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 新しく読書室が誕生しました。書評、感想文、推薦図書など本に関する投稿をお待ちしています。
2018.04.20 冨田八千代  「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しました。
2018.04.01 冨田八千代  『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました
 中城、鍋島、冨田  龍馬談義
2018.03.18 竹本修文  カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
2018.03.02 鍋島高明  土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』について
2017.11.12 山本嘉博  遅ればせながら読みました
2017.10.20 中城正堯  『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』刊行
2017.10.03 中城正堯  書評「“上方わらべ歌絵本”の研究」
2017.08.20 中城正堯  「“上方わらべ歌絵本”の研究」
2017.06.26 公文敏雄  「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」発送のお知らせ
2017.05.24 鍋島高明  『介良のえらいて』増補版の発刊について
2017.05.22 中城正堯  生首を化粧した武士の娘
2017.03.20 公文敏雄  「龍馬・元親に土佐人の原点をみる」中城正堯(30回)著
2016.08.25 鍋島高明  「高知経済人列伝」の発刊について
2016.05.09 公文敏雄  『羊と鋼の森』の風景
2016.03.30 鍋島高明  『相場の世界』 昔と今と
2015.05.22 藤宗俊一  渡辺真弓著 『イタリア建築紀行』
2015.05.20 岡林敏眞  苫野一徳著 『勉強するのは何のため?』
2015.02.05 鍋島高明  中島及著作集『一字一涙』発刊のご挨拶
2014.12.14 山本嘉博  『税金を払わない巨大企業』を読んで
2014.07.05 公文敏雄  『小林秀雄 学生との対話』
2014.07.05 公文敏雄  『祖父たちの戦争―高知連隊 元兵士の記録』
注:2012年8月以降の記事は画像にマウスポインターを置くと画像が拡大されます。
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「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しまし
冨田 八千代(36回) 2018.04.20た。


筆者旧影
中城 正堯 様
 ご著書を「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しました。すぐにお礼をとおもいつつ、今になってしまいました。ありがとうございました。
 手にした時は、難しそうだと、私に読めるだろうかと心配になりました。が、すぐに引き付けられて、一気に読み通しました。

・まず、文体がとても親しみやすく読みやすいのです。素人にも内容の詳しさへの抵抗が少なくなったのです。
・そして、中城さんは「坂本龍馬」と対面されるのにとてもふさわしい方だと知りました。
 御家柄、ご先祖のさまざまなご活躍、それを受け継ぎつなぎ確かなものにする努力をされている中城さんだからです。たくさんの資料を検証し今も新たな資料の発掘に力を注いでいらっしゃることに敬服いたしました。いろいろなことを知らなくてすみません。
 昨年のブラタモリは見ました。お部屋も印象に残っていますが、そこは中城さんが小さい頃遊ばれたお部屋だったとか。ブラタモリで、改めさせられたのは「堀詰」付近のことです。中学生のころ、何かの機会にちょっと行ったことがありましたが、とてもなじめませんでした。以来、はりまや橋の側にありながら、避けていました。ここも、昨年、同窓会のついでに歩いてみました。ここにも歴史があることを受けとめました。
・それから、土佐さんの「正調龍馬を語る」を読んだから、その上に、メールをいただいたから読めました。私は、このご著書を読み終わるまで、公文さんが昨年、kpcのホームページに紹介されたいたことも忘れていました。今まで、私は坂本龍馬に関する書物、小説も読んだことがないのです。龍馬さんを知ったのは観光案内のパンフレットとか、人物紹介の欄とか、記念館の見学とかぐらいです。ついでに土佐さん(この作家も初めて知りました)がもっと長生きされたら、龍馬研究を進められ、ちがった文面もあらわれたのではないでしょうか。中城さんの文中に、文学的史書、大衆小説、歴史小説、政治小説、龍馬伝記とか出てきますが、読む側がそれらの種類のものと正史・史実との違いを、頭の片隅に置きながらうけとめるということですね。
次に私が今回、学んだことは以下のことです。
・坂本龍馬さんは、ポツンと一人の存在ではなく、周りの人々と歴史を受け継ぎ、創り、進めた人と言うことです。私はぼんやりと、一人だけの物語のように受けとめていたのではと気づかされました。坂本龍馬が暗殺された後、明治の自由民権運動に生かされたことは、新鮮な内容でした。上手く表現できませんが、よかったとほっとしました。ずっと前の人ですが、側に龍馬さんがひょっこり現れそうな、親近感がわきました。(ちょっと図々しいですね)
・お龍さんにもです。女性として共感がわき、仲おばあ様のように会ってみたかったと思います。
・ちょっと腑に落ちなかったのは、幼少時の龍馬像でした。青年時代とギャップがありすぎると思いました。ご著書では、環境や生育の様子が詳しく述べられ、分かりました。(土佐さんのは、文学的…ですから)龍馬さんは謙遜されたのですね。ついでに、中城惇五郎さんにもそういう場面がありますね。
 それから興味深かったのは、長宗我部水軍のことです。小さい頃、長宗我部さんという方が近所に住んでおられました。お殿様の子孫とは聞いていました。このお殿様は、この地域を治めた人で庄屋さんの上ぐらいの人かととらえていました。とんでもないことでした。
 最後に感銘を受けたのは、中城家ご一族のことです。その時代、時代に大活躍をされただけでなく、後世のことを考えられています。高知県で初めての通史「高知県史要」を刊行。そして、高知市民図書館「中城文庫」。もっと、中城家の方々のご活躍をしりたいと思います。それが、高知県、いや日本の歴史を深めることになりますので。中城 正堯さんが今生きておられることの意義は大きいです。(えらっそうにごめんなさい。)
 ちょっとご著書を読ませていただいただけで、僭越ながらいろいろ書かせていただきました。恥ずかしい限りです。
 これを機会に龍馬さんへの興味は続きそうです。ありがとうございました。今後とも、いろいろ学ばせて頂きたいと思います。 失礼します。
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『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました
冨田 八千代(36回) 2018.04.01


筆者旧影
 公文さん、藤宗さん、入手の仕方のご配慮ありがとうございました。鍋島さん ご本の送付ありがとうございました。

 土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました。読後の第一声『げにまっこと面白いがやき!』です。
 まず、未収録作品群の中から坂本龍馬関係の文書をまとめたられたことに敬意を表します。葉山村の皆さんの丹念な記録にも頭が下がりますが、これをこのように世に出したことで、その努力も報われましたし、一層価値が増しました。書籍が出版に至るの経緯を良く知りませんが、まとめられた方は大きくは出ないのですね。鍋島さんがもっと前面にでられてもいいのではと思いました。
 引き込まれて一気に読み通しました。知らなかったことばかりで、とても興味深く、どんどん読み進みました。断片的に知っていたことがつながったこともあります。

 この書を、すぐに読みたかったのは、以下のことからです。
 昨年10月18日に、36回生の同窓会がありました。あくる日「中岡慎太郎館」や室戸岬に行ったからです。北川村にあのような立派な記念館を設けていることに、その地域の方々の思いがうかがえました。私は、中岡慎太郎のことをあまりしらなかったのです。生家は山に囲まれた谷底にあり、空は頭上に円を描いたように小さく見える所でした。こんな辺鄙なところから、大志を持ったことに感激しました。そして、あらためて坂本龍馬に関心が広がりました。
 室戸岬の中岡慎太郎の銅像の前にも行きました。ここに行ったのは2回目です。それほど、高知のあちこちには行っていないのです。1回目は、中学三年の春休みに友人3人で出かけました。その3人の一人が、新聞部で活躍された大野令子さんでした。(ちょっとそれますが、大野さんがいらっしゃったから、私は卒業まで新聞部ですごせたのです。本当にお世話になりました。すでに亡くなられたことは残念無念です。)その銅像の説明では「太平洋上で桂浜の坂本龍馬と目が交差している」と言っていました。
 この著書の中で、二人の銅像の製作者が同じということも初めて知りましたし、製作者についてのことは興味深く読みました。
 学校で、坂本龍馬を歴史上の人物として他の人たちと同列に学習した記憶しかありません。土佐のことですし、大きく日本の変えた人ですから、もっとクローズアップしてもよかったのではないか、それとも、私の受け止めが浅かったのでしょう。何しろ私は知らないことが多すぎると痛感しました。ですから、内容の感想は省きます。
 読み終えてから、顔見知りの檮原の出身の方に、本の紹介をしたら、開口一番「教科書に龍馬をのせなくするとは、おかしい。どうしてだろう」と言われました。この方は長年トヨタ自動車の労働者でした。やはり郷土のことなので関心を持っておられたのです。ここでも、私の知らなさをここでも痛感しました。私はホームページの鍋島さんから歴史教科書云々は知ったところでした。彼は、すぐにスマホで故郷を呼び出し「維新の門」などたくさん紹介をし、「ぜひ一度、檮原へ」と言いていました。さっそく、ご著書を貸しました。
 では、枝葉の感想で、恥ずかしいですが、本当にありがとうございました。
 ありがとうございました。
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鍋島高明様
 土佐弁龍馬、さっと拝読しました。
 葉山での漫談だけに楽しく読めましたが、土佐文雄本人は「たまるかあれが活字になった」と、驚いているような気がします。
 というのも、「江戸三大道場の一つ千葉周作の築いた千葉道場の塾頭」などと、口がすべりすぎているからです。実際は、周作の弟・定吉の道場で、長刀の免許をやっと貰っただけす。勝海舟との対面も、同様です。
 出来れば本のどこかで、この講演はサービス精神からか、史実を離れて龍馬の人物を強調した場面があることを註記して欲しかったです。土佐が無知と思われると残念です。
中城 正堯
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鍋島です。
 ご高読深謝。ご指摘の件、重版の際、修正したいと思いますので、その節はよろしくご教示ください。
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冨田八千代様
 KPCへの読後感を拝読しました。私が読んでから、鍋島君に送った感想を添付致します。
 面白いのは同感ですが、それだけでは終わらせることが出来ない点もあり、このまま流布するのは心配です。鍋島君も修正すると言ってくれています。
 史実をふまえた史家の書いた伝記と、作家による創作を交えた小説の区別をしないまま、さまざまな龍馬像が誕生しています。同郷の人間として、龍馬の素晴らしい実像にできるだけ迫りたいです。
中城 正堯
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中城様
 メールをありがとうございます。私がお礼のつもりで書いたものを、ホームページにということで恐縮しています。
 
 私自身、坂本龍馬について本当にいろいろなことを知りません。それで、内容についての感想は逃げています。
 私は、昨年同窓会で中岡慎太郎記念館に行きました。そこでは、中岡慎太郎サイドでまとめられていますので、龍馬の評価も違うということは感じました。
 今度、この書を読んで、どっちがどうなんだろうと思った点もあります。何しろ、浅学の身、うっかり文字にはできません。
 やはり、中城さんが指摘されている点は、その通りだと思います。読者は史家と作家の違いを意識するということですね。これが史実と鵜呑みにしてはいけないということですね。葉山でのお話も、聞く人へのサービス精神も入っていることでしょう。
 
 私は豊田市に住んでいて、豊田市政がトヨタの企業城下町として、歴史面でもトヨタを意識した「車」「ものづくり」に重点が置かれていることを危惧しています。豊田市は、周りの町村と合併合併を続け、面積では愛知県の6分の1を占めています。広大な「市」です。が、広大な農村部や山間部があります。米の生産量も愛知県1です。
 それぞれの地域で営み育んできた、文化や生活がなおざりにされそうな感じです。その意味で、葉山の方々が記録された物を世に出されたことに感激しています。
 浅学な私です。これを機会にいろいろな学びたいと思います。ありがとうございました。
冨田八千代
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鍋島です。
 『土佐弁龍馬』の反響が盛り上がっているのはまことに結構、HPアップ賛成です。
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 《編集人より》頭上をあまたの龍馬談義が飛び交いました。そのまま捨ててしまうのはもったいないので皆様のご了解を得て掲載させていただきました。今後ともご意見をお寄せ下さい。
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カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
竹本 修文(37回) 2018.03.18


筆者近影
 カズオ・イシグロが2017年ノーベル文学賞受賞に先立って、12月7日にストックホルムのスエーデン・アカデミーでノーベル・レクチャーを行いました。
 約50分のレクチャーは下記に引用したURLで動画と英語・仏語・独語・スペイン語・スエーデン語で全文が公開されており、近日中に日本語の翻訳冊子が出版されるようですが、素人ですが翻訳してみましたので投稿します。電気技術者の私は文学の世界の知識はありませんが家族がイシグロのフアンなのに私がいつまでも無知ではいられないと思って挑戦してみました。KPC公文委員長にお見せしたら、「ホームページに投稿しなさい」と勧められてその気になりました。解釈の間違いなどがあると思うのでどなたかご指摘・ご指導を頂きたく思います。
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2017/ishiguro-lecture.html
私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍(印刷用docx版)

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私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍


Kazuo ISHIGURO
 もし皆さん方が1979年の秋に私に出会っていたら、皆さんにはそれが私だと気付くのはかなり難しかったかも知れません・・・どんな社会の人間か・・或いはどんな人種なのか。
 当時私は24歳でした。私の風貌は日本人のように見えたでしょう、しかしその当時イギリスで見かける大方の日本人とは違って、私は長い髪を肩まで垂らし、口ひげは盗賊のようにだらりと垂らしていました。喋る時の変わったアクセントは、イングランド南部の州で育った人たちのように語尾に抑揚があり、ヒッピー時代には時代遅れの地方の元気の無いけだるいものでした。もし私たちが話し始めたら、オランダの全員攻守型サッカーの選手とか、ボブ・デイランの最新アルバムとか、または多分ロンドンでホームレスと一緒に働いた年の事を議論したかもしれません。もし皆さんが日本の事を話題にし、日本の文化に関して私に質問したら、「私は5歳で日本を離れて以来、長い休暇であっても日本には行った事が無い」との理由で「私は日本の事は何も知りません」と答えて、皆さんは私の説明の中にちょっとしたもどかしさがある事に気づかれる事でしょう。
 その年の秋、私はリュックサック、ギター、可搬型タイプライターを持ってノーフォーク州のバクストン(Buxton)に到着しました。その村には古い水車が1台回っており、広い平らな農地が広がっているイングランドの小さな農村です。ここに来たのは、イーストアングリア大学大学院創作科に1年間の在籍が許されたからでした。その大学はバクストンから10マイル(16km)はなれた英国国教の主教座聖堂のあるノリッジ市にありました、私には車がなくて、通学手段は朝に1便、昼食時に1便、夕方に1便運行されていた路線バスだけでした。 しかし、それは大して問題にならない事にすぐに気付きました。何故なら、毎週2回以上通学する事を要求されることは殆ど無かったからです。私は、妻に出て行かれた30代の独り者が所有する小さな家の小さな部屋を借りていました。きっと、彼にとってはこの家は夢破れた忌まわしい記憶で満ちていて 、彼は私に近寄って欲しくないと思っているように感じて、終わりの頃には私は何日も目を合わさないようにしました。別の表現をすると、ロンドンでの非常に活発な生活を経験してきた私には、ここの生活は異常なまでに静かで孤独なものでした、そのお蔭で自分自身を作家に変えてしまったのでした。本当のところ、私の小さな部屋は作家がよく住む典型的な屋根裏部屋そのものだったのです。爪先立って窓の外を眺めると、耕された農地が遠くまで広がって見えますが、部屋の天井は傾斜して迫っており閉所恐怖症になりそうでした。机はありましたが小さくて、タイプライターと卓上電気スタンドを載せるとスペースがないくらいでした。床には、ベッドの代わりに大きな長方形の合成ゴム・スポンジのシートがあり、寒さが厳しいノーフォークの夜でさえ眠ると汗をかくほどでした。
 この部屋で夏の間に二つの短編小説を書き、クラスメイトに配布して、評価意見を求めるに値するか事前に吟味した事でした。クラスには6人の学生がいて、2週間に一度会っていました。私が散文小説の形式で他の分野に挑戦し始めたのはこの頃でした。それはラジオドラマ用でしたがBBCからは受け入れてくれませんでした。元々は20歳までにロック・スターになろうと決めていたのですが、実際には文筆業への野心が芽生えてきたのでした。その二つの短編小説は、今思えば、イーストアングリア大学の創作科に受かった事で有頂天気味の気持ちで書いたものでした。一つは自殺の約束をするぞっとするする話で、もう一つは私が福祉活動をしていたスコットランドでの路上喧嘩の話でした。どれも大して良い作品ではありませんでした。小説をもう一つ書き始めました。他の小説と同様に現在のイギリスを舞台にしたもので、自分の猫を毒殺する話です。
 そして、この小部屋に住んで3~4週間たったある夜、気が付いてみると、私は何かに駆り立てられるように日本の事を書いていました・・・・・それは第二次世界大戦末期の、私が生まれた長崎の事でした。
 特に強調しますが、これは何か驚くべき事が私に向かって来ていたのです。今日では、異文化の背景の中で育った意欲的な若い作家が自分の作品の中で自分のルーツを辿ろうとする衝動に駆られるのは現実的な事と広く理解されています。しかし、あの時の私の場合はこれとは大きく異なっていました。我々の国イギリスにおいては、多民族・多文化文学が急増していくには未だ数年はかかる状態でした。インド生まれのイギリス人作家のサルマン・ラシュデイーは自身の名前で出版した小説(悪魔の詩)がイラン革命の指導者の逆鱗に触れ,絶版にされて忘れ去られてしまいました。
 今日著名な若い作家の名前を挙げろと言われれば、人々はマーガレット・ドラブルの名を出すでしょう、もっと年上の作家ならアイリス・マードック、キングリーエイミス、サー・ウイリアム・ゴールデイング、アンソニー・バージェス、ジョン・ファウルズ達を挙げるかも知れません。コロンビア人のノーベル賞作家ガルシア・マルケスやチェコ生れのミラン・クンデラ等外国人は僅かな人達にしか読まれていません。彼らの名前は読書が好きな人たちにとっても重要ではないのです。
 私が初めての日本の物語を完成した時代のイギリス文学界はこのような状況でした。そういう訳ですから、私が新しい重要な方向を見出したと自覚するとすぐに、このまま進める事は独りよがりと思われないか、もっと一般受けする主題に戻るべきかどうか自問しました。かなり躊躇はしましたが、私は作品を周囲に紹介し始めました、そして、今日まで仲間の学生たち、指導教員のマルコム・ブラッドベリー氏そしてアンジェラ・カーター女史・・・その年は学内に居住していた著述家でした・・・に多大な評価を頂いて今日まで励まされ続けています。彼らがそれほど後押しをしてくれなかったら多分私は二度と日本の事は書かなかったでしょう。
 実際は、何時ものように自室に戻り書き続けました。
 

イーストアングリア大学:ロンドンの北北東ノリッジ市にあり、彼が大学院に
1年間在籍を許されて小説家になる事になった重要な大学
 1979-80年の冬を通して春の盛りまで、クラスの5人の仲間、生きていくための朝食のシリアルや羊の腎臓を買う村の食料店主、そしてガールフレンドのローナ・・・本日同席の妻・・・以外には誰とも話をしませんでした。彼女は毎月第二週の週末に来ていました。平穏な生活ではなかったのですが、その4〜5か月で最初の小説「遠い山なみの光(A Pale View of Hills)」の前半を何とか完成しました。長崎を舞台にしたもので、原爆投下から復興していく数年の事です。この時期に日本が舞台ではありませんが、短編小説を書こうと考えを巡らせましたが急速に興味が衰えていき、時間を浪費した事を時々思い出します。
 ともあれ、この数か月は私にとっては極めて重要でした。これが無かったら多分私は小説家にはなっていなかったでしょう。その時以来、私はしばしば振り返り、「私に何が起きていたのだろう」と自問しました。 この時期独特の気合はどこからきたのでしょうか?私の結論は、私の人生のあの時に、私は何かを失わないように急いで何かをしなければならない気持ちになっていた、という事です。このことを説明する為には少し過去に戻る必要があります。
 
 私は1960年に5歳で両親と妹と一緒にサリーSurrey州都のギルフォードGuildfordに来ました・・・ロンドンから西南西約50qの裕福な高級住宅地でした。私の父は海洋研究科学者でイギリス政府の為に働きに来ていました。本題から離れますが、父が発明に関わった機械がロンドンの科学博物館の常設展示品の一部になっています。
 我々がイギリスに来てから撮った写真を見ると戦後の荒廃した時代以来のイギリスの様子が分かります。男はウールのVネックセータにネクタイを締め、乗用車のドア部の床には乗降用踏み台があり、背後にはスペアタイヤが付いていました。ビートルズが現れ、性解放運動や学生運動が起き、多民族・多文化主義はそこらあたりに見受けられました。しかし、我々が初めて出会ったイギリスがこのような変化に疑いを持っていたとは信じがたいのです。フランスやイタリアから来る外人に会うのも珍しかった時代・・・日本人に会うなんて事は考えられませんでした。我々は、舗装道路が終わり、農耕地が始まる行き止まりの道路に沿った12軒並びの家の一つに住んでいました。5分もかからずに農地に行き、小道を通ると乳牛の群れがのろのろ歩き回っている牧草地がありました。イギリスに来たばかりの頃よく見た景色ではっきりと覚えているはハリネズミです、かわいくて針状の毛でおおわれている夜行性動物で、イギリス各地に沢山いるのですが、夜間に自動車にペシャンコに轢れて朝露の中に置き去られ、道路わきに寄せられ清掃員が集めに来るのを待っている・・・・そんな景色です。
 近所の人達はみんな教会に行っていました、そして彼らの子供達と遊びに行った時に気づいたのですが、彼らは食べる前に簡単なお祈りをしていました。私は日曜学校に出席し、そのうちに教会の聖歌隊で歌い始めました。10歳になった時にはギルフォードでは初めての日本人の聖歌隊headになりました。私は地元の小学校へ行きました、そこでは私はただ一人の非イギリス人でした、多分その学校の全体の歴史でもそうだったと思いますが、そして11歳になると近隣の町へ列車で通って公立中学校(グラマースクール)に行きました。毎朝細縞の背広に山高帽をかぶってロンドンの事務所に通う紳士たちと一緒の客車に乗りました。
 この頃までに、私は当時のイギリスの中流家庭の子供としてのマナーをしっかりと身につけました。友達の家を訪問した時は、大人が部屋に入ってきたら「気を付けの姿勢」をしなければならない事を知っていたし、食事の途中で席を離れる時は許可を得なければならない事を学んでいました。近隣でただ一人の外国人だったので、この辺ではちょっと知られていました。他の子供達に初めて会った時でも彼らは私が誰なのか知っていました。全く初めて会う大人たちなのに、路上や近所の店で私はしばしば名前で呼ばれました。
 この頃の事を振り返ると、日本が彼らの敵国だった第二次世界大戦の終結から20年も経っていなかったと覚えていますが、私達の家族は普通のイギリスの社会に受け入れられていて、彼らの心の広さや寛容さに驚いています。第二次世界大戦を乗り越えて世代を超えて素晴らしい福祉国家を築いてきたイギリス人に対して、その当時以来の私の個人的経験から、私は今日まで好意・尊敬・好奇心を持ち続けています。
 しかし、私はこの間ずっと家庭では日本人の両親ともう一つの人生を過ごしてきました。家庭には違った習慣、違った希望、そして違った言葉がありました。私の両親の元々の目標は、我々は1年、多分2年経てば日本に帰る事でした。事実、イギリスでの最初の11年間は、「来年には帰る」 「来年には帰る」の繰り返し状態でした。その結果として、両親の見通しは、「我々は移住者ではなくて訪問者」のままでした。両親はイギリス社会に適応しなければならないと言う重荷を感じる事は無いまま、イギリス人の物珍しい習慣を観察し意見を交わしていました。
 そして、長い間私は日本で成人としての人生を送るという前提のままであり、その為の日本を向いた勉強も努力しました。毎月、日本から先月号の漫画、雑誌、学習教材などが入った小包が届き、それらを貪るように読みました。これらの小包は私が十代のいつか・・・多分祖父の死後・・・に届かなくなりました、しかし、私の両親の昔の友達、親戚、彼らと日本で付き合っていた時の思い出話 、これらが私の中に日本のイメージや印象を形成していきました。そして、その当時私はいつも自分自身の様々な記憶をしまっていました・・・驚くほど広範で明瞭に、例えば祖父母の事、日本に残してきた愛用のおもちゃ、住んでいた伝統的な日本家屋・・・その家の事は今でも頭の中で部屋ごとの様子を再現できます・・・、幼稚園、近くの路面電車の停留所、橋の傍に住みついていた怖い野良犬、床屋の椅子、それは男の子用に特製されたもので自動車のハンドルが付いていて大きな鏡の前に固定されていました。
 以上の事がどのような結果になったかと言えば、私が散文体で小説の世界を創造しようと思いつくよりずっと前に, 成長するにしたがって、私は頭の中で日本と呼ばれる場所を豊かに、しかも詳細に創っていました。 そこはある部分では私が所属していた所であり、そこから私は自分のアイデンテイテイーや信用を築いてきました。その時代には私は実際には日本へ帰った事は無かったという事は事実であり、見ないままで私は自分自身の日本の姿をより鮮明に創り上げました。したがって、その記憶を保存・維持していく必要があるのです。その当時ははっきりという事はなかったのですが、20代半ばまでにある重要な事を悟るようになりました。
 私は、「私の」日本は多分飛行機で行けるどこの場所にも対応しないという事を受け入れ始めました;両親が話してくれた日本での生活や小さい子供時代の記憶は、1960年代から70年代には殆ど消滅していました。いずれにしても私の頭の中に存在していた日本は常に子供の記憶、想像、憶測によって作られた感情的なものだったかも知れません。そして、多分最もはっきりとしたことは、年々年をとり私の日本・・・共に成長してきた貴重な所ですが・・・だんだんと記憶から遠くなっていくのが分かりました。そして、今では確かにこのような感じです、即ち、「私の」日本はユニークで、同時に恐ろしく壊れやすい・・・外部からは立証しようのない何か・・・で、それが私をノーフォークのあの小さな部屋で作品を書くように駆り立てたという事です。私がしている事は、その場所に関してかつて思っていた世界の特別な色彩、風習、作法、尊厳、短所など全てを私の心から永遠に消えていく前に紙に書きつけていく事でした。私の日本を小説の中で再構築する事、記憶を失わないように安全に残し、後年になってこの本を指さして、「ええ、中に書かれているのは私の日本です」という事が私の願いでした。

カズオ・イシグロが現在住んでいる所は
ロンドン北部のGolders Green という住宅
地で、私が家族と81年〜83年の3年間過
ごした街ですが、彼の自宅周辺で受賞決
定時に押しかけたメデイアとベンチに腰か
けて会見した添付した写真がどの辺りか
分かりません。上の写真は、ロンドン・オ
リンピックが開催された6年前に私が住ん
だ家を訪ねた時の写真です。(訳者注)
 3年半経ち1983年春です、妻ローナと私はロンドンにいました、狭くて背が高い建物の最上階の二部屋の家に住んでいました。そこはロンドンで最も高い丘の一つに建っていました。< 私が住んでいたGolders Greenの隣のハムステッドHampstead付近かな?竹本 >近くに(強い電波を送信している)放送局のアンテナが建っていました。レコードプレヤーにレコードデイスクを載せて聞いていたら、ステレオのスピーカーから(誘導電波ノイズとしてステレオのアンプに紛れ込んできた)放送の音声が聞こえてきました。私たちの居間にはソファーや肘掛け椅子は無くで床の上には二組のクッションで包まれたマットレスがありました。大きなテーブルが一つあり、その上で昼間は私が小説を書き、夜は夕食を食べました。豪華ではないが、私たちはそこに住むのが好きでした。
 私は前の年に最初の小説を出版していました。更に、イギリスのテレビで近いうちに放送予定の短編テレビドラマを書き上げていました。最初の小説はかなり誇りを持っていました。しかし、その年の春までに多少不満な事が気になりだし、問題となりました。私の最初の小説と最初のテレビドラマは余りにも似通っていたのです。主題・テーマの事では無くて、物語の展開やスタイルの点の事です。その点に注目すればするほど、私の小説がテレビドラマとより似て見えるのです・・・登場人物の会話と物語の進行面での事です。それはある程度はいいでしょう、しかし私は今では、紙面の上でのみ適切に表現される物語を書く事にしています。小説を書くのに、もし小説家が、テレビを見る事によって得られるものと同じ経験を提供する小説を書くとすれば、小説を書く意味があるでしょうか?もし書かれた小説がユニークなものでなく、他の方法で表現出来ないものでなければ、どうして映画やテレビの勢力に対抗して生き残っていけるでしょうか?
 この頃私はウイルスで倒れ2~3日ベッドで過ごしました。最悪状態から脱し、ずっと寝ていたいと思わなくなった時、私は布団の上のど真ん中に何か重々しい物があるように感じましたが、それはフランスの小説家プルーストの小説 「失われた時を求めて」第一巻でした。そこで早速読み始めました。まだ熱がある状態でしたが序章を読んだだけで完全に釘づけになりました。私は繰り返して読みました。書かれている独特の美しい文節とは別に、私はプルーストが一つのエピソードから次のエピソードに展開していく手法にわくわくさせられました。出来事や場面の順序は通常の時系列にも、また一本の線で繋がっているような筋にもなっていませんでした。その代わりに、本筋に無関係な考えを絡めたり、或いは、記憶の予測しがたい変化が筋を一つの話から次の話へ移動させていると思われるのです。時々私は、何故これらの二つの無関係と思われる話が語り手(小説の「私narrator」か?)の心の中で隣り合わせて同居しているのだろうかと不思議に思う事があるのです。
 突如として、私はわくわくしながら、より自由に二番目の小説を書いている事に気が付きました。それは紙面だからこそ豊かさを創作でき、スクリーンの上では内面の動きを表現できない方法でした。もし私が語り手の考えている事に従って一つの場面から次の場面に記憶を漂わせながら進行させる事が出来るならば、私は抽象画家がキャンバスの上で形や色を選定していくのに似た方法で創作できるでしょう。私は場面を二日前から20年前の場面の付近に設定しうるし、二つの場面の関係を読者に考えさせる事もできるでしょう。このような方法で私は人間の自己や過去を覆い隠そうとする何層にも重なった自己欺瞞や自己否定を暗示できるかも知れないと考え始めていました。
 1988年3月、私は33歳になっていました。今ではソファーもあり、その上に寝転んでトム・ウエイツのアルバムを聞いていました。その前の年にローナと私は南ロンドンの時代遅れだが住み心地の良い一画に我々の家を買いました。この家で初めて自分の勉強部屋を持ちました。その部屋は小さくてドアはありませんでしたが、私は毎日書類を散らかし放題で一日の終わりにも片づける必要が無い事にわくわくしていました。そして、その勉強部屋で・・・私はそう思っているのですが・・・私は三番目の小説を完成しました。それは初めて日本・・・以前小説を書いて壊れにくくなっていた私個人の日本を舞台にしたものではありませんでした。
 事実、私の新しい本は、後に「日の名残り」と呼ばれるもので、私は年配の英国作家の作風とは思わないのですが、極端にイギリス的と見られました。私は、私の読者は皆イギリス人であり、生まれながらにイギリス的なニュアンスやイギリス的な好みに精通している、とは想定しないように注意してきました・・・実は多くの人はその様に思っているらしい事を私は感じているのですが。これまでは、インド生まれのイギリス人作家サルマン・ラシュデイーやトリニダード・トバゴ生まれのイギリス人作家ナイポールは、英国にとって中心的役割とか必然的に重要だとかに拘らず、もっと国際的で自国より外を見たイギリス文学の方向性を案出してきました。彼らの作品は広義には植民地が独立を成し遂げた後の時代のものです。彼らのように私は、作品の物語が英語世界特有であっても、例え文化や言語の境界を容易に超える事が出来る「国際的な」小説を書きたいのです。「私」のイギリスは一種の架空のものかも知れませんが、大まかな姿はイギリスに行った事も無い人々をふくむ世界中の人々が抱いているイギリスの姿の中に既に存在していると信じています。今完成したその小説は間違った価値観を持って人生を送り、既に遅すぎると悟っているイギリスの執事に関するものです。彼は彼の最も大事な時期をナチ・シンパに捧げてきて、自分の人生の為に道徳的・政治的責任を果たすことに失敗し、人生を無駄に過ごしてきたと深く悟っているのです。そして更に、完全な執事になる努力をするに当たり、彼が好きな一人の女性を愛し愛される事を自ら禁じてきました。
 私は原稿を数回通読して、そこそこ 満足しました。それでも・・・何かが抜けている・・・と、ひっかかるものがありました。
 ある晩、家でソファーに座ってトム・ウエイツのピアノの弾き語りを聞いていました。すると、トム・ウエイツは'Ruby's Arms'.という歌を歌い始めました。多分皆さんの中のどなたかはご存知でしょう。・・・私はここで皆さんにそれを歌ってお聞かせしようと考えていたのですが、気が変わりました・・・それはある男、多分兵士がベッドで眠っている恋人を残して出ていく・・・バラードです。早朝の事で、彼は道路を通り、列車に乗る・・・何も変な事ではない。しかし歌はしわがれ声のアメリカ人浮浪者が深い感情を押し殺しているような調子でした。やがて、歌の半ばで歌手は我々に彼は失恋しつつあると教えている瞬間があります。その瞬間は失恋の感傷その事とそれを克服したと言い切る事への大きな抵抗の間の感情的落差故に殆ど耐えられないほど哀れを感じさせます。
 トム・ウエイツは一連のメロデイーを心が洗われるように壮麗で美しく歌い、そして聞く者は大変な悲しみの中で崩れていく屈強な若者の人生を感じているのです。
 トム・ウエイツの歌を聞きながら私は未だやらなければならない事に気づくのです。私は物語の筋をうかつに決めたようだ、どの辺まで後戻りすべきか、私のイギリス人執事は感情的に弁明をし続けている、彼は自分自身と読者から最後の最後まで何とかうまく隠し続けている。そうして、私は決めていた事をひっくり返さなければならない事に気づくのです。物語の終わりに向かってほんの一瞬だが、慎重に決めなければならない瞬間です、私は彼の自己防衛の鎧を壊さなければならなかったのです。私は非常に大きく悲劇的な事が鎧の下からちらっと見えるようにしたのです。
 私は敢えて言いますが、他の事でも沢山の機会に歌手の歌声から極めて重要な教訓を学んできました。歌われている歌詞そのものより実際に歌っている事に注目したいと思います。ご承知のように人間の歌声は計り知れないほど複雑に混じり合った感情を表現する事ができるのです。何年もの間、私の書き物の具体的な場面は、とりわけボブ・デイラン、ニナ・シモーン、エミルー・ハリス、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジリアン・ウエルチ、そして友人で共著者のステイシー・ケント等に影響を受けてきました。彼らの歌声から何かを見つけると、私は「あ〜そう、これだ。これこそ、あの場面に必要なものだ。何かそれに非常に近いものだ」と自分につぶやいたものです。しばしばそれは言葉で表現できない情緒、しかし歌手の歌声の中に確かにある、そして、私は目指すべき事が分かったと思いました。


A Pale View of Hills(1982)The Remains of the Day(1989)Never Let Me Go(2005)
 1999年の10月に私はドイツの詩人であるクリストフ・ホイブナーに国際アウシュビッツ委員会の代表として招かれ、以前の強制収容所を訪問し数日間すごしました。私の宿舎は第一アウシュビッツ収容所と2マイル離れたビルケナウ絶滅収容所の間の道路沿いのアウシュビッツ若者集会所にありました。このあたりを案内されていた時に非公式に三人の生存者に会いました。私の世代の人間が生きてきた社会の陰の暗い力の源へ少なくとも地理的には近づいたと感じました。
 ある小雨が降る日の午後、私はビルケナウ絶滅収容所の瓦礫と帰したガス室の前に立っていました、不思議な事に今では忘れ去られて無人状態ですが、これはドイツ軍が爆破して迫ってくるソ連の赤軍から逃げて残していったものです。これらの残骸は湿っぽく、骨組みは壊れ、厳しいポーランドの気候にさらされており、年と共に劣化しているのです。招待してくれたクリストフ・ホイブナーさんは、ジレンマについて語ってくれました。これらの残骸は保存すべきだろうか?将来の世代の人々に見てもらうために透明なアクリル樹脂のドームで覆って保存すべきだろうか?それとも自然のままでゆっくりと腐って無くなるにまかせるべきだろうか?これは私には大きなジレンマへの強いメタファのように思われる。そのような記憶はどのようにして保存されるべきだろうか?ガラスのドームで覆えば悪事の遺物や苦難を退屈な博物館の展示品にしてしまわないだろうか?記憶を思い出す為には我々は何を選ぶべきだろうか?忘れて次の段階にすすむ時期はいつが適当だろうか?
 私は44歳になりました。これまで第二次大戦とその悲惨さや勝利などは両親の世代の事と考えてきました。しかし今や、そのような大事件を直接目撃した多くの人々は間もなく亡くなってしまうという事が私には分かっています。ではこれからどうするか?思い出す(記憶する)という重責が私自身の世代の肩に降りかかってきているのでしょうか、我々は戦争の時代を経験していない。しかし、我々は少なくとも戦争の経験によって消し去ることが出来ないような人生を歩んできた両親に育てられてきたのです。それじゃ、私には社会の語り手としてこれまで意識してこなかった義務があるのでしょうか?我々の両親の世代から我々の世代以降にできる限り引き継いでいく義務が・・・。
 少し後に、私は東京で講演をしていた時に、よくあることですが、聴衆の一人から次はどんな作品を書くか質問がありました。
 質問者は次のようにもっと具体的に指摘されました、私の小説はしばしば大きな社会的・政治的激動の時代を生きてきて、後からその人生を振り返り、もがきながら暗くて恥ずかしい記憶をあきらめて受け入れるような個人に関するものです、と。彼女は更に、今後の小説も同じような領域を続けるのでしょうか?と質問しました。私は全く予想していなかった回答をしました。はい、私はしばしば忘れようとする事と、忘れないようにする事の間でもがいているような個人の事を書いてきました。しかし、これからは、私が本当に願っている事は同様の問題に対して国家や地域社会は如何にして向かっていくかという作品を書きたいという事です。
 国家は個人のように記憶したり忘れたりできるでしょうか?或いは、重大な違いがあるのでしょうか?国家にとっての記憶とは厳密にはどういう事でしょうか?どこにしまっておくのでしょうか?どのように形作り、活用していくのでしょうか?忘れていく事は暴力が繰り返される事を止め、社会が崩壊して無秩序になったり戦争になったりするのを止める唯一の方法という時はあるのでしょうか?
 他方では、意図的に忘れて必ずしも公正ではない基盤の上に安定した自由な国家を建設する事は可能でしょうか?
 私は質問者に、私はこういう事について書く方法を見つけたいと答えている自分の声を聴きましたが、残念ながらどのようにすればよいか考え付かないのです。
 2001年のある晩、その頃まで住んでいたロンドン北部の自宅の居間を暗くして、ローナと私は、そこそこの画質のVHSビデオでアメリカのホークス監督の1934年の「20世紀」という映画を見始めました。映画の題名はすぐに判ったのですが、我々が過ごしてきたばかりの前世紀の事では無くて、ニューヨークとシカゴを結ぶ有名な豪華列車の事でした。ご存知の方もおありでしょうが、この映画は殆ど列車の中が舞台でして、ペースの速いコメデイーで、ブロードウエイのプロデューサーが、主演女優がハリウッドへ行って映画スターになろうとするのを必死になって止めさせようとするものです。当時の偉大な俳優の一人であるジョン・バリモアの愉快な演技を中心に構成されています。彼の顔の表情、身振り手振り、彼がしゃべる殆どのセリフは自己中心と自己劇化主義に満ち溢れた男の皮肉さ、矛盾、怪奇さが重なり合っていて多くの点で素晴らしい演技です。それでも映画が進行すると共に、私は不思議にも自分が引き込まれていかないのです。これには初め戸惑いました。私はいつもバリモアを好きだし、ハワード・ホークス監督のこの時代の他の映画、例えばHis Girl Friday やOnly Angels Have Wingsも大好きでした。
 映画が約1時間ほど進んだ時、簡単ですがとてもはっきりした考えが頭に浮かびました。小説の中ではまともな登場人物である事は言うまでもありませんが、沢山の生き生きとした映画や演劇が私を感動させない事がある理由は、これらの役者が興味ある人間関係の点では他の役者と関わっていない事にあります。そしてすぐさま、私自身の作品に関して次の考えが浮かびました、もし私が自分の登場人物に気を遣う事を止めて、代わりに自分の人間関係を心配したらどうなるでしょうか?列車が更に西に向かってガタゴト走り、ジョン・バリモアは益々ヒステリックになるにつれて、私は英国の小説家エドワード・モルガン・フォスターの有名な三次元的人物と二次元的人物の違いに関して考えました。彼は、物語の人物は「我々をなるほどと思わせるように驚かす」という事実で三次元的になると言いました。そうする事で彼らは成熟していきます。しかし、ある人物が三次元的ならば、彼または彼女の人間関係は三次元的ではないのでしょうか?
 他のどこかで同じ講演をした時フォスターは、ある小説から筋を抽出するのにグニャグニャ動く虫をピンセットで挟み電灯の下で観察するように持ち上げる、という愉快な描写を用いました。私も似たように何かの小説と交差する様々な人間関係を引用して光に照らす事は出来ないでしょうか?こういう事を既に完成している自分の作品と計画中の作品でできるでしょうか?教師と生徒の関係と見る事ができるでしょう。何か洞察力があり新鮮であると言えるでしょうか?或いは、私はそれをじっと見つめて、それが使い古された紋切型で何百もある二流小説の中の表現と同じであることが明らかになるでしょうか?それは感情的に共鳴するでしょうか?それは徐々に進化するでしょうか?それは「我々をなるほどと思わせるように驚かすでしょうか?三次元でしょうか?
 私は突然感じた事ですが、私の過去の作品の色々な局面で必死の努力にも拘わらず何故うまくいかなかったか良く理解できました。引き続きジョン・バリモアをじっと見続けていると、喋り方が過激であろうが普通であろうが、全ての良い物語は我々にとって重要な関係、即ち我々を感動させたり、喜ばせたり、怒らせたり、驚かせたりするものを含んでいなければならない、という考えが浮かんできました。多分将来、私がもっと登場人物相互の関係に注意を払えば、彼らは自分自身に気を配る事でしょう。私が言っているようにそれが起きているのです、私はここであなた方にはいつも明らかに判り切った事を述べているかも知れません。しかし、私が今言えるすべての事は、私の作家人生で驚くほど遅く気づいた考えなのです、そして私は今ではその時が今日皆さんに説明してきた他の事と同様に転換点と見ています。その時以来私は作品を違ったやり方で構築し始めました。例えば小説「私を離さないで」を書く時には私は先ず中心となる三人の人物の関係を考える事から出発し、そして他の人間関係に広げていきました。多分他の職業の人生でも同じでしょうが、作家の生涯で重要な転換点とはこんな事です。時にはそれらは小さく、取るに足りない瞬間です。それらは、静かで思いがけない私的なひらめきです。そんなに度々はひらめきません、そしてひらめく時にはファンファーレもなく、先生や仲間達にも支持されずに来るのです。それらはしばしば声高に、もっと急いでと言わんばかりに注目を引こうと競い合うのです。時には広く行き渡っている分別にも反するような本性を現します。しかし、それらが閃いてきた時にはそのまま認知する事が重要です。そうしなければ手からこぼれてしまうのです。
 私は小さくて個人的な事を力説してきました、何故ならつまるところ、私が行こうとする仕事の事だからです。静かな部屋である人が書き、もう一人の人と繋がりを持たせようとし、もう一つの静かな、又はそう静かでない部屋で読む。物語は他人を楽しませることができます、時には重要な事柄を教えたり論じたりします。しかし、私にとって重要な事は、感情を伝える事です。それらは我々が人類として国境や境界線を越えて分かち合う事に訴えてきます。物語の周囲には書籍産業、映画産業、テレビ放送産業、演劇業など大きな魅力的な産業があります。最後に、物語とは一人の人間がもう一人に語りかける事であり、私が感じる方法です。私が言っている事を理解出来ますか?是もまたあなた方に感じさせる方法でしょうか?
 さて私たちは現在に戻ってきました。私は最近になって現実に目覚めました、私は何年か(現実からはなれた)泡の中(のような所に)に住んでいたのです。そこでは、私の周辺の人々のフラストテーションや心配事に私が気が付く事が出来なかったのです。私は文化が発達し、皮肉で心が大きい人々で満ちた刺激的な私の世界は実際には私が嘗て心に描いたものよりずっと小さい事が良くわかりました。驚きの年2016年、私にとっては気の重い年でした、ヨーロッパとアメリカにおける政治問題や世界中の吐き気を催させるテロ事件は子供の頃から抱いてきた、心の広い人道主義者の価値は留まる事なく発展していくと言う事が幻想だったかも知れないと認めさせられました。
 私は楽観主義寄りの世代の一人です、ええそうです。我々は祖先が全体主義で組織的殺戮や歴史的に前例のない大虐殺を行った政治体制を、国境を越えた友好関係の中に存続している非常に羨ましがられている自由民主主義の地域に成功裏に変革してきた事を見てきました。我々は世界中で古い植民地帝国が植民主義を支持してきた非難されるべき抗弁と共に崩壊していくのを見てきました。我々は女性解放運動、同性愛者の権利、人種差別主義との戦いで著しい進展を見てきました。我々はまた資本主義と共産主義の間のイデオロギーや軍事的な大衝突の背景に反対して成長してきました、そして私たちの多くが幸せな結果になったと信じてきた事を目撃してきました。
 しかし今振り返ってみると、ベルリンの壁が崩壊して以来の時代は失われた機会に対して満足しているように思えます。富と機会の非常に大きな不平等が国家間および国内で拡大していくに任されています。特に、2003年の破滅的なイラク進攻と2008年に起きたスキャンダラスな経済破綻(「サブプライマリーローンからリーマンショック」の事か?竹本)に続いて一般市民に何年もの間課せられた緊縮政策は、我々を極右翼思想と民族国家主義が拡大する現在の状況に引き込みました。形態は昔ながらな形、近代的な形さらに地域社会に合った形で人種差別主義が、文化の発達した通りの下で埋もれていた怪獣が目を覚ましてうごめくように再びはびこり始めています。
 さしあたり、我々を結束させる前進的な方策は見当たりません。そうではなくて、西側の豊かな民主国家の中でさえ我々は資源やエネルギーを求めて激しく競い合う敵対する陣営に分断しつつあります。科学、技術や医学における驚くべき大成功による新たな挑戦はもうその角まで来ているのでしょうか、それとも既に角を曲がって行ったのでしょうか? 遺伝子編集技術CRISPRのような新しい遺伝子技術や人工知能(AI)やロボットの進歩は我々に人命救助の恩恵をもたらします。しかし、同時にアパルトヘイトにも似た過酷な能力主義社会をもたらし、現在のプロのエリートにもひどい失業者を生み出します。
(訳者注)CRISPRとはClustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeatsの略で、近年原核生物でファージやプラスミドに対する獲得免疫機構として機能していることが判明したDNA領域のことを指す。
 

 私、60歳代の男ですが、目を擦りながら昨日まで存在していて疑わなかったこの世の中の概略を見てみましょう。私は知的側面について言えば陳腐な世代の想像力に欠けた作家ですが、このよく知らない所を見るエネルギーを発見する事が出来るでしょうか?私には、感情の段階を大きな変革に順応すべく社会が揺れ動いている時に来る論争や戦いや戦争に向ける総体的な見方を示す為に役に立つ何かが残っているでしょうか?私は前進しなければならないし、出来る限りの最善を尽くします。なぜならば、文学は重要であり、特にこの難局を切り抜ける為に重要と信じているからです。しかし、私は若い世代の作家の皆さんに、私達に希望を与え導いて頂きたいと注目していきます。これからは彼らの時代です、彼らは私にない知識と生まれながらの才能があります。書籍、映画、テレビそして演劇の世界で、私は今日冒険的でわくわくするような有能な人材を知っています、40代、30代、20代の女性や男性達です。だから私は楽観しています。楽観しない筈はないでしょう?
 しかし、心を込めてお願いさせて頂きます・・・御望みでしたら「私のノーベル賞受賞アピール」として締めくくりたいと思います。
 全世界を本来あるべき状態に移す事は困難な事ですが、少なくとも我々自身の部門だけでも如何に準備をする事が可能か考えさせて欲しい、我々が読み、書き、出版し、推奨し、非難し、そして作品に賞を与えている「文学」という部門です。もし、我々がこの先が読めない時代に何か重要な役割を分担できれば、もし我々が今日、明日の作家達から最良のものを得る事が出来るなら、我々はもっと多様化していくに違いないと信じます。
私が言いたいのは次の二つの意味です。
 第一は、私達が文学と定義する範囲を一般的に受け入れられているエリートに期待をする文化の範囲を超えて、もっと多くの人々の声を取り入れるように広げなければなりません。私達は今日まだ世に知られていない我々自身の作品から新しい萌芽を見つけ出すべく、その作家が遠くの国々に住んでいようが我々の地域社会に住んでいようが、もっとエネルギッシュに探さなければなりません。
 第二は、私達は良い文学作品の定義を余りにも狭く、或いは控えめにしないように注意を払わなければなりません。
 新しい世代は全てに新しく、時には重要で素晴らしい物語が戸惑わせるような方法で到来するでしょう。私達はそれらに心を開き続けなければなりません、それらを育み最高の物を祝福できるように、特に物語のジャンルと表現の形態に注目しなければなりません。今日の危険なまでに分断が進んでいる時代においては、我々は耳を傾けなくてはなりません。優れた作品を書く事とそれをよく読む事は、その分断の障壁を打ち壊すでしょう。我々は、新しいアイデイア、立派な人間としての展望を見出し、それに結集できるかもしれません。
 スエーデン国立アカデミー、ノーベル財団,そしてノーベル賞を私達人類がより良くしようと努力する事の輝かしいシンボルとして長い年月に亘って継承されてきたスエーデンの国民の皆様に私は感謝申し上げます。 
カズオ・イシグロの昨年12月のノーベル文学賞受賞スピーチの筆者翻訳
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土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』について
鍋島 高明(30回) 2018.03.02

筆者近影
謹啓 今年の冬は格別の寒さで八十路の坂を登り始めた身にはこたえますが、皆様にはご健勝のこととお慶び申し上げます。土佐文雄(本名藤本幹吉)氏の単行本未収録作品群の中から坂本龍馬関係の文書を一冊にまとめたのが本書です。ご高覧、ご高評頂ければ幸甚です。
 土佐氏は高知市介良の出身で第二次大戦後の土佐文壇では第一人者であったことはよく知られています。土佐文雄というペンネームに対しては先輩たちから「土佐を代表するかのような名前ではないか」と嫌味を言われたこともあるそうです。だがその名に負けず次々と話題作を世に問います。
 「熱い河一小説植木枝盛」(椋庵文学賞)、「同行二人一四国霊場へんろ記」(高知県出版文化賞)、「得月楼今昔」、詩人愼村浩の生涯を描いた「人間の骨」、オペラにもなった「純信お馬」、「土佐一条家の秘宝」、「下司凍月の生涯」…高知の戦後文学史を彩る数々の名作、労作を残していますが、すべてが単行本になっているわけではありません。新聞、雑誌に連載したまま、あるいは講演録の形で残っているもの等さまざまですが、ここでは坂本龍馬に絞りました。
 歴史の教科書から龍馬を抹消するなどという発想は「痴の沙汰」です。

『正調土佐弁で龍馬を語る』
高知新聞社刊 定価1,400円(税別)
 わたしは土佐文雄氏を直接には知りません。同郷ということで、もちろん名前は先刻承知で「熱い河」などは昔読んではいましたが、近年「介良のえらいて」と題する人物録を書くに当たり、土佐文雄という人と作品をもっと知りたいと、高知県立図書館や国会図書館で資料を集めるようになりました。
 中で昭和63年に高知県高岡郡葉山村(現津野町)で行った「坂本龍馬と明治維新」と題する講演の速記録が見つかったことです。葉山村といえば、大阪財界の巨人片岡直輝・大蔵大臣片岡直温兄弟の出身地として知られていますが、この村の青年たちが土佐氏を招いて講演会を開き、その内容が「葉山史談」に掲載されていたのです。それも土佐弁でしゃべったままの速記録です。
 近年伝統的土佐弁がだんだん聞かれなくなる折から、また土佐文雄氏の名前も次第に遠のいていくのを感じるにつけ、ぜひ本にしておきたいと考えました。昭和63年に土佐氏は高知新聞に「逸話でつづる龍馬言行録」を連載していました。これらを骨格にして編集しました。出版に当たっては猪野睦、岡林登志郎両氏のおカを借りました。著作権の継承者である藤本剛氏には快諾をいただきました。そして高知新聞総合印刷の山本和佳さんには辛抱強く、修正に修正を重ねていただきました。
 また巻末に収録した土佐文雄氏追悼文の執筆関係者からは転載をご承諾いた.だき深謝申し上げます。
平成30年2月  敬具
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中城正堯著「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
山本 嘉博(51回) 2017.11.12遅ればせながら読みました


筆者旧影
 送っていただいた、中城先輩による『三根圓次郎校長とチャイコフスキー』、遅ればせながら読みました。曽我部校長が就任されたとの昭和三十三年に生を受けた僕は、前任の大嶋校長のこともよく知らず、殆ど名のみぞ知るに等しい初代校長だったので、たいへん興味深く、また感じ入りながら読みました。

 末尾に記された「凡庸ならざる人材」には及ばずとも、僕自身の生活信条はまさに“生活即芸術”であります。凡庸なるがゆえに楽器絵筆の一つも持たず専ら鑑賞に専念していますが、三根校長たちがケーベル博士から教わったとの「豊かな人生には音楽や美術を欠かすことができない」との思いは、僕のなかにも根付いているように感じます。今まで一度も意識したことがありませんでしたが、それは「漱石や寅彦をも魅了した<ケーベルの教え>が、土佐中高の学園生活に受け継がれ」ていたことから育まれたものなのかもしれないなぁ、と思ったりしました。

 心に残った逸話は、三根校長が平井康三郎の父親を説得して音楽学校へ進ませた件でした。奇しくも昨夜、土佐校の卒業生で、佐渡裕率いるスーパーキッズ・オーケストラの元首席奏者だという藝大器楽科3年在学中のチェリスト山根風仁による室内楽を聴いてきたところです。生徒の進路に対して、昭和一桁の時代からかような見識を以て臨んでおられた校長に敬服しました。

 また、われらが“向陽”にかかる中城先輩の見解に感心しつつ、高校の文芸部に在籍した時分に僕も二編だけものした事のある漢詩に関連して、言語学に興味を持っていたとの平井康三郎らが行った方言研究から生まれたという“月性の将東遊題壁の土佐弁訳”を教えていただき、大いに愉しみました。

 どうもありがとうございました。
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合田佐和子さん関連のお知らせ
『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』刊行
中城 正堯(30回) 2017.10.20

 昨年2月に亡くなった合田佐和子さん(34回)は、現代アートの旗手として、画家の枠を超えたさまざまな分野で活動をしてきただけに、逝去を惜しむ声が多く、唐十郎氏などを発起人とする「お見送りする会」はじめ、数多くの追悼展や出版記念展が開かれてきた。
 このほど、平凡社コロナ・ブックスとして『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』が刊行されたので、ご紹介する。帯に「少女の夢を、呼び醒ます―。没後初の作品集」とあり、油彩・オブジェ・写真など多彩な作品と、親交のあった巌谷國士・吉本ばなな等の各氏がエッセイを寄せている。(定価:本体2,000円)
 また、お嬢様の合田ノブヨさんも、新作コラージュの作品集「箱庭の娘たち」を出版、その出版記念展が、東京・恵比寿の「Galerie LIBRAIRIE6」(地下鉄・JR恵比寿駅西口より徒歩2分、03−6452−3345)で、11月4日〜26日まで開催される。

『SAWAKO GODA 合田佐和子 光へ向かう旅』の表紙

合田ノブヨ「箱庭の娘たち」出版記念展の案内状より
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高知新聞で紹介
中城 正堯(30回) 2017.10.03「“上方わらべ歌絵本”の研究」

皆様へ
 高知新聞9月26日付の学芸欄に、拙論「〈上方わらべ歌絵本〉の研究」の紹介記事が掲載されましたので、添付致します。
 この論文は、国際浮世絵学会の研究誌「浮世絵芸術」第174号に発表したものです。
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『浮世絵芸術』174号に発表
中城 正堯(30回) 2017.08.20「“上方わらべ歌絵本”の研究」


筆者近影
 8年前に上方の子ども遊びを描いた多色摺の絵本を、いかにもやんちゃな子どもたちの遊ぶ姿に魅せられて入手した。しかし、題名も絵師も不明で、文章ならびに描かれた遊びの内容も、簡単には解読できなかった。近年やや暇になったので再チャレンジして調査すると、安永・天明期(1772〜88)の合羽摺(かっぱずり)「上方わらべ歌絵本」であることが分かり、国際浮世絵学会の研究誌にこのほど発表した。合羽摺とは、型紙の切り抜いた部分に、刷毛で色を塗る技法であり、上方で発達した。
 この絵本は、テーマが「わらべ歌遊び」、印刷技法が「全ページ合羽摺」であり、この両面から類書のない貴重な子ども本であることが判明した。約250年前の上方いたずらっ子たちを、無事現代に甦らせることができ、ほっとしている。
 6場面からなるこの絵本は、いずれも画面いっぱいに子どもたちの遊び戯れる姿が描かれ、上部にわらべ歌が添えてある。では、2場面を紹介しよう。

1.お万どこ行った

 歌は、「お万どこ行った、油買いに」で始まり、雨降ってすべって、油一升こぼして、犬がねぶって・・・、と続く。絵は、奉公人のお万が転んだ瞬間と、嬉し気に駆け寄る子どもや犬を巧に捉えている。のれんの影に、三井紋の樽が見えている。

2.子買を子買を

 「子買を子買を」「どの子が欲しいぞ」と、買い手と売り手が交互に歌い、対価にくれる御馳走はなにか、問答を楽しむ演劇的遊戯だ。絵は左が売り手で、右側のお膳・蒲鉾・饅頭を持つ子たちが買い手。

*なお、全文閲覧をご希望の方はお知らせください。抜刷を進呈致します。
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中城正堯著「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
公文 敏雄(35回) 2017.06.26発送のお知らせ

向陽プレスクラブの皆様

「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」
中城正堯著 発行:向陽プレスクラブ

筆者近影
 過日会員各位あてメールでご案内申し上げましたとおり、中城正堯氏(30回)ご執筆の冊子「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」全31ページを会員の皆様にお送り申し上げましたがお手元に届いたころでしょうか。

 さっそくお読み下さった横山禎夫氏(30回)他多くの方々から下記のご感想をお寄せ下さいましたので、ご諒承のもと、ここにご紹介させていただきます。(到着順)

 なお、この冊子をお読みくださって思いだすことやご感想がございましたらご遠慮なく左のMailBox(post@tosakpc.net)からご投稿ください。
向陽プレスクラブ 会長 公文敏雄(35回)


横山 禎夫(30回) 2017.06.24


筆者旧影
中城君著の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました。
 知らなかった土佐中・高の昔のことがいろいろ書いてあって、興味深く読みました。制服の袖の白線のことも初めて知りました。
 謹厳実直だった三根校長の息子が人気歌手になったり、帝国大学進学校から平井康三郎のような作曲家が出たり、面白いですね。
 確かに、卒業してから考えると、土佐高はかなり自由な学校でした。新聞部時代も、学校側から検閲を受けたこともなく、思うことを遠慮なく書くことができました。
 戦後はマスプロ学校になり、一クラスが70数名と生徒数がめちゃくちゃに多かったので、あるとき新聞に1学年を現行の4クラスから5クラスにせよ、と書いたら、翌年から5クラスになったのには驚きました。まあ、その前からその計画だったのでしょうが、新聞部に一言挨拶があるべきだ、と思ったことです。それまで報恩感謝でH、O、K、Sホームだったのですが、急遽土佐のイニシアルをとってTホームができました。
 本書発行については武市功氏(30回)の支援をいただいた、とありますが、有難いことです。
 皆様のご健勝、ご発展を祈ります。
 
岡林 幹雄(27回) 2017.06.24


筆者旧影
拝復
 本日貴兄より中城兄ご執筆の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を
 ご送付賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。早速読ませていただきます。
 暑さ厳しい折柄、ご健勝の程願上げます 。取急ぎ拝受お知らせまで。
  不一 
                           (ハガキ本文)
 
冨田 八千代(36回) 2017.06.26


筆者旧影
「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」の冊子ありがとうございました。
  23日に届きました。すぐに、我が家から喫茶店に移動し拝読しました。
      (ホームページではきちんと読んでいませんでした。すみません。)
  すぐにお返事をが、今になりました。
  多少は知っていたこと、全く土佐中学校とは関係なく個々に知っていた偉人の方々が
  土佐中学校と三根圓次郎校長を中心につながっていることに驚きました。
  
三根圓次郎校長の理念が時代をさきがけ、深遠なことを少しは受けとめたつもりです。
  あらためて、土佐中・土佐高校で学べたことを嬉しく幸せに思います。
  同窓生や在校生にもぜひ、読んでもらいたいと思います。
  
  このように、著述してくださった中城さんに敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。
  また、冊子を送っていただきありがとうございました。
  私には冊子の方がずっとずっと読み易く本当にありがたく思いました。
  ありがとうございました。
  
≪編集部より≫御老体に鞭打って青息吐息で沢山の執筆に励んでおられる中城先生に激励のエールをお願いします!!!
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『介良のえらいて』増補版の発刊について
鍋島 高明(30回) 2017.05.24
謹啓

筆者近影
 「介良のえらいて」の初版が出たのが平成26年の10月のことです。ご好評を戴き、翌27年1月に増刷する幸運に恵まれました。増補版は当初からぜひやりたい、いや、やらなければ見落とした先輩たちに申し開きができないと思い、資料を集めておりました。今回新たに17人が加わり、89人を収録した時点で増補版を発行することにしました。
 名物酒場「とんちゃん」のオーナー吉本健児さんが介良の出身で、国文学の大家竹村義一さんと小学校の同級生だとわかって増補版の目玉になると考えました。「とんちゃん」の常連客が同じく介良出身の酒豪横山三男、土佐文雄のご両人であり、反骨の心理学者鍋島友亀・道子夫妻もよく通っていたというし、横山和雄県立図書館長も夕方5時になると土佐文雄(当時図書館によく出入りしていた)に「とんちゃんに行こう」と誘われたそうです。

『介良のえらいて』増補版
五台山書房刊 1,200円(税別)
 高知を代表する前衛女流造形作家入交京子さんの取材を通じて今井良榮少将の資料が見つかったのは思わぬ収穫でした。将軍が戦後早々介良の村長をやっていたこと、その選挙運動を手伝ったという中島正五郎さんの少年期の証言は目からうろこでした。歌を詠み、絵を描き、壼を焼いて90年の篠原律子さんの逞しい生き方には元気と勇気を戴きました。山官と呼ばれる営林署の役人鍋島健一さんは山を愛し、文を愛し、介良を愛した。
 戦前の高知教育界に大きな足跡を残した土佐梁山泊。ゆかりの100人の若き学徒の中に介良から鍋島牧忠、鍋島一郎、岡崎福太郎の3同人が含まれていたことを知り、これは顕彰しなければと思いました。中島隆、澤本健男、横山猛ら派手ではないがリスクを冒し起業した面々の登場で本書に厚みが加わりました。農業人の代表として中島覚さんに入って貰いましたが、本の完成をみないで亡くなったのは残念でなりません。
 また地域官僚としては最高位の県副知事を務めた十河清さん、知事選に出馬していれば当選確実と言われながら、「その任に非ず」と固辞したという。そんな人材が加わって「介良のえらいて」(増補版)は頁数の増加(80ページ増)以上に中身が濃くなったように思います。四国の流通王から西日本の流通王へと駒を進める旭食品

「介良のえらいもん」全員集合89人
(トモシアホールディングス)、その竹内寿明初代社長、竹内明義2代目社長の登載で陣立てが整いました。
 初版から登場しているえらいてたちに就いてもかなり充実させることができました。たとえば中谷貞頼さん。日活専務時代、のちに永田ラッパの異名をとる永田雅一大映社長が中谷に私淑、中谷社長の実現に大きな働きをしたという事実は特筆していいでしょう。
敬具
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中城 正堯(30回) 2017.05.22生首を化粧した武士の娘
   ―戦乱を逃れ、土佐に来た「おあん」その後―

筆者近影


 郷土誌『大平山』(高知市三里史談会発行)第43号に発表した、『おあん物語』の論考です。関ヶ原の合戦を逃れ、土佐に落ち延びた娘の体験記ですが、菊池ェは女性による「戦国時代のたった一つの自伝小説」と称賛しています。ここでは臨場感が出るように、戦国時代の合戦を描いた浮世絵や屏風から物語と類似の場面を選び、原本の挿絵に加えました。

子どもに語った戦国の実態
 江戸初期の土佐の女性といえば、思い浮かぶのはだれであろう。まず、内助の功で知られる初代藩主・山内一豊(かつとよ)の妻がいるだろう。一豊亡き後、見性院(けんしょういん)の法号を受けるが、名前は「千代」とも「まつ」とも伝わり、明らかでない。へそくりで名馬を買った伝説はともかく、関ヶ原の直前に人質となっていた大坂から東国の一豊に送った「笠の緒の密書」は、徳川家康にも高く評価された実話だ。もう一人は、野中婉(えん)であろう。奉行職だった父野中兼山が失脚すると、44歳まで宿毛に幽閉された。その孤高の生涯は、大原富枝の名作『婉という女』に描かれている。

『おあん物語』
(天保版 喜多武清画 筆者蔵)

 ここで紹介するのは、関ヶ原の大決戦のさなか、佐和山城で敵兵の生首に化粧を施すなど、悲惨な篭城を経験した「おあん」である。落城寸前に父山田去暦(きょれき)とともに城を抜け出し、土佐に落ち延びたおあんは雨森氏と結婚、夫亡き後は甥に養われ、八十余歳まで長生きしている。この老婆が「おあんさま」と呼ばれたのは、夫に先だたれて出家し、老尼の尊称「お庵様」が用いられたからであろうとされる。
 『おあん物語』は、「子どもあつまりて、おあん様むかし物語なさりませといえば」から始まっており、近所の子どもたちにせがまれて、十数歳で体験した篭城戦の凄惨な光景を語った物語だ。さらに後半には、彦根城下での貧しい少女時代の生活体験が記されている。この話を、だれか分からないが筆記した者がおり、写本が流布した後、享保15(1730)年に土佐の谷垣守(かきもり)が本にまとめている。筆者は十年ほど前に神田の古書店で、朝川善庵が谷垣守本に挿絵を付けて天保8(1837)年に刊行した天保版を見付けて入手した。題簽(だいせん)に『おあんものがたり おきくものがたり』とあり、大坂夏の陣で大坂城から脱出した「お菊」の物語と合本にした大判(257×180ミリ)の和本だった。
 こうして江戸時代から広く読み継がれてきた『おあん物語』であり、現代も国文学者や歴史学者から大いに注目されている。しかし、見性院や婉と違って高知では忘れ去られているようなので、この本の誕生のいきさつと内容、さらに各分野の研究者や文学者による論評と活用を紹介したい。なお、翻刻は、岩波文庫『雑兵物語 おあむ物語』(昭和18年)によったが、読みやすくするため現代文に直し、主人公「おあむ」は、「おあん」と表記した。文末の「おじゃった」などは活かしてある。では、本文(一部省略)に入ろう。

篭城し、生首にお歯黒を施す
 「おあん」には、「おれが親父は、山田去暦といい、石田治部少輔(じぶしょう・三成)殿に奉公し、近江の国彦根に居られたが、その後、治部どの御謀反の時、美濃の国大垣の城へこもって、我々みなみな一所に、お城にいて、おじゃった」と、大垣城にこもったいきさつが出てくる。やがて、「家康様より、せめ衆、大勢城へむかわれて、戦が夜ひるおじゃったの。その寄せ手の大将は、田中兵部殿と申すでおじゃる」とある。攻め手の大将・田中吉政(兵部)は、豊臣秀次・秀吉に仕えたが、関ヶ原では東軍について石田三成を捕虜にする武勲をあげ、柳川藩主に取り立てられた人物だ。秀次に宿老(重臣)として仕えた際には、山内一豊も同じ宿老であった。ただ、石田は関ヶ原へ大垣城(岐阜県)から出陣しているが、田中が攻めたのは石田の本拠・佐和山城(滋賀県)である。したがって、『おあん物語』の舞台も実は佐和山城で、おあんの記憶違いで大垣城となったようだ。
 戦が始まると、「石火矢(大砲)をうてば、櫓(やぐら)もゆるゆるうごき、地もさけるように、すさまじいので、気のよわい婦人なぞは、即時に目をまはして、難儀した」「はじめは、生きた心地もなく、ただ恐ろしや、こわやとばかり、われも人も思うたが、後々は、なんともおじゃる物じゃない」と変わる。恐ろしい砲撃を受けながらも、次第に慣れていく。
 城中で女性は、どんな役割を担っていたか。「我々は母も、そのほか家中の内儀、娘たちも、みなみな天守に居て、鉄砲玉を鋳ました」女たちは、鉛を溶かして鋳型に流し込んでは、火縄銃の鉄砲玉を作った。

挿絵@ 生首にお歯黒を施す女性

 続けて、「取った首を天守へ集め、それぞれに札をつけて覚えおき、首にお歯黒を付ておじゃる。それはなぜなりや。昔は、お歯黒首はよき人とて賞翫した。それ故、白歯の首は、お歯黒を付て欲しいと、頼まれておじゃったが、首も怖いものでは、あらない。その首どもの血くさき中に、寝たことでおじゃった」とある。切り取った敵兵の生首に、お歯黒を施していたのだ。戦国時代の「賤ヶ岳(しずがたけ)合戦図屏風」などには、敵兵の首を持って凱旋する兵士の姿が描かれている。当時、首は戦場で手柄を上げた大事な証拠であり、それも白歯の雑兵よりもお歯黒をした身分の高い武将の首が評価され、恩賞につながったのだ。誰が捕った首か名札をつけ、お歯黒首への偽装工作までおこなっていた。挿絵@は、生首にお歯黒を施す場面で、右手前にはお歯黒の液(鉄漿(かね))を入れた角盥(つのだらい)がある。名札を付けた首も見える。左手前には火縄銃が置いてあり、背後の杭には首がずらりと掛けてある。
 やがて、「寄せ手より鉄砲打掛け、もはや今日は城も落ちるだろうという」状態となる。そこへ「鉄砲玉が飛んで来て、われら弟、14歳になった者に当り、そのまま、ひりひりとして死んでおじゃった。さてさて、むごい事を見ておじゃったのう」と、歎いている。

たらいで脱出、土佐に来た「彦根ばば」

挿絵A たらいで堀を渡って脱出
 落城が迫ったある日、「わが親父(しんぷ)の持ち口(持場)へ、矢文が来て、<去暦は、家康様御手習いの御師匠であった。わけのある者なので、城から逃げたければ御助けできる。どこへなりとも、落ちなさい。旅費の心配もないよう、諸々に伝えておいた>との御事で、おじゃった」。家康様の師匠だったので、旅費も含め、脱出の手配をしたとの知らせだ。密かに天守へ行き、北の塀脇から梯子をかけて降り、たらいに乗って堀を渡った。人数は、両親とおあん、それに大人四人ばかりであった。挿絵Aは、たらいで堀を渡る場面であり、右の藤文様の着物を着た娘がおあんで、16、7歳と思われる。

挿絵B 道ばたで出産した母子をかついで逃避行

 城をあとに落ち延びてゆくが、「五六町ほど、北へ行った時、母人(ははびと)、にわかに腹がいたみ、娘を産みなされた。大人はそのまま田の水で産湯をつかい、引上げて着物の裾でつつみ、母を父が肩へかけて、あお野が原へ落ちておじゃった。怖い事でおじゃったのう。むかしまっかう、南無阿弥陀、南無阿弥陀」。ここまでが、篭城から脱出までの経緯である。
 さらに、土佐の子どもたちに、「彦根の話、なされよ」と言われ、こう語っている。「父親(山田去暦)は知行三百石取りであったが、戦が多く、何事も不自由であった。朝夕雑炊を食べておじゃった。おれが兄さまは、時々山へ鉄砲打ちに参られた。その時は朝菜飯(なめし)を炊き、我等も菜飯をもらえるので、うれしかった。衣類もなく、13の時、手織りの花染めの帷子(かたびら…ひとえの着物)一つよりなかった。その帷子を17の年まで着たので、すねが出て難儀であった。せめて、すねのかくれるほどの帷子ひとつ欲しやと思うた。このように、昔は物事が不自由な事であった。昼飯など食う事は、夢にもない事。夜に入り、夜食という事もなかった。今時の若い衆は、衣類の物好き、心をつくし、金を費やし、食物にいろいろ好みをいい、沙汰の限りなきこと(言語同断)である」。
 こうして、彦根の時代を思い出しては、子どもをしかったので、後には「彦根ばば」のしこ名(綽名)をつけられたとある。さらに、今も老人が昔話を引用して、当世を戒(いまし)めることを「彦根」というが、この言葉は俗説では「おあん様」に始まったことで、土佐以外では通じないと、筆記者は付記してある。

谷垣守がまとめて出版、広く流布
 土佐に来たことについては、「去暦、土佐の親類方へ下り、浪人。おあんは、雨森(あめのもり)儀右衛門(土佐藩士)と結婚。夫の亡き後は、甥の山田喜助(後に蛹也(ようや))に養育して貰う。寛文(1661〜72)何年かに、八十余で死す」と、簡単に触れている。
 聞書の筆者は、物語を終えた後に「おあんの物語」を残した経緯をこう述べている。「おあんの話を聞いたのは8、9歳の頃で、折々に聞き覚えた。誠に光陰矢の如し。正徳(1711〜15)の頃、孫どもを集めてこの物語に、自分の昔のことも合わせて、世の中の苦しみを示すと、小賢しい孫どもが、『昔のおあんは彦根ばば、今のじい様は彦根じじ。今さら何をいうやら、世は変わった』と、鼻であしらうゆえ、腹を立てども後世おそるべし、どうなるだろう。今の孫たちも、また自分の孫たちに、このようにいわれるのだろうかと、勝手に想像、後はただ南無阿弥陀仏と繰り返すほかに、いうべき事はない」。

生首をかかげての凱旋(成瀬家蔵「小牧長久手合戦図屏風」より
『戦国合戦絵屏風集成 第二巻』中央公論社)

 この本を編纂した谷垣守は、末尾に「真実の優れた記録である。誰が記録したのか分からないが、おそらく山田氏の覚書であろう。山田文左衛門所蔵のものを借りだして写した。享保15年3月」と記してある。
 さらに、天保8年に『おあんものがたり おきくものがたり』として出版した江戸後期の儒学者・朝川善庵は、跋文(あとがき)で「狂言師・倉谷岱左衛門の門人某が安永年間に、大坂からこの本を持ってきた。御庵(おあん)とは、老尼の尊称である」と述べている。この本には、挿絵三枚が加えてある。朝川善庵は天明元年、江戸の生まれ、嘉永2年没である。挿絵には「武清」の落款(らっかん)があり、絵師は喜多武清だ。江戸後期の画家で、八丁堀に住み、谷文晁に師事した。渡辺崋山とも交流があり、崋山は「その臨写(写生)には、ほとんど真物に迫る貴重な物が多かった」と、語ったという。山東京伝『優曇華(うどんげ)物語』の挿絵も描いている。安政3(1856)年没。
 『おあん物語』は、谷垣守本が原本であるとされ、写本が高知県立図書館にある。垣守(1698〜1752)は谷秦山(じんざん)の息子で、儒学者・国学者。京や江戸にしばしば行き、諸家と交わり研鑽した。その子・真潮(ましお)ともども家学を深め、土佐を代表する学者となって、政治にも参与した。垣守がまとめた『おあん物語』は、天保8年版によって広く流布し、戦国時代の貴重な記録として、今に各地の図書館や大学に残っている。
 では、明治から現代まで、識者や研究者によって、この物語がどのように受け止められてきたか、さぐってみよう。

岩崎鏡川による「おかあ武勇伝」

生首を持ち帰る兵(「賤ヶ岳合戦図屏風」より
『戦国合戦絵屏風集成 第二巻』中央公論社)
 明治になると郷土史家・寺石正路が注目し、この物語を紹介するとともに、登場人物の墓地をさぐるなど考証にも取り組んだ。それらの成果を活かして、『おあん物語』に触れながら坂本龍馬の先祖を論じたのが、明治七年土佐山村生まれの維新史研究家・岩崎鏡川(きょうせん・英重)である。「坂本龍馬先祖美談」(『坂本龍馬関係文書一』大正15年)で、「土佐の国に昔、御案(おあん)物語といえる書あり、彼の帯屋町故山田平左衛門君の先祖・山田去暦の娘・御案といえる女丈夫の物語・・・江州佐和山籠城の時に血なまぐさき敵首を天守に運び・・・」と、まず「おあん」を紹介。続けて、坂本家本家の系図にあった「おかあ殿事績」から、こう述べている。「大和国吉野の須藤加賀守の娘・おかあ殿が、戦乱の中を落ちる際に敵六人に追いかけられて薄手(軽い傷)を負うが、敵に待てと言って小袖を引きちぎって鉢巻きにあてると、六人を切りとめ、土佐の豊永に落ち延びた。おかあ殿は小笠原佐兵に嫁ぎ、その妹が坂本家の先祖で才谷村に住む太良五良(ママ)の妻になった」。
 龍馬の縁戚に当る土居晴夫は、「おか阿の武勇談」(『坂本龍馬の系譜』)でやはりこの話を紹介しているが、おか阿の妹は坂本家初代太郎五郎の妻ではなく、その子・彦三郎の妻とする。南国市三畠(さんぱく)には、小笠原佐兵・おか阿の墓と顕彰碑があるという。
 岩崎鏡川は、おか阿は忘れられたのに「おあんの物語は、久しく世上に流伝し、今や歴史研究家としてその名を知らざるなし」と述べている。昭和にはいると歴史家だけでなく、多くの文学者がこの物語に注目し、さまざまな形で作品化する。まずは、岩崎鏡川の次男に生まれ、母・斉(ひとし)の実家・田中家にはいった作家・田中英光(ひでみつ)から取り上げよう。
 田中英光の母方の祖父・田中福馬は種崎村の商家に生まれたが、宝永町に出て市場の仲買人として成功する。しかし自由民権運動で家産を傾け、東京に出た。英光は大正2年、東京赤坂で生まれたが、土佐人に囲まれて育ち、高知を故郷としていた。早大在学中の昭和7年には、ロサンゼルス・オリンピックにボート選手として参加。その後作家となり、『オリンパスの果実』などで知られる。昭和24年に太宰治の墓前で自殺する。この英光が昭和18、9年頃執筆したと推定される遺稿「土佐 2」(『田中英光全集8』芳賀書店)に、「おあん物語」がある。

虐げられた女性への追憶
 この文章の最初に、「寺石正路氏の考証のついた、土佐協会誌第66号の付録があるので参考にさせて貰い、感想を述べながら意訳する」とある。おそらく父・鏡川の文章で「おあん物語」に注目し、寺石の文書も入手したのであろう。英光は、まず菊池ェの「わが愛読文章」から、次の部分を引用している。
「戦国時代に於ては、個人の私生活、ないし日常生活についての文献なぞは全然見当たらない。ことに女性の私生活については何も伝わっていない。その間にこのおあん物語だけが、一つの真珠のように光っている。これは戦国時代に於けるたった一つの自伝小説と云っても好いものだ」。このあと、現代文に意訳して物語を紹介、前半を終えたところで、こう感想を挟んである。「ここまでが、関ヶ原当時の思い出話だ。戦時中、女子供がどんなに惨めであったか、ただ虫のように生き、虫のように死んで行ったに過ぎない。ところが今度の戦争中におあん物語を時局に有意義な物語として取り上げ、昔でも女子供はこんなに苦しんだのだから、今の女子供は幸福だ。すべからく今の配給生活に感謝せよなぞ言っている人もいたが、これは反対で、三百年前の女子供の暗い生活と少しも変わらぬ、あるいはもっと酷い生活を強いられている現代の矛盾と欠陥をむしろ批判的に考えなければならないと思う」。

落城して炎上する城(「大内合戦之図」橋本貞秀 松ア郷輔所蔵)
 まことに的確な感想であり、言論統制の行われていた第二次世界大戦中には、絶対に発表できない内容である。昭和18年発行の岩波文庫版「おあむ物語」にも、並べて収められた「雑兵物語」の解説には、「戦闘に於ける果敢不屈の精神をうたって士気の高揚に資せんとしたもの」とある。当時の、新聞・出版は戦意高揚・耐乏生活一色であった。この昭和18年に高知市立三里国民学校に入学、空襲と空腹の中で小学生生活を過ごした筆者も、体験ずみのことであった。
 英光は物語の後半を記した後、寺石の次のような考証を転記している。「山田去暦の墓は、高知城南潮江山字(あざ)高見にありと聞く。阿庵(おあん)の墓は同じ清水庵の傍らにあり。わが父は子供の頃、潮江村に住み、童遊の際、阿庵の墓に行き、木太刀を取り帰ったことがある。阿庵の墓は、なぜか知らないが木太刀の奉納がおびただしかった。昔から土佐では歯の痛む人は小溝に行き、お庵様といって祈願をして、平癒すればお歯黒を上げる習いがあった」。
 英光は最後に、「この平凡な女性が、どうしてこのような俗信の対象となるまで、有名になったであろうか。同様な方言を生むまでに有名な荒武者・福富隼人と対照してみる時は面白い」と、問いかける。福富隼人は、長宗我部元親に仕えた伝説的な豪傑で、英光は隼人の孫で惨めな流浪の生涯を送った「福富半右衛門」を主人公に歴史小説を書いている。この二人を対比しつつ、こう記して「おあん物語」を終えている。
「隼人は生粋の土佐人であったが、その子孫は他国に流浪し、おあんは他国人であったが、その子孫は土佐に止まることになった。この点でもまた、対蹠(たいしょ)的であり、かつ私は土佐を限定した土佐と見る愚劣さを思う。そして軽々しく独断は出来ないが、こうして隼人が有名になった原因には、他国人の抑圧の下に苦しんだ土佐人が前代の自国人の英雄に対する敬愛の念を感じ、おあんが有名になった原因には、抑圧された民衆が、虐げられた女性の追憶にある真実さを、限りなく愛慕するの情を感じることができる」。

「おあん」に見る男女の生と性
 「おあん物語」に関心を示した作家には、谷崎潤一郎、そして土佐出身の大原富枝がいる。二人の取上げ方を紹介しよう。
 谷崎が「武州公秘話」を雑誌『新青年』に発表したのは、昭和6年である。後に谷崎全集に寄せた文章で、圓地文子は、「小説のはじめの方で城中の女達が首を化粧する前後の描写はこの作品中、白眉の部分」とし、「恐らく作者はこれらの場面を〈おあん物語〉や〈おきく物語〉などによって構想されたのでしょう」と述べている。
 この物語の序で作者は、主人公・武州公を「一代の梟雄(きょうゆう…残忍で猛々しい人)、また被虐性的変態性欲者なり」と述べ、その由来となった事件に入っていく。13歳の秋、幼名・法師丸は、人質となっていた牡鹿(おじか)城が敵兵に囲まれ、篭城を余儀なくされる。ある夜半、五人の女たちが敵の生首に化粧を施す部屋に忍び込み、女たちの作業ぶりに恍惚感を抱く。なかでも、生首の髪を洗う16、7の若い女の、首に視入る時のほのかな微笑に陶酔を覚え、「殺されて首になって、醜い、苦しげな表情を浮かべて、そうして彼女の手に扱われたいのであった」と書く。伊藤整は、「武州公秘話」のモチーフは、「残虐性と美との観念の連絡と交錯」であり、古文書から得た物語に見事に生かされている。「作者一代の傑作」「世界諸国の文学の中にも類を求め得ない特異な作品」と、絶賛している。

落城で逃げまどう民衆(「大坂夏の陣図屏風」より、大阪城天守閣蔵)
 戦後の作品では、大原富枝が昭和40年『中央公論』に発表した「おあんさま」がある。老いさらばえた「おあん」の回想から始まるが、城から落ち延びる際に、不破の山中で三人の落武者に襲われる場面を付け加えてある。土佐に落ち着き、結婚した新床でも、「夫のつめたい手が肌にふれたとき、・・・突然に、あの不破の山の三人の男たちを思い出した」とある。忌まわしい悪夢に悩まされながらも、いつしか仲の良い夫婦となっていた。
 学問の世界では、昭和18年の岩波文庫版で、戦時教訓的なねらいを隠し、国語学者湯澤幸吉郎が「口語史上注意すべき事」として、語尾の「あらない」「おぢやる」などを指摘している。戦後は、民俗学者の柳田国男が、「民衆の生活」「口語資料」にかかわる「清新な教材」として、東京書籍の高校国語教科書に採用したことを、井出幸男が『宮本常一と土佐源氏の真実』で述べている。国語の古典教材に、庶民の生活誌が登場するのは画期的なことであったが、採択が広がらず、この教科書は消えていった。井出は、宮本の『土佐源氏』も「おあん物語」の語り口調の影響を受けており、また単に乞食から聞き取った民俗誌の資料ではなく、創作が入った文学作品だとする。筆者は、梅棹忠夫監修『民族探検の旅』(全8集・学研 昭和52年刊)に続き、宮本常一監修『日本文化の源流』をまとめるべく宮本を囲んで企画会議を開始していたが、昭和56年に逝去され、実現しなかった。「土佐源氏」(「土佐乞食のいろざんげ」)誕生のいきさつも聞き逃してしまった。宮本は柳田と親しく、田中英光には強い共感を寄せていた。
 歴史家の受け止め方も述べておこう。磯田道史は、「女たちが見た関ヶ原の合戦」(『江戸の備忘録』文春文庫)で、「現在の長い平和は江戸時代以来のことだ。実は江戸の初めにも、日本人は今の平成時代と同じように〈戦争を知らない世代の到来〉を経験している。・・・江戸人が聞き耳を立てた〈戦争体験談〉」だとして、おあん物語を紹介している。小和田哲男は、『城と女と武将たち』(NHK出版)で、「おあん物語」から〈鉄砲玉の鋳造〉と〈敵の首へのお歯黒付け〉をあげ、篭城中の女たちの仕事であったことを実証している。

老人と子どもの新しい絆を!

高知城、おあんはこの城下で穏やかな
晩年を過ごした。(筆者撮影)
 こうして土佐の谷垣守が江戸初期にまとめた「おあん物語」は、その壮絶な戦争体験と、口語体の親しまれやすい文章から、広く読み継がれ、研究や創作の素材にもなってきた。まとめとして、これまで研究者に取り上げられなかった、「老人と子ども」という観点から、この物語の意義に触れておきたい。
 「おあん物語」は、子どもが集まって「おあん」に昔話をせがむところから始まる。平和になった江戸時代の文献には、隠居の身となった老人たちが、子どもたちと過ごす様子が、よく現われてくる。越後の良寛は、「霞(かすみ)立つ永き春日(はるひ)を子供らと 手毬つきつゝこの日暮らしつ 子供らと手毬つきつゝ此のさとに 遊ぶ春日はくれずともよし」と歌を詠んでいる。江戸の山東京山は天保3年刊『五節供稚童講釈』で、「隠居とおぼしき剃髪の姿賤(いや)しからず、女小(ママ)供を集めて、五節供の講釈をするなり」と述べ、『菅江真澄全集』には仙台領徳岡の村上家で浄瑠璃を披露しようとした座頭(ざとう)に、子どもが「むかしむかし語れ」と催促した場面がある。これらは、いずれも江戸後期の事例だ。
 テレビやスマホのない時代の子どもたちにとって、老人と遊び、昔話や体験談を聞くのは、なによりの楽しみであった。さらに、老人が地域の子どもの教育に積極的にかかわった記録もある。乙竹岩造が、『日本庶民教育史』で紹介した「あやまり役」である。寺子屋では、いたずらや怠慢で破門の罰を受けると、あやまり役の老人に知らせがあり、子どもを諭(さと)した上で、一緒に寺子屋の師匠におわびに行ってくれた。母親よりも、年の功で上手にとりなす老人が適任で、あやまり役は各地で見られた。
 だが、老人の話も説教くさくなると、とたんに子どもに嫌われる。話を受け継いだおあんの孫も、やがて子どもたちに鼻であしらわれる。『女重宝記(ちょうほうき)』には、「上代の女はその心素直にして邪(よこしま)ならず。世の末、今の世におよびては、女の心日々に悪しくなり、人をそねみ妬(ねた)み、身を慢(まん)じ、色ふかく、偽りかざりて欲心多く、やさしき心なくして情けを知らず」とある。現代にも通用しそうだが、元禄5年(1692)に出た女子用教訓書の教えである。いつの世も、世代間ギャップは簡単には埋まらない。
 だが、老人と子どもを上手に結びつけている例は現在もある。1999年にパリで出会った中学校の国語教師が、移民の子どもにとっている対応で、「正しいフランス語修得には古典的な詩文の暗誦が欠かせない。宿題に出すが、移民は親も教えることができない。そこで老人の家庭を訪問させ、教えてもらった。孤独な老人にも、話し相手ができたと喜ばれた」という。
 現代の日本では、増大する高齢者は老人施設などに囲い込まれて別居、地域の子どもはおろか孫と接する機会も少ない。子どもも学校と塾に囲い込まれ、老人の体験談や昔話・わらべ歌を聞き、ともに遊ぶ機会は失われてしまった。おあんは土佐の子どもたちに囲まれ、昔話をせがまれつつ幸せな晩年を過ごした。その生涯を記録した、谷垣守のような人物にも恵まれた。老人と子どもが直(じか)に触れ合い、遊び、語り合う、新しい絆の構築が望まれる。
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新刊のお知らせ
「龍馬・元親に土佐人の原点をみる」中城正堯(30回)著
公文 敏雄(35回) 2017.03.20

筆者近影
 「まえがき」によると、著者中城氏の実家は種崎に住んで「代々土佐藩御船頭をしており、幕末の当主中城直守や長男・直楯夫妻は坂本家および龍馬とも交流」したという。これらを記録した文書(高知市民図書館「中城文庫」)を活用、かつ多くの史料を渉猟して著された労作である。歴史好きを自認する方々も、内容の斬新さに瞠目されることと思う。


13cm x 19cm版241ページ
轄rm新聞総合印刷 1,389円+税
第一章 土佐の坂本龍馬・お龍 
 「龍馬は最後の帰郷で、なぜ種崎に潜伏したのか」「龍馬未亡人のお龍さんは、なぜ坂本家を飛び出したのか」「龍馬は本当に愚童だったのか」など、第一章は、土佐での龍馬・お龍に絞って、その真相に迫る。

第二章 長宗我部水軍と浦戸城・高知城 
 第二章は一転、近年人気が高まっている戦国武将長宗我部元親の「飛躍の原動力となった『長宗我部水軍』には研究が及んでいない」として、忘れられた彼ら「海の一領具足」の実像に光を当てる。あわせて、これも知る人ぞ知る、元親が夢を託した「四国では先駆的な『石の城』」浦戸城の在りし日を考証し、貴重な文化遺産の再評価と保全を訴えている。

第三章 土佐藩御船頭の幕末明治 
 第三章では、「幕末に名もなき足軽として戊辰戦争に従軍、『三度死に損なった』中城直顕」を主役に据えて、維新史に顕れない生々しいドラマを綴り、あわせて、「近代高知県史学の開拓者とされる中城直正」を紹介している。

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 ≪著者より≫高知の書店しか並びませんので、読みたい人には謹呈します。4月の総会に持参しますので、人数をお知らせください。

書評: 高知新聞 2017.04.05
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「高知経済人列伝」の発刊について
鍋島 高明(30回) 2016.08.25


筆者近影
謹啓酷暑の候、皆様にはお変わりないことと存じます。私は八十路の坂に差しかかりましたが、執筆を続けています。このたび「高知経済人列伝」を発刊いたしました。ご高覧、ご高評頂ければ幸甚です。
 ここには明治から今日に至る日本の近現代において県内外で活躍した経済人330人の足跡を収めています。明治時代には岩崎弥太郎という巨人が日本経済の近代化の先頭に立ち、三菱財閥の礎を築き、大正時代に入ると鈴木商店の大番頭金子直吉が岩崎にも劣らぬ破天荒な躍動ぶりで日本列島を震憾させます。昭和、平成に入っても数多くの俊才が輩出、日本経済の一角を構成します。
 土佐の若者たちは先輩を慕って三菱グループや鈴木商店関連企業に進みます。この二大勢力に次ぐのが間組、大阪ガス、日本発条、淀川製鋼所など高知とゆかりの深い企業。そして大樹のかげに寄ることを潔しとしないいごっそうたちは蒼き狼となって独自の戦いで新天地を切り開く。たとえば太陽石油の青木繁吉、和田製糖の和田久義らは既成の枠を突破すべく行政に立ち向かいます。流通業界に風雲を呼んだ中内功には土佐人の血が流れており、家電の安売りチェーンの先駆け英弘商会の秦泉寺信喜。カメラのキタムラ、旭食品も流通界で存在感を高めています。'

高知新聞社 A4版372頁 定価2,000円(税別)
 一方、高知に根を張る企業集団野村組、入交グループ、西山合名などには多彩な人材が集結しました。昭和の初めに大阪毎日新聞社から出版された「経済風土記」(四国の巻)には「高知は人材が多くてうんざりする」との記述が出てくるほどです。
 業界の暴れん坊とけむたがれる反骨商人の半面でモノつくりにいそしむ土佐のエジソンたち。釣針の広瀬丹吉、猟銃の弥勒武吉、五藤光学の五藤斎三から樫尾4兄弟、サイレントパイラー(無公害打抜き機)を生み出した垣内保夫・北村精男コンビ、農機具の楠瀬慶吉、鈴江登志治、久松潤一郎、生コン事件で勇名をはせた山崎技研の山崎圭次は反骨のエンジニア。コンデンサ用絶縁紙の世界シェア70%を誇るニッポン高度紙を創業した関頼次。
 年間200億円の富を生み出す稀代の勝負師山本正男。難病と闘いながら東証1部上場を果たしたダイヤモンドダイニングの創業社長松村厚久はまだ40歳代の若さ。多士済々、土佐は人材の宝庫であることを改めて知らされました。
 書きもらした人物も少なくない。昨今話題の水素水の開発で一代を築いた日本トリムの森沢紳勝、山本貴金属の山本裕久、保育社の今井龍雄、日本発条の浜田庄平、富士重工業の森郁夫、「はちきん母さん一代記」の岩崎玲子…遠からず増訂版を出し、完成度を高めたいと念じております。「こんな偉い手が抜けているゾ」といったご指摘をお待ち申しています。(文中敬称略)
 平成28年盛夏
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【本屋大賞2016】 宮下奈都著 
公文 敏雄(35回) 2016.05.09『羊と鋼の森』の風景

小説の舞台

宮下奈都著 『羊と鋼の森』 文藝春秋刊 1,620円(税込)
 この小説は、「森の匂いがした。秋の夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の森の匂い」という暗示的な文章で始まる。
 「(北海道の)山の中の辺鄙な集落で生まれ育った」僕、「このままなんとか高校を卒業して、なんとか就職口を見つけて、生きていければいい」くらいに考えていた十七才の主人公が、「突然、殴られたみたい」な、「あっと叫び声を上げたくなった」出来ごとに遭遇する。あの時、放課後の体育館で。
 「忘れもしない高二の二学期」、先生のいいつけで体育館まで案内した来客が「調律師 板鳥宗一郎」だった。案内を果たし、やがて立ち去ろうとする僕の背中のほうから、ピアノの音がした。「ひどく懐かしい何かを表わすもののような、正体はわからないけれども、何かとてもいいもの」が聴こえ、僕はピアノの場所に戻った。「欲しかったのはこれだと一瞬にしてわかった」。「森の匂いがした。秋の、夜の。僕は自分の鞄を床に置き、ピアノの音がすこしずつ変わっていくのをそばで見ていた。たぶん二時間余り、時が経つのも忘れて」。
 この時、「調律という森に出会ってしまった」主人公は、将来を板鳥に相談、高校を卒業してから調律の専門学校に二年間学んだ後、達人板鳥が主任を務める田舎町の楽器店に就職を果たした。
 (題名に出てくる「羊」は、ピアノの中のハンマーのフェルトの素材であり、「鋼」はワイヤーの材料だということを、私はこの本を読んで初めて知りました。)

小説の中味

筆者近影
 この小説は、調律の世界に身を投じた主人公の生々しい修行物語である。ほかに、社長、個性的な先輩調律師たち、ピアノを弾く人々(様々なお客様)、聴く人々などが多彩なエピソードとともに登場し、交わされる会話、心の動きなどが、丁寧にそして生き生きと描写されて読者を森の世界に引き込んでいく。とりわけ紙数を費やしているのが、美しいふたごの高校生姉妹のピアノである。そこが圧巻だが、詳しくは読まれてのお楽しみ。
 田舎出の朴訥な青年は、音楽の素養すらない。それでも、「時間さえあれば僕はピアノの前に立ち、屋根を開けて内側を覗いた」し、「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです」という板鳥の教えに従って、「こつこつ調律の練習を繰り返すほかは、こつこつピアノ曲集を聴いた」。
 あるとき大失敗をやらかした。「初めて、怖いと思った。鬱蒼とした森へ足を踏み入れてしまった怖さ」だった。すっかり落ち込んでいる主人公に対して「もしよかったら」と板鳥がチューニングハンマーを差し出した。チューニングピンを締めたり緩めたりするときに使うハンマーだ。「なんとなく外村君(主人公)の顔を見ていたらね。きっとここから始まるんですよ。お祝いしてもいいでしょう」。森の入口に立った僕に、そこから歩いてくればいいと言ってくれているのだ。
 このあとも、主人公は新人思いの先輩たちに見守られつつ、こつこつと、そして丁寧に修練と経験を重ねて行く。「外村って、無欲の皮をかぶったとんでもない強欲野郎じゃないか」などと言われながら、「目指す場所ははるか遠いあの森だ」との大欲を抱いてただひたすら。

著者「宮下奈都」の思い
 主人公が尊敬してやまない板鳥が理想とする音、主人公が魅せられたその音は、「明るく静かに澄んで懐かしい」、「少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている」、「夢のように美しいが現実のようにたしかな」ものだという。詩人で小説家原民喜の文章から引用されたこの形容は、そのまま著者が目指す文体でもあろうか。だとすれば、的は外れていない。
 「懐かしい」といえば、「山」や「森」や「田舎」(主人公の原風景)をいとおしく思う表現が小説に満ち満ちていることにすぐ気づく。また、主人公が口にする「こつこつ」、「丁寧」、「あきらめない」、「一所懸命」*などの言葉・価値観には、効率最優先でゆがんだ現代社会へのきびしい批判が湛えられている。(*「一生懸命」などというご語源不明の俗語を使わないのが嬉しい)
 「でもやっぱり、無駄なことって、実は、ないような気がするんです」や、主人公の気づき「山と町。都会と田舎。大きい小さい。価値とは何の関係もない基準に、いつのまにか囚われていた」なども同様である。
 「綿羊牧場を身近に見て育った僕も、無意識のうちに家畜を貨幣価値に照らして見ている部分があるかもしれない。でも、今こうして羊のことを考えながら思い出すのは、風の通る緑の原で羊たちがのんびりと草を食(は)んでいる風景だ。いい羊がいい音をつくる。それを僕は豊かだと感じる。同じ時代の同じ国に暮らしていても、豊かさといえば高層ビルが聳え立つ街の景色を思い浮かべる人もきっといるのだろう」と主人公が思うくだりも、心に残る場面である。
 それらはともかく、この「静かに澄んだ」小説本を手に取った、不条理な社会の中で働く若者たちは、題材の目新しさやストーリーの面白さだけではなく、登場人物たちがかもしだす懐かしさ優しさに惹かれ、心を癒されたのではないだろうか。
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鍋島 高明(30回) 2016.03.30『相場の世界』 昔と今と


筆者近影
謹啓
 皆様にはますますご健勝のこととお喜び申し上げます。小生も相変わらず原稿執筆を続けております。このたび「相場の世界 昔と今と」を上梓しました。ご高覧、ご高評を頂ければ幸甚です。
 ここに収めた原稿の多くは「merit」など各種媒体に執筆してきたもので出版を機に加筆しました。中心となるのは「相場取引古語辞典」で今では古語、ないし死語になっている取引用語を根掘り葉掘り掘り返しながら読み物風に仕立てたものです。ここに取り上げたのは取引用語のご<一部でいずれ補強して単行本にまとめたいと思っています。

米穀新聞社 B6版362頁 定価1,500円(税別)

 「先物寸言」は先物ジャーナル紙に月一回執筆しているコラム集です。昔の資料をあさりながら、現在、未来につながる話をと考えているのですが、なかなかうまくいきません。昔話で終わってしまうことがほとんどです。
 巻末に掲げた取引員資産番付(講談社発行の講談倶楽部の昭和9年新年号付録から取引員を抽出)は書き下ろしと云うか、初めて公開される資料です。昭和初めの産業界において取引員(証券業者、商品先物業者)のウェートが想像以上に高いように思われます。
                              敬具 
平成28年3月
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ゲーテと旅する7つの都市
渡辺真弓著 『イタリア建築紀行』のオススメ
藤宗 俊一(42回) 2015.05.24


ゲーテと旅する7つの都市 『イタリア建築紀行』 四六版448頁
 40年近く前の1976年度イタリア政府給費留学生の仲間だった渡辺真弓さん(工学博士。東京造形大名誉教授)の最新作です。今回はちょっと力を抜いて、18世紀末のドイツの文豪ゲーテの作品『イタリア紀行』を参考に、『あまり専門的に片寄らず、できるかぎり人間的にイタリアの都市の面白さを語る(序章)』気持ちになったのは、昨年長く続いた学究的な生活から離れ、ダンナの運転でシチリアの都市を巡り、イタリア旅行を楽しんできた(きっと、罪滅ぼし!)結果とも言えなくもなさそうです。 それが証拠に平凡社などという大衆出版社から発刊しているし、値段も2,600円(税別)と学術書に比べて格安です。きっと、多くの読者に手にとってもらい、イタリアの都市の良さを知ってもらいたいからではなかろうかと思っています。

 本を紹介する前に彼女のひととなりを私の知っているかぎりで紹介します。彼女はチャキチャキの東京っ子で、大学の一学年上のマドンナ(当時は女子学生は学年で100名足らずしかおらず、工学部では数える程、しかも美人であった。)であり、卒業してそのまま建築史の研究室に残り、イタリアに行ったのは博士課程の最中でした。語学も堪能で4ケ国語を理解し(多分その後増えたと思う)、性格はきつく、生真面目で、田舎出の青年にとってはちょっと近寄り難いオネエさんでした。 モチロン彼女もイモ兄ちゃんの思惑などを歯牙にもかけていなかったことは確かです。

 イタリアでは給費留学生仲間(建築、彫刻、音楽、演劇、文学、歴史、法律、化学、数学等)の結束が強く(多分同じ飛行機(アリタリア南回り20時間の旅)で送られ、外務省への挨拶と手続きのためローマで同じ宿(元修道院)に押しこめられたため)、各地に別れた後も、お互いの街を訪れては専門的な知識をもとに案内しあうようになり、今でもつきあいが続いています。 彼女は、パドヴァ大学でパラーディオを、私はフィレンツェ大学で城壁都市

38年前の著者と筆者(VICENZA)
パラーディオ研究センターの前で
(私の場合はイタリアに行くための便宜的テーマ)を学び、むこうで何度か会いました。最後になって二人とも国策のドロボー被害に会い(彼女はローマ、私はミラノ)、『イタリア人の顔を2度と見たくない!』と言っていましたが、結局あれはイタリアに慣れ、慢心していたことへの神の思し召しだと解釈できるようになって、二人ともイタリア大好き人間です。 帰国してからも彼女はパラーディオ研究を続け、造形大の講師になり、助教授、教授とすすみ、最後は日本のパラーディオ研究の第一人者と言われるまでになりました。また、帰ってから暫くして、小学校時代の同級生(建築家)と結婚し、家が事務所の近く(渋谷)にあったので何度か訪ねたり、街中で買い物途中や保育園への送り迎えの途中に出会ったりして、親交が続きました。


パラーディオの肖像画
 ところで、皆さんパラーディオってご存知ですか。パラーディオは16世紀後半のイタリアヴェネト地方の建築家で、ローマで活躍したヴィニョーラ等と共に、美術史の上ではルネサンスとバロックの間にあるマニエリズムの建築家に位置づけられています。マニエリズムは技法主義、模倣主義と訳されることもあり、あまり良い印象を与えてくれませんが、ある大きな潮流と次の潮流の間に必ず起きる現象で、それに反発しながらも、偉大な先人の技法(マニエラ)をしっかり習得し、自分流に解釈し表現する芸術活動で新しい潮流の萌芽ともいえます。


パラーディオの代表作の ラ・ロトンダ
Villa Almerico (la Rotonda)(Vicenza)1566
 イタリア北部の辺鄙な田舎町(ヴィチェンツァ)の石工の彼が、世界に認知されたのは18世紀になってからで、この地方を旅行した人たちの目にとまり(他に比べるものがないので)、建築様式上未開のイギリスやアメリカに紹介され、『パラディアン・スタイル』としてもてはやされました。多くの邸宅建築に取り入れられ、セント・ピーター寺院(ロンドン)やホワイトハウス(ワシントン)などもパラディアン・モチーフを用いて建設されています。 ルネサンス自体、ギリシア・ローマの古典主義のマニエラを用いて達成されたことを考えると人間はたいして進歩していないのではないかと思ったりします。パラーディオについては、本文中に第一人者によって詳しく解説されていますので是非お読みください。 パラーディオの作品


ポストモダンの建物
AT & T Building (56thNewYork)1984
Philip Johnson and John Burgee
 そのパラーディオに彼女が興味を抱いたのは、多分、丁度私たちがイタリアへ行った40年前頃、ポストモダンといった言葉が流行っていたことによると思います。それまでの、コルビジェ、サーリネン、ミース・ファンデル・ローエ、丹下健三等の建築家たちが合理主義、機能主義、構造主義などのお題目を唱えながら、コンクリートと鉄とガラスでできたシンプルで無駄のない、使いやすい建物(『レス イズ モア(少ないことはすてきなこと)』)を計画していったモダニズムへの反動の狼煙が上がっていました。ロバート・ヴェンチューリはそ の著作『建築の多様性と対立性』(1966)においてポストモダニズムの理論を展開し、ミースの言葉を皮肉る『レス イズ ボア(少ないことはつまんない)』の言葉を掲げ、 歴史主義的なデザイン、土着的なデザイン、象徴的なデザイン、装飾的なデザインなど建物の表情の多様性を唱え、日本では建築家の黒川紀章や磯崎新などがもてはやされていて、建築を志したばかりの私たちにも大きな影響を与え、マニエリズムという言葉も随分一般 的に使われていました。その本家本元のマニエリストに歴史家として興味を抱いたとしても当然といえば当然のことだったのでしょう。

 前置きが随分長くなりましたので、本の紹介は手抜きをして、以下に目次をコピーしました。
をクリックすると役所工事のサイト(画像中心)にジャンプします。
序 章 君知るや南の国
    ゲーテと旅を  ゲーテの生い立ち  『ヴェルテル』の作家
    ヴァイマールのゲーテ  イタリアヘ
ヴィチェンツァ 第一章 ヴィチェンツァ 建築家パラーディオを育てた都市
    北緯50度から45度への旅  アレーナ・ディ・ヴェローナ
    ヴェローナ今昔  都市と丘陵地帯  ヴィチェンツァとパラーディオ
    ヴィチェンツァの都市建築  バジリカ・パラディアーナ  ラ・ロトンダ
    ミニョンの歌とラ・ロトンダ  テアトロ・オリンピコ  ニ人のスカモッツィ
    ヴィチェンツァの作家  ヴィチェンツァのイメージ
パドヴァ 第二章 パドヴァ 聖人も祀る豊かな北の大学都市
    パドヴァの都市形成  中世の町おこし  パドヴァの聖アントニオ  サントの舌
    解剖学教室と植物園  ポルティコのある町  プラート・デッラ・ヴァッレ
    カフェ・ペドロッキ  ニ十世紀のパドヴァ  中心部の三つの広場  ゲーテとパドヴァ
ヴェネツィア 第三章 ヴェネツィア 海に浮かぶ国際文化都市
    ブレンタ河の舵旅  ヴィラ・フォスカリ  海の都ヴェネツィア
    ヴェネツィァの表玄関  迷路と水辺の道  大運河と橋  ヴェネツィァ観察
    ポンテ.デッレ・テッテを探して  ヴェネッィァのパラーディオ  慈善と隔離の思想
    アルセナーレとゲットー  ヴェネツィァ演劇事情  街中が劇場
    美術品の居場所  大運河沿いのパラッツォ  生き続けるヴェネツィア
アッシージ 第四章 アッシージ 自然に囲まれた聖なる都市
    フェッラーラとボローニャ  アペニン山中の旅  丘上都市アッシージ
    フランチェスコの足跡  聖フランチェスコゆかりの場所
    ミネルヴァ神殿  一路ローマヘ
ローマ 第五章 ローマ 歴史の重層する世界の首都
    コルソ通りの住人  古代ローマの残照, ローマ建築の特徴
    アウグストゥス時代の建築  コロッセウム前後  建築皇帝ハドリアヌス
    混乱の時代の大建築  初期キリスト教のバジリカ  中世という休止期
    教皇に仕えた芸術家たち  グロテスク装飾  都市改造計画
    バロック都市ローマ  ローマの地形  永遠の都ローマ
ナポリ 第六章 ナポリ 陰翳深い南国の都市
    ローマからナポリヘ  ナポリの成り立ち  中世のナポリ
    スペイン支配時代  カルロ・ディ・ボルボーネの時代
    国際的文化都市ナポリ  レディー・ハミルトン
    十九世紀のナポリ  明暗のナポリ
パレルモ 第七章 パレルモ 文明の交差した異国情緒の都市
    ナポリからシチリアヘ  パレルモ略史 -アラブ・ノルマン建築
    楽園のイメージ  バロックの都市改造  奇怪さへの傾倒
    十九世紀以降のパレルモ  パレルモにも来たスカルパ  シチリアの中のギリシア
    穀倉地帯と丘上都市  東海岸の都市と火山  シチリアの地震
終 章 旅の余韻
    その後のゲーテ  旅することの意味
 あとがき
 主要参考文献/図版クレジット

 以上の目次からも分かるように、7つの都市の紹介と序章と終章で成り立っています。内容は古代から現代まで多岐にわたり、彼女の専門分野のみならずその造詣の深さに驚かされます。またふんだんに研究資料として集めた図版を用い、その都市の形態や成り立ちを女性ならではの優しい語り口でひも解いてくれます。同時に『ゲーテほどのすぐれた鑑識眼を備えた人物であっても、時代の影響から自由であったわけではない(第4章)』というような、歴史家ならではの文明批評にドキッとさせられることが屡々あります。とにかく素晴らしい本です。
 ただ、残念なことは、私が第二の故郷と思っているフィレンツェについて、ゲーテが『イタリア紀行』で触れていない(行きはローマに急ぐあまり3時間しか滞在しなかったが、帰りは10日間以上滞在している)のを良いことに、彼女もたった3時間分くらいしか言及していないことです。多分、フィレンツェについて書き始めたらもう1冊以上書かなければ収拾がつかなかっただろうと善意に解釈しています。
 よく、ヨーロッパの街角で分厚い観光案内書を片手に右往左往している外国人旅行者の姿を見かけますが(悲しいことに日本には『地球の歩き方』程度の低俗な案内書しかない!)、是非、イタリア旅行の際はこの本を片手にその都市を味わって来てください。ただ、一度に7つの都市を巡るのは難しいと思いますので、2冊買って、1冊はカッターでバラバラにして該当する都市の部分だけ持って行くようにすれば、彼女も2冊分の印税が入り、喜ぶと思います。

 最後は、彼女の真似をして、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の中の詩『ミニヨンの歌(Lieder Mignons/森鴎外訳)』で終わります。

 君知るや南の国
 レモンの木は花咲き くらき林の中に
 こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
 青き晴れたる空より しづやかに風吹き
 ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
 雲にそびえて立てる国や 彼方へ
 君とともに ゆかまし
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本のすすめ
苫野一徳著 『勉強するのは何のため?』
岡林 敏眞(32回) 2015.05.18

  『勉強するのは何のため?』
   =僕らの「答え」のつくり方


  著者:苫野一徳(とまの いっとく)
       1980年生まれ。早稲田大学大学院
  教育学科博士課程修了。博士(教育学)。
  早稲田大学非常勤講師。専攻は哲学・教育学。

       発行所:株式会社日本評論社
       定価:本体1400円+税


筆者近影
「豊かになろう。豊かになれば幸せになれる。」
 これが、第二次大戦後の日本のスローガンでした。私が土佐中高校に在学していた昭和20年代から30年代は、日本中の最大の課題は経済成長でした。大人たちは、豊かな生活を目指して必死に働いていました。そして、我が子には自分たち以上に豊かな生活を勝ち取ってもらいたいと願い、学校に行かせていました。
 だから、当然のように、土佐中高生は「大学に入り、いい仕事につく」ために勉強していました。いい仕事が、いい会社だったり、弁護士や医者だったりではありましたが・・つまり、当時の土佐中高生のほとんどは、「大学に入りいい仕事について、豊かになるために自分は勉強をするんだ」と信じていたのだと思います。
 ところが、1990年初頭にバブルがはじけて以来、不況が続いています。勉強して、いい大学に入っていい会社に入れば幸せになれるという図式は、今では成り立たなくなってしまいました。大企業ですらいつ潰れるかもわからないし、いつリストラされてしまうかもしれません。大学を卒業しても、正社員になれずに派遣社員として低賃金の日々を送っている人も珍しくないのです。
 ですから現在では、「なんで勉強なんかしなきゃいけないの」という問いに「大学に入っていい仕事につくため』という絶対的で唯一の答えは成り立たないのです。それでもなお、勉強に意味を見つけていこうとしたのが本書です。哲学者である著者は次のように述べています。
 =「なんで勉強しなきゃいけないの?」というような「正解」のない、でも何らかの「答え」がほしい問題の数々を、とにかくひたすら考えつづけてきたのが、「哲学者」と呼ばれる人たち。哲学は、「正解」のないさまざまな問いに「なるほど。こう考えればすっきりするな」という「納得解」を与えてきたものなのだ。=
 ニーチェやデカルトなどの哲学者が、正解のない問題に答えを与えようとしてきた思索を引き合いに出しながら、勉強の意味に「納得解」を見出そうと試みたのが本書です。「哲学」と聞けば、難解な言語を使いめんどくさい論理を展開する学問だと思っている人は多いでしょう。ところが、本書はとても読みやすく、分かりやすく、しかも味わい深い、中・高生に向けて書かれた本なのです。「なんで勉強しなきゃいけないの?」という問いに、絶対的な「正解」はたぶんないと著者は言っています。
 =「いい大学に入るため」とか、「記憶力を磨くため」「論理的思考力をはぐくむため」とか、いろいろ答えは返ってくるだろうけれど、どれが「正解」というわけじゃない。どれもある程度正しいように思えるけど、どれもちょっと違う気もしてしまう。「答え」は一つではない。人によって、時と場合によって、勉強する意味はさまざまに変わるし、またいくつもあっていい。だからこの問いは、「正解」というより「納得解」を求める問題だ。=
 このように、勉強する意味に絶対の正解はない。それでも、おそらくほとんどだれにも共通すると言っていい、最も根本的な勉強する意味つまり、「なんで勉強するのか」に対する「納得解」を見いだせると著者は主張しています。以下に著者が述べていることを要約しておきます。
 =勉強するのは〈自由〉になるため。ここでいう〈自由〉とは、「生きたいように生きられる」ということ。「できるだけ納得して、さらにできるなら満足して、生きたいように生きられているという実感のこと。これが〈自由〉という言葉の意味。
 だれでも〈自由〉に生きたいと思っている。でも、〈自由〉に生きるためには、必ず何らかの『力』がいる。電車に乗ったり、買い物をしたり、日常の生活のためには読み書き計算などの基礎的な「力」が必要。必要なのは、基礎的な「力」だけではない。スポーツ選手になりたいのであれば、そのための「力」がいる。学者になりたいのなら膨大な「知識」がいる。世界で活躍するビジネスマンになりたいのなら、外国語力や世界についての「教養」がいる。私たちは、〈自由〉に生きるためには、必ずなんらかの「力」を必要とする。そして、それを 自ら学びとらなければならない。勉強しているのは、〈自由〉になる「力」を身に着けるためなのだ。=
 こう述べた後で、著者は読者に問いかけます。勉強するのは〈自由〉になる力を手に入れるためだというのはなんとなくわかる。でも、なんでその勉強を、わざわざ「学校」でやらなきゃいけないの? 将来役に立つかどうかもわからないような勉強を、学校で無理やりやらされる。だから、それが〈自由〉になる力を手に入れるためだといわれても、そんなふうにはどうしても思えない人もいるだろう。それだけじゃない。学校を舞台に、さまざまな問題に行き当っている。人間関係のいざこざに悩んだり、試験や受験勉強に苦しまされたりする。いじ めや体罰といった、耐えがたいほどの苦しい経験をすることもある。なんでこんな思いまでして学校に行く必要があるのだろう? 一度や二度はそう思った読者は多いことだろう。
 読者の「なんで学校に行かなきゃいけないの?」更には、「いじめは、なくせるの?」という問いに哲学的な思考をしながら「納得解」を出していく。著者が「あとがき」で述べているように〔中・高・大学生が、「哲学的な考え方」を学びながら、教育の根本的な問題を解き明かしていけるような本]として執筆したものである。学生だけでなく、教育に携わるすべての人に読んでもらいたい著書である。(向陽プレスクラブ会長・岡林敏眞)
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中島及著作集『一字一涙』発刊のご挨拶
鍋島 高明(30回) 2015.02.05
各位

謹啓

筆者近影
 寒中お見舞い申し上げます。この冬はことのほか寒く骨身に堪えますが、皆様にはお変わりないことと拝察いたします。高知新聞の名コラムニスト中島及氏の著作集ができましたのでお知らせ致します。ご高覧、ご高評を頂ければ幸いです。
 及氏は土陽新聞、高知新聞記者として明治、大正、昭和と三代にわたって活躍した土佐を代表するジャーナリストですが、特に戦前から戦後にかけて高知新聞で朝刊第一面コラム「小杜会」を長期にわたって書き続け「土佐新聞界第一等の文章家」と称されるほどでした。
 今度の著作集に収めたのは「小杜会」に書いたものを除き、評論、エッセイ、評伝、書評など単行本未収録の作品を可能な限り集めました。それらの発表媒体は高知新聞、県民クラブ、高知県人、土佐史談などを中心に各種伝記に寄せた序文や追悼文も収録しました。 その多くは土佐ゆかりの人物にかかわる文章で、中でも幸徳秋水にまつわるものが多いのが目につきます。及氏は海南中学時代に秋水の文章にあこがれ「平民新聞」を購読し、土佐平民倶楽部に加わります。のち上京して早大時代には無二の親友田中貢太郎とともに秋水の身近に位置し、危うく大逆事件に連座しかねない状況でした。
 現在高知市立自由民権記念館に所蔵されている資料の中に及氏が「平民新聞」53号から筆写した秋水・枯川共訳「共産党宣言」があります。発禁は必至とみて及少年が必死で写し取ったものです。秋水の思想を理解する以前に秋水の文章に魅せられたのが及氏でした。戦後秋水について多面的研究が進む中でその文章力が高く評価されています。文芸評論の丸谷才一氏が激賞しているように、秋水の文章は近代日本文学史上における秀峰の一つであることに異論はないでしょう。

中島及著作集『一字一涙』

 そして中江兆民は秋水の師匠であり、及氏は秋水の弟子に当たる。こうみてくると兆民―秋水―及という一つ流れができてきます。これは決してこじつけではなく、土佐ジャーナリスト列伝の心棒のような太い棒であります。
 本書を読んだ知人からこんな及氏評が寄せられました。「及さんは多くの友人と損得抜きの熱い心で交際しつつも、一方で友人たちを冷静に客観的に眺める二面性を持ち、優れた批判的小文を書くことを人生の目的とした希有な文人との印象を受けました」。これには私も全面的に賛成です。
 本書には及氏を師と仰いだ人々の追悼文集を収録しました。塩田庄兵衛、外崎光広、吉村淑甫、入交好保、安岡隆彦らの文章は人間中島及を知る上で必須の資料だと考えました。また三里史談会発行「大平山」の創刊号に掲載された及夫人寿江さんの回想録も転載しました。その存在を教えてくれたのは畏友中城正尭氏でした。本書は大勢の人々の支援によって完成にこぎつけることができました。今年は及氏没後35周年に当たります。本書を御霊前に捧げるとともに、及氏の文章を味わっていただきたく存じます。
敬具  

 平成27年1月
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富岡幸雄 著<文春新書>
『税金を払わない巨大企業』を読んで
山本 嘉博(51回) 2014.12.14.

 

筆者近影
 この9月に出た新書だが、1925年生まれの、国税庁職員から40歳で大学教授に転じたとの戦後税制の変遷をリアルタイムで知る人の著作である。「日本の法人税は本当に高いのか?」との帯文句に、つい買ってしまったのだが、読んでいるうちに現行税制の余りの理不尽にムカムカしてきた。

 8年前に『不撓不屈』を観たときの映画日誌に綴ったように、僕は、節税という言葉が大嫌いなのだが、本書に触れて「「節税」という言葉を初めて発表したのは、実は大蔵事務官時代の私でした。当時、「徴税担当者が節税とはなにごとか」と庁内で懲罰に掛かりそうになったほど、この言葉は物議をかもした」(P12)と記されていることに大いに驚いた。

実効税負担率が低い大企業
 その著者が、法定税率だけを取り上げて法人税の高い安いを論じているマスコミや財界に対して、企業の利潤「企業利益相当額」に対する実際の納税額「法人税納付額」の割合として「実効税負担率」という指標を提示して、竹中平蔵が経済・金融政策を牛耳っていた感のある小泉内閣時代の2006年に実施した「法人企業の申告所得金額の公示制度の廃止」により捕捉が極めて困難になった個別企業の納税情報を収集し分析して「実効税負担率が低い大企業35社」を割り出しているのだが、その余りにもひどさに呆れかえったわけだ。

 新書の帯には、2013年3月期のソフトバンクとユニクロが取り上げられていて、純利益788億8500万円に対する納税額500万円(0.006%)、純利益756億5300万円に対する納税額52億3300万円(6.92%)が示されているが、5期通算で見れば、「特徴的なのは、金融機関とその持株会社、商社、自動車メーカーが多いこと」(P47)が指摘されている。

 最も実効税負担率が低かったのは、みずほフィナンシャルグループで、
1兆2218億5500万円の税引き前利益に対して実際に支払った法人税等が2億2500万円(0.02%)、
5位の三菱UFJフィナンシャルグループが1兆4186億300万円に対して197億3500万円(1.39%)、
6位の三井住友銀行が2兆2708億2100万円に対して1718億6500万円(7.57%)、
8位の三菱東京UFJ銀行が2兆3659億6200万円に対して2999億8100万円(12.68%)、
11位の丸紅が1兆517億2000万円に対して2475億400万円(23.53%)、
15位の住友商事が1兆5310億4600万円に対して4221億8800万円(27.58%)、
17位のNTTドコモが5兆3948億8600万円に対して1兆5086億円(27.96%)、
18位の日産自動車が1兆7002億7700万円に対して4905億7500万円(28.85%)、
19位の本田技研工業が2兆2817億2400万円に対して6771億4100万円(29.68%)と、
上位と言うか低位と言うか20社のうち1兆円以上の税引前利益を挙げている企業を拾い上げると、著者の指摘どおり顕著な傾向が露わになる。

 1位のみずほフィナンシャルグループを引用して、その実効税負担率の低さを「サラリーマンの平均年収は400万円と言われていますから、換算すればわずかに「737円」しか納めていないことになります」(P57)と判りやすくも刺激的な表現が目を惹いたが、むろん法人の企業活動と個人とでは単純な比較はできないことも一応は付言されていた。

 何故このようなことが起こるかというと、実際の税負担に影響するのが税率だけではなくて課税対象額だからだが、「それは、利益があっても課税所得として算入しなくてもいいような優遇税制があるから」(P44)で、「外国税額控除制度の欠陥」「特別試験研究費など政策減税による税額控除」などを挙げていた。「ちなみに、この特別試験研究費の税額控除は、これまで法人税額の20%までを上限として認められて来ましたが、2013年度の税制改正によって上限は30%に引き上げられて、さらに優遇されました。」(P54)とあるが、外国子会社への付替えや研究開発減税などの措置を活用できるのは大企業に他ならず、そういった優遇措置ほど強化している姿は、献金をしてくれる大企業のためなら、世界から批判的に見られても、強引な円安誘導をして、一時業績悪化が懸念されたトヨタを史上空前の2兆円黒字なんていう異常事態に導いたりしていることとも符合している。著者が自動車メーカー各社が恩恵を受けていると指摘している研究開発減税の2013年の強化も、おそらくはトヨタの強い要請によるものなのだろう。最近のトヨタのCMがソフトバンクも真似できないくらいの豪華キャストになってることに幸福感を覚えられる国民が果たしてどれだけいるのかなどと思うと、何とも腹立たしい。

 企業献金力に乏しい中小企業が苦しくても、たいした支援策は講じないのに、大手家電業界が苦境に立ったときは、省エネ省電力によるエコを口実にエコポイントなどという販促キャンペーンを国掛かりで打ち出してきたのは、麻生政権のときだったように思うが、誰のほうを向いて、何のために政策施策を打ち出しているのかが、あまりに露骨で呆れてしまう。それでも富裕者でもない人々に支持させるメディア操縦だけは見事というほかないのが癪に障るのだが、嫌韓嫌中ムードを煽って利用しているのもそのためのようにさえ見える。

見直すべき受取配当金益金不算入制度

『税金を払わない巨大企業』<文春新書>
 そんななか、僕の目を最も惹いたのは「企業が他社の株式を取得した場合、その受取配当金は課税益金に参入しないでもいいという「法人間配当無視」が認められている」(P61)との受取配当金益金不算入制度だ。麻生政権のときに導入されたようだが、昨今、〜ホールディングスという会社がやたらと増えたのは、どうもそういうことらしい。特に最近、異常なまでの高額配当が急増しているとのことで、「配当金の増大に象徴されるように、近年、日本の社会には異常な変化が進行してきて、日本の企業経営者の意識が大幅にアメリカナイズされてきているのを感じます。バブル崩壊と「失われた10年」以降は、日本企業も、短期により多くの利益を求めるアメリカ型経営への傾斜と、株主重視の傾向が急速に強まってきています。その現象として「配当性向の増大」によって株主への配当金の大幅な増額が行われる一方で、「労働分配率の減少」が進行し、非正規雇用といわれる派遣労働者や契約労働者、パート従業員などの給与水準が低下しています。偏った富の集中が進行している証拠です。」(P100)とあるのを読んで、小泉内閣時代の末期に村上ファンドが「もの言う株主」として脚光を浴び、株式投資こそが経済活動の活性化だと錯覚させる風潮が広がり始めるとともに、箪笥預金を株式市場に引き出せというような合言葉のもとに、個人投資家レベルでも「不労所得に属するキャピタルゲイン」(P151)への優遇措置が取られたときに、個人的に大いに憤慨したことを思い出した。

 この受取配当金益金不算入制度の問題について、ネットでは二重課税を避けるために設けられた当然の措置だとか、大企業のためのものではなくて中小企業も同じように使える制度だということをもって、本書をトンデモ本のように言っている輩もいるようだ。ロジック的にはそれも誤りではないけれども、現場的“実効”に目を向ける著者からすれば、中小企業で実際に受取配当金益金不算入制度を使って課税対象額を軽減している事業者がどれだけいて、その金額がいくらなのかということからすれば、笑止千万だからこそ、“事実上”大企業のための制度だと言っているのだろう。

 そして、二重課税の問題については、本書のなかでも「二重課税のケースはまれ」との小見出しで言及していて、「「受取配当金益金不算入制度」は、法人企業と株主個人の二重課税排除のために設けられた側面もありました。しかし今では、大企業の利益の多くは、個人株主に帰着していないのですから、もはやこの制度を適用する根拠は失われたに等しいのです。それにもかかわらず、依然としてこの制度が実施されているのは、大企業を優遇するばかりで、国民に負担を押し付ける結果になっています。」(P100)と述べている。

 この益金不算入制度の導入趣旨がどこにあったのかを僕は知らないけれども、事業収益に係る課税後のものであっても、配当収益として別人格が収益を挙げれば、グループ企業であるか否かによらず、収益として課税を受けるのは、むしろ当然のことのように思える。例えば、ガソリン税などは、消費税との二重課税を問題にする者もいれば、ガソリン税は商品原価を構成するものであって取引税の消費税とは別物とする考え方もあって、現行の“言うなれば二重課税”が制度的帰結として設けられているにすぎない。受取配当金を益金として算入させるかさせないかは、それと同じような問題で、制度的にどう整理をつけるかということであって、どちらが正しくてどちらが誤っているという問題ではない。それゆえに著者は、現行制度において不算入とすることをもって“脱税”などと言っているのではなく、この制度によって「国民に負担を押し付ける結果」になっていると考えるから、「私は、巨大企業の受取配当金は課税対象にすべきだと主張」(P101)しているに過ぎない。それをもって、トンデモ本呼ばわりするほうが、遥かに税制に対する制度的理解が低いということは、税の専門家ではない僕でも容易に判ることだ。

大正生まれの気骨ある専門家の正論
 これらに加えて、海外関連企業との取引価格の操作によって課税所得を抑えたり、タックス・ヘイブン(「税金が極めて安いか、全く税金がない、という税率の低さのほかに、金融規制の法的規制を欠いていて、強い秘密保持の法制をもつ地域や国のこと」(P153))の活用などをしている経営者に対し、「察するに、税金はコストだから安ければ安いほど良い、自分の企業さえ儲かれば日本経済が空洞化しても関係ない、という感覚なのでしょう。哀しいことに、これが現代の多くの大企業の経営者の本音だと思います。」(P114)としつつ、「そもそも企業の社会的責任とは、本来、黒字を出して、雇用とともにより多くの税金を払うことで、国家の安全保障や国民の福祉などに貢献することです。それが、社会の公器たる企業のあるべき姿です。 ところが、今の日本では、また、多額の納税を行う企業を尊敬する社会的風土も失われています。企業経営者の側も、社会的責任感が欠如しています。…要するに、国にとって稼ぎ頭である大企業がグローバル化し、無国籍化して「国に税金を払わない大企業群」となってしまい、税金が空洞化して財政赤字の元凶となっている。その穴埋めを、消費税増税という形で負担させられているのです。被害者は、大企業とは直接に関係のない一般国民のほとんどです。」(P115)と論じている大正生まれの気骨ある専門家の正論に、返す言葉はあるのだろうか。

 「巨大企業が、法人所得をいくら申告し、実際にはいくら納税しているかを公表する制度が復活すれば、納税状況の実態を社会に開示し、透明化することができます。そうすれば、大企業の経営者も、社会的責任について自覚するでしょう。 大企業の経営者には、今一度、国家とは何か、企業の社会的責任とは何か、ということを考え直してもらいたい」(P116)として著者が提案している「申告所得金額の公示制度」(企業長者番付)の復活は、即刻やってもらいたいものだと思った。

 そして、あとがきに「本書は決して大企業バッシングではありません。大企業の巨大な利益からすれば、法定正味税率で納税しても、企業の屋台骨はゆるぎもしません。大企業を優遇するあまり、国民に過重な負担がかけられるゆがんだ税制こそ、日本の将来を危うくすると私は懸念しているのです。…日本を戦争に駆り立てた原因のひとつに、国家財政のもろさや経済の脆弱さがあげられます。日本の財政や経済の弱さを補うために、他国に進出を企んだのです。…悲惨な戦争を二度と起こさないためにも、日本を内側から強くしなければならない。そうしなければ、戦争で亡くなった人たちに申し訳ない。」(P188)と記している“兵隊として外地からの復員経験を有する古老”が「このままでは、国と国民を幸せにするはずの富は、大企業や大富豪に吸い上げられて、海外のタックス・ヘイブンに流出する一方です。そんな理不尽な道理が許されていいのでしょうか。…税制は政治のバックボーンであり、社会の公正さの鑑です。」(P189)と訴えている言葉に感銘を受けた。

【構成】
 はじめに
 第1章 大企業は国に税金を払っていない
 第2章 企業エゴむき出しの経済界リーダーたち
 第3章 大企業はどのように法人税を少なくしているか
 第4章 日本を棄て世界で大儲けしている巨大企業
 第5章 激化する世界税金戦争
 第6章 富裕層を優遇する巨大ループホール
 第7章 消費増税は不況を招く
 第8章 崩壊した法人税制を建て直せ!
 あとがき

ヤマ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/
              (『間借り人の映画日誌』)
http://www.arts-calendar.co.jp/YAMAsan/Live_bibouroku.html
              (『ヤマさんのライブ備忘録』)
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話題書のご紹介: 国民文化研究会・新潮社編
 公文 敏雄(35回) 2014.07.05『小林秀雄 学生との対話』
(2014年4月30日発行)


筆者近影(2014年06月)
 本書はマスコミでかなり大きく取り上げられたこともありご存じの方もおありかと思う。関係者によると発刊後2カ月足らずで5刷を重ね、2万数千部が発行されたという。
 本書の帯には「批評の神様はかくも熱く、分かりやすく、親切で、面白かった。昭和36年から53年にかけて、小林秀雄は五たび真夏の九州は出かけ、学生たちに講義をし、対話を重ねた。<人生の教室>初の公刊。」という添えがきがある。私もその一人だが、若くして彼の作品に接し、難解な文章と格闘した覚えのある者にとって、「分かりやすい」など冗談としか思えない。しかし、一読して、帯書きの説明の一字一句すべて、そのとおりなのだと納得する。
 巨匠の没後30年以上経って、未公開の作品群が発掘され「初公刊」されるということは極めて稀である。しかも、著述と違って学生を相手とする「対話(質疑応答)」集となれば、小林ファンでなくても興味をそそられることは間違いない。人生の指針を求めて全国から九州の講演会場に参集した3〜4百人の若者に対面し、講師が「熱く」ならないわけはないし、許す限り「分かりやすく」と努めたことであろう。本書はそんな小林人生道場の生々しい再現であり、格好の小林秀雄入門書でもある。
 なお、「国民文化研究会」は講演会を主催し貴重な録音盤を保存してきた公益社団法人である。新潮社は長年小林秀雄に密着してきた出版社であり、「小林秀雄全集」や「追悼記念号」を発行している。
 本書では、5回の講演録のうち未公開であった「文学の雑感」と「信ずることと知ること」を掲載、残る「現代思想について」、「常識について」、「感想―本居宣長をめぐって―」は新潮版小林秀雄全集に収録されているとして割愛されている。上記5回の講演に続く「対話」編はすべて初公開である。

 以下に学生の質問のごく一部をご紹介する。

『小林秀雄 学生との対話』

 「先生、世界は何らかの物的存在の反映にすぎないという考え方もございますが・・・?」
 「古事記・日本書紀にある不合理といいますか、今日考えて非常におかしな点を宣長その他の国文学者は認識しえたはずなのに、そこを批判せず古代人と同じように信仰した・・・それは・・・?」
 「私は高校時代に先生のお書きになった『私の人生観』という著作を愛読し、とくに先生があの中でおっしゃっていた<直感>という言葉に感銘を受けました・・・がまだその直感という境地に到達することはできないでいます・・・」
 「先生は、学問とは知る喜びである、道徳は楽しいものであると言われましたが、私には苦しいことのほうが多いのではないかと思えます。いかがでしょうか?」
 「日本人の信仰についてお尋ねします。神というものを日本人は古来どういうふうに捉えてきたのでしょうか?そして宣長は神を信じていたのでしょうか?」
 「先生は<もののあはれ>を知ることは、感情ではなくて認識だとおっしゃいました。このことについて・・・」
 「歴史を見つめるということは、自己をわかるということだ、というふうに言われました。古代人の心を自分の心の中に蘇らせることが、?、自己を見つめることになるというのは・・・?」
 「僕たちの天皇に対する接し方と申しますか、お付き合いの仕方というのはどうすればよいのでしょうか?」
 「自然科学を索漠たるものと考えてしまっては、何というのか、怖くなるような気がするのです・・・自分の中でどのように整理していいのか戸惑っています。」
 「先ほど柳田(國男)先生がおばあさんの祠の前でなさった体験について伺いました。・・・やはり感受性というのは天性のものなのでしょうか?」
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話題書のご紹介: 高知新聞記者福田仁(65回生)著
『祖父たちの戦争―高知連隊 元兵士の記録』
(2012年4月 高知新聞社刊)
 公文 敏雄(35回) 2014.07.05

 

筆者近影(2014年06月)
 「骨は故郷へ届ける」戦後26年間パプア戦跡に居住し、亡き戦友との約束を果たし続けた老兵士の執念の生きざま! 第57回高知県出版文化賞受賞(同書の帯より)
 
 「しずかなしずかな里の秋」で始まる童謡『里の秋』(昭和20年作)の3番を覚えておられるだろうか?
   さよならさよなら椰子の島
   お舟にゆられてかえられる
   ああとうさんよご無事でと
   今夜もかあさんと祈ります
 ラジオがこの歌を流した戦後間もないころ、私が通った小学校のクラスでは父親のいない子が珍しくなかった。町内で一緒に遊んだヒロちゃんも、ガキ大将のノブも。
 当時は知る由もなかったが、先の大戦で戦地に渡った数百万の兵士のうち2百万人は、家族が待つ故国に帰ることができなかった。しかもその多くは、命を落とした戦地の様子はおろか遺骨・遺品も家族のもとに届けられることがなかった。


『祖父たちの戦争』
 本書によれば、2006年、オーストラリアのジャーナリストがパプアニューギニア(赤道のすぐ南、旧東部ニューギニア)の戦跡を訪ねて山中に足を踏み入れ、漢字が刻まれた小さな碑を発見した。現地人ガイドから、この慰霊碑を建てたのは日本兵の生き残りで、戦後20年以上も現地に居住して戦友の遺骨を収容したと聞かされる。年老いて既に日本に引き揚げていた元日本兵西村幸吉氏を追って訪日したチャールズ・ハペル氏は、通訳を介して取材ののち、「彼が元日本兵で豪州兵と戦ったことなど、全く問題でない。この比類のない勇気と献身の物語を、多くの人々に伝えたい」と、『ザ・ボーンマン・オブ・ココダ』(ココダはニューギニア山中の激戦地区名)を刊行した。(ボーンは骨)
 高知新聞記者福田仁氏(土佐高65回生)は、その日本語版『ココダの約束―遺骨収容に生涯をかけた男』(2008年、講談社)を手にし、一読して衝撃を受けた。しかもこの男、西村元上等兵は大正8年(1919年)高知市長浜生まれの県人で、朝倉駐屯「高知連隊」の数少ない存命者であった。連隊は東部ニューギニア戦線で壊滅(約5千人中死者3330人)、残存兵もインパール作戦でビルマに送られ殆どが異国の土となったからである。
 2011年1月、福田記者取材・執筆による『祖父たちの戦争』の朝刊掲載が始まると、高知新聞社には、電話や手紙による問い合わせが次々と寄せられた。連載は9カ月におよび、次いで一冊のノンフィクションとして出版されたのが本書である。
 『祖父たちの戦争』は全6部からなり、「郷土の部隊」、「破局の戦場」で東部ニューギニア戦線における悲惨な戦争が、そして「遺骨収容人」、「死者眠る島」、「忘れない」、「記憶のリレー」で、遺骨捜索と収容に後半生を捧げた西村氏の超人的な活動ぶりが描かれる。   
 福田記者による取材の重点は、90代の主人公が余生を過ごす埼玉へ足繁く通っての面談であったが、遺族や他の老帰還兵にも接し、内外の諸資料を参照、遥かな戦跡を2回にわたり訪問するなど、たいへんな労力が伺われる。書き手の感情を抑えた文章の素晴らしさ共々、筆者のジャーナリストとしての力量に深甚なる敬意を表したい。

世界史でもまれに見る凄惨な激戦地
 本書前半は、天が語り部として生かしたとしか思えない老兵が、知る限りのことを遺族のために伝え残そうとした、祖父(又は夫、父)たちの戦記である。極限状況に置かれた人々が何を考えどのように行動したか…ここでは、内容の一端を紹介させていただく。
 昭和17年7月29日 北岸に上陸
 目指すは4千メートルの最高峰を有するオーエン・スタンレー山脈を越えて豪・米連合軍拠点ポートモレスビー攻略。携行食糧は米と少々の味噌・塩20日分のみ。武器弾薬等を加え重さ60キロを背負って行程360キロの山中行軍である。作戦部隊司令は補給無しに等しい作戦の中止を軍上層部に訴えたが拒絶され決行となる。 
 9月8日 進軍、そして「一本木の戦闘」
 「10メートルと視界がきかない密林の中、豪州兵は機関銃を腰だめにして、無数の弾丸を発射しながら現れた。敵兵があまりにも多く、西村氏の小隊は弾丸の装填が追いつかない。やがてあちこちで取っ組み合いが始まった。小隊長に求められて小銃を貸したところ、小隊長は間もなく戦死。別の戦死者の小銃を取ろうとたこつぼ(兵士一人が潜む穴)から半身を乗り出した際、それに気付いた豪州兵が間近に駆け寄ってきて、軽機関銃の銃口を向けてきた。泡を食ってたこつぼから飛び出した瞬間、大音響が耳元で鳴り響いた。」肩に3発の銃弾を受けたまま、相手の兵を帯剣で倒して意識を失う。この2日後、後続の機関銃中隊によって西村氏は発見され、担架に乗せられて行軍を続けた。彼が所属する小隊に限って言えば、ニューギニア上陸時の人数は57人だった。南下するにつれ死者を出し、「一本木の戦闘」に臨んだのは42人。そして重傷を負った西村氏ただ1人が生き残った。事実上の小隊全滅だった。
 西村氏は小隊長のそばで記録係を務めていたので、伝令の口から戦況を知らされ、42人の戦没・負傷者名簿を作成していた。彼が肌身離さず持ち歩き日本まで持ち帰った名簿が高知新聞紙上に掲載されると、肉親の名前を確認した複数の遺族から新聞社に連絡があった。その中の一人、西村氏の戦友の息子さんは、戦争が終わり小学生になってからも「ひょっと親父が帰ってきはせんか」と部落の入り口をじっと見つめることがあったという。今や70歳のその人は、「親父らあは『おまん頼む』いうて西村さんに託したんじゃね・・・ようやくおやじの足跡にたどり着けた。人生の最後におやじに会えて、わしゃ幸せもんじゃ。これでまっこと、わしにとっての戦争は終わりました」と伝えてきた。
 9月24日 全軍反転して退却開始(当時は「転進」と言った)
 「苦しい戦いの連続であった。地上の敵、空の敵、そして自然の敵、飢えと病、あまりにも私たちの前には敵が多すぎたのだ。部隊将兵の過半数を失いながらも、ただ一心にポートモレスビーへと・・・」。しかし補給無き作戦はやがてとん挫し、「転進」命令が下る。このココダ街道後退の場面では傷病と飢えによる落後者が続出した。
 11月中旬〜18年1月 破局の戦場
 高知連隊最大の悲劇は山を下りて北岸ギルワに布陣してから訪れる。声を震わせ「言いたかない」と眼に涙を浮かべる西村氏から福田記者がようやく聴きとったのは、筆舌に尽くしがたいこの世の地獄だった。「ギルワ西南陣地」陥落後に米軍兵士が持ち帰り、戦後遺族の手に届けたという、戦没日本兵の日記の一部が本書で紹介されている。
 11月18日「戦友たちは皆弱りこみ、死んでいく者が1日十数名の多きに上る」。
 12月26日「ペンを持って書こうと思えども目が見えず、どこへ何を書いたやら分からず、今朝、子供の写真を見るに、ぼやけてよく見えず、けれど心の目で見える。かわいらしき顔、今一目見ずして死んでいけるか」。
 1月9日「今日で4日も米を食わず・・・俺が万一のことあれば墓へ飯をまつってくれ」。
 18年1月12日 独断で撤退命令
 このままでは全員が飢死か敵のなぶり殺しに会う、動ける者だけでも救おうと考えた陣地最高司令官は、「責任は全て俺が負う」として独断による撤退命令を出した。重囲をかいくぐっての撤退に加われない残留組に対しては「お前たちが死ぬようなことがあれば、骨は拾って故郷へ届けてやるから」と苦しい説明がなされた。
 幸いにも脱出に成功した西村氏はその後ビルマに転戦、「補給無き兵団の苦しみ」を再び味わった。漸く昭和20年に生還を果たし、戦後結婚して家族を設けたが、子供3人の独立を見たのち、還暦から26年という歳月を、無念の思いを抱いて倒れていった戦友たちとの「約束」の履行にささげることとなる。

わしがやらずに誰がやる?戦後日本の忘れ物
 西村氏は大正8年(1919年)12月高知市長浜に生まれ、機帆船の機関長をしていた父親を9歳で亡くす。長男として母親、姉、妹を養うため長浜高等小学校を13歳で中退、上京して職工として働きながら機械工学を学び、17歳で友人と金属関係の会社を設立、前途が開けてきた矢先の昭和16年4月、21歳で徴兵されて朝倉に入営となり人生が暗転する。同年末に大東亜戦争が勃発、その後の苦難は既述のとおりである。
 復員後に結婚して2男1女を設けたのち、昭和29年に再び上京して「西村機械研究所」を設立、順調で平穏な暮らしが続いたが、彼の地で別れた戦友との「約束」を忘れることはなかった。
 昭和54年(1979年、西村氏59歳)、高知連隊の生還者による「高知県ニューギニア会」が企画したパプアニューギニア慰霊・巡拝の旅に参加して「下見」を行ったうえ、昭和56年(1981年)再度渡航して本格的な活動を始めた。まずはテント、寝袋、飯ごう携行でゆかりの村々を巡回、独学で習得した現地語を使って情報収集を行い、一つ一つ拠点となる家を建て、現地人と融和のために自動車修理工場や小学校を作るなど、用意は周到であった。遺骨の発掘・収容が始まると、高知から廻航した小型船「おきのしま」や、持ち込んだ土木機械、金属探知機が役立った。この間収容・供養した遺骨は数えきれず、おそらく6〜8百柱ではないかという。西村氏の小隊が全滅した「一本木」の近くには、宿毛沖ノ島の磯で拾った石でささやかながら慰霊碑をこしらえた。
 一口に遺骨の収容と言っても、外界と隔絶され人跡まばらな奥地住民の立場からすれば、見知らぬ外国人がやってきて勝手に庭先や沢、裏山を掘り返し何やら持ち去られるのはたまったものではない。現地の協力者・案内人も欠かせないし、道を付けてあげる、水道を引いてあげるなど見返りを示してやっと許してもらえることもあった。時には活動を休止、日本に帰って、手帳にぎっしり書かれた名簿をたよりに、晩年は不自由な足をかばいながら、遺族を訪ね歩いて遺品を手渡し墓参りも行った。長期にわたる「移住」が必要だったわけが推察されよう。
 平成17年(2005年)西村氏は仕事に一区切りをつけて帰国する。86歳であった。常人なら寿命が尽きる年齢である。「私は遺骨の収容に全力を尽くしました。しかしすべてを集め切れなかったのは、これはどうしようもない。26年で探し出せなかった兵隊の供養は、観音さまにお願いしようと、この像を刻んだのです」。福田記者にそう言って西村氏は埼玉の自室の祭壇にまつってある高さ40センチほどの観音像を示した。観音さまは両の手で赤銅製の頭蓋骨を抱いていた。
 凄惨な戦場体験を持つ人物に感情移入して長らく取材を続けた記者は「(聴き手たる)自分も心に傷を負う」ことを知ったという。そして「話を聞くだけでもこれだけのストレスにさらされるのだから、体験した本人の心的外傷(トラウマ)となれば想像すら難しい」と記す。
 
 平成23年7月、パプアニューギニアを訪れた「南海支隊・戦友遺族会」慰霊巡拝団一行30人の中には、唯一人の元兵士、車椅子の西村氏92歳がいた(南海支隊とは高知連隊を主力とし福山、大阪の小部隊を加えたニューギニア派遣軍)。訪問先の各地で、西村氏を知る大勢の現地人が集まってきて再会を喜び歓迎した。
 多数の犠牲者を出したギルワからほど近い最後の訪問地ブナの碑(日本政府建立の碑と高知ニューギニア会の銘版がある)の前で行われた慰霊祭の儀式が終わったあと、前触れもなく、中西高知県議会議長(当時)から尾崎高知県知事の感謝状が西村氏に手渡された。
 「あなたは多年にわたりニューギニアの地において高知県出身者をはじめとする多くの戦没者の遺骨収容を行い、ご遺族のもとへ遺骨や遺品を届ける取り組みにご尽力されました。その献身的な活動に対し、深く感謝の意を表します」。
 一行から鳴りやまぬ拍手。そしてしばし無言の時が流れたのち、感想を求められた西村氏はこう答えた。
 「思いもよらないことで、気が動転した。晴れがましいことは苦手じゃけれども、ありがたいというか、うれしいというか…。感謝状が死者の供養になり、遺族の方々に喜んでもらえるとすれば光栄です」。
 まったく一個人の身で26年間働き続けた西村氏に対して、公的機関からの支援はなく、謝辞すらこれが初めてであった。「日本としてあの戦争を恥じる部分が一定あるのでしょう。とはいえ、国家のために死んだ多数の若者の遺体収容にほとんど努力がなされていないのは理解を超えます。これは国家的なスキャンダル(醜聞く、恥辱)ではないでしょうか」。西村氏の活動に心を動かされ、「ザ・ボーンマン」を最初に世に伝えた旧敵国オーストラリア人ジャーナリスト、チャールズ・ハペル氏の言葉である。
 
 無関心や不作為だけではない。西村氏は思う。8月15日を境に「あまりにも態度が変わりすぎた」と。「奇行」、「売名行為」となじられたこともあった。また、戦没者の霊を慰めるどころか敢えて辱めるような、一部大手メディアの報道もあった。「スクープ!ニューギニアで旧日本兵が行った残虐」、「謝罪と補償を要求、被害申告9万5千人」云々。本書をたどればその「荒唐無稽」さがわかる。
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 この本は、あの「戦争」を知らない方にぜひご一読をお薦めしたい。しかし、本書はいわゆる「戦争もの」というよりは、己の命ずるまま生命を燃やし尽した人間「西村幸吉」伝と言うほうがふさわしい。現地居住中にパプア州政府や国会議長の特別顧問として同国の国土開発に貢献し、復員後はソニー創業時代の盛田昭夫氏(1921年生まれ)とも仕事を通じて交際があったという優秀な技術者西村幸吉氏が、もしも、戦争に巻き込まれることがなく、従ってトラウマに苦しむこともなく、思う存分実業の世界に生きることができていたらと想うとせつない。
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