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藤宗俊一(42回) 笠井賢一(42回)笹岡峰夫(43回) 他

岡林哲夫(40回)     井上晶博(44回) 永森裕子(44回)加賀野井秀一(44回)
 
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2010.10.12 藤宗俊一(42回)  土佐、6年ぶり四国大会へ
2011.10.16 藤宗俊一(42回)  向陽新聞バックナンバーCD誕生のいきさつ
2011.11.03 笹岡峰夫(43回)  「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
2011.12.16 藤宗俊一(42回)  曽我部校長と櫓
2012.04.04 笹岡峰夫(43回)  新作能「無明の井」の公演のお知らせ
2013.12.01 藤宗俊一(42回)  自由闊達な学園生活
2014.04.15 笹岡峰夫(43回)  笠井賢一(42回)演出「死者の書」案内
2015.01.09 藤宗俊一(42回)  あけましておめでとうございます
2015.05.24 藤宗俊一(42回)  渡辺真弓著『イタリア建築紀行』のオススメ
2015.06.14 藤宗俊一(42回)  敗北宣言
2015.06.27 藤宗俊一(42回)  二つのご案内
2016.01.15 藤宗俊一(42回)  野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
2016.10.15 藤宗俊一(42回)  笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去
2016.10.31 笠井賢一(42回)  新作能『鎮魂』公演のご案内
2017.08.26 藤宗俊一(42回)  終結宣言
2018.06.28 藤宗俊一(42回)  寛容の精神溢れる玄さん
2018.12.25 藤宗俊一(42回)  WorldHeritageJourney
2019.02.03 藤宗俊一(42回)  「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較
2019.07.02 藤宗俊一(42回)  Ciao Bella(さよなら美人)!
2020.05.08 藤宗俊一(42回)  ワインの貯蔵と飲み頃
2021.02.26 植野文隆(42回)  ぶんちゃんの世界オモシロ随想録
2021.05.10 藤宗俊一(42回)  本当にお世話になりました
2021.09.10 藤宗俊一(42回)  中城正堯著 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
2021.09.28 藤宗俊一(42回)  榎並悦子写真展、関健一写真展

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
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秋の高校野球:県予選
土佐、6年ぶり四国大会へ
藤宗俊一(42回) 2010.10.12
 去る10月11日、県営春野球場で行われた『秋季高校野球県大会・3位決定戦』で、母校は宿敵・高知商業を延長戦で5対2で降し、23日高松市のレクザムスタジアムで行われる四国大会に駒を進めた。 尚、1位は高知、2位は明徳で、このところ出ては負けていた母校の不甲斐なさに諦めかけていた甲子園出場がもう少しのところまでたどりつきました。フレー!フレー!土佐高!
土佐高校  00200000000003=5   バッテリー:森岡稜、三谷−生田
高知商業  00010001000000=2

●実を言いますと、毎日新聞のホームページから、記事を流用しようとして問い合わせたところ、ナント¥10,5000の使用料が必要だと言われ、仮掲載していた流用記事(ちゃんとクレジットをつけて)をあわてて抹消しました。逆にこちらが宣伝料を要求したいくらいなのに、こんな私的なホームページでも容赦しないのですね。毎日新聞が特殊だという訳ではないのでしょうが、四国大会の応援に行く気が失せました。いい経験をしましたが、世知辛い世の中になりましたね。
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向陽新聞バックナンバーCD誕生のいきさつ
藤宗俊一(42回) 2011.10.16

 CD発送が終わって一息ついていたら『会としてはCD誕生のいきさつはきちんと残すべきと考えますので、よろしく』という、中城会長からのMailがあり、この事業全般にかかわってきた以上書かざるを得なくなって、HP初投稿になりました。私は一応理系なので拙文で、とても文系前期高齢者の方のようには上手に書くことは難しく、この事業に携わった方々のご指導、ご助言を受けながら、なんとかまとめました。このところアルコハイマー性認知症がすすみ、記憶違いや失礼な表記が多々ありますが、CDに免じてお許し下さるようお願い申し上げます。
1.発端
 平成22年3月19日、第1回向陽プレスクラブ再結成準備会の席上、岡林敏眞氏(32回)から『校舎改築の際廃棄処分にされそうになった向陽新聞のバックナンバーを、母校教員で新聞部OGの門田美和さん(38回)が見つけ図書館に保管してあるそうです。』と報告があり、『4月の帰高の際、母校を訪問して確かめてくる』ということになった。
2.調査、電子化発注
 平成22年4月8日のホームページ記載の報告書抜粋(下記)のとおり、岡林敏眞氏から調査と提案が行われた。
1)4月3日。10時土佐高にて三浦浩二教頭(45回)に会う。新聞部OGの門田美和さん(38回、今年3月まで土佐高の教師)も駆けつけて来てくれ、彼女とともに図書館に保存の向陽新聞を調査した。
*保存新聞のリストは別紙。96紙が保存されていたが、劣化が進み紙面は茶色に変色。
*三浦教頭の紹介で、池商店の専務・池 啓伸さん(49回)が来校。池商店は土佐高に文房具などを納入している業者。彼が新聞などの電子化業者に連絡を取り、試験的に1紙を電子化すると共に、値段を調べてくれることになった。
2)4月5日。11時に小村(こむら)彰(49回)教頭に面会すると共に、事務室で電子化した向陽新聞をパソコンで見る。写真撮影したものより、スキャナーで作成したものが鮮明であった。
*事務部の千頭(ちかみ)裕(58回)さんがパソコンを操作してくれた。
*電子化料金はスキャナーで1面で300円(税別)
*ガラスの上に紙面を載せて、汚れを除去しながら25分〜30分の時間がかかる。
【向陽新聞の電子化について】
 少々経費がかかるが、この際電子化したらと思う。会員全員が自由に閲覧できるし、土佐高にも永久保存に便利。費用は、とりあえず、準備委員(中城、岡林、杉本、吉川、公文、森田、黒木、藤宗、永森、中井、鶴和)の11名が1万円ずつ出しておいたらどうか。会員への連絡費やHPの開設費用、総会会場の予約金など、いわゆる開点資金がかかると思う。中井君が開設した口座に振り込む。
 電子化をすることになれば、門田美和さんに動いてもらって進めることにする。
3)これ以上の散逸を防ぐために、電子化は急務であるという認識で一致、岡林氏に一任。池商店に発注された。
4)資金については、とりあえず中城正堯氏(30回)、岡林敏眞氏、杉本健一郎氏(32回)が合計7万円を拠出し、それに藤宗保管の旧プレスクラブ通帳の残金約3万円(うち1万円は島崎(森下)睦美さん(31回)よりのカンパ)をあてることになった。
3.第1次電子化画像到着
 平成22年4月下旬、池商店よりスキャンされた画像(283面分)が届き、岡林氏から『電子化が終わったので、池商店に支払いをするように。』との指示を受ける。
1)画像を精査すると以下の問題点が浮かび上がる。
*500MG近い一つのファイルにまとめてあるので、インターネット上では多分誰も読み取ることが出来ない。
*順番がでたらめで目的の号数を捜すのがまず無理。
*落訂や二重の画像(約40枚)もあり、283枚の根拠がデタラメ。
*画像がナナメになったり、横向きになたりして画面上では読めない。
*ごみ取りをしていなく醜い上、見本では1面2.5MBあったのだが、半分くらいが1MBもなく非常に粗く、印刷には不向き。
*少なくとも、データを撮る段階で新聞を見ながらファイル名に号数と紙面の番号で入れて、処理しておけば簡単だが、このデータから編集するのは大変な労力がかる。
2)以上の問題点を指摘し、『金は払えない』と岡林氏に伝える。折り返し池氏から電話があり、その旨をつたえると、『指示通りに母校から古新聞の山を受け取り、上から順番にスキャンしていっただけです。確かにこちらのミスもありますので、取り直し致します。下請に渡す指示をお聞かせください。ただ、合間をみての作業になりますので時間を下さい。』との返事。母校のためとはいえ、快く再スキャンを引き受けてくださった池氏には頭の下がる思いがした。
3)今後の進め方
*とりあえず、受け取ったデータを分割し、新しい名前をつけてホームページに仮アップする。
*向陽新聞のデータは500MBもあるので、メイルでは誰も受け取れない。DVDかCDで送るしかない。「総会に参加した人たちに手渡すのが最善なのだが、まだ、電子化は終わっていない。未収録のデータもあるし、少し時間がかかる」と報告。
4.未収録バックナンバーの収集とリストの作成
1)母校に残されていたバックナンバーは92号分(翌桧、号外を除く)で残りの19号分の行方探しを、メイルやHPを通じてお願いした。その結果下記の方々から提供の申し出があり、スキャンした画像が送られてきた。
*細木 大麓氏(27回)、谷村 峰雄氏(27回元文芸部):4,6,8,10号
*中城 正堯氏(30回):創刊号,12,13,14,16,17,18,26,52,53号,スポーツ号(ガリバン製)
……公文 敏雄氏(35回)を通して
*山本 嘉博氏(51回):101,103号……同じく公文氏を通して
以上の御提供のおかげで、未収集のバックナンバーは5号、82号、107号だけになった。
2)以上の資料と学校に残されていた号外、翌桧号(生徒会発行)、復刊号(有志発行)、高知新聞(広告等)をまとめてリストを作成することにしたが、前述のようにファイルの名前がランダムの上、1面1面を開きそのデータ(号数、発行年月日、編集人、発行人)をエクセルに書き込んで行く大変な作業となった。また顧問の先生方の名前を入れたらという提案があり、HPで協力を呼びかける。ただ、記憶が曖昧になっている方が多く、自分の時の先生は分かるがいつからいつまで顧問であったかは定かではないというと返事が届く。
5.第2次電子化画像到着、編集、ホームページへの掲載
 平成22年8月上旬、池商店よりスキャンされた画像(252面分)が届き、会計の中井興一氏(45回)が池商店に支払いをする。既に設立総会も終わり、会員の手元に渡すことが出来なくなっていたが、総会でHPに載せることが決定していたので、「何故私がやらなければならないの?」と思いながら編集作業が始まる。
1)全ての画像(292枚)を号数毎に分け、横転している画像を回転させ、紙面順に結合し、新しいファイル名で保存する。
2)リストに主要記事内容を付け加え、ジャンプできるようにHTMLのタグをつける。
 出来た分からホームページに載せる。実際は1)2)を並行しながらすすめるが、うんざりする作業である。仕事の合間をみてはの作業で結局3ヶ月あまりかかり121枚のPDFファイルを作り年内に完成し、ホームページの会員のページに掲載。
6.CD化
 平成23年4月、第2回総会にて事業計画でCD化が決定される。協力を求めても誰も手を上げない。文系が大半のクラブの弱点をさらけだす結果となった。
1)HP掲載の総容量が720メガ程度なので、700メガにまとめればDVDではなくCDに収録できる。CDにすれば、値段も安いし、誰でも見る事が出来るし、大量生産も手伝ってもらえると思い、また分解して画像を少し圧縮をかけて、再び結合させる。ところが、実際CDに焼き付けてみると700メガは書き込めない(失敗)。再び680メガに圧縮してマスターCDを作り、ホームページに仮掲載をして、幹事の意見を訊く。

*あろうことか、文系前期高齢者の方などは『あれはホームページと同じですね。』とのたまう。文系の人は出来上がったものでしか判断しない。
*『土佐向陽クラブは正式名称ではなく会則どおり向陽プレスクラブに。』画像なんてお飾りだというのに。修正。CD2枚没。
*『日付けを入れた方が良い。』全てのファイルの日付けを強制的に2011/09/01 00:00:00で統一する。また1枚没。
2)岡林 哲夫氏(40回)から『ラベルを付けた方が良い。私が作ります。CDコピーも手伝います。』最後になって、やっと救いの手が差し伸べられた。
3)森田 隆博氏(37回)から『パソコンは文系理系は関係ない』と向こう見ずな申し出があり、多少疑問を抱きながらコピーをお願いした。
(既報CD作成奮戦記を参照してください。)
7.コピーと発送
 平成23年9月、完成したマスターCDを会員の宛名ラベルとともに森田、岡林両氏に送る。中旬、コピー及び発送が完了。9月22日、岡林氏と永森裕子さん(44回)が高知支部懇親会に参加し出席者に手渡し、同時に母校や高知新聞社にも届ける。多くの方々からお礼のMailや葉書が沢山寄せられ、1年半にわたる事業は完了した。
8.最後に
 多くの方々のご協力を得て、無事『向陽新聞バックナンバーCD』を皆様にお届けできたことを深く感謝いたします。
9.追記:フリーソフト、シェアソフト
 森田氏が初めて使用されたと言われるフリーソフトやシェアソフト(○印)をこのCD作成にあたり使用させていただきました。開発及び提供者(社)の方々に感謝致します。安心できるソフトですので皆様も是非お試し下さい。(全て日本語版あり)
1)WinFD ○:ファイル管理ソフト:copyright(c)高橋直人 Naoto Takahashi
MS-DOS時代(FD)から続くファイル管理ソフトで、属性変更、更新日変更、最新更新日同名ファイルのみコピーができる(一番使う。何故エクスプローラにこの機能がないのか?多分100枚以上、他のパソコンに同時にコピーすることを考えていない)、定評あるソフトです。
2)FFFTP :FTPクライアント:Copyright(C)Sota. All rights reserved.
ホームページにサイトアップするソフトです。
3)GIMP :画像処理ソフト:Copyright(C)Spencer Kimball, Peter Mattis and The GIMP Development Team
日本語の解説書(市販)まで在るソフトで個人的にはPhotoShop(高価)より使いやすい。
4)PrimoPDF :PDF作成ソフト:Copyright(C)activePDF, Inc. ("ACTIVEPDF")
全てのソフトからPDF打ち出しができる。編集はできない。
5)ComPDF ○:PDF結合ソフト:Copyright(C)森 秀樹 foresth
6)SepPDF :PDF分割ソフト:Copyright(C)森 秀樹 foresth
7)その他、パソコンや製品に付属する多くのフリーソフト(Adobe Reader,Roxio Creator,Roxio burn,エレコムらくちんプリント等々)を使用させて頂きました。
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「新けやき法律事務所」をよろしくお願いします
笹岡峰夫(43回) 2011.11.03
前 略
 去る9月26日から、慌ただしく新事務所での業務を開始しました。
 東、南及び西の三面が大きなガラス面になっていて、ブラインドを開けると眩しい程に明るい事務所で、東正面にはスカイツリーがはっきりと見えます。
 24〜25日の引越しに際し、延べ幅270cm(高さ220cm)の書棚が事務所に運び込めなかったなどのハプニングもあって、ダンボール箱があふれていた事務所も、次第に落ち着いた状態になりました。
 そんな中、朝から雨の降り続く大安の10月5日は笹岡の誕生日でした。
 事務所内には、ゴミ箱などを隠す目的も兼ねて、バーカウンターも設置しました。勿論、打合せも出来ますが、カフェにも、バーにもなりそうで、皆様が気軽に立ち寄って下さることを楽しみにしています。
 なお、「けやき法律事務所」名を使用していなかった間に、同名の事務所が都内に出来ているとのことで、「新けやき法律事務所」と改称しましたが、この名称の方が今の心境には相応しいように感じています。 草々  新けやき法律事務所
 〒164−0001東京都中野区中野5−68−1 高山ビル4階
 TEL 03−5318−4161  FAX 03−5318−4162
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曽我部校長と櫓
藤宗俊一(42回) 2011.12.16
1.曽我部清澄先生




 同窓会の席でいつも話題になるのは初代三根校長と戦後の混乱期に母校を立て直した三代大嶋校長ばかりで、四代目の曽我部校長が話題になることが少ない。確かに、草創期や復興期の苦労と比べれば、その業績はかすんでしまうかもしれないが、どうも語る人たち(長老)の年齢層によるところが多大である。私たち昭和33年以降の入学生にとっては、三根校長や大嶋校長は単なる校史上の人物であって、実際お目にかかったこともないので親近感がまるでない。かと言って、曽我部校長に親近感を抱いていたかというとそれもまるでなくて、校長というと始業式や終業式で眠くなるような挨拶を聞かしてくれる存在でしかなかった。どこか、洗練された紳士(印象深い蝶ネクタイのせい)といった感じで、アクの強い名物教師(カマス、タヌキ、ナオサン、マンタロウ、パンツ、タコ、サカイ族、ガンキチ、アヒル、オンカン、ヒラリン等々)の陰に隠れてしまっていたという印象である。
 曽我部校長は明治40年(1907)に吾川郡八川村(後に吾北村、現在はいの町)に生まれ、母校の第1回卒業生で、昭和2年(1927)旧制高知高等学校、昭和5年(1930)東京帝国大学理学部物理学科を卒業。その後全国の中学校で教鞭をとられた後、高知高等学校に教諭として迎えられ、昭和24年(1949)戦後の学制改革 で高知大学教授となり、文理学部の礎を築かれるとともに、放射線物理学の研究を続けられた。昭和33年(1958)、大嶋校長の急逝のあと、2学期途中から文理学部長の職を辞して母校の校長に就任された。向陽新聞44号では『本校のありかたを今までの予備校的存在からはなして人間形成の一過程とし、校内全員の“親和”をのぞむ』と語り、長髪禁止令の廃止、遠足の年2回の実施、ホームルームの充実、暴力や盗難の排除など“明るい学園建設”を目標とした。22年間の在任中(歴代最長……大嶋校長は13年)、その自由闊達な校風の中、生徒たちはもてる力を伸ばし、甲子園準優勝(昭和41年春)や東大合格者数18名(42回生)など、“文武両道”で活躍し、"私学の名門"としての評価を定着させた。昭和48年(1973)には創立50周年にあわせ、全校舎の改築を成し遂げる。また、高知県県私立中高連合会長、私立学校審議会委員、県高校野球連盟会長などを歴任し、昭和56年(1981)逝去。行年75歳。
2.釘をさす
 こうして見ると曽我部校長は前述した二人の校長以上の業績を残されているが、実を言うと、曽我部のオンチャンは小さい時から知っていた。高知大学の官舎(入明町)が大伯父の蒲原のオンチャン(稔治・呑海。魚貝類学者、1901〜1972。)と隣同士で頻繁に行き来していて、米や野菜を届けに行った折や宴会の席で何度か顔を会わせたことがあって、土佐中の合格発表の後、土佐校に隣接する校長宿舎に挨拶に連れて行かれた。その席で『校長室に呼ばれるようなことだけはしないでくれ。どんな顔をしていいか困るきに。』と釘をさされて、入学してからはできるだけ顔を会わさないように心がけていたし、校長室の前を通る時は廊下の端を歩いていた。
3.糠に釘
 ところが、最後になって、この釘が糠に打ったものだと校長に思い知らしめた事件を起こしてしまった。

 昭和38年ごろから櫓の廃止案が@費用が非常にかかることA建築ブームでやぐらに使用するパネルの入手が困難なことB杉の葉をとりよせる際や、その他の用具、材料運搬の際の生徒の災害C設立の際の生徒のエスケープD応援の不徹定E危険性F後始末Gファイアーストームの乱れ等、の理由を挙げて学校から提示され(向陽新聞60号 63号)、42回生が高3になった時もぶり返された。
 勿論、大反対である。高校生活最後のイベントから櫓とファイアーストームが取りあげられるなんて納得がいかない。結局、学年の代表が学校側と話し合い、一番危険と言われていた杉や檜の小枝を須崎の奥の山で共同購入して、運搬を業者に委託するということで合意してきた。ところがKホームでは既に、近くの久礼田の裏山で檜の小枝を無料で手配済みで、もう運び込むだけになっていた。連絡会の席で理由を話して『共同購入には参加しない』と表明し、1週間前には軽トラックやオートバイで学校に運びこんで、教員室と用水路の間の窓下に隠した。隠したという以上、悪いことをしているという自覚は多少あったであろう。




 しかし、翌日にはもう露見し、『責任者は校長室に来るように』と言われ、同級生と二人でお白洲に向かった。恐る恐るドアを開け、頭を下げたまま入り、神妙にしていると、『顔を上げて、名前をいいなさい。』と言われ、応えると一瞬『やっぱり来たか』という表情をされたが、何事もなかったように懇々とお説教をされた。
曰く『学校の決めたことがまもれないのか?(後になって学校が勝手に決めたことなのに)』『こともあろうに教員室の窓下に隠すのは先生方を愚弄しているのか?(多少あります)』『一番いけないのは他のクラスが守っているのに抜け駆けするのは恥知らずではないのか?(ちゃんと報告済みです)』。淡々と諭すようにされて、ただ黙って聞くしかなかった。……()内は胸のうち。
 『それで、Kホームは櫓をどうするのか?』と訊かれ、二人で相談した結果『運び込んだ檜は使いません。他のホームで使って下さい。櫓は作ります。』と意地を張って答えてしまった。それからが大変で、クラスに帰って報告し、放課後リヤカーを引いて家具屋や土建屋を廻りベニヤの切れ端や廃材を分けてもらい、ペンキを塗って装飾に使い、それでもみすぼらしいので、グリーンスタンプの小旗を『宣伝になるから』といって多量に借りてきて櫓に巻きつけることにした。出発点が遅れたせいもあって、前日の夕方になっても完成せず、最後は校長宅から電気を借りて(さすができた校長で快く貸してくれた)頑張ったが、9時までかかっても完成せず、翌早朝、泊り込んだ友人宅から5時過ぎには現場に来て、まあまあ見られる格好にして、なんとか本番には間に合わせた。尚、この件について、タヌキの『甚田先生裸日記(2版)』に、実名を挙げられ警察から不審尋問を受けたなどと根も葉もない話が報告されているが、全くのデタラメで、どうも高2の時の仮装行列準備の時、夕方学校を追い出され城山公園で練習していた事件が一緒になっているようで、この場を借りて訂正しておく。

 その夜のファイアーストームはもう疲れきって、校庭の片隅で座り込んで居眠りをしていたし、2次会も参加する元気もなくて散々な運動会になってしまったが、良い思い出として残っている。その後の向陽新聞には櫓問題は出ていないのでずっと続いてると思うが、今思うに、櫓は単なる運動会の思い出作りではなかったような気がしている。企画・設計、規制への対処、予算、購入、交渉、人間関係、資材調達、安全管理、危機管理、労務、納期、完成の喜び等、一般社会の活動を体験させてもらえる場ではなかっただろうか。授業やクラブ活動では学べないことを経験させてもらった気がする。どうか、授業のさまたげになるとか、危険だから、費用がかかるなどと管理面からだけで廃止を言い出すようなことはしないで欲しいと願っている。
4.抜け釘
 その後、釘が抜けてしまったのか、卒業までの短い間に二度も校長室に呼ばれた。「下級生下駄殴打事件」「冬の金沢、逃避行事件」で二つとも親しくしていた同級生が起こしたもので、説明と経過報告に呼び出された。どうも担任のタヌキは諸悪の根源は私にあると考えていたようで、ことある毎に私に振ってきた。最後には、あろうことか、進学父兄面談で『御子息は学校に遊びに来ているようです。

このままではどこの大学も通りません(実際そのとおりになった)。』とやってくれたので、家に帰ってきた父親にこっぴどく叱られた。後年(20年以上たって)、自宅にお伺いした際に『一番ひどいと思っていたクラスが一番良かった。なんせ理Vを含め5人も東大に入った(現役はたった1人)のだから、ナオサンやパンツに対しても鼻が高かったぜよ。』と自慢げに話していた。別にタヌキの鼻のために頑張った訳ではなく、各自勝手に高校時代を謳歌させてもらい、その代償として予備校で頑張らざるを得なかったのだと思っている。
 勿論、同級生全てがワルばかりではなかった。エース(準優勝投手)のために、寮に行って勉強を一緒にした同級生もいるし、ずっと委員長と呼ばれ続けられた同級生もいるし、多士済々の顔ぶれが集まり、お互い切磋琢磨して成長していく自由闊達な場を与えてくれた土佐校に感謝するとともに、それを作り出した曽我部校長に改めて畏敬の念を感じざるを得ない。くしくも、今年、曽我部校長にとっては最初の入学生である山本氏(40回)が母校の校長に迎えられたという。学校は管理・経営の場ではなく、生徒の個性を伸ばす場であるとことを肝に銘じて、再び"私学の名門"として復活させてくれるよう切に望んでいる。個人的には、とりあえず甲子園に早く連れて行って下さい。
5.最後に
 曽我部のオンチャン、30年忌を迎えたというのに墓参にも出向かない不肖の教え子の戯言に苦笑いしていることでしょう。合掌。
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新作能「無明の井」の公演のお知らせ
笹岡峰夫(43回) 2012.04.04
1. 事務所前から新井薬師にかけての中野通りの桜が漸く開き始め、深川周辺散策企画も小名木川の桜堤の開花が間に合って盛会が楽しみですね。
 ところで、隅田川と四万十川とが姉妹川であることを誰か知っていますか。東京で開かれる四万十町の郷土会に、吉祥寺在住者が隅田川関係の来賓として出席されていて驚いたことがありますが、「神田川は隅田川の支流」とのことでした。小名木川も隅田川の支流です。行徳の塩を運ぶため江戸初期に掘削され、その後、波の荒い房総沖を避けるため、東北の米等の産物も利根川や小名木川を経由して江戸に運ばれるようになったと言われています。
 伊賀生まれの芭蕉は31歳の時江戸に下り、神田川改修工事の請負人をした後、小名木川河口傍の所詮「芭蕉庵」や門人杉風の別宅で暮らし、46歳の春に門人曽良と共に小名木川近くの仙台堀に浮かぶ舟で「奥の細道」の旅に出たとされています。
 しかし、千住を経て1日で到着可能な最初の宿場粕壁(春日部)までに7日を費やしていることに始まり、杉風や曽良以外にも「門人」には得体の知れない者や「悪党」が多くいる等、「俳聖」のイメージとは程遠い謎が多く、「隠密説」は十分に根拠のあるものだと思います。
2.またまた、笠井賢一君(42回)の演出企画を紹介します。多田富雄の新作能「無明の井」(国立能楽堂、4月21日午後2時30分開演)です。
 少年時代に江藤淳らと同人誌を発行し、晩年脳梗塞に倒れた後も詩や新作能等の創作を続けた高名な免疫学者である多田富雄氏には生前から信頼され、同氏の新作能の演出を手掛けてきた同君にとっても、今回の作者三回忌追悼公演は極めて重要な、言わば渾身の演習であろうと想像します。是非、多くの方に観劇して欲しい。
 申込は同君主宰の「アトリエ花習」(090-9676-3798、03-5988-2810)
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向陽新聞に見る土佐中高の歩みG          昭和38年(60号)〜昭和42年(73号)
自由闊達な学園生活
藤宗俊一(42回) 2013.12.01

筆者近影
 昭和(以下略)33年、第1回卒業生の曽我部氏が“明るい学園建設”を目標として新校長に就任して(44号)5年、戦後生まれの生徒たちが学園の中心になり、新しい学園を目指して、種々の問題に取り組んだ。それは、団塊の世代の宿命とさえいえる改革の嵐の中で翻弄されながら、未熟ながらも戦いぬいた足跡であり、その後の大学紛争へと続く助走であったかもしれない。
 やぐら廃止問題

櫓が林立する運動会(41年)
当時の櫓は足場丸太を組み、杉や檜の葉を巻き付けた。
 運動会に欠かせない櫓の廃止が検討されはじめたのは38年頃からで(60号)、理由としては@費用が非常にかかることA建築ブームでやぐらに使用するパネルの入手が困難なことB杉の葉をとりよせる際や、その他の用具、材料運搬の際の生徒の災害C設立の際の生徒のエスケープD応援の不徹定E危険性F後始末Gファイアーストームの乱れ等(63号)が学校側からあげられた。その後、繰り返し取り上げられ(64号68号)、生徒の深い関心が寄せられている。その間に、スタンド式櫓の採用、前夜祭の廃止、杉の葉の共同購入などさまざま改善策がとられ、櫓は存続した。
 遠征費問題と野球至上主義
 それまで学校と個人(保護者)が負担してきた部活動の遠征費の一部を全生徒で負担するよう曽我部校長から提案がなされた(39年63号)。その春、11年ぶりの甲子園出場を果たしベスト4に進んだ野球部の活躍で部活動に関心が高まり、「自分達の代表という意味で生徒自らが出費するのが理想」という考えに基づくものであった。それまでは振興会からの10万円と売店の利益から約50万円が補助されていたが、諸物価の上昇と遠征環境の改善(宿泊、食事)を目的として一人当たり年間150円(総額約27万円)の徴収案が検討され(65号)、遠征代表委員会が発足し(67号)生徒が遠征の可否について検討し、校長に諮問する体制が整った。ただ、売店からの補助は20万円に減額され、遠征環境の改善という当初の目的はいつのまにか消えてしまい、生徒の一部から「結局、先生方の懇親費になってしまっただけさ」という不満が渦巻いていた。

41年春、センバツ準優勝の凱旋式(高知駅)
 野球部とバスケット部の遠征はそれぞれの後援会からの寄付で賄われ、特に野球部の甲子園出場の際には、後援会によって卒業生を含め全学的な寄付が集められたが、学校も生徒も関与することができず、その多額の寄付の使途や剰余金については後援会の判断にまかされていて、野球部合宿所の建設(69号71号)の際には他の運動部から怨嗟の声があがった。
 41年春のセンバツ準優勝時の号(71号)では、新聞部では従来から『野球至上主義批判』(62号・主張等)を展開していたのと、発行が7月になりニュース性が乏しくなり、一切そのことに触れていない。高校野球ファンの筆者としては少し淋しい気がしないでもない(28年夏の準優勝も向陽新聞は一切触れていない)。
 校舎改築問題

42年当時の玄関風景
 老朽化した校舎の改築が検討され始め、39年には敷地内で地盤調査が行われた(63号)。軟弱で不安定だという結果に、新たに設けられた『学校改築基礎調査会』では具体的な提案は出ず仕舞いだった。70号では直接校長へのインタヴューを行い『50周年を目途に…』という言葉を引き出したが、41年4月から何の具体策もないまま生徒一人あたり月700円の校舎建築協力金を集めることを決定し(72号)、73号では生徒の間にアンケート調査を行っている。結果は30%近くの生徒が『急ぐ必要はない』と答えている。『どうせ入れない』からというのがその理由で学校側は『後輩たちのために…』という大義を持ち出しているが、具体策は決まらないままである。
 その他の問題
 64号69号71号73号と3年間で4号の四面構成をして、特集を組んでいる。運動会、学生、HR、修学旅行、大学受験、規律の乱れ、授業等の問題点を深く掘り下げて報道している。特筆すべきは、73号で、初めての試みとして『中学生版』に一面を割いている。
 生徒の活躍

執行部が発行した翌桧(41年)
 向陽会関連では規約改正(61号:執行部制、66号:美化委員会、67号:執行部2期制)や向陽会費値上げ(64号)や執行部人事(ほぼ毎号)などに多くの紙面を割いている。学校新聞の立場上当然のことであるが、新聞部部員の多くが執行部経験者であることで、意志の疎通が図られたといえよう。43回生の会長は二人とも新聞部出身者であり、41年にはその経験を生かし執行部の広報誌『翌桧』を発行している。
 運動部では、野球部だけでなく、ハンド部、柔道部、水泳部、弓道部、庭球部などが目立った活躍をし、四国大会や県大会などで毎年のように優勝している。文化部では、最大イベントである文化祭の話題が取り上げられ(61号64号69号71号72号)、マンネリ改善が検討されている。また、それ以外に『理科三部合同発表会』や『文化部(ブラバン、舞踊、音楽)発表会』が行われるとともに(60号)、校外活動としてブラバンの初めての『スプリング・コンサート』(66号)や『美術・書道合同展』(71号)が催され、県高校写真コンクールでの特選入賞(72号)が報じられている。一方、64号では演劇、軟式野球部(26年全国制覇)が自らの申し出で廃部が決まり、代わりに東洋の魔女の活躍の影響か、バレー部が同好会から昇格している(64号)。

走れ Dreamer! (39年)
 また、個人的な活動として、芸術院展書道の部入選(65号)、自力でのヨット製作(63号)など学生レベルを超えた活躍が報告されている。尚、この二人は、現在も書道やヨット製作に関連する職業に携わっており、土佐校の教育が如何に自主性を重んじたかを示す記事といえる。
 海外に目をむけると、毎年のようにAFS交換留学生として渡米する生徒がいると同時に、個人でも海外に翔く生徒の記事が紙面を飾り(65号71号)、40年には旺文社世界一周特派員に選ばれ6ヶ国21都市を訪れた女生徒がその見聞を報告している(67号)。
 先生の活躍

オンカンの訃報(42年)
 最も頻繁に紙面に登場するのは美術の高崎で(60号61号64号65号67号)、海外にまで紹介されたと報じられている。他にも西川(美術:64号)、中山(県出版文化賞:67号)、政岡(県体育協会功労賞:73号)などの先生方の活躍が紙面に掲載されている。只、42年73号ではオンカンの訃報が報じられ、生徒達は皆、超名物教師の死に哀悼の意を表した。

42年当時の名物教師の一部
 そのオンカン(中山)から始まった29年の24号の『ちょっと失礼』が39年64号の花王石鹸(森下)で10年間計38回(途中3回の休載)の長い連載を終了する。もともと、職場結婚した新婚ほやほやのガンキチ(元吉)の家庭を襲撃した『希望探訪(22号)』を発展させたもので、カマス、タコ、ナオサン、タヌキ、パンツ、アヒルなど錚々たる先生方の学校を離れた家庭での姿が描かれている。今、読み返してみるとあたりまえの光景であるがおしなべて(例外もたまにある)、しっかりオクサマ(ダンナサマ)にコントロールされていて、生徒たちは学校での姿とのギャップの大きさに欣喜した。

花王石鹸への一寸失礼(39年)
 それが終わったのは、新任教師がサラリーマン化し、綽名を付けてもらえるクセのある教師がほぼ登場し終わったことによる。最後は新聞部顧問であった花王石鹸で、たった3年間勤めただけで、かわいい教え子たちを見捨てて結婚のため退職・上京する餞(恨み)に女性記者が襲撃したが、『週刊誌みたいな質問には答えませんよ』と最初に釘をさされ、新聞部OGの貫録にタジタジであったとか…。くしくも、先生の結婚という出来事が開始と終了の契機となっている。
 曽我部校長
 この期間は、校長が就任してからの最初の中学生(40回生)以降の生徒が高校時代を過ごした期間と重なり、卒業式では『自由な学園だった』という言葉があちこちで聞かれた(65号)。

40回生の卒壕式(40年)
41年春には、センバツ準優勝とともに、大学入試で東大合格者数が史上最多の18名(新聞部でも3名が合格し、後輩たちに『あんな程度で…』と身の程知らずの野望を植え付けてしまった。)を数え、合格率70%を超える結果を残し(71号)、全国に『文武両道の土佐校』の名を定着させた。それは、決して『報恩感謝』の下で成し遂げられたものではなく、曽我部校長の下、多くの名物教師と負けん気な生徒たちが織り成す『自由闊達』な学園生活の賜であったと考えるのは不遜であろうか。
 最後に
 当時、新聞に書けなかったそれを表すエピソードを一つ。某所で某名物教師から『よう出ゆうのお。すっかりすってしもうたきにちっくと貸いてくれんかえ』と声をかけられ、ごっそり持って行かれた某君、翌日恐る恐る学校にいったら、授業中しっかり難しい問題を解かされ『良い勉強になった』とか。今の学校では考えられますか。
《なが〜いあとがき》
 筆山用原稿作成の際、編集委員の皆様に校正をお願いをいたしましたが、いろんなご指摘や、ご意見をいただき、ありがとうございました。誤記や欠落等技術的なことは別にして、ご意見に対してはちゃんとお返事するのが責務と考えコメントを付け掲載させて頂きます。
「やぐら廃止問題」
▼ やぐら廃止問題でのBで「生徒の災害」とあるのは、怪我などの被害を受けるという意味なのですね。(岡林敏)
△ ご指摘のとおりですが、原文どおり(63号)で、通達文を書いた先生か、記事を書いた人(誰?えっ私?)の語彙力不足だと思います。
▼ 以前、紙面で読んだときにも疑問に思ったのですが、「杉の葉」というのが私にはピンとこないというか、櫓とどういう関係にあるのか分かりません。下宿していたため、櫓の製作にはほとんど関わることができませんでしたが、当日は櫓の中でいろいろと裏方なども(あまりたいしたことではなかったと思いますが)していました。しかし「杉の葉」と言われても思い当たる記憶がありません。私だけかもしれませんが、今の土佐校生なども読む前提であれば、簡潔な注釈があったら、よいかもしれません。(坂本)
△ 世代が変わると、櫓も変わるということですね。あの苦労した穴掘り(鉄棒でグランドの固い砂利混じりの土を砕き、空き缶でそれを取り出し、細くて深い穴を作る)など想像もつかないでしょう。写真のキャプションに付記しました。
「遠征費問題と野球至上主義」
▼ 運動部と文化部の確執では、5月に逝去された島崎(森下)睦美さん(31回生)がらみで昭和29年5月の出来事が忘れられない。亡き島崎さんへの御礼を込めて、記しておこう。
 年度初めの部活予算会(学校の原案を各部代表の会議で審議)に、新聞部代表として出席、原案の運動部、特に野球部・サッカー部などへの配分偏重を批判した。
 5月の修学旅行の際、ビンボウで参加しなかった私たちは、2年生の五台山遠足に同行することになった。当日、森下さんがやってきて、「今日は絶対一人にならないよう注意ください。サッカー部のM君たちが『中城を襲う』といきまいている」とのこと。口喧嘩ならともかく、格闘技はからきしだめなので、同級生の山本巌(東大剣道部)さんにも話しで護衛してもらったが、なにより森下、谷岡、西岡の31回生新聞部3人娘の活躍で、無事難を逃れることが出来た。森下さんに続いて巌さんも、9月にあの世に旅立った。合掌。(中城)
△ あの御船頭(おふながしら)の中城家が修学旅行にやれない程にビンボウだったとは信じられません。格闘技がからきしダメだったのは想像できますけれど。
▼ 当時は普通だったと思いますが、今、教育現場では、「父兄」という言葉はタブーになっています。「父母」も肩身が狭く、「保護者」が標準になっています。(坂本)
△ う〜む。恐るべしPTA…これも禁句?。「高校生に保護など無用」、「子(孫)離れしろ」、「女は…」、言えない。ご指摘のとおり、訂正しました。
「先生方の活躍」
△ ちょっと失礼に登場された先生方のお名前と綽名を記載順に列記します。数字は号数です。サカイ族の登場が遅れたのは漱石を尊敬する文筆家で他の号にも屡々登場されていたためではないかと思います。花王石鹸は在任期間が短く公認されていませんが、横顔と三日月のロゴマーク(当時の)を結びつけた綽名です。姓名から判断できる先生は除いて他の綽名の由来も正確に教えていただければ幸いです。彼女を除いて、私たちが入学した時は既に公認されていました。
 22元吉(ガンキチ),24中山(オンカン),25吉本泰,26富田,27片岡満(カタマン),28山本(ナオサン),29田内(タヌキ),30竹村(イッスイ),31久保田(マンタロウ),32松浦,33吉本要(カマス),34古谷(パンツ),35片岡敏(タコ),36中沢(アヒル),37山岸,38町田,39池田,40正木,41木内,42高崎,43西野,44曽我部,45永野(カエル),46櫛下,47石川,48平林(ヒラリン),49森本,50休,51休,52松尾,53平岡竹,54浜口(シチメンチョウ),55木戸,56河原崎,57森木,58新階,59西,60小松(サカイ族),61籠尾,62西川,63休,64森下(花王石鹸)
「曽我部校長」
▼ 報恩感謝は、THOKSのクラス名に関係すること(?)くらいの感じでしか受け取ってなかったことは確かですね。(井上)
△ 私も同じです。次の中城さんのご意見をお聞き下さい。
▼ できればKPCホームページで歴代校長の業績を振り返る座談会でも企画ください。大嶋体制が晩年に変質したのを、卒業生として初代校長となった曽我部さんが、大嶋時代の戦後民主主義教育と本来の設立趣旨をよく融合させ、自由闊達な校風を確立してくれたと思います。その後、宇田理事長が城東中(現・追手前高校)の同級生・森田氏を校長としてすっかりおかしくなりました。その一つが「報恩感謝」を校是などと言い出したことで、これはまだ精算されていません。というより、森田校長時代の変質に気づいてないのです。(中城)
△ 人選から、会場設定、とても編集人ごときの手に負えません。会長、幹事長、宜しくお願い致します。
 おかしくなったのは森田さんを待つまでもなく、東大入試中止とそれに起因する共通一次試験(現在センター試験)の導入でそれまでの教育理念が通用しなくなって、名物教師や自由闊達な学生の行き場が無くなってしまったことではないでしょうか。全て、国(文科省)が、楽な道(天下り確保も含む)をとり、教育現場もそれに追随したのが原因だと思っています。私に言わせれば、曽我部さんにもそれに対抗できなかった責任があると思います。私学に必要なのはしっかりとした教育理念を持ち良い先生と生徒を集められる教育者と、それを支える理事長(桐蔭学園の故鵜川さんみたいに一緒でも良い…※1)だと思っています。難しい課題ですけれど。勿論、報恩感謝の理念が時代錯誤だというのは自明です。
※1:鵜川昇:元桐蔭学園学長・理事長・中教審臨時委員。毀誉褒貶の多い人物であるが魅力のある教育者でした。栃木高校をレッドパージの影響で退職し、その当時の教え子に宇井純氏がいた(wiki)。30年以上も前に、学園のマスタープランから女子部建設、中小幼部建設までお手伝いさせてもらいました。
「最後に」
▼ やはり、最後の文章を掲載するのはまずいかもしれませんね。当時の雰囲気を伝えるのにはいいのですが。名物教師は早晩消えゆく運命です。これだけ学校を取り巻く環境が変わると、昔なら笑って済ませたことが、社会問題になり新聞種になるご時世です。現場に身を置く立場では、あの当時だからできたのではと考えてしまいます。(多分に自己弁護や逃げも入ってますが・・・・)(井上)
▼ ■■■■と●●●●のことだと推測しますが、先生の●●●●好きを知らない人は、何の事だかわからないので削除したらと思います。(岡林敏)
▼ 特に意見ではありませんが、これは■■さんですよね。……。このネタは、52回生の卒業記念アルバムの特別出張号外(巻末近くの見開き2頁)で、私も使いました。(坂本)
▼ 某教師の●●●●行状記、筆山はともかく何らかの形で残して下さい。(中城)
△ ●■は先生方の名誉のために伏字にしました。しかし、生徒は当然だとしても、■■さんが10年たっても性懲りも無く同じことをしていたとは!!それにしても、●●●●好きの先生方には協定があったのではないかと思ってしまいました。筆山には字数制限もあり、「最後に」の部分(前書の後半部も)を削除して渡しましたが、HPはあくまでも個人の投稿文なので、復活して掲載してあります。この件では、最近弱気な中城さんから『お前は弱気だ!』となじられています。
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笠井賢一(42回)演出「死者の書」案内
笹岡峰夫(43回) 2014.04.15
 笠井賢一君の企画に多く出演している「大女優」坪井美香さんから、下記の悲鳴が聞こえてきました。
 何と、あの怪しい折口信夫の奇書「死者の書」に基づく能舞台での企画に出演するばかりか、可哀相に、「昨年十二月から 七転八倒」とのこと。
 ところで、小生は「死者の書」を読破したことがありません。自宅の書棚を探しましたが、古い単行本の「死者の書」が見つからず、中公文庫を買ってきましたが、やはり、すぐには没入出来る世界ではありません。川村二郎の「解説」から読みはじめたところ、大女優の紹介している奈良国立博物館の「當麻寺」展との関連が分かったのは、せめてもの収穫でした。

「言霊の芸能史」(高知新聞)
 笠井君は、今年からは執筆活動に重心を移したいとのことで、その環境を整えるべく転居作業を開始したものの、未だ転居が完了しないまま、高知新聞朝刊(木、金、土)の「言霊の芸能史」(「後編」で、「前篇」は7年程前に連載済)の連載が始まり、現在は近松門左衛門を連載中で、7月の美空ひばりを最後に連載完了予定とのこと。
 そんなこともあって、大女優の悲鳴となったもののようです。
 一体、どんな舞台になるのか?乞うご期待を??
 公演後、大女優ら出演者も同席しての「おきゃく」を、お楽しみに??
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 笹岡様
 案の定、笠井さんはまだどなたにも公演のお知らせをしていない! ショック!
 お手数ですが、このメールを同窓生のみなさまにお送りいただければ幸いです。必要であればチラシもおくらせていただきます。よろしくお願い致します。
 笠井さん、大分お疲れの御様子…!
 散る桜を想う春、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

公演チラシ

公演案内
 さて、公演のお知らせをさせていただきます。手取り足取り、語りを、芝居を、教えてくれた師・関弘子の七回忌に、折口信夫の代表作『死者の書』を舞台化します。
 演目を考えていた昨年の五月、ずっと見たいと思っていた「綴織當麻寺曼荼羅」が奈良国立博物館の「當麻寺」展で公開されると知り、思い切って行ってきました。展示は会期最初の一週間だけだったことが行ってみてわかり、交通費還せ!と思ったのではありましたが、気を取り直してみれば素晴らしい展覧会でした。「山越阿弥陀図」や「二十五菩薩像」など、夢中で展示物を眺めているうちに、あっ、「死者の書」じゃないか、と思い至りました。
 師の薦めで原作を読んだのは二十年程前、わからないなりに夢中で稽古してもらいました。源氏物語の原文CD化の大仕事を終えた後、どことなく気力が萎えていた師が、或る日、人形の川本喜三郎さんがアニメーション映画を作成中であるということを新聞で読み、川本さんに連絡してみるんだと大興奮。ですが、結局声のキャスティングも既に決まっていました。久々の生き生きとした表情と、落胆の様子と、今もよく覚えています。結局いつか演りたいという思いは果たされぬままでした。
 そのゆかりの作品を、ゆかりの銕仙会能楽堂で上演します。観世銕之丞さんに声の出演もご快諾いただきました。
 昨年十二月から脚本作りに七転八倒! 覚悟してはいたものの、改めて原作に打ちのめされそうになりながら、稽古の中で身体を通して折口の言葉と向き合っています。あの世とこの世とはそんなにかけ離れてはいないような、死者たちから現し身の私たちへ、智慧や知恵や、連綿と連なる何ものかが、降りそそがれているような、そんな気にもなってまいります。
 是非ご覧下さい。お待ちしております。
坪井美香
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あけましておめでとうございます
藤宗俊一(42回) 2015.01.09
 本年も宜しくお願い致します  年賀状を整理していたら、とても綺麗な作品があったのでこの場をかりて紹介させていただきますのでお楽しみ下さい。全て『家』と呼ばれる人たちからのもので、工事『屋』風情では太刀打ちできません。尚、最後のは、御存じの方もいらっしゃると思いますが、郷土出身で『土門拳賞』や『紫綬褒章』をもらった大家、野町和嘉さんのものです。今年もライフワークの『聖地巡礼』の個展を開くそうですので是非足をお運び下さい。

賀状1

賀状2

賀状3

写真展『聖地巡礼』あーすぷらざ(横浜市栄区小菅ヶ谷1-2-1)045-896-2121
第1期2015/3/13〜3/29 第2期2015/4/2〜4/19
http://www.earthplaza.jp
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ゲーテと旅する7つの都市
渡辺真弓著『イタリア建築紀行』のオススメ
藤宗俊一(42回) 2015.05.24

ゲーテと旅する7つの都市 『イタリア建築紀行』 四六版448頁
 40年近く前の1976年度イタリア政府給費留学生の仲間だった渡辺真弓さん(工学博士。東京造形大名誉教授)の最新作です。今回はちょっと力を抜いて、18世紀末のドイツの文豪ゲーテの作品『イタリア紀行』を参考に、『あまり専門的に片寄らず、できるかぎり人間的にイタリアの都市の面白さを語る(序章)』気持ちになったのは、昨年長く続いた学究的な生活から離れ、ダンナの運転でシチリアの都市を巡り、イタリア旅行を楽しんできた(きっと、罪滅ぼし!)結果とも言えなくもなさそうです。 それが証拠に平凡社などという大衆出版社から発刊しているし、値段も2,600円(税別)と学術書に比べて格安です。きっと、多くの読者に手にとってもらい、イタリアの都市の良さを知ってもらいたいからではなかろうかと思っています。
 本を紹介する前に彼女のひととなりを私の知っているかぎりで紹介します。彼女はチャキチャキの東京っ子で、大学の一学年上のマドンナ(当時は女子学生は学年で100名足らずしかおらず、工学部では数える程、しかも美人であった。)であり、卒業してそのまま建築史の研究室に残り、イタリアに行ったのは博士課程の最中でした。語学も堪能で4ケ国語を理解し(多分その後増えたと思う)、性格はきつく、生真面目で、田舎出の青年にとってはちょっと近寄り難いオネエさんでした。 モチロン彼女もイモ兄ちゃんの思惑などを歯牙にもかけていなかったことは確かです。
 イタリアでは給費留学生仲間(建築、彫刻、音楽、演劇、文学、歴史、法律、化学、数学等)の結束が強く(多分同じ飛行機(アリタリア南回り20時間の旅)で送られ、外務省への挨拶と手続きのためローマで同じ宿(元修道院)に押しこめられたため)、各地に別れた後も、お互いの街を訪れては専門的な知識をもとに案内しあうようになり、今でもつきあいが続いています。 彼女は、パドヴァ大学でパラーディオを、私はフィレンツェ大学で城壁都市(私の場合はイタリアに行くための便宜的テーマ)を学び、むこうで何度か会いました。

38年前の著者と筆者(VICENZA)
パラーディオ研究センターの前で
 最後になって二人とも国策のドロボー被害に会い(彼女はローマ、私はミラノ)、『イタリア人の顔を2度と見たくない!』と言っていましたが、結局あれはイタリアに慣れ、慢心していたことへの神の思し召しだと解釈できるようになって、二人ともイタリア大好き人間です。 帰国してからも彼女はパラーディオ研究を続け、造形大の講師になり、助教授、教授とすすみ、最後は日本のパラーディオ研究の第一人者と言われるまでになりました。また、帰ってから暫くして、小学校時代の同級生(建築家)と結婚し、家が事務所の近く(渋谷)にあったので何度か訪ねたり、街中で買い物途中や保育園への送り迎えの途中に出会ったりして、親交が続きました。

パラーディオの肖像画
 ところで、皆さんパラーディオってご存知ですか。パラーディオは16世紀後半のイタリアヴェネト地方の建築家で、ローマで活躍したヴィニョーラ等と共に、美術史の上ではルネサンスとバロックの間にあるマニエリズムの建築家に位置づけられています。マニエリズムは技法主義、模倣主義と訳されることもあり、あまり良い印象を与えてくれませんが、ある大きな潮流と次の潮流の間に必ず起きる現象で、それに反発しながらも、偉大な先人の技法(マニエラ)をしっかり習得し、自分流に解釈し表現する芸術活動で新しい潮流の萌芽ともいえます。

パラーディオの代表作の ラ・ロトンダ
Villa Almerico (la Rotonda)(Vicenza)1566
 イタリア北部の辺鄙な田舎町(ヴィチェンツァ)の石工の彼が、世界に認知されたのは18世紀になってからで、この地方を旅行した人たちの目にとまり(他に比べるものがないので)、建築様式上未開のイギリスやアメリカに紹介され、『パラディアン・スタイル』としてもてはやされました。多くの邸宅建築に取り入れられ、セント・ピーター寺院(ロンドン)やホワイトハウス(ワシントン)などもパラディアン・モチーフを用いて建設されています。 ルネサンス自体、ギリシア・ローマの古典主義のマニエラを用いて達成されたことを考えると人間はたいして進歩していないのではないかと思ったりします。パラーディオについては、本文中に第一人者によって詳しく解説されていますので是非お読みください。 パラーディオの作品

ポストモダンの建物
AT & T Building (56thNewYork)1984
Philip Johnson and John Burgee
 そのパラーディオに彼女が興味を抱いたのは、多分、丁度私たちがイタリアへ行った40年前頃、ポストモダンといった言葉が流行っていたことによると思います。それまでの、コルビジェ、サーリネン、ミース・ファンデル・ローエ、丹下健三等の建築家たちが合理主義、機能主義、構造主義などのお題目を唱えながら、コンクリートと鉄とガラスでできたシンプルで無駄のない、使いやすい建物(『レス イズ モア(少ないことはすてきなこと)』)を計画していったモダニズムへの反動の狼煙が上がっていました。ロバート・ヴェンチューリはそ の著作『建築の多様性と対立性』(1966)においてポストモダニズムの理論を展開し、ミースの言葉を皮肉る『レス イズ ボア(少ないことはつまんない)』の言葉を掲げ、 歴史主義的なデザイン、土着的なデザイン、象徴的なデザイン、装飾的なデザインなど建物の表情の多様性を唱え、日本では建築家の黒川紀章や磯崎新などがもてはやされていて、建築を志したばかりの私たちにも大きな影響を与え、マニエリズムという言葉も随分一般 的に使われていました。その本家本元のマニエリストに歴史家として興味を抱いたとしても当然といえば当然のことだったのでしょう。
 前置きが随分長くなりましたので、本の紹介は手抜きをして、以下に目次をコピーしました。
をクリックすると役所工事のサイト(画像中心)にジャンプします。
序 章 君知るや南の国
    ゲーテと旅を  ゲーテの生い立ち  『ヴェルテル』の作家
    ヴァイマールのゲーテ  イタリアヘ
ヴィチェンツァ 第一章 ヴィチェンツァ 建築家パラーディオを育てた都市
    北緯50度から45度への旅  アレーナ・ディ・ヴェローナ
    ヴェローナ今昔  都市と丘陵地帯  ヴィチェンツァとパラーディオ
    ヴィチェンツァの都市建築  バジリカ・パラディアーナ  ラ・ロトンダ
    ミニョンの歌とラ・ロトンダ  テアトロ・オリンピコ  ニ人のスカモッツィ
    ヴィチェンツァの作家  ヴィチェンツァのイメージ
パドヴァ 第二章 パドヴァ 聖人も祀る豊かな北の大学都市
    パドヴァの都市形成  中世の町おこし  パドヴァの聖アントニオ  サントの舌
    解剖学教室と植物園  ポルティコのある町  プラート・デッラ・ヴァッレ
    カフェ・ペドロッキ  ニ十世紀のパドヴァ  中心部の三つの広場  ゲーテとパドヴァ
ヴェネツィア 第三章 ヴェネツィア 海に浮かぶ国際文化都市
    ブレンタ河の舵旅  ヴィラ・フォスカリ  海の都ヴェネツィア
    ヴェネツィァの表玄関  迷路と水辺の道  大運河と橋  ヴェネツィァ観察
    ポンテ.デッレ・テッテを探して  ヴェネッィァのパラーディオ  慈善と隔離の思想
    アルセナーレとゲットー  ヴェネツィァ演劇事情  街中が劇場
    美術品の居場所  大運河沿いのパラッツォ  生き続けるヴェネツィア
アッシージ 第四章 アッシージ 自然に囲まれた聖なる都市
    フェッラーラとボローニャ  アペニン山中の旅  丘上都市アッシージ
    フランチェスコの足跡  聖フランチェスコゆかりの場所
    ミネルヴァ神殿  一路ローマヘ
ローマ 第五章 ローマ 歴史の重層する世界の首都
    コルソ通りの住人  古代ローマの残照, ローマ建築の特徴
    アウグストゥス時代の建築  コロッセウム前後  建築皇帝ハドリアヌス
    混乱の時代の大建築  初期キリスト教のバジリカ  中世という休止期
    教皇に仕えた芸術家たち  グロテスク装飾  都市改造計画
    バロック都市ローマ  ローマの地形  永遠の都ローマ
ナポリ 第六章 ナポリ 陰翳深い南国の都市
    ローマからナポリヘ  ナポリの成り立ち  中世のナポリ
    スペイン支配時代  カルロ・ディ・ボルボーネの時代
    国際的文化都市ナポリ  レディー・ハミルトン
    十九世紀のナポリ  明暗のナポリ
パレルモ 第七章 パレルモ 文明の交差した異国情緒の都市
    ナポリからシチリアヘ  パレルモ略史 -アラブ・ノルマン建築
    楽園のイメージ  バロックの都市改造  奇怪さへの傾倒
    十九世紀以降のパレルモ  パレルモにも来たスカルパ  シチリアの中のギリシア
    穀倉地帯と丘上都市  東海岸の都市と火山  シチリアの地震
終 章 旅の余韻
    その後のゲーテ  旅することの意味 あとがき
 以上の目次からも分かるように、7つの都市の紹介と序章と終章で成り立っています。内容は古代から現代まで多岐にわたり、彼女の専門分野のみならずその造詣の深さに驚かされます。またふんだんに研究資料として集めた図版を用い、その都市の形態や成り立ちを女性ならではの優しい語り口でひも解いてくれます。同時に『ゲーテほどのすぐれた鑑識眼を備えた人物であっても、時代の影響から自由であったわけではない(第4章)』というような、歴史家ならではの文明批評にドキッとさせられることが屡々あります。とにかく素晴らしい本です。
 ただ、残念なことは、私が第二の故郷と思っているフィレンツェについて、ゲーテが『イタリア紀行』で触れていない(行きはローマに急ぐあまり3時間しか滞在しなかったが、帰りは10日間以上滞在している)のを良いことに、彼女もたった3時間分くらいしか言及していないことです。多分、フィレンツェについて書き始めたらもう1冊以上書かなければ収拾がつかなかっただろうと善意に解釈しています。
 よく、ヨーロッパの街角で分厚い観光案内書を片手に右往左往している外国人旅行者の姿を見かけますが(悲しいことに日本には『地球の歩き方』程度の低俗な案内書しかない!)、是非、イタリア旅行の際はこの本を片手にその都市を味わって来てください。ただ、一度に7つの都市を巡るのは難しいと思いますので、2冊買って、1冊はカッターでバラバラにして該当する都市の部分だけ持って行くようにすれば、彼女も2冊分の印税が入り、喜ぶと思います。
 最後は、彼女の真似をして、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の中の詩『ミニヨンの歌(Lieder Mignons/森鴎外訳)』で終わります。
 君知るや南の国
 レモンの木は花咲き くらき林の中に
 こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
 青き晴れたる空より しづやかに風吹き
 ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
 雲にそびえて立てる国や 彼方へ
 君とともに ゆかまし
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敗北宣言
藤宗俊一(42回) 2015.06.14

筆者近影
 このところ、仕事が無くて、数独というパズル作りにはまりこんでいます。毎日新聞で連載が始まったころ、「こんなめんどくさいことよくやるなあ。コンピューターにまかせたら……」と週末1日がかりでソフトをつくりました。3次元マトリックスで串刺し計算をやらせば簡単でした。それをきれいに画面表示さすのと、リアルタイムで途中経過を確認できるようにするのが少し時間がかかりましたが。
 それで止めとけば良かったのですが、「じゃあ、どうせなら問題を作ってみようか……」と出来心をもったのが間違い。試行錯誤の末、やっと一年掛かりでできあがりました。自分だけの楽しみにしておけば良かったのですが、最近になって一回り以上高齢の恩人の電話で『ボケ防止のために、数独に熱中している』との話があり、『それでは問題をお送りしましょう。本を買うのはもったいないし……』と、仏心(自慢心)をもったのが、2つ目の間違い。印刷しなくてはならないし、問題の形もきれいにしたいし、できれば美しい順序にしたいし……、結構完成 されたものができました。
その手順は、
  @まず解答(縦横、小枠(3x3)で重複しないように)テーブルを作る。
  Aどのような形に作るか型枠を作り、@のデータから抜きとって問題を作る。(点対称が一般的)
  Bそれを解析プログラムにかける。初級や中級問題は仮入力や2選択がないので簡単にできますが、
   上級問題は複数解が出てくる(初めはそれが分からなかった)問題があるので、その問題を除く。

 コンピュターがなかったらとてもできません!!!しかし、苦難(欲望)はこれで終わりませんでした。途中であきらめていた『いかに表示数字個数を少なくするか』という命題にいどんでいます。当初は、解答の過程で出来たテーブル(約20万個)をファイルに保存して、それを読み込んで問題を作っていましたが、表示個数が少なくなるとテーブルが足らなくなって問題を作ることができません。

 再挑戦の初めに、お馬鹿な工事屋の灰色の細胞の能力の範囲での理論最大値1,679,616個(6の8乗)のテーブルを作るソフトを作り、挑戦。23個まで達成。ところが、超お馬鹿な数学者2人の説では54億7273万0538個になるそうで(ウィキペディア)、後は理論無しのパソコンの力まかせで4時間12分かかって600億5233万9110個のテーブルを作るソフトを作りました。重複や誤謬(正解率90%以上)があって理論の10倍以上ですが、少なくともこれで全てをカバーしていると善意に判断して、17個(理論上の最少表示個数)を目指しています。退役したパソコン(XP)が隣の部屋でただ ひたすら戦っています。ちなみに、1日の解析能力は600〜1000万個で、単純計算すると全てチェックするのに6000日かかることになります。尚、解答は問題を入力しKEYを押すと瞬時にでてきます。

 数独   (wikipediaより抜粋)
 数独の初期配置の最少個数は、17個である。2012年1月6日、アイルランドの数学者ゲイリー・マクガイア(英語版)は「数独においてヒントが16個以下のものは解法を持ちえない」ということを証明した。証明にあたっては「ヒッティング・セット・アルゴリズム[5]」を用いて単純化し、2年間で700万CPU時間をかけ、答えにたどり着いた[6]。 以前は、問題として成立する初期配置の数字の最少個数は結論が出ていなかったが、点対称の問題では18個(初出・パズル通信ニコリ31号、1990年)、線対称(対角線)・非対称の物では17個(後者の初出・パズラ ー187号、1997年)のものが確認されていた。 また、どの初期配置の数字もそれが無かったら唯一解でなくなる問題の初期配置の数字の最多個数は、今のところ35個のものが確認されている[7]。
 なお、複数の解が存在する初期配置の数字の最多個数は77個である[8]。
 前記のウェイン・グールドがタイムズ紙に問題を提供していた例のように、コンピュータを用いて数独の問題を解答したり作成したりすることも広く行われている。日本でも、インフォレストが2004年1月から(外注のプログラマが作成した)プログラムで生成された問題を誌面に掲載しているなど、コンピュータによって作成された問題が商業誌に使用されるも例も多い。
 ルールの単純さから多くの解答プログラムが作られており、フリーウェアとして公開されているものも多い。多くのプログラムは9×9の標準の形式の解答しかできないが、大きいサイズの問題や対角線の条件が加わったものなども解けるプログラムもある。
 問題作成プログラムは、解の存在をチェックするために解答プログラムを内包することになるため、解答プログラムよりも数は少ない。コンピューターで問題を作成する利点としては、短時間で多くの問題が作れることや、「盤面に17個しかない」などのより限定された条件の問題を作ることができることがあげられる。
 ただし、コンピュータで面白い問題が作れるかどうかは別の話である。パズル通信ニコリの編集部及び読者や、西尾徹也のように日本で専門の雑誌が刊行されるよりも前から数独を作っている作家の中には、「コンピュータ作成の問題より人間が手で作った問題の方が解いて面白い」という意見が存在している。
 数独の組み合わせパターン数は、回転や反射や順列や名前を変更することなどの左右対称を考慮に入れると、54億7273万0538になるとエド・ラッセルとフレーザージャービスによって示されている。
 その後、22、21までは順調に問題を作り出してくれましたが、20になった途端、急に難しくなって12日目にやっと問題を見つけ出してくれました。表示個数27(標準−1/3の表示個数)の問題作成では1分間で100個以上作成してくれます。
 これは大変なことになると思い、型枠を作るソフトをつくり、理論無しで兵力を増員(1000型枠)して表示個数19の問題作りに取り組んでいましたが、その分処理能力が落ち(100万テーブル/日)、退役パソコンが5月の連休前から1か月以上昼夜休まず老骨にムチ打って計算を続けていましたが、とうとうカタカタという悲鳴を上げ始め、このまま続けていくと火を噴く恐れも出てきたので、大本営は撤退やむなしの判断を致しました。促成兵士1000名は約4000万(理論の150分の一)の荒野(テーブル)で戦いましたが、一つの問題も見つけ出 すこともできず、今後増々難しくなる18、17(理論最低個数)方面に作戦展開するのは国力から言って不可能と判断せざるを得ません。娘のパソコンが退役したら再び挑戦するつもりですが、とりあえず敗北宣言です。
 一番の敗因は、力任せに質の悪い兵士を養成したのせいかもしれませんが、もしかすると根本的な解法ソフトに問題があるかもしれません。下宿時代からの友人(数学者・関数論)に話したら、『最近の数学と同じで、命題を決めたら、あとはコンピューターの力任せで解決するのは理論ではない』とニベもない回答。物置の退役パソコンに最後の活躍の場を与えてあげたいという願いもむなしく、八方ふさがりです。
 ちなみにルールはいたって簡単で、81の桝目の空いているところに、縦、横、小枠(3x3)で重複しないように(対角線は重複可)1〜9の数字を入れるというだけです。もし興味のおありの方は表示個数27の問題120題(xlsx版)を置いてありますのでダウンロードして挑戦してみてください(それ以上はMailでご注文下さい)。尚、初級はif構文1万回程度、上級は仮入力や2選択があり3万回以上の判断が必要になります(あくまでパソコンの上での)。また表示個数20個の問題(下載)はif通過回数は21,325回で、作るのに時間がかか ったわりにたよりない問題でした。必ずしも個数が少なくなると解答が難しくなる訳ではありません。

数独問題ダウンロード(XLSX版)

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二つのご案内
藤宗俊一(42回) 2015.06.27
野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』

野町和嘉写真展『地平線の彼方から』
 昨日、郷土出身の写真家・野町和嘉さんの写真展『地平線の彼方から』に行ってきました。場所はオシャレな街『六本木』のオシャレなビル『東京ミッドタウン』1階フジフィルム・スクエアで7月15日まで(10:00〜19:00入場無料・撮影自由)やっています。お近くに来られたら是非覗いてみて下さい。
 スゴイとしか言いようが無く、写真がここまで発言する媒体なのか改めて思い知らされました。カメラや印刷方法の違いだけで済まされません。撮るのを止めたくなりました。
野町和嘉写真集・新刊3点のご紹介
●「極限高地――チベット・アンデス・エチオピアに生きる」
 7月6日発売予定。日経ナショナル・ジオグラフィック社
●「地平線の彼方から――人と大地のドキュメント」
 6月26日 発売予定。クレヴィス
●「Le vie dell anima」
 イタリアのモンツァ社

最初のサハラ(宿営地の小学校の庭から撮影)の前で説明する野町さん   撮影:荒川豊氏
パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』
 ついでと言っては失礼になりますが、同じく郷土出身のトルコ評論家(翻訳家・慶応大講師)野中恵子さんからのご案内です。
 こんにちわ、野中恵子です。
 梅雨の隙間に入り込んだ、強い日差しの一日です、夏も間近ですが、皆様如何お過ごしでしょうか。
 さて、昨年のカンヌ国際映画祭で、ついにパルムドールを受賞したヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督の「雪の轍」が、この週末から公開されます。
 それに併せて草月ホールでも、上記を記念して、7月にジェイラン監督の初期作品の特別上映会が行われます。なお、9月にも特別イベントが計画中です。
 どうぞお出かけくださいませ。
 パルム・ドール受賞!映画『雪の轍』公式サイト
 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作品の上映/レクチャー/トーク
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野町和嘉写真展『天空の渚』のご案内
藤宗俊一(42回) 2016.01.15

 遅くなりましたが、年頭のご挨拶を申し上げます。穏やかな新しい年を迎えられてたこととお慶び申し上げます。

撮影:荒川豊氏
 郷里出身の写真家野町和嘉氏から写真展の案内をもらい、オープニングに行ってきました(会場でお元気そうな中城さんにもお会いしました)。『構図にこだわっている』などという次元ではありません。 殆どの写真が畳の大きさ以上に焼き付けられていて、本とはまるで違った迫力がありました。会場は倉庫を改装した大空間で、そこに50枚以上の素晴らしい作品が並べられていました。是非、足をお運び下さい。

野町和嘉写真展 『天空の渚』 01/15-02/14 港区海岸1-14-24  03-5403-9161
鈴江第三ビル6F 『GALLERY916』 入場無料  月曜休館
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笹岡峰夫氏(43回生)ご逝去
藤宗俊一(42回) 2016.10.15

故 笹岡峰夫氏
2016.06.04
 既にMail網でご報告致しましたが、本会会員で弁護士の笹岡峰夫氏が、去る9月21日、ご自宅で急逝されました。前夜まで飲み歩いていて、翌朝、脳内出血を起こし、そのまま御他界されたとのことです。心より哀悼の意を表しますとともに、残されたご家族の皆様方にはお悔やみを申し上げます。
 通夜、葬儀は9月27日、28日、上落合の最勝寺壇信徒会館で行われ、交友の広さを表すかのように、会場に入りきれないほどの大勢の参列者が集まり、生前の彼の仁徳を偲びました。尚、式は無宗教で、親友の能演出家・笠井賢一氏(42回生)のプロデュースで執り行われ、能管の音と朗読で始まり、最後は全員が遺影の前に花を手向けて終わりました。とても厳粛で美しい式でした。心よりご冥福を祈ります。
****************
以上が報告です。ついでに追悼文も済ましておきます。
 実を言うと、彼が途中で一年留年したこともあって、土佐校時代はあまり親しくはありませんでした。私が高1で受験勉強に専念???するために編集長を辞めた後、生徒会活動仲間の西内正氣氏(42回生)と(二人とも会長経験者)隣の新聞部部室に転がり込んで来て大きな顔をしていたのを、丁稚(中学)からたたき上げた苦労人としては、苦々しく思っていました。 しかも、こともあろうに新聞部の商売敵のような生徒会広報誌『翌桧』を発刊するなど(幸いにして彼が会長であった間の2号ノミ)言語道断な行為をしてのけて、もはや天敵以外の何者でもありませんでした。そんな訳?で、部室にも寄り付かなくなり、2年間はマドンナの尻を追っかけるのに忙しく彼と話す機会は殆どありませんでした。

同じ日の筆者近影
 再び、彼と交友が始まったのは事務所を開いて仕事欲しさに関東支部同窓会に出席し始めた頃、宴席で『お前のヨメサン知ってるよ』と声をかけてきたのがキッカケです。当時、彼は弁護士になって『旬報法律事務所』という労働問題専門の事務所に所属していて、訟務検事(国の法廷代理人)をしていた連れ合いを知っているということでした。「そんな左系の活動をしているとは、昔の正義感はちっとも変っていないなあ」と感心したものです。 後に、独立して『けやき法律事務所』を開設してからは『悪徳弁護士の笹岡です』とうそぶいていましたが、一種の照れ隠しだったと思います。本質は変わっていないと思いました。
 その後、42回の同期会に必ずと言っていいほど出席するようになり、2次会、3次会と盃を交わして(二人とも升々いける口)終電に間に合わないことも何度かありました。とにかく、明るい酒でこちらを楽しくさせてくれました。また、律儀に年賀状と暑中見舞いをくれて、時折々の話題やら思い出を長々書いて来てくれました。とても文章が上手で、論点もしっかりしていて、さすが文系の元新聞部と見直しました。こちらが理系に進み、ちゃんとした文章が書けなくなって機械に頼って写真で済ましているのを恥ずかしく感じていました。
 お通夜のなおらいではナンテン(皿鉢料理で最後に残るもの)になり、土佐から取り寄せた皿鉢料理とお酒(土佐鶴)を堪能させてもらいました。ありがとう。本当は2次会に連れ出したかったのですが……。合掌。
●次は我が身と感じるようになって、香典の損得勘定をしています。悪い奴ほど長生きすると言われているので、取り返せないかもしれません。みなさん、どうか長生きして黒字化にご協力下さい。
****************
 葬儀で朗読をして下さった坪井美香さん(俳優)から次のご案内をいただきました。おっかけをしていた彼に何度か誘われて公演に行って、打ち上げ会にも参加させてもらいました。彼を偲んで、是非ご覧になってください。



11月23日 求道会館
『言葉の海へ』
¥3,500
 雨続き、災害続きの九月が過ぎ、太陽の恵みが戻ってくれますよう、月の美しい秋となりますよう、願うばかりの今日この頃です。みなさまお元気でいらつしやいますか?
 秋の公演のお知らせをさせていただきます。1011年より作家高田宏の作品を語るシリーズを続けて参りましたが、昨年11月14日、最後の旅立ちをなさいました。還ることのない片道の旅の空は、どんなでしょうか。
 名編集者から作家へ。気骨ある生き様を貫いた人々の評伝や、自然、災害、旅、猫などをテーマに綴るエッセイ、小説。忘れられてはならない作品を数多く残された高田先生の一周忌追悼に、『言葉の海へ』を上演致します。
 幕末から明治にかけ、鎖国からいきなり世界と対峙せざるを得なくなった日本にとって、それまでになかった国語辞書は独立を保って生き抜くための必然であり、辞書作りは国作りでもありました。明確で誤解のない「言葉」や「文法」

10月28日 青蛾ギャラリー
『語りと笛の会』
\3,000
を確立することは急務で、外国の言葉や概念を理解するためにも、こちらから何かを主張するにも、以心伝心、などと言ってはいられません。にもかかわらず、国家プロジェクトとして始めた辞書作りは、結局、苦難を極めた17年という歳月をかけて『言海』を出版した大槻文彦に丸投げされました。今も昔も、国家というもの、かくありき!
 仙台在住の俳優・茅根利安さんと共に、作品ゆかりの東京と仙台で上演します。音楽は、ピアノと語りで一緒に楽しい試みを続けてきた黒田京子さんです。初演を見てくださったお客様もたくさんいらっしゃると思いますが、台本も演出も練り上げて大幅に改定、さらに、会場である求道会館の建築がまさに文彦の活躍した時代と重なり、新たな作品世界を楽しんでいただけると思います。
 是非ご覧ください。心よりお待ちしております。
 11月15日までにご予約、お振込頂いた方にはチケットを送らせていただきますので、よろしくお願いいたします。
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新作能『鎮魂』公演のご案内
笠井賢一(42回) 2016.10.31

産経新聞 2016.10.23
 此度、私たちは新作能『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』を本年11月にポーランドと日本で上演いたします。
 2011年にショパン生誕250年を記念して日本ポーランド国際共同企画として新作能『調律師−ショパンの能』が上演されました。私たちはその上演のためにたびたびポーランドを訪れました。前々から関心をもっていました、アウシュヴィッツ博物館を作者のヤドヴィガ・ロドヴィッチさんに案内していただきました。そのとき、鎮魂の芸能といわれる「能」でこそ「アウシュヴィッツ」の死者への鎮魂がなされるべきだという思いを深くしました。当時取り組んでいた『調律師−ショパンの能』がショパンの生涯への鎮魂の祈りの能であったことも影響しています。そのことをヤドヴィガさんにお話しすると、彼女にはアチュウという名の叔父さんで、1942年にアウシュヴィッツで政治犯として獄死された方がいらっしたのです。それで一気にこの新作能が構想され書きあげられました。それに加え、日本で2011年2月に「調律師−ショパンの能」が上演された直後の3月11日、あの未曾有の東日本大震災が起き、津波の被害に加え原発事故の被害も発生、世界に衝撃を与えました。 当時ヤドヴガ・ロドヴィッチさんは駐日全権ポーランド大使として在任中で、ポーランドと日本との歴史的に長い民間レベルでの友好関係をふまえ、東北の子供を夏休みに受け入れたり、被災地を訪れ支援に力を尽くされました。

『鎮魂−アウシュヴィッツ・フクシマの能』
 そして翌年の2012年の皇居の「歌会始め」に大使として招かれ、そこで天皇皇后両陛下の御詠「津波来し時の岸辺は如何なりしと見下ろす海は青く静まる」と「帰り来るを立ちて待てるに季のなく岸とふ文字を歳時記に見ず」の和歌に深く心動かされ、『鎮魂』にこの和歌を取り入れ、新作能を完成させたのでした。
 万葉集以来、和歌が生きとし生けるものの命を慈しみ癒すという伝統の上に立ち、両陛下が新しい時代の象徴天皇制のなかで努められた数々の慰霊の行動と、培われてきたお人柄が余すことなく表現された鎮魂の和歌です。この和歌を能『鎮魂』の芯としてテーマをになう歌として取り入れたヤドヴガ・ロドヴィッチさんの意を汲み、節付・作舞も演出も、ともにこの優れた和歌を、鎮魂の芸能である能の要として創っています。こうした私たちの思いをこめて両陛下に日本公演へのご招待状をお送りし、ご高覧頂く事になりました。

2016.11.14(月)18:30
渋谷区千駄ヶ谷『国立能楽堂』
A:\10,000 B:\8,000 C:\6,000
 11月1日のアウシュヴィッツの教会で奉納、さらに11月4日、5日にEU文化首都ブロツワフでのシアター・オリンピックでの公演、そしてこの日本公演によって、世界に向けて和歌の力が発揮され、能が鎮魂の芸能であることを感動とともに理解してもらえると確信しています。これは誇るべきことだと思っています。
 私たちは2年前にはポーランドのクラクフのマンガセンターとカトヴィッチの劇場で能の一部を上演し、数年にわたって新作能『鎮魂』を育んできました。それがいよいよ公演の時を迎えます。日本を代表する芸能である能が、現代の課題、アウシュヴィッツとフクシマという今日の私たちの世界が抱える課題に取り組みます。是非ご高覧頂きたくご案内致します。
 この公演の収益の一部はポーランド公演の経費に当てられます。できるだけ多くの方にご覧いただき、日本とポーランドの文化交流の長い歴史を土壌に実を結んだ、さらには作者のヤドヴィガさんが日本に留学し能の実技を先代銕之丞に学んだ、長い文化交流の歴史の結晶であるこの公演を成功させていただけるようにお願い申し上げます。                                   
シテ 節付・作舞 観世銕之丞 
演出 笠井 賢一
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終結宣言
藤宗俊一(42回) 2017.08.26

筆者近影
 処暑も過ぎたというのに相変わらず暑い日が続いていますが、お変わりございませんか?初めは冷夏とばかりと思っていたのに、秋になって残暑が厳しくなりました。3年後のオリンピックはどうなることでしょう。
 その暑い盛りに、ご迷惑でしょうが残暑見舞い代わりに、『数独』 14,000題送らせて頂きます。お暇な折に挑戦してみて下さい。実はこの春、娘が結婚して出て行った後に、部屋(机周りだけ)とパソコンが残り、一昨年『敗北宣言』をして撤退した問題作りに挑戦していました。解析方法を改良しIF通過回数が半分近くに減りましたが、精度があがり仮入力のある問題(上級)では複数解のある問題が多出し(遊ぶのには問題ないですが作者の意地の問題)ちっとも早くなりません。同時に、兵力を増員し(前回の10倍…1万テーブル)多方面に作戦を展開していますが、まだ表示個数19個のままで止まった状態で、隣の部屋でパソコンがひたすら唸っています。ただ表示個数以外の点では、これ以上は工事屋の灰色の細胞ではほぼ限界だと思われるので、『終結宣言』を致します。
 もったいないので、その作成過程でできた20万題以上の問題からランダムに選んで整理し(難易度別と表示個数別)、遊び用ソフト(Excelとマクロ…2010以降のxlsmデータ)を作りました。下記に添付してありますのでダウンロードしてExcelで読みこみ、マクロを有効にして挑戦してみて下さい。これも印刷するのがもったいないというけちくさい理由です。Excelが使えないという方のために印刷用pdf版も添付してあります。万が一、全てを制覇してもっと欲しいという方がいらっしゃいましたらご遠慮なくお知らせ下さい。新しく作ってMailでお送り致します。簡単な使用方法は問題の下に書いてあります。
 それでは、ご奮戦を祈ります。もしかすると暑さを忘れられるかもしれません。ご自愛の程。
数独問題ダウンロード
 多分、同じ問題は一つもない(美形を除いて)と思います。 難易度別ゲーム(xlsm版…7000題)   表示個数別ゲーム(xlsm版…7000題)   印刷用データ(pdf版…40頁560題)  
追伸:先日稲刈りに帰高した際、童女様(永森女史)を見舞ってきました。だんだん記憶力が衰えてきているそうですが(私も同じ!)、お元気でした。ベット脇には、かわいいお孫さんの写真がいっぱい貼り付けられていました。早く回復して、また一杯やれる日を心待ちにしています。
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寛容の精神溢れる玄さん
藤宗俊一(42回) 2018.06.28

Roma サンピエトロ教会

Roma サンタンジェロ城

Roma カンピドリオの丘

Roma (フラスカーティ)

Siena (ブルネッロ)

Monteriggioni 城壁都市

Volterra ヌォーヴォ砦

Firenze (キャンティ)

San Leo コスタンツァ砦
カリオストロの城

Ravenna (ディ・ロマーニャ)

Ferrara エステンセ城

Verona ティンクエッチの丘

Verona (バルドリーノ)

Milanoスフォルツェスコ城(バローロ)
 大町玄さんのご逝去を悼むとともに、ご冥福をお祈りいたします。ご家族の皆様には心より哀悼の意を表します。
 玄さんとのなれそめは50年以上も前になります。1967年大学受験で同じクラスの彼の甥の門脇康裕とともに夜行列車『瀬戸』で上京し、初めて東京に降り立った時、駅のホームに出迎えに来てくれていました。その時は私にも隣家出身の故岡部隆穂(旧姓澤村・35回生)氏が出迎えに来ていたので、挨拶を交わしたくらいで、彼らは代々木上原、我々は早稲田に向かいました。その時、初めてわが学年のあこがれのマドンナ(放送部、夕鶴のつう役)ふみさん(楠目)の長兄(玄兄ちゃん)で、隣村出身だということを知りました。どうも門脇が伯母・甥の関係をひた隠しにしていたようです。
 それから30年以上、殆ど接点がなく、同窓会でお会いしても目礼を交わす程度でしたが、2003年日本城郭協会のイタリア視察旅行の案内人(実際は30回生のパシリ役)として、ワインの名産地巡りで一週間以上同じ釜の飯をくらって、親しくしていただくことになりました。この時の写真を貼り付けてあります。(写真一部は中城氏提供。()書きはワイン名)
 その後、2010年には『向陽プレスクラブ』が再結成され、自称『名編集長(14,15号)』だった玄さんも当然参加してくださり、総会の度にお会いして酒を酌み交わす機会が増えました。ちょっと控えめで(まわりが目立ちたがり屋ばかり)、温和な笑みを浮かべてお酒を口に運ぶ姿には、感銘を覚えざるを得ませんでした。それが、この2、3年体調不良を理由に総会を欠席されるようになり、とても心配をしていましたが、とうとう帰らぬ人となりました。残念なことは『中城や浅井よりうまい』と豪語していた文章をホームページに一度も寄稿して頂けなかったことです。
 玄さんの、あらゆる迫害に耐え最後までタバコを離さなかった生き方は文化を守る殉教者そのもので、本人に寛容さがなければ貫けない生き方です。たった一度の手術で右往左往している出来損ないの後輩をきっと嘲笑っていることでしょう。お世話になりっぱなしでありながら、術後半年検査のため13日の葬儀に参列できず本当に申し訳ありませんでした。きっと、寛容の精神溢れる先輩でしたので、『しょうがないやっちゃ』と苦笑いしながら許して下さることと思います。まだまだ教えていただきたいこともあったのに、理想の先輩を失って本当に残念です。
 最後になりましたが、改めて、大町玄さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
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野町和嘉 写真展
WorldHeritageJourney
藤宗俊一(42回) 2018.12.25

2019/1/7(月)〜2/4(月)キャノンオープンギャラリー1:キャノンSタワー2F

案内図



2019年のCANONカレンダーに掲載された作品(世界遺産を訪ねて)を展示しています。郷土出身の偉大な写真家(土門拳賞、紫綬褒章受章)の世界を堪能されて下さい。
    入場無料



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淑徳大学公開講座『日本の名城、その魅力と見方』
「日本の城、ヨーロッパの城」----城郭の東西比較
藤宗俊一(42回) 2019.02.03
T.日本の城とヨーロッパの城との相違点
1.成立過程の違い

日本の城(長野・松本城)とヨーロッパの城(独・ホーエンツォレルン城)
 日本は同じ言語を話す単一民族で構成され、生産の担い手である農民は農地と結びついており、争いは単に支配権をめぐる争いです。住民は、争いがあれば避難していて、終わればまた元の場所に戻って生活を再開すれば良いのですから、城は支配者層の安全と戦略的な考えだけで作れば良かったのです。このため、自然の要害の地にできるだけコンパクトに作られました。城下町は言葉の表すとおり麓に発達し、平時は城主も館を持ってそこで生活をすることが多かったようです。只、近世になると、貨幣経済の発展により都市生活者が増大し、町人街を取り込んだ「惣構え」といわれる縄張りが行われるようになりました。

武士の館復原模型12C(歴史民族博物館) と
モット・ベイリー (ENGLAND)11C
 一方、ヨーロッパはもともと多民族で遊牧民が陸続きで住んでいた上、4世紀以降、ゲルマン族やノルマン族、マジャール族、アラブ族などが侵入してきます。彼らは略奪目的ではなく、定着しようという目的でやって来るのですから、はじめのうちは空いている土地でおとなしく狩猟や放牧などを行っていて共存できていたのですが、そのうち仲間を呼び寄せるようになり、いわゆる民族大移動がおこります。その結果、当然土地をめぐって争いがおこります。この争いの結末は悲惨で、負ければ追い出されるか、奴隷にされるか、虐殺されるかで、守る方は必死で城を作ります。勝った方も逆襲や他の民族の侵入を恐れて、城を作ります。そして、住民全員を守らなければなりませんでした。このため、城の中に住民が避難できる空間を作ったり、町全体を壁で囲む城壁都市ができました。
2.構造の違い

カステル・デル・モンテのリヴ・ヴォールト1240-50  と
   熊本城 模型1601(慶長6) 加藤清正 
 日本では、土塁と堀で周囲を囲み、豊富な木材を使い櫓と柵が作られていましたが、切岸に石がはられ石垣ができ、大黒柱を中心に大規模な木組みが行われその外部を漆喰で塗り固め、屋根を瓦で葺いた、防火構造と柔構造を兼ね備えた天守ができ、それを取り囲む曲輪で防御するいわゆる縄張りで城が作られるようになりました。特に、戦国時代後期なって、城が平地に下りてくると石垣と堀の役割は増大し、石垣を作る技術が飛躍的に発展しました。また鉄砲伝来と共に、砲眼を持った築地塀や多聞櫓が漆喰で石垣の上に作られるようになり、天守を中心とした美しい城の姿が出現するようになりました。今日、お集まりの皆さんも多分この美しさにひかれてお城に興味をもたれたのではないかと思います。
 ヨーロッパでは民族移動後初めのうちは堀と土塁や潅木の柵で作られたモット・アンド・ベイリーという簡単な城が沢山作られていました。その後時を経て、12世紀頃から、ローマ時代の遺産であるレンガとセメントの技術を習得し、また、十字軍やサラセン人によりもたらされた石造技術により、厚い壁で城壁や塔が作られるようになりました。この壁の厚さが構造上でも、また戦略上でもヨーロッパの城の一番大きな特徴になっています。この壁はそれ自体でも自立でき、

ソアヴェ・スカリジェロ砦城壁(Soave/ITA)1369  と
七尾城 家臣団屋敷(石川県) 畠山氏 曲輪縄張り
はじめのうちはそれに木製の梁をかけ、板を敷き、穴あきレンガを並べる方法で階を作っていましたが、アーチ型の壁梁や石造技術の発展でリブ・ヴォールトが考え出され、内部空間が巨大化してきました。ロマネスク、ゴシックの教会堂を見るとその技術の発展がよくわかります。
3.形態の違い
 形態上からみれば、ヨーロッパの城が長い壁とそれを守る塔や砦といった線と点で構成されているのに対し、日本の城は石垣や曲輪といった平面構成で成り立っていると言えます。また、戦略上で考え出された縄張りによる空間構成は意外性に富み、見え隠れ、流れと溜まり、導きと展開など設計方法論上、多くのヒントを与えてくれます。皆さんも知らず知らずのうちに体験されていることでしょう。

   ヨーロッパの城  日本の城  
  民族  異民族  単一民族  
  自然  乾燥  多雨  
  生活  狩猟を中心とした遊牧型  農耕を中心とした定住型  
  目的  住民全員を守る  支配階級を守る  
  材料  石、レンガ、セメント  土、木、漆喰  
  構造  壁の量、剛構造  材木(大黒柱)のしなり、柔構造  
  形態  壁と塔で守る。線と点。  ラインディフェンス  縄張り(石垣と曲輪)平面。ゾーンディフェンス  

メーデン・キャッスル ヒルフォート(丘の砦)
BC3000-AC43 新石器・ケルト人
大塚・歳勝土遺跡(環壕)
弥生時代
イリオス(トロイ)遺跡
BC3000-AC100
吉野ヶ里遺跡環濠集落(佐賀県)
弥生時代後期
サンジミニアーノ (San Gimignano/ITA)
13C城壁都市
観音寺城16C六角氏山城と城館
U.城に関連する言葉で比較
1.城(郭) と Castello

Castello:フェッラーラ・エステンセ城 1385 ニコロV世 と
   城:姫路城 天守  1609(慶長14) 池田輝政
 日本では城というと天守のことを言っている場合が多いのですが、本来城という字の表すとおり「土より成る」であって、土を掘って囲った防衛施設全般を表します。日本城郭協会では平成17年に『日本100名城』を選定した際にはたとえ天守が無くても、@優れた文化財・史跡であることA著名な歴史の舞台であることB時代、地域の代表であることの三つの基準を設けて全国各地の防衛施設の中から選定しました。美しい形をした天守が作られるようになったのは信長の安土城以降で、権威の象徴と領主の生活空間を兼ねるようになってからです。
 イタリアでも城を表す言葉はCastelloですが、日本と同じように『領主とその一族が住み、守備隊がいる防御施設』という狭義の意味で使われる場合が多いようです。勿論、例外もあり、ローマの聖天使城や南イタリアのカステル・デル・モンテなど歴史的にその呼び名が定着してしまったものです。また、ワインのラベルで『カルテッロ・ソアベ』とか『カステッロ・モンテリッジニオーニ』果ては『カステッロ・ロマーノ』などお目にかかったことがあると思いますが、これらは単なる商標で、単に地域とか地方とかを表しているだけで、

山城:サンマリノ グアイタ砦  1253
    山城:備中松山城 山城・石垣1642(寛永19) 水谷勝俊
フランスのシャトウも同じようなものだと思って下さい。実際に天守があるのはソアベくらいのものですが、現地では『スカリジェロ(スカラ家の)砦』と呼ばれています。特に最後のローマなどは誇大広告ですので絶対だまされないで下さい。
 また日本では、普通お城は『山城』『平山城』『平城』に分類されています。堀や曲輪の配置が地形に影響されるからでしょう。『海城』『河城』『湖城』は『平城』の一部として考えられています。一方イタリアでは使用形態によって分類されることが多いようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Castello  一般名称。狭義では領主の  城(しろ)  一般名称。狭義では天守を持つ防禦施設
   居住空間と防御施設。    山城、平山城、平城、海城
 Rocca  城砦・防衛施設(兵士の駐屯)  支城  出城、曲輪
 Forte,Fortezza  要塞・防衛施設(有事)  砦、台場  砲台、稜堡

Rocca:カステル・デル・モンテ
1240-50 フリードリッヒ2世   
出城:杉山城(埼玉県比企郡)16C山内上杉氏
古宮城(愛知県1570)武田・馬場美濃守
Forte:ローマ聖天使城
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要塞
隅櫓:江戸城富士見櫓
高松城隅櫓
山城:サンマリノ グアイタ砦
1253
山城:備中松山城山城・石垣
1642(寛永19)水谷勝俊
山城:サン・レオ コスタンツァ砦
15C Francesco g.Martini
山城:近江八幡城豊臣秀吉、豊臣秀次1585
平山城:ソアヴェ スカリジェロ砦
1369 スカラ家  
平山城:彦根城
1603(慶長8)井伊直継、直孝
平城:イモラ スフォルツェスコ砦
1259-1500 ダヴィンチ他  
平城:大阪城
1583(天正11)豊臣秀吉
海城:シルミオーネ 平城(湖城)     海城:高松城平城
1634(寛永11)松平頼重、頼常

2.壁 と Mura

壁:ハドリアヌス長城とアントニウスの長城とリーメス1C
壁:大宰府、大野城、水城(みずき) 古代664 天智天皇
 日本では城を「き」と読んで壁を表します。大宰府の「みずき」が有名ですが、日本書紀には「稲城」というのが載っています。稲束を積んで壁を作ったのでしょうか。残っていないのが残念です。「城柵(きかき)」というのは土塁の上に柵を組んだ壁で戦国時代まで最も一般的な防御施設でした。また、動詞的に「きづく」と読まれます。両側を板で押さえて中に土を入れて押し固める「版築」や「石垣」、「土塁」を作る時にもこの言葉が使われます。土が成るという字自体の意味から言えば本来の使い方かもしれません。沖縄では「ぐすく」と読まれます。
 イタリアで壁を表す言葉は『Mura』です。イギリスの『ハドリアヌスの長城』もドイツの『リーメス』から、街の城壁、家の壁までこの言葉が使われます。ある時案内をしていて「城の壁をシミーズと言うのはなぜですか?」という質問をされて、一瞬どぎまぎしてしまいました。落ちそうで落ちない難攻不落の美女を連想したのでしょうか。それとも「あんなスケスケのシミーズみたいな壁、一気に破ってしまえ。」と激を飛ばしたのでしょうか。皆さんはどちらをとられますか?調べてみると、胴壁や幕壁を表すイタリア語『Cortine』が先にあり、後からカーテン、シミーズが作られると、まとわりつくイメージが一致するのでこの言葉を使っただけのことで、翻訳者が辞書を見て戯れにシミーズという言葉を選んだようです。

   ヨーロッパの城    日本の城
 Mura
 
  壁・城壁・市壁
  ハドリアヌスの長城、リーメス
  城
(き)
  壁、水城、稲城、城柵(きかき)、
  環壕、版築
     城
(きづく)
  石垣(野積、打込みはぎ、切込みはぎ)
 Cortine
 
  幕壁、カーテン、シュミーズ、
  2重肌着、狭間胸壁
  城
(ぐすく)
  沖縄の土塁、石塁
   突出狭間、廊堡、矢狭間、鉄砲狭間、
  石落、砲台
  城塀
  石垣、築地塀、忍び返し
  石落し、矢狭間、鉄砲狭間、砲眼

壁:ローマ セルヴィウス(内)アウレリアヌス(外)の城壁壁:多賀城政庁版築、東南部土手(修復)
高松城 壕と石垣・野積(石垣)1634(寛永11) 松平頼重、頼常  ぐすく:沖縄・中城(なかぐすく)
石垣:江戸城 石垣・切込はぎ  1636(寛永13) 徳川家光二条城隅櫓・打込はぎ(石垣)
1601(慶長6)徳川家康

3.その他の城に関する用語

土手、城壁、出入口、跳ね橋
 お城にとって最も大切な所はヨーロッパでも日本でも門の部分のようで、防御ラインがそこで切れる為、いろんな工夫がされています。枡形、馬出、虎口といった平面的な防御ラインだけでなく櫓門、廊下門など立体的な構造もとられ二重、三重の備えをしています。ヨーロッパでは城門(キープ)が発達し、落し格子戸、石落し、砲門などの工夫が施され、特に跳ね橋は大掛かりで梃子の原理を応用し様々なものがあります。
 また、籠城のための井戸のシステムは雨の少ないイタリアの城にとって必要欠くべからずのもので、雨水を集めて地下に貯めておくなどいろんな工夫がなされています。川や地下水の多い日本では考えられない大掛かりな装置がローマの時代から培われてきました。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Torre  塔、キープ、ドンジョン、隅櫓  櫓  天守、二の丸、隅櫓、多聞櫓
 Porta  城門、楼門、落し格子戸、石落し、砲門  城門  枡形、馬出、虎口、櫓門、廊下門
 Corte  中庭、コート、練兵場  曲輪  庭園、白洲、馬出
 Ponte  跳ね橋、堀  橋、掘  天秤橋
 Cisterna  井戸  井戸  
 Fontana  泉、噴水、ガーゴイル  池、水落し  

Torre:ミラノ・スフォルツァ城
1450-66フィラレーテ設計
天守:姫路城築地塀と鉄砲狭間
1609(慶長14)池田輝政
Porta:フェッラーラ・エステンセ城 城門と堀
 1385 ニコロV世  
門:高知城廊下門
1610(慶長16)山内一豊
ponte:フェッラーラ・エステンセ城
 吊り橋  1385 ニコロV世  
門:彦根城天秤櫓と橋
1603(慶長8)井伊直継、直孝
Cortine:イモラ スフォルツェスコ砦
 1259-1500 ダヴィンチ他  
多門櫓:彦根城隅櫓と多門櫓
1603(慶長8)井伊直継、直孝
石落し:イモラ
張出狭間と石落  1259-1500  
石落し:高知城石落しと忍返し
1610(慶長16)山内一豊
ガーゴイル:ヴュー城 Vieux城
 15C ロワールの城  
水落し:高知城水落し
1610(慶長16)山内一豊
V.城と都市

ポンペイ遺跡 1C ローマ と  清洲城下町総構 織田氏
 惣構(そうがまえ)の城や城壁都市は都市施設の整備を伴いました。限られた範囲の中で共住して生活するためには防御施設や住居だけでなく、道路、上下水道、街路、広場や公園、集会場といった共同の施設が必要です。それ以上に必要だったのが共住意識とそれに基づく都市計画が不可欠です。日本の惣構えの縄張りは支配者層の戦略的な都市計画であって、街路は曲がりくねって行き止まり、橋は最小限に限られ、集会施設である寺社が防御施設として周辺部に追いやられ、広場や公園は敵の大軍の利用を恐れて作られず、住民から言えば住みにくい計画だったようです。現代の日本の都市計画を見てもだいたいが経済効率第一のお上主導で、庭付き1戸住宅が郊外に限りなくスプロールして、都市施設が追いつかなく、共住意識が育たない東京などはメガロポリスというより巨大な農村といえるかもしれませんね。
 そういえば、かつて北京から日本に都市計画を学びに来ていた友人がいますが、彼の所属するセクションは城市計画局といいます。この言葉からも分かるように、お城と街は切っても切れない関係にあります。
   ヨーロッパの城    日本の城
 Citta Murale  城壁都市  城下町  城市、惣構             
 Palazzo  宮殿、庁舎  城館、館  城閣、御殿
 Villa  別荘、離宮  別邸、寮  下屋敷
 Chiesa,Duomo  教会(司教座、教区、司祭、修道院、礼拝堂)  社寺仏閣  
 Piazza,Giardino  広場、公園、庭園    境内、庭園
 Loggia,Portico  柱楼 柱廊    辻
 Mercato  市場    縁日、朝市
 Fontana  泉    水は敷地内
 Aquadotti  水道、コンドッティ  上水  玉川上水

Palazzo:フィレンツェ ヴェッキオ宮殿1299-1500代 Cambio他    御殿:二条城二の丸御殿(御殿造り)1601(慶長6)徳川家康
Villa:ロトンダ Villa Almerico  1566 Palladio  別荘:姫路城好古園1609(慶長14)池田輝政
Chiesa:アッシジ・サンフランチェスコ寺院 13C  社寺仏閣:鎌倉鶴岡八幡宮13C源氏
Mercato:ヴェロナ・エルベ広場 1531 Sammicheli  楽座楽市:安土城下町惣構えCGI織田氏
Piazza:ポンペイ遺跡 Il Foro  -200ac-0079 ローマ時代  惣構え:小田原城北条氏
Fontana:シエナ・カンポの広場 ガイア(歓喜)の泉1297-1342福知山城井戸(豊磐井)
Piazza:シエナ・カンポの広場  1297-1342 庭園:西芳寺(苔寺)
Aquadooti:ルッカ 水道橋 庭園:龍安寺(石庭)
W.城郭都市、城下町

日本各地の城
 最初の相違点の章でお話しましたが、近世になるまで日本では城によって住民全員を守るという発想がありませんでした。その為、城といえば戦略上の砦とか館(やかた)と呼ばれる堀で囲まれた武士の住居が点在していました。戦国時代には戦略上作られた山城の麓に武士を相手に商売をする町人集落ができ、城下町が自然発生しました。戦国末期になって、信長が岐阜や安土に新しい城を作る時、楽市楽座の町人街を含む縄張り(都市計画)で城下町を作ります(惣構え)が、城郭都市と呼べるものでわありませんでした。その後、小田原の北条氏は秀吉の関東攻めに対抗するために城下町を含めて総延長9kmに及ぶ堀(空堀)で取り囲んだ城郭都市を作りました。

惣構え:金沢、高知
 その後、貨幣経済の定着とともに都市住民が急激に増えて、前田氏の金沢や山内氏の高知など全国各地で惣構えの縄張りによる城下町が作られました。その中心部には権威の象徴としての天守をいだき、政務を行う御殿や支配者一族の住居もとりこんだ城郭があり、それを囲むように職業によって区割りされた町人町が広がっている今日城下町といわれる町が形成されました。
 しかし、徳川幕府によって1615年「一国一城令」が発布され築城の歴史に終止符が打たれ、250年の間新しい城はつくられませんでしたが、幕末になって海防強化のために西洋の築城様式である稜堡形式の五稜郭が作られました。

 ヨーロッパでは最初から住民全体の保護を目的としているため、防御の範囲をできるだけ小さくして城壁で囲む方法で街が作られました。その内側で協力して生活する必要があり、住居はアパートメント(多層共住)で、広場や公園を作り、上下水道や水呑場を完備させ、教会や柱楼といった集会施設を作り、いわゆる都市施設の整備が行われました。

フェッラーラの街と城壁
 特にイタリアでは19世紀末まで中央集権国家が成立せずに、それぞれの都市が市民共同体(コムーネ)や僭主(シニョーレ)を戴いて都市国家を作り、お互い争いあっていたので城壁都市が沢山発達しました。エトルスクの集落から発展した都市(ヴォルテッラ、ペルージア、アレッツォ等)ローマ時代に軍の駐屯した場所から発展した都市(フィレンツェ、サンジョヴァンニ・ヴァル・ダルノ、イモラ、ヴェローナ等)交通の要所や市場から発展した都市(サンジミニアーノ、シエナ、ミラノ、トリノ等)、地中海の海上貿易の拠点として発展した都市(ヴェネチア、ピサ、ジェノヴァ等)、司教座教会や聖地寺院の門前町として発展した都市(アッシジ、ボローニャ等)、戦略的な砦のもとに発展した町(ソアベ、モンテリッジオーニ等)、農産物の集散地としての町(ルチニャーノ等)、

パルマノーヴァ・理想の都市(スカモッツィ)
そして近世になって封建領主が整備した城下町(フェッラーラ、マントヴァ、ヴェローナ等)など、多くの特色ある城郭都市があります。
 その後、16世紀になって大砲の出現により、城壁の形が大きく変化します。中世は弓や鉄砲で応戦するための塔と胴壁の矢狭間で作られた城壁で町を囲っていましたが、大砲の破壊力に対抗するために厚い土手と堀で街を囲み、星型の砲台(稜堡)が作られるようになりました。最初に作ったのは大砲の製造で富を得たフェッラーラの町で、その後ヨーロッパ各地の都市(ルッカ、トリノ、ウィーン、アムステルダム等)に伝播していきました。またルネサンス期末にはスカモッティによる正九画形の美しい城郭都市が北イタリアのパルマーノーヴァに作られました。
V.天守、宮殿
残存12天守 震災や空襲で明治以前の天守は以下の12城しか残っていません。

左から 弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城

左から 松江城、備中松山城、丸亀城、宇和島城、松山城、高知城

京都・二条城

二条城の庭園
 日本では建物構造の関係から宮殿と呼ばれるお城が生まれませんでした。しいてそれに類するものといえば二条城の御殿建築かもしれません。また、近世以降の天守もそれに準ずるものかもしれませんね。
ヨーロッパの宮殿と庭園
 イタリアでは中世以降、都市生活者が増大して、その中で対立が生まれ派閥(有名な皇帝党と教皇党)ができ、抗争しあうようになります。街の中の有力者や貴族階級は私邸や政庁舎の外壁を堅固にし、外部の窓を小さくし、1階は倉庫や作業場にして、生活空間を2階以上にもってきて(ピアノ・ノービレ)、物見と防御のために塔を作り要塞化します。また、中庭を作り採光や通風を確保した大きな邸宅が作られるようになります。堀や、城壁がなくても立派なお城で、宮殿(plazzo)と呼ばれています。フィレンツェのヴェッキオ宮殿やシエナのプブリコ宮殿、ヴェネチアのヅカーレ宮殿はその代表例です。

パリ ベルサイユ宮殿(Paris/FRA)
 その後、近世になって世の中が安定してくると、宮殿は権威の象徴や外交の舞台として使われるようになり、美しい形や、内装が求められ、お城としての機能は失われてしまいました。またヴィッラと呼ばれる別荘が郊外や領地に作られ、都市生活に倦んだ貴族や王族の静養先となりました。ヴェルサイユ宮殿(パリ)、シェーンブルグ宮殿(ウィーン)、レアール宮殿(ナポリ)などはその中でも特に大掛かりなもので、庭園式宮殿と呼ばれ王の離宮でした。パックの観光旅行で案内してもらえる場所はそのほんの一部分です。


<事例>
フィレンツェの都市施設
 フィレンツェの中で建築史上から見て重要な都市施設を画像付で載せてあります。多分、この部分はお話して、スライドをお見せする時間がとれないと思います。御旅行に行かれる場合、美術館巡りを加えると、最低でも1週間滞在しないとここに記載された施設を見ることができないと思いますが、参考にして下さい。
マウスを置くと画像が出ます。
B.C.59@カストウルム(Castra) ローマの駐屯地(約500mx400m四方)として。カッシア街道のアルノ川の渡し場の守り。現在の共和国広場周辺。
10CAカロリング時代の市域 アルノ側に少し拡張。人口約5000。
11CB洗礼堂(S.Giovanni)、Cサン・レパラータ教会(S.Reparata大聖堂地下) 東北の隅に。
12CDサンミニアート・アル・モンテ教会(S.Miniato al Monte)、アルノ河畔にE聖アポストリ教会(SS.Apostoli 最も古い教会)Fヴェッキオ橋(Ponte Vecchio 1178) 人口約20000
13C
ゴシック
Gミケランジェロの丘からの眺望 3つの橋、第二の城壁、Hカッラーイア橋(1218)I聖トリニタ橋(1252Jグラツィエ橋(1237))。人口100000。
Kアルノ(Arno)川、Lサンタ・マリア・ノヴェッラ教会(S.Maria Novella 1221) 1456-71アルベルティ正面改修
Mカピターノ・デル・ポポロ Bargello(Capitano del Popolo))宮殿(1255)、塔 171塔(比較:サンジミニアーノ72塔>現存15塔)
13C末Nサンタ・クローチェ教会(S.Croce 1226)Oアヌンツィアータ教会(SS.Annunziata 1248)Pサン・スピリト教会(S.Spirito 1250)Qカルミネ教会(S.M.Carmineルネサンス絵画発祥の教会 1771) アルノルフォ・ディ・カンビオ(建築家)
R大聖堂(Duomo 1296)、Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio1299-1500代) カンビオ関与(大聖堂広場、シニョーリア広場、聖トリニタ教会、ビガッロ柱楼等)
14C21シニョーリア(Signoria)広場、22トリニタ(S.Trinita)教会、23ビガッロ(Bigallo)柱廊、街区の構成、24ダヴァンザーティ(Davanzati)宮殿 cf. 京都の町屋構成
25バディア教会再建(Badia 1285) 26オルサンミケーレ教会(Orsan Michele1290) 27サンタクローチェ(S.Croce 1294) ペストの流行、皇帝党と教皇党の争い。発展がにぶる。
15C
ルネサンス 
R大聖堂のクーポラ(1426) 27サンタマリア・デリ・アンジェリ(S.Maria degli Angeli集中形式の教会1433) ブルネレスキ(建築家)
28インノチェンチ救護院(Spedale Innocenti 1426) ブルネレスキ
29聖ロレンツォ教会(S.Lorenzo 1442-1524) ブルネレスキ
P聖スピリト教会(S.Spirito 1444-87) ブルネレスキ
30パッツィ礼拝堂(Capella Patti 1443-46) ブルネレスキ
31サン・マルコ修道院(S.Marco 1444-16C) 図書館・ミケロッツォ
32メディチ宮殿(Medici Riccardi 1444-64) ミケロッツォ
33ルッチェライ宮殿(Ruccellai 1446-51)、34ストロッツィ宮殿(Storozzi 1466-1504) 外観・美しいオーダー。アルベルティ、ダミアーノ
35メディチ家礼拝堂(Capella Medicei 1521-24)、ラウレンツィアーナ図書館(Laurenziana 1524) ミケランジェロ
16C
バロック
36新市場柱楼(Mercato Nuovo 1551) 37ベルベデーレ要塞(BelVedere 1590) 38フィレンツェ城壁都市1871,現代1975 タッソ,ブォンタレンティ
Sヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio -1500代) ヴァザーリ他。大公国の政庁舎
39ウフィッツィ宮殿(Uffizi 1560-80) ヴァザーリi他。大公国の事務棟
40ピッチ宮殿(Pitti 1458-1549) ヴァザーリi他。メディチ家の宮殿
41ローマ門(Porta Romana) 42城壁(Murra) 43塔(Torre) 大公国の城壁

<参考>城に関係する歴史
 年代順にお城に関する事項をまとめてみましたので参考にしてください。 この色をクリックするとヨーロッパ100名城選定に使用した画像(約1200枚)がご覧になれます。また国別城郭画像もご覧になれます。

ヨーロッパの城

日本の城

オリエント(BC1728ハムラビ王BC1358ツタンカーメンBC1004ダヴィデ)
BC25C-メソポタミア(ウル、ニネヴェ、バビロニア)
エジプト(テーベ、カルナクの神殿)
ギリシア(BC1200トロイ戦争BC800ホロメスBC500ペルシア戦争
BC431ペロポネソス戦争BC336アレクサンドル大王)
BC17C-12Cエーゲ(トロイ、クレタ、ミケーネ)
ミュケーナイ、チンリス遺跡
BC8C-4Cアテネ、アクロポリス、アゴラ、ピレウス
ポリス(デルフィ、ミレトス、リンドス、オリンピア)
植民地(パエスツム・アグリジェrント)
ローマ前期(BC753ローマ建国BC578セルヴィウスBC509共和制縄文期
BC8C-4CBC272イタリア統一BC218ハンニバルBC60シーザー)ーBC4C戦争はない
イタリア・エトルスクの山上都市弥生時代(239卑弥呼)
ヴォルテッラ、ペルージアBC3C-AC3C倭国大乱(魏志倭人伝)
BC4Cローマ・セルヴィウス(6代王)の城壁(土塁・柵)環堀集落
アルク(城塞)・ガリア人の侵入後石塁(BC378)那珂遺跡(福岡)
BC4Cヒル・フォート(丘の砦)土塁・避難大塚遺跡(横浜市)
MaidenCastel(英・ケルト人)板付遺跡(福岡)
ローマ後期(BC27オクダヴィアヌス117ハドリアヌス293ディオクレティアヌス
306コンスタンティヌス395ホノリウス476オドアケル)
BC1C-2Cローマのカストウルム(Castra/要塞・駐屯地)
ハドリアヌスの長城(英)
リーメス・ゲルマニクス(ザール・ブルグ・独)
サクソン人のブルグ(城市)・街の防衛古墳時代(413仁徳)
ポンペイ遺跡3C-7C豪族居館
3Cディオクレチアヌスの宮殿(スプリト/クロアチア)三ツ寺遺跡(群馬)
271ローマ・アウレリアヌス城壁(d4mh10m)原之城遺跡(群馬)
381の塔(30m毎)・城門吉野ヶ里遺跡(佐賀)
サンタンジェロ城(ハドリアヌス廟)
402ホノリウス改修(h15m)
サンセバスティアーノ門・サンパオロ門日本・古代
408西ゴート(アラリック)・455ヴァンダル(ガイセリック)古代(593聖徳太子630遣唐使661天智663白好江の戦
(481フランク王国493東ゴート王国527ユスティニアヌス7C-10C649藤原京710平城京743墾田私有794平安京)
568ランゴバルド800カール829イングランド962オットー)防衛ライン
山城(神籠石列石)
永納山山城(東予市)
前キリスト期東ローマ・ベルサリウス朝鮮式山城
6Cチュニジアのアイン・トンガ(石塁と隅塔)大野城跡(大宰府)水城
サラセンの街(グラナダ、トレド)城柵(きかき)
864シャルル2世(禿頭王)・ピートルの告示(築城権)多賀城柵(宮城県)
対ノルマン、マジャール政策。教会領(異民族説得)都城(山河池で防衛ライン+居館+寺)
モット(土塁)・アンド・ベイリー(木囲い地)
平安・鎌倉近江京、平城京、平安京
ロマネスク(1077カノッサの屈辱1122ウォルムス協約1130シチリア王国)(1017藤原道長1083源義家1167平清盛
1066ノルマン・コンクエスト>ロンドン塔>ホワイト・タワー(石)11C-15C1192鎌倉幕府1274,81元寇1338室町幕府)
領地を分け与え城を作らした。荘園の発生、防御施設9C班田制の崩壊、荘園制と武士
知行制(給与から土地)と家士制。武士の館と城
チェプストー城(ウェールズ)(石の矩形のキープ)安堵(所領)と奉公(従軍)・守護地頭
ウィンザー城>1170ラウンド・タワー(ヘンリー2世)堀の内、土居(土塁と堀)、侍廊
12C十字軍(1096-)による石造技術の取り入れ・巨大化田畠、牧場、矢場、氏神、氏寺
シェル・キ-プ(貝殻囲壁・城壁)武士の館(国立歴史民族博物館)
キープやドンジョン(天守・塔・砦)根城(青森県)
地下道と死角の欠点を補正
(1215マグナカルタ1223フランチェスコ教団1241ハンザ同盟
1271マルコポーロ1309アヴィニオン幽囚1350ペスト流行)
築城家ジェームズ・オブ・セント・ジョ-ジ
縄張り、塔と城壁。主塔は不要。中庭、居住区
キャフェリー城(ウェールズ・ド・クレア家)
コンセントリック(同心円)
キープ・ゲイトハウス(城門)
城砦
ガイヤール城・シノン城・プロヴァン(仏)
アンジュー城・ブロア城(仏)
エグモール・フーゼール(仏)
カステル・デル・モンテ、ナポリ新城
ラインの関税徴収城(64)・ねずみの塔(独)
エーレンフェルス、ラインシュタイン(独)
ライヒェンシュタイン、ゾーネック、ザイン(独)
ゴシック城壁都市
13C交通の要地・渡渉点・市場>都市
ローテンブルグ(独)
旅商人・巡礼者の宿泊地(ウィク)
ヴェネツィア
城塞教会・修道院
アヴィニヨン(仏)
モンサンミッシェル(仏)
アッシジ
モンテカッシーノ
クリュニー
領主都市(城下町)
カルカッソンヌ(仏)
中世・イタリアヴェロナ、ソアベ、フェッラーラ、マントヴァ
ウルビーノ、サンレオ(伊)
司教座都市
ローマ時代からの諸都市
サンマリノ(世界最古の共和国)
ローマ(中世)
トスカーナの城壁都市
フィレンツェ(カストルム・渡渉点・金融業)
シエナ(カストルム・市場・金融業)
モテリッジオーニ(戦略砦)
サンジミニアーノ(塔の街)
ヴォルテッラ(エトルスクの街)
ルチニャーノ(農村の中心)
ルネサンス(1304ダンテ1431ジャンヌダルク1434コジモ1446ブルネレスキ戦国時代(1467-77応仁、文明の乱1543鉄砲伝来
15C-16C1453百年戦争終結、東ローマ帝国滅亡1478ロレンツォ148115C-16C1547信玄の民政55ヶ条1573室町亡)
イル・モーロ1479スペイン王国1492コロンブス1519ダヴィンチ戦国大名と城郭、縄張り
1517ルター1527ローマ簒奪1541カルヴィン1547フランソワ1世曲輪(郭)、掘切、切岸、竪堀、土塁
1564ミケランジェロ)鉄砲・大砲の時代古宮城(愛知県)、杉山城(埼玉県)
バロック領主館グスク(沖縄県)
中庭・要塞・鉄砲狭間・ピアノノービレ(積層)
ミラノ・スフォルツェスコ城、イモラ砦
近世城砦砲台・保塁近世(1582本能寺1592朝鮮出兵1603江戸幕府
フェッラーラ16C後期-1637島原の乱39鎖国1854安政和親条約)
パルマノーヴァ織豊系城郭
ルッカ天守、館、城門、石垣、堀
サンタンジェロ城の基壇瓦、鉄砲狭間(漆喰壁)、枡形、馬出
トリノ、ウィーン、アムステルダム城下町(楽市・楽座)
フィレンツェ・ヴェルヴェデーレ要債17C-安土城(滋賀県)伏見城(京都府)
(1569トスカナ大公国1603エリザベス1世1610アンリ4世幕藩城郭……権威の象徴、大名の住居
42清教徒革命49クロムウェル43-15ルイ14世1701プロシア)
近世城館居住重視、ヴィッラ江戸時代の天守(残存12城)
17C-18Cピッチ宮殿、ヴィッラ・ジュリア弘前城、松本城、丸岡城
ロトンダ、ヴィッラ・バルバロ、ヴィッラ・ランテ犬山城、彦根城、姫路城
ファルネーゼ、テ宮殿松江城、備中松山城、松山城
庭園付城館高知城、丸亀城、宇和島城
ヴィッラ・ピサーニ(ヴェネト)その他の天守(再築)
パラッツォ・レアーレ(ナポリ)江戸城、大阪城、名古屋城
ヴェルサイユ・パリ郊外二条城、会津若松城、小田原城
ロワール河・シュノンソー、シャンボール(仏)岡崎城、福山城、高松城
ホエーンツオレルン(独)中津城、熊本城、宇土城
平和な時代
近代(1776独立宣言1789フランス革命1804ナポレオン帝政近代(1869明治維新)
19C1848二月革命1870普仏戦争)19C砲台
ノイシュヴァンシュタイン城(独)懐古趣味五稜郭(函館)


<謝辞、出典>
 このホームページは公益財団法人・日本城郭協会主催の公開講座や市民講座の講演(淑徳大学、武蔵野大学、目黒区、府中市等)に集めた資料を基に作成したもので、以下の皆様のご協力いただいています。また、出典の分からない画像も使用させて頂きましたが、削除のお申し出がありましたら即座に消去致します。
 最後になりましたが改めて皆様に感謝致します。(平成31年2月)

1.画像提供 公益財団法人・日本城郭協会(井上宗和、中城正堯、東伸宏、山中和正、西内一)
2.引用、参考文献 Touring Club Italiano編『Nuova Guida Rapida ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Castelli e Fortificazioni d'ITALIA』
 Touring Club Italiano編『Guida EUROPA FRANCIA,GERMANIA,GRECIA』
 E.Detti著『Citta Murale e Sviluppo Contemporaneo』Edizioni C.I.S.C.U
 L.Benevolo著『Corso di Disegno』EDITORI LATERZA
 P.Pierotti著『Urbanistica:Storia e Prassi』MARCHI & BERTOLLI EDITORI
 井上宗和『ヨーロッパ古城ガイド』グラフィック社
 紅山雪夫著『ヨーロッパの旅・城と城壁都市』創元社
 太田静六著『ヨーロッパの古城・城郭の発達とフランスの城』吉川弘文館
 野崎直治著『ヨーロッパ中世の城』中公新書
 ジョセフ・ギース、フランシス・ギース『中世ヨーロッパの城の生活』講談社学術文庫
 ハインリヒ・ブレティヒャ著『中世への旅・騎士と城』白水社
 同明社発行『ビジュアル博物館・城』
 日本城郭協会監修『日本百名城公式ガイドブック』研究社
 朝日新聞社編『城の語る日本史』
 千田嘉博著『戦国の城を歩く』筑摩書房
 石松好雄・桑原滋郎著『大宰府と多賀城』岩波書店


 お城に興味のある皆様、イタリアに行かれることがあれば、お城だけではなく街のバールに飛び込んで是非、市民意識を味わってきてください。
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永森 裕子(44回)さん追悼文
Ciao Bella(さよなら美人)!
藤宗俊一(42回) 2019.07.02

筆者近影
 たしか高一の頃(1963)だったと思うが、放課後部室で仲間とくだらないおしゃべりをしていた時、部室のガラス戸を引いて、小さな女の子二人が恐る恐る『あのう、新聞部に入りたいのですが……』と尋ねてきたのがなれそめだった。とても初々しくて、『かわいい子だなあ』と思ったように記憶している。即座に入部が決まり、先ずは見習いで先輩記者に同行して取材をしたり、原稿の清書など雑用をしてくれた。部長が面倒をよく見ていた気がするが、私は一緒に仕事をしたことが無く、しかも、すぐに引退したので、当時の記憶は定かではない。
 その後、三十年ちかくたった関東支部同窓会の懇親会の席上、背中をたたかれ『編集長、あたし覚えてる?』と声をかけられた。振り返ると、そこにはイタリアの下宿のおばちゃん(モナリザ)と見間違えんばかりの女性が微笑みかけていた。『え〜と……』。名札を見ると永森裕子と書いてある。『永森は同期の卒業生代表だった奴だけど、新聞部とは……』『永森の妻です。新聞部でお世話になった松本裕子です。』『え〜っ!』。変われば変わるもんだ!。訊けば、ダンナと一緒に英国留学中、淋しくて大食いしてしまった結果だそうだ。『酒呑童女と呼ばれるくらいお酒が好きで、そのせいでちっとも痩せないの』。むべなるかな。

1992年当時の『筆山』編集部……筆山14号より
 早速、当時編集長をしていた『筆山』に引き込んで手伝ってもらうことにした。なにせ、当時の編集員は戸田、岩村、鶴和、佐々木、内川、大和田等といった錚錚たる先輩方ばかりで、渋谷の事務所で編集会議をしても、『藤宗くん、後は頼んだぜよ』の一言でさっさと道玄坂の裏店へ消えていく。その状態が少しは改善されると思っていたのに……。
 彼女は、私が本業が忙しくなって24号を最後に編集長を辞めた後も編集委員にとどまり、52号(2012)〜55号(2013)の編集長も務めた。彼女の顔の広さは多岐に渡り、出版関係、美術関係、旅行関係等々いろんな飲み会に連れまわされた。そんな、忙しい合間をぬって社会人大学院にかよい西洋(イタリア)美術史で学位をとった頑張り屋さんでもある。その後、ダンナが法学部長を努めた御褒美に海外研究留学(2006〜2008)が認められイタリアへ行くのにくっついていった。

イサクの犠牲(Uffizi /Firenze) Caravaggio1603
しかし、なんでダンナ(政治学)と直接関係のないイタリアなの?しかもよりによってフィレンツェ大学なの?1976年以来、血のにじむような努力を重ねて高めた日本人の評価が一瞬のうちに崩壊してしまう恐れがあった。幸いにして、街が炎上しただの、通ったあとがグチャグチャだのと言った情報は届かなかったのでホッとしている。一年くらいして『工事先輩、あたしルネサンスを卒業してバロックに夢中なの。今、カラヴァッジョの絵を追ってローマにきているの。あのハラワタをえぐり出して絵の具にして、血のしたたるような筆遣いがたまらないの!』と絵葉書が届いた。相変わらず精力的に活動しているなと感心した。

2007年Londonにて(永森氏撮影)
 『Ciao Bella(よう美人)!』 『Ciao Maestro(あら巨匠)!』の挨拶で再び親交が始まり、一緒に楽しいお酒を飲んでいたが、2012年秋頃から頭痛を時々訴えていた(ダンナの弁では『いろいろ能力以上のことをやりすぎて、脳も体もついていけなくなっているか、くらいに思っていた。それから、「頭痛がひどくなった」ということではなくて、もっと単純にね歩けなくなった、動けなくなった、話ができない、というような症状だった』)。
 2014年夏、帰高した際に同期の高知医大の元院長に助言を受け、総合診療科で検査を受けたら、ソフトボール大の脳腫瘍がみつかり、そのまま入院、摘出に至り、『Stage4で余命半年』と言われたそうだ。退院後も川向かいのケアハウス『たんぽぽ』に入所し、最後は終末期病棟に移り今年4月2日まで頑張った。その間に初孫にも出会えたのは、ひとえにダンナの献身的な看病のおかげだと感じ、ただひたすら頭が下がる。きっと彼女も感謝しているだろうし、幸せな最期だったことと思う。入所先でお孫さんの写真に囲まれて穏やかに微笑んでいた姿が目に浮かぶ。
最後の状況はダンナのMailによると
 ………… 4月2日昼過ぎまでは、それまでと変わった感じはなかったんだが、夕刻に容体が急変して、そのままだった。最後の1時間だけ、ちょっと苦しそうで、かわいそうだった。
 これから東京に戻って、役所の手続をします。住民票は、まだ小平でね。   永森誠一
とのこと。

 あんなに好きだった東京に帰れなかったことを思うと切なくなる。心よりご冥福を祈っています。
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ワインの貯蔵と飲み頃
藤宗俊一(42回) 2020.05.08

筆者近影
 ムートンの話題で思い出し、たった1本冷蔵庫の野菜庫の奥に眠っているラフィット(1980…結婚した年)を開栓する時をいつにするか悩んでワイン通の竹本さんに相談したら、沢山のAdviceを頂きました。
 もともと私のワイン遍歴は、小学生の時祖母が密造していた岡山ブドウのポートワイン(砂糖漬でとてもあまい)をこっそり舐めていたのが始まりです。その後、助教授が研究室でふるまってくれたラベル無しの一升瓶ワイン(多分山梨出身の元教え子が送ってくれたもの……甘くないのは初体験)をガブ呑し、ワインが好きになりました。そして、フィレンツェにいる時は、キャンティの丘のブドウ畑の片隅でフィアスコーネ(2L大瓶)に詰めてくれるものを買ってきて、アルノ川の畔で友人と飲んだくれていました(水より安い)。そんな訳で、ソムリエを目指した先輩と違って正統派の呑み方は知りません。

シャンパン産地の
Eperneでの竹本氏

ワイン入門

ワインを貯蔵する

ワイン・セラーの管理

ワイン入門(一部)
PDF版(全頁・印刷・拡大)
●1980年もの:手持ちのヒュージョンソンの本では、1984年には四つ星(****)にランクされていますが、1991年以降2020年までには、ランク外になっている。
●17度一定のワインセラーで保存しても今よりは良くなる事はありません。もし、一度でも日本の真夏にワインセラーに入れずにおくと、30度にもなり、かなりやられています。
●冷蔵庫の野菜庫はワインセラーの適温範囲の最低レベルではないでしょうか?暗いし、適当な湿度はあるし、数年なら最適と思うのですが、生き物ですのでそんなに長くて大丈夫か?知識がありません。日本でよくあるのは、部屋に放置して真夏の高温で劣化する事です。
●経験的に、高温と太陽光で劣化するか、乾燥しすぎてコルクがスポンジになるか?で対策をしてきた歴史があるので、冷やしすぎのデータはあまり聞いたことがありません。
●デカンタして5時間くらいして飲まれては如何でしょうか?赤ワインはサングラスのような色ガラス瓶で紫外線の心配はないし、飲む前には常温で1日くらい放置して、朝コルクを抜いて立てて夕方飲めば窒息状態から生き返り、素晴らしい記念になると思います。コルクを抜いてから1時間では短すぎるかな〜?経験がありません。ま〜お昼に抜いて、時々瓶に鼻を近づけるのは如何でしょうか?
●ヨーロッパではアララト山の麓付近でワインが作られた時代から、アンフォラに入れて土中で保存とかしていたし、ローマ軍は石灰岩を切り出して砦を作ったので岩穴がワインセラーになっていました。
●フランスのブルゴーニュのBeauneボーヌのCaves Patriarche Pere & Fils とシャンパーニュのエペルネのMoet-et-Chandonの、

Beauneのカーヴ
フランスだから英語のセラーではなくてCaveカーヴですね、を見学した時に家族の特別なボトルの保存の事を聞くと、ちゃんとやっていました。写真を添付します。普通のワインボトルが横に寝ているのがボーヌですが、私が生まれた1943年を探したら、1942年がありました。第二次大戦ではシャンパーニュはドイツ軍に略奪されたが、ボーヌは残ったからですね。生まれて70年経っている人はいるでしょうが、問題は、70年も保存している現実がある事を紹介したかったのです。ただし、冷房はしていないので冷蔵庫ほど冷たくなくて適当にカビが生えている状態です。
●出典は、1977年から出版されているヒュー・ジョンソンのポケット・ワインブックで、彼はイギリスの評論家でアメリカのロバート・パーカーと並ぶワインの第一人者。私は1984年版と1991年から2020年版まで約30年分持っています。これだけ揃っていると高く売れるかも〜?
 ヒュー・ジョンソンの「ワインを貯蔵する」の一部をコピーし、添付します。「はちきん会」の浜田会長はシニア・ソムリエなので相談されるといいですね。40年保存の経験はないと思いますが。
●40年よりは金婚式がふさわしいですね〜!そのためにコロナに負けずに頑張りましょう!!

 ワインは新しいうちに(10年以内?)呑むものだという感覚はありませんでした。古いのを持っていると話題になるのでしっかり隠して保存しています。一番古いのは私が留学していた帰りに持ってきた1975年(当時はVintage)のキャンティクラシコ(Greveの安物、現地価格で2000Lire程度……それでも学生食堂のワイン付フルコースが430Lireで食べられ、2Lのテーブルワインが500Lire程度で買える時代だったので奮発した!3Lire--1円)ですが、最初2〜3年押入れの奥にしまい込んでいたので完全に死んでいることでしょう。結論はラフィットはどうせダメなら、話題のために10年後の金婚式まで置いてみようかと思っています。それまで夫婦がもつか心配ですが……。もたなかったら半分は墓に撒いて欲しいと遺言しておきます。
 Stay Home Weekは良い勉強になりました。竹本先輩、ヨタ話につきあって下さってありがとうございました。
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《 新著のご案内 》
ぶんちゃんの世界オモシロ随想録
植野文隆(42回) 2021.02.26

筆者近影
 土佐高同窓の皆様 植野文隆です。

リーブル出版(1200円+消費税)
 未曾有のパンデミックが未だ世界を覆っていますが皆様方にはお変わりなく、お元気のことと思います…
 私の新著が発売されました。ぶんちゃんシリーズ3冊目になります。
  『ぶんちゃんの世界オモシロ随想録』
 長い海外生活と訪れた国75ヵ国で体験した抱腹エピソードと世界から日本を視る至極のエッセイ43編!(高知のエピソードも少し含まれています。)
 土佐中学・高校の創立百年史を担当した高知の出版社から出版されました。アマゾンや全国有名書店でお求めになれます。(1200円+消費税)
 ステイホームの気分転換にお読みいただければ幸いです…



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浅井伴泰さん(30回)追悼文
本当にお世話になりました
藤宗俊一(42回) 2021.05.10

筆者旧影
2013 甲子園にて
 どういう訳か、ちょうど一回り年上の30回生とは縁が深く、可愛がって頂いた方は10指を超えています。前にも『うきぐも』(『一つの流れ』?)に書かせて頂きましたが、義弟の次兄だった故沢田良夫さんが最初でした。イタリアから帰国直後の1978年頃、職探しと部屋探しの為に、蒲田にあった実家の2階の6畳に転がり込んで2ヶ月くらい隣部屋の良夫兄さんと寝食を共にしました。お酒が好きで、その席で『土佐藩の家老や御船奉行の末裔がいて、俺たちのクラスはすごかった。』と、土佐校時代の思い出を自慢げに後輩に語ってくれました。まさかこんなにどっぷりと嵌って、2つも追悼文を書くハメになるとは思ってもみませんでした。

3金会(佐々木さん提供)
 1984年、独立して渋谷に小さな建築事務所を開いたのですが、仕事が無くて暇をもてあましていた時に、故宮地貫一さん(20回〉から鶴和千秋(41回)さんを通して、『どうせ、暇しているんだろう。同窓会関東支部を再立ち上げるので手伝え』とお声がかかり、あわよくば仕事にありつけたらと淡い期待を抱いて、毎月第三金曜日に赤坂の宮地さんの事務所での飲み会(3金会…参勤会)に出席するようになりました。その席で北海製缶時代の浅井さん(30回)とお目にかかりました。土佐人に似合わない、とてもハンサムで洒落た人だという印象を受けました。

『戦いすんで』(1992 筆山13号より)
 その後、浅井さんの幹事長のもとで、いつの間にか『関東支部同窓会誌・筆山』の編集長を押し付けられ、私の狭い事務所で編集会議が行われるようになり、246(青山通)を挟んだ桜ケ丘のご自宅に伺って指導を受けたり、情報を頂いたり、時には差し入れを持ってきて頂いたり、随分お世話になりました。ただ、私の本業の方が忙しくなり(同窓会とは無縁!!)編集長を返上してお付き合いがなくなりましたが、怖い?カミサンを持った不運を嘆き、慰めあっていたような気もします。
 『向陽プレスクラブ』再結成にあたっても、いろんなご指導をいただきましたが、一度もお酒を酌み交わすことができませんでした。きっと関東支部や野球部のことでお忙しかったと思われます。故大町玄さん(30回)と同じで、寄稿文も一つもありません。返す返す残念なことです。もう一つ、残念なことは、『巨人、大鵬、卵焼き』の世代の私にとって、なんであんなにトラキチだったなのかの釈明を聞けず仕舞いになってしまったことです。
 土佐の古い俗謡で「浅井金持ち、川崎地持ち、上の才谷道具持ち、下の才谷娘持ち」と 詠われた「浅井家」の末裔(ご当主?)にふさわしい鷹揚たたる立ち居振る舞いは、水飲み百姓の小倅にはとてもマネができそうにありませんが、今後、少しだけでも近づけるように頑張って生きたいと思っていますので草葉の陰から見守って下さい。
 最後になりましたが、改めて、浅井伴泰さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
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本の紹介
中城正堯著 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
藤宗俊一(42回) 2021.09.10

『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
 『うたまろ』と聞けば『あぶな絵』しか思いつかない門外漢に、人使いの荒い人代表の中城さんから書籍小包が届き、開けてみると『うたまろ』の『当世好物八景 さわき好』を表紙に使った品のいい本(B5版・装丁も著者)とともに、A4の1/8の小片に謹呈のご挨拶と『HPに紹介文を載せろ!』とのたまわれていた。「開封すべきでは無かった」と後悔したが、後のまつり。仕方なしにこの紹介文を書かせていただいています。
 もともと遊里とか芝居町でチラシとして使われた彩色木版画が、江戸の街で浮世絵として流行し、やがて庶民の日常生活を描くようになり、美人画や子供絵が生まれたそうである。その子供絵を中心に、1986年から中城さんの提案で『くもん子ども研究所』が収集し始め、現在1800枚以上の浮世絵を所蔵しており、その子供絵に描かれた生活をもとに研究活動が行われているとのことである。また、国際子ども文化研究会設立に参加、若い研究者への援助を続けるとともに世界に発信し、『国際子ども博物館』の開設を提唱している。
 内容紹介は例によって、目次のスキャンでお許しを!門外漢が変な講釈をたれるキケンがありますので!

もくじ
時をこえて愛されるもの−「公文浮世絵コレクション」とその研究−
     國學院大學教授・国際浮世絵学会常任理事 藤澤紫
第T章 浮世絵と子ども
  「子ども浮世絵」ことはじめ−江戸子ども文化研究のあゆみ−
  子ども絵・子ども物語絵・おもちゃ絵−子ども浮世絵の分類−
  浮世絵に描かれた子どもたち−江戸子ども文化をさぐる−
  豊潤な江戸子ども世界に共感−ヨーロッパ巡回展の報告−
第U章 子どもの遊びと学び
  [上方わらべ歌絵本]の研究−合羽摺子ども絵本の書誌と解読−
  和製ポロ"打毬"を楽しんだ江戸の子−馬術から徒歩打毬や双六も−KPCHP既出
  寺子屋の学びの文化−江戸社会を支えた庶民教育−
  文明開化で激変した「子どもの天国」−錦絵にみる明治の子ども−
第V章 母子絵へのまなざし
  もう一つの美入画"母子絵"−歌麿の母性愛浮世絵−
  〈歌麿の母子絵リスト〉(版画)
  子どもの魔除けファッション−病魔と闘った母性愛の表象−
  布袋と美女から"おんぶ文化"再考−絵画にみる育児習俗−KPCHP既出
  「百子図」にみる清代中国の子ども観−蘇州版画の子、浮世絵の子−

 この本は非売品で、研究者・関係者のみに筆者から謹呈している。ただ、掲載論文のうちの二本(「和製ポロ〈打毬〉・・・」と、「布袋と美女・・・」)は、2019年に向陽プレスクラブHPに「版画万華鏡@〜D」として掲載したうちの二本である。論文集に未掲載の三本ともども、このホームページの 主張.論評のページ で見る事が出来る。
全文をご覧になりたい方は次行をクリックしてPDF版(著者提供)をダウンロードして下さい。
    ***** 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』全144頁・江戸子ども文化研究会発行*****
 尚、下記の図書室に行かれたら実際に手に取ってご覧になって頂けますが、コロナ禍の現在では外部からの閲覧希望者を歓迎するとは思えません。落ち着いたら電話予約のうえ、足をお運び下さい。
   公文教育研究会 子ども文化史料担当(内山):03-6836-0039
      受付時間:10時〜17時(土・日・祝日を除きます)
   土佐中高図書館(謹呈ずみ)
   国立国会図書館(納本ずみ)

 御参考に下に冒頭部分を抜き出しておきます。

「子ども浮世絵」ことはじめ
一江戸子ども文化研究のあゆみ一
<はじめに>浮世絵に子ども発見
 1986年のくもん子ども研究所設立は、浮世絵の子ども絵研究ならびに江戸子ども文化研究にとって画期となった。本稿では、同研究所による「子ども絵」や「子ども浮世絵」に関する「研究ことはじめ」と、その後の歩みをたどる。また、研究成果としての「子ども浮世絵」解読の一端を紹介する。浮世絵師たちがイメージ豊かに描いた浮世絵から浮かびあがる江戸の子どもが生き生きと遊び学ぶ姿、さらには愛情細やかな母子の日常生活を、存分に楽しんでいただきたい。そこには、徳川幕府の封建的な統治によって、「江戸庶民の女性や子どもは悲惨な生活を強いられていた」とするかつての歴史観とは全く異なった、「子ども世界」が現れてくる。

[図1]
 まず、二つの画像から、江戸の女性と子どもの生き方を見ていただこう。[図1]は往来物『児童教訓伊呂波歌絵抄』(南勢野嬰書下河辺拾水画安永4年初版の後摺)の一場面で、花見を楽しむ祖母・母・娘三代の女性を描き、「月花もめでて家をもおさめつつ雪や蛍の学びをもせよ」とある。女性に対し、「家事を取り仕切るとともに、読み書き歌の道もしっかり学び、四季折々の風流も楽しもう」と呼びかけている。

[図2]
 次の[図2]は浮世絵「幼童諸芸教草手習」(歌川国芳天保14年)で、子どもが習得すべき習い事を示したシリーズの一枚である。画面には、天神机(手習い用の机)で、折手本の字句を手習いする子どもを描いてある。頭髪の一部を残して剃っており、まだ幼児だが、振袖姿の姉の指導で家庭学習に取り組んでいる。手習い帳は何度も重ね書きするので、黒く潰れている。右上の本をかたどったコマには、こう記してある。「およそ人の手にてものをなす事多かる中にもものかくわざなん万に立まさりけるゆへただ雅俗ともに其ほどほどにつう用するを手習せ女は墨ぐうに太りこはこはしからずただ上代の風の雅たるおまなばんこそおくゆかし」。当時はヨーロッパでも、庶民の女子で文字の読み書きが出来る者は少なかったが、ここでは男女を問わず文字を書くことが手のなにより重要な役割であると説き、女性には草書をすすめている。「手習」のほかには、着物の「仕立もの」(裁縫)、「画」(絵の描き方)など生活実技を示してある。
*****全144頁・江戸子ども文化研究会発行・浮世絵:公文教育研究会所蔵*****
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二つの写真展
榎並悦子写真展、関健一写真展
藤宗俊一(42回) 2021.09.28

榎並悦子写真展 『インド・アパタニ族 暮らしと信仰』

新宿ニコンサロン

2021.9.28(火)〜10.11(月)

 インドの北東部、アルナチャール・プラデーシュ(Arunachal Pradesh)に暮らすアパタニ族の集落を3年にわたり取材した。中国との国境問題が未解決で、入境するためには特別な許可が必要ということもあり、アパタニに関する正確な情報はまだまだ乏しい。村で目につくのは日の丸に似た「ドニ・ポロ」の旗だ。太陽と月を崇める彼らの信仰のシンボルである。最大規模の祭りは「ミョウコウ」で、先祖を祀り豚やニワトリなどを供犠して豊作や健康を祈願する。9つの集落が3年交代で祭りを受け持ち、それぞれの地域が交流する大切な社交の機会でもある。 アパタニの年配者は顔のタトゥや髷、女性は竹墨で作った鼻栓が印象的だが、現在は禁止されている。近代化とグローバル化により、彼ら独自の文化や生活様式も変わりつつあるが、永年の間に培ってきたコミュニティの姿はまだまだ健在だ。そんな姿を記録したいと考えた。
榎並 悦子……野町和嘉氏(高知出身の写真家)の御妻女

関健一写真展 『カルパチア山脈の木造教会 
            --スロバキア・ポーランドの辺境を歩いて』

オリンパスギャラリー東京 

2021.9.30(木)〜10.11(月)
 2年ぶりに個展を下記のように開催することになりました。皆様のお出でをお待ちしております
場所 オリンパスギャラリー東京 
 新宿駅西口都庁方向へ歩いて5分
 新宿区西新宿1-24-1 エステック情報ビルB1F Tel 03-5909-0190
会期
 2021.9.30(木)〜10.11(月)ただし10.5(火)10.6(水)は休館
 10時?18時 だたし最終日は15時で閉館
フォト・ギャラリー連絡会の申し合わせで祝花は固くお断りいたします
関 健一……大学同期の写真家、東大写真部顧問

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土佐向陽プレスクラブ