マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その1)二宮健(35回) 2016.12.03
 モロッコ地図(「旅のともZenTech」より) |
 筆者近影 |
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深夜に関西国際空港を出発したエミレーツ航空317便(ボーイング777-300型)は、約11時間10分の飛行で、現地時間午前5時45分にドバイ国際空港に到着した。2時間後の午前7時45分にエミレール航空751便に乗り継ぎ、更に8時間45分を飛行して、現地時間(モロッコ)で昼の12時30分にカザブランカのムハンマド5世国際空港に到着した。待ち合わせの時間を入れると、日本出発後22時間もの時間を要してモロッコに着いたことになる。これがヨーロッパ経由の便、例えばパリ経由などだと大幅に早くモロッコへは到着出来るが、エミレーツ航空にして往復利用をすると、格段に安い割引にて旅行が出来る。安いとは言え、機内サービス、機内食、安全性は、日系、欧州系航空会社に勝るとも劣ることはない。機材も最新のものを導入しており、安かろう悪かろうでないことは、カタール航空なども同様であり、私の数多い海外渡航経験からしても誇張でなはない内容を伴う会社である。ただ、少し難点があるとすれば、日本とモロッコには直行便が無いので辛抱するしか致し方がない。長時間の移動となるわけである。(写真@=エミレーツ航空)
今回の旅の目的は、モロッコのすべての世界遺産を見学することと、モロッコ各地の幻想的な都市の見物である。今回は2回目のモロッコ訪問で、前回は前述のカタール航空を利用してモロッコへ入ったが、経由地がドーハであること以外に飛行時間は大差がない。さて、マグレブとは、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど北西アフリカ諸国の呼称であって、アラビア語で「日の没するところ」を意味する。そのため、ムスリムの義務である1日5回の拝礼のうちの日没時の礼拝を指す言葉でもある。
作家の四方田犬彦さんの著作に「モロッコ流謫」というモロッコ紀行の名著があるが、他国の作家や映画人、文化人などを引きつけてやまぬ幻想の世界の色彩をこの国は古くから持っているように思うのは、私一人ではなかろう。モロッコの世界遺産としては、ユネスコへの登録順に、@フェズ旧市街(1981年、)Aマラケシュ旧市街(1985年)、Bアイット・ベン・ハドゥの集落(1987年)、C古都メクネス(1996年)、Dヴォルビリスの遺跡(1997年)、Eティトゥアン旧市街(1997年)、Fエッサウィラのメディナ(2001年)、Gアルジャジーダのポルトガル都市(2004年)、H近代と歴史的都市の両面を持つラバト(2012年)がある。どれをみても魅力あふれる文化遺産と自然遺産である。これらの場所を巡る旅に参加をした紀行である。
カサブランカに到着したのは、2011年12月2日のことであった。入国手続きを終えると、昼食を市内のレストランで済ませ、その後、大西洋沿いに道を北東に取り、約90キロ走って、1時間30分程度で午後4時過ぎに首都ラバトのホテルに到着した。12月1日深夜に日本を出発して、12月2日にラバトに到着したのである。日本とモロッコの時差は9時間あるので、日本時間では12月3日午前1時である。まるまる24時間以上もかかって日本から到着したわけだ。宿泊するホテルはベレールホテル・ラバトで、4つ星クラスとはいえ、立地の良さが売り物の、中クラスのホテルである。ラバトは、カサブランカには商業や人口で大きく劣っているが、行政上では首都であり、「庭園都市」の名の如くしっとりと落ち着いた街である。日本の大使館もこの街に在り、人口約65万人、都市圏を含めると185万人である。ラバトとは「城壁都市」の意味であり、2012年に世界遺産に登録されている。
今回の旅行の目的の一つは、滞在する都市の超一流ホテルの視察である。旅行評論家として、これは私のどの旅でも目的の一つである。(ちなみに、私はほぼ全世界にわたり約500回の海外渡航をしている)。さっそく夕食後、ラバトの超一流ホテルの一つであるラトゥルアッサンを訪ね、部屋やレストランをホテルの係員の案内で見せてもらった。素晴らしいホテルである。(写真A=ホテル・ラトゥルアッサン)
12月のラバトは雨が多いらしく、今日は最高気温が17度、最低気温は7度であった。到着したカサブランカの空港から終日、雨が降ったり止んだりの天気であった。
旅行3日目、12月3日は、昨日と打って変って朝から晴天となった。この日以後ずっと旅行中の天気は良かった。今日の予定は、午前中にラバトを代表する「モハメッド5世廟」(写真B=ムハンマド5世廟ともいう)を見物し、その後、ムーア様式の代表的建築である「ハッサンの塔」を予定通りに見学した。約300キロを5時間ほどバスで北東方向に走り、世界遺産のティトゥアンを観光、更に約60キロ北へ向かい、ジブラルタル海峡とイベリア半島を望む街タンジェを目指した。バスでかなりハードな旅であった。順を追って見物箇所を列記すると、午前8時にラバトのホテルを出発するために、午前6時に呼び起こしの電話が鳴り、午前7時には定番のアメリカン・ブレックファストをとり、定刻8時に出発して、ラバトの世界遺産であるムハンマド5世霊廟(モロッコをフランスからの独立に導き1961年に没した前国王ムハンマド5世の廟で、1973年に完成)を見学した。廟の内部は撮影が可能である。これを終えて、道をはさんですぐにある、これも世界遺産ハッサンの塔を見学した。これは未完の尖塔(ミナレット)で、ヤークブ・マンスール王によって12世紀末に建築された。高さが44メートルもあるが、彼の死によって中断された。モロッコにおけるムーア形式の代表的な建造物である(写真4)。
午前中に見学を終え、早めに昼食をとって次の目的地ティトゥアンへ向い、約4時間30分位で到着した。この街もモロッコの世界遺産に登録されている。ざっと説明をすれば、街の中心に在るハッサン2世広場から、西に新市街、東にはメディナがあって、かつてはスペイン領になったこともあり南スペインの雰囲気が強く、人口約46万人の街である。着いてすぐに新市街のムーレイ・メフディ広場を中心に見学、続いて旧市街にある王宮とスーク(=市場。貴金属のスーク、陶器のスーク、食料品のスーク、衣料や革製品のスークなど狭い地域の旧市街の中でそれぞれ独立したスークがある)を見物した。カリファ王宮は17世紀に建てられた歴史的建物であり、イベリア半島のアルハンブラ宮殿に代表されるムーア風の、モロッコにおける最も顕著な建造物として有名である。
ティトゥアンを見物した後、西北約60キロにあるタンジェの街に向かい、夕方遅くまでかけてタンジェの街を見物した。日本ではタンジールとも呼ばれている街だ。人口は100万人近く、ジブラルタル海峡に面した港町で、スペインからのフェリーも多く入港している。前15世紀にはフェニキアの交易港として既に栄え、カルタゴやローマ、ビザンチンなど、その時々に支配者が変わった非常に歴史の古い街である。
次回はタンジェの街の説明から始めよう。(第二回に続く)
(註)筆者プロフィール:昭和29年土佐中入学、高二の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、JTBOB会員、神戸市在住。
 写真1 エミレーツ航空B777-300(最新鋭) |
 写真2 ラバトのラトゥルアッサンホテル |
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 写真3 ラバトのモハメッド5世廟入口 |
 写真4 ラバトのハッサンの塔 |
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マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その2)二宮健(35回) 2017.01.04
 モロッコ地図 |
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タンジェでは、メディナの中にあるプチソッコ(小さな広場の意)を訪れ、そこから歩いてグラン・モスクの外観を見(ムスリム以外は入れないので)、更に進み展望台へ出てタンジェ湾とジブラルタル海峡とイベリア半島を望見した。ヨーロッパ大陸が目前にあることが不思議に思える場所である。
 タンジェよりイベリア半島を望む |
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一旦、宿泊するホテル「タンジェ・インターコンチネンタルホテル」へ戻った。御大層な名前で四つ星クラスにランクされているが、日本でのビジネスクラスのようなホテルであり、街の中での交通の便が良いのが利点のホテルであった。ホテルで夕食をとり、これも目的である、タンジェ一番と言われる有名ホテル「ホテル・エル・ミンザ」を訪れた。1930年に建造されたスペイン様式とムーア様式の混合インテリアで、係員から部屋を見せてもらったが、素晴らしいインテリアの数々であった。普通の部屋(ダブルベッド)で約2300から2500ディルハム(DH、1DHは約12円)くらいとのことであった。2時間ほどホテルのバーで過ごしたが、こちらも居心地の良いバーであった。
 ホテル・エル・ミンザ内部 |
 同じホテルのバーにて |
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旅行4日目の12月4日は、朝8時にタンジェのホテルを出発して約3時間をかけて南下、シャウエンに到着した。山に囲まれた小さな街で人口も約4万人弱と少ないが、家々の外壁や屋根瓦を青い色で塗って、街全体がまるで幻想的な絵のようである。タンジェからは内陸に入った、リーフ地方の山中の街である。1920年にスペインはこの街をスペイン領モロッコとしたが、1956年モロッコの独立によりモロッコに復した。従ってスペイン語を話す人も多い。まだまだ日本人観光客も少なく(2011年現在)、専らヨーロッパからの観光客が多い。人工の割にはホテルも多くある。この日の昼食は街を見おろす山上の「レストラン・アントス・シャウエン」でたべたが、料理は何のことはなかったものの、その絶景に目を奪われた。昼食を含めて約3時間、シャウエンの旧市街の青い街並みを見物した。まるで青の世界の眺望であった。
この日は、次の目的地ヴォルビリスへ向った。午後に、リフ山脈を越えて、ヴォルビリス遺跡とメクネスの2か所の世界遺産を見物、宿泊地のフェズへ向った。このコースは超ハードなバスの旅であり、上記2か所の世界遺産をゆっくり見るには少しきつかった。(帰国後、スケジュールを作成した旅行会社には旅程の変更を助言しておいた。)メクネスの北方30キロメートルにあるヴォルビリスの遺跡はモロッコを代表する古代ローマ遺跡であり、約2時間しか時間がなかったが、夕日に輝くカラカラ帝の凱旋門とフォーラム、ベシリカ礼拝堂その他を見学した。古代ローマ帝国の西端に位置するモロッコに現存する遺跡として、保存状態が極めて良いことで知られている。これも世界遺産に登録されている。
 青の街シャウエンの街角 |
 ヴォルビリスの古代ローマ遺跡 |
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次にメクネスに入ったのは午後6時近くになっており、この世界遺産登録の街ではマンスール門しか見ることができなかった。これは非常に残念なことであり、前回訪問時にマンスールをゆっくり見ていた私にとってはよかったが、この旅程作成は失敗である。マンスールの街には、これ以外にも素晴らしい見学箇所が沢山あるからである。この門は王都へのメインゲートとして有名な門であり、メクネスの象徴として、この街のランドマークである。ムーレイ・イスマイル王が手がけた最後の建造物としても有名である。
4日目の宿泊地フェズまで約60キロメートルを約1時間で走破してフェズ・インというホテルに夕刻遅くに到着した。このホテルは、まったく三ツ星クラスにも届かぬ位のホテルで、旧市街にも遠くあまり交通の便も良くなかったし、新市街の外れに位置していた。部屋の浴室の湯が出ず、暖房もきかない散々なホテルであった。(これも旅行後に、もう少し良いホテルを確保すべきであろうと旅行会社に助言した。)但し、このホテルのフロントデスクの女性スタッフは親切で、こちらの問いにも適切な助言を与えてくれてありがたかった。このホテルで夕食を済ませて、街で最高のホテルと宣伝されている「パレジャメイホテル」を見学に出かけた。超一流ホテルを各地で訪ねる訳で、失礼にならない程度に服装を整えるのは一寸だけ面倒である。ホテルにもピンからキリまであるので、宿泊しているホテルに比較すれば本当に雲泥の差がある。豪勢なホテルである。フェズ・エル・バリの北端に立地し、夜遅く訪ねたにもかかわらず、目的を告げると係員が親切に対応してくれて、ホテル内の各所を案内してくれた。時間とお金に余裕のある方には絶対におすすめできるホテルだ。高台にあり、フェズの街を見おろす眺望が素晴らしいホテルである。
 メクネスの象徴マンスール門 |
 フェズのパレジャメイホテルにて |
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旅の5日目は、フェズで連泊をする為、身軽な服装と持ち物で、終日世界遺産の街フェズを観光した。フェズ市内定番の1日観光のコースである。午前中に王宮(フェズでの国王の滞在王宮)から、ユダヤ人街のメッラー、フェズジャディド通りを歩いて観光した。土産物品や日用品などを売る小さな店が密集している場所をくぐりぬけるように通ってバスに戻り、フェズで最大の庭園で噴水池などがあり2011年にリニューアルした美しい庭園を見物後、すぐ近くにあるレストランで、これも定番料理のチキンレモンのタジンを食した。その後、午後のコースは、楽しみにしていたマリーン朝の墓地を見物した後、ブーシェルード門へ向い、世界一の迷路と言われる、フェズのメディナへ入った。ガイドが居ないとどこをどう歩いたかもわからない小路や街路を、ゆっくりと2時間ほど散策した。カラウィンのモスクや、又、タンネリ、スーク、ダッバーギーンも楽しみ、パプーシュという名物の履物を購入した。パプーシュは、所謂、先端が尖ったスリッパであり、土産品として喜ばれる。皮なめし工場はフェズで有名であり、見物をしたが、その強烈な臭気と、そこで働いている人の、劣悪であろう労働ぶりにびっくりした。
 世界遺産フェズ市街を俯瞰 |
 フェズの皮なめし工場 |
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旅の6日目は、フェズを出発して、モロッコを東西に走るアトラス山脈を越え、雄大な山並みや、荒涼とした砂漠、点在する緑豊かなオアシスなどを眺めながら、約450キロメートルを南下して、約8時間半をかけ6日目の宿泊地エルフードに向かうコースである。先ず、アズルーの街へ向かった。現地人ベルベル人の居住する街で、アズルーはベルベル語で岩を意味する。ここは岩山が多く、又、街のランドマークは、市庁舎近くのグラン・モスクである。バスの車窓から風景を楽しみながら、ミテルドの街へと進む。この街はモロッコでも高山に位置づけられている。雪におおわれたアヤシ山の麓にあって、都市部であるフェズや、エルフードなどの砂漠部の中間に位置している。朝9時頃にフェズのホテルを出発して、特に見物する場所もなく、モロッコの大自然を車窓より楽しみながら、午後5時半頃、メルズーカ大砂漠への入り口の街エルフードに到着した。エルフードのホテルは「リアドサラーム」というこの辺では中級のホテルで、早朝にメルズーカの砂漠の朝日を鑑賞するために宿泊するホテルと考えれば、辛抱出来るクラスのホテルである。日本人をはじめグループのツアー客が多く、それなりに客扱いには慣れているが、建物が古くて広く、自分の部屋にたどりつくまで時間がかかり、備品も古く、食事もあまりよくなかった。(以下次号)
マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その3)二宮健(35回) 2017.02.03
 モロッコ地図 |
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エルフードのホテルの周囲にはショッピングエリアなども無く、とにかく寝るだけのホテルであったが、地域柄仕方がないと思う。この辺は、安宿は治安が悪く、我々の宿泊したホテルは安全で安心なホテルだと、現地ガイドは言っていた。
旅の7日目は、早朝4時半に呼び起こしの電話が鳴り、メルズーカ大砂漠の朝日の昇るのを砂漠の中で見るツアーに、朝食抜きで、朝5時に出発した。まだ外は暗闇である。舗装がされていない悪路を約50キロメートルを4WD車で走り、6時前に駐車場に着き、大砂漠を見物した(写真@)。メルズーカ砂漠は、アフリカ大陸北部に広がるサハラ砂漠地帯の一つで、サハラとは「荒れた土地」の意味とのことだ。到着した6時頃も周囲はまだ闇であった。現地ガイドの案内でラクダや砂漠案内人の屯する場所へ移動した。
有料のラクダに乗って観光するか、歩いて砂漠の日の出の見える場所まで行くか聞かれたので、徒歩での時間を聞くと、片道約30分とのことなので歩くことにした。ラクダを先頭に一行が歩いた。すぐに砂漠に入る。驚くほど、砂漠は眼前から始まっていた。足首までつかるような細い砂を歩くこと約30分、うっすらと夜が明け始めた。ここから朝日を眺めるとガイドが言って、焚火をもやし始めた。少し寒いので暖を取っていると朝焼けが起こり、一斉に周囲が見えてきた。見渡す限り砂の波のような重なりの彼方より、日が昇ってきた。本当に感動的な風景で(写真A)、皆が一斉にシャッターを切っていた。鳥取砂丘も美しいが、比較が出来ない程の砂丘の大きさと途方もない迫力である。これもごくサハラ砂漠の一部でしかないと聞かされると、感動するしかない風景であった。
 写真@ 夜明け前のメルズーカ大砂漠にて |
 写真A 大砂漠の日の出 |
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見物を終え、同じ道をホテル迄引き返し、朝食をすませて、今日はワルザザートへ向う。西へ約360キロメートル、バスで約6時間30分の行程である。今日の車窓からも、モロッコを代表する景色が展開すると、現地ガイドがお国自慢をする。余談になるが、早朝の砂漠観光で、デジカメで写真撮影の際にシャッターに微小な砂漠の砂が入り、写真撮影が出来なくなったが、予備で持参したもう一台のデジカメに切り換えた。この辺は、私自身の経験から生みだした知恵である。すぐにカメラや予備の電池は手に入らない。海外旅行の際には予備が全てに必要である。
 写真B トドラ峡谷の断崖 |
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7日目はワルザザードへ向かう旅であるが、先ずバスはティネリールへと向かう。人口は4万人弱の小さな街である。ベルベル人の街である。今日のコースは変化に富んだコースで、「カスバ街道」と呼ばれ、土レンガで造られた大小のカスバを見ることが出来る。カスバとは城壁で囲まれた要塞のことである。そしてまた、途中のトドラ川の水を利用した街道一の美しい緑の映える、トドラ峡谷のオアシスがあり、土色のカスバと緑のオアシスとのコントラストが誠に美しい。このコースの途中には200メートルの切り立つ断崖が続く。モロッコのグランドキャニオンと呼ばれるトドラ峡谷(写真B)へ立ち寄り、ここで昼食をとった。ティネリールの街から、トドラ川の方へ向かいトドラ峡谷に入る。この峡谷はカスバ街道一の景勝地でもある。峡谷に立つ絶壁は、ヨーロッパのロッククライマーの聖地の一つに数えられている。絶壁にへばりつくように、レストランとホテルマンスールという安宿があり、このホテルで昼食をとった。料理は名物のクスクスであった。絶景をバックに写真を撮るのだが、とても岩山全体は人物を小さくとらないと撮れない途方もない大きさである。ホテルの前は美しい川が流れていて、景色が非常に美しい。昼食後、ダデス谷の村々の中で有名なエル・ゲル・ムグナの村を訪ねた。バラで有名な村で、バラ水(ローズ・ウォーター)を買ったが、バラの花自体は春で無いと見られないとのこと。花の時期にはバラ祭り(5月の第1週目の週末)が開かれ、その為に貸切バスが沢山訪れるとのことであった。
タデス川沿いにバスは更に西へ走り、ワルザザートのホテルに午後5時半頃に到着した。宿泊したホテルは、フアラージャノブホテルであった。四ツ星に登録されているが、実際には三ツ星クラスの程度で、安心して宿泊できるのが売り物の、ビジネスクラスのホテルである。ワルザザートは、アトラス山脈の南に位置し、ドアラ川のオアシス都市であり、モロッコでのサハラ砂漠観光の入口でもある。標高千百メートル位に位置し、人口は約6万弱である。今日7日目のコースは、早朝から大変きつい行程であった。
7日目の夕食を済ませ、今夜もワルザザートの超一流ホテルの探訪に出かけた。いわずと知れた、ベルベルパレスホテルである。5ツ星クラスとして有名であり、ワルザザート近郊で撮影された映画の出演スターは全てがこのホテルに宿泊しており、その主演映画のポスター等がホテル内に展示されていた。親切なスタッフによって館内を案内されたが、南モロッコ地方で随一のホテルだと自慢をしていた。プロの私の眼からもそれが理解できた。しかし常時、こんな場所でも宿泊客があり、高い料金を支払って宿泊する客は欧米系の客であろう。
 写真C アイド・ベン・ハッドウの要塞 |
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旅の8日目は、ワルザザートを朝の9時に出発して、世界遺産のアイド・ベン・ハッドウを観光した後、北へ向かい、オートアトラス山脈を越えて170キロメートル、約4時間をかけて、マラケシュへ向かうバス旅である。順を追って訪ねた場所を述べてみよう。今日も天気が良く、見物場所も大変特長のある場所だった。
アイド・ベン・ハッドウは、ワルザザードの西方約32キロメートルにあり、バスだと約30分で到着する。(写真C)古いクサル(要塞化した村)であり、世界遺産に登録された日干しレンガの建物群である(写真D)。ここは映画のロケ地としても過去何作にも使用された場所で、「アラビアのロレンス」や「ソドムとゴモラ」等々の他沢山の映画に使われている。今日の観光地の中でも圧巻の地である。1時間半程度徒歩で見て回り、いよいよオートアトラス山脈を進みマラケシュへ向かったが、途中まだ雪の残った山道を行き、標高2260メートルのティシュカ峠(写真E)を越えた。砂漠側のワルザザートと内陸南部の都市マラケシュとのオートアトラス山脈の分水嶺の峠である。ワルザザートからマラケシュへの道は人気のあるルートで道も舗装されており、車も多くはないが、そこそこの通行量はある。とにかく景色が雄大である。峠を下ると、タデルトの村に入り、休憩をとった。小集落であるが、難路を越えた旅人がやっと一息つける村である。朝9時にホテルを出発して、午後の3時過にマラケシュのホテルに旅装を解いた。マラケシュのホテルはアミンホテルという三ツ星クラスの大型ホテルで、新市街に位置し、日本人旅行者もよく利用するホテルである。マラケシュでは2連泊をする。部屋は古めかしい部屋であるが、浴室の湯が十分に出るのが、疲れた体には何よりである。
 写真D 日干しレンガの建物群 |
 写真E ティシュカ峠の標識 |
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 写真F 騎馬軍団のショー(マラケシュ) |
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マラケシュの旧市街は、多くの街と違って、地元の赤土を使った建物が多く、建物を薄い赤色に塗ることが条例で定められており、複雑に入り組んだメディナの路地は、ピンク色の迷路である。人はマラケシュ旧市街を「ピンクシティ」と呼ぶほどである。1985年に世界遺産に登録された街を巡ることになる。到着した夕刻に、夕食を兼ねて、この街で有名な騎馬軍団によるファンタジアショーの見物をした。有名なショーで、世界各国からの観光客が、夕食をした後に、ショーを行う広場を囲み勇壮な騎馬軍団のショーを見物した。(写真F)
(以下次号)
マグレブ浪漫−モロッコ紀行(その4)二宮健(35回) 2017.03.03
 モロッコ地図 |
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旅の9日目はマラケシュの終日観光である。最初メラナ庭園を訪れた。広い庭と大きな池を有する庭園で12世紀のムワッヒド朝につくられた。庭に植えられた草花や樹々が美しい。その後、バヒア宮殿を見物した。部屋の豪華さと、各部屋を仕切るアーチの形にもこだわりがあって、19世紀後半の、当時の大宰相の私邸から往時の豪華さが想像出来る建物である。その後、サアード朝の墳墓群を見学した。第一、第二、第三の部屋に分かれており、サアード朝(1549年−1659年)の代々のスルタンが葬られている(写真1)。
9日目の午後は、モロッコらしさが凝縮した、ジャマ・エル・フナ広場を訪ねた。夕刻まで自由時間の為に、広場を中心に周辺のスーパーマーケットも見物した。現地の人が「ジャマ」と呼ぶ広場には、ありとあらゆる屋台が集まり、熱気の渦が巻いている(写真2)。広場は旧市街にあり、11世紀後半にマラケシュに首都があった頃にも、すでに街の中心であったし、古くからモロッコの観光名所として有名である。2009年9月に世界遺産に遅まきながら指定されている。私は、自由時間に広場に面したレストランで昼食をとり、ゆっくりと広場を観察した。又、屋台でしぼりたてのジュースを飲んだり大道芸の雑芸(チップを要求されるので、小銭を用意しておいたが)を楽しんだり、十分に広場の雰囲気を楽しんだ。その後、ホテルへ一度戻った後、マラケシュで有名なホテル・マ・ラマムーニアを訪ねた(写真3)。宮殿ホテルであり、18世紀の建築で、これこそ五ツ星にふさわしい超一流ホテルである(写真4)。日本の近代的ホテルと違って、モロッコの伝統的建築様式である。この日も遅く宿泊先のホテルに帰り、マラケシュの2日間を終了した。
 写真1 サアード朝の墳墓群 |
 写真2 夜のジャマ・エル・フナ広場 |
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 写真3、写真4 マラケシュの五ッ星 |
 「ホテル・マ・ラマムーニア」内部 |
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旅も10日目を迎えたが、到着日に降雨があって以来ずっと晴天が続いている。旅の空は晴天が何よりのプレゼントと言える。マラケシュのホテルを午前8時に出発して、エッサ・ウィラへ向かう。マラケシュから西へ約174キロメートル、時間にして約3時間半のバス旅である。訪ねた街エッサ・ウィラも世界遺産に登録されている。紀元前800年ごろのフェニキア時代には既に港町として栄えており、歴史が古く、世界中から観光客が訪れるモロッコを代表する観光地の一つである。ポルトガル時代の城壁が旧市街のメディナを囲んでいて、私はスカラの北稜堡の展望台へ行き、この街のメディナとカスバと海を眺めた。スカラは絶壁に突き出した城壁であり見張り台となっていて、ずらりと大砲が並んでいる(写真5)。見物後、ムーレイ・エル・ハッサン広場に戻り、この街一番のにぎやかな広場のレストランで昼食をとった。この街はモロッコ人が国内で一番訪れたい街だということである。この街で有名な土産物は、アルガンオイルである。その後、エッサ・ウィラから、北東へ286キロメートル、バスで約4時間半をかけて、アルジャディーダへ向かった。この街もポルトガル都市の殘跡として世界遺産に登録されている街である(写真6)。ホテルには午後7時頃に着いた。
 写真5 ポルトガル時代の城壁 |
 写真6 アルジャディーダのポルトガル都市標識 |
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今日も強行軍であった。宿泊したホテルは、ムッサフィールという名のホテルで、イビスホテルのチェーンホテルであった。清潔ではあるが、世界的に同規格のホテルで、何の装飾もない。安価だけを売物にするビジネスホテルである。100室規模で海岸に建っていた。但しこの夜は満月で、雲一つない中天に輝く月にひとときの旅愁を感じた。
旅も11日目といよいよ終盤となった日は、アルジャディーダのポルトガル支配時代に造られた城壁に囲まれた旧市街のメディナを見物した。16世紀初頭、ポルトガル人によって造られたメディナである。メディナの中に世界遺産がある。アルジャディーダのポルトガル都市、ポルトガルの貯水槽、ポルトガル支配時代の教会、稜堡の展望台が残っている。この街は、1502年から1769年の間、ポルトガルの支配下にあったため文物共にその影響が色濃く残っており、貯水槽は特に有名で、内部は30メートル程の正方形であり、1542年に倉庫として使われていたものを、水を断たれた時の為に貯水槽に改造したものである。入口は小さいが、地下は巨大な空間となっており、天窓から明かりをとっている。今は水溜りしかないが、昔はこの巨大な空間に人間の腰あたりまで水を溜めていたそうだ。地下空間に残された建物の柱も美しい。この街のメディナはそんなに大きくはなく、純白の建物の多いスークを見物した。その後東約100キロメートルにある、この国一番の大都市カサブランカへ約1時間半かけてバスで走り、午後早い時間に市内に入り、すぐにカサブランカ市内を観光した。
 写真7 ハッサン2世モスク |
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先ず国内最大のモスクであるハッサン2世モスクを参拝した(写真7)。比較的新しく、1,986年から8年かけて建造し、1993年に完成をした。大きさでは世界第7位のモスクであるそうだ。とにかく巨大であり、日本の宗教建築でも比較できる大きさはないと思った。内部は新しいために、きらびやかで豪華である。カサブランカは人口が約415万人、カサブランカとは「白い家」の意味であり、モロッコの経済の中心地である。市の中央にある、ムハンマド5世広場を見物した。市庁舎や裁判所、中央郵便局などが集まる大きな広場で、市の活気が漲っていた。午後4時半頃にカサブランカのリボリホテルに着き、小憩をとった。立地の良いだけの四ツ星ホテルで、1泊するだけのホテルという感じである。総じて今回のツアーで利用したホテルは、三ツ星か四ツ星クラスで、宿泊するには安全で合格点であるが、訪ねた一流ホテルと比較すれば随分と見劣りがした。これは料金的なことであり、日本とて同じことが言える。しかし、それはそれとして、モロッコの世界遺産の数々や、各地の文物、風景は心に残る印象を私に与えてくれた。
 写真8 リックス・カフェ内部 |
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第11日目の夜、モロッコ最後の夜は、旅の土産話に、前回は訪ねなかった、米映画「カザブランカ」の舞台を模倣して造られた観光地、映画と同名の「RICK’S CAFE」
(リックス・カフェ)を訪ねた。日本人のモロッコに対するイメージは、1931年日本公開の映画「モロッコ」や、1946年日本公開の(製作は1942年)「カサブランカ」によるものが大きいと思う。ゲイリー・クーパーとマレーネ・ディートリッヒ主演の「モロッコ」もそうだが、ハンフリー・ボガード(リック・ブレイン役)、イングリッド・バーグマン(イルザ・ラント役)が演じる「カサブランカ」は、ラブロマンス映画として大ヒットしている。その映画の中で、リックの経営する酒場「リックス・カフェ・アメリカン」で二人が偶然再会する場所である。パリでの思い出の曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が流れる酒場である。映画のストーリーは御存知であろうが、何とこの映画はカサブランカはおろかモロッコですら撮影されておらず、全てハリウッドの製作である。酒場のセットをそのまま再現して、カサブランカで観光用に建設して、その名も同じく、リックス・カフェとして世界中から観光客を集めている(写真8)。そんなことを知ってか知らずか、嬉々として写真撮影をしている。料理と酒はまあまあだが、凝った内装で、ピアノ演奏も同じように弾かれて、料金は結構高かったが、映画ファンや、又話のたねにしたい人には、市内で夜の観光にはもってこいであろう。(一応予約を取って訪ねたほうが良い。)ほろ酔い気分でモロッコ最後の夜を過ごし、夜遅くホテルへ帰った。
帰路は往路の逆コースで第12日目にカサブランカを出発して、13日目に予定通り関空に帰着した。仲々に印象の強い、モロッコ一周の旅であった。(終)
微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その1二宮健(35回) 2017.11.18
 筆者近影 アンコールワット遺跡にて(カンボジア) |
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タイの東北部のことを、現地タイではイーサーン地方と呼ぶ。比較的タイ国内でも、経済的に貧しい地域である。今回は、そのイーサーン地方や、北部タイ、中部タイの遺跡巡り紀行である。北部でもチェンマイなどは観光地としても有名であるが、今回訪ねた地方には、まだ日本人観光客は少なく、これからの観光客誘致にタイ政府、タイ国際航空も熱心である。さて、そのタイ国際航空(以下タイ航空と記す)が、日本へ就航して50周年になることを記念して、平成26年に、JTBと共同企画で特別コースを設定した。「タイランド3大王朝物語10日間の旅」である。コースは玄人好みであり、一般受けのコースでなくタイ北部、タイ東北部、タイ中部の有名な遺跡を巡る旅である。案じた通り、リピーター向の、またタイ大好き人間向のツアーに特化したツアーの為に、3ヶ月間に3本設定されたツアーの内の1本は集客不良でキャンセルとなり、あとの2本も10名と9名の参加者であった。それでも、筆者は内容を吟味して勇躍参加した。これは、その旅行紀行である。
 写真@タイ航空就航当時のカラベルジェット |
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タイ航空が日本に就航した当時は、SAS(スカンディナビア航空)の子会社のような会社であり、機体も、プロペラ機のDC4やシュド・エスト社製の尾部にジェットエンジン2基を配した88人乗りの小型機(写真@)が、台北と香港を経由して、バンコックまで飛行していた。
飛行時間も短縮されていった。ただ、旧国際空港のドンムアンは、タイ航空のハブ空港として、また東南アジアの主要空港としては狭くなり、
 写真Aバンコック・スワンナプーム空港 |
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混雑もひどく、2006年にスワンナプーム新空港を開港した。(写真A)
私も仕事や視察、招待などで、昭和40年代後半頃から何回となくタイへ渡航したが、そのたびに航空機は大型化を繰り返し、今回の旅行で関空とバンコック間の往復に使用した機材は、現時点(平成26年現在)で世界最大の航空機エアバス380型機(A380)であった。ターボファン4発の超大型機であり、仕様により異なるが、600席という座席の多さである。(写真B)
 写真B超大型A380型機内 |
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平成26年12月17日水曜日の午前11時定刻に関空を離陸したタイ航空623便は、巡航高度12300メートル、時速785キロメートルで順調に飛行を続け、午後3時半(現地時間)にスワンナプーム空港に到着した。日本とタイの時差は2時間あるので、従って日本時間では午後5時半に到着したことになる。飛行時間6時間半である。先に述べたように、主都バンコックは何回も訪ねており、グループの仲間とは離れ、ホテルへ直行し、翌日から12月26日迄続く長期間のバス旅行に備えて、早めに就寝して休養した。今回の旅行は、タイ北部、タイ東北部(イーサーン地方と呼ばれている)、タイ中部の全行程をバスで巡り、そこに栄えたタイ3大王朝に点在する遺跡を見学するのが主目的である。世界遺産に登録されている3ヶ所の遺跡や、その他に、考古学的には有名であっても日本人観光客には馴染みの薄い遺跡、それ故に、我々のようなタイの歴史が大好き人間には、このコースが好ましく思えて参加をしたのであった。実際、後日この旅行のコースを振り返ってみると、旅の途中、日本人や日本人のグループには一度も出会ったことがなかった。これは私の数百回を数える世界各地への海外旅行経験からしても、稀有のことであった。この旅行で述べるタイ3大王朝とは、スコータイ王朝(1240年頃−1438年)、アユタヤー王朝(1351年−1767年)、トンブリー王朝をはさんで、チャクリー王朝(1782年?−現在まで)の王朝を述べている。
 写真C我々9人が利用したJTBの2階建てバス |
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旅行2日目の12月18日、早朝7時に宿泊したザ・スコーソンホテル(四ッ星ホテル)を出発した我々グループ9名と現地タイ人の日本語ガイド、運転手の11名が旅に出発した。JTBバンコック支店の2階建ての最新のバスである。(写真C)それぞれ好きな席に座っても、余席が随分ある。他人事ながら、これで収益が出るだろうかと心配をしたくなる。多分、特別設定の、日・タイ有好の為に採算は度外視しているのかも知れない。
 写真D幹線道路のドライブイン風景 |
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バスは一路北東に進路をとり、約5時間をかけて、ナコーン・ラーチャシーマーの街へ向かった。なお、全行程にわたって、トイレ休憩は幹線道路沿いにあるガソリンスタンドを中心にして、コーヒーショップ、コンビニエンスストア、ファストフード店などがある。清潔で気持良く休憩できる小広場となっていた。(写真D)ナコーン・ラーチャシーマーは、バンコックより東北255キロメートルにあって、別名、コラートとも呼ばれている。イーサーン地方への入口となる大きな街である。ナコーン・ラーチャシーマーは、タイでは、バンコックに次ぐ2番目に大きな街である。(写真E)
 写真Eナコーン・ラーチャシーマー市街 |
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街中のレストランで、ミー・コラート(コラート風焼きそば)などの名物料理を中心にしたタイ料理で昼食をとり、観光を始めることとした。この旅行中の昼食は、大部分がレストランでのタイ料理であったが、中華風の味付けで意外にグループには好評であった。利用したのは、訪れた各都市の大きなレストランであり、多分衛生面でも問題がなく、JTBとしては、安価で手配できたのであろう。ちなみに日本では2000円はすると思うタイ料理が、現地タイの地方都市のレストランでは500円位で食べられるし、屋台でなら、30−50バーツ(1バーツは約4円弱)もあれば食べられる料理も沢山ある。地方へ行けば行くほどに単価は安くなると思えた(2017年4月現在では1バーツ約3円40銭位)。
 写真Fターオ・スラナリー像 |
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タイ北部や東北部は例年10月下旬から翌年2月中旬頃までは乾期に入り、雨道具が心配ない程に晴天が続くといわれている。今日、12月18日も抜けるような晴天で、ナコーン・ラーチャシーマーの気温は摂氏30度である。昼食後、ターオ・スラナリー像(ヤー・モー像)を見物した。(写真F)市の中心部にあり、街の象徴でもある。1826年にラオス軍が街に侵入した際、副領主の妻として、この街を襲撃から守った女傑の像である。見物後に、ターオ・スナラリー夫人が1827年に創建した、ワット・サーラ・ローイも見物した。同女史の遺骨が安置されている。
 写真Gタイ北部で有名なピーマイ遺跡 |
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今日、2日目のスケジュールはなかなかハードである。午後にはタイのアンコールワットとも言われるタイ北部でも有数の遺跡のピーマイ遺跡を見学した。クメール様式の美しいスタイルで、約1000年程前に建てられたものである。(写真G)この地までアンコール朝(カンボジア)は勢力を延ばしており、素晴らしいクメール帝国の建造物を残したのである。この遺跡は1901年にフランス人の学者によって発見され、1989年4月に前国王の娘、シリントーン内親王を迎えて、一般に公開された。
 写真Hシーマ・ターニホテル夕食時の歓迎会 |
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遺跡内にはピーマイ国立博物館があり(1992年新築)、周辺から出土した美術品や立像等が陳列されている。陳列物は何の制限もなくすぐ近くで見ることが出来た。2日目はこうして終わり、ナコーン・ラーチャシーマー市の新市街入口近くにある、高級ホテルのシーマ・ターニホテル(四ッ星クラス)に入った。夕食はホテルで古典舞踊を見ながら(写真H)であったが、何と私達とガイド、運転手11名だけの為に、踊り子、楽団、ウエイトレスなど約30名のスタッフで歓迎をしてくれた。屋外でのステージでのショーは1時間半も続き、その間に食事をしたが、タイ人のホスピタリティーにグループ全員が感激をした。
旅の3日目、12月19日も晴天であり、最低気温18度、最高気温30度の予報である。湿度が高くなく、そんなに暑くは感じない。ナコーン・ラーチャシーマーで連泊をする為に、軽装備で出発した。連泊をすると楽に見学できる利点がある。今日は、前述のピーマイ遺跡とほぼ同時期に建立されたとみられる、近郊のパーム・ルン遺跡公園、ムアンタム遺跡公園、パノム・ワン遺跡を終日見学することになっている。これらの遺跡群は、日本人でも好事家か、考古学の専門家などが訪れることがあっても、日本人観光客が訪れることは少ない遺跡群だが、タイでは、ピーマイ遺跡などと同時期のアンコール朝の大遺跡として有名である。沢山のタイ人観光客がこの日も訪れて見学を楽しんでいたが、日本人や日本人の観光グループには、一度も出会わなかった。
(以下次号へ続く)
筆者プロフィール:
昭和29年土佐中入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家・JTBOB会員。神戸市在住。
微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その2二宮健(35回) 2018.01.02
 筆者近影 ウドーン・ターニーの露天食堂にて |
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パノム・ルン遺跡はカンボジア国境付近にあり(写真@)、ピーマイ遺跡や、カンボジアのアンコール遺跡と共に、アンコール王朝時代に建てられた、クメール王国の神殿跡である。この遺跡は2005年に17年にわたる修復を終えて、大神殿がかつての威容をしのばせる姿に復活した。(写真A)
パノムとは「丘」を意味しており、この神殿から眺める風景はタイの農村風景であり、その先には、カンボジアとタイの国境である、ドンラック山脈があり、山を越えるとそこはカンボジアである。寺院は402メートルの死火山の丘の上に建造されている。この神殿のレイアウトは、入口を入ると長さ160メートル、幅7メートルの石畳の参道があり、道の両側には70基の灯籠があり、進むとナーガ(蛇神)に護られた橋がある。
 写真@パノム・ルン遺跡 |
 写真Aパノム・ルン神殿群の一部 |
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ここから急な坂道の参道を丘に登ってゆくと神殿の前に着く。神殿正面入口上部に飾られた「水上で眠るナーラーイ神」のレリーフがある。縦66メートル、横88メートルの回廊に囲まれた神殿は壮大で、内部にはヒンドゥ教の神、シヴァの乗り物の牛が祀られている。外壁には多数のクメール様式の宗教装飾がほどこされていて、壮麗である。
 写真Bムアン・タム神殿内の人工池 |
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グループは、続いて、パノム・ルン遺跡より5キロメートルほど南東にある、ムアン・タム遺跡を見学した。10世紀から11世紀頃に建立されたヒンドゥ寺院である。120メートルと170メートルのラテライトの塀に囲まれた中には大型の塔が並んでおり、遺跡公園の中には大きな人工池があって(写真B)、ここから見る遺跡も美しい。言い伝えによると、往時には、ムアン・タムの神殿に詣でた後に、パノム・ルンの大神殿を参詣したとも伝えられている。
 写真Cパノム・ワン遺跡の大仏塔 |
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遅い昼食の後に、ナコーン・ラーチャシーマーの市内から北東約20キロメートルにあるクメール様式の寺院、パノム・ワン遺跡を訪ねた。創建時はヒンドゥヘ寺院であったが、後に仏教寺院になったようである(写真C)。ナコーン・ラーチャシーマー県にあるクメール遺跡の中でも、規模も大きくて修復もされていて見ごたえがある。但し個人旅行で行く場合は足の便が悪いようだ。
前述したパノム・ルン遺跡とムアン・タム遺跡はブリーラム県に属している。この県の主要なクメール遺跡である。この日も日本人や日本人グループに出会うことはなかった。ナコーン・ラーチャシーマーのホテルには午後6時半頃に帰りついた。
 タイ王国主要部 |
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旅の4日目、12月20日、今日はナコーン・ラーチャシーマーより、コンケーンを経由して、東北部のラオス国境に近いウドーン・ターニーの街へと北上する。ナコーン・ラーチャシーマーよりコンケーンまで約188キロメートル、コンケーンよりウドーン・ターニーまで約122キロメートルで、計310キロメートルをバスで走行するコースである。午前8時にナコーン・ラーチャシーマーのホテルを出発したバスは、気温30度、快晴の国道2号を右手にコラート高原を見ながら北上してゆく。もうこの辺までくると行きかう車はトラックや小型貨物車が多く、めったにバスには出会うことがない。圧倒的に多いのがトヨタ製の車である。タイ主都圏にくらべると、人々の顔や服装もずっと素朴になってくる。北上すること約4時間でコンケーンの県都、コンケーン市に着いた。人口約17万人である。
 写真Dコンケーン国立博物館内部 |
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我々は、ここでコンケーン国立博物館を見学した。あまり聞いたことのない街であったが、この国立博物館(写真D)は大変素晴らしかった。1階と2階には、手に取るような近さに、コンケーン周辺で出土した仏像、クメール様式のレリーフ、土器などが陳列されていて、ここも貸切のように誰もいない中で充分に見学出来た。館に接する庭には、バイ・セーマーと呼ばれている聖域を示した石板が目の前すぐに多数展示されており、日本の神社の神域のようであった。この博物館を見学出来たことは、望外の幸せという感がした。昼食をコンケーンでし、更に北上して、ウドーン・ターニーの大型ホテル(三ツ星クラス)バーン・チアンホテルに午後6時半頃に到着した。このホテルで連泊して近郊を見学する予定である。旅行中でこのホテルが一番悪かった。良いホテル(つまり高額なホテル)の中に、良くない低額のホテルを入れて、旅行会社は価格のバランスを計っているのだろう。とは言っても当地では指折りの良いホテルらしい。
この日の夕食は欠席して、ウドーン・ターニーの有名なナイトマーケット(夜市)を見物に行った。この街は市内で人口約16万、広域市域で人口が約40万人と言われており、ラオスの首都ビエンチャンと指呼の距離であり、定期バスもビエンチャンとの間で1日に7本も出ている。マーケットは、ウドーン・ターニーの駅のすぐ近くにあり、大きな夜店街となっており、街の人々や欧米等からの観光客で賑わっていた(写真E、F)。
 写真Eウドーン・ターニーの夜市 |
 写真Fウドーン・ターニーの夜市写真 |
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衣料品、民芸品、運動品店、装身具、漢方薬品店、食料品店、青果店、食堂等々、アーケードには数百軒もの店が密集しており、神戸でいえば、三宮駅から元町駅までの高架下商店街を数十倍したようなナイトマーケットである。イーサーン地方では最大の夜市である。ホテルでの夕食を欠席していたので、夜市の中の食堂ばかりが集まっている大きな屋台街で、現地の麺を使用した汁ソバを食べてみたが、ラーメンのような味で美味であった。
3時間近く夜市を見物して、小型オート三輪車(トゥクトゥクというタイの代表的な庶民の乗り物)にてホテルに戻った。その帰り道、トゥクトゥクの後方すぐの所で何やら黒い大きいものの気配がするので、ふり返って見ると、大きな象が歩いている。象を使う人も見えないのに、象がゆっくりと街の夜更けの大通りを歩いている。人通りは少なくなっているとはいえ、誰もそれには驚かない。こちらがびっくりしてしまった。
この街はかつてのベトナム戦争の時に、アメリカ空軍駐留の街として発展し、ベトナム空爆の基地として有名であり、ある意味での、タイの“負の部分”を背負う街でもある。しかし、その関係から街は拡大し大きく発展もした。
 写真Kウドーン・ターニー市内のNo.1ホテル“センタラホテル” |
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旅行5日目は12月21日、今日も晴天だ。ウドーン・ターニーでもう1泊するため、軽装で出発。いつものことながら、連泊すると旅は楽である。同行をしているタイ人のガイドとも、グループの人々は打ちとけてきて、日本語で冗談もとびかっている。バスは午前8時にホテルを出発して、このコースで初めての世界遺産「バーン・チアン遺跡」の見学に向かう。ウドーン・ターニーの東約45キロメートルにあり、1992年に世界遺産に登録されている。この遺跡が発見されたのは1966年のことである。発見当初は紀元前7千年から3千年前の遺跡とされ、世界最古の文明の一つとされたが、ラジオカーボンデータによって紀元前2千百年頃から紀元2百年頃の遺跡と推定されるようになった。
 写真Hバーン・チアン国立博物館 |
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発掘現場は、バーン・チアン国立博物館から徒歩10分位にある、ワット・ポー・シーナイ境内である。ここで発掘された土器や、タイ各地で出土した遺物が、国立博物館(写真H)に展示されている。この博物館は2012年に拡張されており、館内には、ジオラマで展示された発掘現場も再現されている(写真I)。館内では、紀元前に製作された、バーン・チアンの独得模様のあるやきもの(写真J)など、タイの貴重な文物が展示されており、ここでも目前に展示物を見ることが出来て、至福の時間を過ごせた。また、近くの村では土産物用の、大きなものから小さなものまで、バーン・チアン独得の絵付けをした焼き物が売られており、私もスーツケースに入れられる小さい焼物を買った。遺跡見学後、ウドーン・ターニー市内に帰り、市内で一番と言われている、センタラホテルのレストランで豪華な昼食(写真K)をとって、午後の見学に向かった。
 写真Iバーン・チアン国立博物館内のジオラマ |
 写真Jバーン・チアン国立博物館の展示品 |
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(以下次号へ続く)
微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その3二宮健(35回) 2018.01.21
 筆者近影・写真Eプールアリゾートにて |
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この日の午後は、ウドーン・ターニー北西約64キロメートルにある、プー・プラ・バードの見学に行った。奇岩・奇石の並ぶ風景(写真@、A)に圧倒される。ここでも先史時代から人が住んでいたと、現地の英語ガイドが説明をしてくれた。その根拠として、岩に描かれた絵(写真B)は先史時代のものだと説明してくれた。ここはゆっくり見て回れば優に半日は要する公園で、次から次へと奇岩が現れてくる。洞穴を含む主な場所は、ここ歴史公園専属のガイドが必須である。我々グループも英語ガイド付きで手際よく、主要な場所を約2時間かけて、トレッキングをするように公園内の広い範囲を歩いた。この公園には、日本人が訪れることが少ないために、米、独、仏語を話すガイドは居ても日本語ガイドは居ないということであった。
 写真@ |
 写真A プー・プラ・バードの奇岩 |
 写真B プー・プラ・バードの岩絵 |
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今日も気温約29度の晴天の中での見学を終わり、連泊2日目のウドーン・ターニーのホテルへ帰着したのは午後6時頃であった。
旅も6日目を迎えた12月22日、今日はバスで西方へ向かう。ドンパャージェン山脈を越えて、ウドーン・ターニーの西南約260キロメートルのピッサヌロークへ向かうのだ。朝の8時にホテルを出発したバスは、タイの最北部を西へ進むのだが、山間部の景色がバスの左右に展開してゆく(写真C)。大きな街もなく、小集落がバスの車窓を過ぎてゆく。目的地ピッサヌロークまでは、山道をウドーン・ターニーからバスで約6時間の道のりである。途中、プールアリゾートという場所に昼前に到着した。(写真D)。ここで昼食の予定である。
 写真C タイ最北部の山間部の風景 |
 写真D プールアリゾート |
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我々のバスは高原を登るほどに、車内でも段々と冷気を感じてはいたが、昼食のため車外に出ると風が少し強く、これが南国タイかと思う程に寒くて、グループ全員とガイドは、持参した服の中で一番暖かいセーターなどを着用する寒さであった(写真E)。気温は、ウドーン・ターニーの29度から、17度にまで下がっている。一気に12度も気温が下がると体感的には寒さを感じてしまう。
この辺りは、プールアナショナルパークに指定されていて、ハイキング、トレッキング、登山などでタイ国内では有名な場所らしい。高原の保養地として、ホテルやコテージが点在していて、暑熱のタイの平地とは別天地の場所である。日本の避暑地のような混雑は全くなく、自然そのままの風情がある。ホテルの野外テラスにあるレストランで、余りおいしくはなかったが、山地独特の料理を味わった。峠のレストランからバスは一気に山を下り、今夜から2連泊するピッサヌロークの街へ入った。この街はナーン川に沿って広がっており、スコータイ王朝時代の首都であった。現在は人口約8万5千人で、スコータイ遺跡を訪れる人々の宿泊地の街となっている。
 写真F チンナラート仏 (タイ一番の美しい仏像) |
 写真G アマリン・ラグーンホテル |
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我々は、ピッサヌローク到着後すぐに、ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート(ワット・ヤイ)を訪ねた。タイで最も美しい仏像として有名で(高さ3メートル50センチ)、ピッサヌローク地域の公式なシンボルである、チンナラート仏を見物するためである。(写真F)。参拝をする人達がひきもきらずに堂内をうめている。この寺は1357年に、スコータイ王朝のリタイ王によって造られた。ピッサヌの意味は、ヒンドゥ教の神である「ビシュヌ神の天国」とのことだ。また、ロークとは、地球又は世界を意味しているとのことだ。この街はスコータイ時代もアユタヤー王朝時代にも重要都市であり、街の人々も誇り高い人達だと聞いた。寺院見学後に、午後6時頃、市内のアマリン・ラグーンホテル(五ッ星クラス、写真G)に到着した。
今日は気温29度のウドーン・ターニーから17度のプールア、そして再び29度のピッサヌロークと、気温差の激しい1日であった。宿泊したアマリン・ラグーンホテルは、ピッサヌロークでも最高級のホテルであり、敷地も広くゆったりとしたホテルである。6日目も終わり、グループの仲間も疲れもあって夕食後早い時間に就寝したようだ。
 写真H ピッサヌローク郊外 の黄金大仏 |
 写真I シー・サッチャナーライ歴史公園の遠足園児 |
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旅の7日目、12月23日、今日も快晴である。朝食後8時にホテルを出発し、郊外にある有名な黄金仏(写真H)を見学した後、スコータイ時代の重要な遺跡シー・サッチャナーライ歴史公園の見学である。公園は広大であり、遺跡数が2百以上あるから、いかに大規模かがわかる。従って園内は専用車で巡る。我々が訪ねた日には、幼稚園児が遠足に来ていた(写真I)。
先ず、ワット・チャン・ロームとワット・チェディー・チェット・テーオを巡った。
 写真J ワット・チャン・ローム の仏教寺院 |
 写真K ワット・チェディー・チェット・テーオ寺院 |
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ワット・チャン・ロームは13世紀の仏教寺院で、象によって囲まれ、ベル型の仏塔が38頭の象で支えられている(写真J)。ワット・チェディー・チェット・テーオはワット・チャン・ロームの向かいに建つ寺院で仏塔が7列に連なっている。そのことから、この名が付けられた。ここは、ヒンドゥ・仏教・ラーンナータイ様式などと頭が混乱するほどに仏塔が建っている(写真K)。中央にはスコータイ様式といわれる、蓮のつぼみ型のチューディ(仏塔)がある。
 写真L ワット・マハタートの 大きな仏像 |
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午前のコースを終わって、昼食後は、このツアーで2番目となる世界遺産スコータイ遺跡を見学した。スコータイはピッサヌロークの西北約56キロメートル、バスで1時間ほどの場所にある。スコータイとは「幸福の夜明け」を意味するとのことで、その名の通り、1238年ここにタイ族最初の王朝が建てられ、140年間と短期間ではあるが、この王朝時代に築かれた寺院遺跡が数多く残されている。このスコータイ歴史公園(ムアン・カオ)に向かい、最初にワット・マハ・タート(写真L)を見学した。14世紀の重要な寺院であり、仏陀の遺骨を埋葬する為に、1374年にラチャシラット1世が建立したと言われている。ビルマ軍の侵攻により破壊されたが、1956年に遺跡の発掘調査が行われ、貴重な文物が発掘された。ビルマ軍に切り落とされた仏頭が長い年月に生い茂る木に持ち上げられ、「神聖木・トンポに眠る仏頭」としてスコータイ遺跡の中でも特に有名である。
次にワット・スラシー(写真M)を見学した。池に浮かぶ小島にあるチューディー(仏塔)は、スリランカ(セイロン)様式の釣鐘型である。
 写真M ワット・スラシーの仏像 |
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次にワット・トラバン・ングンを見学した。遊行仏の彫刻の見られるワット・マハタートの西側の「銀の池」の西側に、ワット・トラバン・ングンのチューディーがある。
 写真N ワット・シーチェムの仏像 |
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スコータイ遺跡の見学の最後に、ワット・シーチェムを見学した。この遺跡もスコータイを象徴する寺院である。屋根の無い、32メートル四方、高さ15メートル、そして壁の厚さが3メートルもある本堂内に大きな手で降魔印を結ぶ座仏像(写真N)は、スコータイ遺跡を紹介する際によく掲出される写真である。この仏像は、ラームカムヘーン大王の碑文の中で、「おそれない者」という意味の「アチャナイム」と呼ばれている。
スコータイ歴史公園は総面積70平方キロもあり、他にも沢山のワットがあるが、今日旅行7日目の午後は、スコータイ遺跡の有名な4か所の遺跡を巡った。かけ足で巡ったが、よく整理をしないと、どれがどの遺跡か分からなくなりそうで、この原稿を記するにあたっても、訪問時刻と写真を照らし合わせながら書いている。
7日目の夜は、グループ仲間と話し合って、夕食後に全員で行きたいと言うので、バスとガイドを手配して、ピッサヌロークのナイトバザール(夜市)へ行った。ナーン川沿いに広がるマーケットは、ウドーン・ターニーほど大きくはないが、それでもかなり大きくて賑わっていた。
(次号へ続く)
微笑む神々(タイ国イーサーン紀行)-その4二宮健(35回) 2018.02.25
 筆者近影・アユタヤクルーズ船のデッキにて |
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グループの仲間は旅にも慣れ、北部タイの商品の値段にも慣れて、マーケットでの土産品選びに余念がない。衣料品、靴、装身具など品物が山積みされている。
 写真@ パックブンビンの店(ピッサヌロークの夜市) |
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グループの中に貴石類を使用したブレスレット(腕輪)の専門家がいたので、日本円に換算して3千円位の品を私自身用に買ったが、日本では1万円位で取引されていると聞いて、ちょっと得をした感じである。このバザール(ピッサヌロークの夜市)で有名なのは「空飛ぶ空芯菜(くうしんさい)炒め」の店「パックブンビン」である(写真@)。
 タイ王国主要部 |
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12月24日、旅も8日目を迎えた。天気予報は晴れで、気温は30度との予報である。真夏の気温での南国タイでのクリスマスイブである。いつものとおり、ピッサヌロークのホテルを朝8時に出発したバスは、約300キロメートル南下してアユタヤへと向かう。先ずナコーン・サワンを経由して、ロップリーへ向かった。ロップリーはアユタヤからすると北に位置する街で、アユタヤからバスで約1時間半ばかりの所にある。アユタヤ時代にはナーライ王により王国第二の都市とされた。現在は人口約3万人の地方都市である。ロップリーには、クメール、スコータイ、アユタヤ様式の遺跡があり、サン・プラ・カーンの遺跡を見学したが、ここは猿に占拠された感じのする寺であり(写真A)、街の中にも猿が横行している。「猿寺」としても知られており、ラテラート(紅土)の山のような土塁はクメール時代のものである。昼食後、プラ・ナーライ・ラチャニウェート宮殿(現国立博物館・キングナーライパレス)を見学した。1665年から13年をかけて、タイ・クメール・ヨーロッパの折衷様式で建築された宮殿であり(写真B)、中心にあるのが、ラーマ4世が1856年に建てたピマーン・モンクット宮殿である。アユタヤ王朝時代の仏像やクメールの美術品、ラーマ4世の遺品などを展示した博物館として使用されている。
 写真A ロップリーの サン・プラ・カーン遺跡(通称「猿寺」) |
 写真B キングナーラーイパレス(ロップリー) |
 写真C クルンシーリバーホテル(アユタヤ) |
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昼食をはさんだ短時間のロップリー見学を終え、バスは更に南下してアユタヤへと向かった。もうバスは最終地バンコックまであとわずかな地点まで進んでいる。ロップリーからアユタヤまではバスで約2時間かかり、午後4時過ぎに、アユタヤの一流ホテルであるクルンシーリバーホテルに到着した(写真C)。
 写真D 真夏のサンタクロース(アユタヤ) |
 写真E ライトアップされた アユタヤ遺跡の一部 |
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このホテルは築20年であるが、その割には手入れが良く、ホテルスタッフも親切である。今日12月24日はクリスマスイブ。ヨーロッパ各地の雪のクリスマスマーケットは、広い範囲に何回も訪れた経験があるが、気温32度の暑い国でのクリスマスイブは初めてである。それでもホテルでは、雪の降り積もったクリスマスツリーで演出をしていた。また、サンタクロースも登場して(写真D)、賑やかにクリスマスイブを祝っていた。この日の夕食はタイスキであり、久し振りに鍋を囲んで、グループ全員が舌鼓をうった。
 写真F クリスマスパーティー会場 |
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夕食後に、このツアーでは3番目となる世界遺産「アユタヤ遺跡」のライトアップを見物に出かけた(写真E)。我々グループの他には、地元の人がチラホラと遺跡公園には居たが貸切り状態で、ライトアップされた寺院群を鑑賞した。日本から持参した小さなLEDの懐中電灯と電池式の蚊退治機が役に立った。ホテル帰着後は、グループから別れて、有料のクリスマスイブパーティに深夜まで参加した(写真F)。
いよいよ旅も終盤を迎えた9日目の12月25日は、午前中に世界遺産アユタヤを見学して、午後にはアユタヤクルーズ船にてチャオプラヤ河をバンコックへ向かう。
アユタヤはバンコックの北87キロメートルにあり、三つの川に囲まれた中州の島に1350年に建てられた。絶頂期にはカンボジアからビルマまでを領土としたが、1776年にビルマ軍の侵攻によって崩壊した。北のスコータイと共にタイの遺跡都市として有名である。
 写真G ワット・プラ・シー・サンペットの仏塔群 |
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我々は先ず、ワット・プラ・シー・サンペットへ向かった。アユタヤ王朝の守護寺院である。3基のチューディ(仏塔)は、ビルマに侵攻された際に破壊されたが、現在のものは15世紀に建てられた(写真G)。次にワット・マハタートへ向かった。ワット・プラ・シー・サンペットと並び称される重要寺院である。14世紀に建立されたが、ビルマ軍侵攻によって破壊され、木の根に取り込まれた仏像の頭部(写真H)とレンガ積の仏塔が残されている。この仏像の頭部像はアユタヤ遺跡を代表するものとして有名である。1956年にワット・マハタートを発掘した際に多数の仏像と宝飾品が出てきて、当時の栄華がうかがわれたそうだ。発掘品はアユタヤのチャオ・サームプラヤー国立博物館に展示されている。
 写真H ワット・マハタート寺院の 仏像の頭部(木の根に注目) |
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その後、ワット・ラーチャプラナートを見学した。この寺院は、1958年修復の際に、8代王が兄の為に収めた宝物が発見されている。王位継承に敗れた2人の兄を火葬した場所に、1424年に建立されたと伝えられている。陸路のバスでの見学はここで終わり、このコースで初日の12月17日から9日目の25日までの走行距離は約1500キロメートルに達していた。
代表的なアユタヤ遺跡を見学した後、午後にアユタヤ近郊のワット乗船場よりアユタヤクルーズ船に乗った。バンコックへ向かう観光船である。船内でビュッフェ形式の昼食をとる。洋食、中華、フルーツと共に寿司などもあって、観光船の食事としては質量と共に豊富である。唯一の日本人グループの我々と同船していた欧米や北欧の人々も満足をしていた。船室の冷房のきいた部屋からも見物できるし、船首と船尾部分に椅子を備えたデッキ展望部もあり、天気の良い日には、チャオプラヤ河の風に吹かれて、両岸、上流、下流の風景が満喫できる構造となっている(写真I)。チャオプラヤ河を下り、ワット・マハタート、ワット・プラケオ、王宮、ワット・アルン(写真J)など、バンコック市内の有名な寺院等を左右に見ながら、バンンコック市内の観光船の終点に到着した。
 写真I アユタヤクルーズ船のデッキにて |
 写真J ワット・アルン(暁の寺) |
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その夜グループは、夕食をとった後、市内の歓楽街ハッポンのナイトバザールを見物して、宿舎のホテル(最初の日に宿泊したホテル)へ午後10時半頃帰る予定であった。私は、バンコック市内は従前から何回となく訪れているので、グループを離れて、世界中に知られている、ニューハーフショーで有名なショーシアター「マンボ」を見物に行った(写真K)。
 写真K ニューハーフショーで有名な「マンボ」(バンコック) |
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最近郊外に移転して舞台も大きくなっており、ショーダンサーも一流の芸を披露する有名店である。1200バーツ(約4500円〜5000円)で見物でき、旅行社のオプショナルツアーのVIP席料金より安いので、自分個人で見物に行ったが、初めての旅行客には、安全で送迎付きのツアーに、旅行社か宿泊ホテルを通じて申し込むことをおすすめする。私もショー終了後すぐホテルへ帰ったが、午後11時半ごろになっていた。
グループの9名は、旅行中に病気やトラブルもなく、旅行最終日の10日目に、連日30度前後の暑い国タイから、気温6度の日本の関空に無事帰国した。ありきたりの観光コースではなく、遺跡と寺院を中心にした内容に全員が満足した旅行であった。行く先々で神像や仏像がおだやかに微笑んでいた。
(終わり)
プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その1〜二宮健(35回) 2018.09.12
 著者近影(シチリア島にて) |
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2015年にバリ島を訪れた外国人観光客は395万人で、その内の日本人観光客は、約23万人とのことである(州政府観光局)。
さて、唐突であるが、今迄にバリを訪ねたことのある人の中で、ヨハン・ルドルフ・ポネという1896年にオランダのアムステルダムに生れ、バリ島に長い間住み、バリ芸術、特に美術発展に功績を残して、1978年にオランダで死去した人とか、グスティ・ニョマン・レンバットという名前で1862年にバリ島で誕生して、1978年に116才で死んだ、日本で言えば、文久年間に生れ昭和年代に死去したバリの画家を御存知だろうか?本題から外れるので詳伝は割愛するが、彼等を含む沢山の先達が、今のバリ島の観光の先鞭をつけたことに、異論は無いことと思う。そこまで思いを致して、バリ島を観光する人は皆無に近いかもしれない。私が、初めてバリ島を訪れたのは、1978年(昭和53年)であった。それ以降20回近く訪ねたバリ島の今昔を書いてみた。
 1978年当時の インドネシア入国の査証 |
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丁度初めてバリ島を訪ねた1978年は、現在76才の私が36才の年齢であり、その年にリリースされた山口百恵の「プレイバックPart2」というシングル版が大ヒットした年でもあった。ちなみに山口百恵は当時19才であった。そんなことから、表題を「プレイバック・バリ」とした。そしてその頃からのバリ島を振り返ってみたい。
約40年前のバリ島は、未だまだのどかな観光地であった。観光訪問が目的でもインドネシア入国の査証(VISA)が必要で神戸のインドネシア総領事館を訪ねて査証申請をした。
1978年当時は、バリ島のデンパサール空港へ向うのには、大阪伊丹空港の国際線を出発して、香港で乗り換へて、デンパサールへ向うキャセイ航空利用か、もしくは、同じく伊丹発でシンガポールへ向いそこで乗り換へてデンパサールへ向うシンガポール航空を利用するのが、関西からは便利であった。両航空の使用機材は、今ではほとんどが退役をしているが、当時は新鋭機種の一つであるB-707(ボーイング707型)機であった。
 キャセイ航空の 当時のB-707型機 |
 シンガポール航空の 当時のB-707型機 |
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伊丹と香港間は、所要約4時間30分、香港とデンパサール間は約6時間で計約10時間30分、また伊丹とシンガポール間は約7時間30分、シンガポールとデンパサール間は約3時間で計約10時間30分と、いずれのコースを取っても乗り換へ時間を加えると約12時間を要して、伊丹から、バリ島のデンパサール国際空港へ到着した。ちなみに現在は、関西国際空港から、3274マイルの距離を約7時間20分で飛行している(直行便の場合の飛行時間)。それだけ約40年前からすると、バリ島は関西から近くなったと言える。私自身は1978年から、1979年の二年間に計3回バリ島を訪れた記録が、旅券の出入国欄に残されているが、特に1979年には、「エカ・ダサ・ルドラ」と呼ばれる、バリヒンドゥ教の、100年に一度の盛大な儀式があり、これはバリヒンドゥ教の総本山であるブサキ寺院で行われた。同寺院はアグン火山の中腹に位置し、バリヒンドゥ教の崇拝の頂点に立つ寺院である。当時大統領であったスハルトや多数の要人が参加して、世紀の祭典を祝った。
 バリヒンドゥ教の総本山ブサキ寺院 |
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インドネシアは人口約2億3500万人の中でムスリムが約87%、ヒンドゥ教は1%未満であるが、バリ島ではほとんどが、ヒンドゥ教徒であり、バリヒンドゥ教徒と呼ばれている。現今、ムスリムの島内への浸透も多い。さて、この1970年代の末頃から、観光客が増えてきたように思える。アグン山とブサキ寺院は、バリヒンドゥ教徒にとっては、宇宙の中心と考えられており、私もアグン山に登り、同寺院を外側より拝見をした。ブサキ寺院の背後には、バリ島最高峰アグン火山があって、景色も非常に美しい。さてそのブサキ寺院は、三十数ヶ寺の集合体寺院であり、それぞれの寺院に由緒があるのは日本の神社とも似かよっている。全ての寺院に神が降ってくる一年に一度の大祭はその年によって異る。そのブサキ寺院で100年に一度の大祭が1979年に行われたのだ。さて当時のバリの空港は、バリの英雄ヌラライからとってその名をヌラライ空港と呼ばれていたが、現在の小さいながら機能的な国際空港からは、想像も出来ないバラックのような空港施設であった。
 ヌラライ(バリ島)空港旧空港施設 |
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国際空港と呼ばれるには、程遠い空港であった。また当時は、入国管理官は少しでも問題があれば(それも一寸したミス)、当然の如く、袖の下(賄賂)を要求するような施設であった。また航空機に預けた荷物を引き取るターンテーブルでも、ポーターが荷物を奪い合って、チップを要求するような、無秩序な状況であった。このヌラライ国際空港は1969年に、ジャカルタについでインドネシアで二番目に国際空港として開港した。私が初めて訪ねた頃は、空港からホテル迄、暗闇の中を、小型チャーターバスで、ツアーの客は運ばれた(大型バスはまだ運用されていなかった)。
1978年頃は団体ツアーと言ってもバリ島へのツアーは一団体にせいぜい15名から20名未満であり、新婚のカップルも二組から三組位参加をしていた。私が初めてツアーを引率した時の参加カップル(高松市と加古川市から参加)に既に孫が誕生されている。当時私は36才であり、彼等は25才位であった。毎年年賀状をいただいて、近況を知らせていただいている。いかに時間が過ぎるのが早いかを思い知らされている。その頃のバリ島のホテル事情は、一流ホテルと言われたものは、日本が太平洋戦争の戦後賠償金で支払ったお金で建築された、サヌールビーチにあるバリビーチホテルしか無かった。今も営業をしているが、当時の最高級ホテルの面影はなく、何回もの改築の後、一応五ツ星クラスにランクはされているが普通の変哲のないホテルになっている。しかし当時は欧米を含めてバリを訪れるお金持の観光客や日本からの団体客は、ほとんどがこのバリビーチホテルに宿泊をした。
 現在のバリビーチホテル |
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バリで忘れられない思い出の一つは、最初にバリを訪ね、バリビーチホテルに宿泊した翌朝、ホテルの前のサヌールビーチに立った時である。朝日が昇り、朝日にまぶしく輝く長大なビーチに椰子の木と、その下に現地の人がまばらに居て、観光客にヨットの客を引いている姿であった。余り商売熱心でなく、本当にゆったりと時が流れており、自然そのままの砂浜であった。浜は海水浴には向いていないとのことで、海水浴客もなく、キラキラと輝く海と砂浜と朝日がそこにあって、何とも言い難い美しい風景であった。今のバリにはのぞむべくもない、自然がまだ残っていた。
その、一流ホテルと言われた、バリビーチホテルも規模が大きいのに、娯楽施設と言えば、卓球台と雑貨店のような売店と、ゴルフをする人の為に九ホールのプライベイトゴルフ場があるのみであった。それでも、夜を迎へて夕食時には戸外の舞台で演じられるレゴンダンスなどが華やかに演じられて、これも初めて観る私には、大変魅力的であった。その後も20回近くのバリ島訪問では、バロンダンスやケチャ、チャロンアラン、トペンやガンブーなどの踊りに接するようになった。
(以下次号)
プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その2〜二宮健(35回) 2018.09.25
 著者近影(シチリア島にて) |
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当時は、バリ島の受け入れ旅行社は通称ナトラブ(ナショナル・トラベル・ビューローの略称)というインドネシアの半国営に近い旅行社のバリ事務所が、島内のバスやガイド、ホテルなどを手配しており全てにゆったりとした気風であった。
その後、日本人観光客が沢山バリを訪れるようになると、あっという間の短期間に日本資本の大小の旅行会社がバリ島を席捲した。なんとなくあの当時のゆったりしたバリを知る筆者には淋しさが残る。つまり旅本来の持つ、余裕が旅には無くなったように思える。何回かバリを訪ねるうちに、上流のカーストである、僧侶階級のカーストの出身であるガイドと親しくなり、このガイドの通称ヌラーさんから、観光のあいまに、例えばケチャダンスの鑑賞を旅行客が楽しんでいる間とかに、バリヒンドゥの概略を教えてもらった。
 写真@ 神々へのお供へ |
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彼は現地人の旅行ガイドであったが、知識人であった。その後も、沢山のガイドと仕事を一緒にしたが(後述のガイドなどと)、彼のバリヒンドゥ教に関する知識は、私にとって大変バリを知る上に参考になった。最近出版されるバリの案内書にも、彼から聞いたバリヒンドゥ教の教えの一端が述べられている。バリヒンドゥ教には、沢山の神々がいて、多神教と思われているが、そうではないと彼は言ってサンヒャン・ウィディ・ワサのことを教えてくれた。バリには多くの神々がいるが、その中で、ブラフマ(創造神)、ヴィシュヌ(維持する神)、シヴァ(破壊する神)の三つの神と、それぞれ各神の妻である、サラスワティ(知恵と献身の神)、スリ(稲の神)、ドゥルガ(魔女ランダ)の六大神が特に大切な神とされているが、これ等の神々は唯一無二の神、サンヒャン・ウィディ・ワサに属し、バリ島におられる神々は全てこのサンヒャン・ウィディ・ワサの化身であるから、バリヒンドゥ教は多神教ではないと彼は述べた。最初私は、なかなか理解できなかったが、バリ人はそれを信じていることがわかり、そんなものかと思ったが、インドネシア共和国の宗教政策にも沿った考えのようだ(建国五原則パンチャシラの中の唯一神への信仰)。しかし、それぞれの寺院や神々へ供える供物は美しい花やきれいな果物が多くカラフルである。(写真@)
 写真A チュルクの銀細工店 |
 写真B バリ木彫の中心地マスの工房 |
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さて観光の面からみると、今日のようにホテルや見物個所もそんなに多くはなく、私が訪ねた最初の頃(1978年頃)は、観光の定番コースとして、貸切バスでホテルを出発し、キンタマーニへ向った。途中の村のバトゥブランの村で地元の青年団などが演じる、バロンダンスを30分程度見物して、その後北上してチュルクの村に散在する金銀細工(主に銀製品が多かった)に立ち寄り(写真A)、ちなみに値段は交渉次第で約四割〜五割値切れる品もあった。その後更に北上して、バリ木彫の中心地(写真B)、マスの集落の木彫工房でショッピングを楽しんだ。我が家にも当時買った木彫の作品が数点あるが、拙宅を訪ねる友人は、本当に良い作品だとほめてくれる。帰国時に重くて苦労したが、昨今、百貨店で行われているバリ商品の卸売り会のように、アレンジをした木彫ではなく、堂々たるそして素朴な木彫品が当時のバリには多かった。銀細工にしても木彫品にしても、職人が精一杯の仕事をして制作した品が多かったように思う(これ等の店も押し寄せる観光客に段々と品格を落としていったのが寂しい気持がする)。
 写真C ウブドの遺跡“象の洞窟” |
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そしてその後、今をときめく、ウブドの集落を訪ねたが、その頃はウブドには観光案内所も無く、電気が引かれて四年か五年しか経ていないまだ田舎の村であった。今はバリ島内でも最高級クラスのホテルが内容と値段を誇り、日本の星野リゾートの“星のやバリ”が2017年1月に開業し、一泊九万円前後のルームチャージでオープンをしているが、当時はひなびた山村であった。
ウブドの村はずれに、1923年に発見された、ゴア・ガジャという“象の洞窟”があり、その遺跡を40分程見物した。(写真C)その後、一路キンタマーニへと向った。キンタマーニ高原は、バリ島でも著名な観光地として知られ、中心部にはカルデラ湖のバトゥル湖(キンタマーニ湖)がある。この湖は、2012年に世界遺産に指定されている。またここから眺望する、バトゥル山は、1717米の標高で1917年と1926年に大噴火をした活火山である。眺望を楽しみながら、キンタマーニのレストランで昼食のバイキング料理を食べるのが定番コースであった。何回目かの訪問時に大砲のような音を立てて噴煙を上げて噴火した時は肝を冷やしたが、レストランの従業員は、よくあることだと平気な顔であった。
 写真D バトゥル湖よりバトゥル火山を望む |
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湖をへだてたこの火山は、バリヒンドゥ教徒が「地球の第一チャクラ」と呼んでいる。このレストランのあるペネロカンの集落から見るバトウル火山は素晴らしく眺めが良い。しかしこの地の土産物売りの押売りは、今でも有名だがそのしつこさは当時もひどかった。観光バスが食堂の駐車場に着くやいなや、あっという間に数十人とも思える土産物売りがバスを取り囲んでしまい、それを無視してレストランへ入らないとずっと買う迄くっついてくる。それなのでバス到着前に注意しておいても、御夫人方の中には、子供の物売りに対して同情心からか、語で何かを語りかけると、もう何か買うまで離れてくれない。
 写真E 当時の500ルピアインドネシア・ルピア |
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そんな態度や日本バス運転手やガイドも地元民であり、毎日のように顔をあわすので、取り扱いも無難になり、そうするとそれを止めるのはツアーガイドとしての我々の役目となり、レストラン迄の数十メートルの道を確保するのに必死であった。(写真D)当時の両替レート(1980年頃)は一米ドルが620インドネシア・ルピア、また日本円の千円で2400インドネシア・ルピア位で両替がされたと記憶している(写真E)
ウブドからキンタマーニへの上り道はかなりの急坂で、上るに従って気温が下るのがよくわかったし、未舗装の道の脇には、バリ島名物の稲の棚田が窓から見える。それはのどかな風景で、日本の喧噪とは別天地の世界が広がっていた。そうして、キンタマーニでバトゥル湖を見物し、
 写真F ティルタ・ウンブル寺院の聖水の池 |
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昼食と休憩をした後に、宿泊するホテルへ帰った。帰路にはタンパクシリンに立ち寄り、ティルタ・ウンブル寺院を訪れた。この寺院も世界遺産に後年指定された。962年に発見されて以来、千年以上も湧き出る聖水の池(写真F)や、その水を引いた寺院内の沐浴場や神殿を礼拝して、一時間半程度見学をしてホテルへ夕刻に帰るのが、何年たっても観光の定番コースであった。一日目の観光はそれで終り、二日目の午前中は州都デンパサールの街へ向い、午前中、立派な資料や絵画・彫刻等を所蔵するバリ博物館(写真G)を見学し、その後、すぐ近くにある熱気と現地産品の溢れるバドゥン市場を訪ねて、午後は自由行動というコースだった。三日目、四日目は自由行動という三泊四日又は四泊五日のバリ滞在のコースが多く、その自由行動日にジャワ島へ航空機で日帰り往復をして、ジョグジャカルタ市とボロブドールのこれも、世界遺産に指定された遺跡を見学するという自由参加のオプショナル・ツアーが催行されていた。
私がよく訪ねた1980年のバリ島への観光客は、全世界からでも、約15万人弱であり、十年後の1990年ではそれが約49万人、その内日本人が約7万1千人で、世界からバリ島を訪れる観光客の第二位となり、更に十年後の2000年には、
 写真G 州都デンパサールのバリ博物館 |
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全世界よりの観光客は約141万人、日本人が約36万2千人でついに来島者の世界一になっている。それが2014年には約375万人、内日本人は約20万人と減り、オーストラリア人が約99万人で一位、中国人が約58万人で二位、マレーシア人が約22万人で三位となって、日本観光客のバリ島離れがすすんでいる。これは2002年の、バリ島南部のクタで起こった、外国人観光客202人の死亡と209人の負傷者を出した、ディスコの外国人観光客を標的にした、過激派のジェマ・イスラミアの自爆と自動車爆発テロと、2005年の、クタとシンバランの自爆テロによる23人の死者と、196人の負傷者(三軒の飲食店で三人が自爆した事件)、容疑者はこれもジェマ・イスラミアであった。共にこの場所は最近のバリ島を代表する娯楽地であり、ビーチであった。
この影響が、日本人観光客の激減につながったと考えられており、その後も日本人観光客数の伸びが鈍化した。それでは、ふり返って、バリ島が観光地として大きく変化をした要因は何であったかを、時代を、私がよくバリ島を訪問した1978年、1979年から1980年代の前半に戻って探ってみよう。
バリ島にとっては、観光は開発の手段であり、1969年にスハルト政権の早い時期に第一次五ヶ年開発計画で観光が経済開発の一つと位置づけられ、バリ島はその代表的な候補地となった。
(以下次号)
プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その3〜二宮健(35回) 2018.10.10
 著者近影(シチリア島にて) |
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その、第一次五ヶ年開発計画によって、バリ島の高級ホテルの所在地は、それまでのサヌール・ビーチから、1983年にバドウン半島に位置するヌサドゥア地区に移って、ヌサドゥアビーチホテルがオープンし、その後、計画的にゲートに囲まれた究極のリゾート地として沢山の高級ホテルがオープンをした。インドネシア政府の政策として、ホテルが立ち並ぶ一大造成地区が出現した。(写真@)又、1980年代半ばには、ヌサドゥアから続いて、ホテルの建築が、クタ地区にも移ったが、これ等が加わったことによって、それ迄は年間十数万人しか訪ねる観光客しかいなかったバリ島への観光客が急増をした。俗に謂われる、“観光地バリの世俗化”が始まった時代である。
 写真@ ヌサドゥアビーチホテル |
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今野裕昭博士は、その論文で、バリ島の観光客の推移を、次の四期に分けている。1985年迄の観光助走期(T期)、1986年から1991年迄の、観光客漸増期(U期)、1992年から2000年迄の観光客急増増大期(V期)、2001年から現在迄の観光客縮小期(W期)、これはバリ現地に於て私が経験したことに照らしても、第W期を現在までとした観点を除いて(つまり、現在は観光客縮小期は脱していると私は理解しているので)正しい分析だと考えている。
 写真A 初代インドネシア共和国スカルノ大統領 |
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更にもう少し歴史をふり返って、日本との関係でバリ島を見てみると、1942年(昭和17年)2月には、日本軍が、第二次世界大戦でオランダ軍に勝利して、バリ島の統治が始まった。そして、1945年(昭和20年)8月17日にはスカルノがインドネシア共和国の成立を宣言したが、1946年3月(昭和21年)、旧宗主国オランダが、バリ島に上陸した。(写真A)
 写真B ングラ・ライの5万ルピアの肖像 |
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1946年11月20日、ングラ・ライ中佐が率いるバリ義勇軍(ゲリラ軍)が全滅した。その際、第二次大戦の敗戦後も、インドネシアに残留した、旧日本軍兵士もこの戦斗に加わっている。ングラ・ライはインドネシアの英雄として、バリ国際空港の正式名称としてングラ・ライ(又の名を、ヌラライ空港)として残され、五万ルピアのインドネシア紙幣に肖像として、使用されている。(写真B)
そんな簡略な、歴史すら知らない若い人達で、地上の楽園と言われて賑わっているのが、現状である。
 写真C 現在のクタビーチ |
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クタについて、若干述べてみる。若人に人気のクタも私が初めて訪れた、1979年頃のクタとは、全く違う様相の町となっている。バリ島南部で国際空港にも近く、オーストラリア人が多く住んでいるが、1979年当時は、観光客も少なく、商店も少なかった。今では、海岸に隣接する商店街も大変多くなり、当時に比較すると格段の差である。(写真C)昔の海側から、すぐに道路となっていた場所も、海側からの砂防の為に壁が造られて、昔日の、一部の海を愛する人達の為の、のんびりとしたバリの風情は、ひとかけらも今は残っていない。残念なことである。
さて、バリ島に関する間違った認識を持っている方から、よく質問をされたことがある。それは、バリハイ島が、バリ島と勘違いをされてのことであろう。ブロードウェイミュージカル“南太平洋”(サウスパシフィック)の舞台となった場所がバリ島であると思っている旅行者が少なからずいるが、映画化された時の撮影場所は、ハワイ諸島の一つ、カウアイ島であり、確かに、バリ島には、バリハイクールズという観光用の船が運航しているが、これはあくまでも、ネーミングであり、バリハイという名前の由来は、バリ島には無い。しかしバリハイ山という有名な山は南太平洋タヒチの有名なモーレア島に実在していて、正式には、モウアロア山が正式な名前であるが、一般的にバリハイ山として、タヒチ観光では、有名な場所である。それでは実際に米兵が、“南太平洋”の劇中で滞在をしたのは、現在のバヌアツ共和国となっている、ニューヘブリディーズ諸島というのが、定説のようです。
 写真D 現在のスエントラ氏 |
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もう少し、私自身の経験した、バリでの話しをしてみよう。今では、世界的に有名になったバリの音楽ジェゴクを普及させた、スアール・アグン芸術団長のイ・クトゥット・スエントラ氏は、1971年にスアール・アグンを結成したが、私が初めてバリを訪ねた頃は、まだ有名ではなく、現地の観光ガイドのアルバイトをしており、何回か仕事を一緒にした。その後、この巨大な竹の楽器を使うジェゴグは、徐々に有名になり、1984年から日本公演や、フランス・ドイツ・スイスなど欧州でも成功をして、インドネシア政府からも文化貢献賞を授与された。バリ島やインドネシアでは、有名な音楽人であるが、彼も若い時には、バリの現地ツアーガイドとしての苦節の時があったのである。その後、何回か現地で出会ったが、気さくな人柄は、昔と変っていない。(写真D)
もう一つ、我々に考えさせられる、日本の高度成長が現地の若者に与えた精神的な汚染を私の体験から語ってみたい。読者の方は、クリスをご存知だろうか。インドネシアのクリスは、2005年ユネスコの無形文化遺産(工芸)に登録されている。クリスは、その家にとっては、先祖伝来の家宝として継承されている精神性を持つ折れ曲がった非対称の刃物である。武器であると同時に、霊性が宿ると考えられている。それ故、クリスは聖剣とも呼ばれる。(写真E)この独得の剣、クリスについて私には思い出がある。それは、日本のバブル期に(1980年代後半の頃)、バリがお金の面で汚染されていった過程を思い出すのである。バリ島への高額なV・I・Pツアーを案内した時のことである。全国から募集したツアーの為、いろいろの地方から職業も種々の方、年齢は比較的高年齢の方が多かった。V・I・Pツアーの為に、バリ島での現地ガイドも、それまで何回も仕事を一緒にした真面目な日本語を話す好青年で、将来日本へ渡って勉強したいと考えているインドネシアバリ島の現地ガイドであった(〜その2〜で述べたガイドとは別人である。念のために記しておく)。そんな時に、V・I・Pツアーのガイドとして私と仕事をした時に起ったことである。
 写真E インドネシアの“聖剣”クリス |
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参加者の中で、東京より参加をした、七〇才代の老人で刀剣蒐集の趣味のある人が、添乗をしていた私に是非、バリ島のクリスを見たいので、相談に乗って欲しいと言われた。クリスそのものに当時、知識のなかった私は、このガイドに相談を持ちかけた。彼の実家は、バリヒンドウ教でのカーストも上位であるということで、それでは二宮さんの為に、クリスをその方にお見せしましょうと言ってホテルへ持参してくれた。その刀剣蒐集家は驚き、これほどのクリスの名剣は恐らく、日本には存在していないと言った。そう言われてよく見ると、くねくねと折れ曲がった四十センチから50センチの短剣は把手から刀身の先まで、素人の私でさえぞくぞくし、日本刀の名剣を博物館で見るような感じであった。刀身は、日本刀のように、白く光ってはおらず、くすんだ灰色のように見えた。
彼の家に何百年か伝わったものであろう。冗談のように、蒐集家は、いくらなら売ってくれるかと単刀直入にガイドに聞いた。彼も冗談っぽく、日本円で、6万円ではと言った。彼の当時の現地ガイドとしての年収の額である(月収ではなく)。すると、蒐集家は、今現金で30万円で買い取ろうと提案をした。彼はびっくりしたようだ。彼の年収の約5年分にも相当する金額である。心が動いた様子であった。先祖伝来の聖剣を売るという心の動きが、私には悲しかった。老人に私は聞いた。何故それだけの金を出すのかと。彼は、この剣は、重文級に匹敵すると言い、30万円出しても良いと言った。私は、ガイドと彼の先祖の為に、この商談(?)は成立させたく無かった。そこで私は蒐集家に言った。日本の入国時に見つかれば、税関で法律違反に問われ、又、インドネシア出国時の検査にひっかかれば、これまたただではすまないことになると、必死に説得をした。蒐集家は未練たっぷりに、そのクリスを見ていたが、眼福させてもらったと、多額の心付を彼に渡した。あの聖剣クリスは、その後どうなったのであろうか。彼の家で大事にされて、家宝として、あがめられているだろうか。そう祈るしかない。そんなバブル期の厭な思い出がある。
その後、そのガイドはガイドをやめたのか、消息を以後しらないし、ほかのガイドに消息を聞いても、余り良い噂は私の耳に入らなかった。聖剣クリスを家から持ち出して、大金を見せられて、売却に心が一瞬動いたことに、聖剣クリスが怒った結果かもしれない。
(以下次号)
プレイバック・バリ(神の島バリ島の今昔)〜その4〜二宮健(35回) 2018.10.25
 著者近影(シチリア島にて) |
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さて、最終章の今回は、昔も今も変わらずに、バリ島発着で日本人観光客にとても人気のある、ジャワ島にある世界遺産のボロブドゥール寺院遺跡と、プランバナン寺院遺跡への、バリからの日帰りツアーについて述べてみたい。欧米等からの観光客にとっては、この日帰りツアーは、びっくりするほどに超過密なスケジュールらしい。バリ島で三泊乃至四泊する日本人観光客には、是非、おすすめをしたいコースである。
先ず、ページ初めのコースを参照して欲しい。これはJTBバリ支店が催行する“マイバス・バリ”のバリ島から日帰りのコースの旅程である(注:デラックスコース約四万二千円・一人当たり代金・最少催行人員二名。旅費に含まれるサービス:日本語ガイド・ホテル送迎サービス・朝食・昼食(ホテルアマンジオにて)・各施設入場料・航空代金・空港税)。予約さえすれば安心・安全にバリ島よりジョグジャカルタへ飛び旅程通りの日程で観光が出来る。
私が始めてバリ島を訪れ、このコースを利用した時には(1972年)、既にバリ島の空港とジャワ中部のジョグジャカルタ間には、ガルーダインドネシア航空の国内線ジェット機が就航しており、飛行距離にも変更はないので、昔も今も約一時間十分で両空港を結んでいる。
 写真@ ボロブドゥール寺院遺跡(世界遺産) |
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このコースで訪れる、ボロブドゥール寺院遺跡は、ジャワ島中のケドゥ盆地にある世界的に有名な大乗仏教遺跡であり、無論、世界遺産にも登録されている(1991年に登録)。ジョグジャカルタの東南約40キロメートルの所にあり、紀元790年頃完成したと見られ、その後に増築がされている。(写真@)八世紀後半から、九世紀にかけて栄えた、ジャイレーンドラ王朝によって造られたと考えられているこの遺跡には、おびただしい仏像やレリーフなどが飾られている。(写真A)高さは当初は42メートルあったが、現在は破損をして、33メートル50センチなっており、九層のピラミッド状の構造で最下段に一辺115メートルの基壇がある。この形状から、世界最大級のストゥーバである。この遺跡の詳細は、紙数の問題もあり、この章では語りつくせないが、沢山の著作物があるので興味のある方は、それらを読んで旅行をすれば、ただ漠然とツアーに参加するより、はるかに得る物が多いと私は考える。
 写真A ボロブドゥール寺院遺跡のレリーフ |
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この遺跡は、地盤沈下や近くにあるムラビ火山の噴火により、1960年代には崩壊の危機があったが、1973年から10ヶ年計画で、ユネスコ主導で二千万ドルをかけて修復工事が行われ、1982年に完成をした。私はこの修復時期にも何回か現地を訪れたが、いったい何時この工事は終わるのだろうかという程に、遅々として工事は進捗しなかったが、例えてみれば姫路城のように、長い年月をかけて本当に立派に綺麗に修復をされた。この修復工事には資金の拠出や工事協力に日本が多大の貢献を行ったことも忘れてはならない。
 写真B ムンドット寺院(世界遺産) |
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次に訪れる、ボロブドゥール寺院の東三キロメートルにあるムンドット寺院(写真B)は、1834年に密林の中から発見された仏教寺院で、内部には大変美しい釈迦三尊像が安置されており、その他、美しい鬼子母神のレリーフ等がある有名な寺院であるが、このオプショナルツアーではわずか20分弱しか時間がとられていない。この寺院も1991年にボロブドゥール寺院遺跡群として世界遺産に登録されている。その後、このデラックスコースはボロブドゥール寺院の近くのアマンジウォホテルで昼食をとり(写真C)、午前中のコースは終了する。
 写真C アマンジオホテルの食堂 |
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デラックスコースとスタンダードコースの料金の差は、主に昼食に利用するレストランの雰囲気や料理内容の違いが多い。又、それよりも更に安い格安のバリ島からの日帰りの、ボロブドゥールとプランバナン寺院日帰りツアーとの差は、格安航空機(LCC)を利用している。デラックスコースと格安ツアーとの差は概略一人当り日本円に換算して約一万円であるが、どれを選ぶかは、各人の自由であるがやはり相対的にツアー代金はそれなりに設定をされており、私は経験上、内容に比例していると考えている。
 写真D ジョグジャカルタ独特のバティックの模様 |
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約一時間余り昼食(アジアン料理)を楽しみ、午後はバティック工房を訪ね、制作現場とショッピングを楽しむ、ジョグジャカルタはバティックが有名であり、是非良い作品を買うことをおすすめする。私も行く度に買い求めたバティックのシャツを何年たっても夏の季節に着用しており、機械でプリントした製品ではなく、手仕事のバティックは色あせすることもなく、一寸高いが(それでも日本円に換算すれば、決して高額ではない)、自由時間があればバティックの商店が集まる地域を見て回るのも楽しいが、日帰りツアーでは訪ねる店が限られている。(写真D)前後するが、この日の朝食はバリ発が早朝の為に、ジョグジャカルタ空港に着いて、空港近くのホテルでブッフェスタイルの朝食の場合が多い。
 写真E サンビサリ寺院 |
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昼食をとった後、サンビサリ寺院を短時間見物する。西暦812年から838年頃にかけて建設されたと考えられており、仏教王国のシャイレンドラからヒンドゥ王国のサンジャヤへ勢力が移った頃の建造だと思われている。ヒンドゥ教の寺院であり、シバ神を祭っている。1966年に農民が偶然に耕作中に地中から発見した。中央の寺院中には男根(リンガ)が祭られている。(写真E)
 写真F プランバナン寺院遺跡 |
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その後、プランバナン寺院へ向う。世界遺跡としてのプランバナン寺院遺跡群の中の中心的寺院であるヒンドゥ教の遺跡として、前述のボロブドゥール寺院と共に、インドネシアが世界に誇る文化遺産として有名である。(写真F)建造年代は、九世紀末から十世紀初頭といわれているが、例にもれず中世の1549年の大地震でほとんどが崩壊して、1937年から修復工事がされていたが、2006年5月のジャワ島中部地震でまたまた壊滅的な破壊をうけた。それでも、修復作業が翌2007年から始まり、現在観光客を受け入れてはいるが、全体の修復の目途は立っていない。周辺の中小の寺院群を含めて世界遺産への登録であるが、その中のプランバナン寺院を中心に、ツアーは一時間程度で見物を終えて、ジョグジャカルタ空港へ戻り、航空機でバリ島に帰り宿泊するホテルへ送ってくれる。日帰り約19時間のコースである。旅行日程に余裕があれば、ジョグジャカルタに二日ないし三日程宿泊してこの古都ジョグジャカルタもゆっくり観光をしたいものである。
さて、プレイバック・バリ(バリ島の今昔)として、その概略を記してきたが、バリ島はインドネシア共和国に属して、面積が5632平方キロメートルある島で、日本の東京都の約二倍の広さ、人口は約420万人でバリ人が90%を占めており、インドネシア全体ではイスラム教徒が87%を占める中で、バリではヒンドゥ教徒が約90%を占めている。乾季と雨季があって五月から十月が乾季、十一月から四月が雨季の目安である。また、インドネシアの中でバリ島とジャワ島のジョグジャカルタの間には時差が一時間あるので注意して欲しい。
いずれにしても私の76年(1942年生れ)の中でバリ島の長い間の変遷はめまぐるしく、素朴な楽園の島から、現在の姿を考えると、なんともいえない懐古の情が胸にうずくように浮んでくる。
(終)
地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その1二宮健(35回) 2019.03.01
 シチリア地図 |
 筆者近影(シチリア島にて) |
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シチリア島と呼ぶ方が、シシリー島と言うより、私にはすっきり腑に落ちる語感がする。そのシチリア島には長年にわたって行ってみたいと思っていた。イタリア半島の観光を含めヨーロッパ諸国へは何十回も訪れているが、この場を訪れる機会が今迄になかった。それだけに期待も多かったし期待以上に得るものが多かった平成25年の私の紀行である。これはシチリア好きの仲間が集まって企画したツアーである。
 出発前、エトナ火山噴火の様子 |
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ところが訪ねる日程も決まった平成25年12月直前になって11月23日にエトナ火山が噴火をして火山灰が降りそそぎ、火山周辺の街や村に大きな被害をもたらした。このヨーロッパ最大の活火山はシチリア島東部にあり、標高は3329mあって過去にも紀元前からの大噴火をくり返している有名な山である。我々の出発4日後の12月4日には噴煙が約7000mにまで昇った大きな爆発であった(写真@)。日程も全て決まりあとは出発するだけとなっていた旅行直前なので、企画して、自分も参加して楽しもうと思っていた旅行でもあったが、なにより安全第一であり、参加中止も同行仲間と検討したうえで、予約をしているアリタリア航空に確認したところ、航空機の運航に支障は無く、現地の人は、世界中の報道機関が驚いて報道するほどに騒いではいなく、数十年に一回の比較的大きな噴火と理解しており、特に旅行全般に関して言えば、エトナ火山の観光(エトナ山観光はシチリア島でも有名)さえ無ければ、影響は先ず無いとのことなので出発することに決めた。
シチリア島へは、日本からの直行便はない。その為に今回の旅行には、アリタリア航空を利用して、ローマ経由で、シチリア島の州都パレルモ市へ向かった。(写真A・B・C)
 写真Aアリタリア航空A330型機 |
 写真Bアリタリア航空A330型機内 2列、4列、2列のエコノミークラスの座席 |
 写真Cシベリア上空より望む |
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関西空港を12月1日の日曜日午後2時30分に出発したアリタリア航空エアバス330型機は、出発して8時間を経過した時点で高度1万1千メートル、飛行速度850キロメートルでロシア上空を、外気温マイナス56度、関空から6000キロメートルの距離を順調に飛行し、ローマまであと5時間の距離である。
 写真Dシチリアパレルモ空港到着時 州旗の三本脚紋 |
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機は現地ローマ時間午後9時30分にレオナルドダビンチ空港に到着をした。冬時間で日本とイタリアの間には、8時間の時差があり、飛行時間に13時間を要したことになる。ローマで乗り継いで、シチリア州の州都パレルモまでは空路約1時間で着く。パレルモには午後11時30分に到着した。時差の関係もあるが、関空を午後に出発して、同日深夜にはパレルモに到着したことになる。ロシア上空飛行が解禁されて随分時が経過したが、そのおかげで日欧間の飛行時間が随分と短縮されたことになる。(写真D)
 写真Eアストリア・パレスホテルの外観 |
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入国手続き後、専用のバスにてパレルモ市内のホテル、アストリア・パレスホテルに到着した。日付は12月2日に変わっていた。(写真E)部屋は9階でツインルームを1人で使用した。少し古い感じのホテルだが、一応は四ツ星クラスのホテルである。私自身は、ホテルは先ず第一に防火面での安全であり、清潔であり、浴室・洗面所のお湯や水が満足に出たら、どの国でも合格点を出している。ふり返って日本の大都市のホテルは余りにも華美に過ぎると思うことがよくある。
 写真Fシラクーサのアポロン神殿跡 |
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さてシチリア島の歴史は、紀元前1300年ころのシクリ族の入植から始まり、カルタゴ、前756年のギリシャ人の入植、ローマ、ビザンティン帝国、アラブ人、ノルマン王国、ドイツ神聖ローマ帝国、フランスアンジュ一家、アラゴン王国、オーストリアハプスブルク家、統一イタリア王国と支配者は変遷を極めている。地政学的に見ても地中海の要衝であるために民族も多様に混淆している。イタリア王国に統一されてわずか114年しかたっていない(2013年現在)。まだ日本が神話の時代、神武天皇が没されたと日本書紀に記されている紀元前585年の10年ほど前の紀元前575年頃には、シラクーサにギリシャ世界最古の
 写真Gシチリア州旗トリスケレス |
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石造神殿といわれるアポロンの神殿が建設されている程にシチリアの歴史は古いのである。(写真F)地中海世界のまん中にあり、地中海内の最大の島である。シチリア島は約2万5千7百平方キロで、九州の約70パーセントの面積を持つ島である。島の形が三角形に近い形から「トリナクリア」と言われる三つの岬の名を持つ島である。それに由来するシチリア州旗はトリスケレス(三本脚紋)として島を象徴している。(写真G)
2013年現在、イタリア共和国の総人口は約5800万人でシチリア島の人口は約504万人であり、総人口の約9パーセント弱を占めている。
我々は、一夜をパレルモのホテルで過ごし、いよいよ2013年12月2日(月)から、シチリア島の観光と歴史の旅が始まった。
先ず、ホテルを9時に出発した我々の専用小型バスは(シチリア大好き人間様14名用)、パレルモより東約67キロメートルのチェファルーへ約1時間30分を要して到着した。チェファルーの村は2011年にイタリアで最も美しい村々の一つに選ばれた村である。(写真H)
ここでは、大聖堂や中世から海岸沿にある今も現役で使用されている洗濯場が有名である。大聖堂は1131年アマルフィを制してパレルモへ帰還する際に、ルッジェーロ2世の部隊が嵐の中無事に帰還できたことを神に感謝してここに建てられた、ノルマン時代のシチリアの代表建築であり、2015年に世界遺産に登録されている。(写真I)山から流れてきた水が洗濯場を通り、すぐ目の前の海へそそいでいる。(写真J)
 写真Hチェファルーの町並みと大きな岩山のラ・ロッカ |
 写真Iチェファルー大聖堂の外観 |
 写真J中世の洗濯場は今も現役 |
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さて、この日の午後は、チェファルーからパレルモへとって返しパレルモ市内の観光である。パレルモ市内見物だけでも3泊か4泊したいところだが、9日間の(それでも日本から9日間のシチリア島のみの観光は珍しい中で)
 写真Kパレルモ大聖堂 |
 写真Lパレルモ大聖堂の塔 |
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日程では、半日観光が精一杯である。それも代表的な有名スポットを回ったにすぎなかったが、記述してみる。
先ず大聖堂(カテドラーレ)を訪ねた。7世紀に創建され、その後モスクとして使用され、たびたび改修されておりこの島の複雑な支配者の建築の歴史の積み重なった、悪く言えば“ごった煮”の複合建築である。(写真K・L)
とにかく時間が欲しい。見るものが多くて歴史的な流れが、短時間ではつながらないというのが、印象であった。
 写真Mパレルモのマッシモ劇場 |
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次にマッシモ劇場を見学した。ネオ・クラシック様式の劇場で外観も内部も豪華であり、こんな小さな島に不釣り合いとも思える建物であり、創建当時の1897年には、ヨーロッパ最大級の劇場であり、現在でも収容人員1380余のヨーロッパでも有数の劇場である(オペラ劇場)。(写真M)
 写真Nノルマン王宮の 入り口の案内板 |
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次いでノルマン王宮へ向かった。現在はシチリア州議会場として使われているが、11世紀にアラブ人が築いた城壁の上に、12世紀になってノルマン人が拡張した典型的なアラブ・ノルマン形式の代表的な建築物である。その後もホーフェンシュタウフェン家、アラゴン家等の変遷を経ているが、歴代の王の住居でもあった。(写真N)
このノルマン王宮の2階には、パレルモ市を代表するアラブ・ノルマン様式の礼拝堂がある、歴史的に見ても、その華麗さからしてもパレルモの至宝とも言われる、パラティーナ礼拝堂(宮廷付属礼拝堂)がある。その内容を写真で見てみよう。
 パラティーナ礼拝堂入口2階 にあるマグエダの中庭に面した回廊 |
 パラティーナ礼拝堂のクーポラには キリストが描かれている |
 床にはイスラムとビザンティン 文化の融合したモザイク模様が美しい |
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ノルマン王朝のルッジェーロ2世によって聖ペテロに献堂されたこの礼拝堂はシチリア島で必見の美しさであろう。
 写真Rクアットロ・カンティ壁面 |
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さて我々は、限られた時間の中で、パレルモ旧市街の中心、クアットロ・カンティに向かった。17世紀に造られた「四ツ辻」である。
広場に面した4つの建物の各壁面には、一番下段に四季が表現された噴水、二段目には歴代スペイン総督、三段目に町の守護聖女が彫刻されている。(写真R)超多忙なパレルモの午後の観光を終わって、前日と同じ、アストリア・パレスホテルに帰館したのは、午後8時を過ぎていた。何と充実した1日であったことか。
以下、次号へ続く。
筆者プロフィール昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年在籍した準35回生。旅行評論家、J.T.B OB会員、神戸市在住
地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その2二宮健(35回) 2019.03.20
 シチリア地図 |
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昨日は、晴れたり、曇ったり、又一時雨が降ったりと変幻極まりない天候だったが、今日平成25年12月3日(火)のパレルモは、日の出が午前6時50分で、天候は晴れであり、これから見物する、モンレアーレやセリヌンテ、アグリジェントも晴れであって欲しいと思い朝9時半にホテルを出発した。
今日のバスの行程は先ず約10キロメートル位パレルモの郊外内陸部のモンレアーレを見物した後、再び南下して約2時間で106キロメートルを走り、セリヌンテのギリシャ神殿群を見物し、東へ約2時間をかけアグリジェントへ至るコースである。どれもシチリアを代表する観光ポイントであり、楽しみである。現地在住の日本人女性ガイドO女史は、何度もこのコースを巡っているのか、格別の感情を持っていないようで淡々と自分の仕事をこなしている。余談になるが、私の現役J.T.B時代は旅行に随行して添乗する場合は、私にとっては何回目の場所であっても、参加の皆さんは、多分一生に一度の訪問先であろうからと、清新に仕事をしたものだがと考えながら、何か不真面目な点があれば言っておこうとおもっていたが、初日の出迎えから、淡々としており、これは性格かなと考えながら説明を聞いているが、過不足なく仕事をこなしている。
 写真@モンレアーレ大聖堂 |
 写真Dモンレアーレ展望台から |
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さて、バスはモンレアーレに到着し、アラブ・ノルマン様式の美しいモザイクでおおわれているモンレアーレ大聖堂(ドゥオモ)見物である。昨日訪ねたチェファルー大聖堂(カテドラーレ)と同じく2015年7月にアラブ・ノルマン遺産として世界遺産に新しく指定された名建築である。このドゥオモは1174年から1182年にかけて、グリエルモ2世によって建造された華麗で重厚な建造物である。(写真@)内部では有名な全能のキリスト像を描いたモザイクが世界的に有名である。(写真A)又、堂内には多数のモザイク画が描かれており(写真B)、又、回廊も美しく(写真C)時間がもっと欲しいと思われてならない。見物を終え、ドゥオモを出ると、何と豪雨になっており、天気であれば美しく見える筈の海とコンカ・ドーロとパレルモの街のパノラマは、残念ながら見えなかった。(写真D)
 写真Aモンレアーレ大聖堂 キリスト像 |
 写真Bモンレアーレ大聖堂内 モザイク像 |
 写真Cモンアーレ大聖堂内の廻廊 |
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 写真Eシチリア料理“アランチーニ” |
 写真Fシチリア料理“インポルティーニ” |
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さて、今回の旅行では昼食も地方色豊かで、昨日のパレルモでの昼食はシチリア料理のアランチーニ(ライスコロッケ)であり(写真E)、今日のモンレアーレの昼食はこれもシチリア料理のインポルティーニ(シチリア風の肉のロール巻)である。(写真F)日本ではシチリア料理専門店でしかお目にかかれない料理である。イタリアを訪ねたこともないイタリア料理人が多い日本のイタリア料理店では、メニューに無い料理である。昼食後、モンレアーレから南下して約106キロメートルにある次の目的地、セリヌンテへ向かう。昼食後も少し雨模様で、セリヌンテでのギリシャ神殿群の見物に影響しないかと一寸心配である。
 写真Gシチリア島の高速道路アウトストラーダ |
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シチリア島の、アウトストラーダ(高速道路)を淡々と南下するも、道はよく整備され(写真G)、約2時間弱でセリヌンテに到着した。紀元前650年頃に島の東海岸から来たギリシャ人によってギリシャ神殿の数々が築かれて、紀元前409年のカルタゴ襲来で破壊された約240年の夢の跡のような大遺跡群である。写真と共に見てみよう。
雲に切れ目が出て、少し太陽が顔をのぞかせて、心配していた雨も上り、ラッキーな気分で見物を始める。セリヌンテは、カルタゴの来襲と、その後の大きな地震によって破壊されているが、それでも残った建物群は素晴らしく、交通不便であるが、是非訪ねたい遺跡である。入口に近い東神殿群の中で一番美しいのが、紀元前480年頃のドーリス式の神殿で女神ヘラに捧げられたE神殿である。(写真H・I)又神殿群のG神殿は紀元前550年頃に着工されたが今は、大円柱だけが残っている。(写真J)
 写真HセリヌンテのE神殿 |
 写真IセリヌンテのE神殿 |
 写真JセリヌンテG神殿跡 |
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 写真Kライトアップされたヘラクレス神殿 |
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セリヌンテ遺跡は、東神殿群と約1キロメートル西のアクロポリスに分かれており、海を左に見て進むと、アクロポリスに到る。ここには、A、B、C、D、O、と呼ばれる遺跡があるが、形を残しているのはC神殿だけである。バスは、セリヌンテを出て東に向かい約105キロメートルを2時間かけて、アグリジェントに着いた。到着時間が夕方遅くになっているので、前後するが、ライトアップされた、エルコレ(ヘラクレス)神殿の見物に向かった。(写真K)アグリジェントのドリアヌ式の神殿の中で最も古い紀元前520年の建造とのことだ。夜なので遺跡の中での位置関係が良くわからない。明日はこの大規模な、世界遺産に1997年に登録された大神殿群を巡ると思うと大変楽しみである。
アーモンドソースをかけた夕食を楽しんだ後に、今夜の宿泊ホテルのディオスクリベイパレスホテルへチェックインした。(写真L・M)清潔で四ツ星クラスのホテルである。客室数は102室である。
 写真L・Mアグリジェントの |
 ディオスクリベイパレスホテル |
 写真Nアグリジェント宿泊ホテルの食堂 |
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旅行の4日目、ホテルの小綺麗なレストラン(写真N)にて朝食をとり、シチリア大好き人間の我々14名はいよいよアグリジェントの世界遺産の神殿群見物に、朝8時にホテルを出発した。絶好の晴天である。今日のコースはアグリジェントを見物後、古代ローマのモザイクが残る、ピアッツァアルメリーナへ向かい、更に世界遺産のカルタジローネへ向い、その後、ラグーザで宿泊する、なかなかハードなコースである。
順を追って、写真も交えながら、見物をしてみよう。
紀元前5世紀に人口30万人の大都市であったアグリジェントで有名なのが、“神殿の谷”と呼ばれる区域に点在するギリシャ神殿の数々である。先ず我々は、ジュノーネ神殿(写真O)を見物した。紀元前470年に建造された別名ヘラの神殿である。25本の柱と柱の上に横に渡した石材(アーキトレーヴ)が残っており、紀元前406年にカルタゴ来襲によって炎上した焼けただれた赤く変色した石の色が内部に見られる。神殿の谷地区の東端に位置する名建築遺跡である。
 写真Oアグリジェントのヘラの神殿 |
 写真Pコンコルディアの神殿 |
 写真Qコンコルディアの神殿 |
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次に見物したのが、やはり神殿の谷にある、これもまた有名なコンコルディア神殿である。海を背景に美しいドーリス式神殿である。コンコルディアは平和を表すローマの女神の意味とのこと。この神殿は前面6柱、側面13柱の完璧な美を見せる神殿で紀元前450年頃の建築と推定されている。(写真P・Q)
 写真Rヘラクレス神殿 |
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さらに我々は、エルコレ神殿を見物した。別名ヘラクレス神殿とも呼ばれている。紀元前520年の建築と伝えられている。(写真R)
余談になるが、この神殿の谷から、谷を少しへだてて、現在のアグリジェント市(人口約6万人弱)の現代建築のコンクリートの高層建物がたくさん目視でき、なんだか興をそがれるが、これらの建物は、
1980年代のイタリア、特にシチリアの政財界が混乱を極めた頃、シチリア経済を牛耳っていたマフィアが建築業界への投資で、雨後のタケノコのように建ったビル群だと言われており、現在も麻薬のフレンチコネクションが崩壊した後の、麻薬シンジゲートがこのアグリジェントにあると信じている人が多いとも言われている。
 写真A:カザーレ荘の モザイクを巡る建物 |
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午前中、神殿の谷の有名建築物を見物した後、歩を先に進めて、アグリジェントから東北約100キロメートルにある、ピアッツァアルメリーナへ向かう。約1時間半のバスの旅である。そこからさらに進むと近郊の森にローマ時代の豪華なモザイク様式のある、カザーレ荘がある。1997年にアグリジェントの神殿の谷と共に世界遺産に登録されている。3世紀のローマ時代の貴族の別荘である。
ローマ時代こそ繁華な市街の近郊だったといわれる別荘は、今ではピアッツァアルメリーナより約6キロメートルも小さな道を進まなければいけない。50部屋程ある全ての部屋や、それらを結ぶ回廊に、ビキニ姿で踊る10代の少女とか、狩猟を描いたモザイクとかが、この館の公的空間、私的居住空間とかにこれでもかと言う程に描かれている。何故こんな田舎にかくも豪華な「ローマ離宮」と呼ばれる建物、それも現在は世界遺産に指定されたような建物が残されたのであろうか。疑問に答えて、次のような説がある。一つは炎熱のシチリアでの避暑地として、ローマ貴族が使用したのではないかという説。今一つは飲料水を含めて、水の便が良かったのではないかと、当代の歴史家は推測をしているようだ。(写真B-D)
旅行4日目の12月4日(水)の遅い目の昼食は、アグリツーリズモとイタリア語で言われているレストランでとった。アグリツーリズモとは、農場滞在型観光を意味し、日本での“道の駅”のイタリア版である。しかし規模と歴史は雲泥の差があり、私達の利用したレストランは、中世の14世紀から続く建物を中心に、周囲を自前の広大な畑が囲み、そこでとれたものを自給自足する地産地消で経営されている。レストラン以外に宿泊施設を持ち、小高い丘陵地にある大規模施設である。日本の安直な食堂とは、
 写真E:アグリツーリズモのレストラン |
 写真F:レストランにて |
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規模も施設内容も、提供される食材も何もかも違いびっくりする程の内容であり、提供されるワインも自家製であった。www.gigliotto.com +37°17’25.66 +14°23’16.63に位置している。場所はアグリジェントとラグーザのほぼ中間に位置している。農家に泊まって、農業を体験するアグリツーリズモで、こんな周囲に何も無い静かな空間で数日間、読書とワインと散策で過ごしたらどんなに素晴らしかろうと思った。日本でもアグリツーリズモの動きは小規模ながら信州などで取組みが始まっている。(写真E,F)
さて、昼食をゆっくりと済ませ、約35キロ南下して、車で1時間ほどのカルタジローネの街を訪ねることとする。
以下、次号へ続く。
地中海の真珠〜シチリア島紀行〜その3二宮健(35回) 2019.03.31
 シチリア地図 |
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カルタジローネは標高600メートルの高地にある。古代から現在まで陶器の産業で有名である。1693年にこの地方を襲った大震災後に、バロック様式にて再建をされた街である。後期バロック都市として2002年に世界遺産にも登録されている。人口は約4万人であり、マヨルカ焼やテラコッタの陶器産業が有名である。(写真@)
この街での最大の見どころは、現地ではスカーラ(階段)と呼ばれている陶器の街を象徴する142段の色も美しい階段である。
我々、グループのバスは、道が狭いのと環境保全の為、他のバスの乗客と同様に、遊園地を走るような小型の電気バスに乗り換えて(写真A)街を見物しながら(写真B)スカーラの下まで案内をしてくれる。
 写真@カルタジローネの街 |
 写真Aカルタジローネの電気バス |
 写真B市内の市民 庭園も壁も陶器 |
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スカーラは、市庁前広場から、サンタ・マリア・デル・モンテ教会まで一直線に延びている。階段の蹴上には、種々の絵がマヨルカ焼の陶板で飾られており壮観である。(写真C)
142段を昇るのには中々体力が要る。段の高さがかなり高く、腰掛けになるほどに段差がある。我々の行程はスカーラを見物した後、更に約55キロメートルの所にあるラグーザ迄行かなければならない為に、限られた見物時間を使い、私自身は息をはずませながら最上段まで昇った。そこからの展望は天気の良かった為に息をのむ程の美しさであった。又、そこに有ったサンタ・マリア・デル・モンテ寺院も美しかった。(写真E・F)
 写真C美しい陶板 142段ある“スカーラ” |
 写真Eサンタ・マリア・デル ・モンテ広場からの眺望 |
 写真F同寺院の外観 |
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寺院内部も見学したかったが、時間の余裕もなく、又142段を下っていかなければならない為に断念をした。見物を終え、バスに帰ったら、私の膝頭は、スカーラの昇り降りで完全に笑っていた。
カルタジローネから道を南東にとって約1時間30分で、旅行4日目の宿泊地ラグーザに着いた。今日は、アグリジェントを出発して、ピアッツァアルメリーナ、カルタジローネ等々を見物した、ハードなバス旅であった。ホテルへ到着したのは、午後7時前であった。
 写真Gセント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂 |
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ホテルはメディテラネオパレスホテルという名の四ツ星クラスのホテルだが、ロビーも狭く、私の使用したシングルルームも狭かったが、水と風呂のお湯が充分に出たので良しとしよう。セント・ジョヴァンニ・バッティスタ大聖堂のすぐ近くにある。(写真G)
今夜の夕食のシチリア名物のカジキマグロ料理を楽しんで、その後グループの仲間はバスの長旅の疲れで、就寝は早い目であった。
今日旅の4日目、12月4日(水)は、シチリア島は終日、晴の良い天気だった。
いよいよ旅も12月5日(木)、5日目を迎えたが、朝から素晴らしい好天である。気温は13℃である。今日のコースは、午前中、世界遺産のラグーザを見物して、約83キロメートル東へ、バスで1時間30分移動して、これも世界遺産の街シラクーサを見物して、約125キロメートル北上し、今夜の宿泊地タオルミーナへと移動する、又々胸おどる観光地巡りである。
最初の観光は、ラグーザの街である。この街はイブレイ山地の南に位置する渓谷の間に高低差のある高台の街ラグーザ・スーペリオーレと、下方の地にあるイブラという街が一つの街をなしている。我々は、ラグーザとイブラ地区をガイドの案内で手短く徒歩で観光をした。何故かと言えば、バスの通らない2つの街を眺望できる階段からの素晴らしい景色を楽しむ為である。ノート渓谷のバロック都市として世界遺産に登録されているこの街は1693年1月に発生した大地震により崩壊し、それ以降再建されたバロック様式の街として有名である。
1693年1月の大震災は、シチリア島では史上最大の震災といわれ、島の南東部にあるカターニャ、シラクーサ、ラグーザなどが壊滅的な被害を受け、死者数万人を数えたと言われている。その被害から復興するに当たって、街の最も古い地区のイブラでは、東と西の地区が対立して、20世紀初頭まで、市を二分する機能のまま存立をしていた。
さて、ラグーザのスペリオーレ地区から、メインストリートを南に進んで坂道を下ってゆくと、美しい旧市街のラグーザ・イブラ地区が見えてくる。(写真H)絶景である。細い坂道からは、中世そのままに、新市街と旧市街の両方を見ることが出来る。バスを旧市街に先に廻しておき、イブラの街を見学した。
先ずイブラ地区のシンボルである、サンジョルジョ大聖堂(写真I)へ向った。ロザリオ・ガリアルディ設計の後期バロック様式の代表的建造物の世界遺産である。また、イブラの街には、奇怪な面相を持つ貴族の館(写真J)が建ち並んでいるが、魔除けと言われている。短時間の見物であったが、時間をかけてゆっくりと見て廻りたい街である。
 写真Hラグーザの“イブラ地区”の眺望 |
 写真Iラグーザのイブラ地区 サンジョルジョ大聖堂 |
 写真Jエブラの街の魔除けの奇妙な面 |
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さて見物後、ラグーザからシチリア東海岸のシラクーサへと移動する。バスで83キロメートル、約1時間半かけて街へ着いた。昼食のピッツァを済した後、これも世界遺産に登録をされているシラクーサの見物である。この街は後述するタオルミーナの街と並び称されて、シチリア島では、最も美しい街の一つに数えられている。シラクーサもまた世界遺産の街である。
古代ギリシャから3000年以上に亘る遺跡があり、現在は周辺地域を含めると12万人余りの街である。沢山の遺跡で観光スポットも沢山あるが、我々の巡った場所を、順を追って説明してみよう。あのアルキメデスの生れた所であり、余談かもしれないが、小説家太宰治が、昭和15年に発表した“走れメロス”に出てくる街である(但し太宰はこの街をシラクスとしている。)古代のシラクーサは人口40万人をこす大都市であったが、アラブに征服されて衰徴した。
 写真Kパラディーゾの石切り場の “ディオニュシオスの耳” |
 写真Lシラクーサの“ギリシャ劇場跡” |
 写真M古代ローマの円形闘技場跡 |
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この街の見どころは、古代ネアポリスと呼ばれた市北部一帯(新市街)にある考古学公園内の、パラディーゾの石切り場である。深さ50メートル弱のものもあるが、特に有名で必見なのが、“ディオニュシオスの耳”(写真K)と呼ばれる高さ36メートルの耳の形をした洞のような岩である。この岩の掘り跡の名前はカラヴァッジョが1603年に名付けたという。又、このすぐ近くには、紀元前3世紀に着工した1万5千人収容の“ギリシャ劇場”(写真L)があり、現在でも古代劇が2年ごとに行われ、使用されている。又、ギリシャ劇場のすぐ近くに、紀元前3世紀から4世紀にかけて使われた“古代ローマの円形闘技場”(写真M)があり、これもシラクーサでは見逃せない観光場所の一つである。
 写真Nシラクーサの“アポロン神殿跡” |
 写真Oシラクーサの“アレトゥーザの泉” |
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もう一方、シラクーサの本島側とは別に、この街の発祥の地と言われている、オルティージャ島がある。この島には、世界最古の石造神殿と考えられる、“アポロン神殿”(紀元前575年頃の建立か?)(写真N)があり、ギリシャ人入植以前から、シクリススの聖地とされていた場所である。またこの島には海岸のすぐ近くにありながら、真水を湧出する“アレトゥーザの泉”があり、これもシラクーサの観光名所の一つとなっている。(写真O)
我々一行は、シラクーサを観光した後、島を北上して、距離にして125キロメートル、時間にして約2時間をかけて、カターニャの街を経由して、最後に2泊するタオルミーナの街に到着した。すっかり夜になった午後の7時半頃に、宿泊するエクセルシオールパレスホテルへ到着をした。5日目の12月5日の旅は終日晴天でシチリア島の各地を堪能した。ホテルのロビーでは、南アフリカの独立の英雄、ネルソン・マンデラの死去がテレビ速報で大きく報じられていた(2013年12月5日死去)。到着が夜の7時半頃であったために、ホテル周辺の景色が今一つ定かでなかった。
旅の5日目の12月5日は晴天であった。気温も15度位で見物箇所も多くて素晴らしい一日であった。宿泊するホテルはタオルミーナのエクセルシオール・パレスホテル(四ツ星ホテル)である。
一夜明けた12月6日(金)、旅の6日目は、朝から絶好の晴天である。昨夜は定かでなかったが、眼前のエトナ火山の雄姿(写真P)が望めるタオルミーナでも有数のホテルである。(写真Q)
展望デッキからは、薄煙りをはくエトナ火山が紫色にも見える雄大かつ優美な姿を見せていた。ホテルの前庭には、我々の出発前とその後に噴火した火山灰がまだ大量に残っていた、荒い砂のような黒色の火山灰である。しかし、ホテルの展望室から眺める、シチリア島のシンボル、エトナ火山は美しかった。(写真R)
 写真Pエトナ火山の雄姿 |
 写真Qエクセルシオールパレスホテル タオルミーナの外観 |
 写真Rホテル展望室から見たエトナ火山 |
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今日は旅の6日目、12月6日(金)であり、天候は朝から晴天の行楽日和である。世界中でも最も美しい街の一つと言われていて、又、世界中のセレブ達がこぞって集まるタオルミーナに、我々は前日に到着して、今日一日をかけてこの街を見物する。
この街は人口約1万1千人で、シチリア島の他の都市と同じく古代ギリシャやローマ帝国の遺跡を数多く残している。シチリア島東北部に位置する街である。楽しみにしていたシチリア島での最後の観光地であるタオルミーナを、次号で語ろう。
以下、次号へ続く。
地中海の真珠 〜シチリア島紀行〜 その4二宮健(35回) 2019.04.15
 シチリア地図 |
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さて、最近タオルミーナが世界の注目を集めたのは、2017年(平成29年)の5月に行われたタオルミーナG7サミットであろう。(写真@)
 写真@2017年タオルミーナでのG7サミット |
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日本からは安倍首相が6回目の首脳会談としてG7に臨んだ会議である。
旅の6日目、12月6日(金)、今日も快晴である。タオルミーナの街は世界中でも最も魅力のある街として知られている。人口は1万2千人位の小さな街であるが、この街のことをこの章では語ってゆきたい。
 写真Aタオルミーナの街 |
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極言すれば、この街は徒歩で1時間も散歩すれば、その中に古代、中世、現代が混在している世界中でも稀有な街の一つである。街はタウロ山の中腹、標高約200メートル位の所に位置している。(写真A)眼前には、紺碧のイオニア海とシチリア島のシンボルである雄大なエトナ山を見ることができる。
前日宿泊の際、チェックインが遅くて、ホテル周囲の景色が定かではなかったが、宿泊したホテルのエクセルシオールホテル(四ツ星)(写真B)の前庭には先月のエトナ山噴火での火山灰がまだ残っており、その庭から前面に雄大なエトナ山の噴煙と山容が、晴天の下、くっきりと望まれた。(写真C)
 写真Bエクセルシオールホテル |
 写真Cエトナ火山 |
 写真Dタオルミーナの小さな商店 |
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タオルミーナには、「カターニア門」、「中央門」、「メッシーナ門」という三つの門があり、これらの門はすべてが目抜通りの「ウンベルト1世通り」にある。目抜き通りとは言っても、約1キロの一本道で、車が通れるのはこの通りへ荷物を運ぶ車のみが朝9時半まで許されているだけであり、一日中ほぼ歩行者天国である。この通りは、世界中の人々が訪れる有名な通りである一方、通りから一歩横道に入ると、店のインテリアも美しい小さな商店がひっそりと佇んでいる美しい通りである。(写真D)
先ず我々は最初に、「ギリシャ劇場」を訪ねた。劇場跡であり、周囲に広がるパノラマが素晴らしい。紀元前3世紀の創建と言われ、やはりシチリア島のシラクーサにある。ギリシャ劇場跡に次ぐ第2の規模を誇る歴史遺産である。その景色の雄大さから(周囲に広がる大パノラマ)、平成29年に開かれたG7のタオルミーナサミットで各国首脳が一堂に会して記念撮影もされた場所である。(写真E)
 写真Eタオルミーナのギリシャ劇場跡 |
 写真Fタオルミーナウンベルト1世通り |
 写真Gサント・アゴスティーノ教会 |
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約40分間、記念撮影やガイドの説明を受けた後に、次に街の中にある、ガリバルディのタオルミーナ来訪を記念する、「4月9日広場」へ向った。この広場は、メッシーナ門から、カターニア門へ向うメイン通りの「ウンベルト1世通り」の中央に位置する展望の大変良い広場となっている為に、いつも観光客や地元の人で賑わっている。(写真F)この広場の名前の由来は、イタリア統一戦争中の1860年(日本では安政7年)4月9日、ガリバルディ―がシチリアに上陸したということを記念して、命名された(実際の上陸は5月9日)。この広場からは、広場の正面に1448年に創建されたサント・アゴスティーノ教会や、広場の側面のサン・ジュゼッペ教会(17世紀創建)などがあり、(写真Gサント・アゴスティーノ教会)又、時計台のある中央門がある。
 写真Hタウロ山よりのタオルミーナの眺望 |
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この広場からは、エトナ火山や眼下にはシチリア島タオルミーナの海岸線が見渡せ、観光に疲れたら、広場のカフェでゆっくりと休憩も出来る。何ともいえない絶好の場所となっている。この広場から、タウロ山の頂上(標高397m)にある城塞まで階段で登れ、約1時間の道のりの途中には、聖マリア岩窟教会があり、素晴らしい市街の展望が楽しめる。(写真H)
 写真Iサンドメニコパレスホテル |
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又、忘れてはならないのが、ホテルサンドメニコパレスホテルである。タオルミーナの丘の上に建ち、眼下に海岸を望む素晴らしいホテルである。14世紀に建てられた元修道院で、19世紀後半に建てられた2つの宿泊棟から出来ており、各国元首や、要人、そしてまたシシリー島への映画撮影できた映画人やトップスター等が宿泊する、タオルミーナの迎賓館的なホテルである。私も自由時間に、
 写真Jタオルミーナ大聖堂前の“ドゥオーモ広場” |
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約2時間程見学に訪れ、ホテル関係者に案内をしてもらったが、快く迎えてくれ親切に案内をしてくれた。本来なら宿泊する人しか入れない部屋も、J.T.B OBと身分証を見せると、いつも貴社より良いお客様を送客いただいており、ありがとうという言葉と共に、接客のプロとしての接しかたをしていただいた。(写真I)
又、タオルミーナのウンベルト1世通りの西の端、カターニア門近くの大聖堂とすぐその前にあるドゥオーモ前広場も散策のついでに立寄りたい場所である。シチリアらしい風景を楽しむことが出来、安くておいしいカフェやレストランが近くに散在している。(写真J)
さて少し話題は変わるが、シチリア島は映画の舞台となったことが何回もあって、私を含めて映画ファンには見逃せない場所でもある。又、マフィアでも有名な島である。これ等について少し述べてみたい。
シチリアを舞台にした映画を思いつくままに記してみても、
●「シシリーの黒い霧」:1962年製作・監督フランチェスコ・ロージでベルリン国際映画祭銀熊賞最優秀監督賞、原題は主人公の名前の「サルバトーレ・ジュリアーノ」(写真K)
●「シシリアン」:1969年フランス映画、シシリアマフィアを題材にした、ジャン・ギャバン、アラン・ドロン、リノ・ヴァンチュラ主演の映画(写真L)
●「山猫」:1963年のイタリア・フランス合作映画、ルキノ・ヴィスコンティ監督、第16回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞作(写真M)
 写真K「シシリーの黒い霧」 |
 写真L「シシリアン」 |
 写真M「山猫」 |
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●「ゴッドファーザー」:1972年アメリカ映画、1972年アカデミー賞作品賞、主演男優賞、脚本賞を受賞(「ゴッドファーザー2」、「ゴッドファーザー3」と続編がある)(写真N)
●「ニュー・シネマパラダイス」:1988年イタリア映画、1989年カンヌ国際映画祭審査員特別賞、1989年アカデミー外国語映画賞受賞(写真O)
●「グラン・ブルー」:1988年フランス・イタリア合作、フランスでのアカデミー賞にあたるセザール賞に多部門でノミネートされた(写真P)
 写真N「ゴッドファーザー |
 写真O「ニュー・シネマパラダイス」 |
 写真P「グラン・ブルー」 |
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などなど、どれを見ても良い作品であり、帰国後にビデオで鑑賞し、旅の楽しみである旅行後の余韻に浸った。特に私は、「ニュー・シネマパラダイス」が好きである。又、「山猫」も、ガリバルディの活躍した時代背景を、豪華な配役とその時代風景を映画に反映させた秀作であった。是非皆さんもこれ等の映画で、シチリアの匂いを嗅ぎとって欲しいと思います。
さてもう一方の、マフィアの件であるが、硬軟色々の著作があり、概要は御存知の方も多いと思うが、今でもイタリアに大きな影響を与えているようだ。この旅行中の12月5日付のイタリア紙には、シチリア島で、マフィア関連の難しい公判を指揮する主任検事へのインタビュー記事が掲載されていた。それによると、「マフィアは盗聴や諜報を駆使しており、1992年〜93年のようなテロが急増するかも知れないという。マフィアは今も、イタリア社会に強い影響力を持っている。かつて捜査・司法と全面対決し、判事の暗殺も相次いだ。マフィア『コーザ・ノストラ』の元ボス、トト・リーナは獄中から検事を脅迫する。アルファーノ内務相は、『最も深刻な課題。南部の発展を遅らせ、経済的自由への脅威だ』と述べた。」 〜イタリア紙ジアンニ・デルベッキオ編集長〜
しかし、日本の暴力団のようにそれぞれが自他共にわかるような服装などは、一切マフィアはしていなくて、又、それを誇示し市民を脅迫するようなことは多くなく、もっと深部に潜み、一般住民の如く暮らしていると、現地の人は私に語ってくれた。それが実態かも知れない。
シチリアの旅は色々と私に感動を与えてくれた。この旅は、12月9日(月)日本帰国をもって終了した。
〜終わり〜
≪編集人より≫懐かしいシチリア紀行ありがとうございました。40年前、2度目のクリスマス休暇、一緒に過ごす相手もいなく、ヒッチハイク(国鉄の運転席も含め)で島内を駆け巡ったことを思い出しました。いいところです。それ以来訪れていませんが、まるで変っていない気がします。
往時茫々、中国の旅 〜その1〜二宮健(35回) 2019.11.21
 筆者近影 |
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はじめに
なぜ今、「41年前の中国紀行」なのか
名実ともに世界有数の強国となった中国だが解放後、未曾有の国難といわれた「文化大革命」が終息したのが44年前の1976年である。2019年には建国70年を迎えた。(2019年10月1日)
ケ小平の所謂、「四つの近代化」が緒に就いたばかりの1979年(昭和54年)に(令和元年から40年前)筆者、二宮健が見た当時の中国の姿を紀行文と写真で紹介してみる。二宮訪中10数回の最初の訪中である。題して「往時茫々、中国の旅 その1〜その5」として記述してみた。 令和元年11月
筆者 二宮健氏
昭和29年土佐中学入学、高2の5月まで足掛け5年間在籍した準35回生。
旅行評論家・JTB OB会員。神戸市在住。
 @毛沢東死亡を伝える号外 |
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1976年(昭和51年)10月に、張春橋、姚文元、王洪文、江青の四人組が逮捕された。その前月9月9日には、毛沢東が北京で死去している。(写真@)
1978年(昭和53年)12月16日に米中が共同声明を発表して、1979年(昭和54年)1月1日から国交樹立を発表した。
 A文化大革命中の壁新聞 |
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同じ1979年(昭和54年)12月6日に北京市革命委員会は、北京市「西単の壁」および他の場所への壁新聞を貼ることを禁止した。(写真A)
さしもの文化大革命(1966年?1976年)の10年間の未曾有の政治的混乱が終束して、中国が「改革・解放政策」へ舵を切り始めた頃の1979年(昭和54年)、2019年(令和元年)からふり返ると40年も昔となる。筆者二宮にとっても“往時茫々”たる想い出が深い、まだ日本人の訪問観光客のほとんどいなかった時代の旅行記とその記録と写真である。
 B1978年(昭和53年) 中国共産党第11期3中全会 |
 C芦屋市友好訪中団 訪問・参観先 |
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この年1979年(昭和54年)私は兵庫県芦屋市友好訪中団を企画・立案して中国へ渡った。文化大革命が終息して、江青反革命集団が粉砕された後、中国中央党組織は、ケ小平の職務を回復し、1978年(昭和53年)末に中国共産党第11期3中全会を経て、改革・開放(写真B)政策の実行と四つの基本原則の堅持を確認した。現在の中国へと出発する転換期の時代であった。そんな時に訪中団の企画を立て、芦屋市に打診をしたところ、当時の市長松永精一郎さんや、芦屋市議会代表、任意参加の市民など16名の“芦屋市民友好訪中団”が結成された。令和元年(2019年)から40年前のことである。現在78才の私が37才の時である。代表団の大多数の方が、鬼籍に入り、帰幽されている。(写真C)の訪中団旅程図と訪問先、観光先の地図を見ながら、論を進めてゆきたいと思う。私は企画・立案者として、この15日間の旅行の公式随行員として、日本交通公社より派遣された。
1979年(昭和54年)11月27日(火)から12月11日(火)迄の当時の中国各地での旅行の記録である。その頃は、中国を自由に旅行することは、日中共に許されてはおらず、日本側で企画・立案した旅行日程を、中国側に提示し、その後、中国側から招請状(インビテーションレター)なるものが発給されて、初めて訪中が許されていた。
 D文革中の「紅衛兵」 のポスター |
 E華国鋒 |
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それも何度かに亘り、日本交通公社本社(東京)を通じて、中国側の当時の国営中国国際旅行総社(北京)と、旅程の調整を行い、中国側から提示された旅程に概略同意せざるを得ない情況であった。
まだまだ当時発展途上国であった中国では沿岸部の大都市を除いた内陸地方では、ホテルは勿論、外来の賓客を迎えるための招待所(ゲストハウス)も無いのが、実情のようであった。現在の中国は習近平体制の下で経済大国としても発展し、GDPで世界第2位の実績を誇っているが、私が訪中した1979年(昭和54年)当時はケ小平が何回も文化大革命の中で(写真D)失脚と復活をくり返した後に、確固たる実権を握ろうとする時でもあった。我々の友好訪中団はその寸前の華国鋒が党主席の1979年(昭和54年)12月である。(写真E)
時系列でみてみると、中国の指導体制は第一世代が毛沢東(写真F)、第二世代がケ小平(写真G)、第三世代が江沢民(写真H)、第四世代が胡錦濤(写真I)そして現在は習近平(写真J)の第五世代指導部と言われている。
 F毛沢東中国共産党指導者(第一世代) |
 Gケ小平中国共産党指導者(第二世代) |
 H江沢民中国共産党指導者(第三世代) |
 I胡錦濤中国共産党指導者(第四世代) |
 J習近平中国共産党指導者(第五世代) |
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丁度、第一世代と第二世代の交替期に訪問したのであった。まだまだ四人組の影響が残っていた華国鋒体制の下では、決して物見遊山の旅は許されず、後述するように文革の余波の残る各都市の、革命委員会への表敬訪問や、人民公社の見学等が旅行のコースには、必ず組み込まれていた。旅行を実施した1979年(昭和54年)には、流行歌手渥美二郎の“夢追い酒”や山口百恵の“いい日旅立ち”などが大流行した年でもあった。
 K筆者手製の渡航記念証1979年11 月29日CA922便機長副機長署名入り |
 L成田?北京間の中国民航 B-707型の機内 |
 M中国民航1979年当時のロゴ |
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この年、中国側の統計によると、中国を訪れた日本人は、業務での渡航を含めても推定5万4千人にすぎなかった。(現今の中国旅行ブームとは隔世の感じがする)。そんな情況の中で我々一行は、1979年(昭和54年)11月27日(火曜日)に夕刻の中国民航922便にて北京へ向けて出発をした。(写真K)機種は、ボーイング707型機であった。(写真L)(写真M)
機は午後9時15分に北京首都空港に到着した。機中での服務員(スチュワーデス)は紺色の上下服で、華やかな雰囲気はなく、乗客に提供する茶も魔法瓶から注いでいたと記憶をしている。当時の自由主義諸国の日・米・欧の航空機のサービスからは、随分異なった印象を受けた。さて到着した首都空港は、現在の世界を代表する近代的な大空港ではなく、何回も拡張される前の現在からは、想像も出来ない質素な、そして薄暗い空港であった。(写真N)(写真O)(写真P)
 N1979年当時の北京首都空港 |
 O到着時の北京空港内部 |
 P北京首都空港より北京市内へ 向う道路(1979年当時) |
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薄暗くて人影も少ない雰囲気で淋し気な空港であった。
空港には、受入側の中国国際旅行総社日本処(日本課)の張乃驍ニいう、この日から最終日まで随行する男性通訳と北京分社の日本課副課長胡金樹、同趙登霞、同李艶という北京地区を担当する男性1名、女性2名の計4名(通訳を含めて)が出迎えてくれた。
張氏は、エリートであろう、灰色の人民服にポケットが四つついた制服を着用していた。
当時は上着のポケットの数で大体エリートかどうか判断出来た。張氏は我々訪中団の中国側のお目付役と団の動向をそれとなく観察する役目をもっていたと旅行が消化されていく中で確信するように団員誰もが思うようになった。観光ガイド、通訳というより、公安員としての側面が強かった。
 Q芦屋市友好訪中団:成田空港にて (筆者後列左より2人目) |
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それは、彼が各地の現地分社の通訳やガイドに示した態度が同業というよりもっと尊大な態度からもうかがい知れた。またこの時に出迎えてくれた日本処(日本課)副課長胡金樹氏は、その後、中国要人が日本訪問する際に度々、日本語通訳として来日し、そのフルネームを新聞紙上でよく見かけた。(写真Q)
我々が中国を訪れた1979年(昭和54年)の日中の動向を見ておこう。この年の1月1日に米中の外交関係が樹立され、2月17日には、ベトナムと中国は戦争を始めている。また2月には、後の日本国総理となる麻生太郎氏が39才で、日本青年会議所会頭として代表団を率いて訪中をしている。同年に衆議院議員に初当選している。
一方、中国では、現在の国家主席習近平氏が24才で清華大学(北京)を卒業して、中国軍事委員会弁公室へ勤務を始めており、中国共産党官僚として出発をした年でもある。
1979年(昭和54年)11月の時点で、1米ドルが1.55中国元であった。当時1米ドルは日本円で246円前後であったので、換算すると1中国元は約158円前後であった。(2019年4月現在1中国元は日本円で約17円)
我々が訪中した当時は、万元戸(1万元)が富農・富豪の目標とされており、つまり日本円で年収160万前後のお金を持つ人々が中国に於ては少数の富農・富豪と見なされた。昨今の中国経済とは雲泥の差である。
当時、1979年(昭和54年)頃の中国人の平均月収は、都市部の勤労者が良くて、(家族持で)70元〜80元(日本円で約11,000円〜12,600円)位であり、日本では大卒の初任給が大体、手当を除いて約100,000円前後の頃である。まだ中国は経済的に見ても発展途上国であった。
 R1979年(昭和54年)当時の 前門飯店のシール |
 S現在の前門建国大飯店 |
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さて、到着日は夜も遅い為、空港での歓迎の言葉もそこそこに、北京市内のホテルへ向った。市内まで約20キロメートルの道は、薄暗くて、これから首都へ向うのかと思うほど淋しい道であった。それでもポッと灯る街灯の明りが増えてきて、首都北京中央部永安路にある、前門ホテルへ到着した。現在の前門建国大飯店である。(写真R)(写真S)
薄暗くて、やけに広いロビーで部屋割を済ませて、真夜中過ぎにそれぞれの部屋に入った。現在のように超一流ホテルが乱立する北京のホテル事情とは異なり、前門ホテルは、芦屋市という友好訪中団を受け入れるに足る、当時では、北京の一流ホテルだったのである。本音で言えば、薄暗くて、うらぶれた感じがしたが、芦屋市という都市の内容と特色は間違いなく、国の機関である、国家旅遊管理総局を通じて、中国国際旅行総社に伝えられている筈である。
団員一行も一寸とまどった感じであったが、後日、この国の実情が徐々にわかってくることになる。
以下次号へ続く
往時茫々、中国の旅 〜その2〜二宮健(35回) 2019.12.09
 @1979年当時ホテルから見た民家 |
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一夜明けた1979年(昭和54年)11月28日、水曜日の早朝、前門飯店で夜明けを迎えた。初めての中国での朝である。前日は夜遅く、ホテルへ到着のために、北京の街の様子はわからなかった。午前7時前に5階(だったと思うが)の自室の部屋から市街を眺めると煙に曇った風景である。現今、炭素硝酸塩、金属を主な成分とする粒子で径2.5μm以下の微粒子状物質のPM2.5が空気中に飛散して、平成27年12月9日には、最悪警報「赤色警報」が発令されて学校等が休校になる事態になっているが、その原因の一つが、冬の暖房のための石炭を燃やすことといわれている。当日の11月28日もかなり冷えこんでおり、石炭を燃やして北京市民は暖をとっていたのであろう。窓をあけると、石炭の臭いが鼻に入り、このスモッグは石炭のせいだとはっきりわかった。当時北京では、乗用車もあまり走っておらず、それがスモッグの原因になるはずもなかった。自室の窓から見る窓外の民家は貧し気で、現在の北京とは全然違った風景であった。(写真@)
 A北京市内を走る高級車“紅旗” |
 B1979年11月、筆者と乗用車 |
 C乗用車を整備する服務員 |
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 D1979年11月26日付人民日報 |
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この頃の乗用車といえば、要人用の高級車の“紅旗”か“上海”などが走っており、現在のように輸入車をはじめ、車道を埋めるような混雑は想像も出来なかった。(写真A)(写真B)(写真C)
訪中団の二日目、1979年(昭和54年)11月28日(水曜日)は終日、北京市内観光を行った。まだ外国からの観光客は少なく、行く先々で逆に我々一行が、北京の人々に物珍しげに囲まれた。(写真D)
午前8時に前門飯店を出発した専用バスは中国旅行総社北京分社日本処(日本課)の通訳3名と共に先づ天安門広場へと向った。40万平方メートルもあり、一度に50万人を収容できると説明を受けた。広場を散策したが、現在のように内外の観光客はなく、大広場には我々のグループと少しの人々しか居なかった。(写真E)(写真F)(写真G)
 E訪問した1979年(昭和54年)の 天安門広場 |
 F訪問した1979年(昭和54年) 天安門広場の筆者 |
 G団長の松永芦屋市長と中国国際 旅行総社北京分社日本課の日本語通訳 |
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天安門散策の後、72万平方メートルの敷地の中に、9,000室も部屋があるという、故宮博物院を見学した。(写真H)
 H1979年の故宮 |
 I北京市内の天壇 |
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整美された現在とは程遠い若干荒れた印象であった。しかし、天安門を含めてその規模の大きさには度肝をぬかれた。午前8時半頃に天安門の見学を始めて徒歩で午前中をかけて見学をしたが、それでも時間が足らない位であった。中国はユネスコの世界文化遺産登録の最も多い国の一つだが、故宮は勿論登録をされている。(我々が訪問した頃にはまだこの登録制度は無かった。)歩き疲れた感じですぐ近くの前門飯店に帰り、昼食をとった。当時は、昼食を観光する場所の近くでというようなレストランは皆無に近く、外国人観光客は原則的に全行程宿泊したホテルに戻って昼食をとり、再び出発をした。これは、トイレ事情にもあった。厠所(便所)は、余りにも設備がひどくて、観光客には、使用するには、勇気のいることであった。特に大便所はひどかった。一度ホテルへ戻った後、午後は北京市内の天壇、つまり明代、清代の皇帝が天に対して祭祀を行った場所を見学した。この場所は、1918年迄は、一般人は立入禁止となっていたそうだ。(写真I)
 J頤和園の石船 |
 K頤和園にて若き日の筆者 |
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その後、これも後日に世界遺産として登録された頤和園を見学した。(写真J)
荒廃していた頤和園を再建したのは、有名な西太后であり、離宮とし、避暑に利用された。この再建費に莫大な国費を使用したために日清戦争の敗因の一つとされている。
1900年には義和団の乱で破壊されたが、1902年に修復された。(写真K)
この日は午後7時頃にホテルへ戻った。
 L訪中当時の「兌換」中国元 |
 と普通の人民元 |
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ところでこの頃の中国を訪れる外国人観光客は、我々を含めて、使用する中国元は「兌換券」制度が導入されていて、人民元の価値で表示されていた。一般人民元は外貨とは交換出来なかった。持参した米ドルを、中国元の「兌換券」に両替をし使用した。余った「兌換中国元」は両替した領収証と、使用した(つまり買物等で使用した)領収証を提出して、最後に米国ドルに再度両替をしたと記憶している。(写真L)
とにかく買う物も少ししかなく、余りお金は使わなかった。旅行費には、滞在中の食事、朝食、昼食、夕食等が全て含まれていたからだ。当時、一米ドルは1.55中国元であった。(令和元年4月現在で1米ドルが約6.73人民元である)
さて、旅行3日目の1979年(昭和54年)11月29日(木曜日)は、午前中に万里の長城の見学と午後に明の十三陵(定陵公園)を見学した。(写真M)
 M訪問当時の荒廃した万里の長城 |
 N当日の北京・八達嶺駅往復の列車切符 |
 O万里の長城訪問の証明書 |
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現在では、北京を訪れる観光客の一日観光の定番コースであるが、昭和54年(1979年)当時は中国が外人観光客に対して開放していた、世界に誇れる観光資源であった。勿論後年に中国を代表するものとして、世界文化遺産に登録された。この日は、朝7時頃にホテルを出発して、北京駅より鉄道を利用して八達嶺駅まで乗車した。北京駅午前8時5分発で八達嶺駅に午前10時9分に到着している。(写真N)(写真O)
 Pあまり人のいない長城 |
 Q1979年当時発行の長城切手 |
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八達嶺駅からマイクロバスで長城(八達嶺の長城)へ向った。最も早い時期に公開された長城でかなりの人で賑っていたが、現在の各地の公開されている長城の混雑とは雲泥の差でゆっくりと長城壁上を見物できた。(写真P)(写真Q)
限られた時間の中で、日本人が名付けた“男坂”“女坂”の両方を見物するのは、当時まだ若かった私でさえかなり疲れた。
 R明14代皇帝 万暦帝の肖像 |
 S1979年11月29日(木)明の 十三陵、定陵地下宮殿の中国民衆 |
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八達嶺駅から列車で南口駅まで引き返して、そこからまたマイクロバスで明の十三陵へ向った。十三陵は、明の成祖永楽帝以後の皇帝13代の陵墓があるために、この名称がある。勿論これも世界遺産に登録されているが、我々の訪ねた1979年当時はこの14代皇帝の「万暦帝」の陵墓である、地下宮殿の発掘からまだ間もない頃であり、(発掘は1956年から1年かけて行われた。考古学技術の未熟な中での発掘のため、大量の文物が破壊され、1966年には文化大革命の時期、紅衛兵により文物が破壊されている。)地下宮殿は未整理のまま我々にも公開された。壮大な地下宮殿であった。(写真R)(写真S)
皇帝の棺や椅子等が公開展示されていた。現在では、北京市からの一日観光の定番観光地として、ひきもきらぬ観光客で一杯であるが、その当時は、北京市から北方50キロメートルに位置していながら、中国人を中心としたわずかな人達しか訪れていなかった。

北京 鴨店 の当時のパンフレット |

ボーイの持つ北京ダック |
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見学後、南口駅まで戻って列車で北京市内へ帰った。この日の夕食はホテルでとる予定になっていたが、(全行程3食込の旅程であったが)急拠キャンセルをしてせっかく北京へ来たのだから、名物の北京ダックを賞味したいと、北京分社に申し入れをして、自費負担承知で手配をしてもらった。現在では、日本にも支店を持つ全聚徳(ぜんしゅうとく)

鴨店である。それも前門総本店で手配してもらった。1979年当時は、全聚徳の店名は文化大革命の影響で消されており、単に北京

鴨店の名前で営業をしていた。古びた料理店の風情であったが、出てきた北京ダックは本当に美味であり、グループ全員がこれこそ、本場の北京料理と感心をした。正確な料金は忘れたが、結構高価だったと記憶に残っている。(写真

)(写真

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北京市革命委員会を訪問。芦屋市長と 北京市革命委員会外事弁公室副主任 |
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旅の4日目、1979年(昭和54年)11月30日(金曜日)を迎えた。今日は北京市革命委員会を午前中に訪問した。団長以下全員服装を整えて訪問をした。北京市革命委員会外事弁公室副主任

仁先さんが迎えてくれて歓迎のあいさつを受けた。北京市民の沢山の人々とふれあって日中友好の実績を積み上げて下さいとの主旨であった。芦屋市からの記念品を贈って約1時間懇談をした。(写真

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革命委員会とは、文化大革命中の政治権力組織であり、主任、副主任、常務委員などで構成されていて、軍区司令官、地方幹部、労働者、農民、学生などで構成されていた。
我々が訪中した頃には、革命委員会は各地で機能しなくなっており、順次各地で市民政府などに名前が変り、実務的な機能を持つ機構に再編されている時期に当っていた。
表敬訪問を終えた我々グループは、市内の工芸品と友誼商店を見物して各々、買物を楽しんだ。北京一般市民のための、ショッピングセンターではなく、あくまで外貨である米ドルを中国元に交換した外国観光客向けの商店である。特に北京、上海などの大都市の友誼商店は、百貨店のような型になっており、中国の文物が、そこで何でも揃っており、又そこにしか良い品がなくて、外国観光客は、そこでの買物を強いられていた。一般市民の買物客は入れず、専ら中国駐在の外交官や、その家族と訪中団等の特殊な人々のショッピングゾーンであった。店員達は全く、サービスの何たるかを理解しておらず、買物客など度外視するかのように、仲間同士でおしゃべりをしていた。これには我々も恐れ入ってしまった。
以下次号へ続く
往時茫々、中国の旅 〜その3〜二宮健(35回) 2019.12.23
 @文化大革命 |
 A文化大革命 |
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北京滞在中に私はほんの数年前まで(1966年?1976年)続いた文化大革命という未曾有の混乱について、色々な人に聞いてみたが、
荒波にのみこまれたであろう、北京の人達は、こちらの顔をじっとみつめながら、何も答えずさも迷惑そうな顔をするのが、印象的であった。文化大革命への評価が定まったのは、1981年(昭和56年)6月の中国共産党第11期6中全会であり、ずっと後のことである。まだ一般の人には、文革に対する評価など出来る時期ではなかったのであろう。昨日迄正義と信じこまされていた文革が突然終りまだ何がなんだかわからないということであったと思う。それは第2次大戦敗戦後の日本国民のとまどいと同様であった。正義だと信じていた社会感が崩れ去ったのである。(写真@)(写真A)
 B訪中当時の「兌換」中国元 |
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ここで現在と昭和54年当時の様子を比較してみよう。平成17年(2005年)11月30日にIMF(国際通貨基金)理事会は、人民元を世界の主要通貨と位置づけ、ドル、ユーロに次ぐ第三の通貨に位置づけて第4位の通貨となった日本の円を抜いて国際的な通貨システムの中でも、中国の存在感が強くなっている。しかし我々が訪中した昭和54年(1979年)当時の人民元はまだ弱い存在でしかなかった。(写真B)昭和54年1月には、米・中の間で国交が樹立され、2月には、ベトナムと戦端を開いている。
 C若き日の習近平 |
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また、昭和54年4月には、現国家主席の習近平が、清華大学を卒業して、中国軍事委員会弁公室に入り、当時の国防相の秘書として官僚の道を歩み出している。(写真C)そんな時代に我々訪中団は中国を訪れたのである。
 D天津友誼賓館のシール |
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北京を後にして我々一行は11月30日(金)北京駅を午後5時47分発の列車で次の訪問地、天津市へ向い午後7時47分に天津駅に到着した。駅頭で中国旅行総社天津分社副社長李疾風氏、日本課々長で通訳の徐錦康氏、女性通訳の張文紅氏、

燕氏の男性2名、女性2名の出迎えを受け歓迎のあいさつを受け出迎えのバスにて宿泊する天津友誼賓館(写真D)へ向った。
当時このホテルは天津を代表するホテルであり、神戸市と天津市が友好都市である関係からか、同じ兵庫県の芦屋市ということで大変良いホテルを受入先にしてもらったのかも知れない。(ホテルや受入先は全て当時は中国側から指定される情況にあった)
 E退休職工養老院 |
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旅行も第5日目を迎えた12月1日(土)は午前中に天津市退休職工養老院を訪ねた。退職をした老人達の養老院である。(写真E)
話しを聞くと、我々老人を大切にしてくれる共産党には心から感謝をしている。昔の古い中国では考えられない待遇であり、年金も支給されていて、幸福だと模範的な答えであった。ずっと養老院長の熊さんと幹部の楊さん、王さん3名が我々との質疑応答に立ち会って、訪中団が毎回訪ねてきている感じがして応接の問答も慣れた感じがした。年金は月60元〜70元とのことであった。当時の天津市は中国での商業ならびに重・軽工業の都市で、北京・上海とともに中国の三つの特別市(中央直轄市)の一つであり、先年、天津に近い唐山を震源地とする大地震があり、その震災の後遺症がまだ残っており、避難小屋と名付けたレンガ造りの仮設小屋が点在しており、その復旧と住宅建設に全力をあげている最中であった。
 F平山道中学と平山道高校 |
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午後からは、天津市内の平山道中学と併設の平山道高校を見学した。(写真F)
校長の李莉さん(女性)と歴史教師趙氏、国文教師の尹氏の3名が“熱烈歓迎日本兵庫県芦屋市訪華団”と書いた学校入口で生徒達と共に迎えてくれた。そして解放前は貧しく進学も容易でなかったことや、現在は男女共学で生徒数が1,500人、教師が90人で「四つの近代化」を実現する教育に努力していること、また学制は当初6・3・3・4制で発足したが文革により5・3・2・3制に変えました。しかし世界の情勢にてらして来年の1980年から元の6・3・3・4制に戻すと決めたと説明があり、英語も中1から高校まで会話を採り入れているなどの説明があり、生徒には「自分の一生はなにか」、「何のために勉強するのか」などを討議させている、これも革命教育の一つとの説明を受けた。李校長は教育向上視察のために、団員の一人として兵庫県にこられたと言って、熱心にこの日の午後我々と生徒の交流につきそってくれた。団員一同中国の教育現場をじっくりと見学が出来た。
同日夜は宿泊をした天津友誼賓館にて天津市革命委員会の招待宴があり、天津市革命委副主任王恩恵氏や外事弁公室主任王屏氏など市の幹部出席のもと交歓会が行われた。今年(1979年)に訪中する日本の大平首相を熱烈に歓迎することや、そして7年前に田中首相と共に訪中して大平氏は当時中日両国人民待望の中日国交樹立の大きな功績等や天津と神戸市の友好都市関係の発展を祈念する等の話しをされた。なお、この招待宴に先立って、天津市革命委員会への表敬訪問を行っており、上記2氏の他に、中国対外友好協会天津分会長、天津市遊覧観光局長、外事弁公室接待所幹部など多数の人達と接見をした。(写真G)(写真H)(写真I)
 G天津市革命委員会副主任 王恩恵氏よりのプレゼントされる軸 |
 H天津市王恩恵氏歓迎あいさつと |
 訪中団を代表してあいさつをする 芦屋市松永市長 |
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この歓迎宴は、宴の始まる前に、中国旅行総社の全行程随行の張氏より、式での天津市側と芦屋市側のあいさつ文のすり合せがあり、何か不都合な文言がないかのチェックがあった。また宴会ではお酒の飲めない人は最初から断っておくのが礼儀であると言われた。
予算の関係からか、まずまずの料理と、お酒は最高級の中国酒“貴州茅台酒”などが沢山提供された。乾杯、乾杯の応酬で招宴は楽しく行われたが、中国側からは政治関係の話しは出なかったと記憶している。しかし、中国側の出席者の要人達は酒に強い人が多かった。
 J天津第一じゅうたん工場にて |
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旅の第6日目、1979年12月2日(日)は、中国じゅうたんで有名な天津第一じゅうたん工場を工場長の蔡さんの案内で見学した。(写真J)高価なじゅうたんは全部手作業でつくられていたが、労働環境はあまり良くなく、ほこりが沢山工場内に舞っていた。
 K天津の切り絵 |
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そして、天津の友誼商店でショッピンングをして天津市芸術博物館を見学した。弁公室主任の周学謙さんの案内で天津の有名な切り絵(剪紙)を見物した。(写真K)
そしてその後、この日の圧巻の天津水上公園のパンダ見物であった。既に日本の上野動物園に1972年にパンダの“ランラン”ともう一頭“カンカン”(写真L)が中国政府より贈られていて、ブームを呼んでいたが、私をはじめ、団員の大多数の人達が、現物の“大熊猫”と中国で呼ばれているパンダを見るのは初めてであった。
 L上野動物園のカンカン(右) とランラン(左)の写真 |
 M天津水上公園のパンダ |
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日本のようにV.I.P.待遇の園舎ではなく、自然のままに、土にまみれて、放し飼いに近い状態で、見物客に対しているのには、いささかびっくりした。(写真M)
パンダを間近に何の仕切等で隔離されていない姿を見て大満足であった。この夜は天津市文化局の主催する雑技つまり曲芸を見物してホテルへ夜遅く帰館した。
 N天津医院を訪問し質疑を行う団長並びに副団長 |
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旅行第7日目の1979年12月3日(月)は天津を離れて東北地方(旧満州)へ向う日であるが、その前に午前中、天津第一を誇る天津医院を訪問し見学をした。(写真N)院長が二人居て王春和氏、陶甫氏、骨科(整形外科)主任尚天裕氏、主治医生李漢民氏、弁公室主任

方信氏など多数の医師が出席して説明をしてくれた。
当方は団長松永市長は医師であり、副団長も医師であった関係か専門的な意見交換が通訳を介して行われた。一緒した私には医療用機器は日本の医療現場の方が随分進んでいるように見えた。午後は天津市でも大きい天津市第一幼稚園を見学した。副園長の馬恵敏さんや保健員、教師など全員女性の職員が案内をしてくれた。団員の女性達が遊戯に加わり、親の年令や職業などを聞いて楽しい2時間程を過した。(写真O)
 O天津市第一幼稚園で園児達と |
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そしてこの日の夕食は前日の天津市の招待宴に対する芦屋市側の返礼の答礼宴で(これが通常行われていた)、出発する前に旅行コースと共に綿密に日中双方で打合せをして、双方の宴に格差が出ないよう、料理の品数、酒の等級、出される本数、出席者の人数、肩書、交換する文書の文言までチェックをした用意万端の答礼宴を行った後、同日夜午後10時15分発の夜行寝台列車(軟座寝台)の客となって東北地方(旧満州)の瀋陽(旧奉天)へ向った。この列車は我々の寝台は上・下・二段ベッドであって当時の日本の“ハネ”と専門用語で呼ばれていた二等寝台車によく似た寝台車であった。
以下次号へ続く
往時茫々、中国の旅 〜その3〜二宮健(35回) 2019.12.23
 @訪中時1979年の遼寧賓館のシール |
 A現在の遼寧賓館 |
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夜行寝台列車は窓の外には、ほとんど灯の見えないまま、翌朝1979年12月4日(火)の午前7時に瀋陽駅(旧奉天駅)に到着した。古い駅舎であり、何となく淋しい感じのする駅であった。中国東北部の主要都市である。日本出発前から、満州という言葉には注意することと、言われており、使うなら偽満州国と呼ぶようにと注意されていた。
旧奉天市であり、日本が中国へ軍事的侵略をしていた際、張作霖が根拠にしていた地である。日本人にも古い世代にはよく知られていた地である。駅頭には、中国旅行総社瀋陽分社副社長王棟さんと通訳の張鳳翔さんが出迎えており、あいさつを受けて、着後すぐに駅近くの天津市紅旗広場にある、遼寧賓館(戦前の満鉄ヤマトホテル)で旅装をといた。(写真@)(写真A)
 B訪中時、紅旗広場の毛沢東像 |
 C中山広場と名を変えた場所の現在の毛沢東像 |
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良く言えばロマンチックなホテルであり、このホテルを中心に戦前の満州での権謀術数が行われていたことを思うと感無量であった。それも、訪問時から30数年前のことである。数々の満州の歴史に登場するホテルである。又ホテル前の紅旗広場には巨大な毛沢東の全身像が台座の上から手を上げて広場を見下ろしていた。中国共産党の象徴である。(写真B)(写真C)
 D瀋陽市革命委員会を表敬訪問 |
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我々はホテルに荷物を預けチェックインをした後すぐに瀋陽市革命委員会を表敬訪問して革命委員会副主任田光氏、外事弁公室副主任張国端氏、同処長費宝民氏、工作員鄭雲起氏その他の人々より歓迎あいさつを受けた。(写真D)
そして瀋陽市の概要の説明を受けた。ここは清朝発祥の地であること、北京・上海・天津につぐ中国第四の人口を持ち、重機・軽機の工場が沢山ある大工業都市であって東北3省を統括する行政・経済の要の都市であり、芦屋市民の代表団を熱烈に歓迎するとのあいさつを受けた。
 E瀋陽羽毛工場の羽毛画製作 |
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ホテルへ戻り、昼食の後、午後は瀋陽市羽毛工場を見学した。羽毛の工芸品は古墳からも発掘されており、二千年の歴史を持ち、孔雀や鴎など約30種類の鳥の羽毛から羽毛画をつくり、日本やアメリカなどに輸出をしており、従業員は350人で70%が女性だと羽毛工場の接待員の女性の張さんより説明を受けた。(写真E)
 F瀋陽市玉石工場の製作現場 |
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そしてひきつづき瀋陽市玉石工場を見学した。ここは瑪瑙(メノウ)の一種の「緑石」を磨いて、鳥や動物などの装飾品を作っており、約630人の従業員で70%が女性であり、輸出向けの芸術品を製作していると、工場長の王氏より説明があった。(写真F)
 G1979年派遣された神戸天津友好の船 |
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今迄巡ってきた北京・天津・瀋陽と本当にこまやかな接待を受けてきた。この年に(1979年)神戸天津友好の船を派遣しており、数百名が参加した大型の訪中団であったが、(写真G)それに比較して我々は、少人数の17名であり、なおかつ、市民代表団ということで心のこもった接待が受けられたのかもしれない。
この夜、夕食を終えて、入浴をして、タオルを持ってホテルの外へ出てみると、そんなに寒いとは思わなかったが、タオルの水分がわずか15分位でパリパリに氷結したのには驚かされた。外気温はマイナス20℃とのフロントの係員の話しであった。このホテルでは、日本植民地時代の旧満州の話しを聞きたくて、中高年の戦前を知っているであろう従業員に通訳を交えて聞いてみたが、誰も通訳を気にしてか、その話しには応じてくれなかった。
旅行も八日目が終ろうとしていたが、この日の夕食にはお粥が提供されて団員の皆が大変喜んだ。と言うのも初日から我々に対しては朝・昼・夕食ともに豪華な中国料理を提供してもらっていたが、さすがに腹にこたえてきた。特に油が多いのがこたえた。そこで団員から何かさっぱりした料理が欲しいと申し出があり、全行程随行の張氏へ申し入れた。食事の差配は、彼が現地の中国国際旅行社の現地分社にしているからだ。何のことはないお粥であったが、皆さんはおかわりまでして喜んで食べていた。久しぶりにホッとした夕食であったようだ。日本から持参した梅干や佃煮などが、各人から持ち出されて分け合って口にしていた。やはり和食が懐かしいのである。
スチーム暖房がチンチンと鳴ってなかなか寝つけなかったが旅の9日目、1979年12月5日(水)は瀋陽市内の参観である。
 H歓迎をしてくれる小学生達 |
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午前中は市内鉄西区啓工街第2小学校(校長

占栄さん女性)を訪ねた。
小学校は日本と同じく6年間であり、校舎が狭くて学校数も少ないので午前、午後の2部制であり、「知・徳・体」調和の教育を貫き文革10年の遅れを取り戻すために教師も生徒も頑張っているとの説明であった。日本と違い「政治」の時間があり、マルクス・レーニン主義や毛主義を教育しており、体育の時間には近視をなくするための目の体操があり、成績優秀な生徒には飛び級制度もあるとのことだった。鉄西区は新中国建国後は、有名な重工業地帯であり、工人達の子弟のための小学校のようであった。子供達は歓迎のために京劇風の化粧をして踊りで我々を迎えてくれた。(写真H)
 I瀋陽故宮1979年12月5日(水) |
 J現在の瀋陽故宮太政殿 |
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持参したポラロイドカメラで撮影して渡すと我も我もと欲しがり、高価な印画紙がなくなりかけて嬉しい悲鳴であった。小学生は中国でも日本でも無邪気である。この日の午後には、瀋陽故宮を見学した。清朝は1644年に北京に入城する迄は、ここ瀋陽故宮に本拠を置いた満州族の王朝である。ここが王宮であり、太祖ヌルハチと第二代太宗ホンタイジはここに住み、後代の清朝皇帝もたびたび故地であるここを訪れている。
 K瀋陽雑技団のパンフレット 1979年12月5日(水) |
後になるが2004年に瀋陽故宮は北京故宮と共に世界文化遺産に登録された。(写真I)(写真J)
広い故宮ではないがそれでも午後いっぱい瀋陽故宮の見物に費した。
そしてその夜は瀋陽雑技団(サーカス)を見物して宿舎の遼寧賓館へ夜遅くに帰館した。(写真K)
旅も10日目を迎えた1979年12月6日(木)は午前中、瀋陽の北陵を見学した。正式名は昭陵と言う。(瀋陽市の北方にあることから通称北陵と呼ばれている)330万平方メートルの広さを持つ。清朝2代皇帝ホンタイジ(太宗)の墳墓である。8年の歳月をかけて造営されたと言う。
我々が訪れた1979年は、現在のように公園として整備されておらず、少し荒れた感じがして、前日に訪れた、瀋陽故宮も同様の感じで、まだ発展途上にあった中国としては、そこまでまだ手が廻っていなかったのかも知れない。この昭陵も明の十三陵と共に2004年に世界文化遺産に登録をされている。午後は瀋陽市内の参観であった。ここに2枚の写真を提示してみる。1979年当時の瀋陽市の繁華街(写真L)と現在の瀋陽市の繁華街(写真M)である。
 L1979年の瀋陽の繁華街 |
 M現在の瀋陽市の繁華街 |
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2枚の写真を見ると隔世の感を覚えるのは、筆者だけではないと思う。約40年前の中国からは想像も出来ない発展ぶりである。
さて、旅の11日目、1979年12月7日(金)は、宿泊していた遼寧賓館に約50キロの距離を約1時間かけて撫順市のマイクロバスが出迎えに来てくれた。朝食後、午前8時30分にホテルを出発して撫順市へ向った。中国旅行総社撫順支社長の林躍森さん、通訳の陳意祥さんが工人服姿で乗っており、
 N1979年12月の撫順市 |
 O現在の撫順市繁華街 |
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車内であいさつを交した。瀋陽の東約50キロの撫順市へは約1時間40分位で到着した。バスの中で東洋一の大炭砿を持つ人口100万人の大都市であると説明を受け、到着してすぐに撫順賓館に旅装をといた。そして午前中に撫順市彫刻庁を見学した。副工場長の張振友さんから、特産の石炭を使った彫刻の説明を受けた。ここにも2枚の写真を提示してみる。1979年12月7日(金)の撫順市の繁華街(写真N)と現在の撫順市の繁華街である。(写真O)
約40年経過しているとは言え、昔日の中国東北部撫順市の変貌には驚かされる。
昼食を撫順賓館でとり、(写真P)午後は撫順炭砿と平頂山洵難同胞遺骨館への献花へ向った。
 P宿泊した撫順賓館の部屋割 |
 Q1979年12月7日撫順西露天掘炭砿 |
 R現在の撫順炭砿 |
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戦前から満鉄が経営していた有名な撫順市西露天掘炭砿工場である。長さ6.6km、幅2km、砿底まで260m、巨大なヒョウタンをタテに二つに切り開き中味を取って地中にはめこんだような形で大きな「水の無い湖」といった型で、労働者1万8千人、内女性が2,400人で1914年から本格的に採掘し始めたと副礦場長の李さんから説明を受けた。(写真Q)(写真R)
 S我々訪中団の捧げた花輪 |

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨 |

現在の整備された平頂山殉難同胞紀念碑と館内遺骨 |
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更に我々は平頂山事件で知られる現場へと向い献花を行い慰霊を行った。

旧満州撫順炭鉱の地図 |

1979年12月7日(金)撫順賓館 手書きの夕食メニュー |
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1932年の夏、平頂山という名の600戸、3,000人のこの村落に日本軍が攻め入り、村民全員を惨殺し焼き払ったと中国の歴史に残る犯罪行為をした場所で、発掘し安置されている800余柱に花輪を捧げ冥福を祈った。(写真S)(写真
)(写真
)
その後撫順賓館に帰り、一泊した。
いよいよ旅も最終行程に入り、明日は上海へと空路向う。(写真
)(写真
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以下次号へ続く
往時茫々、中国の旅 〜その5〜二宮健(35回) 2020.02.03
 筆者近影 |
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我々の中国旅行も第12日目を迎え、1979年12月8日(土)中国東北部撫順市より一旦、瀋陽市へ出て空路上海へ向う予定である。当初予定は瀋陽空港を午前10時に出発して上海へ向う予定であったが、使用する機材が未着とのことで午後2時35分発の中国民航651便に振り替えられた。
その時間つぶしに急拠、瀋陽市遼寧工業展覧館見学になった。日本の工業技術から見ると格別何も感心する機器類は無かったが、広い大きな展示場にモーター類を中心に展示してあった。
瀋陽発の651便は中国としては当時新鋭機の英国製ジェット機トライデント(中国名、三戟機)を使用していた。(写真@)(写真A)(写真B)
 @1979年当時の中国民航トライデント機 |
 A1979年12月8日瀋陽・上海間の中国民航651便の機長署名 二宮作成のものに署名してもらった |
 B同機の機内預けの荷物タッグ |
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 C現在の上海虹橋国際空港待合室 |
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機は午後4時15分定時に上海虹橋空港へ到着した。現在では浦東と虹橋と二つの国際空港を持つ上海だが当時1979年の虹橋は国際空港とはいっても、うらぶれたローカル空港であった。(写真C)
 D1979年当時の静安賓館のシール |
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いつものように空港には中国国際旅行総社上海分社の沈天麟さん、通訳の梅恵良さんが出迎えてくれた。あいさつをした後、上海市内へ小型の貸切バスで向った。空港から市内まではそんなに遠くなかったが、夕暮れ時のうす暗い道路を通って市内に入り華山路にある静安賓館にチェックインをした。(写真D)
 E毛沢東語録 |
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このホテルは開放前は、大金持の邸宅だったとのことで、改装してホテルになっていたが、上品で落ち着いた雰囲気があって旅行中で一番良い印象のホテルであった。上海も現在のように五つ星クラスのホテルから、ビジネスクラスのホテルまで何百とある沢山のホテルは当時には無く静安賓館などは当時1979年頃は外客用の一流ホテルであった。上海は文化大革命当時江青をはじめとする四人組の拠点、本拠であり、それだけに奪権斗争も激しかった場所であり、まだその疲れが都市に澱んでいた。(写真E)
 F訪中時1979年の上海大履と 外灘の外白渡橋 |
 G現在の外白渡橋と ブロードウェイマンション |
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戦前から日本でも有名であった上海大履(ブロードウェイマンション)や外灘(バンド)には、戦前の上海租界の建物が建ち並んでいたが、建物の外壁は洗われることもなく、年数が経っておりくすんでいた。(写真F)と、現在の同場所(写真G)
 H1979年当時の上海の人々の服装 |
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勿論、現在のように浦東地区はまだ開発建設されておらず浦東空港も無かった。当時の上海の庶民の服装もまだまだ画一的な服装であった。(写真H)
旅の13日目、1979年12月9日(日)の上海見学は午前中、上海市揚浦区少年宮を訪ね責任者の施佩珍さんという女性から説明を受けた。少年宮とは人口25万人以上の都市に設けられる施設で上海市には13の少年宮があり、揚浦区少年宮は1959年の設立で対象は7才から15才までの少年少女が学校以外で行う課外活動で午後3時から5時まで開放され日曜日は全日開放され、全額少年宮の経費は国費で運営されており、1日に約1,000名の子供が活動に参加するとのことであった。
 I揚浦少年宮で床運動の指導を受ける少年達 |
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建物は3棟あり、科学技術、工芸技術、文芸(音楽・舞踊)3部門から成り、職員は54人で他に定年退職者10人、学校教育者10人がボランティアで協力援助してくれているとの話しだった。(写真I)
この日の午後は上海市上海県(中国では市の下に県が行政機関としてある)の
荘人民公社を見学した。人民公社の革命委員会副主任沈長鑑さん、政治委員陳倍先さん、弁公室趙永明さんや公社員の説明で午後ずっと見学をした。
少し長くなるが、当時の人民公社の内容を記してみる。人民公社とは何かも理解いただけると思う。(写真J)(写真K)
荘人民公社は長江(揚子江)のデルタ地帯にあり、漁米の宝庫といわれている。解放前には8,000人の農民が従事していたが、自給自足ができず、広範な農家は食うや食わずの生活をよぎなくされていたそうだ。解放後は、中国共産党の指導で集団生産を開始し、特に人民公社が成立してから17年間連続して増産に成功し、副業もかなり発展をして、都市部に農作物を供給して、労農団結に役立っているとの政治委員からの説明があった。
 J1979年12月9日(日)に訪れた 上海市上海県 荘人民公社の正門 |
 K1979年12月9日(日) 上海市内の商店街 |
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他に公社員は1969年からの合作医療制度の発足で1人15元を前払いすることで、病気の際は無償で治療が受けられること、また公社員には1人50uの自留地制度があり、使用権は農民、所有権は組織にあるなどの説明を受けた。また欠点として機械化が進んでおらずまだ手作業に負うところが多いとも言っていた。
また人民公社の施設の@衛生院(鍼灸の治療状況)A灌漑用電力操作場B農機具工場C牧牛・養豚場Dマッシュルーム栽培場E飼料・肥料工場F公社員住宅などの案内と説明を受けた。
この人民公社は1958年9月に成立し、1979年で21年の歴史があって、公社は3段階に分れ、生産8大隊、生産81隊からなっており、他に育種場、養魚大隊がある。農家戸数3,825戸、14,481人、敷地18?、耕作面積1,131haで作物は、主に米、綿、菜種、野菜、西瓜の他に漢方薬草などだと説明があった。公社成立後は、経済力を集中し、七つの工場を設けた。農機具工場、農産物加工々場、電気部品生産工場、木型工場、器具修理工場、服飾・家具工場、機械修理工場を直接管理しており、このほか生産大隊も小さな工場を経営しており、それ以外にも運輸グループ、建築グループなどがあると広範な説明を受けた。
 Lケ小平 |
 M1979年12月の 上海歌劇院のパンフレット |
 N当時の上海?酒 (ビール)のラベル |
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後日、歴史的に見てみると、人民公社や革命委員会はケ小平(写真L)がすすめつつあった政策により、段々とそれらの組織が無くなりつつある時代で、我々訪中団はその変革期のまっただ中を旅行していたのが、良く後日になって理解出来た。まだケ小平は華国鋒の権力を全面的に奪権する直前の時期であった。
その夜は、上海歌劇院舞踊団神話舞劇を見物した。(写真M)(写真N)
旅の14日目、1979年12月10日(月)はいよいよ中国旅行の最終日となった。
 O上海鳳城工人新村 |
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午前中は上海市揚浦区鳳城工人新村の訪問見学である。同工人新村の幼稚園と工人家庭を訪問した。案内をしてくれたのは、同工人新村街道婦人連合会の馬初伏さんという婦人であった。日本で言えば町内連合婦人会長とでも言う肩書であるが、共産党の党員でもあって街の目付役もしているらしい。この新村は解放後1952年に建設され、揚浦区には16の新村があり、都市市民の住宅団地であり、2階建から6階建まで800棟あって、電気、水道、ガスの設備が整っており、面積は367,000u、世帯数11,000戸、人口48,000人で産業労働者が主で、医師、教員、科学技術関係者、商店員などが住民であり、商業センター、郵便局、銀行、書店、市場(4ヶ所)、公園、文化施設、グランド(2ヶ所)、託児所4、幼稚園5、小学校6、中学校3などがあり、病院(小さい街道病院)などがあると説明を受けた。又、定年退職年令は肉体労働で男60才、女50才、頭脳労働者は男、女共に55才であり、退職金(年金に当る)給付は、退職時の70〜80%相当が受給出来ると説明を受けた。日本では、公団住宅のような大規模な団地であり、当時1979年における中国が自慢できる集団住宅であったように思う。(写真O)
午後には、最後の公式訪問となる、上海市革命委員会を表敬訪問した。
 P表敬訪問をした上海市人民政府と 中国共産党上海市委員会 |
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同委員会外事弁公室副主任斉維礼さん、旅遊局副局長徐唯宝さん等の幹部が出迎えてくれた。上海市は文革当時四人組の拠点であり、中国共産党はこの時期上海での政治革新を命題としており、訪問時には、既に革命委員会の名前を上海市人民政府と変えており、中国共産党上海市委員会の2枚の看板が建物には掛けられていた。(写真P)
同日夕刻、中国での全行程を病人や事故もなく終えて上海工芸美術品服務部や友誼商店で帰国の土産を購入した。(写真Q)(写真R)
 Q上海工芸美術品服務部のシール |
 R1979年当時の中国訪問客の 外貨兌換証明書類 |
 S上海発長崎行788便の荷物タッグ |

友好訪中団の団員名簿と表紙 |
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我々一行は1979年12月11日(火)に上海空港発午後2時発日本航空788便(中国民航と共同運航)で長崎へ午後4時43分(時差1時間、中国時間午後3時43分)に到着し、国内線にのりかえ長崎発午後7時35分発全日空170便にて大阪伊丹空港へ午後8時40分に到着した。(写真S)(写真
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追記

初訪日したケ小平の一行 |

大平正芳首相と大平首相夫人は12月 9日訪問先の西安で“温古(故)知新”と 揮毫をした。同日付の人民日報紙。 我々一行が上海滞在中のことであった。 |
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往時茫々たる1979年の訪中記であるが、私達の訪中1年前の1978年に日中平和友好条約の批准書交換のため、当時はケ小平副総理だったが事実上の中国首脳として10月22日に来日して(ケ小平の初訪日)昭和天皇とも会談した。(写真
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またこの答礼として1979年12月5日から12月9日まで中国を訪問した大平首相。我々一行が訪中をしているまさにその時期に当り、我々一行も各地で盛んに一行の動静と比較して日中友好のもてなしを受けた。(写真
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2014年9月30日日中航空路開設40周年式典 |
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なお、日中間の定期航空路線が中国民航と日本航空の相互乗り入れを開始されたのが1974年9月29日のことである。(写真
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ここに政経不分離といわれるが、ケ小平が実権を握り、我々が訪中した頃(1979年)の中国の一人当りの国内総生産額は、当年価格で1979年が423人民元、米ドルで272ドル、それが2017年には、59,660人民元、米ドルで8,833ドル(米ドル表示は各年平均レートで算出)いかに37年間に経済が成長し、中国が経済面でも発展したかが理解できる。
資料2018年版「中国統計」摘用
私が約4年に1回程、この初訪中時より生業の関係で(定年退職後はプライベートで)中国を訪れてきたが、その成長のスピードには驚くべきものがあった。1979年筆者37才の初中国旅行は、令和元年の現在から見ると、往時茫々の感がしてならない。
〜 終 〜
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