タイトルをクリックするとサイトマップメニュー
 セピア色に変色してしまった青春時代のひとこま、思い出すままに綴って下さい。また、顧問の先生方の思い出も語って下さい。できるだけ多くの写真を付けて頂ければ幸いです。
 尚、先生方の思い出についてはこちらからお願いすることもありますので宜しくお願い致します。
2018.08.11 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト5” まだまだおるぜよ編
2018.07.28 中城正堯  合田や田島兄弟が新聞で話題に
2018.07.08 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト4“坂東眞砂子(51回)
2018.06.07 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト3”田島征彦・征三兄弟(34回)
2018.05.03 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト2”合田佐和子(34回)
2018.04.25 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト”に嬉しい反響
2018.03.25 中城正堯  母校出身“素顔のアーティスト1”倉橋由美子(29回)
2017.11.05 冨田八千代  高崎先生の事
2017.07.12 棚野正士  ディック・ミネさんの思い出
2017.07.10 中城正堯  「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介
2017.06.26 公文敏雄  「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」発送のお知らせ
2017.03.25 中城正堯  三根圓次郎校長とチャイコフスキー
2011.12.16 藤宗 俊一  曽我部校長と櫓
2011.08.16 細木大麓  東都高校とびあるき
2011.05.10 濱ア洸一  土佐高校・中学水泳部の古き時代の活動
2010.10.25 中城正堯  猫の皮事件とスト事件のなぞ
2010.10.10 細木大麓  向陽新聞創刊の頃(メモ)
2010.09.15 細木大麓  卒業秘話そして折々の恩師たち
2010.09.05 山岡伸一  高新連のこと
注:2012年8月以降の記事は画像にマウスポインターを置くと画像が拡大されます。
全体像が見れない場合マウス中央のスクロールボタン(ホイール)か、マウスポイン
ターを画像に載せたまま方向キー(←→↓↑)を使ってスクロールしてください。

母校出身“素顔のアーティスト”(X)まだまだおるぜよ編
音楽・演劇から前衛美術まで個性派揃い
中城正堯(30回) 2018.08.11

 これまで取り上げた5人のアーティストは、文芸・美術の世界で現代日本を代表する実績を積み、また筆者とも面識のある人物であった。しかし、母校出身者には、「まだまだすごい芸術家がおるぜよ」との声が寄せられた。そこで、筆者の独断と偏見で、ぜひ作品に接していただきたいアーティストを紹介する。末尾では、このような人物を輩出した、土佐中教育の原点も考察したい。( )は、卒業回と生没年。敬称省略。

作曲家・平井康三郎や「踊る大捜査線」の北村総一朗

晩年の平井康三郎(平井家提供)
 卒業生で初めて芸術の道に進み、東京音楽学校(現東京芸術大学)を卒業、作曲家として大活躍をしたのが、平井康三郎(5回、1910〜2002)である。「不盡山(ふじやま)をみて」「大仏開眼」「平城山」「ゆりかご」から、「スキー(山は白銀・・・)」など五千曲を作曲、東京芸術大学の作曲科教授として後身を育成、故郷いの町には、平井康三郎記念ギャラリーができている。平井の音楽家としての才能をいち早く認め、父親を説得して音楽大へ進学させたのは三根圓次郎校長である。その経緯は拙著『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』((向陽プレスクラブ刊)に述べてある。本年4月には、NHKラジオ「うたのふるさと散歩 平井康三郎記念ギャラリー」に、長男でチェリストの平井丈一朗が登場、生い立ちや土佐中での三根校長・ヴァイオリンとの出会いを語っていた。

中学時代の平井(左)と学友(平井家提供)
 その後、日本を代表するような音楽家は生まれていないようだが、現在東京芸大大学院オペラ専攻に上久保沙耶(89回)がおり、今後に期待したい。

 俳優では、1997年にフジテレビ「踊る大捜査線」の神田総一朗署長役で大人気となった北村総一朗(29回、1935〜)がいる。このドラマが東宝で映画化されたのに続き、テレビドラマ「京都迷宮案内」では文学座で同期だった橋爪功と共演、北野武監督『アウトレイジ』で巨大組織会長を演じるなど、コミカルな役からコワモテまで自在に演じ、今も引っ張りだこだ。バラエティ番組やCMでもよく見かける。

北村総一朗(同氏HPより)
 舞台でのキャリヤは長く、筆者が初めてその演技を見て魅了させられたのは、高校時代である。1952年に高知市中央公民館で行われた「土佐中高校舎落成記念 芸能発表会」での『俊寛』で、悲壮感漂う主役を演じていた西内総一郎が、若き日の北村であった。この発表会では、新聞部もプログラムの編集に協力したので、よく覚えている。高知大農学部に進むが演劇に打ち込み、1961年には上京して念願の文学座研究生となる。同期には、橋爪のほか樹木希林などがいる。その後、劇団雲を経て劇団昴に所属、テレビにも「竜馬がゆく」「太陽にほえろ」などよく出演し、貴重な存在であったが名脇役に留まっていた。それが、「踊る大捜査線」で一挙に人気爆発、スターとなった。この間、高校時代以来の夢である新劇の舞台から離れることはなく、本年8月の劇団昴『無頼の女房』公演では、演出家として若い団員を率いて、坂口安吾夫妻の葛藤を上演している。新劇界の最長老の一人である。名前は、西内から北村総一郎になり、さらに「踊る大捜査線」の神田総一朗にちなんで今は総一朗だ。


竹邑類、’89同窓会関東支部総会での実演。(『筆山』第8号より)
 ミュージカルや演劇の世界では、演出・振付けの分野で顕著な業績をあげてきた人物に、竹邑類(35回、1944〜2013)と北村文典(39回、1946〜)がいる。
 竹邑は土佐中時代からモダンダンスを習い、明治大学仏文科に進む。ダンスのグループを結成し、愛称ピーターで親しまれる。大学を中退してダンサーとなり、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」に、初代ヴァイオリン弾きの役で出演する。1970年に自らミュージカル劇団「ザ・スーパー・カンパニー」を結成、銀座・博品館劇場の公演には、土佐高同期の小松勢津子などに誘われて筆者も駆けつけ、ミュージカルを初めて楽しんだ思い出がある。ミュージカルの開拓者・挑戦者も、この頃には演出家・振付家の第一人者となり、宝塚歌劇・NHKの歌謡バラエティ・映画『陽暉楼』等で大活躍、坂東玉三郎・平幹二朗・水谷八重子などの名優から信頼され、その舞台の演出・振付けを任されていた。2013年にガンで逝去。著書に、若い頃に新宿で出会って以来の三島由紀夫との交流を綴った『呵呵大将 我が友、三島由紀夫』(新潮社)がある。
 彼の劇団で育った俳優に萩原流行(ながれ)がいたが、2015年にオートバイで走行中に警視庁護送車と接触事故を起し、転倒死亡した。事故の原因に不信を抱いた夫人の依頼で訴訟を担当した弁護士が堀内稔久(32回)で、護送車の運転不注意であることを裁判で明らかにした。
 もう一人の北村は東宝の演劇部に所属し、主演・森光子のでんぐり返りが話題を呼んだ「放浪記」などの演出で知られる。大学は関西学院大学社会学部だが、在学中からフランス・ナンシーの「国際大学演劇祭」に日本代表で参加するなど、演劇に取り組んだ。東宝では、菊田一夫や北条秀司の演出助手を経て、主に時代劇・喜劇の演出にあたってきた。東宝演劇をささえる重鎮である。

世界の先端をめざした前衛芸術家・高ア元尚、柳原睦夫

高ア元尚、退職後に母校の美術室で
(土佐中高提供)
 美術界で特筆すべきは高ア元尚(16回、1923〜2017)の活躍で、高知で世界の前衛美術の最前線に立ち、生涯新作への挑戦を続けると同時に、教育者として人材育成にあたった。90歳を超えても創作意欲を持続し、2017年6月高知県立美術館で「高ア元尚新作展−破壊COLLAPSE−」が始まって間もなく逝去した。1956〜88年まで土佐高で美術教師を務めたが、「面白いことをやれ、人のやることをやるな」と呼びかけ、「ぼくが見て面白いと思うもの、変わったもの、見たことのないものを見せた」(日本美術オーラル・ヒストリー・アーカイヴ)と述べている。この教えを受け、すでに紹介した合田佐和子や田島征三・征彦が巣立っていった。合田の両親には、美大への進学を自ら説得している。
 高アは香美町の生まれ。土佐中時代には数学、特に幾何が得意で、早稲田大学専門部建築科に入学、ロシア・アバンギャルドなどに触れ、翌年には東京美術学校(現東京芸術大学)彫刻家に転じる。ところが戦争激化で、彫刻制作にも大和魂を強要され、同級の岩田健とともに反抗、やがて学徒出陣となる。この岩田は、温厚な人格者で後に母子像彫刻の第一人者となり、筆者は大阪の公文教育会館ロビーに飾るブロンズ像「本を読む母と子」を依頼、1989年に完成したが、高アと親友だったとは、全く気付かなかった。

高ア元尚「LANDSCAPE」
(『高ア元尚新作展』図録、高知県立美術館より)
 戦後、高アは美大に復学して卒業、中学教師の職につき、モダンアート協会に入る。やがて帰郷、1953年の県展に出品するが、なんと落選している。翌年、東京でのモダンアート展で新人賞を受賞し、ようやく認められたようだ。高知モダンアート研究会を結成、1956年から土佐中高教師となる。浜口富治たちと「前衛土佐派」をつくって活発な制作・発表を続け、中央の美術界からも注目される。1965年の京都国立近代美術館への出品作が内外の美術関係者から評価され、抽象美術の先駆者が集まる具体美術協会にも参加、翌年ニューヨークで開催された「第1回ジャパン・アート・フェスティバル」に出品、渡米する。
 高アは関西・東京からは距離を置き、高知にいたほうが美術界の動向がよく見えると述べている。また、前衛美術の中心地アメリカは絶えず意識し、晩年になってもいつでも対応出来るよう英語力の持続に努めていたと聞く。想いがかない、2013年にニューヨークのグッゲンハイム美術館から出品依頼があり、90歳になっていたが会場へ出向いた。高アの作品については、このHPに山本嘉博(51回)が「高ア元尚先生逝く」(2017.10.12)、「追伸」(11.02)を掲載しているので、ご覧いただきたい。美術教師であるとともに、生涯自ら新作に挑み、芸術家としての生き様を最期まで見せ続けた希有なアーティストであった。


柳原睦夫「紺釉金銀彩花瓶」
(『柳原睦夫と現代陶芸』図録、高知県立美術館より)
 前衛美術の世界で、もう一人の先駆者が現代陶芸の代表的作家で、大阪芸術大学名誉教授の柳原睦夫(28回、1934〜)である。戦争直後、高知市内の旧家で育った柳原は伝統文化とアメリカ文明のはざまで成長、土佐中に入学する。絵を学ぶ進路をさぐるため、知人の紹介で京都市立美術学校長の長崎太郎を訪ねたことから、同校へ進学する。工芸科で近代陶芸の大家・富本憲吉に学ぶが、前衛美術に魅了され、モダンアート展に出品、彫刻的な造形や抽象表現主義的な作品に取り組む。さらには金や銀のラスター釉を使った装飾性豊かな陶器を経て、縄文式・弥生形壺と称する新作まで、独自の挑戦を続けている。

柳原睦夫「縄文式・弥生形壺」(同上)
 この間、1966年にワシントン大学に招かれて講師を務めたのを皮切りに、再三アメリカの大学で陶芸指導を行うなど、国際的な活動を展開する。日本では、大阪芸術大学教授となる。高知のモダンアート研究会とも交流、1961年の「柳原睦夫・高ア元尚二人展」はじめ個展も高知大丸などで開催、2003年には高知県立美術館で「柳原睦夫と現代陶芸」展が開催された。近作について、壺の「中の力が形をつくる。空っぽの意味をどうとらえるか」と、語っており、東洋の禅への回帰ともとれる。田島征彦同様に、若い頃から関西美術界の重鎮・木村重信に眼を掛けられた一人だ。

絵本・漫画・陶芸・ゴリラ画家からフィギュアまで
 美術の分野には、まだまだ個性豊かな異色のアーティストがいる。絵本の西村繁男(40回、1947〜)、漫画家の黒鉄ヒロシ(竹村弘 41回、1945〜)、陶芸の武吉廣和(43回、1950〜)、画家の阿部知暁(旧姓:浜口 51回、1957〜)などである。


西村繁男
(別冊太陽『絵本の作家たちW』より)

西村繁男『にちよういち』(福音館より)
 西村は、中央大学商学部に進むが大学紛争で学校は閉鎖、セツ・モードセミナーで学ぶうちに、田島征三先輩を訪ねたことがキッカケで、イラストレーターから絵本作家に進む。田島に誘われて、「ベトナムの子どもを支援する会」の野外展に参加、憧れていた長新太・和田誠などに混じって出品する。『絵で見る日本の歴史』で絵本にっぽん賞大賞、『がたごと がたごと』で日本絵本賞を受賞、日本を代表する絵本作家の一人となった。高知の日曜市を描いた『にちよういち』(童心社)はじめ、『やこうれっしゃ』『おふろやさん』(福音館)など、現場で取材・スケッチを重ね、すみずみまで精密に描写・構成してある。画面からは登場人物一人ひとりへの作者の暖かいまなざしが感じられ、子どもたちからも親しまれている。人気児童文学者・那須正幹と組んだ『絵で読む広島の原爆』や、『ぼくらの地図旅行』(福音館)の、鳥瞰図も見飽きない。本人と会ったことはないが、田島や那須から聞き、書店や図書館で折に触れては手に取って、楽しんできた。


黒鉄ヒロシ『坂本龍馬』寺田屋遭難(PHP研究所より)
 黒鉄は、近年は漫画家というより、ユニークな発想のコメンテーターとして知られる。武蔵野美術大学商業デザイン科を中退して漫画に取り組み、『漫画サンデー』に連載の「ひみこ〜っ」のモダンな絵柄・意外な発想で人気を得る。幕末維新を題材にした『新撰組』で文藝春秋漫画賞、『坂本龍馬』で文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、さらに『赤兵衛』で小学館漫画賞審査委員特別賞を受賞。『千思万考』『もののふ日本論』(幻冬社)など、著書も多い。同窓会・県人会には顔を見せず、筆者もある漫画家の叙勲記念会で見かけて挨拶しただけだ。本人も紫綬褒章を受けている。本名は竹村弘で、酒蔵「司牡丹」の一族、黒鉄はその屋号に由来する。


武吉廣和「自然釉壺」(個展案内状より)
 武吉は、土佐の山中に穴窯(あながま)を築き、孤軍奮闘している陶芸家だ。1984年に東京池袋の西武百貨店で個展を開催した際に、島崎(森下)睦美(31回)から土佐高教師時代の教え子との知らせを受け、会場を訪ねた。茶器・花器などさまざまな作品の中でも、特に目をひいたのは自然釉のたっぷりかかった大きな壺であった。聞くと、早稲田大学の建築科に進んだが陶芸にはまり中退、全国の窯場を探訪した後に、四万十川の奥地に鎌倉時代からの古式穴窯を築いたという。土をこね、自ら伐採した赤松を昼夜10日間焚き続け、焼きあげるのだ。知人の陶芸評論家も高く評価、雑誌でも取り上げてくれた。最近は音信が途絶えているが、HPを開くと穴窯での作陶を続けているようだ。柳原の現代陶器と対極をなす、いわば自然(土と炎)との合作で生まれる人智を超えた名品だ。


阿部知暁「ゴリラの親子」(年賀状より)
 阿部は、大阪芸術大学を1982年に卒業、ゴリラ一筋の画家で自ら「ゴリラ画家」を名乗る。父は、高ア元尚(16回)と「前衛土佐派」を作った浜口富治である。小学時代に動物園でゴリラを見て以来のゴリラ好きで、先輩画家から「好きなものを描きなさい」と言われ、ゴリラ探訪が始まったという。世界の動物園はもとより、アフリカの森に野生のゴリラを訪ね、観察・交流を続けている。著書には、『ゴリラを訪ねて三千里』(理論社)、『ゴリラを描きたくて』(ポプラ社)などがある。ゴリラ研究の世界的権威・山極寿一(現京都大学総長)は、2010年の高知大丸での個展に寄せた文章で、「ぜひ阿部さんの画を通してゴリラの心、遠い人間の先祖の心を知って欲しい」と述べている。山極によると、個人主義化の強いサル類と異なり、ヒト科のゴリラは家族集団で助け合って暮らしている。だが、近年人間はサル化(個人主義化)が見られるという。ゴリラの実態を熟知した阿部には、ゴリラの人間味あふれる家族生活を描いた新作絵本を期待したい。 


デハラユキノリの名刺(千頭裕提供)
 最後に、千頭裕(58回)から紹介されたデハラユキノリ(出原幸典 68回 1974〜)に触れておきたい。大阪芸術大学デザイン学科を卒業後、フィギュアイラストレーターとして活躍、海外も含め毎年新作を発表し続けている。お菓子「きのこ山」が、代表作の一つである。

芸術的教養を重視した三根校長の先駆的“人材教育”
 母校卒業生からは、これら以外にノンフィクション文学で大活躍の塩田潮(塩田満彦 40回)や門田隆将(門脇護 53回)、文藝評論家の高山宏(42回)・加賀野井秀一(44回)・大森望(英保未来 54回)などがおり、アーティスト・文化人の輩出がいわば伝統になっている。では、その原点はどこにあるだろう。やはり平井康三郎を見いだした初代校長・三根圓次郎である。平井と同じ5回生の伊野部重一郎(昭和4年卒)は、当時の学校生活を「我が土佐中には音楽があり、音楽会が時々あって先生方も演奏された。また校外から小さい音楽団を招いて演奏したこともある」(『三根先生追悼誌』)と述べている。開校時に英語教師として赴任した長谷川正夫(青山学院卒)は絵画も担当、「校長は画架、石膏像、額縁など私の要求するままに買ってくれた。絵の時間には潮江山(筆山)に登ってスケッチをさせたり、自然を眺めながら絵の講義をしたりして、全く自由にできた」(『創立五十周年記念誌』)という。これは、大正時代に興った『赤い鳥』に代表される芸術教育運動も後押ししたが、なにより三根校長の芸術重視の教育理念にもとづくものだ。

三根圓次郎(『三根校長追悼誌』より)
 土佐中学開校当時の文部省「中学校則」の教科には、図画および唱歌もあったが、唱歌は「当分欠クコトヲ得」とあり、必修ではなかった。音楽として必修になるのは、昭和6年の中学令改正からである。それなのに、上級学校への進学・人材育成をめざす土佐中は、なぜ芸術教科に注力、当初から授業に取り入れたのか。それは、三根校長が文科大学(現東京大学文学部)で学んだ哲学科主任教授ケーベル博士の教えに感銘を受けたからであろう。ドイツで哲学を学んだ博士は、ロシアでチャイコフスキーから直接学んだピアニストでもあった。ケーベルは、学生にこう呼びかけている。「私の諸君に対して望むところは、諸君が偉大なる芸術家、詩人および文学者の作品をば、大思想家の著作と同様に、勤勉かつ厳密に研究せられんことである」(『ケーベル博士随筆集』岩波書店)。

三根の恩師・ケーベル博士
(『ケーベル博士随想録』より)
 三根校長は、人間の成長にとって芸術的教養がいかに大切かを実感しており、土佐中で実践するとともに、一高・東大進学の力がある平井には、優れた音楽的才能があることを見抜き、あえて東京音楽学校を薦めたのである。第二次大戦中、戦時体制が強化されるなか東京美術学校に進んだ高ア元尚も、卒業後母校の教師として多くの芸術家や芸術愛好者を育てた。現代の情報化社会では、商品デザインやCMソング選定にとどまらず、世界に飛躍する各界のトップには、文学・音楽・美術の素養が不可欠になってきている。
 第二次大戦後には、大嶋光次校長が新制中学・高校として再出発するに当り、男女共学を導入するとともに学園の民主化を図った。そして、運動部・文化部の設立と活性化を行い、多くのアスリート、アーティストが誕生した。こうした伝統が、100周年を迎えてさらに深化し、時代を切り開く教養豊かな人材が育つことを強く願っている。(完)

≪お詫び≫筆者の校正ミスで、お名前に誤記があり、大変失礼致しました。黒鉄ヒロシ様、西村繁男様、ならびに読者の皆様にお詫び申し上げます。……中城正堯
  ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”ニュース版
中城正堯(30回) 2018.07.22合田や田島兄弟が新聞で話題に


合田佐和子「ベロニカ・レイク」日本経済新聞。
 “素顔のアーティスト”で紹介した人たちが、「新聞に出ちょった」との情報が西内一(30回)などから、次々と寄せられたのでお伝えしたい。

 まず、7月3日の日本経済新聞文化欄で、美術評論家・勅使河原純は、連載「マドンナ&アーティスト十選」の一人に、合田佐和子「ベロニカ・レイク」選んでいる。勅使河原によれば、「美女狩り」で有名な合田が選んだ妖艶なマドンナが、1940〜50年代のアメリカで、男を惑わす宿命の女のレッテルを貼られたベロニカで、「合田にとっては一分のスキもない悪女こそ、もっとも心許せる女神だった」と述べている。

 7月5日の朝日新聞夕刊「古都ものがたり・京都」には「田島征彦が絵本にした祇園祭」の記事が大きく掲載された。40年以上前、絵本『祇園祭』に着手したころの田島はまだ無名で、取材は難航したが、3年間かよって仕上げる。「きらびやかだけでない、祈りや鎮魂、情熱といった人間の根源を揺り動かすものがいっぱいあった。それを染めた」と、語っている。この絵本は、ブラティスバラ世界絵本原画展で金牌を受賞、ロングセラーになっている。


「田島征彦が絵本にした祇園祭」朝日新聞。
 この翌日には、全国紙の全面を使った「越後妻有・アートの夏」「大地の芸術祭」開催告知が出た。メイン会場の一つが「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」で、廃校を舞台にオブジェで構成した“空間絵本”の写真が掲載してあった。やがて本人から、山裾に出来つつある巨大オブジェ「マムシトンネル」の写真が送られてきた。7月29日からは、いよいよ「越後妻有アートトリエンナーレ2018」が始まる。夏休みの旅行に、ぜひ子ども連れで訪ねたい芸術際である。それに合わせて、マムシ絵本『わたしの森』(くもん出版)も刊行されるので、内容をちょっぴり先行公開しよう。

山裾に巨大な姿を見せるマムシトンネル。(大地の芸術際)

絵本『わたしの森』、若いマムシの恋。(くもん出版)


 なお、最初に紹介した倉橋由美子(29回)につき、今ベストセラーを連発中の下重曉子との出会いを書き漏らしたので、『うきぐも』14号(30年卒Oホームクラス誌1990年刊)から再録する。下重は筆者と同年の旅仲間で、高知に案内したほか海外も含めてよく旅に出かけ、自宅にも往き来した。連れ合いは、元テレビ朝日の温厚な記者である。

 「1989年6月23日、先輩の倉橋由美子さんに、旅仲間の下重曉子さんを、神楽坂でお引き合わせする。ともにファンで、紙上でたがいの作品にラブコールを贈っていたが、会うチャンスがなかったとのこと。会った瞬間から意気投合、肝胆相照らす仲となる。特にお二人とも、結婚談義がケッサクだったが、オフレコである。この日たまたま上京中の福島清三先輩(29回)から電話があり、途中から合流する」(「平成元年出版ヤクザ行状記」)
  ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”(W)
凄絶なホラー作家にして酒豪、坂東眞砂子(51回)
中城正堯(30回) 2018.07.08
イタリア帰りの童話作家から転進

坂東眞砂子(高知県立文学館提供)
 1996年に『山妣(やまはは)』(新潮社)で直木賞をとった坂東眞砂子と、初めて会ったのは1993年であった。紹介してくれたのは、坂東と土佐高の同級生で、ゴリラの画家としてすでに知られていた阿部(旧姓浜口)知暁(ちさと)であるが、月日や場所は定かでない。すでに坂東は、童話作家として『クリーニング屋のお月様』(理論社 1987年)はじめ数冊を刊行、注目されており、当時教育出版社にいた筆者も、有望な新人と聞いていた。
 会ってみると、三十半ばとは思えない若々しいおかっぱの童顔で、奈良女子大住居学科を出てイタリアのミラノ工科大などに留学、帰国後にフリーライターとして雑誌の記事を書きつつ、童話に取り組んできたと話してくれた。すでに毎日童話新人賞なども受賞しているが、「これからは、大人の小説を書きます。土佐を舞台にした第一作が、もうすぐ出来上がります」とのことであった。
 やがてマガジンハウス社から、「乞御高評」の付箋付きで著書『死国』が贈られてきた。帯には「新鋭書き下ろし伝奇ロマン 四国を舞台に繰り広げられる不可思議な現象と事件!」とあり、作家・小池真理子の惹句「丹念な描写が怖さを紡ぎ出す」と続く。死国とは四国であり、四国遍路を舞台に使ったこの一作で、一躍女流ホラー作家として脚光を浴びる。童話とは全く異質の作品に、驚きつつ礼状を出すと、折り返しハガキで「年内にはまた新刊を出す予定です。そのうちに社(くもん出版)に伺います」とあった。

土佐のいざなぎ流(上左)とタイ北部山岳民族の祭礼。
(『季刊民族学』91号、筆者撮影)
 秋には次作『狗神(いぬがみ)』(角川書店)が届いた。狗神(犬神)とは土佐の憑(つ)きもの神で、これに憑かれると半狂乱になるなど異常行動をとる。犬神の憑く家は代々決まっているとされ、犬神筋と呼ばれた。犬神が憑くと、太夫(たゆう)という神職者に頼んで御祓いをして落としてもらった。
 主人公の美希は、痛ましい少女時代の過去を忘れ、山村で紙を漉いてつましく暮らしていた。若き中学教師の赴任とともに、奇怪な現象に巻き込まれ、狗神筋の家として忌み嫌われ差別される。やがて、近親相姦が明らかになり、一族は村人に襲われ、惨劇で幕を閉じる。後に、天海祐希の主演で映画化された。執筆に当たっては、「土佐憑物資料」などを渉猟している。筆者は物部村でいざなぎ流神事を見学したばかりだったので、読後感に、土佐の民俗・信仰を題材にするなら高知県立歴史民俗資料館の吉村淑甫館長を訪ね、また民間信仰研究者でいざなぎ流にも詳しい小松和彦(当時阪大教授)の著書も読むよう書き添えて送った。翌年1月に手紙が届き、「小松教授の御本は、以前より興味深く拝見しています。今回も参考にさせていただきました。吉村館長にも教えを受けたい・・・」とあった。

日本人が運営するタイ山岳民族子弟
の寄宿舎学校。(筆者撮影)
 この年に筆者は、寝袋をかついでタイ北部の山岳少数民族探訪にでかけ、日本人女性が子どものために開いた寄宿舎学校に立ち寄った。一人で運営するNさんが、「二日酔いみたい」といって、現れたので事情を聞くと、「前日に村の呪術師から“憑きものが出始めたから、御祓いをする”といわれ、祠の前で厄払いを受け、強い焼酎を無理にのまされた。村のしきたりには従わないと、生活できないから」とのこと。帰国後に、坂東にこれを伝え、伝奇小説も土佐ばかりでなく、東南アジアも含めて海外まで舞台を広げてはと提案した。やがて、手紙が来て、「タイの面白い話」への礼と、吉村館長の子息で角川書店編集部の吉村千穎(現風日社)に会ったこと、現在、土佐清水を舞台にした長編に取り組んでいることが述べてあった。
 土佐清水を舞台とする長編は、『桃色浄土』(講談社)であり、1994年10月に刊行された。この頃には、出版界期待の新鋭伝奇ロマン作家として、各社から追いかけられる存在となり、筆者との連絡も直木賞受賞の頃には途絶えた。従ってここからの“素顔”は、主として各社の担当編集者からの伝聞と、本人の随筆による。

文才豊かな酒豪、綿密な現地取材
 イタリアから帰国後に、東京でフリーライターとして雑誌に紀行文や取材ルポを書いていた坂東は、応募した童話が新人賞になり、その審査員だった童話作家・寺村輝夫が開いていた文学講座に通う。作品の添削・講評を受けながら文学修業に励んだことが出版につながり、1986年に『ミラノの風とシニョリーナ イタリア紀行』(あかね書房)が刊行される。担当編集者は筆者と学研で同僚だった後路好章で、そのいきさつと人物をこう語る。

『死国』出版や『山妣』直木賞受賞を
知らせる高知新聞と、筆者へのハガキ。
 「寺村先生から、“坂東は抜きんでて文章力がある。ぜひ、起用しなさい”と強い推薦があり、高学年児童向けの海外紀行シリーズで、イタリアを書いてもらった。期待どおりの出来映えだった。打ち合せの合間に、イタリアで男性から迫られたことを赤裸々に、楽しげに話してくれた。後に電車で偶然会ったが酒臭い状態で、寺村先生から“二人きりで飲まないよう、ぶっ倒れるまで飲むことがある”と聞かされていたのを思い出した。とにかく、文才に恵まれ、また酒豪であった」
 創作児童文学を数冊出版したのちに、『死国』を皮切りに大人ものの伝奇小説に転じ、『蟲』(角川書店)で日本ホラー小説大賞佳作、『桜雨』(集英社)で島清恋愛文学賞など、次々と受賞する。そして1996年刊の『山妣』によって38歳の若さで直木賞に輝く。受賞の知らせは、翌年の1月に滞在中のイタリアで聞く。高知新聞の取材に、「村社会が私のテーマ。日本民族の根源的な思い出として書ければいい・・・」と、語っている。授賞式には、選考委員・渡辺淳一、直木賞作家・宮尾登美子とともに母・美代子の姿もあった。高校卒業と同時に家を離れ、奈良、ミラノで学び、東京では定職に就かず、母には心配を掛けてばかりだっただけに、母子ともども喜びはひとしおだったと思われる。

『山妣』『梟首の島』『わたし』など代表作。
 『山妣』の帯には、「業深き男と女に荒れ狂う魔物。山妣伝説の扉が開かれた――明治末期、越後の豪雪地帯を舞台に、旅芸人、遊女、又鬼(またぎ)、瞽女(ごぜ)、山師らが織りなす凄絶な愛憎劇。未曾有の大作!」とある。坂東は、すでに二度直木賞候補になっており、今回は作者、版元とも受賞への期待を込めた渾身の力作であった。この作品の担当編集者であった木村達哉は、当時をこう回想してくれた。
 「現地取材を実に丹念にする作家だった。『山妣』の舞台は、全く土地勘のない新潟だけに、2年以上取材に時間をかけ、季節をかえて何度も足を運んだ。芝居の場面を書くために檜枝岐(ひのえまた 福島県)へ農村歌舞伎の開演時期に行き、秘境といわれる秋山郷も、数日かけて歩きまわった。民俗学に興味を持ち、関連文献をよく読み込んでから現地取材に向かった。特に、宮本常一、宮田登、それに歴史家・網野善彦の本を読んでいた。仕事に手厳しい作家で、安易な妥協を許さず、著書の装丁一つ取っても、納得いくまで注文を付けてきた。ただ、仕事を終えての酒席では陽気で、近況から作品の構想、高知の思い出など楽しげに話してくれた。土佐の女性らしい酒豪で、日本酒を冷やですいすい飲む姿と、“木村さんは弱いんだから”と笑われたことが印象に残っている」
 なお、木村の新潮社同期には『奇跡の歌』などで知られるノンフィクション作家の門田髀ォ(門脇護53回)がおり、SF評論家の大森望(54回)も元同僚だったという。

タヒチで「生」と「性」を謳歌したハチキン
 直木賞受賞後、人気作家として一段と多忙になるなか、2001年刊『曼荼羅道』(文芸春秋)が、柴田錬三郎賞を受ける。戦時下のマレイ半島で、日本人の現地妻となった部族の娘の数奇な生涯をたどる長編だ。講評で黒岩重吾は、「この受賞作には、読んだあとの気迫だとか衝撃、あるいは感動、それから余韻が必要・・・今回は衝撃を受けた」と語っている。

柴田錬三郎。(筆者蔵)
 柴田錬三郎は、その生前筆者がかなり付き合い、文学への厳しい見方を実感していた作家だけに、嬉しかった。1975年には柴練原作のNHK人形劇『真田十勇士』の漫画化権をとり、石森章太郎に作画を依頼、1年間高輪プリンスホテルの仕事場に通った。あるとき、ホテルに文藝春秋社から直木賞の候補作が届き、リストを見せていただいた。知り合いの時代小説作家の名前があり、評価をうかがうと、「Tは資料に頼りすぎでまだダメだ。作家は創作力が命」と明快だった。田中角栄の私生活をめぐる『プレイボーイ』誌裏面での猛烈なバトルと、その幕引きの真相に、作家としての気概を感じた。『週刊新潮』の人気連載小説『眠狂四郎』シリーズに登場した、西洋占星術の内輪話も打ち明けられた。

イタリアの陽気な恋人。
1991年ボローニャで。(筆者撮影)
 坂東に話をもどすと、2001年に高知県立美術館で開催の合田佐和子(34回)展図録には、アトリエを訪問した上で合田論「焼け跡に舞い降りた死の使者」を寄稿している。2003年には高知新聞など地方紙で、自由民権運動に題材を取った『梟首(きょうしゅ)の島』の連載が始まる。私生活ではすでに1998年からタヒチに移住し、フランス人建築家兼彫刻家をパートナーとして暮らしていた。子どもの頃から南の島にあこがれていたというが、それだけではない。彼女は、「わたしは自分が憎い。鏡で顔を見るのも嫌い・・・」(『わたし』)と語っており、特に高校から大学にかけては、容姿にも才能にも自信喪失気味であった。それが、22歳で行ったイタリアでは、「なんといっても楽しかったのは、町で男によく声をかけられたことだった。・・・“チャオ、ベッラ(別嬪さん)”と声をかけてくる。・・・男たちがウインクしてくる」(『愛を笑いとばす女たち』(新潮社)のだ。  
 彼女のような丸いぼっちゃりタイプは、欧米人には東洋美人の典型と写る。さらに、おしとやかな態度より、はっきり自己主張する人間が好まれる。坂東はイタリア男性の熱い性的エネルギーを浴び続け、自信を回復したのだ。仏領タヒチへの移住は、南太平洋の楽園とされるその自然だけでなく、そこに住む開放的な西洋人にも惹かれたのだ。

タヒチなど南洋を題材にした随筆や小説。右下は坂東。
 取材で島の自宅を訪問した木村は、「タヒチと言っても観光地でなく、淋しい土地に住み、野菜や果物を栽培、鶏を飼育、魚を獲って自給自足をめざすたくましい生活ぶりに驚いた」という。作家として、都会の喧噪を離れ、自然のなかで人間本来の生き方をさぐりたかったのだろう。奈良女子大の後輩でもある新潮社の中瀬ゆかりは、飲みっぷりをこう語る。
 「日本酒でも何でも飲んでいましたが、一番お好きだったのはやはりワイン。ひとりでボトル2本くらいは軽くあけていました。タヒチでは、夕方、自宅の農作業が一段落したらテラスに椅子を出して、冷えたシャンパンを開け、“あー、この一杯のために今日も働いたわ”みたいな言葉が出るくらい好きでした。酔うほどに議論になり、いつも論客のマサコにやり込められました。話題は下ネタから天下国家まで、といっても私とは恋愛とか男性論が中心で、深夜まで飲んだくれていました。料理の腕もプロ級で、ハチキンを絵に描いたような豪傑。まさに「生」と「性」を謳歌。知的で自由な発言、よく笑い、欲望にも忠実な生き様は、私たちの憧れでした」

高校時代の『わたし』と疑似友人
 タヒチで暮らしつつ、2002年に自伝小説『わたし』(角川書店)が刊行される。帯には「衝撃の自伝小説」「心の深淵には、人に対する激しい憎しみと恐怖を抱えた“わたし”が住んでいる」とある。祖母はじめ家族、そしてタヒチでのパートナーなどに関する赤裸々な記述はともかく、高校の学友に対しても「疑似友人」と述べ、憎しみに満ちた記述を連ねている。自伝「小説」とうたい、仮名になっているとは言え、級友にとっては誰を指すか明白であり、身に覚えのない記述に嫌悪感を抱かずにはいられなかったであろう。 

坂東が在籍した頃の土佐高校舎、
高知市塩屋崎町。(筆者撮影)
 高知県佐川町斗賀野で生まれた坂東は、中学まで地元の学校に通い、高校から土佐高に入学、1時間半かけて汽車で通学した。「最後まで“名門校”の雰囲気に馴染むことなく、高校を卒業した」(『身辺雑記』朝日新聞社)とも述べている。
 両親が教師と保母という家庭で育ち、小学校では図書室が大好きで『長靴下のピッピ』や『ツバメ号とアマゾン号』、そして漫画に夢中になった。中学ではカミュの『異邦人』に惹かれ、文芸部でも活動、成績も良く仲間のリーダーだった。高校で2年、3年と同級だった八木勝二は、「彼女の印象は、横山大観の『無我』の少女のように茫洋とした容姿で、男子の友人はおらず、女子の友人も浜口や竹崎(現YASUKO HACKIN)に限られていた。『わたし』に書いてあることは、創作が多い。いつの間にか流行作家になり、直木賞をもらった。級友と“すごいねえ。そんな才能があったがか”と、話したことだった」という。
 担任だった濱田俊充(理科35回)も、「友だちは少なかったが、浜口知暁とは仲が良く、よく一緒にいた。直木賞作家になるとは想像出来なかった」と語る。その浜口は、かつて筆者に坂東を紹介してくれた画家・阿部だが、「もう彼女のことは話したくない」と語るのみだ。合田佐和子や田島兄弟は、高校時代に美術教師によって才能を見出されたが、坂東の才能は埋もれたままであった。

「猫殺し」に見る坂東の“偽悪”
 2006年8月、坂東は日本経済新聞夕刊の連載エッセイに「子猫殺し」を書く。「こんなことを書いたら、・・・世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。そんなことを承知で打ち明けるが、私は生まれたばかりの子猫を殺している。家の隣の崖の下がちょうど空き地になっているので、生まれ落ちるや、そこに放り投げるのである」

タヒチの美しい景観。(筆者撮影)
 掲載直後から、まずネットで坂東バッシングがはじまり、新聞雑誌でも文化人の論評をまじえての集中砲火を浴びる。本人が覚悟した以上の糾弾だった。坂東には『死国』発表以来付けられた「ホラー作家」に加え、「猫殺し」のレッテルが加えられる。かねて坂東は、「私はホラーという横文字の恐怖を書いているのではない、日本人が持っている自然や神に対する畏怖(いふ)感を書いている」と反発してきた。「猫殺し」の真実はなんだったのか。友人で作家の東野圭吾の問いかけに、坂東はこう答えている。「崖というと、断崖絶壁を想像する人が多いけど、実際は二メートル程度の段差。下は草むらやから、落としたぐらいで死なへん。つまり正確にいうと、子猫を裏の草むらに捨てた、ということやね」(「レンザブロー」)。坂東は、人間と動物、特に家畜や愛玩動物との関係を、根元から問いかけるために、「捨て猫」でなく、インパクトのある「子猫殺し」にしたのだ。
 ここでも、『わたし』での「疑似友人」への容赦ない表現同様に、「わたし」を“偽悪化”して、「子猫殺し」に自らを仕立て上げている。エッセイでは、あえて自身を悪者にした上で、他者(友人や愛玩動物)への攻撃姿勢を強調、読者に問題提起をしている。
 彼女は作家としての年輪を重ね、文壇での評価が定まるとともに、高校卒業と同時に離れた高知の人々を思い出すこともあったようだ。『わたし』が出版されて3年くらいたったある夜、東京にいた高校の同級生・八木のもとに、大学時代の親友から突然電話があり、「銀座の寿司屋で飲んでいる。珍しい人と替わる」とのこと。そして出たのが坂東で、「高知新聞連載の『梟首の島』が本になる。あした新聞社で対談があり、終わったら電話する。会おう」だった。卒業式以来の声だったが、酔ったせいか意外にさばけた印象だったという。だが、翌日待てど暮らせど電話はなかった。取次いだ親友に事情を聞くと、「たまたま寿司屋で土佐弁が聞こえたので、声をかけると坂東さんだった。高知に八木という友人がおるといったら、“同級生じゃ、電話しょう”となった」とのこと。
 坂東は2008年には50歳となり、長編『鬼神の狂乱』(幻冬舎)を上梓する。江戸後期に土佐豊永郷で起こった狗神憑きの事件から題材を得て、鎮圧に参加した下級武士と村娘の恋を織り込んである。民間信仰だけでなく当時の社会的背景も織り込んで、完成度の高い楽しめる作品に仕上がっている。いつもながら、本の末尾には郷土史家・公文豪など取材協力者の氏名を、詳細にあげてあった。この年の年末には、タヒチのパートナーとも別れて帰国する。翌年には、高知に帰郷し、鏡川上流の高知市鏡に、イタリアンカフェをオープン。オーストラリアの北東に浮かぶバヌアツにも家を建て、若い夫ケビンとくらす。
 高知とバヌアツを往き来しながら、旺盛な執筆活動を続け、2011年には『くちぬい』(集英社)を出版する。高知へ帰郷後に実感した非合理な土地慣行や高齢者による新参者へのいじめ、共同体のために口を閉ざす”口縫い”をテーマに、田舎への愛憎を作品化している。

郷里への想いと「チームマサコ」

坂東の愛した土佐の青い空と海、
緑の山々。桂浜で。(筆者撮影)
 2013年、体調不良を訴え、検診の結果舌癌と判明する。高知で治療を続けながら連載を抱え、執筆活動を続ける。やがて、肺にも転移し、末期ガンとの診断が下る。東京での治療を希望し、同年末には、友人・久保京子の車で、東京の病院に移動する。
 東京では、新潮社や集英社をはじめ仲良しの編集者・新聞記者・作家たちが女性だけで「チームマサコ」を結成、入院生活を支援した。その様子を、中瀬はこう述べている。
 「高知にもどるまで約1ヶ月間のサポートシステムです。病室に付き添い、水分補給にシャーペットを溶かしてスポンジに含ませては舌にのせてやり、買い物やお金の管理も行い、時には泊まり込みました。“死”への想いが渦巻き、たまには爆発したようですが、私には最後までユーモアたっぷりなマサコ節でした。病室は男子禁制で、仲良しの男性編集者にも面会拒否を通していました。やつれたすがたは、見せたくなかったのでしょう」
 母やケビンも駆けつけたが、「自分のルーツである高知に帰りたい」との希望で、2014年1月23日に空路高知に搬送された。だが、27日には家族に見守られて、帰らぬ人となった。享年55歳。多くの知人にも、闘病中とは気付かれない間の訃報で、八木は同級生を誘って「坂東の店へ行こう」と、話していた矢先であり、残念だったという。
 こうして坂東は、土俗的な信仰と習俗の村社会にみられる人間の業を描いて、直木賞作家としての地位を築いた。さらに、古代王朝や自由民権運動を舞台にした歴史ロマン、明治以降の日本のアジア・太平洋進出を庶民の立場から捉えた社会派小説など、新ジャンルに挑戦、時代・舞台を重層的に交錯させ、劇的な結末に導き、読者を魅了し続けた。豊富な海外生活をもとに、あっけらかんとした性描写や、愛を笑い飛ばす性への賛歌は、カトリック・儒教そして近代市民社会のモラルへの挑戦でもあった。差別・戦争・原爆・原発事故にも、強い関心を寄せていた。

病床でもイタリアの青春を回想しただろう。
フィレンツェのサイケな若者。
アルノ川の橋脚で、1991年。(筆者撮影))
 1993年の『死国』から、2013年絶筆となった『眠る魚』(集英社)まで、わずか20年ばかりの間に40冊余の多彩な小説を送り出している。早すぎる死に対し、ひところ女流ホラー作家として併称された篠田節子は、近作の『隠された刻』(新潮社)、『朱鳥の陵(あかみどりのみささぎ)』(集英社)、『くちぬい』(集英社)をあげ、「内容の充実に加え高い緊張感とダイナミズムは失われていない・・・老成、円熟には無縁の熱量に圧倒される」(朝日新聞2014.4.13)と、最期まで衰えなかった創作力を追憶している。
 未完の絶筆長編『眠る魚』の編集担当だった今野加寿子は、坂東が書き残した「故郷の土地は、私の最後の砦」「原発事故のもたらした最大の精神的被害は、日本人の土地に対する信頼の消失」を紹介。「2014年1月。余命宣告を受け、最期を迎える場所として向かったのは、土地と家屋を所有する他ならぬ高知だった。自力で歩くこともままならない状態で、看護師同行のもと飛行機に乗る」と述べている。(『眠る魚』解題)
 坂東の作品に関しては、既刊以上に望むことはない。ただ一つ、円熟期を迎え再度執筆して欲しかったのは『わたし2』である。余命を知ってからの郷里土佐への想いが伝わるだけに、土地だけでなく級友はじめ土佐の人々への想いも、改めて聞きたくなった。

元防衛大臣・中谷元から防衛問題を取材

高知独立をテーマにした『やっちゃれ、
やっちゃれ!―独立・土佐黒潮共和国』
(文藝春秋)
 本稿執筆後に、<2014年に東京で開かれた「坂東眞砂子さんを偲ぶ会」に、土佐高同級生の中谷元代議士(元防衛大臣)が出席し、心のこもった挨拶をしていた>との情報が、知人の編集者から寄せられた。同級の男子とは交流がなかったと聞いていただけに意外で、叔父の浅井伴泰(30回)に問い合わせると、国会開期末で多忙な7月17日に、中谷元ご本人から電話をいただいた。以下が、その概要である。
 「坂東さんは、2008年4月から11月まで高知新聞に『やっちゃれ、やっちゃれ!―-独立・土佐黒潮共和国』(後に文藝春秋刊)を連載した。その中で防衛問題も扱うので、きちんと勉強したいとの申し出だった。執筆に先だち、二、三度お会いして率直な意見交換をおこなった。卒業以来の再会で、国家防衛への考え方には相異もあったが、熱心な取材ぶりが印象に残っている。人気作家となってもよく資料を収集、異論もふまえ、独自の小説世界を創作している姿に接しただけに、急逝が残念でならなかった」

 *本文執筆に当り、文中に記載以外に高知県立文学館津田加須子、高知新聞片岡雅文、集英社村田登志江、土佐高同級山本嘉博の皆様にご協力いただいた。感謝したい。

  ページTOPに戻る


母校出身“素顔のアーティスト”(V)
大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟(34回)
中城正堯(30回) 2018.06.07
「働く人」と「のら犬」へのまなざし

田島征三の近影(本人提供)
 今年(2018年)の正月4日、朝日新聞を開いて驚いた。一頁丸ごと使ったカラー広告があり、両手を広げたハダカの子どもを頭上高く掲げた父が、大地を踏ん張って立っている。泥絵具の荒々しいタッチは、まぎれもなく“あの田島征三”の作品だ。「働く人みな、ずーっと健康」(伊藤忠)とある。まっとうな労働に誇りを持つ商社のイメージ広告で、小さくSeizoのサインがある。しかし、日本を代表する商社の“征三”起用に、不思議な想いにかられた。それは20年前、彼が住んでいた東京都日の出村(現日の出町)での広域ごみ処分場建設反対運動に立ち上がったものの、工事が強行される中で胃がんを発病、手術後に見舞った際のやつれた姿が、いまだ目に焼き付いていたからである。

今年正月の伊藤忠商事広告、絵・田島征三。
 今は伊東市に住む本人から、電話で経緯を聞いた。伊藤忠商事とは昨年(2017年)からの付き合いで、6月を皮切りに3回にわたって日本経済新聞で、見開き二面を使っての大広告に起用され、それが同年度の日経広告大賞に輝き、今年の正月広告につながったという。広告代理店があげたいくつかの候補イラストから、田島征三の絵本に見覚えのあった伊藤忠・岡藤正広社長(現会長)が即決したのだ。昨年は、「懸命に〈稼ぐ〉」、「無駄を〈削る〉」、「損を〈防ぐ〉」がテーマだった。〈稼ぐ〉では、荷車に満載した魚や野菜を全力で運ぶ夫妻が描かれている。骨太の経営理念を見事に表現したとして、大賞受賞となった。
 筆者のとまどいを察したのか、「日の出村のごみ闘争では、豊かな自然をぶちこわす行政と戦ったが、別に何でも反対じゃない。いま、廃校を丸ごと作品にした〈絵本と木の実の美術館〉のある新潟県十日町市では、市長をはじめ行政とも仲ようやりゆう」とのこと。なお、伊藤忠では元厚生労働省事務次官の村木厚子(49回)が社外取締役を務めている。
 こうして昨年、田島征三は大学時代の高知県観光ポスターでの金賞以来、再度広告の世界で脚光を浴びた。それにとどまらずに新作絵本でも、大がかりな野外展示(インスタレーション)でも、新たな挑戦を始めている。

アトリエの田島征彦(くもん出版提供)

『のら犬ボン』扉絵、田島征彦。
 いっぽう田島征彦にとっても、昨年は絵本作家としての新境地を確立する記念すべき年であった。2015年に障害者と健常者がともに生きる姿を描いて日本絵本大賞を受賞した『ふしぎなともだち』(くもん出版)に続き、2年の取材と推考を経て生まれた『のら犬ボン』(くもん出版)が、人と動物の関係を問いかける創作絵本として社会的反響を呼んだのだ。この絵本は、移住した淡路島で出会った三匹の野良犬から発想を得て、動物愛護センターなど関係者の取材を重ねてかき上げたもの。刊行直後から「ペット思う心 絵本で訴える、島の捨て犬問題取材し創作」(神戸新聞)、「捨てられる側の悲しみ」(高知新聞)など、各紙が社会面で大きく取り上げた。この絵本は、従来の型染絵ではなく、太い絵筆を使った大胆なタッチの描画ながら、人や犬の表情を巧みに表現している。
 なお、征三は「たしませいぞう」、征彦は「たじまゆきひこ」と、姓の読み方を変えている。混同を避けるためだが、若い頃はしばしば同一視や取り違えがあった。

兄弟で日本・世界の絵本賞を総なめ
 この一卵性双生児と筆者との出会いは、合田佐和子(34回)の項で書いたように1962年(昭和37)で、まず弟征三であった。当時、征三は多摩美術学校(現多摩美術大学)図案科在学中で、学習誌にいくらかカットを描いてもらった。やがて京都市立美術大学(現京都市立芸術大学)染織図案科を出た兄・征彦も紹介された。ただ、1970年頃から筆者は大人ものの編集部に異動したので、二人から個展などの案内状をもらっても、仕事での付き合いは途絶えていた。征三が個展で「作品の大小にかかわらず一点一万円、“早い者勝ち”としたら、大きい方からどんどん売れた」などの話は洩れ聞いた。
 田島征三は、1965年(昭和40)に彼の作品のファンだった喜代恵と結婚、2年後に『ちからたろう』(今江祥智・文、ポプラ社)がブラティスヴァ世界絵本原画展(スロバキア)で金のりんご賞を受賞、4年後にはこの絵本賞の審査員に招かれる。1969年に東京都西多摩の日の出村に移住し、農耕と創作活動に取り組む。1973年には『ふきまんぶく』(偕成社)が、講談社出版文化賞を受賞、絵本が内外で高く評価されるとともに、『やぎのしずか』シリーズが幼児の人気絵本となる。また、米軍機墜落事故の犠牲者・館野正盛の裁判闘争を支援する会に加わり、社会福祉法人しがらき会信楽青年寮(知的障がい者生活寮・作業所)の手すき和紙や陶板を活用、協力して作品を制作するなど、社会的視野も持ち続けた。

征三の絵本。上『しばてん』『とべバッタ』の表紙、
下『ふきまんぶく』の本文。
 田島征彦は、入学当初は染織になじめず教授にも反発したが、次第になじみ、専攻科(大学院)を経て、大阪芸術大学や成安女子短期大学の講師となる。染織を教えつつ、シルクスクリーンによる作品制作も始める。1971年には教え子の英子と結婚する。やはり教え子だった高畑正が、筋萎縮症と戦いながら懸命に制作する生き様に衝撃を受け、講師を辞職、1975年に丹波の八木町へ妻・英子と移住し、農作業をしながら作品制作に取り組む。同年、京都府洋画版画新人賞を受け、賞金でソ連・ヨーロッパ研修旅行に出かける。途中から征三も加わる。帰国した翌年、3年前から取り組んできた初めての絵本『祇園祭』(童心社)が完成、いきなりブラティスヴァ世界絵本原画展で金牌賞を受賞する。1979年には『じごくのそうべえ』(童心社)が絵本にっぽん賞に輝く。吉村敬子との共同制作『あつおのぼうけん』は、障害者と本音でぶつかりあい、行動をともにすることから生まれ、感動的な絵本に仕上がった。1980年には、NHK「新日本紀行」が、兄弟それぞれの農耕と創作の日々を追いかけて紹介する。

征彦の絵本。左『じごくのそうべえ』
『みみずのかんたろう』『島』の表紙、
右『祇園祭』の本文。
 こうして画家・絵本作家として注目される存在になった二人は、1990年刊『現代日本 朝日人物事典』(朝日新聞社)に揃って登場、児童文学者の今江祥智がその作風をこう紹介している。「征三:卒業制作が絵本『しばてん』で、泥絵具をいかした極めて土俗的で大胆な画風のもの。・・・絵本『ふるやのもり』、『ふきまんぶく』から最新作の『とべバッタ』まで、従来のお子さま絵本とは対極的な、力動感あふれる個性的な絵本を相ついで発表してきた」。「征彦:型染絵を学び、その手法で最初の絵本『祇園祭』を制作。簡潔で力強く美しいこの祭りの絵本で注目を集めた。以来『じごくのそうべえ』から・・・同じ手法でユニークな絵本をつくりつづけている」。今江は、エッセイストとしての二人も高く評価している。

征彦『中岡はどこぜよ』がボローニャで絵本賞
 1981年(昭和56)に筆者は公文公(7回)のお誘いで公文教育研究会出版部に転職、1988年には児童書・教育書を出版する「くもん出版」を設立してその責任者となった。絵本も重要分野で、田島兄弟とも仕事が再開された。まず、くもん出版の季刊PR誌『本の海』に征三による幼い頃の回想記『絵の中のぼくの村』を連載してもらった。1940年に大阪で生まれた二人は、敗戦の年に父の故郷・高知県芳原村(現高知市春野町)に移住。ともに病弱だったが、勉強そっちのけで豊かな自然に浸り、川魚や野鳥を追いかけ、いたずらやけんかをくり返しながら成長していく。その姿が絵入りで赤裸々につづられ、大好評だった。
 この頃、征三の住む日の出町の山野が、都下三多摩地区の廃棄物を処分する巨大ごみ処分場の候補となる。田島たち住民は「日の出の自然を守る会」を結成、田島夫人・喜代恵が代表になる。彼らは「地域毎の安全でコンパクトなごみ処分場」という代案を掲げて運動を展開する。征三たちの呼びかけで、音楽家・小室等、映画監督・高畠勲など著名文化人も応援に駆けつける。筆者も「日の出の森・支える会」に入会した。しかし、征三たちの体を張っての抵抗も、行政に強制排除されて工事は着工となる。

征彦文・関屋敏隆絵『中岡はどこぜよ』の表紙と本文。
 そんななかで1990年、京都の征彦から「たっての願い」として、刊行早々に出版社が倒産して絶版になった『中岡はどこぜよ』を出して欲しいとの依頼があった。絵本担当の編集者が気に入り、喜んで引き受けた。坂本龍馬がテレビの中から大阪に現れ、「中岡はどこぜよ」と、自転車で走りまわるナンセンス絵本である。征彦による土佐弁の文に、京都美大の後輩・関屋敏隆のとぼけた切り絵が見事にマッチしている。これが“たまるか”翌年のボローニャ国際児童図書展で絵本賞を受賞した。作者・版元揃ってイタリア、ボローニャに来いとのこと。急な話で征彦はスケジュール調整がつかず、関屋と筆者が参加、帰国後に京都丹波の田島家に報告に行った。そのときの写真には、征彦夫妻と関屋、お土産に持参した古代エトルリア出土の人体彫像(レプリカ)が写っている。合鴨を飼育しての無農薬栽培で実った自家米ご飯や、採れたての野菜を使った鴨鍋をご馳走になった。

右から田島征彦・英子夫妻と関屋(筆者撮影)。
 征彦からは、続いて「たっての願い」として、土佐のミミズを主人公にした『みみずのかんたろう』を出して欲しいと言ってきた。子どもが喜ぶ絵本とは思えず躊躇したが、作者・編集者の熱意とボローニャでのタナボタの絵本賞もあって引き受けた。高知で話題になり、高知新聞(1992年4月)のインタビューを受けた征彦は、「出版社にも〈ミミズが主人公では・・・〉と、断わられ続けたが、土佐高の先輩が経営する東京の出版社が快く引き受けてくれた」と述べている。幼年時代に出会ったかんたろうミミズを求めて再三帰郷し、巨大なミミズの恋を型絵染で色彩豊かに染め上げ、彼の代表作の一つとなった。土のぬくもりを出すために、原画は水上勉が越前若狭ですいた竹紙に染めてある。

色鮮やかに染められた『みみずのかんたろう』本文。

征三『絵の中のぼくの村』がベルリンで銀熊賞
 田島征彦のミミズ絵本ができ上がった1992年(平成4)には、連載を終えた『絵の中のぼくの村』も出版した。これが映画監督東陽一の目にとまり、高知出身・中島丈博との共同脚本で、シグロによる映画化が決定した。1995年の夏、仁淀川上流のロケ地・吾北村を訪ねた。オーディションで選ばれた双子の子役が、のびのびとやんちゃな兄弟を演じていた。完成試写会では見事な出来映えに感動、母親役の原田美枝子、父親役の長塚京三にもお会いした。
 翌年、突然朗報が届いた。「第46回ベルリン国際映画祭、銀熊賞受賞!」の知らせだ。この映画は、その後もベルギー、フランスなどの国際映画祭でグランプリを受賞、国内でも日本映画批評家大賞の作品賞・主演女優賞となり、さらに子役二人が特別賞を授与された。東監督は、文部省芸術選奨文部大臣賞を得た。これらも、もとはといえば田島兄弟の郷里での幼年期への郷愁を込めた自伝的エッセイであった。題名のとおり、かつての「ぼくの村」は住宅地に変貌、消えていた。

左から田島征三『絵の中のぼくの村』表紙と映画のチラシ、共作絵本『ふたりはふたご』表紙。
 征彦は、『みみずのかんたろう』出版の翌年、文化庁在外研修生に選ばれ、パリのアトリエ・コントルポアンで一版多色刷の銅版画を学ぶことになる。現地からの手紙に、こう記してあった。「アトリエでの銅版画が思いのほかぼくの作品に合っていて、銅版の上にビニールシートを貼り、型を刻っています。銅版画の型染めをやっているわけです。アトリエのみんながびっくりしています。欲がでて、朝から晩まで頑張っています」。「木原さんの個展が帰国予定日で残念」ともある。このアトリエは、英国人版画家ウィリアム・ヘイターが始めたもので、筆者の友人木原康行もここで学び、パリに終生居住、生命と宇宙を象徴するような抽象精密画をビュランで銅版に刻み続けていた。フランス画家版画家協会に正会員として迎えられたのは、長谷川潔に続き日本人二人目であった。ぜひ対面させたかったがかなわず、木原は2011年に死去した。日本での木口木版の開拓者・日和崎尊夫(高知出身)も、木原を訪ねて痛飲したと聞いている。
 帰国した征彦に、パリ研修のいきさつを聞くと、京都美大時代の恩師・木村重信の推薦だと聞き、これにもビックリ。筆者も、学研で『民族探検の旅』を編集した際に、梅棹忠夫から紹介されて以来のお付き合いで、木村が創設した民族芸術学会の会員となり、くもん出版では著書『美の源流 先史時代の岩面画』出版や、児童用『名画カード(日本編・海外編)』の監修などでお世話になった。
 木村は、美術史・民族美術が専門で、大阪大学教授・国立国際美術館館長などを歴任、美術学界のリーダ−であったが、弟子の面倒をよく見た。征彦の『祇園祭』についても、サンケイ新聞で取り上げ、「この絵本は、手で描かれずに、型染作品であることに特色がある。山鉾を飾る染織品が染色画によってあらわされるという、二重の面白さが見どころ」などと丁寧に紹介している。もう一人、木村の世話になった土佐高卒業生に柳原睦夫(29回)がいる。鷲田清一が朝日新聞「折々のことば」784に、こう記している。「おい、ヒマやろ・・・ヒマなはずや。・・・若き日の陶芸家、柳原睦夫は、ある講演の仕事を(木村教授から)回された。当日なんと教授が会場にいる。その後、家に連れて行かれ、たらふくご馳走になる。そして今晩も泊まれと。強引な教授、実は若い作家の暮らし向きを案じ、世に必死で売り込もうとしたのかも」。昨年開かれた「木村を偲ぶ会」で、世話役を務めた柳原の回想から取ったものだ。偲ぶ会は、体調不良で残念ながら失礼した。

土佐高での高ア先生との出会いが転機  

兄弟が中学生時代の一家。
前列右から、父・姉・征彦・母、後列は征三。
 1996年(平成8)には、初めての兄弟共作絵本『ふたりはふたご』をくもん出版から刊行した。ところが、創作活動とごみ闘争で激務が続くなか、1998年58歳を迎えた征三は胃がんであることが判明、大学病院で胃の三分の二を切除、川越市の病院で療養にはいった。そして、30年過ごした日の出町に帰ることなく伊豆に転居、現在は伊東市に住んでいる。征彦も60歳になった2000年に、住み慣れた京都を離れて淡路島に移転する。では、ここで二人の美術活動の出発点となった、土佐中高時代を振り返ってみよう。
 幼い頃から絵が好きで、地面に棒きれで絵を描きなぐって遊んだ兄弟は、小学に入ると村人が開いていた絵画教室に通う。教師だった父母にすすめられるまま、1953年に土佐中へ入る。左はその頃の写真で、前列右から父・姉・征彦・母、後ろは征三である。中学の美術教師は洋画家・鎮西忠行だったが、高校になるとモダンアートの高ア元尚(16回)となり、より強く影響を受ける。洋画家・中村博の画塾にもふたり揃って通う。
 この間、征三は夏期市民大学での岡本太郎の講演「芸術は、積み上げではない。いきなりドカンだ!」に感銘を受け、またピカソのデッサン集を入手、宝物のように愛でる。岡本もピカソも、古代文化や民族美術からインスピレーションを得て、新しい芸術への突破口にしていた。後になり、彼の絵本にキュービズムや抽象表現主義の傾向が現れるのも、「木の実のアート」を始めるのも、源流はこの高校時代だ。
 いっぽう征彦は、戸籍上は兄ながら引っ込み思案な性格で、絵に自信満々の弟が酒も飲んで青春を謳歌する姿に、劣等感を感じていた。土佐高の校内言論大会で、征三が再軍備問題を堂々と論じるのに惹かれ、自ら自由民権思想の研究会を立ち上げたが打ち込めない。進学は美大と決めていた征三と違い、高3になっても進路がさだまらず、絶望的になっていた。そんなとき、高ア先生からq一郎展を教えられ、観賞して興奮、帰ってからその残像をスケッチブックに描きまくった。先生に見せると「q作品にちっとも似てないところが面白い。君にしか描けない絵がある」と励まされる。この一言で絵に回帰、「君の学力で入れる美大は、京都美術大の染織図案科しかない」と教えられ、受験準備を始める。

高ア元尚先生。退職後に土佐高美術室で。
(土佐高校提供)
 征三や同級の合田佐和子は、東京御茶の水美術院ですでに夏期講習を受けていた。征彦は征三・合田とともに三学期の授業を免除してもらって、この美術院で受験直前の講習を受け、ようやく京都美大に合格、征三は多摩美図案科に入学する。それにしても、田島兄弟・合田の三人が、三学期欠席でも卒業させる許可を、高ア先生は曽我部清澄校長(1回)によく取り付けたものだ。
 大学へ進学してからも、兄弟の高知との縁は切れない。二人で高知県観光課吉本課長に観光ポスター制作を持ちかけ、征三が泥絵具で描いたエネルギッシュな「鰹の一本づり」が採用される。さらに、当時のM知事が汚い絵と評価し、課長がやっと説得したこの作品が、全国既製観光ポスター展でデザイン界の大御所を差し置いて、金賞・特別賞を受賞する。征彦は高知県展にも次々と出品、特選もとる。そして、土佐の絵金(絵師・金蔵)の凄惨な芝居絵に魅せられ、型染絵に本気で取り組む。
 征彦は若き日を回顧して、「樹木希林さんが、文学座で大先輩の杉村春子さんや芥川比呂志さんに平気でぶつかり、喧嘩し、叱られながら育ったと言っていた。ぼくも高ア先生はじめ多くの人にぶつかり、助けられ、なんとかやって来た」と語る。土佐の山野であふれる生命力を吸い取って育った野生児の兄弟は、青年期になってほとばしる美術への情熱を、大らかに受け止めてくれる大人に恵まれ、次第にその才能を開花させたのである。

海辺の新天地へ移住、限りなきチャレンジ
 こうして、征彦は京都の祭りや上方落語など伝統文化に題材を求め、民衆のあふれるバイタリティーを、繊細な感覚で型染絵に染め上げ、征三はふきのとうやバッタなど、自然界のダイナミックな生命力を、泥絵具を使って荒々しいタッチで表現してきた。その絵本は、現実逃避のあまく可愛いいおとぎの世界ではなく、生命力の根元をさぐる骨太の作品であり、子どもも大人も楽しめた。それらは、若くして農村に移住し、家畜を飼い農作物を育てながらのいわば「半農半画」の生活から生まれた。「半農半画」は貧乏画家の生きる手立てでもあったが、そこから題材も得た。このような生活は、夫人の協力があって初めて成り立った。征彦の英子夫人は、生活設計が不得手な夫にかわってローンを組み、丹波に二千坪もの家と田畑を購入、生活の安定を図った。征三の喜代恵夫人は、協調性に乏しい夫にかわって「日の出の自然を守る会」代表となり、長期の運動をまとめた。

兄弟から届いた個展の案内状。
 60歳を迎える頃、征三は伊豆半島、征彦は淡路島と、ともに土佐と風土の似た海辺の村に移転、心機一転して最初に紹介したような新しい仕事にチャレンジしている。2006年には、高知県立美術館で、『激しく創った!! 田島征彦と田島征三の半世紀』展が開かれた。
 最近の征彦の手紙には「あたたかさと海の見える生活に感動、新しい作品の方向がうまれた」とある。『ふしぎなともだち』『のら犬ボン』など新作の大きな反響に支えられて、新しい絵本の方向性に自信を深め、次作の取材・構想に取り組んでいる。それは、どこでもだれでも抱える身近な大問題の提起であり、人間性の根幹を問いかける絵本だ。彼は、絵本を主軸にその主題と表現手法の深化を、がんこに追及している。
 かたや征三は、2012年「日・中・韓 平和絵本」に加わり、『ぼくのこえがきこえますか』を刊行した。戦死した若き兵士の魂が、「なんのためにしぬの?」と悲痛な叫びをあげる心象風景が表現されていて心を打つ。2009年には十日町市の里山に、廃校を利用した「絵本と木の実の美術館」を開設、学校を丸ごと使った「空間絵本」を創りあげ、予想を倍する来場者を集めた。地域活性化のモデルケースとして注目されているが、なにより地元住民が次々と来場し、面白がってくれたのが嬉しかったようだ。

2006年、東京での兄弟。左征彦、右征三。
(『激しく創った!!』童心社より)
 さらにこの地で三年ごとに開催し、国際的に知られる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」(総合ディレクター・北川フラム)では、本年のメイン展示として長さ65メートルの巨大オブジェ「マムシトンネル」を山裾に建造中である。米人芸術家アーサー・ビナードはじめ、そびえ立つ樹林を順次伐採して建築空間を整える空師(そらし)や、宮大工・土建業者などと共同の大仕事だ。胎生で一度に十匹もの子を産む母マムシをイメージ、子どもたちが胎内にもぐって遊び、その生命力を実感して欲しいという。マムシ絵本『わたしの森に』も、くもん出版から刊行するとのことだ。彼の仕事は絵画・絵本にとどまらず、木の実のオブジェ、空間絵本、立体巨大マムシと発展、岡本太郎張りの大爆発を続けている。その完成が楽しみであるが、心身を消耗する大プロジェクトだけに、健康だけが心配だ。


<主要参考文献>田島征彦『憤染記』(染織と生活社)『新編くちたんばのんのんき』(飛鳥)、田島征三『絵の中のぼくの村』(くもん出版)『人生のお汁』(偕成社)、共著『激しく創った!!』(童心社)

  ページTOPに戻る


母校出身“素顔のアーティスト”(U)
焼け跡で誕生した前衛アートの女神 合田佐和子(34回)
中城正堯(30回) 2018.05.03
型破りのオブジェからスタート
 熱烈なファンのいた合田佐和子だが、残念ながら同窓生では同学年かよほどの美術好きでないと、その作品に触れたことがなく、名前も記憶に残ってないだろう。闘病の末に平成28年2月に亡くなると、4月には嵐山光三郎、巌谷國士、唐十郎などを発起人に、「お見送りする会」が品川プリンスホテルで開催され、交遊のあった前衛文化人や現代アートの女神とあがめたファンが多数つどい、マルチアーティストとしての合田の多彩な足跡を偲んだ。翌年1月には、遺稿集とも言うべき『90度のまなざし』(港の人)、8月には作品集『合田佐和子 光へ向かう旅』(平凡社)と、相次いで刊行されたのもその人気故である。追悼展も、日本橋「みうらじろうギャラリー」などで次々と開かれた。

絵筆を持つ合田佐和子
(『90度のまなざし』より)
 では、『90度のまなざし』の著者紹介から、略歴を見てみよう。「1940年、高知市生まれ。武蔵野美術学校本科在学中より、廃物を使ったオブジェ制作を開始。1965年に瀧口修造の後押しにより初個展、以後、定期的に個展開催。70年代より油彩作品を制作、唐十郎の劇団状況劇場と寺山修司の演劇実験室天井桟敷の舞台美術や宣伝美術も多く手がける。映画スターたちのポートレイト、目玉、エジプト、バラや鉱物などをモチーフに多数の作品を発表、超現実へと誘う幻想的な世界を作りあげた」とある。
 略歴では触れられていないが戦争中は広島県呉市で過ごし、5歳で終戦を迎え、高知市へもどって焼け跡で遊んで育つ。後にこの頃を回想し「焼け跡の中で、色ガラスが溶けて土や石と合体した塊を発見、半狂乱になって集めたりした。後年、この原体験は、ガラス箱のオブジェなどとなって、くり返し現われてくる」(「現れては消えるあのシーン、あの俳優」『キネマ旬報』1995年4月下旬号)と記している。小学校ではプロマイド集めに熱中、嵐ェ寿郎の鞍馬天狗などを町はずれまでかけずり回って探し集めたという。
 父は広島で繊維メーカーの技術者として働いた経験を生かし、戦後の高知では衛生材料製造業を興して成功を収めていた。比較的裕福なインテリ一家で、高知市が始めた中央の文化人を招いての夏期市民大学を家族で受講するなど、文学や芸術にも関心が高かった。

土佐中高『会員名簿』2015年表紙
「クリスタルブルーなデートリヒ1」
 土佐中への入学は、昭和28年(1953)である。高校時代はもっぱら新聞部員として活躍していた。その様子は、「向陽プレスクラブ」ホームページ2016年3月12日付「新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ」で、印刷所での大組に立ち会って、美しい紙面の割付けに力量を発揮したことなど、吉川順三(34回)が心のこもった追憶をしている。
 彼女の略歴紹介で目をひくのは、画家では納まらない多彩な美術ジャンルでの活躍である。オブジェから油彩画、写真、舞台美術など自由自在に異種領域間をワープ、どの分野でも合田カラーで人々を魅了してきた。まずは、合田が制作中の写真と、母校の創立75周年記念『会員名簿』の表紙を飾った「クリスタルブルーなデートリヒ1」から、人と作品を思い起こしていただきたい。そして、彼女の土佐高新聞部時代から中央の美術界での活躍まで、ほぼ60年間の交流で接した素顔をつづり、手向けとしたい。

新聞部の毒舌記者、オンカンが補導
 合田は4年後輩であり、出会ったのは筆者が大学時代(昭和30〜34)に帰郷、新聞部の活動に参加した際であった。この時期はいわば新聞部の黄金時代で、合田の同期には吉川順三(毎日新聞)、秦洋一(朝日新聞)、国見昭郎(NHK)など、のちにマスコミで大活躍する人材が揃っていた。さらに、浜田晋介や山崎(久永)洋子も編集長として活躍していた。「向陽新聞」も彼らが編集制作の中心であった昭和31年度には、5回も発行している。筆者も夏休みの恒例事業になっていた「先輩大学生に聞く会」や、大嶋校長を囲む座談会などに、よく狩り出された。

種崎海水浴場での新聞部キャンプ。
前列左が合田、後列は横山・吉川。
 新聞制作以外の活動で、最も印象に残っているのは夏休みのキャンプと、新年会である。31年夏には種崎千松公園に、翌年は大田口の吉野川河原にテントを張った。新年会は、岡林敏眞(32回)の実家料亭などで毎年開いた。これら、お遊び会に必ず付き合ってくれたのが合田である。新聞部の部室では、毒舌で仲間をやり込め「恐ろしかった」という部員すらいるが、学校外では嬉々として活動、特に海水浴は好きなようだった。水着姿の彼女はすらりとした体形に日焼けした肌、なにより鋭いまなざしが強く印象に残っている。
 彼女は種崎の海水浴場で、「突然の大波をかぶって溺れそうになったとき、先輩に助けられた」と後に語っていたが、これは幻影かも知れない。荒波に立ち向かうのは中学時代から好きだったようで、台風の直後に祖父のスクーターで桂浜に駆けつけ、被害を受けた水族館をのぞいたあと、「決死のゲーム」に挑戦したという。それは、海に突き出た岬の先端に祀られた祠・竜宮への石段を、大波が引きあげて次に打ち寄せる40秒ばかりの間に全力で駆け上ることだった。岬のてっぺんに立って、絶壁にぶつかって落ちる波の「とろけるような奇怪なオブジェの大乱舞」をながめ、はしゃぐためだったと述べている。
 高校時代には映画館で補導を受け、強い印象を受ける。「学校帰りに映画館へ入り、“青い麦”を見て、出口で補導された。怒った時はライオンの如く、やさしい時はカンガルーの如し、と自らを“オンカン”と命名した中山(駿馬)先生が、ライオンになって待ちかまえていて、説教された」。

合田14歳の自画像。
(おかざき世界子ども美術博物館蔵)
すばらしい映画のどこがいけないのか、やっとの思いで聞くと「すばらしい映画だからこそ、見てはいけないのだ!」と言われ、「甘い、背徳的な、せつない気分は、今でも心に灼きついていて、今ごろになって、やはりオンカン先生は正しかったんだ、と思えるのである」(「現れては消えるあのシーン、あの俳優」前出)と回想している。
 土佐高でアーティスト合田誕生に結びつく大きな出来事は、1になった新学期から、美術教師に高崎元尚(16回)が赴任したことである。前任の鎮西忠行も画家だったが、静物や風景を写実的に描く正統派であった。新任の高崎は、東京美術学校(現東京芸大)を出てモダンアート協会や具体美術協会に属し、戦後日本の前衛美術界をリードしてきた人物であった。「生涯現役」を掲げて創作に挑み続け、高く評価されたが、昨年6月高知県立美術館で「高崎元尚新作展-破壊 COLLAPSE-」開催中、94歳で亡くなられた。

高3の新年会に、東京から帰郷して出席。
中列左より2人目が筆者
 高崎の赴任によって、再び絵画への興味を甦らせ、新聞部だけでなく美術部にも出入りするようになった。14歳で描いた自画像が、愛知県の「おかざき世界子ども美術博物館」に収蔵されている。 太いタッチで少女の真っ直ぐな内面まで表現している。高3になると、美術へと進路を定め、夏休みに上京して御茶の水美術学院へ通う。美術大学へ進学するためにはデッサンなど実技が必要で、二学期になっても東京にとどまり続け、年末にやっと帰高している。この時の新年会の写真には、すっかり垢抜けした合田の姿が見られる。前列の女性は右から旧姓で、34回の山崎洋子・合田佐和子、35回の大野令子・浜口正子・早川智子、31回の森下睦美(後の新聞部顧問)である。大学は、武蔵野美術学校本科(現武蔵野美術大学)商業デザイン科に入学する。

東京での再会と奇怪な大判名刺

合田のオブジェ「Watch-Angels」。
1964年(『合田佐和子 影像』
渋谷区立松濤美術館より)
 大学を出て学研の学習雑誌編集部にいた筆者に、彼女から突然訪問したいと電話があったのは、たしか昭和37年(1962)であった。彼女は土佐高の同級生で多摩美術学校(現多摩美術大学)の田島征三を連れ、作品を抱えて現れた。二人は大学がちがっても同じ美術専攻で、上京してから意気投合、就職はせずに美術で食っていこうと思い立ち、見本の作品を持って出版社回りを始めたのだという。
 田島とは初対面だったが、すでに全国観光ポスター展で、土佐沖のかつお釣りを描いた躍動感あふれる作品が金賞を得ており、自信満々だった。力強いタッチの人物や生き物は小学生を読者対象とする学習雑誌にも向いており、興味を示す編集者がいて早速仕事に結びついた。合田はカットやオブジェの写真を見せてくれたが、ちょっと子ども向きではなかった。むろん出版社によっては、合田も歓迎されたようだ。

上京した新聞部員を迎えた合田たち。
前列左より宮地敦子、江沢憲子、竹内たみ(40回)、森下睦美(31回)
 昭和37年の夏休みには、母校の国語教師・新聞部顧問となった森下睦美が、全国高校新聞大会に出席のため、3人の女子部員をともなって上京した。その際の写真には、前列の4人の上京組を迎え、後列には左から岩谷清水(27回)・合田・横山禎夫(30回)・筆者が並んでいる。
 この頃合田はガラクタオブジェの制作に熱中、瀧口修造などから認められ、40年(1965)には銀座で初の個展を開く。土佐のやせた少女は、さなぎからチョウへと美しく変身し、個展の前年には同郷の画家・志賀健蔵と結婚、披露宴は高知のホテルで盛大におこなわれた。オブジェは次第に注目を浴び、澁澤龍彦、イサム・ノグチ、白石かずこ、池田満寿夫などからも評価されるようになった。41年1月に長女を出産するが、6月には離婚する。友人には、「経済的にも頼ろうとするばかりで、稼ごうとしない男に愛想を尽かした」と、漏らしている。当時、合田からもらった名刺が残っている。A3の用紙いっぱいに一つ目の妖怪やろくろ首の女などが乱舞しており、氏名・住所・電話は申し訳のように小さく添えてある。目玉への執着もうかがえる。

工夫をこらした新人画家合田のイラスト名刺。(筆者蔵)
 やがて四谷シモン、唐十郎と知り合い、昭和44年(1967)には唐が主宰する状況劇場「少女都市」で透明な仮面など小道具を制作する。空き地や神社の境内に、怪しげな紅テントを張って演じられる不思議な演劇空間にはまり、舞台美術や宣伝美術もまかされるようになる。この頃、突然電話をかけてきて、「プラスチックで仮面や手足を制作したい。どこかいい業者を知らないか」とのこと。当時、学習雑誌の付録としてプラスチック製の教具制作も手がけており、すぐに出入りの金型屋や成型加工業者を紹介した。
 こうして多忙となったなかで、46年1月には彫刻家三木冨雄と結婚、ロックフェラー財団の招聘を受けた三木とともにニューヨークに渡り、8月まで滞在する。ここでアンダーグラウンドの映像作家ジャックと出会い、夜ごと夫婦で廃墟のようなロフトに訪ねたという。
 ニューヨークで世界の先鋭美術に触れるとともに、古ぼけた写真を拾ったことが、アーティスト合田の大きな転機となる。油彩画に拒絶反応を示し、立体物のみを制作していた合田は、こう述べている。「N・Yの裏通りで一枚の写真を拾った。二人の老婆と一人の老人が写っている、小さな銀板写真だった。手に取って眺めているうち、ハタと気付いた。アレ、これはすでに二次元ではないか」(「INTRODUCTION」『合田佐和子作品集 パンドラ』PARCO出版)。8月東京に帰ると、経済生活を維持するためにも油彩に取り組む覚悟を決め、渋谷の画材店で店員に油絵の描き方をたずね、絵の具5本と百号のキャンバスを買う。高校時代に見た「甘く、背徳的な」女優たちのプロマイドも収集、こうして、後に代表作となるスター・シリーズが誕生する。

唐十郎に続き寺山修司の演劇に参入
 昭和55年(1980)3月には渋谷の西武百貨店美術画廊で「夢の回廊 合田佐和子[ポートレート]展」を開催、作品集「ポートレート」を刊行する。手元に残るこの作品集には、ローマ字のサインとともに1980.3.13と記されている。70年安保後の気怠い街角に、往年の退廃的スターが、エロスと妖気と死の影をまとって再登場、衝撃を与える。以来、生身の人間を描くことはなく、写真を素材に自己流の油彩で描き続ける。
 この間、米国から帰国後47年に三木と離婚するが、同年末に次女が誕生する。舞台美術の仕事も広がり、「状況劇場が好きだから、ダメ」と言い続けてきた唐のライバル・寺山修司の天井桟敷にも参画する。演劇「中国の不思議な役人」から、香港ロケによる映画「上海異人娼館」など、寺山作品に欠かせない存在となる。だが、最初に「演劇の世界は地獄だよ」とからかわれたとおり、その仕事は過酷だった。台本が遅れに遅れ、「青ひげ公の城」では、一週間で14景の舞台下絵を描かねばならず、「さび付いた頭をフル回転させ、狂ったように取り組んだ」と語っている。心身ともに消耗の激しい作業だったが、寺山のイメージに見事に応え、喜ばれる。唐組の仕事も終生継続する。

合田の絵画作品、作品集から。
 さらに合田は、写真の撮影から現像・コラージュの技法も習得する。米国から上陸したポラロイド写真にいちはやく挑戦、昭和56年には「合田佐和子ポラロイド写真展」を六本木アートセンターで開催する。59年には銅版画による豪華詩画集『銀幕』を刊行、その出版記念会案内状で四谷シモンは「当代きっての才媛、ぼくらのマドンナ、佐和子が・・・電光石火の早技で〈月光写真〉の如き〈銀幕のスターたち〉を誕生させました」と、讃えている。油彩・演劇・写真・銅版と、合田のとどまるところを知らない快進撃は、若者の支持を得て現代アートの女神かのような存在となっていく。
 昭和60年(1985)になり、娘二人とエジプト・アスワンに移住すると知らせがあったときは、筆者も訪ねた土地であり、あの砂漠と青空だけが広がる世界への脱出は理解できた。いっぽう、灼熱の村での暮らしに危惧も感じた。一家はヌビア人の村に住み込み、泥の家に居住する。合田は「サバコ、サバコ」と親しまれるが、頻繁に停電が発生、冷房もままならない生活に長女(当時19歳)は早々に帰国、次女(12歳)には「映画もTVもネオンも恋しいヨー!」と嘆かれ、1年足らずで滞在を打ち切る。
 滞在中、エジプト村日記を『朝日ジャーナル』に連載、後に『ナイルのほとりで』と題して朝日新聞社から刊行される。この頃、筆者は「船の目玉―海の魔除けの不思議な系譜」を執筆中で、ホルスの目に魅了された合田から、ナイル川の帆船ファルーカの目玉情報の提供を受けた(拙著『アジア魔除け曼荼羅』NTT出版に収録)。朝日新聞では、平成3年(1991)の連載小説「軽蔑」(中上健次)の挿絵を担当、目をテーマに描き続ける。

独自の目で幻想的世界を開拓

合田佐和子「マリリンの海」
2003年(『合田佐和子 影像』より)
 帰国後は、世田谷区から神奈川県葉山町、さらに鎌倉へと転居し、旺盛な制作活動を再開する。平成4年2月には、石川県小松行きの飛行機で偶然彼女と乗り合わせた。若い男性助手を連れており、金沢市で4日間にわたる公開制作をするとのことだった。仕事の日程をやりくりして会場に駆けつけ、二百号の大作に挑む現場に立ち会えたのは幸運だった。
 かつては、小さな個人画廊での個展が中心で異端の画家という存在だったが、次第に時代の先端を行くアーティストとして美術界からも注目されるようになり、民間・公営双方の著名美術館からも声がかかるようになった。特に平成13年(2001)の高知県立美術館<「森村泰昌と合田佐和子」展>と、15年の渋谷区松濤美術館<「合田佐和子 影像 絵画・オブジェ・写真」展>は、彼女の代表作を総集した展覧会で、異分野への果敢な挑戦と斬新な表現を求め続け、戦後の日本美術界に刻印した鮮やかな足跡が読み取れた。
 残念ながら平成20年代になると体調を崩すことが多くなり、鎌倉や日本橋の個展に足を運んでも本人の姿はなかった。本人の声を聞くことができたのは22年4月で、土佐高関東同窓会会報への寄稿を、新聞部出身の永森裕子(44回)から頼まれて電話した。

若き日の「合田佐和子個展」
案内状(写真:沢渡朔) 1977年
元気な声で快諾してくれ、筆者の病状(肺血栓)を心配し、『脳梗塞糖尿病を救うミミズの酵素』をぜひ読むように薦めてくれた。親しい間柄の栗本慎一郎(経済人類学者)が、脳梗塞の治療回復の体験から綴った本で、合田の病にも効果があったという。しかし、個展の作品制作に追われて体調が悪化、結局原稿は書けず、堀内稔久(32回)が代わってくれた。
 かつて寺山修司は、「合田佐和子の怪奇幻想のだまし絵は、絵の具に毒薬を溶かして描くかと思われるほど、悪意と哄笑にあふれるものである。・・・だが、そうした絵を描く合田佐和子自身は、支那服の似合う絶世の美女である」(「密蝋画」)と賛辞を惜しまなかった。その合田の才気あふれる頭脳も、過酷な要求に応えての舞台美術制作から、油彩での意表をつく幻想的で奇怪なスターの描出、「目玉」への偏愛と創造に追われ、 次第に機能障害をきたしたようだった。訃報は新聞で知った。焼け跡のガラクタから美に目覚め、マルチアーティストとして現代美術の先端を走り続けた75年の生涯であった。昨年11月には次女合田ノブヨの「箱庭の娘たち」作品集出版記念展が、渋谷区恵比寿の画廊であった。母親から受け継いだかのようなコラージュ作品が並び、熱心な若者ファンが会場を埋めていた。いずれ高知県立美術館で、合田佐和子回顧展ないし合田母子作品展の開催が望まれる。

合田佐和子展の各種案内状。
  ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”に嬉しい反響
中城 正堯(30回) 2018.04.25


筆者近影
 3月にこのホームページにアップされた「母校出身“素顔のアーティスト”(T)倉橋由美子(29回)」に、多くの嬉しい反響があったので、感謝してお知らせしたい。

 まず、最初の読者であった藤宗俊一編集長からで、<倉橋さんの記事を読んでいて、『山田に帰った』という言葉で、「たしか、当時の部長だった宮地さん(40回生)ら女性陣が山田のご自宅に取材に伺ったはずだけど……。」調べてみると60号に掲載されていましたのでpdfで添付します。当時、私は中学3年生で KURAHASHI Who???の世界にいました。それが、半年後には編集長に上り詰めるとは、新聞部も人材が不足していたのですね。>とのこと。
 さすがに名編集長で、病後の体でありながら、昔々の関連記事をきちんと思い出して送ってくれた。どうか、宮地(島崎)敦子記者のインタビュー記事「すぽっと ストーリーのない小説 倉橋由美子さん」をお読みいただきたい。

「すぽっと ストーリーのない小説 倉橋由美子さん」

 ついで、倉橋さんと同期の大脇順和(29回)さんが、拙文で触れた『文芸春秋』平成7年2月号の「同級生交歓」の誌面コピーに、6人の動静(倉橋・泉谷が他界、福島・岡本が闘病中、元気なのは中山・大脇)を添えて届けてくださった。ここに、その紙面を紹介する。なお、このなかの中山剛吉さんが新聞部、また大脇さんの弟・大脇恵二(31回)さんも新聞部だった。

『文芸春秋』平成7年2月号の「同級生交歓」の誌面コピー

 倉橋さんをよく知る先輩、28回生の公文俊平さんから「知らないことが少なくなく、興味深かった」、西岡瑠璃子さんからは「懐かしいことばっかり」との連絡をいただいた。
 久武慶蔵(30回)君は、「倉橋文学は実存主義文学の模倣にすぎないとの批判に対して、彼女は文学は本質的には模倣だと答え、ハチキンの気概を感じ、“土佐人の原点”をみました」とのメールを寄せてくれた。
 この記事をKPCのHPにアップしたことは、会員以外にもメールで知らせ、閲覧を呼びかけた。反響は、どうしても倉橋さんと近い世代に限られたが、向陽プレスクラブの存在告知にいくらかはつながったようだ、前田憲一(37回)さんのように、初めてこのHPを開き、多彩な情報にビックリした後輩もいた。
  ページTOPに戻る

母校出身“素顔のアーティスト”
中城 正堯(30回) 2018.03.25

−倉橋由美子、合田佐和子、田島征彦・征三兄弟、坂東眞砂子−


著者近影………背景は拙宅の桃で、
43年前に「こばえ」から育てたもの。
 土佐高出身の関東在住者有志による筆山会(会長佐々木ひろこ33回)3月例会で、表題の卓話を仰せつかった。母校出身の文芸家・芸術家は、まだまだ多士済々であるが、時間の制約もあり、筆者と直接交流のあったこの5人に絞って報告をおこなった。“素顔の”と題したように、作家論や芸術論ではなく、あくまで筆者がふれた個性豊かなこれらアーティストの思い出話にすぎなかった。当日、23〜83回生まで14名の出席者があったものの、これら同窓生の作品を愛読ないし鑑賞した経験のあるメンバーはごくわずかであった。
 ここでは、筆山会での発表内容に出席者の反響も加えて順次ご報告したい。拙文が、現代日本を代表する各分野のアーティストとして輝くこれら同窓生の作品を、あらためて愛読・鑑賞する機会になるとともに、皆様が知る別の素顔を回想してお知らせいただけると、大変幸いである。残念ながら女性3人はすべて鬼籍に入ってしまったが、作品は多くのファンに愛され続けている。では、倉橋由美子さんから始めよう。(本文では、敬称を省略させていただく)

母校出身“素顔のアーティスト” (T)
『パルタイ』で文壇に衝撃のデビュー 倉橋由美子(29回)

お茶の水での再会、帰郷・結婚・留学

倉橋由美子
(明治大学「倉橋由美子展」目録より)
 昭和33年頃の春、中大生だった筆者は、東京お茶の水駅の近くで連れだって歩く竹内靖雄と倉橋由美子両先輩(29回)にぱったり出会った。竹内は28回の公文俊平と並んで当時の土佐中高きっての秀才として知られ、新聞部員として交流もあったのですぐ分かった。倉橋は園芸部員で、学校の花壇の世話をする姿を見かけ、また各部責任者が出席してクラブ活動の予算を検討する予算会議で顔を合わせ、見覚えがあった。
 相手は二人連れであり、とっさに黙礼を交わしただけですれ違った。東大の竹内は三年になって本郷に来ていたし、倉橋は日本女子衛生短大を経て明治大学に入ったので、同級生として久しぶりに再会したのだろうと単純に思っていた。ところが、夏休みになって帰郷、高知市街に出て喫茶店プリンスに入ると、ここでもお二人に出会った。ようやくその親密さに気付き、今度は「またお会いしましたね」と声をかけた。
 それから2年後、筆者が学研で編集者のスタートをきって間もない昭和35年に、明大4年生の倉橋は、『パルタイ』で文壇へ衝撃的な登場をとげた。明治大学新聞に発表直後から話題となって文芸誌に転載、さらに同年末には文藝春秋社から単行本として刊行された。この本の帯に推薦文を遠藤周作とともに寄せた倉橋の恩師で評論家・平野謙は、「革命運動の根ぶかい純粋性と観念性を一学生に具現した作品」であり、「大江健三郎の処女作をみつけたときに似た興奮をおぼえる」と、斬新なこの作品に出会った感激を吐露していた。
 筆者も一読し、抽象的・寓話的な独自の作風とされながらも、当時の革新政党による学生を巻き込んでの労働者へのオルグ活動の世界が鮮やかに捉えられているのに驚嘆した。知識だけで描ける文章ではなく、実態を把握したうえでの創作と読み取れた。竹内の協力も相まって倉橋の才能が開花したであろうと推測した。竹内は東大経済学部大学院を終えると成蹊大学教授となり、経済思想史・経済倫理学で業績を挙げるとともに、経済エッセイでも数々の名文を残したが、平成23年に逝去した。
 後に聞くと、倉橋は土佐中高時代には受験勉強そっちのけで文学全集の作品を破読、「“くまてん”(吉本泰喜先生)のお陰で漢文・漢詩が好きになり、母親の反対を押し切って文学部に入学、仏文を専攻してカフカ、カミュ、サルトルに親しんだという。大学では欧米の新しい文学の潮流と、学生運動の先端に触れ、鮮烈な倉橋文学が誕生、純文学の新鋭として出版各社から追いかけられることとなる。
 『パルタイ』は35年度上期芥川賞候補になったが、最終審査で北杜夫の『夜と霧の隅で』と競い、二作同時選定の意見も出たが結局北のみが選ばれる。倉橋の作品は、テーマも文体もあまりにも斬新だっただけに拒否反応を示す評論家もいたのだろう。翌年度も『暗い旅』が候補に挙がるが選にもれる。この時の受賞者は、後に夕刊紙・週刊誌でポルノ小説を乱作する宇能鴻一郎であった。時を経て池袋の場末の居酒屋で、ひと仕事を終え、黙々と杯を傾ける宇能を何度か見かけたが、受賞時の面影はなかった。選考委員の先見性が疑われる選考だった。『パルタイ』は、36年に第12回女流文学賞を受賞する。
 昭和37年、明大大学院に進んでいた倉橋は歯科医だった父の急逝で退学し、土佐山田町の自宅に帰る。この際に、同年婦人公論女流新人賞を受賞したものの次作の執筆に苦慮していた宮尾登美子や、高知支局にいたNHKの熊谷冨裕、朝日新聞の米倉守(後に美術記者として活躍)と出会う。旧知の西岡瑠璃子先輩(28回)とも再会する。そして39年には、宮尾の仲人で急遽熊谷と結婚する。後に関東同窓会の『筆山』4号での筆者のインタビューに応え、結婚のいきさつをこう語ってくれた。「宮尾さんの紹介で、熊谷と生まれて初めてのお見合いをしたのです。『ものを書くなら結婚した方がいい。食べさせてやる』という言葉に、あまりの感激で、ただ『はい』と、いってしまいました」。 見合いの直後に伊藤整などの推薦で、フルブライト委員会からアメリカ留学の話が来たため、急遽三翠園で挙式をしている。「結婚のいきさつは秘密の約束だったのに、宮尾さんが書いた」とも、語っていた。結婚後に二人はアイオワ州立大で1年間の留学生活を過ごす。熊谷はNHKを退職して独立、映像プロデューサーとなる。

旺盛な執筆活動、旧友とも交流
 アメリカから帰国後、旺盛な執筆活動を再開するが、二人のお嬢さんにも恵まれ、主婦としての役割も楽しむ。昭和47年末から半年ほどは、一家でポルトガルへ渡って暮らしている。昭和50年には、早くも『倉橋由美子全作品集』(全8巻)が新潮社から出る。

右から倉橋、公文公、浅井伴泰(筆者撮影)
 ここに載せた写真は、昭和62年に市ヶ谷にあった公文教育研究会に公文公先生(7回)を訪ねた倉橋であり、同席した浅井伴泰(30回)である。師弟再会のキッカケは、倉橋がお嬢さんの入学した玉川学園の雑誌に「ソフィスト繁昌」と題したエッセイを書き、公文が当代の代表的なソフィスト、すなわちプロに徹した教師であると称えたからだ。倉橋は、教師の原型は知識を与えるソフィストであり、労働者でも聖職者でもないと説いている。同窓会幹事長として長く接した浅井は、「われわれには高名な純文学作家とは感じさせない気さくな主婦そのもので、同窓会にもよく協力してくれた」と語る。
 インタビューを掲載した『筆山』が届いたと電話をくださったとき、印象に残っているのは、「あれは書かなかったねえ」である。「あれ」とは、学生時代のお茶の水・高知での出会いだ。続けて、「彼の奥さんも高知の人なので気にするといけないので・・・」と、気配りをみせていた。竹内は、昭和52年に『イソップ経済学』、その後『世界名作の経済倫理学』で、古典物語を素材に登場人物の思想と行動を分析、軽妙なエッセイを残している。つい、倉橋が昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』や、続く『老人のための残酷童話』を連想する。竹内は、ギリシャ悲劇からカミュ『異邦人』まで取上げているが、各名作の末尾には「教訓」を添えてあり、これは倉橋の『残酷童話』でも同様である。
 竹内もまた、「公文先生の蔵書」というエッセイで、公文の思い出を「それこそハレー彗星級の知的巨人だった」「私は物に憑かれたように“公文図書館”の本を読んだ」と記している。手にした本は、数学者デデキントの『連続数と無理数』から、自然科学、歴史、文学におんでおり、イソップ物語も土佐中時代にこの図書館で見付けたようだ。

奇想天外な創作と忍び寄る病魔
 倉橋は著名になっても文壇で群を作ることはなかったが、芥川賞で競った北杜夫、そして重鎮・中村真一郎とは仲がよかったようだ。筆者も中村にはお世話になり、いつだったか熱海の別荘に銅版画家・木原康行とまねかれ、中村夫人(詩人・佐岐えりぬ)ともども飲み明かした。その際に倉橋の話になって、「素晴らしい作家だが、男女の愛情描写やエロスがまだ不足。もっと遊ぶように言ってくれ」と、告げられた。後日、倉橋に話すと、「私も“小説に艶がない、もっと遊べ”と直接言われた」とのことだった。神宮前の中村宅では、たまたま親友・加藤周一、堀田善衛との座に同席した。二人は中村をからかうように「彼は昔から我々が政治談義に熱中すると居眠りを始めるが、女の話になるとむっくり起きてくる」と打ち明けてくれた。小説家にとって、エロスは不可欠のようだった。
 後に、坂東眞砂子(51回)が『山妣(やまはは)』で直木賞をとった勢いからか「いまの日本の小説は面白くない。倉橋さんも・・・」と広言していた。倉橋と会った際に、このことにも話が及んだが、「元気があっていいねえ」と受け流していた。すでに昭和59年に発表した『大人のための残酷童話』の「あとがき」で、「近頃の小説は面白くないという説があります」と書き、その原因を解明しつつ、「大人に喜ばれる残酷で超現実の世界やエロチックに傾く大人の童話に手を付けた」と述べている。 

『アマノン国往還記』(新潮社)表紙
大人の童話だけでなく、後期の長編小説では奇想天外な創作世界が展開、男女の恋愛にはエロチックな場面が織り込んであり、思わず引き込まれる。その代表が、未来の女権国家を描いた『アマノン国往還記』(泉鏡花文学賞受賞)である。ここでは、アマノン国(土佐方言「あまのん」に由来)へ潜入した宣教師が、女たちの失ったセックス復活に大活躍をする。もう一つが桂子さんシリーズで、『シンポシオン』では核戦争を前に、教養豊かな人物が源氏物語からギリシャ悲劇・漢詩まで飛び交う大人の会話と恋愛を繰り広げる。サティのピアノ曲が流れ、シェリーやワインが注がれる優雅なシンポシオン(酒宴)で、なぜか思いがけず沈下橋・皿鉢料理・いたどりなど郷土色に遭遇、頬がゆるむのも後輩読者の特権である。くまてん仕込みの漢詩の古典も巧に配してある。
 平成7年には、同学年の福島清三から「月刊『文芸春秋』の「同級生交歓」に、泉谷良彦・中山剛吉・大脇順和・倉橋などと出たい。交渉をたのむ」と話があった。同社の知人に相談すると、「編集部は倉橋さんから申し込んで欲しいといっている」との返事。早速本人にお願いしたが、「私から頼むと編集部に借りを作る」と、最初は躊躇していた。出版界では、借りを作ると書きたくない仕事も断われなくなるのだ。しかし、クラスメートの願いを聞き入れて、話をまとめてくださった。大脇にとっては「中学時代の懐かしい少女」、福島にとっては「在学中から主婦型」だった倉橋との久しぶりの再会だった。
 やがて平成10年頃になると、電話で体調不良をこぼすようになり、「耳鳴りがひどく、仕事にならない。あちこち耳鼻科の名医を訪ねたが原因不明なの」とのことだった。そして、「耳でなく心臓に問題があると、やっと分かった。しかし治療は困難みたい。気晴らしに体調の良いときに四国遍路を始めた」と伝えてきた。参考までに「高群逸枝の『お遍路』が面白い」と伝えると、「読む読む」といっていた。 病とともに、倉橋が珍しく愚痴をこぼしたのは、夫君の熊谷がかつて沖縄海洋博の仕事で赤字を背負った話だった。プロポーズの言葉と違ってフリーの映像作家はさまざまな不安要素を抱え込んでおり、夫の仕事ぶりは心配のタネだったようだ。晩年の長編『アマノン国往還記』の付録には、「もし女性(私)が育児と男性から解放される時代がきたら、という“仮定”に立って書いてみた(笑)」とある。ぜひ倉橋の切なる願望を、この作品からさぐって欲しい。
 平成17年3月に筆者は肺血栓塞栓症で突然倒れた。一月半の入院で命拾いをして自宅療養中だった6月、「倉橋由美子、拡張型心筋症で永眠、享年69歳」の知らせが届いた。

望まれる作品誕生の背景研究

『パルタイ』(文藝春秋)をはじめ著書の数々
 逝去の翌年6月に、明治大学中央図書館で同大学特別功労賞受賞記念「倉橋由美子展」が開催され、なんとか見学にかけつけた。この展示で認識を新たにしたのは、倉橋文学の国際性である。イギリスに飛んで作品の舞台を探訪したうえで翻訳した『嵐が丘』の続編『嵐が丘にかえる』はじめ、最新の『新訳 星の王子様』まで22点が展示してあった。『パルタイ』『アマノン国往還記』など著書の翻訳出版も、英語・仏語・独語・ポルトガル語・中国語など27点におよぶ。さらに、カルフォルニア大バークレー校などの大学院生による「倉橋文学」を取り上げた博士論文5点がならべてあった。
 当時、近代文学を専攻した大学生の論文テーマとして、倉橋人気の高いことは聞いていたが、海外でもこれほど評価が高いとは気付かなかった。この倉橋文学誕生には、明治大学でのフランス文学専攻とともに、土佐中高での読書や学び、そして学友・教師との交流 が欠かせない要素であった。西岡瑠璃子たちの協力で、高知県文学館に倉橋コーナーができていると聞くが、母校でもさらなる資料収集と、倉橋文学誕生の背景研究が望まれる。

筆者より:次回以降の合田・田島兄弟・坂東の同期で、写真を提供下さる方がいましたら、お知らせください。
  ページTOPに戻る

冨田 八千代(36回) 2017.11.05高崎先生の事


筆者旧影
山本さん、中城さん
 高崎元尚先生のご逝去や作品をお知らせくださりありがとうございました。36回冨田です。帰宅してから、ホームページを読みましたので、その時はご逝去されたことを知りませんでした。その同窓会で、高崎先生のことを思い出していました。
 
 今回、中城さんのご著書「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を持参しました。 みなさんに紹介する機会はありませんでしたが、お話できる方には紹介しました。 2次会Kホームだけの集まりではみなさんに紹介しました。
 
 あくる日、バスで室戸岬や中岡慎太郎記念館などを訪れる観光に出かけました。そのバスの中でのことです。Kホームだったお隣の席の方が「あんた、新聞部に入いっちょったが?」と聞かれました。
 私は、話の中で、少しは記事も書いた、例えば@ガーナ大使になられた中谷さんがアメリカ留学からかえられたときの訪問記Aなんか文化祭の記事B高崎先生訪問記とかと言っていました。
 すると、前の座席の方が急に後ろを向かれ「その時に僕も行ったよ。」と言われました。なんと、宮地正隆さんだったのです。「そうだったの。」と私。何人かでお邪魔したのですがどなたといっしょだったか思い出せませんでした。でも、光る眼は遠くをみつめながら手振りを交え、情熱的に芸術について美について語られたお姿は、はっきりと思い出されました。記事は「朱と緑と」とかいう見出しだったと思います。バスの中では、その若き先生のことだけを思いだしていました。新作を拝見すると、当時の「朱と緑」では全くなく、表現もどんどん進化、深化なさったのですね。
 高崎先生は、94歳で新作展を開催されたとか、ずっと、芸術を追究され制作を続けられたのですね。情熱をずっと持ち続けられたのですね。
 
 いろいろと詳しいお知らせをありがとうございました。なお、この同窓会には森本浩志さんもいらっしゃいました。
 失礼します。
  ページTOPに戻る

棚野 正士(31回) 2017.07.12ディック・ミネさんの思い出


筆者近影
 中城先輩、高知新聞書評ありがとうございました。「三根校長とチャイコフスキー」は名著です。「音楽を愛した教育哲学者」を初代校長とする土佐中・土佐高は、中城先輩のご著書で新たな教育理念を探れると思います。
 わたくしは永年歴代土佐高校長が母校を語るとき、「今年は東大に何人入ったか」「甲子園に出場できるか」しか言わないので、怒りと絶望感を覚えていました。しかし、中城先輩のご活躍を知り、もっと土佐高の文化的側面に校長は気付くべきだと考えておりました。その中城先輩が名著を書かれ、三根校長の思想が新たな土佐高・土佐中の理念になっていくことを願います。


故ディック・ミネ氏
 ディック・ミネさんとは、ミネさんが日本歌手協会会長の時に親しくなりました。当時わたくしは社団法人日本芸能実演家団体協議会(芸団協)専務理事でした。時々仕事の関係で会食をしました。食事をしながら三根先生(ディックさんは”ぼくのお父さん”と呼んでいました)のことを聞きました。こんな話をしていました。「自分は不良と思われているが本来不良ではない。ぼくのお父さんも不良をしたいが教育者なので出来ないから、代わって自分が不良を勤めている。父は教育者で母は日光東照宮の宮司の娘で、自分は本来不良ではない」などです。
 あるとき、三根先生とデイックさんが二人で汽車に乗っているとき、不良が二人絡んできたので、ディックさんは二人を汽車が停車したとき、外に連れ出し殴り倒したそうです。車内に戻ったとき、三根校長がどうしたと聞くので。「殴り倒した」と言ったら、三根校長は「そりゃよかった」とひと言ったそうです。
 中城先輩の名著がきっかけとなり、土佐高が新たな「光」、新たな「希望」を求めることを望みます。
  ページTOPに戻る

「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」その後の反響
「土佐中初代校長の音楽愛」と、高知新聞が紹介
中城 正堯(30回) 2017.07.10


筆者近影
 向陽プレスクラブで発行した表記の小冊子につき、公文敏雄会長から報告いただいた発行直後の反響に続き、筆者の手元にもさまざまな感想が届いたので、お知らせしたい。
 まずマスコミ関係では、高知新聞の7月7日朝刊学芸欄に、「土佐中初代校長の音楽愛」との見出しで、片岡編集委員による添付の紹介記事が掲載された。ディック・ミネが大好きという同新聞社元会長のH様からは「三根校長はもっと知られねばと思っていた。この冊子は素晴らしい役割。隠れた話がたくさんです」と、便りが届いた。

高知新聞学芸欄での紹介記事
2017/07/07
 「もり・かけ問題」で超多忙の朝日新聞東京本社編集委員(教育担当)U氏は「ひと・教育・そして時代が見えてきます。教育斑の仲間とも共有したい」とのことだった。ヴェトナムの枯葉剤障害児のその後を追っている写真家O氏の手紙には、「土佐中がいかにおもしろい人材を輩出しているか、知りませんでした。三根校長の息子がディック・ミネで、お母さんが日光東照宮の宮司の娘にも、びっくり」とあった。U・O氏とも高知とは無関係な友人だ。
 高知出身で元集英社編集担当役員のI氏は、「和辻哲郎の本でケーベルには関心を持っていたが、三根校長が教え子で、寺田寅彦や平井康三郎など高知の人物につながるとは、思いがけないことだった」と、喜んでくれた。高知在住の編集者Yさんは、「すばらしい人物を輩出した土佐中高は、やはり素晴らしい理念を持った教育者によって創られたのですね」といい、高知の大学講師(福祉問題専攻)Y氏は「ケーベル博士は、明治31年に音楽学校で開かれた慈善音楽会の収益金を貧困家庭の子女のための二葉幼稚園に寄付している」と、博士の知られざる慈善行為を教えてくれた。

「開校したばかりの土佐中が漢字筆記で日本一の記録を示した」とある。
土陽新聞大正9年5月27日。右の飛行機が時代を示している。
 同窓生では、森健(23回)・門脇稔(25回生)・公文俊平(28回)などの先輩から、「面白くて一気に読んだ。知らなかった話ばかりで、よく取材してある」などの連絡をいただいた。母校には、教職員及び学校・振興会・同窓会の役員用に、向陽プレスクラブから60部謹呈してある。小村彰校長からの礼状をいただいたが、これらの人々がどう受け止め、今後の教育方針や学校100年史に生かしていただけるか、見守りたい。なお、ありがたい反響は、向陽プレスクラブが発行元を引き受けてくれたお陰であり、皆様に感謝したい。
  ページTOPに戻る

中城正堯著「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
公文 敏雄(35回) 2017.06.26発送のお知らせ

向陽プレスクラブの皆様

「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
中城正堯著 発行:向陽プレスクラブ

筆者近影
 過日会員各位あてメールでご案内申し上げましたとおり、中城正堯氏(30回)ご執筆の冊子「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」全31ページを会員の皆様にお送り申し上げましたがお手元に届いたころでしょうか。

 さっそくお読み下さった横山禎夫氏(30回)他多くの方々から下記のご感想をお寄せ下さいましたので、ご諒承のもと、ここにご紹介させていただきます。(到着順)

 なお、この冊子をお読みくださって思いだすことやご感想がございましたらご遠慮なく左のMailBox(post@tosakpc.net)からご投稿ください。
向陽プレスクラブ 会長 公文敏雄(35回)


横山 禎夫(30回) 2017.06.24


筆者旧影
中城君著の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました。
 知らなかった土佐中・高の昔のことがいろいろ書いてあって、興味深く読みました。制服の袖の白線のことも初めて知りました。
 謹厳実直だった三根校長の息子が人気歌手になったり、帝国大学進学校から平井康三郎のような作曲家が出たり、面白いですね。
 確かに、卒業してから考えると、土佐高はかなり自由な学校でした。新聞部時代も、学校側から検閲を受けたこともなく、思うことを遠慮なく書くことができました。
 戦後はマスプロ学校になり、一クラスが70数名と生徒数がめちゃくちゃに多かったので、あるとき新聞に1学年を現行の4クラスから5クラスにせよ、と書いたら、翌年から5クラスになったのには驚きました。まあ、その前からその計画だったのでしょうが、新聞部に一言挨拶があるべきだ、と思ったことです。それまで報恩感謝でH、O、K、Sホームだったのですが、急遽土佐のイニシアルをとってTホームができました。
 本書発行については武市功氏(30回)の支援をいただいた、とありますが、有難いことです。
 皆様のご健勝、ご発展を祈ります。
 
岡林 幹雄(27回) 2017.06.24


筆者旧影
拝復
 本日貴兄より中城兄ご執筆の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を
 ご送付賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。早速読ませていただきます。
 暑さ厳しい折柄、ご健勝の程願上げます 。取急ぎ拝受お知らせまで。
  不一 
                           (ハガキ本文)
 
冨田 八千代(36回) 2017.06.26


筆者旧影
「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」の冊子ありがとうございました。
  23日に届きました。すぐに、我が家から喫茶店に移動し拝読しました。
      (ホームページではきちんと読んでいませんでした。すみません。)
  すぐにお返事をが、今になりました。
  多少は知っていたこと、全く土佐中学校とは関係なく個々に知っていた偉人の方々が
  土佐中学校と三根圓次郎校長を中心につながっていることに驚きました。
  
三根圓次郎校長の理念が時代をさきがけ、深遠なことを少しは受けとめたつもりです。
  あらためて、土佐中・土佐高校で学べたことを嬉しく幸せに思います。
  同窓生や在校生にもぜひ、読んでもらいたいと思います。
  
  このように、著述してくださった中城さんに敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。
  また、冊子を送っていただきありがとうございました。
  私には冊子の方がずっとずっと読み易く本当にありがたく思いました。
  ありがとうございました。
  
≪編集部より≫御老体に鞭打って青息吐息で沢山の執筆に励んでおられる中城先生に激励のエールをお願いします!!!
  ページTOPに戻る

三根圓次郎校長とチャイコフスキー
      ―平井康三郎、ディック・ミネ、ケーベル博士をめぐって―
中城 正堯(30回) 2017.03.25
はじめに:クラシックを愛した教育者・三根

筆者近影
 2020年には、土佐中学校創立100周年を迎える。大正9(1920)年の開校にあたっては、発案者の藤崎朋之高知市長や、出資者の川ア幾三郎・宇田友四郎両氏とともに、「人材育成」という建学の精神に則した学校を創出し、見事な教育実践をおこなった初代・三根圓次郎校長を忘れるわけにはいかない。

三根圓次郎(土佐中高校提供)
 三根校長は明治6年長崎県の生まれ、帝国大学文科大学(後の東京帝国大学文学部)の哲学科を出て教職に就き、若くしてすでに佐賀・徳島・山形・新潟の県立中学校長を歴任、東京府立一中(現日比谷高校)の川田正澂(まさずみ)校長(高知県出身)とともに、全国中等教育のリーダーとなっていた。土佐中校長に就任時は47歳であり、帝大で哲学を学んだ謹厳な教育者も、年輪を経て温和な慈父のまなざしを併せ持ち、やがて生徒たちから敬愛をこめて「おとう」と呼ばれる存在になった。
 土佐中創立は、第一次世界大戦後の国際化と大正デモクラシーの時代を迎え、国家の期待する新しい「人材育成」を目指すものであった。教育方針には「個人指導」「自学自習」など、時代の先端をゆく斬新な理念が掲げられていた。この理念に基づくカリキュラムの編成や授業展開は、すでに『土佐中學を創った人々』で紹介したので、ここでは割愛する。ただ、創立100周年を迎えるに当たって強調したいのは、「人材育成」「自学自習」などの基本方針も、予科(小学5,6年生)からの英国人講師による英語教育も、時代を先取りしており、グローバル時代を迎えた1世紀後の今日でも、誇りを持って掲げることができる点だ。

チャイコフスキー
(『ミリオーネ全世界事典』)
 今回は三根校長について、新しい観点「音楽を愛した教育哲学者」としての特色を、音楽をめぐる人物模様から紹介したい。土佐中に着任以来、先生は次第に視力を失い、「おとう」と親しまれた晩年には失明状態であった。しかし、この老校長の胸中には、少年の頃手にした横笛の音とともに、チャイコフスキーの音楽が絶えず鳴り響いていたように感じられる。あるときは、「くるみ割り人形」や「白鳥の湖」の軽やかな旋律が、あるときは交響曲第六番「悲愴」の荘厳な調べが、響き渡っていたのではないだろうか。
 土佐中初期の卒業生による50周年の座談会で、こんなやりとりが紹介されている。<浜田麟一(6回生)「弁論会をやろうというと、校長はこの学校としては音楽をやろうといった。これはディック・ミネが音楽をやることになったので、自分も関心が音楽の方へ傾いて行ったのでしょうか」。伊野部重一郎(5回生)「校長はクラシックがかなり分かったので、息子が流行歌をやるのをなげいていたのでしょう」。鍋島友亀(3回生)「平井はハーモニカのバンドを作って、公会堂で土佐中公開演奏会をやった。配属将校(軍事教練のために配置された陸軍将校)がなぜ音楽をやるかと問うと、校長は生徒が将来政治家になった時、演説をするために声をきたえるのだと言ったという」>(『創立五十周年記念誌』)
 伊野部の発言で、三根校長がクラシック音楽を好んでいたことがうかがえる。なかでもチャイコフスキーに惹かれていたように思われる。それはなぜか、三根校長の周辺に多い、素晴らしい音楽家の探訪からさぐりたい。まずは、平井康三郎(5回生)に代表される教え子たちであり、ついでご子息のディック・ミネである。それぞれ昭和期を代表する作曲家であり流行歌手であったが、今では知る人が少なくなった。この二人の音楽家としての歩みと三根校長の影響、そしてさかのぼって三根が帝大哲学科時代にケーベル教授から受けた哲学・美学の教えをさぐってみたい。この教授は、実はモスクワ音楽院でピアノを修得した名演奏家でもあった。
  目 次
<第一章>“作曲家平井康三郎”生みの親
土佐中のピアノやマンドリンにびっくり

平井康三郎
(平井家提供)
 明治43年に高知県伊野町で生まれた平井康三郎(保喜・5回生)は、伊野小学校から大正12年に土佐中入学、昭和4年に東京音楽学校へ進学、ヴァイオリン科を終えた後に新設された研究科作曲部へ進んでプリングスハイム氏に師事、在学中の昭和11年には交声曲(カンタータ)「不盡山(ふじやま)をみて」が第5回音楽コンクールで1位に入賞する。代表作に「大いなる哉」「大仏開眼」があり、日本の歌曲「平城山(ひらやま)」「ゆりかご」「スキー(山は白銀)」でも親しまれた。校歌の作曲も多く、甲子園では毎年のように平井の曲が、勝利校を祝して流れた。作曲数は五千におよぶ。東京芸術大学や大阪音楽大学で教授を歴任、この間に文部省音楽教科書の編纂、『作曲指導』の執筆、『日本わらべ歌全集』の監修にもあたった。紫綬褒章など受章し、平成14年に逝去した。 長男丈一朗(たけいちろう)は巨匠カザルスに師事したチェリスト、次男丈二郎はピアニストであり、孫でニューヨーク祝祭管弦楽団音楽監督を務める指揮者の秀明、ロンドンを拠点とするピアニストの元喜ともども国際的に活躍している。康三郎が始めた「詩と音楽の会」も、丈一朗会長のもとで受け継がれている。平成27年には故郷「いの町」の新庁舎に平井康三郎記念ギャラリーがオープンし、寄贈されたグランドピアノなどゆかりの品々が展示され、「いのホール」で丈一朗や元喜による記念コンサートが開かれた。

いの町庁舎・平井康三郎記念ギャラリー(森木光司撮影)
 平井の父は高知商業の国語教諭から実業界に転進したが、音楽好きで商業の壮大な校歌「鵬程万里はてもなく・・・」を作曲、家にはオルガンや蓄音機があった。音楽的に恵まれた家庭で育ち、ハーモニカが得意だった平井少年も、土佐中に入った驚きをこう語っている。
 「グランドピアノはあるし、マンドリン・クラブはあるし、びっくりしました。レコードもベートーベンの第九をはじめ、名曲がたくさんある。蓄音機もビクターの最高級品です。ただ、残念ながらピアノを弾ける先生も、レコードを聴く生徒もいない。岡村弘(竹内・1回生)さんと私だけが弾いたり、聴いたりするだけだった」(『南風対談』)
 教材・教具の整っていたのは楽器ばかりではない。青山学院を卒業と同時に英語教師として赴任した長谷川正夫は絵画も担当、「校長は画架、石膏像、額縁など私の要求するがままに買ってくれた。絵の時間には潮江山(筆山)に登ってスケッチさせたり、自然を眺めながら絵の講義をしたりして、全く自由にできた。・・・公会堂でマンドリン合奏会を開いたことがあったが、これが(高知での)この種の最初のコンサートであったとか聞いた。私と同期の常盤(正彦、音楽)先生がハーモニカの独奏会を開いたこともあった」(『創立五十周年記念誌』)。本格的な楽器・画材をそろえ、教室にとどまらずに野外授業や校外活動もおこなった。また、男子中学では厳禁だった女学校のバザーや運動会の見物に行くことも許されていた。
 三根校長は、これから世界で活躍する人材には、文学や歴史だけでなく音楽や絵画の教養も大切だと考え、その素養がある新卒の長谷川・常盤両先生を採用、設備や教材も整えたのだ。イギリスのパブリックスクールにならって学校内に寄宿舎を用意し、運営は寄宿生の自治にゆだねた。そこでの平井少年の活躍を、五藤政美(4回生)は、昭和16年の「三根先生を偲ぶ座談会」でこう述べている。
「寄宿舎で茶話会をやる。そうすると皆一芸を出すわけで、平井君はハーモニカをやるわけだ、カルメンをやる。平井君はカルメンが巧いので、無論拍手喝采だ。校長先生は、大野(倉之助、数学)先生を顧みて、おれもカルメンなら知っているといっておりましたがねえ」。それを受け、片岡義信(1回生)が「平井君で思い出したが、ぼくらはマンドリンを買ってね、やったのだけれども上手になれなかった。・・・やはり校長も音楽を取り入れなければならんというのでね」と話す。都築宏明(3回生)は、三根校長のお宅(東京都大森)で奥さまに見せていただいた錦の袋に入れた横笛について、「若い時分に吹いたものだというのですね。それから推して考えて見ると、音楽の素養があったわけですね。趣味がないと思ったら多少あったのです」と、語っている。(『三根先生追悼誌』)
校長が父を説得、音楽学校へ
 平井は得意のハーモニカで人気者になるとともに、三根校長の指示で1年生の時に早くも「向陽寮歌」の作曲をしている。作詞は岡村弘先輩であった。「向陽の空」で始まる校歌は、すでに越田三郎作詞・弘田龍太郎作曲でできていた。寄宿舎名・寮歌にも、「向陽」が用いられている。これは漢籍に通じていた三根校長が好んだ言葉と思われる。

土佐中時代の平井(左)と
二人の弟子(平井家提供)
普通の漢和辞典には登場しないが、諸橋轍次の『大漢和辞典』には「向陽 陽に向かう」とあり、潘岳や謝霊運の詩文を例示してある。「高い望みを抱く」といった意味だ。中学4年生になった平井は、ヴァイオリンをはじめる。自己流ながら腕を上げ、5年生になった昭和3年には、昭和天皇の即位を祝う御大礼奉祝音楽会に、学内の二人の弟子とともに出演している。その写真で分かるように、この時代の制服には白線などない。 平井は、高知県各地から集まった学友を相手に、方言調査もおこなう。音楽とともに言語学に興味を持っており、中学4年生の時には、二百あまりの方言を分類、語源の考証・活用例などを記した「土佐方言辞典」をまとめている。才気あふれる平井の方言研究からは、次のような漢詩の土佐弁による名訳も生まれる。

   俺も思わくがあって都(かみ)へ出たきに(男子志を立てて郷関を出ず)
   成功者(もの)に成らざったら死んだち帰(い)なんぜよ(学若し成らずんば死すとも帰らず)
   ナンチャー どこで死んだち構(かま)んじゃないかよ(骨を埋む豈(あに)墳墓の地のみならんや)
   どこへ行ったち おまん 墓地ゃ多いもんじゃ(人間到る処青山あり)

 これを引用した山田一郎(評論家)は、「平井さんによると、この名訳に<詩吟のフシをつけて得意になって高唱し、三根圓次郎校長を呆然とさせたこともあった>」と書いている(『南風帖』)。平井は言語学でも早熟ぶりを発揮、作曲家になった後も、趣味は言語学・方言研究と述べ、全国の伝承わらべ歌を収録した大著『日本わらべ歌全集』全39冊にも監修者の一人として参画している。 言語学に興味を持った平井は英語も得意で、東京外国語学校に行くつもりで5年生に進んだ。当時の中学生は4年修了で旧制高校に進学できたため、土佐中5年生はほとんどいなかった。しかし、外国語学校や音楽学校・商船学校は5年卒業でないと受験できなかったため、平井は残っていたが、兄の薦めもあって東京音楽学校を目指したくなる。だが父親は医者か弁護士にしたくて大反対で、

平井康三郎
(平井家提供)
三根校長に「家の息子は音楽家にさせる心づもりはない」と怒鳴り込んだという。「三根先生を偲ぶ座談会」で、平井はこう述べている。
 「(父は)先生から反対にしかられ、<それは以ての外の不心得であって、将来音楽がどういう役目をするか知らんか>といわれてね、<ただ政治家や役人になったらそれが偉いと思ったらあてが違うぞ>と大分しかられて、それから家に帰って来て大の音楽ファンに親父がなりましてね。<お前もその決心して行かにやぁいかんぞ>と。それまでは語学の方をやる心算であったので、校長もしみじみ生徒の行く先のことについて本当に親身になって考えてくれたと思います。<語学はありふれた学問だからぜひ音楽をやれ>、こう言ってくれました」(『三根先生追悼誌』)。平井は息子の丈一朗にも、「三根校長はクラシックが好きだった」と語っている。
 音楽学校に進んだ後も手紙でよく激励を受けたが、なかでも印象的だったのは1年生の時の年賀状に記されていた「凡庸に堕するなかれ」であった。「この葉書は今でも持っており、時々出しては非常に発奮の資にした。これが、土佐中学の教育の真骨頂ではなかったかと思う」と、同じ座談会で語っている。日本情緒あふれる歌曲を生んだ昭和を代表する大作曲家・平井康三郎の誕生には、恩師・三根校長の存在が不可欠であった。(引用文献・図版の出典は最終章末尾に記載する)
目次に戻る

<第二章>歌う社長や歌う文部次官も誕生
生伴奏で歌いまくった三菱の進藤
 平井康三郎(5回生)は母校や同窓会への想いも強く、筆者が在学中の昭和28年に土佐高委員会(自治会)と新聞部で応援歌を創った際には、快く作曲してくださった。作詞は校内から公募だったが、入選作は中学主事・河野伴香の「青春若き・・・」であった。同窓会関東支部では、昭和63年の総会に講師として登壇いただいた。

平井の土佐校応援歌が流れる甲子園
2016年春(藤宗俊一撮影)
「音楽と生活」をテーマに、ピアノ演奏をまじえての軽妙洒脱な音楽談義が忘れられない。平成4年には、土佐中柔道部の後輩・公文公(7回生)の依頼を快諾、公文教育研究会で特別講演会「音楽と人生」をおこなった。なお、著書『作曲指導』は、1年後輩の近藤久寿治が興した同学社から出版している。
 初期の土佐中からは、平井のような音楽家だけでなく、数々の音楽愛好家が育っている。その筆頭が進藤(旧姓宮地)貞和(2回生)である。昭和45年に三菱電機社長になると、重電中心で殿様体質だった企業を見事に変身させ、大躍進を遂げた。特にクリーンヒーターなど家電のヒット商品開発と販売網整備には、目を見張らされるものがあった。その原動力は、飾らない豪快な人柄と、「歌う社長」と呼ばれた得意の歌声であり、技術者や販売店をたちまちやる気にさせた。筆者の『筆山』第3号でのインタビューで、「中学時代には、軟式テニスやハーモニカに熱中し、自己流でヴァイオリンもやった。

ダークダックスと歌う進藤(土佐中高提供)
 戦後は、オランダで「長崎物語」、ドイツで「野ばら」と歌いまくり、国際親善にも大いに役立てた」と語ってくれた。ギターやアコーデオンの生伴奏で歌い、ダークダックスとも共演した。その縁で平成7年には「ダークダックス阪神大震災救援チャリティーコンサート」が、進藤の協力を得て佐々木泰子(33回生)などによって開催された。
 柔道部で平井から鍛えられたという公文公も、高知高校に進んでからレコード鑑賞に熱中した。堀詰・細井レコード店でのバッハ「ブランデンブルク協奏曲」観賞会にも行ったことを、友人の久武盛真が平成9年の『文化高知』に書いている。公文は、クラシックのレコードをかなり愛蔵していたが、昭和20年4月の高知大空襲で常盤町の実家が全焼、蔵に入れてあったレコードは溶けて黒い塊になっていたと、後日口惜しがっていた。平井の影響を受けたのか、公文式教育を始めてからは、音楽と言語の関連に注目、やがて乳幼児教育にわらべ歌を取り入れ、標語「生まれたら ただちに歌を 聞かせましょう」を唱え、母親に呼びかけていた。筆者は、平成5年にパリの国立小児病院を見学したが、新生児室で副院長から「心身の健全な発達には音楽が欠かせない。ここの医師は全員、取り上げた赤ん坊に母に代わってわらべ歌をうたってやる。入院中の子どものためには楽器をそろえてあり、演奏を楽しめる」と語ってくれた。音楽の意義に、改めて気付かされた。
 宮地貫一(21回生)は三根校長亡き後の入学だが、「歌う文部事務次官」と称された。演歌の新曲が出ると即座に譜面を手に入れ、赤坂の「いしかわ」などでコップ酒を豪快に飲んでは、ピアノの生伴奏で歌っていた。二人の宮地先輩は、仕事も酒も歌も「こじゃんと」楽しんだ。なお、三根校長も酒は大好きで、飲むと「よさこい節」を歌うこともあったと聞く。
邦楽には長唄の佐藤、謡の近藤

謡に励んだ近藤久寿治…中央(近藤家提供)
 三根校長の横笛とは関係ないが、邦楽の愛好家も多かった。佐藤秀樹(1回生)は、謡や長唄を修得、昭和58年には銀座ガスホールで長唄の大曲「船弁慶」を演じている。近藤久寿治(6回生)は、『新修ドイツ語辞典』で知られる教育出版社・同学社を興したが、多忙な中で同窓会の世話役をする一方、観世流の謡を五十数年にわたって修め、神楽坂の矢来能楽堂などでの発表を続けていた。大酒豪であったが、土佐中・三根校長への想いには並々ならぬものがあった。
 余談になるが、昭和33年に三代・大嶋光次校長が逝去した際に、近藤は「次の校長は絶対に母校出身だ」との信念のもと、関東同窓会の先頭に立って曽我部清澄先輩(1回生・高知大学教授)を強力に推薦した。大学生だった筆者は、帰郷の際に親書を託されて高知の同窓会会長・米沢善左衛門(2回生)に届けた思い出がある。近藤たちが母校出身者にこだわったのは、戦時色の強くなった二代・青木勘校長(愛知県立第一中学校長から赴任)の時代に、

三根校長時代の旧校舎(『三根校長追悼誌』)
寄宿舎での上級生によるしごきや、制服に軍服同様の白い袖章(白線)採用などがあったからと思われる。青木校長は、東京帝国大学哲学科出身で三根の後輩であったが、時代のせいか三根校長時代にはあり得ない事態が発生、進学も奮わなくなり、校長の排斥運動が起こった。母校の教諭や高知高校在学中の同窓生を代表して、吉澤信一・曾和純一(16回生)が上京、排斥を近藤に相談したが、いさめられ実現しなかった(『筆山』第3号)。以来近藤は「三根精神の復興」を念じていた。『三根先生追悼誌』発行も、三根校長の「胸像レリーフ」校内設置も、その想いによる企画で、実務を裏で支えたのは近藤であった。
 それにしても、三根校長はなぜ音楽や美術の教育にこれほど力を入れ、平井の才能を見抜いて音楽学校への進学を薦めたのだろう。進学校として、単に有名高校(旧制高校)・有名大学への進学率向上を目指すだけでなく、生徒一人ひとりの個性や才能を見抜いて進路指導にあたるとともに、芸術活動へのなみなみならぬ意欲が感じられる。これは、どこから来たのだろう。
目次に戻る

<第三章>息子ディック・ミネはトップ歌手
立教大で相撲部からジャズ・バンドへ
 三根校長の長男・徳一は、芸名ディック・ミネで知られる流行歌手で、第二次世界大戦前後の歌謡界で大活躍だった。モダンな歌とダンディーな容姿で実力・人気を併せ持ち、ジャズ・歌謡曲のトップ歌手となった。しかし、三根校長が健在のころは、息子が流行歌手というのははばかる雰囲気があったようで、戦時色の濃くなった昭和18年刊行の『三根先生追悼誌』には、息子のことはほとんど出てこない。近藤久寿治(6回生)は、大学在学中に平井康三郎(5回生)たちと東京で校長を囲んだ際に、平井のことを冗談交じりに「本郷の裏町で、はやり歌をうたっています」というと、校長は「そうか。実は、わしの息子もそのはやり歌をやっている」といわれた、とある。(『続続南風対談』)

歌うディック・ミネ(三根家提供)
 ところが戦後になると立場が逆転、三根校長は世間から忘れられ、「ディック・ミネの父」として紹介されるようになった。ディック・ミネは平成3年に82歳で亡くなったが、朝日新聞は3段抜きの見出しでこう報じた。
 <1934年、ビング・クロスビーが歌っていた「ダイナ」を自分で訳詩してデビューし、一躍人気歌手に。学生時代のアダ名からとった芸名「ディック・ミネ」は日本の洋風芸名のハシリとなった。タンゴ調の「黒い瞳」や、「上海帰りのリル」「二人は若い」・・・などの曲も次々とヒットして、折からのジャズブームに乗り、日本の男性ジャズ歌手の草分けとなった。古賀政男のすすめで歌謡曲にもレパートリーを広げ、「人生の並木道」「旅姿三人男」をはじめ、「夜霧のブルース」などでも成功した。・・・1979年から88年まで社団法人日本歌手協会会長。82年には「反核・日本の音楽家たち」結成の呼びかけ人にも名を連ねた。アムネスティ運動やフィリピンの子供たちへの学費援助などにも協力を惜しまなかった>
 単なる流行歌手ではなく、社会性や反骨精神も持った「凡庸」ならざる親分肌のリーダーであった。では、その生い立ちからさぐってみよう。父が徳島中学校長だった明治41年に生まれ、徳一と命名された。父の転勤で、小学校は山形・新潟で過ごした。大正9年に土佐中に招かれた父は、母・敬(よし)が体調を崩したので家族を東京に残して単身赴任となった。徳一は日体大付属荏原中学に進んだが、相撲部で活躍したのが目立ち、立教大学に相撲部推薦で入学する。だが、「帝大だけが学校と思っていたおやじは怒った」という。学生時代におこなった不良相手の痛快な武勇伝の数々は、

『八方破れ言いたい放題』表紙
写真はディック・ミネ
著書『八方破れ言いたい放題』(政界往来社)に詳しい。体もなにもかもデカかったので、ディックと呼ばれるようになる。相撲から音楽への転向は、この本でこう述べてある。
 「おやじは堅物一方の人だったけど、母親が話のわかる人でね。なにしろ日光東照宮宮司の娘だから、琴が抜群だった。西洋音楽にも理解があったし、音楽に親しませることが教育上もよろしいということを知っていた・・・電蓄が家にあり、シンフォニックジャズなんか、よく聞かされた」
 そのシンフォニーが大学で聞こえてきたことから立教大学交響楽団に入るが、さらにジャズ・バンドに転進する。自らリーダーとなった学生バンドは、母の紹介によって日光金谷ホテルでデビュー。卒業して逓信省の役人になるが、すぐ辞めてバンド活動に専念、さらにテイチクの専属歌手になる。平成元年の『筆山』に寄せたエッセイ「父」には、<「このごろ変な歌を歌っているディック・ミネというのはおまえか」と父に聞かれ、怒られるのを覚悟で「はい」というと、「世の中、どんな商売もある。やる以上は恥ずかしくないようにやれ、トップになれ」であった。父は息子に対しては自由放任であったが、自分の学校の生徒に対しては、実に細やかに、一人一人の個性を見抜いていた>と、書いている。
軍部にも動じなかった父を尊敬
 昭和11年に三根校長が急逝した際には、母と高知に駆けつけたが、父の思い出を『筆山』第9号にこう記してある。
 <自分の教育方針を頑として通した父は、文部省であれ軍人であれ、岩のごとく動じなかった。父は学校で「おはよう」と、だれにも帽子をとって挨拶するのが常だった。死の前日のこと、軍部の将校(土佐中への配属将校)がこれを敬礼にせよと迫ったが、父は教育方針は変えぬと言い通した。腹を立てた将校は酒に酔って自宅に乗り込んできて、父と言い争った。この出来事が引き金となって、脳内出血を起こしたのであろう。父の教育は今の時代にも立派に通用すると、私は父を誇りに思います>。三根校長に、秘書のように寄り添っていた芝純(7回生)は、『向陽』3号に「一夜、配属将校と激論せられ、翌日脳溢血で殉職された」と述べている。

三根家の人々
中央の次男忠雄を挟んで校長ご夫妻
前列左端が徳一(三根家提供)
 やがて日本の大陸進出とともに、ディック・ミネたち歌手も上海から満州・樺太まで、軍の慰問演奏に動員される。昭和12年に日中戦争が始まり、翌年には国家総動員法が公布され、“敵性語排除”で芸名は三根耕一に変えられる。やがてジャズやダンスも禁止となる。しかし、ハルピンや上海には弾圧がおよばず、前線兵士の要望でディック・ミネを通すが、傷病兵の惨状には涙したという。東京大空襲が始まった頃は防空壕に入り、隠し持っていた短波受信機で米軍放送を聞き、大本営発表との違いをちゃんと知っていた。“立教”仕込みの英語は、戦後になってルイ・アームストロングが来たときにも重宝がられ、一週間つきっきりで案内している。永遠の「モダンボーイ」で、レコードの通算売り上げは4.000万枚以上におよぶ。著書には、豪快な女遊びもあけすけに述べてあるが、4人の奥さんを迎え、男女9人の子どもを育てている。昭和60年には9人の子ども一同の呼びかけで、喜寿を迎えた「父を祝う会」が、永田町のホテルで盛大に開かれた。
 ディック・ミネは晩年になって、父について「熊本の旧制五高から帝大を出た偉い人で、五高の後輩に故・佐藤栄作元首相がいる。そんな関係で佐藤首相に可愛がってもらった」と、語っている。また、昭和54年に勲四等旭日小綬賞をもらった際には、「僕のおやじも、おじいさんももらった」と喜ぶとともに、「親孝行したいときには親はなし」と、嘆いている。親子はまったく別の分野で人生を歩みながらも、お互いに心を通わせていた。
 こうして、徳一(ディック・ミネ)が流行歌手として大成した背景には、音楽好きの母・敬の影響が大きかったが、父・圓次郎も温かいまなざしを注ぎ続けていた。徳一も、三根が平井に与えた「凡庸に堕すなかれ」を実践したのだ。昭和60年の関東同窓会にゲストとして出席した際のスピーチでは、「オヤジは偉大だった」と述べていた。今は、父と並んで多摩霊園に眠っている。

多摩霊園に眠る三根校長と徳一
(中平公美子撮影)

三根校長の胸像
本山白雲作(筆者撮影)
 三根校長には次男・結城忠雄がおり、筆者は父・圓次郎の思い出話をお聞きしたくて、昭和62年頃に杉並の御自宅を訪ねた。成人後に結城家に養子として迎えられ、会社を定年で退いた温厚な紳士で、こう語っていた。「子どもの頃、父は高知に単身赴任で、遊んでもらった覚えはあまりない。休みに大森の自宅に帰ってきても、東京の大学に進んだ教え子たちの勉強ぶりや就職が心配で、眼が悪いのもかまわずに東大などによく出かけていた。また、教え子も次々と家に訪ねてきた。昭和17年だったか、土佐中に父の胸像ができた除幕式に招待されて母と参加したが、父が皆さんに深く敬愛されていたことに、改めて気付かされた」 三根家では、ディック・ミネの三男・三根信宏が音楽の道に進み、「ギターの貴公子」と称されるギタリストになっている。
目次に戻る

<第四章>哲学と音楽を育んだケーベル博士
哲学教授はチャイコフスキーの直弟子

ケーベル(『ケーベル博士随筆集』)
 偉大な教育者・三根圓次郎は、どのようにして誕生しただろうか。また、音楽など芸術の人生における意義についてどこで学び、クラシック音楽を好むようになったのであろうか。三根の実家は大村藩(長崎県)の大庄屋であり、大村中学から熊本の第五高等学校に進み、明治27年に帝国大学文科大学哲学科へ入学する。大学時代には、家庭教師などで自ら学資を稼いでいた。哲学は、前年にお雇い外国人として赴任したばかりのラファエル・フォン・ケーベル博士から教えを受ける。博士は異色の哲学者であり、素晴らしい教育者であった。
 ケーベルは、1848年ロシアの生まれ。父はドイツ系ロシア人で国籍はロシアだったが、本人はドイツが祖国と言っていたという。幼少の頃からピアノを習い、19歳でモスクワ音楽院に入学、作曲家チャイコフスキーや名ピアニストのニコライ・ルービンシュタインに師事する。5年後に優秀な成績で卒業するものの、内気な性格から演奏家への道をあきらめ、哲学研究に転進する。ドイツのハイデルベルク大学で、ショーペンハウエルの研究によって学位を取る。ミュンヘンに移って哲学や宗教の歴史を学びつつ、音楽学校で音楽史や音楽美学の講義もおこなっていたところに、突然東京の大学からの招聘状が届く。恩師フォン・ハルトマンの推薦であり、チャイコフスキーからは反対されたが赴任を決断、明治26年6月に日本へ着任する。
 当時の帝国大学文科大学は、多くを外国人教授に頼っており、ベルリン大学から招いた史学のルードヴィッヒ・リースのほか、独・英・仏の語学兼文学の教授は、いずれもそれぞれの国から招聘していた。哲学の日本人教授にはドイツ留学帰りの井上哲次郎もいたが、ドイツ観念哲学から東洋哲学、さらに国家主義へと進んだ人物だった。日本人によるアカデミックな哲学者の誕生は、哲学科で三根の少し先輩だった西田幾多郎が京大、桑木厳翼が東大の教授に就任する大正時代まで、待たねばならなかった。なお、外国人教授は、原則として英語で講義をおこなった。

ケーベルや三根がくぐった東大赤門(藤宗俊一撮影)
 哲学科でケーベルが担当した講義は、『帝国大学』(丸善 明治29年刊)によると1年で哲学概論・西洋哲学史、2年で西洋哲学史・論理学および知識論、3年で美学および美術史・哲学演習であった。一学年各科とも生徒は十数人で、講座によっては他の科の生徒とも合同であり、大変親しくなっていた。高知県出身では国文科に大町芳衛(桂月・作家)が、国史科に中城直正(初代高知県立図書館長)がいた。後に、大町によって土佐中開校記念碑文が記されるのは、三根と学友であったからだ。史学科には、幸田露伴の弟で日本経済史の開拓者となる幸田成友もいた。国史科の黒板勝美は東大教授となって日本の近代史学を牽引するが、昭和8年、東京での三根先生還暦祝賀会には駆けつけて「三根はまれに見る風格ある教育者」と称えた。三根が帝大を卒業した二年後に、寺田寅彦が五高から東京帝国大学理科大学物理学科に入学する。三根は、後に五高の後輩・寺田とも交流する。やがて、寺田もケーベルのもとに出入りするようになる。

ケーベルがチャイコフスキーからピアノを学んだモスクワ
モスクワ川とクレムリン(筆者撮影)

ケーベルが哲学を学んだハイデルベルク
ネッカー川と古城(筆者撮影)
日本人よ、偉大な芸術家・詩人に学べ
 では、ケーベル博士が来日当時に、日本の音楽界に抱いた率直な感想を『ケーベル博士随筆集』から見てみよう。まず「音楽雑感」で、「日本へ来て、音楽らしい音楽というものを聴くことができないようになって以来、私は大音楽家の作品(楽譜)を読むことにしている。これによって私はこれらの作品の拙劣なる演奏から受けるよりも遙に大いなる楽を享けるのである」と述べている。こうして、最初は日本人の洋楽演奏に失望するが、明治31年から東京音楽学校(現東京芸術大学)のピアノ教師も務めるようになる。
 音楽学校では、ボストン、ウィーンで6年間学んだ幸田延が、明治28年に帰国して母校の教授になっていた。延は、ケーベルからピアノを学ぶうちに腕前を認められピアノ科教授に就く。ケーベルも日本人の演奏をようやく評価、明治36年に日本初のオペラとして「オルフェイス」が音楽学校の奏楽堂で上演された際のピアノ伴奏をはじめ、度々ピアノを演奏している。この年には、幸田延の妹・幸もドイツ留学から帰り、音楽学校ヴァイオリン科教授となる。同年5月の第8回定期演奏会では、幸田姉妹・ケーベルがそれぞれピアノ・ヴァイオリンを披露して喝采を浴びている。幸もピアノや音楽史については、ケーベルから学ぶことが多かったと思われる。

平井康三郎・丈一朗夫妻(平井家提供)
 こうして幸田延・幸の姉妹は、ケーベルから多々指導を受けることになるが、姉妹の間で生まれた幸田成友は、文科大学史学科でケーベルから西洋哲学史を学んで、経済史学者となる。幸田家では、三人揃ってケーベルの恩恵をうけていた。妹は結婚して安藤幸となるが、そのヴァイオリンの弟子に疋田友美子がいた。後の平井康三郎夫人である。
 ケーベルは文科大学哲学科の教育について、大変手厳しい指摘をしている。「日本人の精神ならびに性格をはなはだしく醜くするところの傷所は、虚栄心と自己認識の欠乏と、および批判的能力のさらにそれ以上の欠如せることである。これらの悪性の精神的ならびに道義的欠点は、西洋の学術や芸術の杯から少しばかり啜ったような日本人においてとくに目立つ」「日本の学校当局者らは、・・・理知的ならびに倫理的教養には全然無価値なる、否、むしろ有害と言うべき・・・生徒の記憶を一杯に塞ぎ、疲労せしめ・・・試験のためにのみ学ばれるところの学課をもって、その生徒をいじめるのである」

ケーベル(手前右)と東京音楽学校管弦楽団、左は幸田姉妹
(『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』)
 卒業する哲学科の学生への挨拶では、こう述べている。「諸君は本日をもって諸君の自由――実生活ならびに学修における自由――の門出を祝さるる次第である。・・・およそ真に自由なる人とは法則に服従する人である、もっともその法則とは理性が正当として命ずるところのものである」「諸君に対して望むところは、諸君が偉大なる芸術家、詩人および文学者の作品をば、大思想家の著作と同様に、勤勉かつ厳密に研究せられんことである」(『ケーベル博士随筆集』)
 三根たちは、これらの教えを「干天に慈雨」の思いで吸収していったと思われる。当時の帝大文科大学生は卒業すると、研究者の道に進むか当時の各県の最高学府である県立中学校の教諭になるかであった。「教師になっても、生徒に一方的に教え込む職人ではなく、生徒とともに学ぶ研究者でもあれ」が文科大学のモットーだったと、中野実(東京大学・大学史史料室)は語ってくれた。ケーベルの哲学や美学から、教師としてのバックボーンを得て、また音楽や美術の意義をよく理解し、三根たちは各地の学校に赴任していったのだ。
 このケーベルのピアノに魅了された人物に、寺田寅彦がいる。五高時代にヴァイオリンを始めた寺田は、明治34年、東京帝国大学1年の時に夏子夫人が病気療養で高知に帰郷した孤独から逃れるため、東京音楽学校の慈善演奏会に行き、「橘(糸重)嬢のピアノ、幸田(延)嬢のヴァイオリン、ケーベル博士のピアノ・・・」を聴く。とくにケーベルの演奏に魅せられ、無性に会いたくなって自宅を訪問する。以来、夏目漱石を誘ってたびたびケーベルの出演するコンサートに出かけている。

寺田寅彦「自画像A」
(『高知の文学』高知県立文学館)
 寺田は、後にケーベルを悼んで随筆「二十四年前」を書いているが、そこには最初の演奏会での感動を「まっ黒なピアノに対して童顔金髪の色彩の感じも非常に上品であったが、しかしそれよりもこの人の内側から放射する何物かがひどく私を動かした」と記している。この随筆には、ケーベルを自宅に初訪問した様子も書き留めてある。寺田がヴァイオリンを独習していると話したときに、ヴァイオリンの値段を聞かれ、「9円」というと、「突然吹き出して大きな声でさもおもしろそうに笑った」とある。五高時代に、月額11円の仕送りから無理に工面して購入した安物であった。笑われても別に不愉快でなく、「私もわけもなく笑ってしまった」と、述べている。(『寺田寅彦随筆集第二巻』)。
 明治38年1月3日の寺田の日記には、「阪井へ行き、琴三絃ヴァイオリンにて六段など合す」とある。阪井とは、夏子夫人の父・阪井重季(陸軍中将)であり、亡き妻の異母妹・美嘉子の琴などとの合奏に、ヴァイオリンで参加したのだ。肺病のため桂浜で、明治35年に亡くなった妻を偲んだのであろうか。夏子も美嘉子も、美人で評判だった。この頃から寺田は音響学を研究、明治41年には東京帝国大学理科大学から、理学博士の学位を授与される。主論文は「尺八の音響学的研究」であった。寅彦の孫・関直彦によると、一時ヴァイオリンを中断していたが、大正11年にアインシュタインが来日した際に、歓迎晩餐会で同氏が余興にヴァイオリンでベートーベンのクロイツェル・ソナタを弾いたのに触発され、高知出身の作曲家で土佐中校歌を作曲した弘田龍太郎からヴァイオリンの個人レッスンを受けることになったという。
 寺田の五高以来の恩師・夏目漱石も、帝国大学理科大学の大学院で、来日したばかりのケーベルから美学の講義を受けている。漱石は寺田とともに、ケーベルの演奏会に何度か足を運び、自宅も訪問、随筆「ケーベル先生」を書いた。そこには、「文科大学へ行って、此処で一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人迄は、数ある日本の教授の名を口にする前に、まづフォン・ケーベルと答へるだろう」とある。文芸評論家の唐木順三は、「ケーベルと漱石」でケーベルの生活ぶりを、「読書と自分の耳にきかせるピアノと執筆の生活。自分の立場を〈哲学と詩との間〉において、詩と哲学を享受し観賞する生活。・・・生活即芸術であった」と書いている。(『現代日本文学大系 夏目漱石』)
ケーベル先生の遺産

三根圓次郎(三根先生追悼誌)
 土佐中校長に決まった三根は、大正9年3月、寺田を東京本郷に訪ね、寺田家が所有する高知市江ノ口の土地を学校用地に譲って欲しいと交渉している。五高の先輩、そしてケーベル先生の教え子からの依頼であったが、すでに先約があって成立しなかった。寺田は日記にこう記している。「三月四日 土佐中学校長三根圓次郎氏川田正澂氏の紹介で来た。中学敷地予定地に宅の地所ある故安く売ってくれといふ。先日来の江ノ口地所の買手は此れを知って買いだめに掛かったに相違ない」(『寺田寅彦全集 第二十一巻』)。土佐中の動きを察した業者が、手付け金を支払って、押さえてあったのだ。
 同年に、県庁に提出した「土佐中学校設立認可願」の添付地図には、江ノ口小学校の北側に「新設校地」との記入がある。申し訳なく思ったからか、寺田寅彦は立派な柱時計を土佐中に寄贈、潮江村に完成した新校舎に飾ってあった。寺田が演奏を楽しみ、また音響学の研究材料にも使ったヴァイオリンやチェロは、自作の油彩画「蓄音機を聞く」とともに「高知県立文学館・寺田寅彦記念室」で見ることができる。ヴァイオリンは1814年にボヘミヤで製作された名器アマティのコピーで、孫の関直彦が譲り受けていたもの。

「蓄音機を聞く」(『寺田寅彦画集』より)
 ケーベル博士は、独身のまま文科大学で21年間教えた後に引退し、ドイツに帰国しようとしたが、大正3年に横浜港で帰国船・香取丸に乗る直前に第一次世界大戦が勃発、帰国できなくなる。大正12年まで横浜のロシア領事館の一室で過ごして生涯を終え、東京雑司ヶ谷霊園に葬られた。夏目漱石や大町桂月も、ここに眠っている。
 ケーベルたちによって音楽の才能を開花させた幸田姉妹は、旧幕臣の家に生まれたが、祖父や母が音曲好きで幼少期から箏曲や長唄の稽古を積んでいた。やがて東京女子師範学校付属小学校で西洋音楽に触れ、その音楽的才能を見いだされ、ピアノやヴァイオリンの道に進んだ。三根も横笛を手にしていたが、江戸時代には公家の世界では雅楽が、武家や町人では能楽や箏曲・長唄が好まれた。欧米の上流家庭で室内楽が好まれたのと同様に、日本の家庭にも邦楽を楽しむ伝統があり、西洋音楽の受容にもつながった。平井の「平城山」、山田耕筰の「からたちの花」、滝廉太郎の「荒城の月」などには、日本の風土色が色濃く漂い、日欧の融合から生まれた調べと言えよう。

寄宿舎生に囲まれた三根校長
昭和10年(『三根先生追悼誌』)
 昭和4年に東京音楽学校へ進んだ平井康三郎は、ケーベルに接することはかなわなかったが、疋田友美子と出会う。疋田は幸田延の妹・安藤幸教授の指導を受け、ヴァイオリン科を首席で卒業し、平井と結婚する。ケーベルから三根を挟んだ平井と、安藤幸を挟んだ友美子と、いわば孫弟子同士が結婚、そこから世界的なチェリスト・平井丈一朗が誕生した。ケーベルがチャイコフスキーから受け継いだ音楽の流れは、ロシアからドイツ経由で日本に到来、幸田姉妹そして三根や平井によって見事に根付き、さらに独自の音色を加えて世界へと流れていったのである。
 三根校長たちは、ケーベル博士から哲学や美学の知識とともに、豊かな人生には音楽や美術を欠かすことができないという「生活即芸術」の教えを学んだ。さらに、内面から湧き出る教育者としての豊かな人間性を感じ取って巣立っていったのだ。三根校長にとどまらず、漱石や寅彦をも魅了した“ケーベルの教え”が、母校土佐中高の学園生活に受け継がれ、凡庸ならざる人材の育成に活かされることを願っている。
(本稿執筆に当たっては、三根圓次郎の孫・信宏氏、平井康三郎の長男・丈一朗氏、近藤久寿治の長男・孝夫氏、寺田寅彦の孫・関直彦氏、筆山会および向陽プレスクラブの皆様にご協力いただいた。感謝申し上げたい。なお、本文では敬称を省略させていただいた。)
三根圓次郎(三根先生追悼誌)

熊本第五高等学校時代
(明治28年)

東京帝大文科大学哲学科
卒業の翌年(明治31年)

県立徳島中学校長時代
(明治42年)

土佐中学校長就任4年後
(大正13年)
目次に戻る
<主要参考文献・図版出典>
『土佐中學を創った人々』向陽プレスクラブ 平成26年/『三根先生追悼誌』土佐中学校同窓会編集発行 昭和18年/『創立五十周年記念誌』創立五十周年記念誌編集委員会 昭和51年/『ミリオーネ全世界事典』5 学研 昭和55年/『南風対談』『続続南風対談』山田一郎 高知新聞社 昭和59・61年/『南風帖』山田一郎 高知新聞社 昭和58年/『八方破れ言いたい放題』ディック・ミネ 政界往来社 1985年/『筆山』土佐中・高同窓会 関東支部会報 各号/『ケーベル博士随筆集』久保勉訳編 岩波書店 1928年/『幸田姉妹』萩谷由喜子 ショパン 2003年/『東京芸術大学百年史演奏会篇第一巻』『東京芸術大学百年史東京音楽学校篇第一巻』音楽之友社 1990年・昭和62年/『寺田寅彦随筆集第二巻』小宮豊隆編 岩波書店 1947年/『寺田寅彦全集 第二十一巻(日記)』岩波書店 1998年/『現代日本文学大系 夏目漱石(一)(二)』筑摩書房 昭和43年・45年/『文化高知』(財)高知市文化振興財団 平成9年/『寺田寅彦画集』中央公論美術出版 寺田東一 昭和60年/『高知の文学』高知県立文学館 平成9年
  ページTOPに戻る

藤宗 俊一(42回) 2011.12.16曽我部校長と櫓

1.曽我部清澄先生
 同窓会の席でいつも話題になるのは初代三根校長と戦後の混乱期に母校を立て直した三代大嶋校長ばかりで、四代目の曽我部校長が話題になることが少ない。確かに、草創期や復興期の苦労と比べれば、その業績はかすんでしまうかもしれないが、どうも語る人たち(長老)の年齢層によるところが多大である。私たち昭和33年以降の入学生にとっては、三根校長や大嶋校長は単なる校史上の人物であって、実際お目にかかったこともないので親近感がまるでない。かと言って、曽我部校長に親近感を抱いていたかというとそれもまるでなくて、校長というと始業式や終業式で眠くなるような挨拶を聞かしてくれる存在でしかなかった。どこか、洗練された紳士(印象深い蝶ネクタイのせい)といった感じで、アクの強い名物教師(カマス、タヌキ、ナオサン、マンタロウ、パンツ、タコ、サカイ族、ガンキチ、アヒル、オンカン、ヒラリン等々)の陰に隠れてしまっていたという印象である。
 曽我部校長は明治40年(1907)に吾川郡八川村(後に吾北村、現在はいの町)に生まれ、母校の第1回卒業生で、昭和2年(1927)旧制高知高等学校、昭和5年(1930)東京帝国大学理学部物理学科を卒業。その後全国の中学校で教鞭をとられた後、高知高等学校に教諭として迎えられ、昭和24年(1949)戦後の学制改革で高知大学教授となり、文理学部の礎を築かれるとともに、放射線物理学の研究を続けられた。昭和33年(1958)、大嶋校長の急逝のあと、2学期途中から文理学部長の職を辞して 母校の校長に就任された。向陽新聞44号では『本校のありかたを今までの予備校的存在からはなして人間形成の一過程とし、校内全員の“親和”をのぞむ』と語り、長髪禁止令の廃止、遠足の年2回の実施、ホームルームの充実、暴力や盗難の排除など“明るい学園建設”を目標とした。22年間の在任中(歴代最長……大嶋校長は13年)、その自由闊達な校風の中、生徒たちはもてる力を伸ばし、甲子園準優勝(昭和41年春)や東大合格者数18名(42回生)など、“文武両道”で活躍し、"私学の名門"としての評価を定着させた。昭和48年(1973)には創立50周年にあわせ、全校舎の改築を成し遂げる。また、高知県県私立中高連合会長、私立学校審議会委員、県高校野球連盟会長などを歴任し、昭和56年(1981)逝去。行年75歳。
2.釘をさす
 こうして見ると曽我部校長は前述した二人の校長以上の業績を残されているが、実を言うと、曽我部のオンチャンは小さい時から知っていた。高知大学の官舎(入明町)が大伯父の蒲原のオンチャン(稔治・呑海。魚貝類学者、1901〜1972。)と隣同士で頻繁に行き来していて、米や野菜を届けに行った折や宴会の席で何度か顔を会わせたことがあって、土佐中の合格発表の後、土佐校に隣接する校長宿舎に挨拶に連れて行かれた。その席で『校長室に呼ばれるようなことだけはしないでくれ。どんな顔をしていいか困るきに。』と釘をさされて、入学してからはできるだけ顔を会わさないように心がけていたし、校長室の前を通る時は廊下の端を歩いていた。
3.糠に釘
 ところが、最後になって、この釘が糠に打ったものだと校長に思い知らしめた事件を起こしてしまった。
 昭和38年ごろから櫓の廃止案が@費用が非常にかかることA建築ブームでやぐらに使用するパネルの入手が困難なことB杉の葉をとりよせる際や、その他の用具、材料運搬の際の生徒の災害C設立の際の生徒のエスケープD応援の不徹定E危険性F後始末Gファイアーストームの乱れ等、の理由を挙げて学校から提示され(向陽新聞60号 63号)、42回生が高3になった時もぶり返された。
 勿論、大反対である。高校生活最後のイベントから櫓とファイアーストームが取りあげられるなんて納得がいかない。結局、学年の代表が学校側と話し合い、一番危険と言われていた杉や檜の小枝を須崎の奥の山で共同購入して、運搬を業者に委託するということで合意してきた。ところがKホームでは既に、近くの久礼田の裏山で檜の小枝を無料で手配済みで、もう運び込むだけになっていた。連絡会の席で理由を話して『共同購入には参加しない』と表明し、1週間前には軽トラックやオートバイで学校に運びこんで、教員室と用水路の間の窓下に隠した。隠したという以上、悪いことをしているという自覚は多少あったであろう。
 しかし、翌日にはもう露見し、『責任者は校長室に来るように』と言われ、同級生と二人でお白洲に向かった。恐る恐るドアを開け、頭を下げたまま入り、神妙にしていると、『顔を上げて、名前をいいなさい。』と言われ、応えると一瞬『やっぱり来たか』という表情をされたが、何事もなかったように懇々とお説教をされた。 曰く『学校の決めたことがまもれないのか?(後になって学校が勝手に決めたことなのに)』『こともあろうに教員室の窓下に隠すのは先生方を愚弄しているのか?(多少あります)』『一番いけないのは他のクラスが守っているのに抜け駆けするのは恥知らずではないのか?(ちゃんと報告済みです)』。淡々と諭すようにされて、ただ黙って聞くしかなかった。……()内は胸のうち。
 『それで、Kホームは櫓をどうするのか?』と訊かれ、二人で相談した結果『運び込んだ檜は使いません。他のホームで使って下さい。櫓は作ります。』と意地を張って答えてしまった。それからが大変で、クラスに帰って報告し、放課後リヤカーを引いて家具屋や土建屋を廻りベニヤの切れ端や廃材を分けてもらい、ペンキを塗って装飾に使い、それでもみすぼらしいので、グリーンスタンプの小旗を『宣伝になるから』といって多量に借りてきて櫓に巻きつけることにした。出発点が遅れたせいもあって、前日の夕方になっても完成せず、最後は校長宅から電気を借りて(さすができた校長で快く貸してくれた)頑張ったが、9時までかかっても完成せず、翌早朝、泊り込んだ友人宅から5時過ぎには現場に来て、まあまあ見られる格好にして、なんとか本番には間に合わせた。尚、この件について、タヌキの『甚田先生裸日記(2版)』に、実名を挙げられ警察から不審尋問を受けたなどと根も葉もない話が報告されているが、全くのデタラメで、どうも高2の時の仮装行列準備の時、夕方学校を追い出され城山公園で練習していた事件が一緒になっているようで、この場を借りて訂正しておく。
 その夜のファイアーストームはもう疲れきって、校庭の片隅で座り込んで居眠りをしていたし、2次会も参加する元気もなくて散々な運動会になってしまったが、良い思い出として残っている。その後の向陽新聞には櫓問題は出ていないのでずっと続いてると思うが、今思うに、櫓は単なる運動会の思い出作りではなかったような気がしている。企画・設計、規制への対処、予算、購入、交渉、人間関係、資材調達、安全管理、危機管理、労務、納期、完成の喜び等、一般社会の活動を体験させてもらえる場ではなかっただろうか。授業やクラブ活動では学べないことを経験させてもらった気がする。どうか、授業のさまたげになるとか、危険だから、費用がかかるなどと管理面からだけで廃止を言い出すようなことはしないで欲しいと願っている。

4.抜け釘
 その後、釘が抜けてしまったのか、卒業までの短い間に二度も校長室に呼ばれた。「下級生下駄殴打事件」「冬の金沢、逃避行事件」で二つとも親しくしていた同級生が起こしたもので、説明と経過報告に呼び出された。どうも担任のタヌキは諸悪の根源は私にあると考えていたようで、ことある毎に私に振ってきた。最後には、あろうことか、進学父兄面談で『御子息は学校に遊びに来ているようです。 このままではどこの大学も通りません(実際そのとおりになった)。』とやってくれたので、家に帰ってきた父親にこっぴどく叱られた。後年(20年以上たって)、自宅にお伺いした際に『一番ひどいと思っていたクラスが一番良かった。なんせ理Vを含め5人も東大に入った(現役はたった1人)のだから、ナオサンやパンツに対しても鼻が高かったぜよ。』と自慢げに話していた。別にタヌキの鼻のために頑張った訳ではなく、各自勝手に高校時代を謳歌させてもらい、その代償として予備校で頑張らざるを得なかったのだと思っている。
 勿論、同級生全てがワルばかりではなかった。エース(準優勝投手)のために、寮に行って勉強を一緒にした同級生もいるし、ずっと委員長と呼ばれ続けられた同級生もいるし、多士済々の顔ぶれが集まり、お互い切磋琢磨して成長していく自由闊達な場を与えてくれた土佐校に感謝するとともに、それを作り出した曽我部校長に改めて畏敬の念を感じざるを得ない。くしくも、今年、曽我部校長にとっては最初の入学生である山本氏(40回)が母校の校長に迎えられたという。学校は管理・経営の場ではなく、生徒の個性を伸ばす場であるとことを肝に銘じて、再び"私学の名門"として復活させてくれるよう切に望んでいる。個人的には、とりあえず甲子園に早く連れて行って下さい。
5.最後に
 曽我部のオンチャン、30年忌を迎えたというのに墓参にも出向かない不肖の教え子の戯言に苦笑いしていることでしょう。合掌。
  ページTOPに戻る

1950.12.14『筆山4号』より転載
細木大麓(27回) 2011.08.16東都高校とびあるき
 筆山編集部から東京の印象記を書くようにいわれた。四國のすみで勉強している自分にとつて、都會の學生の生活、學力は以前からかなり氣懸りだつた。實はそのために、同じ氣持だつた中屋君と視察族行とでもいうべきものをしてきたのである。戰時中に父の郷里土佐へ疎開して以來はじめての上京で、すつかりきもをぬかれてしまつた。東京の印象記だからといつてこれを一々書いていては、ひとりよがりのものになつてしまいそうだ。東京行の目的だった向うの學生の見たまゝ、聞いたまゝを書いてみようと思う。學校訪問は日比谷、武藏、小石川の三高校である。
(授業)
 日比谷は百分授業隔週五日制、小石川は九十分授業五日制、こんな高校が東京にはかなりあるらしい。英語、數學では授業形式はこちらと殆ど同じ、たゞちがうのは生徒の積極的な受講ぶりである。自分で調べて來てすゝんで発表する。もちろんピントはずれもあるし、もういいといわれてもやめないで余計なことをいうのもいる。しかし熱心である。このためか、いつも靜かな?授業を受けている自分と比較した場合、實力の差が目立つた。
 日比谷で參観している時である。生徒にdictationをやらすついでに、この假新入生達も用紙を配られた。辭退する暇もない。恥はかき捨てとカンネンした。ところが運よく間違いがなかつた。先生が滿点の人はありますかという。得意になつて手をあげた。ところが何のことはない周圍の者も皆手をあげた。出來るのはあたりまえなのである。少々恥ずかしかつた。
 國語の授業は全く型がちがう。目比谷の場合ヘ科書は使用しない。三人の先生がそれぞれ單元を定める。「近代文學をいかに讀むべきか」「古文をいかにして讀みこなすか」等である。前者の先生はちようど漱石の草枕と藤村の破戒についてやつていた。まずプリントにして文章を讀ませる。次に、(1)それぞれ何を書こうとしているか(2)それぞれの作者の文藝観(3)文章上のちがい(4)それらの由來する点……等の題で生徒の討論がはじまる。すさまじい討論である。皆考えを原稿紙にまとめてある。先生がことばをはさんでどんどん進行する。古文をやつている先生は吾々にこう話してくれた。「現代文は精讀なり多讀なりとにかくよく讀書することですね。古文は文法と單語を勉強して、何か一さつ詳しく讀んだらいいでしよう。それと文學史も簡單にやる必要がある。」なるぼど學校の授業もその方針で進んでいるようだ。しかしこれは百分授業でないとうまくできないと思う。
 授業參観も職員室の親切な世話でとても愉快だつた。皆集まつてきて話をしてくれる。日比谷では、そばもおごつてもらつた。實に家庭的だ。生徒は本校の中學をあわせたぐらいの人數なのに先生は少い。これも百分授業の功得だろう。
 因に体育はどこも保健衛生の講義が主である。
(生徒各自の勉強)
 これは先生の見たところと生徒數名のことばを整理して得た結果である。(1)學校の豫習復習を相當重要視している。毎日時間數が少いので重点的にできるそうだ(2)自分の勉強をかくす傾向があるが、非常に勉強していることはたしかだ(3)東京名物である各種の塾や研究會へはあまり行つていない。自習が主である(4)參考書勉強が盛である。一人の生徒は、英語についてこういつた。「津田を出て數年米國にいた女の先生がいますが、結局hearingの練習ぐらいにしかならないので山崎貞や小野圭の參考書で自分の勉強が殆どです」。(5)定期試驗が少く、しばられることなしに勉強できるのでよいという聲も聞いた。
(生徒會)
 日比谷高はなかなか盛である。先生の努力ともあいまつて発達したものらしい。立法、行政の機關に分れており司法は途中からなくなつた。總理大臣を選擧して組閣を行う形式である。總理大臣は行政委員長。二人の候補が華かな選擧戰を展開したとか、頼もしいかぎりである。但し三年生は引退している。小石川高は澤登校長のことばどおり、「貧弱な不明瞭な存在」らしい。武藏高にははじめからない。「あんなものはつまりませんよ。結局こつちがやるようになりますからね。」と高校主事はいわれた。
(服装)
 中山先生にもいわれていたので注意して見てきた。男生徒……黒の詰襟が殆どだが、小石川高の場合は制服である背廣樣のものと本當の背廣が大部分。坊主頭は少い。ノーキヤツプも多い。同行の中屋君は帽子がぬぎにくかつたらしく「帰つてきてホツとした。」といつている。彼は坊主だから……。女生徒……色とりどりの服である。パーマネントも大分ある。男女とも下駄ばきは絶対になく、皮靴が多い。
 先生に服装問題について聞いてみた。「全然考えていません。たゞ下駄で廊下を歩かれるとやかましいのではかないようにいつています」とのこと。
 
 學校訪問の際強く感じたことは日比谷の生徒と小石川の生徒の性格がちがつていたことである。日比谷の方は紳士的な印象を與える。小石川の方は少々粗野ではあるがなかなかがつちりした印象を與える。思うにこれは校長先生の性格の反映ではないだろうか。日比谷の菊地校長は全く温厚な紳士であつた。小石川の澤登校長は風彩などには拘泥しない肚の人という感じだつた。
 東京の學校は靜かである。授業中も話聲が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえていてつまらない雑談がないし休時間などはよく勉強している。それから中學がないのが大きな原因である。併設中のある武藏高校は他と大分雰圍氣がちがつていた。自分自身反省するとともに中學の諸君にはもつと靜かにしてもらうよう希望する。
 東京で大いに意を強くしたことは〃土佐中"という名が非常に売れてれていることである。菊地校長や、少し古い先生は皆いわれに。「いい學校でしたね。うらやましかつた。その後どうですか。復興していますか。えらいものだ。校長先生の腕かな。上級學校の合格率は?……」、痛いところだ。大學へさえ入れないとは情ない話だ。どうしても頑張らなくてはと思つた。(向陽新聞部々長)
* * * * * * * * * * 
《あとがき》「新聞部創設の頃について参考になるものを」という編集人からの依頼で送ったいくつかの古い記事の一つです。読んでみて懐かしいような気持ちとともに、数日の「飛び歩き」で、よくも生意気なことを書いたものと恥ずかしい気がしますが、校舎もない状態で立ち直ることでいっぱいだった当時の土佐高から東京へ出掛けてすべてが驚きだったのが率直なところです。何かの参考になればと思って、そのままの掲載を応諾しました。
* * * * * * * * * * 
《編集人より》『昔を知るための何かの参考にと、父の書いたものまで含めていろいろ集めて送った古い記事が「細木オンパレード」で、そのまま続けて掲載されるのが少々気が引けて……』という細木先輩を拝み倒して掲載させていただくことになりました。昔の土佐校生の意気の高さに驚かされるとともに、今の在校生たちの目にとまってくれればと思っています。
  ページTOPに戻る

100周年記念誌発刊の準備に当たり
土佐高校・中学水泳部の古き時代の活動について思いつくまま
濱ア洸一(32回) 2011.05.10
 昭和26年4月雨漏りのするバラック校舎の中で、入学式が挙行され、袖に白線の入った制服に胸を膨らませて大嶋校長の祝辞を聞いていた。戦災で焼失した校舎の復興には諸先輩たちがあちこちから機材を集めて、どうにか学校らしくなりつつある時代である、ただ一つ残ったものがプールである。プールの隣には製材工場があり、盛んに電気のこぎりが製材している音をバックグラウンドに授業に集中し勉学に励んだ諸先輩たち(我々を含み)。今から思えば大変なことである。プールを取り囲むようにつぎはぎの校舎がだんだんと改築されていった。
 ところでこのプールは1935年9月に竣工・落成式のとき初泳ぎは、かの有名な北村久寿雄さん(ロス五輪金メダリスト)が泳がれたそうである。当時としては、このプールは最先端を行くものであつた。当時 高知商業の生徒であった北村さんは三高受験のため聴講生として土佐に勉強に来ていたとのことである。これは昭和59年6月都内五反田で、土佐中・高水泳部と高知商業水泳部の関係者の集いが開催されその時に伺った話である、参加者の土佐の、関係者は13回生 秦親憲・15回生 西村富博・16回生 浜田博之・20回生 久保内貞行 24回生 浜田憲三郎の諸先輩と32回生の小生てした。
活動状況 
 昭和26年当時水泳部部員は、28回生吉本功・田井敦夫・林寛・久松憲二諸先輩たちをトップに和気藹々と練習していたが、高知水泳連盟の役員の一部の方が、あまりぱっとしない成績を心配し、また自分たちの練習会場として利用するために当校にきて、我々を鍛えはじめたのである。コーチに来てたのは、西野恭正・片岡寅二郎・宮田さん、安岡信夫さん、みなさんそれぞれオリンピック選手選手達でした。成果はすぐに出始め、28年度の日本水泳ランキング、中学の部では、浜田成亮(32回生)100m・200m自由形でともに2位、小生 濱ア洸一400m自由形で13位、200mリレー(メンバー浜田・濱ア・谷淵・高橋)も2位にランクされた。30年度ランキング、高校の部 浜田成亮100m10位、200m2位(日本ランキング13位)同年高校選手権大会、浜田100m10位、800mリレー10位(メンバー田岡・濱ア・谷淵・浜田)。また28年まで開催されていた浦戸湾遠泳大会(約5Km)でも小生トップ争いをしながら1時間11分で2位の成績であった。
 最近の活動はプールも新しくなり、楠目博之顧問の下全国大会目指して活躍しており、Dolphinの題目で通信誌が発行されている。
 
 32回生・浜田成亮君は現在高知県難病団体連絡協議会・筋力無力症友の会役員として活躍中で、ボランティアで介護の仕事もしている。
 <エピソード>彼の娘さんが小学校時代。運動会で「父と走った」という作文がありこれがテレビでドラマ化されて放映された。ちょうど彼は無筋力症で動作が何もできない時代であった、13年の入院生活ののちヤット病名もわかり、それなりの治療といえる状態ではないが治療生活にあつた。小学6年生最後の運動会で親子での競争があることをしった彼は、娘のためと、一生懸命に練習をして、やっと運動会で走った、というものである。その後彼はマスターズ水泳大会に参加できるほどに、運動機能が回復したのである。
 同期としてまことに、彼の生命力に感心するとともに、健康第一に目的をもって、長生きしたいものである。


画像をクリックすると大きな画像が現れます。
(関連記事は1994.7筆山・28回生同人誌『くろしお』にもあります)  ページTOPに戻る

 ―三根校長のエピソードを探る―
中城正堯(30回) 2010.10.25猫の皮事件とスト事件のなぞ
細木志雄大先輩の校長追憶
 二十年ほど前、くもん出版にいた時だが宮地貫一先輩(21回生・現土佐中高理事長)から、『三根先生追悼誌』(昭和18年 土佐中学校同窓会発行)を復刻したいとのお話があり、出入りの印刷社でやってもらった。この本は、三根円次郎校長の人物や教育方針を知るにとどまらず、土佐中創立当時の学校の実態や師弟関係を如実に示す貴重な記録でもある。この復刻作業を進めるなかで不思議に思ったのが、細木志雄大先輩(2回生)の追悼文「三根先生の追憶」に出てくる以下の事件である。
 「先生について私が最も嬉しくかつ力強く感じたのは山形中学校長時代の猫の皮事件、新潟中学校長時代のストライキ事件等に見られる先生の稜々たる気骨である。信ずる所に向って勇敢に突入される態度、威武を怖れず、権門に屈せず、かりそめにも阿諛迎合されない気概、さらに事に当たっていささかも動じない肚(はら)、そこに先生の偉大さを痛感した」
 この二つの事件については、追悼誌の中の「三根先生を偲ぶ座談会」でも細木大先輩がさらに詳しく語っているが、伝聞であり事実かどうか確認がされてないと注記してある。そこで、山形・新潟双方の知人に調査を依頼した。その結果は28回生が編集発行した『くろしお 第四集』に概要のみ報告したが、補足を加えて再度明らかにしておきたい。なお、問題提起された細木志雄大先輩は、向陽新聞創刊メンバーのお一人である細木大麓さん(27回生)の父上で、東京大学農学部を卒業、戦後は高知県出納長などの要職に就き、土佐中高同窓会副会長でもあった。筆者が新聞部当時には、何度かインタビューに応じてくださった。向陽新聞10号17号21号に登場いただいている。

山形中学での猫の皮事件
 まず、座談会(昭和16年に東京で開催)での細木大先輩の発言を、全文紹介しよう。
 「あの添田敬一郎氏ね、あの人が山形県の知事時代に先生は山形の中学の校長だったのですネ。その中学へは添田さん以前の知事は卒業式には金ピカの服を着て出たそうです。ところが添田さんは背広で、しかもチョッキは毛皮だったのですネ。それで生徒達は学校を馬鹿にしているというので憤慨して、終了後知事が帰ろうとして玄関に出てみると白い模造紙に漫画を書いて、それに『添田猫の皮』という註が書いてあったそうです。(笑声)それを見て知事が憤慨して誰がこういうものを書いたのか調べて処分しろというのだそうです。ところが校長自身も生徒の気持ちがよく判かるし、無理がないという気持ちがしたのでしょう、処分も別にしなかったのですネ。知事は怒って校長をとうとう九州のたしか佐賀県の中学と思いますが、そこへ追い出してしまったということを聴いたことがあります」
 「あの添田敬一郎…」とあるように、添田は当時著名な人物で、東大から内務省に進み、埼玉・山梨の知事を経て大正5年4月に山形県知事に就任、翌年12月に内務省地方局長に転じている。その後政治家となり、衆議院議員に当選7回、民政党政調会長を務め、第二次世界大戦の頃には産業報国運動や翼政会で活躍した。
 猫の皮事件については、山形大教育学部の石島康男教授に調査を依頼した。程なく、山形中の後身校が刊行した『山形東高等学校百年史』などの資料が送られてきた。それによると、三根円次郎の第16代山形中学校長就任は大正2年1月、辞任は大正7年3月であり、その任期中の業績は「大正デモクラシーの中に」と題して記述してある。まず、経歴を述べてあり、明治30年に帝国大学文科大学哲学科を卒業した直後に修身・英語教師として山形中学に赴任、その後佐賀中学・徳島中学の校長を経て、39歳で再度山形中に今度は校長として着任とある。教育方針は「質実剛健の気風の中に自由闊達の精神を生徒に教え」、大正期における山中の気風が確立したとする。また、上級学校への進学を推奨し、山形の山中から日本の山中への脱皮を計ったともある。同時に学年別にコース(距離)を設定した全校マラソンを導入した。生徒は、校長の風貌を「眼光鋭く長髪をたくわえ、フロックコート姿の短身」「厳粛そのもの」と語っている。
 ただ、猫の皮事件は公式の記録には見あたらない。勅任官待遇を受け、絶大な権力を持つ当時の知事への批判的事件を活字にする事ははばかられたのだろう。しかし状況は符合する。添田山形県知事は大正5年4月に着任しており、猫の皮事件は大正6年3月の卒業式での出来事だろう。同年12月には離任し、内務省地方局長に就任している。この翌年に、三根校長は九州ではなく新潟中学校長に転じている。知事の転任が先で、校長の転校も懲罰人事ではあるまい。ただ、表沙汰になる事はなかったものの、知事の教育軽視へ反発した生徒による風刺漫画が、知事の大人気ない態度と、三根校長の権威に屈しない姿勢を鮮明に対比させ、土佐中にまで語り伝えられたと思われる。

新潟中学ストライキ事件
 細木大先輩は、同じ座談会でさらにこう述べている。
 「新潟中学時代にストライキが起こって、それからしばらく校長が行方不明になったのですネ。どこへ行ったか判らんというので大騒ぎをしたのです。そうしたら新潟県の地方の中学を回ってストライキ騒ぎで処分した生徒の転校先について話をまとめてきたというのです。つまり校長はストライキを起こしたについて痛烈な訓辞をやって無期停学の処分をして置いてから、それから行方不明になったのだが、それはその処分された生徒の転校先について地方の中学へ交渉しに回っていたというのですネ。」
 これを受けて都築宏明先輩(3回)は、「そういう点は土佐中学でも随分ありましたねェ。少し成績の悪い生徒に落第させないように他の学校への面倒を見たり…、他所へ行って優秀になったのが大分ありましたョ」
 ストライキ事件については、新潟日報編集局の佐藤勝則氏の手をわずらわした。こちらは『新潟高校100年史』に、以下のようにきちんと記録されていた。大正7年4月に第11代校長として着任、「小柄で黒い髭をたくわえ、眼光鋭く、人を畏怖せしめる風貌を持ち、言辞も明晰で理路整然、修身の時間ともなれば、クラス全員緊張し、さすがの腕白どもも粛然として高遠な哲理を承った」とある。昼食には五年生を三名ずつ呼び、「一緒に弁当を食べつつ、生徒の身上・志望を聴取し、その志望に対しては適切な指導をするというきめ細かな一面を持っていた」が、近寄りがたい人物とも見られていた。それは、「眼病のためにほとんど失明寸前の状態にあったのだ。そのため、…生徒に挨拶されても気がつかず返礼を欠くことが多かった。だから生徒は、校長を<冷淡で傲慢な人物>と思い込んだのである」。眼病故の誤解が生じていたのだ。
 この大正7年5月に新潟高校(旧制高校)の設置が決まると、新潟中学では入試準備の特別授業や模擬試験に忙殺されることになった。このような中で、6月18日に同盟休校が起こり、四、五年生の大部分が欠席した。理由書には「運動会の応援旗禁止」「処罰厳に過ぎる」などとあったが、実際は運動会後に生徒のみで慰労会を開いたことが発覚したので、その処分に対して生徒たちが先手を打ったとされる。さらに「強まる受験体制への不満、英才教育を掲げる三根校長への反発」もあったが、生徒側の根拠薄弱と100年史には述べてある。そして、中心生徒2名退学、2名無期停学などの処分が決まった。
 三根校長は大正9年1月に新潟中を辞任し、土佐中学の初代校長に迎えられる。大正10年の新潟中学30周年には祝辞を寄せたが、100年史にはこう紹介してある。「<私は貴校歴代校長の中で最も不人望で生徒に嫌われ、ついに排斥のストライキを受けた>と語り、しかし<卒業生や県当局の斡旋によって多数の犠牲者を出さずに解決できた>として感謝の意を表している。実は退学生徒の転学先について、何日もかけて県内各地を回り、熱心に奔走したのは三根校長自身であった」。

三根校長の歩みと土佐中
 細木大先輩が伝え聞いてきた三根校長をめぐるなぞの事件は、山形中学からの転任先が九州でなく新潟だった以外は、ほぼ正しかった。特に新潟中学では、正当な理由のないストライキの首謀者を厳しく処分しながらも、影では自らが転校先をさがして救済したのである。人材育成をめざして川崎・宇田両家が土佐中創立の際、校長の人選に尽力したのは土佐出身で元新潟県知事の北川信従と東京府立第一中学校長の川田正澂であった。『三根先生追悼誌』には、土佐中設立の趣旨は「機械的多数画一教育の弊を矯(た)め少数英才の個性長所発揮をはかり、将来邦家各方面の指導者たるべき基礎教育をなし、もって郷土ならびに国家に報ぜんとするにあり」とある。北川・川田ともに、この趣旨と三根校長の山形、新潟での校長としての手腕を充分見極めた上で、推挙したと思われる。また、三根校長も県立中学でのストライキ事件など苦い経験を生かしつつ、新設土佐中学の校風樹立に邁進したのである。
 なお、三根校長は長崎県私立大村中学・第五高等中学校(旧制熊本高校)から帝国大学文科大学哲学科に進んでいる。卒業した明治30年には京都帝国大学が誕生し、従来の帝国大学は東京帝国大学となる。文科大学には、哲学・国文学・漢学・国史・史学があり、後の東京帝国大学文学部にあたる。当時の文科大学卒業生の進路について、『東京大学物語』(吉川弘文館 1999年刊)で中野実(東京大学・大学史史料室)は、「主な就職先は中等学校の教員にあった。その中から少しずつ文学者が登場してきていた」と述べている。筆者が研究室に訪ねた際には、「外山正一学長は、中学の教職に進んでも職人的教師ではなく、研究も続けて自ら生徒に範を示せと説いた。当時は、高等学校の数もまだ少なく、県立中学が各県の最高学府であり、国をあげてその充実をはかっていた。帝大卒の教員は尊敬される存在で、その待遇もよかった」と語ってくれた。
 三根校長の哲学科同期は比較的多くて16名、一年先輩には桑木巌翼(哲学者・東大教授)がいる。国文科の一年先輩には高知出身の文人・大町芳衛(桂月)がおり、後に土佐中の開校記念碑文を書いて名文と讃えられる。国史科には三根と同じ長崎出身の黒板勝美(歴史学者・東大教授)や高知出身の中城直正がおり、中城は後に高知県立図書館の初代館長となって三根校長と再会する。
 土佐中時代に三根校長はほとんど視力を失うが、全校生徒と親しく接し、敬愛を込めて「おとう」と呼ばれる。そして進学した大学での勉学ぶりから生活態度まで熟知され、気にかけて下さったと、多くの先輩が体験談を述べている。ご子息の三根徳一(歌手ディック・ミネ)、結城忠雄兄弟にもかつてお話をうかがったが、ご長男・徳一が語り、『筆山』にも執筆いただいた「貫いた教育方針」が忘れられない。そこには、「父は学校で<おはよう>と誰にも帽子をとって挨拶するのが常だった。死の前日のこと、軍部の将校がこれを敬礼にせよと迫ったが、父は教育方針は変えぬと、言い通した。腹をたてた将校は酒に酔って自宅に乗り込んできて、父と言い争った。この出来事が引き金になって、父は脳内出血を起こしたのであろう」とある。細木大先輩が述べたように、「権門に屈しない気骨」は、晩年になってもいささかも衰えてなかったのである。
 なお、制服の袖に軍服をまねて白線を巻くようになったのは、二代校長青木勘の時代からである。三根校長は背広を望んでおられた。それにつけても、あと十年後に迫った開校100年には、ぜひ『土佐中高100年史』を刊行し、川崎・宇田ご両家から歴代校長・教職員・生徒・同窓会・振興会が一体となっての激動の時代の歩みをみんなでたどり、今後の母校発展に生かせるようにしたいものである。
(引用文は現代表記に改めた)  ページTOPに戻る

細木大麓(27回) 2010.10.10向陽新聞創刊の頃(メモ)
時代背景
●私たち27回生は終戦の翌年、校舎もない旧制の土佐中学へ入学した。総員54人だったと聞いている。

●自分たちで古い材木や瓦など運んで校舎ができたという話は今や有名で誰でも知っている。入学試験は当時の城東商業の教室、入学式は高知商業の講堂、そして毎日の授業は汽車で山田の小学校へ通った。私は行川という鏡川の奥の辺鄙な山村から6キロの山道を自転車で朝倉に出て汽車に乗った。

●敗戦国として歴史も地理も塗り替えられたところなので、それらの授業はなく、河野伴香先生に東洋史を習った。英語、数学、国語なども教科書はなく、先生が手書きのプリントを配ったり、先輩から古い教科書を借りたりしているうちに、今でいう新聞の折り込みチラシのような印刷物が少しずつ国から配られるようになり、それを綴り合わせると一冊の教科書になった。

●入学試験の口頭試問で大嶋校長から「民主主義」ということばを知っているかと聞かれた。私は山奥の誰も中学へなど行かないような小学校で、「町の子は受験勉強をしているぞ」と脅かされて心配だったが、前日、ヤマをかけて百科事典で「民主主義」を暗記していた。「人民の、人民による、人民のための政治だと本に書いてありました」と言ったら、大嶋校長に「よく勉強しているね」と褒められた。そんな時代だった。

●校舎の建築その他で授業が遅れていたのを補うため1年の夏休みに昭和小学校を借りて補習授業が行われた。私はそこで自転車を盗まれた。以来、2年ほど山奥の村から片道12キロの道を歩いて潮江まで通うことになった。一度自転車を盗まれると、もう買い替えることなどできない物資不足の時代だった。雨の日など、暗いうちに家を出て学校に着いた時は下着までびっしょり濡れており、冬の日は泣き出したいほどだった。

●その後、町に移って江の口の家から潮江まで歩くようになったが、それが嬉しくてたまらなかった。向陽新聞に関わり始めたのはそれから間もなくだったのだろうと思われる。

●昔の写真を見ると、私は厚手の兵隊服の上着を着、兵隊靴を履いていたようだ。肩にズックの大きな四角い鞄を掛けて行川から歩いた。2年生修了の集合写真では、殆どが国防色(カーキ色)の同じ形の洋服を着ている。国から払い下げでもあったのかもしれない。高校に上がったころは、闇市ででも手に入れたのかと思うが、革靴を履いているのもある。一方で帯屋町を、手拭いを腰に高下駄で闊歩したりもしている。貧しい中で結構服装が気になってもいたようだ。

●リベラル、セントラル、モデルなど洋画の映画館があり、アメリカ映画をたくさん見た。若い男女が、緑の美しい街で、公園で、学校で…、様々なカラフルな服装で、ブックバンドと称したひもで縛った本をぶら下げて楽しそうに活発に動いている姿に目を見張った。

●高知公園で時々駐留米軍主催の野外レコードコンサートがあった。主としてクラシックだったが、間にジャズなど軽いものを挟んであり、夜の公園の涼風の中で夢のような一刻だった。

●ある日、何時もつるんで遊んでいた悪友のS君と髪を伸ばそうという話になり、散髪屋へ行って伸びかけの髪の裾を刈ってもらった。翌日、早速大嶋校長から校長室に呼び出された。どんな風に言われたか記憶がないが、とにかく「すぐ髪を切れ」ということだった。「学生がそんなことに気を取られていてどうする」ということだったと思う。誰も髪を伸ばしていない中で先頭を切るのは少し度胸が要ったことは確かだったが、割合軽い気持ちでやったことだったので叱られたのはすごく心外だった。ただ、それを押して抵抗するほどの話でもないと諦めた記憶がある。皆が伸ばし始めたのはそれから間もなくだったと思う。

●当時、何人かの先生について「戦争中に軍隊で自分の身の安全のために部下を犠牲にした」という種類の噂があった。私たちは数人でその先生を教室や放課後の芝生で問い詰めた。この話は覚えている学友がたくさんいる。しかし、これは今反省して心から恥ずかしく思うことの一つだ。そんなに悪辣な、先生に対するいじめのようなものではなかったと思う。しかし、はっきりした証拠もない、一方的な噂話に過ぎないことについてこの軽率で配慮のない行為は許せない気持ちだ。

●価値観の混乱した時代で、当時この種のことを自由や批判精神の履き違えと言った。余談ながら、その後60年もたった今、こういったことは反省されるどころかさらに別の形でもますますひどくなっているように感じられて仕方がないのは年寄りの僻目だろうか。

土佐高の状況
●校舎はない、先生はいない、学生数は少ないという経営難、そして混乱した世の中で早急に今後の方向を決めなければならない。相談相手もいない中で、大嶋校長のご苦労は想像に余りあるものだったと思う。

●そんな中で、私たちの一年下から大幅に人数が増え、男女共学になった。建学の精神ということについては中城KPC会長ほかいろいろの人が触れているが、これとこの一種の方向転換がどういう関係になるのかということは大嶋校長自身ずいぶん考えられたことと思う。その一方で日本全体の学校制度、教育制度自体にも大きな変化があったわけだった。

●男女共学ということについては、高知大学の阿部先生にお願いして「向陽新聞第4号」に書いていただいたことがある。文芸部発行の「筆山第4号」に私の父細木志雄がやはり書いている。大島校長からはこの問題について伺った記憶はない。これは経営難の問題とは関係のない何かお考えのあってのことだったと想像するが、当時としてはかなり突飛な発想だったのではなかろうか。もちろん結果は素晴らしいものだったと思う。

●建学の精神の話に戻るが、その後の土佐高校の様子につて私は申し訳ないが従いて行っていない。現在のポリシーというか、考え方について機会があったら知りたいと思うようになっている。

●入学翌年の昭和22年頃の先生方の写真がここにあるが、担任だったオンカンをはじめ本当に懐かしく、特に親しく教えをいただいた先生がたくさんおられる。と言っても、総員15名の少数精鋭だった。高校に上がるころ続々と先生が増えたが、伊賀先生もその中におられた。

●伊賀先生は社会科の担当だった。その頃文部省発行の「民主主義」という結構分厚く、上下巻に分かれた教科書があったが、先生はこれを使って授業をした。その中で修正資本主義とか、弁証法とか、アウフヘーベンなどという言葉を教わり私は妙に納得したのを思い出す。 東大の経済学部を出て銀行に入ったが、組合運動か何かでやめることになり、どういった縁かわからないが、土佐へ来たという噂があった。いつもよれよれの服装だったが、しばらく経ってからある日突然真新しい背広で現れた先生があまり立派で驚いたのを覚えている。

●私たち数人(岩谷、中屋、杉本、垣内など)は先生を囲んで勉強会を作った。勉強は学校の教科書などとは離れ、英語の時事評論や小説の講読会をやった。小泉信三の「初学経済原論」などというのも一緒に読んだ。私の家で先生はソファに寝転がり、その周りを我々が囲んで座った。先生の薦めてくれる岩波文庫などはそれぞれがたくさん読んだ。先生は新しい教育制度に反対だったし、当時の土佐高校の行き方についても批判的だったと思う。そして、昔の旧制高校ののびのびした生活を我々に再現させようとしていたようだった。
 受験勉強は横にやられていたが、私はその時代が忘れられない。伊賀先生と共鳴していたのが、公文先生であり、広田先生だった。その頃の想い出話を岩谷君らとできると素晴らしいと思うのだが…。
 ずっと後のこと、私の勤め先に仕事の関係で来訪してきたある人が、突然伊賀先生の話を始めた。「伊賀さんからあなたのことを聞いた」とのことで、先生はその頃広島で大学の先生をしているという話だった。間もなく亡くなったと聞いたが残念だった。

新聞部創設のこと
●これを書けと言われているのに、残念ながらまるで記憶がない。岩谷君に誘われて参加したことは間違いないと思っていたが、これも怪しい。彼から「今度、部長というものが必要になった。わしはどうしても編集長をやりたいきに、部長はおまんがやったとうせ」と祭り上げられたことを覚えている。私もその方が楽だと思って引き受けた。

●しかし、その前に山崎和孝さんがおられたらしい。第4号では山崎さんが発行人、私が編集人になっている。私には岩谷君と一緒に印刷屋で割り付けを工夫し、校正で徹夜をしたというような記憶しかないが、それはもう少し後のことだったかもしれない。岩谷君の名前は第6号から出て来る。創部の頃のことを何か書かなければと思って、先日、思い切って山崎和孝先輩に電話して60年ぶりに話をした。大学でも一年先輩だったし懐かしかった。

●山崎さんから聞いた話。私流の解釈で、山崎さんのチェックは受けていないがおよそ次のようなことだったと思う。
(1)新聞に関心もあり、問題意識もあり、西原さんらと新聞を発行することにした。文芸部の富岡さんの協力などあり俳句なども載せた。山崎正夫さんも編集には加わらなかったが協力してくれた。
(2)伊賀先生に部長を依頼したが、生徒たちが自分でやれということで創刊号では編集人という名を避け、先生には顧問になってもらった。第2号からは責任者ということで自分の名を出した。
(3)寛容な時代で高知印刷での校正に授業を抜け出して行くのを学校が許してくれたりしたが、そんな調子で何部か発行したと思う。
(4)そのうち山崎正夫さんが岩谷君を紹介してくれた。山崎和孝さんは文芸的、岩谷君はジャーナリスト的でいい組み合わせだった。
(5)京大新聞部を訪問した。その時高知の他の高校にも新聞部がたくさんあることを知り、横のつながりを作った。第一高女、追手前高校などで大会を開いたが、仕掛け人は山崎さんだった。

●よく整理がつかないが、私は一年上の山崎さんとは以前から美術部やコーラス部などでご一緒して親しくしていただいており、新聞部にも加わっていたのかもしれない。ただ、そう熱心ではなく山崎さんと印刷屋へ行ったような記憶もない。あの伊賀先生が、山崎さんの頃の顧問ということになっているが私自身は伊賀先生と新聞で関わった記憶が全くない。その後岩谷君が参加した頃から私も少しは活動するようになったということだろう。いろいろな人に原稿依頼に歩いたり、インタビューをしたり、広告を取りに回ったり結構忙しかった。他校との交流もずいぶんやったが、これも岩谷君と一緒だった。以後彼と編集人、発行人を交代でやっている。思えば彼とは徹夜のポーカー、公文先生の知寄町のお宅の天井裏での数学勉強、伊賀先生を囲んでの勉強会等々いつも行動を共にしていた。懐かしい。彼がいれば昔のことが何でも分かるのに…。
以上  ページTOPに戻る

細木大麓(27回) 2010.09.15卒業秘話そして折々の恩師たち
KPC事務局殿
 ご依頼の「向陽新聞創刊当時の経緯」についての原稿ですが、小生現在すぐ取り掛かれる状況にありません。取りあえず、いくつかの参考になりそうな材料をお送りしておきます。 その中の、「卒業秘話そして折々の恩師たち」は、2007年に大学のクラス会の「卒業50年記念誌」に載せたもので、土佐高のこと、伊賀先生のことなどに少し触れています。
 ご依頼の原稿にはできるだけ早く取り掛かるつもりです。   細木大麓拝
* * * * * * * * * *
 50年前の2月初旬、その朝、必須科目である辻清明教授の行政学の試験を最後に学生時代の苦労からはすべて解放されるはずだった。ぐっすり眠ってふと目が覚め、時計を見て驚いた。試験はあと10分で終了! 下宿から走れば10分で試験場まで行けるので、もう5分早かったら名前くらい書けたのだがもうそれも間に合わない。前夜勉強の後、行きつけのトリスバーで少し飲んで気が緩んだらしい。何時もの自分にしては早い決断で辻教授の研究室へ走った。どうしていいかわからなかったが、とにかく試験を受けさせてもらう方法がないかとお願いするためだったと思う。
 教授は「就職は決まっているのか」と聞かれるとすぐ、「学部長に相談してみよう。ついて来給え」と言われた。学部長室で岡義武教授は立って迎えて下さった。そして話を聞いた後しばらく考えた上で謹厳にしかし優しく言われた。「やはり特別な扱いはできないな。将来君が偉くなったりして、そんな話は笑い話として扱われることがあるかもしれない。それは東大の権威に関わることになる」と。本当にもっともなことで自分が恥ずかしかった。そして6月に追試験を受けることになった。
 辻教授はその後、研究室で親身に考えて下さった。幸いなことに富士重工の人事担当O取締役は辻教授の大学同期であり、しかも辻教授は三高の弓道部、O取締役は一高の弓道部で旧知の仲であることがわかった。しかし今度はO取締役が苦労される番だった。社内の役員会で、「卒業していない者を入社させることは前例がない」という反対の中で大変だった話を後に聞いた。この話は本邦初公開、僕の会社では誰も知らない話だ。
 退職後数年たったこの頃、この95歳でかくしゃくとしている大先輩とは月1回の麻雀卓を囲んでいる。頭は上がらないが小遣いを頂ける時は遠慮なく頂くことにしている。
 
 ところで、僕は小学校で一度落第している。父の仕事の関係でその頃は宮崎に居た。2年生の夏、父の東京への復帰が決まり、引越の荷造りが進んでいる最中に突然妹を疫痢で失った。その葬儀の最中に今度は僕が高熱で倒れジフテリアと診断された。何とか血清が間に合い一命を取り止めたが、もし一年以内に再発すると今度は血清が効かないので命はないと宣告された。夏休みが終わった頃東京へ移ったが、僕はそのまま休学させられ翌年2度目の2年生として阿佐ヶ谷の小学校へ入学した。
 ここで設楽先生という素晴らしい先生に出会った。僕はその年始めての試みとして作られた「男女組」という共学のクラスに入れられ、その担任が設楽先生だった。宮崎の師範学校付属の小学校の硬さとはがらりと変わった自由な雰囲気だった。先生はいつも宮崎弁丸出しの僕に皆の前で本を読ませ、いちいちアクセントを直した。宮沢賢治を好きな先生で、全員が「雨にも負けず」を暗唱させられた。先生の指導で僕たちは何回かラジオの子供劇に出演し、当時NHKがあった芝の愛宕山へ通った。「水筒」という教育映画にも出演した。勉強をうるさく言われた記憶はない。僕の父が、この先生の「どうでもいいところ」がいいといつも言っていたのを思い出すが、その頃の僕にはその意味がわからなかった。
 親友も出来、女の子たちともよく遊び、楽しい毎日だったが2度目の2年生が終わった頃僕はまた病気になった。今度は肺門リンパ腺炎と診断され、結局3年生は丸々休んでしまった。しかし、また落第かと覚悟していた時、設楽先生に助けられた。「一年遅れているし、成績の方は大丈夫だから進級させていいのではないか」と先生が熱心に主張して下さったとのことで、ルール違反の進級だったが、形にこだわらない融通無碍な設楽先生のおかげだった。
 
 戦争が激しくなり僕は高知市の叔父のもとに預けられたが、まもなく高知市も大空襲で一夜にして灰儘に帰し、僕はさらに山奥の、全校生徒合わせて50人という国民学校で終戦を迎えることになる。
 翌春、旧制土佐中学に入学した。これは英才教育を目指すとして大正末期に創立された特殊な私立学校で、昔は一学年15人、県下の小学校に推薦人員を割り当てて、一週間の缶詰試験で選考したといわれる。ほぼ全員が中学4年で旧制高等学校に入学した。 僕が入学したのは空襲で全焼して校舎もない状態の土佐中学で、経営難に苦しめられて昔の面影などなかったがそれでも3日間の試験があった。入学人員は経営難を緩和するため60人に増えていた。笑わないでほしいが僕はその入学式で新入生代表として宣誓文を読み、その後も数年は授業料免除の特待生だった。
 中高一貫の6年制学校だったのでそのまま高校に進学した。ここでまた僕は一人の先生に心酔した。 新しく入って来たこの伊賀先生は赤線地帯のど真ん中に下宿しているという噂があり、何時も同じよれよれの汚い洋服を着ていた。実は東大の経済学部を出てある銀行に入ったが、組合運動で首になり、縁もゆかりもない高知まで流れて来たらしかった。ある日突然真新しい背広を着て現れた先生があまり立派だったのに驚いた記憶がある。
 先生は新しい教育制度に反対で、さらに英才教育を標榜しているこの学校の教育方針にも批判的だった。そして旧制高校ののびのびした学生生活を我々に再現させようとしていたようだった。因みに、同じ考えで伊賀先生と意気投合していたのがその後今や世界的に有名な「くもん教室」を立ち上げた数学の公文公先生だった。僕たち数人は伊賀先生を囲んで何時も夜集まった。先生の推薦してくれた岩波文庫の本を沢山読んだ。また、英語の参考書を離れ、英語の時事評論や小説の講読会をやった。 小泉信三の「初学経済原論」などというのを一緒に読んだ。時々喫茶店で駄弁るのも大人になったようで楽しかった。学校の成績は下がり、最早特待生ではなかった。
 父はこの学校の先輩で、この学校を愛していた。だから少し心配だったに違いないと思う。しかしそのことについて父は何も言わなかった。父に一貫していたのは「公式的なものの考え方をしない、型にはまらない、いろいろの価値観があることを認める」というようなところだった。
 
 僕自身高校生活に悔いは全くない。充実していたと思う。しかし、本当に趣旨がわかっていたかどうかは疑問だ。楽で、楽しい方に流れていただけかもしれない。大学には今度こそ勉強するために入ったはずだった。それをそれまでの延長で、楽しく(?)過ごしてしまったのは大いに悔やまれる。ただ、いつも大事な時期に現れた、心酔できる先生たちのおかげで、そして後押しをしてくれた父のおかげで、「型にはまらない、柔らかい考え方をしよう。そしてその中で自分の軸だけは外さないでいよう」と心がけては来たと思っている。
以上
  ページTOPに戻る

山岡伸一(45回) 2010.09.05高新連のこと
その1(昭和42年)
 確か中三の時に同学年で同じ後免から土電で通っていた川田(現岩口)智賀子さんに誘われて、元々興味はあった新聞部に入部したのだったが、中二からやっていたバドミントン部との掛け持ちの身ではあり、大勢の先輩たちもみんなエラク見えてなんだか敷居が高く、中学時代はあんまり部室に出入りしていなかった。しまいに、このままでは中途半端だからバドミントンか(バドミントンも下手くそだったが)新聞部かどっちかに絞ったほうがよくはないか、やっぱり新聞部を辞めようと心を固めていたら、高一になってみると、川田智賀ちゃんはじめ奥田(現濱川)弘子さん、田中(現辻田)多恵さん、中井興一君、和田満子さんら、新聞部に先に入って大勢いた同級生らがみんな辞めてしまって自分一人になっているということだった。人を誘っておいて自分がさっさと辞めてしまうとはひどい話だが、それで一年上の井上晶博さんに、新聞部の命運はお前にかかっちゅうがやきお前を辞めさせるわけにはいかん、バドミントン部を辞めて新聞部に残れ、とかき口説かれて、結局新聞部に留まることにしたのだった。
 そしたら昭和四十二年、高一の夏、東京で開催される高新連(全国高校新聞連盟)の第十八回定期総会に行かせてもらえることになった。学校から認められたのは四名で、高二の井上晶博さん、松本(現永森)裕子さん、中村(現川野)恵子さんの三人に本来なら加賀野井秀一さんが行くところを、「僕は自分で行くき君が行きや」と譲ってくれ、高一の自分を行けるようにしてくれたのだ。初めての東京行きである。
 引率は副顧問の国語の田村(現矢野)尚子先生で、山陽新幹線はまだなかったので宇野から寝台特急で行ったと思う。宇高連絡船からの乗り換えの混雑の中で早速スリの洗礼に遭い、宇野で気が付くと腰のボケットに入れていた財布がなかった。
 東京に着いて国電に乗り替える時、電車の乗降口がみんなホームと対々なのを見て、わざわざ電車とホームの高さを合わせて作っているのかと、土電のよっこらしょと上がる電車しか知らない身には第一のカルチャー・ショックだった。
 宿舎の、御茶の水だったか水道橋だかの旺文社の日本学生会館に入ってから、みんなで散歩がてら東大の赤門を見に行こうということになって出かけた。加賀野井さんとはいつ合流したか記憶がないが、この時には一緒だったように思う。赤門をくぐって三四郎池の辺りまで散策してから、赤門の向かいの路地を入ったところにあった洋食屋(というかレストランというか)で食事をとり、この時食べたポークチャッブだかチキンソテーだかが、これまで食べた初めてのちゃんとした洋食だったような気がする。
 それからさらに歩いて忍ばずの池のほとりに出、茶店でかき氷を頼んだら、器の底に蜜があって、底のほうから突き崩しながら食べねばならず面倒で、東京のかき氷はこんなんかと、これが第二のカルチャー・ショックだった。
 総会の会場は早稲田大学だった。この頃はまだ学生運動に火がついておらず、構内はのどかなものだったが、大学で会ということでなんだか大人びた気分に感じられた。総会のほか分科会というのもあって、みんなと離ればなれになり、発言を求められたらどうしようとハラハラで、肝心の会の内容はさっぱり覚えていない。
 会の後の空き時間には大先輩の岩谷清水さん(二十七回生)がお世話下さった。高田馬場で落ち合って、有名人も来るというレストランでご馳走になって(サラダがとてもおいしかった)、松本さんたちのリクエストで、夜新宿の歌声喫茶に連れて行ってもらった。
 食べ物のことばかりよく覚えていて、この間(平成二十二年八月二十一日)の高知支部立ち上げ会でも川田智賀ちゃんに「ひもじかったがやろ」とちゃかされたが、ずっと後年赤門前と高田馬場の店を探してみたが、様変わりしている感じでわからなかった。
 さて、二学期の始業式で、夏休み中に学校の費用で「遠征」に行ったクラブはその報告をせねばならず、どうしてだか、どうも井上さんにうまく回されたに違いないのだが、新聞部は自分がやるはめになり、それで思わぬ大失敗をやってしまった。何構わず「高新連の総会に(加賀野井さんを含め)五人で行って来ました」と言ってしまったのだが、後で顧問の小松博行先生が部室に見え、学校が認めたのは四人のはずだが五人と言ったぞ、と職員会議で問題になり、田村先生が大変窮地に立たれたことだったので、お詫びを言っておくようにと言われ、青ざめた。(改めてお詫び申し上げます。大変ご迷惑をおかけしました。)
 写真はもっと一杯撮ったはずだが、アルバムには自分に関係したこの四枚を含め五枚しか張ってなく、他には残念ながら残ってない。実は、戻ってから先輩たちを撮った写真をそれぞれにあげた時、松本さんに「ネガをもらえない?」と言われ、なぜ?とは思ったものの、ほっそりした美人の先輩の魅力に眩まされてあっさり差し出してしまったのだ。そしたらこの間の立ち上げ会で、「あの時の、三四郎池の脇の木の横に立ってる写真だけしかアルバムに張ってなくて、それしか写真残ってないの。あれ、誰が撮ってくれたのかしらね?」と松本さん──「僕ですよ!」と言いつつ、「それならあのネガは一体…?」と、あっさりあげてしまったことを深く深く悔やんだ。
その2(昭和43年)
 昭和四十三年、高二の夏、また高新連の第十九回総会に行かせてもらうことになった。高二の自分と高一の藤戸啓朗君・宮川隆彦君の三人で、引率は新顧問の平岡竹彦先生だった。高一にはもう一人吉川寿子さんがいたが、三人しか認められなかったのか、女子一人ということで吉川さんが尻込みして辞退したからか覚えていない。この年のは、しかし、ネガは自分で保管してあるので、写真はたっぷりある。
 七月二十七日に出発して、前年と同じく高松から連絡船で宇野に渡って寝台特急で行ったと思うが、今度は宮川君が掏られたらしく、財布がなくなったと言って騒動になった。帰りは歩いて帰ると言い出して往生した。
 宿舎はこの年は九段会館で、さすがに女子は別室だったと思うが、男子は写真のように広間で事実上雑魚寝だった。窓から武道館が見えた。
 総会の会場はこの年も早稲田大学で、七月二十九日から三十一日まで開催された。この年は学生運動真っ盛りのはずだったが、構内の到る所に色々な立て看板が見られ、密かに興奮をおぼえたものの、構内は割と穏やかだった。考えてみれば、この年よく会場に早大が借りられたものと不思議に思うのだが。
 首都圏の高校生たちは相当進歩的な趣だったが、自分も少しは度胸ができていたので、総会でも分科会でも少しばかり発言もし、宮川君も発言した。ところが、前年同様会の内容については、自分が何を言ったかも、まるで覚えていない。
 会の前後の空き時間には、またもや大先輩の岩谷清水さんにお世話になった。ちゃっかり、何でも岩谷先輩を頼れという「伝統」ができていた。また、日大の芸術学部に入られていた四十三回生の山口俊二さんも駆けつけて下さった。
 到着した二十八日に早速山口さんと一緒に新宿で岩谷さんと落ち合い、西大久保の岩谷さんの仕事場に案内された。本棚には本がびっしりで、いかにも書斎といった趣で、興味津々だった。
 同じく新聞部の先輩で、中城正堯さんや岡林敏真さん・松木さんらが働いておられる「学研」こと学習研究社を見学させて下さるということで、翌々日三十日の会の後山口さんと落ち合って、一緒に大田区上池上の学研本社を訪ねた。この時の写真に岩谷さんは写ってないので、自分たちだけで行ったものらしい。またこの時、知り合いになっていた高松高校の樋口君が一緒に連れて行ってくれないかと言ったので同行した。
 着くと、中城さんが地下の社員食堂から写植室・写真資料室や企画資料室、「学習」や「科学」の編集室などを案内して下さった。中城さんは「四年の学習」、岡林さんは「三年の科学」、松木さんは「フェアレディ」の編集を担当しておられるということだった。松木さんのデスクへ行くと写真撮影のためにポーズを取って下さった。写真資料室では中城さんがオーストラリアへ取材旅行に行かれた時のカラーポジフィルムを見せて下さった。オーストラリアのどこへ何を取材に行かれたのか、など具体的な事を質問すべきだったが、ただもう夢中で、新聞部員の心得などすっ飛んでいた。「学研」という大出版社に土佐高新聞部の先輩が三人もいらっしゃるということに感激し、誇らしかった。
 見学の後は大徳飯店という中華料理店でごちそうになった。
三十一日の会で閉会となり帰途につくことになったが、財布を無くした宮川君は、旅費は平岡先生が立て替えて下さることになったが、一人で帰りたいと言い張って別の経路で帰ることになり、藤戸君と先生と三人で予定の列車に乗った。
 岩谷さんには最終日の帰途につく前、新大久保あたりのガード脇の、熊の毛皮を飾ってある居酒屋みたいなところでまた御馳走になった記憶があるが、この年のことか前年のことかはっきりしない。
 高松高校の樋口君とは奇遇にも、自分が阪大に入ってから再会することになった。同じ法学部に高松高校から来ていた女の子がいたので、新聞部にいた樋口君という人と知り合ったが知らないかと聞いてみると、彼女の友達で、やはり阪大の文学部に入っていると教えてくれて、引き合わせてくれた。宮川君は静岡などに寄り道しながら帰ってきたそうで、その道中で知り合った人といまだに交流が続いていると、この前の高知支部立ち上げ会の時語っていた。
 さて、充実した体験だった「学研訪問記」を向陽新聞に掲載します、と約束して帰高したのだったが、見学の間メモも取ってないおそまつさで、具体的な細部がどうにも思い出せず、ペンが進まずに悶々としているうちに記事にできないまま終わってしまい、岩谷さんからきついお叱りの手紙をいただいた。ここにも掲載した数多くの写真を見るにつけ、記事にしていればきっといい紙面ができていたに違いないのに、と今もってほぞを噛む思いである。先輩方には改めてお詫び申し上げます。
 前の年といいこの年といい、お詫びで終わる情けない回想記である。


  ページTOPに戻る
記事募集中
土佐向陽プレスクラブ