耕と創作活動に取り組む。1973年には『ふきまんぶく』(偕成社)が、講談社出版文化賞を受賞、絵本が内外で高く評価されるとともに、『やぎのしずか』シリーズが幼児の人気絵本となる。また、米軍機墜落事故の犠牲者・館野正盛の裁判闘争を支援する会に加わり、社会福祉法人しがらき会信楽青年寮(知的障がい者生活寮・作業所)の手すき和紙や陶板を活用、協力して作品を制作するなど、社会的視野も持ち続けた。

征三の絵本。上『しばてん』『とべバッタ』の表紙、
下『ふきまんぶく』の本文。
 田島征彦は、入学当初は染織になじめず教授にも反発したが、次第になじみ、専攻科(大学院)を経て、大阪芸術大学や成安女子短期大学の講師となる。染織を教えつつ、シルクスクリーンによる作品制作も始める。1971年には教え子の英子と結婚する。やはり教え子だった高畑正が、筋萎縮症と戦いながら懸命に制作する生き様に衝撃を受け、講師を辞職、1975年に丹波の八木町へ妻・英子と移住し、農作業をしながら作品制作に取り組む。同年、京都府洋画版画新人賞を受け、賞金でソ連・ヨーロッパ研修旅行に出かける。途中から征三も加わる。帰国した翌年、3年前から取り組んできた初めての絵本『祇園祭』(童心社)が完成、いきなりブラティスヴァ世界絵本原画展で金牌賞を受賞する。1979年には『じごくのそうべえ』(童心社)が絵本にっぽん賞に輝く。吉村敬子との共同制作『あつおのぼうけん』は、障害者と本音でぶつかりあい、行動をともにすることから生まれ、感動的な絵本に仕上がった。1980年には、NHK「新日本紀行」が、兄弟それぞれの農耕と創作の日々を追いかけて紹介する。

征彦の絵本。左『じごくのそうべえ』
『みみずのかんたろう』『島』の表紙、
右『祇園祭』の本文。
 こうして画家・絵本作家として注目される存在になった二人は、1990年刊『現代日本 朝日人物事典』(朝日新聞社)に揃って登場、児童文学者の今江祥智がその作風をこう紹介している。「征三:卒業制作が絵本『しばてん』で、泥絵具をいかした極めて土俗的で大胆な画風のもの。・・・絵本『ふるやのもり』、『ふきまんぶく』から最新作の『とべバッタ』まで、従来のお子さま絵本とは対極的な、力動感あふれる個性的な絵本を相ついで発表してきた」。「征彦:型染絵を学び、その手法で最初の絵本『祇園祭』を制作。簡潔で力強く美しいこの祭りの絵本で注目を集めた。以来『じごくのそうべえ』から・・・同じ手法でユニークな絵本をつくりつづけている」。今江は、エッセイストとしての二人も高く評価している。
征彦『中岡はどこぜよ』がボローニャで絵本賞
 1981年(昭和56)に筆者は公文公(7回)のお誘いで公文教育研究会出版部に転職、1988年には児童書・教育書を出版する「くもん出版」を設立してその責任者となった。絵本も重要分野で、田島兄弟とも仕事が再開された。まず、くもん出版の季刊PR誌『本の海』に征三による幼い頃の回想記『絵の中のぼくの村』を連載してもらった。1940年に大阪で生まれた二人は、敗戦の年に父の故郷・高知県芳原村(現高知市春野町)に移住。ともに病弱だったが、勉強そっちのけで豊かな自然に浸り、川魚や野鳥を追いかけ、いたずらやけんかをくり返しながら成長していく。その姿が絵入りで赤裸々につづられ、大好評だった。
 この頃、征三の住む日の出町の山野が、都下三多摩地区の廃棄物を処分する巨大ごみ処分場の候補となる。田島たち住民は「日の出の自然を守る会」を結成、田島夫人・喜代恵が代表になる。彼らは「地域毎の安全でコンパクトなごみ処分場」という代案を掲げて運動を展開する。征三たちの呼びかけで、音楽家・小室等、映画監督・高畠勲など著名文化人も応援に駆けつける。筆者も「日の出の森・支える会」に入会した。しかし、征三たちの体を張っての抵抗も、行政に強制排除されて工事は着工となる。

征彦文・関屋敏隆絵『中岡はどこぜよ』の表紙と本文。
 そんななかで1990年、京都の征彦から「たっての願い」として、刊行早々に出版社が倒産して絶版になった『中岡はどこぜよ』を出して欲しいとの依頼があった。絵本担当の編集者が気に入り、喜んで引き受けた。坂本龍馬がテレビの中から大阪に現れ、「中岡はどこぜよ」と、自転車で走りまわるナンセンス絵本である。征彦による土佐弁の文に、京都美大の後輩・関屋敏隆のとぼけた切り絵が見事にマッチしている。これが“たまるか”翌年のボローニャ国際児童図書展で絵本賞を受賞した。作者・版元揃ってイタリア、ボローニャに来いとのこと。急な話で征彦はスケジュール調整がつかず、関屋と筆者が参加、帰国後に京都丹波の田島家に報告に行った。そのときの写真には、征彦夫妻と関屋、お土産に持参した古代エトルリア出土の人体彫像(レプリカ)が写っている。合鴨を飼育しての無農薬栽培で実った自家米ご飯や、採れたての野菜を使った鴨鍋をご馳走になった。

右から田島征彦・英子夫妻と関屋(筆者撮影)。
 征彦からは、続いて「たっての願い」として、土佐のミミズを主人公にした『みみずのかんたろう』を出して欲しいと言ってきた。子どもが喜ぶ絵本とは思えず躊躇したが、作者・編集者の熱意とボローニャでのタナボタの絵本賞もあって引き受けた。高知で話題になり、高知新聞(1992年4月)のインタビューを受けた征彦は、「出版社にも〈ミミズが主人公では・・・〉と、断わられ続けたが、土佐高の先輩が経営する東京の出版社が快く引き受けてくれた」と述べている。幼年時代に出会ったかんたろうミミズを求めて再三帰郷し、巨大なミミズの恋を型絵染で色彩豊かに染め上げ、彼の代表作の一つとなった。土のぬくもりを出すために、原画は水上勉が越前若狭ですいた竹紙に染めてある。

色鮮やかに染められた『みみずのかんたろう』本文。
ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(V)−2(後編)
大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟(34回)

中城正堯(30回) 2018.06.24
征三『絵の中のぼくの村』がベルリンで銀熊賞
 田島征彦のミミズ絵本ができ上がった1992年(平成4)には、連載を終えた『絵の中のぼくの村』も出版した。これが映画監督東陽一の目にとまり、高知出身・中島丈博との共同脚本で、シグロによる映画化が決定した。1995年の夏、仁淀川上流のロケ地・吾北村を訪ねた。オーディションで選ばれた双子の子役が、のびのびとやんちゃな兄弟を演じていた。完成試写会では見事な出来映えに感動、母親役の原田美枝子、父親役の長塚京三にもお会いした。
 翌年、突然朗報が届いた。「第46回ベルリン国際映画祭、銀熊賞受賞!」の知らせだ。この映画は、その後もベルギー、フランスなどの国際映画祭でグランプリを受賞、国内でも日本映画批評家大賞の作品賞・主演女優賞となり、さらに子役二人が特別賞を授与された。東監督は、文部省芸術選奨文部大臣賞を得た。これらも、もとはといえば田島兄弟の郷里での幼年期への郷愁を込めた自伝的エッセイであった。題名のとおり、かつての「ぼくの村」は住宅地に変貌、消えていた。

左から田島征三『絵の中のぼくの村』表紙と映画のチラシ、共作絵本『ふたりはふたご』表紙。
 征彦は、『みみずのかんたろう』出版の翌年、文化庁在外研修生に選ばれ、パリのアトリエ・コントルポアンで一版多色刷の銅版画を学ぶことになる。現地からの手紙に、こう記してあった。「アトリエでの銅版画が思いのほかぼくの作品に合っていて、銅版の上にビニールシートを貼り、型を刻っています。銅版画の型染めをやっているわけです。アトリエのみんながびっくりしています。欲がでて、朝から晩まで頑張っています」。「木原さんの個展が帰国予定日で残念」ともある。このアトリエは、英国人版画家ウィリアム・ヘイターが始めたもので、筆者の友人木原康行もここで学び、パリに終生居住、生命と宇宙を象徴するような抽象精密画をビュランで銅版に刻み続けていた。フランス画家版画家協会に正会員として迎えられたのは、長谷川潔に続き日本人二人目であった。ぜひ対面させたかったがかなわず、木原は2011年に死去した。日本での木口木版の開拓者・日和崎尊夫(高知出身)も、木原を訪ねて痛飲したと聞いている。
 帰国した征彦に、パリ研修のいきさつを聞くと、京都美大時代の恩師・木村重信の推薦だと聞き、これにもビックリ。筆者も、学研で『民族探検の旅』を編集した際に、梅棹忠夫から紹介されて以来のお付き合いで、木村が創設した民族芸術学会の会員となり、くもん出版では著書『美の源流 先史時代の岩面画』出版や、児童用『名画カード(日本編・海外編)』の監修などでお世話になった。
 木村は、美術史・民族美術が専門で、大阪大学教授・国立国際美術館館長などを歴任、美術学界のリーダ−であったが、弟子の面倒をよく見た。征彦の『祇園祭』についても、サンケイ新聞で取り上げ、「この絵本は、手で描かれずに、型染作品であることに特色がある。山鉾を飾る染織品が染色画によってあらわされるという、二重の面白さが見どころ」などと丁寧に紹介している。もう一人、木村の世話になった土佐高卒業生に柳原睦夫(29回)がいる。鷲田清一が朝日新聞「折々のことば」784に、こう記している。「おい、ヒマやろ・・・ヒマなはずや。・・・若き日の陶芸家、柳原睦夫は、ある講演の仕事を(木村教授から)回された。当日なんと教授が会場にいる。その後、家に連れて行かれ、たらふくご馳走になる。そして今晩も泊まれと。強引な教授、実は若い作家の暮らし向きを案じ、世に必死で売り込もうとしたのかも」。昨年開かれた「木村を偲ぶ会」で、世話役を務めた柳原の回想から取ったものだ。偲ぶ会は、体調不良で残念ながら失礼した。
土佐高での高ア先生との出会いが転機  

兄弟が中学生時代の一家。
前列右から、父・姉・征彦・母、後列は征三。
 1996年(平成8)には、初めての兄弟共作絵本『ふたりはふたご』をくもん出版から刊行した。ところが、創作活動とごみ闘争で激務が続くなか、1998年58歳を迎えた征三は胃がんであることが判明、大学病院で胃の三分の二を切除、川越市の病院で療養にはいった。そして、30年過ごした日の出町に帰ることなく伊豆に転居、現在は伊東市に住んでいる。征彦も60歳になった2000年に、住み慣れた京都を離れて淡路島に移転する。では、ここで二人の美術活動の出発点となった、土佐中高時代を振り返ってみよう。
 幼い頃から絵が好きで、地面に棒きれで絵を描きなぐって遊んだ兄弟は、小学に入ると村人が開いていた絵画教室に通う。教師だった父母にすすめられるまま、1953年に土佐中へ入る。左はその頃の写真で、前列右から父・姉・征彦・母、後ろは征三である。中学の美術教師は洋画家・鎮西忠行だったが、高校になるとモダンアートの高ア元尚(16回)となり、より強く影響を受ける。洋画家・中村博の画塾にもふたり揃って通う。
 この間、征三は夏期市民大学での岡本太郎の講演「芸術は、積み上げではない。いきなりドカンだ!」に感銘を受け、またピカソのデッサン集を入手、宝物のように愛でる。岡本もピカソも、古代文化や民族美術からインスピレーションを得て、新しい芸術への突破口にしていた。後になり、彼の絵本にキュービズムや抽象表現主義の傾向が現れるのも、「木の実のアート」を始めるのも、源流はこの高校時代だ。
 いっぽう征彦は、戸籍上は兄ながら引っ込み思案な性格で、絵に自信満々の弟が酒も飲んで青春を謳歌する姿に、劣等感を感じていた。土佐高の校内言論大会で、征三が再軍備問題を堂々と論じるのに惹かれ、自ら自由民権思想の研究会を立ち上げたが打ち込めない。進学は美大と決めていた征三と違い、高3になっても進路がさだまらず、絶望的になっていた。そんなとき、高ア先生からq一郎展を教えられ、観賞して興奮、帰ってからその残像をスケッチブックに描きまくった。先生に見せると「q作品にちっとも似てないところが面白い。君にしか描けない絵がある」と励まされる。この一言で絵に回帰、「君の学力で入れる美大は、京都美術大の染織図案科しかない」と教えられ、受験準備を始める。

高ア元尚先生。退職後に土佐高美術室で。
(土佐高校提供)
 征三や同級の合田佐和子は、東京御茶の水美術院ですでに夏期講習を受けていた。征彦は征三・合田とともに三学期の授業を免除してもらって、この美術院で受験直前の講習を受け、ようやく京都美大に合格、征三は多摩美図案科に入学する。それにしても、田島兄弟・合田の三人が、三学期欠席でも卒業させる許可を、高ア先生は曽我部清澄校長(1回)によく取り付けたものだ。
 大学へ進学してからも、兄弟の高知との縁は切れない。二人で高知県観光課吉本課長に観光ポスター制作を持ちかけ、征三が泥絵具で描いたエネルギッシュな「鰹の一本づり」が採用される。さらに、当時のM知事が汚い絵と評価し、課長がやっと説得したこの作品が、全国既製観光ポスター展でデザイン界の大御所を差し置いて、金賞・特別賞を受賞する。征彦は高知県展にも次々と出品、特選もとる。そして、土佐の絵金(絵師・金蔵)の凄惨な芝居絵に魅せられ、型染絵に本気で取り組む。
 征彦は若き日を回顧して、「樹木希林さんが、文学座で大先輩の杉村春子さんや芥川比呂志さんに平気でぶつかり、喧嘩し、叱られながら育ったと言っていた。ぼくも高ア先生はじめ多くの人にぶつかり、助けられ、なんとかやって来た」と語る。土佐の山野であふれる生命力を吸い取って育った野生児の兄弟は、青年期になってほとばしる美術への情熱を、大らかに受け止めてくれる大人に恵まれ、次第にその才能を開花させたのである。
海辺の新天地へ移住、限りなきチャレンジ
 こうして、征彦は京都の祭りや上方落語など伝統文化に題材を求め、民衆のあふれるバイタリティーを、繊細な感覚で型染絵に染め上げ、征三はふきのとうやバッタなど、自然界のダイナミックな生命力を、泥絵具を使って荒々しいタッチで表現してきた。その絵本は、現実逃避のあまく可愛いいおとぎの世界ではなく、生命力の根元をさぐる骨太の作品であり、子どもも大人も楽しめた。それらは、若くして農村に移住し、家畜を飼い農作物を育てながらのいわば「半農半画」の生活から生まれた。「半農半画」は貧乏画家の生きる手立てでもあったが、そこから題材も得た。このような生活は、夫人の協力があって初めて成り立った。征彦の英子夫人は、生活設計が不得手な夫にかわってローンを組み、丹波に二千坪もの家と田畑を購入、生活の安定を図った。征三の喜代恵夫人は、協調性に乏しい夫にかわって「日の出の自然を守る会」代表となり、長期の運動をまとめた。

兄弟から届いた個展の案内状。
 60歳を迎える頃、征三は伊豆半島、征彦は淡路島と、ともに土佐と風土の似た海辺の村に移転、心機一転して最初に紹介したような新しい仕事にチャレンジしている。2006年には、高知県立美術館で、『激しく創った!! 田島征彦と田島征三の半世紀』展が開かれた。
 最近の征彦の手紙には「あたたかさと海の見える生活に感動、新しい作品の方向がうまれた」とある。『ふしぎなともだち』『のら犬ボン』など新作の大きな反響に支えられて、新しい絵本の方向性に自信を深め、次作の取材・構想に取り組んでいる。それは、どこでもだれでも抱える身近な大問題の提起であり、人間性の根幹を問いかける絵本だ。彼は、絵本を主軸にその主題と表現手法の深化を、がんこに追及している。
 かたや征三は、2012年「日・中・韓 平和絵本」に加わり、『ぼくのこえがきこえますか』を刊行した。戦死した若き兵士の魂が、「なんのためにしぬの?」と悲痛な叫びをあげる心象風景が表現されていて心を打つ。2009年には十日町市の里山に、廃校を利用した「絵本と木の実の美術館」を開設、学校を丸ごと使った「空間絵本」を創りあげ、予想を倍する来場者を集めた。地域活性化のモデルケースとして注目されているが、なにより地元住民が次々と来場し、面白がってくれたのが嬉しかったようだ。

2006年、東京での兄弟。左征彦、右征三。
(『激しく創った!!』童心社より)
 さらにこの地で三年ごとに開催し、国際的に知られる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(総合ディレクター・北川フラム)では、本年のメイン展示として長さ65メートルの巨大オブジェ「マムシトンネル」を山裾に建造中である。米人芸術家アーサー・ビナードはじめ、そびえ立つ樹林を順次伐採して建築空間を整える空師(そらし)や、宮大工・土建業者などと共同の大仕事だ。胎生で一度に十匹もの子を産む母マムシをイメージ、子どもたちが胎内にもぐって遊び、その生命力を実感して欲しいという。マムシ絵本『わたしの森に』も、くもん出版から刊行するとのことだ。彼の仕事は絵画・絵本にとどまらず、木の実のオブジェ、空間絵本、立体巨大マムシと発展、岡本太郎張りの大爆発を続けている。その完成が楽しみであるが、心身を消耗する大プロジェクトだけに、健康だけが心配だ。


<主要参考文献>田島征彦『憤染記』(染織と生活社)『新編くちたんばのんのんき』(飛鳥)、田島征三『絵の中のぼくの村』(くもん出版)『人生のお汁』(偕成社)、共著『激しく創った!!』(童心社)

ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(W)−1(前編)
凄絶なホラー作家にして酒豪、坂東眞砂子(51回)

中城正堯(30回) 2018.07.08
イタリア帰りの童話作家から転進

坂東眞砂子(高知県立文学館提供)
 1996年に『山妣(やまはは)』(新潮社)で直木賞をとった坂東眞砂子と、初めて会ったのは1993年であった。紹介してくれたのは、坂東と土佐高の同級生で、ゴリラの画家としてすでに知られていた阿部(旧姓浜口)知暁(ちさと)であるが、月日や場所は定かでない。すでに坂東は、童話作家として『クリーニング屋のお月様』(理論社 1987年)はじめ数冊を刊行、注目されており、当時教育出版社にいた筆者も、有望な新人と聞いていた。
 会ってみると、三十半ばとは思えない若々しいおかっぱの童顔で、奈良女子大住居学科を出てイタリアのミラノ工科大などに留学、帰国後にフリーライターとして雑誌の記事を書きつつ、童話に取り組んできたと話してくれた。すでに毎日童話新人賞なども受賞しているが、「これからは、大人の小説を書きます。土佐を舞台にした第一作が、もうすぐ出来上がります」とのことであった。
 やがてマガジンハウス社から、「乞御高評」の付箋付きで著書『死国』が贈られてきた。帯には「新鋭書き下ろし伝奇ロマン 四国を舞台に繰り広げられる不可思議な現象と事件!」とあり、作家・小池真理子の惹句「丹念な描写が怖さを紡ぎ出す」と続く。死国とは四国であり、四国遍路を舞台に使ったこの一作で、一躍女流ホラー作家として脚光を浴びる。童話とは全く異質の作品に、驚きつつ礼状を出すと、折り返しハガキで「年内にはまた新刊を出す予定です。そのうちに社(くもん出版)に伺います」とあった。

土佐のいざなぎ流(上左)とタイ北部山岳民族の祭礼。
(『季刊民族学』91号、筆者撮影)
 秋には次作『狗神(いぬがみ)』(角川書店)が届いた。狗神(犬神)とは土佐の憑(つ)きもの神で、これに憑かれると半狂乱になるなど異常行動をとる。犬神の憑く家は代々決まっているとされ、犬神筋と呼ばれた。犬神が憑くと、太夫(たゆう)という神職者に頼んで御祓いをして落としてもらった。
 主人公の美希は、痛ましい少女時代の過去を忘れ、山村で紙を漉いてつましく暮らしていた。若き中学教師の赴任とともに、奇怪な現象に巻き込まれ、狗神筋の家として忌み嫌われ差別される。やがて、近親相姦が明らかになり、一族は村人に襲われ、惨劇で幕を閉じる。後に、天海祐希の主演で映画化された。執筆に当たっては、「土佐憑物資料」などを渉猟している。筆者は物部村でいざなぎ流神事を見学したばかりだったので、読後感に、土佐の民俗・信仰を題材にするなら高知県立歴史民俗資料館の吉村淑甫館長を訪ね、また民間信仰研究者でいざなぎ流にも詳しい小松和彦(当時阪大教授)の著書も読むよう書き添えて送った。翌年1月に手紙が届き、「小松教授の御本は、以前より興味深く拝見しています。今回も参考にさせていただきました。吉村館長にも教えを受けたい・・・」とあった。

日本人が運営するタイ山岳民族子弟
の寄宿舎学校。(筆者撮影)
 この年に筆者は、寝袋をかついでタイ北部の山岳少数民族探訪にでかけ、日本人女性が子どものために開いた寄宿舎学校に立ち寄った。一人で運営するNさんが、「二日酔いみたい」といって、現れたので事情を聞くと、「前日に村の呪術師から“憑きものが出始めたから、御祓いをする”といわれ、祠の前で厄払いを受け、強い焼酎を無理にのまされた。村のしきたりには従わないと、生活できないから」とのこと。帰国後に、坂東にこれを伝え、伝奇小説も土佐ばかりでなく、東南アジアも含めて海外まで舞台を広げてはと提案した。やがて、手紙が来て、「タイの面白い話」への礼と、吉村館長の子息で角川書店編集部の吉村千穎(現風日社)に会ったこと、現在、土佐清水を舞台にした長編に取り組んでいることが述べてあった。
 土佐清水を舞台とする長編は、『桃色浄土』(講談社)であり、1994年10月に刊行された。この頃には、出版界期待の新鋭伝奇ロマン作家として、各社から追いかけられる存在となり、筆者との連絡も直木賞受賞の頃には途絶えた。従ってここからの“素顔”は、主として各社の担当編集者からの伝聞と、本人の随筆による。
文才豊かな酒豪、綿密な現地取材
 イタリアから帰国後に、東京でフリーライターとして雑誌に紀行文や取材ルポを書いていた坂東は、応募した童話が新人賞になり、その審査員だった童話作家・寺村輝夫が開いていた文学講座に通う。作品の添削・講評を受けながら文学修業に励んだことが出版につながり、1986年に『ミラノの風とシニョリーナ イタリア紀行』(あかね書房)が刊行される。担当編集者は筆者と学研で同僚だった後路好章で、そのいきさつと人物をこう語る。

『死国』出版や『山妣』直木賞受賞を
知らせる高知新聞と、筆者へのハガキ。
 「寺村先生から、“坂東は抜きんでて文章力がある。ぜひ、起用しなさい”と強い推薦があり、高学年児童向けの海外紀行シリーズで、イタリアを書いてもらった。期待どおりの出来映えだった。打ち合せの合間に、イタリアで男性から迫られたことを赤裸々に、楽しげに話してくれた。後に電車で偶然会ったが酒臭い状態で、寺村先生から“二人きりで飲まないよう、ぶっ倒れるまで飲むことがある”と聞かされていたのを思い出した。とにかく、文才に恵まれ、また酒豪であった」
 創作児童文学を数冊出版したのちに、『死国』を皮切りに大人ものの伝奇小説に転じ、『蟲』(角川書店)で日本ホラー小説大賞佳作、『桜雨』(集英社)で島清恋愛文学賞など、次々と受賞する。そして1996年刊の『山妣』によって38歳の若さで直木賞に輝く。受賞の知らせは、翌年の1月に滞在中のイタリアで聞く。高知新聞の取材に、「村社会が私のテーマ。日本民族の根源的な思い出として書ければいい・・・」と、語っている。授賞式には、選考委員・渡辺淳一、直木賞作家・宮尾登美子とともに母・美代子の姿もあった。高校卒業と同時に家を離れ、奈良、ミラノで学び、東京では定職に就かず、母には心配を掛けてばかりだっただけに、母子ともども喜びはひとしおだったと思われる。

『山妣』『梟首の島』『わたし』など代表作。
 『山妣』の帯には、「業深き男と女に荒れ狂う魔物。山妣伝説の扉が開かれた――明治末期、越後の豪雪地帯を舞台に、旅芸人、遊女、又鬼(またぎ)、瞽女(ごぜ)、山師らが織りなす凄絶な愛憎劇。未曾有の大作!」とある。坂東は、すでに二度直木賞候補になっており、今回は作者、版元とも受賞への期待を込めた渾身の力作であった。この作品の担当編集者であった木村達哉は、当時をこう回想してくれた。
 「現地取材を実に丹念にする作家だった。『山妣』の舞台は、全く土地勘のない新潟だけに、2年以上取材に時間をかけ、季節をかえて何度も足を運んだ。芝居の場面を書くために檜枝岐(ひのえまた 福島県)へ農村歌舞伎の開演時期に行き、秘境といわれる秋山郷も、数日かけて歩きまわった。民俗学に興味を持ち、関連文献をよく読み込んでから現地取材に向かった。特に、宮本常一、宮田登、それに歴史家・網野善彦の本を読んでいた。仕事に手厳しい作家で、安易な妥協を許さず、著書の装丁一つ取っても、納得いくまで注文を付けてきた。ただ、仕事を終えての酒席では陽気で、近況から作品の構想、高知の思い出など楽しげに話してくれた。土佐の女性らしい酒豪で、日本酒を冷やですいすい飲む姿と、“木村さんは弱いんだから”と笑われたことが印象に残っている」
 なお、木村の新潮社同期には『奇跡の歌』などで知られるノンフィクション作家の門田髀ォ(門脇護53回)がおり、SF評論家の大森望(54回)も元同僚だったという。
タヒチで「生」と「性」を謳歌したハチキン
 直木賞受賞後、人気作家として一段と多忙になるなか、2001年刊『曼荼羅道』(文芸春秋)が、柴田錬三郎賞を受ける。戦時下のマレイ半島で、日本人の現地妻となった部族の娘の数奇な生涯をたどる長編だ。講評で黒岩重吾は、「この受賞作には、読んだあとの気迫だとか衝撃、あるいは感動、それから余韻が必要・・・今回は衝撃を受けた」と語っている。

柴田錬三郎。(筆者蔵)
 柴田錬三郎は、その生前筆者がかなり付き合い、文学への厳しい見方を実感していた作家だけに、嬉しかった。1975年には柴練原作のNHK人形劇『真田十勇士』の漫画化権をとり、石森章太郎に作画を依頼、1年間高輪プリンスホテルの仕事場に通った。あるとき、ホテルに文藝春秋社から直木賞の候補作が届き、リストを見せていただいた。知り合いの時代小説作家の名前があり、評価をうかがうと、「Tは資料に頼りすぎでまだダメだ。作家は創作力が命」と明快だった。田中角栄の私生活をめぐる『プレイボーイ』誌裏面での猛烈なバトルと、その幕引きの真相に、作家としての気概を感じた。『週刊新潮』の人気連載小説『眠狂四郎』シリーズに登場した、西洋占星術の内輪話も打ち明けられた。

イタリアの陽気な恋人。
1991年ボローニャで。(筆者撮影)
 坂東に話をもどすと、2001年に高知県立美術館で開催の合田佐和子(34回)展図録には、アトリエを訪問した上で合田論「焼け跡に舞い降りた死の使者」を寄稿している。2003年には高知新聞など地方紙で、自由民権運動に題材を取った『梟首(きょうしゅ)の島』の連載が始まる。私生活ではすでに1998年からタヒチに移住し、フランス人建築家兼彫刻家をパートナーとして暮らしていた。子どもの頃から南の島にあこがれていたというが、それだけではない。彼女は、「わたしは自分が憎い。鏡で顔を見るのも嫌い・・・」(『わたし』)と語っており、特に高校から大学にかけては、容姿にも才能にも自信喪失気味であった。それが、22歳で行ったイタリアでは、「なんといっても楽しかったのは、町で男によく声をかけられたことだった。・・・“チャオ、ベッラ(別嬪さん)”と声をかけてくる。・・・男たちがウインクしてくる」(『愛を笑いとばす女たち』(新潮社)のだ。  
 彼女のような丸いぼっちゃりタイプは、欧米人には東洋美人の典型と写る。さらに、おしとやかな態度より、はっきり自己主張する人間が好まれる。坂東はイタリア男性の熱い性的エネルギーを浴び続け、自信を回復したのだ。仏領タヒチへの移住は、南太平洋の楽園とされるその自然だけでなく、そこに住む開放的な西洋人にも惹かれたのだ。

タヒチなど南洋を題材にした随筆や小説。右下は坂東。
 取材で島の自宅を訪問した木村は、「タヒチと言っても観光地でなく、淋しい土地に住み、野菜や果物を栽培、鶏を飼育、魚を獲って自給自足をめざすたくましい生活ぶりに驚いた」という。作家として、都会の喧噪を離れ、自然のなかで人間本来の生き方をさぐりたかったのだろう。奈良女子大の後輩でもある新潮社の中瀬ゆかりは、飲みっぷりをこう語る。
 「日本酒でも何でも飲んでいましたが、一番お好きだったのはやはりワイン。ひとりでボトル2本くらいは軽くあけていました。タヒチでは、夕方、自宅の農作業が一段落したらテラスに椅子を出して、冷えたシャンパンを開け、“あー、この一杯のために今日も働いたわ”みたいな言葉が出るくらい好きでした。酔うほどに議論になり、いつも論客のマサコにやり込められました。話題は下ネタから天下国家まで、といっても私とは恋愛とか男性論が中心で、深夜まで飲んだくれていました。料理の腕もプロ級で、ハチキンを絵に描いたような豪傑。まさに「生」と「性」を謳歌。知的で自由な発言、よく笑い、欲望にも忠実な生き様は、私たちの憧れでした」
(後編に続く)
ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(W)−2(後編)
凄絶なホラー作家にして酒豪、坂東眞砂子(51回)

中城正堯(30回) 2018.07.22
高校時代の『わたし』と疑似友人
 タヒチで暮らしつつ、2002年に自伝小説『わたし』(角川書店)が刊行される。帯には「衝撃の自伝小説」「心の深淵には、人に対する激しい憎しみと恐怖を抱えた“わたし”が住んでいる」とある。祖母はじめ家族、そしてタヒチでのパートナーなどに関する赤裸々な記述はともかく、高校の学友に対しても「疑似友人」と述べ、憎しみに満ちた記述を連ねている。自伝「小説」とうたい、仮名になっているとは言え、級友にとっては誰を指すか明白であり、身に覚えのない記述に嫌悪感を抱かずにはいられなかったであろう。 

坂東が在籍した頃の土佐高校舎、
高知市塩屋崎町。(筆者撮影)
 高知県佐川町斗賀野で生まれた坂東は、中学まで地元の学校に通い、高校から土佐高に入学、1時間半かけて汽車で通学した。「最後まで“名門校”の雰囲気に馴染むことなく、高校を卒業した」(『身辺雑記』朝日新聞社)とも述べている。
 両親が教師と保母という家庭で育ち、小学校では図書室が大好きで『長靴下のピッピ』や『ツバメ号とアマゾン号』、そして漫画に夢中になった。中学ではカミュの『異邦人』に惹かれ、文芸部でも活動、成績も良く仲間のリーダーだった。高校で2年、3年と同級だった八木勝二は、「彼女の印象は、横山大観の『無我』の少女のように茫洋とした容姿で、男子の友人はおらず、女子の友人も浜口や竹崎(現YASUKO HACKIN)に限られていた。『わたし』に書いてあることは、創作が多い。いつの間にか流行作家になり、直木賞をもらった。級友と“すごいねえ。そんな才能があったがか”と、話したことだった」という。
 担任だった濱田俊充(理科35回)も、「友だちは少なかったが、浜口知暁とは仲が良く、よく一緒にいた。直木賞作家になるとは想像出来なかった」と語る。その浜口は、かつて筆者に坂東を紹介してくれた画家・阿部だが、「もう彼女のことは話したくない」と語るのみだ。合田佐和子や田島兄弟は、高校時代に美術教師によって才能を見出されたが、坂東の才能は埋もれたままであった。
「猫殺し」に見る坂東の“偽悪”
 2006年8月、坂東は日本経済新聞夕刊の連載エッセイに「子猫殺し」を書く。「こんなことを書いたら、・・・世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。そんなことを承知で打ち明けるが、私は生まれたばかりの子猫を殺している。家の隣の崖の下がちょうど空き地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである」
 掲載直後から、まずネットで坂東バッシングがはじまり、新聞雑誌でも文化人の論評をまじえての集中砲火を浴びる。本人が覚悟した以上の糾弾だった。坂東には『死国』発表以来付けられた「ホラー作家」に加え、「猫殺し」のレッテルが加えられる。かねて坂東は、「私はホラーという横文字の恐怖を書いているのではない、日本人が持っている自然や神に対する畏怖(いふ)感を書いている」と反発してきた。「猫殺し」の真実はなんだったのか。友人で作家の東野圭吾の問いかけに、坂東はこう答えている。「崖というと、断崖絶壁を想像する人が多いけど、実際は二メートル程度の段差。下は草むらやから、落としたぐらいで死なへん。つまり正確にいうと、子猫を裏の草むらに捨てた、ということやね」(「レンザブロー」)。坂東は、人間と動物、特に家畜や愛玩動物との関係を、根元から問いかけるために、「捨て猫」でなく、インパクトのある「子猫殺し」にしたのだ。
 ここでも、『わたし』での「疑似友人」への容赦ない表現同様に、「わたし」を“偽悪化”して、「子猫殺し」に自らを仕立て上げている。エッセイでは、あえて自身を悪者にした上で、他者(友人や愛玩動物)への攻撃姿勢を強調、読者に問題提起をしている。

タヒチの美しい景観。(筆者撮影)
 彼女は作家としての年輪を重ね、文壇での評価が定まるとともに、高校卒業と同時に離れた高知の人々を思い出すこともあったようだ。『わたし』が出版されて3年くらいたったある夜、東京にいた高校の同級生・八木のもとに、大学時代の親友から突然電話があり、「銀座の寿司屋で飲んでいる。珍しい人と替わる」とのこと。そして出たのが坂東で、「高知新聞連載の『梟首の島』が本になる。あした新聞社で対談があり、終わったら電話する。会おう」だった。卒業式以来の声だったが、酔ったせいか意外にさばけた印象だったという。だが、翌日待てど暮らせど電話はなかった。取次いだ親友に事情を聞くと、「たまたま寿司屋で土佐弁が聞こえたので、声をかけると坂東さんだった。高知に八木という友人がおるといったら、“同級生じゃ、電話しょう”となった」とのこと。
 坂東は2008年には50歳となり、長編『鬼神の狂乱』(幻冬舎)を上梓する。江戸後期に土佐豊永郷で起こった狗神憑きの事件から題材を得て、鎮圧に参加した下級武士と村娘の恋を織り込んである。民間信仰だけでなく当時の社会的背景も織り込んで、完成度の高い楽しめる作品に仕上がっている。いつもながら、本の末尾には郷土史家・公文豪など取材協力者の氏名を、詳細にあげてあった。この年の年末には、タヒチのパートナーとも別れて帰国する。翌年には、高知に帰郷し、鏡川上流の高知市鏡に、イタリアンカフェをオープン。オーストラリアの北東に浮かぶバヌアツにも家を建て、若い夫ケビンとくらす。
 高知とバヌアツを往き来しながら、旺盛な執筆活動を続け、2011年には『くちぬい』(集英社)を出版する。高知へ帰郷後に実感した非合理な土地慣行や高齢者による新参者へのいじめ、共同体のために口を閉ざす”口縫い”をテーマに、田舎への愛憎を作品化している。
郷里への想いと「チームマサコ」
 2013年、体調不良を訴え、検診の結果舌癌と判明する。高知で治療を続けながら連載を抱え、執筆活動を続ける。やがて、肺にも転移し、末期ガンとの診断が下る。東京での治療を希望し、同年末には、友人・久保京子の車で、東京の病院に移動する。
 東京では、新潮社や集英社をはじめ仲良しの編集者・新聞記者・作家たちが女性だけで「チームマサコ」を結成、入院生活を支援した。その様子を、中瀬はこう述べている。
 「高知にもどるまで約1ヶ月間のサポートシステムです。病室に付き添い、水分補給にシャーペットを溶かしてスポンジに含ませては舌にのせてやり、買い物やお金の管理も行い、時には泊まり込みました。“死”への想いが渦巻き、たまには爆発したようですが、私には最後までユーモアたっぷりなマサコ節でした。病室は男子禁制で、仲良しの男性編集者にも面会拒否を通していました。やつれたすがたは、見せたくなかったのでしょう」

坂東の愛した土佐の青い空と海、
緑の山々。桂浜で。(筆者撮影)
 母やケビンも駆けつけたが、「自分のルーツである高知に帰りたい」との希望で、2014年1月23日に空路高知に搬送された。だが、27日には家族に見守られて、帰らぬ人となった。享年55歳。多くの知人にも、闘病中とは気付かれない間の訃報で、八木は同級生を誘って「坂東の店へ行こう」と、話していた矢先であり、残念だったという。
 こうして坂東は、土俗的な信仰と習俗の村社会にみられる人間の業を描いて、直木賞作家としての地位を築いた。さらに、古代王朝や自由民権運動を舞台にした歴史ロマン、明治以降の日本のアジア・太平洋進出を庶民の立場から捉えた社会派小説など、新ジャンルに挑戦、時代・舞台を重層的に交錯させ、劇的な結末に導き、読者を魅了し続けた。豊富な海外生活をもとに、あっけらかんとした性描写や、愛を笑い飛ばす性への賛歌は、カトリック・儒教そして近代市民社会のモラルへの挑戦でもあった。差別・戦争・原爆・原発事故にも、強い関心を寄せていた。
 1993年の『死国』から、2013年絶筆となった『眠る魚』(集英社)まで、わずか20年ばかりの間に40冊余の多彩な小説を送り出している。早すぎる死に対し、ひところ女流ホラー作家として併称された篠田節子は、近作の『隠された刻』(新潮社)、『朱鳥の陵(あかみどりのみささぎ)』(集英社)、『くちぬい』(集英社)をあげ、「内容の充実に加え高い緊張感とダイナミズムは失われていない・・・老成、円熟には無縁の熱量に圧倒される」(朝日新聞2014.4.13)と、最期まで衰えなかった創作力を追憶している。

病床でもイタリアの青春を回想しただろう。
フィレンツェのサイケな若者。
アルノ川の橋脚で、1991年。(筆者撮影))
 未完の絶筆長編『眠る魚』の編集担当だった今野加寿子は、坂東が書き残した「故郷の土地は、私の最後の砦」「原発事故のもたらした最大の精神的被害は、日本人の土地に対する信頼の消失」を紹介。「2014年1月。余命宣告を受け、最期を迎える場所として向かったのは、土地と家屋を所有する他ならぬ高知だった。自力で歩くこともままならない状態で、看護師同行のもと飛行機に乗る」と述べている。(『眠る魚』解題)
 坂東の作品に関しては、既刊以上に望むことはない。ただ一つ、円熟期を迎え再度執筆して欲しかったのは『わたし2』である。余命を知ってからの郷里土佐への想いが伝わるだけに、土地だけでなく級友はじめ土佐の人々への想いも、改めて聞きたくなった。
元防衛大臣・中谷元から防衛問題を取材

高知独立をテーマにした『やっちゃれ、
やっちゃれ!―独立・土佐黒潮共和国』
(文藝春秋)
 本稿執筆後に、<2014年に東京で開かれた「坂東眞砂子さんを偲ぶ会」に、土佐高同級生の中谷元代議士(元防衛大臣)が出席し、心のこもった挨拶をしていた>との情報が、知人の編集者から寄せられた。同級の男子とは交流がなかったと聞いていただけに意外で、叔父の浅井伴泰(30回)に問い合わせると、国会開期末で多忙な7月17日に、中谷元ご本人から電話をいただいた。以下が、その概要である。
 「坂東さんは、2008年4月から11月まで高知新聞に『やっちゃれ、やっちゃれ!―-独立・土佐黒潮共和国』(後に文藝春秋刊)を連載した。その中で防衛問題も扱うので、きちんと勉強したいとの申し出だった。執筆に先だち、二、三度お会いして率直な意見交換をおこなった。卒業以来の再会で、国家防衛への考え方には相異もあったが、熱心な取材ぶりが印象に残っている。人気作家となってもよく資料を収集、異論もふまえ、独自の小説世界を創作している姿に接しただけに、急逝が残念でならなかった」

 *本文執筆に当り、文中に記載以外に高知県立文学館津田加須子、高知新聞片岡雅文、集英社村田登志江、土佐高同級山本嘉博の皆様にご協力いただいた。感謝したい。

<訂正>坂東眞砂子さんの記事(前編)で、「イタリア帰りの童話作家から転進」の項の末尾、「角川書店編集部の吉村千彰(現朝日新聞)」を、「角川書店編集部の吉村千穎(現風日社)」に訂正します。吉村千彰氏と吉村千穎氏を混同し、失礼いたしました。

ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”ニュース版
合田や田島兄弟が新聞で話題に

中城正堯(30回) 2018.07.28

合田佐和子「ベロニカ・レイク」日本経済新聞。
 “素顔のアーティスト”で紹介した人たちが、「新聞に出ちょった」との情報が西内一(30回)などから、次々と寄せられたのでお伝えしたい。

 まず、7月3日の日本経済新聞文化欄で、美術評論家・勅使河原純は、連載「マドンナ&アーティスト十選」の一人に、合田佐和子「ベロニカ・レイク」選んでいる。勅使河原によれば、「美女狩り」で有名な合田が選んだ妖艶なマドンナが、1940〜50年代のアメリカで、男を惑わす宿命の女のレッテルを貼られたベロニカで、「合田にとっては一分のスキもない悪女こそ、もっとも心許せる女神だった」と述べている。

 7月5日の朝日新聞夕刊「古都ものがたり・京都」には「田島征彦が絵本にした祇園祭」の記事が大きく掲載された。40年以上前、絵本『祇園祭』に着手したころの田島はまだ無名で、取材は難航したが、3年間かよって仕上げる。「きらびやかだけでない、祈りや鎮魂、情熱といった人間の根源を揺り動かすものがいっぱいあった。それを染めた」と、語っている。この絵本は、ブラティスバラ世界絵本原画展で金牌を受賞、ロングセラーになっている。

「田島征彦が絵本にした祇園祭」朝日新聞。
 この翌日には、全国紙の全面を使った「越後妻有・アートの夏」「大地の芸術祭」開催告知が出た。メイン会場の一つが「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」で、廃校を舞台にオブジェで構成した“空間絵本”の写真が掲載してあった。やがて本人から、山裾に出来つつある巨大オブジェ「マムシトンネル」の写真が送られてきた。7月29日からは、いよいよ「越後妻有アートトリエンナーレ2018」が始まる。夏休みの旅行に、ぜひ子ども連れで訪ねたい芸術際である。それに合わせて、マムシ絵本『わたしの森』(くもん出版)も刊行されるので、内容をちょっぴり先行公開しよう。

山裾に巨大な姿を見せるマムシトンネル。(大地の芸術際)

絵本『わたしの森』、若いマムシの恋。(くもん出版)


 なお、最初に紹介した倉橋由美子(29回)につき、今ベストセラーを連発中の下重曉子との出会いを書き漏らしたので、『うきぐも』14号(30年卒Oホームクラス誌1990年刊)から再録する。下重は筆者と同年の旅仲間で、高知に案内したほか海外も含めてよく旅に出かけ、自宅にも往き来した。連れ合いは、元テレビ朝日の温厚な記者である。

 「1989年6月23日、先輩の倉橋由美子さんに、旅仲間の下重曉子さんを、神楽坂でお引き合わせする。ともにファンで、紙上でたがいの作品にラブコールを贈っていたが、会うチャンスがなかったとのこと。会った瞬間から意気投合、肝胆相照らす仲となる。特にお二人とも、結婚談義がケッサクだったが、オフレコである。この日たまたま上京中の福島清三先輩(29回)から電話があり、途中から合流する」(「平成元年出版ヤクザ行状記」)
ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(X)まだまだおるぜよ編
音楽・演劇から前衛美術まで個性派揃い

中城正堯(30回) 2018.08.11
 これまで取り上げた5人のアーティストは、文芸・美術の世界で現代日本を代表する実績を積み、また筆者とも面識のある人物であった。しかし、母校出身者には、「まだまだすごい芸術家がおるぜよ」との声が寄せられた。そこで、筆者の独断と偏見で、ぜひ作品に接していただきたいアーティストを紹介する。末尾では、このような人物を輩出した、土佐中教育の原点も考察したい。( )は、卒業回と生没年。敬称省略。
作曲家・平井康三郎や「踊る大捜査線」の北村総一朗

晩年の平井康三郎(平井家提供)
 卒業生で初めて芸術の道に進み、東京音楽学校(現東京芸術大学)を卒業、作曲家として大活躍をしたのが、平井康三郎(5回、1910〜2002)である。「不盡山(ふじやま)をみて」「大仏開眼」「平城山」「ゆりかご」から、「スキー(山は白銀・・・)」など五千曲を作曲、東京芸術大学の作曲科教授として後身を育成、故郷いの町には、平井康三郎記念ギャラリーができている。平井の音楽家としての才能をいち早く認め、父親を説得して音楽大へ進学させたのは三根圓次郎校長である。その経緯は拙著『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』((向陽プレスクラブ刊)に述べてある。本年4月には、NHKラジオ「うたのふるさと散歩 平井康三郎記念ギャラリー」に、長男でチェリストの平井丈一朗が登場、生い立ちや土佐中での三根校長・ヴァイオリンとの出会いを語っていた。

中学時代の平井(左)と学友(平井家提供)
 その後、日本を代表するような音楽家は生まれていないようだが、現在東京芸大大学院オペラ専攻に上久保沙耶(89回)がおり、今後に期待したい。

 俳優では、1997年にフジテレビ「踊る大捜査線」の神田総一朗署長役で大人気となった北村総一朗(29回、1935〜)がいる。このドラマが東宝で映画化されたのに続き、テレビドラマ「京都迷宮案内」では文学座で同期だった橋爪功と共演、北野武監督『アウトレイジ』で巨大組織会長を演じるなど、コミカルな役からコワモテまで自在に演じ、今も引っ張りだこだ。バラエティ番組やCMでもよく見かける。

北村総一朗(同氏HPより)
 舞台でのキャリヤは長く、筆者が初めてその演技を見て魅了させられたのは、高校時代である。1952年に高知市中央公民館で行われた「土佐中高校舎落成記念 芸能発表会」での『俊寛』で、悲壮感漂う主役を演じていた西内総一郎が、若き日の北村であった。この発表会では、新聞部もプログラムの編集に協力したので、よく覚えている。高知大農学部に進むが演劇に打ち込み、1961年には上京して念願の文学座研究生となる。同期には、橋爪のほか樹木希林などがいる。その後、劇団雲を経て劇団昴に所属、テレビにも「竜馬がゆく」「太陽にほえろ」などよく出演し、貴重な存在であったが名脇役に留まっていた。それが、「踊る大捜査線」で一挙に人気爆発、スターとなった。この間、高校時代以来の夢である新劇の舞台から離れることはなく、本年8月の劇団昴『無頼の女房』公演では、演出家として若い団員を率いて、坂口安吾夫妻の葛藤を上演している。新劇界の最長老の一人である。名前は、西内から北村総一郎になり、さらに「踊る大捜査線」の神田総一朗にちなんで今は総一朗だ。

竹邑類、’89同窓会関東支部総会での実演。(『筆山』第8号より)
 ミュージカルや演劇の世界では、演出・振付けの分野で顕著な業績をあげてきた人物に、竹邑類(35回、1944〜2013)と北村文典(39回、1946〜)がいる。
 竹邑は土佐中時代からモダンダンスを習い、明治大学仏文科に進む。ダンスのグループを結成し、愛称ピーターで親しまれる。大学を中退してダンサーとなり、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」に、初代ヴァイオリン弾きの役で出演する。1970年に自らミュージカル劇団「ザ・スーパー・カンパニー」を結成、銀座・博品館劇場の公演には、土佐高同期の小松勢津子などに誘われて筆者も駆けつけ、ミュージカルを初めて楽しんだ思い出がある。ミュージカルの開拓者・挑戦者も、この頃には演出家・振付家の第一人者となり、宝塚歌劇・NHKの歌謡バラエティ・映画『陽暉楼』等で大活躍、坂東玉三郎・平幹二朗・水谷八重子などの名優から信頼され、その舞台の演出・振付けを任されていた。2013年にガンで逝去。著書に、若い頃に新宿で出会って以来の三島由紀夫との交流を綴った『呵呵大将 我が友、三島由紀夫』(新潮社)がある。
 彼の劇団で育った俳優に萩原流行(ながれ)がいたが、2015年にオートバイで走行中に警視庁護送車と接触事故を起し、転倒死亡した。事故の原因に不信を抱いた夫人の依頼で訴訟を担当した弁護士が堀内稔久(32回)で、護送車の運転不注意であることを裁判で明らかにした。
 もう一人の北村は東宝の演劇部に所属し、主演・森光子のでんぐり返りが話題を呼んだ「放浪記」などの演出で知られる。大学は関西学院大学社会学部だが、在学中からフランス・ナンシーの「国際大学演劇祭」に日本代表で参加するなど、演劇に取り組んだ。東宝では、菊田一夫や北条秀司の演出助手を経て、主に時代劇・喜劇の演出にあたってきた。東宝演劇をささえる重鎮である。
世界の先端をめざした前衛芸術家・高ア元尚、柳原睦夫

高ア元尚、退職後に母校の美術室で
(土佐中高提供)
 美術界で特筆すべきは高ア元尚(16回、1923〜2017)の活躍で、高知で世界の前衛美術の最前線に立ち、生涯新作への挑戦を続けると同時に、教育者として人材育成にあたった。90歳を超えても創作意欲を持続し、2017年6月高知県立美術館で「高ア元尚新作展−破壊COLLAPSE−」が始まって間もなく逝去した。1956〜88年まで土佐高で美術教師を務めたが、「面白いことをやれ、人のやることをやるな」と呼びかけ、「ぼくが見て面白いと思うもの、変わったもの、見たことのないものを見せた」(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ)と述べている。この教えを受け、すでに紹介した合田佐和子や田島征三・征彦が巣立っていった。合田の両親には、美大への進学を自ら説得している。
 高アは香美町の生まれ。土佐中時代には数学、特に幾何が得意で、早稲田大学専門部建築科に入学、ロシア・アバンギャルドなどに触れ、翌年には東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻家に転じる。ところが戦争激化で、彫刻制作にも大和魂を強要され、同級の岩田健とともに反抗、やがて学徒出陣となる。この岩田は、温厚な人格者で後に母子像彫刻の第一人者となり、筆者は大阪の公文教育会館ロビーに飾るブロンズ像「本を読む母と子」を依頼、1989年に完成したが、高アと親友だったとは、全く気付かなかった。

高ア元尚「LANDSCAPE」
(『高ア元尚新作展』図録、高知県立美術館より)
 戦後、高アは美大に復学して卒業、中学教師の職につき、モダンアート協会に入る。やがて帰郷、1953年の県展に出品するが、なんと落選している。翌年、東京でのモダンアート展で新人賞を受賞し、ようやく認められたようだ。高知モダンアート研究会を結成、1956年から土佐中高教師となる。浜口富治たちと「前衛土佐派」をつくって活発な制作・発表を続け、中央の美術界からも注目される。1965年の京都国立近代美術館への出品作が内外の美術関係者から評価され、抽象美術の先駆者が集まる具体美術協会にも参加、翌年ニューヨークで開催された「第1回ジャパン・アート・フェスティバル」に出品、渡米する。
 高アは関西・東京からは距離を置き、高知にいたほうが美術界の動向がよく見えると述べている。また、前衛美術の中心地アメリカは絶えず意識し、晩年になってもいつでも対応出来るよう英語力の持続に努めていたと聞く。想いがかない、2013年にニューヨークのグッゲンハイム美術館から出品依頼があり、90歳になっていたが会場へ出向いた。高アの作品については、このHPに山本嘉博(51回)が「高ア元尚先生逝く」(2017.10.12)、「追伸」(11.02)を掲載しているので、ご覧いただきたい。美術教師であるとともに、生涯自ら新作に挑み、芸術家としての生き様を最期まで見せ続けた希有なアーティストであった。

柳原睦夫「紺釉金銀彩花瓶」
(『柳原睦夫と現代陶芸』図録、高知県立美術館より)
 前衛美術の世界で、もう一人の先駆者が現代陶芸の代表的作家で、大阪芸術大学名誉教授の柳原睦夫(28回、1934〜)である。戦争直後、高知市内の旧家で育った柳原は伝統文化とアメリカ文明のはざまで成長、土佐中に入学する。絵を学ぶ進路をさぐるため、知人の紹介で京都市立美術学校長の長崎太郎を訪ねたことから、同校へ進学する。工芸科で近代陶芸の大家・富本憲吉に学ぶが、前衛美術に魅了され、モダンアート展に出品、彫刻的な造形や抽象表現主義的な作品に取り組む。さらには金や銀のラスター釉を使った装飾性豊かな陶器を経て、縄文式・弥生形壺と称する新作まで、独自の挑戦を続けている。

柳原睦夫「縄文式・弥生形壺」(同上)
 この間、1966年にワシントン大学に招かれて講師を務めたのを皮切りに、再三アメリカの大学で陶芸指導を行うなど、国際的な活動を展開する。日本では、大阪芸術大学教授となる。高知のモダンアート研究会とも交流、1961年の「柳原睦夫・高ア元尚二人展」はじめ個展も高知大丸などで開催、2003年には高知県立美術館で「柳原睦夫と現代陶芸」展が開催された。近作について、壺の「中の力が形をつくる。空っぽの意味をどうとらえるか」と、語っており、東洋の禅への回帰ともとれる。田島征彦同様に、若い頃から関西美術界の重鎮・木村重信に眼を掛けられた一人だ。
絵本・漫画・陶芸・ゴリラ画家からフィギュアまで
 美術の分野には、まだまだ個性豊かな異色のアーティストがいる。絵本の西村繁男(40回、1947〜)、漫画家の黒鉄ヒロシ(竹村弘 41回、1945〜)、陶芸の武吉廣和(43回、1950〜)、画家の阿部知暁(旧姓:浜口 51回、1957〜)などである。

西村繁男
(別冊太陽『絵本の作家たちW』より)

西村繁男『にちよういち』(福音館より)
 西村は、中央大学商学部に進むが大学紛争で学校は閉鎖、セツ・モードセミナーで学ぶうちに、田島征三先輩を訪ねたことがキッカケで、イラストレーターから絵本作家に進む。田島に誘われて、「ベトナムの子どもを支援する会」の野外展に参加、憧れていた長新太・和田誠などに混じって出品する。『絵で見る日本の歴史』で絵本にっぽん賞大賞、『がたごと がたごと』で日本絵本賞を受賞、日本を代表する絵本作家の一人となった。高知の日曜市を描いた『にちよういち』(童心社)はじめ、『やこうれっしゃ』『おふろやさん』(福音館)など、現場で取材・スケッチを重ね、すみずみまで精密に描写・構成してある。画面からは登場人物一人ひとりへの作者の暖かいまなざしが感じられ、子どもたちからも親しまれている。人気児童文学者・那須正幹と組んだ『絵で読む広島の原爆』や、『ぼくらの地図旅行』(福音館)の、鳥瞰図も見飽きない。本人と会ったことはないが、田島や那須から聞き、書店や図書館で折に触れては手に取って、楽しんできた。

黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』寺田屋遭難(PHP研究所より)
 黒鉄は、近年は漫画家というより、ユニークな発想のコメンテーターとして知られる。武蔵野美術大学商業デザイン科を中退して漫画に取り組み、『漫画サンデー』に連載の「ひみこ〜っ」のモダンな絵柄・意外な発想で人気を得る。幕末維新を題材にした『新撰組』で文藝春秋漫画賞、『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、さらに『赤兵衛』で小学館漫画賞審査委員特別賞を受賞。『千思万考』『もののふ日本論』(幻冬社)など、著書も多い。同窓会・県人会には顔を見せず、筆者もある漫画家の叙勲記念会で見かけて挨拶しただけだ。本人も紫綬褒章を受けている。本名は竹村弘で、酒蔵「司牡丹」の一族、黒鉄はその屋号に由来する。

武吉廣和「自然釉壺」(個展案内状より)
 武吉は、土佐の山中に穴窯(あながま)を築き、孤軍奮闘している陶芸家だ。1984年に東京池袋の西武百貨店で個展を開催した際に、島崎(森下)睦美(31回)から土佐高教師時代の教え子との知らせを受け、会場を訪ねた。茶器・花器などさまざまな作品の中でも、特に目をひいたのは自然釉のたっぷりかかった大きな壺であった。聞くと、早稲田大学の建築科に進んだが陶芸にはまり中退、全国の窯場を探訪した後に、四万十川の奥地に鎌倉時代からの古式穴窯を築いたという。土をこね、自ら伐採した赤松を昼夜10日間焚き続け、焼きあげるのだ。知人の陶芸評論家も高く評価、雑誌でも取り上げてくれた。最近は音信が途絶えているが、HPを開くと穴窯での作陶を続けているようだ。柳原の現代陶器と対極をなす、いわば自然(土と炎)との合作で生まれる人智を超えた名品だ。

阿部知暁「ゴリラの親子」(年賀状より)
 阿部は、大阪芸術大学を1982年に卒業、ゴリラ一筋の画家で自ら「ゴリラ画家」を名乗る。父は、高ア元尚(16回)と「前衛土佐派」を作った浜口富治である。小学時代に動物園でゴリラを見て以来のゴリラ好きで、先輩画家から「好きなものを描きなさい」と言われ、ゴリラ探訪が始まったという。世界の動物園はもとより、アフリカの森に野生のゴリラを訪ね、観察・交流を続けている。著書には、『ゴリラを訪ねて三千里』(理論社)、『ゴリラを描きたくて』(ポプラ社)などがある。ゴリラ研究の世界的権威・山極寿一(現京都大学総長)は、2010年の高知大丸での個展に寄せた文章で、「ぜひ阿部さんの画を通してゴリラの心、遠い人間の先祖の心を知って欲しい」と述べている。山極によると、個人主義化の強いサル類と異なり、ヒト科のゴリラは家族集団で助け合って暮らしている。だが、近年人間はサル化(個人主義化)が見られるという。ゴリラの実態を熟知した阿部には、ゴリラの人間味あふれる家族生活を描いた新作絵本を期待したい。 

デハラユキノリの名刺(千頭裕提供)
 最後に、千頭裕(58回)から紹介されたデハラユキノリ(出原幸典 68回 1974〜)に触れておきたい。大阪芸術大学デザイン学科を卒業後、フィギュアイラストレーターとして活躍、海外も含め毎年新作を発表し続けている。お菓子「きのこ山」が、代表作の一つである。
芸術的教養を重視した三根校長の先駆的“人材教育”
 母校卒業生からは、これら以外にノンフィクション文学で大活躍の塩田潮(塩田満彦 40回)や門田隆将(門脇護 53回)、文藝評論家の高山宏(42回)・加賀野井秀一(44回)・大森望(英保未来 54回)などがおり、アーティスト・文化人の輩出がいわば伝統になっている。では、その原点はどこにあるだろう。やはり平井康三郎を見いだした初代校長・三根圓次郎である。平井と同じ5回生の伊野部重一郎(昭和4年卒)は、当時の学校生活を「我が土佐中には音楽があり、音楽会が時々あって先生方も演奏された。また校外から小さい音楽団を招いて演奏したこともある」(『三根先生追悼誌』)と述べている。開校時に英語教師として赴任した長谷川正夫(青山学院卒)は絵画も担当、「校長は画架、石膏像、額縁など私の要求するままに買ってくれた。絵の時間には潮江山(筆山)に登ってスケッチをさせたり、自然を眺めながら絵の講義をしたりして、全く自由にできた」(『創立五十周年記念誌』)という。これは、大正時代に興った『赤い鳥』に代表される芸術教育運動も後押ししたが、なにより三根校長の芸術重視の教育理念にもとづくものだ。

三根圓次郎(『三根校長追悼誌』より)
 土佐中学開校当時の文部省「中学校則」の教科には、図画および唱歌もあったが、唱歌は「当分欠クコトヲ得」とあり、必修ではなかった。音楽として必修になるのは、昭和6年の中学令改正からである。それなのに、上級学校への進学・人材育成をめざす土佐中は、なぜ芸術教科に注力、当初から授業に取り入れたのか。それは、三根校長が文科大学(現東京大学文学部)で学んだ哲学科主任教授ケーベル博士の教えに感銘を受けたからであろう。ドイツで哲学を学んだ博士は、ロシアでチャイコフスキーから直接学んだピアニストでもあった。ケーベルは、学生にこう呼びかけている。「私の諸君に対して望むところは、諸君が偉大なる芸術家、詩人および文学者の作品をば、大思想家の著作と同様に、勤勉かつ厳密に研究せられんことである」(『ケーベル博士随筆集』岩波書店)。

三根の恩師・ケーベル博士
(『ケーベル博士随想録』より)
 三根校長は、人間の成長にとって芸術的教養がいかに大切かを実感しており、土佐中で実践するとともに、一高・東大進学の力がある平井には、優れた音楽的才能があることを見抜き、あえて東京音楽学校を薦めたのである。第二次大戦中、戦時体制が強化されるなか東京美術学校に進んだ高ア元尚も、卒業後母校の教師として多くの芸術家や芸術愛好者を育てた。現代の情報化社会では、商品デザインやCMソング選定にとどまらず、世界に飛躍する各界のトップには、文学・音楽・美術の素養が不可欠になってきている。

三根圓次郎校長(土佐中高提供)
 第二次大戦後には、大嶋光次校長が新制中学・高校として再出発するに当り、男女共学を導入するとともに学園の民主化を図った。そして、運動部・文化部の設立と活性化を行い、多くのアスリート、アーティストが誕生した。こうした伝統が、100周年を迎えてさらに深化し、時代を切り開く教養豊かな人材が育つことを強く願っている。(完)

≪お詫び≫筆者の校正ミスで、お名前に誤記があり、大変失礼致しました。黒鉄ヒロシ様、西村繁男様、ならびに読者の皆様にお詫び申し上げます。……中城正堯
ページTOPに戻る

<版画万華鏡・1>
土佐中での出会いから生まれた浮世絵コレクション

中城正堯(30回) 2018.11.25
巡航船で通ったバラック校舎で戦後民主教育
 敗戦から間もない昭和24年(1949年)に、土佐中学に入学した。ここでの3年間が、その後の人生を決めたと言っても過言ではない。編集・出版の世界に進んだのも、浮世絵の収集研究を始めたのも、この3年間があったからである。
 まだ、学校にも街中にも高知大空襲の傷跡が残り、校舎は高知市池にあった海軍航空隊兵舎の払い下げを受けたバラックだった。兵舎を解体、先生・生徒一体となって潮江(塩屋崎町)まで運んで建てた汗の結晶だった。

筆者近影

昭和27年2月に、校舎玄関前に勢ぞろいした新聞部員。
 戦災で灰燼に帰した校舎の復旧と、教育改革によって新制中学・高校となった土佐中高の新たなスタートの先頭に立って奮闘したのは、昭和20年3月に第3代校長に就任した大嶋光次先生であった。校舎焼失ばかりか、宇田・川ア両家からの基金も消失したなか、少数精鋭の教育から、生徒増員によって自前での経営基盤確立を目指すとともに、男女共学をいち早く取り入れ、自治会やクラブ活動を奨励、戦後体制への衣替えを計った。いっぽう、建学理念である人材育成・大学進学にも注力、さらに報恩感謝を強調した。

版画で制作した年賀状
「坊さんかんざし人形」
 入学当時の学校の雰囲気は、『新聞向陽』(後に『向陽新聞』)で思い出すことができる。昭和24年7月発行の第3号トップ記事は「われらの新校舎遂に落成」で、木造二階建て新校舎の第一期工事が完成、落成式典の様子を報じている。二面には、「苦い経験 ストの理由とその反省」とある。これは、国立大学設置法案に学園の自治をないがしろにする条文があるとして、大学生のみならず高校生も巻き込んでの反対運動が、学園ストにまで発展した記事だ。

中高時代の自作版画。「女性像」
中一の教室にも、高校生の活動家がアジ演説に来たのを覚えている。さらに、「各部便り」には、生物班「中山先生の指導でヘビの飼育場も作る」とか、野球部「土佐中県下大会に出場」とある。中学野球部は、市予選を勝ち抜いて県大会への出場権を得たのだ。野球ブームで、休み時間にも手作りのボールを持って校庭に出て遊んだ。
 肝心の授業など学校生活はどうだったか、とにかく素晴らしい先生が揃っていた。海辺の田舎(種崎)育ちで、焼玉エンジンの巡航船で30分かけて高知桟橋に着き、さらに土電で梅ヶ辻へ出て通学した。校舎はオンボロながら、先生方は数学の公文公、生物の中山俊馬、漢文の吉本泰喜など碩学揃いで、充実したユニークな授業に引き込まれた。オンカンこと中山先生は、来高した天皇陛下に高知産貝類のご説明役を仰せつかるかと思えば、試験問題は高知新聞連載の時代小説から貧乏浪人の長屋暮らしを引用、「この小説に出て来る動物を分類せよ」であった。その動物とは、ムカデ、ゲジゲジ、ナメクジ・ゴキブリ・ノミなどだ。
 他にも、各教科に山下芳雄(理科)、伊賀千人(社会)など後に大学教授になる研究心旺盛な先生や、タコ、カマスなどの愛称で呼ばれ、独自の授業展開で生徒を魅了するベテラン教師など、多彩であった。
公文先生・版画・新聞部、中学3年間で3つの出会い

平成5年、高知で講演する公文公先生
演題は「土佐から世界へ」。
 入学した280名4クラスへの組分けで、たまたま公文公先生のB組になった。先生は土佐中の7回生で、大阪帝国大学の数学科1期生、戦争中は海軍の数学教授であった。戦後は帰郷し、高知商業を経て母校の教諭となり、初めてクラス担任となったのだ。毎年組替えがあったが、幸い大町玄君と筆者は3年間ずっと公文クラスに在籍した。
 公文先生は、戦後の文部省カリキュラムに添った教科書による一斉授業だけでは、生徒の学力を十分伸ばすことはできないと考え、知寄町の自宅での指導も開始した。後に、「生徒のために旧制土佐中のように学年より先へ進める授業をしたかったが、学校に理解してもらえなかった。そこで、家へ生徒を呼び、代数の問題集と英文講読を始めた。個人別自学自習でどんどん先へ進んでもらった」と、語っている。当時の教室では、公文俊平・川村克彦両先輩(28回生)が、助手をしてくれていた。今や世界中で428万人が学ぶKUMON式の源流は、旧制土佐中教育と公文先生の高知での私塾であった。
 筆者にとって楽しかった授業は美術で、洋画家の鎮西忠行先生が水彩画を、彫刻家の横田富之助先生が彫刻や版画を指導してくださった。特に高知女子大から教えに来ていた横田先生の、木版画制作に魅せられた。参考資料にあった北斎や広重の版画を真似て、「富士山」の多色摺年賀状(2018年7月、このHPに掲載ずみ)を制作、その後もロダンの彫像や「坊さんかんざし人形」などを版木に刻み、刷り上げた。坂本龍馬も見たという我が家の襖の絵「田原藤太百足退治」が、江戸後期の木版浮世絵であることにも気付かされた。

実家にあった浮世絵 「田原藤太百足退治」(歌川国麿、弘化・嘉永頃)
 クラブ活動は、同級の大町君にさそわれ中2から新聞部に入部した。戦後の学園民主化にとって、自治会とともに校内の自由な報道言論機関として、重要な役割を担っていた。同学年では、浅井伴泰、千原宏、武市功、横山禎夫、大原譲が、1年上には中山剛吉、下には島崎(森下)睦美などがいた。そして、なにより熱心に指導してくれたのは27回生の岩谷清水先輩であった。また、戦災からの復興再建をリードした大嶋校長も、授業編成から授業料値上げ、入試のあり方、教師・生徒双方の問題行動まで、学校運営に関する新聞部取材にきちんと対応いただけた。ただ、晩年は校内規律が緩み、某教諭が部活動の積立て金を私的に流用、退職金で穴埋めして転校するという事件もあった。この取材に対し、校長は率直に事実を認めたが、記事にはできなかった。高校卒業直後の昭和30年4月には、高知新聞によって教師による中学入試問題の漏洩がスクープされた。学校の対応が遅れ、ついに生徒は同盟休校に突入、ようやく事件の解明と校内刷新が進展した。
 土佐中で出会ったこの公文先生、版画、そして新聞部が40年後に結びつき、「子ども浮世絵」の収集・研究が後半生の大仕事になるとは、思いがけないことであった。
子ども浮世絵研究とヨーロッパ巡回展

子ども絵「風流をさなあそび」 (歌川広重、天保初期,公文教育研究会蔵)。
 中学から高校進学にあたっては、あらかじめ4名の担任が発表され、生徒にクラス選定がゆだねられた。中学でのB組を中心に我々は公文クラスを希望していたが、突然公文先生の大阪の高校への転任が知らされ、呆然となった。しかし、大学を出て就職するとともに恩師との交流が次第に復活した。特に、公文式教育が昭和37年に大阪数学研究会として会社組織になると、岩谷清水(27回生、後・取締役教育主幹)が東京教室の第一号を開設、やがて林(梅原)三洋子はじめ土佐中での公文クラスの女子教え子や、男子教え子の夫人が続々公文式教室を開いた。公文先生が独自に開発した数・英・国の教材による、個人別自学自習の指導法や学習効果に共感でき、収入にもつながったからだ。
 しかし、会社創設初期には教材開発、指導者養成以外に、資金調達、労働争議、教材の流出・模倣といった難題が次々に降りかかった。禎子夫人をはじめ、その実弟長井淳三、公文先生の長男公文毅、甥国澤建紀(36回生)など親族が事業に参画、さらに土佐中B組だった武市功(30回生、後副社長)、浅岡建三(中卒で転校、顧問弁護士・鑑査役)も経営中枢を支え、次第に体制が整った。昭和49年(1974年)には、海外最初の教室がニューヨークに開設され、見城徹(現幻冬舎社長)が企画した公文公著『公文式算数の秘密』(廣済堂出版)がベストセラーとなり、一挙に全国で生徒が急増した。

ヨーロッパ巡回展モスクワ会場
左はロシアの文化大臣、右奥筆者。
 この間筆者は、新聞部での企画・取材・執筆の楽しさや、記事の手応えが忘れられず、大学卒業に際しては新聞・出版に絞って就活を続けた。マスコミ大手はどこもダメだったが、なんとか新興の学研に入社できた。雑誌や書籍の編集を担当し、公文公編『愛の算数教室』も刊行した。最後は美術部所属となったが、ここでは『在外秘宝』と銘打って、北斎や歌麿の浮世絵名作を収めた豪華画集を刊行中であった。浮世絵の名作は、多くが海外に流失していることに気付かされた。
 この頃、公文教育研究会では経営も軌道に乗り、出版活動にも着手、武市功君から「公文公会長、公文毅社長が、出版担当で来て欲しいといっている。ぜひ来い。」との呼びかけがあった。こうして、昭和56年に公文に移籍、出版部(後にくもん出版として独立)の責任者に就任。その5年後に、くもん子ども研究所が設立され、兼務として理事になった。研究テーマを求められ、前例のない「浮世絵を絵画史料として活用した江戸子ども文化研究」を提案、自ら子どもに関する浮世絵など絵画史料の収集と研究に着手した。

浮世絵に関する筆者の編著書
 浮世絵による子ども文化研究の直接的な経緯や成果は、冨田八千代さん(36回生)の問いかけに応え、このHP(2018.9.2)で「回想 浮世絵との出会いと子ども文化研究」として発表のとおりである。土佐中での版画制作と、実家の浮世絵、出版界での浮世絵との再会、そして公文先生からのお誘い、これらの背景があって子ども浮世絵では世界一の「くもん浮世絵コレクション」が誕生した。展示活用では、国際交流基金による平成10年から翌年にかけての「ヨーロッパ4か国巡回展」が忘れられない。まず「ロシア日本祭」での日本を代表する美術品としてモスクワ東洋美術館で展示、パリ、エディンバラ、ケルンと巡回し、好評を得た。研究成果は、数々の編著にまとめたので、その写真をあげておこう。

 <版画万華鏡>と題したこの随想では、既刊の編著書からこぼれ落ちている版画に関するさまざまな思い出や、調査研究の断片を拾い集めて順次映し出したい。次回は兵庫県高砂市にあるなぞの巨石神殿「石宝殿(いしのほうでん)」の、護符版画を紹介しよう。
ページTOPに戻る

<版画万華鏡・2>
なぞの名所絵版画「播州石宝殿」と巨石文化

中城正堯(30回) 2018.12.23
水に浮かぶ巨石がご神体
 昭和61年(1986年)から、くもん子ども研究所の「子ども浮世絵による江戸子ども文化研究」の担当となり、早速浮世絵収集を始めた。主な収集対象は、遊びや学びなど子どもの生活風俗を描いた子ども絵、そして母子絵、さらに子どもが紙工作や豆本・豆図鑑として楽しんだおもちゃ絵である。収集先は、神田の古書店、そして古書会館で毎週末に開かれる業界の即売会、またデパートの催事場で当時はよく開催されていた「古本市」などであった。むろん、大阪出張の際には梅田阪急の古書店街や京都の老舗古書店・浮世絵店にも立ち寄った。

図1.「帝釈天像」町田市立
国際版画美術館「中城コレクション」
 やがて、「子ども浮世絵」収集者のいることが業界に伝わり、眠っていた子ども関連の作品が続々市場に現われ、作品収集は予想以上に進展した。その過程で多彩な分野の版画作品に出会い、江戸時代の豊かな出版文化に触れることができた。子ども絵以外でも興味深い作品に出会った。その一つが「帝釈天像」(図1)など、江戸庶民の神仏への信仰心をうかがうことができる護符や、社寺参拝案内の名所絵である。渥美清の映画「寅さんシリーズ」の舞台として知られる柴又帝釈天には、日蓮自らが刻んだと伝わる板本尊がある。安永8年(1779年)に本堂修理の際に見つかり、護符として流布した。これら個性的で愛らしい神仏像・護符の類は個人で購入して楽しんだが、順次美術館などに寄贈している。

図3.「播州石宝殿図」筆者蔵
 さらに不思議なご神体図に出会った。ここに掲げた「播州石宝殿図」(図2)である。上部に松の生えた巨石と拝殿が描かれ、「東・西」の方位と「四方三間半むね(棟)へ貮丈六尺、高峯岩」の文字、そして万葉集第三から「大汝小彦名乃將坐(おほなむち すくなひこなの おハします)志都乃石室者幾代將経(しつのいはやハ いくよへぬらん)」の歌を添えてある。どうやら播磨国(兵庫県)の神社・御神体を描いた社寺名所絵の一種だ。絵の筆致や紙質から、明和安永頃(18世紀中葉)の作品と思われる。
 続いて「播州国石宝殿」(図3)の題で、水辺に浮かぶような巨石を描いた縦長の版画を見付けた。画幅に仕立てるための版画で、やはり万葉集の歌が添えてある。制作年代は、幕末か明治初年だろう。もう一点は、「播州石宝殿」の朱印を押し、「はりま いしのはうでん」と題した袋入りで、絵図二枚と神社縁起一枚がはいっていた。絵の一つが「播磨国石宝殿真景」(図4)で、明治中期の石版刷りだ。神社縁起には、「神代の昔に大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受けて一夜で石の宮殿造営を始めたが、賊神鎮圧のために宮殿を正面に起こす前に夜明けを迎え、未完成となった。だが、二神の霊はこの岩に永劫に籠り、国土を鎮めると仰せになった。よって、石の宝殿、鎭の石室と称する」などとある。

図2.「播州国石宝殿」筆者蔵

図4.「播州国石宝殿真景」筆者蔵
 これらの版画は、石の宝殿を御神体として祀る生石(おうしこ)神社(兵庫県高砂市)が発行した宗教版画であるが、社寺巡りのための名所案内絵でもある。なお、石宝殿は、「いしのほうでん」と読むので、以下本文では「の」を入れて「石の宝殿」と表記する。
シーボルトも見学した「日本三奇」の一つ

図5.シーボルトの見た石の宝殿 『Nippon』より
 短期間で三種類の版画が入手できたことから、この「石の宝殿」が江戸後半には人気が高く、数多くの作品が摺られただろうと推測できた。古い文献で少しさがすと、司馬江漢『西遊旅譚』(寛政6年)や渕上旭江『山水奇観拾遺』(文化10年)に絵入りで紹介されていた。さらに、シーボルトも文政9年(1826年)の江戸参府の際に立ち寄り、写実的な絵図(図5)を残している。江戸の人々は何事でも番付に表わしたが、「大日本国中 不思儀競」(発行年未詳)にもあり、東が「天之逆鉾」「天之橋立」…、西が「高間ヶ原」「石之宝殿」…と続く。霧島の天之逆鉾は、慶應2年に坂本龍馬がお龍と訪ね、逆鉾を抜いたことでも知られる。合計186の不思議の中から、石の宝殿は堂々西の2位だ。また、霧島神社の「天之逆鉾」、塩竃神社の鉄製「塩竃」とともに、「日本三奇」とも呼ばれていた。

写真@ 石の宝殿、左側面
 筆者撮影

写真A 上から見た左側面
 筆者撮影
 これほど著名な名所だったのに、昭和の時代、特に戦後は忘れられた存在になっていた。だが研究書では、『日本の謎・石宝殿』(間壁忠彦/葭子、六興出版、昭和53年)、『古代巨石文化の研究』(吉原博見、白帝社、昭和57年)などで詳細に論じてあった。『角川日本地名大辞典』(角川書店、昭和63年)高砂市の項に、「竜山の中腹に、生石神社の神体となっている石の宝殿がある。幅6.5m・高さ5.7m・奥行5.6mの直方体背面に、角状の突起をつけ、奥行の全長が約7mある巨大な石造物…」と記載、7世紀に造られた火葬場ではないか、とも述べてあるが謎だらけだ。あとは、現地を探訪してさぐるのみだ。
 平成11年(1999年)、姫路城からの帰途に、ようやく石の宝殿を探訪することができた。山陽本線姫路駅から各停で三駅、神戸方向にもどると「宝殿駅」がある。タクシーで生石神社門前まで行き、高い石段を登ると立派な社殿が現われる。これが拝殿で、中央を抜けると御神体の巨石が鎮座している。岩山をくり抜き、奥の突起を屋根として、家を横倒しにした形状だが、周りの岩壁との間隔が狭く、標準レンズでは納まりきらない。ワイドレンズを待たずに来たのを悔やみつつ撮った写真が@〜Bである。

写真B 右後部からの石の宝殿と景観 筆者撮影
 写真@は左の側面だが、下部も中心部を除いて削られ、確かに石全体が水たまりに浮かんでいるように見える。ここから「浮き石」の名称もついている。Aは同じ側面を上から見下ろした写真で、上部にはかなり大きい常緑樹が茂り、拝殿とも間近に接している。Bは、反対側の上から見た景観で、柵に囲まれて御神体上部の茂み、拝殿の屋根、そして背後に古代から現代まで続く竜山の石切場が連なり、左奥には遙かに高砂の工業地帯が望める。古代には、竜山のすぐ麓まで海岸が迫り、竜山の石棺は海路畿内へも運ばれていた。高砂の港は古代から九州と畿内を結ぶ舟路の中継地で、謡曲『高砂』の舞台でもある。
 巨石を宮殿形に加工した古代石工の技術に驚き、江戸の人々が神わざと感じて「日本三奇」にあげたのも理解できた。社殿に「算額」を掲げてあったのも、幕末のこの神社の人気ぶりを示している。算額は和算の難題に挑んだ数学者が、解答を額にして名のある神社に奉納したもので、この算額は三角関数を駆使して解いた幾何の難問であった。宮司からお話を伺い、「生石神社略記」などをいただいて、神社を後にした。
巨石信仰の系譜を追って高知、エジプトへ

写真C 姫路城備前門の
左右石垣に使われた石棺 筆者撮影
 石の宝殿は、いつ、だれが、なんのために、どんな形状に造ろうとしたのか、拝観したことから疑問を解く糸口がいくらか思い浮かんできた。まず、直前に訪ねた姫路城の本丸備前門の石垣で見かけた竜山石の石棺(写真C)である。今に残る姫路城は池田輝政の築城であるが、羽柴秀吉が中国攻めの際に大急ぎで造った際の石垣から石材をかなり流用しており、この石棺も秀吉時代の石垣から再利用した可能性が高い。いずれにしろ、播磨国一帯は古墳が多々あり、くりぬき式の石棺が出土しているのは、古代石工文化の豊かな発達を示している。その背景には、663年白村江の戦いで唐・新羅軍に日本・百済軍が敗れた際、日本に渡ってきた百済の石工によって伝えられた石垣造りの技術伝承があるのではないだろうか。これらの石垣は神護石(こうごいし)と呼ばれ、北九州から山陽道各地にかけての古代山城遺構に残る。岡山県の山城「鬼の城」もその一つである。

写真D 明日香村の「益田の岩船」筆者撮影
 古代石造文化でこの石の宮殿に類似のものに、奈良県明日香村の「益田の岩船」(写真D)がある。石の宝殿同様の家形で、屋根を手前に横倒しになっており、側面(現状では上部)には四角い切り込みがある。約715トンの日本最大級の石造物だが、起こせば7世紀頃の終末期古墳の石室と同じ構造の、壮大な横口式石槨である。石の宝殿も、同じ家形の横口式石槨と思われるが約500トンあり、さすがに起こせなかったようだ。上部に岩船同様の切り込みが想定されるが、御神体のため上部樹木の部分を発掘調査できず、現在も確認できないとのことであった。石の宝殿の製作時期も、万葉集に出てくる石室とこの巨石とは必ずしも結びつかないが、『播磨国風土記』にある「家の形の大石」は、記載された寸法・場所から明らかに石の宝殿を指しており、竜山の石棺工人が最も活躍した時期でもある7世紀の製作と推定される。古墳時代の強大な豪族が製作を命じたのであり、貴人の遺骸を収めた石棺を安置し、祀るための石槨だったと考えられる。この不思議な巨石自体を御神体として祀ったのは中世以降であろう。
 巨石文化は国内各地に残り、高知県では足摺岬の唐人駄馬遺跡が知られる。この巨石群は一部岩面に線刻が見られる程度で、自然石である。ただ、巨石周辺から縄文・弥生の石器や土器が出土しており、巨石信仰の祭事空間であったと推定される。海外では、オーストラリア原住民の聖なる岩山ウルル(エアーズロック、写真E)が、同様の位置付けだ。
 巨石に加工を施した巨石記念物も世界各地に残っている。筆者が訪ねたのは、アブシンベルとギザ、チリのイースター島、インドネシアの二アス島とスマトラ島だが、エジプトでは製作を中断したオベリスク(写真F)も訪ねた。さらに、国際的写真家・野町和嘉氏からいただいたエチオピア写真集『ETHIOPIA 伝説の聖櫃』を開き、ラリベラの岩窟教会(写真G 世界遺産)を見て驚いた。巨大な岩盤を十字の形を残して掘り下げ、教会を造ってあるのだ。古代からの洞窟信仰とキリスト教が習合、6〜13世紀に造られたとある。播磨での石の宝殿誕生とも時期が重なり、篤き信仰心が生んだ偉大な石造技術に驚嘆した。

写真E ウルルでの筆者 1965年 矢島康次撮影

写真F 製作を中断した
エジプトのオベリスク 筆者撮影

写真G エチオピアの岩窟教会 
野町和嘉『ETHIOPIA 伝説の聖櫃』より
 石の宝殿は平成26年に国の史跡指定を受けた。高砂市教育委員会文化財係によると、最近「石の宝殿研究会」が誕生、パワースポットとしても話題になり、次第に見学者が増加しつつあるという。次回「版画万華鏡・3」では、美しい蚕神様の浮世絵を紹介したい。
ページTOPに戻る

<版画万華鏡・3>
美しき養蚕神に秘められた少女たちの哀話

中城正堯(30回) 2019.01.20
天竺から流れ着いた美少女“金色姫”

図1.「衣襲明神」浮世絵 歌川芳員 嘉永安政頃 筆者蔵
 前回の「石の宝殿」は、加工された巨石が御神体だった。今回は、江戸・明治にわたって広く信仰された美しい女神像二点を紹介しよう。その名は「衣襲明神(きぬがさみょうじん)」である。まずは幕末の浮世絵師・歌川芳員(よしかず)が描いた衣襲明神の立像(図1)で、周囲には賛を書き連ねてあるが無題。芳員は歌川国芳の弟子で美人画も得意だっただけに、気品ある女神像に仕上げてある。では、画像・賛の詳細からさぐろう。
 立像の女神は、吉祥天のような衣服を着て、頭に鳳凰の冠と絹の反物を載せ、沓(くつ)をはいている。右手には蚕の種紙を、左手には桑の小枝を持つ。衣装の胸には、なぜかうずくまった馬の図がある。画面下部に落款「一寿齊芳員画」と版元印「藤慶」があり、幕末の歌川派絵師・芳員が、江戸通油町・藤岡慶次カの店から版行したとわかる。女神の周りを埋める賛には、およそこんなことが書いてある。
<かけまくもおそれおおくも、これは養蚕の祖神、常陸国日向川(ひなたがわ)村、蚕霊山(さんれいざん)聖福寺の衣襲明神である。この神を祭れば、養蚕をする家は蚕がよく育ち、蚕屋のネズミを防ぎ、蚕はすべて繭となり、万倍の利益を得る。一般の男女がこの神を信心すれば、衣食住とも恵まれること疑いなし>
 江戸後期の養蚕ブームで、常陸国日向川村(現茨城県神栖市日川)聖福寺の養蚕護符「衣襲明神」が評判になり、数多く作られた。この錦絵護符は、嘉永安政(1848〜60)頃に出た一枚だ。当時、この衣襲明神は聖福寺境内に祀られていた。由来は、こう語られている。
<孝霊天皇(紀元前285年)の春3月。豊浦浜(日川)の漁師権太夫が、沖に漂う小舟を引き上げてみると、世にも稀な美女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国の金色姫で、国一番の美女だったが継母に憎まれ、桑の木で造ったうつぼ舟に乗せられ海に流された。豊浦浜に漂着、権太夫に愛育されるが病死して蚕となり、養蚕をこの地に伝えた。金色姫と権太夫に感謝して、村人は蚕霊神社を造営した>
江戸のコピーライター馬琴が生んだ衣襲明神

図2.「衣襲明神之像」富山版画 明治時代 筆者蔵
 天竺からの金色姫漂着による養蚕伝来説話は、室町時代の写本『蚕の草子』(慶應義塾蔵)にすでにあり、つくば市蚕影山神社にも伝わる。しかし、なぜ衣襲明神と呼ぶのか、胸の馬は何を意味するのかなど不明であり、関連史料をさぐってみた。古くからの編集仲間で歴史家の関口一郎氏から近江礼子氏(民俗学研究者)を紹介いただき、論文「茨城県神栖市の聖福寺と蚕霊神社の養蚕信仰」を入手した。さらに、町田市博物館刊『養蚕機織図』に各種の養蚕護符図と「蚕の神仏」と題する畠山豊氏の論考があり、わが書庫にも『蠶神考』(村島渚著 明文堂 昭和8年)・『売薬版画』(根塚伊三松著 巧玄出版 昭和54年)などが眠っていた。これらによって、衣襲明神誕生の意外な経緯や拡散ぶりが判明した。
 江戸後期から明治にかけての養蚕ブームを反映して、『養蚕機織図』には30種類を超える養蚕の神仏護符が掲載されていた。その最古の作品が、文政10年(1827)に鶴屋喜右衛門版行の「衣襲明神」であり、絵師名の落款はないが撰文は「曲亭陳人」とある。『南総里見八犬伝』で知られる曲亭こと滝沢馬琴が、八犬伝を執筆中に書いたものだ。彼の日記には、「文政10年1月20日に鶴屋から依頼あり、鹿島の千手院聖福寺などで調査させる。3月19日に稿を終える」などと、経緯がきちんと記されている。
 筆者所蔵の芳員作品の賛は、ごく一部の表現を変えただけで馬琴の撰文をいわば流用している。この流用は、明治時代の各種「衣襲明神」まで続く。養蚕農家にとって、蚕の種紙を購入したあと、無事に繭に育て上げるまでには、桑の栽培やネズミの害防止などさまざまな課題があり、神頼みをせざるを得なかったようだ。その心理を巧に汲み取り、さらに一般民衆に対しても、この護符の御利益を説いてある。
 養蚕の祖神「衣襲明神」の名称も馬琴の創作であり、古事記や日本書紀、さらには現在の神名辞典にも登場しない。「衣笠・絹傘」をもじっての造語であろう。神道の古典的な養蚕守護神・稚産霊神(わかむすびのかみ)などに代わって、民間信仰として興った衣襲明神が農民の信頼を得たのだ。馬琴は江戸を代表する戯作者だけに、コピーライターとしても見事な筆力で、平賀源内がうなぎ屋におくった「土用うしの日」と並ぶ名作だ。ただ画像は、女神の容姿・表情・色調とも芳員の浮世絵が最も優れている。明治時代の女神は、化学染料によるどぎつい彩色が多い。胸の馬も馬琴にちなむともいうが、根拠不明だ。
 ではここで、同じ衣襲明神ながら女神立像でなく、騎馬像のタイプを見てみよう。「衣襲明神之像」(図2)と神名が大書してあり、「富山市袋町高見喜平版」とある。薄墨の馬にまたがった女神の装束は立像とほぼ同様だが、宝冠をかぶり、帯状の天衣をひらめかせ、右手に種紙を左手に手綱を持ち、馬の足元にはまっ白の繭が散らばる。
オシラサマが伝える馬と少女の悲恋

図3.「オシラサマ」左が馬頭 北上市博物館 筆者撮影
 富山市の高見喜平は、富山版画とか売薬版画と呼ばれる錦絵の版元であり、この神像画も越中富山の置き薬行商人が、薬のおまけに付けて喜ばれた錦絵護符である。幕末明治には生糸が輸出の花形商品となり、養蚕ブームとなる。そこで養蚕農家への薬のおまけとして、名の知られた衣襲明神が登場する。富山では江戸時代から養蚕の種紙も作られ、やはり行商人が販売を担当、これも養蚕神錦絵制作につながったようだ。
 富山版画の衣襲明神にも、馬琴の撰文を簡略化して付けたものがあり、女神の姿・所持品も類似しているが、なぜか女神が馬に寄り添った像や、騎馬像が現れる。『売薬版画』は、三種類の「衣襲明神」を載せ、「関東・東北地方の養蚕地帯へ持っていき、配ったもの」と述べ、さらに岩手県遠野の伝説が生んだ信仰の中に「オシラサマ」(図3)という悲話があるとして、柳田国男の『遠野物語』から、こう紹介してある。
<昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪(にく)みて斧をもって後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり>
二つの養蚕神の習合拡散、そして退場

図4.「蠶女」『中国~仙画像集』
(上海古籍出版社)より
 遠野では昇天した娘が蚕となって現れたという伝説から、馬と娘の顔を桑の木に刻み、養蚕神オシラサマが誕生したとする。馬産地ならではの伝説でもある。柳田は「オシラ神の話」(『柳田國男全集15』)で、津軽のイタコ(巫女)の語りにも昇天した馬と姫二つの霊が桑の木に降りて虫になり、養蚕が始まったとあることを述べ、この話が二千年前の中国『捜神記』「馬の恋」とほぼ同一であることに触れている。『中国~仙画像集』には「蠶女」として、『捜神記』の神話が画像(図4)とともに紹介してある。 二十数年前に、岩手県遠野市、北上市、青森県恐山などを駆け巡った。その際、遠野で見かけた白馬にまたがる娘の絵馬(図5)が、強く印象に残っている。桑の木に馬頭や男女の顔などを刻んで布切れを着せたオシラサマは、各地で見かけた。しかし、養蚕神にとどまらず農家の守護神であり、

図5.「馬と娘」絵馬 遠野市 現代 筆者撮影
イタコが神の託宣や死者の口寄せをする際の祭具でもあると聞かされた。オシラサマの伝説には、貧乏な百姓の娘ではなく長者の娘とか尊い姫など異説がある。遠野には、<馬を殺された娘が、馬の皮を小舟に張り、海に出てある海岸に漂着、亡きがらからわきだした虫が蚕になった>という話も伝わることを、今野円輔が「オシラ神に関する諸問題」(『民俗―馬の文化史』馬事文化事業団)で論じている。

図6.「多賀大社像」画幅(部分)
木版手彩色 筆者蔵
 遠野のオシラサマは馬と娘の異類婚姻譚(いるいこんいんたん)であるが、そこには常陸の金色姫漂着譚の混在も見られる。江戸後期から、常陸聖福寺では金色姫に由来する蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)の出開帳を養蚕地帯で行い、護符も配布したという。おそらく遠野へも、富山へも足をのばしたであろう。富山の薬行商人も、当然関東から東北にかけて広く得意先を抱えていた。こうして、養蚕神の画像や由来譚は、いつしか「金色姫漂着譚」系と「馬と娘婚姻譚」系が習合、騎馬女神像も立像の胸の馬も誕生したと思われる。騎馬神像自体は、延命長寿で知られる近江の多賀大社像(図6)などと同じ形状だ。 厳しい農作業に明け暮れた各地の農民は、農閑期に常陸の巡礼僧が背負ってきた蚕霊尊を拝みつつ哀れな金色姫の説話を聞くのも、越中富山の薬売りから美しい色摺の衣襲明神像をもらって馬と娘の悲恋物語を教えられるのも、なによりの楽しみであっただろう。土地の神社・寺院に勧請され、定着する養蚕の神仏も増えたのだ。

図7.「蚕家織子之図 第壹」浮世絵
歌川国芳 天保頃 公文教育研究会蔵
 江戸の町民も養蚕への関心は高かったようだ。浮世絵には、美人画で知られる勝川春章・北尾重政による「かゐこやしなひ草」、喜多川歌麿の「女織蚕手業草」、さらには歌川国芳が人物を子どもに置きかえて描いた「蚕家織子之図」(図7)など、数多くの養蚕浮世絵が版行されている。いずれも、種紙の掻きたて、採桑飼育、繭煮、糸繰り、機織りまでの作業が、図解されており、美人画・子ども絵であるとともに、養蚕の手引図になっている。
 明治になると神仏分離が強行され、常陸聖福寺では衣襲明神を祀る蚕霊神社が独立、寺は馬鳴菩薩を祀る。養蚕業の大ブームもあって、衣襲明神・金色姫・馬鳴菩薩など、さまざまな養蚕神仏像がもてはやされた。だが、養蚕産業の衰退とともに、養蚕神は急速に退場、艶やかな絹糸の輝きの背後にあった守護神・金色姫たちも姿を消す。だが、残された浮世絵の養蚕護符や子どもの養蚕絵からは、当時の養蚕への人々の熱い想いが伝わってくる。次回は、戦前高知でも見られたが、今や全国的にも消滅寸前の打毬(和製ポロ)の画像をお見せしたい。
ページTOPに戻る

淑徳大学公開講座『日本の名城、その魅力と見方』
「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較

藤宗 俊一 (42回) 2019.02.03
T.日本の城とヨーロッパの城との相違点
1.成立過程の違い

日本の城(長野・松本城)とヨーロッパの城(独・ホーエンツォレルン城)
 日本は同じ言語を話す単一民族で構成され、生産の担い手である農民は農地と結びついており、争いは単に支配権をめぐる争いです。住民は、争いがあれば避難していて、終わればまた元の場所に戻って生活を再開すれば良いのですから、城は支配者層の安全と戦略的な考えだけで作れば良かったのです。このため、自然の要害の地にできるだけコンパクトに作られました。城下町は言葉の表すとおり麓に発達し、平時は城主も館を持ってそこで生活をすることが多かったようです。只、近世になると、貨幣経済の発展により都市生活者が増大し、町人街を取り込んだ「惣構え」といわれる縄張りが行われるようになりました。

武士の館復原模型12C(歴史民族博物館) と
モット・ベイリー (ENGLAND)11C
 一方、ヨーロッパはもともと多民族で遊牧民が陸続きで住んでいた上、4世紀以降、ゲルマン族やノルマン族、マジャール族、アラブ族などが侵入してきます。彼らは略奪目的ではなく、定着しようという目的でやって来るのですから、はじめのうちは空いている土地でおとなしく狩猟や放牧などを行っていて共存できていたのですが、そのうち仲間を呼び寄せるようになり、いわゆる民族大移動がおこります。その結果、当然土地をめぐって争いがおこります。この争いの結末は悲惨で、負ければ追い出されるか、奴隷にされるか、虐殺されるかで、守る方は必死で城を作ります。勝った方も逆襲や他の民族の侵入を恐れて、城を作ります。そして、住民全員を守らなければなりませんでした。このため、城の中に住民が避難できる空間を作ったり、町全体を壁で囲む城壁都市ができました。
2.構造の違い

カステル・デル・モンテのリヴ・ヴォールト1240-50  と
   熊本城 模型1601(慶長6) 加藤清正 
 日本では、土塁と堀で周囲を囲み、豊富な木材を使い櫓と柵が作られていましたが、切岸に石がはられ石垣ができ、大黒柱を中心に大規模な木組みが行われその外部を漆喰で塗り固め、屋根を瓦で葺いた、防火構造と柔構造を兼ね備えた天守ができ、それを取り囲む曲輪で防御するいわゆる縄張りで城が作られるようになりました。特に、戦国時代後期なって、城が平地に下りてくると石垣と堀の役割は増大し、石垣を作る技術が飛躍的に発展しました。また鉄砲伝来と共に、砲眼を持った築地塀や多聞櫓が漆喰で石垣の上に作られるようになり、天守を中心とした美しい城の姿が出現するようになりました。今日、お集まりの皆さんも多分この美しさにひかれてお城に興味をもたれたのではないかと思います。
 ヨーロッパでは民族移動後初めのうちは堀と土塁や潅木の柵で作られたモット・アンド・ベイリーという簡単な城が沢山作られていました。その後時を経て、12世紀頃から、ローマ時代の遺産であるレンガとセメントの技術を習得し、また、十字軍やサラセン人によりもたらされた石造技術により、厚い壁で城壁や塔が作られるようになりました。この壁の厚さが構造上でも、また戦略上でもヨーロッパの城の一番大きな特徴になっています。この壁はそれ自体でも自立でき、

ソアヴェ・スカリジェロ砦城壁(Soave/ITA)1369  と
七尾城 家臣団屋敷(石川県) 畠山氏 曲輪縄張り
はじめのうちはそれに木製の梁をかけ、板を敷き、穴あきレンガを並べる方法で階を作っていましたが、アーチ型の壁梁や石造技術の発展でリブ・ヴォールトが考え出され、内部空間が巨大化してきました。ロマネスク、ゴシックの教会堂を見るとその技術の発展がよくわかります。
3.形態の違い
 形態上からみれば、ヨーロッパの城が長い壁とそれを守る塔や砦といった線と点で構成されているのに対し、日本の城は石垣や曲輪といった平面構成で成り立っていると言えます。また、戦略上で考え出された縄張りによる空間構成は意外性に富み、見え隠れ、流れと溜まり、導きと展開など設計方法論上、多くのヒントを与えてくれます。皆さんも知らず知らずのうちに体験されていることでしょう。

   ヨーロッパの城  日本の城  
  民族  異民族  単一民族  
  自然  乾燥  多雨  
  生活  狩猟を中心とした遊牧型  農耕を中心とした定住型  
  目的  住民全員を守る  支配階級を守る  
  材料  石、レンガ、セメント  土、木、漆喰  
  構造  壁の量、剛構造  材木(大黒柱)のしなり、柔構造  
  形態  壁と塔で守る。線と点。  ラインディフェンス  縄張り(石垣と曲輪)平面。  ゾーンディフェンス  

メーデン・キャッスル ヒルフォート(丘の砦)
BC3000-AC43 新石器・ケルト人
大塚・歳勝土遺跡 (環壕)
弥生時代  
イリオス(トロイ)遺跡
BC3000-AC100
吉野ヶ里遺跡 環濠集落 (佐賀県)
弥生時代後期
サンジミニアーノ (San Gimignano/ITA)
13C城壁都市
観音寺城16C 六角氏 山城と城館
U.城に関連する言葉で比較
1.城(郭) と Castello

Castello:フェッラーラ・エステンセ城 1385 ニコロV世 と
   城:姫路城 天守  1609(慶長14) 池田輝政
 日本では城というと天守のことを言っている場合が多いのですが、本来城という字の表すとおり「土より成る」であって、土を掘って囲った防衛施設全般を表します。日本城郭協会では平成17年に『日本100名城』を選定した際にはたとえ天守が無くても、@優れた文化財・史跡であることA著名な歴史の舞台であることB時代、地域の代表であることの三つの基準を設けて全国各地の防衛施設の中から選定しました。美しい形をした天守が作られるようになったのは信長の安土城以降で、権威の象徴と領主の生活空間を兼ねるようになってからです。
 イタリアでも城を表す言葉はCastelloですが、日本と同じように『領主とその一族が住み、守備隊がいる防御施設』という狭義の意味で使われる場合が多いようです。勿論、例外もあり、ローマの聖天使城や南イタリアのカステル・デル・モンテなど歴史的にその呼び名が定着してしまったものです。また、ワインのラベルで『カルテッロ・ソアベ』とか『カステッロ・モンテリッジニオーニ』果ては『カステッロ・ロマーノ』などお目にかかったことがあると思いますが、これらは単なる商標で、単に地域とか地方とかを表しているだけで、

山城:サンマリノ グアイタ砦  1253
    山城:備中松山城 山城・石垣1642(寛永19) 水谷勝俊
フランスのシャトウも同じようなものだと思って下さい。実際に天守があるのはソアベくらいのものですが、現地では『スカリジェロ(スカラ家の)砦』と呼ばれています。特に最後のローマなどは誇大広告ですので絶対だまされないで下さい。
 また日本では、普通お城は『山城』『平山城』『平城』に分類されています。堀や曲輪の配置が地形に影響されるからでしょう。『海城』『河城』『湖城』は『平城』の一部として考えられています。一方イタリアでは使用形態によって分類されることが多いようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Castello  一般名称。狭義では領主の  城(しろ)  一般名称。狭義では天守を持つ防禦施設
   居住空間と防御施設。    山城、平山城、平城、海城
 Rocca  城砦・防衛施設(兵士の駐屯)  支城  出城、曲輪
 Forte,Fortezza  要塞・防衛施設(有事)  砦、台場  砲台、稜堡

Rocca:カステル・デル・モンテ
1240-50 フリードリッヒ2世   
出城:杉山城(埼玉県比企郡)16C 山内上杉氏
古宮城(愛知県1570) 武田・馬場美濃守
Forte:ローマ聖天使城
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要塞
隅櫓:江戸城 富士見櫓
高松城 隅櫓
山城:サンマリノ グアイタ砦
1253
山城:備中松山城 山城・石垣
1642(寛永19) 水谷勝俊
山城:サン・レオ コスタンツァ砦
15C Francesco g.Martini
山城:近江八幡城 豊臣秀吉、豊臣秀次1585
平山城:ソアヴェ スカリジェロ砦
1369 スカラ家  
平山城:彦根城
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
平城:イモラ スフォルツェスコ砦
1259-1500 ダヴィンチ他  
平城:大阪城
1583(天正11) 豊臣秀吉
海城:シルミオーネ 平城(湖城)     海城:高松城 平城
1634(寛永11) 松平頼重、頼常

2.壁 と Mura

壁:ハドリアヌス長城とアントニウスの長城とリーメス1C
壁:大宰府、大野城、水城(みずき) 古代664 天智天皇
 日本では城を「き」と読んで壁を表します。大宰府の「みずき」が有名ですが、日本書紀には「稲城」というのが載っています。稲束を積んで壁を作ったのでしょうか。残っていないのが残念です。「城柵(きかき)」というのは土塁の上に柵を組んだ壁で戦国時代まで最も一般的な防御施設でした。また、動詞的に「きづく」と読まれます。両側を板で押さえて中に土を入れて押し固める「版築」や「石垣」、「土塁」を作る時にもこの言葉が使われます。土が成るという字自体の意味から言えば本来の使い方かもしれません。沖縄では「ぐすく」と読まれます。
 イタリアで壁を表す言葉は『Mura』です。イギリスの『ハドリアヌスの長城』もドイツの『リーメス』から、街の城壁、家の壁までこの言葉が使われます。ある時案内をしていて「城の壁をシミーズと言うのはなぜですか?」という質問をされて、一瞬どぎまぎしてしまいました。落ちそうで落ちない難攻不落の美女を連想したのでしょうか。それとも「あんなスケスケのシミーズみたいな壁、一気に破ってしまえ。」と激を飛ばしたのでしょうか。皆さんはどちらをとられますか?調べてみると、胴壁や幕壁を表すイタリア語『Cortine』が先にあり、後からカーテン、シミーズが作られると、まとわりつくイメージが一致するのでこの言葉を使っただけのことで、翻訳者が辞書を見て戯れにシミーズという言葉を選んだようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Mura
 
  壁・城壁・市壁
  ハドリアヌスの長城、リーメス
  城
 (き)
  壁、水城、稲城、城柵(きかき)、
  環壕、版築
     城
 (きづく)
  石垣(野積、打込みはぎ、切込みはぎ)
 Cortine
 
  幕壁、カーテン、シュミーズ、
  2重肌着、狭間胸壁
  城
 (ぐすく)
  沖縄の土塁、石塁
   突出狭間、廊堡、矢狭間、鉄砲狭間、
  石落、砲台
  城塀
 
  石垣、築地塀、忍び返し
  石落し、矢狭間、鉄砲狭間、砲眼

壁:ローマ セルヴィウス(内)アウレリアヌス(外)の城壁壁:多賀城 政庁版築、東南部土手(修復)  
高松城 壕と石垣・野積(石垣)1634(寛永11) 松平頼重、頼常  ぐすく:沖縄・中城(なかぐすく)            
石垣:江戸城 石垣・切込はぎ  1636(寛永13) 徳川家光二条城 隅櫓・打込はぎ(石垣)
1601(慶長6) 徳川家康  

3.その他の城に関する用語

土手、城壁、出入口、跳ね橋
 お城にとって最も大切な所はヨーロッパでも日本でも門の部分のようで、防御ラインがそこで切れる為、いろんな工夫がされています。枡形、馬出、虎口といった平面的な防御ラインだけでなく櫓門、廊下門など立体的な構造もとられ二重、三重の備えをしています。ヨーロッパでは城門(キープ)が発達し、落し格子戸、石落し、砲門などの工夫が施され、特に跳ね橋は大掛かりで梃子の原理を応用し様々なものがあります。
 また、籠城のための井戸のシステムは雨の少ないイタリアの城にとって必要欠くべからずのもので、雨水を集めて地下に貯めておくなどいろんな工夫がなされています。川や地下水の多い日本では考えられない大掛かりな装置がローマの時代から培われてきました。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Torre  塔、キープ、ドンジョン、隅櫓  櫓  天守、二の丸、隅櫓、多聞櫓
 Porta  城門、楼門、落し格子戸、石落し、砲門  城門  枡形、馬出、虎口、櫓門、廊下門
 Corte  中庭、コート、練兵場  曲輪  庭園、白洲、馬出
 Ponte  跳ね橋、堀  橋、掘  天秤橋
 Cisterna  井戸  井戸  
 Fontana  泉、噴水、ガーゴイル  池、水落し  

Torre:ミラノ・スフォルツァ城
1450-66フィラレーテ設計
天守:姫路城 築地塀と鉄砲狭間
1609(慶長14) 池田輝政
Porta:フェッラーラ・エステンセ城 城門と堀
 1385 ニコロV世  
門:高知城 廊下門  
1610(慶長16) 山内一豊
ponte:フェッラーラ・エステンセ城
 吊り橋  1385 ニコロV世  
門:彦根城 天秤櫓と橋  
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
Cortine:イモラ スフォルツェスコ砦
 1259-1500 ダヴィンチ他  
多門櫓:彦根城 隅櫓と多門櫓  
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
石落し:イモラ
張出狭間と石落  1259-1500  
石落し:高知城 石落しと忍返し  
1610(慶長16) 山内一豊
ガーゴイル:ヴュー城 Vieux城
 15C ロワールの城  
水落し:高知城 水落し  
1610(慶長16) 山内一豊
V.城と都市

ポンペイ遺跡 1C ローマ と  清洲城下町総構 織田氏
 惣構(そうがまえ)の城や城壁都市は都市施設の整備を伴いました。限られた範囲の中で共住して生活するためには防御施設や住居だけでなく、道路、上下水道、街路、広場や公園、集会場といった共同の施設が必要です。それ以上に必要だったのが共住意識とそれに基づく都市計画が不可欠です。日本の惣構えの縄張りは支配者層の戦略的な都市計画であって、街路は曲がりくねって行き止まり、橋は最小限に限られ、集会施設である寺社が防御施設として周辺部に追いやられ、広場や公園は敵の大軍の利用を恐れて作られず、住民から言えば住みにくい計画だったようです。現代の日本の都市計画を見てもだいたいが経済効率第一のお上主導で、庭付き1戸住宅が郊外に限りなくスプロールして、都市施設が追いつかなく、共住意識が育たない東京などはメガロポリスというより巨大な農村といえるかもしれませんね。
 そういえば、かつて北京から日本に都市計画を学びに来ていた友人がいますが、彼の所属するセクションは城市計画局といいます。この言葉からも分かるように、お城と街は切っても切れない関係にあります。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Citta Murale  城壁都市  城下町  城市、惣構             
 Palazzo  宮殿、庁舎  城館、館  城閣、御殿
 Villa  別荘、離宮  別邸、寮  下屋敷
 Chiesa,Duomo  教会(司教座、教区、司祭、修道院、礼拝堂)  社寺仏閣  
 Piazza,Giardino  広場、公園、庭園    境内、庭園
 Loggia,Portico  柱楼 柱廊    辻
 Mercato  市場    縁日、朝市
 Fontana  泉    水は敷地内
 Aquadotti  水道、コンドッティ  上水  玉川上水

Palazzo:フィレンツェ ヴェッキオ宮殿1299-1500代 Cambio他    御殿:二条城 二の丸御殿(御殿造り)  1601(慶長6) 徳川家康
Villa:ロトンダ Villa Almerico  1566 Palladio  別荘:姫路城 好古園  1609(慶長14) 池田輝政
Chiesa:アッシジ・サンフランチェスコ寺院 13C  社寺仏閣:鎌倉鶴岡八幡宮 13C 源氏
Mercato:ヴェロナ・エルベ広場 1531 Sammicheli  楽座楽市:安土城下町 惣構えCGI   織田氏
Piazza:ポンペイ遺跡 Il Foro  -200ac-0079 ローマ時代  惣構え:小田原城   北条氏
Fontana:シエナ・カンポの広場 ガイア(歓喜)の泉1297-1342福知山城井戸(豊磐井)
Piazza:シエナ・カンポの広場  1297-1342 庭園:西芳寺(苔寺)
Aquadooti:ルッカ 水道橋 庭園:龍安寺(石庭)
W.城郭都市、城下町

日本各地の城
 最初の相違点の章でお話しましたが、近世になるまで日本では城によって住民全員を守るという発想がありませんでした。その為、城といえば戦略上の砦とか館(やかた)と呼ばれる堀で囲まれた武士の住居が点在していました。戦国時代には戦略上作られた山城の麓に武士を相手に商売をする町人集落ができ、城下町が自然発生しました。戦国末期になって、信長が岐阜や安土に新しい城を作る時、楽市楽座の町人街を含む縄張り(都市計画)で城下町を作ります(惣構え)が、城郭都市と呼べるものでわありませんでした。その後、小田原の北条氏は秀吉の関東攻めに対抗するために城下町を含めて総延長9kmに及ぶ堀(空堀)で取り囲んだ城郭都市を作りました。

惣構え:金沢、高知
 その後、貨幣経済の定着とともに都市住民が急激に増えて、前田氏の金沢や山内氏の高知など全国各地で惣構えの縄張りによる城下町が作られました。その中心部には権威の象徴としての天守をいだき、政務を行う御殿や支配者一族の住居もとりこんだ城郭があり、それを囲むように職業によって区割りされた町人町が広がっている今日城下町といわれる町が形成されました。
 しかし、徳川幕府によって1615年「一国一城令」が発布され築城の歴史に終止符が打たれ、250年の間新しい城はつくられませんでしたが、幕末になって海防強化のために西洋の築城様式である稜堡形式の五稜郭が作られました。

 ヨーロッパでは最初から住民全体の保護を目的としているため、防御の範囲をできるだけ小さくして城壁で囲む方法で街が作られました。その内側で協力して生活する必要があり、住居はアパートメント(多層共住)で、広場や公園を作り、上下水道や水呑場を完備させ、教会や柱楼といった集会施設を作り、いわゆる都市施設の整備が行われました。

フェッラーラの街と城壁
 特にイタリアでは19世紀末まで中央集権国家が成立せずに、それぞれの都市が市民共同体(コムーネ)や僭主(シニョーレ)を戴いて都市国家を作り、お互い争いあっていたので城壁都市が沢山発達しました。エトルスクの集落から発展した都市(ヴォルテッラ、ペルージア、アレッツォ等)ローマ時代に軍の駐屯した場所から発展した都市(フィレンツェ、サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノ、イモラ、ヴェローナ等)交通の要所や市場から発展した都市(サンジミニアーノ、シエナ、ミラノ、トリノ等)、地中海の海上貿易の拠点として発展した都市(ヴェネチア、ピサ、ジェノヴァ等)、司教座教会や聖地寺院の門前町として発展した都市(アッシジ、ボローニャ等)、戦略的な砦のもとに発展した町(ソアベ、モンテリッジオーニ等)、農産物の集散地としての町(ルチニャーノ等)、

パルマノーヴァ・理想の都市(スカモッツィ)
そして近世になって封建領主が整備した城下町(フェッラーラ、マントヴァ、ヴェローナ等)など、多くの特色ある城郭都市があります。
 その後、16世紀になって大砲の出現により、城壁の形が大きく変化します。中世は弓や鉄砲で応戦するための塔と胴壁の矢狭間で作られた城壁で町を囲っていましたが、大砲の破壊力に対抗するために厚い土手と堀で街を囲み、星型の砲台(稜堡)が作られるようになりました。最初に作ったのは大砲の製造で富を得たフェッラーラの町で、その後ヨーロッパ各地の都市(ルッカ、トリノ、ウィーン、アムステルダム等)に伝播していきました。またルネサンス期末にはスカモッティによる正九画形の美しい城郭都市が北イタリアのパルマーノーヴァに作られました。
V.天守、宮殿
残存12天守 震災や空襲で明治以前の天守は以下の12城しか残っていません。

左から 弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城

左から 松江城、備中松山城、丸亀城、宇和島城、松山城、高知城

京都・二条城

二条城の庭園
 日本では建物構造の関係から宮殿と呼ばれるお城が生まれませんでした。しいてそれに類するものといえば二条城の御殿建築かもしれません。また、近世以降の天守もそれに準ずるものかもしれませんね。
ヨーロッパの宮殿と庭園
 イタリアでは中世以降、都市生活者が増大して、その中で対立が生まれ派閥(有名な皇帝党と教皇党)ができ、抗争しあうようになります。街の中の有力者や貴族階級は私邸や政庁舎の外壁を堅固にし、外部の窓を小さくし、1階は倉庫や作業場にして、生活空間を2階以上にもってきて(ピアノ・ノービレ)、物見と防御のために塔を作り要塞化します。また、中庭を作り採光や通風を確保した大きな邸宅が作られるようになります。堀や、城壁がなくても立派なお城で、宮殿(plazzo)と呼ばれています。フィレンツェのヴェッキオ宮殿やシエナのプブリコ宮殿、ヴェネチアのヅカーレ宮殿はその代表例です。

パリ ベルサイユ宮殿(Paris/FRA)
 その後、近世になって世の中が安定してくると、宮殿は権威の象徴や外交の舞台として使われるようになり、美しい形や、内装が求められ、お城としての機能は失われてしまいました。またヴィッラと呼ばれる別荘が郊外や領地に作られ、都市生活に倦んだ貴族や王族の静養先となりました。ヴェルサイユ宮殿(パリ)、シェーンブルグ宮殿(ウィーン)、レアール宮殿(ナポリ)などはその中でも特に大掛かりなもので、庭園式宮殿と呼ばれ王の離宮でした。パックの観光旅行で案内してもらえる場所はそのほんの一部分です。


<事例>
フィレンツェの都市施設
 フィレンツェの中で建築史上から見て重要な都市施設を画像付で載せてあります。多分、この部分はお話して、スライドをお見せする時間がとれないと思います。御旅行に行かれる場合、美術館巡りを加えると、最低でも1週間滞在しないとここに記載された施設を見ることができないと思いますが、参考にして下さい。
マウスを置くと画像が出ます。
B.C.59@カストウルム(Castra) ローマの駐屯地(約500mx400m四方)として。カッシア街道のアルノ川の渡し場の守り。現在の共和国広場周辺。
10CAカロリング時代の市域 アルノ側に少し拡張。人口約5000。
11CB洗礼堂(S.Giovanni)、Cサン・レパラータ教会(S.Reparata大聖堂地下) 東北の隅に。
12CDサンミニアート・アル・モンテ教会(S.Miniato al Monte)、アルノ河畔にE聖アポストリ教会(SS.Apostoli 最も古い教会)Fヴェッキオ橋(Ponte Vecchio 1178) 人口約20000
13C
ゴシック
Gミケランジェロの丘からの眺望 3つの橋、第二の城壁、Hカッラーイア橋(1218)I聖トリニタ橋(1252Jグラツィエ橋(1237))。人口100000。
Kアルノ(Arno)川、Lサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(S.Maria Novella 1221) 1456-71アルベルティ正面改修
Mカピターノ・デル・ポポロ Bargello(Capitano del Popolo))宮殿(1255)、塔 171塔(比較:サンジミニアーノ72塔>現存15塔)
13C末Nサンタ・クローチェ教会(S.Croce 1226)Oアヌンツィアータ教会(SS.Annunziata 1248)Pサン・スピリト教会(S.Spirito 1250)Qカルミネ教会(S.M.Carmineルネサンス絵画発祥の教会 1771) アルノルフォ・ディ・カンビオ(建築家)
R大聖堂(Duomo 1296)、Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio1299-1500代) カンビオ関与(大聖堂広場、シニョーリア広場、聖トリニタ教会、ビガッロ柱楼等)
14C21シニョーリア(Signoria)広場、22トリニタ(S.Trinita)教会、23ビガッロ(Bigallo)柱廊、街区の構成、24ダヴァンザーティ(Davanzati)宮殿 cf. 京都の町屋構成
25バディア教会再建(Badia 1285) 26オルサンミケーレ教会(Orsan Michele1290) 27サンタクローチェ(S.Croce 1294) ペストの流行、皇帝党と教皇党の争い。発展がにぶる。
15C
ルネサンス 
R大聖堂のクーポラ(1426) 27サンタマリア・デリ・アンジェリ(S.Maria degli Angeli集中形式の教会1433) ブルネレスキ(建築家)
28インノチェンチ救護院(Spedale Innocenti 1426) ブルネレスキ
29聖ロレンツォ教会(S.Lorenzo 1442-1524) ブルネレスキ
P聖スピリト教会(S.Spirito 1444-87) ブルネレスキ
30パッツィ礼拝堂(Capella Patti 1443-46) ブルネレスキ
31サン・マルコ修道院(S.Marco 1444-16C) 図書館・ミケロッツォ
32メディチ宮殿(Medici Riccardi 1444-64) ミケロッツォ
33ルッチェライ宮殿(Ruccellai 1446-51)、34ストロッツィ宮殿(Storozzi 1466-1504) 外観・美しいオーダー。アルベルティ、ダミアーノ
35メディチ家礼拝堂(Capella Medicei 1521-24)、ラウレンツィアーナ図書館(Laurenziana 1524) ミケランジェロ
16C
バロック
36新市場柱楼(Mercato Nuovo 1551) 37ベルベデーレ要塞(BelVedere 1590) 38フィレンツェ城壁都市1871,現代1975 タッソ,ブォンタレンティ
Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio -1500代) ヴァザーリ他。大公国の政庁舎
39ウフィッツィ宮殿(Uffizi 1560-80) ヴァザーリi他。大公国の事務棟
40ピッチ宮殿(Pitti 1458-1549) ヴァザーリi他。メディチ家の宮殿
41ローマ門(Porta Romana) 42城壁(Murra) 43塔(Torre) 大公国の城壁

<参考>城に関係する歴史
 年代順にお城に関する事項をまとめてみましたので参考にしてください。 この色をクリックするとヨーロッパ100名城選定に使用した画像(約1200枚)がご覧になれます。また国別城郭画像もご覧になれます。

ヨーロッパの城

日本の城

オリエント(BC1728ハムラビ王BC1358ツタンカーメンBC1004ダヴィデ)
BC25C-メソポタミア(ウル、ニネヴェ、バビロニア)
エジプト(テーベ、カルナクの神殿)
ギリシア(BC1200トロイ戦争BC800ホロメスBC500ペルシア戦争
BC431ペロポネソス戦争BC336アレクサンドル大王)
BC17C-12Cエーゲ(トロイ、クレタ、ミケーネ)
ミュケーナイ、チンリス遺跡
BC8C-4Cアテネ、アクロポリス、アゴラ、ピレウス
ポリス(デルフィ、ミレトス、リンドス、オリンピア)
植民地(パエスツム・アグリジェrント)
ローマ前期(BC753ローマ建国BC578セルヴィウスBC509共和制縄文期
BC8C-4CBC272イタリア統一BC218ハンニバルBC60シーザー)ーBC4C戦争はない
イタリア・エトルスクの山上都市弥生時代(239卑弥呼)
ヴォルテッラ、ペルージアBC3C-AC3C倭国大乱(魏志倭人伝)
BC4Cローマ・セルヴィウス(6代王)の城壁(土塁・柵)環堀集落
アルク(城塞)・ガリア人の侵入後石塁(BC378)那珂遺跡(福岡)
BC4Cヒル・フォート(丘の砦)土塁・避難大塚遺跡(横浜市)
MaidenCastel(英・ケルト人)板付遺跡(福岡)
ローマ後期(BC27オクダヴィアヌス117ハドリアヌス293ディオクレティアヌス
306コンスタンティヌス395ホノリウス476オドアケル)
BC1C-2Cローマのカストウルム(Castra/要塞・駐屯地)
ハドリアヌスの長城(英)
リーメス・ゲルマニクス(ザール・ブルグ・独)
サクソン人のブルグ(城市)・街の防衛古墳時代(413仁徳)
ポンペイ遺跡3C-7C豪族居館
3Cディオクレチアヌスの宮殿(スプリト/クロアチア)三ツ寺遺跡(群馬)
271ローマ・アウレリアヌス城壁(d4mh10m)原之城遺跡(群馬)
381の塔(30m毎)・城門吉野ヶ里遺跡(佐賀)
サンタンジェロ城(ハドリアヌス廟)
402ホノリウス改修(h15m)
サンセバスティアーノ門・サンパオロ門日本・古代
408西ゴート(アラリック)・455ヴァンダル(ガイセリック)古代(593聖徳太子630遣唐使661天智663白好江の戦
(481フランク王国493東ゴート王国527ユスティニアヌス7C-10C649藤原京710平城京743墾田私有794平安京)
568ランゴバルド800カール829イングランド962オットー)防衛ライン
山城(神籠石列石)
永納山山城(東予市)
前キリスト期東ローマ・ベルサリウス朝鮮式山城
6Cチュニジアのアイン・トンガ(石塁と隅塔)大野城跡(大宰府)水城
サラセンの街(グラナダ、トレド)城柵(きかき)
864シャルル2世(禿頭王)・ピートルの告示(築城権)多賀城柵(宮城県)
対ノルマン、マジャール政策。教会領(異民族説得)都城(山河池で防衛ライン+居館+寺)
モット(土塁)・アンド・ベイリー(木囲い地)
平安・鎌倉近江京、平城京、平安京
ロマネスク(1077カノッサの屈辱1122ウォルムス協約1130シチリア王国)(1017藤原道長1083源義家1167平清盛
1066ノルマン・コンクエスト>ロンドン塔>ホワイト・タワー(石)11C-15C1192鎌倉幕府1274,81元寇1338室町幕府)
領地を分け与え城を作らした。荘園の発生、防御施設9C班田制の崩壊、荘園制と武士
知行制(給与から土地)と家士制。武士の館と城
チェプストー城(ウェールズ)(石の矩形のキープ)安堵(所領)と奉公(従軍)・守護地頭
ウィンザー城>1170ラウンド・タワー(ヘンリー2世)堀の内、土居(土塁と堀)、侍廊
12C十字軍(1096-)による石造技術の取り入れ・巨大化田畠、牧場、矢場、氏神、氏寺
シェル・キ-プ(貝殻囲壁・城壁)武士の館(国立歴史民族博物館)
キープやドンジョン(天守・塔・砦)根城(青森県)
地下道と死角の欠点を補正
(1215マグナカルタ1223フランチェスコ教団1241ハンザ同盟
1271マルコポーロ1309アヴィニオン幽囚1350ペスト流行)
築城家ジェームズ・オブ・セント・ジョ-ジ
縄張り、塔と城壁。主塔は不要。中庭、居住区
キャフェリー城(ウェールズ・ド・クレア家)
コンセントリック(同心円)
キープ・ゲイトハウス(城門)
城砦
ガイヤール城・シノン城・プロヴァン(仏)
アンジュー城・ブロア城(仏)
エグモール・フーゼール(仏)
カステル・デル・モンテ、ナポリ新城
ラインの関税徴収城(64)・ねずみの塔(独)
エーレンフェルス、ラインシュタイン(独)
ライヒェンシュタイン、ゾーネック、ザイン(独)
ゴシック城壁都市
13C交通の要地・渡渉点・市場>都市
ローテンブルグ(独)
旅商人・巡礼者の宿泊地(ウィク)
ヴェネツィア
城塞教会・修道院
アヴィニヨン(仏)
モンサンミッシェル(仏)
アッシジ
モンテカッシーノ
クリュニー
領主都市(城下町)
カルカッソンヌ(仏)
中世・イタリアヴェロナ、ソアベ、フェッラーラ、マントヴァ
ウルビーノ、サンレオ(伊)
司教座都市
ローマ時代からの諸都市
サンマリノ(世界最古の共和国)
ローマ(中世)
トスカーナの城壁都市
フィレンツェ(カストルム・渡渉点・金融業)
シエナ(カストルム・市場・金融業)
モテリッジオーニ(戦略砦)
サンジミニアーノ(塔の街)
ヴォルテッラ(エトルスクの街)
ルチニャーノ(農村の中心)
ルネサンス(1304ダンテ1431ジャンヌダルク1434コジモ1446ブルネレスキ戦国時代(1467-77応仁、文明の乱1543鉄砲伝来
15C-16C1453百年戦争終結、東ローマ帝国滅亡1478ロレンツォ148115C-16C1547信玄の民政55ヶ条1573室町亡)
イル・モーロ1479スペイン王国1492コロンブス1519ダヴィンチ戦国大名と城郭、縄張り
1517ルター1527ローマ簒奪1541カルヴィン1547フランソワ1世曲輪(郭)、掘切、切岸、竪堀、土塁
1564ミケランジェロ)鉄砲・大砲の時代古宮城(愛知県)、杉山城(埼玉県)
バロック領主館グスク(沖縄県)
中庭・要塞・鉄砲狭間・ピアノノービレ(積層)
ミラノ・スフォルツェスコ城、イモラ砦
近世城砦砲台・保塁近世(1582本能寺1592朝鮮出兵1603江戸幕府
フェッラーラ16C後期-1637島原の乱39鎖国1854安政和親条約)
パルマノーヴァ織豊系城郭
ルッカ天守、館、城門、石垣、堀
サンタンジェロ城の基壇瓦、鉄砲狭間(漆喰壁)、枡形、馬出
トリノ、ウィーン、アムステルダム城下町(楽市・楽座)
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要債17C-安土城(滋賀県)伏見城(京都府)
(1569トスカナ大公国1603エリザベス1世1610アンリ4世幕藩城郭……権威の象徴、大名の住居
42清教徒革命49クロムウェル43-15ルイ14世1701プロシア)
近世城館居住重視、ヴィッラ江戸時代の天守(残存12城)
17C-18Cピッチ宮殿、ヴィッラ・ジュリア弘前城、松本城、丸岡城
ロトンダ、ヴィッラ・バルバロ、ヴィッラ・ランテ犬山城、彦根城、姫路城
ファルネーゼ、テ宮殿松江城、備中松山城、松山城
庭園付城館高知城、丸亀城、宇和島城
ヴィッラ・ピサーニ(ヴェネト)その他の天守(再築)
パラッツォ・レアーレ(ナポリ)江戸城、大阪城、名古屋城
ヴェルサイユ・パリ郊外二条城、会津若松城、小田原城
ロワール河・シュノンソー、シャンボール(仏)岡崎城、福山城、高松城
ホエーンツオレルン(独)中津城、熊本城、宇土城
平和な時代
近代(1776独立宣言1789フランス革命1804ナポレオン帝政近代(1869明治維新)
19C1848二月革命1870普仏戦争)19C砲台
ノイシュヴァンシュタイン城(独)懐古趣味五稜郭(函館)


<謝辞、出典>
 このホームページは公益財団法人・日本城郭協会主催の公開講座や市民講座の講演(淑徳大学、武蔵野大学、目黒区、府中市等)に集めた資料を基に作成したもので、以下の皆様のご協力いただいています。また、出典の分からない画像も使用させて頂きましたが、削除のお申し出がありましたら即座に消去致します。
 最後になりましたが改めて皆様に感謝致します。(平成31年2月)

1.画像提供 公益財団法人・日本城郭協会(井上宗和、中城正堯、東伸宏、山中和正、西内一)
2.引用、参考文献 Touring Club Italiano編『Nuova Guida Rapida ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Castelli e Fortificazioni d'ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Guida EUROPA FRANCIA,GERMANIA,GRECIA』
 E.Detti著『Citta Murale e Sviluppo Contemporaneo』Edizioni C.I.S.C.U
 L.Benevolo著『Corso di Disegno』EDITORI LATERZA
 P.Pierotti著『Urbanistica:Storia e Prassi』MARCHI & BERTOLLI EDITORI
 井上宗和『ヨーロッパ古城ガイド』グラフィック社
 紅山雪夫著『ヨーロッパの旅・城と城壁都市』創元社
 太田静六著『ヨーロッパの古城・城郭の発達とフランスの城』吉川弘文館
 野崎直治著『ヨーロッパ中世の城』中公新書
 ジョセフ・ギース、フランシス・ギース『中世ヨーロッパの城の生活』講談社学術文庫
 ハインリヒ・ブレティヒャ著『中世への旅・騎士と城』白水社
 同明社発行『ビジュアル博物館・城』
 日本城郭協会監修『日本百名城公式ガイドブック』研究社
 朝日新聞社編『城の語る日本史』
 千田嘉博著『戦国の城を歩く』筑摩書房
 石松好雄・桑原滋郎著『大宰府と多賀城』岩波書店


 お城に興味のある皆様、イタリアに行かれることがあれば、お城だけではなく街のバールに飛び込んで是非、市民意識を味わってきてください。
ページTOPに戻る

<版画万華鏡・4>
和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子ども

中城 正堯(30回) 2019.02.17
将軍吉宗が復活させた騎馬打毬
 東京の古書店で、馬に乗った二人の少年が網竿を手に紅白の球をすくい合う場面を目にして驚いたのは、平成3年(1991年)の春であった。子どもを描いた浮世絵の収集を始めて5年ほどたっていたが、これまで目にした作品には町人の子どもしか見当たらなかった。この絵の子どもは腰に刀を差し、立派な鞍を付けた馬にまたがっており、どう見ても武家の少年である。(図1
 この珍品を会社へ持ち帰って調べると、絵師は歌川貞房で天保(1830〜44年)頃の作品、遊びの名称は“打毬”(だきゅう)と判明した。打毬とはどんな遊びか、『広辞苑』には、「二組の騎馬の一定人数が庭上にある紅白の毬(まり)を毬杖(ぎっちょう)ですくい取り、自分の組の毬門(きゅうもん)に早く投げ入れた方を勝ちとする競技。ポロの一種」とあり、平安時代には宮廷行事になっていたが衰え、江戸時代に復活とある。中国から伝わり、古くは『万葉集』巻六に727年正月に王子たちが楽しんだ記録があることや、八代将軍徳川吉宗(在位1716〜45)が武芸奨励の一環として復活させたことが分かった。吉宗は流鏑馬(やぶさめ)などの騎馬弓術とともに、打毬も武術として武士に取り組ませたのだ。もともと騎馬武士の活躍は、源平合戦での源義経による一の谷鵯越(ひよどりごえ)の奇襲や、宇治川の先陣争いが江戸時代にも広く知られ、騎馬武士や名馬は江戸の子どもたちのあこがれの的であり、浮世絵にも多い。武士の子どもの乗馬訓練も広重の戯画にあるが、打毬遊びは例がなく「子供あそび〈打毬〉」と名付けた。

(図1)「子供あそび〈打毬〉」歌川貞房
天保頃(公文教育研究会蔵)

(図2)「風流見立狂言 しどう方角」勝川春朗
(葛飾北斎)寛政頃(公文教育研究会蔵)
 馬と子どもの浮世絵では、もう一つの珍品を翌年に入手した。それは、勝川春烽フ「風流見立狂言 しどう方角」(図2)である。この狂言は、主人にしかられた太郎冠者が、咳をすると暴れ、「止動方角」ととなえると止まる馬に主人を乗せ、落馬させる話である。子どもたちが、その見立(まね)遊びをしている場面で、馬には棒の先に馬頭をつけた遊具・春駒(はるごま)を使っている。
 これが珍品であるのは、まず作者・春烽ェ若き日の葛飾北斎であることだ。彼は北斎以前に春烽竢@理などと名乗った時代があり、その頃は子ども絵も手がけている。しかし北斎になってからはほとんどなく、『北斎漫画』にも、子どもの姿はわずかしか描いてない。

(図3)「新製馬乗づくし」中央に打毬
歌川重宣 安政元年(公文教育研究会蔵)
この作品を見た北斎研究の第一人者・永田生慈は、「これは貴重だ。この見立狂言シリーズは数点見つかっているが“しどう方角”は新発見で、おそらく世界でこの一枚だけだろう」と述べていた。残念ながら、平成30年2月に永田は亡くなったが、その生涯をかけて収集した北斎作品による「新・北斎展」が本年新春から東京六本木の森アーツセンターで開催中であり、ご冥福を祈りつつ見学してきた。
 春駒を使った子どもの馬遊びの浮世絵には、春烽フ少し前に北尾重政の「やつし八景 勢田夕照」もあり、春駒にまたがった子どもが大名気分で近江・瀬田の大橋を渡っている。江戸後期の嘉永・安政になると、子どもが遊びに使った“おもちゃ絵”に馬が多くなる。一つは「源平打毬合戦双六」(歌川国郷)などの双六で、紅白の駒を毬門(ゴール)まで競って進めた。もう一つは、馬の用途・毛色による種類や歴史的名馬を図示した「馬づくし」の豆図館で、「新製馬乗づくし」(図3・歌川重宣)など各種あった。これらの流行は、江戸の子どもにとって歴史的名馬や騎士の姿が、あこがれの的であったことを示している。
インパールで続くポロと消えた土佐の打毬

(図4)インド、マニプルのポロ試合ポスター(筆者撮影)
 平成5年末、食生態学者の西丸震哉夫妻とインド・マニプル州インパールを訪ねた。第二次世界大戦末期に日本軍の悲惨な死の行進で知られる土地だが、民族文化の知られざる宝庫であり、特別入国許可をとって入った。ここで、思いがけず打毬の原型ともいうべきポロと出会った。街中でポロのポスター(図4)を見付けたのだ。残念ながら、滞在中に試合はなかったが、競技場を訪問し、球を打つマレット(木槌)など遊具を見せてもらった。
 江戸の打毬は狭い馬場で、網の付いた毬杖で毬をすくって毬門に投げ込むが、ここは広いグランドでの競技であり、硬い木の球をマレットで相手のゴールに打ち込んで勝敗を競う。ゴールはグランドの両端に設けてあり、馬場の片側にゴール(毬門)を設ける打毬とは異なる。馬は小型馬ポロポニーだが、江戸時代の日本馬よりはだいぶ大きいようだ。
 帰国して調べると、ポロは古代ペルシャの遊牧民世界で始まり、やがてチベット経由で中国へも伝わって唐の王朝で盛んになり、この中国式打毬が奈良王朝にもたらされる。いっぽう、ペルシャからインドへも伝わり、マニプルでは藩王たちに楽しまれてきた。1850年代にイギリスで紅茶ブームが起こり、アッサム紅茶を求めてこの地にイギリス人が押し寄せ、英国軍も駐屯した。やがて騎馬隊をはじめ軍人たちがポロに夢中になり、本国にも持ち帰って競技を楽しみ、ヨーロッパに広がる。さらにイギリスの世界進出にともなって、米国・濠州・南米へと広がったのである。こうして、ペルシャで生まれたこの競技は、中国・日本型の打毬と、インド・イギリス型のポロに分かれていった。

(図5)「千代田之御表 打毬上覧」楊洲周延
明治28年頃(筆者蔵)
 将軍吉宗は、動物好きでペルシャ馬や唐馬を輸入、オランダ人馬術師ケイゼルを招いて洋式馬術の導入も企てている。しかし、この時代にはまだヨーロッパにポロ競技は伝わっておらず、吉宗は平安王朝の打毬遊びを武芸としての馬術に改良、広めたのだった。明治になって江戸城の暮らしを回顧した浮世絵「千代田之御表」シリーズに“打毬上覧”(図5)があり、将軍臨席での打毬合戦が描かれている。中央の奥に、丸い毬門(ゴール)が見える。各藩でも次々と打毬を導入しており、山内一豊の妻による名馬購入で知られる土佐藩でも、江戸中期から柳原の南馬場で毎年春に挙行していた。明治維新後も昭和十年頃までは名物行事として続き、当時の絵はがき「土佐独特の打毬」(図6)が残っている。

(図6)「土佐独特の打毬」絵はがき
昭和初期(『絵葉書 明治・大正・昭和』より)
 インドから帰った一年半後に、公文コレクションによる「浮世絵の子どもたち」展が東京東武美術館で始まった。江戸文化に精通する作家・中村真一郎は、雑誌でこの展示を取り上げ、こう述べてくれた。「まことに得がたい幸福な時間だった。これら版画のなかの母親も、子供たちも、何と人生を信頼し、親子の断絶だの、登校拒否だの・・・知らずに、愉しく寄りそって生きている・・・。彼らは自分の身のまわりの物から遊び道具を工夫して、次つぎと珍しい遊戯を発明し、お互いの心の交流を習得していっている」。さらに、印象深い一枚として「子供あそび〈打毬〉」をあげ、「軍事訓練と公卿風の優雅さを組み合わせたと思われる、独自の打毬という遊戯は、江戸文明の思いがけない深い重層性をうかがわせるものである」と記している。(後に『眼の快楽』NTT出版に収録)

(図7)「金太良三人兄弟」鴨をさばく次男
喜多川歌麿 寛政末(公文教育研究会蔵)
 この展覧会は好評で、平成6年から6年間にわたって国内10、ヨーロッパ4、計14の美術館で展示された。ヨーロッパ展では、江戸の親密な母子関係や豊かな子ども文化への称賛とともに「江戸の人も鴨料理やポロが好きだったのか」との感想が聞かれた。鴨料理は、歌麿が描いた金太郎母子が鴨をさばく絵(図7)を指し、ポロは「子供あそび〈打毬〉」である。だが、欧米のポロよりも日本の打毬の歴史がずっと古いことまでは知らなかった。
八戸に生きていた江戸の騎馬打毬
 平成7年9月「愛馬の日」に、東京世田谷の馬事公苑で記念事業として、宮内庁主馬班による打毬試合(図8)があると聞き、生きた打毬を初観戦した。

(図8)馬事公苑での打毬試合
平成7年(筆者撮影)
武者姿の10人が紅白に分かれて騎乗し、毬杖で毬をすくっては板壁に開けられた丸い穴のゴールに投げ込み、早く自軍の毬を入れ終えた方が勝ちであった。敵軍への妨害行為もありで、馬を突進、急停止、さらに急旋回させながらの戦いは、たしかに騎馬訓練に最適と思われた。この打毬は、徳川将軍家の流儀を宮内庁が受け継いだもので、浮世絵「千代田之御表 打毬上覧」が甦って動き出した感じであった。

(図9)加賀美流騎馬打毬で毬を奪い合う騎士
平成9年(筆者撮影)
 2年後には、岩手県八戸市新羅神社で8月恒例の三社大祭の行事として開催される加賀美流騎馬打毬の見学に出かけた。八戸藩ではおよそ200年前の八代藩主南部信真の時代から加賀美流馬術の一つとして打毬(図9)が始まり、今も八戸騎馬打毬会によって伝統が受け継がれている。会場は新羅神社境内で、土手にかこまれた長さ100メートルほどの細長い馬場だ。ゴールの毬門は、馬場の端に中門を挟んで紅白左右に分け、柱を立てて作られている。馬場の反対側に紅白各4個の毬が毬童子によって並べられ、毬門横から紅白4騎ずつが入場、鳴り渡る鐘・太鼓とともに試合が始まった。騎士・毬童子・役員、すべて古式に則った礼装を着用しての奉納試合である。
 ここでも、相手の妨害を防ぎつつ毬を毬杖ですくっては毬門に近づき、投げる。左手で手綱を握り、右手で長い毬杖をふるって毬を投げ込む技が見所だ。主審の見定(みさだめ)奉行がゴールの判定をしており、毬門からはずれた毬は投げ返される。

(図10)力一杯毬を投げた騎士、右後方が
上覧席 平成14年(筆者撮影)
自軍に4個の毬を早く入れ終えた方が勝ちで、3回戦ほどおこなって勝負を決める。勝ち軍は凱歌をあげて上覧所に進み、褒美を頂戴する(図10)。上覧所の主は、十四代南部公であった。
 この周辺は、古くから南部駒で知られた馬産地であり、馬を飼育する農家や愛好家が中心になって八戸騎馬打毬会を結成、伝統の馬術を守り続けている。平成14年にも再訪した。騎手の中に中学生がいたのは頼もしい限りだった。現在打毬は、この加賀美流と宮内庁流の二種が受け継がれ、山形市豊烈神社でも宮内庁流の打毬がおこなわれている。  
 海外のポロは英・米そしてアルゼンチンが三大帝国だと『ポロ その歴史と精神』(森美香 朝日新聞社)にあるが、持病で海外渡航ができなくなり、見学はかなわなかった。今はポロに由来するポロシャツを着て、広いグランドを駿馬で激しく駆け回るスポーツとしてのポロを夢想するのみだ。
 打毬では礼節が尊ばれ、かつて初ゴールは上級武将に譲る慣例もあったと聞く。軍人・貴族・富裕層のスポーツとなったポロの試合では、貴族相手でも遠慮なく、激しく馬体をぶつけ合って球を撃ち、怪我も恐れず勝敗を競う。古代ペルシャ以来の壮大な馬術文化の潮流は、東西で違った様相を見せている。
 浮世絵「子供あそび〈打毬〉」の発掘は、江戸文化のなごりを求めて各地をめぐる楽しさを与えてくれ、今に生きる〈打毬〉にも出会えた。同一文化が伝播しても、受容地によって大きく変化する面白さも体験できた。次回は、「浮世絵そっくりさん」を紹介しよう。
ページTOPに戻る

<版画万華鏡・5>
布袋と美女のそっくり版画から“おんぶ文化”再考

中城 正堯(30回) 2019.03.23
ネパールの布袋が背負うは女神か遊女か

図1.ネパール版画
「布袋と美女の川渡り」筆者蔵

図2.ネパール版画
「ヒンドゥー教の女神」部分 筆者蔵

 ネパールで布袋様と出会ったのは、1990年であった。首都カトマンズの古い街並みを散策し、版画店でヒンドゥー教のシヴァ神、カーリー女神、さらには象頭神ガネーシャ、日本で弁才天となったサラスヴァティーなどの楽しい版画を購入した。浮世絵と同じ木版画だが多くは墨摺で、彩り豊かな作品は手彩色を加えたもの、いずれも安価だ。
 そこでなんと「布袋と美女の川渡り」(図1)を見付けたのだ。美女を背に川を渡るのは、髭面で太鼓腹の紛れもない布袋様だ。仏陀(釈迦牟尼)はネパールでもよく見かけるが、布袋とは珍しい。背中の美女が異様で、まげを結い、波千鳥文の着物に大きな帯を結び、一見江戸時代の遊女風だが、上半身裸で乳房を見せており、彫りが深い目鼻立ちはヒンドゥー教の女神(図2)を連想させられる。布袋の川渡り自体は、浮世絵画集で見た記憶があり、何はともあれ購入した。

図3.西村重長
「布袋と美女の川渡り」筆者蔵
 帰国してほどなく、神田の浮世絵店の目録に西村重長「布袋と美女の川渡り」(図3)を見付けた。店に駆けつけて入手する。重長は多色摺の錦絵が誕生する直前、1750年前後に数色のみ使った紅摺絵の代表的絵師であり、ネパール版画の数百倍の値が付いていた。布袋と美女の構図も、布袋の法衣の宝珠模様も、足もとの流水もまったく同じで、前者は明らかに西村作品をそっくり模写している。ただ背中の女性は、ネパール版は赤や黄色の派手な衣装をまとったアーリア系美女だが、重長の浮世絵では細目おちょぼ口の楚々とした江戸娘である。

図4.室町期狩野派
「布袋図」ボストン美術館蔵
 重長は背景に柳を描き、「袋より恋のおも荷ややなぎ哉」の句を添えてある。いつもかついでいる大きな袋より、さらに重い恋情を背負っても“柳に風”の姿であろうか。布袋は、唐末の中国に実在した僧で、肥大した腹を出し、大きな袋を背負って喜捨を求めては袋に投げ入れたので布袋の名がつき、子どもたちに愛された。中国絵画でも、室町時代の狩野派の絵(図4)でも、子どもと戯れる福々しい姿が見られる。浮世絵では、布袋の容貌は狩野派を受け継いでいる。しかし重長だけでなく、初期錦絵の鈴木春信も酔狂な布袋を描いており、うたた寝する女性に床の間の画軸から抜け出た布袋が忍び寄っている。

図5.コッヘム城壁画
「キリストを背負う聖人」筆者撮影
 本来、おんぶとだっこは親密な親子関係の象徴であり、子どもにとっては最も甘美な思い出である。ドイツではモーゼル河岸コッヘム城の塔壁で、幼児を背負って川を渡る男のモザイク画(図5)を見付けた。聞くと、これは聖人クリストフォルスと少年キリストであり、増水した川で少年キリストの背負う全世界の重さを告げられた男が、入信する場面だという。似た神話はインドにもあり、宗教画になっている。それは、クリシュナの誕生譚で、父ヴァースデーヴァはこの子が神の子であることと、命を狙われていることを悟り、頭上にかついでヤムナー川を渡って落ち延びるという場面だ。
印象派の女性画家が歌麿母子絵に感動
 聖人が重荷を背負って川を渡る姿もよいが、おんぶといえばやはり母の背の我が子であろう。その最高傑作とされる絵画が、喜多川歌麿の母子絵である。フランスの作家ゴンクールは『歌麿』(1891年パリ刊、2005年平凡社刊)で、「遊郭の女を描くこの画家の興味深い一面は、母性のテーマ」と述べ、授乳・行水・おしっこなど、幼児を優しく世話する母親の表現を絶賛、こう記している。
「母子群像の内で最も幸福な場面の一つが、子供を背負った母親と母の肩から身を乗り出した子供が、手水鉢に入れた水を二人してのぞき込んでいる図である。溜水は自然の鏡となって、くっつき一体化し、抱き合っているような母子の姿を映し出している」

図6.喜多川歌麿「児戯意之三笑」
大英博物館蔵

図7.喜多川歌麿「当世風俗通 女房風」
公文教育研究会蔵

 歌麿による水鏡をのぞく母子の一つが、「児戯意之三笑(こけいのさんしょう)」(図6)である。この題は、中国の陶淵明たちの故事「虎渓の三笑」のこじつけだが、絵は母子がまさに一体化して、水に映る顔をともに見つめている姿だ。歌麿は遊女の妖艶な美人画で知られるが、画業の初期から晩年まで、庶民の生活に根差した母子絵を終生描き続けており、筆者の調査では全作品の20%前後におよぶ。小野忠重は、出生地も父母も不明とされる歌麿の胸に、幼き日に別離した母への恋慕が刻まれていたからだと『浮世絵』(東海大学出版会)で述べている。歌麿の描く授乳場面「当世風俗通 女房風」(図7)で分かるように、母はまゆを剃り、歯を黒く染め、庶民の母の風俗・表情をリアルに描写してある。当時のヨーロッパ絵画では、授乳場面はほぼ聖母子に限られていた。
 歌麿亡き後も、浮世絵の母子絵は歌川国貞や歌川国芳などによって受け継がれ、子どもの遊び学ぶ日常生活を描いた子ども絵とともに、浮世絵風俗画の重要な分野になる。これは平和な時代になり、家の継続が重視され、子どもを大切にする子宝思想が広がるとともに、人々がこれらの浮世絵を競って購入した結果である。こうした背景を持つ歌麿の母子絵に感動し、追随したのは浮世絵師にとどまらない。

図8.喜多川歌麿「行水」
MOA美術館蔵

図9.M・カサット「湯あみ」
『メアリー・カサット展』横浜美術館より
 ゴンクールの『歌麿』出版の前年1890年に、パリの国立美術学校で大規模な浮世絵展が開かれ、歌麿の作品も86点展示された。これを見た印象派の女性画家メアリー・カサットは、母子の日常生活を描いた歌麿の浮世絵に感動、友人のベルト・モリゾに「絶対に見おとしてはいけません」と、手紙を書いている。カサットたちは銅版画・石版画など版画にも興味を持ち始めた時期で、巧みな線描と繊細な色調の木版浮世絵に魅了されるとともに、母子という題材に女流画家として新しいジャンル開拓の霊感を得たのだ。
 当時の女流画家は、裸体デッサン会には参加を許されず、キャバレーやカフェなどにも出入りできず、題材には大きな制約があった。また、子どもを里子に出す風習や、赤ん坊を布でぐるぐる巻きにするスワッドリングも見直され、家庭での新しい育児への移行期であった。アメリカ人のカサットは帰国後、母子がともに手鏡を見る姿や、歌麿の「行水」(図8)と同じ構図の「湯あみ」(図9)など、母子絵を多数描いて高い評価を得る。
江戸“おんぶ文化”のゆくへ
 ネパールで、なぜ「布袋と美女の川渡り」のそっくりさんが版行されたか。まず、インドに接し、仏陀生誕国でもあり、ヒンドゥー教とともに仏教も信仰されてきた。中国生まれの布袋も、インドの弥勒菩薩の生まれ変わりとされ、違和感がなかったようだ。男女の合体神も、シヴァ・シャクティなど多々祀られていた。さらに、おんぶがネパールのみならず、ヒマラヤ南麓はじめアジア各国で広く見られる子育て風俗であることが大きい。
 筆者が撮影した写真から、4点紹介しよう。ブータンの若い母子、シッキムの籠おんぶ、タイ北部のパラウン族(首長族)の横おんぶ、インドネシア・スマトラ島バタック族の姉弟(図10)である。おんぶ用具も、背負い方もさまざまであるが、家事や家業に従事しながらの育児に、また山道の移動に、おんぶが最適であったと思われる。

図10.アジアのおんぶ文化、筆者撮影。
ブータン 

シッキム

タイ・パラウン族

インドネシア
バタック族
 おんぶはアジアのみならず世界各国、特にアンデス、アルプスなど山岳地帯で見られた。しかし、ヨーロッパでは育児文化としては否定され、心身を整えるためとして赤ん坊は手足を伸したまま、布でぐるぐる巻きにされて育てられた。抱き癖も子どもを甘やかすとされた。

図11.F・クルーエ「浴槽のディアーヌ
・ド・ボワチエ」シャンティ城蔵
16世紀のフランス貴族の育児風景が「浴槽のディアーヌ・ド・ボワチエ」(クルーエ画・図11)で、入浴する母の背後に乳母から授乳されるスワッドリングの赤子がいる。パリ警視庁の1780年の記録に、21.000人の出生児のうち母親・乳母に家で育てられたのは2.000人、あとは里子に出されたとある。離乳期まで、他人にゆだねられたのだ。

図12.歌川国貞「雪のあした」
公文教育研究会蔵
 浮世絵では歌川国貞「雪のあした」(1823年・図12)に、子をおぶって水を汲む母や子守娘、そしてだっこの子がいる。母も子守娘も、綿入りの“ねんねこ半てん”で保温には万全である。育児に人手が足りない家では、子守娘をやとって家で育てた。同じ国貞(豊国三代)の「江戸名所百人美女」(図13)には、裸の子をふところに抱く母と、火鉢のはいった干し籠で子ども着を温める様子が描写され、その背中には背守(せまも)りの“くくり猿”が付けてある。歌麿の図6でも、子の背には“結び文”の背守りがある。当時、子どもは背中の首の付け根から、魂(命)や病魔が出入りするとされ、背守りが用いられた。特におんぶの際には、背後から忍び寄る病魔撃退に背守りが必須であっただろう。

図13.歌川豊国三代(国貞)「江戸名所
百人美女」 公文教育研究会蔵
 1878年(明治11年)に日本に来て『日本奥地紀行』(平凡社)を書いたイギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、「これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり・・・」と、愛情細やかな育児に感心している。しかし、明治時代には西洋式育児がしだいに普及、おんぶは排斥され、昭和期には消えていった。ところが、1998年に「浮世絵の子どもたち展」でイギリスやフランスに行って驚いた。

図14.現代イギリスのおんぶ 
エジンバラで筆者撮影
背負い具で子どもをおんぶして通勤する母(図14)や、美術館に来る母親が結構いるのだ。聞くと、ヨーロッパの新しい育児書には、おんぶでの母子接触や語りかけが、子どもの情緒安定や健全な成長に大切とあるというのだ。育児書には、背負い具も紹介されていた。
 精神分析学の北山修九州大学名誉教授は、『浮世絵のなかの子どもたち』(1993年 くもん出版)で浮世絵の母子絵を見て以来、精力的に日欧の母子絵の画像を収集分析し、学会で発表してきた。そこで強調しているのは、浮世絵には「共に眺める〈共視〉」「みつめ合う〈対面〉」、そして「母子の身体的接触」が、西洋絵画よりはるかに多いことである。共視・対面・身体的接触、そして語り掛けからも、おんぶは乳幼児にとって最良の育児環境であっただろう。夫婦共稼ぎ、託児所保育の時代を迎え、これからの子育てをどう再構築するか、子ども好きだった布袋さんにチエを貸して欲しいものだ。
ページTOPに戻る

<版画万華鏡・5-2>
「布袋と美女、おんぶ文化」について

中城 正堯(30回) 2019.03.31
 見慣れぬ布袋様とおんぶ文化について、冨田さんはじめ何人かの方から、早速感想をいただき、感謝致します。浮世絵がヨーロッパのみならず、アシアでも模倣されたのは、浮世絵美術の素晴らしさとともに、江戸の町人文化の素晴らしさでもあります。
 おんぶ及び子育てについて、図版での補足を少しさせていただきます。まず、ヨーロッパでのおんぶについてです。図1は、19世紀中頃のイギリス版画「山に住む人」(P・ポール画)で、スイス・アルプスの母子です。図2は、1884年頃のドイツ印象派F・ウーデの油彩画「姉妹」です。図3は、歌川広重の「木曽海道(ママ)六十九次之内 宮ノ越」(1837年頃・部分)で、祭りから夜道を帰る親子連れで、おんぶの父・だっこの母に姉が続き、名作とされています。広重は、風景画の中に子ども風俗を巧に織り込んでいます。

図1.スイス・アルプスの母子
P・ポール画

図2.「姉妹」
F・ウーデの油彩画

図3.「木曽海道(ママ)六十九次之内
  宮ノ越」歌川広重

図4.育児書『やしなひ草』
『児童教訓伊呂波歌絵抄』
 最後に図4は版本のさし絵で、2点紹介します。育児書『やしなひ草』(1784年)には夫婦揃っての育児場面に「何がそだてて た(誰)が養ふて いきているぞと もとさがしや」の歌が添えてあります。もう一つは『児童教訓伊呂波歌絵抄』(1775年)で、「月花もめでて 家をもおさめつつ 雪や蛍の学びをもせよ」とあり、花見を楽しむ老婆・母・娘、三代の女性に、家を治めつつも季節毎に風流を楽しみ、蛍雪の学び(読み書き歌の道)も励むように呼びかけています。
 明治維新後は武家風の男尊女卑が強調され、女性は家庭に閉じ込められますが、江戸時代、町人の女性は多忙な家事家業に従事しながら、風流も楽しんだようです。
  ページTOPに戻る
記事募集中
土佐向陽プレスクラブ