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 このページはいわゆる社会面です。報告・出来事・お知らせ・案内・コラム等その他の記事を掲載しています。
2018.10.25 二宮 健  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その4〜
2018.10.10 二宮 健  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その3〜
2018.09.25 二宮 健  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その2〜
2018.09.12 二宮 健  プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その1〜
2018.06.28 公文敏雄  大町玄先輩(30回)のご葬儀         
2018.06.28 中城正堯  名編集長:大町“玄ちゃん”(30回)を偲んで
2018.06.28 藤宗俊一  寛容の精神溢れる玄さん
2018.02.25 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4
2018.01.21 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3
2018.01.02 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2
2017.11.18 二宮 健  微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1
2017.04.28 水田幹久  雑感 「地域コミュニティ」
2017.04.18 竹本修文  ヨーロッパ・パーティ事情
2017.03.03 二宮 健  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4)
2017.02.03 二宮 健  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)
2017.01.04 二宮 健  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2)
2016.12.26 坪井美香  『死者の書』公演のご案内
2016.12.03 二宮 健  マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1)
2016.10.31 笠井賢一  新作能『鎮魂』公演のご案内
2016.10.15 藤宗俊一  笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去
2016.09.23 中城正堯  「公文禎子先生 お別れ会」のご報告
2016.04.06 森木光司  我が友岡林敏眞君を悼んで   
2016.03.31 堀内稔久  「憂い」を秘めた顔
2016.03.31 濱ア洸一  岡林敏眞君を偲んで
2016.03.12 吉川順三  新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
2016.02.28 中城正堯  20世紀美術の先端を駆け抜けたアーティスト
2016.01.15 藤宗俊一  野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
2015.08.15 中城正堯  校歌の謎1への回答
2015.08.01 公文敏雄  今更訊けないこと…母校校歌の三つの謎
2015.06.27 藤宗俊一  二つのご案内
2015.05.21 中城正堯  身辺整理に専念します
2015.04.16 水田幹久  地球の裏側(アルゼンチン)で感じたこと
2015.01.09 藤宗俊一  あけましておめでとうございます
2014.04.15 笹岡峰夫  笠井賢一(42回)演出「死者の書」案内
2012.04.04 笹岡峰夫  新作能「無明の井」の公演のお知らせ
2011.11.03 笹岡峰夫  「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
2011.08.10 中城正堯  展覧会と講座のご案内
2011.05.20 藤戸啓朗  会費はどのように
2010.10.25 鍋島高明(30回)  『岩崎弥太郎−海坊主と恐れられた男』
2010.10.12 藤宗俊一  土佐、6年ぶり四国大会へ
2010.09.06 濱崎洸一  近況報告
2010.09.05 岩口智賀子  改名届け
2010.08.26 岡林敏眞  「画柳会」展覧会への御案内
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その1〜
二宮 健(35回) 2018.09.12


著者近影(シチリア島にて)
 2015年にバリ島を訪れた外国人観光客は395万人で、その内の日本人観光客は、約23万人とのことである(州政府観光局)。
 さて、唐突であるが、今迄にバリを訪ねたことのある人の中で、ヨハン・ルドルフ・ポネという1896年にオランダのアムステルダムに生れ、バリ島に長い間住み、バリ芸術、特に美術発展に功績を残して、1978年にオランダで死去した人とか、グスティ・ニョマン・レンバットという名前で1862年にバリ島で誕生して、1978年に116才で死んだ、日本で言えば、文久年間に生れ昭和年代に死去したバリの画家を御存知だろうか?本題から外れるので詳伝は割愛するが、彼等を含む沢山の先達が、今のバリ島の観光の先鞭をつけたことに、異論は無いことと思う。そこまで思いを致して、バリ島を観光する人は皆無に近いかもしれない。私が、初めてバリ島を訪れたのは、1978年(昭和53年)であった。それ以降20回近く訪ねたバリ島の今昔を書いてみた。

1978年当時の
インドネシア入国の査証
 丁度初めてバリ島を訪ねた1978年は、現在76才の私が36才の年齢であり、その年にリリースされた山口百恵の「プレイバックPart2」というシングル版が大ヒットした年でもあった。ちなみに山口百恵は当時19才であった。そんなことから、表題を「プレイバック・バリ」とした。そしてその頃からのバリ島を振り返ってみたい。
 約40年前のバリ島は、未だまだのどかな観光地であった。観光訪問が目的でもインドネシア入国の査証(VISA)が必要で神戸のインドネシア総領事館を訪ねて査証申請をした。
 1978年当時は、バリ島のデンパサール空港へ向うのには、大阪伊丹空港の国際線を出発して、香港で乗り換へて、デンパサールへ向うキャセイ航空利用か、もしくは、同じく伊丹発でシンガポールへ向いそこで乗り換へてデンパサールへ向うシンガポール航空を利用するのが、関西からは便利であった。両航空の使用機材は、今ではほとんどが退役をしているが、当時は新鋭機種の一つであるB-707(ボーイング707型)機であった。

キャセイ航空の
当時のB-707型機

シンガポール航空の
当時のB-707型機
 伊丹と香港間は、所要約4時間30分、香港とデンパサール間は約6時間で計約10時間30分、また伊丹とシンガポール間は約7時間30分、シンガポールとデンパサール間は約3時間で計約10時間30分と、いずれのコースを取っても乗り換へ時間を加えると約12時間を要して、伊丹から、バリ島のデンパサール国際空港へ到着した。ちなみに現在は、関西国際空港から、3274マイルの距離を約7時間20分で飛行している(直行便の場合の飛行時間)。それだけ約40年前からすると、バリ島は関西から近くなったと言える。私自身は1978年から、1979年の二年間に計3回バリ島を訪れた記録が、旅券の出入国欄に残されているが、特に1979年には、「エカ・ダサ・ルドラ」と呼ばれる、バリヒンドゥ教の、100年に一度の盛大な儀式があり、これはバリヒンドゥ教の総本山であるブサキ寺院で行われた。同寺院はアグン火山の中腹に位置し、バリヒンドゥ教の崇拝の頂点に立つ寺院である。当時大統領であったスハルトや多数の要人が参加して、世紀の祭典を祝った。

バリヒンドゥ教の総本山ブサキ寺院
 インドネシアは人口約2億3500万人の中でムスリムが約87%、ヒンドゥ教は1%未満であるが、バリ島ではほとんどが、ヒンドゥ教徒であり、バリヒンドゥ教徒と呼ばれている。現今、ムスリムの島内への浸透も多い。さて、この1970年代の末頃から、観光客が増えてきたように思える。アグン山とブサキ寺院は、バリヒンドゥ教徒にとっては、宇宙の中心と考えられており、私もアグン山に登り、同寺院を外側より拝見をした。ブサキ寺院の背後には、バリ島最高峰アグン火山があって、景色も非常に美しい。さてそのブサキ寺院は、三十数ヶ寺の集合体寺院であり、それぞれの寺院に由緒があるのは日本の神社とも似かよっている。全ての寺院に神が降ってくる一年に一度の大祭はその年によって異る。そのブサキ寺院で100年に一度の大祭が1979年に行われたのだ。さて当時のバリの空港は、バリの英雄ヌラライからとってその名をヌラライ空港と呼ばれていたが、現在の小さいながら機能的な国際空港からは、想像も出来ないバラックのような空港施設であった。

ヌラライ(バリ島)空港旧空港施設
国際空港と呼ばれるには、程遠い空港であった。また当時は、入国管理官は少しでも問題があれば(それも一寸したミス)、当然の如く、袖の下(賄賂)を要求するような施設であった。また航空機に預けた荷物を引き取るターンテーブルでも、ポーターが荷物を奪い合って、チップを要求するような、無秩序な状況であった。このヌラライ国際空港は1969年に、ジャカルタについでインドネシアで二番目に国際空港として開港した。私が初めて訪ねた頃は、空港からホテル迄、暗闇の中を、小型チャーターバスで、ツアーの客は運ばれた(大型バスはまだ運用されていなかった)。
 1978年頃は団体ツアーと言ってもバリ島へのツアーは一団体にせいぜい15名から20名未満であり、新婚のカップルも二組から三組位参加をしていた。私が初めてツアーを引率した時の参加カップル(高松市と加古川市から参加)に既に孫が誕生されている。当時私は36才であり、彼等は25才位であった。毎年年賀状をいただいて、近況を知らせていただいている。いかに時間が過ぎるのが早いかを思い知らされている。その頃のバリ島のホテル事情は、一流ホテルと言われたものは、日本が太平洋戦争の戦後賠償金で支払ったお金で建築された、サヌールビーチにあるバリビーチホテルしか無かった。今も営業をしているが、当時の最高級ホテルの面影はなく、何回もの改築の後、一応五ツ星クラスにランクはされているが普通の変哲のないホテルになっている。しかし当時は欧米を含めてバリを訪れるお金持の観光客や日本からの団体客は、ほとんどがこのバリビーチホテルに宿泊をした。

現在のバリビーチホテル
 バリで忘れられない思い出の一つは、最初にバリを訪ね、バリビーチホテルに宿泊した翌朝、ホテルの前のサヌールビーチに立った時である。朝日が昇り、朝日にまぶしく輝く長大なビーチに椰子の木と、その下に現地の人がまばらに居て、観光客にヨットの客を引いている姿であった。余り商売熱心でなく、本当にゆったりと時が流れており、自然そのままの砂浜であった。浜は海水浴には向いていないとのことで、海水浴客もなく、キラキラと輝く海と砂浜と朝日がそこにあって、何とも言い難い美しい風景であった。今のバリにはのぞむべくもない、自然がまだ残っていた。
 その、一流ホテルと言われた、バリビーチホテルも規模が大きいのに、娯楽施設と言えば、卓球台と雑貨店のような売店と、ゴルフをする人の為に九ホールのプライベイトゴルフ場があるのみであった。それでも、夜を迎へて夕食時には戸外の舞台で演じられるレゴンダンスなどが華やかに演じられて、これも初めて観る私には、大変魅力的であった。その後も20回近くのバリ島訪問では、バロンダンスやケチャ、チャロンアラン、トペンやガンブーなどの踊りに接するようになった。
(以下次号)
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その2〜
二宮 健(35回) 2018.09.25


著者近影(シチリア島にて)
 当時は、バリ島の受け入れ旅行社は通称ナトラブ(ナショナル・トラベル・ビューローの略称)というインドネシアの半国営に近い旅行社のバリ事務所が、島内のバスやガイド、ホテルなどを手配しており全てにゆったりとした気風であった。
 その後、日本人観光客が沢山バリを訪れるようになると、あっという間の短期間に日本資本の大小の旅行会社がバリ島を席捲した。なんとなくあの当時のゆったりしたバリを知る筆者には淋しさが残る。つまり旅本来の持つ、余裕が旅には無くなったように思える。何回かバリを訪ねるうちに、上流のカーストである、僧侶階級のカーストの出身であるガイドと親しくなり、このガイドの通称ヌラーさんから、観光のあいまに、例えばケチャダンスの鑑賞を旅行客が楽しんでいる間とかに、バリヒンドゥの概略を教えてもらった。

写真@ 神々へのお供へ
 彼は現地人の旅行ガイドであったが、知識人であった。その後も、沢山のガイドと仕事を一緒にしたが(後述のガイドなどと)、彼のバリヒンドゥ教に関する知識は、私にとって大変バリを知る上に参考になった。最近出版されるバリの案内書にも、彼から聞いたバリヒンドゥ教の教えの一端が述べられている。バリヒンドゥ教には、沢山の神々がいて、多神教と思われているが、そうではないと彼は言ってサンヒャン・ウィディ・ワサのことを教えてくれた。バリには多くの神々がいるが、その中で、ブラフマ(創造神)、ヴィシュヌ(維持する神)、シヴァ(破壊する神)の三つの神と、それぞれ各神の妻である、サラスワティ(知恵と献身の神)、スリ(稲の神)、ドゥルガ(魔女ランダ)の六大神が特に大切な神とされているが、これ等の神々は唯一無二の神、サンヒャン・ウィディ・ワサに属し、バリ島におられる神々は全てこのサンヒャン・ウィディ・ワサの化身であるから、バリヒンドゥ教は多神教ではないと彼は述べた。最初私は、なかなか理解できなかったが、バリ人はそれを信じていることがわかり、そんなものかと思ったが、インドネシア共和国の宗教政策にも沿った考えのようだ(建国五原則パンチャシラの中の唯一神への信仰)。しかし、それぞれの寺院や神々へ供える供物は美しい花やきれいな果物が多くカラフルである。(写真@)

写真A チュルクの銀細工店

写真B バリ木彫の中心地マスの工房
 さて観光の面からみると、今日のようにホテルや見物個所もそんなに多くはなく、私が訪ねた最初の頃(1978年頃)は、観光の定番コースとして、貸切バスでホテルを出発し、キンタマーニへ向った。途中の村のバトゥブランの村で地元の青年団などが演じる、バロンダンスを30分程度見物して、その後北上してチュルクの村に散在する金銀細工(主に銀製品が多かった)に立ち寄り(写真A)、ちなみに値段は交渉次第で約四割〜五割値切れる品もあった。その後更に北上して、バリ木彫の中心地(写真B)、マスの集落の木彫工房でショッピングを楽しんだ。我が家にも当時買った木彫の作品が数点あるが、拙宅を訪ねる友人は、本当に良い作品だとほめてくれる。帰国時に重くて苦労したが、昨今、百貨店で行われているバリ商品の卸売り会のように、アレンジをした木彫ではなく、堂々たるそして素朴な木彫品が当時のバリには多かった。銀細工にしても木彫品にしても、職人が精一杯の仕事をして制作した品が多かったように思う(これ等の店も押し寄せる観光客に段々と品格を落としていったのが寂しい気持がする)。

写真C ウブドの遺跡“象の洞窟”
 そしてその後、今をときめく、ウブドの集落を訪ねたが、その頃はウブドには観光案内所も無く、電気が引かれて四年か五年しか経ていないまだ田舎の村であった。今はバリ島内でも最高級クラスのホテルが内容と値段を誇り、日本の星野リゾートの“星のやバリ”が2017年1月に開業し、一泊九万円前後のルームチャージでオープンをしているが、当時はひなびた山村であった。 
 ウブドの村はずれに、1923年に発見された、ゴア・ガジャという“象の洞窟”があり、その遺跡を40分程見物した。(写真C)その後、一路キンタマーニへと向った。キンタマーニ高原は、バリ島でも著名な観光地として知られ、中心部にはカルデラ湖のバトゥル湖(キンタマーニ湖)がある。この湖は、2012年に世界遺産に指定されている。またここから眺望する、バトゥル山は、1717米の標高で1917年と1926年に大噴火をした活火山である。眺望を楽しみながら、キンタマーニのレストランで昼食のバイキング料理を食べるのが定番コースであった。何回目かの訪問時に大砲のような音を立てて噴煙を上げて噴火した時は肝を冷やしたが、レストランの従業員は、よくあることだと平気な顔であった。

写真D バトゥル湖よりバトゥル火山を望む
 湖をへだてたこの火山は、バリヒンドゥ教徒が「地球の第一チャクラ」と呼んでいる。このレストランのあるペネロカンの集落から見るバトウル火山は素晴らしく眺めが良い。しかしこの地の土産物売りの押売りは、今でも有名だがそのしつこさは当時もひどかった。観光バスが食堂の駐車場に着くやいなや、あっという間に数十人とも思える土産物売りがバスを取り囲んでしまい、それを無視してレストランへ入らないとずっと買う迄くっついてくる。それなのでバス到着前に注意しておいても、御夫人方の中には、子供の物売りに対して同情心からか、語で何かを語りかけると、もう何か買うまで離れてくれない。

写真E 当時の500ルピアインドネシア・ルピア
そんな態度や日本バス運転手やガイドも地元民であり、毎日のように顔をあわすので、取り扱いも無難になり、そうするとそれを止めるのはツアーガイドとしての我々の役目となり、レストラン迄の数十メートルの道を確保するのに必死であった。(写真D)当時の両替レート(1980年頃)は一米ドルが620インドネシア・ルピア、また日本円の千円で2400インドネシア・ルピア位で両替がされたと記憶している(写真E)
 ウブドからキンタマーニへの上り道はかなりの急坂で、上るに従って気温が下るのがよくわかったし、未舗装の道の脇には、バリ島名物の稲の棚田が窓から見える。それはのどかな風景で、日本の喧噪とは別天地の世界が広がっていた。そうして、キンタマーニでバトゥル湖を見物し、

写真F ティルタ・ウンブル寺院の聖水の池
昼食と休憩をした後に、宿泊するホテルへ帰った。帰路にはタンパクシリンに立ち寄り、ティルタ・ウンブル寺院を訪れた。この寺院も世界遺産に後年指定された。962年に発見されて以来、千年以上も湧き出る聖水の池(写真F)や、その水を引いた寺院内の沐浴場や神殿を礼拝して、一時間半程度見学をしてホテルへ夕刻に帰るのが、何年たっても観光の定番コースであった。一日目の観光はそれで終り、二日目の午前中は州都デンパサールの街へ向い、午前中、立派な資料や絵画・彫刻等を所蔵するバリ博物館(写真G)を見学し、その後、すぐ近くにある熱気と現地産品の溢れるバドゥン市場を訪ねて、午後は自由行動というコースだった。三日目、四日目は自由行動という三泊四日又は四泊五日のバリ滞在のコースが多く、その自由行動日にジャワ島へ航空機で日帰り往復をして、ジョグジャカルタ市とボロブドールのこれも、世界遺産に指定された遺跡を見学するという自由参加のオプショナル・ツアーが催行されていた。
 私がよく訪ねた1980年のバリ島への観光客は、全世界からでも、約15万人弱であり、十年後の1990年ではそれが約49万人、その内日本人が約7万1千人で、世界からバリ島を訪れる観光客の第二位となり、更に十年後の2000年には、

写真G 州都デンパサールのバリ博物館
全世界よりの観光客は約141万人、日本人が約36万2千人でついに来島者の世界一になっている。それが2014年には約375万人、内日本人は約20万人と減り、オーストラリア人が約99万人で一位、中国人が約58万人で二位、マレーシア人が約22万人で三位となって、日本観光客のバリ島離れがすすんでいる。これは2002年の、バリ島南部のクタで起こった、外国人観光客202人の死亡と209人の負傷者を出した、ディスコの外国人観光客を標的にした、過激派のジェマ・イスラミアの自爆と自動車爆発テロと、2005年の、クタとシンバランの自爆テロによる23人の死者と、196人の負傷者(三軒の飲食店で三人が自爆した事件)、容疑者はこれもジェマ・イスラミアであった。共にこの場所は最近のバリ島を代表する娯楽地であり、ビーチであった。
 この影響が、日本人観光客の激減につながったと考えられており、その後も日本人観光客数の伸びが鈍化した。それでは、ふり返って、バリ島が観光地として大きく変化をした要因は何であったかを、時代を、私がよくバリ島を訪問した1978年、1979年から1980年代の前半に戻って探ってみよう。
 バリ島にとっては、観光は開発の手段であり、1969年にスハルト政権の早い時期に第一次五ヶ年開発計画で観光が経済開発の一つと位置づけられ、バリ島はその代表的な候補地となった。
(以下次号)
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その3〜
二宮 健(35回) 2018.10.10


著者近影(シチリア島にて)
 その、第一次五ヶ年開発計画によって、バリ島の高級ホテルの所在地は、それまでのサヌール・ビーチから、1983年にバドウン半島に位置するヌサドゥア地区に移って、ヌサドゥアビーチホテルがオープンし、その後、計画的にゲートに囲まれた究極のリゾート地として沢山の高級ホテルがオープンをした。インドネシア政府の政策として、ホテルが立ち並ぶ一大造成地区が出現した。(写真@)又、1980年代半ばには、ヌサドゥアから続いて、ホテルの建築が、クタ地区にも移ったが、これ等が加わったことによって、それ迄は年間十数万人しか訪ねる観光客しかいなかったバリ島への観光客が急増をした。俗に謂われる、“観光地バリの世俗化”が始まった時代である。

写真@ ヌサドゥアビーチホテル
今野裕昭博士は、その論文で、バリ島の観光客の推移を、次の四期に分けている。1985年迄の観光助走期(T期)、1986年から1991年迄の、観光客漸増期(U期)、1992年から2000年迄の観光客急増増大期(V期)、2001年から現在迄の観光客縮小期(W期)、これはバリ現地に於て私が経験したことに照らしても、第W期を現在までとした観点を除いて(つまり、現在は観光客縮小期は脱していると私は理解しているので)正しい分析だと考えている。

写真A 初代インドネシア共和国スカルノ大統領
 更にもう少し歴史をふり返って、日本との関係でバリ島を見てみると、1942年(昭和17年)2月には、日本軍が、第二次世界大戦でオランダ軍に勝利して、バリ島の統治が始まった。そして、1945年(昭和20年)8月17日にはスカルノがインドネシア共和国の成立を宣言したが、1946年3月(昭和21年)、旧宗主国オランダが、バリ島に上陸した。(写真A)

写真B ングラ・ライの5万ルピアの肖像
 1946年11月20日、ングラ・ライ中佐が率いるバリ義勇軍(ゲリラ軍)が全滅した。その際、第二次大戦の敗戦後も、インドネシアに残留した、旧日本軍兵士もこの戦斗に加わっている。ングラ・ライはインドネシアの英雄として、バリ国際空港の正式名称としてングラ・ライ(又の名を、ヌラライ空港)として残され、五万ルピアのインドネシア紙幣に肖像として、使用されている。(写真B)
 そんな簡略な、歴史すら知らない若い人達で、地上の楽園と言われて賑わっているのが、現状である。

写真C 現在のクタビーチ
 クタについて、若干述べてみる。若人に人気のクタも私が初めて訪れた、1979年頃のクタとは、全く違う様相の町となっている。バリ島南部で国際空港にも近く、オーストラリア人が多く住んでいるが、1979年当時は、観光客も少なく、商店も少なかった。今では、海岸に隣接する商店街も大変多くなり、当時に比較すると格段の差である。(写真C)昔の海側から、すぐに道路となっていた場所も、海側からの砂防の為に壁が造られて、昔日の、一部の海を愛する人達の為の、のんびりとしたバリの風情は、ひとかけらも今は残っていない。残念なことである。
 さて、バリ島に関する間違った認識を持っている方から、よく質問をされたことがある。それは、バリハイ島が、バリ島と勘違いをされてのことであろう。ブロードウェイミュージカル“南太平洋”(サウスパシフィック)の舞台となった場所がバリ島であると思っている旅行者が少なからずいるが、映画化された時の撮影場所は、ハワイ諸島の一つ、カウアイ島であり、確かに、バリ島には、バリハイクールズという観光用の船が運航しているが、これはあくまでも、ネーミングであり、バリハイという名前の由来は、バリ島には無い。しかしバリハイ山という有名な山は南太平洋タヒチの有名なモーレア島に実在していて、正式には、モウアロア山が正式な名前であるが、一般的にバリハイ山として、タヒチ観光では、有名な場所である。それでは実際に米兵が、“南太平洋”の劇中で滞在をしたのは、現在のバヌアツ共和国となっている、ニューヘブリディーズ諸島というのが、定説のようです。

写真D 現在のスエントラ氏
 もう少し、私自身の経験した、バリでの話しをしてみよう。今では、世界的に有名になったバリの音楽ジェゴクを普及させた、スアール・アグン芸術団長のイ・クトゥット・スエントラ氏は、1971年にスアール・アグンを結成したが、私が初めてバリを訪ねた頃は、まだ有名ではなく、現地の観光ガイドのアルバイトをしており、何回か仕事を一緒にした。その後、この巨大な竹の楽器を使うジェゴグは、徐々に有名になり、1984年から日本公演や、フランス・ドイツ・スイスなど欧州でも成功をして、インドネシア政府からも文化貢献賞を授与された。バリ島やインドネシアでは、有名な音楽人であるが、彼も若い時には、バリの現地ツアーガイドとしての苦節の時があったのである。その後、何回か現地で出会ったが、気さくな人柄は、昔と変っていない。(写真D)
 もう一つ、我々に考えさせられる、日本の高度成長が現地の若者に与えた精神的な汚染を私の体験から語ってみたい。読者の方は、クリスをご存知だろうか。インドネシアのクリスは、2005年ユネスコの無形文化遺産(工芸)に登録されている。クリスは、その家にとっては、先祖伝来の家宝として継承されている精神性を持つ折れ曲がった非対称の刃物である。武器であると同時に、霊性が宿ると考えられている。それ故、クリスは聖剣とも呼ばれる。(写真E)この独得の剣、クリスについて私には思い出がある。それは、日本のバブル期に(1980年代後半の頃)、バリがお金の面で汚染されていった過程を思い出すのである。バリ島への高額なV・I・Pツアーを案内した時のことである。全国から募集したツアーの為、いろいろの地方から職業も種々の方、年齢は比較的高年齢の方が多かった。V・I・Pツアーの為に、バリ島での現地ガイドも、それまで何回も仕事を一緒にした真面目な日本語を話す好青年で、将来日本へ渡って勉強したいと考えているインドネシアバリ島の現地ガイドであった(〜その2〜で述べたガイドとは別人である。念のために記しておく)。そんな時に、V・I・Pツアーのガイドとして私と仕事をした時に起ったことである。

写真E インドネシアの“聖剣”クリス
 参加者の中で、東京より参加をした、七〇才代の老人で刀剣蒐集の趣味のある人が、添乗をしていた私に是非、バリ島のクリスを見たいので、相談に乗って欲しいと言われた。クリスそのものに当時、知識のなかった私は、このガイドに相談を持ちかけた。彼の実家は、バリヒンドウ教でのカーストも上位であるということで、それでは二宮さんの為に、クリスをその方にお見せしましょうと言ってホテルへ持参してくれた。その刀剣蒐集家は驚き、これほどのクリスの名剣は恐らく、日本には存在していないと言った。そう言われてよく見ると、くねくねと折れ曲がった四十センチから50センチの短剣は把手から刀身の先まで、素人の私でさえぞくぞくし、日本刀の名剣を博物館で見るような感じであった。刀身は、日本刀のように、白く光ってはおらず、くすんだ灰色のように見えた。
 彼の家に何百年か伝わったものであろう。冗談のように、蒐集家は、いくらなら売ってくれるかと単刀直入にガイドに聞いた。彼も冗談っぽく、日本円で、6万円ではと言った。彼の当時の現地ガイドとしての年収の額である(月収ではなく)。すると、蒐集家は、今現金で30万円で買い取ろうと提案をした。彼はびっくりしたようだ。彼の年収の約5年分にも相当する金額である。心が動いた様子であった。先祖伝来の聖剣を売るという心の動きが、私には悲しかった。老人に私は聞いた。何故それだけの金を出すのかと。彼は、この剣は、重文級に匹敵すると言い、30万円出しても良いと言った。私は、ガイドと彼の先祖の為に、この商談(?)は成立させたく無かった。そこで私は蒐集家に言った。日本の入国時に見つかれば、税関で法律違反に問われ、又、インドネシア出国時の検査にひっかかれば、これまたただではすまないことになると、必死に説得をした。蒐集家は未練たっぷりに、そのクリスを見ていたが、眼福させてもらったと、多額の心付を彼に渡した。あの聖剣クリスは、その後どうなったのであろうか。彼の家で大事にされて、家宝として、あがめられているだろうか。そう祈るしかない。そんなバブル期の厭な思い出がある。
 その後、そのガイドはガイドをやめたのか、消息を以後しらないし、ほかのガイドに消息を聞いても、余り良い噂は私の耳に入らなかった。聖剣クリスを家から持ち出して、大金を見せられて、売却に心が一瞬動いたことに、聖剣クリスが怒った結果かもしれない。
(以下次号)
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プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その4〜
二宮 健(35回) 2018.10.25


著者近影(シチリア島にて)
 さて、最終章の今回は、昔も今も変わらずに、バリ島発着で日本人観光客にとても人気のある、ジャワ島にある世界遺産のボロブドゥール寺院遺跡と、プランバナン寺院遺跡への、バリからの日帰りツアーについて述べてみたい。欧米等からの観光客にとっては、この日帰りツアーは、びっくりするほどに超過密なスケジュールらしい。バリ島で三泊乃至四泊する日本人観光客には、是非、おすすめをしたいコースである。
 先ず、ページ初めのコースを参照して欲しい。これはJTBバリ支店が催行する“マイバス・バリ”のバリ島から日帰りのコースの旅程である(注:デラックスコース約四万二千円・一人当たり代金・最少催行人員二名。旅費に含まれるサービス:日本語ガイド・ホテル送迎サービス・朝食・昼食(ホテルアマンジオにて)・各施設入場料・航空代金・空港税)。予約さえすれば安心・安全にバリ島よりジョグジャカルタへ飛び旅程通りの日程で観光が出来る。


 私が始めてバリ島を訪れ、このコースを利用した時には(1972年)、既にバリ島の空港とジャワ中部のジョグジャカルタ間には、ガルーダインドネシア航空の国内線ジェット機が就航しており、飛行距離にも変更はないので、昔も今も約一時間十分で両空港を結んでいる。

写真@ ボロブドゥール寺院遺跡(世界遺産)
 このコースで訪れる、ボロブドゥール寺院遺跡は、ジャワ島中のケドゥ盆地にある世界的に有名な大乗仏教遺跡であり、無論、世界遺産にも登録されている(1991年に登録)。ジョグジャカルタの東南約40キロメートルの所にあり、紀元790年頃完成したと見られ、その後に増築がされている。(写真@)八世紀後半から、九世紀にかけて栄えた、ジャイレーンドラ王朝によって造られたと考えられているこの遺跡には、おびただしい仏像やレリーフなどが飾られている。(写真A)高さは当初は42メートルあったが、現在は破損をして、33メートル50センチなっており、九層のピラミッド状の構造で最下段に一辺115メートルの基壇がある。この形状から、世界最大級のストゥーバである。この遺跡の詳細は、紙数の問題もあり、この章では語りつくせないが、沢山の著作物があるので興味のある方は、それらを読んで旅行をすれば、ただ漠然とツアーに参加するより、はるかに得る物が多いと私は考える。

写真A ボロブドゥール寺院遺跡のレリーフ
 この遺跡は、地盤沈下や近くにあるムラビ火山の噴火により、1960年代には崩壊の危機があったが、1973年から10ヶ年計画で、ユネスコ主導で二千万ドルをかけて修復工事が行われ、1982年に完成をした。私はこの修復時期にも何回か現地を訪れたが、いったい何時この工事は終わるのだろうかという程に、遅々として工事は進捗しなかったが、例えてみれば姫路城のように、長い年月をかけて本当に立派に綺麗に修復をされた。この修復工事には資金の拠出や工事協力に日本が多大の貢献を行ったことも忘れてはならない。

写真B ムンドット寺院(世界遺産)
 次に訪れる、ボロブドゥール寺院の東三キロメートルにあるムンドット寺院(写真B)は、1834年に密林の中から発見された仏教寺院で、内部には大変美しい釈迦三尊像が安置されており、その他、美しい鬼子母神のレリーフ等がある有名な寺院であるが、このオプショナルツアーではわずか20分弱しか時間がとられていない。この寺院も1991年にボロブドゥール寺院遺跡群として世界遺産に登録されている。その後、このデラックスコースはボロブドゥール寺院の近くのアマンジウォホテルで昼食をとり(写真C)、午前中のコースは終了する。

写真C アマンジオホテルの食堂
 デラックスコースとスタンダードコースの料金の差は、主に昼食に利用するレストランの雰囲気や料理内容の違いが多い。又、それよりも更に安い格安のバリ島からの日帰りの、ボロブドゥールとプランバナン寺院日帰りツアーとの差は、格安航空機(LCC)を利用している。デラックスコースと格安ツアーとの差は概略一人当り日本円に換算して約一万円であるが、どれを選ぶかは、各人の自由であるがやはり相対的にツアー代金はそれなりに設定をされており、私は経験上、内容に比例していると考えている。

写真D ジョグジャカルタ独特のバティックの模様
 約一時間余り昼食(アジアン料理)を楽しみ、午後はバティック工房を訪ね、制作現場とショッピングを楽しむ、ジョグジャカルタはバティックが有名であり、是非良い作品を買うことをおすすめする。私も行く度に買い求めたバティックのシャツを何年たっても夏の季節に着用しており、機械でプリントした製品ではなく、手仕事のバティックは色あせすることもなく、一寸高いが(それでも日本円に換算すれば、決して高額ではない)、自由時間があればバティックの商店が集まる地域を見て回るのも楽しいが、日帰りツアーでは訪ねる店が限られている。(写真D)前後するが、この日の朝食はバリ発が早朝の為に、ジョグジャカルタ空港に着いて、空港近くのホテルでブッフェスタイルの朝食の場合が多い。

写真E サンビサリ寺院
 昼食をとった後、サンビサリ寺院を短時間見物する。西暦812年から838年頃にかけて建設されたと考えられており、仏教王国のシャイレンドラからヒンドゥ王国のサンジャヤへ勢力が移った頃の建造だと思われている。ヒンドゥ教の寺院であり、シバ神を祭っている。1966年に農民が偶然に耕作中に地中から発見した。中央の寺院中には男根(リンガ)が祭られている。(写真E)

写真F プランバナン寺院遺跡
 その後、プランバナン寺院へ向う。世界遺跡としてのプランバナン寺院遺跡群の中の中心的寺院であるヒンドゥ教の遺跡として、前述のボロブドゥール寺院と共に、インドネシアが世界に誇る文化遺産として有名である。(写真F)建造年代は、九世紀末から十世紀初頭といわれているが、例にもれず中世の1549年の大地震でほとんどが崩壊して、1937年から修復工事がされていたが、2006年5月のジャワ島中部地震でまたまた壊滅的な破壊をうけた。それでも、修復作業が翌2007年から始まり、現在観光客を受け入れてはいるが、全体の修復の目途は立っていない。周辺の中小の寺院群を含めて世界遺産への登録であるが、その中のプランバナン寺院を中心に、ツアーは一時間程度で見物を終えて、ジョグジャカルタ空港へ戻り、航空機でバリ島に帰り宿泊するホテルへ送ってくれる。日帰り約19時間のコースである。旅行日程に余裕があれば、ジョグジャカルタに二日ないし三日程宿泊してこの古都ジョグジャカルタもゆっくり観光をしたいものである。
 さて、プレイバック・バリ(バリ島の今昔)として、その概略を記してきたが、バリ島はインドネシア共和国に属して、面積が5632平方キロメートルある島で、日本の東京都の約二倍の広さ、人口は約420万人でバリ人が90%を占めており、インドネシア全体ではイスラム教徒が87%を占める中で、バリではヒンドゥ教徒が約90%を占めている。乾季と雨季があって五月から十月が乾季、十一月から四月が雨季の目安である。また、インドネシアの中でバリ島とジャワ島のジョグジャカルタの間には時差が一時間あるので注意して欲しい。
 いずれにしても私の76年(1942年生れ)の中でバリ島の長い間の変遷はめまぐるしく、素朴な楽園の島から、現在の姿を考えると、なんともいえない懐古の情が胸にうずくように浮んでくる。
 (終)
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大町玄先輩(30回)のご葬儀         
会長 公文 敏雄 (35回) 2018.06.28


故 大町 玄 氏(享年81歳)
 故大町玄先輩(30回)のご葬儀は6月13日午前10時からお住まい近くの浦安市斎場でしめやかにとり行われました。お元気なころの穏やかなお顔の写真が祭壇から参列の人々を見下ろす中、読経、焼香と型どおりに進みます。中城正堯さん(30回)はじめ土佐高校ご同期の方々の心のこもったかなり長文の弔電が紹介され、新聞部が学校生活の中心だったことがわかりました。
 喪主のご挨拶に先立ち、マイクの前に立った愛らしいお孫さんが、「爺じではなく玄ちゃん、これからもずっと見守ってくださいね」と呼びかけると、静かだった式場内にすすり泣きの声が漏れはじめました。故人が「葬儀はごくごく質素に」と言い残されたそうですが、若い方を含めかつての勤務先会社関係者が多数来られていたことはご高齢の方の葬儀としては珍しく、故人の人徳を伺い知ることができました。出棺の時が来ると梅雨空の雲が切れて陽が射しはじめ、彼岸へのよき旅立ちの日となりました。


筆者近影
 今から8年ほど前、新向陽プレスクラブの発足をめざして、諸OB/OGに入会と総会への出席を呼びかけましたが、大町さんからのお返事がホームページに残されていますので改めてご紹介いたします。大町さんはその後2012年、13年、14年と立ちあげ期の総会に連続してご出席、一同を温かく励ましてくださいましたのでご記憶の方もおありかと思います。

大町 玄 (30O)入会・出席***元 富士電機HD***
 原弘道君、松木鷹志君、梅木栄純君が退会とは!事情があることとは思いますがまことに残念。 ずいぶん長いこと逢っていませんから、授業をサボってまで新聞を作ったあの頃の仲間と久しぶりに一献酌み交わしたかったのですが。 プレスクラブ以外に彼らに逢えるチャンスもなさそうですし。 浜崎洸一君が欠席で逢えないのも残念ですが、入会登録はしているようなのでそのうち逢えるだろうとタノシミにしています。 卒業以来多忙を言い訳に、向陽新聞のことは中城君に任せっぱなしでしたが、(そのために自分が新聞作りにどっぷり使っていた頃があったことを忘れかけていましたが、)今回呼びかけていただいたことを公文さんほか世話役の方々に深く感謝しております。 ありがとうございました。」
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名編集長:大町“玄ちゃん”(30回)を偲んで
中城 正堯(30回) 2018.06.28


2003年 サン・レオ城で故人と筆者
 級友から「6月9日、大町玄君逝去」の知らせをうけ、晴子夫人に次の弔電を差し上げた。

   「突然のご逝去の知らせを受け悲しみに堪えません
    昭和二四年 土佐中学・公文公先生のクラスで同級になって以来
    中高六年間 同じクラス 同じ新聞部でした 
    以来 玄ちゃんは我々の永遠の級長さんでした
    心からご冥福をお祈り申しあげます」


1955年2月、新聞部送別会。前列右から、
横山、大町、西野顧問、中城、千原。
 中学入学当初から“玄ちゃん”は勉学・遊び、そして統率力とも抜きん出た存在で、だれもが認めるクラスのリーダーであった。その才能を磨くため、公文先生に呼ばれた数人が、自宅で数学・英語の指導を受けるようになり、筆者も玄ちゃんから声が掛かり、後からなんとか加えてもらった。そして、新聞部にもさそわれ、中2から入部、企画・取材から、記事の書き方、紙面の割付まで見習った。彼は、放送部にも席を置いていた。
 2015年、高知での卒業60周年の学年同窓会のあと、ひろめ市場の二次会で昔話になり、「中学2年の後期だったか、おんしに応援演説をされて中学生徒会長選挙に出た。番狂わせになり、3年の福島さんを破って当選。中3でもやった」と、話しかけてきた。確かに新聞部だけでなく、生徒会でも、そして遊びでもリーダーだった。中学生徒会では、大町会長・中城議長のこともあった。
 遊びの中心は草野球。ビー玉にゴムひもや毛糸を巻き付けて布で縫った手作りボールで、昼休みなどに夢中で遊んだ。次第に軟式ボール、バット、グローブが普及すると、大町キャプテン以下、潮江や三里に出かけて他流試合も行った。いい加減な審判をすると、相手から「メヒカリ食ってこい!」などと、ヤジられたものだ。

30回生の「卒業記念アルバム」より、
新聞部の写真。(左端に坐る大町)
 高校進学は、公文先生の提案で4クラスの担任を事前に発表、生徒が自由に選択できた。大町・浅井・千原など新聞部一同は多くが公文先生を慕ってそのクラスを希望した。ところが、一大事が発生した。公文先生が突如大阪に転勤することになったのだ。後任は英語の織谷馨先生だったが、まだ若くて包容力が未熟だったために、たちまち生徒とぶつかった。以来、授業内容でもクラス運営でも、衝突の連続だった。
 そのような中で、高1になると大町は向陽新聞編集長となり、1952年5月発行第15号には、格調高く「新生日本の出発に当って」と題する大嶋校長のメッセージをトップに掲げた。ようやく日本独立がかなったのだ。この紙面には「人文科学部生る」の記事もあり、部長は公文俊平(28回)、指導教師は社会思想史・町田守正、日本史・古谷俊夫などとある。当時、社会も学内も活気にあふれており、生徒会と新聞部による「応援歌募集」や、「先輩大学生に聞く会」「四国高校弁論大会」などが次々と企画、開催された。

1960年の関東同窓会記念写真。
後列左から、大町、山岸先生、西内、
前列左から、横山、田所、中城。先生以外は30回生。
 だが、わがクラスの混乱は続き、卒業後も浪人の大学受験内申書が間に合わないなど、問題が続発、学校にも訴えたが打開できなかった。人望の厚かった英語のH先生に相談すると、「私の教え子であり、公にするのはひかえて欲しい。収める」とのことだったが、効果はなかった。当時の大町からの憤懣やるかたない速達が、2通手元に残されている。
 部活にもどすと、従来通り高1で大町たち多くの新聞部員は退部、受験勉強に軸足を移したが、筆者と横山禎夫は高3まで部活を続けた。特に筆者は、部活やクラスの混乱をいいことに、勉強そっちのけで過ごした。向陽新聞は全国優秀五紙にも選ばれたが、受験勉強には全く身がはいらず、私大に進んだ。
 わがクラスからは、結局7名が東大に進み、ちょうど70名クラスの1割を占めたが、担任との軋轢もあって現役入学ばかりでなかったのはやむを得ない。それよりも、東大経済を出た大町が、新聞部や大学での演劇活動をふまえてマスコミをめざし、NHKの内定を得ていたのに、あるこだわりから最後に製造業に転じたのは残念だった。放送界には適材であり、経営管理部門でも、番組制作部門でも、リーダーとなる人物だった。

2003年、イタリア城郭視察旅行で
コモ湖に遊ぶ。

ヴェローナ、ロミオとジュリエットの
舞台で演劇活動を回想。
 富士電機の要職を降りてからは、級友とのお遊びにもよく付き合ってくれた。日本城郭協会主催の、2003年イタリア城郭視察旅行にも加わり、旧知の後輩・藤宗俊一(42回、フィレンツェ大建築学部)の名解説を楽しんでいた。同年秋の沖縄城跡巡りにもご夫婦で参加し、向陽プレスクラブ総会も健康の許す限り参加してくれていた。
 老いても級長さんの役割は途切れず、20号まで出たクラス誌「うきぐも」発行や、クラス会開催の主役であった。また、草野球以来の虎キチで、神宮球場の阪神×ヤクルト戦はよく級友と観戦していた。肺がんと分かってもタバコを手放さず、悠々囲碁を楽しんでいた。今年の年賀状には、達筆で「告知された余命期限を過ぎて三ヶ月経ちました。期限切れの余命を楽しむが如く、慈しむが如く、ゆっくりと面白がって生きております」とあった。達観した心境のようだった。
 告別式の行われた6月13日は、あいにく日本城郭協会総会に当り、筆者の体力では浦安市斎場との掛け持ちは無理だったが、浅井・西内・松アなどの同級生、さらに向陽プレスクラブの公文敏雄会長が参列し、お別れを告げてくれた。城郭協会総会の開かれた神田・学士会館は、奇しくも50年前の晴子夫人との婚礼の場であり、5月には高知からの親族も含めてここに集い、元気な玄ちゃんを囲んで、盛大に金婚式を祝ったばかりだという。50年前、筆者は悪友にそそのかされてクラス代表の拙い祝辞を述べた思い出が蘇ってきた。                                                     合掌
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藤宗 俊一 (42回) 2018.06.28寛容の精神溢れる玄さん

Roma サンピエトロ教会

Roma サンタンジェロ城

Roma カンピドリオの丘

Roma (フラスカーティ)

Siena (ブルネッロ)

Monteriggioni 城壁都市

Volterra ヌォーヴォ砦

Firenze (キャンティ)

San Leo コスタンツァ砦
カリオストロの城

Ravenna (ディ・ロマーニャ)

Ferrara エステンセ城

Verona ティンクエッチの丘

Verona (バルドリーノ)

Milanoスフォルツェスコ城(バローロ)
 大町玄さんのご逝去を悼むとともに、ご冥福をお祈りいたします。ご家族の皆様には心より哀悼の意を表します。
 玄さんとのなれそめは50年以上も前になります。1967年大学受験で同じクラスの彼の甥の門脇康裕とともに夜行列車『瀬戸』で上京し、初めて東京に降り立った時、駅のホームに出迎えに来てくれていました。その時は私にも隣家出身の故岡部隆穂(旧姓澤村・35回生)氏が出迎えに来ていたので、挨拶を交わしたくらいで、彼らは代々木上原、我々は早稲田に向かいました。その時、初めてわが学年のあこがれのマドンナ(放送部、夕鶴のつう役)ふみさん(楠目)の長兄(玄兄ちゃん)で、隣村出身だということを知りました。どうも門脇が伯母・甥の関係をひた隠しにしていたようです。
 それから30年以上、殆ど接点がなく、同窓会でお会いしても目礼を交わす程度でしたが、2003年日本城郭協会のイタリア視察旅行の案内人(実際は30回生のパシリ役)として、ワインの名産地巡りで一週間以上同じ釜の飯をくらって、親しくしていただくことになりました。この時の写真を貼り付けてあります。(写真一部は中城氏提供。()書きはワイン名)
 その後、2010年には『向陽プレスクラブ』が再結成され、自称『名編集長(14,15号)』だった玄さんも当然参加してくださり、総会の度にお会いして酒を酌み交わす機会が増えました。ちょっと控えめで(まわりが目立ちたがり屋ばかり)、温和な笑みを浮かべてお酒を口に運ぶ姿には、感銘を覚えざるを得ませんでした。それが、この2、3年体調不良を理由に総会を欠席されるようになり、とても心配をしていましたが、とうとう帰らぬ人となりました。残念なことは『中城や浅井よりうまい』と豪語していた文章をホームページに一度も寄稿して頂けなかったことです。
 玄さんの、あらゆる迫害に耐え最後までタバコを離さなかった生き方は文化を守る殉教者そのもので、本人に寛容さがなければ貫けない生き方です。たった一度の手術で右往左往している出来損ないの後輩をきっと嘲笑っていることでしょう。お世話になりっぱなしでありながら、術後半年検査のため13日の葬儀に参列できず本当に申し訳ありませんでした。きっと、寛容の精神溢れる先輩でしたので、『しょうがないやっちゃ』と苦笑いしながら許して下さることと思います。まだまだ教えていただきたいこともあったのに、理想の先輩を失って本当に残念です。
 最後になりましたが、改めて、大町玄さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4
二宮 健(35回) 2018.02.25

筆者近影・アユタヤクルーズ船のデッキにて
 グループの仲間は旅にも慣れ、北部タイの商品の値段にも慣れて、マーケットでの土産品選びに余念がない。衣料品、靴、装身具など品物が山積みされている。

写真@ パックブンビンの店(ピッサヌロークの夜市)
グループの中に貴石類を使用したブレスレット(腕輪)の専門家がいたので、日本円に換算して3千円位の品を私自身用に買ったが、日本では1万円位で取引されていると聞いて、ちょっと得をした感じである。このバザール(ピッサヌロークの夜市)で有名なのは「空飛ぶ空芯菜(くうしんさい)炒め」の店「パックブンビン」である(写真@)。
 

タイ王国主要部
 12月24日、旅も8日目を迎えた。天気予報は晴れで、気温は30度との予報である。真夏の気温での南国タイでのクリスマスイブである。いつものとおり、ピッサヌロークのホテルを朝8時に出発したバスは、約300キロメートル南下してアユタヤへと向かう。先ずナコーン・サワンを経由して、ロップリーへ向かった。ロップリーはアユタヤからすると北に位置する街で、アユタヤからバスで約1時間半ばかりの所にある。アユタヤ時代にはナーライ王により王国第二の都市とされた。現在は人口約3万人の地方都市である。ロップリーには、クメール、スコータイ、アユタヤ様式の遺跡があり、サン・プラ・カーンの遺跡を見学したが、ここは猿に占拠された感じのする寺であり(写真A)、街の中にも猿が横行している。「猿寺」としても知られており、ラテラート(紅土)の山のような土塁はクメール時代のものである。昼食後、プラ・ナーライ・ラチャニウェート宮殿(現国立博物館・キングナーライパレス)を見学した。1665年から13年をかけて、タイ・クメール・ヨーロッパの折衷様式で建築された宮殿であり(写真B)、中心にあるのが、ラーマ4世が1856年に建てたピマーン・モンクット宮殿である。アユタヤ王朝時代の仏像やクメールの美術品、ラーマ4世の遺品などを展示した博物館として使用されている。

写真A ロップリーのサン・プラ・カーン遺跡(通称「猿寺」)

写真B キングナーラーイパレス(ロップリー)

 

写真C クルンシーリバーホテル(アユタヤ)
 昼食をはさんだ短時間のロップリー見学を終え、バスは更に南下してアユタヤへと向かった。もうバスは最終地バンコックまであとわずかな地点まで進んでいる。ロップリーからアユタヤまではバスで約2時間かかり、午後4時過ぎに、アユタヤの一流ホテルであるクルンシーリバーホテルに到着した(写真C)。このホテルは築20年であるが、その割には手入れが良く、ホテルスタッフも親切である。今日12月24日はクリスマスイブ。ヨーロッパ各地の雪のクリスマスマーケットは、

写真D 真夏のサンタクロース(アユタヤ)
広い範囲に何回も訪れた経験があるが、気温32度の暑い国でのクリスマスイブは初めてである。それでもホテルでは、雪の降り積もったクリスマスツリーで演出をしていた。また、サンタクロースも登場して(写真D)、賑やかにクリスマスイブを祝っていた。この日の夕食はタイスキであり、久し振りに鍋を囲んで、グループ全員が舌鼓をうった。
 

写真E ライトアップされたアユタヤ遺跡の一部
 夕食後に、このツアーでは3番目となる世界遺産「アユタヤ遺跡」のライトアップを見物に出かけた(写真E)。我々グループの他には、地元の人がチラホラと遺跡公園には居たが貸切り状態で、ライトアップされた寺院群を鑑賞した。日本から持参した小さなLEDの懐中電灯と電池式の蚊退治機が役に立った。ホテル帰着後は、グループから別れて、有料のクリスマスイブパーティに深夜まで参加した(写真F)。

写真F クリスマスパーティー会場


 いよいよ旅も終盤を迎えた9日目の12月25日は、午前中に世界遺産アユタヤを見学して、午後にはアユタヤクルーズ船にてチャオプラヤ河をバンコックへ向かう。 アユタヤはバンコックの北87キロメートルにあり、三つの川に囲まれた中州の島に1350年に建てられた。絶頂期にはカンボジアからビルマまでを領土としたが、1776年にビルマ軍の侵攻によって崩壊した。北のスコータイと共にタイの遺跡都市として有名である。


写真G ワット・プラ・シー・サンペットの仏塔群
 我々は先ず、ワット・プラ・シー・サンペットへ向かった。アユタヤ王朝の守護寺院である。3基のチューディ(仏塔)は、ビルマに侵攻された際に破壊されたが、現在のものは15世紀に建てられた(写真G)。次にワット・マハタートへ向かった。ワット・プラ・シー・サンペットと並び称される重要寺院である。14世紀に建立されたが、ビルマ軍侵攻によって破壊され、木の根に取り込まれた仏像の頭部(写真H)とレンガ積の仏塔が残されている。この仏像の頭部像はアユタヤ遺跡を代表するものとして有名である。1956年にワット・マハタートを発掘した際に多数の仏像と宝飾品が出てきて、

写真H ワット・マハタート寺院の
仏像の頭部(木の根に注目)
当時の栄華がうかがわれたそうだ。発掘品はアユタヤのチャオ・サームプラヤー国立博物館に展示されている。その後、ワット・ラーチャプラナートを見学した。この寺院は、1958年修復の際に、8代王が兄の為に収めた宝物が発見されている。王位継承に敗れた2人の兄を火葬した場所に、1424年に建立されたと伝えられている。陸路のバスでの見学はここで終わり、このコースで初日の12月17日から9日目の25日までの走行距離は約1500キロメートルに達していた。
 
 代表的なアユタヤ遺跡を見学した後、午後にアユタヤ近郊のワット乗船場よりアユタヤクルーズ船に乗った。バンコックへ向かう観光船である。船内でビュッフェ形式の昼食をとる。洋食、中華、フルーツと共に寿司などもあって、観光船の食事としては質量と共に豊富である。唯一の日本人グループの我々と同船していた欧米や北欧の人々も満足をしていた。船室の冷房のきいた部屋からも見物できるし、船首と船尾部分に椅子を備えたデッキ展望部もあり、天気の良い日には、チャオプラヤ河の風に吹かれて、両岸、上流、下流の風景が満喫できる構造となっている(写真I)。チャオプラヤ河を下り、ワット・マハタート、ワット・プラケオ、王宮、ワット・アルン(写真J)など、バンコック市内の有名な寺院等を左右に見ながら、バンンコック市内の観光船の終点に到着した。

写真I アユタヤクルーズ船のデッキにて

写真J ワット・アルン(暁の寺)

 その夜グループは、夕食をとった後、市内の歓楽街ハッポンのナイトバザールを見物して、宿舎のホテル(最初の日に宿泊したホテル)へ午後10時半頃帰る予定であった。私は、バンコック市内は従前から何回となく訪れているので、グループを離れて、世界中に知られている、ニューハーフショーで有名なショーシアター「マンボ」を見物に行った(写真K)。

写真K ニューハーフショーで有名な「マンボ」(バンコック)
最近郊外に移転して舞台も大きくなっており、ショーダンサーも一流の芸を披露する有名店である。1200バーツ(約4500円〜5000円)で見物でき、旅行社のオプショナルツアーのVIP席料金より安いので、自分個人で見物に行ったが、初めての旅行客には、安全で送迎付きのツアーに、旅行社か宿泊ホテルを通じて申し込むことをおすすめする。私もショー終了後すぐホテルへ帰ったが、午後11時半ごろになっていた。

 グループの9名は、旅行中に病気やトラブルもなく、旅行最終日の10日目に、連日30度前後の暑い国タイから、気温6度の日本の関空に無事帰国した。ありきたりの観光コースではなく、遺跡と寺院を中心にした内容に全員が満足した旅行であった。行く先々で神像や仏像がおだやかに微笑んでいた。
(終わり)
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3
二宮 健(35回) 2018.01.21


筆者近影・写真Eプールアリゾートにて
 この日の午後は、ウドーン・ターニー北西約64キロメートルにある、プー・プラ・バードの見学に行った。奇岩・奇石の並ぶ風景(写真@、A)に圧倒される。ここでも先史時代から人が住んでいたと、現地の英語ガイドが説明をしてくれた。その根拠として、岩に描かれた絵(写真B)は先史時代のものだと説明してくれた。ここはゆっくり見て回れば優に半日は要する公園で、次から次へと奇岩が現れてくる。洞穴を含む主な場所は、ここ歴史公園専属のガイドが必須である。我々グループも英語ガイド付きで手際よく、主要な場所を約2時間かけて、トレッキングをするように公園内の広い範囲を歩いた。この公園には、日本人が訪れることが少ないために、米、独、仏語を話すガイドは居ても日本語ガイドは居ないということであった。

写真@

写真A プー・プラ・バードの奇岩

写真B プー・プラ・バードの岩絵
 今日も気温約29度の晴天の中での見学を終わり、連泊2日目のウドーン・ターニーのホテルへ帰着したのは午後6時頃であった。

 旅も6日目を迎えた12月22日、今日はバスで西方へ向かう。ドンパャージェン山脈を越えて、ウドーン・ターニーの西南約260キロメートルのピッサヌロークへ向かうのだ。朝の8時にホテルを出発したバスは、タイの最北部を西へ進むのだが、山間部の景色がバスの左右に展開してゆく(写真C)。大きな街もなく、小集落がバスの車窓を過ぎてゆく。目的地ピッサヌロークまでは、山道をウドーン・ターニーからバスで約6時間の道のりである。途中、プールアリゾートという場所に昼前に到着した。(写真D)。ここで昼食の予定である。

写真C タイ最北部の山間部の風景

写真D プールアリゾート

 我々のバスは高原を登るほどに、車内でも段々と冷気を感じてはいたが、昼食のため車外に出ると風が少し強く、これが南国タイかと思う程に寒くて、グループ全員とガイドは、持参した服の中で一番暖かいセーターなどを着用する寒さであった(写真E)。気温は、ウドーン・ターニーの29度から、17度にまで下がっている。一気に12度も気温が下がると体感的には寒さを感じてしまう。
 この辺りは、プールアナショナルパークに指定されていて、ハイキング、トレッキング、登山などでタイ国内では有名な場所らしい。高原の保養地として、ホテルやコテージが点在していて、暑熱のタイの平地とは別天地の場所である。日本の避暑地のような混雑は全くなく、自然そのままの風情がある。ホテルの野外テラスにあるレストランで、余りおいしくはなかったが、山地独特の料理を味わった。峠のレストランからバスは一気に山を下り、今夜から2連泊するピッサヌロークの街へ入った。この街はナーン川に沿って広がっており、スコータイ王朝時代の首都であった。現在は人口約8万5千人で、スコータイ遺跡を訪れる人々の宿泊地の街となっている。

写真F チンナラート仏
(タイ一番の美しい仏像)

写真G アマリン・ラグーンホテル
 我々は、ピッサヌローク到着後すぐに、ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート(ワット・ヤイ)を訪ねた。タイで最も美しい仏像として有名で(高さ3メートル50センチ)、ピッサヌローク地域の公式なシンボルである、チンナラート仏を見物するためである。(写真F)。参拝をする人達がひきもきらずに堂内をうめている。この寺は1357年に、スコータイ王朝のリタイ王によって造られた。ピッサヌの意味は、ヒンドゥ教の神である「ビシュヌ神の天国」とのことだ。また、ロークとは、地球又は世界を意味しているとのことだ。この街はスコータイ時代もアユタヤー王朝時代にも重要都市であり、街の人々も誇り高い人達だと聞いた。寺院見学後に、午後6時頃、市内のアマリン・ラグーンホテル(五ッ星クラス、写真G)に到着した。
 今日は気温29度のウドーン・ターニーから17度のプールア、そして再び29度のピッサヌロークと、気温差の激しい1日であった。宿泊したアマリン・ラグーンホテルは、ピッサヌロークでも最高級のホテルであり、敷地も広くゆったりとしたホテルである。6日目も終わり、グループの仲間も疲れもあって夕食後早い時間に就寝したようだ。


写真H ピッサヌローク郊外
の黄金大仏

写真I シー・サッチャナーライ歴史公園の遠足園児
 旅の7日目、12月23日、今日も快晴である。朝食後8時にホテルを出発し、郊外にある有名な黄金仏(写真H)を見学した後、スコータイ時代の重要な遺跡シー・サッチャナーライ歴史公園の見学である。公園は広大であり、遺跡数が2百以上あるから、いかに大規模かがわかる。従って園内は専用車で巡る。我々が訪ねた日には、幼稚園児が遠足に来ていた(写真I)。
 先ず、ワット・チャン・ロームとワット・チェディー・チェット・テーオを巡った。

写真J ワット・チャン・ローム
の仏教寺院

写真K ワット・チェディー・チェット・テーオ寺院
ワット・チャン・ロームは13世紀の仏教寺院で、象によって囲まれ、ベル型の仏塔が38頭の象で支えられている(写真J)。ワット・チェディー・チェット・テーオはワット・チャン・ロームの向かいに建つ寺院で仏塔が7列に連なっている。そのことから、この名が付けられた。ここは、ヒンドゥ・仏教・ラーンナータイ様式などと頭が混乱するほどに仏塔が建っている(写真K)。中央にはスコータイ様式といわれる、蓮のつぼみ型のチューディ(仏塔)がある。

写真L ワット・マハタートの
大きな仏像
 午前のコースを終わって、昼食後は、このツアーで2番目となる世界遺産スコータイ遺跡を見学した。スコータイはピッサヌロークの西北約56キロメートル、バスで1時間ほどの場所にある。スコータイとは「幸福の夜明け」を意味するとのことで、その名の通り、1238年ここにタイ族最初の王朝が建てられ、140年間と短期間ではあるが、この王朝時代に築かれた寺院遺跡が数多く残されている。このスコータイ歴史公園(ムアン・カオ)に向かい、最初にワット・マハ・タート(写真L)を見学した。14世紀の重要な寺院であり、仏陀の遺骨を埋葬する為に、1374年にラチャシラット1世が建立したと言われている。ビルマ軍の侵攻により破壊されたが、1956年に遺跡の発掘調査が行われ、貴重な文物が発掘された。ビルマ軍に切り落とされた仏頭が長い年月に生い茂る木に持ち上げられ、「神聖木・トンポに眠る仏頭」としてスコータイ遺跡の中でも特に有名である。
 次にワット・スラシー(写真M)を見学した。池に浮かぶ小島にあるチューディー(仏塔)は、スリランカ(セイロン)様式の釣鐘型である。

写真M ワット・スラシーの仏像

 次にワット・トラバン・ングンを見学した。遊行仏の彫刻の見られるワット・マハタートの西側の「銀の池」の西側に、ワット・トラバン・ングンのチューディーがある。 

写真N ワット・シーチェムの仏像
 スコータイ遺跡の見学の最後に、ワット・シーチェムを見学した。この遺跡もスコータイを象徴する寺院である。屋根の無い、32メートル四方、高さ15メートル、そして壁の厚さが3メートルもある本堂内に大きな手で降魔印を結ぶ座仏像(写真N)は、スコータイ遺跡を紹介する際によく掲出される写真である。この仏像は、ラームカムヘーン大王の碑文の中で、「おそれない者」という意味の「アチャナイム」と呼ばれている。
 スコータイ歴史公園は総面積70平方キロもあり、他にも沢山のワットがあるが、今日旅行7日目の午後は、スコータイ遺跡の有名な4か所の遺跡を巡った。かけ足で巡ったが、よく整理をしないと、どれがどの遺跡か分からなくなりそうで、この原稿を記するにあたっても、訪問時刻と写真を照らし合わせながら書いている。
 7日目の夜は、グループ仲間と話し合って、夕食後に全員で行きたいと言うので、バスとガイドを手配して、ピッサヌロークのナイトバザール(夜市)へ行った。ナーン川沿いに広がるマーケットは、ウドーン・ターニーほど大きくはないが、それでもかなり大きくて賑わっていた。
(次号へ続く)
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2
二宮 健(35回) 2018.01.02


筆者近影 ウドーン・ターニーの露天食堂にて
 パノム・ルン遺跡はカンボジア国境付近にあり(写真@)、ピーマイ遺跡や、カンボジアのアンコール遺跡と共に、アンコール王朝時代に建てられた、クメール王国の神殿跡である。この遺跡は2005年に17年にわたる修復を終えて、大神殿がかつての威容をしのばせる姿に復活した。(写真A)
 パノムとは「丘」を意味しており、この神殿から眺める風景はタイの農村風景であり、その先には、カンボジアとタイの国境である、ドンラック山脈があり、山を越えるとそこはカンボジアである。寺院は402メートルの死火山の丘の上に建造されている。この神殿のレイアウトは、入口を入ると長さ160メートル、幅7メートルの石畳の参道があり、道の両側には70基の灯籠があり、進むとナーガ(蛇神)に護られた橋がある。

写真@パノム・ルン遺跡

写真Aパノム・ルン神殿群の一部
ここから急な坂道の参道を丘に登ってゆくと神殿の前に着く。神殿正面入口上部に飾られた「水上で眠るナーラーイ神」のレリーフがある。縦66メートル、横88メートルの回廊に囲まれた神殿は壮大で、内部にはヒンドゥ教の神、シヴァの乗り物の牛が祀られている。外壁には多数のクメール様式の宗教装飾がほどこされていて、壮麗である。
 

写真Bムアン・タム神殿内の人工池
 グループは、続いて、パノム・ルン遺跡より5キロメートルほど南東にある、ムアン・タム遺跡を見学した。10世紀から11世紀頃に建立されたヒンドゥ寺院である。120メートルと170メートルのラテライトの塀に囲まれた中には大型の塔が並んでおり、遺跡公園の中には大きな人工池があって(写真B)、ここから見る遺跡も美しい。言い伝えによると、往時には、ムアン・タムの神殿に詣でた後に、パノム・ルンの大神殿を参詣したとも伝えられている。

写真Cパノム・ワン遺跡の大仏塔
 遅い昼食の後に、ナコーン・ラーチャシーマーの市内から北東約20キロメートルにあるクメール様式の寺院、パノム・ワン遺跡を訪ねた。創建時はヒンドゥヘ寺院であったが、後に仏教寺院になったようである(写真C)。ナコーン・ラーチャシーマー県にあるクメール遺跡の中でも、規模も大きくて修復もされていて見ごたえがある。但し個人旅行で行く場合は足の便が悪いようだ。
 前述したパノム・ルン遺跡とムアン・タム遺跡はブリーラム県に属している。この県の主要なクメール遺跡である。この日も日本人や日本人グループに出会うことはなかった。ナコーン・ラーチャシーマーのホテルには午後6時半頃に帰りついた。
 

タイ王国主要部
 旅の4日目、12月20日、今日はナコーン・ラーチャシーマーより、コンケーンを経由して、東北部のラオス国境に近いウドーン・ターニーの街へと北上する。ナコーン・ラーチャシーマーよりコンケーンまで約188キロメートル、コンケーンよりウドーン・ターニーまで約122キロメートルで、計310キロメートルをバスで走行するコースである。午前8時にナコーン・ラーチャシーマーのホテルを出発したバスは、気温30度、快晴の国道2号を右手にコラート高原を見ながら北上してゆく。もうこの辺までくると行きかう車はトラックや小型貨物車が多く、めったにバスには出会うことがない。圧倒的に多いのがトヨタ製の車である。タイ主都圏にくらべると、人々の顔や服装もずっと素朴になってくる。北上すること約4時間でコンケーンの県都、コンケーン市に着いた。人口約17万人である。
 

写真Dコンケーン国立博物館内部
 我々は、ここでコンケーン国立博物館を見学した。あまり聞いたことのない街であったが、この国立博物館(写真D)は大変素晴らしかった。1階と2階には、手に取るような近さに、コンケーン周辺で出土した仏像、クメール様式のレリーフ、土器などが陳列されていて、ここも貸切のように誰もいない中で充分に見学出来た。館に接する庭には、バイ・セーマーと呼ばれている聖域を示した石板が目の前すぐに多数展示されており、日本の神社の神域のようであった。この博物館を見学出来たことは、望外の幸せという感がした。昼食をコンケーンでし、更に北上して、ウドーン・ターニーの大型ホテル(三ツ星クラス)バーン・チアンホテルに午後6時半頃に到着した。このホテルで連泊して近郊を見学する予定である。旅行中でこのホテルが一番悪かった。良いホテル(つまり高額なホテル)の中に、良くない低額のホテルを入れて、旅行会社は価格のバランスを計っているのだろう。とは言っても当地では指折りの良いホテルらしい。
 
 この日の夕食は欠席して、ウドーン・ターニーの有名なナイトマーケット(夜市)を見物に行った。この街は市内で人口約16万、広域市域で人口が約40万人と言われており、ラオスの首都ビエンチャンと指呼の距離であり、定期バスもビエンチャンとの間で1日に7本も出ている。マーケットは、ウドーン・ターニーの駅のすぐ近くにあり、大きな夜店街となっており、街の人々や欧米等からの観光客で賑わっていた(写真E、F)。

写真Eウドーン・ターニーの夜市

写真Fウドーン・ターニーの夜市写真
衣料品、民芸品、運動品店、装身具、漢方薬品店、食料品店、青果店、食堂等々、アーケードには数百軒もの店が密集しており、神戸でいえば、三宮駅から元町駅までの高架下商店街を数十倍したようなナイトマーケットである。イーサーン地方では最大の夜市である。ホテルでの夕食を欠席していたので、夜市の中の食堂ばかりが集まっている大きな屋台街で、現地の麺を使用した汁ソバを食べてみたが、ラーメンのような味で美味であった。
 3時間近く夜市を見物して、小型オート三輪車(トゥクトゥクというタイの代表的な庶民の乗り物)にてホテルに戻った。その帰り道、トゥクトゥクの後方すぐの所で何やら黒い大きいものの気配がするので、ふり返って見ると、大きな象が歩いている。象を使う人も見えないのに、象がゆっくりと街の夜更けの大通りを歩いている。人通りは少なくなっているとはいえ、誰もそれには驚かない。こちらがびっくりしてしまった。
 この街はかつてのベトナム戦争の時に、アメリカ空軍駐留の街として発展し、ベトナム空爆の基地として有名であり、ある意味での、タイの“負の部分”を背負う街でもある。しかし、その関係から街は拡大し大きく発展もした。
 

写真Kウドーン・ターニー市内のNo.1ホテル“センタラホテル”
 旅行5日目は12月21日、今日も晴天だ。ウドーン・ターニーでもう1泊するため、軽装で出発。いつものことながら、連泊すると旅は楽である。同行をしているタイ人のガイドとも、グループの人々は打ちとけてきて、日本語で冗談もとびかっている。バスは午前8時にホテルを出発して、このコースで初めての世界遺産「バーン・チアン遺跡」の見学に向かう。ウドーン・ターニーの東約45キロメートルにあり、1992年に世界遺産に登録されている。この遺跡が発見されたのは1966年のことである。発見当初は紀元前7千年から3千年前の遺跡とされ、世界最古の文明の一つとされたが、ラジオカーボンデータによって紀元前2千百年頃から紀元2百年頃の遺跡と推定されるようになった。

写真Hバーン・チアン国立博物館
 発掘現場は、バーン・チアン国立博物館から徒歩10分位にある、ワット・ポー・シーナイ境内である。ここで発掘された土器や、タイ各地で出土した遺物が、国立博物館(写真H)に展示されている。この博物館は2012年に拡張されており、館内には、ジオラマで展示された発掘現場も再現されている(写真I)。館内では、紀元前に製作された、バーン・チアンの独得模様のあるやきもの(写真J)など、タイの貴重な文物が展示されており、ここでも目前に展示物を見ることが出来て、至福の時間を過ごせた。また、近くの村では土産物用の、大きなものから小さなものまで、バーン・チアン独得の絵付けをした焼き物が売られており、私もスーツケースに入れられる小さい焼物を買った。遺跡見学後、ウドーン・ターニー市内に帰り、市内で一番と言われている、センタラホテルのレストランで豪華な昼食(写真K)をとって、午後の見学に向かった。

写真Iバーン・チアン国立博物館内のジオラマ

写真Jバーン・チアン国立博物館の展示品
(以下次号へ続く)
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微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1
二宮 健(35回) 2017.11.18


筆者近影 アンコールワット遺跡にて(カンボジア)
 タイの東北部のことを、現地タイではイーサーン地方と呼ぶ。比較的タイ国内でも、経済的に貧しい地域である。今回は、そのイーサーン地方や、北部タイ、中部タイの遺跡巡り紀行である。北部でもチェンマイなどは観光地としても有名であるが、今回訪ねた地方には、まだ日本人観光客は少なく、これからの観光客誘致にタイ政府、タイ国際航空も熱心である。さて、そのタイ国際航空(以下タイ航空と記す)が、日本へ就航して50周年になることを記念して、平成26年に、JTBと共同企画で特別コースを設定した。「タイランド3大王朝物語10日間の旅」である。コースは玄人好みであり、一般受けのコースでなくタイ北部、タイ東北部、タイ中部の有名な遺跡を巡る旅である。案じた通り、リピーター向の、またタイ大好き人間向のツアーに特化したツアーの為に、3ヶ月間に3本設定されたツアーの内の1本は集客不良でキャンセルとなり、あとの2本も10名と9名の参加者であった。それでも、筆者は内容を吟味して勇躍参加した。これは、その旅行紀行である。
 

写真@タイ航空就航当時のカラベルジェット
 タイ航空が日本に就航した当時は、SAS(スカンディナビア航空)の子会社のような会社であり、機体も、プロペラ機のDC4やシュド・エスト社製の尾部にジェットエンジン2基を配した88人乗りの小型機(写真@)が、台北と香港を経由して、バンコックまで飛行していた。 飛行時間も短縮されていった。ただ、旧国際空港のドンムアンは、タイ航空のハブ空港として、また東南アジアの主要空港としては狭くなり、

写真Aバンコック・スワンナプーム空港
混雑もひどく、2006年にスワンナプーム新空港を開港した。(写真A) 私も仕事や視察、招待などで、昭和40年代後半頃から何回となくタイへ渡航したが、そのたびに航空機は大型化を繰り返し、今回の旅行で関空とバンコック間の往復に使用した機材は、現時点(平成26年現在)で世界最大の航空機エアバス380型機(A380)であった。ターボファン4発の超大型機であり、仕様により異なるが、600席という座席の多さである。(写真B)
 

写真B超大型A380型機内

 平成26年12月17日水曜日の午前11時定刻に関空を離陸したタイ航空623便は、巡航高度12300メートル、時速785キロメートルで順調に飛行を続け、午後3時半(現地時間)にスワンナプーム空港に到着した。日本とタイの時差は2時間あるので、従って日本時間では午後5時半に到着したことになる。飛行時間6時間半である。先に述べたように、主都バンコックは何回も訪ねており、グループの仲間とは離れ、ホテルへ直行し、翌日から12月26日迄続く長期間のバス旅行に備えて、早めに就寝して休養した。今回の旅行は、タイ北部、タイ東北部(イーサーン地方と呼ばれている)、タイ中部の全行程をバスで巡り、そこに栄えたタイ3大王朝に点在する遺跡を見学するのが主目的である。世界遺産に登録されている3ヶ所の遺跡や、その他に、考古学的には有名であっても日本人観光客には馴染みの薄い遺跡、それ故に、我々のようなタイの歴史が大好き人間には、このコースが好ましく思えて参加をしたのであった。実際、後日この旅行のコースを振り返ってみると、旅の途中、日本人や日本人のグループには一度も出会ったことがなかった。これは私の数百回を数える世界各地への海外旅行経験からしても、稀有のことであった。この旅行で述べるタイ3大王朝とは、スコータイ王朝(1240年頃−1438年)、アユタヤー王朝(1351年−1767年)、トンブリー王朝をはさんで、チャクリー王朝(1782年?−現在まで)の王朝を述べている。
 

写真C我々9人が利用したJTBの2階建てバス
 旅行2日目の12月18日、早朝7時に宿泊したザ・スコーソンホテル(四ッ星ホテル)を出発した我々グループ9名と現地タイ人の日本語ガイド、運転手の11名が旅に出発した。JTBバンコック支店の2階建ての最新のバスである。(写真C)それぞれ好きな席に座っても、余席が随分ある。他人事ながら、これで収益が出るだろうかと心配をしたくなる。多分、特別設定の、日・タイ有好の為に採算は度外視しているのかも知れない。

写真D幹線道路のドライブイン風景
バスは一路北東に進路をとり、約5時間をかけて、ナコーン・ラーチャシーマーの街へ向かった。なお、全行程にわたって、トイレ休憩は幹線道路沿いにあるガソリンスタンドを中心にして、コーヒーショップ、コンビニエンスストア、ファストフード店などがある。清潔で気持良く休憩できる小広場となっていた。(写真D)ナコーン・ラーチャシーマーは、バンコックより東北255キロメートルにあって、別名、コラートとも呼ばれている。イーサーン地方への入口となる大きな街である。ナコーン・ラーチャシーマーは、タイでは、バンコックに次ぐ2番目に大きな街である。(写真E)

写真Eナコーン・ラーチャシーマー市街
街中のレストランで、ミー・コラート(コラート風焼きそば)などの名物料理を中心にしたタイ料理で昼食をとり、観光を始めることとした。この旅行中の昼食は、大部分がレストランでのタイ料理であったが、中華風の味付けで意外にグループには好評であった。利用したのは、訪れた各都市の大きなレストランであり、多分衛生面でも問題がなく、JTBとしては、安価で手配できたのであろう。ちなみに日本では2000円はすると思うタイ料理が、現地タイの地方都市のレストランでは500円位で食べられるし、屋台でなら、30−50バーツ(1バーツは約4円弱)もあれば食べられる料理も沢山ある。地方へ行けば行くほどに単価は安くなると思えた(2017年4月現在では1バーツ約3円40銭位)。
 

写真Fターオ・スラナリー像
 タイ北部や東北部は例年10月下旬から翌年2月中旬頃までは乾期に入り、雨道具が心配ない程に晴天が続くといわれている。今日、12月18日も抜けるような晴天で、ナコーン・ラーチャシーマーの気温は摂氏30度である。昼食後、ターオ・スラナリー像(ヤー・モー像)を見物した。(写真F)市の中心部にあり、街の象徴でもある。1826年にラオス軍が街に侵入した際、副領主の妻として、この街を襲撃から守った女傑の像である。見物後に、ターオ・スナラリー夫人が1827年に創建した、ワット・サーラ・ローイも見物した。同女史の遺骨が安置されている。

写真Gタイ北部で有名なピーマイ遺跡
今日、2日目のスケジュールはなかなかハードである。午後にはタイのアンコールワットとも言われるタイ北部でも有数の遺跡のピーマイ遺跡を見学した。クメール様式の美しいスタイルで、約1000年程前に建てられたものである。(写真G)この地までアンコール朝(カンボジア)は勢力を延ばしており、素晴らしいクメール帝国の建造物を残したのである。この遺跡は1901年にフランス人の学者によって発見され、1989年4月に前国王の娘、シリントーン内親王を迎えて、一般に公開された。

写真Hシーマ・ターニホテル夕食時の歓迎会
遺跡内にはピーマイ国立博物館があり(1992年新築)、周辺から出土した美術品や立像等が陳列されている。陳列物は何の制限もなくすぐ近くで見ることが出来た。2日目はこうして終わり、ナコーン・ラーチャシーマー市の新市街入口近くにある、高級ホテルのシーマ・ターニホテル(四ッ星クラス)に入った。夕食はホテルで古典舞踊を見ながら(写真H)であったが、何と私達とガイド、運転手11名だけの為に、踊り子、楽団、ウエイトレスなど約30名のスタッフで歓迎をしてくれた。屋外でのステージでのショーは1時間半も続き、その間に食事をしたが、タイ人のホスピタリティーにグループ全員が感激をした。
 
 旅の3日目、12月19日も晴天であり、最低気温18度、最高気温30度の予報である。湿度が高くなく、そんなに暑くは感じない。ナコーン・ラーチャシーマーで連泊をする為に、軽装備で出発した。連泊をすると楽に見学できる利点がある。今日は、前述のピーマイ遺跡とほぼ同時期に建立されたとみられる、近郊のパーム・ルン遺跡公園、ムアンタム遺跡公園、パノム・ワン遺跡を終日見学することになっている。これらの遺跡群は、日本人でも好事家か、考古学の専門家などが訪れることがあっても、日本人観光客が訪れることは少ない遺跡群だが、タイでは、ピーマイ遺跡などと同時期のアンコール朝の大遺跡として有名である。沢山のタイ人観光客がこの日も訪れて見学を楽しんでいたが、日本人や日本人の観光グループには、一度も出会わなかった。
(以下次号へ続く)

 筆者プロフィール:
 昭和29年土佐中入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家・JTBOB会員。神戸市在住。
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水田 幹久(48回) 2017.04.28雑感 「地域コミュニティ」

筆者近影
 4月は満開の桜の下で、新入園、新入学、新入社の人達の姿を見て、元気を分けてもらえる季節であり、前向きな気持ちも湧いてくる。それに比べて年末は、寒く、暗い天候でもあり、その年を振り返り反省するなど、どこか後ろ向きな気持ちに覆われる。
 毎年年末に、日本漢字能力検定協会は、その年の世相を表す漢字1字を発表する。昨年は「金」であったが、過去にどんな字が選ばれてきたか、ほとんど記憶に残っていない。そんな中で東日本大震災があった2011年に選定された「絆(きずな)」は、今でもよく覚えている。おそらく他の年の文字には感じられない納得感があるのだろう。大震災で、家族や仲間の尊い命を失うことや、また連絡が取れず不安な日々を過ごした体験は、あらためて家族・友達・恋人・地域の人々との「絆」の大切さを知り、希薄になっていると言われる人間関係の大切さに気づくきっかけとなったようだ。
 最近、この「絆」の大切さをじわじわ感じることが多くなってきた。そのような年齢(高齢)に近づいてきたと言われればそれまでの話であるが、具体的な体験が伴ってくると、否が応でも「絆」の重要性を認識させられる。
 小生は高校卒業と同時に故郷の高知を離れ、就学、就職、結婚、子育てと、転居を伴いながら過ごしてきた。典型的な核家族所帯である。そして、今となっては子供たちもそれぞれ親元を離れ、核家族として別所帯を持っている。
 昨年、九州在住であった義父が他界して、葬儀のこと、残された義母のサポートのことなど、地域の方や近くに住んでいる親戚の方の助けを借りなければならないことが多々あった。これを機に親戚や地域との繋がりの大切さを再認識した。
 そして、今度は高知在住の両親から舞い込んだ依頼が、さらにその認識を深めることになった。両親の住んでいる南国市では、現在でも「ご荒神様」を祭る風習が残っている。荒神(こうじん)とは土着の神で、人々を災いから救うと信じられている。主に西日本各地の農村に根強く残っている。高知出身者ならほとんどの人がその風習に影響されていることであろうし、小生も子供の頃には「竃様(家庭に祭られている荒神様)」に毎朝供え物をし、粗末に扱うときつい罰(バチ)が当たると脅されて育った。この信仰?風習?は根強いようで、今でも、年に1回(勤労感謝の日前後)に自治会をあげての祭事が行われている。今年は自分たちが当番だから手伝いに来て欲しいというのが両親の依頼であった。両親とも80歳をとうに超えており、その様な役目を引き受けているとは思いもよらないし、高齢ゆえ行事への参加も控えているのではないかと勝手に思い込んでいた。やむなく妻(女手の方が男手よりはるかに重要)と二人で出かけて行った。
 祭事の裏方を手伝いながら感じたことは、地縁と言うべきか、濃厚な近所づきあいがそこに存在しているという事であった。祭壇を設けて神事を執り行うだけでなく、仮設の土俵を作って子供相撲大会(これも奉納のひとつ)を行う。地域によっては神楽も舞う。子供から老人まで参加できるイベントになっている。そしてこの機会を逃さないように、市の防災担当による防災講習も行われた。近い将来、南海地震が起きることが想定されているため、参加者も皆真剣であった。地域の高齢化が進んでいるとはいえ、いざという時に頼りになる人たちの存在を感じた次第であった。それと同時に、老齢の両親が、今でもこの地域との絆を大切に、普通に付き合いを続けてきているということも実感した。
 そう言えば、両親が我が家に1週間ほど滞在したことがあった。両親が来て数日たった頃、弟から、近所の人が両親の姿が見えないことを心配して連絡があった、との電話があった。親元を離れて暮らす者にとって、老齢の両親の安否を気遣ってくれている近所の人達の存在は大変ありがたいことである。
 翻って、自分たちの地域はどうだろう。東京郊外のベッドタウン住宅地で、あまり近所付き合いがないまま、ここまで過ごしてきた。ひょっとしたら両親よりも自分たちの孤立の方が心配である。最近、団地内もリタイヤ組が多くなってきて、皆一抹の不安を感じるのか、有志によるウォーキング大会などの呼びかけも増えてきた。新興住宅街なりの「絆」作りの動きとも思える。煩わしいと避けてきた近所づきあいを見直して、前向きに関わっていくべき時が来ているようである。
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竹本 修文(37回) 2017.04.18ヨーロッパ・パーティ事情


筆者近影
 ヨーロッパへは1977年に羽田から行った時から37年間は毎年1〜3回は行きましたが、ここ2〜3年は計画しても身内の不幸が続き間際にキャンセルが続きました。今年も9〜10月にイギリス在住の友人と東欧を鉄道旅行する計画ですが、友人が景色が二重に見える病気になりキャンセルの気配濃厚です。鉄道旅行はニューヨークの9/11テロ以来駅の荷物預り所の閉鎖が続いて、駅のトイレとロッカーへ行くのにX線検査などの空港並みの設備工事が完成するまでは旅行しにくくなり、レンタカーは家内が反対するようになり、個人旅行はやりにくくなりました。
 私はイギリス・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・スペインはかなりの田舎まで何回も訪問しましたが、アイルランド・ポルトガル・イタリア・オーストリア・ハンガリー・チェコは5〜10回程度、モスクワ・スエーデン・スロバキア・スロヴェニア・クロアチア・ボスニア・モンテネグロなどは1〜3回です。
・・・・・・・
 ロンドン駐在時代は商売には関わらず、技術交流の名目で、正式のパーテイーを何回も取り仕切ったり、招待されたりした経験が豊富です。日本でも半蔵門の英国大使館のパーテイーに参加したし、フランスの経団連みたいな団体が東京でフランス式パーテイーを開催した時にも夫婦で招待された事もあるので、特に日本と違う所を書きます。
1.アペリティーフ(食前酒)
・イギリスでは一般的には招待状に、「カクテル 18時」などと表現する事が多い。アペリテイーフというフランス語を嫌って19世紀にアメリカ人が作ったとされるカクテルという言葉を使うのだろうか?
・パーテイー会場の受付を通過すると、テーブルも椅子もないBarに通されて食前酒を頂く、高級な所ではWelcome・Champagne、一般にはイギリスはジン&トニック、シェリー、ベルモット、キール、カンパリ・ソーダ。ウイスキーはスコットランドと日本以外では食事中には飲まないが、食前酒として食事の前のカクテルの時間帯に飲める。但し、ストレートか氷の無い水割りかオンザ・ロックで、氷が入った水割りは日本にしか無い。ビールは飲めない。アルコールが飲めない人はオレンジジュースやジンジャーエールなど。招待客が一斉に到着する事は無いので、来た人から飲み始める。立って自由に動き回れるので初対面どうしでも知り合える。大勢の時はホスト&ホステスまたは委託されたレストランのフロア・マネージャーが座席票を配布する。
・招待客が揃ったら、ホスト&ホステスがDining・Roomの入り口立って招待客一人ひとりに握手しながら歓迎する。人数が30人程度なら座席を指さしして教える。座席はどうぞご自由に・・・・という事は、割り勘や会費制の場合以外は無い。
2.料理

1983年ロンドン駐在員時代
秘書Yvonne嬢とワイン
・料理のコースは5コース,7コース,9コースで、ヴェルサイユ宮殿のルイ十四世の食事に倣ったウイーンの神聖ローマ皇帝は昼食でも9コースだったそうで、英仏でも豪華版は9コース。前菜and/orスープ、魚料理+白ワインから始まり、シャーベット(寿司屋の生姜みたいなもの)で口直ししてから肉料理などのメインコース+赤ワインになる。メインコースが終わると、チーズ+ワイン、デザートまたはソーテルヌ等の甘いデザートワイン、ポルト酒、ブランデーと続き、コーヒーで終わる。
・スピーチは、メインコースが終わった頃から、ホストから始める。食って飲んで満足した後なので、客も静かに耳を傾ける・・・・そしてスピーチが終わるたびに乾杯する。日本の皇室主催の宮中晩さん会もメインが終わったあとで、天皇がスピーチを始め、終わったら乾杯する、そして招待客が同様に・・・。ヨーロッパの民間のパーテイーでは、招待客の中で一番偉そうな人が立ち上がってホスト&ホステスに感謝のあいさつをして、彼らを褒め称えるスピーチをする。これは事前に予定されている。しかし、予定していなかった方々が素晴らしいスピーチをして盛り上げる・・・・これは日本にはなさそうだ。
・日本の一般のパーテイーでは、例えば結婚式の披露宴では乾杯までにスピーチがあり、新郎・新婦の友人などのスピーチは後で食べながらやることが多くて、やかましくて聞こえなかったり・・・・「乾杯したら無礼講」が普通なのでスピーチは早くやっておかないと誰も聞かなくなる・・・・・「日本人は酔うまで飲む」のだから仕方ない?高知県はこの傾向が最も強い所のように思います・・・・・土佐弁が分からない人には喧嘩しているように聞こえるらしい・・・・。
・日本ではパンにはバターが付いてくるが、フランス、イギリスでは朝食時のみバターがつくが、昼食・夕食には付かない、パンに付けるならご馳走のソース。イタリアではフランスに隣接するピエモンテ州はフランス式、その他は朝食だけでなくパンにはエキストラヴァージンオイルが一般的なように思う、特にトスカーナから南はオリーブオイルだと思います。
・日本人が食事中に嫌がられるのは、口から発する音、飲み物をすする(Sucking)音、スパゲッテイーなどをズルズルと吸い込む(Sucking)音。Suckingは非常に嫌がられる。イタリアの中を日本のツアーで行った事があるが、食事は日本人だけの個室だった、スパゲッテイーをSuckingして他の客に迷惑をかけるからだそうだ。「スパッゲッテイーはお蕎麦ではない!」
3.ワイン

2007年ロマネコンティの丘訪問
・イングランドはビールの国であり、日頃はビールで食事をする人も多いが、正式のパーテイーとなればワインだけである。
・日本人がよくやる間違いは、ワイングラスをゆすぶってTastingをする事、ホスト&ホステスは予算と相談して選んでいるし、レストランは飲み頃にしてサーブしているのに客が何か不満なのか?心配になる。Tastingは金を払った人がやるものであり、会費制でない限りやってはならない。
・ヨーロッパのパーテイーでのマナーは、ワインのサービスはホスト・ホステスまたは委託されている店の人だけで、客同士が注ぎあう事はないので、あちらの人たちは、「日本人を招くときは、彼らの前にボトルを置くな・・・彼らは勝手に酔う迄のむ・・・!」とこぼしていました。
・パーテイーに招待された立場のテーブルマナーの第一は、男は近くの女性のグラスには常に注意を払い、少なくなったら「もう少し如何ですか?」と声をかけて、必要ならサービス係に合図する。女性は控えめな人が多くてグラスを空にして欲しがる事をせず1/3とか1/4とか残すように躾けられている。客同士が注ぎ合う事はやってはならないし、日本でよく見かける、女性が男性に注ぐのはもってのほかです。
・日本では、自分のグラスは空になっても手酌は出来ないので隣の人に「一杯いかがですか〜?」と勧める、そうすれば注いでくれる。つまり、「飲みたいときは他人に注ぐ」
・食前酒と食後酒は別として、食事中のワインは食事を美味しく頂く為に選んで戴くが、日本人は酒が主役で食事は「酒の肴」になる傾向がある。割烹などでは、さんざん飲んだ後で、「お食事は、お茶漬け、茶そば・・・がございます」とか言われて・・・・「それじゃ〜今まで食べたのは食事じゃ〜ないのか〜」と思う。外人客を招待した時に通訳していたら・・・「お食事」は何と訳すのか?一人で噴出した事があります。
4.ディジェスティーフ(食後酒)等
・コーヒーは「寿司屋のあがり」と同じでお開き。コーヒーの代わりに紅茶というオプションは紅茶の国イギリスでも無い。西洋料理の先進国イタリア、フランスに従うので、紅茶はありえない。
・コーヒーにミルクを入れるのは朝食時のみで、その他の時間帯や昼食・夕食のご馳走の時はミルクは入れない。砂糖は入れる人もいる。
・日本では前菜にチーズが出る事があるが、ヨーロッパでは料理に使うチーズではなくて、単品で食べるのは濃厚なチーズ+濃厚なワインで、メインコースの後と決まっているようだ。「メインコース料理とワイン」が中心であり、これより濃厚な食べ物とワインはメインコースの味に悪影響があるので、前には出てこない。
・爪楊枝はヨーロッパにもあるが、人前での使用はダメ、トイレで使う。
5.その他
・イタリアはガリバルデイが統一したと言うが、文化的統一は考えた事も無いと思いますね〜文化的には大先進国の集合体ですよね〜?ワインのブドウでも世界800種の中の300種がイタリアだから・・・覚えられない。日本も酒は各地の地酒があるが、最近ではどこへ行っても山田錦志向かな〜?
・日本のホテルのテーブルマナーはイギリス風が始まりのようだが、ヨーロッパではメデイチ家のカトリーヌ・ド・メデイシスCatherine・de・Medicisがフランス王アンリ二世に嫁いだ時がフランス料理の基本の始まりで、イタリアで発明されたテーブル・フォークがフランスやイギリスに伝わってきたのもこの時だったような気がします。
・11世紀に元ヴァイキングでフランスのノルマンデイー地方に定住したノルマンデイー公国のウイリアム征服王がイギリス王になってから、イギリス王家の食事のマナーになり現在まで続いている。しかし、庶民のイギリス料理はまずいまま20世紀まで続いた。イギリス皇室は15世紀に百年戦争に負けるまでフランス語を話していたし、言葉も牛(ox/cow)、羊(sheep)、豚(pig)と英語はあるのに、食べるときはビーフ、マトン、ポークとフランス語で呼んでいる。フランスもイタリアもテーブルマナーは緩やかだが、イギリスは真面目に守っている。フォークを使うのが更に遅れたのが野蛮人ゲルマンでドイツの伝統料理店では今でもナイフで食事をしている。

JAXA時代の記念写真
・ヨーロッパはパーテイーの最後はダンスをする、若い頃は社交ダンスをやった事はあるが、苦手だった。30年ほど前から社交ダンスよりはデイスコが流行っていて、会社のパーテイーでも従業員は別人のように踊る・・・・
・JAXAは、種子島や鹿児島からロケットを打ち上げる予定が決まると近隣6県の漁業団体に操業休止のお願いに訪問するが、高知県は特別で大量の酒を飲まなければ話が進まないらしい・・・・
****************
《編集人より》愚娘の結婚披露宴のワインの自慢をしたら、2001年に日本ソムリエ協会の一次試験を合格した新会員の竹本さんより、きつ〜いダメ出しが届きました。ワインを抱え込んで離さない工事屋の認識とあまりにもかけ離れていたので、ご本人の了解を得て掲載させていただきます。皆さんも反省してください。
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1)
二宮 健(35回) 2016.12.03

モロッコ地図(「旅のともZenTech」より)
  
筆者近影

 深夜に関西国際空港を出発したエミレーツ航空317便(ボーイング777-300型)は、約11時間10分の飛行で、現地時間午前5時45分にドバイ国際空港に到着した。2時間後の午前7時45分にエミレール航空751便に乗り継ぎ、更に8時間45分を飛行して、現地時間(モロッコ)で昼の12時30分にカザブランカのムハンマド5世国際空港に到着した。待ち合わせの時間を入れると、日本出発後22時間もの時間を要してモロッコに着いたことになる。これがヨーロッパ経由の便、例えばパリ経由などだと大幅に早くモロッコへは到着出来るが、エミレーツ航空にして往復利用をすると、格段に安い割引にて旅行が出来る。安いとは言え、機内サービス、機内食、安全性は、日系、欧州系航空会社に勝るとも劣ることはない。機材も最新のものを導入しており、安かろう悪かろうでないことは、カタール航空なども同様であり、私の数多い海外渡航経験からしても誇張でなはない内容を伴う会社である。ただ、少し難点があるとすれば、日本とモロッコには直行便が無いので辛抱するしか致し方がない。長時間の移動となるわけである。(写真@=エミレーツ航空)
 
 今回の旅の目的は、モロッコのすべての世界遺産を見学することと、モロッコ各地の幻想的な都市の見物である。今回は2回目のモロッコ訪問で、前回は前述のカタール航空を利用してモロッコへ入ったが、経由地がドーハであること以外に飛行時間は大差がない。さて、マグレブとは、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国の呼称であって、アラビア語で「日の没するところ」を意味する。そのため、ムスリムの義務である1日5回の拝礼のうちの日没時の礼拝を指す言葉でもある。
 作家の四方田犬彦さんの著作に「モロッコ流謫」というモロッコ紀行の名著があるが、他国の作家や映画人、文化人などを引きつけてやまぬ幻想の世界の色彩をこの国は古くから持っているように思うのは、私一人ではなかろう。モロッコの世界遺産としては、ユネスコへの登録順に、@フェズ旧市街(1981年、)Aマラケシュ旧市街(1985年)、Bアイット・ベン・ハドゥの集落(1987年)、C古都メクネス(1996年)、Dヴォルビリスの遺跡(1997年)、Eティトゥアン旧市街(1997年)、Fエッサウィラのメディナ(2001年)、Gアルジャジーダのポルトガル都市(2004年)、H近代と歴史的都市の両面を持つラバト(2012年)がある。どれをみても魅力あふれる文化遺産と自然遺産である。これらの場所を巡る旅に参加をした紀行である。
 カサブランカに到着したのは、2011年12月2日のことであった。入国手続きを終えると、昼食を市内のレストランで済ませ、その後、大西洋沿いに道を北東に取り、約90キロ走って、1時間30分程度で午後4時過ぎに首都ラバトのホテルに到着した。12月1日深夜に日本を出発して、12月2日にラバトに到着したのである。日本とモロッコの時差は9時間あるので、日本時間では12月3日午前1時である。まるまる24時間以上もかかって日本から到着したわけだ。宿泊するホテルはベレールホテル・ラバトで、4つ星クラスとはいえ、立地の良さが売り物の、中クラスのホテルである。ラバトは、カサブランカには商業や人口で大きく劣っているが、行政上では首都であり、「庭園都市」の名の如くしっとりと落ち着いた街である。日本の大使館もこの街に在り、人口約65万人、都市圏を含めると185万人である。ラバトとは「城壁都市」の意味であり、2012年に世界遺産に登録されている。
 今回の旅行の目的の一つは、滞在する都市の超一流ホテルの視察である。旅行評論家として、これは私のどの旅でも目的の一つである。(ちなみに、私はほぼ全世界にわたり約500回の海外渡航をしている)。さっそく夕食後、ラバトの超一流ホテルの一つであるラトゥルアッサンを訪ね、部屋やレストランをホテルの係員の案内で見せてもらった。素晴らしいホテルである。(写真A=ホテル・ラトゥルアッサン)
 12月のラバトは雨が多いらしく、今日は最高気温が17度、最低気温は7度であった。到着したカサブランカの空港から終日、雨が降ったり止んだりの天気であった。

写真1 エミレーツ航空B777-300(最新鋭) 

写真2 ラバトのラトゥルアッサンホテル

 旅行3日目、12月3日は、昨日と打って変って朝から晴天となった。この日以後ずっと旅行中の天気は良かった。今日の予定は、午前中にラバトを代表する「モハメッド5世廟」(写真B=ムハンマド5世廟ともいう)を見物し、その後、ムーア様式の代表的建築である「ハッサンの塔」を予定通りに見学した。約300キロを5時間ほどバスで北東方向に走り、世界遺産のティトゥアンを観光、更に約60キロ北へ向かい、ジブラルタル海峡とイベリア半島を望む街タンジェを目指した。バスでかなりハードな旅であった。順を追って見物箇所を列記すると、午前8時にラバトのホテルを出発するために、午前6時に呼び起こしの電話が鳴り、午前7時には定番のアメリカン・ブレックファストをとり、定刻8時に出発して、ラバトの世界遺産であるムハンマド5世霊廟(モロッコをフランスからの独立に導き1961年に没した前国王ムハンマド5世の廟で、1973年に完成)を見学した。廟の内部は撮影が可能である。これを終えて、道をはさんですぐにある、これも世界遺産ハッサンの塔を見学した。これは未完の尖塔(ミナレット)で、ヤークブ・マンスール王によって12世紀末に建築された。高さが44メートルもあるが、彼の死によって中断された。モロッコにおけるムーア形式の代表的な建造物である(写真4)。
 午前中に見学を終え、早めに昼食をとって次の目的地ティトゥアンへ向い、約4時間30分位で到着した。この街もモロッコの世界遺産に登録されている。ざっと説明をすれば、街の中心に在るハッサン2世広場から、西に新市街、東にはメディナがあって、かつてはスペイン領になったこともあり南スペインの雰囲気が強く、人口約46万人の街である。着いてすぐに新市街のムーレイ・メフディ広場を中心に見学、続いて旧市街にある王宮とスーク(=市場。貴金属のスーク、陶器のスーク、食料品のスーク、衣料や革製品のスークなど狭い地域の旧市街の中でそれぞれ独立したスークがある)を見物した。カリファ王宮は17世紀に建てられた歴史的建物であり、イベリア半島のアルハンブラ宮殿に代表されるムーア風の、モロッコにおける最も顕著な建造物として有名である。
 ティトゥアンを見物した後、西北約60キロにあるタンジェの街に向かい、夕方遅くまでかけてタンジェの街を見物した。日本ではタンジールとも呼ばれている街だ。人口は100万人近く、ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインからのフェリーも多く入港している。前15世紀にはフェニキアの交易港として既に栄え、カルタゴやローマ、ビザンチンなど、その時々に支配者が変わった非常に歴史の古い街である。
 次回はタンジェの街の説明から始めよう。(第二回に続く)

写真3 ラバトのモハメッド5世廟入口

写真4 ラバトのハッサンの塔
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2)
二宮 健(35回) 2017.01.04


モロッコ地図
 タンジェでは、メディナの中にあるプチソッコ(小さな広場の意)を訪れ、そこから歩いてグラン・モスクの外観を見(ムスリム以外は入れないので)、更に進み展望台へ出てタンジェ湾とジブラルタル海峡とイベリア半島を望見した。ヨーロッパ大陸が目前にあることが不思議に思える場所である。

タンジェよりイベリア半島を望む

 一旦、宿泊するホテル「タンジェ・インターコンチネンタルホテル」へ戻った。御大層な名前で四つ星クラスにランクされているが、日本でのビジネスクラスのようなホテルであり、街の中での交通の便が良いのが利点のホテルであった。ホテルで夕食をとり、これも目的である、タンジェ一番と言われる有名ホテル「ホテル・エル・ミンザ」を訪れた。1930年に建造されたスペイン様式とムーア様式の混合インテリアで、係員から部屋を見せてもらったが、素晴らしいインテリアの数々であった。普通の部屋(ダブルベッド)で約2300から2500ディルハム(DH、1DHは約12円)くらいとのことであった。2時間ほどホテルのバーで過ごしたが、こちらも居心地の良いバーであった。

ホテル・エル・ミンザ内部

同じホテルのバーにて

 旅行4日目の12月4日は、朝8時にタンジェのホテルを出発して約3時間をかけて南下、シャウエンに到着した。山に囲まれた小さな街で人口も約4万人弱と少ないが、家々の外壁や屋根瓦を青い色で塗って、街全体がまるで幻想的な絵のようである。タンジェからは内陸に入った、リーフ地方の山中の街である。1920年にスペインはこの街をスペイン領モロッコとしたが、1956年モロッコの独立によりモロッコに復した。従ってスペイン語を話す人も多い。まだまだ日本人観光客も少なく(2011年現在)、専らヨーロッパからの観光客が多い。人工の割にはホテルも多くある。この日の昼食は街を見おろす山上の「レストラン・アントス・シャウエン」でたべたが、料理は何のことはなかったものの、その絶景に目を奪われた。昼食を含めて約3時間、シャウエンの旧市街の青い街並みを見物した。まるで青の世界の眺望であった。
 この日は、次の目的地ヴォルビリスへ向った。午後に、リフ山脈を越えて、ヴォルビリス遺跡とメクネスの2か所の世界遺産を見物、宿泊地のフェズへ向った。このコースは超ハードなバスの旅であり、上記2か所の世界遺産をゆっくり見るには少しきつかった。(帰国後、スケジュールを作成した旅行会社には旅程の変更を助言しておいた。)メクネスの北方30キロメートルにあるヴォルビリスの遺跡はモロッコを代表する古代ローマ遺跡であり、約2時間しか時間がなかったが、夕日に輝くカラカラ帝の凱旋門とフォーラム、ベシリカ礼拝堂その他を見学した。古代ローマ帝国の西端に位置するモロッコに現存する遺跡として、保存状態が極めて良いことで知られている。これも世界遺産に登録されている。

青の街シャウエンの街角

ヴォルビリスの古代ローマ遺跡

 次にメクネスに入ったのは午後6時近くになっており、この世界遺産登録の街ではマンスール門しか見ることができなかった。これは非常に残念なことであり、前回訪問時にマンスールをゆっくり見ていた私にとってはよかったが、この旅程作成は失敗である。マンスールの街には、これ以外にも素晴らしい見学箇所が沢山あるからである。この門は王都へのメインゲートとして有名な門であり、メクネスの象徴として、この街のランドマークである。ムーレイ・イスマイル王が手がけた最後の建造物としても有名である。
 4日目の宿泊地フェズまで約60キロメートルを約1時間で走破してフェズ・インというホテルに夕刻遅くに到着した。このホテルは、まったく三ツ星クラスにも届かぬ位のホテルで、旧市街にも遠くあまり交通の便も良くなかったし、新市街の外れに位置していた。部屋の浴室の湯が出ず、暖房もきかない散々なホテルであった。(これも旅行後に、もう少し良いホテルを確保すべきであろうと旅行会社に助言した。)但し、このホテルのフロントデスクの女性スタッフは親切で、こちらの問いにも適切な助言を与えてくれてありがたかった。このホテルで夕食を済ませて、街で最高のホテルと宣伝されている「パレジャメイホテル」を見学に出かけた。超一流ホテルを各地で訪ねる訳で、失礼にならない程度に服装を整えるのは一寸だけ面倒である。ホテルにもピンからキリまであるので、宿泊しているホテルに比較すれば本当に雲泥の差がある。豪勢なホテルである。フェズ・エル・バリの北端に立地し、夜遅く訪ねたにもかかわらず、目的を告げると係員が親切に対応してくれて、ホテル内の各所を案内してくれた。時間とお金に余裕のある方には絶対におすすめできるホテルだ。高台にあり、フェズの街を見おろす眺望が素晴らしいホテルである。

メクネスの象徴マンスール門

フェズのパレジャメイホテルにて

 旅の5日目は、フェズで連泊をする為、身軽な服装と持ち物で、終日世界遺産の街フェズを観光した。フェズ市内定番の1日観光のコースである。午前中に王宮(フェズでの国王の滞在王宮)から、ユダヤ人街のメッラー、フェズジャディド通りを歩いて観光した。土産物品や日用品などを売る小さな店が密集している場所をくぐりぬけるように通ってバスに戻り、フェズで最大の庭園で噴水池などがあり2011年にリニューアルした美しい庭園を見物後、すぐ近くにあるレストランで、これも定番料理のチキンレモンのタジンを食した。その後、午後のコースは、楽しみにしていたマリーン朝の墓地を見物した後、ブーシェルード門へ向い、世界一の迷路と言われる、フェズのメディナへ入った。ガイドが居ないとどこをどう歩いたかもわからない小路や街路を、ゆっくりと2時間ほど散策した。カラウィンのモスクや、又、タンネリ、スーク、ダッバーギーンも楽しみ、パプーシュという名物の履物を購入した。パプーシュは、所謂、先端が尖ったスリッパであり、土産品として喜ばれる。皮なめし工場はフェズで有名であり、見物をしたが、その強烈な臭気と、そこで働いている人の、劣悪であろう労働ぶりにびっくりした。

世界遺産フェズ市街を俯瞰

フェズの皮なめし工場

 旅の6日目は、フェズを出発して、モロッコを東西に走るアトラス山脈を越え、雄大な山並みや、荒涼とした砂漠、点在する緑豊かなオアシスなどを眺めながら、約450キロメートルを南下して、約8時間半をかけ6日目の宿泊地エルフードに向かうコースである。先ず、アズルーの街へ向かった。現地人ベルベル人の居住する街で、アズルーはベルベル語で岩を意味する。ここは岩山が多く、又、街のランドマークは、市庁舎近くのグラン・モスクである。バスの車窓から風景を楽しみながら、ミテルドの街へと進む。この街はモロッコでも高山に位置づけられている。雪におおわれたアヤシ山の麓にあって、都市部であるフェズや、エルフードなどの砂漠部の中間に位置している。朝9時頃にフェズのホテルを出発して、特に見物する場所もなく、モロッコの大自然を車窓より楽しみながら、午後5時半頃、メルズーカ大砂漠への入り口の街エルフードに到着した。エルフードのホテルは「リアドサラーム」というこの辺では中級のホテルで、早朝にメルズーカの砂漠の朝日を鑑賞するために宿泊するホテルと考えれば、辛抱出来るクラスのホテルである。日本人をはじめグループのツアー客が多く、それなりに客扱いには慣れているが、建物が古くて広く、自分の部屋にたどりつくまで時間がかかり、備品も古く、食事もあまりよくなかった。(以下次号)
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)
二宮 健(35回) 2017.02.03


モロッコ地図
 エルフードのホテルの周囲にはショッピングエリアなども無く、とにかく寝るだけのホテルであったが、地域柄仕方がないと思う。この辺は、安宿は治安が悪く、我々の宿泊したホテルは安全で安心なホテルだと、現地ガイドは言っていた。

 旅の7日目は、早朝4時半に呼び起こしの電話が鳴り、メルズーカ大砂漠の朝日の昇るのを砂漠の中で見るツアーに、朝食抜きで、朝5時に出発した。まだ外は暗闇である。舗装がされていない悪路を約50キロメートルを4WD車で走り、6時前に駐車場に着き、大砂漠を見物した(写真@)。メルズーカ砂漠は、アフリカ大陸北部に広がるサハラ砂漠地帯の一つで、サハラとは「荒れた土地」の意味とのことだ。到着した6時頃も周囲はまだ闇であった。現地ガイドの案内でラクダや砂漠案内人の屯する場所へ移動した。
 有料のラクダに乗って観光するか、歩いて砂漠の日の出の見える場所まで行くか聞かれたので、徒歩での時間を聞くと、片道約30分とのことなので歩くことにした。ラクダを先頭に一行が歩いた。すぐに砂漠に入る。驚くほど、砂漠は眼前から始まっていた。足首までつかるような細い砂を歩くこと約30分、うっすらと夜が明け始めた。ここから朝日を眺めるとガイドが言って、焚火をもやし始めた。少し寒いので暖を取っていると朝焼けが起こり、一斉に周囲が見えてきた。見渡す限り砂の波のような重なりの彼方より、日が昇ってきた。本当に感動的な風景で(写真A)、皆が一斉にシャッターを切っていた。鳥取砂丘も美しいが、比較が出来ない程の砂丘の大きさと途方もない迫力である。これもごくサハラ砂漠の一部でしかないと聞かされると、感動するしかない風景であった。

写真@ 夜明け前のメルズーカ大砂漠にて

写真A 大砂漠の日の出

 見物を終え、同じ道をホテル迄引き返し、朝食をすませて、今日はワルザザートへ向う。西へ約360キロメートル、バスで約6時間30分の行程である。今日の車窓からも、モロッコを代表する景色が展開すると、現地ガイドがお国自慢をする。余談になるが、早朝の砂漠観光で、デジカメで写真撮影の際にシャッターに微小な砂漠の砂が入り、写真撮影が出来なくなったが、予備で持参したもう一台のデジカメに切り換えた。この辺は、私自身の経験から生みだした知恵である。すぐにカメラや予備の電池は手に入らない。海外旅行の際には予備が全てに必要である。  
 

写真B トドラ峡谷の断崖
 7日目はワルザザードへ向かう旅であるが、先ずバスはティネリールへと向かう。人口は4万人弱の小さな街である。ベルベル人の街である。今日のコースは変化に富んだコースで、「カスバ街道」と呼ばれ、土レンガで造られた大小のカスバを見ることが出来る。カスバとは城壁で囲まれた要塞のことである。そしてまた、途中のトドラ川の水を利用した街道一の美しい緑の映える、トドラ峡谷のオアシスがあり、土色のカスバと緑のオアシスとのコントラストが誠に美しい。このコースの途中には200メートルの切り立つ断崖が続く。モロッコのグランドキャニオンと呼ばれるトドラ峡谷(写真B)へ立ち寄り、ここで昼食をとった。ティネリールの街から、トドラ川の方へ向かいトドラ峡谷に入る。この峡谷はカスバ街道一の景勝地でもある。峡谷に立つ絶壁は、ヨーロッパのロッククライマーの聖地の一つに数えられている。絶壁にへばりつくように、レストランとホテルマンスールという安宿があり、このホテルで昼食をとった。料理は名物のクスクスであった。絶景をバックに写真を撮るのだが、とても岩山全体は人物を小さくとらないと撮れない途方もない大きさである。ホテルの前は美しい川が流れていて、景色が非常に美しい。昼食後、ダデス谷の村々の中で有名なエル・ゲル・ムグナの村を訪ねた。バラで有名な村で、バラ水(ローズ・ウォーター)を買ったが、バラの花自体は春で無いと見られないとのこと。花の時期にはバラ祭り(5月の第1週目の週末)が開かれ、その為に貸切バスが沢山訪れるとのことであった。
 タデス川沿いにバスは更に西へ走り、ワルザザートのホテルに午後5時半頃に到着した。宿泊したホテルは、フアラージャノブホテルであった。四ツ星に登録されているが、実際には三ツ星クラスの程度で、安心して宿泊できるのが売り物の、ビジネスクラスのホテルである。ワルザザートは、アトラス山脈の南に位置し、ドアラ川のオアシス都市であり、モロッコでのサハラ砂漠観光の入口でもある。標高千百メートル位に位置し、人口は約6万弱である。今日7日目のコースは、早朝から大変きつい行程であった。
 7日目の夕食を済ませ、今夜もワルザザートの超一流ホテルの探訪に出かけた。いわずと知れた、ベルベルパレスホテルである。5ツ星クラスとして有名であり、ワルザザート近郊で撮影された映画の出演スターは全てがこのホテルに宿泊しており、その主演映画のポスター等がホテル内に展示されていた。親切なスタッフによって館内を案内されたが、南モロッコ地方で随一のホテルだと自慢をしていた。プロの私の眼からもそれが理解できた。しかし常時、こんな場所でも宿泊客があり、高い料金を支払って宿泊する客は欧米系の客であろう。

 

写真C アイド・ベン・ハッドウの要塞
 旅の8日目は、ワルザザートを朝の9時に出発して、世界遺産のアイド・ベン・ハッドウを観光した後、北へ向かい、オートアトラス山脈を越えて170キロメートル、約4時間をかけて、マラケシュへ向かうバス旅である。順を追って訪ねた場所を述べてみよう。今日も天気が良く、見物場所も大変特長のある場所だった。
 アイド・ベン・ハッドウは、ワルザザードの西方約32キロメートルにあり、バスだと約30分で到着する。(写真C)古いクサル(要塞化した村)であり、世界遺産に登録された日干しレンガの建物群である(写真D)。ここは映画のロケ地としても過去何作にも使用された場所で、「アラビアのロレンス」や「ソドムとゴモラ」等々の他沢山の映画に使われている。今日の観光地の中でも圧巻の地である。1時間半程度徒歩で見て回り、いよいよオートアトラス山脈を進みマラケシュへ向かったが、途中まだ雪の残った山道を行き、標高2260メートルのティシュカ峠(写真E)を越えた。砂漠側のワルザザートと内陸南部の都市マラケシュとのオートアトラス山脈の分水嶺の峠である。ワルザザートからマラケシュへの道は人気のあるルートで道も舗装されており、車も多くはないが、そこそこの通行量はある。とにかく景色が雄大である。峠を下ると、タデルトの村に入り、休憩をとった。小集落であるが、難路を越えた旅人がやっと一息つける村である。朝9時にホテルを出発して、午後の3時過にマラケシュのホテルに旅装を解いた。マラケシュのホテルはアミンホテルという三ツ星クラスの大型ホテルで、新市街に位置し、日本人旅行者もよく利用するホテルである。マラケシュでは2連泊をする。部屋は古めかしい部屋であるが、浴室の湯が十分に出るのが、疲れた体には何よりである。

写真D 日干しレンガの建物群

写真E ティシュカ峠の標識

 

写真F 騎馬軍団のショー(マラケシュ)
 マラケシュの旧市街は、多くの街と違って、地元の赤土を使った建物が多く、建物を薄い赤色に塗ることが条例で定められており、複雑に入り組んだメディナの路地は、ピンク色の迷路である。人はマラケシュ旧市街を「ピンクシティ」と呼ぶほどである。1985年に世界遺産に登録された街を巡ることになる。到着した夕刻に、夕食を兼ねて、この街で有名な騎馬軍団によるファンタジアショーの見物をした。有名なショーで、世界各国からの観光客が、夕食をした後に、ショーを行う広場を囲み勇壮な騎馬軍団のショーを見物した。(写真F)
(以下次号)
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4)
二宮 健(35回) 2017.03.03

モロッコ地図
 旅の9日目はマラケシュの終日観光である。最初メラナ庭園を訪れた。広い庭と大きな池を有する庭園で12世紀のムワッヒド朝につくられた。庭に植えられた草花や樹々が美しい。その後、バヒア宮殿を見物した。部屋の豪華さと、各部屋を仕切るアーチの形にもこだわりがあって、19世紀後半の、当時の大宰相の私邸から往時の豪華さが想像出来る建物である。その後、サアード朝の墳墓群を見学した。第一、第二、第三の部屋に分かれており、サアード朝(1549年−1659年)の代々のスルタンが葬られている(写真1)。
 9日目の午後は、モロッコらしさが凝縮した、ジャマ・エル・フナ広場を訪ねた。夕刻まで自由時間の為に、広場を中心に周辺のスーパーマーケットも見物した。現地の人が「ジャマ」と呼ぶ広場には、ありとあらゆる屋台が集まり、熱気の渦が巻いている(写真2)。広場は旧市街にあり、11世紀後半にマラケシュに首都があった頃にも、すでに街の中心であったし、古くからモロッコの観光名所として有名である。2009年9月に世界遺産に遅まきながら指定されている。私は、自由時間に広場に面したレストランで昼食をとり、ゆっくりと広場を観察した。又、屋台でしぼりたてのジュースを飲んだり大道芸の雑芸(チップを要求されるので、小銭を用意しておいたが)を楽しんだり、十分に広場の雰囲気を楽しんだ。その後、ホテルへ一度戻った後、マラケシュで有名なホテル・マ・ラマムーニアを訪ねた(写真3)。宮殿ホテルであり、18世紀の建築で、これこそ五ツ星にふさわしい超一流ホテルである(写真4)。日本の近代的ホテルと違って、モロッコの伝統的建築様式である。この日も遅く宿泊先のホテルに帰り、マラケシュの2日間を終了した。

写真1 サアード朝の墳墓群

写真2 夜のジャマ・エル・フナ広場

写真3、写真4 マラケシュの五ッ星

「ホテル・マ・ラマムーニア」内部

 旅も10日目を迎えたが、到着日に降雨があって以来ずっと晴天が続いている。旅の空は晴天が何よりのプレゼントと言える。マラケシュのホテルを午前8時に出発して、エッサ・ウィラへ向かう。マラケシュから西へ約174キロメートル、時間にして約3時間半のバス旅である。訪ねた街エッサ・ウィラも世界遺産に登録されている。紀元前800年ごろのフェニキア時代には既に港町として栄えており、歴史が古く、世界中から観光客が訪れるモロッコを代表する観光地の一つである。ポルトガル時代の城壁が旧市街のメディナを囲んでいて、私はスカラの北稜堡の展望台へ行き、この街のメディナとカスバと海を眺めた。スカラは絶壁に突き出した城壁であり見張り台となっていて、ずらりと大砲が並んでいる(写真5)。見物後、ムーレイ・エル・ハッサン広場に戻り、この街一番のにぎやかな広場のレストランで昼食をとった。この街はモロッコ人が国内で一番訪れたい街だということである。この街で有名な土産物は、アルガンオイルである。その後、エッサ・ウィラから、北東へ286キロメートル、バスで約4時間半をかけて、アルジャディーダへ向かった。この街もポルトガル都市の殘跡として世界遺産に登録されている街である(写真6)。ホテルには午後7時頃に着いた。

写真5 ポルトガル時代の城壁

写真6 アルジャディーダのポルトガル都市標識
 今日も強行軍であった。宿泊したホテルは、ムッサフィールという名のホテルで、イビスホテルのチェーンホテルであった。清潔ではあるが、世界的に同規格のホテルで、何の装飾もない。安価だけを売物にするビジネスホテルである。100室規模で海岸に建っていた。但しこの夜は満月で、雲一つない中天に輝く月にひとときの旅愁を感じた。
 
 旅も11日目といよいよ終盤となった日は、アルジャディーダのポルトガル支配時代に造られた城壁に囲まれた旧市街のメディナを見物した。16世紀初頭、ポルトガル人によって造られたメディナである。メディナの中に世界遺産がある。アルジャディーダのポルトガル都市、ポルトガルの貯水槽、ポルトガル支配時代の教会、稜堡の展望台が残っている。この街は、1502年から1769年の間、ポルトガルの支配下にあったため文物共にその影響が色濃く残っており、貯水槽は特に有名で、内部は30メートル程の正方形であり、1542年に倉庫として使われていたものを、水を断たれた時の為に貯水槽に改造したものである。入口は小さいが、地下は巨大な空間となっており、天窓から明かりをとっている。今は水溜りしかないが、昔はこの巨大な空間に人間の腰あたりまで水を溜めていたそうだ。地下空間に残された建物の柱も美しい。この街のメディナはそんなに大きくはなく、純白の建物の多いスークを見物した。その後東約100キロメートルにある、この国一番の大都市カサブランカへ約1時間半かけてバスで走り、午後早い時間に市内に入り、すぐにカサブランカ市内を観光した。
 

写真7 ハッサン2世モスク
 先ず国内最大のモスクであるハッサン2世モスクを参拝した(写真7)。比較的新しく、1,986年から8年かけて建造し、1993年に完成をした。大きさでは世界第7位のモスクであるそうだ。とにかく巨大であり、日本の宗教建築でも比較できる大きさはないと思った。内部は新しいために、きらびやかで豪華である。カサブランカは人口が約415万人、カサブランカとは「白い家」の意味であり、モロッコの経済の中心地である。市の中央にある、ムハンマド5世広場を見物した。市庁舎や裁判所、中央郵便局などが集まる大きな広場で、市の活気が漲っていた。午後4時半頃にカサブランカのリボリホテルに着き、小憩をとった。立地の良いだけの四ツ星ホテルで、1泊するだけのホテルという感じである。総じて今回のツアーで利用したホテルは、三ツ星か四ツ星クラスで、宿泊するには安全で合格点であるが、訪ねた一流ホテルと比較すれば随分と見劣りがした。これは料金的なことであり、日本とて同じことが言える。しかし、それはそれとして、モロッコの世界遺産の数々や、各地の文物、風景は心に残る印象を私に与えてくれた。

 

写真8 リックス・カフェ内部
 第11日目の夜、モロッコ最後の夜は、旅の土産話に、前回は訪ねなかった、米映画「カザブランカ」の舞台を模倣して造られた観光地、映画と同名の「RICK’S CAFE」 (リックス・カフェ)を訪ねた。日本人のモロッコに対するイメージは、1931年日本公開の映画「モロッコ」や、1946年日本公開の(製作は1942年)「カサブランカ」によるものが大きいと思う。ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演の「モロッコ」もそうだが、ハンフリー・ボガード(リック・ブレイン役)、イングリッド・バーグマン(イルザ・ラント役)が演じる「カサブランカ」は、ラブロマンス映画として大ヒットしている。その映画の中で、リックの経営する酒場「リックス・カフェ・アメリカン」で二人が偶然再会する場所である。パリでの思い出の曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が流れる酒場である。映画のストーリーは御存知であろうが、何とこの映画はカサブランカはおろかモロッコですら撮影されておらず、全てハリウッドの製作である。酒場のセットをそのまま再現して、カサブランカで観光用に建設して、その名も同じく、リックス・カフェとして世界中から観光客を集めている(写真8)。そんなことを知ってか知らずか、嬉々として写真撮影をしている。料理と酒はまあまあだが、凝った内装で、ピアノ演奏も同じように弾かれて、料金は結構高かったが、映画ファンや、又話のたねにしたい人には、市内で夜の観光にはもってこいであろう。(一応予約を取って訪ねたほうが良い。)ほろ酔い気分でモロッコ最後の夜を過ごし、夜遅くホテルへ帰った。

 帰路は往路の逆コースで第12日目にカサブランカを出発して、13日目に予定通り関空に帰着した。仲々に印象の強い、モロッコ一周の旅であった。(終)
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坪井 美香(俳優) 2016.12.26『死者の書』公演のご案内

 2016年ももう過ぎ行こうとしています。皆様いかがお過ごしでしょうか。 先月末に『言葉の海へ』の東京・仙台公演を無事終え、上演を重ねて作品を育 てていきたいとの思いが深まりました。ご観劇くださったみなさま、本当にあ りがとうございました。
 

2017/01/26-27 19:00開演
(開場18:30) \4,500

銕仙会能楽研修所
(港区南青山4-21-9)03-3401-2285
 引き続いて『死者の書』公演のご案内をさせていただきます。2014年の 初演以来、再演を目指して試行錯誤を続け、今春には原作の全文を語るという 暴挙(?)にも出ました。まったく、なんともやっかいでしかも底知れぬ魅力 を秘めた小説です。創作意欲をそそる圧倒的な力に引きずり込まれるように、 映画、人形、舞踏など、これまでに数多くの才能たちによる試みがなされてき ています。では、私たちならではの表現は一体どこに向かうのか。
 この度、能舞台で、しかも初演は声のみの出演であった観世銕之丞氏の出演 を得て、上演させていただく運びとなりました。折口信夫の不可思議な物語世 界が、橘政愛氏、設楽瞬山氏の奏でる音楽と共に、語り部によって仕組まれ、 立ち現れる銕之丞氏と我ら語り部三人の声、言葉、身体を交錯させつつ、 生も死も、夢もうつつも、時も空間も自在に行き来する、独自の『死者の書』 を創り出します。
 ぜひ、お立会いください。お待ちしております。     
お申込み・お問い合わせ:すずしろ 090-7847-2670
●演出は42回生の笠井賢一氏です。
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笠井 賢一(42回) 2016.10.31新作能『鎮魂』公演のご案内


産経新聞 2016.10.23
 此度、私たちは新作能『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』を本年11月にポーランドと日本で上演いたします。
 2011年にショパン生誕250年を記念して日本ポーランド国際共同企画として新作能『調律師−ショパンの能』が上演されました。私たちはその上演のためにたびたびポーランドを訪れました。前々から関心をもっていました、アウシュヴィッツ博物館を作者のヤドヴィガ・ロドヴィッチさんに案内していただきました。そのとき、鎮魂の芸能といわれる「能」でこそ「アウシュヴィッツ」の死者への鎮魂がなされるべきだという思いを深くしました。当時取り組んでいた『調律師−ショパンの能』がショパンの生涯への鎮魂の祈りの能であったことも影響しています。そのことをヤドヴィガさんにお話しすると、彼女にはアチュウという名の叔父さんで、1942年にアウシュヴィッツで政治犯として獄死された方がいらっしたのです。それで一気にこの新作能が構想され書きあげられました。それに加え、日本で2011年2月に「調律師−ショパンの能」が上演された直後の3月11日、あの未曾有の東日本大震災が起き、津波の被害に加え原発事故の被害も発生、世界に衝撃を与えました。 当時ヤドヴガ・ロドヴィッチさんは駐日全権ポーランド大使として在任中で、ポーランドと日本との歴史的に長い民間レベルでの友好関係をふまえ、東北の子供を夏休みに受け入れたり、被災地を訪れ支援に力を尽くされました。

『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』
 そして翌年の2012年の皇居の「歌会始め」に大使として招かれ、そこで天皇皇后両陛下の御詠「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」と「帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず」の和歌に深く心動かされ、『鎮魂』にこの和歌を取り入れ、新作能を完成させたのでした。
 万葉集以来、和歌が生きとし生けるものの命を慈しみ癒すという伝統の上に立ち、両陛下が新しい時代の象徴天皇制のなかで努められた数々の慰霊の行動と、培われてきたお人柄が余すことなく表現された鎮魂の和歌です。この和歌を能『鎮魂』の芯としてテーマをになう歌として取り入れたヤドヴガ・ロドヴィッチさんの意を汲み、節付・作舞も演出も、ともにこの優れた和歌を、鎮魂の芸能である能の要として創っています。こうした私たちの思いをこめて両陛下に日本公演へのご招待状をお送りし、ご高覧頂く事になりました。

2016.11.14(月)18:30
渋谷区千駄ヶ谷『国立能楽堂』
A:\10,000 B:\8,000 C:\6,000
 11月1日のアウシュヴィッツの教会で奉納、さらに11月4日、5日にEU文化首都ブロツワフでのシアター・オリンピックでの公演、そしてこの日本公演によって、世界に向けて和歌の力が発揮され、能が鎮魂の芸能であることを感動とともに理解してもらえると確信しています。これは誇るべきことだと思っています。
 私たちは2年前にはポーランドのクラクフのマンガセンターとカトヴィッチの劇場で能の一部を上演し、数年にわたって新作能『鎮魂』を育んできました。それがいよいよ公演の時を迎えます。日本を代表する芸能である能が、現代の課題、アウシュヴィッツとフクシマという今日の私たちの世界が抱える課題に取り組みます。是非ご高覧頂きたくご案内致します。
 この公演の収益の一部はポーランド公演の経費に当てられます。できるだけ多くの方にご覧いただき、日本とポーランドの文化交流の長い歴史を土壌に実を結んだ、さらには作者のヤドヴィガさんが日本に留学し能の実技を先代銕之丞に学んだ、長い文化交流の歴史の結晶であるこの公演を成功させていただけるようにお願い申し上げます。                                   
シテ 節付・作舞 観世銕之丞 
演出 笠井 賢一
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藤宗 俊一(42回) 2016.10.15笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去


故 笹岡峰夫氏
2016.06.04
 既にMail網でご報告致しましたが、本会会員で弁護士の笹岡峰夫氏が、去る9月21日、ご自宅で急逝されました。前夜まで飲み歩いていて、翌朝、脳内出血を起こし、そのまま御他界されたとのことです。心より哀悼の意を表しますとともに、残されたご家族の皆様方にはお悔やみを申し上げます。
 通夜、葬儀は9月27日、28日、上落合の最勝寺壇信徒会館で行われ、交友の広さを表すかのように、会場に入りきれないほどの大勢の参列者が集まり、生前の彼の仁徳を偲びました。尚、式は無宗教で、親友の能演出家・笠井賢一氏(42回生)のプロデュースで執り行われ、能管の音と朗読で始まり、最後は全員が遺影の前に花を手向けて終わりました。とても厳粛で美しい式でした。心よりご冥福を祈ります。
****************

以上が報告です。ついでに追悼文も済ましておきます。
 実を言うと、彼が途中で一年留年したこともあって、土佐校時代はあまり親しくはありませんでした。私が高1で受験勉強に専念???するために編集長を辞めた後、生徒会活動仲間の西内正氣氏(42回生)と(二人とも会長経験者)隣の新聞部部室に転がり込んで来て大きな顔をしていたのを、丁稚(中学)からたたき上げた苦労人としては、苦々しく思っていました。 しかも、こともあろうに新聞部の商売敵のような生徒会広報誌『翌桧』を発刊するなど(幸いにして彼が会長であった間の2号ノミ)言語道断な行為をしてのけて、もはや天敵以外の何者でもありませんでした。そんな訳?で、部室にも寄り付かなくなり、2年間はマドンナの尻を追っかけるのに忙しく彼と話す機会は殆どありませんでした。

同じ日の筆者近影
 再び、彼と交友が始まったのは事務所を開いて仕事欲しさに関東支部同窓会に出席し始めた頃、宴席で『お前のヨメサン知ってるよ』と声をかけてきたのがキッカケです。当時、彼は弁護士になって『旬報法律事務所』という労働問題専門の事務所に所属していて、訟務検事(国の法廷代理人)をしていた連れ合いを知っているということでした。「そんな左系の活動をしているとは、昔の正義感はちっとも変っていないなあ」と感心したものです。 後に、独立して『けやき法律事務所』を開設してからは『悪徳弁護士の笹岡です』とうそぶいていましたが、一種の照れ隠しだったと思います。本質は変わっていないと思いました。
 その後、42回の同期会に必ずと言っていいほど出席するようになり、2次会、3次会と盃を交わして(二人とも升々いける口)終電に間に合わないことも何度かありました。とにかく、明るい酒でこちらを楽しくさせてくれました。また、律儀に年賀状と暑中見舞いをくれて、時折々の話題やら思い出を長々書いて来てくれました。とても文章が上手で、論点もしっかりしていて、さすが文系の元新聞部と見直しました。こちらが理系に進み、ちゃんとした文章が書けなくなって機械に頼って写真で済ましているのを恥ずかしく感じていました。
 お通夜のなおらいではナンテン(皿鉢料理で最後に残るもの)になり、土佐から取り寄せた皿鉢料理とお酒(土佐鶴)を堪能させてもらいました。ありがとう。本当は2次会に連れ出したかったのですが……。合掌。

●次は我が身と感じるようになって、香典の損得勘定をしています。悪い奴ほど長生きすると言われているので、取り返せないかもしれません。みなさん、どうか長生きして黒字化にご協力下さい。
****************

 葬儀で朗読をして下さった坪井美香さん(俳優)から次のご案内をいただきました。おっかけをしていた彼に何度か誘われて公演に行って、打ち上げ会にも参加させてもらいました。彼を偲んで、是非ご覧になってください。



11月23日 求道会館
『言葉の海へ』
¥3,500
 雨続き、災害続きの九月が過ぎ、太陽の恵みが戻ってくれますよう、月の美しい秋となりますよう、願うばかりの今日この頃です。みなさまお元気でいらつしやいますか?
 秋の公演のお知らせをさせていただきます。1011年より作家高田宏の作品を語るシリーズを続けて参りましたが、昨年11月14日、最後の旅立ちをなさいました。還ることのない片道の旅の空は、どんなでしょうか。
 名編集者から作家へ。気骨ある生き様を貫いた人々の評伝や、自然、災害、旅、猫などをテーマに綴るエッセイ、小説。忘れられてはならない作品を数多く残された高田先生の一周忌追悼に、『言葉の海へ』を上演致します。
 幕末から明治にかけ、鎖国からいきなり世界と対峙せざるを得なくなった日本にとって、それまでになかった国語辞書は独立を保って生き抜くための必然であり、辞書作りは国作りでもありました。明確で誤解のない「言葉」や「文法」

10月28日 青蛾ギャラリー
『語りと笛の会』
\3,000
を確立することは急務で、外国の言葉や概念を理解するためにも、こちらから何かを主張するにも、以心伝心、などと言ってはいられません。にもかかわらず、国家プロジェクトとして始めた辞書作りは、結局、苦難を極めた17年という歳月をかけて『言海』を出版した大槻文彦に丸投げされました。今も昔も、国家というもの、かくありき!
 仙台在住の俳優・茅根利安さんと共に、作品ゆかりの東京と仙台で上演します。音楽は、ピアノと語りで一緒に楽しい試みを続けてきた黒田京子さんです。初演を見てくださったお客様もたくさんいらっしゃると思いますが、台本も演出も練り上げて大幅に改定、さらに、会場である求道会館の建築がまさに文彦の活躍した時代と重なり、新たな作品世界を楽しんでいただけると思います。
 是非ご覧ください。心よりお待ちしております。

 11月15日までにご予約、お振込頂いた方にはチケットを送らせていただきますので、よろしくお願いいたします。
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「公文禎子先生 お別れ会」のご報告
中城 正堯(30回) 2016.09.23


弔辞を述べる武市功君
 土佐中6回生で、戦後土佐高教諭から、大阪に出て公文教育研究会を設立した公文公先生の奥様が逝去された。公文先生は、土佐中での個人別・能力別の自学自習を活かして公文式教育を考案、世界中に公文式教育を広めたが、二人三脚でこの教育法を育てたのが、禎子夫人であった。
 禎子夫人の高知での新婚生活は、昭和20年からの1年と、22年からの5年間であったが、その間のエピソードを紹介し、加えて同級生(土佐高30回Oホーム)へのお別れ会報告文を添付する。

高知での公文禎子様
 奈良で生まれ育った長井禎子様が、お見合いで公文先生と結婚されたのは、終戦間近の昭和20年3月で、先生は浦戸海軍航空隊教授であった。慣れない高知での新婚生活は、父と兄を亡くして一家の柱となっていた公文先生以外は女ばかりの家族との同居であった。しかも、先生は池(高知市)の航空隊に別居で、訪ねて行こうとしては道に迷って大変だったという。さらに7月には米軍の空襲にあい、たまたま帰省中だった先生と雨のように降りそそぐ焼夷弾の下を逃げまどい、衣笠(公文先生の母の実家・稲生)をめざした。住んでいた家は全焼であった。恐怖にさらされ、一首のうたもつくれなかったと述べている。

沖縄竹富島でのご夫妻(1990年11月)
 戦後、先生はいったん奈良の天理中に勤務、昭和22年に高知に戻り、高知商業を経て、24年に母校土佐中・高教諭となり、3年後に大阪に出る。この間、禎子夫人には高知で思いがけない人物との再会があった。樟蔭女子専門学校時代に、短歌を教わった安部忠三先生が、22年にNHK高知放送局長として着任されたのだ。高知歌人会にも入会、短歌を再開される。この安部局長の長男・弥太郎さんが土佐中28回生で、新聞部の中心となって我々30回生を指導してくださった。後に、京大からNHK記者となって活躍された。
 公文夫妻が大阪に出た同年に、安部局長も奈良局長に転任、そのお薦めで前川佐美雄先生が主宰する日本歌人社に入会、うたに励まれ昭和44年には日本歌人賞を受賞する。以来、パリやシルクロードを訪ねてはうたを詠み、平成10年には歌集『パステルカラー』を出版された。
 禎子夫人は、短歌以外に美術への造詣も深く、自ら油絵もお描きになった。また読書家で、我々は土佐中時代にご夫妻が所蔵されていた『岩波文庫』などによって、本の世界に導いていただいた。秀才として知られた公文俊平・竹内靖雄両先輩も「公文文庫」を大いに活用しておられた。

3Oホームの皆様へ

ご挨拶される新庄真帆子様
 6月21日に96歳でお亡くなりになった公文禎子先生「お別れの会」が、9月21日に大阪の公文教育会館で行われ、土佐中1年B組の浅岡建三、武市功両君と共に参列してきたので、その様子をご報告する。
 公文式の生徒は、現在世界各国428万人に及ぶが、禎子夫人は公文教育研究会の創始者・公文公先生のご夫人にとどまらず、公文式教室の最初の指導者であり、教材開発・教室運営にともにたずさわってこられた。昭和42年から10年間は公文教育研究会の前身である大阪数学研究会社長、さらに「のびてゆく幼稚園」開園、公文会長亡き後は50回を越える講座を全国で開催し、公文の教育理念を伝えきた。「公文禎子先生 お別れの会」は、公文教育研究会の関係者のみに限定されたが、全国から元指導者・社員、現役指導者・社員あわせて500人を越える方々が集い、献花をしてお別れを惜しんだ。
 花祭壇の御遺影に向かって、元社員代表として武市功君(元副社長)が、弔辞を述べた。「禎子様に最初にお目にかかったのは今から67年前、高知市内の御自宅でした。土佐中学で教え子だった私は、数学を習うため御自宅にお邪魔していました。」という出会いから、会社を設立したものの十年余は赤字で、「主人と二人で荷車を引いて参りました。主人が引いて私が押して、やっと坂を上がって参りました」という禎子夫人の回想談をまじえ、追悼した。
 最後に、ご親族を代表してお嬢様の新庄真帆子様のご挨拶があった。強く印象に残っているのは、初期のご苦労「父の教材がご近所でも評判になり、母が指導者になって教室を開いた。私たち幼い三人の子どもを育てながらであり、買い物や食事の準備もそこそこに、一人ひとりにちょうどの教材を用意するのは大変だった。なにしろ当時は教材も全て手書きだったから」、であった。
 新庄真帆子様には、3O一同これまでの公文先生ご夫妻の御恩が忘れられないことをお伝えした。2000年の大阪同窓会の際に久武慶蔵君が公文公記念館で倒れたが、奥様の看病のお陰で大事に至らなかった事や、「うきぐも」発刊へのご協力に感謝していることを申上げた。また、今後一周忌の墓参など、教え子も参加出来る法事があれば、クラス代表が参列したいとの希望をお伝えした。真帆子様からは、高野(野口)さんか小生に連絡するとのお返事をいただいた。
 帰りの新幹線で、公文先生亡き後に禎子夫人がはにかんだ表情で漏らされた、若きお二人のいわばデート時代の思い出話が甦った。「奈良での見合いで婚約が決まりました。私は阪大工学部の研究室に勤務していましたが、ときおり夕方に公文が訪ねて来て、私が出て来るのを、外でじっと待ってくれていました」。
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我が友岡林敏眞君を悼んで   
森木 光司(32回) 2016.04.06


筆者近影
 我が友の岡林敏眞君、普段は「オカバ」と呼んでいた君の突然の訃報を聞いてまだ間もないが、どれほど哀しんだことか。また君がそのような危険な状態だったことに気が付かずにいたと思うと恥ずかしくもある。
 数日前、親友の一人濱崎洸一君から向陽プレスクラブのインターネット用の「追悼文」を書いてほしいと言われて一応承諾したものの、あまり真面目に向陽プレスクラブの参加していない自分がこれも恥ずかしくなる。
 私の手元に向陽新聞の資料はほとんど皆無で、数枚の写真と卒業アルバム中のクラブ写真があるだけである。最も古いものが中学1年の時(1952年2月)のバラック建て校舎の正門付近で撮った写真で、諸先輩と一緒にオカバ、示野貞夫君、濱崎洸一君、浪越健夫君、池洌君、梅木栄純君たちと写っている写真、もう一枚は新聞部新年会のもので、学校の懇談室で西野歩先生を囲んだものである(1955年1月)。どの写真も古いものだが、これらの先輩、同輩と一緒に向陽新聞を発行しえたのは、君の大きな力があったことも思い出すことが出来るよ。
 また、高校2年の頃だったと思うけれど、全国の高校新聞のコンテストで向陽新聞が優秀5校の1つに選ばれ、示野君と一緒に日光東照宮で表彰されたことも思い出のひとつである。
 新聞の編集発行には、今は亡き岩谷清水大先輩、中城正堯先輩、横山禎夫先輩方々のご指導のもとで、君と楽しい新聞部生活を送らせてもらったことが懐かしく思い出される。
 卒業後向陽プレスクラブを創設して会長として、長く後輩の指導にもあたってくれたことはクラブ全員の賞賛に値するものと思っている。
 また、君が画家としても、素晴らしい才能があり、そのうちの一枚の油絵(F20号、イタリア、アッシジの街並を描いた絵で画柳会特別賞受賞)をわけてもらったものを我が家に飾ってあるが、改めてこれを眺めながら君を髣髴として思い出している。
 思い出は尽きないが、そのうちに君に追いついて、蓮の台で語り合えることを夢見ているよ。それまで待っていてほしい。
※(アッシジはイタリア中部の都市で聖フランシスコの生誕地。名高い教会などがある美しい街という。)
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堀内 稔久(32回) 2016.03.31「憂い」を秘めた顔

 岡林敏眞君の訃報を知らされた。彼のいつも憂いを深く秘めたような顔を思い出した。
 晩年の彼は、公文教室を経営する良き配偶者に恵まれて、京都に落ち着いて「画柳会」の世話役となって夫婦睦まじく絵画に打ち込み、画題を求めて国内外をふたりで旅して歩き幸せそうであった。
 彼の本領が発揮されたのは母校土佐中での入試不正を切っ掛けとする同盟休校のときであった。高校生の彼が学校経営陣に対する攻撃の先陣に立っていたとのことである。私のような高知でも片田舎から通学していた生徒にとって、丸で別世界の登場人物のように遠くから彼の活躍を眺めるばかりであった。
 彼は、幕藩体制の地侍のように、不遇を深く秘めて能力一杯に羽ばたくことが許されない環境のもと、土佐高新聞部だけが彼の安住できる住み処であった。
 土佐の地侍が幕末期に能力を発揮したように同盟休校に能力を発揮しながら、その後は、いろいろな企業、団体などで事務方、裏方に徹することで組織運営の中でなくてはならない人間に育っていった。彼の能力を認めて、組織運営に不可欠な人間に育て上げたのは新聞部の先輩、特に岩谷・中城氏らであり、彼が一生にわたって師事することになり、世話になりつづけた。新聞部(現プレスクラブ)こそは、彼が帰ることができる「実家」でありつづけた。彼が後輩の面倒をよく見たのは、後輩イコール実家の弟妹のような心情だからであった。大学時代の彼は、中野区「野方村」(漫画家手塚治のトキワ荘のような存在)が新聞部に代わった。そこには彼の兄(先輩)が居り、「(腹違いのような)兄弟」(同級生)が居り、「弟」(後輩)がいた。試験のときには、同じ学部で司法試験の受験勉強に専念していた私に何回か教わりに来た。彼はアルバイトにかなりの時間を取られていた。 野方村も、彼の逝去によって村民の1人が減り、限界集落のように段々寂しくなった。
 彼は、天国で、戦死されたお父様にようやく面会されて「憂い」が解けているであろう。ご冥福を祈るばかりである。
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濱ア 洸一(32回) 2016.03.31岡林敏眞君を偲んで


筆者近影
 岡林君の訃報を聞き、それも急逝だったことを知り、まことに残念、衷心よりお悔み申し上げます。
 昨年6月いつもの銀座の画廊で逢ったときには、顔色も良かったし、口では、「もう今年が最後かもしれん」とは言っていたが・・。今年から彼の独特の絵が見られないと思うとさびしい限りである。
 思い起こせば、彼との出会いは、土佐中学1年同じクラスとなり、学級新聞を作ろうとの話から、新任担当の中沢先生に伺ったところ、当校には新聞部があるから、そこで勉強しなさいとのことであった、そもそもそこからである、仲間数名が部室に行ってそのまま新聞部の部員となってしまったのである。 そして彼は森木君・示野君らと部活を続けることになった、小生はというと、水泳部に入り、名前だけの新聞部部員?記事を書いたことは無い。
 大学も同じ中央大学に進み、新聞部のOB会が時々神田すずらん通りのそばやの二階で、岩谷さんの落語を聞きながら、中城さん杉本さんらと食事をしたものである。 そして、社会人になり、岡林君は学習研究社入社、そして2.3年目くらいで社内結婚、 その披露パーティが会社の中で開催され、なぜか小生が招かれた、出席者には、新聞部のOBたちが参集していた。なぜか、必ず彼からお声がかかったのです。
 彼の絵画は一種独特のもので、いつも小生の素人批評に対し、彼の制作の意図を十二分に聞かされたものである。
 彼の新世界での進路を想像しながら・・・、ご冥福を祈ります。合掌
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新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
吉川 順三(34回) 2016.03.12


筆者近影
 合田佐和子さんの多彩な活躍はご存知の通りだと思う。訃報が新聞に載った夕刻のツウィッターは彼女のことが目白押しだった。それはともかく、彼女の土佐高新聞部時代を振り返ってみると、才能、感性が多彩に芽生えていた。
 われわれの時代は1年生の後半から3年生の前半まで新聞製作と部の運営に責任を持っていた。彼女は放課後になると、ほぼ毎日のように部室に現れた。新聞は多くても年に3回発行だったから、いつも忙しいわけではない。駄弁りや部活とは関係のない議論をすることが多かったが、たいがいは彼女が主役だった。 とにかく彼女はアタマの回転が速い。目のつけどころが独特、しかも変幻自在で既存の形に縛られるのを嫌った。おまけに感性は鋭い。先生、先輩、同輩についても批判に遠慮はなかった。皮肉を込めたあだ名をつけるのも上手かった。 私もあるとき「ドンジュン」と呼ばれた。もちろん「ドンファン」のもじりでもなければ、たまたま部長だったために名前に「ドン」を冠したものでもない。「鈍」な順三というわけだ。高速回転の彼女とはあまりにも異質な“鈍感力”を鋭敏な彼女の頭脳が感じ取ってくれたのかどうか、これは幸いなことにその場限りになった。とにかく彼女と同じ軸でやりあうと、私をはじめ仲間はみんな、いつの間にか彼女の思うつぼにはまって逆転され、情けない思いを味わった。
 新聞作りでは紙面レイアウトについて先輩から「“S字型”か“X字型”の配置で構成するのが基本」「”腹切り”は避ける」と教えられていた。 その原則に沿って記事の行数を計算して写真の寸法をはかり、模擬 紙面に切り貼りするなど試行錯誤していると彼女が割り込んで瞬く 間に解決したことが記憶に残っている。全体をひと眺めすると色鉛 筆をにぎり「この写真はもっと大きく」「これは横見出しに」などと つぶやきながら実に細密で正確な絵コンテを描いた。 そのうえ「このコラム、もう少しおしゃれで、鋭かったら紙面配置 の基本などにかまわないで最上段に置いてやったのに」とのたまう。 筆者がそこにいてもまったく気にしない。筆者も「う〜ん」と、う なりながら同意したものだ。
 また最終段階の作業は印刷所が現場になる。コストの関係から印刷 はいつも夜間で、活字拾い、組版などの職人さんの残業に頼っていた。 夜遅くなる場合が多いので男子部員だけが現場に出かけ、早く仕事 を終えて帰りたい職人さんの機嫌をとりながら作業した。 ちょうど“濡れ紙”の小ゲラをチェックして、いよいよ大ゲラが出る ころ「家が近いから」と彼女が突然現れたことがあった。 例によって周りの雰囲気などおかまいなしに「この見出しは変えた 方がよい」「凸版の地紋はもっと明るく」と笑顔でテキパキと指示す る。はじめ渋面だった職人さんは、そのうち文句もいわず、彼女のペ ースに乗せられて、組み直しや作り直しを繰り返した。ただただ呆然 としたのは、われわれ男子部員だった。そして「これ以上遅くなった ら家から迎えが来るから先に帰る」と、ポケットのキャラメルを一箱 置いてさっと消えた。
 次の号で印刷所に行ったとき職人さんから「あのオカッパはまだ来 んかよ」と期待のこもったように問われて驚いたことを思い出す。 こように、普通なら相手を困らせるようなことを、あっけらかんと主 張して思いを遂げ、しかも相手から親しみを感じてもらうという不 思議な能力を持っていた。
 彼女は「これ以上憎まれたくない」としばしば言ったが、だれも憎ん だりはしなかった。彼女の毒舌の標的になれば、そのたびに脳細胞が 刺激され、それぞれが成長したように思う。
 彼女の訃報に関連して同期の久永(山崎)洋子さんから手紙をいた だいた。「ひらめき、才能、シャープ、独特のセンス。毒舌とユーモアの混じった会話が得意な人でした。ともに新聞部を楽しませてもらいました」と。同期のみんなも気持ちは同じだろう。 しかしその同期の主要メンバーだった浜田晋介、秦洋一、国見昭郎 の各氏がすでに故人になっており、今回は合田佐和子さんが他界した。そもそも土佐高の「向陽新聞」は廃刊、冥土入りして久しい。そのすべてに------------合掌。    
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<合田佐和子さんの思い出>
20世紀美術の先端を駆け抜けたアーティスト
中城 正堯(30回) 2016.02.28


筆者近影
 2月23日の新聞で合田さん(34回)の訃報を目にした。19日に心不全で亡くなったとのこと。昨年の日本橋での個展にも本人は姿を見せず、療養中と聞いていたので心配していたが、残念でならない。彼女は絵画だけでなく、寺山修司「天井桟敷」・唐十郎「状況劇場」の舞台美術やポスター、超現実的な人形、ポラロイド写真にも取り組んできた。
 土佐高新聞部の仲間として、また同時代の編集者として見てきた、20世紀美術界での彼女の先鋭的なアーティストとしての活躍ぶりが、脳裏に刻まれている。かつて書いた戯文に、本人および関係芸術家の文章なども引用し、しばし追憶に浸りたい。

<新聞部の仲間から>
美術界の異才、合田佐和子/中城正堯『一つの流れ』第8号 1985年刊

新聞部の千松公園キャンプ、前列左端が合田さん。1956年

 合田は新聞部だったので、中学時代からのつき合いになる。やせて眼のギョロッとした文学少女タイプだったが、芯は強い。ガラクタを集めたオブジェから始り、状況劇場や天上桟敷の舞台美術、怪奇幻想画、ポロライドカメラによる顔シリーズ、油彩のスーパーリアリズムと、とどまるところを知らない。 (彼女が武蔵野美術大卒業の際に作品を持って学研にきて以来、時折連絡を取っていた。)舞台で使うプラスチック人形の成型を教えてくれと、ひょっこり訪ねてきたりする。たえず新しいものにチャレンジし、美術界の話題を集めてきた。その才媛ぶりは、瀧口修造や東野芳明から高く評価されている。・・・昨年は、現代女流十人展の一人にも選ばれ、仕事は活発に続けている。
 今年正月には銅版画集『銀幕』(美術出版社)を刊行した。手彩オリジナル版画入りの豪華本は、定価30万円である。その出版記念会には、根津甚八、四谷シモン、江波杏子、白石かずこなど、異色の東京ヤクザがかけつけていた。合田はエジプトが気に入り、安い家を買ったとかで、これからは日本と半々でくらすと、いたずらっぽい表情でいっていた。
(これは、土佐高30回Kホームのクラス誌に「東京ヤクザ交友録」として、同窓生の活躍ぶりをカタギとヤクザに分けて紹介した戯文で、芸術家は当然ヤクザとして扱った。)

<合田さんご本人の回想>
『パンドラ』序文/合田佐和子作品集 PARUKO出版 1983年

「合田佐和子 影像」掲載ポートレート(松濤美術館)

焼け跡 高校3年の夏休みに、四国山脈をかきわけて上京して以来、もう25年という年月が流れていったらしい。・・・美術界の西も東も分からなかった24才の6月に、はじめて開いた個展での作品は、今にして思えば、戦後の焼け跡の光景そのものだった。それも、近視眼的な子供の眼にうつった、災害のオブジェである。(夏休みに上京、以来東京の叔父の元で過ごし、卒業式だけ帰高出席したという。)
油彩 ニューヨークの裏通りで一枚の写真を拾った。二人の老婆と一人の老人が写っている小さな銀板写真だった。アレ、これはすでに二次元ではないか、これをそのままキャンバスに写しかえれば問題は、一方的に一時的に解決する。(立体オブジェにこだわり、立体を平面に写す油彩を躊躇していた合田は、拾った写真にインスピレーションを得て独創的なスター肖像画を生み出す。美大で商業デザイン科だった合田は、油絵の実技教育を受けておらず、独学で修得したと述べている。)
エジプト 1978年秋の個展作品を、肩から包帯をつるした腕で仕上げると、息もたえだえ子供二人を連れて半ばやけ気味でエジプトへ発った。(彼女はアスワンの村でくらし、「全部の病気を砂に返し、暖かいぬくもりだけを全身に吸い込んで東京に戻る」と、古代エジプトの守護神ホルスに惹かれたのか、目玉をモチーフに立体も平面も制作、『眼玉のハーレム』(PARUKO出版)を刊行する。後に中上健次の朝日新聞連載「軽蔑」では、毎回眼だけの挿絵を描いた。)

<仲間の賛辞>
恋のミイラ/唐十郎 合田佐和子個展カタログ 1975年
 これらは、初めて仮面舞踏会につれてこられた少女の、ほのかなためらいと頬の紅潮を画布に移行させたものだろうか。・・・これらはドリームにドリームを塗りつぶした暗い恋のタブローである。こんな絵に囲まれながら、そこで、誰かと誰かの恋が結ばれたらどうしよう。
ぼくらのマドンナ/『銀幕』出版記念会案内状/四谷シモン 1985年
 当代きっての才媛、ぼくらのマドンナ、佐和子が、突如、この夏の猛暑のさなか、銅版画の制作にのめりこみ、レンブラント、デューラーもものかは、銅と腐蝕液の異臭のなかから電光石火の早技で「月光写真」の如き「銀幕のスターたち」を誕生させました。・・・ぼくらのマドンナを囲み、歓談に花を咲かせたいと思います。
焼け跡に舞い降りた死の使者/坂東眞砂子(51回)『合田佐和子』高知県立美術館 2001年
 八十年代に入り、合田佐和子は初期の焼け跡を連想させるオブジェと、人骨を組み合わせた作品を創りはじめる。ここにおいて、敗戦、焼け跡と、死が作品上で、明白に重ねあわされていく。・・・合田佐和子が描いてきた銀幕スターたちとは、戦後の日本に死をもたらした、死の使者たちだったのだ。彼らは大鎌の代わりに、セックス・アピールという武器を手にして、日本社会に乗りこんできた。その青ざめた皮膚の下にあるのは、骨。銀幕スターのきらめきの下に隠されているのは、骸骨であったのだ。

作品集・展覧会図録・著書など

絵はがきなど

<わが追憶>
 合田さんと思いがけず出会ったのは、1992年2月小松空港行きの機中であった。前の席に座った男女が楽しげにはしゃいでいる。ベルト着用のサインが消え、身を乗り出してみると、二人の若い男性助手を連れた合田さんだった。聞けば翌日から金沢のMROホールで公開制作をするという。仕事の合間をぬって会場に駆けつけると、詰めかけたファンに囲まれ、あざやかな筆さばきで大キャンバスに銀幕のスターを描いていた。
 2001年の高知県立美術館「森村泰昌と合田佐和子」展、2003年の東京・渋谷区立松濤美術館「合田佐和子 影像」展でも、オープニングで元気な姿を見せていた。しかし、近年の鎌倉や日本橋の個展会場では、本人と会うことができなかった。5年ほど前に電話で近況を尋ねると、心臓の病をかかえ、思うように制作ができないといいながら、わたしの病気を気遣って、類似の病気を克服した友人・栗本慎一郎(経済人類学者)の治療法を薦めてくれた。
 彼女は様々な病気を抱えながら、絶えず新しいテーマと技法にチャレンジし、現代アートの世界で先鋭的な作品を発表し続けてきた。その鋭利な感性に肉体がついて行けず、悲鳴を上げていたのであろう。高知県立美術館での合田展に寄稿をしてくれていた作家・坂東眞砂子さん(51回)に続いての合田さん訃報であり、土佐高で学んだ異能の女流芸術家が相次いで亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。

<追記>いずれ「お別れの会」を開く予定で、「天井桟敷」関係者が準備中とのこと。
      (作品自体は著作権者の了解が必要なので、印刷物からの画像引用の範囲にした)
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野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
藤宗俊一 2016.01.15


 遅くなりましたが、年頭のご挨拶を申し上げます。穏やかな新しい年を迎えられてたこととお慶び申し上げます。


撮影:荒川豊氏
 郷里出身の写真家野町和嘉氏から写真展の案内をもらい、オープニングに行ってきました(会場でお元気そうな中城さんにもお会いしました)。『構図にこだわっている』などという次元ではありません。 殆どの写真が畳の大きさ以上に焼き付けられていて、本とはまるで違った迫力がありました。会場は倉庫を改装した大空間で、そこに50枚以上の素晴らしい作品が並べられていました。是非、足をお運び下さい。




野町和嘉写真展 『天空の渚』 01/15-02/14
港区海岸1-14-24  03-5403-9161
鈴江第三ビル6F 『GALLERY916』
入場無料  月曜休館

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中城 正堯(30回) 2015.08.15校歌の謎1への回答

公文敏雄様、皆様


筆者近影
 よい質問をいただきました。猛暑の中でも、母校への思いを抱き続けているようで、なによりです。

謎1,の「向陽」の由来のみ、小生の理解するところをお知らせ致します。  「向陽」の出典は、中国古代の漢詩です。諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館)に よると、<向陽 陽に向かう。日に向かう。潘岳(247〜300 西晋の文学者)の 「閑居賦」、謝霊運(385〜433 六朝時代 宋の詩人)の「山居賦」・・・>等の詩 に使われた用例をあげてあります。

 土佐中では、校歌より先に「向陽会」(自治修養会)に使われており、これは三根 校長の命名かと思われます。三根校長が東京帝国大学哲学科在学中の哲学教 授は井上哲次郎でドイツ観念論哲学のみならず、漢学・東洋哲学にも精通していました。

 また国文の物集高見教授も漢学に通じていました。江戸時代の公文書は漢文で あり、三根の一年先輩で国史科だった中城直正(高知県立図書館初代館長)も、 漢文・漢詩に強く、桃圃と号して漢詩を詠んでいます。土佐に来た三根校長とも 交流しています。目下、『土佐史談』に依頼され、史談会創立100周年記念号に、 中城直正(遠い親戚)の略伝を執筆中です。


1990年頃の筆山会による「三根校長墓参会」
 その他の謎についても調べたいところですが、土佐中関連の文献・資料はすべて 土佐校図書室と公文公教育研究所に寄贈し、手元にありません。これらに手掛か りがあるかどうかも不明です。是まで収集した資料は、順次寄贈先を選んで進呈 しています。満州版画は京大人文研が大変喜んでくれました。

 公文さんの質問に対して、まず調査担当すべきは土佐校の同窓会担当者かと思 います。三浦先生の後任は、だれでしょうか。母校100年史編纂も進んでいること でもあり、母校の体制を確認下さい。

 なお、「向陽高校」は和歌山・京都などいくつかあるようですが、いずれも戦後の 学校統合などで生まれた校名のようです。三根校長には、自治会にいい名称を 付けていただいたと思います。
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今更訊けないこと…母校校歌の三つの謎
 公文 敏雄(35回) 2015.08.01


筆者近影
 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」といわれますが、今更恥ずかしくて訊けないことを思い切って先賢にお尋ねいたします。
 関東支部ホームページに踊る「1915ホームカミングデー」案内の文字を眺めていると、母校の校歌の謎(私にとっての)がまたまた頭をよぎりました。

 謎1.最初の言葉「向陽の空」の「向陽」の由来は何か? 向陽寮、向陽新聞等々、母校の別名のようなのですが・・・

 謎2.明治天皇は1904年日露戦争開戦の年に、有名な「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」など多くの和歌を詠まれましたが、ほかに「あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな」があります。母校の校歌1番「向陽の空淺緑 広きぞ己が心なる・・・」によく似ています。作詞者が後輩に伝えたかった思いはとは?

 謎3.創立期の「土佐中學校要覧」では、「大正11年5月教諭越田三郎作歌」とされています。その後、「作曲弘田龍太郎」が加わりました。さて、越田先生はどんな方だったでしょう?

 どなたか教えていただけますと幸いです。
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藤宗 俊一(42回) 2015.06.27二つのご案内

野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』

野町和嘉写真展『地平線の彼方から』
 昨日、郷土出身の写真家・野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』に行ってきました。場所はオシャレな街『六本木』のオシャレなビル『東京ミッドタウン』1階フジフィルム・スクエアで7月15日まで(10:00〜19:00入場無料・撮影自由)やっています。お近くに来られたら是非覗いてみて下さい。
 スゴイとしか言いようが無く、写真がここまで発言する媒体なのか改めて思い知らされました。カメラや印刷方法の違いだけで済まされません。撮るのを止めたくなりました。

野町和嘉写真集・新刊3点のご紹介
●「極限高地――チベット・アンデス・エチオピアに生きる」
 7月6日発売予定。日経ナショナル・ジオグラフィック社
●「地平線の彼方から――人と大地のドキュメント」
 6月26日 発売予定。クレヴィス
●「Le vie dell anima」
 イタリアのモンツァ社

最初のサハラ(宿営地の小学校の庭から撮影)の前で説明する野町さん   撮影:荒川豊氏


パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』
 ついでと言っては失礼になりますが、同じく郷土出身のトルコ評論家(翻訳家・慶応大講師)野中恵子さんからのご案内です。

 こんにちわ、野中恵子です。
 梅雨の隙間に入り込んだ、強い日差しの一日です、夏も間近ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
 さて、昨年のカンヌ国際映画祭で、ついにパルムドールを受賞したヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の「雪の轍」が、この週末から公開されます。
 それに併せて草月ホールでも、上記を記念して、7月にジェイラン監督の初期作品の特別上映会が行われます。なお、9月にも特別イベントが計画中です。
 どうぞお出かけくださいませ。
 パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』公式サイト
 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作品の上映/レクチャー/トーク
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中城 正堯(30回) 2015.05.21身辺整理に専念します

皆様へ

筆者近影
 今朝8時過ぎにテレ朝を付けたら、堀内稔久弁護士(KPC会員・32回生)の顔が映っていてビックリしました。先月バイクに乗っていて事故死した萩原流行さんの死因に関し、警察対応に不信の念を抱いた奥様と、真相究明にあたっているそうです。
 萩原さんは、昨年亡くなった竹邑類さん(35回生)が若き日に立ち上げた劇団ザ・スーパー・カムパ二イの看板俳優で、招待いただいてよく舞台を楽しみました。
 竹邑さんは、ミュージカルなど舞台芸術の改革者でしたが、昨年『呵呵大将 我が友、三島由紀夫』を置き土産に、旅立ちました。才能あふれる芸術家であり、自由人でした。
 堀内弁護士はじめ、みなさまの活躍を願っています。

 先月の総会は、滋賀県立近代美術館での講演と重なり失礼しました。体力が衰え、浮世絵関連のおしゃべりも今月末の「東洋思想・・・」研究会での発表を最後に辞め、お迎えに備えての身辺整理に専念します。今日が七十代最後の誕生日です。
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地球の裏側(アルゼンチン)で感じたこと
水田 幹久(48回)  2015.04.16


筆者近影
 一昨年(2013年)の9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われたIOC総会において、2020年オリンピックの開催地が東京に決定した。オリンピック東京開催は、日本経済再生の起爆剤として歓迎され、それ以来、景気回復への期待感が増しているように感じる。2020年までの長いようで短いこの準備期間、景気浮揚に繋がる政策が展開されるに違いない。
 東京のライバルであった候補都市のイスタンブールとマドリッドについて関心があった方は多いと思うが、IOC総会が行われたブエノスアイレスについて詳しい方は少ないであろう。小生はこの南米の都市にすこし縁があり、2回ほど訪れているので、その時に感じたことなどを記してみたい。


ブエノスアイレス郊外に広がるパンパ
地平線の彼方まで牛の放牧地になっている
 東京から見るとブエノスアイレスは地球のちょうど裏側(正確にはブエノスアイレス東方沖合1,000Kmの大西洋上が対蹠点=正反対の地点のこと)にある。という事は、飛行機が完全に直線的に運行できれば、東京からどの方角に飛び立っても同じ距離という事になる。事実、ブエノスアイレスへのフライトは北米経由、欧州経由、中東経由など真逆に飛び出すルートの中から選択することになる。首都ブエノスアイレスがあるアルゼンチンは南米の大国(国土面積2,780千ku=世界第8位・日本の7.4倍)で、しかも温暖な気候帯の平地面積が大きく、農畜産業に適した国土を有している(パンパと呼ばれる広大な草原が牧草地として広がっている)。反面、人口は4,100万人、GDP4750億US$(世界26位)。日本の人口1億2700万人、GDP5兆9630億US$と比べると大きく見劣りがする。
 しかし、この国は建国以来ずっとこの地位にあった訳ではない。19世紀の終わりから20世紀の初頭、日本が明治維新を経て富国強兵に励んでいた頃、日本とアルゼンチンの立場は、全く逆であった。アルゼンチンは恵まれた国土を生かした農畜産業により、南米で最も豊かな国であったばかりか、ヨーロッパの列強の次に位置する立場にあった。1910年には、アルゼンチンの輸出額は小麦・牛肉で世界一、トウモロコシ・羊毛は2位になっており、インフラ面では3万キロの鉄道網を有していた。この時期のブエノスアイレスは、南米のパリと呼ばれるほど、ヨーロッパ風の建物・公園が整備された文化都市であった。この頃(日露戦争開戦直前)、日本はイタリアで建造中であった2隻の巡洋艦(春日と日進)を注文主のアルゼンチンから譲り受け、主力艦隊への編入に間に合わせている。

ブエノスアイレス中心地にあるコロン劇場
パリのオペラ座、ミラノのスカラ座とならぶ世界3大劇場の一つ。
ブエノスアイレスの文化の象徴。手前の道幅は16車線ある。
その後、日本海海戦でのこの2隻の活躍を見れば、ついアルゼンチン贔屓になってしまう。
 この豊かなアルゼンチンが、恵まれた資源、高い教養レベルの国民など発展の条件を備えていながら、その後低迷していく最大の理由は、長く続く政治の混迷と、歳入を安易に国債に頼るなど経済政策の失政にあったと言える。度重なるインフレ、私利私欲を追及する政府によって経済は停滞し、国民の政治家に対する信頼感は極めて低くなっている。ハイパーインフレの挙句とうとう2001年には対外債務の返済不履行(デフォルト)に追い込まれ、国の信用力は失墜した。この影響は現在も残っており、通貨アルゼンチンペソへの信頼は薄く、国民には米ドルの方が信頼されている。現在でも対ドル公式レートの他に実勢レート(闇レート)が存在し、その差は2倍ほどにもなっている。闇レートと言えば聞こえが悪いが、そのレートは新聞・TVで毎日報道されており、オープンな存在である。


ジャングルを開墾した茶畑(ミシオネス州)
50ヘクタールの茶畑の一部分
 このアルゼンチンとの縁は、小生の叔父2家族が、戦後、国際協力事業団(JICA)の事業に応じてアルゼンチンに移住しており、その家族が住んでいることである。都合2回、この地を訪問する機会があった。その際にアルゼンチンの日系社会にも触れることができ、考えさせられることが多々あったので、その一部を披露したい。直近の訪問は、老親が年齢的にみて最後の機会になると思われたので(86歳)、初めての海外旅行であったが、両親を連れて行くことにした。
 現地には1世世代2家族(叔父2人=父の弟)、その子供達(2世世代)5家族がおり、2世家族にはその子供達(3世世代)が計11人いる。1世世代はミシオネス州(ブラジル、パラグァイの国境付近、イグアス滝に近い)のジャングルを開墾し、そこに生活基盤を築いた。開墾された後の姿(茶畑や果樹園)を目の当たりにすると彼らが味わった辛苦が容易に想像でき、思わず目頭が熱くなる。一般的に、2世世代は、新たな分野に進展した者、農場を引き継いだ者、まちまちであるが、日系人は教育熱心なので高等教育を受けて専門職になった者、事業を起こしている者も目立つ。そして農場を引き継ぐ者も、他の事業に転進した2世達の土地を譲り受けたり、借りたりして農場の規模を拡大している。

従弟が経営する農場にあるビニールハウス内部
育苗施設の一部。一般の農場から苗の注文を受けて出荷する。
 彼らがこの地に託した希望、そのフロンティア精神を支えてきたのが、日系人達の相互協力であったと思われる。日本人入植地には必ず日本人会が存在し、今でも助け合いの関係が続いている。小生が訪問した時もポサーダス(ミシオネス州都)の日本人会で、ある子供の誕生日会があるというので参加させてもらった。小型の体育館の様な日本人会館に総勢70〜80人が集まり、盛大な会(手弁当が基本、子供も多いので酒はあまり飲まない)を行っていた。皆大変親しげに振舞っており、飛び入りの小生にも親しく接してくれる。誕生日会に限らず色々な名目で頻繁に交流の場を持ち、なにかと助け合っている。
 この協力関係を基盤に日系人達はアルゼンチン社会に信用を築いていった。どこに行ってもハポネ(スペイン語でジャパニーズ)と言えば信用される。アルゼンチンは移民の国で、特にヨーロッパ系(白人)が目立つ。人口では圧倒的に多い白人に混じって、自治会長や事業の協同組合長を任されている日系人も多い。農場から他の事業へ転進する際にも、日系人に対する信用が大きく寄与していることと思われる。小生の親戚2世(いとこ5世帯)も、3世帯は他の事業に転進し、2世帯は農場を拡大させていた。従弟の一人が嘆いていたことに、せっかく築いた日系人の信用を、近年アルゼンチンにも増えた中国人が自らをハポネと詐称して、落としてしまうということであった。
 アルゼンチン日系社会を垣間見て、長い年月を掛けて誠実に努力して得た信用は、何にも変えがたい財産になるという、当たり前のことを教えられた気がする。昨今、ジャパンパッシングと言われる現象があったり、製造業で韓国、中国に追い越される製品があったり、人口減少がもたらす将来負担の増加懸念があるなど、日本の将来に悲観的な見方が目立つようになっている。

イグアスの滝見物
叔父達の入植地から日帰りで訪れることができる。
これらの課題を克服することは容易ではないが、日本・日本人への信用は大きな財産として健在であるので、日本ブランドを今後もブラッシュアップし、それを活用することで、日本人が自信を取り戻す道筋が見えてくるのではないかと、アルゼンチンの日系人達に教えてもらった思いがする。
 今回のアルゼンチン訪問は、細やかながら、思いがけないプラス効果もあった。それは、出発前には、老化により衰えを感じさせていた両親が、現地で弟たちの努力の結果を目の当たりにして、触発されたのか、帰国後には見違えるほど元気になり、活動的になったことである。
 小生も元気をもらいに、時々アルゼンチンを訪問するのも悪くないな、と思ってしまう。

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藤宗 俊一(42回) 2015.01.09あけましておめでとうございます


 本年も宜しくお願い致します
 年賀状を整理していたら、とても綺麗な作品があったのでこの場をかりて紹介させていただきますのでお楽しみ下さい。全て『家』と呼ばれる人たちからのもので、工事『屋』の腕では太刀打ちできません。尚、最後のは、御存じの方もいらっしゃると思いますが、郷土出身で『土門拳賞』や『紫綬褒章』をもらった大家、野町和嘉さんのものです。今年もライフワークの『聖地巡礼』の個展を開くそうですので是非足をお運び下さい。

賀状1

賀状2

賀状3

写真展    『聖地巡礼』
あーすぷらざ(横浜市栄区小菅ヶ谷1-2-1)045-896-2121
第1期2015/3/13〜3/29     第2期2015/4/2〜4/19
http://www.earthplaza.jp
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笠井賢一(42回)演出「死者の書」案内
笹岡 峰夫(43回) 2014.04.15

 笠井賢一君の企画に多く出演している「大女優」坪井美香さんから、下記の悲鳴が聞こえてきました。

 何と、あの怪しい折口信夫の奇書「死者の書」に基づく能舞台での企画に出演するばかりか、可哀相に、「昨年十二月から 七転八倒」とのこと。
 ところで、小生は「死者の書」を読破したことがありません。自宅の書棚を探しましたが、古い単行本の「死者の書」が見つからず、中公文庫を買ってきましたが、やはり、すぐには没入出来る世界ではありません。川村二郎の「解説」から読みはじめたところ、大女優の紹介している奈良国立博物館の「當麻寺」展との関連が分かったのは、せめてもの収穫でした。
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「言霊の芸能史」(高知新聞)
 笠井君は、今年からは執筆活動に重心を移したいとのことで、その環境を整えるべく転居作業を開始したものの、未だ転居が完了しないまま、高知新聞朝刊(木、金、土)の「言霊の芸能史」(「後編」で、「前篇」は7年程前に連載済)の連載が始まり、現在は近松門左衛門を連載中で、7月の美空ひばりを最後に連載完了予定とのこと。
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 そんなこともあって、大女優の悲鳴となったもののようです。
 一体、どんな舞台になるのか?乞うご期待を??
 公演後、大女優ら出演者も同席しての「おきゃく」を、お楽しみに??

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 笹岡様
 案の定、笠井さんはまだどなたにも公演のお知らせをしていない! ショック!
 お手数ですが、このメールを同窓生のみなさまにお送りいただければ幸いです。必要であればチラシもおくらせていただきます。よろしくお願い致します。
 笠井さん、大分お疲れの御様子…!
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 散る桜を想う春、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
  

公演案内

公演チラシ
 さて、公演のお知らせをさせていただきます。手取り足取り、語りを、芝居を、教えてくれた師・関弘子の七回忌に、折口信夫の代表作『死者の書』を舞台化します。
 演目を考えていた昨年の五月、ずっと見たいと思っていた「綴織當麻寺曼荼羅」が奈良国立博物館の「當麻寺」展で公開されると知り、思い切って行ってきました。展示は会期最初の一週間だけだったことが行ってみてわかり、交通費還せ!と思ったのではありましたが、気を取り直してみれば素晴らしい展覧会でした。「山越阿弥陀図」や「二十五菩薩像」など、夢中で展示物を眺めているうちに、あっ、「死者の書」じゃないか、と思い至りました。
 師の薦めで原作を読んだのは二十年程前、わからないなりに夢中で稽古してもらいました。源氏物語の原文CD化の大仕事を終えた後、どことなく気力が萎えていた師が、或る日、人形の川本喜三郎さんがアニメーション映画を作成中であるということを新聞で読み、川本さんに連絡してみるんだと大興奮。ですが、結局声のキャスティングも既に決まっていました。久々の生き生きとした表情と、落胆の様子と、今もよく覚えています。結局いつか演りたいという思いは果たされぬままでした。
 そのゆかりの作品を、ゆかりの銕仙会能楽堂で上演します。観世銕之丞さんに声の出演もご快諾いただきました。
 昨年十二月から脚本作りに七転八倒! 覚悟してはいたものの、改めて原作に打ちのめされそうになりながら、稽古の中で身体を通して折口の言葉と向き合っています。あの世とこの世とはそんなにかけ離れてはいないような、死者たちから現し身の私たちへ、智慧や知恵や、連綿と連なる何ものかが、降りそそがれているような、そんな気にもなってまいります。
 是非ご覧下さい。お待ちしております。
坪井美香
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新作能「無明の井」の公演のお知らせ
笹岡 峰夫(43回) 2012.04.04

1.事務所前から新井薬師にかけての中野通りの桜が漸く開き始め、深川周辺散策企画も小名木川の桜堤の開花が間に合って盛会が楽しみですね。
 ところで、隅田川と四万十川とが姉妹川であることを誰か知っていますか。東京で開かれる四万十町の郷土会に、吉祥寺在住者が隅田川関係の来賓として出席されていて驚いたことがありますが、「神田川は隅田川の支流」とのことでした。小名木川も隅田川の支流です。行徳の塩を運ぶため江戸初期に掘削され、その後、波の荒い房総沖を避けるため、東北の米等の産物も利根川や小名木川を経由して江戸に運ばれるようになったと言われています。
 伊賀生まれの芭蕉は31歳の時江戸に下り、神田川改修工事の請負人をした後、小名木川河口傍の所詮「芭蕉庵」や門人杉風の別宅で暮らし、46歳の春に門人曽良と共に小名木川近くの仙台堀に浮かぶ舟で「奥の細道」の旅に出たとされています。
 しかし、千住を経て1日で到着可能な最初の宿場粕壁(春日部)までに7日を費やしていることに始まり、杉風や曽良以外にも「門人」には得体の知れない者や「悪党」が多くいる等、「俳聖」のイメージとは程遠い謎が多く、「隠密説」は十分に根拠のあるものだと思います。

2.またまた、笠井賢一君(42回)の演出企画を紹介します。多田富雄の新作能「無明の井」(国立能楽堂、4月21日午後2時30分開演)です。
 少年時代に江藤淳らと同人誌を発行し、晩年脳梗塞に倒れた後も詩や新作能等の創作を続けた高名な免疫学者である多田富雄氏には生前から信頼され、同氏の新作能の演出を手掛けてきた同君にとっても、今回の作者三回忌追悼公演は極めて重要な、言わば渾身の演習であろうと想像します。是非、多くの方に観劇して欲しい。
 申込は同君主宰の「アトリエ花習」(090-9676-3798、03-5988-2810)
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「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
笹岡 峰夫(43回) 2011.11.03
前 略
 去る9月26日から、慌ただしく新事務所での業務を開始しました。
 東、南及び西の三面が大きなガラス面になっていて、ブラインドを開けると眩しい程に明るい事務所で、東正面にはスカイツリーがはっきりと見えます。
 24〜25日の引越しに際し、延べ幅270cm(高さ220cm)の書棚が事務所に運び込めなかったなどのハプニングもあって、ダンボール箱があふれていた事務所も、次第に落ち着いた状態になりました。
 そんな中、朝から雨の降り続く大安の10月5日は笹岡の誕生日でした。
 事務所内には、ゴミ箱などを隠す目的も兼ねて、バーカウンターも設置しました。勿論、打合せも出来ますが、カフェにも、バーにもなりそうで、皆様が気軽に立ち寄って下さることを楽しみにしています。
 なお、「けやき法律事務所」名を使用していなかった間に、同名の事務所が都内に出来ているとのことで、「新けやき法律事務所」と改称しましたが、この名称の方が今の心境には相応しいように感じています。
草々
 新けやき法律事務所
 〒164−0001東京都中野区中野5−68−1 高山ビル4階
 TEL 03−5318−4161  FAX 03−5318−4162
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中城正堯(30回) 2011.08.10展覧会と講座のご案内

 
 残暑お見舞い申上げます。
 
 今回、城郭浮世絵に関する展覧会と講座を開くことに成りましたので、ご案内申上げます。
 
 右の画像をクリックすると案内状と講座申込書(pdf文書)が出てきます。
 
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藤戸啓朗(46回) 2011.05.20会費はどのように

 46回の藤戸です。先輩諸氏の熱心な活動に敬意を表します。ところで、私は会費なるものをお払いした覚えがございませんが、いかがしたらよろしいでしょうか。ご指示ください。現在は高知市在住・須崎市勤務ですので、在京の先輩がたとはあまりお会いすることもできませんが、こうしてネットでお会いできるとは、いい時代になったものです。それにしても、懇親会の画像に写っている永森裕子さまは本当にあの松本裕子さまなのでしょうか。
(2011.5.10掲示板へ投稿)
《永森裕子さんよりのお返事》
藤戸様
 はい、私はあの松本裕子です。これで何人目でしょうかねえ、この様に言われるのは、、、。ダンナに二人の奥さんもらったと思えば良いきエイネエ、と言った人もおりましたっけ。(笑)
 藤戸君、切に入会をお待ちしています!是非、高知支部の為に活躍して下さいね。
《事務局より》
 無事、登録が終わり会費も納入されたということです。会員の輪が広がるのは嬉しいことです。
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発刊のご挨拶
『岩崎弥太郎−海坊主と恐れられた男』
鍋島高明(30回) 2010.10.25
謹啓
 未曾有の暑い夏から一転、晩秋を思わせる昨今ですが、皆様にはお変わりないことと存じます。私も元気で執筆を続けております。今年は1月に『反骨のジャーナリスト中島及と幸徳秋水』(高知新闘ブックレット)、3月に『侠気の相場師マムシの本忠』(パンローリング)、8月に『語り継がれる名相場師たち』(日経ビジネス人文庫)を出版、このたび河出書房新社から『岩崎弥太郎』を出版することができました。70歳の手習いで始めたパソコン入力による2冊目の作品です。
 平成19年に高知新聞に『幸徳秋水と小泉三申−叛骨の友情譜』を連載していた当時、頻繁に帰省しましたが、そのころから郷土出身の魅力的人物として岩崎弥太郎を書いてみたいと、資料集めやゆかりの地を訪ねて取材を続けてきました。生誕の地高知県安芸市には4回出掛け、坂本竜馬と岩崎弥太郎の接点が生まれる長崎には『マムシの本忠』(主人公の本田忠氏は長崎市在住)の取材も兼ねて5回出掛ける等々するうちに、さばき切れない資料の山となり、悪戦苦闘の末にこの本となりました。
 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の影響もあってか、昨年来岩崎弥太郎伝が次々と出版され、文字通り汗牛充棟の状態です。そこに割って入ろうというのですから、無鉄砲かもしれません。版元から売りは何だ」と聞かれて、モゴモゴと答えるしかできなかった体たらくですが、これまでの多くの弥太郎伝で書かれてこなかった場面も部分的にはあろうかなどと自己弁護している次第です。
 「棺を蓋いて事定まる」と言いますが、弥太郎が亡くなってから告別式を経て弟弥之助が第2代三菱社長に就任するころまでの新聞各紙には可能な限り目を通しました。会葬者が5万人に及び、大相撲も休場になり、日ごろ訃報など載せたことのない『中外物価新報』(現日本経済新聞)までが弥太郎の死を「誠に悲しむべきこと」と報じたことに弥太郎の存在感の大きさを知る思いでした。
 その時地元高知ではほとんど黙殺された点にも弥太郎という人物の多面的な生き方が覗かれます。時の政府も自由党も一緒になって「海坊主退治」に奔走するなか、がんに冒され、四面楚歌の状況に追い詰められたスーパーヒーローの遺志を継いだ弥之助の働きで三菱の礎は盤石になっていきます。
 岩崎弥太郎の神髄に触れるためには日記と書簡を読み解くことが必須の課題であると思いますが、漢文の素養のない身の悲しさ、長崎、大坂時代のごく短期間の日記を読むにとどまりました。多くは先人の労作に助けられました。『徒然草』の「先達はあらまほしけれ」を改めて痛感させられました。

 2010年9月
敬具
『岩崎弥太郎−海坊主と恐れられた男』河出書房新社・1800円(税別)
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秋の高校野球:県予選
 2010.10.12土佐、6年ぶり四国大会へ

 去る10月11日、県営春野球場で行われた『秋季高校野球県大会・3位決定戦』で、母校は宿敵・高知商業を延長戦で5対2で降し、23日高松市のレクザムスタジアムで行われる四国大会に駒を進めた。 尚、1位は高知、2位は明徳で、このところ出ては負けていた母校の不甲斐なさに諦めかけていた甲子園出場がもう少しのところまでたどりつきました。フレー!フレー!土佐高!
土佐高校  00200000000003=5   バッテリー:森岡稜、三谷−生田
高知商業  00010001000000=2

●実を言いますと、毎日新聞のホームページから、記事を流用しようとして問い合わせたところ、ナント¥10,5000の使用料が必要だと言われ、仮掲載していた流用記事(ちゃんとクレジットをつけて)をあわてて抹消しました。逆にこちらが宣伝料を要求したいくらいなのに、こんな私的なホームページでも容赦しないのですね。毎日新聞が特殊だという訳ではないのでしょうが、四国大会の応援に行く気が失せました。いい経験をしましたが、世知辛い世の中になりましたね。
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濱崎洸一(32回) 2010.09.06近況報告

 32回生濱アです、山岡さんの記事、楽しく読まさせていただきました、懐かしい名前がたくさん出て感慨ひとしおです。
 小生相変わらず日本水泳連盟に関係しており、シーズンは(昔は夏だけ)ほとんど年中大会か゛あり9月9日からは千葉で国体が始まります。
 設立総会には出席できませんでしたが、大町さん!小生元気にしてますから。極力会には出席しますので…。
 本会のますますの発展を祈ります。編集室のみなさんご苦労様です、これからもよろしくお願いします。
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岩口智賀子(45回) 2010.09.05改名届け

 かわいい(?かった)チカちゃんから力ずくのお手紙が届きました。怖いので一字一句変えずに掲載します。下の写真をクリックして下さい。

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岡林敏眞 2010.08.26「画柳会」展覧会への御案内

向陽プレスクラブ会員の皆さんへ
 土佐高32回生の岡林敏眞です。新聞部のOBです。 
 毎日、猛暑が続きます。9月になってもまだまだ厳しい暑さが続くと予想されているのに、こんなご案内をするのは大変恐縮ですが、私が所属している「画柳会」(がりゅうかい)という絵画同人会の展覧会のご案内をさせていただきます。画柳会は私が小川博工画伯と立ち上げた会でして、もう20年以上続いている会です。毎年、銀座で同人展を開催し、今年も下記要領で開催することになり、私も油彩を7点ばかり出品しています。
 私は、毎日会場にいますので、ご都合がつけばご来場ください。
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土佐向陽プレスクラブ