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 セピア色に変色してしまった青春時代のひとこま、思い出すままに綴って下さい。また、顧問の先生方の思い出も語って下さい。できるだけ多くの写真を付けて頂ければ幸いです。
 尚、先生方の思い出についてはこちらからお願いすることもありますので宜しくお願い致します。
2010.09.05 山岡伸一(45回)  高新連のこと
2010.09.06 岡林幹雄(27回)  宇田耕一先生の大恩
2010.09.15 細木大麓(27回)  卒業秘話そして折々の恩師たち
2010.10.17 中城正堯(30回)  猫の皮事件とスト事件のなぞ
2011.05.10 濱ア洸一(32回)  土佐高校・中学水泳部の古き時代の活動について思いつくまま
2011.08.16 細木大麓(27回)  東都高校とびあるき
2011.12.16 藤宗俊一(42回)  曽我部校長と櫓
2017.11.05 冨田八千代(36回)  高崎先生の事
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高新連のこと
山岡伸一(45回) 2010.09.05
その1(昭和42年)

 確か中三の時に同学年で同じ後免から土電で通っていた川田(現岩口)智賀子さんに誘われて、元々興味はあった新聞部に入部したのだったが、中二からやっていたバドミントン部との掛け持ちの身ではあり、大勢の先輩たちもみんなエラク見えてなんだか敷居が高く、中学時代はあんまり部室に出入りしていなかった。しまいに、このままでは中途半端だからバドミントンか(バドミントンも下手くそだったが)新聞部かどっちかに絞ったほうがよくはないか、やっぱり新聞部を辞めようと心を固めていたら、高一になってみると、川田智賀ちゃんはじめ奥田(現濱川)弘子さん、田中(現辻田)多恵さん、中井興一君、和田満子さんら、新聞部に先に入って大勢いた同級生らがみんな辞めてしまって自分一人になっているということだった。人を誘っておいて自分がさっさと辞めてしまうとはひどい話だが、それで一年上の井上晶博さんに、新聞部の命運はお前にかかっちゅうがやきお前を辞めさせるわけにはいかん、バドミントン部を辞めて新聞部に残れ、とかき口説かれて、結局新聞部に留まることにしたのだった。
 そしたら昭和四十二年、高一の夏、東京で開催される高新連(全国高校新聞連盟)の第十八回定期総会に行かせてもらえることになった。学校から認められたのは四名で、高二の井上晶博さん、松本(現永森)裕子さん、中村(現川野)恵子さんの三人に本来なら加賀野井秀一さんが行くところを、「僕は自分で行くき君が行きや」と譲ってくれ、高一の自分を行けるようにしてくれたのだ。初めての東京行きである。
 引率は副顧問の国語の田村(現矢野)尚子先生で、山陽新幹線はまだなかったので宇野から寝台特急で行ったと思う。宇高連絡船からの乗り換えの混雑の中で早速スリの洗礼に遭い、宇野で気が付くと腰のボケットに入れていた財布がなかった。

 東京に着いて国電に乗り替える時、電車の乗降口がみんなホームと対々なのを見て、わざわざ電車とホームの高さを合わせて作っているのかと、土電のよっこらしょと上がる電車しか知らない身には第一のカルチャー・ショックだった。
 宿舎の、御茶の水だったか水道橋だかの旺文社の日本学生会館に入ってから、みんなで散歩がてら東大の赤門を見に行こうということになって出かけた。加賀野井さんとはいつ合流したか記憶がないが、この時には一緒だったように思う。赤門をくぐって三四郎池の辺りまで散策してから、赤門の向かいの路地を入ったところにあった洋食屋(というかレストランというか)で食事をとり、この時食べたポークチャッブだかチキンソテーだかが、これまで食べた初めてのちゃんとした洋食だったような気がする。
 それからさらに歩いて忍ばずの池のほとりに出、茶店でかき氷を頼んだら、器の底に蜜があって、底のほうから突き崩しながら食べねばならず面倒で、東京のかき氷はこんなんかと、これが第二のカルチャー・ショックだった。

 総会の会場は早稲田大学だった。この頃はまだ学生運動に火がついておらず、構内はのどかなものだったが、大学で会ということでなんだか大人びた気分に感じられた。総会のほか分科会というのもあって、みんなと離ればなれになり、発言を求められたらどうしようとハラハラで、肝心の会の内容はさっぱり覚えていない。
 会の後の空き時間には大先輩の岩谷清水さん(二十七回生)がお世話下さった。高田馬場で落ち合って、有名人も来るというレストランでご馳走になって(サラダがとてもおいしかった)、松本さんたちのリクエストで、夜新宿の歌声喫茶に連れて行ってもらった。
 食べ物のことばかりよく覚えていて、この間(平成二十二年八月二十一日)の高知支部立ち上げ会でも川田智賀ちゃんに「ひもじかったがやろ」とちゃかされたが、ずっと後年赤門前と高田馬場の店を探してみたが、様変わりしている感じでわからなかった。

 さて、二学期の始業式で、夏休み中に学校の費用で「遠征」に行ったクラブはその報告をせねばならず、どうしてだか、どうも井上さんにうまく回されたに違いないのだが、新聞部は自分がやるはめになり、それで思わぬ大失敗をやってしまった。何構わず「高新連の総会に(加賀野井さんを含め)五人で行って来ました」と言ってしまったのだが、後で顧問の小松博行先生が部室に見え、学校が認めたのは四人のはずだが五人と言ったぞ、と職員会議で問題になり、田村先生が大変窮地に立たれたことだったので、お詫びを言っておくようにと言われ、青ざめた。(改めてお詫び申し上げます。大変ご迷惑をおかけしました。)
 写真はもっと一杯撮ったはずだが、アルバムには自分に関係したこの四枚を含め五枚しか張ってなく、他には残念ながら残ってない。実は、戻ってから先輩たちを撮った写真をそれぞれにあげた時、松本さんに「ネガをもらえない?」と言われ、なぜ?とは思ったものの、ほっそりした美人の先輩の魅力に眩まされてあっさり差し出してしまったのだ。そしたらこの間の立ち上げ会で、「あの時の、三四郎池の脇の木の横に立ってる写真だけしかアルバムに張ってなくて、それしか写真残ってないの。あれ、誰が撮ってくれたのかしらね?」と松本さん──「僕ですよ!」と言いつつ、「それならあのネガは一体…?」と、あっさりあげてしまったことを深く深く悔やんだ。
その2(昭和43年)

 昭和四十三年、高二の夏、また高新連の第十九回総会に行かせてもらうことになった。高二の自分と高一の藤戸啓朗君・宮川隆彦君の三人で、引率は新顧問の平岡竹彦先生だった。高一にはもう一人吉川寿子さんがいたが、三人しか認められなかったのか、女子一人ということで吉川さんが尻込みして辞退したからか覚えていない。この年のは、しかし、ネガは自分で保管してあるので、写真はたっぷりある。
 七月二十七日に出発して、前年と同じく高松から連絡船で宇野に渡って寝台特急で行ったと思うが、今度は宮川君が掏られたらしく、財布がなくなったと言って騒動になった。帰りは歩いて帰ると言い出して往生した。

 宿舎はこの年は九段会館で、さすがに女子は別室だったと思うが、男子は写真のように広間で事実上雑魚寝だった。窓から武道館が見えた。
 総会の会場はこの年も早稲田大学で、七月二十九日から三十一日まで開催された。この年は学生運動真っ盛りのはずだったが、構内の到る所に色々な立て看板が見られ、密かに興奮をおぼえたものの、構内は割と穏やかだった。考えてみれば、この年よく会場に早大が借りられたものと不思議に思うのだが。
 首都圏の高校生たちは相当進歩的な趣だったが、自分も少しは度胸ができていたので、総会でも分科会でも少しばかり発言もし、宮川君も発言した。ところが、前年同様会の内容については、自分が何を言ったかも、まるで覚えていない。

 会の前後の空き時間には、またもや大先輩の岩谷清水さんにお世話になった。ちゃっかり、何でも岩谷先輩を頼れという「伝統」ができていた。また、日大の芸術学部に入られていた四十三回生の山口俊二さんも駆けつけて下さった。
 到着した二十八日に早速山口さんと一緒に新宿で岩谷さんと落ち合い、西大久保の岩谷さんの仕事場に案内された。本棚には本がびっしりで、いかにも書斎といった趣で、興味津々だった。
 同じく新聞部の先輩で、中城正堯さんや岡林敏真さん・松木さんらが働いておられる「学研」こと学習研究社を見学させて下さるということで、翌々日三十日の会の後山口さんと落ち合って、一緒に大田区上池上の学研本社を訪ねた。この時の写真に岩谷さんは写ってないので、自分たちだけで行ったものらしい。またこの時、知り合いになっていた高松高校の樋口君が一緒に連れて行ってくれないかと言ったので同行した。

 着くと、中城さんが地下の社員食堂から写植室・写真資料室や企画資料室、「学習」や「科学」の編集室などを案内して下さった。中城さんは「四年の学習」、岡林さんは「三年の科学」、松木さんは「フェアレディ」の編集を担当しておられるということだった。松木さんのデスクへ行くと写真撮影のためにポーズを取って下さった。写真資料室では中城さんがオーストラリアへ取材旅行に行かれた時のカラーポジフィルムを見せて下さった。オーストラリアのどこへ何を取材に行かれたのか、など具体的な事を質問すべきだったが、ただもう夢中で、新聞部員の心得などすっ飛んでいた。「学研」という大出版社に土佐高新聞部の先輩が三人もいらっしゃるという

ことに感激し、誇らしかった。
 見学の後は大徳飯店という中華料理店でごちそうになった。
三十一日の会で閉会となり帰途につくことになったが、財布を無くした宮川君は、旅費は平岡先生が立て替えて下さることになったが、一人で帰りたいと言い張って別の経路で帰ることになり、藤戸君と先生と三人で予定の列車に乗った。
 岩谷さんには最終日の帰途につく前、新大久保あたりのガード脇の、熊の毛皮を飾ってある居酒屋みたいなところでまた御馳走になった記憶があるが、この年のことか前年のことかはっきりしない。

 高松高校の樋口君とは奇遇にも、自分が阪大に入ってから再会することになった。同じ法学部に高松高校から来ていた女の子がいたので、新聞部にいた樋口君という人と知り合ったが知らないかと聞いてみると、彼女の友達で、やはり阪大の文学部に入っていると教えてくれて、引き合わせてくれた。宮川君は静岡などに寄り道しながら帰ってきたそうで、その道中で知り合った人といまだに交流が続いていると、この前の高知支部立ち上げ会の時語っていた。
 さて、充実した体験だった「学研訪問記」を向陽新聞に掲載します、と約束して帰高したのだったが、見学の間メモも取ってないおそまつさで、具体的な細部がどうにも思い出せず、ペンが進まずに悶々としているうちに記事にできないまま終わってしまい、岩谷さんからきついお叱りの手紙をいただいた。ここにも掲載した数多くの写真を見るにつけ、記事にしていればきっといい紙面ができていたに違いないのに、と今もってほぞを噛む思いである。先輩方には改めてお詫び申し上げます。
 前の年といいこの年といい、お詫びで終わる情けない回想記である。








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宇田耕一先生の大恩
岡林幹雄(27回) 2010.09.06
「君は大学へ行きなさい」
 あれは、いつのことだったのか。高三(昭和26年)の何月の出来事だったのか。大事なことなのに思い出せない。

筆者近影
 ある日、私は電車通学の仲間と一緒に下校し、播磨屋橋の停留所で待っていた。後免行きの電車が来たが、停留所ではなく、高知駅方面への進入線路で停まり、車掌が「この中にスリが居るらしいので、警察の調べが終わるまで、誰も乗下車できない」と告げた。仕方なく次の電車を待っていると、級友の一人が息せき切ってやってきた。確か自転車を飛ばして来たように思う。「おい、おんしゃー何ぞ悪いことをしたろう。校長が、急いで探してこいと言いゆうぞ」とのこと。心当たりはないものの、急いで引き返し、学校の隣の大嶋校長宅へ伺った。
 玄関で案内を請うと、校長が出てこられ「少し待て」とのこと。暫くすると、宇田耕一先生が出てこられた。学校創立者のご令息ということは存じ上げていたが、先生とお会いするのは初めてで、むろんお話するのも初めてであった。「君が岡林君かね」「はい」「そうか。話は聞いた。君は大学へ行きなさい。僕が生活費も、学費も全部面倒を見るから、心配しないで大学へ行きなさい。合格したら、大阪の淀川製鋼所社長室へ連絡して下さい」とのお話。一瞬訳が分からなかったが、「有難うございます。よろしくお願いします」と言うのが、やっとだった。先生は「ちゃんと合格して下さい。連絡を待っているから」と言われると奥の方に入られた。その後校長から「もう帰ってよい」とのことで退出した。 (宇田先生が学校理事長に就任されたのは、昭和27年1月30日だから、それ以前の出来事である)
 私の家は、父が陸軍士官学校出身の職業軍人で、フィリッピン派遣(第14方面軍)の野戦補充司令部司令官代理として、昭和20年5月戦死したが、敗戦後の混乱と情報の遅れから、小学校卒業までには戦死の公報が届かず、父の死を知らぬまま、土佐中学(旧制)に入学した。もし母子家庭になっていたことを知っていたら、土佐中に入らず、県立の中学を受験していたかも知れない。戦死の公報が届いたのは、中一の2学期だったと思う。そういう事情だから、母の収入だけでは、都会の大学進学の可能性は非常に乏しかったと言わざるを得ない。(軍人遺族扶助料は、当時進駐軍の命令で停止されていて、復活したのは確か昭和28年頃からであったと思う)就職する場合のことも考え、選択科目で簿記や珠算もとったが、一方では大学進学したいとの思いもあり、他の学友同様受験を前提とした勉強にも取り組んでいた。
生活費・学費を全て支給

 そこへ前述の宇田先生のお言葉である。嬉しいと思うと同時に、絶対に浪人は出来ないと覚悟し、一橋大学を受験することに決めた。昭和27年は、どういう訳か一橋の経済学部は志願者が激増し、競争率25.5倍であったが、幸い合格することが出来、淀川製鋼所社長室へ合格した旨連絡したところ、今後のことを話したいから来てくれとのこと。伺うと「東京支社長と経理課長に全て話してあるから、毎月はじめに一ヶ月分の必要額を、生活費・書籍代・通学費というふうに項目別に整理して明細書を出して下さい。君が要るという分は、全て渡すようにと言ってあるので、心配しないように」とのご指示であった。
 そこで昭和27年4月入学直後、淀川製鋼所東京支社長に挨拶に伺ったところ「全て経理課長に任せてあるので、今後一々私の処へ挨拶に来る必要はない。直接経理課長の処へ行くように」とのこと。経理課長に、恐る恐る明細書を提出したところ「社長から、君が必要というものは全額渡すようにと言われているので、聞いたりしてはいけないが、君こんなに少なくてやってゆけるの。遠慮せずに必要なものは言うように」とのことで、その後4年間、学年が進むにつれ、原書の購入やゼミの参考書籍代等、金額が嵩むこともあったが、明細書について質問されたことは一度もなかった。
 当時、宇田先生は政治活動の個人事務所を、淀川製鋼所東京支社ビルの最上階に開設されていて、5〜6人のスタッフが勤務していたが、そこにも毎月お邪魔し、また議員会館の事務所にも時々伺って、近況報告するとともに、政治の動きを垣間見ることが出来た。時には先生の方から呼び出しがあり、伺うと学者や言論界の人を紹介されたり、対談を傍らで聞かされたりしたが、要は見聞を広めよ、とのお気持ちからであったと思う。
 大学4年生の夏頃「淀川製鋼所に来て貰いたい気持ちは山々だが、経営上の問題で、近く労働組合に人員整理を申し入れるつもりであり、社長が縁故の者を入れたとなると、組合がウンと言わない。君は自由に就職を決めて下さい。むろんどこにしろ、僕が身許保証人になるから」とのお話をいただいた。当時就職採用試験は大学4年の10月から解禁であったが、一橋では大学の方針として、最初に採用通知のあった所に行くようにと決められていたので、播磨造船所に入社した。
 このように大学4年間、筆舌に尽くせぬ大恩をいただいたが、謝意を表す方法も思いつかぬまま、卒業論文(一橋ではゼミも必修。卒論も必修。私のゼミの指導教官は、当時学長の井藤半弥先生であった)の序章の中で、宇田先生の大恩に対する感謝の言葉を綴ったことが精一杯であった。
親子で「人を育てる」理念を共有
 宇田先生はその後、石橋内閣・岸内閣で、国務大臣・経済企画庁長官兼科学技術庁長官を務められるとともに、その間何度か臨時首相代理としての重責も果たされたが、内閣改造で昭和32年7月10日退任された。実は、退任される前から、腹が痛いと病状を訴えられ、ご家族が病院に行くよう勧めていたが「大臣として公務を疎かには出来ん」とおっしゃって、痛いながらも大臣の職責を全うされていたとのこと。大臣退任後、病院で診て貰った時には、手遅れで腹膜炎が悪化しており、昭和32年12月30日、53歳の若さで逝去された。弔問に伺った際、ご令息耕也氏から「貴君のことは父から聞いていました。病気のことを知ったら、会社を休んでも必ず見舞いに来るだろう。そんなことをさせてはいかん。決して知らせるなと言うので、知らせなかった」と告げられ、ただ悲嘆に暮れるばかりであった。
 宇田耕一先生が、面倒を見て下さったのは、ご尊父宇田友四郎氏が私財を投じて、土佐中学を創立された『人を育てる』という理念と、同じお気持ちからではなかったかと思う。

 私は昭和35年26歳の時、石川島重工業と播磨造船所の極秘合併交渉に際し、播磨側の合併交渉委員として参加し、合併を実現した。宇田先生がご存命で、このことをご報告したら「そうか。仕事をしたか」と喜んで下さったことであろう。しかし、それも叶わなかった。海外子会社役員として赴任の時や、帰国後本社役員就任の時、その他先生の年回忌の折など、墓前に近況を報告申し上げてきているが、未だに何のご恩返しも出来ず、徒に馬齢を重ねていることは、お恥ずかしい限りである。
 先生のお墓は、香南市香我美町岸本の宝橦院にある。           (合掌)
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卒業秘話そして折々の恩師たち
細木大麓(27回) 2010.09.15
KPC事務局殿
 ご依頼の「向陽新聞創刊当時の経緯」についての原稿ですが、小生現在すぐ取り掛かれる状況にありません。取りあえず、いくつかの参考になりそうな材料をお送りしておきます。 その中の、「卒業秘話そして折々の恩師たち」は、2007年に大学のクラス会の「卒業50年記念誌」に載せたもので、土佐高のこと、伊賀先生のことなどに少し触れています。
 ご依頼の原稿にはできるだけ早く取り掛かるつもりです。   細木大麓拝
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筆者近影
 50年前の2月初旬、その朝、必須科目である辻清明教授の行政学の試験を最後に学生時代の苦労からはすべて解放されるはずだった。ぐっすり眠ってふと目が覚め、時計を見て驚いた。試験はあと10分で終了! 下宿から走れば10分で試験場まで行けるので、もう5分早かったら名前くらい書けたのだがもうそれも間に合わない。前夜勉強の後、行きつけのトリスバーで少し飲んで気が緩んだらしい。何時もの自分にしては早い決断で辻教授の研究室へ走った。どうしていいかわからなかったが、とにかく試験を受けさせてもらう方法がないかとお願いするためだったと思う。
 教授は「就職は決まっているのか」と聞かれるとすぐ、「学部長に相談してみよう。ついて来給え」と言われた。学部長室で岡義武教授は立って迎えて下さった。そして話を聞いた後しばらく考えた上で謹厳にしかし優しく言われた。「やはり特別な扱いはできないな。将来君が偉くなったりして、そんな話は笑い話として扱われることがあるかもしれない。それは東大の権威に関わることになる」と。本当にもっともなことで自分が恥ずかしかった。そして6月に追試験を受けることになった。
 辻教授はその後、研究室で親身に考えて下さった。幸いなことに富士重工の人事担当O取締役は辻教授の大学同期であり、しかも辻教授は三高の弓道部、O取締役は一高の弓道部で旧知の仲であることがわかった。しかし今度はO取締役が苦労される番だった。社内の役員会で、「卒業していない者を入社させることは前例がない」という反対の中で大変だった話を後に聞いた。この話は本邦初公開、僕の会社では誰も知らない話だ。
 退職後数年たったこの頃、この95歳でかくしゃくとしている大先輩とは月1回の麻雀卓を囲んでいる。頭は上がらないが小遣いを頂ける時は遠慮なく頂くことにしている。
 
 ところで、僕は小学校で一度落第している。父の仕事の関係でその頃は宮崎に居た。2年生の夏、父の東京への復帰が決まり、引越の荷造りが進んでいる最中に突然妹を疫痢で失った。その葬儀の最中に今度は僕が高熱で倒れジフテリアと診断された。何とか血清が間に合い一命を取り止めたが、もし一年以内に再発すると今度は血清が効かないので命はないと宣告された。夏休みが終わった頃東京へ移ったが、僕はそのまま休学させられ翌年2度目の2年生として阿佐ヶ谷の小学校へ入学した。
 ここで設楽先生という素晴らしい先生に出会った。僕はその年始めての試みとして作られた「男女組」という共学のクラスに入れられ、その担任が設楽先生だった。宮崎の師範学校付属の小学校の硬さとはがらりと変わった自由な雰囲気だった。先生はいつも宮崎弁丸出しの僕に皆の前で本を読ませ、いちいちアクセントを直した。宮沢賢治を好きな先生で、全員が「雨にも負けず」を暗唱させられた。先生の指導で僕たちは何回かラジオの子供劇に出演し、当時NHKがあった芝の愛宕山へ通った。「水筒」という教育映画にも出演した。勉強をうるさく言われた記憶はない。僕の父が、この先生の「どうでもいいところ」がいいといつも言っていたのを思い出すが、その頃の僕にはその意味がわからなかった。
 親友も出来、女の子たちともよく遊び、楽しい毎日だったが2度目の2年生が終わった頃僕はまた病気になった。今度は肺門リンパ腺炎と診断され、結局3年生は丸々休んでしまった。しかし、また落第かと覚悟していた時、設楽先生に助けられた。「一年遅れているし、成績の方は大丈夫だから進級させていいのではないか」と先生が熱心に主張して下さったとのことで、ルール違反の進級だったが、形にこだわらない融通無碍な設楽先生のおかげだった。
 
 戦争が激しくなり僕は高知市の叔父のもとに預けられたが、まもなく高知市も大空襲で一夜にして灰儘に帰し、僕はさらに山奥の、全校生徒合わせて50人という国民学校で終戦を迎えることになる。
 翌春、旧制土佐中学に入学した。これは英才教育を目指すとして大正末期に創立された特殊な私立学校で、昔は一学年15人、県下の小学校に推薦人員を割り当てて、一週間の缶詰試験で選考したといわれる。ほぼ全員が中学4年で旧制高等学校に入学した。 僕が入学したのは空襲で全焼して校舎もない状態の土佐中学で、経営難に苦しめられて昔の面影などなかったがそれでも3日間の試験があった。入学人員は経営難を緩和するため60人に増えていた。笑わないでほしいが僕はその入学式で新入生代表として宣誓文を読み、その後も数年は授業料免除の特待生だった。

 中高一貫の6年制学校だったのでそのまま高校に進学した。ここでまた僕は一人の先生に心酔した。 新しく入って来たこの伊賀先生は赤線地帯のど真ん中に下宿しているという噂があり、何時も同じよれよれの汚い洋服を着ていた。実は東大の経済学部を出てある銀行に入ったが、組合運動で首になり、縁もゆかりもない高知まで流れて来たらしかった。ある日突然真新しい背広を着て現れた先生があまり立派だったのに驚いた記憶がある。
 先生は新しい教育制度に反対で、さらに英才教育を標榜しているこの学校の教育方針にも批判的だった。そして旧制高校ののびのびした学生生活を我々に再現させようとしていたようだった。因みに、同じ考えで伊賀先生と意気投合していたのがその後今や世界的に有名な「くもん教室」を立ち上げた数学の公文公先生だった。僕たち数人は伊賀先生を囲んで何時も夜集まった。先生の推薦してくれた岩波文庫の本を沢山読んだ。また、英語の参考書を離れ、英語の時事評論や小説の講読会をやった。 小泉信三の「初学経済原論」などというのを一緒に読んだ。時々喫茶店で駄弁るのも大人になったようで楽しかった。学校の成績は下がり、最早特待生ではなかった。
 父はこの学校の先輩で、この学校を愛していた。だから少し心配だったに違いないと思う。しかしそのことについて父は何も言わなかった。父に一貫していたのは「公式的なものの考え方をしない、型にはまらない、いろいろの価値観があることを認める」というようなところだった。
 
 僕自身高校生活に悔いは全くない。充実していたと思う。しかし、本当に趣旨がわかっていたかどうかは疑問だ。楽で、楽しい方に流れていただけかもしれない。大学には今度こそ勉強するために入ったはずだった。それをそれまでの延長で、楽しく(?)過ごしてしまったのは大いに悔やまれる。ただ、いつも大事な時期に現れた、心酔できる先生たちのおかげで、そして後押しをしてくれた父のおかげで、「型にはまらない、柔らかい考え方をしよう。そしてその中で自分の軸だけは外さないでいよう」と心がけては来たと思っている。
以上
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 ―三根校長のエピソードを探る―
猫の皮事件とスト事件のなぞ
中城正堯(30回) 2010.10.17
細木志雄大先輩の校長追憶

筆者近影
 二十年ほど前、くもん出版にいた時だが宮地貫一先輩(21回生・現土佐中高理事長)から、『三根先生追悼誌』(昭和18年 土佐中学校同窓会発行)を復刻したいとのお話があり、出入りの印刷社でやってもらった。この本は、三根円次郎校長の人物や教育方針を知るにとどまらず、土佐中創立当時の学校の実態や師弟関係を如実に示す貴重な記録でもある。この復刻作業を進めるなかで不思議に思ったのが、細木志雄大先輩(2回生)の追悼文「三根先生の追憶」に出てくる以下の事件である。
 「先生について私が最も嬉しくかつ力強く感じたのは山形中学校長時代の猫の皮事件、新潟中学校長時代のストライキ事件等に見られる先生の稜々たる気骨である。信ずる所に向って勇敢に突入される態度、威武を怖れず、権門に屈せず、かりそめにも阿諛迎合されない気概、さらに事に当たっていささかも動じない肚(はら)、そこに先生の偉大さを痛感した」
 この二つの事件については、追悼誌の中の「三根先生を偲ぶ座談会」でも細木大先輩がさらに詳しく語っているが、伝聞であり事実かどうか確認がされてないと注記してある。そこで、山形・新潟双方の知人に調査を依頼した。その結果は28回生が編集発行した『くろしお 第四集』に概要のみ報告したが、補足を加えて再度明らかにしておきたい。なお、問題提起された細木志雄大先輩は、向陽新聞創刊メンバーのお一人である細木大麓さん(27回生)の父上で、東京大学農学部を卒業、戦後は高知県出納長などの要職に就き、土佐中高同窓会副会長でもあった。筆者が新聞部当時には、何度かインタビューに応じてくださった。向陽新聞10号17号21号に登場いただいている。
山形中学での猫の皮事件

 まず、座談会(昭和16年に東京で開催)での細木大先輩の発言を、全文紹介しよう。
 「あの添田敬一郎氏ね、あの人が山形県の知事時代に先生は山形の中学の校長だったのですネ。その中学へは添田さん以前の知事は卒業式には金ピカの服を着て出たそうです。ところが添田さんは背広で、しかもチョッキは毛皮だったのですネ。それで生徒達は学校を馬鹿にしているというので憤慨して、終了後知事が帰ろうとして玄関に出てみると白い模造紙に漫画を書いて、それに『添田猫の皮』という註が書いてあったそうです。(笑声)それを見て知事が憤慨して誰がこういうものを書いたのか調べて処分しろというのだそうです。ところが校長自身も生徒の気持ちがよく判かるし、無理がないという気持ちがしたのでしょう、処分も別にしなかったのですネ。知事は怒って校長をとうとう九州のたしか佐賀県の中学と思いますが、そこへ追い出してしまったということを聴いたことがあります」
 「あの添田敬一郎…」とあるように、添田は当時著名な人物で、東大から内務省に進み、埼玉・山梨の知事を経て大正5年4月に山形県知事に就任、翌年12月に内務省地方局長に転じている。その後政治家となり、衆議院議員に当選7回、民政党政調会長を務め、第二次世界大戦の頃には産業報国運動や翼政会で活躍した。

 猫の皮事件については、山形大教育学部の石島康男教授に調査を依頼した。程なく、山形中の後身校が刊行した『山形東高等学校百年史』などの資料が送られてきた。それによると、三根円次郎の第16代山形中学校長就任は大正2年1月、辞任は大正7年3月であり、その任期中の業績は「大正デモクラシーの中に」と題して記述してある。まず、経歴を述べてあり、明治30年に帝国大学文科大学哲学科を卒業した直後に修身・英語教師として山形中学に赴任、その後佐賀中学・徳島中学の校長を経て、39歳で再度山形中に今度は校長として着任とある。教育方針は「質実剛健の気風の中に自由闊達の精神を生徒に教え」、大正期における山中の気風が確立したとする。また、上級学校への進学を推奨し、山形の山中から日本の山中への脱皮を計ったともある。同時に学年別にコース(距離)を設定した全校マラソンを導入した。生徒は、校長の風貌を「眼光鋭く長髪をたくわえ、フロックコート姿の短身」「厳粛そのもの」と語っている。
 ただ、猫の皮事件は公式の記録には見あたらない。勅任官待遇を受け、絶大な権力を持つ当時の知事への批判的事件を活字にする事ははばかられたのだろう。しかし状況は符合する。添田山形県知事は大正5年4月に着任しており、猫の皮事件は大正6年3月の卒業式での出来事だろう。同年12月には離任し、内務省地方局長に就任している。この翌年に、三根校長は九州ではなく新潟中学校長に転じている。知事の転任が先で、校長の転校も懲罰人事ではあるまい。ただ、表沙汰になる事はなかったものの、知事の教育軽視へ反発した生徒による風刺漫画が、知事の大人気ない態度と、三根校長の権威に屈しない姿勢を鮮明に対比させ、土佐中にまで語り伝えられたと思われる。
新潟中学ストライキ事件
 細木大先輩は、同じ座談会でさらにこう述べている。
 「新潟中学時代にストライキが起こって、それからしばらく校長が行方不明になったのですネ。どこへ行ったか判らんというので大騒ぎをしたのです。そうしたら新潟県の地方の中学を回ってストライキ騒ぎで処分した生徒の転校先について話をまとめてきたというのです。つまり校長はストライキを起こしたについて痛烈な訓辞をやって無期停学の処分をして置いてから、それから行方不明になったのだが、それはその処分された生徒の転校先について地方の中学へ交渉しに回っていたというのですネ。」
 これを受けて都築宏明先輩(3回)は、「そういう点は土佐中学でも随分ありましたねェ。少し成績の悪い生徒に落第させないように他の学校への面倒を見たり…、他所へ行って優秀になったのが大分ありましたョ」
 ストライキ事件については、新潟日報編集局の佐藤勝則氏の手をわずらわした。こちらは『新潟高校100年史』に、以下のようにきちんと記録されていた。大正7年4月に第11代校長として着任、「小柄で黒い髭をたくわえ、眼光鋭く、人を畏怖せしめる風貌を持ち、言辞も明晰で理路整然、修身の時間ともなれば、クラス全員緊張し、さすがの腕白どもも粛然として高遠な哲理を承った」とある。昼食には五年生を三名ずつ呼び、「一緒に弁当を食べつつ、生徒の身上・志望を聴取し、その志望に対しては適切な指導をするというきめ細かな一面を持っていた」が、近寄りがたい人物とも見られていた。それは、「眼病のためにほとんど失明寸前の状態にあったのだ。そのため、…生徒に挨拶されても気がつかず返礼を欠くことが多かった。だから生徒は、校長を<冷淡で傲慢な人物>と思い込んだのである」。眼病故の誤解が生じていたのだ。
 この大正7年5月に新潟高校(旧制高校)の設置が決まると、新潟中学では入試準備の特別授業や模擬試験に忙殺されることになった。このような中で、6月18日に同盟休校が起こり、四、五年生の大部分が欠席した。理由書には「運動会の応援旗禁止」「処罰厳に過ぎる」などとあったが、実際は運動会後に生徒のみで慰労会を開いたことが発覚したので、その処分に対して生徒たちが先手を打ったとされる。さらに「強まる受験体制への不満、英才教育を掲げる三根校長への反発」もあったが、生徒側の根拠薄弱と100年史には述べてある。そして、中心生徒2名退学、2名無期停学などの処分が決まった。
 三根校長は大正9年1月に新潟中を辞任し、土佐中学の初代校長に迎えられる。大正10年の新潟中学30周年には祝辞を寄せたが、100年史にはこう紹介してある。「<私は貴校歴代校長の中で最も不人望で生徒に嫌われ、ついに排斥のストライキを受けた>と語り、しかし<卒業生や県当局の斡旋によって多数の犠牲者を出さずに解決できた>として感謝の意を表している。実は退学生徒の転学先について、何日もかけて県内各地を回り、熱心に奔走したのは三根校長自身であった」。
三根校長の歩みと土佐中

 細木大先輩が伝え聞いてきた三根校長をめぐるなぞの事件は、山形中学からの転任先が九州でなく新潟だった以外は、ほぼ正しかった。特に新潟中学では、正当な理由のないストライキの首謀者を厳しく処分しながらも、影では自らが転校先をさがして救済したのである。人材育成をめざして川崎・宇田両家が土佐中創立の際、校長の人選に尽力したのは土佐出身で元新潟県知事の北川信従と東京府立第一中学校長の川田正澂であった。『三根先生追悼誌』には、土佐中設立の趣旨は「機械的多数画一教育の弊を矯(た)め少数英才の個性長所発揮をはかり、将来邦家各方面の指導者たるべき基礎教育をなし、もって郷土ならびに国家に報ぜんとするにあり」とある。北川・川田ともに、この趣旨と三根校長の山形、新潟での校長としての手腕を充分見極めた上で、推挙したと思われる。また、三根校長も県立中学でのストライキ事件など苦い経験を生かしつつ、新設土佐中学の校風樹立に邁進したのである。
 なお、三根校長は長崎県私立大村中学・第五高等中学校(旧制熊本高校)から帝国大学文科大学哲学科に進んでいる。卒業した明治30年には京都帝国大学が誕生し、従来の帝国大学は東京帝国大学となる。文科大学には、哲学・国文学・漢学・国史・史学があり、後の東京帝国大学文学部にあたる。当時の文科大学卒業生の進路について、『東京大学物語』(吉川弘文館 1999年刊)で中野実(東京大学・大学史史料室)は、「主な就職先は中等学校の教員にあった。その中から少しずつ文学者が登場してきていた」と述べている。筆者が研究室に訪ねた際には、「外山正一学長は、中学の教職に進んでも職人的教師ではなく、研究も続けて自ら生徒に範を示せと説いた。当時は、高等学校の数もまだ少なく、県立中学が各県の最高学府であり、国をあげてその充実をはかっていた。帝大卒の教員は尊敬される存在で、その待遇もよかった」と語ってくれた。
 三根校長の哲学科同期は比較的多くて16名、一年先輩には桑木巌翼(哲学者・東大教授)がいる。国文科の一年先輩には高知出身の文人・大町芳衛(桂月)がおり、後に土佐中の開校記念碑文を書いて名文と讃えられる。国史科には三根と同じ長崎出身の黒板勝美(歴史学者・東大教授)や高知出身の中城直正がおり、中城は後に高知県立図書館の初代館長となって三根校長と再会する。

 土佐中時代に三根校長はほとんど視力を失うが、全校生徒と親しく接し、敬愛を込めて「おとう」と呼ばれる。そして進学した大学での勉学ぶりから生活態度まで熟知され、気にかけて下さったと、多くの先輩が体験談を述べている。ご子息の三根徳一(歌手ディック・ミネ)、結城忠雄兄弟にもかつてお話をうかがったが、ご長男・徳一が語り、『筆山』にも執筆いただいた「貫いた教育方針」が忘れられない。そこには、「父は学校で<おはよう>と誰にも帽子をとって挨拶するのが常だった。死の前日のこと、軍部の将校がこれを敬礼にせよと迫ったが、父は教育方針は変えぬと、言い通した。腹をたてた将校は酒に酔って自宅に乗り込んできて、父と言い争った。この出来事が引き金になって、父は脳内出血を起こしたのであろう」とある。細木大先輩が述べたように、「権門に屈しない気骨」は、晩年になってもいささかも衰えてなかったのである。
 なお、制服の袖に軍服をまねて白線を巻くようになったのは、二代校長青木勘の時代からである。三根校長は背広を望んでおられた。それにつけても、あと十年後に迫った開校100年には、ぜひ『土佐中高100年史』を刊行し、川崎・宇田ご両家から歴代校長・教職員・生徒・同窓会・振興会が一体となっての激動の時代の歩みをみんなでたどり、今後の母校発展に生かせるようにしたいものである。
(引用文は現代表記に改めた)
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100周年記念誌発刊の準備に当たり
土佐高校・中学水泳部の古き時代の活動について思いつくまま
濱ア洸一(32回) 2011.05.10


 ところでこのプールは1935年9月に竣工・落成式のとき初泳ぎは、かの有名な北村久寿雄さん(ロス五輪金メダリスト)が泳がれたそうである。当時としては、このプールは最先端を行くものであつた。当時 高知商業の生徒であった北村さんは三高受験のため聴講生として土佐に勉強に来ていたとのことである。これは昭和59年6月都内五反田で、土佐中・高水泳部と高知商業水泳部の関係者の集いが開催されその時に伺った話である、参加者の土佐の、関係者は13回生 秦親憲・15回生 西村富博・16回生 浜田博之・20回生 久保内貞行 24回生 浜田憲三郎の諸先輩と32回生の小生てした。
活動状況 
 昭和26年当時水泳部部員は、28回生吉本功・田井敦夫・林寛・久松憲二諸先輩たちをトップに和気藹々と練習していたが、高知水泳連盟の役員の一部の方が、あまりぱっとしない成績を心配し、また自分たちの練習会場として利用するために当校にきて、我々を鍛えはじめたのである。コーチに来てたのは、西野恭正・片岡寅二郎・宮田さん、安岡信夫さん、みなさんそれぞれオリンピック選手選手達でした。成果はすぐに出始め、28年度の日本水泳ランキング、中学の部では、浜田成亮(32回生)100m・200m自由形でともに2位、小生 濱ア洸一400m自由形で13位、200mリレー(メンバー浜田・濱ア・谷淵・高橋)も2位にランクされた。30年度ランキング、高校の部 浜田成亮100m10位、200m2位(日本ランキング13位)同年高校選手権大会、浜田100m10位、800mリレー10位(メンバー田岡・濱ア・谷淵・浜田)。また28年まで開催されていた浦戸湾遠泳大会(約5Km)でも小生トップ争いをしながら1時間11分で2位の成績であった。
 最近の活動はプールも新しくなり、楠目博之顧問の下全国大会目指して活躍しており、Dolphinの題目で通信誌が発行されている。
 
 32回生・浜田成亮君は現在高知県難病団体連絡協議会・筋力無力症友の会役員として活躍中で、ボランティアで介護の仕事もしている。
 <エピソード>彼の娘さんが小学校時代。運動会で「父と走った」という作文がありこれがテレビでドラマ化されて放映された。ちょうど彼は無筋力症で動作が何もできない時代であった、13年の入院生活ののちヤット病名もわかり、それなりの治療といえる状態ではないが治療生活にあつた。小学6年生最後の運動会で親子での競争があることをしった彼は、娘のためと、一生懸命に練習をして、やっと運動会で走った、というものである。その後彼はマスターズ水泳大会に参加できるほどに、運動機能が回復したのである。
 同期としてまことに、彼の生命力に感心するとともに、健康第一に目的をもって、長生きしたいものである。




(関連記事は1994.7筆山・28回生同人誌『くろしお』にもあります)
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1950.12.14『筆山4号』より転載
東都高校とびあるき
細木大麓(27回) 2011.08.16

 筆山編集部から東京の印象記を書くようにいわれた。四國のすみで勉強している自分にとつて、都會の學生の生活、學力は以前からかなり氣懸りだつた。實はそのために、同じ氣持だつた中屋君と視察族行とでもいうべきものをしてきたのである。戰時中に父の郷里土佐へ疎開して以來はじめての上京で、すつかりきもをぬかれてしまつた。東京の印象記だからといつてこれを一々書いていては、ひとりよがりのものになつてしまいそうだ。東京行の目的だった向うの學生の見たまゝ、聞いたまゝを書いてみようと思う。學校訪問は日比谷、武藏、小石川の三高校である。
(授業)
 日比谷は百分授業隔週五日制、小石川は九十分授業五日制、こんな高校が東京にはかなりあるらしい。英語、數學では授業形式はこちらと殆ど同じ、たゞちがうのは生徒の積極的な受講ぶりである。自分で調べて來てすゝんで発表する。もちろんピントはずれもあるし、もういいといわれてもやめないで余計なことをいうのもいる。しかし熱心である。このためか、いつも靜かな?授業を受けている自分と比較した場合、實力の差が目立つた。
 日比谷で參観している時である。生徒にdictationをやらすついでに、この假新入生達も用紙を配られた。辭退する暇もない。恥はかき捨てとカンネンした。ところが運よく間違いがなかつた。先生が滿点の人はありますかという。得意になつて手をあげた。ところが何のことはない周圍の者も皆手をあげた。出來るのはあたりまえなのである。少々恥ずかしかつた。
 國語の授業は全く型がちがう。目比谷の場合ヘ科書は使用しない。三人の先生がそれぞれ單元を定める。「近代文學をいかに讀むべきか」「古文をいかにして讀みこなすか」等である。前者の先生はちようど漱石の草枕と藤村の破戒についてやつていた。まずプリントにして文章を讀ませる。次に、(1)それぞれ何を書こうとしているか(2)それぞれの作者の文藝観(3)文章上のちがい(4)それらの由來する点……等の題で生徒の討論がはじまる。すさまじい討論である。皆考えを原稿紙にまとめてある。先生がことばをはさんでどんどん進行する。古文をやつている先生は吾々にこう話してくれた。「現代文は精讀なり多讀なりとにかくよく讀書することですね。古文は文法と單語を勉強して、何か一さつ詳しく讀んだらいいでしよう。それと文學史も簡單にやる必要がある。」なるぼど學校の授業もその方針で進んでいるようだ。しかしこれは百分授業でないとうまくできないと思う。  昭和26年4月雨漏りのするバラック校舎の中で、入学式が挙行され、袖に白線の入った制服に胸を膨らませて大嶋校長の祝辞を聞いていた。戦災で焼失した校舎の復興には諸先輩たちがあちこちから機材を集めて、どうにか学校らしくなりつつある時代である、ただ一つ残ったものがプールである。プールの隣には製材工場があり、盛んに電気のこぎりが製材している音をバックグラウンドに授業に集中し勉学に励んだ諸先輩たち(我々を含み)。今から思えば大変なことである。プールを取り囲むようにつぎはぎの校舎がだんだんと改築されていった。  46回の藤戸です。先輩諸氏の熱心な活動に敬意を表します。ところで、私は会費なるものをお払いした覚えがございませんが、いかがしたらよろしいでしょうか。ご指示ください。現在は高知市在住・須崎市勤務ですので、在京の先輩がたとはあまりお会いすることもできませんが、こうしてネットでお会いできるとは、いい時代になったものです。それにしても、懇親会の画像に写っている永森裕子さまは本当にあの松本裕子さまなのでしょうか。  新聞部の創生期や入試漏洩問題など、前号までのくわしい記述で昭和三〇年以前の向陽新聞と母校のかかわり、歴史的な資料が明らかにされた。今回はこの欄のタイトルにはそぐわないが、半世紀以上も昔の一時期の追憶随想おゆるし願いたい。(敬称略)  さて紙面だが、自分たちの取材力とは別に平穏な時期にはやはり、当たり障りのない平凡なものになる。印象深いのは先生へのぶっつけインタビュー「ちょっと失礼」に部員同士がしのぎを削って取り組んだことくらいだ。これは楽しく取材し、大いに失礼なことを書いて、各回とも好評だった。
 授業參観も職員室の親切な世話でとても愉快だつた。皆集まつてきて話をしてくれる。日比谷では、そばもおごつてもらつた。實に家庭的だ。生徒は本校の中學をあわせたぐらいの人數なのに先生は少い。これも百分授業の功得だろう。
 因に体育はどこも保健衛生の講義が主である。
(生徒各自の勉強)
 これは先生の見たところと生徒數名のことばを整理して得た結果である。(1)學校の豫習復習を相當重要視している。毎日時間數が少いので重点的にできるそうだ(2)自分の勉強をかくす傾向があるが、非常に勉強していることはたしかだ(3)東京名物である各種の塾や研究會へはあまり行つていない。自習が主である(4)參考書勉強が盛である。一人の生徒は、英語についてこういつた。「津田を出て數年米國にいた女の先生がいますが、結局hearingの練習ぐらいにしかならないので山崎貞や小野圭の參考書で自分の勉強が殆どです」。(5)定期試驗が少く、しばられることなしに勉強できるのでよいという聲も聞いた。
(生徒會)
 日比谷高はなかなか盛である。先生の努力ともあいまつて発達したものらしい。立法、行政の機關に分れており司法は途中からなくなつた。總理大臣を選擧して組閣を行う形式である。總理大臣は行政委員長。二人の候補が華かな選擧戰を展開したとか、頼もしいかぎりである。但し三年生は引退している。小石川高は澤登校長のことばどおり、「貧弱な不明瞭な存在」らしい。武藏高にははじめからない。「あんなものはつまりませんよ。結局こつちがやるようになりますからね。」と高校主事はいわれた。
(服装)

 中山先生にもいわれていたので注意して見てきた。男生徒……黒の詰襟が殆どだが、小石川高の場合は制服である背廣樣のものと本當の背廣が大部分。坊主頭は少い。ノーキヤツプも多い。同行の中屋君は帽子がぬぎにくかつたらしく「帰つてきてホツとした。」といつている。彼は坊主だから……。女生徒……色とりどりの服である。パーマネントも大分ある。男女とも下駄ばきは絶対になく、皮靴が多い。
 先生に服装問題について聞いてみた。「全然考えていません。たゞ下駄で廊下を歩かれるとやかましいのではかないようにいつています」とのこと。
 
 學校訪問の際強く感じたことは日比谷の生徒と小石川の生徒の性格がちがつていたことである。日比谷の方は紳士的な印象を與える。小石川の方は少々粗野ではあるがなかなかがつちりした印象を與える。思うにこれは校長先生の性格の反映ではないだろうか。日比谷の菊地校長は全く温厚な紳士であつた。小石川の澤登校長は風彩などには拘泥しない肚の人という感じだつた。
 東京の學校は靜かである。授業中も話聲が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえていてつまらない雑談がないし休時間などはよく勉強している。それから中學がないのが大きな原因である。併設中のある武藏高校は他と大分雰圍氣がちがつていた。自分自身反省するとともに中學の諸君にはもつと靜かにしてもらうよう希望する。
 東京で大いに意を強くしたことは〃土佐中"という名が非常に売れてれていることである。菊地校長や、少し古い先生は皆いわれに。「いい學校でしたね。うらやましかつた。その後どうですか。復興していますか。えらいものだ。校長先生の腕かな。上級學校の合格率は?……」、痛いところだ。大學へさえ入れないとは情ない話だ。どうしても頑張らなくてはと思つた。(向陽新聞部々長)
* * * * * * * * * * 
《あとがき》「新聞部創設の頃について参考になるものを」という編集人からの依頼で送ったいくつかの古い記事の一つです。読んでみて懐かしいような気持ちとともに、数日の「飛び歩き」で、よくも生意気なことを書いたものと恥ずかしい気がしますが、校舎もない状態で立ち直ることでいっぱいだった当時の土佐高から東京へ出掛けてすべてが驚きだったのが率直なところです。何かの参考になればと思って、そのままの掲載を応諾しました。
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《編集人より》『昔を知るための何かの参考にと、父の書いたものまで含めていろいろ集めて送った古い記事が「細木オンパレード」で、そのまま続けて掲載されるのが少々気が引けて……』という細木先輩を拝み倒して掲載させていただくことになりました。昔の土佐校生の意気の高さに驚かされるとともに、今の在校生たちの目にとまってくれればと思っています。
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曽我部校長と櫓
藤宗俊一(42回) 2011.12.16
1.曽我部清澄先生




 同窓会の席でいつも話題になるのは初代三根校長と戦後の混乱期に母校を立て直した三代大嶋校長ばかりで、四代目の曽我部校長が話題になることが少ない。確かに、草創期や復興期の苦労と比べれば、その業績はかすんでしまうかもしれないが、どうも語る人たち(長老)の年齢層によるところが多大である。私たち昭和33年以降の入学生にとっては、三根校長や大嶋校長は単なる校史上の人物であって、実際お目にかかったこともないので親近感がまるでない。かと言って、曽我部校長に親近感を抱いていたかというとそれもまるでなくて、校長というと始業式や終業式で眠くなるような挨拶を聞かしてくれる存在でしかなかった。どこか、洗練された紳士(印象深い蝶ネクタイのせい)といった感じで、アクの強い名物教師(カマス、タヌキ、ナオサン、マンタロウ、パンツ、タコ、サカイ族、ガンキチ、アヒル、オンカン、ヒラリン等々)の陰に隠れてしまっていたという印象である。
 曽我部校長は明治40年(1907)に吾川郡八川村(後に吾北村、現在はいの町)に生まれ、母校の第1回卒業生で、昭和2年(1927)旧制高知高等学校、昭和5年(1930)東京帝国大学理学部物理学科を卒業。その後全国の中学校で教鞭をとられた後、高知高等学校に教諭として迎えられ、昭和24年(1949)戦後の学制改革 で高知大学教授となり、文理学部の礎を築かれるとともに、放射線物理学の研究を続けられた。昭和33年(1958)、大嶋校長の急逝のあと、2学期途中から文理学部長の職を辞して母校の校長に就任された。向陽新聞44号では『本校のありかたを今までの予備校的存在からはなして人間形成の一過程とし、校内全員の“親和”をのぞむ』と語り、長髪禁止令の廃止、遠足の年2回の実施、ホームルームの充実、暴力や盗難の排除など“明るい学園建設”を目標とした。22年間の在任中(歴代最長……大嶋校長は13年)、その自由闊達な校風の中、生徒たちはもてる力を伸ばし、甲子園準優勝(昭和41年春)や東大合格者数18名(42回生)など、“文武両道”で活躍し、"私学の名門"としての評価を定着させた。昭和48年(1973)には創立50周年にあわせ、全校舎の改築を成し遂げる。また、高知県県私立中高連合会長、私立学校審議会委員、県高校野球連盟会長などを歴任し、昭和56年(1981)逝去。行年75歳。
2.釘をさす
 こうして見ると曽我部校長は前述した二人の校長以上の業績を残されているが、実を言うと、曽我部のオンチャンは小さい時から知っていた。高知大学の官舎(入明町)が大伯父の蒲原のオンチャン(稔治・呑海。魚貝類学者、1901〜1972。)と隣同士で頻繁に行き来していて、米や野菜を届けに行った折や宴会の席で何度か顔を会わせたことがあって、土佐中の合格発表の後、土佐校に隣接する校長宿舎に挨拶に連れて行かれた。その席で『校長室に呼ばれるようなことだけはしないでくれ。どんな顔をしていいか困るきに。』と釘をさされて、入学してからはできるだけ顔を会わさないように心がけていたし、校長室の前を通る時は廊下の端を歩いていた。
3.糠に釘
 ところが、最後になって、この釘が糠に打ったものだと校長に思い知らしめた事件を起こしてしまった。

 昭和38年ごろから櫓の廃止案が@費用が非常にかかることA建築ブームでやぐらに使用するパネルの入手が困難なことB杉の葉をとりよせる際や、その他の用具、材料運搬の際の生徒の災害C設立の際の生徒のエスケープD応援の不徹定E危険性F後始末Gファイアーストームの乱れ等、の理由を挙げて学校から提示され(向陽新聞60号 63号)、42回生が高3になった時もぶり返された。
 勿論、大反対である。高校生活最後のイベントから櫓とファイアーストームが取りあげられるなんて納得がいかない。結局、学年の代表が学校側と話し合い、一番危険と言われていた杉や檜の小枝を須崎の奥の山で共同購入して、運搬を業者に委託するということで合意してきた。ところがKホームでは既に、近くの久礼田の裏山で檜の小枝を無料で手配済みで、もう運び込むだけになっていた。連絡会の席で理由を話して『共同購入には参加しない』と表明し、1週間前には軽トラックやオートバイで学校に運びこんで、教員室と用水路の間の窓下に隠した。隠したという以上、悪いことをしているという自覚は多少あったであろう。




 しかし、翌日にはもう露見し、『責任者は校長室に来るように』と言われ、同級生と二人でお白洲に向かった。恐る恐るドアを開け、頭を下げたまま入り、神妙にしていると、『顔を上げて、名前をいいなさい。』と言われ、応えると一瞬『やっぱり来たか』という表情をされたが、何事もなかったように懇々とお説教をされた。
曰く『学校の決めたことがまもれないのか?(後になって学校が勝手に決めたことなのに)』『こともあろうに教員室の窓下に隠すのは先生方を愚弄しているのか?(多少あります)』『一番いけないのは他のクラスが守っているのに抜け駆けするのは恥知らずではないのか?(ちゃんと報告済みです)』。淡々と諭すようにされて、ただ黙って聞くしかなかった。……()内は胸のうち。
 『それで、Kホームは櫓をどうするのか?』と訊かれ、二人で相談した結果『運び込んだ檜は使いません。他のホームで使って下さい。櫓は作ります。』と意地を張って答えてしまった。それからが大変で、クラスに帰って報告し、放課後リヤカーを引いて家具屋や土建屋を廻りベニヤの切れ端や廃材を分けてもらい、ペンキを塗って装飾に使い、それでもみすぼらしいので、グリーンスタンプの小旗を『宣伝になるから』といって多量に借りてきて櫓に巻きつけることにした。出発点が遅れたせいもあって、前日の夕方になっても完成せず、最後は校長宅から電気を借りて(さすができた校長で快く貸してくれた)頑張ったが、9時までかかっても完成せず、翌早朝、泊り込んだ友人宅から5時過ぎには現場に来て、まあまあ見られる格好にして、なんとか本番には間に合わせた。尚、この件について、タヌキの『甚田先生裸日記(2版)』に、実名を挙げられ警察から不審尋問を受けたなどと根も葉もない話が報告されているが、全くのデタラメで、どうも高2の時の仮装行列準備の時、夕方学校を追い出され城山公園で練習していた事件が一緒になっているようで、この場を借りて訂正しておく。

 その夜のファイアーストームはもう疲れきって、校庭の片隅で座り込んで居眠りをしていたし、2次会も参加する元気もなくて散々な運動会になってしまったが、良い思い出として残っている。その後の向陽新聞には櫓問題は出ていないのでずっと続いてると思うが、今思うに、櫓は単なる運動会の思い出作りではなかったような気がしている。企画・設計、規制への対処、予算、購入、交渉、人間関係、資材調達、安全管理、危機管理、労務、納期、完成の喜び等、一般社会の活動を体験させてもらえる場ではなかっただろうか。授業やクラブ活動では学べないことを経験させてもらった気がする。どうか、授業のさまたげになるとか、危険だから、費用がかかるなどと管理面からだけで廃止を言い出すようなことはしないで欲しいと願っている。
4.抜け釘
 その後、釘が抜けてしまったのか、卒業までの短い間に二度も校長室に呼ばれた。「下級生下駄殴打事件」「冬の金沢、逃避行事件」で二つとも親しくしていた同級生が起こしたもので、説明と経過報告に呼び出された。どうも担任のタヌキは諸悪の根源は私にあると考えていたようで、ことある毎に私に振ってきた。最後には、あろうことか、進学父兄面談で『御子息は学校に遊びに来ているようです。

このままではどこの大学も通りません(実際そのとおりになった)。』とやってくれたので、家に帰ってきた父親にこっぴどく叱られた。後年(20年以上たって)、自宅にお伺いした際に『一番ひどいと思っていたクラスが一番良かった。なんせ理Vを含め5人も東大に入った(現役はたった1人)のだから、ナオサンやパンツに対しても鼻が高かったぜよ。』と自慢げに話していた。別にタヌキの鼻のために頑張った訳ではなく、各自勝手に高校時代を謳歌させてもらい、その代償として予備校で頑張らざるを得なかったのだと思っている。
 勿論、同級生全てがワルばかりではなかった。エース(準優勝投手)のために、寮に行って勉強を一緒にした同級生もいるし、ずっと委員長と呼ばれ続けられた同級生もいるし、多士済々の顔ぶれが集まり、お互い切磋琢磨して成長していく自由闊達な場を与えてくれた土佐校に感謝するとともに、それを作り出した曽我部校長に改めて畏敬の念を感じざるを得ない。くしくも、今年、曽我部校長にとっては最初の入学生である山本氏(40回)が母校の校長に迎えられたという。学校は管理・経営の場ではなく、生徒の個性を伸ばす場であるとことを肝に銘じて、再び"私学の名門"として復活させてくれるよう切に望んでいる。個人的には、とりあえず甲子園に早く連れて行って下さい。
5.最後に
 曽我部のオンチャン、30年忌を迎えたというのに墓参にも出向かない不肖の教え子の戯言に苦笑いしていることでしょう。合掌。
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高崎先生の事
冨田八千代(36回) 2017.11.05

筆者旧影
山本さん、中城さん
 高崎元尚先生のご逝去や作品をお知らせくださりありがとうございました。36回冨田です。帰宅してから、ホームページを読みましたので、その時はご逝去されたことを知りませんでした。その同窓会で、高崎先生のことを思い出していました。
 今回、中城さんのご著書「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を持参しました。 みなさんに紹介する機会はありませんでしたが、お話できる方には紹介しました。 2次会Kホームだけの集まりではみなさんに紹介しました。
 あくる日、バスで室戸岬や中岡慎太郎記念館などを訪れる観光に出かけました。そのバスの中でのことです。Kホームだったお隣の席の方が「あんた、新聞部に入いっちょったが?」と聞かれました。
 私は、話の中で、少しは記事も書いた、例えば@ガーナ大使になられた中谷さんがアメリカ留学からかえられたときの訪問記Aなんか文化祭の記事B高崎先生訪問記とかと言っていました。
 すると、前の座席の方が急に後ろを向かれ「その時に僕も行ったよ。」と言われました。なんと、宮地正隆さんだったのです。「そうだったの。」と私。何人かでお邪魔したのですがどなたといっしょだったか思い出せませんでした。でも、光る眼は遠くをみつめながら手振りを交え、情熱的に芸術について美について語られたお姿は、はっきりと思い出されました。記事は「朱と緑と」とかいう見出しだったと思います。バスの中では、その若き先生のことだけを思いだしていました。新作を拝見すると、当時の「朱と緑」では全くなく、表現もどんどん進化、深化なさったのですね。
 高崎先生は、94歳で新作展を開催されたとか、ずっと、芸術を追究され制作を続けられたのですね。情熱をずっと持ち続けられたのですね。
 いろいろと詳しいお知らせをありがとうございました。なお、この同窓会には森本浩志さんもいらっしゃいました。
 失礼します。
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土佐向陽プレスクラブ