タイトルをクリックすると最新ページへ

2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで

2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで    2022/04/01 - 2022/12/10 現在まで
 
●タイトルをクリックすると最新ページへジャンプします。
●画像にマウスポインターを置くと画像が拡大されます。全体像が見れない場合マウス中央のスクロールボタン(ホイール)か、マウスポインターを画像に載せたまま方向キー(←→↓↑)を使ってスクロールしてください。
2020.11.28 井上晶博(44回)  「向陽新聞」を久し振りに見つけて
2021.04.01 竹本修文(37回)  シャルル5世の城壁追加版
2021.04.10 竹本修文(37回)  ルイ14世とヴォーバンの城郭建設を中心に
2021.04.30 会長 公文敏雄(35回)  令和3年度KPC総会議決
2021.05.04 竹本修文(37回)  ルイ14世から徴税請負人の壁 (パリ)
2021.04.30 会長 公文敏雄(35回)  浅井伴泰さん(30回)御逝去
2021.05.10 中城正堯(30回)  母校を熱愛した新聞部の“野球記者”
2021.05.10 西内一(30回)  浅井伴泰君を偲んで
2021.05.10 筆山会会長 佐々木泰子(ひろこ 33回)  心から感謝しております
2021.05.10 竹本修文(37回)  三根校長のお墓参り
2021.05.10 藤宗俊一(42回)  本当にお世話になりました
2021.05.15 浅井和子(35回)  長い間のご厚誼、誠にありがとうございました
2021.05.18 竹本修文(37回)  陵堡式要塞の歴史と実例
2021.06.07 竹本修文(37回)  ティエール(チエール)の城壁
2021.07.04 公文敏雄(35回)  米西部「インディアン・カントリー」を訪ねて(1992年初夏)
2021.07.12 竹本修文(37回)  公文先輩の「米西部「インディアン・カントリー」を訪ねて」を読んで
2021.08.09 中城正堯(30回)  サンペイさん追憶!出会いと土佐の旅
2021.08.09 冨田八千代(36回)  高知で遭遇した浮世絵展
2021.08.18 冨田八千代(36回)  土佐と浮世絵   序曲
2021.09.07 竹本修文(37回)  トルコのイスラム寺院のタイル
2021.09.10 藤宗俊一(42回)  中城正堯著 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
2021.09.10 冨田八千代(36回)  次は「ぽんびん」を吹く中城さん
2021.09.10 加賀野井秀一(44回)・中央大学名誉教授  中城正堯さんの「子供の天国」
2021.09.10 中城正堯(30回)  江戸子ども文化論集への反響
2021.09.19 竹本修文(37回)  青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感
2021.09.19 西内一(30回)  アラブの唐草模様とフェルメールの青
2021.09.19 中城正堯(30回)  香料列島モルッカ諸島
2021.09.26 冨田八千代(36回)  「青」は深まり、「青」で深まる
2021.09.28 藤宗俊一(42回)  榎並悦子写真展、関健一写真展
2021.10.03 竹本修文(37回)  大英博物館の葛飾北斎の特別展
2021.10.05 大石芳野(写真家)  大石芳野写真展『瞳の奥に〜戦争がある』
2021.10.08 故鍋島高明氏(30回)御妻女  著名人の投資歴(U)
2021.10.10 竹本修文(37回)  17世紀のオランダ東インド会社の活動
2021.10.15 中城正堯(30回)  ヒマラヤ南麓の愛しき稲作民
2021.10.19 竹本修文(37回)  知られざる 〜 山田長政 〜
2021.10.20 関健一(写真家)  カルパチア山脈の木造教会
2021.10.23 中城正堯(30回)  「ヨーロッパの木造建築」を楽しむ
2021.11.04 中城正堯(30回)  ナポレオン3世皇妃と幕末狩野派
2021.11.09 竹本修文(37回)  モルッカ諸島のガイドブック
2021.11.20 竹本修文(37回)  1621 年 バンダ諸島での虐殺
2021.11.20 Mア洸一(32回)  61回生・江淵 誠さんの「南海トラフに備えチョキ」 を聞いて、この時代の小生の思い出
2021.11.24 竹本修文(37回)  1623年のアンボイナ虐殺事件
2021.11.26 中城正堯(30回)  巨大な木造“王の家”そびえ立つニアス島
2021.12.15 中城正堯(30回)  ―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か―    
2021.12.16 竹本修文(37回)  初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書
2021.12.25 冨田八千代(36回)  お龍さんが近づいてきました
2022.01.30 竹本修文(37回)  十石舟・三十石船の旅
2022.02.22 中城正堯(30回)  ―写真と挿絵が語りかけるもの―            
2022.01.30 竹本修文(37回)  神奈川の宿・田中家
2022.04.18 冨田八千代(36回)  きっと、凛としていただろう  お龍さん

 2010/04/01 - 2010/07/25 設立総会まで       2010/07/26 - 2011/04/10 第2回総会まで
 2011/04/11 - 2012/03/31 第3回総会まで       2012/04/01 - 2013/03/31 第4回総会まで
 2013/04/01 - 2014/03/31 第5回総会まで       2014/04/01 - 2015/03/31 第6回総会まで
 2015/04/01 - 2016/03/31 第7回総会まで       2016/04/01 - 2017/03/31 第8回総会まで
 2017/04/01 - 2018/03/31 第9回総会まで       2018/04/01 - 2019/03/31 第10回総会まで
 2019/04/01 - 2020/03/31 第11回総会まで       2020/04/01 - 2021/03/31 第12回総会まで
 2021/04/01 - 2022/03/31 第13回総会まで       2022/04/01 - 2022/12/31 現在まで
ページTOPに戻る
「向陽新聞」を久し振りに見つけて
井上晶博(44回) 2020.11.28

筆者近影
 先日、母校の「100周年記念式典」があり、出席させていただいたのですが、その100周年記念行事の一環として高知新聞に特別紙面が折込として入っていました。
 その最後の面の題字が懐かしい「向陽新聞」となっており、その下に「企画協力土佐中・高校新聞部」との記載、記事の中には「新聞部復活」の文字。現役時代は何の貢献もしていない部員でしたので、このときとばかりに公文先輩に報告し、復活が本当か学校に聞いてきました。(現在の仕事の関係で土佐をしばしば訪問しております)
 小村校長先生が色々と話を聞かせてくれましたので、簡単にご報告いたします。
 現在の部員は、高校2年生3名ということです。
 新聞部はずっと休部扱いですので、入部希望者があればその時点で部活動はできるとのことです。
 顧問の先生(新聞部に関しては素人ということです)も一人いらっしゃるようです。
 ただ、3名とも素人ですし活動に関しても、考え方に濃淡があるようです。
 当たり前のことですが、高知新聞の特別版「向陽新聞」も高新の記者が手取り足取りで完成させたようです。
 部員が高校2年生ということもあり、また人数が3名と少数でもあるので、来春新入部員が入って初めて復活といえるのではと思います。
 校長先生も、もう少しの間温かく見守っていただけたら、とおっしゃておりました。
 最後に、当然ですが学校(もちろん生徒からも)から協力要請があれば皆様にご連絡いたしますので、その時は宜しくお願いいたします。
ページTOPに戻る
フランスの城郭シリーズ 6
シャルル5世の城壁追加版
竹本修文(37回) 2021.04.01

シャルル5世の城壁

はじめに 1. バスチーユ牢獄の基礎石材

2.新しいパリの中世の市街 3. 製作年代の推定

4.バスチーユ要塞

5.サンドニ門 Porte ST-Dnis と サンマルタン門 Porte ST-Martin

6. 二つの凱旋門

サン・マルタン凱旋門

シャルル5世の城壁
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。
ページTOPに戻る
フランスの城郭シリーズ 7
ルイ14世とヴォーバンの城郭建設を中心に
竹本修文(37回) 2021.04.10

ルイ14世とヴォーバン

はじめに 1. ブザンソン城Besanson

フランシュ・コンテ(Franche ?Comte)と首府ブザンソン(Besancon)

ヴォーバン設計から1755年まで

ヴォーバン式要塞の補足説明 2. ボルドーのブライ城Blaye

ボルドーのブライ城Blaye 3. リールLille

リールLille

4. アラス城塞 Arras’ Citadel

ルイ14世とヴォーバン
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)


ページTOPに戻る
令和3年度KPC総会議決
会長 公文敏雄(35回) 2021.04.30

筆者近影
会員各位
 令和3年度KPC総会議案はオンライン投票にて、賛成多数で承認されましたので
ご報告いたします。ご協力有難うございました。
修正済み会計報告を含む議案を念のため添付します。
なお、ご意見ご質問がございましたら、ご遠慮なくお申し越しください。
 新型コロナの蔓延で不自由な日常をお送りかと拝察しますが、ご用心・
ご自愛のほど願っております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
決議事項、会計報告、会費納入状況は会員のページに記載してあります。
ページTOPに戻る
フランスの城郭シリーズ 8
ルイ14世から徴税請負人の壁 (パリ)
竹本修文(37回) 2021.05.04

筆者近影
はじめに
 フランス城郭シリーズ7でルイ14世と城郭建設技術者ヴォーバンを紹介したが、ヴォーバン式要塞と呼ばれている陵堡式要塞技術に関しては、「周辺国での要塞技術や武器技術の進歩」に関する筆者の勉強不足の為に、読者には理解が困難だったと反省しており、後日改めて補足版を投稿します。 今回は当初の計画に戻り、ルイ14世の曾孫のルイ15世、その孫の16世の時代のパリの徴税請負人の壁を紹介する。徴税請負人の壁は、以前の城壁と異なり、外部の敵からの防御ではなく、「郊外から市内に向かう商品に通過税を課する事を目的」にしており、パリ市民の不信と不満を募らせる事になり、革命の原因の一つになった。

ルイ14世から徴税請負人の壁

1. 時代背景

2. 徴税請負人 

3. 徴税請負人の壁

4.ブルボン朝

参考図:フランス革命関連地図

ルイ14世から徴税請負人の壁
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)



ページTOPに戻る
浅井伴泰さん(30回)追悼文
浅井伴泰さん(30回)御逝去
会長 公文敏雄(35回) 2021.04.30
プレスクラブ会員各位

故・浅井伴泰さん
(竹本氏提供)

筆者近影
 新聞部、野球部の大先輩浅井伴泰さん(30回)御逝去の報に接して、心からお悔やみ申し上げます。
 「土佐中高100年人物伝 筆山の麓」に掲載された素描をお借りすると、「早大商卒 東京エアゾル化学社長、同窓会本部副会長・関東支部幹事長、製缶業(北海製罐)から医療・殺虫剤のエアゾール会社のトップに、土佐高野球部が命」とあります。
 母校野球部をこよなく愛されたことは、皆さんご存じのとおりですが、ご生前最後の夜も贔屓のタイガース7連勝の試合(ヤクルト戦)をテレビ観戦してご機嫌だったよし、その翌朝は還らぬ人に。まさに大往生だったとのご家族のお話です。
 浅井先輩は向陽プレスクラブ再発足のころ、何度か集まりに足を運ばれ、貴重なご助言をいただきました。話がこんがらがってくると、満を持しておられたごとく的を射たご発言で引き締めてくださったことが思い出されます。寡言でしたが重みと存在感があり、風格が際立っておりました。
 余談ですが、和子夫人(35回)がガーナ大使となって赴任したことで、「鬚(当時)のパートナー」も折に触れ渡航なさいました。あちらで「リンカーン」とあだ名され丁重にもてなされたとの風聞も、むべなるかなです。ガーナ高校生との国際交流プログラムにも御熱心で、お元気だったころは支援会幹事として大いに応援してくださいました。
 多方面で活躍された大先輩の訃報に喪失感がつのるばかりです。ご冥福をお祈りいたします。
ページTOPに戻る
浅井伴泰さん(30回)追悼文
母校を熱愛した新聞部の“野球記者”
中城正堯(30回) 2021.05.10
虫の知らせ

筆者近影
 4月15日、持病の検査入院を控え、浅井伴泰君の体調も気になっているところに、同級生で高知在住の松ア郷輔君から電話があった。「浅井は元気になっちゅうろうか。新堀小から野球を一緒にやって、野球をやりたくて土佐中に入った。俺は野球はせざったが、小学以来の親友じゃ。新婚旅行も浅井がおった小樽へ行って、料亭でこじゃんとご馳走になった。なんちゃあお礼をしてないき・・・」と、今になってしきりに気にしている。
 そこで、和子夫人にメールで「松アや西内など級友がみんな心配している・・・」と送信して入院した。3日間のカテーテル検査などを終えて21日に帰宅すると、公文敏雄・KPC会長から「浅井さん逝去」の知らせが届いていた。虫の知らせが、当ってしまったのだ。西内君から22日葬儀との連絡をもらったが、検査づめで疲れ果てており、残念ながらお見送りできなかった。そこで「・・・阪神大躍進と賢夫人和子様に見送られての安らかな旅立ちを迎え 心からご冥福をお祈り申し上げます」と、弔電を供えた。
公文クラスの新聞部三人組

昭和30年の土佐高卒業アルバムに掲載の新聞部記念写真。
後列左から3人目が浅井君
 浅井君との出会いは、土佐中1年B組公文クラスだ。彼は海村育ちの筆者と違い、いかにも都会っ子らしいスマートな風貌で、クラスで一番(名簿順)でもあり、目立った。学者風の公文先生が読み上げる、「浅井(あざい)、浅岡・・・」は、今でも耳に残っている。彼は野球部だったが、試合での活躍より昼休みになるのを待ちかね、弁当を掻き込んでは手作りのボールとバットで三角ベースを楽しむ姿や、春先に市営球場でキャンプを張るプロ野球見物が印象に残っている。何しろ、ラジオ実況しかない時代で、川上・藤村・別当などの本物を目にするのはオープン戦くらいしかない時代だった。何時しか、クラスの多くは阪神ファンになり、その中心に浅井君がいた。
 B組の級長は大町玄君で、彼に浅井君、千原宏君が加わって中一から新聞部に入っていた。筆者も誘われて入部したのは、中2になってからだ。浅井君は全てに早熟で、野球は中学で卒業、新聞部も高1でさっさと卒業した。酒は早く、いつからかは判然としないが実家が酒屋だった谷岡先生から年末に一升瓶をせしめ、母親の留守をねらって浅井家に悪友が集まっては酒盛りを開いたりした。二学期の終業式で、生活指導のオンカンが「正月に酒を飲んだら街中を出歩くな」と、白線が目立つのを諫めるだけの時代であった。

浅井記者によるセンバツ野球の記事。
クリックするとPDF版へ向陽新聞第18号昭和28年4月13日
 新聞部で浅井君が最も輝いたのは、やはり野球記者としてであった。「向陽新聞」の紙面だけでは書き足らず、ついに昭和27(1952)年にガリ版刷ながら「向陽スポーツ」創刊にこぎ着けた。高校新聞初の「スポーツ新聞」である。
 記者としての名文は、翌28年春のセンバツ野球観戦記だ。筆者が編集長で、選抜の記事を売り物に新年度開始早々に発行すべく準備を整え、千原君を特派記者として派遣していた。初戦で早稲田実業に6-0と快勝したが、二回戦は銚子商業に0-3で敗れた。翌日、原稿到着を待つ部室に千原君から電報が届いた。「ネツアリ キジカケヌ」とある。そこで、選手とともに帰高したばかりの浅井君にピンチヒッターを依頼、一晩で書いてもらった。「向陽新聞」二面トップに「お嬢さんと記念撮影 センバツ野球裏話」の見出しが躍っている。ところが、この記事の活字が組み上がったところに、ひょっこり千原君が記事を持って現れた。熱が引き、なんとか書いて駆けつけたという。そこで急遽、部数を二分し、浅井記事を第1版、千原記事を第2版とすることを決断した。こうして昭和28(1953)年4月11日発行の「向陽新聞」第18号は、これまた高校新聞では初めての2版二種類が実現した。これら、「向陽スポーツ」「向陽新聞18号」とも、KPCホームページのバックナンバーに収録されているので、ぜひ浅井記者を偲んでご覧いただきたい。
クラス誌「うきぐも」に注力

東京で公文先生(中央)と再会した浅井君(左)と、
倉橋由美子さん(29回生・右)。筆者撮影
 高一の頃に、浅井君が新聞部の岩谷清水先輩(27回生・当時早大在学中)からもらった手紙のコピーがある。そこには、「これからの新聞部のチーフは大町と思っていた。しかし、公文先生が大阪に発つ前に、君がメキメキとまじめさ熱心さを加えたと言われた、どうかしっかりやって欲しい」と、浅井君への期待を縷々綴ってある。
 しかし、大町・浅井・千原の三人組は、高二になると新聞部を辞める。やむなく、横山禎夫君と筆者がまとめ役を卒業まで続けることになる。この背景には、我々Oホームは“公文先生が主任”と信じて集まった者が中心で、高1になると若い新担任に落胆、以来主任との軋轢が絶えなかったことがある。そこで、この三人組を中心に文芸部の梶田広人君なども加わって、クラス誌として文芸色の強い「うきぐも」が創刊された。一般的に、文化部は高1で引退し、受験勉強に専念するならわしであったが、三人組はむしろクラス誌編集や、草野球など課外活動に熱中し、担任との抗争も続いた。「うきぐも」は卒業後も続き、平成23(2011)年に第20号を出したが、その企画・編集には、相変わらず三人組の名前が並んでいた。しかし、浅井君の逝去で、ついに三人とも消えてしまった。
 高校時代の思い出で印象深いのは、昭和29年秋、高3の運動会での仮装行列である。Oホームのテーマは「吉田神社の夏まつり」で、写真前列右が葉巻を加えた吉田茂首相と、寄り添う娘の麻生和子巫女である。細面の浅井君は、いかにも清楚な巫女になりすまして大好評であった。小生は、その他大勢の汚れ役・進駐軍で、顔を黒く塗りパンパンたちに囲まれている。当時の政治情勢への批判を込めた仮装で、間もなく吉田は引退し鳩山内閣となる。翌30年の「卒業アルバム」の寄せ書きに、「天皇を葬れ!!これが民主化の第一歩だ」とか、「保守反動を打ち破れ!」とあり、前者が浅井君、後者が筆者であった。

昭和29年の運動会Oホームの仮装行列
前列右端の美人巫女が浅井君

仮装行列での進駐軍
筆者(左端)と女性たち
 筆者は大学時代に「うきぐも」7号の発行を担当、経費節約のため高知刑務所に印刷をお願いした。刑務所の条件は、赤とピンクはダメだけであった。赤は過激思想、ピンクはお色気記事であり、活字を組む受刑者への配慮だ。当時60年安保が近づきつつあったが、もう高校時代の過激な言論はうすれ、これらの心配は無用であった。
「土佐高野球が命」そして夫婦旅行
 晩年の様子を簡単に報告しておこう。会社や同窓会の役員も勤め上げ、晩年はもっぱら趣味を楽しんでいたが、その熱中ぶりはやはり尋常でなかった。野球は、阪神ファンでいわゆるトラキチだが、それ以上に「土佐高野球が命」であった。春秋の県大会や四国大会が始まると、家業にかこつけて帰高しては観戦、戦績や有望選手情報を克明に知らせてくれた。たまに甲子園出場が決まると、現役のサラリーマン時代から級友は全試合応援に呼びつけられていたが、途中から筆者には声がかからなくなった。それは、高2の夏の決勝戦以来、連続4試合筆者が行く試合は、全て眼前で敗れたからだ。
 野球だけではない。相撲も幕下から高知出身の力士情報を教えてくれた。さらに競馬にも通っていたようだが、これは高知競馬より中央競馬の大レースを好んだようで、大穴を当てたことはずっと後から聞かされた。「浅井金持ち、川ア地持ち」と謳われた江戸以来の豪商の末裔だけに、力士や名馬のいわば「たにまち」のような存在に思えた。
 仕事から身を引いた後、同窓会関東支部幹事長や筆山会会長も早めに身を引き、後任に一切を託していた。ただ、同窓会本部の役員若返りが進まないことだけは、気にしていた。
 筆者が出版社を退いた際に、高知からも仕事の誘いがあったが、高知の情報に詳しいだけに、「それはやめたがよい」と賢明な助言をしてくれた。

和子夫人のガーナ大使離任で、
大統領に挨拶。2006年の年賀状より。
 毎年の年賀状で知ったことだが、晩年の楽しみはご夫婦での優雅な海外旅行のようだった。和子夫人のガーナ大使就任もあってアフリカが多く、セレンゲッテイ国立公園や南端の喜望峰、エジプトの巨大なアブシンベル神殿などを訪問。アジアでは意外にも、中国・タイ・ベトナム等の奥地少数民族の村が多く、ブータンでは筆者と交流のある知人も訪ねてくれた。厳冬のカムチャッカなど大自然、それに古代遺跡、民族文化の宝庫をよく探訪、日本でも秘境の露天風呂、高千穂、白神山地、四万十川源流などを足で訪ねている。はやりのテーマパークやツクリモノの外国村は無視しての本物志向は、さすがであった。
 こうして土佐高の同窓生同士の結婚でも、ともに独自の分野で働き、さらに夫妻助け合って日本ガーナの親善事業や、母校・同窓会の役員など社会的な活動を続け、模範的なカップルであった。最期も、珍しく阪神首位躍進のテレビを楽しみ、奥様に見守られての穏やかな旅立ちで、うらやましい限りである。ただ、松ア君に限らず級友一同、「もう一度アザイに会いたかった」の思いが消えない。合掌

夫妻が感動したという壮大な
アブシンベル神殿。筆者撮影

カンボジアのアンコールワットでの
夫妻と長男。1998年の年賀状より。

世界自然遺産・白神山地の原生林を散策
2008年の年賀状より

 追記:浅井家の歴史に興味のある方は、『高知経済人列伝』(鍋島高明編 高知新聞社)や、『高知県人名事典 新版』(高知新聞社)の〈浅井藤右衛門〉の項目をご覧いただきたい。同様に、和子夫人の実家・中谷家も中谷貞頼などが出ている。
ページTOPに戻る
浅井伴泰さん(30回)追悼文
浅井伴泰君を偲んで
西内一(30回) 2021.05.10

筆者近影
 私共は中学からずっと、7回生の大先輩である公文先生が担任のホームで、伸び伸びとした親しみのあるご指導を頂いてきたことであった。
 ところが、高1に進む段階で急に公文先生が転校されるという事態になって、後任には若く教師なりたてで、自信に溢れた織谷馨先生が着任されることとなった。
 このため、公文先生を懐かしむ余りのことか、或いは織谷先生の高圧的で一方的な指導に反発したのか溝が出来て仕舞って、遂にある晩、先生宅に談判のため大勢で押し掛ける事態にまで至ったことであった。そして、その時の先導が浅井、大町、中城の新聞部の面々であったことは言うまでもない。
 このような出来事は、クラス一同の連帯感を高めて、その結果とも云えようか高2の夏にはクラス雑誌「うきぐも」が誕生する。 そして、当然のことながら、ここでも主たる執筆者は、これまた同様に新聞部の3人衆であった。
 浅井君のジャンルの第一は野球で、中学で入っていた野球部の応援は勿論、プロ野球は虎キチで、面目躍如たるものがあった。
 感心するのはこれまた新聞部のお陰か、この頃からすでに政治批判の眼が育ちつつあり、高3の運動会での仮装行列「吉田神社の夏祭り」の世相批判も彼の発案だ。後に、「中谷元を育てる会」を結成して中谷君を国会に送り出す下地ともなったのではあるまいか。
 他方でご多分に漏れず、自称の「三文青春小説」なるものも何本も綴っていて結構面白い。

 卒業して早稲田大学に進んだ後、就職の初任地は小樽の北海製缶であった。この間、「うきぐも」への寄稿も一休み気味であったけれども、母校の野球の応援は、後輩達の甲子園での目覚ましい活躍もあって連携を欠かせなかった。
 一方、帰京後は先輩たちが「筆山会」なる昼食会を始めるや否や直ちに参加して、当初の銀座の「ねぼけ」から日比谷の朝日生命ビル、そして現在のニューオータニ新館「ガンシップ」と先輩たちの謦咳に触れる機会を大切にした。
 取り分け、三根校長の墓参に当たっては、岩村(41回生)、鶴和(同左)両君を援けて極力、毎年続けることが出来るよう気を配っていたことが思い出される。墓参後の深大寺の蕎麦屋では、北岡龍海(5回生)、近藤久寿治(6回生)宮地貫一(21回生)などの先輩たちが思い出話に花を咲かせていたことであった。 なお、三根校長の墓所には、傍らにディク・ミネの「人生の並木道」の歌碑が立っていることに触れておく。


2016 新年会 (竹本氏提供)
 このような野球を通じての後輩や母校との繋がりに併せた筆山会などでの先輩方との交歓をベースにして、北岡龍海支部長の許で関東支部幹事長に推挙されるが、その就任に当たって「同窓会は卒業生と母校を繋ぐ橋である」と協力一致を呼び掛けたことは記憶に残る。
 余談になるが、併せて今一つ記憶に残っているのが昭和60年の産経ホールでの総会で、当時としては記録的とも云える350名を超える出席者があって、会場が熱気に包まれたことである。そして、ゲストとしてディク・ミネが登壇して、かの「人生の並木道」を披露してくれると万雷の拍手が鳴り止まなかった。さらに同道して頂いた渡辺はま子が「夜来香」を、アンコールの声に応えて「モンテルンパの夜は更けて」を熱唱してくれたのが今でも耳の奥に残っている。
 こののち、宮地支部長時代も幹事長を続けてくれて、同時に、同窓会本部の副会長を町田守正(16回生)会長の下で兼務し、岡村甫(32回生)会長に至るまで同窓会全般に亘って尽力を惜しまなかった。


2018 三根校長墓参会にて
(竹本氏提供)
 私事に亘って恐縮だが、このように多忙であったため筆山会の世話はお前やってくれと頼まれて仕舞い、吉澤信一(16回生)、岡崎昌生(23回生)、森健(同左)会長と3代に亘って世話役を務める羽目となった。
 その間、和子夫人のガーナ大使就任に伴う現地への同道、そして其の後のガーナよさこい、さらにはガーナの学生達の母校訪問、麻布高校そのほか企業訪問など、確かに多忙な貢献活動に暇が無かった。
 しかしながら、これらの活動が公文君たち後輩の協力によって軌道に乗った頃を見計らい、筆山会の会長に就任して頂いた。
 ただ、この頃から持病との闘いが始まり、あるいは先を見越されたのであろうか、早めのバトンタッチを考えて、佐々木現会長への路線を引かれたことは思慮深いことであったと感心させられている。


2016 三根校長墓参会にて (竹本氏提供)
 彼は、家庭については単に「うちは共稼ぎじゃ」とだけ話していたが、お二方のことは皆さんよくご存知のことと思うので、ここでは一つだけ彼が嬉しそうに語っていた話の紹介だけに留めさせて頂く。
 和子夫人がガーナ大使に就任されて、親任式など何度か宮中に一緒に参内したことであったけれども、一番印象に残ったのは帰任後に慰労のお茶会に、今度は初めて御所に招かれた時であったそうだ。
 両陛下に、ガーナで「よさこい」が定着しつつある旨を申し上げたところ両陛下は頷かれて、今度は皇后さまから「高知の方はお酒がお強いようですね」とのお言葉を頂戴したとのことである。 帰りの車中で、いろいろ二人で感想を語り合いながら、最後に「よい冥土の土産ができた」と珍しく意見が合ったそうである。


1989 甲子園にて(筆山9号より)
 最後になったが、一番好きだった野球観戦を一緒した思い出に触れておきたい。
 最近、と云っても随分と前になって仕舞ったが、17年振りの甲子園と云うことで大層盛り上がった平成15年の選抜出場は、浅井君始め市川幹事長などの尽力によって関東支部から300人の大応援団で乗り込み、近藤、北岡両先輩もお元気でアルプススタンドに陣取った。藤宗編集長も派手なイタリア帽を被っての応援でしたよ。
 25年春の浦和学院戦の応援は、浅井夫妻と共に「うきぐも」仲間の大町、松崎、三宮と小生が前日から球場隣のホテルヒューイットに投宿して気勢を挙げて臨んだけれども、守備力の差が出て惜敗してしまった。アルプススタンドでは、母校で初めて甲子園の土を踏まれた池上武雄先輩(元校長)ともご一緒出来たことが救いであった。
 他方、阪神タイガースの応援は、浅井君が神宮球場のネット裏席をとってくれて、虎キチ4人組で観戦するのが恒例であった。阪神勝利の時の飲み会が大いに盛り上がったことは言うまでもない。しかしながら、大町君が先に逝き、浅井君も後を追うと三宮君は腰痛なので神宮まで行くことも出来ず、専らパソコンで独りDAZN観戦となって仕舞った。


筆者と中城君(佐々木さん提供)
 先月21日に浅井君逝去の報が中城・公文君から届き、急ぎ和子夫人に架電したところ、18日夜は阪神7連勝にご満悦で、夕食も進み普段と変わりが無かったようだ。ところが翌朝起こしにいくと永い眠りに就いて安らかであったとのお話であった。
 三田の真宗本願寺派當光寺での家族葬に、「うきぐも」仲間として独り参列させて頂き、ご冥福を祈るとともに永年の友誼に御礼申し上げた。拝顔させて頂くと、少し老けたかなと思うぐらいで普段と変わらず穏やかな眠りであった。傍らには「うきぐも20号」、土佐高校野球部史、それと阪神大勝のデイリースポーツが添えられていた。和子夫人始めお子さん方、お孫さんに囲まれて、温かく和やかでとっても幸せそうだった。
 棺とご家族みな様方の車列をお見送りした後、1年半ぶりにニューオータニ・ガンシップに立ち寄って、72年の長きに亘る彼との思い出を想起しながら杯を傾けた。

 なお、彼の墓所は高知の浅井家廟所。戒名は圓徳院釈常伴居士。
ページTOPに戻る
浅井伴泰さん(30回)追悼文
心から感謝しております
筆山会会長 佐々木泰子(ひろこ 33回) 2021.05.10

筆者近影

お悔やみ申し上げます(筆者 画)
 「お元気になられたかしら?」とお会いできる日を心待にしていた時に受けた西内一先輩からの浅井先輩の訃報は、大変な衝撃で言葉に表せませんでした。

 振り返ってみれば、浅井先輩には大変お世話になり、心から感謝しております。

 
土佐校同窓会関東支部、幹事長として大活躍
 ここに1988年10月の土佐校同窓会の関東支部学年幹事会の写真がありますが、若々しい浅井先輩は堂々とした幹事長として、皆に慕われていました。 
 同窓会活動全般にわたって、尽力を惜しまず、会を発展させ、貢献されたことは、皆さまご存知のとうりで、私も色々とご指導頂きました。
 「先輩から受け継いだ人の繋がりを大切にし、土佐校の伝統を後輩に繋げて行く」ことをいつも心がけ、私共後輩に教えてくださいました。引き継いだバトンは必ず先輩方のご期待にそえるものでありたいと願い、後輩を大切に繋げていきたいと思っております。

浅井幹事長を囲む学年幹事達
左端筆者、1988年10月1日

宮地支部長を囲む役員幹事達
2012年三金会

左から筆者、泉谷支部長、浅井幹事長、岩村事務局長

ダンディーなフェミニスト

若いはちきん(72回、宮崎晶子)から花束を受ける
浅井ナイト 1998年10月 第5回はちきん会にて

進藤先輩のお住まいを訪ねて
浅井ご夫妻、久保内、筆者
後列両端は進藤先輩のお嬢様達
 男性優位の時代に、常に女性の立場を考えてくださっていました。
 1996年に宮地貫一支部長(21回)の発案で「はちきん会」を立ち上げた時も、いち早くナイト役を引き受けてくださり、「普段女性が(特に主婦)が行くチャンスがないような所がええろう」と赤坂に会場を設定してくださり、とても愉快で楽しい会になったことも思い出されます。浅井先輩のなにげない思いやりを感謝したことでした。

いつもご一緒の浅井ご夫妻 
 浅井ご夫妻とは、色々とご一緒させていただき、楽しい時を過ごさせていただきました。
 同窓会総会のあとは、進藤貞和(3回)大先輩のお誘いを受け、よくご一緒に美味しいお食事をいただき、為になるお話も伺いました。又、大先輩のお住まをお訪ねしたり、歌のお好きな大先輩と一緒にカラオケで歌ったのも楽しい思い出です。又「中谷元を育てる会」「中谷元ー国政報告会」はもちろん、同窓会総会、「筆山会」、「はちきん会」、「三金会」等々、いつもご夫妻ご一緒の姿は、それぞれを大切に思う「夫婦のお手本」でした。

2017年B&A 美術展にて
作品の前で
 翻ってみるに、浅井先輩が一番最後になされた奥さまへのサポートが、大往生へと繋がると思われます。
 お仕事や同窓会幹部等様々なキャリアから離れて、ガーナ大使となられた愛する奥さまのため、国家のために、大変な努力をされ、又共に楽しまれたことと思います。
 一昨年は、「筆山会」昼食会(ホテル、ニューオータニ、第三木曜日)にもご出席され、あー、これからもお会いできそうでよかったわ、と喜んでいましたが、間もなく入院されてしまいました。クリスマス時、昼食会に出席していた皆で、お見舞いの寄せ書きをしたカードをお送りしましたら、喜んでくださり、早く元気になって出席しようとおっしゃっていたと和子夫人からお聞きし、その時を楽しみにしておりましたのに、、。残念でなりません。

闘病されていたご様子
 この度、和子夫人から頂いたお手紙により、闘病されていたご様子を知りました。
 「、、。実は、一昨年夏、大動脈剥離を起こし7ヶ月間入院しておりました。そのうち一ヶ月余り、集中治療室にいて「あと2週間ぐらい」と言われた時期もありましたが、担当医から「科学では説明つかないご本人の力です」
 と言われる奇跡的回復を果たし、昨年、丁度コロナが騒がれはじめた1月末に退院いたしました。その後は、ず~と自宅で療養していました。自宅では、長期間寝たきりだった為、歩行等のリハビリに励み、ゆっくりですが歩けるようになり、昨年夏には2~3時間のドライブも楽しみ、この春も車の中から千鳥ヶ淵や中目黒のお花見を満喫しました。先週の日曜日、夕食に、お酒こそ飲まなくなりましたが、高知から届いた鰹のタタキと焼き鳥を堪能し、例年にない快進撃をつづける阪神タイガースの7連勝を確認し、大ご満悦で、いつものとおり、12時ごろに就寝いたしました。翌朝、月曜日、7時頃目覚めないままの夫を見つけました。
 楽しい夢を見ながらの昇天のようでした。
 生前は、土佐校が大好きで、皆様方との交流を一番好み、楽しんでおりました。
 皆さま方には長い間、ご厚誼頂きまして、誠にありがとうございました。
 わたしも、コロナの為、専らリモートワークで家に居て、この1年余りは、ずっと側に居られたことは幸いでした。、、)

 最後まで最愛の奥様の介護を受けて、安らかに昇天された浅井先輩
 心からご冥福をお祈り申し上げます。
ページTOPに戻る
浅井伴泰さん(30回)追悼文
三根校長のお墓参り
竹本修文(37回) 2021.05.10

筆者近影
 悲報は西内さま、公文さま、佐々木さま、中城さまと次々頂きましたが、和子夫人にはお悔やみのご挨拶もできず、もやもやしていたら、和子夫人が佐々木様宛のご挨拶状の写しを送って頂きまして、最後の大往生の様子を知りました。

2016 三根校長墓参会にて
 私のお付き合いは、筆山会の昼食会と新年会だけで、追悼集に掲載していただくようなお付き合いが出来ていませんので、三根校長のお墓参りに2016年と2018年の2回ご一緒させて頂いたので、その時のスナップ写真を添付しました。編集の都合でどこかに使えるものあれば幸いです。
 今思い出したのは、筆山会の昼食会では土佐と阪神の野球の事を沢山お話いただき、年末か新年会では阪神タイガースのカレンダーを頂きました。家族・親戚・友人には巨人フアンが多くて、私は隠れトラキチでした。
ページTOPに戻る
浅井伴泰さん(30回)追悼文
本当にお世話になりました
藤宗俊一(42回) 2021.05.10

筆者旧影
2013 甲子園にて
 どういう訳か、ちょうど一回り年上の30回生とは縁が深く、可愛がって頂いた方は10指を超えています。前にも『うきぐも』(『一つの流れ』?)に書かせて頂きましたが、義弟の次兄だった故沢田良夫さんが最初でした。イタリアから帰国直後の1978年頃、職探しと部屋探しの為に、蒲田にあった実家の2階の6畳に転がり込んで2ヶ月くらい隣部屋の良夫兄さんと寝食を共にしました。お酒が好きで、その席で『土佐藩の家老や御船奉行の末裔がいて、俺たちのクラスはすごかった。』と、土佐校時代の思い出を自慢げに後輩に語ってくれました。まさかこんなにどっぷりと嵌って、2つも追悼文を書くハメになるとは思ってもみませんでした。

3金会(佐々木さん提供)
 1984年、独立して渋谷に小さな建築事務所を開いたのですが、仕事が無くて暇をもてあましていた時に、故宮地貫一さん(20回〉から鶴和千秋(41回)さんを通して、『どうせ、暇しているんだろう。同窓会関東支部を再立ち上げるので手伝え』とお声がかかり、あわよくば仕事にありつけたらと淡い期待を抱いて、毎月第三金曜日に赤坂の宮地さんの事務所での飲み会(3金会…参勤会)に出席するようになりました。その席で北海製缶時代の浅井さん(30回)とお目にかかりました。土佐人に似合わない、とてもハンサムで洒落た人だという印象を受けました。

『戦いすんで』(1992 筆山13号より)
 その後、浅井さんの幹事長のもとで、いつの間にか『関東支部同窓会誌・筆山』の編集長を押し付けられ、私の狭い事務所で編集会議が行われるようになり、246(青山通)を挟んだ桜ケ丘のご自宅に伺って指導を受けたり、情報を頂いたり、時には差し入れを持ってきて頂いたり、随分お世話になりました。ただ、私の本業の方が忙しくなり(同窓会とは無縁!!)編集長を返上してお付き合いがなくなりましたが、怖い?カミサンを持った不運を嘆き、慰めあっていたような気もします。
 『向陽プレスクラブ』再結成にあたっても、いろんなご指導をいただきましたが、一度もお酒を酌み交わすことができませんでした。きっと関東支部や野球部のことでお忙しかったと思われます。故大町玄さん(30回)と同じで、寄稿文も一つもありません。返す返す残念なことです。もう一つ、残念なことは、『巨人、大鵬、卵焼き』の世代の私にとって、なんであんなにトラキチだったなのかの釈明を聞けず仕舞いになってしまったことです。
 土佐の古い俗謡で「浅井金持ち、川崎地持ち、上の才谷道具持ち、下の才谷娘持ち」と 詠われた「浅井家」の末裔(ご当主?)にふさわしい鷹揚たたる立ち居振る舞いは、水飲み百姓の小倅にはとてもマネができそうにありませんが、今後、少しだけでも近づけるように頑張って生きたいと思っていますので草葉の陰から見守って下さい。
 最後になりましたが、改めて、浅井伴泰さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りいたします。合掌。
ページTOPに戻る
長い間のご厚誼、誠にありがとうございました
浅井和子(35回) 2021.05.15
土佐向陽プレスクラブの皆様

筆者近影
 この度は、夫伴泰の為に貴重なお時間を割いて、追悼集を作成いただきまして誠に有難うございました。
 皆さま方があのように夫を忍んで下さり、夫はさぞ、天国でテレながら皆様に感謝していることと思います。


 思えば、小さい頃は他の方と同様、空襲や終戦時の混乱で怖いことやお腹が空いたことなどあったでしょうが、土佐中に入学後の彼の人生は多くの友人に恵まれ、社会人になってからは、日本の高度成長期に当たり元気一杯で、日本の一番いい時代を過ごしたと思います。 家庭では、元気すぎる女房に不満でしたが、まあ〜、病弱よりはマシとあきらめ、最後はさっさと大往生できて、よかったよかった、と思っていることでしょう。
 長い間のご厚誼、誠にありがとうございました。
 まだ元気過ぎる女房が残っていますので、引き続き、よろしくお願い申し上げます。編集長様はじめ皆様方の慰労会に参加させていただける日がきますことを願っております。
 どうぞ、コロナにはお気をつけられ、お元気でお過ごし下さいませ。
ページTOPに戻る
城郭シリーズ 番外編4
陵堡式要塞の歴史と実例
竹本修文(37回) 2021.05.18

筆者近影
はじめに
 「フランス城郭シリーズ」の中で、函館の五稜郭のような城郭を星形要塞、ヴォーバン式要塞、又は稜堡式要塞などと表現してきたが、歴史的事実を整理しておく。また築城技術は武器の技術の進歩と併せて考慮するのは勿論、戦場を西欧に限定せず、台頭が著しいヴェネツイア共和国や東方のトルコ民族のオスマン帝国など、東欧やイスラム教圏まで広げ、西欧の土地貴族中心の国家間だけでなく、ヴェネツイアやドウブロブニクのような海上貿易専業国家の防衛の実態も調べてみたい。
 表題は「陵堡式要塞」に限定し、フランスに限定せず筆者が訪問した事がある地域に限定した。築城技術用語の定義などはは筆者の勉強を目的に挑戦してみる。KPCの投稿サイトが必ずしも相応しいとも思わないが、土佐高校OBで日本城郭協会の大先輩や会員が多くいて、気軽に教示戴ける事もあり、しばらく継続する。 

陵堡式要塞の歴史と実例

1.城郭一般

2.イスタンブル 3.イエデイクレの要塞

4.大砲の話

5.テオドシウスの城壁の破壊箇所訪問

6.ヴェネツイア共和国領の城郭

サンタ・マウラ島 パルマノーヴァ

ドウブロブニク

7.神聖ローマ帝国 ウイーン(オーストリア)

プラハ城 (チェコ共和国)

プラハ城 ブラチスラバ城 ツィタデッラ要塞

オルレアン包囲戦 <年表> 15世紀〜19世紀の城郭と武器

陵堡式要塞の歴史と実例
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)



ページTOPに戻る
フランス城郭シリーズ 9
ティエール(チエール)の城壁
竹本修文(37回) 2021.06.07

筆者近影
はじめに
 「フランス城郭シリーズ1」 で、2000年前のガロ・ローマ時代(フランスのローマ時代)以降にパリに建設された六つの環状の市壁・城壁を紹介し、今回のテイエール(チエール)の壁は6番目のパリ防衛用城壁で最後の壁である。図1は、その時に「参考地図2」として引用したもので、19世紀のパリを囲む二つの環状の壁であるが、内側の紺色の線が徴税請負人の壁(以下「徴税壁」と呼ぶ)で外側の茶色がテイエールの城壁である。徴税壁はフランス革命の初期段階で徴税を中止するが、革命でルイ16世が処刑されて王政が廃止された後、ナポレオンが皇帝になり帝政になってから徴税が復活し、1846年にテイエールの城壁が完成した後の1860年にも、かなり残っていた。ただし、徴税壁の内側に過去建設されてきた市壁・城壁は、約200年前のルイ14世時代に撤去されており、19世紀半ばのパリは図1のようであったと考えられる。Thiers wallは当時の首相アドルフ・テイエールAdolphe Thiersの名前を付けているが、その発音は英語ではティエールかな?と思っていた。高校・大学の歴史書で定評のある、山川出版社のフランス史には城壁の記載はないが、首相の名前はチエールと記載されているので、以後はチエール内閣が建設したチエールの壁とする。

ティエール(チエール)の城壁

1.19世紀半ばにもなって何故パリに防衛上の城壁を作るか? @近代の変化

ナポレオン戦争 

七月革命   2.チエールの城壁の概要

16基の陵堡式要塞

城壁の断面図  95番目の陵堡

1911年のチエールの城壁図

1867年のパリ中心部の絵地図

3.年表

ティエール(チエール)の城壁
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

ページTOPに戻る
米西部「インディアン・カントリー」を訪ねて(1992年初夏)
公文敏雄(35回) 2021.07.04

筆者(モニュメントバレーにて。
夕方冷えるのでジャケット必携だった)

米国西部地図
はじめに:
 巣ごもりでつれづれなるままに書棚を整理したら、往復2千数百キロ、3日間の西部ドライブ旅行の古い原稿が出てきて、遠い記憶がしばし蘇りました。
 1992年5月、大暴動(注)の残骸が生々しいロサンゼルスに単身赴任して間もなくの休暇でした。西海岸の大都市を後に、小さな日本車で内陸に向かい、この世とは思えないような星空の下、灯り一つ無い真っ暗な荒野の道を、ただ ひたすら走った覚えがあります。いつしか、 「我は行く さらば昴よ」を口ずさんでいました。
 今回ご紹介する小文は、旧作に地図と写真を加えたものです。特に、西部劇がお好きな方には懐かしくお感じいただけるかもしれません。
 (注)1992年4月〜、多人種の住むロサンゼルス中心部で発生した大暴動。前年3月に起きた4人の白人警官による黒人被疑者への暴行事件陪審員裁判での無罪判決に対する抗議デモが発端。略奪や放火などの暴動に発展して、死者50人以上、負傷者2,300人、逮捕者数千人を数えた。(Encyclopedia Britannica より。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ロサンゼルスから車で2時間ほども東に走れば、モハベ砂漠である。さらに内陸に入ったアリゾナ、ニューメキシコ、ユタ、コロラドの4州にまたがる地域はインディアン・カントリーとも呼ばれ、先住民族の歴史と文化、西部の大自然の驚異が、訪れる人に鮮烈な印象を与える。
●荒野を走って
 ロサンゼルスから400マイル(640キロ)、アリゾナ州北部を走る片側1車線のハイウエイの両側は、まれに現れる小集落を別にすれば、見渡す限り広漠たる荒野である。砂漠や土漠が続き、草木も生えない岩山の峰が見えるかと思えば、風化で形成された奇岩が天に向かってそびえ立つ。
 夕闇が迫り、音もなく星が輝く世界(写真@)に生命の気配はなく、名も知れない惑星に降りた心地がする。ハリウッド映画「猿の惑星」や「バック・トゥー・ザ・フューチャー」のロケが行われたのもこのあたりである。車をさらに走らせる。

@モハベ砂漠の星空(モハベ自然保護区URLより)

A羊を追うナバホの男(NYTimes July27,2012より)
●ナバホの国
 アリゾナ州北部から、ユタ、コロラド両州の境にかけては、10万人のナバホ族と若干のホピ族が住む、最大級の先住民居留地「インディアン・カントリー」である。とはいっても、目に入る住民の数は少ない。そして、わずかばかりの羊の群れを追って道を横切る羊飼いも(写真A)、やっと見つけたガソリンスタンドや、その隣のマクドナルド店で働く人たちも、短躯黒髪のインディアンである。
●「ノー」と言ったアパッチ
 時計を120年ほど巻き戻してみよう。南北戦争(1961−65年)の終結とともに、合衆国民の関心は改めて西に向けられ、入植者、ハンター、一発屋などが押し寄せて、フロンティアが急速に西に移動した。人種差別という意識が薄いころであるから、先住民との間でいざこざが絶えない。やがてインディアンは、父祖の地を離れて不毛の居留地に移住させられるか、「ノー」と言って戦うかの選択を迫られる。アパッチのチーフが騎兵隊の隊長に語りかける。
 「我々ハ勇ヲ尊ビ、征服サレタコトガナイ。シカシ、ウチ続ク戦デ若者ガ大勢死ンデイッタ。女タチハ悲シミノ歌ヲウタウ。年寄ハ飢エ、冬ノ寒サニ倒レタ。私ハ白人ノ長ノ保護ヲ求メ居留地ヘノ移住ヲ選ンダ。ソコニモ平和ハナク、悪イ白人ガ入ッテキタ。コノママデハ、ユックリト死ヲ待ツニスギナイ。白人ヲ遠ザケテ欲シイ。サモ無ケレバ戦ウシカミチガナイ。」(映画「アパッチ砦」より)
 アパッチのたどった運命は、ご存じのとおりである。インディアンの組織的抵抗は1890年までに終わり、この年フロンティアが消滅する。
 ナバホは、アパッチから別れた支族といわれ、勢力もアパッチと並ぶものがあった。ナバホもしばしば白人と戦うが(写真B)、やがて帰順の選択をして生き延びる。陽気で機知に富むその民族性や、羊の放牧を営んだことなどが、居留地の厳しい環境に耐えるための助けになったといわれる。
●フォード監督が愛したロケ地
 ナバホの居留地の中で最も人気のある観光地の一つは「モニュメントバレー」だろう。何と言ってもその景観だ。砂漠の中に大小さまざまな形をした奇岩(ビュート)や台地(メサ)がそびえ、なつかしい名画「駅馬車」のシーンを想わせる。このインディアンの谷は、季節により、天候により、時刻により、魔法のように姿を変えるといわれる。灼熱の日輪、ブリザード。とりわけ、地平線に沈む夕陽に映えて浮かび上がる岩山の、刻々と変わる輝きは、文字通り息をのむ美しさである(写真C)。

B銃を手にしたナバホ族チーフ
Manuelito(1818-1893、Wikipediaより)

Cモニュメントバレーの夕景(同国立公園URL より)
 西部劇の巨匠ジョン・フォードは、1938年の「駅馬車」のロケをはじめとして、「荒野の決闘」、「黄色いリボン」、「アパッチ砦」など合計9本の映画にモニュメントバレーを使っている(写真D、E)。この地をこよなく愛した監督は、長期ロケで滞在中しばしば知人をバレーに招き、撮影に協力したナバホの人々とも親しんだという。彼の後期の作品は、インディアンに対する同情が濃く、ヒューマニズムが強く香るようになる。

D映画「駅馬車」(1939)のシーンと主演ジョン・ウエイン(Encyclopedia Britannica より)

E「駅馬車」撮影風景と監督ジョン・フォード(Encyclopedia Britannica より)
●ナバホ族の暮らしぶり
 モニュメントバレーの奥に進むには、ピックアップトラックを駅馬車イメージに改装した、ナバホのガイドが運転する車に乗るしかない。ガイドは、50歳近くであろうか、飄々悠然として、なかなかの風采である。お腹が多少張り出しているのは、羊肉をたくさん食べるからだとか。(昔、食物が乏しかった時代、羊のおかげで栄養状態が良いナバホの若者は、近隣部族の娘たちによくもてたそうである。)

F羊の毛を刈り、織って、敷物に
仕上げるのは女たちの仕事
(Monument Valley-
The story behind the sceneryより)
 「馬車」は、道らしき場所を砂埃を上げてヨロヨロと進む。あちこちの奇岩には「矢じり岩」、「三姉妹」、「灰色ひげ」、「雨神岩」などのニックネームがある。「ラクダ岩」、「ゾウ岩」などもあるが、ナバホが付けた名前ではないとガイドが言う。「ご先祖はラクダなど見たことがないもんね」。ナバホは貧しい。住居は粗末な木造か、レンガを積んだ小屋である(写真F)。居留地の人口10万の半数は、水道も電気もない場所で暮らしているという。農牧のほかは、観光・サービス、そして遠方の鉱山への出稼ぎで家族を養う。最近テレビが普及しつつある。電気の無い家は、小型発電機を買って最低限のエネルギーを確保する。娘たちはインディアンダンスを習う。観光客のチップが貴重な現金収入となるからである。高等教育や仕事を求めて、都会に出ていく若者もいる。その多くは町になじめず、帰ってくるそうである。
 「馬車」を下りてから、ガイドが小高い丘に案内してくれた。日が西に傾き、茫々たる平原の彼方に落ちようとしている。無言のナバホの背中が、彼の民族と大地、そして悠久の時間への重い想いを語っているかのようであった。
追記:
本稿は30年近く前に旧東京銀行行内誌に寄稿したもの。今は休刊中の「世界週報」92年10月27日号(時事通信社)にも転載された。執筆に際しては、現地ガイドからの伝聞のほか、土産の書物(下記)なども参考にした。
Monument Valley-The story behind the scenery (KC Publications)
Indians by William Brandon (The American Heritage Library)
ページTOPに戻る
公文先輩の「米西部「インディアン・カントリー」を訪ねて」を読んで
竹本修文(37回) 2021.07.12

筆者近影
 アメリカには沢山の都市に行きましたが、仕事が多くて公表はできません。ワインなどで皆さんにも関心のある所も行きましたが、写真には妻が写っておりこれもボツ4です。今回の南西部は一般の人達にも馴染みの街があるので、数少ない画像を使って作文してみました。これで、如何でしょうか?
 最初の旅行の時は、ニューヨークのWTC110階建てのビルの55階で開催された空港建設技術の国際会議が出張目的でした。絵葉書しか残っていませんが、貴重な経験でした。




竹本さん

 さっそく内容の詰まったご感想を寄せていただき、有難うございます。著名なグランドキャニオンやラスベガスはその後改めて家族で行きました。フーバーダムと発電所も見学の機会がありました。理系の方でなくても必見。AREA51の由来は知りませんでした。世界を股にかけた貴兄だけあって、米国にも詳しいですね。
 酷使した中古日本車は帰途に雑音(悲鳴?)が出るようになり、スタンドに 立ち寄って傷んだ部品を取り替えました。時間が無いのを店主が解っており、 「リツールしたもの(手直し部品)でも良いか?」と言って格安で手早く修理して くれたことを覚えています。その後3年間、家内の足として勤めを果たしました。 米国駐在は2度で足掛け10年近く、働き者のアイルランド人同僚もおりました。 本土人にしいたげられた歴史を問わず語りに言っていたのが印象的でした。
 皆さんの寄稿がしばらく無かったので埋め草に出したお恥ずかしいふるぶみを お読みいただき恐縮至極です。お気が向きましたらまたご寄稿ください。
公文


PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)

ページTOPに戻る
サンペイさん追憶!出会いと土佐の旅
中城正堯(30回) 2021.08.09
東京で初めての原稿依頼人

筆者近影

サンペイさんとファン。
檮原「雲の上のホテル」で。
 この夏は、古くからの友人・知人の訃報が次つぎに届く。7月だけでも18日に土佐中高の同級生でマスコミ仲間の鍋島高明君(享年85)、22日には「ずっこけ三人組」で知られる児童文学作家の那須正幹さん(享年79)、そして31日にはサラリーマン漫画「フジ三太郎」のサトウサンペイさん(享年91)である。
 那須さんは昨年春、筆者の「寺子屋と郷学が育てた佐川の人材」(佐川史談会誌掲載)を読んで、「寺子屋の話、興味深く拝読。(破門された子を諭して師匠に詫びる)あやまり役の老人が居たというのは面白いですね」と、感想を寄せてくれた。浮世絵に登場する江戸のいたずらっ子が、そのまま大人になったような作家で、作文審査や講演会で大変お世話になった。山口県防府市に住み続けていたが、肺気腫での急逝だった。サンペイさんも誤嚥性肺炎が原因で、筆者も肺の病気を抱えるだけに他人事ではない。
 サンペイさんは、小生の編集稼業のなかでも特に印象深い一人で、高知も絡んでのさまざまな交流があった。その一端を紹介しよう。漫画家をめざし大阪大丸の宣伝部をやめた際、関西ジャーナリストのドン小谷正一氏から「漫画家になるなら、漫画界の王様、横山隆一氏に会っておくがよい」と言われ、鎌倉の横山邸に連れて行かれる。自作の四コマ漫画を差し出すと、王様から「案はいい。漫画を描くんだったら東京へこなくちゃダメだよ」と云われ、東京へ引っ越す。

サンペイさんの挿絵。
『3年の学習』1962年10月号。
  上京直後のことが、サンペイさんの自著『見たり、描いたり。』(朝日新聞社)に、こう記してある。「東京に住んで一、二カ月したころ、初めての注文が学習研究社から来た。このときの知的で若い編集者が、現在くもん出版社長の中城正堯さんである」。知的より痴的だったかも知れないが、まだ入社3年目(1962年)、『3年の学習』担当だった。当時、週刊誌でサラリーマンの疲労回復に「コレコレ」と呼びかける藤沢薬品チオクタンの漫画広告が秀逸で、この漫画家を挿絵に起用すべく、東京の転居先をやっと探し出して訪ねたのだ。その作品が、10月号に掲載された生活指導「花子の遠足」で、サンペイさんのイラストは、明日の晴天を願って父の布団から綿を抜いて特大のてるてる坊主を作った3年生だ。これら漫画イラストや4コマ漫画が好評で、翌年からは4ページの連載漫画「あのーくん」をお願い、長いお付き合いが始まった。
漫画の王様・横山さんの導き
 サンペイさんを中央の漫画界に導いた横山隆一さんは、筆者にとっても編集者への道を開いて下さった恩人であった。1959年の中大卒業を間近にしながら、新聞社・出版社ともはねられ続け、やっと学習研究社の一次(筆記試験)に受かり、次は「出版企画を提出せよ」の課題が出た。当時、新しく小学校で道徳教育が登場するところで、横山さんの人気漫画「フクちゃん」を活用した道徳漫画の副読本を企画した。公立図書館の貸出しデータから、横山漫画が子どもにも人気なのを実証、さらに道徳の徳目ごとに適合した4コマ漫画を選んでページ見本も作成した。学力での劣勢を、企画力でカバーするのに必死だった。
 この様子を知った土佐高東京同窓会のドン近藤久寿治先輩(6回生・同学社社長)が、岡ア昌生先輩(24回生・外務省)を通して横山隆一氏を紹介して下さった。岡ア先輩は、横山夫人のご親戚であった。こうして、鎌倉の横山邸を訪問し、サンペイさん同様に助言をいただいたが、内容は思い出せない。

ビジネス雑誌『マイウェイ』
の漫画。1969年9月号。
 これらの支援のお陰で、編集役員等による二次試験、社長の最終面接とも無事合格、どうやら企画内容より、図書館・作者の訪問など、足で企画を固めたことが評価されたようだ。当時の学研の花形部署である学習編集部に配属になり、早速横山先生の担当となった。入社した夏の漫画集団箱根大宴会にも呼んでいただいた。ここでは、やなせたかしさんとも出会った。後に『アンパンマン』が出た際、人気が出ないと言って初版をもらった。以来、そのやましゅんじ、石森章太郎などの漫画家とも、よく仕事をすることとなった。
 サンペイさんは、筆者の次に人気週刊誌『漫画サンデー』の峯島正行編集長から声がかかり、出世作「アサカゼ君」が誕生、『暮らしの手帖』花森安治編集長にも認められる。朝日新聞の「フジ三太郎」は、ヒラ・サラリーマンの立場から、世相を風刺とユーモアを効かして切り取り、大人気を得て長期連載となる。筆者が学習雑誌からビジネス雑誌の部門に異動してからも、超多忙ななかで仕事を受けていただいた。ビジネス雑誌では、漫画以外にも、当時の人気芸能人との対談も始め、お好みに合わせて若手清純派歌手・森山良子から「恍惚のブルース」の青江三奈まで、毎月銀座の三笠会館に呼んでおしゃべりを楽しんだ。ビジネス雑誌の漫画では、ロケット発射台の模型を挟んで、元気な奥様としょんぼり亭主を描いている。
高知県の依頼で「雲の上のホテル」へ

御畳瀬でコップ酒を手に立ち
食いするサンペイ・下重のお二人。
 旅にも引っ張り出したが、1997年に高知県観光振興課から日本旅行作家協会役員をしていた筆者に、著名人を呼んで高知の見所を取材紹介して欲しいとの依頼があり、サンペイさんと下重曉子さんに行っていただいた。サンペイさんに同行し、紙の町・伊野から、酒と歴史の町・佐川、そして「雲の上のホテル」が出来たばかりの檮原町などを3泊4日で回った。下重さんは、遍路道を室戸へ向かってたどり、最御ア寺や吉良川の伝統的街並を訪問、なかでも室戸市佐喜浜の「俄(にわか)」が気に入ったようだった。最後に高知市で合流して一泊、御畳瀬の漁港でニロギやメヒカリの干物など立ち食いを楽しんでから空港へ向かった。サンペイさんは、大恩人・横山隆一さんの記念館完成を待っての再訪を誓っていた。
 この記事の最初に掲載した写真は、隈研吾氏設計の名建築「雲の上のホテル」レストランで、大阪から来たファンの女性に見つかりご満悦のサンペイさんだ。もう一枚、御畳瀬の干物に舌鼓を打つサンペイさんと下重さんを紹介しておこう。やがてお二人の筆になる、高知の知られざる伝統文化や、最新のホテルなど観光情報が、新聞雑誌に次々と掲載された。その一つには、女性に代わって筆者らしき人物との食事場面が描かれていた。サンペイさんは、新聞連載から身を引いた後も、運転免許取得、パソコン習得、海外旅行などへのチャレンジを楽しんでは、その奮闘記を出版し、賀状でも知らせてくれた。これは1998年の年賀状。

土佐の旅のエッセイ挿絵。
1979年3月「山陽新聞」他。

新聞連載を終えてからの
パソコン年賀状。1998年。
 作家や漫画家と編集者の関係は、著名な賞を取るなど売れっ子になってから新しく執筆をお願いする編集者と、無名時代からともに苦労を分かち合ってきてやがて世に認められた場合では、立場がまったく異なる。筆者は、たまたま若い頃出会った漫画家や学者・評論家・ジャーナリストが大成、その点では大変幸運な編集者生活であった。後者から例示すると、民族学者梅棹忠夫、朝日新聞社長中江利忠、経済評論家内橋克人、評論家・作家下重曉子、写真家野町和嘉・大石芳野などの皆様である。(写真は筆者撮影)
ページTOPに戻る
「土佐校百年展」からのオクリモノ
高知で遭遇した浮世絵展
冨田八千代(36回) 2021.08.09

筆者近影
 はじめに   北斎の青色
 日ごろ、浮世絵の実物や話題に接することはほとんどない。ところが、久しぶりに、6月の自然観察の月例会で浮世絵の話題が出た。その日の観察会の主役はカワセミ。住居地の近くに、昔の灌漑用ため池を中心にした公園があり、そこが観察地。その池面をカワセミが横切る。光輝く背の青は飛べば残光で青色の一直線が描かれる。鳥で輝く青はカワセミのみ。カワセミが姿を消しても、ひとしきり「青」が話題になって童話『青い鳥』まで出てきた。が、私は池の杭に止まったウチワヤンマの方へと関心は移った。ところが、観察会のまとめには、カワセミに関して以下のことが書かれていた。=鉱物も輝く青は希少で古くはイスラム寺院のタイルが独占。これが外に出てフェルメールの「青いターバンの少女」が描かれ、北斎の「神奈川沖浪裏」の傑作も成立=。この3者が一直線でむすびつくとは、と疑問がわいた。調べてみようともせずに、浮世絵も生き字引の中城さんに矢を放った。すると、早速お返事を下さった。
****    ****
 お尋ねの件、浮世絵の着色剤は顔料と言って、植物か鉱物から取っていました。青は、植物の露草か藍が使われましたが、露草は褪色しやすく、藍が中心でした。ヨーロッパでも美しい透き通った青は、貴重な鉱物から作られていましたが、やがてベルリンで化学染料が製造されます。文政末期頃にその化学染料の青がオランダから長崎出島経由で輸入され、ベロリン藍(略してベロ藍)と呼ばれます。これを、効果的に使用した一人が、北斎です。「富嶽三十六景」はじめ、数々の名作を生み出します。墨とベロ藍の濃淡だけで描いた作品を「藍摺絵」と呼びます。フェルメールは、高価な鉱物顔料を使って独自の青を出しています。トルコのブルーモスクも訪ねましたが、イスラム教徒にとってブルーは最も純粋で神秘的な色彩のようでした。なお、浮世絵「ベロ藍」については、『浮世絵のことば案内』(田辺昌子 小学館)などが気楽に読めるかと思います。田辺さんは、千葉市美術館の学芸課長で友人です。 (以上 中城さんのメールより)
****    ****
 すぐに、図書館に出かけた。中城正堯と背表紙にある『江戸子ども百景』など、中城さんが関わられた『公文浮世絵コレクション』の背の高い3冊が並んでいるそのすぐ側に、おすすめの本『浮世絵のことば案内』はあった。
 ベロ藍については中城さんの説明で十分だった。続いて、ベロ藍は、薄く用いても濃く用いても素晴らしい発色の青を示す、当時の人々にとっては異国の魔法のような色であったと述べている。そして、北斎は通常であれば藍色にしないだろうというような箇所もベロ青を用いて、ベロ藍そのものの表現力を追及していると紹介している。
 とても読みやすい編集と内容で、小中学校の図書館にも是非備えて欲しいと思った。
 こんなことがあって、そういえばと、昨年の「土佐校百年展」(2020年11/11〜11/15日)の折にみた浮世絵展を思い出した。この「土佐校百年展」では『筆山の麓』PRの手伝いをした。
 山本昇雲展の開催中を知る

ギャラリーぽたにか 「山本昇雲展」
会場は昔の土蔵2軒のそれぞれ1階。
 「土佐校百年展」の2日目、11月12日の高知新聞には「土佐校百年展」と『筆山の麓』の記事が掲載された。(公文敏雄氏がこのHPに詳報)開場前の受付付近で、新聞を広げて話題になっていた。ところがそれだけでは終わらなかった。その新聞を北村恵美子さん(47回・同窓会副会長)が刊行委員のお一人と私にコンビニで買ってきてくださった。帰郷のいいお土産になるとその心づかいをありがたく思いながら、新聞はそのままバックにしまった。翌13日の朝、会場に出かけるには早すぎると、宿で前日いただいた高知新聞をぼんやりめくっていた。突然「浮世絵」の字が飛び込んできた。見出しは最後の浮世絵師 山本昇雲展 いの町。小見出しは、美人画など54点。写真は会場の一部。期日は15日まで。山本昇雲(1870〜1965)とあり長命な方で現南国市御免町生れ。会場、いの町土佐和紙工芸村は分かる。我が故郷と仁淀川を挟んだ向こう側、行ったこともある。高知市から会場まではそんなに時間はかからない。幸い当番は午前中。午後、展覧会に出かけても、今日中には豊田に帰り着ける。4月には、名古屋市で開催予定の浮世絵展もコロナ禍で中止された。めったにない本物に会えるチャンスを逃す手はないと、午後出かけることにした。
 北村さんのご好意が無ければ出合うことのなった浮世絵展。感謝とともに、「土佐校百年展」から私への贈り物だと思えた。
 会場での資料は、ここに添付したB4大の表面だけの印刷物とはがきの案内だけとつつましやかだ。浮世絵は代表作「今すがた」から数点。細かく優しい描写から、明治大正の風情が感じられた。意外で嬉しかったのは、子どもの情景のも数点あったこと。子どもの動きのその一一瞬を巧みにとらえている。静止した姿から今にも飛び出してきそうな生き生きとした息づかいを感じた。浮世絵に関心を持つようになったのは、このホームページを通してで、中でも、「子ども浮世絵」に魅かれている。来場してよかったとの思いをいっそう強くして、JR伊野駅から電車に乗った。
車中で思ったこと  土佐での浮世絵は?
 車中では、会ったばかりの本物の浮世絵が走馬灯のように頭の中をめぐっていた。数少ない資料と新聞を読み直してみた。新聞の「最後」とチラシの「土佐出身」の表現が気になった。わざわざ「出身」と断るのは「土佐の絵師」ではない。土佐の国では浮世絵はどんな存在だったのだろうかと、初めてよぎった。そして、文化としての存在は薄かったのではないかと思った。理由は二つ。まず、「中城文庫」には浮世絵が20点近くある(と思う。)が、土佐の地元の作品ではない。当時、土佐で浮世絵が盛んだったら土佐藩御船頭の中城様はお江戸から浮世絵を持って来こられなかったのではないだろうか。このHPでも紹介された「六十余州名産図会 土佐 海上松魚釣」の絵師も土佐の人ではない。二つ目は、同じくこのHPに中城さんが書かれた「版画万華鏡3」の養蚕神の浮世絵から思うこと。ここ愛知の山間部は養蚕の盛んな地域だったので、気に留めているが、そのような浮世絵が見当たらない。この地方の養蚕の神々は中城さんが説かれた伝説と同じであっても、絵ばかりだ。だいたいこの地方には浮世絵がとても少ないようだ。浮世絵文化は全国津々浦々とは、いかなかったのではなかろうか。JRの車中では、中城さんにお尋ねしようかなと思ったが、忘れていたこともあって、そのまま現在に至る。
 今、また、中城さんにお尋ねしたくなった。浮世絵師の活躍や浮世絵文化は土佐ではどうだったかと。
ページTOPに戻る
高知で遭遇した浮世絵展 続き
土佐と浮世絵   序曲
冨田八千代(36回) 2021.08.18

中城さんのおこたえ 山本昇雲

絵金(廣瀬洞意) 藤原信一

図版3枚から思うこと 付記

『土佐と浮世絵 序曲』
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)


ページTOPに戻る
高知で遭遇した浮世絵展を読んで
トルコのイスラム寺院のタイル
竹本修文(37回) 2021.09.07

筆者近影
 皆様はコロナにも負けず、ご無事と思っていますが、いかがお過ごしでしょうか?
 8月9日の冨田八千代さまの投稿、「土佐校百年展からのオクリモノ 高知で遭遇した浮世絵展」を拝読して以来、フェルメールとイスラム寺院の青のお話にコメントしようと思いながらも、マンションの管理組合のゴタゴタに巻き込まれて、無駄な時間を過ごしています。
 さて、冨田八千代さまの投稿と中城先輩のコメントから内容が離れてしまいましたが、自分勝手な内容で原稿を作ってみましたので、投稿したいと思います。ご意見を賜りたくお願い申し上げます。
 横浜の朝日カルチャーセンタで、現在は一橋大学副学長の大月康弘先生から数年間に亘って東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の講座を受け、また東大名誉教授の鈴木董先生からトルコ史をご指導いただき、10年前にイスタンブルだけを10日間徘徊しました。イスラム寺院は妻の美術館巡りの一環で付き合っただけですが、資料を入手してきたので、それらをベースに纏めてみました。KPCの皆さんにご覧いただくように、写真を中心にしています。ご検討を宜しくおねがいします。
 なお、Istanbulは、現地人も先生方もイスタンブルですが、日本語ではイスタンブールと呼ぶことが多いは知っていますが、あれは、「飛んでイスタンブール」という歌のせいであるとの事であり、イスタンブルに統一しています。

トルコのイスラム寺院のタイル

はじめに 1.1 イスタンブルのブルーモスク

1.2 イスタンブルの観光地図

1.3 イズニック・タイル 1.4 ブルーモスクのタイル

1.5 リュシュテムパシャ・ジャミイ

1.5 リュシュテムパシャ・ジャミイ

リュシュテムパシャ・ジャミイ

リュシュテムパシャ・ジャミイ

トルコのイスラム寺院のタイル
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)



ページTOPに戻る
本の紹介
中城正堯著 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
藤宗俊一(42回) 2021.09.10

『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
 『うたまろ』と聞けば『あぶな絵』しか思いつかない門外漢に、人使いの荒い人代表の中城さんから書籍小包が届き、開けてみると『うたまろ』の『当世好物八景 さわき好』を表紙に使った品のいい本(B5版・装丁も著者)とともに、A4の1/8の小片に謹呈のご挨拶と『HPに紹介文を載せろ!』とのたまわれていた。「開封すべきでは無かった」と後悔したが、後のまつり。仕方なしにこの紹介文を書かせていただいています。
 もともと遊里とか芝居町でチラシとして使われた彩色木版画が、江戸の街で浮世絵として流行し、やがて庶民の日常生活を描くようになり、美人画や子供絵が生まれたそうである。その子供絵を中心に、1986年から中城さんの提案で『くもん子ども研究所』が収集し始め、現在1800枚以上の浮世絵を所蔵しており、その子供絵に描かれた生活をもとに研究活動が行われているとのことである。また、国際子ども文化研究会設立に参加、若い研究者への援助を続けるとともに世界に発信し、『国際子ども博物館』の開設を提唱している。
 内容紹介は例によって、目次のスキャンでお許しを!門外漢が変な講釈をたれるキケンがありますので!

もくじ
時をこえて愛されるもの−「公文浮世絵コレクション」とその研究−
     國學院大學教授・国際浮世絵学会常任理事 藤澤紫
第T章 浮世絵と子ども
  「子ども浮世絵」ことはじめ−江戸子ども文化研究のあゆみ−
  子ども絵・子ども物語絵・おもちゃ絵−子ども浮世絵の分類−
  浮世絵に描かれた子どもたち−江戸子ども文化をさぐる−
  豊潤な江戸子ども世界に共感−ヨーロッパ巡回展の報告−
第U章 子どもの遊びと学び
  [上方わらべ歌絵本]の研究−合羽摺子ども絵本の書誌と解読−
  和製ポロ"打毬"を楽しんだ江戸の子−馬術から徒歩打毬や双六も−KPCHP既出
  寺子屋の学びの文化−江戸社会を支えた庶民教育−
  文明開化で激変した「子どもの天国」−錦絵にみる明治の子ども−
第V章 母子絵へのまなざし
  もう一つの美入画"母子絵"−歌麿の母性愛浮世絵−
  〈歌麿の母子絵リスト〉(版画)
  子どもの魔除けファッション−病魔と闘った母性愛の表象−
  布袋と美女から"おんぶ文化"再考−絵画にみる育児習俗−KPCHP既出
  「百子図」にみる清代中国の子ども観−蘇州版画の子、浮世絵の子−

 この本は非売品で、研究者・関係者のみに筆者から謹呈している。ただ、掲載論文のうちの二本(「和製ポロ〈打毬〉・・・」と、「布袋と美女・・・」)は、2019年に向陽プレスクラブHPに「版画万華鏡@〜D」として掲載したうちの二本である。論文集に未掲載の三本ともども、このホームページの 主張.論評のページ で見る事が出来る。
全文をご覧になりたい方は次行をクリックしてPDF版(著者提供)をダウンロードして下さい。
    ***** 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』全144頁・江戸子ども文化研究会発行*****
 尚、下記の図書室に行かれたら実際に手に取ってご覧になって頂けますが、コロナ禍の現在では外部からの閲覧希望者を歓迎するとは思えません。落ち着いたら電話予約のうえ、足をお運び下さい。
   公文教育研究会 子ども文化史料担当(内山):03-6836-0039
      受付時間:10時〜17時(土・日・祝日を除きます)
   土佐中高図書館(謹呈ずみ)
   国立国会図書館(納本ずみ)

 御参考に下に冒頭部分を抜き出しておきます。

「子ども浮世絵」ことはじめ
一江戸子ども文化研究のあゆみ一
<はじめに>浮世絵に子ども発見
 1986年のくもん子ども研究所設立は、浮世絵の子ども絵研究ならびに江戸子ども文化研究にとって画期となった。本稿では、同研究所による「子ども絵」や「子ども浮世絵」に関する「研究ことはじめ」と、その後の歩みをたどる。また、研究成果としての「子ども浮世絵」解読の一端を紹介する。浮世絵師たちがイメージ豊かに描いた浮世絵から浮かびあがる江戸の子どもが生き生きと遊び学ぶ姿、さらには愛情細やかな母子の日常生活を、存分に楽しんでいただきたい。そこには、徳川幕府の封建的な統治によって、「江戸庶民の女性や子どもは悲惨な生活を強いられていた」とするかつての歴史観とは全く異なった、「子ども世界」が現れてくる。

[図1]
 まず、二つの画像から、江戸の女性と子どもの生き方を見ていただこう。[図1]は往来物『児童教訓伊呂波歌絵抄』(南勢野嬰書下河辺拾水画安永4年初版の後摺)の一場面で、花見を楽しむ祖母・母・娘三代の女性を描き、「月花もめでて家をもおさめつつ雪や蛍の学びをもせよ」とある。女性に対し、「家事を取り仕切るとともに、読み書き歌の道もしっかり学び、四季折々の風流も楽しもう」と呼びかけている。

[図2]
 次の[図2]は浮世絵「幼童諸芸教草手習」(歌川国芳天保14年)で、子どもが習得すべき習い事を示したシリーズの一枚である。画面には、天神机(手習い用の机)で、折手本の字句を手習いする子どもを描いてある。頭髪の一部を残して剃っており、まだ幼児だが、振袖姿の姉の指導で家庭学習に取り組んでいる。手習い帳は何度も重ね書きするので、黒く潰れている。右上の本をかたどったコマには、こう記してある。「およそ人の手にてものをなす事多かる中にもものかくわざなん万に立まさりけるゆへただ雅俗ともに其ほどほどにつう用するを手習せ女は墨ぐうに太りこはこはしからずただ上代の風の雅たるおまなばんこそおくゆかし」。当時はヨーロッパでも、庶民の女子で文字の読み書きが出来る者は少なかったが、ここでは男女を問わず文字を書くことが手のなにより重要な役割であると説き、女性には草書をすすめている。「手習」のほかには、着物の「仕立もの」(裁縫)、「画」(絵の描き方)など生活実技を示してある。
*****全144頁・江戸子ども文化研究会発行・浮世絵:公文教育研究会所蔵*****
ページTOPに戻る
拝読の機会に浴したことを感謝しつつ
次は「ぽんびん」を吹く中城さん
冨田八千代(36回) 2021.09.10

筆者近影
 中城さんは2017年にこのホームページに「”上方わらべ歌絵本“の研究」や<浮世絵展のお知らせ>を執筆されました。そのときに、浮世絵に子どもがたくさん登場していることを初めて知りました。知らなかったことをとても悔いました。それは、美術界や美術史の中で、「浮世絵」の中の「子ども」が忘れられていたことも影響していたのです。
 そこに千里眼を働かせたのが中城さんです。公文教育研究会は「くもん子ども研究所」の設立に伴い、研究テーマの一つを「浮世絵を絵画史料として活用した江戸子ども文化の研究」と決めました。それを提案し、推進の先頭はご本人でした。
 テーマ決定は1987年のことです。気づかせてもらった30年も前のことです。作品の発掘から始まって、たゆまぬ追及を続けられます。その数3000点にも及びます。美人画の中にも、母と子の姿がたくさん描かれ、それを「母子絵」とまとめられたことは画期的です。

「村の学校」イギリス銅版画
 1860年頃 著者所蔵
 美人画の歌麿は、母子絵が全作品の2割に及び、生涯のテーマであったとは驚きです(第T章 浮世絵と子ども <母子絵の伝来と発展> 第V章 母子絵のまなざし <もう一つの美人画“母子絵”―歌麿の母性愛浮世絵―>に詳しく論述。 他)。
 風景画の広重もたくさん描いています(第U章 寺子屋の学びの文化―江戸社会を育てた庶民教育― <寺子屋戯画と「子ども絵」の広重>)。
 研究から、子どもの描かれている浮世絵を総称「子ども浮世絵」と提唱されました。その内容は@子ども絵(子どもの生活を描いた風俗画)A子ども物語絵(子どもの為の物語絵や武者絵)Bおもちゃ絵(子どもが実用的に使った実用的浮世絵)+美人画です(第T章 浮世絵と子ども 「子ども浮世絵」ことはじめー江戸子ども文化研究―<くもん子ども研究所と浮世絵>)。提唱されてからかなり立ちました。「子ども浮世絵」が美人画や風景画などと肩を並べる日が、早く来ることを願います。

「風流をさなあそび(男)」歌川広重
天保初期 公文教育研究会蔵
 「子ども浮世絵」の子どもたちの天真爛漫さには、根拠があります。それを浮世絵から読み取っておられます。ご本では「浮世絵を読む」の表現に感銘を受けました。「見る」「観る」ではないのです。その読み取り方は作品を実に多くの観点から吟味されているのです。(「子ども浮世絵」ことはじめ p8)その上に、外国の歴史や文化も視野に幅広く検討されています。その結果の「読む」の深さ広さは、はかり知れません。この「読む」を貫いて、江戸の子どもの文化を解明されています。
 子どもへは、親からご近所から世間から、大人みんなが愛情を注いでいたのです。日常生活そのものが子どもに細やかなのです。例えば髪型です。丸坊主から3歳の髪置き、奴(やっこ)、喝僧(がっそう)を経て、7.8歳で髷を結う(p61など)。衣服でも、一つ身では「背守り」や「背縫い」をつける風習(第V章 母子絵へのまなざし 子ども絵に見る魔除けファッションー病魔と闘った母性愛の表象―)。これは、小さい頃お年寄りから聞いたことがあります。おぼろげながら、幼児の普段着の着物についていた記憶もあり、昭和にも引き継がれていたといえそうです。折々の行事やお祭りは、「子ども浮世絵」に満載です。教育には熱心です(第U章 寺子屋の学びの文化―江戸社会を育てた庶民教育― )。

「当世好物八景 さわき好」喜多川歌麿
 享和頃 公文教育研究会蔵
 あらゆることで、子どもへの対応はきめ細かです。これは愛情が無ければできません。中でも深いのは母の愛です。それを「子ども浮世絵」では見事に、まなざしやしぐさで表現しています。
 「読む」から、江戸時代の子ども文化だけでなく、当時の様子も知ることができました。寺子屋の学びの論述は、私にとって興味深いことでした。寺子屋教育のすばらしさが「子ども浮世絵」を「読む」確かさから、ふんだんに述べられています。自ずと現代の子育てや教育の在り方と比較していました。
 表紙は手にする度に惹きつけられ、眺めます。色が渋い薄茶色(何色と言えばいいのでしょうか)と落ち着いています。そこに「さわき好」の母と子が静かに確かに定まっています。(「さわき好」→「当世好物八景 さわき好」歌麿 p24,第V章 母子絵へのまなざし 扉)。元の浮世絵から色をとり、この母子がより落ちついた気持ちにさせます。「さあ始まり、始まり!」と静かに表紙を開いてくれます。
 数ある「子ども浮世絵」の中からこの作品を表紙にされたのは、「子ども浮世絵」の良さが凝縮されているからと、僭越ながら思います。母と子の他には余分な物はありません。お母さんのやさしさに子どもが安心してぽんびんを吹き吸いして楽しんでいます。母子相思相愛がにじみ出ています。この姿から、自分自身の子どもの頃への郷愁もわいてきます。

[上方わらべ歌絵本]絵師不詳
 安永・天明期 著者所蔵
 「子ども浮世絵を読む」を通して、作品と対話を繰り返されたことでしょう。作品はどれも今では分身のようではないでしょうか。その慈しみは母子絵のお母さんのまなざしと、きっと同じでしょう。第V章の題は「母子絵へのまなざし」と、母子絵のまなざしではないのです。胸を打たれました。
 長年の研究の集大成を手作りで上梓されたことをお喜び申し上げます。くりかえし拝読します。このご本が書店に並ぶことを期待しています。
 次に、お待ちするのは、創設された国立「国際子ども博物館」で修学旅行生に「子ども浮世絵」を説明されるお姿です。手にはぽんびんを持たれています。江戸時代の母子絵のお母さんのまなざしと同じように、たくさんの浮世絵に注がれた中城さんのまなざしと同じように、修学旅行生へ優しいまなざしを注ぎながら、語られることでしょう。手にしたぽんびんを時には吹かれることでしょう。
 ご健康にはくれぐれも気をつけられて、長生きをしてくださいね。

注:ぽんびんについて
 「当世好物八景 さわき好」の子どもが吹いている玩具の名称は、『江戸時代 子ども遊び大事典』(中城正堯編著 東京書籍 2014年発行)によった。本書では以下のように説明されている。(一部抜粋)「ガラスの玩具で、管から息を吹き吸いすると、先端のフラスコ状の薄い底が振動し、ポッピンポッピンと鳴り、女性や子どもに好まれた。音色から、ポッピン、ポピン、ポッペンとも呼ぶ。オランダから伝来した珍しいガラス製の新玩具で、異国情緒豊かな音色を出し、人気を得た。」この玩具は、吹くだけでは鳴らず、吸ったときにガラスの底がへこんで音が出る仕掛けである。
付記
 <2017年8月20日KPCのホームページ>「”上方わらべ歌絵本“の研究」の最後に、「なお全文閲覧をご希望の方はお知らせください。抜刷を進呈致します。」とあります。その抜刷とは、このご本では18ページにも及んでいます。大研究、大論文です。当時はそのような論述と拝察する下地は全くありませんでした。
 今回、「第2章 子どもの遊びと学び <[上方わらべ歌絵本]の研究―合羽摺子ども絵本の書誌と解説―」から、多くのことを知りました。この絵本は、江戸時代から長い時を経て2009(平成21)年にやっと、来るべき人の所に到着しています。やっと、日の目を見ました。とても貴重で意義深いことです。ページを開いた時に、[上方わらべ歌絵本]と「」の表記でないのが疑問でした。原題は不明なので仮題にされたと文中にありました。それだけ手にして大事にされた絵本なのでしょう。<表紙中央に「下郷作太郎」とあるが、これは本文にも裏表紙にも書き入れられており、所有した少年の名前と思われる。」>とか<全体にかなり疲れ、虫食いがあり、長く愛読されたことがうかがえる>との記述があります。この本を愛読した作太郎少年は、「よう槍持った」では槍を持つ子、「子を取ろ子取ろ」では列の先頭の子、きっと、はつらつとした遊びに夢中になる子ではなかったかと、想像を楽しみました。
ページTOPに戻る
書評 『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
中城正堯さんの「子供の天国」
加賀野井秀一(44回)・中央大学名誉教授 2021.09.10

筆者近影
 テレビのニュース番組を見ていて、いつも不思議に思うことがある。盆暮れの帰省客がUターン・ラッシュで東京に帰ってくるころ、必ずといっていいほど、駅のプラットホームでリポーターが家族づれにマイクを向け、田舎はどうだったかと紋切り型の質問をする。それも決まって小さな子供に対して。当然これには、また決まって「おもしろかったあ!」といった言わずもがなの答えが返ってくるわけで、私はつねづね、こんな無意味なことはやめればいいのにと思いながらも、どことなく、やはりわが日本人同胞に特徴的な行動様式なのだなあ、と妙に納得したりするところもある。
 私が何度か住んでいたフランスなどでは、子供はそんなふうには遇されず、ほとんど半人前の大人と見なされ、無視される。また、子供は子供で、早く大人になり、人々に伍して、自由に行動したいものだという願望をどこかにちらつかせていたものだ。
 ことほどさように、たとえば西洋では、子供という存在の独自性は、ごく近年まで意識されてこなかったわけで、ここにはっきりと視線を向けたのが、あのアナール学派の一人、フィリップ・アリエスだったということになる。彼の『〈子供〉の誕生』と題する一書が、まさしく西洋人たちに、子供という存在の独自性を初めて意識させることになったのだ。邦訳はみすず書房から出ており、良書なので、興味のある方にはぜひともお読みいただきたいが、ここでは端折って、出版社のプロモーション用文言のみコピペしておこう。「この書は、ヨーロッパ中世から18世紀にいたる期間の、日々の生活への注視・観察から、子供と家族についての〈その時代の感情〉を描く。子供は長い歴史の流れのなかで、独自のモラル・固有の感情をもつ実在として見られたことはなかった。〈子供〉の発見は近代の出来事であり、新しい家族の感情は、そこから芽生えた。」

「父親による体罰」フランス写本 15世紀
フランス中央図書館蔵  アリエスの後継者による図録集より
 そう、私たちは通常、子供という概念の自明性を疑ってもみないのだが、西洋ではその発見が近代の出来事であったというわけだ。実は、こうしたことは、子供をめぐる場合だけにはとどまらず、「浜辺のリゾート」とか「登山の楽しみ」とかいったものの自明性にも同じように当てはまるということは、これまたアナール学派に属するアラン・コルバンの『浜辺の誕生 ― 海と人間の系譜学』あたりで語られている事実ではなかったか。つまるところ、それらはすべて、各文化が独自につくりあげる概念にすぎない、ということがわかるだろう。
 さて、いよいよ本題に入るのだが、ここでとりあげる中城正堯氏の『絵画史料による 江戸子ども文化論集』は、このような、およそ子供を無視するたぐいの西洋諸国のアンシャン・レジーム期のあり方に対し、とりわけわが国の江戸期における子供を珍重する風潮を、浮世絵を中心とする絵画史料を通して明らかにし、同時に、これまで「美人画」のジャンルに含めて考えられてきた「子ども絵」を、独立した興味深い一ジャンルとして確立しようとする試みであると言えるだろう。
 中城氏は、「くもん子ども研究所」で教育史料の収集に手を染めて以来35年。現在は国際浮世絵学会理事・日本城郭協会顧問を務め、江戸子ども文化研究会を主宰しておられるが、当初「筆者は出版界の人間であり、浮世絵はもとより美術史・日本史・教育史などの学術的素養は全くなかった」とのこと。つまり、35年間の収集と読解と考証、そして諸方面の学者・研究者との交流が、本書を、また今日の氏を、ともに形成しているというわけだ。
 全体は3章だてとなり、各章はそれぞれ4つの論文から成っている。

「子供遊び尽し」歌川芳虎 嘉永頃 公文教育研究会蔵
男女がともに楽しく 遊び戯れる場面に手習いもある
 第T章は「浮世絵と子ども」と総称され、いわば基礎論にあたる。第1論文「〈子ども浮世絵〉ことはじめ」では、江戸期の子供文化研究の歩みが描かれ、そこからは、徳川幕府の封建的な統治によって「江戸庶民の女性や子どもは悲惨な生活を強いられていた」とする従来の歴史観とはちがった「子ども世界」が開かれてくる。また、「美人画」から独立して考えられるようになった「子ども絵」も、さらに下位区分として「子ども絵」「子ども物語絵」「母子絵」「おもちゃ絵」に分かれることも説かれている。これをいっそう延長すれば、「見立絵」「やつし」なども論じられることになるだろう。
 後半部分では、寺子屋における師弟関係が描かれ、西洋的母子像との対比にも言及され、はては、授乳のあり方や、母子がともに同一物を眺める「共視」をめぐる愛情の問題圏が提示されている。
 第2論文は、「子ども絵・子ども物語絵・おもちゃ絵 ― 子ども浮世絵の分類」と題され、先ほどの下位区分のそれぞれが詳述されることになる。灯火と闇との関係はその後の「光線絵」との関係からも考えてみるべき主題だし、イギリス銅版画との比較など、興味深い指摘もなされている。

スワッドリング:生誕( Scrovegni礼拝堂/Padova)
ジォット Giotto1267-1337
 第3論文は、「浮世絵に描かれた子どもたち ― 江戸子ども文化をさぐる」として、先ほどの母子の「共視」、見つめ合う「対面」、抱きつ抱かれつの「密着」などを論じている。そこから、幼児を「布でぐるぐる巻き(スワッドリング)」にし、「育児は授乳も含めて乳母にまかせることが多かった」西洋社会との差異をきわだたせ、歌麿の母親追慕や江戸の「子宝思想」にも言及する。行間に「おぶられた」という物言いのあるのは、筆者の土佐弁がふと顔を出しているような気がしてほほえましい。
 第4論文は、「豊潤な江戸子ども世界に共感」という題で、1998年から翌年にかけて開かれた「浮世絵の子どもたち展」(国際交流基金・公文教育研究会主催)というヨーロッパ巡回展の報告となっている。モスクワ、パリ、エジンバラ、ケルンの各地で見られた反応の中でも、とりわけ正鵠を射ているのは、当時の日本で「育児になぜ父親が登場しないのか」というロシアの文化相が発した問いであるだろう。
 第U章は「子どもの遊びと学び」と題され、各論へと広がってゆく。第1論文は「[上方わらべ歌絵本]の研究」というタイトルどおり、中城氏自身が所蔵する「上方わらべ歌絵本」の紹介と、書誌的な検討、内容の解読などから成っている。

「夏姿 母と子」鈴木春信 明和5、6年頃
公文教育研究会蔵
江戸の母子の日常的な風景
 第2論文は、「和製ポロ“打毬”を楽しんだ江戸の子」という表題のもと、西洋のポロ競技にも似た打毬について、数々の図版をも交えながら解説がなされている。打毬が将軍家から宮内庁に受け継がれたというのは、おもしろい現象であるだろう。
 第3論文は「寺子屋の学びの文化 ― 江戸社会を支えた庶民教育」。ここでは、寺子屋隆盛の主な理由として、種々の社会条件とともにその「楽しさ」が挙げられ、まさしく今日の「くもん式」にも生かされているであろうような、教育上のさまざまなヒントが並べられている。幕末には寺子屋が5〜6万ほどもあったこと、またそこでは、盃で師弟の固めを行なっていたことなど、新鮮な事実も見いだされるにちがいない。
 第4論文では「文明開化で激変した〈子どもの天国〉」が語られ、近代化の光と影とが、学校制度の側面から、教材の側面から、縦横無尽に語られており、文明開化のために喪われてしまった「親和性に満ちた子供の世界」が活写されている。
 第3章は「母子絵へのまなざし」としてまとめられており、中城氏が首尾一貫して描き出したかったであろう「母性に包まれた子供の天国」が、第1論文の「もう一つの美人画“母子絵”」、第2論文の「子ども絵にみる魔除けファッション」、第3論文の「布袋と美女から“おんぶ文化”再考」を通じて展開され、補足として第4論文「〈百子図〉にみる清代中国の子ども観」が置かれている。これらを俯瞰してみると、再度、母子絵の重要性をくり返す必要はあるまいし、子宝を守るための魔除けも、「おんぶ文化」も、それがどれほどの母の想いからくるものなのか、さらなる贅言は、もはや不要であるだろう。

この文章にちなんで、八王子の
「子安神社」を訪ねてみた。
 残された課題は、中城氏みずからの手で「あとがき」に列挙されている。初期錦絵の北尾重政や石川豊雅の作、清長・広重・国芳から歌川芳藤までの作を研究しなければ・・・北斎と歌麿との比較もしたかった・・・浮世絵をめぐるさらなる国際交流も必要だ・・・学際的な対話を通して作品への理解を、さらに深めていくべきだ・・・云々。そしてそこには、次の一文が加えられている。
 「この分野での研究はいまだ半ばであるが、後続の優秀な若手研究者に後を託す時期が来たようだ。本書は、そのバトンタッチのためにまとめた論集である。」
 常に支離滅裂な好奇心に動かされてものを書いている評者からすれば、いつの日にか、こんなカッコいい言葉もしたためてみたいものだ。
ページTOPに戻る
『絵画史料による 江戸子ども文化論集』
江戸子ども文化論集への反響
中城正堯(30回) 2021.09.10

筆者近影
 謹呈した関係者から感想がいくらか届きましたので、参考までに数人の感想概要をお知らせします。

・辻本雅史(京都大学名誉教授・教育思想史)
 「子ども浮世絵」のコレクションは、比類なき素晴らしい限りで、ウェブ構築までまことに敬服するばかりです。公文の文化事業として社会的意義はとても大きいと存じます。その過程での論文の数々壮観です。「子ども浮世絵」「母子絵」と名付け分類した功績、西洋にない日本の特質で、学問的意義や大、ぜひ市販を期待しています。
・常光 徹(国立歴史民俗学博物館名誉教授・高知県出身)
 ご研究のなかでも、「子どもの魔除けファッション―病魔と闘った母性愛の表象―」は、とても興味深く多くのことを勉強させていただきました。私も浙江省の民俗調査をしたときに、赤い腹かけをした子どもを見かけたことを思い出しました。また、カニに関する伝承が浮世絵に描かれていることを知り、中国との交流の歴史の深さを改めて感じました。

「リッタの聖母」レオナルド・ダ・ヴィンチ
 1490年頃 エルミタージュ美術館蔵
・末吉雄二(慶應義塾大学名誉教授・西洋美術史)
 <「もう一つの美人画“母子絵”−歌麿の母性愛浮世絵−」につき、>西洋絵画、例えばネーデルランドの風俗画など、子供のいる場面はありますが、そこに愛情あふれた育児の場面は見当りません。日本独自の文化として誇るべきテーマかと思いました。日本の近代化を語る際、明治維新があまりにも重視され、江戸中期・末期からの文化の連続性が無視・軽視されてきたきらいがあるように思います。この御研究は、歌麿といえば花魁美人図といった先入観から脱し、江戸後期の庶民文化の真の姿を解明し、西洋になかった独自な美点を明瞭に示された、素晴らしいご研究と思います。
・中江利忠(朝日新聞社元社長)
 貴兄の数十年にわたる「子ども浮世絵」の発掘からスタートした日本と東洋・西欧の文化史論の集大成であり、画期的な大事業だと思います。特に最後に「日本にも『国際子ども博物館』を! 」と訴えられたことは極めて意義深いことであり、署名でしたら参加させて下さい。サンペイさんの追悼レターも記されていますが、付き合いの長さでは貴兄が十数年長く、あらためて見直しました。

〈風俗美人時計 子ノ刻」歌麿 
寛政11、12年頃 大英博物館蔵
・安村敏信(美術史家・小布施北斎美術館館長)
 永年の子ども文化研究の集大成として、大変参考になります。とりわけ「おんぶ文化再考」は、興味深く拝読。
・小林忠(学習院大学名誉教授・国際浮世絵学会名誉会長)
 御著書、座右に置いて、種々学ばせていただきます。私の近刊(『光琳、冨士を描く! 』をお届けします。
・小和田哲男(静岡大学名誉教授・日本城郭協会理事長)
 『江戸子ども文化論集』、後半の魔除けに関するあたりが、特に興味深かかったです。
・三山陵(中国民間美術研究家)
 「上方わらべ歌絵本」を大変興味深く拝読。合羽摺も美しいし、素晴らしい資料です。やはり、資料は解る人、必要な人のところに来るのだということも納得です。江戸の教育・文化程度の高さにも一段と感じ入りました。続くポロの話も面白く、八戸に騎馬打毬があることに興味津々です。

「当世風俗通 女房風」喜多川歌麿
 享和頃 公文教育研究会蔵
・野町和嘉(写真家・日本写真家協会会長・高知県出身)
 ライフワークを淡々とこなしておられる、その熱意と好奇心の持続に心より敬意を表します。昨年1月にミャンマーに行ったのを最後に、海外への旅行は遠い昔の話になってしまいました。私がサハラに行き始めて来年でちょうど50年になります。当時の暮らしは歴史記録となっており、また戦乱により、もう何年も立ち入れぬことから、この半世紀間の記録をまとめてみようかと整理を始めたところです。
・大石芳野(写真家)
 ご著書をお贈りくださいまして、誠にありがとございます。1986年からずっと〈子ども浮世絵〉の発掘研究をなされていらっしゃったとは・・・!さすが中城さんです。成果の程は、専門外ですがただただ唸らされる思いです。
・下村幸雄(裁判官・弁護士・23回生)
 この度のご本、隅々まで神経の行き届いた見事な造本で、感服いたしました。中城さんの面目躍如です。歌麿のエロティックな母子像には以前から見慣れていますが、それが西洋の聖母子像と影響し合っていることなど、露知らず、子ども群像に至っては、その存在さえ知りませんでした。

「浴槽のディアーヌ・ド・ヴワチエ」
フランソワ・クルーエ 16世紀
シャンティイ城美術館 筆者撮影
・浅井和子(弁護士・元ガーナ大使・35回生)
 子ども浮世絵を読む楽しさを御紹介下さり、私も子どもの頃を思い出し、楽しいひとときを過ごさせていただきました。それにしましても、寺子屋では女の子も手習いをしていたことを知り、びっくりいしました。その自由な伸び伸びとした雰囲気に江戸町民の自由闊達な生活があり、300年続いた江戸の平和を改めて知ることが出来ました。子どもの姿、表情にその社会が顕れています。歌麿の母子絵と比べ、クルーエの「浴槽の・・・」のなんとつめたいことか。
・公文敏雄(NPO法人役員・KPC会長・35回生)
 ご研究の成果がふんだんに盛り込まれて、長年のお働きが伺え、敬服いたしました。このごろ縄文文化が見直されていますが、江戸時代も、我々が教科書で読んだ階級差別、庶民の苦しみ、百姓一揆の頻発などの自虐的記述に虚偽・誇張が多いとの研究結果が発表されるようになりました。浮世絵は江戸の庶民の暮らしぶりの一端を伝えるアートかつ貴重な歴史資料でもありますね。

 (以上いずれも私信の一部であるが、著者にとって嬉しい反響であり、紹介させていただいた。中城)
ページTOPに戻る
青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感
竹本修文(37回) 2021.09.19

筆者近影
 9月7日投稿の「トルコのイスラム寺院のタイル」のカバーレターに、フェルメールの事を書きました。17世紀はトルコもオランダも全盛期であり、オランダはポルトガルが開発した喜望峰周りの航路を奪ってイスラム国インドネシアにオランダ東インド会社を設立して、香辛料を中心に莫大な利益をあげました。
 フェルメールの出身地であるオランダのデルフトもロッテルダムの隣りの港町であり、東インド会社の船が出入りしていた。フェルメールの真珠の耳飾りの少女の青いターバンはイスラム国との交易が関係しているか?と考えたり、風車とチューリップで有名なオランダだが、両方ともトルコから取り入れたと聞いていたから、何か関係があると思った事でしたが、外れました。
 困っていた所に、西内先輩からスペインとオランダの旅行の関するメールを頂き、当初の期待とは異なりますが、一般受けするかも知れないと思って書きました。

青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感

はじめに 1 オランダの概要

2 正式の首都:アムステルダム

3 アムステルダム国立美術館

4 事実上の首都:デン・ハーグ 5 真珠の耳飾りの少女にまつわる話 

6 オランダの黄金時代17世紀

オランダ西インド会社 デルフト(の)眺望

青で広がる 〜フェルメールとオランダ雑感
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

ページTOPに戻る
アラブの唐草模様とフェルメールの青
西内一(30回) 2021.09.19

筆者近影
竹本大兄
 介護に追われ返信もままならないところ、ご無沙汰ご挨拶代わりに、本題とは離れますけれども、アラブの唐草模様・フェルメールの青での思い出を一寸ご報告。

 アラブの唐草模様の思い出は、何といってもスペイン・アンダルシア。著名なコルドバのメスキータ(写真を添付)、セビリアのアルカサル、そしてグラナダのアルハンブラ。
 ただ、城郭探訪なのでそれらの写真まで撮る暇はありませんでした。あるのはマドリードで行ったフラメンコ鑑賞での一葉。ダンサーを撮ったのですが、壁面の唐草模様も見事。


コルドバのメスキータ

壁面の唐草模様

フェルメールの青の思い出はアムステルダム。
 大勢の仲間がゴッフォ美術館に出かける中、一人でアムステルダム国立美術館に門外不出と言われるレンブラントの夜警を観に参りました。
 そうしたら、その傍にフェルメール室があり、著名な「牛乳を注ぐ女」や「手紙を読む青衣の女」を観ることが出来ました。
 アムステルダムのもう一つの思い出は、久良木君から薦められた世界一と称される花市場。
 城郭で言えば、スキポール空港着陸時に窓から見えた、五陵郭、四陵郭の数々。
ページTOPに戻る
オランダ黄金時代の跡
香料列島モルッカ諸島
中城正堯(30回) 2021.09.19


筆者近影
 竹本さんの「オランダの黄金時代17世紀」に、オランダ東インド会社につき、「1665〜1667の第二次英蘭戦争でイギリスが勝利してマンハッタン島を獲得して、ニューヨークにかえた」と出てきます。このマンハッタン島は、多くの皆様が訪問したと思いますが、この島とオランダが交換で入手したとされるモルッカ諸島のバンダ諸島は、ほとんど知られていないので、筆者が訪問した1996年4月の写真を少しご紹介します。
 なお、香料列島のバンダ諸島をめぐっては、16、17世紀に貿易の主要商品であった香料の丁字(クローブ)やナツメグの獲得をめざし、現地先住民・英・蘭で激戦が繰り広げられます。しかも、17世紀初頭には、関ヶ原で敗れた西軍の残党兵がオランダ軍の傭兵となって、この離島まで動員されています。近年、日本の歴史家も研究しているようです。現地の小さな郷土博物館で、日本刀を振りかざして戦うサムライの油絵を薄暗い壁面で見かけ、撮影しましたはずですが、残念ながら見当たりません。
 手元にある、英・蘭・日・先住民4者入り乱れての強者たちの夢の跡をご覧いただきます。今は、真っ青な海に緑の小島が点在する別世界です。なお、バリ島から飛行機でモルッカの中心都市アンボンへ飛び、バンダ諸島へはここから客船で一泊の旅、もうニューギニア島に近いとびきりの離島でした。

勇猛な海洋先住民の伝統的なボートレース

古舟の図を持つ村人。今はイスラム教徒だ。

今も実るナツメグの実。
果肉のジャムも美味しかった。

ナツメグの種。
これが香辛料になる。

伝統的な武将の装束を付けた村人。
兜飾りに珍しい熱帯の鳥。
ページTOPに戻る
「青」は深まり、「青」で深まる
冨田八千代(36回) 2021.09.26

筆者近影
 今日9月25日、自然観察会が開かれました。6月の観察会から、3か月が過ぎました。この間に、KPCのホームページでは、翡翠の青い直線が延びて北斎の「青」につながりイスラム寺院の「青」やフェルメールの「青」に広がりました。みなさんの認識と見聞の広さ深さ確かさの賜物です。古今東西の色々な様子が記述されました。青色の事にとどまらず、様々な事柄がとても深まりました。「青」を通していろいろなことを知りました。
 拝読を通して、自分の疑問を居ながらにして解決していただきました。博学さを分けていただきました。3つは魅力的な美しい青ということが共通点だと分かりました。強い結びつきはありません。寺院の建物の「青」なのに、イスラム教の「青」と思い込んで興味を持ちました。そうではありませんでした。今日、観察会の報告をした本人にきいたら、やはり、「イスラム教なんて言ってないよ。」でした。
 竹本さんをはじめ皆さんの記述が分かりやすく面白くて惹きつけられました。画像の美しさにも見入りました。画像は、単に図鑑や写真集からではなく、執筆者の写された物や選ばれた物ということで親近感がわきました。今まで難しそうだと素通りしていたお城や歴史などのお話も今後は拝読します。今後のHPが楽しみです。AOのOはIにも変えられると、勝手にわくわくしてしまいました。


(写真は全て友人の撮影)
 今朝の翡翠の姿をお送りします。今朝は飛んでくれませんでした。池の直径は120m位で公園の広さは東京ドームの半分ぐらいだと初めて知りました。思っていたよりとても広いのです。6月の翡翠の線も30mぐらいかと思っていましたが、もっと長かったのです。ここで観察会を始めてもう20年にもなるのに、自分の感覚の曖昧さを痛感した次第です。
 
 
ページTOPに戻る
二つの写真展
榎並悦子写真展、関健一写真展
藤宗俊一(42回) 2021.09.28

榎並悦子写真展 『インド・アパタニ族 暮らしと信仰』

新宿ニコンサロン

2021.9.28(火)〜10.11(月)

 インドの北東部、アルナチャール・プラデーシュ(Arunachal Pradesh)に暮らすアパタニ族の集落を3年にわたり取材した。中国との国境問題が未解決で、入境するためには特別な許可が必要ということもあり、アパタニに関する正確な情報はまだまだ乏しい。村で目につくのは日の丸に似た「ドニ・ポロ」の旗だ。太陽と月を崇める彼らの信仰のシンボルである。最大規模の祭りは「ミョウコウ」で、先祖を祀り豚やニワトリなどを供犠して豊作や健康を祈願する。9つの集落が3年交代で祭りを受け持ち、それぞれの地域が交流する大切な社交の機会でもある。 アパタニの年配者は顔のタトゥや髷、女性は竹墨で作った鼻栓が印象的だが、現在は禁止されている。近代化とグローバル化により、彼ら独自の文化や生活様式も変わりつつあるが、永年の間に培ってきたコミュニティの姿はまだまだ健在だ。そんな姿を記録したいと考えた。
榎並 悦子……野町和嘉氏(高知出身の写真家)の御妻女

関健一写真展 『カルパチア山脈の木造教会 
            --スロバキア・ポーランドの辺境を歩いて』

オリンパスギャラリー東京 

2021.9.30(木)〜10.11(月)
 2年ぶりに個展を下記のように開催することになりました。皆様のお出でをお待ちしております
場所 オリンパスギャラリー東京 
 新宿駅西口都庁方向へ歩いて5分
 新宿区西新宿1-24-1 エステック情報ビルB1F Tel 03-5909-0190
会期
 2021.9.30(木)〜10.11(月)ただし10.5(火)10.6(水)は休館
 10時?18時 だたし最終日は15時で閉館
フォト・ギャラリー連絡会の申し合わせで祝花は固くお断りいたします
関 健一……大学同期の写真家、東大写真部顧問

ページTOPに戻る
大英博物館の葛飾北斎の特別展
竹本修文(37回) 2021.10.03

筆者近影
 皆様、お変わりありませんか?青シリーズの投稿が続きました。

 私は、知識が無いのですが、ロンドンの大英博物館で葛飾北斎の特別展「北斎―万物絵本大全図」が始まりました。コロナが無くても簡単に行ける所ではないのですが、URLを貼り付けましたので、ご覧ください。
 協賛の朝日新聞のあいさつ:下に貼り付けた大英博物館のサイトURLに出ています。
@英文:Exhibition supporter The Asahi Shimbun Company
 The Asahi Shimbun Company is a longstanding corporate sponsor of the British Museum. The Asahi Shimbun is a Japanese leading newspaper and the company also provides a substantial information service via the internet. The company has a century-long tradition of philanthropic support, notably staging key exhibitions in Japan on art, culture and history from around the world. In addition to supporting Hokusai: The Great Picture Book of Everything, The Asahi Shimbun Company also supports The Asahi Shimbun Displays in Room 3 and is a committed supporter of the British Museum touring exhibition programme in Japan. They are the funder of The Asahi Shimbun Gallery of Amaravati sculpture in Room 33a of the British Museum, and a supporter of the iconic Great Court.
A和文:
 「朝日新聞社は、大英博物館の長年にわたるスポンサーです。朝日新聞は日本の主要な新聞であり、また、インターネットでも充実した情報を提供しています。文化活動支援の分野では100年にわたる伝統を持ち、日本において、世界の芸術、文化、歴史に関する主要な展覧会を開催しています。特別展「北斎―万物絵本大全図」の協賛に加えて、ルーム3「朝日新聞ディスプレー」の展示や、大英博物館の日本巡回展もサポートしています。さらにルーム33aの「アマラヴァティ彫刻・朝日新聞ギャラリー」創設に出資し、グレート・コート建設も支援しました。」
B追加コメント:
 数年前に、上野の東京都美術館で大英博物館展が開催されて、中城様から招待券を譲って頂きました。特別な方々に限定して招待した展示会で、今話題の真子さまが着物姿でイギリス駐日大使をお迎えし、大使のご挨拶に続いて、シャンパーニュ(シャンペン)とスモークド・サモンなどのご馳走ありました。中城様は浮世絵の専門家とも知らず、教皇ヨハネ・パウロ二世に個人的に謁見された写真をみて、「この方は何者だろう?」と思っていましたが、A項の大英博物館の日本巡回展もサポートしています の記事を見て、納得しました。
大英博物館のサイト
   URL-1?? British Museum
   URL-2?? Hokusai: The Great Picture Book of Everything | British Museum
   URL-3  The Great Picture Book of Everything; Hokusai's Unpublished Illustrations | #CuratorsCorner S6 Ep8 - YouTube
余談
 ロンドンは大英博物館、パリはルーブル美術館という、展示内容に若干の違いはあっても、ジャンルとしては殆ど同じなのに、博物館と美術館は何が違うのだろう?コロナ自宅軟禁で時間があるので、調べてみました。
@?博物館:
 広辞苑:考古学資料・美術品・歴史的遺物その他の学術的資料を広く蒐集・保管し、これを組織的に陳列して公衆に展覧する施設。また、その蒐集品などの調査・研究を行う機関。
 オックスフォード現代英英辞典:A building in which objects of artistic ,cultural, historical or scientific interest are kept and shown to the public
A美術館:
 広辞苑:美術品を収集・保管・陳列して一般の展覧・研究に資する施設。研究と企画展示のみを行う施設を指すこともある。博物館の一種。
 ジーニアス和英辞典:Art Gallery [museum]?
   例1 ボストン美術館 The Museum of Fine Arts, Boston.
   例2 多摩美術大学 Tama Art University

B仏和辞典 Le Dico
 Musee 「美術館、博物館、資料館 Musee du Louvre

C私の結論は、
 欧州のmuseumはプトレマイオス朝の言葉が語源で美術館を含んだ博物館だが、日本には昭和26年にできた博物館法があり、博物館法の適用を受ける博物館は、難しい事が沢山かかれていて、説明できません。
以上です

竹本さん
 「大英博物館で葛飾北斎の特別展」との情報有難うございます。
 関連サイトを一覧して、大英博物館の企画・実行力に今更ながら驚きました。
 AMAZINGです。
公文

竹本さん
 大英博物館で葛飾北斎の特別展に関して、メールをありがとうございました。
 この新聞記事を読んだ時に、真っ先に竹本さんが浮かびました。
 イギリス、ならば竹本さんと。和文のご配慮も大助かりでした。
 この展覧会が、日本でなくイギリスで開かれていることに、日本人の1人として複雑な気持ちになります。この北斎の「失われた作品」といわれている作品は、色々な経過を経て、2020年に大英博物館が購入、収蔵とか。日本は全くかかわっていません。作品の価値を認めたことに感謝すべきでしょうね。
 ついでに、お礼を申し上げます。
 少し前にアムステルダム国立美術館で特別展開催中の記事が目に留まりました。
 まず、その美術館の名前に冠した<レンブラントの「夜警」で有名な>で、KPCのHPの西内一氏の執筆の中にあったと思い出しました。そして、竹本さんの「青で広がる〜フェルメールとオランダ雑感」の内容を思い出しました。特別展は竹本さんの記述と重なる時代のものでした。
 以前だったら、外国の話題と素通りしたでしょう。ありがとうございました。
冨田八千代

皆様へ
 体調不良で、しばらくパソコンから離れていましたがいくらか回復し、メールを拝見しました。その中で、大英博物館の北斎展が話題になっておりますが、この展覧会には大きな問題があります。
 新発見として話題になっている大英展の目玉「萬物繪本大全圖」は、弟子の北斎為斎の作とする有力な説があります。
 「子ども浮世絵」の研究仲間で、ヨーロッパの浮世絵研究事情に浮世絵学会でも最も精通している及川茂・日本大学名誉教授は、「昨年6月にパリのザザビーズに“為斎筆と思われる”として出品されたが、大英博物館が“北斎筆”として評価額の約十倍13万ユーロで落札。北斎と為斎の研究家ベルナール・ルソーさんは、“これは為斎の作品”と語っていた。残念ながら昨年末に亡くなられた」と述べています。
 明治以降、北斎が有名になり、弟子の作品を“北斎作”として高値で輸出されることが多々ありました。北斎と鑑定・購入した大英博物館の浮世絵担当ティム・クラ―クさんの勇み足かと思います。
 ただ、意図的に北斎風に偽作を作ったわけではなく、弟子の作品を師匠の作品と学芸員が誤認したわけです。欧米の、北斎や歌麿の作品にはこの様な例が多く要注意です。それにしても、浮世絵関係者として大変残念なことです。以上、ご参考まで。
中城正堯
ページTOPに戻る
大石芳野写真展『瞳の奥に〜戦争がある』
大石芳野(写真家) 2021.10.05


武蔵野市立吉祥寺美術館

2021年10月16日〜11月25日(休館日10/27、11/25>


 いまの武蔵野市は井の頭公園をはじめ緑豊かです。そのうえ吉祥寺駅や三鷹駅周辺は映画館や劇場、図書館などを始め商業施設も多く住みやすいまちです。ところが戦時中は市内に軍需工場「中島飛行機武蔵野製作所」があり、零戦や隼などのエンジンを生産していました。そして真珠湾攻撃から始まる太平洋戦争へと突入したのです。
 武蔵野市は米軍の標的となり1944年11月24日に本土で初めての空爆を受け、9回にも及び工場は壊滅的となりましたが、住民に数多くの犠牲が出ました。以降、日本各地が多大な空襲を受けました.(沖縄は同年10月11日)。
 武蔵野市は10年前に平和の日条例を制定しました。私が取材した体験者たちの「戦争は絶対ダメです」という切なる声を受けて、写真展をご案内のように開催することになりました。
 武蔵野市在住の方々ばかりでなく、沖縄、東京、広島、長崎で戦争被災に遭った「かつて、子どもや若者だった」人たち、そして、海の向こうで同時代的に戦争に苦しむ「子どもや女性たち」。両者を重ね合わせることで見えるもの、感じられることが浮かび上がってきます。
 戦争が遠くなって平和と言える私たちの日常ですが、戦争を体験した一人ひとりの瞳の奥にはまだ戦争が残っています。もう平和なのに…と私たちは思いますが、戦争は末永く続くのだと突き付けられます。笑顔も、寂しげな顔…もありますが、瞳の奥に漂うそれぞれの拭いきれない記憶を写真から感じて共有していただければさいわいです。
 ●コロナ禍ですが、状況が許されましたら是非お立ち寄りください。
 ●ご体調が優れない、ご多忙中、ご遠方などの方々は添付のチラシなどをご覧ください。
大石芳野写真展『瞳の奥に〜戦争がある』
場 所:武蔵野市立吉祥寺美術館(吉祥寺駅北口から3分)
    武蔵野市吉祥寺本町1-8-16コピス吉祥寺A館7階phO422-22-0385.)
開催日:2021年10月16日〜11月25日(休館日10/27、11/25>
開催時間:10時〜19時30分
入館料:300円(中学牛100円、小学牛以下・65歳以上・障がい者の方々は無料)
ページTOPに戻る
発刊の御挨拶
著名人の投資歴(U)
故鍋島高明氏(30回)御妻女 2021.10.08

故 鍋島高明氏
謹啓
 秋風を感じる日も多くなりコロナの猛威も少し収まる気配を感じるこの頃でございますが、皆様におかれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。
 さて、短い闘病で亡くなりました夫、鍋島高明が生前から原稿と併せて贈呈先リストまで準儀しておりました、書籍「著名人の投資歴II」が発刊に至りました。ここに進呈申し上げる次第でございます。

 彼は著名人の投資歴(T)の挨拶文の中で"しばしば飛び込んでくる旧友の訃報に『あんなに元気だったのに』と驚かされながら、寄贈者のリストにまた一行、斜線を引くのは寂しいことです”と書いておりましたが、本人もどんなに無念だったかと掛ける言葉も見つかりませんでした。
 今年3月頃から好物の竹の子を存分に頂き、午後からはいつもの仕事場に向かう日課でした。コロナ禍でワクチンを打ち終わったら高知へ行こうと大変楽しみにしておりました。6月6日2回めのワクチンを終え、東村山駅前にある志村けんの(銅象は未完成でした)記念樹を見て帰宅。翌日東久留米の仕事場に私も久方ぶりで同行しました。主人は『順調に書けた』と気分良く2人で冷たい飲み物で美味しい!!と乾杯したものでした。このときのコラムが最後になりました。

 4、5月頃から食事を少し残し始めやっと6月9日、近くの医院へ出向き、生まれて初めて胃カメラを呑み、そこで病巣を発見した次第です。その後間もなく書いていた原稿を全て断り、何よりも大切であった本の処分を伝えられました。セカンドオピニオンとして国立がんセンターに行った帰路、日本経済新聞社から早稲田大学を巡り「もう心残りはない」と静かに申しました。
 夫はこのような最期を迎えましたが、ここに市場経済研究所の長谷光則さんのお力添えを頂き、このように出版するに至りました。どうかお気に召すページがございましたらお目通し下さいませ。そうして頂きますことが何よりも故人への鎮魂になるかと存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。
 長きに亘り鍋島高明を支えて頂き心から感謝とお礼の気持ちでいっぱいです。本当にありがとうございました。
敬具
 令和3年9月
鍋島ウタ子

著名人の投資歴(U)  市場経済研究所  定価1650(税込)円


弔電(2021/7/20)
 鍋島高明君ご逝去の知らせが届き、春に受けた新著脱稿の元気な声が耳に残っているだけに驚愕しました。おそらく次作執筆のペンを握った心境での最期かと思われご本人は本望でも奥様 はじめご家族にとっては痛恨の極みかと拝察致します。思いかえせば土佐中高時代から東京野方での大学生活、マスコミ界での現役・OB時代と生涯のよき友でした。
 啄木が登場する異色の商品市況記事から『大番頭金子直吉』『高知経済人列伝』など、厖大な史料渉猟と綿密な取材による独自の経済人評伝は不滅の功績です。ご本人は「終生一相場記者」 と称していましたが、希有な経済ジャーナリストでありノンフィクション作家でした。
 ご冥福をお祈り申しあげます 合掌 
中城 正堯

●長い間、心に留めて頂きありがとうございました。心よりご冥福をお祈り致します。(編集人)
ページTOPに戻る
17世紀のオランダ東インド会社の活動
竹本修文(37回) 2021.10.10

筆者近影
 2021年9月に投稿した「青で広がる〜フェルメールとオランダ雑感」の第6項で「オランダの黄金時代17世紀」で、オランダ東インド会社とオランダ西インド会社に触れたところ、9月19日付で中城様が、「オランダ黄金時代の跡〜香料列島モルッカ諸島」で、筆者が全く知らなかったオランダ東インド会社のDeepな情報を、現地訪問記を含めて投稿されご紹介頂きました。
 中城さまが、現インドネシアのモルッカ諸島を訪問された事実を知っただけで驚いたのですが、日本人が傭兵としてオランダ軍に加わってイギリスと戦った事を知って興味がわき、不十分ですが、オランダ語の記録を英語に訳した文献で調べてみました。

17世紀のオランダ東インド会社の活動

1. インドネシアの概要 

バンダ諸島

2. オランダの進出

アンボイナの虐殺 バンダ・ネイラ島の要塞 

3. 日本の関わり

17世紀のオランダ東インド会社の活動
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)




竹本修文様

バンダ・ネイラのベルギカ要塞(絵葉書)
Air view of Fort Belgica(1611) Foto by Des Alwi
 香料列島をめぐる英蘭の争いの歴史、語学力を駆使しての解説で、大変よく分かり、勉強になりました。感謝します。
 小生は、辺境を尋ねるとだいたい新聞雑誌に記事を書いてきましたが、この時だけは現地で痛風を発病、激痛で歩けなくなり、バリ島までたどり着き現地の日本人によい病院を尋ねましたが、自分たちは病気したらシンガポールまで飛ぶと聞かされ、あきらめました。帰国後に収まりましたが、いまも尿酸値を下げる薬が欠かせまません。その為、この探訪記は書かず仕舞です。現地で購入した、『MALUKU? THE ?MOLUCCAS』(Periplus)も本棚に眠ったままでした。ガイドブックですが、ご興味があれば、差し上げます。
 なお、日本人には、肉食のヨーロッパ人にとって当時香辛料が如何に貴重であったか、300倍になった背景の食文化に触れると、より英蘭による争奪戦の背景が分かりやすいかと思います。
中城正堯

竹本さん
 16世紀はポルトガル対スペイン、17世紀はオランダ対イギリスということで、モルッカ諸島は抗争が絶えなかったことがわかりました。あちこちに城塞が作られたのも納得です。実効支配のアピールでもあったか? 日本人といえば、山田長政がタイで活躍したのが1612〜30ごろだそうですから、 このころ周辺に日本人傭兵が登場したのも不思議はないですね。 資料渉猟お疲れさまでした。 公文
 日本人といえば、山田長政がタイで活躍したのが1612〜30ごろだそうですから、このころ周辺に日本人傭兵が登場したのも不思議はないですね。
 資料渉猟お疲れさまでした。
公文

竹本様
 脱帽、脱帽、脱帽です。驚きました。非常に驚きました。以下は驚いたわけです。
 中城さんの「オランダ黄金時代の跡―香辛列島モルッカ諸島」を拝読し、なぜ日本人がオランダ軍の傭兵としてイギリス人と戦ったの?それほんとうのことなの?、どうして?と思いました。もっと知りたいとの興味も沸きました。しかし、そこでおしまいでした。この点は、竹本さんが冒頭に名文で書かれたことと同じです。
 ところが、その続きが、この大論述。昨夜、拝読して、この雲泥の差、天は宇宙の果てまでもの大きな大きな違いにショックを受けました。昨夜、拝読して、この雲泥の差、天は宇宙の果てまでもの大きな大きな違いにショックを受けました。徹底して追求された態度との違いは何だろうと、今日はずっと、頭の中を占めていました。能力や経歴の差は歴然ですが、それで逃げてはいけないと自分を戒めました。完璧、綿密、ち密です。気迫すらを感じました。
 いままでは、立派な記述をされる方と、難しそうだと感じたら、文章を斜めに眺めたり飛ばしたりしました。それは自分自身とは程遠い内容でしたから。(最近は、読んでいます。今回出てきた五稜郭もすぐに思い出しました。)ところが、今回は、瞬間的にはほぼ同じ感想だったと思います。その結果が、雲泥の差。最初にかえります。脱帽、脱帽、脱帽です。
 早く日本人の傭兵が登場しないかと読み進めました。ところが、竹本さんの説明では、オランダ軍の傭兵だけではありません。軍隊と商社との違いはあるものの、オランダにもイギリスにも、日本人が関わっていたのですね。イギリス東インド会社には「雇われる」ということは就職していたということでしょうか。最後の「3、日本の関わり」では、日本人が東南アジアに渡ったことは分かります。が、どのような経過で、外国軍の傭兵になったかの経過は分かりません。(これは、竹本さんを責めているのではありません。よろしく。)この辺りに住んでいた日本人が日本人町として栄えていたら、参加しなかったのではと、ふとよぎりました。
 本当に長々とすみません。この大論述を拝読して、竹本さんにお願いをしたくなりました。ここで、思い出したのです。恥ずかしくなりました。皆さんの中にこうして入らせていただいたのは、翡翠さんや北斎様のおかげです。それがきっかけです。自分の力ではありません。でも、やはり、ずうずうしく書かせていただきます。二つです。
*翡翠の着地点を思いつきました。「JAXA竹本さんと青空」です。カワセミをもっと飛ばしていただけませんか。宇宙飛行士からは、空は黒でしょうが、私たちが見上げる空は「青」です。海を見ない人はいても、空を見ない、空に合わない人はいません。その空での宇宙開発研究の大元締めの竹本さんには、きっといいお話があると思います。きかせていただけませんか。
*土佐の浮世絵師、絵金の住んだ赤岡の酒蔵とは地続きのあたりが故郷でしたね。中城さんの助言はいただいても中城さんを気にされずに、ぜひ絵金さんを紹介してください。竹本さんの絵金像をお聞きしてみたいと思います。

 今回も「17世紀のオランダ東インド会社の活動」の様子を居ながらにして詳しく知ることができました。ありがとうございました。
冨田 
ページTOPに戻る
榎並悦子『APATANI STYLE』を読んで
ヒマラヤ南麓の愛しき稲作民
中城正堯(30回) 2021.10.15

筆者近影
 榎並さんの、インド北東部アルナチャール・プラデーシュ州アパタニ民族の暮らしと信仰をテーマに撮影した写真集、『APATANI STYLE』を手に取った。表紙にも、裏表紙にも、黒い鼻栓を付けてタトウーをしたふしぎな顔付きの老婆が登場している。日本人と同じモンゴロイド系の顔付きだが、初めて見る珍奇な鼻栓と優しげで親しみの持てる表情の取り合せに魅せられ、ページをめくる。

著者の榎並悦子氏と
アパタニのNibu(Priest/shaman)
 本文は、この知られざるアパタニ民族の四季の暮らしを、稲作などの生業、伝統的な信仰と宗教的行事、衣食住など生活文化からきちんととらえた、見事な映像民族誌になっている。ここは脇田道子氏が本書への寄稿で述べているように、中国との国境問題が未解決で、外国人の入域は制限され、文化人類学者などの本格的な調査もされていない。だが、厳しい地理的環境と政治的条件によって、外来文化の流入を遮られてきたこの地域も、次第に近代化の波に洗われている。若者たちの提案で、鼻栓やタトウーは禁止する一方、キリスト教の布教に対抗、太陽と月を崇める伝統的なドニ・ポロ信仰に、教典の編纂や日曜集会を取り入れ、独自の民族信仰強化にも取り組んでいる。伝統文化の、自分たちによる改良が進んでおり、古来の習俗が変容しつつあるこの時期(2017〜19年)に撮影された映像記録は、学術的にも大変貴重である。

鼻栓・タトウー・首飾りの老女
 小鼻の両側に穴をあけ、木栓をした鼻栓やタトウーは身体加工の一種だ。筆者が1994年にタイ北部山地で訪ねたミャンマーから移住したというバタウン族の女性には、首に真鍮の管を巻き、成長と共に管・首を伸ばす風習があり、首長族とも呼ばれる。これらは、かつては西洋文明人によって未開・野蛮のシンボルとされた。しかし、ヨーロッパ貴夫人のコルセットによる胴のくびれも、中国婦人の纏足も、まさに身体加工である。現在は美容整形から豊乳手術まで、むしろ“文明社会”で大流行だ。身体加工による未開と文明の概念は、再検討が迫られている。

祭りで正装の女性
穏やかで優しげな表情だ
 写真を眺めるうちに、民族誌としての記録を超えた魅力に取り憑かれていった。それは、村人たちの穏やかで優しい表情である。鼻栓やタトウーを超えて、村人は親しみの持てる人たちばかりで、画面からやさしく微笑みかけてくる。従来の民族写真集は、秘境の特種な風俗・習慣とその後進性を強調する傾向が見られた。このアパタニの人びとは、自分たちの伝統文化に自信を持って大自然の中で平和に穏やかに暮らしているようだ。日々の仕事に追われる文明社会のサラリーマンとことなり、四季折々の生活に満足して楽しく過ごす安らぎの表情を浮かべている。農繁期を終え農閑期を迎えると、祭りを楽しみつつのんびり過ごせるのだ。単なる民族写真集ではなく、この民族の魅力をしっかり表現、素晴らしい人間記録になっている。これは、既刊『Little People』などでも見られる榎並さんならではの、長期間ホームステイしてすっかり溶け込み、対象の信頼を得たうえでのカメラワークの賜であろう。

タイ北部のバダウン族。 少女 と

母子  …………  (中城撮影) 
 近年、あまり見られなくなった民族写真集の傑作であり、榎並さんの代表作にあげられる。近代人が科学文明発達にともなう、地球環境破壊や人間性喪失で苦しむなか、日本でもかつて見られた自然に寄り添って生きる本来の人間の姿を思い出させてくれる。  なお、このアルナチャール・プラデーシュの民族社会に、戦後いち早く目を付け、1953年から3年間にわたって、滞在研究したのが社会人類学者で東大教授・中根千枝であった。中根はカルカッタ(コルカタ)を基地に、インパール、ゴウハティ、ガントーク(シッキム)などに飛んでは単身でさらに奥地に分け入り調査を続けた。この旅で出会った人々との交流を中心に綴った『未開の顔・文明の顔』(中央公論社、1959年)が話題になり、筆者もこの地域の人びとにとりつかれた。

生後一週間の赤ちゃんを抱く、
アパタニ民族の若い夫婦
 1992年に、この地域が外国人にも開放され、許可を得れば入域が可能となり、早速申請した。当初は、中根も訪ねたインパールから民族文化の宝庫ナガランドへ入りたかったが、渡航直前にここは再び入域禁止になり、インパール近郊のロクタク湖浮島に住む湖上の漁民や、アッサムの竹材を扱う民族、世界一雨量が多いシロンを訪ねた。どこもモンゴロイド系の先住民と、アーリア系中央政府の対立があり、シロンでは到着した日に紛争が勃発、翌日軍の護衛で退去させられた。後に、シッキムやブータンも訪ねたが、親しみやすい人びとばかりで、民家にもよく招かれた。ただ、民族宗教は衰え、多くがチベット仏教に深く帰依していた。この間、アパタニ民族のことは、全く知らなかった。
 では、筆者の撮影したインパール近郊の浮島漁民などの様子が、1993年2月29日の『アサヒグラフ』に掲載されたので、その一部を紹介しよう。
<写真>(アパタニ民族の写真は、全て本書より)
 ≪注≫榎並さんは、高知出身の野町和嘉さん(世界的フォト・ジャーナリスト)と、写真家夫妻で、中城や藤宗もメンバーの、ジャーナリストや写真家による情報交換会「トータス(陸亀)21」の仲間です。
インパールの浮島漁民と山地民。(アサヒグラフ誌より)。






ページTOPに戻る
知られざる 〜 山田長政 〜
竹本修文(37回) 2021.10.19

筆者近影
はじめに
 本年10月10日付で投稿した「17世紀のオランダ東インド会社の活動」に対して、公文さまから、「日本人と言えば、山田長政がタイで活躍したのが1612〜30年ごろですから、この頃周辺に日本人傭兵が登場したのも不思議はないですね。」と、コメントを頂きまして、何十年も忘れていた彼の活動を読み返しました。次に、英語のサイトでYamada Nagamasa を検索すると、日本語のサイトに無い記事が出て来たので、いくつか紹介します。右の画は静岡の浅間神社蔵
 ところが、10月16日に中城さまから、「日本と世界の歴史 第14巻 17世紀」(学習研究社 昭和45年10月1日発行)の別刷りを頂き、朱印船貿易、南洋の日本町、及び山田長政の記事の要点を、第2章に記載する。

知られざる 〜 山田長政 〜

はじめに 第1章.16世紀の世界の状況

第2章 17世紀の東南アジアの状況

第3章 朱印船貿易

第4章 山田長政

第5章  朱印船の主な航路(赤)と日本人町(赤旗)

第6章  山田長政の軍隊

知られざる 〜 山田長政 〜
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

ページTOPに戻る
関健一写真展
カルパチア山脈の木造教会
関健一(写真家) 2021.10.20
スロバキア・ポーランドの辺境を歩いて

聖ユライ聖堂
ヤロバ1792

聖ミハイル聖堂
マティソヴァー1833
 ヨーロッパの教会は石造りと思っていましたが、カルパチア山脈の一帯に行くと木造教会がたくさん建っていました。
 山脈の西半分の南北に位置するスロバキアとポーランドを訪ね木の文化を撮影してきました。日本でも寺社建築は伝統的に木造ですが最古の法隆寺からすでに洗練され完成した様式を持っていました。しかし、カルパチアでは素朴で野性的かつ多様性に富んでいて、木が持つ力を生で感じさせてくれます。そんな魅力に取り憑かれて交通不便な国境地帯を巡ってきました。近年は世界遺産に何棟もが登録されていますが人影稀なところがほとんどです。
 この地域は過去戦乱が多くあり、国境や支配者の移り変わりの激しいところでした。宗教的にもローマ・カトリック、ギリシャ・カトリック正教会、プロテスタントがいりまじり、国名を負うスロバキア人、ポーランド人に加え、ウクライナ人、トルコ人、ボイコ人、ルーシ人、ドイツ人、ハンガリー人などが住んでいます。文化的にも西ヨーロッパ、ロシア、ビザンチンの影響が重なり合います。このことがさまざまなスタイルを産むことになりました。コロナが落ち着いたら山脈東部のルーマニア、ウクライナでも木造致会巡りをしたいと思っています。

ローマカトリック聖堂
使徒聖ピリポと聖ヤコブの聖堂
センコバ1520頃

ギリシャカトリック聖堂
生神助女庇護聖堂
ミクラショヴァー1730

プロテスタント教会
福音派教会
フロンセク1726

東方教会(ギリシャ・力トリックと正教会)について
 現在日本でのキリスト教はプロテスタントとローマ・カトリックが大半をしめている。この冊子記載の聖堂ではギリシャ・カトリックが半数以上になる。ギリシャ・カトリックと正教会の2つは16世紀末に分かれたが、典礼も聖堂様式も共通している。日本ハリストス正教会の用語になるべくならって各教会の説明をしていく。特徴的な例をいくつかあげる、括弧内が意味になる。ハリストス(キリスト)、生神女(聖母マリア)、生神女就寝(聖母マリアの死、聖母被昇天の教義は取らない)、神品(聖職者、下位の神品には女性も)、機密(秘跡、礼典、広い意味では福音信仰なども含まれる)、機密制定の晩餐(最後の晩餐)、イコン(聖像ハリストスや、聖人、聖書の出来事などの画像)

聖堂平面図
 この地域のギリシャ・カトリックと正教会の聖堂は3室構造のものが多い。入口は西側に作られることが多い。西側から1室目が玄関間、2室目が礼拝を行う聖所で、その先にイコンに覆われた壁があり、これをイコノスタシス(聖障)と呼ぶ。イコノスタシスには3つの扉があり、中央を王門という。ここから先の3室目は至聖所といい、神品(聖職者)のみが入ることができる。
 ユネスコの世界遺産の説明では、カルパチアの東方教会の聖堂を「ポーランド語ツェルキエ、ウクライナ語ツェルクワ」と表現して、レムコ型、ボイコ型、フツル型、前期ハールィチ型、後期ハールィチ型の5つのスタイルに分類している。レムコ型は東西に並ぶ3室構造の上にそれぞれ塔があり、西塔が一番高く東塔が一番低い。ボイコ型は3室の上にそれぞれピラミッド型や八角のドームを乗せており中央部分が一番が高い。撮影した地域にはこの2つのタイプが多い。
写真下に記載している宗派は建築当時のもの、現在の所属とは一致しない教会もある。ただしラドルシュの聖堂についてはギリシャ・力トリック教会の成立する13年前の建設だがギリシャ・カトリックと記載した。

聖フランシスコ聖堂
ヘルバルトフ1499

生神女就寝聖堂
フンコフチェ 18C後半

聖パラスケヴァ聖堂
ノヴァー・ポリアンカ1766

生神女庇護聖堂
ミクラショヴァー1730

聖大バシル聖堂
フラボヴァー・ロズロカー18C中

撮影した地域の民族と宗教
 スロバキアとポーランドの国境をなすカルパチア山脈の南北にはポーランド人とスロバキア人に加え、ウクライナ系のボイコ人、レムコ人、ルーシ人、12世紀から16世紀に開墾移住したドイツ人やハンガリー人などがそれぞれ村を作り混住していた。
 ローマ教会によってポーランドのキリスト教化が始まったのは10世紀、東のウクライナにはビザンチンの教会が同じ10世紀に入っている。11世紀になり東西の教会、ローマ・力トリック教会とコンスタンティノープルに総主教を置く正教会との分裂が決定的になった。
 1596年に主に政治的な理由でポーランドからウクライナ西部、リトアニアの多くの正教会がローマ教皇の管轄下に移る「ブレスト合同」が起った。この時生まれた東方典礼力トリック教会は、今までの正教会の東方典礼を維持しつつ、強い自治権を持つものだった。この教会はギリシャ・力トリック教会、ビザンツ典礼力トリック教会、東方帰一教会、ユニエイト教会などいろいろに呼ばれるが同じものである。

平和教会(ルター派)
ヤヴォル1654-5

福音派教会(ルター派)
フロンセク1726

生神女庇護聖堂
オフツァリ1653
 1521年のルターの破門で決定的になる宗教改革はポーランド王国でも、その頃ハンガリー北部とされていたスロバキアでも広がっていった。30年戦争後1648年のウエストファリア講和条約でハプスブルク君主国領のシレジア(現在ポーランド領)ではプロテスタントの3つの教会の建立が認められた。建築にあたっては、耐久性のある材料の禁止、市の外壁の外で大砲の射程内に建築、伝統的な教会の形の禁止、塔と鐘の禁止、建築期間は1年以内という条件がついた。ハプスブルク領ハンガリーに属するスロバキアではウェストファリア条約から後退する形ながら、1681年のショプロン議会で福音派教会の建設が許可ざれた。そのルールは教会は道路に直接接してはいけない、集落の境界に建てる、外観は地域の住宅に似せる、金属や石の使用禁止(釘が使えない)、塔の禁止、建設は1年以内に終えるなど、さらに厳しいもので、敷地も湿地帯などが割り当てられた。これを関節教会(Articular Church)といい、38の教会が1681年から1730年の期間に建てられた。

生神女庇誕生聖堂
ホティニエツ1600頃

生神女庇誕生聖堂
ホティニエツ1600頃

福音派教会(ルター派)
フロンセク1726

天使首聖ミハイル聖堂
ピストレ1902
 第2次大戦後、ポーランドとソ連(現在のウクライナ)の国境は大きく西に移動した。1947年から1952年まで続くポーランド政府によるヴィスワ作戦は東部国境付近に住むウクライナ系住民(ボイコ人、レムコ人等)を戦後ドイツから獲得した西部や北部の土地に強制移動させるもので、これにより13〜14万人が村を追われ、多くのギリシャ・力トリック教会が廃嘘化し、またローマ・カトリックに移ったりした。ざらに正教会とギリシャ・力トリック教会の聖職者などのインテリはナチスの強制収容所を転用した施設に送られ、その数は4000人とされる。見せしめ裁判では500人ほどが処刑された。その前1944〜6年にはやはりポーランド系住民のウクライナやシベリアへの強制移住も行われていた。
 現在残る木造聖堂の最も古いものは15世紀に遡り、18,19世紀の聖堂が多数存在する。古い聖堂の修理保存が進められていると同時に、現在も新しい木造の聖堂が建てられている。

カルパチア山脈の木造教会

関健一写真展 カタログ抜粋





















************************************************

関氏(会場にて)
 『榎並悦子写真展』と『関健一写真展』を見るために1年ぶりに東横線に乗って新宿へ出かけた。ところがニコンサロンは日曜休館(案内はがきにちゃんと記載!)ということで、後ろ髪をひかれる思いでオリンパスギャラリーに向かったが、新宿の街はすっかり変貌していて、何度も道を尋ねながらやっとたどりついた。ところがそこで榎並さんと遭遇してびっくり仰天!!このホームページを見てわざわざ足を運んでくれたとのこと。話している最中に、今度は、以前このページでご紹介した渡辺真弓(パラーディオ研究家・東京造形大名誉教授)さんから声をかけられた。聞けば、関氏と都立戸山高校の同級で、必ず展覧会に足を運んでいるとのこと。しかし、世の中狭いとつくづく感じてしまった。
 美女二人に出会えて、余韻に浸っていたら、また人使いの荒い人代表の中城さんからMailが届き、『俺が榎並さんの書評を書くから、お前が展覧会の感想を書け』とのたまわれていた。仕方なしに、例のごとくスキャンと画像でお茶を濁しています。
 関氏は写真部の優等生で、ニコン・フォトミック(当時あこがれのカメラ)を片手に真面目に撮りまくっていて(婦人科)、「コンパ部員」「ピンボケ部員」と揶揄されてた工事屋と違いプロの道に進んでしまった。写真学校の先生をしたり、女の子を引き連れ『山手線の女』『南北線の女』と題して全ての駅(周辺含)でポートレイトを撮って発表したりしていた。渡辺さんの話では『私の教え子までモデルにした』とか。色町(神楽坂)の傍で育ち(今も住んでいる)、童顔でもてもてだったので、女性にはアレルギーが無かったと思う。
 その彼が、教会などという色気のない被写体に熱をあげていると聞いて少し驚いている。しかも、ヨーロッパの辺境地帯の木造建築とは……!絶対にマネのできないアングルや構図に思わず見惚れてしまった。建築と女性には共通点があることに、気づかせてくれてありがとう。工事屋ももうひとふんばりしなくては……。みなさんも機会があれば是非見てやって下さい。(編集人)
関健一写真のページ
ページTOPに戻る
「ヨーロッパの木造建築」を楽しむ
中城正堯(30回) 2021.10.23

筆者近影
藤宗様

ルーマニア、マラムレシュ村の
ルーマニア正教木造教会。
 関健一写真展「カルパチア山脈の木造建築」の紹介、どうもありがとう。写真展に足を運べぬ身にとっては、豊富な写真の転載で、居ながらにして見事な木造建築、特に独特の東方教会の造形が楽しめました。藤宗さんは、うかつにも榎並展の休館日に足を運び残念でしたが、珍しく美女二人に遭遇でき、なによりでした。
 関さんの写真に興味があったのは、小生も学研の若き編集者時代に豪華写真集『日本の民家 全8巻』を担当し、文化庁建造物課の鈴木嘉吉さん(藤宗さんの大学先輩・後の奈良文化財研究所所長)にしごかれながら日本全国の重文民家を取材したからです。
 これがキッカケでヨーロッパの木造建築にも興味を持ち、ルーマニア・ドイツ・スイスなどの木造民家や教会を訪ねました。要するに、伝統的な民家は土地に豊富にある建築資材を使って住居を建てており、アルプスなど森林地帯では木造家屋が多々見られ、日本と同様に炭焼き小屋もありました。

木造教会の板壁に描かれた
村人への戒めの地獄絵。
作物泥棒や不倫人間が裁かれる。

マラムレシュ村の
木造井戸小屋や穀物小屋。

この村の民家。木彫をほどこした
立派な門と、板葺き屋根の母屋。

村の道ばたに立つ
木彫のキリスト像。
 やはり藤宗さんの先輩、太田邦夫著『ヨーロッパの木造建築』(講談社)も蔵書の一つです。ただ、建築史の学者としてはともかく、建築写真家としては関さんの腕が上で、木造建築のある風景から、独特の建築様式、そのディテールまで見事に表現してあり、楽しめました。特に、生神女庇護聖堂教会の塔屋内部の天使像に驚かされました。我々が見慣れた天使は、背に翼を付けた童子か美女です。この天使は、鳥の姿で顔のみ人間というデザインで

ドイツ、ケルン郊外の民家園に
移築された茅葺き農家。壁は土壁。

この土壁には、日本
の民家同様に木の
骨組みが入っている。
、藤宗先生に解説をお願いすると、「四大天使聖ミカエル、 ガブリエル、 ユリエル、 ラファエルではないかと思います。内陣のクーポラ(塔)の4面に描かれているので……」と、即答いただきました。
 小生が撮影したヨーロッパの木造建築も、何点かお目に掛けます。まず、カルパチア山脈に近いルーマニア北部のマラムレシュ、次いでドイツのケルン郊外の民家園、そしてスイスの民家園で見かけたベルン州の山村農家です。

スイスの民家園。ベルン州の山村農家。
左が住居、右は倉庫。屋根は板葺き。

倉庫の屋根裏につるされた大量の
自家製ソーセージ。冬の保存食。

ベルン州の18世紀末建築の大農家。
合掌作りを連想させられる切妻造りで、
大家族のほか農夫も同居、屋根裏は倉庫。
 いずれ、藤宗さん撮影の厖大な建築写真からも、選りすぐりをお見せいただきたいです。


四大天使(ロマネスク期)
≪編集人より≫
 先生と呼ばれる程の……。ボソっとつぶやいたら、いつの間にか記事にされたので、あわてて確認しました(暇!)。左の画像はシチリアのチェファルー(Cefalu)の大聖堂の天井画で同じデザインの四大天使の画像ですので多分間違いないと思います。翼を持つ画像には、他に天子、四大福音者などがありよく間違えます。大天使の中で最も有名なのは受胎告知に登場するガブリエルです。ちなみに、天使、天子には性別はありません。
************************************************

藤宗さん
 芸術の秋といいますが、お蔭様でこのところ見ごたえ読みごたえのある投稿が続いて目を離せません。
 貴兄の大学写真部のご縁で目にすることができた、写真家?関健一さんの写真と記事「 カルパチア山脈の木造教会」はすごいですね。
 中城さんご紹介の『APATANI STYLE』(榎並悦子氏)もそうですが、「プロだから当然」のを越えて、被写体に関わる民族・歴史・風俗文化への切込みが深いのに常人の及ばぬわざと感じ入りました。さすが貴兄のお仲間。
 ヨーロッパの建築と聞いて石造りばかりを思い浮べてはだめで、木の建築は本家(らしき?)日本にひけをとらないことがよくわかります。歴史的建造物とはいえ、地域の風景と社会に溶け込んでいるのが写真から伺えてすばらしい。想えば、ドイツやオーストリアなども森林が豊かで、日本の林業、木造建築などの関係者が「先進国に学べ」と見学に行くといいます。
公文敏雄(35回)
ページTOPに戻る
−NHK「幕末・日本美術の至宝」を見て−
ナポレオン3世皇妃と幕末狩野派
中城正堯(30回) 2021.11.04

筆者近影
 日曜日の朝は、NHK「日曜美術館」が楽しみだ。10月17日も、番組案内に「フランスの古城で発見!徳川将軍から皇帝への贈答品▽幕末・日本美術の至宝」とある。「古城とはどこか、どの徳川将軍か、どんな美術品か」など、興味をそそられテレビを付ける。画面には意外な人物と作品、そして由来が現われた。
皇妃ウージェニーの旧蔵品

ナポレオン3世と皇妃ウージェニー
(ホテル・デュ・パレ所蔵)
 フォンテーヌブロー宮殿で今年6月から開催する日本美術展のために、昨年6月に所蔵美術品を調査すると、豪華な日本画(屏風・掛軸)や蒔絵(料紙箱など)30点余りが新発見されたのだ。日仏共同で学術調査を行ない、文久2(1862)年に将軍徳川家茂が派遣した遣欧使節がフランス皇帝ナポレオン3世夫妻に謁見した際の献上品、および帰国後に贈った答礼品と判明した。日本画は、幕末狩野派の奧絵師たちが描いた色彩豊かな花鳥画や山水画で、これらは東洋美術を好んだ皇妃ウージェニーに愛蔵された。当時、皇帝夫妻はチュイルリー宮殿に住んでいたが、パリ北方のフォンテーヌブロー宮殿に東洋美術の部屋を設けて飾られていた。昨年160年の眠りから醒め、その宮殿倉庫から世に出たのだ。

ホテル・デュ・パレの空撮全景
(同ホテル絵葉書より)
 テレビで、“意外な人物”と感じたのは、皇妃ウージェニーの旧蔵品とあったからだ。彼女は、スペイン貴族の出であるが、美貌で知られフランスの名門貴族との結婚を夢見た母親とともにパリの社交界にデビュー、亡命先から帰国して第二帝政の皇帝となったナポレオン3世から見事に射止められたのである。結婚後、皇妃は生れ故郷スペインに近いバスク地方にある海浜リゾート地ビアリッツに建ててもらった離宮“ヴッラ・ウージェニー”を好み、夏は毎年のように皇帝とここで過ごした。

優雅なロビーで寛ぐ斎藤夫妻
(前列中央)、その左は筆者。
 現在はフランスきっての高級リゾートホテル「ホテル・デュ・パレ」となっており、世界の貴顕に愛好されている。筆者などとても出入り出来るホテルではないが、1998年に旅行作家・谷澤由起子さんの御世話で、このホテルを経営するホテル・クリヨン・グループから招待いただき、斉藤茂太夫妻ともども訪れた。フランスが経済的に大繁栄した時代の離宮だっただけに、豪華なロビーも優雅な雰囲気だ。二階に向かう中央階段の踊り場で出会ったのが、皇帝夫妻の肖像画だ。皇妃は、評判通りの美貌であり、帰国後にフランス文学者・窪田般彌著『皇妃ウージェニー』の求め、その波瀾万丈の生涯と、当時の貴族たちの奔放な男女関係に驚かされた。
 ビアリッツは、美しい海岸の景観だけでなく、新鮮な魚貝類の鉄板焼きやバスク風の肉料理も美味しく、バスクの民族衣装など独自のデザインや風俗も楽しめた。西に向かい、橋一つわたれば、スペインのサンセバスチャンで検問もなく自由に往き来できた。新発見の日本美術が、このホテルを生んだ皇妃の愛蔵品だったとは、実に意外な思いだった。
幕末狩野派の掛軸は日本の至宝か

チュイルリー公園で遊ぶ小学生
遊びはコラン・マヤール。
 皇妃が住んだチュイルリー宮殿は、1871年のパリ・コミューンの戦火で焼失したが、今回発見された美術品は、フォンテーヌブロー宮殿で保管され助かったのだ。チュイルリー宮殿は、セーヌ川の岸辺、ルーブル美術館の西側にあったが、現在は広大なチュイルリー公園になり、市民の憩いの場だ。筆者もパリ出張の合間には、樹木の茂るこの公園のベンチに座って、散策する人々をぼんやり眺め、仕事疲れを癒やした。午後には、先生に引率された学童保育の小学生も現われる。ある日、この子どもたちが、日本の“回りの回りの小仏”同様の、目隠しをした鬼を囲んで歌いながら回り、歌い終わると”後の正面だーれ”と鬼に当てさせる遊びを始めたのに、驚かされた。聞くと、フランスでは盲目の勇者コランにちなんで“コラン・マヤール”と呼ばれる伝統的な遊びであった。

狩野房信の見事な
「佐野の渡図」
(NHK画面より)

狩野友信の「紅葉に青鳩図」
と、住吉弘貫の「山水画」
(NHK画面より)
 では、皇妃愛蔵の日本美術とは、どんな作品か。テレビで紹介された中で、まず目をひくのは狩野房信の屏風「佐野の渡図」であった。藤原定家の和歌に題材をとり、金雲を背景に雪中駒を進める平安貴族の優美な姿が鮮やかな色調でえがかれ、豪華で優美な作品だ。掛軸に移ると、住吉弘貫の「山水画」と、狩野友信の花鳥画「紅葉に青鳩図」がセットになっている。山水画は中国の伝統的な墨の濃淡で遠景・中景・近景に描き分けた山水画の構図によりながら、山肌や樹木を緑や紅葉色で彩色、はなやかな画面だ。本来山水画が持っていた、静寂に包まれた深山の禅宗的精神性の高い空間とは全く異なる。花鳥画は、18歳で奧絵師に上り詰めた友信の「紅葉に青鳩図」である。テレビで解説されていたように、この鳩も宋時代の風流皇帝と呼ばれた徽宋の名画で日本に招来された「桃鳩図」の鳩を、向きをかえ2羽にしてある。鳩の描法も色調もほぼなぞりながら、止まり木を落ち着いた白い桃の花から紅葉にかえ、鮮やかな色彩を付けてある。本来、青い鳩は皇帝の象徴であり、桃も長寿の仙果であり、それをふまえてナポレオン皇帝への献上品の題材に選んだのであろう。しかし、徽宋が描いた品格ある雰囲気は全く失われ、華やかなだけの画面になっている。

中国、徽宋帝の「桃鳩図」
(『世界美術史』木村重信
朝日新聞社より)
 テレビの解説者によると、幕府に仕えた狩野派の絵師は、中国絵画に学びながらも、独自の工夫を凝らしてきた。これらはその最後の到達点を示す作品で、「これまでの狩野派は伝統的な作品を模倣することに終始し、活力を失ったとする通説を打破する作品群で、幕末の狩野派の再評価につながる」と、絶賛していた。この友信は、維新後は東京美術学校の日本画教授を務めた人物だが、作品は余り残ってないという。
 筆者は日本美術の素人だが、テレビ画面からの印象を述べよう。屏風は狩野派初期の狩野永徳「檜図屏風」の、金雲を背景に画面からはみ出す巨大な檜を描き、圧倒的な迫力で武家時代到来を象徴する作品群とは異なる。しかし、日本の王朝文化の雅な雰囲気を見事に表現している。一方、掛軸は将軍からの献上品らしく金箔をふんだんに使い、高価な顔料で色鮮やかに仕上げてあるが、その画面からは斬新な表現が感じられず、心に迫るものがない。先人の粉本模写に偏り、活力が失われ、また表装も西洋の宮殿にはそぐわない。
評価が高い暁斎・絵金・芳崖
 それに引き替え、江戸時代に町民に好まれ、育てられた浮世絵師たちは、庶民が好んだ芝居役者や美人で評判の遊女・茶屋娘を、その生活空間とともに生き生きと描き、大人気を得た。独自の木版多色摺の技法を磨くとともに、次第に動植物や風景画にも画題を広げ、さらに西洋絵画の人体描法や遠近法も取り入れ、安価な庶民芸術を発達させた。フランス印象派の画家たちにも、大きな影響を与える。
 無論、狩野派を学んだ絵師たちにも、中国絵画や狩野派先人の模写に飽き足らず、改革を志す絵師も現われた。辻惟雄(東大名誉教授)編『幕末・明治の画家たち』(ぺりかん社)の冒頭で紹介された三人の絵師、河鍋暁斎・絵金・狩野芳崖は、いずれも狩野派に学んでいる。暁斎は最初に浮世絵師・歌川国芳につくが、やがて狩野洞白に師事し、伝統的な狩野派の技法を身に付ける。辻によれば「粗野でいきいきとした時代の庶民の感情」を忠実に記録、「外国人にもてはやされた」とのべ、表現の活力と人間くささを高く評価している。

赤岡絵金祭りのポスター
(部分、絵は「蘆屋道満大内鑑
葛の葉子別れ」)

絵金の白描を印刷したハンカチ
(部分、原画は吉川登志之所蔵)
 次の絵金は、文化9年に高知城下で生れ、江戸に出てやはり狩野洞白に入門する。帰郷後は土佐藩のお抱え絵師となるが、狩野派名家の名で“にせ絵”を描いたとして追放される。流浪の末に土佐に戻ると、絵師金蔵、通称“絵金”として各地の夏祭りに飾る芝居絵?風や絵馬提灯を描くが、泥絵具による迫真の圧倒的描写力で民衆の心を掴み、肉筆浮世絵師として大人気を得る。明治9年の没後、次第に忘れられ、中央では全く無名であったが、昭和43年に高知出身の廣末保法政大学教授たちが『絵金=幕末土佐の芝居絵』(未来社)を出版し、ようやく中央でもその存在が知られるようになった。高知県赤岡では、昭和52年以来“赤岡絵金祭り”が7月に開催される。夕闇のなかに各商家が軒先に所蔵の屏風をならべ、昔ながらの雰囲気で灯火にゆらめく歌舞伎の名場面を、筆者も二度楽しんだ。今に残る白描からも、絵金のデッサン力の確かさがうかがえる。
 狩野芳崖はフェノロサに学び、西洋絵画の技法と狩野派の伝統的表現の折衷による明治日本画の改革をめざし「悲母観音」などの名作を残した。辻は、「東西美術のはざまに見出した安らぎの空間−静謐な象徴空間」を、高く評価している。
 今回は、NHKが新発見「日本美術の至宝」の発掘調査を追い続け、見応えがあった。旧蔵者にも驚かされた。しかし、中国絵画に小手先の日本情緒を加え、きらびやかに飾り立てたに過ぎない作品への評価は、やや残念であった。
ページTOPに戻る
モルッカ諸島のガイドブック
竹本修文(37回) 2021.11.09

筆者近影
 日本人傭兵の件は、1621年の気持ちが悪い絵の事件、もう一つが、1623年のアンボイナ虐殺と裁判ですが、どうも気持ちが悪い処刑に描かれている侍は、山田長政の兵士らしい記事があり時間がかかっています。次回にします。
 佐世保までは行きましたが、平戸へは行ったことが無く、調べてみると面白いですね〜?ザビエルは鹿児島へ来たが、本土の旅行が許されず、中国やオランダとの外交を幕府から任されていた平戸藩の所へ行っている。イギリスも平戸へ商館を作ったが、日本の良質の生糸を購入できず撤退。ポルトガルはマカオの為の後方基地が必要。オランダの商売を取り入れたくて、幕府は長崎の出島へ移した・・・。勉強になりますね〜?
 ザビエルは、その後、モルッカ諸島へ立ち寄っています

モルッカ諸島のガイドブック

1. はじめに 2. 現在のインドネシアの概要

3. 香辛料の産地 4. ガイドブックMaluku the Moluccas

ハルマヘラ島Halmahera 日本軍の基地があったKAO

モルッカ諸島のガイドブック
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)




竹本先生
 いろいろご苦労様です。
 振り返りますと、小生は昔、バリ島までは2度参りました。
 1度目は、日本リースがメルパチ航空にYS11をリースしていましたので、それに乗ってバリ島まで参ったところ、帰り便がデンパサールからロンボク海峡を越えてロンボク島を旋回しました。ジャカルタ空港からは、メルパチがスマトラ島のパレンバン、トバ湖の上を飛んでペナンに投宿したことでした。

平戸城
 お調べのように平戸は必見ですよ。
 古くは、遣唐使船は平戸伝いに五島を南下して、福江島が最後の寄港地でした。弘法大師に因んだ八十八ケ所もあります。上五島は海援隊とも縁があり、竜馬の碑も立っています。
 平戸は、玄界灘と西海を扼する海峡の要衝で、古くから倭寇の根拠地で中国貿易の中心地でもあって、鄭成功の出身地でもあります。無論、ルソン、シャム等との貿易地でもありました。
 水軍松浦党は、海流の複雑さを活かした選地で平戸城を築城しています。
 探訪すると、ザビエル記念教会は美観で、オランダ商館、イギリス商館跡碑も巡れます。
 足を延ばせば、福江城も、幕末に海防のため最後に築城された海城としてお薦め。
 平戸城の雄姿を一葉添付させて頂きます。
西内 一(30回)
ページTOPに戻る
17 世紀オランダの黄金時代の始まり
1621 年 バンダ諸島での虐殺
竹本修文(37回) 2021.11.20

筆者近影
●オランダのフェルメールの青から、オランダ西インド会社の拠点だった要塞都市をアメリカのニューアムステルダムに移り、その要塞都市をオランダが「1623年のアンボイナ虐殺事件(次回投稿予定)」の代償としてイギリスに譲渡して、ニューヨークと改名され、現地を訪問された経験のある中城様の投稿でインドネシアのモルッカ諸島に移り、中城様が現地で入手された2冊の英語の冊子を読んでのめり込みました。
●殆どが英語のサイトか文献ですが、タイ人のシャム語混じり英文、オランダ人の古英語みたいな英語、アメリカ人の現代英語と随分読み、勉強になりました。次回は、「1623年のアンボイナ虐殺事件」ですが、オーストラリアの大学が研究している資料で、17世紀の裁判に使われた当時の英語の書類が沢山あります。古英語も混じっています。数パーセントしか紹介しません。
●今回は、17世紀初頭のインドネシアに於ける香辛料争奪世界戦争は面白くて僅かしかご紹介出来ないのが残念ですが、同時期には欧州では宗教戦争、欧州の枠組み(国境)を決する30年戦争中であり、オランダは欧州各国の隙間で稼ぎまくったのかな〜?
●そして、オランダの黄金時代を経験したが、3回の英蘭戦争でイギリスに負けてアムステルダムの建築だけを見ると、17世紀で終わった国に見えますが、その後は、芸術など文化面で大きく飛躍し、モルッカ諸島の事は忘れられがちですが、忘れないようにしたいと思いました。

1621 年 バンダ諸島での虐殺

はじめに

第1章 バンダ諸島の征服(1621年)


第2章 バンダ島における処刑

第3章 オランダでの反応

1621 年 バンダ諸島での虐殺
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)




竹本 様
 原稿はポルトガルとの香料争奪戦に続くイギリスとの海上覇権争い時代を背景にした、モルッカ諸島方面の興味深いお話です。17世紀がオランダ(当時はネーデルランド連邦共和国。王国となったのはナポレオン戦争後)の最盛期だったと改めて知りました。そして勃興期のオランダが日本にもやってきた。
 日本史では、1600年のオランダ船豊後漂着がその後の日蘭貿易発展の端緒となっていますが、難破船はもともと戦場モルッカ諸島をめざしており、大量の武器を搭載していたとか。三浦按針も乗員の一人でしたから、家康によるキリスト教禁教、スペイン・ポルトガルとの決別をお膳立てした重要事件。
 17世紀はおもしろい。
公文
ページTOPに戻る
同窓会の記念講演
61回生・江淵 誠さんの「南海トラフに備えチョキ」 を聞いて、この時代の小生の思い出
Mア洸一(32回) 2021.11.20

筆者旧影
 昭和20年4月当時は国民学校第六小学校に入学、残念ながら授業の思い出はなく、空襲警報のたびに防空壕に逃げ込み、ついには鏡川沈下橋の下まで逃げた、鏡川にかつて通った柳原幼稚園が真っ赤に燃えてる姿が川面に移っているのが今でも忘れられない。
 その後、空襲も激しくなり、何かのつてがあったであろう、郵便自動車に便乗して宿毛まで疎開・途中久礼の峠で艦載機の機銃照射がありトンネルの中に退避、その後中村でも空襲があり四万十川にかかる赤鉄橋の下に逃げ込んだ。                   
 中村では、松田川の近くで引き込み用水路のそばで、川エビやウナギとっては食していた、土手の傾斜にかぼちゃを植えている場所があり空を眺めていた時に終戦の話を聞いた。
 二学期が始まり宿毛の小学校にしばらく通ったが、途中で祖父の住む清水に引っ越した。
 まだ終戦まじかでもあり、小江の湾には崖に洞穴を作り、海軍の特攻隊・震よう隊のベニヤ板づくりの船があり若い兵士がいた、がしばらくして、その船は燃やされているのを見ていた。
 ここでは丁度運動会があり、男の子は大人の靴を履き、女の子は日傘をさして手をつないで走るのであるが靴がすぐ抜けるので、応援の観客は大爆笑であったのが記憶にある。
 そして三学期は高知の鷹匠町の自宅にもどった、第六小学校は当時では珍しく鉄筋コンクリート造り三階建て、焼失を免れており[校舎は「ロ」の字型で東と北側に「L」字型が
 鉄筋造り南側に木造平屋建ての校舎唯一西側に講堂があったが焼失していた。]
 それがため市役所が使用しており、学生は第四小学校に同じく焼失した第三小学校との参考が時間帯を分けて三部授業で会った。もちろん教科書はなく、薄い紙のガリ版づりのプリント・かたい芯の鉛筆や消しゴムはすぐに破れるのでつかえなかった。
 そして二年生の昭和21年12月12日・南海大地震が起こった、小生の住んでいた三軒長屋は傾いたが住むことはできた、ただ起こった直後、小生と二番目の弟は倒れた箪笥の間で無事(上段がくの字に倒れたあいだ)三番目の弟は、漫画ではないが絵画が落ちてその真ん中に頭が収まったので擦り傷程度で収まった。流し場の井戸、普段はつるべで水をくみ上げていたが、しばらくの間ひしゃくですくえるほど増水していた、市内は津波で進水箇所が広範囲で会った。
 翌昭和22年5月をもって、市立第六小学校と・第三は追手前小学校となりそれぞれの校区に復帰した。

 「雑音」現在TBSラジオでよく話している赤絵珠緒さんも第四小学校に在籍したことがあるとのこと。
ページTOPに戻る
17 世紀オランダの黄金時代の始まり-2
1623年のアンボイナ虐殺事件
竹本修文(37回) 2021.11.24

筆者近影
●オランダのフェルメールの青から、オランダ西インド会社の拠点だった要塞都市をアメリカのニューアムステルダムに移り、その要塞都市をオランダが「1623年のアンボイナ虐殺事件(次回投稿予定)」の代償としてイギリスに譲渡して、ニューヨークと改名され、現地を訪問された経験のある中城様の投稿でインドネシアのモルッカ諸島に移り、中城様が現地で入手された2冊の英語の冊子を読んでのめり込みました。
 気持ちの悪い絵などで気分を悪くされた方もいらっしゃると思いますが、お許しください。
●私は、福島市松川町にある東芝の子会社に勤務した事があり、昭和25年の松川事件の現場である事から列車転覆現場へも何度か行きました。転覆事件で蒸気機関車の運転手が死亡し、その娘さんが従業員の中にいました。歴史の中に生きている実感がしました。
 転覆現場には、法曹界の方々が、「自白中心の捜査や裁判から物的証拠主義に変化させていく誓いの言葉」の碑が立っていましたが、今でもあるのかな〜?
 この事件を機に、捜査段階の自白、特に拷問による自白が議論されてきたのですが、未だに冤罪が無くならないですね〜?
●今後は、得意なヨーロッパに話題を戻そうかな〜?とか、思っています。 お付き合い頂きましてありがとうございました。

1623年のアンボイナ虐殺事件

はじめに 第1章 アンボイナ事件の概要

第2章 1621年から1623年の様子

第3章 日本人傭兵 第4章 アンボイナ共謀裁判 


第5章 補足資料


1623年のアンボイナ虐殺事件
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。


竹本 様
 日本の歴史家も、ほとんど研究してこず、知られてない17世紀初頭の香料列島を舞台にした英蘭の凄まじい植民地争奪戦と、日本人傭兵の姿を、よく掘り起こしてくれました。このときの英蘭の勝手な植民地取引による境界線が、経度で東西に区別され、日本にもアメリカにも影響を及ぼしたわけで、他人事ではない事件です。
 また、日本はよくぞドン欲だった西洋列強の植民地にされなかったものだと、徳川幕府に感謝です。
 美しかったバンダ海の海辺と、ナツメグの果肉で作った、美味しいジャムの味を思い出しながら。
中城

中城さま
 早速のコメントに感謝申し上げます。先輩のご指導と2冊の文献のお陰です。
 オランダ東インド会社のクーン総督は、インドから日本までを征服して植民地にしたいと本気で思っていたのですね〜?
 17世紀前半は、ヨーロッパは30年戦争で歴史に残る残虐な戦いで、その結果が現在に残る国境であり、30年戦争の主役ではなかったイギリスとオランダが伸び伸びとアジアで暴れていたのですかね〜?
 筆山会の昼食会に出席し始めた時期に、当時の森会長と30年戦争の話で盛り上がった事を思い出しました。
竹本

竹本先生
 ご苦労様です。興味深く読ませて頂いていることをお伝えするために敢えて些末な事柄を申し上げます。
 5.4の見出しがオランダ帝国となっている点に若干の抵抗感があります。小生、一昨年に、オランダが1624年に築城した台南のゼーランジャ城を探訪しました。当城の築城に対抗して宗主国スペインは、フェリッペ2世の名を冠したフィリピンから台湾の東側を北上して淡水に城を築きます。この後、両軍の海戦はオランダ海軍が勝利して、ジブラルタル海峡での海戦にも勝利したオランダが独立への道を更に進めるのです。
 小生、その前の年にはスペインを探訪しましたので、少しスペイン史も齧ったことでしたが、カルロス5世がハプスブルク家を相続したことで、ネーデルランドはイスパニア領となります。その後、北部7州がユトレヒト同盟を結んで、1581年にオランダ独立戦争を始めます。これから半世紀を超える長きに亘って「太陽の沈まぬ国」と言われたスペイン帝国との戦いが始まるのです。そして、オランダが各国から承認されて独立を確定するのは、対イギリス戦の始まる数年前の1648年。アンボイナ虐殺は、ゼーランジャ城築城の前年で、スペイン帝国からの独立を目指す共和制の時代と理解しており、当時の帝国の名称は矢張りスペインに冠するのが相応しいのでは。
西内

西内さま
 ご指摘を頂きまして嬉しく思います。
 歴史問題で、殆どを外国の文献に頼っていて、自分の意見と違う時にどうするか?
 現在の解釈に表現を変え、判断基準を変えるべきか?悩みます。私は、現役時代は殆どは学術論文相手でしたので、文字通り翻訳する習慣で、文学や歴史の経験はないので迷いながら書いています。
さて、
1ご指摘頂いた所の原文は、Law and Torture in the Dutch Empire 、の表題です。
 内容は:One of the major problems in assessing the nature of the legal proceedings at Amboyna is the considerable gap that often exists between legal code or theory and legal practice. For centuries, English writers have condemned the case for violating the rules of Dutch justice but the reality is more complicated. Torture was legal in Dutch colonial possessions, in the Dutch Republic and across much of Europe in this period. However, before it could be used it generally required additional pieces of evidence, what is sometimes known as half proof.
2.これを、私は・・オランダは帝国時代は無かったのにな〜?と思いながらも、引用した文献を文字通り翻訳しました。その心は、例えばイギリス本国が帝国時代はないが、沢山の植民地を含めて、大英国帝国という日本語があるように、統治する姿・形が(専制的な)帝国(みたいだ)のような気持ちで使うのかな〜?と思いながら、何も注釈を加えずにしたのが良くなかったと反省しています
3.殆ど文字通りに翻訳して、オランダ帝国の法律と拷問
 アンボイナに於ける裁判の法的手続きの査定を進めるに当たって重要な問題の一つは、法律などの法的な規則や理論と実際に行われる実践の間にしばしば存在する相当なギャップである。何世紀もの間イギリス人著述家はオランダの司法にも違反していると非難してきたが、現実はもっと複雑である。当時はオランダの植民地やオランダ共和国や多くのヨーロッパの中では拷問は合法だった。しかしながら、拷問を実施する前には、更なる追加の証拠(Half-proofと呼ばれる)が要求されるのが一般的である。
4.余談に近いですが、日本が明治の帝国憲法から戦後の新憲法に変えた時に、それまで英語では天皇はEmperor だったのに、国民と国家の象徴になっても(イギリスを除くヨーロッパに国王と同じようになったのに)King に変えなくてEmperorのままであり、しばしば誤解が起きている事を思い浮かべます。あるイギリス人は、辞書を天皇=Kingと変えろとか言っている。
5.オランダは、この当時はスペインから解放されて直接の統治はなくても、あちこちから影響を受け、一応は共和国だったと思うが、私が引用したオーストラリア人のドクターは(皮肉を込めて)帝国と表題したのではないでしょうか?私のロンドンの駐在時代の大家さんはオーストラリア人でしたが、本人はイギリス人の気持ちで、イギリスに来ることは、Go to England や Come back to England とは言わず、Come home と言っていました。
6.さて、原稿をどうしましょうか?
@筆者の注釈:「原文は、 Law and Torture in the Dutch Empire であるが、当時のオランダはローマ帝国から始まった帝国(ラテン語で、インペラトール)ではないが、アジアでの振る舞いが、専制的であったので著者が帝国と呼称したか?」
A簡単な方法は、「帝国」の文字を削除する・・・これが、一番単純です・・・
 私はAかな〜?と思いながら、KPC編集委員の皆さんのご意見をお待ちしています。
竹本

竹本さん
 お問い合わせにお答えします。当時のオランダは連邦共和国だったので、「帝国」は削除したほうが、読者を惑わせなくていいかと思います。なお、その後オランダ王国となりました。
公文

竹本様、皆様
 オランダの国名表記、小生は見過ごしており、皆様の熱心な指摘・検討に感心しました。
 高校以来西洋史の勉強をサボってきた小生は、原稿を書く際、地名確認の『虎の巻』を使っています。
 それは、文部省検定の『詳細高等地図』(帝国書院)と、おなじ帝国書院の『地図で訪ねる歴史の舞台』です。
 主要国の国名変遷は、後者巻末の「年表」に出ています。それによると、ネーデルランド連邦共和国(1581〜1795)、バタヴィア共和国(1795〜1806)、オランダ王国(1806〜1810、ナポレオンの弟が国王、1810仏に併合)、オランダ立憲王国(1815〜)となっています。むろん、オランダは日本の名称で、正式名称はネーデルランド王国・立憲王国です。また、外務省指導の『世界の国情報』(リブロ、年度版)が頼りですが、その確認すら忘れがちのこの頃です。ましてや、時代による国名の使い分けは、基礎知識がなく至難のことです。ご参考まで。
中城

追加資料   竹本修文

オランダの国名 (中城さまのメールの一部のコピーです)

ヨーロッパ共通歴史教科書


添付したのは、2013年に最後にアムステルダムのユダヤ人博物館を訪問した時に売店で買った、「A Short History of the Netherlands From prehistory to the present day 」の中の1ページの年表です。残念ながら、時代の大きな流れは記載されていますが、国名がどのように変化したのかは、明快な説明がありません。一応、添付しました。
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)




竹本様
 またまた大変勉強させてもらいました。
 国名は、各国ともに時代に応じて自称が変遷をしてきました。また、各国の自称と、他国による命名・通称など、さまざまです。提示していただいたのは、地域史研究家による実態を反映した用語だと思います。
 日本では、我々が歴史的記述をする場合、文科省・外務省の用語によりながら、それだけでは実態を表わしてない時は、専門的な用語を合わせて用い、意味も書添えるのが良いかと思います。いきなり専門的用語が出て来ると、途惑いますので配慮が必要です。
 その上で、大航海時代のヨーロッパの帝国主義的植民地政策や人種差別は冷静に批判し、それに荷担した当時のキリスト教各派の動きも見るべきです。また、日本ななぜ植民地化をまぬがれたのかを考え、大日本帝国憲法時代の日本の軍部の横暴や列強に追随した植民地政策も反省すべきと思います。
 私は、1970年のニューギニア訪問で、現地先住民からいきなり「日本来たか、タバコくれ」と、親しげに呼びかけられびっくりしました。その後、インドの激戦地インパールでも、土地の老人から「長年支配してきた英国軍と食料も不足になかよく戦った」と称えられ、また夜密かにホテルに来た独立運動の若者に、「アーリア系中央政府からのモンゴロイド系住民の独立を理解して欲しい、日本人の白人と戦った力を借りたい」との申し出を受け、びっくりしました。ニューギニアでも、インパールでも、ヨーロッパ各国の侵略には反感をいだいても、それと戦った日本人には親しみを持つ現地民もいたのです。日本兵もこれら現地で残虐な行為をしたとばかり思っていましたが、仲間意識で日本軍を迎えての、暖かい交流もあったようです。年寄りのささやかの、歴史の実感です。
中城
ページTOPに戻る
−知られざるインドネシア“もう一つの孤島”−
巨大な木造“王の家”そびえ立つニアス島
中城正堯(30回) 2021.11.26

筆者近影
 バンダ諸島の香料をめぐる英蘭の凄まじい植民地争奪戦と日本人傭兵の姿を、竹本さんがよく掘り起こしてくれた。それで思い出したのが、同じインドネシアの西端、スマトラ島西北のインド洋に浮かぶ二アス島だ。熱帯雨林におおわれ、70万人が住む大きな島といえ、荒波が押し寄せ天然の良港もないため渡航困難で、1967年に訪ねた故木村重信(大阪大学教授・民族芸術学会会長)は、インドネシア海軍の掃海艇に便乗してやっと調査をしたと聞く。今は、港が整備され、小さな空港も出来ている。1991年に、食生態学者の西丸震哉などと念願の探訪が実現した。

二アス島の位置図。
インドネシアの西端にある。
 この絶海の孤島の魅力は、巨石文化や巨大な木造家屋“王の家”、さらに独自の装飾的な美術様式といった豊かな民族文化である。しかも、オーストリアの民族学者ハイネ・ゲルデンが論文「東南アジアにおける若干の部族美術の様式」で、「アッサムのナガ族、セレベス島のトラジャ族、スマトラ島沖の二アス族などには、家屋の形式、巨石記念物、さらに装飾的な浮彫りなどの美術様式まで、明確に類似性が見られる。古代に東南アジアからこの美術様式を持った民族が拡散、伝播したのでは」と、強調しているのである。現代の文化人類学では否定的だが、論文に付けられた写真では確かに類似しており、ぜひ現地を訪ねてみたくなったのだ。

大屋根・高床の王の家オモ・セプアの前で、槍と楯を手に踊る戦士。

王の家の前に置かれたテーブル状の巨石。王の業績を称えて造られた勲功記念物。王の家屋を支える巨大な床柱も見事だ。

テーブル状の巨石の浮彫り。人物が持つのは、嗜好品キンマ入れの袋と、砕く道具。
 このうちトラジャ族は1987年に、ナガ族は渡航直前にナガランドが入域禁止になったが、1992年に、近隣のナガ族の村までは訪ねた。その前年が二アス族であった。成田から、クアラルンプール、メダンと乗り継ぎ、やっと二アス島北部の空港に着いた。近くの二アス県都グヌン・シトリで一泊、翌朝マイクロバスで、熱帯雨林の悪路を走り続け、途中で巨石人物像も見学、王の家がある南部のパウォマタルオ村にたどり着いたのは、夕暮れ時だった。 

王の家の部屋に飾られたブタの顎骨と、オランダの軍艦を描いた浮彫り。

成人式の石飛び。 2メートルの石積み跳躍台を飛び越せないと、男として認められない。

王の家の軒先正面に飾られた守護神ラサラ。古代中国南部の聖獣「辟邪(へきじゃ)」と類似している。
 王の家の集落は、元は平野部にあったが、19世紀にオランダ軍に襲われて焼失した。しかし、山上に堅固な城塞集落を再建したのだ。密林を抜けて高い石段を登り切ると、巨大な王の家がそびえ立つ。高さ22メートルで奈良の大仏殿の半分だが、住居では世界最大の木造建築とされる。やがて、手に手に槍と楯を持った戦士が現われ、まるで古代都市に迷い込んだかのような幻覚に襲われる。実は、観光客歓迎の戦士の踊り一行だった。王の家の前には、テーブル状の巨石が並んでいる。亡き王たちの業績を称えて造り、修羅で運び上げた勲功祭宴の記念品だ。室内の壁面には、祭宴に供されたブタの顎骨が飾られ、板壁には大砲を備えたオランダ艦船と、海中の怪魚やオオトカゲが浮彫りされている。島の住民はかつて貴族・平民・奴隷に別れていたとも聞くが、王の権力ぶりがうかがえる。

守護神ラサラは、村の入口の
石造階段にも刻まれている。
背後には、戦士の槍と楯。

村はずれの貴族の土葬新墓にも、
ラサラ像を祀ってあった。
 二アス島は交通が整備されて近代化が進むと、荒海の海岸がサーフィンの名所になり、観光客も増加、島民も急増した。かつての天上神・地下神にかわって、キリスト教なども次第に普及している。民家を訪ねるなかで、バスコントロール指導員の婦人にも出会った。政府の方針で、避妊具の普及による人口抑制に取り組んでいるという。
 では、島の魅力的な建築文化・巨石文化・浮き彫りといった伝統的な美術様式や、魔除けのシンボルなどを見ていただこう。バンダ諸島では、旅の半ばで初めての痛風を発病、右足の指に激痛が走って満足に歩けず、取材・撮影も途中であきらめたが、二アス島ではなんとかその見事な民族文化に迫ることが出来た。

敷石の広場に立つ正装の女性。背後の左右に、大屋根・高床の木造家屋が整然と並ぶ。屋根は、ヤシの葉で葺いてある。

広場は儀礼の場であり、農作物加工の作業場、そして子どもの遊び場でもある。女の子が騎馬戦のような遊びをしていた。

ハイネゲルデンが同一の美術様式というトラジャ族の舟形住居。屋根の前後は船の舳先を模ったとされる。正面は水牛と鳥の頭部が守護し、朱色と白黒の幾何模様で装飾されていた。(写真は全て筆者撮影)

<参考文献>
『東南アジア・太平洋の美術』R・ハイネゲルデン、M・バードナー著 弘文堂 1878年
『巨石人像を追って』木村重信著 日本放送協会 1986年
『民族探検の旅 第2集東南アジア』梅棹忠夫監修  学習研究社 1977年
ページTOPに戻る
お龍さんの実像に写真と史料で迫る
―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か―    
中城正堯(30回) 2021.12.15

お龍の墓にお参りする筆者。
横須賀市信楽寺で。
 龍馬人気と安易なテレビ番組
 坂本龍馬も、その妻“おりょう”(お龍、お良)も、相変わらずテレビの人気者で、よく取り上げられる。先月(2021年11月)も、4日にNHK BSP 「ザ・プロファイラー」が「坂本龍馬の妻 お龍」をその流転の日々中心に「おもしろき女」として取り上げ、11日にBS11イレブン「偉人 素顔の履歴書」が「幕末を駆け抜けたヒーロー 坂本龍馬」を、その思想形成を軸に紹介していた。しかし、その内容は相変わらずで、ともに重要な視点を見落とし、また新史料の発掘活用も見られなかった。
 ここでは、まずNHK「坂本龍馬の妻 お龍」の問題点を指摘しておきたい。この番組は、タイトルのみならず内容も、鈴木かほる著『史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍』(新人物往来社 2007年)をほぼなぞったものだった。しかし、高知県和食村(わじき・現芸西村)千屋家や、横浜市の料亭田中家の時代にはあまり触れてなく、見るべき新史料もなかった。
 確かに鈴木のこの本は史料をよく調査し、執筆・収集してある。しかし、NHKはこの旧著に寄りかかりすぎで、その検証や追加取材への意欲が感じられない。特にお龍の写真が問題で、相変わらず芸妓風の媚びを売るような写真を、異論があると断わりながらも、再三大きく登場させていた。鈴木自身が著書でこの写真に触れ、東京浅草・内田九一堂写真館の撮影であるが、京都国立博物館博・宮川禎一などの研究からも、真影とはほど遠いと述べている。まともな図書・番組では使わない写真である。
お龍さんの面影伝える二枚の写真
 では、真実のお龍を伝える写真を二枚紹介しよう。まず、鈴木が著書に「たった一枚の真影」として掲載した晩年64歳の写真である。明治27年『東京二六新聞』の連載記事「阪本龍馬未亡人龍子」の第一回に添えられたもので、だれもが晩年のお龍と認めている。なお、この記事や横須賀市大津・信楽寺にある「阪本龍馬之妻龍子之墓」でも、「坂本」「阪本」は、混用されてきた。この墓石は、お龍(長女)の妹・起美(三女)が皇后からの龍馬への下賜金で大正3年に立てたが、背後には土佐出身の宮内大臣・田中光顕の働きがあった。
 もう一枚は、龍馬と死別後にお龍が土佐・京都・東京を経て一時仲居として働いていた横浜駅に近い旧神奈川宿・料亭田中家時代の写真だ。しかし、なぜかこの写真はほとんど知られていない。筆者は、漫画『坂本龍馬』の作者・黒鉄ヒロシ(41回生)さんから数年前にコピーをいただいた。最近、田中家五代目の女将平塚あけみさんに確認の電話をすると、こう説明してくれた。
 「この写真は、田中家にお龍さんがいた明治7年、大森海岸に従業員旅行で行った際に撮ったものです。お龍さんは、うちの制服は着ないでこんな着物で通し、目立つ存在でした。うちの仲居時代の写真に間違いありません」

お龍の真影。明治27年、64歳、東京二六新聞掲載。『坂本龍馬全集』より。

横浜の料亭田中家に埋もれていた写真。明治7年、44歳、田中家蔵。

若き日のお龍とされてきた“ニセ写真”。明治6〜8年頃、東京内田九一堂撮影。
 この女将は、歌川広重の浮世絵「東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」に描かれた茶屋のなかで唯一今に続く料亭田中家に生れ、祖父・晝間富長、父・孝之から、その由来を聞いて育ち、あとを継いだのだ。広重の絵に描かれた旅籠の奧から3番目「さくらや」が後の田中家で、明治期以降の変革期を生き残れたのはお龍さんのお陰と、こう続けてくれた。

「東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」歌川広重画
天保4年 川崎・砂子の里美術館蔵 『横浜錦絵 図録』より。
 「明治初期に料亭となった田中家を支えた恩人が、お龍さんだと伝わっています。彼女は龍馬とともに長崎でグラバーなどと接し、英語も多少話せたようです。物怖じしない女性でもあったので、横浜居留地の外国人接待に活躍、龍馬の仲間で明治政府の要職に就いた人たちもよく訪ねてくれました。お龍さんは<龍馬の志を実現するために、いずれアメリカに渡りたい>という夢を持ち、英語を覚えようとしたようです」
 この仲居時代に、かつて京都の寺田屋の泊まり客で、旧知の西村松兵衛と再会、やがて妹光枝(次女)・海軍兵曹中沢助蔵夫妻が住む神奈川県三浦郡大津村(現横須賀市大津町)で同居する。明治8年7月に西村に入籍し、西村鶴(ツル)となって三浦郡豊島村に住み、再婚後も横浜田中家での仲居はしばらく続けたという。これらの経緯は、神奈川新聞刊『よみがえる老舗料亭田中家』に記されている。鈴木の著書にも、「神奈川の料亭」として、田中家での仲居時代が紹介されているが、文献からの記述のみで、仲居時代の写真には全く触れてない。NHKでも肖像写真取材の努力をせず、ニセ写真ですませている。
 なお、鈴木からはこの著書出版前に取材依頼があった。当時、筆者は大病で一月半の入院生活を経てやっと退院したばかりで、とても史料を準備して対応出来る状態ではなかった。お龍と筆者の祖母・中城仲の交流を説明出来ず、残念だった。
お龍の武勇伝ばかり紹介
 写真に続いて番組で気になったのは、お龍の人物像のとらえ方である。相変わらず、お龍の母がだまされて妹二人が遊郭などへ売り飛ばされようとした際、金を工面したお龍が単身乗り込んで男たちから妹を救った武勇伝。さらに寺田屋で入浴中に、伏見奉行配下の襲来を察知、袷一枚引っかけただけで階段を駆け上って龍馬の命を危機一髪で救った寺田屋事件。その後、西郷の世話による傷治療を兼ねた薩摩への新婚旅行で、神話にもとづく「天の逆鉾」を引っこ抜いて笑い飛ばしたエピソード。そして、ピストルを好んだことなどから、相変わらず“無鉄砲な女”の印象ばかりを強調している。
 龍馬は、乙女への手紙で「まことにおもしろい女」と紹介、思うまま自由に発言・行動する個性的なお龍の人間性に惹かれたのであろう。だが、裁縫、料理などは得意でなく、良妻賢母・夫唱婦随を理想とする海援隊の若者はじめ龍馬の同志たちからも理解されず、“生意気な女”として嫌われたと伝わる。同志だった佐々木高行は、維新後に侯爵になったが、回顧談に「龍馬夫人は美人で有名だが、賢夫人かどうか知らない。善悪ともに為しかねないようだ」と記している。当時の男性の、一般的な女性観からの発言である。だが、現在も女性活動家へのこのような視線は、まだまだ残っているようだ。
 番組では自由な発言と行動をするお龍を、もっぱら“生意気な女”としてとらえ、時代に先駆けた近代的女性としての存在にはほとんど触れてない。お龍の優しさや近代的な女性ぶりは、龍馬亡き後の高知在住時代でも、横浜の料亭田中家時代でも発揮され、鮮烈な記憶が残されているが取り上げてない。
 お龍は龍馬の遺言で身を寄せた坂本家と不仲になり、実妹・起美のいた和食村の千屋家(起美の夫・菅野覚兵衛の実家)に転居する。その原因を、坂本家一族の弘松宣枝は著書『坂本龍馬』(明治29年 民友社)で、「彼の女、放恣にして土佐を出て、身を淫猥に沈む。乙女怒て彼の女を離姻す」と断じ、この説が広まる。しかし、全く別の思い出話も残っている。まず坂本家での様子を、龍馬の姉・乙女の長女・岡上菊枝は、幼い頃「母(乙女)はお龍さんが来ると、得意の一絃琴を教え・・・、お龍さんもとても優しい人で、母には姉さん姉さんとしきりに親しみ、うやまっていました」(貴司山治「妻お龍その後」『歴史読本』昭和42年1月号)。お龍自身も、「姉さんは親切にしてくれました。土佐を出るとき、船まで見送ってくれました」(「千里駒後日談」川田雪山聞書『土陽新聞』明治32年)と述べている。
洋書を抱える「高知城下のお龍」

「高知城下のお龍」藤原信一画
 『土陽新聞』明治16年8月30日高知県立図書館蔵。
 岡上菊枝は、医師・岡上新甫と離婚した母・乙女とともに坂本家にもどり、離れに住んでいた。だが、お龍に会ったのはまだ3歳のときであり、回りの女性からのその後の伝聞もまじえての回想と思われる。ただ、学識・体格とも勝れ“お仁王さま”と呼ばれた乙女をはじめ、お龍と接した女性は、多くが良い印象を持っており、坂本家の男性が男勝りの乙女もお龍も好まなかったのと好対照である。菊枝は、後に高知で初めての孤児院を運営、娘の岡上千代も祖母・乙女を尊敬、日本女子大を出てナザレ修道院に入り、国際的にも福祉家として活躍した。
 高知時代のお龍の写真は見当たらないが、そのモダンな風貌を見事に描いた新聞連載「汗血千里駒」の挿絵が残されている。「高知城下のお龍」(藤原信一画『土陽新聞』明治16年8月30日)で、右手に洋傘、左手に洋書、腰にピストル、面立ちのきりっとした知的女性である。背後には、高知城天守もそびえている。この洋書だけは、お龍に似合わないと思っていたが、田中家・平塚女将の「英語もはなせた」をお聞きして納得した。高知でも、龍馬にもらった英会話入門書を持っていたのではないだろうか。龍馬と海援隊士はいち早く英語の習得に取り組み、『和英通韻伊呂波便覧』の編纂にも着手、龍馬亡き後の慶応4年に土佐海援隊蔵版で刊行される。さらに、明治2年には『いろは丸沈没事件』で紀州藩から得た賠償金を使い、海援隊幹部だった菅野覚兵衛は新妻を置いて、白峰駿馬とアメリカに留学する。ニュージャージー州立ラトガース大学で造船学を学ぶが、この留学にお龍を加え、龍馬との渡米という夢の一端を実現させてやりたかった。

海援隊蔵版『和英通韻伊呂波便覧』(複刻版)と、
留学中の菅野(『ある海援隊士の生涯』口絵)。筆者蔵。
 高知のお龍にもどろう。千屋家の娘・仲は、龍馬の兄に嫌われて妹・起美の夫・菅野覚兵衛の実家千屋家に来たお龍に遊んでももらった12歳頃の思い出を、こう語っている。「毎日のように山をかけずり回っては、龍馬にもらった短銃で雀を打つのを楽しんでいた。土佐を去るとき、龍馬からの手紙は人に見せたくないと言って焼き捨てた。大阪行きの汽船まで見送った際には、身に付けていた龍馬にもらった帯留をはずして、あなたにあげると言って渡してくれた。あんな良い人は、またとない」(「土佐にいたお龍さん・・・」高知新聞 昭和16年5月25日 岡林亀記者)。千屋仲は、龍馬最後の帰郷で潜伏した種崎・中城家の次男・直顕の妻となり、筆者の祖母だ。この帯留は、当家の女性に代々受け継がれている。

中城仲が、お龍からもらった帯留。留具は龍馬の刀の目貫から。NHK『龍馬伝』図録より。
 土佐を離れ、京都を経て東京に来たお龍は、東京にいた坂本家の継嗣なども訪ねるが、出入りを断わられる。最後の頼りだった西郷隆盛に面会できた明治6年10月は、政府を離れた西郷が薩摩に帰る直前だった。「きっと御世話するから」の励ましと、当座のお金をもらったのが最後となった。明治7年、お龍は横浜の料亭田中家で仲居として働くことになる。しかし、この仲居時代はあまり調査検証されてなく、今度のNHKの番組でも、高知和食の千屋家時代とともに紹介されないままだ。
お龍の近代性に気付かぬマスコミ

千屋家に来た菅野起美
(お龍の妹)高知市民図書館
『中城文庫』蔵。

「坂本龍馬役者絵」明治20年高知座上演
高知城歴史博物館蔵(筆者より寄贈)。
 龍馬の人物像は明治以降も時代の風潮に応じて、自由民権運動の先駆者として民権芝居で主役、日露戦争中皇后の霊夢に現われた皇国守護神、土佐の若者に尊敬され巨大銅像建設、戦後日本再建の理想的リーダー・・・と次々に変貌、新しい役割を担ってきた。ところがお龍は、いつの時代も“常識のない生意気な女”としての虚像がふくらむばかりで、自己主張ができる近代的な女性としての一面に、マスコミはいつまでも目を向けない。
 お龍に直接接した高知坂本家や千屋家の女性の証言には注目せず、当時の封建的な男尊女卑の未亡人観を、いまだに脱皮できないのだ。龍馬暗殺を下関にいて知ったお龍へ、長府毛利家は扶助米を支給したが、土佐では坂本家への士族家禄だった。明治4年、明治政府太政官から高知県宛に、

明治4年、政府太政官より小野淳輔を
坂本家継嗣とする通達の書き出し。『中城文庫』蔵。
小野淳輔(龍馬の長姉の長男)を坂本家の継嗣とする特旨(「中城文庫」蔵)が出る。24年には正四位も追贈されるが、その恩恵を受け取るのは坂本家を継いだ男で、お龍には何の沙汰もなく、坂本家の男には邪魔者扱いをされたのだ。
 三浦夏樹・高知県立龍馬記念館学芸担当は、坂本家の当主権平(龍馬の兄)の立場を、「土佐では天保期に奉行所が出した通達に、結婚は身分の低い者でも双方の親が納得した縁組みで、庄屋に届け出がないと認めないとの項目があった。権平は、当人同士で決めて乙女に知らせただけの、この型破りな結婚を認めたくなかったのでは」と、述べている。

武市半平太の妻・冨、88歳。
大正6年逝去の3ヶ月前。『中城文庫』蔵。
 当時、後家になった女性は、夫の家に留まるか、実家に帰るか、再婚かであった。しかし江戸では、文化期には「後家の一人くらしは御法度の由承る。然るに近来は素人の町家、後家の方くらし能と見えて、多く町々にあり。女筆指南も多し」と、随筆『飛鳥川』(柴村盛方)にある。土佐では明治になっても一人暮らしは困難で、武市半平太の妻・冨も子がなく、弟が継ぐ実家に帰って惨めな暮らしをしていた。明治38年に田中光顕宮内大臣が帰高、冨の消息を尋ねたが知事も警察署長も知らず、「けしからん」としかられ、やっと探し出した。田中は東京に招いて手厚くもてなし、皇后にも拝謁する。その後、継嗣半太(医師)の住む檮原町で幸せな晩年を過ごす。その様子は、武市盾夫(18回生・中大教授)が「武市千賀覚書」に書き残し、晩年の穏やかな中にも凜とした表情の写真が残っている。冨・千賀は盾夫の祖母・母に当る。お龍の墓石建立と同様に、田中光顕の女性への配慮がここでも目立つ。詳細は、安岡憲彦「武市瑞山顕彰問題」(『大平山』41号)にある。
 明治の伝記作者は男性ばかりで、女性からの目で見た記録はほとんど伝わらない。その習わしが、現在の研究者・作家にも残存している。田中家の女将が、「お龍は当家の恩人。この写真がお龍本人」と言っても、証拠がないとして取り上げられない。貴重な史料が、調査も評価もされずに埋もれたままだ。幕末・明治の先駆的女性が自己主張をしながら、生きていくのは大変困難だった。現在それらの女性の生き方を実証するのにも、同様な困難が続いている。これが、最後の帰高で潜伏した龍馬を世話した女性や、お龍に遊んでもらった女性が語り継ぐ、龍馬・お龍の姿を聞いて育った筆者の実感である。

慶應3年9月、龍馬が最後の帰郷で潜伏した中城家
「離れ」座敷。筆者撮影。
 NHKなどマスコミの姿勢も問題だ。例えば、人気芸能人・タレントの先祖を追いかける「ファミリーヒストリー」では、見事な取材力を発揮して丹念に史料を掘り起こす。その仕事ぶりは、デザイナー山本寛斎の回に引っ張り出されてこれまた実感した。しかし、肝心の歴史番組や教養番組では、時折首をかしげる場面も多い。例えば寺子屋の場面は、ドラマも含めて机の配置が現在の学校と同じで、全て教壇を向いている。個人別自学自習の寺子屋では、こんな配置は皆無だったことが、教育史の研究者によって実証されている。
 田中家でいえば、幕末からの横浜発展とともに歴史を刻んできた史跡であり、神奈川県立歴史博物館や、地元研究機関、マスコミが協力して、きちんと調査すべきであろう。
<参考文献>
 宮地佐一郎編『坂本龍馬全集』光風社出版 増補三訂版 1980年
 佐藤寿良『ある海援隊士の生涯』−菅野覚兵衛− 私家版 1984年
 鈴木かほる『史料が語る 坂本龍馬の妻 お龍』新人物往来社 2007年
 中城正堯『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』高知新聞総合印刷 2017年
ページTOPに戻る
17 世紀オランダの黄金時代の始まり-3
初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書
竹本修文(37回) 2021.12.16

筆者近影
 11月24日付で投稿した、「1623年のアンボイナ虐殺事件」で引用した文献の、Law and Torture in the Dutch Empireの日本語訳、オランダ帝国の法律と拷問に、当初から疑問を持ちながら、ゴタゴタした。結論は、「ヨーロッパ共通歴史教科書でも、植民地を含んだ政治体制国家を植民地帝国という表現が一般化している」事を説明するのに当該教科書を引用した。ECはEUになり次々と拡大を続けたので何回も改版されていると期待し、とりあえず帝国問題に決着を付けようとして、投稿ではなくて追加資料として議論に参加した方々に配布したが、KPCの「1623年のアンボイナ虐殺事件」の投稿の後に、議論と共に追加資料のままで掲載されている事を最近になって気付き、慌てて追加資料に対する追加を書いた記事の投稿である。
 議論を含めて記載すると議論に参加しなかった読者にも何か参考になったかな〜?と編集者に感謝しています。

初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書

はじめに ヨーロッパ共通歴史教科書

ヨーロッパ共通歴史教科書の中のDutch Empireとオランダ植民地帝国 の表現 
ヨーロッパ共通歴史教科書のその後

初版で最終版になった〜ヨーロッパ共通歴史教科書
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

ページTOPに戻る
―“生意気な女”か“近代女性の先駆け”か―を拝読して
お龍さんが近づいてきました
冨田八千代(36回) 2021.12.25

筆者近影
*自分の気持ちを大事にしたお龍さん
 この論考では、お龍さんについて女性の証言を取り上げています。研究者とか為政者ではなく、お龍さんと生活を共にしたことがある人やその人から聞いた話です。

「中城仲(直顕の妻、和食でお龍に
遊んでもらった少女の結婚後)
 龍馬の姉乙女の長女 岡上菊枝 ・千屋家の娘 仲さん(のちに中城仲さん。中城正堯さんの祖母)・田中家5代目女将 平塚あけみさん(中城さんが独自に取材)
 これらのお話からは、生身の人間のお龍さん像が窺えて、だんだん程遠い特殊な人物ではなくなってきました。親近感がわいてきました。一番惹かれたのは、田中屋の仲居として制服を着なかったというお話とその写真です。この着物が好きで着ていたかった、私にはこの方が似合うというおしゃれ心かもしれません。もしかしたら、龍馬との思い出の詰まった品かもしれないと、勝手な想像を広げたくなります。制服云々よりもこの着物を着たかった気持ちのままに行動したのではないでしょうか。当時、その理由を女将に話し、許してもらったのでしょう。田中家代々の方がとても好意的にお龍さんをみていますから。写真姿も普通の女性です。ぐんと、お龍さんを身近に感じました。ふっと、母を思い出しもしました。これは、間違いなくお龍さんだと言えます。並んだ64歳の時のお龍さんとそっくりです。
 仲居時代に英語が話せた、英語の勉強をしていたとは、自分の学びたい気持ちを大事にしていて自主的です。留学の夢も持っていたとか。自立心を持っています。そして、土佐を離れるぎりぎりの時に12歳の少女仲さんに帯留を贈ったことには感激しました。帯留はただの帯留ではなく、留め具は龍馬の刀の目貫からの物です。夫との大切な思い出の品です。家ではなく、港であげています。それまで、あげることを迷っていたのか、少しでも長くわが身に付けていたかったのでしょうか。贈った相手は、千屋家でいっしょに暮していた実妹(起美、管野覚兵衛の妻、千屋家は覚兵衛の実家)ではなく仲さんです。仲さんに自分の万感を託したのではないでしょうか。大人になったら一人の人間として自分の意思を大事にして、妻として平穏な結婚生活を長く続けて、母親として子育てもしっかりして……とか。仲さんは、お龍さんにとって信頼できる少女だったのでしょう。
*お龍さんにとってもキーパーソンの中城さん

『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』
(中城正堯著 2017年発行)
 『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』(中城正堯著 2017年発行 販売元高知新聞総合印刷)の「第一章 土佐の坂本龍馬・お龍」(p13〜103)を再読することにしました。お龍さんへの特殊という固定した捉え方から、印象が薄かったからです。むしろ、夫としての龍馬が印象に残っています。当時は男尊女卑の家父長制の世の中にもかかわらず、龍馬はお龍さんに押しつけがましい態度をとらず優しく、女性に対する男性の在り方も「海援隊約規」に明文化しています。中城さんの論考の表題を借りるなら、夫として近代男性の先駆けと言えそうです。
 さて、本を手にしました。第一章では1枚だけ54ページに付箋が入っていました。自分がしたことなのに全く忘れていました。その付箋には「仲さん 良い人」とメモ。このページの文章<わずかに土佐の千屋家の少女が「あんな良い人はいない」との想いを抱き続けたことは、なにより幸いであっただろう。>と記されていることへのほっとした気持ちとこの少女が中城仲さんだよという確かめの付箋でした。「抱き続けた」があらたな感慨です。

「中城家離れで龍馬を世話した
中城直楯(直顕の兄)・早苗夫妻の晩年」
 この章は冒頭、「龍馬最後の帰郷と種崎潜伏」の項で、中城直守が慶応3(1867)年、<「九月二十五日早朝、車輪船沖遠く来たり。而して碇を下ろす。午時(正午)、衵渡合に入る。而して碇泊。芸州船の由」>(「随筆」直守・手稿)で始まります。その長男直楯が小舟を漕ぎよせ、ひそかに龍馬一行を中城家の離れに案内しています。これは、「寺田屋事件後に新婚旅行」の項の33ページ<お龍のもとに龍馬が現われたのは九月二十日のこと、倒幕への風雲急を告げる中、二日後にはお龍との別れを惜しみつつも、慌ただしく土佐へ向かって出向する。>につながっていることを今回読み取ることができました。この船を直守が早朝に見つけているのです。坂本龍馬とお龍さんの二人にとってはそんな時だったのかと気づきました。感じ入りました。「随文随録」(中城直正・手稿。直正は直楯の長男)に、(裏の離れに)「母火鉢をもち行きしに<誠に図らずもお世話になります>と言えり」(19ページ)と書かれています。この時、早苗さんは22歳でお龍さんは27歳です。若い早苗さんに礼を言いながら、心では妻お龍さんを偲んでいたことでしょう。今まで、この潜伏中のできごとにお龍さんを登場させることはできませんでしたが、お龍さんは龍馬と共に居るという気がしてきました。
 このようにお龍さんが近づいてきたのは、今まで埋もれていた証言をとりあげられたからです。お龍さんに寄り添っています。今までの評伝はお龍さんと離れた立ち位置からの事が多いと受けとめています。田中家五代目の女将平塚あけみさんに確認をされ地道に実像に迫られる態度は研究者やマスコミ関係者が見習うべきことです。その上に、今回の論考は中城家の中城さんの実感であり取材だからいっそう重みがあります。お龍さんにとっても中城さんはキーパーソンです。今後もいっそうお龍さんを近づけていただけることを期待します。
 それから、仲さんも近代女性の先駆けの一人ではないでしょうか。
 テレビ番組で回答を挙手させる場面があります。それなら、「お龍さんは近代女性の先駆け」に、ためらわずに手をあげます。
ページTOPに戻る
伏見の旅
十石舟・三十石船の旅
竹本修文(37回) 2022.01.30

筆者近影
 3年前の2019年5月に妻と京都へ行った時に、いつものように別行動で、私は伏見を散策しました。伏見稲荷などは行った事があるが、琵琶湖からの疎水の運河の流れと伏見から十石船で瀬戸内海へ行く水運を見る為でした。伏見で荷物を高瀬舟に積み替えて、そのまま高瀬川に入り京都先斗町へ物資を運ぶ状態を確かめました。
 酒好きの私は月桂冠の博物館もじっくり見学しました。外国人観光客がいましたが、説明者の英語が立派で感心しました。
 添付写真の寺田屋とか龍馬とお龍の銅像などもその時の写真です。

伏見の旅

十石舟・三十石船の旅

伏見周辺の水運〜琵琶湖疎水〜高瀬川

伏見の街・街路図

街並み

船着き場

龍馬とお龍の像

伏見の旅
PDF版(一括表示・保存・印刷・拡大)
皆さまが読みやすいよう原文(WORD文)をpdf変換して添付しました。プラウザによっては開けない場合もありますが、その場合、画像の上にマウスポインターを置き、右(中指)クリックしてダイアログを開き『対象をファイルに保存』を選んで保存し、PDFViewerでご覧下さい(拡大閲覧、印刷できる上、ファイルも小さくて済む)。

ページTOPに戻る
続「お龍さんの実像に写真と史料で迫る」
―写真と挿絵が語りかけるもの―            
中城正堯(30回) 2022.02.22

お龍の墓にお参りする筆者。
横須賀市信楽寺で。
 坂本龍馬の妻“おりょう”(お龍、お良)の人物像につき、昨年12月に問題提起をさせていただいた。従来は、幕末の武士や海援隊士など主に土佐の男性からの“生意気な女”との印象のみ伝わり、お龍とくらした土佐の女性による「自己主張と行動力を備えたいわば“近代女性の先駆け”」との評価が、忘れられていることに気付いたからだ。その際、明治になってのお龍の挿絵(高知坂本家滞在時代)と写真(横浜での仲居時代)とともに、当時お龍に接した女性や関係者が語るお龍像を紹介した。幸い、皆様から「お龍観がかわった」との反響をいただき、さらに調査を進めてきた。これは、その中間報告である。
ひときわ目立つ凜とした容姿
 まず、前回紹介した横浜の料亭田中家時代の人物写真につき、平塚あけみ女将にその写真全景の提供を受け、内容についてもいくつかお尋ねして回答を得た。その写真からご覧いただきたい。

1.田中家の従業員集合写真
 予想以上に大勢の集合写真で、数えると110人を超える。明治初期のこの様な写真は、お雇い外国人「ボードウィンの送別会」(東京・小石川薬園 明治3年)など、数点しか見かけない。撮影者・写真館とも記載はないが、長時間露光にもかかわらずブレが少なく鮮明だ。幕末から横浜で開業していた下岡蓮杖一門の撮影とも推測される。お龍晩年に唯一の真影とされる写真を撮影した内田九一も、横浜から浅草に進出した写真師だ。三本の巨大な幟が目をひき、中央の幟には「大森海岸」、右の幟には「田中家」の文字が読み取れ、前列の男性が被った手拭いにも「田中」の文字が見える。芸妓・仲居・女中・料理人、それに子どももおり、従業員にその家族まで参加しているようだ。女将のいう「大森海岸へ従業員旅行に行った際の記念写真」に間違いない。

2.集合写真のお龍
 問題は撮影年代と、中央右寄りの前列に立つ人物を「お龍」とする根拠である。女将によれば、「この写真はわが家の蔵で保存されてきた。撮影年代は明治6、7(1873、4)年頃と伝えられている。また、従業員はみな“襟かけ”をつけているが、お龍はいやがって付けなかったといわれており、分かる」と説明する。お龍が34歳になった明治7年頃に田中家で働いていたことは、いくつかの証言がある。特に鈴木漁龍の語った「回漕業で景気のよかった西村松兵衛が行く神奈川の茶屋(田中家)に、ひときわ秀れて美しい女中がおった。大柄な色白の姐御肌のいくらでも酒を飲む女で、意気投合して結婚」(実はお龍と西村は京都寺田屋で出会い、旧知だった)との話は、漁龍がお龍の墓碑建立賛助人の一人だけに捨て難いと、鈴木かほる(『史料が語る坂本龍馬の妻 お龍』著者)も述べている。確かに、集合写真のお龍とされる人物も、大柄で凜とした容姿であり、ひときわ目立つ。さらに、唯一の真影とされる64歳の顔と比較しても、骨格や容貌が類似している。
 では、この写真が明治7年頃の撮影と推定できるだろうか。人物の風俗に注目すると、男性はすでにすべて総髪かザンギリ頭である。ハンティングなど帽子姿も目立つ。明治4年に断髪令が出され、明治6年に天皇も断髪、一気にチョンマゲは消え、髷のない頭を寂しがって帽子を被る人が増えたという。さらに明るい色調の日傘“パラソル”も見える。幕末から英国商人によって洋傘の輸入が始まっているものの貴重品で、国産洋傘が誕生し、庶民にも普及し始めるのは明治16年鹿鳴館時代になってからだ。写真が明治7年撮影とすると、この持ち主は田中家の女将かお龍くらいだろう。明治7年頃に、100人もの従業員を抱える大旅館兼料亭になっていたのかや、幟の文字のさらなる解読も必要だ。
 この大団体を受入れた施設は大森海岸のどこで、名称は何というかも確認したい。大森海岸がよく知られるのは、明治10年のモースによる大森貝塚発見だ。今後、品川区立品川歴史博物館はじめ、現地での調査も欠かせない。なお品川は、龍馬が剣術修業のため初めて江戸に出た際、黒船来航で品川台場建設に動員され、黒船に目覚めた土地である。
「田中家」繁昌支えたお龍の英語

3.『金川砂子』に描かれた「さくらや」
 横浜市歴史博物館の企画展『東海道と神奈川宿』図録を開くと、江戸後期の『江戸名所図会』の「神奈川台」、及び文政7(1824)年の『金川(神奈川)砂子』という2冊の地誌に、「さくらや」が大きく描かれている。神奈川宿台町の茶屋街でも、「さくらや」のみが2階建てで、ひときわ大きく賑やかだ。後者の色摺り絵図をご覧に入れよう。
 神奈川宿が明治になって変貌する様子は、前回紹介した歌川広重「東海道五拾三次之内 神奈川 台之景」と、ほぼ同じアングルで描いた歌川国輝二代「神奈川蒸気車鉄道之全図」(部分 明治3年 川崎・砂子の里資料館蔵)にある。新橋からの鉄道が出来るのは明治5年だが、錦絵ではすでに走っている。この頃、神奈川宿の海辺でも埋め立てが始まる。ペリー上陸で知られる横浜村の浜辺では、安政5(1858)年の日米修好通商条約によって埋め立てによる居留地建設が始まっていた。幕末に「さくらや」は高島嘉右衛門(高島易断の創始者)が買い取り、旅籠「下田屋」になっていたが、それを晝間弥兵衛が買い受け、旅籠料理屋「田中家」となる。幕末から明治にかけて、この旅籠には江戸へ向かう西郷隆盛・高杉晋作・伊藤博文なども立ち寄ったとされる。

4.「神奈川蒸気車鉄道之全図」部分

5.「増補再刻御開港横浜之全図」部分
左上部:横浜居留地、右:岬のあたりが神奈川宿
 慶応4(1868)年には、横浜居留地の馬車道と神奈川宿も、馬車の道で結ばれる。明治5年には、日本初の鉄道も新橋−横浜(現桜木町駅)間に開通する。田中家は、開港場を訪れる政府高官・役人・商人・外国人によって賑わう。特に近くにあったアメリカ領事館の人たちがよく利用、やがて田中家で仲居となったお龍は、物怖じすることなく外国人にも接する。晝間家には、「お龍は英語で外人接待に活躍した恩人」との話が伝わる。
 その後も、田中家は貿易港横浜とともに発展を続ける。特に明治29年に二代目当主となった晝間駒之助による和洋折衷料理や椅子席・英会話などが好評で、大正7年刊『横浜社会辞彙』には、料亭として唯一「田中家 青木町にあり名古家・丁子家と鼎立せる著名なる料理店にして、粋人間に知らるる主人(二代女将)を晝間ヌイ子という」とある。田中家の地名は、神奈川宿から横浜市神奈川区青木町、さらに同区台町となる。幕末以来の埋め立てで、周辺の山が削除され、地形・眺望も変貌するなか、関東大震災も乗り越え、昭和初期には3階建ての壮大な料亭に改築する。ただ、明治初期の従業員数は不明だ。
 神奈川宿周辺が開港で横浜に大変貌する様子は、明治の横浜浮世絵に詳細に描かれている。その一つ「増補再刻御開港横浜之全図」(歌川貞秀 慶応2年)の、画面右は東海道神奈川宿(半島のあたり)、左上部は埋立て地にできた横浜居留地である。
洋書を持つお龍を読み解く

6.挿絵「高知城下のお龍」
 写真・浮世絵に続き、龍馬を主人公とする最初の小説『汗血千里駒』(明治16年「土陽新聞」)の挿絵「高知城下のお龍」を確認しよう。これを詳細に検討した京都国立博物館・宮川禎一氏は、「“お龍と本とピストル”」(『坂本龍馬からの手紙』)で、こう記す。
「・・・お龍はロンドン製の(なんと傘骨の中心部にローマ字でそう記されています)のパラソルをさしています。長崎で龍馬に買ってもらったものでしょうか。・・・袴の紐にはピストルを挿して、左手には洋書を抱えています」。
 そして、龍馬の死を聞いたお龍は髪を自ら切ったが、その事情を知らないまま絵師は短髪で表現しており、これは高知の人々が鮮明に記憶していた姿で、絵の信頼性の高さを示すとする。なぜ洋書を抱えているかは、龍馬が乙女・おやべ宛の手紙で、「妻には時間があるようなら[本を読め]ともうしきかせています」とあることから、「左手の洋書は龍馬のいいつけを守っていると言うことなのでしょうか」と、推測している。
 お龍の持つパラソルの中心部を確認すると、逆さ文字になっているが確かに〈LONDON〉の文字が読み取れる。パラソルは、田中家の集合写真にも登場しており、不思議な繋がりだ。龍馬は、慶応3年に最後の帰郷をした際には、川島家・中城家の女性に、〈PARIS〉の文字が入ったコンパクトを土産に渡しており、現物は見当たらないものの図面が『村のことども』(三里尋常高等小学校 昭和7年)に掲載してある。龍馬は世話になった女性に珍しい舶来品を贈っており、妻にはパラソルも与えたのだろう。左手で抱えた英国上製本の洋書も、腰のピストル(龍馬旧蔵品でスミス&ウエッソン製)も精密に描写してある。

7.龍馬土産のコンパクト

8.龍馬旧蔵のピストル(複製)
 明治元(1868)年高知に来たお龍を描いたこの挿絵を、宮川氏は「彼女の姿を高知の人々が鮮明に記憶していたのでしょう。その印象を15年後に挿絵画家である藤原信一に語って描かせたもの」と記している。だが、それだけでなく、画家はパラソル・ピストル・洋書ともに、きちんと同類の実物をスケッチした上で仕上げたと思われる。
 さらに、龍馬・お龍夫妻がともにこれらの英国製舶来品や英語に親しんだのは、おもに慶応2年6月から翌年2月までの8ヶ月間、長崎の豪商・小曽根英四郎宅に身を寄せた際と思われる。当時、龍馬は亀山社中を土佐藩の海援隊に発展させ、小曽根家にその事務所をおき、グラバーやオールトなどの英国貿易商と頻繁に交渉、船舶や武器の購入に当っていた。このため英語は欠かせず、「海援隊約規」5カ条の一つに隊員の修業すべき科目として「政法、火技、航海、汽機、語学」をあげてある。語学は、オランダ語でなく英語であり、そのために前回紹介した英語入門書『和英通韻伊呂波便覧』の編纂にも着手していた。
 この長崎時代に、お龍は中国楽器の月琴を教わり、後に田中家でも客に披露して喜ばれたという。仲居名はツルを名乗ったが、これはグラバー夫人ツルから取ったという。おそらく、長崎時代に英語もある程度学び、龍馬とともに外国人に接することもあったと思われる。長崎での経験が、後に田中家での外国人接遇にも生きたのであろう。
 なお、幕末維新期の高知は、米国帰りのジョン万次郎やフランス帰りの中江兆民のみならず、五台山吸江病院に招いた西洋人医師や帰国留学生などの活躍、立志学舎の設立もあって、自由民権思想のみならず洋学や英語教育でも先進県の一つであった。
お龍の人物像探求のさらなる課題

9.坂本龍馬と海援隊士、中央龍馬、一人置いて右へ菅野・白峰
 今回は、田中家の証言を検証すべく写真・錦絵、・挿絵など、主に絵画史料から検討してきた。さらなる検証には、文献の渉猟検証とともに人物写真の鑑定ができる鑑識員や、維新史・地方史・風俗史など各分野の専門家による調査鑑定が必要である。お龍は、近代女性のさきがけとしての要素を持っており、ぜひ解明すべき人物との思いを強くしている。
 振り返れば江戸時代、女性には「三従の教え」(家にあっては父に従い、嫁しては夫に従い、夫亡き後は子に従い)が強調された。現実には、商家の女性は家事だけでなく店頭にも立って家業を支え、文芸音曲にも親しんだが、独立した人格など認められなかった。明治になっても、おしとやかな良妻賢母が理想とされた。お龍は医師の家に生まれたが、父を早く亡くし、充分な教育を受けないまま母子での自活を強いられた。龍馬は、この封建的な女性観にとらわれない「面白き女」を愛したのである。
 龍馬を失ったお龍は、東京に出たもののどこからも援助がなく、再婚した西村も没落、酒に溺れたのも事実だ。しかし調査を重ねると、龍馬と出会って以来、死別・再婚までの生き方は、いわゆる優等生ではないが“近代女性の先駆け”というべき姿が強く感じられる。徒手空拳の身で、幕末維新の世に夢を懐いて駆け抜け、素晴らしい出会いと挫折を味わった女性だ。ただ実証的な史料が少なく、コロナ禍もあって関係先や歴史博物館へ出向いての取材調査も困難で、自宅・図書館の蔵書と通信手段のみが頼りだった。その中間報告である。ぜひ、若き研究者がこの人物研究に挑戦することを期待したい。
<付記>幕末・明治の横浜と土佐
 お龍が田中家で働いた明治初期には、横浜開港で大発展をとげる横浜で土佐の人々も大きな貢献をしていた。その一端を付記しておきたい
*後藤象二郎 明治2年に横浜の下岡蓮杖が「成駒屋」を設立して東京と結ぶ鉄道馬車を始める際、後藤にも資金援助を仰いだと伝わる。鉄道馬車は鉄道開通の明治5年まで賑わう。
*山内侯爵家 横浜市神奈川区の山内町には、現在横浜市中央卸売市場があり、神奈川県民の台所をまかなっている。この町名は、明治2年に旧土佐藩主山内侯爵が認可を得て埋め立てを始めたことに由来する。
*白峰駿馬 越後生まれだが、勝海舟の神戸海軍操練所を経て海援隊幹部となり、維新後は菅野覚兵衛とともに渡米、ラトガ−ス大で造船学を学び、卒業後もニューヨーク海軍造船所で造船技術を習得して帰国。海軍省に勤務後、明治10年、神奈川区青木町に民間では日本初の西洋船専門の白峰造船所を設立。三菱・岩崎弥太郎の船舶修理も担当する。
<参考文献>『区政施行50周年記念神奈川区誌』編集発行・同誌編さん刊行委員会 昭和52年/『東海道と神奈川宿』横浜市歴史博物館 1996年/『よみがえった老舗料亭』編集発行・神奈川新聞社 2006年/『幕末・明治の写真』小沢健志 筑摩書房 1997年/『横浜浮世絵』川崎・砂子の里資料館 2009年
<図版出典>1.「田中家の従業員集合写真」田中家 2.「集合写真のお龍」田中家 3.『金川砂子』横浜市歴史博物館刊『東海道と神奈川宿』 4.「神奈川蒸気車鉄道之全図」川崎・砂子の里資料館刊『横浜浮世絵』 5.「増補再刻御開港横浜之全図」横浜市歴史博物館刊『東海道と神奈川宿』 6.「高知城下のお龍」高知県立図書館蔵 7.「龍馬土産のコンパクト」三里尋常高等小学校刊『村のことども』 8.「龍馬旧蔵のピストル」NHK刊『龍馬伝』図録 高知県立坂本龍馬記念館蔵 9.「龍馬と海援隊士」平尾道雄著 白竜社刊『坂本龍馬 海援隊始末記』 
<訂正>前回の原稿で、導入部分の鈴木かほる著書からの引用「京都国立博物館・宮川禎一」は「京都・霊山歴史館・木村幸比古」に、また『お龍の写真』キャプション「明治7年、44歳、田中家蔵」は「明治7年、34歳、田中家蔵」に、お詫びして訂正致します。
ページTOPに戻る
神奈川の宿・田中家
竹本修文(37回) 2022.01.30

 田中家関係は、2014年に東海道神奈川宿を訪問した時に偶然見つけて撮った写真です。
 鶴見に来て32年経ちますが、初めの20年くらいの間に、旧東海道の品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚の宿場跡を何回かに分けて歩きました。
 自宅から最も近い神奈川宿からJR東海道線や国道1号線を越えて保土ヶ谷宿に向かうところで、田中家を見つけて写真を撮りました。中に入り、女将さんらしき女性と話をして、関係する印刷物を頂いた記憶がありますが見当たりません。しまったな〜?と反省しています。








竹本 様
 竹本さんの写真、小生は訪ねてないところばかりで、有難いです。それにしても、欧米だけでなく、国内の史蹟も丹念に訪問、撮影しており、驚きです。使う際は、相談します。
 「お龍さん」については、黒鉄さんや郷土史家など、いろんな方から反響があり、もう少し取材してからさらにその実像に迫りたいと思っています。ただ、コロナと小生の体調の問題で、目下一休みです。特に、田中家の仲居時代の写真がお龍本人との根拠を確認する必要があります。英語をどの程度話せたかも問題です。中居当時のお龍に接した人の記録も調査し確認したいですが、当分動けません。今後も、体力が問題です。原稿締切りが迫ったり、テレビ「名門校・土佐」を公文の関係者に紹介したりで、全く余裕がない状況です。
 このところ、小生が提案した「日本城郭協会50年史」の校閲を頼まれたり、子ども文化論集関連の原稿締切りが迫ったり、テレビ「名門校・土佐」を公文の関係者に紹介したりで、全く余裕がない状況です。
中城

中城 様
 私は、引っ越すたびに新しい家の周辺を歩き回り、ネコのような習性があり、東京へ出てきた時はオリンピックに向けて都市改造が進んでおり、歩き回りました。墓地、軍の施設跡、処刑場、神社仏閣、・・・そんな事で歩き回っているうちに、東大井の山内容堂の墓や、竜馬が黒舟を見に行った品川の海岸跡などを見ました。
 田中屋との記載と現在の田中家と両方ありますが、歴史的記念物ではなく、商業施設なので決まりはないのでしょう。あまりお役には立たなかったと思いますが、神奈川宿だけでも面白い所が沢山あります。日本語のレテンアルファベット表記の「ヘボン式ローマ字」を作ったヘボンさんの宿舎だったお寺とか、沢山のお寺歩きもしました。
竹本

竹本さん
 田中家にまつわる図画、写真など、見たことも無かったのでいちいち興味深く覗き込みました。ご労作有難うございました。
 田中家からは150年の歴史を大切につなぐ気持ちがひしひしと感じられ、自分も訪ねてみたくなります。見落としてならないのは、横浜市が「神奈川宿歴史の道」の雰囲気づくりや街の景観(植樹を含む)整備に真剣に取り組んでいることです。玄人集団の仕事と見受けました。
 伏見寺田屋周辺の写真集も、まるで現地に行った気分にしてくれ秀逸。感心したのは地元伏見の人々が、この歴史的遺産まわりの景観を芸術的といっていいほど見事に整備していること。像の上のあずまや、傍らを流れる川岸の手すり(木製である)、緑の木々など、幕末の風情を感じさせてくれました。
 高知市は歴史的景観保全・整備の面では残念なことにアマチュアレベル。伏見や横浜から学ぶことがたくさんあるのではないでしょうか。
公文

竹本大兄
本題とかけ離れますけれども、桃山の城郭について探訪写真をお届けします。
1.平安京に遷都した桓武天皇陵
 小・中学と不登校を繰り返した孫の対策の一環の城郭探訪です。彼も今年は大学受験。
2.桃山城の堀跡
 模擬天守があるものの、残存しているのはこの堀跡のみ。
3.福島正則屋敷跡
 城下には各大名の屋敷跡が地名になって沢山残っていますけれども、形で一部が残存しているのは此処だけ。写真の石垣のうち隅石の算木積み部分。

 月桂冠は格別ですね。小生も博物館で目いっぱい試飲を楽しんだ後、裏手の月桂冠料理店でまた飲みなおしたことでした。

1

2

3
西内

竹本様
 感謝感激しきりです。
 感謝感激のまま、時間が過ぎ、竹本さんはもうどんどん先へ新しい展開をされています。
 今頃のお礼をすみません。
 毎回のことですが、単純な質問にyes、noで済ませずに、くわしく掘り下げてくださることに感謝しています。
 一番会いたいお龍さんは中城さんの論考にあった仲居時代の写真のようなお龍さんです。
 そのお龍さんが働いていた「田中家」を詳しく知らせて下さり、「田中家」のことが少しわかり感激しています。
 横浜市発行の資料からは、「神奈川宿歴史道」の一つの名所として紹介されています。いろいろな場所にガイドパネルを設けたとありますから、竹本さんが写されたのはそれですね。私は「田中家」が独自に紹介されたのかと思っていました。それなら、なおのこと、こんなに公になっているのなら、中城さんが指摘されているように、明治時代のお龍さんに目を向けて欲しいと思います。その当たりに腰掛け茶屋が1300件もあったとは驚きです。東海道の往時の往来の様子が偲ばれます。その中で、現在まで受け継がれてきた「田中家」にお龍さんが仲居さんでいたとは、これも何といったらいいでしょうか。勝海舟の紹介とありますから、代表となるいいお茶屋を紹介したのでしょうか。お龍さんは30代に2,3年勤めたとありますが、そんなに短かったのでしょうか。
 くわしい資料をありがとうございました。
冨田

竹本さん
 縮小のお心遣いをありがとうございました。
 今回もたくさんの映像と説明をしてくださり、よくわかりました。高瀬川というと、琵琶湖に注ぐ疎水ということと森鴎外の『高瀬舟』が印象にあるぐらいです。龍馬に限らず幕末には情報でも重要な場所になった事が伺われる。高瀬川は色々な役割を果たしていたのですね。
 ところで、演歌に「おりょう」という歌があります。ご存じですか。先日、演歌歌唱上手でカラオケ喫茶常連の友人に誘われて、カラオケ喫茶に行きました。運転免許を返納してからは、彼女の誘いにはどこにでも出かけています。
 そこで、ある人が題「おりょう」を歌いました。題「おりょう」には、もしかしたら「お龍さん」と思いました。やはりそうでした。演歌に歌われているなんてと驚きました。その歌詞の中に「京の女」とありましたから、きっと、この像のような姿を歌詞にしたのだと思います。
 資料をありがとうございました。
冨田

竹本様、冨田様、皆様
 「お龍さん」の拙文につき、神奈川宿・田中家から伏見・高瀬舟まで、いろいろな写真・ 情報をいただき、感謝です。今後、なお調査したいと思っていますが、コロナと自分の 体調で、動けない状況です。
 田中家については、観光パンフの類には「お龍さん」のことがいろいろ出てきますが、 基本的には田中家からの発言・発信とあの写真一枚だけです。お龍さんが明治七年頃に 神奈川宿の料亭で働いていたとの記述は、昭和初期の新聞にいくつか記載があり、また 田中家の女中頭から「お龍が中居をやっていた」との伝聞もあり、まず間違いないと思わ れます。しかし、あの写真がお龍さんというのは、田中家の言い伝えと、お龍晩年の真影との 類似だけで、まだ断定できる史料はありません。そこで、原稿でも末尾で地元研究機関の 調査を呼びかけました。
 田中家にも、お龍の部分だけでなく、写真全体および関連資料の提供をよびかけ、写真は 今年になってコピーをいただきました。数十人の慰安旅行のようで、この写真を専門家が 詳細に検討すれば、撮影時代などもう少し明確になると思って居ます。ただ、あの人物が お龍という根拠は、未詳です。
 いずれにしろ、田中家に関して観光対象だけでなく、史蹟としての公的研究機関の調査、 それも、旧神奈川宿からの継承の点だけでなく、お龍さんのことや、明治初期の外国人客や 政府高官の出入りの実態も調査が必要です。お龍さんの田中家への紹介者も、勝海舟とも菅野 覚兵衛ともされますが、不明です。平塚女将が推奨する資料が、『よみがえった老舗料亭』 (神奈川新聞社)ですが、この本の帯にも<「おりょう」が働いていた?>と?を付けて います。お龍さんの近代女性のさきがけとしての位置付けは、問題ないと思っていますが、 写真の裏付けや英語力に関しては、なお実証的な調査が必要です。

「高瀬川をゆく高瀬舟、川をさかのぼるのは人力だった。」
(『拾遺都名所図』より)
 もう一つ、京都の伏見が寺田屋・高瀬舟で話題になっていますが、この伏見は秀吉の時代に 伏見城も造られましたが、日本の都と世界とつなぐ重要な港でした。その伏見開発の中心人物が 豪商・角倉了以で、朱印船貿易でもで知られます。高瀬川を大型川舟が運航出来るよう改修、 南蛮貿易の物産を大坂湾から運び、その為の大型川舟も導入建造、「高瀬舟」と呼ばれます。 竹本さんが発表した英蘭の香料列島植民地争奪戦争時代に、日本から南蛮貿易に加わった代表的 人物です。いわば、世界貿易を夢見た坂本龍馬の大先輩です。ご興味があれば、ぜひ調査下さい。
 幕末の大政奉還の際に、小生の祖父(戸籍上)は新足軽として土佐藩兵卒となり、舟で山内容堂公警護の 一員に加わって高瀬川をさかのぼって京にはいり、土佐藩邸に詰めていた記録が残っています。明治には 造船業を興し、南洋貿易も志しますが船が難破して、造船業に専念します。もう一人の祖父(血統上)は 明治初期の慶応で福沢の教えを受け、日本郵船の西洋航路事務長となりますが、日露戦争で船ごと徴用され、 ロシアの捕虜となって、モスクワ郊外で一年ほど過ごしています。 そんなわけで、船と海外の話になると、なんとなく血が騒ぎますが、高瀬川流域も、もう一人の捕虜収容所 跡(メドヴェージ村)も、訪問できないままです。
中城正堯
ページTOPに戻る
きっと、凛としていただろう  お龍さん
冨田八千代(36回) 2022.04.18

筆者近影
公文敏雄先輩よりメール拝受                                  
龍馬の詠草
 公文敏雄先輩より、昨年末のHP拙文「お龍さんが近づいてきました」にメールをいただきました。
公文さんのメールの全文です。
 <中城さんのノート「お龍さん」への、女性ならではのご感想を楽しく読ませていただきました。
 国事に奔走する龍馬の、女性に対する思い遣りがあらわれた詠草が思い浮かびます。
    又あふと思ふ心をしるべにて 道なき世にも出づる旅かな
 龍馬の生家は歌道が盛んで、龍馬自身も和歌を嗜んだよし。二十数首が現在遺っているとして、宮地佐一郎著『龍馬の手紙』の中で紹介されている中の一首です。
 他では、桜も過ぎた晩春でしょうか、会席で桂小五郎の求めに応じて詠んだとされる即興の歌も、余韻がありまことに龍馬らしくて私は好きです。
    ゆく春も心やすげに見ゆるかな 花なき里の夕暮れの空
                               公文>

『龍馬の手紙』を開いて
 さっそく、『龍馬の手紙』(宮地佐一郎著・2013年発行・講談社)を図書館で借りました。閉架図書から取り出してもらい、手渡されて驚きました。文庫本にしては厚く627ページもあるのです。詠草は、最後の598ページから618ページまでとわずかです。詠草に関しては、公文さんの端的な説明に委ねます。
 龍馬の手紙にまともに向かうのは、初めてです。書面は毛筆の達筆な行書でとても読めません。墨絵を鑑賞するような気分で最後までページ繰りました。とても、読んだとは言えません。今の関心はお龍さんです。それで、女性宛への手紙だけ、活字になった手紙の文面を少し追ってみました。その中で、最多の姉乙女に注目してみました。
乙女への手紙から
 乙女宛は、姪春緒との連名4通を含めて16通です。姉として甘えたり親族の一人として頼ったりしています。そして、事細かに自分の行動を知らせ、日本の現状をどうしたらよいのかと姉と弟で意見を出しあい、乙女が堂々と自分の意見を書き送ったと思われる手紙もあります。残念ながら、乙女の返信は残っていません。龍馬は当時の封建的な三従の教えのような女性観ではありません。対等に人間として姉乙女を信頼しています。
 方言がよく出てきます。からかい半分の文もあります。手紙の後付けの宛名は、乙さま・乙大姉御本・おとめさまへ・大乙姉・乙あねさん・乙大姉 をにおふさま・姉上様・乙様など色々で、宛名の無いのもあります。筆さばきも他の人宛よりくつろいでのびのびとした感じです。手紙の様子から、その時の気分や内容の軽重が伝わってきます。一番気の置けない相手が乙女だったのでしょう。乙女も龍馬の期待に応え得る女性だったのでしょう。『婉という女?』を書いた頃の大原冨枝や、坂東眞砂子(51回生)が、小説『乙女』を書いたらどのような乙女像になったのかと、今更仕方のない興味も沸きました。
お龍さんのことを姉乙女に詳しく報告
 龍馬は、お龍さんを評して、はじめは「面白き女」といい、後には「げにもめづらしき人」と伝えています。龍馬とお龍さんは日本最初の新婚旅行と話題になりますが、これも乙女への手紙に詳しく書かれています。とても長文の絵入りの説明です。<慶應2(1866)年12月4日の手紙 本書p257〜p265>
 龍馬は、4月の新婚旅行に続いて、6月のことを以下のように知らせています。
 <6月4日より桜島と言、蒸気船にて長州へ遣いを頼まれ、出航ス。此時妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行たいとて同船したり。夫より長崎のしるべの所に頼ミて、私ハ長州ニ行けバはからず(以下略)>
 お龍さんの気持ちを尊重しています。お龍さんは、長崎へ月琴の稽古に行きました。他の手紙でも、『列女伝』(中国前漢、劉向の撰)を平仮名絵入りにして書き写させているとか、本を読ませたいから龍馬の蔵書の中から送ってほしいと頼んでいます。学ぶことを助けています。この手紙で、結婚後のお龍さんを妻と表現しているのは、龍馬らしいと受けとめました。
お龍さんへの手紙
 現存しているのは、1通<慶應3(1867)年5月28日  p364>だけです。そのわけは、『龍馬・元親に土佐の原点をみる』(中城正堯著・2017(平成29)年 高知新聞相互印刷)に書かれています。<龍馬からの手紙はことごとく保存、和喰の家では時々取り出していたが、土佐を去るとき「この手紙は人に見せたくないから焼いてくる」と言って焼き捨て、一通の影も形もないと仲は述べている。p42)>なお、本書では、もう1通、宛先、年月日、未詳(推定、慶應2年5月下旬、お龍あて。p552)を収録しています。それを著者宮地佐一郎は次のように説明しています。=(要約)竜馬の手紙はさきの旺文社文庫、昭和54(1979)年出版)に128通を編述したが、十余年後、新発見8通をPHP文庫に加えて136通を上梓した。=8通のうちの1通をお龍宛と推定しています。
 龍馬は、お龍さんと慶應3(1867)年5月8日に下関で別れてから20日後に手紙を書いています。その間のいろは丸沈没事件の折衝の様子や今後上方へ行くことなど自分の行動を事細かに知らせています。どうせ女に話しても仕方がないと思うなら、妻への手紙には書かない事柄でしょう。龍馬は、お龍さんを乙女と同じように対等な人間としてみています。
 龍馬の態度でお龍さんに対して乙女姉さんと違うのは、愛しさです。手紙では、愛しい妻への優しい心づかいをしています。「かならず かならず、(下)関に鳥渡(ちょっと)なりともかへり申候。御まち被成度候」と書いています。この手紙の宛名は、龍馬がお龍さんの身を守るために名づけた変名、鞆殿となっています。また、文末の「かしこかしこ」が本文よりもとても太く大きく書かれていることが目に入りました。他の人宛の「かしこかしこ」よりもずば抜けて大きいのです。手紙の最後のここに万感の愛しさを込めたのではないかと思いたいのです。
 『龍馬・元親に土佐人の原点をみる』には、この手紙を書いた5月28日以後の龍馬の行動が書かれています。<お龍のもとに龍馬が現れたのは9月20日のこと、倒幕への風雲急を告げるなか、二日後にはお龍との別れを惜しみつつも、慌ただしく土佐へ向かって出向する。>手紙に書いた通りちょっと二日間だけお龍さんのもとへ帰っています。この二日間が、二人で過ごした最後となりました。
『龍馬は和歌で日本を変えた』(原口泉著 2010年発行 海竜社)の紹介をいただいて   
  これは中城正堯先輩の紹介です。本書の帯には、以下のように書かれています。<坂本龍馬は歌人だった!激動の時代を「歌」から読み解く斬新な幕末史観。和歌に込めた龍馬の大和心。第一章 人生に励みをつける歌力 第二章 大和心を奮い立たせる歌力(略)第六章 笑いを作り出す歌力> 
 お龍さんの事ではないので、初めは気が進みませんでしたが、せっかく紹介してくださったのだからと読み始めました。本文3ページ目「プロローグー龍馬をつくった和歌的環境 ◇龍馬が愛した和歌の道」の所に、すぐにお龍さんの和歌が龍馬より先に登場するのです。それに魅かれて、そのまま一気に読んでしまいました。
 最初に登場するお龍さんの歌は、龍馬暗殺後、長州藩の三吉慎蔵が伊藤博文、中島信之らと共に桜山の茶屋にお龍を誘い慰めた時に、詠んだものです。桜山には国に殉じた人の招魂社がありました。
       武士のかばねはここに桜山 花は散れども名こそ止まれ
  名前は永遠に消えないと龍馬を讃えています。夫を失った悲しさや寂しさはみられません。
  本書の中には、お龍さんが何度か登場します。
  暗殺された年の慶應3(1867)年の春に下関で開かれた歌会の様子を、お龍さんは語り、自分自身のことも語っています。明治32(1899)年、川田雪山が聞き書きをして、『千里駒後日譚拾遺』として土陽新聞に連載したものです。その中で、お龍さんは自分自身のことも語ったのを、著者原口泉が引用して書いています。本書31〜32ページを書き写します。
 <そしてお龍は、「私も退屈で堪らぬから」と言って自分の歌を披露している。
    薄墨の雲とみる間に筆の山 門司の浦はにそゝぐ夕立
  (薄墨色の雲かとみていたら、それは水に映って筆型になる筆山でした。その筆で文字を書くように門司の港に夕立が注いでいます。)原口注―(薄墨は薄墨紙、門司は文字に通じ、いずれも「筆」にかけられている。お龍は龍馬から、土佐の鏡川に映って筆の形になる筆山のことを聞いていたのだろうが、それが下関でつうじたかどうか一考を要す。) 恥ずかしかったのか、「これは歌でせうかと、差し出すと、皆な手を拍ってうまいうまいなんて笑ひました、オホホホ、、、、」といかにもお龍らしいが、たしかに歌の方もなかなかのものである。>
 それにしても、お龍さんが見たこともない筆山の様子を鮮明に歌に詠めるほど、龍馬は土佐の様子を語ったのでしょう。二人の親密さがうかがえます。
 『龍馬の手紙』と『龍馬は和歌で日本を変えた』は全くの粗読です。が、ここに登場するお龍さんは、龍馬にとても大切にされ、認められています。二人の結婚生活は、平凡、平坦ではなく、短かったのですが、二人はお互いを愛しく思いながら、心は充実していたことでしょう。「げにもめずらしき人」お龍さんは、龍馬を通して新しい知識や能力を体得しています。

中間報告、続「お龍さんの実像に写真と史料で迫る」を拝読
    田中家の従業員集合写真は圧巻、そして、集合写真の中の「お龍さん」も圧巻

1.田中家の従業員集合写真
 この集合写真を田中家はよくぞ、保存をされてきたものです。戦禍をはじめ自然災害にも合わずに生き延びてきて、中城さんに届きました。この写真がお龍さん(らしい女性)とともに日の目を見ました。子ども浮世絵と同じように、詳しく読み解かれています。服装や髪型、持ち物なども考証されています。当時の写真撮影の事情など豊富な知識をもとに述べられています。こんなに大勢を写せた写真の実物の大きさはどのくらいなのでしょう。
 先の論考のお龍さんの写真からは、こんな大勢の写真の中から抜き取られたとは想像もできませんでした。お龍さんがとてもはっきりと写っているからです。後ろの方の人達は顔も半分ぐらいしか写っていない人もいます。「お龍さん」は中央の前面に立ち、その前の列は座っているので姿のかなりの部分が写っています。右手は何かを握り持っているかのようです。もしかしたら、土佐にいた時に持っていたパラソルではと、想像したくなります。このように写真中央前面にいたから、抜き取って晩年のお龍さんの真影と並べられるようになったのでしょう。
 経験上、言えることです。大勢で集合写真を撮る時に、その集まりの中心的な存在でない人や引っ込み思案の人は、前の方には立ちません。「お龍さん」は、写真の中央といえる場所に気負っている感じではなく自然な感じで立っています。姿勢よく前を向いていて目立ちます。この「お龍さん」も圧巻です。論考のように、この「お龍さん」は凛としています。写真撮影の時だけ凛とするはずはありません。日ごろも凛としていたことでしょう。
中城さんは論考の中で以下のように述べられています。
 田中家で仲居となったお龍は、物怖じすることなく外国人にも接する。晝間家には、「お龍は英語で外人接待に活躍した恩人」との話が伝わる。
 長崎時代に、お龍は中国楽器の月琴を教わり、後に田中家でも客に披露して喜ばれたという。仲居名はツルを名乗ったが、これはグラバー夫人ツルから取ったという。おそらく、長崎時代に英語もある程度学び、龍馬とともに外国人に接することもあったと思われる。長崎での経験が、後に田中家での外国人接遇にも生きたのであろう。
 田中家での「お龍さん」のこの姿は、龍馬の姉乙女への手紙での月琴のこととつながるのではないでしょうか。
 <付記>として、幕末・明治の横浜と土佐を書かれたことで、その頃の土佐の海運の盛んな状況が分かります。中城さんが他の著述で述べられている「自由は土佐の海辺から」がうかがえます。そのような背景があったから、お龍さんもこの地で働くようになったのでしょうか。
龍馬の女性への贈り物について
 中城さんは論考で以下のようにふれられています。
 川島家・中城家の女性に、〈PARIS〉の文字が入ったコンパクトを土産に渡しており、現物は見当たらないものの図面が『村のことども』(三里尋常高等小学校 昭和7年)に掲載してある。龍馬は世話になった女性に珍しい舶来品を贈っており、妻にはパラソルも与えたのだろう。
 『龍馬の手紙』の姪の春猪宛の手紙から、おしろいについて書かれた部分を抜き書きします。
手紙 1 坂本春猪あて(推定 慶應2年秋、24日) (本書 559ページ)
 (手紙の書き出しから7行目まで 略)
  「此頃、外国のおしろいと申すもの御座候。近々の内、さしあげ申候間、したゝか御ぬり被成たく存候。御まちなさるべく候。 かしこ。廿四日。 龍馬
 春猪御前」
手紙 2 春猪あて (慶應3年1月20日)(本書284ページ)
 (手紙の最初から)
  「春猪どの、春猪どの
     春猪どのよ 春猪どのよ
    此頃ハあかみちやとおしろいにて、はけぬりこてぬり こてぬり つぶしもし、つまづいたら、よこまちの
 くハしやのばばあがついでかけ、こんぺいとうふのいがたに一日のあいだ御そふだんもふそふとい
 うくらいのことかへ。
  をばてきのやかんそうも(乙女の癇癪もと続く。以下最後まで20行 略)
                  正月廿日夜                          りよふより
  春猪様 足下」
 たくさんおしろいをぬり、さらに金平糖の鋳型の肌にごてごてと塗りつぶすことをすすめています。

 二つの手紙の数か月の間に外国のおしろいを春緒に贈っていると読み取れます。論考の写真のようなコンパクト入りだったのでしょうか。確かに、龍馬は舶来品を女性に贈っていると言えます。当然、お龍さんには論考の挿絵のように、真っ先に贈ったことでしょう。
写真の「お龍さん」に期待
 「お龍さん」が、田中家で仲居となったのは、34歳の頃、龍馬が暗殺された6,7年後です。龍馬との思い出を支えとし、龍馬の気遣いとお龍さんの努力で、身につけた能力を発揮して働いていたことでしょう。些細なことには動じることなく、きっと、凛としていたことでしょう。
 検証が深まり、仲居のツルさんがお龍さんであることを期待しています。
  ページTOPに戻る
土佐向陽プレスクラブ