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2019.03.31 中城正堯  <版画万華鏡・5-2>「布袋と美女、おんぶ文化」について
2019.03.23 中城正堯  <版画万華鏡・5>布袋と美女のそっくり版画から“おんぶ文化”再考
2019.02.17 中城正堯  <版画万華鏡・4>和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子ども
2019.02.03 藤宗俊一  「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較
2019.01.20 中城正堯  <版画万華鏡・3>美しき養蚕神に秘められた少女たちの哀話
2018.12.23 中城正堯  <版画万華鏡・2>なぞの名所絵版画「播州石宝殿」と巨石文化
2018.11.25 中城正堯  <版画万華鏡・1>土佐中での出会いから生まれた浮世絵コレクション
2017.02.25 公文敏雄  小村彰次期校長訪問記
2017.02.01 公文敏雄  このままでよいのか高知市の桂浜公園整備案
2016.11.25 公文敏雄  続・教育ビジョンとは何か?
2016.08.25 中城正堯  浦戸城趾に"元親やぐら"を
2016.06.07 公文敏雄  教育ビジョンとは何か?
2016.04.08 公文敏雄  ―「保育園落ちた日本死ね」騒動が示すもの―
2015.05.28 中城正堯  龍馬最後の帰郷と種崎潜伏
2015.02.08 公文敏雄  土佐中高理事会は機能しているか?
2014.03.27 公文敏雄  100周年も間近、改めて母校の経営・教育方針を問う
2012.04.15 中城正堯  龍馬「愚童伝説」から 学びの原点をさぐる
2011.04.22 中城正堯  海辺から龍馬の実像を発掘
2010.10.25 細木志雄(2回)  苦言一束
2010.10.25 細木志雄(2回)  續 苦言一束
2010.04.10 中城正堯  なんで今ごろ報恩感謝
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<版画万華鏡・5-2>
「布袋と美女、おんぶ文化」について
中城 正堯(30回) 2019.03.31
 見慣れぬ布袋様とおんぶ文化について、冨田さんはじめ何人かの方から、早速感想をいただき、感謝致します。浮世絵がヨーロッパのみならず、アシアでも模倣されたのは、浮世絵美術の素晴らしさとともに、江戸の町人文化の素晴らしさでもあります。
 おんぶ及び子育てについて、図版での補足を少しさせていただきます。まず、ヨーロッパでのおんぶについてです。図1は、19世紀中頃のイギリス版画「山に住む人」(P・ポール画)で、スイス・アルプスの母子です。図2は、1884年頃のドイツ印象派F・ウーデの油彩画「姉妹」です。図3は、歌川広重の「木曽海道(ママ)六十九次之内 宮ノ越」(1837年頃・部分)で、祭りから夜道を帰る親子連れで、おんぶの父・だっこの母に姉が続き、名作とされています。広重は、風景画の中に子ども風俗を巧に織り込んでいます。

図1.スイス・アルプスの母子
P・ポール画

図2.「姉妹」
F・ウーデの油彩画

図3.「木曽海道(ママ)六十九次之内
  宮ノ越」歌川広重

図4.育児書『やしなひ草』
『児童教訓伊呂波歌絵抄』
 最後に図4は版本のさし絵で、2点紹介します。育児書『やしなひ草』(1784年)には夫婦揃っての育児場面に「何がそだてて た(誰)が養ふて いきているぞと もとさがしや」の歌が添えてあります。もう一つは『児童教訓伊呂波歌絵抄』(1775年)で、「月花もめでて 家をもおさめつつ 雪や蛍の学びをもせよ」とあり、花見を楽しむ老婆・母・娘、三代の女性に、家を治めつつも季節毎に風流を楽しみ、蛍雪の学び(読み書き歌の道)も励むように呼びかけています。
 明治維新後は武家風の男尊女卑が強調され、女性は家庭に閉じ込められますが、江戸時代、町人の女性は多忙な家事家業に従事しながら、風流も楽しんだようです。
<版画万華鏡・5>
布袋と美女のそっくり版画から“おんぶ文化”再考
中城 正堯(30回) 2019.03.23
ネパールの布袋が背負うは女神か遊女か

図1.ネパール版画
「布袋と美女の川渡り」筆者蔵

図2.ネパール版画
「ヒンドゥー教の女神」部分 筆者蔵

 ネパールで布袋様と出会ったのは、1990年であった。首都カトマンズの古い街並みを散策し、版画店でヒンドゥー教のシヴァ神、カーリー女神、さらには象頭神ガネーシャ、日本で弁才天となったサラスヴァティーなどの楽しい版画を購入した。浮世絵と同じ木版画だが多くは墨摺で、彩り豊かな作品は手彩色を加えたもの、いずれも安価だ。
 そこでなんと「布袋と美女の川渡り」(図1)を見付けたのだ。美女を背に川を渡るのは、髭面で太鼓腹の紛れもない布袋様だ。仏陀(釈迦牟尼)はネパールでもよく見かけるが、布袋とは珍しい。背中の美女が異様で、まげを結い、波千鳥文の着物に大きな帯を結び、一見江戸時代の遊女風だが、上半身裸で乳房を見せており、彫りが深い目鼻立ちはヒンドゥー教の女神(図2)を連想させられる。布袋の川渡り自体は、浮世絵画集で見た記憶があり、何はともあれ購入した。

図3.西村重長
「布袋と美女の川渡り」筆者蔵
 帰国してほどなく、神田の浮世絵店の目録に西村重長「布袋と美女の川渡り」(図3)を見付けた。店に駆けつけて入手する。重長は多色摺の錦絵が誕生する直前、1750年前後に数色のみ使った紅摺絵の代表的絵師であり、ネパール版画の数百倍の値が付いていた。布袋と美女の構図も、布袋の法衣の宝珠模様も、足もとの流水もまったく同じで、前者は明らかに西村作品をそっくり模写している。ただ背中の女性は、ネパール版は赤や黄色の派手な衣装をまとったアーリア系美女だが、

図4.室町期狩野派
「布袋図」ボストン美術館蔵
重長の浮世絵では細目おちょぼ口の楚々とした江戸娘である。
 重長は背景に柳を描き、「袋より恋のおも荷ややなぎ哉」の句を添えてある。いつもかついでいる大きな袋より、さらに重い恋情を背負っても“柳に風”の姿であろうか。布袋は、唐末の中国に実在した僧で、肥大した腹を出し、大きな袋を背負って喜捨を求めては袋に投げ入れたので布袋の名がつき、子どもたちに愛された。中国絵画でも、室町時代の狩野派の絵(図4)でも、子どもと戯れる福々しい姿が見られる。浮世絵では、布袋の容貌は狩野派を受け継いでいる。しかし重長だけでなく、初期錦絵の鈴木春信も酔狂な布袋を描いており、うたた寝する女性に床の間の画軸から抜け出た布袋が忍び寄っている。

図5.コッヘム城壁画
「キリストを背負う聖人」筆者撮影
 本来、おんぶとだっこは親密な親子関係の象徴であり、子どもにとっては最も甘美な思い出である。ドイツではモーゼル河岸コッヘム城の塔壁で、幼児を背負って川を渡る男のモザイク画(図5)を見付けた。聞くと、これは聖人クリストフォルスと少年キリストであり、増水した川で少年キリストの背負う全世界の重さを告げられた男が、入信する場面だという。似た神話はインドにもあり、宗教画になっている。それは、クリシュナの誕生譚で、父ヴァースデーヴァはこの子が神の子であることと、命を狙われていることを悟り、頭上にかついでヤムナー川を渡って落ち延びるという場面だ。

印象派の女性画家が歌麿母子絵に感動
 聖人が重荷を背負って川を渡る姿もよいが、おんぶといえばやはり母の背の我が子であろう。その最高傑作とされる絵画が、喜多川歌麿の母子絵である。フランスの作家ゴンクールは『歌麿』(1891年パリ刊、2005年平凡社刊)で、「遊郭の女を描くこの画家の興味深い一面は、母性のテーマ」と述べ、授乳・行水・おしっこなど、幼児を優しく世話する母親の表現を絶賛、こう記している。
「母子群像の内で最も幸福な場面の一つが、子供を背負った母親と母の肩から身を乗り出した子供が、手水鉢に入れた水を二人してのぞき込んでいる図である。溜水は自然の鏡となって、くっつき一体化し、抱き合っているような母子の姿を映し出している」

図6.喜多川歌麿「児戯意之三笑」
大英博物館蔵

図7.喜多川歌麿「当世風俗通 女房風」
公文教育研究会蔵

 歌麿による水鏡をのぞく母子の一つが、「児戯意之三笑(こけいのさんしょう)」(図6)である。この題は、中国の陶淵明たちの故事「虎渓の三笑」のこじつけだが、絵は母子がまさに一体化して、水に映る顔をともに見つめている姿だ。歌麿は遊女の妖艶な美人画で知られるが、画業の初期から晩年まで、庶民の生活に根差した母子絵を終生描き続けており、筆者の調査では全作品の20%前後におよぶ。小野忠重は、出生地も父母も不明とされる歌麿の胸に、幼き日に別離した母への恋慕が刻まれていたからだと『浮世絵』(東海大学出版会)で述べている。歌麿の描く授乳場面「当世風俗通 女房風」(図7)で分かるように、母はまゆを剃り、歯を黒く染め、庶民の母の風俗・表情をリアルに描写してある。当時のヨーロッパ絵画では、授乳場面はほぼ聖母子に限られていた。
 歌麿亡き後も、浮世絵の母子絵は歌川国貞や歌川国芳などによって受け継がれ、子どもの遊び学ぶ日常生活を描いた子ども絵とともに、浮世絵風俗画の重要な分野になる。これは平和な時代になり、家の継続が重視され、子どもを大切にする子宝思想が広がるとともに、人々がこれらの浮世絵を競って購入した結果である。こうした背景を持つ歌麿の母子絵に感動し、追随したのは浮世絵師にとどまらない。

図8.喜多川歌麿「行水」
MOA美術館蔵

図9.M・カサット「湯あみ」
『メアリー・カサット展』横浜美術館より
 ゴンクールの『歌麿』出版の前年1890年に、パリの国立美術学校で大規模な浮世絵展が開かれ、歌麿の作品も86点展示された。これを見た印象派の女性画家メアリー・カサットは、母子の日常生活を描いた歌麿の浮世絵に感動、友人のベルト・モリゾに「絶対に見おとしてはいけません」と、手紙を書いている。カサットたちは銅版画・石版画など版画にも興味を持ち始めた時期で、巧みな線描と繊細な色調の木版浮世絵に魅了されるとともに、母子という題材に女流画家として新しいジャンル開拓の霊感を得たのだ。
 当時の女流画家は、裸体デッサン会には参加を許されず、キャバレーやカフェなどにも出入りできず、題材には大きな制約があった。また、子どもを里子に出す風習や、赤ん坊を布でぐるぐる巻きにするスワッドリングも見直され、家庭での新しい育児への移行期であった。アメリカ人のカサットは帰国後、母子がともに手鏡を見る姿や、歌麿の「行水」(図8)と同じ構図の「湯あみ」(図9)など、母子絵を多数描いて高い評価を得る。

江戸“おんぶ文化”のゆくへ
 ネパールで、なぜ「布袋と美女の川渡り」のそっくりさんが版行されたか。まず、インドに接し、仏陀生誕国でもあり、ヒンドゥー教とともに仏教も信仰されてきた。中国生まれの布袋も、インドの弥勒菩薩の生まれ変わりとされ、違和感がなかったようだ。男女の合体神も、シヴァ・シャクティなど多々祀られていた。さらに、おんぶがネパールのみならず、ヒマラヤ南麓はじめアジア各国で広く見られる子育て風俗であることが大きい。
 筆者が撮影した写真から、4点紹介しよう。ブータンの若い母子、シッキムの籠おんぶ、タイ北部のパラウン族(首長族)の横おんぶ、インドネシア・スマトラ島バタック族の姉弟(図10)である。おんぶ用具も、背負い方もさまざまであるが、家事や家業に従事しながらの育児に、また山道の移動に、おんぶが最適であったと思われる。

図10.アジアのおんぶ文化、筆者撮影。
ブータン 

シッキム

タイ・パラウン族

インドネシア
バタック族
 おんぶはアジアのみならず世界各国、特にアンデス、アルプスなど山岳地帯で見られた。しかし、ヨーロッパでは育児文化としては否定され、心身を整えるためとして赤ん坊は手足を伸したまま、布でぐるぐる巻きにされて育てられた。抱き癖も子どもを甘やかすとされた。

図11.F・クルーエ「浴槽のディアーヌ
・ド・ボワチエ」シャンティ城蔵
16世紀のフランス貴族の育児風景が「浴槽のディアーヌ・ド・ボワチエ」(クルーエ画・図11)で、入浴する母の背後に乳母から授乳されるスワッドリングの赤子がいる。パリ警視庁の1780年の記録に、21.000人の出生児のうち母親・乳母に家で育てられたのは2.000人、あとは里子に出されたとある。離乳期まで、他人にゆだねられたのだ。

図12.歌川国貞「雪のあした」
公文教育研究会蔵
 浮世絵では歌川国貞「雪のあした」(1823年・図12)に、子をおぶって水を汲む母や子守娘、そしてだっこの子がいる。母も子守娘も、綿入りの“ねんねこ半てん”で保温には万全である。育児に人手が足りない家では、子守娘をやとって家で育てた。同じ国貞(豊国三代)の「江戸名所百人美女」(図13)には、裸の子をふところに抱く母と、火鉢のはいった干し籠で子ども着を温める様子が描写され、その背中には背守(せまも)りの“くくり猿”が付けてある。歌麿の図6でも、子の背には“結び文”の背守りがある。当時、子どもは背中の首の付け根から、魂(命)や病魔が出入りするとされ、背守りが用いられた。特におんぶの際には、背後から忍び寄る病魔撃退に背守りが必須であっただろう。

図13.歌川豊国三代(国貞)「江戸名所
百人美女」 公文教育研究会蔵
 1878年(明治11年)に日本に来て『日本奥地紀行』(平凡社)を書いたイギリス人の女性旅行家イザベラ・バードは、「これほど自分の子どもをかわいがる人々を見たことがない。子どもを抱いたり、背負ったり・・・」と、愛情細やかな育児に感心している。しかし、明治時代には西洋式育児がしだいに普及、おんぶは排斥され、昭和期には消えていった。ところが、1998年に「浮世絵の子どもたち展」でイギリスやフランスに行って驚いた。

図14.現代イギリスのおんぶ 
エジンバラで筆者撮影
背負い具で子どもをおんぶして通勤する母(図14)や、美術館に来る母親が結構いるのだ。聞くと、ヨーロッパの新しい育児書には、おんぶでの母子接触や語りかけが、子どもの情緒安定や健全な成長に大切とあるというのだ。育児書には、背負い具も紹介されていた。
 精神分析学の北山修九州大学名誉教授は、『浮世絵のなかの子どもたち』(1993年 くもん出版)で浮世絵の母子絵を見て以来、精力的に日欧の母子絵の画像を収集分析し、学会で発表してきた。そこで強調しているのは、浮世絵には「共に眺める〈共視〉」「みつめ合う〈対面〉」、そして「母子の身体的接触」が、西洋絵画よりはるかに多いことである。共視・対面・身体的接触、そして語り掛けからも、おんぶは乳幼児にとって最良の育児環境であっただろう。夫婦共稼ぎ、託児所保育の時代を迎え、これからの子育てをどう再構築するか、子ども好きだった布袋さんにチエを貸して欲しいものだ。
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<版画万華鏡・4>
和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子ども
中城 正堯(30回) 2019.02.17
将軍吉宗が復活させた騎馬打毬

(図1)「子供あそび〈打毬〉」歌川貞房
天保頃(公文教育研究会蔵)
 東京の古書店で、馬に乗った二人の少年が網竿を手に紅白の球をすくい合う場面を目にして驚いたのは、平成3年(1991年)の春であった。子どもを描いた浮世絵の収集を始めて5年ほどたっていたが、これまで目にした作品には町人の子どもしか見当たらなかった。この絵の子どもは腰に刀を差し、立派な鞍を付けた馬にまたがっており、どう見ても武家の少年である。(図1
 この珍品を会社へ持ち帰って調べると、絵師は歌川貞房で天保(1830〜44年)頃の作品、遊びの名称は“打毬”(だきゅう)と判明した。打毬とはどんな遊びか、『広辞苑』には、「二組の騎馬の一定人数が庭上にある紅白の毬(まり)を毬杖(ぎっちょう)ですくい取り、自分の組の毬門(きゅうもん)に早く投げ入れた方を勝ちとする競技。ポロの一種」とあり、平安時代には宮廷行事になっていたが衰え、江戸時代に復活とある。中国から伝わり、古くは『万葉集』巻六に727年正月に王子たちが楽しんだ記録があることや、八代将軍徳川吉宗(在位1716〜45)が武芸奨励の一環として復活させたことが分かった。吉宗は流鏑馬(やぶさめ)などの騎馬弓術とともに、打毬も武術として武士に取り組ませたのだ。もともと騎馬武士の活躍は、源平合戦での源義経による一の谷鵯越(ひよどりごえ)の奇襲や、宇治川の先陣争いが江戸時代にも広く知られ、騎馬武士や名馬は江戸の子どもたちのあこがれの的であり、浮世絵にも多い。武士の子どもの乗馬訓練も広重の戯画にあるが、打毬遊びは例がなく「子供あそび〈打毬〉」と名付けた。

(図2)「風流見立狂言 しどう方角」勝川春朗
(葛飾北斎)寛政頃(公文教育研究会蔵)
 馬と子どもの浮世絵では、もう一つの珍品を翌年に入手した。それは、勝川春烽フ「風流見立狂言 しどう方角」(図2)である。この狂言は、主人にしかられた太郎冠者が、咳をすると暴れ、「止動方角」ととなえると止まる馬に主人を乗せ、落馬させる話である。子どもたちが、その見立(まね)遊びをしている場面で、馬には棒の先に馬頭をつけた遊具・春駒(はるごま)を使っている。
 これが珍品であるのは、まず作者・春烽ェ若き日の葛飾北斎であることだ。彼は北斎以前に春烽竢@理などと名乗った時代があり、その頃は子ども絵も手がけている。しかし北斎になってからはほとんどなく、『北斎漫画』にも、子どもの姿はわずかしか描いてない。

(図3)「新製馬乗づくし」中央に打毬
歌川重宣 安政元年(公文教育研究会蔵)
この作品を見た北斎研究の第一人者・永田生慈は、「これは貴重だ。この見立狂言シリーズは数点見つかっているが“しどう方角”は新発見で、おそらく世界でこの一枚だけだろう」と述べていた。残念ながら、平成30年2月に永田は亡くなったが、その生涯をかけて収集した北斎作品による「新・北斎展」が本年新春から東京六本木の森アーツセンターで開催中であり、ご冥福を祈りつつ見学してきた。
 春駒を使った子どもの馬遊びの浮世絵には、春烽フ少し前に北尾重政の「やつし八景 勢田夕照」もあり、春駒にまたがった子どもが大名気分で近江・瀬田の大橋を渡っている。江戸後期の嘉永・安政になると、子どもが遊びに使った“おもちゃ絵”に馬が多くなる。一つは「源平打毬合戦双六」(歌川国郷)などの双六で、紅白の駒を毬門(ゴール)まで競って進めた。もう一つは、馬の用途・毛色による種類や歴史的名馬を図示した「馬づくし」の豆図館で、「新製馬乗づくし」(図3・歌川重宣)など各種あった。これらの流行は、江戸の子どもにとって歴史的名馬や騎士の姿が、あこがれの的であったことを示している。
インパールで続くポロと消えた土佐の打毬

(図4)インド、マニプルのポロ試合ポスター(筆者撮影)
 平成5年末、食生態学者の西丸震哉夫妻とインド・マニプル州インパールを訪ねた。第二次世界大戦末期に日本軍の悲惨な死の行進で知られる土地だが、民族文化の知られざる宝庫であり、特別入国許可をとって入った。ここで、思いがけず打毬の原型ともいうべきポロと出会った。街中でポロのポスター(図4)を見付けたのだ。残念ながら、滞在中に試合はなかったが、競技場を訪問し、球を打つマレット(木槌)など遊具を見せてもらった。
 江戸の打毬は狭い馬場で、網の付いた毬杖で毬をすくって毬門に投げ込むが、ここは広いグランドでの競技であり、硬い木の球をマレットで相手のゴールに打ち込んで勝敗を競う。ゴールはグランドの両端に設けてあり、馬場の片側にゴール(毬門)を設ける打毬とは異なる。馬は小型馬ポロポニーだが、江戸時代の日本馬よりはだいぶ大きいようだ。
 帰国して調べると、ポロは古代ペルシャの遊牧民世界で始まり、やがてチベット経由で中国へも伝わって唐の王朝で盛んになり、この中国式打毬が奈良王朝にもたらされる。いっぽう、ペルシャからインドへも伝わり、マニプルでは藩王たちに楽しまれてきた。1850年代にイギリスで紅茶ブームが起こり、アッサム紅茶を求めてこの地にイギリス人が押し寄せ、英国軍も駐屯した。やがて騎馬隊をはじめ軍人たちがポロに夢中になり、本国にも持ち帰って競技を楽しみ、ヨーロッパに広がる。さらにイギリスの世界進出にともなって、米国・濠州・南米へと広がったのである。こうして、ペルシャで生まれたこの競技は、中国・日本型の打毬と、インド・イギリス型のポロに分かれていった。

(図5)「千代田之御表 打毬上覧」楊洲周延
明治28年頃(筆者蔵)
 将軍吉宗は、動物好きでペルシャ馬や唐馬を輸入、オランダ人馬術師ケイゼルを招いて洋式馬術の導入も企てている。しかし、この時代にはまだヨーロッパにポロ競技は伝わっておらず、吉宗は平安王朝の打毬遊びを武芸としての馬術に改良、広めたのだった。明治になって江戸城の暮らしを回顧した浮世絵「千代田之御表」シリーズに“打毬上覧”(図5)があり、将軍臨席での打毬合戦が描かれている。中央の奥に、丸い毬門(ゴール)が見える。各藩でも次々と打毬を導入しており、山内一豊の妻による名馬購入で知られる土佐藩でも、江戸中期から柳原の南馬場で毎年春に挙行していた。明治維新後も昭和十年頃までは名物行事として続き、当時の絵はがき「土佐独特の打毬」(図6)が残っている。

(図6)「土佐独特の打毬」絵はがき
昭和初期(『絵葉書 明治・大正・昭和』より)
 インドから帰った一年半後に、公文コレクションによる「浮世絵の子どもたち」展が東京東武美術館で始まった。江戸文化に精通する作家・中村真一郎は、雑誌でこの展示を取り上げ、こう述べてくれた。「まことに得がたい幸福な時間だった。これら版画のなかの母親も、子供たちも、何と人生を信頼し、親子の断絶だの、登校拒否だの・・・知らずに、愉しく寄りそって生きている・・・。彼らは自分の身のまわりの物から遊び道具を工夫して、次つぎと珍しい遊戯を発明し、お互いの心の交流を習得していっている」。さらに、印象深い一枚として「子供あそび〈打毬〉」をあげ、「軍事訓練と公卿風の優雅さを組み合わせたと思われる、独自の打毬という遊戯は、江戸文明の思いがけない深い重層性をうかがわせるものである」と記している。(後に『眼の快楽』NTT出版に収録)

(図7)「金太良三人兄弟」鴨をさばく次男
喜多川歌麿 寛政末(公文教育研究会蔵)
 この展覧会は好評で、平成6年から6年間にわたって国内10、ヨーロッパ4、計14の美術館で展示された。ヨーロッパ展では、江戸の親密な母子関係や豊かな子ども文化への称賛とともに「江戸の人も鴨料理やポロが好きだったのか」との感想が聞かれた。鴨料理は、歌麿が描いた金太郎母子が鴨をさばく絵(図7)を指し、ポロは「子供あそび〈打毬〉」である。だが、欧米のポロよりも日本の打毬の歴史がずっと古いことまでは知らなかった。
八戸に生きていた江戸の騎馬打毬
 平成7年9月「愛馬の日」に、東京世田谷の馬事公苑で記念事業として、宮内庁主馬班による打毬試合(図8)があると聞き、生きた打毬を初観戦した。

(図8)馬事公苑での打毬試合
平成7年(筆者撮影)
武者姿の10人が紅白に分かれて騎乗し、毬杖で毬をすくっては板壁に開けられた丸い穴のゴールに投げ込み、早く自軍の毬を入れ終えた方が勝ちであった。敵軍への妨害行為もありで、馬を突進、急停止、さらに急旋回させながらの戦いは、たしかに騎馬訓練に最適と思われた。この打毬は、徳川将軍家の流儀を宮内庁が受け継いだもので、浮世絵「千代田之御表 打毬上覧」が甦って動き出した感じであった。

(図9)加賀美流騎馬打毬で毬を奪い合う騎士
平成9年(筆者撮影)
 2年後には、岩手県八戸市新羅神社で8月恒例の三社大祭の行事として開催される加賀美流騎馬打毬の見学に出かけた。八戸藩ではおよそ200年前の八代藩主南部信真の時代から加賀美流馬術の一つとして打毬(図9)が始まり、今も八戸騎馬打毬会によって伝統が受け継がれている。会場は新羅神社境内で、土手にかこまれた長さ100メートルほどの細長い馬場だ。ゴールの毬門は、馬場の端に中門を挟んで紅白左右に分け、柱を立てて作られている。馬場の反対側に紅白各4個の毬が毬童子によって並べられ、毬門横から紅白4騎ずつが入場、鳴り渡る鐘・太鼓とともに試合が始まった。騎士・毬童子・役員、すべて古式に則った礼装を着用しての奉納試合である。
 ここでも、相手の妨害を防ぎつつ毬を毬杖ですくっては毬門に近づき、投げる。左手で手綱を握り、右手で長い毬杖をふるって毬を投げ込む技が見所だ。主審の見定(みさだめ)奉行がゴールの判定をしており、毬門からはずれた毬は投げ返される。

(図10)力一杯毬を投げた騎士、右後方が
上覧席 平成14年(筆者撮影)
自軍に4個の毬を早く入れ終えた方が勝ちで、3回戦ほどおこなって勝負を決める。勝ち軍は凱歌をあげて上覧所に進み、褒美を頂戴する(図10)。上覧所の主は、十四代南部公であった。
 この周辺は、古くから南部駒で知られた馬産地であり、馬を飼育する農家や愛好家が中心になって八戸騎馬打毬会を結成、伝統の馬術を守り続けている。平成14年にも再訪した。騎手の中に中学生がいたのは頼もしい限りだった。現在打毬は、この加賀美流と宮内庁流の二種が受け継がれ、山形市豊烈神社でも宮内庁流の打毬がおこなわれている。  
 海外のポロは英・米そしてアルゼンチンが三大帝国だと『ポロ その歴史と精神』(森美香 朝日新聞社)にあるが、持病で海外渡航ができなくなり、見学はかなわなかった。今はポロに由来するポロシャツを着て、広いグランドを駿馬で激しく駆け回るスポーツとしてのポロを夢想するのみだ。
 打毬では礼節が尊ばれ、かつて初ゴールは上級武将に譲る慣例もあったと聞く。軍人・貴族・富裕層のスポーツとなったポロの試合では、貴族相手でも遠慮なく、激しく馬体をぶつけ合って球を撃ち、怪我も恐れず勝敗を競う。古代ペルシャ以来の壮大な馬術文化の潮流は、東西で違った様相を見せている。
 浮世絵「子供あそび〈打毬〉」の発掘は、江戸文化のなごりを求めて各地をめぐる楽しさを与えてくれ、今に生きる〈打毬〉にも出会えた。同一文化が伝播しても、受容地によって大きく変化する面白さも体験できた。次回は、「浮世絵そっくりさん」を紹介しよう。
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淑徳大学公開講座『日本の名城、その魅力と見方』
「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較
藤宗 俊一 (42回) 2019.02.03
T.日本の城とヨーロッパの城との相違点
1.成立過程の違い

日本の城(長野・松本城)とヨーロッパの城(独・ホーエンツォレルン城)
 日本は同じ言語を話す単一民族で構成され、生産の担い手である農民は農地と結びついており、争いは単に支配権をめぐる争いです。住民は、争いがあれば避難していて、終わればまた元の場所に戻って生活を再開すれば良いのですから、城は支配者層の安全と戦略的な考えだけで作れば良かったのです。このため、自然の要害の地にできるだけコンパクトに作られました。城下町は言葉の表すとおり麓に発達し、平時は城主も館を持ってそこで生活をすることが多かったようです。只、近世になると、貨幣経済の発展により都市生活者が増大し、町人街を取り込んだ「惣構え」といわれる縄張りが行われるようになりました。

武士の館復原模型12C(歴史民族博物館) と
モット・ベイリー (ENGLAND)11C
 一方、ヨーロッパはもともと多民族で遊牧民が陸続きで住んでいた上、4世紀以降、ゲルマン族やノルマン族、マジャール族、アラブ族などが侵入してきます。彼らは略奪目的ではなく、定着しようという目的でやって来るのですから、はじめのうちは空いている土地でおとなしく狩猟や放牧などを行っていて共存できていたのですが、そのうち仲間を呼び寄せるようになり、いわゆる民族大移動がおこります。その結果、当然土地をめぐって争いがおこります。この争いの結末は悲惨で、負ければ追い出されるか、奴隷にされるか、虐殺されるかで、守る方は必死で城を作ります。勝った方も逆襲や他の民族の侵入を恐れて、城を作ります。そして、住民全員を守らなければなりませんでした。このため、城の中に住民が避難できる空間を作ったり、町全体を壁で囲む城壁都市ができました。
2.構造の違い

カステル・デル・モンテのリヴ・ヴォールト1240-50  と
   熊本城 模型1601(慶長6) 加藤清正 
 日本では、土塁と堀で周囲を囲み、豊富な木材を使い櫓と柵が作られていましたが、切岸に石がはられ石垣ができ、大黒柱を中心に大規模な木組みが行われその外部を漆喰で塗り固め、屋根を瓦で葺いた、防火構造と柔構造を兼ね備えた天守ができ、それを取り囲む曲輪で防御するいわゆる縄張りで城が作られるようになりました。特に、戦国時代後期なって、城が平地に下りてくると石垣と堀の役割は増大し、石垣を作る技術が飛躍的に発展しました。また鉄砲伝来と共に、砲眼を持った築地塀や多聞櫓が漆喰で石垣の上に作られるようになり、天守を中心とした美しい城の姿が出現するようになりました。今日、お集まりの皆さんも多分この美しさにひかれてお城に興味をもたれたのではないかと思います。
 ヨーロッパでは民族移動後初めのうちは堀と土塁や潅木の柵で作られたモット・アンド・ベイリーという簡単な城が沢山作られていました。その後時を経て、12世紀頃から、ローマ時代の遺産であるレンガとセメントの技術を習得し、また、十字軍やサラセン人によりもたらされた石造技術により、厚い壁で城壁や塔が作られるようになりました。この壁の厚さが構造上でも、また戦略上でもヨーロッパの城の一番大きな特徴になっています。この壁はそれ自体でも自立でき、

ソアヴェ・スカリジェロ砦城壁(Soave/ITA)1369  と
七尾城 家臣団屋敷(石川県) 畠山氏 曲輪縄張り
はじめのうちはそれに木製の梁をかけ、板を敷き、穴あきレンガを並べる方法で階を作っていましたが、アーチ型の壁梁や石造技術の発展でリブ・ヴォールトが考え出され、内部空間が巨大化してきました。ロマネスク、ゴシックの教会堂を見るとその技術の発展がよくわかります。
3.形態の違い
 形態上からみれば、ヨーロッパの城が長い壁とそれを守る塔や砦といった線と点で構成されているのに対し、日本の城は石垣や曲輪といった平面構成で成り立っていると言えます。また、戦略上で考え出された縄張りによる空間構成は意外性に富み、見え隠れ、流れと溜まり、導きと展開など設計方法論上、多くのヒントを与えてくれます。皆さんも知らず知らずのうちに体験されていることでしょう。

   ヨーロッパの城  日本の城
  民族  異民族  単一民族
  自然  乾燥  多雨
  生活  狩猟を中心とした遊牧型  農耕を中心とした定住型
  目的  住民全員を守る  支配階級を守る
  材料  石、レンガ、セメント  土、木、漆喰
  構造  壁の量、剛構造  材木(大黒柱)のしなり、柔構造
  形態  壁と塔で守る。線と点。  ラインディフェンス  縄張り(石垣と曲輪)平面。  ゾーンディフェンス

メーデン・キャッスル ヒルフォート(丘の砦)
BC3000-AC43 新石器・ケルト人
大塚・歳勝土遺跡 (環壕)
弥生時代  
イリオス(トロイ)遺跡
BC3000-AC100
吉野ヶ里遺跡 環濠集落 (佐賀県)
弥生時代後期
サンジミニアーノ (San Gimignano/ITA)
13C城壁都市
観音寺城16C 六角氏 山城と城館

U.城に関連する言葉で比較
1.城(郭) と Castello

Castello:フェッラーラ・エステンセ城 1385 ニコロV世 と
   城:姫路城 天守  1609(慶長14) 池田輝政
 日本では城というと天守のことを言っている場合が多いのですが、本来城という字の表すとおり「土より成る」であって、土を掘って囲った防衛施設全般を表します。日本城郭協会では平成17年に『日本100名城』を選定した際にはたとえ天守が無くても、@優れた文化財・史跡であることA著名な歴史の舞台であることB時代、地域の代表であることの三つの基準を設けて全国各地の防衛施設の中から選定しました。美しい形をした天守が作られるようになったのは信長の安土城以降で、権威の象徴と領主の生活空間を兼ねるようになってからです。
 イタリアでも城を表す言葉はCastelloですが、日本と同じように『領主とその一族が住み、守備隊がいる防御施設』という狭義の意味で使われる場合が多いようです。勿論、例外もあり、ローマの聖天使城や南イタリアのカステル・デル・モンテなど歴史的にその呼び名が定着してしまったものです。また、ワインのラベルで『カルテッロ・ソアベ』とか『カステッロ・モンテリッジニオーニ』果ては『カステッロ・ロマーノ』などお目にかかったことがあると思いますが、これらは単なる商標で、単に地域とか地方とかを表しているだけで、

山城:サンマリノ グアイタ砦  1253
    山城:備中松山城 山城・石垣1642(寛永19) 水谷勝俊
フランスのシャトウも同じようなものだと思って下さい。実際に天守があるのはソアベくらいのものですが、現地では『スカリジェロ(スカラ家の)砦』と呼ばれています。特に最後のローマなどは誇大広告ですので絶対だまされないで下さい。
 また日本では、普通お城は『山城』『平山城』『平城』に分類されています。堀や曲輪の配置が地形に影響されるからでしょう。『海城』『河城』『湖城』は『平城』の一部として考えられています。一方イタリアでは使用形態によって分類されることが多いようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Castello  一般名称。狭義では領主の  城(しろ)  一般名称。狭義では天守を持つ防禦施設
   居住空間と防御施設。    山城、平山城、平城、海城
 Rocca  城砦・防衛施設(兵士の駐屯)  支城  出城、曲輪
 Forte,Fortezza  要塞・防衛施設(有事)  砦、台場  砲台、稜堡

Rocca:カステル・デル・モンテ
1240-50 フリードリッヒ2世   
出城:杉山城(埼玉県比企郡)16C 山内上杉氏
古宮城(愛知県1570) 武田・馬場美濃守
Forte:ローマ聖天使城
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要塞
隅櫓:江戸城 富士見櫓
高松城 隅櫓
山城:サンマリノ グアイタ砦
1253
山城:備中松山城 山城・石垣
1642(寛永19) 水谷勝俊
山城:サン・レオ コスタンツァ砦
15C Francesco g.Martini
山城:近江八幡城 豊臣秀吉、豊臣秀次1585
平山城:ソアヴェ スカリジェロ砦
1369 スカラ家  
平山城:彦根城
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
平城:イモラ スフォルツェスコ砦
1259-1500 ダヴィンチ他  
平城:大阪城
1583(天正11) 豊臣秀吉
海城:シルミオーネ 平城(湖城)     海城:高松城 平城
1634(寛永11) 松平頼重、頼常

2.壁 と Mura

壁:ハドリアヌス長城とアントニウスの長城とリーメス1C
壁:大宰府、大野城、水城(みずき) 古代664 天智天皇
 日本では城を「き」と読んで壁を表します。大宰府の「みずき」が有名ですが、日本書紀には「稲城」というのが載っています。稲束を積んで壁を作ったのでしょうか。残っていないのが残念です。「城柵(きかき)」というのは土塁の上に柵を組んだ壁で戦国時代まで最も一般的な防御施設でした。また、動詞的に「きづく」と読まれます。両側を板で押さえて中に土を入れて押し固める「版築」や「石垣」、「土塁」を作る時にもこの言葉が使われます。土が成るという字自体の意味から言えば本来の使い方かもしれません。沖縄では「ぐすく」と読まれます。
 イタリアで壁を表す言葉は『Mura』です。イギリスの『ハドリアヌスの長城』もドイツの『リーメス』から、街の城壁、家の壁までこの言葉が使われます。ある時案内をしていて「城の壁をシミーズと言うのはなぜですか?」という質問をされて、一瞬どぎまぎしてしまいました。落ちそうで落ちない難攻不落の美女を連想したのでしょうか。それとも「あんなスケスケのシミーズみたいな壁、一気に破ってしまえ。」と激を飛ばしたのでしょうか。皆さんはどちらをとられますか?調べてみると、胴壁や幕壁を表すイタリア語『Cortine』が先にあり、後からカーテン、シミーズが作られると、まとわりつくイメージが一致するのでこの言葉を使っただけのことで、翻訳者が辞書を見て戯れにシミーズという言葉を選んだようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Mura
 
  壁・城壁・市壁
  ハドリアヌスの長城、リーメス
  城
 (き)
  壁、水城、稲城、城柵(きかき)、
  環壕、版築
     城
 (きづく)
  石垣(野積、打込みはぎ、切込みはぎ)
 Cortine
 
  幕壁、カーテン、シュミーズ、
  2重肌着、狭間胸壁
  城
 (ぐすく)
  沖縄の土塁、石塁
   突出狭間、廊堡、矢狭間、鉄砲狭間、
  石落、砲台
  城塀
 
  石垣、築地塀、忍び返し
  石落し、矢狭間、鉄砲狭間、砲眼

壁:ローマ セルヴィウス(内)アウレリアヌス(外)の城壁壁:多賀城 政庁版築、東南部土手(修復)  
高松城 壕と石垣・野積(石垣)1634(寛永11) 松平頼重、頼常  ぐすく:沖縄・中城(なかぐすく)            
石垣:江戸城 石垣・切込はぎ  1636(寛永13) 徳川家光二条城 隅櫓・打込はぎ(石垣)
1601(慶長6) 徳川家康  

3.その他の城に関する用語

土手、城壁、出入口、跳ね橋
 お城にとって最も大切な所はヨーロッパでも日本でも門の部分のようで、防御ラインがそこで切れる為、いろんな工夫がされています。枡形、馬出、虎口といった平面的な防御ラインだけでなく櫓門、廊下門など立体的な構造もとられ二重、三重の備えをしています。ヨーロッパでは城門(キープ)が発達し、落し格子戸、石落し、砲門などの工夫が施され、特に跳ね橋は大掛かりで梃子の原理を応用し様々なものがあります。
 また、籠城のための井戸のシステムは雨の少ないイタリアの城にとって必要欠くべからずのもので、雨水を集めて地下に貯めておくなどいろんな工夫がなされています。川や地下水の多い日本では考えられない大掛かりな装置がローマの時代から培われてきました。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Torre  塔、キープ、ドンジョン、隅櫓  櫓  天守、二の丸、隅櫓、多聞櫓
 Porta  城門、楼門、落し格子戸、石落し、砲門  城門  枡形、馬出、虎口、櫓門、廊下門
 Corte  中庭、コート、練兵場  曲輪  庭園、白洲、馬出
 Ponte  跳ね橋、堀  橋、掘  天秤橋
 Cisterna  井戸  井戸  
 Fontana  泉、噴水、ガーゴイル  池、水落し  

Torre:ミラノ・スフォルツァ城
1450-66フィラレーテ設計
天守:姫路城 築地塀と鉄砲狭間
1609(慶長14) 池田輝政
Porta:フェッラーラ・エステンセ城 城門と堀
 1385 ニコロV世  
門:高知城 廊下門  
1610(慶長16) 山内一豊
ponte:フェッラーラ・エステンセ城
 吊り橋  1385 ニコロV世  
門:彦根城 天秤櫓と橋  
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
Cortine:イモラ スフォルツェスコ砦
 1259-1500 ダヴィンチ他  
多門櫓:彦根城 隅櫓と多門櫓  
1603(慶長8) 井伊直継、直孝
石落し:イモラ
張出狭間と石落  1259-1500  
石落し:高知城 石落しと忍返し  
1610(慶長16) 山内一豊
ガーゴイル:ヴュー城 Vieux城
 15C ロワールの城  
水落し:高知城 水落し  
1610(慶長16) 山内一豊

V.城と都市

ポンペイ遺跡 1C ローマ と  清洲城下町総構 織田氏
 惣構(そうがまえ)の城や城壁都市は都市施設の整備を伴いました。限られた範囲の中で共住して生活するためには防御施設や住居だけでなく、道路、上下水道、街路、広場や公園、集会場といった共同の施設が必要です。それ以上に必要だったのが共住意識とそれに基づく都市計画が不可欠です。日本の惣構えの縄張りは支配者層の戦略的な都市計画であって、街路は曲がりくねって行き止まり、橋は最小限に限られ、集会施設である寺社が防御施設として周辺部に追いやられ、広場や公園は敵の大軍の利用を恐れて作られず、住民から言えば住みにくい計画だったようです。現代の日本の都市計画を見てもだいたいが経済効率第一のお上主導で、庭付き1戸住宅が郊外に限りなくスプロールして、都市施設が追いつかなく、共住意識が育たない東京などはメガロポリスというより巨大な農村といえるかもしれませんね。
 そういえば、かつて北京から日本に都市計画を学びに来ていた友人がいますが、彼の所属するセクションは城市計画局といいます。この言葉からも分かるように、お城と街は切っても切れない関係にあります。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Citta Murale  城壁都市  城下町  城市、惣構             
 Palazzo  宮殿、庁舎  城館、館  城閣、御殿
 Villa  別荘、離宮  別邸、寮  下屋敷
 Chiesa,Duomo  教会(司教座、教区、司祭、修道院、礼拝堂)  社寺仏閣  
 Piazza,Giardino  広場、公園、庭園    境内、庭園
 Loggia,Portico  柱楼 柱廊    辻
 Mercato  市場    縁日、朝市
 Fontana  泉    水は敷地内
 Aquadotti  水道、コンドッティ  上水  玉川上水

Palazzo:フィレンツェ ヴェッキオ宮殿1299-1500代 Cambio他    御殿:二条城 二の丸御殿(御殿造り)  1601(慶長6) 徳川家康
Villa:ロトンダ Villa Almerico  1566 Palladio  別荘:姫路城 好古園  1609(慶長14) 池田輝政
Chiesa:アッシジ・サンフランチェスコ寺院 13C  社寺仏閣:鎌倉鶴岡八幡宮 13C 源氏
Mercato:ヴェロナ・エルベ広場 1531 Sammicheli  楽座楽市:安土城下町 惣構えCGI   織田氏
Piazza:ポンペイ遺跡 Il Foro  -200ac-0079 ローマ時代  惣構え:小田原城   北条氏
Fontana:シエナ・カンポの広場 ガイア(歓喜)の泉1297-1342福知山城井戸(豊磐井)
Piazza:シエナ・カンポの広場  1297-1342 庭園:西芳寺(苔寺)
Aquadooti:ルッカ 水道橋 庭園:龍安寺(石庭)

W.城郭都市、城下町

日本各地の城
 最初の相違点の章でお話しましたが、近世になるまで日本では城によって住民全員を守るという発想がありませんでした。その為、城といえば戦略上の砦とか館(やかた)と呼ばれる堀で囲まれた武士の住居が点在していました。戦国時代には戦略上作られた山城の麓に武士を相手に商売をする町人集落ができ、城下町が自然発生しました。戦国末期になって、信長が岐阜や安土に新しい城を作る時、楽市楽座の町人街を含む縄張り(都市計画)で城下町を作ります(惣構え)が、城郭都市と呼べるものでわありませんでした。その後、小田原の北条氏は秀吉の関東攻めに対抗するために城下町を含めて総延長9kmに及ぶ堀(空堀)で取り囲んだ城郭都市を作りました。

惣構え:金沢、高知
 その後、貨幣経済の定着とともに都市住民が急激に増えて、前田氏の金沢や山内氏の高知など全国各地で惣構えの縄張りによる城下町が作られました。その中心部には権威の象徴としての天守をいだき、政務を行う御殿や支配者一族の住居もとりこんだ城郭があり、それを囲むように職業によって区割りされた町人町が広がっている今日城下町といわれる町が形成されました。
 しかし、徳川幕府によって1615年「一国一城令」が発布され築城の歴史に終止符が打たれ、250年の間新しい城はつくられませんでしたが、幕末になって海防強化のために西洋の築城様式である稜堡形式の五稜郭が作られました。

 ヨーロッパでは最初から住民全体の保護を目的としているため、防御の範囲をできるだけ小さくして城壁で囲む方法で街が作られました。その内側で協力して生活する必要があり、住居はアパートメント(多層共住)で、広場や公園を作り、上下水道や水呑場を完備させ、教会や柱楼といった集会施設を作り、いわゆる都市施設の整備が行われました。

フェッラーラの街と城壁
 特にイタリアでは19世紀末まで中央集権国家が成立せずに、それぞれの都市が市民共同体(コムーネ)や僭主(シニョーレ)を戴いて都市国家を作り、お互い争いあっていたので城壁都市が沢山発達しました。エトルスクの集落から発展した都市(ヴォルテッラ、ペルージア、アレッツォ等)ローマ時代に軍の駐屯した場所から発展した都市(フィレンツェ、サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノ、イモラ、ヴェローナ等)交通の要所や市場から発展した都市(サンジミニアーノ、シエナ、ミラノ、トリノ等)、地中海の海上貿易の拠点として発展した都市(ヴェネチア、ピサ、ジェノヴァ等)、司教座教会や聖地寺院の門前町として発展した都市(アッシジ、ボローニャ等)、戦略的な砦のもとに発展した町(ソアベ、モンテリッジオーニ等)、農産物の集散地としての町(ルチニャーノ等)、

パルマノーヴァ・理想の都市(スカモッツィ)
そして近世になって封建領主が整備した城下町(フェッラーラ、マントヴァ、ヴェローナ等)など、多くの特色ある城郭都市があります。
 その後、16世紀になって大砲の出現により、城壁の形が大きく変化します。中世は弓や鉄砲で応戦するための塔と胴壁の矢狭間で作られた城壁で町を囲っていましたが、大砲の破壊力に対抗するために厚い土手と堀で街を囲み、星型の砲台(稜堡)が作られるようになりました。最初に作ったのは大砲の製造で富を得たフェッラーラの町で、その後ヨーロッパ各地の都市(ルッカ、トリノ、ウィーン、アムステルダム等)に伝播していきました。またルネサンス期末にはスカモッティによる正九画形の美しい城郭都市が北イタリアのパルマーノーヴァに作られました。
V.天守、宮殿
残存12天守 震災や空襲で明治以前の天守は以下の12城しか残っていません。

左から 弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城


左から 松江城、備中松山城、丸亀城、宇和島城、松山城、高知城

京都・二条城

二条城の庭園
 日本では建物構造の関係から宮殿と呼ばれるお城が生まれませんでした。しいてそれに類するものといえば二条城の御殿建築かもしれません。また、近世以降の天守もそれに準ずるものかもしれませんね。
ヨーロッパの宮殿と庭園
 イタリアでは中世以降、都市生活者が増大して、その中で対立が生まれ派閥(有名な皇帝党と教皇党)ができ、抗争しあうようになります。街の中の有力者や貴族階級は私邸や政庁舎の外壁を堅固にし、外部の窓を小さくし、1階は倉庫や作業場にして、生活空間を2階以上にもってきて(ピアノ・ノービレ)、物見と防御のために塔を作り要塞化します。また、中庭を作り採光や通風を確保した大きな邸宅が作られるようになります。堀や、城壁がなくても立派なお城で、宮殿(plazzo)と呼ばれています。フィレンツェのヴェッキオ宮殿やシエナのプブリコ宮殿、ヴェネチアのヅカーレ宮殿はその代表例です。

パリ ベルサイユ宮殿(Paris/FRA)
 その後、近世になって世の中が安定してくると、宮殿は権威の象徴や外交の舞台として使われるようになり、美しい形や、内装が求められ、お城としての機能は失われてしまいました。またヴィッラと呼ばれる別荘が郊外や領地に作られ、都市生活に倦んだ貴族や王族の静養先となりました。ヴェルサイユ宮殿(パリ)、シェーンブルグ宮殿(ウィーン)、レアール宮殿(ナポリ)などはその中でも特に大掛かりなもので、庭園式宮殿と呼ばれ王の離宮でした。パックの観光旅行で案内してもらえる場所はそのほんの一部分です。

<事例>
フィレンツェの都市施設
 フィレンツェの中で建築史上から見て重要な都市施設を画像付で載せてあります。多分、この部分はお話して、スライドをお見せする時間がとれないと思います。御旅行に行かれる場合、美術館巡りを加えると、最低でも1週間滞在しないとここに記載された施設を見ることができないと思いますが、参考にして下さい。  マウスを置くと画像が出ます。
B.C.59@カストウルム(Castra) ローマの駐屯地(約500mx400m四方)として。カッシア街道のアルノ川の渡し場の守り。現在の共和国広場周辺。
10CAカロリング時代の市域 アルノ側に少し拡張。人口約5000。
11CB洗礼堂(S.Giovanni)、Cサン・レパラータ教会(S.Reparata大聖堂地下) 東北の隅に。
12CDサンミニアート・アル・モンテ教会(S.Miniato al Monte)、アルノ河畔にE聖アポストリ教会(SS.Apostoli 最も古い教会)Fヴェッキオ橋(Ponte Vecchio 1178) 人口約20000
13C
ゴシック
Gミケランジェロの丘からの眺望 3つの橋、第二の城壁、Hカッラーイア橋(1218)Iグラツィエ橋(1237)J聖トリニタ橋(1252)。人口100000。
Kアルノ(Arno)川、Lサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(S.Maria Novella 1221) 1456-71アルベルティ正面改修
Mカピターノ・デル・ポポロ Bargello(Capitano del Popolo))宮殿(1255)、塔 171塔(比較:サンジミニアーノ72塔>現存15塔)
13C末Nサンタ・クローチェ教会(S.Croce 1226)Oアヌンツィアータ教会(SS.Annunziata 1248)Pサン・スピリト教会(S.Spirito 1250)Qカルミネ教会(S.M.Carmineルネサンス絵画発祥の教会 1771) アルノルフォ・ディ・カンビオ(建築家)
R大聖堂(Duomo 1296)、Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio1299-1500代) カンビオ関与(大聖堂広場、シニョーリア広場、聖トリニタ教会、ビガッロ柱楼等)
14C21シニョーリア(Signoria)広場、22トリニタ(S.Trinita)教会、23ビガッロ(Bigallo)柱廊、街区の構成、24ダヴァンザーティ(Davanzati)宮殿 cf. 京都の町屋構成
25バディア教会再建(Badia 1285) 26オルサンミケーレ教会(Orsan Michele1290) 27サンタクローチェ(S.Croce 1294) ペストの流行、皇帝党と教皇党の争い。発展がにぶる。
15C
ルネサンス 
R大聖堂のクーポラ(1426) 27サンタマリア・デリ・アンジェリ(S.Maria degli Angeli集中形式の教会1433) ブルネレスキ(建築家)
28インノチェンチ救護院(Spedale Innocenti 1426) ブルネレスキ
29聖ロレンツォ教会(S.Lorenzo 1442-1524) ブルネレスキ
P聖スピリト教会(S.Spirito 1444-87) ブルネレスキ
31パッツィ礼拝堂(Capella Patti 1443-46) ブルネレスキ
30サン・マルコ修道院(S.Marco 1444-16C) 図書館・ミケロッツォ
32メディチ宮殿(Medici Riccardi 1444-64) ミケロッツォ
33ルッチェライ宮殿(Ruccellai 1446-51)、34ストロッツィ宮殿(Storozzi 1466-1504) 外観・美しいオーダー。アルベルティ、ダミアーノ
35メディチ家礼拝堂(Capella Medicei 1521-24)、ラウレンツィアーナ図書館(Laurenziana 1524) ミケランジェロ
16C
バロック
36新市場柱楼(Mercato Nuovo 1551) 37ベルベデーレ要塞(BelVedere 1590) 38フィレンツェ城壁都市1871,現代1975 タッソ,ブォンタレンティ
Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio -1500代) ヴァザーリ他。大公国の政庁舎
39ウフィッツィ宮殿(Uffizi 1560-80) ヴァザーリi他。大公国の事務棟
40ピッチ宮殿(Pitti 1458-1549) ヴァザーリi他。メディチ家の宮殿
41ローマ門(Porta Romana) 42城壁(Murra) 43塔(Torre) 大公国の城壁


<参考>城に関係する歴史
 年代順にお城に関する事項をまとめてみましたので参考にしてください。 この色をクリックするとヨーロッパ100名城選定に使用した画像(約1200枚)がご覧になれます。また国別城郭画像もご覧になれます。
ヨーロッパの城日本の城
オリエント(BC1728ハムラビ王BC1358ツタンカーメンBC1004ダヴィデ)
BC25C-メソポタミア(ウル、ニネヴェ、バビロニア)
エジプト(テーベ、カルナクの神殿)
ギリシア(BC1200トロイ戦争BC800ホロメスBC500ペルシア戦争
BC431ペロポネソス戦争BC336アレクサンドル大王)
BC17C-12Cエーゲ(トロイ、クレタ、ミケーネ)
ミュケーナイ、チンリス遺跡
BC8C-4Cアテネ、アクロポリス、アゴラ、ピレウス
ポリス(デルフィ、ミレトス、リンドス、オリンピア)
植民地(パエスツム・アグリジェrント)
ローマ初期(BC753ローマ建国BC578セルヴィウスBC509共和制縄文期
BC8C-4CBC272イタリア統一BC218ハンニバルBC60シーザー)ーBC4C戦争はない
イタリア・エトルスクの山上都市弥生時代(239卑弥呼)
ヴォルテッラ、ペルージアBC3C-AC3C倭国大乱(魏志倭人伝)
BC4Cローマ・セルヴィウス(6代王)の城壁(土塁・柵)環堀集落
アルク(城塞)・ガリア人の侵入後石塁(BC378)那珂遺跡(福岡)
BC4Cヒル・フォート(丘の砦)土塁・避難大塚遺跡(横浜市)
MaidenCastel(英・ケルト人)板付遺跡(福岡)
ローマ盛期(BC27オクダヴィアヌス117ハドリアヌス293ディオクレティアヌス
306コンスタンティヌス395ホノリウス476オドアケル)
BC1C-2Cローマのカストウルム(Castra/要塞・駐屯地)
ハドリアヌスの長城(英)
リーメス・ゲルマニクス(ザール・ブルグ・独)
サクソン人のブルグ(城市)・街の防衛古墳時代(413仁徳)
ポンペイ遺跡3C-7C豪族居館
3Cディオクレチアヌスの宮殿(スプリト/クロアチア)三ツ寺遺跡(群馬)
271ローマ・アウレリアヌス城壁(d4mh10m)原之城遺跡(群馬)
381の塔(30m毎)・城門吉野ヶ里遺跡(佐賀)
サンタンジェロ城(ハドリアヌス廟)
402ホノリウス改修(h15m)
サンセバスティアーノ門・サンパオロ門日本・古代
408西ゴート(アラリック)・455ヴァンダル(ガイセリック)古代(593聖徳太子630遣唐使661天智663白好江の戦
(481フランク王国493東ゴート王国527ユスティニアヌス7C-10C649藤原京710平城京743墾田私有794平安京)
568ランゴバルド800カール829イングランド962オットー)防衛ライン
山城(神籠石列石)
永納山山城(東予市)
キリスト前期東ローマ・ベルサリウス朝鮮式山城
6Cチュニジアのアイン・トンガ(石塁と隅塔)大野城跡(大宰府)水城
サラセンの街(グラナダ、トレド)城柵(きかき)
864シャルル2世(禿頭王)・ピートルの告示(築城権)多賀城柵(宮城県)
対ノルマン、マジャール政策。教会領(異民族説得)都城(山河池で防衛ライン+居館+寺)
モット(土塁)・アンド・ベイリー(木囲い地)
平安・鎌倉近江京、平城京、平安京
ロマネスク(1077カノッサの屈辱1122ウォルムス協約1130シチリア王国)(1017藤原道長1083源義家1167平清盛
1066ノルマン・コンクエスト>ロンドン塔>ホワイト・タワー(石)11C-15C1192鎌倉幕府1274,81元寇1338室町幕府)
領地を分け与え城を作らした。荘園の発生、防御施設9C班田制の崩壊、荘園制と武士
知行制(給与から土地)と家士制。武士の館と城
チェプストー城(ウェールズ)(石の矩形のキープ)安堵(所領)と奉公(従軍)・守護地頭
ウィンザー城>1170ラウンド・タワー(ヘンリー2世)堀の内、土居(土塁と堀)、侍廊
12C十字軍(1096-)による石造技術の取り入れ・巨大化田畠、牧場、矢場、氏神、氏寺
シェル・キ-プ(貝殻囲壁・城壁)武士の館(国立歴史民族博物館)
キープやドンジョン(天守・塔・砦)根城(青森県)
地下道と死角の欠点を補正
(1215マグナカルタ1223フランチェスコ教団1241ハンザ同盟
1271マルコポーロ1309アヴィニオン幽囚1350ペスト流行)
築城家ジェームズ・オブ・セント・ジョ-ジ
縄張り、塔と城壁。主塔は不要。中庭、居住区
キャフェリー城(ウェールズ・ド・クレア家)
コンセントリック(同心円)
キープ・ゲイトハウス(城門)
城砦
ガイヤール城・シノン城・プロヴァン(仏)
アンジュー城・ブロア城(仏)
エグモール・フーゼール(仏)
カステル・デル・モンテ、ナポリ新城
ラインの関税徴収城(64)・ねずみの塔(独)
エーレンフェルス、ラインシュタイン(独)
ライヒェンシュタイン、ゾーネック、ザイン(独)
ゴシック城壁都市
13C交通の要地・渡渉点・市場>都市
ローテンブルグ(独)
旅商人・巡礼者の宿泊地(ウィク)
ヴェネツィア
城塞教会・修道院
アヴィニヨン(仏)
モンサンミッシェル(仏)
アッシジ
モンテカッシーノ
クリュニー
領主都市(城下町)
カルカッソンヌ(仏)
中世・イタリアヴェロナ、ソアベ、フェッラーラ、マントヴァ
ウルビーノ、サンレオ(伊)
司教座都市
ローマ時代からの諸都市
サンマリノ(世界最古の共和国)
ローマ(中世)
トスカーナの城壁都市
フィレンツェ(カストルム・渡渉点・金融業)
シエナ(カストルム・市場・金融業)
モテリッジオーニ(戦略砦)
サンジミニアーノ(塔の街)
ヴォルテッラ(エトルスクの街)
ルチニャーノ(農村の中心)
ルネサンス(1304ダンテ1431ジャンヌダルク1434コジモ1446ブルネレスキ戦国時代(1467-77応仁、文明の乱1543鉄砲伝来
1453百年戦争終結、東ローマ帝国滅亡1478ロレンツォ148115C-16C1547信玄の民政55ヶ条1573室町亡)
イル・モーロ1479スペイン王国1492コロンブス1519ダヴィンチ戦国大名と城郭、縄張り
1517ルター1527ローマ簒奪1541カルヴィン1547フランソワ1世曲輪(郭)、掘切、切岸、竪堀、土塁
1564ミケランジェロ)鉄砲・大砲の時代古宮城(愛知県)、杉山城(埼玉県)
15C-16C領主館グスク(沖縄県)
中庭・要塞・鉄砲狭間・ピアノノービレ(積層)
ミラノ・スフォルツェスコ城、イモラ砦
砲台・保塁近世(1582本能寺1592朝鮮出兵1603江戸幕府
フェッラーラ16C後期-1637島原の乱39鎖国1854安政和親条約)
パルマノーヴァ織豊系城郭
ルッカ天守、館、城門、石垣、堀
サンタンジェロ城の基壇瓦、鉄砲狭間(漆喰壁)、枡形、馬出
トリノ、ウィーン、アムステルダム城下町(楽市・楽座)
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要債17C-安土城(滋賀県)伏見城(京都府)
近世(1569トスカナ大公国1603エリザベス1世1610アンリ4世幕藩城郭……権威の象徴、大名の住居
17C-18C42清教徒革命49クロムウェル43-15ルイ14世1701プロシア)
居住重視、ヴィッラ江戸時代の天守(残存12城)
ピッチ宮殿、ヴィッラ・ジュリア弘前城、松本城、丸岡城
ロトンダ、ヴィッラ・バルバロ、ヴィッラ・ランテ犬山城、彦根城、姫路城
ファルネーゼ、テ宮殿松江城、備中松山城、松山城
高知城、丸亀城、宇和島城
庭園付城館その他の天守(再築)
ヴィッラ・ピサーニ(ヴェネト)江戸城、大阪城、名古屋城
パラッツォ・レアーレ(ナポリ)二条城、会津若松城、小田原城
ヴェルサイユ・パリ郊外岡崎城、福山城、高松城
ロワール河・シュノンソー、シャンボール(仏)中津城、熊本城、宇土城
ホエーンツオレルン(独)平和な時代
近代(1776独立宣言1789フランス革命1804ナポレオン帝政近代(1869明治維新)
19C1848二月革命1870普仏戦争)19C砲台
ノイシュヴァンシュタイン城(独)懐古趣味五稜郭(函館)


<謝辞、出典>
 このホームページは公益財団法人・日本城郭協会主催の公開講座や市民講座の講演(淑徳大学、武蔵野大学、目黒区、府中市等)に集めた資料を基に作成したもので、以下の皆様のご協力いただいています。また、出典の分からない画像も使用させて頂きましたが、削除のお申し出がありましたら即座に消去致します。
 最後になりましたが改めて皆様に感謝致します。(平成31年2月)

1.画像提供 公益財団法人・日本城郭協会(井上宗和、中城正堯、東伸宏、山中和正、西内一)
2.引用、参考文献 Touring Club Italiano編『Nuova Guida Rapida ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Castelli e Fortificazioni d'ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Guida EUROPA FRANCIA,GERMANIA,GRECIA』
 E.Detti著『Citta Murale e Sviluppo Contemporaneo』Edizioni C.I.S.C.U
 L.Benevolo著『Corso di Disegno』EDITORI LATERZA
 P.Pierotti著『Urbanistica:Storia e Prassi』MARCHI & BERTOLLI EDITORI
 井上宗和『ヨーロッパ古城ガイド』グラフィック社
 紅山雪夫著『ヨーロッパの旅・城と城壁都市』創元社
 太田静六著『ヨーロッパの古城・城郭の発達とフランスの城』吉川弘文館
 野崎直治著『ヨーロッパ中世の城』中公新書
 ジョセフ・ギース、フランシス・ギース『中世ヨーロッパの城の生活』講談社学術文庫
 ハインリヒ・ブレティヒャ著『中世への旅・騎士と城』白水社
 同明社発行『ビジュアル博物館・城』
 日本城郭協会監修『日本百名城公式ガイドブック』研究社
 朝日新聞社編『城の語る日本史』
 千田嘉博著『戦国の城を歩く』筑摩書房
 石松好雄・桑原滋郎著『大宰府と多賀城』岩波書店


 お城に興味のある皆様、イタリアに行かれることがあれば、お城だけではなく街のバールに飛び込んで是非、市民意識を味わってきてください。
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<版画万華鏡・3>
美しき養蚕神に秘められた少女たちの哀話
中城正堯(30回) 2019.01.20
天竺から流れ着いた美少女“金色姫”

図1.「衣襲明神」浮世絵 歌川芳員 嘉永安政頃 筆者蔵
 前回の「石の宝殿」は、加工された巨石が御神体だった。今回は、江戸・明治にわたって広く信仰された美しい女神像二点を紹介しよう。その名は「衣襲明神(きぬがさみょうじん)」である。まずは幕末の浮世絵師・歌川芳員(よしかず)が描いた衣襲明神の立像(図1)で、周囲には賛を書き連ねてあるが無題。芳員は歌川国芳の弟子で美人画も得意だっただけに、気品ある女神像に仕上げてある。では、画像・賛の詳細からさぐろう。
 立像の女神は、吉祥天のような衣服を着て、頭に鳳凰の冠と絹の反物を載せ、沓(くつ)をはいている。右手には蚕の種紙を、左手には桑の小枝を持つ。衣装の胸には、なぜかうずくまった馬の図がある。画面下部に落款「一寿齊芳員画」と版元印「藤慶」があり、幕末の歌川派絵師・芳員が、江戸通油町・藤岡慶次カの店から版行したとわかる。女神の周りを埋める賛には、およそこんなことが書いてある。
<かけまくもおそれおおくも、これは養蚕の祖神、常陸国日向川(ひなたがわ)村、蚕霊山(さんれいざん)聖福寺の衣襲明神である。この神を祭れば、養蚕をする家は蚕がよく育ち、蚕屋のネズミを防ぎ、蚕はすべて繭となり、万倍の利益を得る。一般の男女がこの神を信心すれば、衣食住とも恵まれること疑いなし>
 江戸後期の養蚕ブームで、常陸国日向川村(現茨城県神栖市日川)聖福寺の養蚕護符「衣襲明神」が評判になり、数多く作られた。この錦絵護符は、嘉永安政(1848〜60)頃に出た一枚だ。当時、この衣襲明神は聖福寺境内に祀られていた。由来は、こう語られている。
<孝霊天皇(紀元前285年)の春3月。豊浦浜(日川)の漁師権太夫が、沖に漂う小舟を引き上げてみると、世にも稀な美女が倒れていた。少女は天竺(インド)霖夷国の金色姫で、国一番の美女だったが継母に憎まれ、桑の木で造ったうつぼ舟に乗せられ海に流された。豊浦浜に漂着、権太夫に愛育されるが病死して蚕となり、養蚕をこの地に伝えた。金色姫と権太夫に感謝して、村人は蚕霊神社を造営した>
江戸のコピーライター馬琴が生んだ衣襲明神

図2.「衣襲明神之像」富山版画 明治時代 筆者蔵
 天竺からの金色姫漂着による養蚕伝来説話は、室町時代の写本『蚕の草子』(慶應義塾蔵)にすでにあり、つくば市蚕影山神社にも伝わる。しかし、なぜ衣襲明神と呼ぶのか、胸の馬は何を意味するのかなど不明であり、関連史料をさぐってみた。古くからの編集仲間で歴史家の関口一郎氏から近江礼子氏(民俗学研究者)を紹介いただき、論文「茨城県神栖市の聖福寺と蚕霊神社の養蚕信仰」を入手した。さらに、町田市博物館刊『養蚕機織図』に各種の養蚕護符図と「蚕の神仏」と題する畠山豊氏の論考があり、わが書庫にも『蠶神考』(村島渚著 明文堂 昭和8年)・『売薬版画』(根塚伊三松著 巧玄出版 昭和54年)などが眠っていた。これらによって、衣襲明神誕生の意外な経緯や拡散ぶりが判明した。
 江戸後期から明治にかけての養蚕ブームを反映して、『養蚕機織図』には30種類を超える養蚕の神仏護符が掲載されていた。その最古の作品が、文政10年(1827)に鶴屋喜右衛門版行の「衣襲明神」であり、絵師名の落款はないが撰文は「曲亭陳人」とある。『南総里見八犬伝』で知られる曲亭こと滝沢馬琴が、八犬伝を執筆中に書いたものだ。彼の日記には、「文政10年1月20日に鶴屋から依頼あり、鹿島の千手院聖福寺などで調査させる。3月19日に稿を終える」などと、経緯がきちんと記されている。
 筆者所蔵の芳員作品の賛は、ごく一部の表現を変えただけで馬琴の撰文をいわば流用している。この流用は、明治時代の各種「衣襲明神」まで続く。養蚕農家にとって、蚕の種紙を購入したあと、無事に繭に育て上げるまでには、桑の栽培やネズミの害防止などさまざまな課題があり、神頼みをせざるを得なかったようだ。その心理を巧に汲み取り、さらに一般民衆に対しても、この護符の御利益を説いてある。
 養蚕の祖神「衣襲明神」の名称も馬琴の創作であり、古事記や日本書紀、さらには現在の神名辞典にも登場しない。「衣笠・絹傘」をもじっての造語であろう。神道の古典的な養蚕守護神・稚産霊神(わかむすびのかみ)などに代わって、民間信仰として興った衣襲明神が農民の信頼を得たのだ。馬琴は江戸を代表する戯作者だけに、コピーライターとしても見事な筆力で、平賀源内がうなぎ屋におくった「土用うしの日」と並ぶ名作だ。ただ画像は、女神の容姿・表情・色調とも芳員の浮世絵が最も優れている。明治時代の女神は、化学染料によるどぎつい彩色が多い。胸の馬も馬琴にちなむともいうが、根拠不明だ。
 ではここで、同じ衣襲明神ながら女神立像でなく、騎馬像のタイプを見てみよう。「衣襲明神之像」(図2)と神名が大書してあり、「富山市袋町高見喜平版」とある。薄墨の馬にまたがった女神の装束は立像とほぼ同様だが、宝冠をかぶり、帯状の天衣をひらめかせ、右手に種紙を左手に手綱を持ち、馬の足元にはまっ白の繭が散らばる。
オシラサマが伝える馬と少女の悲恋

図3.「オシラサマ」左が馬頭 北上市博物館 筆者撮影
 富山市の高見喜平は、富山版画とか売薬版画と呼ばれる錦絵の版元であり、この神像画も越中富山の置き薬行商人が、薬のおまけに付けて喜ばれた錦絵護符である。幕末明治には生糸が輸出の花形商品となり、養蚕ブームとなる。そこで養蚕農家への薬のおまけとして、名の知られた衣襲明神が登場する。富山では江戸時代から養蚕の種紙も作られ、やはり行商人が販売を担当、これも養蚕神錦絵制作につながったようだ。
 富山版画の衣襲明神にも、馬琴の撰文を簡略化して付けたものがあり、女神の姿・所持品も類似しているが、なぜか女神が馬に寄り添った像や、騎馬像が現れる。『売薬版画』は、三種類の「衣襲明神」を載せ、「関東・東北地方の養蚕地帯へ持っていき、配ったもの」と述べ、さらに岩手県遠野の伝説が生んだ信仰の中に「オシラサマ」(図3)という悲話があるとして、柳田国男の『遠野物語』から、こう紹介してある。
<昔あるところに貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養う。娘この馬を愛して夜になれば厩舎(うまや)に行きて寝(い)ね、ついに馬と夫婦になれり。或る夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きいたりしを、父はこれを悪(にく)みて斧をもって後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマというはこの時より成りたる神なり>
二つの養蚕神の習合拡散、そして退場

図4.「蠶女」『中国~仙画像集』
(上海古籍出版社)より
 遠野では昇天した娘が蚕となって現れたという伝説から、馬と娘の顔を桑の木に刻み、養蚕神オシラサマが誕生したとする。馬産地ならではの伝説でもある。柳田は「オシラ神の話」(『柳田國男全集15』)で、津軽のイタコ(巫女)の語りにも昇天した馬と姫二つの霊が桑の木に降りて虫になり、養蚕が始まったとあることを述べ、この話が二千年前の中国『捜神記』「馬の恋」とほぼ同一であることに触れている。『中国~仙画像集』には「蠶女」として、『捜神記』の神話が画像(図4)とともに紹介してある。 二十数年前に、岩手県遠野市、北上市、青森県恐山などを駆け巡った。その際、遠野で見かけた白馬にまたがる娘の絵馬(図5)が、強く印象に残っている。桑の木に馬頭や男女の顔などを刻んで布切れを着せたオシラサマは、各地で見かけた。しかし、養蚕神にとどまらず農家の守護神であり、

図5.「馬と娘」絵馬 遠野市 現代 筆者撮影
イタコが神の託宣や死者の口寄せをする際の祭具でもあると聞かされた。オシラサマの伝説には、貧乏な百姓の娘ではなく長者の娘とか尊い姫など異説がある。遠野には、<馬を殺された娘が、馬の皮を小舟に張り、海に出てある海岸に漂着、亡きがらからわきだした虫が蚕になった>という話も伝わることを、今野円輔が「オシラ神に関する諸問題」(『民俗―馬の文化史』馬事文化事業団)で論じている。

図6.「多賀大社像」画幅(部分)
木版手彩色 筆者蔵
 遠野のオシラサマは馬と娘の異類婚姻譚(いるいこんいんたん)であるが、そこには常陸の金色姫漂着譚の混在も見られる。江戸後期から、常陸聖福寺では金色姫に由来する蚕霊尊(馬鳴菩薩の化身)の出開帳を養蚕地帯で行い、護符も配布したという。おそらく遠野へも、富山へも足をのばしたであろう。富山の薬行商人も、当然関東から東北にかけて広く得意先を抱えていた。こうして、養蚕神の画像や由来譚は、いつしか「金色姫漂着譚」系と「馬と娘婚姻譚」系が習合、騎馬女神像も立像の胸の馬も誕生したと思われる。騎馬神像自体は、延命長寿で知られる近江の多賀大社像(図6)などと同じ形状だ。 厳しい農作業に明け暮れた各地の農民は、農閑期に常陸の巡礼僧が背負ってきた蚕霊尊を拝みつつ哀れな金色姫の説話を聞くのも、越中富山の薬売りから美しい色摺の衣襲明神像をもらって馬と娘の悲恋物語を教えられるのも、なによりの楽しみであっただろう。土地の神社・寺院に勧請され、定着する養蚕の神仏も増えたのだ。

図7.「蚕家織子之図 第壹」浮世絵
歌川国芳 天保頃 公文教育研究会蔵
 江戸の町民も養蚕への関心は高かったようだ。浮世絵には、美人画で知られる勝川春章・北尾重政による「かゐこやしなひ草」、喜多川歌麿の「女織蚕手業草」、さらには歌川国芳が人物を子どもに置きかえて描いた「蚕家織子之図」(図7)など、数多くの養蚕浮世絵が版行されている。いずれも、種紙の掻きたて、採桑飼育、繭煮、糸繰り、機織りまでの作業が、図解されており、美人画・子ども絵であるとともに、養蚕の手引図になっている。
 明治になると神仏分離が強行され、常陸聖福寺では衣襲明神を祀る蚕霊神社が独立、寺は馬鳴菩薩を祀る。養蚕業の大ブームもあって、衣襲明神・金色姫・馬鳴菩薩など、さまざまな養蚕神仏像がもてはやされた。だが、養蚕産業の衰退とともに、養蚕神は急速に退場、艶やかな絹糸の輝きの背後にあった守護神・金色姫たちも姿を消す。だが、残された浮世絵の養蚕護符や子どもの養蚕絵からは、当時の養蚕への人々の熱い想いが伝わってくる。次回は、戦前高知でも見られたが、今や全国的にも消滅寸前の打毬(和製ポロ)の画像をお見せしたい。
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<版画万華鏡・2>
なぞの名所絵版画「播州石宝殿」と巨石文化
中城正堯(30回) 2018.12.23

水に浮かぶ巨石がご神体
 昭和61年(1986年)から、くもん子ども研究所の「子ども浮世絵による江戸子ども文化研究」の担当となり、早速浮世絵収集を始めた。主な収集対象は、遊びや学びなど子どもの生活風俗を描いた子ども絵、そして母子絵、さらに子どもが紙工作や豆本・豆図鑑として楽しんだおもちゃ絵である。収集先は、神田の古書店、そして古書会館で毎週末に開かれる業界の即売会、またデパートの催事場で当時はよく開催されていた「古本市」などであった。むろん、大阪出張の際には梅田阪急の古書店街や京都の老舗古書店・浮世絵店にも立ち寄った。

図1.「帝釈天像」町田市立
国際版画美術館「中城コレクション」
 やがて、「子ども浮世絵」収集者のいることが業界に伝わり、眠っていた子ども関連の作品が続々市場に現われ、作品収集は予想以上に進展した。その過程で多彩な分野の版画作品に出会い、江戸時代の豊かな出版文化に触れることができた。子ども絵以外でも興味深い作品に出会った。その一つが「帝釈天像」(図1)など、江戸庶民の神仏への信仰心をうかがうことができる護符や、社寺参拝案内の名所絵である。渥美清の映画「寅さんシリーズ」の舞台として知られる柴又帝釈天には、日蓮自らが刻んだと伝わる板本尊がある。安永8年(1779年)に本堂修理の際に見つかり、護符として流布した。これら個性的で愛らしい神仏像・護符の類は個人で購入して楽しんだが、順次美術館などに寄贈している。

図3.「播州石宝殿図」筆者蔵
 さらに不思議なご神体図に出会った。ここに掲げた「播州石宝殿図」(図2)である。上部に松の生えた巨石と拝殿が描かれ、「東・西」の方位と「四方三間半むね(棟)へ貮丈六尺、高峯岩」の文字、そして万葉集第三から「大汝小彦名乃將坐(おほなむち すくなひこなの おハします)志都乃石室者幾代將経(しつのいはやハ いくよへぬらん)」の歌を添えてある。どうやら播磨国(兵庫県)の神社・御神体を描いた社寺名所絵の一種だ。絵の筆致や紙質から、明和安永頃(18世紀中葉)の作品と思われる。
 続いて「播州国石宝殿」(図3)の題で、水辺に浮かぶような巨石を描いた縦長の版画を見付けた。画幅に仕立てるための版画で、やはり万葉集の歌が添えてある。制作年代は、幕末か明治初年だろう。もう一点は、「播州石宝殿」の朱印を押し、「はりま いしのはうでん」と題した袋入りで、絵図二枚と神社縁起一枚がはいっていた。絵の一つが「播磨国石宝殿真景」(図4)で、明治中期の石版刷りだ。神社縁起には、「神代の昔に大穴牟遅(おおあなむち)と少毘古那(すくなひこな)の二神が天津神の命を受けて一夜で石の宮殿造営を始めたが、賊神鎮圧のために宮殿を正面に起こす前に夜明けを迎え、未完成となった。だが、二神の霊はこの岩に永劫に籠り、国土を鎮めると仰せになった。よって、石の宝殿、鎭の石室と称する」などとある。

図2.「播州国石宝殿」筆者蔵

図4.「播州国石宝殿真景」筆者蔵
 これらの版画は、石の宝殿を御神体として祀る生石(おうしこ)神社(兵庫県高砂市)が発行した宗教版画であるが、社寺巡りのための名所案内絵でもある。なお、石宝殿は、「いしのほうでん」と読むので、以下本文では「の」を入れて「石の宝殿」と表記する。

シーボルトも見学した「日本三奇」の一つ

図5.シーボルトの見た石の宝殿 『Nippon』より
 短期間で三種類の版画が入手できたことから、この「石の宝殿」が江戸後半には人気が高く、数多くの作品が摺られただろうと推測できた。古い文献で少しさがすと、司馬江漢『西遊旅譚』(寛政6年)や渕上旭江『山水奇観拾遺』(文化10年)に絵入りで紹介されていた。さらに、シーボルトも文政9年(1826年)の江戸参府の際に立ち寄り、写実的な絵図(図5)を残している。江戸の人々は何事でも番付に表わしたが、「大日本国中 不思儀競」(発行年未詳)にもあり、東が「天之逆鉾」「天之橋立」…、西が「高間ヶ原」「石之宝殿」…と続く。霧島の天之逆鉾は、慶應2年に坂本龍馬がお龍と訪ね、逆鉾を抜いたことでも知られる。合計186の不思議の中から、石の宝殿は堂々西の2位だ。また、霧島神社の「天之逆鉾」、塩竃神社の鉄製「塩竃」とともに、「日本三奇」とも呼ばれていた。

写真@ 石の宝殿、左側面
 筆者撮影

写真A 上から見た左側面
 筆者撮影
 これほど著名な名所だったのに、昭和の時代、特に戦後は忘れられた存在になっていた。だが研究書では、『日本の謎・石宝殿』(間壁忠彦/葭子、六興出版、昭和53年)、『古代巨石文化の研究』(吉原博見、白帝社、昭和57年)などで詳細に論じてあった。『角川日本地名大辞典』(角川書店、昭和63年)高砂市の項に、「竜山の中腹に、生石神社の神体となっている石の宝殿がある。幅6.5m・高さ5.7m・奥行5.6mの直方体背面に、角状の突起をつけ、奥行の全長が約7mある巨大な石造物…」と記載、7世紀に造られた火葬場ではないか、とも述べてあるが謎だらけだ。あとは、現地を探訪してさぐるのみだ。
 平成11年(1999年)、姫路城からの帰途に、ようやく石の宝殿を探訪することができた。山陽本線姫路駅から各停で三駅、神戸方向にもどると「宝殿駅」がある。タクシーで生石神社門前まで行き、高い石段を登ると立派な社殿が現われる。これが拝殿で、中央を抜けると御神体の巨石が鎮座している。岩山をくり抜き、奥の突起を屋根として、家を横倒しにした形状だが、周りの岩壁との間隔が狭く、標準レンズでは納まりきらない。ワイドレンズを待たずに来たのを悔やみつつ撮った写真が@〜Bである。

写真B 右後部からの石の宝殿と景観 筆者撮影
 写真@は左の側面だが、下部も中心部を除いて削られ、確かに石全体が水たまりに浮かんでいるように見える。ここから「浮き石」の名称もついている。Aは同じ側面を上から見下ろした写真で、上部にはかなり大きい常緑樹が茂り、拝殿とも間近に接している。Bは、反対側の上から見た景観で、柵に囲まれて御神体上部の茂み、拝殿の屋根、そして背後に古代から現代まで続く竜山の石切場が連なり、左奥には遙かに高砂の工業地帯が望める。古代には、竜山のすぐ麓まで海岸が迫り、竜山の石棺は海路畿内へも運ばれていた。高砂の港は古代から九州と畿内を結ぶ舟路の中継地で、謡曲『高砂』の舞台でもある。
 巨石を宮殿形に加工した古代石工の技術に驚き、江戸の人々が神わざと感じて「日本三奇」にあげたのも理解できた。社殿に「算額」を掲げてあったのも、幕末のこの神社の人気ぶりを示している。算額は和算の難題に挑んだ数学者が、解答を額にして名のある神社に奉納したもので、この算額は三角関数を駆使して解いた幾何の難問であった。宮司からお話を伺い、「生石神社略記」などをいただいて、神社を後にした。

巨石信仰の系譜を追って高知、エジプトへ

写真C 姫路城備前門の
左右石垣に使われた石棺 筆者撮影
 石の宝殿は、いつ、だれが、なんのために、どんな形状に造ろうとしたのか、拝観したことから疑問を解く糸口がいくらか思い浮かんできた。まず、直前に訪ねた姫路城の本丸備前門の石垣で見かけた竜山石の石棺(写真C)である。今に残る姫路城は池田輝政の築城であるが、羽柴秀吉が中国攻めの際に大急ぎで造った際の石垣から石材をかなり流用しており、この石棺も秀吉時代の石垣から再利用した可能性が高い。いずれにしろ、播磨国一帯は古墳が多々あり、くりぬき式の石棺が出土しているのは、古代石工文化の豊かな発達を示している。その背景には、663年白村江の戦いで唐・新羅軍に日本・百済軍が敗れた際、日本に渡ってきた百済の石工によって伝えられた石垣造りの技術伝承があるのではないだろうか。これらの石垣は神護石(こうごいし)と呼ばれ、北九州から山陽道各地にかけての古代山城遺構に残る。岡山県の山城「鬼の城」もその一つである。

写真D 明日香村の「益田の岩船」筆者撮影
 古代石造文化でこの石の宮殿に類似のものに、奈良県明日香村の「益田の岩船」(写真D)がある。石の宝殿同様の家形で、屋根を手前に横倒しになっており、側面(現状では上部)には四角い切り込みがある。約715トンの日本最大級の石造物だが、起こせば7世紀頃の終末期古墳の石室と同じ構造の、壮大な横口式石槨である。石の宝殿も、同じ家形の横口式石槨と思われるが約500トンあり、さすがに起こせなかったようだ。上部に岩船同様の切り込みが想定されるが、御神体のため上部樹木の部分を発掘調査できず、現在も確認できないとのことであった。石の宝殿の製作時期も、万葉集に出てくる石室とこの巨石とは必ずしも結びつかないが、『播磨国風土記』にある「家の形の大石」は、記載された寸法・場所から明らかに石の宝殿を指しており、竜山の石棺工人が最も活躍した時期でもある7世紀の製作と推定される。古墳時代の強大な豪族が製作を命じたのであり、貴人の遺骸を収めた石棺を安置し、祀るための石槨だったと考えられる。この不思議な巨石自体を御神体として祀ったのは中世以降であろう。

写真E ウルルでの筆者 1965年 矢島康次撮影
 巨石文化は国内各地に残り、高知県では足摺岬の唐人駄馬遺跡が知られる。この巨石群は一部岩面に線刻が見られる程度で、自然石である。ただ、巨石周辺から縄文・弥生の石器や土器が出土しており、巨石信仰の祭事空間であったと推定される。海外では、オーストラリア原住民の聖なる岩山ウルル(エアーズロック、写真E)が、同様の位置付けだ。
 巨石に加工を施した巨石記念物も世界各地に残っている。筆者が訪ねたのは、アブシンベルとギザ、チリのイースター島、インドネシアの二アス島とスマトラ島だが、エジプトでは製作を中断したオベリスク(写真F)も訪ねた。さらに、国際的写真家・野町和嘉氏からいただいたエチオピア写真集『ETHIOPIA 伝説の聖櫃』を開き、ラリベラの岩窟教会

写真F 製作を中断した
エジプトのオベリスク 筆者撮影

写真G エチオピアの岩窟教会 
野町和嘉『ETHIOPIA 伝説の聖櫃』より
(写真G 世界遺産)を見て驚いた。巨大な岩盤を十字の形を残して掘り下げ、教会を造ってあるのだ。古代からの洞窟信仰とキリスト教が習合、6〜13世紀に造られたとある。播磨での石の宝殿誕生とも時期が重なり、篤き信仰心が生んだ偉大な石造技術に驚嘆した。
 石の宝殿は平成26年に国の史跡指定を受けた。高砂市教育委員会文化財係によると、最近「石の宝殿研究会」が誕生、パワースポットとしても話題になり、次第に見学者が増加しつつあるという。次回「版画万華鏡・3」では、美しい蚕神様の浮世絵を紹介したい。
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<版画万華鏡・1>
土佐中での出会いから生まれた浮世絵コレクション
中城正堯(30回) 2018.11.25

巡航船で通ったバラック校舎で戦後民主教育

筆者近影
 敗戦から間もない昭和24年(1949年)に、土佐中学に入学した。ここでの3年間が、その後の人生を決めたと言っても過言ではない。編集・出版の世界に進んだのも、浮世絵の収集研究を始めたのも、この3年間があったからである。
 まだ、学校にも街中にも高知大空襲の傷跡が残り、校舎は高知市池にあった海軍航空隊兵舎の払い下げを受けたバラックだった。兵舎を解体、先生・生徒一体となって潮江(塩屋崎町)まで運んで建てた汗の結晶だった。

昭和27年2月に、校舎玄関前に勢ぞろいした新聞部員。
 戦災で灰燼に帰した校舎の復旧と、教育改革によって新制中学・高校となった土佐中高の新たなスタートの先頭に立って奮闘したのは、昭和20年3月に第3代校長に就任した大嶋光次先生であった。校舎焼失ばかりか、宇田・川ア両家からの基金も消失したなか、少数精鋭の教育から、生徒増員によって自前での経営基盤確立を目指すとともに、男女共学をいち早く取り入れ、自治会やクラブ活動を奨励、戦後体制への衣替えを計った。いっぽう、建学理念である人材育成・大学進学にも注力、さらに報恩感謝を強調した。

版画で制作した年賀状
「坊さんかんざし人形」
 入学当時の学校の雰囲気は、『新聞向陽』(後に『向陽新聞』)で思い出すことができる。昭和24年7月発行の第3号トップ記事は「われらの新校舎遂に落成」で、木造二階建て新校舎の第一期工事が完成、落成式典の様子を報じている。二面には、「苦い経験 ストの理由とその反省」とある。これは、国立大学設置法案に学園の自治をないがしろにする条文があるとして、大学生のみならず高校生も巻き込んでの反対運動が、学園ストにまで発展した記事だ。

中高時代の自作版画。「女性像」
中一の教室にも、高校生の活動家がアジ演説に来たのを覚えている。さらに、「各部便り」には、生物班「中山先生の指導でヘビの飼育場も作る」とか、野球部「土佐中県下大会に出場」とある。中学野球部は、市予選を勝ち抜いて県大会への出場権を得たのだ。野球ブームで、休み時間にも手作りのボールを持って校庭に出て遊んだ。
 肝心の授業など学校生活はどうだったか、とにかく素晴らしい先生が揃っていた。海辺の田舎(種崎)育ちで、焼玉エンジンの巡航船で30分かけて高知桟橋に着き、さらに土電で梅ヶ辻へ出て通学した。校舎はオンボロながら、先生方は数学の公文公、生物の中山俊馬、漢文の吉本泰喜など碩学揃いで、充実したユニークな授業に引き込まれた。オンカンこと中山先生は、来高した天皇陛下に高知産貝類のご説明役を仰せつかるかと思えば、試験問題は高知新聞連載の時代小説から貧乏浪人の長屋暮らしを引用、「この小説に出て来る動物を分類せよ」であった。その動物とは、ムカデ、ゲジゲジ、ナメクジ・ゴキブリ・ノミなどだ。
 他にも、各教科に山下芳雄(理科)、伊賀千人(社会)など後に大学教授になる研究心旺盛な先生や、タコ、カマスなどの愛称で呼ばれ、独自の授業展開で生徒を魅了するベテラン教師など、多彩であった。

公文先生・版画・新聞部、中学3年間で3つの出会い

平成5年、高知で講演する公文公先生
演題は「土佐から世界へ」。
 入学した280名4クラスへの組分けで、たまたま公文公先生のB組になった。先生は土佐中の7回生で、大阪帝国大学の数学科1期生、戦争中は海軍の数学教授であった。戦後は帰郷し、高知商業を経て母校の教諭となり、初めてクラス担任となったのだ。毎年組替えがあったが、幸い大町玄君と筆者は3年間ずっと公文クラスに在籍した。
 公文先生は、戦後の文部省カリキュラムに添った教科書による一斉授業だけでは、生徒の学力を十分伸ばすことはできないと考え、知寄町の自宅での指導も開始した。後に、「生徒のために旧制土佐中のように学年より先へ進める授業をしたかったが、学校に理解してもらえなかった。そこで、家へ生徒を呼び、代数の問題集と英文講読を始めた。個人別自学自習でどんどん先へ進んでもらった」と、語っている。当時の教室では、公文俊平・川村克彦両先輩(28回生)が、助手をしてくれていた。今や世界中で428万人が学ぶKUMON式の源流は、旧制土佐中教育と公文先生の高知での私塾であった。
 筆者にとって楽しかった授業は美術で、洋画家の鎮西忠行先生が水彩画を、彫刻家の横田富之助先生が彫刻や版画を指導してくださった。特に高知女子大から教えに来ていた横田先生の、木版画制作に魅せられた。参考資料にあった北斎や広重の版画を真似て、「富士山」の多色摺年賀状(2018年7月、このHPに掲載ずみ)を制作、その後もロダンの彫像や「坊さんかんざし人形」などを版木に刻み、刷り上げた。坂本龍馬も見たという我が家の襖の絵「田原藤太百足退治」が、江戸後期の木版浮世絵であることにも気付かされた。

実家にあった浮世絵 「田原藤太百足退治」(歌川国麿、弘化・嘉永頃)
 クラブ活動は、同級の大町君にさそわれ中2から新聞部に入部した。戦後の学園民主化にとって、自治会とともに校内の自由な報道言論機関として、重要な役割を担っていた。同学年では、浅井伴泰、千原宏、武市功、横山禎夫、大原譲が、1年上には中山剛吉、下には島崎(森下)睦美などがいた。そして、なにより熱心に指導してくれたのは27回生の岩谷清水先輩であった。また、戦災からの復興再建をリードした大嶋校長も、授業編成から授業料値上げ、入試のあり方、教師・生徒双方の問題行動まで、学校運営に関する新聞部取材にきちんと対応いただけた。ただ、晩年は校内規律が緩み、某教諭が部活動の積立て金を私的に流用、退職金で穴埋めして転校するという事件もあった。この取材に対し、校長は率直に事実を認めたが、記事にはできなかった。高校卒業直後の昭和30年4月には、高知新聞によって教師による中学入試問題の漏洩がスクープされた。学校の対応が遅れ、ついに生徒は同盟休校に突入、ようやく事件の解明と校内刷新が進展した。
 土佐中で出会ったこの公文先生、版画、そして新聞部が40年後に結びつき、「子ども浮世絵」の収集・研究が後半生の大仕事になるとは、思いがけないことであった。

子ども浮世絵研究とヨーロッパ巡回展

子ども絵「風流をさなあそび」 (歌川広重、天保初期,公文教育研究会蔵)。
 中学から高校進学にあたっては、あらかじめ4名の担任が発表され、生徒にクラス選定がゆだねられた。中学でのB組を中心に我々は公文クラスを希望していたが、突然公文先生の大阪の高校への転任が知らされ、呆然となった。しかし、大学を出て就職するとともに恩師との交流が次第に復活した。特に、公文式教育が昭和37年に大阪数学研究会として会社組織になると、岩谷清水(27回生、後・取締役教育主幹)が東京教室の第一号を開設、やがて林(梅原)三洋子はじめ土佐中での公文クラスの女子教え子や、男子教え子の夫人が続々公文式教室を開いた。公文先生が独自に開発した数・英・国の教材による、個人別自学自習の指導法や学習効果に共感でき、収入にもつながったからだ。
 しかし、会社創設初期には教材開発、指導者養成以外に、資金調達、労働争議、教材の流出・模倣といった難題が次々に降りかかった。禎子夫人をはじめ、その実弟長井淳三、公文先生の長男公文毅、甥国澤建紀(36回生)など親族が事業に参画、さらに土佐中B組だった武市功(30回生、後副社長)、浅岡建三(中卒で転校、顧問弁護士・鑑査役)も経営中枢を支え、次第に体制が整った。昭和49年(1974年)には、海外最初の教室がニューヨークに開設され、見城徹(現幻冬舎社長)が企画した公文公著『公文式算数の秘密』(廣済堂出版)がベストセラーとなり、一挙に全国で生徒が急増した。

ヨーロッパ巡回展モスクワ会場
左はロシアの文化大臣、右奥筆者。
 この間筆者は、新聞部での企画・取材・執筆の楽しさや、記事の手応えが忘れられず、大学卒業に際しては新聞・出版に絞って就活を続けた。マスコミ大手はどこもダメだったが、なんとか新興の学研に入社できた。雑誌や書籍の編集を担当し、公文公編『愛の算数教室』も刊行した。最後は美術部所属となったが、ここでは『在外秘宝』と銘打って、北斎や歌麿の浮世絵名作を収めた豪華画集を刊行中であった。浮世絵の名作は、多くが海外に流失していることに気付かされた。
 この頃、公文教育研究会では経営も軌道に乗り、出版活動にも着手、武市功君から「公文公会長、公文毅社長が、出版担当で来て欲しいといっている。ぜひ来い。」との呼びかけがあった。こうして、昭和56年に公文に移籍、出版部(後にくもん出版として独立)の責任者に就任。その5年後に、くもん子ども研究所が設立され、兼務として理事になった。研究テーマを求められ、前例のない「浮世絵を絵画史料として活用した江戸子ども文化研究」を提案、自ら子どもに関する浮世絵など絵画史料の収集と研究に着手した。

浮世絵に関する筆者の編著書
 浮世絵による子ども文化研究の直接的な経緯や成果は、冨田八千代さん(36回生)の問いかけに応え、このHP(2018.9.2)で「回想 浮世絵との出会いと子ども文化研究」として発表のとおりである。土佐中での版画制作と、実家の浮世絵、出版界での浮世絵との再会、そして公文先生からのお誘い、これらの背景があって子ども浮世絵では世界一の「くもん浮世絵コレクション」が誕生した。展示活用では、国際交流基金による平成10年から翌年にかけての「ヨーロッパ4か国巡回展」が忘れられない。まず「ロシア日本祭」での日本を代表する美術品としてモスクワ東洋美術館で展示、パリ、エディンバラ、ケルンと巡回し、好評を得た。研究成果は、数々の編著にまとめたので、その写真をあげておこう。

 <版画万華鏡>と題したこの随想では、既刊の編著書からこぼれ落ちている版画に関するさまざまな思い出や、調査研究の断片を拾い集めて順次映し出したい。次回は兵庫県高砂市にあるなぞの巨石神殿「石宝殿(いしのほうでん)」の、護符版画を紹介しよう。
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公文 敏雄(35回) 2017.02.25小村彰次期校長訪問記

小村 彰 先生より

ご注文の写真ですが、元がよくないので
あんまり写真を撮られたくない方で、手
持ちもありません。教職員プロフィール
をスキャンしたもので、ご容赦下さい。
 多くの皆さまから本校へのご協力をいただけるよう、精一杯努力してまいりますので、何かできることがございましたら、ご遠慮なくお声かけをいただければと思っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。
略歴
土佐中時代野球部
土佐高時代バドミントン部
(2年連続団体・個人単複インターハイ出場)
1974土佐高校卒業(49回生)
1978大阪大学人間科学部卒業
土佐中学高校教諭(社会、公民)
1979-2003クラス担任(24年連続)
1978-1991中学野球部顧問
1992-2001バドミントン部顧問
2004-2009広報担当・広報部長
2010-教頭 

****************


筆者近影
 2月16日に母校を訪問、小村彰教頭(社会科)に表敬・面談いたしました。 高知支部幹事井上晶博さん(44回)がアポイントを取ったうえ同行してくれました。 井上さんは土佐女子中・高教頭を経て現在高知県私学団体総合事務局長として 多忙を極めており、小村教頭とも長らくご昵懇ゆえ和やかな雰囲気で30分ほど 懇談できました(深謝)。一部をご披露いたします。

1.第二次百年委員会答申に対して
 小村教頭は答申起案に参画されたよしで、ある意味「責任がある」とのことです。 当然ながら重く受け止めておられ、先生方の声を反映させるというボトムアップの 校風に留意しながら、時間はかかるが、ひとつひとつ対処するお考えです。 答申冒頭で「人材輩出という建学の目的と目的実現のための基本方針」を総括して いますが、これに沿うことに尽きると思われます。

2.100周年(2020年)に向けて
 母校100年誌の制作方針については学識経験者に検討を依頼中で、3月中には 概要が発表される見通しだそうです。皆さまもご意見をよせられては如何でしょう。
 KPCから寄贈を受けた「土佐中学創立基本資料集」は貴重な存在で、関係者はじめ 理事、教員、図書館などに配り、活用していただいているよし。
 同窓生・父兄の協力を仰いでいる「新世紀募金」に関連して、最近1億円という大口の 寄附があったことが話題になりました。「先生方の海外派遣に使ってほしい」という条件が 付いているそうです。グローバル化は21世紀の流れであり、ガーナ高校生との交流行事 なども含めて(小生の名刺は「ガーナよさこい支援会幹事」)、今後注力せねばならない とのご認識です。私のほうからは、例えば甲子園出場支援という目に見える目的があって こそお金が集まるわけだから、資金活動には目的の具体性・透明性が肝要という点を お考えになってほしいというお願いをいたしました。

3.抱負について
 ずばり「土佐校らしい学校」というお答えでした。 その心は?「今夏の関東支部同窓会への出席を楽しみにしている」そうですので、 その折直接同窓生諸兄姉に語りかけらることでしょう。お楽しみに! (蛇足ですが、せっかくトップをお招きするのですから、大学進学統計と寄附のお話で 終わるのは何たること・・・喝!というのが小生の本音です。)
 
追伸: 井上さんは長年教職に携わられたキャリアと現職を通じて経験と人脈を拡げ、県内外の 学校教育事情に通じておられます。土佐高からの帰途、中心街まで一緒に歩きながら その一端を伺いました。筆山会やKPCの集まりなどで表裏いろいろお話していただき たいな、出来る事なら 百周年にも関わってほしいなと思ったものです。
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―このままでよいのか高知市の桂浜公園整備案
公文 敏雄(35回) 2017.02.01狭い場所に建設工事が目白押し


筆者近影
 街づくりのボランティアグループ「森の中の高知駅」ホームページに「高知の観光名所」(桂浜)というスペースを新設した機会に、高知市ホームページに公表されている「桂浜公園整備基本構想」をじっくり読んでみました。その感想は、「いったん白紙に戻して出直すのがベストでは?」というものです。

理由をいくつか挙げてみます。

○狭い場所にあらゆる整備計画をてんこ盛り
 大小の駐車場、土産物売店、飲食店、宿泊休憩施設、催し物賑わい施設、複数の展望台、遊歩道と案内板、エレベーターやエスカレーター、遊覧船発着係留施設、親水テラスなどの整備・新設、龍馬記念館増設、樹木の剪定と伐採などなど、方々から出たアイデアを全部取り込んだような感じです。これではまるで博覧会場です。
 基本構想の「理念」としてうたう自然景観の保全とどう折り合いをつけるのでしょうか? この整備案には「景観評価」が完全に欠落しています。

○今ある施設をまず全部取り去ることから始めよう
 駐車場は桂浜公園内に無ければいけませんか? 水族館は浦戸湾岸に移設して日本一の「こども水族・水遊館」に衣替えすれば、遠足や家族連れで賑わうでしょう。龍馬記念館も桂浜公園を離れたらずっと立派なものができるでしょう。土産物屋や飲食店、宿泊施設、賑わい施設、展望台、船の発着場なども同様です。 
 移設先候補は近隣地区の遊休地・空き家などです。龍馬像など「絶対桂浜に置かなければならないもの」だけの整備に絞り込むことで、白砂青松の広大な自然、月の名所とうたわれた景勝地が復活し、周辺地区の潜在価値掘り起こし(活性化)にもつながるのではないでしょうか?

○種崎、長浜、御畳瀬、浦戸湾を外して「歴史」を語れますか?
 もうひとつの基本理念は「歴史」ですが、これを桂浜公園という狭い地域だけで表現するのは無理があり、かつ勿体ない話です。かつての漁師町長浜・御畳瀬、交易と水軍の里かつ龍馬ゆかりの種崎・浦戸湾などは貴重な文化遺産です。過去千年にわたる人々の営みと歴史ロマンに事欠かない周辺地域を含めた歴史公園化を目指して、龍馬を生んだ土佐らしい壮大なデザインを描いたほうがよいのではないでしょうか? 

○住民、都市景観専門家、行政で徹底的に議論を重ねよう
 長年にわたってみんなに愛され親しまれてきた桂浜です。無理な急ぎばたらきはよして、各地のプロジェクト事例に学び、近年発達が著しい景観デザイン、都市デザインの専門家の知見も取り入れ、お互いに議論を戦わせてベストな計画を作り上げたいものです。
(「森の中の高知駅」幹事)

****************
種崎の御船頭の末裔で浦戸湾に造詣の深い中城正堯(30回)さんから次のご意見が寄せられました
 公文敏雄さんの「桂浜整備計画」への意見に、全面的に賛成です。今後の観光開発は、自然景観と歴史的遺産の保存・活用を抜きにしては語れません。
 戦後の高知の行政は、浦戸湾関連に限っても、浦戸城趾の破壊による国民宿舎・龍馬記念館の建設、狭島の爆破、種崎中洲の埋め立てなど、貴重な史跡・自然の破壊が目に余ります。
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公文 敏雄(35回) 2016.11.25続・教育ビジョンとは何か?


筆者近影
 本年6月7日、向陽プレスクラブHP主張・論評欄で、平成30年春開校予定の小中一貫校「志明館小中学校」が掲げる教育ビジョンを紹介させていただきましたが、このほど建学構想の詳細が同校ホームページ(http://shimeikan.education/)で発表されました。
 「設立目的」(ビジョン)、「教育方針」(戦略)、「教育内容」(具体的施策)という経営計画3原則を踏まえた、丁寧で解りやすい内容になっています。地元の政・経・教育界有志が注ぐ熱い思いの顕れという点で、土佐中學校創立時のいわゆる「建学の精神」(向陽プレスクラブ編の冊子「土佐中學を創った人々−土佐中學校創立基本資料集」に詳述)を髣髴とさせ、かつ21世紀の時代環境に即した新しい私学教育の一つのモデルケースとして、経年劣化の危機に瀕するいわゆる伝統校再生へのヒントを含んでいるのではないかと考えます。その骨子は以下のとおりです。

一、設立目的
「誇りと志のある」日本人の輩出
○世界に誇るべき日本人の長所である、「和・誠・礼・勇」の4要素を備えた人間を育成。
○幕末、明治維新の主力を担った多くの逸材を輩出した江戸の私塾教育、日本経済の礎を築いた明治・大正の大実業家、これら大いなる先達の生き方や残した言葉を手本として学び、その魂、熱意、大望をいま再び思い起こし、現代の日本で復活させる。

二、教育方針
「知・徳・体・志」を合一する初等教育。目指す人間像とは
○自国の歴史・伝統を正しく学び、美しき母国語を語る闊達な児童
○自己の意思を臆せず表明し、相手の意見にも耳を傾ける情操豊かな生徒
○健全な身体に鍛え上げ、万物と共生しつつ公に向かう使命感溢れる青年
○卓越した学力・識見を基盤とし、異文化への理解と敬意を湛える国際派日本人

三、教育内容
1.新教科の設置(国学に親しみ、国史を展き、現代を知る)
○新教科「国学」の設置
・神話・偉人伝に学ぶ…先人の生き方を手本にしながら、志を定める。
・古典素読…論語・十七条憲法・実語教等などに親しみ、生き方の芯を創る。
・美しい日本語…名作・名文を体系的に吸収し、和歌を詠み、敬語を伴う簡素な日本語の表現方法を学ぶ。
○新教科「総合日本史」の設置
・「国史」を中軸に据えつつ、自国と相関する世界史を合わせて学ぶ。
・世界と日本を形作った人間の営みを学び、人類愛と愛国心を涵養する。
○新教科「グローバル(現代世界)」の設置
・現代日本及び世界における社会現象や国民心理の淵源・経緯を遡及し学ぶ。
・自らの志とリーダーシップをもって、国際的に活動できる実践力を涵養する。
2.学力向上の取り組み(実学を深め、実践を重ねる)
○効率的学習メソッドの開発・導入
・民間教材メーカー・学習塾等と共同し、短時間・高効率の独自カリキュラムを開発・実践する。
・母国語や英語を駆使し、発表・討論・交渉活動を豊富に体験し、実践的コミュニケーション能力の育成を行なう。
○修学スケジュール及び制度の合理化
・低学年より教科担任制を導入、中学校二年一学期までには文科省指定授業全内容の修了(教科・習熟度別クラス分け)
○学外学力評価制度の導入
・校内定期考査(中間・期末テスト)を廃止し、代わりに全国統一模試・漢字検定・数学検定・TOEIC等の学外学力評価制度を採用しながら、分析的・客体的な習熟度を高める。
3.総合的な学習(自然に触れあい、伝統に遊ぶ)
○体験・実践型カリキュラムの導入
・和文化体験…「道」と名のつく茶道・華道・剣道・空手道などを早期から体験し、自国の伝統精神を学ぶ。
・放課後裏山遊び(小学校低学年)…自然に触れ友情を養いつつ、様々な遊びを創意工夫し日々心身を錬磨する。
・寄宿教育(小学校高学年より中学校卒業)…生活の基礎となる自律・礼儀・協調・切磋琢磨・5S(整理・整頓・清掃・清潔・躾)を、共同生活を通じて学ぶ。
・指定図書500冊読破・スピーチ大会出場・海外語学使節団…読書を通じ自ずと学ぶ姿勢を身に着けながら、得た学びや志を臆せず表明し他者へ伝達し得る言語力(日本語・英語)を学ぶ。また海外提携校へ語学選抜チームを派遣し、語学の練磨と文化交流から学びを得る。
○身心一如(肉体・精神不可分)教育の実践
・クラブ活動・部活動…積極的競争主義を基盤に優劣を明示し、高い目標設定と勝利へ向かう不屈の精神を学ぶ。
・毎月登山(夏は遠泳・冬は寒稽古)…大自然の中で規律と忍耐を養い、頑健な身体を作る。
・校内農園・食育…農作業を通じ、生かされている事、「いのち」をいただく万物への感謝、和食の高度な文明性を学ぶ。
○その他
・地域学習…地元宗像大社の諸行事に奉仕し、温故知新の精神を学ぶ。
・ジョブシャドー・インターンシップ…親の職場体験・地域の企業見学を通じ、家族の絆を確かめ、経済活動の現場を垣間見る。
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2016年(平成28年)8月22日(月曜日)一高知新聞『所感雑感』
中城 正堯(30回) 2016.08.25浦戸城趾に"元親やぐら"を


筆者近影
 桂浜を訪ねる度に大変残念に思うのは、観光開発の陰で素晴らしい自然景観と史跡が損なわれていることだ。特に、史跡として重要な長宗我部元親の居城「浦戸城」の本丸(詰の段)周辺が、観光道路・国民宿舎・駐車場によって破壊されている。
 かつて山内一豊の入国と高知城築城にともない、浦戸城の三重天守は三の丸の櫓となり、石垣はすべて運び出されたとされていた。しかし、山内家「御城築記」に「苦しからざる所はこわし取り」とあるとおり、本丸周辺の石垣はかなり残してあったことが、1991年からの浦戸城址発掘調査で判明した。当時の高知新聞には、「南北総延長約百mにわたる石垣群を発見」とある。石垣は裏込石を使った高石垣であり、瓦や鯱などの出土品もあつて、浦戸城が四国で最も早く「土の城」から脱皮し、天守と高石垣を備えた先駆的「石の城」であつたことを示していた。

浦戸城本丸址からの眺望
 ところが、地元民の保存運動にもかかわらず、石垣は調査後に埋め戻され、本丸跡はかえって見苦しい状況となった。しかし、太平洋に突き出た半島の地形を巧みに利用して縄張りされた浦戸城の各曲輪の跡や、堀切・竪堀などはまだ残っている。水軍の基地であった浦戸の漁港や、城下町に組み込まれていた 種崎を含め、浦戸城の遺構を保存しつつ、貴重な高石垣など城址の復元にむかっての長期的取り組みが望まれる。
 そして、早急に着手して欲しいのは、本丸跡への"元親やぐら"の建造である。元親にとって浦戸城は、初陣で長浜城に続いて勝ち取った思い出深い城であり、周辺の地形も熟知していた。後に浦戸湾口を本拠地にしたのは、秀吉による朝鮮出兵だけでなく、国内交易にも、堺や薩摩にならっての南蛮貿易にも、造船・海運・水軍が不可欠と考えたからだ。この雄大な構想を育んだのは、城山からの360度の大眺望であろう。南には大空と大海原が果てしなく広がり、北には浦戸湾の彼方に四国山脈がそびえ立つ。

樹林におおわれた天守台址
ここに建てた天守は単に湾口の監視塔ではなく、壮大な夢の発想基地であった。
 桂浜の魅力は箱庭的海浜ではなく、城山に立って初めて味わえる自然と歴史が織りなす壮大な景観美だ。だが今に残る天守台は、樹林に覆われて展望がきかない。そこで、天守台の隣接地に、丸太組みで浦戸城三重天守と同じ高さの望楼"元親やぐら"を建てることを提案したい。中世から土佐の特産品であった材木を、伝統の技で組み上げ、元親と同じ目線で絶景を楽しみ、潮風や海鳴りを五感で味わって感性を呼び起こし、自らの生き方に思いを馳せる思索の場とするのだ。
(財団法人日本城郭協会顧問)



高知新聞『所感雑感』
<追記>
 新聞に掲載後、早速地元の方々から電話をいただきました。その中で気になるのは、従来通りの観光開発がすでに二つも立案されていることです。それは、県立坂本龍馬記念館の新館増設と、高知市による「道の駅」新設で、ともに自然環境・史跡への保護がどれだけ配慮されているか疑問です。今回の原稿が、桂浜および浦戸湾口の自然と史跡の保護活用に役立つ事を願っています。
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公文 敏雄(35回) 2016.06.07教育ビジョンとは何か?


新会長近影
 いわば第二の建学が期待されている母校の創立100周年が目前です。それに呼応する動きとして、山本校長によれば、新たな寄付制度「土佐中高・新世紀募金会」の内容が近々発表されるよし(「向陽」2015年11月号)ですが、どんな学校を目指しているのかという教育ビジョンを含めた、募金の「趣意」を先ずは示していただきたいと思います。
 たまたま、九州に新しい小中一貫私立学校が出来るという下記(末尾)のような報道記事を見て、「設立趣意書」を取り寄せてみました。なかなか立派な内容なのでここもとご紹介させてください。参考になるのではないでしょうか?              
「志明館小中学校」設立趣意書のPDFファイル添付
・・・・・・・・・・・・・・記・・・・・・・・・・・・・・・・・

「志明館小中学校」設立趣意書の一部
 小・中一貫校設立で調印 立地、福岡・宗像の市有地に福岡の経済界や教育界の有志が設立を目指す小・中一貫校の立地場所が福岡県宗像市の市有地に決まり、同市役所で19日、谷井博美市長と発起人会幹事会代表の橋田紘一氏(九電工相談役)らが基本協定書に調印した。校名を「志明館小中学校」(仮称)とし、平成30年春の開校に向け本格始動する。 
 予定地は宗像市河東にある森林丘陵地の市有地約5万平方メートルで、今後市議会に提案し、貸借か売却かなどを決定する。総事業費は40億〜50億円とみられ、経済界、教育界で作る発起人会を中心に、賛同者からの寄付金でまかなう。
 志明館は、戦後教育が子供の自主性や権利を過度に重視してきた反省に立ち、かつての「武士道」的教育と、学力向上によるリーダー輩出を目指して、経済界を中心に構想が浮上した。発起人会が、宗像市と立地について協議を重ねてきた。
 宗像市は、福岡、北九州都市圏の中間で交通の利便性が高く、自然環境が豊かなこともあり、新設校の立地に適切と判断した。市内にある福岡教育大などとの連携も望めるという。
 男女共学の1クラス35人で、1学年3クラスを想定する。教育理念は「知・徳・体の総合力を培い、使命感と志にあふれた明るくたくましい人材を育成する」ことを掲げた。週6日制で授業を実施し、福岡県トップレベルの高校進学も目指す。(以下略)
以上 (2015年1月20日 産経ニュースより)
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『新聞とネット、主役交代が鮮明に』への感想
中城 正堯(30回) 2016.04.16
公文敏雄様
 最近の「新聞報道」へのご意見、報道のあり方を真剣に考えているようで、感心しました。小生の感想をお伝えします。
 
 まず、山尾志桜里議員の首相への質問、たまたまテレビ中継を見ていまし

筆者近影
た。さすが元公文の優秀児らしい、追及ぶりで感心しました。首相の答弁は かなりおざなりでした。横浜のS先生の教室出身で、生徒の頃の勉強ぶりを 思い出しました。 翌日の新聞ではあまり取上げられていませんでしたが、ネットで火がついて、 新聞は後追いになっていました。
 
 新聞報道のあり方、1.経営理念としての「公正な報道」、2.報道商品の品質 「報道の正確さ」・・・、これらよりも大切なことは、「真実の追及」ではないでしょ うか。「なにが公正か」は立場によって異なり、新聞報道は公正より「真実」を 大事にすべきです。真実の追及なら、反体制も反権力も関係ありません。また 新聞が、体制にどんな姿勢をとるか、各社に違いがあって当然です。
 ただ、ミスリードのあった場合は率直に読者に謝る必要があります。かつて事実 に反し、民主党のひどい提灯持ちをした評論家が、今もテレビでしゃべっている のを見るとがっかりです。新聞社も記者も、そして政治家も「けじめ」が必要です。 山尾さんも、タクシーカードについて、真実を明らかにする必要があり、報道 機関には、保育問題の実態と共に、この追及も必要です。
 マスコミは、新聞もテレビも花形職業になりすぎ、高学力か有力なコネがないと 入社できず、「真実の追及・報道」に命をかける人材が社内に少なくなりました。 今では活字の世界では週刊誌、それも外注のフリーランス記者の執念によって 特ダネが生まれている実情です。あとは、活字媒体でないネットの世界の活性化 がたよりです。
 
 なお、公文の優秀児とは、在籍学年より先に進んで教材を解く力を付けた生徒で、 山尾さんは小学6年で高校程度に進み、トップグループにいました。同時に、中学 ではミュージカル「アニー」の主役も務め、東大法学部に進みました。
 
 吉川さんはじめ、マスコミ関係者のご意見もお聞きしたいです。
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新聞とネット、主役交代が鮮明に
―「保育園落ちた日本死ね」騒動が示すもの―
公文 敏雄(35回) 2016.04.08

 

筆者近影
 今年の2月15日、ひとりの子育て主婦がネット掲示板に匿名で投稿した五百字ほどの記事「保育園落ちた日本死ね」(子供が保育園に入れなかった。働けないよ、どうする。国会議員を半減してでも保育園を作れ!という訴え*(注)が、またたく間にフェイスブックなどネット口コミで拡がり、ヤフーなどのネットニュース、更に朝日、NHKを含む主要テレビが報道、29日には衆院予算委員会で取り上げられた。 
 野党議員の質問に安部首相や関係閣僚がバタバタする場面や、取ってつけたような保育園増設促進・保育士給与引き上げなどの諸策の発表をテレビ・新聞がフォローしたので、ご記憶の方も多いであろう。
 (注=原文は、「はてな匿名ダイアリー」 に掲載されています)
 
 私がこの騒ぎの発端を知ったのは投稿の2〜3日後にネットで見たヤフー・ニュースだった。テレビ・新聞はまだ触れていない。「日本死ね」は過激だし、趣旨も目新しくは無さそうだと読み流してしまい、その後の波紋の拡がりを想像できなかった。 
 旬日のうちに思い知らされたのは、ソーシャルメディア(ネット掲示板、ブログ、SNS=フェイスブック・ツイッター等)やネットニュースサービスなどを媒体として大衆の間でネズミ算的に爆発する口コミ(良かれ悪しかれ)の脅威であり、(政治のお粗末さはさて置くとして、)表舞台に上がり損ねた新聞の頼りなさであった。
 
 前世紀半ば過ぎまで数百年にわたりメディア(情報媒体)の王者として君臨してきた新聞だが、戦後普及したテレビとの棲みわけが一段落したと思ったら、近年は難敵インターネット(ネット)に襲われ、今や中原を追われかねない様相である。スマートフォンを操作する乗客だらけの通勤電車に乗れば事態は一目瞭然とはいえ、念のため直近の統計を調べてみた。
 ネットの利用者は昨年1億人を突破(総務省)、広告費収入(5,615億円=経産省)も新聞広告費収入(3,580億円=同)を大幅に凌駕して増え続けている。一方、新聞発行部数は落ち込む一方で1990年代のピークから1千万部減らして昨年は44百万部(日本新聞協会)、頼みの新聞広告費収入も同期間に半減(経産省統計)している。「新聞離れ」は蔽い難い事実だということがわかる。
 
 さて、新聞は、この不都合な真実=「パラダイム・シフト」に対処して種々の策を講じていると考えたいが、統計を見る限りでは、時代に取り残されつつあると言わざるを得ない。そこで、長年の忠実なる読者の目から見た「ここがおかしいのでは?」を幾つか挙げてみよう。
1.経営理念
 「公正な報道」を掲げるならば、右に偏らず左に偏らず、米英側に非ず中ソ側に非ず、この国を愛するという基本を踏まえてほしいが、紙面を見る限りでは、必ずしも看板どおりではないようだ。経営理念(社是)が不鮮明だったり揺らいでいたりすると間違いや迷走が起こり、衰退していくのは、業種を問わない真理ではないだろうか。
 例えば「権力を監視する、暴走を防ぐ」までは頷けるとして、某紙のように「反権力」(権力=悪)を唱え出すとおかしくなる。勢い余って「反日」となると、とてもお付き合いできない。また、昔ながらに政府・資本家(悪)対市民・労働者(善)と社会を二つに割り切るあまり、現実から遠ざかっているのではと感じることもある。
 「社会の木鐸」(世人を覚醒させ、教え導く人=広辞苑)の役割も崩れかけているようだ。メディアと大衆との間に大きな知識・情報格差があった時代ならともかく、今の世ではいかがなものだろうか?人間としても立派なプロ中のプロたる記者・編集者を揃えたうえでの話ならば別であるが、エリート意識が歩いているような新聞人が少なくないのが気がかりである。
2.報道商品の品質
 ネットの弱みである「報道の正確性、信頼性」はどうだろうか。偏見に基づいたねつ造や誤報が記憶に新しい。或いは、政府や、政党、企業、団体の伝声管・拡声器に堕していないだろうか。情報が溢れかえっている時代だからこそ、「取材力・判断力」に加えて「編集力」(加工ではない)が期待されているのではないだろうか。(かつての社説や新聞小説に代わって、今や書評欄が最も読まれかつ影響力が有ると聞き及ぶ。)
3.販売ルート
 新聞販売店を通じた宅配は、紙面広告と違って、ヒモの付かない貴重な収入源だといわれる。しかし、運営方法次第で、これが資産にも負債にもなりそうである。流通業界の激しい変動を見るにつけ、経営資源の投入が不可欠だと思われるが、古臭いままに放置されてはいないだろうか?
4.時代への適応(IT化、少子高齢化、グローバル化)
 上に挙げた根本問題に加えて、時代変化への機敏な対応・適応が求められているのは言うまでもない。似たりよったりの電子版が答えなのか?たとえば有力ブロッガーのコラムを設けるとか、若者、子育てママ、介護者、外国人ジャーナリストなど外部に紙面編集や執筆を託してみるなど、色んな試みがもっと出てきてよいのではないか?新聞が変わるのは無理で、恐竜のように死に絶えてしまうしかないのだろうか?就職人気企業ランキング上位に有力紙が名を連ねた時代を知る者として、哀惜に堪えない。
 
 恥ずかしながら管見を連ねましたが、皆様のご教示・ご意見が頂けますと幸いです。
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中城 正堯(30回) 2015.05.28龍馬最後の帰郷と種崎潜伏


筆者近影
 慶応三年(一八六七)九月、坂本龍馬が最後の帰郷をした際に高知市種崎に潜伏したことは、昭和七年三里尋常高等小学校刊の『村のことども』で紹介されているが、郷土の記録を綿密に掘り起こしたのは山田一郎であった。本稿ではその成果を活用しつつ、高知市民図書館「中城文庫」に収録された中城直守・直楯親子の原史料を極力提示し、龍馬の種崎での行動の意義とその時代的背景を明らかにしたい。ここに示した「龍馬役者絵」は、明治二○年に高知座で初めて上演された「坂本龍馬一代記」の役者絵である。なお、文中で古文書引用の際には、読み下し文に直してある。

車輪船沖遠く来たり

「龍馬役者絵」藤原信一画 明治二○年
 坂本龍馬の乗った芸州藩震天丸が慶応三年九月二三日、種崎沖に現われたのをいち早く発見したのは、中城直守(助蔵)であった。彼は文政十年(一八二七)以来、『随筆』と題する筆録を死の前年明治十年まで五十年にわたって書き続けてきた。その慶応三年の項に、「九月二十五日早朝、車輪船沖遠く来たり。而して碇を下ろす。午時(正午)に袙渡合に入る。而して碇泊。芸州船の由」とある。
 直守は四年前の文久三年に、御軍艦奉行の旧格切り替えによる江戸雇いの車輪船乗員と旧来の御船手方のあまりの待遇格差に反発、種崎の松原に同志を糾合、先頭に立って連判状をつくり、反対運動を展開した。このために格禄を召上げられたが、慶応元年に長男・直楯による大廻御船頭継承が許された。隠居ながら、早朝には沖(太平洋)を見に家を出る習慣だったようで、舷側の車輪を回して走る蒸気船を発見したのだ。船が港外にいったん投錨後、浦戸湾に入って種崎の対岸にある御畳瀬の袙に碇泊するまでを見届けている。山田一郎は当日の月齢を調べ、港外で投錨したのは満潮を待つためであり、二五日としてある震天丸の来航は実は二三日であったと『坂本龍馬―隠された肖像―』で述べている。なお大廻御船頭とは、土佐から江戸へ直行する五百石ほどの帆走藩船の船長格であり、大坂までの小廻御船頭と区別していた。ともに下級武士・下士である。
 直守の『随筆』には、震天丸発見当時の様子に続けて、「才谷梅次郎・中島作太郎・小沢庄次等三人、使者の趣をもって上陸、夜に入り梅次郎(空白)二人吸江の亭に行く、渡辺弥久馬と対談あるの由なるを、弥久馬故ありて来ず、金子平十郎来たれる由也、すこぶる皇国に関係するところの大儀なる趣のよし、梅次郎は実は坂本龍馬なり。今この人、皇国周旋の事件に付きすこぶる名誉ありて海内の英雄ととなう」とある。『随筆』には数日間の出来事をいちいち日を追わずに記載してあり、この部分も龍馬たちの入港当日の動きだけではない。文中人物の中島は海援隊士、小沢は三条実美の家臣・戸田雅楽、渡辺は土佐藩仕置役、金子は山内容堂側用役であった。
 最も注目すべきは、「皇国周旋の事件」に触れていることだ。これは、慶応三年六月に「夕顔」船上で龍馬が後藤象二郎に説いてまとめ、長岡謙吉に執筆させた大政奉還の建議で、後に「船中八策」と呼ばれる。後藤はこれを山内容堂に示し、同意を得た上で九月一日から京に上っていた。「土佐藩政録」には、「九月、山内豊信(藩主)天下の形勢日にせまるを見て、後藤象二郎をして上京せしめ、書を幕府に上り、土地兵馬の大権を朝廷に奉還し、王政を復古し、ひろく衆議を採り、富国強兵の鴻基(天皇の大事業の基礎)を建て、万国と信義を以て交際を結ばんことを請う」とある。九月に入り、薩長は大政奉還を幕府が拒んだ場合にそなえて兵を上京させ、武力蜂起の準備をしていた。土佐藩にも建白書提出にとどまらず、武装強化・兵員上京という武力行使の準備を促すための帰国であった。

才谷は色黒、満面よみあざ
 直守は全く触れていないが、龍馬が帰郷したこの日、中城家には龍馬から震天丸に迎えに来て欲しいとの知らせが届いたようで、直楯は小舟をこぎ寄せ、密かに龍馬一行を中城家に案内していた。その記録は、直楯の長男・中城直正(初代高知県立図書館長)が、残した『随聞随録』(明治四○年筆記)にある。母・早苗からの聞書である。
「坂本龍馬 才谷梅太郎。母二二の時、直正出生の前年来宅(母妊娠五ヶ月の時)、一絃琴を玩べり。坂本は権平の弟にして郷士御用人、本丁に住す。才谷は色黒、満面よみあざ(そばかす)あり。惣髪にて駐重紋付羽織袴。[白き絽なる縞の小倉袴]梨地大小(打刀と脇差)、髪うすく、柔和の姿なり」。続いて小沢・中島などの姿・容貌にも触れ、「氏神神事の日(旧九月二三日)に来宅。旧浴室にて入浴。いずれも言語少なし」とある。
「当時坂本は小銃を芸州藩の船に積込み、佐々木(高行)に面会のために土佐へ来たれり。本船は(袙にある)袂石のところに着く。父上(直楯)、その朝召に応じて出で行かれしが、能勢作太郎(後・楠左衛門、平田為七の甥)と共に一行を案内して薮の方より宅に導きしなり」。
 これが聞き書きの前半である。氏神とあるのは、仁井田神社(高知市仁井田)であり、神事とはその秋祭りの日であった。「その朝召に応じて」とあるが、だれから呼ばれたのかは記載がない。おそらく、才谷(坂本)からと記した依頼状が届いたのであろう。では、なぜ直楯が呼ばれ、またすぐ迎えに向かったのだろう。それは安政地震まで中城家の六、七軒東にあった御船倉御用商人・川島家と、坂本家との繋がりによると山田一郎は述べている。
 この三家(坂本・川島・中城)の当主は和歌で結ばれており、川島に残る『六百番歌合』には、種崎の歌人として知られる杉本清陰・川島春麿(春満・通称猪三郎)、そして中城直守とともに、龍馬の父・坂本直足(郷士)の名が記されている。坂本家と川島家は歌で結ばれていただけでなく、妻を亡くした八平の後添いに、やはり川島家に嫁入りしたが未亡人になっていた北代伊与が迎えられた。龍馬十二歳の時である。「故に龍馬は幼時その姉(おとめ)とともに、たびたび川島家に遊びたり」と、『村のことども』で川島家の親戚・木岡一は語っている。直楯は龍馬より六歳下であるが、川島家の子どもたちとともに、龍馬に遊んでもらった仲と思われる。
 今回の龍馬帰郷は、後藤象二郎の斡旋で二月に脱藩罪が許され、四月には土佐海援隊長に任命された後とはいえ、藩内には反勤王・反後藤の根強い勢力もあった。ライフル銃千挺を運んで、幕府が大政奉還に応じない場合は土佐藩に決起するよう奮起をうながすのは、危険な交渉であった。しかも同志・後藤は京におり、まずは城下から離れた種崎に潜伏、使いを出して打診せざるを得なかった。本来なら身を隠すには川島家に頼るところだが、安政元年の大地震で種崎は津波の被害を受け、川島家は安全な仁井田へ移転していた。そこで、幼なじみの直楯を頼ったのであろう。この時、直楯は二五歳、前年に村内の医師・浜田井作(収吾)の娘・早苗と結婚したばかりであった。井作は直守の実弟だが浜田に婿養子で迎えられた身で、直楯・早苗はいとこ同士の結婚であった。

土藩論を奮起せしめんと帰国

 直楯は龍馬たちを乗せた小舟を種崎の〈中の桟橋〉に着けると、裏の竹やぶの方から中城家に案内した(地図参照)。中の桟橋は、仁井田から桂浜に向かって浦戸湾口に突き出た砂嘴・種崎の中ほど浦戸湾側にあり、安政地震まではすぐ側に川島家の屋敷があった。龍馬にとってはおなじみの土地だ。桟橋からの道はやがて大道りと交差、左折してしばらく行くと左側に中城家の表門がある。しかし、この日は仁井田神社の秋祭りで表通りは人の行き来が多いため、浦戸湾沿いの裏通りを進み、竹やぶの小道を抜けて中城家の離れに案内している。この竹やぶは、筆者の少年時代まであったが、藩政時代に仁井田浦の土佐藩御船倉と種崎の民家をさえぎるために植えられたと聞いていた。では、『随聞随録』にもどろう。
「父上先に入り、坂本、中島が、まだ湯は沸いておるかと云いしに、皆入浴せし後なりしが再び沸かせり。坂本は、(当時、時勢切迫の時期を気遣い)土藩論を奮起せしめんとて帰国せしなり。祖父(直守)に叔父(直顕)のブッサキ羽織を着せたり。 宴会の席にて御歩行・松原長次、しきりにしゃべりおりたり。一同茶の間にて食事、小沢は自ら井戸をくむ。中島は津野へ、坂本は小島へ寄り、舟へ帰るとて宅を出たり。小沢の宿は紺屋広次方なり。浜田祖父(医師・早苗の父)診察す。
 二、三日間、母は湯の加減等をなせり。坂本氏より鏡をもらいしと云う。坂本は入浴後、裏の部屋に休息 [雑踏を避けしなるべし]、襖の張付けを見居りたり。母火鉢をもち行しに〈誠に図らずも御世話になります〉といえり」。
 この聞書からは、当初言葉も少なかった一行が、入浴後の食事の席では、幾分くつろぐ様子がうかがえる。ただ饒舌な松原に対し、寡黙だった龍馬の姿には内に秘めた決意の重さが感じられる。山田一郎は、「早苗はこの年二二歳で、妊娠五ヶ月、直正をみごもっていたが、その記憶力はすばらしい。彼女は龍馬をはじめ全員の風貌、服装まで鮮やかに再現して語っている。特に龍馬の言葉やものごしまで、これほどリアルに伝えている文章を読んだことがない」と観察眼を評価している。早苗にとって、天下の国事に奔走する龍馬の姿には、強く惹かれるものが感じられたのであろう。 直楯は、神事(神祭)で来客の多い表座敷は避け、裏の離れに案内している。

龍馬が潜伏した中城家離れの座敷 筆者撮影
この離れは今に残っている(写真参照)。龍馬が見た浮世絵を張付けた襖二枚も、昭和末まで使ってきたが高知市民図書館に寄贈、「中城文庫」に納まっている。浮世絵は、江戸後期の人気絵師であった国貞(豊国三代)や国芳の美しい源氏絵(三枚続)が中心であり、直守や直楯の江戸土産であった。龍馬が浮世絵好きであったことは、明治二九年刊『坂本龍馬』(弘松宣枝著)や昭和十二年刊『土佐を語る』(重松実男編著)でも述べられている。母・早苗がもらった鏡は失われたが、同じ鏡の図が『村のことども』にある。直経六a弱の円形で、裏面は月桂樹の小枝の中央にPARISの文字を刻んである。フランスからの輸入品であろう。
 中城家では表座敷を避けただけでなく、かなり用心した様子が、直守にブッサキ羽織を着せたことで読み取れる。打裂羽織とは、帯刀に便利なように背縫いの下半分を縫い合わせていない武士の羽織である。「時勢切迫・土藩論を奮起」の文面には、大政奉還建議をひかえ、武装蜂起の決断がいまだ出来ない土佐藩への、龍馬の苛立ちが読み取れる。 聞書に「坂本は小島へ寄り、舟へ帰るとて宅を出たり」とある。当時、中の桟橋の川島家屋敷跡に住んでいた小島家の様子は『村のことども』にあり、九歳だった木岡一の談話として記されている。「外祖父・土居楠五郎氏(日根野氏門における龍馬の兄弟子)とともに、種崎神祭小島氏宅へ行きしに夕刻突然龍馬来たりしなり、・・・その夜土居氏との対面実に劇的シーンなりしも、少年一は偉丈夫なんぞ涙するや、と思いしという。・・・少年一がギヤマンの鏡を土産としてもらいしは、この夜なり」。
 当時の小島家当主・亀次郎は山内容堂の秘書役をしており、妻の千蘇は川島家の出、嫡男・玄吉の妻・田鶴もまた川島家から迎えていた。田鶴は、幼い頃から龍馬を慕っていたとされるが、この時は結婚して二年目、まだ十九歳であった。二人の再会の様子は伝わっていない。また、亀次郎の妹・直は、医師・今井幸純と結婚、その子が龍馬の秘書役を務めた海援隊士・長岡謙吉(今井純正)であった。(小島家については、田鶴の曾孫・小島八千代さんから平成十四年にいただいた「小島家系図」による。)

湯かげんや小舟こぎで支えた夫妻

龍馬潜伏を助けた中城直楯・早苗夫妻 
 龍馬は種崎に潜伏し、土佐藩との交渉を進める。九月二四日に潜伏先から仕置役・渡辺弥久馬(後の斎藤利行)に出した手紙が残っている。「・・・手銃一千挺、芸州蒸汽船に積込み候て、浦戸の相廻し申し候。参りがけ下関に立ち寄り申し候所、京師の急報これあり候所、中々さしせまり候勢い、一変動これあり候も、今月末より来月初めのよう相聞こえ申し候、二十六日頃は薩州の兵は二大隊上京、その節長洲人数も上坂(是も三大隊ばかりとも存ぜられ候)との約定相成り申し候。小弟、下関に居の日、薩・大久保一蔵、長に使者に来たり、同国の蒸汽船を以て本国に帰り申し候。御国(土佐)の勢いはいかに御座候や、また後藤参政はいかが候や、(京師の周旋駆馳、下関にてうけたまわり、実に苦心に御座候)。乾氏(板垣退助)はいかがに候や、早々拝顔の上、万情申し述べたく一刻を争いて急報奉り候。謹言 坂本龍馬 渡辺先生」。(『坂本龍馬関係文書』)
 こうして龍馬は種崎から小舟で使者を出し、土佐藩の首脳と交渉、数度にわたる会見の末、ついに二七日の土佐藩評定によって、大政奉還の確認と武力討伐に備えてのライフル銃千挺の買い上げが決定した。『随聞随録』に、「二、三日間、母は湯の加減等をなせり」とあり、中城家には二、三回来たようだ。土佐藩との交渉は初めは吸江(五台山)や松の鼻(常盤町)の茶店で隠密に行われたが、やがて城下の役宅に席を移す。この間、袙の震天丸・種崎の中城家・吸江や松の鼻、さらに高知城下の土佐藩役宅を結ぶのは、浦戸湾と江の口川・鏡川などの河川であり、御船頭の中城直楯とその配下が小舟をあやつり、上げ潮・引き潮の流れを読みながら、巧にこぎ渡ったと思われる。 龍馬は念願の交渉をまとめ、本町の坂本家にも帰って家族と再会したが、十月一日には慌ただしく震天丸で大坂をめざして浦戸を出港する。中城直守の『随筆』には、「朔日朝、右艦(震天丸)浦戸を出つ」とあり、種崎の浜では、中城直守たちが見送ったことであろう。荒天のなか室戸沖まで進んだが、荒れ狂う波浪に翻弄されて船体を破損、いったん須崎に避難、五日土佐藩差し回しの蒸汽船胡蝶で再度出港する。
 龍馬は十月九日に京都に到着、その四日後の十三日に徳川慶喜が二条城で大政奉還を表明する。この日、建白書受諾の知らせが届く以前に龍馬が後藤象二郎に出した手紙には、「建白の儀、万一行われざれば、もとより必死の御覚悟ゆえ、(先生が二条城から)御下城無の時は、海援隊一手を以て、大樹(将軍が御所へ)参内の道路に待ち受け、社稷(国家)のため不(倶)載天の讐を報じ、事の正否に論なく先生に地下に御面会仕り候」とある。建白書が受諾されない場合は、「後藤は二条城で切腹するだろうから、自分は海援隊を率いて御所参内の将軍に報復、あの世で会おう」と、決死の覚悟を記したものだ。
 ところが大政奉還受諾のこの日、朝廷は薩長に倒幕の密勅を下す。徳川慶喜の決断に感激したとされる龍馬は、密勅など知らぬまま十一月二日には福井に三岡八郎(由利公正)をたずね、国の財政策を授かる。新政府の実現に懸命に働くが、十五日に京都近江屋で中岡慎太郎と面談中、刺客に襲われ横死する。 中城直守には十一月末に知らせが届く。『随筆』に「坂本龍馬、先だって御国に来たり。密かに周旋の意趣あり候後、京師に登り旅宿に居るある夜、国元より書状来たれりとて旅宿をたたく者あり。この宿の召使いの者、出てすなわち書状を受取り来たり龍馬に渡す。龍馬何心もなく披見するところに、外より忽然として五、六人入り来たるや否や抜打ちに一同無二無三に切付ける。無刀にてあしらう内、深手処々に負いて死す。・・・この来る者は関東よりの業にして、さるべき壮勇の浪士を雇いてかく切害せしとも、いずれ確かならず。今、海内に名を轟かし、殊に御国のため力を尽くせし龍馬なる者を、ああ惜しむべし惜しむべし。なお詳しき事聞きたし」と記し、慨嘆している。 直楯の『随筆』には、吉村虎太郎たち天誅組の大和での壊滅、武市半平太の獄死などについては、無念の思いは秘めて淡々と記録してあるが、龍馬殺害の知らせにだけは、「ああ惜しむべし惜しむべし」と、心情を率直に吐露している。

大政奉還へ!龍馬奮戦の足跡
 龍馬最後の帰郷は、大政奉還による近代日本誕生への最後の布石のためであった。幕府への土佐藩からの建白書提出には、拒否されないよう薩長とともに武装蜂起も辞さない軍事態勢の誇示も必要だった。これは単なる土佐藩びいきの提案ではなく、薩長のみでの倒幕への暴走を防ぎ、王政復古をとなえつつ、平和裏に近代国家建設を成し遂げるための妙案でもあった。
「日本を今一度せんたくいたし申し候・・・」(文久三年)と考えた龍馬が、その最後の施策として、土佐藩による大政奉還を迫った舞台が、少年時代から慣れ親しんだ浦戸湾であり、種崎であった。その現状を簡単に報告して稿を終えたい。
 種崎の太平洋に面した海岸は、今に松林が広がり千松公園となっているが、黒船に備えて造られた台場(砲台)のあとは砂に埋もれて消えた。龍馬の乗った震天丸が通った湾口には、浦戸大橋がかかり、桂浜と結ばれている。種崎の先端は、昭和四一年からの航路拡張工事で切り取られ、御畳瀬の名勝・狭島も除去された。しかし、震天丸が碇泊した袙の海岸は幕末の風情を今にとどめており、袂石も健在である。
 袂石から龍馬たちが小舟で渡って上陸した中の桟橋は、昭和三十年代からの自動車の発達によって役割を終え、地名のみ残った。龍馬が歩いた湾岸の景観も、中洲の埋め立て、竹やぶ・桃畑・空き地の宅地化などによって、すっかり変貌した。わずかに龍馬が潜伏した中城家の離れのみは、老朽化したが残っており、平成二二年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』でも、「龍馬伝紀行」の中で紹介された。龍馬がその志の実現に向けて、決死の行動をとった土佐での最後の舞台であり、三里史談会有志の協力もいただいて保存に努めている。
 龍馬潜伏にかかわった中城直楯は、その後陸軍築城掛となり、和歌を楽しみつつ東京・広島・新潟などで勤務し、明治二二年陸軍歩兵大尉で退任、明治二七年に種崎に帰郷する。長男直正に母・早苗が龍馬潜伏の状況を語ったのは同四○年、写真はその頃の夫妻である。

主要参考文献
 『中城文庫 目録・索引編』『中城文庫 図版・解説編』高知市教育委員会 二○○二、二○○三年刊
 『村のことども』三里尋常高等小学校編・発行 一九三二年刊
 『坂本龍馬関係文書一、二』北泉社 一九九六年刊
 『坂本龍馬―隠された肖像―』山田一郎著 新潮社 一九八七年刊
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―100周年を前に母校に再び問う―
土佐中高理事会は機能しているか?   
公文 敏雄(35回) 2015.02.08


筆者近影
 環境の変化に直面して変わらなければ衰亡するしかないと、幾多の経験を経たリーダーたちが語っており、これは否定しがたい真理だと思われる。では、今世紀に入って顕著となった「環境変化」とは何かを考えると、IT革命、グローバル化、少子化、失われた20年・・・枚挙にいとまがない。かかる環境変化の荒波を乗り切ろうと、学校教育の世界でも、小中学校から高校・大学にわたる広い分野で教育改革、学校法人改革の動きが伝えられていることは、井戸の中に身を潜めていれば別として、誰しもが認めざるをえないであろう。

 たまたま目にした2月8日付の日本経済新聞朝刊「読書」欄に、早稲田大学教授川本裕子氏の書評「取締役会の仕事」(ラム・チャランほか著 日経BP社)が掲載されていた。少々長くなるが、その骨子を紹介したい。

「取締役会が機能するためには、その会社の基本理念が確立され、取締役と経営陣に意義が浸透していることが最も重要だと本書は主張する。基本理念が明確でないと、取締役会が会社の戦略を正しく導く基盤があいまいになるからだ。・・・最高経営責任者(CEO)の人選はその中でも取締役会が明確に責任を負うべき事項であり、『CEOの承継』『CEOを解雇する』の章に多くのページを割いている。人選がうまくいった例、失敗して会社が低迷した事例の紹介もリアルだ。・・・取締役会が本来果たすべき機能は何か、そのための条件は何かという『実質論』がもっと議論されないと日本の企業統治が世界から遠い状況は変わらない。」

 お察しかと思うが、書評の「取締役会」を「理事会」に、「会社」を「学校」に、「CEO」を「学校長」に、「企業統治」を「学校経営」に置きかえて試しにもう一度お読みいただきたい。読み替えてもさほど違和感がないのは、ご高尚のとおり、旧態然とした組織の経営・運営のありかた(ガバナンス)が今世紀に入って大きく変わろうとしており、ほかならぬ学校法人もその渦中にあるからである。近年、法制面でも会社法、公益法人法に続いて学校教育法、大学法人法、私立学校法などの改正が相次ぎ、その中核が21世紀に望ましい「ガバナンス」改革であり、理事・理事会の役割と責任の重科・明確化である。このような「環境の変化」をどうとらえ、それにどう対処していくか、理事や理事会のかなえの軽重が問われているのではないだろうか?
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100周年も間近、改めて母校の経営・教育方針を問う
 公文 敏雄(35回) 2014.03.27


筆者近影
 少子化、グローバル化など教育環境の大きな変化の中で、我が国の中・高等教育機関は将来の発展・存続を賭けた変革を迫られており、様々な動きが報じられております。一方、創立100周年を6年後に控えた母校はどうでしょうか? 母校を愛する一卒業生の立場から過去1年あまり理事会に質問を投げかけましたが未だご応答をいただけず、危機感が伝わって参りません。そこで、向陽プレスクラブの有志と問題意識を共有出来ましたらと考え、ここに拙文をご披露させていただきます。
 なお、改正私立学校法に拠った母校の「寄付行為」(会社の定款に相当)は、
 「理事長は、この法人を代表し、その業務を総理する」と定め、更に理事会には「学校の基本方針・・・その他学校の経営に関する重要事項を決定する」責務を課しています。理事の構成は、川崎康正、山本芳夫(校長)、池上武雄(理事長)、岡村 甫、西山彰一、岡内紀雄、青木章泰、小島一久、浅井和子の9氏(敬称略)です。
(以下は質問状の写しです。付属添付物は紙面の都合上割愛いたしました)


土佐中学校・高等学校
理事長、理事各位
 殿
 平成25年11月1日
拝啓
 相次ぐ台風の襲来でぐずついたお天気が続きましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
 さて、昨年12月にしたためた「質問状」の写しをここもと添付致します。ご多用中まことに恐縮ながら、ご検分のうえご回答をいただけますと幸いです。
 なお、創立100周年を7年後に控え、初心を振り返ってみようと、私も含めた土佐中・高新聞部OB有志の手で、「土佐中学創立基本資料集」の発刊準備を進めております。「宇田友四郎翁」、「川崎幾三郎翁伝」、「三根先生追悼誌」、「土佐中学校要覧」などから建学関係部分を採録し、現代文対訳を付ける計画です。来年完成のうえはご高覧に供したく、よろしくお願い申し上げます。
 「古人を模倣するのではなく、愛するのであればよい」(岡倉天心「茶の本」)
敬具
追伸:
 10月25日付の日本経済新聞夕刊9ページ「生徒とひと:学びのふるさと」欄に建築家伊東豊雄さんの談話が掲載されていました。ここで紹介されている伊東さんの中学時代の恩師菅沼先生(「放課後に自分の教育理念を生徒に聞かせ、感極まって泣いてしまう熱血漢」)のような先生がたが私の通った土佐中・高にもいらっしゃいました。あらためて学恩を有難く感じております。


土佐中学校・高等学校
理事  浅井 和子
 様
 平成24年12月1日
拝啓
 先般お問い合わせがございましたので、同窓会関東支部報「筆山」2012年7月号への寄稿記事(注1)で触れました、母校の現状に対する小生の懸念について敷衍ご説明させていただきます。

 注1:筆山第52号記事「向陽新聞に見る土佐中・高の歩みD」のあとがき部分の拙文
 「32年2月の(向陽新聞)第35掲載記事『中学受験調査結果まとまる』によれば、『よい学校に入るため』とほぼ並んで『立派な人間になるため』が本校志望理由第二位に入っていた。『中堅国民ノ養成ハ論ヲ待タズ…進ンデ上級学校ニ向カヒ他日国家ノ翹望スル人材ノ輩出ヲ期スル』(本校設立趣意書)という伝統を、読まずとも感じ得ていたようである。ちなみに、建学の目的を達成するための教育方針や具体的施策が、創立期の学校要覧では教授心得の形で体系的に明示されていた。しかし、いつの頃からか、かかる肝心のことが風化して久しい。」(該当記事=添付資料1)

知りたいこと其の1:  本校の存在意義は何か、目的・目指す姿は何か
 学校設立の目的は、少数英才教育により国家有為の人材を育てることでした(注2)。然るに、年月を経て環境が著しく変わったこともあって、今では文武両道を目指す進学校という大まかなイメージが、外部から見て、定着しているようです。
 本当にそうなのか、学校が目指す姿は実際どんなものかを知ろうと本校のホームページを読みましたが、どうも判然といたしません。たとえば、
「学校案内 校長挨拶」(注3)のタイトルが「報恩感謝の理念のもと社会に貢献する人材を育成する」となっておりますが、まず、「報恩感謝の理念」(注4)の意味がよく解りません。どういうことなのか、なぜそれが大切なのか教えていただきたいと思います。「社会に貢献する人材」も、これだけではイメージが湧きません。本文中に、卒業生が「国内外、各界を問わずめざましい活躍をしており」とあるだけで、踏み込んだ説明がありません。
 志(夢)を語れるような若者を育てるのであれば、まず学校が思いを熱く語ってほしいと思います。同窓会関東支部総会にご出席くださった歴代校長のご挨拶を過去何度か拝聴した限りでは、大学進学成績と運動部の活躍状況、そして寄付のお願いなどが主要な内容でした。

注2:本校の設立目的(建学の基本理念)
 土佐中設立の趣意書(添付資料2をご参照)にうたわれています。また、本校30回生中城正堯氏による労作「母校を貫く建学の精神―川崎・宇田両翁と三根校長を巡って」(昭和34年発行「向陽クラブ」第2号に掲載)が参考になります(添付資料3をご参照)。

注3:校長挨拶(ホームページより)
 キーワ−ドを拾って要約すれば、「誇り高い土佐の校風をよりいっそう発展させ」「本県私学の旗頭たる自覚を支えに」「男女共学や中高一貫制、生徒定員の大幅増等の施策を導入」「新しい時代に対応する進学校としての実績」「友愛の心を育みあい」「伝統である自主的学習」「ワンランクアップの学力水準到達を目指して」「土佐中卒業者以外にも高校の門戸を開き、競い合いによる学力レベルアップと学習意欲の向上」「文化面でも恵まれた指導者と施設」「国内外、各界を問わず活躍する卒業生の状況を伝えて在校生への励みと将来目標決定の指針に」「建学の基本理念を確かめつつ、学問を重んじ、礼節を尊び、スポーツを愛する学校生活を通じ人格の完成と社会に貢献できる人物の育成に全力を挙げて取り組む」ということになります。(原文は添付資料4をご参照ください)

注4:「報恩感謝の理念」?
 在学中に配られた「生徒必携」(注3)の冒頭に、「開校記念碑文=大正12年1月建立」が掲げられておりました。「維新の際は薩長土と並称されて土佐から人材が輩出したのに爾来教育が振るわず人材が凋落したのを憂い、川崎、宇田両氏が巨財を投じて土佐中学校を創立した功績をここに称え継ぐものである。子弟が心身を鍛え徳を高め智能を大にして国家に尽くすことが、二氏の恩に報じ、かつ国家の恩に報ずることとなる」がその大意です。ここで明らかなことは、「報恩感謝」は帰結であって、「励めよ」が趣意でありました。今読めば、大いに励んで志を果たすことで先人や国家のご恩に報いよ!との檄文の意味を込めて生徒に読ませたものと解されます。しかし、私の在学当時は、(国のために尽くすという言葉を否定的に受け止める風潮もあり)国家の恩は横に置いて、設立者への報恩をあたかも本旨であるかのように語る向きもあって首をかしげた記憶があります。今はどう解されておるのでしょうか?
 なお、「生徒必携 昭和32年4月」は全46ページの小冊子で、前述の碑文に続いて年度重点目標、生徒の生活・学習態度自己評価基準、校歌、応援歌、学校沿革、学則、生徒会会則、職員名簿などを内容としていました。(添付資料5をご参照ください)

知りたいこと其の2:  ゴールへの道筋(施策・教育方針)
 学校の基本理念に共感する先生・生徒が、ワクワクしながらゴールを目指しているのだと考えたいのですが、ゴールへの道筋(施策、教育方針など)が提示されない限り、将来を期待するすべがありません。
 理念を先生・生徒に活かしていただくために何をやっているのか、教育の基本方針は何か、何に重点を置き、各教科をどう進めるのかを知りたいのです。 
 実は、麻布学園、開成学園、武蔵高校などのホームページでは、完璧ではありませんが、方針や施策を極力知ってもらおうとする苦心が見受けられます。(添付資料6をご参照ください)

知りたいこと其の3:  人材は適切か
 もうひとつ、どんな企業、団体、そして学校でも、発展のカギは適切な人材(価値観、性格、情熱、能力)です。担い手たる先生の採用方針(本校の先生は殆どが土佐の同窓生、例えば麻布学園は正反対)や質の維持・向上策はどうなっているのでしょうか。

 以上は、卒業後半世紀以上も経った1人のOBによる、外部から見た勝手な印象に基づくもので、誤解があればご容赦ください。
敬具
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龍馬「愚童伝説」から 学びの原点をさぐる
中城 正堯(30回) 2012.04.15
はじめに
 平成二二年のNHK大河ドラマ『龍馬伝』終了から一年ほど経過し、放映中に出版されたおびただしい龍馬関連本もほぼ書店の店頭から消えた。この間、坂本龍馬に関する新史料の発掘や新しい観点からの評伝はほとんどなく、多くが既存の資料や伝説にもとづく再整理ないし焼き直しにすぎなかった。いまさらながら、山田一郎さんによる龍馬の継母・伊与の出自から、龍馬の父・八平の実家解明まで、丹念な資料の渉猟と歴史の舞台・関係者を訪ねての調査と論考に感心するばかりである。その著書『坂本龍馬―隠された肖像―』(昭和六二年 新潮社)、『海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉―』(平成三年 新潮社)を凌駕する作品に出会うことはなかった。
 大河ドラマ『龍馬伝』自体は、放映一年前にNHKの関係者から、「福山雅治を龍馬にしたてた〈劇画〉で、岩崎弥太郎の眼から見る」と聞かされていたので、超かっこよい福山・龍馬と汚れ役香川・弥太郎の極端な対比にも驚かなかった。しかし、高知の城下と安芸の井ノ口村がすぐ隣町にされ、路上で出会った二人がよく行き来し、寺子屋の机が現在の学校と同じ並べ方で、龍馬の愚童ぶりに対して弥太郎には『論語集註』を読ませるなど、興ざめな場面も多かった。
 放映でありがたかったのは、最終回の一つ前の「龍馬伝紀行」で我が家の種崎の「離れ」を、龍馬最後の帰郷で潜伏した家として取上げてくれたことだ。六月の撮影当日は帰郷できず、三里史談会の久保田昭賢さんに立ち会いをお願いした。あいにく大雨で、座敷は天井からの雨漏りで畳が濡れ、撮影場面の設定に苦労したとの電話をいただいた。関東在住の兄も私も、雨漏りしているとは思いもよらず、お陰ですぐ修理の手配をすることができた。以前、高知市教委が「文化財指定を視野」に上田建設に依頼して調査を行ってくれ、指定には該当しないとのことだったが、その調査を生かして三里の建築業者に幕末以来の屋根の保存修理をお願いした。NHKの撮影がなければ、雨漏りに気付かないところだった。
 本稿では、テレビや伝記物語などで増幅される誤った龍馬伝説が真実と混同されないよう、龍馬ゆかりの旧三里村種崎で生まれ育った者として、龍馬少年の教育と人間形成に関していくつかの指摘をしておきたい。多くはすでに山田さんが論考済みであるが、いくらか別の視点も交えて重ねて呼びかけたい。

大器晩成の流行と愚童説
 龍馬の最初の伝記小説は明治一六年に坂崎紫瀾が土陽新聞に連載した『汗血千里駒』であるが、大評判となり単行本としても数社から出版された。この復刻版は数種類あるが、高知では昭和五二年に土佐史談会から出た『汗血千里駒全』が版を重ね、平成五年には新しい「解題」をつけた新版が刊行された。平成二二年には岩波文庫で挿絵全六六点を収録した『汗血千里の駒 坂本龍馬君之伝』が出て、入手しやすくなった。
 問題はこの伝記の位置付けである。坂崎は明治初期からの自由民権運動の激烈な活動家であり、その一環として政治小説を発表し、演説会を開催していた。しかし、明治一四年に高知警察署から政談演説禁止の処分を受ける。そこで、寄席芸人として鑑札をとり、馬鹿林鈍翁の芸名で講釈師となるが、たちまち逮捕される。この後で、龍馬の連載を始める。
 岩波文庫の校注を担当した神戸大学教授で日本近代文学史専攻の林原純生氏は、「明治一六年という早い時点でかくも見事に坂本龍馬の自由人としての個性が表現されたことは、一つの驚きである」「史書や正史に対して、むしろ、自由党員として自由民権の最先端にいた坂崎紫瀾の歴史意識と、読者と共有しようとした政治理念が、坂本龍馬の個性的な行動や行動空間に強く反映されている」と述べ、自由民権運動のさなかに書かれたこの作品は、幕末や明治維新を素材にした大衆小説・歴史小説の先駆的作品であり、原点であると、高く評価している。
 本来この作品は自由民権運動のための政治小説であり、冒頭には井口刃傷事件を持ってきて封建的身分制度のもとでの上士・下士の差別を見事に告発している。ついで、生い立ちに触れ、愚かにみえた少年が剣術や水練に励み、加持祈祷にかこつけて庶民の膏血を吸い取るニセ天狗を退治するまでに成長、十九歳で下士には許されなかった下駄を履いて江戸に出ると、千葉道場の娘・光子(佐那)とのロマンスが花咲く。興味尽きない場面展開の連続だが、政治的意図を持って書かれた小説であり、当然フィクションも多々含んでいる。確実な史料にのみ基づいた伝記や評伝ではない。特に坂崎は講釈師を演じていただけに、噂話を実話のように扱い、江戸の草双紙的な逸話を挿入、誇張した表現で場面を盛り上げている。まず、龍馬誕生にまつわるエピソードから検討してみよう。
 龍馬誕生につき、「いにしえより英雄豪傑の世に降誕するやあるいは種々の奇瑞をしめせし」と述べ、龍馬の背の「いと怪しき産毛」の由来を母が懐胎中に愛猫を腹に載せたせいとし、龍馬と名づけたのは出生の前夜母の夢に「蛟龍(こうりゅう)昇天してその口中より吹き出した炎、胎内に入りしと見たり」と説く。蛟龍とは、龍が雲や雨を得て天に昇って龍になる前の姿で、英雄が真価を発揮する前の姿を指す。ここには、伝聞のままに記すと断ってある。続けて、「龍馬は十二、三歳の頃まではあまりにその行いの沈着にして小児の如く思えず。あたかも愚人に等しく、わけて夜溺(よばり)の癖さえあればその友に凌(しの)ぎ侮らるる事あれども、あえてさからう色とてなく…これぞ龍馬が大器晩成のしるしとやいわん」と書く。これが、龍馬愚童説・大器晩成説の発端である。
 龍馬の背の産毛に関しては、後に妻のお龍や友人も触れており、生えていたのは事実であろうが、「母が常に猫を抱いていたから」はあり得ない。龍の炎が胎内に入って英雄豪傑が誕生するといった龍神伝説は、足柄山の山姥が夢で赤龍と交わって怪童金太郎が生まれたなど、江戸後期にはよく語られていた。英雄が少年期まで愚人であったが、やがて目覚めて大成するという大器晩成論も、うつけ者と呼ばれた織田信長、百姓の子で「手習い学問かつてなさず」と描かれた豊臣秀吉の事例など、幕末から明治まで枚挙にいとまがない。伝記物語の常套的な展開パターンであった。
 著者の坂崎自身も、明治三二年博文館刊『少年読本 坂本龍馬』(図1)の緒言で、近年『汗血千里駒』が広く伝播したため、内容を踏襲した伝記が見られることを悔やみ、こう述べている。「世人の仮を認めて真と為すに至る。これ余のひそかに慚悔するところたり。爾来余は龍馬その人の為に大書特書すべきの新事実を発見したること一にして足らず。ここに於て更に実伝を著わし、もって許多(あまた)の誤謬を正し、あわせてその真面目を発揮せんと欲し…少しく余の旧過を償うべきのみ」。しかし、この新著でも薩長連合や大政奉還に関しての誤りは直してあるが、伝聞による生誕伝説・大器晩成説は前著と同じであった。

『汗血千里駒』以降の龍馬像
 坂崎自身は、『汗血千里駒』の自序で「龍馬君の遺聞を得、すなわちもっぱら正史に考拠し」と記したが多々誤謬があり、伝聞によった部分もあることを自覚し、後のち訂正に努めていた。ところが、平成五年の土佐史談会版の解題で、岡林清水はこう論じた。「紫瀾はこの作品で、明治御一新を上士と下士・軽格との対立面から把握し、…軽格坂本龍馬を代表とする明治御一新へ向かっての大精神は、自由民権運動につながると考え、この自由党的思想性でもって、『汗血千里の駒』を支えようとした。だが、この作品は、単なる党派的理想宣伝の小説ではない。史実追及を堅実に行い、リアリティのあるものとなっている」。
 坂崎の作品は龍馬伝の第一号であり、龍馬研究の基本資料であるが、正史・史実とは言えない内容を織り込んだ政治小説であった。本人もそれを自覚していたのに、平成を迎えての岡林の解題では、「史実追及」「リアリティあるもの」が強調されていた。現在の作家・漫画家・脚本家から龍馬ファンまで、広く実伝と誤解される要因になったようだ。
 では、『汗血千里駒』以来、龍馬が実伝と小説の間でどう揺れ動き扱われてきたか、青少年期の描写を中心に筆者の管見から探ってみよう。
 明治二九年七月には、坂本家の遠戚になる弘松宣枝が『坂本龍馬』(民友社)を出版、好評で年内だけで五版を重ね、第三版からは龍馬の肖像写真が口絵として掲載される。後に日露戦争でバルチック艦隊との決戦をひかえた一夜、昭憲皇太后の枕辺に現われ、「微臣坂本龍馬でござります。力及ばずといえども、皇国の海軍を守護いたしまする」と告げてかき消えた話が出る。宮内大臣だった田中光顕(元陸援隊士)が人物確認のため皇太后に献上した肖像写真は、この口絵のものとされる。お龍も同じ写真を持っていたと『千里駒後日譚』にある。この弘松の作品も、少年龍馬の描写は坂崎を踏襲している。
 皇太后の夢に現われた龍馬の新伝説は、明治新政府で薩長に主導権を奪われた土佐派の閣僚・田中光顕が、挽回策に龍馬を担ぎ出したと言われる。この出来事は新聞が取り上げたため、世間に広まる。土佐出身の画家・公文菊僊は後に龍馬立像に「征露の年 皇后の玉夢に…」の漢詩を添えた画軸を制作、大当たりをとる。この話も、病で伏す唐の玄宗皇帝の夢に現われて小鬼を退治し、快癒させた鍾馗伝説と似ている。玄宗皇帝が夢で見た姿に似せて描かせた鍾馗像が魔除けとして好まれ、日本にも伝来、江戸時代には病魔除けとして版画が戸口に張り出され、軒先にも塑像が飾られた。
 しかし、龍馬はまず自由民権運動家にかつがれたためか、武市半平太は故郷・高知市吹井に瑞山神社が建立されたのに、幸い神にされることはなく、いつまでも自由人でいられた。ニセ天狗の祈祷師を退治した逸話や、慶応二年のお龍との霧島山登山で天のさかほこに天狗の面が付けてあるのを笑い飛ばし、引き抜いてみるなど、少年期から合理的な思考で行動しており、神がかった戦争勝利予言は似合わない。

幼年時代の疑わしき伝聞
 大正元年には『維新土佐勤王史』(冨山房)が瑞山会著述で刊行されるが、執筆を担当したのは坂崎紫瀾であった。平尾道雄はこの書を、坂崎特有の「文学的史書」と評している。ここでの龍馬少年の描写は、だいぶ平静を取りもどし、「彼の童時は物に臆して涕泣しやすく、故に群児の侮蔑を受くるも、あえてこれを怒らず」と述べ、後年兄・権平に出した手紙の「どうぞ昔の鼻垂れと御笑くだされまじく候」を紹介する。
 母・幸は龍馬が十二歳の時に亡くなる。「当時龍馬は小高坂村の楠山某家に就き、習字と四書の素読を始めしに、たまたま学友と衝突して切りかけられ、ために退学したり。父母は再び過ちあらんことを恐れて、他に通学なさしめざりしより、ついに文学の素養を有する期を失いたり」と書く。四書とは、儒学の基本図書である大学・中庸・論語・孟子で、文学は学問といった意味である。続いて「すでに十四歳を過ぐるも、時に夜溺(夜尿)の癖を絶たず」で、父もその遅鈍を嘆いていたが、「さらに長じて剣道を日根野弁治に学ぶや、不思議にも気質とみに一変して別人の如く、その技もまた儕輩(せいはい)をしのぐに至れり」と記す。大雨の日に水練に向うのを日根野に怪しまれ、「水に入れば常に湿(うるお)う。なんぞ風雨を辞せんや」と答えたエピソードをあげ、龍馬が自らの行動に自信を持った証とする。(図2)
 姉の乙女は龍馬の四歳(実は三歳)上で「女仁王」のあだなで呼ばれ、「短銃を好み、鷲尾山などの人なきところに上り…連発してその轟々たる反響にホホと打ち笑み」とか、「常に龍馬を励まして、これを奮励せしむる」と紹介してある。
 これら『維新土佐勤王史』にある少年龍馬の逸話は、大正三年刊『坂本龍馬』(千頭清臣著 博文館)や、昭和二年刊『雋傑(しゅんけつ)坂本龍馬』(坂本中岡両先生銅像建設会 編集発行)でも、ほぼ同様だ。ただ千頭の本では二版増補で「疑わしき話」の項を設け、はな垂れと言われたことで龍馬を真の馬鹿というのは大きな間違いと記してある。千頭は高知出身の英文学者・貴族院議員として知られた存在だったが、実際の筆者は山内家史編修係・維新史家の田岡正枝であった。後者は、京都円山公園にある坂本・中岡像建設のための刊行で、銅像は昭和九年に完成したが第二次大戦で供出、昭和三七に再建された。

岩崎鏡川の史料収集と重松実男の見識
 昭憲皇太后の夢に現われた龍馬は、日露戦争の勝利によって、自由民権の先駆者のみならず海軍の祖・皇国守護の英霊とされ、もてはやされるようになった。小説だけでなく、演劇や講談にも次々と取上げられた。これに対し、『汗血千里駒』以来の伝記と称する作品の内容を、「荒唐無稽の綺語でなければ、舌耕者流の延言」「正確な史料に憑拠(ひょうきょ)するものあるを見ない」と断じ、坂本龍馬の史料編纂に取り組だのが岩崎鏡川(英重)である。岩崎は山内家史編集係・維新史料編纂官を歴任、晩年は『坂本龍馬関係文書』編纂に心血をそそぎ、大正一五年五月に死亡したが、その一ヶ月後にまず私家版として刊行された。鏡川の次男が『オリンポスの果実』で知られる作家・田中英光である。
 中城家の本家・中城直正(初代高知県立図書館長)は、大正期にこの岩崎と綿密に連絡をとって、維新の志士たちの史料収集と顕彰を中心に、県下の史料・史跡の収集保存や記念碑建立などに取り組んでいた。例えば大正三年一月から二月にかけて上京した際の日記には、維新史料編纂所の岩崎とともに土佐出身の田中光顕伯や土方久元伯、さらに東京帝大史料編纂所にいた帝大同期の歴史学者・黒板勝美などを訪問した記録が残っている。岩崎からの手紙もあり、内容は武市瑞山先生記念碑・同遺跡保存・堺事件殉難者合祀・紀貫之邸跡建碑、それに維新関連の贈位申請・文書購入などである。これらの手紙や日記は全て、高知市民図書館「中城文庫」に収まっている。
 この『坂本龍馬関係文書』にも、龍馬の手紙の執筆年代などいくつかの誤りが後に指摘されたが、龍馬研究の画期的な史料集誕生であったことに間違いない。戯曲の傑作とされる真山青果『坂本龍馬』も、三里村出身の作家・田中貢太郎の『志士伝記』(改造社)も、この史料集刊行抜きには考えられないと、文芸評論家・尾崎秀樹氏は述べている。龍馬の史料発掘と編纂の仕事は岩崎亡き後も続き、郷土出身の研究者に受け継がれていく。その結実した刊行物が、平尾道雄著『海援隊始末記』『龍馬のすべて』・宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』・山田一郎著『坂本龍馬―隠された肖像―』他・松岡司著『定本坂本龍馬伝』であり、坂本家ご一族の土居晴夫氏も綿密な考証によって『坂本龍馬の系譜』をまとめておられる。
 これらの中で、少年龍馬の真実に最も迫っているのは、山田さんの著作である。そして、その先駆ともいうべき著述が、昭和一二年に重松実男編著で高知県教育会から刊行された『土佐を語る』の「坂本龍馬」であろう。あまり知られていない著述なので、少し長くなるが紹介しよう。

その出身 「坂本は天保六年に城下の本町筋一丁目の郷士の家に生まれた。幼少の頃遅鈍な劣等児であったように伝えられもするが、これは彼が後年兄権平への書翰に〈…どうぞ昔の鼻垂れとお笑い下されまじく候〉とある所などから誤り伝えられた話であろう。晩成の大器であったには相違ないが、遅鈍であったものとは思われぬ。…青年時代剣道の師日根野弁治が、大雨の中を水泳にでかける坂本に出会ってあやしむと、水へ入ったらどうせ濡れるから同じことだ。と答えた所も、一見間抜けたようで、その実中々才気煥発ではないか。」と書く。続けて十八、九歳で四万十川治水工事の監督を手伝い、精出す者に褒美を与えたことを、「すでに棟梁の器量をひらめかしておる」と評価する。さらに、「嘉永六年十九歳、剣道修業の志を立てて江戸へ上るとき、同行者の一行中坂本の姿が見えないので、見送り人が不審して集合所であった友人の宅へ立戻って見ると、彼は襖に貼った錦絵に見とれて〈たまるか義経の八艘跳じゃ〉などと太平楽をきめこんで、只今三百里外へ旅立つ者とも見えなかった」と紹介。当時の土佐から江戸は、今西洋へ旅するようなものなのに、坂本の「天衣無縫の大らかさがうかがわれる」と人柄にも触れている。
 江戸への初めての旅立ちの際に、最初に立ち寄った家で襖(壁ともいう)に貼ってある浮世絵に見入った場面は、前出の弘松の本にも、仁井田出身の作家・田中貢太郎著『志士伝奇』の坂本龍馬にもある。慶応三年九月、最後の帰郷で種崎・中城家に潜伏した際に、やはり襖に貼られた浮世絵を眺めており、後に高知での芝居「汗血千里の駒」上演で、龍馬自身の浮世絵(役者絵)が制作されたことも含めて、不思議な縁を感じる。
その学問 「彼ははやくから剣道に専念したので、学問の素養の薄いのを悔い、帰国してからはよく読書した。海軍通の河田小龍という画家の啓発を受けて、将来の海上発展を夢みたのもその一、また折りにふれて和歌をも詠んだ。彼の詠草は、〈げにも世に 似つつもあるか 大井川 下す筏の はやき年月〉(他に二首掲載)などと、卒直武骨な個性の発露する中にも、自ら格調の整うた才気を見せている。漢籍では、老子を愛読したというから、なかなか世人が思ったように無学ではない」と述べている。さらに、読書法が変わっていて、『資治通鑑』を読ませると字音も句読も返り点もいい加減だが、「大意がわかればよいじゃないか」と笑っていたという。後年英語も学んだ。ある蘭学者によるオランダ政体論の講義中に、「それじゃ条理が立ちません」と指摘、蘭学者が誤りを詫びた話も紹介している。
航海術研究 「その後江戸へ下って勝海舟の門に入り、一心に航海術の研究を始めた。この動機は、彼と小千葉の倅の重太郎とが開国論者の海舟を斬るつもりで押しかけ、海舟に説得せられたことになっておるけれども、これは疑わしい。当時彼は海外の事情に盲目でもなく、海上雄飛の素志を抱いていた…」。ここでは、海舟を斬りに押しかけたとの伝説を否定し、神戸海軍塾での研鑽や、第二次長州戦争で「習得した海軍術を以て桜島丸を操縦し、幕鑑に砲火を浴びせかけてあやしまなかった」事例をあげ、高所の見識と評価する。
 この重松の著書は、海援隊・薩長同盟・大政奉還・船中八策・遭難・逸話などの項目をたて、きちんと述べてある。学術書でないため、個々の出典を示してないのは残念だが、遅鈍ではなく、海舟を斬りに行った伝説は疑わしいと明記している。昭和初期の見識ある高知の知識人は、龍馬愚童説など信じていなかったのだ。

龍馬の手習いと寺子屋
 龍馬は乙女姉さんへの親しみとユーモアあふれる手紙から、志士たちへの情報伝達、政治構想まで、さまざまな文書を書き残している。個性的な口語体の文章表現と、伸びやかな筆遣いでその想いが率直に伝わってくる。この筆力は、少年期に習得したものである。ここで、その学習歴を振り返ってみよう。主として高知県立坂本龍馬記念館の「龍馬略年表」による。〈 〉内は、筆者の追加事項である。
一八三五(天保六) 一歳 十一月十五日、郷士・坂本長兵衛(八平)の次男として誕生 
一八四六(弘化三)十二歳 六月母幸没。この年小高坂の楠山塾に入門、間もなく退塾
一八四七(弘化四)十三歳 〈この頃父八平が種崎川島家から伊与を後妻に迎える〉
一八四八(嘉永一)十四歳 城下築屋敷の日根野弁治道場に入門し剣術を学ぶ
一八五三(嘉永六)十九歳 三月「小栗流和兵法事目録」を受ける。剣術修業のため江戸へ赴き、千葉定吉道場に入門。〈佐久間象山に入門、砲術の初学を学ぶ〉ペリー浦賀に来航。土佐藩臨時雇として品川海岸警護につく
一八五四(嘉永七)二〇歳 六月江戸より帰国。この頃河田小龍に会い、将来を啓発される
(安政一)
一八五五(安政二)二一歳 父八平没。〈九月十一月 徳弘孝蔵のもとで洋式砲術稽古〉
一八五六(安政三)二二歳 八月再び剣術砲術修業のため江戸へ向かう
一八五八(安政五)二四歳 千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」を受ける。九月帰国
一八五九(安政六)二五歳 砲術家徳弘孝蔵に入門し西洋砲術を学ぶ
一八六一(文久一)二七歳 〈井口村で上士・下士の刃傷事件起こる〉土佐勤王党に加盟
一八六二(文久二)二八歳 萩の久坂玄瑞を訪ねる。三月脱藩し勝海舟の門下生となる

 この年表で、まず注意いただきたいのは年齢で、江戸時代は数えであり生まれると一歳、龍馬は生後一月半で正月を迎えて二歳となる。現在の満年齢と二歳近くずれているのだ。母幸の亡くなったのは、今でいえば十歳ぐらいだ。この年に楠山塾に入門とあるが、『高知藩教育沿革取調』(明治二五年 冨山房刊)によれば、師匠は楠山荘助(庄助)、文政五年開業、安政四年廃業で、学科は読書習字、安政三年の生徒は男百人、女二十人となっている。龍馬が、すぐ退塾してもさほど問題なかったのは、入門前に家庭学習ですでにかなり読み書きを習得していたからだと思われる。
 江戸後期には全国で寺子屋が普及し、庶民の子弟も数えの七歳くらいから読み書き算盤を習うようになるが、武士や庄屋、裕福な町人の多くは手習いの手ほどきを家庭で行うのが習わしであった。自叙伝『蜑(あま)の焼く藻の記』を残した幕府御家人・森山孝盛は、十歳までの教育は母任せだったという。初めは家庭学習で、途中から寺子屋に行く者もいた。いずれにしろ十二歳前後になり手習いを終えると、家塾・私塾・藩校、あるいは剣道場などに入門する。寺子屋の師匠が医師や武士・僧侶・庄屋などの兼業であったのに対し、藩公認の儒官による家塾も、民間の私塾も、漢学者や国学者が自宅で開いた塾であった。
 坂本家の人々は代々和歌を楽しんだとされ、なかでも龍馬の祖母久は土佐では知られた歌人・井上好春の娘であり、その家風は龍馬の父八平・母幸にも受け継がれたようだ。山田さんが『海援隊遺文』で紹介したように、仁井田・川島家に残る『六百番歌合』には当時種崎にあった川島家で開かれた歌会の巻があり、そこには種崎の川島春麿・杉本清陰・中城直守などと並んで坂本直足(八平)の名が見られる。このような教養豊かな家庭では、手習いの手ほどきは父母が行い、親が読み書きの得意でない家庭では最初から寺子屋に通わせていた。
 土佐での事例は、下級武士で国学者の楠瀬大枝(一七七六〜一八三五)が残した日記『燧袋(ひうちぶくろ)』に記されている。この日記を分析した太田素子(和光大学教授)は『江戸の親子』(中公新書)で娘の教育について、「大枝は菊猪や笑の手習いをやはり自分で手がけている。…菊猪の記録では手習いの開始と初勘定を続けて記録しているが、手習いの開始は菊猪七歳」、「下級武士の息子たちが手習いはともかく、素読から講釈へ進む段階には私塾に通っていた」と述べている。
 江戸の家庭教育の事例は、幕末に蘭医桂川家に生まれた今泉みねの『名ごりの夢』(平凡社東洋文庫)にある。「私の生まれた家では、…手習いでもしているのを見つかると、御じい様が桂川のうちに手習いや歌を習う馬鹿がどこにあるか…そんなことは習わなくてもできるもんだ」、「いきなり思ったことを歌によんで、それを書くのが手習いでした。いろはを習わせると言うよりも、それを最初から使わせて思うように書かせる。つまり、生活がそのまま教育ですね」と、語っている。
 桂川家は極端な例だが、寺子屋でも家庭でも手習いは基本的に個人別自学自習であり、学びは学(まね)びから始った。多くが、まず「いろは」と数字を師匠・親が自ら書いた手本を真似て学び、次に往来物と呼ばれる木版摺りの教科書を使っての手習いへと進む。往来物の内容は、人名漢字、国名尽し、消息往来、さらに商売往来、風月往来などで、文字・単語・短文を習得し、日常生活の用語・知識・手紙文、そして職業知識や和歌風流へと続くカリキュラムがあった。

寺子屋の学習法と机の配置
 学習法は、新しいお手本に進むたびに師匠から読み書きの指導を受けるが、あとはひたすら手習いの反復練習である。そして、一人ずつ師匠の前に出てチェックを受け、読み書きともきちんと出来れば新しい教材に進む。何十人生徒(寺子)がいても、学習内容は進度に応じて一人ひとり違っていた。往来物は七千種類以上あり、『土佐往来』といった地方版も出版されていた。和歌では『百人一首往来』『七夕和歌集』等があった。
 家族で和歌を楽しんだ坂本家では、実母幸も継母伊与もそして三歳上の姉乙女も当然手習い指導の力を持っていた。中城直正の手稿『桃圃雑纂』にも「母幸ハ温厚貞節、ヨク八平ニ仕ヘ、子女ヲ教育セシガ」とある。龍馬には、病弱な母に代ってもっぱら乙女が指導、『古今和歌集』も教えたとされる。慶応元年九月の乙女・おやべに宛てた龍馬の手紙からは、『新葉和歌集』にも親しんでいたことがうかがえる。
 このような手習いを終えると、十二歳くらいから私塾や家塾で、さらに四書五経・史記・唐詩選・資治通鑑などの漢籍とも取り組み、専門的知識を持った師匠の元で儒学や漢詩・国学を身につける。また、武士は武術にも励むことになる。
 龍馬にとっては、寺子屋や私塾に行かずに、家庭で母幸や姉乙女からのびのびと自学自習で読み書き算盤、さらには歌の道を学んだことが、その後の人間形成にかえって役立ったように思われる。漢籍はさほど必要としなかったのだ。成人してからの手紙文や和歌から判断しても、読み書きの基礎学力はきちんと身につけていたし、砲術・航海術を学ぶために必要な数学力、例えば大砲の角度・火薬量から弾道と距離を計算する力も備えていた。英語にも挑戦している。
 それにしても、近年の寺子屋描写はひどすぎる。NHK「龍馬伝」でも第一回に寺子屋と私塾(岡本寧浦)の場面が登場したが、どちらも今の学校同様に教師と生徒が向き合う形で机が並べられていた。寺子屋では一斉授業を行わないので、生徒たちは入門の際に持参した机を自由に並べて学習した。師匠に向って整然と並べることはあり得ない。このことは、金沢大学(日本教育史)の江森一郎教授が『「勉強」時代の幕あけ』(平凡社)で、江戸時代の寺子屋絵図を列挙して論じておられる。
 ここでは、公文教育研究会所蔵の二点を紹介しよう。『孝経童子訓』所載の「書学之図」(図3)は行儀よい寺子屋で、右は男子席、左は女子席だ。師匠の前で個人指導を受ける生徒がいる。次の『絵本弄(もてあそび)』(図4)は、出かけていた師匠が帰ってみると、大騒ぎの場面である。龍馬もこんな騒動に巻き込まれたのだろうか。机はコの字型に並べてある。
 ところが高知でも、六年ほど前に高知城の丸の内緑地で開かれていた江戸時代の城下町展示を見学に行くと、寺子屋のセットがあり、やはり全て前向きに机を並べてあった。本町の「龍馬の生まれたまち記念館」にも寄ったが、ここに置いてあった寺子屋場面の絵も同じだった。双方の係りには間違いを指摘しておいた。さすがに山形県立教育博物館の寺子屋展示は、江戸時代の天神机から落書きだらけの雨戸まで本物を揃えており、並べ方もコの字型できちんと考証がされていた。平成一三年に京都国際会議場で開かれた「ユネスコ世界寺子屋会議」の展示企画を担当し、浮世絵寺子屋図とともに山形の実物をお借りして展示したが、海外の参加者から大変好評であった。なお、寺子屋で使う質素な机を、学問の神様・菅原道真にちなんで天神机と呼んだ。
 日本では明治五年の学制以降、ヨーロッパの小学校の一斉授業を取り入れたが、この授業法は十九世紀になってからイギリスの牧師が、植民地でのキリスト教普及のため考案したものである。二人の牧師の名前をとって、ベル・ランカスター・メソッドと呼ばれるが、少ない教師が効率よく大勢を指導するために助手を使い、同一教材で一斉授業を行った。
 この教授方法を、産業革命と列強による戦乱の時代を迎え、労働者や兵士の手っ取り早い養成に迫られた欧米各国が、小学校に採用したのである。貴族たちは相変わらず家庭教師の個人指導を受けていた。平成一六年にドイツ城郭協会会長のザイン侯爵をその居城に訪ねたが、ハプスブルク家出身の城主夫人が述べた言葉「小学校には行かず家庭教師が来てくれました。両親からは家の誇りを忘れず、将来どこに住んでも土地の社会に貢献することを心がけるようにと教えられました」が、印象に残っている。夫人は城の隣で、自ら「チョウの生態博物館」を運営しておられた。

和歌と砲術が結ぶ三里と坂本家
 さきに上げたように種崎の御船倉御用商人・川島春麿は楠瀬大枝に国学・和歌を学び、近所の杉本清陰や中城直守だけでなく、城下に住む龍馬の父坂本八平などとも歌人仲間であった。おそらく川島家と坂本家は廻漕業と商家として、業務上の繋がりも深かったと思われる。中城家も、大廻御船頭として土佐から江戸への藩船を操船、藩士やさまざまな物産を運んでいた。この三者は当然、仕事・和歌の双方で親しい仲だった。
 三里にはこの時代の歌人に坂本春樹などもおり、和歌のサロンが出来ていたように思われる。そして、川島家の記録にあるように、坂本八平など城下の和歌仲間とも交流していた。『万葉集古義』で知られる国学者・鹿持雅澄も妻菊が仁井田郷吹井の出であり、仁井田・種崎をたびたび訪ねてこれら歌人と歌を贈りあっている。
 中城直守は、この土佐の歌人仲間と江戸の歌人とを結ぶ役割もしていたようで、手稿『随筆』には国学者・齊藤彦麿を訪ねて教えを乞い歌を交わしたとある。藩船を運航して江戸に行っては歌人を訪ね、土佐への土産はもっぱら交換・購入した短冊と浮世絵だったと我が家には伝わっている。直守所蔵の短冊は三百人を越す歌人に及び、本居宣長・村田春海・野村望東尼から地元の谷真潮・中岡慎太郎に至る。
 このような交流の中で、坂本八平は川島家をしばしば訪ねて早くから伊与を知っており、「思われびと」だったのではないかと山田さんは推測している。いずれにしろ、二人の結婚によって龍馬少年も乙女姉さんとともに川島家をよく訪問したと伝わっており、和歌にも浮世絵にも親しんだのではなかろうか。そして、城下本町の自宅から小舟をこいで鏡川を下り、浦戸湾を種崎に向かうなかで、行き交う藩船や荷船への興味と、海の彼方へのあこがれが芽生えたと思われる。川島家では、村人から「ヨーロッパ」と呼ばれるほど西洋事情に詳しかった春麿から万国地図なども見せられ、胸をときめかした事であろう。
 和歌に続いて坂本家と三里を結ぶものに砲術がある。土佐藩では仁井田の浜を公設砲術稽古場としていたが、砲術指南に当たった一人が、徳弘孝蔵(董斎)で、『近世土佐の群像(4)鉄砲術の系譜』(渋谷雅之著)によると天保十二年(一八四一)に一三代藩主山内豊煕の命で下曽根金三郎に入門し、高島流砲術(西洋砲術)の免許皆伝を得ている。徳弘は下士で御持筒役に過ぎなかったが、上士の中には洋式砲術を嫌って藩命拒否の人物もいたなかで、いち早く西洋砲術を習得したのである。
 龍馬の父八平は、和式砲術の時代から徳弘孝蔵に入門していたが、龍馬の兄・権平も安政三年(一八五六)に奥義を授けられた記録が残っている。いっぽう龍馬は、従来安政六年徳弘孝蔵に入門とされてきたが、山田さんは『海援隊遺文』で「龍馬、鉄砲修行」の項を立て、詳細な調査から「安政二年洋式砲術稽古、同三年正式入門」とし、安政六年は免許に近い奥許しと見ている。続けて龍馬の成長過程を「嘉永六年十二月一日、十九歳で江戸で佐久間象山に入門、砲術の初学を受け、安政元年六月、二十歳で帰国、河田小龍に航海通商策を説かれ、翌二年十一月、二十一歳、徳弘董斎のもとで砲術稽古…」と、述べている。これに対し、十九歳で高名な佐久間象山にいきなり入門は無理で、それ以前から土佐で砲術の初歩は学んでいたであろうとの説もある。
 安政元年、河田小龍に会ったのは小龍が筒奉行池田歓蔵に随行して薩摩に赴き、大砲鋳造技術の視察から帰ったばかりであった。龍馬は江戸でペリーの黒船を見て帰国したところであり、大砲の威力も、外国の軍艦を迎えて攘夷の困難なことも、さらに外国船を購入しての旅客・物資の運輸とそのための人材育成の必要性も、よく理解できた。
 龍馬は嘉永六年に江戸修行に出かける二年ほど前から、父や兄に連れられ、仁井田の砲術稽古を見学していたのではないだろうか。そしてその往復には小舟を使い、継母が住んでいた川島家にも寄り、江戸や長崎の新しい情報を聞き、更に川島家の幼い姉妹(喜久と田鶴)や中城直守の長男亀太郎少年(直楯)とも遊んだであろう。
 坂本家は商家から郷士に転じただけに、古来の武士が剣術や槍術にこだわって銃砲術を蔑視したのに対し、早くから兵器としての威力を認め、その習得に取り組んできた。伝統的な和歌を好む反面、実利的合理的判断の出来る家庭で文明の利器にも敏感であった。この気質は、種崎・仁井田で古くから海運・造船に従事してきた人々とも共通するところが多かった。
 このような風土から有名な龍馬のエピソード、「太刀→短刀→ピストル→万国公法」が生まれた。時代の変化に即応した所持品の更新であり、思考の更新である。実践でも龍馬は寺田屋でピストルを使って捕手の襲撃を防ぎ、第二次長州戦争では桜島丸に乗船して幕府軍への砲撃を指揮、慶応三年の帰郷では新鋭のエンフィールド銃千挺を土佐藩にもたらしている。
 龍馬は、和歌で文章表現力とともに王朝人の雅や気概を、砲術で国内統一と欧米列強への軍事的対応策を、身に付けたのだ。

龍馬最後の帰郷と土佐のお龍
 慶応三年の龍馬最後の帰郷と三里の人々、そして土佐に来たお龍の姿に簡単に触れておこう。九月二三日に蒸気船震天丸で浦戸湾に入った龍馬は、袙(あこめ)の袂石(たもといし)に停泊させ、小舟で種崎・中の桟橋に上陸すると、裏の竹やぶをくぐって中城家にはいった。当日は仁井田神社の神事(じんじ)で、人の出入りが多い表門は避けたのだ。中城家では、直守が御軍艦奉行による旧格切り替えに御船方仲間を糾合して反対したため、格禄を召し上げられ、長男直楯(亀太郎)に家を継がせたところであった。
 城下の実家に直接入らなかったのは、土佐藩の政策が勤王か佐幕か明確になっておらず、持ち帰った最新式の銃千挺を土佐藩が倒幕に備えて受け入れるかどうか不安があったからだ。頼りの後藤象二郎は上京中であった。そこで、藩の方針が決まるまでは馴染みの多い種崎に潜伏した。川島家は、安政地震の津波で被害を受け、仁井田に転居していた。
 中城家では直楯が龍馬一行を「離れ」に案内し、妻の早苗が世話をした。滞在中の様子は、直楯の長男直正が後に両親から聞き出し、覚書『随聞随録』に記載してある。これも山田さんはじめ多くの研究者が引用している。
 龍馬はこの際に、川島家の屋敷跡にあった小島家も訪問している。小島家には少年時代に可愛がった川島家の妹娘・田鶴が嫁入っていたのだ。この家で、折良く来ていた土居楠五郎(日根野道場で指導を受けた師範代)とその孫・木岡一とも会っている。後に木岡が述べた回想が、『村のことども』(昭和七年 三里尋常高等小学校刊)にあり、土産にもらったギヤマンの図まで掲載してある。円形の鏡でPARISの文字を月桂樹の小枝が囲んでいる。このわずか二ヶ月足らず後に龍馬は不帰の人となっただけに、忘れ得ぬ思い出になったであろう。
 龍馬の妻お龍も夫の亡き後、その遺言に従って妹起美を海援隊幹部・菅野覚兵衛(千屋寅之助)と長崎で結婚させ、明治元年春には土佐の坂本家にはいる。しかし、権平とうまくいかなかったのか、夏には和喰村(現芸西村和食)に帰っていた菅野夫妻の実家・千屋に身を寄せる。ここでお龍に可愛がってもらったのが十一歳ごろだった仲(覚兵衛の兄富之助の長女)で、中城直顕(直守の三男、私の祖父)の後妻に来てからその思い出を高知新聞記者に語っている。
 そこには、龍馬遺愛の短銃でスズメを撃って遊び、人に見せたくないと龍馬からの手紙をすっかり焼き捨てたことから、お龍さんへの「あんな良い人はまたとない」という回想まである。日付は昭和一六年五月二五日で、記者は私の母冨美の弟岡林亀であった。この記事は、中城家から『坂本龍馬全集』にも提供した。菅野のアメリカ留学によって、明治二年お龍は土佐を去るが、別れに際し仲への記念に龍馬から贈られた帯留を譲っている。龍を刻んだ愛刀の目貫止めと下げ緒で作ってあり、中城家の娘の嫁ぎ先に代々受け継がれている。
 最後に、『汗血千里駒』の冒頭で扱われた井口村刃傷事件と龍馬の関係に触れておこう。多くの研究者はこの事件に龍馬は参加していないとしてきた。山田さんは、寺田寅彦の父寺田利正が事件の当時者である下士・宇賀喜久馬(十九歳)の兄であり、寺田家には喜久馬切腹の介錯をしたのは利正で、上士二人を斬った池田虎之進と宇賀の切腹で収拾を図ったのは龍馬だったとの話が、密かに伝えられてきた事を明らかにしている。切腹は、武士としての面目が立つ自死であった。龍馬が関与したとの説は、元高知県立図書館長・川村源七がかつて唱えており、山田さんがそれを立証している。
 坂崎が『汗血千里駒』を執筆した明治一六年には、城下を揺るがせたこの大事件の関係者も数多く生存しており、冒頭に持ってきたのは龍馬関与に自信があったからであろう。明治二○年高知座でのこの作品の上演でも、井口村刃傷事件が中心であり、大好評であった。坂崎の龍馬本の虚実と、政治小説としての正当な評価は今後も追及すべき課題である。
 
おわりに
 坂本龍馬は、恵まれた家庭環境で家族の指導のもと、読み書き計算を自学自習で学び、そこから自ら学ぶ意欲と新しい課題にチャレンジする喜びを身に付け、成長していった。学びの場は、日常生活を過ごす家庭・地域から、城下の剣道道場や鏡川での水練、さらに仁井田の砲術稽古、そして江戸の千葉道場・佐久間象山の塾、神戸・長崎へと広がっていった。この間、和歌を学び歌も詠んだが、現実とは遊離しがちな漢学・漢籍には深入りしなかった。
 代わりに川島春麿や河田小龍、江戸では佐久間象山や勝海舟など、当時の最新の情報と学識を持つ人々に接していった。また、種崎・仁井田の御船倉や砲術稽古の現場も訪ね、江戸では黒船警護の品川台場にも動員された。このような現場での見学や体験の積み重ねが、神戸での海軍操練所開設や長崎での亀山社中・海援隊結成で、花咲くことになる。
 なかでも青少年時代に、御船倉の周辺で見た活発な船の行き来や種崎・仁井田の沖に広がる太平洋の大海原は、大きな影響を与えたと思われる。船は江戸・上方はもとより、長崎・下関・薩摩などから、様々な物産と情報をもたらしてきた。情報の一端は中城直守が文政から明治期まで記した『随筆』でも知ることができる。龍馬は、長崎とも取引をしていた川島春麿からの異国情報を、目を輝かせて聞いたのであろう。
 寺子屋にはほとんど行かなくても、豊かな生活環境のなかで自学自習を行い、自ら学ぶ喜びに目覚めていったのである。後に愚童と呼ばれた「龍馬の学び」にこそ、教科書中心の一斉授業とテストに明け暮れる現代の教育病理を克服する鍵があるようだ。(註 引用文は現代用語に変えてある)

(本稿は『大平山』第三八号 平成二四年三月 三里史談会刊よりの転載である)
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<山田一郎先生追悼文>
中城正堯(30回) 2011.04.22海辺から龍馬の実像を発掘

 山田先生は高知出身のジャーナリスト・評論家で、昭和から平成にかけて活躍、寺田寅彦や坂本龍馬の研究で知られます。高知市三里で昭和7年に生まれ、平成22年1月に90歳で亡くなられました。三里史談会発行の『大平山』37号に追悼文を寄稿いたしましたが、生前には土佐高出身者とも交流が深く、そのことにも触れましたのでここに転載させていただきます。文中の土佐高出身者は太字で表記し、カッコに卒業回を付記いたしました。
 
ジャーナリストの大先輩
 山田一郎さんのお名前は、出版社(学研)に入社した頃から種崎に帰郷するたびに父母から聞かされ、訪ねるように言われていた。父・中城惇一郎は若い頃は新聞記者志望であったが、祖父・中城直顕の養子となって大正14年に東京から帰郷、三里村長などについた。晩年になっても、村内出身の言論人である中島及・田中貢太郎のお二人に対しては、敬愛を込めて「きゅうさん」「田中のこうさん」と呼んでいた。この後に続く三里生まれのジャーナリストが、中島暁(10)・山田一郎・中山操の皆さんであった。
 昭和30年代から40年代にかけて、山田さんは共同通信の文化部長・科学部長・常務理事などの要職を重ね、私も雑誌編集の仕事に追われ、ご挨拶をする機会を持てないままであった。昭和55年に退社した山田さんは、ジャーナリストとしてめざましい活躍を開始した。57年に『寺田寅彦覚書』で芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞、翌58年の正月からは高知新聞で「南風対談」を始めた。高知出身の「十二名家・巡礼の旅」の聞き手として、この対談で有光次郎・大原富枝に続き、三人目に公文式教育を考案した公文公(7)を選んでいただいた。当時私は、くもん出版から公文側の一員として取材に立ち会い、ようやく山田さんともご挨拶をすることができた。
 山田さんと公文先生との出会いには前段がある。高知出身の近藤久寿治(6)が創業した出版社・同学社の新ビル落成記念パーティーで、昭和57年に山田さんは公文教育研究会役員の岩谷清水(27・高知市常盤町出身)と出会って公文先生の活躍ぶりを聞き、師弟の文通が始まっていたのだ。この経緯を山田さんは、高知新聞『南風帖』に書いておられる。さらに遡れば、公文先生が大阪帝大理学部数学科を卒業して最初に赴任した海南中学で教えた生徒の一人が、山田さんであった。「南風対談」では、この師弟がクラスの席順や同級生の消息、さらには当時の高知の教育事情まで克明に記憶しているのに驚かされた。実は私も公文先生の教え子で、戦時中には海軍予科練教授だった公文先生が帰郷、昭和24年に母校土佐中高の教諭になって初めてクラスを持った際の生徒であった。山田さんは、私にとって三里小学校の先輩であり、また公文先生の門下生でありながら数学の不得手な不肖の兄弟弟子でもあった。
 平成7年7月に恩師公文公が永眠した際には、追悼文集に伝記執筆をお願いした。刊行まで限られた時間しかなかったが、公文禎子夫人などご遺族・関係者から丁寧な取材を重ね、心のこもった評伝を書き上げてくださった。公文式教育誕生の背景には、旧制土佐中で受けた、個人別・自学自習教育があることも指摘いただいた。
 
多士済々の東京「みさと会」
 「南風対談」が契機で、海南時代の教え子である山本一男(デザイナー山本寛斎の父)も、革のジャンパーでオートバイに乗り、颯爽と千代田区市ヶ谷の公文東京本部にやってきた。「若い女性に追っかけられたが、赤信号で止った際に顔をのぞき込まれて老人であることがバレタ」などと、恩師に笑顔で話していた。三里組も、山田さんを囲む会をやろうということになり、平成初年に東京で「みさと会」を始めた。メンバーは竹村秀博(オリンパス)・小平〈中城〉久(家裁調停員)・池川富子(29・三枝商事)・平田喜信(30・中学で転校・横浜国大教授)・奴田原〈池〉訂(31・高知銀行)・秦洋一(34・朝日新聞)・小松勢津子(35・旺文社)・丸山〈早川〉智子(35・産経新聞)・中島朗(43・電通)など多士済々で、なぜかマスコミ関係者が圧倒的に多く、山田さんにも喜んでいただけた。会場は赤坂の「土佐」などであったが、下戸にもかかわれず最後まで若い酔っぱらいに付き合ってくださった。いかにも潮風にさらされて育ったような風貌と、ふるさとの人と風俗を回想しての鮮明な語り口に一同魅了された。郷土出身の作家・文化人の生い立ちや消息にも精通しておられ、驚かされた。
 二回目の「みさと会」の案内状が手元にある。「今回は、高知県東京事務所次長として活躍中の池永昭文(36)さんが、高知新港や橋本県政など三里と高知の最新情報をお話くださいます」と記されている。同学社近藤社長夫人(旧姓・野町初甲)も、母の野町久喜が種崎の桟橋近くに住み、その妹が近くの釣り宿「橋本」のおかみであり、メンバーだった。平田君は私と小学の同級で、父上・平田信男は海上保安庁を経て東海大学教授を務めた航海工学の専門家であった。「みさと会」が縁で山田さんは信男をたずね、坂本龍馬「いろは丸事件」の詳細な資料を提供、現在の海難審判ではどちらに非があるのか審理を求め、真相に肉薄している。
 平田君も先祖は土佐藩御船方だが、本人は王朝文学を専攻していた。「源氏物語」や「土佐日記」の研究で知られ、横浜国大の教授であった。国際交流基金からサンパウロ大の大学院生指導に派遣され、帰国すると副学長に就任、次いで図書館長としてその改築を指揮し、市民参加型の新しい大学図書館を開館するなど多忙を極めていた。定年1年前の平成12年に急逝、山田さんの要望を受けて晩年は高知で後身育成に当たると言ってくれていたが、かなわなかった。秦君も医療ジャーナリストとして注目されていたが、自分が病に倒れてしまった。小松さんは種崎にあった高芝医院の姻戚で、トフラー『第三の波』などの翻訳でも活躍した。丸山さんの父上は、市役所の種崎支所長であった。「みさと会」は、山田さんが横浜市から高知市に転居したこともあって、数年で活動を休止してしまったが、三里出身のジャーナリストにとって山田さんは生きたお手本であり、その綿密な取材ぶりと権威を恐れぬ執筆姿勢に、後輩は勇気を与えられてきた。
 
寅彦と龍馬の研究が双璧
 山田さんが残された多くの功績の中で、寺田寅彦研究と坂本龍馬研究が双璧であり、粘り強い史料渉猟と関係者への根気強いアプローチで、次々と新事実を掘り起こしていった。
 寅彦関連では、『寺田寅彦覚書』刊行後も寅彦の次女・関弥生など一族と交誼を重ねて信頼を得、さまざまな風評のあった三人の妻たちと寅彦との暖かい交情の実態を、前著の20年後に刊行した続刊『寺田寅彦 妻たちの歳月』で明らかにした。最初の妻・夏子の出生の秘密や、種崎・桂浜での療養生活、帰郷する寅彦の船を浜辺で迎える夏子の姿など、新資料を使って描写、山田さんならではの地を這うような粘り強い取材と人物への肉薄が感じられる好著であった。幕末土佐で起こった「井口刃傷事件」では、寅彦の父が果たした不幸な役割も初めて公にしている。
 くもん出版で『父・寺田寅彦』(寺田東一他著・寺田寅彦記念賞受賞)を刊行したこともあって、この間の事情は山田さんからも寺田家・関家からもお聞きすることができた。平成5年に帰郷した際、寺田寅彦旧邸を御案内いただいたことも忘れられない。できればこの旧邸とは別途に寺田寅彦記念館を建て、原稿・絵画・著書・愛用の楽器など遺品や関係資料を展示したいと語っておられた。岩手県花巻市の宮沢賢治記念館が、文学者・科学者としての賢治を堪能できる見事な展示場になっているのを参考に、構想を描いていたようだ。寺田家が守ってきた貴重な遺品千数百点は山田さんに託されたが、寺田寅彦記念館は実現せず高知県立文学館に寄贈されることになった。
 坂本龍馬に関しても、従来高知の史家が『汗血千里の駒』を「史実追及を堅実に行い」などと解説し、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』が史実を離れていても国民文学としてもてはやされるのに対し、山田さんは新史料を発掘して昭和61年から高知新聞に新しい龍馬像の連載を開始した。これは翌年に、新潮社から『坂本龍馬―隠された肖像―』として刊行されたが、まさに隠されてきた龍馬像の出現であった。龍馬の父・八平の実家である山本家の系譜と沢辺琢磨波乱の生涯から、少年龍馬「案愚説」への反論まで、眼からウロコの連続であった。司馬がエッセイで「龍馬はなによりも海がすきであった」と述べたのに賛同しつつも、龍馬と海洋との関わりを少年時代の地縁から説き起こして実証的に解明したのはこの著書であった。なかでも三里関連の事項は、その風土と歴史を知り尽くした上で、関係者への取材を重ね、新事実を見事に掘り起こしている。
 
伊与・田鶴など三里人脈を発掘
 特筆すべきは、龍馬の継母・伊与の素性を解明したことだ。北代家から川島家に嫁し、寡婦となって父・坂本八平の後妻に迎えられた女性の名前が、「伊与」であることを突き止めたのである。川島家は土佐藩御船倉の御用商人で当時は種崎に住み、御船方の中城家から四、五軒西にあった。当主の川島春麿(猪三郎)と中城直守は、歌人仲間で親しかった。川島家に継母とともに舟でやってきた龍馬が春麿の子どもたちと仲良くなり、特に次女・田鶴を可愛がったことを山田さんは聞き出している。中城直守の子・直楯や直顕とも当然出会っており、最後の帰郷での潜伏につながったとする。安政地震の津波で被害を受け、川島家は仁井田に移転したが、中城家は種崎から動かず直楯が当主となっていた。
 慶応3年9月、龍馬最後の帰郷で震天丸にライフル銃一千挺を積んで浦戸湾に入港した際に、大政奉還への藩論が未だ定まっておらず、龍馬の一行はまず隠密裡に中城家にはいったのである。山田さんは、中城直守の筆録『年々随筆』と、中城直正(種崎小学校卒・初代高知県立図書館長)が父・直楯と母・早苗から聞き取った『随文随録』を史料として高く評価し、特に早苗が述べた龍馬の風貌描写を絶賛している。『随文随録』には、中城家で風呂に入り襖絵を眺めた後に、龍馬は「小島ヘ寄リ、舟ヘ帰ルトテ家ヲ出タリ」とある。
 この小島家が龍馬を慕っていた川島家の次女・田鶴の嫁ぎ先であり、種崎川島家の跡地に家を建てて住んでいたことも、山田さんは調べ上げている。龍馬帰郷の際に小島家には、十市村の郷士で龍馬の剣道の師でもあった土居楠五郎が、孫の木岡一を連れてきており、木岡はギヤマンの鏡を龍馬に貰ったと『村のことども』(三里尋常高等学校 昭和7年刊)にある。この本では、「坂本龍馬の潜伏」と題して、まず郷土史家・松山秀美の中城家潜伏説を、次いで古老となった木岡の回想を紹介してある。これは、どちらかが真実ではなく、山田さんが解明したように龍馬は双方を順次訪問したのである。
 田鶴への山田さんの思い入れはかなりのもので、仁井田浜の小島田鶴の墓前に立ち、「妙音観世音 梵音海潮音」と観音経をつぶやいたという。私の手元に残る色紙にも、これにちなんで「梵音海潮音 龍馬観世音 和平を願うて眠り居り申候 龍馬 山田一郎」と記されている。この小島家から城下浦戸町の今井家に嫁に入った直の子・今井純正が改名して長岡謙吉となり、海援隊に加わって「藩論」「船中八策」の起草者として活躍する。これも、山田さんの『海援隊遺文―坂本龍馬と長岡謙吉―』で、詳述されている。
 龍馬と海を結びつけるきっかけとなった継母・伊与と川島家に関しては、再三川島文夫を訪問し、言い伝えを聞き取るとともに龍馬も見たとされる世界地図から古文書まで関連史料を調査されている。我が家では母・中城冨美とともに、信清悠久・美衛夫妻と昵懇であった。信清は戦前に反戦運動をした後、満州に渡って満映で脚本・監督を務め、戦後は映画のシナリオ作家として東京で活躍、帰高後はテレビ番組「はらたいらのおらんく風土記」の台本を執筆し、三里史談会の会員でもあった。山田さんとは、若い頃にともに満州で活躍し、また反骨精神旺盛な物書きとしても気があったようだ。満州時代になじんだのか、ともにコーヒー好きで、特に山田さんは東京・調布市の居室を訪ねても、まず自ら薫り高いコーヒーを入れてもてなしてくださった。
 美衛は私の長姉で、若い時分には東京で婦人誌の記者をし、一時期は大原富枝の秘書をしていた。山田さんはこの大原富枝をはじめ、安岡章太郎・宮尾登美子・倉橋由美子(29)など錚々たる作家から信頼され、高知との折衝でも頼りにされていた。見識に裏付けされた率直な発言が好まれたからだ。しかし、歯に衣着せぬ言動は高知の文学関係者とは齟齬を来すこともあり、困惑の言葉を漏らすことがあった。自ら館長を務めた県立土佐山内家宝物資料館では学芸員の公募制を貫徹し、研究体制の充実にも取り組んで優秀な研究者を育成しておられた。山内家の信頼も厚く、国宝「古今和歌集高野切本」など山内家資料の、県への移管を実現した功績も大きい。
 山田さんが龍馬研究に取り組んでいた頃、新人物往来社主催の龍馬研究会が東京であり、お誘いいただいて山田講師のお供をした。少人数の会だったが、坂本家一族の土居晴夫さんも来会、作家で後に直木賞を受賞した北原亞以子さんも出席しておられた。当時私は龍馬のことも中城家史料のこともほとんど知らず、恥ずかしい思いをしつつ少しは龍馬を調べようと思い立った。今にして思えばそれが山田さんのねらいでもあったようだ。おかげで後の「龍馬役者絵発見」に結びついた。
 
「中城文庫」の推進役
  坂本龍馬が最後の帰郷で中城家に立ち寄ったことは、東京帝大国史科卒の歴史家・中城直正が、龍馬の接待に当たった父母からの鮮明な聞き書として記録している。これらを元に、郷土史家・松山秀美は『村のことども』で、歴史家・平尾道雄は『龍馬のすべて』で、きちんと触れている。しかし、大正14年に直正が東京で交通事故のため急逝してからは、聞き書『随文随録』の存在自体が次第に忘れ去られていった。
 この記録が再び注目されるきっかけは、昭和55年の三里小学校開校百年記念誌『三里のことども』刊行である。中城家を調査された坂本一定、中山操の眼にとまり、山田一郎・宮地佐一郎のお二人にも龍馬に関する部分のコピーが渡された。この頃に私の義兄・信清悠久が龍馬生誕百五十年にちなんで『土佐史談』に「龍馬の足跡―種崎・中城家」と題して発表、龍馬が眺めた浮世絵貼り付けの襖が現存することも明らかにした。山田さんは昭和57年に、高知新聞連載「南風帳」で「種崎の龍馬」として紹介、宮地は『坂本龍馬全集』に採録してくださった。後者には、私の祖母・中城仲(旧姓千屋・海援隊士菅野覚兵衛の姪)が龍馬の妻・お龍さんに可愛がられ、ピストルで雀を撃って遊び、別れの記念に帯締めをもらった回想談(昭和16年の高知新聞記事)も納められている。
 中城家の古文書などの史料が次第に注目され、高知市民図書館に寄託されるいきさつは、『大平山』第30号に「龍馬ゆかりの襖絵や宣長の短冊」として書かせていただいた。寄託が決まったのは、日本史、特に地方史研究の権威である林英夫立教大名誉教授の評価や、武市瑞山の子孫である武市盾夫(18)中央大教授の口添えもあったが、なにより高知での山田一郎・橋井昭六(元高知新聞社長)のお二人による当時の松尾徹人高知市長への推薦が決め手となった。
 寄託が決まると、史料受け入れの担当となった市民図書館・安岡憲彦さんの大奮闘があり、6年目に立派な目録も出来て、平成20年2月1日には寄託から寄贈へ移行し、<「中城文庫」開設記念展・海から世界へ>も開催する運びとなった。ところが、その直前になって、展覧会はするが「中城文庫」は返還すると、図書館長からいってきた。ここでも面倒な仲介を、山田さんにお願いせざるを得なかった。そして岡ア市長・吉川教育長と折衝いただき、とりあえず展覧会は開会、寄贈式はずれたものの2月13日に行われた。 
 私は寄贈式の日は、昭和大で肺血栓塞栓症の定期精密検診に当たっており、出席出来なかった。この病気は亡くなった山田さんのトミ夫人と同じ病気で、私も肺の動脈にアンブレラ・フィルターを入れており、この検診での胸部断層写真にもはっきりフィルターが映し出され、機能していることが確認出来た。山田夫人の主治医は後の宇宙飛行士・向井千秋さんである。その医療経過と山田さんの奥様への思いやりあふれる看病ぶりは著書『いのちなりけり』に詳しい。文中には患者が外出中に事故にあった場合に備えてのイエローカード(病名・薬・連絡先を記載)を紹介してあるが、私にもカードを用意するよう薦めてくださった。さっそく同様のカードを作り、いまも名刺入れに入れてある。
 話を「中城文庫」にもどせば、問題は個人情報保護に即した利用規程の改定と、史料寄贈者への利用状況の告知を、中城家からお願いしたことにあった。寄贈後に高知県立歴史民俗資料館「絵葉書のなかの土佐」や、県立坂本龍馬記念館「坂本龍馬と戊辰戦争」などの企画展で「中城文庫」史料が活用されたが、市民図書館からは寄贈者に対し、まったく連絡がなかった。幸い歴民館からは図録を贈呈いただき、龍馬記念館からは出品リストを後日いただいた。山田さんも図書館の対応を残念がっておられたが、全国の公立博物館・文書館・美術館・図書館と比べ、利用者へのサービスも協力者への対応も遅れを取っているように思える。かつては高知市民図書館と言えば、文化人を館長に招聘し、出版活動から移動図書館・特設文庫・研究者への協力まで日本の最先端であったが、現在の高知市文化行政にその面影はない。県と高知市で新しく歴史資料館建設の構想があると聞くが、貴重な収蔵史料が多いだけに、その利用サービスでも全国の模範となっていただきたい。
 
生涯一ジャーナリスト
 「中城文庫」とともに山田さんにご迷惑をかけたのは、中城家「離れ」の文化財指定調査である。高知市教育委員会から平成18年に、龍馬ゆかりの「離れ」につき、文化財指定を視野に入れて調査したいとの申し出があり、喜んで同意した。教育委員会の指定で建築物としての調査は伝統的建造物の修築で定評のある上田建築事務所が、歴史的位置付けは山田一郎・栗田健雄両氏が担当くださった。平成19年に『中城家「離れ」調査報告書』が出来上がり、高知市文化財保護審議会に諮問された。委員からは「川島家にしても中城家にしても資料が少ない」「市史跡として保存しなければならない程のものではない」との意見が出て、指定は見送りとなった。山田さんは長年の調査研究をふまえて、歴史的意義を説いてくださっただけに、私には「離れ」自体の文化財指定の可否はともかく、山田さんのこれまでの精密な研究成果が否定されたようで申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 山田さんは、「審議内容にはいくらでも反論できるよ」とおっしゃり、委員の文化財についての研究姿勢や歴史認識を残念がっておられた。ただ評価できるのは、審議会の討議「要旨」を教育委員会が当家に示してくれたことである。ぜひ、このような情報開示の姿勢は継続していただきたい。
 平成22年正月からNHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まったこともあって、この「離れ」もいくらか注目されている。毎回ドラマ後にその舞台を紹介する「龍馬紀行」でも取上げたいとの連絡があり、三里史談会事務局の久保田昭賢(理科・久保田伸雄先生の令弟)さんに取材斑の案内をお願いした。6月末の撮影日はあいにくの大雨で、座敷に雨漏りがしており、撮影スタッフも驚いたようだ。久保田さんから現状を報告いただき、兄・中城達雄の即断で台風シーズンにそなえ、急ぎ屋根の修理を行った。地元業者には上田建築事務所とも打ち合せの上で、伝統的建造物にふさわしい修理をしていただいた。ただ、家屋は使用しないと痛みが早く、今後の活用法が課題である。山田さんは、いくつか腹案をもっておられたようだが、地元でなにかいい案があれば、当家としては山田さんへの感謝を込めて協力したいと考えている。なお、種崎の母屋には平成23年春から兄の孫・田副一家が住んでいる。
 近年は、山田さんの調布市のお部屋を年に一度くらいはお訪ねしていた。満州時代の思い出話もうかがったが、終戦時に「ソ連機新京を爆撃」の大スクープを打電した話は口にせず、満州巡業に来ていて敗戦で帰国できなくなった落語家・古今亭志ん生との、糊口をしのぐための興行生活を楽しげに語ってくれた。最後の著書として
志ん生(本名・美濃部孝蔵)の一代記を書くべくその先祖を探り、「甲賀の忍者から徳川家康に取り立てられ、旗本となった美濃部家の末裔だった」とも言っていた。高知で倒れたのは、資料を漁り尽くし、敗戦後の大連での生活ぶりや、聞き取った秘話を元に執筆を始めたところであった。岩波書店での刊行も決まっていたが、原稿はご本人とともに泉下に運ばれてしまった。 
 平成21年の暮れには、上京する安岡憲彦さんと久しぶりに山田さんを訪問することになり、電話をかけたが本人も同じマンションの別室に住むご次男もご不在で、不安にかられた。高知で探っていただくと、入院中とのことであった。そして、年を越して訃報が届いた。3月4日に「生涯一ジャーナリスト」という山田さんにふさわしい名称で「偲ぶ会」が開かれると聞き、高知市城西館の会場に駆けつけ、遺影に最後のお別れをさせていただいた。そこには仁井田の浜に立つ老松のように、吹き寄せる時代の烈風に耐え、温顔のなかにも鋭い視線をたたえて真実を追い続けた希有な文人ジャーナリストの姿があった。合掌
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細木志雄(2回) 2010.10.25苦言一束

 「向陽新聞」第九號の主張欄で、男女交際――男女共學の問題が論ぜられてゐる。其の要点は二つ、一つは何でもない男女學生の友達としての交際を、周圍がやたらに騒ぐのがいけないといふこと、今一つは交際をする當の男女が、分を守り、軌道に外れない樣注意しなくてはならないといふことである。其の論旨には全然同感である。
 一体男女共學の目標は何處にあるのであらうか。私の素人考を以てすれば、其の第一は女性にも知的に向上する機會を男性と同樣に與へること、第二は男性ヘ育に情操ヘ育を加味すること、第三は將來社會牲ある文化人となる爲に、又夫婦生活を從前の樣な偏ぱなものでなくする爲に必要な男女相互間の理解を深めておくこと等ではないかと思ふ。が此の目標は男女共學にさへすれば、直ちに達成されるとは限らない。
 戦後に於ては性に關する考へ方が極めて開放的になつてゐる。餘りにルーズ過ぎることが問題である。斯樣な環境が學園の内部に無關係であり得る筈はない。又家庭に於ける性ヘ育は全く幼稚、といふよりも寧ろ無爲と言つて然るべきであらう。さういふ客観的状況の中に於て男女共學を實施するとすれば、先づ目標をはつきり把握すると共に、其の目標を達成する爲の具体的な方法に付ての充分な研究、更に又他面に於て當然豫想される弊害に對する措置に付ての指導者の周到な心構が必要であらう。之等によって補強されない限り男女共學は甚だ危險なものであり、寧ろ幣害の方が多く現れて來る惧がある。
 私は嘗て此の問題に付て母校の先生數人と話合つたことがあるが、其の目標につき、或は指導者としての心構につき何等滿足すべき説明を聞き得なかつた。其の時某先生は、此の學校に來てからさういつた問題を語り合ふ機會がない、と慨嘆して居られた。私は或機會に恩師X先生の所見をうかがつて見た。流石に感覺の鋭い先生は相當明確な意見を述べられた上、果敢にスタートした土佐中の男女共學を衷心より心配して居られた。
 主張に取り上げられた樣に、單なる友達としての男女學生の交際を、騒ぎ立てることもあらうし、それによつて當の學生達が不愉快な思をすることも起るであらう。又充分注意はしても中には知らず知らずの間に深みへはまる場合、誤つた方向に進む者も皆無とは斷言出來まい。さういつた事態は當然豫想されることであり、從つて斯樣な事態が起らぬ樣萬般の注意が拂はるべきである。又起こつた場合の善處方に付ても充分の準備がなされてゐなくてはならない。特に間違つた場合之を適切に導びく理解あり而かも心の暖い指導者の存在が絶對に必要である。
 學生の方は主張欄に述べられてゐる樣な自覺を以て進むとすればそれで結構と思ふが、學校當局も、單に男女學生を同一ヘ室で同一條件でヘへるといふこと以上に、本當に共學の目的が達成される樣、色々と、配慮を拂つていたゞき度いと思ふ。
×   ×   ×
「本校の特殊性」といふ言葉がよく使はれる。所で此の「特殊性」を出發点として論議する場合、兩方の意見がおそろしく喰違ふことがある。そこで色々考へて見ると此の言葉は、人によつて意味する所が違ふ樣に思はれる。
 私達は、母校土佐中が縣下の秀才を集め、伸びられる限り伸ばし、有爲の人材として育てあげる…といふ目的の爲に生れたものであり、其のヘ育方針を堅持する所こそ本校の特殊性と考へてゐる。所で其の特殊性が現在の母校に充分発揮されてゐるかどうか、大學の入學率のみを以て判斷することは穏當であるまいが、東大への入學者一名も無かつたことは理由は如何にあらうとも、本校創立の趣旨に鑑みて諒承致しかねる。が問題は何故斯樣な状態に立到つたかにある。先づ學生の勉強が足りないこと、之は何と言つても致命的である。此の点は學生諸君によく考へて貰はなければならない。次には先生方にも注文申上げ度い。學生が勉強を怠ることは學生のみの罪ではない。學生をして勉強し度い意欲を起させること、或は勉強せずには居られない樣に持つていくこと、之は先生の腕に俟つ所である。其の腕とは學問上の實力と熟練と誠意の綜合されたものであると思ふ。
 右の樣な腕のある先生にしつかり頑張つていたゞくことが先決問題である。それから今一つは、勉強しない學生は遠慮して貰つて、中位以上を標準として授業を進めることが非常に大切ではないかと思ふ。K先生など學生に實力が認められないと、なかなか單位をやらないさうだが、私は大賛成である。
 子供(高校二年)の英語のヘ科書を見て、之なら一時間四頁位進まなければなるまい、と思つて聞いて見ると、僅かに一頁半位だといふ。而かも最近に至つて、大部分の學生が基礎が出來てゐないから當分文法の基本的部分からやり直すことになつたさうだ。母校が之でよいのか?と私は暗然とした。 私は嘗て英語の陣容の充實を當局に要望したことがある。それは、高校ともなれば大學で英文學を專攻した先生の一人位は居なくては可笑しい、又同時に多年の經驗を有する練達の先生がほしい、といふ意味は何も若い先生をけなす意味ではなく、若い先生にも勉強になり、全体的に授業効果をあげることが出來る、若い先生丈では不安だ…といふ氣持からであつたが、如何なる事情からか、最近まで實現しなかつた。所が私の心配が杞憂に終らず、上級學校進學率に、又實力の不充分といふ事實に、はつきり現はれて來たことは、寔に残念至極に思ふ。
 學生は勿論だが、先生方にもよく御考へいたゞき度い。
「本校の特殊性」の別の意味は、本校が私立學校である、經營といふ面からも考へなくてはならぬ、それが爲には政治的な考慮も拂はなくてはならぬ、當初の目標のみに拘はる譯にもいかぬ…といふ樣なことにあるらしい。此の考へ方も無理からぬと思ふ。で、學生の數を揩オたことも、女學生を入學させる樣にしたことも諒解出來る。併し、優秀な先生を確保する爲に絶對必要な、相當の優遇といふことが、經營面からの理由により不可能とすれば、之は正しく本末を誤るものであり絶對に承服し難い。
 母校本來の特殊性(ヘ育面に於ける特殊性)は經營面の特殊性に若干制約されることは己むを得ないとしても、それによつて破壊さるべきでは斷じてない。尤も思ひ切つてヘ育方針を百八十度轉換し、例へば自由學園等の如く、上級進學等のことを全然考へず、社會性ある實質本位の人物養成を目標とすれば問題は別である。但し其の場合に於ても、優秀な先生を確保することの重要なるは同樣といふよりもそれ以上であらう。
 校舎を建てることも大切であるが、私には、ヘ育の本義に照らし、優秀な先生を確保すること、其の先生に落着いてしつかり働らいて貰ふこと、その爲に相當の優遇が出來る方途を講ずること、之が飽迄先決問題と思はれる。 右の点については財團の財政、或は振興會の經理内容に付て知る由もない私であるので具休的な案は樹たないが、理事諸公に眞劍に考へていたゞき度いと思ふ。
 經營上の困難性の故に母校本來の特殊性も発揮出來ず、さりとて新時代に完全に順應し切る樣な思ひ切つた方向轉換も出來ずとすれば如何になるか?私の氣持を端的に表現する爲に極端な言ひ方が許されるならば、母校士佐中が平々凡々たる一私立中等、高等學校に堕するとすれば、私は寧ろ土佐中の名誉の爲廢校になることを希望する。創立者、川崎、宇田の兩先生も恐らく地下で同感の意を表されるのではなからうか。
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PDF原稿  學年始の振興會の席上だつたと思ふが、擔任の先生から、「今年はうんと學生の躾に力を入れ度いと思つてゐる」とのお話を承はつた。「是非お願ひします」といふお母さんも大分居られたし、私も大賛成だつた。がじつと考へて見て、一体どんな躾をするのがよいか、之は案外難かしいのではないかと思つた。
 形式に堕し過ぎない程度に長幼の序を保ち、師弟の禮をつくすこと、贅澤に亘らない程度の身だしなみ、明快な言語、動作、之等は何れもヘ養ある現代人として身につけて置かなければならない事柄である。殊に言語については、それが女の子であれば尚更のこと、あまり汚い言葉を使はぬ樣、又使はせぬ樣注意してほしい。
 躾と言つても劃一的な、形から入る躾、軍隊時代に見られた樣な方法は考へ直して貰はなくてはならないだらう。アロハシヤツや、リーゼントスタイルは避け度いが、だからと言つて、それが形の上に現れた点だけを捉へてやかましく言つて見たつて仕方あるまい。さういふ恰好をして見度いといふ心理が問題なので、之をうまく矯正し善導することがより肝腎であらうと思ふ。或は又あゝしろ、かうしてはいけないなどとやかましく言ふことが、青少年に納得出來ない…そんなにやかましく言はれる理由を発見し得ない…場合には効果は反つて逆になることが多いであらう。ヘ育の本質にはあまり關係のないつまらないこと……髪を長くするとか、服装がどうのかうのといふ樣な形の上のこと……にはあまり差出口しない方が賢明であらうと思ふが如何なものであらう。
×   ×   ×
 「筆山」の編集子から何か書けといふ注文を受けた。先輩に書かせる以上悪口を言はれるのは覺悟の上だらうと其の点は安心して筆を執つたが、結果は學校當局への注文が多くなつた樣だ。元來私といふ人間は學校當局にはあまり喜ばれない存在だといふことを最近仄聞してゐる。けれども、私はうるさ型だと人に言はれたこともあまりないし、私自身も決して左樣ではないと確信してゐる。其のうるさ型でないことに自信を持つ私が母校當局のみからさう思はれてゐるとすれば、それはさう思ふ側が悪いのであつて、私の言ふこと、考へてゐることに妥當性があるのだらうと思つてゐるのであるが如何なものであらうか。大方の御批判に俟ち度いと思ふ。
(土佐中學校第二回生 縣農林部長)
1950.12.14『筆山4号』より転載  ページTOPに戻る

細木志雄(2回) 2010.10.25續 苦言一束
 前号に「苦言一束」を書いたが内容の大部分が當初の豫定に反して學校當局への注文になつてしまつた。今度は學生諸君への苦言乃至希望を書くことゝする。希望が多くなって標題には相應しくない内容になるかも知れないことを豫め斷つておく。

 現代の學生は如何にあるべきか。之は寔にむつかしい課題である。噴火山上にあるが如き日本の立場、左右入り乱れた現今の交通状況にも比すべき思想のてんやわんや、其の中で正しい人生観を持つということはなかなかむつかしいことである。正しい人生観、世界観を前提としてはじめて人生の意義が発見出来、我々日本人の在り方が解明されると思うが、此の根本問題は到底私の解き得る処ではない。私は問題をもつと卑近な所へ引き下げて考えて見ることにし度い。
 先づ最初に数個の事例を挙げよう。
 Kは學生時代出來るには出來たが、とび抜けた秀才ではなかつた。だが脇目もふらず勉強した。努力は彼に実力をつけ、大學在學中高文パス、卒業すると本省の役人になつた。それ迄世間を知らなかつた彼は、それ以後適当に社會人としての素養も身につけた。今後に於ける大成が期待されている。
 Yは秀才であつた。勉強もしたが道樂もした。大學時代よくカフェーを飲み歩いた。が其の間に社會の裏面に付ての認識も深まり新聞記者的なセンスも磨かれた。學問と社會人としての素養が併行的に進んだ。現在某報道機關の重要ポストにあり、不幸病臥中であるが、重大な外國電報は全部彼が目を通すことになつていると聞いている。
 I。之は私の高校時代の友人である。彼は植物學を研究していた。學校の方は各課目共に落第しない程度に勉強し暇さえあれば山野を跋渉して植物の採集をやつていた。牧野富太郎博士に師事し、今ヘ育大學の先生をやつている筈である。
 H。之は私の弟である。彼は學生時代劒道部に籍を置いた。そして在部中一度は必ず縣下で優勝しようとの悲願を立て、練習に專念した。部の氣分が常に一致しているとは限らない。部員が数える位に減つたこともある。が彼は黙々と練習した。學期或は學年試驗中でも欠かさなかつた。そして遂に優勝した。が其の爲學問の方が幾分犠牲になつたことは事実である。
 右に述べた四つの事例は何れも実在のものである。
 Kの行き方は当時の土佐中の代表的なものと見られたであろう。がYの樣な行き方の者も少くなかつた。Iに類した者もあつた。Hの樣なのは先ずなかつたと思うが、私は現在Hの行動を凝視していて、創道部の部員乃至主將としての鍛錬、特に心の錬磨が、如何に大きな影響を彼に與えているか、それが如何に尊い体驗であつたかをつくづく感じるのである。
 私は右の四つの行き方の何れにも賛成である。此の人達に敬意を表する。夫々自分の持前によつて學生時代を意義あらしめていると思うからである。
 意義ある生活とは、正しい目標を定め、之に向つて精魂を打ち込む生活―そうした充実感を伴う生活ではないかと思う。
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 大學入學ということを目標として精魂を打ち込むことも土佐高校學生としての最も意義ある生き方の一つであると私は考へる。斯くいつたからとて私は土佐高校のヘ育方針が大學入學ということを唯一終極の目標として行はれるべしと考へている訳では決してない。ヘ育ということは、勿論、個人々格を完成し、將来社會文化の発達に貢献する人間を養成することを目標とすべきである。其の過程として方法手段として學校ヘ育があるのだ。此の点は昔も今も変りない。昔の土佐中と雖も決して例外ではなかつた。唯昔の土佐中は、右のヘ育を施こす対象が、將來上級學校の過程に迄進もうとする者のみであつたから、恰も予備學校であるが如き誤解を受けたに過ぎなかつた。 右の如き誤解を持つている人々は、現在の土佐高は昔のそれと違うという。予備校的な詰込ヘ育は反対だという。其の点は同感だが、それだからと言つて勉學を怠つていゝということにはならない。そこで私は斯樣なことを言う人々に逆問して見度い。大學入學の爲の勉學ということ以外の如何なる方法によつて、日々の生活を意義あらしめているか。前に述べたY、I、Hの何れの行き方にも徹し切れていないのではないか。結局、勉學しないことの、或はヘ育目標をしつかり把握し得ないことの逃口上を述べているに過ぎないのではないか。
 享樂以外に人生の意義を認め得ない人は論外である。
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 今武蔵高校で英語のヘ授をしているD君の話「高等學校を出る頃は英語はチヨロイものだと思つた、が其の後勉強すればする程奥が深く、わからなくなつて、此頃は學生の前で.英語はむつかしい、自信がないということをよく話す、すると學生の半分位は、私の氣持がわかつてくれる」と。又私が土佐中の三年生頃だつたと思うが、Hという先生が斯う言はれた「試驗勉強の際、最初一通り勉強すると之で大丈夫だという感じがするものだが更に勉強していると、段々自信がなくなつて來る。それは進歩している証拠だ、更に突込んで行くと前より深く理解出來る、そのうち又自信がなくなる、そういう過程を辿つて學問は段々深く確実になつて來るものだ」と。
 右の言葉は長い學生々活或は學究生活の經驗をもつている人は、恐らく大概の者が首肯出來ると思う。同感でない人はとびぬけの秀才か、さもなくば、余程鈍感な人であろう。
 ヘ壇に立つて授業をする場合、実力に基づく本当の自信を持つて堂々と講義する場合は全然問題ない。中には、良心的には必ずしも自信はないが、そこを適当にごまかす場合もあろうし、又実力のないのに自信――実は自惚を持つて學生をなめてかゝる場合もないとは言えまい。所が此処で問題なのは、相当な実力を持ちながら、更に突込んで深く考える爲、授業は必ずしも明快でない感じを與える樣な場合である。むつかしくむつかしく考え悩む姿を正直に學生の前に晒す場合がある。そういう場合學生は其の先生に実力がないと速斷し勝ちだ。頭を傾ける医者が頼りなく思われ、出鱈目でもはつきり言う医者がもてるのと軌を一にする。だが、本当の力のない先生なら致方ないが、學生としては一應謙虚な氣持で先生の眞價を知る爲に努力することが大切ではないかと私は思う。斯樣なことを中學生に望むのは無理かも知れないが、苟も高校生ともなれば、そういつたゆとりというか寛容さというか、そういう氣持で先生を見てほしい、そしてD君の話が首肯出來る樣な感覺と理解とを持つてほしいと思う。
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PDF原稿  話は甚だ卑近になるが次は學習の態度である。
 東都學校視察者の報告にも「東京の學校は静かである。授業中も話声が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえてつまらない雑談がないし休時間などよく勉強している」とあつた。
 創立当時の學生は――古いことをいうと嫌われるかも知れないが――學習態度の悪い樣なものはついて行けなかつた。皆一生懸命に勉強して、それでついて行けない者は他に轉校するか落第するより他なかつた。
 所が現在の土佐高校學生の學習態度について某先生は言われた。「土佐高校よりも○○大學の學生の方が遥によい。○○高校でも土佐高よりましだ。眼の色が違う」と。又他の某先生が、不眞面目な學生の愚劣な、邪氣の籠つた野次に憤慨されて、涙を流して訓戒された話も聞いた。
 土佐高校の學生は學習に際して他校以上に眞剣であつて欲しい。且つ愚劣、低級でなくて欲しい。
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 齋藤実という人が「自分は少尉の時は日本の海軍で一番立派な少尉になろうと努力した。中尉の時は又一番立派な中尉になろうと思つて勉強した。そういう氣持でやつているうちに何時の間にか大將になつてしまつた」と述懐しているのを何かで読んだことがある。それは常に自分の職場に眞劍であつたことである。學生には學生の任務がある、本分がある、それに向つて眞劍であること、かくて後から悔いない、張り切つた學生々活を送つて欲しい。
1951.3.15『筆山5号』より転載

《編集部より》上段掲載二文は、中城氏(30回)の『猫の皮事件とスト事件のなぞ』の資料収集の段階で細木氏(27回)から父君・故細木志雄氏(2回)の文芸部文集『筆山』に掲載された評論が提供されました。今日でも立派に通用する内容で、細木氏の御了解を得て掲載させていただきました。母校関係者や在校生にも是非目を通していただきたいと思います。
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中城正堯 2010.04.10なんで今ごろ報恩感謝
 昨年(2000年)6月に『土佐中・高創立80周年記念誌』に、在校当時の思い出やこれからの土佐のあり方に関して何か書くよう浅井伴泰君から電話があり、学校の編集委員会からも依頼状が届いた。そこで「世界へ人材送る学校に」という題で、建学の精神が人材育成から報恩感謝にすり変わっている問題を指摘するとともに、海外の大学へ進学できるコースの新設をよびかけた。ここでは、建学の精神にしぼって、設立当時の資料をもとに私見を述べておきたい。

建学の精神は何だったのか
 2001年版の土佐中・高「学校案内」を見ると、相変わらず大きな文字で「報恩感謝の理念のもと社会に貢献する人材を育成することを建学の精神として創立されました」とある。また、80周年記念の高知新聞広告特集の「企画書」には「開校以来、報恩感謝の校是と文武両道の教育方員を掲げ」とある。幸い上村浩君が司会してくれたこの特集の座談会では「土佐中・高は学業もスポーツも、そして文化活動もという『文武両道』の校風のもと、個性豊かな人材を育て上げてきた」と述べてあり、報恩感謝など出てこない。文武両道は、校歌四番「それ右文と尚武こそ」に由来し、問題ない。
 では、そもそも土佐中の創設の理念、建学の精神は、どう謳われてきただろう。いつから「報恩感謝」などという矮小化が始まったのだろう。
 最も古い記録として、大正8年11月2日の『土陽新聞』記事がある。「土佐中学校創立目論見」の見出しで、「予科として小学五六年級を添附し七学級を置く」「一学年二十五人を限度とし俊秀者を集め無資力者は之に給費す」「学校全体を家庭的とし寄宿舎を設け成るべく全生徒を寄宿せしめ生徒をして田園生活に趣味を起さしむ」「職員以下小使に至る迄都て俊秀教育に趣味を有するものを選抜起用」とある。これは、初代校長三根円次郎着任以前だが、俊秀教育すなわち英才教育をめざし、その賛同者しか雇用しないと述べている。「生徒をして田園生活に趣味」というのも、時代を先取りしており、校舎・寄宿舎とも実際梅が辻の田圃のなかに建てられた。さらに、創立者である宇田友四郎、川崎幾三郎の伝記にも「国家有為の人材を養成することが其の目的」と明記してある。人材教育、英才教育という言葉も使われているが、報恩感謝は出てこない。『近代高知県教育史』にも、「英才教育を目的として大正九年二月に設立」とある。

初代三根校長の教育理念
 では、初代校長三根円次郎の掲げた教育理念と教育方針をみてみよう。昭和五年の学校要覧には、設立趣意書が載せてあり「高等教育ヲ受クルニ十分ナル基礎教育二力ヲ致シ修業後ハ進デ上級学校二向ヒ他日国家ノ翅望スル人士ノ輩出ヲ期スルモノナリ」とある。やはり建学の目的は「国家有為の人材育成」であり、教育方針は「個人指導」「自発的修養」「自学自習」「自治」等となっている。生徒一人ひとりの個性と自律性を尊重しつつ入材の育成をめざす、画期的な教育であった。これは、当時東京府立一中校長川田正徴とともに、大正デモクラシー時代の全国中学教育をリードした三根校長ならではの方針だ。報恩感謝の言葉などはここにもない。わずかに、美文で知られた大町桂月が父兄の依頼で選文した「開校記念碑文」の中に、宇田・川崎二氏をたたえて「国家に尽すは二氏の恩に報ずる也」とあるにすぎない。
 川田校長をちょっと紹介しておくと、高知県出身で府立一中校長として中等教育界に君臨し、宇田・川崎二氏への三根校長紹介者でもあった。大正二年四月から、一年二か月にわたって欧米の教育事情視察に出かけ、イギリスのイートン校、ハーロー校に感銘をうけ、府立一中を「生徒が自分の行動に責任を持ち、生活に責任をもち、しかも紳士的で、未来を背負う人材をつくる学校にしよう」(『日比谷高校百年史』)とした。一中から日比谷高へ続く自由闊達な校風を築いた名校長であった。
 この川田校長の最良の同志が、帝国大学(東大)哲学科出身で「有志全国中学校長会」会長の任にあった山形中学校長三根円次郎であった。三根が会長として起案した「中学教育上(第一次)大戦後特に注意すべき事項」には、すでに「自学自習の気風を馴致すること」「個性教育に重きを置くこと」がうたってある(『山形東高等学校百年史』)。三根の教育者としての信念を示すエピソードは、大正七年に赴任した新潟中学でのスト事件である。赴任直後に新潟高校の新設が決まり、三根は進学準備の特別授業を始める。ところが反発した生徒が同盟休校をおこし、退学者が出る。その後、大正九年に人望を回復しないまま、土佐へ行く。ところが後になって、「実はこの退学生徒の転学先について、何日もかけて県内各地の中学を回り、熱心に奔走したのは三根校長自身だった」ことが判明する(『新潟高校百年史』)。土佐中時代も、失明しながらも卒業生の大学での学業、就職先から左翼運動とのかかわりまで案じ、さまざまな救いの手をそっとさし伸べている。生徒達に「報恩感謝」の念を強要するような姿勢は、微塵もない。
 三根校長の先見性や、グローバルな感性は制服でも見られる。一回生の森岡清三郎先輩は、こう述べている。「制服が出来るということになり、東京府立一中の型、ネクタイ折襟のものを中沢に着せた。これはよいと喜んでいたが、きめられた制服はつめ襟で、皆がっかりした」(『創立五十周年記念誌』)。背広は値段が学生服の倍かかるため、やむをえず断念、霜降りの詰め襟学生服になった。日本の学校での制服は、明治12年に学習院が海軍士官型の制服を導入したのに始まり、軍国主義とともに広く普及した。襟の白線も軍の階級章をまねたものだ。土佐中では、二代青木勘校長が前任校の愛知一中にならい、他校との差別化のために導入した。挙手の礼など軍事教錬の強化に反対、配属将校との激論がもとで急逝したと伝えられる三根校長なら考えられないことだ。国際化時代のいま、黒い学生服に白線は全く陳腐だ。三根校長の当初の意図どおりの背広に、早急に変更すべきではないだろうか。

21世紀を迎え活発な議論を
 話を戻すと、土佐中・高の歩みの中で「報恩感謝」を強調したのは、われわれが在籍した三代大嶋光次校長時代である。クラス名のHOKSも、報恩感謝に由来する。しかし、宇田・川崎両家や、父母の恩への感謝を説いても、建学の精神が報恩感謝とはいっていない。四代曽我部清澄、五代松浦勲両校長はともに母校出身だけに、きちんと建学の精神はおさえていた。曽我部校長は、創立五十周年の式典で「本校教育の基底をなす〈人材育成〉とい う根本理念は創立以来今も変わりございません」と述べている。もとより、建学の精神が時代に合わなくなれば、新しく校是や教育理念を制定するのは可能であり、非難すべきではない。しかし、建学の精神は勝手に変更できるものでないし、土佐中に関してはその必要もない。それに、今ごろ「報恩感謝」を持ち出すセンスが理解できない。この言葉にあこがれて生徒が応募するとは、とうてい考えられない。現在の校長は大嶋校長同様に母校出身ではないが、教頭以下母校出身の教職員は数多くいる。理事会や同窓会ともども、なぜ問題提起しないのか、不思議である。私学をめぐる経営環境が厳しさを増すなか、魅力ある教育理念を社会にきちんとアピールし、学内が一致してその実践に当たらねば生き残れないことは、いうまでもない。今一度、大正八年の「土佐中学校創立目録見」はじめ、設立当時の文献を全職員で読み返してほしい。また、報恩感謝がそんなに重要なら、学校が範を示し、学校案内や同窓会名簿などで、広く創立者・初代校長の人柄、教育理念を知らすべきだろう。御遺族との連絡も密にすべきだ。ところが名簿一つとっても、初代校長の御遺族すら空欄のままである。御次男は健在であり、80周年式典には当然御招待すべきであった。公文先生の御遺族も記載がない。恩師の御名前のミスも目立つ。これで報恩が校是などといえるだろうか。  最後に、建学の精神がきちんと伝わってない主要な原因に、創立八十周年を迎えながら、いまだに学校史が編纂されていないことがあげられる。これでは、母校への誇りを確かなものにすることも、大正自由教育における母校の素晴らしい実践例を教育史にとどめることもできない。学校当局が早急に対応するとともに、このような問題に関しての校内職員の積極的な議論を期待したい。
2001年6月1日発行『うきぐも』18号(30回生Oホームクラス誌)より  ページTOPに戻る
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