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2011.09.23 森田隆博(37回)  文系前期高齢者、CD作成奮戦記
2012.12.10 森田隆博(37回)  新校長のもと創立四十周年を迎える(昭和34〜35年)
2013.04.09 森本浩志(36回)  よろしくお願いします
2017.06.26 冨田八千代(36回)  「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました
2017.11.05 冨田八千代(36回)  高崎先生の事
2018.04.01 冨田八千代(36回)  『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました
2018.04.20 冨田八千代(36回)  「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しました。
2018.08.14 冨田八千代(36回)  田島征三さんと絵本「「花ばぁば」
2018.08.21 冨田八千代(36回)  「花ばぁば」の続き
2018.09.02 冨田八千代(36回)  この本、お勧めします。
2018.12.25 冨田八千代(36回)  浮世絵万華鏡1・2拝読しました。
2019.02.06 冨田八千代(36回)  「日本の城、ヨーロッパの城」を拝読しました。
2019.03.10 冨田八千代(36回)  <版画万華鏡・4>はすぐに拝読しました。
2019.03.31 冨田八千代(36回)  <版画万華鏡5>ありがとうございました
2020.09.06 冨田八千代(36回)  いろいろと、ありがとうございました
2020.11.21 冨田八千代(36回)  詳しい報告をありがとうございました
2021.01.21 冨田八千代(36回)  『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を読んで
2021.01.22 冨田八千代(36回)  小村彰校長先生に感謝と感銘
2021.08.09 冨田八千代(36回)  高知で遭遇した浮世絵展
2021.08.18 冨田八千代(36回)  土佐と浮世絵   序曲
2021.09.10 冨田八千代(36回)  次は「ぽんびん」を吹く中城さん
2021.09.26 冨田八千代(36回)  「青」は深まり、「青」で深まる
2021.12.25 冨田八千代(36回)  お龍さんが近づいてきました
2022.04.18 冨田八千代(36回)  きっと、凛としていただろう  お龍さん
2022.06.27 冨田八千代(36回)  受賞 おめでとうございます
2022.09.13 冨田八千代(36回)  恩恵をいただいています。
2022.11.29 冨田八千代(36回)  城址公園・足助城(豊田市)
2022.12.11 冨田八千代(36回)  龍馬 最後の帰郷展」を見て

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
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文系前期高齢者、CD作成奮戦記
森田隆博(37回) 2011.09.23
1、パソコンと文系理系

 岡林幹事長と藤宗編集長の御尽力で「向陽新聞バックナンバー」のCDの完成のメール到着。ホームページに次ぐ再生向陽プレスクラブの目に見える成果の二つ目です。おめでとうとあわせて「ラベルに制作年月を記載したらいかが」と提案した手前「何かお手伝いをしたい」とメールを返した。
 まもなく編集長からのメール到着。
件名  お手伝いしていただけるとありがたいです
差出人:藤宗編集長    送信日時:11年9月3日
 「結局、どなたも協力を申し出てくれませんでした。文系のメンバーが大半のクラブの弱点をさらけ出した結果のようです。幹事長(一応理系卒)と二人で出来る範囲で進めようと思っています。もしCDの複製を作った経験がおありでしたら(実は私も初めてで、今回試行したのですが一回目はどういうわけか頭の良すぎるコンピュターがいうことを聞いてくれませんでした。)お手伝いしていただけるとありがたいです。・・・・。」

 このメールを見て、CDの複製を作った経験も無いので断ろうと一旦は考えた。ところが、「文系が大半のクラブの弱点」との刺激的な文言に拘ってしまい、スグに返事のメールを送った。私は一応文系卒でしたので。編集長の巧妙な挑発に乗ってしまったと思ったが後の祭りであった。
件名  RE;お手伝いしていただけるとありがたいです
送信日時  11年9月3日
 藤宗編集長  様
 パソコンは文系理系関係ないと思い、その気になりました。可能であればお手伝いいたします。幸い、最近ヒマとなりましたので。ただし、
 (1)4日から11日まで高知に帰ります、12日以降の作業となります。
 (2)CDのコピーの経験はありません。作業の仕様または手順を教えてください。パソコンの能力等はわかりません、・・・・
 (3)CDのコピーが無理であれば発送の作業やラベル貼りでもやりましょう。 

 お手伝いするとメールした後、私の実力に心配となったか「少し疑問ですが・・・」と遠慮がちに編集長からメールが入る。編集長も気がかりになったようです。
 「コピーソフトRoxioBurnが機械に入っているか?」との質問がきた。全く知らないソフトだったが、パソコンのスタートメニューに似た名前のソフトRoxioCreatorがあった。これを編集長に伝えると「コピーソフトだと思います。」との返事。当方は全く未知の世界、編集長の返事も頼りなく思え、心配になりパソコンの説明書を張り出したが、CDのコピーとかコピーソフトの説明などは全くのっていない。いよいよ本気に悩む。翌日からは高知の田舎である。もちろん高知にパソコンは持参しない。
2、手順書が到着   9月9日
 何もできないまま数日経過した後、編集長からCD発送作業の手順が携帯メールに到着。編集長も翌日から御両親のためにしばらく高知に帰るので連絡の取れるのは当日22時までと。急いで質問をしなくてはとメールを読み返す。
件名   CD発送の手順
差出人:藤宗編集長    送信日時:11年9月9日
 「・・・既にマスターCDとラベルはメール便でお宅に届いていると思います。
 @CDR700MB(ケース付き。白色無地・できれば薄型5oケース,安い)10枚パック(失敗しないという前提)と一枚分が入る封筒(角型6号)10枚を買ってくる。
 Aパソコンのスタートメニユ−からRoxio Creatorを立ち上げ、デイスクをコピーを選び、送られたマスターCDをドライブにいれてデータを読み込む。終了したらマスターCDが出てくる。
 B@の新しいCDを入れて、書きこむ。(最初の一枚が出来た時にちゃんと動くか試用して下さい。Aから始める。)
 C出てきたCDを取り出しマジックで森田さんのサインを入れる。(未使用CDと区別するため)
 D@の新しいCDを入れてBを繰り返す。
 E同封のCDラベル(岡林氏作成。予備を含め12枚同封)を貼り付ける。半分だけ台紙から剥いでヘリに同心円になるように端だけ貼り付け、全てを台紙をはがし貼り付ける。
 F添付ファイルの送付分を10枚打ち出す(コピーでも可)
 G封筒に同封の宛名ラベル(大御所10人)を貼り、発送者住所氏名を書いてEFを入れる。個人的な挨拶文はお好みで・・・・(郵便法違反)。
 Hコンビニでメイル便で発送する。
 I@FHの費用をMailで中井幹事に請求する。振込先口座番号が必要。(CDは失敗枚数を含めて)
 Jホームページに「文系前期高齢者、CD作成奮戦記」を投稿する。昔取った杵柄をひっぱり出して、楽しい文章を期待しています。画像付きだと尚結構です。「勤労奉仕をしたうえに、記事まで書かされる。」とぼやかないでください。新聞部の悪しき伝統ですので・・・・。

(1)文献を求めて   9月9日

 高知から西に約10キロ離れた私の田舎でもさいわいTUTAYAという本屋が近所にある。文献など無いと思いながら一応見てみようとでかけて見ると、「DVD&CDバックアップ事典」(日経BP社刊)が目に付いた。立ち読みもしづらいので、その場で買い求めた。11年9月12日発行の新刊で今時珍しく安い640円。早速読むとCD/DVD/BDの基礎知識からデータ、音楽、写真、映画を書きこみ利用などのマニュアル本であった。ただ、CDのコピーについての記載は唯の2ページだけで、それに編集長の手順にあるソフトの記載はない。コピー
(2)CDRの購入   9月10日
 CDRを求めて、ケーズデンキ高知店に行く。自分でCDRを買うのは初体験。量販店の中でCD等の売り場を探すのが大変、最初はビデオや音楽のCDの売り場で探すが見つからない。最後は編集長のメール「CDR(ケース付き、白色無地、薄型5oケース、安いもの)」を店員さんに見せて探して貰った。白色無地と言われてもなにが白色かもわからなかったわけだから情けない話である。どのメーカーのものを選びますかと言われ、大御所向けに送るCDと言われていたので値段の一番高いものを買った。
3、CDの複製・発送
(1)CDコピーソフトの取り込み 9月12日
 自宅に帰った翌日の12日、いよいよ難関のCDコピーに挑戦。編集長の手順Aにある、パソコンのスタートメニューからコピーソフト「Roxio Creator」を立ち上げようとして、ソフトのメニューをクリックして驚く。メニューに名前は入っているがソフトはインターネットで取り込まないと使えないソフトであった。先日読んだ事典にあるフリーソフトである。こんなことは編集長からの手順にはまったく書いていない。Roxio社にインターネットを取り込むまでは日本語の案内で繋がったが、その後は英語の世界。あわてて英語の辞書を手元に置き悪戦苦闘が始まった。大事な仕事と思い、最初は一語一句読み進んでいたが一時間も経過すると、厭になりいつものやり方に変更。適当にメニューを進め、行き詰るとやり直すという試行錯誤を繰り返す。やっと二時間後Roxio Creatorの取り込み終了らしくなったところで精魂尽きた。取り入れたコピーソフトは日本語の表示、なぜアメリカのソフトメーカーに英語でアクセスしたんだろうと悩む。次回藤宗編集長に教えてもらおうとあきらめた。編集長の手順書Jにある「CD作成奮戦記」を投稿せよとの意味と編集長の遠謀がはじめて理解できたような気がする。
(2)CDの複製 9月14日
 いよいよメインの作業。Roxio Creatorを起動させコピーを始める。手順の案内がないため何度か試行錯誤を繰り返したところやっとコピー終了の表示がでた。コピーしたCDをかけて読んでみると見事に向陽新聞のバックナンバーが現れた。コピーなんて簡単なものだとまずは安心。
 次からは一枚読み込み、それを元に9枚コピーした。コピーには一枚当たり約8分かかったが、パソコンに表示された最速コピー時間7分からすれば大差ない時間だ、手順に間違いないと思った。
 次はコピーしたCDにキチンとコピーされているかの検査である。編集長からの指示どおり検査すると10枚中2枚はコピーされていなかった。失敗作には別のなにかがデータとして入っており、新品のCDRとして使えなくなっていた(ブランクでないからと表示がでた)。その原因はわからない、もう一度CDRを買いに走り、再度二枚コピーして、やっとノルマの10枚のCDが完成。およそ半日がかりであった。
(3)ラベル貼りと発送  9月15日
 今回もっとも気を使ったのはCDへのラベル貼りである。

 買い求めた「DVD&CDバックアップ事典」やCDRのパッケージに記載されている正しいデイスクの扱い方には「ホコリや歪みが原因で正常な読み取りが出来ない」とあり、さらに「デイスクにラベルを貼るのはトラブルの元」と注意書きがある。恐ろしいことをやることとなったと心配となったが、編集長の手順書にはラベルの貼り方が親切に書かれておりありがたかった。また暑い中での作業で手汗がつくことを恐れて、CDのハンドリングとラベル貼りの際には手袋を着用し、十分な注意を払ったつもり。もし万に一つCDに不具合がありましたらご連絡を
 ラベル貼りと封筒入れを終え、郵便局に出かけ発送手続きをして全てを終えた。沢山のCDのコピーと発送を担当した藤宗編集長のご苦労はいかほどかと思いやる余裕が出た瞬間である。
4、完了報告     9月15日
 早速、岡林幹事長、藤宗編集長、中井幹事さんに発送完了の報告のメールを発送。     
 日頃なにもお手伝いできない向陽プレスクラブでやっとささやかにお役に立てたこと、しかも御大という先輩方(編集長は後期高齢者ともいう方)への発送作業を分担出来たことを御礼した。悪戦苦闘であったが、新しいチャレンジの出来た御礼を書き忘れていた。
 報告の最後には藤宗編集長の手順Iに掛った費用の明細を報告請求することとの指示があったので、費用明細を記した。そのうえで、振込の手間と振込料を節約するために、掛った費用は些少ですが会に寄付か藤宗編集長口座にまとめて振込むようにお願いした。これはいつもの遊び心がつい出てしまったもの。これがまた中井幹事さんに大変なご迷惑とご心配をおかけしてしまいました。最後まで皆さんに迷惑をかけた作業でした。
5、最後の手順
 藤宗編集長には発送報告とあわせて御指導に感謝しながらも、手順書Jの「文系後期高齢者CD作成奮戦記」の投稿には逡巡していると伝えた。手順書に編集長が「勤労奉仕をした上に記事まで書かされる」とメールに書いており、理解いただけると思った。これに対して早速カウンターを喰らう。前期高齢者を後期高齢者と間違ってメールしていたことを指摘するメールが返ってきた。さらに、向陽プレスクラブホームページの「向陽新聞バックナンバーCD送付のお知らせ」には「文系前期高齢者CD作成中・・・」との記事が掲載されており、またメンバー向けメールの「向陽新聞バックナンバーCDの作成、発送・・・」のなかでも「CD作成奮戦記投稿予定…」とある。編集長は私の退路を完全に断ったのです。
 そんな次第でこのような拙い文章で向陽プレスクラブのホームページを汚してしまいました、ご理解とご容赦をお願いします。
* * * * * * * * * * 
 《編集人より》森田先輩、本当にご苦労さまでした。しかしRoxio Creatorの件については私も預かり知らぬことで(私もCDコピーは初めて)、fujitsuパソコンが手抜きをしたとしか言いようがありません。それと、決して文系の方々を侮っている訳ではありません。細木御大のように、文系後期高齢者であっても、殆ど手直しの必要のない原稿を送って下さり、
 しかし、原稿の方は手早かったですね。こんな素晴らしい玉稿をたった1日で送って下さるとは。さすが文系!。
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向陽新聞に見る土佐中高の歩みE
新校長のもと創立四十周年を迎える(昭和34〜35年)
森田隆博(37回) 2012.12.10

筆者近影
 空襲により校舎を失った学園の復興とその後の発展に寄与された大嶋校長逝去の後を受けて、昭和33年10月曽我部校長が就任した。スポーツと学問両立の土佐校の名声の陰で出てきた“ゆるみ”症状の改革に向けて、生徒はもちろん保護者先輩など学校内外から、大きな期待が持たれての新校長の登場であった。そして翌年には創立40周年を迎えた。
*  *  *  *  *
創立40周年を迎え改めて問われる創立の精神
 向陽新聞は昭和34年11月18日付第47号創立記念号を発行し、「多彩な文化祭、記念事業今日幕開け」と記念祭を報じた。
 18日から三日間生物部、物理部、新聞部など文化部の展示会や映画会、22日には40周年記念事業として建設した新グランドのお披露目を兼ねた野球部、ハンドボール部の招待試合が開催された。

創立40周年記念号(第47号)
19、20日には岡村弘氏(一回生)ら先輩四氏による講演会と音楽会と盛り沢山の行事が続けられた。
 向陽新聞の二面では全ページを割いて、近藤久寿治氏(6回生)など在京の先輩方による座談会「本校の伝統は失われたかそして今後の進むべき道」を掲載した。創立40周年を迎えて改めて“土佐中精神”“開校の精神”の現在的復活をどうすべきか、新校長に何を期待するかの議論が行われた。
 そこでは、官学排斥と自主独立を重んじた初代校長の作ろうとした伝統の理解にズレがでてきたという批判に始まり、私学の優位さを生かした学校づくりとか、また時代や経営の要請から少数教育から多数教育へと変わる際に創立時の精神を受け継いでいくように教育方法の転換を行わなかったなど、傾聴すべき意見が多く出ていた。
変革に向けた新校長の意欲的な取り組み

(昭和42年撮影)
 新校長就任後四ケ月後の向陽新聞第44号で曽我部校長は抱負と方針を語る。「本校の在り方を今までの予備校的存在から人間形成の一過程と位置付け、クラブ活動の活発化とホームルームの充実により、明るい学園の建設に努力したい。クラブ活動で得られるものがあれば点数が少しぐらい下がってもよい」と。
 今まで聞けなかった歯切れのよい言葉から新校長の改革が始まった。
 それまで生徒は始業式や卒業式などでの長時間の挨拶から校長先生の考えを聞くだけであった。それも入試と学校の栄誉の訓戒ばかりであった。それに対して曽我部校長の挨拶は短時間であった。(44号)その代わり色々な機会をとらまえて生徒への発信や対話をした。
 「みんなのかけ橋にバトミントン、次は卓球セットを各クラスに校長がプレゼント」「校長から30冊図書の寄贈」(第44号)、「学者校長中心に放射能測定 物理部」(第45号)、「校長先生と生徒との懇談会」(第46号第48号)などの記事のほか「ちょっと失礼」では曽我部校長が奥様と共に向陽新聞に登場した。(第44号

曽我部校長就任(第44号)
 また懇談会では生徒の意見に対して「提案が遅い」とか「生徒一般の関心が薄いのが本校の欠点」と生徒に苦言を呈する(第46号)一方で、生徒の提案を受け入れ、食堂の新設や売店の改造など改善に繋げている。(第48号
 就任して直ぐに色々な手を打った。かねてから学校側と生徒会の論争となっていた長髪禁止令は就任直後に廃止した。32年9月に不良化防止策として学校が出したものである。
 そのほか遠足を年二回として、それまでの遊山的なものを改め学習の狙いも取り入れた。またホームルームについても自習や中止しての下校などの常態化に歯止めをかける指示を出した。
 校長内定の後、町田守正元教諭(16回生、当時は土佐山田町長)は「良いと思う人が内定したので言うことはない。本校卒業生なので何の文句もないようにやってくれるだろう」と手放しで語っている。(第43号)その期待どおりであった。
クラブ活動活発化のために
 人間形成での重要性からクラブ活動の活発化への取り組みも新校長の特色の一つ。スポーツは楽しむものと言い、学校宣伝に考える私立校の多い中で異質のものであった。

当時の玄関(絵葉書より)
 向陽新聞第48号ではクラブ活動はこれで良いかという特集を組んだ。
 当時の部の数は40部で県内の高校では多い方であった。四年前33部から陸上部、軟式庭球部、自動車部などの新設により増加したもので、少ない予算の配分に悩む生徒会の一部から部の数が多すぎると言う議論も出たのもこの頃。
 クラブ活動の最大の悩みは人員不足。当時のクラブ在籍者数は文化部運動部あわせてと生徒数の44%、特に文化部の男子が少ないとの結果。
 これに対して曽我部校長は早速アクションをとった。勉強とクラブ活動の両立を生徒に訴えるとともに顧問の先生を校長の委嘱として指導者と助言者という顧問先生の使命を明確にした。
 また文化部の不活発さにも色々と手を打った。文化祭の見直しと存続との意見を支持し、その際28年から続いた予餞会を廃止し文化祭に吸収させたのも曽我部校長の発案であった。
笛吹けど踊らず

母校の鳥瞰写真(当時珍しいカラー版)
 曽我部校長は明るい学園づくりのためにホームルームの充実と活発化を呼びかけた。それも生徒の自主性を重んじ自由闊達な活動を期待して生徒の自主運営としたものである。
 残念ながら、その後36年に学校がホームルームを直接指導することに方針を変更した。
 生徒の無気力さから活動は不活発となり、スポーツ・郊外散歩・自習や中止下校などに化けるケースが多く昔に逆戻りとなったためである。道徳教育を導入することとなり30時間余のホームルームのうち10時間を道徳教育に充てることになったことを契機として37年度から実施することとなった。(第53号
 また校長と生徒の懇談会も「もり上がりなし、久しぶりの懇談会」の記事が見える。(第52号第53号
 曽我部校長の理想とする明るい学園・学級づくりへの障害となったのは自覚と意欲のない無気力な生徒であったようである。

母校全景(第47号に掲載した写真)
《あとがき》
 今夏母校のホームカミングデイに初めて参加して50年振りに母校を訪ねた。お城かと見紛うばかりに聳える新校舎の立派さに驚く。そこには昔の母校の面影は微塵も残っていなかった。伝統や校風はどのように変わったのだろうと思った。
 新校舎建設の後一昨年新校長を迎えた母校。奇しくも本稿に記述した約50年余前と同様、新校舎建設と新校長登場と重なる。伝統の現代的な復活に向けた新校長の活躍を期待したい。

(その2) 土佐校を取巻く環境の変化
 世の中は“もはや戦後ではない”と言われて数年後、戦後の復興も終わり日本経済が近代化と発展期を迎える頃、政治や教育の世界でも混乱を終え新たな変化が始まった。そんな時代県下の教育界の変化は土佐校にも新たな影響を及ぼし始めていた。
 そして向陽新聞も誕生して12年目の昭和35年に節目の第50号を発行した。
*  *  *  *  *
受験者数の減少とライバルの登場
 中学入試の受験者数は年々減少し、33年は前年比約二割減の420人、高校入試受験者数は約三割の減の104人であった。中学の入学者の減少は出生者の減による一時的なものであるが、高校の受験者減少には県下教育界の変化によるものであった。(第41号)。
 戦後、県下の公立学校では勤評闘争など混乱の時期が続いたが、その混乱も落ち着いてきた。加えて25年から始まった公立高校での全員入学制も廃止となり昭和33年にから普通科で選抜入試が実施された。
 公立高校の混乱と全員入学制に依存した私学優位(?)という高知の特殊事情もなくなった。向陽新聞第41号では、33年の大学入試で追手前高校が土佐高とほぼ同数の東大合格者を出したことから「本校危うし」と報じた。
 ライバルである同じ私立高校でも新設の学芸高校(32年新設)が新鮮な感覚で人気を集めていた。「私立はもう土佐のみではない」と向陽新聞第43号が喚起を求めた土佐高を取り巻く環境の変化である。
 23年学制改革時県内の私立高校は三校であったが、その後清和女子高校・高知中央高校などと続々と新設された。土佐高の特色や個性ある教育が問われる時代の始まりであった。
共学のピンチ

男女共学のピンチを伝える(第45号)
 受験者減少の現象は続き特に女子受験者の減により34年の中学女子入学者は264名中33名と、例年の半分で22年共学開始以来最低人数となった。(第45号
 共学維持などの配慮をしないで男女の競争率を同一にして合格者を選抜すると、女子の受験者の減少は女子の入学者の減少となるわけである。
 向陽新聞は「男女共学の危機、共学制はどうなる」と問題を提起した。学校側は「女子に対する特別の教育をしていない、本校への女子の志願者の減少はやむを得ない。これにより共学廃止もありうる」との見方であった。向陽新聞は共学の価値について改めて見直し、共学存続への積極的な注力を求めた。(第45号)そして翌35年は一クラス12人まで減少した。
学生運動の流れが高知にも
 35年は安保闘争の年で、学生運動のうねりが全国に広まった。その流れは遠く高知の高校生をも巻き込んできた。
 そんな時期に向陽新聞は土佐高生の政治意識について生徒にアンケートを行った。(第49号
 政治への関心は80%の生徒が必要と答え、また安保改定の内容を88%の生徒が知っていると答えた。遠く離れた土佐高生にも政治への高い関心が伺えた。また高校生の授業放棄や政治活動には不賛成と答え、健全な高校生の回答であった。
 そんな時、土佐高生徒会が学生活動に関わるとんでもない事件に巻き込まれた。35年9月全国紙である読売新聞に「土佐高が県内高校の政治闘争の中核校」と報じられたのである。読売新聞が「革命病の高校生」と実態を全国版で報道した記事の中で、県内での活動の推進役として「四校連絡会」が組織されており、そのなかに土佐高が中心的役割を担っていると。結局は当局のズサンな調査と読売の裏付けのない報道とわかり、学校および生徒会は激しく憤りをもって読売新聞に抗議をした。(第50号
生徒のための新聞をめざして迎えた50号

第50号二面 向陽新聞発刊50号を伝える
 35年12月発行の向陽新聞で発刊50号を迎えた。第50号の二面は全面を第50号特集として24年3月に「新聞向陽」としての誕生からの向陽新聞50号までの歩みを辿っている。
 戦後いわゆる民主教育の一環として上から与えられた校内新聞の多い中で、生徒の有志により学園の片隅から生まれた「新聞向陽」は第5号から「向陽新聞」に題字を改めた。
 「向陽新聞」が50号を迎えられたのは、なんといっても生徒のために意見を言う批判的精神が伝統として継承された結果と考える。
 朝鮮戦争後、世の中と同様土佐高でも大嶋校長が「我が校の中にも自由の行過ぎがある」と語る(第15号)とおりの逆風の中でも学校当局へ批判的な記事や建設的な意見を掲載し続けた。

59年8月高新連大会で東京へ
二人の女性は、大野(旧姓、36回
生、故人)、堀(旧姓、36回生)
 学校が軽視する生徒会について生徒会廃止案などを提案した向陽新聞第22号は全国優秀5紙に選ばれた。満員授業解消の提案は一学年5クラス制の実施となった(第21号)事例や男女共学のクラス編成の提案(第25号)が実現した事例がある。
 本連載のAで取上げた中学入試問題漏洩事件とその後の同盟休校も向陽新聞が学校内外の怒りの声を収録して伝えたことによるものである。
 さらには前記の実績をもとに、新聞部の自主性にもとづく自由な発言を許してきた学校当局の深い理解の存在であろう。曽我部校長は第50号の祝辞の中で「校内世論をリードする気概を持って冷静に物事を見て正しく向かうところを示し、共感と信頼を得られる新聞を作り、校風発揚の導火線となることが新聞の役割」と書いている。全く深い理解のあふれる言葉である。
向陽新聞と向陽プレスクラブ
 当時、向陽新聞では東京支局発の記事がほぼ毎号掲載されていた。在京の新聞部OB,OGたちが発信した記事である。向陽新聞第47号には東京支局発「向陽プレスクラブ」第二号近日発行と言う記事がある。向陽プレスクラブは32年に結成された新聞部OB,OGを中心に関心のある同窓生の集まりの名称であり、同名の機関誌を発行し母校や同窓生に発信していた。

60年1月2日新聞部新年会:岡林敏真宅にて
 新聞部のOB,OGの先輩たちは記事の発信のほかに「先輩大学生に聞く会」を毎年母校で開催し、先輩大学生を集めて後輩受験生の相談に応じ好評を得ていた。
 その後一時中断した向陽プレスクラブは平成22年に再生スタートし、現在「土佐校の歴史を(記録に)残そう」との趣旨のもと、本連載のほか同窓生の協力を得て向陽新聞バックナンバーのCD化と頒布、学校への寄贈などの活動を行っている。
(次号=Fに続く)
《あとがき》
 創立40周年を迎えた翌年に向陽新聞は創刊第50号を迎えた。当時の部員のひとりとして、それまでの先輩方に大きな敬意と感謝を表したく、僭越と思いながら本稿に敢えて記述した。
 またその特集記事の最後を“向陽新聞よいつまでも”と締め括ったが、残念ながら59年の第111号を最後に新聞部が休部して久しい。
 OBの一人として、勇気ある後輩の奮起により向陽新聞が復刊されること待ち望んでいる。あわせて先生方にも、クラブ活動としての意義とともに学校新聞の使命の重要性を理解いただき復刊に向けたご支援ご指導をお願いしたい。

60年5月2日中城帰省時
 

60年7月AFS留学生 キャロンさんを取材
顧問の木内先生も取材に同行。
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よろしくお願いします
森本浩志(36回) 2013.04.09
 卒業以来、大学、会社(関西電力)は関西でしたが、4年前から東京在住。いずれ関西に帰りますが、こちらでは土佐高関東36会の皆さんにお世話になっています。
 新聞部員としては、熱心でなかったこともあり、あまり関心がありませんでしたが、今回、プレスクラブでお作り頂いた向陽新聞のバックナンバーを読ませて頂き、懐かしく青春時代を思い出している次第。クラブ再設立頂きました皆さんのご努力に敬服しますと共に、感謝いたします。お役に立てることは何もありませんが、よろしくお願いします。
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「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」拝受しました
冨田八千代(36回) 2017.06.26

筆者旧影
「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」の冊子ありがとうございました。
  23日に届きました。すぐに、我が家から喫茶店に移動し拝読しました。
      (ホームページではきちんと読んでいませんでした。すみません。)
  すぐにお返事をが、今になりました。
  多少は知っていたこと、全く土佐中学校とは関係なく個々に知っていた偉人の方々が
  土佐中学校と三根圓次郎校長を中心につながっていることに驚きました。
三根圓次郎校長の理念が時代をさきがけ、深遠なことを少しは受けとめたつもりです。
  あらためて、土佐中・土佐高校で学べたことを嬉しく幸せに思います。
  同窓生や在校生にもぜひ、読んでもらいたいと思います。
  このように、著述してくださった中城さんに敬意と感謝の気持ちでいっぱいです。
  また、冊子を送っていただきありがとうございました。
  私には冊子の方がずっとずっと読み易く本当にありがたく思いました。
  ありがとうございました。
≪編集部より≫御老体に鞭打って青息吐息で沢山の執筆に励んでおられる中城先生に激励のエールをお願いします!!!
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高崎先生の事
冨田八千代(36回) 2017.11.05

筆者旧影
山本さん、中城さん
 高崎元尚先生のご逝去や作品をお知らせくださりありがとうございました。36回冨田です。帰宅してから、ホームページを読みましたので、その時はご逝去されたことを知りませんでした。その同窓会で、高崎先生のことを思い出していました。
 今回、中城さんのご著書「三根圓次郎校長とチャイコフスキー」を持参しました。 みなさんに紹介する機会はありませんでしたが、お話できる方には紹介しました。 2次会Kホームだけの集まりではみなさんに紹介しました。
 あくる日、バスで室戸岬や中岡慎太郎記念館などを訪れる観光に出かけました。そのバスの中でのことです。Kホームだったお隣の席の方が「あんた、新聞部に入いっちょったが?」と聞かれました。
 私は、話の中で、少しは記事も書いた、例えば@ガーナ大使になられた中谷さんがアメリカ留学からかえられたときの訪問記Aなんか文化祭の記事B高崎先生訪問記とかと言っていました。
 すると、前の座席の方が急に後ろを向かれ「その時に僕も行ったよ。」と言われました。なんと、宮地正隆さんだったのです。「そうだったの。」と私。何人かでお邪魔したのですがどなたといっしょだったか思い出せませんでした。でも、光る眼は遠くをみつめながら手振りを交え、情熱的に芸術について美について語られたお姿は、はっきりと思い出されました。記事は「朱と緑と」とかいう見出しだったと思います。バスの中では、その若き先生のことだけを思いだしていました。新作を拝見すると、当時の「朱と緑」では全くなく、表現もどんどん進化、深化なさったのですね。
 高崎先生は、94歳で新作展を開催されたとか、ずっと、芸術を追究され制作を続けられたのですね。情熱をずっと持ち続けられたのですね。
 いろいろと詳しいお知らせをありがとうございました。なお、この同窓会には森本浩志さんもいらっしゃいました。
 失礼します。
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『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました
冨田八千代(36回) 2018.04.01

筆者旧影
 公文さん、藤宗さん、入手の仕方のご配慮ありがとうございました。鍋島さん ご本の送付ありがとうございました。

 土佐文雄箸『正調土佐弁で龍馬を語る』を拝読しました。読後の第一声『げにまっこと面白いがやき!』です。
 まず、未収録作品群の中から坂本龍馬関係の文書をまとめたられたことに敬意を表します。葉山村の皆さんの丹念な記録にも頭が下がりますが、これをこのように世に出したことで、その努力も報われましたし、一層価値が増しました。書籍が出版に至るの経緯を良く知りませんが、まとめられた方は大きくは出ないのですね。鍋島さんがもっと前面にでられてもいいのではと思いました。
 引き込まれて一気に読み通しました。知らなかったことばかりで、とても興味深く、どんどん読み進みました。断片的に知っていたことがつながったこともあります。
 この書を、すぐに読みたかったのは、以下のことからです。
 昨年10月18日に、36回生の同窓会がありました。あくる日「中岡慎太郎館」や室戸岬に行ったからです。北川村にあのような立派な記念館を設けていることに、その地域の方々の思いがうかがえました。私は、中岡慎太郎のことをあまりしらなかったのです。生家は山に囲まれた谷底にあり、空は頭上に円を描いたように小さく見える所でした。こんな辺鄙なところから、大志を持ったことに感激しました。そして、あらためて坂本龍馬に関心が広がりました。
 室戸岬の中岡慎太郎の銅像の前にも行きました。ここに行ったのは2回目です。それほど、高知のあちこちには行っていないのです。1回目は、中学三年の春休みに友人3人で出かけました。その3人の一人が、新聞部で活躍された大野令子さんでした。(ちょっとそれますが、大野さんがいらっしゃったから、私は卒業まで新聞部ですごせたのです。本当にお世話になりました。すでに亡くなられたことは残念無念です。)その銅像の説明では「太平洋上で桂浜の坂本龍馬と目が交差している」と言っていました。
 この著書の中で、二人の銅像の製作者が同じということも初めて知りましたし、製作者についてのことは興味深く読みました。
 学校で、坂本龍馬を歴史上の人物として他の人たちと同列に学習した記憶しかありません。土佐のことですし、大きく日本の変えた人ですから、もっとクローズアップしてもよかったのではないか、それとも、私の受け止めが浅かったのでしょう。何しろ私は知らないことが多すぎると痛感しました。ですから、内容の感想は省きます。
 読み終えてから、顔見知りの檮原の出身の方に、本の紹介をしたら、開口一番「教科書に龍馬をのせなくするとは、おかしい。どうしてだろう」と言われました。この方は長年トヨタ自動車の労働者でした。やはり郷土のことなので関心を持っておられたのです。ここでも、私の知らなさをここでも痛感しました。私はホームページの鍋島さんから歴史教科書云々は知ったところでした。彼は、すぐにスマホで故郷を呼び出し「維新の門」などたくさん紹介をし、「ぜひ一度、檮原へ」と言いていました。さっそく、ご著書を貸しました。
 では、枝葉の感想で、恥ずかしいですが、本当にありがとうございました。
 ありがとうございました。
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鍋島高明様
土佐弁龍馬、さっと拝読しました。
 葉山での漫談だけに楽しく読めましたが、土佐文雄本人は「たまるかあれが活字になった」と、驚いているような気がします。
 というのも、「江戸三大道場の一つ千葉周作の築いた千葉道場の塾頭」などと、口がすべりすぎているからです。実際は、周作の弟・定吉の道場で、長刀の免許をやっと貰っただけす。勝海舟との対面も、同様です。
 出来れば本のどこかで、この講演はサービス精神からか、史実を離れて龍馬の人物を強調した場面があることを註記して欲しかったです。土佐が無知と思われると残念です。
中城 正堯
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鍋島です。
 ご高読深謝。ご指摘の件、重版の際、修正したいと思いますので、その節はよろしくご教示ください。
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冨田八千代様
 KPCへの読後感を拝読しました。私が読んでから、鍋島君に送った感想を添付致します。
 面白いのは同感ですが、それだけでは終わらせることが出来ない点もあり、このまま流布するのは心配です。鍋島君も修正すると言ってくれています。
 史実をふまえた史家の書いた伝記と、作家による創作を交えた小説の区別をしないまま、さまざまな龍馬像が誕生しています。同郷の人間として、龍馬の素晴らしい実像にできるだけ迫りたいです。
中城 正堯
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中城様
 メールをありがとうございます。私がお礼のつもりで書いたものを、ホームページにということで恐縮しています。
 私自身、坂本龍馬について本当にいろいろなことを知りません。それで、内容についての感想は逃げています。
 私は、昨年同窓会で中岡慎太郎記念館に行きました。そこでは、中岡慎太郎サイドでまとめられていますので、龍馬の評価も違うということは感じました。
 今度、この書を読んで、どっちがどうなんだろうと思った点もあります。何しろ、浅学の身、うっかり文字にはできません。
 やはり、中城さんが指摘されている点は、その通りだと思います。読者は史家と作家の違いを意識するということですね。これが史実と鵜呑みにしてはいけないということですね。葉山でのお話も、聞く人へのサービス精神も入っていることでしょう。
 私は豊田市に住んでいて、豊田市政がトヨタの企業城下町として、歴史面でもトヨタを意識した「車」「ものづくり」に重点が置かれていることを危惧しています。豊田市は、周りの町村と合併合併を続け、面積では愛知県の6分の1を占めています。広大な「市」です。が、広大な農村部や山間部があります。米の生産量も愛知県1です。
 それぞれの地域で営み育んできた、文化や生活がなおざりにされそうな感じです。その意味で、葉山の方々が記録された物を世に出されたことに感激しています。
 浅学な私です。これを機会にいろいろな学びたいと思います。ありがとうございました。
冨田八千代
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鍋島です。
 『土佐弁龍馬』の反響が盛り上がっているのはまことに結構、HPアップ賛成です。
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 《編集人より》頭上をあまたの龍馬談義が飛び交いました。そのまま捨ててしまうのはもったいないので皆様のご了解を得て掲載させていただきました。今後ともご意見をお寄せ下さい。
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「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しました。
冨田八千代(36回) 2018.04.20

筆者旧影
中城 正堯 様
 ご著書を「龍馬・元親に土佐人の原点を見る」を拝受、拝読しました。すぐにお礼をとおもいつつ、今になってしまいました。ありがとうございました。
 手にした時は、難しそうだと、私に読めるだろうかと心配になりました。が、すぐに引き付けられて、一気に読み通しました。

・まず、文体がとても親しみやすく読みやすいのです。素人にも内容の詳しさへの抵抗が少なくなったのです。
・そして、中城さんは「坂本龍馬」と対面されるのにとてもふさわしい方だと知りました。
 御家柄、ご先祖のさまざまなご活躍、それを受け継ぎつなぎ確かなものにする努力をされている中城さんだからです。たくさんの資料を検証し今も新たな資料の発掘に力を注いでいらっしゃることに敬服いたしました。いろいろなことを知らなくてすみません。
 昨年のブラタモリは見ました。お部屋も印象に残っていますが、そこは中城さんが小さい頃遊ばれたお部屋だったとか。ブラタモリで、改めさせられたのは「堀詰」付近のことです。中学生のころ、何かの機会にちょっと行ったことがありましたが、とてもなじめませんでした。以来、はりまや橋の側にありながら、避けていました。ここも、昨年、同窓会のついでに歩いてみました。ここにも歴史があることを受けとめました。
・それから、土佐さんの「正調龍馬を語る」を読んだから、その上に、メールをいただいたから読めました。私は、このご著書を読み終わるまで、公文さんが昨年、kpcのホームページに紹介されたいたことも忘れていました。今まで、私は坂本龍馬に関する書物、小説も読んだことがないのです。龍馬さんを知ったのは観光案内のパンフレットとか、人物紹介の欄とか、記念館の見学とかぐらいです。ついでに土佐さん(この作家も初めて知りました)がもっと長生きされたら、龍馬研究を進められ、ちがった文面もあらわれたのではないでしょうか。中城さんの文中に、文学的史書、大衆小説、歴史小説、政治小説、龍馬伝記とか出てきますが、読む側がそれらの種類のものと正史・史実との違いを、頭の片隅に置きながらうけとめるということですね。
次に私が今回、学んだことは以下のことです。
・坂本龍馬さんは、ポツンと一人の存在ではなく、周りの人々と歴史を受け継ぎ、創り、進めた人と言うことです。私はぼんやりと、一人だけの物語のように受けとめていたのではと気づかされました。坂本龍馬が暗殺された後、明治の自由民権運動に生かされたことは、新鮮な内容でした。上手く表現できませんが、よかったとほっとしました。ずっと前の人ですが、側に龍馬さんがひょっこり現れそうな、親近感がわきました。(ちょっと図々しいですね)
・お龍さんにもです。女性として共感がわき、仲おばあ様のように会ってみたかったと思います。
・ちょっと腑に落ちなかったのは、幼少時の龍馬像でした。青年時代とギャップがありすぎると思いました。ご著書では、環境や生育の様子が詳しく述べられ、分かりました。(土佐さんのは、文学的…ですから)龍馬さんは謙遜されたのですね。ついでに、中城惇五郎さんにもそういう場面がありますね。
 それから興味深かったのは、長宗我部水軍のことです。小さい頃、長宗我部さんという方が近所に住んでおられました。お殿様の子孫とは聞いていました。このお殿様は、この地域を治めた人で庄屋さんの上ぐらいの人かととらえていました。とんでもないことでした。
 最後に感銘を受けたのは、中城家ご一族のことです。その時代、時代に大活躍をされただけでなく、後世のことを考えられています。高知県で初めての通史「高知県史要」を刊行。そして、高知市民図書館「中城文庫」。もっと、中城家の方々のご活躍をしりたいと思います。それが、高知県、いや日本の歴史を深めることになりますので。中城 正堯さんが今生きておられることの意義は大きいです。(えらっそうにごめんなさい。)
 ちょっとご著書を読ませていただいただけで、僭越ながらいろいろ書かせていただきました。恥ずかしい限りです。
 これを機会に龍馬さんへの興味は続きそうです。ありがとうございました。今後とも、いろいろ学ばせて頂きたいと思います。 失礼します。
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田島征三さんと絵本「「花ばぁば」
冨田八千代(36回) 2018.08.14

筆者旧影
 いつも、ホームページ更新のお知らせありがとうございます。 6月の
  母校出身“素顔のアーティスト3”田島征彦・征三兄弟(34回)(前編)
  母校出身“素顔のアーティスト3”田島征彦・征三兄弟(34回)(後編)
を興味深く拝読しました。
 仕事を通して、絵本にあう度に、ひそかに母校が同じと嬉しく思っていました。6月の著述では、あらたに田島ご兄弟のことをたくさん知りました。知人より紹介のあった絵本が、田島征三さんともかかわりがあるのでお送りします。

*絵本「花ばぁば」
絵・文 クォン・ユンドク(韓国)  訳 桑畑優香 
出版社 ころから  2018年4月発行  1800円
内容  日本軍「慰安婦」にされた花ばぁばの物語

*田島征三さんの活躍
 中城さんの著述に、<征三は、2012年「日・中・韓 平和絵本」に加わり、『ぼくのこえがきこえますか』を刊行した。戦死した若き兵士の魂が、…>と記されていますが、この絵本「花ばぁば」もその取り組みの1冊です。この絵本は構想から日本での発行までに12年もかかりました。日本の出版社は学者から史実と異なる部分が指摘されているという理由で出版延期。クオンさんは、求めに応じて再三絵を修正しましたが、結局、出版しないと決定。断念はできないと田島征三さんらは出版社をさがし「ころから」に出合って、クラウドファンディングでやっと実現したのです。構想から12年かかって、「花ばぁば」は日・中・韓での共同刊行が完結したのです。
 早速、本屋さんに取り寄せてもらいました。そこで、驚いたのは、田島征三さんが先頭にたって、呼びかけをしていらっしゃるのです。それなら、向陽プレスクラブの方々にお伝えしなければと思った次第です。もう、すでに皆さんはご存じでしょうが。
 まず、絵本の帯には、田島征三さんの顔写真と直筆で「この絵本を一番必要としているのは、ぼくたちであり、若い人たちだと思う。」とあります。
 そして、『花ばぁば』特別付録 ころから編集部・編  「お蔵入りの危機を救った日本の市民たち」のリーフのなかでも、田島征三さんのメッセージだけがゴシックで紹介されています。このメッセージは2018年1月にスタートしたクラウド・ファンディングに寄せられたものです。それを少しだけ抜書きします。
 =ぼくらが、中国と韓国の絵本作家に「平和のために絵本を創ろう」と呼びかけてから、もう10年がたった。その間、10冊の絵本が日中韓で出版されている。でも、この本だけが(略)…出版されなかった。……(略  略)…(途中に帯の言葉も出てきます)…(最後に)この絵本を「命がけで」出版してくれるのは、ひ弱い小さな出版社だ。本が出来たら、一冊でも多く、ぼくの力の限り頑張って売り歩こうと思っている!=

 私も、この本をたくさんの人たちの所へ旅をさせたいと思っています。今4人の知人の所に行きました。
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「花ばぁば」の続き
冨田八千代(36回) 2018.08.21

絵・文 クォン・ユンドク 訳 桑畑優香 ころから刊
 絵本の続きのことをお知らせします。
 私が絵本「花ばぁば」を知ったのは、全く絵本つながりでは無い方だったのです。紹介者とのつながりは、この地域の田を潤している「枝下(しだれ)用水」のことを教えてもらっているということです。
 住んでいる地域の小学校で、郷土学習のお手伝いをしました。「枝下(しだれ)用水」のことを話さねばならなくなったのです。用水関係の資料室長をされているこの方にいろいろ教えていただきました。私もこの方から、紹介を受けるとは意外でしたが、3か国で出されている絵本は知っていましたので、「花ばぁば」にすぐに惹かれました。その後、この方に向陽プレスクラブにメールを送ったとお知らせしました。そうしたら、ホームページをよんでくださっています。以下のその方からのメールです。
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『花ばぁば』の輪が広がっています
 冨田さま
 ブログで紹介させていただきました。
 https://blog.goo.ne.jp/horuhorushiho/e/e6012b2e1de4a157a8759f066b01b379
 田島征三さんとの縁、すごいですよね。
 はじめ向陽高校と聞いて名古屋をイメージしてしまいましたが、
 土佐でしたね。プレスクラブHPには土佐の言葉が溢れていました。

2018-08-18 21:10:30 | シホのホ(雑記帳)
 たまたま戦争が話題になって、Tさんに絵本『花ばぁば』(絵・文 クォン・ユンドク(韓国)、訳 桑畑優香、出版社 ころから、2018年4月発行)をおすすめしました。わかってくれる人と思ってすすめたのですが、まさかTさんが田島征三さんの同窓生だったとは知りませんでした。
 早速母校の新聞部・土佐向陽プレスクラブhttp://www.tosakpc.netに投稿くださったそうで、みなさんにもご紹介したいと思います。
 Tさんもそのようですが、私も自分が読んだ後、あの人にこの人にと何冊か買っています。秋には恒例の韓国、中国行きがあると思いますので、韓国版、中国版も入手してみたいなと思っています。
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この本、お勧めします。
冨田八千代(36回) 2018.09.02

筆者旧影
 「今頃、何言いゆうが」と、笑われそうですが、この度、初めて以下の3冊の実物に会いました。
浮世絵に見る 江戸の子どもたち(2000年)
 編集執筆 中城正尭 小学館
公文浮世絵コレクション 江戸子ども百景(2008年)
 図版構成・作品解説  中城正尭  河出書房新社
江戸時代 子ども遊び大事典(2014年)
 編著 中城正尭  東京堂出版

 最近、中城さんから『江戸時代 子ども遊び大事典』の紹介を頂き、それを機にこの3冊を拝読しました。
 3冊の私の感想です(「子ども浮世絵」のよさや歴史的・文化的意義については、著書からお願いします。)。

 「子ども浮世絵」3冊
 「子ども浮世絵」というジャンルがあることを気にしていませんでした。浮世絵といえば美人画、役者絵、風景画と、十把一絡げに高校の歴史教科書程度のとらえ方でした。
 「くもん子ども研究所」が「子ども浮世絵」に着眼された功績は大きいと思います。それには、中城さんの尽力が大きかったこともこれらの著書で分かります。このくもん子ども研究所のとりくみに賛辞が述べられています。北山修氏(九州大学教授)は「1993年に出たばかりの『浮世絵のなかの子どもたち』に出会いました。 …本当に真新しい金鉱を見つけたのに等しいで出会いであり、それ以来、私はここを掘り続けることになりました。」と称賛。また、稲垣進一氏(国際浮世絵学会常任理事)は「くもん子ども研究所の収集がなかったら、この分野の研究はさらに数十年遅れたかもしれない。」と評価しています。 「子ども浮世絵」の中の子ども達は天真爛漫、生き生きとしていて、これが小気味よいのです。「見たて絵」では、子どもが大活躍していますが、庶民の気持ちを子どもに託しているようにも感じました。(これは全く、ちがっているかもしれません。)

喜多川歌麿「当世好物八景 さわぎ好」
(『母子絵百景』河出書房新社)
北山先生が着目した親密な母子関係を表
現しており、玩具は音の出る「ポッペン」。
 それぞれの作品は、詳細、多彩、緻密にと描かれていて、本当に眺めていてその度に新発見をするのです。あきがきません。もっとも、中城さんの説明が巧みなので、「ああ、なるほど。」とか「そこまで、見ていなかった。」と再発見ができます。この二つの著書はどのページを開いても、見れば見るほどという次第です。
 どの作品も、見とれますが、私は、『浮世絵に見る 江戸の子どもたち』では、<「やしなひ草」下川辺拾水>に惹かれました。 「子ども浮世絵」では、ほとんど父親が登場しませんがこの絵には父親がいます。この絵は絢爛豪華なものではありません。まず、「報恩感謝の大切さを訴えている」との説明に立ち止まりました。この「報恩感謝」という言葉に久しぶりに接しました。土佐校時代、大嶋光次校長先生は、集会でこのことを強調されていたことを思い出したのです。だからクラス名も、「土佐報恩感謝」の頭文字をとってTH0KS。中城さんだから、この言葉を使われたのではと思いました。そして、絵をもう一度見ると、今でいう草食系のイクメンパパの子育てぶりが。報恩感謝の言葉と共にこのパパに好印象を感じました。「子ども浮世絵」に父親の登場が少ないことの根拠が、この著書に登場される学者さんで違うのも興味深いと思いました。
 『江戸子ども百景』は大判で見やすく、絵も鮮明です。これも詳しく分かりやすい説明で、より深く味わえます。この著書で興味深かったのは、小さなものですが、<「蚕家織子之図」歌川国芳大判錦絵十枚綴り>です。私事ですが、父は生涯、養蚕に携わりました。私たちが子どものころは「蚕の先生」と呼ばれていました。正式名かはわかりませんが、蚕業指導員と言っていたと思います。戦後、生糸産業はどんどん斜陽に。それでも細々と、蚕につながって一生を終えました。本物に出会いたいと思いました。 『江戸子ども百景』の編集は初心者には助かりました。表紙と裏表紙の裏に浮世絵の説明がかるた式にまとめられていることです。また、学者の方々の論文の表題が白抜きで四角形なのはよくわかりました。 私は、子どもの顔が大人びているように見受けました。そうしたら、著書の中に、そのことを述べた物があり、ほっとしました。

 何といっても圧巻は、やはり『江戸時代 子ども遊び大事典』です。中城さんの実力満載、集大成というところです。三百近い遊びが網羅されています。見出しに人文字を使われたのは、さすがと思いました。(すみません)@に小さく人体文字が出ていました。これは見たことがあると思いながら、興味深く見ました。天保年間の作だから、この事典にはうってつけです。 これらの遊びの多くを、私も遊んだことがあります。郷愁にひたりながらページを進めました。そして、でも、それを私は子ども達に伝えただろうかと考えてしまいました。

そこでお勧めします。
「お茶」の友に、くつろぎや癒しをより豊かにするために、『浮世絵に見る 江戸の子どもたち』か『公文浮世絵コレクション 江戸子ども百景』を脇に置かれることをお勧めします。どこを開いても楽しめます。もっといい「浮世絵全集」をお持ちの方、本物の浮世絵を所蔵していらっしゃる方には失礼ですが。『江戸時代 子ども遊び大事典』は、私は図書館に会いに行きます。
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浮世絵万華鏡1・2拝読しました。
冨田八千代(36回) 2018.12.25

筆者旧影
 1では、くもん子ども研究所・こども浮世絵による江戸子ども文化研究・くもん浮世絵コレクションと中城さんの果たされた功績と役割、役割を担われるのに相応しいたくさんの背景などがよくわかりました。
 写真で紹介された著書の中で「浮世絵の中の子ども達」はまだ読んでなかったので、すぐに豊田市図書館に借りに行きました。閉架図書となり、しかも、閉架図書の整理中で、やっと12月5日に貸し出しとなりました。 (注:豊田市大きな「市」ですが、中心部に1館あるのみです。分館もありません。)
 手にして、立派さに驚きました。先の3冊を拝読していたから、私は読みすすめられたと思います。読み終えたら、メールをとおもっていましたが、そのままになりました。写真の中の右下の 「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は図書館で検索してもありませんでした。
 本の中のそれぞれの方の著述から、又、新しいことをたくさん知りました。単純なことでは、毬杖から左利きをいう「ぎっちょう」が、なるほどと思いました。江戸時代の子どもの存在を士農工商の階層からの視点は、目新しいことでした。
 中城さんの「子ども絵のなかの中国年画」も興味深いものでした。昔話も中国の大昔とつながりがあるのですね。感想の一端で失礼します。

 版画万華鏡2は、話題が広がり、また、興味深い物でした。訪れたこともある場所でも、全く気がつかない事でした。「無知」はもったいないですね。
 それから、余分なことです。先日、豊田市図書館の子ども図書室で見かけた本の事です。全体として、この本を評しているのではないことをお断りして「浮世絵」に関しての所で、気になったことを書かせてもらいます。
「人物・テーマ・ごとに深堀り!河合先生の歴史でござる」 河合敦著(著だったかどうか?) 朝日学生新聞社発行。発行年は昨年か今年です。
 「浮世絵が版画になって大流行」という項目があります。(p164〜165 これは記録してきました。この2分の1位が浮世絵に関してです)。浮世絵とあったので、ちょっとわくわくしながら、そのページを開きました。
・作品として 見返り美人・(まとめて)大首絵・(まとめて)美人画・(まとめて)錦絵富嶽三十六景・東海道五十三次
・人物として 菱川師宣・鈴木晴信・東洲斎写楽・葛飾北斎・歌川広重
・写真 喜多川歌麿「難波屋おきた」

 児童図書なのに、中城さんの紹介のように浮世絵には子どもがたくさん登場することを述べられていないのは残念です。写真でも、1枚それをのせたら、子どもはもっと興味を持ち身近に感じることでしょう。私もこの本のような知識で過ごしてきましたが、新しい本なのに、内容が変わっていないのです。子ども浮世絵は、まだまだ、世に知られていないのでしょうか。
 中城さん 版画万華鏡3を楽しみにしています。よろしくお願いします。
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冨田様
 HP丁寧に読んでいただき、また「浮世絵の中の子どもたち」まで取り寄せ、恐縮です。この本では、黒田先生はじめ各分野を代表する研究者に参画いただき、「子ども浮世絵」を分析いただきました。多くの先生方と、今も交流しています。
 先日、國學院大学でも若い大学院生を中心に、「子ども浮世絵」の研究会があり、徐々に研究者が広がりつつあります。ただ、浮世絵ましてや、「子ども浮世絵」の理解者は、歴史家・美術家でも、まだまだです。この席でも日本女子大名誉教授・及川茂さんが、欧米では日本美術で浮世絵が庶民の風俗や風景を独自の描法で描いたとして最も高い評価を受け、粉本模写中心だった狩野派など日本画はほとんど評価されないのに、国内ではおかしいと嘆いていました。
 河合先生のような日本史だけでなく、美術史の先生でも、浮世絵や子ども史への新しい視線を持っていません。江戸の教育史などもイギリス人ドーア氏が『江戸時代の教育』(岩波書店)で正統に評価、アメリカ人ハンレーさん『江戸時代の遺産』(中央公論社)も同様です。日本は明治政府による極端な江戸文化・庶民文化否定、欧風貴族文化尊重が、長く残っていました。
「遊べや、遊べ!子ども浮世絵展」は、展覧会の図録なので、図書館には入ってないです。残された時間・体力と相談しながら、若手研究者との交流、資料の引継ぎをしています。そして、浮世絵を使った子ども絵本の企画も進めたいと思っています。
 中国年画では、名古屋大の川瀬千春さんが30年ほどまえに博士論文「戦争と年画」を書いた際に、資料提供した事があります。浮世絵では、名古屋市美術館の神谷浩さんがいます。
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「日本の城、ヨーロッパの城」を拝読しました。
冨田八千代(36回) 2019.02.06

筆者旧影
 今晩は、藤宗俊一さん。
 開いて、ぱっと、「淑徳大学公開講座」が目に入り名古屋市のあの大学でと、興味がわき、読み始めました。まずは「お城」ではなく。
 お城をまとめて分かりやすく論じていらっしゃるし、お城は余り訪ねていないようで、案外見ているのだと思い出しながら、楽しく拝読しました。
 日頃はあまり気にしてはいない、「お城」の事にこうして触れられるのは、HPのおかげです。藤宗さん、ありがとうございました。
 最初の方の「惣構え」は、珍しい言葉だったので意味を調べてみました。お城の中で、一番好きなお城はやはり「高知城」です。
 日頃、なんとなく興味を持っているのは、「山城」です。ここ豊田市は広大な山間部のある所で、「山城」や「山城の跡」があちこちにあるからです。なかでも、豊田市が観光地として重きを置いているのは旧足助町にある「足助(あすけ)城」です。紅葉の名所、香嵐渓の近くにあり、自然をうまく使って、山頂にある小さなお城は矢作(やはぎ)川筋の街道が眼下に小さく見え、一目瞭然です。

岩村城(霞ヶ城…日本100名城)1575-1600:山城
丹波氏、松平(大給分家)氏:本丸の6段の石垣
何度かいきましたが、昔の人はいい所を見つけたものだと思いました。また、旧稲武町にある「武節城跡」も地域の方々が、研究され整備されています。詳しい説明をきいたことがあります。ここは、全体が山でその平たい所に、お城があったので、山城とはいわないかもしれません。また、再建されないままに残っているところも、興味深かったことを思い出しました。私の住んでいる豊田市隣の恵那市にある「岩村城」です。「安土城」も再建前に行きました。
 「残存天守は12城」には、そんなに少ないのかと驚きました。その中に、四国のお城が4つもあるのですね。私は高知城以外の3つのお城には行ったことがないので、インターネットで見てみました。どれも美しい姿ですね。丸亀城が日本一石垣の高い城ということも初めて知りました。四国に4城も残っていることは、四国が平穏だったということでしょうか。というのは、私の近所に住む方が、「私が学童疎開をした日は、(アジア太平洋戦争名古屋大空襲で)名古屋城が炎上した日。だから、日にちをはっきり記憶している。昭和20年5月14日。」と、時々話されるからです。それから、ついでに、その金の鯱が再建されたのは、1959(昭和34)年。この時、故人となられた大野令子さんと私は、落成式(というのか?)直前の屋根に置かれた鯱を見たのです。第10回高新連大会に参加した後、名古屋の私の伯父の所により、名古屋城へ連れて行ってもらったのです。
 おもいつくままに、いろいろ書かせていただきました。
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<版画万華鏡・4>はすぐに拝読しました。
冨田八千代(36回) 2019.03.10

筆者旧影
 名古屋市博物館で開催されている「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」での神谷浩氏の講演「国芳と芳年の快感」をきいてからお返事しようと思っていました。講演会は2月24日、もう1週間以上もたってしまいました。
 「和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子どもたち」では、子ども浮世絵の世界とその世界から色々な物事に広げていただきました。
  ・武士の子どもの様子の登場
  ・米将軍吉宗の事
  ・葛飾北斎の事
  ・打毬の発祥の起源地
 ポロと同じとは。だんだんとその地域の自然環境や文化や慣習によって変わってきた、長い歴史を持つものであること。私は題を見た時に、中城さんが「和製ポロ」と表現されたのだと思っていました。
  ・ずっと生きている「打毬」のこと 写真が素敵です。
  ・「千代田之御表 打毬上覧」楊洲周延 明治28年頃(筆者蔵)の立派な事
 明治28年頃が気に留まりました。先日行った名古屋の展覧会にも明治時代の作品がかなりありましたが、10年代がほとんど、23年作が1点で、それ以後の作品はありませんでした。
 私が最も胸を打たれたのは、中野真一郎さんの評でした。「これら版画のなかの母親も、子供たちも、何と人生を信頼し、親子の断絶だの、登校拒否だの・・・知らずに、愉しく寄りそって生きている・・・。彼らは自分の身のまわりの物から遊び道具を工夫して、次つぎと珍しい遊戯を発明し、お互いの心の交流を習得していっている」(中城さんの文章からコピー)なんといい環境の中に子ども達がいるのかと感激に自然に涙があふれました。現職中、家庭の崩壊など子どもにとって不幸な状況を目のあたりにし一人の教員の無力さを痛感してきました。子どもには自分の生きる環境は選べません。どの子も安心して生きられるようにと願うこのごろです。
 さっそく、図書館で「眼の快楽」を借りて読みました。その中に、中城さんの著書に執筆をされたような文章がありましたので、図書館の「浮世絵」の書架の所に行きました。そこで新たに「母子絵百景 よみがえる江戸の子育て」を見つけました。中城さんも執筆されていますので、後日、読みたいと思います。
 名古屋の展覧会は150点もの浮世絵が展示されていました。展示構成は5部。1、ヒーローに挑む 国芳がもっとも劇的に深化させたのは武者絵 2、怪異に挑む ヒーローを際立たせる 3、美人画・役者絵 浮世絵の王道 4、話題に挑む 人々の関心事、楽しみを伝えると言う浮世絵の本質部分 5 「芳」ファミリー(の作品)神谷浩さんの講演もこれにそって、作品を映し出しながら浮世絵の魅力を精力的に話されました。ご自身が「浮世絵」をとても慈しんでいらっしゃることが伝わってきました。
 今回の展覧会は中城さんの著述がなかったら全く目にも止まらなっかたことです。しかし、この展覧会は、「浮世絵」に俄か興味・好奇心の域の私にとっては意表を突かれた感も否めません。それだけ「浮世絵」は広くて深いということでしょう。今回の展覧会には明治時代は?という関心は持っていきました。明治時代に急激に衰退(といっていいでしょうか)という印象でした。残念に思います。
 次回「浮世絵そっくりさん」を楽しみにしています。
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冨田様
 浮世絵に関心を寄せてくださり、また「打毬」の記事を丁寧に読んでいただき、有難う。
 国芳に関しては、以前「浮世絵戦国絵巻」展の図録に、小論「黒船来航と城郭炎上図」を書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した書いた際に、黒船来航に幕府がきちんとした対応ができない様を国芳たちが風刺した浮世絵を制作、南町奉行所から始末書を取られた話にも触れました。彼らは、出島経由で西洋の画集も入手、遠近法を街並み描写に活用しており、なかなかの知識人でした。
 幕末から明治にかけて、北斎・歌麿などの浮世絵が、新しい絵画表現を模索していた印象派の画家に大きな影響を与えます。中でも、母子の日常生活を描いた作品は、メアリー・カサットなど、女性画家に身近な家庭にも題材があることに気付かせ、元気づけます。浮世絵は、近代西洋絵画にも大きな影響をあたえ、欧米で高く評価されました。しかし、日本のアカデミズムからは、戦後まで無視され、名作も海外に流失しました。
 中村真一郎(中野ではなく)さんも、すごい教養人でおもしろい作家でした。東京の御家で加藤周一、堀田善衛という近寄りがたい碩学を紹介されたり、熱海のマンションで画家たちと飲み明かして泊めていただいたり、思い出がつきません。
中城 正堯(30回)
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<版画万華鏡5>ありがとうございました
冨田八千代(36回) 2019.03.31

筆者旧影
 今回は、初めから仰天でした。宝船の布袋様とはうってかわったお姿。ネパール版画に続いて、「図3.西村重長『布袋と美女の川渡り』筆者蔵」にうつりましたので、ほっとしました。おんぶ文化の入り口に、ネパール版画だったのは、中城さんの粋なはからいなのでしょう。
 おんぶ姿は直接、肌のぬくもりを感じさせ、やはり、今回も江戸時代の子どもたちの幸せが伝わってきます。北山修教授の強調されているように母親のまなざしが語っています。喜多川歌麿「児戯意之三笑」は水鏡に親子を写す場面をとらえた、歌麿の心の細やかさ、母親の心のゆとりと子へのいとしさの表現に感動しました。
 ちょうど、中村真一郎さんの事から、図書館の浮世絵の書架に行き「母子絵百景」を見つけ借りてきていました。この<版画万華鏡5>のおかげで、より詳しく味わうことができました。本当に、母と子の様々な情景に心が和みました。喜多川歌麿の「授乳」の場景は4点もあり、「風流子宝船」にも、中央で大黒様がお乳をのんでいるとは面白い。「雪のあした」(歌川国貞)3枚続も目に留まりました。「図12」はその中央部分なのですね。「浮世絵風俗子宝合 渓斎英泉」の水鏡は心憎いのですが、これは歌麿にヒントをえたのでしょうか。
 この画集「母子絵百景」は「江戸子ども百景」と姉妹編だと思います。これにも中城さんのお名前が明記されてもいいのではないでしょうか。執筆・図番解説・作品解説と尽力されていますので。背表紙にお名前がないのでずっと、この本は気がつきませんでした。たまたま、私は今回借りて好都合でした。
 ちょっと、それますが、この時に、ついでに気楽に読めそうと「知識ゼロからの浮世絵入門」を借りました。著者は稲垣進一さん。「浮世絵に見る 江戸の子どもたち」に執筆されたのを覚えていたので借りましたが、紹介された作品の中で子供が登場するのは極わずかです。くもん子ども研究所の「子ども浮世絵」の収集は貴重なことをこの本からも受けとめました。
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いろいろと、ありがとうございました
冨田八千代(36回) 2020.09.06

筆者近影
はじめに 今頃このようなメールをすみません。北斎の未公開の素描103点を大英博物館が来年にも展示ということを知り、中城さんが浮かびました。「浮世絵」即「中城さん」です。そして、お礼のメールの未送信に気づいた次第です。

*『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を楽しみにしています。
 『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』では、私も書かせていただきありがとうございました。KPCの一員として、何もしていない私にこのような機会をくださったことを申し訳なく恥ずかしく思っています。公文さんの「予告記事」で、ますますその思いを強くしました。刊行委員会の皆さんのご尽力など全く関せずにぽっと文章を書かせていただきました。また、中城さんのメールではKPC会員の執筆者は私の予想より少しでした。力量もないのに我が身を忘れて、簡単にお引き受けしたことは自分でも不思議なぐらいです。やはり母校が好き、新聞部がよかったからです。そして、「ほん」創りの大変さを知らなかったからです。これを通して、今までの人生では考えられなかったような、またとない体験をたくさんしました。たくさんのことを知り、学びました。大袈裟ですが、長生きをしてよかったと喜んでいます。何とか責めを果たせたのは、ひとえに一から十、中城さんのお力添えのおかげです。お世話になったこと感謝してもしきれません。本当にお手を煩わせたこと、(いい言葉がうかばず)お詫び申し上げます。表紙を見て、中城さんが『太平山』や「桂浜たより」に紹介された浮世絵「土佐海上松魚釣」を思い出しました。
 この刊行で、母校の創立百周年がより身近に感じられるようになりました。
 4月の総会には、今年こそ、お礼を兼ねて初めて出席しようと待っていました。ところが、このコロナ禍では叶わず、残念でした。最後にお会いしたのは、いつだったかしらと思い出してみました。お二人とも、1960年、私が高校2年生の時です。写真2枚を紹介します。

1960年1月3日新聞部新年会
後ろ 中央が中城さん

偉大な先輩たちの卒業の日 
左端:公文さん 女性左:大野さん 右:筆者
主役の皆さんを気にせずの失敗作でしょう。
だから、私の手元にあるのでしょう。

*佐川の寺子屋教育から土佐沖の鰹釣りまで
@「大江戸もののけ物語」の不思議な寺子屋
 物ごとをあいまいにされない姿勢に敬服しました。テレビの画面には中城さんの指摘の通りの寺子屋風景が何度も登場しました。視聴者の脳裏にこの誤った情景が残っていくのかと、考えさせられました。テレビ視聴中は、すぐにNHKに抗議をと意気込んでいましたが、実行はしていません。周りの友人には、時代考証がきちんとされていないことを話しました。
 その後、中城さんが紹介されている『「勉強」時代の幕開け』(江森一郎著)を読みました。NHKの寺子屋の情景が間違っていることは明白です。この書から、寺子屋教育の良さを学びました。そして、植物学者牧野富太郎の幼少時代の寺子屋教育についてもより理解することができました。それは、私が自然観察会で同郷だからと牧野富太郎についてレポーとすることになった時に、中城さんから佐川町の研究誌に執筆された「寺子屋と郷学が育てた佐川の人材―田中光顕や牧野富太郎を生んだ教育風土をさぐるー」をいただいていましたから。同時に紹介していただいた本『花と恋して 牧野富太郎伝』(上村登著 高知新聞社)は本人の実像に迫り、富太郎に関して読んだ数冊の中では一番読み応えのあるものでした。
注:突然、牧野富太郎登場のわけを書きます。私は20年ほど前から近くの公園で、観察会の一員として自然観察を続けています。昨年、ヒルガオを見ながら、植物のつるの巻き方が話題になりました。日本で、定義づけたのは植物学者牧野富太郎です。そんなことから、同じ高知県出身ということで私が牧野富太郎についてレポートをすることになりました。その時に中城さんにお世話になりました。飛躍しますが、それを通して寺子屋教育の良さを知りました。また、紹介していただいた本『花と恋して 牧野富太郎伝』(上村登著 高知新聞社)は本人の実像に迫り、この時読んだ数冊の中では一番読み応えのあるものでした。
A「綴る女」をめぐる変奏曲
 登場される方々はみな著名人で私とは遠い別世界の人です。その方々をつなぐことで中城さんは奔走されていたのですね。これまた、別世界の物語の様ですが、興味深く拝読しました。
 豊田在住の友人が高知大学で学んだことをきっかけに宮尾登美子の大ファンです。その影響でたくさんの作品を読みました。宮尾登美子と私は、住でいた所が仁淀川の左岸(現いの町)と右岸(現日高村)という近さなのです。それで書かれたことが肌で感じられる『仁淀川』が印象深い作品です。今回、また読んでみて、自分の大間違いに気づきました。場所が特定できる有名な「八田堰」を読み落としていたのです。今まで、私は、宮尾登美子が若い頃暮らしたのは仁淀川の対岸だと捉えていました。ところが「八田堰」と出てくるので、伊野の大橋を中心に彼女は左岸南東、私は右岸北西なのです。「八田堰」を意識しなかったいい加減な読み方に気づかせてもらいました。
 公文公先生との交流があったことは、宮尾登美子への親しさが増しました。
B土佐藩御船頭(おふながしら)の資料を展示
 中城文庫の展示に当り、贈り主にお話がなかったとは驚きました。展示の解説の一番ふさわしい方は中城さんご本人です。ご健康上のことなどで、直接行かれなくても監修はしかるべきです。いろいろな執筆から、「土佐藩御船頭」のことやその資料を高知県立図書館に寄贈されたことを伺っていましたから、帰郷の際にはオーテピア高知図書館を訪ねてみたいと思っています。今回の展示は、新聞報道にあるように、やはり今のコロナ禍と関連があるのでしょうか。そうだとすれば、時宜を得ています。最近、明治期のコレラ感染の話題がよく出てきますが、いつ頃のことだとはピンときませんでした。具体的なお話がでると現実的にいつのことだったかリアルになります。
中城 <伝染病関連の文書は、明治一二年のコレラ流行のさいの文書が当文庫に3点あり、そのうちの1点「虎列刺予防法ノ願」が出展されています。他に仁井田村(三里村・現高知市)予防委員から祖父(直顕)への書簡「村境の見張り番所を廃す」もあります。現在のコロナ禍による移動制限を連想させられます。大正八年の「土陽新聞」には、「伝染病も随分多い、最も恐るべきは虎列刺、黒死病であるが、虎列刺は土佐では安政年間に大いに流行して、幾多の人を殺した・・・、次ぎに流行したのは明治十二年と十九年であらふ」とあります。幕末に、いち早くオランダ医学を学び、土佐で種痘を行なった豊永快蔵のような医師もいます。>
 中城文庫展のチラシは、一目見るだけでは中城文庫に関心のある人でなければ出かけようとする気は起らないと感じます。(失礼ですね!)すると、中央の絵がチラシの引きつけ役なのでしょうか。この絵がよくわかりません。中城さん。この絵はどういう絵なのですか。なぜ、たくさんの資料の中からこの絵が選ばれたのだとお考えですか。チラシの裏面も見たいと思います。展示内容の説明を知りたいのです。
中城 <なぜ、こんなくだらない噂話の浮世絵新聞「東京日日新聞 三眼の妖僧」(1873年)を選んだのか不明です。この展示の企画意図がよく分かりません。7000点を超す「中城文庫」の中から、今回はどのような観点から約70点を選んだのかが問題です。裏面は白紙です。>
C予告記事『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』から
 公文さんの記事には、間もなく出版される『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』の表紙、田島征三さん画の「舟を漕ぐ男たち」が出ています。その表紙の連想で、南国土佐ならではの一場面として広重の「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」が、心のアルバムから甦ってきました。中城さんは「桂浜たより」などにその浮世絵のことを書かれています。皆さんにも紹介していただきたいと思います。
中城 <これは土佐沖でのカツオの勇壮な一本釣りを見事に描いています。さすがに風景画で知られる歌川広重ならではの作品です。船中の大桶から生きたイワシを取り出して撒き餌にする様子まで、リアルに描いてあります。この浮世絵は、「坂本龍馬役者絵」等とともに、県立高知城歴史博物館に寄贈しました。>
中城さん いつも知的刺激をありがとうございます。

富田さん

歌川広重「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」
高知県立高知城歴史博物館蔵(中城正堯旧蔵)
浮世絵の話題を有難う。
 土佐高人物伝、お陰様で校了になりましたが、販促対応など仕事が続き、返事も出来ず、失礼しました。勝手に、あちこち権威筋の不勉強や誤解にかみついているだけで、酒を禁じられた老人のストレス発散です。ご丁寧に褒めていただくと、こそばゆい感じですが、みなさまの反響は素直に有難いです。
 初鰹関連の浮世絵では、歌川広重の「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」が欠かせません。個人で所持していましたが、先年高知関連浮世絵とも、県立高知城歴史博物館に寄贈しました。写真を添付しますので、ご覧下さい。場面は既刊の名所図会などから取ったと思われますが、船中の大桶から生き餌を撒きながらの勇壮な一本釣り風景をリアルに描いています。
 この他、公文所蔵に、「江戸自慢三十六興 日本橋 初鰹」(歌川豊国三代・広重二代の合作)があり、高価な初鰹を持つ美人とたが回しで遊ぶ子どもの図で、バックには日本橋と富士山が描かれています。初鰹は江戸っ子の大好物で、浮世絵の素材にもなっています。
 北脇昇さんは存じませんが、歌川芳藤は幕末から明治にかけて活躍し、特に「子ども絵芳藤」と呼ばれたように、子どものための楽しい絵をたくさん残してます。北脇が参考にした絵は不明ですが、芳藤の「五拾三次之内猫之回怪」は、猫が集まって恐ろ化け猫の顔ができています。公文でも所蔵しています。
 土佐校人物伝も、そろそろ校了です。
中城正堯(2020.09.07)
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詳しい報告をありがとうございました
冨田八千代(36回) 2020.11.21

筆者近影
公文様
 百周年記念式典への参列、お疲れさまでした。詳しい報告をありがとうございました。
 KPC再発足以来の先輩の皆様の様々な努力が認められていることが分かり、安堵しました。『創立百年史』の編纂には、KPCのどなたかが入られるものと予想していました。(携わられた方々の詳しいことは分かっていませんが。)向陽新聞のことやその後のまとめは、反映されるだろうかと危惧していました。
 校長先生のお話も伝えて下さりありがとうございました。公文さんがまとめてくださった内容からも『筆山の麓』の小村先生の「土佐中高100年人物伝に寄せて」と同じように、感銘を受けました。
 私の感銘とは別のことです。
 校長先生は「建学の精神」と「報恩感謝」とを区別して述べられていることが目に留まりました。これは、中城さんが『創立八十周年記念誌』で指摘されていることです。
 今回、『筆山の麓』の刊行を通して、『創立八十周年記念誌 冠する土佐の名に叶へ』を久しぶりに開きました。確かめたいことがあって、原稿をまとめるときにも刊行されてからも読みました。、記念誌の「特集…これからの土佐」の項で中城さんが登場されています。「『自由と規律』をモットーに、世界へ人材送る学校に」と題してた記述で、「報恩感謝」のことについて触れられています。
 それで、自分自身のことを振り返ってみました。私の在校中は「報恩感謝」が強調されいました。大嶋校長先生のお話は、必ず「報恩感謝」のことがあり、耳に胼胝ができるほど聞かされたと いう印象です。校長先生以外の先生が話された記憶はありません。
 クラス名も土佐 報 恩 感 謝の頭文字ということも常に意識していました。クラス名、T・H・O・K・Sも「土佐報恩感謝」を復唱して出てくるぐらいでした。当時、私はそれが学校の理念だと受けとめていました。しかし、これらのことは生徒、それぞれの印象は違うようです。「建学の精神」についてどう受けうけとめたかは印象に残っていません。そんなに度々話されたという記憶はない、という同級生もいます。こんなことを思い出し考えていた時なので、目に留まったのだと思います。
 高知新聞の添付、ありがとうございました。
 それから、「向陽新聞」のことで思いだしたことがあります。私が中学校1年生の時のことです。新聞部から1号から5号までの新聞を探しているから協力をという呼びかけがありました。我が家に兄(30回生 堀正和)が残していたものがありましたので、新聞部まで届けました。確か4号はなかったと思います。そのころは自分が新聞部に入るなどとは全く思っていませんでした。
                 では、失礼します。 
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『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』を読んで
冨田八千代(36回) 2021.01.21
「土佐高等学校 土佐中学校」にも土佐にも関係のない人達の感想を記す。        
*「もう年だと退かないで前向きな気持ちで生きようとしてもらった。それは思いがけない経験をさせてもらったから。」と私。その理由は『筆案の麓』の筆者になったこと。 完成した本を手にした時は関わられた方々とは大違いと恥ずかしかった。が、だんだんと自分自身への励ましに変わっていった。この理由に行きつくまでがややこしいが、とにかく話した。
 ・Aさん 80代  あなたの出身高校の人だなんて全然意識しないで読んでいった。いろいろな人が登場して面白い。その人その人がどんな生き方をしたかとか、どんな仕事をしていたかとかがよく分かる。自分のことをふと思い出すこともある。読み返したいから、もうちょっと貸して。 (ちょうど、1ヶ月後に会った時。はじめは「あんたのお奨めのところだけ読ませてもらうわ。どれ?」だった。私は校長先生の「土佐中高100年人物伝によせて」だけをあげた。サークル活動で月1回しか会わないのに、この1編だけに長く貸すのはもったいないと思った。が、購入した10冊のうちの1冊は遊ばせようと貸すことにした。)
 ・Bさん 80代  読みだしたら面白くて、少しずつ読んでいる。読みやすい。一つのまとまりが短いからいい。ずっと置いておきたいから、買いたい。 (電話で。「重い物を持ったら、腰痛再発。お金を払いに行けない。」と言う。「お金を貸したかしら」と私。彼女にはお礼のつもりでプレゼントしたかったが、この本を蔵書にしても仕方がないだろうと思った。それで、「いつまででもいいから」と、新品を手渡した。この二人はあまり読書をしない。失礼ながら、熱心に読んでいることに驚くとともに嬉しかった。
 ・Cさん 70代 土佐高の校長先生の一文から、あなたが南国の暖かい風土・校風の中であなたの良い性格が熟成され育てられたと改めて感じました。「なぜ自分がそれをしてはいけないのか」「だったら自分が」の言葉は、問題を避けて通ろうとしてきた私には痛い言葉です。…以下自己分析が続いている。(手紙の一部。私へのことは彼女の主観なので別として、校長先生の文章に注目したことに感激した。私と同じ。)
 ・Dさん 60代 校長先生の刊行への文章のように、みんなそれぞれに自信を持ちたいね。お互いに認めあいたいね。田島征三も同窓生なの。(少ししか読んでいないと思う。そのほか、「これにあなたの名前が出ているってすごいじゃん。」「最後の所に名前が出て、よう頑張ったねえ。」のような感想も。そんなことより内容のことを聞きたいのに。見たことは確かだが。)
 *冗談っぽく、「私はこの歳にして、同窓生から初めて先輩と呼ばれたんだよ。しかも大学教授からだよ。」に「すごいね。仕事かなんかの関係なの?」に事の顛末を話す。取材後、川村教授に確かめのメールを何度も送った。川村教授は誠実に応じてくださった。メールの書き出しはいつも「冨田先輩」だった。読みたいとは言わなかったけど、実物を出したら持ち帰った
 ・Eさん 50代 この本面白いね。人に歴史ありだね。同じ時代を生きてるって感じることもすばらしい。(しばらくしてからのショートメールで。彼女の感想はもう少し詳しくききたい。)

「土佐校百年展」の会場にて 小村彰校長先生と私
 校長先生がこの前でと場所を決められました。
*10冊の行き先の1人として、近況報告にと郵送した。
 ・Fさん 70代  読みやすくて面白い。もうほとんど読んだよ。特に印象に残ったのは、田島征三・村木厚子・公文公。あなたの書いたところはイラストがいい。(読まないだろうと予想していたが読んだとは本当に驚き。もう、2ヵ月も過ぎたのに何の返事もなかった。つい数日前に電話がかかってきた。ためらいながらもこちらから本のことを出した。) 
 感想に挙げた人達、みんな、最初は自分から読もうとは思っていません。冨田が言うから、どれ読んでみるかといった感じ。最初は興味がなかったけれど開いてみると面白いということだろう。伝記だけれど短篇で完結、肩がこらない、次々にいろいろな人が出てくる、知っている人もいる、面白い。という具合だろう。私の周りの人は関心を示さないだろうと決め込んでいたが、『筆山の麓』の新たな「良さ」を知った。
 なお、筆山を「ヒツザン」と読むのは難しいようで、「何と読むの」とよく問われた。「ふでやま」というモニュメントのようなものかと想像した人もいた。読み方だけでなく、ついつい思い出も話した。
<つけたし> 36回生の感想
 ・Gさん 私たちはもう古い部に入ると実感した。私たちは建学の頃のことをよく聞いたけど、今の在校生はどうかしら。在校生にはこの本の第1章は是非読んでほしい。
 ・H(私) 感想の一端(表紙について)
 表紙を見たとたん、どうして男性ばかりなのと不満。勇壮、海、出発とすばらしい絵だけど、私学で戦後逸早く男女共学にした学校なのに女性が登場しないとは。だが、 完成品だから口外しないと決めた。ところが、描いた田島征三さん(34回生)はお見通しだった。「表紙のことば」〈9ページ〉で述べている。「男しか描いてなくて ごめんなさい。女性のみなさんもこの中で漕ぎゆうと思うてください。」脱帽。ほっとした。                             
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 −『筆山の麓』の刊行を通してー
小村彰校長先生に感謝と感銘
冨田八千代(36回) 2021.01.22

筆者近影
 『筆山の麓』の刊行では筆者の1人となるありがたい機会を頂きました。この時に、現在の土佐中・高等学校の小村彰校長に3回助けていただきました。それは間接的なことからです。
 紹介することになった川村静児名古屋大学教授の原稿の書き出しに困っていました。 その時に、名古屋市でちょうど「土佐中・高等学校同窓会東海支部令和元年総会」が開かれました。(2019年5月11日)原稿の種がきっと見つかるだろうと期待して出かけました。この会に校長先生は「百周年記念歌」をお土産にお越しくださいました。会場に在校生の歌声が響きました。そのうちに、川村教授がその歌声の生徒の一員となってしまったのです。この歌は作詞・作曲ともに在校生です。歌詞1番♪先行く人の声がきこえる 自由であれ  諦めるな  自分を信じろ…♪  2番 ♪どんな時も 自立した心と 自由の精神を もち続けていたい 自分を磨いていこう…♪ 土佐校の建学の精神は「人材の育成」であり、そこには「自由・自立」が貫かれています。「百周年記念歌」も自立した心と自由の精神を謳歌しています。川村教授への取材でわかったことは、教授の人生は責任を持った「自由」がずっと貫抜かれていることです。歌詞通りの土佐校の生徒であったし、また、現在のお姿そのものです。書き出しは「百周年記念歌」と決まりました。種探しどころか花が咲きました。名古屋までお越しくださったことを感謝しました。
 あとの二回は、『筆山の麓』の本を受け取ってからです。これは、校長先生の『筆山の麓』での「土佐中高100年人物伝によせて」の文章からですので、まず、その全文を紹介します。
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「土佐中高100年人物伝によせて」  土佐中高校長 小村 彰(49回生) 
 22,151名。創立百周年を迎える2020年3月に卒業した95回生を加えた、旧制土佐中学校を含む本校卒業生の総数です。その、お一人お一人に人生の物語があります。ある分野で大きな功績をあげ、後世に名を残された方もいます。名は知られなくとも、身近な人たちにたくさんの笑顔をもたらして、愛に包まれて逝った方もいます。せっかくの才能を花開かせる前に、戦場で倒れ、あるいは不慮の事故や病に冒されて、志半ばで世を去った方もけっして少なくありません。そして今現在、毎日の生活の中でさまざまな重荷を背負いながらも、精一杯それぞれの人生を生きていられる卒業生たち。亡くなった方も含め、22,151通りの人生が営まれ、そのひとつひとつが意味ある大切なものであることは、私が言うまでもありません。
 その多様な人生の中で、後輩たちがその生き方を知ることで、元気がもらえる、夢を広げられる、そんな人生を有志の方が選んで編まれたのがこの人物伝です。この「選ぶ」作業もたいへんでしたでしょうし、文章にまとめられることもたいへんな取材力・筆力を要する困難な作業だったはずです。それでも、あえてこの本の刊行に関わったみなさんこそ、後輩たちに土佐の卒業生のお手本を示してくれていると私は思っています。
 まだクラス担任をしていた頃、グラウンドに落ちている紙くずを拾うように、そばにいた生徒に言ったとき、「ぼくが落としたがやないも」との反応に激怒したことがあります。それをいわば反面教師として、次のように考えるようになりました。自分にとって負担になるような仕事や義務を課せられそうになったとき、人はしばしば「なぜそれを自分がしないといけないのか」と避けるけれど、「なぜ自分がそれをしてはいけないのか」と問い、否定の答えが出ないなら、自分からやってみるようにする、ということです。
 誰がやってもかまわないことを、「なんで自分が」と考えるか、「だったら自分が」と考えるか。そのちがいに思い当たり、土佐の校風として脈々と受け継がれている「自主性・主体性」というものの根っことはそんなものではないかと考えるようになりました。部活動、運動会や文化祭などの学校行事、必ず前をきる人間が出てきます。「同調圧力」が強いと言われる日本の文化、とりわけ昨今のネットを通じたバッシングの嵐の中で、こうした生き方をするのはたいへんですが、たしかに今もそんな生徒が本校を支えてくれています。
 この本に取り上げられた方、そしてその編集・執筆に携わった方々は、こうした「なんで自分がやったらいかんが?」を根本にもっている方々であると思います。それを支えるエネルギーは並大抵のものではありません。そのエネルギーを後輩たちはしっかりと吸収し、自分のエネルギーにしていってほしいと思います。
 今年の卒業生のテーマは「万華鏡」で、卒業記念品として自ら万華鏡を作りました。小さなかけらを集め、それを容器の中に入れ、鏡を組み合わせてできあがります。ひとつひとつのかけらは、それぞれの形と色を保ちつつ、他と混ざることで、いろいろな見え方を生み出していきます。ひとつひとつからは思いも寄らない、そしてひとときも同じ姿にとどまらない、まさに千変万化の模様が織りなされていきます。この本に描かれた先輩たちは、とりわけ大きく輝くかけらです。一方で、小さく目立たないかけらでも、万華鏡の彩りを豊かに鮮やかにする役割を果たしていることもまた事実です。そんなことにも思いを馳せながら、この本を読んで生徒の皆さんがエネルギーを得るとともに、自分を大切に磨いていってくれたらと願ってやみません。
 最後に執筆・編集に当たられた皆さまに心からの感謝の意を捧げます。
      *******        ******       ******
 昨年10月6日に『筆山の麓 土佐中高100年人物伝』が届きました。ずっしりと重く立派な本です。本を手に、ある時の中部高知県人会でお会いしたAさん(何回生か不明)はこの本を読んでくださるだろうかとの思いがよぎりました。同窓会への参加の有無をお聞きすると、次のようなお話をされました。
 若い時に1回だけ行った。その後は行きたくないから行かない。土佐校にはいい思い出がない。中学校入学の時は、はっきりとした目標があったし、周りからも大きな期待があったけど…。
 そのお話を聞きながら、自分自身の中学1年生の5月頃のことを思い出しました。数学の時間です。カマス(吉本要)先生が、突然 「トウダイに行きたいもん、手えをあげてみい。」と、おっしゃいました。私は6年生の遠足で行った桂浜の灯台以外は知らないけれど灯台にはさほど行きたくもないと戸惑っていました。ところがクラスの三分の二ぐらいだったと思いますが、元気よく手を挙げています。そんなにどうして灯台に行きたいのだろうかと不思議でした。後日、母に話して分かりました。トウダイは灯台ならぬ東大、東京大学のことでした。クラスの大部分の生徒は将来の大学進学やその先までも大きな志を持って入学していたのです。私は小学校を卒業したら次は中学校進学、その学校は土佐中学校と両親が敷いたレールに乗って入学しました。両親は自立した大人にするために大学進学を、それにはまず土佐中学校へと考えていたそうです。
 私のAさんによぎった心配は、校長先生の『筆山の麓』への「土佐中高100年人物伝によせて」を拝読して、拭い去ることができました。全員の卒業生をすっぽりと包んで、「22151通りの人生が営まれ、そのひとつ一つが意味のある大切なものである…」と述べられています。このお話を受けて、Aさんが気軽にこの本を開いたら、自分の中に眠っている土佐校当時のいい思い出が表れるに違いないと思いました。60歳代とお見受けしたAさんは意気軒高で堂々とした態度です。きっと、現在のお姿の中には土佐校時代の幸せも入っていることでしょう。「幸福な人生というのは、幸せな思い出の積み重ねだと思う」と大原健士郎氏は述べられています。(『筆山の麓』116頁) Aさんに「読みましょう。」と声をかけたくなりました。
 さて、3つ目は私のことです。こんな立派な本の中に私の原稿が載っていると思っただけで、とても恥ずかしくなりました。刊行の過程のほんの一部分、一つの原稿だけしか参加していません。その原稿も、刊行委員会の私の担当者の懇切丁寧な支えでやっと出来上がりました。
 本を手にしてから、毎日のように本を開きました。手にすればするほど恥ずかしくなりました。極めつけは、最後のページの「筆者・編集者紹介」です。あいうえお順に皆さんと同じ大きさで私の名前も並んでいます。まさかと驚きました。いいのだろうかと心配になりました。声をかけてくださった時に、先のことや自分の力など何も考えずにお受けしました。それは土佐校が好き、新聞部がよかったとの思いからでした。「紹介」では刊行委員会のみなさんは名前の後ろに小さくマークが付いているだけと謙虚なのにも、恐れ入りました。『筆山の麓』を開くたびに、必ず、校長先生の「土佐中高100年人物伝によせて」は拝読していました。とても惹かれたのです。1週間以上たってから、先生の言われる「何で自分がやったらいかんが?」を無意識のうちに自分に当てはめていました。すると、「私が書いてはいけなかったのか、いけなかったら、先輩は声をかけて下さらなかったのでは」という気持ちになりました。そして、校長先生は今年の卒業生のテーマの「万華鏡」からすべての生徒さんを温かく包み込まれています。そこで私は落ち着きました。私は万華鏡の小さな一粒に決まっている、その自分の身の丈でできる事をすれば許されるのでは、それならば私も筆者の一人にしていただいてもいいのかと安心しました。そして、やっと、心から刊行委員会の皆様にお礼が言えました。

 日々、このようなお気持ちで、学校運営にあたられ生徒たちに接していらっしゃるだろうと思い巡らせていたら、感謝は感銘へと変わりました。この頃、再び、同窓会から送られた、創立百周年行事の案内の冊子『土佐中・高等学校』を開きました。この中で校長先生は「今が輝き未来を拓く」からも、在校生に伝統を受け継ぎ新たな海に漕ぎ出そうと温かく語りかけています。ますます感銘は深まりました。ちょっと脇道にそれますが、このお話にぴったりだと『筆山の麓』の表紙が浮かびました。 
 一連のことから、私も22,151名の1人であり、同窓生としてつながっていると感じるようになりました。母校が身近なことになりました。創立百周年記念行事は素通りするところでしたが、その意義も以前よりは受けとめました。同窓生が土佐中高等学校の発展を願うこと、それはこの学校で学んだという矜持の一つではないかと考えるようになりました。今後、ささやかながら母校を応援していこうと思っています。
 私がこのような心境になれた源は、『筆山の麓』の筆者の一人にしていただいたことです。あらためて刊行委員会・7人のサムライの皆様に心からお礼申し上げます。

付記
 「土佐校百年展」の会場で、「百周年記念歌」の作詞者藤本理子さんのお爺さんに遭遇しました。興奮した私は、『筆山の麓』を開いて「私はここに理子さんのことを書きました。」と、話しました。お爺さんには通じなかったと思います。それでも、とても幸せそうな笑顔で「理子は私の自慢の孫です。」とおっしゃいました。せっかくだからと、校長先生のいらっしゃる所まで案内しました。
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「土佐校百年展」からのオクリモノ
高知で遭遇した浮世絵展
冨田八千代(36回) 2021.08.09

筆者近影
 はじめに   北斎の青色
 日ごろ、浮世絵の実物や話題に接することはほとんどない。ところが、久しぶりに、6月の自然観察の月例会で浮世絵の話題が出た。その日の観察会の主役はカワセミ。住居地の近くに、昔の灌漑用ため池を中心にした公園があり、そこが観察地。その池面をカワセミが横切る。光輝く背の青は飛べば残光で青色の一直線が描かれる。鳥で輝く青はカワセミのみ。カワセミが姿を消しても、ひとしきり「青」が話題になって童話『青い鳥』まで出てきた。が、私は池の杭に止まったウチワヤンマの方へと関心は移った。ところが、観察会のまとめには、カワセミに関して以下のことが書かれていた。=鉱物も輝く青は希少で古くはイスラム寺院のタイルが独占。これが外に出てフェルメールの「青いターバンの少女」が描かれ、北斎の「神奈川沖浪裏」の傑作も成立=。この3者が一直線でむすびつくとは、と疑問がわいた。調べてみようともせずに、浮世絵も生き字引の中城さんに矢を放った。すると、早速お返事を下さった。
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 お尋ねの件、浮世絵の着色剤は顔料と言って、植物か鉱物から取っていました。青は、植物の露草か藍が使われましたが、露草は褪色しやすく、藍が中心でした。ヨーロッパでも美しい透き通った青は、貴重な鉱物から作られていましたが、やがてベルリンで化学染料が製造されます。文政末期頃にその化学染料の青がオランダから長崎出島経由で輸入され、ベロリン藍(略してベロ藍)と呼ばれます。これを、効果的に使用した一人が、北斎です。「富嶽三十六景」はじめ、数々の名作を生み出します。墨とベロ藍の濃淡だけで描いた作品を「藍摺絵」と呼びます。フェルメールは、高価な鉱物顔料を使って独自の青を出しています。トルコのブルーモスクも訪ねましたが、イスラム教徒にとってブルーは最も純粋で神秘的な色彩のようでした。なお、浮世絵「ベロ藍」については、『浮世絵のことば案内』(田辺昌子 小学館)などが気楽に読めるかと思います。田辺さんは、千葉市美術館の学芸課長で友人です。 (以上 中城さんのメールより)
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 すぐに、図書館に出かけた。中城正堯と背表紙にある『江戸子ども百景』など、中城さんが関わられた『公文浮世絵コレクション』の背の高い3冊が並んでいるそのすぐ側に、おすすめの本『浮世絵のことば案内』はあった。
 ベロ藍については中城さんの説明で十分だった。続いて、ベロ藍は、薄く用いても濃く用いても素晴らしい発色の青を示す、当時の人々にとっては異国の魔法のような色であったと述べている。そして、北斎は通常であれば藍色にしないだろうというような箇所もベロ青を用いて、ベロ藍そのものの表現力を追及していると紹介している。
 とても読みやすい編集と内容で、小中学校の図書館にも是非備えて欲しいと思った。
 こんなことがあって、そういえばと、昨年の「土佐校百年展」(2020年11/11〜11/15日)の折にみた浮世絵展を思い出した。この「土佐校百年展」では『筆山の麓』PRの手伝いをした。
 山本昇雲展の開催中を知る

ギャラリーぽたにか 「山本昇雲展」
会場は昔の土蔵2軒のそれぞれ1階。
 「土佐校百年展」の2日目、11月12日の高知新聞には「土佐校百年展」と『筆山の麓』の記事が掲載された。(公文敏雄氏がこのHPに詳報)開場前の受付付近で、新聞を広げて話題になっていた。ところがそれだけでは終わらなかった。その新聞を北村恵美子さん(47回・同窓会副会長)が刊行委員のお一人と私にコンビニで買ってきてくださった。帰郷のいいお土産になるとその心づかいをありがたく思いながら、新聞はそのままバックにしまった。翌13日の朝、会場に出かけるには早すぎると、宿で前日いただいた高知新聞をぼんやりめくっていた。突然「浮世絵」の字が飛び込んできた。見出しは最後の浮世絵師 山本昇雲展 いの町。小見出しは、美人画など54点。写真は会場の一部。期日は15日まで。山本昇雲(1870〜1965)とあり長命な方で現南国市御免町生れ。会場、いの町土佐和紙工芸村は分かる。我が故郷と仁淀川を挟んだ向こう側、行ったこともある。高知市から会場まではそんなに時間はかからない。幸い当番は午前中。午後、展覧会に出かけても、今日中には豊田に帰り着ける。4月には、名古屋市で開催予定の浮世絵展もコロナ禍で中止された。めったにない本物に会えるチャンスを逃す手はないと、午後出かけることにした。
 北村さんのご好意が無ければ出合うことのなった浮世絵展。感謝とともに、「土佐校百年展」から私への贈り物だと思えた。
 会場での資料は、ここに添付したB4大の表面だけの印刷物とはがきの案内だけとつつましやかだ。浮世絵は代表作「今すがた」から数点。細かく優しい描写から、明治大正の風情が感じられた。意外で嬉しかったのは、子どもの情景のも数点あったこと。子どもの動きのその一一瞬を巧みにとらえている。静止した姿から今にも飛び出してきそうな生き生きとした息づかいを感じた。浮世絵に関心を持つようになったのは、このホームページを通してで、中でも、「子ども浮世絵」に魅かれている。来場してよかったとの思いをいっそう強くして、JR伊野駅から電車に乗った。
車中で思ったこと  土佐での浮世絵は?
 車中では、会ったばかりの本物の浮世絵が走馬灯のように頭の中をめぐっていた。数少ない資料と新聞を読み直してみた。新聞の「最後」とチラシの「土佐出身」の表現が気になった。わざわざ「出身」と断るのは「土佐の絵師」ではない。土佐の国では浮世絵はどんな存在だったのだろうかと、初めてよぎった。そして、文化としての存在は薄かったのではないかと思った。理由は二つ。まず、「中城文庫」には浮世絵が20点近くある(と思う。)が、土佐の地元の作品ではない。当時、土佐で浮世絵が盛んだったら土佐藩御船頭の中城様はお江戸から浮世絵を持って来こられなかったのではないだろうか。このHPでも紹介された「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」の絵師も土佐の人ではない。二つ目は、同じくこのHPに中城さんが書かれた「版画万華鏡3」の養蚕神の浮世絵から思うこと。ここ愛知の山間部は養蚕の盛んな地域だったので、気に留めているが、そのような浮世絵が見当たらない。この地方の養蚕の神々は中城さんが説かれた伝説と同じであっても、絵ばかりだ。だいたいこの地方には浮世絵がとても少ないようだ。浮世絵文化は全国津々浦々とは、いかなかったのではなかろうか。JRの車中では、中城さんにお尋ねしようかなと思ったが、忘れていたこともあって、そのまま現在に至る。
 今、また、中城さんにお尋ねしたくなった。浮世絵師の活躍や浮世絵文化は土佐ではどうだったかと。
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高知で遭遇した浮世絵展 続き
土佐と浮世絵   序曲
冨田八千代(36回) 2021.08.18

中城さんのおこたえ 山本昇雲

絵金(廣瀬洞意) 藤原信一

図版3枚から思うこと 付記

『土佐と浮世絵 序曲』
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)


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拝読の機会に浴したことを感謝しつつ
次は「ぽんびん」を吹く中城さん
冨田八千代(36回) 2021.09.10

筆者近影
 中城さんは2017年にこのホームページに「”上方わらべ歌絵本“の研究」や<浮世絵展のお知らせ>を執筆されました。そのときに、浮世絵に子どもがたくさん登場していることを初めて知りました。知らなかったことをとても悔いました。それは、美術界や美術史の中で、「浮世絵」の中の「子ども」が忘れられていたことも影響していたのです。
 そこに千里眼を働かせたのが中城さんです。公文教育研究会は「くもん子ども研究所」の設立に伴い、研究テーマの一つを「浮世絵を絵画史料として活用した江戸子ども文化の研究」と決めました。それを提案し、推進の先頭はご本人でした。
 テーマ決定は1987年のことです。気づかせてもらった30年も前のことです。作品の発掘から始まって、たゆまぬ追及を続けられます。その数3000点にも及びます。美人画の中にも、母と子の姿がたくさん描かれ、それを「母子絵」とまとめられたことは画期的です。

「村の学校」イギリス銅版画
 1860年頃 著者所蔵
 美人画の歌麿は、母子絵が全作品の2割に及び、生涯のテーマであったとは驚きです(第T章 浮世絵と子ども <母子絵の伝来と発展> 第V章 母子絵のまなざし <もう一つの美人画“母子絵”―歌麿の母性愛浮世絵―>に詳しく論述。 他)。
 風景画の広重もたくさん描いています(第U章 寺子屋の学びの文化―江戸社会を育てた庶民教育― <寺子屋戯画と「子ども絵」の広重>)。
 研究から、子どもの描かれている浮世絵を総称「子ども浮世絵」と提唱されました。その内容は@子ども絵(子どもの生活を描いた風俗画)A子ども物語絵(子どもの為の物語絵や武者絵)Bおもちゃ絵(子どもが実用的に使った実用的浮世絵)+美人画です(第T章 浮世絵と子ども 「子ども浮世絵」ことはじめー江戸子ども文化研究―<くもん子ども研究所と浮世絵>)。提唱されてからかなり立ちました。「子ども浮世絵」が美人画や風景画などと肩を並べる日が、早く来ることを願います。

「風流をさなあそび(男)」歌川広重
天保初期 公文教育研究会蔵
 「子ども浮世絵」の子どもたちの天真爛漫さには、根拠があります。それを浮世絵から読み取っておられます。ご本では「浮世絵を読む」の表現に感銘を受けました。「見る」「観る」ではないのです。その読み取り方は作品を実に多くの観点から吟味されているのです。(「子ども浮世絵」ことはじめ p8)その上に、外国の歴史や文化も視野に幅広く検討されています。その結果の「読む」の深さ広さは、はかり知れません。この「読む」を貫いて、江戸の子どもの文化を解明されています。
 子どもへは、親からご近所から世間から、大人みんなが愛情を注いでいたのです。日常生活そのものが子どもに細やかなのです。例えば髪型です。丸坊主から3歳の髪置き、奴(やっこ)、喝僧(がっそう)を経て、7.8歳で髷を結う(p61など)。衣服でも、一つ身では「背守り」や「背縫い」をつける風習(第V章 母子絵へのまなざし 子ども絵に見る魔除けファッションー病魔と闘った母性愛の表象―)。これは、小さい頃お年寄りから聞いたことがあります。おぼろげながら、幼児の普段着の着物についていた記憶もあり、昭和にも引き継がれていたといえそうです。折々の行事やお祭りは、「子ども浮世絵」に満載です。教育には熱心です(第U章 寺子屋の学びの文化―江戸社会を育てた庶民教育― )。

「当世好物八景 さわき好」喜多川歌麿
 享和頃 公文教育研究会蔵
 あらゆることで、子どもへの対応はきめ細かです。これは愛情が無ければできません。中でも深いのは母の愛です。それを「子ども浮世絵」では見事に、まなざしやしぐさで表現しています。
 「読む」から、江戸時代の子ども文化だけでなく、当時の様子も知ることができました。寺子屋の学びの論述は、私にとって興味深いことでした。寺子屋教育のすばらしさが「子ども浮世絵」を「読む」確かさから、ふんだんに述べられています。自ずと現代の子育てや教育の在り方と比較していました。
 表紙は手にする度に惹きつけられ、眺めます。色が渋い薄茶色(何色と言えばいいのでしょうか)と落ち着いています。そこに「さわき好」の母と子が静かに確かに定まっています。(「さわき好」→「当世好物八景 さわき好」歌麿 p24,第V章 母子絵へのまなざし 扉)。元の浮世絵から色をとり、この母子がより落ちついた気持ちにさせます。「さあ始まり、始まり!」と静かに表紙を開いてくれます。
 数ある「子ども浮世絵」の中からこの作品を表紙にされたのは、「子ども浮世絵」の良さが凝縮されているからと、僭越ながら思います。母と子の他には余分な物はありません。お母さんのやさしさに子どもが安心してぽんびんを吹き吸いして楽しんでいます。母子相思相愛がにじみ出ています。この姿から、自分自身の子どもの頃への郷愁もわいてきます。

[上方わらべ歌絵本]絵師不詳
 安永・天明期 著者所蔵
 「子ども浮世絵を読む」を通して、作品と対話を繰り返されたことでしょう。作品はどれも今では分身のようではないでしょうか。その慈しみは母子絵のお母さんのまなざしと、きっと同じでしょう。第V章の題は「母子絵へのまなざし」と、母子絵のまなざしではないのです。胸を打たれました。
 長年の研究の集大成を手作りで上梓されたことをお喜び申し上げます。くりかえし拝読します。このご本が書店に並ぶことを期待しています。
 次に、お待ちするのは、創設された国立「国際子ども博物館」で修学旅行生に「子ども浮世絵」を説明されるお姿です。手にはぽんびんを持たれています。江戸時代の母子絵のお母さんのまなざしと同じように、たくさんの浮世絵に注がれた中城さんのまなざしと同じように、修学旅行生へ優しいまなざしを注ぎながら、語られることでしょう。手にしたぽんびんを時には吹かれることでしょう。
 ご健康にはくれぐれも気をつけられて、長生きをしてくださいね。

注:ぽんびんについて
 「当世好物八景 さわき好」の子どもが吹いている玩具の名称は、『江戸時代 子ども遊び大事典』(中城正堯編著 東京書籍 2014年発行)によった。本書では以下のように説明されている。(一部抜粋)「ガラスの玩具で、管から息を吹き吸いすると、先端のフラスコ状の薄い底が振動し、ポッピンポッピンと鳴り、女性や子どもに好まれた。音色から、ポッピン、ポピン、ポッペンとも呼ぶ。オランダから伝来した珍しいガラス製の新玩具で、異国情緒豊かな音色を出し、人気を得た。」この玩具は、吹くだけでは鳴らず、吸ったときにガラスの底がへこんで音が出る仕掛けである。
付記
 <2017年8月20日KPCのホームページ>「”上方わらべ歌絵本“の研究」の最後に、「なお全文閲覧をご希望の方はお知らせください。抜刷を進呈致します。」とあります。その抜刷とは、このご本では18ページにも及んでいます。大研究、大論文です。当時はそのような論述と拝察する下地は全くありませんでした。
 今回、「第2章 子どもの遊びと学び <[上方わらべ歌絵本]の研究―合羽摺子ども絵本の書誌と解説―」から、多くのことを知りました。この絵本は、江戸時代から長い時を経て2009(平成21)年にやっと、来るべき人の所に到着しています。やっと、日の目を見ました。とても貴重で意義深いことです。ページを開いた時に、[上方わらべ歌絵本]と「」の表記でないのが疑問でした。原題は不明なので仮題にされたと文中にありました。それだけ手にして大事にされた絵本なのでしょう。<表紙中央に「下郷作太郎」とあるが、これは本文にも裏表紙にも書き入れられており、所有した少年の名前と思われる。」>とか<全体にかなり疲れ、虫食いがあり、長く愛読されたことがうかがえる>との記述があります。この本を愛読した作太郎少年は、「よう槍持った」では槍を持つ子、「子を取ろ子取ろ」では列の先頭の子、きっと、はつらつとした遊びに夢中になる子ではなかったかと、想像を楽しみました。
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「青」は深まり、「青」で深まる
冨田八千代(36回) 2021.09.26

筆者近影
 今日9月25日、自然観察会が開かれました。6月の観察会から、3か月が過ぎました。この間に、KPCのホームページでは、翡翠の青い直線が延びて北斎の「青」につながりイスラム寺院の「青」やフェルメールの「青」に広がりました。みなさんの認識と見聞の広さ深さ確かさの賜物です。古今東西の色々な様子が記述されました。青色の事にとどまらず、様々な事柄がとても深まりました。「青」を通していろいろなことを知りました。
 拝読を通して、自分の疑問を居ながらにして解決していただきました。博学さを分けていただきました。3つは魅力的な美しい青ということが共通点だと分かりました。強い結びつきはありません。寺院の建物の「青」なのに、イスラム教の「青」と思い込んで興味を持ちました。そうではありませんでした。今日、観察会の報告をした本人にきいたら、やはり、「イスラム教なんて言ってないよ。」でした。
 竹本さんをはじめ皆さんの記述が分かりやすく面白くて惹きつけられました。画像の美しさにも見入りました。画像は、単に図鑑や写真集からではなく、執筆者の写された物や選ばれた物ということで親近感がわきました。今まで難しそうだと素通りしていたお城や歴史などのお話も今後は拝読します。今後のHPが楽しみです。AOのOはIにも変えられると、勝手にわくわくしてしまいました。


(写真は全て友人の撮影)
 今朝の翡翠の姿をお送りします。今朝は飛んでくれませんでした。池の直径は120m位で公園の広さは東京ドームの半分ぐらいだと初めて知りました。思っていたよりとても広いのです。6月の翡翠の線も30mぐらいかと思っていましたが、もっと長かったのです。ここで観察会を始めてもう20年にもなるのに、自分の感覚の曖昧さを痛感した次第です。
 
 
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―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か―を拝読して
お龍さんが近づいてきました
冨田八千代(36回) 2021.12.25

筆者近影
*自分の気持ちを大事にしたお龍さん
 この論考では、お龍さんについて女性の証言を取り上げています。研究者とか為政者ではなく、お龍さんと生活を共にしたことがある人やその人から聞いた話です。

「中城仲(直顕の妻、和食でお龍に
遊んでもらった少女の結婚後)
 龍馬の姉乙女の長女 岡上菊枝 ・千屋家の娘 仲さん(のちに中城仲さん。中城正堯さんの祖母)・田中家5代目女将 平塚あけみさん(中城さんが独自に取材)
 これらのお話からは、生身の人間のお龍さん像が窺えて、だんだん程遠い特殊な人物ではなくなってきました。親近感がわいてきました。一番惹かれたのは、田中屋の仲居として制服を着なかったというお話とその写真です。この着物が好きで着ていたかった、私にはこの方が似合うというおしゃれ心かもしれません。もしかしたら、龍馬との思い出の詰まった品かもしれないと、勝手な想像を広げたくなります。制服云々よりもこの着物を着たかった気持ちのままに行動したのではないでしょうか。当時、その理由を女将に話し、許してもらったのでしょう。田中家代々の方がとても好意的にお龍さんをみていますから。写真姿も普通の女性です。ぐんと、お龍さんを身近に感じました。ふっと、母を思い出しもしました。これは、間違いなくお龍さんだと言えます。並んだ64歳の時のお龍さんとそっくりです。
 仲居時代に英語が話せた、英語の勉強をしていたとは、自分の学びたい気持ちを大事にしていて自主的です。留学の夢も持っていたとか。自立心を持っています。そして、土佐を離れるぎりぎりの時に12歳の少女仲さんに帯留を贈ったことには感激しました。帯留はただの帯留ではなく、留め具は龍馬の刀の目貫からの物です。夫との大切な思い出の品です。家ではなく、港であげています。それまで、あげることを迷っていたのか、少しでも長くわが身に付けていたかったのでしょうか。贈った相手は、千屋家でいっしょに暮していた実妹(起美、管野覚兵衛の妻、千屋家は覚兵衛の実家)ではなく仲さんです。仲さんに自分の万感を託したのではないでしょうか。大人になったら一人の人間として自分の意思を大事にして、妻として平穏な結婚生活を長く続けて、母親として子育てもしっかりして……とか。仲さんは、お龍さんにとって信頼できる少女だったのでしょう。
*お龍さんにとってもキーパーソンの中城さん

『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』
(中城正堯著 2017年発行)
 『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』(中城正堯著 2017年発行 販売元高知新聞総合印刷)の「第一章 土佐の坂本龍馬・お龍」(p13〜103)を再読することにしました。お龍さんへの特殊という固定した捉え方から、印象が薄かったからです。むしろ、夫としての龍馬が印象に残っています。当時は男尊女卑の家父長制の世の中にもかかわらず、龍馬はお龍さんに押しつけがましい態度をとらず優しく、女性に対する男性の在り方も「海援隊約規」に明文化しています。中城さんの論考の表題を借りるなら、夫として近代男性の先駆けと言えそうです。
 さて、本を手にしました。第一章では1枚だけ54ページに付箋が入っていました。自分がしたことなのに全く忘れていました。その付箋には「仲さん 良い人」とメモ。このページの文章<わずかに土佐の千屋家の少女が「あんな良い人はいない」との想いを抱き続けたことは、なにより幸いであっただろう。>と記されていることへのほっとした気持ちとこの少女が中城仲さんだよという確かめの付箋でした。「抱き続けた」があらたな感慨です。

「中城家離れで龍馬を世話した
中城直楯(直顕の兄)・早苗夫妻の晩年」
 この章は冒頭、「龍馬最後の帰郷と種崎潜伏」の項で、中城直守が慶応3(1867)年、<「九月二十五日早朝、車輪船沖遠く来たり。而して碇を下ろす。午時(正午)、衵渡合に入る。而して碇泊。芸州船の由」>(「随筆」直守・手稿)で始まります。その長男直楯が小舟を漕ぎよせ、ひそかに龍馬一行を中城家の離れに案内しています。これは、「寺田屋事件後に新婚旅行」の項の33ページ<お龍のもとに龍馬が現われたのは九月二十日のこと、倒幕への風雲急を告げる中、二日後にはお龍との別れを惜しみつつも、慌ただしく土佐へ向かって出向する。>につながっていることを今回読み取ることができました。この船を直守が早朝に見つけているのです。坂本龍馬とお龍さんの二人にとってはそんな時だったのかと気づきました。感じ入りました。「随文随録」(中城直正・手稿。直正は直楯の長男)に、(裏の離れに)「母火鉢をもち行きしに<誠に図らずもお世話になります>と言えり」(19ページ)と書かれています。この時、早苗さんは22歳でお龍さんは27歳です。若い早苗さんに礼を言いながら、心では妻お龍さんを偲んでいたことでしょう。今まで、この潜伏中のできごとにお龍さんを登場させることはできませんでしたが、お龍さんは龍馬と共に居るという気がしてきました。
 このようにお龍さんが近づいてきたのは、今まで埋もれていた証言をとりあげられたからです。お龍さんに寄り添っています。今までの評伝はお龍さんと離れた立ち位置からの事が多いと受けとめています。田中家五代目の女将平塚あけみさんに確認をされ地道に実像に迫られる態度は研究者やマスコミ関係者が見習うべきことです。その上に、今回の論考は中城家の中城さんの実感であり取材だからいっそう重みがあります。お龍さんにとっても中城さんはキーパーソンです。今後もいっそうお龍さんを近づけていただけることを期待します。
 それから、仲さんも近代女性の先駆けの一人ではないでしょうか。
 テレビ番組で回答を挙手させる場面があります。それなら、「お龍さんは近代女性の先駆け」に、ためらわずに手をあげます。
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きっと、凛としていただろう  お龍さん
冨田八千代(36回) 2022.04.18

筆者近影
公文敏雄先輩よりメール拝受                                  
龍馬の詠草
 公文敏雄先輩より、昨年末のHP拙文「お龍さんが近づいてきました」にメールをいただきました。
公文さんのメールの全文です。
 <中城さんのノート「お龍さん」への、女性ならではのご感想を楽しく読ませていただきました。
 国事に奔走する龍馬の、女性に対する思い遣りがあらわれた詠草が思い浮かびます。
    又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな
 龍馬の生家は歌道が盛んで、龍馬自身も和歌を嗜んだよし。二十数首が現在遺っているとして、宮地佐一郎著『龍馬の手紙』の中で紹介されている中の一首です。
 他では、桜も過ぎた晩春でしょうか、会席で桂小五郎の求めに応じて詠んだとされる即興の歌も、余韻がありまことに龍馬らしくて私は好きです。
    ゆく春も心やすげに見ゆるかな 花なき里の夕暮れの空
                               公文>

『龍馬の手紙』を開いて
 さっそく、『龍馬の手紙』(宮地佐一郎著・2013年発行・講談社)を図書館で借りました。閉架図書から取り出してもらい、手渡されて驚きました。文庫本にしては厚く627ページもあるのです。詠草は、最後の598ページから618ページまでとわずかです。詠草に関しては、公文さんの端的な説明に委ねます。
 龍馬の手紙にまともに向かうのは、初めてです。書面は毛筆の達筆な行書でとても読めません。墨絵を鑑賞するような気分で最後までページ繰りました。とても、読んだとは言えません。今の関心はお龍さんです。それで、女性宛への手紙だけ、活字になった手紙の文面を少し追ってみました。その中で、最多の姉乙女に注目してみました。
乙女への手紙から
 乙女宛は、姪春緒との連名4通を含めて16通です。姉として甘えたり親族の一人として頼ったりしています。そして、事細かに自分の行動を知らせ、日本の現状をどうしたらよいのかと姉と弟で意見を出しあい、乙女が堂々と自分の意見を書き送ったと思われる手紙もあります。残念ながら、乙女の返信は残っていません。龍馬は当時の封建的な三従の教えのような女性観ではありません。対等に人間として姉乙女を信頼しています。
 方言がよく出てきます。からかい半分の文もあります。手紙の後付けの宛名は、乙さま・乙大姉御本・おとめさまへ・大乙姉・乙あねさん・乙大姉 をにおふさま・姉上様・乙様など色々で、宛名の無いのもあります。筆さばきも他の人宛よりくつろいでのびのびとした感じです。手紙の様子から、その時の気分や内容の軽重が伝わってきます。一番気の置けない相手が乙女だったのでしょう。乙女も龍馬の期待に応え得る女性だったのでしょう。『婉という女?』を書いた頃の大原冨枝や、坂東眞砂子(51回生)が、小説『乙女』を書いたらどのような乙女像になったのかと、今更仕方のない興味も沸きました。
お龍さんのことを姉乙女に詳しく報告
 龍馬は、お龍さんを評して、はじめは「面白き女」といい、後には「げにもめづらしき人」と伝えています。龍馬とお龍さんは日本最初の新婚旅行と話題になりますが、これも乙女への手紙に詳しく書かれています。とても長文の絵入りの説明です。<慶應2(1866)年12月4日の手紙 本書p257〜p265>
 龍馬は、4月の新婚旅行に続いて、6月のことを以下のように知らせています。
 <6月4日より桜島と言、蒸気船にて長州へ遣いを頼まれ、出航ス。此時妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行たいとて同船したり。夫より長崎のしるべの所に頼ミて、私ハ長州ニ行けバはからず(以下略)>
 お龍さんの気持ちを尊重しています。お龍さんは、長崎へ月琴の稽古に行きました。他の手紙でも、『列女伝』(中国前漢、劉向の撰)を平仮名絵入りにして書き写させているとか、本を読ませたいから龍馬の蔵書の中から送ってほしいと頼んでいます。学ぶことを助けています。この手紙で、結婚後のお龍さんを妻と表現しているのは、龍馬らしいと受けとめました。
お龍さんへの手紙
 現存しているのは、1通<慶應3(1867)年5月28日  p364>だけです。そのわけは、『龍馬・元親に土佐の原点をみる』(中城正堯著・2017(平成29)年 高知新聞相互印刷)に書かれています。<龍馬からの手紙はことごとく保存、和喰の家では時々取り出していたが、土佐を去るとき「この手紙は人に見せたくないから焼いてくる」と言って焼き捨て、一通の影も形もないと仲は述べている。p42)>なお、本書では、もう1通、宛先、年月日、未詳(推定、慶應2年5月下旬、お龍あて。p552)を収録しています。それを著者宮地佐一郎は次のように説明しています。=(要約)竜馬の手紙はさきの旺文社文庫、昭和54(1979)年出版)に128通を編述したが、十余年後、新発見8通をPHP文庫に加えて136通を上梓した。=8通のうちの1通をお龍宛と推定しています。
 龍馬は、お龍さんと慶應3(1867)年5月8日に下関で別れてから20日後に手紙を書いています。その間のいろは丸沈没事件の折衝の様子や今後上方へ行くことなど自分の行動を事細かに知らせています。どうせ女に話しても仕方がないと思うなら、妻への手紙には書かない事柄でしょう。龍馬は、お龍さんを乙女と同じように対等な人間としてみています。
 龍馬の態度でお龍さんに対して乙女姉さんと違うのは、愛しさです。手紙では、愛しい妻への優しい心づかいをしています。「かならず かならず、(下)関に鳥渡(ちょっと)なりともかへり申候。御まち被成度候」と書いています。この手紙の宛名は、龍馬がお龍さんの身を守るために名づけた変名、鞆殿となっています。また、文末の「かしこかしこ」が本文よりもとても太く大きく書かれていることが目に入りました。他の人宛の「かしこかしこ」よりもずば抜けて大きいのです。手紙の最後のここに万感の愛しさを込めたのではないかと思いたいのです。
 『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』には、この手紙を書いた5月28日以後の龍馬の行動が書かれています。<お龍のもとに龍馬が現れたのは9月20日のこと、倒幕への風雲急を告げるなか、二日後にはお龍との別れを惜しみつつも、慌ただしく土佐へ向かって出向する。>手紙に書いた通りちょっと二日間だけお龍さんのもとへ帰っています。この二日間が、二人で過ごした最後となりました。
『龍馬は和歌で日本を変えた』(原口泉著 2010年発行 海竜社)の紹介をいただいて   
  これは中城正堯先輩の紹介です。本書の帯には、以下のように書かれています。<坂本龍馬は歌人だった!激動の時代を「歌」から読み解く斬新な幕末史観。和歌に込めた龍馬の大和心。第一章 人生に励みをつける歌力 第二章 大和心を奮い立たせる歌力(略)第六章 笑いを作り出す歌力> 
 お龍さんの事ではないので、初めは気が進みませんでしたが、せっかく紹介してくださったのだからと読み始めました。本文3ページ目「プロローグー龍馬をつくった和歌的環境 ◇龍馬が愛した和歌の道」の所に、すぐにお龍さんの和歌が龍馬より先に登場するのです。それに魅かれて、そのまま一気に読んでしまいました。
 最初に登場するお龍さんの歌は、龍馬暗殺後、長州藩の三吉慎蔵が伊藤博文、中島信之らと共に桜山の茶屋にお龍を誘い慰めた時に、詠んだものです。桜山には国に殉じた人の招魂社がありました。
       武士のかばねはここに桜山 花は散れども名こそ止まれ
  名前は永遠に消えないと龍馬を讃えています。夫を失った悲しさや寂しさはみられません。
  本書の中には、お龍さんが何度か登場します。
  暗殺された年の慶應3(1867)年の春に下関で開かれた歌会の様子を、お龍さんは語り、自分自身のことも語っています。明治32(1899)年、川田雪山が聞き書きをして、『千里駒後日譚拾遺』として土陽新聞に連載したものです。その中で、お龍さんは自分自身のことも語ったのを、著者原口泉が引用して書いています。本書31〜32ページを書き写します。
 <そしてお龍は、「私も退屈で堪らぬから」と言って自分の歌を披露している。
    薄墨の雲とみる間に筆の山 門司の浦はにそゝぐ夕立
  (薄墨色の雲かとみていたら、それは水に映って筆型になる筆山でした。その筆で文字を書くように門司の港に夕立が注いでいます。)原口注―(薄墨は薄墨紙、門司は文字に通じ、いずれも「筆」にかけられている。お龍は龍馬から、土佐の鏡川に映って筆の形になる筆山のことを聞いていたのだろうが、それが下関でつうじたかどうか一考を要す。) 恥ずかしかったのか、「これは歌でせうかと、差し出すと、皆な手を拍ってうまいうまいなんて笑ひました、オホホホ、、、、」といかにもお龍らしいが、たしかに歌の方もなかなかのものである。>
 それにしても、お龍さんが見たこともない筆山の様子を鮮明に歌に詠めるほど、龍馬は土佐の様子を語ったのでしょう。二人の親密さがうかがえます。
 『龍馬の手紙』と『龍馬は和歌で日本を変えた』は全くの粗読です。が、ここに登場するお龍さんは、龍馬にとても大切にされ、認められています。二人の結婚生活は、平凡、平坦ではなく、短かったのですが、二人はお互いを愛しく思いながら、心は充実していたことでしょう。「げにもめずらしき人」お龍さんは、龍馬を通して新しい知識や能力を体得しています。

中間報告、続「お龍さんの実像に写真と史料で迫る」を拝読
    田中家の従業員集合写真は圧巻、そして、集合写真の中の「お龍さん」も圧巻

1.田中家の従業員集合写真
 この集合写真を田中家はよくぞ、保存をされてきたものです。戦禍をはじめ自然災害にも合わずに生き延びてきて、中城さんに届きました。この写真がお龍さん(らしい女性)とともに日の目を見ました。子ども浮世絵と同じように、詳しく読み解かれています。服装や髪型、持ち物なども考証されています。当時の写真撮影の事情など豊富な知識をもとに述べられています。こんなに大勢を写せた写真の実物の大きさはどのくらいなのでしょう。
 先の論考のお龍さんの写真からは、こんな大勢の写真の中から抜き取られたとは想像もできませんでした。お龍さんがとてもはっきりと写っているからです。後ろの方の人達は顔も半分ぐらいしか写っていない人もいます。「お龍さん」は中央の前面に立ち、その前の列は座っているので姿のかなりの部分が写っています。右手は何かを握り持っているかのようです。もしかしたら、土佐にいた時に持っていたパラソルではと、想像したくなります。このように写真中央前面にいたから、抜き取って晩年のお龍さんの真影と並べられるようになったのでしょう。
 経験上、言えることです。大勢で集合写真を撮る時に、その集まりの中心的な存在でない人や引っ込み思案の人は、前の方には立ちません。「お龍さん」は、写真の中央といえる場所に気負っている感じではなく自然な感じで立っています。姿勢よく前を向いていて目立ちます。この「お龍さん」も圧巻です。論考のように、この「お龍さん」は凛としています。写真撮影の時だけ凛とするはずはありません。日ごろも凛としていたことでしょう。
中城さんは論考の中で以下のように述べられています。
 田中家で仲居となったお龍は、物怖じすることなく外国人にも接する。晝間家には、「お龍は英語で外人接待に活躍した恩人」との話が伝わる。
 長崎時代に、お龍は中国楽器の月琴を教わり、後に田中家でも客に披露して喜ばれたという。仲居名はツルを名乗ったが、これはグラバー夫人ツルから取ったという。おそらく、長崎時代に英語もある程度学び、龍馬とともに外国人に接することもあったと思われる。長崎での経験が、後に田中家での外国人接遇にも生きたのであろう。
 田中家での「お龍さん」のこの姿は、龍馬の姉乙女への手紙での月琴のこととつながるのではないでしょうか。
 <付記>として、幕末・明治の横浜と土佐を書かれたことで、その頃の土佐の海運の盛んな状況が分かります。中城さんが他の著述で述べられている「自由は土佐の海辺から」がうかがえます。そのような背景があったから、お龍さんもこの地で働くようになったのでしょうか。
龍馬の女性への贈り物について
 中城さんは論考で以下のようにふれられています。
 川島家・中城家の女性に、〈PARIS〉の文字が入ったコンパクトを土産に渡しており、現物は見当たらないものの図面が『村のことども』(三里尋常高等小学校 昭和7年)に掲載してある。龍馬は世話になった女性に珍しい舶来品を贈っており、妻にはパラソルも与えたのだろう。
 『龍馬の手紙』の姪の春猪宛の手紙から、おしろいについて書かれた部分を抜き書きします。
手紙 1 坂本春猪あて(推定 慶應2年秋、24日) (本書 559ページ)
 (手紙の書き出しから7行目まで 略)
  「此頃、外国のおしろいと申すもの御座候。近々の内、さしあげ申候間、したゝか御ぬり被成たく存候。御まちなさるべく候。 かしこ。廿四日。 龍馬
 春猪御前」
手紙 2 春猪あて (慶應3年1月20日)(本書284ページ)
 (手紙の最初から)
  「春猪どの、春猪どの
     春猪どのよ 春猪どのよ
    此頃ハあかみちやとおしろいにて、はけぬりこてぬり こてぬり つぶしもし、つまづいたら、よこまちの
 くハしやのばばあがついでかけ、こんぺいとうふのいがたに一日のあいだ御そふだんもふそふとい
 うくらいのことかへ。
  をばてきのやかんそうも(乙女の癇癪もと続く。以下最後まで20行 略)
                  正月廿日夜                          りよふより
  春猪様 足下」
 たくさんおしろいをぬり、さらに金平糖の鋳型の肌にごてごてと塗りつぶすことをすすめています。

 二つの手紙の数か月の間に外国のおしろいを春緒に贈っていると読み取れます。論考の写真のようなコンパクト入りだったのでしょうか。確かに、龍馬は舶来品を女性に贈っていると言えます。当然、お龍さんには論考の挿絵のように、真っ先に贈ったことでしょう。
写真の「お龍さん」に期待
 「お龍さん」が、田中家で仲居となったのは、34歳の頃、龍馬が暗殺された6,7年後です。龍馬との思い出を支えとし、龍馬の気遣いとお龍さんの努力で、身につけた能力を発揮して働いていたことでしょう。些細なことには動じることなく、きっと、凛としていたことでしょう。
 検証が深まり、仲居のツルさんがお龍さんであることを期待しています。
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国際浮世絵学会の学会賞
受賞 おめでとうございます
冨田八千代(36回) 2022.06.27

筆者近影
「子ども浮世絵」のジャンル樹立
 中城正堯氏〈30回生〉の栄えある受賞の朗報は、梅雨の晴れ間に愛知県豊田市の井の中まで届きました。このKPCのHPから、「子ども浮世絵」に魅せられるようになりました。HPがなかったら、そこへ中城さんが浮世絵のことを投稿されなかったら、「子ども浮世絵」を知ることができませんでした。その感謝ともにお喜びを申し上げたい気持ちでいっぱいになりました。そして、賞状の文面も知りたくなりました。図々しく中城さん(ここからは、中城さんで失礼します。)に、直接お尋ねしました。

表彰状


表彰状

中城編著など子ども浮世絵関連図書
 あなたは 長年にわたり公文教育研究会子ども浮世絵コレクションの充実に尽力されるとともに その研究に優れた実績を積まれました
  早々にデータベース化されたコレクションをインターネット上で公開「江戸子ども文化研究会」を主宰し 多くの著作物や展覧会を通して浮世絵における「子ども浮世絵」というジャンルを確立 その啓蒙と普及に大いに貢献されました
  また当国際浮世絵学会においても 理事として長年にわたり学会活動に寄与されました
  よって学会選考委員会の推薦と常任理事会の承認を受け ここに第十六回国際浮世絵学会賞賞状と副賞を贈呈して 永くその栄誉を称えます
 
   令和四年六月五日
                    国際浮世絵学会 会長 淺野秀剛

 中城さんは、HPに子ども浮世絵のことを度々投稿されています。これは、業績のほんの一端でしょうが、その執筆と著書『絵画史料による 江戸子ども文化論集』などから、「子ども浮世絵」研究の功績をうかがい知りました。受賞の理由には、中城さんの功績が凝縮されています。
 中城さんの「子ども浮世絵」の研究は、「江戸子ども文化」を取り上げられたことが、まず、抜群の千里眼です。その後、史料としての子ども浮世絵の収集・解読の成果は、中城さんの一貫した情熱あふれる姿勢と飽くなき開拓者精神と豊かな能力のトライアングルが響き合って創り出されたものと拝察いたします。凡人には達成できることではありません。
 「子ども浮世絵」のジャンル樹立、唯一無二の研究への受賞おめでとうございます。
子ども浮世絵と公文式教育のつながりは如何に
 表彰状の文面から、今までぼんやりしていた点に気がつきました。表彰状には、最初に「公文教育研究会子ども浮世絵コレクションの充実」と書かれています。研究は公文教育研究会を抜きにしては考えられないということです。「子ども浮世絵」研究の背景に公文教育研究会の存在があることは、公文公先生とともに意識しつつも、このテーマの内容との結びつきについては考えてきませんでした。「子ども浮世絵」の読解から、江戸時代の寺子屋教育に注目されました。子どもの学びを自学自習と言及されています。テーマ設定の時から、教育にまで至ると展望をもっていらっしゃったのでしょうか。これはまた、現在の公文教育研究会の公文式教育とつながりがあるのではと気になりました。[KUMON]の看板のある学習塾は、自学自習に徹していますから。
 それで、テーマについてHPを読み返してみました。テーマ設定の動機を次のように説明されています。(KPCのHP 2018年9月2日の「回想浮世絵との出会いと子ども文化研究」より抜粋します。)
 <…「浮世絵による江戸子ども文化研究」の直接のキッカケは1986年(昭和61年)のくもん子ども研究所設立である。その理事に就任し、研究テーマの提案を求められた。そこで「子どもに関する浮世絵の収集と、その解読による江戸子ども文化研究」を提案、当時の公文毅社長が「だれもやってないテーマならやろう」と決断、多額の予算を任されてスタートした。では、なぜこのテーマだったのか、当時話題になっていたフランスの歴史学者フィリップ・アリエス著『<子供>の誕生』(みすず書房)でもちいられた、絵画を史料とし活用する子ども史研究手法に共感を覚えたからである。>
 ここでは、大きく「江戸子ども文化の研究」と示されているだけです。きっと、中城さんは、「子ども浮世絵」を通して、江戸時代の寺子屋教育は公文教育研究会の公文式教育と通じるとの展望をテーマ設定の時にお持ちだったのでしょう。

中城さんにお願いします
 このHPへ、受賞の晴れ姿と表彰状と受賞記念の講演内容をご披露ください。
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田島征三展
恩恵をいただいています。
冨田八千代(36回) 2022.09.13

筆者近影

中城さま
  たびたび、お知らせをありがとうございます。
  今回は、珍しく、もう、田島征三さんの二つの展覧会に行ってきました。
  友人のおかげで行けましたが、大元は、中城さんのKPCのHPでの案内や『筆山の麓』のおかげです。
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 まず、「田島征三アートのぼうけん展」は刈谷市美術館(4月23日〜6月12日開催)に行きました。
 友人Aさん(田島征三も『筆山の麓』のこともよく知っている)から、「もう、知ってると思うけど」と前置きをして、5月の下旬に知らせがきました。知りませんでした。この直後に、たまたま、この美術館の近くで開かれている別の展覧会に誘ってくれた知人Bさんに話したら、それも行こうと便乗させてくれました。刈谷市は我が豊田市の近隣ですので、会場まで自家用車なら30分足らずで行けます。でも、運転免許返納の身には大変な所です。
 会場に入って驚きました。中城さんのご案内に<田島征三の全貌に迫る>とあるように、芸術家歴図示版といえるものでした。270点余りの作品が、アーチストとしてのスタートから細かく順を追って、丁寧な説明も加えて展示されていました。絵本からはうかがい知れない表現の数々、多彩です。ゆっくり鑑賞したかったけれど、残念ながら誘われた身、無理は言えません。彼女とは、田島征三のことは話したことはありませんでしたが、まんざらでもなかったようです。作品をスマホにたくさん記録していましたし、出口では絵本も買いました。
 この美樹館では、田島征三の作品を所蔵していることも印象に残りました。ところが、中城さんが添付してくださったチラシの最後に、<企画協力:刈谷市美術館 ―このもっと下にーとべばった 1988年 刈谷市美術館蔵 ちからたろう 1967年 刈谷市美術館寄託>と出ています。この美術館にいっそう、親近感がわきました。
 私が出かけたことを知ったCさん(『筆山の麓』を貸したら買った。田島征三のファンになった。テレビ番組「日曜美術館」の事などをすぐに知らせてくれる。でも、いつも中城さんより後。)は、すぐに、友人と出かけました。
 

「鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館」の入口で
 次に、「いのちのケハイ とわちゃんとシナイモツゴの物語」 鉢&田島征三 絵本と木の実の美術館には、6月5日に行きました。これも、友人たちのお膳立てにすっかり乗っかりました。この一行私以外の5人のメインは、飯山市や津南町でした。この時、初めて、この「美術館」のある十日町市が津南町の隣と知ったぐらいの極楽とんぼの私です。美術館を希望していたCさんは都合が悪く不参加。私以外の人達の田島征三への関心度は不明です。一泊旅行の二日目の予定でしたので、宿で刈谷市美術館の展覧会のチラシを渡しました。展覧会に行った時に何枚も持ち帰ってきていました。贔屓の引き倒しになってはいけないと、言葉少なにしておきました。
 さて、当日。美術館は木に囲まれた山の中を想像していました。ところが、空が明るく広がっています。この辺りは河岸段丘の広がりと段数が日本最大規模の雄大な自然の中にあるということも初めて知りました。ここでは無言を通しました。「五人」は展示に集中し退屈そうではなかったので、ほっとしました。
 帰宅後、一行に送ったメールです。「津南町の隣にあり、運転手さんに大きな迷惑をかけなかったことをまず、ほっとしました。そして、学校が生き続けている息づかいを感じ、何だか、ほっとしました。よくある、実はここは昔は校舎でしたという様変わりした再生利用の形ではありませんでした。この地域(鉢)の方々と田島征三さんの心の寛さ、優しさ、豊かさを感じました。現地に行けた事、感謝、感謝!」
 子ども達が使った楽器が作品の中でそのままに。校歌の額や閉校前日の黒板の字なども残されています。周りの自然から集めた木の実などが作品になっています。
 ここでも、もっと時間が欲しいと思いましたが無理は言えません。Dさんは、「運動場の山羊小屋にも行きたかったのに時間が足りなかった」と残念がっていました。彼女は、その後、刈谷市美術館に出かけ、とても感動したとメールがきました。
 
 「恩恵をいただきました」と過去形にはしません。体調とスケジュールの隙間が晴れ間でしたら、ご無理のない所でまた、ぜひお願いをします。
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タウンレポート
城址公園・足助城(豊田市)
冨田八千代(36回) 2022.11.29

筆者近影
 KPCのHPから、数年前から少し近辺の「お城」や「お城址」に興味を持つようになりました。直接、西内さんにお話を伺ってから、初めて『日本100名城公式ガイドブック』をはじめ4冊を手にしました。(こんな有様です。)
 以前よりも、市内の「お城址」を意識をしています。今まで何度も通り過ぎていた所に城址をみつける(気づく)こともあります。10月に行った「市場城」もその一つです。
 道端の小高い丘の中に立派な城址が広がっていて驚きました。もっと山奥に知人宅があり、50年も前から、すぐ側の道を車で通ていたのに、お城のことは思ったこともありませんでした。看板も見過ごしていました。地域の方々の手できれいに整れされていました。初めて「竪堀」を知りました。
 また、11月には中津川市の苗木城に行きました。これは偶然です。紅葉を見に連れて行ってくださる方が、とちゅうで今日は曇って来たからと、急遽、行先をかえられたのでした。確か本に出ていたと、帰ってすぐに開きました。続日本100名城に選ばれていました。
 以下は皆様とは関係がありませんが、添付文書をお贈りします。専門家の皆様にお送りするのは、冷や汗物です。とにかく、お城について書いています。
 豊田市の広報誌に私の足助城紹介の文章が出たのです。2011年のことです。これに応募したのは、合併前の旧町村にそれぞれ歴史資料館(のような物)があるのでそれを紹介したかったのです。そうしたら、「足助城」を指定されました。城の知識もないままに書いたものです。
 ぱっと見ても「天守閣」は間違いです。これは中城さんの著述の中に「天守閣」ではなく「天守」とありその時に、初めて気づきました。(「天守閣」は大阪城だけ)それから、「発掘調査によって……全国でも初めて」と断定して書いたのは何を根拠に書いたかも記憶にはありません。

豊田市広報タウンレポート『城址公園・足助城』
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 いつもながら、素晴らしい行動力と、そのレポートに感心するばかりです。
 それほど年齢は変わらないのに、驚きです。 中城正堯

 文筆活動で一隅を照らす。いいですね。 公文

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「中城家の離れ」を史跡指定に
龍馬 最後の帰郷展」を見て
冨田八千代(36回) 2022.12.11

筆者近影
 この企画展「龍馬 最後の帰郷―坂本家と川島家・中城家―展」は『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』(中城正堯著 2017年発行)の第1章に関する部分なので、ぜひ見たくなりました。見るなら学芸員の解説の聞きける日にと注目すると、11月26日と来年の1月14日しかありません。今回の企画展はどうしても解説を聞きたいことと1月は寒くなるからと、まわりに強調して一人で出かけました。



龍馬 最後の帰郷展」を見て






龍馬 最後の帰郷展」を見て
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土佐向陽プレスクラブ