タイトルをクリックすると最新ページへ

細木志雄(2回) 細木大麓(27回) 岡林幹雄(27回)

向陽プレスクラブ    中城正堯(30回)
 
●タイトルをクリックすると最新ページへジャンプします。
●画像にマウスポインターを置くと画像が拡大されます。全体像が見れない場合マウス中央のスクロールボタン(ホイール)か、マウスポインターを画像に載せたまま方向キー(←→↓↑)を使ってスクロールしてください。
2010.09.06 岡林幹雄(27回)  宇田耕一先生の大恩
2010.09.15 細木大麓(27回)  卒業秘話そして折々の恩師たち
2010.10.10 細木大麓(27回)  向陽新聞創刊の頃(メモ)
2010.10.25 細木志雄(2回)  苦言一束
2010.10.25 細木志雄(2回)  續苦言一束
2011.08.16 細木大麓(27回)  東都高校とびあるき
2017.06.24 岡林幹雄(27回)  「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
ページTOPに戻る
宇田耕一先生の大恩
岡林幹雄(27回) 2010.09.06
「君は大学へ行きなさい」
 あれは、いつのことだったのか。高三(昭和26年)の何月の出来事だったのか。大事なことなのに思い出せない。

筆者近影
 ある日、私は電車通学の仲間と一緒に下校し、播磨屋橋の停留所で待っていた。後免行きの電車が来たが、停留所ではなく、高知駅方面への進入線路で停まり、車掌が「この中にスリが居るらしいので、警察の調べが終わるまで、誰も乗下車できない」と告げた。仕方なく次の電車を待っていると、級友の一人が息せき切ってやってきた。確か自転車を飛ばして来たように思う。「おい、おんしゃー何ぞ悪いことをしたろう。校長が、急いで探してこいと言いゆうぞ」とのこと。心当たりはないものの、急いで引き返し、学校の隣の大嶋校長宅へ伺った。
 玄関で案内を請うと、校長が出てこられ「少し待て」とのこと。暫くすると、宇田耕一先生が出てこられた。学校創立者のご令息ということは存じ上げていたが、先生とお会いするのは初めてで、むろんお話するのも初めてであった。「君が岡林君かね」「はい」「そうか。話は聞いた。君は大学へ行きなさい。僕が生活費も、学費も全部面倒を見るから、心配しないで大学へ行きなさい。合格したら、大阪の淀川製鋼所社長室へ連絡して下さい」とのお話。一瞬訳が分からなかったが、「有難うございます。よろしくお願いします」と言うのが、やっとだった。先生は「ちゃんと合格して下さい。連絡を待っているから」と言われると奥の方に入られた。その後校長から「もう帰ってよい」とのことで退出した。 (宇田先生が学校理事長に就任されたのは、昭和27年1月30日だから、それ以前の出来事である)
 私の家は、父が陸軍士官学校出身の職業軍人で、フィリッピン派遣(第14方面軍)の野戦補充司令部司令官代理として、昭和20年5月戦死したが、敗戦後の混乱と情報の遅れから、小学校卒業までには戦死の公報が届かず、父の死を知らぬまま、土佐中学(旧制)に入学した。もし母子家庭になっていたことを知っていたら、土佐中に入らず、県立の中学を受験していたかも知れない。戦死の公報が届いたのは、中一の2学期だったと思う。そういう事情だから、母の収入だけでは、都会の大学進学の可能性は非常に乏しかったと言わざるを得ない。(軍人遺族扶助料は、当時進駐軍の命令で停止されていて、復活したのは確か昭和28年頃からであったと思う)就職する場合のことも考え、選択科目で簿記や珠算もとったが、一方では大学進学したいとの思いもあり、他の学友同様受験を前提とした勉強にも取り組んでいた。
生活費・学費を全て支給

 そこへ前述の宇田先生のお言葉である。嬉しいと思うと同時に、絶対に浪人は出来ないと覚悟し、一橋大学を受験することに決めた。昭和27年は、どういう訳か一橋の経済学部は志願者が激増し、競争率25.5倍であったが、幸い合格することが出来、淀川製鋼所社長室へ合格した旨連絡したところ、今後のことを話したいから来てくれとのこと。伺うと「東京支社長と経理課長に全て話してあるから、毎月はじめに一ヶ月分の必要額を、生活費・書籍代・通学費というふうに項目別に整理して明細書を出して下さい。君が要るという分は、全て渡すようにと言ってあるので、心配しないように」とのご指示であった。
 そこで昭和27年4月入学直後、淀川製鋼所東京支社長に挨拶に伺ったところ「全て経理課長に任せてあるので、今後一々私の処へ挨拶に来る必要はない。直接経理課長の処へ行くように」とのこと。経理課長に、恐る恐る明細書を提出したところ「社長から、君が必要というものは全額渡すようにと言われているので、聞いたりしてはいけないが、君こんなに少なくてやってゆけるの。遠慮せずに必要なものは言うように」とのことで、その後4年間、学年が進むにつれ、原書の購入やゼミの参考書籍代等、金額が嵩むこともあったが、明細書について質問されたことは一度もなかった。
 当時、宇田先生は政治活動の個人事務所を、淀川製鋼所東京支社ビルの最上階に開設されていて、5〜6人のスタッフが勤務していたが、そこにも毎月お邪魔し、また議員会館の事務所にも時々伺って、近況報告するとともに、政治の動きを垣間見ることが出来た。時には先生の方から呼び出しがあり、伺うと学者や言論界の人を紹介されたり、対談を傍らで聞かされたりしたが、要は見聞を広めよ、とのお気持ちからであったと思う。
 大学4年生の夏頃「淀川製鋼所に来て貰いたい気持ちは山々だが、経営上の問題で、近く労働組合に人員整理を申し入れるつもりであり、社長が縁故の者を入れたとなると、組合がウンと言わない。君は自由に就職を決めて下さい。むろんどこにしろ、僕が身許保証人になるから」とのお話をいただいた。当時就職採用試験は大学4年の10月から解禁であったが、一橋では大学の方針として、最初に採用通知のあった所に行くようにと決められていたので、播磨造船所に入社した。
 このように大学4年間、筆舌に尽くせぬ大恩をいただいたが、謝意を表す方法も思いつかぬまま、卒業論文(一橋ではゼミも必修。卒論も必修。私のゼミの指導教官は、当時学長の井藤半弥先生であった)の序章の中で、宇田先生の大恩に対する感謝の言葉を綴ったことが精一杯であった。
親子で「人を育てる」理念を共有
 宇田先生はその後、石橋内閣・岸内閣で、国務大臣・経済企画庁長官兼科学技術庁長官を務められるとともに、その間何度か臨時首相代理としての重責も果たされたが、内閣改造で昭和32年7月10日退任された。実は、退任される前から、腹が痛いと病状を訴えられ、ご家族が病院に行くよう勧めていたが「大臣として公務を疎かには出来ん」とおっしゃって、痛いながらも大臣の職責を全うされていたとのこと。大臣退任後、病院で診て貰った時には、手遅れで腹膜炎が悪化しており、昭和32年12月30日、53歳の若さで逝去された。弔問に伺った際、ご令息耕也氏から「貴君のことは父から聞いていました。病気のことを知ったら、会社を休んでも必ず見舞いに来るだろう。そんなことをさせてはいかん。決して知らせるなと言うので、知らせなかった」と告げられ、ただ悲嘆に暮れるばかりであった。
 宇田耕一先生が、面倒を見て下さったのは、ご尊父宇田友四郎氏が私財を投じて、土佐中学を創立された『人を育てる』という理念と、同じお気持ちからではなかったかと思う。

 私は昭和35年26歳の時、石川島重工業と播磨造船所の極秘合併交渉に際し、播磨側の合併交渉委員として参加し、合併を実現した。宇田先生がご存命で、このことをご報告したら「そうか。仕事をしたか」と喜んで下さったことであろう。しかし、それも叶わなかった。海外子会社役員として赴任の時や、帰国後本社役員就任の時、その他先生の年回忌の折など、墓前に近況を報告申し上げてきているが、未だに何のご恩返しも出来ず、徒に馬齢を重ねていることは、お恥ずかしい限りである。
 先生のお墓は、香南市香我美町岸本の宝橦院にある。           (合掌)
ページTOPに戻る
卒業秘話そして折々の恩師たち
細木大麓(27回) 2010.09.15
KPC事務局殿
 ご依頼の「向陽新聞創刊当時の経緯」についての原稿ですが、小生現在すぐ取り掛かれる状況にありません。取りあえず、いくつかの参考になりそうな材料をお送りしておきます。 その中の、「卒業秘話そして折々の恩師たち」は、2007年に大学のクラス会の「卒業50年記念誌」に載せたもので、土佐高のこと、伊賀先生のことなどに少し触れています。
 ご依頼の原稿にはできるだけ早く取り掛かるつもりです。   細木大麓拝
* * * * * * * * * *

筆者近影
 50年前の2月初旬、その朝、必須科目である辻清明教授の行政学の試験を最後に学生時代の苦労からはすべて解放されるはずだった。ぐっすり眠ってふと目が覚め、時計を見て驚いた。試験はあと10分で終了! 下宿から走れば10分で試験場まで行けるので、もう5分早かったら名前くらい書けたのだがもうそれも間に合わない。前夜勉強の後、行きつけのトリスバーで少し飲んで気が緩んだらしい。何時もの自分にしては早い決断で辻教授の研究室へ走った。どうしていいかわからなかったが、とにかく試験を受けさせてもらう方法がないかとお願いするためだったと思う。
 教授は「就職は決まっているのか」と聞かれるとすぐ、「学部長に相談してみよう。ついて来給え」と言われた。学部長室で岡義武教授は立って迎えて下さった。そして話を聞いた後しばらく考えた上で謹厳にしかし優しく言われた。「やはり特別な扱いはできないな。将来君が偉くなったりして、そんな話は笑い話として扱われることがあるかもしれない。それは東大の権威に関わることになる」と。本当にもっともなことで自分が恥ずかしかった。そして6月に追試験を受けることになった。
 辻教授はその後、研究室で親身に考えて下さった。幸いなことに富士重工の人事担当O取締役は辻教授の大学同期であり、しかも辻教授は三高の弓道部、O取締役は一高の弓道部で旧知の仲であることがわかった。しかし今度はO取締役が苦労される番だった。社内の役員会で、「卒業していない者を入社させることは前例がない」という反対の中で大変だった話を後に聞いた。この話は本邦初公開、僕の会社では誰も知らない話だ。
 退職後数年たったこの頃、この95歳でかくしゃくとしている大先輩とは月1回の麻雀卓を囲んでいる。頭は上がらないが小遣いを頂ける時は遠慮なく頂くことにしている。
 
 ところで、僕は小学校で一度落第している。父の仕事の関係でその頃は宮崎に居た。2年生の夏、父の東京への復帰が決まり、引越の荷造りが進んでいる最中に突然妹を疫痢で失った。その葬儀の最中に今度は僕が高熱で倒れジフテリアと診断された。何とか血清が間に合い一命を取り止めたが、もし一年以内に再発すると今度は血清が効かないので命はないと宣告された。夏休みが終わった頃東京へ移ったが、僕はそのまま休学させられ翌年2度目の2年生として阿佐ヶ谷の小学校へ入学した。
 ここで設楽先生という素晴らしい先生に出会った。僕はその年始めての試みとして作られた「男女組」という共学のクラスに入れられ、その担任が設楽先生だった。宮崎の師範学校付属の小学校の硬さとはがらりと変わった自由な雰囲気だった。先生はいつも宮崎弁丸出しの僕に皆の前で本を読ませ、いちいちアクセントを直した。宮沢賢治を好きな先生で、全員が「雨にも負けず」を暗唱させられた。先生の指導で僕たちは何回かラジオの子供劇に出演し、当時NHKがあった芝の愛宕山へ通った。「水筒」という教育映画にも出演した。勉強をうるさく言われた記憶はない。僕の父が、この先生の「どうでもいいところ」がいいといつも言っていたのを思い出すが、その頃の僕にはその意味がわからなかった。
 親友も出来、女の子たちともよく遊び、楽しい毎日だったが2度目の2年生が終わった頃僕はまた病気になった。今度は肺門リンパ腺炎と診断され、結局3年生は丸々休んでしまった。しかし、また落第かと覚悟していた時、設楽先生に助けられた。「一年遅れているし、成績の方は大丈夫だから進級させていいのではないか」と先生が熱心に主張して下さったとのことで、ルール違反の進級だったが、形にこだわらない融通無碍な設楽先生のおかげだった。
 
 戦争が激しくなり僕は高知市の叔父のもとに預けられたが、まもなく高知市も大空襲で一夜にして灰儘に帰し、僕はさらに山奥の、全校生徒合わせて50人という国民学校で終戦を迎えることになる。
 翌春、旧制土佐中学に入学した。これは英才教育を目指すとして大正末期に創立された特殊な私立学校で、昔は一学年15人、県下の小学校に推薦人員を割り当てて、一週間の缶詰試験で選考したといわれる。ほぼ全員が中学4年で旧制高等学校に入学した。 僕が入学したのは空襲で全焼して校舎もない状態の土佐中学で、経営難に苦しめられて昔の面影などなかったがそれでも3日間の試験があった。入学人員は経営難を緩和するため60人に増えていた。笑わないでほしいが僕はその入学式で新入生代表として宣誓文を読み、その後も数年は授業料免除の特待生だった。

 中高一貫の6年制学校だったのでそのまま高校に進学した。ここでまた僕は一人の先生に心酔した。 新しく入って来たこの伊賀先生は赤線地帯のど真ん中に下宿しているという噂があり、何時も同じよれよれの汚い洋服を着ていた。実は東大の経済学部を出てある銀行に入ったが、組合運動で首になり、縁もゆかりもない高知まで流れて来たらしかった。ある日突然真新しい背広を着て現れた先生があまり立派だったのに驚いた記憶がある。
 先生は新しい教育制度に反対で、さらに英才教育を標榜しているこの学校の教育方針にも批判的だった。そして旧制高校ののびのびした学生生活を我々に再現させようとしていたようだった。因みに、同じ考えで伊賀先生と意気投合していたのがその後今や世界的に有名な「くもん教室」を立ち上げた数学の公文公先生だった。僕たち数人は伊賀先生を囲んで何時も夜集まった。先生の推薦してくれた岩波文庫の本を沢山読んだ。また、英語の参考書を離れ、英語の時事評論や小説の講読会をやった。 小泉信三の「初学経済原論」などというのを一緒に読んだ。時々喫茶店で駄弁るのも大人になったようで楽しかった。学校の成績は下がり、最早特待生ではなかった。
 父はこの学校の先輩で、この学校を愛していた。だから少し心配だったに違いないと思う。しかしそのことについて父は何も言わなかった。父に一貫していたのは「公式的なものの考え方をしない、型にはまらない、いろいろの価値観があることを認める」というようなところだった。
 
 僕自身高校生活に悔いは全くない。充実していたと思う。しかし、本当に趣旨がわかっていたかどうかは疑問だ。楽で、楽しい方に流れていただけかもしれない。大学には今度こそ勉強するために入ったはずだった。それをそれまでの延長で、楽しく(?)過ごしてしまったのは大いに悔やまれる。ただ、いつも大事な時期に現れた、心酔できる先生たちのおかげで、そして後押しをしてくれた父のおかげで、「型にはまらない、柔らかい考え方をしよう。そしてその中で自分の軸だけは外さないでいよう」と心がけては来たと思っている。
以上
ページTOPに戻る
向陽新聞に見る土佐中高の歩み
向陽新聞創刊の頃(メモ)
細木大麓(27回) 2010.10.10
時代背景

筆者近影
●私たち27回生は終戦の翌年、校舎もない旧制の土佐中学へ入学した。総員54人だったと聞いている。

●自分たちで古い材木や瓦など運んで校舎ができたという話は今や有名で誰でも知っている。入学試験は当時の城東商業の教室、入学式は高知商業の講堂、そして毎日の授業は汽車で山田の小学校へ通った。私は行川という鏡川の奥の辺鄙な山村から6キロの山道を自転車で朝倉に出て汽車に乗った。

●敗戦国として歴史も地理も塗り替えられたところなので、それらの授業はなく、河野伴香先生に東洋史を習った。英語、数学、国語なども教科書はなく、先生が手書きのプリントを配ったり、先輩から古い教科書を借りたりしているうちに、今でいう新聞の折り込みチラシのような印刷物が少しずつ国から配られるようになり、それを綴り合わせると一冊の教科書になった。

●入学試験の口頭試問で大嶋校長から「民主主義」ということばを知っているかと聞かれた。私は山奥の誰も中学へなど行かないような小学校で、「町の子は受験勉強をしているぞ」と脅かされて心配だったが、前日、ヤマをかけて百科事典で「民主主義」を暗記していた。「人民の、人民による、人民のための政治だと本に書いてありました」と言ったら、大嶋校長に「よく勉強しているね」と褒められた。そんな時代だった。

●校舎の建築その他で授業が遅れていたのを補うため1年の夏休みに昭和小学校を借りて補習授業が行われた。私はそこで自転車を盗まれた。以来、2年ほど山奥の村から片道12キロの道を歩いて潮江まで通うことになった。一度自転車を盗まれると、もう買い替えることなどできない物資不足の時代だった。雨の日など、暗いうちに家を出て学校に着いた時は下着までびっしょり濡れており、冬の日は泣き出したいほどだった。

●その後、町に移って江の口の家から潮江まで歩くようになったが、それが嬉しくてたまらなかった。向陽新聞に関わり始めたのはそれから間もなくだったのだろうと思われる。

●昔の写真を見ると、私は厚手の兵隊服の上着を着、兵隊靴を履いていたようだ。肩にズックの大きな四角い鞄を掛けて行川から歩いた。2年生修了の集合写真では、殆どが国防色(カーキ色)の同じ形の洋服を着ている。国から払い下げでもあったのかもしれない。高校に上がったころは、闇市ででも手に入れたのかと思うが、革靴を履いているのもある。一方で帯屋町を、手拭いを腰に高下駄で闊歩したりもしている。貧しい中で結構服装が気になってもいたようだ。

●リベラル、セントラル、モデルなど洋画の映画館があり、アメリカ映画をたくさん見た。若い男女が、緑の美しい街で、公園で、学校で…、様々なカラフルな服装で、ブックバンドと称したひもで縛った本をぶら下げて楽しそうに活発に動いている姿に目を見張った。

●高知公園で時々駐留米軍主催の野外レコードコンサートがあった。主としてクラシックだったが、間にジャズなど軽いものを挟んであり、夜の公園の涼風の中で夢のような一刻だった。

●ある日、何時もつるんで遊んでいた悪友のS君と髪を伸ばそうという話になり、散髪屋へ行って伸びかけの髪の裾を刈ってもらった。翌日、早速大嶋校長から校長室に呼び出された。どんな風に言われたか記憶がないが、とにかく「すぐ髪を切れ」ということだった。「学生がそんなことに気を取られていてどうする」ということだったと思う。誰も髪を伸ばしていない中で先頭を切るのは少し度胸が要ったことは確かだったが、割合軽い気持ちでやったことだったので叱られたのはすごく心外だった。ただ、それを押して抵抗するほどの話でもないと諦めた記憶がある。皆が伸ばし始めたのはそれから間もなくだったと思う。

●当時、何人かの先生について「戦争中に軍隊で自分の身の安全のために部下を犠牲にした」という種類の噂があった。私たちは数人でその先生を教室や放課後の芝生で問い詰めた。この話は覚えている学友がたくさんいる。しかし、これは今反省して心から恥ずかしく思うことの一つだ。そんなに悪辣な、先生に対するいじめのようなものではなかったと思う。しかし、はっきりした証拠もない、一方的な噂話に過ぎないことについてこの軽率で配慮のない行為は許せない気持ちだ。

●価値観の混乱した時代で、当時この種のことを自由や批判精神の履き違えと言った。余談ながら、その後60年もたった今、こういったことは反省されるどころかさらに別の形でもますますひどくなっているように感じられて仕方がないのは年寄りの僻目だろうか。
土佐高の状況

●校舎はない、先生はいない、学生数は少ないという経営難、そして混乱した世の中で早急に今後の方向を決めなければならない。相談相手もいない中で、大嶋校長のご苦労は想像に余りあるものだったと思う。

●そんな中で、私たちの一年下から大幅に人数が増え、男女共学になった。建学の精神ということについては中城KPC会長ほかいろいろの人が触れているが、これとこの一種の方向転換がどういう関係になるのかということは大嶋校長自身ずいぶん考えられたことと思う。その一方で日本全体の学校制度、教育制度自体にも大きな変化があったわけだった。

●男女共学ということについては、高知大学の阿部先生にお願いして「向陽新聞第4号」に書いていただいたことがある。文芸部発行の「筆山第4号」に私の父細木志雄がやはり書いている。大島校長からはこの問題について伺った記憶はない。これは経営難の問題とは関係のない何かお考えのあってのことだったと想像するが、当時としてはかなり突飛な発想だったのではなかろうか。もちろん結果は素晴らしいものだったと思う。

●建学の精神の話に戻るが、その後の土佐高校の様子につて私は申し訳ないが従いて行っていない。現在のポリシーというか、考え方について機会があったら知りたいと思うようになっている。

●入学翌年の昭和22年頃の先生方の写真がここにあるが、担任だったオンカンをはじめ本当に懐かしく、特に親しく教えをいただいた先生がたくさんおられる。と言っても、総員15名の少数精鋭だった。高校に上がるころ続々と先生が増えたが、伊賀先生もその中におられた。

●伊賀先生は社会科の担当だった。その頃文部省発行の「民主主義」という結構分厚く、上下巻に分かれた教科書があったが、先生はこれを使って授業をした。その中で修正資本主義とか、弁証法とか、アウフヘーベンなどという言葉を教わり私は妙に納得したのを思い出す。 東大の経済学部を出て銀行に入ったが、組合運動か何かでやめることになり、どういった縁かわからないが、土佐へ来たという噂があった。いつもよれよれの服装だったが、しばらく経ってからある日突然真新しい背広で現れた先生があまり立派で驚いたのを覚えている。

●私たち数人(岩谷、中屋、杉本、垣内など)は先生を囲んで勉強会を作った。勉強は学校の教科書などとは離れ、英語の時事評論や小説の講読会をやった。小泉信三の「初学経済原論」などというのも一緒に読んだ。私の家で先生はソファに寝転がり、その周りを我々が囲んで座った。先生の薦めてくれる岩波文庫などはそれぞれがたくさん読んだ。先生は新しい教育制度に反対だったし、当時の土佐高校の行き方についても批判的だったと思う。そして、昔の旧制高校ののびのびした生活を我々に再現させようとしていたようだった。
 受験勉強は横にやられていたが、私はその時代が忘れられない。伊賀先生と共鳴していたのが、公文先生であり、広田先生だった。その頃の想い出話を岩谷君らとできると素晴らしいと思うのだが…。
 ずっと後のこと、私の勤め先に仕事の関係で来訪してきたある人が、突然伊賀先生の話を始めた。「伊賀さんからあなたのことを聞いた」とのことで、先生はその頃広島で大学の先生をしているという話だった。間もなく亡くなったと聞いたが残念だった。
新聞部創設のこと
●これを書けと言われているのに、残念ながらまるで記憶がない。岩谷君に誘われて参加したことは間違いないと思っていたが、これも怪しい。彼から「今度、部長というものが必要になった。わしはどうしても編集長をやりたいきに、部長はおまんがやったとうせ」と祭り上げられたことを覚えている。私もその方が楽だと思って引き受けた。

●しかし、その前に山崎和孝さんがおられたらしい。第4号では山崎さんが発行人、私が編集人になっている。私には岩谷君と一緒に印刷屋で割り付けを工夫し、校正で徹夜をしたというような記憶しかないが、それはもう少し後のことだったかもしれない。岩谷君の名前は第6号から出て来る。創部の頃のことを何か書かなければと思って、先日、思い切って山崎和孝先輩に電話して60年ぶりに話をした。大学でも一年先輩だったし懐かしかった。

●山崎さんから聞いた話。私流の解釈で、山崎さんのチェックは受けていないがおよそ次のようなことだったと思う。

(1)新聞に関心もあり、問題意識もあり、西原さんらと新聞を発行することにした。文芸部の富岡さんの協力などあり俳句なども載せた。山崎正夫さんも編集には加わらなかったが協力してくれた。
(2)伊賀先生に部長を依頼したが、生徒たちが自分でやれということで創刊号では編集人という名を避け、先生には顧問になってもらった。第2号からは責任者ということで自分の名を出した。
(3)寛容な時代で高知印刷での校正に授業を抜け出して行くのを学校が許してくれたりしたが、そんな調子で何部か発行したと思う。
(4)そのうち山崎正夫さんが岩谷君を紹介してくれた。山崎和孝さんは文芸的、岩谷君はジャーナリスト的でいい組み合わせだった。
(5)京大新聞部を訪問した。その時高知の他の高校にも新聞部がたくさんあることを知り、横のつながりを作った。第一高女、追手前高校などで大会を開いたが、仕掛け人は山崎さんだった。

●よく整理がつかないが、私は一年上の山崎さんとは以前から美術部やコーラス部などでご一緒して親しくしていただいており、新聞部にも加わっていたのかもしれない。ただ、そう熱心ではなく山崎さんと印刷屋へ行ったような記憶もない。あの伊賀先生が、山崎さんの頃の顧問ということになっているが私自身は伊賀先生と新聞で関わった記憶が全くない。その後岩谷君が参加した頃から私も少しは活動するようになったということだろう。いろいろな人に原稿依頼に歩いたり、インタビューをしたり、広告を取りに回ったり結構忙しかった。他校との交流もずいぶんやったが、これも岩谷君と一緒だった。以後彼と編集人、発行人を交代でやっている。思えば彼とは徹夜のポーカー、公文先生の知寄町のお宅の天井裏での数学勉強、伊賀先生を囲んでの勉強会等々いつも行動を共にしていた。懐かしい。彼がいれば昔のことが何でも分かるのに…。
以上
ページTOPに戻る
苦言一束
細木志雄(2回) 2010.10.25

細木志雄氏
 「向陽新聞」第九號の主張欄で、男女交際――男女共學の問題が論ぜられてゐる。其の要点は二つ、一つは何でもない男女學生の友達としての交際を、周圍がやたらに騒ぐのがいけないといふこと、今一つは交際をする當の男女が、分を守り、軌道に外れない樣注意しなくてはならないといふことである。其の論旨には全然同感である。
 一体男女共學の目標は何處にあるのであらうか。私の素人考を以てすれば、其の第一は女性にも知的に向上する機會を男性と同樣に與へること、第二は男性ヘ育に情操ヘ育を加味すること、第三は將來社會牲ある文化人となる爲に、又夫婦生活を從前の樣な偏ぱなものでなくする爲に必要な男女相互間の理解を深めておくこと等ではないかと思ふ。が此の目標は男女共學にさへすれば、直ちに達成されるとは限らない。
 戦後に於ては性に關する考へ方が極めて開放的になつてゐる。餘りにルーズ過ぎることが問題である。斯樣な環境が學園の内部に無關係であり得る筈はない。又家庭に於ける性ヘ育は全く幼稚、といふよりも寧ろ無爲と言つて然るべきであらう。さういふ客観的状況の中に於て男女共學を實施するとすれば、先づ目標をはつきり把握すると共に、其の目標を達成する爲の具体的な方法に付ての充分な研究、更に又他面に於て當然豫想される弊害に對する措置に付ての指導者の周到な心構が必要であらう。之等によって補強されない限り男女共學は甚だ危險なものであり、寧ろ幣害の方が多く現れて來る惧がある。
 私は嘗て此の問題に付て母校の先生數人と話合つたことがあるが、其の目標につき、或は指導者としての心構につき何等滿足すべき説明を聞き得なかつた。其の時某先生は、此の學校に來てからさういつた問題を語り合ふ機會がない、と慨嘆して居られた。私は或機會に恩師X先生の所見をうかがつて見た。流石に感覺の鋭い先生は相當明確な意見を述べられた上、果敢にスタートした土佐中の男女共學を衷心より心配して居られた。
 主張に取り上げられた樣に、單なる友達としての男女學生の交際を、騒ぎ立てることもあらうし、それによつて當の學生達が不愉快な思をすることも起るであらう。又充分注意はしても中には知らず知らずの間に深みへはまる場合、誤つた方向に進む者も皆無とは斷言出來まい。さういつた事態は當然豫想されることであり、從つて斯樣な事態が起らぬ樣萬般の注意が拂はるべきである。又起こつた場合の善處方に付ても充分の準備がなされてゐなくてはならない。特に間違つた場合之を適切に導びく理解あり而かも心の暖い指導者の存在が絶對に必要である。
 學生の方は主張欄に述べられてゐる樣な自覺を以て進むとすればそれで結構と思ふが、學校當局も、單に男女學生を同一ヘ室で同一條件でヘへるといふこと以上に、本當に共學の目的が達成される樣、色々と、配慮を拂つていたゞき度いと思ふ。
×   ×   ×
「本校の特殊性」といふ言葉がよく使はれる。所で此の「特殊性」を出發点として論議する場合、兩方の意見がおそろしく喰違ふことがある。そこで色々考へて見ると此の言葉は、人によつて意味する所が違ふ樣に思はれる。
 私達は、母校土佐中が縣下の秀才を集め、伸びられる限り伸ばし、有爲の人材として育てあげる…といふ目的の爲に生れたものであり、其のヘ育方針を堅持する所こそ本校の特殊性と考へてゐる。所で其の特殊性が現在の母校に充分発揮されてゐるかどうか、大學の入學率のみを以て判斷することは穏當であるまいが、東大への入學者一名も無かつたことは理由は如何にあらうとも、本校創立の趣旨に鑑みて諒承致しかねる。が問題は何故斯樣な状態に立到つたかにある。先づ學生の勉強が足りないこと、之は何と言つても致命的である。此の点は學生諸君によく考へて貰はなければならない。次には先生方にも注文申上げ度い。學生が勉強を怠ることは學生のみの罪ではない。學生をして勉強し度い意欲を起させること、或は勉強せずには居られない樣に持つていくこと、之は先生の腕に俟つ所である。其の腕とは學問上の實力と熟練と誠意の綜合されたものであると思ふ。
 右の樣な腕のある先生にしつかり頑張つていたゞくことが先決問題である。それから今一つは、勉強しない學生は遠慮して貰つて、中位以上を標準として授業を進めることが非常に大切ではないかと思ふ。K先生など學生に實力が認められないと、なかなか單位をやらないさうだが、私は大賛成である。
 子供(高校二年)の英語のヘ科書を見て、之なら一時間四頁位進まなければなるまい、と思つて聞いて見ると、僅かに一頁半位だといふ。而かも最近に至つて、大部分の學生が基礎が出來てゐないから當分文法の基本的部分からやり直すことになつたさうだ。母校が之でよいのか?と私は暗然とした。 私は嘗て英語の陣容の充實を當局に要望したことがある。それは、高校ともなれば大學で英文學を專攻した先生の一人位は居なくては可笑しい、又同時に多年の經驗を有する練達の先生がほしい、といふ意味は何も若い先生をけなす意味ではなく、若い先生にも勉強になり、全体的に授業効果をあげることが出來る、若い先生丈では不安だ…といふ氣持からであつたが、如何なる事情からか、最近まで實現しなかつた。所が私の心配が杞憂に終らず、上級學校進學率に、又實力の不充分といふ事實に、はつきり現はれて來たことは、寔に残念至極に思ふ。
 學生は勿論だが、先生方にもよく御考へいたゞき度い。
「本校の特殊性」の別の意味は、本校が私立學校である、經營といふ面からも考へなくてはならぬ、それが爲には政治的な考慮も拂はなくてはならぬ、當初の目標のみに拘はる譯にもいかぬ…といふ樣なことにあるらしい。此の考へ方も無理からぬと思ふ。で、學生の數を揩オたことも、女學生を入學させる樣にしたことも諒解出來る。併し、優秀な先生を確保する爲に絶對必要な、相當の優遇といふことが、經營面からの理由により不可能とすれば、之は正しく本末を誤るものであり絶對に承服し難い。
 母校本來の特殊性(ヘ育面に於ける特殊性)は經營面の特殊性に若干制約されることは己むを得ないとしても、それによつて破壊さるべきでは斷じてない。尤も思ひ切つてヘ育方針を百八十度轉換し、例へば自由學園等の如く、上級進學等のことを全然考へず、社會性ある實質本位の人物養成を目標とすれば問題は別である。但し其の場合に於ても、優秀な先生を確保することの重要なるは同樣といふよりもそれ以上であらう。
 校舎を建てることも大切であるが、私には、ヘ育の本義に照らし、優秀な先生を確保すること、其の先生に落着いてしつかり働らいて貰ふこと、その爲に相當の優遇が出來る方途を講ずること、之が飽迄先決問題と思はれる。 右の点については財團の財政、或は振興會の經理内容に付て知る由もない私であるので具休的な案は樹たないが、理事諸公に眞劍に考へていたゞき度いと思ふ。
 經營上の困難性の故に母校本來の特殊性も発揮出來ず、さりとて新時代に完全に順應し切る樣な思ひ切つた方向轉換も出來ずとすれば如何になるか?私の氣持を端的に表現する爲に極端な言ひ方が許されるならば、母校士佐中が平々凡々たる一私立中等、高等學校に堕するとすれば、私は寧ろ土佐中の名誉の爲廢校になることを希望する。創立者、川崎、宇田の兩先生も恐らく地下で同感の意を表されるのではなからうか。
×   ×   ×

1950.12.14『筆山4号』より
 學年始の振興會の席上だつたと思ふが、擔任の先生から、「今年はうんと學生の躾に力を入れ度いと思つてゐる」とのお話を承はつた。「是非お願ひします」といふお母さんも大分居られたし、私も大賛成だつた。がじつと考へて見て、一体どんな躾をするのがよいか、之は案外難かしいのではないかと思つた。
 形式に堕し過ぎない程度に長幼の序を保ち、師弟の禮をつくすこと、贅澤に亘らない程度の身だしなみ、明快な言語、動作、之等は何れもヘ養ある現代人として身につけて置かなければならない事柄である。殊に言語については、それが女の子であれば尚更のこと、あまり汚い言葉を使はぬ樣、又使はせぬ樣注意してほしい。
 躾と言つても劃一的な、形から入る躾、軍隊時代に見られた樣な方法は考へ直して貰はなくてはならないだらう。アロハシヤツや、リーゼントスタイルは避け度いが、だからと言つて、それが形の上に現れた点だけを捉へてやかましく言つて見たつて仕方あるまい。さういふ恰好をして見度いといふ心理が問題なので、之をうまく矯正し善導することがより肝腎であらうと思ふ。或は又あゝしろ、かうしてはいけないなどとやかましく言ふことが、青少年に納得出來ない…そんなにやかましく言はれる理由を発見し得ない…場合には効果は反つて逆になることが多いであらう。ヘ育の本質にはあまり關係のないつまらないこと……髪を長くするとか、服装がどうのかうのといふ樣な形の上のこと……にはあまり差出口しない方が賢明であらうと思ふが如何なものであらう。
×   ×   ×
 「筆山」の編集子から何か書けといふ注文を受けた。先輩に書かせる以上悪口を言はれるのは覺悟の上だらうと其の点は安心して筆を執つたが、結果は學校當局への注文が多くなつた樣だ。元來私といふ人間は學校當局にはあまり喜ばれない存在だといふことを最近仄聞してゐる。けれども、私はうるさ型だと人に言はれたこともあまりないし、私自身も決して左樣ではないと確信してゐる。其のうるさ型でないことに自信を持つ私が母校當局のみからさう思はれてゐるとすれば、それはさう思ふ側が悪いのであつて、私の言ふこと、考へてゐることに妥當性があるのだらうと思つてゐるのであるが如何なものであらうか。大方の御批判に俟ち度いと思ふ。
(土佐中學校第二回生 縣農林部長) 1950.12.14『筆山4号』より転載
ページTOPに戻る
續苦言一束
細木志雄(2回) 2010.10.25
 前号に「苦言一束」を書いたが内容の大部分が當初の豫定に反して學校當局への注文になつてしまつた。今度は學生諸君への苦言乃至希望を書くことゝする。希望が多くなって標題には相應しくない内容になるかも知れないことを豫め斷つておく。

細木志雄氏
 現代の學生は如何にあるべきか。之は寔にむつかしい課題である。噴火山上にあるが如き日本の立場、左右入り乱れた現今の交通状況にも比すべき思想のてんやわんや、其の中で正しい人生観を持つということはなかなかむつかしいことである。正しい人生観、世界観を前提としてはじめて人生の意義が発見出来、我々日本人の在り方が解明されると思うが、此の根本問題は到底私の解き得る処ではない。私は問題をもつと卑近な所へ引き下げて考えて見ることにし度い。
 先づ最初に数個の事例を挙げよう。
 Kは學生時代出來るには出來たが、とび抜けた秀才ではなかつた。だが脇目もふらず勉強した。努力は彼に実力をつけ、大學在學中高文パス、卒業すると本省の役人になつた。それ迄世間を知らなかつた彼は、それ以後適当に社會人としての素養も身につけた。今後に於ける大成が期待されている。
 Yは秀才であつた。勉強もしたが道樂もした。大學時代よくカフェーを飲み歩いた。が其の間に社會の裏面に付ての認識も深まり新聞記者的なセンスも磨かれた。學問と社會人としての素養が併行的に進んだ。現在某報道機關の重要ポストにあり、不幸病臥中であるが、重大な外國電報は全部彼が目を通すことになつていると聞いている。
 I。之は私の高校時代の友人である。彼は植物學を研究していた。學校の方は各課目共に落第しない程度に勉強し暇さえあれば山野を跋渉して植物の採集をやつていた。牧野富太郎博士に師事し、今ヘ育大學の先生をやつている筈である。
 H。之は私の弟である。彼は學生時代劒道部に籍を置いた。そして在部中一度は必ず縣下で優勝しようとの悲願を立て、練習に專念した。部の氣分が常に一致しているとは限らない。部員が数える位に減つたこともある。が彼は黙々と練習した。學期或は學年試驗中でも欠かさなかつた。そして遂に優勝した。が其の爲學問の方が幾分犠牲になつたことは事実である。
 右に述べた四つの事例は何れも実在のものである。
 Kの行き方は当時の土佐中の代表的なものと見られたであろう。がYの樣な行き方の者も少くなかつた。Iに類した者もあつた。Hの樣なのは先ずなかつたと思うが、私は現在Hの行動を凝視していて、創道部の部員乃至主將としての鍛錬、特に心の錬磨が、如何に大きな影響を彼に與えているか、それが如何に尊い体驗であつたかをつくづく感じるのである。
 私は右の四つの行き方の何れにも賛成である。此の人達に敬意を表する。夫々自分の持前によつて學生時代を意義あらしめていると思うからである。
 意義ある生活とは、正しい目標を定め、之に向つて精魂を打ち込む生活―そうした充実感を伴う生活ではないかと思う。
×   ×   ×
 大學入學ということを目標として精魂を打ち込むことも土佐高校學生としての最も意義ある生き方の一つであると私は考へる。斯くいつたからとて私は土佐高校のヘ育方針が大學入學ということを唯一終極の目標として行はれるべしと考へている訳では決してない。ヘ育ということは、勿論、個人々格を完成し、將来社會文化の発達に貢献する人間を養成することを目標とすべきである。其の過程として方法手段として學校ヘ育があるのだ。此の点は昔も今も変りない。昔の土佐中と雖も決して例外ではなかつた。唯昔の土佐中は、右のヘ育を施こす対象が、將來上級學校の過程に迄進もうとする者のみであつたから、恰も予備學校であるが如き誤解を受けたに過ぎなかつた。 右の如き誤解を持つている人々は、現在の土佐高は昔のそれと違うという。予備校的な詰込ヘ育は反対だという。其の点は同感だが、それだからと言つて勉學を怠つていゝということにはならない。そこで私は斯樣なことを言う人々に逆問して見度い。大學入學の爲の勉學ということ以外の如何なる方法によつて、日々の生活を意義あらしめているか。前に述べたY、I、Hの何れの行き方にも徹し切れていないのではないか。結局、勉學しないことの、或はヘ育目標をしつかり把握し得ないことの逃口上を述べているに過ぎないのではないか。
 享樂以外に人生の意義を認め得ない人は論外である。
×   ×   ×
 今武蔵高校で英語のヘ授をしているD君の話「高等學校を出る頃は英語はチヨロイものだと思つた、が其の後勉強すればする程奥が深く、わからなくなつて、此頃は學生の前で.英語はむつかしい、自信がないということをよく話す、すると學生の半分位は、私の氣持がわかつてくれる」と。又私が土佐中の三年生頃だつたと思うが、Hという先生が斯う言はれた「試驗勉強の際、最初一通り勉強すると之で大丈夫だという感じがするものだが更に勉強していると、段々自信がなくなつて來る。それは進歩している証拠だ、更に突込んで行くと前より深く理解出來る、そのうち又自信がなくなる、そういう過程を辿つて學問は段々深く確実になつて來るものだ」と。
 右の言葉は長い學生々活或は學究生活の經驗をもつている人は、恐らく大概の者が首肯出來ると思う。同感でない人はとびぬけの秀才か、さもなくば、余程鈍感な人であろう。
 ヘ壇に立つて授業をする場合、実力に基づく本当の自信を持つて堂々と講義する場合は全然問題ない。中には、良心的には必ずしも自信はないが、そこを適当にごまかす場合もあろうし、又実力のないのに自信――実は自惚を持つて學生をなめてかゝる場合もないとは言えまい。所が此処で問題なのは、相当な実力を持ちながら、更に突込んで深く考える爲、授業は必ずしも明快でない感じを與える樣な場合である。むつかしくむつかしく考え悩む姿を正直に學生の前に晒す場合がある。そういう場合學生は其の先生に実力がないと速斷し勝ちだ。頭を傾ける医者が頼りなく思われ、出鱈目でもはつきり言う医者がもてるのと軌を一にする。だが、本当の力のない先生なら致方ないが、學生としては一應謙虚な氣持で先生の眞價を知る爲に努力することが大切ではないかと私は思う。斯樣なことを中學生に望むのは無理かも知れないが、苟も高校生ともなれば、そういつたゆとりというか寛容さというか、そういう氣持で先生を見てほしい、そしてD君の話が首肯出來る樣な感覺と理解とを持つてほしいと思う。
×   ×   ×

1951.3.15『筆山5号』より
 話は甚だ卑近になるが次は學習の態度である。
 東都學校視察者の報告にも「東京の學校は静かである。授業中も話声が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえてつまらない雑談がないし休時間などよく勉強している」とあつた。
 創立当時の學生は――古いことをいうと嫌われるかも知れないが――學習態度の悪い樣なものはついて行けなかつた。皆一生懸命に勉強して、それでついて行けない者は他に轉校するか落第するより他なかつた。
 所が現在の土佐高校學生の學習態度について某先生は言われた。「土佐高校よりも○○大學の學生の方が遥によい。○○高校でも土佐高よりましだ。眼の色が違う」と。又他の某先生が、不眞面目な學生の愚劣な、邪氣の籠つた野次に憤慨されて、涙を流して訓戒された話も聞いた。
 土佐高校の學生は學習に際して他校以上に眞剣であつて欲しい。且つ愚劣、低級でなくて欲しい。
×   ×   ×
 齋藤実という人が「自分は少尉の時は日本の海軍で一番立派な少尉になろうと努力した。中尉の時は又一番立派な中尉になろうと思つて勉強した。そういう氣持でやつているうちに何時の間にか大將になつてしまつた」と述懐しているのを何かで読んだことがある。それは常に自分の職場に眞劍であつたことである。學生には學生の任務がある、本分がある、それに向つて眞劍であること、かくて後から悔いない、張り切つた學生々活を送つて欲しい。
1951.3.15『筆山5号』より転載

《編集部より》上段掲載二文は、中城氏(30回)の『猫の皮事件とスト事件のなぞ』の資料収集の段階で細木氏(27回)から父君・故細木志雄氏(2回)の文芸部文集『筆山』に掲載された評論が提供されました。今日でも立派に通用する内容で、細木氏の御了解を得て掲載させていただきました。母校関係者や在校生にも是非目を通していただきたいと思います。
ページTOPに戻る
1950.12.14『筆山4号』より転載
東都高校とびあるき
細木大麓(27回) 2011.08.16

 筆山編集部から東京の印象記を書くようにいわれた。四國のすみで勉強している自分にとつて、都會の學生の生活、學力は以前からかなり氣懸りだつた。實はそのために、同じ氣持だつた中屋君と視察族行とでもいうべきものをしてきたのである。戰時中に父の郷里土佐へ疎開して以來はじめての上京で、すつかりきもをぬかれてしまつた。東京の印象記だからといつてこれを一々書いていては、ひとりよがりのものになつてしまいそうだ。東京行の目的だった向うの學生の見たまゝ、聞いたまゝを書いてみようと思う。學校訪問は日比谷、武藏、小石川の三高校である。
(授業)
 日比谷は百分授業隔週五日制、小石川は九十分授業五日制、こんな高校が東京にはかなりあるらしい。英語、數學では授業形式はこちらと殆ど同じ、たゞちがうのは生徒の積極的な受講ぶりである。自分で調べて來てすゝんで発表する。もちろんピントはずれもあるし、もういいといわれてもやめないで余計なことをいうのもいる。しかし熱心である。このためか、いつも靜かな?授業を受けている自分と比較した場合、實力の差が目立つた。
 日比谷で參観している時である。生徒にdictationをやらすついでに、この假新入生達も用紙を配られた。辭退する暇もない。恥はかき捨てとカンネンした。ところが運よく間違いがなかつた。先生が滿点の人はありますかという。得意になつて手をあげた。ところが何のことはない周圍の者も皆手をあげた。出來るのはあたりまえなのである。少々恥ずかしかつた。
 國語の授業は全く型がちがう。目比谷の場合ヘ科書は使用しない。三人の先生がそれぞれ單元を定める。「近代文學をいかに讀むべきか」「古文をいかにして讀みこなすか」等である。前者の先生はちようど漱石の草枕と藤村の破戒についてやつていた。まずプリントにして文章を讀ませる。次に、(1)それぞれ何を書こうとしているか(2)それぞれの作者の文藝観(3)文章上のちがい(4)それらの由來する点……等の題で生徒の討論がはじまる。すさまじい討論である。皆考えを原稿紙にまとめてある。先生がことばをはさんでどんどん進行する。古文をやつている先生は吾々にこう話してくれた。「現代文は精讀なり多讀なりとにかくよく讀書することですね。古文は文法と單語を勉強して、何か一さつ詳しく讀んだらいいでしよう。それと文學史も簡單にやる必要がある。」なるぼど學校の授業もその方針で進んでいるようだ。しかしこれは百分授業でないとうまくできないと思う。  昭和26年4月雨漏りのするバラック校舎の中で、入学式が挙行され、袖に白線の入った制服に胸を膨らませて大嶋校長の祝辞を聞いていた。戦災で焼失した校舎の復興には諸先輩たちがあちこちから機材を集めて、どうにか学校らしくなりつつある時代である、ただ一つ残ったものがプールである。プールの隣には製材工場があり、盛んに電気のこぎりが製材している音をバックグラウンドに授業に集中し勉学に励んだ諸先輩たち(我々を含み)。今から思えば大変なことである。プールを取り囲むようにつぎはぎの校舎がだんだんと改築されていった。  46回の藤戸です。先輩諸氏の熱心な活動に敬意を表します。ところで、私は会費なるものをお払いした覚えがございませんが、いかがしたらよろしいでしょうか。ご指示ください。現在は高知市在住・須崎市勤務ですので、在京の先輩がたとはあまりお会いすることもできませんが、こうしてネットでお会いできるとは、いい時代になったものです。それにしても、懇親会の画像に写っている永森裕子さまは本当にあの松本裕子さまなのでしょうか。  新聞部の創生期や入試漏洩問題など、前号までのくわしい記述で昭和三〇年以前の向陽新聞と母校のかかわり、歴史的な資料が明らかにされた。今回はこの欄のタイトルにはそぐわないが、半世紀以上も昔の一時期の追憶随想おゆるし願いたい。(敬称略)  さて紙面だが、自分たちの取材力とは別に平穏な時期にはやはり、当たり障りのない平凡なものになる。印象深いのは先生へのぶっつけインタビュー「ちょっと失礼」に部員同士がしのぎを削って取り組んだことくらいだ。これは楽しく取材し、大いに失礼なことを書いて、各回とも好評だった。
 授業參観も職員室の親切な世話でとても愉快だつた。皆集まつてきて話をしてくれる。日比谷では、そばもおごつてもらつた。實に家庭的だ。生徒は本校の中學をあわせたぐらいの人數なのに先生は少い。これも百分授業の功得だろう。
 因に体育はどこも保健衛生の講義が主である。
(生徒各自の勉強)
 これは先生の見たところと生徒數名のことばを整理して得た結果である。(1)學校の豫習復習を相當重要視している。毎日時間數が少いので重点的にできるそうだ(2)自分の勉強をかくす傾向があるが、非常に勉強していることはたしかだ(3)東京名物である各種の塾や研究會へはあまり行つていない。自習が主である(4)參考書勉強が盛である。一人の生徒は、英語についてこういつた。「津田を出て數年米國にいた女の先生がいますが、結局hearingの練習ぐらいにしかならないので山崎貞や小野圭の參考書で自分の勉強が殆どです」。(5)定期試驗が少く、しばられることなしに勉強できるのでよいという聲も聞いた。
(生徒會)
 日比谷高はなかなか盛である。先生の努力ともあいまつて発達したものらしい。立法、行政の機關に分れており司法は途中からなくなつた。總理大臣を選擧して組閣を行う形式である。總理大臣は行政委員長。二人の候補が華かな選擧戰を展開したとか、頼もしいかぎりである。但し三年生は引退している。小石川高は澤登校長のことばどおり、「貧弱な不明瞭な存在」らしい。武藏高にははじめからない。「あんなものはつまりませんよ。結局こつちがやるようになりますからね。」と高校主事はいわれた。
(服装)

 中山先生にもいわれていたので注意して見てきた。男生徒……黒の詰襟が殆どだが、小石川高の場合は制服である背廣樣のものと本當の背廣が大部分。坊主頭は少い。ノーキヤツプも多い。同行の中屋君は帽子がぬぎにくかつたらしく「帰つてきてホツとした。」といつている。彼は坊主だから……。女生徒……色とりどりの服である。パーマネントも大分ある。男女とも下駄ばきは絶対になく、皮靴が多い。
 先生に服装問題について聞いてみた。「全然考えていません。たゞ下駄で廊下を歩かれるとやかましいのではかないようにいつています」とのこと。
 
 學校訪問の際強く感じたことは日比谷の生徒と小石川の生徒の性格がちがつていたことである。日比谷の方は紳士的な印象を與える。小石川の方は少々粗野ではあるがなかなかがつちりした印象を與える。思うにこれは校長先生の性格の反映ではないだろうか。日比谷の菊地校長は全く温厚な紳士であつた。小石川の澤登校長は風彩などには拘泥しない肚の人という感じだつた。
 東京の學校は靜かである。授業中も話聲が聞えないわけではない。場合によつては野次も飛んでなかなか賑かである。しかし學生が皆勉強熱にもえていてつまらない雑談がないし休時間などはよく勉強している。それから中學がないのが大きな原因である。併設中のある武藏高校は他と大分雰圍氣がちがつていた。自分自身反省するとともに中學の諸君にはもつと靜かにしてもらうよう希望する。
 東京で大いに意を強くしたことは〃土佐中"という名が非常に売れてれていることである。菊地校長や、少し古い先生は皆いわれに。「いい學校でしたね。うらやましかつた。その後どうですか。復興していますか。えらいものだ。校長先生の腕かな。上級學校の合格率は?……」、痛いところだ。大學へさえ入れないとは情ない話だ。どうしても頑張らなくてはと思つた。(向陽新聞部々長)
* * * * * * * * * * 
《あとがき》「新聞部創設の頃について参考になるものを」という編集人からの依頼で送ったいくつかの古い記事の一つです。読んでみて懐かしいような気持ちとともに、数日の「飛び歩き」で、よくも生意気なことを書いたものと恥ずかしい気がしますが、校舎もない状態で立ち直ることでいっぱいだった当時の土佐高から東京へ出掛けてすべてが驚きだったのが率直なところです。何かの参考になればと思って、そのままの掲載を応諾しました。
* * * * * * * * * * 
《編集人より》『昔を知るための何かの参考にと、父の書いたものまで含めていろいろ集めて送った古い記事が「細木オンパレード」で、そのまま続けて掲載されるのが少々気が引けて……』という細木先輩を拝み倒して掲載させていただくことになりました。昔の土佐校生の意気の高さに驚かされるとともに、今の在校生たちの目にとまってくれればと思っています。
ページTOPに戻る
「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました
岡林幹雄(27回) 2017.06.24

筆者旧影
拝復
 本日貴兄より中城兄ご執筆の「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を
 ご送付賜りましたこと、厚く御礼申し上げます。早速読ませていただきます。
 暑さ厳しい折柄、ご健勝の程願上げます 。取急ぎ拝受お知らせまで。
  不一 
  ページTOPに戻る
土佐向陽プレスクラブ