2010.08.26 | 岡林敏眞(32回) | 「画柳会」展覧会への御案内 |
2010.09.05 | 岩口智賀子(45回) | 改名届け |
2010.09.06 | 濱崎洸一(32回) | 近況報告 |
2010.10.05 | 高新連HP、斉藤 | 拝読しました。 |
2010.10.12 | 藤宗俊一(42回) | 土佐、6年ぶり四国大会へ |
2011.05.20 | 藤戸啓朗(46回) | 会費はどのように |
2011.08.10 | 中城正堯(30回) | 展覧会と講座のご案内 |
2011.11.03 | 笹岡峰夫(43回) | 「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします |
2012.04.04 | 笹岡峰夫(43回) | 新作能「無明の井」の公演のお知らせ |
2013.04.09 | 森本浩志(36回) | よろしくお願いします |
2014.04.15 | 笹岡峰夫(43回) | 笠井賢一(42回)演出「死者の書」案内 |
2015.01.09 | 藤宗俊一(42回) | あけましておめでとうございます |
2015.04.16 | 水田幹久(48回) | 地球の裏側(アルゼンチン)で感じたこと |
2015.05.21 | 中城正堯(30回) | 身辺整理に専念します |
2015.06.27 | 藤宗俊一(42回) | 二つのご案内 |
2015.08.01 | 公文敏雄(35回) | 今更訊けないこと…母校校歌の三つの謎 |
2015.08.15 | 中城正堯(30回) | 校歌の謎1への回答 |
2016.01.15 | 藤宗俊一(42回) | 野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内 |
2016.02.28 | 中城正堯(30回) | 20世紀美術の先端を駆け抜けたアーティスト |
2016.03.12 | 吉川順三(34回) | 新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ |
2016.03.31 | 濱ア洸一(32回) | 岡林敏眞君を偲んで |
2016.03.31 | 堀内稔久(32回) | 「憂い」を秘めた顔 |
2016.04.06 | 森木光司(32回) | 我が友岡林敏眞君を悼んで |
2016.09.23 | 中城正堯(30回) | 「公文禎子先生お別れ会」のご報告 |
2016.10.15 | 藤宗俊一(42回) | 笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去 |
2016.10.31 | 笠井賢一(42回) | 新作能『鎮魂』公演のご案内 |
2016.12.03 | 二宮健(35回) | マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1) |
2016.12.26 | 坪井美香(俳優) | 『死者の書』公演のご案内 |
2017.01.04 | 二宮健(35回) | マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2) |
2017.02.03 | 二宮健(35回) | マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3) |
2017.03.03 | 二宮健(35回) | マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4) |
2017.04.18 | 竹本修文(37回) | ヨーロッパ・パーティ事情 |
2017.04.28 | 水田幹久(48回) | 雑感「地域コミュニティ」 |
2017.11.18 | 二宮健(35回) | 微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1 |
2018.01.02 | 二宮健(35回) | 微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2 |
2018.01.21 | 二宮健(35回) | 微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3 |
2018.02.25 | 二宮健(35回) | 微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4 |
2018.06.28 | 公文敏雄(35回) | 大町玄先輩(30回)のご葬儀 |
2018.06.28 | 中城正堯(30回) | 名編集長:大町“玄ちゃん”(30回)を偲んで |
2018.06.28 | 藤宗俊一(42回) | 寛容の精神溢れる玄さん |
2018.09.12 | 二宮健(35回) | プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その1〜 |
2018.09.25 | 二宮健(35回) | プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その2〜 |
2018.10.10 | 二宮健(35回) | プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その3〜 |
2018.10.25 | 二宮健(35回) | プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その4〜 |
2018.12.25 | 冨田八千代(36回) | 浮世絵万華鏡1・2拝読しました。 |
2018.12.25 | 中城正堯(30回) | 石の宝殿への反響---高砂市教育委員会より |
2018.12.25 | 藤宗俊一(42回) | WorldHeritageJourney |
2019.01.10 | 中城正堯(30回) | 福を呼ぶ「金のなる木」や「七福神」 |
2019.02.06 | 冨田八千代(36回) | 「日本の城、ヨーロッパの城」を拝読しました。 |
2019.02.10 | 山本嘉博(51回) | 1月24日・25日開催第187回市民映画会 |
2019.03.01 | 二宮健(35回) | 地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その1 |
2019.03.10 | 冨田八千代(36回) | <版画万華鏡・4>はすぐに拝読しました。 |
2019.03.20 | 二宮健(35回) | 地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その2 |
2019.03.31 | 冨田八千代(36回) | <版画万華鏡5>ありがとうございました |
2019.03.31 | 二宮健(35回) | 地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その3 |
2019.04.15 | 二宮健(35回) | 地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4 |
2019.07.02 | 公文敏雄(35回) | 「鬼の霍乱」 |
2019.07.02 | 中城正堯(30回) | 惜しまれるフレスコ画研究の中断 |
2019.07.02 | 山本厚子(作家) | 6人組のカラオケ・リーダー |
2019.07.02 | 藤宗俊一(42回) | Ciao Bella(さよなら美人)! |
2019.07.02 | 井上晶博(44回) | 松本(旧姓)さんの思い出 |
2019.07.15 | 中城正堯(30回) | 合田佐和子展 -友人とともに- |
2019.11.21 | 二宮健(35回) | 往時茫々、中国の旅 〜その1〜 |
2019.12.09 | 二宮健(35回) | 往時茫々、中国の旅 〜その2〜 |
2019.12.23 | 公文敏雄(35回) | 有難い先輩でした |
2019.12.23 | 中城正堯(30回) | ジャーナリスト魂を貫き新聞協会賞 |
2019.12.23 | 久永洋子(34回) | また会う日まで |
2019.12.23 | 河野剛久(34回) | 伊豆・大室山の麓での三日間 |
2019.12.23 | 二宮健(35回) | 往時茫々、中国の旅 〜その3〜 |
2019.12.23 | 二宮健(35回) | 往時茫々、中国の旅 〜その3〜 |
2020.02.03 | 二宮健(35回) | 往時茫々、中国の旅 〜その5〜 |
2020.03.07 | 中城正堯(30回) | 花だより |
2020.04.14 | 中城正堯(30回) | 庭のエビネが咲きました |
2020.08.14 | 中城正堯(30回) | 土佐藩御船頭の資料を展示 |
2020.08.27 | 中城正堯(30回) | 「ジョニ黒」ことはじめ |
2020.09.06 | 冨田八千代(36回) | いろいろと、ありがとうございました |
2020.09.10 | 中城正堯(30回) | 高知でのコレラに関する歴史 |
2020.09.24 | 中城正堯(30回) | 「日曜美術館」 画家・田島征三さん |
2020.10.08 | 中城正堯(30回) | ハチ公とボビー、忠犬たちを仲介して |
2020.11.21 | 冨田八千代(36回) | 詳しい報告をありがとうございました |
2020.11.21 | 山岡伸一(45回) | 「土佐校100年展」 |
2021.01.15 | 中城正堯(30回) | コロナ禍乗り越えベストセラーに |
2020.11.28 | 井上晶博(44回) | 「向陽新聞」を久し振りに見つけて |
2021.01.15 | 中城正堯(30回) | −親しめる『土佐中高100年の歩み』を創ろう− |
2021.01.21 | 冨田八千代(36回) | 『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を読んで |
2021.01.22 | 冨田八千代(36回) | 小村彰校長先生に感謝と感銘 |
2021.03.15 | 中城正堯(30回) | 田島征彦展のお知らせ |
2021.05.10 | 中城正堯(30回) | 母校を熱愛した新聞部の“野球記者” |
2021.08.09 | 中城正堯(30回) | サンペイさん追憶!出会いと土佐の旅 |
2021.08.09 | 冨田八千代(36回) | 高知で遭遇した浮世絵展 |
2021.08.18 | 冨田八千代(36回) | 土佐と浮世絵 序曲 |
2021.09.10 | 冨田八千代(36回) | 次は「ぽんびん」を吹く中城さん |
2021.09.10 | 加賀野井秀一(44回)・中央大学名誉教授 | 中城正堯さんの「子供の天国」 |
2021.09.10 | 中城正堯(30回) | 江戸子ども文化論集への反響 |
2021.09.19 | 中城正堯(30回) | 香料列島モルッカ諸島 |
2021.09.26 | 冨田八千代(36回) | 「青」は深まり、「青」で深まる |
2021.10.15 | 中城正堯(30回) | ヒマラヤ南麓の愛しき稲作民 |
2021.10.23 | 中城正堯(30回) | 「ヨーロッパの木造建築」を楽しむ |
2021.11.04 | 中城正堯(30回) | ナポレオン3世皇妃と幕末狩野派 |
2021.11.26 | 中城正堯(30回) | 巨大な木造“王の家”そびえ立つニアス島 |
2021.12.15 | 中城正堯(30回) | ―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か― |
2021.12.25 | 冨田八千代(36回) | お龍さんが近づいてきました |
2022.02.22 | 中城正堯(30回) | ―写真と挿絵が語りかけるもの― |
2022.04.18 | 冨田八千代(36回) | きっと、凛としていただろう お龍さん |
![]() 心優しいチカちゃん |
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![]() |
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草々
新けやき法律事務所
〒164−0001東京都中野区中野5−68−1 高山ビル4階
TEL 03−5318−4161 FAX 03−5318−4162
1. | 事務所前から新井薬師にかけての中野通りの桜が漸く開き始め、深川周辺散策企画も小名木川の桜堤の開花が間に合って盛会が楽しみですね。 | |
ところで、隅田川と四万十川とが姉妹川であることを誰か知っていますか。東京で開かれる四万十町の郷土会に、吉祥寺在住者が隅田川関係の来賓として出席されていて驚いたことがありますが、「神田川は隅田川の支流」とのことでした。小名木川も隅田川の支流です。行徳の塩を運ぶため江戸初期に掘削され、その後、波の荒い房総沖を避けるため、東北の米等の産物も利根川や小名木川を経由して江戸に運ばれるようになったと言われています。 | ||
伊賀生まれの芭蕉は31歳の時江戸に下り、神田川改修工事の請負人をした後、小名木川河口傍の所詮「芭蕉庵」や門人杉風の別宅で暮らし、46歳の春に門人曽良と共に小名木川近くの仙台堀に浮かぶ舟で「奥の細道」の旅に出たとされています。 | ||
しかし、千住を経て1日で到着可能な最初の宿場粕壁(春日部)までに7日を費やしていることに始まり、杉風や曽良以外にも「門人」には得体の知れない者や「悪党」が多くいる等、「俳聖」のイメージとは程遠い謎が多く、「隠密説」は十分に根拠のあるものだと思います。 | ||
2. | またまた、笠井賢一君(42回)の演出企画を紹介します。多田富雄の新作能「無明の井」(国立能楽堂、4月21日午後2時30分開演)です。 | |
少年時代に江藤淳らと同人誌を発行し、晩年脳梗塞に倒れた後も詩や新作能等の創作を続けた高名な免疫学者である多田富雄氏には生前から信頼され、同氏の新作能の演出を手掛けてきた同君にとっても、今回の作者三回忌追悼公演は極めて重要な、言わば渾身の演習であろうと想像します。是非、多くの方に観劇して欲しい。 | ||
申込は同君主宰の「アトリエ花習」(090-9676-3798、03-5988-2810) |
卒業以来、大学、会社(関西電力)は関西でしたが、4年前から東京在住。いずれ関西に帰りますが、こちらでは土佐高関東36会の皆さんにお世話になっています。
新聞部員としては、熱心でなかったこともあり、あまり関心がありませんでしたが、今回、プレスクラブでお作り頂いた向陽新聞のバックナンバーを読ませて頂き、懐かしく青春時代を思い出している次第。クラブ再設立頂きました皆さんのご努力に敬服しますと共に、感謝いたします。お役に立てることは何もありませんが、よろしくお願いします。
笠井賢一君の企画に多く出演している「大女優」坪井美香さんから、下記の悲鳴が聞こえてきました。
何と、あの怪しい折口信夫の奇書「死者の書」に基づく能舞台での企画に出演するばかりか、可哀相に、「昨年十二月から 七転八倒」とのこと。
ところで、小生は「死者の書」を読破したことがありません。自宅の書棚を探しましたが、古い単行本の「死者の書」が見つからず、中公文庫を買ってきましたが、やはり、すぐには没入出来る世界ではありません。川村二郎の「解説」から読みはじめたところ、大女優の紹介している奈良国立博物館の「當麻寺」展との関連が分かったのは、せめてもの収穫でした。
![]() 「言霊の芸能史」(高知新聞) |
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笠井君は、今年からは執筆活動に重心を移したいとのことで、その環境を整えるべく転居作業を開始したものの、未だ転居が完了しないまま、高知新聞朝刊(木、金、土)の「言霊の芸能史」(「後編」で、「前篇」は7年程前に連載済)の連載が始まり、現在は近松門左衛門を連載中で、7月の美空ひばりを最後に連載完了予定とのこと。
そんなこともあって、大女優の悲鳴となったもののようです。
一体、どんな舞台になるのか?乞うご期待を??
公演後、大女優ら出演者も同席しての「おきゃく」を、お楽しみに??
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笹岡様
案の定、笠井さんはまだどなたにも公演のお知らせをしていない! ショック!
お手数ですが、このメールを同窓生のみなさまにお送りいただければ幸いです。必要であればチラシもおくらせていただきます。よろしくお願い致します。
笠井さん、大分お疲れの御様子…!
散る桜を想う春、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
![]() 公演チラシ |
![]() 公演案内 |
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さて、公演のお知らせをさせていただきます。手取り足取り、語りを、芝居を、教えてくれた師・関弘子の七回忌に、折口信夫の代表作『死者の書』を舞台化します。
演目を考えていた昨年の五月、ずっと見たいと思っていた「綴織當麻寺曼荼羅」が奈良国立博物館の「當麻寺」展で公開されると知り、思い切って行ってきました。展示は会期最初の一週間だけだったことが行ってみてわかり、交通費還せ!と思ったのではありましたが、気を取り直してみれば素晴らしい展覧会でした。「山越阿弥陀図」や「二十五菩薩像」など、夢中で展示物を眺めているうちに、あっ、「死者の書」じゃないか、と思い至りました。
師の薦めで原作を読んだのは二十年程前、わからないなりに夢中で稽古してもらいました。源氏物語の原文CD化の大仕事を終えた後、どことなく気力が萎えていた師が、或る日、人形の川本喜三郎さんがアニメーション映画を作成中であるということを新聞で読み、川本さんに連絡してみるんだと大興奮。ですが、結局声のキャスティングも既に決まっていました。久々の生き生きとした表情と、落胆の様子と、今もよく覚えています。結局いつか演りたいという思いは果たされぬままでした。
そのゆかりの作品を、ゆかりの銕仙会能楽堂で上演します。観世銕之丞さんに声の出演もご快諾いただきました。
昨年十二月から脚本作りに七転八倒! 覚悟してはいたものの、改めて原作に打ちのめされそうになりながら、稽古の中で身体を通して折口の言葉と向き合っています。あの世とこの世とはそんなにかけ離れてはいないような、死者たちから現し身の私たちへ、智慧や知恵や、連綿と連なる何ものかが、降りそそがれているような、そんな気にもなってまいります。
是非ご覧下さい。お待ちしております。
年賀状を整理していたら、とても綺麗な作品があったのでこの場をかりて紹介させていただきますのでお楽しみ下さい。全て『家』と呼ばれる人たちからのもので、工事『屋』風情では太刀打ちできません。尚、最後のは、御存じの方もいらっしゃると思いますが、郷土出身で『土門拳賞』や『紫綬褒章』をもらった大家、野町和嘉さんのものです。今年もライフワークの『聖地巡礼』の個展を開くそうですので是非足をお運び下さい。
![]() 賀状1 |
![]() 賀状2 |
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![]() 賀状3 |
![]() 写真展『聖地巡礼』あーすぷらざ(横浜市栄区小菅ヶ谷1-2-1)045-896-2121 第1期2015/3/13〜3/29 第2期2015/4/2〜4/19 http://www.earthplaza.jp |
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![]() 筆者近影 |
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一昨年(2013年)の9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで行われたIOC総会において、2020年オリンピックの開催地が東京に決定した。オリンピック東京開催は、日本経済再生の起爆剤として歓迎され、それ以来、景気回復への期待感が増しているように感じる。2020年までの長いようで短いこの準備期間、景気浮揚に繋がる政策が展開されるに違いない。
東京のライバルであった候補都市のイスタンブールとマドリッドについて関心があった方は多いと思うが、IOC総会が行われたブエノスアイレスについて詳しい方は少ないであろう。小生はこの南米の都市にすこし縁があり、2回ほど訪れているので、その時に感じたことなどを記してみたい。
![]() ブエノスアイレス郊外に広がるパンパ 地平線の彼方まで牛の放牧地になっている |
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東京から見るとブエノスアイレスは地球のちょうど裏側(正確にはブエノスアイレス東方沖合1,000Kmの大西洋上が対蹠点=正反対の地点のこと)にある。という事は、飛行機が完全に直線的に運行できれば、東京からどの方角に飛び立っても同じ距離という事になる。事実、ブエノスアイレスへのフライトは北米経由、欧州経由、中東経由など真逆に飛び出すルートの中から選択することになる。首都ブエノスアイレスがあるアルゼンチンは南米の大国(国土面積2,780千ku=世界第8位・日本の7.4倍)で、しかも温暖な気候帯の平地面積が大きく、農畜産業に適した国土を有している(パンパと呼ばれる広大な草原が牧草地として広がっている)。反面、人口は4,100万人、GDP4750億US$(世界26位)。日本の人口1億2700万人、GDP5兆9630億US$と比べると大きく見劣りがする。
しかし、この国は建国以来ずっとこの地位にあった訳ではない。19世紀の終わりから20世紀の初頭、日本が明治維新を経て富国強兵に励んでいた頃、日本とアルゼンチンの立場は、全く逆であった。アルゼンチンは恵まれた国土を生かした農畜産業により、南米で最も豊かな国であったばかりか、ヨーロッパの列強の次に位置する立場にあった。1910年には、アルゼンチンの輸出額は小麦・牛肉で世界一、トウモロコシ・羊毛は2位になっており、インフラ面では3万キロの鉄道網を有していた。この時期のブエノスアイレスは、南米のパリと呼ばれるほど、ヨーロッパ風の建物・公園が整備された文化都市であった。この頃(日露戦争開戦直前)、日本はイタリアで建造中であった2隻の巡洋艦(春日と日進)を注文主のアルゼンチンから譲り受け、主力艦隊への編入に間に合わせている。その後、日本海海戦でのこの2隻の活躍を見れば、ついアルゼンチン贔屓になってしまう。
![]() ブエノスアイレス中心地にあるコロン劇場 パリのオペラ座、ミラノのスカラ座とならぶ世界3大劇場の一つ。 ブエノスアイレスの文化の象徴。手前の道幅は16車線ある。 |
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この豊かなアルゼンチンが、恵まれた資源、高い教養レベルの国民など発展の条件を備えていながら、その後低迷していく最大の理由は、長く続く政治の混迷と、歳入を安易に国債に頼るなど経済政策の失政にあったと言える。度重なるインフレ、私利私欲を追及する政府によって経済は停滞し、国民の政治家に対する信頼感は極めて低くなっている。ハイパーインフレの挙句とうとう2001年には対外債務の返済不履行(デフォルト)に追い込まれ、国の信用力は失墜した。この影響は現在も残っており、通貨アルゼンチンペソへの信頼は薄く、国民には米ドルの方が信頼されている。現在でも対ドル公式レートの他に実勢レート(闇レート)が存在し、その差は2倍ほどにもなっている。闇レートと言えば聞こえが悪いが、そのレートは新聞・TVで毎日報道されており、オープンな存在である。
![]() ジャングルを開墾した茶畑(ミシオネス州) 50ヘクタールの茶畑の一部分 |
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このアルゼンチンとの縁は、小生の叔父2家族が、戦後、国際協力事業団(JICA)の事業に応じてアルゼンチンに移住しており、その家族が住んでいることである。都合2回、この地を訪問する機会があった。その際にアルゼンチンの日系社会にも触れることができ、考えさせられることが多々あったので、その一部を披露したい。直近の訪問は、老親が年齢的にみて最後の機会になると思われたので(86歳)、初めての海外旅行であったが、両親を連れて行くことにした。
現地には1世世代2家族(叔父2人=父の弟)、その子供達(2世世代)5家族がおり、2世家族にはその子供達(3世世代)が計11人いる。1世世代はミシオネス州(ブラジル、パラグァイの国境付近、イグアス滝に近い)のジャングルを開墾し、そこに生活基盤を築いた。開墾された後の姿(茶畑や果樹園)を目の当たりにすると彼らが味わった辛苦が容易に想像でき、思わず目頭が熱くなる。一般的に、2世世代は、新たな分野に進展した者、農場を引き継いだ者、まちまちであるが、日系人は教育熱心なので高等教育を受けて専門職になった者、事業を起こしている者も目立つ。そして農場を引き継ぐ者も、他の事業に転進した2世達の土地を譲り受けたり、借りたりして農場の規模を拡大している。
![]() 従弟が経営する農場にあるビニールハウス内部 育苗施設の一部。一般の農場から苗の注文を受けて出荷する。 |
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彼らがこの地に託した希望、そのフロンティア精神を支えてきたのが、日系人達の相互協力であったと思われる。日本人入植地には必ず日本人会が存在し、今でも助け合いの関係が続いている。小生が訪問した時もポサーダス(ミシオネス州都)の日本人会で、ある子供の誕生日会があるというので参加させてもらった。小型の体育館の様な日本人会館に総勢70〜80人が集まり、盛大な会(手弁当が基本、子供も多いので酒はあまり飲まない)を行っていた。皆大変親しげに振舞っており、飛び入りの小生にも親しく接してくれる。誕生日会に限らず色々な名目で頻繁に交流の場を持ち、なにかと助け合っている。
この協力関係を基盤に日系人達はアルゼンチン社会に信用を築いていった。どこに行ってもハポネ(スペイン語でジャパニーズ)と言えば信用される。アルゼンチンは移民の国で、特にヨーロッパ系(白人)が目立つ。人口では圧倒的に多い白人に混じって、自治会長や事業の協同組合長を任されている日系人も多い。農場から他の事業へ転進する際にも、日系人に対する信用が大きく寄与していることと思われる。小生の親戚2世(いとこ5世帯)も、3世帯は他の事業に転進し、2世帯は農場を拡大させていた。従弟の一人が嘆いていたことに、せっかく築いた日系人の信用を、近年アルゼンチンにも増えた中国人が自らをハポネと詐称して、落としてしまうということであった。
アルゼンチン日系社会を垣間見て、長い年月を掛けて誠実に努力して得た信用は、何にも変えがたい財産になるという、当たり前のことを教えられた気がする。昨今、ジャパンパッシングと言われる現象があったり、製造業で韓国、中国に追い越される製品があったり、人口減少がもたらす将来負担の増加懸念があるなど、日本の将来に悲観的な見方が目立つようになっている。
![]() イグアスの滝見物 叔父達の入植地から日帰りで訪れることができる。 |
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これらの課題を克服することは容易ではないが、日本・日本人への信用は大きな財産として健在であるので、日本ブランドを今後もブラッシュアップし、それを活用することで、日本人が自信を取り戻す道筋が見えてくるのではないかと、アルゼンチンの日系人達に教えてもらった思いがする。
今回のアルゼンチン訪問は、細やかながら、思いがけないプラス効果もあった。それは、出発前には、老化により衰えを感じさせていた両親が、現地で弟たちの努力の結果を目の当たりにして、触発されたのか、帰国後には見違えるほど元気になり、活動的になったことである。
小生も元気をもらいに、時々アルゼンチンを訪問するのも悪くないな、と思ってしまう。
![]() 筆者近影 |
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今朝8時過ぎにテレ朝を付けたら、堀内稔久弁護士(KPC会員・32回生)の顔が映っていてビックリしました。先月バイクに乗っていて事故死した萩原流行さんの死因に関し、警察対応に不信の念を抱いた奥様と、真相究明にあたっているそうです。
萩原さんは、昨年亡くなった竹邑類さん(35回生)が若き日に立ち上げた劇団ザ・スーパー・カムパ二イの看板俳優で、招待いただいてよく舞台を楽しみました。
竹邑さんは、ミュージカルなど舞台芸術の改革者でしたが、昨年『呵呵大将 我が友、三島由紀夫』を置き土産に、旅立ちました。才能あふれる芸術家であり、自由人でした。
堀内弁護士はじめ、みなさまの活躍を願っています。
先月の総会は、滋賀県立近代美術館での講演と重なり失礼しました。体力が衰え、浮世絵関連のおしゃべりも今月末の「東洋思想・・・」研究会での発表を最後に辞め、お迎えに備えての身辺整理に専念します。今日が七十代最後の誕生日です。
![]() 野町和嘉写真展『地平線の彼方から』 |
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昨日、郷土出身の写真家・野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』に行ってきました。場所はオシャレな街『六本木』のオシャレなビル『東京ミッドタウン』1階フジフィルム・スクエアで7月15日まで(10:00〜19:00入場無料・撮影自由)やっています。お近くに来られたら是非覗いてみて下さい。
スゴイとしか言いようが無く、写真がここまで発言する媒体なのか改めて思い知らされました。カメラや印刷方法の違いだけで済まされません。撮るのを止めたくなりました。
野町和嘉写真集・新刊3点のご紹介
●「極限高地――チベット・アンデス・エチオピアに生きる」
7月6日発売予定。日経ナショナル・ジオグラフィック社
●「地平線の彼方から――人と大地のドキュメント」
6月26日 発売予定。クレヴィス
●「Le vie dell anima」
イタリアのモンツァ社
![]() 最初のサハラ(宿営地の小学校の庭から撮影)の前で説明する野町さん 撮影:荒川豊氏 |
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ついでと言っては失礼になりますが、同じく郷土出身のトルコ評論家(翻訳家・慶応大講師)野中恵子さんからのご案内です。
![]() 筆者近影 |
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「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」といわれますが、今更恥ずかしくて訊けないことを思い切って先賢にお尋ねいたします。
関東支部ホームページに踊る「1915ホームカミングデー」案内の文字を眺めていると、母校の校歌の謎(私にとっての)がまたまた頭をよぎりました。
謎1.最初の言葉「向陽の空」の「向陽」の由来は何か? 向陽寮、向陽新聞等々、母校の別名のようなのですが・・・
謎2.明治天皇は1904年日露戦争開戦の年に、有名な「よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ」など多くの和歌を詠まれましたが、ほかに「あさみどり澄みわたりたる大空の廣きをおのが心ともがな」があります。母校の校歌1番「向陽の空淺緑 広きぞ己が心なる・・・」によく似ています。作詞者が後輩に伝えたかった思いはとは?
謎3.創立期の「土佐中學校要覧」では、「大正11年5月教諭越田三郎作歌」とされています。その後、「作曲弘田龍太郎」が加わりました。さて、越田先生はどんな方だったでしょう?
どなたか教えていただけますと幸いです。
![]() 筆者近影 |
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よい質問をいただきました。猛暑の中でも、母校への思いを抱き続けているようで、なによりです。
謎1,の「向陽」の由来のみ、小生の理解するところをお知らせ致します。
「向陽」の出典は、中国古代の漢詩です。諸橋轍次『大漢和辞典』(大修館)に
よると、<向陽 陽に向かう。日に向かう。潘岳(247〜300 西晋の文学者)の
「閑居賦」、謝霊運(385〜433 六朝時代 宋の詩人)の「山居賦」・・・>等の詩
に使われた用例をあげてあります。
土佐中では、校歌より先に「向陽会」(自治修養会)に使われており、これは三根
校長の命名かと思われます。三根校長が東京帝国大学哲学科在学中の哲学教
授は井上哲次郎でドイツ観念論哲学のみならず、漢学・東洋哲学にも精通していました。
![]() 1990年頃の筆山会による「三根校長墓参会」 |
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また国文の物集高見教授も漢学に通じていました。江戸時代の公文書は漢文で
あり、三根の一年先輩で国史科だった中城直正(高知県立図書館初代館長)も、
漢文・漢詩に強く、桃圃と号して漢詩を詠んでいます。土佐に来た三根校長とも
交流しています。目下、『土佐史談』に依頼され、史談会創立100周年記念号に、
中城直正(遠い親戚)の略伝を執筆中です。
その他の謎についても調べたいところですが、土佐中関連の文献・資料はすべて
土佐校図書室と公文公教育研究所に寄贈し、手元にありません。これらに手掛か
りがあるかどうかも不明です。是まで収集した資料は、順次寄贈先を選んで進呈
しています。満州版画は京大人文研が大変喜んでくれました。
公文さんの質問に対して、まず調査担当すべきは土佐校の同窓会担当者かと思
います。三浦先生の後任は、だれでしょうか。母校100年史編纂も進んでいること
でもあり、母校の体制を確認下さい。
なお、「向陽高校」は和歌山・京都などいくつかあるようですが、いずれも戦後の
学校統合などで生まれた校名のようです。三根校長には、自治会にいい名称を
付けていただいたと思います。
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遅くなりましたが、年頭のご挨拶を申し上げます。穏やかな新しい年を迎えられてたこととお慶び申し上げます。
![]() 撮影:荒川豊氏 |
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郷里出身の写真家野町和嘉氏から写真展の案内をもらい、オープニングに行ってきました(会場でお元気そうな中城さんにもお会いしました)。『構図にこだわっている』などという次元ではありません。
殆どの写真が畳の大きさ以上に焼き付けられていて、本とはまるで違った迫力がありました。会場は倉庫を改装した大空間で、そこに50枚以上の素晴らしい作品が並べられていました。是非、足をお運び下さい。
![]() 野町和嘉写真展 『天空の渚』 01/15-02/14 港区海岸1-14-24 03-5403-9161 鈴江第三ビル6F 『GALLERY916』 入場無料 月曜休館 |
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![]() 筆者近影 |
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2月23日の新聞で合田さん(34回)の訃報を目にした。19日に心不全で亡くなったとのこと。昨年の日本橋での個展にも本人は姿を見せず、療養中と聞いていたので心配していたが、残念でならない。彼女は絵画だけでなく、寺山修司「天井桟敷」・唐十郎「状況劇場」の舞台美術やポスター、超現実的な人形、ポラロイド写真にも取り組んできた。
土佐高新聞部の仲間として、また同時代の編集者として見てきた、20世紀美術界での彼女の先鋭的なアーティストとしての活躍ぶりが、脳裏に刻まれている。かつて書いた戯文に、本人および関係芸術家の文章なども引用し、しばし追憶に浸りたい。
<新聞部の仲間から>
美術界の異才、合田佐和子/中城正堯『一つの流れ』第8号 1985年刊
![]() 新聞部の千松公園キャンプ、前列左端が合田さん。1956年 |
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合田は新聞部だったので、中学時代からのつき合いになる。やせて眼のギョロッとした文学少女タイプだったが、芯は強い。ガラクタを集めたオブジェから始り、状況劇場や天上桟敷の舞台美術、怪奇幻想画、ポロライドカメラによる顔シリーズ、油彩のスーパーリアリズムと、とどまるところを知らない。
(彼女が武蔵野美術大卒業の際に作品を持って学研にきて以来、時折連絡を取っていた。)舞台で使うプラスチック人形の成型を教えてくれと、ひょっこり訪ねてきたりする。たえず新しいものにチャレンジし、美術界の話題を集めてきた。その才媛ぶりは、瀧口修造や東野芳明から高く評価されている。・・・昨年は、現代女流十人展の一人にも選ばれ、仕事は活発に続けている。
今年正月には銅版画集『銀幕』(美術出版社)を刊行した。手彩オリジナル版画入りの豪華本は、定価30万円である。その出版記念会には、根津甚八、四谷シモン、江波杏子、白石かずこなど、異色の東京ヤクザがかけつけていた。合田はエジプトが気に入り、安い家を買ったとかで、これからは日本と半々でくらすと、いたずらっぽい表情でいっていた。
(これは、土佐高30回Kホームのクラス誌に「東京ヤクザ交友録」として、同窓生の活躍ぶりをカタギとヤクザに分けて紹介した戯文で、芸術家は当然ヤクザとして扱った。)
<合田さんご本人の回想>
『パンドラ』序文/合田佐和子作品集 PARUKO出版 1983年
![]() 「合田佐和子 影像」掲載ポートレート(松濤美術館) |
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高校3年の夏休みに、四国山脈をかきわけて上京して以来、もう25年という年月が流れていったらしい。・・・美術界の西も東も分からなかった24才の6月に、はじめて開いた個展での作品は、今にして思えば、戦後の焼け跡の光景そのものだった。それも、近視眼的な子供の眼にうつった、災害のオブジェである。(夏休みに上京、以来東京の叔父の元で過ごし、卒業式だけ帰高出席したという。)
油彩 ニューヨークの裏通りで一枚の写真を拾った。二人の老婆と一人の老人が写っている小さな銀板写真だった。アレ、これはすでに二次元ではないか、これをそのままキャンバスに写しかえれば問題は、一方的に一時的に解決する。(立体オブジェにこだわり、立体を平面に写す油彩を躊躇していた合田は、拾った写真にインスピレーションを得て独創的なスター肖像画を生み出す。美大で商業デザイン科だった合田は、油絵の実技教育を受けておらず、独学で修得したと述べている。)
エジプト 1978年秋の個展作品を、肩から包帯をつるした腕で仕上げると、息もたえだえ子供二人を連れて半ばやけ気味でエジプトへ発った。(彼女はアスワンの村でくらし、「全部の病気を砂に返し、暖かいぬくもりだけを全身に吸い込んで東京に戻る」と、古代エジプトの守護神ホルスに惹かれたのか、目玉をモチーフに立体も平面も制作、『眼玉のハーレム』(PARUKO出版)を刊行する。後に中上健次の朝日新聞連載「軽蔑」では、毎回眼だけの挿絵を描いた。)
<仲間の賛辞>
恋のミイラ/唐十郎 合田佐和子個展カタログ 1975年
これらは、初めて仮面舞踏会につれてこられた少女の、ほのかなためらいと頬の紅潮を画布に移行させたものだろうか。・・・これらはドリームにドリームを塗りつぶした暗い恋のタブローである。こんな絵に囲まれながら、そこで、誰かと誰かの恋が結ばれたらどうしよう。
ぼくらのマドンナ/『銀幕』出版記念会案内状/四谷シモン 1985年
当代きっての才媛、ぼくらのマドンナ、佐和子が、突如、この夏の猛暑のさなか、銅版画の制作にのめりこみ、レンブラント、デューラーもものかは、銅と腐蝕液の異臭のなかから電光石火の早技で「月光写真」の如き「銀幕のスターたち」を誕生させました。・・・ぼくらのマドンナを囲み、歓談に花を咲かせたいと思います。
焼け跡に舞い降りた死の使者/坂東眞砂子(51回)『合田佐和子』高知県立美術館 2001年
八十年代に入り、合田佐和子は初期の焼け跡を連想させるオブジェと、人骨を組み合わせた作品を創りはじめる。ここにおいて、敗戦、焼け跡と、死が作品上で、明白に重ねあわされていく。・・・合田佐和子が描いてきた銀幕スターたちとは、戦後の日本に死をもたらした、死の使者たちだったのだ。彼らは大鎌の代わりに、セックス・アピールという武器を手にして、日本社会に乗りこんできた。その青ざめた皮膚の下にあるのは、骨。銀幕スターのきらめきの下に隠されているのは、骸骨であったのだ。
![]() 作品集・展覧会図録・著書など |
![]() 絵はがきなど |
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合田さんと思いがけず出会ったのは、1992年2月小松空港行きの機中であった。前の席に座った男女が楽しげにはしゃいでいる。ベルト着用のサインが消え、身を乗り出してみると、二人の若い男性助手を連れた合田さんだった。聞けば翌日から金沢のMROホールで公開制作をするという。仕事の合間をぬって会場に駆けつけると、詰めかけたファンに囲まれ、あざやかな筆さばきで大キャンバスに銀幕のスターを描いていた。
2001年の高知県立美術館「森村泰昌と合田佐和子」展、2003年の東京・渋谷区立松濤美術館「合田佐和子 影像」展でも、オープニングで元気な姿を見せていた。しかし、近年の鎌倉や日本橋の個展会場では、本人と会うことができなかった。5年ほど前に電話で近況を尋ねると、心臓の病をかかえ、思うように制作ができないといいながら、わたしの病気を気遣って、類似の病気を克服した友人・栗本慎一郎(経済人類学者)の治療法を薦めてくれた。
彼女は様々な病気を抱えながら、絶えず新しいテーマと技法にチャレンジし、現代アートの世界で先鋭的な作品を発表し続けてきた。その鋭利な感性に肉体がついて行けず、悲鳴を上げていたのであろう。高知県立美術館での合田展に寄稿をしてくれていた作家・坂東眞砂子さん(51回)に続いての合田さん訃報であり、土佐高で学んだ異能の女流芸術家が相次いで亡くなった。ご冥福をお祈りしたい。
<追記>いずれ「お別れの会」を開く予定で、「天井桟敷」関係者が準備中とのこと。
(作品自体は著作権者の了解が必要なので、印刷物からの画像引用の範囲にした)
![]() 筆者近影 |
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合田佐和子さんの多彩な活躍はご存知の通りだと思う。訃報が新聞に載った夕刻のツウィッターは彼女のことが目白押しだった。それはともかく、彼女の土佐高新聞部時代を振り返ってみると、才能、感性が多彩に芽生えていた。
われわれの時代は1年生の後半から3年生の前半まで新聞製作と部の運営に責任を持っていた。彼女は放課後になると、ほぼ毎日のように部室に現れた。新聞は多くても年に3回発行だったから、いつも忙しいわけではない。駄弁りや部活とは関係のない議論をすることが多かったが、たいがいは彼女が主役だった。
とにかく彼女はアタマの回転が速い。目のつけどころが独特、しかも変幻自在で既存の形に縛られるのを嫌った。おまけに感性は鋭い。先生、先輩、同輩についても批判に遠慮はなかった。皮肉を込めたあだ名をつけるのも上手かった。
私もあるとき「ドンジュン」と呼ばれた。もちろん「ドンファン」のもじりでもなければ、たまたま部長だったために名前に「ドン」を冠したものでもない。「鈍」な順三というわけだ。高速回転の彼女とはあまりにも異質な“鈍感力”を鋭敏な彼女の頭脳が感じ取ってくれたのかどうか、これは幸いなことにその場限りになった。とにかく彼女と同じ軸でやりあうと、私をはじめ仲間はみんな、いつの間にか彼女の思うつぼにはまって逆転され、情けない思いを味わった。
新聞作りでは紙面レイアウトについて先輩から「“S字型”か“X字型”の配置で構成するのが基本」「”腹切り”は避ける」と教えられていた。
その原則に沿って記事の行数を計算して写真の寸法をはかり、模擬
紙面に切り貼りするなど試行錯誤していると彼女が割り込んで瞬く
間に解決したことが記憶に残っている。全体をひと眺めすると色鉛
筆をにぎり「この写真はもっと大きく」「これは横見出しに」などと
つぶやきながら実に細密で正確な絵コンテを描いた。
そのうえ「このコラム、もう少しおしゃれで、鋭かったら紙面配置
の基本などにかまわないで最上段に置いてやったのに」とのたまう。
筆者がそこにいてもまったく気にしない。筆者も「う〜ん」と、う
なりながら同意したものだ。
また最終段階の作業は印刷所が現場になる。コストの関係から印刷
はいつも夜間で、活字拾い、組版などの職人さんの残業に頼っていた。
夜遅くなる場合が多いので男子部員だけが現場に出かけ、早く仕事
を終えて帰りたい職人さんの機嫌をとりながら作業した。
ちょうど“濡れ紙”の小ゲラをチェックして、いよいよ大ゲラが出る
ころ「家が近いから」と彼女が突然現れたことがあった。
例によって周りの雰囲気などおかまいなしに「この見出しは変えた
方がよい」「凸版の地紋はもっと明るく」と笑顔でテキパキと指示す
る。はじめ渋面だった職人さんは、そのうち文句もいわず、彼女のペ
ースに乗せられて、組み直しや作り直しを繰り返した。ただただ呆然
としたのは、われわれ男子部員だった。そして「これ以上遅くなった
ら家から迎えが来るから先に帰る」と、ポケットのキャラメルを一箱
置いてさっと消えた。
次の号で印刷所に行ったとき職人さんから「あのオカッパはまだ来
んかよ」と期待のこもったように問われて驚いたことを思い出す。
こように、普通なら相手を困らせるようなことを、あっけらかんと主
張して思いを遂げ、しかも相手から親しみを感じてもらうという不
思議な能力を持っていた。
彼女は「これ以上憎まれたくない」としばしば言ったが、だれも憎ん
だりはしなかった。彼女の毒舌の標的になれば、そのたびに脳細胞が
刺激され、それぞれが成長したように思う。
彼女の訃報に関連して同期の久永(山崎)洋子さんから手紙をいた
だいた。「ひらめき、才能、シャープ、独特のセンス。毒舌とユーモアの混じった会話が得意な人でした。ともに新聞部を楽しませてもらいました」と。同期のみんなも気持ちは同じだろう。
しかしその同期の主要メンバーだった浜田晋介、秦洋一、国見昭郎
の各氏がすでに故人になっており、今回は合田佐和子さんが他界した。そもそも土佐高の「向陽新聞」は廃刊、冥土入りして久しい。そのすべてに------------合掌。
![]() 筆者近影 |
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岡林君の訃報を聞き、それも急逝だったことを知り、まことに残念、衷心よりお悔み申し上げます。
昨年6月いつもの銀座の画廊で逢ったときには、顔色も良かったし、口では、「もう今年が最後かもしれん」とは言っていたが・・。今年から彼の独特の絵が見られないと思うとさびしい限りである。
思い起こせば、彼との出会いは、土佐中学1年同じクラスとなり、学級新聞を作ろうとの話から、新任担当の中沢先生に伺ったところ、当校には新聞部があるから、そこで勉強しなさいとのことであった、そもそもそこからである、仲間数名が部室に行ってそのまま新聞部の部員となってしまったのである。
そして彼は森木君・示野君らと部活を続けることになった、小生はというと、水泳部に入り、名前だけの新聞部部員?記事を書いたことは無い。
大学も同じ中央大学に進み、新聞部のOB会が時々神田すずらん通りのそばやの二階で、岩谷さんの落語を聞きながら、中城さん杉本さんらと食事をしたものである。
そして、社会人になり、岡林君は学習研究社入社、そして2.3年目くらいで社内結婚、
その披露パーティが会社の中で開催され、なぜか小生が招かれた、出席者には、新聞部のOBたちが参集していた。なぜか、必ず彼からお声がかかったのです。
彼の絵画は一種独特のもので、いつも小生の素人批評に対し、彼の制作の意図を十二分に聞かされたものである。
彼の新世界での進路を想像しながら・・・、ご冥福を祈ります。合掌
![]() 筆者近影 |
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岡林敏眞君の訃報を知らされた。彼のいつも憂いを深く秘めたような顔を思い出した。
晩年の彼は、公文教室を経営する良き配偶者に恵まれて、京都に落ち着いて「画柳会」の世話役となって夫婦睦まじく絵画に打ち込み、画題を求めて国内外をふたりで旅して歩き幸せそうであった。
彼の本領が発揮されたのは母校土佐中での入試不正を切っ掛けとする同盟休校のときであった。高校生の彼が学校経営陣に対する攻撃の先陣に立っていたとのことである。私のような高知でも片田舎から通学していた生徒にとって、丸で別世界の登場人物のように遠くから彼の活躍を眺めるばかりであった。
彼は、幕藩体制の地侍のように、不遇を深く秘めて能力一杯に羽ばたくことが許されない環境のもと、土佐高新聞部だけが彼の安住できる住み処であった。
土佐の地侍が幕末期に能力を発揮したように同盟休校に能力を発揮しながら、その後は、いろいろな企業、団体などで事務方、裏方に徹することで組織運営の中でなくてはならない人間に育っていった。彼の能力を認めて、組織運営に不可欠な人間に育て上げたのは新聞部の先輩、特に岩谷・中城氏らであり、彼が一生にわたって師事することになり、世話になりつづけた。新聞部(現プレスクラブ)こそは、彼が帰ることができる「実家」でありつづけた。彼が後輩の面倒をよく見たのは、後輩イコール実家の弟妹のような心情だからであった。大学時代の彼は、中野区「野方村」(漫画家手塚治のトキワ荘のような存在)が新聞部に代わった。そこには彼の兄(先輩)が居り、「(腹違いのような)兄弟」(同級生)が居り、「弟」(後輩)がいた。試験のときには、同じ学部で司法試験の受験勉強に専念していた私に何回か教わりに来た。彼はアルバイトにかなりの時間を取られていた。
野方村も、彼の逝去によって村民の1人が減り、限界集落のように段々寂しくなった。
![]() 筆者近影 |
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我が友の岡林敏眞君、普段は「オカバ」と呼んでいた君の突然の訃報を聞いてまだ間もないが、どれほど哀しんだことか。また君がそのような危険な状態だったことに気が付かずにいたと思うと恥ずかしくもある。
数日前、親友の一人濱崎洸一君から向陽プレスクラブのインターネット用の「追悼文」を書いてほしいと言われて一応承諾したものの、あまり真面目に向陽プレスクラブの参加していない自分がこれも恥ずかしくなる。
私の手元に向陽新聞の資料はほとんど皆無で、数枚の写真と卒業アルバム中のクラブ写真があるだけである。最も古いものが中学1年の時(1952年2月)のバラック建て校舎の正門付近で撮った写真で、諸先輩と一緒にオカバ、示野貞夫君、濱崎洸一君、浪越健夫君、池洌君、梅木栄純君たちと写っている写真、もう一枚は新聞部新年会のもので、学校の懇談室で西野歩先生を囲んだものである(1955年1月)。どの写真も古いものだが、これらの先輩、同輩と一緒に向陽新聞を発行しえたのは、君の大きな力があったことも思い出すことが出来るよ。
また、高校2年の頃だったと思うけれど、全国の高校新聞のコンテストで向陽新聞が優秀5校の1つに選ばれ、示野君と一緒に日光東照宮で表彰されたことも思い出のひとつである。
新聞の編集発行には、今は亡き岩谷清水大先輩、中城正堯先輩、横山禎夫先輩方々のご指導のもとで、君と楽しい新聞部生活を送らせてもらったことが懐かしく思い出される。
卒業後向陽プレスクラブを創設して会長として、長く後輩の指導にもあたってくれたことはクラブ全員の賞賛に値するものと思っている。
また、君が画家としても、素晴らしい才能があり、そのうちの一枚の油絵(F20号、イタリア、アッシジの街並を描いた絵で画柳会特別賞受賞)をわけてもらったものを我が家に飾ってあるが、改めてこれを眺めながら君を髣髴として思い出している。
思い出は尽きないが、そのうちに君に追いついて、蓮の台で語り合えることを夢見ているよ。それまで待っていてほしい。
※(アッシジはイタリア中部の都市で聖フランシスコの生誕地。名高い教会などがある美しい街という。)
![]() 弔辞を述べる武市功君 |
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土佐中6回生で、戦後土佐高教諭から、大阪に出て公文教育研究会を設立した公文公先生の奥様が逝去された。公文先生は、土佐中での個人別・能力別の自学自習を活かして公文式教育を考案、世界中に公文式教育を広めたが、二人三脚でこの教育法を育てたのが、禎子夫人であった。
禎子夫人の高知での新婚生活は、昭和20年からの1年と、22年からの5年間であったが、その間のエピソードを紹介し、加えて同級生(土佐高30回Oホーム)へのお別れ会報告文を添付する。
高知での公文禎子様
奈良で生まれ育った長井禎子様が、お見合いで公文先生と結婚されたのは、終戦間近の昭和20年3月で、先生は浦戸海軍航空隊教授であった。慣れない高知での新婚生活は、父と兄を亡くして一家の柱となっていた公文先生以外は女ばかりの家族との同居であった。しかも、先生は池(高知市)の航空隊に別居で、訪ねて行こうとしては道に迷って大変だったという。さらに7月には米軍の空襲にあい、たまたま帰省中だった先生と雨のように降りそそぐ焼夷弾の下を逃げまどい、衣笠(公文先生の母の実家・稲生)をめざした。住んでいた家は全焼であった。恐怖にさらされ、一首のうたもつくれなかったと述べている。
![]() 沖縄竹富島でのご夫妻(1990年11月) |
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戦後、先生はいったん奈良の天理中に勤務、昭和22年に高知に戻り、高知商業を経て、24年に母校土佐中・高教諭となり、3年後に大阪に出る。この間、禎子夫人には高知で思いがけない人物との再会があった。樟蔭女子専門学校時代に、短歌を教わった安部忠三先生が、22年にNHK高知放送局長として着任されたのだ。高知歌人会にも入会、短歌を再開される。この安部局長の長男・弥太郎さんが土佐中28回生で、新聞部の中心となって我々30回生を指導してくださった。後に、京大からNHK記者となって活躍された。
公文夫妻が大阪に出た同年に、安部局長も奈良局長に転任、そのお薦めで前川佐美雄先生が主宰する日本歌人社に入会、うたに励まれ昭和44年には日本歌人賞を受賞する。以来、パリやシルクロードを訪ねてはうたを詠み、平成10年には歌集『パステルカラー』を出版された。
禎子夫人は、短歌以外に美術への造詣も深く、自ら油絵もお描きになった。また読書家で、我々は土佐中時代にご夫妻が所蔵されていた『岩波文庫』などによって、本の世界に導いていただいた。秀才として知られた公文俊平・竹内靖雄両先輩も「公文文庫」を大いに活用しておられた。
3Oホームの皆様へ
![]() ご挨拶される新庄真帆子様 |
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6月21日に96歳でお亡くなりになった公文禎子先生「お別れの会」が、9月21日に大阪の公文教育会館で行われ、土佐中1年B組の浅岡建三、武市功両君と共に参列してきたので、その様子をご報告する。
公文式の生徒は、現在世界各国428万人に及ぶが、禎子夫人は公文教育研究会の創始者・公文公先生のご夫人にとどまらず、公文式教室の最初の指導者であり、教材開発・教室運営にともにたずさわってこられた。昭和42年から10年間は公文教育研究会の前身である大阪数学研究会社長、さらに「のびてゆく幼稚園」開園、公文会長亡き後は50回を越える講座を全国で開催し、公文の教育理念を伝えきた。「公文禎子先生 お別れの会」は、公文教育研究会の関係者のみに限定されたが、全国から元指導者・社員、現役指導者・社員あわせて500人を越える方々が集い、献花をしてお別れを惜しんだ。
花祭壇の御遺影に向かって、元社員代表として武市功君(元副社長)が、弔辞を述べた。「禎子様に最初にお目にかかったのは今から67年前、高知市内の御自宅でした。土佐中学で教え子だった私は、数学を習うため御自宅にお邪魔していました。」という出会いから、会社を設立したものの十年余は赤字で、「主人と二人で荷車を引いて参りました。主人が引いて私が押して、やっと坂を上がって参りました」という禎子夫人の回想談をまじえ、追悼した。
最後に、ご親族を代表してお嬢様の新庄真帆子様のご挨拶があった。強く印象に残っているのは、初期のご苦労「父の教材がご近所でも評判になり、母が指導者になって教室を開いた。私たち幼い三人の子どもを育てながらであり、買い物や食事の準備もそこそこに、一人ひとりにちょうどの教材を用意するのは大変だった。なにしろ当時は教材も全て手書きだったから」、であった。
新庄真帆子様には、3O一同これまでの公文先生ご夫妻の御恩が忘れられないことをお伝えした。2000年の大阪同窓会の際に久武慶蔵君が公文公記念館で倒れたが、奥様の看病のお陰で大事に至らなかった事や、「うきぐも」発刊へのご協力に感謝していることを申上げた。また、今後一周忌の墓参など、教え子も参加出来る法事があれば、クラス代表が参列したいとの希望をお伝えした。真帆子様からは、高野(野口)さんか小生に連絡するとのお返事をいただいた。
帰りの新幹線で、公文先生亡き後に禎子夫人がはにかんだ表情で漏らされた、若きお二人のいわばデート時代の思い出話が甦った。「奈良での見合いで婚約が決まりました。私は阪大工学部の研究室に勤務していましたが、ときおり夕方に公文が訪ねて来て、私が出て来るのを、外でじっと待ってくれていました」。
![]() 故 笹岡峰夫氏 2016.06.04 |
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既にMail網でご報告致しましたが、本会会員で弁護士の笹岡峰夫氏が、去る9月21日、ご自宅で急逝されました。前夜まで飲み歩いていて、翌朝、脳内出血を起こし、そのまま御他界されたとのことです。心より哀悼の意を表しますとともに、残されたご家族の皆様方にはお悔やみを申し上げます。
通夜、葬儀は9月27日、28日、上落合の最勝寺壇信徒会館で行われ、交友の広さを表すかのように、会場に入りきれないほどの大勢の参列者が集まり、生前の彼の仁徳を偲びました。尚、式は無宗教で、親友の能演出家・笠井賢一氏(42回生)のプロデュースで執り行われ、能管の音と朗読で始まり、最後は全員が遺影の前に花を手向けて終わりました。とても厳粛で美しい式でした。心よりご冥福を祈ります。
実を言うと、彼が途中で一年留年したこともあって、土佐校時代はあまり親しくはありませんでした。私が高1で受験勉強に専念???するために編集長を辞めた後、生徒会活動仲間の西内正氣氏(42回生)と(二人とも会長経験者)隣の新聞部部室に転がり込んで来て大きな顔をしていたのを、丁稚(中学)からたたき上げた苦労人としては、苦々しく思っていました。
しかも、こともあろうに新聞部の商売敵のような生徒会広報誌『翌桧』を発刊するなど(幸いにして彼が会長であった間の2号ノミ)言語道断な行為をしてのけて、もはや天敵以外の何者でもありませんでした。そんな訳?で、部室にも寄り付かなくなり、2年間はマドンナの尻を追っかけるのに忙しく彼と話す機会は殆どありませんでした。
![]() 同じ日の筆者近影 |
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再び、彼と交友が始まったのは事務所を開いて仕事欲しさに関東支部同窓会に出席し始めた頃、宴席で『お前のヨメサン知ってるよ』と声をかけてきたのがキッカケです。当時、彼は弁護士になって『旬報法律事務所』という労働問題専門の事務所に所属していて、訟務検事(国の法廷代理人)をしていた連れ合いを知っているということでした。「そんな左系の活動をしているとは、昔の正義感はちっとも変っていないなあ」と感心したものです。
後に、独立して『けやき法律事務所』を開設してからは『悪徳弁護士の笹岡です』とうそぶいていましたが、一種の照れ隠しだったと思います。本質は変わっていないと思いました。
その後、42回の同期会に必ずと言っていいほど出席するようになり、2次会、3次会と盃を交わして(二人とも升々いける口)終電に間に合わないことも何度かありました。とにかく、明るい酒でこちらを楽しくさせてくれました。また、律儀に年賀状と暑中見舞いをくれて、時折々の話題やら思い出を長々書いて来てくれました。とても文章が上手で、論点もしっかりしていて、さすが文系の元新聞部と見直しました。こちらが理系に進み、ちゃんとした文章が書けなくなって機械に頼って写真で済ましているのを恥ずかしく感じていました。
お通夜のなおらいではナンテン(皿鉢料理で最後に残るもの)になり、土佐から取り寄せた皿鉢料理とお酒(土佐鶴)を堪能させてもらいました。ありがとう。本当は2次会に連れ出したかったのですが……。合掌。
●次は我が身と感じるようになって、香典の損得勘定をしています。悪い奴ほど長生きすると言われているので、取り返せないかもしれません。みなさん、どうか長生きして黒字化にご協力下さい。
葬儀で朗読をして下さった坪井美香さん(俳優)から次のご案内をいただきました。おっかけをしていた彼に何度か誘われて公演に行って、打ち上げ会にも参加させてもらいました。彼を偲んで、是非ご覧になってください。
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![]() 11月23日 求道会館 『言葉の海へ』 ¥3,500 |
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雨続き、災害続きの九月が過ぎ、太陽の恵みが戻ってくれますよう、月の美しい秋となりますよう、願うばかりの今日この頃です。みなさまお元気でいらつしやいますか?
秋の公演のお知らせをさせていただきます。1011年より作家高田宏の作品を語るシリーズを続けて参りましたが、昨年11月14日、最後の旅立ちをなさいました。還ることのない片道の旅の空は、どんなでしょうか。
名編集者から作家へ。気骨ある生き様を貫いた人々の評伝や、自然、災害、旅、猫などをテーマに綴るエッセイ、小説。忘れられてはならない作品を数多く残された高田先生の一周忌追悼に、『言葉の海へ』を上演致します。
幕末から明治にかけ、鎖国からいきなり世界と対峙せざるを得なくなった日本にとって、それまでになかった国語辞書は独立を保って生き抜くための必然であり、辞書作りは国作りでもありました。明確で誤解のない「言葉」や「文法」
![]() 10月28日 青蛾ギャラリー 『語りと笛の会』 \3,000 |
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を確立することは急務で、外国の言葉や概念を理解するためにも、こちらから何かを主張するにも、以心伝心、などと言ってはいられません。にもかかわらず、国家プロジェクトとして始めた辞書作りは、結局、苦難を極めた17年という歳月をかけて『言海』を出版した大槻文彦に丸投げされました。今も昔も、国家というもの、かくありき!
仙台在住の俳優・茅根利安さんと共に、作品ゆかりの東京と仙台で上演します。音楽は、ピアノと語りで一緒に楽しい試みを続けてきた黒田京子さんです。初演を見てくださったお客様もたくさんいらっしゃると思いますが、台本も演出も練り上げて大幅に改定、さらに、会場である求道会館の建築がまさに文彦の活躍した時代と重なり、新たな作品世界を楽しんでいただけると思います。
是非ご覧ください。心よりお待ちしております。
11月15日までにご予約、お振込頂いた方にはチケットを送らせていただきますので、よろしくお願いいたします。
![]() 産経新聞 2016.10.23 |
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此度、私たちは新作能『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』を本年11月にポーランドと日本で上演いたします。
2011年にショパン生誕250年を記念して日本ポーランド国際共同企画として新作能『調律師−ショパンの能』が上演されました。私たちはその上演のためにたびたびポーランドを訪れました。前々から関心をもっていました、アウシュヴィッツ博物館を作者のヤドヴィガ・ロドヴィッチさんに案内していただきました。そのとき、鎮魂の芸能といわれる「能」でこそ「アウシュヴィッツ」の死者への鎮魂がなされるべきだという思いを深くしました。当時取り組んでいた『調律師−ショパンの能』がショパンの生涯への鎮魂の祈りの能であったことも影響しています。そのことをヤドヴィガさんにお話しすると、彼女にはアチュウという名の叔父さんで、1942年にアウシュヴィッツで政治犯として獄死された方がいらっしたのです。それで一気にこの新作能が構想され書きあげられました。それに加え、日本で2011年2月に「調律師−ショパンの能」が上演された直後の3月11日、あの未曾有の東日本大震災が起き、津波の被害に加え原発事故の被害も発生、世界に衝撃を与えました。 当時ヤドヴガ・ロドヴィッチさんは駐日全権ポーランド大使として在任中で、ポーランドと日本との歴史的に長い民間レベルでの友好関係をふまえ、東北の子供を夏休みに受け入れたり、被災地を訪れ支援に力を尽くされました。
![]() 『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』 |
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そして翌年の2012年の皇居の「歌会始め」に大使として招かれ、そこで天皇皇后両陛下の御詠「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」と「帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず」の和歌に深く心動かされ、『鎮魂』にこの和歌を取り入れ、新作能を完成させたのでした。
万葉集以来、和歌が生きとし生けるものの命を慈しみ癒すという伝統の上に立ち、両陛下が新しい時代の象徴天皇制のなかで努められた数々の慰霊の行動と、培われてきたお人柄が余すことなく表現された鎮魂の和歌です。この和歌を能『鎮魂』の芯としてテーマをになう歌として取り入れたヤドヴガ・ロドヴィッチさんの意を汲み、節付・作舞も演出も、ともにこの優れた和歌を、鎮魂の芸能である能の要として創っています。こうした私たちの思いをこめて両陛下に日本公演へのご招待状をお送りし、ご高覧頂く事になりました。
![]() 2016.11.14(月)18:30 渋谷区千駄ヶ谷『国立能楽堂』 A:\10,000 B:\8,000 C:\6,000 |
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11月1日のアウシュヴィッツの教会で奉納、さらに11月4日、5日にEU文化首都ブロツワフでのシアター・オリンピックでの公演、そしてこの日本公演によって、世界に向けて和歌の力が発揮され、能が鎮魂の芸能であることを感動とともに理解してもらえると確信しています。これは誇るべきことだと思っています。
私たちは2年前にはポーランドのクラクフのマンガセンターとカトヴィッチの劇場で能の一部を上演し、数年にわたって新作能『鎮魂』を育んできました。それがいよいよ公演の時を迎えます。日本を代表する芸能である能が、現代の課題、アウシュヴィッツとフクシマという今日の私たちの世界が抱える課題に取り組みます。是非ご高覧頂きたくご案内致します。
この公演の収益の一部はポーランド公演の経費に当てられます。できるだけ多くの方にご覧いただき、日本とポーランドの文化交流の長い歴史を土壌に実を結んだ、さらには作者のヤドヴィガさんが日本に留学し能の実技を先代銕之丞に学んだ、長い文化交流の歴史の結晶であるこの公演を成功させていただけるようにお願い申し上げます。
![]() モロッコ地図(「旅のともZenTech」より) |
![]() 筆者近影 |
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深夜に関西国際空港を出発したエミレーツ航空317便(ボーイング777-300型)は、約11時間10分の飛行で、現地時間午前5時45分にドバイ国際空港に到着した。2時間後の午前7時45分にエミレール航空751便に乗り継ぎ、更に8時間45分を飛行して、現地時間(モロッコ)で昼の12時30分にカザブランカのムハンマド5世国際空港に到着した。待ち合わせの時間を入れると、日本出発後22時間もの時間を要してモロッコに着いたことになる。これがヨーロッパ経由の便、例えばパリ経由などだと大幅に早くモロッコへは到着出来るが、エミレーツ航空にして往復利用をすると、格段に安い割引にて旅行が出来る。安いとは言え、機内サービス、機内食、安全性は、日系、欧州系航空会社に勝るとも劣ることはない。機材も最新のものを導入しており、安かろう悪かろうでないことは、カタール航空なども同様であり、私の数多い海外渡航経験からしても誇張でなはない内容を伴う会社である。ただ、少し難点があるとすれば、日本とモロッコには直行便が無いので辛抱するしか致し方がない。長時間の移動となるわけである。(写真@=エミレーツ航空)
今回の旅の目的は、モロッコのすべての世界遺産を見学することと、モロッコ各地の幻想的な都市の見物である。今回は2回目のモロッコ訪問で、前回は前述のカタール航空を利用してモロッコへ入ったが、経由地がドーハであること以外に飛行時間は大差がない。さて、マグレブとは、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国の呼称であって、アラビア語で「日の没するところ」を意味する。そのため、ムスリムの義務である1日5回の拝礼のうちの日没時の礼拝を指す言葉でもある。
作家の四方田犬彦さんの著作に「モロッコ流謫」というモロッコ紀行の名著があるが、他国の作家や映画人、文化人などを引きつけてやまぬ幻想の世界の色彩をこの国は古くから持っているように思うのは、私一人ではなかろう。モロッコの世界遺産としては、ユネスコへの登録順に、@フェズ旧市街(1981年、)Aマラケシュ旧市街(1985年)、Bアイット・ベン・ハドゥの集落(1987年)、C古都メクネス(1996年)、Dヴォルビリスの遺跡(1997年)、Eティトゥアン旧市街(1997年)、Fエッサウィラのメディナ(2001年)、Gアルジャジーダのポルトガル都市(2004年)、H近代と歴史的都市の両面を持つラバト(2012年)がある。どれをみても魅力あふれる文化遺産と自然遺産である。これらの場所を巡る旅に参加をした紀行である。
カサブランカに到着したのは、2011年12月2日のことであった。入国手続きを終えると、昼食を市内のレストランで済ませ、その後、大西洋沿いに道を北東に取り、約90キロ走って、1時間30分程度で午後4時過ぎに首都ラバトのホテルに到着した。12月1日深夜に日本を出発して、12月2日にラバトに到着したのである。日本とモロッコの時差は9時間あるので、日本時間では12月3日午前1時である。まるまる24時間以上もかかって日本から到着したわけだ。宿泊するホテルはベレールホテル・ラバトで、4つ星クラスとはいえ、立地の良さが売り物の、中クラスのホテルである。ラバトは、カサブランカには商業や人口で大きく劣っているが、行政上では首都であり、「庭園都市」の名の如くしっとりと落ち着いた街である。日本の大使館もこの街に在り、人口約65万人、都市圏を含めると185万人である。ラバトとは「城壁都市」の意味であり、2012年に世界遺産に登録されている。
今回の旅行の目的の一つは、滞在する都市の超一流ホテルの視察である。旅行評論家として、これは私のどの旅でも目的の一つである。(ちなみに、私はほぼ全世界にわたり約500回の海外渡航をしている)。さっそく夕食後、ラバトの超一流ホテルの一つであるラトゥルアッサンを訪ね、部屋やレストランをホテルの係員の案内で見せてもらった。素晴らしいホテルである。(写真A=ホテル・ラトゥルアッサン)
12月のラバトは雨が多いらしく、今日は最高気温が17度、最低気温は7度であった。到着したカサブランカの空港から終日、雨が降ったり止んだりの天気であった。
旅行3日目、12月3日は、昨日と打って変って朝から晴天となった。この日以後ずっと旅行中の天気は良かった。今日の予定は、午前中にラバトを代表する「モハメッド5世廟」(写真B=ムハンマド5世廟ともいう)を見物し、その後、ムーア様式の代表的建築である「ハッサンの塔」を予定通りに見学した。約300キロを5時間ほどバスで北東方向に走り、世界遺産のティトゥアンを観光、更に約60キロ北へ向かい、ジブラルタル海峡とイベリア半島を望む街タンジェを目指した。バスでかなりハードな旅であった。順を追って見物箇所を列記すると、午前8時にラバトのホテルを出発するために、午前6時に呼び起こしの電話が鳴り、午前7時には定番のアメリカン・ブレックファストをとり、定刻8時に出発して、ラバトの世界遺産であるムハンマド5世霊廟(モロッコをフランスからの独立に導き1961年に没した前国王ムハンマド5世の廟で、1973年に完成)を見学した。廟の内部は撮影が可能である。これを終えて、道をはさんですぐにある、これも世界遺産ハッサンの塔を見学した。これは未完の尖塔(ミナレット)で、ヤークブ・マンスール王によって12世紀末に建築された。高さが44メートルもあるが、彼の死によって中断された。モロッコにおけるムーア形式の代表的な建造物である(写真4)。
午前中に見学を終え、早めに昼食をとって次の目的地ティトゥアンへ向い、約4時間30分位で到着した。この街もモロッコの世界遺産に登録されている。ざっと説明をすれば、街の中心に在るハッサン2世広場から、西に新市街、東にはメディナがあって、かつてはスペイン領になったこともあり南スペインの雰囲気が強く、人口約46万人の街である。着いてすぐに新市街のムーレイ・メフディ広場を中心に見学、続いて旧市街にある王宮とスーク(=市場。貴金属のスーク、陶器のスーク、食料品のスーク、衣料や革製品のスークなど狭い地域の旧市街の中でそれぞれ独立したスークがある)を見物した。カリファ王宮は17世紀に建てられた歴史的建物であり、イベリア半島のアルハンブラ宮殿に代表されるムーア風の、モロッコにおける最も顕著な建造物として有名である。
ティトゥアンを見物した後、西北約60キロにあるタンジェの街に向かい、夕方遅くまでかけてタンジェの街を見物した。日本ではタンジールとも呼ばれている街だ。人口は100万人近く、ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインからのフェリーも多く入港している。前15世紀にはフェニキアの交易港として既に栄え、カルタゴやローマ、ビザンチンなど、その時々に支配者が変わった非常に歴史の古い街である。
次回はタンジェの街の説明から始めよう。(第二回に続く)
(註)筆者プロフィール:昭和29年土佐中入学、高二の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、JTBOB会員、神戸市在住。
![]() 写真1 エミレーツ航空B777-300(最新鋭) |
![]() 写真2 ラバトのラトゥルアッサンホテル |
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![]() 写真3 ラバトのモハメッド5世廟入口 |
![]() 写真4 ラバトのハッサンの塔 |
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2016年ももう過ぎ行こうとしています。皆様いかがお過ごしでしょうか。
先月末に『言葉の海へ』の東京・仙台公演を無事終え、上演を重ねて作品を育
てていきたいとの思いが深まりました。ご観劇くださったみなさま、本当にあ
りがとうございました。
![]() 2017/01/26,27 19:00開演 (開場18:30) \4,500 |
![]() 銕仙会能楽研修所 (港区南青山4-21-9)03-3401-2285 |
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引き続いて『死者の書』公演のご案内をさせていただきます。2014年の
初演以来、再演を目指して試行錯誤を続け、今春には原作の全文を語るという
暴挙(?)にも出ました。まったく、なんともやっかいでしかも底知れぬ魅力
を秘めた小説です。創作意欲をそそる圧倒的な力に引きずり込まれるように、
映画、人形、舞踏など、これまでに数多くの才能たちによる試みがなされてき
ています。では、私たちならではの表現は一体どこに向かうのか。
この度、能舞台で、しかも初演は声のみの出演であった観世銕之丞氏の出演
を得て、上演させていただく運びとなりました。折口信夫の不可思議な物語世
界が、橘政愛氏、設楽瞬山氏の奏でる音楽と共に、語り部によって仕組まれ、
立ち現れる銕之丞氏と我ら語り部三人の声、言葉、身体を交錯させつつ、
生も死も、夢もうつつも、時も空間も自在に行き来する、独自の『死者の書』
を創り出します。
ぜひ、お立会いください。お待ちしております。
![]() モロッコ地図 |
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タンジェでは、メディナの中にあるプチソッコ(小さな広場の意)を訪れ、そこから歩いてグラン・モスクの外観を見(ムスリム以外は入れないので)、更に進み展望台へ出てタンジェ湾とジブラルタル海峡とイベリア半島を望見した。ヨーロッパ大陸が目前にあることが不思議に思える場所である。
![]() タンジェよりイベリア半島を望む |
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一旦、宿泊するホテル「タンジェ・インターコンチネンタルホテル」へ戻った。御大層な名前で四つ星クラスにランクされているが、日本でのビジネスクラスのようなホテルであり、街の中での交通の便が良いのが利点のホテルであった。ホテルで夕食をとり、これも目的である、タンジェ一番と言われる有名ホテル「ホテル・エル・ミンザ」を訪れた。1930年に建造されたスペイン様式とムーア様式の混合インテリアで、係員から部屋を見せてもらったが、素晴らしいインテリアの数々であった。普通の部屋(ダブルベッド)で約2300から2500ディルハム(DH、1DHは約12円)くらいとのことであった。2時間ほどホテルのバーで過ごしたが、こちらも居心地の良いバーであった。
![]() ホテル・エル・ミンザ内部 |
![]() 同じホテルのバーにて |
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旅行4日目の12月4日は、朝8時にタンジェのホテルを出発して約3時間をかけて南下、シャウエンに到着した。山に囲まれた小さな街で人口も約4万人弱と少ないが、家々の外壁や屋根瓦を青い色で塗って、街全体がまるで幻想的な絵のようである。タンジェからは内陸に入った、リーフ地方の山中の街である。1920年にスペインはこの街をスペイン領モロッコとしたが、1956年モロッコの独立によりモロッコに復した。従ってスペイン語を話す人も多い。まだまだ日本人観光客も少なく(2011年現在)、専らヨーロッパからの観光客が多い。人工の割にはホテルも多くある。この日の昼食は街を見おろす山上の「レストラン・アントス・シャウエン」でたべたが、料理は何のことはなかったものの、その絶景に目を奪われた。昼食を含めて約3時間、シャウエンの旧市街の青い街並みを見物した。まるで青の世界の眺望であった。
この日は、次の目的地ヴォルビリスへ向った。午後に、リフ山脈を越えて、ヴォルビリス遺跡とメクネスの2か所の世界遺産を見物、宿泊地のフェズへ向った。このコースは超ハードなバスの旅であり、上記2か所の世界遺産をゆっくり見るには少しきつかった。(帰国後、スケジュールを作成した旅行会社には旅程の変更を助言しておいた。)メクネスの北方30キロメートルにあるヴォルビリスの遺跡はモロッコを代表する古代ローマ遺跡であり、約2時間しか時間がなかったが、夕日に輝くカラカラ帝の凱旋門とフォーラム、ベシリカ礼拝堂その他を見学した。古代ローマ帝国の西端に位置するモロッコに現存する遺跡として、保存状態が極めて良いことで知られている。これも世界遺産に登録されている。
![]() 青の街シャウエンの街角 |
![]() ヴォルビリスの古代ローマ遺跡 |
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次にメクネスに入ったのは午後6時近くになっており、この世界遺産登録の街ではマンスール門しか見ることができなかった。これは非常に残念なことであり、前回訪問時にマンスールをゆっくり見ていた私にとってはよかったが、この旅程作成は失敗である。マンスールの街には、これ以外にも素晴らしい見学箇所が沢山あるからである。この門は王都へのメインゲートとして有名な門であり、メクネスの象徴として、この街のランドマークである。ムーレイ・イスマイル王が手がけた最後の建造物としても有名である。
4日目の宿泊地フェズまで約60キロメートルを約1時間で走破してフェズ・インというホテルに夕刻遅くに到着した。このホテルは、まったく三ツ星クラスにも届かぬ位のホテルで、旧市街にも遠くあまり交通の便も良くなかったし、新市街の外れに位置していた。部屋の浴室の湯が出ず、暖房もきかない散々なホテルであった。(これも旅行後に、もう少し良いホテルを確保すべきであろうと旅行会社に助言した。)但し、このホテルのフロントデスクの女性スタッフは親切で、こちらの問いにも適切な助言を与えてくれてありがたかった。このホテルで夕食を済ませて、街で最高のホテルと宣伝されている「パレジャメイホテル」を見学に出かけた。超一流ホテルを各地で訪ねる訳で、失礼にならない程度に服装を整えるのは一寸だけ面倒である。ホテルにもピンからキリまであるので、宿泊しているホテルに比較すれば本当に雲泥の差がある。豪勢なホテルである。フェズ・エル・バリの北端に立地し、夜遅く訪ねたにもかかわらず、目的を告げると係員が親切に対応してくれて、ホテル内の各所を案内してくれた。時間とお金に余裕のある方には絶対におすすめできるホテルだ。高台にあり、フェズの街を見おろす眺望が素晴らしいホテルである。
![]() メクネスの象徴マンスール門 |
![]() フェズのパレジャメイホテルにて |
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旅の5日目は、フェズで連泊をする為、身軽な服装と持ち物で、終日世界遺産の街フェズを観光した。フェズ市内定番の1日観光のコースである。午前中に王宮(フェズでの国王の滞在王宮)から、ユダヤ人街のメッラー、フェズジャディド通りを歩いて観光した。土産物品や日用品などを売る小さな店が密集している場所をくぐりぬけるように通ってバスに戻り、フェズで最大の庭園で噴水池などがあり2011年にリニューアルした美しい庭園を見物後、すぐ近くにあるレストランで、これも定番料理のチキンレモンのタジンを食した。その後、午後のコースは、楽しみにしていたマリーン朝の墓地を見物した後、ブーシェルード門へ向い、世界一の迷路と言われる、フェズのメディナへ入った。ガイドが居ないとどこをどう歩いたかもわからない小路や街路を、ゆっくりと2時間ほど散策した。カラウィンのモスクや、又、タンネリ、スーク、ダッバーギーンも楽しみ、パプーシュという名物の履物を購入した。パプーシュは、所謂、先端が尖ったスリッパであり、土産品として喜ばれる。皮なめし工場はフェズで有名であり、見物をしたが、その強烈な臭気と、そこで働いている人の、劣悪であろう労働ぶりにびっくりした。
![]() 世界遺産フェズ市街を俯瞰 |
![]() フェズの皮なめし工場 |
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旅の6日目は、フェズを出発して、モロッコを東西に走るアトラス山脈を越え、雄大な山並みや、荒涼とした砂漠、点在する緑豊かなオアシスなどを眺めながら、約450キロメートルを南下して、約8時間半をかけ6日目の宿泊地エルフードに向かうコースである。先ず、アズルーの街へ向かった。現地人ベルベル人の居住する街で、アズルーはベルベル語で岩を意味する。ここは岩山が多く、又、街のランドマークは、市庁舎近くのグラン・モスクである。バスの車窓から風景を楽しみながら、ミテルドの街へと進む。この街はモロッコでも高山に位置づけられている。雪におおわれたアヤシ山の麓にあって、都市部であるフェズや、エルフードなどの砂漠部の中間に位置している。朝9時頃にフェズのホテルを出発して、特に見物する場所もなく、モロッコの大自然を車窓より楽しみながら、午後5時半頃、メルズーカ大砂漠への入り口の街エルフードに到着した。エルフードのホテルは「リアドサラーム」というこの辺では中級のホテルで、早朝にメルズーカの砂漠の朝日を鑑賞するために宿泊するホテルと考えれば、辛抱出来るクラスのホテルである。日本人をはじめグループのツアー客が多く、それなりに客扱いには慣れているが、建物が古くて広く、自分の部屋にたどりつくまで時間がかかり、備品も古く、食事もあまりよくなかった。(以下次号)
マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)![]() モロッコ地図 |
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エルフードのホテルの周囲にはショッピングエリアなども無く、とにかく寝るだけのホテルであったが、地域柄仕方がないと思う。この辺は、安宿は治安が悪く、我々の宿泊したホテルは安全で安心なホテルだと、現地ガイドは言っていた。
旅の7日目は、早朝4時半に呼び起こしの電話が鳴り、メルズーカ大砂漠の朝日の昇るのを砂漠の中で見るツアーに、朝食抜きで、朝5時に出発した。まだ外は暗闇である。舗装がされていない悪路を約50キロメートルを4WD車で走り、6時前に駐車場に着き、大砂漠を見物した(写真@)。メルズーカ砂漠は、アフリカ大陸北部に広がるサハラ砂漠地帯の一つで、サハラとは「荒れた土地」の意味とのことだ。到着した6時頃も周囲はまだ闇であった。現地ガイドの案内でラクダや砂漠案内人の屯する場所へ移動した。
有料のラクダに乗って観光するか、歩いて砂漠の日の出の見える場所まで行くか聞かれたので、徒歩での時間を聞くと、片道約30分とのことなので歩くことにした。ラクダを先頭に一行が歩いた。すぐに砂漠に入る。驚くほど、砂漠は眼前から始まっていた。足首までつかるような細い砂を歩くこと約30分、うっすらと夜が明け始めた。ここから朝日を眺めるとガイドが言って、焚火をもやし始めた。少し寒いので暖を取っていると朝焼けが起こり、一斉に周囲が見えてきた。見渡す限り砂の波のような重なりの彼方より、日が昇ってきた。本当に感動的な風景で(写真A)、皆が一斉にシャッターを切っていた。鳥取砂丘も美しいが、比較が出来ない程の砂丘の大きさと途方もない迫力である。これもごくサハラ砂漠の一部でしかないと聞かされると、感動するしかない風景であった。
![]() 写真@ 夜明け前のメルズーカ大砂漠にて |
![]() 写真A 大砂漠の日の出 |
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見物を終え、同じ道をホテル迄引き返し、朝食をすませて、今日はワルザザートへ向う。西へ約360キロメートル、バスで約6時間30分の行程である。今日の車窓からも、モロッコを代表する景色が展開すると、現地ガイドがお国自慢をする。余談になるが、早朝の砂漠観光で、デジカメで写真撮影の際にシャッターに微小な砂漠の砂が入り、写真撮影が出来なくなったが、予備で持参したもう一台のデジカメに切り換えた。この辺は、私自身の経験から生みだした知恵である。すぐにカメラや予備の電池は手に入らない。海外旅行の際には予備が全てに必要である。
![]() 写真B トドラ峡谷の断崖 |
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7日目はワルザザードへ向かう旅であるが、先ずバスはティネリールへと向かう。人口は4万人弱の小さな街である。ベルベル人の街である。今日のコースは変化に富んだコースで、「カスバ街道」と呼ばれ、土レンガで造られた大小のカスバを見ることが出来る。カスバとは城壁で囲まれた要塞のことである。そしてまた、途中のトドラ川の水を利用した街道一の美しい緑の映える、トドラ峡谷のオアシスがあり、土色のカスバと緑のオアシスとのコントラストが誠に美しい。このコースの途中には200メートルの切り立つ断崖が続く。モロッコのグランドキャニオンと呼ばれるトドラ峡谷(写真B)へ立ち寄り、ここで昼食をとった。ティネリールの街から、トドラ川の方へ向かいトドラ峡谷に入る。この峡谷はカスバ街道一の景勝地でもある。峡谷に立つ絶壁は、ヨーロッパのロッククライマーの聖地の一つに数えられている。絶壁にへばりつくように、レストランとホテルマンスールという安宿があり、このホテルで昼食をとった。料理は名物のクスクスであった。絶景をバックに写真を撮るのだが、とても岩山全体は人物を小さくとらないと撮れない途方もない大きさである。ホテルの前は美しい川が流れていて、景色が非常に美しい。昼食後、ダデス谷の村々の中で有名なエル・ゲル・ムグナの村を訪ねた。バラで有名な村で、バラ水(ローズ・ウォーター)を買ったが、バラの花自体は春で無いと見られないとのこと。花の時期にはバラ祭り(5月の第1週目の週末)が開かれ、その為に貸切バスが沢山訪れるとのことであった。
タデス川沿いにバスは更に西へ走り、ワルザザートのホテルに午後5時半頃に到着した。宿泊したホテルは、フアラージャノブホテルであった。四ツ星に登録されているが、実際には三ツ星クラスの程度で、安心して宿泊できるのが売り物の、ビジネスクラスのホテルである。ワルザザートは、アトラス山脈の南に位置し、ドアラ川のオアシス都市であり、モロッコでのサハラ砂漠観光の入口でもある。標高千百メートル位に位置し、人口は約6万弱である。今日7日目のコースは、早朝から大変きつい行程であった。
7日目の夕食を済ませ、今夜もワルザザートの超一流ホテルの探訪に出かけた。いわずと知れた、ベルベルパレスホテルである。5ツ星クラスとして有名であり、ワルザザート近郊で撮影された映画の出演スターは全てがこのホテルに宿泊しており、その主演映画のポスター等がホテル内に展示されていた。親切なスタッフによって館内を案内されたが、南モロッコ地方で随一のホテルだと自慢をしていた。プロの私の眼からもそれが理解できた。しかし常時、こんな場所でも宿泊客があり、高い料金を支払って宿泊する客は欧米系の客であろう。
![]() 写真C アイド・ベン・ハッドウの要塞 |
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旅の8日目は、ワルザザートを朝の9時に出発して、世界遺産のアイド・ベン・ハッドウを観光した後、北へ向かい、オートアトラス山脈を越えて170キロメートル、約4時間をかけて、マラケシュへ向かうバス旅である。順を追って訪ねた場所を述べてみよう。今日も天気が良く、見物場所も大変特長のある場所だった。
アイド・ベン・ハッドウは、ワルザザードの西方約32キロメートルにあり、バスだと約30分で到着する。(写真C)古いクサル(要塞化した村)であり、世界遺産に登録された日干しレンガの建物群である(写真D)。ここは映画のロケ地としても過去何作にも使用された場所で、「アラビアのロレンス」や「ソドムとゴモラ」等々の他沢山の映画に使われている。今日の観光地の中でも圧巻の地である。1時間半程度徒歩で見て回り、いよいよオートアトラス山脈を進みマラケシュへ向かったが、途中まだ雪の残った山道を行き、標高2260メートルのティシュカ峠(写真E)を越えた。砂漠側のワルザザートと内陸南部の都市マラケシュとのオートアトラス山脈の分水嶺の峠である。ワルザザートからマラケシュへの道は人気のあるルートで道も舗装されており、車も多くはないが、そこそこの通行量はある。とにかく景色が雄大である。峠を下ると、タデルトの村に入り、休憩をとった。小集落であるが、難路を越えた旅人がやっと一息つける村である。朝9時にホテルを出発して、午後の3時過にマラケシュのホテルに旅装を解いた。マラケシュのホテルはアミンホテルという三ツ星クラスの大型ホテルで、新市街に位置し、日本人旅行者もよく利用するホテルである。マラケシュでは2連泊をする。部屋は古めかしい部屋であるが、浴室の湯が十分に出るのが、疲れた体には何よりである。
![]() 写真D 日干しレンガの建物群 |
![]() 写真E ティシュカ峠の標識 |
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![]() 写真F 騎馬軍団のショー(マラケシュ) |
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マラケシュの旧市街は、多くの街と違って、地元の赤土を使った建物が多く、建物を薄い赤色に塗ることが条例で定められており、複雑に入り組んだメディナの路地は、ピンク色の迷路である。人はマラケシュ旧市街を「ピンクシティ」と呼ぶほどである。1985年に世界遺産に登録された街を巡ることになる。到着した夕刻に、夕食を兼ねて、この街で有名な騎馬軍団によるファンタジアショーの見物をした。有名なショーで、世界各国からの観光客が、夕食をした後に、ショーを行う広場を囲み勇壮な騎馬軍団のショーを見物した。(写真F)
(以下次号)
![]() モロッコ地図 |
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旅の9日目はマラケシュの終日観光である。最初メラナ庭園を訪れた。広い庭と大きな池を有する庭園で12世紀のムワッヒド朝につくられた。庭に植えられた草花や樹々が美しい。その後、バヒア宮殿を見物した。部屋の豪華さと、各部屋を仕切るアーチの形にもこだわりがあって、19世紀後半の、当時の大宰相の私邸から往時の豪華さが想像出来る建物である。その後、サアード朝の墳墓群を見学した。第一、第二、第三の部屋に分かれており、サアード朝(1549年−1659年)の代々のスルタンが葬られている(写真1)。
9日目の午後は、モロッコらしさが凝縮した、ジャマ・エル・フナ広場を訪ねた。夕刻まで自由時間の為に、広場を中心に周辺のスーパーマーケットも見物した。現地の人が「ジャマ」と呼ぶ広場には、ありとあらゆる屋台が集まり、熱気の渦が巻いている(写真2)。広場は旧市街にあり、11世紀後半にマラケシュに首都があった頃にも、すでに街の中心であったし、古くからモロッコの観光名所として有名である。2009年9月に世界遺産に遅まきながら指定されている。私は、自由時間に広場に面したレストランで昼食をとり、ゆっくりと広場を観察した。又、屋台でしぼりたてのジュースを飲んだり大道芸の雑芸(チップを要求されるので、小銭を用意しておいたが)を楽しんだり、十分に広場の雰囲気を楽しんだ。その後、ホテルへ一度戻った後、マラケシュで有名なホテル・マ・ラマムーニアを訪ねた(写真3)。宮殿ホテルであり、18世紀の建築で、これこそ五ツ星にふさわしい超一流ホテルである(写真4)。日本の近代的ホテルと違って、モロッコの伝統的建築様式である。この日も遅く宿泊先のホテルに帰り、マラケシュの2日間を終了した。
![]() 写真1 サアード朝の墳墓群 |
![]() 写真2 夜のジャマ・エル・フナ広場 |
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![]() 写真3、写真4 マラケシュの五ッ星 |
![]() 「ホテル・マ・ラマムーニア」内部 |
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旅も10日目を迎えたが、到着日に降雨があって以来ずっと晴天が続いている。旅の空は晴天が何よりのプレゼントと言える。マラケシュのホテルを午前8時に出発して、エッサ・ウィラへ向かう。マラケシュから西へ約174キロメートル、時間にして約3時間半のバス旅である。訪ねた街エッサ・ウィラも世界遺産に登録されている。紀元前800年ごろのフェニキア時代には既に港町として栄えており、歴史が古く、世界中から観光客が訪れるモロッコを代表する観光地の一つである。ポルトガル時代の城壁が旧市街のメディナを囲んでいて、私はスカラの北稜堡の展望台へ行き、この街のメディナとカスバと海を眺めた。スカラは絶壁に突き出した城壁であり見張り台となっていて、ずらりと大砲が並んでいる(写真5)。見物後、ムーレイ・エル・ハッサン広場に戻り、この街一番のにぎやかな広場のレストランで昼食をとった。この街はモロッコ人が国内で一番訪れたい街だということである。この街で有名な土産物は、アルガンオイルである。その後、エッサ・ウィラから、北東へ286キロメートル、バスで約4時間半をかけて、アルジャディーダへ向かった。この街もポルトガル都市の殘跡として世界遺産に登録されている街である(写真6)。ホテルには午後7時頃に着いた。
![]() 写真5 ポルトガル時代の城壁 |
![]() 写真6 アルジャディーダのポルトガル都市標識 |
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今日も強行軍であった。宿泊したホテルは、ムッサフィールという名のホテルで、イビスホテルのチェーンホテルであった。清潔ではあるが、世界的に同規格のホテルで、何の装飾もない。安価だけを売物にするビジネスホテルである。100室規模で海岸に建っていた。但しこの夜は満月で、雲一つない中天に輝く月にひとときの旅愁を感じた。
旅も11日目といよいよ終盤となった日は、アルジャディーダのポルトガル支配時代に造られた城壁に囲まれた旧市街のメディナを見物した。16世紀初頭、ポルトガル人によって造られたメディナである。メディナの中に世界遺産がある。アルジャディーダのポルトガル都市、ポルトガルの貯水槽、ポルトガル支配時代の教会、稜堡の展望台が残っている。この街は、1502年から1769年の間、ポルトガルの支配下にあったため文物共にその影響が色濃く残っており、貯水槽は特に有名で、内部は30メートル程の正方形であり、1542年に倉庫として使われていたものを、水を断たれた時の為に貯水槽に改造したものである。入口は小さいが、地下は巨大な空間となっており、天窓から明かりをとっている。今は水溜りしかないが、昔はこの巨大な空間に人間の腰あたりまで水を溜めていたそうだ。地下空間に残された建物の柱も美しい。この街のメディナはそんなに大きくはなく、純白の建物の多いスークを見物した。その後東約100キロメートルにある、この国一番の大都市カサブランカへ約1時間半かけてバスで走り、午後早い時間に市内に入り、すぐにカサブランカ市内を観光した。
![]() 写真7 ハッサン2世モスク |
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先ず国内最大のモスクであるハッサン2世モスクを参拝した(写真7)。比較的新しく、1,986年から8年かけて建造し、1993年に完成をした。大きさでは世界第7位のモスクであるそうだ。とにかく巨大であり、日本の宗教建築でも比較できる大きさはないと思った。内部は新しいために、きらびやかで豪華である。カサブランカは人口が約415万人、カサブランカとは「白い家」の意味であり、モロッコの経済の中心地である。市の中央にある、ムハンマド5世広場を見物した。市庁舎や裁判所、中央郵便局などが集まる大きな広場で、市の活気が漲っていた。午後4時半頃にカサブランカのリボリホテルに着き、小憩をとった。立地の良いだけの四ツ星ホテルで、1泊するだけのホテルという感じである。総じて今回のツアーで利用したホテルは、三ツ星か四ツ星クラスで、宿泊するには安全で合格点であるが、訪ねた一流ホテルと比較すれば随分と見劣りがした。これは料金的なことであり、日本とて同じことが言える。しかし、それはそれとして、モロッコの世界遺産の数々や、各地の文物、風景は心に残る印象を私に与えてくれた。
![]() 写真8 リックス・カフェ内部 |
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第11日目の夜、モロッコ最後の夜は、旅の土産話に、前回は訪ねなかった、米映画「カザブランカ」の舞台を模倣して造られた観光地、映画と同名の「RICK’S CAFE」
(リックス・カフェ)を訪ねた。日本人のモロッコに対するイメージは、1931年日本公開の映画「モロッコ」や、1946年日本公開の(製作は1942年)「カサブランカ」によるものが大きいと思う。ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演の「モロッコ」もそうだが、ハンフリー・ボガード(リック・ブレイン役)、イングリッド・バーグマン(イルザ・ラント役)が演じる「カサブランカ」は、ラブロマンス映画として大ヒットしている。その映画の中で、リックの経営する酒場「リックス・カフェ・アメリカン」で二人が偶然再会する場所である。パリでの思い出の曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が流れる酒場である。映画のストーリーは御存知であろうが、何とこの映画はカサブランカはおろかモロッコですら撮影されておらず、全てハリウッドの製作である。酒場のセットをそのまま再現して、カサブランカで観光用に建設して、その名も同じく、リックス・カフェとして世界中から観光客を集めている(写真8)。そんなことを知ってか知らずか、嬉々として写真撮影をしている。料理と酒はまあまあだが、凝った内装で、ピアノ演奏も同じように弾かれて、料金は結構高かったが、映画ファンや、又話のたねにしたい人には、市内で夜の観光にはもってこいであろう。(一応予約を取って訪ねたほうが良い。)ほろ酔い気分でモロッコ最後の夜を過ごし、夜遅くホテルへ帰った。
帰路は往路の逆コースで第12日目にカサブランカを出発して、13日目に予定通り関空に帰着した。仲々に印象の強い、モロッコ一周の旅であった。(終)
![]() 筆者近影 |
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ヨーロッパへは1977年に羽田から行った時から37年間は毎年1〜3回は行きましたが、ここ2〜3年は計画しても身内の不幸が続き間際にキャンセルが続きました。今年も9〜10月にイギリス在住の友人と東欧を鉄道旅行する計画ですが、友人が景色が二重に見える病気になりキャンセルの気配濃厚です。鉄道旅行はニューヨークの9/11テロ以来駅の荷物預り所の閉鎖が続いて、駅のトイレとロッカーへ行くのにX線検査などの空港並みの設備工事が完成するまでは旅行しにくくなり、レンタカーは家内が反対するようになり、個人旅行はやりにくくなりました。
私はイギリス・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・スペインはかなりの田舎まで何回も訪問しましたが、アイルランド・ポルトガル・イタリア・オーストリア・ハンガリー・チェコは5〜10回程度、モスクワ・スエーデン・スロバキア・スロヴェニア・クロアチア・ボスニア・モンテネグロなどは1〜3回です。
…………
ロンドン駐在時代は商売には関わらず、技術交流の名目で、正式のパーテイーを何回も取り仕切ったり、招待されたりした経験が豊富です。日本でも半蔵門の英国大使館のパーテイーに参加したし、フランスの経団連みたいな団体が東京でフランス式パーテイーを開催した時にも夫婦で招待された事もあるので、特に日本と違う所を書きます。
1.アペリティーフ(食前酒)
・イギリスでは一般的には招待状に、「カクテル 18時」などと表現する事が多い。アペリテイーフというフランス語を嫌って19世紀にアメリカ人が作ったとされるカクテルという言葉を使うのだろうか?
・パーテイー会場の受付を通過すると、テーブルも椅子もないBarに通されて食前酒を頂く、高級な所ではWelcome・Champagne、一般にはイギリスはジン&トニック、シェリー、ベルモット、キール、カンパリ ・ソーダ。ウイスキーはスコットランドと日本以外では食事中には飲まないが、食前酒として食事の前のカクテルの時間帯に飲める。但し、ストレートか氷の無い水割りかオンザ・ロックで、氷が入った水割りは日本にしか無い。ビールは飲めない。アルコールが飲めない人はオレンジジュースやジンジャーエールなど。招待客が一斉に到着する事は無いので、来た人から飲み始める。立って自由に動き回れるので初対面どうしでも知り合える。大勢の時はホスト&ホステスまたは委託されたレストランのフロア・マネージャーが座席票を配布する。
・招待客が揃ったら、ホスト&ホステスがDining・Roomの入り口立って招待客一人ひとりに握手しながら歓迎する。人数が30人程度なら座席を指さしして教える。座席はどうぞご自由に……という事は、割り勘や会費制の場合以外は無い。
2.料理
![]() 1983年ロンドン駐在員時代 秘書Yvonne嬢とワイン |
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・料理のコースは5コース,7コース,9コースで、ヴェルサイユ宮殿のルイ十四世の食事に倣ったウイーンの神聖ローマ皇帝は昼食でも9コースだったそうで、英仏でも豪華版は9コース。前菜and/orスープ、魚料理+白ワインから始まり、シャーベット(寿司屋の生姜みたいなもの)で口直ししてから肉料理などのメインコース+赤ワインになる。メインコースが終わると、チーズ+ワイン、デザートまたはソーテルヌ等の甘いデザートワイン、ポルト酒、ブランデーと続き、コーヒーで終わる。
・スピーチは、メインコースが終わった頃から、ホストから始める。食って飲んで満足した後なので、客も静かに耳を傾ける……そしてスピーチが終わるたびに乾杯する。日本の皇室主催の宮中晩さん会もメインが終わったあとで、天皇がスピーチを始め、終わったら乾杯する、そして招待客が同様に……。ヨーロッパの民間のパーテイーでは、招待客の中で一番偉そうな人が立ち上がってホスト&ホステスに感謝のあいさつをして、彼らを褒め称えるスピーチをする。これは事前に予定されている。しかし、予定していなかった方々が素晴らしいスピーチをして盛り上げる……これは日本にはなさそうだ。
・日本の一般のパーテイーでは、例えば結婚式の披露宴では乾杯までにスピーチがあり、新郎 ・新婦の友人などのスピーチは後で食べながらやることが多くて、やかましくて聞こえなかったり……「乾杯したら無礼講」が普通なのでスピーチは早くやっておかないと誰も聞かなくなる……「日本人は酔うまで飲む」のだから仕方ない?高知県はこの傾向が最も強い所のように思います……土佐弁が分からない人には喧嘩しているように聞こえるらしい……。
・日本ではパンにはバターが付いてくるが、フランス、イギリスでは朝食時のみバターがつくが、昼食 ・夕食には付かない、パンに付けるならご馳走のソース。イタリアではフランスに隣接するピエモンテ州はフランス式、その他は朝食だけでなくパンにはエキストラヴァージンオイルが一般的なように思う、特にトスカーナから南はオリーブオイルだと思います。
・日本人が食事中に嫌がられるのは、口から発する音、飲み物をすする(Sucking)音、スパゲッテイーなどをズルズルと吸い込む(Sucking)音。Suckingは非常に嫌がられる。イタリアの中を日本のツアーで行った事があるが、食事は日本人だけの個室だった、スパゲッテイーをSuckingして他の客に迷惑をかけるからだそうだ。「スパッゲッテイーはお蕎麦ではない!」
3.ワイン
![]() 1807年ロマネコンティの丘訪問 |
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・イングランドはビールの国であり、日頃はビールで食事をする人も多いが、正式のパーテイーとなればワインだけである。
・日本人がよくやる間違いは、ワイングラスをゆすぶってTastingをする事、ホスト&ホステスは予算と相談して選んでいるし、レストランは飲み頃にしてサーブしているのに客が何か不満なのか?心配になる。Tastingは金を払った人がやるものであり、会費制でない限りやってはならない。
・ヨーロッパのパーテイーでのマナーは、ワインのサービスはホスト ・ホステスまたは委託されている店の人だけで、客同士が注ぎあう事はないので、あちらの人たちは、「日本人を招くときは、彼らの前にボトルを置くな……彼らは勝手に酔う迄のむ……!」とこぼしていました。
・パーテイーに招待された立場のテーブルマナーの第一は、男は近くの女性のグラスには常に注意を払い、少なくなったら「もう少し如何ですか?」と声をかけて、必要ならサービス係に合図する。女性は控えめな人が多くてグラスを空にして欲しがる事をせず1/3とか1/4とか残すように躾けられている。客同士が注ぎ合う事はやってはならないし、日本でよく見かける、女性が男性に注ぐのはもってのほかです。
・日本では、自分のグラスは空になっても手酌は出来ないので隣の人に「一杯いかがですか〜?」と勧める、そうすれば注いでくれる。つまり、「飲みたいときは他人に注ぐ」
・食前酒と食後酒は別として、食事中のワインは食事を美味しく頂く為に選んで戴くが、日本人は酒が主役で食事は「酒の肴」になる傾向がある。割烹などでは、さんざん飲んだ後で、「お食事は、お茶漬け、茶そば……がございます」とか言われて……「それじゃ〜今まで食べたのは食事じゃ〜ないのか〜」と思う。外人客を招待した時に通訳していたら……お食事」は何と訳すのか?一人で噴出した事があります。
4.ディジェスティーフ(食後酒)等
・コーヒーは「寿司屋のあがり」と同じでお開き。コーヒーの代わりに紅茶というオプションは紅茶の国イギリスでも無い。西洋料理の先進国イタリア、フランスに従うので、紅茶はありえない。
・コーヒーにミルクを入れるのは朝食時のみで、その他の時間帯や昼食 ・夕食のご馳走の時はミルクは入れない。砂糖は入れる人もいる。
・日本では前菜にチーズが出る事があるが、ヨーロッパでは料理に使うチーズではなくて、単品で食べるのは濃厚なチーズ+濃厚なワインで、メインコースの後と決まっているようだ。「メインコース料理とワイン」が中心であり、これより濃厚な食べ物とワインはメインコースの味に悪影響があるので、前には出てこない。
・爪楊枝はヨーロッパにもあるが、人前での使用はダメ、トイレで使う。
5.その他
・イタリアはガリバルデイが統一したと言うが、文化的統一は考えた事も無いと思いますね〜文化的には大先進国の集合体ですよね〜?ワインのブドウでも世界800種の中の300種がイタリアだから……覚えられない。日本も酒は各地の地酒があるが、最近ではどこへ行っても山田錦志向かな〜?
・日本のホテルのテーブルマナーはイギリ屏風が始まりのようだが、ヨーロッパではメデイチ家のカトリーヌ ・ド ・メデイシスCatherine ・de ・Medicisがフランス王アンリ二世に嫁いだ時がフランス料理の基本の始まりで、イタリアで発明されたテーブル ・フォークがフランスやイギリスに伝わってきたのもこの時だったような気がします。
・11世紀に元ヴァイキングでフランスのノルマンデイー地方に定住したノルマンデイー公国のウイリアム征服王がイギリス王になってから、イギリス王家の食事のマナーになり現在まで続いている。しかし、庶民のイギリス料理はまずいまま20世紀まで続いた。イギリス皇室は15世紀に百年戦争に負けるまでフランス語を話していたし、言葉も牛(ox/cow)、羊(sheep)、豚(pig)と英語はあるのに、食べるときはビーフ、マトン、ポークとフランス語で呼んでいる。フランスもイタリアもテーブルマナーは緩やかだが、イギリスは真面目に守っている。フォークを使うのが更に遅れたのが野蛮人ゲルマンでドイツの伝統料理店では今でもナイフで食事をしている。
![]() JAXA時代の記念写真 |
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・ヨーロッパはパーテイーの最後はダンスをする、若い頃は社交ダンスをやった事はあるが、苦手だった。30年ほど前から社交ダンスよりはデイスコが流行っていて、会社のパーテイーでも従業員は別人のように踊る……
・JAXAは、種子島や鹿児島からロケットを打ち上げる予定が決まると近隣6県の漁業団体に操業休止のお願いに訪問するが、高知県は特別で大量の酒を飲まなければ話が進まないらしい ……
愚娘の結婚披露宴のワインの自慢をしたら、1801年に日本ソムリエ協会の一次試験を合格した新会員の竹本さんより、きつ〜いダメ出しが届きました。ワインを抱え込んで離さない工事屋の認識とあまりにもかけ離れていたので、ご本人の了解を得て掲載させていただきます。皆さんも反省してください。
雑感「地域コミュニティ」![]() |
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4月は満開の桜の下で、新入園、新入学、新入社の人達の姿を見て、元気を分けてもらえる季節であり、前向きな気持ちも湧いてくる。それに比べて年末は、寒く、暗い天候でもあり、その年を振り返り反省するなど、どこか後ろ向きな気持ちに覆われる。
毎年年末に、日本漢字能力検定協会は、その年の世相を表す漢字1字を発表する。昨年は「金」であったが、過去にどんな字が選ばれてきたか、ほとんど記憶に残っていない。そんな中で東日本大震災があった2011年に選定された「絆(きずな)」は、今でもよく覚えている。おそらく他の年の文字には感じられない納得感があるのだろう。大震災で、家族や仲間の尊い命を失うことや、また連絡が取れず不安な日々を過ごした体験は、あらためて家族・友達・恋人・地域の人々との「絆」の大切さを知り、希薄になっていると言われる人間関係の大切さに気づくきっかけとなったようだ。
最近、この「絆」の大切さをじわじわ感じることが多くなってきた。そのような年齢(高齢)に近づいてきたと言われればそれまでの話であるが、具体的な体験が伴ってくると、否が応でも「絆」の重要性を認識させられる。
小生は高校卒業と同時に故郷の高知を離れ、就学、就職、結婚、子育てと、転居を伴いながら過ごしてきた。典型的な核家族所帯である。そして、今となっては子供たちもそれぞれ親元を離れ、核家族として別所帯を持っている。
昨年、九州在住であった義父が他界して、葬儀のこと、残された義母のサポートのことなど、地域の方や近くに住んでいる親戚の方の助けを借りなければならないことが多々あった。これを機に親戚や地域との繋がりの大切さを再認識した。
そして、今度は高知在住の両親から舞い込んだ依頼が、さらにその認識を深めることになった。両親の住んでいる南国市では、現在でも「ご荒神様」を祭屏風習が残っている。荒神(こうじん)とは土着の神で、人々を災いから救うと信じられている。主に西日本各地の農村に根強く残っている。高知出身者ならほとんどの人がそ屏風習に影響されていることであろうし、小生も子供の頃には「竃様(家庭に祭られている荒神様)」に毎朝供え物をし、粗末に扱うときつい罰(バチ)が当たると脅されて育った。この信仰屏風習?は根強いようで、今でも、年に1回(勤労感謝の日前後)に自治会をあげての祭事が行われている。今年は自分たちが当番だから手伝いに来て欲しいというのが両親の依頼であった。両親とも80歳をとうに超えており、その様な役目を引き受けているとは思いもよらないし、高齢ゆえ行事への参加も控えているのではないかと勝手に思い込んでいた。やむなく妻(女手の方が男手よりはるかに重要)と二人で出かけて行った。
祭事の裏方を手伝いながら感じたことは、地縁と言うべきか、濃厚な近所づきあいがそこに存在しているという事であった。祭壇を設けて神事を執り行うだけでなく、仮設の土俵を作って子供相撲大会(これも奉納のひとつ)を行う。地域によっては神楽も舞う。子供から老人まで参加できるイベントになっている。そしてこの機会を逃さないように、市の防災担当による防災講習も行われた。近い将来、南海地震が起きることが想定されているため、参加者も皆真剣であった。地域の高齢化が進んでいるとはいえ、いざという時に頼りになる人たちの存在を感じた次第であった。それと同時に、老齢の両親が、今でもこの地域との絆を大切に、普通に付き合いを続けてきているということも実感した。
そう言えば、両親が我が家に1週間ほど滞在したことがあった。両親が来て数日たった頃、弟から、近所の人が両親の姿が見えないことを心配して連絡があった、との電話があった。親元を離れて暮らす者にとって、老齢の両親の安否を気遣ってくれている近所の人達の存在は大変ありがたいことである。
翻って、自分たちの地域はどうだろう。東京郊外のベッドタウン住宅地で、あまり近所付き合いがないまま、ここまで過ごしてきた。ひょっとしたら両親よりも自分たちの孤立の方が心配である。最近、団地内もリタイヤ組が多くなってきて、皆一抹の不安を感じるのか、有志によるウォーキング大会などの呼びかけも増えてきた。新興住宅街なりの「絆」作りの動きとも思える。煩わしいと避けてきた近所づきあいを見直して、前向きに関わっていくべき時が来ているようである。
![]() 筆者近影 アンコールワット遺跡にて(カンボジア) |
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タイの東北部のことを、現地タイではイーサーン地方と呼ぶ。比較的タイ国内でも、経済的に貧しい地域である。今回は、そのイーサーン地方や、北部タイ、中部タイの遺跡巡り紀行である。北部でもチェンマイなどは観光地としても有名であるが、今回訪ねた地方には、まだ日本人観光客は少なく、これからの観光客誘致にタイ政府、タイ国際航空も熱心である。さて、そのタイ国際航空(以下タイ航空と記す)が、日本へ就航して50周年になることを記念して、平成26年に、JTBと共同企画で特別コースを設定した。「タイランド3大王朝物語10日間の旅」である。コースは玄人好みであり、一般受けのコースでなくタイ北部、タイ東北部、タイ中部の有名な遺跡を巡る旅である。案じた通り、リピーター向の、またタイ大好き人間向のツアーに特化したツアーの為に、3ヶ月間に3本設定されたツアーの内の1本は集客不良でキャンセルとなり、あとの2本も10名と9名の参加者であった。それでも、筆者は内容を吟味して勇躍参加した。これは、その旅行紀行である。
![]() 写真@タイ航空就航当時のカラベルジェット |
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タイ航空が日本に就航した当時は、SAS(スカンディナビア航空)の子会社のような会社であり、機体も、プロペラ機のDC4やシュド・エスト社製の尾部にジェットエンジン2基を配した88人乗りの小型機(写真@)が、台北と香港を経由して、バンコックまで飛行していた。 飛行時間も短縮されていった。ただ、旧国際空港のドンムアンは、タイ航空のハブ空港として、また東南アジアの主要空港としては狭くなり、
![]() 写真Aバンコック・スワンナプーム空港 |
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混雑もひどく、2006年にスワンナプーム新空港を開港した。(写真A)
私も仕事や視察、招待などで、昭和40年代後半頃から何回となくタイへ渡航したが、そのたびに航空機は大型化を繰り返し、今回の旅行で関空とバンコック間の往復に使用した機材は、現時点(平成26年現在)で世界最大の航空機エアバス380型機(A380)であった。ターボファン4発の超大型機であり、仕様により異なるが、600席という座席の多さである。(写真B)
![]() 写真B超大型A380型機内 |
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平成26年12月17日水曜日の午前11時定刻に関空を離陸したタイ航空623便は、巡航高度12300メートル、時速785キロメートルで順調に飛行を続け、午後3時半(現地時間)にスワンナプーム空港に到着した。日本とタイの時差は2時間あるので、従って日本時間では午後5時半に到着したことになる。飛行時間6時間半である。先に述べたように、主都バンコックは何回も訪ねており、グループの仲間とは離れ、ホテルへ直行し、翌日から12月26日迄続く長期間のバス旅行に備えて、早めに就寝して休養した。今回の旅行は、タイ北部、タイ東北部(イーサーン地方と呼ばれている)、タイ中部の全行程をバスで巡り、そこに栄えたタイ3大王朝に点在する遺跡を見学するのが主目的である。世界遺産に登録されている3ヶ所の遺跡や、その他に、考古学的には有名であっても日本人観光客には馴染みの薄い遺跡、それ故に、我々のようなタイの歴史が大好き人間には、このコースが好ましく思えて参加をしたのであった。実際、後日この旅行のコースを振り返ってみると、旅の途中、日本人や日本人のグループには一度も出会ったことがなかった。これは私の数百回を数える世界各地への海外旅行経験からしても、稀有のことであった。この旅行で述べるタイ3大王朝とは、スコータイ王朝(1240年頃−1438年)、アユタヤー王朝(1351年−1767年)、トンブリー王朝をはさんで、チャクリー王朝(1782年?−現在まで)の王朝を述べている。
![]() 写真C我々9人が利用したJTBの2階建てバス |
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旅行2日目の12月18日、早朝7時に宿泊したザ・スコーソンホテル(四ッ星ホテル)を出発した我々グループ9名と現地タイ人の日本語ガイド、運転手の11名が旅に出発した。JTBバンコック支店の2階建ての最新のバスである。(写真C)それぞれ好きな席に座っても、余席が随分ある。他人事ながら、これで収益が出るだろうかと心配をしたくなる。多分、特別設定の、日・タイ有好の為に採算は度外視しているのかも知れない。
![]() 写真D幹線道路のドライブイン風景 |
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バスは一路北東に進路をとり、約5時間をかけて、ナコーン・ラーチャシーマーの街へ向かった。なお、全行程にわたって、トイレ休憩は幹線道路沿いにあるガソリンスタンドを中心にして、コーヒーショップ、コンビニエンスストア、ファストフード店などがある。清潔で気持良く休憩できる小広場となっていた。(写真D)ナコーン・ラーチャシーマーは、バンコックより東北255キロメートルにあって、別名、コラートとも呼ばれている。イーサーン地方への入口となる大きな街である。ナコーン・ラーチャシーマーは、タイでは、バンコックに次ぐ2番目に大きな街である。(写真E)
![]() 写真Eナコーン・ラーチャシーマー市街 |
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街中のレストランで、ミー・コラート(コラート風焼きそば)などの名物料理を中心にしたタイ料理で昼食をとり、観光を始めることとした。この旅行中の昼食は、大部分がレストランでのタイ料理であったが、中華風の味付けで意外にグループには好評であった。利用したのは、訪れた各都市の大きなレストランであり、多分衛生面でも問題がなく、JTBとしては、安価で手配できたのであろう。ちなみに日本では2000円はすると思うタイ料理が、現地タイの地方都市のレストランでは500円位で食べられるし、屋台でなら、30−50バーツ(1バーツは約4円弱)もあれば食べられる料理も沢山ある。地方へ行けば行くほどに単価は安くなると思えた(2017年4月現在では1バーツ約3円40銭位)。
![]() 写真Fターオ・スラナリー像 |
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タイ北部や東北部は例年10月下旬から翌年2月中旬頃までは乾期に入り、雨道具が心配ない程に晴天が続くといわれている。今日、12月18日も抜けるような晴天で、ナコーン・ラーチャシーマーの気温は摂氏30度である。昼食後、ターオ・スラナリー像(ヤー・モー像)を見物した。(写真F)市の中心部にあり、街の象徴でもある。1826年にラオス軍が街に侵入した際、副領主の妻として、この街を襲撃から守った女傑の像である。見物後に、ターオ・スナラリー夫人が1827年に創建した、ワット・サーラ・ローイも見物した。同女史の遺骨が安置されている。
![]() 写真Gタイ北部で有名なピーマイ遺跡 |
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今日、2日目のスケジュールはなかなかハードである。午後にはタイのアンコールワットとも言われるタイ北部でも有数の遺跡のピーマイ遺跡を見学した。クメール様式の美しいスタイルで、約1000年程前に建てられたものである。(写真G)この地までアンコール朝(カンボジア)は勢力を延ばしており、素晴らしいクメール帝国の建造物を残したのである。この遺跡は1901年にフランス人の学者によって発見され、1989年4月に前国王の娘、シリントーン内親王を迎えて、一般に公開された。
![]() 写真Hシーマ・ターニホテル夕食時の歓迎会 |
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遺跡内にはピーマイ国立博物館があり(1992年新築)、周辺から出土した美術品や立像等が陳列されている。陳列物は何の制限もなくすぐ近くで見ることが出来た。2日目はこうして終わり、ナコーン・ラーチャシーマー市の新市街入口近くにある、高級ホテルのシーマ・ターニホテル(四ッ星クラス)に入った。夕食はホテルで古典舞踊を見ながら(写真H)であったが、何と私達とガイド、運転手11名だけの為に、踊り子、楽団、ウエイトレスなど約30名のスタッフで歓迎をしてくれた。屋外でのステージでのショーは1時間半も続き、その間に食事をしたが、タイ人のホスピタリティーにグループ全員が感激をした。
旅の3日目、12月19日も晴天であり、最低気温18度、最高気温30度の予報である。湿度が高くなく、そんなに暑くは感じない。ナコーン・ラーチャシーマーで連泊をする為に、軽装備で出発した。連泊をすると楽に見学できる利点がある。今日は、前述のピーマイ遺跡とほぼ同時期に建立されたとみられる、近郊のパーム・ルン遺跡公園、ムアンタム遺跡公園、パノム・ワン遺跡を終日見学することになっている。これらの遺跡群は、日本人でも好事家か、考古学の専門家などが訪れることがあっても、日本人観光客が訪れることは少ない遺跡群だが、タイでは、ピーマイ遺跡などと同時期のアンコール朝の大遺跡として有名である。沢山のタイ人観光客がこの日も訪れて見学を楽しんでいたが、日本人や日本人の観光グループには、一度も出会わなかった。
昭和29年土佐中入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家・JTBOB会員。神戸市在住。
微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2![]() 筆者近影 ウドーン・ターニーの露天食堂にて |
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パノム・ルン遺跡はカンボジア国境付近にあり(写真@)、ピーマイ遺跡や、カンボジアのアンコール遺跡と共に、アンコール王朝時代に建てられた、クメール王国の神殿跡である。この遺跡は2005年に17年にわたる修復を終えて、大神殿がかつての威容をしのばせる姿に復活した。(写真A)
パノムとは「丘」を意味しており、この神殿から眺める風景はタイの農村風景であり、その先には、カンボジアとタイの国境である、ドンラック山脈があり、山を越えるとそこはカンボジアである。寺院は402メートルの死火山の丘の上に建造されている。この神殿のレイアウトは、入口を入ると長さ160メートル、幅7メートルの石畳の参道があり、道の両側には70基の灯籠があり、進むとナーガ(蛇神)に護られた橋がある。
![]() 写真@パノム・ルン遺跡 |
![]() 写真Aパノム・ルン神殿群の一部 |
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ここから急な坂道の参道を丘に登ってゆくと神殿の前に着く。神殿正面入口上部に飾られた「水上で眠るナーラーイ神」のレリーフがある。縦66メートル、横88メートルの回廊に囲まれた神殿は壮大で、内部にはヒンドゥ教の神、シヴァの乗り物の牛が祀られている。外壁には多数のクメール様式の宗教装飾がほどこされていて、壮麗である。
![]() 写真Bムアン・タム神殿内の人工池 |
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グループは、続いて、パノム・ルン遺跡より5キロメートルほど南東にある、ムアン・タム遺跡を見学した。10世紀から11世紀頃に建立されたヒンドゥ寺院である。120メートルと170メートルのラテライトの塀に囲まれた中には大型の塔が並んでおり、遺跡公園の中には大きな人工池があって(写真B)、ここから見る遺跡も美しい。言い伝えによると、往時には、ムアン・タムの神殿に詣でた後に、パノム・ルンの大神殿を参詣したとも伝えられている。
![]() 写真Cパノム・ワン遺跡の大仏塔 |
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遅い昼食の後に、ナコーン・ラーチャシーマーの市内から北東約20キロメートルにあるクメール様式の寺院、パノム・ワン遺跡を訪ねた。創建時はヒンドゥヘ寺院であったが、後に仏教寺院になったようである(写真C)。ナコーン・ラーチャシーマー県にあるクメール遺跡の中でも、規模も大きくて修復もされていて見ごたえがある。但し個人旅行で行く場合は足の便が悪いようだ。
前述したパノム・ルン遺跡とムアン・タム遺跡はブリーラム県に属している。この県の主要なクメール遺跡である。この日も日本人や日本人グループに出会うことはなかった。ナコーン・ラーチャシーマーのホテルには午後6時半頃に帰りついた。
![]() タイ王国主要部 |
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旅の4日目、12月20日、今日はナコーン・ラーチャシーマーより、コンケーンを経由して、東北部のラオス国境に近いウドーン・ターニーの街へと北上する。ナコーン・ラーチャシーマーよりコンケーンまで約188キロメートル、コンケーンよりウドーン・ターニーまで約122キロメートルで、計310キロメートルをバスで走行するコースである。午前8時にナコーン・ラーチャシーマーのホテルを出発したバスは、気温30度、快晴の国道2号を右手にコラート高原を見ながら北上してゆく。もうこの辺までくると行きかう車はトラックや小型貨物車が多く、めったにバスには出会うことがない。圧倒的に多いのがトヨタ製の車である。タイ主都圏にくらべると、人々の顔や服装もずっと素朴になってくる。北上すること約4時間でコンケーンの県都、コンケーン市に着いた。人口約17万人である。
![]() 写真Dコンケーン国立博物館内部 |
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我々は、ここでコンケーン国立博物館を見学した。あまり聞いたことのない街であったが、この国立博物館(写真D)は大変素晴らしかった。1階と2階には、手に取るような近さに、コンケーン周辺で出土した仏像、クメール様式のレリーフ、土器などが陳列されていて、ここも貸切のように誰もいない中で充分に見学出来た。館に接する庭には、バイ・セーマーと呼ばれている聖域を示した石板が目の前すぐに多数展示されており、日本の神社の神域のようであった。この博物館を見学出来たことは、望外の幸せという感がした。昼食をコンケーンでし、更に北上して、ウドーン・ターニーの大型ホテル(三ツ星クラス)バーン・チアンホテルに午後6時半頃に到着した。このホテルで連泊して近郊を見学する予定である。旅行中でこのホテルが一番悪かった。良いホテル(つまり高額なホテル)の中に、良くない低額のホテルを入れて、旅行会社は価格のバランスを計っているのだろう。とは言っても当地では指折りの良いホテルらしい。
この日の夕食は欠席して、ウドーン・ターニーの有名なナイトマーケット(夜市)を見物に行った。この街は市内で人口約16万、広域市域で人口が約40万人と言われており、ラオスの首都ビエンチャンと指呼の距離であり、定期バスもビエンチャンとの間で1日に7本も出ている。マーケットは、ウドーン・ターニーの駅のすぐ近くにあり、大きな夜店街となっており、街の人々や欧米等からの観光客で賑わっていた(写真E、F)。
![]() 写真Eウドーン・ターニーの夜市 |
![]() 写真Fウドーン・ターニーの夜市写真 |
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衣料品、民芸品、運動品店、装身具、漢方薬品店、食料品店、青果店、食堂等々、アーケードには数百軒もの店が密集しており、神戸でいえば、三宮駅から元町駅までの高架下商店街を数十倍したようなナイトマーケットである。イーサーン地方では最大の夜市である。ホテルでの夕食を欠席していたので、夜市の中の食堂ばかりが集まっている大きな屋台街で、現地の麺を使用した汁ソバを食べてみたが、ラーメンのような味で美味であった。
3時間近く夜市を見物して、小型オート三輪車(トゥクトゥクというタイの代表的な庶民の乗り物)にてホテルに戻った。その帰り道、トゥクトゥクの後方すぐの所で何やら黒い大きいものの気配がするので、ふり返って見ると、大きな象が歩いている。象を使う人も見えないのに、象がゆっくりと街の夜更けの大通りを歩いている。人通りは少なくなっているとはいえ、誰もそれには驚かない。こちらがびっくりしてしまった。
この街はかつてのベトナム戦争の時に、アメリカ空軍駐留の街として発展し、ベトナム空爆の基地として有名であり、ある意味での、タイの“負の部分”を背負う街でもある。しかし、その関係から街は拡大し大きく発展もした。
![]() 写真Kウドーン・ターニー市内のNo.1ホテル“センタラホテル” |
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旅行5日目は12月21日、今日も晴天だ。ウドーン・ターニーでもう1泊するため、軽装で出発。いつものことながら、連泊すると旅は楽である。同行をしているタイ人のガイドとも、グループの人々は打ちとけてきて、日本語で冗談もとびかっている。バスは午前8時にホテルを出発して、このコースで初めての世界遺産「バーン・チアン遺跡」の見学に向かう。ウドーン・ターニーの東約45キロメートルにあり、1992年に世界遺産に登録されている。この遺跡が発見されたのは1966年のことである。発見当初は紀元前7千年から3千年前の遺跡とされ、世界最古の文明の一つとされたが、ラジオカーボンデータによって紀元前2千百年頃から紀元2百年頃の遺跡と推定されるようになった。
![]() 写真Hバーン・チアン国立博物館 |
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発掘現場は、バーン・チアン国立博物館から徒歩10分位にある、ワット・ポー・シーナイ境内である。ここで発掘された土器や、タイ各地で出土した遺物が、国立博物館(写真H)に展示されている。この博物館は2012年に拡張されており、館内には、ジオラマで展示された発掘現場も再現されている(写真I)。館内では、紀元前に製作された、バーン・チアンの独得模様のあるやきもの(写真J)など、タイの貴重な文物が展示されており、ここでも目前に展示物を見ることが出来て、至福の時間を過ごせた。また、近くの村では土産物用の、大きなものから小さなものまで、バーン・チアン独得の絵付けをした焼き物が売られており、私もスーツケースに入れられる小さい焼物を買った。遺跡見学後、ウドーン・ターニー市内に帰り、市内で一番と言われている、センタラホテルのレストランで豪華な昼食(写真K)をとって、午後の見学に向かった。
![]() 写真Iバーン・チアン国立博物館内のジオラマ |
![]() 写真Jバーン・チアン国立博物館の展示品 |
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![]() 筆者近影・写真Eプールアリゾートにて |
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この日の午後は、ウドーン・ターニー北西約64キロメートルにある、プー・プラ・バードの見学に行った。奇岩・奇石の並ぶ風景(写真@、A)に圧倒される。ここでも先史時代から人が住んでいたと、現地の英語ガイドが説明をしてくれた。その根拠として、岩に描かれた絵(写真B)は先史時代のものだと説明してくれた。ここはゆっくり見て回れば優に半日は要する公園で、次から次へと奇岩が現れてくる。洞穴を含む主な場所は、ここ歴史公園専属のガイドが必須である。我々グループも英語ガイド付きで手際よく、主要な場所を約2時間かけて、トレッキングをするように公園内の広い範囲を歩いた。この公園には、日本人が訪れることが少ないために、米、独、仏語を話すガイドは居ても日本語ガイドは居ないということであった。
![]() 写真@ |
![]() 写真A プー・プラ・バードの奇岩 |
![]() 写真B プー・プラ・バードの岩絵 |
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今日も気温約29度の晴天の中での見学を終わり、連泊2日目のウドーン・ターニーのホテルへ帰着したのは午後6時頃であった。
旅も6日目を迎えた12月22日、今日はバスで西方へ向かう。ドンパャージェン山脈を越えて、ウドーン・ターニーの西南約260キロメートルのピッサヌロークへ向かうのだ。朝の8時にホテルを出発したバスは、タイの最北部を西へ進むのだが、山間部の景色がバスの左右に展開してゆく(写真C)。大きな街もなく、小集落がバスの車窓を過ぎてゆく。目的地ピッサヌロークまでは、山道をウドーン・ターニーからバスで約6時間の道のりである。途中、プールアリゾートという場所に昼前に到着した。(写真D)。ここで昼食の予定である。
![]() 写真C タイ最北部の山間部の風景 |
![]() 写真D プールアリゾート |
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我々のバスは高原を登るほどに、車内でも段々と冷気を感じてはいたが、昼食のため車外に出ると風が少し強く、これが南国タイかと思う程に寒くて、グループ全員とガイドは、持参した服の中で一番暖かいセーターなどを着用する寒さであった(写真E)。気温は、ウドーン・ターニーの29度から、17度にまで下がっている。一気に12度も気温が下がると体感的には寒さを感じてしまう。
この辺りは、プールアナショナルパークに指定されていて、ハイキング、トレッキング、登山などでタイ国内では有名な場所らしい。高原の保養地として、ホテルやコテージが点在していて、暑熱のタイの平地とは別天地の場所である。日本の避暑地のような混雑は全くなく、自然そのままの風情がある。ホテルの野外テラスにあるレストランで、余りおいしくはなかったが、山地独特の料理を味わった。峠のレストランからバスは一気に山を下り、今夜から2連泊するピッサヌロークの街へ入った。この街はナーン川に沿って広がっており、スコータイ王朝時代の首都であった。現在は人口約8万5千人で、スコータイ遺跡を訪れる人々の宿泊地の街となっている。
![]() 写真F チンナラート仏 (タイ一番の美しい仏像) |
![]() 写真G アマリン・ラグーンホテル |
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我々は、ピッサヌローク到着後すぐに、ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート(ワット・ヤイ)を訪ねた。タイで最も美しい仏像として有名で(高さ3メートル50センチ)、ピッサヌローク地域の公式なシンボルである、チンナラート仏を見物するためである。(写真F)。参拝をする人達がひきもきらずに堂内をうめている。この寺は1357年に、スコータイ王朝のリタイ王によって造られた。ピッサヌの意味は、ヒンドゥ教の神である「ビシュヌ神の天国」とのことだ。また、ロークとは、地球又は世界を意味しているとのことだ。この街はスコータイ時代もアユタヤー王朝時代にも重要都市であり、街の人々も誇り高い人達だと聞いた。寺院見学後に、午後6時頃、市内のアマリン・ラグーンホテル(五ッ星クラス、写真G)に到着した。
今日は気温29度のウドーン・ターニーから17度のプールア、そして再び29度のピッサヌロークと、気温差の激しい1日であった。宿泊したアマリン・ラグーンホテルは、ピッサヌロークでも最高級のホテルであり、敷地も広くゆったりとしたホテルである。6日目も終わり、グループの仲間も疲れもあって夕食後早い時間に就寝したようだ。
![]() 写真H ピッサヌローク郊外 の黄金大仏 |
![]() 写真I シー・サッチャナーライ歴史公園の遠足園児 |
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旅の7日目、12月23日、今日も快晴である。朝食後8時にホテルを出発し、郊外にある有名な黄金仏(写真H)を見学した後、スコータイ時代の重要な遺跡シー・サッチャナーライ歴史公園の見学である。公園は広大であり、遺跡数が2百以上あるから、いかに大規模かがわかる。従って園内は専用車で巡る。我々が訪ねた日には、幼稚園児が遠足に来ていた(写真I)。
先ず、ワット・チャン・ロームとワット・チェディー・チェット・テーオを巡った。
![]() 写真J ワット・チャン・ローム の仏教寺院 |
![]() 写真K ワット・チェディー・チェット・テーオ寺院 |
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ワット・チャン・ロームは13世紀の仏教寺院で、象によって囲まれ、ベル型の仏塔が38頭の象で支えられている(写真J)。ワット・チェディー・チェット・テーオはワット・チャン・ロームの向かいに建つ寺院で仏塔が7列に連なっている。そのことから、この名が付けられた。ここは、ヒンドゥ・仏教・ラーンナータイ様式などと頭が混乱するほどに仏塔が建っている(写真K)。中央にはスコータイ様式といわれる、蓮のつぼみ型のチューディ(仏塔)がある。
![]() 写真L ワット・マハタートの 大きな仏像 |
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午前のコースを終わって、昼食後は、このツアーで2番目となる世界遺産スコータイ遺跡を見学した。スコータイはピッサヌロークの西北約56キロメートル、バスで1時間ほどの場所にある。スコータイとは「幸福の夜明け」を意味するとのことで、その名の通り、1238年ここにタイ族最初の王朝が建てられ、140年間と短期間ではあるが、この王朝時代に築かれた寺院遺跡が数多く残されている。このスコータイ歴史公園(ムアン・カオ)に向かい、最初にワット・マハ・タート(写真L)を見学した。14世紀の重要な寺院であり、仏陀の遺骨を埋葬する為に、1374年にラチャシラット1世が建立したと言われている。ビルマ軍の侵攻により破壊されたが、1956年に遺跡の発掘調査が行われ、貴重な文物が発掘された。ビルマ軍に切り落とされた仏頭が長い年月に生い茂る木に持ち上げられ、「神聖木・トンポに眠る仏頭」としてスコータイ遺跡の中でも特に有名である。
次にワット・スラシー(写真M)を見学した。池に浮かぶ小島にあるチューディー(仏塔)は、スリランカ(セイロン)様式の釣鐘型である。
![]() 写真M ワット・スラシーの仏像 |
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次にワット・トラバン・ングンを見学した。遊行仏の彫刻の見られるワット・マハタートの西側の「銀の池」の西側に、ワット・トラバン・ングンのチューディーがある。
![]() 写真N ワット・シーチェムの仏像 |
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スコータイ遺跡の見学の最後に、ワット・シーチェムを見学した。この遺跡もスコータイを象徴する寺院である。屋根の無い、32メートル四方、高さ15メートル、そして壁の厚さが3メートルもある本堂内に大きな手で降魔印を結ぶ座仏像(写真N)は、スコータイ遺跡を紹介する際によく掲出される写真である。この仏像は、ラームカムヘーン大王の碑文の中で、「おそれない者」という意味の「アチャナイム」と呼ばれている。
スコータイ歴史公園は総面積70平方キロもあり、他にも沢山のワットがあるが、今日旅行7日目の午後は、スコータイ遺跡の有名な4か所の遺跡を巡った。かけ足で巡ったが、よく整理をしないと、どれがどの遺跡か分からなくなりそうで、この原稿を記するにあたっても、訪問時刻と写真を照らし合わせながら書いている。
7日目の夜は、グループ仲間と話し合って、夕食後に全員で行きたいと言うので、バスとガイドを手配して、ピッサヌロークのナイトバザール(夜市)へ行った。ナーン川沿いに広がるマーケットは、ウドーン・ターニーほど大きくはないが、それでもかなり大きくて賑わっていた。
![]() 筆者近影・アユタヤクルーズ船のデッキにて |
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グループの仲間は旅にも慣れ、北部タイの商品の値段にも慣れて、マーケットでの土産品選びに余念がない。衣料品、靴、装身具など品物が山積みされている。
![]() 写真@ パックブンビンの店(ピッサヌロークの夜市) |
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グループの中に貴石類を使用したブレスレット(腕輪)の専門家がいたので、日本円に換算して3千円位の品を私自身用に買ったが、日本では1万円位で取引されていると聞いて、ちょっと得をした感じである。このバザール(ピッサヌロークの夜市)で有名なのは「空飛ぶ空芯菜(くうしんさい)炒め」の店「パックブンビン」である(写真@)。
![]() タイ王国主要部 |
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12月24日、旅も8日目を迎えた。天気予報は晴れで、気温は30度との予報である。真夏の気温での南国タイでのクリスマスイブである。いつものとおり、ピッサヌロークのホテルを朝8時に出発したバスは、約300キロメートル南下してアユタヤへと向かう。先ずナコーン・サワンを経由して、ロップリーへ向かった。ロップリーはアユタヤからすると北に位置する街で、アユタヤからバスで約1時間半ばかりの所にある。アユタヤ時代にはナーライ王により王国第二の都市とされた。現在は人口約3万人の地方都市である。ロップリーには、クメール、スコータイ、アユタヤ様式の遺跡があり、サン・プラ・カーンの遺跡を見学したが、ここは猿に占拠された感じのする寺であり(写真A)、街の中にも猿が横行している。「猿寺」としても知られており、ラテラート(紅土)の山のような土塁はクメール時代のものである。昼食後、プラ・ナーライ・ラチャニウェート宮殿(現国立博物館・キングナーライパレス)を見学した。1665年から13年をかけて、タイ・クメール・ヨーロッパの折衷様式で建築された宮殿であり(写真B)、中心にあるのが、ラーマ4世が1856年に建てたピマーン・モンクット宮殿である。アユタヤ王朝時代の仏像やクメールの美術品、ラーマ4世の遺品などを展示した博物館として使用されている。
![]() 写真A ロップリーの サン・プラ・カーン遺跡(通称「猿寺」) |
![]() 写真B キングナーラーイパレス(ロップリー) |
![]() 写真C クルンシーリバーホテル(アユタヤ) |
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昼食をはさんだ短時間のロップリー見学を終え、バスは更に南下してアユタヤへと向かった。もうバスは最終地バンコックまであとわずかな地点まで進んでいる。ロップリーからアユタヤまではバスで約2時間かかり、午後4時過ぎに、アユタヤの一流ホテルであるクルンシーリバーホテルに到着した(写真C)。
![]() 写真D 真夏のサンタクロース(アユタヤ) |
![]() 写真E ライトアップされた アユタヤ遺跡の一部 |
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このホテルは築20年であるが、その割には手入れが良く、ホテルスタッフも親切である。今日12月24日はクリスマスイブ。ヨーロッパ各地の雪のクリスマスマーケットは、広い範囲に何回も訪れた経験があるが、気温32度の暑い国でのクリスマスイブは初めてである。それでもホテルでは、雪の降り積もったクリスマスツリーで演出をしていた。また、サンタクロースも登場して(写真D)、賑やかにクリスマスイブを祝っていた。この日の夕食はタイスキであり、久し振りに鍋を囲んで、グループ全員が舌鼓をうった。
![]() 写真F クリスマスパーティー会場 |
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夕食後に、このツアーでは3番目となる世界遺産「アユタヤ遺跡」のライトアップを見物に出かけた(写真E)。我々グループの他には、地元の人がチラホラと遺跡公園には居たが貸切り状態で、ライトアップされた寺院群を鑑賞した。日本から持参した小さなLEDの懐中電灯と電池式の蚊退治機が役に立った。ホテル帰着後は、グループから別れて、有料のクリスマスイブパーティに深夜まで参加した(写真F)。
いよいよ旅も終盤を迎えた9日目の12月25日は、午前中に世界遺産アユタヤを見学して、午後にはアユタヤクルーズ船にてチャオプラヤ河をバンコックへ向かう。
アユタヤはバンコックの北87キロメートルにあり、三つの川に囲まれた中州の島に1350年に建てられた。絶頂期にはカンボジアからビルマまでを領土としたが、1776年にビルマ軍の侵攻によって崩壊した。北のスコータイと共にタイの遺跡都市として有名である。
![]() 写真G ワット・プラ・シー・サンペットの仏塔群 |
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我々は先ず、ワット・プラ・シー・サンペットへ向かった。アユタヤ王朝の守護寺院である。3基のチューディ(仏塔)は、ビルマに侵攻された際に破壊されたが、現在のものは15世紀に建てられた(写真G)。次にワット・マハタートへ向かった。ワット・プラ・シー・サンペットと並び称される重要寺院である。14世紀に建立されたが、ビルマ軍侵攻によって破壊され、木の根に取り込まれた仏像の頭部(写真H)とレンガ積の仏塔が残されている。この仏像の頭部像はアユタヤ遺跡を代表するものとして有名である。1956年にワット・マハタートを発掘した際に多数の仏像と宝飾品が出てきて、当時の栄華がうかがわれたそうだ。発掘品はアユタヤのチャオ・サームプラヤー国立博物館に展示されている。
![]() 写真H ワット・マハタート寺院の 仏像の頭部(木の根に注目) |
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その後、ワット・ラーチャプラナートを見学した。この寺院は、1958年修復の際に、8代王が兄の為に収めた宝物が発見されている。王位継承に敗れた2人の兄を火葬した場所に、1424年に建立されたと伝えられている。陸路のバスでの見学はここで終わり、このコースで初日の12月17日から9日目の25日までの走行距離は約1500キロメートルに達していた。
代表的なアユタヤ遺跡を見学した後、午後にアユタヤ近郊のワット乗船場よりアユタヤクルーズ船に乗った。バンコックへ向かう観光船である。船内でビュッフェ形式の昼食をとる。洋食、中華、フルーツと共に寿司などもあって、観光船の食事としては質量と共に豊富である。唯一の日本人グループの我々と同船していた欧米や北欧の人々も満足をしていた。船室の冷房のきいた部屋からも見物できるし、船首と船尾部分に椅子を備えたデッキ展望部もあり、天気の良い日には、チャオプラヤ河の風に吹かれて、両岸、上流、下流の風景が満喫できる構造となっている(写真I)。チャオプラヤ河を下り、ワット・マハタート、ワット・プラケオ、王宮、ワット・アルン(写真J)など、バンコック市内の有名な寺院等を左右に見ながら、バンンコック市内の観光船の終点に到着した。
![]() 写真I アユタヤクルーズ船のデッキにて |
![]() 写真J ワット・アルン(暁の寺) |
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その夜グループは、夕食をとった後、市内の歓楽街ハッポンのナイトバザールを見物して、宿舎のホテル(最初の日に宿泊したホテル)へ午後10時半頃帰る予定であった。私は、バンコック市内は従前から何回となく訪れているので、グループを離れて、世界中に知られている、ニューハーフショーで有名なショーシアター「マンボ」を見物に行った(写真K)。
![]() 写真K ニューハーフショーで有名な「マンボ」(バンコック) |
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最近郊外に移転して舞台も大きくなっており、ショーダンサーも一流の芸を披露する有名店である。1200バーツ(約4500円〜5000円)で見物でき、旅行社のオプショナルツアーのVIP席料金より安いので、自分個人で見物に行ったが、初めての旅行客には、安全で送迎付きのツアーに、旅行社か宿泊ホテルを通じて申し込むことをおすすめする。私もショー終了後すぐホテルへ帰ったが、午後11時半ごろになっていた。
グループの9名は、旅行中に病気やトラブルもなく、旅行最終日の10日目に、連日30度前後の暑い国タイから、気温6度の日本の関空に無事帰国した。ありきたりの観光コースではなく、遺跡と寺院を中心にした内容に全員が満足した旅行であった。行く先々で神像や仏像がおだやかに微笑んでいた。
![]() 故 大町 玄 氏(享年81歳) |
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![]() 筆者近影 |
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故大町玄先輩(30回)のご葬儀は6月13日午前10時からお住まい近くの浦安市斎場でしめやかにとり行われました。お元気なころの穏やかなお顔の写真が祭壇から参列の人々を見下ろす中、読経、焼香と型どおりに進みます。中城正堯さん(30回)はじめ土佐高校ご同期の方々の心のこもったかなり長文の弔電が紹介され、新聞部が学校生活の中心だったことがわかりました。
喪主のご挨拶に先立ち、マイクの前に立った愛らしいお孫さんが、「爺じではなく玄ちゃん、これからもずっと見守ってくださいね」と呼びかけると、静かだった式場内にすすり泣きの声が漏れはじめました。故人が「葬儀はごくごく質素に」と言い残されたそうですが、若い方を含めかつての勤務先会社関係者が多数来られていたことはご高齢の方の葬儀としては珍しく、故人の人徳を伺い知ることができました。出棺の時が来ると梅雨空の雲が切れて陽が射しはじめ、彼岸へのよき旅立ちの日となりました。
今から8年ほど前、新向陽プレスクラブの発足をめざして、諸OB/OGに入会と総会への出席を呼びかけましたが、大町さんからのお返事がホームページに残されていますので改めてご紹介いたします。大町さんはその後2012年、13年、14年と立ちあげ期の総会に連続してご出席、一同を温かく励ましてくださいましたのでご記憶の方もおありかと思います。
大町 玄 (30O)入会・出席***元 富士電機HD***
原弘道君、松木鷹志君、梅木栄純君が退会とは!事情があることとは思いますがまことに残念。 ずいぶん長いこと逢っていませんから、授業をサボってまで新聞を作ったあの頃の仲間と久しぶりに一献酌み交わしたかったのですが。 プレスクラブ以外に彼らに逢えるチャンスもなさそうですし。 浜崎洸一君が欠席で逢えないのも残念ですが、入会登録はしているようなのでそのうち逢えるだろうとタノシミにしています。 卒業以来多忙を言い訳に、向陽新聞のことは中城君に任せっぱなしでしたが、(そのために自分が新聞作りにどっぷり使っていた頃があったことを忘れかけていましたが、)今回呼びかけていただいたことを公文さんほか世話役の方々に深く感謝しております。 ありがとうございました。」
![]() 2003年 サン・レオ城で故人と筆者 |
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級友から「6月9日、大町玄君逝去」の知らせをうけ、晴子夫人に次の弔電を差し上げた。
「突然のご逝去の知らせを受け悲しみに堪えません
昭和二四年 土佐中学・公文公先生のクラスで同級になって以来
中高六年間 同じクラス 同じ新聞部でした
以来 玄ちゃんは我々の永遠の級長さんでした
心からご冥福をお祈り申しあげます」
![]() 1955年2月、新聞部送別会。前列右から、 横山、大町、西野顧問、中城、千原。 |
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中学入学当初から“玄ちゃん”は勉学・遊び、そして統率力とも抜きん出た存在で、だれもが認めるクラスのリーダーであった。その才能を磨くため、公文先生に呼ばれた数人が、自宅で数学・英語の指導を受けるようになり、筆者も玄ちゃんから声が掛かり、後からなんとか加えてもらった。そして、新聞部にもさそわれ、中2から入部、企画・取材から、記事の書き方、紙面の割付まで見習った。彼は、放送部にも席を置いていた。
2015年、高知での卒業60周年の学年同窓会のあと、ひろめ市場の二次会で昔話になり、「中学2年の後期だったか、おんしに応援演説をされて中学生徒会長選挙に出た。番狂わせになり、3年の福島さんを破って当選。中3でもやった」と、話しかけてきた。確かに新聞部だけでなく、生徒会でも、そして遊びでもリーダーだった。中学生徒会では、大町会長・中城議長のこともあった。
遊びの中心は草野球。ビー玉にゴムひもや毛糸を巻き付けて布で縫った手作りボールで、昼休みなどに夢中で遊んだ。次第に軟式ボール、バット、グローブが普及すると、大町キャプテン以下、潮江や三里に出かけて他流試合も行った。いい加減な審判をすると、相手から「メヒカリ食ってこい!」などと、ヤジられたものだ。
![]() 30回生の「卒業記念アルバム」より、 新聞部の写真。(左端に坐る大町) |
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高校進学は、公文先生の提案で4クラスの担任を事前に発表、生徒が自由に選択できた。大町・浅井・千原など新聞部一同は多くが公文先生を慕ってそのクラスを希望した。ところが、一大事が発生した。公文先生が突如大阪に転勤することになったのだ。後任は英語の織谷馨先生だったが、まだ若くて包容力が未熟だったために、たちまち生徒とぶつかった。以来、授業内容でもクラス運営でも、衝突の連続だった。
そのような中で、高1になると大町は向陽新聞編集長となり、1952年5月発行第15号には、格調高く「新生日本の出発に当って」と題する大嶋校長のメッセージをトップに掲げた。ようやく日本独立がかなったのだ。この紙面には「人文科学部生る」の記事もあり、部長は公文俊平(28回)、指導教師は社会思想史・町田守正、日本史・古谷俊夫などとある。当時、社会も学内も活気にあふれており、生徒会と新聞部による「応援歌募集」や、「先輩大学生に聞く会」「四国高校弁論大会」などが次々と企画、開催された。
![]() 1960年の関東同窓会記念写真。 後列左から、大町、山岸先生、西内、 前列左から、横山、田所、中城。先生以外は30回生。 |
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だが、わがクラスの混乱は続き、卒業後も浪人の大学受験内申書が間に合わないなど、問題が続発、学校にも訴えたが打開できなかった。人望の厚かった英語のH先生に相談すると、「私の教え子であり、公にするのはひかえて欲しい。収める」とのことだったが、効果はなかった。当時の大町からの憤懣やるかたない速達が、2通手元に残されている。
部活にもどすと、従来通り高1で大町たち多くの新聞部員は退部、受験勉強に軸足を移したが、筆者と横山禎夫は高3まで部活を続けた。特に筆者は、部活やクラスの混乱をいいことに、勉強そっちのけで過ごした。向陽新聞は全国優秀五紙にも選ばれたが、受験勉強には全く身がはいらず、私大に進んだ。
わがクラスからは、結局7名が東大に進み、ちょうど70名クラスの1割を占めたが、担任との軋轢もあって現役入学ばかりでなかったのはやむを得ない。それよりも、東大経済を出た大町が、新聞部や大学での演劇活動をふまえてマスコミをめざし、NHKの内定を得ていたのに、あるこだわりから最後に製造業に転じたのは残念だった。放送界には適材であり、経営管理部門でも、番組制作部門でも、リーダーとなる人物だった。
![]() 2003年、イタリア城郭視察旅行で コモ湖に遊ぶ。 |
![]() ヴェローナ、ロミオとジュリエットの 舞台で演劇活動を回想。 |
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富士電機の要職を降りてからは、級友とのお遊びにもよく付き合ってくれた。日本城郭協会主催の、2003年イタリア城郭視察旅行にも加わり、旧知の後輩・藤宗俊一(42回、フィレンツェ大建築学部)の名解説を楽しんでいた。同年秋の沖縄城跡巡りにもご夫婦で参加し、向陽プレスクラブ総会も健康の許す限り参加してくれていた。
老いても級長さんの役割は途切れず、20号まで出たクラス誌「うきぐも」発行や、クラス会開催の主役であった。また、草野球以来の虎キチで、神宮球場の阪神×ヤクルト戦はよく級友と観戦していた。肺がんと分かってもタバコを手放さず、悠々囲碁を楽しんでいた。今年の年賀状には、達筆で「告知された余命期限を過ぎて三ヶ月経ちました。期限切れの余命を楽しむが如く、慈しむが如く、ゆっくりと面白がって生きております」とあった。達観した心境のようだった。
告別式の行われた6月13日は、あいにく日本城郭協会総会に当り、筆者の体力では浦安市斎場との掛け持ちは無理だったが、浅井・西内・松アなどの同級生、さらに向陽プレスクラブの公文敏雄会長が参列し、お別れを告げてくれた。城郭協会総会の開かれた神田・学士会館は、奇しくも50年前の晴子夫人との婚礼の場であり、5月には高知からの親族も含めてここに集い、元気な玄ちゃんを囲んで、盛大に金婚式を祝ったばかりだという。50年前、筆者は悪友にそそのかされてクラス代表の拙い祝辞を述べた思い出が蘇ってきた。 合掌。
![]() Roma サンピエトロ教会 |
![]() Roma サンタンジェロ城 |
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![]() Roma カンピドリオの丘 |
![]() Roma (フラスカーティ) |
![]() Siena (ブルネッロ) |
![]() Monteriggioni 城壁都市 |
![]() Volterra ヌォーヴォ砦 |
![]() Firenze (キャンティ) |
![]() San Leo コスタンツァ砦 カリオストロの城 |
![]() Ravenna (ディ・ロマーニャ) |
![]() Ferrara エステンセ城 |
![]() Verona ティンクエッチの丘 |
![]() Verona (バルドリーノ) |
![]() Milanoスフォルツェスコ城(バローロ) |
大町玄さんのご逝去を悼むとともに、ご冥福をお祈りいたします。ご家族の皆様には心より哀悼の意を表します。
玄さんとのなれそめは50年以上も前になります。1967年大学受験で同じクラスの彼の甥の門脇康裕とともに夜行列車『瀬戸』で上京し、初めて東京に降り立った時、駅のホームに出迎えに来てくれていました。その時は私にも隣家出身の故岡部隆穂(旧姓澤村・35回生)氏が出迎えに来ていたので、挨拶を交わしたくらいで、彼らは代々木上原、我々は早稲田に向かいました。その時、初めてわが学年のあこがれのマドンナ(放送部、夕鶴のつう役)ふみさん(楠目)の長兄(玄兄ちゃん)で、隣村出身だということを知りました。どうも門脇が伯母・甥の関係をひた隠しにしていたようです。
それから30年以上、殆ど接点がなく、同窓会でお会いしても目礼を交わす程度でしたが、2003年日本城郭協会のイタリア視察旅行の案内人(実際は30回生のパシリ役)として、ワインの名産地巡りで一週間以上同じ釜の飯をくらって、親しくしていただくことになりました。この時の写真を貼り付けてあります。(写真一部は中城氏提供。()書きはワイン名)
その後、2010年には『向陽プレスクラブ』が再結成され、自称『名編集長(14,15号)』だった玄さんも当然参加してくださり、総会の度にお会いして酒を酌み交わす機会が増えました。ちょっと控えめで(まわりが目立ちたがり屋ばかり)、温和な笑みを浮かべてお酒を口に運ぶ姿には、感銘を覚えざるを得ませんでした。それが、この2、3年体調不良を理由に総会を欠席されるようになり、とても心配をしていましたが、とうとう帰らぬ人となりました。残念なことは『中城や浅井よりうまい』と豪語していた文章をホームページに一度も寄稿して頂けなかったことです。
玄さんの、あらゆる迫害に耐え最後までタバコを離さなかった生き方は文化を守る殉教者そのもので、本人に寛容さがなければ貫けない生き方です。たった一度の手術で右往左往している出来損ないの後輩をきっと嘲笑っていることでしょう。お世話になりっぱなしでありながら、術後半年検査のため13日の葬儀に参列できず本当に申し訳ありませんでした。きっと、寛容の精神溢れる先輩でしたので、『しょうがないやっちゃ』と苦笑いしながら許して下さることと思います。まだまだ教えていただきたいこともあったのに、理想の先輩を失って本当に残念です。
最後になりましたが、改めて、大町玄さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
![]() 著者近影(シチリア島にて) |
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2015年にバリ島を訪れた外国人観光客は395万人で、その内の日本人観光客は、約23万人とのことである(州政府観光局)。
さて、唐突であるが、今迄にバリを訪ねたことのある人の中で、ヨハン・ルドルフ・ポネという1896年にオランダのアムステルダムに生れ、バリ島に長い間住み、バリ芸術、特に美術発展に功績を残して、1978年にオランダで死去した人とか、グスティ・ニョマン・レンバットという名前で1862年にバリ島で誕生して、1978年に116才で死んだ、日本で言えば、文久年間に生れ昭和年代に死去したバリの画家を御存知だろうか?本題から外れるので詳伝は割愛するが、彼等を含む沢山の先達が、今のバリ島の観光の先鞭をつけたことに、異論は無いことと思う。そこまで思いを致して、バリ島を観光する人は皆無に近いかもしれない。私が、初めてバリ島を訪れたのは、1978年(昭和53年)であった。それ以降20回近く訪ねたバリ島の今昔を書いてみた。
![]() 1978年当時の インドネシア入国の査証 |
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丁度初めてバリ島を訪ねた1978年は、現在76才の私が36才の年齢であり、その年にリリースされた山口百恵の「プレイバックPart2」というシングル版が大ヒットした年でもあった。ちなみに山口百恵は当時19才であった。そんなことから、表題を「プレイバック・バリ」とした。そしてその頃からのバリ島を振り返ってみたい。
約40年前のバリ島は、未だまだのどかな観光地であった。観光訪問が目的でもインドネシア入国の査証(VISA)が必要で神戸のインドネシア総領事館を訪ねて査証申請をした。
1978年当時は、バリ島のデンパサール空港へ向うのには、大阪伊丹空港の国際線を出発して、香港で乗り換へて、デンパサールへ向うキャセイ航空利用か、もしくは、同じく伊丹発でシンガポールへ向いそこで乗り換へてデンパサールへ向うシンガポール航空を利用するのが、関西からは便利であった。両航空の使用機材は、今ではほとんどが退役をしているが、当時は新鋭機種の一つであるB-707(ボーイング707型)機であった。
![]() キャセイ航空の 当時のB-707型機 |
![]() シンガポール航空の 当時のB-707型機 |
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伊丹と香港間は、所要約4時間30分、香港とデンパサール間は約6時間で計約10時間30分、また伊丹とシンガポール間は約7時間30分、シンガポールとデンパサール間は約3時間で計約10時間30分と、いずれのコースを取っても乗り換へ時間を加えると約12時間を要して、伊丹から、バリ島のデンパサール国際空港へ到着した。ちなみに現在は、関西国際空港から、3274マイルの距離を約7時間20分で飛行している(直行便の場合の飛行時間)。それだけ約40年前からすると、バリ島は関西から近くなったと言える。私自身は1978年から、1979年の二年間に計3回バリ島を訪れた記録が、旅券の出入国欄に残されているが、特に1979年には、「エカ・ダサ・ルドラ」と呼ばれる、バリヒンドゥ教の、100年に一度の盛大な儀式があり、これはバリヒンドゥ教の総本山であるブサキ寺院で行われた。同寺院はアグン火山の中腹に位置し、バリヒンドゥ教の崇拝の頂点に立つ寺院である。当時大統領であったスハルトや多数の要人が参加して、世紀の祭典を祝った。
![]() バリヒンドゥ教の総本山ブサキ寺院 |
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インドネシアは人口約2億3500万人の中でムスリムが約87%、ヒンドゥ教は1%未満であるが、バリ島ではほとんどが、ヒンドゥ教徒であり、バリヒンドゥ教徒と呼ばれている。現今、ムスリムの島内への浸透も多い。さて、この1970年代の末頃から、観光客が増えてきたように思える。アグン山とブサキ寺院は、バリヒンドゥ教徒にとっては、宇宙の中心と考えられており、私もアグン山に登り、同寺院を外側より拝見をした。ブサキ寺院の背後には、バリ島最高峰アグン火山があって、景色も非常に美しい。さてそのブサキ寺院は、三十数ヶ寺の集合体寺院であり、それぞれの寺院に由緒があるのは日本の神社とも似かよっている。全ての寺院に神が降ってくる一年に一度の大祭はその年によって異る。そのブサキ寺院で100年に一度の大祭が1979年に行われたのだ。さて当時のバリの空港は、バリの英雄ヌラライからとってその名をヌラライ空港と呼ばれていたが、現在の小さいながら機能的な国際空港からは、想像も出来ないバラックのような空港施設であった。
![]() ヌラライ(バリ島)空港旧空港施設 |
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国際空港と呼ばれるには、程遠い空港であった。また当時は、入国管理官は少しでも問題があれば(それも一寸したミス)、当然の如く、袖の下(賄賂)を要求するような施設であった。また航空機に預けた荷物を引き取るターンテーブルでも、ポーターが荷物を奪い合って、チップを要求するような、無秩序な状況であった。このヌラライ国際空港は1969年に、ジャカルタについでインドネシアで二番目に国際空港として開港した。私が初めて訪ねた頃は、空港からホテル迄、暗闇の中を、小型チャーターバスで、ツアーの客は運ばれた(大型バスはまだ運用されていなかった)。
1978年頃は団体ツアーと言ってもバリ島へのツアーは一団体にせいぜい15名から20名未満であり、新婚のカップルも二組から三組位参加をしていた。私が初めてツアーを引率した時の参加カップル(高松市と加古川市から参加)に既に孫が誕生されている。当時私は36才であり、彼等は25才位であった。毎年年賀状をいただいて、近況を知らせていただいている。いかに時間が過ぎるのが早いかを思い知らされている。その頃のバリ島のホテル事情は、一流ホテルと言われたものは、日本が太平洋戦争の戦後賠償金で支払ったお金で建築された、サヌールビーチにあるバリビーチホテルしか無かった。今も営業をしているが、当時の最高級ホテルの面影はなく、何回もの改築の後、一応五ツ星クラスにランクはされているが普通の変哲のないホテルになっている。しかし当時は欧米を含めてバリを訪れるお金持の観光客や日本からの団体客は、ほとんどがこのバリビーチホテルに宿泊をした。
![]() 現在のバリビーチホテル |
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バリで忘れられない思い出の一つは、最初にバリを訪ね、バリビーチホテルに宿泊した翌朝、ホテルの前のサヌールビーチに立った時である。朝日が昇り、朝日にまぶしく輝く長大なビーチに椰子の木と、その下に現地の人がまばらに居て、観光客にヨットの客を引いている姿であった。余り商売熱心でなく、本当にゆったりと時が流れており、自然そのままの砂浜であった。浜は海水浴には向いていないとのことで、海水浴客もなく、キラキラと輝く海と砂浜と朝日がそこにあって、何とも言い難い美しい風景であった。今のバリにはのぞむべくもない、自然がまだ残っていた。
その、一流ホテルと言われた、バリビーチホテルも規模が大きいのに、娯楽施設と言えば、卓球台と雑貨店のような売店と、ゴルフをする人の為に九ホールのプライベイトゴルフ場があるのみであった。それでも、夜を迎へて夕食時には戸外の舞台で演じられるレゴンダンスなどが華やかに演じられて、これも初めて観る私には、大変魅力的であった。その後も20回近くのバリ島訪問では、バロンダンスやケチャ、チャロンアラン、トペンやガンブーなどの踊りに接するようになった。
![]() 著者近影(シチリア島にて) |
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当時は、バリ島の受け入れ旅行社は通称ナトラブ(ナショナル・トラベル・ビューローの略称)というインドネシアの半国営に近い旅行社のバリ事務所が、島内のバスやガイド、ホテルなどを手配しており全てにゆったりとした気風であった。
その後、日本人観光客が沢山バリを訪れるようになると、あっという間の短期間に日本資本の大小の旅行会社がバリ島を席捲した。なんとなくあの当時のゆったりしたバリを知る筆者には淋しさが残る。つまり旅本来の持つ、余裕が旅には無くなったように思える。何回かバリを訪ねるうちに、上流のカーストである、僧侶階級のカーストの出身であるガイドと親しくなり、このガイドの通称ヌラーさんから、観光のあいまに、例えばケチャダンスの鑑賞を旅行客が楽しんでいる間とかに、バリヒンドゥの概略を教えてもらった。
![]() 写真@ 神々へのお供へ |
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彼は現地人の旅行ガイドであったが、知識人であった。その後も、沢山のガイドと仕事を一緒にしたが(後述のガイドなどと)、彼のバリヒンドゥ教に関する知識は、私にとって大変バリを知る上に参考になった。最近出版されるバリの案内書にも、彼から聞いたバリヒンドゥ教の教えの一端が述べられている。バリヒンドゥ教には、沢山の神々がいて、多神教と思われているが、そうではないと彼は言ってサンヒャン・ウィディ・ワサのことを教えてくれた。バリには多くの神々がいるが、その中で、ブラフマ(創造神)、ヴィシュヌ(維持する神)、シヴァ(破壊する神)の三つの神と、それぞれ各神の妻である、サラスワティ(知恵と献身の神)、スリ(稲の神)、ドゥルガ(魔女ランダ)の六大神が特に大切な神とされているが、これ等の神々は唯一無二の神、サンヒャン・ウィディ・ワサに属し、バリ島におられる神々は全てこのサンヒャン・ウィディ・ワサの化身であるから、バリヒンドゥ教は多神教ではないと彼は述べた。最初私は、なかなか理解できなかったが、バリ人はそれを信じていることがわかり、そんなものかと思ったが、インドネシア共和国の宗教政策にも沿った考えのようだ(建国五原則パンチャシラの中の唯一神への信仰)。しかし、それぞれの寺院や神々へ供える供物は美しい花やきれいな果物が多くカラフルである。(写真@)
![]() 写真A チュルクの銀細工店 |
![]() 写真B バリ木彫の中心地マスの工房 |
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さて観光の面からみると、今日のようにホテルや見物個所もそんなに多くはなく、私が訪ねた最初の頃(1978年頃)は、観光の定番コースとして、貸切バスでホテルを出発し、キンタマーニへ向った。途中の村のバトゥブランの村で地元の青年団などが演じる、バロンダンスを30分程度見物して、その後北上してチュルクの村に散在する金銀細工(主に銀製品が多かった)に立ち寄り(写真A)、ちなみに値段は交渉次第で約四割〜五割値切れる品もあった。その後更に北上して、バリ木彫の中心地(写真B)、マスの集落の木彫工房でショッピングを楽しんだ。我が家にも当時買った木彫の作品が数点あるが、拙宅を訪ねる友人は、本当に良い作品だとほめてくれる。帰国時に重くて苦労したが、昨今、百貨店で行われているバリ商品の卸売り会のように、アレンジをした木彫ではなく、堂々たるそして素朴な木彫品が当時のバリには多かった。銀細工にしても木彫品にしても、職人が精一杯の仕事をして制作した品が多かったように思う(これ等の店も押し寄せる観光客に段々と品格を落としていったのが寂しい気持がする)。
![]() 写真C ウブドの遺跡“象の洞窟” |
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そしてその後、今をときめく、ウブドの集落を訪ねたが、その頃はウブドには観光案内所も無く、電気が引かれて四年か五年しか経ていないまだ田舎の村であった。今はバリ島内でも最高級クラスのホテルが内容と値段を誇り、日本の星野リゾートの“星のやバリ”が2017年1月に開業し、一泊九万円前後のルームチャージでオープンをしているが、当時はひなびた山村であった。
ウブドの村はずれに、1923年に発見された、ゴア・ガジャという“象の洞窟”があり、その遺跡を40分程見物した。(写真C)その後、一路キンタマーニへと向った。キンタマーニ高原は、バリ島でも著名な観光地として知られ、中心部にはカルデラ湖のバトゥル湖(キンタマーニ湖)がある。この湖は、2012年に世界遺産に指定されている。またここから眺望する、バトゥル山は、1717米の標高で1917年と1926年に大噴火をした活火山である。眺望を楽しみながら、キンタマーニのレストランで昼食のバイキング料理を食べるのが定番コースであった。何回目かの訪問時に大砲のような音を立てて噴煙を上げて噴火した時は肝を冷やしたが、レストランの従業員は、よくあることだと平気な顔であった。
![]() 写真D バトゥル湖よりバトゥル火山を望む |
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湖をへだてたこの火山は、バリヒンドゥ教徒が「地球の第一チャクラ」と呼んでいる。このレストランのあるペネロカンの集落から見るバトウル火山は素晴らしく眺めが良い。しかしこの地の土産物売りの押売りは、今でも有名だがそのしつこさは当時もひどかった。観光バスが食堂の駐車場に着くやいなや、あっという間に数十人とも思える土産物売りがバスを取り囲んでしまい、それを無視してレストランへ入らないとずっと買う迄くっついてくる。それなのでバス到着前に注意しておいても、御夫人方の中には、子供の物売りに対して同情心からか、語で何かを語りかけると、もう何か買うまで離れてくれない。
![]() 写真E 当時の500ルピアインドネシア・ルピア |
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そんな態度や日本バス運転手やガイドも地元民であり、毎日のように顔をあわすので、取り扱いも無難になり、そうするとそれを止めるのはツアーガイドとしての我々の役目となり、レストラン迄の数十メートルの道を確保するのに必死であった。(写真D)当時の両替レート(1980年頃)は一米ドルが620インドネシア・ルピア、また日本円の千円で2400インドネシア・ルピア位で両替がされたと記憶している(写真E)
ウブドからキンタマーニへの上り道はかなりの急坂で、上るに従って気温が下るのがよくわかったし、未舗装の道の脇には、バリ島名物の稲の棚田が窓から見える。それはのどかな風景で、日本の喧噪とは別天地の世界が広がっていた。そうして、キンタマーニでバトゥル湖を見物し、
![]() 写真F ティルタ・ウンブル寺院の聖水の池 |
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昼食と休憩をした後に、宿泊するホテルへ帰った。帰路にはタンパクシリンに立ち寄り、ティルタ・ウンブル寺院を訪れた。この寺院も世界遺産に後年指定された。962年に発見されて以来、千年以上も湧き出る聖水の池(写真F)や、その水を引いた寺院内の沐浴場や神殿を礼拝して、一時間半程度見学をしてホテルへ夕刻に帰るのが、何年たっても観光の定番コースであった。一日目の観光はそれで終り、二日目の午前中は州都デンパサールの街へ向い、午前中、立派な資料や絵画・彫刻等を所蔵するバリ博物館(写真G)を見学し、その後、すぐ近くにある熱気と現地産品の溢れるバドゥン市場を訪ねて、午後は自由行動というコースだった。三日目、四日目は自由行動という三泊四日又は四泊五日のバリ滞在のコースが多く、その自由行動日にジャワ島へ航空機で日帰り往復をして、ジョグジャカルタ市とボロブドールのこれも、世界遺産に指定された遺跡を見学するという自由参加のオプショナル・ツアーが催行されていた。
私がよく訪ねた1980年のバリ島への観光客は、全世界からでも、約15万人弱であり、十年後の1990年ではそれが約49万人、その内日本人が約7万1千人で、世界からバリ島を訪れる観光客の第二位となり、更に十年後の2000年には、
![]() 写真G 州都デンパサールのバリ博物館 |
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全世界よりの観光客は約141万人、日本人が約36万2千人でついに来島者の世界一になっている。それが2014年には約375万人、内日本人は約20万人と減り、オーストラリア人が約99万人で一位、中国人が約58万人で二位、マレーシア人が約22万人で三位となって、日本観光客のバリ島離れがすすんでいる。これは2002年の、バリ島南部のクタで起こった、外国人観光客202人の死亡と209人の負傷者を出した、ディスコの外国人観光客を標的にした、過激派のジェマ・イスラミアの自爆と自動車爆発テロと、2005年の、クタとシンバランの自爆テロによる23人の死者と、196人の負傷者(三軒の飲食店で三人が自爆した事件)、容疑者はこれもジェマ・イスラミアであった。共にこの場所は最近のバリ島を代表する娯楽地であり、ビーチであった。
この影響が、日本人観光客の激減につながったと考えられており、その後も日本人観光客数の伸びが鈍化した。それでは、ふり返って、バリ島が観光地として大きく変化をした要因は何であったかを、時代を、私がよくバリ島を訪問した1978年、1979年から1980年代の前半に戻って探ってみよう。
バリ島にとっては、観光は開発の手段であり、1969年にスハルト政権の早い時期に第一次五ヶ年開発計画で観光が経済開発の一つと位置づけられ、バリ島はその代表的な候補地となった。
![]() 著者近影(シチリア島にて) |
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その、第一次五ヶ年開発計画によって、バリ島の高級ホテルの所在地は、それまでのサヌール・ビーチから、1983年にバドウン半島に位置するヌサドゥア地区に移って、ヌサドゥアビーチホテルがオープンし、その後、計画的にゲートに囲まれた究極のリゾート地として沢山の高級ホテルがオープンをした。インドネシア政府の政策として、ホテルが立ち並ぶ一大造成地区が出現した。(写真@)又、1980年代半ばには、ヌサドゥアから続いて、ホテルの建築が、クタ地区にも移ったが、これ等が加わったことによって、それ迄は年間十数万人しか訪ねる観光客しかいなかったバリ島への観光客が急増をした。俗に謂われる、“観光地バリの世俗化”が始まった時代である。
![]() 写真@ ヌサドゥアビーチホテル |
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今野裕昭博士は、その論文で、バリ島の観光客の推移を、次の四期に分けている。1985年迄の観光助走期(T期)、1986年から1991年迄の、観光客漸増期(U期)、1992年から2000年迄の観光客急増増大期(V期)、2001年から現在迄の観光客縮小期(W期)、これはバリ現地に於て私が経験したことに照らしても、第W期を現在までとした観点を除いて(つまり、現在は観光客縮小期は脱していると私は理解しているので)正しい分析だと考えている。
![]() 写真A 初代インドネシア共和国スカルノ大統領 |
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更にもう少し歴史をふり返って、日本との関係でバリ島を見てみると、1942年(昭和17年)2月には、日本軍が、第二次世界大戦でオランダ軍に勝利して、バリ島の統治が始まった。そして、1945年(昭和20年)8月17日にはスカルノがインドネシア共和国の成立を宣言したが、1946年3月(昭和21年)、旧宗主国オランダが、バリ島に上陸した。(写真A)
![]() 写真B ングラ・ライの5万ルピアの肖像 |
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1946年11月20日、ングラ・ライ中佐が率いるバリ義勇軍(ゲリラ軍)が全滅した。その際、第二次大戦の敗戦後も、インドネシアに残留した、旧日本軍兵士もこの戦斗に加わっている。ングラ・ライはインドネシアの英雄として、バリ国際空港の正式名称としてングラ・ライ(又の名を、ヌラライ空港)として残され、五万ルピアのインドネシア紙幣に肖像として、使用されている。(写真B)
そんな簡略な、歴史すら知らない若い人達で、地上の楽園と言われて賑わっているのが、現状である。
![]() 写真C 現在のクタビーチ |
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クタについて、若干述べてみる。若人に人気のクタも私が初めて訪れた、1979年頃のクタとは、全く違う様相の町となっている。バリ島南部で国際空港にも近く、オーストラリア人が多く住んでいるが、1979年当時は、観光客も少なく、商店も少なかった。今では、海岸に隣接する商店街も大変多くなり、当時に比較すると格段の差である。(写真C)昔の海側から、すぐに道路となっていた場所も、海側からの砂防の為に壁が造られて、昔日の、一部の海を愛する人達の為の、のんびりとしたバリの風情は、ひとかけらも今は残っていない。残念なことである。
さて、バリ島に関する間違った認識を持っている方から、よく質問をされたことがある。それは、バリハイ島が、バリ島と勘違いをされてのことであろう。ブロードウェイミュージカル“南太平洋”(サウスパシフィック)の舞台となった場所がバリ島であると思っている旅行者が少なからずいるが、映画化された時の撮影場所は、ハワイ諸島の一つ、カウアイ島であり、確かに、バリ島には、バリハイクールズという観光用の船が運航しているが、これはあくまでも、ネーミングであり、バリハイという名前の由来は、バリ島には無い。しかしバリハイ山という有名な山は南太平洋タヒチの有名なモーレア島に実在していて、正式には、モウアロア山が正式な名前であるが、一般的にバリハイ山として、タヒチ観光では、有名な場所である。それでは実際に米兵が、“南太平洋”の劇中で滞在をしたのは、現在のバヌアツ共和国となっている、ニューヘブリディーズ諸島というのが、定説のようです。
![]() 写真D 現在のスエントラ氏 |
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もう少し、私自身の経験した、バリでの話しをしてみよう。今では、世界的に有名になったバリの音楽ジェゴクを普及させた、スアール・アグン芸術団長のイ・クトゥット・スエントラ氏は、1971年にスアール・アグンを結成したが、私が初めてバリを訪ねた頃は、まだ有名ではなく、現地の観光ガイドのアルバイトをしており、何回か仕事を一緒にした。その後、この巨大な竹の楽器を使うジェゴグは、徐々に有名になり、1984年から日本公演や、フランス・ドイツ・スイスなど欧州でも成功をして、インドネシア政府からも文化貢献賞を授与された。バリ島やインドネシアでは、有名な音楽人であるが、彼も若い時には、バリの現地ツアーガイドとしての苦節の時があったのである。その後、何回か現地で出会ったが、気さくな人柄は、昔と変っていない。(写真D)
もう一つ、我々に考えさせられる、日本の高度成長が現地の若者に与えた精神的な汚染を私の体験から語ってみたい。読者の方は、クリスをご存知だろうか。インドネシアのクリスは、2005年ユネスコの無形文化遺産(工芸)に登録されている。クリスは、その家にとっては、先祖伝来の家宝として継承されている精神性を持つ折れ曲がった非対称の刃物である。武器であると同時に、霊性が宿ると考えられている。それ故、クリスは聖剣とも呼ばれる。(写真E)この独得の剣、クリスについて私には思い出がある。それは、日本のバブル期に(1980年代後半の頃)、バリがお金の面で汚染されていった過程を思い出すのである。バリ島への高額なV・I・Pツアーを案内した時のことである。全国から募集したツアーの為、いろいろの地方から職業も種々の方、年齢は比較的高年齢の方が多かった。V・I・Pツアーの為に、バリ島での現地ガイドも、それまで何回も仕事を一緒にした真面目な日本語を話す好青年で、将来日本へ渡って勉強したいと考えているインドネシアバリ島の現地ガイドであった(〜その2〜で述べたガイドとは別人である。念のために記しておく)。そんな時に、V・I・Pツアーのガイドとして私と仕事をした時に起ったことである。
![]() 写真E インドネシアの“聖剣”クリス |
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参加者の中で、東京より参加をした、七〇才代の老人で刀剣蒐集の趣味のある人が、添乗をしていた私に是非、バリ島のクリスを見たいので、相談に乗って欲しいと言われた。クリスそのものに当時、知識のなかった私は、このガイドに相談を持ちかけた。彼の実家は、バリヒンドウ教でのカーストも上位であるということで、それでは二宮さんの為に、クリスをその方にお見せしましょうと言ってホテルへ持参してくれた。その刀剣蒐集家は驚き、これほどのクリスの名剣は恐らく、日本には存在していないと言った。そう言われてよく見ると、くねくねと折れ曲がった四十センチから50センチの短剣は把手から刀身の先まで、素人の私でさえぞくぞくし、日本刀の名剣を博物館で見るような感じであった。刀身は、日本刀のように、白く光ってはおらず、くすんだ灰色のように見えた。
彼の家に何百年か伝わったものであろう。冗談のように、蒐集家は、いくらなら売ってくれるかと単刀直入にガイドに聞いた。彼も冗談っぽく、日本円で、6万円ではと言った。彼の当時の現地ガイドとしての年収の額である(月収ではなく)。すると、蒐集家は、今現金で30万円で買い取ろうと提案をした。彼はびっくりしたようだ。彼の年収の約5年分にも相当する金額である。心が動いた様子であった。先祖伝来の聖剣を売るという心の動きが、私には悲しかった。老人に私は聞いた。何故それだけの金を出すのかと。彼は、この剣は、重文級に匹敵すると言い、30万円出しても良いと言った。私は、ガイドと彼の先祖の為に、この商談(?)は成立させたく無かった。そこで私は蒐集家に言った。日本の入国時に見つかれば、税関で法律違反に問われ、又、インドネシア出国時の検査にひっかかれば、これまたただではすまないことになると、必死に説得をした。蒐集家は未練たっぷりに、そのクリスを見ていたが、眼福させてもらったと、多額の心付を彼に渡した。あの聖剣クリスは、その後どうなったのであろうか。彼の家で大事にされて、家宝として、あがめられているだろうか。そう祈るしかない。そんなバブル期の厭な思い出がある。
その後、そのガイドはガイドをやめたのか、消息を以後しらないし、ほかのガイドに消息を聞いても、余り良い噂は私の耳に入らなかった。聖剣クリスを家から持ち出して、大金を見せられて、売却に心が一瞬動いたことに、聖剣クリスが怒った結果かもしれない。
![]() 著者近影(シチリア島にて) |
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さて、最終章の今回は、昔も今も変わらずに、バリ島発着で日本人観光客にとても人気のある、ジャワ島にある世界遺産のボロブドゥール寺院遺跡と、プランバナン寺院遺跡への、バリからの日帰りツアーについて述べてみたい。欧米等からの観光客にとっては、この日帰りツアーは、びっくりするほどに超過密なスケジュールらしい。バリ島で三泊乃至四泊する日本人観光客には、是非、おすすめをしたいコースである。
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先ず、ページ初めのコースを参照して欲しい。これはJTBバリ支店が催行する“マイバス・バリ”のバリ島から日帰りのコースの旅程である(注:デラックスコース約四万二千円・一人当たり代金・最少催行人員二名。旅費に含まれるサービス:日本語ガイド・ホテル送迎サービス・朝食・昼食(ホテルアマンジオにて)・各施設入場料・航空代金・空港税)。予約さえすれば安心・安全にバリ島よりジョグジャカルタへ飛び旅程通りの日程で観光が出来る。
私が始めてバリ島を訪れ、このコースを利用した時には(1972年)、既にバリ島の空港とジャワ中部のジョグジャカルタ間には、ガルーダインドネシア航空の国内線ジェット機が就航しており、飛行距離にも変更はないので、昔も今も約一時間十分で両空港を結んでいる。
![]() 写真@ ボロブドゥール寺院遺跡(世界遺産) |
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このコースで訪れる、ボロブドゥール寺院遺跡は、ジャワ島中のケドゥ盆地にある世界的に有名な大乗仏教遺跡であり、無論、世界遺産にも登録されている(1991年に登録)。ジョグジャカルタの東南約40キロメートルの所にあり、紀元790年頃完成したと見られ、その後に増築がされている。(写真@)八世紀後半から、九世紀にかけて栄えた、ジャイレーンドラ王朝によって造られたと考えられているこの遺跡には、おびただしい仏像やレリーフなどが飾られている。(写真A)高さは当初は42メートルあったが、現在は破損をして、33メートル50センチなっており、九層のピラミッド状の構造で最下段に一辺115メートルの基壇がある。この形状から、世界最大級のストゥーバである。この遺跡の詳細は、紙数の問題もあり、この章では語りつくせないが、沢山の著作物があるので興味のある方は、それらを読んで旅行をすれば、ただ漠然とツアーに参加するより、はるかに得る物が多いと私は考える。
![]() 写真A ボロブドゥール寺院遺跡のレリーフ |
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この遺跡は、地盤沈下や近くにあるムラビ火山の噴火により、1960年代には崩壊の危機があったが、1973年から10ヶ年計画で、ユネスコ主導で二千万ドルをかけて修復工事が行われ、1982年に完成をした。私はこの修復時期にも何回か現地を訪れたが、いったい何時この工事は終わるのだろうかという程に、遅々として工事は進捗しなかったが、例えてみれば姫路城のように、長い年月をかけて本当に立派に綺麗に修復をされた。この修復工事には資金の拠出や工事協力に日本が多大の貢献を行ったことも忘れてはならない。
![]() 写真B ムンドット寺院(世界遺産) |
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次に訪れる、ボロブドゥール寺院の東三キロメートルにあるムンドット寺院(写真B)は、1834年に密林の中から発見された仏教寺院で、内部には大変美しい釈迦三尊像が安置されており、その他、美しい鬼子母神のレリーフ等がある有名な寺院であるが、このオプショナルツアーではわずか20分弱しか時間がとられていない。この寺院も1991年にボロブドゥール寺院遺跡群として世界遺産に登録されている。その後、このデラックスコースはボロブドゥール寺院の近くのアマンジウォホテルで昼食をとり(写真C)、午前中のコースは終了する。
![]() 写真C アマンジオホテルの食堂 |
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デラックスコースとスタンダードコースの料金の差は、主に昼食に利用するレストランの雰囲気や料理内容の違いが多い。又、それよりも更に安い格安のバリ島からの日帰りの、ボロブドゥールとプランバナン寺院日帰りツアーとの差は、格安航空機(LCC)を利用している。デラックスコースと格安ツアーとの差は概略一人当り日本円に換算して約一万円であるが、どれを選ぶかは、各人の自由であるがやはり相対的にツアー代金はそれなりに設定をされており、私は経験上、内容に比例していると考えている。
![]() 写真D ジョグジャカルタ独特のバティックの模様 |
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約一時間余り昼食(アジアン料理)を楽しみ、午後はバティック工房を訪ね、制作現場とショッピングを楽しむ、ジョグジャカルタはバティックが有名であり、是非良い作品を買うことをおすすめする。私も行く度に買い求めたバティックのシャツを何年たっても夏の季節に着用しており、機械でプリントした製品ではなく、手仕事のバティックは色あせすることもなく、一寸高いが(それでも日本円に換算すれば、決して高額ではない)、自由時間があればバティックの商店が集まる地域を見て回るのも楽しいが、日帰りツアーでは訪ねる店が限られている。(写真D)前後するが、この日の朝食はバリ発が早朝の為に、ジョグジャカルタ空港に着いて、空港近くのホテルでブッフェスタイルの朝食の場合が多い。
![]() 写真E サンビサリ寺院 |
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昼食をとった後、サンビサリ寺院を短時間見物する。西暦812年から838年頃にかけて建設されたと考えられており、仏教王国のシャイレンドラからヒンドゥ王国のサンジャヤへ勢力が移った頃の建造だと思われている。ヒンドゥ教の寺院であり、シバ神を祭っている。1966年に農民が偶然に耕作中に地中から発見した。中央の寺院中には男根(リンガ)が祭られている。(写真E)
![]() 写真F プランバナン寺院遺跡 |
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その後、プランバナン寺院へ向う。世界遺跡としてのプランバナン寺院遺跡群の中の中心的寺院であるヒンドゥ教の遺跡として、前述のボロブドゥール寺院と共に、インドネシアが世界に誇る文化遺産として有名である。(写真F)建造年代は、九世紀末から十世紀初頭といわれているが、例にもれず中世の1549年の大地震でほとんどが崩壊して、1937年から修復工事がされていたが、2006年5月のジャワ島中部地震でまたまた壊滅的な破壊をうけた。それでも、修復作業が翌2007年から始まり、現在観光客を受け入れてはいるが、全体の修復の目途は立っていない。周辺の中小の寺院群を含めて世界遺産への登録であるが、その中のプランバナン寺院を中心に、ツアーは一時間程度で見物を終えて、ジョグジャカルタ空港へ戻り、航空機でバリ島に帰り宿泊するホテルへ送ってくれる。日帰り約19時間のコースである。旅行日程に余裕があれば、ジョグジャカルタに二日ないし三日程宿泊してこの古都ジョグジャカルタもゆっくり観光をしたいものである。
さて、プレイバック・バリ(バリ島の今昔)として、その概略を記してきたが、バリ島はインドネシア共和国に属して、面積が5632平方キロメートルある島で、日本の東京都の約二倍の広さ、人口は約420万人でバリ人が90%を占めており、インドネシア全体ではイスラム教徒が87%を占める中で、バリではヒンドゥ教徒が約90%を占めている。乾季と雨季があって五月から十月が乾季、十一月から四月が雨季の目安である。また、インドネシアの中でバリ島とジャワ島のジョグジャカルタの間には時差が一時間あるので注意して欲しい。
いずれにしても私の76年(1942年生れ)の中でバリ島の長い間の変遷はめまぐるしく、素朴な楽園の島から、現在の姿を考えると、なんともいえない懐古の情が胸にうずくように浮んでくる。
![]() 筆者旧影 |
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1では、くもん子ども研究所・こども浮世絵による江戸子ども文化研究・くもん浮世絵コレクションと中城さんの果たされた功績と役割、役割を担われるのに相応しいたくさんの背景などがよくわかりました。
写真で紹介された著書の中で「浮世絵の中の子ども達」はまだ読んでなかったので、すぐに豊田市図書館に借りに行きました。閉架図書となり、しかも、閉架図書の整理中で、やっと12月5日に貸し出しとなりました。 (注:豊田市大きな「市」ですが、中心部に1館あるのみです。分館もありません。)
手にして、立派さに驚きました。先の3冊を拝読していたから、私は読みすすめられたと思います。読み終えたら、メールをとおもっていましたが、そのままになりました。写真の中の右下の 「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は図書館で検索してもありませんでした。
本の中のそれぞれの方の著述から、又、新しいことをたくさん知りました。単純なことでは、毬杖から左利きをいう「ぎっちょう」が、なるほどと思いました。江戸時代の子どもの存在を士農工商の階層からの視点は、目新しいことでした。
中城さんの「子ども絵のなかの中国年画」も興味深いものでした。昔話も中国の大昔とつながりがあるのですね。感想の一端で失礼します。
版画万華鏡2は、話題が広がり、また、興味深い物でした。訪れたこともある場所でも、全く気がつかない事でした。「無知」はもったいないですね。
それから、余分なことです。先日、豊田市図書館の子ども図書室で見かけた本の事です。全体として、この本を評しているのではないことをお断りして「浮世絵」に関しての所で、気になったことを書かせてもらいます。
「人物・テーマ・ごとに深堀り!河合先生の歴史でござる」 河合敦著(著だったかどうか?) 朝日学生新聞社発行。発行年は昨年か今年です。
「浮世絵が版画になって大流行」という項目があります。(p164〜165 これは記録してきました。この2分の1位が浮世絵に関してです)。浮世絵とあったので、ちょっとわくわくしながら、そのページを開きました。
・作品として 見返り美人・(まとめて)大首絵・(まとめて)美人画・(まとめて)錦絵富嶽三十六景・東海道五十三次
・人物として 菱川師宣・鈴木晴信・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重
・写真 喜多川歌麿「難波屋おきた」
児童図書なのに、中城さんの紹介のように浮世絵には子どもがたくさん登場することを述べられていないのは残念です。写真でも、1枚それをのせたら、子どもはもっと興味を持ち身近に感じることでしょう。私もこの本のような知識で過ごしてきましたが、新しい本なのに、内容が変わっていないのです。子ども浮世絵は、まだまだ、世に知られていないのでしょうか。
中城さん 版画万華鏡3を楽しみにしています。よろしくお願いします。
冨田様
HP丁寧に読んでいただき、また「浮世絵の中の子どもたち」まで取り寄せ、恐縮です。この本では、黒田先生はじめ各分野を代表する研究者に参画いただき、「子ども浮世絵」を分析いただきました。多くの先生方と、今も交流しています。
先日、國學院大学でも若い大学院生を中心に、「子ども浮世絵」の研究会があり、徐々に研究者が広がりつつあります。ただ、浮世絵ましてや、「子ども浮世絵」の理解者は、歴史家・美術家でも、まだまだです。この席でも日本女子大名誉教授・及川茂さんが、欧米では日本美術で浮世絵が庶民の風俗や風景を独自の描法で描いたとして最も高い評価を受け、粉本模写中心だった狩野派など日本画はほとんど評価されないのに、国内ではおかしいと嘆いていました。
河合先生のような日本史だけでなく、美術史の先生でも、浮世絵や子ども史への新しい視線を持っていません。江戸の教育史などもイギリス人ドーア氏が『江戸時代の教育』(岩波書店)で正統に評価、アメリカ人ハンレーさん『江戸時代の遺産』(中央公論社)も同様です。日本は明治政府による極端な江戸文化・庶民文化否定、欧風貴族文化尊重が、長く残っていました。
「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は、展覧会の図録なので、図書館には入ってないです。残された時間・体力と相談しながら、若手研究者との交流、資料の引継ぎをしています。そして、浮世絵を使った子ども絵本の企画も進めたいと思っています。
中国年画では、名古屋大の川瀬千春さんが30年ほどまえに博士論文「戦争と年画」を書いた際に、資料提供した事があります。浮世絵では、名古屋市美術館の神谷浩さんがいます。
「石の宝殿」面倒をかけましたが、冨田さんに続いて、高砂市からも下記の反響がありましたので、お知らせします。
では、よいお正月を!
中城 様
ご連絡いただき、有難うございます。ホームページ拝見させていただきました。図の画質が良く拡大もでき、とても見やすかったです。現地の写真も豊富で、石の宝殿を含め、実際の遺跡に行ってみたくなる印象を受けました。
この度は、石の宝殿を取り上げていただき、有難うございました。また今後とも、高砂市の文化財行政にご協力の程、よろしくお願いします。
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高砂市教育委員会 生涯学習課 文化財係 奥山 貴
〒676-0823 兵庫県高砂市阿弥陀町生石61-1
Tel 079-448-8255 FAX 079-490-5975
E-Mail : tact7610@city.takasago.lg.jp
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![]() 2019/1/7(月)〜2/4(月)キャノンオープンギャラリー1:キャノンSタワー2F |
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![]() 案内図 |
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2019年のCANONカレンダーに掲載された作品(世界遺産を訪ねて)を展示しています。郷土出身の偉大な写真家(土門拳賞、紫綬褒章受章)の世界を堪能されて下さい。
入場無料
![]() 筆者近影 |
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正月から2月17日まで、町田市の国際版画美術館では「新収蔵作品展」を開催している。昨年に続き、今年も「中城コレクション」が16点展示されているのでご案内したい。多くは、新年にふさわしい江戸時代の吉祥画である。
同美術館の案内状には、「本コレクションの特徴は、吉祥画題を描いた版画が多数含まれていることです。なかでも中城氏は、豊作や商売繁盛、勤倹貯蓄を表す「金のなる木」の図像が、多数の浮世絵、引札、民間版画に見出せることに注目し、収集しています。もとは中国版画にみられる「揺樹銭」のモチーフから発展したもので・・・」等とある。写真は寄贈コレクションより二点。
・交通 JR横浜線・小田急「町田駅」下車徒歩15分****入場無料
・電話042―726―2771
![]() 「金之成木」渓斎英泉 天保弘化頃 |
![]() 「七福神宝船」作者未詳 天保頃 回文 |
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![]() 筆者旧影 |
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今晩は、藤宗俊一さん。
開いて、ぱっと、「淑徳大学公開講座」が目に入り名古屋市のあの大学でと、興味がわき、読み始めました。まずは「お城」ではなく。
お城をまとめて分かりやすく論じていらっしゃるし、お城は余り訪ねていないようで、案外見ているのだと思い出しながら、楽しく拝読しました。
日頃はあまり気にしてはいない、「お城」の事にこうして触れられるのは、HPのおかげです。藤宗さん、ありがとうございました。
最初の方の「惣構え」は、珍しい言葉だったので意味を調べてみました。お城の中で、一番好きなお城はやはり「高知城」です。
日頃、なんとなく興味を持っているのは、「山城」です。ここ豊田市は広大な山間部のある所で、「山城」や「山城の跡」があちこちにあるからです。なかでも、豊田市が観光地として重きを置いているのは旧足助町にある「足助(あすけ)城」です。紅葉の名所、香嵐渓の近くにあり、自然をうまく使って、山頂にある小さなお城は矢作(やはぎ)川筋の街道が眼下に小さく見え、一目瞭然です。
![]() 岩村城(霞ヶ城…日本100名城)1575-1600:山城 丹波氏、松平(大給分家)氏:本丸の6段の石垣 |
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何度かいきましたが、昔の人はいい所を見つけたものだと思いました。また、旧稲武町にある「武節城跡」も地域の方々が、研究され整備されています。詳しい説明をきいたことがあります。ここは、全体が山でその平たい所に、お城があったので、山城とはいわないかもしれません。また、再建されないままに残っているところも、興味深かったことを思い出しました。私の住んでいる豊田市隣の恵那市にある「岩村城」です。「安土城」も再建前に行きました。
「残存天守は12城」には、そんなに少ないのかと驚きました。その中に、四国のお城が4つもあるのですね。私は高知城以外の3つのお城には行ったことがないので、インターネットで見てみました。どれも美しい姿ですね。丸亀城が日本一石垣の高い城ということも初めて知りました。四国に4城も残っていることは、四国が平穏だったということでしょうか。というのは、私の近所に住む方が、「私が学童疎開をした日は、(アジア太平洋戦争名古屋大空襲で)名古屋城が炎上した日。だから、日にちをはっきり記憶している。昭和20年5月14日。」と、時々話されるからです。それから、ついでに、その金の鯱が再建されたのは、1959(昭和34)年。この時、故人となられた大野令子さんと私は、落成式(というのか?)直前の屋根に置かれた鯱を見たのです。第10回高新連大会に参加した後、名古屋の私の伯父の所により、名古屋城へ連れて行ってもらったのです。
おもいつくままに、いろいろ書かせていただきました。
![]() 筆者近影 |
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今回のラインナップは、いかにも高齢者層に向けたような二作品が並んでいるが、実際に高齢になってから観るのでは遅いよという内容だ。奇しくも『ロング、ロングバケーション』のオープニングに、キャロル・キングの歌う♪イッツ・トゥ・レイト♪が設えられているのは、そういう意味合いがあってのことなのかもしれない。
劇中早々に流れ、エンディングでも流れるジャニス・ジョプリンの歌う♪ミー・アンド・ボビー・マギー♪のなかの「Freedom's just anotherword for nothin' left to lose(自由とは、失うものが何もないってこと―)」という歌詞がしみじみと伝わってくる終活映画だった。
キャロル・キングもジャニス・ジョプリンも時代を象徴するシンガーで、エラと歳の頃を同じくする女性たちなのだろう。彼女たちの生き方に共通するのが自己決定権の行使であり、常識に囚われない行動力の発揮なのだというのが作り手の想いなのだろう。味わい深い選曲だ。
![]() 『ロング、ロングバケーション』ポスター |
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老いた男というのは押し並べてそうなのだろうが、いかにもお気楽で手のかかる子供のような存在だ。子供ならしでかさないような不埒もうっかり晒したりする点に、他人事ならぬ危惧を抱く御仁もいるのではないだろうか。そういった事々に苛立ったり憤慨したりしながらも全て呑み込んでいける度量をエラにもたらしているのが、喜怒哀楽を共にした五十年だけではなくて、この“失うものが何もない”という状況でもあるわけだ。そのことがしみじみと伝わってきて、得も言われぬ感慨をもたらしてくれる。若く元気なうちは、なかなかこの境地に至れるものではない。さればこそ、エラとジョンが味わっている自由を、観る側もじっくり噛み締めたいところだ。
映画を観ているうちに次第にフロリダ行きの目的は、単にヘミングウェイの家を訪ねることだけにあるのではないはずだと誰しもが思うように進んでいくのだが、フロリダで待っていたものに驚かされた。そして、そういった運びのなかに込められている作り手の人生観に、大いなる好感を覚えた。意表を突く場面の連続とも言える脚本が秀逸で、奇を衒っているようには映ってこないところが素敵だ。人生とは、悲喜こもごもを抱えつつ、余暇を求めて旅することなのだ。それゆえに、二人が乗り込んで旅するポンコツ車の呼び名“レジャー・シーカー(余暇捜索者)”が、本作の原題にもなっているのだろう。そして、その先に待っているのが邦題となっている“長い、長い休暇”なのだろう。どちらとも、なかなか良い題名だ。
バーガーを食べたいとやおら言い出す夫に付き合いながらも、自らは一口齧るだけでいいと水しか注文しないのは、病状の重篤さによる食欲減退もあろうが、常々倹約を心掛けていることが偲ばれた。その一方で、「たまにはきちんとしたベッドで寝たい」とキャンピングカーを降りたものの、「500ドルのスイートルームしか空いていない」との応えに怯みつつ、四割近い値引きとなる「320ドルにまける」と言われると、「少し高いけれども」とすぐさま釣られる庶民感覚が微笑ましい。ささやかなスペシャルナイトを楽しんでいた彼らの味わい深い道中を堪能させてもらったように思う。イタリア映画らしいポジティヴ感が本当に気持ちよく心に沁みてきた。
『輝ける人生』(Finding Your Feet) 監督 リチャード・ロンクレイン
もう一方の作品『輝ける人生』もまた、物語の背景には認知症と癌があった。一見すると、対照的な結末のようでいて、実は大いに通じるところのあるイギリス映画だ。
![]() 『輝ける人生』ポスター |
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仲睦まじく暮らしてきたはずなのに、夫である自分を認知できなくなった妻に涙していた愛妻家のチャーリー(ティモシー・スポール)と、『ロング、ロングバケーション』のエラとはキャラクターが被るようなところのあるビフ(セリア・イムリー)の導きによって、彼女の妹サンドラ(イメルダ・スタウントン)が人生の歩み直しを始める物語だ。サンドラは、警察本部長にまで栄達した夫のキャリアにぶら下がっているだけの生き方を、お高く取り澄ました生活態度で過ごしてきている女性だ。今だにマリファナを吸っているような自由気ままな姉とは疎遠にしていたのだが、夫が顔見知りの女性と浮気していたことに憤り家を出たものの、行き場がなくて姉の元を訪ねる。
かつてプロを目指したこともあるダンスからもすっかり遠ざかっていたサンドラが、姉に誘われた高齢者ダンス教室で、得意としていた足さばきを少しずつ取り戻し、見つけ出していく姿が原題の直接的に意味するところなのだろう。だが、同時にそれは「(大地を踏みしめるようにして地に足の着いた人生を歩むための)あなたの足を見つけること」でもあったようだ。本来の自分が立つべき足をサンドラが見つけ出していくエンディングの待っている本作の主題を確かに表してもいた。
そういう意味では、どちらの作品も“自己決定権の行使と常識に囚われない行動力”を称揚していたように思われるが、イタリア映画のほうがややシニカルで、イギリス映画のほうがより楽天的だというところが、双方のお国柄の反対をいくようで興味深い。
ビフが妹に言っていた「死ぬことを恐れているからって、生きることまで恐れないで!」との言葉は、エラにも通じていて、たとえ死期が間近に迫ろうとも、残された生を果敢なチャレンジ精神で臨む天晴れな終活が見事だった。両作ともに、'60年代の政治の季節を過ごし、反体制的で、性差別や人種的偏見を乗り越えようとして生きてきた時代のタフな女性たちの映画であると同時に、大いなる観応えと示唆を次代に与えてくれるエンターテインメントになっていた。ある種の辛辣さを笑いで包み、歳が幾つになろうとも、人には為すべきことがあることを教えてくれる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/ (『間借り人の映画日誌』)
http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html (『ヤマさんのライブ備忘録』)
![]() シチリア地図 |
![]() 筆者近影(シチリア島にて) |
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シチリア島と呼ぶ方が、シシリー島と言うより、私にはすっきり腑に落ちる語感がする。そのシチリア島には長年にわたって行ってみたいと思っていた。イタリア半島の観光を含めヨーロッパ諸国へは何十回も訪れているが、この場を訪れる機会が今迄になかった。それだけに期待も多かったし期待以上に得るものが多かった平成25年の私の紀行である。これはシチリア好きの仲間が集まって企画したツアーである。
![]() 出発前、エトナ火山噴火の様子 |
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ところが訪ねる日程も決まった平成25年12月直前になって11月23日にエトナ火山が噴火をして火山灰が降りそそぎ、火山周辺の街や村に大きな被害をもたらした。このヨーロッパ最大の活火山はシチリア島東部にあり、標高は3329mあって過去にも紀元前からの大噴火をくり返している有名な山である。我々の出発4日後の12月4日には噴煙が約7000mにまで昇った大きな爆発であった(写真@)。日程も全て決まりあとは出発するだけとなっていた旅行直前なので、企画して、自分も参加して楽しもうと思っていた旅行でもあったが、なにより安全第一であり、参加中止も同行仲間と検討したうえで、予約をしているアリタリア航空に確認したところ、航空機の運航に支障は無く、現地の人は、世界中の報道機関が驚いて報道するほどに騒いではいなく、数十年に一回の比較的大きな噴火と理解しており、特に旅行全般に関して言えば、エトナ火山の観光(エトナ山観光はシチリア島でも有名)さえ無ければ、影響は先ず無いとのことなので出発することに決めた。
シチリア島へは、日本からの直行便はない。その為に今回の旅行には、アリタリア航空を利用して、ローマ経由で、シチリア島の州都パレルモ市へ向かった。(写真A・B・C)
![]() 写真Aアリタリア航空A330型機 |
![]() 写真Bアリタリア航空A330型機内 2列、4列、2列のエコノミークラスの座席 |
![]() 写真Cシベリア上空より望む |
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関西空港を12月1日の日曜日午後2時30分に出発したアリタリア航空エアバス330型機は、出発して8時間を経過した時点で高度1万1千メートル、飛行速度850キロメートルでロシア上空を、外気温マイナス56度、関空から6000キロメートルの距離を順調に飛行し、ローマまであと5時間の距離である。
![]() 写真Dシチリアパレルモ空港到着時 州旗の三本脚紋 |
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機は現地ローマ時間午後9時30分にレオナルドダビンチ空港に到着をした。冬時間で日本とイタリアの間には、8時間の時差があり、飛行時間に13時間を要したことになる。ローマで乗り継いで、シチリア州の州都パレルモまでは空路約1時間で着く。パレルモには午後11時30分に到着した。時差の関係もあるが、関空を午後に出発して、同日深夜にはパレルモに到着したことになる。ロシア上空飛行が解禁されて随分時が経過したが、そのおかげで日欧間の飛行時間が随分と短縮されたことになる。(写真D)
![]() 写真Eアストリア・パレスホテルの外観 |
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入国手続き後、専用のバスにてパレルモ市内のホテル、アストリア・パレスホテルに到着した。日付は12月2日に変わっていた。(写真E)部屋は9階でツインルームを1人で使用した。少し古い感じのホテルだが、一応は四ツ星クラスのホテルである。私自身は、ホテルは先ず第一に防火面での安全であり、清潔であり、浴室・洗面所のお湯や水が満足に出たら、どの国でも合格点を出している。ふり返って日本の大都市のホテルは余りにも華美に過ぎると思うことがよくある。
![]() 写真Fシラクーサのアポロン神殿跡 |
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さてシチリア島の歴史は、紀元前1300年ころのシクリ族の入植から始まり、カルタゴ、前756年のギリシャ人の入植、ローマ、ビザンティン帝国、アラブ人、ノルマン王国、ドイツ神聖ローマ帝国、フランスアンジュ一家、アラゴン王国、オーストリアハプスブルク家、統一イタリア王国と支配者は変遷を極めている。地政学的に見ても地中海の要衝であるために民族も多様に混淆している。イタリア王国に統一されてわずか114年しかたっていない(2013年現在)。まだ日本が神話の時代、神武天皇が没されたと日本書紀に記されている紀元前585年の10年ほど前の紀元前575年頃には、シラクーサにギリシャ世界最古の
![]() 写真Gシチリア州旗トリスケレス |
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石造神殿といわれるアポロンの神殿が建設されている程にシチリアの歴史は古いのである。(写真F)地中海世界のまん中にあり、地中海内の最大の島である。シチリア島は約2万5千7百平方キロで、九州の約70パーセントの面積を持つ島である。島の形が三角形に近い形から「トリナクリア」と言われる三つの岬の名を持つ島である。それに由来するシチリア州旗はトリスケレス(三本脚紋)として島を象徴している。(写真G)
2013年現在、イタリア共和国の総人口は約5800万人でシチリア島の人口は約504万人であり、総人口の約9パーセント弱を占めている。
我々は、一夜をパレルモのホテルで過ごし、いよいよ2013年12月2日(月)から、シチリア島の観光と歴史の旅が始まった。
先ず、ホテルを9時に出発した我々の専用小型バスは(シチリア大好き人間様14名用)、パレルモより東約67キロメートルのチェファルーへ約1時間30分を要して到着した。チェファルーの村は2011年にイタリアで最も美しい村々の一つに選ばれた村である。(写真H)
ここでは、大聖堂や中世から海岸沿にある今も現役で使用されている洗濯場が有名である。大聖堂は1131年アマルフィを制してパレルモへ帰還する際に、ルッジェーロ2世の部隊が嵐の中無事に帰還できたことを神に感謝してここに建てられた、ノルマン時代のシチリアの代表建築であり、2015年に世界遺産に登録されている。(写真I)山から流れてきた水が洗濯場を通り、すぐ目の前の海へそそいでいる。(写真J)
![]() 写真Hチェファルーの町並みと大きな岩山のラ・ロッカ |
![]() 写真Iチェファルー大聖堂の外観 |
![]() 写真J中世の洗濯場は今も現役 |
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さて、この日の午後は、チェファルーからパレルモへとって返しパレルモ市内の観光である。パレルモ市内見物だけでも3泊か4泊したいところだが、9日間の(それでも日本から9日間のシチリア島のみの観光は珍しい中で)
![]() 写真Kパレルモ大聖堂 |
![]() 写真Lパレルモ大聖堂の塔 |
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日程では、半日観光が精一杯である。それも代表的な有名スポットを回ったにすぎなかったが、記述してみる。
先ず大聖堂(カテドラーレ)を訪ねた。7世紀に創建され、その後モスクとして使用され、たびたび改修されておりこの島の複雑な支配者の建築の歴史の積み重なった、悪く言えば“ごった煮”の複合建築である。(写真K・L)
とにかく時間が欲しい。見るものが多くて歴史的な流れが、短時間ではつながらないというのが、印象であった。
![]() 写真Mパレルモのマッシモ劇場 |
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次にマッシモ劇場を見学した。ネオ・クラシック様式の劇場で外観も内部も豪華であり、こんな小さな島に不釣り合いとも思える建物であり、創建当時の1897年には、ヨーロッパ最大級の劇場であり、現在でも収容人員1380余のヨーロッパでも有数の劇場である(オペラ劇場)。(写真M)
![]() 写真Nノルマン王宮の 入り口の案内板 |
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次いでノルマン王宮へ向かった。現在はシチリア州議会場として使われているが、11世紀にアラブ人が築いた城壁の上に、12世紀になってノルマン人が拡張した典型的なアラブ・ノルマン形式の代表的な建築物である。その後もホーフェンシュタウフェン家、アラゴン家等の変遷を経ているが、歴代の王の住居でもあった。(写真N)
このノルマン王宮の2階には、パレルモ市を代表するアラブ・ノルマン様式の礼拝堂がある、歴史的に見ても、その華麗さからしてもパレルモの至宝とも言われる、パラティーナ礼拝堂(宮廷付属礼拝堂)がある。その内容を写真で見てみよう。
![]() パラティーナ礼拝堂入口2階 にあるマグエダの中庭に面した回廊 |
![]() パラティーナ礼拝堂のクーポラには キリストが描かれている |
![]() 床にはイスラムとビザンティン 文化の融合したモザイク模様が美しい |
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ノルマン王朝のルッジェーロ2世によって聖ペテロに献堂されたこの礼拝堂はシチリア島で必見の美しさであろう。
![]() 写真Rクアットロ・カンティ壁面 |
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さて我々は、限られた時間の中で、パレルモ旧市街の中心、クアットロ・カンティに向かった。17世紀に造られた「四ツ辻」である。
広場に面した4つの建物の各壁面には、一番下段に四季が表現された噴水、二段目には歴代スペイン総督、三段目に町の守護聖女が彫刻されている。(写真R)超多忙なパレルモの午後の観光を終わって、前日と同じ、アストリア・パレスホテルに帰館したのは、午後8時を過ぎていた。何と充実した1日であったことか。
昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、J.T.B OB会員、神戸市在住
<版画万華鏡・4>はすぐに拝読しました。![]() 筆者旧影 |
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名古屋市博物館で開催されている「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」での神谷浩氏の講演「国芳と芳年の快感」をきいてからお返事しようと思っていました。講演会は2月24日、もう1週間以上もたってしまいました。
「和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子どもたち」では、子ども浮世絵の世界とその世界から色々な物事に広げていただきました。
・武士の子どもの様子の登場
・米将軍吉宗の事
・葛飾北斎の事
・打毬の発祥の起源地
ポロと同じとは。だんだんとその地域の自然環境や文化や慣習によって変わってきた、長い歴史を持つものであること。私は題を見た時に、中城さんが「和製ポロ」と表現されたのだと思っていました。
・ずっと生きている「打毬」のこと 写真が素敵です。
・「千代田之御表 打毬上覧」楊洲周延 明治28年頃(筆者蔵)の立派な事
明治28年頃が気に留まりました。先日行った名古屋の展覧会にも明治時代の作品がかなりありましたが、10年代がほとんど、23年作が1点で、それ以後の作品はありませんでした。
私が最も胸を打たれたのは、中野真一郎さんの評でした。「これら版画のなかの母親も、子供たちも、何と人生を信頼し、親子の断絶だの、登校拒否だの・・・知らずに、愉しく寄りそって生きている・・・。彼らは自分の身のまわりの物から遊び道具を工夫して、次つぎと珍しい遊戯を発明し、お互いの心の交流を習得していっている」(中城さんの文章からコピー)なんといい環境の中に子ども達がいるのかと感激に自然に涙があふれました。現職中、家庭の崩壊など子どもにとって不幸な状況を目のあたりにし一人の教員の無力さを痛感してきました。子どもには自分の生きる環境は選べません。どの子も安心して生きられるようにと願うこのごろです。
さっそく、図書館で「眼の快楽」を借りて読みました。その中に、中城さんの著書に執筆をされたような文章がありましたので、図書館の「浮世絵」の書架の所に行きました。そこで新たに「母子絵百景 よみがえる江戸の子育て」を見つけました。中城さんも執筆されていますので、後日、読みたいと思います。
名古屋の展覧会は150点もの浮世絵が展示されていました。展示構成は5部。1、ヒーローに挑む 国芳がもっとも劇的に深化させたのは武者絵 2、怪異に挑む ヒーローを際立たせる 3、美人画・役者絵 浮世絵の王道 4、話題に挑む 人々の関心事、楽しみを伝えると言う浮世絵の本質部分 5 「芳」ファミリー(の作品)神谷浩さんの講演もこれにそって、作品を映し出しながら浮世絵の魅力を精力的に話されました。ご自身が「浮世絵」をとても慈しんでいらっしゃることが伝わってきました。
今回の展覧会は中城さんの著述がなかったら全く目にも止まらなっかたことです。しかし、この展覧会は、「浮世絵」に俄か興味・好奇心の域の私にとっては意表を突かれた感も否めません。それだけ「浮世絵」は広くて深いということでしょう。今回の展覧会には明治時代は?という関心は持っていきました。明治時代に急激に衰退(といっていいでしょうか)という印象でした。残念に思います。
次回「浮世絵そっくりさん」を楽しみにしています。
浮世絵に関心を寄せてくださり、また「打毬」の記事を丁寧に読んでいただき、有難う。
国芳に関しては、以前「浮世絵戦国絵巻」展の図録に、小論「黒船来航と城郭炎上図」を書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した浮世絵を制作、南町奉行所から始末書を取られた話にも触れました。彼らは、出島経由で西洋の画集も入手、遠近法を街並み描写に活用しており、なかなかの知識人でした。
幕末から明治にかけて、北斎・歌麿などの浮世絵が、新しい絵画表現を模索していた印象派の画家に大きな影響を与えます。中でも、母子の日常生活を描いた作品は、メアリー・カサットなど、女性画家に身近な家庭にも題材があることに気付かせ、元気づけます。浮世絵は、近代西洋絵画にも大きな影響をあたえ、欧米で高く評価されました。しかし、日本のアカデミズムからは、戦後まで無視され、名作も海外に流失しました。
中村真一郎(中野ではなく)さんも、すごい教養人でおもしろい作家でした。東京の御家で加藤周一、堀田善衛という近寄りがたい碩学を紹介されたり、熱海のマンションで画家たちと飲み明かして泊めていただいたり、思い出がつきません。
![]() シチリア地図 |
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昨日は、晴れたり、曇ったり、又一時雨が降ったりと変幻極まりない天候だったが、今日平成25年12月3日(火)のパレルモは、日の出が午前6時50分で、天候は晴れであり、これから見物する、モンレアーレやセリヌンテ、アグリジェントも晴れであって欲しいと思い朝9時半にホテルを出発した。
今日のバスの行程は先ず約10キロメートル位パレルモの郊外内陸部のモンレアーレを見物した後、再び南下して約2時間で106キロメートルを走り、セリヌンテのギリシャ神殿群を見物し、東へ約2時間をかけアグリジェントへ至るコースである。どれもシチリアを代表する観光ポイントであり、楽しみである。現地在住の日本人女性ガイドO女史は、何度もこのコースを巡っているのか、格別の感情を持っていないようで淡々と自分の仕事をこなしている。余談になるが、私の現役J.T.B時代は旅行に随行して添乗する場合は、私にとっては何回目の場所であっても、参加の皆さんは、多分一生に一度の訪問先であろうからと、清新に仕事をしたものだがと考えながら、何か不真面目な点があれば言っておこうとおもっていたが、初日の出迎えから、淡々としており、これは性格かなと考えながら説明を聞いているが、過不足なく仕事をこなしている。
![]() 写真@モンレアーレ大聖堂 |
![]() 写真Dモンレアーレ展望台から |
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さて、バスはモンレアーレに到着し、アラブ・ノルマン様式の美しいモザイクでおおわれているモンレアーレ大聖堂(ドゥオモ)見物である。昨日訪ねたチェファルー大聖堂(カテドラーレ)と同じく2015年7月にアラブ・ノルマン遺産として世界遺産に新しく指定された名建築である。このドゥオモは1174年から1182年にかけて、グリエルモ2世によって建造された華麗で重厚な建造物である。(写真@)内部では有名な全能のキリスト像を描いたモザイクが世界的に有名である。(写真A)又、堂内には多数のモザイク画が描かれており(写真B)、又、回廊も美しく(写真C)時間がもっと欲しいと思われてならない。見物を終え、ドゥオモを出ると、何と豪雨になっており、天気であれば美しく見える筈の海とコンカ・ドーロとパレルモの街のパノラマは、残念ながら見えなかった。(写真D)
![]() 写真Aモンレアーレ大聖堂 キリスト像 |
![]() 写真Bモンレアーレ大聖堂内 モザイク像 |
![]() 写真Cモンアーレ大聖堂内の廻廊 |
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![]() 写真Eシチリア料理“アランチーニ” |
![]() 写真Fシチリア料理“インポルティーニ” |
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さて、今回の旅行では昼食も地方色豊かで、昨日のパレルモでの昼食はシチリア料理のアランチーニ(ライスコロッケ)であり(写真E)、今日のモンレアーレの昼食はこれもシチリア料理のインポルティーニ(シチリア風の肉のロール巻)である。(写真F)日本ではシチリア料理専門店でしかお目にかかれない料理である。イタリアを訪ねたこともないイタリア料理人が多い日本のイタリア料理店では、メニューに無い料理である。昼食後、モンレアーレから南下して約106キロメートルにある次の目的地、セリヌンテへ向かう。昼食後も少し雨模様で、セリヌンテでのギリシャ神殿群の見物に影響しないかと一寸心配である。
![]() 写真Gシチリア島の高速道路アウトストラーダ |
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シチリア島の、アウトストラーダ(高速道路)を淡々と南下するも、道はよく整備され(写真G)、約2時間弱でセリヌンテに到着した。紀元前650年頃に島の東海岸から来たギリシャ人によってギリシャ神殿の数々が築かれて、紀元前409年のカルタゴ襲来で破壊された約240年の夢の跡のような大遺跡群である。写真と共に見てみよう。
雲に切れ目が出て、少し太陽が顔をのぞかせて、心配していた雨も上り、ラッキーな気分で見物を始める。セリヌンテは、カルタゴの来襲と、その後の大きな地震によって破壊されているが、それでも残った建物群は素晴らしく、交通不便であるが、是非訪ねたい遺跡である。入口に近い東神殿群の中で一番美しいのが、紀元前480年頃のドーリス式の神殿で女神ヘラに捧げられたE神殿である。(写真H・I)又神殿群のG神殿は紀元前550年頃に着工されたが今は、大円柱だけが残っている。(写真J)
![]() 写真HセリヌンテのE神殿 |
![]() 写真IセリヌンテのE神殿 |
![]() 写真JセリヌンテG神殿跡 |
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![]() 写真Kライトアップされたヘラクレス神殿 |
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セリヌンテ遺跡は、東神殿群と約1キロメートル西のアクロポリスに分かれており、海を左に見て進むと、アクロポリスに到る。ここには、A、B、C、D、O、と呼ばれる遺跡があるが、形を残しているのはC神殿だけである。バスは、セリヌンテを出て東に向かい約105キロメートルを2時間かけて、アグリジェントに着いた。到着時間が夕方遅くになっているので、前後するが、ライトアップされた、エルコレ(ヘラクレス)神殿の見物に向かった。(写真K)アグリジェントのドリアヌ式の神殿の中で最も古い紀元前520年の建造とのことだ。夜なので遺跡の中での位置関係が良くわからない。明日はこの大規模な、世界遺産に1997年に登録された大神殿群を巡ると思うと大変楽しみである。
アーモンドソースをかけた夕食を楽しんだ後に、今夜の宿泊ホテルのディオスクリベイパレスホテルへチェックインした。(写真L・M)清潔で四ツ星クラスのホテルである。客室数は102室である。
![]() 写真L・Mアグリジェントの |
![]() ディオスクリベイパレスホテル |
![]() 写真Nアグリジェント宿泊ホテルの食堂 |
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旅行の4日目、ホテルの小綺麗なレストラン(写真N)にて朝食をとり、シチリア大好き人間の我々14名はいよいよアグリジェントの世界遺産の神殿群見物に、朝8時にホテルを出発した。絶好の晴天である。今日のコースはアグリジェントを見物後、古代ローマのモザイクが残る、ピアッツァアルメリーナへ向かい、更に世界遺産のカルタジローネへ向い、その後、ラグーザで宿泊する、なかなかハードなコースである。
順を追って、写真も交えながら、見物をしてみよう。
紀元前5世紀に人口30万人の大都市であったアグリジェントで有名なのが、“神殿の谷”と呼ばれる区域に点在するギリシャ神殿の数々である。先ず我々は、ジュノーネ神殿(写真O)を見物した。紀元前470年に建造された別名ヘラの神殿である。25本の柱と柱の上に横に渡した石材(アーキトレーヴ)が残っており、紀元前406年にカルタゴ来襲によって炎上した焼けただれた赤く変色した石の色が内部に見られる。神殿の谷地区の東端に位置する名建築遺跡である。
![]() 写真Oアグリジェントのヘラの神殿 |
![]() 写真Pコンコルディアの神殿 |
![]() 写真Qコンコルディアの神殿 |
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次に見物したのが、やはり神殿の谷にある、これもまた有名なコンコルディア神殿である。海を背景に美しいドーリス式神殿である。コンコルディアは平和を表すローマの女神の意味とのこと。この神殿は前面6柱、側面13柱の完璧な美を見せる神殿で紀元前450年頃の建築と推定されている。(写真P・Q)
![]() 写真Rヘラクレス神殿 |
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さらに我々は、エルコレ神殿を見物した。別名ヘラクレス神殿とも呼ばれている。紀元前520年の建築と伝えられている。(写真R)
余談になるが、この神殿の谷から、谷を少しへだてて、現在のアグリジェント市(人口約6万人弱)の現代建築のコンクリートの高層建物がたくさん目視でき、なんだか興をそがれるが、これらの建物は、
1980年代のイタリア、特にシチリアの政財界が混乱を極めた頃、シチリア経済を牛耳っていたマフィアが建築業界への投資で、雨後のタケノコのように建ったビル群だと言われており、現在も麻薬のフレンチコネクションが崩壊した後の、麻薬シンジゲートがこのアグリジェントにあると信じている人が多いとも言われている。
![]() 写真A:カザーレ荘の モザイクを巡る建物 |
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午前中、神殿の谷の有名建築物を見物した後、歩を先に進めて、アグリジェントから東北約100キロメートルにある、ピアッツァアルメリーナへ向かう。約1時間半のバスの旅である。そこからさらに進むと近郊の森にローマ時代の豪華なモザイク様式のある、カザーレ荘がある。1997年にアグリジェントの神殿の谷と共に世界遺産に登録されている。3世紀のローマ時代の貴族の別荘である。
ローマ時代こそ繁華な市街の近郊だったといわれる別荘は、今ではピアッツァアルメリーナより約6キロメートルも小さな道を進まなければいけない。50部屋程ある全ての部屋や、それらを結ぶ回廊に、ビキニ姿で踊る10代の少女とか、狩猟を描いたモザイクとかが、この館の公的空間、私的居住空間とかにこれでもかと言う程に描かれている。何故こんな田舎にかくも豪華な「ローマ離宮」と呼ばれる建物、それも現在は世界遺産に指定されたような建物が残されたのであろうか。疑問に答えて、次のような説がある。一つは炎熱のシチリアでの避暑地として、ローマ貴族が使用したのではないかという説。今一つは飲料水を含めて、水の便が良かったのではないかと、当代の歴史家は推測をしているようだ。(写真B-D)
![]() 写真B-D:カザーレ荘のモザイク画 |
![]() |
![]() |
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旅行4日目の12月4日(水)の遅い目の昼食は、アグリツーリズモとイタリア語で言われているレストランでとった。アグリツーリズモとは、農場滞在型観光を意味し、日本での“道の駅”のイタリア版である。しかし規模と歴史は雲泥の差があり、私達の利用したレストランは、中世の14世紀から続く建物を中心に、周囲を自前の広大な畑が囲み、そこでとれたものを自給自足する地産地消で経営されている。レストラン以外に宿泊施設を持ち、小高い丘陵地にある大規模施設である。日本の安直な食堂とは、
![]() 写真E:アグリツーリズモのレストラン |
![]() 写真F:レストランにて |
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規模も施設内容も、提供される食材も何もかも違いびっくりする程の内容であり、提供されるワインも自家製であった。www.gigliotto.com +37°17’25.66 +14°23’16.63に位置している。場所はアグリジェントとラグーザのほぼ中間に位置している。農家に泊まって、農業を体験するアグリツーリズモで、こんな周囲に何も無い静かな空間で数日間、読書とワインと散策で過ごしたらどんなに素晴らしかろうと思った。日本でもアグリツーリズモの動きは小規模ながら信州などで取組みが始まっている。(写真E,F)
さて、昼食をゆっくりと済ませ、約35キロ南下して、車で1時間ほどのカルタジローネの街を訪ねることとする。
![]() 筆者旧影 |
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今回は、初めから仰天でした。宝船の布袋様とはうってかわったお姿。ネパール版画に続いて、「図3.西村重長『布袋と美女の川渡り』筆者蔵」にうつりましたので、ほっとしました。おんぶ文化の入り口に、ネパール版画だったのは、中城さんの粋なはからいなのでしょう。
おんぶ姿は直接、肌のぬくもりを感じさせ、やはり、今回も江戸時代の子どもたちの幸せが伝わってきます。北山修教授の強調されているように母親のまなざしが語っています。喜多川歌麿「児戯意之三笑」は水鏡に親子を写す場面をとらえた、歌麿の心の細やかさ、母親の心のゆとりと子へのいとしさの表現に感動しました。
ちょうど、中村真一郎さんの事から、図書館の浮世絵の書架に行き「母子絵百景」を見つけ借りてきていました。この<版画万華鏡5>のおかげで、より詳しく味わうことができました。本当に、母と子の様々な情景に心が和みました。喜多川歌麿の「授乳」の場景は4点もあり、「風流子宝船」にも、中央で大黒様がお乳をのんでいるとは面白い。「雪のあした」(歌川国貞)3枚続も目に留まりました。「図12」はその中央部分なのですね。「浮世絵風俗子宝合 渓斎英泉」の水鏡は心憎いのですが、これは歌麿にヒントをえたのでしょうか。
この画集「母子絵百景」は「江戸子ども百景」と姉妹編だと思います。これにも中城さんのお名前が明記されてもいいのではないでしょうか。執筆・図番解説・作品解説と尽力されていますので。背表紙にお名前がないのでずっと、この本は気がつきませんでした。たまたま、私は今回借りて好都合でした。
ちょっと、それますが、この時に、ついでに気楽に読めそうと「知識ゼロからの浮世絵入門」を借りました。著者は稲垣進一さん。「浮世絵に見る 江戸の子どもたち」に執筆されたのを覚えていたので借りましたが、紹介された作品の中で子供が登場するのは極わずかです。くもん子ども研究所の「子ども浮世絵」の収集は貴重なことをこの本からも受けとめました。
![]() シチリア地図 |
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カルタジローネは標高600メートルの高地にある。古代から現在まで陶器の産業で有名である。1693年にこの地方を襲った大震災後に、バロック様式にて再建をされた街である。後期バロック都市として2002年に世界遺産にも登録されている。人口は約4万人であり、マヨルカ焼やテラコッタの陶器産業が有名である。(写真@)
この街での最大の見どころは、現地ではスカーラ(階段)と呼ばれている陶器の街を象徴する142段の色も美しい階段である。
我々、グループのバスは、道が狭いのと環境保全の為、他のバスの乗客と同様に、遊園地を走るような小型の電気バスに乗り換えて(写真A)街を見物しながら(写真B)スカーラの下まで案内をしてくれる。
![]() 写真@カルタジローネの街 |
![]() 写真Aカルタジローネの電気バス |
![]() 写真B市内の市民 庭園も壁も陶器 |
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スカーラは、市庁前広場から、サンタ・マリア・デル・モンテ教会まで一直線に延びている。階段の蹴上には、種々の絵がマヨルカ焼の陶板で飾られており壮観である。(写真C)
142段を昇るのには中々体力が要る。段の高さがかなり高く、腰掛けになるほどに段差がある。我々の行程はスカーラを見物した後、更に約55キロメートルの所にあるラグーザ迄行かなければならない為に、限られた見物時間を使い、私自身は息をはずませながら最上段まで昇った。そこからの展望は天気の良かった為に息をのむ程の美しさであった。又、そこに有ったサンタ・マリア・デル・モンテ寺院も美しかった。(写真E・F)
![]() 写真C美しい陶板 142段ある“スカーラ” |
![]() 写真Eサンタ・マリア・デル ・モンテ広場からの眺望 |
![]() 写真F同寺院の外観 |
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寺院内部も見学したかったが、時間の余裕もなく、又142段を下っていかなければならない為に断念をした。見物を終え、バスに帰ったら、私の膝頭は、スカーラの昇り降りで完全に笑っていた。
カルタジローネから道を南東にとって約1時間30分で、旅行4日目の宿泊地ラグーザに着いた。今日は、アグリジェントを出発して、ピアッツァアルメリーナ、カルタジローネ等々を見物した、ハードなバス旅であった。ホテルへ到着したのは、午後7時前であった。
![]() 写真Gセント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂 |
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ホテルはメディテラネオパレスホテルという名の四ツ星クラスのホテルだが、ロビーも狭く、私の使用したシングルルームも狭かったが、水と風呂のお湯が充分に出たので良しとしよう。セント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂のすぐ近くにある。(写真G)
今夜の夕食のシチリア名物のカジキマグロ料理を楽しんで、その後グループの仲間はバスの長旅の疲れで、就寝は早い目であった。
今日旅の4日目、12月4日(水)は、シチリア島は終日、晴の良い天気だった。
いよいよ旅も12月5日(木)、5日目を迎えたが、朝から素晴らしい好天である。気温は13℃である。今日のコースは、午前中、世界遺産のラグーザを見物して、約83キロメートル東へ、バスで1時間30分移動して、これも世界遺産の街シラクーサを見物して、約125キロメートル北上し、今夜の宿泊地タオルミーナへと移動する、又々胸おどる観光地巡りである。
最初の観光は、ラグーザの街である。この街はイブレイ山地の南に位置する渓谷の間に高低差のある高台の街ラグーザ・スーペリオーレと、下方の地にあるイブラという街が一つの街をなしている。我々は、ラグーザとイブラ地区をガイドの案内で手短く徒歩で観光をした。何故かと言えば、バスの通らない2つの街を眺望できる階段からの素晴らしい景色を楽しむ為である。ノート渓谷のバロック都市として世界遺産に登録されているこの街は1693年1月に発生した大地震により崩壊し、それ以降再建されたバロック様式の街として有名である。
1693年1月の大震災は、シチリア島では史上最大の震災といわれ、島の南東部にあるカターニャ、シラクーサ、ラグーザなどが壊滅的な被害を受け、死者数万人を数えたと言われている。その被害から復興するに当たって、街の最も古い地区のイブラでは、東と西の地区が対立して、20世紀初頭まで、市を二分する機能のまま存立をしていた。
さて、ラグーザのスペリオーレ地区から、メインストリートを南に進んで坂道を下ってゆくと、美しい旧市街のラグーザ・イブラ地区が見えてくる。(写真H)絶景である。細い坂道からは、中世そのままに、新市街と旧市街の両方を見ることが出来る。バスを旧市街に先に廻しておき、イブラの街を見学した。
先ずイブラ地区のシンボルである、サンジョルジョ大聖堂(写真I)へ向った。ロザリオ・ガリアルディ設計の後期バロック様式の代表的建造物の世界遺産である。また、イブラの街には、奇怪な面相を持つ貴族の館(写真J)が建ち並んでいるが、魔除けと言われている。短時間の見物であったが、時間をかけてゆっくりと見て廻りたい街である。
![]() 写真Hラグーザの“イブラ地区”の眺望 |
![]() 写真Iラグーザのイブラ地区 サンジョルジョ大聖堂 |
![]() 写真Jエブラの街の魔除けの奇妙な面 |
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さて見物後、ラグーザからシチリア東海岸のシラクーサへと移動する。バスで83キロメートル、約1時間半かけて街へ着いた。昼食のピッツァを済した後、これも世界遺産に登録をされているシラクーサの見物である。この街は後述するタオルミーナの街と並び称されて、シチリア島では、最も美しい街の一つに数えられている。シラクーサもまた世界遺産の街である。
古代ギリシャから3000年以上に亘る遺跡があり、現在は周辺地域を含めると12万人余りの街である。沢山の遺跡で観光スポットも沢山あるが、我々の巡った場所を、順を追って説明してみよう。あのアルキメデスの生れた所であり、余談かもしれないが、小説家太宰治が、昭和15年に発表した“走れメロス”に出てくる街である(但し太宰はこの街をシラクスとしている。)古代のシラクーサは人口40万人をこす大都市であったが、アラブに征服されて衰徴した。
![]() 写真Kパラディーゾの石切り場の “ディオニュシオスの耳” |
![]() 写真Lシラクーサの“ギリシャ劇場跡” |
![]() 写真M古代ローマの円形闘技場跡 |
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この街の見どころは、古代ネアポリスと呼ばれた市北部一帯(新市街)にある考古学公園内の、パラディーゾの石切り場である。深さ50メートル弱のものもあるが、特に有名で必見なのが、“ディオニュシオスの耳”(写真K)と呼ばれる高さ36メートルの耳の形をした洞のような岩である。この岩の掘り跡の名前はカラヴァッジョが1603年に名付けたという。又、このすぐ近くには、紀元前3世紀に着工した1万5千人収容の“ギリシャ劇場”(写真L)があり、現在でも古代劇が2年ごとに行われ、使用されている。又、ギリシャ劇場のすぐ近くに、紀元前3世紀から4世紀にかけて使われた“古代ローマの円形闘技場”(写真M)があり、これもシラクーサでは見逃せない観光場所の一つである。
![]() 写真Nシラクーサの“アポロン神殿跡” |
![]() 写真Oシラクーサの“アレトゥーザの泉” |
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もう一方、シラクーサの本島側とは別に、この街の発祥の地と言われている、オルティージャ島がある。この島には、世界最古の石造神殿と考えられる、“アポロン神殿”(紀元前575年頃の建立か?)(写真N)があり、ギリシャ人入植以前から、シクリススの聖地とされていた場所である。またこの島には海岸のすぐ近くにありながら、真水を湧出する“アレトゥーザの泉”があり、これもシラクーサの観光名所の一つとなっている。(写真O)
我々一行は、シラクーサを観光した後、島を北上して、距離にして125キロメートル、時間にして約2時間をかけて、カターニャの街を経由して、最後に2泊するタオルミーナの街に到着した。すっかり夜になった午後の7時半頃に、宿泊するエクセルシオールパレスホテルへ到着をした。5日目の12月5日の旅は終日晴天でシチリア島の各地を堪能した。ホテルのロビーでは、南アフリカの独立の英雄、ネルソン・マンデラの死去がテレビ速報で大きく報じられていた(2013年12月5日死去)。到着が夜の7時半頃であったために、ホテル周辺の景色が今一つ定かでなかった。
旅の5日目の12月5日は晴天であった。気温も15度位で見物箇所も多くて素晴らしい一日であった。宿泊するホテルはタオルミーナのエクセルシオール・パレスホテル(四ツ星ホテル)である。
一夜明けた12月6日(金)、旅の6日目は、朝から絶好の晴天である。昨夜は定かでなかったが、眼前のエトナ火山の雄姿(写真P)が望めるタオルミーナでも有数のホテルである。(写真Q)
展望デッキからは、薄煙りをはくエトナ火山が紫色にも見える雄大かつ優美な姿を見せていた。ホテルの前庭には、我々の出発前とその後に噴火した火山灰がまだ大量に残っていた、荒い砂のような黒色の火山灰である。しかし、ホテルの展望室から眺める、シチリア島のシンボル、エトナ火山は美しかった。(写真R)
![]() 写真Pエトナ火山の雄姿 |
![]() 写真Qエクセルシオールパレスホテル タオルミーナの外観 |
![]() 写真Rホテル展望室から見たエトナ火山 |
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今日は旅の6日目、12月6日(金)であり、天候は朝から晴天の行楽日和である。世界中でも最も美しい街の一つと言われていて、又、世界中のセレブ達がこぞって集まるタオルミーナに、我々は前日に到着して、今日一日をかけてこの街を見物する。
この街は人口約1万1千人で、シチリア島の他の都市と同じく古代ギリシャやローマ帝国の遺跡を数多く残している。シチリア島東北部に位置する街である。楽しみにしていたシチリア島での最後の観光地であるタオルミーナを、次号で語ろう。
以下、次号へ続く。
![]() シチリア地図 |
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さて、最近タオルミーナが世界の注目を集めたのは、2017年(平成29年)の5月に行われたタオルミーナG7サミットであろう。(写真@)
![]() 写真@2017年タオルミーナでのG7サミット |
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日本からは安倍首相が6回目の首脳会談としてG7に臨んだ会議である。
旅の6日目、12月6日(金)、今日も快晴である。タオルミーナの街は世界中でも最も魅力のある街として知られている。人口は1万2千人位の小さな街であるが、この街のことをこの章では語ってゆきたい。
![]() 写真Aタオルミーナの街 |
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極言すれば、この街は徒歩で1時間も散歩すれば、その中に古代、中世、現代が混在している世界中でも稀有な街の一つである。街はタウロ山の中腹、標高約200メートル位の所に位置している。(写真A)眼前には、紺碧のイオニア海とシチリア島のシンボルである雄大なエトナ山を見ることができる。
前日宿泊の際、チェックインが遅くて、ホテル周囲の景色が定かではなかったが、宿泊したホテルのエクセルシオールホテル(四ツ星)(写真B)の前庭には先月のエトナ山噴火での火山灰がまだ残っており、その庭から前面に雄大なエトナ山の噴煙と山容が、晴天の下、くっきりと望まれた。(写真C)
![]() 写真Bエクセルシオールホテル |
![]() 写真Cエトナ火山 |
![]() 写真Dタオルミーナの小さな商店 |
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タオルミーナには、「カターニア門」、「中央門」、「メッシーナ門」という三つの門があり、これらの門はすべてが目抜通りの「ウンベルト1世通り」にある。目抜き通りとは言っても、約1キロの一本道で、車が通れるのはこの通りへ荷物を運ぶ車のみが朝9時半まで許されているだけであり、一日中ほぼ歩行者天国である。この通りは、世界中の人々が訪れる有名な通りである一方、通りから一歩横道に入ると、店のインテリアも美しい小さな商店がひっそりと佇んでいる美しい通りである。(写真D)
先ず我々は最初に、「ギリシャ劇場」を訪ねた。劇場跡であり、周囲に広がるパノラマが素晴らしい。紀元前3世紀の創建と言われ、やはりシチリア島のシラクーサにある。ギリシャ劇場跡に次ぐ第2の規模を誇る歴史遺産である。その景色の雄大さから(周囲に広がる大パノラマ)、平成29年に開かれたG7のタオルミーナサミットで各国首脳が一堂に会して記念撮影もされた場所である。(写真E)
![]() 写真Eタオルミーナのギリシャ劇場跡 |
![]() 写真Fタオルミーナウンベルト1世通り |
![]() 写真Gサント・アゴスティーノ教会 |
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約40分間、記念撮影やガイドの説明を受けた後に、次に街の中にある、ガリバルディのタオルミーナ来訪を記念する、「4月9日広場」へ向った。この広場は、メッシーナ門から、カターニア門へ向うメイン通りの「ウンベルト1世通り」の中央に位置する展望の大変良い広場となっている為に、いつも観光客や地元の人で賑わっている。(写真F)この広場の名前の由来は、イタリア統一戦争中の1860年(日本では安政7年)4月9日、ガリバルディ―がシチリアに上陸したということを記念して、命名された(実際の上陸は5月9日)。この広場からは、広場の正面に1448年に創建されたサント・アゴスティーノ教会や、広場の側面のサン・ジュゼッペ教会(17世紀創建)などがあり、(写真Gサント・アゴスティーノ教会)又、時計台のある中央門がある。
![]() 写真Hタウロ山よりのタオルミーナの眺望 |
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この広場からは、エトナ火山や眼下にはシチリア島タオルミーナの海岸線が見渡せ、観光に疲れたら、広場のカフェでゆっくりと休憩も出来る。何ともいえない絶好の場所となっている。この広場から、タウロ山の頂上(標高397m)にある城塞まで階段で登れ、約1時間の道のりの途中には、聖マリア岩窟教会があり、素晴らしい市街の展望が楽しめる。(写真H)
![]() 写真Iサンドメニコパレスホテル |
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又、忘れてはならないのが、ホテルサンドメニコパレスホテルである。タオルミーナの丘の上に建ち、眼下に海岸を望む素晴らしいホテルである。14世紀に建てられた元修道院で、19世紀後半に建てられた2つの宿泊棟から出来ており、各国元首や、要人、そしてまたシシリー島への映画撮影できた映画人やトップスター等が宿泊する、タオルミーナの迎賓館的なホテルである。私も自由時間に、
![]() 写真Jタオルミーナ大聖堂前の“ドゥオーモ広場” |
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約2時間程見学に訪れ、ホテル関係者に案内をしてもらったが、快く迎えてくれ親切に案内をしてくれた。本来なら宿泊する人しか入れない部屋も、J.T.B OBと身分証を見せると、いつも貴社より良いお客様を送客いただいており、ありがとうという言葉と共に、接客のプロとしての接しかたをしていただいた。(写真I)
又、タオルミーナのウンベルト1世通りの西の端、カターニア門近くの大聖堂とすぐその前にあるドゥオーモ前広場も散策のついでに立寄りたい場所である。シチリアらしい風景を楽しむことが出来、安くておいしいカフェやレストランが近くに散在している。(写真J)
さて少し話題は変わるが、シチリア島は映画の舞台となったことが何回もあって、私を含めて映画ファンには見逃せない場所でもある。又、マフィアでも有名な島である。これ等について少し述べてみたい。
シチリアを舞台にした映画を思いつくままに記してみても、
●「シシリーの黒い霧」:1962年製作・監督フランチェスコ・ロージでベルリン国際映画祭銀熊賞最優秀監督賞、原題は主人公の名前の「サルバトーレ・ジュリアーノ」(写真K)
●「シシリアン」:1969年フランス映画、シシリアマフィアを題材にした、ジャン・ギャバン、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ主演の映画(写真L)
●「山猫」:1963年のイタリア・フランス合作映画、ルキノ・ヴィスコンティ監督、第16回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞作(写真M)
![]() 写真K「シシリーの黒い霧」 |
![]() 写真L「シシリアン」 |
![]() 写真M「山猫」 |
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●「ゴッドファーザー」:1972年アメリカ映画、1972年アカデミー賞作品賞、主演男優賞、脚本賞を受賞(「ゴッドファーザー2」、「ゴッドファーザー3」と続編がある)(写真N)
●「ニュー・シネマパラダイス」:1988年イタリア映画、1989年カンヌ国際映画祭審査員特別賞、1989年アカデミー外国語映画賞受賞(写真O)
●「グラン・ブルー」:1988年フランス・イタリア合作、フランスでのアカデミー賞にあたるセザール賞に多部門でノミネートされた(写真P)
![]() 写真N「ゴッドファーザー |
![]() 写真O「ニュー・シネマパラダイス」 |
![]() 写真P「グラン・ブルー」 |
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、帰国後にビデオで鑑賞し、旅の楽しみである旅行後の余韻に浸った。特に私は、「ニュー・シネマパラダイス」が好きである。又、「山猫」も、ガリバルディの活躍した時代背景を、豪華な配役とその時代風景を映画に反映させた秀作であった。是非皆さんもこれ等の映画で、シチリアの匂いを嗅ぎとって欲しいと思います。
さてもう一方の、マフィアの件であるが、硬軟色々の著作があり、概要は御存知の方も多いと思うが、今でもイタリアに大きな影響を与えているようだ。この旅行中の12月5日付のイタリア紙には、シチリア島で、マフィア関連の難しい公判を指揮する主任検事へのインタビュー記事が掲載されていた。それによると、「マフィアは盗聴や諜報を駆使しており、1992年〜93年のようなテロが急増するかも知れないという。マフィアは今も、イタリア社会に強い影響力を持っている。かつて捜査・司法と全面対決し、判事の暗殺も相次いだ。マフィア『コーザ・ノストラ』の元ボス、トト・リーナは獄中から検事を脅迫する。アルファーノ内務相は、『最も深刻な課題。南部の発展を遅らせ、経済的自由への脅威だ』と述べた。」 〜イタリア紙ジアンニ・デルベッキオ編集長〜
しかし、日本の暴力団のようにそれぞれが自他共にわかるような服装などは、一切マフィアはしていなくて、又、それを誇示し市民を脅迫するようなことは多くなく、もっと深部に潜み、一般住民の如く暮らしていると、現地の人は私に語ってくれた。それが実態かも知れない。
シチリアの旅は色々と私に感動を与えてくれた。この旅は、12月9日(月)日本帰国をもって終了した。
懐かしいシチリア紀行ありがとうございました。40年前、2度目のクリスマス休暇、一緒に過ごす相手もいなく、ヒッチハイク(国鉄の運転席も含め)で島内を駆け巡ったことを思い出しました。いいところです。それ以来訪れていませんが、まるで変っていない気がします。
永森 裕子(44回)さん追悼文![]() 故 永森 裕子 さん |
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![]() 筆者近影 |
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5年間にわたる病気療養の後、平成最後の月に永眠された故永森裕子さん(元KPC幹事・書記 44回生)について想い起こすままに書き記します。
44回生の永森さんと9年も歳が隔たった私は、土佐校時代の彼女の様子には疎いが、彼女の存在感を彷彿とさせるKPCホームページの記事が印象に残っている。2014年7月31日付で44回同期の加賀野井秀一さんが執筆された『向陽新聞に見る土佐中・高の歩みH昭和41年(70号)〜44年(80号)』の序文である。
<錚々たる先輩方が執筆されているこの欄に、私ごときが起用されるなぞ思いもよらぬことであり、本来ならば即座にお断りするところ、他ならぬゴッド・マザーたる永森さんからのご命令。その上彼女が『鬼の霍乱』ときており・・・>とても抗えなかったと述懐している。
「鬼の霍乱」とは、エネルギーの塊のようだった永森さんが突然病を患ったことであろう。実際、この直前の4月26日に行われたKPCの2014年度総会に、遅刻しながらも文字通り駆けつけてくれたのが、彼女を見る最後の機会となってしまったのは痛恨きわまりない。
![]() 2010年KPC設立総会にて |
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ここに掲載の写真は、今から9年前、2010年7月25日に市ヶ谷の私学会館で行われた新生KPC設立総会の受付で働く永森さんのお元気な姿である。彼女は最初からKPC設立準備委員として活躍、何度か帰省して高知支部の立ち上げに一役買ってくれたし、向陽新聞バックナンバーCDの頒布にも汗をかいてくれた。毎年の総会・幹事会の書記まで快く引き受け、優に男8人分の仕事ぶりを見せてくれていた。
紅一点の彼女がいない総会・幹事会となって久しいが、「遅くなってごめんごめん」と言いながら汗だくで会場に現れる彼女の姿が、つい先日のことのように瞼に浮かんでくる。今は、安らかに眠られんことを祈るばかりである。
![]() 2012年5月に加賀野井さんと 拙宅に来てくれた永森さん |
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私とは、土佐高新聞部の先輩後輩の関係です。年令は十数歳離れていますが、永森さんが高校生の頃に新聞部の全国大会で上京してきたのが、最初の出会いかと思います。
彼女がロンドンから帰国後、東京で国際児童図書文庫協会の活動を始めた時期に、新聞部OBOG会があり、再開してトータスにもお誘いしました。この頃、土佐高同窓会関東支部の会報「筆山」の編集長としても活躍しており、彼女の原稿依頼で駄文を提供したことでした。
![]() 2010年Frankfrtにて (永森氏撮影) |
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2006年秋から、1年半ほどイタリア・フィレンツェに滞在するので、しばらくトータスに出席できないとの話があり、それなら何かテーマを見付けて現地で調査し、帰国後に報告するようお願いしました。永森さんは、哲学美学修士を取得していただけに、イタリア各地のフレスコ画を探訪調査、2009年のトータスで見事な発表をしてくれました。これらの研究成果を論文にまとめる途中で発病したのは、大変悔やまれます。
心からご冥福をお祈り致します。
![]() 筆者と故永森さん(2014年・清水由江氏撮影) |
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平成最後の春は、寒い日が続き、近年になく美しい桜を見ることが出来た。6人組の和子さん、由江さん、そして私は四谷から市ヶ谷に抜ける土手を散策し、満開の桜が窓の外に広がる市ヶ谷のホテルでランチをした。「裕子さんがいたらね・・・」と、話題はもっぱら裕子さんのことであった。「花見」は寂しいものであった。
その週末、私は京都で開かれる会合を利用して、絢爛豪華な古都の桜を堪能した。高瀬川沿いの桜並木は、私に森鴎外の作品を思い出させた。足は清水の二年坂の香木屋で止まり、桜香のうちで華やかな「八重桜」を買い、帰宅後毎日それを炊いていた。
「平成31年4月2日、永森裕子さん永眠、享年68」という訃報が私の手元に届いたのは、街角の樹木の緑が濃さを増した日で、元号は令和になっていた。裕子さんは、天国への旅の途中で私たちのところに立ち寄ってくれたような気がした。仲良し6人組で過ごした日々の思い出をきっと天国にもっていったにちがいない。「大阪マンボ」でも口ずさみながら「ひと足お先にね・・・」と愛くるしい笑みをうかべて言った気がする。
永森裕子さんと私が出会ったのは、「トータス21」という会であった。「21世紀、陸亀のように力強く地球を歩きまわる・・・」という趣旨の会で、国際的に活躍する会員が次つぎと発表する。懇親会がとても楽しく、ひとり、またひとりと仲良しの輪が広がっていった。この会の主宰者は土佐高校出身の中城正尭氏で、裕子さんの先輩であった。会には土佐出身の会員が数名いた。裕子さんはロンドンで子育てをし、イタリアのフィレンツェに滞在して古い教会のフレスコ画に興味を持ったようである。また、子供の言語に関心を示し、国際児童文庫協会に所属し、会長も務めていた。
「トータス21」は2010年10月、36回目の発表をもって閉会した。その前年の10月、「フレスコ画のある街」=イタリア滞在記=というタイトルで彼女は沢山の写真を使って発表した。トスカーナ地方の古い教会のフレスコ画が次つぎとスクリーンに写し出され、大変興味深い発表であった。「ルネッサンス期のフレスコ画の再評価、保存状態の悪い教会・絵画の修復が行われている・・・」という発表を聞き、「まとめたら面白い本になるだろう・・・」と、思った。そして、彼女の背中を押してみた。
やっと重い腰をあげて、「補足の取材をしてくる」と、裕子さんがイタリアのトスカーナに旅行したのは、発病する半年前であった。大学で日本文学を専攻し、「哲学美術」で修士課程を取得している、裕子の「フレスコ画研究」は突然中止となってしまった。取材報告を聞く前に闘病生活に入り、ついにまとまった形にならなかったことが、今、残念でしかたがない。
![]() 2011年・野町氏写真展の後のトータス21懇親会(右下筆者) |
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「トータス21」の会の懇親会の後には、2次会、3次会があった。自然発生的に6人の女性が集まり、仲良しになった。年齢も仕事もまちまち、既婚者3名、独身者3名というグループが出来た。「6人組」と呼ぶようになった。共通点と言えば、グルメで美酒家、そしてカラオケで歌うのが大好きということだろうか。しかし、飲まない者1名、歌わない者1名がいたが、グループの調和には何の支障もなかった。
和子さんは映像・舞台関係の仕事、歌うジャンルはシャンソン。由江さんはトルコの文化研究に夢中で連絡係り、そして中島みゆきのそっくりさん。裕美さんは中近東・シルクロードの旅人で聞き上手。一番歳下の恵子さんはトルコの専門家で、次つぎと演歌を熱唱。私はラテン・ナンバーを踊りながら歌う・・・という具合で、なんとも陽気で面白い仲間であった。頻繁に東京の夜の街に繰り出したものである。
6人組の中で、裕子さんはカカオケ・リーダーであった。楽しいお店を探してくるのはいつも彼女であった。由江さんから「集合」の知らせが届くと、「はーい!と、全員が集まった。時間の経つのを忘れて、さわいだ。トスカーナ仕込みのワイン通で、イタリアの料理、ファッションにも詳しかった。時々は、話題はイタリア、トルコからスペイン、南米へと飛んで、比較文化論のような展開になった。彼女が故郷・高知で発病するまでの4年あまり、6人組はよく集まり、楽しい時間を過した。
一番に思い出すのは、六本木の「フェスタ飯倉」での会だった。個室で懐石料理を食べながら歌える店だった。長い廊下に衣装とかつらが備えられ、歌の雰囲気に合わせて、各人仮装姿で歌い、最後は6人の合唱で締めくくった。あまりの楽しさに時間の過ぎるのを忘れ、最終電車やタクシーで帰宅したことが、昨日のことのように鮮やかに思いだされる。
また、四谷・荒木町のカラオケ・バーでは、貸切りで、ママの手料理と各人が一品を持ち寄るという、ホーム・パティーであった。私は大きなスペイン・オムレツを持参した。のぶ子ママは、裕子さんの友人で、美声を披露した。
2013年夏、裕子さんは高知で脳腫瘍が見つかり、すぐに高知医大で手術した。術後の経過がよく、翌年の1月には東京で会うことが出来た。6人組は裕子さんの住まいの近く、玉川上水沿いのレストランに集合した。全員が集合し、カレー・ランチであった。「6人組」の集まりは、これが最後となった。彼女は始終にこにこして、みんなの話を聞いていた。高知での治療と東京という「飛行機での通院」を実行し、「70歳までは生きたい!」と言い、病気には負けていなかった。
![]() 2014年カレーランチにて(右端が清水由江さん) |
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由江さんがまめに裕子さんと連絡を取ってくれ、私とは高円寺でお茶したり、渋谷のホテルでランチもした。高知と東京を往復する闘病生活なのに、その行動力には驚かされ、感動した。渋谷の学生専用のようなカラオケ・ボックスで「島田のぶんぶん」、「大阪マンボ」、「渋谷のネコ」など、裕子さんの十八番を聞いたのが、最後のカラオケとなった。「今、天城越えを練習中よ」、天使のような笑みを浮かべて言った。
その後、東京のご自宅で転んで足を骨折して、近くの病院に入院してしまった。やっと退院したのに、また家で捻挫し、ついに車椅子の生活となってしまった。由江さんと和子さんがお見舞いしてくれた。裕子さんとの交信は途絶え、故郷のケア・ハウスに入所したことが伝えられたのは翌年であった。自然豊かな故郷での闘病生活、「幼な馴染みの方がたのお見舞いがあるでしょう・・・」と、遠くから祈るしか出来なかった。その後4年余り、裕子さんは病気と闘い、お孫さんふたりの誕生も見届け、静かに天国へと旅立ってしまった。
![]() 2018岡豊川の畔で(永森氏撮影) |
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元号が令和に移った6月、涙雨のようにどしゃぶりの夜、6人組は新宿の居酒屋に集合した。ささやかな「偲ぶ会」であった。お店の設定や連絡は、いつものように由江さんの係りだった。裕子さんの夫の永森誠一氏と土佐校の先輩の藤宗俊一氏も参加してくださった。永森氏が「遺影」として持参した写真は、満開の桜の木の前でお澄まし顔の裕子さんであった。大好きなワイン、ゴディバのチョコ、お菓子などが供えられた。お酒を飲みながら、裕子さんとの思い出話は尽きなかった。「きっと天国から降りて来てくれているわね・・・」と、誰もが思っていた。
帰宅後、私は桜香「八重桜」を炊いて、妹分のようだった永森裕子さんのご冥福を心から祈った。「いろいろありがとう。安らかに!」
合掌。
≪筆者プロフィール≫
作家・元早稲田大学講師。著書に「野口英世 知られざる軌跡」「メキシコに生きる日系移民たち」「パナマから消えた日本人」「野口英世は眠らない」等。
![]() 筆者近影 |
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たしか高一の頃(1963)だったと思うが、放課後部室で仲間とくだらないおしゃべりをしていた時、部室のガラス戸を引いて、小さな女の子二人が恐る恐る『あのう、新聞部に入りたいのですが……』と尋ねてきたのがなれそめだった。とても初々しくて、『かわいい子だなあ』と思ったように記憶している。即座に入部が決まり、先ずは見習いで先輩記者に同行して取材をしたり、原稿の清書など雑用をしてくれた。部長が面倒をよく見ていた気がするが、私は一緒に仕事をしたことが無く、しかも、すぐに引退したので、当時の記憶は定かではない。
その後、三十年ちかくたった関東支部同窓会の懇親会の席上、背中をたたかれ『編集長、あたし覚えてる?』と声をかけられた。振り返ると、そこにはイタリアの下宿のおばちゃん(モナリザ)と見間違えんばかりの女性が微笑みかけていた。『え〜と……』。名札を見ると永森裕子と書いてある。『永森は同期の卒業生代表だった奴だけど、新聞部とは……』『永森の妻です。新聞部でお世話になった松本裕子です。』『え〜っ!』。変われば変わるもんだ!。訊けば、ダンナと一緒に英国留学中、淋しくて大食いしてしまった結果だそうだ。『酒呑童女と呼ばれるくらいお酒が好きで、そのせいでちっとも痩せないの』。むべなるかな。
![]() 1992年当時の『筆山』編集部……筆山14号より |
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早速、当時編集長をしていた『筆山』に引き込んで手伝ってもらうことにした。なにせ、当時の編集員は戸田、岩村、鶴和、佐々木、内川、大和田等といった錚錚たる先輩方ばかりで、渋谷の事務所で編集会議をしても、『藤宗くん、後は頼んだぜよ』の一言でさっさと道玄坂の裏店へ消えていく。その状態が少しは改善されると思っていたのに……。
彼女は、私が本業が忙しくなって24号を最後に編集長を辞めた後も編集委員にとどまり、52号(2012)〜55号(2013)の編集長も務めた。彼女の顔の広さは多岐に渡り、出版関係、美術関係、旅行関係等々いろんな飲み会に連れまわされた。そんな、忙しい合間をぬって社会人大学院にかよい西洋(イタリア)美術史で学位をとった頑張り屋さんでもある。その後、ダンナが法学部長を努めた御褒美に海外研究留学(2006〜2008)が認められイタリアへ行くのにくっついていった。
![]() イサクの犠牲(Uffizi /Firenze) Caravaggio1603 |
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しかし、なんでダンナ(政治学)と直接関係のないイタリアなの?しかもよりによってフィレンツェ大学なの?1976年以来、血のにじむような努力を重ねて高めた日本人の評価が一瞬のうちに崩壊してしまう恐れがあった。幸いにして、街が炎上しただの、通ったあとがグチャグチャだのと言った情報は届かなかったのでホッとしている。一年くらいして『工事先輩、あたしルネサンスを卒業してバロックに夢中なの。今、カラヴァッジョの絵を追ってローマにきているの。あのハラワタをえぐり出して絵の具にして、血のしたたるような筆遣いがたまらないの!』と絵葉書が届いた。相変わらず精力的に活動しているなと感心した。
![]() 2007年Londonにて(永森氏撮影) |
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『Ciao Maestro(あら巨匠)!』の挨拶で再び親交が始まり、一緒に楽しいお酒を飲んでいたが、2012年秋頃から頭痛を時々訴えていた(ダンナの弁では『いろいろ能力以上のことをやりすぎて、脳も体もついていけなくなっているか、くらいに思っていた。それから、「頭痛がひどくなった」ということではなくて、もっと単純にね歩けなくなった、動けなくなった、話ができない、というような症状だった』)。
2014年夏、帰高した際に同期の高知医大の元院長に助言を受け、総合診療科で検査を受けたら、ソフトボール大の脳腫瘍がみつかり、そのまま入院、摘出に至り、『Stage4で余命半年』と言われたそうだ。退院後も川向かいのケアハウス『たんぽぽ』に入所し、最後は終末期病棟に移り今年4月2日まで頑張った。その間に初孫にも出会えたのは、ひとえにダンナの献身的な看病のおかげだと感じ、ただひたすら頭が下がる。きっと彼女も感謝しているだろうし、幸せな最期だったことと思う。入所先でお孫さんの写真に囲まれて穏やかに微笑んでいた姿が目に浮かぶ。
最後の状況はダンナのMailによると
………… 4月2日昼過ぎまでは、それまでと変わった感じはなかったんだが、夕刻に容体が急変して、そのままだった。最後の1時間だけ、ちょっと苦しそうで、かわいそうだった。
これから東京に戻って、役所の手続をします。住民票は、まだ小平でね。
永森誠一
とのこと。
あんなに好きだった東京に帰れなかったことを思うと切なくなる。心よりご冥福を祈っています。
![]() 筆者近影 |
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何から書いていいのか、永森裕子さん・・・・私にとっては松本(旧姓)さんと言った方がしっくりきます。以下は追悼文にもならない、頭の片隅に残るあいまいな思い出になります。
体調を崩し、それでもまだ元気な時に2度ほどお見舞いに行きました。その時は比較的元気で、持参したお菓子を一緒に食べてくだらないことを話したりしました。その後の闘病生活も同級生から聞いていましたが、迷っているうちにとうとう見舞いに行けませんでした。逝去の知らせを友人から聞いたのは亡くなってから数日後です。新聞で確認して茫然として「松本さんが亡くなったんだ」と独り言を言ったようです。妻が「何が」と聞いてきたので、事情を話しました。妻は彼女の妹さんと小学校の同級生で大変仲の良い友人でもあり、松本さんの事も知っていたのでショックだったようです。訃報を聞いたその日は親友ともいえる同級生が亡くなった日でもありました。今年に入って5人目の同級生が旅立った日でもあります。
![]() 44回生新聞部:左から中村恵子さん(高校入学の生徒です) 松本裕子(現永森)さん、加賀野井秀一君(現中央大教授)、 堀元治君、右の端が私です。このときの顧問の先生は、左が 田村尚子先生(この時結婚されて、姓が矢野に変わられたの では?)、小松先生です。 |
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私自身の事を先に話すと、新聞部入部が高校1年になってからと遅くて、右も左もわからない落ちこぼれ部員でした。何とか部員としてやっていけたのは、諸先輩方や出来の良い後輩の助けがあったことは当然として、同じ学年の仲間である加賀野井君や中村さんそして松本さんたちがいてくれたからだとしみじみ思います。今になって、当時の向陽新聞を再読すると、記事の内容を見る前に発行人のところにある自分の名前に目が行き、いたたまれない思いになります。今考えると、もう少しましな割り付けができなかったのか、もう少し何とかなったのでは、との思いがあります。その当時、何とか曲がりなりにも新聞が発行できたのは他の部員たちの助けがあったから、という至極当たり前のことに気づきます。そんな時に思い浮かべる仲間の中に彼女がいました。
松本さんについて考える時、具体的な思い出がない事に驚いています。例えば、新聞部で合宿に行ったこと。もう半世紀以上前の事で、記憶も定かでないところもあるのですが、1年の夏休みに新聞部で、「合宿」という名の「キャンプ」に行ったことがありました。2年の植田先輩か誰かが「新聞記事の書き方のイロハを教える」という名目での「合宿」と言われたような記憶がありますが、本当のところはどうだったのでしょうか。この時の高校1年生は松本さんを除いて全て1年になって入部したばかり新入部員。何かと迷惑を掛け、色々なフォローをしてもらったはずなのに、今思い出すのは彼女の色白な顔と明るく元気な笑い声だけです。考えれば考えるほど、記憶が定かでなくなります。彼女は本当に「合宿」に参加していたのか。新聞作成の編集会議、その他の打ち合わせ、印刷所での校正作業、いろんなことを一緒に経験したはずだし、東京で開催された高新連(全国高等学校新聞連盟)の総会にも一緒に参加したのに。改めて思い出してみると、彼女の記憶が少しあるのは新聞部を引退(何かえらそうな物言いですけど)した後、部外の同級生と一緒にどうでもいいような事や、大学の事、東京の事、等々の話をした時や卒業後居酒屋で飲んだ時の断片的な出来事の思い出です。そこには新聞部で一緒に過ごしてきた彼女とはほんの少しだけ違う彼女がいました。
![]() 2007年Londonにて(永森氏撮影) |
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ずいぶん経ってから同窓会で再開した時の驚きは今でも憶えています。色白な顔は変わらないものの、豪快な笑い声と迫力ある容姿にしばらく声が出ませんでした(失礼)。ある同級生は淡い思いを持っていた彼女に向かい「これは詐欺や」と叫び、それに対してまた彼女が笑い転げる、という再会でした。次に彼女から連絡があったのは「向陽プレスクラブの高知支部を立ち上げるから、井上君やって」という電話でした。参加するとか、参加して欲しいとか、ではなく「やって」です。これが松本さんなんだ、と妙に納得したのを憶えています。申し訳ないことに、彼女に言われた支部の事は後輩に任せっぱなしになっています。
今年の同窓会は「卒業50年(本当は51年目に突入してますが)」と言う事で、華々しく開催するそうです。転校等で一緒に卒業できなかった同級生や中学1年から高校3年までの担任の先生にも声をかけているようです。
「松本さん、今年の同窓会はサンライズホテルで9月28日に開催です。みんなを誘って是非会場に来てください(合掌)。」
合田さんの個展案内が届きました。
みうらじろうギャラリーより展覧会のご案内をさせていただきます。
![]() 「ニジンスキー、バラの精」 合田佐和子 2011 |
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みうらじろうギャラリーでは8回目となります今回の個展では、合田佐和子と交流のあった作家の方々にご出品いただき、合田作品とともに展示いたします。この機会に、より広く多くの方に合田作品をご覧いただくとともに、その奥深い魅力を再発見していただければと存じます。
関連展示として、3階のみうらじろうギャラリーbisでは、1980年代のポラロイド作品を展示しております。
特別出品作家(五十音順、敬称略)
大西信之、桑原弘明、篠原勝之、建石修志、種田陽平、横山宏、四谷シモン
特別出品作品
それぞれの作家の皆さんが、合田さんとの思い出や合田さんへの想いを作品に込めてくださいました。
詳しくは右記サイトでご覧下さい。
http://jiromiuragallery.com
![]() 筆者近影 |
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名実ともに世界有数の強国となった中国だが解放後、未曾有の国難といわれた「文化大革命」が終息したのが44年前の1976年である。2019年には建国70年を迎えた。(2019年10月1日)
ケ小平の所謂、「四つの近代化」が緒に就いたばかりの1979年(昭和54年)に(令和元年から40年前)筆者、二宮健が見た当時の中国の姿を紀行文と写真で紹介してみる。二宮訪中10数回の最初の訪中である。題して「往時茫々、中国の旅 その1〜その5」として記述してみた。 令和元年11月
![]() @毛沢東死亡を伝える号外 |
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1976年(昭和51年)10月に、張春橋、姚文元、王洪文、江青の四人組が逮捕された。その前月9月9日には、毛沢東が北京で死去している。(写真@)
1978年(昭和53年)12月16日に米中が共同声明を発表して、1979年(昭和54年)1月1日から国交樹立を発表した。
![]() A文化大革命中の壁新聞 |
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同じ1979年(昭和54年)12月6日に北京市革命委員会は、北京市「西単の壁」および他の場所への壁新聞を貼ることを禁止した。(写真A)
さしもの文化大革命(1966年?1976年)の10年間の未曾有の政治的混乱が終束して、中国が「改革・解放政策」へ舵を切り始めた頃の1979年(昭和54年)、2019年(令和元年)からふり返ると40年も昔となる。筆者二宮にとっても“往時茫々”たる想い出が深い、まだ日本人の訪問観光客のほとんどいなかった時代の旅行記とその記録と写真である。
![]() B1978年(昭和53年) 中国共産党第11期3中全会 |
![]() C芦屋市友好訪中団 訪問・参観先 |
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この年1979年(昭和54年)私は兵庫県芦屋市友好訪中団を企画・立案して中国へ渡った。文化大革命が終息して、江青反革命集団が粉砕された後、中国中央党組織は、ケ小平の職務を回復し、1978年(昭和53年)末に中国共産党第11期3中全会を経て、改革・開放(写真B)政策の実行と四つの基本原則の堅持を確認した。現在の中国へと出発する転換期の時代であった。そんな時に訪中団の企画を立て、芦屋市に打診をしたところ、当時の市長松永精一郎さんや、芦屋市議会代表、任意参加の市民など16名の“芦屋市民友好訪中団”が結成された。令和元年(2019年)から40年前のことである。現在78才の私が37才の時である。代表団の大多数の方が、鬼籍に入り、帰幽されている。(写真C)の訪中団旅程図と訪問先、観光先の地図を見ながら、論を進めてゆきたいと思う。私は企画・立案者として、この15日間の旅行の公式随行員として、日本交通公社より派遣された。
1979年(昭和54年)11月27日(火)から12月11日(火)迄の当時の中国各地での旅行の記録である。その頃は、中国を自由に旅行することは、日中共に許されてはおらず、日本側で企画・立案した旅行日程を、中国側に提示し、その後、中国側から招請状(インビテーションレター)なるものが発給されて、初めて訪中が許されていた。
![]() D文革中の「紅衛兵」 のポスター |
![]() E華国鋒 |
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それも何度かに亘り、日本交通公社本社(東京)を通じて、中国側の当時の国営中国国際旅行総社(北京)と、旅程の調整を行い、中国側から提示された旅程に概略同意せざるを得ない情況であった。
まだまだ当時発展途上国であった中国では沿岸部の大都市を除いた内陸地方では、ホテルは勿論、外来の賓客を迎えるための招待所(ゲストハウス)も無いのが、実情のようであった。現在の中国は習近平体制の下で経済大国としても発展し、GDPで世界第2位の実績を誇っているが、私が訪中した1979年(昭和54年)当時はケ小平が何回も文化大革命の中で(写真D)失脚と復活をくり返した後に、確固たる実権を握ろうとする時でもあった。我々の友好訪中団はその寸前の華国鋒が党主席の1979年(昭和54年)12月である。(写真E)
時系列でみてみると、中国の指導体制は第一世代が毛沢東(写真F)、第二世代がケ小平(写真G)、第三世代が江沢民(写真H)、第四世代が胡錦濤(写真I)そして現在は習近平(写真J)の第五世代指導部と言われている。
![]() F毛沢東中国共産党指導者(第一世代) |
![]() Gケ小平中国共産党指導者(第二世代) |
![]() H江沢民中国共産党指導者(第三世代) |
![]() I胡錦濤中国共産党指導者(第四世代) |
![]() J習近平中国共産党指導者(第五世代) |
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丁度、第一世代と第二世代の交替期に訪問したのであった。まだまだ四人組の影響が残っていた華国鋒体制の下では、決して物見遊山の旅は許されず、後述するように文革の余波の残る各都市の、革命委員会への表敬訪問や、人民公社の見学等が旅行のコースには、必ず組み込まれていた。旅行を実施した1979年(昭和54年)には、流行歌手渥美二郎の“夢追い酒”や山口百恵の“いい日旅立ち”などが大流行した年でもあった。
![]() K筆者手製の渡航記念証1979年11 月29日CA922便機長副機長署名入り |
![]() L成田?北京間の中国民航 B-707型の機内 |
![]() M中国民航1979年当時のロゴ |
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この年、中国側の統計によると、中国を訪れた日本人は、業務での渡航を含めても推定5万4千人にすぎなかった。(現今の中国旅行ブームとは隔世の感じがする)。そんな情況の中で我々一行は、1979年(昭和54年)11月27日(火曜日)に夕刻の中国民航922便にて北京へ向けて出発をした。(写真K)機種は、ボーイング707型機であった。(写真L)(写真M)
機は午後9時15分に北京首都空港に到着した。機中での服務員(スチュワーデス)は紺色の上下服で、華やかな雰囲気はなく、乗客に提供する茶も魔法瓶から注いでいたと記憶をしている。当時の自由主義諸国の日・米・欧の航空機のサービスからは、随分異なった印象を受けた。さて到着した首都空港は、現在の世界を代表する近代的な大空港ではなく、何回も拡張される前の現在からは、想像も出来ない質素な、そして薄暗い空港であった。(写真N)(写真O)(写真P)
![]() N1979年当時の北京首都空港 |
![]() O到着時の北京空港内部 |
![]() P北京首都空港より北京市内へ 向う道路(1979年当時) |
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薄暗くて人影も少ない雰囲気で淋し気な空港であった。
空港には、受入側の中国国際旅行総社日本処(日本課)の張乃驍ニいう、この日から最終日まで随行する男性通訳と北京分社の日本課副課長胡金樹、同趙登霞、同李艶という北京地区を担当する男性1名、女性2名の計4名(通訳を含めて)が出迎えてくれた。
張氏は、エリートであろう、灰色の人民服にポケットが四つついた制服を着用していた。
当時は上着のポケットの数で大体エリートかどうか判断出来た。張氏は我々訪中団の中国側のお目付役と団の動向をそれとなく観察する役目をもっていたと旅行が消化されていく中で確信するように団員誰もが思うようになった。観光ガイド、通訳というより、公安員としての側面が強かった。
![]() Q芦屋市友好訪中団:成田空港にて (筆者後列左より2人目) |
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それは、彼が各地の現地分社の通訳やガイドに示した態度が同業というよりもっと尊大な態度からもうかがい知れた。またこの時に出迎えてくれた日本処(日本課)副課長胡金樹氏は、その後、中国要人が日本訪問する際に度々、日本語通訳として来日し、そのフルネームを新聞紙上でよく見かけた。(写真Q)
我々が中国を訪れた1979年(昭和54年)の日中の動向を見ておこう。この年の1月1日に米中の外交関係が樹立され、2月17日には、ベトナムと中国は戦争を始めている。また2月には、後の日本国総理となる麻生太郎氏が39才で、日本青年会議所会頭として代表団を率いて訪中をしている。同年に衆議院議員に初当選している。
一方、中国では、現在の国家主席習近平氏が24才で清華大学(北京)を卒業して、中国軍事委員会弁公室へ勤務を始めており、中国共産党官僚として出発をした年でもある。
1979年(昭和54年)11月の時点で、1米ドルが1.55中国元であった。当時1米ドルは日本円で246円前後であったので、換算すると1中国元は約158円前後であった。(2019年4月現在1中国元は日本円で約17円)
我々が訪中した当時は、万元戸(1万元)が富農・富豪の目標とされており、つまり日本円で年収160万前後のお金を持つ人々が中国に於ては少数の富農・富豪と見なされた。昨今の中国経済とは雲泥の差である。
当時、1979年(昭和54年)頃の中国人の平均月収は、都市部の勤労者が良くて、(家族持で)70元〜80元(日本円で約11,000円〜12,600円)位であり、日本では大卒の初任給が大体、手当を除いて約100,000円前後の頃である。まだ中国は経済的に見ても発展途上国であった。
![]() R1979年(昭和54年)当時の 前門飯店のシール |
![]() S現在の前門建国大飯店 |
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さて、到着日は夜も遅い為、空港での歓迎の言葉もそこそこに、北京市内のホテルへ向った。市内まで約20キロメートルの道は、薄暗くて、これから首都へ向うのかと思うほど淋しい道であった。それでもポッと灯る街灯の明りが増えてきて、首都北京中央部永安路にある、前門ホテルへ到着した。現在の前門建国大飯店である。(写真R)(写真S)
薄暗くて、やけに広いロビーで部屋割を済ませて、真夜中過ぎにそれぞれの部屋に入った。現在のように超一流ホテルが乱立する北京のホテル事情とは異なり、前門ホテルは、芦屋市という友好訪中団を受け入れるに足る、当時では、北京の一流ホテルだったのである。本音で言えば、薄暗くて、うらぶれた感じがしたが、芦屋市という都市の内容と特色は間違いなく、国の機関である、国家旅遊管理総局を通じて、中国国際旅行総社に伝えられている筈である。
団員一行も一寸とまどった感じであったが、後日、この国の実情が徐々にわかってくることになる。
![]() @1979年当時ホテルから見た民家 |
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一夜明けた1979年(昭和54年)11月28日、水曜日の早朝、前門飯店で夜明けを迎えた。初めての中国での朝である。前日は夜遅く、ホテルへ到着のために、北京の街の様子はわからなかった。午前7時前に5階(だったと思うが)の自室の部屋から市街を眺めると煙に曇った風景である。現今、炭素硝酸塩、金属を主な成分とする粒子で径2.5μm以下の微粒子状物質のPM2.5が空気中に飛散して、平成27年12月9日には、最悪警報「赤色警報」が発令されて学校等が休校になる事態になっているが、その原因の一つが、冬の暖房のための石炭を燃やすことといわれている。当日の11月28日もかなり冷えこんでおり、石炭を燃やして北京市民は暖をとっていたのであろう。窓をあけると、石炭の臭いが鼻に入り、このスモッグは石炭のせいだとはっきりわかった。当時北京では、乗用車もあまり走っておらず、それがスモッグの原因になるはずもなかった。自室の窓から見る窓外の民家は貧し気で、現在の北京とは全然違った風景であった。(写真@)
![]() A北京市内を走る高級車“紅旗” |
![]() B1979年11月、筆者と乗用車 |
![]() C乗用車を整備する服務員 |
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![]() D1979年11月26日付人民日報 |
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この頃の乗用車といえば、要人用の高級車の“紅旗”か“上海”などが走っており、現在のように輸入車をはじめ、車道を埋めるような混雑は想像も出来なかった。(写真A)(写真B)(写真C)
訪中団の二日目、1979年(昭和54年)11月28日(水曜日)は終日、北京市内観光を行った。まだ外国からの観光客は少なく、行く先々で逆に我々一行が、北京の人々に物珍しげに囲まれた。(写真D)
午前8時に前門飯店を出発した専用バスは中国旅行総社北京分社日本処(日本課)の通訳3名と共に先づ天安門広場へと向った。40万平方メートルもあり、一度に50万人を収容できると説明を受けた。広場を散策したが、現在のように内外の観光客はなく、大広場には我々のグループと少しの人々しか居なかった。(写真E)(写真F)(写真G)
![]() E訪問した1979年(昭和54年)の 天安門広場 |
![]() F訪問した1979年(昭和54年) 天安門広場の筆者 |
![]() G団長の松永芦屋市長と中国国際 旅行総社北京分社日本課の日本語通訳 |
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天安門散策の後、72万平方メートルの敷地の中に、9,000室も部屋があるという、故宮博物院を見学した。(写真H)
![]() H1979年の故宮 |
![]() I北京市内の天壇 |
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整美された現在とは程遠い若干荒れた印象であった。しかし、天安門を含めてその規模の大きさには度肝をぬかれた。午前8時半頃に天安門の見学を始めて徒歩で午前中をかけて見学をしたが、それでも時間が足らない位であった。中国はユネスコの世界文化遺産登録の最も多い国の一つだが、故宮は勿論登録をされている。(我々が訪問した頃にはまだこの登録制度は無かった。)歩き疲れた感じですぐ近くの前門飯店に帰り、昼食をとった。当時は、昼食を観光する場所の近くでというようなレストランは皆無に近く、外国人観光客は原則的に全行程宿泊したホテルに戻って昼食をとり、再び出発をした。これは、トイレ事情にもあった。厠所(便所)は、余りにも設備がひどくて、観光客には、使用するには、勇気のいることであった。特に大便所はひどかった。一度ホテルへ戻った後、午後は北京市内の天壇、つまり明代、清代の皇帝が天に対して祭祀を行った場所を見学した。この場所は、1918年迄は、一般人は立入禁止となっていたそうだ。(写真I)
![]() J頤和園の石船 |
![]() K頤和園にて若き日の筆者 |
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その後、これも後日に世界遺産として登録された頤和園を見学した。(写真J)
荒廃していた頤和園を再建したのは、有名な西太后であり、離宮とし、避暑に利用された。この再建費に莫大な国費を使用したために日清戦争の敗因の一つとされている。
1900年には義和団の乱で破壊されたが、1902年に修復された。(写真K)
この日は午後7時頃にホテルへ戻った。
![]() L訪中当時の「兌換」中国元 |
![]() と普通の人民元 |
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ところでこの頃の中国を訪れる外国人観光客は、我々を含めて、使用する中国元は「兌換券」制度が導入されていて、人民元の価値で表示されていた。一般人民元は外貨とは交換出来なかった。持参した米ドルを、中国元の「兌換券」に両替をし使用した。余った「兌換中国元」は両替した領収証と、使用した(つまり買物等で使用した)領収証を提出して、最後に米国ドルに再度両替をしたと記憶している。(写真L)
とにかく買う物も少ししかなく、余りお金は使わなかった。旅行費には、滞在中の食事、朝食、昼食、夕食等が全て含まれていたからだ。当時、一米ドルは1.55中国元であった。(令和元年4月現在で1米ドルが約6.73人民元である)
さて、旅行3日目の1979年(昭和54年)11月29日(木曜日)は、午前中に万里の長城の見学と午後に明の十三陵(定陵公園)を見学した。(写真M)
![]() M訪問当時の荒廃した万里の長城 |
![]() N当日の北京・八達嶺駅往復の列車切符 |
![]() O万里の長城訪問の証明書 |
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現在では、北京を訪れる観光客の一日観光の定番コースであるが、昭和54年(1979年)当時は中国が外人観光客に対して開放していた、世界に誇れる観光資源であった。勿論後年に中国を代表するものとして、世界文化遺産に登録された。この日は、朝7時頃にホテルを出発して、北京駅より鉄道を利用して八達嶺駅まで乗車した。北京駅午前8時5分発で八達嶺駅に午前10時9分に到着している。(写真N)(写真O)
![]() Pあまり人のいない長城 |
![]() Q1979年当時発行の長城切手 |
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八達嶺駅からマイクロバスで長城(八達嶺の長城)へ向った。最も早い時期に公開された長城でかなりの人で賑っていたが、現在の各地の公開されている長城の混雑とは雲泥の差でゆっくりと長城壁上を見物できた。(写真P)(写真Q)
限られた時間の中で、日本人が名付けた“男坂”“女坂”の両方を見物するのは、当時まだ若かった私でさえかなり疲れた。
![]() R明14代皇帝 万暦帝の肖像 |
![]() S1979年11月29日(木)明の 十三陵、定陵地下宮殿の中国民衆 |
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八達嶺駅から列車で南口駅まで引き返して、そこからまたマイクロバスで明の十三陵へ向った。十三陵は、明の成祖永楽帝以後の皇帝13代の陵墓があるために、この名称がある。勿論これも世界遺産に登録されているが、我々の訪ねた1979年当時はこの14代皇帝の「万暦帝」の陵墓である、地下宮殿の発掘からまだ間もない頃であり、(発掘は1956年から1年かけて行われた。考古学技術の未熟な中での発掘のため、大量の文物が破壊され、1966年には文化大革命の時期、紅衛兵により文物が破壊されている。)地下宮殿は未整理のまま我々にも公開された。壮大な地下宮殿であった。(写真R)(写真S)
皇帝の棺や椅子等が公開展示されていた。現在では、北京市からの一日観光の定番観光地として、ひきもきらぬ観光客で一杯であるが、その当時は、北京市から北方50キロメートルに位置していながら、中国人を中心としたわずかな人達しか訪れていなかった。
![]() ![]() ![]() の当時のパンフレット |
![]() ![]() |
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見学後、南口駅まで戻って列車で北京市内へ帰った。この日の夕食はホテルでとる予定になっていたが、(全行程3食込の旅程であったが)急拠キャンセルをしてせっかく北京へ来たのだから、名物の北京ダックを賞味したいと、北京分社に申し入れをして、自費負担承知で手配をしてもらった。現在では、日本にも支店を持つ全聚徳(ぜんしゅうとく)鴨店である。それも前門総本店で手配してもらった。1979年当時は、全聚徳の店名は文化大革命の影響で消されており、単に北京
鴨店の名前で営業をしていた。古びた料理店の風情であったが、出てきた北京ダックは本当に美味であり、グループ全員がこれこそ、本場の北京料理と感心をした。正確な料金は忘れたが、結構高価だったと記憶に残っている。(写真
)(写真
)
![]() ![]() 北京市革命委員会外事弁公室副主任 |
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旅の4日目、1979年(昭和54年)11月30日(金曜日)を迎えた。今日は北京市革命委員会を午前中に訪問した。団長以下全員服装を整えて訪問をした。北京市革命委員会外事弁公室副主任仁先さんが迎えてくれて歓迎のあいさつを受けた。北京市民の沢山の人々とふれあって日中友好の実績を積み上げて下さいとの主旨であった。芦屋市からの記念品を贈って約1時間懇談をした。(写真
)
革命委員会とは、文化大革命中の政治権力組織であり、主任、副主任、常務委員などで構成されていて、軍区司令官、地方幹部、労働者、農民、学生などで構成されていた。
我々が訪中した頃には、革命委員会は各地で機能しなくなっており、順次各地で市民政府などに名前が変り、実務的な機能を持つ機構に再編されている時期に当っていた。
表敬訪問を終えた我々グループは、市内の工芸品と友誼商店を見物して各々、買物を楽しんだ。北京一般市民のための、ショッピングセンターではなく、あくまで外貨である米ドルを中国元に交換した外国観光客向けの商店である。特に北京、上海などの大都市の友誼商店は、百貨店のような型になっており、中国の文物が、そこで何でも揃っており、又そこにしか良い品がなくて、外国観光客は、そこでの買物を強いられていた。一般市民の買物客は入れず、専ら中国駐在の外交官や、その家族と訪中団等の特殊な人々のショッピングゾーンであった。店員達は全く、サービスの何たるかを理解しておらず、買物客など度外視するかのように、仲間同士でおしゃべりをしていた。これには我々も恐れ入ってしまった。
![]() 故 吉川 順三さん |
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![]() 筆者近影 |
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重篤な病とは人づてに伺っていたが、早すぎるお別れとなった。
伊豆の高原にお住まいで、「温泉もあるから遊びに来いよ」とお元気なころおっしゃっておられたのに、つい行きそびれてしまったのがいたく悔やまれる。最後にお会いしたのは昨年4月のKPC総会であった。
吉川先輩は、昭和31年(1956年)高校1年の春に入部するやいなや、上級生の早い引退で部活動の第一線に立たされたという。まもなく中3の私も入部したから、ご指導いただいたのはそれ以来である。文章の書き方(「体言止め」などは後々まで使わせていただいた)、ヘソ、腹切りなど技術的なことを教わっただけでなく、「学説や理論ではない、記事は足で書くもの」という言葉を常々聞かされたものである。
この厳しい現場主義は、紙面の独走、跳ね上がりを防いだだけでなく、筆者が社会人になってからのキャリアにも多々影響をおよぼしたのではないかと今になって思う。
![]() |
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向陽新聞バックナンバーで、吉川先輩が活躍されたころの紙面をこのたびあらためて見ると、文字通り「足で書いた」報道記事の多さが目立つ。昭和31年12月発行の34号3面トップ(当時は4面)に写真入りで「大さわぎの修学旅行ー女生徒も酔っぱらう」という衝撃的な記事を載せて波紋を呼んだが、明けて32年2月の35号ではさっそく大嶋校長の苦言「あれは君よほど慎重を期する問題だよ。新聞部の諸君が真に学校を愛してくれたとは思えんね。あれが世間に及ぼす影響を考えてみたまえ。・・・扱い方が問題だ。今後はよく勉強してくれたまえ」を伝えるとともに、旅行のあるべき在り方に焦点を転じて特集を組み、改善のための幅広い声を集めている。
ある時は、「何か注文があるかね」と校長に訊かれたので、「土佐高は受験に閉じ込め過ぎだと思う。せめて全校集会のたびに校長先生が“一期校の試験まであと何日”と繰り返すのはやめてほしい」と言上した。校長は「進学第一の方針は変えない。運動部も文化部も活発にやれている。・・・あの“あと何日”は年に1回だけにするよ」と答えたそうである。(KPCホームページに平成23年8月吉川先輩が寄せられた回想文「居心地のよい新聞部」より)謹厳で普通の生徒には近寄りがたかった大嶋校長との師弟らしいやりとりが興味深い。
![]() 平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて 左から故吉川、筆者、濱崎の各氏 |
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吉川先輩には卒業後久しく御無沙汰していたが、2010年3月のKPC(再発足)設立準備委員会の場で再会、以来、幹事会・総会でたびたびお目にかかって高顔に接することができた。先輩の毎日新聞記者時代のご活躍ぶり、特に関西木材業界の雄だった安宅産業の崩壊、海運業界の暴れん坊三光汽船の倒産、リクルートの破たんなど、並の記者なら一生に一度あるかなしかという大スクープにまつわるお話には、たまたま前2社が小生の銀行勤務時代(融資担当)の直の取引先であったこともあり、引き込まれていった。
語る吉川先輩のお顔を拝すると、温かいまなざしの中に独立不羈の気をしのばせて、坂本龍馬の風貌を彷彿とさせたとするは、弟子たる筆者の贔屓目だろうか。
吉川順三さん投稿記事:
2011.08.05居心地のよい新聞部
2016.03.12新聞部同期の合田佐和子さんを偲ぶ
![]() 故 吉川 順三さん (毎日新聞大阪本社時代) |
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![]() 筆者近影 |
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11月末に思いがけない知らせが届いた。吉川順三君(34回生)の奥様からの喪中ご挨拶状で、「夫 順三は肺癌の為、この四月七日、七十九歳の誕生日を前に亡くなりました。昨年夏の初めに診断され、余命十か月を淡々と朗らかに過ごしました。<楽しく幸せな生涯だった>と、書き遺しております。・・・>
実は、昨年夏の終りに「土佐中高100年人物伝」の企画を相談したくて伊豆大室高原の自宅に電話すると、本人が出て明るい声で、「肺癌で検査入院からい今日帰ったところ」とのこと。「これからは療養に専念するので、申し訳ないが執筆などのお手伝いも、向陽プレスクラブ(KPC)への出席もできない」と言う。余命十か月と告げられていたとは、いつもどおりの口調から全く気付かず、また元気になったら頼むとお願いして電話を切った。
昨年5月には、KPCのHPで連載中だった「素顔のアーティスト」で田島征彦・征三兄弟を書くため、同級だった吉川君に情報提供をお願いした。メールでの返事には、「田島兄弟とはすぐ近くの隣り村で育ち、小学校のころから画の教室で一緒でした。中学・高校も同級、征三君は偶然にもまた伊豆で近くに住んでいます。私は閑居していますが、彼は痩身をものともせず、国内外を飛び回って大活躍です。特に今年は新しい分野の新聞広告デザイン(スポンサー伊藤忠)で日経賞大賞を受け、各紙の全面を飾ったことで注目されました。恒例になっている新潟十日町の地域を巻き込んだ国際芸術祭でも幹事役をつとめ・・・」とあった。この知らせのお陰で、6月に「大地のエネルギーを絵筆で歌う田島征彦・征三兄弟」をまとめることができた。
吉川君がマスコミ界から引退しても、同級生など仲間の活躍を暖かく追っていたことに気付かされた。小生の拙文も、よく読んでくれていた。『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』もいち早く読み、「ケーべル博士のことなどよく調査取材して、知られてなかった校長の人物像を浮き上がらせている」と、言ってくれた。筆者は作家などに原稿を依頼する編集育ちで、取材執筆の訓練は新聞部以外では受けてないだけに、練達の取材記者からの反響は先輩へのお世辞混じりでもうれしかった。以後、「版画万華鏡シリーズ」でも、彼のような読者がいることを肝に銘じて執筆してきた。
リクルートで世紀のスクープ
![]() 平成23年4月23日(土)八重洲パールホテルにて 左から故岡林、筆者、森田、故吉川の各氏 |
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今回も藤宗編集長から依頼を受け、かつて毎日新聞の大阪本社経済部長時代にリクルート関連のスクープで新聞協会賞を受賞したことや、民博梅棹忠夫館長の会合で彼と出会い、経済界だけでなく学術・文化の識者とも幅広いネットワークを築いていたことを思い出した。しかし、記憶だけで手元になにも資料がないので、失礼を顧みず、奥様に資料提供をお願いした。快く送付くださった資料と、添えてあったお手紙から、記者活動の一端を紹介させていただこう。
経済記者のみならず、新聞記者としての最高の栄誉の一つが、毎年日本新聞協会が発表する新聞協会賞である。これには第一部門(ニュース)、第二部門(連載企画)など六部門に分かれて授賞作品が選定される。なかでも、社会・政治・経済・学芸などの分野を超えて、過去一年間で最も価値ある報道ニュースとして選定される第一部門が、注目される。平成4(1992)年度、この賞に見事輝いたのは、毎日新聞大阪本社経済部長・吉川順三を代表とする<「リクルート ダイエーの傘下に」江副前会長の持ち株を譲渡のスクープと一連の続報>であった。
協会賞を発表した『新聞研究』1992年10月号には、「情報を棄てずに可能性を探る」と題して吉川部長の、大スクープの発端から綿密な裏付け取材、さらに記事掲載のタイミングまで、見事なチームプレーが明かされている。この記事が出た直後、ダイエー中内・リクルート江副の両トップが記者会見でこの報道を認め、各社が後追い記事を書く。しかし、長期間にわたって取材を重ね、この出来事の背景から両トップの関係、さらにはこの買収劇の経済史的意味付や、体質の異なる企業の合体が及ぼす影響などをしっかりおさえた毎日の記事は、他社の追従を許さない圧勝だった。まさに、経済界が迎える大型合併の時代と問題点を先取りした世紀のスクープであった。
![]() 2010年、向陽プレスクラブ設立総会にて 左から横山、故吉川、故岡林の各氏 |
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吉川君は高校時代、中学入試漏洩問題の余震が続くなか、「向陽新聞」31号32号の「主張」やコラム「ひとこと」を担当、校長・生徒双方に信頼回復を呼びかけている。毎日時代にもコラム「憂楽帳」で、さまざまな経済世相にやんわりと注意を促し、コラムニストとして天性の才能を発揮してきた。さらに、高松支局長時代に瀬戸大橋の開通、大阪経済部で関西新国際空港の開設など、巨大プロジェクトの報道を担当、関西の政財界人から信頼されていた。いっぽう経済記者ながら関西文化人とも親しく、梅棹館長たちとの酒席では、小松左京、石毛直道、小山修三などの先生方とも昵懇な様子を見かけて驚かされ、また嬉しくなった。こうした人柄を見込まれ、関経連の会長はじめ財界人、大阪府知事・市長、高知県知事などを発起人に誕生した「大阪ジョン万の会」の事務長も長く引き受けていた。ただ、高知市長選にまで担ぎ出されたのは、気の毒であった。
「見るべきものは見た」
![]() 土佐高新聞部の種崎海水浴キャンプ。後列左から:3人目が故吉川、 麦わら帽が筆者、その右で顔を隠しておどける故秦洋一。 中列:故岡林、公文 前列:左端故合田、?人目が久永の各氏。 1956年 |
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退職後は大阪から伊豆に転居し、やがて東京での向陽プレスクラブ総会にも、よく顔を出してくれた。奥様もお手紙で、「順三は懐かしい土佐中・高時代の、中でも新聞部での思出は深く大切にしていた」と記している。筆者は、大学時代に帰省した際に、大嶋校長を囲む座談会(34号掲載)に引っ張り出されたのと、新聞部の夏休みキャンプ・新年会で会った程度だ。だが、吉川君の時代は新聞部の黄金期で、朝日新聞で医療ジャーナリストとして活躍した秦洋一、NHK高知支局で「清流四万十川」を制作して全国に印象づけ、本社に戻って運動部長だった國見昭カ、それに画家合田佐和子、これら個性派をうまくまとめる浜田晋介・山崎(久永)洋子など多士済々で、在学中も社会に出てからも、注目してきた。
吉川君の長男が、ふと父に「マスコミに進みたい」と漏らしたとき、彼は「この世界で見るべきものは見た。別の道をめざせ」と、諭すのを奥様は耳にしている。厳しいマスコミの世界で、先頭を駆け抜けた彼ならではの想いだろう。長男は経済界で、次男は学界で活躍中と聞く。晩年の年賀状には、「伊豆閑居 妻の傍らで熱燗を飲む」と記してあった。ここで拙文は終え、奥様のお手紙の一端をご紹介しよう。
「お尋ねの〈新聞協会賞〉の頃は、順三の記者としての仕事の中でも最も充実していた時代だったと思います。・・・お電話でお話しました梅棹忠夫さん、小松左京さんを囲む国立民族学博物館の先生方との飲み会は、毎月一回何年か通い、楽しみにしておりました。社外に広くネットワークを持つことをこころがけ、大阪ジョン万の会を頼まれたのも、その人脈の延長上であったと思います。五十三歳で新聞社をやめたとき、驚くほど大勢の社外の皆様が会をして下さり、サントリーの佐治敬三さんがお得意の〈ローハイド〉を歌って下さったのも思い出となりました。高校時代の助走から本人が〈見るべきものは見た〉と言えるまで、志を実現できたのは本当に幸せだったと思います。」
合掌
![]() 故 吉川 順三さん |
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![]() 筆者旧影 |
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吉川順三さんが御病気だということを知ったのは昨年11月でした。お電話をすると、明るいお元気な声で「余命いくらと言われているし、脳にも転移していると言われているけれど、人間はどうせ皆死ぬんだから、なるだけ元気に明るく生きようと思ってるよ。明日はゴルフに行くよ。」と言っていました。そして、「来年春の新聞部の会に行かない?」と言いましたので「吉川君が行くなら、ご一緒にいくわ。」と答えました。
春になり、新聞部の会はいつかしらと思っている頃、34回生の友達から「吉川が亡くなったよ。」と電話がありました。合田さんが亡くなった時、追悼の文を書かれる時、「何か思い出すことある?」と何度もお電話をいただいたのですが、まさか、こんなことになろうとは。まだ、信じられない気持でいます。
思えば、新聞部で毎日のように賑やかに活動していた頃からの長いお付き合いでした。新聞部では論客で、理屈っぽく、信念の人でした。土佐のイゴッソウでもあり、しかし、やさしい人でした。卒業後は、就職してずっと高知に居る私をよく尋ねて下さいました。新聞部の人は皆さんそうでしたが、大学の香り、会社の香り、都会の香りを伝えてくれました。吉川君毎日新聞、秦君朝日新聞、国見君NHKとマスコミに羽ばたき、陰ながら私の自慢のお友達でした。いつか、小さなお嬢さんの手をひいて尋ねてこられて、3人で桂浜に行ったこともありました。
![]() 1961年 母校新年会での筆者(中列の美女) |
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毎日新聞で御活躍の頃、突然、高知市長選に出馬された時、驚いた人達がいましたが、何となく私は彼らしいと思いました。まっすぐな太い道を進みながら、その道を進むことに一寸照れて、ふと道を変えてしまうシャイなところのある人でした。
市長選の後、高知の同窓会にサラッとした顔で出席されました。きちんとスーツを着ておられたので、「ステキになったね。」と言いますと、「今頃気がついたか」と言われました。そしてある時も私の家にお電話下さって、私は留守で夫がお名前を聞いていました。あとでお電話すると、「むつかしそうな旦那だね。」と言われました。確かに!何となく慰められたような気がしました。
あの吉川君と冗談を言い合い、何となく笑ってしまう日がもうないのでしょうか。でも、私の年齢になりますと、またお会いできる日は遠くないように思ってしまいます。私のまだ知らないところに行かれても、どうかお元気で明るく過ごされますように……。
![]() 34回生ゴルフコンペ 河野剛久氏提供 |
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頂いた年賀状を眺めて、吉川君をしのんでいます。
同老同閑同趣の輩
長棹短竿魚信を待つ
鏡海は白雲碧空を映し
猶願う潮満ち銀鱗多かれと
(戯順2018年)
忖度は「毛頭なし」とカミ告げる
余命知り時に及んで釣りゴルフ
批判したこの世に今やただ感謝
(戯順2019年)
私の拙い歌を書かせて頂きます。
また会おうねと 書き添えくれし 年賀状
いきいきと 太い字は残されて
令和を見ず 旅立ちし友よ いつか逢う
日には伝えむ 楽しきことを
階段の 廊下の隅の 小さき部屋
新聞部の皆と も一度会いたい
吉川さん、本当にまたお会いしましょうね。
![]() @文化大革命 |
![]() A文化大革命 |
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北京滞在中に私はほんの数年前まで(1966年?1976年)続いた文化大革命という未曾有の混乱について、色々な人に聞いてみたが、
荒波にのみこまれたであろう、北京の人達は、こちらの顔をじっとみつめながら、何も答えずさも迷惑そうな顔をするのが、印象的であった。文化大革命への評価が定まったのは、1981年(昭和56年)6月の中国共産党第11期6中全会であり、ずっと後のことである。まだ一般の人には、文革に対する評価など出来る時期ではなかったのであろう。昨日迄正義と信じこまされていた文革が突然終りまだ何がなんだかわからないということであったと思う。それは第2次大戦敗戦後の日本国民のとまどいと同様であった。正義だと信じていた社会感が崩れ去ったのである。(写真@)(写真A)
![]() B訪中当時の「兌換」中国元 |
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ここで現在と昭和54年当時の様子を比較してみよう。平成17年(2005年)11月30日にIMF(国際通貨基金)理事会は、人民元を世界の主要通貨と位置づけ、ドル、ユーロに次ぐ第三の通貨に位置づけて第4位の通貨となった日本の円を抜いて国際的な通貨システムの中でも、中国の存在感が強くなっている。しかし我々が訪中した昭和54年(1979年)当時の人民元はまだ弱い存在でしかなかった。(写真B)昭和54年1月には、米・中の間で国交が樹立され、2月には、ベトナムと戦端を開いている。
![]() C若き日の習近平 |
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また、昭和54年4月には、現国家主席の習近平が、清華大学を卒業して、中国軍事委員会弁公室に入り、当時の国防相の秘書として官僚の道を歩み出している。(写真C)そんな時代に我々訪中団は中国を訪れたのである。
![]() D天津友誼賓館のシール |
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北京を後にして我々一行は11月30日(金)北京駅を午後5時47分発の列車で次の訪問地、天津市へ向い午後7時47分に天津駅に到着した。駅頭で中国旅行総社天津分社副社長李疾風氏、日本課々長で通訳の徐錦康氏、女性通訳の張文紅氏、燕氏の男性2名、女性2名の出迎えを受け歓迎のあいさつを受け出迎えのバスにて宿泊する天津友誼賓館(写真D)へ向った。
当時このホテルは天津を代表するホテルであり、神戸市と天津市が友好都市である関係からか、同じ兵庫県の芦屋市ということで大変良いホテルを受入先にしてもらったのかも知れない。(ホテルや受入先は全て当時は中国側から指定される情況にあった)
![]() E退休職工養老院 |
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旅行も第5日目を迎えた12月1日(土)は午前中に天津市退休職工養老院を訪ねた。退職をした老人達の養老院である。(写真E)
話しを聞くと、我々老人を大切にしてくれる共産党には心から感謝をしている。昔の古い中国では考えられない待遇であり、年金も支給されていて、幸福だと模範的な答えであった。ずっと養老院長の熊さんと幹部の楊さん、王さん3名が我々との質疑応答に立ち会って、訪中団が毎回訪ねてきている感じがして応接の問答も慣れた感じがした。年金は月60元〜70元とのことであった。当時の天津市は中国での商業ならびに重・軽工業の都市で、北京・上海とともに中国の三つの特別市(中央直轄市)の一つであり、先年、天津に近い唐山を震源地とする大地震があり、その震災の後遺症がまだ残っており、避難小屋と名付けたレンガ造りの仮設小屋が点在しており、その復旧と住宅建設に全力をあげている最中であった。
![]() F平山道中学と平山道高校 |
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午後からは、天津市内の平山道中学と併設の平山道高校を見学した。(写真F)
校長の李莉さん(女性)と歴史教師趙氏、国文教師の尹氏の3名が“熱烈歓迎日本兵庫県芦屋市訪華団”と書いた学校入口で生徒達と共に迎えてくれた。そして解放前は貧しく進学も容易でなかったことや、現在は男女共学で生徒数が1,500人、教師が90人で「四つの近代化」を実現する教育に努力していること、また学制は当初6・3・3・4制で発足したが文革により5・3・2・3制に変えました。しかし世界の情勢にてらして来年の1980年から元の6・3・3・4制に戻すと決めたと説明があり、英語も中1から高校まで会話を採り入れているなどの説明があり、生徒には「自分の一生はなにか」、「何のために勉強するのか」などを討議させている、これも革命教育の一つとの説明を受けた。李校長は教育向上視察のために、団員の一人として兵庫県にこられたと言って、熱心にこの日の午後我々と生徒の交流につきそってくれた。団員一同中国の教育現場をじっくりと見学が出来た。
同日夜は宿泊をした天津友誼賓館にて天津市革命委員会の招待宴があり、天津市革命委副主任王恩恵氏や外事弁公室主任王屏氏など市の幹部出席のもと交歓会が行われた。今年(1979年)に訪中する日本の大平首相を熱烈に歓迎することや、そして7年前に田中首相と共に訪中して大平氏は当時中日両国人民待望の中日国交樹立の大きな功績等や天津と神戸市の友好都市関係の発展を祈念する等の話しをされた。なお、この招待宴に先立って、天津市革命委員会への表敬訪問を行っており、上記2氏の他に、中国対外友好協会天津分会長、天津市遊覧観光局長、外事弁公室接待所幹部など多数の人達と接見をした。(写真G)(写真H)(写真I)
![]() G天津市革命委員会副主任 王恩恵氏よりのプレゼントされる軸 |
![]() H天津市王恩恵氏歓迎あいさつと |
![]() 訪中団を代表してあいさつをする 芦屋市松永市長 |
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この歓迎宴は、宴の始まる前に、中国旅行総社の全行程随行の張氏より、式での天津市側と芦屋市側のあいさつ文のすり合せがあり、何か不都合な文言がないかのチェックがあった。また宴会ではお酒の飲めない人は最初から断っておくのが礼儀であると言われた。
予算の関係からか、まずまずの料理と、お酒は最高級の中国酒“貴州茅台酒”などが沢山提供された。乾杯、乾杯の応酬で招宴は楽しく行われたが、中国側からは政治関係の話しは出なかったと記憶している。しかし、中国側の出席者の要人達は酒に強い人が多かった。
![]() J天津第一じゅうたん工場にて |
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旅の第6日目、1979年12月2日(日)は、中国じゅうたんで有名な天津第一じゅうたん工場を工場長の蔡さんの案内で見学した。(写真J)高価なじゅうたんは全部手作業でつくられていたが、労働環境はあまり良くなく、ほこりが沢山工場内に舞っていた。
![]() K天津の切り絵 |
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そして、天津の友誼商店でショッピンングをして天津市芸術博物館を見学した。弁公室主任の周学謙さんの案内で天津の有名な切り絵(剪紙)を見物した。(写真K)
そしてその後、この日の圧巻の天津水上公園のパンダ見物であった。既に日本の上野動物園に1972年にパンダの“ランラン”ともう一頭“カンカン”(写真L)が中国政府より贈られていて、ブームを呼んでいたが、私をはじめ、団員の大多数の人達が、現物の“大熊猫”と中国で呼ばれているパンダを見るのは初めてであった。
![]() L上野動物園のカンカン(右) とランラン(左)の写真 |
![]() M天津水上公園のパンダ |
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日本のようにV.I.P.待遇の園舎ではなく、自然のままに、土にまみれて、放し飼いに近い状態で、見物客に対しているのには、いささかびっくりした。(写真M)
パンダを間近に何の仕切等で隔離されていない姿を見て大満足であった。この夜は天津市文化局の主催する雑技つまり曲芸を見物してホテルへ夜遅く帰館した。
![]() N天津医院を訪問し質疑を行う団長並びに副団長 |
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旅行第7日目の1979年12月3日(月)は天津を離れて東北地方(旧満州)へ向う日であるが、その前に午前中、天津第一を誇る天津医院を訪問し見学をした。(写真N)院長が二人居て王春和氏、陶甫氏、骨科(整形外科)主任尚天裕氏、主治医生李漢民氏、弁公室主任方信氏など多数の医師が出席して説明をしてくれた。
当方は団長松永市長は医師であり、副団長も医師であった関係か専門的な意見交換が通訳を介して行われた。一緒した私には医療用機器は日本の医療現場の方が随分進んでいるように見えた。午後は天津市でも大きい天津市第一幼稚園を見学した。副園長の馬恵敏さんや保健員、教師など全員女性の職員が案内をしてくれた。団員の女性達が遊戯に加わり、親の年令や職業などを聞いて楽しい2時間程を過した。(写真O)
![]() O天津市第一幼稚園で園児達と |
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そしてこの日の夕食は前日の天津市の招待宴に対する芦屋市側の返礼の答礼宴で(これが通常行われていた)、出発する前に旅行コースと共に綿密に日中双方で打合せをして、双方の宴に格差が出ないよう、料理の品数、酒の等級、出される本数、出席者の人数、肩書、交換する文書の文言までチェックをした用意万端の答礼宴を行った後、同日夜午後10時15分発の夜行寝台列車(軟座寝台)の客となって東北地方(旧満州)の瀋陽(旧奉天)へ向った。この列車は我々の寝台は上・下・二段ベッドであって当時の日本の“ハネ”と専門用語で呼ばれていた二等寝台車によく似た寝台車であった。
![]() @訪中時1979年の遼寧賓館のシール |
![]() A現在の遼寧賓館 |
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夜行寝台列車は窓の外には、ほとんど灯の見えないまま、翌朝1979年12月4日(火)の午前7時に瀋陽駅(旧奉天駅)に到着した。古い駅舎であり、何となく淋しい感じのする駅であった。中国東北部の主要都市である。日本出発前から、満州という言葉には注意することと、言われており、使うなら偽満州国と呼ぶようにと注意されていた。
旧奉天市であり、日本が中国へ軍事的侵略をしていた際、張作霖が根拠にしていた地である。日本人にも古い世代にはよく知られていた地である。駅頭には、中国旅行総社瀋陽分社副社長王棟さんと通訳の張鳳翔さんが出迎えており、あいさつを受けて、着後すぐに駅近くの天津市紅旗広場にある、遼寧賓館(戦前の満鉄ヤマトホテル)で旅装をといた。(写真@)(写真A)
![]() B訪中時、紅旗広場の毛沢東像 |
![]() C中山広場と名を変えた場所の現在の毛沢東像 |
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良く言えばロマンチックなホテルであり、このホテルを中心に戦前の満州での権謀術数が行われていたことを思うと感無量であった。それも、訪問時から30数年前のことである。数々の満州の歴史に登場するホテルである。又ホテル前の紅旗広場には巨大な毛沢東の全身像が台座の上から手を上げて広場を見下ろしていた。中国共産党の象徴である。(写真B)(写真C)
![]() D瀋陽市革命委員会を表敬訪問 |
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我々はホテルに荷物を預けチェックインをした後すぐに瀋陽市革命委員会を表敬訪問して革命委員会副主任田光氏、外事弁公室副主任張国端氏、同処長費宝民氏、工作員鄭雲起氏その他の人々より歓迎あいさつを受けた。(写真D)
そして瀋陽市の概要の説明を受けた。ここは清朝発祥の地であること、北京・上海・天津につぐ中国第四の人口を持ち、重機・軽機の工場が沢山ある大工業都市であって東北3省を統括する行政・経済の要の都市であり、芦屋市民の代表団を熱烈に歓迎するとのあいさつを受けた。
![]() E瀋陽羽毛工場の羽毛画製作 |
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ホテルへ戻り、昼食の後、午後は瀋陽市羽毛工場を見学した。羽毛の工芸品は古墳からも発掘されており、二千年の歴史を持ち、孔雀や鴎など約30種類の鳥の羽毛から羽毛画をつくり、日本やアメリカなどに輸出をしており、従業員は350人で70%が女性だと羽毛工場の接待員の女性の張さんより説明を受けた。(写真E)
![]() F瀋陽市玉石工場の製作現場 |
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そしてひきつづき瀋陽市玉石工場を見学した。ここは瑪瑙(メノウ)の一種の「緑石」を磨いて、鳥や動物などの装飾品を作っており、約630人の従業員で70%が女性であり、輸出向けの芸術品を製作していると、工場長の王氏より説明があった。(写真F)
![]() G1979年派遣された神戸天津友好の船 |
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今迄巡ってきた北京・天津・瀋陽と本当にこまやかな接待を受けてきた。この年に(1979年)神戸天津友好の船を派遣しており、数百名が参加した大型の訪中団であったが、(写真G)それに比較して我々は、少人数の17名であり、なおかつ、市民代表団ということで心のこもった接待が受けられたのかもしれない。
この夜、夕食を終えて、入浴をして、タオルを持ってホテルの外へ出てみると、そんなに寒いとは思わなかったが、タオルの水分がわずか15分位でパリパリに氷結したのには驚かされた。外気温はマイナス20℃とのフロントの係員の話しであった。このホテルでは、日本植民地時代の旧満州の話しを聞きたくて、中高年の戦前を知っているであろう従業員に通訳を交えて聞いてみたが、誰も通訳を気にしてか、その話しには応じてくれなかった。
旅行も八日目が終ろうとしていたが、この日の夕食にはお粥が提供されて団員の皆が大変喜んだ。と言うのも初日から我々に対しては朝・昼・夕食ともに豪華な中国料理を提供してもらっていたが、さすがに腹にこたえてきた。特に油が多いのがこたえた。そこで団員から何かさっぱりした料理が欲しいと申し出があり、全行程随行の張氏へ申し入れた。食事の差配は、彼が現地の中国国際旅行社の現地分社にしているからだ。何のことはないお粥であったが、皆さんはおかわりまでして喜んで食べていた。久しぶりにホッとした夕食であったようだ。日本から持参した梅干や佃煮などが、各人から持ち出されて分け合って口にしていた。やはり和食が懐かしいのである。
スチーム暖房がチンチンと鳴ってなかなか寝つけなかったが旅の9日目、1979年12月5日(水)は瀋陽市内の参観である。
![]() H歓迎をしてくれる小学生達 |
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午前中は市内鉄西区啓工街第2小学校(校長占栄さん女性)を訪ねた。
小学校は日本と同じく6年間であり、校舎が狭くて学校数も少ないので午前、午後の2部制であり、「知・徳・体」調和の教育を貫き文革10年の遅れを取り戻すために教師も生徒も頑張っているとの説明であった。日本と違い「政治」の時間があり、マルクス・レーニン主義や毛主義を教育しており、体育の時間には近視をなくするための目の体操があり、成績優秀な生徒には飛び級制度もあるとのことだった。鉄西区は新中国建国後は、有名な重工業地帯であり、工人達の子弟のための小学校のようであった。子供達は歓迎のために京劇風の化粧をして踊りで我々を迎えてくれた。(写真H)
![]() I瀋陽故宮1979年12月5日(水) |
![]() J現在の瀋陽故宮太政殿 |
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持参したポラロイドカメラで撮影して渡すと我も我もと欲しがり、高価な印画紙がなくなりかけて嬉しい悲鳴であった。小学生は中国でも日本でも無邪気である。この日の午後には、瀋陽故宮を見学した。清朝は1644年に北京に入城する迄は、ここ瀋陽故宮に本拠を置いた満州族の王朝である。ここが王宮であり、太祖ヌルハチと第二代太宗ホンタイジはここに住み、後代の清朝皇帝もたびたび故地であるここを訪れている。
![]() K瀋陽雑技団のパンフレット 1979年12月5日(水) |
後になるが2004年に瀋陽故宮は北京故宮と共に世界文化遺産に登録された。(写真I)(写真J)
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![]() L1979年の瀋陽の繁華街 |
![]() M現在の瀋陽市の繁華街 |
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![]() N1979年12月の撫順市 |
![]() O現在の撫順市繁華街 |
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![]() P宿泊した撫順賓館の部屋割 |
![]() Q1979年12月7日撫順西露天掘炭砿 |
![]() R現在の撫順炭砿 |
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![]() S我々訪中団の捧げた花輪 |
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![]() ![]() 手書きの夕食メニュー |
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![]() 筆者近影 |
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![]() @1979年当時の中国民航トライデント機 |
![]() A1979年12月8日瀋陽・上海間の中国民航651便の機長署名 二宮作成のものに署名してもらった |
![]() B同機の機内預けの荷物タッグ |
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![]() C現在の上海虹橋国際空港待合室 |
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![]() D1979年当時の静安賓館のシール |
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![]() E毛沢東語録 |
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![]() F訪中時1979年の上海大履と 外灘の外白渡橋 |
![]() G現在の外白渡橋と ブロードウェイマンション |
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![]() H1979年当時の上海の人々の服装 |
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![]() I揚浦少年宮で床運動の指導を受ける少年達 |
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![]() J1979年12月9日(日)に訪れた 上海市上海県 ![]() |
![]() K1979年12月9日(日) 上海市内の商店街 |
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![]() Lケ小平 |
![]() M1979年12月の 上海歌劇院のパンフレット |
![]() N当時の上海?酒 (ビール)のラベル |
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![]() O上海鳳城工人新村 |
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![]() P表敬訪問をした上海市人民政府と 中国共産党上海市委員会 |
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![]() Q上海工芸美術品服務部のシール |
![]() R1979年当時の中国訪問客の 外貨兌換証明書類 |
![]() S上海発長崎行788便の荷物タッグ |
![]() ![]() |
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![]() ![]() |
![]() ![]() 9日訪問先の西安で“温古(故)知新”と 揮毫をした。同日付の人民日報紙。 我々一行が上海滞在中のことであった。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 中城文庫展:9月22まで オーテピア高知図書館 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 「うすけぼー」に集まったメンバー |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 1960年1月3日新聞部新年会 後ろ 中央が中城さん |
![]() 偉大な先輩たちの卒業の日 左端:公文さん 女性左:大野さん 右:筆者 主役の皆さんを気にせずの失敗作でしょう。 だから、私の手元にあるのでしょう。 |
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![]() 歌川広重「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」 高知県立高知城歴史博物館蔵(中城正堯旧蔵) |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 丘の上にそびえるエディンバラ城。 |
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![]() 浮世絵展会場入口の “広重のれん”。 |
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![]() 3.忠犬ボビーを訪ねてきた少女。 |
![]() 4.『Greyfriars Bobby』の表紙。ボビーとその記念碑(左)、 後方はエディンバラ城。 |
![]() 5.渋谷ハチ公前での、メッセージ伝達式。 |
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![]() 6.アントワープ郊外にあった「ネロとパトラッシュの像」。 |
![]() 7.復元された風車小屋と子どもたち。 |
![]() 8.ネロ少年あこがれの巨匠ルーベンスの「キリスト降架」。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 筆者旧影 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 「筆山の麓」表紙。 |
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![]() 刊行直後の2020年10月末に 集まった7人のサムライ(刊行委員)。 |
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![]() 1958年の新聞部新年会 前列左から旧姓で森下(31回)早川(35回) 浜口(35回)大野(36回)合田山崎(34回)。 |
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![]() ブラジルで農業に取り組んだ 中沢源一郎(1回)。 |
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![]() 1985年夏の三根校長墓参会 前列右から三人目が世話人の近藤久寿治(6回)。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 筆者所蔵の高知県教育史関連図書。左端が、 ようやく加わった土佐中高の『創立百年史』。 |
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![]() 学内の寄宿舎にあった寮の学習室。 |
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![]() 『創立百年史』と『三根先生追悼誌』。 後者は、1997年に宮地貫一同窓会関東支部長 が復刻した際に使用した原本の一部。 |
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![]() 三根圓次郎初代校長の写真と同窓会が建設した胸像(本山白雲作)。 |
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![]() 「土佐校百年展」の会場にて 小村彰校長先生と私 校長先生がこの前でと場所を決められました。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 昭和30年の土佐高卒業アルバムに掲載の新聞部記念写真。 後列左から3人目が浅井君 |
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![]() 浅井記者によるセンバツ野球の記事。 クリックするとPDF版へ向陽新聞第18号昭和28年4月13日 |
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![]() 東京で公文先生(中央)と再会した浅井君(左)と、 倉橋由美子さん(29回生・右)。筆者撮影 |
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![]() 昭和29年の運動会Oホームの仮装行列 前列右端の美人巫女が浅井君 |
![]() 仮装行列での進駐軍 筆者(左端)と女性たち |
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![]() 和子夫人のガーナ大使離任で、 大統領に挨拶。2006年の年賀状より。 |
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![]() 夫妻が感動したという壮大な アブシンベル神殿。筆者撮影 |
![]() カンボジアのアンコールワットでの 夫妻と長男。1998年の年賀状より。 |
![]() 世界自然遺産・白神山地の原生林を散策 2008年の年賀状より |
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![]() 筆者近影 |
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![]() サンペイさんとファン。 檮原「雲の上のホテル」で。 |
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![]() サンペイさんの挿絵。 『3年の学習』1962年10月号。 |
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![]() ビジネス雑誌『マイウェイ』 の漫画。1969年9月号。 |
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![]() 御畳瀬でコップ酒を手に立ち 食いするサンペイ・下重のお二人。 |
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![]() 土佐の旅のエッセイ挿絵。 1979年3月「山陽新聞」他。 |
![]() 新聞連載を終えてからの パソコン年賀状。1998年。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() ギャラリーぽたにか 「山本昇雲展」 会場は昔の土蔵2軒のそれぞれ1階。 |
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![]() 中城さんのおこたえ 山本昇雲 |
![]() 絵金(廣瀬洞意) 藤原信一 |
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![]() 図版3枚から思うこと 付記 |
![]() 『土佐と浮世絵 序曲』 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大) |
![]() 筆者近影 |
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![]() 「村の学校」イギリス銅版画 1860年頃 著者所蔵 |
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![]() 「風流をさなあそび(男)」歌川広重 天保初期 公文教育研究会蔵 |
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![]() 「当世好物八景 さわき好」喜多川歌麿 享和頃 公文教育研究会蔵 |
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![]() [上方わらべ歌絵本]絵師不詳 安永・天明期 著者所蔵 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 「父親による体罰」フランス写本 15世紀 フランス中央図書館蔵 アリエスの後継者による図録集より |
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![]() 「子供遊び尽し」歌川芳虎 嘉永頃 公文教育研究会蔵 男女がともに楽しく 遊び戯れる場面に手習いもある |
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![]() スワッドリング:生誕( Scrovegni礼拝堂/Padova) ジォット Giotto1267-1337 |
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![]() 「夏姿 母と子」鈴木春信 明和5、6年頃 公文教育研究会蔵 江戸の母子の日常的な風景 |
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![]() この文章にちなんで、八王子の 「子安神社」を訪ねてみた。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 「リッタの聖母」レオナルド・ダ・ヴィンチ 1490年頃 エルミタージュ美術館蔵 |
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![]() 〈風俗美人時計 子ノ刻」歌麿 寛政11、12年頃 大英博物館蔵 |
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![]() 「当世風俗通 女房風」喜多川歌麿 享和頃 公文教育研究会蔵 |
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![]() 「浴槽のディアーヌ・ド・ヴワチエ」 フランソワ・クルーエ 16世紀 シャンティイ城美術館 筆者撮影 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 勇猛な海洋先住民の伝統的なボートレース |
![]() 古舟の図を持つ村人。今はイスラム教徒だ。 |
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![]() 今も実るナツメグの実。 果肉のジャムも美味しかった。 |
![]() ナツメグの種。 これが香辛料になる。 |
![]() 伝統的な武将の装束を付けた村人。 兜飾りに珍しい熱帯の鳥。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() (写真は全て友人の撮影) |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 著者の榎並悦子氏と アパタニのNibu(Priest/shaman) |
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![]() 鼻栓・タトウー・首飾りの老女 |
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![]() 祭りで正装の女性 穏やかで優しげな表情だ |
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![]() タイ北部のバダウン族。 少女 と |
![]() 母子 ………… (中城撮影) |
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![]() 生後一週間の赤ちゃんを抱く、 アパタニ民族の若い夫婦 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() ルーマニア、マラムレシュ村の ルーマニア正教木造教会。 |
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![]() 木造教会の板壁に描かれた 村人への戒めの地獄絵。 作物泥棒や不倫人間が裁かれる。 |
![]() マラムレシュ村の 木造井戸小屋や穀物小屋。 |
![]() この村の民家。木彫をほどこした 立派な門と、板葺き屋根の母屋。 |
![]() 村の道ばたに立つ 木彫のキリスト像。 |
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![]() ドイツ、ケルン郊外の民家園に 移築された茅葺き農家。壁は土壁。 |
![]() この土壁には、日本 の民家同様に木の 骨組みが入っている。 |
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![]() スイスの民家園。ベルン州の山村農家。 左が住居、右は倉庫。屋根は板葺き。 |
![]() 倉庫の屋根裏につるされた大量の 自家製ソーセージ。冬の保存食。 |
![]() ベルン州の18世紀末建築の大農家。 合掌作りを連想させられる切妻造りで、 大家族のほか農夫も同居、屋根裏は倉庫。 |
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![]() 四大天使(ロマネスク期) |
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![]() 筆者近影 |
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![]() ナポレオン3世と皇妃ウージェニー (ホテル・デュ・パレ所蔵) |
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![]() ホテル・デュ・パレの空撮全景 (同ホテル絵葉書より) |
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![]() 優雅なロビーで寛ぐ斎藤夫妻 (前列中央)、その左は筆者。 |
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![]() チュイルリー公園で遊ぶ小学生 遊びはコラン・マヤール。 |
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![]() 狩野房信の見事な 「佐野の渡図」 (NHK画面より) |
![]() 狩野友信の「紅葉に青鳩図」 と、住吉弘貫の「山水画」 (NHK画面より) |
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![]() 中国、徽宋帝の「桃鳩図」 (『世界美術史』木村重信 朝日新聞社より) |
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![]() 赤岡絵金祭りのポスター (部分、絵は「蘆屋道満大内鑑 葛の葉子別れ」) |
![]() 絵金の白描を印刷したハンカチ (部分、原画は吉川登志之所蔵) |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 二アス島の位置図。 インドネシアの西端にある。 |
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![]() 大屋根・高床の王の家オモ・セプアの前で、槍と楯を手に踊る戦士。 |
![]() 王の家の前に置かれたテーブル状の巨石。王の業績を称えて造られた勲功記念物。王の家屋を支える巨大な床柱も見事だ。 |
![]() テーブル状の巨石の浮彫り。人物が持つのは、嗜好品キンマ入れの袋と、砕く道具。 |
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![]() 王の家の部屋に飾られたブタの顎骨と、オランダの軍艦を描いた浮彫り。 |
![]() 成人式の石飛び。 2メートルの石積み跳躍台を飛び越せないと、男として認められない。 |
![]() 王の家の軒先正面に飾られた守護神ラサラ。古代中国南部の聖獣「辟邪(へきじゃ)」と類似している。 |
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![]() 守護神ラサラは、村の入口の 石造階段にも刻まれている。 背後には、戦士の槍と楯。 |
![]() 村はずれの貴族の土葬新墓にも、 ラサラ像を祀ってあった。 |
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![]() 敷石の広場に立つ正装の女性。背後の左右に、大屋根・高床の木造家屋が整然と並ぶ。屋根は、ヤシの葉で葺いてある。 |
![]() 広場は儀礼の場であり、農作物加工の作業場、そして子どもの遊び場でもある。女の子が騎馬戦のような遊びをしていた。 |
![]() ハイネゲルデンが同一の美術様式というトラジャ族の舟形住居。屋根の前後は船の舳先を模ったとされる。正面は水牛と鳥の頭部が守護し、朱色と白黒の幾何模様で装飾されていた。(写真は全て筆者撮影) |
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![]() お龍の墓にお参りする筆者。 横須賀市信楽寺で。 |
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![]() お龍の真影。明治27年、64歳、東京二六新聞掲載。『坂本龍馬全集』より。 |
![]() 横浜の料亭田中家に埋もれていた写真。明治7年、44歳、田中家蔵。 |
![]() 若き日のお龍とされてきた“ニセ写真”。明治6〜8年頃、東京内田九一堂撮影。 |
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![]() 「東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」歌川広重画 天保4年 川崎・砂子の里美術館蔵 『横浜錦絵 図録』より。 |
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![]() 「高知城下のお龍」藤原信一画 『土陽新聞』明治16年8月30日高知県立図書館蔵。 |
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![]() 海援隊蔵版『和英通韻伊呂波便覧』(複刻版)と、 留学中の菅野(『ある海援隊士の生涯』口絵)。筆者蔵。 |
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![]() 中城仲が、お龍からもらった帯留。留具は龍馬の刀の目貫から。NHK『龍馬伝』図録より。 |
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![]() 千屋家に来た菅野起美 (お龍の妹)高知市民図書館 『中城文庫』蔵。 |
![]() 「坂本龍馬役者絵」明治20年高知座上演 高知城歴史博物館蔵(筆者より寄贈)。 |
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![]() 明治4年、政府太政官より小野淳輔を 坂本家継嗣とする通達の書き出し。『中城文庫』蔵。 |
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![]() 武市半平太の妻・冨、88歳。 大正6年逝去の3ヶ月前。『中城文庫』蔵。 |
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![]() 慶應3年9月、龍馬が最後の帰郷で潜伏した中城家 「離れ」座敷。筆者撮影。 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 「中城仲(直顕の妻、和食でお龍に 遊んでもらった少女の結婚後) |
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![]() 『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』 (中城正堯著 2017年発行) |
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![]() 「中城家離れで龍馬を世話した 中城直楯(直顕の兄)・早苗夫妻の晩年」 |
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![]() お龍の墓にお参りする筆者。 横須賀市信楽寺で。 |
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![]() 1.田中家の従業員集合写真 |
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![]() 2.集合写真のお龍 |
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![]() 3.『金川砂子』に描かれた「さくらや」 |
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![]() 4.「神奈川蒸気車鉄道之全図」部分 |
![]() 5.「増補再刻御開港横浜之全図」部分 左上部:横浜居留地、右:岬のあたりが神奈川宿 |
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![]() 6.挿絵「高知城下のお龍」 |
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![]() 7.龍馬土産のコンパクト |
![]() 8.龍馬旧蔵のピストル(複製) |
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![]() 9.坂本龍馬と海援隊士、中央龍馬、一人置いて右へ菅野・白峰 |
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![]() 筆者近影 |
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![]() 1.田中家の従業員集合写真 |
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