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竹本修文(37回)

冨田八千代(36回) 森本浩志(36回)森田隆博(37回)    岡林哲夫(40回)
 
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2017.03.20 竹本修文(37回)  向陽プレスクラブに入会します。
2017.04.18 竹本修文(37回)  ヨーロッパ・パーティ事情
2018.03.18 竹本修文(37回)  カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
2019.07.31 竹本修文(37回)  世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」
2020.04.10 竹本修文(37回)  ヨーロッパとイギリスの最新事情
2020.04.27 竹本修文(37回)  リバプールと奴隷産業
2020.05.13 竹本修文(37回)  古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
2020.05.30 竹本修文(37回)  ノルマン様式城郭の始まり
2020.06.06 竹本修文(37回)  ノルマン様式の城郭巡り
2020.06.09 竹本修文(37回)  米国黒人差別事件のイギリス版
2020.07.02 竹本修文(37回)  ボルドーの「残酷な歴史の回想」
2020.08.27 竹本修文(37回)  日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある
2020.08.27 竹本修文(37回)  ウイスキーにも造詣が・・
2020.08.27 竹本修文(37回)  
2020.09.10 竹本修文(37回)  ペスト
2020.09.10 竹本修文(37回)  ヨーロッパ中世のペスト
2020.10.08 竹本修文(37回)  ビールの話 
2020.10.08 竹本修文(37回)  スコットランドのハチ公
2021.01.25 竹本修文(37回)  ガロ・ローマン時代のパリ  
2021.02.07 竹本修文(37回)  〜 フランク王国メロヴィング朝まで
2021.02.07 竹本修文(37回)  リール 〜 トウルネー
2021.02.18 竹本修文(37回)  フランク王国からフランス王国の始まり
2021.02.18 竹本修文(37回)  飛行機故障の経験
2021.03.02 竹本修文(37回)  シャルル5世の市壁
2021.03.13 竹本修文(37回)  城は歴史の語り部
2021.03.15 竹本修文、西内一、中城正堯  カルカッソンヌ・馬出し他
2021.03.28 竹本修文(37回)  ルイ13世の城壁
2021.04.01 竹本修文(37回)  シャルル5世の城壁追加版
2021.04.10 竹本修文(37回)  ルイ14世とヴォーバンの城郭建設を中心に
2021.05.04 竹本修文(37回)  ルイ14世から徴税請負人の壁 (パリ)
2021.05.10 竹本修文(37回)  三根校長のお墓参り
2021.05.18 竹本修文(37回)  陵堡式要塞の歴史と実例
2021.06.07 竹本修文(37回)  ティエール(チエール)の城壁
2021.07.12 竹本修文(37回)  公文先輩の「米西部「インディアン・カントリー」を訪ねて」を読んで
2021.09.07 竹本修文(37回)  トルコのイスラム寺院のタイル
2021.09.19 竹本修文(37回)  青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感
2021.10.03 竹本修文(37回)  大英博物館の葛飾北斎の特別展
2021.10.10 竹本修文(37回)  17世紀のオランダ東インド会社の活動
2021.10.19 竹本修文(37回)  知られざる 〜 山田長政 〜
2021.11.09 竹本修文(37回)  モルッカ諸島のガイドブック
2021.11.20 竹本修文(37回)  1621 年 バンダ諸島での虐殺
2021.11.24 竹本修文(37回)  1623年のアンボイナ虐殺事件
2021.12.16 竹本修文(37回)  初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書
2022.01.30 竹本修文(37回)  十石舟・三十石船の旅
2022.01.30 竹本修文(37回)  神奈川の宿・田中家
2022.06.29 竹本修文(37回)  京都 高瀬川周辺散歩
2022.07.20 竹本修文(37回)  横浜の英連邦戦没者墓地
2022.10.08 竹本修文(37回)  エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報
2022.11.12 竹本修文(37回)  モンマルトルからパリを考える

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
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向陽プレスクラブに入会します。
竹本修文(37回) 2017.03.20

筆者近影
 回 生 = 37K
 name = 竹本 修文
 住所・電話・Mailは総会後、名簿に登載します。
 勤務先 = すべて元の職場、鞄月ナ、東芝電機サービス、北芝電機、独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)
 ハンドルネーム = オブー・スパデイー
 メッセージ = 趣味は、以前はワインだったが、ここ10年はローマ史、ヨーロッパ中世史&近代史の勉強に熱中している・・・・誰か一緒にやらないかな〜?
<事務局より>
 久しぶりの新規入会です。是非次の総会(4月22日)にご参加ください。
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ヨーロッパ・パーティ事情
竹本修文(37回) 2017.04.18

筆者近影
 ヨーロッパへは1977年に羽田から行った時から37年間は毎年1〜3回は行きましたが、ここ2〜3年は計画しても身内の不幸が続き間際にキャンセルが続きました。今年も9〜10月にイギリス在住の友人と東欧を鉄道旅行する計画ですが、友人が景色が二重に見える病気になりキャンセルの気配濃厚です。鉄道旅行はニューヨークの9/11テロ以来駅の荷物預り所の閉鎖が続いて、駅のトイレとロッカーへ行くのにX線検査などの空港並みの設備工事が完成するまでは旅行しにくくなり、レンタカーは家内が反対するようになり、個人旅行はやりにくくなりました。
 私はイギリス・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・スペインはかなりの田舎まで何回も訪問しましたが、アイルランド・ポルトガル・イタリア・オーストリア・ハンガリー・チェコは5〜10回程度、モスクワ・スエーデン・スロバキア・スロヴェニア・クロアチア・ボスニア・モンテネグロなどは1〜3回です。
…………
 ロンドン駐在時代は商売には関わらず、技術交流の名目で、正式のパーテイーを何回も取り仕切ったり、招待されたりした経験が豊富です。日本でも半蔵門の英国大使館のパーテイーに参加したし、フランスの経団連みたいな団体が東京でフランス式パーテイーを開催した時にも夫婦で招待された事もあるので、特に日本と違う所を書きます。
1.アペリティーフ(食前酒)
 ・イギリスでは一般的には招待状に、「カクテル 18時」などと表現する事が多い。アペリテイーフというフランス語を嫌って19世紀にアメリカ人が作ったとされるカクテルという言葉を使うのだろうか?
 ・パーテイー会場の受付を通過すると、テーブルも椅子もないBarに通されて食前酒を頂く、高級な所ではWelcome・Champagne、一般にはイギリスはジン&トニック、シェリー、ベルモット、キール、カンパリ ・ソーダ。ウイスキーはスコットランドと日本以外では食事中には飲まないが、食前酒として食事の前のカクテルの時間帯に飲める。但し、ストレートか氷の無い水割りかオンザ・ロックで、氷が入った水割りは日本にしか無い。ビールは飲めない。アルコールが飲めない人はオレンジジュースやジンジャーエールなど。招待客が一斉に到着する事は無いので、来た人から飲み始める。立って自由に動き回れるので初対面どうしでも知り合える。大勢の時はホスト&ホステスまたは委託されたレストランのフロア・マネージャーが座席票を配布する。
 ・招待客が揃ったら、ホスト&ホステスがDining・Roomの入り口立って招待客一人ひとりに握手しながら歓迎する。人数が30人程度なら座席を指さしして教える。座席はどうぞご自由に……という事は、割り勘や会費制の場合以外は無い。
2.料理

1983年ロンドン駐在員時代
秘書Yvonne嬢とワイン
 ・料理のコースは5コース,7コース,9コースで、ヴェルサイユ宮殿のルイ十四世の食事に倣ったウイーンの神聖ローマ皇帝は昼食でも9コースだったそうで、英仏でも豪華版は9コース。前菜and/orスープ、魚料理+白ワインから始まり、シャーベット(寿司屋の生姜みたいなもの)で口直ししてから肉料理などのメインコース+赤ワインになる。メインコースが終わると、チーズ+ワイン、デザートまたはソーテルヌ等の甘いデザートワイン、ポルト酒、ブランデーと続き、コーヒーで終わる。
 ・スピーチは、メインコースが終わった頃から、ホストから始める。食って飲んで満足した後なので、客も静かに耳を傾ける……そしてスピーチが終わるたびに乾杯する。日本の皇室主催の宮中晩さん会もメインが終わったあとで、天皇がスピーチを始め、終わったら乾杯する、そして招待客が同様に……。ヨーロッパの民間のパーテイーでは、招待客の中で一番偉そうな人が立ち上がってホスト&ホステスに感謝のあいさつをして、彼らを褒め称えるスピーチをする。これは事前に予定されている。しかし、予定していなかった方々が素晴らしいスピーチをして盛り上げる……これは日本にはなさそうだ。
 ・日本の一般のパーテイーでは、例えば結婚式の披露宴では乾杯までにスピーチがあり、新郎 ・新婦の友人などのスピーチは後で食べながらやることが多くて、やかましくて聞こえなかったり……「乾杯したら無礼講」が普通なのでスピーチは早くやっておかないと誰も聞かなくなる……「日本人は酔うまで飲む」のだから仕方ない?高知県はこの傾向が最も強い所のように思います……土佐弁が分からない人には喧嘩しているように聞こえるらしい……。
 ・日本ではパンにはバターが付いてくるが、フランス、イギリスでは朝食時のみバターがつくが、昼食 ・夕食には付かない、パンに付けるならご馳走のソース。イタリアではフランスに隣接するピエモンテ州はフランス式、その他は朝食だけでなくパンにはエキストラヴァージンオイルが一般的なように思う、特にトスカーナから南はオリーブオイルだと思います。
 ・日本人が食事中に嫌がられるのは、口から発する音、飲み物をすする(Sucking)音、スパゲッテイーなどをズルズルと吸い込む(Sucking)音。Suckingは非常に嫌がられる。イタリアの中を日本のツアーで行った事があるが、食事は日本人だけの個室だった、スパゲッテイーをSuckingして他の客に迷惑をかけるからだそうだ。「スパッゲッテイーはお蕎麦ではない!」
3.ワイン

1807年ロマネコンティの丘訪問
 ・イングランドはビールの国であり、日頃はビールで食事をする人も多いが、正式のパーテイーとなればワインだけである。
 ・日本人がよくやる間違いは、ワイングラスをゆすぶってTastingをする事、ホスト&ホステスは予算と相談して選んでいるし、レストランは飲み頃にしてサーブしているのに客が何か不満なのか?心配になる。Tastingは金を払った人がやるものであり、会費制でない限りやってはならない。
 ・ヨーロッパのパーテイーでのマナーは、ワインのサービスはホスト ・ホステスまたは委託されている店の人だけで、客同士が注ぎあう事はないので、あちらの人たちは、「日本人を招くときは、彼らの前にボトルを置くな……彼らは勝手に酔う迄のむ……!」とこぼしていました。
 ・パーテイーに招待された立場のテーブルマナーの第一は、男は近くの女性のグラスには常に注意を払い、少なくなったら「もう少し如何ですか?」と声をかけて、必要ならサービス係に合図する。女性は控えめな人が多くてグラスを空にして欲しがる事をせず1/3とか1/4とか残すように躾けられている。客同士が注ぎ合う事はやってはならないし、日本でよく見かける、女性が男性に注ぐのはもってのほかです。
 ・日本では、自分のグラスは空になっても手酌は出来ないので隣の人に「一杯いかがですか〜?」と勧める、そうすれば注いでくれる。つまり、「飲みたいときは他人に注ぐ」
 ・食前酒と食後酒は別として、食事中のワインは食事を美味しく頂く為に選んで戴くが、日本人は酒が主役で食事は「酒の肴」になる傾向がある。割烹などでは、さんざん飲んだ後で、「お食事は、お茶漬け、茶そば……がございます」とか言われて……「それじゃ〜今まで食べたのは食事じゃ〜ないのか〜」と思う。外人客を招待した時に通訳していたら……お食事」は何と訳すのか?一人で噴出した事があります。
4.ディジェスティーフ(食後酒)等
 ・コーヒーは「寿司屋のあがり」と同じでお開き。コーヒーの代わりに紅茶というオプションは紅茶の国イギリスでも無い。西洋料理の先進国イタリア、フランスに従うので、紅茶はありえない。
 ・コーヒーにミルクを入れるのは朝食時のみで、その他の時間帯や昼食 ・夕食のご馳走の時はミルクは入れない。砂糖は入れる人もいる。
 ・日本では前菜にチーズが出る事があるが、ヨーロッパでは料理に使うチーズではなくて、単品で食べるのは濃厚なチーズ+濃厚なワインで、メインコースの後と決まっているようだ。「メインコース料理とワイン」が中心であり、これより濃厚な食べ物とワインはメインコースの味に悪影響があるので、前には出てこない。
 ・爪楊枝はヨーロッパにもあるが、人前での使用はダメ、トイレで使う。
5.その他
 ・イタリアはガリバルデイが統一したと言うが、文化的統一は考えた事も無いと思いますね〜文化的には大先進国の集合体ですよね〜?ワインのブドウでも世界800種の中の300種がイタリアだから……覚えられない。日本も酒は各地の地酒があるが、最近ではどこへ行っても山田錦志向かな〜?
 ・日本のホテルのテーブルマナーはイギリ屏風が始まりのようだが、ヨーロッパではメデイチ家のカトリーヌ ・ド ・メデイシスCatherine ・de ・Medicisがフランス王アンリ二世に嫁いだ時がフランス料理の基本の始まりで、イタリアで発明されたテーブル ・フォークがフランスやイギリスに伝わってきたのもこの時だったような気がします。
 ・11世紀に元ヴァイキングでフランスのノルマンデイー地方に定住したノルマンデイー公国のウイリアム征服王がイギリス王になってから、イギリス王家の食事のマナーになり現在まで続いている。しかし、庶民のイギリス料理はまずいまま20世紀まで続いた。イギリス皇室は15世紀に百年戦争に負けるまでフランス語を話していたし、言葉も牛(ox/cow)、羊(sheep)、豚(pig)と英語はあるのに、食べるときはビーフ、マトン、ポークとフランス語で呼んでいる。フランスもイタリアもテーブルマナーは緩やかだが、イギリスは真面目に守っている。フォークを使うのが更に遅れたのが野蛮人ゲルマンでドイツの伝統料理店では今でもナイフで食事をしている。

JAXA時代の記念写真
 ・ヨーロッパはパーテイーの最後はダンスをする、若い頃は社交ダンスをやった事はあるが、苦手だった。30年ほど前から社交ダンスよりはデイスコが流行っていて、会社のパーテイーでも従業員は別人のように踊る……
 ・JAXAは、種子島や鹿児島からロケットを打ち上げる予定が決まると近隣6県の漁業団体に操業休止のお願いに訪問するが、高知県は特別で大量の酒を飲まなければ話が進まないらしい ……
****************
《編集人より》愚娘の結婚披露宴のワインの自慢をしたら、1801年に日本ソムリエ協会の一次試験を合格した新会員の竹本さんより、きつ〜いダメ出しが届きました。ワインを抱え込んで離さない工事屋の認識とあまりにもかけ離れていたので、ご本人の了解を得て掲載させていただきます。皆さんも反省してください。
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カズオ・イシグロのノーベル・レクチャー
竹本修文(37回) 2018.03.18

筆者近影
 カズオ・イシグロが2017年ノーベル文学賞受賞に先立って、12月7日にストックホルムのスエーデン・アカデミーでノーベル・レクチャーを行いました。
 約50分のレクチャーは下記に引用したURLで動画と英語・仏語・独語・スペイン語・スエーデン語で全文が公開されており、近日中に日本語の翻訳冊子が出版されるようですが、素人ですが翻訳してみましたので投稿します。電気技術者の私は文学の世界の知識はありませんが家族がイシグロのフアンなのに私がいつまでも無知ではいられないと思って挑戦してみました。KPC公文委員長にお見せしたら、「ホームページに投稿しなさい」と勧められてその気になりました。解釈の間違いなどがあると思うのでどなたかご指摘・ご指導を頂きたく思います。
https://www.nobelprize.org/nobel_prizes/literature/laureates/2017/ishiguro-lecture.html
 では、そもそも土佐中の創設の理念、建学の精神は、どう謳われてきただろう。いつから「報恩感謝」などという矮小化が始まったのだろう。KazuoIshiguro.docx私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍(印刷用docx版)
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私の20世紀の夕べ・・・その他小さな飛躍

Kazuo ISHIGURO
 もし皆さん方が1979年の秋に私に出会っていたら、皆さんにはそれが私だと気付くのはかなり難しかったかも知れません・・・どんな社会の人間か・・或いはどんな人種なのか。
 当時私は24歳でした。私の風貌は日本人のように見えたでしょう、しかしその当時イギリスで見かける大方の日本人とは違って、私は長い髪を肩まで垂らし、口ひげは盗賊のようにだらりと垂らしていました。喋る時の変わったアクセントは、イングランド南部の州で育った人たちのように語尾に抑揚があり、ヒッピー時代には時代遅れの地方の元気の無いけだるいものでした。もし私たちが話し始めたら、オランダの全員攻守型サッカーの選手とか、ボブ・デイランの最新アルバムとか、または多分ロンドンでホームレスと一緒に働いた年の事を議論したかもしれません。もし皆さんが日本の事を話題にし、日本の文化に関して私に質問したら、「私は5歳で日本を離れて以来、長い休暇であっても日本には行った事が無い」との理由で「私は日本の事は何も知りません」と答えて、皆さんは私の説明の中にちょっとしたもどかしさがある事に気づかれる事でしょう。
 その年の秋、私はリュックサック、ギター、可搬型タイプライターを持ってノーフォーク州のバクストン(Buxton)に到着しました。その村には古い水車が1台回っており、広い平らな農地が広がっているイングランドの小さな農村です。ここに来たのは、イーストアングリア大学大学院創作科に1年間の在籍が許されたからでした。その大学はバクストンから10マイル(16km)はなれた英国国教の主教座聖堂のあるノリッジ市にありました、私には車がなくて、通学手段は朝に1便、昼食時に1便、夕方に1便運行されていた路線バスだけでした。 しかし、それは大して問題にならない事にすぐに気付きました。何故なら、毎週2回以上通学する事を要求されることは殆ど無かったからです。私は、妻に出て行かれた30代の独り者が所有する小さな家の小さな部屋を借りていました。きっと、彼にとってはこの家は夢破れた忌まわしい記憶で満ちていて 、彼は私に近寄って欲しくないと思っているように感じて、終わりの頃には私は何日も目を合わさないようにしました。別の表現をすると、ロンドンでの非常に活発な生活を経験してきた私には、ここの生活は異常なまでに静かで孤独なものでした、そのお蔭で自分自身を作家に変えてしまったのでした。本当のところ、私の小さな部屋は作家がよく住む典型的な屋根裏部屋そのものだったのです。爪先立って窓の外を眺めると、耕された農地が遠くまで広がって見えますが、部屋の天井は傾斜して迫っており閉所恐怖症になりそうでした。机はありましたが小さくて、タイプライターと卓上電気スタンドを載せるとスペースがないくらいでした。床には、ベッドの代わりに大きな長方形の合成ゴム・スポンジのシートがあり、寒さが厳しいノーフォークの夜でさえ眠ると汗をかくほどでした。
 この部屋で夏の間に二つの短編小説を書き、クラスメイトに配布して、評価意見を求めるに値するか事前に吟味した事でした。クラスには6人の学生がいて、2週間に一度会っていました。私が散文小説の形式で他の分野に挑戦し始めたのはこの頃でした。それはラジオドラマ用でしたがBBCからは受け入れてくれませんでした。元々は20歳までにロック・スターになろうと決めていたのですが、実際には文筆業への野心が芽生えてきたのでした。その二つの短編小説は、今思えば、イーストアングリア大学の創作科に受かった事で有頂天気味の気持ちで書いたものでした。一つは自殺の約束をするぞっとするする話で、もう一つは私が福祉活動をしていたスコットランドでの路上喧嘩の話でした。どれも大して良い作品ではありませんでした。小説をもう一つ書き始めました。他の小説と同様に現在のイギリスを舞台にしたもので、自分の猫を毒殺する話です。
 そして、この小部屋に住んで3~4週間たったある夜、気が付いてみると、私は何かに駆り立てられるように日本の事を書いていました・・・・・それは第二次世界大戦末期の、私が生まれた長崎の事でした。
 特に強調しますが、これは何か驚くべき事が私に向かって来ていたのです。今日では、異文化の背景の中で育った意欲的な若い作家が自分の作品の中で自分のルーツを辿ろうとする衝動に駆られるのは現実的な事と広く理解されています。しかし、あの時の私の場合はこれとは大きく異なっていました。我々の国イギリスにおいては、多民族・多文化文学が急増していくには未だ数年はかかる状態でした。インド生まれのイギリス人作家のサルマン・ラシュデイーは自身の名前で出版した小説(悪魔の詩)がイラン革命の指導者の逆鱗に触れ,絶版にされて忘れ去られてしまいました。
 今日著名な若い作家の名前を挙げろと言われれば、人々はマーガレット・ドラブルの名を出すでしょう、もっと年上の作家ならアイリス・マードック、キングリーエイミス、サー・ウイリアム・ゴールデイング、アンソニー・バージェス、ジョン・ファウルズ達を挙げるかも知れません。コロンビア人のノーベル賞作家ガルシア・マルケスやチェコ生れのミラン・クンデラ等外国人は僅かな人達にしか読まれていません。彼らの名前は読書が好きな人たちにとっても重要ではないのです。
 私が初めての日本の物語を完成した時代のイギリス文学界はこのような状況でした。そういう訳ですから、私が新しい重要な方向を見出したと自覚するとすぐに、このまま進める事は独りよがりと思われないか、もっと一般受けする主題に戻るべきかどうか自問しました。かなり躊躇はしましたが、私は作品を周囲に紹介し始めました、そして、今日まで仲間の学生たち、指導教員のマルコム・ブラッドベリー氏そしてアンジェラ・カーター女史・・・その年は学内に居住していた著述家でした・・・に多大な評価を頂いて今日まで励まされ続けています。彼らがそれほど後押しをしてくれなかったら多分私は二度と日本の事は書かなかったでしょう。
 実際は、何時ものように自室に戻り書き続けました。

イーストアングリア大学:ロンドンの北北東ノリッジ市にあり、彼が大学院に
1年間在籍を許されて小説家になる事になった重要な大学
 1979-80年の冬を通して春の盛りまで、クラスの5人の仲間、生きていくための朝食のシリアルや羊の腎臓を買う村の食料店主、そしてガールフレンドのローナ・・・本日同席の妻・・・以外には誰とも話をしませんでした。彼女は毎月第二週の週末に来ていました。平穏な生活ではなかったのですが、その4〜5か月で最初の小説「遠い山なみの光(A Pale View of Hills)」の前半を何とか完成しました。長崎を舞台にしたもので、原爆投下から復興していく数年の事です。この時期に日本が舞台ではありませんが、短編小説を書こうと考えを巡らせましたが急速に興味が衰えていき、時間を浪費した事を時々思い出します。
 ともあれ、この数か月は私にとっては極めて重要でした。これが無かったら多分私は小説家にはなっていなかったでしょう。その時以来、私はしばしば振り返り、「私に何が起きていたのだろう」と自問しました。 この時期独特の気合はどこからきたのでしょうか?私の結論は、私の人生のあの時に、私は何かを失わないように急いで何かをしなければならない気持ちになっていた、という事です。このことを説明する為には少し過去に戻る必要があります。
 私は1960年に5歳で両親と妹と一緒にサリーSurrey州都のギルフォードGuildfordに来ました・・・ロンドンから西南西約50qの裕福な高級住宅地でした。私の父は海洋研究科学者でイギリス政府の為に働きに来ていました。本題から離れますが、父が発明に関わった機械がロンドンの科学博物館の常設展示品の一部になっています。
 我々がイギリスに来てから撮った写真を見ると戦後の荒廃した時代以来のイギリスの様子が分かります。男はウールのVネックセータにネクタイを締め、乗用車のドア部の床には乗降用踏み台があり、背後にはスペアタイヤが付いていました。ビートルズが現れ、性解放運動や学生運動が起き、多民族・多文化主義はそこらあたりに見受けられました。しかし、我々が初めて出会ったイギリスがこのような変化に疑いを持っていたとは信じがたいのです。フランスやイタリアから来る外人に会うのも珍しかった時代・・・日本人に会うなんて事は考えられませんでした。我々は、舗装道路が終わり、農耕地が始まる行き止まりの道路に沿った12軒並びの家の一つに住んでいました。5分もかからずに農地に行き、小道を通ると乳牛の群れがのろのろ歩き回っている牧草地がありました。イギリスに来たばかりの頃よく見た景色ではっきりと覚えているはハリネズミです、かわいくて針状の毛でおおわれている夜行性動物で、イギリス各地に沢山いるのですが、夜間に自動車にペシャンコに轢れて朝露の中に置き去られ、道路わきに寄せられ清掃員が集めに来るのを待っている・・・・そんな景色です。
 近所の人達はみんな教会に行っていました、そして彼らの子供達と遊びに行った時に気づいたのですが、彼らは食べる前に簡単なお祈りをしていました。私は日曜学校に出席し、そのうちに教会の聖歌隊で歌い始めました。10歳になった時にはギルフォードでは初めての日本人の聖歌隊headになりました。私は地元の小学校へ行きました、そこでは私はただ一人の非イギリス人でした、多分その学校の全体の歴史でもそうだったと思いますが、そして11歳になると近隣の町へ列車で通って公立中学校(グラマースクール)に行きました。毎朝細縞の背広に山高帽をかぶってロンドンの事務所に通う紳士たちと一緒の客車に乗りました。
 この頃までに、私は当時のイギリスの中流家庭の子供としてのマナーをしっかりと身につけました。友達の家を訪問した時は、大人が部屋に入ってきたら「気を付けの姿勢」をしなければならない事を知っていたし、食事の途中で席を離れる時は許可を得なければならない事を学んでいました。近隣でただ一人の外国人だったので、この辺ではちょっと知られていました。他の子供達に初めて会った時でも彼らは私が誰なのか知っていました。全く初めて会う大人たちなのに、路上や近所の店で私はしばしば名前で呼ばれました。
 この頃の事を振り返ると、日本が彼らの敵国だった第二次世界大戦の終結から20年も経っていなかったと覚えていますが、私達の家族は普通のイギリスの社会に受け入れられていて、彼らの心の広さや寛容さに驚いています。第二次世界大戦を乗り越えて世代を超えて素晴らしい福祉国家を築いてきたイギリス人に対して、その当時以来の私の個人的経験から、私は今日まで好意・尊敬・好奇心を持ち続けています。
 しかし、私はこの間ずっと家庭では日本人の両親ともう一つの人生を過ごしてきました。家庭には違った習慣、違った希望、そして違った言葉がありました。私の両親の元々の目標は、我々は1年、多分2年経てば日本に帰る事でした。事実、イギリスでの最初の11年間は、「来年には帰る」 「来年には帰る」の繰り返し状態でした。その結果として、両親の見通しは、「我々は移住者ではなくて訪問者」のままでした。両親はイギリス社会に適応しなければならないと言う重荷を感じる事は無いまま、イギリス人の物珍しい習慣を観察し意見を交わしていました。
 そして、長い間私は日本で成人としての人生を送るという前提のままであり、その為の日本を向いた勉強も努力しました。毎月、日本から先月号の漫画、雑誌、学習教材などが入った小包が届き、それらを貪るように読みました。これらの小包は私が十代のいつか・・・多分祖父の死後・・・に届かなくなりました、しかし、私の両親の昔の友達、親戚、彼らと日本で付き合っていた時の思い出話 、これらが私の中に日本のイメージや印象を形成していきました。そして、その当時私はいつも自分自身の様々な記憶をしまっていました・・・驚くほど広範で明瞭に、例えば祖父母の事、日本に残してきた愛用のおもちゃ、住んでいた伝統的な日本家屋・・・その家の事は今でも頭の中で部屋ごとの様子を再現できます・・・、幼稚園、近くの路面電車の停留所、橋の傍に住みついていた怖い野良犬、床屋の椅子、それは男の子用に特製されたもので自動車のハンドルが付いていて大きな鏡の前に固定されていました。
 以上の事がどのような結果になったかと言えば、私が散文体で小説の世界を創造しようと思いつくよりずっと前に, 成長するにしたがって、私は頭の中で日本と呼ばれる場所を豊かに、しかも詳細に創っていました。 そこはある部分では私が所属していた所であり、そこから私は自分のアイデンテイテイーや信用を築いてきました。その時代には私は実際には日本へ帰った事は無かったという事は事実であり、見ないままで私は自分自身の日本の姿をより鮮明に創り上げました。したがって、その記憶を保存・維持していく必要があるのです。その当時ははっきりという事はなかったのですが、20代半ばまでにある重要な事を悟るようになりました。
 私は、「私の」日本は多分飛行機で行けるどこの場所にも対応しないという事を受け入れ始めました;両親が話してくれた日本での生活や小さい子供時代の記憶は、1960年代から70年代には殆ど消滅していました。いずれにしても私の頭の中に存在していた日本は常に子供の記憶、想像、憶測によって作られた感情的なものだったかも知れません。そして、多分最もはっきりとしたことは、年々年をとり私の日本・・・共に成長してきた貴重な所ですが・・・だんだんと記憶から遠くなっていくのが分かりました。そして、今では確かにこのような感じです、即ち、「私の」日本はユニークで、同時に恐ろしく壊れやすい・・・外部からは立証しようのない何か・・・で、それが私をノーフォークのあの小さな部屋で作品を書くように駆り立てたという事です。私がしている事は、その場所に関してかつて思っていた世界の特別な色彩、風習、作法、尊厳、短所など全てを私の心から永遠に消えていく前に紙に書きつけていく事でした。私の日本を小説の中で再構築する事、記憶を失わないように安全に残し、後年になってこの本を指さして、「ええ、中に書かれているのは私の日本です」という事が私の願いでした。

カズオ・イシグロが現在住んでいる所は
ロンドン北部のGolders Green という住宅
地で、私が家族と81年〜83年の3年間過
ごした街ですが、彼の自宅周辺で受賞決
定時に押しかけたメデイアとベンチに腰か
けて会見した添付した写真がどの辺りか
分かりません。上の写真は、ロンドン・オ
リンピックが開催された6年前に私が住ん
だ家を訪ねた時の写真です。(訳者注)
 3年半経ち1983年春です、妻ローナと私はロンドンにいました、狭くて背が高い建物の最上階の二部屋の家に住んでいました。そこはロンドンで最も高い丘の一つに建っていました。< 私が住んでいたGolders Greenの隣のハムステッドHampstead付近かな?竹本 >近くに(強い電波を送信している)放送局のアンテナが建っていました。レコードプレヤーにレコードデイスクを載せて聞いていたら、ステレオのスピーカーから(誘導電波ノイズとしてステレオのアンプに紛れ込んできた)放送の音声が聞こえてきました。私たちの居間にはソファーや肘掛け椅子は無くで床の上には二組のクッションで包まれたマットレスがありました。大きなテーブルが一つあり、その上で昼間は私が小説を書き、夜は夕食を食べました。豪華ではないが、私たちはそこに住むのが好きでした。
 私は前の年に最初の小説を出版していました。更に、イギリスのテレビで近いうちに放送予定の短編テレビドラマを書き上げていました。最初の小説はかなり誇りを持っていました。しかし、その年の春までに多少不満な事が気になりだし、問題となりました。私の最初の小説と最初のテレビドラマは余りにも似通っていたのです。主題・テーマの事では無くて、物語の展開やスタイルの点の事です。その点に注目すればするほど、私の小説がテレビドラマとより似て見えるのです・・・登場人物の会話と物語の進行面での事です。それはある程度はいいでしょう、しかし私は今では、紙面の上でのみ適切に表現される物語を書く事にしています。小説を書くのに、もし小説家が、テレビを見る事によって得られるものと同じ経験を提供する小説を書くとすれば、小説を書く意味があるでしょうか?もし書かれた小説がユニークなものでなく、他の方法で表現出来ないものでなければ、どうして映画やテレビの勢力に対抗して生き残っていけるでしょうか?
 この頃私はウイルスで倒れ2~3日ベッドで過ごしました。最悪状態から脱し、ずっと寝ていたいと思わなくなった時、私は布団の上のど真ん中に何か重々しい物があるように感じましたが、それはフランスの小説家プルーストの小説 「失われた時を求めて」第一巻でした。そこで早速読み始めました。まだ熱がある状態でしたが序章を読んだだけで完全に釘づけになりました。私は繰り返して読みました。書かれている独特の美しい文節とは別に、私はプルーストが一つのエピソードから次のエピソードに展開していく手法にわくわくさせられました。出来事や場面の順序は通常の時系列にも、また一本の線で繋がっているような筋にもなっていませんでした。その代わりに、本筋に無関係な考えを絡めたり、或いは、記憶の予測しがたい変化が筋を一つの話から次の話へ移動させていると思われるのです。時々私は、何故これらの二つの無関係と思われる話が語り手(小説の「私narrator」か?)の心の中で隣り合わせて同居しているのだろうかと不思議に思う事があるのです。
 突如として、私はわくわくしながら、より自由に二番目の小説を書いている事に気が付きました。それは紙面だからこそ豊かさを創作でき、スクリーンの上では内面の動きを表現できない方法でした。もし私が語り手の考えている事に従って一つの場面から次の場面に記憶を漂わせながら進行させる事が出来るならば、私は抽象画家がキャンバスの上で形や色を選定していくのに似た方法で創作できるでしょう。私は場面を二日前から20年前の場面の付近に設定しうるし、二つの場面の関係を読者に考えさせる事もできるでしょう。このような方法で私は人間の自己や過去を覆い隠そうとする何層にも重なった自己欺瞞や自己否定を暗示できるかも知れないと考え始めていました。
 1988年3月、私は33歳になっていました。今ではソファーもあり、その上に寝転んでトム・ウエイツのアルバムを聞いていました。その前の年にローナと私は南ロンドンの時代遅れだが住み心地の良い一画に我々の家を買いました。この家で初めて自分の勉強部屋を持ちました。その部屋は小さくてドアはありませんでしたが、私は毎日書類を散らかし放題で一日の終わりにも片づける必要が無い事にわくわくしていました。そして、その勉強部屋で・・・私はそう思っているのですが・・・私は三番目の小説を完成しました。それは初めて日本・・・以前小説を書いて壊れにくくなっていた私個人の日本を舞台にしたものではありませんでした。
 事実、私の新しい本は、後に「日の名残り」と呼ばれるもので、私は年配の英国作家の作風とは思わないのですが、極端にイギリス的と見られました。私は、私の読者は皆イギリス人であり、生まれながらにイギリス的なニュアンスやイギリス的な好みに精通している、とは想定しないように注意してきました・・・実は多くの人はその様に思っているらしい事を私は感じているのですが。これまでは、インド生まれのイギリス人作家サルマン・ラシュデイーやトリニダード・トバゴ生まれのイギリス人作家ナイポールは、英国にとって中心的役割とか必然的に重要だとかに拘らず、もっと国際的で自国より外を見たイギリス文学の方向性を案出してきました。彼らの作品は広義には植民地が独立を成し遂げた後の時代のものです。彼らのように私は、作品の物語が英語世界特有であっても、例え文化や言語の境界を容易に超える事が出来る「国際的な」小説を書きたいのです。「私」のイギリスは一種の架空のものかも知れませんが、大まかな姿はイギリスに行った事も無い人々をふくむ世界中の人々が抱いているイギリスの姿の中に既に存在していると信じています。今完成したその小説は間違った価値観を持って人生を送り、既に遅すぎると悟っているイギリスの執事に関するものです。彼は彼の最も大事な時期をナチ・シンパに捧げてきて、自分の人生の為に道徳的・政治的責任を果たすことに失敗し、人生を無駄に過ごしてきたと深く悟っているのです。そして更に、完全な執事になる努力をするに当たり、彼が好きな一人の女性を愛し愛される事を自ら禁じてきました。
 私は原稿を数回通読して、そこそこ 満足しました。それでも・・・何かが抜けている・・・と、ひっかかるものがありました。
 ある晩、家でソファーに座ってトム・ウエイツのピアノの弾き語りを聞いていました。すると、トム・ウエイツは'Ruby's Arms'.という歌を歌い始めました。多分皆さんの中のどなたかはご存知でしょう。・・・私はここで皆さんにそれを歌ってお聞かせしようと考えていたのですが、気が変わりました・・・それはある男、多分兵士がベッドで眠っている恋人を残して出ていく・・・バラードです。早朝の事で、彼は道路を通り、列車に乗る・・・何も変な事ではない。しかし歌はしわがれ声のアメリカ人浮浪者が深い感情を押し殺しているような調子でした。やがて、歌の半ばで歌手は我々に彼は失恋しつつあると教えている瞬間があります。その瞬間は失恋の感傷その事とそれを克服したと言い切る事への大きな抵抗の間の感情的落差故に殆ど耐えられないほど哀れを感じさせます。
 トム・ウエイツは一連のメロデイーを心が洗われるように壮麗で美しく歌い、そして聞く者は大変な悲しみの中で崩れていく屈強な若者の人生を感じているのです。
 トム・ウエイツの歌を聞きながら私は未だやらなければならない事に気づくのです。私は物語の筋をうかつに決めたようだ、どの辺まで後戻りすべきか、私のイギリス人執事は感情的に弁明をし続けている、彼は自分自身と読者から最後の最後まで何とかうまく隠し続けている。そうして、私は決めていた事をひっくり返さなければならない事に気づくのです。物語の終わりに向かってほんの一瞬だが、慎重に決めなければならない瞬間です、私は彼の自己防衛の鎧を壊さなければならなかったのです。私は非常に大きく悲劇的な事が鎧の下からちらっと見えるようにしたのです。
 私は敢えて言いますが、他の事でも沢山の機会に歌手の歌声から極めて重要な教訓を学んできました。歌われている歌詞そのものより実際に歌っている事に注目したいと思います。ご承知のように人間の歌声は計り知れないほど複雑に混じり合った感情を表現する事ができるのです。何年もの間、私の書き物の具体的な場面は、とりわけボブ・デイラン、ニナ・シモーン、エミルー・ハリス、レイ・チャールズ、ブルース・スプリングスティーン、ジリアン・ウエルチ、そして友人で共著者のステイシー・ケント等に影響を受けてきました。彼らの歌声から何かを見つけると、私は「あ〜そう、これだ。これこそ、あの場面に必要なものだ。何かそれに非常に近いものだ」と自分につぶやいたものです。しばしばそれは言葉で表現できない情緒、しかし歌手の歌声の中に確かにある、そして、私は目指すべき事が分かったと思いました。

A Pale View of Hills(1982)The Remains of the Day(1989)Never Let Me Go(2005)
 1999年の10月に私はドイツの詩人であるクリストフ・ホイブナーに国際アウシュビッツ委員会の代表として招かれ、以前の強制収容所を訪問し数日間すごしました。私の宿舎は第一アウシュビッツ収容所と2マイル離れたビルケナウ絶滅収容所の間の道路沿いのアウシュビッツ若者集会所にありました。このあたりを案内されていた時に非公式に三人の生存者に会いました。私の世代の人間が生きてきた社会の陰の暗い力の源へ少なくとも地理的には近づいたと感じました。
 ある小雨が降る日の午後、私はビルケナウ絶滅収容所の瓦礫と帰したガス室の前に立っていました、不思議な事に今では忘れ去られて無人状態ですが、これはドイツ軍が爆破して迫ってくるソ連の赤軍から逃げて残していったものです。これらの残骸は湿っぽく、骨組みは壊れ、厳しいポーランドの気候にさらされており、年と共に劣化しているのです。招待してくれたクリストフ・ホイブナーさんは、ジレンマについて語ってくれました。これらの残骸は保存すべきだろうか?将来の世代の人々に見てもらうために透明なアクリル樹脂のドームで覆って保存すべきだろうか?それとも自然のままでゆっくりと腐って無くなるにまかせるべきだろうか?これは私には大きなジレンマへの強いメタファのように思われる。そのような記憶はどのようにして保存されるべきだろうか?ガラスのドームで覆えば悪事の遺物や苦難を退屈な博物館の展示品にしてしまわないだろうか?記憶を思い出す為には我々は何を選ぶべきだろうか?忘れて次の段階にすすむ時期はいつが適当だろうか?
 私は44歳になりました。これまで第二次大戦とその悲惨さや勝利などは両親の世代の事と考えてきました。しかし今や、そのような大事件を直接目撃した多くの人々は間もなく亡くなってしまうという事が私には分かっています。ではこれからどうするか?思い出す(記憶する)という重責が私自身の世代の肩に降りかかってきているのでしょうか、我々は戦争の時代を経験していない。しかし、我々は少なくとも戦争の経験によって消し去ることが出来ないような人生を歩んできた両親に育てられてきたのです。それじゃ、私には社会の語り手としてこれまで意識してこなかった義務があるのでしょうか?我々の両親の世代から我々の世代以降にできる限り引き継いでいく義務が・・・。
 少し後に、私は東京で講演をしていた時に、よくあることですが、聴衆の一人から次はどんな作品を書くか質問がありました。
 質問者は次のようにもっと具体的に指摘されました、私の小説はしばしば大きな社会的・政治的激動の時代を生きてきて、後からその人生を振り返り、もがきながら暗くて恥ずかしい記憶をあきらめて受け入れるような個人に関するものです、と。彼女は更に、今後の小説も同じような領域を続けるのでしょうか?と質問しました。私は全く予想していなかった回答をしました。はい、私はしばしば忘れようとする事と、忘れないようにする事の間でもがいているような個人の事を書いてきました。しかし、これからは、私が本当に願っている事は同様の問題に対して国家や地域社会は如何にして向かっていくかという作品を書きたいという事です。
 国家は個人のように記憶したり忘れたりできるでしょうか?或いは、重大な違いがあるのでしょうか?国家にとっての記憶とは厳密にはどういう事でしょうか?どこにしまっておくのでしょうか?どのように形作り、活用していくのでしょうか?忘れていく事は暴力が繰り返される事を止め、社会が崩壊して無秩序になったり戦争になったりするのを止める唯一の方法という時はあるのでしょうか?
 他方では、意図的に忘れて必ずしも公正ではない基盤の上に安定した自由な国家を建設する事は可能でしょうか?
 私は質問者に、私はこういう事について書く方法を見つけたいと答えている自分の声を聴きましたが、残念ながらどのようにすればよいか考え付かないのです。
 2001年のある晩、その頃まで住んでいたロンドン北部の自宅の居間を暗くして、ローナと私は、そこそこの画質のVHSビデオでアメリカのホークス監督の1934年の「20世紀」という映画を見始めました。映画の題名はすぐに判ったのですが、我々が過ごしてきたばかりの前世紀の事では無くて、ニューヨークとシカゴを結ぶ有名な豪華列車の事でした。ご存知の方もおありでしょうが、この映画は殆ど列車の中が舞台でして、ペースの速いコメデイーで、ブロードウエイのプロデューサーが、主演女優がハリウッドへ行って映画スターになろうとするのを必死になって止めさせようとするものです。当時の偉大な俳優の一人であるジョン・バリモアの愉快な演技を中心に構成されています。彼の顔の表情、身振り手振り、彼がしゃべる殆どのセリフは自己中心と自己劇化主義に満ち溢れた男の皮肉さ、矛盾、怪奇さが重なり合っていて多くの点で素晴らしい演技です。それでも映画が進行すると共に、私は不思議にも自分が引き込まれていかないのです。これには初め戸惑いました。私はいつもバリモアを好きだし、ハワード・ホークス監督のこの時代の他の映画、例えばHis Girl Friday やOnly Angels Have Wingsも大好きでした。
 映画が約1時間ほど進んだ時、簡単ですがとてもはっきりした考えが頭に浮かびました。小説の中ではまともな登場人物である事は言うまでもありませんが、沢山の生き生きとした映画や演劇が私を感動させない事がある理由は、これらの役者が興味ある人間関係の点では他の役者と関わっていない事にあります。そしてすぐさま、私自身の作品に関して次の考えが浮かびました、もし私が自分の登場人物に気を遣う事を止めて、代わりに自分の人間関係を心配したらどうなるでしょうか?列車が更に西に向かってガタゴト走り、ジョン・バリモアは益々ヒステリックになるにつれて、私は英国の小説家エドワード・モルガン・フォスターの有名な三次元的人物と二次元的人物の違いに関して考えました。彼は、物語の人物は「我々をなるほどと思わせるように驚かす」という事実で三次元的になると言いました。そうする事で彼らは成熟していきます。しかし、ある人物が三次元的ならば、彼または彼女の人間関係は三次元的ではないのでしょうか?
 他のどこかで同じ講演をした時フォスターは、ある小説から筋を抽出するのにグニャグニャ動く虫をピンセットで挟み電灯の下で観察するように持ち上げる、という愉快な描写を用いました。私も似たように何かの小説と交差する様々な人間関係を引用して光に照らす事は出来ないでしょうか?こういう事を既に完成している自分の作品と計画中の作品でできるでしょうか?教師と生徒の関係と見る事ができるでしょう。何か洞察力があり新鮮であると言えるでしょうか?或いは、私はそれをじっと見つめて、それが使い古された紋切型で何百もある二流小説の中の表現と同じであることが明らかになるでしょうか?それは感情的に共鳴するでしょうか?それは徐々に進化するでしょうか?それは「我々をなるほどと思わせるように驚かすでしょうか?三次元でしょうか?
 私は突然感じた事ですが、私の過去の作品の色々な局面で必死の努力にも拘わらず何故うまくいかなかったか良く理解できました。引き続きジョン・バリモアをじっと見続けていると、喋り方が過激であろうが普通であろうが、全ての良い物語は我々にとって重要な関係、即ち我々を感動させたり、喜ばせたり、怒らせたり、驚かせたりするものを含んでいなければならない、という考えが浮かんできました。多分将来、私がもっと登場人物相互の関係に注意を払えば、彼らは自分自身に気を配る事でしょう。私が言っているようにそれが起きているのです、私はここであなた方にはいつも明らかに判り切った事を述べているかも知れません。しかし、私が今言えるすべての事は、私の作家人生で驚くほど遅く気づいた考えなのです、そして私は今ではその時が今日皆さんに説明してきた他の事と同様に転換点と見ています。その時以来私は作品を違ったやり方で構築し始めました。例えば小説「私を離さないで」を書く時には私は先ず中心となる三人の人物の関係を考える事から出発し、そして他の人間関係に広げていきました。多分他の職業の人生でも同じでしょうが、作家の生涯で重要な転換点とはこんな事です。時にはそれらは小さく、取るに足りない瞬間です。それらは、静かで思いがけない私的なひらめきです。そんなに度々はひらめきません、そしてひらめく時にはファンファーレもなく、先生や仲間達にも支持されずに来るのです。それらはしばしば声高に、もっと急いでと言わんばかりに注目を引こうと競い合うのです。時には広く行き渡っている分別にも反するような本性を現します。しかし、それらが閃いてきた時にはそのまま認知する事が重要です。そうしなければ手からこぼれてしまうのです。
 私は小さくて個人的な事を力説してきました、何故ならつまるところ、私が行こうとする仕事の事だからです。静かな部屋である人が書き、もう一人の人と繋がりを持たせようとし、もう一つの静かな、又はそう静かでない部屋で読む。物語は他人を楽しませることができます、時には重要な事柄を教えたり論じたりします。しかし、私にとって重要な事は、感情を伝える事です。それらは我々が人類として国境や境界線を越えて分かち合う事に訴えてきます。物語の周囲には書籍産業、映画産業、テレビ放送産業、演劇業など大きな魅力的な産業があります。最後に、物語とは一人の人間がもう一人に語りかける事であり、私が感じる方法です。私が言っている事を理解出来ますか?是もまたあなた方に感じさせる方法でしょうか?
 さて私たちは現在に戻ってきました。私は最近になって現実に目覚めました、私は何年か(現実からはなれた)泡の中(のような所に)に住んでいたのです。そこでは、私の周辺の人々のフラストテーションや心配事に私が気が付く事が出来なかったのです。私は文化が発達し、皮肉で心が大きい人々で満ちた刺激的な私の世界は実際には私が嘗て心に描いたものよりずっと小さい事が良くわかりました。驚きの年2016年、私にとっては気の重い年でした、ヨーロッパとアメリカにおける政治問題や世界中の吐き気を催させるテロ事件は子供の頃から抱いてきた、心の広い人道主義者の価値は留まる事なく発展していくと言う事が幻想だったかも知れないと認めさせられました。
 私は楽観主義寄りの世代の一人です、ええそうです。我々は祖先が全体主義で組織的殺戮や歴史的に前例のない大虐殺を行った政治体制を、国境を越えた友好関係の中に存続している非常に羨ましがられている自由民主主義の地域に成功裏に変革してきた事を見てきました。我々は世界中で古い植民地帝国が植民主義を支持してきた非難されるべき抗弁と共に崩壊していくのを見てきました。我々は女性解放運動、同性愛者の権利、人種差別主義との戦いで著しい進展を見てきました。我々はまた資本主義と共産主義の間のイデオロギーや軍事的な大衝突の背景に反対して成長してきました、そして私たちの多くが幸せな結果になったと信じてきた事を目撃してきました。
 しかし今振り返ってみると、ベルリンの壁が崩壊して以来の時代は失われた機会に対して満足しているように思えます。富と機会の非常に大きな不平等が国家間および国内で拡大していくに任されています。特に、2003年の破滅的なイラク進攻と2008年に起きたスキャンダラスな経済破綻(「サブプライマリーローンからリーマンショック」の事か?竹本)に続いて一般市民に何年もの間課せられた緊縮政策は、我々を極右翼思想と民族国家主義が拡大する現在の状況に引き込みました。形態は昔ながらな形、近代的な形さらに地域社会に合った形で人種差別主義が、文化の発達した通りの下で埋もれていた怪獣が目を覚ましてうごめくように再びはびこり始めています。
 さしあたり、我々を結束させる前進的な方策は見当たりません。そうではなくて、西側の豊かな民主国家の中でさえ我々は資源やエネルギーを求めて激しく競い合う敵対する陣営に分断しつつあります。科学、技術や医学における驚くべき大成功による新たな挑戦はもうその角まで来ているのでしょうか、それとも既に角を曲がって行ったのでしょうか? 遺伝子編集技術CRISPRのような新しい遺伝子技術や人工知能(AI)やロボットの進歩は我々に人命救助の恩恵をもたらします。しかし、同時にアパルトヘイトにも似た過酷な能力主義社会をもたらし、現在のプロのエリートにもひどい失業者を生み出します。
(訳者注)CRISPRとはClustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeatsの略で、近年原核生物でファージやプラスミドに対する獲得免疫機構として機能していることが判明したDNA領域のことを指す。

 私、60歳代の男ですが、目を擦りながら昨日まで存在していて疑わなかったこの世の中の概略を見てみましょう。私は知的側面について言えば陳腐な世代の想像力に欠けた作家ですが、このよく知らない所を見るエネルギーを発見する事が出来るでしょうか?私には、感情の段階を大きな変革に順応すべく社会が揺れ動いている時に来る論争や戦いや戦争に向ける総体的な見方を示す為に役に立つ何かが残っているでしょうか?私は前進しなければならないし、出来る限りの最善を尽くします。なぜならば、文学は重要であり、特にこの難局を切り抜ける為に重要と信じているからです。しかし、私は若い世代の作家の皆さんに、私達に希望を与え導いて頂きたいと注目していきます。これからは彼らの時代です、彼らは私にない知識と生まれながらの才能があります。書籍、映画、テレビそして演劇の世界で、私は今日冒険的でわくわくするような有能な人材を知っています、40代、30代、20代の女性や男性達です。だから私は楽観しています。楽観しない筈はないでしょう?
 しかし、心を込めてお願いさせて頂きます・・・御望みでしたら「私のノーベル賞受賞アピール」として締めくくりたいと思います。
 全世界を本来あるべき状態に移す事は困難な事ですが、少なくとも我々自身の部門だけでも如何に準備をする事が可能か考えさせて欲しい、我々が読み、書き、出版し、推奨し、非難し、そして作品に賞を与えている「文学」という部門です。もし、我々がこの先が読めない時代に何か重要な役割を分担できれば、もし我々が今日、明日の作家達から最良のものを得る事が出来るなら、我々はもっと多様化していくに違いないと信じます。
私が言いたいのは次の二つの意味です。
 第一は、私達が文学と定義する範囲を一般的に受け入れられているエリートに期待をする文化の範囲を超えて、もっと多くの人々の声を取り入れるように広げなければなりません。私達は今日まだ世に知られていない我々自身の作品から新しい萌芽を見つけ出すべく、その作家が遠くの国々に住んでいようが我々の地域社会に住んでいようが、もっとエネルギッシュに探さなければなりません。
 第二は、私達は良い文学作品の定義を余りにも狭く、或いは控えめにしないように注意を払わなければなりません。
 新しい世代は全てに新しく、時には重要で素晴らしい物語が戸惑わせるような方法で到来するでしょう。私達はそれらに心を開き続けなければなりません、それらを育み最高の物を祝福できるように、特に物語のジャンルと表現の形態に注目しなければなりません。今日の危険なまでに分断が進んでいる時代においては、我々は耳を傾けなくてはなりません。優れた作品を書く事とそれをよく読む事は、その分断の障壁を打ち壊すでしょう。我々は、新しいアイデイア、立派な人間としての展望を見出し、それに結集できるかもしれません。
 スエーデン国立アカデミー、ノーベル財団,そしてノーベル賞を私達人類がより良くしようと努力する事の輝かしいシンボルとして長い年月に亘って継承されてきたスエーデンの国民の皆様に私は感謝申し上げます。 
カズオ・イシグロの昨年12月のノーベル文学賞受賞スピーチの筆者翻訳
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世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」
竹本修文(37回) 2019.07.31

筆者近影

第1章 序文 「何故ウエールズの城郭」なんだろう?

――向陽プレスクラブのNEWSに、「何故ウエールズの城郭」なんだろう?と思われる方々も大勢いるだろうと思うので、第2章の本題に入る前に関係する記事を二件紹介します。――

1.1  「コンウイ城と日本の姫路城が姉妹城になる」
                (英国放送BBCのニュース2018年6月17日 筆者翻訳 )

コンウイ城(Richard Hoare氏撮影)
 北ウエールズの城と日本の城が「姉妹城twinned castles」になる、英国にとってこのような関係を持つのは初めての事である。ユネスコ世界遺産に登録されているコンウイ城と姫路城は2018年7月6日にウエールズのコンウイ町で姉妹城になる覚書式典を開催する。
 北ウエールズ観光局の局長、ジム・ジョーンズ氏は、「姫路城はウワ〜ット驚くほど素晴らしい!!」と絶賛し、更に「姫路とコンウイの城はほぼ同時期に建設が開始されており、ほぼ年齢が同じなので姉妹関係を持つことにより相乗効果も期待できる。城が姉妹関係を持つことはウエールズでは初めての事だし、多分イギリスでも初めてだと思う」と述べた。
 北ウエールズ観光局によると、姉妹城の関係を築く事によって日本の観光産業と親密な連携を保ち、日本からより多くの観光客を北ウエールズに呼び込める、との事でウエールズ政府の支援もある。

姫路城(KANDA NORIYOSHI氏撮影)
 姫路城はジェイムス・ボンドの映画「007は二度死ぬYou Only Live Twice」の中で特殊部隊の訓練場として使われたそうである。
 姫路市長、石見 利勝氏がコンウイに来訪し、コンウエイ町の町会議員のサム・コットン氏と町役場で特別な式典を催し、MOU(Memorandum of Understanding)に署名する。
 姫路市長御一行は2019 National Eisteddfod(アイステズバド:ウェールズで毎年開かれるウエールズ語による詩人と音楽家の集い)に合わせてコンウイに四日間滞在し、コンウイ城を訪問して姉妹城祝賀パレードに参加し、学校を訪問したり交流を深める予定である。両者は教育や文化の面での活動も目指しており、素晴らしい友好関係の始まりであり、大きな機会である。

1.2  「英国ウエールズ ヨーロッパ100名城の旅」
                (城郭ニュース 2019年5月1日の抜粋紹介)
 公益財団法人 日本城郭協会では、前述1.1項の関連行事として、本年10月初旬にウエールズの7カ所の城を巡る旅行を計画しており参加者を募集している。筆者は日本城郭協会の会員で、評議員でもあり、英国は駐在を含め経験が多いので、訪問する城郭の情報を纏めてKPCの皆様にご紹介するものです。
 公益財団法人日本城郭協会は、〒141-0031 東京都品川区西五反田8-2-10-302、電話03-6417-9703
追記:日本側でも、姉妹城の締結式が姫路城で10月23日に行われます。是非多くの方のご参加をお待ちしています。

第2章 北ウエールズの城郭

――ウエールズ人はアイルランド人等と同じで先史時代に大陸から移住してきた文字を持たないケルト人の末裔であり、ラテン語のアルファベットを採用しているが綴りや発音は英語とは非常に異なる事を記しておきます――

2.1 北ウエールズの城郭
     世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」の概要 
――イングランド王家プランタジネット朝がケルト系ウエールズ人を破り、イングランドに併合した城郭群――
 世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」はウエールズ北部のグウイネッズ(Gwynedd)地方にあり、ボーマリス城(Beaumaris Castle)、ハーリク城(Harlech Castle)、カーナーヴォンの城と市壁(Castle and town wall of Caernarfon )、コンウイの城と市壁(Castle and town wall of Conwy )の四か所で構成されている。これらの城郭は、イングランド王エドワード1世が率いるイングランド軍が1282年に北ウエールズに侵攻し、グウイネッズの諸王に勝利して植民化して建設したものである。彼は新しい要塞としての城と共に壁で囲った街を建設し、イングランド人の移住者を住まわせ、征服した領地を統治させた。この征服・建設・統治の大プロジェクトはイングランドの財政を狂わせるほどだった。
 1294年には、メドック・アプ・ルウェリン(Madog ap Llywelyn) の指揮の下で反乱がおきた。コンウイ城とハーリク城は沿岸にあり、物資の補給が可能で持ちこたえたが、カーナーヴォン城は建設中で未完状態だったので襲撃された。その後、エドワードは建設作業を早め、更にボーマリス城の建設に取り掛かった。然しながら、エドワードは同時並行でスコットランドでも数々の戦争をしており、王家の財源を使いつくし工事のスピードが鈍化した。そして、カーナーヴォンとボーマリスが完成しないままで1330年までにすべての城郭都市群の建設は中止になった。

ウエールズ北部のグウイネッズ(Gwynedd)地方
 その後、15世紀初頭のグリンドゥールの反乱(Glynd?r Rising)や、15世紀末のバラ戦争(Wars of Roses)など数世紀に亘って内乱が起こった。1485年にプランタジネット朝が崩壊してばら戦争が終結し、チューダー朝になると、軍事中心ではなくなったが、17世紀になると英国王チャールズ1世の王党派とオリバー・クロムウエルの議会派の内戦が始まって、城郭都市は再び活用された。内戦の余波の中で英国議会はコンウイ城とハーリク城の破壊を指示したが、スコットランドの王党派支持者が侵入してくるようになって、カーナーヴォン城とボーマリス城は必要になり無傷のまま残った。
 17世紀末までに内乱は終結し城郭は荒廃したが、18世紀末から19世紀初めには芸術家達に人気になり、19世紀後半のヴィクトリア女王の時代にはこれらの城郭へのアクセスが改善されて訪問者の数が増えた。20世紀には英国政府は城と市壁の保護の為の投資を増化し、中世の文化資産を修復した。1986年には四か所の城と市壁を一括して、13世紀に建設された傑出した要塞と軍事建築としてユネスコ世界文化遺産として宣言し、現在はCADW(ウエールズ語で「ウエールズ文化庁文化遺産保護機構」の意味の略号)によって観光資源として運営されている。

2.2 カーナーヴォンの城と市壁(Castle and town wall of Caernarfon ) (EU100名城)
 ウェールズ語での発音は、「カイルナーヴォン」に近い。エドワード1世はイングランド王家の住まいとウエールズの抵抗を封じ込めるための本拠地として築いた。ウエールズ人は紀元前からいるケルト人の末えいで、イギリス中に広くいたが、ローマ軍に追われ、その後アングロ人などのゲルマン人、ノルマン人、そしてアングロ・ノルマンのイングランド人に攻撃され続けている。

カーナーヴォンの城と市壁(Castle and town wall of Caernarfon ) 

右端が要塞で左側に壁で囲まれた町があり、イングランド人を住まわせて北ウエールズを統治させた。

ウエールズ大公(Prince of Wales)

1958年カーナーヴォン城で
@ウエールズ人の王ルウエリン・アプ・グリフィズ(在位1246-82)はウエールズ大公(Prince of Wales)を自ら名乗った。
Aイングランド王ヘンリー3世時代にイングランド王の下にウエールズ人のルウエリン・アプ・グリフィズをウエールズ大公と認めたが、ルウエリンはイングランド王を過少評価した行動に出てヘンリー3世と息子のエドワード(後の1世)を激怒させ、攻撃を受ける事となった。
B制圧後ルウエリンは1282年に再蜂起したがエドワード1世に敗北し処刑(絞首刑・内臓えぐり・四つ裂き)された。エドワード1世はPrince of Walesの称号を息子(後のエドワード2世)に与える事でイングランドがウエールズを支配する事を明確にした。 四頭の馬を四肢につないで引き裂く事をQuartering[ 四つ裂き」と言うが、日本語では「八つ裂き]が正しいかな〜?
C以後700年間イングランド王大子(次期国王)がPrince of Walesである。写真右は1958年に現在のチャールズ皇太子がカーナーヴォン城で女王エリザベス2世から称号を与えられる儀式

<参考> 城郭技術の特徴・・・多角形の塔

カーナーヴォンの城……城壁を構成する塔が円形や四角でなく、
多角形であるのが特徴でエドワード1世が第8次十字軍時代に学んできたと言う

城壁の南西端のイエデイクレの要塞
 多角形の塔はエドワードが最後の十字軍に参加した時にコンスタンチノープルのテオドシウス2世の城壁の塔を見て参考にした、との記事があるが、城壁の塔は四角しか見たことがない。
 城壁の南西端のイエデイクレの要塞には多角形の塔がある。中を歩いたときは円形と思っていた。八角形(Octagonal Tower)はイタリアのカステル・デル・モンテや多くの教会にあるが・・多角形の塔は何角形だろうか?16角だろうか?

2000年前の古代ローマ時代の北ウエールズの地図ラテン語
現在のカナーヴォーンにはローマ軍の要塞がある?。

2.3 ハーリク城(Harlech Castle) (EU100名城)

ハーリク城(Harlech Castle)
 1282年〜1289年にカーデイガン湾に面した岩山の上にエドワード1世によって建設された。1294年には、メドック・アプ・ルウェリン(Madog ap Llywelyn) の指揮の下で反乱がおきたが、ハーリク城は沿岸に近く、物資の補給が可能で持ちこたえた。しかし、ヘンリー4世の時代の1404年に起きたオワイン・グリンドゥール( Owain Glynd?r)の反乱で落城し1409年にイングランド軍に再征服されるまでグリンドゥール軍の本陣となった。15世紀のバラ戦争では1468年にヨーク家軍が奪還するまでの7年間はランカスター家軍に占領されていた。また、17世紀のピューリタン革命戦争(English Civil War)ではチャールズ1世の国王軍が占拠したが、1647年にクロムウエル率いる議会派の攻撃に降伏し国王軍の最後の要塞となった。 <参考> ここカーデイガン地方の軍の指揮官がクリミア戦争で軍服の上に羽織った上着をカーデガンと呼んだ

ハーリク城鳥瞰

ハーリク城平面図

2.4 コンウイの城と市壁(Castle and town wall of Conwy )

コンウイの城(Conwy Castle )
 1283-1289年のウエールズ征服戦争の一環として、イングランド王エドワード1世が建設した市壁で囲まれた街とこれを防衛しつつ更なる侵攻の拠点とする要塞である。続く数百年の間数回の戦争で重要な役割を果たしてきた。1294-95年の冬メドック・アプ・ルウェリン(Madog ap Llywelyn)の指揮の下で反乱が起きてウエールズ兵に包囲されたがこれに耐えた。ハーリク城と同様に1404年に起きたオワイン・グリンドゥール( Owain Glynd?r)の反乱で落城した。1642年のピューリタン革命ではチャールズ1世の国王軍が占拠したが1646年にクロムウエル率いる議会派軍に敗北した。戦争の余波として議会派はコンウエイ城が更なる反乱軍の拠点に利用されない様に破壊した。最終的には、1665年に議会派軍は城郭に残っていた鉄や鉛を剥がして売り飛ばした。

コンウイの城と市壁(Castle and town wall of Conwy )

コンウイの城(Conwy Castle )平面図

コンウイの城(Conwy Castle )城壁

2.5 ボーマリス城(Beaumaris Castle)

ボーマリス城(Beaumaris Castle)と市街地
 ウエールズ本土からはメナン海峡で隔たったアングレーシー島で古代からドルイド教徒が住み着いていたが、ローマ軍に破壊され、その後もヴァイキング、サクソン人、ノルマン人と次々に侵略された。城があるところは、元々はヴァイキングの港だった。
 城の北約1マイルのLlanfaesという小さな集落がアングロ・サクソンに占領され、その後ウエールズ人が奪還していて拡大していたので、このままではウエールズ人が反乱を起こす可能性があった。
 イングランド王エドワード1世がウエールズ征服を進めている1295年に、北ウエールズ周辺にカナーボン、ハーリク、コンウエイなど一連の城塞群の一つとしてボーマリス城の建設を計画し町の開発が始まった。重要な事は本土と島の間のメナン海峡のコントロールであり湿地であっても海峡近くの平地が条件だった。当時のイングランドの貴族も建設技術者もノルマン・フレンチ人で、フランス語を話していたので、フランス語でbeaux marais即ち「美しい湿地」と呼んだことから、ボーマリス城と名付けられた。

ボーマリス城(Beaumaris Castle)平面図

ボーマリス城(Beaumaris Castle)鳥瞰

ボーマリス城(Beaumaris Castle)と市街地

<参考> 14〜15世紀の百年戦争は、アングロ・ノルマン人のイギリス王と、フランス王の争いで両者の指揮官はフランス語を話していたが、イギリス側は長い間フランスと戦っているうちにイギリスの兵士の言葉・・・古英語を話すようになり17世紀にシェークスピアが英語で戯曲を書いて大評判になり現在の英語に発展した。

第2章  ウエールズ南東部の城郭

――11世紀にイングランドを征服したイングランド王家ノルマン朝がウエールズに侵攻して領土拡大を狙った城郭――
2.1 チェプストウ城(Chepstow Castle)
 ウエールズのモンマスMonmouth州を流れるワイ川River Wye沿いの崖の上にあり、ローマ時代以降(AD400年〜)のイギリスで最も古い現存する城郭である。ノルマン軍が1066年にイングランドを征服した翌年の1067年にイングランドから更に西のウエールズに領地を拡大する目的でウエールズとの国境のウエールズ辺境地に沿って建設した一連の城郭群の最南端の城であり、ノルマン貴族のウイリアム・フィッツオズバーンが建設したものである。12世紀にこの城郭は、当時ウエールズにいくつかあった独立王国の内で南東部旧・州のグエントGwentを征服するにあたり活用された。そしてアングロ・ノルマンの最も強力な二人の貴族のウイリアム・マーシャルとリチャード デ・クレアーに所有された。しかし、16世紀までにはチェプストウ城の軍事上の重要性は衰え城郭の構造物は貴族の住居などに転用された。17世紀の(日本では)「清教徒革命」と呼ばれるEnglish Civil War の時には軍が駐留したが1700年代までには城は朽ち果てていた。後年の観光ブームで城は人気の観光スポットになった。

チェプストウ城(Chepstow Castle)鳥瞰

チェプストウ城(Chepstow Castle)外観

チェプストウ城(Chepstow Castle)平面図

2.2 カーデイフ城(Cardiff Castle)
 ウエールズの首都カーデイフ市の中心部に建てられた中世の城で、コッフォ城と同様のゴシック・リヴァイヴァル建築様式である。
 オリジナルはモット・アンド・ベイリー(Motte-and-bailey)様式の城で3世紀のローマ軍の駐屯地の中の要塞の上に11世紀にフランスから侵略してきたノルマン人が建設したものである。ノルマンの征服王ウイリアム自身か部下のRobert Fitzhamonが監督指揮し、中世の街カーデイフの征服拠点としたと言われている。
 12世紀には土盛りの上に石造りの円形の塔と重要な城壁を供えた城郭に作り替えている。その後の工事は13世紀後半にイングランド西端の6代グロースター伯が行ったものである。
 カーデイフ城はその後イングランドから侵略してきたアングロ・ノルマン軍とウエールズ人の戦いに巻き込まれ、12世紀には数回襲撃されている。また、1404年のウエールズ人のグリンドゥールの反乱(Glynd?r Rising)でも襲撃された。
 17世紀の(日本では)「清教徒革命」と呼ばれるEnglish Civil War の時には当初は議会派軍に占領されたが1645年王党派支持者に奪還された。

カーデイフ城(Cardiff Castle)鳥瞰

カーデイフ城(Cardiff Castle)鳥瞰

カーデイフ城(Cardiff Castle)外観

カーデイフ城(Cardiff Castle)鳥瞰

カーデイフ城(Cardiff Castle)外観

2.3 コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)
 19世紀に南ウエールズのTongwynlais村(カーデイフ中心部から北西に10.6km)に建設されたゴシック・リヴァイヴァル建築様式の城である。ゴシック・リヴァイヴァル建築様式は18世紀後半から19世紀にかけてイギリスで興ったゴシック建築の復興運動による様式で英国国会議事堂が代表的な例である。ネオ・ゴシック様式とも呼ばれる。
 最初の城は1081年以降にフランスから侵略してきたノルマン人によって新たに征服したカーデイフの街とそこから内陸に侵攻する為の街道の防御の為に建設された。その後は放置されていたが、13世紀に新しく征服した領地を護る為に城を強化する事になり、最初の城の塔の土盛りの基礎部(motte)を再利用して石造りの城郭として拡張された。しかし、1314年にウエールズ人反乱が起きて城は破壊された。
 その後約450年後にイギリスの第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアート(John Stuart, 3rd Earl of Bute)が結婚を通して広大な領地を獲得した。今では結婚式などに使われている。ウエールズの首都に泊まるので観光協会のお勧めかな

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)遠景

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)外観

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)内部

コッフォ城内庭

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)遠景

コッフォ城(Castell Coch=Red Castle)鳥瞰

≪編集人より≫ 竹本さんが送って下さった原稿をHTMLに変換する際に、少し編集させて頂きました。印刷する際には 原稿を直接ダウンロードしてお使い下さい。
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最後のイギリス旅行−その1
ヨーロッパとイギリスの最新事情
竹本修文(37回) 2020.04.10

筆者近影
 2019年9月に久しぶりにイギリスを旅行した。成田空港開港の前年の1977年にヨーロッパ各地を訪問して以来イギリスには3年間のロンドン駐在を入れて25回目の訪問であった。回数だけならフランスの35回に次いで2番目となるが小中学生の子供達と過ごした国であり、会いたい知人やもう一度見ておきたい所が沢山あり、またイギリスが欧州連合EUから離脱(BREXIT)する事になり、自分の目で確かめておきたい事も沢山あったので、妻と二人で3週間旅行した。
最近までの20年間は個人的旅行で十数回行った。いつもレンタカーを妻と交代で運転したが、70歳でイギリスの免許も切れ、後期高齢者になって国内免許も返納したので、初めて鉄道・地下鉄・バス・タクシー・徒歩で通した。
 8年前のロンドン・オリンピック&パラリンピック前にバリアフリーが進んだと言うが、155年前に世界で初めて地下鉄を開通させて以来次々と既存のビルの下を深く掘って作った地下鉄が多くて、乗換駅などでバリアフリー化出来ない所が多くあり、非常に疲れた。地下鉄ではベビーカー(=和製英語、英:push-chair、米:stroller)と一緒には乗れない。帰国後の夫婦の感想は、「イギリス旅行はこれで最後にしよう」と、なり投稿の表題にした。今回から4回投稿を考えており、各副題は以下の@〜Cです。
@ シリーズの第1回目は、「ヨーロッパとイギリスの最新事情」の副題で、戦後のヨーロッパの歴史を概説した上で、ヨーロッパの中のイギリスとイギリス国内の事情を説明し、今回気づいた事や、今後の予測や課題を報告する。
A 次回は「リバプールと奴隷産業」という副題で、リバプール奴隷博物館を訪問し、西アフリカ・アメリカ・ヨーロッパを結んだ三角貿易と奴隷貿易産業の首都がリバプールだった事をリバプール大学の出版物などで調べたので紹介する。古代・中世の歴史に全く登場しない街リバプールだったが、ダークサイドの歴史であり、国としても表にはしたくなかった事がよくわかった。
B 30回生の中城正堯氏、西内一氏のご推薦で昨年度から公益財団法人日本城郭協会の評議員に就任しているので、2000年前のローマ軍の城郭都市ロンデイニウム(ロンドンのラテン語名)の古代地図を片手にそのカケラをさがして歩いてきたので紹介する。仮の副題は「古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン」。
C これも城郭です。1066年に現在のフランスのノルマンデイーに定住していた北欧ヴァイキング出身のノルマン人がイギリス南東部のセイステイングから上陸し、建設したイギリス中世の城郭を見てきた。仮の副題は「ノルマン様式城郭のはじまり」です。
ヨーロッパとイギリスの最新事情

はじめに 1.イギリスという国

2.イギリスを取り巻くヨーロッパの現状と課題

ヨーロッパの現状と課題

3.イギリスの事情 スコットランドの現状と将来

アイルランドの現状と将来 イギリスの東アジアとの関係

英語は強みだが弱みにもなりうる

4.イギリスに個人旅行をする方々への助言

ヨーロッパとイギリスの最新事情
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最後のイギリス旅行−その2
リバプールと奴隷産業
竹本修文(37回) 2020.04.27

筆者近影
 「リバプールと奴隷産業」の原稿を送ります。一般受けしない内容なので心配ですが、私にとっては長年の課題だったので、コロナのお陰で時間ができたので、一気に書きました。

1.はじめに 2.リバプール

港町リバプール

離れて56年経ってもビートルズの街 奴隷貿易の衝撃


3. 西洋史の勉強 4. 大西洋航路の三角貿易

5. 「リバプールと奴隷貿易」

奴隷貿易の起源

イギリスの奴隷貿易参入

リバプールと奴隷貿易

奴隷船

奴隷船

リバプール最初の奴隷貿易商人 奴隷貿易は何をもたらしたか?

奴隷制廃止とその後

リバプールと奴隷産業
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最後のイギリス旅行−その3
古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
竹本修文(37回) 2020.05.13

筆者近影
 昨年、13世紀のウエールズの城郭を投稿し、これから、11世紀のイングランド・ノルマン朝の城郭を書くつもりなので、ロンドンの駐在時代の会社の周りにあって、いつか記録を纏めてみようと思ったのでしたが、手を付けてみての感想は;
@ローマ史に興味がある方々には、帝国の1%にも満たない属領ブリタニア(イギリス)の首都でもなかったロンデイニウムの遺跡のかけら、は面白くないよね〜?
A北のヨークは、ローマが勝てなかったピクト人のスコットランドに対する防衛上重要だったのでブリタニアの首都だったし、次回予定の初代イギリス王・ウイリアム征服王が全国に建設した、モット&ベイリーの城郭もあるし、これなら、興味を持ってもらえるかな〜?
Bそれじゃ〜ロンドンの「ローマのかけら」はなんなのか?最後のイギリス旅行だから、気になっていた所を見ておこう、というだけなんだ〜?

古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン

1.はじめに 2. ローマのガリア征服

3.ブリタニアへ侵攻 4. ローマ帝国のブリタニア征服

5. ローマ人のブリタニア Roman Britain

6. ハドリアヌスの長城 Hadrian’s Wall
7. ロンドン London(ラテン語Londinium)

8. Roman London 城壁のかけらを探して


9. 皇帝デイオクレチアヌスの四分割統治、12管区
ローマ軍がブリタニアから引き上げる当時のローマ帝国地図 

古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン
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最後のイギリス旅行−その4
ノルマン様式城郭の始まり
竹本修文(37回) 2020.05.30

筆者近影
1.  最後のイギリス旅行4「ノルマン様式城郭の始まり」を投稿します。前回の「古代ローマ帝国の城郭都市ロンドン」から、ローマ人から見れば「野蛮人」の各種ゲルマン人が入り乱れる600年間を飛び越して、イギリス文化大革命時代の話なので、物語を少なく図・写真を多くしようとしたら、伝送量が大きすぎるので、2回に分けて投稿します。

2.  今回は、近代の城郭に繋がる「土と木」で出来た砦・城の始まりまでにします。この近代の城郭の原型となる様式には近代になってMotte and Baileyという名前が付けられたのですが、この辺の写真は最後のページに、アランデル城とウインザー城の写真を載せて余韻を残し、詳しくは次回、最後のイギリス旅行5「ノルマン様式の城郭巡り」に回します。アランデル城はウイリアム公が、イギリス遠征中にノルマンディー公国の留守を守った貴族ロジャー・ド・モンゴメリーに、褒美としてアランデル伯爵の称号と共に授けた城であった。ウインザー城は東のロンドン塔とテムズ川で繋がった重要な王家の城であり、次回には説明します。

3.  今回の5ページの「Castle Building by 1086(1086年までの城郭建設)」と言う地図は、Historical Atlas of Britainと言う本から引用したものですが、昨年の初めごろに西内先輩にお見せした時に、「20年間にこんなに沢山城を造ったの?」と聞かれて、何もお答えできなかったのですが、今ご返事します。

4.  お答えになっているでしょうか?
@ 1066年のイギリスは、ローマ人から野蛮人と言われたゲルマン人の中でも、北の端に住んでいたアングロ・サクソン人の国、彼らの言語は、今では通じない古英語、一方、ノルマン人は遥かに進んだフランス語を話す文明人。
A ノルマンデイーから2万人規模で侵攻したが、王や貴族は寒くてまともな農産物が出来ず、ワインもないイギリスには住みたがらず、半分は帰国し1万人で200万人のイギリス人を統治しなければならない。イギリス側は王と貴族の殆どが戦闘の始まりで殺されており、4000家(manor)あった貴族の所領は200家(manor)のノルマン人貴族に分け与えられた。
B ウイリアムはローマ教皇公認のイギリス王だが、フランス王に臣従するノルマンデイー公であり、ノルマンデイーの首都カーンに住んでいる。イギリスを征服はしたが、王が住む首都が無い、言葉が通じない、いつ誰に襲われるか分からない、中央集権はありえなくて、分散統治なので広域の防衛システムが必要になり、有事の時には1日で応援に駆け付けられる距離に城を配置する必要があった。
C イギリス史を勉強していた2008年に、ノルマン朝の首都は何処にあるか確かめにノルマンデイーを散策した。ウイリアムの墓所もカーンにあった。ノルマン朝の歴代の王がどこに住んでいたか、まだ調べが終わっていない。第6代のリチャード王は在位10年間にイギリスには7か月しか住んでいない。

ノルマン様式城郭の始まり

1. ローマ軍撤退からノルマン軍侵攻開始

2. ノルマン軍の準備からイングランド征服 

3. モット&ベイリー城郭(motte-and-bailey castle)
4. 1066年9月上陸〜12月イギリス王位戴冠

5. 10〜12月の南イングランドでのノルマン軍の行軍

6. 征服後20年間に建設されたイングランドの城郭

7. ヨーク城 York Castle
8. アランデル城 Arundel Castle

ノルマン様式城郭の始まり
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皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

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最後のイギリス旅行−その5
ノルマン様式の城郭巡り
竹本修文(37回) 2020.06.06

筆者近影
 何方からも反応が無いのに、第5弾を投稿します。
 ウンチクを少なくして、絵や写真を多くしたので、添付が5MBになりました。Word をpdf に変換するソフトをケチって購入してないので、一回の伝送の限界と思います。
 ウイリアム征服王の墓はノルマンデイーで見てきたが、今回、手持ちの資料を見ていたら、彼はイギリスの首都をウインチェスターにしようとして、城と宮殿の建設を指示していたが、完成まじかに火災で焼失したらしい、記事を見つけたので、そのうちにまた投稿するかも知れません。ロンドン塔を城にしなかった理由もこの辺にあるのかも知れません。

ノルマン様式の城郭巡り

1. ウインザー城 Windsor Castle

2. ノルマン人が伝えた英語のCastleと
イギリス南東部海岸沿いのノルマン様式の城郭

3. アランデル城 Arundel Castle  
4. ペヴェンジー城 Pevensey Castle

5. ヘイステイングズ城 Hastings Castle

6. ドーヴァー城 Dover Castle 7. ルーイス城 Lewes Castle 
8. ノッテインガム城

9. ロンドン塔 Tower of London

ノルマン様式の城郭巡り
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皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

終わり

≪追記≫  『最後のイギリス旅行1〜5』の掲載が終わりました。竹本さん本当にありがとうございました。知らないことが多く、改めてイギリスの奥の深さを思い知らされました。
 竹本さんには2年前、入会された際、『世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」』を執筆して頂きました。今回、そのPDF版も添付しました。改めてご覧になって頂ければ……と思っています。(編集人)
世界遺産「グウイネッズ地方のエドワード1世の城郭と市壁」 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
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最後のイギリス旅行−番外版
米国黒人差別事件のイギリス版
竹本修文(37回) 2020.06.09
 以前、リバプールの奴隷産業の投稿をしましたが、その時に引用したブリストルの奴隷産業のリーダーの銅像破壊事件が起きた記事を見たので、急遽投稿しました。
 KPCの皆様にどれだけ意義があるかは分かりませんが、リバプールより数十年早く王家とつるんで稼ぎまくってきたブリストルの奴隷商人の銅像が市民の反対を無視して立ってきたのも驚きです。

米国黒人差別事件のイギリス版

米国黒人差別事件のイギリス版 PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)

竹本さん
 実にタイムリーな寄稿です。4月に読ませていただいた「リバプールと奴隷産業」の衝撃が薄れていないので、銅像破壊事件に関する原稿を興味深く読ませてもらいました。
 昨今は、上から下まで「金だけ、イマだけ、自分だけ」 にしか興味が無い「3だけ族」だらけですが、幕末の巨人たちは違いましたね。危機感・緊張感を持っていましたから。
 坂本龍馬、西郷隆盛、勝海舟、吉田松陰、佐久間象山、横井小楠・・・ご存じのように、みんな金儲けとは無縁で、先を憂い、視野が広くて世界に目が開いていた愛国者でした。もし、彼らが志半ばで憤死していなかったら(海舟だけ長生き)、明治以後の歴史はずいぶん違ったコースをたどっていたでしょうね。
 麻布学園には課外授業(選択)でアフリカ学講座がありますので、担任の先生(ガーナ高校生交流にも熱心)にKPCホームページの奴隷産業記事を紹介したいと思っています。
公文敏雄(35回)(2020.06.09)

竹本修文様
 この事件、朝日新聞では昨日(6月8日)の夕刊で、写真入りで報じていました。竹本さんの奴隷貿易の歴史レポートを思い出しながら、記事を切り抜きました。
 新聞部時代以来の、興味ある記事の切抜きは、ほぼ70年近く細々と続いています。
 ご参考までに、記事を添付します。(記事の無断転載はできません)
中城正堯(30回)(2020.06.09)

中城さま
 早速のレスポンスに感謝します。娘の命日で家族が密かに3蜜状態で、朝日の夕刊を見落としました。はい、確認しました。
 ブリストルの事は日本では余り関心がないと思っていたから昨日は見なかったかもしれません。今日は、New York Times には出ていませんがJapan Times には出ていましたので添付します。賛否両論あるようですね〜?
 リバプールの市議会で2006年に通りの名前をPenny Laneから他の名前に変える議案が出されたが、「恥だから・・・・とかでなくて、歴史の事実だから」という理由で廃案になった事を冒頭に書いたと思いますが、ブリストルでも同じ議論があったようです。
公文さま
 麻布学園の事は昼食会で伺った事を思い出しました。先生に是非ご紹介ください。
竹本修文(37回)(2020.06.09)
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最後のイギリス旅行−番外版
ボルドーの「残酷な歴史の回想」
竹本修文(37回) 2020.07.02

筆者近影
 筆者は、本年4月27日に「リバプールと奴隷産業」を投稿し、アメリカのミネアポリスでの白人警官による黒人の殺害事件をきっかけに始まった#Black Lives Matter運動と同様の運動がイギリスのブリストール市でも起きた事に関して、6月9日に「米国黒人差別事件のイギリス版」を投稿した。
 ハッシュタグ#Black Lives Matterは、2013年にフロリダで起きた、黒人少年のトレイボン・マーティンが白人警官のジョージ・ジマーマンに射殺された事件でSNSに発信されて以来、2014年、2015年と何度も同様の事件の度にSNSで発信されてきたが、今回は世界中に拡散しており、ニューヨークタイムズ国際版(The New York Times, International Edition)は6月27日付で,イギリスの保険会社ロイドLloid’s of Londonなどの企業名と共に奴隷貿易に関わった記事を掲載し、ロイドが初めて海上保険(marine insurance)業務を始めたのは奴隷貿易だった事を公表すると共に、奴隷の子孫たちに何らかの償いを考えている、としているが、金をいくら出すとか、具体的な事は何も公表しておらず、中身がないので、投稿しなかった。
 続く6月28日には、同じニューヨークタイムズ国際版が、フランス・ボルドーの「残酷な歴史の回想」(Remembering a brutal history )の表題で、2面に亘って特集しているので、KPCに紹介する。ボルドーの奴隷貿易の事は「リバプールと奴隷産業」でも触れたし、KPC編集人の藤宗さんの5月8日の投稿「ワインの貯蔵と飲み頃」の中で、彼が所蔵している「ボルドー1855特級格付けのワイン」の飲み頃に関して、私がウンチクと共にアドヴァイスした事が記載されている。ワインとワイナリーで世界に知られた中世以来の城郭都市ボルドーの繁栄の裏には、奴隷貿易が支えていた事実があまり知られていないので、紹介したくて新聞に書かれた記事から離れた感想なども加えて投稿する。イギリスの城郭の話も未完ですが、これも後日に残します。

 今日の新聞には、新たな#Black Lives Matter の記事は見当たりません。ただし、ニューヨークタイムズは、過去10年間に黒人が白人警官に同様な窒息する逮捕で、本人が「息ができない!」と叫びながら死んだケースが少なくとも70件ある。と報じている。

New York Times (Thursday,JULY 2,2020)
 昨年の夏Byron William 氏は、ラスベガスで無灯火の自転車を運転していて、複数の白人警官に手と膝で道路に押さえつけられ、「息ができない!、I can’t breathe」、と17回叫びながら死んだ。
 2014年には、Eric Garner氏は、ニューヨークの歩道で税金を払ってない闇のタバコを売っていて、警官に背後から首を絞められ死亡した。そして先日のジョージ・フロイド氏もI can’t breathe!と叫びながらしんだ。
 写真は、Eric Garner氏の母親のGwen Carr 女史で、テキサス州ヒューストンで行われたジョージ・フロイド氏の葬式に出席し、黒字に白文字で「息ができない!、I can’t breathe」と書いたマスクをしていた。


ボルドーの「残酷な歴史の回想」

第1章 ボルドーの「残酷な歴史の回想」

(Remembering a brutal history )

第2章  その他ボルドーの情報
1. アキテーヌ州立博物館

図2 ボルドー地方のワイン産地
図3.中世の城郭都市ボルドー

3. 図3 ボルドーの市街地図

ボルドーの「残酷な歴史の回想」
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日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある
竹本修文(37回) 2020.08.27

筆者近影
 2020年6月12日付のNew York Times International Editionに、「Some Japanese whiskies are’t from Japan(日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある)」というショッキングな見出しの記事があり、切り抜いてあった。日本酒とワインの生活に変わったが、スコットランドのウイスキー街道をドライブしながら蒸留所を訪ね歩いた事もあり、また、日本のウイスキーがバカ高くて買えない程になり最近の事情を知りたくて投稿する気になりました。New York Timesの記事原文は、次のURLを訪問してください。 https://www.nytimes.com/2020/05/29/dining/japanese-whisky.html

日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある

記事の執筆者:クレイ・ライゼン
記事に登場するウイスキー評論家:土屋 守

日本ウイスキーとは一体何なの〜?

日本で消費せずに、Japanese Whiskyとして瓶詰

日本産のウイスキーの中には、日本で作って無いものもある
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お酒談義−1
ウイスキーにも造詣が・・
竹本修文(37回) 2020.08.27

筆者近影
「ウイスキーにも造詣が・・」と言われると恥ずかしいが、煽てられるとすぐに、その気になるので、ウンチクや思い出話を書いてみます。
1.ウイスキーの歴史
@ 蒸留技術は、紀元前に現在のイラク・シリアを含むメソポタミア地方で始まったもので、元々は香水など香料を作る時に使われていました。西暦100年頃のギリシアの哲学者が、海水を飲料用の真水にするために蒸留技術を使った事が記録されているが、アルコール飲料については記載がありません。
A 中世(500-1500)前期になると、北アフリカのムーア人(土着のベルベル人とアラブ人の混血)が蒸留技術をヨーロッパに伝え、キリスト教徒が儀式で使う液体や子供の腹痛や天然痘の治療薬として活用したそうです。イタリアで修道士がブドー液を蒸留して麻酔薬を作っています。
B 中世後期1250年にイタリアの修道士が、ブドー液を蒸留したアルコール飲料を作り、ヨーロッパ各地に伝えました。現在のイタリアのグラッパみたいでしょうか?若しかして、ブランデーの元祖かもしれません。ブランデーはフランス語ではEau de vie(オードヴィー)即ち、「命の水」です。
 修道士はアイルランドとスコットランドの修道院にも持ち込みましたが、アイルランドもスコットランドも緯度が高くてブドウが育たず、代わりに穀類を原料にした蒸留酒を作りました。ウイスキーの誕生です。アイルランドもスコットランドも種族は異なるが、ケルト人が作った国であり、ゲール語の種類の言語を話している。そして、アイルランドのゲール語ではウイスキーの事をWhiskeyの原語であるUisce Beatha,(Usquebaughウスケボー)と言う、これも「命の水」という意味である。
C 16世紀以降の近代に、イングランドの400年間植民地にされたアイルランドは、大勢がアメリカに移住しウイスキーを製造したが、1920〜30年の禁酒法で衰退した。19世紀末に30か所あった蒸留所は現在3か所だけである。スコットランドはケルト系ピクト人とアイルランドから移住してきたスコット人の国で、ピート(泥炭)に恵まれてシングルモルトで現在まで栄えている。イングランドは北ドイツから移住してきたアングロ・サクソン人が中心で作られた国で、ビールが中心である。正式な食事では、食前酒としてウイスキーを飲むが、食事ではワインである。アメリカはピューリタン(清教徒)が中心になって作った国で、禁酒法も経験したが、バーモンと共にウイスキーは飲まれている。
2.思い出話
@  ハイボール
 小学校時代には、テレビ放送はなくて、ラジオを聞いていましたが、親が聞いているラジオ・ドラマで、ハイ・ボールを格好よくオーダーし、飲み干すシーンが印象的でした。あれは何だろうと思って聞いていましたが、その20年後位から頻繁にアメリカへ出張するようになり、ヒューストンの東芝の工場で現地人に、「High Ballという飲み物は何か?」と聞いたら、知っている人がいて、「禁酒法以前の蒸気機関車時代の給水所にあった高いポールに赤い大きなボール玉がぶら下がった信号機が語源」,「中身は、ウイスキーやバーボンをソーダで割ったカクテル」だったそうだが、「信号のボールが高く上がった状態をみて、係員が飲んでいたカクテルを一気に飲んで給水所へ行った」とか?良くわからなかった。イギリスでは、whisky and sodaと呼んでいる。
A 水割りScotch and water
 食事と一緒にウイスキーを飲むのはスコットランド人と日本人のようで、ヨーロッパでは、食事の時は食前酒として飲まれている。 ウイスキーの飲み方は、ストレート、オン・ザ・ロック、ウイスキーと水だけの「水割り」で、日本の氷と水で割った水割りは、日本でしか飲めない。ロンドンのオランダパークという公園内にベルベデーレ(The Belvedere)というレストランがあり、食前酒のリストの中にスコッチウイスキーを120種類そろえ、水割りを希望すると120か所の蒸留所の水を用意していて、客がお好みで水で割る仕組みだった。日本からウイスキーフアンが来ると、夕食はここと決めていた。 https://www.timeout.com/london/restaurants/belvedere
B 小説家 山田風太郎
 親戚でロンドン駐在中に1か月我が家で生活した。
 サントリーの佐治敬三が執念で作った個性あるシングルモルト・ウイスキー「山崎」を作ったのが1980年代だったと思うが、山田氏は1983年にロンドンに来た時に山崎を持参してきた。スコッチウイスキーの種類もよく知らない頃だったので、私は初めて見た日本製シングルモルトウイスキーをありがたくご馳走になった事でした。
 外で食事をすると、食前酒には、珍しいシェリー、ベルモット、ジントニック・・・と各種飲みましたが、食事中は料理が何であってもウイスキーを好み、オン・ザ・ロックと水差しで水道水(tap water)をオーダーした事でした。
 その数年後、山田氏は有名雑誌の対談に出て、司会者から「ウイスキーがお好きだそうですね〜?」と聞かれて、「私は、家と車以外で日本企業に一番金を払ったのは、サントリーです。ダルマ(サントリー・オールド)を三日に一本飲んでいます。」と答えたら、サントリー広報部からダルマが1ダース送られてきた事でした。
C 私は;
 高校時代はマジメだったので、酒を初めて飲んだのは、大学1年のコンパでした。この頃にビールの自動販売機が登場したが、あまり普及していなかったと思う。
 高知と東京の列車では、ポケットサイズのウイスキーをチビチビやっていた事でした。東京オリンピックの頃にワンカップ大関が発売されて日本酒になりました。
 結婚した頃に家でウイスキーをチビチビ始めたが、ダルマは高くてブラック・ニッカか角瓶でした。自宅で日本酒の晩酌を始めたのは、貧しかったので30歳以降だったと思います。
 切りがないので、今日はこれまでです
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お酒談義−3
竹本修文(37回) 2020.08.27

筆者近影
中城さま
 コメントを頂きまして、感謝申し上げます。
●ジョニ黒:中城先輩の海外旅行は、ジョニクロ10本とか、兼高かおると一緒とか、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世に接見するとか、すごいですね〜! 
 私は、1966年入社時の初任給が24,008円でした、高度成長で毎年15%昇給し、入社5年目で2倍になり、それでも48,000円の時代ですが、ジョニクロは1万円でした。海外出張から帰った先輩から、飲みかけのボトルをありがたく頂いた事でした。学生時代に友人と飲んだのは、トリスでした。赤玉ポートワインと同じ会社が売っていたと思います。懐かしいですね〜?
●1981年にロンドンに駐在した時は、イギリスに4回目の訪問でしたが、「ウイスキーの国と思っていたイギリスには、England, Scotland, Wales, 北Irelandと、四つのNationがあり、イギリス或いは英国と言っている国は、民族・言語・宗教等ではなくて歴史を勉強しなければ理解できない、日本で教わった国とはかなり違う」と感じた事でした。
●会社の近所に歴史的にも有名なパブPUB(Public Bar)があって、現地従業員の若者を連れておごった事でしたが、ウイスキーもワインもあるのに、周囲は全員がエール・ビールを飲んでいる。女性はワインと決まっていた。
 エール・ビールは最近では日本では、クラフト・ビールとか称している。
 日本には、チェコや隣のバイエルンのラガーと称する「冷やして飲むビール」が一般的ですが、ドイツ連邦共和国では構成する16の国(ドイツ語でLand,ラント)毎に全ての法律が定められていて、今でも例えばドイツの文部省は無くて、16のラントごとに教科書も授業時間も夏休みも違っています。
 我々には、「16もの国があって大変だ」と思うが、元々神聖ローマ帝国で、ナポレオンに負けて解体した時には、320ほどの国(?)に分かれていたので、320から16に減ったと思えば理解できます。
●そうですか、東京のアチコチデ行ったウスケボー(ゲーリック語で命の水)という店はニッカですか。
●Scotlandは駐在中には仕事でしか行かなかったのですが、娘がイギリスの国立大学に入り、ロンドンの教養課程のあとスコットランドのグラスゴー大学のインテリアデザインのマッキントッシュにはいり、レンタカーでハイランドウイスキーの聖地、ハイランド・ウイスキー・街道を巡りました。スぺイ川の水がピートで褐色でした。
 安倍さんが退陣して大騒ぎなので、今日はこれで終わります。
 何方か、酒に関してチャレンジして頂ければ、嬉しく思います。
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ペスト
竹本修文(37回) 2020.09.10

筆者近影
●濱崎先輩のお誘いで、「お酒を飲む目的」で3年前にKPCに入会した37回の竹本修文です。コロナのお陰で何もかも中止になり、目的が未達でモヤモヤしている毎日です。
●コレラ騒ぎは北里柴三郎の活躍記事で知った事ですが、「中国などを航海していたドイツやオランダの船が長崎などの大きな港に運んできた」ような事を覚えています。
●これとは別に、ヨーロッパ史を勉強するとペスト(=ドイツ語、英語ではPlagueですが、一般にはBlack-death黒死病と呼ばれている) がまん延してウイーンのペスト記念柱のようなモニュメントが各地にあります。
 ロンドンのSaint Bride 教会に隣接した(正式名は忘れました、17世紀の死体捨て場)集団遺骨集積所は17世紀のペストのパンデミックの死者の遺骨をガラス張りの部屋にゴロゴロ放置しています。Black Death と言うカラー写真と絵入りの優しい英語の(気持ちの悪い)本を持っていますので、興味がおありの方にはお貸しします。
●ペストは、黒海から船で移動したネズミが媒介した事で、ヨーロッパの港町では猫を大事にしました。NHKの「岩合さんの猫歩き」を見ているとペストの話が出てきます。
 ところが、ある時に高知県の歴史(山川出版)の年表を眺めていたら、1910年(明治43年)10月に、「県下にペストが流行する」と記載があり、
@ どこから、どうやって入ってきたのか?、
A 高知県のどこで被害があったのか?、
B 香南市を通っている国道55号に沿った平井山の海側に、「昔、疫病がまん延して、まだ息があっても焼いた」と言う場所があって近寄るな、と教えられました。
C あれは、どんな病気だったか?多分、コレラかペストだろうと思います。
D あの場所は何処だったか?知りたかったのですが、数年前に知人の葬式に行ったら、その場所と思われる場所に近代的な火葬場がありました。

 このような話は高知県の他の所にはないでしょうか?
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ヨーロッパ中世のペスト
竹本修文(37回) 2020.09.10

ヨーロッパ中世のペスト
●先ず始めに、前回のメールの記述に補足をさせていただきます。
 添付した「ヨーロッパ中世のペスト」をご覧ください。「Black Death と言う、カラー写真と絵入りの優しい英語の(気持ちの悪い)本を持っていますので、興味がおありの方にはお貸しします。」と記載しましたが、どなたからもご要望がありませんので、気持ちが悪くならない部分をコピーして貼り付けてあります。
 ウイーンのシュテファン寺院近くのペスト・モニュメントの写真も貼り付けました。
●「中城文庫」の事は以前からお伺いしていましたが、改めて高知市民図書館の特設文庫のところを眺めてみました。素晴らしいですね〜?展示は9月22日までですね〜?
 竹本家のお墓は香南市霊園公社が管理する香南市役所近くの公園墓地の中にあり、毎年お彼岸の頃に公社主催の無宗教の墓前祭が行われますが、今年はコロナで中止になりました。親戚もみんないなくなり、高知は遠くなりました。
 3年前に墓前祭に行ったときに、山形県出身の家内をお城へ連れて行き、大学入試前に通った市民図書館へ行ってみようと思ったら、移転して近代的になっていて驚いた事でした。

ジェンナーの銅像の前で
Gloucester聖堂にて
●コレラもペストも記載があるのですね〜!ただ、ペストの発症に関しては、図書館を訪問してじっくり調べる必要がありそうですね。ま〜そこまでは今はむりですが。
●土佐種痘の元祖がいるのには驚きました。
 2010年にアーサー王の伝説のゆかりの地や、中世の城や、温暖化のお陰で栄えているワイナリー巡りでイギリス南部をドライブしました。その時に、バークレー城の隣に天然痘のワクチンを開発したエドワード・ジェンナーの博物館があって訪問しました。この辺の農場で乳しぼりの女性に天然痘の患者がいない事に気が付いて、研究してワクチンを開発したのでしたので添付します。
●近くのグロースター聖堂にノルマン朝のウイリアム征服王の長男が埋葬されているので、見に行ったら、ジェンナーの大きな銅像があって、記念写真を撮りました。
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お酒談義−9
ビールの話 
竹本修文(37回) 2020.10.08

ビールの話 

1. ラガービール発祥の地ピルゼン 2.チェコの歴史をチョッピリ

3.ビールの歴史をチョッピリ 4.エールビール

5.ラガービール  6. ピルスナービール 
7. 銀座のビアホール・ピルゼン 

8. 横浜のビール物語 キリンビール横浜工場

9. その他雑談 イギリスの国会議事堂の中
What the Dickens!  トルコの実態

フランス・ロマネスク建築の15日間

ビールの話 
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スコットランドのハチ公
竹本修文(37回) 2020.10.08
中城 様
 貴重な情報をありがとうございます。
 スコットランドの情報は少ない中で、「スコットランドのハチ公」とは珍しいですね〜!娘がいたらさぞ喜んだ事と思います。
 イギリスの資料は特に検索しやすく整理してファイルしていますので、頂いた資料を多少読みやすいサイズに編集してみました。先方から日本へ送ってきたのだから、英語のサイトに何か掲載されていないか、検索したら、両国のハチ公の記事は沢山でております。
 渋谷のハチ公の銅像にはずいぶん前から外人旅行者撮影の為に行列していましたが、英語の情報力ですね〜?URLを貼り付けておきました。御覧ください。

毎日小学生新聞

スコットランドのハチ公

スコットランドのハチ公
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フランスの城郭シリーズ 1
ガロ・ローマン時代のパリ  
竹本修文(37回) 2021.01.25

筆者近影
  2019年9月は7年ぶりにイギリスを約1か月旅行し、「最後のイギリス旅行その1〜5」の5本を投稿した。それらを書きながら、イギリスよりはフランスに多く行ったので、20年はフランスに最後の長期フランス旅行をして、KPCにシリーズで投稿しよう」と、秘かに考えていたが、旅行そのものが不可能になり、77才の今では数年先にコロナが終息する、と言われても個人旅行はむりかな〜? 08年のフランス旅行が35回目で最後になる可能性が確実になりそうである。


ガロ・ローマン時代のパリ  

パリ2000年の歴史地図

1.?はじめに

2. ガロ・ローマ時代のパリ Gallo-Roman Lutetia

パリシー人の町

シテ島

3. クリュニー浴場 Cluny Bath
4. ローマの円形競技場

ガロ・ローマン時代のパリ  
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フランスの城郭シリーズ 2
〜 フランク王国メロヴィング朝まで
竹本修文(37回) 2021.02.07

筆者近影
 1月に投稿した、フランスの城郭シリーズ 1 「ガロ・ローマン時代のパリ」の最後の予告に従えば、フランスの城郭シリーズ2は 「ゲルマン人一派のフランク人中心の城郭都市パリ」 となるが、城郭の話は、建物だけでなく、時代背景や物語が重要なので、今回は、その辺の歴史を少し詳しく説明する。東方からのフン族の侵攻、ゲルマン人の大移動、西ローマ帝国の崩壊、アラブ人の侵入、などを経て、ゲルマン人の一派のフランク人がガリアでフランク王国のメロヴィング朝を建国する約400年の話です。
 コロナと戦っている皆さんが、1000年以上前のヨーロッパの歴史の記事に興味を持ってくれるのか?大いに疑問ですが、これまでの自分の勉強の復習を兼ねて、あと何回か投稿しようかと思っています。

フランク王国メロヴィング朝まで

はじめに 1. 「ガロ・ローマン時代のパリ」以降のガリア(フランス)  @ゲルマン人の大移動

A キリスト教

B フン族の侵入
Cアラブ人の侵攻

2.メロヴィング朝(481~751) 
@クローヴィスの生誕地 トウルネ

Aメロヴィング朝時代のフランク王国

DランスReims

Eパリ

徴税請負人の壁(Farmers-General Wall)

フランク王国メロヴィング朝まで
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リール 〜 トウルネー
竹本修文(37回) 2021.02.07
西内さま
 素晴らしい美女に囲まれた写真が一番良いですね〜!私はほとんど一人旅です。
 Tournaiの時は、電車が踏切で車と衝突して、バス輸送されて予定が狂いました。家内と南仏を旅行した時も、交通ストでマルセイユの歴史地区を歩き回ったり、大変でした。
 トウルネの時の写真、重いので、アルバムから何枚か外して7MBにしましたが届くかな〜?昼間から一人で宴会をしている写真です。

トウルネー

6日 リール 〜 トウルネー

リール郊外、トウルネー

白アスパラの卵料理、フィレステーキ

ノートルダム大聖堂

トウルネー
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フランスの城郭シリーズ 3
フランク王国からフランス王国の始まり
竹本修文(37回) 2021.02.18

筆者近影
 「フランスの城郭シリーズ1」を投稿する前には、パリにある、ローマの要塞と5つつの市壁で、「城郭都市パリシリーズ」でやろうと思ったのですが、建設のステージごとに数十年〜数百年間隔があり、時代背景の説明が必要なので、「フランスの城郭シリーズ」に表題を変えて、パリ以外の周辺の事情を入れることにしました。
 読者にとっては良い事ですが、始めて見ると、フランス史に興味がない会員もいる筈で、努力はしていますが、苦労しています。
 西内さまから、貴重な写真をいただきましたので、原稿の第7項Aに2枚使わせていただきました。

フランク王国からフランス王国の始まり

1. フランク王国メロヴィング朝とクローヴィス死後の分割

2. フランク王国カロリング朝

3. イギリス・プランタジネット朝
4. イギリス・プランタジネット朝のフランス側の城郭

アンジェAngers、 ル・マンLe Mans

5. フランス王権の回復

6.フィリップU世オーギュスト(尊厳王)

7. フィリップ・オーギュストの市壁の周辺を訪ねた

8. フィリップU世オーギュストの(尊厳王)の事、
9. 雑談

フランク王国からフランス王国の始まり
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竹本大兄
 素敵な奥様で一向に邪魔なことはありませんが、表示プレート入りの写真もあります。
 ご一緒で羨ましい限りです。小生は何時も乍ら連れの連中がムーランルージュに出掛けている合間での探訪です。
 パリは7度に亘って城郭が拡大していますので、城門もあちこちにあって退屈しませんね。
 次回は世界遺産の城郭が並ぶロアールでしょうか。

フィリップ・オーグストの市壁
(Village St-Paul)

表示プレートが写っていて,
Reste de L’Enceinte Philippe Auguste Xll Siecle
(12世紀のフィリップ・オーギュストの城壁の残骸)


サンマルタン門 (Porte Saint-Martin)

サンドニ門 (Porte Saint-Denis)
西内(30回)

竹本さん
 いやー健筆ますます振うですね。歴史年表を座右において読むほどに、
 フランクからフランスへの流れの中で、王朝の目まぐるしい変遷に驚かされます。
 史蹟もたくさん残っているようで、パリはいろいろ勉強してから観光すべきでした。
 ご労作に敬意を表します。
公文(35回)

公文さま
 ありがたい、コメントを嬉しく思います。
 元々パリの城壁/市壁だけを調べようと思いついたのですが、ローマ時代から始まるので、パリに限定したら、何のための市壁なの?敵はだれ?市壁の中の市民迄変わるのだから難しい。
 深みにはまったな〜?と感じています。
 シリーズ4は百年戦争時代になって面白いけど、フィリップ・オーギュストと言えば、イギリスの欠地王とあだ名され、マグナカルタにサインさせられた王ジョンに勝ってフランスが領土を回復した、ブービーヌの戦いの話を忘れている事に気づいたので、まだまだ時間がかかりそうです。
 イギリスにいる時に息子が中学に上がり、歴史の授業が難しくなって、色々聞かれたが、「何も答えられなかった」ことが原因で勉強し始めて、生涯学習のグループに請われて講師をしたりしたのですが、今回の内容は経験があなく、コロナのお陰で時間があるからできるのでした。
 ま〜?どこまでやれるか?お楽しみです。
竹本 修文

西内様、竹本様
 フランスの城郭都市、思いがけない街中の城壁遺構など楽しく拝見しています。ヨーロッパの歴史・城郭に疎い人間として、基本的なことも理解出来てないので、
 例えば、城門と凱旋門との違い(目的・歴史・構造)や、なぜヨーロッパでは城壁都市・凱旋門が発達したか、時代による特色は(以前藤宗先生に聞いた気はするが)など、遺構の見方にも、触れていただけると有難いです。
 このところ、協会の会報に「首里城大龍柱」の原稿を書くよう依頼され、それにかかり切りだったので、竹本さんのフランス城郭シリーズも読む間がありませんでした。協会の会報も、西洋城郭の記事が少ないので、いずれ発表ください。
中城(30回)

城郭関連用語
中城さま
 面白いコメントをありがとうございます。
1.城郭、城郭都市、凱旋門、市壁、城壁、城門、王宮、
@ 広辞苑
   ・城郭   :城とくるわ、城の廓 特定の地域を外敵の侵攻から守るために施した防御施設
   ・城郭都市:周囲を城壁や土塁で囲んだ都市。
   ・凱旋門 :軍隊の凱旋を歓迎し、戦勝を記念するために公園や主要な道路に設けた門
   ・市壁:なし
   ・城壁: 城の周囲の壁・塀・石垣
   ・城門:城の門、城の出入り口
   ・王宮:帝王の住む宮殿
A ブリタニカ国際大百科事典
   ・城郭 : なし
   ・城郭都市:なし
   ・凱旋門: Triumphal arch, 古代ローマ時代に戦勝の皇帝または将軍をたたえるため、
          あるいは政治的事件を記念するため建造されたアーチ門の建造物。
   ・市壁:なし
   ・城壁: なし
   ・城門:なし
   ・王宮:なし
B ジーニアス和英
   ・城郭 : castle (日本城郭協会はJapan Castle Foundation)
   ・城郭都市:なし
   ・凱旋門 : triumphal arch, arch of triumph
   ・市壁:なし? (英語ではcity wall があるので市壁は使われる)
   ・城壁: rampart , castle wall
    Oxford の英英辞典にはRampart= a high wide wall of stone?or earth
    with a path on top, built around a castle, town, etc.to defend it
   ・城門:castle gate
   ・王宮:royal palace

2.凱旋門
@ エトワールの凱旋門
 大きな道路が環状交差点で交わっており、上空から見ると「お星さまetoileエトワール」みたいだから、エトワールの凱旋門と呼ばれているが、ナポレオンの凱旋門ともいう。
 1805年にナポレオンがオステルリッツの戦いに出発する時に、「凱旋門を通って帰還させる」約束して、軍隊を鼓舞した、が帰還までに完成しなかった。1840年にナポレオンの葬列がくぐった。第1次世界大戦終結時に連合軍がくぐった。
A 凱旋門の始まりは、古代ローマ帝国。
 数えきれないほど沢山ある。私が好きなものは、ローマ・フォロロマーノのコンスタンティヌスの凱旋門が史跡として貴重である。凱旋「門」となってはいるが、古代ローマでは都市城壁や城門とは独立して建てられた記念碑的建造物であった。

3.ヨーロッパ史に関しては、調べたい事が山ほどありますが、最近は、ロイターで東京のデスクになっている愚息が、色々聞いてきて、ただで協力していて、もう時間が足りなくなりました。とりあえずは、フランスの城郭か城郭もどきをしあげます。
竹本 修文
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飛行機故障の経験
竹本修文(37回) 2021.02.18

 頻繁に飛行機に乗ると危険な事も多々経験しました。
 1970年代に沖縄返還関連事業で何回も沖縄に行きました。ある時に、台風が接近しているときに、JALのジャンボが那覇空港に着陸時に尻餅着陸になり、シートベルトが緩かった乗客が天井に頭をぶつけたり、手荷物が散乱したり、悲鳴声が響きました。その5〜6年ごろだったか、JALのジャンボが御巣鷹山に衝突しました。
 原因が「ボーイングが尻餅事故の修理をした時のミス」と分かったとき、いや〜な予感がしたが、思い出したくなかったので何年も黙っていましたが、ある時に部下の一人と飲んでいた時に、「あれは俺が乗った飛行機のような気がする」と漏らしたら、どこかで調べてきて、「その通りでした」と言われました。やはり、いや〜な気がしました。確かめる気にもなりません。
 同じマンションで、JALのパイロットと家族付き合いをしていますが、この話だけはしません。
 飛行機が故障して緊急着陸したことも2回あります。
 二回目はロサンゼルスからヒューストンへの一人旅の時で、カメラで撮影したので添付します。
 1982年だったか、トルコのアンカラ空港乱射事件の直前に、小銃を持った兵隊に追い立てられるようにして、飛行機にのった時も緊張で震えました。

緊急着陸
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フランスの城郭シリーズ 4
シャルル5世の市壁
竹本修文(37回) 2021.03.02

筆者近影
 今回は、シャルル5世の城壁に集中できると期待したのですが、WORD文書と写真でe-mailで送るのは、5MB〜8MBと思いますので、出来るだけウンチクよりは写真を多くと思って作ったのですが、中身が完結していないのに、既に7.3MBです。
 パリの城郭ではないので、止めたが、気になるのは、十字軍のこの時代に、カルカッソンヌを舞台に、カタリ派を狙ったアルビジョア十字軍と、アヴィニヨンを舞台にローマ教皇をフランスに取り込もうとした事件などがあり、どうするか考えてみます。
公文さま
 何分にも、英国史の中でイギリスの教科書もシェークスピアも書きたがらない百年戦争の真実を知りたくて、一人で百年戦争のゆかりの地を鉄道旅行した時に、ついでに訪問した写真を使っているので、十分ではありませんが、「自分の整理の為にKPC投稿サイトを使わせていただいている」のが正直なところです。脱帽しないでください。
 所で、私はテキサス・ヒューストンには東芝の子会社があって、頻繁に行った事ですが、隣のルイジアナ州・ニューオリンズとミズーリ―州・セントルイスに行くたびに、両州とも元々はフランス領だったので、ニューオリンズは綴りではNew Orleansから想像すると、フランスのオルレアンと関係がある人たちが作った町かな〜?セントルイスはSaint Louisフランス王ルイ9世と何か関係があるのかな〜?とか思ったことです。何かご存じありませんか?

シャルル5世の市壁

1. 仏王フィリップU世オーギュストの領土回復戦争

フィリップUオーギュストの領土政策

イングランド王ウイリアム征服王の居城 カン城(Caen Castle)

2. 聖王ルイ9世(b1214-a1226-d1270)

3. 百年戦争  イングランド側の拠点カレーCalais

イングランド王ヘンリー五世 (b1387-a1413-d1422)

4. シャルル5世の市壁 

三つの門(モンマルトル、サンドニ、サンマルタン)

サン・ドニ門から南西に向かう市壁の部分

シャルル5世の市壁
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竹本さん
 えー なぜ小生に?
 御下問に関してはまったく知識がありませんが、ネットで検索すれば答えがみつかりますよね。
 せっかくですから試みてみました。ワードを添付します。
公文 (2021/03/02)
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 About St. Louis | History (stlouis-mo.gov)
 A Brief History of the City of St. Louis
 Indigenous People Early History: pre-1764
 The area that would become St. Louis is located on the traditional, ancestral, and unceded territory of the?Illini Confederacy?[en.wikipedia.org],?a group of 12?13 Native American tribes in the upper Mississippi River valley of North America. The tribes were the Kaskaskia, Cahokia, Peoria, Tamaroa, Moingwena, Michigamea, Chepoussa, Chinkoa, Coiracoentanon, Espeminkia, Maroa, and Tapouara. At the time of European contact in the 17th century, they were believed to number in the tens of thousands of people, with the Grand Village of the Illinois alone having a population of about 20,000.? By the mid-18th century, only five principal tribes remained: the Cahokia, Kaskaskia, Michigamea, Peoria, and Tamaroa. [see reference?[en.wikipedia.org]]
 The indigenous people in the area built numerous temple and residential earthwork mounds on both sides of the Mississippi River.? Cahokia Mounds being the regional center.? The many major earthworks within St. Louis boundaries earned the the city the nickname "Mound City". These mounds were mostly demolished during the city's development.
 European Settlement: 1764-1803
 Pierre Laclede Liguest, recipient of a land grant from the King of France, and his 13-year-old scout, Auguste Chouteau, selected the site of St. Louis in 1764 as a fur trading post. Laclede and Chouteau chose the location because it was not subject to flooding and was near the confluence of the Mississippi and Missouri Rivers. Construction of a village, named for Louis IX of France, began the following year. Most of the early settlers were French; many were associated with the fur trade. St. Louis transferred to the Spanish in 1770, returned to France under a secret treaty with Napoleon and, following the Louisiana Purchase of 1803, became part of the United States. According to legend, on the day of transfer of the territory to the United States in 1803, St. Louis flew under three flags in one day--French, Spanish, and American.
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 New Orleans - History | Britannica
 History of New Orleans
 Foundation and early settlement
 The decision to found New Orleans, or Nouvelle-Orleans, was made in Paris in 1717 by?John Law’s?Company of the West, which had taken control of?Louisiana?that year. The colony’s new proprietors?envisioned?New Orleans (named for the French regent,?Philippe II, duc d’Orleans) as a “port of deposit,” or transshipment centre, for future trade from upriver in the Mississippi River valley.?Jean-Baptiste le Moyne de Bienville, the man who suggested the site, was entrusted with the actual foundation of the city. Clearing of underbrush for the new city probably began in March 1718. The engineers charged with this task met with problems arising from uncooperative convict labour, a shortage of supplies, two severe hurricanes (in 1721 and 1722), and the unpleasant physical conditions of mosquito-infested swamps as they set up the first crude dwellings covered with bark and reeds. An engineer,?Adrien de Pauger, drafted the first plan for the town,?encompassing?what is now the Vieux Carre and consisting of 66 squares forming a parallelogram.
 
竹本大兄
 町田先生の世界史で記憶に残っているのは、フォルケルバンデルング、レコンギスタ、アンシャンレジームの耳新しい言葉でした。
 昨年は、コロナで休校の高2の孫の世界史の面倒をみたことでしたが、課題のメインは大航海時代と宗教改革でした。
 このような次第ですから、大兄の城郭シリーズは、小生のヨーロッパ史の空白を埋める上で大変興味深いのです。特に、城は歴史の語り部なのですから。
 
 ェグモルトの写真と平面図を添付させて頂きます。城郭の右手は港で、ヨットが並んでいます。前方は塩田になっていて、その先はカマルグです。

エグモール 城壁都市

(Aigue Mortes/FRA)1246 ルイ9世

Aigue Mortes/FRA PLAN

 聖王ルイは、第7、8回十字軍を先導しましたが、ヨーロッパ城郭史でも十字軍は貴重な役割を果たしていると言われております。
 それは、ゲルマンはローマの城郭を継承しなかったため、十字軍がアラブに遠征することによってローマの城郭を里帰りさせたということです。
 城郭を辿られるときには、この点にも留意されてはとお願いする次第です。
 フランスでは、カルカソンヌを見ずして死ぬこと勿れと言われる城郭ですから、また、アビニョンも「アヴィニョンの幽囚」と称されるように、7代69年の長きに亘り教皇を留めた城郭なので、パリ城郭に劣後することはありませんので、是非とも。
西内一(30回) (2021/03/02)
 
公文さま
●北米でお仕事をされていたので、何かご存じかもしれない、と思いました。何分にも、フランスは中世までしか勉強していないのです。
●ニューオルリンズの件、お陰さまで理解できました。オルレアンからの移民が多く集まったのかな〜?とか思っていました。百年戦争でイギリス軍に包囲されたオルレアンでしたが、ジャンヌ・ダルクの活躍で勝利し、以後、オルレアン公は表舞台にでたのですね〜?
●頂いた記事を参考にして調べたら、フランス王はルイ14世時代に最強になり、パリの宮殿に住まず、郊外のヴェルサイズに大宮殿を作ったのですが、1715年に76歳で逝去。晩年には子や孫に次々と先立たれ、後継者ルイ15世は5歳の子供だった。そこで、彼が未成年だった1723年までオルレアン公フィリップが摂政として政治の実権を握った。
●フィリップは、太陽王ルイ14世の独裁的政治の反動で、貴族政治の復活をはかり、国王と国王に忠実な少数の重臣によってすべてが取り仕切られるていた体制に変えて、摂政時代は王もヴェルサイユに住まず、パリに戻った。
●ルイジアナに移住したフランス人が王に代わって実験を握って政治を取り仕切るオルレアン公にあやかって港町の名前にオルレアンを入れたのですね〜?ニューオルリンズから北へはミシシッピ川でジャズなどの文化がシカゴに向けて運ばれていった。セントルイスも川の途中でフランス文化が感じられますね?サンドイッチのパンがフランスパン(バケット)ですね〜?
 ありがとうございました
竹本 (2021/03/02)
 
竹本さん
 少しお手伝いできましたかな・・・ 
 「オルレアン」はフランス人にとっては忘れてはならない語だとわかりました。
 バケットパン、大好きでずっと愛食?しています。
公文 (2021/03/02)
 
西内さま
 お城EXPOでお会いしたお孫さんですね〜?非常に良い印象が強く残っており、羨ましく思います。エグモルト周辺の地図を添付します。
 南仏の地中海沿岸の都市はローマ時代にできたものが多いのですが、今ではそのほとんどが機能しなくなっています。マルセイユの新港くらいです。私が頻繁に行ったモンペリエも海岸から遠くなっています。

エグモルト周辺の地図

 お尋ねしたいことがあります。
 フランス城郭シリーズ1の図1ですが、出典を記したとおり、白水社のクセジュ「パリの歴史」から引用したのですが、引用する時から疑問でした。
 「ルイ13世の市壁」と書かれていますが、パリをウロチョロした私には、市壁跡など見た事が無い、のです。
 当時の絵をめくってみても堀らしき様子があるだけです。
 同じ原稿の参考図2の英語版には壁とも堀ともかいていません。
 ご存じないでしょうか?
 現在はブールヴァードを呼ぶ大通りで、堀なら分かります
竹本 修文 (2021/03/02)
 
竹本大兄
 お手数お掛けして済みません。
 カマルグとは潟を意味する普通名詞と思いましたが、固有名詞なのですね。
 そのカマルグも遠望したことでしたが、数頭の白馬が観られましたよ。
 小生のパリ探訪は、お話ししましたように他の連中がムーランルージュに繰り出した間の僅かな時間でありましたので、大兄の探訪には及びも付きません。
西内 (2021/03/02)
 
西内さま
●Camargueの件、フランス語辞典で確認しました。大文字で始まるし、辞書にも、[固有]と書かれており、「フランス南部、ローヌ川下流のデルタ地域」と書かれています。
●ブリタニカ国際大百科事典には、英語で「lagoon=潟、砂州によって外海から隔離された海岸の湖」もあります。
●イタリア語では, lagunaが同じ意味ですが、スペイン語では同じつづりで、沼となるようです。全部ラテン語のlacusが語源でした。英語のlakeもスコットランド語のloch・・・・水が溜まっているところは全部そうらしいです。受験生のお孫さんが見るかもしれないので、キチンと確かめました。
●ルイ13世のパリ生活の場所は、家内の写真が写っていた、サンポール教会とフィリップオーギュストの壁の残骸がある所から近い所にあり、次回の投稿に入れると思います。
竹本 修文 (2021/03/02)
 
公文さま
●オルレアン公爵が未成年のルイ15世の摂政時代は良い時代だったようです。
●次回はルイ13世の壁か堀ですが、そこへ行くまでにパリを離れて「アルビジョア十字軍とカルカッソン」、アヴィニヨンをやります。なかなか、ルイ13世、14世に届きませんね〜?
●ヒューストンの話
 現地人労働者は日本がどこにあるか知らない、小学校の歴史は、「アラモの戦いなどでメキシコに対してヒューストンさんが勝利して初代のテキサス共和国大統領になった」とか、日本の事は大学へ行かないと教えてもらえない。
 食事はメキシコ料理の味、パンは隣のフランス領から来たのか、バケット
 昼飯は現地人とレストランに出かけてメキシコ味を付き合うが、夜は、日本食屋でししゃもで一杯やってキツネそばなどが上等
 帰りにサンフランシスコの支社により、中華。
 それでは失礼します
竹本 修文 (2021/03/02)
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フランスの城郭シリーズ  番外編 その1
城は歴史の語り部
竹本修文(37回) 2021.03.13

筆者近影
●フランスの城郭シリーズは、次回はシリーズ5で「ルイ13世の市壁」の予定ですが、本当に市壁だったのか?堀ではなかったのか?結論がでず、苦戦中です。
●一方、西内先輩から、「城は歴史の語り部」と教わり、パリの市壁・城壁と関係なくても重要だった城は他にもあるので、添付の「フランスの城郭シリーズ  番外編 その1」を作ってみました。ご検討ください
●「その1」としたのは、気が付くと、ヴォーバンの城が抜けているので、いずれ投稿する気持ちです。
●フランスの城郭シリーズ5 「ルイ13世の市壁」も諦めていません。大して資料がありませんのでルイ13世からテイエールまで全部まとめると思います。
城は歴史の語り部

歴史地図

1. 城郭都市ブーローニュ Boulogne

2. ロワール川の古城巡り  3. サンマロSaint-Malo

4. モン・サン・ミッシェルMont-Saint-Michel

5. 中世商業都市プロヴァン Provins

中世商業都市プロヴァン Provins

6. ローマ教皇宮殿アヴィニヨンAvignon

アヴィニヨンAvignon

7. カルカッソン Carcassonne

カルカッソン Carcassonne

カルカッソン Carcassonne

カルカッソン Carcassonne

城は歴史の語り部
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フランスの城郭シリーズ  番外編 その2
カルカッソンヌ・馬出し他
竹本修文、西内一、中城正堯 2021.03.15

 ルイ13世の城壁で悩んでいましたが、参考にしていた本などが間違っていた事を発見しましたので、城郭シリーズを再開しようと思っています。
 カルカッソンヌのコメントは「馬出し」とはなにか?調べなければご質問も分からない程度でして、添付資料に記載しました。何かお教えいただければと思います。
竹本修文
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竹本大兄
 「カルカソンヌにも馬出しがあったよ」と申した馬出しは、今回の地図で城からFOSSEを付きぬいて通路がBARBACANEに延びていますね。この構造を馬出しと呼んでいます。東日本では騎馬戦が多かったので武田流や北条流の馬出しが見られます。土佐などは騎馬戦は余り想定されていませんでしたので高知城は枡形でした。
 フランスの都市も殆どが城郭都市ですから、数が多く大変ですね。
 番外編も其の1とありましたので、機会がありましたら、拾って頂けたらと探訪した数城の写真とコメントをお届けさせて頂きます。
 なお、カルカソンヌの今回の地図には、この前は見付からなかった城の馬出しが見えますね。
 カルカソンヌの城壁は下部が中世のもので、上部はローマの城壁と異例の構造となっていますが、これの解説は藤宗先生にお願いしましょう。
西内一
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西内さま
なるほどー目的からして、馬出しですね〜!
 ここは、ルイ9世聖王が建設した部分だから十字軍最後の時代ですね〜?
 エグモルトは敵は海の向こうだから、馬出しは不要でしょうね
 勉強になりました。ありがとうございます。
竹本 修文
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竹本様、西内様
 カルカソンヌの「馬出」については、図面のみで写真が表示されないままだと、多くのKPCメンバーには理解出来ないかと思います。私は、1995年に一度訪ねただけですが、その際に購入したEB BONECHIの日本語版ガイドブック「カルカッソンヌ」に、「外堡」の訳語で分かりよい写真が掲載してありますので、参考までに添付致します。

写真1.

写真2.
写真1.城の東面を馬出から撮影したものです。馬出から石橋で結ばれた城門は堅固な二つの塔に囲まれています。塔屋の狭間や城壁上部の張出し回廊から、眼下の敵兵を射撃できる仕組みです。
写真2.城郭都市の街中に突き出た半円形の馬出です。敵兵がここまで攻め込んでも、城内の高所から一斉射撃を受けます。(出典のEB? BONECHI社のEは正しくは左向きです)
中城正堯
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中城 大兄
 とっても良い写真がありましたね。此れこそ一目瞭然。竹本君もご満足のことでしょう。
 小生も往時、同行の皆さんに「これは日本でいう馬出しですよ」と我が意を得たりと案内したことでしたが、何方も聴いておりませんでした。
西内一
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中城さま、西内さま
 馬出しの言葉は、小和田理事長の講演で初めて知りました。カルカッソンヌにもあるというのが分からなくて、質問したのですが、大勢を巻き込んでお時間を頂き、感謝に堪えません。
 私も、多分6回行ったと思いますが、資料は散らばっており、資料をじっくり見たのは初めてです。添付ファイルに討議の事を記載しましたので、お読みいただきたくお願いします。
 まだ問題がありましたら、コメントをお願いします。すっかり、ガッテンしましたので、以上で終了します。
カルカッソンヌ








カルカッソンヌ
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竹本 修文
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竹本様
 同じガイドブックを持っていたようで、了解です。
 小生も、最初にフランスに行った1970年に、パリで空撮写真家アラン・パーシバル氏を訪ね、彼からいただいた空撮写真集を引っ張り出してみました。カルカソンヌの見事な全景が出ており、馬出しもよく分かります。
 なお、樺山紘一監修『ヨーロッパ100名城』公式ガイドブックの前見返しにカルカソンヌの平面図が出ており「馬出し」も記載してあります。
 ぜひ『城郭ニュース』でも、ヨーロッパの城郭巡りを企画下さい。
中城正堯
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竹本大兄
 ガッテン、終了との連絡ですけれども、先に小生がご連絡した下記の「城からFOSSEを付きぬいて通路がBARBACANEに延びています」はまさに奥さんの写真であり、ナルボンヌ門ではありません。
 あるいは、「城から」との表記が分かりにくかったのではと思い、「城郭」の解説を添付しました。
 カルカソンヌは、「郭主城従型」と云えましょうか。
 これらは改めましてディスカッション。
西内一
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城郭
 城郭は漢字なので、中国での変遷から見てみよう。
 城は土を盛って成すの文字通りであるが、郭は人々の居るところを囲むとの会意文字である。
 新石器時代末期(夏)になると、それ迄もっぱら丘陵上に柵や濠で囲むといった簡単な防御から土壁で囲驍するものも登場するようになっている。
 次いで殷代になると、丘陵最後部の首長の居所や宗廟祭祀の場を囲驍する城壁が強化されるとともに城下の民居区も簡単な土壁で囲まれた防御機能を持つものとなってくる。
 さらに、西周から春秋になると、民居区を囲む外壁が従前より強化され、外壁を郭と称し、内壁を城と言った。このように、城とは内城、郭とは外郭であり、内外の異なる城壁の呼称であった。この「内城外郭式」は「城主郭従式」から漸次、外郭が強化されて内城を凌ぐ構造の「城従郭主式」へと移行していく。

城Chateau,Fosse堀,Barbacane外堡

 やがて、戦国時代になると、専ら外郭の強化が図られ内城は事実上無きに等しいようになる。非常時における防御の拠り所であった内城に代わって、外郭を強化することで外敵に対抗することとなり、内なる城と外の郭の区分も消滅する「城郭一致式」。
 この結果、城郭という語は、一つの熟語として通用されているが、本来は、別々の字義であった。これよりはるか以降に漢字文化を受け入れた我国では「シロ」の意として城郭の字が当てられている。
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西内さま
 今度こそ、ガッテンしました。
 原因は、城とは城壁で囲まれた全体と考えていたので、ナルッボンヌ門と早とちりして、Fosse = 堀 とBarbacane = 外堡の文字をさがして、「そうだ!そうだ!」とガッテンしたのでした。城郭(総構え)の中に城ChateauもFosse堀も Barbacane外堡もあったのに気が付きませんでした。結局ご両人は同じ所をお話されていたのですね。ありがとうございました。
竹本 修文
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フランスの城郭シリーズ 6
ルイ13世の城壁
竹本修文(37回) 2021.03.28

ルイ13世の城壁

はじめに

1. 14世紀半ばから15世紀半ばまでの100年間
2. 中世から近代へ   3. ルイ13世の城壁とは何か? 

4. 1615年に完成した鳥瞰図(図9)

5. ルイ13世の市壁→城壁とすべき

ヴォージュ広場のルイ13世像  マリー・アントワネットとルイ16世の墓所

シャルル5世/ルイ13世の壁、ルイ12世の堀


ルイ13世の城壁
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竹本さん
 早速、見て頂きましてありがとうございます。はい、大変苦労しました。
公文
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公文さま
 早速、見て頂きましてありがとうございます。はい、大変苦労しました。
 元々フランス人が書いた書物の添付資料に間違いは無かろうと信じていたので、随分時間を浪費しました。しかし、「ルイ13世の城壁」というちゃんとした資料は未だに発見できません。多分、私の想像は正しいと思います。
 これで城郭都市パリらしく見えますね〜?
竹本修文
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竹本大兄
 ご苦労さまです。

バスチーユ要塞の遺構
 お陰で、高1の世界史で今でも耳に残る町田先生のアンシャンレジームの1端が少し分かった気分です。また、ルイ13世の城郭の全容が掴めました。
 その中で、小生が探訪したのは添付写真のバスチーユ要塞の遺構とルーブル美術館地下のルーブル城遺構です。現在のバスチーユ広場には7月革命記念柱が輝いており往時を偲ぶことが出来ませんが、大分離れたsquare henri galli という小公園に塔の基底遺構がひっそりと残っていました。
 それにしましても、本稿は城郭協会報には最適ですが、向陽プレスクラブの皆さんも興味をお持ち頂けましょうか。出来れば何卒ご高覧の程。
西内一
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西内さま
お褒め頂きまして嬉しく思います。
●バスチーユの牢獄の跡地は、1830年の7月革命の記念塔が立っており、その写真を撮りに行きました。その写真はデジカメになってからと思い探していますが、今のところ見つかりません。
●添付頂きました写真の事は20年ほど前にフランスの新幹線を作っているアルストムという重電会社の人から、「100年前に地下鉄工事をしていて、偶然に基礎部分が見つかってどこかに移設保存している」という話を聞きました。その写真だと思います。よくもま〜見に行ったものですね〜!驚きました。 
●ルーブル要塞はフィリップ・オーギュストの市壁を作るときに、西からの守りの為に作ったのですが、今回の投稿に書いた通り、シャルル5世がシテ島の王宮を捨てて、要塞を改修して新しい王宮にしたのですが、ここも捨てられて、地上部を壊して改築した。ミッテラン大統領の大改修でピラミッドの入り口を作ったりした時に、地下部分が出てきて一般に公開されてものです。改修直後に行った時に見て、びっくりしました。
●ルーブルでは、ナポレオンの戴冠などダヴィッドの大きな絵が並んでいる部屋に展示されているドラクロワの7月革命の「民衆を導く女神」の大きな絵を見るのが好きで、ある時バスチーユ広場へ行った事でした。
●今、写真が見つかりましたのでドラクロワの絵と共に添付します。フランス革命は1789年から約10年間ですが、7月革命は、その約30年後の1830年7月までは覚えていますが、台座の写真には27日、28日、29日と3日間が記載されています。
●バスチーユ要塞は百年戦争でイギリスと戦う為に東側の守りが弱い事に気づいたシャルル5世が城壁を作るときに城壁の一部として同時に建設したもので、立派な城郭の一部として「フランス城郭シリーズ4」で入れたかったのですが、情報量が7MBになった事と、将来フランス革命時期のパリを書く時があるかもしれないと思って止めたのでした。使おうとしていた資料があるので、後日番外で書くかもしれません。
 失礼します   

7月革命の記念塔-1

7月革命の記念塔-2

7月革命の記念塔-3

7月革命の記念塔-4

7月革命の記念塔-5

ドラクロワの7月革命の
「民衆を導く女神」
竹本修文
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フランスの城郭シリーズ 6
シャルル5世の城壁追加版
竹本修文(37回) 2021.04.01

シャルル5世の城壁

はじめに 1. バスチーユ牢獄の基礎石材

2.新しいパリの中世の市街 3. 製作年代の推定

4.バスチーユ要塞

5.サンドニ門 Porte ST-Dnis と サンマルタン門 Porte ST-Martin

6. 二つの凱旋門

サン・マルタン凱旋門

シャルル5世の城壁
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フランスの城郭シリーズ 7
ルイ14世とヴォーバンの城郭建設を中心に
竹本修文(37回) 2021.04.10

ルイ14世とヴォーバン

はじめに 1. ブザンソン城Besanson

フランシュ・コンテ(Franche ?Comte)と首府ブザンソン(Besancon)

ヴォーバン設計から1755年まで

ヴォーバン式要塞の補足説明 2. ボルドーのブライ城Blaye

ボルドーのブライ城Blaye 3. リールLille

リールLille

4. アラス城塞 Arras’ Citadel

ルイ14世とヴォーバン
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フランスの城郭シリーズ 8
ルイ14世から徴税請負人の壁 (パリ)
竹本修文(37回) 2021.05.04

筆者近影
はじめに
 フランス城郭シリーズ7でルイ14世と城郭建設技術者ヴォーバンを紹介したが、ヴォーバン式要塞と呼ばれている陵堡式要塞技術に関しては、「周辺国での要塞技術や武器技術の進歩」に関する筆者の勉強不足の為に、読者には理解が困難だったと反省しており、後日改めて補足版を投稿します。 今回は当初の計画に戻り、ルイ14世の曾孫のルイ15世、その孫の16世の時代のパリの徴税請負人の壁を紹介する。徴税請負人の壁は、以前の城壁と異なり、外部の敵からの防御ではなく、「郊外から市内に向かう商品に通過税を課する事を目的」にしており、パリ市民の不信と不満を募らせる事になり、革命の原因の一つになった。

ルイ14世から徴税請負人の壁

1. 時代背景

2. 徴税請負人 

3. 徴税請負人の壁

4.ブルボン朝

参考図:フランス革命関連地図

ルイ14世から徴税請負人の壁
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浅井伴泰さん(30回)追悼文
三根校長のお墓参り
竹本修文(37回) 2021.05.10

筆者近影
 悲報は西内さま、公文さま、佐々木さま、中城さまと次々頂きましたが、和子夫人にはお悔やみのご挨拶もできず、もやもやしていたら、和子夫人が佐々木様宛のご挨拶状の写しを送って頂きまして、最後の大往生の様子を知りました。

2016 三根校長墓参会にて
 私のお付き合いは、筆山会の昼食会と新年会だけで、追悼集に掲載していただくようなお付き合いが出来ていませんので、三根校長のお墓参りに2016年と2018年の2回ご一緒させて頂いたので、その時のスナップ写真を添付しました。編集の都合でどこかに使えるものあれば幸いです。
 今思い出したのは、筆山会の昼食会では土佐と阪神の野球の事を沢山お話いただき、年末か新年会では阪神タイガースのカレンダーを頂きました。家族・親戚・友人には巨人フアンが多くて、私は隠れトラキチでした。
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城郭シリーズ 番外編4
陵堡式要塞の歴史と実例
竹本修文(37回) 2021.05.18

筆者近影
はじめに
 「フランス城郭シリーズ」の中で、函館の五稜郭のような城郭を星形要塞、ヴォーバン式要塞、又は稜堡式要塞などと表現してきたが、歴史的事実を整理しておく。また築城技術は武器の技術の進歩と併せて考慮するのは勿論、戦場を西欧に限定せず、台頭が著しいヴェネツイア共和国や東方のトルコ民族のオスマン帝国など、東欧やイスラム教圏まで広げ、西欧の土地貴族中心の国家間だけでなく、ヴェネツイアやドウブロブニクのような海上貿易専業国家の防衛の実態も調べてみたい。
 表題は「陵堡式要塞」に限定し、フランスに限定せず筆者が訪問した事がある地域に限定した。築城技術用語の定義などはは筆者の勉強を目的に挑戦してみる。KPCの投稿サイトが必ずしも相応しいとも思わないが、土佐高校OBで日本城郭協会の大先輩や会員が多くいて、気軽に教示戴ける事もあり、しばらく継続する。 

陵堡式要塞の歴史と実例

1.城郭一般

2.イスタンブル 3.イエデイクレの要塞

4.大砲の話

5.テオドシウスの城壁の破壊箇所訪問

6.ヴェネツイア共和国領の城郭

サンタ・マウラ島 パルマノーヴァ

ドウブロブニク

7.神聖ローマ帝国 ウイーン(オーストリア)

プラハ城 (チェコ共和国)

プラハ城 ブラチスラバ城 ツィタデッラ要塞

オルレアン包囲戦 <年表> 15世紀〜19世紀の城郭と武器

陵堡式要塞の歴史と実例
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フランス城郭シリーズ 9
ティエール(チエール)の城壁
竹本修文(37回) 2021.06.07

筆者近影
はじめに
 「フランス城郭シリーズ1」 で、2000年前のガロ・ローマ時代(フランスのローマ時代)以降にパリに建設された六つの環状の市壁・城壁を紹介し、今回のテイエール(チエール)の壁は6番目のパリ防衛用城壁で最後の壁である。図1は、その時に「参考地図2」として引用したもので、19世紀のパリを囲む二つの環状の壁であるが、内側の紺色の線が徴税請負人の壁(以下「徴税壁」と呼ぶ)で外側の茶色がテイエールの城壁である。徴税壁はフランス革命の初期段階で徴税を中止するが、革命でルイ16世が処刑されて王政が廃止された後、ナポレオンが皇帝になり帝政になってから徴税が復活し、1846年にテイエールの城壁が完成した後の1860年にも、かなり残っていた。ただし、徴税壁の内側に過去建設されてきた市壁・城壁は、約200年前のルイ14世時代に撤去されており、19世紀半ばのパリは図1のようであったと考えられる。Thiers wallは当時の首相アドルフ・テイエールAdolphe Thiersの名前を付けているが、その発音は英語ではティエールかな?と思っていた。高校・大学の歴史書で定評のある、山川出版社のフランス史には城壁の記載はないが、首相の名前はチエールと記載されているので、以後はチエール内閣が建設したチエールの壁とする。

ティエール(チエール)の城壁

1.19世紀半ばにもなって何故パリに防衛上の城壁を作るか? @近代の変化

ナポレオン戦争 

七月革命   2.チエールの城壁の概要

16基の陵堡式要塞

城壁の断面図  95番目の陵堡

1911年のチエールの城壁図

1867年のパリ中心部の絵地図

3.年表

ティエール(チエール)の城壁
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公文先輩の「米西部「インディアン・カントリー」を訪ねて」を読んで
竹本修文(37回) 2021.07.12

筆者近影
 アメリカには沢山の都市に行きましたが、仕事が多くて公表はできません。ワインなどで皆さんにも関心のある所も行きましたが、写真には妻が写っておりこれもボツ4です。今回の南西部は一般の人達にも馴染みの街があるので、数少ない画像を使って作文してみました。これで、如何でしょうか?
 最初の旅行の時は、ニューヨークのWTC110階建てのビルの55階で開催された空港建設技術の国際会議が出張目的でした。絵葉書しか残っていませんが、貴重な経験でした。




竹本さん

 さっそく内容の詰まったご感想を寄せていただき、有難うございます。著名なグランドキャニオンやラスベガスはその後改めて家族で行きました。フーバーダムと発電所も見学の機会がありました。理系の方でなくても必見。AREA51の由来は知りませんでした。世界を股にかけた貴兄だけあって、米国にも詳しいですね。
 酷使した中古日本車は帰途に雑音(悲鳴?)が出るようになり、スタンドに 立ち寄って傷んだ部品を取り替えました。時間が無いのを店主が解っており、 「リツールしたもの(手直し部品)でも良いか?」と言って格安で手早く修理して くれたことを覚えています。その後3年間、家内の足として勤めを果たしました。 米国駐在は2度で足掛け10年近く、働き者のアイルランド人同僚もおりました。 本土人にしいたげられた歴史を問わず語りに言っていたのが印象的でした。
 皆さんの寄稿がしばらく無かったので埋め草に出したお恥ずかしいふるぶみを お読みいただき恐縮至極です。お気が向きましたらまたご寄稿ください。
公文


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高知で遭遇した浮世絵展を読んで
トルコのイスラム寺院のタイル
竹本修文(37回) 2021.09.07

筆者近影
 皆様はコロナにも負けず、ご無事と思っていますが、いかがお過ごしでしょうか?
 8月9日の冨田八千代さまの投稿、「土佐校百年展からのオクリモノ 高知で遭遇した浮世絵展」を拝読して以来、フェルメールとイスラム寺院の青のお話にコメントしようと思いながらも、マンションの管理組合のゴタゴタに巻き込まれて、無駄な時間を過ごしています。
 さて、冨田八千代さまの投稿と中城先輩のコメントから内容が離れてしまいましたが、自分勝手な内容で原稿を作ってみましたので、投稿したいと思います。ご意見を賜りたくお願い申し上げます。
 横浜の朝日カルチャーセンタで、現在は一橋大学副学長の大月康弘先生から数年間に亘って東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の講座を受け、また東大名誉教授の鈴木董先生からトルコ史をご指導いただき、10年前にイスタンブルだけを10日間徘徊しました。イスラム寺院は妻の美術館巡りの一環で付き合っただけですが、資料を入手してきたので、それらをベースに纏めてみました。KPCの皆さんにご覧いただくように、写真を中心にしています。ご検討を宜しくおねがいします。
 なお、Istanbulは、現地人も先生方もイスタンブルですが、日本語ではイスタンブールと呼ぶことが多いは知っていますが、あれは、「飛んでイスタンブール」という歌のせいであるとの事であり、イスタンブルに統一しています。

トルコのイスラム寺院のタイル

はじめに 1.1 イスタンブルのブルーモスク

1.2 イスタンブルの観光地図

1.3 イズニック・タイル 1.4 ブルーモスクのタイル

1.5 リュシュテムパシャ・ジャミイ

1.5 リュシュテムパシャ・ジャミイ

リュシュテムパシャ・ジャミイ

リュシュテムパシャ・ジャミイ

トルコのイスラム寺院のタイル
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青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感
竹本修文(37回) 2021.09.19

筆者近影
 9月7日投稿の「トルコのイスラム寺院のタイル」のカバーレターに、フェルメールの事を書きました。17世紀はトルコもオランダも全盛期であり、オランダはポルトガルが開発した喜望峰周りの航路を奪ってイスラム国インドネシアにオランダ東インド会社を設立して、香辛料を中心に莫大な利益をあげました。
 フェルメールの出身地であるオランダのデルフトもロッテルダムの隣りの港町であり、東インド会社の船が出入りしていた。フェルメールの真珠の耳飾りの少女の青いターバンはイスラム国との交易が関係しているか?と考えたり、風車とチューリップで有名なオランダだが、両方ともトルコから取り入れたと聞いていたから、何か関係があると思った事でしたが、外れました。
 困っていた所に、西内先輩からスペインとオランダの旅行の関するメールを頂き、当初の期待とは異なりますが、一般受けするかも知れないと思って書きました。

青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感

はじめに 1 オランダの概要

2 正式の首都:アムステルダム

3 アムステルダム国立美術館

4 事実上の首都:デン・ハーグ 5 真珠の耳飾りの少女にまつわる話 

6 オランダの黄金時代17世紀

オランダ西インド会社 デルフト(の)眺望

青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感
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皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

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大英博物館の葛飾北斎の特別展
竹本修文(37回) 2021.10.03

筆者近影
 皆様、お変わりありませんか?青シリーズの投稿が続きました。

 私は、知識が無いのですが、ロンドンの大英博物館で葛飾北斎の特別展「北斎―万物絵本大全図」が始まりました。コロナが無くても簡単に行ける所ではないのですが、URLを貼り付けましたので、ご覧ください。
 協賛の朝日新聞のあいさつ:下に貼り付けた大英博物館のサイトURLに出ています。
@英文:Exhibition supporter The Asahi Shimbun Company
 The Asahi Shimbun Company is a longstanding corporate sponsor of the British Museum. The Asahi Shimbun is a Japanese leading newspaper and the company also provides a substantial information service via the internet. The company has a century-long tradition of philanthropic support, notably staging key exhibitions in Japan on art, culture and history from around the world. In addition to supporting Hokusai: The Great Picture Book of Everything, The Asahi Shimbun Company also supports The Asahi Shimbun Displays in Room 3 and is a committed supporter of the British Museum touring exhibition programme in Japan. They are the funder of The Asahi Shimbun Gallery of Amaravati sculpture in Room 33a of the British Museum, and a supporter of the iconic Great Court.
A和文:
 「朝日新聞社は、大英博物館の長年にわたるスポンサーです。朝日新聞は日本の主要な新聞であり、また、インターネットでも充実した情報を提供しています。文化活動支援の分野では100年にわたる伝統を持ち、日本において、世界の芸術、文化、歴史に関する主要な展覧会を開催しています。特別展「北斎―万物絵本大全図」の協賛に加えて、ルーム3「朝日新聞ディスプレー」の展示や、大英博物館の日本巡回展もサポートしています。さらにルーム33aの「アマラヴァティ彫刻・朝日新聞ギャラリー」創設に出資し、グレート・コート建設も支援しました。」
B追加コメント:
 数年前に、上野の東京都美術館で大英博物館展が開催されて、中城様から招待券を譲って頂きました。特別な方々に限定して招待した展示会で、今話題の真子さまが着物姿でイギリス駐日大使をお迎えし、大使のご挨拶に続いて、シャンパーニュ(シャンペン)とスモークド・サモンなどのご馳走ありました。中城様は浮世絵の専門家とも知らず、教皇ヨハネ・パウロ二世に個人的に謁見された写真をみて、「この方は何者だろう?」と思っていましたが、A項の大英博物館の日本巡回展もサポートしています の記事を見て、納得しました。
大英博物館のサイト
   URL-1?? British Museum
   URL-2?? Hokusai: The Great Picture Book of Everything | British Museum
   URL-3  The Great Picture Book of Everything; Hokusai's Unpublished Illustrations | #CuratorsCorner S6 Ep8 - YouTube
余談
 ロンドンは大英博物館、パリはルーブル美術館という、展示内容に若干の違いはあっても、ジャンルとしては殆ど同じなのに、博物館と美術館は何が違うのだろう?コロナ自宅軟禁で時間があるので、調べてみました。
@?博物館:
 広辞苑:考古学資料・美術品・歴史的遺物その他の学術的資料を広く蒐集・保管し、これを組織的に陳列して公衆に展覧する施設。また、その蒐集品などの調査・研究を行う機関。
 オックスフォード現代英英辞典:A building in which objects of artistic ,cultural, historical or scientific interest are kept and shown to the public
A美術館:
 広辞苑:美術品を収集・保管・陳列して一般の展覧・研究に資する施設。研究と企画展示のみを行う施設を指すこともある。博物館の一種。
 ジーニアス和英辞典:Art Gallery [museum]?
   例1 ボストン美術館 The Museum of Fine Arts, Boston.
   例2 多摩美術大学 Tama Art University

B仏和辞典 Le Dico
 Musee 「美術館、博物館、資料館 Musee du Louvre

C私の結論は、
 欧州のmuseumはプトレマイオス朝の言葉が語源で美術館を含んだ博物館だが、日本には昭和26年にできた博物館法があり、博物館法の適用を受ける博物館は、難しい事が沢山かかれていて、説明できません。
以上です

竹本さん
 「大英博物館で葛飾北斎の特別展」との情報有難うございます。
 関連サイトを一覧して、大英博物館の企画・実行力に今更ながら驚きました。
 AMAZINGです。
公文

竹本さん
 大英博物館で葛飾北斎の特別展に関して、メールをありがとうございました。
 この新聞記事を読んだ時に、真っ先に竹本さんが浮かびました。
 イギリス、ならば竹本さんと。和文のご配慮も大助かりでした。
 この展覧会が、日本でなくイギリスで開かれていることに、日本人の1人として複雑な気持ちになります。この北斎の「失われた作品」といわれている作品は、色々な経過を経て、2020年に大英博物館が購入、収蔵とか。日本は全くかかわっていません。作品の価値を認めたことに感謝すべきでしょうね。
 ついでに、お礼を申し上げます。
 少し前にアムステルダム国立美術館で特別展開催中の記事が目に留まりました。
 まず、その美術館の名前に冠した<レンブラントの「夜警」で有名な>で、KPCのHPの西内一氏の執筆の中にあったと思い出しました。そして、竹本さんの「青で広がる〜フェルメールとオランダ雑感」の内容を思い出しました。特別展は竹本さんの記述と重なる時代のものでした。
 以前だったら、外国の話題と素通りしたでしょう。ありがとうございました。
冨田八千代

皆様へ
 体調不良で、しばらくパソコンから離れていましたがいくらか回復し、メールを拝見しました。その中で、大英博物館の北斎展が話題になっておりますが、この展覧会には大きな問題があります。
 新発見として話題になっている大英展の目玉「萬物繪本大全圖」は、弟子の北斎為斎の作とする有力な説があります。
 「子ども浮世絵」の研究仲間で、ヨーロッパの浮世絵研究事情に浮世絵学会でも最も精通している及川茂・日本大学名誉教授は、「昨年6月にパリのザザビーズに“為斎筆と思われる”として出品されたが、大英博物館が“北斎筆”として評価額の約十倍13万ユーロで落札。北斎と為斎の研究家ベルナール・ルソーさんは、“これは為斎の作品”と語っていた。残念ながら昨年末に亡くなられた」と述べています。
 明治以降、北斎が有名になり、弟子の作品を“北斎作”として高値で輸出されることが多々ありました。北斎と鑑定・購入した大英博物館の浮世絵担当ティム・クラ―クさんの勇み足かと思います。
 ただ、意図的に北斎風に偽作を作ったわけではなく、弟子の作品を師匠の作品と学芸員が誤認したわけです。欧米の、北斎や歌麿の作品にはこの様な例が多く要注意です。それにしても、浮世絵関係者として大変残念なことです。以上、ご参考まで。
中城正堯
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17世紀のオランダ東インド会社の活動
竹本修文(37回) 2021.10.10

筆者近影
 2021年9月に投稿した「青で広がる〜フェルメールとオランダ雑感」の第6項で「オランダの黄金時代17世紀」で、オランダ東インド会社とオランダ西インド会社に触れたところ、9月19日付で中城様が、「オランダ黄金時代の跡〜香料列島モルッカ諸島」で、筆者が全く知らなかったオランダ東インド会社のDeepな情報を、現地訪問記を含めて投稿されご紹介頂きました。
 中城さまが、現インドネシアのモルッカ諸島を訪問された事実を知っただけで驚いたのですが、日本人が傭兵としてオランダ軍に加わってイギリスと戦った事を知って興味がわき、不十分ですが、オランダ語の記録を英語に訳した文献で調べてみました。

17世紀のオランダ東インド会社の活動

1. インドネシアの概要 

バンダ諸島

2. オランダの進出

アンボイナの虐殺 バンダ・ネイラ島の要塞 

3. 日本の関わり

17世紀のオランダ東インド会社の活動
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竹本修文様

バンダ・ネイラのベルギカ要塞(絵葉書)
Air view of Fort Belgica(1611) Foto by Des Alwi
 香料列島をめぐる英蘭の争いの歴史、語学力を駆使しての解説で、大変よく分かり、勉強になりました。感謝します。
 小生は、辺境を尋ねるとだいたい新聞雑誌に記事を書いてきましたが、この時だけは現地で痛風を発病、激痛で歩けなくなり、バリ島までたどり着き現地の日本人によい病院を尋ねましたが、自分たちは病気したらシンガポールまで飛ぶと聞かされ、あきらめました。帰国後に収まりましたが、いまも尿酸値を下げる薬が欠かせまません。その為、この探訪記は書かず仕舞です。現地で購入した、『MALUKU? THE ?MOLUCCAS』(Periplus)も本棚に眠ったままでした。ガイドブックですが、ご興味があれば、差し上げます。
 なお、日本人には、肉食のヨーロッパ人にとって当時香辛料が如何に貴重であったか、300倍になった背景の食文化に触れると、より英蘭による争奪戦の背景が分かりやすいかと思います。
中城正堯

竹本さん
 16世紀はポルトガル対スペイン、17世紀はオランダ対イギリスということで、モルッカ諸島は抗争が絶えなかったことがわかりました。あちこちに城塞が作られたのも納得です。実効支配のアピールでもあったか? 日本人といえば、山田長政がタイで活躍したのが1612〜30ごろだそうですから、 このころ周辺に日本人傭兵が登場したのも不思議はないですね。 資料渉猟お疲れさまでした。 公文
 日本人といえば、山田長政がタイで活躍したのが1612〜30ごろだそうですから、このころ周辺に日本人傭兵が登場したのも不思議はないですね。
 資料渉猟お疲れさまでした。
公文

竹本様
 脱帽、脱帽、脱帽です。驚きました。非常に驚きました。以下は驚いたわけです。
 中城さんの「オランダ黄金時代の跡―香辛列島モルッカ諸島」を拝読し、なぜ日本人がオランダ軍の傭兵としてイギリス人と戦ったの?それほんとうのことなの?、どうして?と思いました。もっと知りたいとの興味も沸きました。しかし、そこでおしまいでした。この点は、竹本さんが冒頭に名文で書かれたことと同じです。
 ところが、その続きが、この大論述。昨夜、拝読して、この雲泥の差、天は宇宙の果てまでもの大きな大きな違いにショックを受けました。昨夜、拝読して、この雲泥の差、天は宇宙の果てまでもの大きな大きな違いにショックを受けました。徹底して追求された態度との違いは何だろうと、今日はずっと、頭の中を占めていました。能力や経歴の差は歴然ですが、それで逃げてはいけないと自分を戒めました。完璧、綿密、ち密です。気迫すらを感じました。
 いままでは、立派な記述をされる方と、難しそうだと感じたら、文章を斜めに眺めたり飛ばしたりしました。それは自分自身とは程遠い内容でしたから。(最近は、読んでいます。今回出てきた五稜郭もすぐに思い出しました。)ところが、今回は、瞬間的にはほぼ同じ感想だったと思います。その結果が、雲泥の差。最初にかえります。脱帽、脱帽、脱帽です。
 早く日本人の傭兵が登場しないかと読み進めました。ところが、竹本さんの説明では、オランダ軍の傭兵だけではありません。軍隊と商社との違いはあるものの、オランダにもイギリスにも、日本人が関わっていたのですね。イギリス東インド会社には「雇われる」ということは就職していたということでしょうか。最後の「3、日本の関わり」では、日本人が東南アジアに渡ったことは分かります。が、どのような経過で、外国軍の傭兵になったかの経過は分かりません。(これは、竹本さんを責めているのではありません。よろしく。)この辺りに住んでいた日本人が日本人町として栄えていたら、参加しなかったのではと、ふとよぎりました。
 本当に長々とすみません。この大論述を拝読して、竹本さんにお願いをしたくなりました。ここで、思い出したのです。恥ずかしくなりました。皆さんの中にこうして入らせていただいたのは、翡翠さんや北斎様のおかげです。それがきっかけです。自分の力ではありません。でも、やはり、ずうずうしく書かせていただきます。二つです。
*翡翠の着地点を思いつきました。「JAXA竹本さんと青空」です。カワセミをもっと飛ばしていただけませんか。宇宙飛行士からは、空は黒でしょうが、私たちが見上げる空は「青」です。海を見ない人はいても、空を見ない、空に合わない人はいません。その空での宇宙開発研究の大元締めの竹本さんには、きっといいお話があると思います。きかせていただけませんか。
*土佐の浮世絵師、絵金の住んだ赤岡の酒蔵とは地続きのあたりが故郷でしたね。中城さんの助言はいただいても中城さんを気にされずに、ぜひ絵金さんを紹介してください。竹本さんの絵金像をお聞きしてみたいと思います。

 今回も「17世紀のオランダ東インド会社の活動」の様子を居ながらにして詳しく知ることができました。ありがとうございました。
冨田 
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知られざる 〜 山田長政 〜
竹本修文(37回) 2021.10.19

筆者近影
はじめに
 本年10月10日付で投稿した「17世紀のオランダ東インド会社の活動」に対して、公文さまから、「日本人と言えば、山田長政がタイで活躍したのが1612〜30年ごろですから、この頃周辺に日本人傭兵が登場したのも不思議はないですね。」と、コメントを頂きまして、何十年も忘れていた彼の活動を読み返しました。次に、英語のサイトでYamada Nagamasa を検索すると、日本語のサイトに無い記事が出て来たので、いくつか紹介します。右の画は静岡の浅間神社蔵
 ところが、10月16日に中城さまから、「日本と世界の歴史 第14巻 17世紀」(学習研究社 昭和45年10月1日発行)の別刷りを頂き、朱印船貿易、南洋の日本町、及び山田長政の記事の要点を、第2章に記載する。

知られざる 〜 山田長政 〜

はじめに 第1章.16世紀の世界の状況

第2章 17世紀の東南アジアの状況

第3章 朱印船貿易

第4章 山田長政

第5章  朱印船の主な航路(赤)と日本人町(赤旗)

第6章  山田長政の軍隊

知られざる 〜 山田長政 〜
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モルッカ諸島のガイドブック
竹本修文(37回) 2021.11.09

筆者近影
 日本人傭兵の件は、1621年の気持ちが悪い絵の事件、もう一つが、1623年のアンボイナ虐殺と裁判ですが、どうも気持ちが悪い処刑に描かれている侍は、山田長政の兵士らしい記事があり時間がかかっています。次回にします。
 佐世保までは行きましたが、平戸へは行ったことが無く、調べてみると面白いですね〜?ザビエルは鹿児島へ来たが、本土の旅行が許されず、中国やオランダとの外交を幕府から任されていた平戸藩の所へ行っている。イギリスも平戸へ商館を作ったが、日本の良質の生糸を購入できず撤退。ポルトガルはマカオの為の後方基地が必要。オランダの商売を取り入れたくて、幕府は長崎の出島へ移した・・・。勉強になりますね〜?
 ザビエルは、その後、モルッカ諸島へ立ち寄っています

モルッカ諸島のガイドブック

1. はじめに 2. 現在のインドネシアの概要

3. 香辛料の産地 4. ガイドブックMaluku the Moluccas

ハルマヘラ島Halmahera 日本軍の基地があったKAO

モルッカ諸島のガイドブック
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竹本先生
 いろいろご苦労様です。
 振り返りますと、小生は昔、バリ島までは2度参りました。
 1度目は、日本リースがメルパチ航空にYS11をリースしていましたので、それに乗ってバリ島まで参ったところ、帰り便がデンパサールからロンボク海峡を越えてロンボク島を旋回しました。ジャカルタ空港からは、メルパチがスマトラ島のパレンバン、トバ湖の上を飛んでペナンに投宿したことでした。

平戸城
 お調べのように平戸は必見ですよ。
 古くは、遣唐使船は平戸伝いに五島を南下して、福江島が最後の寄港地でした。弘法大師に因んだ八十八ケ所もあります。上五島は海援隊とも縁があり、竜馬の碑も立っています。
 平戸は、玄界灘と西海を扼する海峡の要衝で、古くから倭寇の根拠地で中国貿易の中心地でもあって、鄭成功の出身地でもあります。無論、ルソン、シャム等との貿易地でもありました。
 水軍松浦党は、海流の複雑さを活かした選地で平戸城を築城しています。
 探訪すると、ザビエル記念教会は美観で、オランダ商館、イギリス商館跡碑も巡れます。
 足を延ばせば、福江城も、幕末に海防のため最後に築城された海城としてお薦め。
 平戸城の雄姿を一葉添付させて頂きます。
西内 一(30回)
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17 世紀オランダの黄金時代の始まり
1621 年 バンダ諸島での虐殺
竹本修文(37回) 2021.11.20

筆者近影
●オランダのフェルメールの青から、オランダ西インド会社の拠点だった要塞都市をアメリカのニューアムステルダムに移り、その要塞都市をオランダが「1623年のアンボイナ虐殺事件(次回投稿予定)」の代償としてイギリスに譲渡して、ニューヨークと改名され、現地を訪問された経験のある中城様の投稿でインドネシアのモルッカ諸島に移り、中城様が現地で入手された2冊の英語の冊子を読んでのめり込みました。
●殆どが英語のサイトか文献ですが、タイ人のシャム語混じり英文、オランダ人の古英語みたいな英語、アメリカ人の現代英語と随分読み、勉強になりました。次回は、「1623年のアンボイナ虐殺事件」ですが、オーストラリアの大学が研究している資料で、17世紀の裁判に使われた当時の英語の書類が沢山あります。古英語も混じっています。数パーセントしか紹介しません。
●今回は、17世紀初頭のインドネシアに於ける香辛料争奪世界戦争は面白くて僅かしかご紹介出来ないのが残念ですが、同時期には欧州では宗教戦争、欧州の枠組み(国境)を決する30年戦争中であり、オランダは欧州各国の隙間で稼ぎまくったのかな〜?
●そして、オランダの黄金時代を経験したが、3回の英蘭戦争でイギリスに負けてアムステルダムの建築だけを見ると、17世紀で終わった国に見えますが、その後は、芸術など文化面で大きく飛躍し、モルッカ諸島の事は忘れられがちですが、忘れないようにしたいと思いました。

1621 年 バンダ諸島での虐殺

はじめに

第1章 バンダ諸島の征服(1621年)


第2章 バンダ島における処刑

第3章 オランダでの反応

1621 年 バンダ諸島での虐殺
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竹本 様
 原稿はポルトガルとの香料争奪戦に続くイギリスとの海上覇権争い時代を背景にした、モルッカ諸島方面の興味深いお話です。17世紀がオランダ(当時はネーデルランド連邦共和国。王国となったのはナポレオン戦争後)の最盛期だったと改めて知りました。そして勃興期のオランダが日本にもやってきた。
 日本史では、1600年のオランダ船豊後漂着がその後の日蘭貿易発展の端緒となっていますが、難破船はもともと戦場モルッカ諸島をめざしており、大量の武器を搭載していたとか。三浦按針も乗員の一人でしたから、家康によるキリスト教禁教、スペイン・ポルトガルとの決別をお膳立てした重要事件。
 17世紀はおもしろい。
公文
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17 世紀オランダの黄金時代の始まり-2
1623年のアンボイナ虐殺事件
竹本修文(37回) 2021.11.24

筆者近影
●オランダのフェルメールの青から、オランダ西インド会社の拠点だった要塞都市をアメリカのニューアムステルダムに移り、その要塞都市をオランダが「1623年のアンボイナ虐殺事件(次回投稿予定)」の代償としてイギリスに譲渡して、ニューヨークと改名され、現地を訪問された経験のある中城様の投稿でインドネシアのモルッカ諸島に移り、中城様が現地で入手された2冊の英語の冊子を読んでのめり込みました。
 気持ちの悪い絵などで気分を悪くされた方もいらっしゃると思いますが、お許しください。
●私は、福島市松川町にある東芝の子会社に勤務した事があり、昭和25年の松川事件の現場である事から列車転覆現場へも何度か行きました。転覆事件で蒸気機関車の運転手が死亡し、その娘さんが従業員の中にいました。歴史の中に生きている実感がしました。
 転覆現場には、法曹界の方々が、「自白中心の捜査や裁判から物的証拠主義に変化させていく誓いの言葉」の碑が立っていましたが、今でもあるのかな〜?
 この事件を機に、捜査段階の自白、特に拷問による自白が議論されてきたのですが、未だに冤罪が無くならないですね〜?
●今後は、得意なヨーロッパに話題を戻そうかな〜?とか、思っています。 お付き合い頂きましてありがとうございました。

1623年のアンボイナ虐殺事件

はじめに 第1章 アンボイナ事件の概要

第2章 1621年から1623年の様子

第3章 日本人傭兵 第4章 アンボイナ共謀裁判 


第5章 補足資料


1623年のアンボイナ虐殺事件
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竹本 様
 日本の歴史家も、ほとんど研究してこず、知られてない17世紀初頭の香料列島を舞台にした英蘭の凄まじい植民地争奪戦と、日本人傭兵の姿を、よく掘り起こしてくれました。このときの英蘭の勝手な植民地取引による境界線が、経度で東西に区別され、日本にもアメリカにも影響を及ぼしたわけで、他人事ではない事件です。
 また、日本はよくぞドン欲だった西洋列強の植民地にされなかったものだと、徳川幕府に感謝です。
 美しかったバンダ海の海辺と、ナツメグの果肉で作った、美味しいジャムの味を思い出しながら。
中城

中城さま
 早速のコメントに感謝申し上げます。先輩のご指導と2冊の文献のお陰です。
 オランダ東インド会社のクーン総督は、インドから日本までを征服して植民地にしたいと本気で思っていたのですね〜?
 17世紀前半は、ヨーロッパは30年戦争で歴史に残る残虐な戦いで、その結果が現在に残る国境であり、30年戦争の主役ではなかったイギリスとオランダが伸び伸びとアジアで暴れていたのですかね〜?
 筆山会の昼食会に出席し始めた時期に、当時の森会長と30年戦争の話で盛り上がった事を思い出しました。
竹本

竹本先生
 ご苦労様です。興味深く読ませて頂いていることをお伝えするために敢えて些末な事柄を申し上げます。
 5.4の見出しがオランダ帝国となっている点に若干の抵抗感があります。小生、一昨年に、オランダが1624年に築城した台南のゼーランジャ城を探訪しました。当城の築城に対抗して宗主国スペインは、フェリッペ2世の名を冠したフィリピンから台湾の東側を北上して淡水に城を築きます。この後、両軍の海戦はオランダ海軍が勝利して、ジブラルタル海峡での海戦にも勝利したオランダが独立への道を更に進めるのです。
 小生、その前の年にはスペインを探訪しましたので、少しスペイン史も齧ったことでしたが、カルロス5世がハプスブルク家を相続したことで、ネーデルランドはイスパニア領となります。その後、北部7州がユトレヒト同盟を結んで、1581年にオランダ独立戦争を始めます。これから半世紀を超える長きに亘って「太陽の沈まぬ国」と言われたスペイン帝国との戦いが始まるのです。そして、オランダが各国から承認されて独立を確定するのは、対イギリス戦の始まる数年前の1648年。アンボイナ虐殺は、ゼーランジャ城築城の前年で、スペイン帝国からの独立を目指す共和制の時代と理解しており、当時の帝国の名称は矢張りスペインに冠するのが相応しいのでは。
西内

西内さま
 ご指摘を頂きまして嬉しく思います。
 歴史問題で、殆どを外国の文献に頼っていて、自分の意見と違う時にどうするか?
 現在の解釈に表現を変え、判断基準を変えるべきか?悩みます。私は、現役時代は殆どは学術論文相手でしたので、文字通り翻訳する習慣で、文学や歴史の経験はないので迷いながら書いています。
さて、
1ご指摘頂いた所の原文は、Law and Torture in the Dutch Empire 、の表題です。
 内容は:One of the major problems in assessing the nature of the legal proceedings at Amboyna is the considerable gap that often exists between legal code or theory and legal practice. For centuries, English writers have condemned the case for violating the rules of Dutch justice but the reality is more complicated. Torture was legal in Dutch colonial possessions, in the Dutch Republic and across much of Europe in this period. However, before it could be used it generally required additional pieces of evidence, what is sometimes known as half proof.
2.これを、私は・・オランダは帝国時代は無かったのにな〜?と思いながらも、引用した文献を文字通り翻訳しました。その心は、例えばイギリス本国が帝国時代はないが、沢山の植民地を含めて、大英国帝国という日本語があるように、統治する姿・形が(専制的な)帝国(みたいだ)のような気持ちで使うのかな〜?と思いながら、何も注釈を加えずにしたのが良くなかったと反省しています
3.殆ど文字通りに翻訳して、オランダ帝国の法律と拷問
 アンボイナに於ける裁判の法的手続きの査定を進めるに当たって重要な問題の一つは、法律などの法的な規則や理論と実際に行われる実践の間にしばしば存在する相当なギャップである。何世紀もの間イギリス人著述家はオランダの司法にも違反していると非難してきたが、現実はもっと複雑である。当時はオランダの植民地やオランダ共和国や多くのヨーロッパの中では拷問は合法だった。しかしながら、拷問を実施する前には、更なる追加の証拠(Half-proofと呼ばれる)が要求されるのが一般的である。
4.余談に近いですが、日本が明治の帝国憲法から戦後の新憲法に変えた時に、それまで英語では天皇はEmperor だったのに、国民と国家の象徴になっても(イギリスを除くヨーロッパに国王と同じようになったのに)King に変えなくてEmperorのままであり、しばしば誤解が起きている事を思い浮かべます。あるイギリス人は、辞書を天皇=Kingと変えろとか言っている。
5.オランダは、この当時はスペインから解放されて直接の統治はなくても、あちこちから影響を受け、一応は共和国だったと思うが、私が引用したオーストラリア人のドクターは(皮肉を込めて)帝国と表題したのではないでしょうか?私のロンドンの駐在時代の大家さんはオーストラリア人でしたが、本人はイギリス人の気持ちで、イギリスに来ることは、Go to England や Come back to England とは言わず、Come home と言っていました。
6.さて、原稿をどうしましょうか?
@筆者の注釈:「原文は、 Law and Torture in the Dutch Empire であるが、当時のオランダはローマ帝国から始まった帝国(ラテン語で、インペラトール)ではないが、アジアでの振る舞いが、専制的であったので著者が帝国と呼称したか?」
A簡単な方法は、「帝国」の文字を削除する・・・これが、一番単純です・・・
 私はAかな〜?と思いながら、KPC編集委員の皆さんのご意見をお待ちしています。
竹本

竹本さん
 お問い合わせにお答えします。当時のオランダは連邦共和国だったので、「帝国」は削除したほうが、読者を惑わせなくていいかと思います。なお、その後オランダ王国となりました。
公文

竹本様、皆様
 オランダの国名表記、小生は見過ごしており、皆様の熱心な指摘・検討に感心しました。
 高校以来西洋史の勉強をサボってきた小生は、原稿を書く際、地名確認の『虎の巻』を使っています。
 それは、文部省検定の『詳細高等地図』(帝国書院)と、おなじ帝国書院の『地図で訪ねる歴史の舞台』です。
 主要国の国名変遷は、後者巻末の「年表」に出ています。それによると、ネーデルランド連邦共和国(1581〜1795)、バタヴィア共和国(1795〜1806)、オランダ王国(1806〜1810、ナポレオンの弟が国王、1810仏に併合)、オランダ立憲王国(1815〜)となっています。むろん、オランダは日本の名称で、正式名称はネーデルランド王国・立憲王国です。また、外務省指導の『世界の国情報』(リブロ、年度版)が頼りですが、その確認すら忘れがちのこの頃です。ましてや、時代による国名の使い分けは、基礎知識がなく至難のことです。ご参考まで。
中城

追加資料   竹本修文

オランダの国名 (中城さまのメールの一部のコピーです)

ヨーロッパ共通歴史教科書


添付したのは、2013年に最後にアムステルダムのユダヤ人博物館を訪問した時に売店で買った、「A Short History of the Netherlands From prehistory to the present day 」の中の1ページの年表です。残念ながら、時代の大きな流れは記載されていますが、国名がどのように変化したのかは、明快な説明がありません。一応、添付しました。
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竹本様
 またまた大変勉強させてもらいました。
 国名は、各国ともに時代に応じて自称が変遷をしてきました。また、各国の自称と、他国による命名・通称など、さまざまです。提示していただいたのは、地域史研究家による実態を反映した用語だと思います。
 日本では、我々が歴史的記述をする場合、文科省・外務省の用語によりながら、それだけでは実態を表わしてない時は、専門的な用語を合わせて用い、意味も書添えるのが良いかと思います。いきなり専門的用語が出て来ると、途惑いますので配慮が必要です。
 その上で、大航海時代のヨーロッパの帝国主義的植民地政策や人種差別は冷静に批判し、それに荷担した当時のキリスト教各派の動きも見るべきです。また、日本ななぜ植民地化をまぬがれたのかを考え、大日本帝国憲法時代の日本の軍部の横暴や列強に追随した植民地政策も反省すべきと思います。
 私は、1970年のニューギニア訪問で、現地先住民からいきなり「日本来たか、タバコくれ」と、親しげに呼びかけられびっくりしました。その後、インドの激戦地インパールでも、土地の老人から「長年支配してきた英国軍と食料も不足になかよく戦った」と称えられ、また夜密かにホテルに来た独立運動の若者に、「アーリア系中央政府からのモンゴロイド系住民の独立を理解して欲しい、日本人の白人と戦った力を借りたい」との申し出を受け、びっくりしました。ニューギニアでも、インパールでも、ヨーロッパ各国の侵略には反感をいだいても、それと戦った日本人には親しみを持つ現地民もいたのです。日本兵もこれら現地で残虐な行為をしたとばかり思っていましたが、仲間意識で日本軍を迎えての、暖かい交流もあったようです。年寄りのささやかの、歴史の実感です。
中城
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17 世紀オランダの黄金時代の始まり-3
初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書
竹本修文(37回) 2021.12.16

筆者近影
 11月24日付で投稿した、「1623年のアンボイナ虐殺事件」で引用した文献の、Law and Torture in the Dutch Empireの日本語訳、オランダ帝国の法律と拷問に、当初から疑問を持ちながら、ゴタゴタした。結論は、「ヨーロッパ共通歴史教科書でも、植民地を含んだ政治体制国家を植民地帝国という表現が一般化している」事を説明するのに当該教科書を引用した。ECはEUになり次々と拡大を続けたので何回も改版されていると期待し、とりあえず帝国問題に決着を付けようとして、投稿ではなくて追加資料として議論に参加した方々に配布したが、KPCの「1623年のアンボイナ虐殺事件」の投稿の後に、議論と共に追加資料のままで掲載されている事を最近になって気付き、慌てて追加資料に対する追加を書いた記事の投稿である。
 議論を含めて記載すると議論に参加しなかった読者にも何か参考になったかな〜?と編集者に感謝しています。

初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書

はじめに ヨーロッパ共通歴史教科書

ヨーロッパ共通歴史教科書の中のDutch Empireとオランダ植民地帝国 の表現 
ヨーロッパ共通歴史教科書のその後

初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書
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伏見の旅
十石舟・三十石船の旅
竹本修文(37回) 2022.01.30

筆者近影
 3年前の2019年5月に妻と京都へ行った時に、いつものように別行動で、私は伏見を散策しました。伏見稲荷などは行った事があるが、琵琶湖からの疎水の運河の流れと伏見から十石船で瀬戸内海へ行く水運を見る為でした。伏見で荷物を高瀬舟に積み替えて、そのまま高瀬川に入り京都先斗町へ物資を運ぶ状態を確かめました。
 酒好きの私は月桂冠の博物館もじっくり見学しました。外国人観光客がいましたが、説明者の英語が立派で感心しました。
 添付写真の寺田屋とか龍馬とお龍の銅像などもその時の写真です。

伏見の旅

十石舟・三十石船の旅

伏見周辺の水運〜琵琶湖疎水〜高瀬川

伏見の街・街路図

街並み

船着き場

龍馬とお龍の像

伏見の旅
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神奈川の宿・田中家
竹本修文(37回) 2022.01.30

 田中家関係は、2014年に東海道神奈川宿を訪問した時に偶然見つけて撮った写真です。
 鶴見に来て32年経ちますが、初めの20年くらいの間に、旧東海道の品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚の宿場跡を何回かに分けて歩きました。
 自宅から最も近い神奈川宿からJR東海道線や国道1号線を越えて保土ヶ谷宿に向かうところで、田中家を見つけて写真を撮りました。中に入り、女将さんらしき女性と話をして、関係する印刷物を頂いた記憶がありますが見当たりません。しまったな〜?と反省しています。








竹本 様
 竹本さんの写真、小生は訪ねてないところばかりで、有難いです。それにしても、欧米だけでなく、国内の史蹟も丹念に訪問、撮影しており、驚きです。使う際は、相談します。
 「お龍さん」については、黒鉄さんや郷土史家など、いろんな方から反響があり、もう少し取材してからさらにその実像に迫りたいと思っています。ただ、コロナと小生の体調の問題で、目下一休みです。特に、田中家の仲居時代の写真がお龍本人との根拠を確認する必要があります。英語をどの程度話せたかも問題です。中居当時のお龍に接した人の記録も調査し確認したいですが、当分動けません。今後も、体力が問題です。原稿締切りが迫ったり、テレビ「名門校・土佐」を公文の関係者に紹介したりで、全く余裕がない状況です。
 このところ、小生が提案した「日本城郭協会50年史」の校閲を頼まれたり、子ども文化論集関連の原稿締切りが迫ったり、テレビ「名門校・土佐」を公文の関係者に紹介したりで、全く余裕がない状況です。
中城

中城 様
 私は、引っ越すたびに新しい家の周辺を歩き回り、ネコのような習性があり、東京へ出てきた時はオリンピックに向けて都市改造が進んでおり、歩き回りました。墓地、軍の施設跡、処刑場、神社仏閣、・・・そんな事で歩き回っているうちに、東大井の山内容堂の墓や、竜馬が黒舟を見に行った品川の海岸跡などを見ました。
 田中屋との記載と現在の田中家と両方ありますが、歴史的記念物ではなく、商業施設なので決まりはないのでしょう。あまりお役には立たなかったと思いますが、神奈川宿だけでも面白い所が沢山あります。日本語のレテンアルファベット表記の「ヘボン式ローマ字」を作ったヘボンさんの宿舎だったお寺とか、沢山のお寺歩きもしました。
竹本

竹本さん
 田中家にまつわる図画、写真など、見たことも無かったのでいちいち興味深く覗き込みました。ご労作有難うございました。
 田中家からは150年の歴史を大切につなぐ気持ちがひしひしと感じられ、自分も訪ねてみたくなります。見落としてならないのは、横浜市が「神奈川宿歴史の道」の雰囲気づくりや街の景観(植樹を含む)整備に真剣に取り組んでいることです。玄人集団の仕事と見受けました。
 伏見寺田屋周辺の写真集も、まるで現地に行った気分にしてくれ秀逸。感心したのは地元伏見の人々が、この歴史的遺産まわりの景観を芸術的といっていいほど見事に整備していること。像の上のあずまや、傍らを流れる川岸の手すり(木製である)、緑の木々など、幕末の風情を感じさせてくれました。
 高知市は歴史的景観保全・整備の面では残念なことにアマチュアレベル。伏見や横浜から学ぶことがたくさんあるのではないでしょうか。
公文

竹本大兄
本題とかけ離れますけれども、桃山の城郭について探訪写真をお届けします。
1.平安京に遷都した桓武天皇陵
 小・中学と不登校を繰り返した孫の対策の一環の城郭探訪です。彼も今年は大学受験。
2.桃山城の堀跡
 模擬天守があるものの、残存しているのはこの堀跡のみ。
3.福島正則屋敷跡
 城下には各大名の屋敷跡が地名になって沢山残っていますけれども、形で一部が残存しているのは此処だけ。写真の石垣のうち隅石の算木積み部分。

 月桂冠は格別ですね。小生も博物館で目いっぱい試飲を楽しんだ後、裏手の月桂冠料理店でまた飲みなおしたことでした。

1

2

3
西内

竹本様
 感謝感激しきりです。
 感謝感激のまま、時間が過ぎ、竹本さんはもうどんどん先へ新しい展開をされています。
 今頃のお礼をすみません。
 毎回のことですが、単純な質問にyes、noで済ませずに、くわしく掘り下げてくださることに感謝しています。
 一番会いたいお龍さんは中城さんの論考にあった仲居時代の写真のようなお龍さんです。
 そのお龍さんが働いていた「田中家」を詳しく知らせて下さり、「田中家」のことが少しわかり感激しています。
 横浜市発行の資料からは、「神奈川宿歴史道」の一つの名所として紹介されています。いろいろな場所にガイドパネルを設けたとありますから、竹本さんが写されたのはそれですね。私は「田中家」が独自に紹介されたのかと思っていました。それなら、なおのこと、こんなに公になっているのなら、中城さんが指摘されているように、明治時代のお龍さんに目を向けて欲しいと思います。その当たりに腰掛け茶屋が1300件もあったとは驚きです。東海道の往時の往来の様子が偲ばれます。その中で、現在まで受け継がれてきた「田中家」にお龍さんが仲居さんでいたとは、これも何といったらいいでしょうか。勝海舟の紹介とありますから、代表となるいいお茶屋を紹介したのでしょうか。お龍さんは30代に2,3年勤めたとありますが、そんなに短かったのでしょうか。
 くわしい資料をありがとうございました。
冨田

竹本さん
 縮小のお心遣いをありがとうございました。
 今回もたくさんの映像と説明をしてくださり、よくわかりました。高瀬川というと、琵琶湖に注ぐ疎水ということと森鴎外の『高瀬舟』が印象にあるぐらいです。龍馬に限らず幕末には情報でも重要な場所になった事が伺われる。高瀬川は色々な役割を果たしていたのですね。
 ところで、演歌に「おりょう」という歌があります。ご存じですか。先日、演歌歌唱上手でカラオケ喫茶常連の友人に誘われて、カラオケ喫茶に行きました。運転免許を返納してからは、彼女の誘いにはどこにでも出かけています。
 そこで、ある人が題「おりょう」を歌いました。題「おりょう」には、もしかしたら「お龍さん」と思いました。やはりそうでした。演歌に歌われているなんてと驚きました。その歌詞の中に「京の女」とありましたから、きっと、この像のような姿を歌詞にしたのだと思います。
 資料をありがとうございました。
冨田

竹本様、冨田様、皆様
 「お龍さん」の拙文につき、神奈川宿・田中家から伏見・高瀬舟まで、いろいろな写真・ 情報をいただき、感謝です。今後、なお調査したいと思っていますが、コロナと自分の 体調で、動けない状況です。
 田中家については、観光パンフの類には「お龍さん」のことがいろいろ出てきますが、 基本的には田中家からの発言・発信とあの写真一枚だけです。お龍さんが明治七年頃に 神奈川宿の料亭で働いていたとの記述は、昭和初期の新聞にいくつか記載があり、また 田中家の女中頭から「お龍が中居をやっていた」との伝聞もあり、まず間違いないと思わ れます。しかし、あの写真がお龍さんというのは、田中家の言い伝えと、お龍晩年の真影との 類似だけで、まだ断定できる史料はありません。そこで、原稿でも末尾で地元研究機関の 調査を呼びかけました。
 田中家にも、お龍の部分だけでなく、写真全体および関連資料の提供をよびかけ、写真は 今年になってコピーをいただきました。数十人の慰安旅行のようで、この写真を専門家が 詳細に検討すれば、撮影時代などもう少し明確になると思って居ます。ただ、あの人物が お龍という根拠は、未詳です。
 いずれにしろ、田中家に関して観光対象だけでなく、史蹟としての公的研究機関の調査、 それも、旧神奈川宿からの継承の点だけでなく、お龍さんのことや、明治初期の外国人客や 政府高官の出入りの実態も調査が必要です。お龍さんの田中家への紹介者も、勝海舟とも菅野 覚兵衛ともされますが、不明です。平塚女将が推奨する資料が、『よみがえった老舗料亭』 (神奈川新聞社)ですが、この本の帯にも<「おりょう」が働いていた?>と?を付けて います。お龍さんの近代女性のさきがけとしての位置付けは、問題ないと思っていますが、 写真の裏付けや英語力に関しては、なお実証的な調査が必要です。

「高瀬川をゆく高瀬舟、川をさかのぼるのは人力だった。」
(『拾遺都名所図』より)
 もう一つ、京都の伏見が寺田屋・高瀬舟で話題になっていますが、この伏見は秀吉の時代に 伏見城も造られましたが、日本の都と世界とつなぐ重要な港でした。その伏見開発の中心人物が 豪商・角倉了以で、朱印船貿易でもで知られます。高瀬川を大型川舟が運航出来るよう改修、 南蛮貿易の物産を大坂湾から運び、その為の大型川舟も導入建造、「高瀬舟」と呼ばれます。 竹本さんが発表した英蘭の香料列島植民地争奪戦争時代に、日本から南蛮貿易に加わった代表的 人物です。いわば、世界貿易を夢見た坂本龍馬の大先輩です。ご興味があれば、ぜひ調査下さい。
 幕末の大政奉還の際に、小生の祖父(戸籍上)は新足軽として土佐藩兵卒となり、舟で山内容堂公警護の 一員に加わって高瀬川をさかのぼって京にはいり、土佐藩邸に詰めていた記録が残っています。明治には 造船業を興し、南洋貿易も志しますが船が難破して、造船業に専念します。もう一人の祖父(血統上)は 明治初期の慶応で福沢の教えを受け、日本郵船の西洋航路事務長となりますが、日露戦争で船ごと徴用され、 ロシアの捕虜となって、モスクワ郊外で一年ほど過ごしています。 そんなわけで、船と海外の話になると、なんとなく血が騒ぎますが、高瀬川流域も、もう一人の捕虜収容所 跡(メドヴェージ村)も、訪問できないままです。
中城正堯
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京都 高瀬川周辺散歩
竹本修文(37回) 2022.06.29

筆者近影
 京都に関しては、2019年に伏見を散策して、十石舟・三十石船の旅の表題でKPCに今年1月に投稿し、瀬戸内海から京都への海運ルートの中継地としての伏見の重要さに触れ、伏見で物資を小さな高瀬舟に積み替えて、高瀬川に入り京都中心部に配送する水運システムを報告した。また伏見は寺田屋があり龍馬とお龍の銅像や龍馬通り商店街などを紹介し、更に筆者が住む横浜市の神奈川宿跡を神奈川の宿・田中家の表題でお龍が働いたと言われている田中家の事も紹介した。今年は、高瀬舟が物資を配送した京都五条から二条の間の高瀬川とその周辺を6月に散策したので、報告する。今回もまた、龍馬とお龍が登場する。
京都 高瀬川周辺散歩

1. はじめに

2. 角倉了以(すみのくらりょうい)

3. 高瀬川周辺 その1(四条から三条に向かって北上)

4. 高瀬川周辺 その2(四条から三条に向かって更に北上)@ 土佐藩邸跡

B  瑞泉寺C 三条大橋とみそそぎ川

C 三条大橋とみそそぎ川

日本最初の石柱橋

京都 高瀬川周辺散歩
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竹本様
 高瀬川散歩、昔学習雑誌で角倉了以のことを取り上げたことがあり、高瀬川改修も朱印船貿易も、懐かしく拝読しました。
 図五に歌川広重の有名な「東海道五拾三次大尾 京師 広重」を掲載していますが、なぜか絵師が竹内孫八になっています。竹内は、この浮世絵の版元で、絵師は無論歌川広重です。なお、これは五拾三次の「大尾」で、五十五図目の「上がり」です。広重など江戸から京に上る人々にとっては、起点でなく終点でした。

中城正堯

中城さま
 ご指摘頂きましてありがとうございます。
 実は、三条大橋の西詰に立て看板があり、室町時代からあった橋を秀吉が修復した時は石柱にした、
 「東詰部分に現在も残っている」と書かれているので橋を東に戻って石柱を確認しまっした。
 広重の55枚の絵を思い出して、岡崎と京都に橋が描かれているのをよく見ると、石柱ではなくて木材のように見えます。
 それで、没にしようかと思ったが、三条大橋は東海道の終点だから、残そうと思って入れました。
 ご指摘頂いた画とはんの件は、55枚を纏めて販売した時の袋(添付写真2枚)をよく見ると、「真景 東海道五十三駅 続画  保永堂 一立斎広重」ともう一枚には「広重画 東海道五十三駅 続画 保永堂 はん 竹内孫八」とあります。
 電力余裕率が5%・・・昔の仕事用語がテレビから聞こえますが、エアコンを聞かせてどのように訂正するか考えてみます。
 ありがとうございました。

真景 東海道五十三駅 続画
  保永堂 一立斎広重

広重画 東海道五十三駅 続画
 保永堂 はん 竹内孫八

竹本修文

竹本様
 今日も日中は病院で検査、ちょっと前にやっと帰って来ました。
 江戸時代の浮世絵師も版元も、かなりいい加減で、絵師名もシリーズの作品名も途中で違っていました。ただ、それでは混乱が起こるので、浮世絵学会ではできるだけ統一を図り、教科書などもそれに従っています。広重も、武家としての姓は安藤で、ひところ安藤広重もよく使われましたが、安藤家を譲って絵師になり、歌川豊広に入門、「歌川広重」の絵師名をゆるされます。そこで、現在は歌川広重に統一しています。一方、一立斎広重は斎号といって絵師が作品に署名する際に適宜用いた名称で、広重も数種類の斎号を使っています。また、作品の題名にも食い違いが見られますが、初版の多くが「東海道五拾三次之内 ○○」で出されております。保永堂(もう1つの版元と協同だったが途中で降りた)から出たこれが大評判となり、別の版元から「東海道五十三次之内 ○○」も出たので、保永堂版のみに「東海道五拾三次之内」と「拾」を使って区別しています。橋が石柱か、木材かの問題も含め、このシリーズにはあり得ない場面がいくつか指摘されています。雪など滅多に降らない静岡県「蒲原」が豪雪地帯のように描かれているのが典型です。写実よりも人々の旅情と絵心を満足させる画面構成に徹したようで、そこから人々を感動させる名品が生れています。ご参考までです。

中城正堯

公文さま、藤宗さま
 皆さんのご意見に従って修正しました。いかがでしょうか?
 表題は高瀬川中心の予定が、鴨川も高瀬川の周辺とは?いかがでしょうか?
 「広重 東海道五十三次」は10年ほど前に、「東海道 かわさき宿 交流館」が開館した時に訪問して買ったが、今年始めにKPCに神奈川宿の投稿をする時に開いたのが最初でした。
 三条大橋の立て札の「石柱橋」に驚いて、若しかして広重はどんなに書いたのか? 「浮世絵で調べよう」との動機が不純ですね〜?いつも設計図を見ていた癖ですね〜?
 浮世絵は設計図ではないですよね〜?
 浮世絵の世界的権威者にこんな話をするのも失礼な事ですね〜?
 このまま掲載OKにしてください

竹本修文

竹本様
 修正原稿、拝見しました。竹本さんの投稿原稿ですので、あくまで私からは、参考意見です。判断は、お任せします。
 今回の浮世絵関係では、図8の浮世絵下の文字が気になります。一般的には、この作品のように画面に「画題」や絵師の記載がある場合は、それをキャプションでも表記します。この絵には「東海道五拾三次大尾 京師 広重画」とあります。普通<「東海道五拾三次大尾 京師」歌川広重画 天保四年頃>などとなります。題は「東海道五拾三次之内 京師」もありです。そして絵師名は、歌川広重か広重です。絵師名がなく、版元名、それも主人名のみというのは、まず見かけません。一般の人は、<はん 竹内孫八>とは何者か、この絵とどんな関わりがあるか途惑いそうです。

中城正堯

中城さま
 ご丁寧なadviceに感謝します。私も最初は戸惑いました。

竹本修文


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横浜の英連邦戦没者墓地
竹本修文(37回) 2022.07.20

筆者近影
 筆者が住む横浜に関する紹介は、2020年の表題「ビールの話」の中で横浜ビール物語と、2022年の表題神奈川の宿と田中家 だが、これに続く横浜deep第3弾として、横浜の英連邦戦没者墓地を投稿する。
 筆者が1981年に東芝ロンドン事務所に赴任した年に、英チャールズ皇太子とダイアナ妃が結婚した。帰国2年後の1986年には皇太子ご夫妻は初めて日本を訪れ、東京の青山通りをパレードし、後日、横浜の英連邦戦没者墓地を参拝した。
横浜の英連邦戦没者墓地

p0357

(3)横浜市児童遊園地

(4)墓地は日本に唯一の英連邦の墓地 (5)墓碑の例

(6)火葬記念堂

(7)日本国内の連合軍捕虜収容所 

(8)日本国内の連合軍捕虜収容所地図へのコメント (9)考察

参考、戦後史に関するエピソード

横浜の英連邦戦没者墓地
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竹本様
 英連邦軍の墓地が日本にこれほどあるとは、驚きました。見事な発見で、研究です。
 私は、インドネシアのバンダ海に浮かぶバンダ海のアンボン郊外で、太平洋戦争中に日本軍と戦った英連邦軍の墓地を訪ねました。ほぼ同じスタイルで、墓石がずらりと並んでいました。また、カトリックの世界では、第一次大戦の仏・独の激戦地ヴェルダンの丘を埋め尽くす墓標と記念館を、第二次大戦で従軍医として戦地を体験した斉藤茂太さん夫妻と見学しました。皇太子時代の昭和天皇も訪ね、戦争の悲惨な実態を実感したとされる地です。いずれにしろ、キリスト教では死者は死亡した現地に土葬し、魂はそこから昇天、復活を待つのかと勝手に納得しました。日本人や中国人は、外国・都会で死亡しても遺骨は先祖と同じ墓地に納めないと、祖霊の仲間に入れないと考えるのか、故郷での埋葬への願望が強いようです。遺骨収集に予算を費やしています。近年の田舎の墓仕舞や、都心の納骨アパート的な施設がどのように定着するか、僧侶や神官がなんと説明するかも気になるところです。いろいろ、考えさせられる報告でした。我々の年代には、身近な大問題です。
 私自身も、消化器は完治しましたが、別途の病で当分治療が必要となり、活動がかなり制限されます。我が身の始末を控え、片付けておきたい事項がありすぎて困惑しながら取組んでいます。桂浜の県立龍馬記念館から秋に講演の依頼がありましたが、残念ながら辞退です。御元気で、今後も研究下さい。

中城正堯

中城様

中城様-1

中城様-2

竹本修文

竹本さん
 帰省していて今晩帰京しました。実家の古家が残っており(売りに出しているがなかなか・・・)、空気入れ替え、庭の手入れなどのため毎月帰省しております。
 さて、「英連邦戦没者墓地」の記事拝読、知のポケットの多さに感嘆しています。外地での戦没者の遺骨を収集して(現地埋葬ではなく)故国に返す活動を米国政府などは長年熱心に続けているそうですので(例えば硫黄島、朝鮮戦争の戦死・行方不明者探索)、戦没地に建てるとすれば追悼碑かなと思っていました。
 横浜の事例はちょっと変わっていて興味深いですね。健筆に敬意を表します。

公文

公文さま
ありがとうございます
☆我々は、「日本でなければ外国」と思いがちですが、現在では国家ではなくて、海外団体などと国際交流の契約が普通になっています。
☆戦後は、国際連合ができたし、イギリス帝国(コモンウエルス)は国連に次ぐ2番目に大きな国際組織でしたが、敗戦国日本は戦勝国に物申す事は出来なかった事だと思います。
☆イギリスを見ていますが、ヴィクトリア女王がインド帝国の女帝になって、インド国民を奴隷として「やしべて」未だに貧しくしたのが頂点だった。植民地経営&奴隷家在で稼いでその金で産業革命を起こしたのでした。国名ではないが、「大英帝国」と言われた時代は、貧しい植民地を経済的にも支えた事だった。
☆ 2度の世界大戦でアメリカに巨額の借金をするなど、貧乏になり、コモンウエルスでは、「加盟国は皆自由で平等」と表面は美しいが、国力が弱くなったイギリスは、本音では「支援する金がない、自分で生きていきなさい」と言って突き放しているのです。
☆イギリスがEUの前のECに加盟した時に、オーストラリアやニューランドは、本気で自力で生きていくために日本との交流を始めたのでした。これが、現在に繋がっていると思います。
☆ジョンソン首相のリードでEUから離脱したが、隠されていた課題が露呈して退任、将来は「もう一度入れてくれ」とも言えず、技術も経済力の低いままで、昔いじめたインド人が首相になり、パキスタン系のロンドン市長と一緒に、嘗てのインド帝国が復活するのか?
☆イギリスから目が話せられないです。

竹本 修文

竹本様
 アンボン、ヴェルダンの墓地、写真入りでの説明、どうも有難う。写真で思い出しましたが、アンボンは平たい墓石の、ヴェルダンは十字架の墓標の行列が印象に残っています。カトリックとプロテスタントで、集団墓地も様式が違いますね。いろいろ有難う。

中城正堯


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エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報
竹本修文(37回) 2022.10.08

筆者近影
 女王の崩御から一か月経ちました。
 テレビで放映された場所はバルモラル城以外は行ったことがあり、このような国葬はもう見られないと思うので、気づいた事を纏めてみました。
 96歳なので、数年前から「ロンドン橋作戦Operation London Bridge」と名付けて準備をして来た結果は見事でした。
 この計画に、スコットランドのバルモラル城で女王専任のバグ・パイパーがウエストミンスター寺院でバグ・パイプ演奏をしたのにも感動しましたが、女王のアイデアでした。
 女王は公務で乗る車はロールス・ロイスのソヴレインでしたが、普段はスポーツカーのジャギュアーでした。今回の霊柩車も女王が設計に加わってジャギュアーをベースに特注したそうです。
 イギリスの国葬は国家元首が対象で、それ以外は万有引力のアイザック・ニュートンとチャーチル元首相だけだそうです。
エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報

第1章.イギリス王国の概要 1.1 王国の中の国々

1.2 王室について若干の補足

1.3 エリザベス2世後の王室 1.4 Royal Standard 王旗

第2章. スコットランド 第1日 9月8日 第2日 9月9日

第3日 9月10日 第4日 9月11日(スコットランド内の移動)

第5日 9月12日

第3章 イングランド 3.1 ロンドン

3.2 ロンドンでの葬儀の補足  時系列説明 9月13日

葬儀の中心となる地域の地図

9月14日 バッキンガム宮殿からウエストミンスター・ホールへ棺の移動 9月15日 9月16日

女王と血の繋がりのあるblood family によるお通夜 9月17日 9月18日 9月19日 国葬

葬儀に続いて、棺はウインザー城に運ばれ、セント・ジョージ礼拝堂の女王の夫君の棺と並んで埋葬された

エリザベス二世(1926-2022)の国葬報道の補足情報
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モンマルトルからパリを考える
竹本修文(37回) 2022.11.12

筆者近影
 3年前に「最後のイギリス旅行」をして、シリーズでKPCに投稿をしながら、密かに「最後のフランス旅行」を考えていましたが、コロナで断念して自宅軟禁状態でいるうちに、体力が衰えました。
 フランスに関しては、城郭シリーズで投稿しましたが、10月11日にサクレ・クール寺院がフランスの重要な歴史的モニュメントとして正式に登録された事を10月15日付のNew York Times国際版で知り、「今頃になって、一体何が起きたのか?」 疑問をもち、過去の疑念や周辺の歴史的な事を含めて調べたので余談を含めて報告しようと思いました。
 明治政府はイギリスとフランスから教わろうと決めて準備してきたが、普仏戦争でフランスが敗れ、フランスに代えてドイツから教わる事になり、混乱した事は勉強しましたが、それでフランスがどうなったか、勉強した事がありませんでした。
 また、パリ・コミューンも勉強した事が無く、「世界初の労働者自治政府であり、ヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義、共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。」重要な事件だった事を知りました。
 カール・マルクスがロンドンの大英図書館で勉強して資本論を書いた事は有名で、ロンドン駐在時の自宅近くのハイゲート墓地に彼のお墓があり日本からの訪問者を案内した事でしたが、苦手な分野なので、忌憚のないコメントを賜りたくお願いします。
モンマルトルからパリを考える

1.はしがき  2. パリの中のモンマルトルの位置

3. サン・ドニ Saint Denis

A サン・ドニ・バシリカ(大聖堂)

サン・ドニ・バシリカ

サン・ドニ・バシリカ

5. サクレ・クール寺院 ( Basilique du Sacre-C?ur de Montmartre)

5.2022年10月15日付 New York Timesの記事の要点

補足

参考図 パリ市内北東部

参考図 ペール・ラシェーズ墓地

モンマルトルからパリを考える
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竹本様
 サクレ・クール界隈の歴史探訪記、さっと拝見しましたが、写真が豊富で楽しめます。
 ただ、今は最後の本の最終入稿と、最初の部分の校正戻しで、全く余裕がありません。いずれゆっくり拝読します。
 何度かあのあたりは散策しましたが、墓地と少し残っいるぶどう畑から、昔はパリ郊外の畑と墓地の村だったのが、安くて暮らしやすく、若い芸術家が住み付きさらに歓楽街に・・・等と夢想していました。

中城正堯

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 皆様の貴重なコメントに従い、主題に関する所は大きくは変えず、参考資料を増やしました。
 私は、コロナで最後のフランス旅行が出来なかったので、過去の資料で自分の整理に役立ちましたが、KPCの皆さんに、「これを参考にパリへ行ってください」とは言いにくい環境ですね=?
 明治初期に、カンパニーの英語に対する日本語を会社にするまでに大変な議論があり、江戸時代の組のままの大林組とかありますよね〜?
 最も難しかったのが、社会と言う言葉だったそうですが、パリ・コミューンこそが当時の世界で初めて実践したのですね=? 社会主義の始まりですね〜〜?
 勉強になりました。 まだまだ、ご意見があればお伺いしたく思います。

 ノンポリの 竹本修文

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 サンドニとは懐かしい地名が話題になっています。もう50年近く前のことですが、フィレンツェに留学していた時代の最初のクリスマス休暇の時、ユーレイルパス(乗り放題の列車が宿泊所)を使ってヨーロッパ各地を回っての貧乏旅行をした際、最後にたどりついたのが、サンドニ通り(娼婦街)にあった友人のアパートでした。勿論、お金のない高潔な青年とは縁のない世界で、建築史上ゴシック建築の初期の傑作と言われるサンドニ修道院の聖堂を見るために訪れた街です。朝のバケット(フランスパン)を手に入れるために出かける度に足を運びました。もうすっかり変わってしまったことでしょう。また訪れてみたい地区です。
 遠い昔を思い出しました。ゴシックで建築史上有名な聖堂を3つ上げるとすれば、サンドニ(仏)、ケルン(独)、ミラノ(伊)だと勝手に考えています。皆さんは行かれましたか?そのうちの一つが取り上げられています。

藤宗俊一

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Duomo大聖堂 正面外観(Milano)1386-500 ゴシック
 はい、3聖堂に行きました。
 @ ミラノは1981年に初めてコモ湖畔のヴィラ・デステHOTELで一週間会議があり、仲間と修繕中の最後の晩餐を見に行って、ドーモの屋根の上まで登りました。フィレンツエを中心に北フランスから始まった新しい建築を、イタリアを襲った野蛮なゴート族のような建築だ!と笑って、ゴシックと名付けた徒いうのは本当でしょうか?フィレンツエは敵対していたミラノが採用した事で動揺したと聞いた事があります。

Dom 鳥瞰(Koln)1248-1560 ゴシック
 A ケルンは翌1982年に家族でロンドンから船・鉄道でウイーンまで旅行した時に聖堂の中に入りました。その後はベルギーからアーヘン、ヂュッセルドルフ、ボン付近を頻繁に列車で行き、聖堂は車窓から良く見えましたが、中へは家族旅行の時だけです。

Abbey Church 身廊(Paris,St.Denis)1140
 B サンドニが一番後ですが、デイープに見ました。
 西ゴート族は北イタリアから、5世紀にバルセロナに移動し、ローマ人の後で住み着きました。
 サン・ドニへ初めて行ったのは、仕事が終わり一日余裕ができた時に、ホテルで有名なマルシェを聞いたら、スンニ・バシリクを勧めてくれたが地ミスボラシイ車両もボロだが、乗客がぼろ?と言わないが、ミスボラシイ人達ばかりで若干恐ろしさを感じた事でした。
 小塚原の処刑場跡を観ようと山谷を歩いて居たら、歩いて居る人も路上生活者も恐ろしく感じて速足になった事だったがサン・ドニの教会とマルシェ以外の狭い路地は汚かった。最後は08年だったがきれいになっていた。
 長話しました。失礼します   

竹本修文


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