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尾池和夫(34回生) 野町和嘉(写真家)
関健一(写真家) 山本厚子(作家)

山本嘉博(51回) 坂本孝弘(52回)     向陽プレスクラブ
 
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2010.10.05 高新連HP、斉藤  拝読しました。
2016.12.26 坪井美香(俳優)  『死者の書』公演のご案内
2019.07.02 山本厚子(作家)  6人組のカラオケ・リーダー
2021.03.20 尾池和夫(34回生)  地震火山庁の設置と地震火山予報士の制度化
2021.10.05 大石芳野(写真家)  大石芳野写真展『瞳の奥に〜戦争がある』
2021.10.20 関健一(写真家)  カルパチア山脈の木造教会
2022.10.08 野町和嘉(写真家)  シベリア収容所1992

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
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拝読しました。
高新連HP、斉藤 2010.10.05
 「高新連のこと」山岡論文を拝読させてもらいました。第18回では僕は山岡さん達を迎える立場にありました。というのもたまたま僕の学校が本部役員校でしたので、高一だった僕は総会準備のため夏休みのほとんどを費やしました。
 今思えば、とにかく忙しかった。無我夢中で飛び回ったという感慨があります。写真にある「〜総会」という模造紙でかかれた文字もその一つですし、宿舎の部屋割りも仕事の一部でした。文章に「女性達は別」(当たり前ですが)と書かれていましたが、最初に宿舎の良い部屋を女生徒に割り振り、男子はその他大勢という形で大部屋に雑魚寝してもらいました。
 でも大部屋での交流の方が昼間の会議より「楽しかった」「多くを学んだ」という実感があります。全国高等学校新聞連盟は、一九七二.三年頃自然消滅しました。
 あるHPにリンクしてもらう際に「学校での言論の自由は社会の態度の試金石。 高校での新聞部活動が民主主義の基本という、そんな活動の歴史です。」とコメントして頂きましたが、その通りだと思っています。
投稿日:2010/09/19(Sun)掲示板へ
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『死者の書』公演のご案内
坪井美香(俳優) 2016.12.26
 2016年ももう過ぎ行こうとしています。皆様いかがお過ごしでしょうか。 先月末に『言葉の海へ』の東京・仙台公演を無事終え、上演を重ねて作品を育 てていきたいとの思いが深まりました。ご観劇くださったみなさま、本当にあ りがとうございました。

2017/01/26,27 19:00開演
(開場18:30) \4,500

銕仙会能楽研修所
(港区南青山4-21-9)03-3401-2285
 引き続いて『死者の書』公演のご案内をさせていただきます。2014年の 初演以来、再演を目指して試行錯誤を続け、今春には原作の全文を語るという 暴挙(?)にも出ました。まったく、なんともやっかいでしかも底知れぬ魅力 を秘めた小説です。創作意欲をそそる圧倒的な力に引きずり込まれるように、 映画、人形、舞踏など、これまでに数多くの才能たちによる試みがなされてき ています。では、私たちならではの表現は一体どこに向かうのか。
 この度、能舞台で、しかも初演は声のみの出演であった観世銕之丞氏の出演 を得て、上演させていただく運びとなりました。折口信夫の不可思議な物語世 界が、橘政愛氏、設楽瞬山氏の奏でる音楽と共に、語り部によって仕組まれ、 立ち現れる銕之丞氏と我ら語り部三人の声、言葉、身体を交錯させつつ、 生も死も、夢もうつつも、時も空間も自在に行き来する、独自の『死者の書』 を創り出します。
 ぜひ、お立会いください。お待ちしております。     
お申込み・お問い合わせ:すずしろ 090-7847-2670
●演出は42回生の笠井賢一氏です。
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=永森裕子さんを偲んで=
6人組のカラオケ・リーダー
山本厚子(作家) 2019.07.02

筆者と故永森さん(2014年・清水由江氏撮影)
 平成最後の春は、寒い日が続き、近年になく美しい桜を見ることが出来た。6人組の和子さん、由江さん、そして私は四谷から市ヶ谷に抜ける土手を散策し、満開の桜が窓の外に広がる市ヶ谷のホテルでランチをした。「裕子さんがいたらね・・・」と、話題はもっぱら裕子さんのことであった。「花見」は寂しいものであった。
 その週末、私は京都で開かれる会合を利用して、絢爛豪華な古都の桜を堪能した。高瀬川沿いの桜並木は、私に森鴎外の作品を思い出させた。足は清水の二年坂の香木屋で止まり、桜香のうちで華やかな「八重桜」を買い、帰宅後毎日それを炊いていた。
 「平成31年4月2日、永森裕子さん永眠、享年68」という訃報が私の手元に届いたのは、街角の樹木の緑が濃さを増した日で、元号は令和になっていた。裕子さんは、天国への旅の途中で私たちのところに立ち寄ってくれたような気がした。仲良し6人組で過ごした日々の思い出をきっと天国にもっていったにちがいない。「大阪マンボ」でも口ずさみながら「ひと足お先にね・・・」と愛くるしい笑みをうかべて言った気がする。
 永森裕子さんと私が出会ったのは、「トータス21」という会であった。「21世紀、陸亀のように力強く地球を歩きまわる・・・」という趣旨の会で、国際的に活躍する会員が次つぎと発表する。懇親会がとても楽しく、ひとり、またひとりと仲良しの輪が広がっていった。この会の主宰者は土佐高校出身の中城正尭氏で、裕子さんの先輩であった。会には土佐出身の会員が数名いた。裕子さんはロンドンで子育てをし、イタリアのフィレンツェに滞在して古い教会のフレスコ画に興味を持ったようである。また、子供の言語に関心を示し、国際児童文庫協会に所属し、会長も務めていた。
 「トータス21」は2010年10月、36回目の発表をもって閉会した。その前年の10月、「フレスコ画のある街」=イタリア滞在記=というタイトルで彼女は沢山の写真を使って発表した。トスカーナ地方の古い教会のフレスコ画が次つぎとスクリーンに写し出され、大変興味深い発表であった。「ルネッサンス期のフレスコ画の再評価、保存状態の悪い教会・絵画の修復が行われている・・・」という発表を聞き、「まとめたら面白い本になるだろう・・・」と、思った。そして、彼女の背中を押してみた。
 やっと重い腰をあげて、「補足の取材をしてくる」と、裕子さんがイタリアのトスカーナに旅行したのは、発病する半年前であった。大学で日本文学を専攻し、「哲学美術」で修士課程を取得している、裕子の「フレスコ画研究」は突然中止となってしまった。取材報告を聞く前に闘病生活に入り、ついにまとまった形にならなかったことが、今、残念でしかたがない。

2011年・野町氏写真展の後のトータス21懇親会(右下筆者)
 「トータス21」の会の懇親会の後には、2次会、3次会があった。自然発生的に6人の女性が集まり、仲良しになった。年齢も仕事もまちまち、既婚者3名、独身者3名というグループが出来た。「6人組」と呼ぶようになった。共通点と言えば、グルメで美酒家、そしてカラオケで歌うのが大好きということだろうか。しかし、飲まない者1名、歌わない者1名がいたが、グループの調和には何の支障もなかった。
 和子さんは映像・舞台関係の仕事、歌うジャンルはシャンソン。由江さんはトルコの文化研究に夢中で連絡係り、そして中島みゆきのそっくりさん。裕美さんは中近東・シルクロードの旅人で聞き上手。一番歳下の恵子さんはトルコの専門家で、次つぎと演歌を熱唱。私はラテン・ナンバーを踊りながら歌う・・・という具合で、なんとも陽気で面白い仲間であった。頻繁に東京の夜の街に繰り出したものである。
 6人組の中で、裕子さんはカカオケ・リーダーであった。楽しいお店を探してくるのはいつも彼女であった。由江さんから「集合」の知らせが届くと、「はーい!と、全員が集まった。時間の経つのを忘れて、さわいだ。トスカーナ仕込みのワイン通で、イタリアの料理、ファッションにも詳しかった。時々は、話題はイタリア、トルコからスペイン、南米へと飛んで、比較文化論のような展開になった。彼女が故郷・高知で発病するまでの4年あまり、6人組はよく集まり、楽しい時間を過した。
 一番に思い出すのは、六本木の「フェスタ飯倉」での会だった。個室で懐石料理を食べながら歌える店だった。長い廊下に衣装とかつらが備えられ、歌の雰囲気に合わせて、各人仮装姿で歌い、最後は6人の合唱で締めくくった。あまりの楽しさに時間の過ぎるのを忘れ、最終電車やタクシーで帰宅したことが、昨日のことのように鮮やかに思いだされる。
 また、四谷・荒木町のカラオケ・バーでは、貸切りで、ママの手料理と各人が一品を持ち寄るという、ホーム・パティーであった。私は大きなスペイン・オムレツを持参した。のぶ子ママは、裕子さんの友人で、美声を披露した。
 2013年夏、裕子さんは高知で脳腫瘍が見つかり、すぐに高知医大で手術した。術後の経過がよく、翌年の1月には東京で会うことが出来た。6人組は裕子さんの住まいの近く、玉川上水沿いのレストランに集合した。全員が集合し、カレー・ランチであった。「6人組」の集まりは、これが最後となった。彼女は始終にこにこして、みんなの話を聞いていた。高知での治療と東京という「飛行機での通院」を実行し、「70歳までは生きたい!」と言い、病気には負けていなかった。

2014年カレーランチにて(右端が清水由江さん)
 由江さんがまめに裕子さんと連絡を取ってくれ、私とは高円寺でお茶したり、渋谷のホテルでランチもした。高知と東京を往復する闘病生活なのに、その行動力には驚かされ、感動した。渋谷の学生専用のようなカラオケ・ボックスで「島田のぶんぶん」、「大阪マンボ」、「渋谷のネコ」など、裕子さんの十八番を聞いたのが、最後のカラオケとなった。「今、天城越えを練習中よ」、天使のような笑みを浮かべて言った。
 その後、東京のご自宅で転んで足を骨折して、近くの病院に入院してしまった。やっと退院したのに、また家で捻挫し、ついに車椅子の生活となってしまった。由江さんと和子さんがお見舞いしてくれた。裕子さんとの交信は途絶え、故郷のケア・ハウスに入所したことが伝えられたのは翌年であった。自然豊かな故郷での闘病生活、「幼な馴染みの方がたのお見舞いがあるでしょう・・・」と、遠くから祈るしか出来なかった。その後4年余り、裕子さんは病気と闘い、お孫さんふたりの誕生も見届け、静かに天国へと旅立ってしまった。

2018岡豊川の畔で(永森氏撮影)
 元号が令和に移った6月、涙雨のようにどしゃぶりの夜、6人組は新宿の居酒屋に集合した。ささやかな「偲ぶ会」であった。お店の設定や連絡は、いつものように由江さんの係りだった。裕子さんの夫の永森誠一氏と土佐校の先輩の藤宗俊一氏も参加してくださった。永森氏が「遺影」として持参した写真は、満開の桜の木の前でお澄まし顔の裕子さんであった。大好きなワイン、ゴディバのチョコ、お菓子などが供えられた。お酒を飲みながら、裕子さんとの思い出話は尽きなかった。「きっと天国から降りて来てくれているわね・・・」と、誰もが思っていた。
 帰宅後、私は桜香「八重桜」を炊いて、妹分のようだった永森裕子さんのご冥福を心から祈った。「いろいろありがとう。安らかに!」  
合掌。

≪筆者プロフィール≫ 作家・元早稲田大学講師。著書に「野口英世 知られざる軌跡」「メキシコに生きる日系移民たち」「パナマから消えた日本人」「野口英世は眠らない」等。
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関西サイエンスフォーラムからの提言
地震火山庁の設置と地震火山予報士の制度化
尾池和夫(34回生) 2021.03.20

筆者近影
 関西サイエンスフォーラムでは、地震予知研究会を数回にわたり開催し、その結論として、地震火山庁の設置と地震火山予報士の制度化を提言することにしました。
 すでにこの提言は各界に届けられていますが、その理解を深めていただくために、地震火山庁と地震火山予報士の制度ができた未来をアニメーションで見ていただくことにしました。ご批判賜りますようよろしくお願いします。
 アニメーションはYouTubeでご覧ください。【動画のリンクです】https://youtu.be/P1MTNmto2MA
 なお、資料として提言の内容、解説のための漫画を添付します。
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関西サイエンスフォーラムからの提言
地震火山庁の設置と地震火山予報十制度の確立と地震予知実用化への取り組み

漫画ダウンロード(pdf版)
(趣旨)
 地震予知の実用化は人類の悲願であり、その実現に向けて努力することが科学者の使命であると信じます。
 また、地震、火山噴火による被害を最小限にとどめることはやはり人類共通の願望です。そのような目標に向けて、私たちは地震火山庁の設置と地震火山予報十制度の確立、さらに地震予知実用化に向けて、取り組むことを提言いたします。
A現状認識
 地震、火山の観測、研究、通報、防災の仕組みは、国内においては、国レベルの内閣府(中央防災会議、地震調査委員会)、国土交通省(気象庁、国土地理院、海上保安庁)、文部科学省(大学、海洋研究開発機構、防災科学技術研究所、宇宙航空研究開発機構)、総務省(情報通信研究機構)、経済産業省(産業技術総合研究所)のほか、民間レベルでは幾つかの観測情報機関がある。
 また、グローバルに見ると、アメリカのNASAが人工衛星群を用いて各国と共同観測する研究グループや、フランスを中心とする欧州のグループ、そのほか、ロシア、中国なども人工衛星を用いて地震観測を行っている。
 一方、東海地震に関しては地震学研究者が予知可能な地震であるとして大規模地震対策特別措置法(大震法)制定時に予知と予報の発令を行う事例と決めたが、2017年に東南海、南海地震へ適用領域を拡大する際に、現時点では地震予知は困難だとして予知を外した。
B課題
 国レベルにおける地震、火山の観測、予報の仕組みが防災等を含めた地震、火山の発生から一次被害、二次被害対策などへ体系的に整っていない部分がある。
 民間レベルにおける地震、火山の観測、予報は、観測、分析、公表基準等にばらつきがあり、それらが科学的に、一定の水準を満たしているか、観測評価の標準化、情報の確率度、費用などが各人の判断に委ねられている。そのため、利用者が納得できない事例が生じた場合、地震、火山の予報に対する社会的信頼を損なう懸念が残されている。
 地震学の研究領域が旧来の範囲に絞られ、また研究の手法、しきたりの伝統が厳しく継承されている。そのため、地震先行現象の有無、大気圏、電離圏における先行現象の否定など、新しい地震予知活動への取り組みを阻む例も懸念される。
C提言

小学校2年から「なまず」がニックネームです

1.地震火山庁の設置
 地震、火山の事前活動、発生、防災、復興までをラ・fフサイクルとして全体的に観測、通報、対応、それらの合理的、包括的な対応を可能とする一元管理システムをとることが求められる。そのため、地震と火山に関する観測、通報、防災、復興、研究を統合的に担う地震火山庁を設置することを提言する。
2.地震火山予報十制度の確立
 地震、火山の発生を予測し、避難、減災、防災体制を実現するためには、地震、火山に関する科学知識、防災工学知識、緊急看護知識、技能を備えた人材の育成、技能水準の評価、認定等を制度化することを提言する。
3.地震予知実用化への取り組み
 地震、火山の発生理論について先行現象、シミュレーションを含めた学際的研究を促進し、とりわけ重要なビッグデータ処理、深層学習といった人工知能理論や品質工学の成果の導入など、学際的な予知研究を行うことを提言する。
D関西サイエンス・フォーラムのこれまでの取り組み
 国内外で地震による悲惨な被害の発生があとを絶ちません。世界人類の願いは、地震の直前予知の実現です。関西サイエンス・フォーラムは、1996年から地震の前兆現象と地震予知に関する第三専門部会を設置し、これまで20年以上にわたり調査研究を続けてきました。我々が目指したものは、地震の前兆ではないかとされるさまざまな地震直前の異常現象、例えば異常な雑音電波の発生、電磁波の伝搬特性の異常変化、大気中のイオン濃度の変化、地下水の変化、地電流の発生などの物理現象や、家畜や魚類、昆虫、植物の異常な行動、閃光その他異常気象などに関する宏観情報を収集蓄積して、それらに従来の地震学の知見、地震観測データなどを重ね合わせて、リアルタイムに処理し、各専門家が適切な評価、判断を行うことによって地震発生を予知できないかという試みでした。
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大石芳野写真展『瞳の奥に〜戦争がある』
大石芳野(写真家) 2021.10.05


武蔵野市立吉祥寺美術館

2021年10月16日〜11月25日(休館日10/27、11/25>


 いまの武蔵野市は井の頭公園をはじめ緑豊かです。そのうえ吉祥寺駅や三鷹駅周辺は映画館や劇場、図書館などを始め商業施設も多く住みやすいまちです。ところが戦時中は市内に軍需工場「中島飛行機武蔵野製作所」があり、零戦や隼などのエンジンを生産していました。そして真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争へと突入したのです。
 武蔵野市は米軍の標的となり1944年11月24日に本土で初めての空爆を受け、9回にも及び工場は壊滅的となりましたが、住民に数多くの犠牲が出ました。以降、日本各地が多大な空襲を受けました.(沖縄は同年10月11日)。
 武蔵野市は10年前に平和の日条例を制定しました。私が取材した体験者たちの「戦争は絶対ダメです」という切なる声を受けて、写真展をご案内のように開催することになりました。
 武蔵野市在住の方々ばかりでなく、沖縄、東京、広島、長崎で戦争被災に遭った「かつて、子どもや若者だった」人たち、そして、海の向こうで同時代的に戦争に苦しむ「子どもや女性たち」。両者を重ね合わせることで見えるもの、感じられることが浮かび上がってきます。
 戦争が遠くなって平和と言える私たちの日常ですが、戦争を体験した一人ひとりの瞳の奥にはまだ戦争が残っています。もう平和なのに…と私たちは思いますが、戦争は末永く続くのだと突き付けられます。笑顔も、寂しげな顔…もありますが、瞳の奥に漂うそれぞれの拭いきれない記憶を写真から感じて共有していただければさいわいです。
 ●コロナ禍ですが、状況が許されましたら是非お立ち寄りください。
 ●ご体調が優れない、ご多忙中、ご遠方などの方々は添付のチラシなどをご覧ください。
大石芳野写真展『瞳の奥に〜戦争がある』
場 所:武蔵野市立吉祥寺美術館(吉祥寺駅北口から3分)
    武蔵野市吉祥寺本町1-8-16コピス吉祥寺A館7階phO422-22-0385.)
開催日:2021年10月16日〜11月25日(休館日10/27、11/25>
開催時間:10時〜19時30分
入館料:300円(中学牛100円、小学牛以下・65歳以上・障がい者の方々は無料)
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関健一写真展
カルパチア山脈の木造教会
関健一(写真家) 2021.10.20
スロバキア・ポーランドの辺境を歩いて

聖ユライ聖堂
ヤロバ1792

聖ミハイル聖堂
マティソヴァー1833
 ヨーロッパの教会は石造りと思っていましたが、カルパチア山脈の一帯に行くと木造教会がたくさん建っていました。
 山脈の西半分の南北に位置するスロバキアとポーランドを訪ね木の文化を撮影してきました。日本でも寺社建築は伝統的に木造ですが最古の法隆寺からすでに洗練され完成した様式を持っていました。しかし、カルパチアでは素朴で野性的かつ多様性に富んでいて、木が持つ力を生で感じさせてくれます。そんな魅力に取り憑かれて交通不便な国境地帯を巡ってきました。近年は世界遺産に何棟もが登録されていますが人影稀なところがほとんどです。
 この地域は過去戦乱が多くあり、国境や支配者の移り変わりの激しいところでした。宗教的にもローマ・カトリック、ギリシャ・カトリック正教会、プロテスタントがいりまじり、国名を負うスロバキア人、ポーランド人に加え、ウクライナ人、トルコ人、ボイコ人、ルーシ人、ドイツ人、ハンガリー人などが住んでいます。文化的にも西ヨーロッパ、ロシア、ビザンチンの影響が重なり合います。このことがさまざまなスタイルを産むことになりました。コロナが落ち着いたら山脈東部のルーマニア、ウクライナでも木造致会巡りをしたいと思っています。

ローマカトリック聖堂
使徒聖ピリポと聖ヤコブの聖堂
センコバ1520頃

ギリシャカトリック聖堂
生神助女庇護聖堂
ミクラショヴァー1730

プロテスタント教会
福音派教会
フロンセク1726

東方教会(ギリシャ・力トリックと正教会)について
 現在日本でのキリスト教はプロテスタントとローマ・カトリックが大半をしめている。この冊子記載の聖堂ではギリシャ・カトリックが半数以上になる。ギリシャ・カトリックと正教会の2つは16世紀末に分かれたが、典礼も聖堂様式も共通している。日本ハリストス正教会の用語になるべくならって各教会の説明をしていく。特徴的な例をいくつかあげる、括弧内が意味になる。ハリストス(キリスト)、生神女(聖母マリア)、生神女就寝(聖母マリアの死、聖母被昇天の教義は取らない)、神品(聖職者、下位の神品には女性も)、機密(秘跡、礼典、広い意味では福音信仰なども含まれる)、機密制定の晩餐(最後の晩餐)、イコン(聖像ハリストスや、聖人、聖書の出来事などの画像)

聖堂平面図
 この地域のギリシャ・カトリックと正教会の聖堂は3室構造のものが多い。入口は西側に作られることが多い。西側から1室目が玄関間、2室目が礼拝を行う聖所で、その先にイコンに覆われた壁があり、これをイコノスタシス(聖障)と呼ぶ。イコノスタシスには3つの扉があり、中央を王門という。ここから先の3室目は至聖所といい、神品(聖職者)のみが入ることができる。
 ユネスコの世界遺産の説明では、カルパチアの東方教会の聖堂を「ポーランド語ツェルキエ、ウクライナ語ツェルクワ」と表現して、レムコ型、ボイコ型、フツル型、前期ハールィチ型、後期ハールィチ型の5つのスタイルに分類している。レムコ型は東西に並ぶ3室構造の上にそれぞれ塔があり、西塔が一番高く東塔が一番低い。ボイコ型は3室の上にそれぞれピラミッド型や八角のドームを乗せており中央部分が一番が高い。撮影した地域にはこの2つのタイプが多い。
写真下に記載している宗派は建築当時のもの、現在の所属とは一致しない教会もある。ただしラドルシュの聖堂についてはギリシャ・力トリック教会の成立する13年前の建設だがギリシャ・カトリックと記載した。

聖フランシスコ聖堂
ヘルバルトフ1499

生神女就寝聖堂
フンコフチェ 18C後半

聖パラスケヴァ聖堂
ノヴァー・ポリアンカ1766

生神女庇護聖堂
ミクラショヴァー1730

聖大バシル聖堂
フラボヴァー・ロズロカー18C中

撮影した地域の民族と宗教
 スロバキアとポーランドの国境をなすカルパチア山脈の南北にはポーランド人とスロバキア人に加え、ウクライナ系のボイコ人、レムコ人、ルーシ人、12世紀から16世紀に開墾移住したドイツ人やハンガリー人などがそれぞれ村を作り混住していた。
 ローマ教会によってポーランドのキリスト教化が始まったのは10世紀、東のウクライナにはビザンチンの教会が同じ10世紀に入っている。11世紀になり東西の教会、ローマ・力トリック教会とコンスタンティノープルに総主教を置く正教会との分裂が決定的になった。
 1596年に主に政治的な理由でポーランドからウクライナ西部、リトアニアの多くの正教会がローマ教皇の管轄下に移る「ブレスト合同」が起った。この時生まれた東方典礼力トリック教会は、今までの正教会の東方典礼を維持しつつ、強い自治権を持つものだった。この教会はギリシャ・力トリック教会、ビザンツ典礼力トリック教会、東方帰一教会、ユニエイト教会などいろいろに呼ばれるが同じものである。

平和教会(ルター派)
ヤヴォル1654-5

福音派教会(ルター派)
フロンセク1726

生神女庇護聖堂
オフツァリ1653
 1521年のルターの破門で決定的になる宗教改革はポーランド王国でも、その頃ハンガリー北部とされていたスロバキアでも広がっていった。30年戦争後1648年のウエストファリア講和条約でハプスブルク君主国領のシレジア(現在ポーランド領)ではプロテスタントの3つの教会の建立が認められた。建築にあたっては、耐久性のある材料の禁止、市の外壁の外で大砲の射程内に建築、伝統的な教会の形の禁止、塔と鐘の禁止、建築期間は1年以内という条件がついた。ハプスブルク領ハンガリーに属するスロバキアではウェストファリア条約から後退する形ながら、1681年のショプロン議会で福音派教会の建設が許可ざれた。そのルールは教会は道路に直接接してはいけない、集落の境界に建てる、外観は地域の住宅に似せる、金属や石の使用禁止(釘が使えない)、塔の禁止、建設は1年以内に終えるなど、さらに厳しいもので、敷地も湿地帯などが割り当てられた。これを関節教会(Articular Church)といい、38の教会が1681年から1730年の期間に建てられた。

生神女庇誕生聖堂
ホティニエツ1600頃

生神女庇誕生聖堂
ホティニエツ1600頃

福音派教会(ルター派)
フロンセク1726

天使首聖ミハイル聖堂
ピストレ1902
 第2次大戦後、ポーランドとソ連(現在のウクライナ)の国境は大きく西に移動した。1947年から1952年まで続くポーランド政府によるヴィスワ作戦は東部国境付近に住むウクライナ系住民(ボイコ人、レムコ人等)を戦後ドイツから獲得した西部や北部の土地に強制移動させるもので、これにより13〜14万人が村を追われ、多くのギリシャ・力トリック教会が廃嘘化し、またローマ・カトリックに移ったりした。ざらに正教会とギリシャ・力トリック教会の聖職者などのインテリはナチスの強制収容所を転用した施設に送られ、その数は4000人とされる。見せしめ裁判では500人ほどが処刑された。その前1944〜6年にはやはりポーランド系住民のウクライナやシベリアへの強制移住も行われていた。
 現在残る木造聖堂の最も古いものは15世紀に遡り、18,19世紀の聖堂が多数存在する。古い聖堂の修理保存が進められていると同時に、現在も新しい木造の聖堂が建てられている。

カルパチア山脈の木造教会

関健一写真展 カタログ抜粋





















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関氏(会場にて)
 『榎並悦子写真展』と『関健一写真展』を見るために1年ぶりに東横線に乗って新宿へ出かけた。ところがニコンサロンは日曜休館(案内はがきにちゃんと記載!)ということで、後ろ髪をひかれる思いでオリンパスギャラリーに向かったが、新宿の街はすっかり変貌していて、何度も道を尋ねながらやっとたどりついた。ところがそこで榎並さんと遭遇してびっくり仰天!!このホームページを見てわざわざ足を運んでくれたとのこと。話している最中に、今度は、以前このページでご紹介した渡辺真弓(パラーディオ研究家・東京造形大名誉教授)さんから声をかけられた。聞けば、関氏と都立戸山高校の同級で、必ず展覧会に足を運んでいるとのこと。しかし、世の中狭いとつくづく感じてしまった。
 美女二人に出会えて、余韻に浸っていたら、また人使いの荒い人代表の中城さんからMailが届き、『俺が榎並さんの書評を書くから、お前が展覧会の感想を書け』とのたまわれていた。仕方なしに、例のごとくスキャンと画像でお茶を濁しています。
 関氏は写真部の優等生で、ニコン・フォトミック(当時あこがれのカメラ)を片手に真面目に撮りまくっていて(婦人科)、「コンパ部員」「ピンボケ部員」と揶揄されてた工事屋と違いプロの道に進んでしまった。写真学校の先生をしたり、女の子を引き連れ『山手線の女』『南北線の女』と題して全ての駅(周辺含)でポートレイトを撮って発表したりしていた。渡辺さんの話では『私の教え子までモデルにした』とか。色町(神楽坂)の傍で育ち(今も住んでいる)、童顔でもてもてだったので、女性にはアレルギーが無かったと思う。
 その彼が、教会などという色気のない被写体に熱をあげていると聞いて少し驚いている。しかも、ヨーロッパの辺境地帯の木造建築とは……!絶対にマネのできないアングルや構図に思わず見惚れてしまった。建築と女性には共通点があることに、気づかせてくれてありがとう。工事屋ももうひとふんばりしなくては……。みなさんも機会があれば是非見てやって下さい。(編集人)
関健一写真のページ
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野町和嘉写真展のご案内
シベリア収容所1992
野町和嘉(写真家) 2022.10.08


OM SYSTEM GALLERY 2022.10.13〜10.24

 これらの写真は、ソビエト連邦の消滅(1991年12月26Ll)から問もない1992年3月に極東シベリア・ハバロフスク近郊にある2箇所の収容所(矯:1E労働収容所)を生な舞台として撮影されたものである。
 それまで"鉄のカーテン"に仕切られ、厳格に管理されていた体制の崩壊によってあらゆる統制が緩み、国家の内実、内幕が白Ilのもとに晒された希有の機会であった。
 未開の地シベリアは、帝政ロシアの時代から犯罪者や戦争捕虜などに強制労働を課す抑留の地でもあった、,ソビエトの時代、囚人を使役する収容所産業が、国家建設に欠くことのできない基幹那業として位置づけられていた。第2次大戦後に多くのH本兵や民問人が抑留され、過酷な労働を強いられた苦い記憶もある。
 ペレストロイカが浸透しつつあったソビエト連邦の末期、政治犯はほぽいなくなっていたが、おびただしい数の刑事犯を収容し、労働力として使役する収容所産業は絶えることなく稼働していた。そこでは、強権政治がもたらす世相から脱落した弱者でもある受刑者たちの、重苦しくも、淡々と過ぎゆく日常を垣間見ることができた,,
 このたび世界は、ロシアによるウクライナ侵攻という凄惨な現実を突きつけられた。ウクライナから連れ去られた人々の一一部は極東シベリアにまで強制移送される、とも報じられている。それが事実であるなら、私が30年前に垣間見た光景に、新たな要素が上審きされることになるのだろうか。


野町和嘉作品解説※予約不要・参加無料
 10月15日(土)14:00〜15:00スペシャルゲスト佐伯剛氏(風の旅人)
 10月22日(土)14::00〜15:00野町和嘉による作品解説
 
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